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深川と渋沢栄一宅跡【渋沢栄一9】

渋沢栄一は深川とも縁が深かった。

渋沢栄一は、明治9年に深川福住町に屋敷を購入、明治21年に中央区兜町(渋沢が創建した第一国立銀行の近く)に本邸が移されたのちは、深川邸は別邸として利用。(最終的な渋沢栄一の本邸は飛鳥山であった)

明治22年から37年まで、渋沢栄一は深川区会議員および区会議長を勤め深川の発展のため尽力。明治30年には深川に渋沢倉庫部(現澁澤倉庫)を創業。
そして明治44年の深川鎮守の富岡八幡宮の大修繕は、渋沢栄一が実行会長として推進している。

渋沢倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」が刻まれた力石。


渋沢栄一宅跡

渋沢榮一は、明治9年に深川福住町に住居を構え、明治21年に兜町に本邸を移し、この地は別邸となり、また澁澤倉庫部が設置された。

江東区登録史跡 
渋沢栄一宅跡
 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年(1931)92歳で没しました。
 栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。
 栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
  平成21年3月  江東区教育委員会

渋沢邸の跡地は、澁澤倉庫となり、そして今では「渋沢」の名を冠したビルが建立されている。

澁澤シティプレイス永代

澁澤倉庫発祥の地

澁澤倉庫発祥の地
「わが国の商工業を正しく育成するためには、 銀行・運送・
保険などと共に倉庫業の完全な発達が不可欠だ」

日本資本主義の生みの親である、渋澤榮一は、右の信念のもと、
明治三十年三月、私邸に澁澤倉庫を創業した。
この地は、澁澤倉庫発祥の地である。

渋澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の
他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていた。
この藍玉の商いをするときに使用した記章が
(ちぎり・りうご)であった。
明治四十二年七月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として
組織を改めたが、この(ちぎり・りうご)の記章は、現在も
「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。

澁澤シティプレイス永代建築を記念し本碑を建立する。
     平成十六年四月吉日
      澁澤倉庫株式会社

ちぎり(りうご)

澁澤倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」

血洗島の渋沢家では、藍玉の製造販売を行っていた。
藍玉の商いの際にシンボルとして使用していた記章が澁澤倉庫の社章の期限となっている。
澁澤倉庫では「りうご」と呼称しているが、渋沢家では「ちぎり」と呼ばれていた。
元来は糸巻きに糸を巻き付けた形を図案化したもので、この形が鼓を立てて横から見た形に似ているところから「立鼓(りうご)」と呼ぶようになったなどと言われている。

https://www.shibusawa.co.jp/company/future/


駐車場の片隅に神社があった。

福住稲荷神社

澁澤倉庫の守護神。

福住稲荷神社は、深川福住町(現永代2)にあった近江屋喜左衛門屋敷の邸内祠であったもので、明治9年に(1876)澁澤栄一が近江屋屋敷を買収して、明治30年に澁澤倉庫部(のちの澁澤倉庫株式会社)を創業したあとは、同社の守護神として祀られました。
神狐像は、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した福住稲荷神社が、昭和5年(1930)に再興されたことをうけて、澁澤倉庫社員一同によって奉納されたものです。平成3年に社殿内部から発見された奉納目録には、奉納者として当時の社員87名の名前が連なっており、深川の近代倉庫業に関わった人々の信仰を伝える貴重な文化財です。

江東区
https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/bunkazaisiseki/chokoku/88757.html

澁澤倉庫奉納の石鳥居。

昭和5年2月吉日建之
澁澤倉庫株式會社

神狐像も昭和5年に澁澤倉庫が奉納。

昭和5年(1930)は、渋沢栄一が90歳のとき。渋沢栄一は昭和6年(1931)に91歳で亡くなっている。

福住稲荷神社
子爵渋沢栄一書時年九十

渋沢倉庫が奉納した力石・さし石。力比べでさし上げた(持ち上げた)石。澁澤倉庫の従業員と思われるさし上げた力自慢の者の名前が刻まれている。

力石の中には、渋沢倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」が刻まれたものもある。

澁澤シティプレイス永代と澁澤永代ビル

澁澤倉庫株式会社

https://www.shibusawa.co.jp/#top-pamphlet

https://www.shibusawa.co.jp/story/photos/

場所

https://goo.gl/maps/2dtapXGK2BVn5TWW7


富岡八幡宮

明治44年の富岡八幡宮大修繕の際は、渋沢栄一が中心となって進められた。
なお、現在の社殿は昭和31年(1956)に造営されたもの。

深川公園

明治三十七 八年役戦死者忠魂碑

日露戦争の忠魂碑
渋沢栄一謹書

明治卅七八年役戦死者忠魂碑
正四位勲三等男爵澁澤榮一謹書


関連

誠之堂と清風亭(深谷市)【渋沢栄一8】

渋沢栄一に関係する建物が、2棟、深谷市内の大寄公民館敷地に移築されている。
平成11年に東京世田谷区にあった銀行保養施設「清和園」から深谷市に移築。
「誠之堂」は平成15年、国の重要文化財に、「清風亭」は平成16年、埼玉県指定有形文化財に指定されている。

行ってみましょう。

見学は公民館の中にいるスタッフに声をかけると入場できます。

誠之堂

大正5年(1916)建立。国重要文化財。

誠之堂(せいしどう)
 この建物は大正5年(1916)年に第一銀行の創設者、渋沢栄一の喜寿(77歳)を記念して、現在の東京都世田谷区瀬田に在った銀行の保養施設「清和園」内に建てられました。設計は後に大正建築の名手と称される田辺淳吉、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。
 建築面積は113.30㎡、棟までの高さは4.230mを測ります。構造は補強煉瓦造、外観は焼きの異なる3色の煉瓦が組み合わせて積まれ、煙突の直下には煉瓦で描かれた「喜寿」の文字を見ることが出来ます。屋根には天然スレートが葺かれています。
 建物の雰囲気は栄一の希望を元にイギリス風農家をイメージしています。室内には暖炉上の栄一のレリーフや古代中国の画法による祝宴の様子を描いたステンドグラスがあり、さらに中国、朝鮮、日本のデザインが取り入れられています。平成9年(1997)、取り壊しの決定に伴って深谷市が譲り受け、平成11年(1999)当地に移築、平成15年(2003)5月30日、国の重要文化財の指定を受けました。

日本煉瓦製造株式会社のシンボルマークと似ていますね。

行幸啓がありました。

渋沢栄一レリーフ

暖炉上部の額

大正五季丙辰 青淵先生躋喜寿 
第一銀行初員胥議 新築一堂於清和園
祝之請先生命名曰誠之 又刻此像表敬愛之至情云

大正5年丙申、青淵先生喜寿に躋る。
第一銀行諸員胥議して、一堂を清和園に新築す。
これを祝い、先生に請いて命名して曰く「誠之」と。
又、此の像を刻し、敬愛の至情を表すと云う。

胸像レリーフと額
大正5年の創建時、暖炉の上の壁面には、当時男爵だった渋沢栄一の「横向き」の胸像レリーフがはめられた。
 大きさは60センチ強の円形で、彫刻家、武石弘三郎により原型が制作された。
 大正8年、4月、胸像レリーフを「正面向き」のものにし、丈夫に誠之堂建設の経緯を記したブロンズの額を掲げるなど、現在の形に模様替えがなされた。
 作り直された理由は、現在のところわからない。

渋沢栄一が愛読した「論語」

ステンドグラス

網代天井

ハーフティンバーの天井

大広間

イギリス積みとフランス積み。

風見鶏。東西南北が漢字で示されている。

3種類の色合いの違う煉瓦で、小口面を規則的な凹凸で積まれた外壁。

バルコニーがある側の屋根は一直線で美しい。

「喜寿」の文字が煉瓦で描かれている。
誠之堂は渋沢栄一の喜寿祝いで第一銀行行員らから贈られた建物。
(渋沢栄一は喜寿を契機に第一銀行頭取を辞任している)

「上敷免製」の刻印のある煉瓦。
深谷市上敷免にある「日本煉瓦製造株式会社」の製造。

「論語の里」ご視察
天皇皇后両陛下行幸啓記念樹
平成29年9月21日

清和園

大正3年(1914)に設けられた第一銀行の運動娯楽場が「清和園」と名付けられた。

清風亭

大正15年(1926)建立。埼玉県有形文化財。

清風亭(せいふうてい)
 この建物は大正15年(1926)に第一銀行2代目頭取、佐々木勇之助の古希(70才)を記念して、現在の東京都世田谷区瀬田に在った銀行の保養施設「清和園」内に建てられました。設計は銀行建築に活躍した西村好時、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。
 建築面積は168.48㎡、棟までの高さは5.836mを測ります。構造は鉄筋コンクリート造、外観は人造石掻落し仕上げの白壁にスクラッチタイル(ひっかき傷をつけたタイル)と鼻黒煉瓦(黒褐色のれんが)がアクセントをつけ、屋根には瑠璃色の釉薬をかけたスパニッシュ瓦(スペイン風を模した丸瓦)が葺かれています。大正12年(1923)の関東大震災を契機に建築構造の主流となった鉄筋コンクリート造の初期の事例として、建築史上貴重な建物です。
 平成9年(1997)、取壊しの決定に伴って深谷市が譲り受け、平成11(1999)当地に移築、平成16年(2004)3月23日、埼玉県の有形文化財の指定を受けました。

暖炉前の火除板

大広間

渋沢栄一翁ブロンズ像
この像は翁の喜寿を記念して作られ、佐々木勇之助氏に贈られたものです。

暖炉の隣にガチャが置かれていました。

煉瓦ペンダント

明治期は「上敷免製」、大正期は「日煉」と呼称された。

三連の出窓

泰山木
誠之堂開館時に渋沢栄一による記念植樹され、誠之堂移築とともに移植された。

場所

https://goo.gl/maps/3HfWCVKNS1gw6ZGX7

http://www.city.fukaya.saitama.jp/kanko/kanko/seisido_seifutei/1391497434025.html


関連

渋沢栄一と血洗島(深谷市)【渋沢栄一7】

深谷市の北部「血洗島」。
「日本近代経済の父、日本資本主義の父」渋沢栄一の出身地を散策してみます。
(散策ポイントが広域に点在しているのでレンタサイクルが便利です)


旧渋沢邸「中の家」

慶応3年(1967年)の若き日の渋沢栄一

若き日の榮一
Eiichi in Paris 1867

渋沢栄一の生家「中の家」は、学校法人青淵塾渋沢国際学園として海外留学生向けの教育機関として昭和60年から平成12年まで使用されていた。
若き日の渋沢栄一像は、昭和58年(1983)10月1日の「青淵塾・渋沢国際会館」開館式で除幕された。

若き日の榮一像は、将軍徳川慶喜の異母弟である徳川昭武(水戸藩第11代)の訪欧使節団(パリ万博)に、会計係兼書紀(御勘定格陸軍附調役)として随行し慶応3年3月朔日(1867年4月5日)に、フランス マルセイユで撮影された写真を元に製造された。

中の家。旧渋沢邸。

渋沢栄一翁と論語の里

近代日本資本主義の父
渋沢栄一(1840~1931)

 深谷市血洗島に生まれ、尾高惇忠に学問を学びました。20代で従兄弟らと倒幕を計画し、中止された後は一橋(徳川)慶喜に仕え、家臣として慶喜公の名代昭武に同行し渡欧しました。
 明治維新後は政府の大蔵省で官営富岡製糸場の設立に関わりました。34歳で大蔵省を辞した後、実業界で活躍。幼少期に学んだ「論語の精神」を基に500社以上の企業の設立に関わりました。

論語の里
 栄一は7歳頃から、尾高惇忠に論語をはじめとする学問を習いました。生涯を通じて論語に親しんだ栄一は、「道徳経済合一説」を唱え、「近代日本資本主義の父」と呼ばれるに至りました。
 栄一が淳忠の家に通った道はいつしか「論語の道」と呼ばれ、栄一に関する史跡が多く残されていることから、それらを総称し「論語の里」と呼んでいます。

青淵まつり
栄一翁の命日(11月11日)を偲び、11月中に渋沢栄一記念館前で開催される。

血洗島獅子舞
市指定無形民俗文化財
諏訪神社の祭礼(秋季大祭)に奉納される。元亀2年(1571)にはじまると伝わり、雄獅子(おじし)・雌獅子(めじし)・法眼(ほうがん)の3頭が一組となって、笛のお囃子のもとで舞う。栄一翁も幼少より雄獅子を舞っており、帰郷の際には参観していた。

我が人生は、実業に在り。 渋沢栄一

天保11年(1840)豪農、渋沢市郎右衛門の子として誕生。
昭和6年(1931)92歳の大生涯を閉じるまで、実に五百にものぼる企業設立に携わり、六百ともいわれる公共・社会事業に関係。
日本実業界の祖。希代の天才実業家と呼ばれる所以である。
男の転換期。慶応3年(1867)15代将軍・徳川慶喜の弟、昭武に随行してヨーロッパに渡る。
28歳の冬であった。栄一にとって、西欧文明社会で見聞したものすべてが驚異であり、かたくなまでに抱いていた攘夷思想を粉みじんに打ち砕かれるほどのカルチャー・ショックを体験。しかし、彼はショックを飛躍のパワーに換えた。持ち前の好奇心とバイタリティで、新生日本に必要な知識や技術を貧欲なまでに吸収。とりわけ、圧倒的な工業力と経済力は欠くべからざるものと確信した。
他の随員たちの戸惑いをよそに、いち早く羽織・袴を脱ぎ、マゲを断った。己が信ずる道を見つけるや、過去の過ちと訣別、機を見るに敏。時代を先取りするのが、この男の身上であった。
2年間の遊学を終え、明治元年(1868)帰国。自身の改革を遂げた男は、今度は社会の改革に向って、一途に歩み始めた。
帰国の同年、日本最初の株式会社である商法会所を設立。明治6年(1873)には、第一国立銀行を創立し、総監役に就任した。
個の力、個の金を結集し、システムとして、さらなる機能を発揮させる合本組織。栄一の夢は、我が国初のこの近代銀行により、大きく開花した。
以後、手形交換所・東京商法会議所などを組織したのをはじめ、各種の事業会社を起こし偉大なる実績を重ねていった。
栄一はまた、成功は社会のおかげ、成功者は必ず社会に還元すべきという信念の持ち主でもあった。
私利私欲を超え、教育・社会・文化事業に賭けた情熱は、生涯変わることなく、その柔和な目で恵まれない者たちを見守り続けた。
失うことのなかった、こころの若さ。そこから生まれた力のすべてを尽して、日本実業界の礎を築いた渋沢栄一。並はずれた才覚と行動力は、今なお、人々を魅了する。
 昭和59年1月
 寄贈 エコー実業株式会社

深谷市指定文化財
旧渋沢邸「中の家」(なかんち)
 旧渋沢邸「中の家」に残る現在の建物は、母屋、副屋、4つの土蔵、門、塀から構成されます。明治時代の埼玉県北部の豪農の屋敷として貴重な歴史遺産です。渋沢栄一翁も天保11年(1840)にこの地で誕生しました。

中の家の敷地内にいくつかの碑があつまっている。

渋沢平九郎追懐碑

人の楽しみを楽しむ者は 人の憂いを憂う
人の食を喰う者は 人の事に死す
  渋沢平九郎昌忠

日月らかにするありて能く寃(えん)を雪(そそ)ぐ 
 九原豈(あに)幽魂を慰めざらんや
遺刀今夜灯(あかり)を挑(かかげ)て見るに 
 なお剰(あま)す当年碧血の痕(あと)
  義父・渋沢栄一

渋沢平九郎追懐碑

渋沢平九郎は、尾高淳忠の弟で、渋沢栄一の養子。幕末の飯能戦争で敗れ自刃。(尾高惇忠の項で詳述。)

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁が、飯能戦争で亡くなった自分の義子平九郎を偲んで作ったものである。
 平九郎は尾高惇忠の末弟で、栄一翁がパリ万博へ旅立つ際に養子となった。兄淳忠は栄一翁の学問の師で、富岡製糸場初代場長となった。
 慶応4年4月、江戸城が開場すると、平九郎は、年少ながら主家の窮状を見過ごすことが出来ず、振武軍に身を投じた。振武軍は、渋沢喜作や尾高惇忠を中心に、旧幕臣で構成されたものであるが、5月23日、飯能で官軍を迎え撃った。わっずか半日の戦闘で壊滅状態となり、平九郎は戦場から故郷を目指して逃走、顔振峠を超えて黒山(現越生町)に至り、官軍と遭遇、進退窮まり、ついに自刃して果てた。
 この追悼碑は、平九郎没後50年を経た大正6年に建てられたもので、平九郎の手跡を石に刻むとともに、栄一翁が平九郎を追悼して作った詩が刻まれている。時を経てもなお、若くして亡くなった義子平九郎を悼む栄一翁の、思いの深さをうかがわせる。

渋沢平九郎追懐碑
楽人之楽者憂人之憂
喰人之食者死人之事
 昌忠

嗚呼此我義子平九郎取義之前日自題寓舎障壁之辞也。 明治戊辰五月官軍入江戸城。 平九郎年尚少不忍坐視主憂便投振武軍廿三日遂殞命草野。 甲午家祭日有人贈其戦没時所佩刀予。 悲喜交至賦詩曰。 
 日月有明能雪寃 九原豈不慰幽魂
 遺刀今夜挑灯見 猶剰当年碧血痕
此憫其孤忠也。 今玆丁巳五十年忌辰重展遺墨不勝追懐之情。乃鈎摹刻石以見其志云。
 大正六年十二月 義父 渋沢栄一識並題額

【渋沢平九郎追懐碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

晩香渋沢翁招魂碑

渋沢栄一の父渋沢市郎の招魂碑。
渋沢市郎右衛門は晩香と号した。

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁の父で、晩香と号した渋沢市郎右衛門の招魂碑である。
 明治四年十一月二十二日、享年六十三で亡くなった。年が明けた正月五日に郷里の墓地に葬られた。
 晩香没後の明治五年、故郷血洗島を出て東京に居を構える栄一翁が、時宜に応じて父の祭事を欠かすことのないよう、東京の谷中天王寺境内に建立したものである。撰文は尾高惇忠、書は明治の三筆に上げられる日下部東作(鳴鶴)、題額は同じく三筆の巌谷修(一六)である。

晩香渋沢翁招魂碑
翁諱美雅渋沢氏通称市郎号晩香。武蔵国血洗島村人。世農。考諱敬林君妣高田氏。実同族諱政徳者第三子。嗣敬林君之後配其長女。翁自幼嗜学慨然有特立之志。而思慮周密一事不苟。凡自耕稼生産之道至尋常瑣事必反復審思本於実際。是以施設不差成算。家製藍為品素精。至翁研究益到名伝遠近其業大盛家産致優。至有郷人倣以立産者。村原係半原藩封内。藩侯有土木若不時之費毎令翁供財。翁毫無難色。曰財之用在応緩急耳況藩命乎。又厚於親姻故旧。人或失産破家則諄諄誘誨為捐財賑恤使其復産。故人皆称之不已。明治四年冬十一月二十二日病歿。年六十三。越五日葬其郷先兆之次。贈号曰藍田青於。五男八女。長男栄一君見為大蔵省三等出仕叙正五位。長女適吉岡十郎。少女配外甥須永才三郎委其家産。余夭。男栄一君以在東京建招魂碑於谷中天王寺以為行香之便。嗚呼翁行修於家信及郷里而老死畎畝之間終無著于世。洵為可惜矣。然栄一君擢草莾居顕職望属而名馳。蓋有所以矣哉。惇忠於翁有叔氏之親而蒙師父之恩。謹叙其行状表之。
 租税大属 尾高惇忠 撰文 
 少内史正六位 日下部東作 書 
 少内史正六位 巌谷修 隷額

