「海軍」カテゴリーアーカイブ

海軍工作学校と海軍通信学校(久里浜)

平成31年3月(通信学校・久里浜駐屯地)及び平成30年5月(工作学校関連)撮影

海軍通信学校庁舎(昭和14年)

「海軍工作神社」

久里浜八幡神社
境内社「海軍工作神社」
昭和16年4月に久里浜にて開校した、海軍の工作術教育を行う海軍術科学校「海軍工作学校」校内に祀られた神社を発祥とし、戦後に海軍工作学校戦没者慰霊として久里浜八幡神社境内に遷座したという。 社号標は「平成7年8月吉日建立・・・」と銘記あり。

「久里浜八幡神社」を参拝。
境内地からは弥生式土器も出土しており、周辺には古墳も点在。 当社の創建は養老4年(720)という。


「海軍工作学校跡」碑

海軍少将 美原泰三 謹書(終戦時の海軍工作学校長)
久里浜公園

海軍工作学校は工作術専門の教育機関として昭和16年4月開校。(それまでは工機学校が工作術を兼務)特殊潜航艇「海龍」は海軍工作学校の研究開発であった。 海軍工作学校卒業者のうち戦死者は5千余人という。

海軍工作学校跡碑
建設之趣旨
 昭和十六年此の地に創設された海軍工作学校は、従来工機学校の一分科であった工作科が始めて独自の教育機関を持った画期的なもので、その後更に沼津分校の設立に拠て発展して行ったのであります。其の間、数万の学生、練習生に工業技術(金工、木工、潜水)教育を施し大きな成果を挙げました。
 此の学校を卒業した若者或は職員として深いゆかりのあった、工作科関係の多数の人達が太平洋戦争に殉じ尊い生命を捧げ、北海の果て又は南冥の戦場に散華されましたことは誠に痛恨に耐えません。戦後復員した者達は、本校等で習得した技術と旺盛な精神力を夫々の分野に於て発揮し祖国復興に大きな役割を果し、平和日本建設の原動力となったものと確信致します。
 今此の母校跡に記念の碑を建設し、謹んで海軍工作科関係戦没英霊の御冥福を御祈りするとともに此の地を訪れる卒業生、遺族並びに関係の皆様が当時を偲ぶよすがとし、永くその業績を称えたいと念願するものであります。
昭和五十二年三月 発起人一同 (碑文引用ここまで)

旧海軍工作学校戦没者慰霊祭
http://kurihama.info/event/kousakugakkou_ireisai/

当地は毎年5月22日13時に久里浜八幡神社より神職が出向し、神式にて慰霊祭が斎行されているという。 すでに遺族会は数年前に解散しており現在は久里浜観光協会が主導・・・


久里浜には海軍工作学校のほかにも、海軍通信学校(現在の久里浜駐屯地)や海軍機雷学校(のち海軍対潜学校)があった。海軍対潜学校は現在の「横須賀刑務支所・久里浜少年院」の近く。ちなみに最後の対潜学校長は木村昌福 少将。そこにも跡地の石碑がある。

久里浜駅近くの長安寺に慰霊碑があるというので立ち寄ってみました。

「浦賀引揚援護局引揚者精霊塔」

昭和22年1月 
浦賀引揚援護局建立 引揚船コレラ病没者(身元不明者)を祀っているという。
(神奈川県忠魂碑等建立調査集・参考)
合掌を…

同じく、久里浜の長安寺にある「祠」


「通校神社(海軍通信学校神社)」

海軍通信学校庁舎前に鎮座していた「通校神社」。
「通校神社」 は終戦後に長安寺に遷座されている。

久里浜駐屯地 歴史館にて

「海軍通信学校」跡

現在の陸上自衛隊久里浜駐屯地

日本海軍においては、明治36年(1903)に海軍水雷学校に於いて無線電信術練習生として無線通信要員の育成がはじまり、昭和5年(1930)に海軍通信学校が独立するに至っている。
昭和14年(1939)11月に通信学校は 久里浜に移転。昭和18年には通信科要員の需要が増し、海軍防府通信学校が併設され、従来の通信学校は「海軍横須賀通信学校」と改称。

碑は志摩清英(通信学校長・海軍中将) 謹書

平成31年3月の久里浜駐屯地「桜まつり」で敷地内見学。「海軍通信学校跡」の碑は立入禁止エリアでしたので許可を得て望遠撮影。

立入禁止エリアが多くて・・・

海軍通信学校庁舎(現在の本館)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」は閉校後は復員局を経て米軍が接収。
戦後、昭和25年に「警察予備隊」が発足すると久里浜部隊が開設され、その後は「保安隊」の通信学校となる。
昭和29年に陸上自衛隊が設立すると、当地は「陸上自衛隊通信学校」が開設。陸上自衛隊として最も古い駐屯地であり、旧海軍通信学校庁舎をそのまま使用している。


海軍通信学校兵舎
(第一兵舎・第二兵舎)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」
おそらく本庁舎と第一兵舎・第二兵舎は開校当初同じ時期に建設されたものと推測。

海軍通信学校以来の建物は「1」「2」「3」と棟番号が振られている。

海軍通信学校・海軍栓

陸上自衛隊久里浜駐屯地内

歴史館前に
歴史館前に
第一、第二兵舎の間に
第一、第二兵舎の間に

海軍通信学校・車庫

陸自時代の現在も同じく車庫として使用されている。


久里浜駐屯地内の記念碑

甲種飛行予科練習生 電信術錬成之地
昭和62年4月吉日建立
保安隊記念碑 昭和29年
保安隊駐屯記念碑 昭和28年
保安大学校開校之地(防衛大学校創設の記念碑)
平成31年3月吉日建立

久里浜駐屯地「歴史館」

海軍甲種飛行予科練習生の電信術錬成之碑建立記念
帝国海軍 精神注入棒
海軍通信学校時代の軍艦旗掲揚に使用された竿
海軍通信学校校歌
山下奉文ゆかりの書

山下奉文閣下から陸軍少年通信学校長に就任された高木正実大佐に宛てて書かれたもの。

観桜

もともと「桜まつり」でしたね。観桜も。

非常に空いていた久里浜駐屯地。午前9時から2時間ほど滞在。

ちょうどこの日は米軍のフレンドシップデーとも被っていたというのもあるのかな。私は、このあとは横須賀走水方面に赴きました・・・

「忠魂祠堂」と「軍艦比叡鎮魂碑」

平成30年8月撮影・横須賀・光心寺

「忠魂祠堂」

明治33年10月28日に創建。
昭和12年2月6日に再建。
建立は横須賀鎮守府。


明治二十七八年戦役(日清戦争)、明治三十七八年戦役(日露戦争)、満洲・支那事変、大東亜戦争戦死病没者を祀る御堂。

「忠魂祠堂」光政謹書
扁額は米内光政によるもの
再建時(昭和12年)の海軍大臣

横須賀・光心寺
忠魂祠堂の手前に

「軍艦比叡鎮魂碑」


昭和57年5月吉日、比叡会及び遺族外有志一同建立
軍艦比叡戦死者188柱を祀る

「軍艦比叡戦没者供養塔」五輪塔
昭和61年4月19日 軍艦比叡会建立

軍艦比叡艦歴  
 比叡は大正三年八月巡洋戦艦として横須賀海軍工廠で完成し横須賀在籍の新鋭艦として活躍した。
 昭和五年軍縮会議の結果練習戦艦となりその兵装機関の一部を撤去し第一線を退いたがその間にも昭和八年の特別大演習、同十年の南九州行幸及び翌十一年の特別大演習の三回にわたり大元帥陛下の御召艦としての栄に浴した。 
 昭和十二年「アーマー」の取付け、「バルジー」の新装備、前檣楼の改装射撃盤の近代化等の再改装が呉工廠で行われ同十五年初めに最新鋭の高速戦艦として第一線に復帰した。同年秋横浜沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式には重ねて御召艦となった。
 昭和十五、六年には高松宮宣仁親王殿下がその砲術長として勤務された。
 昭和十六年十二月大東亜戦争が勃発すると、比叡は新編成の第一航空艦隊の支援部隊として「ハワイ」、印度洋「ミッドウエー」等の海戦に参加し大いに武威を輝かした。 昭和十七年後半南東方面の戦局が急を告げるや 同方面に再び作戦し、第二次「ソロモン」南太平洋海戦に参加した。同年十一月十二日深夜「ガダルカナル」島敵飛行場砲撃の任を帯びた特別挺身攻撃隊(戦艦霧島、軽巡一隻、駆逐艦十二隻)の旗艦として目的地に突入したとき、予期しない敵重巡部隊と遭遇し激しく交戦した。比叡の放った主砲の初弾で敵重巡部隊の旗艦「サンフランシスコ」の艦橋を吹き飛ばしよく敵の大部を倒したが、比叡も亦百発以上の被弾を受けその一発が不運にも舵取機に命中し航行不能に陥った。十三日早朝から敵機の反復攻撃を受け単艦よく奮戦したが日没におよび阿部司令官の命により、乗員を駆逐艦に移乗し、自ら「キングストンバルブ」を開いたがなお沈まず、最後に駆逐艦雪風の雷撃で止めの一撃を加えざるを得なかった。英霊百八十八柱は艦と運命を共にした。
( 「軍艦比叡鎮魂碑」碑裏面の引用は以上 )

軍艦比叡戦没者供養塔趣旨
軍艦比叡は昭和十六年十二月(一九四一年)今次大東亜戦争開戦と同時に第一航空艦隊支援艦隊としてハワイ 印度洋 南太平洋及びミッドウエー海戦等に参加し輝かしい武勲を樹てた。昭和十七年後半戦局は極度の急を告げ南太平洋海戦特に第三次ソロモン海戦に参加
「ガダルカナル島」の敵飛行場の撃破粉砕の任を帯び特別挺身攻撃隊の旗艦として同泊地に突入したが期せずして十一月十二日敵重巡部隊と遭遇暗夜の混戦となり比叡の主砲及び各砲は一斉に敵艦船に対し火蓋を切り精錬された砲員の的確で痛烈な斉射は敵重巡部隊を撃滅した。比叡もまた敵の好目標となり昭和十七年十一月十二日夜から十三日に亘る敵の激しい砲雷爆撃により露天甲板以上の戦闘員多数は肉を裂かれ骨を砕かれこの鮮血に埋もれた伏屍が累々と激戦の惨状を呈した。この海戦で実に一八八柱に及ぶ犠牲者は比叡と共に同十三日夕刻南海の果てにその姿を没した。
戦死された尊い犠牲者の魂は戦後日本の復興と悠久の平和世界に誇る経済の発展に繋がる原動力となっていることは正に戦没者の遺産で日本人の心の奥に今も脈々と生き続けており軍艦比叡会はこの栄光の軍艦比叡と英霊の遺徳を後世に残すべくさきに軍艦比叡鎮魂碑を建立したが更に茲に有志相集い永代の供養を捧げる赤心を結集して軍艦比叡戦没者供養塔を建立して英霊の安らぎを念願するものである。 (「軍艦比叡戦没者供養塔」塔側面 趣旨引用は以上)

横須賀・光心寺
「忠魂祠堂」の裏山には防空壕跡もありました。
今回は友人車で参拝させていただきましたが、最寄り駅はJR衣笠駅より徒歩5分ほどの地に鎮座。 清廉な寺院空間となりますので失礼のないように参拝を。

駆逐艦「峯雲慰霊碑」

平成30年8月撮影

横須賀・満昌寺
「駆逐艦峯雲慰霊碑」

駆逐艦 峯雲
大東亜戦争に於て
祖国のためと信じ
純粋な心で戦い
多くの若い命を捧げて
平和の願いをこめた思を
慰霊碑に永く残す。

平成七年三月五日
駆逐艦峯雲戦友会代表世話人 名生 正孝 建

昭和十三年四月三十日
大阪藤永田造船所に於て竣工
第四十一駆逐隊編成第三予備艦
(略)
昭和十六年十二月八日
大東亜戦争参加
(略)
昭和十八年三月五日
ソロモン群島コロンバンガラ島クラ湾夜戦に於て敵巡洋戦隊巡洋艦三隻駆逐艦三隻と交戦 轟沈 戦死者二百八名

横須賀・満昌寺 (臨済宗建長寺派 義明山満昌寺)

「駆逐艦 峯雲 慰霊碑」は墓苑の片隅の一番高い場所に鎮座。
三浦義明を追善するために創建と伝承され、源頼朝とゆかり深き寺院。

駆逐艦「村雨の碑」

平成28年4月撮影

浦賀は鴨居港に面した地に、駆逐艦「村雨」の慰霊碑が建立されている。

駆逐艦 村雨

大東亜戦争に於いて
純粋に日本のために
青春を捧げて
戦歿した戦友を偲び
祖国愛と
平和への願いをこめて
この慰霊碑を建立する

昭和五十七年三月五日
村雨会会長 鹿山譽

感謝と鎮魂を。

駆逐艦「村雨」は太平洋戦争中の昭和18年3月5日の深夜、敵艦の集中砲火を受け、ソロモン群島(コロンバンガラ島沖)にて艦と共に乗組員119名の方々が南の海に散華された。

観音崎・多々良浜に面した静かな海。

駆逐艦村雨の碑は遙かに太平洋、ソロモン諸島に連なる海を見つめていました。 ありがとうございます…

駆逐艦村雨の碑
場所: https://goo.gl/maps/bEDqcC5U79s …

旧・横須賀鎮守府司令長官官舎

平成28年4月撮影

現在の海上自衛隊横須賀地方総監部田戸台分庁舎。
桜の季節に一般公開。
友人に連れられてサクッといって参りました。

基本情報(公式サイト内案内ページ) http://www.mod.go.jp/msdf/yokosuka/event/tadodai/tadodai.html …

到着したのは9時過ぎ。

公開開始時間も9時からなので絶妙なタイミング。

桜に錨は海軍のシンボルマーク。

自衛艦旗も美しく。 伝統墨守の海上自衛隊。

横鎮長官官舎は大正2年(1913)に建設。

建設時の横鎮長官は瓜生外吉海軍中将。企画設計は桜井小太郎。桜井氏はロンドン大学で学んだ日本人初の英国公認建築士で帰国後に海軍技師。呉時代に呉鎮司令長官官舎を設計。こちらは現在の入船山記念館(国重文)。

