「靖國・護國・神社仏閣」カテゴリーアーカイブ

「若宮八幡宮と川崎大師」周辺の戦跡散策

令和元年10月

川崎でちょっとだけ時間が出来たので、京急大師線で川崎大師駅まで足を伸ばしてみました。

若宮八幡宮御本殿
(旧川中島国民学校奉安殿)

若宮八幡宮本殿
旧川中島国民学校奉安殿

昭和12年4月
川崎市立大師尋常小学校より分立独立して「川崎市立川中島尋常小学校」として創立。
昭和16年4月「川崎市立川中島国民学校」と名称変更。(現在の川崎市立川中島小学校)
「奉安殿」の創建年代は不詳。1935年(昭和10年)頃に全国各地の小学校にて奉安殿建設が活発化してきたという。

若宮八幡宮が戦災で焼失してしまい、戦後に「川中島国民小学校」から奉安殿を移設し、若宮八幡宮の本殿として再活用。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

若宮八幡宮(川崎)

旧大師河原総鎮守
境内には「かなまら祭」で有名な金山神社がある。
室町期1500年代の創建。
創建以来、川崎大師平間寺の鎮守社。明治の神仏分離で平間寺から独立。

境内社の金山神社

若宮八幡宮から川崎大師へ移動。

祈りと平和の像
(川崎大師 平間寺)

川崎大師境内に、弘法大師1150年遠忌を記念して昭和59年(1984)建立。制作者は円鍔勝三。
中央には富士山の上に降臨した観音をモチーフとした女神が「祈り」、周囲には鹿野苑で楽器を奏でる天女たちが「平和」を表している。

一心祈念 恒久平和
     大本山川崎大師 平間寺
一盌からピースフルネスを
     茶道裏千家淡交会川崎支部
修練 奉仕 友情
     社団法人川崎青年会議所

「祈りと平和」の像に寄す
 茶道裏千家家元勤仕による当山ご供茶式と茶道裏千家淡交会川崎支部、川崎青年会議所、川崎大師平間寺共催の大茶会は、三者の協調に献身的な努力のもとに、大いに地域社会の文化向上に寄与し、ここに、心新たに意義ある20周年を迎えた。
 本年、宗祖弘法大師壱千百五十年御遂忌並びに、当山吉例十年目ごと大開帳奉修の法縁にあたり、大師の鴻恩に報謝の誠を捧げ三者の目的達成、発展を期するとともに、更に祈りに徹してやすらぎに住し、永遠の平和を願う真心を伝承せんがために、ここにこの像を建立する。
 作者は、霊峰冨士の頂上に来迎された観世音菩薩(女神)の天にひろがる大慈悲心と釈尊の初転法輪の聖地・鹿野苑にみなぎる世界永遠の平和の祈りを象徴されている。
 因みに、彫刻家である、文化功労者・日本芸術院会員・圓鍔勝三先生にこの制作を依頼した。
 昭和59年10月7日 
  大本山平間寺貫首
   第四十四世 
   中興第一世 
    大僧正 隆天

「祈りと平和」像賛歌
   貫主 高橋隆元
いまここに
  仰がん祈りの像
いまここに
  讃えん平和の像  
みほとけは
  女神とともに
  神鹿のあそぶ苑に
 平和を奏でて
  人びとを見まもり
 慈悲の
  まなざしを示し給う 
祈りの声は 
 宇宙に広がる 
  朋友よ 幸せに 
  朋友よ 豊かに
平和のハトは
 蒼天に翔ぶ 
  朋友よ 明るく 
  朋友よ 健やかに
   
昭和60年10月7日
 「祈りと平和」の像建立1周年に寄せて

霊木「奇跡の銀杏」
(川崎大師 平間寺)

霊木「奇跡の銀杏」
 この銀杏は、第二次世界大戦の大空襲により幹の大半を焼失。今でも痕跡を樹木の根元に見ることができます。戦後、川崎大師はご信徒の信授により大本堂をはじめ七堂伽藍を復興。
同様にこの銀杏も奇跡的に蘇生、灰燼に帰した川崎大師の歴史を今に伝える古木であります。
「奇跡の銀杏」の樹勢にあやかり、健康長寿、心願成就を祈念ください。 
 平間寺

忠魂碑
(川崎大師 平間寺)

乃木希典書
明治三十七八年戦役(日露戦争)にて戦没した大師河原村出征軍人を祀る。
明治四十二一月建立。

川崎大師 平間寺

平間寺(へいけんじ)は真言宗智山派の大本山。
大治3年(1128)建立。本尊は弘法大師。

川崎大師駅へ。

発祥之地
京浜急行電鉄株式会社

京急「発祥之地」碑

 京浜急行電鉄株式会社は、明治31年2月25日 大師電気鉄道株式会社 として設立され、翌明治32年1月21日、川崎六郷橋~川崎大師間の営業を開始した。
 開業時の資本金は 9万8千円、営業路線は 単線2粁、車輌数は5両で 開業当時の営業報告書には、次の通りに記されている。
 
 全般ノ機械運転上成績好結果ニシテ一日モ運転ヲ中止セシ事ナク即チ 五月丗一日ニ至ル本期間ノ営業日数ハ一百三十一日ナリシ而シテ乗客ハ相応ニ多ク 毎月廿一日ノ如キハ非常ノ雑踏ヲ極メシモ線路ノ単線ナリシト車輌ノ不足ナリシ為メ 充分ニ乗客ヲ運ビ能ハザリシノ感アリ本期間平均一日一哩ノ乗車賃ハ 五拾円九拾銭二厘ニ相当セリ。元来本社ハ関東ニ於ケル電気鉄道ノ嚆矢ニシテ 成績ノ如何ハ将来電気鉄道事業ノ発達ニ重大ナル関係ヲ有セシモノナリ 幸ニシテ今ヤ営業初期ニ於テ相応ナル純益配当ノ報告をナスヲ得 又運転開始以来一人ノ負傷者ヲ生ズルナク毎月廿一日ノ如キ数万ノ老幼群集シ 往来叢ルガ如キ場所ニ於テ乗客ヲ満載シ乍ラ一日弐百五六十回余ノ運転ヲナシテ 過チナカリシハ実ニ本社ノ幸福ニシテ亦以テ電気鉄道ノ市街交通機関ニ適シ 更ニ危害ノ虞レナキヲ表示スルヲ得タルモノナリ

 かくて好調裡に営業を開始した大師電鉄は 同年4月 京浜電気鉄道と改称 昭和23年6月 京浜急行電鉄 となり 逐次事業の拡張を図って今日の隆昌をみるに至った。
 ここに創立70周年に当り
会社設立発起人代表 立川勇次郎 はじめ先人の遺徳を偲び 大師電鉄発祥のこの地 に本記念碑を建立する。
 昭和43年12月21日
  京浜急行電鉄株式会社

以上、川崎大師と若宮八幡宮を近代史・戦跡目線での参拝散策でした。

靖國神社・霊璽奉安祭(令和元年)

令和元年10月17日

靖國神社御創立150周年の節目の祭礼。

霊璽奉安祭

令和元年10月17日19時斎行

年の一度、この霊璽奉安祭にて、お名前が新たに明らかになった御英霊が靖國神社に祀られる。

お名前を書き記した名簿=霊璽簿は 御霊(みたま)の依代であり、この霊璽簿に御霊をお招きし、相殿から御本殿の正床に御奉還申し上げる祭典が霊璽奉安祭。

この霊璽奉安祭でもって、御英霊の御霊は霊璽簿(神霊名簿)から御本殿にお遷りなされ、そののちに、霊璽簿は御本殿後方の霊璽簿奉安殿へと鎮まることになる。

靖國神社の祭礼の中でも最も重き祭礼。

今年(令和元年)は7柱の御英霊がお祀り申し上げられたという。

この日、靖國神社の社頭に到着したのは18時45分でした。

雨上がりの社頭。

斎館では、祭主・祭員の神職の方々に修祓を。

19時
斎館より御社殿へと参進。

19時
御社殿では厳かに霊璽奉安祭が斎行。

國學院大學吹奏楽部とともに斎行される靖國神社の祭礼。

拝神の曲「国の鎮め」奉奏。

「オー」「オオォォォ」 神職による「警蹕」(けいひつ)が境内を木霊する。

國學院大學吹奏楽部による 「山の幸」が奉奏され、そして献饌。

宮司により祝詞が奏上される。

そして、御社殿の明かりが消え・・・

令和元年10月17日19時20分。

闇夜に包まれた聖域の中、
霊璽簿(神霊名簿)から御神体へと御御霊が御遷座なされる。
毎年、この秋の霊璽奉安祭にて明らかになった御英霊が新たに御本殿に祀られる。

長き年月を経て、ようやくに御祭神名が明らかになり、
こうして、新たに靖國の宮に祀られていく
御英霊に、
感謝と、
哀悼を、

246万6千余柱の御英霊に

明かりが戻る・・・

20時20分
祭主・祭員が退出

そして閉門へ。

ありがとうございます

興亜神社(亜細亜大学)

令和元年九月参拝・武蔵野市

友人より「亜細亜大学に興亜神社という神社があって・・・」と貴重な情報を耳にしたので、足を運んでみました。

興亜専門学校から亜細亜大学へ

昭和16年(1941)に設立された旧制専門学校。亜細亜大学の前身。

昭和16年4月財団法人興亜協会が創設。
同時に協会付属の専門学校として「興亜専門学校」が現在地に設立。
「大東亜共栄圏」建設のための有為な人材を養成する目的として開校。

終戦後の昭和20年9月25日に開かれた興亜協会理事会で「財団法人興亜協会」は「財団法人日本経済専門学校」となり「興亜専門学校」は「日本経済専門学校」と改称。
興亜専門学校大陸科と南洋科は廃止され、内地科を拡充した経済科が設置。その後、亜細亜大学へと変遷する。


亜細亜大学武蔵野キャンパス
体育館と8号館の裏にひっそりと佇む神社があった。

興亜神社

興亜専門学校(亜細亜大学)の戦没者97柱を祀る。
毎年11月3日に例祭が斎行されている。
例祭は同じ武蔵野市内の杵築大社の神職が御奉仕されている。

神社敷地は施錠されておりましたので、敷地外より遥拝。
施錠が日曜日だからか、普段からなのかは不詳。
敷地外より撮影。

戦没校友銘
97柱の御名と戦没地が記銘されている…

合掌


せっかくなので亜細亜大学構内を散策すると、なにやら銅像が目にとまる。

太田耕造初代学長胸像

太田耕造先生 岸信介 書
自助協力 大田耕造 書

大田耕造
1889年(明治22年)12月15日-1981年(昭和56年)11月26日
亜細亜大学の創立者のひとり。

東京帝国大学法学部英法科卒業の弁護士として活躍。
一方で平沼騏一郎主宰の国本社に参加し幹事を務める。
五・一五事件、血盟団事件にて被告弁護士。
1939年(昭和14年)1月発足の平沼騏一郎内閣では首相秘書官を務め同年4月には内閣書記官長(現在の官房長官相当)に就任。平沼内閣総辞職直前に貴族院勅選議員に勅任。公職追放される1945年まで貴族院議員。
1941年(昭和16年)興亜専門学校設立に関与。
1945年(昭和20年)鈴木貫太郎内閣では文部大臣を務める。
戦後は戦犯容疑を問われ巣鴨プリズンに勾留されるも不起訴出所。
その後は興亜専門学校の後進である亜細亜大学学長として活躍。
墓所は多磨霊園。


興亜神社
(亜細亜大学サイトより例祭の様子など)
例祭では、「海ゆかば」「第一学生歌」を献歌として斉唱しているという。

https://www.asia-u.ac.jp/information/campusmap/#anchor80

https://www.asia-u.ac.jp/asu_news/2018/11/6187/

宝塚聖天英霊礼拝堂「大光明殿」

令和元年9月参拝

宝塚市に鎮座している寺院。
「宝塚聖天了徳密院」

「ゼロ戦墓地」「零戦墓地」としても著名。
(不本意ながら心霊スポットとしても著名らしい)
噂は聞いており気になっていたところ、ちょうど関西方面に赴く用事がありましたので、これ幸いと脚を運んでみました。

宝塚聖天 英霊礼拝堂
大光明殿

終戦33周年の年、昭和53年8月に「戦没者英霊礼拝堂」として建立。
全国陸海空戦没者260万の英霊を祀る。

合掌

宝塚聖天英霊礼拝堂「大光明殿」建立縁起

 兵庫県宝塚市宝梅町の「宝塚聖天」(真言宗了徳密院)に此の度(昭和53年 )、英霊礼拝堂「大光明殿」が建立されました。此の礼拝堂は(写真)の如く堂上に祖国の勝利を信じ青春を捧げ国に奉じた戦没者の象徴として零式戦闘機(零式戦斗機)が安置されています。何故このような礼拝堂が此の寺に建立されたのか、その縁起を述べて一人でも多くの賛同者が出られることを願います。此の礼拝堂は、宝塚市に住む一人の信者K氏の寄進によって建立されました。K氏は少年の頃、その生れ故郷の山村には特攻隊の飛行訓練場がありました。いよいよ明日は出撃!「鹿屋」に飛立つ前夜の光景が、今でもありありと目の前に浮かぶのであります。「おばちゃん行って来ます!」と云って、K氏の母親の手を両手で握りしめた少年兵の姿!目に一杯涙をためて、K氏の姉と握手して別れて行った少年兵の顔!日の丸の鉢巻をシッカリとしめて操縦席に坐った雄雄しい姿!

 それを見送る家族の人々の涙一杯の顔!あれから三十三年経過しました。然し今尚ハッキリと胸に浮かぶのは、英霊となられた人々の其の時の心の中であります、見送る家族の人々の心の中であります。その心の中が痛い程ハッキリとK氏の胸に映るのであります。此の胸の痛みは、恰度其の同じ年齢と成った我が子の顔を見るにつけ一層切実と成るのであります。現在の世の中は坐っていて世界中の物が食べられます。テレビを見ていればパリの花も、ロンドンの川の流れも目の前に楽しみことが出来ます。然し一体、 これは誰のおかげなのか、私達に代わって国の為にあえて、何の疑いも持たず戦死された方々を忘れてはならない。其の方々の英霊をお祭りしなけれればならない。慰霊せねば罰があたる。家でも国でも同じことではないか。K氏はそんな思いで一杯でした。そんな心境の時に宝塚聖天の住職と出会ったのであります。

 宝塚聖天は、今から50年程前に日下義禅大僧正と宝塚市名士、平塚嘉右ヱ門翁との二人の力に依って開創された寺であります。日下義禅和尚は昭和9年6月15日、弘法大師降誕千五百年記念に陸軍省に爆撃機を献納した人であります。平塚嘉右ヱ門翁は宝塚ホテル宝塚ゴルフ場等を創設して、阪急電鉄創立者小林一三氏と共に宝塚市生みの親として敬愛され、現在宝塚市建立の「平塚嘉右ヱ門翁頌徳碑 」が宝塚聖天境内に建てられています。このような環境ですから、支那事変勃発するや直ちに、宝塚聖天隣接地に広々とした軍人墓地が開設されて堂々たる軍人のお墓がズラリとお祭りされています。

「お母ちゃん!あれ、誰のお墓なの?」
「アレはね、だまされて、戦争して、死んだ人のお墓なのよ!」
 何という言葉でしょう。鉛の煮え湯を呑まされた気がしました。一体全体、今の世の中は、どうなっているのか。第一、これで戦死した人々に対して、すむのか。遺族が聞いたらどんな気がするのか、こんな母親に育てられて日本の国の将来は、一体どうなるのか?唯々茫然とするバカリでした、と住職は嘆息しました。宝塚聖天の住職は、毎月靖國神社に「月参り」しています。靖国社頭の「英霊の遺書」に非常に感銘し、是非宝塚軍人墓地にも此の「英霊遺書」の掲示場を設けて、一人でも多くの人々に読んで頂き度いと念願していました。そんな時にK氏の家に頼まれて「神さん」をお祭りすることに成りました此時、K氏と住職と、二人の胸中は一度に爆発したのであります。そして英霊礼拝堂建立の話が宝塚聖天信徒総代須藤真男氏に相談され、茲に具体化して行ったのであり、須藤真男氏は平塚嘉右ヱ門翁の御令孫であります。

 合掌のその手で築こう世界の平和

 世界の平和は、先づ見えない英霊の慰霊鎮魂が根本であります。
青春を捧げ散っていった戦没者の象徴として、零式戦闘機を堂上に奉安しましょう。
 戦没者260万の英霊をお祭りしましょう。
 護国英霊、日清、日露戦役大東亜戦争の忠魂をお祭りしましょう。
 敵、味方怨親平等供養回向しましょう。
 遺品、遺書、写真、書籍等を出来るだけ、広く、多く永く子孫に伝へて、二度と再びかかる事なきよう世界の平和を誓いましょう。
 英霊の前に黙祷を捧げて、静かに英霊の声に耳を傾けましょう。

賛助団体(アイウエオ順 6月20日現在)
一、 一生会有志
一、  大阪市傷痍軍人会
一、  大阪市傷痍軍人妻の会
一、  金鵄会宝塚支部
一、  甲飛十期会有志
一、  三〇三会
一、  特操会
一、  陸軍特別操縦見習士官有志
一、  独立野砲第二聯隊
一、  三重空甲飛十一期会
一、  陸軍少年飛行兵有志
一、  陸軍少年飛行兵十五期会有志
一、  六親会
一、  その他五団体程度の申し込みがあります。

英霊礼拝堂 堂内

終戦33周年戦没者英霊堂 建立
願主 宝塚遺徳顕彰会
寄進 神戸道雄
設計 株式会社 宮本公務設計事務所
施工 中央建設 株式会社
零戦制作 全日本整備 株式会社
完成 1978年8月

記念樹靖国神社拝桜
昭和53年8月吉日

零式艦上戦闘機

英霊礼拝堂「大光明殿」堂上には、祖国の勝利を信じ青春を捧げ国に奉じた戦没者の象徴として零式戦闘機が安置されている。

カウル部分や20mm機銃なども再現されている。

機体番号は「63-888」
零戦五三型の胴体下に250キロ爆弾を設置した戦闘爆撃機型が零戦六三型。その「63」を意味しているものかどうかは不明。


神風特別攻撃隊之魁
甲飛十期之碑

甲飛十期(予科練・土浦空)は、特攻第一号となった神風特別攻撃隊・敷島隊に2名を出し、その魁となっている。

第一神風特別攻撃隊 敷島隊
昭和19年10月25日
マバラカット基地発 タクロバン沖機動部隊攻撃
零戦
大尉  関 行男  (愛媛・海兵70期) 戦闘301飛行隊
一飛曹 中野 盤雄 (福島・甲飛10期) 戦闘301飛行隊
一飛曹 谷 暢夫  (岐阜・甲飛10期) 戦闘305飛行隊

飛長  永峰 肇  (宮崎・丙飛15期) 戦闘305飛行隊
上飛  大黒 繁男 (愛媛・丙飛17期) 戦闘331飛行隊

 昭和初期、海軍航空戦力の急激な拡充を目指して、甲飛予科練制度が創設され、我々は昭和十七年(十九四二年)四月一日、土浦海軍航空隊に第十期甲種飛行予科練習生として入隊、秋霜烈日の猛訓練に耐え飛行練習生教程を終えて太平洋戦争決戦の大空へ巣立った。昭和十九年十月フィリピン・レイテ湾に米航空母艦三十数隻を含む大機動部隊が殺到、迎え撃つ我が栗田を主力とする連合艦隊とのフィリピン沖海戦は、太平洋戦争中最も熾烈な一大海空戦であった。時に第一航空艦隊司令長官大西滝治郎中将は、この国家存亡の瀬戸際こそ二百五十キロ爆弾を零戦に装着、一機一機肉弾体当り攻撃の他なしと決意し、十月十九日、第二〇一航空隊副長玉井中佐に特攻隊の編成を命じた。命を受けた彼は、かつての教え子甲飛十期の零戦搭乗員より二十四名を選抜し、第一神風特別攻撃隊を編成した。

