「靖國・護國・神社仏閣」カテゴリーアーカイブ

清水稲荷神社・鷹番国民学校奉安殿(目黒区)

目黒区に鎮座するお稲荷様は、なんとなく変わった御社殿。

戦前に「御真影( 天皇陛下と 皇后陛下のお写真)」と「教育勅語(勅語謄本)」を納めていた鉄筋コンクリートの建物=鷹番国民学校奉安殿が、戦後にこの清水稲荷神社の御社殿として再活用された、という。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

清水稲荷神社
(旧鷹番国民学校奉安殿)

清水稲荷神社
 目黒本町1-1

 この稲荷は明治30年(1897)頃から、東急バス駐車場のあたりにあったと言われ、その付近に真夏の旱天でも清水が湧き出していました。この湧き水外なりの社名の源となったと思われます。
 大正12年(1923)の大震災以後、このあたりにも多くの移住希望者があり、地主のさんたちはその要請に応えて、計画的な土地分譲を志摩市yた。土地分譲事業は、この稲荷様を基にし、土地の発展を祈念しました。そのため、京都伏見稲荷より御霊代を拝受し、社殿や鳥居も奉納されました。
 その後、昭和27年(1952)に篠原福太郎氏が39.7㎡(12坪余)の土地を寄進されましたので現在地へ移築されました。また、この年、太田喜八郎氏が鷹番小学校へ寄進したご真影奉安殿を、大へん苦労して移築し拝殿としました。
 この稲荷は、家内安全、商売繁盛、芸能上達などのご利益があるとともに、縁結びの神としても有名で、初午には甘酒が振る舞われ、盛んな祭りが行なわれます。
 平成5年3月
 目黒区教育委員会

鉄筋の分厚い扉。
壁面も赤く塗られているが、基はコンクリート。
奉安殿の特徴を感じることが出来る。

社殿の欄干や階段部分もすべて奉安殿時代からの流用という。

鳥居は大正13年建立。関東大震災の翌年。御由緒にある土地分譲の再開発時期と合致。


関連

赤羽台の戦跡散策

東京都北区赤羽台

軍都赤羽

赤羽台。
現在の赤羽八幡神社の裏手や星美学園、東京北医療センター界隈には2つの工兵大隊が駐留をしていた。
「第一師団工兵第一大隊」と「近衛工兵大隊」、2つの部隊を合わせて「赤羽工兵隊」と呼んだという。

そんな赤羽台と赤羽工兵隊ゆかりの史跡を探して散策をしてみたいと思う。

赤羽招魂社(赤羽八幡神社境内社)

位置関係

国土交通省国土地理院航空写真 ファイル:893-C1-191
1944年9月27日に陸軍撮影

上記を一部加工。クリックで拡大。


赤羽招魂社
 陸軍第一師団工兵第一大隊営内神社

赤羽駅から線路沿いに北上する。
ちょうど線路がYの字に分岐する狭間に鎮座するのが赤羽八幡神社。
その赤羽八幡神社の境内に鎮座しているのが「赤羽招魂社」。このお社は、陸軍第一師団工兵第一大隊の営内神社の流れをくんでいる工兵隊ゆかりの神社。

「営内神社」は、東京の赤羽神社を嚆矢とする。明治三十一年(1898)、東京赤羽工兵隊第一大隊構内に天照大神、歴代皇霊、天地地砥を祀った社祠を設け、将校以下兵士までに拝礼させることにした。これが軍隊内に神を祀った最初とされ、以後全国に広まったものという。(注65)
 (注65)『工兵第一大(連)隊史』赤羽招魂社奉賛会編刊、一九八四年。

営内神社と地域社会 本康宏史
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1654&file_id=22&file_no=1

社号標
正面 赤羽招魂社
右面 營内神社
左面 工兵第一大隊
裏面 明治三十一年四月鎮座

忠魂
工兵第一大隊は皇軍の創設と共に発祥し、明治廿年桜田門より赤羽台上に転営し後聯隊となり、昭和十一年留守部隊に後を託して北満孫呉に移駐。軈て大東亜戦争に際会して遠く南方に転進し、昭和廿年比島にて玉砕して諸兵悉く国難に殉す。この間凡そ六十年赤羽工兵の声価は広く、人口に膾炙し、特に地元に親愛せらる。即ち幾多の当隊編成部隊と共に累次の戦役、事変に出陣し、各地に勇戦奮斗毎に赫々たる偉勲を樹て燦然たる光彩を発揮し又内地に在りては、関東大震災を始め、数次の災害に出動し、警備援護の任を全うし、克く公衆の信倚に応えたり。この間護国の華と散りし、幾百先輩の英霊を祀る営内神社は明治三十一年以来敬仰団結の核心として鎮座し、終戦と共に八幡神社の神域に奉遷、更に赤羽町戦没英霊を合祀して赤羽招魂社と崇め、毎年桜花四月の交慰霊祭を奉仕して今日に至る。然るに兵営の跡既に変貌して旧記念碑亦散逸して往時を偲ぶ由なきを憂い、茲に生存戦友遺族及び地元有志相図りて本碑を社頭に建立し、以て聯隊の功績と先輩の偉勲を顕彰し、永く之を後世に伝えんとするもの也。
 昭和42年4月29日
 赤羽招魂社奉賛会長 大河原 鉄之助 謹書

戦歿英霊合祀
明治十年戦役    27柱
明治二十七八年戦役 52柱
明治三十七八年戦役 238柱
日独戦争      14柱
支那事変      427柱
大東亜戦争     戦没者英霊
赤羽町出身者    戦没者英霊 
公務殉職者     11柱

戦没者神霊
明治十年西南戦役    27柱
明治二七・八年日清戦争 52柱
明治三七・八年日露戦争 238柱
大正三年日独戦争    1柱
大正七年西伯利亜出兵  13柱
大正・昭和演習殉難者  9柱
満州事変・支那事変   465柱
大東亜戦争       5660柱
赤羽八幡神社氏子    92柱
           計6557柱   

戦後50年奉賛会記念事業として玉垣を造成奉納する
 赤羽招魂社奉賛会
   会長 年代 茂
      役員一同
平成9年4月29日
   関係部隊有志一同

工兵第一大隊動員編成野戦部隊
工兵第一大隊
工兵第一連隊
 (以下略

工兵第一大隊の営内神社であった当社は、戦後に赤羽八幡神社に遷座し、地元赤羽の戦没者も合祀し、赤羽招魂社となった。営内神社の歴史から連なる貴重なお社。戦没者の御霊に深く拝する。


赤羽八幡神社

東京都北区赤羽台に鎮座。旧赤羽村の総鎮守。
延暦3年(784)に、坂上田村麻呂が当地に陣を張り、八幡三柱を勧請したことにより創建。

赤羽台の当地の下、正確には赤羽八幡神社社務所の下を東北新幹線が通過している。

赤羽八幡神社の入り口近くに日露戦争の紀念碑が2つ鎮座していた。

日露戦役紀念碑
明治三十七年二月乃十日刀云布日尓天皇乃大詔以上露西亜国止戦乎開幾給比志興里軍人等諸波皇我大命平畏美上海行加波水清久屍山行加婆草生須骸刀御国乃為大君乃御為刀一向尓大和心平振比起之上海外陸尓進美戦比志功波弦久二年尓満多奴尓海陸乃戦波光輝介留終乎曽告介留敵後乃世乃人等乃紀念ホ湿久此郷乃人等乃此御軍尓加波里上忠心平蓋志々大伎功清伎名平萬世末上尓伝辺牟止上哀尓如名平彫刻牟尓南牟

東京帝國大學史科大學講師 佐々木信綱識  弟子朝日重光謹書

 明治39年 赤羽兵事義会々員建立

日露戦役紀念碑
後備陸軍歩兵軍曹沼野佐吉君以明治三十七年六月十四日召集干第一師団司令部命第二兵姑司令部附仝二十日出発東京七月十一日上陸清国盛京省南尖入第四軍戦斗序列爾来或参加千戦斗或従事千兵姑開設十月十日任陸軍歩兵曹長、三十八年十二月十日任陸軍歩兵特務曹長命第四師団第二補助輪卒隊附翌三十九年二月二十六日凱旋第四師団之本営二月三日召集解除為
豫備陸軍砲兵伍長丸峰萬五郎君以明治廿七年二月八日召集干近衛野砲兵聯隊第五中隊二月十一日発東京向戦地二月丗日初鳴緑江九里島之戦而爾来転戦干各處六月一日任陸軍砲兵軍曹七月二十一日苦戦於様子嶺八月廿一日砲撃孟家房之際―戦傷送還千本国既而癒命臨時軍用鉄道監部附復赴清匡廿九年二月廿匹日凱掟於東京召集隼除為

赤羽八幡神社にも拝礼。

高台の神社は鉄道スポットでも有名。

むかし、御朱印と御朱印帳を頂いておりました。
「下元八運」の「8」が、関ジャニ∞ファンにも好評だとか。

御朱印は平成27年ですね。
実はこのころは、ここが陸軍工兵隊ゆかりの神社とは全く知らず、でした。
3年後ぐらいに戦跡としての赤羽八幡神社を知って、そして再訪したというわけです。興味の方向性がどこにあるかで感じることは全く違いますね。

高架線路に挟まれた赤羽八幡神社。


師団坂

赤羽八幡の脇の坂道、赤羽台に登っていく坂を「師団坂」という。文字通り、この坂を登っていくと、坂の上には「近衛師団」と「第一師団」に所属した「二つの師団の工兵大隊」が展開されていた。

師団坂
 この坂は、旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した二つの工兵大隊に向かう坂道でした。明治二十年(一八八七)八月から九月にかけてこれらの工兵大隊が現在の丸の内一丁目から赤羽台四丁目内に移ってきたので、坂はつくられました。
 この坂は「工兵坂」とも呼ばれ、休日などの際は軍人や面会者の往来で賑わいました。当時の工兵隊の兵営は、『赤羽の兵隊屋敷』と呼ばれ、工兵隊による浮間橋の架橋や花見時の兵営開放などにより、付近の住民にも親しまれていました。
 現在、兵営の間にあった練兵場は住宅地となり、第一師団工兵大隊兵営跡は学校法人星美学園の敷地となっています。


師団坂通りバス停と星美学園
(陸軍第一師団工兵第一大隊兵営跡)

師団坂を登りきったところに「師団坂通りバス停」があり、そこには「星美学園」がある。
この星美学園の場所に、当時は「陸軍第一師団工兵第一大隊」の兵営があった。

師団坂通り
(共用練兵場跡)

星美学園と東京北医療センターの間の住宅地は、両工兵隊共用で使用していた練兵場であった。突き当りが近衛工兵大隊(現在の東京北医療センター)


東京北医療センター
(近衛工兵大隊兵営跡)

現在の東京北医療センターはかつては近衛工兵大隊の地であった。

近衛工兵大隊ゆかりの石碑群

東京北医療センターと赤羽台さくら並木公園との境目あたりに、木々に埋もれるようにして、4つの石碑が集められていた。

(表面)
御幸松
(裏面)
大正4年乙卯夏6月18日
近衛工兵大隊長陸軍工兵大佐佐藤正武謹識

(表面)
白楊坐記
 (漢文略)
大正9年4月7日
(裏面)
近衛工兵大隊第三中隊大正6年兵
満期除隊者植白楊樹三百株
并36名各刻碑面文字

(表面)
澄宮
御手植松
(裏面)
昭和2年5月2日
近衛工兵大隊長?原允長謹識

澄宮とは 三笠宮崇仁親王のこと。

(表面)
皇太子殿下
御手植松
(裏面)
大正4年5月18日
近衛工兵大隊長陸軍工兵大佐佐藤正武建之
 陸軍工兵二等卒重田昌司謹刻

ここでいう皇太子殿下とは、のちの 昭和天皇

近衛工兵大隊時代の石碑がこの一箇所にあつめられていた。それぞれ御手植碑だったり植樹碑だったりするが、その肝心の木々はどこにあるのだろうか。


陸軍境界石(陸軍境界標石)

東京北医療センターの東南、赤羽台さくら並木公園の北東
ごみ集積場の陰に隠れるように石柱が残っていた。
近衛工兵大隊の境界石。

陸軍用地


赤羽台さくら並木公園
 (射撃訓練場跡)

この細長い公園は当時は射撃場であったという。

防空壕跡

当時は射撃場があった赤羽台さくら並木公園の中に、ひっそりと残されていた防空壕。


浮間橋

北赤羽駅ちかくの浮間橋まで移動。

新河岸川にかかる浮間橋の脇に、近衛工兵大隊にちなむ石碑が残されている。

当時の浮間地域は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得ない場所でした。
そこで浮間地域の人々が、建設費用として6,000円を用意し橋の建設を「近衛工兵大隊(近衛師団工兵隊)」に相談。そうして昭和3年(1928)5月に木造の橋が完成したことを記録する石碑。
当時の6,000円は1000万円ぐらいか。

浮間橋の碑
北区浮間1-1(左岸)
 荒川は江戸時代より洪水が多く、「荒れ狂う」川として知られていました。明治43年(1910)8月の大洪水をきっかけに大規模な河川改修事業に着手します。
 改修では、洪水時の4分の3の水量を流すことができる新しい川(荒川放水路)を開削する方式がとられ、元の荒川の流水量を調節するために岩淵水門が建設されました。
 しかしその結果、浮間は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得なくなりました。そこで浮間地域の人々が、現在の赤羽台4丁目にある東京北社会保険病院付近に駐屯していた近衛師団工兵隊へ計6千円を拠金して架橋を依頼し、昭和3年(1928)5月に幅2間、長さ65間半の木造の橋が完成しました。その記念に建てられたのが大きな碑(旧浮間橋建設記念碑)です。
 橋は昭和9年(1934)に幅8メートルの鋼板鋼桁橋になり、昭和15年(1940)には鉄橋に架け替えられました。しかしその橋もJR(旧国鉄)の東北・上越新幹線の建設計画に伴い再び架け替えられることになったため、旧浮間橋建設記念碑建立に関与した人々の子孫を中心に、記念碑の移設及び顕彰保存を目的とした浮間橋記念碑保存会が設立されました。碑は昭和60年(1985)9月に現在の浮間橋脇に移設され、記念に小さな碑が建てられました。
 地元の人達によって建てられた大小二つの碑は、地域と浮間橋の関わりを永く後世に伝えています。
 平成8年3月(平成17年一部改訂)  
  東京北区教育委員会

旧浮間橋建設記念碑

浮間橋
郊外浮間里有名櫻草鮮
北方隔水路對横曾根邊
西南挟清流望志村翠煙
曩離北足立新併合岩淵
此地如孤島交通常乗船
憂慮萬一事頻希架橋便
里民咸應分醵出金六干
本町請軍衙以實情開陳
近衛工兵来施工盡力研
今日橋梁成如長蛇横川

昭和三年四月二十六日
建於岩淵町大字浮間
小柳通義撰文併書

旧浮間橋建設記念碑が国鉄建設工事に伴い、移設されることになり
国鉄当局と地元代表との話し合いの結果、新幹線工事完了の暁、新浮間
橋際に建設されることになった。
今般旧浮間橋建設記念碑移設工事が完了したことを記念した碑を立てる。
 昭和60年9月 浮間橋記念碑保存会

当時の浮間地域の人々の架橋の思いと近衛工兵隊への感謝が込められた石碑は橋は変われど、今も浮間橋の脇で大切にされておりました。

赤羽から北赤羽へ工兵隊を廻る散策から、ちょっと南の方に足を伸ばしてみます。


陸軍火薬庫の陸軍境界石

東京都北区桐ケ丘。都営桐ケ丘アパート界隈。
「近衛工兵隊」の南、前述の位置関係では「作業場」の南西に「陸軍火薬庫」があった。
その陸軍火薬庫のあった場所に残る「陸軍」と銘のある境界石は電信柱の後ろに隠れるように残っていた。


