「艦船」カテゴリーアーカイブ

日本海海戦記念式典(5月27日)

毎年、5月27日に日本海海戦記念式典が行われております。
公益財団法人 三笠保存会 主催
記念艦「三笠」にて

令和元年(2019)は「日本海海戦114周年記念式典」ですね。
残念ながら都合により参列できませんが。


過去の様子

平成30年

日本海海戦113周年記念式典

記念艦三笠にて(三笠保存会)
平成30年の式典には防衛大臣( 当時は小野寺氏)も祝賀にいらっしゃいました。

平成29年

日本海海戦112周年記念式典

平成29年5月27日は日露戦争日本海海戦112周年。
横須賀の記念艦「三笠」にて記念式典がございましたので参列してきました。

駐車場には海上自衛隊横須賀音楽隊の楽器輸送トラックもおりました。

記念式典ののちに甲板にて海自音楽隊の演奏もあります。
記念式典は13時30分より講堂にて。

「日本海海戦112周年記念式典」 (公益財団法人三笠保存会)

記念式典は講堂で行われます。
受付(三笠保存会会員・事前申込制)からダイレクトに講堂に。
実は講堂に入るのも初めてだったりします。

式典が始まるまでの待ち時間に「記念呈茶」が行われていたので戴いてきました。

こっ…これはっ!
「Z旗のお茶菓子(餡)」でした。
ほんのりと拡がる甘さがステキでお茶も美味しく頂戴致しました。
ありがとうございました。

日本海海戦記念式典

13時30分 記念式典開始

式次第
開式の辞
国歌斉唱
黙祷
式辞
祝辞
来賓紹介
祝電披露
閉式の辞


国歌斉唱

海上自衛隊横須賀音楽隊の演奏での斉唱。
ついで日露両軍犠牲者に「国の鎮め」曲で黙祷を捧げる。

式辞祝辞

例年、
三笠保存会会長が式辞を。

祝辞は、
海上自衛隊横須賀地方総監
米横須賀海軍基地司令官
横須賀市長

来賓は、
各国大使館付武官や海自関係者、県市議会議員、東郷平八郎の御係累の皆様など。


講堂での記念式典は13時30分から14時10分まで。
14時20分からは甲板にて海上自衛隊横須賀音楽隊の演奏を堪能。
演奏は式典参列者に限らず三笠入艦者も見学可能。

「日本海海戦記念行進曲」の演奏。名曲です。

海上自衛隊横須賀音楽隊

14時20分から14時50分までは 上甲板にて海上自衛隊横須賀音楽隊の演奏を堪能 「日本海海戦記念行進曲」
「行進曲軍艦」
「海行かば」
など

日本海海戦記念式典

15時から16時までは記念祝宴。
立席パーティです。 好き勝手に飲み食べをすれば良いよっという空間。

そういえば、一瞬だけ小泉進次郎議員がいらしておりました。
横須賀の式典ですから、ね。
むちゃくちゃ忙しい中で、「三笠」の記念式典にお越しいただきましてありがとうございます!

16時に記念祝宴終了。

「明治丸」と「東京高等商船学校」(東京海洋大学)

平成29年7月

海の日(7月第3月曜日)

海の日は1995年(平成7年)に制定され1996年(平成8年)から施行された日本の国民の祝日の一つ。
「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨としている。
祝日化される前は「海の記念日」(7月20日)

海の記念日

海の記念日は1876年(明治9年)、 明治天皇の東北地方巡幸の際、汽船「明治丸」によって航海をし7月20日に横浜港に帰着したことにちなみ1941年(昭和16年)に制定。
その後、明治丸は東京商船学校練習船として使用され、現在は東京海洋大学越中島キャンパスに保存。

東京海洋大学

海の記念日・明治天皇ゆかりの「明治丸」は東京海洋大学越中島キャンパスにて保存されている。

本日、「海の日」記念行事として東京海洋大学にて公開などが行われていたので、行って参りました。

最寄りはJR越中島駅。
駅のタイルも海洋っぽい感じで良いですね。

私の目的は「明治丸」
まだ見たことがなかったので、せっかくだから海の日に見学してみたかったのだ。

明治丸

明治丸は明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し明治7年に竣工した鉄船。翌8年横浜に回航。
明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に日本政府の調査団を乗せ英国船より早く小笠原に到達し日本統治を宣言。これにより小笠原諸島は我国の領土となった。

明治9年(1876年)  明治天皇が東北・北海道巡幸の際、青森から明治丸に乗船され函館を経由し7月20日に横浜に安着。
この安着された7月20日を記念して昭和16年に「海の記念日」が制定され平成8年に国民の祝日「海の日」となる。
写真は明治丸船内の 明治天皇御座所

明治丸は、その後の約20年間を燈台巡廻船として活躍し明治29年に商船学校に譲渡。
係留練習船として昭和20年までの約50年間に5000余人の海の若人を育成。

大正12年の関東大震災や昭和20年の東京大空襲では被災民を収容するなど災害救援にも貢献。

明治丸は終戦後の1945年(昭和20年)9月には商船学校とともに進駐米軍に接収され酒保とされる。
接収中の1951年に係船地で座礁したのを契機に接収解除。

1952年には浮揚させて上甲板などの修理が行われたが1954年に老朽化のため練習船の任務は解除となる。

昭和53年(1978)、鉄船時代の造船技術を今に伝える貴重な遺産として、かつ現存する唯一の「鉄船」として「明治丸」は国の重要文化財に指定。
「船としての重要文化財指定」は明治丸が初めてであった。

平成27年に大規模修復工事が終了し現在の姿を伝える。

船首と船尾に装飾として使用されている「アカンサス文様」(アカンサスは地中海原産)は日本の船の文様としては珍しく、この船がイギリス産であることを物語っている。(日本での定番の文様は「唐草文様」)

近くでは、ちょうどアカンサスの花が咲いておりました。

この日は海の日イベントでの開放日となっておりましたので船内も自由に見学できました。(普段はガイド引率のようです)

前甲板など。
大規模修復工事のあとということもあってかなり綺麗です。

舵は後甲鈑に。
まっすぐに伸びるマストが気持ち良いです。

船内に降りる階段。

船内後方は曲線美しいサロンとなっておりました。
明治天皇もここで休まれたと。

空間は上甲版に作られた天窓の光が差し込む自然の明るさ。当時は船には電気が導入なかったために暗くなると蝋燭が柱に設けられたスプリング機能付き台座(柱頭ランプ)などに灯されたとのことです。

船内前方は船員室などがあったといいます。
現在は展示スペースなど。
やはり天窓が大きく明るい日差しを船内に届けておりました。 この時代の船は、ひと味違いますね。

窓が豊富にあるのは明かりを取り込む工夫。
電気がなかった時代の特徴。
これが軍艦だとここから砲身が伸びてきますが・・・


アンカーの塔

商船教育発祥を記念して昭和40年に85周年記念として建立。
このアンカー(錨)は係留練習船としての明治丸をポンド内に定置する際に使用されたもの。
アンカー主幹は北極を、ストックは天の赤道を指している。

日本海軍駆逐艦「磯風」
左舷プロペラ

ん?
17駆の磯風は大和随伴で沖縄…と思ったらこちらは初代磯風でした。
(17駆の磯風は2代目)

1918年(大正7)竣工
1935年(昭和10)除籍

百周年記念資料館

日本海軍制式短艇用コンパス(上陸用舟艇に使用)
昭和16年

鉄球の羅針盤から鉄板と磁力棒へと進化。
ジャイロコンパスはもうちょっと後。

左は「九〇式三号磁気羅針儀1型」(昭和18年)
大きな鉄球は「戦艦伊勢用大型自差修正用鉄球」

軍人が帯刀してるだけでも磁場が狂うらしいです

90式測深儀(指示部・発振部)
昭和18年

百周年記念資料館
文系の私には細かいレベルではよくわかりませんが、エンジン機関とか歯車とか航海学に関するものとかいろいろ盛り沢山。

大成丸 (初代)関係資料

1903年12月2日に進水。日露戦争開戦の年に竣工した本船は海軍に徴用され試運転後は帆装を取り外し輸送船として軍事輸送に従事。
1906年に東京高等商船学校の航海練習船として運用開始。

大成丸 (初代)
練習船として活躍するも1941年に再び海軍に徴用。
輸送船として石炭輸送に従事。航行可能状態で終戦を迎えたが1945年10月9日11時頃に神戸港内で米軍残存機雷に触雷して沈没。

写真は遺品の御真影奉安庫


キャンパス周辺の史跡を散策してみます。

東京商船大学1号館
(現・東京海洋大学海洋工学部1号館)

関東大震災で焼失した校舎跡地に昭和7年(1932)建設。
航海船橋を模した建造物。
登録有形文化財。

東京海洋大学

明治8年11月(1875)私立三菱商船学校が東京に設立
明治15年(1882)三菱商船学校は官立となり東京商船学校と改称
大正14年(1925)東京高等商船学校と改称

戦時中は、東京高等商船学校に入校した学生は海軍予備生徒に任命され兵籍に入り徴兵の対象外となった。海軍予備生徒は海軍三校(海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校)の生徒に準じる立場であり、下士官の上位、准士官の下位に位置づけられた。卒業後は海軍予備少尉。

1号館は昭和7年の建造ゆえに正確には文部省所管の官立「東京高等商船学校」時代の建物となる。

1945年(昭和20年)に 東京・神戸・清水の高等商船学校3校が統合し「高等商船学校」が発足。
消耗が激しい海軍初級士官の大量養成の一端を担っている。

戦後は東京商船大学と呼称していたが、2003年に東京水産大学と統合して東京海洋大学となる。

越中島→元・東京商船大学(工学系)
品川 →元・東京水産大学(水産系)

統合して「海洋」だけど、たしかに両者の趣はだいぶ違いますね。

第一観測台 (東京海洋大学・越中島)

明治36年(1903)建設。(官立「商船学校」時代)
赤道儀室と呼ばれ、内部には東洋一といわれた天体望遠鏡を備え教育研究に使用された。
平成9年(1997)に登録有形文化財。

第二観測台 (東京海洋大学・越中島)

第一観測台と同時期の明治36年(1903)建設。(官立「商船学校」時代)
子午儀室と呼称され、内部には子午線測定用望遠鏡が備えられた。
平成9年(1997)に登録有形文化財。

G.E.O.ラムゼー功徳碑 (東京海洋大学・越中島)

ラムゼー先生は明治9年から6年間に渡り、前身の私立「三菱商船学校」時代に航海術を教えた教員。
没後の明治19年(1886)に門弟達によって碑が建立された。
碑には琅西君(=ラムゼー氏)と記載されている。

招魂碑 (東京海洋大学・越中島)

東京商船学校の生徒であった田福重右衛門は英国船に乗船し米国に渡る途中で暴風雨に遭遇して死亡した。
この碑は僚友たちが出資して明治21年10月に建立。
題字は逓信大臣榎本武揚の篆書。

精神不滅碑 (東京海洋大学・越中島)

昭和19年8月、清水高等商船学校生徒3名は不屈の精神で持って遠泳訓練に挑んだが豪雨の影響もあり最後まで泳ぎ着いたものの力尽きて死亡。この碑は敢闘精神を記すために昭和19年11月に建立。
撰文は清水高等商船学校長・海軍中将 松永次郎

管船長石像 (東京海洋大学・越中島)

菅源三郎は商船学校を卒業後、上海航路貨客船・長崎丸の船長として活躍。
昭和17年に長崎港外で機雷に触れたが沈没するまで同船を指揮。救助された後も遭難者への事後処理に奔走し責任を負って自決。
昭和20年1月建立。

船模型は長崎丸姉妹船の上海丸

明治天皇聖蹟(越中島)

こちらは大学の敷地に食い込むように建立されておりましたが、現在は敷地外の扱い。
碑文を読み解くと、

明治天皇聖蹟(近衛文麿謹書)
紀元二千六百年記念建設
越中島には明治3年9月、明治5年9月、明治6年12月、明治8年6月に天覧の為に行幸された由

さて10時に越中島キャンパスにたどり着いてランチ休憩も含めて気がつけば3時間経過の13時すぎ。
ちょうど13時35分に越中島キャンパスから品川キャンパスを結ぶシャトルバスが運行でしたので、バスに揺られてなんとなく品川キャンパスに向かいます。

写真は豊洲運河から明治丸

品川キャンパスは歴史要素が薄いのでサラリと終わります。
品川は元水産大学なので、越中島のような船メイン(海軍要素あり)ではなく、海の生き物中心。


14時。品川キャンパスに到着。

この地は旧海軍経理学校品川校跡地。往時を偲ぶものはない。

海軍経理学校品川校舎は昭和18年に開設され昭和19年には築地から品川に本校機能が移転。 終戦後に米軍に接収され、そののち東京水産大学が展開された。

築地  →海軍経理学校之碑
東郷神社→海軍経理学校正門敷石
靖國神社→海軍経理学校正門敷石と品川校の揚艇柱部品など

この地で保存されている船

雲鷹丸

登録有形文化財。 東京水産大学の前身、農商務省水産講習所の第2代練習船。
1909年竣工。1929年航海終了、その後は係留練習船として活躍。
昭和37年に喫水線上部船体を現在地に移設し現在に至っている。


ノルウェー式捕鯨砲
19世紀末の近代捕鯨で船首に備えられた捕鯨砲 旧型と新型

鯨ギャラリー
セミクジラとコククジラの骨格が展示

品川キャンパス内での歴史的建造物

中部講堂(なかべこうどう)

昭和34年(1959)水産関係の実業家であった大洋漁業(株)社長中部謙吉氏が寄贈した建造物。当時は旧海軍経理学校及びGHQ接収建造物を校舎流用しており満足な施設がない時代であった。

「中部講堂」の周辺にある記念碑など。
松原新之助像(水産講習所初代専任所長)
伊谷以知二郎像(水産講習所第三代所長)
水産翁碑(水産伝習所第二代所長・村田保水産翁記念碑)

水産大学・・・東京海洋大学品川キャンパスの写真は以上。
マリンサイエンスで剥製や骨格などを見学したりして海の生き物たちの造詣を深めるのもなかなかよろしでしたが、ワタシ的にはやはり商船な越中島の方が楽しかったようです。


明治神宮
なぜ7月20日に「海の日」が制定されたのですか?

http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/04.html

「砕氷艦AGB-5003しらせ」と「5002SHIRASE」

平成29年8月撮影

平成29年8月20日
チャレンジングSHIRASE
マリンフェスタinFUNABASHI

船橋港にて6年ぶりに5002と5003の「しらせ」が再会。
実は先代も現役もどちらにも乗艦したことが無かったので、これは良き機会。行って参りました。

砕氷艦AGB5003しらせ

AGB→Auxliary Ice Breaker 砕氷艦

自衛艦「AGB5003しらせ」は我が国唯一の「砕氷艦」。
基準排水量は12650トン。
手強い氷厚に対して最大馬力(軸出力3万馬力)で氷の上に乗上げで艦の自重で氷を砕いて邁進する。

「5003しらせ」艦内一般公開。
思ったより空いており、ノンビリと艦内見学ができました。

しらせ1号

自衛艦旗

ファンネル(煙突)と上部見張所

「5003しらせ」艦橋からは、先代の「5002しらせ(SHIRASE)」の姿が。

Suicaのペンギンっぽい生き物からのお願い

吹っ飛んだり、挟まれたり、大変危険!!

