「日本の福祉・医療の原点」養育院と渋沢栄一【渋沢栄一2】

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渋沢栄一銅像

板橋区登録有形文化財
渋沢栄一銅像

初代養育院院長として渋沢栄一は50年以上養育院に関与し、他の職を辞することはあっても、養育院の運営には最後まで関与し続けた。

明治5年(1872)に、本郷の旧加賀藩邸の長屋を利用して養育院の仮施設が造られ、翌明治6年に上野に養育院本院を設置。維新後に急増した窮民収容保護のため、東京府知事大久保一翁(大久保忠寛)の「救貧三策」の一策であった。
養育院本院は、上野、神田、本所、大塚などを転々とし、関東大震災後に板橋に移転。
渋沢栄一は、大久保一翁東京府知事より、共有金の取り締まりを依頼され、養育院に関与。財政基盤が定まらない中で、渋沢栄一は初代・養育院院長として必死に寄金を集め、養育院の維持に努力。
関東大震災後に養育院本院が板橋に引っ越しし一段落した大正14年に、養育院常設委員会(委員長は東京市長)は市民の寄付金による渋沢栄一養育院院長の銅像建設を計画。
「養育院の構内に、百年の後も永久にこれを守護せんとする渋沢栄一子爵の魂魄ための定住所」という設立理由に渋沢栄一も銅像制作を承諾。

大正14年(1925)11月15日、本院完成にあわせて建立、小倉右一郎作の渋沢栄一像は、高さ4.3メートル、方5.4メートルの花崗岩台座に、高さ3.75メートル、重量1.8トンの青銅製銅像。フロックコート姿でソファーに座っている姿となる。
銅像の完成時には、渋沢栄一本人も出席して除幕式が執り行われた。

昭和20年(1945)、戦時中の金属供出によってコンクリート像に作り変えられ、銅像本体は供出予定で地上に降ろされるも、4月の板橋空襲で養育院は9割が焼失、107名の犠牲が出る中で、渋沢栄一銅像は焼け残った。そのまま運搬手段などが無くなったために渋沢栄一銅像は供出を逃れ、戦後に修復された。

旧養育院長渋沢栄一銅像
 日本の福祉・医療の原点である「養育院」は、明治5年(1872)に設立されました。渋沢栄一は明治7年以来その運営に関与し、養育院長として半世紀を超えて中心的な役割を果たしました。その偉業を顕彰するため、まだ存命中の大正14年(1925)、幅広い東京市民の醵金により建てられたのがこの銅像です。
 帝展・文展の審査員も努めた彫刻家、小倉右一郎の制作で、高さ16尺(4.3m)、方20尺(5.4m)の花崗岩の台座に、高さ10尺(3.75m)、重量480貫(1.8t)の青銅で造られています。フロックコートをまといソファーに座る晩年の姿を映しています。
 また、昭和18年(1943)金属供出のためにコンクリート製の代替像が作られ、本体は敷地の一隅に置かれて供出作業を待っていましたが、輸送の為の交通事情、都内空襲などで回収作業ができず、昭和20年4月13日の板橋地区の空襲にも焼け残り、供出されないままに昭和20年8月15日の終戦を迎えました。
 昭和32年に、作者・小倉右一郎の監修のもとに修築され、その後3回の敷地内移設を経て現状に至ってます。
 大正年間の養育院に関する造形物であり、板橋区の近代化の歴史を語る重要な史料となっています。平成26年(2014)3月に板橋区の登録文化財(歴史資料)となりました。
 平成26年12月 板橋区教育委員会

子爵渋沢栄一像

大正14年11月
小倉右一郎

大正14年11月建設寄附
澁澤養育院長銅像建設會
理事
會長 中村是公 
(以下略)

中村是公は関東大震災後の復興に取り組んだ第9代東京市長。
渋谷区広尾3丁目の旧中村是公邸(旧羽澤ガーデン)は有名であった。2011年に再開発で消失。


養育院本院

養育院本院の跡。
「養育院本院」の字は渋沢栄一の墨蹟

養育院本院の碑
 養育院は、昭和5(1871)年10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諸問に対し経営会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京芸大)、神田、本所大塚など東京市内を転々としたが、関東大震災後、現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(江戸幕府の松平定信によって創設された七分積金が明治維新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治7年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。特に第二次世界大戦後は、自動の保護や身寄りのない高齢者の養護、さらに高齢者の福祉・医療・研究、看護師の養成など時代の要請に応じて様々な事業を展開した。
 平成11年12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の膜を閉じたが、養育院が行ってきた事業はかたちをかえて現在も引き継がれている。
 養育院に関連する碑は、ほかに養育院の物故者中、引取人のいない遺骨を埋葬、回向をお願いした東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園にある。
 なお、碑の「養育院本院」は渋沢栄一の墨蹟を刻んだものである。
  平成25(2013)年3月 養育院を語り継ぐ会