師団坂・軍用鉄道のあったエリアの南側

陸軍被服本廠の陸軍境界石 

陸軍被服本廠は大正8年(1919)に本所から赤羽台に移転してきた。本所の跡地は関東大震災で大惨事となりのちに東京都慰霊堂が建立された。
赤羽台の陸軍被服本廠は、戦後は米軍東京兵器補給廠所属地となり米軍住宅赤羽ハイツが建設。変換後は赤羽台団地が造成。また小中学校も建設された。そのときに建設された赤羽台中学校も廃校となり、跡地には「東洋大学赤羽台キャンパス」が開設。東洋大学赤羽台キャンパス北側の墓地ちかくに「陸軍用地の境界石」が残されていた。

東京大空襲・慰霊

陸軍兵器補給廠線跡(軍用線路跡)

再び赤羽八幡神社に。
この赤羽八幡神社の参道からナショナルトレーニングセンターまで、かつて軍用鉄道が走っていた。

北区赤羽緑道公園
(陸軍兵器補給廠線跡)

巨大な構造物。なんとなく鉄道があったことをイメージさせる。

遊歩道は線路をイメージ

鉄橋ぽいのも。

赤羽緑道公園から赤羽自然観察公園を抜け、住宅地の先に、赤羽リハビリテーション。その先には国立西が丘サッカー場。

味の素フィールド西が丘(国立西が丘サッカー場)や味の素ナショナルトレーニングセンターのある界隈が、かつての「陸軍兵器補給廠」

このさきには、「東京陸軍兵器補給廠」があり「陸軍稲付射場」もある。そして、「東京第一陸軍造兵廠」「東京第二陸軍造兵廠」という大きな見どころがあるが、それはまた別の記事にて。

関連

館山の海軍戦跡散策・その1

平成28年4月

・館山海軍航空隊跡
  赤山地下壕
  掩体壕
  水上班滑走台跡(米軍上陸の地)
・第二海軍航空廠館山補給工場跡
・安房神社
  館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生戦没者慰霊碑
  海軍落下傘部隊慰霊碑
・館山海軍砲術学校跡
  正門跡・戦車橋
  平和祈念塔
  炊事場跡(ボイラー室跡)
  飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
  化学兵器実験施設跡
  ヤシの木
・震洋滑走台跡

令和元年房総半島台風(令和元年台風第15号)被災前の記録です

その2は、海自で。

この日(平成28年4月某日)は、突然ではあれど友人と館山へ。
友人車の機動力を活かして、館山に点在する海軍戦跡と神社をいくつか散策。


館山海軍航空隊(館空)

昭和5年(1930)に館山海軍航空隊(館空)開隊。海軍航空隊としては5番目。
横須賀海軍航空隊(横空)の実戦部隊が館山に移動することで「横空」は研究航空隊に特化。
昭和11年に木更津海軍航空隊(木空)が開隊すると、「木空」が外戦作戦任務を担当し、「館空」は内戦作戦部隊となる。
開戦後の1944年(昭和19年)に、東日本の哨戒航空隊を統合した「第九〇三海軍航空隊」が館山を中心に展開され、対潜哨戒機が配備され広大な哨戒区域をカバーする事となる。

洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-25」米軍撮影-1947年10月23日

USA-M583-25を一部加工。クリックして拡大。

上記地図のオレンジ色の箇所を散策。紫色の箇所は次回の宿題。未訪問個所。


赤山地下壕

まずは「赤山地下壕跡」へ。
館山市内の戦跡として一番有名な場所から。

https://www.city.tateyama.chiba.jp/syougaigaku/page001892.html

館山市指定史跡 館山海軍航空隊 
赤山地下壕跡
平成17年1月27日指定
 1930(昭和5)年、海軍5番目の実戦航空部隊として、館山海軍航空隊がつくられました。それから、1945(昭和20)年の終戦までの間、館山市香(こうやつ)から沼(ぬま)にかけての一帯には、航空機の修理部品の補給などをおこなった第2海軍航空廠館山補給工場、食料・衣服・燃料などを補給した横須賀軍需部館山支庫関係の施設や、1943(昭和18)年に兵器整備の練習航空隊として開かれた洲ノ崎海軍航空隊など、さまざまな軍事施設がつくられました。
 東京湾の入り口にあることから、館山市には、海軍の施設だけではなく陸軍の砲台や、教育機関(洲ノ崎海軍航空隊、館山海軍砲術学校)など、いろいろな種類の戦争遺跡が残されています。
 このような場所は、わが国のなかでも例が少ないといわれていますが、この赤山地下壕は、合計した長さが約1.6㎞と全国的にみても大きな地下壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
 つくられた時期は、はっきりしていませんが、このような大きな地下壕が、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前につくられた例はないといわれています。
 その一方で、昭和10年代のはじめに建設が始まったという証言もありますが、当時の軍部が本格的に防空壕をつくり始めたのは、1942(昭和17)年より後であるという歴史的な事実があります。
 全国各地につくられた大規模な地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10~20m以上(長野市松代大本営の象山壕は25mであるとされていますが、この赤山地下壕は5~10mと狭い上、計画的に掘られたとは考えにくい、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後にけんせつされたのではないかと考えられています。
 アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは内部にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行ったという体験や、病院の施設があったなどの証言から、知ることができます。
 平成15年 館山市・館山市教育委員会

赤山地下壕跡。
豊津ホールの受付で200円を納めて住所氏名を記載。
そしたらヘルメットと懐中電灯をお借りして地下壕に入ることができます。

今ではストリートビューもできるの便利になったものです。

https://www.google.com/maps/@34.9817322,139.841558,3a,75y,248.85h,83.7t/data=!3m4!1e1!3m2!1s4cv31GKv7mIAAAQo8FbG5A!2e0

自力発電所跡
 この一角は、壁面がコンクリートで補強され、コンクリートの土台や、床面の鉄筋が残っています。発電所があったところで、昭和20年2月に、航空隊の正門前の変電所から移転して使用されていたということです。4気筒200馬力のディーゼルエンジンが2台、発電機が2台、変圧器が9個あったそうです。

このクボミは?その1
 変電所電気員の待機所です。右側の浅いクボミには2段式のベットがあったそうで、10人くらいが交代勤務していたとか。空襲で爆弾の振動があると、天井の土がサラサラと落ちてきたそうです。
 壕内には科(職種)ごとの居住区があったらしく、木の棚のベットがあったそうです。

このクボミは?その2
 この縦長のクボミには、電話番が腰掛けて勤務をしていたそうで、中段左右の突起にコードを巻いていたということです。左隣の窪みはトイレで、桶がおいてあったそうです。

この壕はどうのように使われたのだろう
 防衛庁防衛研究所に「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」という図面があります。太平洋戦争末期につくられたこの図面をみると、赤山地下壕跡の位置には、「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所」と記されています。天井が高い壕は、格納庫として使われたのかもしれません。

戦後の赤山地下壕跡
 終戦後は「忘れられた存在」になっていましたが、温度が年中一定していることから、昭和30年前後頃より、キノコ栽培に使われていました。国内の他の戦争遺跡にも、戦後しばらくキノコ栽培に使われた地下壕跡があります。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどは、そのときに設置されたものです。

このクボミは?その3
 この部屋はがんルームとよばれていたという証言があります。少尉クラスの士官たちの部屋だったようです。奥の四角く切った大きなクボミは御真影を安置した奉安殿で、桧の板張りだったそうです。空襲のときに航空隊から御真影を移したということで、少尉クラスの士官の役割でした。

とにかく地層が美しい。
自然の芸術としても、よりいっそうの見応えがある。 現実には戦跡であるが。

安全に見学でき、そして良く整備されていた空間。
戦跡として歴史伝聞物として、このインパクトは極めて貴重。

海軍の街館山の最初の歴史散策として、この地下壕はうってつけの場でした。


掩体壕

赤山地下壕からはすぐ隣に。

サイズは小ぶり。戦闘機用かと。 掩体壕のすぐ隣は畑。日常との同居。 内部が解放され、自由に中に入れる掩体壕は貴重な存在だったり。


第二海軍航空廠館山補給工場跡

海自館山基地の隣にのこる大きな建物。
現在は民間企業が使用している。


米軍上陸の地


昭和20年9月2日降伏文書調印。 翌9月3日午前9時20分、米陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊戦闘団約3,500人(司令官カニンガム准将)が館山上陸。 この館山が米軍による本土初上陸の地なのだ。

米軍上陸の地
1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリの降伏文書調印式によって第二次大戦が終わった。翌3日、カニンガム准将の率いる米陸軍第8軍約3500名が館山海軍航空隊水上半滑走台から上陸した。東京湾の入口である軍都館山は、このとき本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。


館山海軍航空隊水上班滑走台跡

館山海軍航空隊水上班滑走台跡。
この場所にて水上機が運用されていた、と。
水上機用スロープ(スリップ)が残っている。

9月3日に館山に上陸した米軍司令官カニンガム准将は「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」指令を発出。外務省が抗議し4日後の9月7日に軍政解除。 これが日本本土唯一の直接軍政となっている。

米軍上陸の地であり館空水上班滑走台跡でもある界隈から、第二海軍航空廠館山補給工場跡を遠望。 降伏文書調印翌日の9月4日。 館山から日本の戦後が始まっていたのを知るのも感慨深い。

スリップ関連では、ほかに・・・


館山の沖ノ島

館山の沖ノ島。沖ノ島公園。
海自館山航空基地の先、なかなか面白いところにある島。 関東大震災で隆起して陸続きになったらしい。

こんな感じで陸続き。 夏場はリア充空間になりそうですねw

島の入り口脇にいきなりなんかありました。
なんかの建物の基礎ですね。
海軍関係かな? 島内には地下壕なども点在しているらしいですが時間の都合で散策割愛。 せっかくなので島の鎮守様を参拝する。

館山の沖ノ島宇賀明神

安房国司源親元が嘉保3年(1096年)勧請の古社。 宇賀は「なが」に通じ「白い蛇」とも。 館山沖ノ島の鎮守様。

ご神木はタブノキ。 島内一の巨木。

館山沖ノ島宇賀明神神社。 社頭から対岸を望む。海上自衛隊 館山航空基地方面。
島を巡るのはまたの機会にして次に。


安房神社

安房神社。
安房国一ノ宮・延喜式内明神大社・旧官幣大社。
社号標は東郷平八郎謹書。
私にとっては平成14年以来の参拝。
新緑が鮮やかな境内に心が踊りつつの参拝。

本社(上の宮) 天太玉命 天比理刀咩命(天太玉命の后)
摂社(下の宮) 天富命(天太玉命の御孫) 天忍日命(天太玉命の御弟)

天富命が神武天皇勅命によって阿波の忌部氏を率いて東国安房・上下総国に渡った事に始まる。

安房国開拓の祖神。 創建年代は神武天皇の頃まで遡る古社。
安房国開拓を進めた天富命は、祖神であり祖父である天太玉命(天太玉命は天照大神の側近)をこの地に祀ったことに始まる。

延喜式神明帳「安房坐社」名神大社。
千葉県内では「香取神宮」に次ぐ神階。

社頭には「日露戦役記念碑」

新緑が鮮やかな境内。
境内が気持ち良すぎて満足してしまい、なんか色々写真を撮るのを忘れてしまったような。

安房神社オリジナル御朱印帳。
黒をベースに御神紋と社号。シンプルなデザインは好みを分けるかも知れませんが、私は好きですね。格好良いと思います。 初穂料は1500円。御朱印代は別。

御神水。 安房神社後方に鎮座する、吾谷山の霊水。

洞窟遺跡とあったので、戦跡か?と早とちりするも、古代遺跡。
安房神社界隈での原始的な人々の営みの記録。 古社たるべき格がここにあった。

安房神社境内には幾つか横穴がある。
ただし、これが信仰的な穴なのか、戦跡的な壕なのかは不詳。

安房神社界隈には布良陣地群が展開されていたという。
周辺も興味深いが、それは宿題。


館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生
戦没者慰霊碑

安房神社境内に。
館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
 ※ 館山海軍砲術学校(館砲)に関しては、後述。

昭和45年10月10日建立。
慰霊碑には館山海軍砲術学校の第三期兵科予備学生229名の戦没者の名が記載。

館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
碑文
過ぐる大戦のさ中 当地神戸村地先にあった館山海軍砲術学校へ入校し教育訓練を受けた第三期兵科予備学生は1440名に及び 彼等は全て全国官公私立の大学高専等より志願によって馳せ参じ 選抜されて入校した学徒である
昭和18年10月8日入校式が行われ海軍予備学生を拝命 直ちに日夜の猛訓練が開始された 翌昭和19年1月末基礎教程を終了 一部は他の術科学校へ転属したが大部は2月1日術科教程に入る 術科では陸戦、対空、化兵の各班に分科し それぞれ第一線指揮官としての徹底的専門教育を受けた
同年5月31日術科教程を修了 卒業式が行われ 即日海軍少尉に任官した 戦雲正に急を告げるの秋 太平洋全域から印度洋に亘る前線へ あるいは諸艦艇等へ赴任し 熾烈な戦列に身を投じた
既にこの年の4月緊急な要請で卒業を繰り上げられて先発して行った同期を含めて任官総数は 陸戦班385名 対空班772名 化兵班50名で 総員1207名である
しかして戦勢は日を追って凄絶となり 勇戦奮闘した同期戦友も相次いで倒れて行った あるいは北海に あるいは南冥の果てに ときに戦争と平和を想い ときに戦局の前途を憂えながら 祖国にその青春の総てをかけたのである かくして尊き英霊となった者は実に228名に及ぶのである
われらはこのことを永久に忘れることはできない ここに栄光有る我等同期生一同の冥福を祈念し 永遠の芳名を刻印して 由緒あるこの神社に一碑を建立するものである
 昭和45年10月10日
 館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 慰霊碑建設委員長 高橋末吉 誌

同期戦没者二二九名に捧ぐ

参道のソメイヨシノ。
安房神社の染井吉野229本は、この慰霊碑建設の際に229名の戦没者に因んで植えられたものという。


海軍落下傘部隊慰霊碑

海軍落下傘部隊慰霊碑
内閣総理大臣田中角栄揮毫

館山は海軍落下傘部隊発祥の地でもある。

正面には、 翼をひろげた鷲と落下傘、そして地球と錨の彫刻。

海軍落下傘部隊慰霊碑
碑誌
太平洋戦争を告ぐる昭和十六年後期我が国最初の海軍落下傘部隊として誕生し、 十八才より四十五才までの精鋭なる将兵二千有余名により編成、任務の特質上、其の訓練は厳正なる軍規の基猛烈にして不撓不屈の落下傘部隊魂は茲に編成された。
第一特別陸戦隊は昭和十七年一月十一日・十二日 セレベス島メナドランゴワン飛行場に十字砲火を浴び戦闘降下を敢行 更に第三特別陸戦隊は、同年二月二十日・二十一日 チモール島クーパンに戦闘降下を敢行共に占領に成功
其の功績の顕著なる事に対し時の連合艦隊司令長官山本五十六大将より感状を授与せらる。 爾後大スンダ、小スンダ列島の島々を制圧、次期作戦準備の為、一旦内地に帰還し、戦争の末期再度灼熱の南洋サイパン、トラック、ナウルの諸島に作戦し、
特にサイパンの戦いは惨烈を極め善戦の甲斐もなく昭和十九年七月十六日全員玉砕す。 我等茲に往事を顧み戦友相謀り志を結集し今は亡き戦友の霊を慰め其の功績を永く讃えんものと当隊発祥の地、ここ舘山に慰霊碑を建立した。
 昭和四十八年十一月十日
 元海軍落下傘部隊隊員一同建立

昭和48年に元海軍落下傘部隊一同によって建てられた慰霊碑。
右に横須賀鎮守府 第一特別陸戦隊43名、
左に横須賀鎮守府 第三特別陸戦隊46名、の戦没者名が記されている。

横一特・横三特(海軍陸戦隊)として、その勇名を歴史に残している。
合掌。

空の神兵

 藍より蒼き 大空に大空に
 忽ち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く
心のなかで奉歌し慰霊する…