ああ、これが特別攻撃隊の魁になろうとは

 敷島の大和心を人問わば 
  朝日に匂う山桜花(本居宣長)

 この歌より隊名を敷島、大和、朝日、山桜の四隊とし、直後菊水隊が加えられた。索敵数日、十月二十五日に至り各隊見敵に成功、祖国の安泰を祈り一矢報いる信念に燃え、全機突入多大の戦果を挙げた。若干20歳にも満たない若者がひたすら祖国最後の勝利を信じ、父母を思い故山を偲び、黙々とその任務を完遂して散華し、卒業時1004名の80%が還らぬ人となった。その崇高で至純な行為と精神を後世に伝え、霊を慰め徳を顕彰する為にこの碑を建立する。

飛天光明之珠海

レイテ海の真砂
この海に甲飛十期生が数多く特攻で散華し光明の珠となり輝いている。
甲飛十期會

あなたを忘れない

建記
一、地鎮祭 平成5年11月10日
一、定礎式 平成5年12月10日
一、題文 谷一枝書
一、碑文 甲飛十期會撰
一、タイムカプセル内に
散る桜 残る桜 甲飛十期の記録
 戦死者 名簿
 生存者 名簿
 醵金者 名簿
一、竣工除幕式 平成6年4月1日
甲飛十期會建立


戦没者追悼
平和祈念碑

終戦50周年記念 平成10年8月15日


中村純一中尉慰霊碑

君黙思不動
至誠廉潔士
祖国ノ難ニ殉ズ
兄等ノ礎ニ
日本ハ在リ
魂魄不滅

陸軍中尉中村純一は学鷲として阪神防衛に参戦
絶望的な戦局に動ぜず眦を決して天翔る
愛機飛燕を駆り凄絶死闘
夏蒼穹に光烈散華す
雲染めて声なし
時 昭和二十年七月九日 
於 大阪星田村 
特操一期 鹿児島二中 東京農大卒 
二十三歳  愛惜尽きず

鹿児島市 弟中村三郎建之
特別操縦見士官有志一同
昭和56年6月28日

中村純一陸軍中尉は特操1期。(特別操縦見習士官・学鷲)
昭和20年7月9日、陸軍・飛行第56戦隊は硫黄島より飛来したP51を迎撃するために伊丹飛行場より出撃。
三式戦「飛燕」で迎撃をした中村純一中尉は空中戦闘で被弾。脱出し落下降下中に敵機の翼で落下傘の紐が切断され、星田村(大阪府交野市)の水田に落下し戦死された。JR学研都市線・星田駅近くに慰霊碑あり。
被弾した飛燕は大阪府交野市星田北に墜落。
平成17年、第二京阪道路建設工事現場で搭乗機「飛燕」の部品(残骸)が発見されている。


宝塚軍人墓地

合掌


宝塚聖天了徳密院

七宝山了徳密院。宝塚の聖天さん。

七宝山了徳密院は大阪浦江福島聖天了徳院の別院として、大正8年、日下義禅大和尚(元真言宗東寺派管長)によって建立。

http://www.ryomitu.com/

神仏習合の寺院、聖天様。

夏空の下での参拝でした。

逆瀬川駅(さかせがわ)からバスでアクセスを。
地図にも「零戦」と記載されている場所。

靖國神社・旧外苑休憩所(解体済)

思えば、もっと写真をたくさん撮っておけばよかったです。

もとの建物は昭和11年に奉納されたのものでした。
靖國神社・外苑休憩所、在りし日の姿。
(令和元年10月10日に新休憩所がオープンしました。 )


平成30年6月17日撮影

休憩所の由来
 この建物は昭和十一年五月三十日東京家政学院の豊原繁尾先生の献納されたものである。
 先生は彦根藩士の女として生れ若くして國を思ふ心が強く日日靖國の社に参拝し英霊を慰めまた朝夕この休憩所において参拝者の世話にあたられた
 記して豊原先生の篤志を永く後世に伝へるものである
  昭和四十五年十月十八日
  靖國神社社務所
  学校法人 東京家政学院


平成29年7月14日撮影


平成29年3月11日撮影

昔ながらの牛丼、あの場所でもう一回食べたかった・・・


平成28年11月23日撮影

なぜか牛丼の写真ばかりデータに残っていました・・・


平成30年9月1日撮影


令和元年9月2日撮影

令和元年9月4日撮影

新休憩所は令和元年10月10日にオープンしました。
新たな名物は「特攻の母・鳥濱トメさんの玉子丼」

ひとまず〆

艦船の神棚(艦内神社・船内神社)

古来より船霊を祀った神棚が艦船に奉じられてきた。
それは現在の艦船においても変わらぬ姿。
さまざまな艦船の神棚(艦内神社・船内神社)を、以下に記録しておきます。

  • 「三笠」大日本帝国海軍 戦艦/記念艦
  • 「氷川丸」日本郵船/大日本帝国海軍 特設病院船
  • 「いずも」海上自衛隊 ヘリコプター搭載護衛艦
  • 「はるさめ」海上自衛隊 護衛艦
  • 「さみだれ」海上自衛隊 護衛艦
  • 「ひらど」海上自衛隊 掃海艦
  • 「はちじょう」海上自衛隊 掃海艦(除籍済)
  • 「うらが」海上自衛隊 掃海母艦
  • 「やまゆき」海上自衛隊 護衛艦/練習艦
  • 「しらせ」海上自衛隊 砕氷艦
  • 「YT-95」海上自衛隊 曳船95号
  • 「かとり」海上保安庁 (先代・除籍済)
  • 「宗谷」海上保安庁 保存船
  • 「みやこどり」東京消防庁 大型化学消防艇
  • 「白竜丸 」水産庁 漁業取締船
  • 「東光丸」 水産庁 漁業取締船
  • 「よこすか」海洋研究開発機構(JAMSTEC) 深海潜水調査船支援母船
  • 「海竜」 東京都港湾局 浚渫船
  • 「なとり」 井本商運 球状船首型内航コンテナ船
  • 「羊蹄丸」青函連絡船(解体済)

大日本帝国海軍
戦艦「三笠」(記念艦「三笠」)

2016年6月11日撮影

東郷神社 破魔矢

三笠神社(艦内神社)
日露戦争当時には現在のような艦内神社の姿ではなかったと思います。

三笠神社
 日本の軍艦には伊勢の大麻を受けて天照大神を艦内の神社に奉斎し、艦名を冠して、その艦の武運を念じ、また乗員に修行の糧とする風習がありました。
 三笠神社は、幸運や勝利が長く続くことを祈願して設けられました。

筥崎宮 敵国降伏 御守護

筥崎宮敵国降伏御守護
 現役中の三笠の艦長室に奉祀されてあった神棚です。1922(大正11)年9月、三笠が第4予備艦に定められ、艤装解除されることになった時、同月付きで第17代三笠艦長(大正11年6月9日-9月10日)から軍令部参謀に補職を命ぜられた八角三笠艦長(岩手県、海兵29、海軍中将、昭和40年・1・20没)が、歴代艦長によって大切に護持されてきた、この由緒あるお守りの行く末を案じられ、手元に安置されていました。記念艦三笠復元後も、変わることなく今日に伝わっている、いわれの深いものです。 

祈願文「敵国降伏」
国土の神聖を護持する神仏が、その不可思議な力-突然雷によって敵軍を撃ちのめすとか、台風で敵船を吹き帰すとか-によって、異敵を「降し伏する」ことを祈願する言葉。(日本の歴史8 黒田俊男著 中央公論社 66頁

 この祈願文は八幡大菩薩筥崎宮(福岡市東区箱崎町に鎮座)に伝わる社宝。国土防衛のシンボルとして知られています。
 現行(文永11(1274)年、弘安4(1281)年)の際、亀山上皇(第90代天皇、1249-1305)が蒙古幸福を祈願して、聖算の数だけ、諸方の神社に奉納された親書で、これはその一書であります。
 対馬方面に来襲した元・高麗の大兵船は大風雨により、壊滅、敗退しましたが、この大風雨は、神威によるものと信じられ、神風と呼ばれました。 

2003年9月4日撮影 筥崎宮
「敵国降伏」篇額

日本郵船
(大日本帝国海軍・特設病院船)
「氷川丸」

2016年8月28日撮影

大宮氷川神社 祈祷神璽

 氷川丸は埼玉縣大宮市高鼻に鎮まります武蔵國一の宮氷川神社の御守護を御願いして名付けられたものです
 二百三十八回の太平洋横断の歴史に長い年月も氷川神社の御守りによって無事努めを果し戦前造られた大きな船で現在残つているのはこの船唯一隻だけであります
今でも此の神棚には氷川神社をお祀りして氷川丸と御来船の皆様の幸福と安全を朝夕御祈り致しております

大宮氷川神社の御神紋「八雲」がインテリアとして氷川丸船内に取り入れられている。

海上自衛隊
護衛艦「いずも」

2019年10月撮影

出雲大社(島根)
神棚も「出雲大社型」
参拝も「出雲式」

食堂近くの通路際に

出雲大社拝礼方法
最初にお賽銭を入れる。
 賽銭箱に落とすように入れる。
  参考(15円  十分ご縁がありますように)
    (45円  始終ご縁がありますように)
    (415円  良いご縁がありますように)
 二拝する。
  腰を90度に曲げて深く礼をします。
 四拍手する。
  手を合わせた後は上下に少しずらして拍手する。
  これは、節合わせ→ふしあわせ→不幸せ を避けるという意味合い。
 神様に祈る。
  日頃の感謝を伝え、最後にお願い事をする。
 一拝する。
  最後にもう一度深く礼をする。

海上自衛隊
護衛艦「はるさめ」

2019年10月撮影

艦橋の後方に
 亀山八幡宮 神札(佐世保)
 宇佐神宮 海上安全守護(大分)
 金刀比羅宮 御供米(香川)
艦橋下の階段脇に
  「はるさめ」艦銘板は宇佐神宮宮司・到津公斎書

海上自衛隊
護衛艦「さみだれ」

2019年10月撮影

艦橋の艦長席上部に
 亀山神社(呉)
 天照皇大神宮
 金比羅宮
艦橋の階段下に
 「さみだれ」艦銘板は神宮権禰宜・熊谷泰揮毫 
 授贈は「戦艦三笠」

海上自衛隊
掃海艦「ひらど」

2019年10月撮影

食堂に神棚(ちゃんと撮影できませんでした・・・)

海上自衛隊
掃海艦「はちじょう」(除籍済)

2016年9月10日撮影

伊勢神宮・天照皇大神宮大々御神楽祈祷大麻
春日神社
金比羅宮
鵜戸神宮
筥崎八幡神社
立磐神社

海上自衛隊
掃海母艦「うらが」 MST-463

2018年8月4日撮影

伊勢神宮・天照皇大神宮大々御神楽祈祷大麻

海上自衛隊
「やまゆき」
護衛艦DD-129 →練習艦TV-3519

2014年7年27日撮影

神社名不明
(士官室の上、艦橋の下)

海上自衛隊
砕氷艦「しらせ」AGB-5003

2017年8月20日撮影

富士山本宮浅間大社

海上自衛隊
「YT-95」曳船95号(えい船)

令和元年11月撮影

走水神社

海上保安庁 銚子海上保安部
巡視船「かとり」PL125 (先代・除籍済)

2016年10月15日撮影

銚子川口神社 御神札
銚子川口神社 御潮祭

海上保安庁
巡視船 「宗谷」PL107(保存船)

操舵室の後方の海図室に神棚(船内神社)がある。
「宗谷神社」
富士山本宮浅間大社の浅間大神を勧請?という。

「戦時中、宗谷が沈まなかったのは艦内にあった宗谷神社のおかげ」と伝承され、戦後に「宗谷神社」が復活。
海上保安庁として、最初に誕生した船内神社。

神棚(宗谷神社)
宗谷は強運の船として崇められています。

東京消防庁
大型化学消防艇「みやこどり」

2017年5月28日撮影

神社名不明
(作戦室)

水産庁
漁業取締船「白竜丸」

2016年7月18日撮影

住吉神社御神札(山口下関か?)

水産庁
漁業取締船「東光丸」

2016年7月18日撮影

筥崎八幡宮 御神札(福岡・筥崎宮)
船魂神社 御朱印 (北海道)
虎ノ門金比羅宮 御朱印 (東京)

海洋研究開発機構(JAMSTEC)
深海潜水調査船支援母船「よこすか」

2016年7月18日撮影

金比羅宮
(操舵室)

東京都港湾局
浚渫船(しゅんせつ船)「海竜」

2017年5月28日撮影

金毘羅宮 御神札
(操舵室)

井本商運
球状船首型内航コンテナ船「なとり」

2016年7月18日撮影

金比羅宮 御神札(香川県)

青函連絡船
「羊蹄丸」(解体済)

2011年9月11日撮影

神社名不明

随時、見かけたら追加していきます

ひとまず〆

諏訪護國神社

平成28年4月参拝

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。

諏訪湖の高島城。その高島城のある高島公園の南端に鎮座。

諏訪護國神社

諏訪招魂社として明治33年(1900)に創建したことにはじまる。
諏訪市、岡谷市、茅野市、諏訪郡より出征されて、戦死・戦病死された英霊、並びに国家公共の為に尽くした人々の神霊を祀る。
内務省指定外護國神社。

ちなみに参拝時に、あっちこっちに水が流れ出しているのは、なぜか庭園の水が溢れていたため。

境内に存在感のある胸像があった。

永田鉄山中将像

永田鉄山
明治17年(1884)11月14日-昭和10年(1935)8月12日
長野県諏訪郡上諏訪町本町(諏訪市)出身
永田家は代々、高島藩の藩医を努めてきた家であった。
高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現在の諏訪市立高島小学校)に入学。
父に死去に伴い東京牛込に転校し、明治31年に東京陸軍地方幼年学校に入校。
明治37年(1904)、陸軍士官学校を16期主席卒業。
昭和7年(1932)、陸軍少将に昇進。昭和9年、陸軍省軍務局長に就任。

永田軍務局長の押し進めた人事の刷新(派閥排除)は、皇道派の大御所である真崎甚三郎教育総監の逆麟に触れ、たまりかねた永田軍務局長は今井清人事局長とはかり、真崎教育総監を昭和10年7月に更迭。

相沢事件(永田事件・永田局長惨殺事件)
昭和10年(1935)8月12日、行動派の真崎甚三郎教育総監更迭に憤激し皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派の陸軍省軍務局長永田鉄山陸軍少将を惨殺した事件。その後の二・二六事件につながる。
永田鉄山は死後に陸軍中将昇進。

永田鉄山中将胸像碑文
(カタカナを平仮名に置き換え句読点を補完しました)

永田鉄山中将は明治十七年一月十四日上諏訪町本町に生まる。
郡立高島病院長永田志解理氏の四男なり。
高島尋常高等小学校に学ぶ年少志を立てて東京陸軍地方幼年学校に入り進みて陸軍士官学校陸軍大学校を卒ふ。
天禀の優秀に加ふるに非凡の勉強を以てし各校の卒業毎に成績抜群にして恩賜賞を授与せらる。
夙に上司の属望を受け官命に由つて渡欧する事三度、入りては陸軍省参謀本部教育総監部の諸要職に就き、出でては歩兵第三連隊長第一旅団長たり、遂に陸軍軍政の中心軍務局長に補せらる。
中将頭脳明晰識見高邁裁決流るるが如く思慮周到造詣深遠難局に処して苟も挙借を謬らず、最も独創企画に秀で軍隊教育令青少年訓練国家総動員等中将の立案献策に係るもの少なからず、国軍の進展に寄与せる所絶大なり。
陸軍の至宝として永田の前に永田無く永田の後に永田無しと称せらる。
多年意を大陸国策の研究に注ぐ。
満州事変以来の非常時局に際し其蘊蓄を傾け枢機に参画して処信に邁進せる間妖言累を及ぼし、昭和十年八月十二日不慮の災禍に遭つて執務中局長室に斃る。
享年五十二歳なり。
中将の死は真に身命を君国に処せるもの正に戦場の死と択ぶ所無し。
因て同郷の有志協議地を此処にとし中将の胸像を建て、以て此の偉材の英姿を永遠に伝へんとす。
 昭和十三年十一月十三日 永田鉄山中将記念会

この胸像は先の太平洋戦争に際して金属回収のため撤去したるも、このたび故人を崇敬する有志により新たに台石を築造原位置に復旧するを得たものである。
 昭和四十年四月十一日 
 永田鉄山中将胸像復旧期成同盟会

鎮魂慰霊碑
御祭神御英霊の尊い犠牲により今日の平和と繁栄があります。英霊奉賛の為に諏訪郡市軍人恩給者連盟は全国連盟五十周年記念事業として建立致します。
 平成16年11月吉日
 諏訪護国神社宮司 有賀寛典
 長野県軍恩連盟 諏訪郡市協議会

二・二六事件に関してはこちらも。


せっかくなので諏訪護國神社のある「高島城」にも触れておきます。

高島城

天正18年(1590)に日根野高吉によって築城。
これまで鎮座していた八剣神社を遷座させて、文禄元年(1592)着工。
慶長3年(1598)完成。
典型的な水城で「諏訪の浮城」と称された。

日根野氏以降は旧領主諏訪氏が復領し幕末まで諏訪氏代々の城となる。
明治8年1875に天守以下建造物は破却。
現在の天守・櫓・門・塀は昭和45年(1970)の復元。


諏訪と言われて何を思い出すだろうか?
少なくとも、私ですら流石に一番最初に「永田鉄山」は思い出さない。

諏訪大社、諏訪湖、温泉。
諏訪ゆかりの人物でと言ったら、諏訪姫とか武田勝頼とかを思い出すのが無難なところであるが、諏訪と言われて私は一人の鬼っ子を思い出してしまった。
鬼っ子といわれた悲運の男。 家康公の六男…

高島城の南之丸跡。現在は諏訪市役所。
その駐車場の片隅に祠がある。

松平忠輝公館跡
(高島城南之丸)

この南之丸跡に「松平忠輝公神社」ともいうべき小祠が鎮座している。
忠輝公が人生の大半を過ごしたのが高島城南之丸…

高島城南之丸跡
 高島城本丸の南方にある一郭を南之丸という。松平忠輝のお預かりを勤めて以来整備され、以後、高島藩が江戸幕府の罪人を預かった場所である。周囲は湿地で、堀と柵とで厳重に囲われ、ただ一つの橋が城に通じているだけの孤立した郭であった。
 忠輝は、徳川家康の六男で越後高田六〇万石の城主であったが、大坂夏の陣直後の元和元年(一六一五)家康から勘当を申し渡され、翌年幕府から改易され、正室五郎八(いろは)姫(伊達正宗の長女)とも離別、伊勢朝熊で二年、飛騨高山で七年過ごしたのち、寛永三年(一六二六)から初代高島藩主諏訪頼水が預かった。改易の理由は、乱暴な性格とも、大久保長安等と天下取りを企てたからとも伝えられるが、真相は不明である。
 忠輝の南之丸での生活は、外部との交渉を絶たれた寂しいものではあったが、家臣は諏訪で抱えた者を加えると八五人にもなり、大名の格式をもって生活した。五八年間の長きに渡り不遇な境涯にあったが、文芸に心を慰め、余生を楽しんだという。天和三年(一六八三)、九三歳の生涯をここで閉じ、市内の貞松院に葬られた。
 その後、幕府の儀式を司る高家を務めていた吉良上野介義央の養嗣子である吉良義周(よしちか)が、赤穂浪士襲撃事件後の評定によって、領地を召し上げられ元禄一六年(一七〇三)に四代藩主諏訪忠虎へお預けとなった。高島藩では南之丸を修理し住まわせたが、三年後の宝永三年(一七〇六)に病没、市内の法華寺に葬られた。以後も数人の預かり人がいたが、幕末までにはこの場所は「御茶園」となったようである。
 諏訪市教育委員会

