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神雷桜と桜花~靖國神社の桜

靖國神社に献木された神雷桜から、往時を偲ぶきっかけを…

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靖國神社

桜の季節になるとどうしても「桜花」のことに触れたくなります
桜賑わう靖國神社で、桜にまつわる先人たちの物語を。
以下に「神雷桜と桜花」にまつわるあれこれをまとめていきます

感謝と哀悼を…


桜花

この美しき言霊は、時に残酷な言霊でもあり。

海軍神雷部隊「桜花」

母機である一式陸攻の爆弾倉に懸吊された状態でロケット特攻機「桜花」は目標近くまで運ばれ、放たれた桜花は操縦士もろとも目標に向かって突入する。

神雷部隊は特攻専門部隊であった…

神雷桜

かつて神雷部隊の将兵たちは戦死したら「靖國神社の御神門を入って右の二番目の桜の木の下に集まって再会しよう」を合言葉にしていた。

戦後生き残った戦友は、この合言葉を大切にし、そうして桜を奉納した。

奉納された桜は「神雷桜」と名を記されている。 (海軍神雷部隊戦友会)

神雷桜
海軍神雷部隊戦友会

今年もまた桜花の季節がやってくる。
靖國神社の桜は、戦友の想い、遺族の想いが込められし桜。 特別な桜。

 貴様と俺とは 同期の桜

 離れ離れに 散ろうとも

 花の都の 靖国神社

 春の梢に 咲いて会おう

境内の桜を見上げつつ、今年もまた往時を偲ぶよすがを。

「桜花」と共に戦いし神雷部隊。
その名を伝承する神雷桜。

靖國神社 神雷桜

見事な桜花… ありがとうございます


靖國神社みたままつり(平成29年7月13日(木)前夜祭)

夏夜の神雷桜

第71回みたままつり(平成29年7月13日(木)前夜祭の朝)

ついつい神雷桜に目がいってしまう。葉桜の木陰で楽しむ境内。

平成29年5月

新緑の神雷桜

平成29年8月

夏の神雷桜


第七二一海軍航空隊
「神雷部隊」

https://ja.wikipedia.org/wiki/第七二一海軍航空隊

桜花

https://ja.wikipedia.org/wiki/桜花_(航空機)


神ノ池神雷桜・桜花公園

茨城県鹿嶋市光。 2016年撮影。
海軍神之池航空基地の跡地。
神雷部隊「桜花」練成の地。
この地にも戦友会の献木がある。 「神ノ池神雷桜」
いつの日か、この地の桜花が咲くときに訪れてみたい…

献木
神ノ池神雷桜
平成8年3月(1996)
寄贈 海軍神雷部隊戦友会

慰霊と感謝を。 若き海鷲たちに。

神ノ池海軍航空基地を物語る掩体壕。

721航空隊「神雷部隊」として特攻機「櫻花(桜花)」訓練基地が展開。 この神ノ池で訓練をした若者たちが鹿屋に出撃し、そして鹿屋から特攻へと…

神ノ池海軍航空基地を物語る掩体壕。

その上部は自然へと帰りつつ。

掩体壕には復元された櫻花11型が展示してあった。

一式陸攻を母機とし、1200キロの爆弾に推進ロケットを装備した有人ロケット爆弾。敵艦上空で母機より切り離されて高速滑空し特攻…

神ノ池海軍航空基地

昭和19年。筑波海軍航空隊では戦闘機パイロット養成施設が手狭になった為に、神ノ池飛行場に戦闘機練成隊を新設し開隊。 のちに秘匿性の高さから桜花訓練基地となり、当地で訓練をつんだ若者たちが鹿屋から特攻へと飛び立つ事となる…

※ 神ノ池は「ごうのいけ」と読みます。常陸国風土記にも記載される歴史ある池。1969年に埋め立てる前は現在の7倍はあった、という。

神ノ池海軍航空基地は、そのほとんどが工場地域。

現在の航空写真で御覧の有様。 この掩体壕が、今日まで歴史を物語る遺産として残ったことにも感謝。

公園の由来
太平洋戦争末期、この地に海軍航空隊神之池基地が開設され、特攻兵器”櫻花”の訓練が行われました。
鹿島製鉄所では、地元及び櫻花関係者の御意向に沿い、構内に残る神之池基地の掩体壕の周辺を整備し、ゆかりの櫻花碑をここに移し、土地の歴史を記念する公園として開放することとしました。壕内には往時がしのべるよう櫻花の復元機を置きました。
この公園が、先の大戦の記憶が風化する中、平和への思いを新たにするよすがとなれば幸いです。
平成5年12月 住友金属工業株式会社鹿島製鉄所 所長 長谷 登

櫻花公園(桜花公園)

神雷竜巻
櫻花隊員

錬成之地

櫻花

山岡荘八

のちに時代小説作家として大家となる山岡荘八氏は当時、海軍報道班員として神雷部隊櫻花隊員と生活を共にしていた。


櫻花
山岡荘八碑裏

太平洋戦争も一段と熾烈を極めた昭和十九年十月一日、祖国日本の興廃をその一身に背負おうと志願して来た紅顔の若者達は海軍百里原航空隊で、特別攻撃隊櫻花隊を結成同年十一月七日この神之池に訓練基地の設置を見た 。

やがて神之池基地で至難な訓練を受けた若者たちは九州最南端の鹿屋の野里村に移り、鹿屋を特攻基地として祖国の国難に殉じて行ったのである。

云わば神之池は、特別攻撃隊発祥の地として、わが日本国民として忘れてはならない、祖国の存立を護った尊い大和魂の故里である。

撰文 山岡荘八  昭和五十三年三月吉日 

建立者 元櫻花隊員小城久作 妻泰子

櫻花の碑。

前面には山岡荘八氏による建碑由来も記載。碑は元桜花隊員の小城久作氏が昭和53年に私費を投じて建立。

側面には小城氏の献歌もある。

 錬成の
 名残とどめぬ鹿島灘
 いまだただよう
 戦友のおもかげ

櫻花
山岡荘八


散った桜を静かに見送る。

手向け花を。散りし桜花を。

自然と手を合わせ頭を下げる。

ありがとうございました。

また来よう。桜の季節に。 そう感じさせる空間であった。


筑波海軍航空隊記念館

霞ヶ浦海軍航空隊(教育部隊・予科練)

鹿島空(水上機部隊独立)
谷田部空(霞空補助)
土浦空(霞空から予科練を引受)

筑波海軍航空隊(戦闘機)

★神ノ池空★(桜花部隊)
谷田部空(戦闘機)

桜花・筑波海軍航空基地 (茨城県笠間市 筑波海軍航空隊記念館にて。)


神栖中央公園

神栖中央公園。 ここに櫻花(桜花)が展示されてます。 ガラスショーケースの中に原寸大復元の桜花が。 この桜花は映画「サクラ花」の撮影で使われたものであり、2015年に神栖市に寄贈された。

櫻花(桜花)

映画「サクラ花 桜花 最期の特攻」復元機体。


桜花・靖國神社遊就館

靖國神社遊就館の大展示場の片隅に。

復元された「桜花一一型」と「海軍神雷部隊桜花攻撃ジオラマ」が展示してある。

圧巻で胸が詰まる空間。 しばし見上げ見つめ、静かに哀悼と感謝を捧げる空間。

その足跡を。

「靖國神社遊就館」
平成29年3月現在、大ホール展示のみ撮影可

http://yusyukan.yasukuni.jp


【靖國櫻】(靖国桜)

今回は「神雷桜」を例としましたが、境内に無数にある靖國桜にはそれぞれ奉納された人々の物語があります。

これからの桜の季節。

せっかくですので花の都「靖國神社」で桜を愛でながら、ちょっとだけでも感慨にふけっていただければ幸いです…

散る桜 残る桜も 散る桜

想い積もりし靖國櫻

花の都の靖國神社、春の梢に…

献木奉納桜「南会桜」
第六三四海軍航空隊呉瑞雲隊有志一同

第六三四海軍航空隊は航空戦艦で運用する水上機(瑞雲)艦上機部隊(彗星)部隊として整備。しかし連携する機会なく水上機基地航空隊として終戦まで運用。 第九三四海軍航空隊も水上機部隊。消耗により昭和19年10月解隊 。


靖國神社招魂斎庭跡。

その片隅に咲く緋桜。靖國桜。

空挺櫻

「花の都の靖國神社 庭の梢で咲いて会おう」

平成元年4月8日 陸軍落下傘部隊戦友一同

空挺櫻 (靖國神社招魂斎庭跡)
 散る桜 残る桜も 散る桜

陸軍落下傘部隊の歌 「空の神兵」
 藍より蒼き 大空に大空に
 たちまち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く

見上げていたらグッとくるものが… ありがとうございます…

駆逐艦 初霜の錨

平成28年5月撮影

旧帝国海軍駆逐艦「初霜」の錨
墨田区:山田記念病院

初霜の錨

一等駆逐艦初春型の4番艦 「初霜」
その錨が記念として保存されていた。
今となっては数少ないあり日の帝国海軍のよすがを偲びに。

墨田区の山田記念病院。

入口脇に初霜の錨が保存されています。
病院の初代院長が初霜に乗艦したことがあったというご縁でもって。

場所 https://goo.gl/maps/LmStTMAmjiw …

この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨である。


 この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨である。 初霜はさきの大戦に北はアリューシャン列島、南は佛印、シンガポール、比島にわたる広い太平洋海で勇戦、 最後は昭和20年4月戦艦大和沖縄特攻作戦にも参加し、同年7月30日宮津湾に於いて対空戦闘中触雷擱坐して任務を終わった。
 終戦時には日本海軍の駆逐艦203隻の多くが遠い海に沈み、残存の33隻の内ほとんどを連合軍に接収された。 初霜は日本に残り解撤され、その錨がこれである。
 私は昭和15年軍医長として初霜に乗込み作戦に参加した。縁あって私のところに来たこの錨を伝統ある帝国海軍の遺産として長く後世に残しておきたい。