館山海軍砲術学校

館山海軍砲術学校跡。
安房神社からはすぐ北隣に展開されていました。

館山海軍砲術学校。
昭和16年(1941)に館山砲術学校(館砲)が新設。
館砲では陸戦隊の操練術や高角砲対空砲の操作術・化学戦術など。一方、従来の横須賀砲術学校(横砲)では、艦載兵装の操作術を担当。
昭和20年4月25日に横須賀砲術学校分校に格下げ。終戦直前の同年7月31日には閉鎖。これは米軍上陸地点想定地近くでの教育訓練は適切ではないため、という。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-14」米軍撮影1947年10月23日

「USA-M583-14」一部加工。画像はクリックで拡大可。

館山海軍砲術学校跡
 第二次世界大戦以前は海戦における主な攻撃力は大砲であると考えられ、明治時代以来、旧海軍の砲術教育は神奈川県横須賀で行われていました。
 昭和16(1941)年6月1日、陸上砲術の実地訓練を目的とした館山海軍砲術学校 (館砲)が新設されると、それまでの海軍砲術学校は横須賀海軍砲術学校(横砲)と名称をあらためました。
 「館砲」の特色は、士官候補であった大学出身の海軍予備学生が訓練を受けていたことです。陸戦、対空、化兵(3期以降)の3班にわかれ、陸戦班では、敵前上陸や対戦車戦闘などの訓練が、対空班では、高角砲などの射撃訓練が、化兵班では、毒ガス戦の訓練が行われていました。
 「館砲」で訓練を受けた学生は、海軍予備学生の1期から6期に及び、開校直後は軍医学生が海軍士官としての素養を学ぶ基礎教育の場でもありました。
 昭和19(1944)年10月に入隊した5期予備学生等の約4000名は5ヶ月間の基礎教育を受けたあと、それぞれが術科(各職種)学校に進み、館砲には655名が入校したとされています。
 訓練施設としては広大な平砂浦演習場、東砲台・西砲台の対空訓練砲台、犬石射撃場、飛行特技訓練プールなどがありました。
 昭和20(1945)年4月25日に、館砲は横砲の分校となり、終戦を目前にした同年7月31日には閉鎖されました。その理由はアメリカ軍の本土上陸か想定されていたなか、太平洋岸の平砂浦で教育訓練を行うことが適当ではなくなったためといわれています。  
 平成18年3月 館山市・館山市教育委員会

館山海軍砲術学校と訓練に向う予備学生隊
 真継不二夫氏撮影

 昭和18年10月、この館山海軍砲術学校へ入学した海軍第三期予備学生は1,440名であった。
 かれらは全て全国の官公私立の大学、高等専門学校より馳せ参じ、選抜されて入隊した学徒である。
 昭和18年10月 8日入校式が行われ海軍第三期兵科予備学生を拝命、直ちに日夜の猛訓練が開始された。
 翌昭和19年1月末基礎教程を修了、引続き術科教程に入り、陸戦、対空、化兵の各班に分科し、夫々第一戦指揮官としての専門教育を受けた。同三月末、あるいは五月末術科教程を修了。卒業式が行われ、即日海軍少尉に任官し、戦雲まさに急を告げる太平洋全域からインド洋に亘る前線に赴任し、激烈なる戦列に身を投じたのである。この隊列(写真)の中にも多数の戦没者がいる。
戦没者はフィリピン(比島)、硫黄島を第一として各地域の部隊および艦船(大和9、武蔵6、山城6、長門5、扶桑3、那智3、大鷹・大鳳・熊野・羽黒・葛城各1)における戦没者は次ぎの通りである。
グアム4名、テニアン5名、パラオ1名、
比島方面92名、インド洋方面6名、ビルマ4名、
ビアク2名、ボルネオ10名、セレベス2名、
ラボール3名、南漢島2名、マレー方面1名、
スマトラ1名、舟山島1名、東支那海3名、
モルッカ諸島1名、マリアナ群島1名、黄海3名、
内南洋2名、アンボン1名、ニューギニア1名、
ペリリュー島5名、サイパン方面11名、硫黄島18名、
東シナ海方面13名、台湾方面8名、
沖縄方面8名、南西諸島方面10名、千島2名、内地近辺8名
合計229名。この外基礎教程後他術科へ転出後戦死者若干名、法務死若干名。
 ここに館砲校全景を伝える希少な写真を展示し、「鬼の館砲」といわれた猛訓練を受け、勇敢敢闘の末倒れた万余といわれる将兵・同期生たちの護国の想念を偲び、深き感謝と鎮魂の想いを捧げる次第である。終
 平成年5月27日(1999年海軍記念日)
 館砲3期会有志(以下個人名略)

館山海軍砲術学校正門跡には往時を偲ぶ記念板がある。
「鬼の館砲」と称された海軍陸戦隊の教育機関。


館山海軍砲術学校
正門跡・戦車橋

正門跡の通りにかかる橋は「戦車橋」と言われている。戦車橋脇の側溝も往時のままのもの。 砲術学校ゆえに「戦車橋」。正門の道はさながら「戦車道」。


館山海軍砲術学校
平和祈念塔

館山海軍砲術学校平和祈念塔。
戦車橋からまっすぐ進んでいくと右手に砲身のようなものが見えてくる。 砲身のような塔。

館山海軍砲術学校跡

舘山海軍砲術学校の沿革
 舘山海軍砲術学校(「舘砲」)は大東亜戦争の開戦直前、風雲急を告げる秋に当たり、阿部孝壮初代校長(後に、第六特別根拠地隊司令官。戦後敗軍の将としての責めに任じ、グァムで慫慂として法務死)を載して、昭和十六年六月一日、当地(千葉県粗郡神戸村、現在は、舘山市佐野地区)に開設された。
  学校用地は、帝国海軍当局の現地調査による当地が最適との報告に基づき決定された。用地問題は安田義達開設委員(初代教頭。後年、横須賀第五特別陸戦隊指令としてブナで壮烈な戦死)の熱誠溢れる説得と、耕地及び山林原野の大半を失うという苦難を克服して、なお誠心誠意の協力を惜しまなかった出口常次村長、錦織寅吉助役を初めとする村民各位の尊い愛国の至情と献身的努力により解決され、急遽、建設の運びとなったものである。
  「舘砲」は、横須賀海軍砲術学校(「横砲」)の陸戦、対空等、陸上関係の砲術部門が分離独立する形で開設された術科学校である。訓練設備として広大な平砂浦演習場並びに東砲及び西砲台の対空訓練砲台を備えていた。後に、化学兵器に関する部門が加えられ、常時、一万数千人の将兵を擁する規模であった。
  戦局の悪化に伴い昭和二十年四月二十五日、「横砲」に併合されて同校の分校となり、終戦直前の昭和二十年七月三十一日、閉鎖、廃校となった。開校から廃校までの存続期間は、僅か四年間に過ぎなかったが、厖大な人員が教育訓練を受けたと推定される。しかし、記録喪失のため詳細は不明である。
 「舘砲」では研究部員が、陸戦、対空、化兵に関する専門技術・教育訓練に関する指導研究に当たった。その術科教育の対象は、兵科将校学生及び術科講習員の他、初級幹部の緊急訓練対策として、第一期兵科予備学生、第二期兵科予備学生、特別第三期兵科予備学生と第三期兵科予備学生、学徒動員の第四期兵科予備学生と第一期兵科予備学生、第五期兵科予備学生及び第二期兵科予備生徒並びに第一下士官候補訓練生及び第二下士官候補訓練生(師範学校卒)が挙げられる。
  更に優秀な下士官兵指導員の練成を目指して、高等科訓練生及び普通科練習生に対する教育訓練にも重点がおかれた。また、若年者の特別志願制度に基づく特年兵の教育訓練も行われ、その第一期及び第二期は、年少のまま実戦にも参加した。なお、台湾・朝鮮半島出身志願兵に対する教育も実施された。
  初期にはメナド落下傘降下で勇名を馳せた横須賀第一特別陸戦隊、中期にはソロモン群島方面で悪戦苦闘を続けていた横須賀第七特別陸戦隊、呉第六陸戦隊、佐世保第六特別陸戦隊、呉第七特別陸戦隊並びに佐世保第七特別陸戦隊、末期には、山岡S特攻部隊等々の部隊編成及び特別訓練も行われ発信基地ともなった。
 この間、前線の各地に向けて多数の防空隊が陸続として派遣されたが、その部隊編成及び特別訓練も行われ、その発進基地ともなった。その隊員の中には、国民兵役から徴集された多数の、年長の補充兵も含まれていた。
 「舘砲」は、開校直後、軍医科学生、薬剤科学生及び歯科医科の普通科学生の基礎教育の場としても利用されており、また、終戦間際の段階では、飛行科士官に対する陸戦指導法の演錬、艦船乗組の機関科・工作科系統の特務士官・準士官に対する防空指導法の演錬等、緊急の切替教育も行われた。
  このように、「舘砲」は、帝国海軍の各種陸上部隊、とりわけ、特別陸戦隊、基地警備隊、特別根拠地隊等の陸戦・対空専門技術に関する教育訓練の中核であったため、その影響する範囲は、広く、且つ、深く、その実戦即応を重視した教育内容は、誠に、多岐多彩なものがあった。
 「舘砲」の特色は帝国海軍の指揮官先頭の伝統による猛特訓を特徴とし、人は、「鬼の舘砲」と呼んだという。ここの教育訓練を受けた戦友は、陸戦、対空の実戦に臨んでは、遺憾なく指導力を発揮した。北は極寒不毛の孤島から南は、炎熱の島に至るまで、悪条件をものともせず、縦横無尽に活躍し、時として、激しい爆撃弾の下、寡兵よく大敵に屈せず、長期持久の戦いを闘い抜き、或は、力尽きて倒れ玉砕された将校各位も多い。その数は、一千数千柱にも及ぶと推定されている。この勇戦奮闘が、今日の日本繁栄の基礎を築いた原動力である。祖国の安泰を願い、同朋への愛に殉じる志こそ、国家の存立及び発展に不可欠なものである。
  祖国愛に殉じたこれら多数の戦士のご遺徳を偲び、切に、そのご冥福を祈りつつ、開校五十周年の記念日に、想い出尽きない舘山海軍砲術学校跡に、地元各位の絶大なるご協力を仰ぎつつ、ここに、多年念願の記念碑を建立し、永世に、太平を開かせ給えと、希うものである。
 平成三年六月一日
 舘山海軍砲術学校跡に記念碑を建立する会

雄魂
元連合艦隊兼横須賀鎮守府参謀 寺崎隆治謹書

平和祈念の塔
 平成3年6月吉日
 館山市長 庄司厚書

過ぎし戦に 玉と砕けし戦友の 英霊安かれと祈り
 永世に 太平を開かせたまえと ひたすら 希う

朽ちていく四一式山砲。
20センチ・ロケット弾(噴進弾)。
戦地より収集された遺品(銃剣)などが塔の周辺に展示してありました。

館山海軍砲術学校時代からの井戸という。

世界各地を示す標識


館山海軍砲術学校
炊事場跡(ボイラー室跡)

館山海軍砲術学校炊事場跡(ボイラー室跡)
赤煉瓦の壁だけが奇跡的に残っている空間。
何というか、存在感に圧倒されてしまった。


館山海軍砲術学校
飛行特技訓練プール跡
(落下傘部隊訓練プール跡)

炊事場跡から高台に移動。
その高台から見えるは、館山海軍砲術学校飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
この場所も奇跡的に残っていた。

Google航空写真より抜粋


館山海軍砲術学校
化学兵器実験施設跡

館砲の中心から隔離された場所に朽ちかけた史跡がある。
軍機(軍事機密)であったが、館砲では細菌などの生物兵器や毒ガスなどの化学兵器に関する教育や訓練が行われた海軍唯一の養成機関もあり、教育機関としては陸戦班、対空班、化兵班の三班制であった。

館砲化兵班が何らかの化学兵器実験施設として使用していた建物跡という。
いまは、何を語るでもなく畑の中に風化しつつある歴史遺産。


通りすがりに参拝。

洲崎神社

「洲崎神社」 安房国一宮
(ただし一宮は江戸期以降の主張、安房神社に対する二宮とも。洲崎神社に対する二宮は洲宮神社)
旧社格は県社。 延喜式内論社。
御祭神は天比理乃咩命(天太玉命の后神)

参道石段に圧倒。これは見事な神域。
御手洗山中腹に鎮座している。

神武天皇の御代、安房忌部一族の祖天富命が勅命により四国の忌部族を率いて房総半島を開拓。 忌部族の総祖神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀ったことにはじまる古社。

延喜式内社神名帳では、式内大社・后神天比理刀咩命神社。(論社)

治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総半島に逃れてきた源頼朝は当社に参詣し源氏の再興を祈願。以後、武家の崇敬が篤い。 ちなみに。 文治3年(1187)に源頼朝が洲崎神社から天比理乃咩命を勧請したのが品川神社の創建由来ともなる。

東京湾海上鎮護神として。 洲崎神社から品川神社へと連なる歴史を辿るのも興味深いものではあり。 更には阿波国から房総へと渡ってきた忌部一族の足跡を辿るのも一興。

洲崎神社。浜鳥居へ。 洲崎神社の旧鎮座地は、この浜であった、と。 浜から現在の鎮座地を望めば、美しい神奈備山。

御神石

洲崎神社。御神石。
なんとも言えない格を帯びている御神石。 長さは2.5メートル。

実は洲崎神社に奉納された神石は二対ある。 ひとつは、この吽形の神石。
もう一つは三浦半島安房口神社の阿形の神石。

洲崎神社の吽形の御神石と対になる御神石。
もう一つの御神石は三浦半島に飛んでいったと伝承。 房総半島から東京湾を挟むように対坐する三浦半島の御神石。 これは忌部一族の海上支配の具現化であろうか。古代の信仰文化圏を夢想する。

こちらは三浦半島の安房口神社(2014年撮影)

三浦半島。安房口神社の阿形の御神石。
安房口神社は三浦半島最古の神社。 館山で三浦半島を感じる。海の目線で見れば隣。まさに安房口。 洲崎神社の文化は深いですね… 実に面白い。

洲崎神社の浜。対岸を眺めつつ洲崎神社を後にする。ここは興味深い信仰文化の宝庫。きっとまた来ることになりそうです。 時間は16時過ぎ。最後に戦跡を一カ所だけ寄り道してみる。


震洋滑走台

洲崎から海岸線沿いを進む。
波左間漁港。

ここの海に不思議な造形物がある。
震洋滑走台。

震洋は、いわゆる特攻兵器。爆薬をつんだモーターボート。
付近には震洋を格納した壕も点在しているという。

訪れた時が満潮だったようで、形は今ひとつ。雰囲気レベルで。

第一特攻戦隊第18突撃隊
波左間「震洋」特攻基地跡


館山駅前のヤシの木

館山駅前のヤシの木は館山砲術学校正面にあったものを戦後に移植したものだとか。 車のなかから撮影したので今ひとつな写りですが、記録として。

googleMapのストリートビューも参照に。

館山は、戦跡の宝庫であり、今回の掲載はそのほんの一部。見逃したところも多いので、いずれかに再訪せねばならない地であれど、今回はいったんこれにて〆。


汎太平洋の鐘と南洋群島平和慰霊像(源覚寺)

東京都文京区小石川
源覚寺

「こんにゃくえんま」(こんにゃく閻魔・蒟蒻閻魔・身代わり閻魔)で知られる小石川の「源覚寺」に、サイパンゆかりの釣鐘があると聞き、足を運んでみました。
後楽園駅・春日駅のすぐ近く。