松平忠輝公

越後高田75万石の大名であり徳川家康の六男。越後少将。

東北の雄たる伊達政宗の長女いろは姫を娶り家康公の息子であったにも関わらず、元和2年(1616)に高田藩は改易され忠輝公は配流。

元和2年(1616)25歳の時に改易され配流。伊勢朝熊で2年、飛騨高山で8年、そして寛永3年35歳のときに諏訪高島城南の丸に移り、その後58年を諏訪で過ごす。
天和3年(1683・五代綱吉の治世)に諏訪高島城南之丸で92歳の生涯を終える。
諏訪高島藩にとってなんとも厄介なお荷物であったろう。なんせ、この流人は藩主諏訪氏よりも位階が高く(藩主・諏訪頼水公は従五位下因幡守に対して、忠輝公は従四位下左近衛権少将)、さらには東照大権現・家康公の六男。そんな人物が58年間をこの諏訪高島城で過ごしていた。

ちなみに、 南の丸には松平忠輝のあとには赤穂事件の吉良上野介の子である吉良義周も配流されてきている。

歴史の上では松平忠輝という人物は何ら重要ではない。
教科書的には徳川家康の御子として兄の松平信康、(結城)秀康、そして二代将軍秀忠、弟の紀州・尾張・水戸御三家の間に埋もれ名前すら記載されていない。

私は、そんな松平忠輝という人物がどことなく好き。それは伊達政宗との縁かもしれない。忠輝の妻は政宗の長女いろは姫。天下を搖さぶり続けた政宗に翻弄され、実力を発揚する機会もないまま将軍秀忠に恐れられ改易。
そんな忠輝であったが、信長・秀吉・家康と伝えられた天下取りの名笛「野風」を父から賜り、笛を吹きつつ長き半生を諏訪湖畔で風流にすごした。
実際の忠輝はどのような人物であったかは知らない。
痛快な時代小説『捨て童子・松平忠輝』(隆慶一郎著)のような鬼っ子のイメージが強いが、家康の嫡子として信長に恐れられ自害させられた長男信康や、秀吉に疎まれ結城家に養子と出された次男秀康のような英雄型の人物であったとされている。

捨て童子・松平忠輝 隆慶一郎著
隆の代表作「影武者徳川家康」でスパイスを効かせていた忠輝は、この「 捨て童子 」で主役となる。

松平忠輝の墓は高島城の北東にある「貞松院」にある。
「東に忠輝、西に光悦」といわれたほどの名墓碑であり、忠輝が生前自ら撰んだ墓石であるという。

貞松院

ここに松平忠輝公の墓所がある。

また、忠輝公の遺品もある。
信長・秀吉・家康と天下人に受け継がれた銘笛「乃可勢」(野風)などが有名。ただし非公開、以下の公式サイトで拝見できます。

迎冬山 貞松院 月仙寺 サイト  

http://teishoin.jp/jihou.html

松平忠輝公墓
 寂林院殿心誉輝窓月仙大居士

貞松院・松平忠輝公墓
木立の下に一際に大きな墓石がある。
隆慶一郎の著作で忠輝公に魅了され、その数奇な運命を知って以来、ずっとお参りしたいと思っていました。 ようやく、訪れる事が出来ました。
合掌

松平忠輝公の略歴
文禄元年(1592)、江戸城において出生。家康公六男、母は茶阿の方、幼名辰千代。11歳で上総介に任ぜられ、14歳で参内し、従四位叙任、右近衛少将に補せらる。また同年将軍の名代として大阪城に秀頼を訪い、豊臣、徳川両家の緊張緩和に功績を挙げる。15歳、政宗公の娘五郎八姫と結婚。19歳にして越後60万石の大大名となる。その性俊英にして果敢、気宇また壮大、開国思想を持った逸材。たまたま鎖国政策に向かう幕府に入れられず、また政宗公や大久保長安との関係も幕府の注目するところとなり、大阪夏の陣後、怠戦等些細な理由で25歳元和2年改易された。伊勢に3年、飛騨に7年、35歳寛永3年当地に配流。当藩主頼水公は南の丸を整備して迎え厚遇した。この地に住むこと58年間、天和3年(1683)7月3日、93歳を一期に没せられ、当院に葬られた。生前当地の文化向上に多大な影響を与え、今日も郷土の恩人として敬われている。

境内には諏訪藩医井出家の墓所もありました。家康の侍医であった片山宗哲が、諏訪に流されていたときの縁で井出氏が諏訪藩医に。二代目井手苔庵は松平忠輝公の最期も看取っていた。

近代史跡や戦跡からは脱線してしまいましたが、たまにはこういうこともあります。

靖國神社の御神菓

令和元年(2019)ほか

正式参拝(昇殿参拝)の撤下神饌

昇殿参拝の撤下神饌では、羊羹がお頒かちされます。
靖國神社すぐ近く、靖国通りに店舗を構える「 宝来屋本店 」さん。
明治元年(1868)創業。

撤下神饌
この撤下神饌は大前にお供えした神饌の一部です。
皆様におさがりとして、お頒かち致します。どうぞ神霊の御加護のもと、ご健勝にお過ごしください。
靖國神社

九段・宝来屋サイト

ホームページ

例大祭

撤下神饌
新宿中村屋の大月餅と金平糖。
大月餅は靖國神社御神紋。
たいへん大きくズッシリした月餅。

靖國神社では、新宿中村屋の月餅が定期的に神菓としてお頒かちされます。

2019年正月 

神菓
「靖國紋」と「干支・猪柄」の月餅

2018年秋
(靖國神社秋の夜長参拝)

神菓
「靖國神社御神紋」と「中秋の名月を愛でる兎」

2018年正月

神菓
「靖國紋」と「干支・戌柄」の月餅

2017年秋
(靖國神社みらいとてらす)

神菓
「靖國神社御神紋」と「中秋の名月を愛でる兎」

2017年正月

神菓
「靖國紋」と「干支・酉柄」の月餅

2016年正月

九段・宝来屋の和三盆糖入り菓子

2015年正月

九段・宝来屋の和三盆糖入り菓子


靖國神社の御神酒

茨城縣護國神社と水戸歩兵第二聯隊の戦跡散策

平成29年8月

レンタサイクルで水戸市内の戦跡散策を。

茨城県護国神社

茨城縣護國神社は昭和16年11月に創建。
御祭神は幕末から明治維新以後、日清日露の戦役、大東亜戦争に至る支那事変等において国事にたおられ護国の礎となられた茨城県出身の63400余柱の戦没者(軍人・軍属のほか従軍看護婦など女性も含む)の英霊を祀る。

慰霊安鎮

訪れたらちょうど「みたままつり」の季節。
7月10日から8月19日まで実施されているようです。
良き時期の参拝。ありがとうございます。

御朱印。
女性の神職さんが力強い筆使いで書いてくださいまして。 そして一言「全国の護國神社を廻られているんですか?」と。
気がついて戴けました。ありがとうございます。
「靖國神社の御朱印帳に護國神社の御朱印」集印を。地道に少しずつ…

征清記念碑

陸軍大将 小松宮彰仁親王篆額
日清戦争に際して犠牲となった茨城県人を慰霊。

征清記念碑
陸軍大将大勲位功二級彰仁親王篆額
 我が神州、建國以来、外征の史に見るる者、蓋し十有餘次なり。遠くは、神后三韓を征し、近くは豊太閤朝鮮を伐つ。其の功烈最も古今に卓絶す。而して輓近、皇師討清の役、實に二役以来の大事たるなり。已に甲数十萬を起して、兵を千里の外に用ひ、陸は堅城を抜き、海は大艦を奪ふ。而して訊馘以て京観を築くべきなり。斥地以て版圖を廣ぐるに足るなり。其の、皇威を震耀し、國光を宣揚するは想ひ如何と為すや。其の功夐に豊太閤に軼りて、其の烈實に、神后より光有り。亦古今の大捷と謂ふべきなり。惟ふに其の役大なる故に、我が喪ふ所の兵士の數、蓋し亦少しと為さず。今や、茨城一縣を以て之を算ふるに、其の戰ひて敵弾に斃れ虜鋒に殞し、及び盡瘁して病没せる者、數百人を下らず。是れ盡く桓桓の将士に非ずんば、則ち赳赳の武夫なり。誰か國家の為に惜しまざらんや。水戸の常磐の地には、素より鎮靈の社有りて、其の嘗て命を國事に致せる者を祀る。今茲志士相謀り、縣内の士にして討清の役に死せる者を合祀し、以て大いに弔祭を修し、而して又特に一大碑を社の側に建て、以て其の忠烈を表彰し、其の靈をして憑る所有り、而して其の名をして傳はる所有らしめんと欲し、余に其の文を撰ばんことを請ふ。余嘗て國乗を讀み、夙に關東の古俗、特に義勇を以て著るるを欽ぶ。嚮に清に事有るに及び、東兵果たして克く恥を重んじ、死を輕んじ、實に古の勇名に負かざるを聞く。乃ち彼の戰勝功取に於て蓋し最も與って力有るを知る。其の勲功は寧ぞ没すべけんや。善きかな此の舉たるや。余適任に在り、毎に管民軍士を歸葬し、郡市を舉げて、輙ち哀を致すを観る。而して今又修祭を為し碑を建つ。嗚呼闔縣協力此の如し。其れ至れるなり。亦能く國家の兵士を待つの恩意を體すると謂ひつべし。之を太閤征韓の役の、陣没する者算ふる無く、其の屍を原野に委ねて俺ず、其の魂は彷徨して之れが憑る所無く、哀れむべきを視るに、豈其れ日を同じくして談ずべけんや。是れ固より昭代の至徳に由るなりと雖も、抑も亦東人の義を好むの致す所を見んのみ。夫れ此の勇也、義也、今併せて以て之を表す。庶幾くは、後人をして風を聞きて、激励奮起する所有らんことを。是に於てか書す。
 明治30年4月
 茨城県知事正五位勲五等江木千之撰 
 茨城県書記官従五位勲五等渡邊秀書
 (社)日本郷友連盟茨城県支部建之 

征清記念碑
 この碑は明治34年4月即ち日清戦争の直後に水戸常盤地内鎮霊社の傍らに茨城県人で日清戦役に従軍した将士が国のために壮烈に戦い戦死し又は病に斃れた数百柱を合祀した際、その名誉を後の世に人々に伝えようと県を挙げて慰霊祭を執り行い県で建てられたものであります。
 碑文の概要は過去に神功皇后の三韓征伐、豊臣秀吉の朝鮮征伐とあったが、今度の日清戦争はその比ではない大戦果であった。
 戦が大きかっただけに、我軍の損害も多く茨城県だけでも戦死、戦病者が数百人以上ある。誰が国家のため惜しまないものがあろうか。茨城県人は古来から義勇心が強かったが今度の戦役でも勇名を挙げた。
 後世の人もこの話を聞いて奮起することであろう。

北征記功碑

陸軍中将 閑院宮載仁親王篆額
日露戦争に際して犠牲となった茨城県人千数百名を慰霊。

北征記功碑
 この碑は明治39年(1906年)2月即ち日露戦争(明治37年1904年 明治38年1905年)の直後、茨城県内の戦死、戦傷病者千数百名の慰霊祭を行ない碑を建て戦況を叙しその功績を永久に伝えようとして県で建てたものであります。
碑文の概要は弘安の役(1274年)では、元軍を一挙に全滅した。
日露戦争では海陸大小数百の戦いに勝ち世界を震撼させた。
 これは上に神のように賢い天皇陛下がおわしまし 下には賛襄の良民がおり 将士の忠勇義烈の心がすぐれていたからである。
 元寇は10万以下の兵力であったがロシヤ軍は100万以上で戦も大きく偉大な功績も挙げ弘安の役の比ではなかった。
 茨城県の従軍軍人は数万人海に陸に勇戦奮闘し茨城男子の面目をあげ皇国軍人の精華を発揮したが戦死、戦病死者千数百人その死にかたは違うが忠義の鬼である。
 この碑を読む人は必ず感奮して我が国の権威と力を大いにあげるだろう。

北征記功碑
陸軍中将大勲位功四級載仁篆額
 我が邦の威武、四表に烜燿たるや尚史し。弘安の役、元寇を一輿に殲す者は、上に軫憂祈神の亀山上皇有り、下に勇断斬使の北条時宗有るを以てなり。三十七八秊の役、我軍を百戦に剿する者は、・に叡聖神武の 英主有り、下に輔弼賛襄の良臣有るを以てなお将士の忠勇義烈に至りては、即ち日を同じくして語るべからざるもの有り、且つ元寇は十萬を出ず、我軍は即ち百萬を過ぐ。故に戰大にして功も亦偉なること、決して弘安の比に非ざるなり。彼は宇内の強大國を以て一母五乳の意図を懐き、満韓を侵蝕し、以て東洋の平和を擾さんと欲す。我安んぞ其の亡状を責めざるを得ん。是に於て 王師海を絶り以て掃蕩を期す。海軍は即ち敵艦を旅順港外に撃破し死士をして船を沈め港口を壅せしむ。又浦塩艦隊を蔚山の洋に摧残し、終に波羅斯艦隊を日本海に邀撃し、之を殲滅す。海上権は全く我に帰す。陸軍は則ち先づ鴨緑江の儉を奪ひ、普蘭店、王家屯の要を扼へ、鳳凰、摩天嶺、南山、得利寺、岫崿、柝木、遼陽、旅順の諸要砦を抜き、遂に奉天を破り、以て敵を北満州に駆逐する有り。海陸大小數百戦、竒勛偉績は天地を震撼し、鹵獲俘虜の夥しきこと勝げて紀すべからず。我が縣の従軍する者、将士合わせて數萬人、海に陸に勇戦奮闘し、以て常総男子の面目を顕揚し、皇国軍・・の精華を発揮す。而して戦死病没する者千九百餘人、其の死は殊にすと雖も忠義の鬼たるは、即ち一なり。今や和成り、事平なり。余郷紳と胥ひ謀り、大に弔祭を脩し、且つ碑を建て戦況を略叙し、以て之を不朽に傅へん。顧みて邦人の談元寇の事に及べば、草野安達等慮艦を斫つの壮烈を稱せざるは無く、以て武夫の龜鑑と為す。後の今を視ること猶今の昔を視るがごとく、即ち其の碑を讀む者、必ず應に感奮する所有り、以て倍我が邦の威武を宣揚すべきなり。
 明治三十九年二月    
 茨城縣知事正四位勲三等寺原長輝撰并書
  (社)日本郷友連盟茨城県支部建之 

大東亜戦争記念碑

天皇陛下御在位60年を奉祝し昭和61年8月15日建立。

碑銘
 過ぐる昭和初期における世界的政治経済大恐慌のさなか、祖國日本の苦難の歴史は、昭和六年九月十八日、満州事変に発し、支那事変(昭和十二年七月七日)、張鼓峰事件(同年七月九日)、ノモンハン事件(同十四年五月十二日)を経て遂に昭和十六年十二月八日には米英両大国に対する大東亜戦の布告となり、その後昭和二十年八月十五日の終戦に至るまで、約十五年にわたる日本民族存亡の命運を賭する肇国以来未曾有の長期大戦争に進展するに至った。
 かくしてその戦域は中国全土及び東南アジア諸域はもとより遥か度洋、豪北、ニューギニア各地、さらには全太平洋海域にまたがる実に全地球の二分の一に渡る広大な範囲に拡大され、四百余万にのぼるわが将兵は、過去数世紀の間西欧先進諸国の隷属化に喘いでいた旧植民地の各地に転戦。終始連合国軍の圧倒的物量攻勢と対決し、陸に海に空に善戦敢闘苛烈な敵攻撃を受けて屍山血河の激戦を展開した。
 その間、わが本土もまた度重なる敵の無差別爆撃や艦砲射撃を受け、なかんずく非人道的極まりない原子爆弾投下により一面の焦土と化し、銃後一般国民の蒙る戦禍も日毎に増大するに立ち至った。しかも一億国民の気概は屈することなく、なお総力を挙げて徹底抗戦の構えは不動なものがあったにもかかわらず、戦局は必ずしも我に利あらず、最後に本土決戦による皇国興亡の関頭に立ち、折しもソ連の機を穿っての不法参戦大挙侵入に遭うなど、諸般の大勢の赴くところ、遂に聖断によってポツダム共同宣言受諾の止むなきに至り、終戦の大勅を拝するに及び、一億国民号泣の涙と共にこの長期にわたる大戦の幕は閉じられた。
 この戦いに全国二百五十万有余の同胞の尊い生命が失われ、茨城健児も精悍無比、この国家危急の秋に当たり終始伝統たる不抜の闘魂を遺憾なく発揮したが、五万三千五百余名の軍人軍属を始め、四千八百余名の内地外地における婦女子を含む被災死亡者を合わせ五万八千四百余名の県民が国難に殉じたのである。これらの人々の鮮血に塗れた最後の姿は今にして想い起こすだに惨烈悲痛の極みである。
 終戦のこのかた四十年、我が国民は「終戦の詔書」の示されるところに従い 敗戦の汚名を甘受し、耐え難きを耐え、偲び難きを偲んで今日の国家隆盛の姿をみるに至ったのであるが、われわれ県民も同様、筆舌に尽くしがたい数々の屈辱と苦渋を乗り越え、辛苦勉励によりこの経済復興し繁栄とをもたらし得たのである。ここに及んで往時を顧みればこれひとえに今は亡き諸英霊の献身と御加護の賜と衷心からの感謝の誠を捧げたい。さらにまた、長い戦乱の陣痛ののち、かってのアジアを始めとするも全世界の植民地が次々に解放され、新たなる希望に満ち、民族独立の雄叫びが聞かれるとき、この西欧列強と伍し、日本がよく明治開国以来アジアにおいて唯一の栄光ある独立国家とし、その名誉と道統を守り抜いた日清日露の両戦役と同様、この度の戦いは日本民族が自存自衛とアジア植民地解放の宿命的使命を果たした「聖戦」であり、世界人類史上に残した燦然たる足跡は永く後世に伝承せられることを確信する。
 よって時あたかも今上陛下御在位六十年の千載一遇のこの年に当たり、聖寿のいや栄えまさんことと、祖国日本の永遠の伸展並びに世界恒久の平和を祈念しつつこの碑を建立し、以て英霊の功績をとこしえに顕彰するものである。
 昭和六十一年八月十五日 
 茨城県大東亜戦争記念碑建立発起人

大東亜戦争記念碑 大東亜戦争要図

満州事変以降大東亜戦争本県人戦没者
軍人軍属 53,542人
一般県人 4,879人
計 58,421人

平和のねがい

工兵第22連隊戦友会(昭和62年8月9日建立)
昭和十三年六月に水戸工兵隊より編成され第二十二師団工兵第二十二聯隊として創立。
主に中国大陸で展開され、終戦時はビルマ反撃作戦準備の為道路構築中であった。