「砕氷艦しらせ艦内神社」

勧請は駿河国一宮「富士山本宮浅間大社」
先代「しらせ」先々代「ふじ」の艦内神社も富士山の浅間様

恐らくは先々代「ふじ」に因んで「富士山本宮浅間大社」が勧請されたものを踏襲していると推測
(「宗谷」の勧請は確証なく不明であるが、やはり浅間大社といわれている。)

艦内床屋
ちゃんと床屋名物の回る看板(サインポール)がクルクルしてましたw

2代目しらせは、舞鶴生まれ。
2009年(平成21年)5月20日にユニバーサル造船舞鶴事業所において竣工式並びに艦旗授与式がおこなわれた。
横須賀地方隊に編入され、母港は横須賀基地。 Ship of the Year 2009 も受賞。

南極探検隊長・白瀬矗(しらせ のぶ)
開南丸で南極探検に向かい明治15年(1912)日本人初の南極上陸に成功した探検家。
その功績を称えるプレートが「しらせ」艦内に掲揚。 砕氷艦しらせの艦名は白瀬中尉の功績を称えて命名された白瀬氷河に由来。

平成28年、豪州観測船「オーロラ・オーストラリス号」座礁における支援活動の表彰など。

ジロを見つけました(タロは見つかりませんでした

二人部屋


艦内見学を終えて下船したら…

あっ。 精鋭無比な第1空挺団がおられました。

千葉地本広報車「業務車2号」 (千葉地方協力本部)

千葉地本のイメージキャラクター「千葉3兄弟」ラッピング痛車…広報車。

さて次は先代「5002しらせ」(SHIRASE)の見学行ってみましょう。

「5002しらせ」(SHIRASE5002)と「5003しらせ」
このときが6年ぶりの再会とのことです。

「5002しらせ」(SHIRASE5002)艦橋から「5003しらせ」を。

「5002しらせ」(SHIRASE5002)

再会「SHIRASE」x「しらせ」

砕氷艦AGB-5003しらせ イベント会場では出店も多数。
船橋市政80周年記念イベントも兼ねており、地元ベースの盛り上がりも垣間見れてなかなか楽しい空間でした。

夕呉クルーズ

平成29年(2017)3月

呉艦船めぐりの夕暮れクルージング 、おすすめ。


平成29年3月4日夕方。私は広島県呉市にいた。

夕暮れに軍港巡りが出来るというのを知り、実は昼前に電話予約していました。

この日は1745出港のクルーズ船にて、海自護衛艦の国旗・自衛艦旗の降納と君が代ラッパを観覧。
初めての洋上観覧!

呉艦船めぐり

http://kure-kansen.com/

運行スケジュールは昼5便に、夕暮れの臨時便。
ここは迷いなく夕暮れな「夕呉クルーズ」でしょう。

この日の出港は1745。受付は1715から。
集合は出港5分の1740。

海軍伝統の5分前の精神で。

これは良き夕暮れクルーズが期待できそうです!

1740

出港5分前に乗船開始。
クルーズ船の旅客定員は80人。
数えてないけど参加者もたぶんそれくらいいた感じ。盛況です。(事前予約しといた方が安全です)

出港しました!

建物は「呉中央桟橋ターミナル」。
ここから、江田島や松山・広島方面の船が出る海上交通の要所。
どことなく呉鎮守府庁舎をモチーフにしてそうな感じ。

そして、正面の山!
こうして見ると、呉のシンボル「灰ヶ峰」がよくわかります。

ちなみに呉市の真正面に聳える灰ヶ峰。
一部のみなさんには、お馴染みな山になりました。
(この世界の片隅に)

山頂には気象レーダー観測所があり、また戦時中は防空高射砲陣地も展開されており、元高射砲台基部を使用した展望台がある。
標高は呉市の郵便番号上3ケタと同じ737m。

支援船がいっぱい!

大和ドックの手前。
ドックでは、ちょうど「DD-105 いなづま」が整備中なのです!
2016年7月10日に第25次派遣海賊対処行動水上部隊として護衛艦「すずつき」と共にソマリア沖に向けて呉から出航しており17年1月12日に呉に帰港したばかりなのです!
(撮影は17年3月)

大和ドックを海上から。
ドックの説明は改めて別でも触れると思いますが、現在はドックとしては機能しておらず(埋立済み)、部品組立工場として機能。大和建設当時の「大和ドックを覆っている骨組み建屋」を記念として残してあります。
横では大型貨物船の建造中。

こちらも建造中の大型貨物船。
「NYK」すなわち「日本郵船株式会社」
二隻同時建造。完成はもう間もなくとのことで。
「NYK HAWK」「NYK FALCON」
空荷のために喫水線が浅いですね。

船首は「バルバス・バウ」(球状船首)。大和型と同じです。

「DDH-182 いせ」が整備入りしておりました。 IHIドッグ

松山~呉~広島を結ぶ高速船(瀬戸内海汽船スーパージェット)が横を走っていきました。
こいつは速いw

1753

江田島の稜線に沈む太陽。

護衛艦の旗降納は水平線への日没時間に行われるので、あとすこしだけ時間があります。

呉のヌシ
「LST-4001 おおすみ」
桟橋の一番陸地側にいました。

輸送艦 LST-4003くにさき
補給艦 AOE-422とわだ

輸送艦 LST-4003くにさき
訓練支援艦 ATS-4202くろべ

「くにさき」と「くろべ」
艦尾には「自衛艦旗(十六条旭日旗)」、艦首には「国旗」

海上自衛隊第1潜水隊群
潜水艦の細かい見分け方は・・・わかりません。

φ(..)メモ 舵がX型なのがそうりゅう型、十字型のがおやしお型。

1808

海上自衛隊第1潜水隊群
隊司令旗(甲)が翻っております。

そろそろ、です。

1810

海上自衛隊第1潜水隊群。

10秒前~パンパパ~ン(ラッパ)気をつけ!
日没とともに喇叭譜君が代(ドソドミソの五音の組み合わせで吹かれるラッパ「君が代」)吹奏。

自衛艦旗に対し挙手敬礼。
自衛艦旗降下。

湾内の護衛艦各艦にて一斉に行われます。

動画のほうが伝わるのですが…スミマセン、写真専の人なもので。
検索してみれば動画もあっちこっちに上がっているかと。

湾内の緊張した空気感で背筋がキッと伸びます。
この気持ちよさが、日本人の誇りでもあり。

日没後、国旗自衛艦旗降下降納が終わると、電灯が点火されます。

クルーズ船は港へと一直線に戻り始めます。

日没後は明るさが失われるのも速く。。。

旧帝国海軍・呉鎮守府庁舎
現在は、海上自衛隊呉地方総監部庁舎

海から見るのは新鮮ですね。
(下に穴というか壕が開いてますねえ・・・)

呉の港へ。

「ここが呉」
「九つの峰に守られているんで、ほいで九嶺(くれ)いうんで」
「ほいで、真ん中のんが、灰ヶ峰…」

18時25分すぎ。予定時間よりも10分ほど伸びたクルージング。

なかなか貴重な体験をさせていただきました。
潜水艦を、まさかの洋上から日没に立ち会えるとは夢のようなひとときでした。

これは呉に行って時間があれば是非とも体験してほしいオススメのクルーズですよ!

こんな感じで夕暮れ呉ツイレポ〆

空母赤城と赤城神社

平成28年(2016)9月撮影

空母赤城に関係する神社を。

大洞赤城神社・旧鎮座地。
社頭向かって左側にある「碑」

大日本帝国
軍艦赤城奉納碑

境内地は立入禁止ゆえ望遠トリミングで。

奉納は昭和10年10月とのことです。

「赤城」の関係者が奉納した歴史を感じつつ、往時を偲ぶよすがとして。

大洞赤城神社・旧鎮座地

昭和45年(1970)現在地に遷座するまでは大洞赤城神社はこの地に鎮座していた。
現在は旧地として空間が残っている。

尚、旧社地は立入禁止。外側から遠巻きに拝見させていただく。 

大洞赤城神社・現鎮座地

大洞赤城神社

群馬県前橋市富士見町赤城山に鎮座。
式内名神大社論社、上野国二宮論社、旧社格は郷社。
正式な社号は「赤城神社」であるが、他の赤城神社との区別のため「大洞赤城神社」と呼称。

御祭神
正殿 赤城大明神
大国主命・磐筒男神・磐筒女神・経津主神

創建年代は不詳。社伝では豊城入彦命(崇神天皇皇子・上毛野君や下毛野君の始祖)が上毛野を支配することになった際に山と沼の霊を奉斎したと伝承。

平安時代中期編纂の「延喜式神名帳」では名神大社として「上野国勢多郡 赤城神社」の記載あり。
ただし式内論社としては赤城山頂に鎮座する当社「大洞赤城神社」のほか、山腹の「三夜沢赤城神社」、山麓の「二宮赤城神社」もある。

当社は赤城神社の「山宮」とされている。 「里宮」とされる二宮赤城神社に対して、三夜沢赤城神社も「山宮」とされる説もあり、このあたりの三社の関係はややこしい。

明治の近代社格制度では郷社列格。 (なお三夜沢赤城は県社、二宮赤城は郷社)
三夜沢・大洞・二宮の三社を合わせて「国幣中社」にしようとする動きもあったが、終戦により社格制度が廃止され、これは実現はしなかった。

昭和45年(1970)。
社殿が荒廃したために、大沼南端の畔の旧社地(大洞地区)より、現在地の小鳥々島に遷座。
現在の社殿はその時の再建となる。


三夜沢赤城神社
赤城会奉納札

空母赤城会の奉納。 (赤城空母会とも)

三夜沢赤城神社

群馬県前橋市三夜沢町鎮座。
式内社名神大社論社、上野国二宮論社。旧社格は県社。 赤城三社のうち(二宮・大洞・三夜沢)で、当社が唯一の県社列格。
御祭神は、赤城神・豊城入彦命・大己貴命

創建は不詳。
崇神天皇の皇子・豊城入彦命が上毛野国を支配することになった際、大己貴命を奉じたのに始まるとされる。
豊城入彦命は上州の上毛野氏・下毛野氏の祖。

崇神天皇の長男であった豊城入彦命がどうして東国に派遣されたか。
書記曰く。
崇神天皇が皇太子を定める際に豊城命(とよきのみこと)と活目尊(いくめのみこと)を呼び寄せ「皇太子を決めかねている。お前たちの見た夢で占うことにしよう」と仰せられた。

夢を見た翌日の報告
兄の豊城命は「自ら御諸山(三輪山)に登り、東方に向かって八回槍を突きだし、八回矛を突きだし、八回刀を打ち振りました」と申し上げた。
弟の活目尊は「自ら御諸山の嶺に登り、縄を四方に引き渡し、粟を食べていた雀を追い払いました」と申し上げた。

崇神天皇は夢占いをなされて、
「兄は東方に向かって武器を振るっていた。だから東国を治めるがよい。弟は四方に臨んでいた。まさに私の跡を継ぐのに相応しい」と仰せられた。
そこで弟の活目尊を皇太子(のちの垂仁天皇)に立て、兄の豊城命は東国(毛野国=上州)を治められた。

崇神天皇といえば、大和朝廷の権力を周辺に拡げていた時代。

すなわち四道将軍を任命し、大毘古命を北陸に、建沼河別命を東海に、吉備津日子命を山陽(吉備)に、日子坐王を山陰(丹波)に派遣。 出雲臣に圧力をかけ神宝を提出させ、三輪と伊勢の祭祀を整理し…と強権を振るっていた。

大和に従わない東国に対して。
四道将軍として大毘古命(孝元天皇皇子)を北陸道に、建沼河別命(大毘古命の子)を東海道に派遣、この両者が出会った場所が「会津」(福島県)となる。
そして武勇に優れた崇神天皇長男・豊城入彦命を更に東国に派遣し、毛野国から蝦夷ににらみを働かせる。

第10代崇神天皇は東国に皇子・親戚たちを派遣。
次代は四方を見渡し治世に優れていた弟・活目尊(のちの第11代垂仁天皇)が皇位を継ぐ。
兄・豊城入彦命が治める東国はまだまだ平定に時間を要し、こののち第12代景行天皇の皇子・倭建命(日本武尊)の東国派遣へと繋がっていくのだ。

三夜沢赤城神社・御本殿(県指定重要文化財)

社殿は、拝殿・中門・本殿となっており、本殿はより高台に鎮座。
本殿内には由良成繁(新田四天王由良具滋の末裔・新田金山城主)奉納の宮殿が納められている。

神社は好きだけど、本筋から外れるので簡単に〆

観音崎の戦跡散策(横須賀)

令和元年(2019)5月11日撮影・横須賀市

戦没船員の碑

午前中に「馬門山横須賀海軍墓地墓前祭」に参列し、午後はフリータイム。
一緒に行動していた友人から一言「観音崎行ったことある?」

実はわたしはまだ観音崎に行ったことがなく。事前調査で情報量が多すぎて怖気づいていたもので、この方面は「走水」まででした。

良い機会でしたので友人と「まずは斥候の気持ち」で「観音崎」に赴くことに。
結果としては、予想以上の情報量に圧倒されてしまい。

そんなわけで、今回がはじめての観音崎。
いろいろと散策が甘いかと思いますが、そこは諸先輩の後塵を拝しながら、初見のレポを以下に。

位置関係

USA-M46-A-7-2-120
1946年02月15日‐米軍撮影

午前11時スタート

駐車場に車を止めて、散策開始。止めた場所は「観音崎自然博物館」の近く。つまり観音崎の南側。あとから思えばこの判断が失敗だったような。

観音崎公園の案内図

れんが構造物のマークもついているのが散策にはありがたいですね。

トーチカ跡?