汎太平洋の鐘
THE PAN PACIFIC TEMPLE BELL

汎太平洋の鐘
THE PAN PACIFIC TEMPLE BELL

1690年 元禄3年 粉河丹後守の鋳造により当山に奉納された。
1937年 昭和12年 サイパン島南洋寺に転出、南太平洋にひびきわたる。
1944年 昭和19年 サイパン島軍民玉砕して、以後消息不明となる。
1965年 昭和40年 米国テキサス州オデッサ市において発見される。
          発見者 ミツエ・ヘスター
1974年 昭和49年 カリフォルニア州オークランド市居住 D.V.クレヤー氏によって、サンフランシスコさくら祭りに展示され、その後当山に寄贈される。

元禄3年(1690)に鋳造された釣り鐘が、昭和12年(1937)にサイパン島の中心都市(「南洋の東京」とも呼称)であったガラパン郊外に建立された「南洋寺」(浄土宗 多寶山 南洋寺)に転出。

南洋寺は、現在の「フィエスタリゾート&スパホテル」あたりに鎮座しており、リゾートホテル南東に、往時の「南洋寺門柱」が残っているという。

https://goo.gl/maps/LU7HSQePQuP1Gdvy7

昭和19年6月15日から7月9日にかけてマリアナ諸島サイパン島で激戦が繰り広げられ、海上ではマリアナ沖海戦(あ号作戦)も発生。
サイパン島での日本軍の戦死者は約3万人、民間人の死者は約1万人。米軍の死者は3441人という。
ガラパンの街も荒廃に帰し日本軍民は玉砕。

サイパンの激戦を物語る銃痕跡


南洋群島物故者慰霊像

第二次世界大戦において、サイパンをはじめとする南洋群島で犠牲になった人たちを追悼する菩薩像

合掌

南洋群島物故者慰霊像建立の趣旨
 かつて南洋群島は、日本の委任統治領として南洋庁施政の下に三十有七年、その治績は顕著であった。然るに第二次世界大戦に敗れ、米国太平洋信託統治領(ミクロネシア地域)となった。これ等の島々で、明治、大正、昭和の三代に渉って南方開拓に努め、志半ばに物故された人々並に今次太平洋戦争に祖国に身命を捧げられた将兵及び在留邦人の冥福を祈念して、先年南洋群島関係者に依ってサイパン島に物故者慰霊像を建立したが、遠隔の地であるので参拝の叶わぬ人々のために、南洋群島とゆかりの深い此の源覚寺境内に遥拝所としてこの慰霊像を建立したものである。
  昭和50年7月18日
  財団法人 南洋群島協会

慰霊像の脚下には、南洋諸島を思い起こさせる貝殻…

歌碑
 サイパンの夜のしじまの洞窟に
  ねむりしあらん友をしぞ思ふ

汎太平洋の鐘 と 南洋群島物故者慰霊像 


鎮魂 南洋諸島海没者 慰霊碑

南洋諸島海没者
亜米利加丸 494名
千代丸 97名
白山丸 277名
赤城丸 512名
泰南丸 1名
総洋丸 7名
龍田川丸 2名
ぱたびあ丸 18名
ぶらじる丸 1名
青森丸 4名
門司丸 5名
神島丸 54名
第三大栄丸 43名
美山丸 27名
ジョクジャ丸 7名
広順丸 15名
三池丸 7名
靖国丸 6名

総計 1,580名

平成20年8月吉日
南洋群島在島者有志


第十四期飛行予備学生記念碑

第十四期飛行予備学生記念碑

雲ガハシル
 学徒ガ征ク
  空ニ
同期ノ華
 参千六百

 昭和63年戌辰8月15日建立
  廿四世徳誉叢願 廿五世真誉代


源覚寺

浄土宗 常光山 源覚寺
通称「こんにゃくえんま」
寛永元年(1624)に創建。
小石川七福神のひとつでもあり毘沙門天を祀る。

こんにゃくえんま像は鎌倉時代の作と推定。文京区内で最も古い仏像に属しており文京区市指定有形文化財。


都内には、サイパン観音もあります。

いつの日か、サイパンへ慰霊に訪れることは出来るだろうか・・・

彩帆観音(サイパン観音)

東京都北区。
王子駅より荒川の方角に15分ほど歩く。
「西福寺」という寺院に、サイパンゆかりの観音様が建立されているというので足を運んでみた次第。

彩帆観音(サイパン観音)

彩帆観世音菩薩(サイパン観世音菩薩)

昭和48年建立。
西福寺住職が、サイパンにて日本軍が玉砕した洞窟から血に染まった土砂や遺骨を収集して、観音塔に遺骨を埋葬し、聖観音像を安置し、彩帆観音塔として建立。

サイパン玉砕慰霊の観音様
昭和19年6月15日から7月9日にかけてマリアナ諸島サイパン島で激戦が繰り広げられ、海上ではマリアナ沖海戦(あ号作戦)も発生。
サイパン島での日本軍の戦死者は約3万人、民間人の死者は約1万人。米軍の死者は3441人という。

合掌

彩帆観音塔建立の賦
私は一昨年の十二月下旬、戦争を知らない学徒代表ら拾名を伴い、第二次世界大戦で数多くの戦死者を出した南太平洋上に浮かぶミクロネシア諸島激戦の跡を歴訪した。特に日本人全員玉砕の悲しい思い出を残したサイパン島においては、怨恨親平等の仏教精神に則り、サイパン政庁長官と互にメッセージを交換して親善友好を深めると共に、自ら導師となって慰霊祭を執行し、国境を超えて現地人に多大な感銘を与えたが、その際旧日本軍参謀本部跡の洞窟内から血に染まった土砂や遺骨を収集しt帰国した。今回機縁熟するところとなり、塔内に遺骨を埋葬して聖観音像を安置し、彩帆観音塔と銘してこれを建立したわが国唯一のものである。
願わくは亡き英霊が現世に廻向して観音菩薩の慈悲を仰ぎ、世界平和国家隆盛萬民豊楽のために、無限のご加護あらんことを祈念して建立の賦とする。

 謹んで唱へ奉る
  南無彩帆観世音菩薩

 昭和48年9月
  当山主 小松原賢誉 
          合掌

彩帆観音

英霊菩提
世界平和

鎮護国家
現世安楽


西福寺

東京都北区に鎮座する真言宗豊山派の寺院。
山号は三縁山
院号は無量寿院

江戸六阿弥陀霊場1番札所
豊島八十八ヶ所霊場67番札所
荒川辺八十八ヶ所霊場20番・33番札所


場所

ちなみに、近くの「豊島公園」は明治大正期に陸軍によって作られた「豊島ドッグ」と呼ばれた掘割の跡。現在は埋め立てられており、往時の雰囲気は、細長い公園にその姿を感じさせるのみ。

これはまた別の話題ですね。

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿(久伊豆神社境内社)

埼玉県越谷市 久伊豆神社境内社

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地 遥拝殿
(きゅうかんぺいたいしゃなんようじんじゃちんざあとちようはいでん)

南洋神社は、南洋群島の中心地パラオ(現パラオ共和国のコロール島)に昭和15年2月11日、皇紀2600年に際して、昭和天皇の格別の思し召しにより創立された神社です。その御祭神を「皇祖天照大神」一座とする官幣大社であり、我々神社人が「本宗」と仰ぐ伊勢の神宮の「南洋における分社」ともいうべき神社です。その後、昭和20年8月の終戦によって、御社殿は御焚き上げとなり、神社の祭祀は終結、社殿跡地が残るのみとなりました。しかし、創立以来、南洋の地で開拓・入植に励んだ方々が、また戦時下、アジアの解放と大東亜共栄圏の実現を信じて、遥か遠く故郷を離れて南方の戦地へと赴いた部隊・兵士たちが篤い祈りと誓いを捧げられた事実は永遠に消滅するものではありません。

伊勢の神宮と旧南洋神社との御神縁・御神慮を拝し、神宮当局の御指導・御協力を賜って平成16年4月11日久伊豆神社境内に「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」を建立いたしました。この遥拝殿は、氏子・崇敬者共々遥かに、幾多の兵士の最期の祈りと誓いをお受けになった大神様の御霊を和め、遠く故国を離れた南洋の地に散華された英霊への感謝と慰霊・鎮魂、功績顕彰の誠を致す御殿です。

久伊豆神社公式サイト より

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿竣工をお祝いして
この度、久伊豆神社境内に戦前パラオに創立され敗戦によって廃止された官幣大社南洋神社を偲び彼の地で戦没された方々の御霊を慰霊顕彰するための施設である旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿が目出度く竣工いたしました。洵に御同慶の至りであり衷心よりお祝い申し上げる次第であります。
ご承知の通り、南洋神社は我々神社人が本宗と仰ぐ伊勢の神宮の南洋における分社ともいうべき格別の神社であり、御祭神を皇祖天照大神一座とする官幣大社として昭和天皇の格別の思し召しから創立された神社であります。
そのことは、昭和15年2月1日付で拓務大臣小磯国昭が慎みて皇統の始祖に存します天照大神を奉祀し、永へに報本反始の誠を致さしめたく祭神を天照大神とし、社号を南洋神社と定め、社格を官幣大社に列せられる旨仰せ出られたく、右慎みて奏すと昭和天皇へ上奏し、それを天皇が裁可されたことからもご理解いただけることでしょう。
そして日本が、国際連盟規約により委任統治していた南洋群島の中心地であるパラオに鎮座した南洋神社に、南洋の地で開拓入植に励んだ方々が、また戦時下アジアの開放と大東亜共栄圏の実現を信じて遥か遠く故国を離れて南方の戦地に赴いた部隊・兵士たちが、篤い祈りと誓いを捧げた事実は、永遠に消滅するものではありません。
伊勢の神宮と旧南洋神社との御神縁御神慮を拝し、神宮御当局の御指導御協力を賜って、久伊豆神社境内に旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿が恙無く無事建立竣工なったことに、改めて慶賀の意を表すと共に、氏子崇敬者の方々はじめ多くの人々が竣工なったこの遥拝殿を通じて、幾多の兵士の最期の祈りと誓いをお受けになった旧南洋神社を偲び、遠く故国を離れた南洋の地に散華なされた英霊への感謝と慰霊、鎮魂、御功績顕彰の誠を致されることを記念致すものであります。
 平成16年4月11日
  國學院大學教授 阪本是丸

旧官幣大社南洋神社遥拝殿

南洋神社

現在のパラオ共和国コロール島に鎮座していた神社。
旧社格は官幣大社。

1914年に勃発した第一次世界大戦にて、日本は日英同盟に基づき連合国として参戦。日本海軍はパラオを統治していたドイツ軍を降伏させ占領。
1919年の第一次世界大戦戦後処理であるパリ講和会議によって、南洋諸島は日本の委任統治領となった。
コロール島には南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、南洋諸島の中心的な島となり、多くの日本人も移住。
紀元2600年記念事業の一環として、そして南洋群島総鎮守として、昭和15年(1940)に創建。
太平洋戦争では、コロール島は帝国海軍の重要な基地として、北西太平洋方面の作戦拠点として展開。
昭和19年(1944)には、コロール島の南に位置するペリリュー島にて、ペリリュー島の戦いが勃発。日米双方に多くの戦死者を出した。
昭和20年(1945)8月の終戦により、日本の南洋統治は終了。

昭和20年9月11日に、南洋神社奉焼式が行われ社殿奉焼。11月17日、日本政府より南洋神社廃止の連絡を受け、翌1946年1月5日、パラオ本島の仮本殿で昇神の儀・仮本殿の奉焼を行い、ご神体は船で東京の宮内省に運ばれ、1月19日御奉遷の手続きが行われた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/南洋神社

http://www.himoji.jp/database/db04/preview.php?name=南洋神社

位置関係

久伊豆神社(ひさいず神社)

埼玉県越谷市越ヶ谷鎮座。越ヶ谷総鎮守。旧社格は郷社。
元荒川流域に分布する久伊豆神社の総本社とされている。
境内には国学者平田篤胤の仮寓跡もある。

https://www.hisaizujinja.jp/

第三鳥居
伊勢神宮の第61回遷宮撤去材の皇大神宮板垣南御門を再建
平成7年9月28日竣工

平田篤胤仮寓跡

平田篤胤(1776-1843)は、江戸時代後期に復古神道を唱えた有名な国学者です。しばしばこの地を訪れ、暮らしたと伝えられています。
 平成18年12月 久伊豆神社 越谷市教育委員会 埼玉県教育委員会

平田篤胤先生遺徳之碑

昭和17年10月建立

久伊豆神社の藤
平田篤胤遺愛の藤。樹齢200余年。

誠忠碑
神社本庁総裁北白川房子謹書

昭和6年満州事変、昭和12年支那事変、昭和16年大東亜戦争戦没者と応招者の名前を刻む。
昭和38年5月建立

戦捷記念碑
埼玉県知事従四位勲四等大久保利武謹書

明治39年12月建立、日露戦争

鎮守様の戦跡~海老名・神武社

海老名市河原口(海老名市河原口3丁目3付近)に小さなお社が鎮座している。
その名も「神武社」。
海老名市総鎮守・有鹿神社の境外摂社。

社号の通り「神武天皇」を祀っている当社は「石碑」がご神体という、珍しい神社。

神武社
神武天皇碑
日露戦争戦勝祈願 橿原神宮遥拝記念

神武社

江戸時代の頃は、辺りは桑畑であったといい、この地には「石神社」が鎮座していた。
明治37年(1904)に勃発した日露戦争に際して、戦勝祈願の為に、この地に河原口の人々が集まり、橿原神宮を遥拝したという。その後、橿原神宮遥拝の地を記念して「神武天皇碑」が建立。その石碑を覆う社殿も建立されたという。
社殿と鳥居は橿原神宮の方向(西面)を向いている。

もともと河原口の氏神様は神明社であったが、戦後に神武社にかわった、とされる。
河原口地区には、神武社が建立される前、「新編相模風土記」によると、天神社・神明社・諏訪社・熊野社・石神社・第六天社・弁天社などが鎮座していた。明治期の神社合祀政策により、これらの小社は「有鹿神社」に合祀されたが、その後に河原口地区で疫病が流行ったために、現在地に遷座。
現在、「神武社」の境内には、石神社・神明社・天神社・熊野社・第六天社の石祠が鎮座している。

<本記事は有鹿神社宮司様よりお伺いしたお話を基礎としております>

神武天皇碑
神武社
神武社
鳥居は昭和35年建立
神武社と石祠群
石祠は、 石神社・神明社・天神社・熊野社・第六天社 という(順不同)
御社殿と鳥居は西面。橿原神宮の方向。
ちょうど西日が差す先には現在は「圏央道」

海老名総鎮守「有鹿神社」(あるか神社)

相模国最古の神社。近年はパンダ宮司で有名。

公式サイト

https://www.arukajinja.jp

有鹿神社の後方には「横須賀水道」が縦断している。
これもまた「戦跡」のひとつ。

「横須賀水道みち」の戦跡散策もおすすめ。

鳴尾八幡神社慰霊塔(戦艦安芸の砲身?)