晩香渋沢翁招魂碑(裏面)
明治五年壬申十一月廿二日
男正五位 渋沢栄一建

【大意】
 翁は、諱は美雅といい、通称は市郎、晩香と号した。武蔵国血洗島に、代々農業を生業とする渋沢家に生まれた。翁の父の諱は敬林、母は高田氏。もとは同族(東の家)の政徳の第三子である。養子として中の家に入り、敬林の後を継ぎ、その長女を妻とした。
 幼少より学問を好み、はっきりとした独立の志を持っていた。そして、思慮深く、ささいたことでも疎かにしなかった。家の仕事や日常の細々とした事まで、慎重に考え、事実に基づいて判断した。このようなわけで、何事も見通しと違うようなことはなかった。
 実家の藍玉づくりでは、もともと品質を大事にしてきたが、翁に至って、ますます研究が深まった。翁の名は広く知れ渡り、藍玉づくりは大変盛んになり、財産も大いに増えた。地元の人で、藍玉づくりを習って生計を立てるものもあらわれた。
 村はもともと半原藩の領地で、藩主の方で土木工事や不意の出費がある時は、いつも翁に費用を出させたが、翁は少しも苦にしなかった。翁が言うことに、「お金というのは緊急の時に使うためにあるのであって、まして藩の命令ならなおさらである。」というのである。また、親戚や古い友人に対しても同じようにした。他人で財産を失って家を傾ける人があれば、よく教えを諭すとともに、自らの財産を投げ打って助けてやり、元通りの生活が出来るようにした。それゆえ、だれもが翁を称賛してやまなかった。
 翁の行状は、家を修め、信用は郷里全体に及んだが、生涯を一農民として過ごしたため、世の中に知られることがなかったのは、まことに残念である。しかし、栄一の君が国家の中枢の仕事に携わり、大いに期待されているのも、翁の感化があったればこそといえるのである。惇忠にとって翁は、叔父であるが、父親以上に親愛の情を注いでくれた。謹んでその一生を文章に表すものである。

【晩香渋沢翁招魂碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

先妣渋沢氏招魂碑

渋沢栄一の母、渋沢えいの招魂碑。

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁の母 えい の招魂碑である。
 碑の内容は、よく働き、贅沢をせず、慈愛をもって人々に接するという、えいの人となりを記すもので、栄一翁は生涯にわたり多数の社会福祉事業に携わったが、その資質は母から受け継がれたものであることがよく示している。
 えいは明治七年病により東京で逝去し、夫晩香の墓に寄り添うように葬られ、この碑は明治十六年癸未十一月七日谷中に建てられた。
 碑の撰文には栄一翁自身が行い、題額と書は、明治の三筆に数えられる巌谷修(一六)によるもので、亡き母を敬慕する栄一翁の心情をうかがわせる碑である。

先妣渋沢氏招魂碑
          不肖男正五位 渋沢栄一抆涕撰
先妣諱恵伊子、武蔵国榛沢郡血洗島村渋沢敬林君長女、君無男、養同族宗助君第三男晩香翁為嗣、即先考也、配以妣、妣幼善事父母、既長任中饋及蚕織澣濯之労、孜孜不懈、五十年如一日矣、為人勤倹慈恵凡衣食器皿自取敝麤而供人以豊美、遇親戚故旧煦煦推恩、見疾病窮苦則流涕賑給唯恐不及、平素率家人愛恕有余、至教督生産之道不毫仮貸、子女僮婢克服命、足以見其内助有方焉、晩往来東京之邸、以楽余年矣明治七年一月七日以病卒于東京、享年六十有三、其十日帰葬晩香翁墓側、仏諡曰梅光院盛冬妙室大姉、越十六年癸未十一月七日建招魂碑谷中、因記其行実之概略
       脩史館監事従五位勛五等巌谷修書并題額
                         広群鶴刻

【大意】
えいは、渋沢敬林の長女として生まれたが、敬林に男子がいなかったため、同族の「東の家」渋沢宗助の三男晩香翁を婿に迎え家を継いだ。
幼いころからよく両親の手伝いをしたえいは、長ずるに及んでは食事の支度はもちろん、養蚕や機織の仕事、洗濯までこなし、怠ることなく長い年月にわたってよく働き続けた。贅沢をせず、人には慈愛をもって接した。衣服や食器なども、自らは粗末なものを用いても、人にはより良いものを供した。病に苦しんだり、困っている人を見れば、涙を流して施しを与えた。ふだん家業にあたって人を使うにも愛情と思いやりをもち、余力があれば生活に役立つ方法や技術を教えるなどして、少しも気を緩めることがなかった。
皆がえいによく従ったことは、妻としてのあり方にきちんとしたものがあったということをよく示している。
晩年には東京の栄一翁の邸宅へも往来し、余生を楽しんでいたが、明治七年一月七日病により東京で逝去した。享年は六十三であった。十日には郷里に移され、晩香翁の墓の側に葬られた。仏諡は梅光院盛冬妙室大姉という。
明治十六年癸未十一月七日招魂碑を建てた。そこで、その生涯の概略を記すのである。

【先妣渋沢氏招魂碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

場所

https://goo.gl/maps/NuKVHwYEx7Qn9PY38


青淵公園

「中の家」の後方は、清水川が流れており青淵公園として整備をされている。

青淵由来之跡碑

渋沢栄一の号、「青淵」の由来となった場所。「中の家」のすぐ後ろ。
「青淵」の号は渋沢栄一が18歳の頃に尾高惇忠(藍香)に付けてもらった。

撰書の渋沢治太郎は渋沢栄一の甥。県会議員や八基村長などを勤めていた。渋沢栄一に代わって渋沢栄一生家の「中の家」を継いだ、渋沢てい(渋沢栄一の妹)の次男。

青淵由来之跡
正二位伯爵清浦奎吾書

建碑の記
奉祝 皇太子明仁親王殿下御降誕を記念申上る為め、八基村青年団は村内の史蹟保存の事業を企てらる、血洗島支部亦其の挙に出て、故子爵青淵先生雅号発祥の跡を追慕すると同時に、利用厚生の実を挙ぐる耕地改良の整備に恵まれたる永久の幸福に感謝の誠を捧けんものをと青淵由来の跡と題し建碑の企を決議せらる、而して之れの揮毫を日本青年協会総裁伯爵清浦奎吾閣下に仰がんとせし所、夙夜世道風教の刷新振興を念とせらるゝ伯爵は、特に青淵先生と旧交を懐はれ、高齢と尊貴とを忘れて青年等の請を快諾せられたり、斯くして建碑の業進捗に伴ひ、血洗島青淵会並に大字血洗島は進んで其の企てを援け完成を期せられしは誠に機宜を得たるものと謂ふべきなり、抑も此地は元清水川の一部に属し、東西百五十米余、南北五十米の池沼の跡にして、蘆荻禽影を宿し、処々湧水あり、古来上の淵と呼ばれたるは新編武蔵風土記稿等にも載せられたる所にして、右岸の部落を血洗島字淵の上と云ひ、近世の名士子爵渋沢栄一・同喜作の君等此地に生れたるは世人の悉知する処なるか、其号を青淵といひ、蘆陰と称したるは、蓋し郷土の風物に因み各々撰ばれたる所なりと、故子爵より親しく語られたるを聴けり、昭和六年八基村昭和耕地整理組合設立せられ、干拓開道の工を加ふるに方り、地区の人々は之と連繋して由緒ある遺跡保存に意を用ゐ、一部の地を村社諏訪神社の社有地と為し、若干の風致を施こして新道に小橋を架設す、之を青淵橋と名付け永遠に記念を劃す余は耕地整理組合に長たるの名を汚し、各役員並に組合員の協力に倚りて事業完結を告げたる縁故者として、玆に建碑発起者の嘱に応じ其の顛末を識すこと爾利
  昭和十一年十月          渋沢治太郎撰書
           発起者 八基村青年団血洗島支部
                    血洗島青淵会
                     大字血洗島

場所

https://goo.gl/maps/GYT5wxKmZ491fmBs7


水戸藩烈士弔魂碑

岡部藩によって討たれた水戸藩天狗党浪士2名の慰霊碑。
渋沢栄一生家の「中の家」のすぐ手前の薬師堂に建立されている。

弔魂碑
 此弔魂碑は旧水戸藩士二人合葬の所を標せしなり、元治甲子の年、水藩の志士田丸稲之衛門・藤田小四郎等尊王攘夷の説を唱へ同志を糾合して幕府に抗し、事敗るゝに及び一橋慶喜公に就きて天朝に愬ふる所あらむとし、武田耕雲斎等と共に西上せむとす、兵凡三百余人、其嘗て筑波山に拠れるを以て世人呼びて筑波勢といふ、幕府傍近の諸藩に令して之を討たしむ、十一月十二日其勢七隊に分かれ利根川を越えて中瀬村に至る、岡部藩の家老吉野六郎左衛門兵を率ゐて其通過を止めしかば、夜陰に乗じて本庄宿に去れるが、其隊中の二人は一行に後れて藩兵の殺す所となれり、血洗島村人其非命を憐み遺骸を収めて墓石を建て、其氏名を詳にせざるを以て唯無縁塔とのみ称したりき、今玆大正七年、村人其久しくして湮滅せむことを恐れ碑を刻して之を表せむとし、余に其事由を記せむことを請はる、嗚呼筑波勢の挙言ふに忍びざるものあり、其行為には議すべきものありといへども、其志は朝旨を遵奉して幕政を革め、外侮を禦がむとするにありき、然るに事志と違ひ却て慶喜公の旗下に降服して、遂に幕府の為に敦賀に刑せらる、心ある者誰か痛惜せざらむや、明治二十四年、朝廷武田・藤田等の諸士に位を贈りて其忠悃を追賞せられ、寃魂始て黄泉の下に伸び、精忠永く青史の上に顕る、然るに此二士は其名だに伝はらず、空しく寒烟荒草の下に朽ちむとす、村人の之を歎きて貞石に刻せむとするは固より美挙といふべきなり、回顧すれば当時余は、慶喜公の軍に従ひ海津に在りて筑波勢の入京を防止せむとせし者なり、今二士の為に此文を作る、実に奇縁といふべく、書に臨みて中心今昔の感に堪へざるなり
  大正七年九月
                  青淵 渋沢栄一 撰并書

血洗嶋中建之

場所

https://goo.gl/maps/Eb9PtS5cgtorDbCG6


血洗島の諏訪神社

渋沢栄一の出身地、血洗島の鎮守。
渋沢栄一崇敬の鎮守様。「中の家」から南に500メートルほど。

渋沢栄一寄進の拝殿。大正5年(1916年)建立。

諏訪神社
 血洗島の鎮守社で、古来より武将の崇敬が厚く、源平時代に岡部六弥太忠澄は戦勝を祈願したといわれ、また、この地の領主安部摂津守も参拝したと伝えられている。
 大正5年(1916)に渋沢栄一の喜寿を記念して村民により建てられた渋沢青淵翁喜寿碑が境内に残る。神社の拝殿は栄一がこれに応えて造営寄進したものである。
 栄一は帰郷の際、まずこの社に参詣した。
 そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時に鑑賞することを楽しみとしていた。
 境内には、栄一手植えの月桂樹があった。また長女穂積歌子が父、栄一のために植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
  深谷市

渋沢青淵翁喜寿碑

大正5年(1916)建立。徳川慶久の題額。
徳川慶久は、徳川慶喜の七男。貴族院議員。そして渋沢栄一が設立した第一銀行取締役なども勤めていた。

澁澤青淵翁喜寿碑
公爵徳川慶久題額
男爵渋沢青淵翁、今年七十七の高齢に達せられたるを以て、郷里なる八基村字血洗島の人々、碑を立てゝ、翁の徳を頌せんとして、余に文を求めらる、余訝り問ひて、翁の功績は甚大なり、村人の私すべき所ならんやといふに、人々首打掉りて否々、吾村は武蔵平野の小村ながら、翁の如き大人物を出したるを誇とすべし、翁や青年の頃村を去りて国家の為に奔走し、今は世界の偉人として内外に瞻仰せらるれども我等は尚翁を吾村の父老として親しみ慕ひ、翁も亦喜びて何くれと村の事に尽すを楽となせり、翁は嚮に八基小学校の新築と、其維持法とに就きて、多くの援助を与へ、一村の子弟をして就学の便を得しめたり、村社諏訪神社は、翁が幼少の時境内にて遊戯し、祭日には村の若者と共に、さゝらなど舞ひたる事あれば、村に帰れば先づ社に詣づるを例とし、社殿の修理にも巨資を捐てゝ父老を奨励したり、今年は翁の喜寿に当りたれば、翁を迎へて彼のさゝらを催しゝに翁は記念として拝殿を造りて寄進したり、村人は此後春秋の告賽にも、子女の婚礼にも其便を得て、敬神の念嚮学の風と相待ちて風俗の益敦厚ならんことを喜び合へり、翁が尊貴を忘れて郷閭に尽せる功徳と情愛とは、村人の深く感謝する所なりと、余此言を聞きて感じて曰く、微賤より起りて富貴を一身に聚めたる人の草深き故郷を疎かにするは世の常なり翁や世界の偉人として其故旧を忘れず父老を敬ひ青年を導く、大人にして赤子の心を失はずとは翁の謂なり、翁の行は社会の模範となすべく、翁の徳は伝へて天下の風気を振起せしむべし、余は翁の知遇を蒙る者、いかでか人々の請を辞すべけんやと、因りて其言を録すること此の如し、翁の寿の九十に躋り百歳に至るは言はんも愚なり、後世翁の徳を聞きて感奮し、翁に継ぎて与る者あらば、翁は千歳にわたりて長へに生くべきなり
  大正五年九月       文学博士 萩野由之撰
                    阪正臣書

宮城遥拝所

紀元2600年記念(昭和15年)

諏訪神社修繕記念碑
 当社は、その創立の年代を詳らかにしていませんが、かつては諏訪大明神ととなえ、信州諏訪の地より勧請したものと伝えられています。江戸時代には岡部藩主安部氏の崇敬するところでもありました。
 現在の本殿は、明治四十年九月に竣工したもので、郷土の偉人澁澤榮一翁と当時の血洗島村民が費用を折半して造営されました。さらに現在の拝殿は、榮一翁がその費用を全額負担して造営され、大正五年九月に竣工したものです。以後代々の氏子により厚く崇敬されてきました。
<省略>

澁澤父子遺徳顕彰碑は、昭和48年11月建立。

澁澤父子遺徳顕彰碑
以和為貴

 君子は本を務む本立ちて道生ずその根柢をなすものこそ孝悌である わが澁澤父子三氏の如き正に斯の道の亀鑑と仰ぐべきであろう
 澁澤市郎は群馬縣太田市成塚須永氏に生れ初め才三郎と稱した わが國經濟界の泰斗澁澤榮一の妹ていの婿に迎えられて市郎と改名し榮一に代って中の家を嗣いだ 市郎は資性惇朴信義を重んじ常に謙虚に中の家は義兄に代って自分が守るのである 自分の任務は家名を傷つけず資産を失わないことであると語った 夫婦能く和合して家政を理め立派にその負託に應え長子元治次子治太郎を舉げた 市郎は生涯を通じて各般の地方公共事業に盡力した 八基信用組合を興し特に科學肥料の普及と農作物の増収に努めた さらに八基村名譽村長に就任し埼玉縣會議員に當選治水同盟を組織 利根川小山川の改修工事を促進した これに因って流域住民は始めて多年に亙る水害の苦難を脱することを得その恩澤は猶今日に及んでいる 大正六年齢七十一を以て歿した 市郎の一周忌に當り 榮一は自らその墓誌銘に諄信好義の士と撰書して厚く義弟を弔った
 長子元治は當時公職に在って東京に移住した爲榮一は二子と謀り次子治太郎が中の家を管理し農業を經営する方針を決めた 治太郎は誠意を盡して中の家を管理した 後年元治は自分が中央において心置きなく働けたのは偏に弟治太郎のお陰であると述懐している 治太郎は中の家を中心に産業の振興地方の發展に大いに貢献した 西部蚕業改良組合を結成してわが國最初の生繭正量取引を実施した 埼玉縣養蚕組合連合會を組織して會長となり更に全國養蚕業者の利益代表として奮闘した 當時治太郎らが政府當局に献策した蚕絲業振興策は悉く國策として採用された 父市郎を後を承け八基産業組合長となって經營の基礎を確立し八基村名譽村長埼玉縣會議員等に選ばれて自治行政を強力に推進し幾多地方の重要公共事業を遂行した なお自ら首唱して耕地整理を行い公民學校及び青淵図書館を開設した また埼玉興業株式会社深谷倉庫株式会社その他治太郎が設立経営した事業は多数に上りその目覚しい活躍と業績とは恰も伯父栄一の事蹟を地方に再現した觀があるとさえ評された 昭和十七年齢六十五を以て歿した
 隅々元治は昭和二十一年名古屋帝國大學總長の職を罷め父市郎弟治太郎の後を継いで中の家の主人となった 爾來元治は専ら著述と後進指導に力を注ぎ地方文化の進展に寄与した 元治は生來學問を好み東京帝國大學工學部に學び欧米各国に留学後工学博士の学位を得逓信技師となり次で東京帝國大學教授に就任工學部長を經て昭和十二年退官した 同十四年名古屋帝國大學初代總長に任ぜられ名古屋帝國大學を創立した 同三十年わが國電氣事業の開發育成に盡力した功績に依り文化功勞章を授與された 元治は本年九十八歳の高齢に達したが現在正三位勲一等日本學士院會員として活躍しその申申たる温容は衆人の齊しく景仰措かざる所である
 われらは澁澤父子が三代にわたり中の家を管理されさらに國家社會に貢獻された偉績を想起しその功業を永く後昆に傅える爲茲に顕彰碑を建立した 冀くは貞石と共に愈々その遺徳の顕彰されんことを祈ってやまない
     昭和四十八癸丑年十一月 
      澁澤父子遺徳顕彰會選書建立

扁額は渋沢栄一謹書。

場所

https://goo.gl/maps/68VxWDRNSGMAjcvN9


尾高惇忠生家


「中の家」から東に約1.5キロ。

尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)は渋沢栄一の従兄。号は藍香。
渋沢栄一は10歳年上の尾高惇忠に師事している。
「藍香ありてこそ、青淵あり」と称えられた。

のちに尾高惇忠は、官営富岡製糸場初代場長や第一国立銀行仙台支店長などを努めている。
尾高惇忠の妹である尾高ちよは渋沢栄一に嫁いでいる。(渋沢ちよ)
そして、尾高惇忠の弟である、尾高平九郎(渋沢平九郎)は、渋沢栄一の養子となるが飯能戦争で敗れ自刃している。

