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「荻外荘と目白近衛町」近衛家と近衛文麿旧宅

平成30年撮影

現在、杉並区によって「荻外荘公園」として再整備中。
豊島区に移築されている建物( 荻外荘の一部 )も、杉並区に戻して再整備をする計画だというので、経過を見守りつつ。

「荻外荘公園」
国史跡 荻外荘(近衛文麿旧宅)

杉並区にある「荻外荘公園」 この地に残る「国史跡 荻外荘(近衛文麿旧宅)」に旧宅が残っているので見学してみました。平成30年2月撮影。

通常は南側の公園部から邸宅跡を外観のみ見学可能。
(午前9時から午後5時まで)
将来的には近衞文麿居住当時への復元が予定されているという。

中央の部屋が近衛文麿が自決した書斎部。

昭和20年、近衛文麿にGHQから逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが決定。
近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日12月16日未明に荻外荘で青酸カリを服毒して自殺。享年54歳。

公園内(敷地南部)には井戸がありました。
川本式手押しポンプ井戸

敷地南側。
井戸で遊んでいたらレンズの下部に水滴がついたままだったようで。

公園部から北側に回り込んで、近衛邸正門へ。
現在、入口は堅く閉ざされている。 再整備が終わったら、こちらから荻外荘の見学もできるようになれば・・・ですね。

荻外荘・一般公開(杉並)

昨日(平成30年9月29日)、荻窪にある荻外荘(近衛文麿旧宅)の一般公開に参加することができまして。
(公開情報を教えてくれましたフォロワーさんの情報に感謝です!)
見学の様子を以下に展開。

近衛文麿が自殺した書斎部屋

普段は門が閉じられ立ち入りができない近衛邸。

近衛通隆氏(近衛文麿氏の次男)が平成24年に亡くなるまで居住されていた屋敷。 「近衛」と高らかに標識も掲げられており。
近衛通隆氏死後の平成26年に杉並区が荻外荘を含む敷地を購入し再整備計画中。
国指定史跡指定。

荻外荘の変遷は3つの時代に別れる。

入澤家時代(昭和2年~昭和12年)
近衛文麿家時代(昭和12年~35年)
近衛通隆家時代(昭和35年~平成)

現在の近衛家の玄関は文麿時代のものではなく通隆時代のもの。
(文麿時代の玄関は現在は文京区に移築されている)
昭和35年に屋敷が分割しており玄関等も付け替えされている。
将来的には分割部分を戻して復元予定という。

敷地の東側部分の空き地。

この部分に近衛文麿時代の「客間棟」と「玄関棟」があった。
(昭和35年に文京区染井に移築)
ゆえに荻外荘に残っている建屋は「居住棟」と「別棟」を改修したもの。
杉並区の計画では移築された建屋もこの地に戻して、改めて復元をするとのことで。

東側。
戦後の改修部分。
和室の手前にバルコニー。
奥は食堂、そして暖炉の煙突。

耐震補強工事実施前ゆえに見学には制限があり。
この日は15人で1組の整理券制で先着順受付。
全14回。30分見学。見学時はヘルメット着用。

戦後は長らく近衛通隆氏が居住していた空間でありそんなに古さはない。
「文麿時代の何か」を期待してはいけない。
ガイドの人も「お宝的なものはないです」と言ってました。

写真は食堂部分。
窓の外にはかつては「屋敷(客間棟)」があったが移築後の改修で外窓となっている。

復元模型の中心部で会談している人たち。

昭和15年「荻窪会議」と日独伊三国同盟問題
近衛文麿(首相)
松岡洋右(外相)
吉田善吾(海相)
東条英機(陸相)
この部分は「客間棟」(染井に移築現存)。
移築された東側が荻窪に戻ってきて復元されてからが史跡「荻外荘」の本番ですね。

昭和20年12月6日
近衛文麿に対する逮捕命令発令。
巣鴨拘置所出頭日は12月16日。
その16日午前2時まで文麿は次男の通隆と和室にて話し合いを行っていた。
そして午前6時過ぎに文麿が和室で息絶えていたのが発見された。
享年54歳。青酸カリによる自殺。
法名は荻外院殿象山道賢。

写真は近衛文麿が自殺をした和室。

本棚にあったものなどは陽明文庫に送られたようです。
陽明文庫は近衛家伝来の史料を保管している京都の施設。
昭和13年に近衛文麿が設立。

荻外荘(近衛文麿旧宅)の蔵

居住棟と別棟の間にあるのが「蔵」
近衛家の至宝が納められていた名家の蔵。
堂々たる蔵扉。
入澤氏から邸宅を譲られた近衛文麿が建設。
別棟とともに昭和13年と推測。

蔵外観。
近衛文麿時代から、おおむね往時の姿を留めているという。
2階建ての蔵は、平屋の荻外荘のなかでは高さが頭一つ飛び出ている。

荻外荘(近衛文麿旧宅)別棟

昭和13年増築。
もともとは近衛文隆(文麿長男)が母親のために作ったものという。
アメリカ留学後に文隆も別棟に一時居住をしている。
(近衛文麿の長男近衛文隆はのちシベリアに連行され獄死している)

受付のとなりで販売がありましたので、 おもわず書籍を購入してしまいました。
(こういう書籍は見逃せないんですよね・・・)

敷地内にあった何か。
そんなに古くはなさそう・・・

荻外荘
案内人の一言が印象深く
「復元するとしてもどの時代にあわせるのか。伊東忠太が手がけた木造建設にも価値がある。(伊東忠太の現存する数少ない木造建造物、昭和2年) そして歴史舞台としては荻窪会談、近衛文麿邸としての価値がある。史跡登録もされた。」
あぁ、これは複雑な気持ちになります…

荻外荘・近衛文麿旧宅
豊島区の移築部分)

染井霊園の正面近くに近代史跡として意外なものが残っている。

「荻外荘」
もともと荻窪にあった近衛文麿別邸が何故か染井の地にある。
これも近いうちに荻窪に戻る(再移築)らしいので、ここで見れるのも残り僅かかもしれず…

もともと荻外荘は大正天皇侍医頭であった入澤達吉邸(昭和2年・伊東忠太設計)であったが昭和12年に近衛文麿別邸となる。
昭和20年近衛文麿が荻外荘にて服毒自殺。
戦後は吉田茂が荻外荘に居住したこともあった。
※敷地外より撮影

昭和35年に北半分にあたる玄関・応接間・客間が「天理教東京教務支庁」東京寮として移築。
荻窪に残った南半分は杉並区が取得し「荻外荘公園」として再整備。
杉並区では天理教と交渉し元の荻窪に再移築の上で復元を予定しているという。

近衛町(東京都新宿区下落合

場所は変わって新宿区へ。
東京都新宿区下落合
かつては「目白近衛町」と呼称された高級住宅地。
いまでもあちこちに「近衛」の名が残っている。

前述の荻外荘は「近衛別邸」
かつてこの目白近衛町に「近衛本邸」があった。
東京電力やNTTの電柱にも「近衛」の名が。

近衛篤麿公記念碑

かつて近衛邸があった地区に近衛篤麿公(近衛文麿の父)を記念する碑が残っている。大正13年(1924)に建立。
明治37年の篤麿死後、大正11年頃から近衛邸宅の一部が「近衛町」として分譲され近衛家の足跡を記録するために建立。

入口は極めて細く、その細い空間の中ほどに「記念碑」が残っている。

新宿区地域文化財第五号
「近衛篤麿公記念碑」

この地には大正末まで近衛公爵家の屋敷があり、分譲後も近衛町と呼ばれた。
大正13年建立。


近衛篤麿公記念碑

 公の諱は篤麿、霞山と号した大職冠藤原鎌足の後裔で、五摂家筆頭近衛家の第二十八代当主。文久三(1863)年六月二六日京都に生まる。  
 明治一七(1884)年、華族に列し公爵。翌年ドイツに留学、明治二三(1890)年帰国し、貴族院議員。明治二八(1895)年学習院院長、翌年貴族院議長に就任。時の内閣からしばしば入閣を懇請されたが固辞し、常に野にあって国政の大局的指導に当たった。
 日清戦争前後における西欧列強の清国侵略に慷慨し、中国の保全と日中の協力を提唱。明治三一(1898)年東亜同文会を組織し、次いで上海に東亜同文書院、
東京に東京同文書院を設立、日中両国学生の教育に尽瘁した。
 ロシアの中国への南下を憂慮し、国民同盟会、対露同志会を結成し、国論の喚起に努めた。しかし不幸にして難病に罹り、日露開戦直前の明治三七(1904)年一月一日逝去・行年僅か四二歳。
 当地は、公が明治三五(1902)年に晩年の居を定めたところでもあり、終焉の地となった。現在この辺は下落合と呼ばれるが別称近衛町ともいう。この記念碑は、公没後、二〇余年の大正一三(1924)年七月に建立された。
 平成八(1996)年一月  
 財団法人 霞山会  
 会長 近衛通隆

かつての霞山公の碑は良く整備されたこの地(広さ百坪)に築かれた塚の上に東側を正面に向けて建てられていた。
平成8年1月に現在のように再建された。
(昔日の霞山公紀念碑)昭和初期の大雪の日

霞山公記念碑・・・のうしろの煉瓦壁
たぶん近衛云々とは関係ないとおもうけど良い雰囲気。

旧近衛邸のケヤキ

旧近衛家のケヤキ
新宿区地域文化財第10号
樹齢100年を超えるケヤキの大木で、近衛家屋敷の車廻しにあったと伝えられる。地域の要望により残された。

現在は道路の真ん中に残された欅の大木。これも近衛家の名残。

「昭和寮」(旧・学習院高等科寄宿舎)

近衛家が分譲されたのちに当地に建てられた学習院の寄宿舎。
近衛篤麿は第7代学習院院長でもあり。
昭和3年建築、設計は宮内省。
現在は「日立目白クラブ」として活用されている。
(関係者以外立ち入り不可)

昭和寮跡碑

学習院大学建立

昭和寮跡
 昭和寮は、昭和3年(1928)に学習院高等科(旧制)学生の寄宿舎として現在の新宿区下落合2丁目13番28号の敷地に建設された。
 西洋式建築の堅牢な建物であったが、昭和27年(1952)に廃寮。同年、此の地に大学学生のための新たな寮を設け、それ以前の寮の名称を引き継ぎ「昭和寮」とした。以後、当初から数えると70年近い歴史を刻み多くの学生に利用、親しまれてきた昭和寮は、平成9年(1997)3月その幕を閉じた。
 平成13年6月 建立

杉並と目白と近衛にゆかりのある地を巡ってみました。


以下は補足。

近衛家墓所(近衛秀麿墓)

五摂家の一つである近衛家の墓所は京都の大徳寺。近衛文麿はそこに眠る。
近衛文麿(近衛篤麿の長男)の弟である近衛秀麿(近衛篤麿の次男)、そして近衛秀麿養子となった近衛通隆(近衛文麿の次男)の墓は東京池袋にほど近い練馬区桜台の広徳寺にある。

公爵 子爵 近衛家墓所

近衛秀麿

1898年(明治31年)11月18日-1973年(昭和48年)6月2日
作曲家・指揮者
元子爵 正三位勲三等
元貴族院議員
後陽成天皇男系十二世子孫

父は、近衛篤麿
異母兄は、近衛文麿(政治家・元内閣総理大臣)
実弟は、近衛直麿(雅楽)、水谷川忠麿(春日大社宮司)

第2次世界大戦中は主にヨーロッパで音楽活動に従事。
1945年4月に、ドイツの敗戦によりアメリカ軍に抑留。
1945年12月に帰国を果たすが、その同じ12月には兄の近衛文麿が自殺をしている。

近衛秀麿墓(近衛文麿の弟)
近衛秀麿
公爵子爵 近衛家墓所

近衛秀俊

1921年-1923年(大正12年)9月1日
後陽成天皇男系十三世子孫

近衛秀麿の長男。
関東大震災で死去。

近衛秀俊墓(近衛秀麿長男・関東大震災で死去)

近衛通隆

1922年(大正11年)5月11日-2012年(平成24年)2月11日
後陽成天皇男系十三世子孫
歴史学者
東京大学史料編纂所教授、霞山会会長、陽明文庫理事長を歴任。

近衛文麿の次男。(近衛文麿の長男である近衛文隆の次弟)
1935年に近衛秀麿の養子となる。近衛忠煇の叔父。

近衛家墓
近衛通隆墓(近衛文麿次男・近衛秀麿養子)

近衛秀健

1931年(昭和6年)2月4日-2003年(平成15年)3月31日
後陽成天皇男系十三世子孫
作曲家・指揮者

近衛秀麿の次男。非嫡出子。1935年に近衛秀麿から認知。
近衛秀健氏の子息は音楽一家として現在も活躍中。

近衛秀健墓(近衛秀麿の次男)

近衛牡丹の家紋

余談ではあるが、東京の近衛家墓所のある広徳寺にはいくつかの大名家の墓所があつまっている。

広徳寺には、以下の歴史的な著名人の墓がある。
柳生家 柳生宗矩・柳生十兵衛三厳・柳生宗冬
小堀家 小堀遠州正一
立花家 立花宗茂

柳生家墓所
立花家墓所
小堀家墓所

最後は余談でした。
近衛家に関するなんやかんや、でした。

JR銚子駅舎建替前の記録(海軍香取航空基地の格納庫転用の駅舎?)