令和元年12月参拝

西宮市に所用があった。隙間の時間を利用して阪神電車「甲子園」駅に。そこから歩いて10分ほどのところに「鳴尾八幡神社」という神社が鎮座。
まずは御社殿にて参拝をし、参道脇に建立されていた「慰霊塔」に拝する。

鳴尾八幡神社慰霊塔
 戦艦・安芸の砲身

鳴尾村関係の戦没者500余名を祀る慰霊塔。
この慰霊塔に使用されている砲身、伝聞では「戦艦安芸の砲身」と伝わっている。砲身の先には鷲が翼を拡げていた。

合掌

木々が茂っていて後ろには回り込みができなかったので境内地の外から慰霊塔の背面を。

慰霊塔の台座背面には獅子頭があった。

戦艦 安芸

姉妹艦「薩摩」とともに日本国内で建造された最初の戦艦。準弩級戦艦。

1907年進水、1911年(明治44年)竣工。
日本の戦艦として初めてカーチス式タービン機関を搭載。薩摩と違いタービン機関を搭載した安芸は姉妹艦とされる薩摩と違い初期の弩級戦艦に匹敵する速力(20ノット)を誇った戦術的価値の高い戦艦であった。
ワシントン海軍軍縮条約により薩摩・安芸ともに廃棄が決まる。1923年(大正12年)9月20日除籍。研究射撃の標的艦に指定される。
1924年(大正13年)、戦艦「扶桑」に曳航された「安芸」は、新鋭の長門型戦艦「長門」「陸奥」による射撃により沈没。

両舷の副砲として、
戦艦「薩摩」は、40口径12cm砲 に対し
戦艦「安芸」は、40口径15.2cm砲 を配備していた。

この慰霊塔に使用されているのは、一説には「12cm砲の砲身」という。ところが戦艦「安芸」には12cm砲は搭載されていなかったので、この慰霊碑の砲身が「12cm」なのか「15.2cm」なのかの真偽は不詳。

鳴尾八幡神社

兵庫県西宮市鎮座。鳴尾地区の総鎮守。旧村社。
創立年代不詳なれど、創立は文安時代(1444~1449)とされる。

社号標は昭和3年5月建立。

靖國神社御創立百五十年記念大祭(令和元年)

令和元年10月20日参列

靖國神社は明治2年(1869年)6月29日、
明治天皇の思し召しによって建てられた招魂社にはじまる。

そして令和元年(2019)年、靖國神社は御創立150年を迎える。

例年は、「秋季例大祭」が斎行される秋に、今年はあわせて「御創立百五十年記念大祭」が斎行。

清祓 10月17日午後3時
霊璽奉安祭  10月17日午後7時
秋季例大祭当日祭  10月18日午前10時
御創立百五十年記念大祭第一日ノ儀 10月19日午前10時
御創立百五十年記念大祭第二日ノ儀 10月19日午前10時
直会  10月19日午後6時

御創立百五十年記念大祭案内状

拝啓 初秋の候益々御清祥の段御慶び申し上げます。
さて、下記の通り靖國神社御創立百五十年記念大祭を斎行致しますので、御参列下さいますよう御案内申し上げます。 敬具
令和元年9月吉日
 靖國神社 宮司 山口健史

御創立百五十年記念大祭 第二日ノ儀
 10月20日(日) 午前10:00

令和元年
靖國神社御創立百五十年記念大祭 式次第

御創立百五十年記念事業報告

御朱印
奉拝
靖國神社
令和元年十月二十日

靖國神社御創立百五十年記念大祭
第二日ノ儀

式次第

御創立百五十年記念大祭
時刻   参列諸員拝殿所定ノ座ニ著ク
午前十時 宮司以下本殿所定ノ座ニ著ク
先ツ   国歌ヲ斉唱ス
次    宮司内陣ノ御扉ヲ開ク
次    権宮司以下神饌ヲ供シ初献ノ神酒ヲ奠ス
次    宮司祝詞ヲ奏ス
次    権宮司二献ノ神酒ヲ奠ス
次    「国護の舞」ヲ奉奏ス
次     権宮司三献ノ神酒ヲ奠ス
次    宮司玉串ヲ奉リテ拝禮
次    特別参列者本殿ニ進ミ玉串ヲ奉リテ拝禮
次    崇敬者総代本殿ニ進ミ玉串ヲ奉リテ拝禮
次    参列諸員次第ニ本殿ニ進ミ玉串ヲ奉リテ拝禮
次     (拝禮終了凡ソ十一時頃)
(續イテ  一般遺族崇敬者昇殿参拝
午後三時 権宮司以下神饌ヲ撤ス
次    宮司内陣ノ御扉ヲ閉ツ
次    各退下

国護の舞(くにもりのまい)
 靖國神社は明治二年に招魂社として御創建され、明治十二年には別格官弊社「靖國神社」と改称されて現在に至っており、本年は御創立百五十年を迎えました。
 この舞は、御創立百五十年を記念して作られた神楽舞で、御祭神を慰霊し、また御祭神の御心を次に伝えていくための、令和の新時代に捧げていく神楽舞であります。
 本日の御創立百五十年記念大祭を舞始めとして奉奏いたしましが、祭典終了後に能楽堂におきましても舞を披露いたしますので、ご覧いただけますよう御案内申し上げます。

能楽堂での披露予定時間 十九日午後0時30分より
            二十日午後0時より

【歌詞】
上皇后陛下 御歌
 終戦記念日 平成八年(一九九六)

海陸のいづへを知らず姿なき
あまたの御霊国護るらむ
(うみくがの いづへを しらず すがたなき
 あまたの みたま くにまもるらむ)

海も山も何処も、姿なき数多の御霊によって護られております、この日本の国は・・・。

【作曲・作舞】
 作曲・作舞は元宮内庁式部職楽部首席楽長の豊英秋先生にお願い致しました。
 曲調は、前半が英霊に対し鎮魂の誠心を捧げる静かな曲で、舞は英霊を慰める優しい振りとなっています。
 また、後半は我が国が英霊に護られて、明るい未来に向かう局長で、英霊に神楽舞を楽しんでいただく力強い舞振りとなっています。

靖國神社御創立百五十年記念大祭
第二日ノ儀

午前8時20分頃、受付の開始。
「祭式次第」と「御創立150年記念事業報告書」をいただきました。御朱印もいただきました。

午前9時20分ごろに参集殿の奥から参列者の御案内開始となります。受付が早いと拝殿では前の方に着席できます。

令和元年十月二十日 
午前10時前
【参列諸員拝殿所定ノ座ニ著ク】
祭典開始前の合図の太鼓が鳴り響く。

修祓

【宮司以下本殿所定ノ座ニ著ク】
宮司以下の祭員が斎館から参進し御本殿へ。
カツカツカツと木靴の音が鳴り響く。

【参考】写真は平成27年(2015年)の秋季例大祭
【参考】写真は平成27年(2015年)の秋季例大祭
【参考】写真は平成27年(2015年)の秋季例大祭
【参考】写真は平成27年(2015年)の秋季例大祭

祭式開始の太鼓が鳴り響く。
ドーンッドーンッとゆっくり9回。

【国歌ヲ斉唱ス】
國學院大學吹奏楽部による奏楽。

一同起立し国歌斉唱。
二度斉唱。

靖國神社御創立150年の節目で斉唱する国歌「君が代」。
凛とした空間に参列者一同の声が響き渡る。
この尊い空間に震える。
ありがとうございます。

【宮司内陣ノ御扉ヲ開ク】
國學院大學吹奏楽部により奏でられる拝神の曲。
「国の鎮め」

宮司によって御本殿内陣の御扉が開扉される。
「オー」「おおおおぉぉぉぉー」
警蹕(けいひつ)が木霊し境内を祓い清める。

【権宮司以下神饌ヲ供シ初献ノ神酒ヲ奠ス】
國學院大學吹奏楽部による奉奏。
「山の幸」
神饌を供し神酒を奠し奉じる。

【宮司祝詞ヲ奏ス】
【権宮司二献ノ神酒ヲ奠ス】

【「国護の舞」ヲ奉奏ス】
靖國神社御創立百五十年記念を記念して作られた神楽舞。
御祭神を慰霊し、また御祭神の御心を次に伝えていくための、令和の新時代に捧げていく神楽舞

上皇后陛下 御歌
 終戦記念日 平成八年(一九九六)
海陸の いづへを知らず 姿なき
 あまたの御霊 国護るらむ

以下は能楽堂で奉納された舞。
御創立百五十年記念神楽舞「国護の舞」(くにもりのまい)

能楽堂で奉納された舞。
御創立百五十年記念神楽舞「国護の舞」(くにもりのまい)

約10分にわたる神楽舞。
御祭神を慰霊し、御祭神の御心を次世代に繋げていく神楽舞。
前半は静かな舞、後半は賑やかで力強い舞。

拝神曲「国の鎮め」奉奏

山口健史宮司の挨拶
・霊璽奉安祭では今年新たに7柱が相殿から本殿正床に御奉還申し上げた。
・ 畏くも勅使参向による奏上と御幣物玉串料の御礼
・19日には、 三笠宮容子内親王 が参拝なされた。
・御創建150年
・新しき神楽「国護の舞」 

【参列諸員次第二本殿ニ進ミ拝礼畢リテ退出ス】

御本殿昇殿参拝。
内陣の御扉が開扉されている、畏れ多い空間。
246万6000余柱の御英霊に対して、感謝と哀悼の誠を捧げるとともに御霊安らかなれと祈念する。

御本殿に掲げられた御宸筆の扁額にも拝する。

明治天皇 御製
我國の 為をつくせる 人々の
 名もむさし野に とむる玉かき

明治天皇が明治7年(1874)1月27日、初めて招魂社に御親拝の折に詠まれた御製。
明治天皇の命名により、明治12年(1879)6月4日に社号が「東京招魂社」から「靖國神社」に改称となる。
『春秋左氏伝』第6巻僖公23年秋条の「吾以靖國也(吾以つて国を靖んずるなり)」を典拠とする。

おさがり(撤饌)

「おさがり」を頂戴いたしました。
御神酒
祝餅
食パン・菓子パン(銀座・木村屋總本店)
「遊就館特別展‐靖國神社御創立百五十年展‐」展示録

祝餅

靖國神社御創立百五十年
祝餅
奉納 明治神宮 靖國神社 献饌講

明治神宮 靖國神社 献饌講は、明治天皇の御聖徳と護國英霊への報謝のため、昭和17年に茨城県那珂郡(現ひたちなか市)の黒澤忠次(初代講元)と篤志家が相計り、鏡餅・鯛・野菜などのお供えものを明治神宮、靖國神社に奉納したことから始まります。
戦前・戦後の困難な時代を経て今日に至る約80年間に亘り、両神社に対し、日々朝夕の神饌米奉納を始め、例大祭・正月の鏡餅調製など、絶えることの無い真心の御奉仕を戴いて参りました。
此の度献饌講には、靖國神社御創立百五十年を迎えるにあたり奉祝のため、講員一人ひとりの丹精篭る献饌米を用いて餅搗奉仕を戴き、この紅白祝餅の御奉納と相成りましたので、御参拝の皆様にお頒ち致します。
 令和元年十月吉日 靖國神社

木村屋總本店のパン

明治2年、木村安兵衛が日本人で初めてパン業を開業。
奇しくも靖國神社と同じく150年を迎える。

靖國神社御創立百五十周年記念大祭の「おさがり」は、銀座木村屋の150周年記念限定食パン。

兵隊さんとパン
 「食事の時間」それは兵隊さんにとって、何よりも楽しみな時間であったのではないでしょうか?
 近代日本における「パン」の歴史は、幕末の兵学者で伊豆韮山代官の江川太郎左衛門英龍が天保13年(1842)、「兵糧パン」を試作した事に始まります。
 明治維新以降、単に携行しやすいだけでなく栄養面に優れている点が注目され、陸海軍共にパン食を採用しました。
 特に日清・日露の戦いでは、当時国民病といわれた「脚気」に罹る兵が多く、パンに脚気予防の有効な成分があるとわかり、パン食普及の決め手となりました。陸軍ではパン焼き車が、海軍では給糧艦にパン製造室が装備されるなど、更に身近な食料となり、甘味品のパン菓子などは兵隊さんにとても喜ばれたそうです。
 一方、民間では本年創業150年を迎えた木村屋總本店の初代木村安兵衛が、明治2年(1869)、東京芝に日本人で最初のパン店を開業、その後、明治天皇へ「桜あんぱん」を献上するなど、多くの国民に愛されるパンを作り続けてきました。また軍用の乾パン・ビスケットの開発、研究にも力を尽くされました。
 靖國神社御創立百五十年にあたり、御祭神とも縁のある木村屋總本店より奉慰顕彰の篤志をもって、この記念品を調製致しました。
 ひたすら祖国の安寧を願い、戦陣に斃れた神霊の御心を偲びつつ、どうぞお召し上がり下さい。
 靖國神社

150周年記念 限定食パン

あずきの煮汁を入れて焼き上げた、しっとり柔らかい食パンです

「あんぱんの木村屋」にちなんだあずきの煮汁と、明治時代から受け継ぐ自家製酵母「酒種」を使用した、プレミアムな限定食パンです。

靖國神社150年シンボルマークの焼印いりの食パン

銀座木村屋
酒種あんぱん
桜餡・小倉餡・けし餡・うぐいす餡・白餡

明治天皇に献上された、伝統の酒種あんぱん

御神酒

靖國神社の御神酒

靖國神社御創立百五十年記念大祭

ありがとうございました

幕末以来、明治・大正・昭和・平成…
そして、令和の新時代に捧げていく靖國の祈り
御英霊の御心に
感謝と哀悼の誠を


付記
スマホで「国護の舞」を撮影しました。
手ブレがひどすぎるので、参考程度に・・・
(左手でスマホ、右手で一眼カメラだったもので)

鳥濱トメさんの玉子丼・靖國八千代食堂

令和元年10月。

靖國神社御創立150年の節目の年の再整備。
令和元年10月10日に「靖國神社外苑休憩所」に新たにオープンした食堂が「靖國八千代食堂」

名物は「鳥濱トメさんの玉子丼」・・・
いただいてきました。

ほんのりと甘みを感じる、トメさんのやさしさに包まれた味わい。
玉子と玉ねぎ、往時を偲ぶシンプルな、しかし奥深い味。
一口二口と口に運んでいくとともに、なにやら目頭が熱くなってきてしまいました。
心から、ありがたさを感じつつ。美味しさを味わいつつ。

鳥濱トメさんの玉子丼

鹿児島知覧で「富屋食堂」を営んでいた鳥濱トメさん。
「富屋食堂」は陸軍指定食堂となり、多くの特攻隊隊員が食堂の面倒を見たことから「特攻の母」と呼ばれた。
特攻隊員が食した「トメさんの玉子丼」が、再現され、靖國八千代食堂でいただくことができるようになりました。

 名物は、鹿児島県知覧の富屋食堂で「特攻の母」と慕われた鳥濱トメさんの玉子丼。お孫さんの鳥濱明久氏の総監修を経て、当時の味をそのままに再現致しました。鳥濱トメさんの味を受け継ぐ鳥濱明久氏(鹿児島知覧 富屋食堂「ホタル館」館長:鳥濱トメ孫)並びに鳥濱トメ顕彰会の全面協力のもと、明久氏が想いを込めて作った知覧直送の割り下をそのまま使用し、沖縄救出のために「靖國で会おう」と散華された英霊を送り出したトメさんの想いをそのままに再現致しております。

https://www.yasukuni.or.jp/news_detail.html?id=195

知覧より直送する本物の味
特攻の母
鳥濱トメの玉子丼

旧知覧特攻基地の軍指定食堂であった富屋食堂で「特攻の母」と愛された鳥濱トメさんが特攻隊員のみなさんに振舞った玉子丼には一体どれほどの想いが込められていたことでしょう。

当店の玉子丼は、トメさんの味を現代に受け継ぐ富屋食堂「ホタル館」館長、そしてトメさんのお孫さんである鳥濱明久氏が想いを込めて作った割り下を、鹿児島知覧から靖國へ直送いただき、そのまま使用しています。

当時、富屋食堂で使用されていた「お重」なども店内に展示しています。またこの玉子丼の収益の一部は、特攻資料館 富屋食堂「ホタル館」の整備維持などに寄付しています。

鳥濱明久氏(鹿児島知覧 富屋食堂「ホタル館」館長:鳥濱トメ孫)並びに 知覧特攻の母 鳥濱トメ顕彰会の全面協力のもと再現した、玉子丼。

鳥濱トメ プロフィール
明治35年6月、鹿児島県坊津町(現南さつま市)生まれ。大正15年5月、24歳の時に長女の美阿子(鳥濱明久氏母)が誕生。昭和4年、27歳でそれまでの貯えを元手に「富屋食堂」を開業し、翌年次女礼子も誕生します。
昭和17年に「富屋食堂」は陸軍指定食堂となり、昭和20年3月、知覧からも特攻隊の出撃が始まると、富屋に多くの特攻隊員が出入りするようになりました。たくさんの隊員たちからお母さんと慕われ、トメはその出撃を見送り続け、いつしか「特攻の母」と呼ばれるようになりました。戦後、知覧の観音堂建立に尽力し、建立後は欠かさず毎日参拝に通い、平成4年に89歳で大往生を遂げるまで続けた、愛情あふれる形でした。