深谷市指定史跡
尾高惇忠生家
 尾高惇忠は天保元年(1830)下手計村に生まれ、通称は新五郎、藍香と号しました。渋沢栄一の従兄にあたり、栄一は少年時代からここ藍香のもとに通い、論語をはじめ多くの学問を藍香に師事したことが知られています。“藍香ありてこそ、青淵(栄一)あり”とまで、後の人々は称えており、知行合一の水戸学に精通し、栄一の人生に大きな影響を与えました。淳忠や渋沢栄一、喜作ら青年同志が、ときの尊皇攘夷論に共鳴し、高崎城の乗っ取りを謀議したのもこの2階であると伝わります。その後官営富岡製糸場初代場長や国立第一銀行仙台支店長を努めたことでもよく知られています。
 この尾高惇忠生家は、江戸時代後期に淳忠の曽祖父礒五郎が建てたものと伝わっており、屋号が油屋と故障されていた、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建造物です。母屋の裏にある煉瓦倉庫は、明治30年頃建てられたといわれ、日本煉瓦製造株式会社の煉瓦を使用している可能性が考えられます。

尾高家の人々
尾高惇忠(藍香)
渋沢栄一の学問の師、従兄、義兄。富岡製糸場初代場長。第一国立銀行仙台支店長。
尾高(渋沢)ちよ
淳忠の妹で、渋沢栄一の妻。
尾高(渋沢)平九郎
淳忠の弟で、渋沢栄一の養子となる。飯能戦争で新政府軍に敗れ、22歳で自刃。
尾高ゆう
淳忠の長女。14歳で富岡製糸場の第1号伝習工女となる。

以下は、場所は変わって埼玉県越生町。
渋沢平九郎に関する案内板が越生駅近くにある。越生町は渋沢平九郎の終焉の地。せっかくなのであわせて記載。

※以下は、越生町にて

渋沢平九郎
尾高(旧姓)平九郎の生涯
 弘化4年(1847)、武蔵国榛沢郡下手計村(現深谷市)の名主尾高勝五郎の末子として生まれました。幼少期から兄の新五郎(淳忠)や長七郎、従兄の渋沢栄一や渋沢成一郎(喜作)らと学問・文芸に親しみ、剣の腕を磨きました。そして兄や従兄たちと尊皇攘夷運動に傾倒していきました。
 「渋沢平九郎昌忠伝(藍香選)」は、平九郎は「温厚で沈勇果毅(沈着で勇気があり、決断がよく意思が強い)で、所作は美しく色白で背が高く腕力もある」と評しています。

 安政5年(1858)に姉千代が渋沢栄一に嫁ぎ、平九郎と栄一は義兄弟になりました。慶応3年(1867)には渡欧する栄一の養子となって、幕臣として江戸に出府しました。翌年2月に彰義隊に加わり、のちに、成一郎、淳忠らと振武軍を組織します。
 慶応4年(明治元年)5月23日、飯能で新政府軍に敗れ、顔振峠を下って黒山村(現越生町黒山)へ逃れてきた平九郎は、芸州藩斥候隊と遭遇、孤軍奮闘後、川岸の岩に座して自決しました。まだ20歳の若さでした。

深谷の尾高惇忠生家にもどる。

尾高惇忠生家にある煉瓦蔵は、日本煉瓦製造株式会社製か?といわれている。

旧尾高家 長屋跡

現在は基壇が残るのみ。

場所

https://goo.gl/maps/QEPW4cAZj51upvCW6


尾高家墓所

尾高家の近くではあるが、しょうしょうわかりにくい場所。

藍香、尾高惇忠の墓。

尾高長七郎(尾高弘忠)の墓

渋沢平九郎昌忠君招魂碑
渋沢栄一の建立。

場所

https://goo.gl/maps/oWjnNoqZyN51RWcV9


東の家跡

近くには、東の家跡もある。
中の家の東側が、尾高の下手計となるので、東の家は尾高家と近い。

渋沢市郎右衛門・喜作
宗助 東の家跡地


下手計の鹿嶋神社

尾高惇忠の下手計村(しもてばか)は、渋沢栄一の血洗島村の隣町。
下手計の鎮守は鹿嶋神社。
尾高惇忠家から、西に約500メートル、渋沢栄一「中の家」かたは東に約1キロ。

鹿島神社
 創立年代は不明だが、天慶年代(十世紀)平将門追討の際、六孫王源経基の臣、竹幌太郎がこの地に陣し、当社を祀ったと伝えられる。以降武門の守とされ、源平時代に竹幌合戦に神の助けがあったという。享徳年代(十五世紀)には上杉憲清(深谷上杉氏)など七千余騎が当地周辺から手計河原、瀧瀨牧西などに陣をとり、当社に祈願した。祭神は武甕槌尊で本殿は文化七年(一八一〇)に建てられ千鳥破風向拝付であり、拝殿は明治十四年で軒唐破風向拝付でともに入母屋造りである。境内の欅は空洞で底に井戸があり、天然記念物に指定されていたが、現在枯凋した。尾高惇忠の偉業をたたえた頌徳碑が明治四十一年境内に建立された。
  昭和六十年三月  深谷上杉顕彰会    (第二十二号)

渋沢栄一揮毫の扁額

鹿嶋神社 従三位勲一等男爵澁澤榮一謹書

克己復禮 尾高次郎書

尾高惇忠の次男、尾高次郎による揮毫。「克己復礼」は論語の出典。
尾高次郎は、尾高惇忠のあと、尾高家を相続。渋沢栄一の第一銀行(現・みずほ銀行)にて各地の支店長を勤め、武州銀行(現・埼玉りそな銀行)を設立し頭取に就任している。渋沢栄一は岳父にあたる。

鹿島神社
 下手計の鎮守社で、拝殿には渋沢栄一揮毫になる「鹿島神社」の扁額が掲げられている。
 境内には、栄一の師である尾高藍香の偉業を称える頌徳碑が建立されている。
 この碑のてん額は徳川慶喜公の揮毫、三島毅文学博士(号 中洲)の撰文によるものである。
 今では朽木となったが、大欅の根元に湧いた神水で共同風呂が設けられていた。栄一の母、栄はこれを汲み、らい病患者の背を流したと伝えられている。
 栄一手植えの月桂樹と長女穂積歌子が植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
    深谷市教育委員会

渋沢栄一手植えの月桂樹などは記録しそこねました・・・


藍香尾高翁頌徳碑

篆額は、徳川慶喜の揮毫。堂々たる石碑。

藍香尾高翁頌徳碑について
 尾高惇忠を敬慕する有志によって建てられたこの碑の除幕式は、明治四十二年(一九〇九)四月十八日に挙行されました。
 おりから桜花満開の当日、澁澤栄一はじめ穂積陳重、阪谷芳郎、島田埼玉県知事など、建設協賛者である名士多数が臨席されました。その際、尾高惇忠の伝記「藍香翁伝」が参列者一同に配布されたのです。
 碑の高さは約四・五メートル、幅は約一・九メートル、まさに北関東における名碑の一つです。石碑の上部の題字は、澁澤栄一が最も尊敬する最後の将軍、徳川慶喜によるものです。碑文は三島毅、書は日下部東作、碑面に文字を刻む細工は東京の石工・吉川黄雲がそれぞれ当たりました。
 郷土の宝物であるこの名碑を大切にし、藍香翁はじめ先人の遺徳を偲び、共に感激を新たにいたしましょう。
    平成十七年十月

藍香尾高翁頌徳碑
藍香尾高翁頌徳碑   従一位公爵徳川慶喜篆額
西武有君子人、曰尾高翁、々少時遭人倫之変、慈母与祖父不相協、去而不帰者数年、翁泣涕往来其間、或哀請、或幾諫、蒸々克諧以復旧、親戚郷党、莫不感称焉、嗚呼孝百行之本、自此以往、翁之進退出処、皆有功徳、物故已七年、人々追慕不已、況其門人故旧乎、乃胥謀欲樹碑於村社側以頌之、謁余文、按状翁諱惇忠、称新五郎、号藍香、尾高氏、武蔵榛沢郡下手計村人、祖曰磯五郎、父曰勝五郎、並為里正、家業農商、母渋沢氏、今男爵青淵君姑也、天保元年七月某日生翁、々少聡敏強記、独学通経史、業暇教授隣里子弟、青淵君亦就学焉、嘉永中辺警荐臻、海内騒然、翁喜水藩尊攘之説、窃与四方志士交、有所謀議文久元年襲里正、而心不在焉、慶応中以嫌疑下岡部藩獄、無幾免、既而翁悔悟攘夷未可遽行、専務殖産興業、而徳川慶喜公夙聞其名、行将用之、時公奉還大政、退大阪、誠意未上達、将陥危難、翁聞之慨然蹶起、欲有所救、到信州、則官軍既在木曾、乃還、明治元年二月入彰義隊、又起振武軍、屯飯能、与官軍戦敗、匿于家、乱已平、為静岡藩勧業属吏、亡何辞帰、家居三年、民部省辟為監督権少佑、転勧業大属、兼富岡製糸場長、十年辞之、為東京府養育院幹事、兼蚕種組合会議長翁曾得秋蚕之製於信州、伝之遠邇、皆獲大利、先是青淵君創立第一銀行、翁応嘱為盛岡支店長、土人又推為商業会議所長、傍勧製藍、励染工、後歴転秋田仙台支店長、興植林会社、二十三年刱製靛之方、得専売権、翌年以老辞職、翁助青淵君掌銀行業已十五年、功労不少、且所在為斯民授業興利、不可枚挙、遂寓東京福住街、専販藍靛、暇則矻々著述、而泰東格物学、其所最注心、毎曰名教之本、全在此、三十四年一月二日病終、享年七十有二、帰葬郷塋、青淵君以妹婿作墓銘、可謂交有終始矣、元室根岸氏、生二男五女、先亡、長男勝五郎夭、次次郎出為支族幸五郎嗣、季女配養子定四郎奉祀、余皆適人、翁天資惇誠温良、与物歓洽、有器局、処艱難能耐忍、為郷党謀最忠実、歳歉則廉価糶貯穀、有紛議則懇諭和解、其他善行不可勝記、而莫不一本於至性、豈可不謂君子人乎哉、銘曰、
  維孝為本 学術正淳 事君則藎 育英則循
  述作垂後 名教維因 造次顛沛 志在経済
  殖産刱業 大起民利 誰言理財 不由徳義
明治四十年七月
        東宮侍講正四位勲三等 文学博士 三島毅撰
        正五位日下部東作書  吉川黄雲鐫


北阿賀野の稲荷神社

「中の家」から北に約800メートルの地に鎮座。
青淵公園を流れていた清水川の北側にあたる。

稲荷神社 子爵澁澤榮一謹書

稲荷神社・菅原神社(天神社)改築記念碑
 深谷市北阿賀野一番地に鎮座する稲荷神社は倉稲魂命を御祭神と仰ぎ祀り五穀豊穣の神として先祖代々尊崇篤く現在に及んでいる。創建については風土記稿などによれば徳川氏関東に入国の頃との記述があることから四百年以上の歴史があるものと思われる。菅原神社(天神社)は宝暦十三年(一七六三)の建立と記されている。
 旧社殿内の棟木や記念誌からは御殿が明治二十六年に造営され大正十五年に改築し、その後昭和五十一年に氏子延百二十人の出役による改修事業が行われたなどの記録が残されている。
 境内には昭和二年に當地出身の偉人桃井可堂の顕彰碑が澁澤榮一翁により建立されている。社名の扁額も翁の揮毫によるものである。
 又戦争で尊い命を国家に殉じた英霊と従軍者の扁額が昭和三十九年に奉納され平和の尊さを今に伝えている。
 當神社は稲荷様として氏子に親しまれ豊作や商売繁盛・家内安全などを祈願する祭祀のみならず境内でのスポーツなど住民の交流の場として心の拠となっていた。しかし老朽化も著しく幾度となく修復も試みられてきた。
 この状況を憂い平成二十五年九月地元出身の実業家石坂好男氏により両神社の改築並びに境内の整備を寄進したい旨の申し入れがあり氏子総意の下、有難くこれを拝受し、平成二十六年六月起工・平成二十七年六月竣工の運びとなった。
 誠に氏子の喜び此の上なく尊崇篤くして地域の振興を子々孫々の繁栄を祈願してやまない。
 茲に石坂好男氏への報徳とその功績を後世に永く伝えると共に本事業の施工業者並びに協力・奉賛頂いた全ての皆様に衷心より感謝の誠を捧げてこの記念碑を建立する。
   平成二十七年六月吉日
     北阿賀野稲荷神社宮司 宮壽照代
     同          氏子一同

可堂桃井先生碑

桃井可堂(もものい・かどう)
幕末の尊皇攘夷活動家。渋沢栄一の血洗島村の北隣りに位置する北阿賀野村出身。渋沢栄一より37歳年上。
文久3年(1863)に慷慨組を組織するも挙兵計画が漏洩し川越藩に自首。幽囚され自ら絶食して死去。「深谷の吉田松蔭」と称された。

可堂桃井先生碑
慷慨国を憂ひ率先義を唱へ、時運未だ会せず謀成らずして身を殞し、英魂慰する所なかりしも、適昭代の隆運に遭ひて恩賞枯骨に及ぶ、吾が可堂桃井先生の如きは寔に生前に否にして死後に泰なるものと謂ふべし、先生諱は誠、通称は儀八、字は中道、可堂は其号なり、享和三年八月八日武蔵榛沢郡北阿賀野村に生る、本姓は福本、忠臣新田氏の後裔なり、父諱は守道、世々農を業とす、先生幼より好みて稗史野乗を読み、能く其要を記す、一日父先生に謂て曰く、汝をして大儒に就て修学せしめんと欲するも、家貧にして資なきを如何せんと、言畢りて撫然たり、先生も亦切歯涙を垂る、時に甫めて八歳なり、幾もなく郷儒渋沢仁山に就て学ぶ、仁山深く望を属す、年二十二、蹶然江戸に遊び、東条一堂の門に入り、清川八郎・那珂梧楼と併せて三傑と称せらる、業成り帷を下して教授す、名声日に揚り交道月に広し、庭瀬侯賓礼を以て先生を聘し、亀山侯も亦師事せり、嘉永六年米艦渡来し、物情騒然たり、先生感ずる所あり、藤田東湖に因りて書を水戸烈公に上らんとす、適東湖の死に遭ひて果さず、尋で米国の通商強要、安政戊午の大獄等ありて、幕政日に非なり、先生慨然職を辞して郷に帰り窃に名族岩松某を推して謀首と為し、兵を挙げて外人を掃攘し、一挙幕府を倒さんとす、某期に臨み遅疑して起たず、事漸く漏る、先生責を一身に負ひ、衆に代りて川越藩に自首す、幕府先生を江戸に檻送し福井藩邸に幽す、先生憂憤自ら食を絶ちて死す、実に元治元年七月二十二日なり、享年六十又二、巍然たる大節、真に忠臣の裔たるに恥ぢずと謂ふべし、諡して義道院猛雲至誠居士と云ふ、麻布光専寺に葬る
大正天皇登極の年、特旨を以て正五位を追贈せらる、是に於て戚族相議し駒込吉祥寺に改葬す、先生二男あり、長は之彦、畳山と号し、次は直徳、山東と号す、明治の初予大蔵省に勤務するに及び、二人を薦めて民部・大蔵両省に奉職せしめしに、頗る循吏の聞ありしが、不幸短命にして倶に世を蚤くせり、山東五男あり、長可雄は早く横浜の渋沢商店に入りて、生糸輸出の業に従ひ、季健吾は石井氏を冒して現に第一銀行副頭取たり、是亦予の推薦する所にして、倶に経済界に令名あり、忠誠の報空しからずと謂ふべし、頃日八基村教育会、碑を村社の境域に樹て、其義烈を顕揚せんとし、文を予に嘱す、嗚呼、先生と同憂の士多くは玉砕し、其子其孫亦既に地下に入りて、相見る能はざるものあり、予は郷閭先生と相近く、壮時同じく尊攘を以て念とせしも、故ありて事を共にせず、瓦全今に至る、偏に聖世の恩沢に因ると雖も、亦曷ぞ命長くして悲傷多きの歎なきを得んや、往時を追懐して悵然たること之を久しうす
  昭和二年五月 正三位勲一等子爵 渋沢栄一撰并書

場所

https://goo.gl/maps/iUQCydJk2o3MgwWf9

桃井可堂が塾を開いた中瀬村には、個人史料館「桃井可堂郷土史料館」もある。歯科医院の敷地内。

郷土の先人 苦学力闘の人
桃井可堂郷土史料館

場所

https://goo.gl/maps/SwRpz7gxRAAhn7T16


渋沢栄一記念館

渋沢栄一の「中の家」 血洗島村からは東に約500メートル。
平成7年(1995)11月11日(栄一翁の祥月命日)に開館。八基公民館を兼ねている。

「富岡製糸場と深谷の三偉人」
 深谷市は、平成26年に世界文化遺産に登録された富岡製糸場の設立に深く関わった渋沢栄一・尾高惇忠・韮塚直次郎三氏の偉業を称え、顕彰しています。
 渋沢栄一は明治政府において官営製糸場設置を推進し、尾高淳忠は富岡の地にフランス式機械製糸場を竣工、初代場長として運営を行い、韮塚直次郎は富岡製糸場の巨大建造物を支える煉瓦などの資材調達に尽力しました。
 ※このレリーフは、石坂産業株式会社創業者である石坂好男氏の寄附ににより制作しました。

渋沢栄一

尾高惇忠

韮塚直次郎


渋沢記念館の後ろ側、清水川、そして上州を見渡す方向に、大きな渋沢栄一像が建っている。

渋沢栄一像

渋沢栄一翁
 本像はもと深谷駅頭にありき
 昭和63年3月、有志1500有余名の錠剤をもとに駅前区画整理事業の完成と翁の顕彰を記念して建立せしものなり
 平成7年10月、翁、生誕八基の地に渋沢栄一記念館の落成に伴い、ここに遷座し奉る
 この地や、園日に渉り以て趣を成すの如く大いなる発展をとげしも、刀水は悠遠にして、翁、在世の昔も今の如し上毛三山の遠望も又、今も昔もなし
 翁没して65年、翁の像が故山の風物を眺めて起つは又美しき哉
 平成8年11月吉日
  深谷市長 福嶋健助


桃井可堂が塾を開いていた中瀬村には「河岸場」があった。

中瀬河岸跡

古来は、新田義貞が鎌倉幕府倒幕の兵を揚げ「中瀬の渡し」を渡り、そして江戸時代には武蔵国と上野国を結ぶ利根川の船着場として栄えていた河岸。物資や船客の乗り換え場所であったということから、江戸の情報がいち早く伝わる情報発信地であり、これが北武蔵で渋沢榮一を始めとする偉人を生んだきっかけでもあった。

中瀬河岸跡
 中瀬河岸は、江戸時代から明治にかけて利根川筋の河岸場として大いに繁栄した。
 慶長12年(1607)に江戸城秋竹の栗石中瀬から運んだ記録があり、この頃には既に中瀬からの水運が行われていたようである。その後、中瀬は周辺の物資の集積所となり上流や下流から来た乗客や荷物を積み替えるように定められ、関所のような役割を果たしたという。
最盛期には、大小100隻近くの舟が出入りし、問屋、旅籠屋などが軒を連ねて賑わった。
明治16年(1883)の高崎線の開通により次第に衰退し、明治43年の大洪水とその後の河川改修で河岸場の姿は失われた。
 平成5年11月 深谷上杉顕彰会