昭和54年5月
山田病院初代院長
元海軍々医少佐 山田正明


初霜

横須賀浦賀船渠で1933年(昭和8年)1月31日に起工。翌34年9月27日に竣工。
各地で勇戦し、坊ノ岬沖海戦…所謂あの大和特攻作戦からも生還するも終戦直前の昭和20年7月30日に舞鶴にて機雷触雷し沈没。
このとき第17駆逐隊として「初霜」最期の僚艦が「雪風」だった。

大和特攻作戦からも生還した幸運艦であったが、終戦まであと半月のところで擱座。
擱座・着底した初霜は戦後に解体。
錨が初霜にゆかりのあった山田病院院長の手によってこうして保存されている。

「新潟空襲で孤軍奮闘した船」軍用船宇品丸慰霊塔

平成30年12月撮影・新潟市

軍用船宇品丸慰霊塔(新潟市中央区)

初の日本陸軍保有軍用輸送船「宇品丸」
陸軍運輸部・船舶部隊の拠点が置かれた宇品の名を冠した船。
この船は、新潟空襲に際して、米軍機をひきつけ弾薬を浪費させたことにより、新潟を護った軍用船であった。

昭和20年8月10日「新潟空襲」
新潟港に襲来する米軍機に対し唯一応戦した宇品丸は米軍機1機を撃墜。
宇品丸の船員3人、兵員16人が戦死している。

軍用船宇品丸慰霊塔

宇品丸慰霊塔建立の趣意書
大東亜戦争の終戦間近い昭和20年8月10日米軍の戦斗機(グラマン)数機により新潟港湾附近の空襲を受けた際、偶々同港山田町側に停泊中の軍用船宇品丸の兵士は敢然としてこれを迎撃奮戦した為に米軍機も攻撃目標を宇品丸に集中して弾丸のほとんど全部を撃ち尽して逃走した。
その為港湾施設及び市街は最小限度の被害で済んだが宇品丸の乗員はほとんど玉砕した。 昭和29年地元山田町外有志相図り新潟市の救神となった宇品丸勇士の英霊を慰めようと慰霊塔建立の議あり。
茲に当時の市長村田三郎氏の筆を得てささやか乍ら建立を実現し以来毎年町内会にて慰霊祭を執り行ない英霊に感謝の意を表している次第である。

嗚呼悲壮
 宇品の勇士花と散り
その名も数も無きあとの  
 霊なぐさむと伏し拝む

歌碑  
 ああ悲壮 
世界平和を   
  夢に抱き  
 玉砕しけり 
宇品の勇士

歌碑裏

大東亜戦争の終戦間近い昭和20年8月10日新潟港湾付近の空襲を受けた際、山田町側に停泊中の軍用船宇品丸の勇士は国土防衛に敢然として迎撃奮戦し乗員はほとんど玉砕した
その慰霊50年忌に当たり、永遠の世界平和とミタマの安らかなるご冥福を祈念しここに之れを建立する
 平成6年8月吉日 (以下個人名は略)


宇品丸 (陸軍輸送船)

日本陸軍運輸部保有の輸送船。
米国にて1919年(大正8年)竣工、総トン数は2214トンの小型貨物船。

1929年、陸軍省は当時「宗安丸」として民間就航していた当船を購入し「宇品丸」と命名。 陸軍省運輸部の拠点にして陸軍船舶部門の中心が宇品であった。
宇品丸は陸軍所有の初の輸送船として、そして陸軍運輸部の顔として宇品を拠点に訓練に従事。
海軍とも協力し、模擬上陸船訓練なども実施され、また軍需輸送にも使用された。

1941年の大東亜戦争開戦後は主として瀬戸内海を拠点に輸送や訓練に活躍。

昭和20年、宇品丸は日本海での食糧輸送に就く。7月6日、新潟沖で米軍敷設の機雷に接触し浸水、沈没防止の為に信濃川河口で擱座。
8月10日、新潟市はF6F戦闘機16機の空襲を受ける。
宇品丸は高射砲・機銃あわせて6門で応戦し米軍機1機を撃墜するも被弾炎上。150人の乗員のうち船員3人兵員16人が戦死。

昭和21年5月、戦後も放置されていた宇品丸のサルベージが開始。浮揚に成功し舞鶴港に曳航され修理。

昭和25年のポツダム命令によって宇品丸は朝鮮郵船に払い下げられ、1958年には室町海運に譲渡、1966年までは持ち船として船名が確認できていた。


宇品丸慰霊塔 「宇品丸」が座礁していた場所に近い山田町町内会をはじめとする有志らが、8月10日の交戦により死亡した兵士・船員の霊を慰めるため、昭和29(1954)年、に「軍用船宇品丸慰霊塔」を建立。
慰霊祭は8月10日。
平成8(1996)年からは地元有志が興源寺で慰霊祭を続けている。

近くの「「入船みなとタワー」からみた信濃川河口と日本海。 宇品丸は信濃川河口に擱座していた。
ちょうど対岸には「あざれあ」(新日本海フェリー)も停泊。

先日、新潟にを訪れる機会がありましたので、ちょっとだけ足を伸ばして「宇品丸慰霊塔」に参拝した記録でした。


2023年10月追記

周辺が工事中でした。工事は2024年3月まで。

平和祈念碑

宇品丸の碑の近く、水戸教公園に、新潟市の平和祈念碑がある。

https://www.city.niigata.lg.jp/kurashi/danjo/jinken/heiwakatsudo/heiwa_kinenhi.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/nigata_nigata_001/index.html

新潟市においては、第二次世界大戦末期の昭和二十年新潟港を中心として、艦載機による銃爆撃や触雷により連絡船「鉄工丸」、軍用船「宇品丸」、佐渡連絡船「おけさ丸」などの多数の船舶や工場民家などに大きな被害を受け勤労動員の生徒をはじめ、工員・乗客・船員など多くの尊い生命や貴重な財産が失われました。
さらに、新潟市出身の軍人軍属並びに市民の多くがひたすら祖国の安泰と家族の幸せを念じつつ戦争の犠牲となり尊い命を亡くされました。
また当時、市内の捕虜収容所に収容されあるいは強制連行されて来ていた外国の人々の多くも異国である新潟の地で亡くなっております。
あれから五十年余りが経過し、新潟市は今市民のたゆみない熱意と粘り強さによって中核市として目覚ましい発展を続けております。
しかし、私たちは、今日の発展が多くの尊い犠牲の上に築かれていることを忘れず戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に語り継いでいかなければなりません。
市域で最も激しい戦禍にあった新潟港を望む水戸教公園の丘に、平和の祈念碑を建立し戦争の犠牲となられた方々のご冥福をお祈りするとともに世界の恒久平和を願うものであります。
 平成十年八月十日
  新潟市長 長谷川 義明

場所

https://maps.app.goo.gl/JCmY6BmzcqbTVznD6


関連記事

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shinetsu_01.html

https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_10.html

https://www.sankei.com/article/20150811-HSYDYZKHOBNG3AODPVQBKR3BW4/

陸軍護衛空母「山汐丸の錨」(横浜)

2018年11月及び2023年12月撮影・横浜市


山汐丸の錨

「山汐丸(陸軍護衛空母)」
横浜みなとみらい地区の片隅に赤さびた大きな錨が展示してある。

昭和19年に三菱重工業横浜船渠で2TL型タンカー5番船として起工された山汐丸は、昭和20年1月27日に竣工。
形式上は民間船であったが陸軍指揮下で船団護衛艦兼用輸送船として運用予定であった。

しかし既に南方航路も閉ざされており就役を待たずに石炭炊き貨物船(既にタンカー輸送船として運用出来ない為)に改造が決まる。

三菱重工横浜船渠において係留待機中、昭和20年2月の空襲で大破着底し終戦。
戦後の解体中に沈没。
そのまま擱座状態で埋められ「山汐岸壁」へと。

由来の看板がある。

造船所と横浜を記憶する「イカリ」
  このイカリは「みなとみらいセンタービル」工事中に発掘されたものでビル建設の一環として事業主様により設置・展示されました。
この敷地には、一八九一(明治二十四)年に創業した横浜船渠株式会社がありました。その後、三菱重工業株式会社横浜造船所となり、約一千隻の船を建造しましたが、一九八三(昭和五十八)年に移転し、この地は「みなとみらい」となりました。
 イカリの主は陸軍航空母艦「山汐丸」(一五、八六四総トン)です。「山汐丸」は一九四五(昭和二十)年に建造され、油の輸送と船団護衛のため、飛行機を搭載していました。
二〇一一(平成二十三)年 三月
 三菱重工業株式会社
 原動機事業本部横浜製作所
  第二十八代所長 加藤敏彦

イカリ

明治24年以来、山汐丸をはじめ約1000隻の船を建造してきた三菱重工業株式会社横浜造船所は、昭和58年に移転し再開発「みなとみらい」と生まれ変わる。
平成23年(2008)に、みなとみらいセンタービルの建設工事の際、「山汐丸の錨」が発見され同ビルの脇の広場に展示。

昭和12年(1937)に帝国海軍が採用したホールズ型イカリだという。

場所

https://maps.app.goo.gl/4bVnCrMxFyxxAGLK9


Wikipedia「山汐丸」より https://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b1%b1%e6%b1%90%e4%b8%b8 …

山汐丸

特2TL型戦時標準船(2TL型油槽船5番船)
船団護衛空母兼用タンカー輸送船
三菱重工業横浜船渠
竣工1945年1月27日
排水量15,864t
全長148.0m
全幅20.4m
最大速力15kt
昭和20年(1945)2月17日、飛行甲板大破し浸水着底

山汐丸は大洋に漕ぎ出すこともなく竣工から沈没までを三菱重工業横浜船渠(三菱重工業横浜造船所)の地で過ごした。

埋められた錨は、みなとみらい再開発でよみがえり、今は三菱重工業横浜造船所の跡地にそびえ立つ「三菱重工横浜ビル」の方向を見つつ静かに鎮座している…


関連

「三菱重工横浜ビル」

「横浜船渠」と「みなとみらい」

https://senseki-kikou.net/?p=6468

海自第2術科学校一般公開(横須賀田浦)

横須賀田浦
海自第2術科学校(2術校) 一般公開・オープンスクール(平成28年9月)


海自第2術科学校一般公開

9月10日。
この日は海上自衛隊第2術科学校でオープンスクール(一般公開)がございました。 JR田浦駅に到着したのは午前10半すぎ。 観てきたものを簡単にレポしてみましょう。

田浦トンネル

JR田浦駅名物の三連トンネル(横須賀側)
中央トンネル(電車走行中)は、明治22年(1889)横須賀線開通時の最も古いもの。 右のレンガ造トンネルは大正13年(1924)に増設。 左の大きなトンネルは昭和18年(1943)海軍軍需輸送引込線用。

JR田浦駅の東逗子側は2連トンネル。
下り線(右側)は明治22年(1889)建設。 上り線(左側)は大正13年(1924)複線化に伴って建設。

JR田浦駅。
因みにホーム長がいまどきのJRロング編成車両には対応していない為、横須賀側1両目はトンネルに頭を突っ込んで停車。扉は開かず。乗降は2両目以降でお願い致しますな駅です。 駅の両端がトンネルに挟まれている為にどーしようもない。

海上自衛隊第2術科学校

JR田浦駅から歩くこと5分ほど。 海上自衛隊第2術科学校正門に到着です。 敷地の外側はよく歩いていましたが、敷地の中に入るのは初めてですw 敷地を巡っている水堀がなんかもう古そうで、これも海軍時代の名残なのかなどうなのかな、とか。

マップです。 広いです。
盛りだくさんすぎて、迷い箸状態です。 さあ、どこから参りましょうかね?