米国でステンドグラスの製作技法を学び、日本のステンドグラス草創期に業績を残した小川三知氏の作品。 館内には往時のステンドグラスが残る。

洋風館と和風館の接続建築。

洋風館部分は木造平屋建て、亜鉛葺切妻屋根、イギリス伝統のハーフティンバー(柱はそのままで間の壁を漆喰で埋める)の建物。

なお、もとは木造平屋建てですが、ぱっと見でレンガ造りぽくみえるのは、のちに煉瓦タイル張りに変更されたもので、もともとは木造板張りとのことで。 _φ(・_・

洋風館部分で特に美しいのが庭園側に張り出した切妻屋根に三連チューダーアーチを挟んだ位置にあるトンガリ屋根。 アーチ上には流造のような屋根と小窓、三角屋根の小窓も屋根裏のワンポイント。

和風館部分は二階建て。こちらは洋風館部分に対して簡素にして質素。 洋風館部分と和風館部分がくっついてひとつの建物として成立しているのが面白い。 呉鎮守府司令長官官舎(入船山記念館)もそうですが。

さて、館内を見学していきましょう。

建築当初は応接室として使われた一室。 現在は記念室として司令長官室的執務室的に展示されおります。

記念室展示。

おや、野村吉三郎さん。駐米大使で余りにも有名ですが海軍出身なのです。 軍令部次長ー呉鎮長官ー横鎮長官ー上海事変の第三艦隊司令長官ー阿部信行内閣外相ー開戦時の駐米大使ー戦後も色々…

記念室。展示。

本棚に収められた書籍が魅惑的すぎるっぽい。 施錠してあったけどw

歴代横須賀鎮守府長官

田戸台鎮守府長官官舎(横須賀鎮守府長官官舎)の歴代居住者。

建築当初は客室だった部屋。 室内にあるピアノは大正14年1925にドイツ・ハンブルクにて制作されたスタインウェイC型のグランドピアノ。 現在も演奏会で使用されている。

横鎮長官をはじめとする提督たちが揃いし空間を夢想させる長テーブル。

海気集 東郷平八郎書。
部屋には東郷平八郎の書が掲げられ、小さな像も棚にそなえられておりました。

洋風館の隣は和風館。
八畳間が二部屋。

窮理以致其知 東郷平八郎書。
儒学・朱子の一節。

廊下には海自艦のイラストが掲示されてました。
「しらせ」に「かとり」。 これはチョイスが渋い。

南極の石が寄贈されておりました。

桜を愛でる。

庭園からの眺望。
遠くに走水・観音崎を望む風光明媚の地。
この高台は「長官山」とも呼称されているのだ。

ちなみに立ち入り禁止でしたが、壕がありました。

こんな感じで約1時間。
横鎮長官官舎を見学させていただきました。

桜の季節のみの一般公開。
ゆっくりと歴史の重みを感じさせる趣を堪能させていただきました。 ありがとうございます。

となりは横須賀地方総監宿舎。
ちなみに撮ってはいませんが総監個人名の表札もぶらさがってました。 敷地内に掩体壕みたいなものが見えますね。

官舎から下り道を。こうしてみると高台(通称は長官山)にあるということが良くわかりますね。

白金台に残る海軍墓地の名残「白金海軍葬儀場跡」

平成30年5月撮影

港区白金台にある明治学院大学・白金キャンパス。 この地はかつては海軍墓地であった。


旧海軍軍人白金墓地記念堂

現在は「旧海軍軍人白金墓地記念堂」という納骨堂形式の建物が明治学院大の隣に残る。(非公開)
主に日清日露戦争時代の犠牲者を祀る海軍墓地。

施錠してあり敷地内は非公開。門の隙間から内部を見学を。

白金海軍墓地
 帝国在郷軍人会芝区連合分酋長(個人名略


昭和13年9月  
 芝区海軍分会建立

旧海軍軍人白金墓地記念堂の現在の建屋

定礎
 1991年9月 学校法人明治学院大学

現在は明治学院大学の管理。


旧海軍軍人白金墓地記念堂

白金海軍墓地(白金海軍葬儀場)

歴史的な背景。
終戦後の昭和20年秋、海軍の解体と共に旧海軍墓地は大蔵省に移管。
東京白金海軍墓地(白金海軍葬儀場)は明治学院大学に有償で払い下げられている。
白金海軍葬儀場は、その後に現在の「納骨堂方式」に変更されている。


位置関係

地図を見てみます。
「今昔マップ on the web」を活用。 http://ktgis.net/kjmapw/index.html …

明治42年、はっきりと「海軍墓地」と記載あり

昭和20年、墓地の南部に学校がありますね

昭和41年、明治学院大!!

敷地内は非公開。過去に公開したことがあるのかどうかも不明。

今回は、ひとまずこれで本記事を〆・・・


場所

https://goo.gl/maps/UC3Um7Rpk8s21TNL7

「水交会」あれこれ

戦前の水交社。戦後の水交会。


水交社・水交会

明治9年に海軍省外郭団体として創設した「水交社」は戦後に海軍省と共に消滅したが、昭和27年(1952)に、財団法人「水交会」として復興。
水交会」は、帝国海軍戦没者及び海上自衛隊殉職隊員等の慰霊顕彰・海軍の良き伝統精神の継承・海上自衛隊に対する支援協力を目的としている。

由来は、「莊子」 (山木篇) の「君子之交淡若水 」から。
「君子之交淡若水」「小人之交甘若醴」に由来。
「君子の交わりは淡きこと水のごとし」「小人の交わりは甘きこと醴(れい:甘酒)のごとし」


公益財団法人「水交会」

https://suikoukai-jp.com/suikoukai/

水交社 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%BA%A4%E7%A4%BE

水交会 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%BA%A4%E4%BC%9A

東郷神社のとなり、東郷記念館に水交会本部がありました。

東郷記念館が改修工事中の為、水交会の事務所は、原宿ピーターハウスに移転。

横須賀水交会
毎年5月27日 海軍記念日の日。
横須賀「海軍の碑」にて。
横須賀水交会にて「海軍の碑記念行事」が行われている。

水交社本部跡

終戦とともに当時の水交社は解散し「水交社本部」はフリーメイソンによって占拠される。
昭和56年に跡地に「東京メソニックビル」が建設され、一室には水交社時代の応接室が再現されているという…

かつて水交会本部のあった地
現在の「東京メソニックビル」

水交神社鳥居

東郷神社の庭園に移築保存されている。かつては水交会本部にあった。

水交神社鳥居の由来
この鳥居は、もと築地・海軍用地(現在の東京中央卸売市場)の水交社敷地内にあった水交神社の二代目の鳥居です。 水交神社は、日清戦争に際し、海軍の戦勝を祈願し全国から寄せられた神符・護符を奉安し、また同戦役以後の戦没社員の霊を合祀するため創建された神社で、その初代の鳥居は戦利品の魚雷で作った異形のものであったため、明治四十四年に神明鳥居に建替えられました。 水交神社とその鳥居は、関東大震災の災禍をまぬがれ、昭和三年に水交社が芝区栄町(現在の東京タワー北西隣)に移転した際、同地に遷座されました。その后社殿は昭和二十年三月の東京大空襲で焼失しましたが、この鳥居だけは毀損をまぬかれました。しかし戦後、東京水交社の建物と共に進駐軍に接収され、その後曲折を経て昭和五十六年、同地に新しくビルが建てられることになったので、鳥居は(財)水交会に返還され、同年六月十五日、由縁深い東郷神社へ奉納されたものであります。 この鳥居は、半世紀もの間、変転する日本海軍を見つめつづけ、二度の大災禍にも堪えてきたものであります。そして皇族方や海軍大臣以下多くの武官文官、また水交神社で結婚式を挙げた方など、この鳥居をくぐった人々は数えきれません。
  以上

水交社

明治四十四年十月建之


偕行社/陸修会/陸修偕行社

海の「水交会」に対して、陸は「偕行社」であった。

元々が旧陸軍の組織であったため、戦後も正会員は陸軍出身者に限られていたが会員の高齢化が進み、1992年(平成4年)に18,715人を数えた会員も物故による退会者が毎年500名を数える状況になり、2001年(平成13年)の評議会において規則が改定され、主として陸自元幹部自衛官の正会員資格が認められるようになった

2011年(平成23年)2月1日に偕行社が公益財団法人に認定されたことに伴い、「英霊に敬意を。日本に誇りを。」を組織の理念とした。偕行社の果たす役割として、戦没者・自衛隊殉職者等の慰霊・顕彰、日本の安全保障問題に関する提言、自衛隊に対する協力を挙げた。

2022年4月27日、偕行社からの将来的な移行組織として陸上自衛隊元幹部によるOB組織「陸修会」が結成された。当初より陸修会は偕行社の事業を段階的に承継することとされていたが、最終的には2団体の合併の方針となり、2024年4月1日、偕行社を存続団体として陸修会と合併、新たに「公益財団法人陸修偕行社」として発足した。
海の「水交会」は、一般有志会員枠もあるが、陸の「陸修偕行社」では一般有志会員の枠は用意なく、そもそも陸上自衛隊の幹部退職者のみの団体となっている。

https://rikushukaikosha.or.jp/about.html


つばさ会

大日本帝国陸軍元将校の親睦組織である「偕行社」、大日本帝国海軍の親睦団体である「水交会」は、戦後それぞれ陸上自衛隊元幹部退職者、海上自衛隊の親睦組織として継承されたが、独立空軍がないため戦後に発足した航空自衛隊において、幹部退職者団体として会員相互の親睦と航空防衛力の発展に寄与することを目的として、1965年(昭和40年)に設立された。その後、会員資格者の拡大が行われ航空自衛隊の在隊者だけでなく、航空自衛隊勤務歴のある事務官(文官)も対象となっている。

陸修偕行社・水交会と異なり、「つばさ会」は公益財団法人ではない。


水交会会員

水交会は帝国海軍及び海自関係者が大半ではあるが、一般有志の会員もいる。(私も一般有志会員です)

水交会会員です
横須賀水交会(横須賀支部)所属

入会手続きについて
入会資格
本会の趣旨に賛同し、理事長が入会を承認した方はどなたでも会員になれます。

https://suikoukai-jp.com/suikoukai/admission-guide/procedure

ただし、一般有志会員の場合は、「紹介者氏名(必須)」なのが、ちょっとだけ敷居が高いかも、です。

戦艦武蔵の碑

平成28年3月撮影

武蔵一宮・氷川神社(大宮氷川神社)

旧帝国海軍最後の戦艦が大和型戦艦二番艦「武蔵」

武蔵に勧請された艦内神社は武蔵一宮氷川神社。沈没より71年後の平成27年(2015)10月24日。昨年、遺族悲願の顕彰碑が境内に建立。

戦艦武蔵

 戦艦武蔵は世界最高技術を駆使し、大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦である。
 パナマ運河幅の制限から、40cm(16インチ)を超える主砲を持つ戦艦を建造できない米海軍の弱点に注目し、主砲46cm砲三連装砲塔3基を搭載した世界最強かつ最大の戦艦として建造された。武蔵誕生に到るまでには多くの技術的困難があり、関係者の苦労は並大抵のものではなかった。また、海軍の指示により建造造船所である三菱重工業は、所員に対する緘口令等、建造秘匿の徹底を図った。
 昭和17年8月5日に広島県呉で行われた竣工式には、氷川神社より6名の神職が出向し、四季が厳しく執り行われた。艦内神社には、氷川神社が分祀され武蔵神社と命名された。
 昭和19年10月17日「捷一号」作戦発令により、日米両海軍の主力が艦隊決戦を行わんとフィリピンレイテ沖を目指した。武蔵は米海軍の航空攻撃を一手に引き受け、10月24日シブヤン海に没した。同作戦により戦艦武蔵の乗員1039名戦死、生存1329名もマニラ防衛戦等に投入され最終的に祖国の土を踏めた者は430余名と言われている。
 ここに戦艦武蔵を顕彰し、碑建立に協賛、賛同するものである。

平成27年10月24日建立
 戦艦武蔵顕彰会
協賛団体
 軍艦武蔵会
 埼玉県防衛協会(創立50周年記念事業)

設立趣旨
 連合艦隊旗艦であり世界最大の戦艦武蔵がフィリピン沖で戦没してから平成26年10月24日で満70年となりました。「武蔵」の艦名は埼玉県、東京都、神奈川県北東部の旧国名である「武蔵国」に由来し、乗組員の拠り所でもあった艦内神社として武蔵一宮氷川神社の分社である武蔵神社が艦内に祀られていました「大宮」の地名の由来ともなった「大いなる宮居」として尊崇されている氷川神社が鎮守するこの大宮後において、没後70年を節目として多くの心ある有志が集まり、戦艦武蔵顕彰会が設立されました。
 当時の世界最高水準である造船技術と、類まれなる操船技術で、不沈艦の相応しい最期を遂げた戦艦武蔵と乗組員の不屈の武蔵魂を後世に伝承し、先人たちへ感謝を捧げ、未来永劫、顕彰していくべく、この顕彰碑を建立する。
 平成27年10月24日
  戦艦武蔵顕彰会会長 新藤享弘
  権宮司 東角井真臣 揮毫

吉村昭さんの名著「戦艦武蔵」を片手に。
筑波空記念館の武蔵コーナーを思い出しつつ。

宇垣纏は「戦藻録」にて、
武蔵沈没の報を受け、以下のように記している。
「嗚呼、我が半身を失えり!誠に申し訳なき次第とす。さりながらその斃れたるるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり。遅かれ早かれこの両艦は敵の集中攻撃を喰らう身なり」