すでに解体済みです。平成30年に新駅舎となりました。

1945年(昭和20年)7月19日
空襲で銚子駅舎は焼失しており、終戦直後に海軍香取航空基地の格納庫を転用し駅本屋に改築したものとされている。
訪れてみればわかるが空間が広く格納庫転用の名残を感じる。

海軍香取航空基地跡の記録はこちら

内田百閒 「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」

銚子駅。夏目漱石の弟子である作家・内田百閒は昭和28年に「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」の中で銚子駅に関してこう記していた。

「…間もなく銚子駅の構内に這入った。終着の大きな駅ではあるが、本屋全体の感じが倉庫か格納庫の様で、少し薄暗く、よその駅とは丸で工合が違う」

さすがの内田百閒先生。
陸軍士官学校や海軍機関学校のドイツ語教官、法政大学ドイツ語教授時代に法政大学航空研究会会長に就任していただけあって、知ってか知らずか「格納庫の様だ」とご名答されていました。

内田百閒全集第7巻(講談社)
「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」
内田百閒全集第7巻(講談社)
「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」

銚子駅 平成28年10月18日撮影

既に一部では工事も開始されておりました。

駅構内では待合室とニューデイズは既に封鎖・・・。
柱が少ない内部空間が、僅かに格納庫の名残を残しているのかもしれない。

外側から駅舎を見てみれば、この長い建物が「格納庫らしい」とも。

建て替え前に。 いろいろと見て歩く。

跨線橋から、つい銚子電鉄ホームを見てしまいました。

地元駅から始発に乗って、電車に揺られて銚子駅にたどり着いたら、一休みしつつ待合室のTVで「小さな旅」を見たのも思い出の一つになりました・・・。

銚子駅  平成28年12月11日撮影

建替工事中のJR銚子駅。
平成28年12月11日の記録。

ホーム側から撮影。
この時はまだ違和感に気がつきませんでした。

跨線橋から撮影。
ん?…ない?あれ? 駅舎ブツ切りされてる……

正面。
あぁ…真ん中が…ない!
真ん中が完全に撤去…

覚悟はしてましたし、しょうがないこととはいえ、海軍香取航空基地格納庫転用とされた銚子駅駅舎の半身不随の姿。

銚子の青空と太陽は絵になる。 それは皮肉なことに、半身不随の姿で横たわるJR銚子駅の半壊な姿ですら…

バッサリと切り捨てられた姿が痛々しい。

覗きこんでみました。
これもまた、消えゆくものへの供養の記録。

海軍香取航空基地格納庫の気配を夢想しつつ、いち歴史ファン・海軍フリークとして、その姿を脳裏に刻む…

銚子駅舎さん!お疲れさまでした…

海軍香取航空基地跡散策

平成28年1月撮影・千葉県匝瑳市及び旭市

海軍香取航空基地跡散策レポ。(平成28年1月10日)
千葉県旭市鎌数工業団地がその跡地。
航空写真で見れば滑走路跡も歴然。
総武本線干潟駅スタートで散策行程は約10キロ3時間。

  • 建設が決定されたのは1938年(昭和13年)完成は1942年(昭和17年)頃。
  • 名称:海軍香取航空基地。通称は香取飛行場。
  • 滑走路は1500mと1400mの2本で互いの中央部が十字状に交差。
米軍撮影 1948/03/02(昭23)
USA-R1069-107

まずは1500メートル滑走路南西部エンド。
金属加工工場がはいってます。
航空写真を見ての通り、不自然に斜めってますね。
滑走路の上に工場が展開。

1500メートル滑走路と1400メートル滑走路のクロスポイント。
南西側の1500メートル滑走路跡からなんとなく当時の舗装を垣間見ることができました。

北西ー南東に伸びる1400メートル滑走路跡は、日清紡ブレーキの旭テストコースとして活用されてます。
航空写真でサーキット場に見えるわけです。ただしテストコースは樹木に覆われており、中を伺うことは叶わず。

航空写真を。
テストコース中央部に滑走路跡の舗装が残っているのがわかります。日清紡ブレーキ社の都合があえば事前申し込みで見学も出来るらしいです。
私は時間なかったので航空写真で満足しておきますが。


滑走路跡からちょっとはなれた場所に、飛行機と慰霊碑があります。 順に見ていきましょう。
(千葉県旭市鎌数5146−32付近)

黄色な零戦?

「米国からのMAP供与品」を海自から旭市が借り受け……って又貸し?
米軍練習機SNJ/T-6テキサン。

飛行機所縁の地にせめてレシプロ機を展示したいという意気込みが伝わってきました。

テキサン

香取航空基地に馴染みある旧帝国海軍航空機を展示するのは無理な相談。
そうであれば、せめて似たような雰囲気のレシプロ機を展示して、この場所で往時記憶を留めるという展示者の意欲が伝わってきました。

展示飛行機テキサンの向かいには慰霊碑があります。

海軍香取航空基地跡 慰霊碑

「慰霊」

黙祷。
この地より飛び立ち若き海鷲たちに感謝の意と哀悼の誠を捧げつつ。

「慰霊」題字は源田實氏。
海軍軍人としての最終階級は大佐。戦後は空自、政治家へと。

海軍香取航空基地跡慰霊碑
この地は昭和十八年、太平洋戦争さなかに完成せる香取海軍航空基地跡なり
慰霊碑はこの飛行場より飛び立ち訓練に或は戦場に向い遂に還らざりし若鷲達と空襲により没せし市民の御霊を祀るものなり
彼等に限りなき敬意と愛情を抱く全国の戦友と近隣の市民有志は「御霊よ永遠に安かれ」と祈り、又「将来の平和の礎たれ」 と念じ互いに力を合わせこの碑を建立し、謹みて碑内に霊璽簿を納む

昭和51年11月23日 慰霊碑建設期成会
慰霊題字 源田實

巨大な慰霊碑の片隅に、隠れるようにひっそりと小さな碑もありました。
はっ とその存在に気がつき、慌てて手を合わせる。

「香取基地戦没者之墓」
昭和30年12月建立の墓碑。建立は慰霊碑に先立つ事21年前。

慰霊の場所から北上。
北西に伸びる1400メートル滑走路のエンドは日清紡ブレーキ社のテストコース。
ここより更に北上へと歩いて行きます。

素晴らしき快晴の中を歩く。気持ちの良い天候でした。暫し歩くと土盛りのようなものが見えてきて。
これが次の目的地の掩体壕。
掩体壕は水田の中と聞いていたので農閑期に訪問。作業の邪魔をしてはいけないので。

海軍香取航空基地跡の掩体壕(匝瑳市)

掩体壕。
鉄筋コンクリートアーチ型。
開口19.5メートル、奥行10.6メートル。高さ6メートル、コンクリート厚0.3メートル。
匝瑳市椿海地区には隣接して2基現存している。

匝瑳市椿海地区の掩体壕2基。
ご覧のとおりに水田の中に。農作業の邪魔をしてはいけないので農閑期に訪れたわけです。
地元の調布飛行場の界隈にも掩体壕は残っておりますが、こちらはより大型な掩体壕。

激動の時代を物語るよすがを。
今はただ静かに。

望遠してみた。

なんか不思議な感じがします。
知らない人にはどういう風に見えているのかな。
水田の中にあらわれた人工物。

歴史を体感するキッカケとして、後世に大切に伝えて欲しいです。

橋を渡り対岸から掩体壕を望む。

長閑な風景はどこか牧歌的ですらあり、皮肉なものである。

ここより飛び立てり若き海鷲たちに感謝の意を。哀悼の誠を。
今はただ、静かに掩体壕という器だけが残る大地の中で。

匝瑳市椿海地区の掩体壕から、南東に歩く。
次の目的地は鎌数伊勢大神宮。
この神社の隣にも掩体壕が残っているのだ。
滑走路跡に沿って歩いてみる。

海軍香取航空基地跡の掩体壕(旭市)

旭市鎌数の掩体壕。旭市に残る唯一のもの。 近くに寄ってみます。
こちらも農業倉庫として使われているため、やはり邪魔にならないように、農閑期に訪れるのが良いかと。

旭市鎌数の掩体壕。旭市に残る唯一のもの。 近くに寄ってみます。 こちらも農業倉庫として使われているため、やはり邪魔にならないように、農閑期に訪れるのが良いかと。

旭市鎌数の掩体壕。
鎌数伊勢大神宮側から後ろを見学する事も出来ました。

鎌数伊勢大神宮

鎌数の掩体壕の隣に鎮座しております 鎌数伊勢大神宮さんへ。 こちらもほんのちょっとだけ香取航空基地に絡んできます。 写真は脇参道。掩体壕のある側から。

旧社格は郷社。
御祭神は天照大神。

もともと界隈は寛文11年(1671)までは「椿の湖」という周囲42キロメートル(東西12キロメートル・南北6キロメートル)の湖であった。

寛文年間。
江戸の白井治郎衛門、伊勢桑名の辻内刑部右衛門両名が湖の干拓事業を開始。 当初は農民や漁民より強い反対があり工事が中断されるも両名は工事再開のために神助を得ようと考え伊勢神宮内宮神主であった梅谷左近大夫長重に工事遂行の祈願を依頼。

両名は御神木と御神札を持ち帰り、この湖に浮かべたところ、流れ着いたのが現在の大神宮のある東方の岸であったという。これは神意に違いないと工事を再開したところ、不思議なことに今度は反対活動も起きずに工事が進んだ。

寛文11年12月28日に〆切の式を行い水を九十九里に流し、翌寛文12年に待望の大干潟が生まれ18の村が成立。 これを干潟八万石と呼称。 寛文12年5月に内宮神主の梅谷左近大夫長重(現宮司家の12代前)により現在地に伊勢皇大神宮より御分霊を移し干潟総鎮守産土神として祭祀。

昭和15年に海軍香取航空基地が建設され、当境内は滑走路の東南となった。 幸いにして神社境内は買収されなかったが背の高い樹木は飛行妨害を懸念され伐採。

往時より70余年を経て、今日に至る。

境内遠望

航空基地跡とは逸脱しますがさらりと境内を散策してみましょう。

「落花生の碑」
碑題字は山岡鉄太郎(山岡鉄舟)
千葉の落花生は1845年に千葉県旭市鎌数の役人金谷総蔵氏の尽力より始まったのだ。

椿の湖を物語る石。
寛文年間に干拓された当地は干潟八万石と称された。 昭和年間に海軍香取航空基地建設のための工事の最中に発掘されたこの石は実は「塩の化石」だとか。

御神木 夫婦杉。
樹齢約320余年とのことで、ほぼ創建年代まで遡れますね。 高さは夫杉は4メートル、婦杉は3メートル。

境内には地元の方々の参拝がちらほら。

千葉県旭市は実は神社が豊富。
郷社クラスでも飯岡の玉崎神社(下総国二ノ宮)、見広の雷神社(式年銚子大神幸祭の1社)、熊野神社(家康公朱印地)、そして鎌数様と名社が多い。

8時44分に干潟駅着。
香取航空基地跡を周回し鎌数さんを詣でて11時41分に干潟駅離脱。
ちょっと慌ただしく約3時間約10キロといったところでした。

海軍香取航空基地の格納庫を転用したとされている銚子駅舎の記事は以下に。残念がらすでに解体済みです。

横浜開港祭「たかなみ」電灯艦飾

平成29年6月3日撮影

平成29年6月3日 の横浜開港祭。
護衛艦「たかなみ」が「横浜港大さん橋」に寄港。夜間には電灯艦飾も行われるということで行ってみました。
結果的には運良く花火とのコラボも楽しめました〜!

「横浜港大さん橋」に到着したのが、18時15分過ぎ。 日没30分前に到着出来たので一安心。 艦首「国旗」と艦尾「自衛艦旗」と迷いますね。

やっぱり艦尾でしょ。
旭日の「自衛艦旗」が美しいです。
「たかなみ」の奥に佇む海軍の大先輩「氷川丸」も美しいです。

18時50分すぎ。
「たかなみ」後甲板に隊員が集まってきました。
そろそろ日没。

たなびく「自衛艦旗(十六条旭日旗)」の誇り。

18時53分。日没。

10秒前~
パンパパ~ン(ラッパ)気をつけ!

日没ととともに国旗・自衛艦旗降下。電灯艦飾点灯。

自衛艦旗に対し挙手敬礼。

喇叭譜「君が代」
(ドソドミソの五音の組み合わせで吹かれるラッパ「君が代」)吹奏

19時。
さあこれより電灯艦飾を楽しむ時間の始まりです。

横浜港大さん橋北側のみなとみらい側は花火見学の人々で賑わい、南側では「たかなみ」ライトアップを見学する人々で賑わっております。

「たかなみ」電灯艦飾
艦首側より。(19時20分頃撮影)
暗くなりすぎない日没後のわずかな時間帯がベストショット。

「たかなみ」電灯艦飾
艦首側より。(19時20分頃撮影)
後方はベイブリッジと大黒ふ頭。

美しいです。

「たかなみ」電灯艦飾の向こうには「氷川丸」
(輝くタワーは横浜マリンタワー)

氷川丸は日本海軍時代は「特設病院船」として重用され各海域の後方支援で活躍。帝国海軍を知る生き残りの船でもあるのだ。

「たかなみ」電灯艦飾。 艦尾から。
(一気に人が引け撮影がしやすくなりました。19時30分から花火が始まり、南側が空き始めたのだ。)

そうなのです。
艦を撮ってる場合じゃないんです。
花火が始まったんです。
せっかくだから花火を見ないと・・・ と、思いながら艦を撮っていたり。

だって大桟橋の北が「花火」で南が「護衛艦」でしょ。

どうやって撮るのよ。

・・・超広角なら。あっ魚眼持ってた!