顕勲の塔

碑文
この塔は日清の役から太平洋戦争までの幾多の戦いにおいて国のため散華された県下の五万八千余柱の英霊を慰めその偉勲を後世に伝えようと県のはからいにより全遺族の祈りをこめて建てられたものであります
なおこの塔には支那事変以来分骨された七千七百余柱の遺骨が納められております 諸霊やすらかにこの地に鎮まり郷土の平和繁栄にながく加護を垂れ賜わりますよう祈念いたします
 昭和三十八年五月

戦没者留魂の處

戦没者留魂の処と碑
戦没者留魂の処は、財団法人茨城県遺族会連合会が戦没者の納骨施設として昭和二十五年十一月水戸市堀町字立原二〇八五番地の旧陸軍墓地跡に建設し七千七百余柱の分骨を納骨していたが昭和三十八年三月に「顕勲の塔」が建立されたため この分骨は顕勲の塔内に移管され留魂の処には碑のみが遺された。
このたび留魂の処跡地を水戸市に返還したことを機会にこの碑および灯篭などをここに移転したものである。
 昭和五十九年六月吉日
 財団法人茨城県遺族会連合会 会長 狩野明男

さくら山遺品館

開館時間は午前10時から午後2時まで。
私が参拝したのは午後3時すぎ。
残念です。また来ましょう。

ペリリュー島守備部隊鎮魂碑

水戸第十四師団隷下、水戸歩兵第二聯隊を鎮魂する。
歩兵第二聯隊長は中川州男大佐。
中川連隊長がペリリュー島守備隊長となり、水戸連隊がペリリュー島の戦いの主役となる…

ペリリュー島守備部隊鎮魂碑
碑文
明治七年建軍以来、幾多の国難に出陣して赫々たる武勲に輝く水戸歩兵第二聯隊は、大東亜戦争酣の昭和十九年三月、北満の守りから中部太平洋の要衝ペリリュー島に転用され聯隊長中川州男大佐は、一万有余名の陸海軍諸部隊を併せ指揮して同島に布陣し敵の侵攻に備えて堅固な陣地を構築すると共に、全島民をパラオ本島に避難させた。
九月十五日、四万有余名の米軍機動部隊来襲し、想像を絶する砲爆撃の掩護下海面を圧する敵上陸舟艇群を迎撃して大打撃を与えた。爾後上陸せる敵増援部隊と七十余日に及び、洞窟陣地に拠る死闘を繰り返しつつ持久の任務を遂行したが、十一月二十四日、遂に戦力尽き、中川部隊長は、軍旗を奉焼し訣別電報「サクラ、サクラ」を打電して自決、残る将兵は遊激戦に転じ悉く悠久の大義に殉じた。
守備部隊の武勲は畏くも天聴に達し御嘉賞十一回に及び、陸海軍最高指揮官の感状により全軍に布告され、 世界戦史に比類無き精強部隊の名を残した。 ここに、その偉勲を景仰し、英霊の御加護による祖国の平和と繁栄を祈念して、五十年祭を期し、有志相図り、この碑を建立する。
 平成五年十一月二十四日
 歩二会・ペリリュー島慰霊推進会

ペリリュー島の戦い

昭和19年9月15日~11月25日
水戸歩兵第二連隊を中心とした日本軍が要塞化した洞窟陣地などを利用したゲリラ戦法により組織的な抵抗戦術で米軍を苦しめた戦い。
この戦い方法が、のちに硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになる。

日本軍戦死者10,695名・捕虜202名・最後まで戦った生存者34名
アメリカ軍戦死者 2,336名・戦傷者 8,450名
一般人(島民など)死者・負傷者ともに0名  
 ※ 戦闘開始前に日本軍は島民を強制退避させている

鎮魂 岩上大隊の英霊ここに眠る

国のため散りし御魂の名をぞ記さん

岩上大隊とは独立混成歩兵第1連隊第2大隊の通称。
アドミラルティ諸島の戦い
部隊はアドミラルティ諸島ロスネグロス島に展開するも昭和19年3月3日の夜襲総攻撃にて壊滅玉砕。生存者の一部はマヌス島転進。

昭和十八年十一月茨城健児八百有余名は動員下令により応召、宇都宮歩兵第六十六連隊に集合、独立混成歩兵第一連隊(剛四八一九部隊)第二大隊(岩上隊)を編成同年一二月横須賀港より戦艦大和に便乗、トラック島に寄港し巡洋艦大淀、能代にて一九年一月一日、ニューアイルランド島カビエンに上陸せるも、同年一月二十五日アドミラルテイ諸島ロスネグロス島に増派を命ぜられ守備につく。同年二月二十九日、米豪連合軍は艦砲射撃と機銃掃射による絨毯攻撃を繰り返しながら、同日未明ハイン湾に上陸し来る。
 依って我が方は連日連夜反撃を加え、夜襲を決行撃退を図りしが効を奏せず、三月三日夜襲による総攻撃を敢行せるも、如何せん十数倍の兵力と物量戦には敵し難く部隊長以下多数の戦死者を出し、壊滅的打撃を受け玉砕を遂げたり。
 かろうじて生存せる者、マヌス本島に転進せるが食糧全く尽き、木の実、草の芽、その他ヘビ、トカゲに至るまで総てを食しながら遂にマラリヤ、アメーバ赤痢等病魔に侵され全滅せり、時に昭和十九年五月三十一日なり。
 されどその後になり十六名の九死に一生を得た者判明しその方々と相謀り昭和五十六年五月マヌス遺族会を結成し昭和五十七年十月現地ヌマス島に赴き懇ろな慰霊祭を行った。その時抱き返りし現地の霊砂と、個人の愛用せる遺品等を此の地に埋葬し、永遠に今は亡き戦没者のご冥福をお祈りし、併せて二度と戦争を繰返すまじきことを誓うものである。
 願わくば在天の諸霊安らかに眠られんことを。合掌
 平成元年五月吉日(西暦一九八九年)
 岩上大隊遺族マヌス会 

蟹石

自然石に「蟹」
日本画家・木村武山のゆかりの石。

「壇ノ浦ノ本石ニ蟹ヲ描キテ寄進ス 藤沢校長」
藤沢校長とは藤沢繁三陸軍中将、陸軍航空通信学校長。 のちにフィリピン担当の第14方面軍第2航空通信司令官となる。

境内社 桜ノ宮


茨城県護国神社の境内入口に2つの石碑が林立している。

鎮魂
(歩兵第二百十三聯隊碑)

昭和五十二年十一月吉日建立
第三十三師団歩兵第二百十三聯隊(弓六八二二部隊)戦友会

歩兵第213聯隊は茨城県出身者にて編成。
第33師団隷下としてインパール作戦に参戦。
聯隊の犠牲者のほとんどはインパール作戦であったという。

 昭和十二年支那事変勃発し、次いで昭和十六年大東亜戦争に突入するや八紘一宇の聖戦のみ旗のもと、支那大陸並びに南方戦線に遠征し、史上最も惨烈を極めたるインパール作戦を始め、各作戦に於て、軍の主兵として連日連夜克く苦難に堪えて善戦敢闘せり。此の間祖国の平和の礎となりて異國の山野に散華戦没されし戦友や将又幾許ぞ、あゝ山行かば草蒸す屍とすべてを祖国に捧げける崇高なる戦友の魂塊は、今や髣髴として甦り、春は桜に匂い秋は紅葉に色染めて、世々是れ照覧し給ふ。あゝ尊き哉、靖國の神々、戦後三十有余年堅き戦友愛に結ばれし戦友会は、み魂鎮めの碑を建立して赫々たる武勲を顕彰し、以て不滅の祖国愛の久遠の光を万古不変に輝かすべく、その梗概を録して永く後世に伝ふると共に日本の永久の平和と繁栄を庶幾はんとするものなり。
 昭和五十二年十一月吉日
 第三十三師団歩兵第二百十三聯隊
 (弓六八二二部隊)戦友会一同

あゝ戦友の碑
(茨城県東部ニューギニア戦友会)

茨城県東部ニューギニア戦友会
昭和四十七年二月吉日建立

国を想い
 南溟の果てに
  散り行きし
戦友の亡きがら抱き涙す

碑文
 とこしえの平和を願って
 過ぐる大東亜戦争に際し、わが茨城県出身の将兵は第四十一、五十一師団、第四十四兵站等の主力として昭和十八年十一月より昭和二十年八月の終戦に至る間、灼熱瘴癘の地ニューギニアの地に優勢なる米豪軍と激闘を続け、実に八千六百三十九名の若い命を失うに至りました。
 これら戦友の諸子はその戦いの場において命終わる人とするとき、何を願い何を祈ったことでありましょうか
 終戦後二十七年、我が国は奇跡的とも云うべき復興大発展を遂げ、本県また今日の隆昌を迎えましたが、これこそただひとすじに日本民族の平和と繁栄を願い、無量の望郷の懐いを抱きつつ絶海の地に散華したこれら8千有余の同胞のご加護によるものと信じるのであります。昭和四十四年秋県民各層のご支援のもとニューギニアの生存帰還者は収骨団としてニューギニアの戦跡に派遣され念願久しかった現地での慰霊を行うとともに御遺骨を郷里にお迎えし、翌四十五年春、茨城県護国神社顕勲の塔納骨大祭を催すことを得ました。
 しかるに、この二十有余星霜、今なお南海の孤島ニューギニアのジャングル奥深く苔むす屍をととしる英霊の鬼気は陰々として膚に寒くその慟哭は惻々として耳朶を打つことしきりであります。
 ひるがえって、日本の現状に想いを致すとき、世をあげて安寧豊饒の泥海に浸り、巧詐恥なく若人はまたその理想を失い堕弱享楽の幣風吹きて止まざるものがあります。人間として耐えうる限界をはるかに越えた悪条件のもと三年有余にわたる悪戦敢闘の末に散った益荒男の意志を偲び祖國の前途を思うものまことに寒心に堪えざるものを覚えます。
 よって、ここに記念碑を建立し亡き戦友諸子の冥福を祈るとともに、そのいさおしを後世に伝えもって祖國恒久の平和と繁栄を心からこいねがう次第であります。
 昭和四十七年二月吉日
 茨城県東部ニューギニア戦友会 

御英霊に感謝と哀悼を。

こうしてだいたい1時間ほど境内を巡らせていただきまして茨城県護国神社をあとします。
しばし千波公園・沢渡川のあたりをふらふら。ちらりと好文亭も見えました。

次はちょっと北上し茨城大学方面に。


レンタサイクルにて茨城大学、茨城県営球場方面に。

水戸歩兵部隊の跡碑

水戸歩兵第2聯隊の練兵場跡(堀原練兵場)に建立。
茨城県営球場の道を挟んで北側の公園内。

水戸歩兵第二聯隊の練兵場跡に建立。歩兵第二聯隊は明治7年に宇都宮に開隊。その後は佐倉から水戸に転営。尼港事件では石川正雅少佐以下水戸歩兵第二聯隊第三大隊が在留邦人を保護し赤軍に対して防戦をするが全滅。
先の大戦では、歩兵第二聯隊(聯隊長中川州男大佐)がペリリュー島守備の主役となり玉砕… 

大東亜戦争の終結既に遠く 水戸歩兵部隊跡は一変して いま僅かに尼港記念碑を残すに過ぎない
滄桑の変誠に感慨無量である
ここに終戰二十周年を期し 有志相図り 我々の郷土部隊が残した歴史を後々まで伝えたい念願から 大方の協賛を得て この碑を建てるに至った
歩兵第二聯隊は 明治七年明治天皇から軍旗を授かり千葉県佐倉に創設され 爾来西南の役 日清日露両大戦に出征し 明治四十二年水戸に移駐後は シベリア派兵 満洲 支那各事変に参加し 勇名を轟かした
大東亜戦争の戦勢傾くや 満洲から太平洋の要衝ペリリュー島に馳せ 中川大佐以下五千 敵の猛攻に堪えること七旬 昭和十九年十一月遂に玉砕し 七十年の歴史を閉じた
また歩兵第百二聯隊は ニューギニアに転戦敢闘し これに劣らない偉勲をたてた
東部第三十七部隊外留守機関は 困難な後方業務を完遂し 両聯隊をはじめ幾多郷土部隊善戦の基盤をなした
顧みて水戸歩兵部隊の武勲は 祖國の歴史とともに朽ちることなく 永遠に輝くであろう
この碑が つわものどもの夢の跡を偲ぶよすがとなり 後世に資することができるならば幸である
 昭和四十一年四月
 水戸歩兵聯隊遺跡保存会

尼港殉難者記念碑

陸軍大臣山梨半造書
水戸歩兵部隊の跡碑の隣にひときわ大きな石碑
大正11年(1922年)3月建立

尼港事件の犠牲者を慰霊する碑
大正9年(1920)シベリア出兵に際して勃発した尼港事件
派遣された守備隊、水戸歩兵第2聯隊第3大隊は在留邦人を保護し防戦をするがパルチザン軍との戦いで玉砕…

尼港殉難者記念碑
 この碑は、大正九年(一九二〇)シベリア出兵の際、尼港事件に遭い殉難された方々に対する慰霊の為在郷軍人会が建立したものである 尼港事件とは、ロシア革命後の混乱期に、東部シベリア治安維持等のため、英・仏・米等の要請を受け共同出兵(シベリヤ出兵)の際、ニコライエフスク(尼港)守備隊及び邦人が共産革命軍の残虐行為により全滅した事件である。
尼港は、沿海地方北部アムール川河口の政治経済の中心地で、僻遠の港町であった。
 大正8年4月第十四師団は東部シベリヤに派遣され、これに伴い水戸歩兵第ニ聯隊第三大隊(長陸軍少佐・石川正雅)は、ハバロスクの聯隊と別れて尼港に到り、守備隊となって在留邦人の保護等にあたった。
九月海軍と漁業関係者等が引き揚げ後の越冬者は、守備隊320名・海軍43名と石田領事ほか約350人の邦人であった。
この方面の革命軍は、極端な過激思想を持つ悪質なパルチザン軍(パ軍)で、情勢の悪化を憂い中央では増援部隊の派遣を図ったが、結氷積雪等に阻まれて断念を余儀なくされた。
ニ月五日海軍電信所はパ軍の砲撃を受けて破壊され、守備隊は約4千のパ軍と反日的市民の中に孤立した。
以来両軍は交戦状態に入ったが、二十八日秩序維持協定が成立し、市内に入ったパ軍は、協定を無視して不法暴虐の限りを尽くし、武装解除を要求してきた。
石川守備隊長は海軍及び領事等と協議の結果事態打開のため三月十二日未明一斉に攻撃を開始した。
緒戦は有利に進展したが逐次死傷者続出し、石田領事は家族と共に自決した。
その後軍民協力して防戦を続けたが、パ軍の謀略による改ざん電報により停戦し、十九日武装を解除されて全員投獄され悲惨な獄中生活を送った。
五月下旬我が救援部隊の接近を察知したパ軍は、獄内外の日本人全員を惨殺し全市を焼き払って遁走した。
獄舎内の生々しい血痕や「五月二十四日を忘れるな」と無念の恨みを込めた文字、辞世の数々が、最後を物語り、六月三日到着した救援部隊員は、なすすべもなく悲憤の涙を流すばかりであったという。
 平成八年五月二十四日
 水戸歩兵第二聯隊会
 (社)日本郷友連盟茨城県支部建立
 (撰 加藤保男)

https://goo.gl/maps/TY5mFANjA6AZ3tVW7

尼港事件

ロシア革命の内戦に際し1920年(大正9年)3月から5月に勃発した赤軍パルチザンによる大規模虐殺事件。
赤軍は尼港(ニコラエフスク)住民を虐殺。その中には日本人居留民・日本領事一家・駐留日本軍守備隊(石川正雅少佐以下水戸歩兵第2連隊第3大隊)などが犠牲に。

あぁ 在留邦人を護るために戦い玉砕した水戸歩兵第2連隊第3大隊
焼け落ちる領事館で自決した領事一家や在留邦人
投獄された日本人全員の虐殺

事件全体の日本人犠牲者は、軍属を含む陸軍関係者が336名、海軍関係者44名、外務省関係者(石田領事とその家族)4名、判明している民間人347名。合計731名…

尼港事件犠牲者の遺書 「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」

監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書
「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」
Wikipedia「尼港事件」より

https://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b0%bc%e6%b8%af%e4%ba%8b%e4%bb%b6

尼港陣歿将士銘碑

聳え立つ記念碑の隣に「尼港陣歿将士銘碑」
水戸歩兵第2連隊第3大隊の犠牲者の名が刻まれていた。
隊長石川正雅(陸軍少佐)以下、軍属の馬丁に至るまでの305名という。

龍車閲軍之跡
賜閲駐輦之跡

尼港殉難者記念碑の隣にひっそりと2つの碑がありました。

「龍車閲軍之跡」陸軍大将井上幾太郎書
「賜閲駐輦之跡」

「龍車」「輦」は天皇の乗物を示しており「閲」は閲兵。
昭和4年(1929)に茨城県で行われた「陸軍特別大演習」関連の記念碑
昭和5年建立

石碑がある公園は人影も少く静まり返っている。

道路を挟んだ向かい側には「茨城県営球場」や「茨城県武道館」などの運動公園が広がっており賑わっている。 石碑のある公園の裏側は「茨城交通茨大前営業所」がありバスが連なっていた。
そんなところに「第二聯隊」を偲びし碑が静かにあった。


水戸工兵隊記念碑

国立茨城大学教育学部附属中学校の隣、道路の片隅の標石。
「水戸工兵隊記念碑」
水戸工兵隊の一部は水戸歩兵第二聯隊とともにペリリュー島の戦いに参加。ペリリューの要塞構築にも尽力したことであろう。

https://goo.gl/maps/VqkdWMxM3yyABNJf6

水戸工兵隊跡碑

安井栄三郎書
「水戸工兵隊記念碑」のあった道路をすすみ団地を抜けると「跡碑」があった。 安井栄三郎は工兵出身で陸軍少将。津軽要塞司令官を勤めた人物。
碑は昭和四二年建立。 水戸工兵隊の兵営があった地。

https://goo.gl/maps/zHXnL6dnBs6KvNPAA

茨城県護国神社と陸軍関連の石碑などを探索でした。
ほかにも探せば何かしらが残っている可能性もありますが本編はひとまずは以上。
水戸ではレンタサイクルで約14キロ約2時間30分所要でした。

栃木縣護國神社

平成29年参拝

平成29年8月26日。
この日は、栃木県宇都宮市に鎮座している「栃木縣護國神社」を参拝。

宇都宮駅西口からバスで作新学園前下車。
すぐ隣が護国の社叢。

栃木縣護國神社

祖国と郷土の為に身命を捧げられた栃木県関係の英霊55,361柱を祀る、かつての内務大臣指定護国神社。

「宇都宮招魂社」として明治5年(1872)戊辰の役に殉じた旧宇都宮藩主戸田忠恕公及びその臣下等97柱の英霊を祀ったことにはじまる。(旧地は二荒山神社隣)