シブヤン海にて、71年ぶりに姿を伝えた戦艦武蔵に敬意を表し、犠牲となられた戦艦武蔵・乗組員・関係者に感謝と哀悼の誠を捧げる。

軍艦多摩慰霊碑

平成26年10月25日撮影

平成30年12月撮影

2014年10月 大國魂神社境内に建立された軍艦多摩慰霊碑。 碑が建立された慰霊祭の翌日に見に行ってきました。

境内参道脇におおきな石碑がある。 忠魂永存。 昭和33年4月12日。 徳富蘇峰撰。門人静峯塩崎彦書。 その傍に昨日10月25日。新しい碑が建立されました。

大日本帝国海軍 
軍艦多摩戦歿者慰霊碑

玉の緒の
 あらんかぎりは
  大神の
御恵うけて
 國や守らん
海軍少佐松川彦太郎
大正十三年一月二十七日献歌

大国魂神社境内に 平成二十六年十月二十五日建立

碑裏文

軍艦多摩
 球磨型二等巡洋艦 基準排水量五一〇〇頓 全長一六二・一五米 全幅一四・一七米 出力九〇〇〇〇馬力 速力三六節
 艦内には守護神として大國魂神社が祀られていた。  
 昭和十九年十月十八日、捷一号作戦が発動され、多摩は第一機動部隊の一艦として出撃した。 二十五日、フィリピンエンガノ岬沖に於いて敵機動部隊と交戦し機関室に被雷、呉へ単艦回航中、米潜水艦ジャラオの雷撃により沈没した。 山本岩多艦長以下総員戦死。 北緯二一度二三分、東経一二七度一九分、時間午後十一時十分。
 本年、軍艦多摩沈没七十年にあたり、軍艦多摩と戦死された英霊を鎮め、世界の恒久平和を祈念しこの碑を建立する。

艦歴
大正 七年八月 三菱長崎造船所に於いて起工
大正 十年一月 竣工 呉鎮守府籍に編入
大正十一年五月 軍艦多摩鎮祭の為慰霊祭を奉仕
大正十三年一月 松川彦太郎少佐 御神璽拝受の為来社参拝
昭和 二年十月 横須賀鎮守府籍に移籍
昭和十六年七月 聯合艦隊に編入
昭和十七年五月 アリューシャン攻略作戦支援
昭和十七年十月 第二次アリューシャン攻略作戦従事
昭和十八年三月 アッツ島輸送船団護衛従事
昭和十八年三月 アッツ島沖海戦参加
昭和十八年七月 キスカ島撤収護衛従事
昭和十九年六月 硫黄島へ陸軍部隊輸送
昭和十九年十月二十五日  
 捷一号作戦フィリピンエンガノ岬沖海戦参加
 米潜水艦ジャラオによる被雷三本 海没
昭和十九年十二月二十日 除籍

平成二十六年十月二十五日  
 大國魂神社 宮司 猿渡昌盛  
 軍艦多摩顕彰会  
 大國魂神社氏子青年崇敬会  
 
 題字 吉野大巨  
 詠歌書 荒井紫峰  
 石工 室井石材

在りし日の姿を偲ぶ。

軽巡洋艦多摩。

70年目にして。

沈没の日(10月25日)に合わせて建立された慰霊碑。

艦内神社として勧請されていた大国魂神社の神霊でもって慰霊をする。

近代海軍発祥之地跡散策(築地)

平成29年5月撮影 ※現在は築地再開発により現地状況変わっております。

近代海軍発祥の地「築地」散策。 そのほか魚河岸水神社・波除神社・本願寺・聖路加病院などの散策。

築地

江戸時代に「地を埋め立てて築いた」ことから築地と呼称されたという土地。いまでこそ「築地市場」のイメージしか湧かない場所柄ですが、戦前は海軍用地として展開。 そんな海軍ゆかりの地を散策してみました。

「築地」の歴史をざっくりと。

江戸時代。 1657年(明暦3)明暦大火の際に焼失した浅草御門南の「西本願寺」の代替地として佃島の住人によってこの土地が埋め立てられ造成。 現在の「築地本願寺」を中心した寺町が形成される。 ※現在の本堂は1934年竣工(後述)

江戸時代末期、江戸幕府は軍事力増強を目的として築地に講武所を設置。 これが海軍部門の軍艦教授所(安政4年/1857)となり、のちに「軍艦操練所」(築地軍艦操練所)に改称され勝海舟らが教授として赴任している。(勝はのちに神戸海軍操練所を設立する)

明治維新の後、築地界隈の大名屋敷や築地軍艦操練所跡は明治政府に接収。
明治2年(1869)「海軍操練所」が創立。
明治3年「海軍兵学寮」に改称。
明治9年「海軍兵学校」と改称。
「海軍兵学校」は明治20年に広島・江田島に移転。

旗山碑

明治5年(1872)築地の元尾張別邸に「海軍省」(前身)が創立。 大名屋敷庭園の築山に「海軍卿の旗」(海軍大臣の前身が海軍卿)が掲げられた為「旗山」(きざん)と呼称。 のちにこの地が「海軍発祥の地」として記念碑が建立された。

旗山碑

この旗山碑はもともとは今の市場の中心地にあったというが、戦後の市場再整理に伴い移動。
同じく「築地の水神社(後述)」も移動して、それぞれが現在の場所に鎮まったとされます。
今後の築地再開発(?)で、どうなるかは知りませんが。

築地の海軍省は明治15年に築地より移転。(兵学校は明治21年移転ですのでそれよりも早く移動)
海軍省と兵学校が移転後の築地には海軍軍医学校や経理学校(後述)などが展開されていきます。

築地は明治期の海軍一大拠点だったのです。

旗山碑 銘文

此処ハ往昔徳川幕府ノ時、松平定信ノ別業浴恩園内勝地タル賜山ノ一部ニ属ス。
明治二年海軍庁衙ヲ此地ニ置ク、五年本省設立後、海軍卿旗ヲ此丘陵ニ樹ツ、世人呼ンテ旗山ト称ス。此地ヤ実ニ海軍経営ノ根基ヲ為セリ。
蓋シ其発祥ノ地ト謂ツヘシ。
爾來、春風秋雨幾星霜、省庁転移シ僅ニ一二ノ衙門ヲ留ムルノミ、地形漸ク変リ、旧時ノ状景亦尋ヌルニ由ナカラントス。
乃チ旗山ノ地点ヲ相シテ一碑ヲ建テ以テ記念ト爲スト云爾
 昭和十二年一月五日  海軍大臣 永野修身

永野修身海軍大将の謹書

余談。
築地「海軍発祥之地」は永野修身海軍大臣。
で、私はこれを「近代海軍発祥之地」と表現しました。

ややこしいことに昭和15年に皇紀2600年として宮崎県に神武東征ゆかりの「日本海軍発祥之地碑」(米内光政 首相 海軍大将)が建立されてまして。(未訪

築地魚市場

大正12年(1923)関東大震災発生。 日本橋魚市場が壊滅的な打撃を受け市民生活復旧の為に水運・陸運に恵まれていた築地の「海軍用地」を一時的に借り受けて魚市場を再開。
気がつけばそのまま昭和10年、東京市中央卸売市場が開設。

築地の水神社

魚河岸水神社遥拝所
日本橋魚市場が関東大震災で被災し、この築地の「海軍用地」に移転してきた際に「魚市場の守護神」として当神社の築地に新たに祀られた。

天正18年(1590)徳川家康公の江戸入府とともに移住してきた日本橋魚市場の開祖・森孫右衛門ら摂津国の佃村・大和田村の漁師たちが、大漁・海上安全と子孫繁栄を祈願して「弥都波能売命」を祀った「大市場交易神」が起源という。

神田神社の境内に「魚河岸水神社」が建立。 日本橋魚市場は関東大震災以後に築地に移転し、現在地に遥拝所が建立され「水神さま」として市場関係者の崇敬が篤い。

※写真は神田明神境内の「魚河岸水神社」の本社。(平成29年5月撮影)

築地の水神社(魚河岸水神社遥拝所)
御祭神 弥都波能売命

築地市場の護り神
「海軍の築地」から「魚市場の築地」へ 気がつけば、近代海軍発祥之地碑「旗山碑」も魚市場を守護する神社境内の片隅に。

鳥居は昭和10年(1935)建立。関東大震災ののちに築地海軍用地に臨時の東京市設魚市場が設置され、正式に現在地に東京市中央卸売市場が開設された年が昭和10年。
旗掲揚台は昭和17年造でした。

今は使われていない水盤は舟形でした。 狛犬の台座には昭和11年の銘あり。

ところで魚河岸水神社遥拝所は遷座の歴史を繰り返してきたわけで。

日本橋魚市場→築地魚市場。

この先は豊洲魚市場となった場合は、魚河岸水神社遥拝所も豊洲に遷座する可能性があるわけで。
今は神社と同居している近代海軍発祥の地「旗山の碑」は、どうなるんだろうね。近隣移動するのかな…
水神社前。大盛況。 観光客から市場関係者まで往来がひっきりなし。 これは築地ならではの活気ある光景ですね。

せっかく築地にいるのだから。 水神社の横にある「水神様通り」に。

吉野家です。噂に聞く「吉野家・築地一号店」 築地といえば海鮮物も迷いどころですがどこも並んでおりまして、ここはサクッと吉野家ですよw

ターレットトラック(ターレ)で乗り付ける市場関係者で大盛況。

吉野家・築地一号店

日本橋魚市場に鎮座していた「魚河岸水神社」は関東大震災後に市場とともに築地に遷座。関係する商店も移動。 日本橋魚市場で開業した「吉野家」もまた築地に移動しており、ここが「吉野家一号店」

「近代海軍発祥の地」は「吉野家発祥の地」でもあり…

吉野家・築地一号店
威勢良いおばちゃんが「いらっしゃいませ。今日は何にいたしましょう!」と声をあげる。この雰囲気は良いです。朝から麦酒が呑みたくなります(仕事あるので自粛したけど)
いつもの「吉野家の牛丼」が、…いつも以上に美味しく感じられますw

市場場内域をでるとすぐそこに鎮座している神社

波除神社

江戸時代の万治2年(1659) 「築地」埋立時に海面を漂う光り物(稲荷大神の御神体)を祀ったところ、波風がおさまり埋立工事が無事に完了したという説話が残っている築地の鎮守様。魚市場関係者の崇敬が篤い。

境内には漁業及び市場関係者の奉納碑が多い。 ここでは個別掲載はしないので、公式サイト参照で。 →http://www.namiyoke.or.jp/jinjyanogosyoukai.html …

ん?この碑は昔に参拝した時には無かったぞ。 去年奉納されたようで知りませんでした。
「奉納 吉野家 碑」
銘文によると、築地市場の豊洲への移転に伴い「築地一号店」も移転することになった、と記されてました。 移転問題は引き続き推移を見守りましょう…

さて築地エリア・波除神社から道をまっすぐに北西方向に。
「国立がんセンター」が次の目的地。
場所→https://goo.gl/maps/pQMrusHNDwH2 …
東京都中央区築地4丁目15の北側。 料金所の近くにひっそりと、海軍関係の2つの碑があります。

海軍兵学寮跡
海軍軍医学校跡

国立がん研究センター築地キャンパス構内に鎮座する2つの碑。

「海軍兵学寮跡碑」
明治2年1869、前身の海軍操練所が築地に開設。 翌3年「海軍兵学寮」、明9年に「海軍兵学校」と改称。 明21年1888に海軍兵学校は江田島に移転。 齋藤實海軍大将の揮毫。昭和9年5月建立。

「海軍軍医学校跡」
明治6年1873、海軍病院付属学舎が設立するものち廃校。 紆余曲折があり明22年に芝に「海軍軍医学校」開設。 明治41年1908、築地移転し昭和20年11月1日閉校。 碑は最後の軍医学校校長であった神林美治海軍医中将揮毫。

「海軍兵学寮跡」 「海軍軍医学校跡」 この2つの碑がある場所の横の意味ありげな柵が気になりました。 なんの説明もないけども、なんか年代物です。 きっと歴史的な何かなんでしょう(わからないけど

日本国海図及び海洋調査発祥の地

東京国税局の前庭に。

水路記念碑
日本国海図及び海洋調査発祥の地
明治4年、ときの政府は、海運や国防のために船舶が安全に航海するため海の深
さや目標物を記した海図の整備が急務であると考え、兵部省海軍部水路局を現在の東京都中央区築地に創設し、外国人に頼らず独力で海洋調査を行って日本国として初めての海図を作製しました。これらの業務は海上保安庁海洋情報部に引き継がれ、現在も続けられています。
平成23年、海洋情報部の庁舎を江東区青海に移転することとなり、140年に亘る
長い歴史を刻んだ築地の地を発祥の地として後世に伝えることとしました。
 平成23年9月12日
 海洋情報部関係者一同

軍艦操練所跡

晴海通りを隅田川方面に移動。皇居桜田門・凱旋濠界隈から勝鬨橋方向に伸びる晴海通りにシレッとある看板は「軍艦操練所跡」案内。 案内看板はありますが、特に碑はありません‥ これもまた、近世から近代へと移り変わるさなかの海軍発祥の布石でもあり。

八紘一宇の碑(国旗掲揚台)

近くには八紘一宇の碑もありました。
紀元2600年(昭和15年・1900)記念、築地門跡青年団 の建立

勝鬨橋

昭和15年竣工。国重要文化財指定。 隅田川にかかる可動橋(跳開橋)。 1970年11月29日を最後に開閉が停止、1980年には電力供給も停止。 勝鬨橋にも興味は深々ですが今回は軽く触れるに留めておきます。

勝鬨橋之記
勝鬨橋竣工の昭和15年建立された碑 碑文 明治三十七八年の戦役に於て皇軍大捷す京橋區民は之が戦勝を記念し此處に渡船場を設け勝鬨の渡と名付け東京市に寄附す
昭和八年六月東京市は新に双葉可動橋の架設に着手し偶日支事變勃發せるも今年六月功を竣ふ即ち橋に名付くるに亦勝鬨を以てし長く皇軍戦勝の記念となす
 昭和十五年十二月
 東京市長  大久保留次郎 撰併書

勝鬨橋の由来が記されし碑文。時代の名残が現在の名称に残る。
「かちどきの渡し」 明治38年、日露戦争の旅順要塞陥落を契機として有志が築地月島間に渡船場を設置し「勝鬨の渡し」と命名。 昭和15年に新たに橋が開通すると「勝鬨橋」とその名残の名称が受け継がれ「勝鬨の渡船」は廃止。

海軍経理学校之碑

海軍経理学校は、海軍兵学校および海軍機関学校とならぶ旧海軍三校のひとつ。 明治7年1874、海軍会計学舎が芝に開校。 明治21年1888、築地へ移転。 明治40年1907、海軍主計官練習所を海軍経理学校と改称。