(花火撮影は場数を踏んでいないので、ちょっと苦手です)

「たかなみ」電灯艦飾
花火は20時前に終了。だいたい30分間ぐらいの打ち上げでした。

横浜港大さん橋に停泊する鋼鉄の艨艟
海洋立国日本の守り神
これからも日本の海をよろしくお願い致します!
(/”`・ω・´)

賑やかで華やかなほうの横浜。
かすかに海保のPLH-32あきつしまが見える、かも!
今度は明るいうちに観察しましょう。
山下公園の方に向かいます。

「たかなみ」電灯艦飾

まあ夜の山下公園はアウェーなのは知ってます。
花火大会のあとですよ。夜ですよ。横浜の山下公園ですよ。
えぇ、察してます。
気にせず三脚をセットして「たかなみ」を撮影。
かなり風が強くて厳しい。

「氷川丸」電灯船飾(ライトアップ)

電灯船飾と電灯艦飾 日

本郵船「氷川丸」(国重文)の後ろ姿。
1930年竣工

その左奥に護衛艦「たかなみ」の姿も。
2003年竣工

そんな誇らしい2隻を眺めつつ、 静かに横浜の夜をあとにする。
佳き夜でした。 〆

都内の射的場跡散策・弥生と大森

平成29年11月撮影

戦前の都内にはいくつか「射的場」があり、今でも地図上でその痕跡を見つけることが出来る。
有名なところでは現在は戸山公園となっている「陸軍戸山射撃場」などがあるが、今回は「弥生」と「大森」にあった射的場跡を(極めて地味に)巡ってみます。

射的場跡散策・弥生

弥生、いわずと知れた東京大学。
その東大エリアの地図を眺めてみると気になる住宅街があるかと思います。
東京大学本郷キャンパス・弥生キャンパス・浅野キャンパスに三方を囲まれた一画。現在は住宅地となっているエリアにかつて「射的場」があった。

この地区は「弥生式土器発掘ゆかりの地」で有名。
明治からの射的場を偲ぶものは特になく、それこそ地図が物語っているといった感じです。

東大武田先端知ビル建設時には射的場で使用された弾丸も出土。

東京共同射的会社射的場
明治10年(1887)に警視局(警視庁)射的場として開設。明治15年に宮内省所轄射的場となり皇宮地附属地の東京共同射的会社射的場となった。明治21年に射的場は大森に移転。

東京共同射的会社射的場は明治21年に大森に移転(後述)しているので、当地には射的場を物語るなにかは残っていない。
敢えて言えば直線的な住宅地空間が唯一の名残。
射的場の南東端(4枚目)は、ちょうど文京区と台東区の境目。

これだけで弥生はおわり…だと寂しいので蛇足を。
射的場跡の隣に現在は東大病院がある。
東大病院近くの 「東大弥生門」を出てすぐ近くの「弥生美術館」の壁にレリーフがあった。

東京大学医学部戦没同窓生の碑

平成13年5月27日建立
満洲事変・日中戦争・太平洋戦争の犠牲となった東大医学部同窓生200余名を慰霊。

射的場跡散策・大森

弥生から大森に移った射的場は、大森にて明治22年(1889)から昭和12年(1937)ごろまで使用されていたという。

「日本帝国小銃射的協会跡碑」

この碑が何時建立されたかは不明。碑右上部に欠落が有る。裏面無銘。

「大森射的場」
「日本帝国小銃射的協会跡碑」
地図を見てみるとやはり空間が。射的場跡は現在は「大森テニスクラブ」として活用。
射的場時代の大正12年には「大森庭球倶楽部」が併設開設されており、周辺環境の変化から射的場は昭和12年頃に鶴見北寺尾に移転。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
http://ktgis.net/kjmapw/index.html より

現在の「大森テニスクラブ」。
もちろん射的場当時を物語るものは地図上の形ぐらいしかなく。 やはり敢えて言えば弥生と同じく直線的な道路。

こんな感じで極めて地味すぎる散策でした。

面白いのは弥生式土器発見の地「弥生」日本考古学発祥の地「大森」「射的場」で繋がっていた歴史にニヤリと出来た事。 大森の射的場跡から駅に向かう途中にも弥生があったり。

「特攻観音堂」と「特攻勇士の像」

(特攻観音堂は平成30年5月撮影 )

世田谷観音 (世田谷山観音寺)

江戸三十三観音第32番札所

昭和26年に睦賢和尚が独力で建立。
同年5月、金竜山浅草寺に請い開眼の法を修したとされる寺院。 境内には特攻で犠牲となられた英霊を慰霊する「特攻観音堂」が鎮座。

入口の左右に。

石碑 「奉安 特攻平和観音」元竹田宮 竹田恒徳 書

門標 「世田谷山観音寺」元内閣総理大臣 吉田茂 書

参道の左手、赤門の奥には「旧小田原代官屋敷」
現在は観音寺本坊として使用。

特攻平和観音

昭和27年5月。
元海軍大将 及川古志郎、元海軍大将 高橋三吉、元陸軍大将 河辺正三、元陸軍中将 菅原道大、元海軍中将 寺岡謹平らが発起人となり特攻平和観音像が造立。(法隆寺夢違観音像模写)
陸軍側及び海軍で犠牲になられた英名が各々二体の特攻平和観音尊像胎内に奉蔵されている。

特攻観音堂

昭和31年05月。世田谷観音寺内に旧宮家「華頂宮家」の持念仏堂を移築し「特攻平和観音」を遷座。

陸軍2244柱
 航空1355柱・空挺615柱・海上挺進265柱・戦車9柱
海軍4174柱
 航空2548柱・特潜437柱・回天104柱・震洋1085柱
合計6418柱

国のために生還を期することのない特攻作戦に志願して若き命を捧げた特攻隊員英名が「特攻平和観音」に奉蔵されている。

石碑「世界平和の礎」

昭和39年10月吉日 吉田茂 謹書
特攻観音堂の左手前に。

特別攻撃隊の頌

 わが国が存亡をかけた大東亜戦争においては、開戦当初から生還を期すことのない特攻作戦が決行された。
 弱冠十七、八歳から三十歳代までの勇士が、肉親への愛着を断ち切り洋々たるべき人生を捨てて、空に、海に、陸に、決然として肉弾攻撃を敢行し、偉大なる戦果を挙げ、ことごとく散華された。その数およそ六千柱。壮烈無比なこの攻撃は敵の心胆を寒からしめ、国民はひとしくその純忠に感泣した。
 特別攻撃隊の戦闘は、真に至高至純の愛国心の発露として国民の胸奥に生き続け、また世界の人人に強い感銘を与え、わが国永遠の平和と発展の礎となっている。
 ここに心から愛惜の情をこめて特別攻撃隊の諸資料を、この遊就館に納め、その精神と偉業とを後世に伝える。
昭和六十年十二月八日 特別攻撃隊慰霊顕彰会 会長 竹田恒徳

あゝ 特攻(特攻勇士の像

特攻隊戦没者慰霊顕彰会は全国各地に「特攻像」建立を行っており世田谷観音には平成19年09月23日建立。

私たちはあなたたちを忘れない
あゝ特攻

多くの「特攻勇士の像」が護國神社境内に建立されている中で、当寺には特攻観音堂があり地蔵菩薩と特攻像が並んで建立されている。

天山隊之碑

元海軍大将 高橋三吉 書
昭和36年12月 天山隊遺族会建之

特攻観音堂の左脇に慰霊碑。
「天山」は日本海軍が九七式艦上攻撃機(九七式艦攻)後継機として配備した艦上攻撃機。戦争末期には零戦や彗星とともに特攻機となっている。碑には天山を模した彫刻あり。

「天山隊之碑」 碑銘
大東亜戦争末期昭和20年4月6日鹿児島県串良基地進発沖縄周辺に来寇中の敵機動部隊に体当り攻撃を敢行し戦艦5隻空母2隻及び艦種不詳3隻を轟沈或は大破し多大の戦果を挙げ全員散華せり
神風特別攻撃隊菊水部隊天山隊員(以下個人名は略)

(もちろん記録として、歴史としては、そのような多大な戦果を挙げていなかったことは今では明らかではあるが、「戦果を挙げた」として信じて特攻された御英霊に対して無粋なことはしたくなく。歴史を知るものとして事象を理解しつつ… ここは、いち日本人の心情として碑銘に気持ちを委ねる。)

神州不滅特別攻撃隊之碑

昭和42年5月 神州不滅特別攻撃隊顕彰会建立

第二次世界大戦も昭和二十年八月十五日、祖国日本の敗戦と云う結果で終末を遂げたのであるが、終戦後の八月十九日午後二時、当時満州派遣第一六六七五部隊に所属した今田均少尉以下十名の青年将校が、国敗れて山河なし生きてかひなき生命なら死して護国の鬼たらむ、と又大切な武器である飛行機をソ連軍に引渡すのを潔しとせず、谷藤少尉の如きは結婚間もない新妻を後に乗せて、前日二宮准尉の偵察した赤峰附近に進駐し来るソ連軍戦車群に向けて大虎山飛行場を発進、前記戦車群に体当たり全員自爆を遂げたもので、その自己犠牲の精神こそ崇高にして永遠なるものなり 此処に此の壮挙を顕彰する為記念碑を建立し英霊の御魂よ永久に安かれと祈るものなり (碑銘引用は以上、以下個人名は略)

「特攻観音堂」
関連冊子などを戴きました… 公式サイト→PDFダウンロード可

「特攻平和観音経」
恭しく伏して惟んみるに天地開闢以来この世に生を享けしもの幾十百千万億兆なるを知らず。…
嗚呼尊い哉、嗚呼仰がん哉、長存不滅の光
南無特攻平和観世音菩薩…

公式サイトによると特攻平和観音様 月例参拝日が毎月18日午後2時より行われているということで。 機会があれば参列してみたいものです。


世田谷観音の境内を散策。
紙垂のある木。敬しく恭しい御神木。
ご住職のメッセージが掲示してあった。

大地は命の根源である

私達は大地を粗末に扱っている 大地は私達のものだと思っているからである そうではなくて私達が大地の一部なのだと知ればもっと愛情と敬意をもって扱うようになるだろう

阿弥陀堂(1枚目)は京都二条城からの移築という。
三層の建物は金閣寺を模している。向かい合った六角堂(不動堂/2枚目)も特徴的な様相。
寺歴は浅いが、移築建築や移築物が多い寺院。
不動堂「不動明王ならびに八大童子」は国重文。

狛獅子を従えた文殊観音様

境内にはさざれ石がありました。
「さざれ石のいわおとなりて苔のむすまで」
良き苔むす。
ちょっと交通の便は悪いけれども、とても佳き空間でした。
また訪れたいと思います。

御英霊の真心に感謝と哀悼の誠を捧げつつ…

各地の「特攻勇士の像」

訪れたことのある、ほんの一部ではございますが。

靖國神社

特攻勇士を讃える

戦局がいよいよ悪化した大東亜戦争の末期、
陸軍航空 西尾少佐以下1344名、
義列空挺隊 奥山少佐以下88名、
戦車隊 丹羽准尉以下9名、
海上挺進戦隊 岡部少佐以下266名、
海軍航空 関大尉以下2514名、
特殊潜航艇 岩佐大尉以下436名、
回天 上別府大尉以下104名、
震洋 石川大尉以下1082名、
計5843名の陸海軍人は敢然として敵艦船等に突入散華され今日の平和と繁栄の我が日本の礎となられた。
その至純崇高な殉国の精神は、国民ひとしく敬仰追悼し、永久に語り継ぐべきものである。
平成17年(2005)6月28日
財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会

群馬縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士の像 
平成21年3月建立

日本は昭和の一時期、米英及び重慶支那と大東亜戦争を戦った。
自国の安全と欧米の植民地支配からアジアを開放するためだった。
戦は優勢に推移し南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島沖縄と敵の反攻を許した。
この時、一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必至の戦法が採られた。
貧しく誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十才前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。
その勇姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現在の人よ、
命に代えて何を守ろうとしたか、
この像に問い続けて欲しい。

栃木縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士の像

私たちは決して忘れない

かつて太平洋戦争の末期、敵の圧倒的戦力を阻止しようと爆弾をかかえ、あるいは魚雷を抱いて敵艦等に体当たりを敢行した特攻隊員のことを。
祖国の安泰を信じ、太平洋の陸に海に空に散華した特攻隊員は、全国で実に五千八百余柱、本県で九十四柱に及ぶ。
このたび、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会寄贈の「特攻勇士の像」を、多くの県民の浄財によってここに顕彰碑として建立することができた。
特攻隊員の崇高な美挙が、この碑によって永遠に語り継がれることを願うものである。
平成二十二年八月十五日
     栃木県特攻慰霊顕彰の会

埼玉縣護國神社

埼玉県特攻勇士之像 (平成25年建立)

あの苛烈を極めた大東亜戦争の末期、多くの埼玉県出身の若者たちが特攻隊員となり家族・故郷・祖国を守るため、烈々たる祖国愛に燃え敢然として散華されました。
生還を期せず、若い命を進んで国に捧げられたこれら特攻隊員の崇高な精神が永く県民の心に刻まれるとともに次代を担う若門精神の糧となることを願うものであります。
ここに散華された英霊の勇姿を末永く後世に伝えるため、公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会のご協力を得て、埼玉県下遺族、戦友、崇敬者団体をはじめ幅広い県民の真心籠るご浄財をもって埼玉県特攻勇士之象を建立し謹んで奉納いたします。 
平成二十五年十月吉日
埼玉県特攻勇士之像建設委員会

千葉縣護國神社

あゝ特攻
千葉県特攻勇士顕彰碑

我が祖国日本は昭和16-20年米英支ソ蘭豪と大東亜戦争を戦った。
自国の安泰と欧米の植民地支配からアジアを解放するためだった。
戦は連戦連勝南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島から沖縄と敵の反攻を許した。
この時一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必死の特攻戦法が採られた。 貧しくとも誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十歳前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。

その雄姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現代の人よ、
命に代えて何を守ろうとしたのか、
この像に問いかけてほしい。