明治8年、官祭招魂社。
昭和14年、栃木縣護國神社と改称。
現在地には昭和15年4月29日遷座。

終戦後GHQ占領下の昭和22年11月14日に彰徳神社と改称。
昭和28年4月2日には栃木県護国神社と旧称に復称。

平成8年7月25日には、
天皇・皇后両陛下が御親拝をされており
天皇・皇后両陛下が唯一公式に御親拝された護国神社とされている。

感謝と哀悼を捧げる
参拝を

社務所で女性の神職様から御朱印を頂戴いたしました。
(靖國神社の桜の御朱印帳に戴いております)
ありがとうございます。

西側の鳥居。
社号標は昭和15年3月建立。
樞密顧問官・陸軍大将 奈良武次謹書。
奈良武次は栃木県鹿沼市の出身。陸軍大将。開戦前の昭和14年(1939年)3月に退役している。

名木「宝の木」(猿の手柏)

推定樹齢300年
明治6年の土地改良があった際に、この珍木にちなみ界隈は「宝木村」と呼称。
明治39年に宇都宮第十四師団司令部(現在の国立病院の地)が設置された際に寄進。昭和57年に社頭に献木という。

役立たずの御柱

「役立たず」と思う物を「役立ち」に変えてくれる御柱。
厄だけは「やくたたず」で結構。
なかなか面白い趣向です。

御製

今上陛下御製  

広芝をうむる人群旗持ちて
   振る音聞ゆ今日のよき日を

なんじゃもんじゃの木

ヒトツバタゴ
東日本で樹齢100年余りの「なんじゃもんじゃ」の巨木が3本も見られるのは珍しい、とのことです。


社頭のむかって左側には各部隊の「慰霊碑」が集められた「慰霊碑区画」があります。栃木の先人たちをお慰めしている慰霊碑へと。 ゆっくりと参ります。


忠霊塔

元宇都宮陸軍墓地(現在の東妙寺墓地)に眠っていた遺骨などを栃木縣護國神社境内の忠霊塔へと改葬したという。

栃木県東部ニューギニア会慰霊碑

この慰霊碑は昭和44年の遺骨収集の際に遺骨とともに持ち帰られたニューギニアの霊石。

大東亜戦争中 原始未開の東部ニューギニア北岸一帯は陸軍は第十八軍(猛部隊)の隷下に属する第二十(朝部隊)第四十一(河部隊)第五十一(基部隊)の各師団及び第四航空軍(洋)船舶団(暁)など 海軍は第二十七特別根拠地隊を主とした部隊が南太平洋防衛第一線の中央拠点として懸軍長躯孤立無援の作戦環境であったにもかかわらず 純正無比 ひたすら祖国の安泰と平和を念じて食料彈薬の欠乏を意とせず 悪疫瘴癘の地に敢闘すること実に三年有余 この間その犠牲は優に十二万人に達し しかもその大半は宇都宮師団管区に属し これら忠勇なる郷土将兵の遺骨の大部分は戦後二十有余年彼の僻遠の山野に埋れておりましたことはその遺族 戦友会は勿論 県民の一大痛恨事でありました。
万死に一生を得て生還したわれわれ戦友は栃木県東部ニューギニア会を結成し予てよりの収骨慰霊の悲願を達成するため昭和四十四年秋 厚生省が遺骨収集団を派遣する機会にこれが協力団を派遣することを企図し その趣旨の徹底とこれが費用の募金を全県下に呼びかけましたところが期せずして県民総ぐるみの一大運動として共感を喚び 予期以上の浄財を得て 昭和四十四年十月三日より十一月四日に至る約一ヶ月間収骨団は幾多の悪條件を克服し 亡き戦友に無言の対面を遂げ弔慰の辞を捧げ収骨の悲願を達成いたしました。
碑上の巌石こそは団員がかっての戦場より持帰ったもので亡き戦友の凄絶なる死闘を物語る無言の戦史であり 戦友の面影に接する感一入のものがあります。
茲に永久に英霊の偉勲を讃え その冥福を祈ってこの慰霊碑を建てるものであります。      
 昭和四十五年三月二十二日
 栃木県東部ニューギニア会 建之
 会長 澤田芳見

戦友よ安らかに眠れ
第三十三師団第二百十四聯隊戦没者慰霊塔

吾が聯隊は昭和十四年三月白虎隊の精神を受継ぐ会津若松聯隊に於いて編成を終え勇躍一路支那大陸に出陣かん湘会戦を初め錦江作戦中原会戦続く普察冀辺区作戦など数次に亘る戦闘に参加その都度赫々たる武勲をたて大東亜戦争の勃発するや長駆南方戦線へ転進を命ぜられ泰国「バンコック」へ上陸泰緬国境の峻険を突破ビルマ戡定作戦に入るや破竹の快進撃を続け遂に敵の要衝「ラングーン」そして「エナンジヨン」の油田地帯を占領中部ビルマ一帯の掃蕩を完了数々の感状を受領。 
然し十九年に入るや各戦線とも熾烈な反撃を受け作戦転換を余儀なくされた方面軍は「インパール作戦」を企図約十ケ師団二十三万の兵力を投入無謀に等しい戦闘にも拘らず聯隊はひたすら祖国の安泰と平和を念じ愛国の血と白虎魂を以って圧倒的優勢を誇る敵軍を動揺せしめた。 
この間彈薬食料の欠乏と悪疫を克服斬込み肉薄攻撃など悪戦苦闘実に三年有余その犠牲は十八万人を数え而もその大半は宇都宮師団管区内に属し本県出身者も実に五六八五名の勇士がビルマの山野に再び還らぬ護国の鬼神と化したその尊い遺骨の大半は未だに異国の山野に埋もれ収集と慰霊塔の建立は遺族戦友は勿論国民の一大悲願であり吾等生存者一同の責務でもある。
昭和四十六年一月ビルマ戦跡慰霊巡拝の壮途に参加した増渕幹男氏は一同を代表して山野の英霊と再会碑の建立を誓い碑中に奉納すべく現地の仏像と戦場の石をひそかに運んだ。 
聖域に南十字星輝くこの碑は亡き戦友の死闘を後世に伝える無言の戦史であり平和の希求である。
殉国の英霊願わくばとこしえに安らかに眠り給え 茲に吾等はその御遺功をたたえ聯隊の武勲を永久に顕彰するものなり。
 昭和四十六年九月廿日
 元支那、元ビルマ 遣第三十三師団歩兵第二百十四聯隊 生存者一同

鎮魂

昭和六十年十一月二十三日建之   
 北支派遣陣第二九九三部隊    
 独立歩兵第七十八大隊高陽一九会 

鎮魂

明治天皇御製
 身をすてて いさををたてし 人の名は
  くにのほまれと ともにのこさむ

鎮魂
第三十三師團 山砲兵第三十三聯隊之碑

山砲兵第三十三聯隊は弓第三十三師團の師團砲兵として昭和十四年仙台及び高田において東北各県新潟県茨城県栃木県群馬県長野県の出身者をもって編成され中国江西省に出征
その後北関東及び長野県出身者を主とするよう変更され揚子江南及び黄河北方の大小の作戦に参加
昭和十六年暮から終戦までタイ国上陸後ビルマ進攻作戦インパール作戦イラワジ会戦等苛烈な作戦に参加輝かしい弓師團の戦斗に貢献しました
この間には一八九六名の戦友が尊い生命を捧げた事は痛恨の極みであります
ここに故友の遺烈を後世に傳える為この碑を建立します
 平成三年三月十日
 弓六八二五部隊山砲兵第三十三聯隊戦友会

軍馬慰霊 山砲兵第三十三聯隊

軍馬は、かけがえのない、我々の戦友であった。召されて故国を出て、中国大陸の南に北に、ついでタイ、ビルマ、インドと多くの作戦に参加し、重い火砲や弾丸を負い、暑さ寒さひもじさに堪えて働いてくれた。この間弾丸に倒れ或は糧食の欠乏と豪雨とにより、多くが戦陣に死し、戦い敗れて一頭も故国に帰ることなく、悉くが南方の土に帰した。ここに万斛の涙とともに聯隊千三百頭の無言の戦友の霊を弔う。
 平成九年三月十日
 山砲兵第三十三聯隊戦友会

慰霊 宝木会

宝木会は昭和二十五年旧歩兵第五十九聯隊並に東部第三十六部隊関係者により創設、英霊の顕彰と遺族の慰霊及び会員相互の親睦をはかり、毎年慰霊祭を実施してきた。
宝木会は護国神社参道、前庭、及び神苑に桜樹二百数十本のほか銀杏の木を献木、忠霊塔の修理参道の整備及び神社幔幕、錦旗、旗幟等を寄進し、また歩兵第五十九聯隊激戦終焉の地パラオ諸島より戦友の遺骨を収集、我が歩兵第五十九聯隊兵営跡に宇都宮歩兵聯隊跡の碑を建てた。
我々は大東亜戦争終結後早くから、祖国の安泰と発展のため殉ぜられた、先輩戦友諸士の偉大なる功績顕彰と英魂の平安を祈り、護国神社及び忠霊塔を中心と仰ぎ、神霊の尊崇敬仰慰霊に精魂を傾け、また日本の安全と平和を祈念してきた。
茲に本会並に関係者の意図と哀情を子孫がこれを理解し永えに継承されんことを念願し、創立三十周年を記念してこの碑を建立する。
 昭和五十五年四月吉日   
 宝木会

慰霊
宇都宮第14師団・照集団 野砲兵第20連隊之碑

第十四師団砲兵として編成されるも島嶼防衛の為に部隊改編。
水戸歩兵第二連隊、宇都宮歩兵第五十九連隊、高崎第十五連隊等に転属。
パラオ本島に歩十五連隊、そして歩二はペリリュー島、歩五十九はアンガウル島に展開。
昭和19年7月20日、歩五十九連隊はパラオ本島防衛強化の為、ア島に後藤大隊を残置主力は本島に転進。
9月6日、米機動部隊来襲ペリリュー・アンガウル両島を猛爆艦砲射撃。
9月23日、歩十五連隊飯田大隊はペ島に逆上陸を敢行し玉砕…

野砲兵第20連隊が配属されたペ島・ア島。
ペリリュー島は11月24日「サクラ」「サクラ」を連送して玉砕。
ペ島砲兵隊関係戦死者五三六名。
アンガウル島には9 月17日に米軍来襲。
残留の後藤守備隊長は連隊本部との連絡も途絶えたまま二十倍の敵と対峙し10月19日玉砕と推察

野砲兵第二十連隊は明治三十八年満洲で創立凱旋後第十四師団砲兵として宇都宮に駐屯し茨城・栃木・群馬・長野四県より選ばれた壮丁で構成。
昭和十五年三十余年練武の地宇都宮からチチハルに移駐し関東軍の中核としてソ連軍の侵攻に備えた。
昭和十九年二月師団に動員下令。
島嶼作戦に適応した編成装備に改変し、水戸歩兵第二連隊、宇都宮歩兵第五十九連隊に砲兵各一ケ大隊を配属、高崎第十五連隊には個々に転属、編成外人員は全員他部隊に転出、馬匹はチチハルに残置し連隊は栄光に満ちた四十年の歴史を閉じた。三月大連出航、制空制海権共になき海域を奇跡的に無事パラオ到着。
本島に照集団司令部 歩十五連隊主力等を置き歩二連隊をペリリュー島、歩五十九連隊をアンガウル島に配備、硬いさんご礁に苦しみながら陣地構築に励んだ。
七月二十日歩五十九連隊はパラオ本島防衛強化の為、ア島に後藤大隊を残置主力は本島に転進。
九月六日機動部隊来襲パ・ア両島を猛爆艦砲射撃も加え連日続行された。
米戦史によれば上陸前三日間に十七万トンの砲爆弾を使用し島形変じ地上物件すべて飛散した。
九月十五日中川州男守備隊長以下一万の守備するペ島に上陸開始、大隊長小林与平中佐・常持良二大尉・天童隆大尉・大橋栄一大尉率いる各中隊の砲兵は第一波の海兵隊を猛射千名に壊滅的打撃を与え緒戦は勝利したが装備物量の差に加え四倍の敵に対し複郭陣地に依り抗戦、九月二十三日歩十五連隊は砲兵より転属した新井道彦大尉以下五九名を含む飯田大隊の逆上陸救援作戦も効果なく軍旗を奉焼して十一月二十四日「サクラ」「サクラ」を連送して玉砕した。
ペ島砲兵隊関係戦死者五三六名。
ア島には九月十七日来襲、後藤丑男守備隊長は連隊本部との連絡も途絶えたまま二十倍の敵と対峙し配属砲兵中隊長芝崎省三郎大尉以下一九七名高射機関砲隊柏原中尉以下三〇名も一致団結よく敢闘したが十月十九日玉砕せるものと推察される。
本島の近藤大隊・丸山・谷口両中隊では飢餓との戦いにより三三名・砲兵団神山大隊・小宮山中隊他三ケ中隊で六二名の犠牲を生じた。

遠い南海の孤島で家族の安泰と祖国日本の弥栄を念じつゝ激闘の末若い尊い命を捧げた亡き戦友達の霊を慰め其の業績を永く後世に伝えるべく遺家族・戦友の有志相集い深い感謝を込めここに慰霊碑を建立し御霊の安穏を祈念し奉る。
 平成十九年十月 建之

英霊顕彰碑
山砲第三十三聯隊第四中隊

戦没勇士196柱 
永遠に讃え祀らむ平和の礎

戦友の霊に
国破れて山河あり 
先の大戦が終結し五十年の星霜は緑の大地は蘇らせることはできたが異境に眠る御英霊への思いは愈々つのるばかりである 
時の流れと共に戦争の悪夢は次第に風化されたとは言え、戦争体験者にとっては脳裏に焼き付いた心の痛みは永遠に消えることはない
懐古すれば、長い歴史と伝統を誇る我が国は、千古の昔から瑞穂の国を標榜する住みよい国である
然るに昭和の時代に至るや俄に世界の風雲急を告げ、世界諸国連合は我が国に経済封鎖の包囲網を繞らし強圧したるも大和民族は断じてこれに屈せず国家の存亡を賭けて総決起し、万止むなく大東亜戦争開戦の悲運となる 
この時代に生を享けた我等青年は、青春の全てを捧げ国難に立ち向かうべく、従容として戦地に赴き、幾多の戦線に従軍する 
かくして緒戦を飾ることはできたが、凄惨苛烈な死闘に国力の差を乗り越え幾百万の同朋は尊くも犠牲という人類最悪の悲劇を蒙り終戦を迎える結果となる。
思えば、今なを戦友の多くは、中国の広野に万里異境のビルマの地で、そして白骨街道のインパール(印度領)の果てに無念の涙を流し、当地の守護神と化して山野に眠っている。
九死に一生を得た私共は、祖国再建と平和国家実現に最善を尽すことが亡き戦友への供養であろうと確信し、その道を歩み続ける。
今や日本は苦難の道を乗り越え、戦争を放棄し、自由と平等の下教育文化は言うに及ばず経済大国として世界に誇示する迄に至る。
これぞ、まさしく悠久の大義に殉じられ、平和の礎となられた御英霊の賜である。
この時に及んで中隊戦没勇士の御尊名を深く刻み、ここに顕彰の碑を建立し、その偉業を声を大にして子子孫孫に伝えんことを我等一同お誓いするものである。
 平成八年(一九九六)五月十六日  
 復員五十周年記念日建立
 弓山砲山四会生存者一同 

忠魂碑
栃木県立宇都宮商業高等学校同窓会

陸軍大将従二位勲一等功三級男爵奈良武次書
昭和9年1月、栃木県立宇都宮商業学校同窓会
昭和30年4月、 栃木県立宇都宮商業高等学校同窓会

満洲事変戦死者及び支那事変戦死者・大東亜戦争戦死者の名が刻まれている。

白鹿丸遭難之碑

昭和十九年十月十八日
コレヒドール沖合

兄小田尚命は、さきの第二次大戦において陸軍少年飛行兵を志願し 
昭和十七年四月東京陸軍航空学校に入学 
昭和十八年3月同校卒業同年四月陸軍航空通信学校(水戸)に入学 
翌住区年七月同校卒業 
第三航空軍に配属されその任地に赴くにあたり瑞穂丸に乗船 
同年九月二十一日比島周辺で沈没、護衛駆逐艦に救助された 
その後白鹿丸に乗船、少年飛行兵第十四規生(甲)二十一名を含む軍人約二千名と軍需品を積載 
船団を編成してマニラから、シンガポールに向かい航行中十月十八日午前七時五十分ごろ東経一一九度五一分、北緯十四度〇四分地点で敵の潜水艦により撃沈され 名誉ある戦死をとげた
正に弱冠十九才   
ここに兄の戦績を偲び文碑を建立した
 平成十六年十二月八日  
 小田信明(博)「九百九十九日の青春」に基づいて編集
 第十四期生甲 大曽根 敬雄  小田 清子

慰霊碑区画の反対側。
御社殿の向かって右側にも幾つかの碑が集まっておりましたので、そちらにも参りましょう。

境内社

日本赤十字社殉職救護員慰霊碑

栃の木かげに還る

この碑は日華事変から大東亜戦争にかけて日本赤十字社栃木県支部所属救護員として応召し黄塵と酷寒の大陸や、灼熱の南方地域に派遣されあるいは浪荒き海を海上輸送の任務について戦傷者の救護に献身し、若く尊い命を捧げた殉職救護員二十六名の清く凛々しい姿をしのびみたまを慰めるとともに、永遠の安らぎと世界平和の深い祈りをこめて建立し、その遺徳を後世に伝え師表と仰ぐ資とするものであります
 昭和五十三年十一月八日
 日本赤十字社看護婦同方会栃木県支部

特攻勇士の像

私たちは決して忘れない 
かつて太平洋戦争の末期、敵の圧倒的戦力を阻止しようと爆弾をかかえ、あるいは魚雷を抱いて、敵艦等に体当たりを敢行した特攻隊員のことを 。
祖国の安泰を信じ、太平洋の陸に海に空に散華した特攻隊員は、全国で実に五千八百余柱、本県で九十四柱に及ぶ。
このたび、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会寄贈の「特攻勇士の像」を 多くの県民の浄財によってここに顕彰碑として建立することができた。 特攻隊員の崇高な美挙が、この碑によって永遠 に語り継がれることを願うものである。
 平成二十二年八月十五日  
 栃木県特攻慰霊顕彰の会

満洲開拓青年義勇隊慰霊碑

我等は若き義勇軍  祖国の為ぞ鍬とりて  萬里涯なき野に立たん
今開拓の意気高し  今開拓の意気高し

満洲開拓青少年義勇隊は昭和十二年に創設され、十四歳から十九歳までの青少年が、茨城県内原訓練所を経て満洲(中国東北地方)に移住し、前後三年間、各種の訓練に従事しつつ北方守備の一翼を担ったのである
当時政府は、民族協和、王道楽土、第二の祖国建設等の政策を掲げ、全国の青少年がその国策推進に協力することを奨励した。
この政策に夢と理想を見出した幾多の純粋な若い魂は、進んで義勇隊に入り、内原での厳しい訓練に堪えて渡満した。この数全国で九万余、本県からも二千数百余名が応じた。
この間義勇隊の訓練と生活は言語を絶するものがあったが、夢と使命感を秘めていた拓友は、酷寒猛暑を克服してひたすら開拓の鍬を振るい、初志貫徹のため日夜精励した。そしてその苦闘も報いられ、理想郷の実現する日も近くにあるやに思っていた。
しかるに昭和二十年八月、敗戦という過酷な現実に、若い情熱と努力の結晶は水泡に帰した。その後の苦難は筆舌に尽くし難く、酷寒と飢餓、病魔に侵される悲惨な日が続き、斃れて若い生命を奪われたもの、本県のみでも三百六十余名に及んだ。  
幸いわれわれは、励まし合い助け合って九死に一生を得、なつかしい母国の土を踏むことが出来たが、大陸の広野に空しく消えた拓友を忘れることは出来なかった。
ここにかれらの魂魄を故郷に幾久しく鎮めるため、生還し得た本県の有志が相集まり、相謀って、聖なるこの地に慰霊碑を建て、その冥福を祈念するものである。願わくば友よ、安らかに眠られんことを。