海軍経理学校之碑
明治7年海軍会計学舎が芝山内天神谷に設けられたがのち幾変遷を経て明治40年にそれが海軍経理学校となった。その間明治21年校舎は築地に移されたがその敷地は松平定信邸の浴恩園の跡に当たった。明治時代その付近には海軍の施設が多くその一帯は海軍発祥の地とも称されている。校舎はさらに幾度か移改築を経て、昭和7年この西側築地の一角に移築されたが、太平洋戦争中就学人員激増のため、品川ほか地方三ヶ所に校舎を増設した。戦後の海軍解体に伴い昭和20年9月、同校は約70年の歴史を閉じた 。その間の出身者は万余をかぞえ輝かしい功績を残したが、戦後もわが国復興の中核となって活躍した。戦後30年を機にここにその栄誉と同校の跡を記念してこの碑をたてる。
昭和51年4月

ちなみに、 中曽根康弘氏は海軍経理学校の短期現役士官出身。

海軍経理学校之碑 裏面

裏面に掲げられし門標は昭和18年に開校した海軍経理学校品川校のもの。 学生の増加と戦局の悪化による疎開を兼ね、築地と品川のほかに浜松・垂水・橿原に分校が置かれた。

海軍経理学校校歌 (作詞・片岡覚太郎)

ゆるぎなき 御代のすがたのうつすてふ 東京湾頭
 波よする 築地の岸に聳えたつわれ等が母校
星うつり 人はかはれど古し庭 昔をかたり
 五十年 光栄ある歴史とこしえに我等をてらす
ああなつかしき われ等が母校
 母校の光栄はわれ等が誇り
この誇りすてず進みゆくこそ
 われ等が担う 永遠の使命ぞ

築地における海軍経理学校の最初の校舎敷地が、松平定信邸の浴恩園の跡に当たり、かって生徒クラス会を浴恩会と称したいきさつにちなんで、戦後は海軍経理学校同窓会を浴恩会と称することとしたが、この碑はその浴恩会が建立した。  昭和51年4月 浴恩会

附記) 今回は脇道にばかり逸れてしまってますが、せっかくなのでこの機会に触れておきます。

「海軍経理学校」ゆかりのものが都内の神社に残っています。

東郷神社御水舎の前の敷石
海軍経理学校正門敷石

浴恩会・昭和55年5月
※平成28年5月撮影

附記) 「海軍経理学校」ゆかりの史跡。

海軍経理学校正門敷石

浴恩会・昭和55年4月
「靖國神社」社殿裏梅園ちかくに。
こちらは東郷神社の敷石とは違い金属片が残っています。

附記) 「海軍経理学校」ゆかりの遺産。

海軍経理学校揚艇柱(ダビット)部の部品

「靖國神社」遊就館大展示室。
海軍経理学校揚艇柱(ダビット)部の部品が奉納されています。
(海軍経理学校品川校)
滑車・網巻・吊金具
(浴恩会・昭和60年5月) ※平成29年3月撮影


さて話を築地に戻さないと。 とは言っても実はこの先は海軍ネタはもうオシマイ。 近代建築を観て歩くことにしました。
その前にいったん休憩。 例の焼きたての「玉子焼」

築地といえば

築地本願寺

国重要文化財指定建造物。 昭和9年(1934)に竣工。 設計は伊東忠太。インド石窟寺院風の独特なデザイン。

昭和9年(1934)竣工。国重要文化財。伊東忠太設計。

細部も観ていて楽しい。

築地本願寺(浄土真宗本願寺派)
本願寺派や大谷派の寺院は朱印はございません、って。
西本願寺
(本願寺派 →http://www.hongwanji.or.jp/faq/#q000522 
東本願寺
(大谷派 →http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/leaflet/02.html …
神社専門なので深入りはしません…

現在進行形で境内整備中。平成29年10月までは工事が行われる模様です。

で、実は私がここに訪れた理由がもう一つありました。

築地本願寺境内西側にあるという記念碑
「日清戦争・近衛師団碑」  野津道貫 近衛師団長陸軍大将謹書
「日露戦争・後備第一師団記念碑」 川村景明 鴨緑江軍司令官陸軍大将謹書

これが…境内をどこを探しても「ない」んです。

ん?
途方に暮れて、工事警備員の方にスマホで検索して出てきた個人サイトのweb画像を見せつつ聞いてみます。


「こんな記念碑、見たことあります?」
工事警備員の方
「みたことないあ。ちょっとわからないなあ」
え? (けっこう大きいのに見たこと無い…だと?

警備の人が見た事ないというので、本堂事務所の受付の方に同じように聞いてみました。


「記念碑を探しているんです?」
寺務所の人
「境内の碑は全てあのエリア(写真の場所)に集めてあります。そこにない場合、重要度が高くないと判断して区画整理の際に処分してます。」

えっ? ええええ

動揺しました。
そりゃあ寺院側からすれば日清日露のなんやかんやは「重要度が高くない」と判断したかもしれませんが、記念碑にはそれを建立した人々の願いがこめられているんですよ。


「どこかに保存とかしてないんですか?」
寺務所の人
「担当ではないのでわかりませんが保存とは聞いていません」

あぁ…
頭が真っ白です。 建造物は安全性耐震性等で無くなることはありますが、記念碑が無くなる事態は想定してませんでした。

在りし日の参考
http://www.paper-band.jp/ppBlog/index.php?UID=1393635829 …

http://s-ohtsuki.sakura.ne.jp/sansakutenbyou/beautifulspot/Tsukiji-Teppouzu-Tsukudajima_SansakuH260916/Sub1_Tsukiji-Jougai_Ichiba-Tsukiji_Honganji-Sei_Roka_Kokusai_Byouin/newpage06-S.html …

http://www.visiting-japan.com/ja/articles/tokyo/j13co-tsukiji-honganji.htm …

なくなってしまったものはしょうがないです。
記念碑が何処かにあるかもしれないって、まだかすかな希望を抱いていますが参考Webの写真群と私の撮った最新写真と背景位置やアングルが被るため、そこにないことか確定なんですよね。

とぼとぼと歩いてだどり着いたのが「聖路加国際大学」
へー、芥川龍之介生誕の地…でしたか。
明治16年で、このあたりに牧場があったのも驚きです。

聖路加国際大学の裏手。このあたりが築地の居留地だったそうです。 明治の居留地時代のレンガ塀遺構。イギリス積。 あわせて明治末期のガス灯と大正15年に建築された明石小学校旧校舎の石剤がベンチに再活用されてました。 明治大正の不思議な保存空間。

聖路加国際病院旧病院棟・旧館

一部保存棟
昭和8年(1933)竣工 昭和18年(1943)には 戦時体制下で「大東亜中央病院」と呼称。 戦時中は当病院があることにより築地・明石町一帯はアメリカ軍機による東京大空襲の爆撃を免れたともされている。

聖路加国際病院旧病院棟 基礎石
神の栄光と人類の奉祀のため 
聖路加国際医道院 徳川家達書(徳川宗家16代当主)

上下の穴は大戦中に憲兵命令で遮蔽強制された名残。
(敵性語とか敵性文化とか面倒くさいやつですね。。。

「聖路加国際病院トイスラー記念館」
昭和8年、聖路加国際病院の宣教師館として竣工。(旧館と同じ時期の竣工ですね) 昭和初期の住居としては珍しい鉄筋コンクリート造一部木造建造物

ルドルフ・ボリング・トイスラー
(Rudolf Bolling Teusler、1876年2月25日 – 1934年8月10日)
米国聖公会の宣教医師、聖路加国際大学の創立者。日本初の近代型医療施設の聖路加病院 開設者で初代院長。

「アメリカ公使館跡石標」
明治8年に築地の外国人居留区に米公使館が新築。 明治23年に赤坂の現在地に移転し残された8個の石標のうち3個は赤坂のアメリカ大使館、2個は聖路加ガーデンに、残り3個が聖路加国際病院に設置。 白頭鷲(米国国鳥)・星条旗・星の彫刻。

朝7時過ぎに大江戸線築地市場駅に到着して、築地市場から「近代海軍発祥の地巡り」を本来の目的としつつ築地鎮守の神社と寺院(波除と本願寺)を巡り、聖路加(キリスト教)まで巡るという見事な神仏習合を発揮してしまい、だいたいの所要2時間半。 今回はなかなか有意義で楽しい散策でした

|-`).。oO(若干、かなり、ショッキングなこともございましたが。それもふくめて「フィールドワーク」の成果が得られたと思います。巡ってみなければわからないことです。 (とはいえ、まさか記念碑がなくなるなんて・・・ですが・・・

海軍省跡・軍令部跡の碑

平成29年5月撮影

平成29年5月。 現在の「農林水産省」があるあたりに、戦前は「海軍省・軍令部」があった。 その同じ区画「中央合同庁舎第5号館」の北東脇に往時の海軍時代を偲ぶ碑が建立されている。 しょうしょう訪れるのが大変な場所ですが参りましょう 。

現在の「中央合同庁舎第5号館」
この区画に戦前は「海軍省・軍令部」が展開されておりました。 (正確な位置は「中央合同庁舎第5号館」の北側に当たる「農林水産省」がある界隈)

この庁舎の内庭に「往時を偲ぶ碑」が建立されているが見学難易度が高く…

中央合同庁舎第5号館

まずは、日比谷公園の隣にある「厚生労働省の東玄関(正門)」からアクセスすることとなります。

厚生労働省アクセス案内
http://www.mhlw.go.jp/general/syozai/annai.html …

ストリートビュー的にはこんな感じの建物。

中央合同庁舎第5号館

https://goo.gl/maps/RnYRmBU4qrKTsktS7

正門(日比谷公園側)入館方法

https://www.mhlw.go.jp/topics/2009/02/tp0209-1.html

まずは入口の警備員に「海軍省跡の碑を見学させて下さい」と申告しましょう。
警備員が「庁舎受付」に誘導してくれます。

このご時世ですので部外者が庁舎に入館するのはなかなか大変です。
警備員の誘導に従って受付に参りましょう。

受付では「身分証の提示」と「名前・住所など」を記帳し「入館申請」をします。

なお、警備員に聞きましたが「碑の見学は平日のみ」だそうです。「土日祝日は対応不可」とのことでした。

入館申請が終わりますと、警備員さん誘導のもと「海軍碑」まで案内していただけます。

「海軍碑」(警備員さんたちは「海軍碑」と呼称していました。「〇〇さん、海軍碑の見学だって、案内してあげて!」という感じで。)は、画像でいうところの地下鉄「B3a」出入口近くの敷地内・庁舎内庭です。

そうしてようやく対面

海軍省跡 軍令部跡 碑

海軍省跡
軍令部跡

内閣総理大臣 
中曽根康弘書

碑の上面は波打っておりました。
(晴天時は反射が厳しいので撮影は曇天が良いかも)

なお、見学時には警備員の指示に従って撮影等を行って下さい。
状況により見学に制約がある場合があります。

昭和60年11月 財団法人・海軍歴史保存会 建立

中曽根康弘氏は海軍第六期短期現役主計士官(海軍経理学校・主計短現六期)出身。重巡洋艦「青葉」乗組経験あり。終戦時は海軍主計少佐。

海軍碑裏面も警備員の許可を得て見学致しました。
(状況により見学制約がある場合あります。警備員に従ってください。)

海軍省・軍令部略史 (一部表記を見やすく変更しております)

慶應三年十二月   王政復古
慶應四年一月    海陸軍務課設置
明治二年七月    兵部省設置
明治四年七月    兵部省に海軍部を置く
明治五年二月    海軍省設置
明治六年十月    初代海軍卿 勝安房
明治十一年十二月  参謀本部設置
明治十八年十二月  内閣制度発足 海軍大臣 西郷従道
明治十九年三月   参謀本部に海軍部を置く
明治二十二年二月  大日本帝国憲法発布
明治二十二年三月  海軍大臣の下に海軍参謀部を置く
明治二十六年五月  海軍参謀部を海軍軍令部とし
          天皇の直隷機関とす
明治二十七年七月
明治二十八年四月  日清戦争(黄海海戦)
明治二十七年十二月 海軍省・海軍軍令部をこの地に移す
明治三十七年二月
明治三十八年九月  日露戦争(日本海海戦)
大正三年七月
大正八年六月    第一次世界大戦
昭和八年十月    海軍軍令部を軍令部とす
昭和十六年十二月
昭和二十年八月   大東亜戦争
昭和二十年十月   軍令部廃止
昭和二十年十一月  海軍省廃止 海軍大臣 米内光政

昭和六十年十一月
 財団法人海軍歴史保存会

帝国海軍の中枢があった事を偲ばせる唯一の空間。
感慨深いものがあった。

初代海軍卿 勝安房(勝海舟)

最初の海軍大臣 西郷従道

最後の海軍大臣 米内光政

この碑に淡々と刻まれし海軍の歴史は濃縮の重みがあった。

見学するのはとても大変な場所ですが、海軍史にご興味があれば是非とも訪れて欲しい空間です。

なお当たり前の事ですが警戒厳重な「中央省庁舎」ですので、くれぐれも警備員の指示に従うようにお願い致します。

神雷桜と桜花~靖國神社の桜

靖國神社に献木された神雷桜から、往時を偲ぶきっかけを…

  • 靖國神社の神雷桜
  • 桜花公園の神雷桜
  • 桜花
  • 靖國櫻(靖国桜)

靖國神社

桜の季節になるとどうしても「桜花」のことに触れたくなります
桜賑わう靖國神社で、桜にまつわる先人たちの物語を。
以下に「神雷桜と桜花」にまつわるあれこれをまとめていきます

感謝と哀悼を…


桜花

この美しき言霊は、時に残酷な言霊でもあり。

海軍神雷部隊「桜花」

母機である一式陸攻の爆弾倉に懸吊された状態でロケット特攻機「桜花」は目標近くまで運ばれ、放たれた桜花は操縦士もろとも目標に向かって突入する。

神雷部隊は特攻専門部隊であった…

神雷桜

かつて神雷部隊の将兵たちは戦死したら「靖國神社の御神門を入って右の二番目の桜の木の下に集まって再会しよう」を合言葉にしていた。

戦後生き残った戦友は、この合言葉を大切にし、そうして桜を奉納した。

奉納された桜は「神雷桜」と名を記されている。 (海軍神雷部隊戦友会)