海上自衛隊第2術科学校庁舎 (ここは非公開でした。まあ、そりゃそうだ)

φ(..)メモ
第1術科学校・江田島 水上艦艇術科教育
第2術科学校・横須賀 機関・電機・外国語等の特殊部門専門教育
第3術科学校・下総 航空機整備員・航空基地員養成機関
第4術科学校・舞鶴 経理・補給関係術科教育訓練


海自第2術科学校、すなわち「2術校」

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/ 

機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を主体とする機関


まず最初に何処に行こうか迷って、機関とか電機とかタービンとかエンジンとか英会話教室とか…私の頭では処理しきれない催し物ばかりでパンクしそうだったので、まずは一番得意なところに足が赴きました。

歴史保存エリア

海軍通信教育発祥記念碑

明治34年、この地「海軍水雷術練習所」にて日本で始めての無線電信術の教育が行われた。 明治40年に海軍水雷学校となり、昭和5年に海軍通信学校が分離独立し、昭和14年に海軍通信学校は久里浜に移転し終戦。

海軍水雷学校跡碑

明治26年12月2日に水雷術練習所が設置。明治40年4月20日に海軍水雷学校。昭和20年の終戦までこの地で海軍教育が行われてきた。

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑

明治28年2月4日夜。日清戦争威海衛の戦いにおいて第六号水雷艇(艇長は鈴木貫太郎大尉・のちの総理)は港内に突入し敵艦鎮遠に水雷攻撃をしようとした矢先、発射管が氷に閉ざされ射出が不可能となってしまった。
水雷術を専攻し担当していた上崎上等兵曹は水雷攻撃ができなかった事を責任を感じ、敵降伏後の3月14日に艇内において自刃。36歳であった。 鈴木貫太郎艇長をはじめ艇員はその忠誠を永久に伝えるために横須賀竜本寺にこの碑を建立。昭和43年に「水雷ゆかりの2術校」内に移転。

海上自衛隊発祥乃碑

昭和27年4月26日、海上自衛隊の前身である海上警備隊がこの地にて創設。戦後の海軍の再建を検討していた「Y委員会」において地元と米軍の了解が得られた場所がこの「田浦」の地だったのだ。

すなわち田浦は海自発祥の地!

米内光政(海軍大臣)がその晩年を傾けた「海軍再建」の意志を引き継いだ保科善四郎(軍務局長)、そしてY委員会委員長となった山本義雄(総務局長)、調整に尽力した野村吉三郎…


国旗掲揚旗竿基部

海上自衛隊創設時にこの地に建てられたもの。 海上自衛隊の歴史を残し物語るもの。

タイムカプセル

意外でした。
海自の学校でタイムカプセルって、なんかオチャメ。

伝統と飛躍
海上自衛隊第2術科学校
開校40周年記念
タイムカプセル
 1998.4.1設置
 2018.4.1開封

(2019年に記事編集してますので、もう開封されてますね・・・)

第2術科学校開校20周年記念機関

350馬力蒸気往復機関 海自が昭和27年発足時から昭和32年まで「えい船4号」として使用した旧帝国海軍雑役船の主機械。同船除籍後に教材として活用。創立20周年に際して記念機関として永く保存されている。

こんな感じで「歴史保存エリア」を満喫満足したら、庁舎をみながら敷地の中心部に向かいます。

時間は11時半頃。 ちょっと早いけど「お昼」にしましょう。 厚生センターの食堂へ向かいます。

田浦厚生センター

海自第2術科学校の食堂でいただくカレー。

「DDGきりしま」カレー(ポーク)を「海自のプレート」で戴きました。 海自で使用されている本物のアルミプレートにカレーとサラダ・玉子焼・福神漬・コロッケ・牛乳がセット。 食堂の隣は売店。

食事を終えたらプラプラとお散歩を。

格納庫のようにみえる建屋は「内燃実習棟」。 この海自第2術科学校内に、旧海軍時代からの建造物がどれだけ残っているかは未調査・未把握でしたので、なんとなく建物の記録もしておきました。

行進展示

プラプラしていたらちょうど、グランドでは学生たちによる「行進展示」がおこなわれておりました。 もちろんここは海自の学校ですので、左側は陸自ではなく海自隊員の陸上迷彩服ってことです。

PS07あしたか
AGS-5106海洋観測艦しょうなん
MST-463掃海母艦うらが

内燃機関実習場

さきほどの格納庫みたいな建屋。 ・・・文系人間には。どうにも難しい展示なので内燃機関の見物よりも建物の観察がメインでした・・・。 うーむ。

第二ガスタービン実習場

V6V機関室。
うっ、うむ。

電機・応急工作実習場

四角い建物。 ここも・・・はい、難しいです・・・。 隊員の人が展示物に関していろいろ教えてくれるんですが、、、馬耳東風・・・。 うーむ。

電機・応急工作実習場

パソコンでクイズに挑戦。 これなら、私でもなんとかなりそうですw 難問!!海上自衛隊クイズ!海上自衛隊創設問題
やってみました

・・
・・・
合格! 歴史系だったので面目保てて助かりました(1問、間違えた)

掃海艦を見に行きましょう!

掃海艦はちじょう ※除籍

やえやま型掃海艦3番艦
磁気反応型機雷を避けるために木造艦。世界最大級の木造船舶。
排水量基準1,000トン / 満載1,200トン
全長67.0m/全幅11.8m

因みに、やえやま型掃海艦
1番艦「やえやま」は2016年(平成28年)6月28日除籍
2番艦「つしま」は2016年(平成28年)7月1日除籍
3番艦「はちじょう」のみが現役。(補足→平成29年に除籍されました)
姉妹引退艦は「はちじょう」の近くに佇んでおりました・・・

掃海隊群第1掃海隊
MSO-303掃海艦はちじょう
海自としての再出発。
その根源は「掃海部隊」にあり。
海軍の伝統を受け継ぎ、国際貢献の主役として今も掃海部隊は活躍をしている。

機雷処分用として、前甲板にJM-61-M20mm多銃身機銃1基を備える。

艦橋

掃海艦はちじょう艦内神棚

近くにいた隊員に質問をしてみたところ、艦にゆかりのある八丈島の神社もお祀りしているとのことです。(その隊員さんはどこの神社かまでは詳しくはわからないけど、とのことでしたが。)

掃海艦はちじょう艦上から、田浦倉庫群を望む。

B倉庫・C倉庫・D倉庫
※平成30年7月22日にB倉庫C倉庫が焼失してしまいました。

K倉庫・F倉庫・G倉庫

海自横須賀造修補給所比与宇油脂庫地区

B・C・D・K・E・F・G・H倉庫

帝國海軍軍需部長浦倉庫の名残を海側から。
※平成30年7月22日にB倉庫C倉庫が焼失してしまいました。

参考情報 →倉庫略番写真地図

一部に熱烈なファンがいるらしい?
海自リアカー(折りたたみ式) 「はちじょう」のものではなく・・・
掃海艇「はつしま甲板」とラベル有り

掃海艦「はちじょう」スタンプ色々

旧帝国海軍横須賀海軍軍需部倉庫。

こちらは2術校と隣接する海自横須賀造修補給所N-4倉庫。
この旧帝國海軍名残の倉庫が、海自敷地内から間近に見ることが出来たのが地味に嬉しく。 (敷地外からも見ることは出来ますが・・・)

隊舎

隊舎では学生居室の公開も。
バームクーヘン・・・といえばベッドメイキングw
このピシーっとした毎朝のベットメイキングも海軍の伝統。
皺があろうがなかろうが上官が(以下自主規制)なのは旧海軍ですが海自もアレコレ伝統墨守してるのかな…

スタンプラリー

(資料室系の難しい話は後回し 集めると「ペーパークラフト」が貰えました。(まだ作ってません)

因みにペーパークラフト一番難易度は「きりしま」とのことでしたが、私は「ひゅうが」を。
航空戦艦の時代ですか?日向師匠!