鎮魂賦
少年雄叫ぶ満洲の原  
戦い敗れ辛酸言うに耐えず
八百の青雲興国の志
故郷の山は英魂を鎮めんと欲す

 昭和四十七年十一月十二日  
 元満洲開拓青年義勇隊  
 慰霊碑建設協議会建之

防人の歌 (万葉歌碑)

昭和15年1月10日、栃木縣教育會建立

火長今奉部與曽布の歌
今日よりは顧みなくて大君の
 志このみたてと出で立つ我は
樞密顧問官陸軍大将従二位勲一等功三級男爵奈良武次書


西側の「鳥居の外側」になにかいました。

「夢福神」
栃木県内では「夢福神・九難除け至福神社めぐり」というものが有るんですね。

栃木県護国神社の散策は以上にて。

栃木県護国神社サイト

http://www.gokoku.gr.jp/index.html

栃木県護国神社・慰霊碑のご案内

http://www.gokoku.gr.jp/sanctuary_9.html

あぁ、見逃しがあるのが判明しました・・・再訪ですね。
・平和の門( 基第二八〇二部隊(歩兵第六十六聯隊) )
・憲兵之碑

満蒙護國神社

平成30年6月参拝

埼玉県・出雲大社朝霞教会 境内社

満蒙護國神社
平成元年四月十五日建立

照清大権現縁起
霊夢に依り昭和十四年五月ソ満国境ノモンハン事変に参戦護国の英霊となられた戦友七千六百拾六名の御霊を靖国神社より分祀 
この地の守護神としてここに祭る

ノモンハンの桜

満蒙護国神社
由緒
昭和14年5月、ソ満(旧・ソ連と満州)国境に勃発して”ノモンハン事変”にて英霊となられた戦友7,616名の御霊をお祀りしています。(先代教会長・渡邉清はこの戦争を経験しました。)

出雲大社朝霞教会

埼玉県朝霞市鎮座。
宗教法人 出雲大社朝霞教会は昭和58年3月に宗祠(出雲大社)よりご分霊をお祀りし、埼玉県内唯一の出雲大社として創建されました。
地域の皆様には、“朝霞の出雲大社”“埼玉の出雲さん”などの愛称で親しまれています。 由緒はサイトより

2019年現在、新社殿造営中。仮社殿となっております。
以下の写真は過去の模様です。

御朱印をいただきました。
あわせて幸福の飴もいただきました。
ありがとうございます。

軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)

令和元年6月 兵庫県尼崎市

難波八幡神社の境内に、榛名のマストが残されていると聞き、足を運んでみました。
駅から歩くにはちょっと遠く、私はJR神戸線立花駅からバスで赴きましたが、JR尼崎駅もしくは阪神尼崎駅、阪神塚口駅などからもバスの便はあるようです。

軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)

マストには以下の文言がみえる。

國光宣揚 軍艦 榛名

草むらには石碑。

昭和十一年十二月十八日建立
会長 陸軍中将 権藤伝次
西大阪支部長 間口伊之助

戦艦「榛名」は、昭和8年から1年かけた「第二次近代化改装」にて上部構造物の大幅な近代化を行い、その際に後部マスト(後檣)が撤去されている。
その後部マストが昭和11年に、大日本国光宣揚会道場の庭園に国旗掲揚塔として無償下付されたものという。当時の大日本国光宣揚会道場は現在の塚口病院のあたりにあった。戦後、病院建設にあたりマストは難波八幡神社に移設された。

「大日本国光宣揚会」(本部・大阪)の会長であった権藤伝次は、陸軍中将(旧10期)、 歩兵第18連隊長、第36旅団長等などを歴任。

以下、軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)の写真を。

難波八幡神社

兵庫県尼崎市東難波町3丁目6-15鎮座
八幡大神を祀る。
仁徳天皇の御世(4世紀)の創建と伝えられる古社「難波祝津の宮跡」 とされる。

広島護國神社と戦跡散策

平成29年(2017年)

廣島護國神社

3月3日夕刻。この日は広島中心部に宿を取っていた。
宿に向かう途中、広島護國神社に立ち寄り。
実は3回目の参拝。とはいっても10年ぶり。
その10年前は、一部で有名な例の「万灯みたままつり」の参拝でした。それはそれで懐かしい思い出…

広電に揺られて紙屋町経由で社頭に到着したのは15時30分のこと。
現在の鎮座地は「広島城跡」内。
戦後の遷座。

広島護国神社

明治元年12月、戊辰戦争において陣没された七十八柱を「水草霊社」に奉祀されたのが創建。

以来、大東亜戦争に至るまでに戦没された御英霊約九万二千余柱(勤労奉仕中に原爆の犠牲となられた動員学徒、女子挺身隊等約一万柱を含む)の御神霊をお祀りしている。

昭和9年、御社殿の老朽化に伴い、創建の二葉の地より西練兵場(旧市民球場の辺り)西端に新社殿を造営し遷座。
昭和14年に広島護国神社と改称。
昭和20年8月6日、至近距離上空で原子爆弾が炸裂し御社殿すべてを焼失。

写真は旧鎮座地の旧市民球場かいわい。

これは完全に余談。
映画「この世界の片隅に」にて
昭和16年12月に護國神社参道で、すずさんとすみちゃんが貝を売っていた参道は現在の護國神社の地ではなく、被爆前の旧鎮座地(=現在の原爆ドームの向かいの旧市民球場界隈)。

画像は「この世界の片隅に」ロケ地マップ及び絵コンテ集より

被爆後、同地に小祠にて再建。
昭和31年秋に現在の広島城跡に新社殿が造営され遷座。
平成5年4月、本殿拝殿などが竣功し、平成21年6月に社務所などが再整備され、現在に至る。

深く拝する。

感謝と哀悼を。

御由緒

9万2000余柱を奉斎。
そのうち1万柱は、地域・職域・義勇隊・動員学徒・女子挺身隊などの公務原爆関係の御祭神。

社号標は陸軍中将田部正壮。幕末から日清日露戦争の頃の軍人。広島出身。退役後は広島市長も務めている。

双鯉の像
昇鯉の像

狛鯉…ここは確かに広島ですね。

完全に逆光シルエットになってしまいましたが、護國神社らしい力強い狛犬もちゃんとおります。

英霊にささぐ

英霊にささぐ

父慕い
母の育み
幾春秋
深き恵みに
われはこたえん

昭和53年10月吉日 広島市遺族会青年部

神馬像

御朱印を戴きました。
桜柄の靖國神社御朱印帳に各地の護國神社の御朱印を戴く事に。

広島護國神社にはオリジナル御朱印帳が三種類ございました。
凄く悩みましたが戴くのは自粛。 錦鯉の御朱印帳! 巫女さんの御朱印帳!

やはり、広島護國神社といえば「万灯みたままつりの巫女おどり」が有名です。
護國のみたま祭。 御霊を慰める為の華やかなみこ踊りの祭礼。

かなり昔の平成16年(2004)に「万灯みたままつりの巫女おどり」を見学しておりまして。100人位の巫女さんが踊るのですが。
以下はそのときの写真。

まあ、そのはなしは良いかな。戻ります。

護國神社周辺の散策に向かいましょう。


中国軍管区司令部 防空作戦室跡

広島護國神社の向かって左側に。
中国軍管区司令部防空作戦室跡が残っている。
が、工事……

中国軍管区司令部 防空作戦室跡(爆心から約700メートル)
広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の防空作戦室が設けられていた。ここでは、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報と言われている。

中国軍管区司令部防空作戦室跡。
入れなかったので覗いてみた。

中国軍管区司令部 地下通信室跡

中国軍管区司令部原爆慰霊碑

慰霊碑にて頭を垂れる。
(慰霊碑の撮影をするのを忘れておりました。そういう時もあります……

慰霊碑や中国軍管区司令部のあった場所のすぐ裏は堀があり、そして広島城二の丸跡が。

広島大本営跡

広島護國神社から天守閣のある方へ。
ここに広島大本営の基礎石が残っている。

日清戦争当時、広島城内にあった第五師団司令部建物が 明治天皇の行在所となり大本営が明治27年(1894)9月15日から翌年4月27日まで設けられた。 建物は原爆により倒壊。

基礎石のみが残る空間。

標柱は残るも上部を埋め固められている。

昭憲皇太后御座所跡

こちらは昭憲皇太后の御座所跡。
大本営跡の向かって左側に独立した基礎。

近代化の歩みのなかで、日清戦争当時、 明治天皇と皇后が前線近くの広島まで遷座され指揮を執られたといことだけでも、国を挙げての大決戦であったことを窺い知ることが出来る。

広島城

昭和20年の原爆によってすべてを建築物の焼失。
昭和33年に鉄筋コンクリートにて五層天守が再建。
今回は時間都合により天守閣は外から眺めるのみで…。

広島城趾をあとにして、外堀に沿って歩みを進める。

池田勇人像

逆光のなか、誰の像かなと近づいてみたら、池田勇人でした。
広島出身でしたか。
このポージングはインパクト大です。

歩兵第十一連隊跡

広島城の外堀に。
ひっそりと往時を偲ぶ空間がありました。

歩兵第十一連隊入口正門の門柱跡。
原爆被災するも残存。

門柱の由来
この石柱は歩兵第十一聯隊入口正門として建っていた門柱で長年月にわたり入隊訓練帰還と幾多の年代的過程を静かに見守って来た歴史の商人とも言える記念すべき門柱であります。しかも原爆被災の中で残存し得た当時を偲ぶ唯一の遺跡でもあります。幸い篤志家の手により広島市立福木保育園に保存されていたもので今般譲りうけゆかりの地に移転建立し歴史の証とするものであります。
昭和五十九年九月吉日 歩十一会

歩兵第十一聨隊略歴
一、明治八年五月広島の地に創設。同年九月九日聨隊旗受領
二、明治九年十月萩の乱に出動
三、明治十年西南の役に出動
四、明治二十七年日清戦争に出動、朝鮮、中国北部各地を転戦。同二十八年七月復員
五、明治三十三年北清事変に出動
六、明治三十七年四月日露戦争に出動、南満州(現中国東北部)の各地を転戦し、同三十八年十二月復員
七、大正八年七月シベリアに出兵。
八、昭和十二年七月二十七日中戦争に出動、中国全土を転戦
九、昭和十六年十二月八日太平洋戦争勃発、マレー作戦に参加し、のち南太平洋諸島を転戦中、昭和二十年八月十五日終戦となる。同年八月二十六日シンガポールにおいて軍旗を焼く。創設以来七十二年の歴史を閉じ解隊する。
十、この間、特に、昭和十二年日中戦争以降、歩兵第十一聨隊を母体とする藤部隊、槍部隊、開部隊、望部隊、西部第二部隊等を創設、各々克く健闘した。  
ここに、聨隊跡碑を建立し往時を偲ぶ縁とする。  
昭和五十五年七月建立
平成六年八月改刻 歩十一会


どうしても広島護國神社となると「万灯みたま祭」の印象が脳裏を離れないもので。
当時、戴いた団扇を。

護国の祈り

 春は微笑む 広島ざくら
  秋は冴えざえ 城の月
 平和を祈り 偲ぶは誰ぞ
  涙うるむ 大鳥居

 人のこころに 大本営の
  遠い明治を 語る風
 戦雲晴れて 社にねむる
  わが父わが子 わが友よ

 明治大正 昭和の御代の
  歴史映した 大田川
 九万余柱 勲は朽ちず
  いまは御国の 守り神
 
 世界平和を 求めて散りし
  人のいのちの 尊さよ
 護國の庭の 玉砂利踏んで
  御霊に平和 ただ祈る

山梨縣護國神社と戦跡散策

平成29年9月

甲府
・山梨縣護國神社
・陸軍歩兵第四十九聯隊(甲府聯隊)
・陸軍歩兵第四十九聯隊糧秣庫跡(赤レンガ)

平成29年9月3日。
護國神社巡りは長野と山梨に。
この日は無謀にも松本市と甲府市をハシゴし「長野縣護國神社」と「山梨縣護國神社」を参拝。
あわせて戦跡として「松本歩兵聯隊」と「甲府歩兵聯隊」名残の糧秣庫跡(赤レンガ)も散策してきました。
こちらは山梨編。

14時すぎ。松本から甲府に移動して甲府駅からバス。
「護国神社入口」バス停で下車。
北に向かえば武田神社、東に向かえば護國神社。
約10分ほど歩けば護國神社に到着。地図を見ていると武田家臣団の屋敷跡が点在していてそれはそれでワクワクする…。

山梨縣護國神社

狛犬台座には韮崎市軍恩連盟の碑銘。(平成4年建立)

慰霊のことば
私達は嘗て共に戦い祖国のためにその命を捧げ平和と繁栄の礎となられた英霊に感謝と慰霊の誠を捧げ安らかに神鎮りますことを祈願いたします
平成4年5月吉日 韮崎市軍恩連盟

社号標は松本三良謹書(甲州市勝沼ぶどう園「宮光園」)

実はワインと戦争の関係は深い。ワインに含まれる酒石酸を元にしたロッシェル塩がソナー(対潜音波探信儀)の材料となっていたのだ。
「ブドウは兵器だ」のスローガンを元に、戦うためのワイン造りを強いられた時代…

以下は参考として

戦時中のワイン造りの奨励 国税庁

https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/quiz/1212/index.htm

器造るための醸造 産経ニュース

https://www.sankei.com/region/news/150812/rgn1508120025-n1.html

戦争とワイン 宮光園 Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%ae%ae%e5%85%89%e5%9c%92#.E6.88.A6.E4.BA.89.E3.81.A8.E3.83.AF.E3.82.A4.E3.83.B3

山梨縣護國神社

西南戦争以来の山梨県関係の戦没軍人軍属の戦死者を祀る。
西南戦争 50柱
日清戦争 568柱
日露戦争 449柱
台湾討伐 55柱
満州上海事変 73柱
支那満洲事変 1784柱
大東亜戦争 22071柱
御祭神計25,050柱(平成28年10月5日現在)

明治12年(1879)招魂社として太田町(現・遊亀公園)に建立
昭和17年(1942)に現在地に遷座
昭和19年(1944)山梨縣護國神社に改称
戦後の一時期は、山梨宮に改称していた
(現在は境内社の社号・後述)

感謝の念と哀悼の誠と。
参拝をする。

「御朱印」と「御守」を頂戴いたしました。

「海軍軍艦旗」と海軍シンボル「桜に錨」が刺繍された御守。
これは前々から頂戴したかったのです。
他にも陸軍迷彩カラーの御守や、陸軍四式戦闘機「疾風」が富士山と桜を背景に飛翔する絵馬など、意匠的な授与品が多数。

山梨縣護國神社 招魂斎庭

山梨縣護國神社では、山梨県出身の西南戦争から大東亜戦争に至るまでの殉国の御霊25050柱を祀るとともに摂社山梨宮において殉職された山梨県出身の自衛官の御霊(11柱)を奉祀している。

参拝の道標

ここは平和の杜です。
このお社は護國神社と言います。
明治十二年十二月招魂社として甲府市太田町に創建され昭和十九年山梨県民の総意により護國神社と改称しこの地に御遷座されました。
日本の平和と美しい山河や家族を護るために戦争で尊い生命を捧げられた山梨県出身の約二万五千人余りの方々を、神様としてお祀りしてあります。
私たちが平和で豊かな生活を送ることが出来るのはこの人達の尊い生命の犠牲のお陰です。
 「ありがとうございます」
と感謝の心をもってお参りしましょう。
これからも平和であるとともにご参拝により常識や道徳心を高め勤勉努力して、健康と強い心を養い自らを護り家族を護ることをお祈りしましょう。
山梨縣護國神社

戦没者(英霊)とは、”地球よりも重い”といわれる、一つしかない生命を、祖国日本と国民のために捧げた方々なのです。
英霊にこたえる会山梨県本部

今日の日本の平和と繁栄は、これを願って犠牲となられた多くの戦没者(英霊)のお陰であることを、忘れてはなりません。
英霊にこたえる会山梨県本部

山梨縣護國神社 
摂社 山梨宮

昭和二十一年社名を山梨宮と改称した時に合祀した 一世の亀鑑、師表と仰がれた民間人八柱が合祀。昭和二十七年境内に摂社山梨宮を創建。
 加賀美光章命(国学)
 志村天目命(心学)
 長田円右衛門命(御岳新道開削者)
 徳島兵右衛門命(徳島堰開削者)
 関戸左近命(義民大総代)
 金子重右衛門命(太桝事件主唱者)
 三沢重右衛門命(太桝事件主唱者)
 くり女命(節婦)

摂社「山梨宮」

殉職自衛隊員顕彰之碑
国防忠魂

自衛隊殉職者の霊に捧ぐ
平成14年建立

戦没者納骨堂

昭和20年、岩窪に陸軍墓地の建設が始まるも完成を見ないまま終戦。
陸海軍も解体され納骨堂は当時の大蔵省に移管。
昭和38年に甲府市に払い下げられ県の管理となる。
昭和51年に現在地に移築。
戦没者分骨5325柱、霊璽簿24915柱を奉安。

岩窪の地に陸軍墓地が予定されており、一部は納骨されていた。
山梨縣護國神社内に納骨堂が移設された際に改葬という。

現在は甲府市つつじが崎霊園となっている。
霊園内には甲府空襲慰霊碑や将校個人墓3基あるという。
(時間の都合で入口のみ写真撮影。霊園内は未調査)

慰戦没戦友之霊

昭和33年建立・四九会有志
甲府歩兵第49連隊(通称「甲府連隊」)
昭和17年に一部部隊をグアム島に展開。
昭和19年にフィリピンのレイテ島・セブ島に主力を展開。レイテ島守備部隊はその大部分が壊滅している。

愛の燈

日本赤十字社看護婦同友会山梨県支部・1973年建立

第二次世界大戦に際し赤十字の旗の下に勇躍応召し、大陸の荒野にて傷病者の救護活動に献身し、愛と奉仕の使命に殉ぜられた日本赤十字社山梨県支部救護看護婦の方々の遺徳をしのび、そのみたまのとこしえに安かれと祈ってこの碑を建立しました
平和のいしずえとして尊い命をささげられた私どもの同僚がこよなき誇りを抱きつつかかげた愛のともしびの偉大さをしのび、これを後世に永く伝えんとするものであります
1973年12月1日
日本赤十字社看護婦同友会山梨県支部

傷病軍人之碑

昭和五十六年建立・山梨県傷痍軍人会

我等は祖国の危急に際し、わが身を顧みることなく国難に赴き、苛烈を極めた戦火の中に多くの戦友を失い、自らは傷痍の身となって終戦を迎えた。
昭和二十七年同志相諮り、山梨県傷痍軍人会を結成、更に昭和三十五年妻の会の結成をみ、相寄り相扶け、傷痍を克服し、平和の願いをこめて、祖国の再建興隆につとめてきた。傷痍の身を顧み、あれを思い、これを思うとき、傷痍軍人の事跡をとどめるものは何ひとつないばかりか、永久の国の平安を希求する我等の心情を、後世に伝えるよすがとてもないことに思い至り、昭和五十四年八月十五日傷痍軍人の碑建立の議を起こし、心をひとつにする会員の善意を結集し、妻の会の協力のもと、戦没英霊の祀られるこの地に、平和の礎として完成をみるに至った。
 昭和五十六年四月十三日
  山梨県傷痍軍人会