以上、渋沢栄一の出身地「血洗島」周辺の記事でした。

「誠之堂・清風亭」は、別記事にて。


リンク

渋沢栄一デジタルミュージアム

http://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/index.html


関連

日本初の機械式煉瓦工場「日本煉瓦製造上敷免工場」と専用鉄道線跡【渋沢栄一6】

明治政府は急速な近代化整備を行うにあたり良質な煉瓦を必要としており、大量生産可能な煉瓦工場を必要としていた。
煉瓦需要を受けた渋沢栄一らによって煉瓦工場が埼玉県榛沢郡上敷免村(深谷市)に創業した。「上敷免」は渋沢栄一の出身地「血洗島」と同じ榛沢郡であった。

日本で最初の洋式煉瓦工場は「小菅煉瓦製造所」(明治5年)
日本で最初の機械式煉瓦工場が「日本煉瓦製造工場」(明治21年)

日本煉瓦製造工場で生産された煉瓦は、日本の近代化の推進力となった。

  • 東京駅
  • 中央本線の鉄道高架橋(秋葉原の万世橋高架橋など)
  • 司法省(現在の法務省休館)
  • 日本銀行本店本館
  • 迎賓館赤坂離宮
  • 東京大学
日本煉瓦製造工場跡

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R3233-88
1949年10月03日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

上記とほぼ同じ場所をGoogleMapで。

ファイル:USA-R256-No1-146
1947年10月30日、米軍撮影画像を一部加工。

上記とほぼ同じ場所をGoogleMapで。


深谷駅

「日本煉瓦製造・上敷免工場」で製造された煉瓦で建築された東京駅を模した深谷駅から散策はスタート。
深谷駅から、「日本煉瓦製造・上敷免工場」までは約4キロ。かつては専用の線路で結ばれていた。民間工場の専用線路というのも、実は日本初であった。現在、廃線跡は「あかね通り」として整備されている。

※この日は、レンタサイクルを利用して深谷市内を散策しました。
※深谷駅に関しては別記事にて


旧・日本煉瓦製造株式会社上敷免工場専用鉄道線跡
(日本初の専用鉄道)

深谷駅から廃線跡の遊歩道へ。線路にそって、唐沢川を渡る橋は「つばき橋」と呼称されていた。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 渋沢栄一が中心となって、明治20年に設立した日本煉瓦製造株式会社は、日本で初めて機械による煉瓦の大量生産を行いました。ここで生産された煉瓦は、東京駅丸ノ内本屋、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)、日本銀行本店本館、旧信越本線碓氷第三橋橋など多くの建造物に使用され、日本の近代化を支えました。市内にも数多くの煉瓦建造物が残っています。
 当初は舟により製品などが運搬されましたが、明治28年に、深谷駅から向上までの約4kmに、日本で始めてとなる民間工場のための専用鉄道線が引かれ、昭和40年代まで使用されました。
 現在は、あかね通り(自転車歩行者専用道)として利用されています。

唐沢川橋梁跡

つばき橋。

ボナール型プレート・ガーダー橋。
橋は、移設再構築されたものという。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 唐沢川に架かる長さ約13.4mの鉄橋は、チャールズ・アセトン・W・ボナールというイギリス人技師が設計した鋼板桁(プレート・ガーダー)橋です。当初は違う構造でしたが、大正時代以降にこの構造になったようです。ボナールは、明治15年に鉄道院が外国から招いた最後の技師で、ボナール型プレート・ガーダー橋は、明治28年から明治34年までに国内各地に架設されました。この橋桁自体は、以前に製作され使用されていたものを移設、又は再構成したものと思われます。

中山道

しばらく進むと、中山道と交差する。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 専用鉄道線は、明治初頭に建てられた中山道深谷宿東端(稲荷町)に建つ常夜灯のすぐ脇を通っていました。昭和50年に廃線となった後、歩行自転車専用道として整備されていきますが、それまで専用鉄道線は街の景観の一つでした。

中山道深谷宿の東端にたつ常夜灯。

そして国道17号と立体交差。

住宅地の合間を抜ける。

福川橋梁

そして、福川を渡ると「ブリッジパーク」。

ここには、福川橋梁が保存されている。
日本に現存する最古のボーナル型プレート・ガーター橋、という。

旧・日本煉瓦製造株式会社上敷免工場専用鉄道線跡
 福川には、長さ約10.1mの鉄橋と、洪水に備えた長さ約22.0mの避溢橋が架けられました。鉄橋は、イギリス人技師ボーナルが設計した銅板桁(プレート・ガーダー)橋です。河川改修に伴って移設されましたが、ほぼ明治28年に創設された当時のまま残っており、日本に現存する最古のボーナル型プレート・ガーター橋です。また避溢橋は、5連の箱桁(ボックス・ガーダー)橋で、当時は木桁だったものが順次鉄になっていたようです。また、これより北の17号バイパス付近には、十二祖用水橋という長さ約3.3mの小さな鉄橋がありました。

福川鉄橋
深谷市指定文化財
昭和61年12月22日指定
 日本煉瓦製造株式会社専用線の福川に架設された鉄橋で、福川に架けられていたブレ―ト・ガーダー橋と、その北側の水田の中に造られていた5連のボックス・ガーダー橋からなっていました。プレート・ガーダー橋は、全長10.1mで、明治28年(1895)の建設当初の姿をほとんどそのままに伝えており、現存する日本最古のポーナル型プレート・ガーター橋です。
 ボックス・ガーダー橋は、全長22.9mで、洪水のときに福川から溢れた水の逃げ道をあけておくために設けられたものです。当初は木桁でしたが、順次鉄桁に変えていったようですポーナル型プレート・ガーダー橋は、イギリス人の鉄道技師、チャールズ・ポーナルの設計による鉄橋です。日本の近代産業革命期の明治28年から34年(1895~1901)に全国各地で建造されました。
 福川鉄橋は、日本の近代化を象徴する産業遺構として、極めて高い歴史的価値をもっています。
 深谷市 深谷市教育委員会

福川鉄橋

五連の福川避溢橋梁

福川

楡山神社

ちなみに福川橋梁の南近くには武蔵国延喜式内社「楡山神社」が鎮座している。
かつて2003年に武蔵国内の延喜式内社(=平安時代から信仰されている古社)を巡っていた頃に一度参拝したことがあり。今回が実に18年ぶりの参拝。

以下に2003年の参拝記録があるが、実にひどいもので、当時は「日本煉瓦製造の廃線跡」にさほどの興味も抱いていなかったようで。この記録の18年後に「廃線跡」を巡る記録を書いているのが実に皮肉めいている。

http://jinja-kikou.net/oosato.html#1

福川橋梁のある原郷は、深谷駅から2.5キロ。
あと1.5キロを進めば、煉瓦工場にたどり着く。

備前渠鉄橋

国指定重要文化財「日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設」の一部

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
工場の南には、江戸時代に開削された備前渠が流れ、イギリス人技師ボナールが設計した専用鉄道線最長(長さ15.7m)の鋼板桁(プレート・ガーター)橋、備前渠鉄橋が架けられました。
 また用水路には煉瓦アーチ橋が架けられています。これらは、旧煉瓦製造施設の一つとして、ホフマン輪窯6号窯、旧事務所、旧変電室とともに国重要文化財に指定されています。

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
備前渠鉄橋
  重要文化財(建造物)
  平成九年五月二十九日指定
 煉瓦輸送専用に架設された鉄橋である。
 操業当初からの輸送手段であった利根川船運は安定した輸送力に欠け、燃料や製品の輸送に度々問題が発生した。これを解決するため建設されたのが本専用線であり、明治二十八年、深谷駅との間で日本初の民間専用線として運用を開始した。
 専用線には四箇所の鉄橋が架設されているが、唐沢川、福川、備前渠には、当時の鉄道員技師、イギリス人チャールズ・アセトン・ボナールが基本定規を設計したI字形鋼板を橋桁とする「ボナール型プレート・ガーダー橋」が採用された。中でも本鉄橋は十五・七メートル(約五十フィート)と、専用線中最長の橋桁を有している。また分岐する用水路に架設された煉瓦アーチ橋は、長さ約二メートルと小規模ながら、完全な煉瓦構造と推定される貴重な構造物である。
 文化庁
 埼玉県教育委員会
 深谷市教育委員会

用水路に架かる煉瓦アーチ橋

備前渠に架かるボナール型プレート・ガーダー橋

備前渠用水路は埼玉県内最古の農業用水路。
慶長9年(1609)関東代官頭の伊奈備前守忠次によって計画されたことから「備前渠」と呼ばれている。「世界かんがい施設遺産」に登録。


日本煉瓦製造株式会社上敷免工場

日本煉瓦製造株式会社は、渋沢栄一が中心となって明治20年(1887年)に設立した、日本初の機械による煉瓦の大量生産が可能な工場。上敷免(じょうしきめん)に建設された。
のちに太平洋セメントの子会社となり、2006年に廃業。残されていた工場諸施設は深谷市に移譲され、専用鉄道跡とともに整備及び保存されている。
「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電所」が国指定重要文化財。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 渋沢栄一翁が中心となって明治20年に設立された日本煉瓦製造株式会社の上敷免工場では、日本で初めて機械による煉瓦の大量生産を行いました。約10万m2の広大な敷地をもち、明治40年ごろの最盛期には、6基の煉瓦窯が稼働しました。原料となる粘土(原土)は、周辺の畑地から採掘されてトロッコで工場まで運ばれ、採掘後の畑は、一段低くなって水田になりました。


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所明戸工場

昭和15年(1940)の組織改編によって、陸軍兵器廠の板橋火薬工場が「東京第二陸軍造兵廠」となり、隣の十条兵器工場が「東京第一陸軍造兵廠」となった。

埼玉県内には「大宮」「川越」「春日部」に東京第一陸軍造兵廠が置かれていた。
そして「深谷」には東京第二陸軍造兵廠が置かれた。これは板橋の疎開先としての設置であった。深谷には「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」があり、利根川の対岸の高崎には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」があったことから工場疎開先として都合が良かったとされる。
昭和18年11月より移転のための用地買収が開始。
もともとの「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」を「明戸工場」とし、日本煉瓦製造専用線沿線の幡羅地区に「深谷工場」(原郷工場)を建設。深谷駅南の櫛挽地区に「櫛挽工場」を建設。
用地買収の1年後となる昭和19年10月に「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所」が設立され、本部は現在の「深谷第一高等学校」の地に置かれた。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦。


造形が美しい。

国指定重要文化財
日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
日本煉瓦史料館

ホフマン輪窯は保存修理工事中のため、公開休止。2024年頃に再開予定。

門扉には日本煉瓦製造株式会社のシンボルマーク

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧事務所

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧事務所
  重要文化財(建造物)
  平成九年五月二十九日指定
 建物は明治二十一年頃の建設で、煉瓦製造施設の建造と煉瓦製造技術の指導に当たったナスチェンテス・チーゼ技師が住居兼工場建設事務所として使用したと伝えられている。地元の人々からは「教師館」「異人館」の名で呼ばれていた。
 日本煉瓦製造株式会社は、明治政府が計画した洋風建築による官庁街建設を推進するため、煉瓦を大量供給する民営工場として、渋沢栄一らが中心となって設立された。工場建設地は、当時政府に招かれていた建築技師ウィルヘルム・ベックマン、チーゼらのドイツ人技術者の指導により選定され、良質の原土を産出し、水運による東京への製品輸送が可能な現深谷市上敷免 新井に決定された。チーゼは娘クララと共に明治二十二年十二月に帰国するまでここで生活し、彼の帰国後は会社事務所として使用された。
  文化庁
  埼玉県教育委員会
  深谷市教育委員会

正面に掲げられた日本煉瓦製造株式会社のシンボルマークが美しい。

裏には記念碑がふたつ置かれていた。
レールはかつての専用線のものだろうか。

創立70周年記念
昭和32年10月25日
日本煉瓦製造株式会社

昭和32年10月25日創立70周年記念日に当り我社70年に渉る歴史と伝統とを回顧し又我社の今日を築いた先覚者の精神と業蹟とを想起すると共に今後益々社業の発展を期するものである。仍って茲に記念の為この記念碑を建立する。
 昭和33年4月20日
  日本煉瓦製造株式会社
   専務取締役 諸井貫一

創立100周年記念

我社は昭和62年10月25日創業百周年を迎えた。創業以来幾多の変遷と苦難を超えて一世紀に亘る歴史を築き上げた二世紀への節目に当り先人の偉業を偲び新たな歴史に挑戦する決意をもってここに記念碑を建立する。
 昭和63年10月25日
 日本煉瓦製造株式会社
 取締役社長 松尾芳樹

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧変電室

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧変電室
  重要文化財(建造物)
  平成九年五月二十九日指定
 明治三十九年頃の建造と言われている。室内には変電設備が設置されていた。
 日露戦争後の好景気による建築・土木事業の拡大がもたらした煉瓦需要の増加に対応するため、日本煉瓦製造株式会社は、設備投資の一環として電力の導入を開始した。諸産業への電力利用の普及もあり、従来より使用していた蒸気式原動機の電動機への転換に踏み切ったのである。
 明治三十九年八月、会社は高崎水力電気株式会社と契約を締結、電灯線を架設し、電動機を導入した。当時の深谷町に電灯が導入される一年前のことであり、先端技術を積極的に導入しようとする会社の姿勢をうかがうことができる。
 その設備自体はすでに失われているが、この建物だけが建造当時の姿をとどめている。当時の煉瓦業界の隆盛を物語る貴重な建物である。
  文化庁
  埼玉県教育委員会
  深谷市教育委員会

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
日本煉瓦史料館(旧事務所内)

何気なく積まれているのは、かつての線路のレール・・・?

旧事務所から旧変電室を望む。

渋沢青淵先生像(渋沢栄一胸像)

煉瓦に刻まれる製造工場の刻印は、時代とともに異なっていた。
明治期「上敷免」
大正期「日煉」
昭和期「日本」

写真は、場所は変わって「誠之堂」で販売されていた「煉瓦ペンダント」

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
ホフマン輪窯6号窯

保存修理工事中。見学再開は2024年予定。
ホフマン輪窯6号窯は明治40年(1907)の建造。この窯で焼かれた煉瓦が東京駅の建設にも用いられた。
ちなみに東京駅を設計した辰野金吾は、日本煉瓦製造株式会社上敷免工場の建設にも関わっていた。

深谷の散策は、まだまだ続きますが本編は一旦ここで〆


日本煉瓦製造の煉瓦を使用した建物


渋沢栄一関連

渋沢栄一像と深谷駅【渋沢栄一5】

渋沢栄一の出身地「深谷市」。
その深谷駅前に渋沢栄一像がある。

渋沢栄一像

青淵澁澤榮一像

青淵広場

碑文
正二位勲一等子爵澁澤栄一先生は、天保11年(1840)2月13日私達のまち深谷市大字血洗島に生まれました。
幼い時から読書を好み、家業を助け、少壮の頃は国事に奔走、慶應3年第15代将軍慶喜公の命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、諸事業を策定しました。
明治6年富国の道を求めて野に下り、わが国最初の銀行を創立し、続いて製紙・紡績・製鋼・造船・鉄道・ガス・電気・窯業等先進諸国が有する諸事業のすべてを創立あるいは援助育成しました。
一方、福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を創設してその運営に挺身、その他労資協調・国際親善に心を砕き、昭和6年11月11日、91年の生涯を閉じられました。
先生は常に道徳と経済の合一を説かれ、その思想を経営の基本とされました。
先生を追慕する私達は、朝夕その教えを守り、後世に余光の及ぶことを祈念してここにこの像を建立しました。
  建立 昭和63年3月吉日   青淵・澁澤栄一銅像建設協賛会

建立 1996年7月  澁澤栄一座像  田中 昭 作


深谷駅

関東の駅百選。
平成8年(1996)7月10日改築。
東京駅が深谷産の煉瓦を使用していることから東京駅を模して「ミニ東京駅」として改築された。
これは、東京駅・丸の内口駅舎の建築時、深谷に所在した「日本煉瓦製造株式会社」で製造された煉瓦が使用されたことにちなむ。

日本煉瓦製造株式会社は、渋沢栄一による設立。深谷駅から日本煉瓦製造工場まで、専用線が敷設されていた。

ようこそ!渋沢栄一のふるさと深谷市へ!

祝 渋沢栄一 一万円札に

ようこそ 青天のまち 深谷へ

コミュニティバスにも渋沢栄一が描かれていた。

ようこそ 大河ドラマ「青天を衝け」の舞台へ
渋沢栄一の生誕地 埼玉県深谷市

深谷市のマンホール、深谷市のキャラクターふっかちゃん


渋沢栄一からくり時計

深谷駅気前に設置されたからくり時計。
第一国立銀行をイメージした時計台。
7時~23時の定時になると、ふっかちゃんの下から、渋沢栄一翁が現れる。

日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化した1927年(昭和2年)に、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士が「万国児童親交会委員(世界児童親善会)」を設立し、アメリカから友情の証として「青い目の人形」が日本へ贈られた。そして、ギューリック博士と親交のあった渋沢栄一が中心となって「日本国際児童親善会」が呼びかけを行い、全国の役場や学校を通して集められた募金を元に製作された「市松人形」(答礼人形)がアメリカに送られた。

渋沢栄一からくり時計
 渋沢栄一(1840年~1931年)は維新後の急激な近代化を迎えた明治・大正期の日本を経済という舞台で支えた人物で、現深谷市の血洗島に生まれた。
 日本で初めての銀行である第一国立銀行の創立者。
 論語の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、生涯設立にかかわった会社はゆうに500を超える。
 日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化したときには、それをやわらげるためにお互いの国の人形を交換した。そのとき日本に送られたのが「青い目の人形」、その返礼としてアメリカに贈ったのが「市松人形」である。
 このからくり時計は、時計塔の部分は当時の第一国立銀行をイメージし、定刻になると「青い目の人形」と「市松人形」を持った栄一が現れ、時刻を知らせる仕掛けとなっている。また、時計はソーラーエネルギーを使っている。
平成24年2月
 深谷市(渋沢栄一没後80年記念事業) 
 深谷ロータリークラブ(深谷ロータリークラブ創立50周年記念事業)

ふだんは、ふっかちゃんが回っている。

定刻になると、下から渋沢栄一翁が登場。ふっかちゃんは上に押し出される。
童謡「青い眼の人形」が流れる。

青い目の人形と市松人形を手にした渋沢栄一翁。

https://www.shibusawa.or.jp/museum/newsletter/302.html


あかね通りにかかる歩道橋。
あかね通りは、日本煉瓦製造専用鉄道線跡の遊歩道。
日本煉瓦製造に関しては別記事にて。。。


渋沢栄一関連

「日本最初の銀行」渋沢栄一と兜町【渋沢栄一4】

兜町には、渋沢栄一が設立した「日本最初の銀行」、そして渋沢栄一が発起人を努めた「日本最初の証券」、そして隣の茅場町には同じく渋沢栄一が関係した「日本最初の電力発電」があった。


銀行としては四代目の建物。

銀行発祥の地

銀行発祥の地
この地は明治6年6月11日(1873年)わが国最初の銀行である第一国立銀行が創立されたところであります
 昭和38年6月建立

第一国立銀行

明治5年(1872)、国立銀行条例が制定。
明治6年(1873)に渋沢栄一によって創設された日本最初の銀行。民間資本民間経営の銀行であったが、国立銀行条例により発券機能等を有していた。
明治15年(1882)、日本銀行条例により国立の日本銀行が設立。国立銀行条例による営業免許期間終了に伴い、明治29年(1896)に一般銀行に改組し「第一銀行」となる。
昭和18年(1943)、太平洋戦争戦時下の国策により三井銀行と合併し「帝国銀行」となるが、戦後の昭和23年(1948)には再度分割し「第一銀行」として再建。
昭和46年(1971)に日本勧業銀行と合併し「第一勧業銀行」。そして第一勧業銀行は、現在の「みずほ銀行」の流れにつながる。