戦後同26年5月3日連合国最高司令官マッカーサー元帥が米上院軍事外交合同委員会で日本の戦は自衛のためであったと証言し米報道機関が全米に発信した。

日本国民よ、この事実を銘記せよ。

長野縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士之像

大東亜戦争の末期、特別攻撃隊が編成され、祖国の平和と繁栄を祈り、愛おしい父母妻子家族と別れ、一機一艇をもって敵艦に体当たりして、勇戦敢闘し散華されました。
長野県出身者は、陸海軍合せ百六十余名の若者が特攻隊員として戦死されております。
松本市内には、出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立って行きました。
又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。
国家存亡の危機に敢然と立ち向かわれ、今日の平和な日本の礎となられた諸英霊の崇高なる精神を永く県民の心に刻み 、後世に伝えるため、終戦七十周年を期しここに建立いたしました。
平成27年10月10日 長野県特攻勇士之像建立委員会

國の為 誠の道を一筋に
 進み行くこそ大和魂
  秋山白厳 詠


特攻勇士之像 に拝する機会がありましたら、記事を追記してまいります・・・

愛知航空機工場スリップ跡散策

平成29年1月撮影

愛知航空機永徳機体工場スリップ跡。 (稲永スリップ跡)

平成29年1月28日午後。
名古屋駅から「あおなみ線」に乗り南下を。
観光地的ではない場所。目的地は「野跡駅」より徒歩10分ほどだった。

通称、「愛知航空機永徳機体工場スリップ跡」。
「稲永スリップ跡」ともいわれる場所へ。

現在は「愛知機械工業株式会社永徳工場」。
戦前は「愛知航空機永徳工場」。
この愛知航空機(愛知時計電機から分社)は主に海軍機を製造していた軍需工場。
その南西にある跡地…

稲永スリップ跡

スリップとは?
つまり「滑る」わけであり「スロープ」「水上機用傾斜面」のことをいう。

水上機は車輪の変わりに下駄(フロート)をつけており、地上から斜面を滑り着水するのだ。

愛知航空機

戦前日本では屈指の航空機メーカー。
日本海軍向けの攻撃機、爆撃機、水上機等を製造してきた会社。

代表作
「九九式艦上爆撃機」
「流星」
「流星改」
「零式水上偵察機」
「瑞雲」
「晴嵐」
「九八式水上偵察機(夜偵)」…
水冷式発動機「アツタ」
など。

このスリップから水面へ滑り出し飛び立っていった水上機たちに想いを馳せる…

零式水上偵察機(零式水偵)
戦艦・巡洋艦・潜水艦などの艦載機として、また水上基地からも運用できる長距離偵察機として昭和15年12月採用。
愛知航空機での生産数133機。

瑞雲
水上偵察機と水上爆撃機(急降下爆撃も含め)の統合を目指し、開発は難航するも昭和18年8月制式採用。
日本海軍が誇る傑作水上機のひとつ。

第634航空隊として、第四航空戦隊・航空戦艦「伊勢・日向」に搭載予定だったが…(師匠…
総生産数は約220機。

晴嵐
水上攻撃機・特殊攻撃機
伊400型・伊13型潜水艦に搭載。急降下爆撃も可能な潜水艦搭載用水上攻撃機。
昭和18年11月に初号機完成。
愛知航空機が産んだ最後の傑作水上機。

「愛知航空機永徳機体工場スリップ跡」
(稲永スリップ跡)

ちょうど私が訪れた時、15時ごろは干潮から満潮へとシフトしている最中でした。
赤い屋根は稲永スポーツセンター。
この先にかつての愛知航空機がありました、

この凸部は係留用の杭でしょうか?
コンクリートの粗さがたまらなく、歴史を感じさせてくれます。

石段が残っていました。

スロープになっているのがわかります。

しばし、往時を偲び佇むとき。

このスリップを滑りつつ、水面から大空へと飛び立てし水上機たちに想いを馳せる。

堤防の上より。
気がつけば、界隈で1時間近くを過ごしてしまいました。

感無量の空間。ここには案内看板もなにもないけれども、往時の激動の時代を伝承し歴史を刻みし空間が残っているのだ。

このスリップ跡界隈は、現在はラムサール条約湿地「藤前干潟」でもある。

現在の「愛知機械工業株式会社永徳工場」。
(戦前は「愛知航空機永徳工場」。昭和20年8月の終戦により軍需工場から民需転換)

脇を歩きながら、駅にもどりましょう。
現在の愛知機械工業株式会社は、日産の子会社。

あおなみ線「野跡駅」(のせき・えき)に戻ってきました。
名古屋駅から電車一本20分で行ける戦争史跡。往時の感じることが出来る貴重な空間。良き場所でした。

軍艦「陸奥」を偲ぶ

軍艦「陸奥」

長門型戦艦の二番艦「陸奥」
帝國海軍のシンボルとして長門ともども日本国民から親しまれたものの、昭和18年(1943)6月8日、主砲火薬庫から爆発を起こして沈没。

陸奥主砲(船の科学館)

長門型戦艦の二番艦「陸奥」
写真の主砲は船の科学館にて展示時代のもの(2016/6/26撮影)

2016年6月。
船の科学館も不幸だし陸奥も不幸だし… まあ、船の科学館の話は寂しくなるのでまた機会にして… 「陸奥」41cm主砲身(四番砲身)を「船の科学館」で見納めしてきました。

「二式大艇」もいなくなって、館内も閉鎖され、そうして「陸奥主砲身」もいなくなって。 「船の科学館」が訪れるたびに寂しくなってしまいます…。

2016年9月。
9月12日に「戦艦陸奥移設工事」が実施されるときいたので直前の見学を。

帝国海軍を過ごした艦「陸奥」と「宗谷」のラストショット

船の科学館本館と陸奥の大きさ比較の看板も見納めですね…
船の科学館 にて42年間の展示、ありがとうございました!

陸奥主砲(ヴェルニー公園)

陸奥主砲の受け入れ準備

2016年9月12日に「船の科学館」から旅立つ戦艦陸奥主砲。
横須賀では受け入れ準備がすすんでいました。
9月13日にヴェルニー公園にて主砲移設工事が実施。

陸奥主砲の移設後

「船の科学館」で帝国海軍最後の生き残りである「宗谷」とともに有る姿を見納めして。
そして今は戦艦陸奥生まれ故郷の横須賀で、海軍のDNAを伝統墨守する海自主力艦「いずも」とともに有る姿と新たに出会えました。感無量です…

戦艦陸奥。
大正9年に横須賀海軍工廠で進水。大正10年(1921)竣工。
昭和18年(1943)瀬戸内海柱島沖で爆発沈没。
昭和45年主砲引揚げ。
昭和49年より平成28年まで船の科学館にて展示。
平成28年秋に横須賀に移設。

横須賀へお帰り言うたってくれ…

「ベルニー公園」に展示中の陸奥砲身が「上下逆さま」で、なおかつ傾いて据付されているとの報告がA様よりご連絡がありました。(実はベルニー公園に来る前の船の科学館時代から逆さまだった)
陸奥砲身の後部の「尾栓開閉機構」の歯車が砲尾の右斜め下にあるが、これは砲身が上下逆さまに設置されたので、歯車が下側になっていることが、逆さまに設置されている証拠です。

A様よりメールにてご連絡あり、ありがとうございます

陸奥の遺品

大和ミュージアム

大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)
大和ミュージアムの館外に戦艦「陸奥」の遺品が展示してあります。 その様子を簡単に。

戦後、1970年(昭和45年)から深田サルベージ株式会社(現:深田サルベージ建設株式会社)主導による本格的なサルベージが行われ、全国各地に陸奥の遺品(引揚げ品)が展示されている。

「陸奥の艦尾旗竿」

「陸奥の主錨」

「陸奥の艦尾フェアリーダー(右舷用)」

陸奥41センチ主砲身(4番主砲塔左)
呉海軍工廠で開発されたもの。陸奥建艦当時は世界最大の艦載砲。
展示品は大正10年に完成し昭和11年に陸奥に搭載されたもの。

陸奥スクリュープロペラ

陸奥主舵

大和ミュージアム展示品の部位


靖國神社「遊就館」大型展示室

九段の靖國神社遊就館。 ここにも戦艦「陸奥」の遺品が展示してあります。

戦艦陸奥「14cm副砲」

五十口径三年式十四糎砲
陸奥副砲は昭和48年に遺骨とともに引揚げられ、艦と共に殉職した乗組員千百二十二柱の英霊を奉慰し、遺徳を顕彰するために爆沈より38年後の昭和56年6月8日に靖國神社に奉納。

陸奥小錨
左前艦側舷窓
艦長室御真影奉安所上部菊花雲型、そのほか遺品
舷窓内径は約35センチ。爆沈の際はこの窓から脱出した人もいたという。

軍艦陸奥装備副砲奉納銘碑

碑文
軍艦陸奥は連合艦隊司令長官古賀峯一の直率の下に瀬戸内海柱島水道に警戒碇泊中、昭和十八年六月八日不慮の爆沈により艦長海軍少将三好輝彦外一千百二十一名の将兵が悲運にも艦と運命を共にし永久の大義に殉ぜられた。
軍艦陸奥引揚促進期成会は軍艦陸奥の引揚の大部を了せる此機を選び、引揚たる副砲と共に其の銘碑に殉職者の英名を刻み、之を靖国神社に奉献し其英霊を永へに顕彰することにした。
軍艦陸奥はワシントン海軍軍縮条約下最後の軍艦であり、其戦力発揮の為全海軍の叡智と心血とを注いで完成した稀少値の芸術品であって、其乗員も亦誇りを以って二十余年に亘り祖国の護りに精魂を傾けて献身し、名実共に天下第一艦として戦争抑止の実を発揮した栄光の軍艦である 。
昭和50年6月8日
 軍艦陸奥引揚促進期成会会長
 元軍艦陸奥艦長  
    保科善四郎謹書


陸奥主砲抑気具記念碑

大阪の難波八阪神社境内には「陸奥」にゆかりあるものが奉納されておりました。

四十五口径三年式四十一糎砲
補用抑氣具格納筐
抑気具ヲ砲身ヨリ取外シタル時ハ必ズ函中ニ格納シ置クベシ

主砲抑気具とは、つまり砲口蓋「主砲の砲口の蓋」です。

主砲抑気具記念碑・碑文
この抑気具(砲口蓋)は沈没し海底から引揚げられた 戦艦陸奥の主砲八門の内の一個で、艦と 運命を共に した艦長三好輝久大佐以下千百二十一名の将兵の魂を慰霊し永遠の平和を祈るものである

海ゆかば
 水漬く屍
山ゆかば
 草むすかばね
大君の
 辺にこそ死なめ かえりみはせじ


「陸奥爆沈」

昭和18年6月8日午後12時10分ごろ、戦艦「陸奥」は広島湾沖柱島泊地にて謎の爆沈を起こした。 陸奥の爆沈原因はいまだに謎とされている。 吉村昭氏の「陸奥爆沈」は一読の価値ある名著ですので参考までに。

吉村昭著「陸奥爆沈」

陸奥は戦後に艦体の一部や主砲身や主砲塔などが回収され、日本各地で陸奥の装備が展示されている。

参考:ウィキペディア
陸奥 (戦艦)→引き揚げ展示品と展示場所

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5_(%E6%88%A6%E8%89%A6)#.E5.BC.95.E3.81.8D.E6.8F.9A.E3.81.92.E5.B1.95.E7.A4.BA.E5.93.81.E3.81.A8.E5.B1.95.E7.A4.BA.E5.A0.B4.E6.89.80

「陸奥の遺品」に関しては、訪れましたら写真を追記していきます。

姉妹艦「長門」に関してはこちら

軍艦「長門」を偲ぶ

軍艦「長門」

「軍艦長門の碑」
ありし日の
連合艦隊旗艦長門の
姿をここに留めて
昭和激動の時代を
偲ぶよすがとする

撰文 阿川弘之 / 書 新見政一 (海軍中将)


昭和21年(1946)7月28日深夜から29日未明にかけて。
1隻の艦が人知れずに太平洋の海へと姿を隠していった。

帝国海軍
戦艦「長門」

そんな彼女を偲ぶよすがに…

※写真はウィキペディアより

「陸奥と長門は日本の誇り」

昭和5年の少年倶楽部「いろはかるた」にあるとおりに、正にこの長門型こそが日本の誇りであった。
戦前戦中は長門と陸奥こそが「大日本帝国海軍」を代表する戦艦であり、国民から愛され慕われた戦艦。
あれっ?と思った人も居るかもしれない…

帝国海軍の戦艦を往時の少年たちは当たり前のように諳んじていた。
「長門陸奥、扶桑山城、伊勢日向、金剛比叡、榛名霧島」
この10隻が開戦時の戦艦・巡洋戦艦。

「大和武蔵」は?
戦中は大和型の存在そのものが極秘であり多くの国民はその艦を知る良しもなかったのです…。

開戦時の連合艦隊旗艦「長門」。
昭和16年12月2日の「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号無電は、この長門から打電。(大和の竣工は昭和16年12月16日、開戦直後)

※写真はウィキペディアより

建造当初から煙突排煙処理が問題となり大正13年(1924)に屈曲煙突に大改装。この姿が国民に親しまれ一番印象に残る姿とも。
私も一番好きな姿です。 (この屈曲煙突は昭和の大改装で廃止)