神雷桜
海軍神雷部隊戦友会

今年もまた桜花の季節がやってくる。
靖國神社の桜は、戦友の想い、遺族の想いが込められし桜。 特別な桜。

 貴様と俺とは 同期の桜

 離れ離れに 散ろうとも

 花の都の 靖国神社

 春の梢に 咲いて会おう

境内の桜を見上げつつ、今年もまた往時を偲ぶよすがを。

「桜花」と共に戦いし神雷部隊。
その名を伝承する神雷桜。

靖國神社 神雷桜

見事な桜花… ありがとうございます


靖國神社みたままつり(平成29年7月13日(木)前夜祭)

夏夜の神雷桜

第71回みたままつり(平成29年7月13日(木)前夜祭の朝)

ついつい神雷桜に目がいってしまう。葉桜の木陰で楽しむ境内。

平成29年5月

新緑の神雷桜

平成29年8月

夏の神雷桜


第七二一海軍航空隊
「神雷部隊」

https://ja.wikipedia.org/wiki/第七二一海軍航空隊

桜花

https://ja.wikipedia.org/wiki/桜花_(航空機)


神ノ池神雷桜・桜花公園

茨城県鹿嶋市光。 2016年撮影。
海軍神之池航空基地の跡地。
神雷部隊「桜花」練成の地。
この地にも戦友会の献木がある。 「神ノ池神雷桜」
いつの日か、この地の桜花が咲くときに訪れてみたい…

献木
神ノ池神雷桜
平成8年3月(1996)
寄贈 海軍神雷部隊戦友会

慰霊と感謝を。 若き海鷲たちに。

神ノ池海軍航空基地を物語る掩体壕。

721航空隊「神雷部隊」として特攻機「櫻花(桜花)」訓練基地が展開。 この神ノ池で訓練をした若者たちが鹿屋に出撃し、そして鹿屋から特攻へと…

神ノ池海軍航空基地を物語る掩体壕。

その上部は自然へと帰りつつ。

掩体壕には復元された櫻花11型が展示してあった。

一式陸攻を母機とし、1200キロの爆弾に推進ロケットを装備した有人ロケット爆弾。敵艦上空で母機より切り離されて高速滑空し特攻…

神ノ池海軍航空基地

昭和19年。筑波海軍航空隊では戦闘機パイロット養成施設が手狭になった為に、神ノ池飛行場に戦闘機練成隊を新設し開隊。 のちに秘匿性の高さから桜花訓練基地となり、当地で訓練をつんだ若者たちが鹿屋から特攻へと飛び立つ事となる…

※ 神ノ池は「ごうのいけ」と読みます。常陸国風土記にも記載される歴史ある池。1969年に埋め立てる前は現在の7倍はあった、という。

神ノ池海軍航空基地は、そのほとんどが工場地域。

現在の航空写真で御覧の有様。 この掩体壕が、今日まで歴史を物語る遺産として残ったことにも感謝。

公園の由来
太平洋戦争末期、この地に海軍航空隊神之池基地が開設され、特攻兵器”櫻花”の訓練が行われました。
鹿島製鉄所では、地元及び櫻花関係者の御意向に沿い、構内に残る神之池基地の掩体壕の周辺を整備し、ゆかりの櫻花碑をここに移し、土地の歴史を記念する公園として開放することとしました。壕内には往時がしのべるよう櫻花の復元機を置きました。
この公園が、先の大戦の記憶が風化する中、平和への思いを新たにするよすがとなれば幸いです。
平成5年12月 住友金属工業株式会社鹿島製鉄所 所長 長谷 登

櫻花公園(桜花公園)

神雷竜巻
櫻花隊員

錬成之地

櫻花

山岡荘八

のちに時代小説作家として大家となる山岡荘八氏は当時、海軍報道班員として神雷部隊櫻花隊員と生活を共にしていた。


櫻花
山岡荘八碑裏

太平洋戦争も一段と熾烈を極めた昭和十九年十月一日、祖国日本の興廃をその一身に背負おうと志願して来た紅顔の若者達は海軍百里原航空隊で、特別攻撃隊櫻花隊を結成同年十一月七日この神之池に訓練基地の設置を見た 。

やがて神之池基地で至難な訓練を受けた若者たちは九州最南端の鹿屋の野里村に移り、鹿屋を特攻基地として祖国の国難に殉じて行ったのである。

云わば神之池は、特別攻撃隊発祥の地として、わが日本国民として忘れてはならない、祖国の存立を護った尊い大和魂の故里である。

撰文 山岡荘八  昭和五十三年三月吉日 

建立者 元櫻花隊員小城久作 妻泰子

櫻花の碑。

前面には山岡荘八氏による建碑由来も記載。碑は元桜花隊員の小城久作氏が昭和53年に私費を投じて建立。

側面には小城氏の献歌もある。

 錬成の
 名残とどめぬ鹿島灘
 いまだただよう
 戦友のおもかげ

櫻花
山岡荘八


散った桜を静かに見送る。

手向け花を。散りし桜花を。

自然と手を合わせ頭を下げる。

ありがとうございました。

また来よう。桜の季節に。 そう感じさせる空間であった。


筑波海軍航空隊記念館

霞ヶ浦海軍航空隊(教育部隊・予科練)

鹿島空(水上機部隊独立)
谷田部空(霞空補助)
土浦空(霞空から予科練を引受)

筑波海軍航空隊(戦闘機)

★神ノ池空★(桜花部隊)
谷田部空(戦闘機)

桜花・筑波海軍航空基地 (茨城県笠間市 筑波海軍航空隊記念館にて。)


神栖中央公園

神栖中央公園。 ここに櫻花(桜花)が展示されてます。 ガラスショーケースの中に原寸大復元の桜花が。 この桜花は映画「サクラ花」の撮影で使われたものであり、2015年に神栖市に寄贈された。

櫻花(桜花)

映画「サクラ花 桜花 最期の特攻」復元機体。


桜花・靖國神社遊就館

靖國神社遊就館の大展示場の片隅に。

復元された「桜花一一型」と「海軍神雷部隊桜花攻撃ジオラマ」が展示してある。

圧巻で胸が詰まる空間。 しばし見上げ見つめ、静かに哀悼と感謝を捧げる空間。

その足跡を。

「靖國神社遊就館」
平成29年3月現在、大ホール展示のみ撮影可

http://yusyukan.yasukuni.jp


【靖國櫻】(靖国桜)

今回は「神雷桜」を例としましたが、境内に無数にある靖國桜にはそれぞれ奉納された人々の物語があります。

これからの桜の季節。

せっかくですので花の都「靖國神社」で桜を愛でながら、ちょっとだけでも感慨にふけっていただければ幸いです…

散る桜 残る桜も 散る桜

想い積もりし靖國櫻

花の都の靖國神社、春の梢に…

献木奉納桜「南会桜」
第六三四海軍航空隊呉瑞雲隊有志一同

第六三四海軍航空隊は航空戦艦で運用する水上機(瑞雲)艦上機部隊(彗星)部隊として整備。しかし連携する機会なく水上機基地航空隊として終戦まで運用。 第九三四海軍航空隊も水上機部隊。消耗により昭和19年10月解隊 。


靖國神社招魂斎庭跡。

その片隅に咲く緋桜。靖國桜。

空挺櫻

「花の都の靖國神社 庭の梢で咲いて会おう」

平成元年4月8日 陸軍落下傘部隊戦友一同

空挺櫻 (靖國神社招魂斎庭跡)
 散る桜 残る桜も 散る桜

陸軍落下傘部隊の歌 「空の神兵」
 藍より蒼き 大空に大空に
 たちまち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く

見上げていたらグッとくるものが… ありがとうございます…

駆逐艦 初霜の錨

平成28年5月撮影

旧帝国海軍駆逐艦「初霜」の錨
墨田区:山田記念病院

初霜の錨

一等駆逐艦初春型の4番艦 「初霜」
その錨が記念として保存されていた。
今となっては数少ないあり日の帝国海軍のよすがを偲びに。

墨田区の山田記念病院。

入口脇に初霜の錨が保存されています。
病院の初代院長が初霜に乗艦したことがあったというご縁でもって。

場所 https://goo.gl/maps/LmStTMAmjiw …

この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨である。


 この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨である。 初霜はさきの大戦に北はアリューシャン列島、南は佛印、シンガポール、比島にわたる広い太平洋海で勇戦、 最後は昭和20年4月戦艦大和沖縄特攻作戦にも参加し、同年7月30日宮津湾に於いて対空戦闘中触雷擱坐して任務を終わった。
 終戦時には日本海軍の駆逐艦203隻の多くが遠い海に沈み、残存の33隻の内ほとんどを連合軍に接収された。 初霜は日本に残り解撤され、その錨がこれである。
 私は昭和15年軍医長として初霜に乗込み作戦に参加した。縁あって私のところに来たこの錨を伝統ある帝国海軍の遺産として長く後世に残しておきたい。

昭和54年5月
山田病院初代院長
元海軍々医少佐 山田正明


初霜

横須賀浦賀船渠で1933年(昭和8年)1月31日に起工。翌34年9月27日に竣工。
各地で勇戦し、坊ノ岬沖海戦…所謂あの大和特攻作戦からも生還するも終戦直前の昭和20年7月30日に舞鶴にて機雷触雷し沈没。
このとき第17駆逐隊として「初霜」最期の僚艦が「雪風」だった。

大和特攻作戦からも生還した幸運艦であったが、終戦まであと半月のところで擱座。
擱座・着底した初霜は戦後に解体。
錨が初霜にゆかりのあった山田病院院長の手によってこうして保存されている。

海自第2術科学校一般公開(横須賀田浦)

横須賀田浦
海自第2術科学校(2術校) 一般公開・オープンスクール(平成28年9月)


海自第2術科学校一般公開

9月10日。
この日は海上自衛隊第2術科学校でオープンスクール(一般公開)がございました。 JR田浦駅に到着したのは午前10半すぎ。 観てきたものを簡単にレポしてみましょう。

田浦トンネル

JR田浦駅名物の三連トンネル(横須賀側)
中央トンネル(電車走行中)は、明治22年(1889)横須賀線開通時の最も古いもの。 右のレンガ造トンネルは大正13年(1924)に増設。 左の大きなトンネルは昭和18年(1943)海軍軍需輸送引込線用。

JR田浦駅の東逗子側は2連トンネル。
下り線(右側)は明治22年(1889)建設。 上り線(左側)は大正13年(1924)複線化に伴って建設。

JR田浦駅。
因みにホーム長がいまどきのJRロング編成車両には対応していない為、横須賀側1両目はトンネルに頭を突っ込んで停車。扉は開かず。乗降は2両目以降でお願い致しますな駅です。 駅の両端がトンネルに挟まれている為にどーしようもない。

海上自衛隊第2術科学校

JR田浦駅から歩くこと5分ほど。 海上自衛隊第2術科学校正門に到着です。 敷地の外側はよく歩いていましたが、敷地の中に入るのは初めてですw 敷地を巡っている水堀がなんかもう古そうで、これも海軍時代の名残なのかなどうなのかな、とか。

マップです。 広いです。
盛りだくさんすぎて、迷い箸状態です。 さあ、どこから参りましょうかね?

海上自衛隊第2術科学校庁舎 (ここは非公開でした。まあ、そりゃそうだ)

φ(..)メモ
第1術科学校・江田島 水上艦艇術科教育
第2術科学校・横須賀 機関・電機・外国語等の特殊部門専門教育
第3術科学校・下総 航空機整備員・航空基地員養成機関
第4術科学校・舞鶴 経理・補給関係術科教育訓練


海自第2術科学校、すなわち「2術校」

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/ 

機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を主体とする機関


まず最初に何処に行こうか迷って、機関とか電機とかタービンとかエンジンとか英会話教室とか…私の頭では処理しきれない催し物ばかりでパンクしそうだったので、まずは一番得意なところに足が赴きました。

歴史保存エリア

海軍通信教育発祥記念碑

明治34年、この地「海軍水雷術練習所」にて日本で始めての無線電信術の教育が行われた。 明治40年に海軍水雷学校となり、昭和5年に海軍通信学校が分離独立し、昭和14年に海軍通信学校は久里浜に移転し終戦。

海軍水雷学校跡碑

明治26年12月2日に水雷術練習所が設置。明治40年4月20日に海軍水雷学校。昭和20年の終戦までこの地で海軍教育が行われてきた。

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑

明治28年2月4日夜。日清戦争威海衛の戦いにおいて第六号水雷艇(艇長は鈴木貫太郎大尉・のちの総理)は港内に突入し敵艦鎮遠に水雷攻撃をしようとした矢先、発射管が氷に閉ざされ射出が不可能となってしまった。
水雷術を専攻し担当していた上崎上等兵曹は水雷攻撃ができなかった事を責任を感じ、敵降伏後の3月14日に艇内において自刃。36歳であった。 鈴木貫太郎艇長をはじめ艇員はその忠誠を永久に伝えるために横須賀竜本寺にこの碑を建立。昭和43年に「水雷ゆかりの2術校」内に移転。

海上自衛隊発祥乃碑

昭和27年4月26日、海上自衛隊の前身である海上警備隊がこの地にて創設。戦後の海軍の再建を検討していた「Y委員会」において地元と米軍の了解が得られた場所がこの「田浦」の地だったのだ。

すなわち田浦は海自発祥の地!