第一国立銀行(第一銀行)」は、日本最初の銀行として、統一金融機関コード「0001」を保有。この0001も「みずほ銀行」が継承をしている。

また、「第一国立銀行」は日本最初の株式会社でもあり、東京株式取引所創設時より上場している。

第一国立銀行が創業した地には、「みずほ銀行兜町支店」がある。

「みずほ銀行兜町支店」の壁面には、「兜町歴史地図」と「渋沢栄一と建物の歴史」が掲載されていた。
(以下、クリックで拡大可)

銀行発祥の地
渋沢栄一翁
渋沢栄一翁は幕末の慶応3(1867)年に渡欧し、最先端の経済制度や科学技術を学びました。帰国後はその知識を活かし、明治政府において新生日本の基盤となる制度作りに力を発揮しました。その後実業界に転じ、生涯を通じて約500にものぼる株式会社の設立・育成を行うとともに、学校や病院など約600の社会・公共事業の育成・推進にも力を注ぎ、近代日本社会・経済の基礎作りに大きな貢献をしました。
中でも、渋沢翁が中心となって明治6(1873)年にこの場所に開業した「第一国立銀行」は、日本最初の近代的な銀行として有名です。この地周辺にはその後日本で最初の株式取引所(現東京証券取引所)や数多くの会社が次々と設立され、兜町は日本経済の中心地として発展していきました。

初代建物(第一国立銀行)
日本最初の近代的な銀行である「第一国立銀行」(現みずほ銀行)は、明治6(1873)年にこの場所で誕生しましたが、その本店として使用されたのが明治5(1872)年に竣工した写真の建物です。
日本初となる銀行建築を請け負った清水組(現清水建設)二代清水喜助は、外国人の手を借りず、設計施工すべてを自分達で手掛けました。木骨石造、ベランダ、日本屋根、塔を組み合わせた和洋折衷の建物は、擬洋風建築の最高峰といわれ錦絵にも度々描かれた東京の名所でした。

設計者 二代目清水喜助(1815-1881)
文化12(1815)年富山生まれ。
生地井波は宮大工輩出の地として知られ、幼少期から社寺建築に親しむ環境の中で育ち、大工となりました。近郷出身の清水組創始者初代清水喜助を頼り江戸に出て、幕末には横浜開港に伴う幕府御用の工事を手がけて事業を大きく発展させ、近代建設業の基礎を整えました。
本建物の他、我が国初の大規模和洋折衷建築と言われる築地の外国人旅館(通称築地ホテル)など彼の作った建物は、明治初期に全国各地に建設された擬洋風建築に大きな影響を与えました。

二代目建物
国立銀行制度の終了に伴い、明治29(1896)年第一国立銀行は株式会社第一銀行となりましたが、その本店の二代目建物として明治35(1902)年に竣工したのが写真の建物です。
後に東京駅舎で有名となる辰野金吾の設計によるもので、外壁は石造ですが鉄棒で補強し、床は耐火構造、シャッター、消火栓等、当時としては最新の防災設備を備えていました。
大正12(1923)年の関東大震災では、地域全体に広がった火災により大きな被害を受けましたが、建物自体は堅牢な作りで崩壊を免れ、その後も使われ続けました。

設計者 辰野金吾(1854-1919)
嘉永7(1854)年佐賀生まれ。
明治6(1873)年工学部工学寮(後の工部大学校、現在の東京大学工学部)に第一回生として入学。同校造家学科を首席で卒業後、官費留学生として英国に留学しました。帰国後は工部大学校の教授に就任し、後には帝国大学工科大学学長や建築学会会長などの要職に就きました。
建物の重圧で堅牢なイメージから「辰野堅固」とも言われたという彼の作品には、日本銀行本店や東京駅駅舎など、現在でも重要文化財などに指定されて残っているものが多数あります。

三代目建物
二代目建物は、昭和5(1930)年に第一銀行本店が当地から丸の内に移転した後も、同行の兜町支店として使われていましたが、その役割は昭和11(1936)年に三代目となる写真の建物に引継がれました。鉄骨鉄筋コンクリート造の建物は、銀行・証券会社の立ち並ぶ兜町の中でもひと際目立つ堂々とした風格を備えていました。 その後昭和51(1976)年に、第一国立銀行以来四代目となる現在の建物が建てられ、現在もみずほ銀行の兜町支店として百数十年に亘る歴史を繋いでいます。

設計者 西村好時(1886-1961)
明治19(1886)年横浜生まれ。
明治45(1912)年東京帝国大学建築学科を卒業後、曽根・中条事務所を経て清水組に入社。後に第一銀行に転出し、同行の丸の内本店をはじめ数多くの銀行建物にその設計・実務手腕をふるいました。
意匠のみならず最新設備にも精通した「銀行建築のエキスパート」として知られ、後の施設計画学にも大きな足跡を残しています。

兜町ビルの歴史
-銀行発祥の地-
https://www.seiwa-building.co.jp/bank-birthplace/building.html

清和綜合建物

https://goo.gl/maps/xXYbW6yqnTCprPnf8

「銀行発祥の地」の突き当りに「日証館」がある。
当時、渋沢栄一邸は、日証館の地にあった。

証券会社のビルが林立する。

フィリップ証券の建物は昭和10年。

山二証券のビルは昭和11年という。


兜神社

明治11年(1878)、渋沢栄一らが発起人となり、東京株式取引所(現・東京証券取引所)が設立。東京株式取引所設立とともに関係者によって創建された。

御祭神:倉稲魂命
明治十一年ここ兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるに当たり、同年五月取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営した。
御社殿に奉安してある「倉稲魂命」の御神号は時の太政大臣三條實美公の揮毫になるものである。
当社は御鎮座後一度換地が行われたが、昭和二年(1927年)再度換地を行ない、兜橋々畔の現在地約六十二坪(役205平方米)を卜して同年六月御遷座を行ない、鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。
昭和四十四年(1969年)五月高速道路の建設に伴い御影石造りの鳥居を残して旧社殿を解体し、同四十六年(1971年)三月現在の鉄筋コンクリート・一間社流造・向拝付きの社殿を造営した。
屋根は銅板葺とし玉垣・参道敷石などは御影石をもちいた。

兜神社の由来となった兜岩。
鎧岩は、前九年の役(1051~1062)のころ、源義家が東征の際に、この岩に兜を掛けて戦勝祈願したことに由来という。
「兜町」の町名由来でもある。

https://goo.gl/maps/LHcqmpgpSyarKKxQA

兜神社の隣は、日証館

日証館

明治21年(1888)に、辰野金吾が設計した渋沢栄一邸がこの地に完成。明治34年(1901)に渋沢栄一は飛鳥山に移り住んだ後は、渋沢事務所としても使用。
大正12年(1923)に渋沢事務所は関東大震災で全焼。
渋沢事務所・渋沢邸跡地に昭和3年(1928)に、「日証館」が建設された。当時の姿を活かしながらリノベーションされ現在も多くの証券会社が入居するビルとして活用されている。

https://goo.gl/maps/XvkmKS2TUEGkEfur5

左手には、東京証券取引所。右手には日証館

東京証券取引所(証券取引発祥の地)

明治11年(1878)6月1日。
東京株式取引所が創立し兜町にあった第一国立銀行の所有を購入して営業開始。渋沢栄一も東京株式取引所発起人に名前を連ねていた。
7月15日、日本初の上場株式として東京株式取引所の売買が開始。
9月、渋沢栄一の第一国立銀行(現みずほ銀行・旧第一勧業銀行)株式が上場。第一国立銀行は日本最初の株式会社であった。

昭和18年(1943)6月、戦時統制機関改編。日本証券取引所に統合。
日本証券取引所は、戦後にGHQにより活動禁止となり昭和22年に解散。
昭和24年(1949)、東京証券取引所設立。

日本橋兜町の歴史・史跡

https://www.heiwa-net.co.jp/urban_development/history.html

平和不動産株式会社

https://goo.gl/maps/kE62zxJp7cReEA5C8


以下は、渋沢栄一とは、あまり関係ない史跡。
発祥の地でしたので、興味深く。

郵便発祥の地

日本橋郵便局が、日本の郵便発祥の地、であったという。
この界隈は、銀行と証券と郵便が始まったエリアでもあったのだ。

郵便発祥の地
ここは、明治4年3月1日(1871年4月20日)
わが国に新式郵便制度が発足したとき駅逓司と東京の郵便役所が置かれたところです。

前島密先生
郵便発祥の地

前島密の胸像は昭和12年、会田富康の作。

前島男爵ノ命ニ依リ密翁之像ヲ補綴改鋳ス
昭和十二年三月 會田富康

多羅葉(たらよう)
はがきの木


「葉書」の由来は、この木から・・・
 肉厚の葉の裏側をとがったもので書きつけると、茶色に変色してくっきり文字が浮あがります。
 古代インドで手紙や文章を書くのに用いた多羅葉の葉になぞらえてその名がつけられました。
 この木は、郵便局のシンボルツリーとして植えられています。

https://goo.gl/maps/etp4NX6xUnBoD9686


電燈供給発祥の地

茅場町のビジネスホテルの手前に、記念碑があった。
この地から、日本で最初の電力送電が行われたのだ。

東京電燈株式会社設立を出願した渋沢栄一・大倉喜八郎らの手によって、明治16年に設立。
明治20年(1887)に日本橋茅場町から第二電燈局が小規模火力発電で電気の送電(架空配電による最初の電燈供給)を開始。

電燈供給発祥の地
 明治20年(西暦1887年) 11月21日東京電燈会社がこの地にわが国初の発電所を建設し、 同月29日から付近の日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などのお客様に電燈の供給を開始いたしました。
 これが、わが国における配電線による最初の電燈供給でありまして、その発電設備は直立汽缶と、30 馬力の横置汽機を据付け、20キロワットエジソン式直流発電機1台を運転したもので、配電方式は電圧 210ボルト直流三線式でありました。

電気ゆかりの地を訪ねて
日本初の配電線による電灯供給
第2電燈局

http://kandenkyo.jp/pdf/yukari%20vol6.pdf

日本電気協会 関東電気協会

https://goo.gl/maps/9MHb5c8PB2TkCy9V8


海運橋親柱

第一国立銀行の脇には楓川という川が流れており、海運橋が掛けられていたが、現在は埋め立てられている。当時の名残の親橋が近くに残されている。

海運橋親柱
所在地 中央区日本橋一ー二十先
 日本橋兜町三先
 海運橋は、楓川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監忠勝の屋敷が置かれたので、将監橋とか海賊橋と呼ばれていました。御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆ともいっていたためです。
 橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、同八年に、長さ八間(約十五メートル)、幅六間(約十一メートル)のアーチ型の石橋に架け替えられました。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。
 石橋は、関東大震災で破損し、昭和二年鉄橋に架け替えられました。このとき、二基の石橋の親柱が記念として残されました。鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和三十七年撤去されましたが、この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。
 平成六年三月
  中央区教育委員会

海運橋
紀元2535年=明治8年=1875年

楓川は埋め立てられ、その楓川の上を首都高速が走っている。
海運橋は、この方向に首都高の下に架かっていた。

https://goo.gl/maps/QpgZigvtBggSUSV7A


渋沢栄一関連

渋沢栄一像と日本銀行【渋沢栄一3】

日本橋界隈の渋沢栄一関連を散策してみる。

常盤橋公園(常磐橋)

常盤橋公園は、江戸城の城門の一つ常盤橋門があったところ。

昭和8年(1933)に財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われた公園。令和3年現在、工事のため閉鎖中。2021年度中に一部を暫定開放予定。

明治10年(1877年)に再建された2連アーチ石橋が残る。経年劣化と東日本大震災による被害のために全面的な修復工事が行われている。

公園の名前は、「常盤橋公園」
石橋は「常磐橋」
下流には「常盤橋」
上流には「新常盤橋」
磐と盤がややこしい。


渋沢栄一像(常盤橋公園)

工事中の常盤橋公園のなかで、渋沢栄一像の一角のみ開放されている。

渋沢栄一像は、日本で初めて設立された銀行「第一国立銀行」(日本銀行ではなく)の方向を向いているという。

青淵澁澤榮一

 青淵澁澤榮一翁は、天保十一年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり、後轉じて幕臣となって、慶應三年歐州に赴き、民主主義自由主義を知る機會を得た。
 歸朝後大蔵省に仕官して諸制度の改革に當ったが、明治六年退官し、同年創立された第一國立銀行の頭取となり、爾来産業経濟の指導者成りに任じ開與した會社五百、常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實錢し我が國運の發展に偉大な貢獻をした。
 また、東京市養育院等社會事業の助成、一橋大學・日本女子大學等實業及び女子教育の育成、協調會等による勞資の協調、日華日米親善等世界平和の促進、道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し、昭和六年十一月十一日に逝去した。
 翁の没後、財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が、昭和八年此処に銅像を建立したが、第二次世界大戦中金属供出のために撤去された。
 然るにこのたび、銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって、再び朝倉丈夫氏に製作を委託しこの位置にこの銅像を建て、東京都に寄附したのである。
  昭和三十年十一月 澁澤青淵記念財團龍門社

昭和8年11月11日
財團法人澁澤青淵翁記念會建之

場所

https://goo.gl/maps/2SjJoNKm8PrTUNbX6


常盤橋

日本場川に架かる橋。上流は石橋の常磐橋。左手には渋沢栄一像、右手には日本銀行本館。

常盤橋
昭和元年11月完成

渋沢栄一像

日本銀行本館

日本橋川の上流には石橋二連の「常磐橋」

渋沢栄一・渋沢敬三と日本銀行

明治5年(1872)、国立銀行条例が制定。
明治9年(1876)、国立銀行条例全面改正。不換紙幣の発行を認めたことが一因となって、インフレが進行する。
明治14年(1881)、大蔵卿松方正義は不換紙幣の整理と中央銀行の創立をめざす建議を三条太政大臣宛に提出。大蔵卿松方正義により日本銀行創設へ。
明治15年(1882)、日本銀行条例により日本銀行が設立。第一国立銀行頭取であった渋沢栄一は割引手形審査のための日本銀行割引委員に就任。

渋沢栄一は、明治6年(1873)に日本最初の銀行「第一国立銀行」を創設。民間資本の民間経営の株式会社であったが、国立銀行条例による発券機能等を有していた。

渋沢栄一の孫である渋沢敬三は、昭和17年(1942)に日本銀行副総裁、そして昭和19年(1944)には第16代日本銀行総裁に就任している。就任は昭和19年3月18日であり、戦前最後の日本銀行総裁であった。幣原喜重郎内閣の大蔵大臣就任のために、昭和20年10月9日に日本銀行総裁を辞任している。

日本銀行本店本館

ベルギー国立銀行を参考に明治29年(1896)2月竣工。設計は辰野金吾。
明治24年(1891)に発生した濃尾地震の教訓から、高橋是清の指示で建物上部を軽量化し耐震性を高めており、2階3階は煉瓦造石貼り建築。
1974年2月5日に国の重要文化財に指定。

日本銀行本店別館

辰野金吾の弟子・長野宇平治の設計。昭和13年(1938)竣工。なお、長野宇平治は日本銀行本店別館の完成前の昭和12年に死去している。

本館の隣に別館が増築されている。

場所

https://goo.gl/maps/e93utY2d91aThXtw5


日本銀行創業の地

ちなみに、「日本銀行創業の地」は中央区日本橋箱崎にある。隅田川と日本橋川が合流する箱崎の地で創業し14年後に現在地に移転した、とのことで。
現在の日本IBM本社近く。

日本銀行創業の地
 明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
 明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
 創業百周年を記念してこの碑を建てる
      昭和五十七年十月
         日本銀行総裁  前川春雄

場所

https://goo.gl/maps/ncwXnUADuhVYrJy6A


渋沢栄一関連記事

「日本の福祉・医療の原点」養育院と渋沢栄一【渋沢栄一2】


渋沢栄一銅像

板橋区登録有形文化財
渋沢栄一銅像

初代養育院院長として渋沢栄一は50年以上養育院に関与し、他の職を辞することはあっても、養育院の運営には最後まで関与し続けた。

明治5年(1872)に、本郷の旧加賀藩邸の長屋を利用して養育院の仮施設が造られ、翌明治6年に上野に養育院本院を設置。維新後に急増した窮民収容保護のため、東京府知事大久保一翁(大久保忠寛)の「救貧三策」の一策であった。
養育院本院は、上野、神田、本所、大塚などを転々とし、関東大震災後に板橋に移転。
渋沢栄一は、大久保一翁東京府知事より、共有金の取り締まりを依頼され、養育院に関与。財政基盤が定まらない中で、渋沢栄一は初代・養育院院長として必死に寄金を集め、養育院の維持に努力。
関東大震災後に養育院本院が板橋に引っ越しし一段落した大正14年に、養育院常設委員会(委員長は東京市長)は市民の寄付金による渋沢栄一養育院院長の銅像建設を計画。
「養育院の構内に、百年の後も永久にこれを守護せんとする渋沢栄一子爵の魂魄ための定住所」という設立理由に渋沢栄一も銅像制作を承諾。

大正14年(1925)11月15日、本院完成にあわせて建立、小倉右一郎作の渋沢栄一像は、高さ4.3メートル、方5.4メートルの花崗岩台座に、高さ3.75メートル、重量1.8トンの青銅製銅像。フロックコート姿でソファーに座っている姿となる。
銅像の完成時には、渋沢栄一本人も出席して除幕式が執り行われた。

昭和20年(1945)、戦時中の金属供出によってコンクリート像に作り変えられ、銅像本体は供出予定で地上に降ろされるも、4月の板橋空襲で養育院は9割が焼失、107名の犠牲が出る中で、渋沢栄一銅像は焼け残った。そのまま運搬手段などが無くなったために渋沢栄一銅像は供出を逃れ、戦後に修復された。

旧養育院長渋沢栄一銅像
 日本の福祉・医療の原点である「養育院」は、明治5年(1872)に設立されました。渋沢栄一は明治7年以来その運営に関与し、養育院長として半世紀を超えて中心的な役割を果たしました。その偉業を顕彰するため、まだ存命中の大正14年(1925)、幅広い東京市民の醵金により建てられたのがこの銅像です。
 帝展・文展の審査員も努めた彫刻家、小倉右一郎の制作で、高さ16尺(4.3m)、方20尺(5.4m)の花崗岩の台座に、高さ10尺(3.75m)、重量480貫(1.8t)の青銅で造られています。フロックコートをまといソファーに座る晩年の姿を映しています。
 また、昭和18年(1943)金属供出のためにコンクリート製の代替像が作られ、本体は敷地の一隅に置かれて供出作業を待っていましたが、輸送の為の交通事情、都内空襲などで回収作業ができず、昭和20年4月13日の板橋地区の空襲にも焼け残り、供出されないままに昭和20年8月15日の終戦を迎えました。
 昭和32年に、作者・小倉右一郎の監修のもとに修築され、その後3回の敷地内移設を経て現状に至ってます。
 大正年間の養育院に関する造形物であり、板橋区の近代化の歴史を語る重要な史料となっています。平成26年(2014)3月に板橋区の登録文化財(歴史資料)となりました。
 平成26年12月 板橋区教育委員会