さて、いよいよこちらに参ります。

第2術科学校

「海軍機関術参考資料室」

「海上自衛隊創設史料室」

実はここを一番の楽しみにしていたのですが、結果として時間切れをおこしてしまい、次回はここをメインにしようと改めて決意をした、など。

歴史講座「掃海がつないだ海軍のこころ」
帝国海軍から海自まで脈々と受け継がれてきた伝統。
「サイレントネイビー」

軍人は政治に関与せず、ひたすらに任務を果たせ、と。 縁の下で掃海部隊が黙々と営々と繋いできた「海軍のこころ」を。

海自の創設物語。

そして日本近海・朝鮮戦争・ペルシャ湾掃海作戦など。 まさにサイレントネイビーゆえに、あまり物語られることのない掃海部隊の活躍を学ぶことが出来ました。

まずは「海軍機関術参考資料室」へ。

ここには海軍機関学校関係の貴重な史料、また海軍の歴史的な史料が集まっております。
幾つかは公式Webにも掲載がございますね。

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/dentou/rekisieria/rekisieria_index.html

豊田副武書 「丹心答聖明」 たんしんせいめいにこたう

元末期の西域詩人である薩都刺(さつら)の詩が原作。
「真心をもって、天子の聖徳に答える」の意。
豊田副武は、最後となる第19代軍令部総長。海軍大将。

古賀峯一書 「竭誠盡敬」 まことをつくしてけいをつくす

「真心を尽くして尊敬の念を持つ」の意。
古賀峯一は山本五十六の後任として第28代連合艦隊司令長官となるも海軍乙事件にて殉職。最終階級は元帥海軍大将。

永野修身書
「庶昭忠誠」「憑高跳遠」

第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。開戦時の軍令部総長。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。

山本五十六書
「常在戦場」

長岡藩の藩風・藩訓「常在戦場」。 河井継之助とともにあった長岡藩家老・山本帯刀家を継いだ高野五十六は、その長岡の精神を常に座右の銘としていた。

幾つか目に止まったものをつらつらと掲載していきます。
史料は無数にあり、見逃したものも多いため再訪したいですね。

山本五十六の書

古賀峯一の元帥刀

旧海軍用燃料(塊炭)
明治末頃まで艦艇の燃料として使われていた炭

ちなみに展示品がのっている、この机は「海軍水雷学校記念材」だったり。

旧海軍水雷学校鐘鈴

昭和16年12月8日当時の「海軍士官夏服外套肩章」

進水式斧金槌
右から 駆逐艦・暁(進水式)
航空母艦・飛龍(起工式使用金槌)
特務艦・高崎(進水式使用斧)

井上成美の懇談録音テープ

米内光政・山本五十六とともに海軍三羽烏(左派トリオ)と称された井上成美。米内海軍大臣の次官としてその片腕を担った人物。
声は聞こえぬ展示物であれ、背筋がすっと伸びてしまいました。

軍艦「長門」水圧管水管系図の銘板

終戦後に英国進駐軍が軍艦「長門」機関室から外して英国に持ち帰っていたものが昭和61年に英国から海自に寄贈。 ビキニ前に取り外されたからこそ残った長門の銘板。感無量です…。

あぁ、これは貴重な本棚だ・・・。

こんな感じで上から下まで貴重な史料のオンパレードでレポはほんの一部。圧倒的に時間たりませんでした。これは、また見学に来たいです。

「海上自衛隊創設史料室」
続いては向かいの部屋に。
戦後、海軍解体後に、海上自衛隊が創設するまでを物語る史料室。知らなかったことも多く大変勉強になりました。

Y委員会

1945年(昭和20年)12月1日。

旧海軍組織・海軍省は廃止され、かわって復員業務を主体とした「第二復員省」(第一は旧陸軍省)が設立。 第二復員省資料整理部では米海軍が関与する中で海軍再建の研究がなされた。

最期の海軍大臣・米内光政。

米内は小磯・鈴木貫太郎・東久邇宮・幣原内閣と戦中戦後の海軍大臣を歴任し、その帝國海軍の最期(1945/12/1海軍省廃止)を見守った人物。 米内が軍務局長・保科善四郎に託す想い…

戦後、米内は保科善四郎軍務局長に「海軍再建を模索すべし」「海軍には優秀な人材が数多く集まり、その伝統を引き継いできた。先輩たちがどうやってその伝統を築き上げてきたか、後世に伝えるべし」「海軍が持っていた技術を日本復興に役立てること」と指示したという。

保科善四郎が戦後に政界に入ったのはこの「米内の遺言」を一つでも達成しようとしたためと述べており、Y委員会(海軍再建検討のための組織)を通して、現在の海上自衛隊創設の際に「米内の遺志」を反映されていると言われている。

保科善四郎(海軍中将)は、開戦時の駐米大使で海軍大将であった野村吉三郎とともに海軍再建の検討を開始。 野村は復員庁第二復員局の元海軍軍人とともに海軍再興の私的な検討に入り、のち政府・米海軍とも調整を進め1952年(昭和27年)にはその道筋が構築された。

Y委員会。 昭和26年10月。吉田茂内閣直属の「秘密組織」として「海軍再建」を検討した組織がY委員会。同委員会が日本の海上防衛力再建のための計画策定にあたった。

Y委員会。
Yの由来には諸説ある。
ひとつは、
「A」は陸軍、「B」は海軍という海軍隠語。しかしBでは「海軍」のことを指しているのがストレートすぎるので逆順にしてZに次いだ「Y」とした説。

Y委員会由来もう一つの説は、
旧海軍側の中心人物であった山本善雄(元少将)、吉田英三(元大佐)両氏の苗字の「Y」、さらに海保側の中心人物であった海上保安庁長官の柳沢米吉の「Y」。 また、海軍再建を願った米内光政の「Y」をも含む・・・とも。

戦後。
帝国海軍解体後に、如実に日本の沿岸・港湾警備に問題が生じたために、1948年(昭和23年)に連合国軍占領下の日本において洋上警備・救難および交通の維持を担当する文民組織として海上保安庁が設立。

そして1950年(昭和25年)、朝鮮戦争において対機雷戦戦力が不足してた米軍より指令が下り、海上保安庁より掃海部隊が派遣。朝鮮半島海域において特別掃海活動を実施。(日本特別掃海隊)

これにより米軍側からも日本の海軍戦力の再建が必要との認識が沸き起こる。

Y委員会での検討がすすみ、結果として1952年(昭和27年)には第3次吉田内閣の下で、より軍事組織に近い海上警備隊(沿岸警備隊)が海上保安庁附属機関として組織。その後まもなく「海上警備隊」として海保より分離され、これが後の「海上自衛隊」となった。

こんな感じで海自の創設を学びつつ。(概要はかなり端折りました・・・) 勉強になりました。

昭和33年ごろの第二術科学校。

服務の宣誓  
 保安庁職員  
 自衛隊員

16時ちょっと前。
史料室でズッポリと沼にハマってしまい。
これで時間切れ。
まだまだ見たりなかった気がします。
これはまた来年のオープンスクールにお伺いしないと、ですね。

関連

半原水源地と海老名と・海軍横須賀水道(愛川・海老名)

(平成29年7月)

  • 半原水源地
  • 横須賀水道みち
  • 上郷水道橋(上郷水管橋)
  • 海軍標石(海軍境界石)

【横須賀水道と半原系統】

海老名の有鹿神社の境内裏手「相模川」に気になる橋があります。
「上郷水管橋」
愛甲郡愛川町の半原水源地よりほぼ直線に引かれた自然高低差の水道管で横須賀の逸見浄水場へと導水された跡。

海老名界隈の地図を見てみると、見事な直線が気になります。 同じレイヤーで線を引いたものと実際の航空地図を並べてみました。 一部断絶してますが、うん見事な直線ですね。 この直線道路が「横須賀水道道」(よこすかすいどうみち)と呼称されている道路。

横須賀水道

https://ja.wikipedia.org/wiki/%e6%a8%aa%e9%a0%88%e8%b3%80%e6%b0%b4%e9%81%93 …

日露戦争後の軍備拡張に伴い海軍当局は中津川に取水口を設け約53km離れた横須賀まで鋳鉄管を使用し落差約70mの自然流下による半原系統の建設工事を1912年着手、1918年10月通水開始。

横須賀市上下水道局

http://www.water.yokosuka.kanagawa.jp/history/suido/06.html …

横須賀に拠点を置く海軍は水不足改善の為に相模川の支流中津川に新しい水源を求め、明治45年(1912)に工事に着手し大正10年(1921)に完成させた、海軍水道みち。全長53キロ。

半原水源地(愛川町)

朝。

今回はじめて「半原地区」に脚を踏み入れた私。 結論からすると再訪必至となりました。事前調査不足と夏の暑さと草木の成長などに阻まれたため、これは涼しくなってからのリベンジです。 なので今回のレポは(自分的な)ガイダンスとなりそうです。

橋本駅7時55分の神奈中バス「橋07系統・鳥居原ふれあいの館」行きバスに乗り込む。橋本からの山越えコース。途中の「串川バス停」で下り車線から上り車線に移動して「半原」行きへ乗り継ぐという変則行程。 未知の土地でのバス乗換えはドキドキします。

8時43分。予定通りに「半原」バス停に到着。 ちなみに半原地区に赴くには「本厚木」からがベストです。バスはだいたい30分に1本走っているので時間調整しやすいです。 私のとった橋本ー串川橋ー半原コースは1時間に1本以下となりますのでご注意を。

半原バス停から南に。「半原水源地」に到着。

横須賀市水道局半原水源地
(横須賀市上下水道局)

場所:https://goo.gl/maps/QxFS62RG6mB2 …

こんな山奥に横須賀市の施設があるのが往時の海軍時代からの因果。 なお平成27年2月28日運用廃止。

「半原水源地」

せっかくなので敷地を周回。(敷地内には入れません) 敷地の隣を流れるのは「中津川」 ここより上流約500メートルほどの場所に取水口があり、制水用ハンドルや隧道もあるが、今回は暑すぎたので近づくのは割愛。 次回の再訪課題で。

敷地外から沈殿池跡などを覗いてみました。 往時、横須賀を拠点とする帝国海軍の水がめとして活用された「半原水源地」はすでに時代の役目を終えており、歴史遺産としてその姿を残していた。

平成19年4月取水休止
平成27年2月28日廃止

「半原水源地」 敷地外から観察。

「半原水源地」 敷地外から観察。
水道管が転がってました。

「半原水源地」 敷地外から観察。

「半原水源地」 外壁の石垣。 これは良いところですね。

「半原水源地」 敷地の奥に護水の神がおられました。

妙法護水善神

若宮神社

「半原水源地」の正面のちょっとした高台に「若宮神社」が鎮座しておりました。
まるで半原水源地を見守るような佇まい。
神社由来は不詳。 最近、御社殿を新しくされたようです。

狛犬は明治44年の銘あり。海軍による半原水源地の建設開始(明治45年)よりも1年ほど早くからここに鎮座してる狛犬。
まさに半原水源地とともに時代を刻んできた狛犬。