米内光政(海軍大臣)がその晩年を傾けた「海軍再建」の意志を引き継いだ保科善四郎(軍務局長)、そしてY委員会委員長となった山本義雄(総務局長)、調整に尽力した野村吉三郎…


国旗掲揚旗竿基部

海上自衛隊創設時にこの地に建てられたもの。 海上自衛隊の歴史を残し物語るもの。

タイムカプセル

意外でした。
海自の学校でタイムカプセルって、なんかオチャメ。

伝統と飛躍
海上自衛隊第2術科学校
開校40周年記念
タイムカプセル
 1998.4.1設置
 2018.4.1開封

(2019年に記事編集してますので、もう開封されてますね・・・)

第2術科学校開校20周年記念機関

350馬力蒸気往復機関 海自が昭和27年発足時から昭和32年まで「えい船4号」として使用した旧帝国海軍雑役船の主機械。同船除籍後に教材として活用。創立20周年に際して記念機関として永く保存されている。

こんな感じで「歴史保存エリア」を満喫満足したら、庁舎をみながら敷地の中心部に向かいます。

時間は11時半頃。 ちょっと早いけど「お昼」にしましょう。 厚生センターの食堂へ向かいます。

田浦厚生センター

海自第2術科学校の食堂でいただくカレー。

「DDGきりしま」カレー(ポーク)を「海自のプレート」で戴きました。 海自で使用されている本物のアルミプレートにカレーとサラダ・玉子焼・福神漬・コロッケ・牛乳がセット。 食堂の隣は売店。

食事を終えたらプラプラとお散歩を。

格納庫のようにみえる建屋は「内燃実習棟」。 この海自第2術科学校内に、旧海軍時代からの建造物がどれだけ残っているかは未調査・未把握でしたので、なんとなく建物の記録もしておきました。

行進展示

プラプラしていたらちょうど、グランドでは学生たちによる「行進展示」がおこなわれておりました。 もちろんここは海自の学校ですので、左側は陸自ではなく海自隊員の陸上迷彩服ってことです。

PS07あしたか
AGS-5106海洋観測艦しょうなん
MST-463掃海母艦うらが

内燃機関実習場

さきほどの格納庫みたいな建屋。 ・・・文系人間には。どうにも難しい展示なので内燃機関の見物よりも建物の観察がメインでした・・・。 うーむ。

第二ガスタービン実習場

V6V機関室。
うっ、うむ。

電機・応急工作実習場

四角い建物。 ここも・・・はい、難しいです・・・。 隊員の人が展示物に関していろいろ教えてくれるんですが、、、馬耳東風・・・。 うーむ。

電機・応急工作実習場

パソコンでクイズに挑戦。 これなら、私でもなんとかなりそうですw 難問!!海上自衛隊クイズ!海上自衛隊創設問題
やってみました

・・
・・・
合格! 歴史系だったので面目保てて助かりました(1問、間違えた)

掃海艦を見に行きましょう!

掃海艦はちじょう ※除籍

やえやま型掃海艦3番艦
磁気反応型機雷を避けるために木造艦。世界最大級の木造船舶。
排水量基準1,000トン / 満載1,200トン
全長67.0m/全幅11.8m

因みに、やえやま型掃海艦
1番艦「やえやま」は2016年(平成28年)6月28日除籍
2番艦「つしま」は2016年(平成28年)7月1日除籍
3番艦「はちじょう」のみが現役。(補足→平成29年に除籍されました)
姉妹引退艦は「はちじょう」の近くに佇んでおりました・・・

掃海隊群第1掃海隊
MSO-303掃海艦はちじょう
海自としての再出発。
その根源は「掃海部隊」にあり。
海軍の伝統を受け継ぎ、国際貢献の主役として今も掃海部隊は活躍をしている。

機雷処分用として、前甲板にJM-61-M20mm多銃身機銃1基を備える。

艦橋

掃海艦はちじょう艦内神棚

近くにいた隊員に質問をしてみたところ、艦にゆかりのある八丈島の神社もお祀りしているとのことです。(その隊員さんはどこの神社かまでは詳しくはわからないけど、とのことでしたが。)

掃海艦はちじょう艦上から、田浦倉庫群を望む。

B倉庫・C倉庫・D倉庫
※平成30年7月22日にB倉庫C倉庫が焼失してしまいました。

K倉庫・F倉庫・G倉庫

海自横須賀造修補給所比与宇油脂庫地区

B・C・D・K・E・F・G・H倉庫

帝國海軍軍需部長浦倉庫の名残を海側から。
※平成30年7月22日にB倉庫C倉庫が焼失してしまいました。

参考情報 →倉庫略番写真地図

一部に熱烈なファンがいるらしい?
海自リアカー(折りたたみ式) 「はちじょう」のものではなく・・・
掃海艇「はつしま甲板」とラベル有り

掃海艦「はちじょう」スタンプ色々

旧帝国海軍横須賀海軍軍需部倉庫。

こちらは2術校と隣接する海自横須賀造修補給所N-4倉庫。
この旧帝國海軍名残の倉庫が、海自敷地内から間近に見ることが出来たのが地味に嬉しく。 (敷地外からも見ることは出来ますが・・・)

隊舎

隊舎では学生居室の公開も。
バームクーヘン・・・といえばベッドメイキングw
このピシーっとした毎朝のベットメイキングも海軍の伝統。
皺があろうがなかろうが上官が(以下自主規制)なのは旧海軍ですが海自もアレコレ伝統墨守してるのかな…

スタンプラリー

(資料室系の難しい話は後回し 集めると「ペーパークラフト」が貰えました。(まだ作ってません)

因みにペーパークラフト一番難易度は「きりしま」とのことでしたが、私は「ひゅうが」を。
航空戦艦の時代ですか?日向師匠!

さて、いよいよこちらに参ります。

第2術科学校

「海軍機関術参考資料室」

「海上自衛隊創設史料室」

実はここを一番の楽しみにしていたのですが、結果として時間切れをおこしてしまい、次回はここをメインにしようと改めて決意をした、など。

歴史講座「掃海がつないだ海軍のこころ」
帝国海軍から海自まで脈々と受け継がれてきた伝統。
「サイレントネイビー」

軍人は政治に関与せず、ひたすらに任務を果たせ、と。 縁の下で掃海部隊が黙々と営々と繋いできた「海軍のこころ」を。

海自の創設物語。

そして日本近海・朝鮮戦争・ペルシャ湾掃海作戦など。 まさにサイレントネイビーゆえに、あまり物語られることのない掃海部隊の活躍を学ぶことが出来ました。

まずは「海軍機関術参考資料室」へ。

ここには海軍機関学校関係の貴重な史料、また海軍の歴史的な史料が集まっております。
幾つかは公式Webにも掲載がございますね。

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/dentou/rekisieria/rekisieria_index.html

豊田副武書 「丹心答聖明」 たんしんせいめいにこたう

元末期の西域詩人である薩都刺(さつら)の詩が原作。
「真心をもって、天子の聖徳に答える」の意。
豊田副武は、最後となる第19代軍令部総長。海軍大将。

古賀峯一書 「竭誠盡敬」 まことをつくしてけいをつくす

「真心を尽くして尊敬の念を持つ」の意。
古賀峯一は山本五十六の後任として第28代連合艦隊司令長官となるも海軍乙事件にて殉職。最終階級は元帥海軍大将。

永野修身書
「庶昭忠誠」「憑高跳遠」

第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。開戦時の軍令部総長。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。

山本五十六書
「常在戦場」

長岡藩の藩風・藩訓「常在戦場」。 河井継之助とともにあった長岡藩家老・山本帯刀家を継いだ高野五十六は、その長岡の精神を常に座右の銘としていた。

幾つか目に止まったものをつらつらと掲載していきます。
史料は無数にあり、見逃したものも多いため再訪したいですね。

山本五十六の書

古賀峯一の元帥刀

旧海軍用燃料(塊炭)
明治末頃まで艦艇の燃料として使われていた炭

ちなみに展示品がのっている、この机は「海軍水雷学校記念材」だったり。

旧海軍水雷学校鐘鈴

昭和16年12月8日当時の「海軍士官夏服外套肩章」

進水式斧金槌
右から 駆逐艦・暁(進水式)
航空母艦・飛龍(起工式使用金槌)
特務艦・高崎(進水式使用斧)

井上成美の懇談録音テープ

米内光政・山本五十六とともに海軍三羽烏(左派トリオ)と称された井上成美。米内海軍大臣の次官としてその片腕を担った人物。
声は聞こえぬ展示物であれ、背筋がすっと伸びてしまいました。

軍艦「長門」水圧管水管系図の銘板

終戦後に英国進駐軍が軍艦「長門」機関室から外して英国に持ち帰っていたものが昭和61年に英国から海自に寄贈。 ビキニ前に取り外されたからこそ残った長門の銘板。感無量です…。

あぁ、これは貴重な本棚だ・・・。

こんな感じで上から下まで貴重な史料のオンパレードでレポはほんの一部。圧倒的に時間たりませんでした。これは、また見学に来たいです。

「海上自衛隊創設史料室」
続いては向かいの部屋に。
戦後、海軍解体後に、海上自衛隊が創設するまでを物語る史料室。知らなかったことも多く大変勉強になりました。

Y委員会

1945年(昭和20年)12月1日。

旧海軍組織・海軍省は廃止され、かわって復員業務を主体とした「第二復員省」(第一は旧陸軍省)が設立。 第二復員省資料整理部では米海軍が関与する中で海軍再建の研究がなされた。

最期の海軍大臣・米内光政。

米内は小磯・鈴木貫太郎・東久邇宮・幣原内閣と戦中戦後の海軍大臣を歴任し、その帝國海軍の最期(1945/12/1海軍省廃止)を見守った人物。 米内が軍務局長・保科善四郎に託す想い…

戦後、米内は保科善四郎軍務局長に「海軍再建を模索すべし」「海軍には優秀な人材が数多く集まり、その伝統を引き継いできた。先輩たちがどうやってその伝統を築き上げてきたか、後世に伝えるべし」「海軍が持っていた技術を日本復興に役立てること」と指示したという。

保科善四郎が戦後に政界に入ったのはこの「米内の遺言」を一つでも達成しようとしたためと述べており、Y委員会(海軍再建検討のための組織)を通して、現在の海上自衛隊創設の際に「米内の遺志」を反映されていると言われている。

保科善四郎(海軍中将)は、開戦時の駐米大使で海軍大将であった野村吉三郎とともに海軍再建の検討を開始。 野村は復員庁第二復員局の元海軍軍人とともに海軍再興の私的な検討に入り、のち政府・米海軍とも調整を進め1952年(昭和27年)にはその道筋が構築された。

Y委員会。 昭和26年10月。吉田茂内閣直属の「秘密組織」として「海軍再建」を検討した組織がY委員会。同委員会が日本の海上防衛力再建のための計画策定にあたった。

Y委員会。
Yの由来には諸説ある。
ひとつは、
「A」は陸軍、「B」は海軍という海軍隠語。しかしBでは「海軍」のことを指しているのがストレートすぎるので逆順にしてZに次いだ「Y」とした説。

Y委員会由来もう一つの説は、
旧海軍側の中心人物であった山本善雄(元少将)、吉田英三(元大佐)両氏の苗字の「Y」、さらに海保側の中心人物であった海上保安庁長官の柳沢米吉の「Y」。 また、海軍再建を願った米内光政の「Y」をも含む・・・とも。

戦後。
帝国海軍解体後に、如実に日本の沿岸・港湾警備に問題が生じたために、1948年(昭和23年)に連合国軍占領下の日本において洋上警備・救難および交通の維持を担当する文民組織として海上保安庁が設立。

そして1950年(昭和25年)、朝鮮戦争において対機雷戦戦力が不足してた米軍より指令が下り、海上保安庁より掃海部隊が派遣。朝鮮半島海域において特別掃海活動を実施。(日本特別掃海隊)

これにより米軍側からも日本の海軍戦力の再建が必要との認識が沸き起こる。

Y委員会での検討がすすみ、結果として1952年(昭和27年)には第3次吉田内閣の下で、より軍事組織に近い海上警備隊(沿岸警備隊)が海上保安庁附属機関として組織。その後まもなく「海上警備隊」として海保より分離され、これが後の「海上自衛隊」となった。

こんな感じで海自の創設を学びつつ。(概要はかなり端折りました・・・) 勉強になりました。

昭和33年ごろの第二術科学校。

服務の宣誓  
 保安庁職員  
 自衛隊員

16時ちょっと前。
史料室でズッポリと沼にハマってしまい。
これで時間切れ。
まだまだ見たりなかった気がします。
これはまた来年のオープンスクールにお伺いしないと、ですね。

関連

半原水源地と海老名と・海軍横須賀水道(愛川・海老名)

(平成29年7月)

  • 半原水源地
  • 横須賀水道みち
  • 上郷水道橋(上郷水管橋)
  • 海軍標石(海軍境界石)

【横須賀水道と半原系統】

海老名の有鹿神社の境内裏手「相模川」に気になる橋があります。
「上郷水管橋」
愛甲郡愛川町の半原水源地よりほぼ直線に引かれた自然高低差の水道管で横須賀の逸見浄水場へと導水された跡。

海老名界隈の地図を見てみると、見事な直線が気になります。 同じレイヤーで線を引いたものと実際の航空地図を並べてみました。 一部断絶してますが、うん見事な直線ですね。 この直線道路が「横須賀水道道」(よこすかすいどうみち)と呼称されている道路。

横須賀水道

https://ja.wikipedia.org/wiki/%e6%a8%aa%e9%a0%88%e8%b3%80%e6%b0%b4%e9%81%93 …

日露戦争後の軍備拡張に伴い海軍当局は中津川に取水口を設け約53km離れた横須賀まで鋳鉄管を使用し落差約70mの自然流下による半原系統の建設工事を1912年着手、1918年10月通水開始。

横須賀市上下水道局

http://www.water.yokosuka.kanagawa.jp/history/suido/06.html …

横須賀に拠点を置く海軍は水不足改善の為に相模川の支流中津川に新しい水源を求め、明治45年(1912)に工事に着手し大正10年(1921)に完成させた、海軍水道みち。全長53キロ。

半原水源地(愛川町)

朝。

今回はじめて「半原地区」に脚を踏み入れた私。 結論からすると再訪必至となりました。事前調査不足と夏の暑さと草木の成長などに阻まれたため、これは涼しくなってからのリベンジです。 なので今回のレポは(自分的な)ガイダンスとなりそうです。

橋本駅7時55分の神奈中バス「橋07系統・鳥居原ふれあいの館」行きバスに乗り込む。橋本からの山越えコース。途中の「串川バス停」で下り車線から上り車線に移動して「半原」行きへ乗り継ぐという変則行程。 未知の土地でのバス乗換えはドキドキします。

8時43分。予定通りに「半原」バス停に到着。 ちなみに半原地区に赴くには「本厚木」からがベストです。バスはだいたい30分に1本走っているので時間調整しやすいです。 私のとった橋本ー串川橋ー半原コースは1時間に1本以下となりますのでご注意を。

半原バス停から南に。「半原水源地」に到着。

横須賀市水道局半原水源地
(横須賀市上下水道局)