知覧より直送する本物の味
特攻の母
鳥濱トメの
玉子丼

富屋食堂の三段重
この三段重は
鹿児島知覧にて特攻の母と
呼ばれた「鳥濱トメ」の
経営した富屋食堂で
実際使われていた、お重です。
特攻隊員が食べてたいと言った、
卵丼のお重として使われ、
戦後はうな重等に
昭和50年迄使われました。
 孫 鳥濱トメ

八千代食堂の卵丼
 令和元年10月1日

特攻隊の母と呼ばれた
鳥濱トメが経営した
富屋食堂の再興のご馳走が
卵丼でした
出撃する直前
特攻隊員の食べた卵丼は
孫の私が受け継ぎ現在も
知覧にて、提供している
だし汁を八千代食堂に
送ったものです
 孫 鳥濱明久

例大祭で賑わう境内。ちょうどお昼時、行列ができるほどに盛況でした。
是非に靖國神社御参拝の帰りに味わってほしい、往時の味わいです。

公式サイト
英霊への想い 靖國の未来をつなぐ
靖國八千代食堂

https://yasukuni-yachiyo.com/

公式サイト
特定非営利活動法人
知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会

http://www.torihamatome.jp

特攻観音(世田谷)

かつての靖國神社外苑休憩所


追記(令和3年8月15日)

富屋食堂の知覧茶

富屋食堂の知覧茶
この知覧茶は、靖國神社外苑休憩所の靖國八千代食堂と知覧富屋食堂との共同企画商品です。
特攻の母と言われた鳥濱トメさんのご遺徳と、
先の大戦で散華された特攻隊員の方々の想いを偲び、
特攻の地、知覧の茶葉を100%使用致しました。


「若宮八幡宮と川崎大師」周辺の戦跡散策

令和元年10月

川崎でちょっとだけ時間が出来たので、京急大師線で川崎大師駅まで足を伸ばしてみました。

若宮八幡宮御本殿
(旧川中島国民学校奉安殿)

若宮八幡宮本殿
旧川中島国民学校奉安殿

昭和12年4月
川崎市立大師尋常小学校より分立独立して「川崎市立川中島尋常小学校」として創立。
昭和16年4月「川崎市立川中島国民学校」と名称変更。(現在の川崎市立川中島小学校)
「奉安殿」の創建年代は不詳。1935年(昭和10年)頃に全国各地の小学校にて奉安殿建設が活発化してきたという。

若宮八幡宮が戦災で焼失してしまい、戦後に「川中島国民小学校」から奉安殿を移設し、若宮八幡宮の本殿として再活用。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

若宮八幡宮(川崎)

旧大師河原総鎮守
境内には「かなまら祭」で有名な金山神社がある。
室町期1500年代の創建。
創建以来、川崎大師平間寺の鎮守社。明治の神仏分離で平間寺から独立。

境内社の金山神社

若宮八幡宮から川崎大師へ移動。

祈りと平和の像
(川崎大師 平間寺)

川崎大師境内に、弘法大師1150年遠忌を記念して昭和59年(1984)建立。制作者は円鍔勝三。
中央には富士山の上に降臨した観音をモチーフとした女神が「祈り」、周囲には鹿野苑で楽器を奏でる天女たちが「平和」を表している。

一心祈念 恒久平和
     大本山川崎大師 平間寺
一盌からピースフルネスを
     茶道裏千家淡交会川崎支部
修練 奉仕 友情
     社団法人川崎青年会議所

「祈りと平和」の像に寄す
 茶道裏千家家元勤仕による当山ご供茶式と茶道裏千家淡交会川崎支部、川崎青年会議所、川崎大師平間寺共催の大茶会は、三者の協調に献身的な努力のもとに、大いに地域社会の文化向上に寄与し、ここに、心新たに意義ある20周年を迎えた。
 本年、宗祖弘法大師壱千百五十年御遂忌並びに、当山吉例十年目ごと大開帳奉修の法縁にあたり、大師の鴻恩に報謝の誠を捧げ三者の目的達成、発展を期するとともに、更に祈りに徹してやすらぎに住し、永遠の平和を願う真心を伝承せんがために、ここにこの像を建立する。
 作者は、霊峰冨士の頂上に来迎された観世音菩薩(女神)の天にひろがる大慈悲心と釈尊の初転法輪の聖地・鹿野苑にみなぎる世界永遠の平和の祈りを象徴されている。
 因みに、彫刻家である、文化功労者・日本芸術院会員・圓鍔勝三先生にこの制作を依頼した。
 昭和59年10月7日 
  大本山平間寺貫首
   第四十四世 
   中興第一世 
    大僧正 隆天

「祈りと平和」像賛歌
   貫主 高橋隆元
いまここに
  仰がん祈りの像
いまここに
  讃えん平和の像  
みほとけは
  女神とともに
  神鹿のあそぶ苑に
 平和を奏でて
  人びとを見まもり
 慈悲の
  まなざしを示し給う 
祈りの声は 
 宇宙に広がる 
  朋友よ 幸せに 
  朋友よ 豊かに
平和のハトは
 蒼天に翔ぶ 
  朋友よ 明るく 
  朋友よ 健やかに
   
昭和60年10月7日
 「祈りと平和」の像建立1周年に寄せて

霊木「奇跡の銀杏」
(川崎大師 平間寺)

霊木「奇跡の銀杏」
 この銀杏は、第二次世界大戦の大空襲により幹の大半を焼失。今でも痕跡を樹木の根元に見ることができます。戦後、川崎大師はご信徒の信授により大本堂をはじめ七堂伽藍を復興。
同様にこの銀杏も奇跡的に蘇生、灰燼に帰した川崎大師の歴史を今に伝える古木であります。
「奇跡の銀杏」の樹勢にあやかり、健康長寿、心願成就を祈念ください。 
 平間寺

忠魂碑
(川崎大師 平間寺)

乃木希典書
明治三十七八年戦役(日露戦争)にて戦没した大師河原村出征軍人を祀る。
明治四十二一月建立。

川崎大師 平間寺

平間寺(へいけんじ)は真言宗智山派の大本山。
大治3年(1128)建立。本尊は弘法大師。

川崎大師駅へ。

発祥之地
京浜急行電鉄株式会社

京急「発祥之地」碑

 京浜急行電鉄株式会社は、明治31年2月25日 大師電気鉄道株式会社 として設立され、翌明治32年1月21日、川崎六郷橋~川崎大師間の営業を開始した。
 開業時の資本金は 9万8千円、営業路線は 単線2粁、車輌数は5両で 開業当時の営業報告書には、次の通りに記されている。
 
 全般ノ機械運転上成績好結果ニシテ一日モ運転ヲ中止セシ事ナク即チ 五月丗一日ニ至ル本期間ノ営業日数ハ一百三十一日ナリシ而シテ乗客ハ相応ニ多ク 毎月廿一日ノ如キハ非常ノ雑踏ヲ極メシモ線路ノ単線ナリシト車輌ノ不足ナリシ為メ 充分ニ乗客ヲ運ビ能ハザリシノ感アリ本期間平均一日一哩ノ乗車賃ハ 五拾円九拾銭二厘ニ相当セリ。元来本社ハ関東ニ於ケル電気鉄道ノ嚆矢ニシテ 成績ノ如何ハ将来電気鉄道事業ノ発達ニ重大ナル関係ヲ有セシモノナリ 幸ニシテ今ヤ営業初期ニ於テ相応ナル純益配当ノ報告をナスヲ得 又運転開始以来一人ノ負傷者ヲ生ズルナク毎月廿一日ノ如キ数万ノ老幼群集シ 往来叢ルガ如キ場所ニ於テ乗客ヲ満載シ乍ラ一日弐百五六十回余ノ運転ヲナシテ 過チナカリシハ実ニ本社ノ幸福ニシテ亦以テ電気鉄道ノ市街交通機関ニ適シ 更ニ危害ノ虞レナキヲ表示スルヲ得タルモノナリ

 かくて好調裡に営業を開始した大師電鉄は 同年4月 京浜電気鉄道と改称 昭和23年6月 京浜急行電鉄 となり 逐次事業の拡張を図って今日の隆昌をみるに至った。
 ここに創立70周年に当り
会社設立発起人代表 立川勇次郎 はじめ先人の遺徳を偲び 大師電鉄発祥のこの地 に本記念碑を建立する。
 昭和43年12月21日
  京浜急行電鉄株式会社

以上、川崎大師と若宮八幡宮を近代史・戦跡目線での参拝散策でした。

靖國神社・霊璽奉安祭(令和元年)

令和元年10月17日

靖國神社御創立150周年の節目の祭礼。

霊璽奉安祭

令和元年10月17日19時斎行

年の一度、この霊璽奉安祭にて、お名前が新たに明らかになった御英霊が靖國神社に祀られる。

お名前を書き記した名簿=霊璽簿は 御霊(みたま)の依代であり、この霊璽簿に御霊をお招きし、相殿から御本殿の正床に御奉還申し上げる祭典が霊璽奉安祭。

この霊璽奉安祭でもって、御英霊の御霊は霊璽簿(神霊名簿)から御本殿にお遷りなされ、そののちに、霊璽簿は御本殿後方の霊璽簿奉安殿へと鎮まることになる。

靖國神社の祭礼の中でも最も重き祭礼。

今年(令和元年)は7柱の御英霊がお祀り申し上げられたという。

この日、靖國神社の社頭に到着したのは18時45分でした。

雨上がりの社頭。

斎館では、祭主・祭員の神職の方々に修祓を。

19時
斎館より御社殿へと参進。

19時
御社殿では厳かに霊璽奉安祭が斎行。

國學院大學吹奏楽部とともに斎行される靖國神社の祭礼。

拝神の曲「国の鎮め」奉奏。

「オー」「オオォォォ」 神職による「警蹕」(けいひつ)が境内を木霊する。

國學院大學吹奏楽部による 「山の幸」が奉奏され、そして献饌。

宮司により祝詞が奏上される。

そして、御社殿の明かりが消え・・・

令和元年10月17日19時20分。

闇夜に包まれた聖域の中、
霊璽簿(神霊名簿)から御神体へと御御霊が御遷座なされる。
毎年、この秋の霊璽奉安祭にて明らかになった御英霊が新たに御本殿に祀られる。

長き年月を経て、ようやくに御祭神名が明らかになり、
こうして、新たに靖國の宮に祀られていく
御英霊に、
感謝と、
哀悼を、

246万6千余柱の御英霊に

明かりが戻る・・・

20時20分
祭主・祭員が退出

そして閉門へ。

ありがとうございます

興亜神社(亜細亜大学)

令和元年九月参拝・武蔵野市

友人より「亜細亜大学に興亜神社という神社があって・・・」と貴重な情報を耳にしたので、足を運んでみました。

興亜専門学校から亜細亜大学へ

昭和16年(1941)に設立された旧制専門学校。亜細亜大学の前身。

昭和16年4月財団法人興亜協会が創設。
同時に協会付属の専門学校として「興亜専門学校」が現在地に設立。
「大東亜共栄圏」建設のための有為な人材を養成する目的として開校。

終戦後の昭和20年9月25日に開かれた興亜協会理事会で「財団法人興亜協会」は「財団法人日本経済専門学校」となり「興亜専門学校」は「日本経済専門学校」と改称。
興亜専門学校大陸科と南洋科は廃止され、内地科を拡充した経済科が設置。その後、亜細亜大学へと変遷する。


亜細亜大学武蔵野キャンパス
体育館と8号館の裏にひっそりと佇む神社があった。

興亜神社

興亜専門学校(亜細亜大学)の戦没者97柱を祀る。
毎年11月3日に例祭が斎行されている。
例祭は同じ武蔵野市内の杵築大社の神職が御奉仕されている。

神社敷地は施錠されておりましたので、敷地外より遥拝。
施錠が日曜日だからか、普段からなのかは不詳。
敷地外より撮影。

戦没校友銘
97柱の御名と戦没地が記銘されている…

合掌


せっかくなので亜細亜大学構内を散策すると、なにやら銅像が目にとまる。

太田耕造初代学長胸像

太田耕造先生 岸信介 書
自助協力 大田耕造 書

大田耕造
1889年(明治22年)12月15日-1981年(昭和56年)11月26日
亜細亜大学の創立者のひとり。

東京帝国大学法学部英法科卒業の弁護士として活躍。
一方で平沼騏一郎主宰の国本社に参加し幹事を務める。
五・一五事件、血盟団事件にて被告弁護士。
1939年(昭和14年)1月発足の平沼騏一郎内閣では首相秘書官を務め同年4月には内閣書記官長(現在の官房長官相当)に就任。平沼内閣総辞職直前に貴族院勅選議員に勅任。公職追放される1945年まで貴族院議員。
1941年(昭和16年)興亜専門学校設立に関与。
1945年(昭和20年)鈴木貫太郎内閣では文部大臣を務める。
戦後は戦犯容疑を問われ巣鴨プリズンに勾留されるも不起訴出所。
その後は興亜専門学校の後進である亜細亜大学学長として活躍。
墓所は多磨霊園。


興亜神社
(亜細亜大学サイトより例祭の様子など)
例祭では、「海ゆかば」「第一学生歌」を献歌として斉唱しているという。

https://www.asia-u.ac.jp/information/campusmap/#anchor80

https://www.asia-u.ac.jp/asu_news/2018/11/6187/

宝塚聖天英霊礼拝堂「大光明殿」

令和元年9月参拝

宝塚市に鎮座している寺院。
「宝塚聖天了徳密院」

「ゼロ戦墓地」「零戦墓地」としても著名。
(不本意ながら心霊スポットとしても著名らしい)
噂は聞いており気になっていたところ、ちょうど関西方面に赴く用事がありましたので、これ幸いと脚を運んでみました。

宝塚聖天 英霊礼拝堂
大光明殿

終戦33周年の年、昭和53年8月に「戦没者英霊礼拝堂」として建立。
全国陸海空戦没者260万の英霊を祀る。

合掌

宝塚聖天英霊礼拝堂「大光明殿」建立縁起

 兵庫県宝塚市宝梅町の「宝塚聖天」(真言宗了徳密院)に此の度(昭和53年 )、英霊礼拝堂「大光明殿」が建立されました。此の礼拝堂は(写真)の如く堂上に祖国の勝利を信じ青春を捧げ国に奉じた戦没者の象徴として零式戦闘機(零式戦斗機)が安置されています。何故このような礼拝堂が此の寺に建立されたのか、その縁起を述べて一人でも多くの賛同者が出られることを願います。此の礼拝堂は、宝塚市に住む一人の信者K氏の寄進によって建立されました。K氏は少年の頃、その生れ故郷の山村には特攻隊の飛行訓練場がありました。いよいよ明日は出撃!「鹿屋」に飛立つ前夜の光景が、今でもありありと目の前に浮かぶのであります。「おばちゃん行って来ます!」と云って、K氏の母親の手を両手で握りしめた少年兵の姿!目に一杯涙をためて、K氏の姉と握手して別れて行った少年兵の顔!日の丸の鉢巻をシッカリとしめて操縦席に坐った雄雄しい姿!