半原水源地から横須賀水道みちへ

半原水源地より伸びる道を歩む。
ここから「横須賀水道みち」が延々と三浦半島横須賀まで、帝国海軍の水を担うために水道管が伸びていた。
その水道管は道路の下に。水道管の上に道路が敷設されたわけです。

半原水源地よりちょっと歩いた公園の片隅に。 ありました。

「海軍用地」境界石(境界標石)

場所→https://goo.gl/maps/PyoLpCkdjb22 …

こんな山奥ではあれど、大切な「海軍の水」ですから。
こうして主張されているわけです。

実は半原の街を歩いていた所、どうも祭りの気配がありまして。
道々に紙垂もさげられていたり。

半原神社

集落の鎮守たる集落の名を冠する「半原神社」( 諏訪大明神)
ちょうど八雲祭祭礼の準備(土曜日が宵宮・日曜が本宮)が行われてました。
祭礼の邪魔をしては悪いので参拝だけして次へと。

水道みちを下っていきます。
ここで水道みちと現在の道路が別れます。 水道みちは1枚目写真の手前(津久井)に。
現在の道路は1枚目写真の右(厚木相模原)にカーブを。
この場所が次のポイントです。
隧道が見えますね。

横須賀水道みち「隧道」

場所→https://goo.gl/maps/vjrVLLWhgWK2 …

昔は通行可能であったそうだが、現在は愛川町道路管理課によって通行禁止の処置がとられている。
水道管を通すのに掘られた隧道。

横須賀水道みち「隧道」の隣の高台に。
気になる空間があったので立ち寄ってみました。 狛犬の銘によると「金山神社として築造、明治捨参年」されたそうで。狛犬は対ではなく1体のみ。 明治13年であれば、これもまた「横須賀水道」よりも古くからの存在。

さきほどの横須賀水道みち「隧道」は、通行止めでしたので道路を迂回して下流側へ。
要石がお見事です。

前述の横須賀水道みち「隧道」から伸びる道は緩やかな勾配を描いた築堤のような雰囲気。

その先に次の「隧道」がみえてきますが、こちらも封鎖。 夏の草たちはよく育ってますね。
・・・近寄れませんでした。また迂回です。

(築堤の途中で用水を渡る水道管も見逃し。宿題です。)

場所→https://goo.gl/maps/PZ3kgqt66522 …

迂回中。
ブレてますがバスは比較的よく走ってます。
(田名バスセンター及び厚木バスセンター方面)

前述の2つ目の隧道の下り側。簡易的でしたが道は封鎖。この先は個人住宅裏へと連なっておりましたので進入はヤメ。
山の中ですが「横須賀市」の標石あり。
(リアルな横須賀とか50キロぐらい離れてます)

場所→https://goo.gl/maps/VZ8Mbo9Kk762 …

愛川橋

中津川。見える橋は「愛川橋」
愛川橋では「あいちゃん」(愛川町観光キャラクター)が何かの撮影をしてました。

で、風光明媚すぎて暑すぎて、このあたりにあるという「旧海軍マークの刻まれた排気弁蓋」を見忘れたり(あぁ、これも宿題)

そろそろ慣れてきたと思います。

戦前は帝国海軍の管理、そして戦後は横須賀市の管理用地となります。

ようやく通れる隧道(愛川トンネル)です。
平成5年に現在の様相に拡張済み。
トンネルの中は涼しくて助かります。

場所→https://goo.gl/maps/j4Y6D2uwxqm …

中津川の清流。癒やされます。

馬渡橋

ここはね、来るのが遅かったってわかっているから覚悟済み。
「馬渡橋」架替工事。平成29年9月29日まで。
以前の馬渡橋脇には「横須賀水道の水道管」も一緒に渡されていてその姿を見ることが出来たが、既に撤去済み。

「馬渡橋」の近くに。 僅かに痕跡が残っておりました。
「水道局」の石標。

中津川にかかる「馬渡橋」を渡って、次の集落へ。
行政地区的には「愛川町半原」から「愛川町田代」となります。

「横須賀水道みち」は自然勾配で下っていきます。 こうして適度な斜面があるから、ポンプを使わずに水を横須賀に流すことができるわけですね。

田代の集落を通る水道みちを歩いていると、あぁこれは立ち寄らないとダメですね。

中津神社(小嶽明神)

ちなみに前述された「半原神社」は、こちらの中津神社が本務社となっております。

「中津神社」(小嶽明神)
大日霎尊(おおひるめのみこと) 創建年代は不詳であれど文治年間(後鳥羽時代1185年~1189年)には鎮座していた。
北條家臣内藤秀勝が田代城を治め当社を氏神として信仰。
中津川流域の中心地であり中洲をなしている田代集落の総鎮守。

なかなか興味深い神社。御社殿の後方にちょっとした丘があってそこにも祠が鎮座。本殿の後なので覗き込むわけにもいかない角度だけど、奥社っぽい気配。この規模にしては余り見かけない空間です。

ここで迷う。
道は迷ってないけど選択肢に迷う。
別に地酒を迷ったわけでもなく。
水道みちを歩くのであれば相模原方面へ。切り上げるなら厚木方面へ。
時刻表をみたら程よく10時58分に厚木行きのバスが。

場所:https://goo.gl/maps/mWu4DVYcib82 …

ということで一旦切り上げ。

半原水源地から愛川町田代まで「横須賀水道みち」を歩いた距離は7.5キロ。所要時間は約2時間15分。

宿題が幾つか残ってしまったので半原地区はまた訪れることになります。

このあとは海老名の水道みちにワープ!

海老名市内の横須賀水道

さて話は海老名にワープします。
海老名駅ほど近くから有鹿神社までのちょっとした直線が次の見どころ。
この直線が延々と伸びている「横須賀水道みち」

海老名市内を縦断する「横須賀水道みち」

ちょうど相模線の線路がクロスするあたりから「歩行者自転車専用」の細道が伸びています。
看板には「水道用地」とあります。
右手の水田のところにポツポツと林立しているものが「水道標石」 近づいてみましょう。

海老名市内を縦断する「横須賀水道みち」

水田と用水の間に標石が何本も並んでいます。 横須賀市の文字も見えますね。でもここは海老名市。

水田地帯を抜けると道路の両脇にいい感じに標石が並んでます。
だんだん慣れてきました。
これらは削られ系ですかね。

海老名市内を縦断する「横須賀水道みち」の「水道標石」

表記は水道部だったり水道局だったり。
標石の時代が違うのかな。
埋もれ方にも個性があります。

海軍標石(海軍境界石)

「標石」ハイライトはこちら。
波が描かれた「海軍標石」(海軍境界石)

この場所がなんであるかを物語る、力強き「海」の名残。

海老名市内を縦断する「横須賀水道みち」
みごとな一直線です。

上郷水管橋

突き当りは相模川です。
この向こうが冒頭に触れた「上郷水管橋」
占有者は横須賀市上下水道局。

相模川にかかる「上郷水管橋」

1918年(大正7年)完成。
2007年(平成19年)4月取水休止。
2015年(平成27年)2月廃止。

横河橋梁製作所
東京工場制作
大正七年三月竣功

銘板は大正7年。右から読ませます。

県立相模三川公園より遠望してみました。

「相模大山」と「上郷水管橋」 左に見える塔は「国土交通省関東地方整備局厚木無線中継局」

「上郷水管橋」のすぐ隣にあるのが「有鹿神社」

有鹿神社

実は神社境内にも標石があったり。かつては今よりも広大な敷地を保持していた有鹿神社であったが社地の後方に横須賀水道が通ることで境内が削られたわけで。
こうして境内に横須賀市水道部の水道境界石が残っている。

ということで。
海老名の有鹿神社に到達したところで本記事はひとまずオシマイ。
宿題が幾つか出来ましたので続編を期待しつつ、いったん〆ます。


関連

神奈川県中央部の海軍史跡散策(寒川・大和・綾瀬)

 (平成29年6月・10月撮影)

※2017/6訪問
・寒川→相模海軍工廠跡と引込線(寒川支線)
・大和→厚木空ゆかりの神社

※2017/10訪問
・綾瀬→二相空ゆかりの神社

神奈川県中央部の海軍史跡散策

平成29年6月。
海老名に用事があったので思い出して近隣の戦争関連史跡(戦跡)散策を敢行してみた。 南の寒川町(相模海軍工廠跡) 東の大和市(厚木空神社関連) それぞれに海軍関連の史跡が僅かながらに残っておりました。

寒川町・相模海軍工廠跡と寒川支線

相模線寒川駅。 寒川支線と思われるスペースが線路左側に広がっている。 昭和59年(1984)に寒川支線は廃線。 開業は大正12年(1923年)。砂利貨物路線として開業し、近隣の発展とともに旅客輸送も始まり、工場地区への足とも成っていた路線。

地図を見てみると、わかりやすい。 JR相模線寒川駅より分岐し南西に伸びる路線(赤い線) これが「寒川支線」 廃線後の現在は遊歩道として整備されております 終点の「西寒川駅跡」の先の工場エリアが 戦時中は「相模海軍工廠」でした(赤枠あたり)

※余談

JR相模線寒川駅では全力で「寒川神社の最寄り駅は宮山駅です」と訴えてきます。 が、実は…寒川支線の分岐あたりから「寒川神社の表参道・一之鳥居」が始まっておりますので、「宮山駅」からアクセスするよりも「寒川駅」からアクセスするほうが本来の意味では正しいんですよねえ…

寒川支線の跡を辿りながら「相模海軍工廠跡碑」を目指して歩いてみましょう。

「大山踏切」 そういえば相模の大山(4枚目写真)が見えてましたね。 ここもきっと大山街道なのかな、と。 空間の広さが支線跡を感じさせる

寒川支線跡

相模線と寒川支線の分岐点のあたり。 この知らないと無駄でしか無い空間の広がりが線路跡を感じるスペースですね。

ゲート広場。 三方向の分岐点。 寒川駅方面から歩いてきて、「一之宮公園」が寒川支線へ伸びる遊歩道。 その反対側は前述した寒川神社の表参道。 寒川神社を示す方角は深き社叢が感じられますね。 ここは神社に行きたいところを我慢して、真逆の廃線跡を辿ってみます。