豫科練の碑

平成7年建立

昭和五年六月一日、横須賀海軍航空隊へ第一期飛行豫科練習生七十九名が入隊した。以来昭和二十年八月十五日太平洋戦争終結まで、実に十五万人に及ぶ青少年が、国の防衛ならんと大空を目指して巣立って征った。山梨県からも多くの若人が、横須賀・土浦・三重・人吉・岡崎・奈良海軍航空隊をはじめ、全国十三の豫科練航空隊へ入隊し、自ら求めて日夜を分たぬ鉄石の猛訓練に耐え、心身を鍛え抜いたのである。
昭和十二年七月七日、日支日支事変が勃発するや、渡洋爆撃をはじめ各戦線に於て豫科練の初陣を飾った。やがて昭和十六年一二月八日、太平洋戦争開戦時には海軍航空隊の中堅搭乗員として、北は千島の果てより、南はソロモン諸島、西は印度洋へと、国家民族の為一命を捧げて国防の任に当たったのである。
昭和一九年十月には一機一艦を撃沈するの、特攻出撃は空のみならず、海では人間魚雷「回天」「震洋」「伏竜」隊員として豫科練の同窓生は、全作戦に参加し若い命を桜花の散るごとく、護國の神となって散華した。
生還した吾々は、昭和三十九年一月二十六日、県内在住の同窓有志に呼びかけ、豫科練雄飛会山梨県人会を結成以来、亡き友の慰霊を護國神社に於て続けてきた。
太平洋戦争終結五十周年に当たり、会員及び有志の浄財におり、ここ護國神社境内に「豫科練の碑」を建立し、県出身戦没同窓生の慰霊をその偉勲を永く後世に伝えるとともに、我国の安泰と世界の恒久平和を祈念し、この碑を建立するものである。
 平成七年八月十五日
    豫科練雄飛会山梨県人会

永久に語り継がなむ
 豫科練の
昭和の御代の
 武勲のあと

  平成七年八月十五日
   北巨摩郡大泉村 吟詠 十八期 小池 嘉昭

衣第三〇四一部隊 慰霊の碑

昭和63年10月建立
昭和17年4月に甲府東部六三部隊に於て編成。北支那方面派遣。終戦時にソ連軍の捕虜となり将兵全員がシベリア抑留。犠牲は330余名。
慰霊碑の全面には「シベリアの土」が奉納。

衣三〇四一部隊は、大東亜戦争勃発後の昭和十七年四月 甲府東部六三部隊に於て編成され北支那方面の治安維持、民生安定の警備に当たるために派遣されて、数多くの作戦に参加した。
この間、戦死・戦傷病死者多数の犠牲者を出した。
昭和二十年七月、北朝鮮咸與地区に移駐直後終戦となり、同時にソ連軍の捕虜となって、将兵全員がシベリア抑留の身となった。
抑留将兵は体力の限界に耐え、零下四十度余の酷寒と、飢えと、重労働のなか、さらに悪疫の流行によって悲しくも斃れた戦友の数は、全将兵一千名中、実に三三〇余名の多きに達した。
これら戦友の鎮魂と永久の平和を平和を祈念し、現存する元衣三〇四一部隊戦友一同の名においてこの慰霊碑を建立す。
 昭和六十三年十月六日

満蒙開拓青少年義勇隊之碑

昭和50年8月15日建立

拓友(とも)よ 安らかに 
眠れ 友よ帰らぬ友よ
君の大陸に残した足跡は深く大きくしるされている
われらはその足あとをしっかり踏みしめて前進する
友よ逝きて帰らぬわが友よ
静かに安らかにここにねむれ

満蒙同胞殉難慰霊碑

昭和36年3月建立

朔北の 満蒙の地に 逝きて帰らぬ 同胞を憶う

昭和二十年八月祖国の運命に殉じた満蒙開拓団・満蒙開拓青少年義勇隊・満州報告濃勤労奉仕隊・満蒙在留同胞の霊一九三六柱を此の處に祀る

ソビエト不法侵攻の尊き犠牲…

故満鐵本家義勇隊之慰霊碑

昭和50年4月8日建立
第七次満蒙開拓青少年義勇軍満鉄李家訓練所

あぁ、ソビエト…

二井義勇隊の碑

平成5年8月15日建立

昭和18年6月、満蒙開拓青少年義勇軍として山梨中隊を編成。 旧満州国北安省除海村二井屯の満鉄二井訓練所に入所。
終戦時に隊員は四散し、四十余名が大陸の土と化した…

硫黄島戦没者慰霊碑

碑面は「硫黄島」を型どっておりました。
昭和20年2月19日 ~ 3月26日 硫黄島の戦い

硫黄島戦没者慰霊碑
鎮魂の詩碑(平成7年建立)
詩碑は元横須賀海軍鎮守府昭和十一年会所属の篠原勤氏によるもの。

軍神若林東一顕彰碑

平成19年建立

若林東一中尉は第38師団歩兵第228聯隊第10中隊長。
若林中隊はガダルカナル島で戦いにて補給途絶えつつも陣地死守を敢行する。
「後ニ続ク者ヲ信ズ」の一言を残して昭和18年1月14日戦死。
ガ島52日分の日記を残す。

山梨県海軍戦没者 慰霊碑

山形県海交会は太平洋戦争終結五十周年にあたり祖国の繁栄と不滅を念じて祖国の英霊となられた、県内海軍戦没者四千七百二名の純真な気持ちを永久に顕彰するため、山梨県護国神社の聖域に慰霊碑を建立し、後世までの遺徳を偲び、感謝を誠を捧げるものである
 平成七年十一月三日
  山梨県海交会会長 塩川 光男

鎮魂 鵄三〇六三部隊戦没者鎮魂之碑

平成8年建立。鵄三〇六三部隊の慰霊碑。
昭和十八年四月に甲府にて編成。
おもに中国大陸の南京・上海に展開。
(第61師団歩兵149聯隊鵄3063部隊)

父の像

平成7年4月5日建立

殉国の戦士の遺児は、亡き父への思慕と誇りとを胸に 母と共に強くたくましく生きてきた 戦争の悲惨さ、平和の尊さを後世に伝えたいとの願いを込め 終戦50周年を機に、ここに父の像を建立する

気がつけば1時間半近くを境内で過ごしていたようで。
慰霊碑が多いとおのずと滞在時間も増えます。
佳き参拝が出来ました。護國神社をあとにします。

「山梨縣護國神社」の隣にあるのは「山梨県神社庁」


余事ながら
「山梨縣護國神社」の鎮座地 は、戦国時代は「甘利備前守虎泰の屋敷跡」
甘利虎泰は武田二十四将、信虎時代の武田四天王の一人。

江戸時代は「龍華山永慶寺跡」(柳沢吉保の菩提寺)という。
なお寺院は柳沢家の所領替え(甲府から大和郡山)に際して移築。

余事ながら
山梨縣護國神社の近くには「武田信玄公御墓所」(武田信玄火葬塚)もあります。
せっかくなので脚を伸ばしてみました。
周辺は「護国神社風致地区」として整備されているようです。

余事ながら
「武田信玄公御墓所」の向かいに「川尻塚」もありました。
甲斐国で武田遺臣に討たれた川尻秀隆の首塚ですから、扱いも、まあお察しです…
武田関連はキリがないのでこのぐらいで。次は甲府聯隊関連を。

陸軍歩兵第四十九聯隊(甲府聯隊)

まずは甲府連隊跡関連の地図を。
地図の記載場所は罠でした。
これのお陰で現地で「迷子」になりましたので、正しい場所と補足を画像で添付。

現在の「山梨県福祉プラザ」の駐車場。
その片隅に跡碑が残っている。

旧歩兵第四十九聯隊 営門跡

甲府聯隊の営門跡。昭和60年7月建立

歩兵第四十九聯隊跡碑

昭和44年4月20日建立

明治38年に習志野にて編成。
明治42年に甲府の現在地に新兵舎移転。
昭和19年12月20日、レイテ島に於いて聯隊の主力が玉砕。
昭和20年8月、聯隊残部隊はセブ島にて終戦解隊。

歩兵第四十九聯隊跡碑
堀内一雄・筆

堀内氏は帝国陸軍歩兵少佐、満州国陸軍少将。山梨県出身。 戦後は富士山麓電気鉄道(富士急)社長を経て衆議院議員などを歴任。 子息は堀内光雄氏。

聯隊歌七節
 新に兵営なりしかば こゝに衛戍の命受けて  
  移りし年は翌春の 弥生半を過ぐる頃   
   峡中の地に武夫の 清き花をば植えにけり
明治百年記念 四九會

歩兵第四十九聯隊跡碑は市営団地(市営むつみ荘)に面した道路側に鎮座。

その場所から山梨大学小学校・中学校方面を覗いてみれば。建屋の向こうに赤レンガが見えます。そちらに行ってみましょう。

歩兵第四十九聯隊糧秣庫跡
(山梨大学赤レンガ館)

山梨大学教育学部附属中学校の入口が開放してあり、赤レンガを間近で見学することができます。 行ってみましょう。

歩兵第四十九聯隊糧秣庫跡(山梨大学赤レンガ館)

建設は明治41年頃。明治42年(1904)に歩兵第四十九聯隊(甲府聯隊)の糧秣庫(食料庫)として使用開始。 オランダ積み構造で甲府煉瓦製造の赤煉瓦を使用。 山梨県最大規模の煉瓦造建築物。

聯隊解隊後に跡地は山梨大学附属小学校・中学校用地となり中学校校舎として使用。
平成10年に大雪で破損したのを機に保存のための耐震工事などが行われ平成14年に改修完了。
文化庁・登録有形文化財

夕日に照らされる赤煉瓦を眺めつつ散策は終わり。
時間は17時。あとはのんびりと甲府駅に戻るだけに。

長野縣護國神社と戦跡散策

平成29年9月

松本
・長野縣護國神社
・陸軍歩兵第五十聯隊(松本聯隊)
・陸軍歩兵第五十聯隊糧秣庫跡(赤レンガ)

平成29年9月3日。
護國神社巡りは長野と山梨に。
この日は無謀にも松本市と甲府市をハシゴし「長野縣護國神社」と「山梨縣護國神社」を参拝。
あわせて戦跡として「松本歩兵聯隊」と「甲府歩兵聯隊」名残の糧秣庫跡(赤レンガ)も散策してきました。
こちらは長野松本編。

松本には魅力的な神社も史跡も多い。
が(過去に何度か訪れているので)、今回は誘惑を断ち切り長野縣護國神社のみに立ち寄ることを決意。
0935に松本駅に到着し、松本城・信州大学方面に向かうバスに乗り込んで、長野縣護國神社の社頭に到着したのは10時過ぎだった。

長野縣護國神社

信濃国総守護。長野県出身の明治戊辰の役以来大東亜戦争に殉ぜられた御英霊を祀る。
昭和13年、陸軍歩兵第50連隊(松本聯隊)に隣接する現在地に長野県招魂社として鎮座。
昭和14年、長野縣護國神社と改称。(内務大臣指定護國神社) 終戦後の一時期は美須々之宮とも呼称。

大鳥居をくぐり参進する。
参道の脇にひときわに大きな碑が目に飛び込んでくる。
いつもは慰霊碑には御社殿参拝後に巡拝するのだが、この碑の存在感に私の脚は自然と吸い寄せられてしまった。

南十字星の下に散華せる
「嗚呼戦友」

杉山茂謹書(元陸軍大佐・元陸将)

南十字星の下に散華せる
「嗚呼戦友」

大東亜戦争に日本を遠く遥か南溟の彼方ニューギニア島及其の周辺に祖国防衛のため挺身し、
 海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍
と散りし友の歩んだ途は惨烈悲壮筆舌に尽くし難し
 嗚呼 友の霊何処にぞ
戦終り時移りて此処に三十年 今ぞ群霊懐かしの故郷信州に帰りてこの地に鎮まり新しき日本の礎となる
吾等亡き友の昔日を偲び
 御霊よ 久遠に安かれ 
と信濃の国各地の不変の石にこの祈願を刻し、やがては同じ石下に吾等も魂魄を鎮め共に昔を語らんことを期して、此処にこれを建てる
長野県ニューギニア会
昭和49年7月28日

晴れ渡る夏空の下で、 拝する。

御英霊に感謝と哀悼の誠を捧げる。
そして
御英霊の御加護のもと、祖国の平和と繁栄を祈念する。

ありがとうございます。

社頭には「終戦の詔勅」が現代語訳とあわせて掲示されておりました。

御朱印を頂戴いたしました。 ありがとうございます。

護國神社のイメージに反して当て紙が可愛らしい。
なお、オリジナル御朱印帳は3種類あることを確認いたしました。 (「御神紋柄」青と桃の2色と「日の丸モチーフ表装」の3種類)


長野県ブーゲンビル会 献木

ブーゲンビル島。
1943年4月。山本五十六大将搭乗機が、この島の上空で撃墜され戦死する事件が起こる(海軍甲事件)。
同年11月には同島にアメリカ軍が上陸し、ブーゲンビル島の戦いとして終戦まで同島では戦闘が続いた。

平和の像

1995年(平成7)8月15日
松本深志ライオンズクラブ建立 平和の象徴「鳩」と子どもたちの像。

あゝ特攻 特攻勇士之像

大東亜戦争の末期、特別攻撃隊が編成され、祖国の平和と繁栄を祈り、愛おしい父母妻子家族と別れ、一機一艇をもって敵艦に体当たりして、勇戦敢闘し散華されました。 長野県出身者は、陸海軍合せ百六十余名の若者が特攻隊員として戦死されております。
松本市内には、出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立って行きました。又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。 国家存亡の危機に敢然と立ち向かわれ、今日の平和な日本の礎となられた諸英霊の崇高なる精神を永く県民の心に刻み、後世に伝えるため、終戦七十周年を期しここに建立いたしました。

平成27年10月10日
長野県特攻勇士之像建立委員会

國の為 誠の道を一筋に
 進み行くこそ大和魂
  秋山白厳 詠

シベリア抑留慰霊碑

相澤英之書
1945年8月の終戦は、ポツダム宣言の受諾によるが、同宣言9項を無視したソ連の蛮行により、日本軍将兵ら60万余がシベリア各地へ強制連行され、飢餓、酷寒、過酷労働の三重苦に苛まれ、犠牲者6万余に及ぶ悲劇的な大惨事となった。
人道に悖るかかる暴挙の風化を忍べず、忘却させてはならない残酷史として後世に伝え、犠牲者の冥福と恒久平和を祈念し、本慰霊碑を建立する。
2005年8月9日
シベリア抑留慰霊碑建立委員会

シベリア抑留慰霊碑

「異国の丘」
今日も暮れゆく 異国の丘に
友よつらかろ せつなかろ
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
帰る日もくる 春が来る

シベリア抑留の大地で「凍てつく岩石を掘る」シーンと「伐採作業」シーンが碑に描かれておりました・・・。

拓友之碑

満蒙開拓青少年義勇軍・佐藤中隊碑(佐藤剛吉中隊長)
昭和44年建立

拓友之碑

満蒙開拓青少年義勇軍第7次斉藤中隊碑(斉藤義男中隊長)
昭和51年建立

満蒙開拓青少年義勇軍。14~15才の少年達が満蒙の広野に開拓の意気高く大陸に渡るも昭和20年8月満蒙国境を打ち破ったソ連軍の捕虜となり過酷な重労働で多くは異国の土となった…

砲魂

佛印派遣討4237部隊第4中隊
昭和61年建立

旧歩兵第五十聯隊跡碑

昭和33年建立
松本歩兵第五十聯隊
通称「松本聯隊」

大戦当初は満州・華北方面に展開されていた。 昭和19年3月テニアン島守備部隊となり、同年8月2日にテニアン島にて玉砕…

松本聯隊の跡地には小さな社が鎮座していました。

北に長野縣護國神社。南に松本聯隊。
現在、松本聯隊の跡地は文教地区として「信州大学」や「長野県松本美須々ヶ丘高校」などが展開。
信州大学の校内に往時ゆかりの建物が残っているので行ってみましょう。

信州大学・松本キャンパス

キャンパスマップの32番に「旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫」って書いてありますね。分かりやすくて助かります。
ただこのキャンパスマップは「北が下」なのがちょっと不親切。

松本歩兵第五十聯隊糧秣庫跡
(信州大学松本キャンパス)

登録有形文化財。
明治40年に松本に第五十聯隊の衛戍地が決定し、翌年に聯隊が展開。
この糧秣庫の建設年代は明治41年(1907)ごろと推定。
外壁レンガはイギリス積み。
正面入口には…門柱がかなり短縮カット状態で保存。

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫

現在の信州大学松本キャンパスには、もともと松本歩兵第五十連隊の施設があった。
第五十連隊は日露戦争中の明治38年(1905)に編成され、明治40年(1907)に松本を衛戍地(えいじゅち)とすることが決まり、その翌年に現地に入った。
糧秣庫の建築年代は定かでないが、第五十連隊が衛戍地に入った明治41年(1908)頃であろう。
建物は梁間9.09m(約5間)、桁行36.32m(約20間)で、煉瓦造平屋建、切妻桟瓦葺屋根である。
外壁の煉瓦はイギリス積みになっている。
小屋組は、洋小屋組、キングポストトラス構造で、陸梁が1間おきに架けられ、建物の北側には廊下が通っている。
出入り口には2種類の大きさがあり、西面には大きな出入り口が1つ、北面には、西側から大きな出入り口、小さな出入り口、大きな出入り口の3つがある。
外壁には、北・南・東面に2種類の大きさのアーチ形の窓が連続して取り付けられており、北面には出窓がある。
現在の第五十連隊糧秣庫に残る痕跡から、当初の姿や改修の過程を見ると次のようになる。
・かつて、北面の外壁には大小4つの出入り口があった。
・当初の間取りは3ヵ所の煉瓦の内壁で4部屋に仕切られていた。
・それぞれの部屋の北西の外壁には、2つの窓と1つの出入り口が設けられていた。
・4部屋に仕切られていたとき、一番西側の部屋だけに床が張られていた。
・出窓は大きな窓を改修して取り付けられた。
第五十連隊糧秣庫は、用途の移り変わりによって内部の改修が行われてきたが、外部への改修は少なく、建設当初の姿をよく残している。この建物は戦争の記憶を現代に伝えるだけでなく、本学によって教育的にも利用され、時代を通してさまざまな人々の活動の場となってきた。

内装はいろいろ弄ったそうだけど外観は往時の姿を残しているという。
周辺は建物に囲まれているので空間はなかなか撮りにくい。

入口のところに転がってました。
保存?
「陸軍用地」境界石


松本市「 旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫 」

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/smph/miryoku/bunkazai/takara/kuni/touroku/50rentai.html

松本市戦争遺跡建立事業

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/shisei/heiwa_suisin/heiwa_tutaeru/rinewal_sensou_iseki.html

松本市内に残る戦争遺跡など

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/shisei/heiwa_suisin/heiwa_tutaeru/rinewal_sensou_iseki.files/itizu003.pdf

信州大学サイト
「旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫」登録有形文化財登録証等伝達式

http://www.shinshu-u.ac.jp/topics/archive_data/2012/09/post-487.html

航空神社(新橋・羽田)