※写真はウィキペディアより

太平洋戦争時は、大和武蔵ともども主力艦として温存。
昭和17年2月には、連合艦隊旗艦の座を大和に譲っている。

艦に心あり

捷一号作戦では西村艦隊旗艦の予定であったが、宇垣纏第一戦隊司令官の反対で主力に編入。西村艦隊としてスリガオ海峡に突入することはなかった。

宇垣纏『戦藻録』
昭和19年3月6日、宇垣纏第一戦隊司令官は駆逐艦谷風より第一戦隊旗艦長門に乗艦した際に
「長門に着任、中将旗を掲げ死所とす。長門も縁ありてここに四度目の乗艦なり。艦に心あり余の乗艦を喜べば、余は彼女の健在と今日迄の奮闘を謝するものなり」と記している。宇垣は度々「長門」に乗艦しており、この一文からも長門を愛していたことが感じ取れる。
さらには、宇垣は捷一号作戦 にて武蔵が沈んだ際にも(『戦藻録』 昭和19年10月24日)
「嗚呼、我が半身を失えり!誠に申し訳なき次第とす。さりながらその斃れたるるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり。遅かれ早かれこの両艦は敵の集中攻撃を喰らう身なり
思えば限りなきことなるも無理な戦なれば致し方がなし。明日大和にして同一の運命とならば麾下なお長門の存するあらんも、もはや隊を為さず、司令官として存在の意義なし。・・・」
と麾下の「長門」の存在を意識をしていた。

昭和20年7月18日。
横須賀空襲において艦橋が破壊され、そのまま修復されること無く中破で終戦。唯一残った戦艦であった。

8月30日に米軍に接収。
昭和21年3月18日にクロスロード作戦(米軍核実験)に標的艦として参加するためマーシャル諸島ビキニ環礁に向け日本を出港。

その最後の姿を物語る絵画と写真。 昭和21年米軍接収の写真。

※写真はウィキペディアより
※画像はウィキペディアより

昭和21年7月1日の第一実験では爆心地から約1.5 kmの距離でほとんど無傷。長門とともに標的艦とされた阿賀野型軽巡洋艦酒匂は爆心地近くの為に大破炎上、翌日沈没。

そして7月25日の第二実験。爆心地から900-1000m。 実験直後は傾斜を生じるも長門は海上に浮かんでいた。

その4日後の7月29日の朝。 実験関係者が「長門」の浮かんでいた海面を見れば、その姿は海上にはなく、静かに沈んでいた・・・。

阿川弘之著「軍艦長門の生涯」

激動の大正・昭和 日本の運命を背負った一隻の軍艦
… …
遠くビキニの海に沈む… 軍艦長門の生涯には あの時代の 日本と日本人がある!

軍艦長門碑

ありし日の
聯合艦隊旗艦長門の
姿をここに留めて
昭和激動の時代を
偲ぶよすがとする
政一書

揮毫は海軍中将新見政一
撰文は阿川弘之

長門の母港横須賀ヴェルニー公園にて

軍艦長門碑のモニュメントも 「屈曲煙突」時代をかたどっておりました。
多くの国民が耳目してきた帝国海軍のシンボルたる 「連合艦隊旗艦長門」の姿を。

軍艦「長門の副錨」

(平成30年6月撮影)

先日、中京方面に赴く用事があったので立ち寄ってきました。
岡崎市の東公園。
東岡崎駅から市民病院方面のバスに乗り東公園口にて下車。
東公園の中央に堂々とした記念碑がある。

「海の記念碑」
ここに軍艦「長門の副錨」が記念碑として保存されていた。

「海の記念碑」

碑文
時まさに岡崎市制六十周年
ここに岡崎市海友会は、創立六十五周年を記念し、戦艦「長門」の副錨をもって「海の記念碑」を建立する。
これは海国日本の永遠の平和を祈念する心の発露である。
昭和五十二年三月 岡崎市 海友会

シンボルになっている錨は戦艦長門の副錨で、戦後まもなくビキニ環礁でアメリカ合衆国の原爆実験の標的にされたときの唯一の遺品です。 この碑により、人々に広く戦争の悲惨さを知らしめ我国の恒久平和を願う象徴として設置されました。
※一説には昭和9年改装時に取り外した副錨とも

岡崎市の東公園。
長門の副錨の後方には恐竜のモニュメント。
こうして恐竜と対比してみれば長門の副錨の大きさがわか・・・?

長門の忘れ形見・・・

しばしのとき
長門を思い起こし、感慨にふける空間・・・

岡崎市 東公園
「三景艦主砲砲弾」
昭和57年4月29日 岡崎市海友会 創立70周年記念建立。
日清戦争の際に清国北洋艦隊「定遠」「鎮遠」に対抗するために整備した「松島」「厳島」「橋立」を三景艦と呼称。その32センチ主砲弾も記念碑に。

付記
岡崎市 東公園
公園には邸宅もありました。
「本多忠次邸」
こちらの本多さんは忠勝系の本多の末裔。昭和7年に世田谷に建てた住宅の移築保存だそうで。 このときは、すでに夕刻で閉門していたので外観のみの見学。

姉妹艦「陸奥」はこちらにて

ある日の「DDH-183いずも」

平成29年10月

いずも

海上自衛隊・横須賀地方総監部
13時。この日は参加している「公益財団法人 水交会 横須賀支部(横須賀水交会)」の部隊研修がございまして、それが午後の予定でした。

横須賀基地内に錨とスクリューが保存されている。
由来は不明であるが「昭和13年4tアンカー」
そして1995年11月29日除籍の「護衛艦あまつかぜのスクリュー(右舷プロペラ)」

撮影は岸壁と甲板上だけに制限。このご時世ということもあり、一言でいえば「軍機」(保全重視)ということで。
部隊研修ということで各班ごとに別れ(一班30名前後)、艦内各所で見学とブリーフィングなどを。もちろんここでは書けない話ばかりですのでご了承を。


横須賀地方総監部・逸見岸壁にて。

横須賀地方総監部・逸見岸壁にて。 秋の青空…ですねえ。

艦首の日章旗。
高性能20mm機関砲CIWS
いずも型の艦首は船っぽさがたりないんですよねえ。

今回は艦橋の見学もございました。 (艦橋内部は撮影禁止)
後方は航空管制室。 (航空管制室内部も撮影禁止)

いずも艦尾 自衛艦旗が美しい・・・ しらせも美しい・・・

太陽に照らされる、いずも自衛艦旗

16時。部隊研修終了。
下艦です。
見上げれば、うろこ雲。秋の空。 このあとは懇親会へと・・・

懇親会終了の18時45分頃。
撮影をしながら駅へと向かうひととき。
なかなか濃厚な1日でしたね。
横須賀にはまたちょくちょく来ると思います。
史跡散策したいところが沢山ある海軍の聖地ですから。

本レポは以上で〆 ありがとうございました…

護衛艦「いずも」体験航海

平成27年10月8日

護衛艦いずも体験航海(横須賀港~横浜港大さん橋)


御題 
出雲大社に詣でて

国譲り祀られましし
 大神の奇しき御業を
  偲びて止まず

皇后陛下御歌


DDH-183「いずも」 に乗ってきましたレポを以下に。

平成27年の観艦式…もちろん落選しましたよ。

しかし水交会経由で横須賀から横浜に移動する「いずも」に乗ることが出来ると。これはもう申し込みするしかなかった。

水交会。
戦前の水交社の流れをくむ伝統墨守な組織。海軍関係者や海自関係者が多数を占める団体に、縁あって有志として紹介していただきまして、恐縮ながら、です。

そして今回は「いずも」に乗れる!

「いずも」のシンボルマーク。
出雲神話由来のヤマタノオロチと天叢雲剣。
カッコイイ!

10月8日。横須賀。
横浜に移動する前の「いずも」
いやはや、デカイ!

午前8時、既に受付が始まってますね。岸壁の人々との対比でその大きさがわかります。

横鎮こと横須賀鎮守府…、横須賀地方総監部へ。
この日10月8日は横須賀水交会、湘南水交会、自衛隊父兄会・ご家族、防衛協会、防衛関連企業な方々が乗艦。
民間人?のいずも体験航海は初な模様。(平成27年当時)

横須賀総監部は星3つの海将旗。
そして「いずも」には星2つの海将補旗が掲揚。

いずも艦橋

係留岸壁から「いずも」

さて、乗艦。
エレベーターで飛行甲板へ。

「いずも」飛行甲板。エレベーターを上から。

「いずも」飛行甲板。エレベーター。

「いずも」飛行甲板。エレベーター。
中から見上げてみた(魚眼)

「いずも」格納庫からみたエレベーター。

SeaRAM 近接防空システム & 高性能20mm機関砲 ファランクス(Phalanx)

護衛艦いずも。甲板上。
圧倒的に晴天。

護衛艦いずも。
甲板上。
艦首及び艦尾。
美しい……です。

護衛艦いずも。甲板から。

手前から
あたご、むらさめ、きりしま、てるづき、あすか

距離を置いて
いかづち、おおなみ、くらま

はしだて(ASY-91)は、迎賓艇(特務艇)
えんしゅう(AMS-4305)は、多用途支援艦

いずも艦載機。
MCH-101輸送・救難ヘリコプター。

タグボート登場。
離岸は1030
ラッパの音は高らかに。

ちなみに、約250メートル全長という長さのため、横須賀港内は後進。ある程度広いところまで来てから旋回となりました。

離岸。
通常の護衛艦よりも、真下が見えない為、気がついたら離岸っていうタイミングでした。

さあ、いずも離岸後の忙しさ。

「いずも」と岸壁を緩衝していた護岸緩衝材を回収する船や、曳船が駆け回っていますよ。

護岸緩衝材回収中。
なんか、カワイイ

大発……もとい、交通船もいました。
ちょうど、乗船中。

護衛艦艦尾に林立する旭日旗(自衛艦旗)。
美しい姿は伝統墨守。

「きりしま」(DDG-174)艦橋で隊員が見送る中、「いずも」は出航。
手前は、「あたご」(DDG-177)、イージス艦に挟まれているのは「むらさめ」(DD-101)

「きりしま」の向かいの桟橋にいるのは「てるづき」(DD-116)、試験艦「あすか」(ASE-6102)。

並びのちょっと離れた桟橋に係留されていたのは、
DD-107いかづち
DD-111おおなみ
DDH-144くらま

護衛艦がいっぱいで、鼻血でそうなくらい興奮w

DD-107いかづちが、曳船によって、どうやら移動の様子。

さて、米軍基地の方に目線を向けてみましょう。
米空母「ロナルド・レーガン」 いました!
「いずも」の姉妹艦です。(米海軍と海自が交流を行う意での姉妹艦)

お見送り〜

何度見ても美しい。
旭日の下、青空に彩られる自衛艦旗。
いずも艦尾。

いずも艦上より望む富士山。
10月8日は、まだ冠雪前でした。

タグボート切り離しは、1130頃。
横須賀湾を出港するのに約1時間、タグボートのお世話になったようです。

洋上。青空の中で見上げる艦橋。広々とした甲板。 気持ち良すぎるだろ、これ。
あっ、そういえばほとんど日陰がない。いずもに乗る場合はw熱射病に要注意ですよ。

こんなところにもdocomo

いずもに続航していました。 ATS-4202くろべ(訓練支援艦)

艦内公開されていた食堂にて。
「指導方針」が掲揚。
「精神」「即応」

艦長の「魅たれ!」が素敵。

搭乗員待機室。
おっ、これも良いデザイン。 八雲たつ出雲にオオクニヌシ

1245〜1315横浜港沖。
ベイブリッジを通過する貨物船の出航遅れのため30分程沖合いで待機。
いずもに続航し同じく横浜港を目標としていた、ASR-403ちはや、ATS-4202くろべ、も待機。

横浜港沖1315 航行再開。

いずも、ちはや、くろべ、ましゅうの順で単縦。
横浜ベイブリッジ通過します。 いよいよ今回の航行のハイライト。

横浜ベイブリッジが近づいてきました。

護衛艦いずも、横浜ベイブリッジを通過します……って、艦橋高さギリギリ?

護衛艦いずも、横浜ベイブリッジを通過! けっこう、はらはらするものですね。間違いなく問題ないのはわかってますがw

ちなみに、のちに水交会の偉い方が説明してくれました。
「いずもに限らず護衛艦は、全国の主要な橋の高さを確認の上で設計されてますので、満潮でも問題ないんですよ」
「外国の大型客船は、満潮になると横浜ベイブリッジを通過出来ないらしいですけど、ね」云々

ベイブリッジを通過したら、待ってましたとばかりにわらわらとタグボートが。
曳艦よろしくお願いします。

いずもに続航する護衛艦群は、ちはや、くろべ、ましゅう。
いずもは大桟橋。ちはや以下は横浜新港へ。

横浜ベイブリッジを通過する後続の護衛艦での対比でも、いずもの大きさを改めて実感。

いずもに続航するは、ASR-403ちはや(潜水艦救難艦)。
ちはやは横浜新港へ。いずもは大桟橋へ。
そろそろ豪華な護衛艦クルージングも終わりが近づいてきました……