「寒川支線跡」 廃線跡の遊歩道。 いきなり脇の方に、きっとなにかの鉄道系の機械を置いていたであろう土台があったりしていきなりテンション上がってきました。 この遊歩道はきっと楽しいに違いない。 さて、線路跡の遊歩道を歩いてみましょう。

しばし歩くと「一之宮公園」に到着。 なにやら見えてきました。 車輪ですね。 なにやら廃線跡散歩が楽しくなってきました。


「一之宮公園」 一之宮公園内の廃線跡には往時のレールがひかれており、いやがうえにも気分が盛り上がってくる。 ゲート広場と一之宮公園と八角広場とを廃線跡の遊歩道が結んでおります。

「一之宮公園」 公園の両端に車輪が置いてありました。 さきほどのものとはまた別なもの。

「一之宮公園」から遊歩道を終点に向けて歩いてみます。 ここは踏切の跡・・・かな。

線路跡の遊歩道の脇に。 「工」の境界石。 これは「相模海軍工廠」時代の境界石?かもしれませんね。

「工」が刻まれたものは前述のひとつしか見受けられませんでしたが、 境界石というか標石はゴロゴロしてました。

一之宮緑道

旧国鉄相模支線跡地を利用して昭和60年度より整備を行ったものです。 延長は約900mであり、広場及び3つのタイプの園路から構成。

旧国鉄西寒川駅
相模海軍工廠跡

遊歩道の終点「八角広場」 そこに往時を偲ぶ石碑がある。 この地は 国鉄相模線寒川支線(海軍工廠引込線)でもあり、 海軍工廠が展開された場所でもあった。

石碑裏面
ここ旧西寒川駅跡に佇んで東を望み、更に南に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。 そこは、かつて多くの仲間が営々と働いた相模海軍工廠(昭和20年敷地704,000平方メートル)の跡地である。
往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り、懐旧の想いひとしおである。 第二次大戦後、工業立地に恵まれた跡地は町発展の礎となり、今日の繁栄をもたらした。 いま大地に大地に深く根差した緑に世界の平和を願い、国土の安隠を祈る。 建立 相廠会 及び 協力企業 昭和63年春

この地にあった旧海軍工廠は、イペリット爆弾等の化学兵器や火工兵器の本格的な量産を目的として、海軍技術研究所の化学研究部から昇格した工廠が展開されていた。

ちょうど西寒川駅跡の前を神奈中バスが走っていきました。

この八角広場にも往時のレールが残っておりました。

たぶんこれが「八角広場」の由来。 これだけ(往時を偲ぶものでもなく)唐突過ぎ。

この八角公園から先は工場エリア。海軍工廠時代名残のレンガ造の建物は近年撤去されたと風の噂に聞き格別な何かは残っておらず。 またかつてはここ「西寒川駅」より先に「四之宮駅」というのもあったが、それも特に何も残っておらず、で。 ※相模四之宮は相模川対岸の前鳥神社

帰りも同じ道を歩く。廃線跡の遊歩道を。 丹念に見ると・・・これも鉄路の名残ですね。 やはり楽しい。

再び戻ってきた「一之宮公園」にて廃線跡のレールを愛でる。 見つけました、古レールの刻印。 1925  1926 とありました。西暦でしょうか? ※ 開業は1923年(大正12年) 「S」マークも気になります。

更には「2606」の記載。 上記の「1925・1926」とは表記が違いますね。

※ 寒川支線(相模鉄道)開業は1923年(大正12年) 相模海軍工廠は1943年開業(昭和18年) 皇紀2606年は1946年 、昭和21年

30kgレール、Aはレールの種類、八幡製鉄所のマーク、皇紀2606年4月製造、OHは平炉製鋼。

古レールの刻印探しは楽しいけど、人々の憩いの広場となっている公園内でレールをマジマジと覗き込んでいる姿は滑稽でもあり・・・

「寒川支線跡と相模海軍工廠跡」 9時に寒川駅から歩きだして廃線跡の遊歩道を往復。 所要時間は約90分。歩行距離は約3.5キロでした。 さて、次は寒川駅から相模線を北上。 海老名駅を経由し相模鉄道にて大和駅を目指します。

大和市・厚木空ゆかりの神社

大和市の南西には「厚木航空基地」が展開。綾瀬市と大和市にまたがる軍用飛行場で、現在はアメリカ海軍と海上自衛隊が共同で使用している軍事基地。 戦前は「厚木海軍航空隊」が展開。海軍の首都防空の要であった「第三〇二海軍航空隊」が配備。

もちろん「厚木航空基地」そのものを探索する事は今回は出来ませんので、ゆかりの神社を2社詣でることとします。 大和駅から相模鉄道に沿って東に歩くこと15分、深見神社に到着。神社フリーク的には相模国延喜式内社13座の1座として有名ですね。

深見神社

相模国延喜式内社13座の1社。 御祭神は闇龗神・武甕槌神・建御名方神 雄略天皇22年(約1500年前)の創建という。 明治6年郷社列格するも明治9年隣地出火類焼し公称社格不詳となる。 昭和17年に再建し改めて郷社列格。

相模国延喜式内社13座の1社。 境内には寛政3年(1791年)に建立された神社碑がある。 この神社碑は相模線に面した北面鳥居の脇、境内の北東角にあった。 (最初わからなくて神職さんに場所を尋ねてしまいました) ちなみに御社殿は南面しているので参道の導線はチグハグ…

「深見神社」

ご神木なんじゃもんじゃの木(ハルニレ) 樹齢約500年。

深見神社境内摂社
靖國社 (元・厚木空神社)

境内に鎮座する靖國社はもと「厚木空神社」。 厚木海軍航空隊の守護神として厚木航空隊の戦死者を祀っていたが終戦後に廃祀(取除き)が命じられ深見神社に遷座。 深見部落の戦死者を合祀し昭和26年に鎮座祭を執り行った。

「雄飛」碑 碑面裏(引用)
第302海軍航空隊は、昭和19年4月勇将小園安名司令のもと、厚木基地に雷電・零戦・彗星・月光・銀河の精鋭機を擁し、本土防衛部隊として編成された。
同年11月B-29来襲に始まる防衛戦闘において302空は勇戦奮闘 昼夜を分かたず来襲する米空軍を迎え撃ってB-29・P-51・F6F等多数の米軍機を撃墜破する戦果を挙げ小園部隊の勇名を天下に轟かせた 又終戦時、徹底抗戦を叫び、世に言う厚木事件を起こした部隊としても知られている
終戦に至るまでの戦闘において数多くの隊員を失ったが戦没者は海軍葬をもって基地内の厚木空神社の祀られた 終戦後同神社の神殿は大和市深見神社の境内に奉遷され地元出身戦没者の英霊を合祀して靖國社となり今日に及んでいる 戦没者の霊を慰め302空の名を永く留めるためこの地に之を建てる

首都防空の要として機能していた厚木海軍航空隊(第302海軍航空隊)。 歴史的には終戦の瞬間に強烈なエピソードを残した小園安名司令のインパクトが大きい。世にいう厚木航空隊事件。 往時を偲び深謝する。

4月第一日曜日には「厚木海軍航空隊の慰霊祭」が深見神社靖國社で斎行されているとのことです。(戦友会は3年前に高齢化で解散済)

「深見神社」

御由緒書きと御朱印を頂戴致しました。 達筆でした。 ありがとうございます。

大和天満宮

「深見神社」をあとにして次に向かったのは「大和天満宮」。 御社殿が2階にあるのが見えますね。 2016年に敷地再整備で新築された神社。 実はこちらも創建由来が厚木海軍航空隊と関係があるのです。

「大和市文化創造拠点シリウス」 2Fデッキ広場に「大和天満宮」が鎮座している。

御社殿は2016年造営。 創建としては厚木海軍航空隊に遡る。 昭和19年に厚木基地内に祀られた「厚木空神社」は、犠牲者をまつる社殿と天照大神をまつる社殿の二棟があったという。

「厚木空神社」のうち犠牲者の御神霊を祀る御社殿は深見神社に遷座し前述の靖國社へ。天照大神の御神霊を祀る御社殿は現在地に住民が運び出したという。 厚木海軍航空基地にGHQ先遣隊が降り立ったのが8月28日。社殿運び出しはGHQが厚木に到着前の事だったという。

戦後、上記のような経緯もあり厚木空神社の社殿を運び出して流用。 その際に住民協議の結果、菅原道真公を祭神として勧請し大和天満宮(当初は南大和天満宮)として創建。 当時の海軍厚木空神社流用社殿は昭和27年に新築され昭和38年改築、平成28年新築となっている。

「深見神社」 「大和天満宮」

御朱印を戴きました。 厚木海軍航空隊の「厚木空神社」に関係する2社の神社を並びで。 「深見神社靖國社」は厚木空慰霊の祭祀を引き続き行い、 「大和天満宮」は新たな住民加護の祭祀を行う。

大和天満宮神職さん(座間神社からの出向とのことでした)に話をお伺いしました。 御社殿を新しくしたのを機に、ご由緒書も新しくしている最中だとかで、私が参拝した6月ではまだ出来上がっておりませんでした。 出来上がったら郵送しますよと行ってくれましたが、また来たときにでも、と。

本ツイは以上で〆

寒川で廃線跡と海軍工廠跡をみて、 大和で海軍航空隊神社の名残に接した、 そんな神奈川中央部での海軍関連史跡散策でした。 少しずつにはなりますが往時を偲ぶる地を、 こうして引き続き参っていきたいと思っております。

綾瀬市・二相空ゆかりの神社

二相空 → 第二相模野海軍航空隊

深谷神社

先日、海老名に赴いた際に時間を作って綾瀬まで赴いておりました。 綾瀬は駅がないんですよね。海老名駅から綾瀬市役所までバスで訪れ参拝。 が、深谷神社が今回のメインではなく。 今回のテーマは「深谷神社に隣接する祠」となります。

綾瀬市戦没者慰霊堂

いつのころから(綾瀬市が管理する)「慰霊堂」と呼ばれるようになったかは不詳だが、平成8年に発行された資料には「綾瀬神社」と明記されている祠が深谷神社のとなりに鎮座している。この祠、実は厚木海軍航空隊ともゆかりがあり・・・。