まずは多々良浜近くの「トーチカ?」とされている海岸のコンクリート構造物を拝見。

南側の駐車場から一気に踏破をして、「戦没船員の碑」を目指します。この場所が実は前々から気になっていた地。駐車場も直線距離で一番近いところが南側だったので南に止めたというのもあったが、どうやらそれが失敗だったようで、直線距離が近い=急勾配。完全にトレッキングでした。

なお、墓前祭に参列したあとでしたので、革靴とワイシャツと・・・という格好。この格好で観音崎はダメですね。しかし動き出してしまったのであとの祭り。

戦没船員の碑

かつて第二次世界大戦や海難事故の犠牲となり海洋で失われた6万余人の船員たちの霊を慰める慰霊碑。

戦没船員の碑建立記

昭和12年7月に端を発したさきの戦争において、わが国の海運水産界は6万余人に及ぶ尊い船員の生命と2500隻840万総トンを超える船舶を失うというまことに大きな犠牲を払いました。
それから25年、わが国の海運水産界は再び隆盛をとりもどし昔日にまさる反映をみるに至りましたが、私どもはこれら多くの戦没された船員の労苦を偲びその霊を慰めるとともに世界の海に二度とこのような悲劇をくり返さないように致さねばなりません。
こうした私どもの願いは昭和44年7月財団法人戦没船員の碑建立会の発足となり、多数の人びとの協力を得てここに記念碑を建て、戦没船員の名簿を納めることになりました。
見渡す限りの大海原、変わることのないこの大自然を前にして、この地を訪れる人びとと、また沖をゆく船の人びとと共に心をあわせてこの記念碑が永遠の平和の光となりますよう深い祈りを捧げるものであります。

昭和46年3月25日
財団法人 戦没船員の碑建立会
会長 足立正

殉職船員追悼式の記

昭和46年5月6日この碑前において 皇太子同妃両殿下ご臨席のもとに全国遺族代表を招いて戦没船員追悼式を挙行し、以来毎年5月に式典を実施して参りました。
近来海難殉職船員の慰霊に対する要望が高まって参りましたので本年4月財団法人日本殉職船員顕彰会を設立し本日第一回殉職船員追悼式を執り行ない、以後5月15日を式日と定めて戦没海難全殉職船員の労苦に思いをいたしそのみ霊を慰めるとともに海洋永遠の平和を祈る式典を行うことにいたしました。
この追悼式には、大戦中輸送船船長として活躍された宮越賢治氏の自作能「海霊」が、鎮魂と平和を祈念して奉納されます。
殉職船員追悼式が、わが国民の海洋精神高揚の一助となって海洋立国の認識を深めることを切に念願するものであります。

昭和56年5月15日
財団法人日本殉職船員顕彰会
会長 佐々木周一

戦没船員の碑

 第二次世界大戦や海難事故の犠牲となって海洋で失われた、6万余人の船員の霊を慰め、かつ永遠の平和への願いを込めて設けられました。
 高さ24メートルの白磁の大碑壁を中心に、天皇陛下御製碑、皇后陛下御歌碑のほか、かつての練習船の錨などを配し、太平洋を望む格好のモニュメントとなっております。

設計/東京藝術大学教授 吉村順三
群像/東京藝術大学教授 菊池一雄

その後の進徳丸

 神戸商船大学構内に保存されていた進徳丸は、平成7年1月17日、阪神・淡路地方を襲った大震災により、設置地盤が崩壊したため、老朽化していた船体は解体撤去されることになり、平成8年2月、多くの人々に惜しまれつつ、その波乱に満ちた障害を閉じました。
 解体された進徳丸の船首とマストは、神戸商船大学の「進徳丸メモリアル」に残りました。

進徳丸
1923年に竣工した神戸高等商船学校の帆船練習船。
帆船練習船として21年、汽船練習船として16年、約1万1900名の船員を養成した。
太平洋戦争中は逓信省海務院の管轄。昭和19年に帆船から汽船に改良。石炭輸送従事中の昭和20年7月24日に米軍艦載機の攻撃で着底。昭和21年に引き上げ。その後は引き揚げ輸送や練習船として活躍し、昭和38年に廃船。

戦没船員の碑
 安らかに ねむれ わが友よ
 波静かなれ とこしえに

海に没した船員たちの御霊に合掌。
感謝と哀悼を。

戦没の地、太平洋。船員たちが活躍した舞台が描かれている。

群像

船員と人魚

戦没船員の碑
御製碑
御歌碑

天皇陛下御製 
 戦没船員の碑

戦日(いくさび)に 逝きし船人を
悼む碑の彼方に見ゆる
海平らけし

天皇陛下には、平成4年1月20日
皇后陛下とこの碑に行幸啓遊ばされ、お詠みになられました。

皇后陛下御歌
かく濡れて 遺族らと祈る
更にさらにひたぬれて
君ら逝ゆき給ひしか

観音崎戦没船員の碑除幕式
激しき雨の中にとり行はれぬ

皇后陛下御歌 副碑
昭和46年5月6日
皇太子同妃両殿下の行啓を仰ぎ雨降りしきるなか戦没船員追悼式を執り行いました
御歌はその時賜ったものです
御心が末永く語り継がれることを念願いたします。

行幸啓お成りの碑

記載以外でも葉山御用邸と併せて、この地に足を運ばれることもある。
直近だと平成31年1月に 天皇皇后両陛下が慰霊のために訪れている。8回目。

公益財団法人 日本殉職船員顕彰会

http://www.kenshoukai.jp/index.htm

民間徴用船の参考(こちらにも行きたいのです)
「戦没した船と船員の資料館」全日本海員組合

http://www.jsu.or.jp/siryo/


大浦堡塁跡

戦没船員の碑のすぐ近く。
明治期の堡塁跡。「大浦堡塁(ほうるい)」の跡に、戦没船員の碑が建立されている。現在は、面影はほとんど残っておらず、「壁」と「階段」が残るのみ。


めがね橋

めがね橋は、明治時代に軍が資材運搬用の道路として切り開いた道に架けた橋で、初代のものは下図に示す、れんがによるアーチ構造であり、それが名前の由来になったようです。
現在の橋は、昭和40年台に架けた2代目のもので、一般的な鋼材による桁構造となりました。当時のれんがはは次第の一部に残っています。

dav

腰越堡塁(うみの子とりで

明治期の堡塁。現在は子供たちの遊び場「うみの子とりで」
かつての東京湾防御陣地が、アスレチック公園として有効活用。大人も子供も楽しめる場は、ある意味で史跡空間の有効活用かもしれない。

土塁への階段
砲座跡?

三軒家砲台跡

三軒家砲台跡
この砲台は明治27年12月15日着工、明治29年12月20日完成の27加砲4門12加砲2門の砲台で原形に近い形で残されています。
地下庫、見張所、井戸、便所等もありましたが昭和9年8月20日廃止されました。

三軒家園地 旧砲台跡
見張所へ続く階段
見張所
見張所
門柱
門柱金具
後方掩蔽部の入り口
弾薬庫は地下に。入り口。
後方掩蔽部の掘割通路
二十七センチ加農砲座の空間
二十七センチ加農砲座の空間
見張所へとつながると思われる階段
便所跡
井戸跡
イタチの通り道・・・ではなく伝声管を通す穴

完全に油断していました。比較的お手軽に見学できる遺構が残っていると聞いて言いましたが、これほどの規模が残っていて、見学できることに興奮気味。
もっと早くこの地に足を運んでおくべきでした。


三軒家砲台跡からいったん下に降りまして。
パークセンター方面に移動する途中、門柱の片側のみ残っていました。


観音崎砲台火薬庫
(パークセンター)

構造について
パークセンターの建物は、日清戦争の後、明治31年に旧日本陸軍が東京湾要塞の観音崎砲台の火薬庫として整備したものです。
構造は「木骨れんが造」の平屋建てであり、屋根部分は「キングポストトラス」と呼ばれる木造の洋小屋組、基礎部分は地盤面に通気性の良いれんがアーチが連続しており、火薬を保管するため、防湿性などの工夫が凝らされています。

改修工事について
平成23年までは。建設当時のれんが壁面にモルタルを塗り、白壁に改修され、観音崎青少年の村の集会室などととして利用されてきました。
パークセンターとして利用するにあたり、歴史的建造物の価値を最大限に活かし、白壁をはがし、れんが壁を再現・補修するとともに、現在の耐震基準を満たすように柱・梁の補強や新たにスロープを設置するなどの改修を行い、平成28年1月にオープンしてます。


観音崎

砂浜にある構造物。もともとは何だったのでしょうか?
戦前からあるのは間違いないです。
現在は桟橋は途中から消失してますね。

USA-M46-A-7-2-120
1946年02月15日の米軍写真を加工
GoogleMap航空写真

海岸散策

洞窟

日本武尊と弟橘媛命伝説と行基伝説。

観音崎灯台

これは二代目・観音崎灯台の残骸。
関東大震災で被災し撤去廃棄された
現在の観音崎砲台は三代目
観音崎燈臺所轄地の境界石
古さを感じさせる灯台への道

水中聴測所跡

昭和12年6月に完成した水中聴測所 跡(潜水艦を監視するソナーを設置)という。この周辺地域は現在は海上自衛隊の管理敷地のため、近づくことは不可。

この海上自衛隊観音崎警備所のある丘の場所は「北門第四砲台跡」ともいう。

この海上自衛隊観音崎警備所の敷地内には「ある慰霊碑」がひっそりと建立されていた。
第一富士丸遭難者の慰霊碑。
すなわち、なだしお事件・・・ 合掌

海岸から灯台に登る道の片隅に。

防二〇三
燈台所轄地 境界石
何かの小屋の跡

北門第一砲台跡

日本で最初に建築された近代砲台。モルタルがところどころ剥がれて下地のレンガが露出しはじめている。


北門第二砲台跡

北門第二砲台について
ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため古くから東京湾防備の要塞地帯として使用されてきました。この砲台は明治13年5月26日着工、明治17年6月27日完成しました。24加砲6門と弾薬庫がつくられましたが現在は4砲座と弾薬庫が残っています。

弾薬庫
一ノ一 一ノニと番号が振ってある。

隧道は通行禁止。弾薬庫への入口があった。

防衛施設庁と運輸省の境界石


東京湾海上交通センター

海上保安庁の所轄。


レンガトンネルの向こうにあるのが「北門第三砲台跡」

北門第三砲台跡


北門第三砲台跡、「海の見らし台」
見晴らしていたら、米軍艦が航行。


南門砲台

観音崎自然博物館のあるあたりもかつての砲台跡。

観音崎砲台について
ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため東京湾防備の重要地点として明治13~28年の間に観音崎各所にレンガとコンクリートによる15ヶ所の近代的砲台は築かれました。これらの砲台は日清日露戦争時代に活躍したもので関東大震災で大破したため大正末期にはすべて廃止されています。この場所は南門砲台跡で当時をしのぶ姿はまったくありません。

15時ゴール

約4時間の散策、17000歩。iPhoneの「登った階段数」は65階と記録されておりました。

昼ごはん休憩を挟んだとはいえ、アップダウンの繰り返しで、久しぶりのハードウォーキングをした気持ち。
予想以上に見どころ豊富で、初見の下見としては大成功。またそのうち散策に期待ですね。季節が変われば見えてくるものも違ってきそうですし。

今回はこれでいったん〆

「第六潜水艇」の戦跡散策

平成29年3月 山口県岩国市及び広島県呉市

和木駅から岩国駅方面に南下。
歩くこと20分程ほどで目的地「第六潜水艇記念碑」に到着。


第六潜水艇受難者記念碑
(第六潜水艇記念碑)

第六潜水艇受難者記念碑
元海軍大将 高橋三吉 謹書

第六潜水艇。
佐久間艇長ら乗組員が殉じられた海は、この岩国の沖合いだった…。

第六潜水艇受難者記念碑

碑文
第六潜水艇は明治四十三年四月十五日新港沖で半潜航訓練中沈没し艇長以下十四名の乗組員が殉職されました
引揚げ后艇内の状態及び艇長の遺書により全員が一糸乱れず各々の部署を守り従容として死に就いたことが判明しました
潜水艇が世に出て間もない時代のこの出来事は全世界注視の的となり事故に対処した艇員の立派な態度は深い感銘を与ヘその旺盛な責任感と事を処する沈着な態度はわが国民の範としてたたえられました
殉難直後地元にささやかな記念碑を建てましたが後呉鎮守府の追加手入により立派なものになり永く後世に伝へることになりました
偶々昭和廿年敗戦により軍に関係あるものは事の如何を問はず軍国主義の悪名をふして一切が葬り去られ此の碑も亦同じ憂目を見ました
かくして十有余年を経た今日艇員の崇高なる精神は再び世に問はれる時が来ましたので有志相図り広く全国に訴へ浄財を得て遭難満五十年を期し再建することになりました
茲に後世のためにこの次第を記します

昭和丗五年四月十四日
第六潜水艇殉難者記念碑再建期成会

第六潜水艇受難者記念碑

第六潜水艇。 潜水技術黎明期の不慮の事故は、佐久間艇長らをはじめとする乗組員のまさに命を懸けた対処を踏まえ。こののちに発展をしていくこととなる。

碑には、佐久間艇長(佐久間勉 海軍大尉)ら14名の受難者名が刻まれていました。

第六潜水艇受難者記念碑

佐久間艇長遺書
小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ
我レ等ハ国家ノ為メ職ニ斃レシト雖モ唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハ之ヲ誤リ 以テ将来潜水艇ノ発展ニ打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ憂ウルニアリ 希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ サスレバ我レ等一モ遺憾トスル所ナシ

沈没原因
瓦斯林潜航ノ際過度深入セシ為メ「スルイスバルブ」ヲ締メントセシモ途中「チエン」キレ依ツテ手ニテ之レヲシメタルモ後レ後部ニ満水(セリ) 約廿五度ノ傾斜ニテ沈没セリ  中略

公遺言
謹ンデ
陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ 中略 瓦斯林ヲブローアウトセセシシ積リナレドモガソソリンニヨウタ 十二時四十分」

原文ノママ

乗組員の使命感、佐久間艇長の沈着剛勇精神は多くの日本人に感銘を与えた、という・・・

第六潜水艇の沈没場所。
現在地より東方約2000米。

明治43年4月15日午前10時頃。

その沈んだとされる岩国の海を望む。 向こうにくっきり見えるは阿多田島。

海の方に向き、静かにこうべを垂れ、手を合わせる。
合掌


第六潜水艇受難者記念碑と同じ空間には明治百年記念碑が。
こちらは、岩国の新湊商工連盟。

第六潜水艇受難者記念碑のある高台は、潜水艇が沈んだ海を見渡すことが出来る。
実は線路の上でもあった。


附記【第六潜水艇受難之碑】

岩国の沈没現場を訪れたのちに、呉の「受難顕彰の碑」がある地にも行かねばなるまい。そう思っておりました。 実は何度か参拝したことはあるけれども、ことさらに意識をして足を運んでみました。

呉西部に鎮座する「鯛乃宮神社」 岩国の沈没現場を見渡す地に次いで、この呉の地も海軍として第六潜水艇ゆかりの場所なのだ。

鯛乃宮神社

まずは参拝を。

主祭神:言代主神
相殿神:大己貴命・天日方奇不方命
創立年代は不詳。
文亀年間(1501-4)に満田氏が神田2所を寄進し社殿を造営と伝わる。 その後、広島領主福島正則によって神田が没収されるも元文5年(1740)に社殿を再興。

鯛を献じて祈願をなすと所願成就すると伝えられた事から、当社を鯛乃宮と呼称。

現在は呉総鎮守・亀山神社の兼務社。
(なお亀山神社神職さんに確認しましたが、当社の御朱印はありません。)