1400過ぎ。
海保PLH31「しきしま」と、日本郵船「氷川丸」(元帝國海軍特設病院船)に挟まれた横浜港大桟橋へ、海自護衛艦「いずも」が入港。

日本郵船「氷川丸」
かつての帝國海軍を知る船。
戦時中は海軍徴用として海軍特設病院船として活躍。

着岸作業中。

いずも艦首より、横浜中心地を望む。
なるほど。
港町横浜は海から観る街だ。 建物が皆、海に向けて建っています。

いずも甲板。艦橋。
1430頃、着岸完了。
乗客は徐々に格納庫へと移動を開始。
名残惜しいがそろそろ離艦の準備をば。

さて、エレベーターで格納庫へと降ります……

掃除お疲れ様です( ´ ▽ ` )ノ
白馬さん、掃除サボりはいけませんね〜

1450、いずも離艦。
貴重な体験に感無量。ありがとうございました〜
まさか初めての横浜大さん橋の利用が「いずも」になるとは予想してませんでしたよ。

さて、体験航海は終わりましたが、蛇足的。 このあと某ホテルで横須賀水交会懇親会。

懇親会を終えて、夕方。
大桟橋に戻ってみました。

1700過ぎ。
おっ、これは良いタイミング。
日没の降納に立ち会えますよ。

いずも艦首。
日没に合わせて国旗降納のスタンバイ中。

いずも艦尾。
こちらも日没に合わせて、自衛艦旗降納のスタンバイ中。

1712日没。 凛とした空間の下で自衛艦旗降納。

10月8日の夕方。
僅かに残る日差しで余韻を楽しむ。

新港には「ましゅう」と「おおすみ」が停泊してました。
おおすみを初めて見た時は、やっぱり興奮したことを思い出しつつ。

10月8日の横浜大さん橋。
いずも、やっぱり長いですね。

10月8日の横浜大さん橋より、新港を望む。
1730頃。
夕焼け、みなとみらい。

10月8日の横浜大さん橋より、赤レンガと富士山を望む。

いずも艦橋

1745過ぎ。 オフになった隊員が私服で横浜の夜へと繰り出していかれました。 半舷上陸ですね。

艦尾夜景。

いずも夜景。

氷川丸。

谷田部海軍航空隊跡地散策

平成29年5月

谷田部へ

平成29年5月5日。
良い天気に誘われて前々から気になっていた場所にふらりと訪れてみることにしました。
茨城県内に点在した海軍航空基地跡でまだ未訪問だった場所。
「谷田部」
現在の行政的には茨城県つくば市谷田部

メモ程度に茨城南部の海軍航空隊を簡単に分類。

霞ヶ浦海軍航空隊(霞空・教育部隊・予科練)
 ↓
鹿島空(水上機隊)→北浦空
谷田部空(霞空補助)
土浦空・百里原空(予科練)

筑波海軍航空隊(戦闘機)
 ↓
神ノ池空(桜花隊)
谷田部空(戦闘機)

公共交通機関での谷田部へのアクセス方法はいくつかあるけど一番楽なのは「取手から谷田部車庫までのバス」かと思います。バス路線は土浦・牛久・水海道などあるようですが運転本数は取手が一番多いような気がします。

取手~谷田部車庫
所要時間60分910円

バスに揺られて1時間。
久しぶりに長距離路線バスに乗った感じです。

関東鉄道バス 終点
「谷田部車庫」

位置関係

全体の地図を貼っておきます。
地図上部の緑印が今回の散策ポイント。
谷田部車庫は筑波学園病院の北隣。
南部の緑枠は「滑走路跡」、現在の研究団地。
ここに芝張りの滑走路が広がっており、当時は93式中間練習機「赤トンボ」が舞っていたという。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
 USA撮影
 コース番号 R2232
 写真番号 51
 撮影年月日 1948/12/04(昭23)

正門跡

谷田部車庫からいったん北上してT字路に到達。
この場所が「谷田部海軍航空隊」の入口であった。
ここより南に進むと「正門跡」(筑波学園病院前交差点)という。

この入口の角にあるスーパーがポイントです。

入口T字路の角に立つスーパー。
実は、戦後に元隊員が開業したスーパーだという。
(今は営業していない雰囲気でした)

店先に「桜と錨」帝国海軍徽章(シンボルマーク)が掲げられておりました。 これは胸熱…

消失した、とのことです。

そのまま南下。
関東鉄道バス谷田部車庫の南隣に「筑波学園病院」が見えてきます。

このあたりがかつての「正門」があった場所。
ここから南側がかつての基地跡。

谷田部海軍航空隊記念碑

「筑波学園病院」の駐車場の脇に記念碑が建立されておりました。

谷田部海軍航空隊記念碑
平成25年3月吉日 財団法人筑波麓仁会理事長

(補足→筑波学園病院のことです)

記念碑上部の戦闘機の石造造形が美しすぎて感無量でした。
目頭があつくなるほどに・・・

谷田部海軍航空隊記念碑
碑文

谷田部海軍航空隊は、昭和七年霞ヶ浦海軍航空隊(予科練)の補助飛行場としてこの地に開設され、練習機による飛行士養成を目的としていたが、昭和十四年独立し、零戦や紫電を主力として首都防空の実戦部隊となった。その後昭和十九年戦闘機操縦訓練隊となり沖縄方面の特攻作戦に従事した。戦後、跡地の一部建物(兵舎)を筑波学園病院の病棟として利用し、平成十一年に解体し現在に至っている。ここに恒久の世界平和を願いこの碑を建立するものである。
 平成二十五年三月吉日 
 財団法人筑波麓仁会

建立時の除幕式がニュースでありました。 以下にリンクを貼っておきます。

https://www.gakuen-hospital.or.jp/wp/?p=175

http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=13689590371307

零戦モニュメントが上部に設置された記念碑は神風特別攻撃隊「昭和隊」出撃時に隊員を見送ったとされる桜の木の下に設置という。

桜の季節に詣りたい場所…

病院のご尽力にも感謝。ありがとうございました。

谷田部海軍航空基地外壁跡

記念碑から西の方に。 正門にそって基地の境界を道なりに進むと古いコンクリ塀が見えてくる。 これは当時の谷田部海軍航空基地の外壁が流用されたものという。

さらに道なりに歩み、交差点を南に折れる。
空地にトラックが駐車。
なんとなく目をやると…
あぁこれは仕組まれたかのような偶然です。

「若鷲の歌」
若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

常磐高速道路を眼下に。

常磐道を挟んで
左手(北)が基地の主要部、
右手(南)が芝張りの滑走路敷地。

前述の航空写真を見ると、主要部と滑走路部の間に橋がかかっているのがわかります。当時は用水路のように基地を囲むように窪みがあったようです。

飛行場橋

常磐道をまたぐ橋。 飛行場は既に残っていないけども、橋の名前に往時を偲ぶことができる。 航空隊本部と芝張り飛行場を結ぶ橋。 今はこの「飛行場橋」の向こうには「研究団地」が展開されている。

往時、この空間に芝張りの飛行場が展開していたという。

歴史だけが残った空間。

芝張りの飛行場は93式中間練習機「赤トンボ」用。
そして現在の常磐道の側道あたりに戦闘機用の滑走路が展開されていたという。

谷田部神社(谷田部海軍航空隊神社)

谷田部海軍航空隊神社(航空隊内の航空神社)を戦後に移築したもの。もともと基地内に鎮座していた神社を戦後の焼却を恐れて谷田部八坂神社境内に遷宮。旧基地エリアの再開発が落ち着いたのちに現在地に地区の守護神として鎮座した。

往時の名残を残す神社。
かつての海軍航空隊の守護神は、現在は谷田部集落の守護神となっていた。

心静かに拝する。
感謝と哀悼の念とともに。

防火水槽

また、谷田部神社の近くに航空基地なごりの防火水槽が残っていた。

谷田部海軍航空隊散策はざっと1時間半、2.5キロほどの所要でした。 残されたものは少なかったけど、なかなかに意義のある散策ができたかな、と。


続いて、谷田部海軍航空隊跡より三キロほど北西の(赤星印)に鎮座する鹿島神社に向かいます。

水田に水が張られ始め稲作の始まりを感じるなかに鎮守様が鎮座しておりました。
そこはなんの変哲もない神社のようですが…

土浦海軍航空隊神社の大鳥居(移設)
(つくば市小白硲鎮座の鹿島神社)

常総リビング記事

http://www.joyoliving.co.jp/sp/htg/data00021.htm

>旧海軍の土浦海軍航空隊内(阿見町青宿)にあった土浦航空隊神社の大鳥居が、つくば市小白硲の鹿島神社の鳥居として利用されている。

とのことで参拝しに参りました。

つくば市小白硲鎮座の鹿島神社

阿見から谷田部近くまで戦後のドサクサに紛れて誰がどうしてここに運んだかはわからないというが、この神社の大鳥居は「土浦海軍航空隊神社」のものであったという。
鳥居には昭和17年7月建立の銘あり。

神社としても個性的で興味深いお社でした。
御社殿脇のご神木の根本には大日如来が佇んでおり、境内地には神仏習合なんのそので石碑が立ち並んでおり。
地域鎮守として佳き気配に溢れておりました。

つくば市小白硲鎮座の鹿島神社。
社頭には「つくばの水田」が拡がる。
「あぁ、あそこに鎮座しているな」と遠くからでもわかる鎮守の杜。
清々しい気持ちの中で筑波の台地をノンビリと散策する贅沢なひととき。
海軍関連史跡と神社と。 まさにフィールドワークの醍醐味でもあった。

寄り道しつつ、つくばエキスプレス「みどりの駅」に到着。
行程はこんな感じでした。

谷田部車庫スタート~みどりの駅ゴール

距離、約8キロ 所要時間 約3時間  徒歩

陸軍調布飛行場跡散策

平成28年~

陸軍調布飛行場跡散策 (調布市/三鷹市/府中市)

  • 調布飛行場周辺
  • 高射砲台座跡
  • 飛行場排水路/排水門 ・門柱
  • 掩体壕(三鷹市大沢2基/白糸台)
  • 飛行場工事で遷座した神社仏閣
  • 調布郷土博物館保存「陸軍境界石」
  • 浅間山公園
  • 下仙川高射砲陣地跡

当時の調布飛行場位置関係

昭和20年1月6日に陸軍撮影の府中調布界隈の空撮写真。グーグルマップを加工。

http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス より
昭和20年1月6日に陸軍撮影の府中調布界隈の空撮写真を加工。

現在の調布飛行場は伊豆諸島を結ぶ東京島嶼部の大事な空路。
かつては首都防衛の要たる陸軍調布飛行場。

まずは家から自転車にて。
陸軍調布飛行場に関連する戦跡を幾つか廻ってみた全体の行程は、調布駅起点で4時間18キロの行程。

要所を押さえるのであれば、現在の調布飛行場を中心に武蔵野の森公園内の掩体壕2つ、白糸台駅近くの掩体壕などが見学しやすいです。

飛行場に向かつつ。
まずは三鷹市の「大沢コミュニティ通り」。
調布から飛行場方面にアクセスする道路。 この道路はかつての軍用道路。

大沢コミュニティの交差点から野川を望む。
調布飛行場側から見て対岸に、ちょっとした高台がある。
この高台に高射砲陣地があったのです。

首都防衛高射砲陣地跡
首都防衛高射砲陣地 調布隊

通称「どんぐり山」
保育園と老人ホームがあるこの場所が「首都防衛高射砲陣地跡」。 樹木で視界は覆われておりますが調布飛行場を見下ろす高台に位置しております。 ここには幾つか当時の名残のものがあり。

当時ここには6つの高射砲が備えられ、現在は4つの高射砲台座跡が残っているという。
敷地外より3つの台座跡が確認出来ました。

なお私が訪れたのは日曜日ということもあり、保育園はお休みで誰もいらっしゃいませんでした。
保育園がやっている時は、念のため関係者にご確認されて見学するのが良いと思います。
まあ、外からも見えますが。一応。

太平洋戦争
首都防衛高射砲陣地跡
東部第一九〇三部隊調布隊

戦火の本土に近づくに及び 首都防衛のため 昭和18年9月 此の地に 東部第1903部隊調布隊は 仲午六隊長以下186名を以て 陣地を構築し 高射砲6門 観測機材を設置して布陣した 数次にわたる米軍との交戦により 戦死4名負傷者多数を数えた
其の後 戦況の推移により日本海側に残された 唯一の食糧補給港である富山湾伏木港防衛のため 昭和20年4月末 北作健二隊長以下転進する迄 此の地で任務を遂行した 戦後 鈴木平三郎氏が陣地を現状のまま保存しており 且つこの地を福祉法人に寄付し永久に保存して下さるので 此の度 戦友一同相計りこの碑を建立し 永遠の平和を希求する共に英霊四君の冥福を祈り続ける事にした
 昭和56年2月吉日建立
 調布隊戦友一同

高射砲陣地跡石碑。
なお、日曜日で保育園休園のため望遠撮影です。前述同じく保育園内にありますので、開園時は許可を得て見学がベストです。

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」
1945年01月06日陸軍撮影(95D4-C2-20)より

どんぐり山をあとにして、飛行場方面へ。
次のポイントは野川。調布飛行場建設当時からの排水門が野川に面して残ってます。

陸軍調布飛行場 排水門・排水溝

この排水門から延びる排水溝が調布飛行場に向けて一部残っております。
このあたりも陸軍調布飛行場建設時からの名残。溝を固める玉石がポイント。
排水溝の話はまた後ほど、武蔵野の森公園内にて触れる予定。

陸軍調布飛行場 門柱

さて、飛行場方面に向かいましょう。
大沢五丁目バス停近く、道路の両脇にある大谷石製の門柱。
こちらは、陸軍調布飛行場名残の門柱。

調布飛行場。 昭和14年(1939)に建設着手。
門柱は竣工時に正門として設置。
戦後は戦争記憶の生き証人として保存されている。

門柱には「東京調布飛行場」と記載…ん?東東

これは「東京」の異体字である「東亰」と掘られていたものを戦後に何者か(GHQとも)が悪戯した為とされている。
確かに「亰」に追加された縦線の掘りが不自然。

調布飛行場。管制塔。
2013年に完成したばかりの新しい建物。 ターミナルからはちょっと離れますが奥の格納庫に展開されるプロペラカフェも人気スポット。

調布飛行場

飛行場の北側から西側にかけては、都立武蔵野の森公園が展開されてます。
そこに保存されている掩体壕が2つ。
三鷹市大沢。 大沢1号掩体壕、大沢2号掩体壕。
次の目的地はこちら。 航空写真でも掩体壕がわかります。