平成14年に覆殿新築。覆殿の中に神式宮殿有り。 この慰霊堂の元となった祠は昭和35年に現在地に遷座。戦前の「海軍航空隊神社」であった。すなわち「第二相模野海軍航空隊内神社」として建立という。 (神奈川県忠魂碑等建立調査集・参考)

第二相模野海軍航空隊

昭和17年に厚木飛行場の西側に「相模野海軍航空隊」(第一相模野)が開隊。整備兵養成航空隊。昭和18年に「第二相模野海軍航空隊」が厚木飛行場「第一相模野」南に設置。追浜空からの整備予備学生の受入を行っている。前述の祠はこの整備兵養成航空隊の崇敬神社という。

厚木飛行場主力航空部隊としては本土防空の「厚木海軍航空隊」(第302海軍航空隊)が展開されており、ゆかりの神社が東の大和市「深見神社」境内摂社「靖國社」(厚木空神社」。 そして厚木飛行場の西側である綾瀬市に航空整備兵養成の「第二相模野航空隊」(二相空)ゆかりの「綾瀬神社」。

綾瀬市戦没者慰霊堂
かつての綾瀬神社
戦前の第二相模野航空隊の崇敬神社

現在は深谷神社(綾瀬市)の隣に鎮座している。 慰霊堂として整備されており、平成14年に「覆殿」平成15年に「山門」が新造されている。 空間内には幾つかの慰霊碑もあつまっていたので見てみましょう…

慰霊堂の前に林立するひときわ大きな碑が「忠霊碑」(靖國神社宮司筑波藤麿書)昭和32年建立。綾瀬町出身の戦没者240余名を祀る。

殉国兵士招魂之碑

向かって右側に。 明治32年4月建立。 (日清戦争後の)明治28年に陸軍病院で病死した兵士を祀る。

日露戦役招魂碑(向かって左)

陸軍大将男爵乃木希典書・明治40年3月建立 綾瀬町出身の日露戦争での戦病歿者を祀る。

いまでこそ「綾瀬市戦没者慰霊堂」という無宗教方式っぽい慰霊施設であるが、かつてこの祠は「綾瀬神社」と呼称されていたという。 さらには、この地に遷座する前は厚木飛行場の傍らで海軍航空隊の崇敬社(第二相模野航空隊の崇敬神社)であったという遍歴を偲びつつ、雨の中、静かに合掌を…

追記捕捉

なお今回、綾瀬市戦没者慰霊堂の祠が旧海軍ゆかりの神社であったというのを知ったのは靖國神社が発行した「神奈川県忠魂碑等建立調査集」の記録によります。 神奈川県は護國神社がない県(竣工前に終戦・三ツ沢公園忠霊塔)のため靖國神社が調査を担当したとのことで…

相模大塚駅周辺の海軍戦跡

平成29年11月撮影

台湾亭 ・戦没台湾少年慰霊碑 、相模野海軍航空隊線(相模鉄道航空隊線) など


相模大塚駅周辺の海軍戦跡

相模鉄道「相模大塚駅」。
この駅の南側には厚木海軍航空基地、そして北東には高座海軍工廠(最寄駅「さがみ野駅」)があったこの地もまた海軍ゆかりの史跡がありました。
11月のとある夕方に近くに用事があり、隙間時間ができましたのでちょっと散策してみました。


相模鉄道「相模大塚駅」

この日の用事が終り、さてどうしようかなと思案。
手元の地図を見たら近くに戦跡がありましたので立ち寄ってみることに。 駅に到着したのは15時30分くらいのことでした。

厚木基地の北「さがみ野駅」北側には「高座海軍工廠」が展開されておりました。今回はさがみ野駅に赴く時間的な余裕はなかったので隣の「相模大塚駅」から散策をしてみます。 画像では黄色枠の所がレポの対象となります。


台湾亭

場所→https://goo.gl/maps/66Yo3acqut62 …

大和市「ふれあいの森」内に建立。
先の大戦中、将来の航空技師を夢見て台湾少年工8400名が高座海軍工廠で海軍局地戦闘機「雷電」の制作に従事。その台湾少年工たちの寄宿舎が当地にあった。
この建物は元工員たちにより1997年に寄贈。

終戦後に帰国した台湾少年工たちは台湾工業界の中核として活躍。のちに彼らの第二の故郷であった大和市を訪問し日台友好親善と世界平和を記念し本建物を寄贈。建設の中心は台湾に帰国した元少年工「台湾高座会」(当時約3千人)と日本に残った元少年工「在日高座会」(当時約40人)による。

台湾亭の階段には「海軍高座工廠」のシンボルマークが彫られている。このマークは「碇」と、前面から見た「飛行機」の姿を組み合わせたもの。 のちに、このシンボルマークを身につけていた者たち(台湾少年工たち)は「高座帰り」と言われ敬われていたという。


戦没台湾少年の慰霊碑

台湾亭より北東に鎮座する真宗東本願寺派「草柳山 善徳寺」

場所→https://goo.gl/maps/mDEaJ68t8vK2 …

この寺院に高座海軍工廠で働き、そして斃れた台湾少年工を偲ぶ慰霊碑がありました。

戦没台湾少年の慰霊碑
太平洋戦争末期この土地に高座海軍工廠在り 13才より20才迄の台湾本島人少年8千余名海軍工員として故郷を遠く離れ気候風土その他の開く環境をも克服し困苦欠乏に耐え連日の空襲に悩みつつもよくその責務を完うせり
されど病床に斃れ或いは爆撃により無惨の最期を遂げたるもの数多し 遺骨は故郷に還れど夢に描きし故郷の土を踏み懐しの肉親との再開をも叶はず異郷に散華せる少年を想ふ時18年後の今日涙また新なり これ等の霊魂に対し安かなるご冥福とかかる惨事の再び起らぬ永遠の平和を祈り之を建つ

※碑銘捕捉※

台湾亭志
 第二次世界戦中 一九四三年から翌年にかけて戦力補充のため 台湾の青少年約八千四百余名が この大和市に新設された高座海軍工廠に集結し 一部は実習を経て各軍需工場に配属され 終戦まで航空機生産の一端を担い続けた
 その間 米軍による本土空襲 多数の犠牲者も出 戦後そのまま残留した者以外 大部分は台湾に帰国したが 混乱の戦後を乗り越え漸く落ち着きを取り戻した時 若き日の命を託した大和市が第二の故郷として大きく胸に育まれた
 1987年 台湾高座会が発足 1993年日本高座会による五十周年記念大会に1300余名の会員が参加し 半世紀ぶりに旧地で再会の喜びに浸りあった ここに両地の親善交流を記念する とともに 世界平和への祈願をこめて台湾亭を大和市に寄贈し 変わらざる友誼のシンボルとする
台湾高座会 
1997年9月6日

台湾高座会 台湾各地域の区会や特別協力功労者・特別顧問などの名や部隊が列記されていた

※台湾少年工顕彰碑が、高座海軍工廠の地下壕がある座間の芹沢公園に建立されました。


相模野海軍航空隊線
(相模鉄道航空隊線)

さて、台湾亭と戦没台湾少年之慰霊碑を詣でたら、厚木飛行場の近くまで脚を伸ばしてみましょう。
地図をみると線路が伸びているのがわかるかと思います。
この線路は相模鉄道航空隊線・相模野海軍航空隊線・厚木海軍飛行場引き込み線・厚木基地引込線などと呼称されているようで。

元は昭和16年に開設された「相模野海軍航空隊・厚木飛行場」軍用線。
戦後は米軍への航空燃料輸送専用線として活用され、相模鉄道が平成10年(1998)までジェット燃料を輸送。現在は休止線の扱いのようです(実質は廃線)
ちょっと周辺を見てみましょう…

かつては厚木飛行場に燃料輸送をしていた線路であれど、現在は基地の手前でプッツリと線路は途絶。基地内には線路跡は残っておらず。
4枚目の写真が線路の末端。。。

防衛庁時代のものですね。 境界。

ふらふらと廃線跡の線路をみていきましょう。 航8踏切

厚木基地から相模鉄道方面に向けて歩んでおります。
航7踏切と航6踏切の間は「東名高速道路」とのクロス。
東名高速はもちろん戦後の開通なので戦前はここは橋はなく。

一緒のようにみえて、ふたつの橋が並んでいる形態です。
道路側は「大和5号橋」 鉄道側は「大和6号橋」

普段は横着して往時の地図や航空写真は格別に引っ張ってこないのですが、せっかくなので。
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより http://mapps.gsi.go.jp/ http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 … 1947/10/24(昭22)に米軍が撮影した「厚木飛行場」北西部の航空写真を参考まで。

樹木のトンネルになってました。
こうして自然の力が増して廃線路へと・・・

一部にコンクリ枕木もあったり。
小さき花が咲いていたり。

もう、でんしゃはこない

にゃあ

相模鉄道との合流地点。
航空隊線と線路は繋がっているけども、この分岐点が仕事をすることはない… 相模大塚駅を15時30分にスタートして戻ってきたのが17時ごろ。約1時間30分の散策でした。

このエリアは「高座海軍工廠跡」や「上瀬谷地区」なども控えておりますが、ひとまず今回はこれにて〆

関連

高座海軍工廠跡地散策(座間)

平成29年12月撮影

座間市に残る海軍戦跡散策。
高座海軍工廠ゆかりの地。
座間市の芹沢公園に残る防空壕(地下工場跡)など。

神奈川県座間市。相模鉄道さがみ野駅から北へ。
海軍厚木航空隊に隣接するこの地に海軍航空機製造の直轄工場「高座海軍工廠」(こうざかいぐんこうしょう)があった。
平成29年12月に周辺を散策しておりましたので、以下にレポを。


位置関係

まずは、国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より。
mapps.gsi.go.jp

1949年(昭和24年)1月10日米軍撮影の航空写真(USA-R2390-119)をベースに位置関係を。
終戦後4年過ぎた写真であれど工廠の建物が残っているのがわかります。
屋根は迷彩塗装してますね。

こちらはGoogle航空写真をベースにもう少し広域に。
相模大塚駅からの橙印の航空隊線路と台湾亭などは別記事で展開。
今回はさがみ野駅からの紫印が散策ポイント。


高座海軍工廠跡地散策
(こうざかいぐんこうしょう)