狛犬さん。 なかなか特徴的なポージング。


第六潜水艇受難之碑

「鯛乃宮神社」境内にそびえ立つ塔のようなもの。
これが呉の「第六潜水艇受難之碑」。

第六潜水艇受難之碑
「鯛乃宮神社」境内

案内看板

第六潜水艇は、明治39年、わが国で初めて建造された排水量僅か57トン、水中最大速力3ノット、水上でも8ノットで、当時「どん亀」と呼ばれ、それまで外国から購入したものに比べ、最小のものでありました。
すべて艇の劣勢の訓練で打ち勝とうという当時の海軍魂から6号艇も訓練につぐ訓練を重ねていたのであります。
しかるに不幸にも明治43年4月15日、呉港を出港した第6号潜水艇は山口県岩国市新港沖で半潜航訓練中、遭難し、艇長佐久間大尉以下乗組員14士と共に海底に沈没したのであります。
「艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ」
佐久間艇長の遺書の一部に書き残されているとおり、遭難沈没した午前10時から12時40分まで乗組員全員、最後まで持ち場を離れず修復に力を尽くしつつ従容として死を迎えた崇高な使命感は、佐久間艇長の沈着剛勇の精神とともに、日本国民はもとより、全世界の人々に深い感銘を与えました。この事跡は、国民精神の鑑として、広く共感を呼び、大正3年呉港ゆかりのこの地、三津田丘鯛の宮境内に、各方面から挙出された浄財により、高さ19メートルの壮麗な殉難記念碑が建立されました。 その後、毎年4月15日には、盛大な慰霊・追悼式典が催されて今日に及んでおります。
  第六号潜水艇顕彰保存会 謹記

佐久間勉 wikipedia より

碑には四枚のプレートが埋め込まれています。
佐久間勉艇長の遺言や受難者氏名など。

保管庫には「プロペラ」と「バルブ」が鎮祭。

これは昭和26年にGHQの解体命令により呉潜水学校にて六号艇神社として保存してあった潜水艇を、解体に際し一部別途保管されたもの。
殉難50周年にあたる昭和34年4月15日に保管庫設置。

佐久間勉艇長と13人の乗組員たち。
事故に際して取り乱さず我先と逃げ出すようなこともせず、最後まで修繕しようと試みた沈着冷静な心意気。

「沈勇」(沈着剛勇)の精神。

誇りある日本人として敬意を。 そして感謝と哀悼を。

大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館) その一角に第六潜水艇のコーナーがある。

佐久間勉艇長の遺書や遺品なども展示。

佐久間艇長出生地の福井県若狭町、中学時代を過ごした小浜市、そしてこの呉市では4月15日、岩国では4月14日に慰霊祭が斎行されています。

若狭町

http://www.wakasa-mikatagoko.jp/search/entry/tourism-087.html

帝国海軍最後の生き残り「宗谷」

平成30年6月10日が宗谷竣工80周年でした

昭和13年(1938)6月10日竣工
平成30年(2018)6月10日に「生誕80周年」を迎えた宗谷

南極観測船として有名な「宗谷」
実は、戦前は横須賀鎮守府所属の特務艦として活躍。

現在、帝国海軍に所属した経歴を持つ艦船としては
「戦艦三笠」「特務艦宗谷」「病院船氷川丸」の3隻のみが現存している。

そんな宗谷の戦歴を、簡単にたどってみようと想う。


宗谷

勇名を残した「宗谷」には、さまざまな愛称が残っている。

 「帝国海軍最後の生き残り」
 「奇跡の船」
 「不可能を可能にする船」

そして、海保時代 には
 「福音の使者」
 「海のサンタクロース」
 「燈台の白姫」
 「北洋の守り神」
という愛称も残している。


◆製造◆
川南工業香焼島造船所(現在の三菱重工業長崎造船所香焼工場)

◆運用者◆
川南工業→日清汽船→栗林商船→辰南商船→ 大日本帝国海軍→大蔵省→船舶運営会→ 海上保安庁

◆種別◆
商船→海軍・特務艦→海軍・特別輸送艦→引揚船→灯台補給船→巡視船

◆艦級◆
天領丸型2番船→海軍・宗谷型雑用運送艦→灯台補給船→巡視船

◆母港◆
横須賀鎮守府(特務艦)
東京港竹芝桟橋(灯台補給船)
函館港(巡視船)
東京港船の科学館(保存船)


起工  1936年10月31日
進水  1938年2月16日
竣工  1938年6月10日
退役  1978年10月2日
保存  1979年5月1日~(記念船)

帝国海軍「特務艦」時代
1940~1945
基準排水量:3.800t
速力:12.1ノット
機関:川南式3連式往復動蒸気機関1基1軸
ボイラー:2缶
出力:1,597馬力

1956~1962年(南極観測船)
満載排水量:4.614t(第6次)
全長:83.7 m
全幅:15.8 m(バルジ含む)17m(ヘリ甲板含む)
速度:12.3 kt
機関:ディーゼル機関2基、2軸
出力:4,800馬力

1963~1978年(巡視船)
満載排水量:3.853t
全長:83.7m
全幅:15.8 m(バルジ含む)17m(ヘリ甲板含む)
速度:13.5 kt
機関:ディーゼル機関2基、2軸
出力:4,800馬力


帝国海軍特務艦「宗谷」の歴史

昭和11年、長崎の川南工業株式会社香焼島造船所はソビエト連邦通商代表部より砕氷型貨物船3隻の発注を受けた。

昭和13年(1938)にソ連船 「ボロチャエベツ」(砕氷型貨物船) として進水するも第二次世界大戦直前の情勢に鑑み、ソ連への引渡はなされずに国内船に転用される。

第一次大戦を取り巻く世界情勢を鑑み、結果としてソ連に引き渡しをせず、商船「地領丸」として竣工し、昭和13年7月に民間にチャーター。

砕氷耐氷能力と共に最新鋭英国製音響測探儀も備えており、日本海軍も本船に興味を持つがソ連との契約がこじれたために民間船として就航したという。

約1年後、結局は商船「地領丸」を昭和14年11月に海軍が買入。
昭和15年2月20日「宗谷」と命名し特務艦に編入。
雑用運送艦(砕氷型)に類別。
これが開戦前に海軍が民間から購入した唯一の特務艦となる。

なお、結局は海軍が買い入れしたことで、こののちソ連政府と揉めて裁判に発展したりもしている。

海軍特務艦「宗谷」

艦首に8cm単装高角砲1門を備える。
開戦前は海洋測量艦として活躍。

昭和16年12月8日、開戦時は横須賀停泊。
昭和17年1月、夏島トラック泊地入港し第四艦隊(司令官は井上成美)に編入。 同年3月、ラバウルに進出し港湾調査に活躍。

昭和17年8月、ラバウルの第八艦隊に所属。
三川軍一中将率いる巡洋艦部隊が米軍艦隊に突入して第一次ソロモン海戦が発生。宗谷は輸送船団に参加。しかし陸戦隊輸送船団が後退することによりツラギ奪還任務は失敗に終わる。

昭和18年1月28日、ブカ島クイーンカロライン沖で測量海図中の午前6時55分、敵潜水艦から発射された魚雷4本のうち1本が右舷後方に命中するも、幸運にも不発弾であったため難を逃れた。

昭和19年2月17日、トラック島空襲に巻き込まれ回避行動中に座礁。
翌18日に総員退艦命令。

しかし2月19日、潮が満ちて宗谷は自然離礁し漂流。
総員退艦命令にて離れていた乗員が、様子を見に来た際に離礁しているのを発見し、仰天した乗組員たちは再び艦に乗り込んだという。
こうして宗谷は奇跡的にトラック脱出に成功。

トラック空襲の危機を脱した宗谷は昭和19年4月に横須賀に帰港。
測量艦から輸送艦に改装され、輸送任務に従事。

昭和20年8月2日、横須賀でドック入りしている時に戦艦「長門」、病院船「氷川丸」と共に空襲を受け、翌日に横須賀より避退し女川へ。

戦艦「長門」
病院船「氷川丸」

昭和20年
8月6日、女川から室蘭への輸送任務に従事。(宗谷出港後に女川空襲あり)
8月8日、室蘭入港し、そのまま室蘭で終戦。

8月29日、横須賀に帰港し軍艦旗を降ろす。
8月30日、引き渡しを終了し退艦。
9月5日、海軍籍から除籍。

※「宗谷」のあゆみ展「宗谷の軍艦旗」
※「宗谷」のあゆみ展「宗谷の軍艦旗」

特務艦「宗谷」

船の科学館別館にて特務艦時代の「宗谷」模型(1/700)が展示されておりました。

同スケールの戦艦群に囲まれて、ちょっと窮屈な感じです。

余談ですが、同一スケール(1/700)で海軍艦艇の大きさ比較がビジュアル感覚的に出来る展示は貴重ですね。

宗谷の戦後は引揚船、
そして海上保安庁灯台補給船へと。

南極観測船時代の話は、有名ですので、ここでは割愛致します。
せっかくなので、戦前の海軍時代の話を軸にしたかったのです。


船内(及び艦内)で立派な階段があれば、だいたいそれは船長(艦長)専用の階段となります。
宗谷のこの階段も(特に説明看板は無かったのですが)、上に艦長室につながっておりましたので、そういうことだと思います。

船長室

宗谷と陸奥

写真は平成28年9月3日。リニューアル前。

陸奥主砲(横須賀に移設されました)と、宗谷の帝国海軍を知る時代のコンビはこの時が見納めでした。


宗谷神社

舵室の後方の海図室に神棚(船内神社)がある。

「宗谷神社」
富士山本宮浅間大社の浅間大神を勧請?という。
「戦時中宗谷が沈まなかったのは艦内の宗谷神社のおかげ」とアドバイスされたことから海保時代に「宗谷神社」が復活。 これが海上保安庁始まって以来、最初に誕生した船内神社のはじまりであったという。


宗谷の写真

以下、写真を投下。

入館は無料。
受付には募金箱があり、お気持ちとして「宗谷保存募金」ができます。

海上保安庁のファンネルマークが美しい。 ブルーの帯とコンパスマーク。

宗谷の写真(リニューアル前後の比較)

平成29年にリニューアルしてピカピカになっております。
どのくらい変わったか、というと。

平成29年4月撮影と、平成28年6月撮影。見違えりました。


リニューアル前

リニューアル前の写真(平成28年撮影)
リニューアル前の写真(平成28年撮影)
リニューアル前の写真(平成28年撮影)
リニューアル前の写真(平成28年撮影)

平成28年9月係留場所変更

37年ぶりの出港。
70メートル離れた対岸に移動。
この僅かな移動で係留地は「品川区」から「江東区」となった。

まだ機関が生きていて自走できたんですね・・・

企画展「宗谷のあゆみ」パネルより

平成28年12月


「帝国海軍最後の生き残り」であれど、そんな時代のことはあまり覚えていなさそうな彼女。

南極観測の栄光を伝承し続ける彼女は、今も静かに変わりゆく環境の中に身を委ねつつ、佇んでおりました。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO30732820Z10C18A5CC0000/

http://funenokagakukan.or.jp/soya/history/birth#ancho-point


愛知縣護國神社

平成29年1月参拝

この日は名古屋市内を散策しておりました。

歴史の重みを感じながら…
御祭神の御心に感謝と哀悼を…

愛知県名古屋市中区三の丸鎮座

内務大臣指定護国神社
別表神社

戊辰戦争から第二次世界大戦までの愛知県関係の戦没者9万3千余柱を祀る。
創建は明治2年(1869年)。

明治2年5月「旌忠社」として、尾張藩主徳川慶勝が戊辰戦争で戦死した藩士ら25人の霊を祀り祠を建てたのに始まる。

1875年(明治8年)招魂社。
1901年(明治34年)官祭招魂社。
1939年(昭和14年)愛知縣護國神社に改称。

大戦後「愛知神社」に改称。
昭和30年に元の社名に復した。

昭和20年3月19日空襲で社殿焼失し、昭和33年に本殿・拝殿等、昭和57年に社務所、平成10年に神門・舞殿・廻廊が再建。

境内裏手には「官祭招魂社」「愛知神社」の社号標が残る。

お手水。献水像。

鎮魂

マリアナ戦
渇死兵五万
希一杓献水
為平和四十周年記念之建

太玉柱

終戦50週年を機に、祖国・同胞・家族を護るため、身命を捧げられた愛知縣護國神社の御祭神九万参千余柱の神霊に感謝の誠を杉の真柱(地上9.3メートル)に託し、これを太玉串として捧げ、御英霊の遺訓を体し、今日まで祖国日本繁栄のため、盡瘁された先人をも顕彰し恒久の和平と安泰を祈念して建立。
 愛知縣護國神社

拝する

ありがとうございます

御朱印を戴きました。
今日は護國神社を参拝すると決めていたから、持参した靖國神社の御朱印帳に。

靖國桜の舞う御朱印帳を巫女さんにお渡しした際に、巫女さんがニコって微笑まれたのが、ほんのりと嬉しく。

実は参拝したこの日(1月29日)、境内では餅つき大会が行われておりました。
流石に余所者がふらりと戴くのも気がひけるので、雰囲気だけは堪能し満足させていただきました。

狛犬さん。
護國神社に相応しい力強さがあります。

さて、境内の奥に参ります。

国旗掲揚台・・・と思ったら「宮城遥拝所」でございました。

戦艦大和記念碑

この記念碑には戦艦「大和」の主砲・四六糎砲(46センチ)九一式徹甲弾の実物が使用されている。
東海地区戦艦大和会奉納

46センチ九一式徹甲弾
長さ1955mm、重量1,460kg、最大射程42km

戦艦大和記念碑

碑文
戦艦大和は日本が建造した世界に誇る史上最大最強の戦艦であった。
第二次世界大戦中海上作戦の中枢として活躍していたが昭和二十年に入り戦況急迫しついに連合軍が大挙して沖縄に進行して来たとき海上特別攻撃隊旗艦となり巡洋艦矢矧及駆逐艦八隻とともに、徳山沖を出撃してこの敵艦隊に対し特攻不帰の悲壮なる突入作戦を決行した。
進撃の途上優勢なる敵機の連続猛攻を受け優先奮闘したが、われには一機の護衛戦闘機もなく被害は累積して遂に沈没す。
この時伊藤司令官、有賀艦長以下乗組員弐千七百有余名は艦と運命を共にした。
時に昭和二十年四月七日沖縄の北四八〇粁、想うにこの世紀の巨艦を造り得た国民の気迫と祖国の危急存亡のときにのぞみ甘んじて死地に投じた崇高なる精神とは永くわが民族の中に脈動するであろう。
ここに大和主砲弾を安置して光栄ある海軍を記念するとともに大和をはじめ幾多殉国の英霊に感謝の誠を捧げあわせて祖国日本の繁栄と世界平和を祈念する。
 昭和四十二年四月七日
  東海地区 戦艦大和会

建立は4月7日。
まさに戦艦大和の沈んだ日。碑文を前にし目頭を熱くする…

この記念碑を目の前にし、当時の歴史を伝える徹甲弾に触れながら、散華された方々に静かに感謝と哀悼を捧げる。

戦艦大和記念碑
捧戦艦大和碑前

戦艦大和乗組の英霊2,700余柱を顕彰のため、東海地区戦艦大和会が昭和42年4月7日建立。記念碑主体は大和主砲(四六糎砲)弾の実物。昭和60年4月7日に整備改修。