 それを見送る家族の人々の涙一杯の顔!あれから三十三年経過しました。然し今尚ハッキリと胸に浮かぶのは、英霊となられた人々の其の時の心の中であります、見送る家族の人々の心の中であります。その心の中が痛い程ハッキリとK氏の胸に映るのであります。此の胸の痛みは、恰度其の同じ年齢と成った我が子の顔を見るにつけ一層切実と成るのであります。現在の世の中は坐っていて世界中の物が食べられます。テレビを見ていればパリの花も、ロンドンの川の流れも目の前に楽しみことが出来ます。然し一体、 これは誰のおかげなのか、私達に代わって国の為にあえて、何の疑いも持たず戦死された方々を忘れてはならない。其の方々の英霊をお祭りしなけれればならない。慰霊せねば罰があたる。家でも国でも同じことではないか。K氏はそんな思いで一杯でした。そんな心境の時に宝塚聖天の住職と出会ったのであります。

 宝塚聖天は、今から50年程前に日下義禅大僧正と宝塚市名士、平塚嘉右ヱ門翁との二人の力に依って開創された寺であります。日下義禅和尚は昭和9年6月15日、弘法大師降誕千五百年記念に陸軍省に爆撃機を献納した人であります。平塚嘉右ヱ門翁は宝塚ホテル宝塚ゴルフ場等を創設して、阪急電鉄創立者小林一三氏と共に宝塚市生みの親として敬愛され、現在宝塚市建立の「平塚嘉右ヱ門翁頌徳碑 」が宝塚聖天境内に建てられています。このような環境ですから、支那事変勃発するや直ちに、宝塚聖天隣接地に広々とした軍人墓地が開設されて堂々たる軍人のお墓がズラリとお祭りされています。

「お母ちゃん!あれ、誰のお墓なの?」
「アレはね、だまされて、戦争して、死んだ人のお墓なのよ!」
 何という言葉でしょう。鉛の煮え湯を呑まされた気がしました。一体全体、今の世の中は、どうなっているのか。第一、これで戦死した人々に対して、すむのか。遺族が聞いたらどんな気がするのか、こんな母親に育てられて日本の国の将来は、一体どうなるのか?唯々茫然とするバカリでした、と住職は嘆息しました。宝塚聖天の住職は、毎月靖國神社に「月参り」しています。靖国社頭の「英霊の遺書」に非常に感銘し、是非宝塚軍人墓地にも此の「英霊遺書」の掲示場を設けて、一人でも多くの人々に読んで頂き度いと念願していました。そんな時にK氏の家に頼まれて「神さん」をお祭りすることに成りました此時、K氏と住職と、二人の胸中は一度に爆発したのであります。そして英霊礼拝堂建立の話が宝塚聖天信徒総代須藤真男氏に相談され、茲に具体化して行ったのであり、須藤真男氏は平塚嘉右ヱ門翁の御令孫であります。

 合掌のその手で築こう世界の平和

 世界の平和は、先づ見えない英霊の慰霊鎮魂が根本であります。
青春を捧げ散っていった戦没者の象徴として、零式戦闘機を堂上に奉安しましょう。
 戦没者260万の英霊をお祭りしましょう。
 護国英霊、日清、日露戦役大東亜戦争の忠魂をお祭りしましょう。
 敵、味方怨親平等供養回向しましょう。
 遺品、遺書、写真、書籍等を出来るだけ、広く、多く永く子孫に伝へて、二度と再びかかる事なきよう世界の平和を誓いましょう。
 英霊の前に黙祷を捧げて、静かに英霊の声に耳を傾けましょう。

賛助団体(アイウエオ順 6月20日現在)
一、 一生会有志
一、  大阪市傷痍軍人会
一、  大阪市傷痍軍人妻の会
一、  金鵄会宝塚支部
一、  甲飛十期会有志
一、  三〇三会
一、  特操会
一、  陸軍特別操縦見習士官有志
一、  独立野砲第二聯隊
一、  三重空甲飛十一期会
一、  陸軍少年飛行兵有志
一、  陸軍少年飛行兵十五期会有志
一、  六親会
一、  その他五団体程度の申し込みがあります。

英霊礼拝堂 堂内

終戦33周年戦没者英霊堂 建立
願主 宝塚遺徳顕彰会
寄進 神戸道雄
設計 株式会社 宮本公務設計事務所
施工 中央建設 株式会社
零戦制作 全日本整備 株式会社
完成 1978年8月

記念樹靖国神社拝桜
昭和53年8月吉日

零式艦上戦闘機

英霊礼拝堂「大光明殿」堂上には、祖国の勝利を信じ青春を捧げ国に奉じた戦没者の象徴として零式戦闘機が安置されている。

カウル部分や20mm機銃なども再現されている。

機体番号は「63-888」
零戦五三型の胴体下に250キロ爆弾を設置した戦闘爆撃機型が零戦六三型。その「63」を意味しているものかどうかは不明。


神風特別攻撃隊之魁
甲飛十期之碑

甲飛十期(予科練・土浦空)は、特攻第一号となった神風特別攻撃隊・敷島隊に2名を出し、その魁となっている。

第一神風特別攻撃隊 敷島隊
昭和19年10月25日
マバラカット基地発 タクロバン沖機動部隊攻撃
零戦
大尉  関 行男  (愛媛・海兵70期) 戦闘301飛行隊
一飛曹 中野 盤雄 (福島・甲飛10期) 戦闘301飛行隊
一飛曹 谷 暢夫  (岐阜・甲飛10期) 戦闘305飛行隊

飛長  永峰 肇  (宮崎・丙飛15期) 戦闘305飛行隊
上飛  大黒 繁男 (愛媛・丙飛17期) 戦闘331飛行隊

 昭和初期、海軍航空戦力の急激な拡充を目指して、甲飛予科練制度が創設され、我々は昭和十七年(十九四二年)四月一日、土浦海軍航空隊に第十期甲種飛行予科練習生として入隊、秋霜烈日の猛訓練に耐え飛行練習生教程を終えて太平洋戦争決戦の大空へ巣立った。昭和十九年十月フィリピン・レイテ湾に米航空母艦三十数隻を含む大機動部隊が殺到、迎え撃つ我が栗田を主力とする連合艦隊とのフィリピン沖海戦は、太平洋戦争中最も熾烈な一大海空戦であった。時に第一航空艦隊司令長官大西滝治郎中将は、この国家存亡の瀬戸際こそ二百五十キロ爆弾を零戦に装着、一機一機肉弾体当り攻撃の他なしと決意し、十月十九日、第二〇一航空隊副長玉井中佐に特攻隊の編成を命じた。命を受けた彼は、かつての教え子甲飛十期の零戦搭乗員より二十四名を選抜し、第一神風特別攻撃隊を編成した。

ああ、これが特別攻撃隊の魁になろうとは

 敷島の大和心を人問わば 
  朝日に匂う山桜花(本居宣長)

 この歌より隊名を敷島、大和、朝日、山桜の四隊とし、直後菊水隊が加えられた。索敵数日、十月二十五日に至り各隊見敵に成功、祖国の安泰を祈り一矢報いる信念に燃え、全機突入多大の戦果を挙げた。若干20歳にも満たない若者がひたすら祖国最後の勝利を信じ、父母を思い故山を偲び、黙々とその任務を完遂して散華し、卒業時1004名の80%が還らぬ人となった。その崇高で至純な行為と精神を後世に伝え、霊を慰め徳を顕彰する為にこの碑を建立する。

飛天光明之珠海

レイテ海の真砂
この海に甲飛十期生が数多く特攻で散華し光明の珠となり輝いている。
甲飛十期會

あなたを忘れない

建記
一、地鎮祭 平成5年11月10日
一、定礎式 平成5年12月10日
一、題文 谷一枝書
一、碑文 甲飛十期會撰
一、タイムカプセル内に
散る桜 残る桜 甲飛十期の記録
 戦死者 名簿
 生存者 名簿
 醵金者 名簿
一、竣工除幕式 平成6年4月1日
甲飛十期會建立


戦没者追悼
平和祈念碑

終戦50周年記念 平成10年8月15日


中村純一中尉慰霊碑

君黙思不動
至誠廉潔士
祖国ノ難ニ殉ズ
兄等ノ礎ニ
日本ハ在リ
魂魄不滅

陸軍中尉中村純一は学鷲として阪神防衛に参戦
絶望的な戦局に動ぜず眦を決して天翔る
愛機飛燕を駆り凄絶死闘
夏蒼穹に光烈散華す
雲染めて声なし
時 昭和二十年七月九日 
於 大阪星田村 
特操一期 鹿児島二中 東京農大卒 
二十三歳  愛惜尽きず

鹿児島市 弟中村三郎建之
特別操縦見士官有志一同
昭和56年6月28日

中村純一陸軍中尉は特操1期。(特別操縦見習士官・学鷲)
昭和20年7月9日、陸軍・飛行第56戦隊は硫黄島より飛来したP51を迎撃するために伊丹飛行場より出撃。
三式戦「飛燕」で迎撃をした中村純一中尉は空中戦闘で被弾。脱出し落下降下中に敵機の翼で落下傘の紐が切断され、星田村(大阪府交野市)の水田に落下し戦死された。JR学研都市線・星田駅近くに慰霊碑あり。
被弾した飛燕は大阪府交野市星田北に墜落。
平成17年、第二京阪道路建設工事現場で搭乗機「飛燕」の部品(残骸)が発見されている。


宝塚軍人墓地

合掌


宝塚聖天了徳密院

七宝山了徳密院。宝塚の聖天さん。

七宝山了徳密院は大阪浦江福島聖天了徳院の別院として、大正8年、日下義禅大和尚(元真言宗東寺派管長)によって建立。

http://www.ryomitu.com/

神仏習合の寺院、聖天様。

夏空の下での参拝でした。

逆瀬川駅(さかせがわ)からバスでアクセスを。
地図にも「零戦」と記載されている場所。

靖國神社・旧外苑休憩所(解体済)

思えば、もっと写真をたくさん撮っておけばよかったです。

もとの建物は昭和11年に奉納されたのものでした。
靖國神社・外苑休憩所、在りし日の姿。
(令和元年10月10日に新休憩所がオープンしました。 )


平成30年6月17日撮影

休憩所の由来
 この建物は昭和十一年五月三十日東京家政学院の豊原繁尾先生の献納されたものである。
 先生は彦根藩士の女として生れ若くして國を思ふ心が強く日日靖國の社に参拝し英霊を慰めまた朝夕この休憩所において参拝者の世話にあたられた
 記して豊原先生の篤志を永く後世に伝へるものである
  昭和四十五年十月十八日
  靖國神社社務所
  学校法人 東京家政学院


平成29年7月14日撮影


平成29年3月11日撮影

昔ながらの牛丼、あの場所でもう一回食べたかった・・・


平成28年11月23日撮影

なぜか牛丼の写真ばかりデータに残っていました・・・


平成30年9月1日撮影


令和元年9月2日撮影

令和元年9月4日撮影

新休憩所は令和元年10月10日にオープンしました。
新たな名物は「特攻の母・鳥濱トメさんの玉子丼」

ひとまず〆

艦船の神棚(艦内神社・船内神社)

古来より船霊を祀った神棚が艦船に奉じられてきた。
それは現在の艦船においても変わらぬ姿。
さまざまな艦船の神棚(艦内神社・船内神社)を、以下に記録しておきます。

  • 「三笠」大日本帝国海軍 戦艦/記念艦
  • 「氷川丸」日本郵船/大日本帝国海軍 特設病院船
  • 「いずも」海上自衛隊 ヘリコプター搭載護衛艦
  • 「はるさめ」海上自衛隊 護衛艦
  • 「さみだれ」海上自衛隊 護衛艦
  • 「ひらど」海上自衛隊 掃海艦
  • 「はちじょう」海上自衛隊 掃海艦(除籍済)
  • 「うらが」海上自衛隊 掃海母艦
  • 「やまゆき」海上自衛隊 護衛艦/練習艦
  • 「しらせ」海上自衛隊 砕氷艦
  • 「YT-95」海上自衛隊 曳船95号
  • 「かとり」海上保安庁 (先代・除籍済)
  • 「宗谷」海上保安庁 保存船
  • 「みやこどり」東京消防庁 大型化学消防艇
  • 「白竜丸 」水産庁 漁業取締船
  • 「東光丸」 水産庁 漁業取締船
  • 「よこすか」海洋研究開発機構(JAMSTEC) 深海潜水調査船支援母船
  • 「海竜」 東京都港湾局 浚渫船
  • 「なとり」 井本商運 球状船首型内航コンテナ船
  • 「羊蹄丸」青函連絡船(解体済)

大日本帝国海軍
戦艦「三笠」(記念艦「三笠」)

2016年6月11日撮影

東郷神社 破魔矢

三笠神社(艦内神社)
日露戦争当時には現在のような艦内神社の姿ではなかったと思います。

三笠神社
 日本の軍艦には伊勢の大麻を受けて天照大神を艦内の神社に奉斎し、艦名を冠して、その艦の武運を念じ、また乗員に修行の糧とする風習がありました。
 三笠神社は、幸運や勝利が長く続くことを祈願して設けられました。

筥崎宮 敵国降伏 御守護

筥崎宮敵国降伏御守護
 現役中の三笠の艦長室に奉祀されてあった神棚です。1922(大正11)年9月、三笠が第4予備艦に定められ、艤装解除されることになった時、同月付きで第17代三笠艦長(大正11年6月9日-9月10日)から軍令部参謀に補職を命ぜられた八角三笠艦長(岩手県、海兵29、海軍中将、昭和40年・1・20没)が、歴代艦長によって大切に護持されてきた、この由緒あるお守りの行く末を案じられ、手元に安置されていました。記念艦三笠復元後も、変わることなく今日に伝わっている、いわれの深いものです。 

祈願文「敵国降伏」
国土の神聖を護持する神仏が、その不可思議な力-突然雷によって敵軍を撃ちのめすとか、台風で敵船を吹き帰すとか-によって、異敵を「降し伏する」ことを祈願する言葉。(日本の歴史8 黒田俊男著 中央公論社 66頁

 この祈願文は八幡大菩薩筥崎宮(福岡市東区箱崎町に鎮座)に伝わる社宝。国土防衛のシンボルとして知られています。
 現行(文永11(1274)年、弘安4(1281)年)の際、亀山上皇(第90代天皇、1249-1305)が蒙古幸福を祈願して、聖算の数だけ、諸方の神社に奉納された親書で、これはその一書であります。
 対馬方面に来襲した元・高麗の大兵船は大風雨により、壊滅、敗退しましたが、この大風雨は、神威によるものと信じられ、神風と呼ばれました。 

2003年9月4日撮影 筥崎宮
「敵国降伏」篇額

日本郵船
(大日本帝国海軍・特設病院船)
「氷川丸」

2016年8月28日撮影

大宮氷川神社 祈祷神璽

 氷川丸は埼玉縣大宮市高鼻に鎮まります武蔵國一の宮氷川神社の御守護を御願いして名付けられたものです
 二百三十八回の太平洋横断の歴史に長い年月も氷川神社の御守りによって無事努めを果し戦前造られた大きな船で現在残つているのはこの船唯一隻だけであります
今でも此の神棚には氷川神社をお祀りして氷川丸と御来船の皆様の幸福と安全を朝夕御祈り致しております

大宮氷川神社の御神紋「八雲」がインテリアとして氷川丸船内に取り入れられている。

海上自衛隊
護衛艦「いずも」

2019年10月撮影

出雲大社(島根)
神棚も「出雲大社型」
参拝も「出雲式」

食堂近くの通路際に

出雲大社拝礼方法
最初にお賽銭を入れる。
 賽銭箱に落とすように入れる。
  参考(15円  十分ご縁がありますように)
    (45円  始終ご縁がありますように)
    (415円  良いご縁がありますように)
 二拝する。
  腰を90度に曲げて深く礼をします。
 四拍手する。
  手を合わせた後は上下に少しずらして拍手する。
  これは、節合わせ→ふしあわせ→不幸せ を避けるという意味合い。
 神様に祈る。
  日頃の感謝を伝え、最後にお願い事をする。
 一拝する。
  最後にもう一度深く礼をする。

海上自衛隊
護衛艦「はるさめ」

2019年10月撮影

艦橋の後方に
 亀山八幡宮 神札(佐世保)
 宇佐神宮 海上安全守護(大分)
 金刀比羅宮 御供米(香川)
艦橋下の階段脇に
  「はるさめ」艦銘板は宇佐神宮宮司・到津公斎書

海上自衛隊
護衛艦「さみだれ」

2019年10月撮影

艦橋の艦長席上部に
 亀山神社(呉)
 天照皇大神宮
 金比羅宮
艦橋の階段下に
 「さみだれ」艦銘板は神宮権禰宜・熊谷泰揮毫 
 授贈は「戦艦三笠」

海上自衛隊
掃海艦「ひらど」

2019年10月撮影

食堂に神棚(ちゃんと撮影できませんでした・・・)

海上自衛隊
掃海艦「はちじょう」(除籍済)

2016年9月10日撮影

伊勢神宮・天照皇大神宮大々御神楽祈祷大麻
春日神社
金比羅宮
鵜戸神宮
筥崎八幡神社
立磐神社

海上自衛隊
掃海母艦「うらが」 MST-463

2018年8月4日撮影

伊勢神宮・天照皇大神宮大々御神楽祈祷大麻

海上自衛隊
「やまゆき」
護衛艦DD-129 →練習艦TV-3519

2014年7年27日撮影

神社名不明
(士官室の上、艦橋の下)

海上自衛隊
砕氷艦「しらせ」AGB-5003

2017年8月20日撮影

富士山本宮浅間大社

海上自衛隊
「YT-95」曳船95号(えい船)

令和元年11月撮影

走水神社

海上保安庁 銚子海上保安部
巡視船「かとり」PL125 (先代・除籍済)

2016年10月15日撮影

銚子川口神社 御神札
銚子川口神社 御潮祭

海上保安庁
巡視船 「宗谷」PL107(保存船)

操舵室の後方の海図室に神棚(船内神社)がある。
「宗谷神社」
富士山本宮浅間大社の浅間大神を勧請?という。

「戦時中、宗谷が沈まなかったのは艦内にあった宗谷神社のおかげ」と伝承され、戦後に「宗谷神社」が復活。
海上保安庁として、最初に誕生した船内神社。

神棚(宗谷神社)
宗谷は強運の船として崇められています。

東京消防庁
大型化学消防艇「みやこどり」

2017年5月28日撮影

神社名不明
(作戦室)

水産庁
漁業取締船「白竜丸」

2016年7月18日撮影

住吉神社御神札(山口下関か?)