大沢1号掩体壕

大沢1号掩体壕。半地下構造。
入り口は塞がれており、そこには陸軍三式戦闘機「飛燕」の姿が掩体イメージとして描かれています。

大沢1号掩体壕。
あちこちから。
内部は完全に塞がれてますね。

掩体壕に格納されていた飛燕を1/10スケールで再現。
掩体壕カットモデル。 往時を偲ぶ。

解説看板。

_φ(・_・ 陸軍調布飛行場は南北1000メートル。東西700メートル。
掩体壕は有蓋30基、無蓋約30基あった。
現存は三鷹市武蔵野の森内に2基。府中市白糸台界隈に2基。

大沢2号掩体壕

こちらは、大沢2号。 同じく武蔵野の森公園内に。
蓋はされておらず、内部が覗ける様になってます。

ちょっとした丘の上から見ることも可能。
もっともこの場所は掩体壕を見るというよりも調布飛行場を見渡すことが出来る丘。

玉石造の水路

武蔵野の森公園の北側には玉石の水路が残る。
玉石は多摩川から。西武多摩川線の引き込みを利用。
こちらも陸軍調布飛行場時代の名残。

調布飛行場

調布飛行場を見渡す丘の上で休息。
ちょうど、 ドルニエ228が調布飛行場に帰ってきました。(三宅島航路406便)

おっ。
地上でドルニエ228がクロス。
三宅島航路406便の帰投、そしてこのあとは407便の離陸となります。
ちょうど良いタイミング。

ドルニエ228の離陸。
かつては首都防衛の要として三式戦闘機「飛燕」が飛び立ったこの場所から、 今は東京島嶼地域の要としてドルニエが飛ぶ。
プロペラの音をなびかせながら。

飛燕のプロペラ(一〇〇式輸送機プロペラと判明)

調布飛行場の北側には武蔵野の森公園。人見街道を挟んだ更に北側に野川公園。
その野川公園では「飛燕のプロペラ」が展示してあるという話を聞いたので行ってみました。

が、結論から書きますと「現在は展示中止。」
野川公園サービスセンターの中の人から、お話をお伺いしてみました。

野川公園で過去に展示していた「飛燕のプロペラ」
もともとは武蔵野の森公園の掩体壕とあわせて展示する計画でしたが、準備が整わなかったために一時的に野川公園で展示してました。現在はプロペラは武蔵野の森公園に返却しております。しかし、損傷が酷いために武蔵野の森公園での展示見通しがついてない状況のようです。」 とのことで。
ネットを検索すると散見される野川公園仮展示の「飛燕プロペラ」は現在は武蔵野の森公園預かりで非公開になっております。


「飛燕のプロペラ」は「武蔵野の森公園サービスセンター」で2019年10月より常設展示となりました。

※さらに研究の結果、一〇〇式輸送機プロペラと判明しました。
 展示当時は飛燕としての展示が施されているが、現在は展示形態も異なっているので注意
 再訪します。。。

プロペラ発見の経緯
 三鷹市が都立武蔵野の森公園の一角で進めていた大沢総合グラウンド整備事業で、平成21(2009)11月16日、下水管布設工事を行っていた際に、戦闘機のプロペラ3点が発見されました。プロペラは、工事関係者によって取り上げれ、三鷹市教育委員会に報告されました。
 当初予定していたグラウンドの管理棟部分の試堀調査終了後に、プロペラ発見地点の補足調査が行われ、発見地点の位置測量、出土深度の確認及び周囲の精査が行われました。プロペラは、南北8.8m(東西は、工事で掘削され、計測できなかった)、深さ2.3mの穴に埋まっていたことが確認されました。さらに、既に発見されていた3点のプロペラ以外に、他のプロペラ片数点が確認されましたが、腐食が激しく原形を留めていませんでした。また、穴の底面をさらに50cm掘り下げた小穴からスピナー(プロペラ軸の先端部分)が出土しました。専門家による鑑定の結果、スピナーとプロペラ1点は五式戦闘機のもの、残りの2点は三式戦闘機(飛燕)のものと判断されました。

近藤勇生家跡

調布飛行場北側の人見街道。
鎮座しているのは近藤神社。
近藤勇の生家跡に。名残としては産湯の井戸が残る。
近藤家は飛行場建設に巻き込まれている。

近藤勇は宮川家のうまれで近藤家に養子にでている。なので産湯の井戸は宮川家。
人見街道の北側にはさきほどの宮川家の近藤勇産湯の井戸と近藤神社があり、人見街道の南側すなわち調布飛行場側に現在も近藤家が残る。

近藤勇ゆかりの近藤道場(天然理心流道場)「撥雲館」。
調布飛行場の北側、人見街道に面した地に残る。
調布飛行場建設の為に従来の近藤家は取り壊されて移動しており、撥雲館もあわせて現在の近藤家敷地内に移築。

多磨霊園

人見街道を西に向かえば多磨霊園。
北西部に位置する多磨霊園や浅間山は樹木の多さをいかして分散秘匿地区として活用されていた、と。

現在の多磨霊園に飛行場関連の何か?が残っているわけではなく。
噴水塔に米軍機による機銃掃射の跡があるという話も聞いたが、老朽化で立ち入り出来ないのでは致し方がなく。


さて、人見街道から一気に南下。西武多摩川線に沿うように。
白糸台方面、甲州街道方面へと向かいます。

白糸台の掩体壕(非公開)

府中市白糸台界隈には掩体壕が二つ。そのうちの一つは民有地ゆえ詳細な場所は省略。
掩体壕の上に建屋が乗っかっており、掩体壕内が工場。
詳細は検索すれば過去に見学された方の内部レポもあがっておりますんで……。

白糸台の掩体壕

府中市白糸台の掩体壕。 以前は結構な荒地でしたが、近年再整備されて非常に良い保存状態となっております。

府中市の白糸台掩体壕。 周辺歴史マップ。

府中市の白糸台掩体壕。 案内看板。

道生神社

白糸台掩体壕をあとにして。
飛田給の道生神社へ。

「道生神社」(ミチオイ・ドウショウ)
祭神・宇気母智命(ウケモチノミコト)

創建年代は不詳。明治17年に飛田村の鎮守たる飛田神社と道生神社が合祀。

飛田神社(稲荷社)と道生神社(山王社)の合祀。
社殿は大正4年建立。 旧社地が昭和18年に調布飛行場用地となった為に現在地に遷座。現在地は旧品川通りに面している。

狛犬は昭和6年建立。
灯篭と手水盤は社殿と同じく大正4年建立。
つまり、社殿・灯篭・手水盤・狛犬は今は調布飛行場用地となってしまった旧社地からそのまま現在地に遷座とわかる。

調布市飛田給の道生神社。
飛田給とは飛田氏の給田地の意があるともされる。
その飛田村は陸軍調布飛行場となり鎮守様は御遷座。
遷座先でも往時の名残が境内に残っているのは嬉しく。

調布飛行場用地として、1社3寺が旧社地からの遷座を余儀無くされております。

1社は道生神社。
3寺は長専寺・覚證寺・ 光岳寺 。

画像は飛田給の道生神社までのロガーログ。
旧社地は飛行場用地となり、南に遷座。

分散秘匿地区。 掩体壕が足りない為に調布飛行場周辺で樹木が茂る場所が飛行機秘匿エリアとして活用。多磨霊園・浅間山・下石原八幡神社などが秘匿地区として使用。

下石原八幡神社

創建年代は不詳。 下石原地区の鎮守。当地の領主であった太田善右衛門(太田資忠(=太田道灌の弟とも甥とも?)を祖とする)の勧請とされる。
旧社格は村社。

戦時中は分散秘匿地区として陸軍調布飛行場の航空機を隠す為に境内林が活用された、と。
往時の面影を感じる事は難しいけれども、気にしながら境内林を眺めてみる

調布市郷土博物館

入口の脇にひっそりと立つ石標

陸軍境界石(陸軍標石)
説明はないけども、市内には「陸軍調布飛行場」がありましたので、その関係かと思われます。

浅間山

平成29年11月27日。
この日は府中市の浅間山公園に散策に赴いておりました。
今は長閑な自然公園であるけども、歴史を辿れば陸軍調布飛行場と府中燃料廠ゆかりの地ともいう。
とは言いつつも戦争に関する何かはあまり残っていない。

浅間山公園

東京の都立公園。 「堂山」「中山」「前山」と呼称される3つの頂から構成されている山。
標高79.6メートルの堂山山頂には浅間神社が鎮座。
周辺に広がる人見ヶ原の地は南北朝期の正平7年(1352)には足利尊氏と新田義興・義宗兄弟が戦った古戦場(武蔵野合戦・人見ヶ原の合戦)でもある。

前山の山頂附近には「人見四郎の墓」跡がある。
人見氏は武蔵七党のひとつ猪俣党。周辺には「人見街道」と名も残っており近隣の豪族として名を馳せていたことが窺い知れる。人見四郎は平家物語の一ノ谷の戦の場面に源氏方として名を残す人物という。
墓跡の碑は平成2年府中市の建立。

前山から中山にかけての道 。

前山と中山を結ぶあたり、西面する高台は「関東の富士見百景」に制定された場所。
富士山と並んで見えるビル群は府中の町並み。
ここから富士山までは81キロの距離とのことで。

一度、山をおりて堂山の下へ。
この堂山の山頂には、その名の通りに「浅間神社」が鎮座。 麓から山頂まで一直線に参道が伸びています。
これは良いです。

浅間神社(人見浅間神社)
由緒等は不詳。

堂山の山頂

中山の麓にある祠。水神社。
堂山の浅間神社の御神体は中山の清泉から出現したものであるとも。

おみたらし
浅間神このところより出現すと伝う
人見浅間神社・水神社ともに人見稲荷神社(府中市若松町5-7-6)の管理。

陸軍燃料廠の秘匿燃料タンク跡

陸軍燃料廠の秘匿燃料タンクがあったという浅間山公園。
今はなんとなく窪地が広がっている数カ所に、当時は秘匿燃料タンクがあったらしい。
面影はないけど、広がる空間から当時を夢想してみる。

下仙川高射砲陣地跡

京王線仙川駅

陸軍下仙川高射砲陣地跡
首都防衛高射砲陣地 下仙川隊


東京都調布市若葉町1丁目16−19付近
調布飛行場の南西にあった高射砲陣地。当時の高射砲陣地台座の極一部が何気なく残っており、今は姿を変え自治体の住宅案内地図の台座となっておりました。

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」
http://mapps.gsi.go.jp/ 
1944年12月23日陸軍撮影(95C3-C6-101)画像より抜粋。

半円状に高射砲陣地が構築されているのがわかると思います。 この陣地の一番上の円が前ツイの台座跡となるようです。

高射砲台座跡。ほんの僅かだけ残った遺跡。

首都防衛高射砲陣地 下仙川隊

高射砲陣地台座跡の近くに。
一説には弾薬庫の跡とも。
私有地の奥にあるので間近で見ることは叶わず。

走水水源地と覚栄寺裏山貯水池

平成31年3月

桜の季節に開放される「横須賀走水水源地」
タイミングが合わせられましたので行ってきました。

覚栄寺裏山の明治28年築造の旧海軍貯水池

横須賀水道

横須賀における水道施設は海軍とともにあった。
横須賀海軍工廠が発展するにつれて水不足となったために造船所首長ヴェルニーの手によって明治7年(1876)から9年にかけて最初の水道「走水水道」が完成。

海軍専用の水道として軍事拡張とともに水道も拡張。
大正7年(1918)に中津川を水源とした「半原水道」が通水。
「走水水道」は海軍から横須賀市に無償関与され横須賀市上下水道の水源となった。


走水水源地煉瓦造貯水池

横須賀軍港水道走水水源地の第一期拡張工事で建設された上屋付き煉瓦造貯水池。登録有形民俗文化財。明治35年(1902年)造。内部空間を構成する扁平ヴォールトが,入口・丸窓を左右対称に配した壁面で覆われ,屋上は盛土される。横須賀鎮守府経理部建築科の海軍技師井川喜久蔵,堀池好之助らが担当。

登録有形民俗文化財 走水水源地
明治三十五年一月竣工

走水水源地

走水一帯は昔から地下水の豊富なところとして知られていた。
横須賀製鉄所(横須賀海軍工廠)の建設に貢献したフランス人技師ヴェルニーが明治7年に、この走水水源地から横須賀造船所までの7キロの水道工事に着手。明治9年12月に完成。明治34年から35年にかけて水道を拡張し(上記の煉瓦造貯水池はそこの拡張時のもの)。

横須賀水道発祥の地
桜の季節に走水水源地が開放されます。

横須賀市水道局の「走水水源地」が桜の季節に敷地開放されますので、行ってみました。

境界石

1Z東京湾要塞第壹地帯標
陸軍省
桜の季節だけ拝見できる境界石。
左端の柱が前述の「境界石」

ポンプ室がいつからのものかは不詳。


走水水源地鉄筋コンクリート造浄水池

走水水源地の第2期拡張工事で建設された上屋付き浄水池。
内部は鉄筋コンクリート造の5連馬蹄形ヴォールトで構成され,外壁には石で縁取りされた丸窓を一列に配す。
設計は海軍技師伊藤誠吉とされる。日本最初期の鉄筋コンクリート建造物のひとつ。
1908年(明治41年)築造


 横須賀軍港水道 浄水池
明治41年9月竣工

ヴェルニーの水

走水の湧き水を利用した水。


走水水源地の煉瓦造貯水池の近くに。

明治以来の当時のものかどうかは不詳。


東に歩いていく。
破崎緑地の展望デッキから、走水水源地を遠望。桜のピンクがやんわりと広がる空間。


本水山覚栄寺(浄土宗)

永正10年の開山。裏山の湧き水は水源地になっていますので行ってきましょう。


覚栄寺裏山貯水池(帝国海軍)