パラオ海軍部隊慰霊碑

太平洋戦争に於てパラオ島を死守し奮戦せる海軍兵士の霊を永遠に慰む

大東亜戦争の激戦地パラオ海域の英霊を顕彰のため、海軍パラオ会中部支部が昭和54年2月2日建立。

慰霊碑主体は駆逐艦主錨の実物の錨と錨鎖。
住友重機寄贈(未装備品在庫を寄贈)。

パラオ海軍部隊慰霊碑
絶対国防圏最前線。パラオ諸島。 19年2月トラック島空襲により根拠地をパラオまで撤退せざるを得なかった海軍。それに対し追い詰める米軍によるパラオ大空襲は3月30日発生。これが古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職した海軍乙事件の引き金となる

海軍乙事件
昭和19年3月31日、パラオ島大空襲により司令部のミンダナオ島ダバオ退避を決行。
連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将らがダバオに向けて搭乗した二式大艇1番機が墜落により殉職し、参謀長福留繁中将らが乗る2番機は不時着しゲリラの捕虜となった事件。
写真は多磨霊園の古賀峯一墓と福留繁墓。

パラオ諸島で最大の激戦となったのがペリリュー島の戦い。

昭和19年9月15日に上陸したアメリカ軍は制圧するまで2ヶ月を要し、このペリリューの戦いがその後の日本軍の硫黄島や沖縄防衛戦に影響を与えることになった・・・

海軍飛行予備学生 飛行科士官 慰霊塔

碑文
はるかなる 雲流るる 果てにねむる  あまたの若き み霊に捧ぐ
昭和四十三年十一月 社団法人白鴎遺族会

海軍飛行予備学生出身の英霊2400余柱を慰霊顕彰。
社団法人白鴎遺族会の愛知岐阜三重の三支部が建立。

海軍飛行予備学生慰霊塔

海軍飛行予備学生の概要
満洲事変のさなか昭和9年に入隊の1期生から第二次世界大戦末期昭和19年入隊の15期生まで 生徒は同18年入隊の1期生と同19年入隊の2期生で操縦偵察各専修と飛行要務にわかれた
入隊者10932名うち戦没2437名(以下略

神風特別攻撃隊
連合艦隊布告神風特別攻撃隊の士官戦没は769名 
うち651名が予備学生出身者

刻まれし名の重みを感じつつ。 静かに手を合わせる。 合掌…

この頃(平成29年1月)は、護國神社の慰霊碑を悉皆調査、ことごとく参拝するという意識を有していなかったために、記録が足りません。

再訪しないといけません・・・

護國神社をあとにする。
境内の慰霊碑がある側とは反対側に、和風建築物があり。
「昭和館」と銘打っていた。
その隣にある桜華会館では「愛知平和記念館」が併設しているとのことで覗いてみたけど建物自体が閉まっていて。どうやら日曜休みのようで。 残念。


東郷平八郎ゆかりの神社仏閣など

(平成29年12月及び平成30年4月ほか撮影)

東京近郊にある東郷平八郎ゆかりの寺社巡り
・東郷寺(府中・東郷別邸跡)
・二七山不動院(麹町・東郷崇敬の寺院)
  東郷元帥記念公園(麹町・東郷本邸跡)
・東郷神社(東郷を祀る神社)

東京以外を付記
・溝口神社(東郷元帥揮毫の社名額/扁額)
・記念艦三笠の艦内神社(東郷神社勧請)
・軍艦「三笠」
・各地に残る東郷邸宅など


東郷神社御朱印帳

表装の和歌

おろかなる 
心に尽くす誠をば
みそなはしてよ 
天つちの神

(意味)
  愚かな私ではございますが
  誠の心で尽くしますので
  なにとぞ天地の神々よ
  私を見守っていて下さい 

1913(大正3)年、
東郷元帥が東宮学問所総裁に任命された時に感激して詠まれた和歌。
 東宮=のちの昭和天皇、当時の皇太子
 東宮学問所 = 皇太子の御教育機関

御朱印

東郷神社
  御祭神 東郷平八郎
二七山不動院
  東郷崇敬の不動院 市ヶ谷の東郷本邸跡の近く
  「南無大聖天不動明王」は東郷奉納書写印
聖将山 東郷寺
  府中の東郷別邸跡に鎮座の寺院
  東郷元帥農園別墅跡

東郷寺

(府中市清水が丘3-40-10)

元帥海軍大将東郷平八郎を開基とし身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗寺院。
山号は「聖将山 東郷寺」
東郷没後に東郷家別荘・農園があった当地に昭和14年(1939)に小笠原長生を始めとする海軍関係者が中心となって建立。

聖将山 東郷寺 山号標

揮毫は小笠原長生(海軍中将)
小笠原長生(おがさわら ながなり)は、東郷平八郎に傾倒し「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

「しだれ桜」は日蓮宗総本山である身延山久遠寺から苗を移植したものという。

東郷寺 山門

設計者は伊東忠太、建設は昭和15年。
三間三戸の八脚門、部材は総けやき。
この山門を有名にしたのが黒澤明監督「映画・羅生門」。
この「東郷寺山門」をモデルにして劇中の羅生門が建設されたという。
二階部分以外の構造的な作りは、ほぼ同じという。

段丘(ハケ)を利用して造成されており、手前に急勾配の階段を備える。
質素ではあるが力強く巨大な山門。

東郷寺山門建立由来

題字は小笠原長生。
加藤寛治海軍大将を中心に山門を建立していたけど、加藤閣下は建立途中で亡くなってしまったよ。(昭和14年2月9日に死去) 加藤閣下の意思を継いで東郷寺の山門を(昭和15年に)作ったよ、の大意。
碑は昭和18年4月10日建立

「東郷寺」 参拝。
寺院そのものには東郷平八郎的な何か・・・はなく。
静寂で厳かな空間。

「聖将山 東郷寺」 東郷元帥と日蓮宗

東郷寺は東郷平八郎元帥海軍大将を開基とし、副開基を小笠原長生海軍中将とする、身延山久遠寺を総本山とした日蓮宗寺院。 東郷は日蓮宗の崇敬者でもあり、大正11年の日蓮聖人への「大師号宣下奏請」運動の請願書崇敬者代表の初筆に元帥の名が残っている。

大正12年に元帥が隠棲の地として府中の当地を購入。当時は晴天時に富士山が見え、その向こうに日蓮宗総本山身延山が位置する立地。 大正3年に東宮御学問所総裁に就任、大正9年に学問所閉鎖の後は、この地を農園別墅とされ、市ヶ谷麹町の本宅から馬に乗って通われたという。

昭和9年5月30日に東郷は88歳で薨去。6月5日に国葬でもって多磨霊園埋葬。 昭和11年に東郷寺建設会が設立。会長・加藤寛治海軍大将、副会長に小笠原長生海軍中将。東郷家より府中農園別墅地の寄進をうけ昭和14年に東郷寺建立。開基は東郷、副開基は小笠原、開山は日蓮宗管長大僧正酒井日慎(池上本門寺)

昭和14年に海軍将校寄進により客殿建立、昭和15年に山門建立。 しかし大戦勃発により昭和17年10月5日に落成式を行うも東郷寺建設計画は一時凍結されそのまま終戦を迎える。 終戦後の消滅危機の中で東郷寺は守り抜かれ、昭和29年より戦没者遺族に対して供養のための墓所無料分譲を開始。

現在の本堂は仮本堂を移設増設したにとどまっている状態とのことで。将来的には本堂を建設する計画があるという。
山門前のしだれ桜は、彼我の差別のない戦没者供養の為に建立された当山の為に総本山身延山久遠寺より苗を移植したもの。桜の季節に戦士たちの慰霊鎮魂の花が咲く季節が楽しみでもあり…

こちらの建物が別荘跡を元にしているかは不詳ですが良き佇まい。

東郷寺 しだれ桜

桜の季節に改めて足を運んできました(平成30年3月25日)

朝7時過ぎに参拝。 見事なしだれ桜が清々しく。

彼我の差別のない英霊供養を願い建立された東郷寺。 総本山身延山久遠寺より苗を植樹されたしだれ桜。 世界平和を渇望しながら遠い異国の地に散った若き兵士たちの御魂が美しい花となって咲き誇る・・・

東郷寺山門
設計者は伊東忠太、建設は昭和15年。三間三戸の八脚門、部材は総けやき。

山門側から

東郷寺墓苑

東郷寺境内
境内地を散策(地図
ポイントを地図に記載してみました。

境内はかなり広いので迷子にならないようにご参考まで。
なお当たり前のことですが 清浄な寺域ですので失礼の無きように…

東郷元帥墓(供養墓)

境内の西エリア手前。 東郷寺開基の東郷平八郎元帥海軍大将を祀る。
本墓は多磨霊園内。こちらは供養墓(供養塔)。

小笠原長生墓(供養墓)

境内の西エリア手前。
東郷寺副開基の小笠原長生子爵(海軍中将)を祀る。
小笠原長生の本墓は世田谷区烏山幸龍寺に。
東郷元帥墓と小笠原墓は並んで建立。
当地にて死してなお東郷の側にいられるというのは小笠原としては本望極まりないことだろう…

「枢軸国必勝祈念塔」

昭和18年10月建立
当時の時局を色濃くあらわした戦跡。

正面から真っすぐ西墓苑に向けて伸びた参道の脇に唐突に聳え立つ塔がある。

日獨伊親善協會會長でもあった小笠原長生の揮毫

奉仰東郷元帥神霊照覧 「◯◯◯◯◯◯◯◯」
はい、戦後に塗り潰しされております。

ここには海軍ゆかりの人物として意外な方が祀られている

「豊田副武墓」

海軍大将。第29代・第30代連合艦隊司令長官。最後となる第19代軍令部総長。 戦後、戦犯容疑で逮捕されたが極東国際軍事裁判では不起訴。GHQ裁判(豊田裁判)でも無罪判決。昭和32年9月22日死去。享年72歳。

「豊田副武墓」墓区には娘婿である貞閑勝見の墓も有る。
右隣に「豊田家の墓」
左隣に「貞閑家の墓」
貞閑勝見は海軍中佐。豊田副武の娘婿。砲術参謀。海軍大臣秘書官。 昭和20年3月5日、東シナ海東沙島附近で戦没。享年32歳。

更にここには意外な人物が祀られている

「河本大作墓」

元陸軍大佐、関東軍参謀として張作霖爆殺事件の首謀者とされる。除隊後は満州鉄道理事や満州炭坑理事長、国策会社山西産業社長に就任。戦後、中国共産党に戦犯として捕まり昭和30年8月25日に収容所にて病死。享年72歳。遺骨はその後帰国。

東郷寺
満州開拓青少年義勇隊東京中隊
「殉難英魂碑」
東京都知事 安井誠一郎書
昭和33年5月18日建立
東京出身の若人237名が満州の曠野に五族協和の楽土建設のため渡満し…

大地を愛した 心は一つ
桃山の友情 いつまでも
昭和58年5月15日建立

妙法
東郷寺・東郷元帥の浄願、戦没者の供養を
幾多の卒塔婆が

戦犯処刑者之諸精霊
戦死病没公務殉職之諸英霊
殉難戦災死者原爆死者之諸精霊
殉難軍馬軍犬軍鳩之諸精霊 ・・・

合掌

東郷寺は静謐な日蓮寺院ですので真摯な御心にて御参拝をお願い致します。 「参拝者」以外は境内立ち入り禁止となっております・・・

鬼瓦

東郷寺御朱印

妙法
東郷元帥 農園別墅跡
聖将山 東郷寺

※持参したのが他宗派である東郷神社御朱印帳でしたので「妙法」での授与でした。授与は書き置きでしたが帳面の確認がありました。日蓮宗御首題帳であれば「御首題」での授与も可能だそうです。

二七山不動院

さて、場所は変わって市ヶ谷・九段エリア。 ここには東郷平八郎の本邸跡「東郷公園」がありますが、そちらはのちほどとして先に東郷平八郎崇敬の寺院に脚を運んでみたいと思います。(この九段の寺院は実は私は未知でフォロワーさんに教えていただきました。ありがとうございました。)

二七山不動院
創建は江戸時代。旗本桜井遠江之守の屋敷の不動尊に通りかかった僧がお告げにより二七日間断食の荒行を行ったことから「二七不動尊」と呼称。この不動尊のある通りには二と七の日に縁日が催され大変賑わったという。 平成17年に火災でお堂焼失。そして12年の歳月を要し再興

東郷元帥と二七不動(九段)

東郷元帥は明治15年に九段の地に移り住みそして88歳で逝去するまでを当地で過ごしている。 明治27年日清戦争時に東郷平八郎は浪速艦長として出征。その際に母堂が武運長久を祈り二七不動尊にお百度参りをしている。

明治37年日露戦争時には東郷元帥の妻テツが二七不動のご縁日である5月27日を満願の日と定め毎朝日参してお百度を踏み勝利を祈願。「満願の日の大勝利」となった。元帥は帰宅後にその事実を知り、自宅にあった楓の木を二七不動境内に手植えられ御縁日には夫婦ともども参拝されるようになったという

大正12年9月1日、関東大震災に際し二七不動尊も全焼。御本尊不動明王は無事に救出。不思議と焼け残った東郷邸を「神が二七不動尊のご避難先」とされたと東郷元帥は申され、二七不動尊の御本尊は東郷邸に再建までの80余日間も奉祀奉安されたという。

大正12年11月、関東大震災被災により東郷邸に避難されていた不動明王は復興した御本堂に無事に奉安。お帰りになられた。 東郷元帥は自ら筆を取り二七不動尊のために 「南無大聖不動明王」と書かれて奉納された。 その東郷元帥書の写しが現在「二七不動院の御朱印」に用いられている。

二七山不動院(九段)
平成17年にお堂を火災で焼失した当院は再建まで12年を要し、二七通り近くに再興。(この九段とは別に墨田区にも再興した二七不動があるようですが、私は寺院方面の事情は疎いので詳細不明) 九段に再興した二七不動院はマンションの1階に真新しい雰囲気で鎮座。

インターフォンで「御朱印を頂戴したい旨」をお話し恐縮しながら本堂に上がらせていただき参拝。神社専な私ですから寺院で参拝&御朱印は緊張しました。 しばし女性住職さんとお話を。「東郷さんゆかりの寺社を東郷神社の御朱印帳で廻っておりまして。3寺社だけですけど…」

写真は切支丹灯篭。千代田区番町九段地区で出土したそうで。 キリシタン禁令が発令されていた江戸幕府のお膝元であったこの界隈で隠れキリシタンの灯籠が発見されたというのは珍しく発掘後に当山に奉納されたもの。

東郷元帥記念公園

平成30年1月撮影

「二七通り」と「東郷通り」が交わるところに「東郷平八郎邸跡」がある。手前の坂は「東郷坂」 元帥は当地に明治14~15年(1881~82)から昭和9年(1934)に88歳で逝去されるまでの約53年を過ごしている。 戦災によって邸宅は焼失してしまったが邸宅跡は記念公園となっている。

かつて東郷邸の玄関に対に据えつけられていたという石造りのライオンの内の一つが公園の中央に静かに佇んでいる。この「東郷元帥記念公園」内で残された往時の名残。

東郷元帥記念公園
公園の沿革
当公園は当初関東大震災の復興計画により、上六公園として昭和4年7月最下段の部分が開園された。 当時東郷平八郎元帥邸が隣接しており、東郷平八郎元帥の没後東郷元帥記念会より寄付を受け、その地形地物を活かして造成され昭和13年11月東郷元帥記念公園として開園した。