相模鉄道「さがみ野駅」から東に。東側の最初の踏切。
このあたりに正門があったという。 道路の位置は往時と変わらない雰囲気。 もっとも往時を偲ぶ何かがあるわけではなく。

場所→goo.gl/maps/qzDchk3Sx…

かつて高座海軍工廠の中心あたり。

場所→goo.gl/maps/CyNZmw8mE…

現在、桜並木が整備されているメインストリート。
海軍工廠の地から民間へと払い下げそうして開拓され、中央通りは「櫻花」彩る桜並木へと。

東原桜並木

昭和28年に周辺の農家が私財を出し合って畑かん水路の完成を記念して植樹。
前述の航空写真が昭和24年だったのでそれから4年後。昭和28年に桜並木が整備された頃には既に海軍工廠の名残もなくなっていたのかと。

高座海軍工廠(座間)

座間市による案内の看板が桜並木の駅近目の場所に建立されていた。

場所→goo.gl/maps/5UCqzLkt5…

昭和19年5月15日開廠。高座工廠では局戦「雷電」などが製造されたという。
昭和23年に海軍工廠跡地は地元に返還。再開発へと。

大和厚木バイパスとクロスする東原四丁目交差点附近。

場所→https://goo.gl/maps/EootLdviFXF2 …

座間コストコ周辺。
このあたりに海軍工廠の滑走路があったという。
完成したばかりの局地戦闘機「雷電」の試運転などが行われたのであろうか。
今はコストコ大渋滞の車列が尽きない・・・

芹沢公園(座間)

高座海軍工廠の名残を探し芹沢公園に。

場所→https://goo.gl/maps/Xd3GDoEFYNu …

案内図に気になる写真が掲載されてますね。
「防空壕跡」 行ってみましょう。

※以下、再訪した記事もありますのでご参照に。

芹沢の地下壕

「高座海軍工廠跡」(座間)

昭和19年、高座海軍工廠開廠。同時に地下工場3ヶ所と地下物資倉庫10数ヶ所も作られた。栗原中沢地区(芹沢公園)地下壕は東西南北に地下道が総延長1500mほど掘られたという。戦後は地下壕の定番「マッシュルーム栽培」なども行われ、一部が保存されている。

現在は地下壕は非公開。
見ての通りに柵がありますが、隙間から覗くことは可能。

大小、幾つかの開口部を崖に沿ってみることが出来ます。
3枚目は隙間から。
4枚目はもしかしたら崩落したあとかも。

ほんの僅かに開口しているところもありました。
壕内からはムワッとした湿気を帯びた熱気が吹き出しており、カメラのレンズがあっという間に曇ったり。
こうして公園内に往時を偲ぶ戦跡として地下壕が残されいるのも貴重な歴史伝承。

芹沢公園の南端附近

栗原水源ポンプ所

(場所→https://goo.gl/maps/azxsJDYPccq …

栗原水源ポンプ所
もともとは「高座海軍工廠の水道施設」として築造されたことにはじまり、終戦後、昭和30年より神奈川県企業庁に移管。昭和35年増設。昭和49年に座間市移管となり昭和58年に取水停止。見学用施設へと改修。

3枚目の写真は操作室。昭和58年まで使用されていた機器が展示。
取水施設があることから分かる通り、この芹沢公園の地は座間水源地のひとつであった。

周辺の標石は「神奈川県企業庁」かな。
かつて取水施設を運用していた絡みですね。

水源地らしく厳島の祠も。

ちょっと離れたところに座間市水道部の水道施設もありました。
実はこの向かいの崖下に「地下壕開口部」が集中していたり。

芹沢公園の南東に。

海軍工廠時代とともにあった芹沢の鎮守。

山王神社

御祭神:大山咋命
戦国時代末期に甲斐より芹沢の地に移り住んだ人々により集落が形成されたという。
文化5年(1808)に社殿造営の記録あり。
境内には芹沢の地より出征し戦死・戦病死された方々の慰霊碑もあり。(昭和44年建立)

こんな感じで高座海軍工廠の気配を地下壕に感じつつの散策。
相模鉄道さがみ野駅起点でざっと3時間ほどのフィールドワークでした。

関連

瀬谷海軍道路散策(横浜)

平成30年4月撮影

横浜市瀬谷区の愛称「海軍道路」の散策記事まとめ

瀬谷・海軍道路

横浜市瀬谷区の上瀬谷地区。 相模鉄道「瀬谷駅」より北の八王子街道に向けて一直線に伸びる直線道路がある。 この約3キロの直線道路(市道環状4号線)の愛称が 「海軍道路」と呼ばれている。
内陸部に残る海軍の歴史を感じながら、このエリアを散策をしてみました 。

桜並木の様子はこちらも参照を

瀬谷・海軍道路 概要

昭和15年「横須賀海軍資材集結所」の建設が始まる。
神中鉄道瀬谷駅より引き込み線と道路が一直線に資材集結所まで敷設。
「第二海軍航空廠瀬谷補給工場」「瀬谷補給工場火薬庫」「海軍資材集結所」とも呼称されていたという。
3キロにも及ぶ直線は、一説には滑走路への転用も視野に入っていた為ともいわれている。

終戦により「海軍資材集結所」は米軍により接収。 その後、在日米海軍によって「上瀬谷通信施設」が展開される。 1977年以降、施設内の一部国有地が農耕地として売却。

平成27年(2015年)6月30日に米軍より土地全体が日本へ全面返還。 現在は横浜市による再整備計画段階という。

瀬谷海軍道路の位置関係を現在の航空地図にて参照。
(Google Mapsをベースに補足書き込み)

相模鉄道(神中鉄道)を介して、
東に海軍道路と海軍資材集結所。
中央は厚木海軍飛行場。
西に高座海軍工廠。
そして小田急線の向こうには陸軍士官学校。
内陸部であれど軍事施設が集中していたのがわかる。

国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより mapps.gsi.go.jp

昭和19年11月14日 陸軍撮影(8926-C5-76)

昭和24年02月21日 米軍撮影(USA-R569-17)
瀬谷駅付近より真っ直ぐに海軍資材集結所へと伸びている「海軍道路」の様子がよくわかる。

瀬谷駅から歩いても良かったけど、行程の都合で「北から南へ」アクセスすることに。
小田急線「鶴間駅東口」から横浜駅行きのバスに乗車。(鶴ヶ峰駅行でも可)
海軍道路最寄りは「笹原」バス停。
ただ、ちょっとだけ寄り道をしたかったので、その次のバス停「卸センター前」まで乗車。

この北側(八王子街道ぞい)は、米軍「上瀬谷通信施設」の施設が集中していたエリア。ちょっと近づいてみましょう。

簡易的な柵があり、一応「立入禁止」と。
立入禁止なので深入りせず、これ以上は進入せず、で。

米軍・上瀬谷通信施設跡

塗りつぶされている警告看板が、ここに米軍基地があった名残。

海軍道路入口

八王子街道と海軍道路の交差点。
信号機に「海軍道路入口」とありますね。
これだけでワクワクしてきます。
この場所が「海軍道路」の北端。

「海軍道路」北端エリア。
道路脇の空間、柵の向こうにふと目をやると・・・おやっ?! このコンクリート構造物はなんだろう。
旧海軍時代の遺構だと嬉しいけど、現時点では情報不足、詳細不明。

「海軍道路」北端エリア。
前述のコンクリート構造物の脇にある同じく謎のコンクリート構造物。
一説にはタンク受台ともされている。
コンクリートの礫ぐあいを遠目にみると旧海軍時代の遺構っぽい(そう思いたい)
なお、このエリアは「南関東防衛局」管理で立入禁止。望遠にて撮影。

「海軍道路」北端エリア。
この北端エリアは平成27年ごろに道路の付替えがあり、環状4号線に接続させるために約50本ほどの桜並木の伐採や道路新設が行われている。
なので桜並木が途中で途切れていたりするが、基本的には南へと海軍道路とともに桜並木が伸びている。 季節は新緑の桜。

瀬谷海軍道路

ほんとは桜の季節に訪れるのがベストなんだけど、新緑の桜並木もこれはこれで良いものかもしれない(負け惜しみ)
実のところ、フォロワーさんが桜の季節に海軍道路を訪れており「あああっ」と桜並木のことを思い出した次第でした。来年は桜色の季節に脚を運んでみたいです。

「海軍道路」は現在は車道と歩道にわかれており、その間に桜並木が植えられている。シーズンを車で走ればと桜のトンネルがさぞかし美しいことが想像できる。(渋滞も凄そうだけど)
かつて海軍集結所が展開されていた時代は、歩道側に鉄道線路がひかれていたという。

旧基地エリアは、なにやら牧歌的な光景が広がってますが、これでも横浜市内です。
この芝生エリアは桜の開花季節には公開もされているのだとか。 基本的には「南関東防衛局」管理の立入禁止エリア。

桜並木の南端エリア。
瀬谷消防署中瀬谷消防出張所付近。
この辺りに海軍集結所時代は南門があったという。
ここでいったん海軍道路を外れて東の方に歩いてみる。
上瀬谷球場方面へ。

米海軍上瀬谷通信施設ゲート跡

瀬谷海軍道路の東側。
米海軍上瀬谷通信施設ゲート跡。
上瀬谷球場から北側へと、なんとなく散策していたら見つけました。
ゲートは開放状態、この先にも野球場がありユニフォーム姿の方々をちらほらと。

U.S NAVAL SUPPORT FACILITY KAMISEYA JAPAN (上瀬谷通信施設)

瀬谷海軍道路を側面から眺めてみる。
横に広がる桜並木もなかなか圧巻。
新緑も良いけど、ますます桜花の季節に足を運んでみたくなる景観。

瀬谷海軍道路の南端。
瀬谷駅方面。
桜並木も両側にあったものが消防署から南は片側のみ。
ここまで来ると往時の雰囲気は残ってない普通の道路ですね。

橋の名前につけられた「海軍道路」という名称のみが歴史を伝えている。

八王子街道から瀬谷駅まで米軍基地跡へ寄り道しつつ、約2時間約7キロの散策でした。