子爵渋沢栄一像

大正14年11月
小倉右一郎

大正14年11月建設寄附
澁澤養育院長銅像建設會
理事
會長 中村是公 
(以下略)

中村是公は関東大震災後の復興に取り組んだ第9代東京市長。
渋谷区広尾3丁目の旧中村是公邸(旧羽澤ガーデン)は有名であった。2011年に再開発で消失。


養育院本院

養育院本院の跡。
「養育院本院」の字は渋沢栄一の墨蹟

養育院本院の碑
 養育院は、昭和5(1871)年10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諸問に対し経営会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京芸大)、神田、本所大塚など東京市内を転々としたが、関東大震災後、現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(江戸幕府の松平定信によって創設された七分積金が明治維新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治7年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。特に第二次世界大戦後は、自動の保護や身寄りのない高齢者の養護、さらに高齢者の福祉・医療・研究、看護師の養成など時代の要請に応じて様々な事業を展開した。
 平成11年12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の膜を閉じたが、養育院が行ってきた事業はかたちをかえて現在も引き継がれている。
 養育院に関連する碑は、ほかに養育院の物故者中、引取人のいない遺骨を埋葬、回向をお願いした東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園にある。
 なお、碑の「養育院本院」は渋沢栄一の墨蹟を刻んだものである。
  平成25(2013)年3月 養育院を語り継ぐ会

この碑は元養育院職員当の篤志によって建てられました。
 地王独立行政法人 東京都健康長寿医療センター

養育院に関しては、以下に詳しい。

地方独立行政法人 
東京都健康長寿医療センター

養育院は、現在「東京都健康長寿医療センター」となっている。

https://www.tmghig.jp/hospital/about/history/

ようこそ 養育院・渋沢記念コーナーへ

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/guide.pdf

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/shibusawacorner2014.pdf

櫻園通信平成25年度発行

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/ouen_1-9.pdf


東京都健康長寿医療センター、かつての養育院を見つめる渋沢栄一像


谷中に養育院関連の慰霊碑が2つある。

養育院者故者の墓
義葬之冡(大雄寺)

台東区谷中の大雄寺では、養育院創設当初の物故者中、引取人のない遺骨の埋葬、回向を行っていた。
明治6年(1873)中の埋葬者は100名と伝えられ、寺内の一角に「義葬之冡」がある。この「義葬之冡」は養育院創立当時の唯一の遺構という。

養育院義葬の冡
 養育院は、明治5年(1872)10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原始資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治7年(1874)から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年(1879)には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成11年(1999)12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の幕を閉じた。
 ここ大雄寺には、養育院創設当初の物故者中、引取人のない遺骨の埋葬、回向をお願いしたものである。明治6年(1873)中の埋葬者は100名と伝えられ、寺内の一角に義葬之冡がある。この義葬之冡は養育院創立当時の唯一の遺構である。
 なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多磨霊園がある。
 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
  平成22年(2010)4月 
   養育院を語り継ぐ会

義葬之冡  明治6年癸酉

幕末三舟の一人、高橋泥舟墓の墓も大雄寺にある。


養育院者故者の墓
東京都養育院慰霊碑・了俒寺

谷中霊園の隣、了俒寺(りょうごんじ)の飛地にあたる了俒寺墓地に「東京都養育院慰霊碑」がある。了俒寺の境内ではなく、谷中霊園側となるので要注意。私は場所がわからなかったので、了俒寺の御人に案内していただきました。

東京都養育院慰霊碑
 養育院は、明治五年(1872)十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事・大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関るようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史に幕を閉じた。
 ここ了俒寺の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬、回向を御願いしたものであり、明治六年末から大正二年に至る埋葬者は三千七百六十二名である。
 なお、養育院物故者の墓は、ほかに東京都台東区谷中の大雄寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園がある。

 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。

 平成二十二年(2010)四月
             養育院を語り継ぐ会
この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                          了俒寺

慰霊碑
明治6年末から
大正2年12月まで
3762名
 合葬
東京都養育院

養育院義葬之墓
明治12年3月建之

東京市養育院義葬

明治から大正にかけての合葬墓、義葬墓が5つ並んでいる。

場所は、谷中霊園の甲3号5側の隣。

谷中霊園には渋沢栄一墓もあるがそれは別記事にて。

谷中霊園の一角に、了俒寺墓地の隣に養育院慰霊碑の敷地がある。

谷中7丁目に、了俒寺がある。

突き当りの白い壁が了俒寺。左手に谷中霊園側の了俒寺墓地がある。


養育院合葬冢・多磨霊園

多磨霊園にて拝してきました。(※2021年9月)
場所は、5区の無縁墓地エリア。

東京市養育院合葬冢

歸入無為楽

昭和五年三月 成

養育院合葬冢
 養育院は、明治五(千八百七十二)年十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史の幕を閉じた。
 ここ多磨霊園には、昭和八年以降、養育院の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬し、現在も供養をしている。
 なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺及び栃木県那須塩原市の妙雲寺がある。

 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
   平成二十二(二千十)年四月 養育院を語り継ぐ会

 この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                   東京都福祉保健局

 ここ多磨霊園には、この碑文にある養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)があります。

裏には、墓標が5つ、並んでおりました。
明治・大正・昭和にかけて合葬されてきた証。

場所

https://goo.gl/maps/ykwnFSMRFTJh2xre7


大久保一翁墓

多磨霊園には、養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)もあるので拝してきた。

大久保忠寛
幕臣、のちに東京府第五代知事を務める。養育院創立時の東京府知事。養育院の設立を行い、運営を渋沢栄一に委任した。

大久保氏墓
一翁忠寛之墓

勝海舟の書、という。


栃木県那須塩原市の妙雲寺にあるという養育院者故者の墓は、訪れる機会があれば、アップデートします。


渋沢栄一関連

晩香廬と青淵文庫(渋沢栄一旧邸・曖依村荘跡)【渋沢栄一1】

2024年度発行予定の1万円新紙幣の顔、そして2021年の大河ドラマの主人公でもある渋沢栄一の邸宅は飛鳥山にあった。


渋沢栄一

日本近代経済の父、日本資本主義の父、と称される。
1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)
旧幕臣、官僚、実業家。正二位勲一等子爵。雅号は青淵。

第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所、東京株式取引所を初めとし、500を超える企業や経済団体の設立・経営に関わる。
社会福祉事業、病院医療、実業教育、女子教育、私立学校等の設立、運営、支援等、700を超える社会事業にも尽力。

実業家としては、みずほ銀行・りそな銀行・埼玉りそな銀行・王子ホールディングス・東京ガス・IHI・いすゞ自動車・立飛ホールディングス・大日本印刷・日本経済新聞・東京海上日動火災保険・東日本旅客鉄道・日本郵船・東京電力ホールディングス・東洋紡・太平洋セメント・キリンホールディングス・清水建設・日産化学・東京製綱・帝国ホテル・サッポロホールディングス・アサヒグループホールディングス・大成建設・古河グループ(古河機械金属・古河電気工業・富士通・富士電機・横浜ゴム)・オーベクス・大日本明治製糖・川崎重工業・住友重機械工業・東京建物・京阪ホールディングス・東宝・東京会館・ニッピなど、500以上に及ぶ企業の設立や運営に関わる。

教育面では、一橋大学・東京経済大学・東京女学館・日本女子大学・同志社・早稲田大学・高千穂大学・二松学舎・国士館大などに関与。

昭和6年(1931年)11月11日死去。享年91歳。
法名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。墓所は谷中霊園渋沢家墓地。


渋沢史料館

「飛鳥山3つの博物館」のひとつに、「渋沢史料館」がある。史料館本館とは別に、渋沢栄一の旧邸として大正期に建立され国指定重要文化財に登録されている建物が2棟ある。

  • 1878年(明治11年)
     渋沢栄一が飛鳥山に別荘「曖依村荘(あいいそんそう)」を設ける。
  • 1901年(明治34年)
     本邸を飛鳥山に移す
  • 1917年(大正6年)
     晩香廬竣工
  • 1925年(大正14年)
     青淵文庫竣工
  • 1931年(昭和6年)
     11月11日 渋沢栄一死去。
     旧渋沢邸は栄一門下生が結成した竜門社に遺贈される
  • 1945年(昭和20年)
     4月13日 太平洋戦争時の空襲により建物の大部分を焼失
  • 1946年(昭和21年)
     財団名を渋沢青淵記念財団竜門社に改称
  • 1982年(昭和57年)
     渋沢史料館開館
  • 1998年(平成10年)
     3月 本館新築開館
  • 2003年(平成15年)
     11月 財団名を渋沢栄一記念財団に改称
  • 2019年(令和元年)
     9月1日 渋沢史料館休館
  • 2020年(令和2年)
     11月19日 渋沢史料館リニューアルオープン

青淵文庫

大正14年(1925)竣工。重要文化財(旧渋沢家飛鳥山邸)

後日、撮影をやり直しました。。。季節が変わると見え方も変わりますね。

旧渋沢庭園
開演時間のお知らせ
開演時間 3月1日~11月30日 9:00から16:30まで
     12月1日~2月末日 9:00から16:00まで
(以下略)

ようこそ旧渋沢庭園へ
曖依村荘跡
 飛鳥山公園の一角は、渋沢栄一が1879(明治12)年から亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは別荘として、後には本邸として住まいした「曖依村荘(あいいそんそう)」跡です。約28,000㎡の敷地に、日本館と西洋館をつないだ主屋の他にも色々な建物が建っていました。住居等主要部分は1945(昭和20)年4月の空襲で消失しましたが、大正期の小建築として貴重な「晩香廬」と「青淵文庫」が、昔の面影をとどめる庭園の一部ともに、よく保存されています。

渋沢史料館
 渋沢栄一の1840(天保11)年から1931年(昭和6)年の91年におよぶ生涯と、携わったさまざまな事業、多くの人々との交流等を示す諸資料を渋沢史料館にて展示しております。

国指定重要文化財
晩香廬
青淵文庫

国指定重要文化財
旧渋沢家飛鳥山邸
青淵文庫
 所在地    北区西ヶ原2-16-1
 設計者    中村田辺建築事務所・田辺淳吉
 建築年    1925(大正14)年
 指定年月日 2005(平成17)年12月27日

 渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。
 外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。
 財団法人 渋沢栄一記念財団

上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれている。

「寿」の字。

露台下より出土した「まぐさ」
露台基礎

晩香廬(ばんこうろ)

国指定重要文化財
旧渋沢家飛鳥山邸
晩香盧
 所在地    北区西ヶ原2-16-1
 設計者    田辺淳吉(清水組技師長)
 建築年    1917(大正6)年
 指定年月日 2005(平成17)年12月27日
 
 近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設(株))の清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。
 建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。
応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。
 財団法人 渋沢栄一記念財団

渋沢栄一像

この像は、兜町の第一銀行本店中庭にあった。

後日、撮影をやり直しました。
足場もいつの間にかしっかりと。

山形亭跡

山形亭跡
丸芝をはさんで本邸・西洋館と対した築山にあった亭です。
「六角堂」とも呼ばれていました。この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした帽子のような屋根を支えていたところから付けられたようです。西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています。

兜稲荷神社跡
 日本橋兜町の第一銀行内にあった洋風の珍しい社です。1897(明治30)年の第一銀行改築時に現在地に移築されました。その後、1966(昭和41)年に破損が激しく、危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や灯籠等は現在まで残されています。この社は、最初、三井組の為換座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。その後兜社は、為換座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれたのです。

茶席門跡
茶席「無心庵」へ向かう途中に設けられていたいくつかの茶席門の一つです。この門をくぐってすぐに水の流れがありました。流れに架かる石橋を渡り、飛び石をたどっていくと、途中左手に「茶席待合」、さらにその奥に「無心庵」がありました。これらは、1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいましたが、当時の跡をたどることができます。

茶席待合跡
 茶席「無心庵」への途中にあった待合です。腰を下ろすだけの簡素なものですが、気持ちを落ちつけ、茶席へ誘う重要な役割を担っていました。現在は、軒下の踏石をはじめとして、礎石などがほとんど当時の形で残されています。

無心庵跡
茶室「無心庵」
設計は茶人としても有名な益田孝の弟、克徳と柏木貨一郎と言われています。
京都裏千家の茶室などを参考にして1899(明治32)年に建てられました。
栄一は、徳川慶喜の名誉回復を図るため、慶喜と伊藤博文等をこの茶室で対面させたという逸話が残されています。
無心庵には茶室のほかに広間も設けられ、伝統的なものの中に、新しい時代の茶席をも感じさせるものがあったようです。
縁先には石製の手水鉢が置かれていましたが、こうした静かなたたずまいも1945(昭和20)年4月13日の空襲で焼失してしまいました。

邀月台(ようげきだい)
無心庵の東側に切り立つ崖の斜面には、月見台がしつらえてありました。
当時、ここからは、栄一が誘致した王子製紙の工場が眼下に見え、荒川方面まで続く田んぼの先には、遠く国府台の台地や、さらにその北には、筑波山の勇姿を望むこともできたといいます。

飛鳥山は近いので、また再訪します。


渋沢栄一関連


関連

順次追加。。。

荒川遊園煉瓦塀(荒川区)

都内唯一の区営遊園地「あらかわ遊園」。
「あらかわ遊園」のあった地は、明治から大正にかけて「煉瓦工場」があった場所でもあり。煉瓦工場から遊園地へと姿を変えた界隈を散策してみました。


荒川遊園煉瓦塀

明治期の隅田川河畔の、このエリアには煉瓦に適した土が採れたということと、船便・交通の便が良かったということから4つの煉瓦工場が立ち並んでいたという。
明治5年(1872)に、石神仲衛門によって、現在のあらかわ遊園のある場所に煉瓦工場が造営。
明治28年(1895)に、広岡勘兵衛(広岡幾次郎)に経営が譲渡され、広岡煉瓦工場となる。煉瓦塀が残っている場所は、広岡煉瓦工場で造られた煉瓦を干す場所だったという。
大正11年(1922)に、広岡勘兵衛は失火により操業を停止した煉瓦工場を閉鎖。荒川遊園を開園。その時に、工場にあった煉瓦で荒川遊園を囲う塀を造営したのが、今も残る煉瓦塀である。
大正12年の関東大震災での被害は少なく逐次拡充していくも、広岡勘兵衛没後の昭和初期の不景気により経営悪化。
昭和7年に遊園地の経営は王子電気軌道の手に委ねられるも、第二次世界大戦により休園。昭和16年には園内には高射砲陣地が置かれた。
昭和18年には王子電気軌道は戦時下の企業整備により東京市に事業譲渡。王子電気軌道株式会社は清算。軌道事業は東京市電となる。(現在の都電荒川線)
戦後、荒廃していた遊園地を荒川区が再整備し、昭和25年に荒川区立遊園地として開業させ、現在の「あらかわ遊園」となる。

荒川区登録有形文化財(建造物)
荒川遊園煉瓦塀
 この煉瓦塀は、荒川遊園を取り囲んでいた塀の一部です。南端には一対あった門柱の片方が残っています。煉瓦の積み方は、煉瓦の小口を見せる小口積みと、長手を見せる長手積みとを一段おきに繰り返し積む「イギリス積み」です。古老の手記によると、大正11年(1922)、荒川遊園が開園した時に木の塀から煉瓦塀に改修されたといいます。
 かつて尾久地区の隅田川沿いには、材料の土が入手し易く、船運の便が良かったため、いくつもの煉瓦工場が設けられました。その一つ、広岡(後、王子に改名)煉瓦工場の跡地に、大正11年、荒川遊園が開園しました。広岡幾次郎をはじめとする地元有志により、市民の精神の慰安と身体の健康増進のために設置された嶺井遊園地です。
 その後、王子電車への乗客誘致を目的として、王子電気軌道株式会社が荒川遊園の経営に参入しました。戦時中は、閉園を余儀なくされましたが、昭和24年(1949)、荒川区立の遊園地として再スタートしました。
 敷地の一部は戦後間もなく宅地化され、以来、煉瓦塀は宅地の境界や盛土のための土留めとして利用され今日に至ります。
 荒川遊園煉瓦塀は、近代的な景観をとどめる遺構として歴史的価値が高い貴重な文化財です。また、連続する煉瓦塀が作りだす景観はこの地域独自の風景として長年親しまれており、貴重な風景遺産でもあります。
 令和2年(2020)3月
  荒川区教育委員会


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:B29-C2-46
1936年06月11日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

王子電気軌道が経営をしていた昭和11年のころ。

ファイル:USA-M379-No2-27
1947年07月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

昭和22年。周辺住宅地が爆撃により焦土となっていることもわかる。
荒川遊園の中に置かれた高射砲陣地の跡もわかる。

ファイル:USA-R3163-49
1949年09月07日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

昭和24年、荒川区立の遊園地として再スタート。
かつての敷地の一部に、整然と整えられた建物が建っている。ここのエリアは、煉瓦壁をそのまま活用して住宅地となっている。

Google航空写真
現在の様子。南東部の「かつての荒川遊園の敷地部分」=「煉瓦塀の内部」が住宅地となっている。


荒川遊園煉瓦塀の散策

都電荒川線、最近は「東京さくらトラム」という愛称でも親しまれている。
「荒川遊園地前駅」で下車をして、あらかわ遊園に向かう。

工事中の入口の右手=東側より、住宅地の中を煉瓦塀が伸びている。

玄関先を、レンガ風装飾で景観を合わせている住宅もあった。

入口?にしては小さい。

日向ぼっこ中のお猫様

排水口のような孔

上部は、長手積み。
中間部は、イギリス積みをモルタルで保護。
下部は、イギリス積み。

ちょっと割れ目が。。。

上部がコンクリートと鉄網で改められいる空間。下部はそのまま有効活用。

この場所が南東部分の先端角。

ここnここには煉瓦造の小屋があったという。小屋の壁面部分が残っている。

通用口?コンクリで塞がれていた。

煉瓦壁。
積み方がよく分かる。
上部:長手積み
下部:長手積みと小口積みの繰り返し=イギリス積み

内側から。
長手積みの上部もところどころ、柱が組まれて強度が確保されている。中部帯から下部はイギリス積み。厚さがある。

中部帯と下部は、かなりの厚さが確保されている。
関東大震災を耐えた煉瓦壁。

中部帯から屋根へと積み方が変わる部分。

積み方が変わった。

切断部。イギリス積み。

積み方が変わった箇所の内側。

門柱。

門柱の一対が残る。左側は道路拡張で消滅か。
電信柱の位置をどうにかすれば、多少の移築で残せたような気もするが。どのみちこの幅では、車は通れない。。。

煉瓦塀の外側敷地は小台橋保育園。旧小台橋小学校。

隅田川川から。

住宅地に残る煉瓦塀。
住む人々にはとっては多少の不自由があるかもしれないが、100年近くここに有り続けた煉瓦塀は、関東大震災・東京大空襲・高度経済成長をくぐり抜けて、残存した歴史遺産。これからも大事に伝承してほしい空間。


あらかわ遊園

2018年12月よりリニューアル回収工事により長期休園中。再開は2022年春頃を予定、とのこと。


荒川区関連

元加賀公園と川南公園(震災復興公園・江東区)

大正12年(1923)の関東大震災ののち、帝都復興院総裁となった後藤新平が中心となって、地震発生時の防火帯設置を目的とした公園の確保が重要視されることとなった。

震災復興三大公園として「隅田公園」「浜町公園」「錦糸公園」が設置。
また、昭和5年(1930)に完成した横綱町公園には震災記念堂と震災記念館が建設された。

東京市公園課長に就任した井下清は、52箇所の東京市立公園を設計。小学校を不燃化・耐震化させた鉄筋コンクリート校舎とし、小公園を併設することにより防火帯と避難設備の役割を担った。
この井下清が設計した小学校とセットとなった小公園が東京市内52箇所に設置され「震災復興52小公園」となる。