東郷平八郎元帥
元帥は弘化4年薩摩に生まれ、日露戦争時には連合艦隊司令長官として活躍し、その後元帥の称号を授かる。
この地には明治14年より居住して、永く区民から親しまれ地域の文化向上にも寄与し、人々の尊敬のうちに昭和9年88歳の生涯を閉じる。
公園内には力石も残っている

公園上段部分。このあたりが東郷邸の関連するものなのかどうかは定かではない。
もしかしたら昭和13年の公園整備の際の造成かもしれないし、それよりも跡のものかもしれないし。 雰囲気的には年代を感じさせる造形物。
東郷元帥記念公園は獅子石が全て・・・ではありますが。

平成31年4月現在、東郷元帥記念公園は一部のみ開放。公園内の鉛含有(基準値超え)が問題となっており。

東郷神社

平成30年1月、久しぶりの参拝。

第一駆逐隊(駆逐艦 神風・野風・波風・沼風) 奉納灯籠

東郷蔵
蔵の手前は工事中。 昭和20年5月の戦災にて前述の市ヶ谷麹町の東郷邸は土蔵を残して全焼。 昭和23年に麹町より土蔵を東郷神社に移築。 損傷が激しくなったため東郷元帥50年祭に当り昭和59年に不燃建造物として従来の蔵を模し少し大きくした状態で新築したものという。

東郷神社
参拝
この日は結婚式が行われておりましたので赤絨毯

東郷神社御朱印

平成28年5月28日は海軍記念日の翌日。日本海海戦勝利の日が東郷神社例祭の日。そして今回(平成29年12月3日)の御朱印。
帳面の和歌は、東郷元帥が大正3年4月1日に東宮御学問所の総裁を拝命された際に詠歌されたもの。

おろかなる 心に尽くす誠をば みそなはしてよ 天つちの神

東郷神社例大祭

1905年(明治38年)5月27日
日本海海戦
東郷平八郎の旗艦三笠をはじめとする連合艦隊が対馬沖にてバルチック艦隊と海戦

翌5月28日
ロシア艦隊降伏により日本海海戦は終了し日本の勝利が確定。

5月28日は日本海海戦にて日本の勝利が確定した日。

東郷神社例大祭の日。
例大祭は本日11時から斎行。

おおおっ!!千福!
さすが海軍御用達!

海軍の神様「東郷神社」に、
海軍御用達な呉の日本酒「千福」と
東郷神社御神酒「神聖」とが
奉納されておりました。

千福一杯いかがです♪
Z旗と千福のコラボはちょっとうれしい

東郷神社御神酒

東郷神社では御神酒を。
京都「山本本家」(代表銘柄「神聖」)製。
(焼酎「東郷」は横須賀調達品)

トップ水雷

鳥取米子の稲田本店
純米酒「トップ水雷」
東郷元帥によって命名。水雷の字は元帥直筆。
水雷一発 轟然ト響ク 一酌ノサケ陶然トシテ 酔ウ

お酒つながりで掲載。

伝統の技と風格 トップ水雷なればこそ

東郷焼酎
東郷ビールとZ旗ビール
海軍ラムネ

いずれも横須賀にて


以下は徒然に

秩父御嶽神社

御祭神:
国常立命、大巳貴命、少彦名命、清貫一誠霊神(鴨下清八)、東郷平八郎、乃木希典、他

埼玉県飯能市鎮座。
東郷平八郎像とともに摂社として東郷神社がある。

郷公園
東郷平八郎元帥の銅像が建ってからは秩父御嶽神社の境内は「東郷公園」と呼ばれている。
公園内には東郷元帥像のほかに乃木希典陸軍大将銅像、日露戦争の遺物(ロシア製大砲、戦艦三笠被弾甲板)、海軍省からの記念品が点在されている。


溝口神社

川崎市高津区溝口鎮座。かつての赤城大明神。 矢倉沢往還(大山道)溝口宿の溝口村総鎮守。旧社格は村社。明治期に伊勢神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と改称。 天照皇大御神を祀る

溝口神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書
社宝の扁額(社名額)は東郷平八郎謹書


神職さんに東郷さんの由緒を伺ってみると、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で社殿全壊。昭和8年(1933)に社名額を東郷さんに頼み揮毫して戴き翌9年に再建とのことでした。
ちょうど1月限定で東郷元帥謹書の御朱印符も頒布!

東郷平八郎は昭和9年5月30日に亡くなっておりますので、溝口神社社名額への揮毫は亡くなる一年前ということになります。ぎりぎりのタイミング。


軍艦三笠艦内神社 三笠神社

三笠神社。(艦内神社)
とは言っても日露戦争当時には現在イメージされているような艦内神社の姿ではなかったと思います。 明文化された艦内神社の概念は昭和に入ってから。
現にこちらは「東郷神社」ですし…


三笠神棚

日露戦争当時の艦内神社として考える場合は昭和海軍のような「進水時に艦にゆかりのある神社から奉幣」ではなく、その時の祈願から発展したと考えるのが自然体。

筥崎宮 敵国降伏 御守護

軍艦「三笠」

今回は外側を眺める程度で。


連合艦隊解散之辞
東郷筆。起草は秋山真之。

神明は唯平素の鍛練に力め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を褫ふ。 古人曰く勝て兜の緒を締めよと。

「東郷平八郎銅像」(三笠公園)

日本海海戦後言志
日の本乃
 海にととろく
  かちときは
御陵威かしこむ
  聲とこそしれ
    東郷平八郎(花押) 昭和42年5月27日建立。清水多嘉示 作

「皇國興廃在此一戦」元海軍大将 長谷川清書
(大正七志会・七洋会 昭和43年6月1日建之)

三笠公園
本公園は昭和36年5月27日完成を見たもので公園の名称はこの一角に保存されてある記念艦三笠に由来するものである。
三笠艦は日本海々戦-1905年-の際わが連合艦隊旗艦として参戦し時の司令長官東郷平八郎の大号令「皇国の興廃此の一戦に在り云々と共に世界海戦史上不滅の名をとどめた
(碑文引用ここまで)

「行進曲軍艦碑」
行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長瀬戸口藤吉氏によって作曲された。 日本の勃興期における行進曲として親しまれ、未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである。 世界3大行進曲の一つとして、音楽史を彩る稀有の名曲で、作曲されてから一世紀を迎える年にあたり瀬戸口軍楽長がこよなく愛し、青春の日日を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである。
行進曲「軍艦」記念碑建立協賛会」
(平成8年4月に建立。平成15年3月横須賀水交会によって修復)

「謎の軍艦甲板の一部」

横須賀市諏訪公園の片隅に。詳細は不明。 横須賀市でも詳細不明で「以前は緑が丘高校入口付近にあった」「戦艦三笠の物ではないか?」と言われているようです。 甲板を砲弾に打ち抜かれた跡が生々しい。


呉・ 東郷家住宅離れ

入船山記念館(入船山公園)

旧・東郷家住宅離れ
東郷平八郎が呉鎮守府参謀長(海軍大佐)時代に呉に在任していた際(1890~1891)の居宅離れ座敷。
もとは宮原もにあったものを当地に移築保存されている。
登録有形文化財指定。

舞鶴・ 東郷邸

舞鶴鎮守府にも東郷邸があるといいますが未訪問。

舞鶴鎮守府初代長官・東郷平八郎
1901年(明治34年)10月1日、舞鶴鎮守府が開庁。その初代司令長官に任命されたのが当時海軍中将だった東郷平八郎。

https://www.mod.go.jp/msdf/maizuru/kengaku/tougoutei01.html

佐世保

佐世保は邸宅は残っていないけど、
海軍墓地に東郷さんの銅像があります。

佐世保海軍墓地
墓園入口から拡がる慰霊祭式場の広場、その奥には「礼拝殿」、そして広場に面して「東郷平八郎像」。
東郷平八郎は明治32年に佐世保鎮守府司令長官。明治38年に連合艦隊司令長官として日露戦争バルチック艦隊に勝利。(凱旋時に旗艦三笠は佐世保港内の爆発事故で一度沈没…)


東郷氏祖先発祥の地

東郷氏祖先発祥地

ひとまずは以上で〆

そのほか随時で登録していきます

軍艦「陸奥」を偲ぶ

軍艦「陸奥」

長門型戦艦の二番艦「陸奥」
帝國海軍のシンボルとして長門ともども日本国民から親しまれたものの、昭和18年(1943)6月8日、主砲火薬庫から爆発を起こして沈没。

陸奥主砲(船の科学館)

長門型戦艦の二番艦「陸奥」
写真の主砲は船の科学館にて展示時代のもの(2016/6/26撮影)

2016年6月。
船の科学館も不幸だし陸奥も不幸だし… まあ、船の科学館の話は寂しくなるのでまた機会にして… 「陸奥」41cm主砲身(四番砲身)を「船の科学館」で見納めしてきました。

「二式大艇」もいなくなって、館内も閉鎖され、そうして「陸奥主砲身」もいなくなって。 「船の科学館」が訪れるたびに寂しくなってしまいます…。

2016年9月。
9月12日に「戦艦陸奥移設工事」が実施されるときいたので直前の見学を。

帝国海軍を過ごした艦「陸奥」と「宗谷」のラストショット

船の科学館本館と陸奥の大きさ比較の看板も見納めですね…
船の科学館 にて42年間の展示、ありがとうございました!

陸奥主砲(ヴェルニー公園)

陸奥主砲の受け入れ準備

2016年9月12日に「船の科学館」から旅立つ戦艦陸奥主砲。
横須賀では受け入れ準備がすすんでいました。
9月13日にヴェルニー公園にて主砲移設工事が実施。

陸奥主砲の移設後

「船の科学館」で帝国海軍最後の生き残りである「宗谷」とともに有る姿を見納めして。
そして今は戦艦陸奥生まれ故郷の横須賀で、海軍のDNAを伝統墨守する海自主力艦「いずも」とともに有る姿と新たに出会えました。感無量です…

戦艦陸奥。
大正9年に横須賀海軍工廠で進水。大正10年(1921)竣工。
昭和18年(1943)瀬戸内海柱島沖で爆発沈没。
昭和45年主砲引揚げ。
昭和49年より平成28年まで船の科学館にて展示。
平成28年秋に横須賀に移設。

横須賀へお帰り言うたってくれ…

「ベルニー公園」に展示中の陸奥砲身が「上下逆さま」で、なおかつ傾いて据付されているとの報告がA様よりご連絡がありました。(実はベルニー公園に来る前の船の科学館時代から逆さまだった)
陸奥砲身の後部の「尾栓開閉機構」の歯車が砲尾の右斜め下にあるが、これは砲身が上下逆さまに設置されたので、歯車が下側になっていることが、逆さまに設置されている証拠です。

A様よりメールにてご連絡あり、ありがとうございます

陸奥の遺品

大和ミュージアム

大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)
大和ミュージアムの館外に戦艦「陸奥」の遺品が展示してあります。 その様子を簡単に。

戦後、1970年(昭和45年)から深田サルベージ株式会社(現:深田サルベージ建設株式会社)主導による本格的なサルベージが行われ、全国各地に陸奥の遺品(引揚げ品)が展示されている。

「陸奥の艦尾旗竿」

「陸奥の主錨」

「陸奥の艦尾フェアリーダー(右舷用)」

陸奥41センチ主砲身(4番主砲塔左)
呉海軍工廠で開発されたもの。陸奥建艦当時は世界最大の艦載砲。
展示品は大正10年に完成し昭和11年に陸奥に搭載されたもの。

陸奥スクリュープロペラ

陸奥主舵

大和ミュージアム展示品の部位


靖國神社「遊就館」大型展示室

九段の靖國神社遊就館。 ここにも戦艦「陸奥」の遺品が展示してあります。

戦艦陸奥「14cm副砲」

五十口径三年式十四糎砲
陸奥副砲は昭和48年に遺骨とともに引揚げられ、艦と共に殉職した乗組員千百二十二柱の英霊を奉慰し、遺徳を顕彰するために爆沈より38年後の昭和56年6月8日に靖國神社に奉納。

陸奥小錨
左前艦側舷窓
艦長室御真影奉安所上部菊花雲型、そのほか遺品
舷窓内径は約35センチ。爆沈の際はこの窓から脱出した人もいたという。

軍艦陸奥装備副砲奉納銘碑

碑文
軍艦陸奥は連合艦隊司令長官古賀峯一の直率の下に瀬戸内海柱島水道に警戒碇泊中、昭和十八年六月八日不慮の爆沈により艦長海軍少将三好輝彦外一千百二十一名の将兵が悲運にも艦と運命を共にし永久の大義に殉ぜられた。
軍艦陸奥引揚促進期成会は軍艦陸奥の引揚の大部を了せる此機を選び、引揚たる副砲と共に其の銘碑に殉職者の英名を刻み、之を靖国神社に奉献し其英霊を永へに顕彰することにした。
軍艦陸奥はワシントン海軍軍縮条約下最後の軍艦であり、其戦力発揮の為全海軍の叡智と心血とを注いで完成した稀少値の芸術品であって、其乗員も亦誇りを以って二十余年に亘り祖国の護りに精魂を傾けて献身し、名実共に天下第一艦として戦争抑止の実を発揮した栄光の軍艦である 。
昭和50年6月8日
 軍艦陸奥引揚促進期成会会長
 元軍艦陸奥艦長  
    保科善四郎謹書


陸奥主砲抑気具記念碑

大阪の難波八阪神社境内には「陸奥」にゆかりあるものが奉納されておりました。

四十五口径三年式四十一糎砲
補用抑氣具格納筐
抑気具ヲ砲身ヨリ取外シタル時ハ必ズ函中ニ格納シ置クベシ

主砲抑気具とは、つまり砲口蓋「主砲の砲口の蓋」です。

主砲抑気具記念碑・碑文
この抑気具(砲口蓋)は沈没し海底から引揚げられた 戦艦陸奥の主砲八門の内の一個で、艦と 運命を共に した艦長三好輝久大佐以下千百二十一名の将兵の魂を慰霊し永遠の平和を祈るものである

海ゆかば
 水漬く屍
山ゆかば
 草むすかばね
大君の
 辺にこそ死なめ かえりみはせじ


「陸奥爆沈」

昭和18年6月8日午後12時10分ごろ、戦艦「陸奥」は広島湾沖柱島泊地にて謎の爆沈を起こした。 陸奥の爆沈原因はいまだに謎とされている。 吉村昭氏の「陸奥爆沈」は一読の価値ある名著ですので参考までに。

吉村昭著「陸奥爆沈」

陸奥は戦後に艦体の一部や主砲身や主砲塔などが回収され、日本各地で陸奥の装備が展示されている。

参考:ウィキペディア
陸奥 (戦艦)→引き揚げ展示品と展示場所

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5_(%E6%88%A6%E8%89%A6)#.E5.BC.95.E3.81.8D.E6.8F.9A.E3.81.92.E5.B1.95.E7.A4.BA.E5.93.81.E3.81.A8.E5.B1.95.E7.A4.BA.E5.A0.B4.E6.89.80