明治28年築造。覚栄寺の墓地を登っていくと、帝國海軍が築造した「かまぼこ型の貯水池」が残されている。

隙間から覗いてみました。
今も水が流れ込み貯水されておりました。
海軍用地。海軍の貯水池。
寛栄寺の裏山

覚栄寺裏山貯水池(横須賀市営水道)

明治28年につくられた海軍の貯水池の近くに横須賀市が明治41年(1908)に築造した貯水池。

表は煉瓦造の貯水池
隙間から内部を覗いてみました。
こちらも今でも水が流れ込んでおり、水音が聞こえます。
明治四十一年六月竣成
後ろは半円のレンガ&コンクリートが2つ。

裏山を降りて下から、さきほどの貯水池を眺めてみました。

寛栄寺の「滝井戸」

本堂の裏手に。こんこんと湧き出る井戸。

裏山はいまでも湧き水が豊富だと実感できる空間。

文化財に指定されていない2つの貯水池。できることなら保全をきちんと進めてほしいものではございますが・・・。

東京23区内に残る寺社の防空壕

平成30年12月撮影

  • 千住神社(東京都足立区千住宮元町)
  • 成願寺(東京都中野区本町)

千住神社と防空壕跡

千住神社
創建は延長4年(926)という古社。旧社格は郷社。千寿七福神の一神(恵比寿)。
この神社にはなんと…防空壕が残っているのです。
参拝しつつ、ちょっと防空壕を見てみましょう。

北千住鎮座の千住神社。
北千住駅から歩いて15分ほどの地に鎮座。

昭和20年(1945)4月13日 空襲で社殿を焼失。
境内の御神木や石鳥居などは戦災を免れて残っている。
そして戦争の記憶を残す防空壕跡も。
戦後昭和33年(1958)9月に社殿が再建という。

千住神社と防空壕跡
境内の片隅に残る防空壕跡。 平地での防空壕は半地下構造。その上部には戦時下特有の瓦礫混じりコンクリ15センチ厚程度のものが渡されている。

境内の片隅に残る防空壕跡。
内部はおもったよりも広い。膝をかがめた状態で大人なら10人程度は入れる空間。
東京都内のそれも23区内に、こうして防空壕が残っていると知ったのはつい最近のことでした。これはとても貴重な戦争史跡、素晴らしい戦跡です。

※現在はロープが張ってあり、壕の中に入ることはできません

北千住界隈の戦跡は以下でまとめました。


千住神社 御神木
「夫婦銀杏」
千住神社を始め千住宮元町の建物が戦災で焼失したなかで、焼け残った御神木。

千住神社
掲揚台座「八紘一宇」
神武天皇故事
 掩八紘而為宇事(八紘を掩いて宇と為さん事)…
紀元二千六百年記念(昭和15年11月建立)

八紘一宇に関しては以下も。


千住神社
日露戦役紀念碑(乃木希典書)
明治39年3月建立

二つに割れた痕跡が痛々しい・・・ 割れた後に、なんとか修復されたようですが。

千住神社・鳥居
慶応2年(1866)の石鳥居及び大正15年(1926)の石鳥居

千住神社・富士塚
大正12年(1923)浅間神社を勧請し富士塚を建立
これらも昭和20年の空襲戦災を逃れた建造物。


成願寺と防空壕跡

中野長者の寺 多宝山成願寺(曹洞宗)

http://www.nakanojouganji.jp 

中野区本町鎮座

こちらの寺院に残る戦時中の防空壕(但し崩落防止の為に鉄筋にて補修済)の見学をさせていただきました。
普段は施錠してあり許可を得て、成願寺僧侶立ち合いのもとでの見学となります。

防空壕を見学希望の際は、事前の電話予約が必要です。
電話:03(3372)2711 成願寺寺務所まで

http://www.nakanojouganji.jp/boukuugou.htm

防空壕の長さは約30メートル。総面積は約80平方メートル。崩落の危険があった為、2000(平成12)年に鉄筋での補強工事を行っている。
壕の真ん中には6畳間ほどの小部屋がある。かつては多くの部屋があり、本堂や風呂・雪隠(トイレ)も備えた本格的な設備だったという。

本堂の裏山を貫くように通路が設けられており入口は2カ所。本堂の隣の入口から見学。
防空壕は崩落の危険があったため鉄筋にて補修。鉄筋の合間合間に隙間がある。これは仏像を置くつもりでスペースを予定していたが赤土が脆いために現在は木の皮で塞いでいる、とのこと。

昭和20年(1945)5月25日、東京大空襲(山の手空襲)をはじめ幾多の空襲に際して、多くの人々を救った防空壕は歴史の生き証人として今に残っている。
空襲で堂宇、仏像は全焼する中で、辛うじて御本尊様と御開山様と古文書や掛け軸・過去帳などの一部が防空壕で護られた…と。

写真は防空壕の入口(本堂側)と裏山の頂上から。
現在、お寺には附属幼稚園があり今でも万が一の際は園児100人が過ごせるように水と食料(乾パン)が備蓄されているという。 時代を超えた空間…

快く防空壕をご案内してくださいました成願寺僧侶の方に感謝。防空壕に関する資料や御由緒書もありがとうございました。

成願寺住職 小林貢人さんの中学1年生向け防空壕や空襲に関する解説など

http://www.nakanojouganji.jp/backno/chugaku1.htm

中野区平和史跡案内

https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/101500/d005246.html


成願寺 (中野区)

開基である鈴木九郎は紀州出身の馬商人であったという。商売が成功し財を成し「中野長者」と。鈴木九郎には小笹という一人娘がいたが18歳で病死。娘を失った事を機に仏門に帰依。小田原大雄山最乗寺の春屋宗能の教えを受け1438年(永享10)に邸宅を寺院としたことが成願寺のはじまり。

もともと鈴木家は紀州藤代の熊野社の神官の一族であったが源義経に従い流転。
九郎は、当地を開拓にあたるとともに自身の産土神である熊野社を祀る。
明治時代の神仏分離令により成願寺より十二社熊野神社が分離。これが現在の新宿十二社熊野神社。
写真は成願寺境内 中野長者鈴木九郎ものがたり

史跡 中野長者遺跡
鈴木九郎長者塚

境内墓地には「蓮池鍋島家の墓地」(蓮池鍋島家。蓮池藩は佐賀藩の支藩)がある。
鍋島家は、寛永16年(1639)に佐賀藩主鍋島勝茂の四男直澄が、蓮池に分封されたのを始祖とし、五万二千六百石を領していた。
中野の寺院で大名家の墓所があるのはここだけという。

達磨絵
縦5メートル、横11メートルの大看板 莫妄想 (まくもうぞう 禅語)

新宿十二社熊野神社

http://12so-kumanojinja.jp 

折角なので新宿熊野さんにも。 成願寺を建立した鈴木九郎が自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祀ったことにはじまる。その後鈴木家は家運が上昇し中野長者と呼ばれ、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祠る。
明治に神仏分離。

今回、防空壕をご案内してくれました成願寺の僧侶さんが、
「多忙な時以外は防空壕の見学は可能ですので御遠慮なく…」 とのことでしたので、時代を超えて今に残る防空壕に御興味がございましたら、是非に成願寺さんに。
改めて、ありがとうございました! http://www.nakanojouganji.jp/boukuugou.htm 

世田谷に眠る海軍軍人(永野修身・小澤治三郎・堀悌吉)

平成30年5月撮影

世田谷の寺院に眠る海軍軍人の墓詣でをしていることに気がついたので、以下に記録しておきたいと思います。

  • 浄真寺 永野修身 元帥海軍大将
  • 豪徳寺 堀悌吉 海軍中将
  • 大吉寺 小澤治三郎 海軍中将

永野修身 墓

浄真寺・永野家之墓

永野修身 元帥海軍大将

海兵28期次席。
連合艦隊司令長官・海軍大臣・軍令部総長の海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。
昭和22年1月5日、A級戦犯容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。享年66。 墓は浄真寺と高知筆山墓地。昭和53年に法務死として靖國神社に合祀。

九品仏浄真寺

東京都世田谷区奥沢
浄土宗
もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城の地。 小田原征伐後に同城は廃城。 延宝6年(1678)同地に浄真寺が開山。 3つの阿弥陀堂に九品の仏(九体阿弥陀・九品往生・九品仏)が安置されている。


堀悌吉 墓

豪徳寺・堀家之墓

堀悌吉 海軍中将

海兵32期主席。山本五十六の同期。
昭和5年ロンドン海軍軍縮会議で調印に尽力(条約派)。条約反対派(艦隊派)による大角人事で予備役。その後は日本飛行機や浦賀船渠の社長などを歴任。
昭和34年5月12日死去、享年76。(碑は77)
墓所は豪徳寺と郷里大分杵築。

豪徳寺

東京都世田谷区豪徳寺
曹洞宗 一説には招き猫発祥の地ともされる。
中世の武蔵吉良氏が居館とした一帯。境内は小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったという。文明12年(1480)創建。
寛永10年(1633)彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍藍を創建し整備。


小澤治三郎 墓

大吉寺・小澤治三郎墓

小澤治三郎 海軍中将

海兵37期。同期は井上成美。
最後の連合艦隊司令長官。開戦時は南遣艦隊司令長官(英東洋艦隊と対峙) 次いで第三艦隊司令長官(マリアナ沖海戦/レイテ沖海戦)軍令部次長を歴任。
昭和41年11月9日病死。享年80。
墓所は世田谷大吉寺と郷里宮崎にある。

大吉寺

世田谷区世田谷 浄土宗 創建年代は不詳。世田谷吉良氏の祈願所であったという。 小田原北条氏と共に世田谷吉良氏も滅亡し寺勢は衰退。

四月十八日に山本五十六を偲ぶ

平成31年4月18日

山本五十六の墓を。 四月十八日は山本五十六の命日 。。。

【海軍甲事件】

1943年(昭和18年)4月18日。 前線視察中の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の搭乗機がブーゲンビル島上空にて米軍戦闘機に撃墜。 山本五十六が戦死した事件。


【山本五十六】

1943年(昭和18年)4月18日。 連合艦隊司令長官 山本五十六海軍大将戦死の日。 多磨霊園に埋葬。 墓字は山本五十六の国葬葬儀委員長を務めた米内光政による。

多磨霊園の山本五十六墓。写真は2015年2月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2015年2月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2015年2月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2017年12月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2017年12月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2017年12月撮影

昭和18年6月5日に行われた山本五十六元帥の国葬の列は「水交社本部ビル」から出発し「日比谷公園」で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政。 皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前唯一の例という。

山本五十六元師国葬 NHKアーカイブス https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060058_00000 …

現在の水交社本部ビルの地は 「東京メソニックビル」

余談ですが、水交社とは明治9年に海軍省の外郭団体として創設された日本海軍将校の親睦・研究団体。終戦とともに水交社は解散し水交社本部ビルはフリーメイソンによって占拠される。昭和56年に跡地に「東京メソニックビル」が建設され、一室には水交社時代の応接室が再現されているという…

山本五十六は郷里長岡にも分骨されています。

写真は長岡の生誕の地。復元された生家。


平成14年7月撮影。

平成11年8年に長岡市長興寺の墓前に詣でておりましたが、写真はどこかのHDDにいってしまいました。 添付写真は私の旧サイトから転載。(かなり荒い) 山本家の墓なので「山本帯刀」もこちらに眠る。

長岡の山本家の墓では長岡藩が朝敵であった事から養祖父「山本帯刀」の墓が非常に質素に作られている。山本五十六の墓は、その山本帯刀よりもさらに質素に造られた為、戦死した陸海軍将官中、最も粗末な墓とされている。(多磨霊園の墓はまた別として) ※訪問が昔過ぎて写真は無し…

霞ヶ浦空・予科練の地にも、山本五十六はゆかりがあります。

山本五十六は大佐時代に砲術から航空に転化し、霞ヶ浦海軍航空隊副長兼航空学校教頭に就任。この霞ヶ浦の地より海軍航空発展に深く関与するとなった


写真は土浦駐屯地内「雄翔館」前の山本五十六像。
平成28年4月撮影。

本棚から。

阿川弘之著「山本五十六」「山本元帥!阿川大尉が参りました」

戦後の日本人として、はじめて山本五十六搭乗機に接した阿川弘之氏。
(昭和41年にブーゲンビル訪島)

「山本五十六長官搭乗の一式陸上攻撃機にもし心あらば、今、二十三年七ヵ月ぶりに日本人に見(まみ)えたはずであった」
(山本元帥!阿川大尉が参りました-私のソロモン紀行-) 

元帥山本五十六海軍大将の伝記を残された阿川先生…阿川弘之海軍大尉による渾身の鎮魂紀行…
4月18日、節目の日に。

旧海軍の内火艇?

月島橋近くに桟橋状態で係留されている船がある。

どうもこの船が「旧帝国海軍の内火艇」と、まことしやかに伝承されている。真偽の程は不明であれど、ちょっと撮影してみました。

ネットに転がる噂話によると、月島橋の係留船は「比叡に搭載されていた内火艇」ともいわれている。


内火艇

内火艇」とは内燃機関を搭載したモーターボート。日本海軍の小型艇。
「艦首が反り上がらずに真っ直ぐ」になっていて、「甲板後方が下がっている」のが「内火艇」の特徴という。


旧海軍の内火艇?(月島橋)

見てみましょう。

後甲板に対するなだらかな勾配が内火艇の特徴という。

艦首は反り上がらずに真っ直ぐしているのも内火艇の特徴という。
確かに特徴通り。

※平成31年4月撮影


参考:長官艇(15メートル内火艇)

大和ミュージアムにて奇跡的に撮影していたので比較用に掲載しておきます。
(我ながら、よく撮っていたものです)

確かに艦首はまっすぐで、後甲板は低いです。
月島橋の船も同じ形してますね。似てます。