この碑は元養育院職員当の篤志によって建てられました。
 地王独立行政法人 東京都健康長寿医療センター

養育院に関しては、以下に詳しい。

地方独立行政法人 
東京都健康長寿医療センター

養育院は、現在「東京都健康長寿医療センター」となっている。

東京都健康長寿医療センターは高齢者の皆様に信頼できる高度な医療を提供している急性期型病院です。

ようこそ 養育院・渋沢記念コーナーへ

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/guide.pdf

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/shibusawacorner2014.pdf

櫻園通信平成25年度発行

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/ouen_1-9.pdf


東京都健康長寿医療センター、かつての養育院を見つめる渋沢栄一像


谷中に養育院関連の慰霊碑が2つある。

養育院者故者の墓
義葬之冡(大雄寺)

台東区谷中の大雄寺では、養育院創設当初の物故者中、引取人のない遺骨の埋葬、回向を行っていた。
明治6年(1873)中の埋葬者は100名と伝えられ、寺内の一角に「義葬之冡」がある。この「義葬之冡」は養育院創立当時の唯一の遺構という。

養育院義葬の冡
 養育院は、明治5年(1872)10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原始資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治7年(1874)から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年(1879)には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成11年(1999)12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の幕を閉じた。
 ここ大雄寺には、養育院創設当初の物故者中、引取人のない遺骨の埋葬、回向をお願いしたものである。明治6年(1873)中の埋葬者は100名と伝えられ、寺内の一角に義葬之冡がある。この義葬之冡は養育院創立当時の唯一の遺構である。
 なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多磨霊園がある。
 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
  平成22年(2010)4月 
   養育院を語り継ぐ会

義葬之冡  明治6年癸酉

幕末三舟の一人、高橋泥舟墓の墓も大雄寺にある。

先日、勝海舟にまつわる史跡を巡り、勝海舟墓に参拝したら、ふと幕末三舟の残りの二人、山岡鉄舟と高橋泥舟の墓はどこにあるか気になって探してみた...

養育院者故者の墓
東京都養育院慰霊碑・了俒寺

谷中霊園の隣、了俒寺(りょうごんじ)の飛地にあたる了俒寺墓地に「東京都養育院慰霊碑」がある。了俒寺の境内ではなく、谷中霊園側となるので要注意。私は場所がわからなかったので、了俒寺の御人に案内していただきました。

東京都養育院慰霊碑
 養育院は、明治五年(1872)十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事・大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関るようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史に幕を閉じた。
 ここ了俒寺の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬、回向を御願いしたものであり、明治六年末から大正二年に至る埋葬者は三千七百六十二名である。
 なお、養育院物故者の墓は、ほかに東京都台東区谷中の大雄寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園がある。

 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。

 平成二十二年(2010)四月
             養育院を語り継ぐ会
この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                          了俒寺

慰霊碑
明治6年末から
大正2年12月まで
3762名
 合葬
東京都養育院

養育院義葬之墓
明治12年3月建之

東京市養育院義葬

明治から大正にかけての合葬墓、義葬墓が5つ並んでいる。

場所は、谷中霊園の甲3号5側の隣。

谷中霊園には渋沢栄一墓もあるがそれは別記事にて。

谷中霊園の一角に、了俒寺墓地の隣に養育院慰霊碑の敷地がある。

谷中7丁目に、了俒寺がある。

突き当りの白い壁が了俒寺。左手に谷中霊園側の了俒寺墓地がある。


養育院合葬冢・多磨霊園

多磨霊園にて拝してきました。(※2021年9月)
場所は、5区の無縁墓地エリア。

東京市養育院合葬冢

歸入無為楽

昭和五年三月 成

養育院合葬冢
 養育院は、明治五(千八百七十二)年十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史の幕を閉じた。
 ここ多磨霊園には、昭和八年以降、養育院の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬し、現在も供養をしている。
 なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺及び栃木県那須塩原市の妙雲寺がある。

 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
   平成二十二(二千十)年四月 養育院を語り継ぐ会

 この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                   東京都福祉保健局

 ここ多磨霊園には、この碑文にある養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)があります。

裏には、墓標が5つ、並んでおりました。
明治・大正・昭和にかけて合葬されてきた証。

場所


大久保一翁墓

多磨霊園には、養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)もあるので拝してきた。

大久保忠寛
幕臣、のちに東京府第五代知事を務める。養育院創立時の東京府知事。養育院の設立を行い、運営を渋沢栄一に委任した。

大久保氏墓
一翁忠寛之墓

勝海舟の書、という。


栃木県那須塩原市の妙雲寺にあるという養育院者故者の墓は、訪れる機会があれば、アップデートします。


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