「陸奥の遺品」に関しては、訪れましたら写真を追記していきます。

姉妹艦「長門」に関してはこちら

軍艦「長門」を偲ぶ

軍艦「長門」

「軍艦長門の碑」
ありし日の
連合艦隊旗艦長門の
姿をここに留めて
昭和激動の時代を
偲ぶよすがとする

撰文 阿川弘之 / 書 新見政一 (海軍中将)


昭和21年(1946)7月28日深夜から29日未明にかけて。
1隻の艦が人知れずに太平洋の海へと姿を隠していった。

帝国海軍
戦艦「長門」

そんな彼女を偲ぶよすがに…

※写真はウィキペディアより

「陸奥と長門は日本の誇り」

昭和5年の少年倶楽部「いろはかるた」にあるとおりに、正にこの長門型こそが日本の誇りであった。
戦前戦中は長門と陸奥こそが「大日本帝国海軍」を代表する戦艦であり、国民から愛され慕われた戦艦。
あれっ?と思った人も居るかもしれない…

帝国海軍の戦艦を往時の少年たちは当たり前のように諳んじていた。
「長門陸奥、扶桑山城、伊勢日向、金剛比叡、榛名霧島」
この10隻が開戦時の戦艦・巡洋戦艦。

「大和武蔵」は?
戦中は大和型の存在そのものが極秘であり多くの国民はその艦を知る良しもなかったのです…。

開戦時の連合艦隊旗艦「長門」。
昭和16年12月2日の「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号無電は、この長門から打電。(大和の竣工は昭和16年12月16日、開戦直後)

※写真はウィキペディアより

建造当初から煙突排煙処理が問題となり大正13年(1924)に屈曲煙突に大改装。この姿が国民に親しまれ一番印象に残る姿とも。
私も一番好きな姿です。 (この屈曲煙突は昭和の大改装で廃止)

※写真はウィキペディアより

太平洋戦争時は、大和武蔵ともども主力艦として温存。
昭和17年2月には、連合艦隊旗艦の座を大和に譲っている。

艦に心あり

捷一号作戦では西村艦隊旗艦の予定であったが、宇垣纏第一戦隊司令官の反対で主力に編入。西村艦隊としてスリガオ海峡に突入することはなかった。

宇垣纏『戦藻録』
昭和19年3月6日、宇垣纏第一戦隊司令官は駆逐艦谷風より第一戦隊旗艦長門に乗艦した際に
「長門に着任、中将旗を掲げ死所とす。長門も縁ありてここに四度目の乗艦なり。艦に心あり余の乗艦を喜べば、余は彼女の健在と今日迄の奮闘を謝するものなり」と記している。宇垣は度々「長門」に乗艦しており、この一文からも長門を愛していたことが感じ取れる。
さらには、宇垣は捷一号作戦 にて武蔵が沈んだ際にも(『戦藻録』 昭和19年10月24日)
「嗚呼、我が半身を失えり!誠に申し訳なき次第とす。さりながらその斃れたるるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり。遅かれ早かれこの両艦は敵の集中攻撃を喰らう身なり
思えば限りなきことなるも無理な戦なれば致し方がなし。明日大和にして同一の運命とならば麾下なお長門の存するあらんも、もはや隊を為さず、司令官として存在の意義なし。・・・」
と麾下の「長門」の存在を意識をしていた。

昭和20年7月18日。
横須賀空襲において艦橋が破壊され、そのまま修復されること無く中破で終戦。唯一残った戦艦であった。

8月30日に米軍に接収。
昭和21年3月18日にクロスロード作戦(米軍核実験)に標的艦として参加するためマーシャル諸島ビキニ環礁に向け日本を出港。

その最後の姿を物語る絵画と写真。 昭和21年米軍接収の写真。

※写真はウィキペディアより
※画像はウィキペディアより

昭和21年7月1日の第一実験では爆心地から約1.5 kmの距離でほとんど無傷。長門とともに標的艦とされた阿賀野型軽巡洋艦酒匂は爆心地近くの為に大破炎上、翌日沈没。

そして7月25日の第二実験。爆心地から900-1000m。 実験直後は傾斜を生じるも長門は海上に浮かんでいた。

その4日後の7月29日の朝。 実験関係者が「長門」の浮かんでいた海面を見れば、その姿は海上にはなく、静かに沈んでいた・・・。

阿川弘之著「軍艦長門の生涯」

激動の大正・昭和 日本の運命を背負った一隻の軍艦
… …
遠くビキニの海に沈む… 軍艦長門の生涯には あの時代の 日本と日本人がある!

軍艦長門碑

ありし日の
聯合艦隊旗艦長門の
姿をここに留めて
昭和激動の時代を
偲ぶよすがとする
政一書

揮毫は海軍中将新見政一
撰文は阿川弘之

長門の母港横須賀ヴェルニー公園にて

軍艦長門碑のモニュメントも 「屈曲煙突」時代をかたどっておりました。
多くの国民が耳目してきた帝国海軍のシンボルたる 「連合艦隊旗艦長門」の姿を。

軍艦「長門の副錨」

(平成30年6月撮影)

先日、中京方面に赴く用事があったので立ち寄ってきました。
岡崎市の東公園。
東岡崎駅から市民病院方面のバスに乗り東公園口にて下車。
東公園の中央に堂々とした記念碑がある。

「海の記念碑」
ここに軍艦「長門の副錨」が記念碑として保存されていた。

「海の記念碑」

碑文
時まさに岡崎市制六十周年
ここに岡崎市海友会は、創立六十五周年を記念し、戦艦「長門」の副錨をもって「海の記念碑」を建立する。
これは海国日本の永遠の平和を祈念する心の発露である。
昭和五十二年三月 岡崎市 海友会

シンボルになっている錨は戦艦長門の副錨で、戦後まもなくビキニ環礁でアメリカ合衆国の原爆実験の標的にされたときの唯一の遺品です。 この碑により、人々に広く戦争の悲惨さを知らしめ我国の恒久平和を願う象徴として設置されました。
※一説には昭和9年改装時に取り外した副錨とも

岡崎市の東公園。
長門の副錨の後方には恐竜のモニュメント。
こうして恐竜と対比してみれば長門の副錨の大きさがわか・・・?

長門の忘れ形見・・・

しばしのとき
長門を思い起こし、感慨にふける空間・・・

岡崎市 東公園
「三景艦主砲砲弾」
昭和57年4月29日 岡崎市海友会 創立70周年記念建立。
日清戦争の際に清国北洋艦隊「定遠」「鎮遠」に対抗するために整備した「松島」「厳島」「橋立」を三景艦と呼称。その32センチ主砲弾も記念碑に。

付記
岡崎市 東公園
公園には邸宅もありました。
「本多忠次邸」
こちらの本多さんは忠勝系の本多の末裔。昭和7年に世田谷に建てた住宅の移築保存だそうで。 このときは、すでに夕刻で閉門していたので外観のみの見学。

姉妹艦「陸奥」はこちらにて

旧海軍の内火艇?

月島橋近くに桟橋状態で係留されている船がある。

どうもこの船が「旧帝国海軍の内火艇」と、まことしやかに伝承されている。真偽の程は不明であれど、ちょっと撮影してみました。

ネットに転がる噂話によると、月島橋の係留船は「比叡に搭載されていた内火艇」ともいわれている。


内火艇

内火艇」とは内燃機関を搭載したモーターボート。日本海軍の小型艇。
「艦首が反り上がらずに真っ直ぐ」になっていて、「甲板後方が下がっている」のが「内火艇」の特徴という。


旧海軍の内火艇?(月島橋)

見てみましょう。

後甲板に対するなだらかな勾配が内火艇の特徴という。

艦首は反り上がらずに真っ直ぐしているのも内火艇の特徴という。
確かに特徴通り。

※平成31年4月撮影


参考:長官艇(15メートル内火艇)

大和ミュージアムにて奇跡的に撮影していたので比較用に掲載しておきます。
(我ながら、よく撮っていたものです)

確かに艦首はまっすぐで、後甲板は低いです。
月島橋の船も同じ形してますね。似てます。

「千島」と「畝傍」(青山霊園)

平成30年8月撮影 青山霊園・畝傍の森

水雷砲艦「千島」慰霊碑

この地に水雷砲艦「千島」の砲身と砲弾が慰霊碑として祀られている。
「千島艦事件」
明治25年4月にフランスにて竣工し11月に長崎に到着。瀬戸内海を航行中の11月30日に愛媛県沖で英国商船ラベンナ号と衝突し沈没。乗員90人のうち救助されたのは日本人士官2官下士官13人と仏人1人だけであったという。

水雷砲艦「千島」慰霊碑
その隣には区画の由来となった「畝傍」慰霊碑もある。

青山霊園「畝傍の森」

巡洋艦「畝傍」慰霊碑

(明治21年12月に水交会にて建立)

巡洋艦畝傍は明治19年10月にフランスにて竣工 回航担当として日本人7人と75人のフランス人によって日本に向けて航行。
シンガポールを12月3日に出港するも、そこで消息を絶ち行方不明となった。

畝傍は仏国に建造を依頼した最初の日本海軍軍艦であったが回航途中の明治19年に消息不明。
その畝傍に次いで仏国にて建造された水雷砲艦千島も回航中の明治25年に瀬戸内海で英国商船と衝突し沈没してしまう。

そんな仏国出身の軍艦2艦を慰霊する区画が青山霊園に残っていた。

鎮魂・戦艦「大和」(4月7日)

昭和20年(1945)4月7日を偲ぶ。 戦艦大和が沈没した節目の日に。

昭和20年4月7日14時23分。

大日本帝国海軍の栄光を担った戦艦「大和」。

象徴でもあった戦艦「大和」

一億総特攻の魁として、坊ノ岬沖に散華した。

感謝と哀悼を…。

第二艦隊旗艦「大和」

司令官・伊藤整一中将

第二水雷戦隊旗艦・軽巡「矢矧」 司令官・古村啓蔵少将

第四十一駆逐隊(冬月、涼月)

第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)

第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)

大和・矢矧・磯風・浜風・朝霜・霞沈没 戦死 約3700名


大和国延喜式内社・名神大社 「大和神社」

「祖霊社」(大和神社境内末社)

御例祭4月7日

戦艦大和を始めとする第二水上特攻隊に乗組み沖縄決戦に起死回天を計りし諸英霊戦没者を合わせ祀る。

戦艦大和には大和神社より艦内神社が勧請されていた。

※撮影は平成16年8月


呉海軍墓地(長迫公園)

戦艦大和戦死者之碑

昭和54年4月7日建立

合祀者 約2800柱

合掌

※撮影は平成29年3月


呉市海事歴史科学館

大和ミュージアム

※撮影は平成29年3月

大和ミュージアム

左1番目 白 46センチ九十一式徹甲弾

左2番目 赤 46センチ九十一式三式焼霰弾


大和の生まれた地 「大和のふるさと」

旧・呉海軍工廠造船船渠(大和の建造用ドック跡)

現在はドック跡は埋め立てられジャパンマリンユナイテッド社の部品組立工場として活用。屋根の骨組みは海軍工廠当時のまま残る。

※撮影は平成29年3月


噫(ああ)戦艦大和塔

昭和44年の30回目の大和進水日(8月8日)を記念して大和艦橋をかたどった塔が呉の大和ドック跡を望む丘に建立。

※撮影は平成29年3月

噫戦艦大和塔

…沖縄の危急を救うべく…大和は特攻艦隊旗艦として…再び生きて帰らぬ覚悟をもって出撃し…雄図空しく南冥の海に護国の華と散った… …日本海軍が研究を積み重ねてきた…造船技術は戦後いち早くその実力を表し「大和は沈んでもその技術は沈まなかった」と…

建塔の由来
戦艦大和は、この塔の左下方に見える造船々渠で、昭和十二年十一月 仮称第一号艦として起工、同十五年八月八日極秘裏に進水、翌十六年十二月十六日竣工、直ちに連合艦隊旗艦として太平洋戦争に歴戦、同二十年四月七日、国民の全く知らぬ内に乗員三千余名と共に九州西南海中に姿を没した空前絶後の大戦艦であった。
その頃(一九四〇年)までの海戦は、敵弾が届かない遠距離からの先制攻撃で勝敗を決しようとするいわゆる大艦巨砲時代であったが、大和の主砲は口径四六糎、長さ二〇米、その砲弾の長さ二米、重さ一・五噸、着弾距離四万二千米、ここから岩国付近まで飛ぶ世界無比の巨砲で、この大きさが大和の秘中の秘であった。
この大砲三門をならべた砲塔は、直径一三米、重量二千七百余噸もあり、これを製作したのは砲弾部で、またこの砲塔や船体の主要部を防御する四一糎乃至六五糎の厚い特殊甲鉄は製鋼部で製造された。
戦艦大和はこの砲塔三基を積むために特別に設計せられ、従って鑑は異様なまでに幅が広くなり、排水量は六万九千噸を越えたが、それでもなお、二七・五ノットの高速艇であった。
巨艦大和の建造は五万を数えた呉海軍工廠の従業員が、優秀な技術と精魂を傾け、四ヵ年余の短期間で、延べ約三百万人の力と、当時一億一千万円の巨費とをもって完成したのである。
昭和十六年十二月八日、太平洋戦争劈頭の真珠湾奇襲、続くマレー沖海戦で、飛行機魚雷が容易に大戦艦を撃沈できることを、皮肉にも日本海軍が実証して自ら大艦巨砲至上の夢を破り、やがて戦局不利を来し、敵の制空権下沖縄の危急を救うべく、航空戦力を伴わないで、大和は特攻艦艇旗艦として燃料片道再び生きて帰らぬ覚悟をもって出撃し、その持てる巨砲の猛威を発揮しようとしたが、雄図空しく南冥の海に護国の華と散ったことは誠に遺憾の極みであった。
併しながら、明治維新以来八十年間、日本海軍が研究を積み重ねて来た製鋼、機械、電機等の重工業並びに各種産業 殊に造船技術は戦後いちはやくその実力を現し、いまやわが国は造船王国として世界に雄飛するに至っている。これまことに「大和は沈んでもその技術は沈まなかった」といわれる所以である。
軍艦大和は二十世紀における世界最大最強の戦艦であって、しかも日本人の手で設計し、呉海軍工廠において呉市民の手で建造された誇り高き技術の結晶であったとの見地から、これを生んだ呉工廠の跡を一望できるここ宮原の高台に、全国大方有志諸賢の協賛を得て記念塔を建設しもって、平和を念願しつつ先人苦心の業績をたたえ、またその悲壮な最期を偲んでこれが霊を慰め、永くその栄誉を顕彰しようとするものである。後の世の人々よ、願わくば建塔の由来を諒とせられ、この塔を永久に維持保存されることを謹んで識す。
昭和四十四年八月八日 戦艦大和 第三十回進水記念日


呉海軍墓地

「大東亜戦争戦歿者之碑」

呉地方復員局長森下信衛書 (昭和22年1月25日建立)