水産庁
漁業取締船「東光丸」

2016年7月18日撮影

筥崎八幡宮 御神札(福岡・筥崎宮)
船魂神社 御朱印 (北海道)
虎ノ門金比羅宮 御朱印 (東京)

海洋研究開発機構(JAMSTEC)
深海潜水調査船支援母船「よこすか」

2016年7月18日撮影

金比羅宮
(操舵室)

東京都港湾局
浚渫船(しゅんせつ船)「海竜」

2017年5月28日撮影

金毘羅宮 御神札
(操舵室)

井本商運
球状船首型内航コンテナ船「なとり」

2016年7月18日撮影

金比羅宮 御神札(香川県)

青函連絡船
「羊蹄丸」(解体済)

2011年9月11日撮影

神社名不明

随時、見かけたら追加していきます

ひとまず〆

諏訪護國神社

平成28年4月参拝

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。

諏訪湖の高島城。その高島城のある高島公園の南端に鎮座。

諏訪護國神社

諏訪招魂社として明治33年(1900)に創建したことにはじまる。
諏訪市、岡谷市、茅野市、諏訪郡より出征されて、戦死・戦病死された英霊、並びに国家公共の為に尽くした人々の神霊を祀る。
内務省指定外護國神社。

ちなみに参拝時に、あっちこっちに水が流れ出しているのは、なぜか庭園の水が溢れていたため。

境内に存在感のある胸像があった。

永田鉄山中将像

永田鉄山
明治17年(1884)11月14日-昭和10年(1935)8月12日
長野県諏訪郡上諏訪町本町(諏訪市)出身
永田家は代々、高島藩の藩医を努めてきた家であった。
高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現在の諏訪市立高島小学校)に入学。
父に死去に伴い東京牛込に転校し、明治31年に東京陸軍地方幼年学校に入校。
明治37年(1904)、陸軍士官学校を16期主席卒業。
昭和7年(1932)、陸軍少将に昇進。昭和9年、陸軍省軍務局長に就任。

永田軍務局長の押し進めた人事の刷新(派閥排除)は、皇道派の大御所である真崎甚三郎教育総監の逆麟に触れ、たまりかねた永田軍務局長は今井清人事局長とはかり、真崎教育総監を昭和10年7月に更迭。

相沢事件(永田事件・永田局長惨殺事件)
昭和10年(1935)8月12日、行動派の真崎甚三郎教育総監更迭に憤激し皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派の陸軍省軍務局長永田鉄山陸軍少将を惨殺した事件。その後の二・二六事件につながる。
永田鉄山は死後に陸軍中将昇進。

永田鉄山中将胸像碑文
(カタカナを平仮名に置き換え句読点を補完しました)

永田鉄山中将は明治十七年一月十四日上諏訪町本町に生まる。
郡立高島病院長永田志解理氏の四男なり。
高島尋常高等小学校に学ぶ年少志を立てて東京陸軍地方幼年学校に入り進みて陸軍士官学校陸軍大学校を卒ふ。
天禀の優秀に加ふるに非凡の勉強を以てし各校の卒業毎に成績抜群にして恩賜賞を授与せらる。
夙に上司の属望を受け官命に由つて渡欧する事三度、入りては陸軍省参謀本部教育総監部の諸要職に就き、出でては歩兵第三連隊長第一旅団長たり、遂に陸軍軍政の中心軍務局長に補せらる。
中将頭脳明晰識見高邁裁決流るるが如く思慮周到造詣深遠難局に処して苟も挙借を謬らず、最も独創企画に秀で軍隊教育令青少年訓練国家総動員等中将の立案献策に係るもの少なからず、国軍の進展に寄与せる所絶大なり。
陸軍の至宝として永田の前に永田無く永田の後に永田無しと称せらる。
多年意を大陸国策の研究に注ぐ。
満州事変以来の非常時局に際し其蘊蓄を傾け枢機に参画して処信に邁進せる間妖言累を及ぼし、昭和十年八月十二日不慮の災禍に遭つて執務中局長室に斃る。
享年五十二歳なり。
中将の死は真に身命を君国に処せるもの正に戦場の死と択ぶ所無し。
因て同郷の有志協議地を此処にとし中将の胸像を建て、以て此の偉材の英姿を永遠に伝へんとす。
 昭和十三年十一月十三日 永田鉄山中将記念会

この胸像は先の太平洋戦争に際して金属回収のため撤去したるも、このたび故人を崇敬する有志により新たに台石を築造原位置に復旧するを得たものである。
 昭和四十年四月十一日 
 永田鉄山中将胸像復旧期成同盟会

鎮魂慰霊碑
御祭神御英霊の尊い犠牲により今日の平和と繁栄があります。英霊奉賛の為に諏訪郡市軍人恩給者連盟は全国連盟五十周年記念事業として建立致します。
 平成16年11月吉日
 諏訪護国神社宮司 有賀寛典
 長野県軍恩連盟 諏訪郡市協議会

二・二六事件に関してはこちらも。


せっかくなので諏訪護國神社のある「高島城」にも触れておきます。

高島城

天正18年(1590)に日根野高吉によって築城。
これまで鎮座していた八剣神社を遷座させて、文禄元年(1592)着工。
慶長3年(1598)完成。
典型的な水城で「諏訪の浮城」と称された。

日根野氏以降は旧領主諏訪氏が復領し幕末まで諏訪氏代々の城となる。
明治8年1875に天守以下建造物は破却。
現在の天守・櫓・門・塀は昭和45年(1970)の復元。


諏訪と言われて何を思い出すだろうか?
少なくとも、私ですら流石に一番最初に「永田鉄山」は思い出さない。

諏訪大社、諏訪湖、温泉。
諏訪ゆかりの人物でと言ったら、諏訪姫とか武田勝頼とかを思い出すのが無難なところであるが、諏訪と言われて私は一人の鬼っ子を思い出してしまった。
鬼っ子といわれた悲運の男。 家康公の六男…

高島城の南之丸跡。現在は諏訪市役所。
その駐車場の片隅に祠がある。

松平忠輝公館跡
(高島城南之丸)

この南之丸跡に「松平忠輝公神社」ともいうべき小祠が鎮座している。
忠輝公が人生の大半を過ごしたのが高島城南之丸…

高島城南之丸跡
 高島城本丸の南方にある一郭を南之丸という。松平忠輝のお預かりを勤めて以来整備され、以後、高島藩が江戸幕府の罪人を預かった場所である。周囲は湿地で、堀と柵とで厳重に囲われ、ただ一つの橋が城に通じているだけの孤立した郭であった。
 忠輝は、徳川家康の六男で越後高田六〇万石の城主であったが、大坂夏の陣直後の元和元年(一六一五)家康から勘当を申し渡され、翌年幕府から改易され、正室五郎八(いろは)姫(伊達正宗の長女)とも離別、伊勢朝熊で二年、飛騨高山で七年過ごしたのち、寛永三年(一六二六)から初代高島藩主諏訪頼水が預かった。改易の理由は、乱暴な性格とも、大久保長安等と天下取りを企てたからとも伝えられるが、真相は不明である。
 忠輝の南之丸での生活は、外部との交渉を絶たれた寂しいものではあったが、家臣は諏訪で抱えた者を加えると八五人にもなり、大名の格式をもって生活した。五八年間の長きに渡り不遇な境涯にあったが、文芸に心を慰め、余生を楽しんだという。天和三年(一六八三)、九三歳の生涯をここで閉じ、市内の貞松院に葬られた。
 その後、幕府の儀式を司る高家を務めていた吉良上野介義央の養嗣子である吉良義周(よしちか)が、赤穂浪士襲撃事件後の評定によって、領地を召し上げられ元禄一六年(一七〇三)に四代藩主諏訪忠虎へお預けとなった。高島藩では南之丸を修理し住まわせたが、三年後の宝永三年(一七〇六)に病没、市内の法華寺に葬られた。以後も数人の預かり人がいたが、幕末までにはこの場所は「御茶園」となったようである。
 諏訪市教育委員会

松平忠輝公

越後高田75万石の大名であり徳川家康の六男。越後少将。

東北の雄たる伊達政宗の長女いろは姫を娶り家康公の息子であったにも関わらず、元和2年(1616)に高田藩は改易され忠輝公は配流。

元和2年(1616)25歳の時に改易され配流。伊勢朝熊で2年、飛騨高山で8年、そして寛永3年35歳のときに諏訪高島城南の丸に移り、その後58年を諏訪で過ごす。
天和3年(1683・五代綱吉の治世)に諏訪高島城南之丸で92歳の生涯を終える。
諏訪高島藩にとってなんとも厄介なお荷物であったろう。なんせ、この流人は藩主諏訪氏よりも位階が高く(藩主・諏訪頼水公は従五位下因幡守に対して、忠輝公は従四位下左近衛権少将)、さらには東照大権現・家康公の六男。そんな人物が58年間をこの諏訪高島城で過ごしていた。

ちなみに、 南の丸には松平忠輝のあとには赤穂事件の吉良上野介の子である吉良義周も配流されてきている。

歴史の上では松平忠輝という人物は何ら重要ではない。
教科書的には徳川家康の御子として兄の松平信康、(結城)秀康、そして二代将軍秀忠、弟の紀州・尾張・水戸御三家の間に埋もれ名前すら記載されていない。

私は、そんな松平忠輝という人物がどことなく好き。それは伊達政宗との縁かもしれない。忠輝の妻は政宗の長女いろは姫。天下を搖さぶり続けた政宗に翻弄され、実力を発揚する機会もないまま将軍秀忠に恐れられ改易。
そんな忠輝であったが、信長・秀吉・家康と伝えられた天下取りの名笛「野風」を父から賜り、笛を吹きつつ長き半生を諏訪湖畔で風流にすごした。
実際の忠輝はどのような人物であったかは知らない。
痛快な時代小説『捨て童子・松平忠輝』(隆慶一郎著)のような鬼っ子のイメージが強いが、家康の嫡子として信長に恐れられ自害させられた長男信康や、秀吉に疎まれ結城家に養子と出された次男秀康のような英雄型の人物であったとされている。

捨て童子・松平忠輝 隆慶一郎著
隆の代表作「影武者徳川家康」でスパイスを効かせていた忠輝は、この「 捨て童子 」で主役となる。

松平忠輝の墓は高島城の北東にある「貞松院」にある。
「東に忠輝、西に光悦」といわれたほどの名墓碑であり、忠輝が生前自ら撰んだ墓石であるという。

貞松院

ここに松平忠輝公の墓所がある。

また、忠輝公の遺品もある。
信長・秀吉・家康と天下人に受け継がれた銘笛「乃可勢」(野風)などが有名。ただし非公開、以下の公式サイトで拝見できます。

迎冬山 貞松院 月仙寺 サイト  

http://teishoin.jp/jihou.html

松平忠輝公墓
 寂林院殿心誉輝窓月仙大居士

貞松院・松平忠輝公墓
木立の下に一際に大きな墓石がある。
隆慶一郎の著作で忠輝公に魅了され、その数奇な運命を知って以来、ずっとお参りしたいと思っていました。 ようやく、訪れる事が出来ました。
合掌

松平忠輝公の略歴
文禄元年(1592)、江戸城において出生。家康公六男、母は茶阿の方、幼名辰千代。11歳で上総介に任ぜられ、14歳で参内し、従四位叙任、右近衛少将に補せらる。また同年将軍の名代として大阪城に秀頼を訪い、豊臣、徳川両家の緊張緩和に功績を挙げる。15歳、政宗公の娘五郎八姫と結婚。19歳にして越後60万石の大大名となる。その性俊英にして果敢、気宇また壮大、開国思想を持った逸材。たまたま鎖国政策に向かう幕府に入れられず、また政宗公や大久保長安との関係も幕府の注目するところとなり、大阪夏の陣後、怠戦等些細な理由で25歳元和2年改易された。伊勢に3年、飛騨に7年、35歳寛永3年当地に配流。当藩主頼水公は南の丸を整備して迎え厚遇した。この地に住むこと58年間、天和3年(1683)7月3日、93歳を一期に没せられ、当院に葬られた。生前当地の文化向上に多大な影響を与え、今日も郷土の恩人として敬われている。

境内には諏訪藩医井出家の墓所もありました。家康の侍医であった片山宗哲が、諏訪に流されていたときの縁で井出氏が諏訪藩医に。二代目井手苔庵は松平忠輝公の最期も看取っていた。

近代史跡や戦跡からは脱線してしまいましたが、たまにはこういうこともあります。

靖國神社の御神菓

令和元年(2019)ほか

正式参拝(昇殿参拝)の撤下神饌

昇殿参拝の撤下神饌では、羊羹がお頒かちされます。
靖國神社すぐ近く、靖国通りに店舗を構える「 宝来屋本店 」さん。
明治元年(1868)創業。

撤下神饌
この撤下神饌は大前にお供えした神饌の一部です。
皆様におさがりとして、お頒かち致します。どうぞ神霊の御加護のもと、ご健勝にお過ごしください。
靖國神社

九段・宝来屋サイト

ホームページ

例大祭

撤下神饌
新宿中村屋の大月餅と金平糖。
大月餅は靖國神社御神紋。
たいへん大きくズッシリした月餅。

靖國神社では、新宿中村屋の月餅が定期的に神菓としてお頒かちされます。

2019年正月 

神菓
「靖國紋」と「干支・猪柄」の月餅

2018年秋
(靖國神社秋の夜長参拝)

神菓
「靖國神社御神紋」と「中秋の名月を愛でる兎」

2018年正月

神菓
「靖國紋」と「干支・戌柄」の月餅

2017年秋
(靖國神社みらいとてらす)

神菓
「靖國神社御神紋」と「中秋の名月を愛でる兎」

2017年正月

神菓
「靖國紋」と「干支・酉柄」の月餅

2016年正月

九段・宝来屋の和三盆糖入り菓子

2015年正月

九段・宝来屋の和三盆糖入り菓子


靖國神社の御神酒