平成29年撮影

新橋の航空会館(東京都港区新橋1-18-1) 屋上には「財団法人日本航空協会」(旧「帝国飛行協会」)が管理する航空神社が鎮座。
航空功労者や航空殉職者を祀る。
昭和6年8月1日創建。 現社殿は昭和58年8月25日竣工。

航空会館鎮座の航空神社の参拝可能日時は、月~土曜日の9:00~17 : 00が原則。9階から屋上フロアとなります。

9階には「御守」の頒布スペースもあります。
なお貸会議室が使用されている際は、ちょっと落ち着かない参拝環境になるかもしれません。
(貸会議室901室から屋上の航空神社がよく見えます・・・)

航空神社抄史
1.昭和6年8月1日、帝国飛行協会理事会にて航空神社創設を決議。
2.明治神宮造営残木を拝受。同年9月初起工、11月初竣工、11月7日、帝国飛行協会飛行館屋上に於いて新総裁梨本宮守正王殿下ご参列のもと靖国神社賀茂宮司斎主となり、盛大な鎮座祭執行。
合祀祭神 航空殉難者325柱、霊璽簿作成。
3.昭和19年~昭和27年 神社祭中断。
4.財団法人 日本航空協会発足により昭和28年 航空神社祭復活。
5.昭和38年度崇敬者総代会発足、航空功労者を合祀することとなる。
6.昭和38年7月、 羽田航空神社創建に伴う祭神分霊祭を挙行。
7.昭和49年9月20日 航空神社神霊を靖国神社境内「鎮霊社」に仮奉安のための遷座祭を執行後、仮奉安先の鎮霊社社前で合祀祭および恒例祭挙行。爾後57年まで8年間、鎮霊社社前で例祭挙行。
8.合祀祭神 航空殉難者、航空功労者を含め、霊璽簿総数6367柱。
9.昭和56年9月 靖国神社鎮霊社に於いて航空神社鎮座50年祭挙行。
10.昭和57年以降、航空神社に関する祭事はすべて航空神社奉賛会に移る。航空神社の祭祀を従来の祭神慰霊の神社から航空平安祈願祭の神社へと転換。
11.航空神社奉賛会が主導する募金活動ににより、昭和58年8月航空会館屋上に航空神社新社殿落成。同年8月25日、竣工祭並びに遷座祭挙行。
12.昭和59年度より毎月第一火曜日を月次祭の日(1月の新年祭は仕事始めの日)と定め、従来の9月20日を例大祭の日とし、毎回靖國神社神職の出張奉仕により、毎月航空平安祈願祭を行う、新たな航空神社奉斎方式を定める。
13.平成14年度より、月次祭を1月の新年祭と9月20日例大祭の奉仕とする。

昭和6年
チャールズ.A.リンドバーグ来日に際して帝国飛行協会(日本航空協会の前身)・飛行館に招待し白色有功章を授与。

昭和4年竣工の「旧・飛行館」建物基礎。

旧「飛行館」建物基礎木材
昭和4年6月竣工の旧「飛行館」建物基礎は長さ25m位、年輪50年程の米松の杭を先端にして地中に打ち込み埋設した。その間隔は半径50cm~80cmに1本と云ういわゆるベタ基礎で建物を支えていた。
航空会館建設に伴い、引き抜きを行ったが、数多く埋設されてあったため、除去には予想外の工期を要してしまった。除去した本数は800本。現建物の基礎工事に差し障りのない部分はそのままとなっているので、全体の数はいまだ不明のままである。
近隣の建物では東電旧館(現・東新ビル)、物産館(現・日比谷セントラルビル)の基礎も木柱であったが、いずれも旧「飛行館」よりは小ぶりであった。

昭和14年 日伊親善飛行記念品
イタリア首相ムッソリーニより贈られた記念品。

昭和14年 日伊親善飛行記念品
戦前のわが国航空技術水準の象徴として、軍官民の技術力を集結し開発した長距離機「三菱双発輸送機」”大和号”は、性能試験を兼ね昭和14年12月、東京‐ローマ両首都間往復29611粁を飛翔し日伊親善飛行に成功、その目的を果たした。
この彫刻は、当時のイタリア・ムッソリーニ首相から、大日本航空株式会社に贈られた記念品である。同社の終戦解散により、今日まで国際航業株式会社に保存されて来たが、歴史的記念品として当協会において保管することとなったものである。
昭和59年7月
 財団法人 日本航空協会

羽田航空神社

新橋「航空神社」の御分霊。
昭和38年(1963)7月11日に奉斎。 羽田空港第一ターミナルのJAL到着ロビーに鎮座している。 例大祭は5月20日。

ここ東京国際空港は昭和6年東京飛行場として発足以来紆余曲折を経て今日我国空の表玄関として運輸交通の発展のため重要な使命を果しております。
予てより我国航空界に携る人々の間において航空に最も縁の深いこの羽田の地に航空界発展の礎となられた諸々の御霊をお祀し今後の航空界の躍進と航空安全輸送の御加護を祈念したいとの気運があり、この度東京国際空港ターミナルビル増改築工事を機縁として空港全域を見守るに最も相応しいこの場所を神域と定め昭和38年7月11日財団法人日本航空協会の航空神社より御分霊を勧請し奉斎申し上げて羽田航空神社を建立致した次第であります
なお毎年5月20日を例大祭日と定め祭事を執り行います 
敬白

新橋と羽田の航空神社

http://www.aero.or.jp/jinjya/jinjya.html

飛行神社(京都府八幡市)

平成15年(2003年)撮影

2024年に再訪し、下記で記事を刷新しました


飛行神社

京都府八幡市、石清水八幡宮のお膝元に鎮座している航空関連の神社。
「日本の航空機の父」と称された二宮忠八が大正4年(1915)に航空受難者の霊を慰めるべく創建したことにはじまる。

航空安全祈願
飛行神社 縁起略記

鎮座 大正4年(1915)3月10日

主座祭神 饒速日命 天津神 古代の飛行神(中央社殿)
  祭神 航空殉難者諸神 (向かって右側社殿)
  祭神 薬祖神(向かって左側社殿)
  別社 常磐稲荷社

 当神社は明治24年(1891)4月29日に世界に誇るゴム動力プロペラ式飛行器の飛翔実験に成功した二宮忠八が、後進の航空殉難者の尊霊を慰めるべく崇め祀つた神社である。
 晩年自ら神職に就き昭和2年(1927)改修して朝夕航空安全祈願の奉仕をしたが、昭和11年(1936)に没した。
 昭和30年(1955)忠八の次男顕次郎が、再興にあたり「空は一つなり」の信条のもとに、あまねく全世界の航空先覚者並びに遭難者の霊を迎え祀り、今日に至っている。
 現在の本殿拝殿及び資料館、集会所は、忠八の飛行原理発見百周年記念に際し、平成元年(1989)に全面改築されたものである。
 平成12年9月
  京都八幡市土井四十四
   宗教法人 飛行神社         

零式艦上戦闘機の機首部

昭和58年10月下旬、大阪湾漁場において大阪府岸和田の漁師が、底引網操業中の漁網に、機首部がかかり、岸和田漁港に引き揚げられたものです。

15年以上前の参拝記録でした。再訪したいですね。

相模原界隈の戦跡散策

平成30年9月及び10月

平成30年9月。相模原界隈を散策してみました。
横浜線矢部駅から淵野辺駅までの散策と京王相模原線多摩境駅からの散策を。
軍都・相模原のほんの一部ですが、散策した様子を以下に。

位置関係

国土地理院・空中写真閲覧サービスより

昭和19年10月15日に陸軍が撮影した相模原界隈の空中写真
Google航空写真

当時は相模原駅と淵野辺駅間の矢部駅はまだ開業しておらず相模陸軍造兵廠への引き込み線があるレベル。

1948年(昭和23年)4月12日に米軍が撮影した航空写真を加工
1948年(昭和23年)4月12日に米軍撮影

相模原駅から北側にはどどーんと在日米軍相模総合補給廠が展開。
旧陸軍の相模陸軍造兵廠跡は今もそのまま在日米軍。
ゆえに相模原駅からは車窓以外は見るべきものがあまりなく。

基地内にある相模神社は相模陸軍造兵廠時代に建立されたもの。
また敷地内に残された建屋の多くも陸軍造兵廠時代のものという。

相模陸軍造兵廠跡と相模神社

この一節だけ別日に訪れました。たまたま基地内の公開がありましたので。

SHRINE PARK (神社公園)

SHRINE PARK HISTORY (神社公園の歴史)

この公園は1936年(昭和11年)に建設され、神道における武道の神、鹿島と香取を祭った神社を持つ。神社は早稲田大学教授の田辺泰博士により設計されたが、公園自体はコーネル大学卒業生のトーノ教授によって設計された。
本公園は1942年(昭和17年)に奉納され開園した。園内には、当時ここで働いていた日本人従業員の出身地から集められた様々な草花、低木、岩石や樹木が配置されている。

献燈

Sagami Fountain(相模の泉)
御手洗

凄い勢いで水が溢れ出しておりました。 アメリカンナイズな御手水。

Sagami Fountain(相模の泉)

これは御手洗(みたらし)と呼ばれ、通常は神社の本殿に通じる参道脇に置かれている。
参拝者は神社の神にお参りする前にここで手を洗い、口をすすいで身を清める。

Taiko Bridge (太鼓橋)

太鼓橋は、その高く丸い弧と水面に映る姿が作り出す円形が太鼓を彷彿させることからその名がついた。。 円形が満月のように見えることから、英語ではMoon Bridge とも呼ばれる。

SHRINE PARK (神社公園)
旧・相模陸軍造兵廠
Sagami Shrine「相模神社」

Sagami Shrine (相模神社)

相模神社は、昭和17年に当時の相模陸軍造兵廠で働いていた日本人従業員の献金によって建造された。
日本神話において天皇の祖先とされる神道武人の神、鹿島と香取を祭っている。
造兵廠の従業員達は、製造した兵器が両神の加護を受け、戦線において神威を発揮することを願った。

千木が残念な状態でした。
神紋は「左三つ巴」と「五七桐」。 鹿島神と香取神の御神紋。

Sagami Shrine「相模神社」
神社公園内の樹木は、相模陸軍造兵廠で働く工員と同じく全国から集められたものという。
そんな歴史を刻みし場も不思議なもので、いまでは米軍基地の中・・・
逆に米軍基地内だからこそ残った空間でもあり。

かつての境内地は、今では「BBQ」な場所。
アメリカンナイズな空間。

SHRINE PARK (神社公園)
旧・相模陸軍造兵廠

公園の隣はヘリポート。
さらにその向こうには鳥居が見えます。
ゲートとしてのカッコよさも神道文化の習合。

旧・相模陸軍造兵廠
敷地内の建物のほとんどは相模陸軍造兵廠時代の名残らしく。
私はこのときは「神社公園」に多くの時間を費やしてしまったために、建造物の追跡までやりきれませんでしたのでそのあたりは課題。

何気ない階段、ぜったいお前ら当時からのものだろ?

最近は米軍基地内も厳しくなっているようで、一般公開時でも上記のような散策は難しいかもしれません。そのときのルールに従って見学を。昔は開放されていた場所でも、次回は開放されていないかもしれませんし。

それでは、基地の外へ。

矢部駅

この日は矢部駅から散策スタート。
「在日米軍相模総合補給廠」方面を望む。かつての「相模陸軍造兵廠」
このあたりに引き込み線が広がっていた。

矢部駅は戦後に進駐した在日米軍が相模総合補給廠へ赴く際に臨時停車して乗降が始まったために昭和25年に相模仮乗降場開業。昭和32年に矢部駅へと昇格という。

矢部駅から「在日米軍相模総合補給廠」方面に歩いてみる。
すぐにゲートで行き止まり。
あまり長居するものでもないので駅前に戻る。

矢部駅前の公園(上矢部公園)の北側に記念碑がある。
子どもたちが元気よく遊ぶ空間。そんな公園の片隅に。

相模陸軍造兵廠跡

第三代廠長 原乙未生 書 (原乙未生 陸軍中将)

碑面裏には沿革が記載されていた。

昭和12年3月  陸軍東京工廠相模兵器製造所設立
昭和13年6月  戦車・牽引車・砲弾の生産を開始
昭和15年6月  相模陸軍造兵廠に昇格
昭和16年4月  横浜線相模原駅開設
昭和20年8月  終戦により閉鎖  
第四代土岐鉾治廠長、従業員約3万人

そのまま北上。
在日米軍相模総合補給廠(旧相模陸軍造兵廠跡)の脇を。
廃線跡。

廃線跡
草に埋もれし鉄路の先は米軍のフェンス。

相模陸軍造兵廠・陸軍用地境界石

これはちょっと可愛い。
フェンスが標石を避けるように張られています。
保存する意思が明白に感じられる空間。

このあたりは防衛省の宿舎もあるエリア。
防衛庁時代の標石もありました。
こちらもフェンスが調整されてますね。

在日米軍相模総合補給廠(旧相模陸軍造兵廠跡)

なんか一部に廃墟のような倉庫建屋が広がってますが・・・ 端の方の倉庫は既に積極的には使っていないのかもしれません。
そういえば以前に火事もありました・・・


陸軍兵器学校の弾薬庫

相模陸軍造兵廠跡を離れて東に。
こちらには「陸軍兵器学校」が展開。 その北端、現在の民間工場の敷地内に「陸軍兵器学校の弾薬庫」とされるものが残っているという。敷地外より見学。

陸軍兵器学校跡地を歩く。
現在の「防衛省 防衛装備庁 陸上装備研究所」

相模原市立大野北中や大野北小、そして麻布大学も「陸軍兵器学校」の跡地。

麻布大学の南側、かつて「陸軍兵器学校」の正門があった場所。
この陸軍兵器学校正門があった場所近くに「記念碑」が残っている。

相模原市立博物館にて掲示の写真
陸軍兵器学校正面(昭和10年代撮影)

陸軍工科学校・陸軍兵器学校跡碑

第四十一代校長 永野叢人書 昭和52年12月吉日 工華会建之

本校は明治5年諸工傳習所の名で小石川後楽園の地に創設、その後幾変遷を経て陸軍砲兵工科學校 陸軍工科學校となり昭和14年その18、19期生の時生徒数の増加に伴い小石川本校及び板橋分校より當地新校舎に移轉21期に及んだ。
昭和15年陸軍兵器學校と改称、生徒は1期となり學生 幹部候補生 練習諸隊も併設され、83萬5千平方米の敷地に7千人以上の人員を収容したが昭和20年8月67期生の卒業を待たずに兵器技術教育73年に亘る歴史の幕を閉じた。

そういえば小石川でも記念碑を拝見してました。
「陸軍砲兵工科学校・工科学校跡・諸工伝習所跡記念碑」
昭和13年(1938)、小石川から相模原に陸軍兵器学校が移転してました。

淵野辺の陸軍兵器学校跡(麻布大学)の地から次の目的地に移動をする。
淵野辺駅の南東、青山大学相模原キャンパスの横浜線を挟んだ南側にとある神社が鎮座している。

「新田稲荷神社」(しんでん稲荷神社)
文政元年(1818)創建の淵野辺新田地域の鎮守様
今回は境内社に注目。

新田稲荷神社・境内社
「細戈神社」(くわしほこ神社)

陸軍兵器学校内に鎮座していた神社。
昭和20年終戦後に陸軍兵器学校から新田稲荷神社境内に遷座。
社号の「細戈」は日本書紀巻三・神武紀に書かれた「細戈千足国」(くわしほこちたるくに)=立派な武器が多くある国の意。
社号標は昭和16年7月13日建立

細戈神社由来
細戈神社は天照大神・武甕槌命・経津主命を祭神とし、社名は伊弉諾尊が日本を細戈千足国と讃えられし語に拠る。
もと陸軍兵器学校々庭にあり、その精神的支柱として仰がれていたが、昭和20年新田稲荷神社氏子の好意によってこの地に遷り生産向上の神として鎮座してきた。
しかるに社殿は長年の風雪に損われ現状のまま存置することは不可能となった。
依て稲荷神社氏子並びに旧工科学校及兵器学校同窓会工華会は協力してその改修に当った。
工成るに及び工華会は記念の建碑を企て撰文を需めた。
ここに由来を記した所以である。
今や産業計画拡充に伴って科学技術の振興を一層重すべき直面している。
願わくは細戈の神霊益々神徳の 顕著ならんことを

昭和50年4月6日 工華会建立
 工華会=陸軍工科学校及び陸軍兵器学校同窓会

新田稲荷神社
境内社・今熊神社
境内の丘は「呼ばわり山」と呼称され、迷子や行方不明者が出た際に鐘や太鼓を叩いて呼ばわると必ず現れると信仰された。
最近では、小惑星探査機「はやぶさ」リーダーを務めていた川口淳一郎JAXA教授が「発見祈願」に毎夜訪れて、そしてはやぶさが見つかった逸話も。

そんなJAXA相模原キャンパス(宇宙航空研究開発機構・宇宙科学研究所)は新田稲荷神社の南西、淵野辺公園の近くにある。
JAXAや相模原市立博物館、淵野辺公園のある一帯は、かつての「陸軍機甲整備学校」の跡地。

「陸軍機甲整備学校」(陸軍自動車学校)は、もともとは世田谷(東京農業大学近く)にあったが、昭和18年に相模原の当地に移転。
移転前の世田谷にあった陸軍機甲整備学校(東農大) は下記に。

世田谷の方にはいろいろ残っていましたが、相模原の方は・・・見つける体力的余裕があまりありませんでした(疲労が溜まっていた)

淵野辺公園を眺めながら、休憩がてらに相模原市立博物館に行ってみることに。

相模原市立博物館
(陸軍機甲整備学校跡)

近代史関連の展示を。

常設展示・軍都計画と相模原

http://sagamiharacitymuseum.jp/tenji_shisetsu/josetsu/josetsu5/

「陸軍用地境界杭」
こちらは前述の陸軍兵器学校・敷地境界用杭として使用されたもの。 ところで私は「境界石」とか呼んでましたがコレの正式名称ってなんだろうな…。

相模原の軍関連施設の分布
今回は相模原駅~淵野辺駅界隈でしたが、このエリアには相武台の陸軍士官学校(キャンプ座間・座間駐屯地)なども宿題なんですよね。
あと陸軍通信学校(相模女子大学)

相模陸軍造兵廠開庁記念湯呑
相模兵器製造所が昭和15年に相模陸軍造兵廠に昇格したことを記念

榴散弾弾薬箱(陸軍兵器学校で使用)

大型空気入れ(相模陸軍造兵廠で使用)

乗馬用鞍(陸軍士官学校で使用)

常設コーナーは一区画だけですがご興味ございましたら是非に。


相模原市立博物館をあとにして、淵野辺駅へ。
淵野辺駅から橋本駅経由で多摩境駅に移動します。
この日の最終目的地へ。

京王多摩境駅から徒歩5分ほど歩くと、「都立小山内裏公園」に到着。
この公園から東に伸びる尾根緑道は通称「戦車道路」と呼称されている。

「戦車道路」(尾根緑道)

戦車道・・・ かつて、相模陸軍造兵廠で製造された戦車の走行テスト用道路であった。 (全長約8キロメートル)
それゆえの「戦車道路」 この道を完成したばかりのチハ車(九七式中型戦車)などが試験走行したという。

靖國神社遊就館のチハ

かつて戦車が走った道は今では尾根を望む散策路として、往時の伝承を残しつつ、往事を知る人知らない人それぞれありつつ憩いの空間として活用。
見晴台からかつて相模陸軍造兵廠があった方向を遠望しつつ。