森下信衛氏は大和特攻時には大和に乗艦し第二艦隊参謀長。 大和に殉じた最期の大和艦長・有賀幸作、そして大和を護衛した第二水雷戦隊司令官・古村啓蔵とは海兵同期。


愛知県護国神社

戦艦大和記念碑

戦艦大和乗組の英霊2,700余柱を顕彰のため、東海地区戦艦大和会が昭和42年4月7日建立。

記念碑主体は大和主砲(四六糎砲)弾の実物。 昭和60年4月7日に整備改修。

愛知県護国神社

戦艦大和記念碑
…時に昭和二十年四月七日、沖縄の北四八〇粁、想うにこの世紀の巨艦を造り得た国民の気迫と祖国の危急存亡のときにのぞみ 甘んじて死地に投じた崇高なる精神とは永くわが民族の中に脈動するであろう…

戦艦大和記念碑
碑文
戦艦大和は日本が建造した世界に誇る史上最大最強の戦艦であった
第二次世界大戦中海上作戦の中枢として活躍していたが昭和二十年に入り戦況急迫しついに連合軍が大挙して沖縄に進行して来たとき海上特別攻撃隊旗艦となり巡洋艦矢矧及駆逐艦八隻とともに徳山沖を出撃してこの敵艦隊に対し特攻不帰の悲壮なる突入作戦を決行した
進撃の途上優勢なる敵機の連続猛攻を受け優先奮闘したがわれには一機の護衛戦闘機もなく被害は累積して遂に沈没す
この時伊藤司令官有賀艦長以下乗組員弐千七百有余名は艦と運命を共にした
時に昭和二十年四月七日沖縄の北四八〇粁想うにこの世紀の巨艦を造り得た国民の気迫と祖国の危急存亡のときにのぞみ甘んじて死地に投じた崇高なる精神とは永くわが民族の中に脈動するであろう
ここに大和主砲弾を安置して光栄ある海軍を記念するとともに大和をはじめ幾多殉国の英霊に感謝の誠を捧げあわせて祖国日本の繁栄と世界平和を祈念する
昭和四十二年四月七日 東海地区 戦艦大和会


映画「男たちの大和」ロケセット

そこには、 英雄でも、 犠牲者でもなく、 3333名の、男たちがいた。
戦後60年記念作品 「男たちの大和」

※平成18年1月撮影(尾道) 撤去済み

映画「男たちの大和」

(2005年12月公開・東映)

これもまた、 往時を偲ぶべき、 大和へのレクイエム…


この世界の片隅に

(2016年公開映画)

なんですか?フネ…ですか?

「大和」…じゃ  東洋一の軍港で生まれた世界一の軍艦じゃ

はぁ、あれにも人が乗っとるの?

ああ、ざっと2700人

にせん…ななひゃくにん? そうじゃ、呉へお帰り言うたってくれ、すずさん


かみちゅ!

第9話「時の河を越えて」

2005年放送・TVアニメ

「二宮くんがなついている大工の源さんは、かつて第二次世界大戦の時、あの戦艦・大和に乗っていたことがある人物だった。源さんからそんな話を聞いてすぐ、三つ輪丸という船の幽霊が一橋ゆりえのもとへとやってくる。彼は大和の沈んだ場所に同様に住む船で、大和の帰還を叶えてあげたくて、わざわざゆりえの下までお願いに来たのだった・・・」


入船山記念館(呉市)

ボランティアのおじさんが面白い話を。

「戦艦大和の大きさを体感してみませんか?」「え?」

入船山記念館と病院のある端から、突き当りまでが約263m。
これが戦艦「大和」の全長と同じ。
なんと、目の前の道路で大和の長さが体感できる!


矢矧・佐世保海軍墓地

軍艦矢矧戦没者慰霊碑 

(昭和44年4月13日建立)

艦と運命をともにした内野副長以下446名及び他海戦の戦死者などを含む486柱の英霊を祀る。
昭和20年4月7日、大和護衛の第二水雷戦隊旗艦として活躍し大和とともに轟沈。

※画像は公式サイト様(tvs12.jp/~s-kaigunbochi…)より


浜風・呉海軍墓地

「駆逐艦浜風戦歿者慰霊碑」

陽炎型13番艦「浜風」(濱風)

第17駆逐隊に所属した姉妹艦と主要な海戦に参加。戦艦武蔵・金剛・空母蒼龍・飛鷹・信濃といった帝国海軍主力艦の沈没に立ち会い救助活動に従事。
最後は昭和20年4月7日の坊ノ岬沖海戦で戦艦大和と共に撃沈。


初霜・佐世保海軍墓地

駆逐艦初霜慰霊碑

(昭和58年10月8日建立)

戦没者26名を祀る。初春型駆逐艦4番艦。初霜最後の艦長酒匂雅三少佐謹書。
大和の沖縄特攻に直衛艦として参加するも奇跡的に損傷を受けず佐世保に帰還。
昭和20年7月30日宮津港において対空戦闘回避中に機雷触雷し大破着底し終戦を迎えた。

駆逐艦 初霜の錨

第十七駆逐隊・呉海軍墓地

第十七駆逐隊之碑

谷風・浦風・浜風・磯風・雪風・初霜

碑文
第十七駆逐隊の戦歴 我が第十七駆逐隊は谷風浦風浜風磯風雪風初霜の六艦を以って編成され大東亜戦争を戦ったが昭和十九年六月九日北ボルネオ沖にて谷風を失い浦風は昭和一九年十一月二十一日台湾海峡にて沈没。
浜風・磯風は昭和20年4月7日沖縄洋上にて沈没。初霜は同年7月宮津湾で破損し憾みを千載に残した。雪風は最期まで艦が保全され終戦後は復員船として活躍した。
当駆逐艦隊は日本海軍の誇る精鋭の甲型駆逐艦でさきの大戦において祖国日本の防衛に任じ数々の武勲をたてたが総員六百五十五柱の戦没者をみた誠に痛恨の極みである。茲に第十七駆逐艦の栄光を後世に伝え且つは祖国の安泰と英霊の安からんことを祈念して同志相寄り謹んでこの碑を建立する。
昭和57年3月21日


涼月/冬月・佐世保海軍墓地

駆逐艦涼月・冬月・柳慰霊碑の案内標

上記3艦は北九州市若松区の高塔山に鎮座。その案内標が佐世保海軍墓地にある。涼月・冬月は大和特攻作戦に参加し2艦ともに佐世保に帰還。(涼月は大破後進帰還)
尚、涼月・冬月・柳は「軍艦堤防」として北九州の地で防波堤になっている。


軍艦防波堤

秋月型防空駆逐艦3番艦「涼月」8番艦「冬月」

桃型駆逐艦4番艦「柳」(初代)

この3艦は今も「軍艦防波堤」として北九州市若松港の防波堤として国土を護っている・・・

場所→goo.gl/maps/QWMGDqkgT…

いつかは訪れたい場所のひとつです・・・


旧・呉海軍工廠造船船渠 (大和の建造用ドック跡)

大日本帝国海軍・大和型戦艦1番艦「大和」
その史上最大の戦艦「大和」が生まれた呉の海では、 帝国海軍の伝統を墨守する海上自衛隊の護衛艦が停泊していた…

※撮影は平成29年3月


葬送の詩を奉じ大和を偲ぶ。

ありがとうございました…

「海行かば」

海行かば 水漬く屍

山行かば 草生す屍

大君の 辺にこそ死なめ

かへり見はせじ

(最後の写真出典)朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/topics/word/%E6%88%A6%E8%89%A6%E5%A4%A7%E5%92%8C.html …


掲載した写真

広島県呉市

 呉海軍墓地(長迫公園)

 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)

 大和ドック跡

 噫戦艦大和塔

広島県尾道市

 男たちの大和(展示終了)

奈良県天理市

 大和神社境内末社「祖霊社」

愛知県名古屋市

 愛知県護国神社「戦艦大和記念碑」


戦艦「大和」史跡関連で、まだ行ったことがなく将来の課題

鹿児島県徳之島の「犬田布岬(いぬたぶみさき)」

   戦艦大和慰霊塔

鹿児島県枕崎市の「平和祈念展望台(火之神公園内)」

 戦艦大和殉難鎮魂之碑


戦艦大和に関連する事柄を随時追記していきます・・・

「忠魂祠堂」と「軍艦比叡鎮魂碑」

平成30年8月撮影・横須賀・光心寺

「忠魂祠堂」

明治33年10月28日に創建。
昭和12年2月6日に再建。
建立は横須賀鎮守府。


明治二十七八年戦役(日清戦争)、明治三十七八年戦役(日露戦争)、満洲・支那事変、大東亜戦争戦死病没者を祀る御堂。

「忠魂祠堂」光政謹書
扁額は米内光政によるもの
再建時(昭和12年)の海軍大臣

横須賀・光心寺
忠魂祠堂の手前に

「軍艦比叡鎮魂碑」


昭和57年5月吉日、比叡会及び遺族外有志一同建立
軍艦比叡戦死者188柱を祀る

「軍艦比叡戦没者供養塔」五輪塔
昭和61年4月19日 軍艦比叡会建立

軍艦比叡艦歴  
 比叡は大正三年八月巡洋戦艦として横須賀海軍工廠で完成し横須賀在籍の新鋭艦として活躍した。
 昭和五年軍縮会議の結果練習戦艦となりその兵装機関の一部を撤去し第一線を退いたがその間にも昭和八年の特別大演習、同十年の南九州行幸及び翌十一年の特別大演習の三回にわたり大元帥陛下の御召艦としての栄に浴した。 
 昭和十二年「アーマー」の取付け、「バルジー」の新装備、前檣楼の改装射撃盤の近代化等の再改装が呉工廠で行われ同十五年初めに最新鋭の高速戦艦として第一線に復帰した。同年秋横浜沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式には重ねて御召艦となった。
 昭和十五、六年には高松宮宣仁親王殿下がその砲術長として勤務された。
 昭和十六年十二月大東亜戦争が勃発すると、比叡は新編成の第一航空艦隊の支援部隊として「ハワイ」、印度洋「ミッドウエー」等の海戦に参加し大いに武威を輝かした。 昭和十七年後半南東方面の戦局が急を告げるや 同方面に再び作戦し、第二次「ソロモン」南太平洋海戦に参加した。同年十一月十二日深夜「ガダルカナル」島敵飛行場砲撃の任を帯びた特別挺身攻撃隊(戦艦霧島、軽巡一隻、駆逐艦十二隻)の旗艦として目的地に突入したとき、予期しない敵重巡部隊と遭遇し激しく交戦した。比叡の放った主砲の初弾で敵重巡部隊の旗艦「サンフランシスコ」の艦橋を吹き飛ばしよく敵の大部を倒したが、比叡も亦百発以上の被弾を受けその一発が不運にも舵取機に命中し航行不能に陥った。十三日早朝から敵機の反復攻撃を受け単艦よく奮戦したが日没におよび阿部司令官の命により、乗員を駆逐艦に移乗し、自ら「キングストンバルブ」を開いたがなお沈まず、最後に駆逐艦雪風の雷撃で止めの一撃を加えざるを得なかった。英霊百八十八柱は艦と運命を共にした。
( 「軍艦比叡鎮魂碑」碑裏面の引用は以上 )

軍艦比叡戦没者供養塔趣旨
軍艦比叡は昭和十六年十二月(一九四一年)今次大東亜戦争開戦と同時に第一航空艦隊支援艦隊としてハワイ 印度洋 南太平洋及びミッドウエー海戦等に参加し輝かしい武勲を樹てた。昭和十七年後半戦局は極度の急を告げ南太平洋海戦特に第三次ソロモン海戦に参加
「ガダルカナル島」の敵飛行場の撃破粉砕の任を帯び特別挺身攻撃隊の旗艦として同泊地に突入したが期せずして十一月十二日敵重巡部隊と遭遇暗夜の混戦となり比叡の主砲及び各砲は一斉に敵艦船に対し火蓋を切り精錬された砲員の的確で痛烈な斉射は敵重巡部隊を撃滅した。比叡もまた敵の好目標となり昭和十七年十一月十二日夜から十三日に亘る敵の激しい砲雷爆撃により露天甲板以上の戦闘員多数は肉を裂かれ骨を砕かれこの鮮血に埋もれた伏屍が累々と激戦の惨状を呈した。この海戦で実に一八八柱に及ぶ犠牲者は比叡と共に同十三日夕刻南海の果てにその姿を没した。
戦死された尊い犠牲者の魂は戦後日本の復興と悠久の平和世界に誇る経済の発展に繋がる原動力となっていることは正に戦没者の遺産で日本人の心の奥に今も脈々と生き続けており軍艦比叡会はこの栄光の軍艦比叡と英霊の遺徳を後世に残すべくさきに軍艦比叡鎮魂碑を建立したが更に茲に有志相集い永代の供養を捧げる赤心を結集して軍艦比叡戦没者供養塔を建立して英霊の安らぎを念願するものである。 (「軍艦比叡戦没者供養塔」塔側面 趣旨引用は以上)

横須賀・光心寺
「忠魂祠堂」の裏山には防空壕跡もありました。
今回は友人車で参拝させていただきましたが、最寄り駅はJR衣笠駅より徒歩5分ほどの地に鎮座。 清廉な寺院空間となりますので失礼のないように参拝を。

駆逐艦「峯雲慰霊碑」

平成30年8月撮影

横須賀・満昌寺
「駆逐艦峯雲慰霊碑」

駆逐艦 峯雲
大東亜戦争に於て
祖国のためと信じ
純粋な心で戦い
多くの若い命を捧げて
平和の願いをこめた思を
慰霊碑に永く残す。

平成七年三月五日
駆逐艦峯雲戦友会代表世話人 名生 正孝 建

昭和十三年四月三十日
大阪藤永田造船所に於て竣工
第四十一駆逐隊編成第三予備艦
(略)
昭和十六年十二月八日
大東亜戦争参加
(略)
昭和十八年三月五日
ソロモン群島コロンバンガラ島クラ湾夜戦に於て敵巡洋戦隊巡洋艦三隻駆逐艦三隻と交戦 轟沈 戦死者二百八名

横須賀・満昌寺 (臨済宗建長寺派 義明山満昌寺)

「駆逐艦 峯雲 慰霊碑」は墓苑の片隅の一番高い場所に鎮座。
三浦義明を追善するために創建と伝承され、源頼朝とゆかり深き寺院。

駆逐艦「村雨の碑」

平成28年4月撮影

浦賀は鴨居港に面した地に、駆逐艦「村雨」の慰霊碑が建立されている。

駆逐艦 村雨

大東亜戦争に於いて
純粋に日本のために
青春を捧げて
戦歿した戦友を偲び
祖国愛と
平和への願いをこめて
この慰霊碑を建立する

昭和五十七年三月五日
村雨会会長 鹿山譽

感謝と鎮魂を。

駆逐艦「村雨」は太平洋戦争中の昭和18年3月5日の深夜、敵艦の集中砲火を受け、ソロモン群島(コロンバンガラ島沖)にて艦と共に乗組員119名の方々が南の海に散華された。

観音崎・多々良浜に面した静かな海。

駆逐艦村雨の碑は遙かに太平洋、ソロモン諸島に連なる海を見つめていました。 ありがとうございます…

駆逐艦村雨の碑
場所: https://goo.gl/maps/bEDqcC5U79s …