戦後の再開発で当時の「震災復興公園」は消滅や縮小などもあり、往時の姿を完全に残すものはない。そんな「震災復興公園」の中で、文京区の町公園は「震災復興公園」の姿を復元している。


元加賀公園

東京都現代美術館(MOT)と木場公園の北側に。

江東区の2つの公園に、開園当初の面影を見ることが出来る。
江東区立元加賀小学校の隣。小学校と小公園。

江東区立 元加賀公園

開園 昭和二年八月三十一日

昭和2年(1927年)開園。

昭和2年開園当時からの壁泉付露床が公園内に残っている。

後方。

水道管はむき出し。


川南公園(せんなん公園)

江東区立川南公園。川南小学校の隣。
川南公園は、関東大震災後に作られた震災復興計画公園のひとつで、昭和6年(1931)に開園。

昭和6年(1931)開園当時からのすべり台が残る。貴重な当時の遺産であるとともに、今も現役の遊具として90年に渡り子どもたちに親しまれている。

2つのレリーフが側面にある。

非常に良き状態で残されている。

紀元二千六百年式典の式殿「光華殿」

東京都小金井市。都立小金井公園内。
江戸東京たてもの園ビジターセンター。
この建物は、国家的な祝事で使用された建物「光華殿」であった。


紀元二千六百年記念式典

昭和15年(1940)に神武天皇即位紀元2600年(皇紀2600)を迎え、その記念祝典などが開催された。

昭和15年(1940)11月10日、皇居・宮城前広場(皇居外苑)において、 昭和天皇 香淳皇后臨席のもと、近衛文麿内閣主催の「紀元二千六百年記念式典」が開催。
式典のために寝殿造の会場「光華殿」が設営。

昭和16年8月(1941)、式典終了後に光華殿が小金井緑地(小金井公園)に移築。国民錬成所として使用された。
戦後に、空襲で被災した学習院中等科が教室として使用。 皇太子(当時の皇太子は 上皇陛下)の御仮遇も設けられていた。

昭和29年、小金井公園が開園。武蔵野博物館が井の頭恩賜公園から移転し、武蔵野郷土館として開園し、当建物も活用。
その後、平成5年(1993)の江戸東京たてもの園開館とともに、当建物はビジターセンターとして使用されている。


日本ニュース 第15号(1940年9月) 式殿棟上式

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300400_00000&seg_number=003

日本ニュース 第23号(1940年11月) 紀元二千六百年式典

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300408_00000&seg_number=001

紀元二千六百年式典

近衛文麿総理大臣 奏上
「臣文麿、謹みて申す。伏して惟(おもん)みるに、皇祖国を肇(はじ)め統を垂れ、皇孫をして八洲に君臨せしめ、たもうに神勅(しんちょく)をもってし、授くるに神器をもってしたもう。宝祚(ほうそ)の隆(さかえ)、天壌と窮(きわま)りなく、もって神武天皇の聖世に及ぶ。すなわち天業を恢弘(かいこう)して皇都を橿原(かしわら)に定め、宸極(しんきょく)に光登して、徳化を六合(りくごう)に敷き賜ひ。歴朝相承(う)けて、ますます天基を鞏(かた)くし、洪猷(こうゆう)を壮(さかん)にし、一系連綿、正に紀元2600年を迎ふ、国體(こくたい)の尊厳(そんごん)、万邦固(もと)より比類なし。皇謨(こうぼ)の宏遠、四海豈(あ)に匹儔(ひっちゅう)あらんや。」

日本ニュース 第23号(1940年11月)より
日本ニュース 第23号(1940年11月)より

奉祝国民歌『紀元二千六百年』

金鵄(きんし)輝く 日本の
栄(はえ)ある光 身にうけて
いまこそ祝へ この朝(あした)
紀元は二千六百年
ああ一億の 胸はなる

歓喜あふるる この土を
しつかと我等 ふみしめて
はるかに仰ぐ 大御言(おおみこと) 
紀元は二千六百年
ああ肇国(ちょうこく)の 雲青し

荒(すさ)ぶ世界に 唯一つ
ゆるがぬ御代(みよ)に 生立ちし
感謝は清き 火と燃えて
紀元は二千六百年
ああ報国の 血は勇む

潮ゆたけき 海原に
桜と富士の 影織りて
世紀の文化 また新た
紀元は二千六百年
ああ燦爛(さんらん)の この国威

正義凛(りん)たる 旗の下
明朗アジア うち建てん
力と意気を 示せ今
紀元は二千六百年
ああ弥栄(いやさか)の 日はのぼる

ちなみに、
2040年(令和22年)が紀元2700年(皇紀2700年)。
さて、その時の日本はどうなっているのか。。。


光華殿

昭和15年竣工。
大蔵省営繕部管財局の設計、清水組の施工。
木造平屋建てで、竣工当時は杉皮葺きであった。正面に萬歳額を掲げ、三面を吹き放ちの構造。
小金井に移築後に、ガラス戸が設けられ、屋根も葺き直しされた。
近代の和風建築として貴重な建物。
現在は、江戸東京たてもの園入口(ビジターセンター)として使用されている。


皇太子殿下小金井御仮遇所跡

上皇陛下は戦時中に焼失し小金井に移転した学習院中等科にこの御仮寓所から通学なされた。

皇太子殿下小金井御仮遇所跡
 この場所の西側にあた文部省(当時)所管の建物などが宮内庁に移管され、1946年(昭和21)から3年間、学習院中等科の校舎となった。そのため、ここに東宮御仮寓所が造られ、中等科在学中だった皇太子殿下(現上皇)が住まわれた。其の建物は1949年(昭和24)12月に焼失した。

1962年(昭和37)設置


皇太子殿下御勉学の地


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-33
1947年11月14日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

中央に移築された光華殿。北部及び北西部にはゴルフ場が広がっていた。


江戸東京たてもの園

せっかくなので、近代史目線で園内を散策してみる。

高橋是清邸

高橋是清邸宅が、移築されている。2・26事件の舞台でもあり。

午砲

 1871年(明治4)9月9日から、皇居内旧本丸で、この大砲により正午を知らせる空砲が発射された。大砲による正午の通報は、今の東京都区部の大部分で聞こえ、その音から「ドン」と呼ばれて人びとに親しまれた。江戸時代には、江戸市中に時刻を知らせるために鐘を鳴らしたが(時の鐘)。明治時代以降はこの午砲となり、正午を知らせた。1929年(昭和4)5月1日に正午の通報は午砲からサイレンにかわり、その役目を終えた。
 年代:明治時代
 旧所在地:千代田区(皇居内旧本丸跡)


皇居正門石橋飾電燈

 皇居前広場から皇居に向かって左手前に見える石橋に設置されていた飾電燈。橋の欄干両側にある男柱石に計6基設置されていたもののひとつである。
 石橋は長さ百六尺四寸(約35.3メートル)、幅四十二尺二寸(約12.8メートル)で、江戸時代に架けられた「西の丸大手橋」といわれる木橋に替わり、1887年(明治20)12月に架けられた。飾電燈は1886年(明治19)、東京電燈会社へ発注されたものであるが、完成日・設計者・鋳造場所など不明な点が多い。
 年代:明治20年代
 旧所在地:千代田区千代田

万世橋交番

 これは神田の万世橋のたもとにあった交番である。名称を須田町派出所といい、万世橋駅のそばにあった。1923年(大正12)の関東大震災により、駅とともに大きな被害を受けたが、のちに以前のとおりのデザインに修復された。
 震災以前の万世橋駅は、1911年(明治44)に設けられた甲武鉄道(現在の中央線)の起点としてたいへんににぎわっていた。しかし、万世橋駅-東京駅間の開通や、震災後の区画整理などによって利用者が急激に減り、1943(昭和18)に廃止された。万世橋交番も昭和初期にはその役目を終え、以後は主に巡査の休憩所や交通係詰所として利用された。
 建築年:明治時代末期(推定)
 旧所在地:千代田区神田須田町1丁目
 寄贈者:警視庁

子宝湯

1929年(昭和4)竣工。

村上精華堂

1928年(昭和3)竣工。

常盤台写真場

1937年(昭和12)竣工。

東京都交通局7500形電車 7514号

1962年製造の都電車両(1978年廃車)

ボンネットバス いすゞTSD43

1968年式

C57蒸気機関車
スハフ32客車

C57機関車は製造初年が昭和21年。スハフ32客車は製造年が昭和7~16年。


江戸東京たてもの園

https://www.tatemonoen.jp/

陸軍航空士官学校狭山飛行場跡(陸軍狭山飛行場跡)

埼玉県入間市。
入間市で有名なのが「狭山茶」、隣の狭山市にあるのが「入間基地」。
入間と狭山は地名が交差していてややこしい。

この地にあった飛行場は「狭山飛行場」と呼称され、入間市にあった。

狭山飛行場へのアクセス方法。
西武線入間市駅からバス。
 西側
  三井アウトレットパーク停留所
 南側
  二本木停留所
  入間市博物館ALIT停留所
 北側
  根岸停留所
 などを利用して、あとは歩く感じ。

私は入間市駅からバスに乗って北側の根岸バス停を起点に約8キロ歩いて、三井アウトレットパークバス停から入間市駅に戻るコースでの散策でした。


陸軍航空士官学校狭山飛行場

狭山飛行場は陸軍航空士官学校分教場であった。

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

狭山飛行場は、昭和8年(1933)7月に陸軍の要請により飛行場用地としての買収が始まり、昭和9年(1934)年11月には狭山陸軍飛行場、所沢にあった陸軍飛行学校の分飛行場として開設。昭和13年の陸軍航空士官学校発足とともに分教場として利用。
開場当初は120ha、終戦時には約237haもの広大な飛行場であった。狭山飛行場の面積は現在の入間市の約5.3%を占めていた。

終戦後は狭山台土地区画整理事業が行われ、農地開墾、狭山台工業団地、住宅地などが造成。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:892-C2A-97
1944年09月24日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

上記を拡大。

現在の様子。区画がしっかりわかる。

北東部分を拡大。

「飛行訓練塔?」と「エンジン試験台」の基礎が今も残っている。

これらのポイントを巡ってみる。


時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

参考までに当時の東京西部と埼玉西部の飛行場の位置関係を記載してみた。


狭山飛行場外周道路・北部

根岸バス停から歩くを開始して、茶畑を縦断。
茶畑の向こうに見える工業団地が、狭山飛行場の跡地。


狭山飛行場・飛行訓練塔基礎?

狭山飛行場北東部に残る基礎。飛行訓練塔?の基礎、とされている。

場所

https://goo.gl/maps/DtzXiYUwXTyck6cd7


狭山飛行場外周道路・西部

飛行訓練塔基礎から南下し外周道路の西端を南下していく

左が飛行場エリア。

ふりかえってみる。右が飛行場エリア。

次の目的地へ。


狭山飛行場・エンジン試験台基礎

茶畑に向こうに、コンクリートの塊がふたつ見えてくる。
これらはエンジン試験台の基礎、という。

コンクリートの塊のうち、ひとつは廃材や枯れ草に覆われておりよく見えなくなっている。

場所

https://goo.gl/maps/dBy9rSnyFrKA5FDL9


中村屋武蔵工場(中華まんミュージアム)

そのまま南下をしていくと中村屋武蔵工場が見えてくる。
かつて、航空士官学校校舎があり、格納庫などがあった場所。
戦後は、大妻女子大学狭山台キャンパスがあったが、2015年に閉校し、その跡地に中村屋武蔵工場ができた。


狭山飛行場・航空士官学校校舎跡地

学舎の跡
 この場所は、東西およそ1800メートル、南北およそ1390メートルの旧日本陸軍航空士官学校狭山飛行場跡地の西端に位置し、航空士官学校校舎がありました。
 校舎は戦後も遺され。終戦直後の混乱期には寺にあった有隣青年学校生徒の学舎となり、昭和22年4月には元狭山村・宮寺村組合立狭山中学校がここに開校し、新しい教育の場となりました。更に二本木地区の子どもたちの狭山小学校が、校舎の一角に開校しました。
 昭和42年、役目を終えた跡地には大妻女子大学狭山台校が新設され、再び学舎の歴史が積み重ねられてきました。こうして、この地は多くの人びとの懐かしい学舎の跡になったのです。
 弊社は、地域の人びとに親しまれ続けてきた学舎の跡に工場を操業できることを誇りとして、新たな歴史を刻んでまいります。
 平成30年7月
  株式会社 中村屋

場所

https://goo.gl/maps/8kGNTzovqk5zoGuKA


狭山飛行場・陸軍境界石

狭山飛行場外周道路・南部に位置する。ちょうど中村屋工場と交差する場所。電信柱と並ぶように境界石が残されている。

陸軍

狭山飛行場外周道路・南部となる。


入間市博物館「ALIT(アリット)」

狭山飛行場外周道路・南部を歩く。
飛行場の南側に入間市博物館「ALIT(アリット)」がある。常設展示コーナーなどに「狭山飛行場」に関する展示もあるので時間があれば脚を運ぶことをおすすめ。


そのまま狭山飛行場外周道路・南部を東に向けて歩く。

狭山飛行場外周道路・南東部

南東部は外周道路とともに排水溝が暗渠された状態で残っている。

場所

https://goo.gl/maps/pwAcCPHYoZMATSYT7

武蔵工業団地は、狭山飛行場の跡地に開設された工業団地。


狭山開墾記念碑

狭山開墾の碑
狭山飛行場跡地の開墾事業完成の記念碑。
昭和21年(1946)1月に鍬入れ式を行い、翌年の夏には開墾が完成。総入植者542戸のうち、新規入植は15戸で、大部分は地元に還元。

狭山開墾記念碑
碑面裏(一部抜粋)
 秩父の連峰を背景に県の南境に近く蟠る一連の台地此処狭山は古くから茶処としてその名を知られて居る其の一画、元狭山宮寺金子東金子の4箇村に跨る250町歩の地域は昭和8年飛行場の開設を見たが終戦後はこれを農耕地として開拓せらることとなった(以下略)

「昭和8年飛行場の開設」と刻まれている。

場所

https://goo.gl/maps/CCkCLJsoehMFvCUDA


狭山飛行場・無蓋掩体壕跡

ファミリーマート駐車場とフジボウル駐車場の裏の森の中に、無蓋掩体壕の跡が残っている。
無蓋掩体壕は、土塁・土盛りでしかなく、正直言ってよくわからない。ただ森の中に不自然に土塁があるのが、今でもわかる。飛行機を駐機したであろう側まで森を進んでみたが、木々が茂りすぎて写真に撮ってみてもよくわからないものではあったが。

奥に無蓋掩体壕の土塁。

土塁に登ってみた。下は飛行機を駐機したであろうスペース。

場所

https://goo.gl/maps/XY8EMJHZcwCQb7hV8


狭山飛行場の東側に、コストコと三井アウトレットパーク。
ここまでくれば、入間市駅までバスで戻れる。


関連

「国産第1号の鉄橋・都内最古の鉄橋」旧弾正橋(八幡橋)

富岡八幡宮の東側、かつて八幡堀川という川に架かっていた「八幡橋」。
もともとは中央区宝町付近の楓川に架かっていた「弾正橋」という橋であった。

旧弾正橋(八幡橋)

「東京最古の鉄橋」
「国産鉄の鉄橋として日本最古の鉄橋」

「国重要文化財指定」
「米国土木学会栄誉賞」

明治11年(1878)11月に京橋区の楓川に「弾正橋」として竣工。
大正2年(1912)に新「弾正橋」が架橋され「元弾正橋」と改称。
大正12年(1923)関東大震災後の震災復興計画により廃橋。
昭和4年(1929)5月に現在地に移転し「八幡橋」として架橋。

国指定重要文化財(建造物)
旧弾正橋(八幡橋)
 富岡1-19~富岡2-7 
 昭和52年6月27日指定
 
 八幡橋は、明治十一年東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作した長さ15.2メートル、有効幅員2メートルの単径間アーチ形式の鉄橋である。もと京橋楓川(中央区)にかけられ弾正橋と称したが、大正二年(1913)市区改正事業により新しい弾正橋がかけられたので、元弾正橋と改称した。大正十二年関東大震災の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となり、東京市は、昭和四年(1929)5月現在地に移して保存し、富岡八幡宮の東隣であるので、八幡橋と称した。アーチを鋳鉄製とし引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋でありかつ独特な構造手法で施工してある。この橋は鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として近代橋梁技術史上価値の高い橋である。
 江東区教育委員会

橋を渡って、遊歩道に移動してみる。

八幡堀遊歩道

遊歩道はかつて八幡堀側という川であった。

八幡橋(旧弾正橋)
由来
 旧弾正橋は、明治11年(1878)東京府の依頼により工部省赤羽製作所が制作した国産第1号の鉄橋です。昭和4年(1929)現在地に移され八幡橋と改称し、以来人道橋として活躍してきました。昭和52年(1977)近代橋梁技術市場価値の高い橋であることから、国の重要文化財に指定されました。また、アメリカ人技師スクワイアー・ウィップルの特許を基本としたところから、平成元年10月、国内で初めてアメリカ土木学会より「栄誉賞」を受けました。

ピンの接合部に「菊の紋形の花弁装飾」が施されている。

国指定重要文化財 
旧弾正橋(八幡橋)
 富岡1-19~富岡2-7
 昭和52年6月27日指定
 
 八幡橋は、東京市で最初に架けられた鉄橋である。長さ15.2m、幅2m、単径アーチ橋の形式をとる。アーチは鋳鉄製で5本の直材をつなぎ、その他の引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋である。もとは、京橋区(中央区)の楓川(もみじがわ)に架けられていたものである。経緯については「八幡橋新橋来歴」に詳しく記されている。この橋は明治11年(1878)、東京府の依頼により工部省赤羽製作所で製造された。はじめは弾正橋と称していたが、大正年(1913)の市区改正により新しい弾正橋が架けられたため、元弾正橋と改称された。さらに、関東大震災後の帝都復興計画により廃橋となり、昭和4年(1929)、現在地に移設された。富岡八幡宮の東隣りであるため、名称も八幡橋と改められた。現存する鉄橋としては最古に属するものであり、また、菊の紋章のある橋としても有名である。鋳鉄橋から錬鉄橋に至る過渡期の鉄橋として、近代橋梁史上貴重なものであるとともに、独特な構造手法を用いて施工されてあり、技術史の上でも価値の高い橋である。
 江東区教育委員会

記念碑がある。
米国土木学会栄誉賞受賞記念など。

八幡橋鉄構来歴
本橋ノ鉄構ハ東京市最初ノ鉄橋タリシ弾正橋ノ古構ヲ再用セルモノニシテ明治十一年東京府董工ノ下ニ工部省赤羽製作所ニ於テ鋳造セラレシモノナリ
其ノ後大正二年市区改正ニヨリ附近に新ニ弾正橋架設セラレタル結果之ヲ元弾正橋ト改名シ近年ニ及ヘルモノナリシカ帝都復興事業区画整理ニ依リ元弾正橋ハ廃橋トナリタルニ付東京市最古ノ鉄橋ヲ記念センカ為其ノ鉄構ヲ取外シ昭和四年此処ニ新設セラルル八幡橋ニ架設セルモノトス
 東京市