場所:https://goo.gl/maps/QxFS62RG6mB2 …

こんな山奥に横須賀市の施設があるのが往時の海軍時代からの因果。 なお平成27年2月28日運用廃止。

「半原水源地」

せっかくなので敷地を周回。(敷地内には入れません) 敷地の隣を流れるのは「中津川」 ここより上流約500メートルほどの場所に取水口があり、制水用ハンドルや隧道もあるが、今回は暑すぎたので近づくのは割愛。 次回の再訪課題で。

敷地外から沈殿池跡などを覗いてみました。 往時、横須賀を拠点とする帝国海軍の水がめとして活用された「半原水源地」はすでに時代の役目を終えており、歴史遺産としてその姿を残していた。

平成19年4月取水休止
平成27年2月28日廃止

「半原水源地」 敷地外から観察。

「半原水源地」 敷地外から観察。
水道管が転がってました。

「半原水源地」 敷地外から観察。

「半原水源地」 外壁の石垣。 これは良いところですね。

「半原水源地」 敷地の奥に護水の神がおられました。

妙法護水善神

若宮神社

「半原水源地」の正面のちょっとした高台に「若宮神社」が鎮座しておりました。
まるで半原水源地を見守るような佇まい。
神社由来は不詳。 最近、御社殿を新しくされたようです。

狛犬は明治44年の銘あり。海軍による半原水源地の建設開始(明治45年)よりも1年ほど早くからここに鎮座してる狛犬。
まさに半原水源地とともに時代を刻んできた狛犬。

半原水源地から横須賀水道みちへ

半原水源地より伸びる道を歩む。
ここから「横須賀水道みち」が延々と三浦半島横須賀まで、帝国海軍の水を担うために水道管が伸びていた。
その水道管は道路の下に。水道管の上に道路が敷設されたわけです。

半原水源地よりちょっと歩いた公園の片隅に。 ありました。

「海軍用地」境界石(境界標石)

場所→https://goo.gl/maps/PyoLpCkdjb22 …

こんな山奥ではあれど、大切な「海軍の水」ですから。
こうして主張されているわけです。

実は半原の街を歩いていた所、どうも祭りの気配がありまして。
道々に紙垂もさげられていたり。

半原神社

集落の鎮守たる集落の名を冠する「半原神社」( 諏訪大明神)
ちょうど八雲祭祭礼の準備(土曜日が宵宮・日曜が本宮)が行われてました。
祭礼の邪魔をしては悪いので参拝だけして次へと。

水道みちを下っていきます。
ここで水道みちと現在の道路が別れます。 水道みちは1枚目写真の手前(津久井)に。
現在の道路は1枚目写真の右(厚木相模原)にカーブを。
この場所が次のポイントです。
隧道が見えますね。

横須賀水道みち「隧道」

場所→https://goo.gl/maps/vjrVLLWhgWK2 …

昔は通行可能であったそうだが、現在は愛川町道路管理課によって通行禁止の処置がとられている。
水道管を通すのに掘られた隧道。

横須賀水道みち「隧道」の隣の高台に。
気になる空間があったので立ち寄ってみました。 狛犬の銘によると「金山神社として築造、明治捨参年」されたそうで。狛犬は対ではなく1体のみ。 明治13年であれば、これもまた「横須賀水道」よりも古くからの存在。

さきほどの横須賀水道みち「隧道」は、通行止めでしたので道路を迂回して下流側へ。
要石がお見事です。

前述の横須賀水道みち「隧道」から伸びる道は緩やかな勾配を描いた築堤のような雰囲気。

その先に次の「隧道」がみえてきますが、こちらも封鎖。 夏の草たちはよく育ってますね。
・・・近寄れませんでした。また迂回です。

(築堤の途中で用水を渡る水道管も見逃し。宿題です。)

場所→https://goo.gl/maps/PZ3kgqt66522 …

迂回中。
ブレてますがバスは比較的よく走ってます。
(田名バスセンター及び厚木バスセンター方面)

前述の2つ目の隧道の下り側。簡易的でしたが道は封鎖。この先は個人住宅裏へと連なっておりましたので進入はヤメ。
山の中ですが「横須賀市」の標石あり。
(リアルな横須賀とか50キロぐらい離れてます)

場所→https://goo.gl/maps/VZ8Mbo9Kk762 …

愛川橋

中津川。見える橋は「愛川橋」
愛川橋では「あいちゃん」(愛川町観光キャラクター)が何かの撮影をしてました。

で、風光明媚すぎて暑すぎて、このあたりにあるという「旧海軍マークの刻まれた排気弁蓋」を見忘れたり(あぁ、これも宿題)

そろそろ慣れてきたと思います。

戦前は帝国海軍の管理、そして戦後は横須賀市の管理用地となります。

ようやく通れる隧道(愛川トンネル)です。
平成5年に現在の様相に拡張済み。
トンネルの中は涼しくて助かります。

場所→https://goo.gl/maps/j4Y6D2uwxqm …

中津川の清流。癒やされます。

馬渡橋

ここはね、来るのが遅かったってわかっているから覚悟済み。
「馬渡橋」架替工事。平成29年9月29日まで。
以前の馬渡橋脇には「横須賀水道の水道管」も一緒に渡されていてその姿を見ることが出来たが、既に撤去済み。

「馬渡橋」の近くに。 僅かに痕跡が残っておりました。
「水道局」の石標。

中津川にかかる「馬渡橋」を渡って、次の集落へ。
行政地区的には「愛川町半原」から「愛川町田代」となります。

「横須賀水道みち」は自然勾配で下っていきます。 こうして適度な斜面があるから、ポンプを使わずに水を横須賀に流すことができるわけですね。

田代の集落を通る水道みちを歩いていると、あぁこれは立ち寄らないとダメですね。

中津神社(小嶽明神)

ちなみに前述された「半原神社」は、こちらの中津神社が本務社となっております。

「中津神社」(小嶽明神)
大日霎尊(おおひるめのみこと) 創建年代は不詳であれど文治年間(後鳥羽時代1185年~1189年)には鎮座していた。
北條家臣内藤秀勝が田代城を治め当社を氏神として信仰。
中津川流域の中心地であり中洲をなしている田代集落の総鎮守。

なかなか興味深い神社。御社殿の後方にちょっとした丘があってそこにも祠が鎮座。本殿の後なので覗き込むわけにもいかない角度だけど、奥社っぽい気配。この規模にしては余り見かけない空間です。

ここで迷う。
道は迷ってないけど選択肢に迷う。
別に地酒を迷ったわけでもなく。
水道みちを歩くのであれば相模原方面へ。切り上げるなら厚木方面へ。
時刻表をみたら程よく10時58分に厚木行きのバスが。

場所:https://goo.gl/maps/mWu4DVYcib82 …

ということで一旦切り上げ。

半原水源地から愛川町田代まで「横須賀水道みち」を歩いた距離は7.5キロ。所要時間は約2時間15分。

宿題が幾つか残ってしまったので半原地区はまた訪れることになります。

このあとは海老名の水道みちにワープ!

海老名市内の横須賀水道

さて話は海老名にワープします。
海老名駅ほど近くから有鹿神社までのちょっとした直線が次の見どころ。
この直線が延々と伸びている「横須賀水道みち」

海老名市内を縦断する「横須賀水道みち」

ちょうど相模線の線路がクロスするあたりから「歩行者自転車専用」の細道が伸びています。
看板には「水道用地」とあります。
右手の水田のところにポツポツと林立しているものが「水道標石」 近づいてみましょう。

海老名市内を縦断する「横須賀水道みち」

水田と用水の間に標石が何本も並んでいます。 横須賀市の文字も見えますね。でもここは海老名市。

水田地帯を抜けると道路の両脇にいい感じに標石が並んでます。
だんだん慣れてきました。
これらは削られ系ですかね。

海老名市内を縦断する「横須賀水道みち」の「水道標石」

表記は水道部だったり水道局だったり。
標石の時代が違うのかな。
埋もれ方にも個性があります。

海軍標石(海軍境界石)

「標石」ハイライトはこちら。
波が描かれた「海軍標石」(海軍境界石)

この場所がなんであるかを物語る、力強き「海」の名残。

海老名市内を縦断する「横須賀水道みち」
みごとな一直線です。

上郷水管橋

突き当りは相模川です。
この向こうが冒頭に触れた「上郷水管橋」
占有者は横須賀市上下水道局。

相模川にかかる「上郷水管橋」

1918年(大正7年)完成。
2007年(平成19年)4月取水休止。
2015年(平成27年)2月廃止。

横河橋梁製作所
東京工場制作
大正七年三月竣功

銘板は大正7年。右から読ませます。

県立相模三川公園より遠望してみました。

「相模大山」と「上郷水管橋」 左に見える塔は「国土交通省関東地方整備局厚木無線中継局」

「上郷水管橋」のすぐ隣にあるのが「有鹿神社」

有鹿神社

実は神社境内にも標石があったり。かつては今よりも広大な敷地を保持していた有鹿神社であったが社地の後方に横須賀水道が通ることで境内が削られたわけで。
こうして境内に横須賀市水道部の水道境界石が残っている。

ということで。
海老名の有鹿神社に到達したところで本記事はひとまずオシマイ。
宿題が幾つか出来ましたので続編を期待しつつ、いったん〆ます。


関連

神奈川県中央部の海軍史跡散策(寒川・大和・綾瀬)

 (平成29年6月・10月撮影)

※2017/6訪問
・寒川→相模海軍工廠跡と引込線(寒川支線)
・大和→厚木空ゆかりの神社

※2017/10訪問
・綾瀬→二相空ゆかりの神社

神奈川県中央部の海軍史跡散策

平成29年6月。
海老名に用事があったので思い出して近隣の戦争関連史跡(戦跡)散策を敢行してみた。 南の寒川町(相模海軍工廠跡) 東の大和市(厚木空神社関連) それぞれに海軍関連の史跡が僅かながらに残っておりました。

寒川町・相模海軍工廠跡と寒川支線

相模線寒川駅。 寒川支線と思われるスペースが線路左側に広がっている。 昭和59年(1984)に寒川支線は廃線。 開業は大正12年(1923年)。砂利貨物路線として開業し、近隣の発展とともに旅客輸送も始まり、工場地区への足とも成っていた路線。

地図を見てみると、わかりやすい。 JR相模線寒川駅より分岐し南西に伸びる路線(赤い線) これが「寒川支線」 廃線後の現在は遊歩道として整備されております 終点の「西寒川駅跡」の先の工場エリアが 戦時中は「相模海軍工廠」でした(赤枠あたり)

※余談

JR相模線寒川駅では全力で「寒川神社の最寄り駅は宮山駅です」と訴えてきます。 が、実は…寒川支線の分岐あたりから「寒川神社の表参道・一之鳥居」が始まっておりますので、「宮山駅」からアクセスするよりも「寒川駅」からアクセスするほうが本来の意味では正しいんですよねえ…

寒川支線の跡を辿りながら「相模海軍工廠跡碑」を目指して歩いてみましょう。

「大山踏切」 そういえば相模の大山(4枚目写真)が見えてましたね。 ここもきっと大山街道なのかな、と。 空間の広さが支線跡を感じさせる

寒川支線跡

相模線と寒川支線の分岐点のあたり。 この知らないと無駄でしか無い空間の広がりが線路跡を感じるスペースですね。

ゲート広場。 三方向の分岐点。 寒川駅方面から歩いてきて、「一之宮公園」が寒川支線へ伸びる遊歩道。 その反対側は前述した寒川神社の表参道。 寒川神社を示す方角は深き社叢が感じられますね。 ここは神社に行きたいところを我慢して、真逆の廃線跡を辿ってみます。

「寒川支線跡」 廃線跡の遊歩道。 いきなり脇の方に、きっとなにかの鉄道系の機械を置いていたであろう土台があったりしていきなりテンション上がってきました。 この遊歩道はきっと楽しいに違いない。 さて、線路跡の遊歩道を歩いてみましょう。

しばし歩くと「一之宮公園」に到着。 なにやら見えてきました。 車輪ですね。 なにやら廃線跡散歩が楽しくなってきました。


「一之宮公園」 一之宮公園内の廃線跡には往時のレールがひかれており、いやがうえにも気分が盛り上がってくる。 ゲート広場と一之宮公園と八角広場とを廃線跡の遊歩道が結んでおります。

「一之宮公園」 公園の両端に車輪が置いてありました。 さきほどのものとはまた別なもの。

「一之宮公園」から遊歩道を終点に向けて歩いてみます。 ここは踏切の跡・・・かな。

線路跡の遊歩道の脇に。 「工」の境界石。 これは「相模海軍工廠」時代の境界石?かもしれませんね。

「工」が刻まれたものは前述のひとつしか見受けられませんでしたが、 境界石というか標石はゴロゴロしてました。

一之宮緑道

旧国鉄相模支線跡地を利用して昭和60年度より整備を行ったものです。 延長は約900mであり、広場及び3つのタイプの園路から構成。

旧国鉄西寒川駅
相模海軍工廠跡

遊歩道の終点「八角広場」 そこに往時を偲ぶ石碑がある。 この地は 国鉄相模線寒川支線(海軍工廠引込線)でもあり、 海軍工廠が展開された場所でもあった。

石碑裏面
ここ旧西寒川駅跡に佇んで東を望み、更に南に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。 そこは、かつて多くの仲間が営々と働いた相模海軍工廠(昭和20年敷地704,000平方メートル)の跡地である。
往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り、懐旧の想いひとしおである。 第二次大戦後、工業立地に恵まれた跡地は町発展の礎となり、今日の繁栄をもたらした。 いま大地に大地に深く根差した緑に世界の平和を願い、国土の安隠を祈る。 建立 相廠会 及び 協力企業 昭和63年春

この地にあった旧海軍工廠は、イペリット爆弾等の化学兵器や火工兵器の本格的な量産を目的として、海軍技術研究所の化学研究部から昇格した工廠が展開されていた。

ちょうど西寒川駅跡の前を神奈中バスが走っていきました。

この八角広場にも往時のレールが残っておりました。

たぶんこれが「八角広場」の由来。 これだけ(往時を偲ぶものでもなく)唐突過ぎ。

この八角公園から先は工場エリア。海軍工廠時代名残のレンガ造の建物は近年撤去されたと風の噂に聞き格別な何かは残っておらず。 またかつてはここ「西寒川駅」より先に「四之宮駅」というのもあったが、それも特に何も残っておらず、で。 ※相模四之宮は相模川対岸の前鳥神社