米国土木学会栄誉賞受賞記念

JAPAN HISTORIC CIVIL ENGINEERING LANDMARK

AMERICAN SOCIETYY OF CIVIL ENCINEERS
FOUNDED 1852

“THE HACHI MAN BRIDGE”
THE FIRST BRIDGE BUILT OF IRON MANUFACTURED IN JAPAN

PRESEBTED BY THE JAPAN SECTION, ASCE 1989

(和訳)
日本の歴史的土木ランドマーク
 米国土木学会 (1852年創業)
“ハチマンブリッジ” 日本初の鉄製の橋
米国土木学会 1989年、日本部門発表

 八幡橋は、明治11年(1878)わが国において、最初に日本製の鉄を使って造られた鉄橋で、国の重要文化財や東京の著名橋となっています。
 橋の形(ウイップル形トラス)は、米国人スクワイアー・ウイップル(SQUIRE・WHIPPLE)氏の特許が基本となっています。
 ウイップル形トラス橋の名誉と日本の歴史的土木建造物「八幡橋」の優れた製作技法に対して、平成元年(1989)米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が送られました。

人力車のモニュメントにも、八幡橋の解説がある。

八幡橋(旧弾正橋)
八幡橋は、明治11年(1878)に京橋区楓川に架けられ、島田弾正屋敷が近くにあったことから弾正橋と呼ばれていました。
現在の中央区宝町三丁目付近に位置します。弾正橋は、馬場先門から本所・深川を結ぶ主要街路の1つで、文明開化のシンボルとして架橋されましたが、その後関東大震災の復興事業により廃橋となってしまいました。しかし昭和4年(1929)には、その由緒を惜しみ現在地に移設され、八幡橋と名前も改められました。現在では江東区が大切に保存しています。
この東京名所図会(三ツ橋の現況)には、明治34年(1901)頃の弾正橋(左奥)が描かれており、当時の情景が偲ばれます。
弾正橋・白魚橋・真福寺橋とをあわせ三ツ橋と呼び、古くから有名で人々から親しまれていました。

八幡堀遊歩道から八幡橋を望む。

橋下では、猫様がくつろいでおられた。

「みんな(猫)の住みやすいまちに」

八幡堀遊歩道の北に、もうひとつ橋梁があった。

旧新田橋

平成12年(2000)の護岸整備により新田橋は架替えられ、昭和7年に竣工した旧新田橋は、八幡堀遊歩道に移設保存。

旧新田橋
 新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
 大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年(1932)、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。
 当初、「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
 また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。

現在の新田橋。


弾正橋
弾正橋公園(楓川弾正公園)

八幡橋は、かつては弾正橋として楓川に架けられていた。
中央区の宝町と八丁堀のあいだ、あたり。
現在は、楓川は埋められており、弾正橋も橋があった名残のみが残っている。

弾正橋
 弾正橋は古く江戸寛永年間には既に、楓川上に架かっているのが記されており、北八丁堀に島田弾正少弼屋敷があったのがその名の由来のようである。弾正橋は当時交差した堀川上に真福寺橋、白魚橋と共に三つの橋がコの字状に架けられていたことから、江戸名所図会に「三ツ橋」として紹介されており、江戸における一つの名物であったようである。
 その後たびたび架替えられたが、明治11年に工部省の手により、我が国最初の国産の鉄を使った橋として架替えられた。その時の橋は現在でも江東区富岡一丁目に保存され、昭和52年に国の重要文化財として指定され、平成元年にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受ける等どの歴史的貴重さを増している。
 現在の橋は大正15年12月に復興局によって架替えられたもので、従来の弾正橋よりやや北側に位置している。その後昭和39年の東京オリンピックの時に、弾正橋の両側に公園が造成され、平成5年2月に公園と一体化された、くつろぎのある橋として再整備された。尚、公園にあるモニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものである。

橋梁の諸元
形式:ラーメン橋台橋 橋長:33m 有効幅員 23.2m(車道16m、歩道3.6m×2) 建設年次:大正15年12月 復興局施工

公園として整備されている。
モニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものというが、じっくりと見学するのが難しい。「菊の紋形の花弁装飾」も復元。よくできている。やはり、じっくり観察ができない環境が惜しい・・・


都内最古の道路鉄橋 南高橋(旧両国橋)


関連

旧東京市深川食堂(深川東京モダン館)

深川。門前仲町の交差点の近くに東京大空襲をくぐり抜けた建物が残っていた。

現在でも通用するモダンなデザインの建物が昭和7年竣工というのだから、驚きを感じてしまう。

旧東京市深川食堂

昭和6年(1931)に着工、翌7年3月に竣工。関東大震災復興事業として建設された東京市設食堂。

旧東京市深川食堂
江東区登録有形文化財 (建造物) 国登録文化財
門前仲町一-一九-一五
 東京市深川食堂は、東京市が社会事業施策として、大正九年(一九ニ〇)から順次設置した一六カ所の市設食堂 のひとつです。延床面積は一〇六坪。関東大震災の復興事業の一環として、昭和六年(一九三一)に着工、翌七年三月に竣工しました。市設食堂とは低所得者のために安くて栄養のある食事を提供する施設のことです。一一年に閉鎖されましたが、一三年に東京市深川栄養食配給所として活動を再開、東京大空襲で被災しましたが全焼をまぬがれ、戦後部分修復して、東京都の職業斡旋施設となり、三二年には授産機能、三六年には福祉機能が追加されました。五四年に江東区へ移管され、「江東区内職補導所」と改称し、数度の名称変更を経て、平成一八年に閉鎖されるまで利用されました。
 構造は二階建て鉄筋コンクリート、外壁はモルタル下地吹上仕上げ。大震災の教訓を活かし、当時の最先端技術である鉄筋コンクリートが採用されました。デザインの特徴は、明るく開放的な吹き抜け空間になっている階段室と、二階南側のスチール・サッシュ窓にあります。震災復興の近代建築物としての希少性が認められ、平成二〇年に国登録文化財に登録されました。
平成二十一年九月
江東区教育委員会

外観

2階建て鉄筋コンクリート。
スチールサッシュ窓が特徴的。

深川東京モダン館。
街歩きの拠点となっている。

館内

玄関から階段にかけてのモザイクタイルが特徴的。

昭和の生き証人「深川モダン館」
国登録有形文化財(建造物)「旧東京市深川食堂」
 深川東京モダン館は、東京市が社会事業として順次建設をすすめていた市設食堂で、震災復興事業の一環として昭和7年(1932)に建築された東京市深川食堂を改修した建物です。大正12年(1923)に起きた関東大震災は、死者約9万2千人、全壊・焼失約47万戸という未曾有の大災害をもたらしました。震災で住む場所を失った人びとに、安くて栄養のある食事を提供するためには公共の食堂が是非とも必要でした。そのため東京市(1944年に東京都となる)では市内の数カ所に食堂を増設しました。この深川東京モダン館の前身である「深川食堂」は、最後に造られた市設食堂でした。
 深川食堂は震災復興が一段落した後も、社会事業の役割をになう公営食堂などとして運営されてきましたが、第二次世界大戦末期の空襲で建物の内部が焼けてしまいました。戦後は職業安定所や内職補導所、障害者通所授産施設として活用されてきましたが、平成18年(2006)にその役割を終え、解体を含め建物をどうするのかが問題となりました。
 専門家による調査で、この建物は昭和初期の近代建築の姿を今日に伝える貴重な文化遺産であるとの評価を受け、江東区は保存と活用を決めました。また平成20年(2008)には、国登録の有形文化財(建造物)として認定されました。
 昭和の初めに、新鮮な驚きを与えて人々を魅了したモダンスタイルを今日に伝えるこの建物は、また、激動の昭和の歴史の生き証人でもあります。今後は保存され、江東区の観光と文化の拠点「深川東京モダン館」として装いを新たにし再出発します。

建物の概要
●所在地:深川區門前仲町17番地
     (現 江東区門前仲町1-19-15)
●用途:市設食堂(社会事業施設の復興計画)
●工事管理者:東京都社会局/設計 東京市建築課
●敷地面積:敷地298.9㎡、延床面積370.58㎡
●竣工:昭和7年3月下旬
●1階:事務室、調理室、倉庫、嗜好食を売る食堂
 2階:定食室、外従業員寝室
 ※嗜好食=一般市民向け、定食=少額所得者向け

建物の特徴
 深川東京モダン館は、昭和初期に建築された建物の姿を今日に伝える貴重な文化遺産です。昭和初期の1930年代には、建物から装飾を取り去って、できるだけシンプルで単純な形を追求した建築が時代の最先端として登場し世界中に広まりました。「単純なものは美しい」という言葉に象徴されるこの傾向は、建築だけでなく美術や音楽の世界にも見られ「モダニズム」とか「モダンスタイル」と呼ばれました。モダニズムは近代の合理主義精神が形となったものとされています。
近接時期の特徴
・関東大震災復興事業として着工された現存する数少ない建築である。
構造上の特徴
・耐震耐火の性能を満たすべく当時の最先端の技術である鉄筋コンクリート造として建設された。
デザイン、建築材料の特徴
・入口に続く階段空間が2階天井までを全面窓とした吹き抜け空間となっていて明るく開放的である。
・2階の南側の窓がモダンデザインの特徴である水平に連続するスチール・サッシになっている。
※窓枠はすでに位置を変え付け替えられていたため、改修工事により、位置について復元をした
・昭和初期のモダン建築に多く見られる丸窓がある。この6つの丸窓は大通りから真っ直ぐに見え、本建造物を強く印象づける役割を果たしている。

戦前の牛乳瓶
平成20年の建物改修工事時に出土。

改修前の外壁
南満鑛業株式会社製のリソイド仕上げ外壁。

昭和7年の竣工時の面影を伝える床面タイル・壁面タイル。

モザイクタイルが貼られた階段と壁面。竣工当時の面影を残す。

2階は、イベントスペース。


戦災殉難者慰霊碑

近くには門前仲町の町会で建立された「戦災殉難者慰霊碑」があった。(モスバーガーの隣)

戦災殉難者慰霊碑
 平成2年7月吉日
  門前仲町一丁目町会建之


※撮影:202007及び202101


関連

東京大空襲・慰霊

飯能市大河原の監的壕


埼玉県飯能市の山に「射撃場の跡」があるというので脚を運んでみた。


監的壕(かんてきごう)
飯能町在郷軍人分会常設射撃場

射撃の着弾点や命中率を確認するために造られた施設。
飯能市に残る監的壕は、飯能の在郷軍人会によって、昭和16年に11月3日に竣工したもの。石垣積み・コンクリート築造。

射撃訓練として「的」に向かって射撃を行う。おそらくは、「三八式歩兵銃」での射撃。壕の下に控える監視者が、的の様子を確認出来る構造となっている。
すなわち「的を監視する壕」「監的壕」か?

射撃訓練ということもあり、安全を考慮して人里離れた山裾に設けられたものと思われる。

石垣が築かれたコンクリート製の「監的壕」がみえてきました。
周辺に、射撃場の面影はなく「監的壕」のみがきれいに残っていました。

昭和十六年十一月三日竣工

飯能町在郷軍人分會常設射撃場
監的壕

監的壕の入り口には、扉があったことがわかる。

左側(渓流の下流側)のコンクリート壁がせり出している。
射撃者は、下流側から、この監的壕を狙ったものと思われる。

奥が若干だが広くなっている。

鉄の棒が飛び出ている。ここに「的」を設置したのか。

「鉄の棒」の下には、腰掛けるのに丁度よいコンクリートがあった。
的の下に控えた観測員が、ここに腰掛けたのか。

鉄の棒と、コンクリートの椅子はふたつ。
つまり、射撃の「的」はふたつ。
飯能町在郷軍人会の施設のため、小規模な射撃場。

上に上がってみた。

右側が渓流下流。射撃者は、右側から「的」をめがけて撃ち込みをした。

使われなくなって75年も経てば、樹木も茂る。コンクリートのギリギリまで植林されたようだ。

思った以上に、きれいに残っている戦跡でした。
なかなかの見応え。これは大切に残してほしい戦跡です。


位置関係・アクセス方法

まず最初に。

現地は湿地帯となります。湿地帯のぬかるみを突破しないといけないために、長靴やハイキングブーツ、登山靴など厚底の靴がおすすめです。
どちらかというと、夏場よりも冬場。それも晴れの日が続いた冬場が、ぬかるみもおさまり、脚が運びやすいかと思われます。

場所→だいたいこのあたり

https://goo.gl/maps/Cz1kWUK5jqWdKG8a8

南の「美杉台」のほうが近そうに見えますが、沢を登っていきますので、北側の「大河原」からアクセスとなります。

飯能駅から西に歩いていきます。
割岩橋にて入間川を横断します。

飯能河原

そのまま道なりに西に。

交差点が見えてきました。

「大河原」交差点。飯能駅からここまでは、徒歩で約25分前後。

渓流の名前は「小山入川」。
渓流に沿って登っていきます。

このあたりは休耕田、ですね。

射撃場跡へと。

道が二手にわかれますが、渓流に沿って左側へ。

休耕田エリアが終わると、本格的に山となります。ところどころに湿地も混じっておりますので、足元に気を配りつつ。

倒木も多数。

大きな岩が見えてきたら、この左側に目的地があります。
先に進むことに夢中になっていると、通り過ぎてしまいますのでご注意を。
(うっかり通り過ぎるところでした。)

「大河原」交差点から、「監的壕」までは約10分。
飯能駅からはトータルで、約35分、でした。

ちなみに、飯能駅から割岩橋に向けて歩いてきた道が「幻の表参道」だったそうです。明治神宮建設に際しての誘致が飯能でも行われていた、と。
飯能の天覧山に 明治天皇が明治16年に近衛兵春季小演習の展覧のために登られた縁もあり。天覧山は、最近ではヤマノススメの聖地になってますね。


本記事を作成するにあたり、以下のブログを参照させていただきました。

https://ameblo.jp/ibukoma2000/entry-12544104231.html

JR両国駅と両国橋散策

両国駅

明治37年(1904)4月5日に、千葉方面に鉄道を展開していた私鉄・総武鉄道によって「両国橋駅」として開業。総武鉄道は千葉県内初の鉄道。
本所駅(錦糸町駅)と両国橋駅(両国駅)の1.5キロは、日本の鉄道として最初の高架区間でもあった。総武鉄道単独では隅田川を渡ることが難しく、両国橋駅が千葉県から都心方面のターミナル駅として機能することとなった。
総武鉄道は明治40年(1907)に買収され国有化。官設鉄道の総武本線となった。

昭和4年(1929)12月30日に増大する輸送量に対応するために、現在の新駅舎が竣工。昭和6年に「両国駅」に改称。
平成28年(2016)11月25日、旧駅舎再改装。

関東の駅百選
「鉄筋2階建ての駅舎で相撲とともに歩んだ下町の代表となる駅」。

※2020年8月撮影

※2021年3月撮影


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C29C-C1-55
1942年3月18日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

両国駅の貨物エリアが再開発で、のちに国技館と江戸東京博物館、となった。
震災記念堂(東京都慰霊堂)と復興記念館は戦災をまぬがれた。


両国橋

隅田川にかかる橋。かつては武蔵国と下総国の国境であったことから「両国」と呼称。貞享3年(1686)に国境が変更されて武蔵国内となった。

現在の両国橋は昭和7年(1932)竣工。柱部は両国国技館の屋根を模った飾りを配する。

隅田川にかかる両国橋の西側には神田川と柳橋。両国橋で、神田川と隅田川が合流する。

旧両国橋は、黒島川の南高橋に移築されている。


柳橋

神田川最下流の橋。関東大震災復興事業として昭和4年(1929)竣工。

昭和4年の復興記念碑。


表忠碑

両国橋の東側に鎮座している。

表忠碑
元帥侯爵大山巌書

明治三十七八年役戦病死者
明治四十年一月一日建之

※2018年5月撮影


両国関連

東京大空襲・慰霊

浅草の近代建築散策

浅草界隈の近代建築散策などを。


東武鉄道浅草駅ビル

東武鉄道の浅草駅ビルは昭和6年(1931)竣工。
地上7階・地下1階の建物は、鉄道省の初代建築課長であった建築家久野節が設立した久野建築事務所が設計、清水組により施工。関東初の本格的な百貨店併設ターミナル駅ビルとして開業。関東では唯一のJR.地下鉄以外の他社民鉄と接続していないターミナル駅。
昭和初期のアール・デコ様式の建造物。平成24年に開業時の姿に復元リニューアル。

関東の駅百選「浅草駅」
「昭和6年「浅草雷門駅」として開業、駅の上はデパート」(東武鉄道)

内部も(電車のとこだけだけど)


東京メトロ浅草駅上屋(4番出入口)

昭和2年(1927)竣工。日本初の地下鉄駅のひとつ。戦前の地下鉄関連遺産として近代化産業遺産に認定。
大正6年(1917)に早川徳次が東京軽便地下鉄道を設立。関東大震災によって資金繰りが悪化し、建設区間を短縮。東京一番の繁華街であった浅草と国鉄ターミナルの上野を結ぶ路線の建設に着工し、昭和2年12月30日に、日本初にして東洋初の地下鉄として東京地下鉄道の浅草駅が開業した。

関東の駅百選「浅草駅」
「浅草寺を考慮し、浅草の土地柄に馴染んでいる仏閣デザインの地下鉄の長老駅」(営団地下鉄)


神谷バー

大正10年竣工。国登録有形文化財。
日本最初の「バー」。「電気ブラン」で有名。

明治13年(1880)、神谷伝兵衛が酒屋を開業。明治14年には輸入葡萄酒の販売を開始し、明治15年に「電気ブラン」の製造販売を開始。神谷伝兵衛は輸入葡萄酒を原料に日本人向けに明治18年に「蜂印葡萄酒」、明治19年に「蜂印香竄葡萄酒」(ハチブドー酒)を売り出し成功。日本製ワイン黎明期を支えた。
明治45年(1912)、酒屋を改装し「神谷バー」を開業。
大正10年(1921)、現在の建物を建造。浅草地区で最古の鉄筋コンクリート造の建造物。

電氣ブラン(電気ブランデー)

神谷伝兵衛が明治26年(1893)頃に、輸入ブランデーにワインやジン・ベルモットなどをブレンドした「電気ブラン(電気ブランデー)」を発表。
電気が珍しかった明治の頃、目新しいものは「電気◯◯」と呼ばれ、この新しいハイカラなブランデーベースのカクテルも流行りに乗ったお酒となる。
ビリリとした味わいも電気のイメージにぴったりだったとか。

久しぶりに飲みたくなりました。。。(今度、買ってこよう)

ハチブドー酒も神谷バーと神谷伝兵衛ゆかりのお酒。


ライオンビル
(旧井阪屋本店河合ビル )

昭和10年(1935)竣工。国登録有形文化財。
鉄筋コンクリート造三階地下一階建。
現在は、撮影スタジオ 「LION BUILDING(ライオンビル)」として活用されてる。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/398545


浅草地下街

現存する日本最古の地下街。昭和30年(1955)1月の開業。

浅草地下街は戦前ではないけど、昭和情緒が色濃く残る貴重な空間。


浅草を広義に捉えた場合は、まだまだ近代建築が点在しているようだけど、指し急ぎは浅草寺周辺の散策でした。
界隈の近代建築を記録しましたら、追記していきます。

※2020年9月撮影ほか


浅草寺