帰りも同じ道を歩く。廃線跡の遊歩道を。 丹念に見ると・・・これも鉄路の名残ですね。 やはり楽しい。

再び戻ってきた「一之宮公園」にて廃線跡のレールを愛でる。 見つけました、古レールの刻印。 1925  1926 とありました。西暦でしょうか? ※ 開業は1923年(大正12年) 「S」マークも気になります。

更には「2606」の記載。 上記の「1925・1926」とは表記が違いますね。

※ 寒川支線(相模鉄道)開業は1923年(大正12年) 相模海軍工廠は1943年開業(昭和18年) 皇紀2606年は1946年 、昭和21年

30kgレール、Aはレールの種類、八幡製鉄所のマーク、皇紀2606年4月製造、OHは平炉製鋼。

古レールの刻印探しは楽しいけど、人々の憩いの広場となっている公園内でレールをマジマジと覗き込んでいる姿は滑稽でもあり・・・

「寒川支線跡と相模海軍工廠跡」 9時に寒川駅から歩きだして廃線跡の遊歩道を往復。 所要時間は約90分。歩行距離は約3.5キロでした。 さて、次は寒川駅から相模線を北上。 海老名駅を経由し相模鉄道にて大和駅を目指します。

大和市・厚木空ゆかりの神社

大和市の南西には「厚木航空基地」が展開。綾瀬市と大和市にまたがる軍用飛行場で、現在はアメリカ海軍と海上自衛隊が共同で使用している軍事基地。 戦前は「厚木海軍航空隊」が展開。海軍の首都防空の要であった「第三〇二海軍航空隊」が配備。

もちろん「厚木航空基地」そのものを探索する事は今回は出来ませんので、ゆかりの神社を2社詣でることとします。 大和駅から相模鉄道に沿って東に歩くこと15分、深見神社に到着。神社フリーク的には相模国延喜式内社13座の1座として有名ですね。

深見神社

相模国延喜式内社13座の1社。 御祭神は闇龗神・武甕槌神・建御名方神 雄略天皇22年(約1500年前)の創建という。 明治6年郷社列格するも明治9年隣地出火類焼し公称社格不詳となる。 昭和17年に再建し改めて郷社列格。

相模国延喜式内社13座の1社。 境内には寛政3年(1791年)に建立された神社碑がある。 この神社碑は相模線に面した北面鳥居の脇、境内の北東角にあった。 (最初わからなくて神職さんに場所を尋ねてしまいました) ちなみに御社殿は南面しているので参道の導線はチグハグ…

「深見神社」

ご神木なんじゃもんじゃの木(ハルニレ) 樹齢約500年。

深見神社境内摂社
靖國社 (元・厚木空神社)

境内に鎮座する靖國社はもと「厚木空神社」。 厚木海軍航空隊の守護神として厚木航空隊の戦死者を祀っていたが終戦後に廃祀(取除き)が命じられ深見神社に遷座。 深見部落の戦死者を合祀し昭和26年に鎮座祭を執り行った。

「雄飛」碑 碑面裏(引用)
第302海軍航空隊は、昭和19年4月勇将小園安名司令のもと、厚木基地に雷電・零戦・彗星・月光・銀河の精鋭機を擁し、本土防衛部隊として編成された。
同年11月B-29来襲に始まる防衛戦闘において302空は勇戦奮闘 昼夜を分かたず来襲する米空軍を迎え撃ってB-29・P-51・F6F等多数の米軍機を撃墜破する戦果を挙げ小園部隊の勇名を天下に轟かせた 又終戦時、徹底抗戦を叫び、世に言う厚木事件を起こした部隊としても知られている
終戦に至るまでの戦闘において数多くの隊員を失ったが戦没者は海軍葬をもって基地内の厚木空神社の祀られた 終戦後同神社の神殿は大和市深見神社の境内に奉遷され地元出身戦没者の英霊を合祀して靖國社となり今日に及んでいる 戦没者の霊を慰め302空の名を永く留めるためこの地に之を建てる

首都防空の要として機能していた厚木海軍航空隊(第302海軍航空隊)。 歴史的には終戦の瞬間に強烈なエピソードを残した小園安名司令のインパクトが大きい。世にいう厚木航空隊事件。 往時を偲び深謝する。

4月第一日曜日には「厚木海軍航空隊の慰霊祭」が深見神社靖國社で斎行されているとのことです。(戦友会は3年前に高齢化で解散済)

「深見神社」

御由緒書きと御朱印を頂戴致しました。 達筆でした。 ありがとうございます。

大和天満宮

「深見神社」をあとにして次に向かったのは「大和天満宮」。 御社殿が2階にあるのが見えますね。 2016年に敷地再整備で新築された神社。 実はこちらも創建由来が厚木海軍航空隊と関係があるのです。

「大和市文化創造拠点シリウス」 2Fデッキ広場に「大和天満宮」が鎮座している。

御社殿は2016年造営。 創建としては厚木海軍航空隊に遡る。 昭和19年に厚木基地内に祀られた「厚木空神社」は、犠牲者をまつる社殿と天照大神をまつる社殿の二棟があったという。

「厚木空神社」のうち犠牲者の御神霊を祀る御社殿は深見神社に遷座し前述の靖國社へ。天照大神の御神霊を祀る御社殿は現在地に住民が運び出したという。 厚木海軍航空基地にGHQ先遣隊が降り立ったのが8月28日。社殿運び出しはGHQが厚木に到着前の事だったという。

戦後、上記のような経緯もあり厚木空神社の社殿を運び出して流用。 その際に住民協議の結果、菅原道真公を祭神として勧請し大和天満宮(当初は南大和天満宮)として創建。 当時の海軍厚木空神社流用社殿は昭和27年に新築され昭和38年改築、平成28年新築となっている。

「深見神社」 「大和天満宮」

御朱印を戴きました。 厚木海軍航空隊の「厚木空神社」に関係する2社の神社を並びで。 「深見神社靖國社」は厚木空慰霊の祭祀を引き続き行い、 「大和天満宮」は新たな住民加護の祭祀を行う。

大和天満宮神職さん(座間神社からの出向とのことでした)に話をお伺いしました。 御社殿を新しくしたのを機に、ご由緒書も新しくしている最中だとかで、私が参拝した6月ではまだ出来上がっておりませんでした。 出来上がったら郵送しますよと行ってくれましたが、また来たときにでも、と。

本ツイは以上で〆

寒川で廃線跡と海軍工廠跡をみて、 大和で海軍航空隊神社の名残に接した、 そんな神奈川中央部での海軍関連史跡散策でした。 少しずつにはなりますが往時を偲ぶる地を、 こうして引き続き参っていきたいと思っております。

綾瀬市・二相空ゆかりの神社

二相空 → 第二相模野海軍航空隊

深谷神社

先日、海老名に赴いた際に時間を作って綾瀬まで赴いておりました。 綾瀬は駅がないんですよね。海老名駅から綾瀬市役所までバスで訪れ参拝。 が、深谷神社が今回のメインではなく。 今回のテーマは「深谷神社に隣接する祠」となります。

綾瀬市戦没者慰霊堂

いつのころから(綾瀬市が管理する)「慰霊堂」と呼ばれるようになったかは不詳だが、平成8年に発行された資料には「綾瀬神社」と明記されている祠が深谷神社のとなりに鎮座している。この祠、実は厚木海軍航空隊ともゆかりがあり・・・。

平成14年に覆殿新築。覆殿の中に神式宮殿有り。 この慰霊堂の元となった祠は昭和35年に現在地に遷座。戦前の「海軍航空隊神社」であった。すなわち「第二相模野海軍航空隊内神社」として建立という。 (神奈川県忠魂碑等建立調査集・参考)

第二相模野海軍航空隊

昭和17年に厚木飛行場の西側に「相模野海軍航空隊」(第一相模野)が開隊。整備兵養成航空隊。昭和18年に「第二相模野海軍航空隊」が厚木飛行場「第一相模野」南に設置。追浜空からの整備予備学生の受入を行っている。前述の祠はこの整備兵養成航空隊の崇敬神社という。

厚木飛行場主力航空部隊としては本土防空の「厚木海軍航空隊」(第302海軍航空隊)が展開されており、ゆかりの神社が東の大和市「深見神社」境内摂社「靖國社」(厚木空神社」。 そして厚木飛行場の西側である綾瀬市に航空整備兵養成の「第二相模野航空隊」(二相空)ゆかりの「綾瀬神社」。

綾瀬市戦没者慰霊堂
かつての綾瀬神社
戦前の第二相模野航空隊の崇敬神社

現在は深谷神社(綾瀬市)の隣に鎮座している。 慰霊堂として整備されており、平成14年に「覆殿」平成15年に「山門」が新造されている。 空間内には幾つかの慰霊碑もあつまっていたので見てみましょう…

慰霊堂の前に林立するひときわ大きな碑が「忠霊碑」(靖國神社宮司筑波藤麿書)昭和32年建立。綾瀬町出身の戦没者240余名を祀る。

殉国兵士招魂之碑

向かって右側に。 明治32年4月建立。 (日清戦争後の)明治28年に陸軍病院で病死した兵士を祀る。

日露戦役招魂碑(向かって左)

陸軍大将男爵乃木希典書・明治40年3月建立 綾瀬町出身の日露戦争での戦病歿者を祀る。

いまでこそ「綾瀬市戦没者慰霊堂」という無宗教方式っぽい慰霊施設であるが、かつてこの祠は「綾瀬神社」と呼称されていたという。 さらには、この地に遷座する前は厚木飛行場の傍らで海軍航空隊の崇敬社(第二相模野航空隊の崇敬神社)であったという遍歴を偲びつつ、雨の中、静かに合掌を…

追記捕捉

なお今回、綾瀬市戦没者慰霊堂の祠が旧海軍ゆかりの神社であったというのを知ったのは靖國神社が発行した「神奈川県忠魂碑等建立調査集」の記録によります。 神奈川県は護國神社がない県(竣工前に終戦・三ツ沢公園忠霊塔)のため靖國神社が調査を担当したとのことで…

相模大塚駅周辺の海軍戦跡

平成29年11月撮影

台湾亭 ・戦没台湾少年慰霊碑 、相模野海軍航空隊線(相模鉄道航空隊線) など


相模大塚駅周辺の海軍戦跡

相模鉄道「相模大塚駅」。
この駅の南側には厚木海軍航空基地、そして北東には高座海軍工廠(最寄駅「さがみ野駅」)があったこの地もまた海軍ゆかりの史跡がありました。
11月のとある夕方に近くに用事があり、隙間時間ができましたのでちょっと散策してみました。


相模鉄道「相模大塚駅」

この日の用事が終り、さてどうしようかなと思案。
手元の地図を見たら近くに戦跡がありましたので立ち寄ってみることに。 駅に到着したのは15時30分くらいのことでした。

厚木基地の北「さがみ野駅」北側には「高座海軍工廠」が展開されておりました。今回はさがみ野駅に赴く時間的な余裕はなかったので隣の「相模大塚駅」から散策をしてみます。 画像では黄色枠の所がレポの対象となります。


台湾亭

場所→https://goo.gl/maps/66Yo3acqut62 …

大和市「ふれあいの森」内に建立。
先の大戦中、将来の航空技師を夢見て台湾少年工8400名が高座海軍工廠で海軍局地戦闘機「雷電」の制作に従事。その台湾少年工たちの寄宿舎が当地にあった。
この建物は元工員たちにより1997年に寄贈。

終戦後に帰国した台湾少年工たちは台湾工業界の中核として活躍。のちに彼らの第二の故郷であった大和市を訪問し日台友好親善と世界平和を記念し本建物を寄贈。建設の中心は台湾に帰国した元少年工「台湾高座会」(当時約3千人)と日本に残った元少年工「在日高座会」(当時約40人)による。

台湾亭の階段には「海軍高座工廠」のシンボルマークが彫られている。このマークは「碇」と、前面から見た「飛行機」の姿を組み合わせたもの。 のちに、このシンボルマークを身につけていた者たち(台湾少年工たち)は「高座帰り」と言われ敬われていたという。


戦没台湾少年の慰霊碑

台湾亭より北東に鎮座する真宗東本願寺派「草柳山 善徳寺」

場所→https://goo.gl/maps/mDEaJ68t8vK2 …

この寺院に高座海軍工廠で働き、そして斃れた台湾少年工を偲ぶ慰霊碑がありました。

戦没台湾少年の慰霊碑
太平洋戦争末期この土地に高座海軍工廠在り 13才より20才迄の台湾本島人少年8千余名海軍工員として故郷を遠く離れ気候風土その他の開く環境をも克服し困苦欠乏に耐え連日の空襲に悩みつつもよくその責務を完うせり
されど病床に斃れ或いは爆撃により無惨の最期を遂げたるもの数多し 遺骨は故郷に還れど夢に描きし故郷の土を踏み懐しの肉親との再開をも叶はず異郷に散華せる少年を想ふ時18年後の今日涙また新なり これ等の霊魂に対し安かなるご冥福とかかる惨事の再び起らぬ永遠の平和を祈り之を建つ

※碑銘捕捉※

台湾亭志
 第二次世界戦中 一九四三年から翌年にかけて戦力補充のため 台湾の青少年約八千四百余名が この大和市に新設された高座海軍工廠に集結し 一部は実習を経て各軍需工場に配属され 終戦まで航空機生産の一端を担い続けた
 その間 米軍による本土空襲 多数の犠牲者も出 戦後そのまま残留した者以外 大部分は台湾に帰国したが 混乱の戦後を乗り越え漸く落ち着きを取り戻した時 若き日の命を託した大和市が第二の故郷として大きく胸に育まれた
 1987年 台湾高座会が発足 1993年日本高座会による五十周年記念大会に1300余名の会員が参加し 半世紀ぶりに旧地で再会の喜びに浸りあった ここに両地の親善交流を記念する とともに 世界平和への祈願をこめて台湾亭を大和市に寄贈し 変わらざる友誼のシンボルとする
台湾高座会 
1997年9月6日

台湾高座会 台湾各地域の区会や特別協力功労者・特別顧問などの名や部隊が列記されていた

※台湾少年工顕彰碑が、高座海軍工廠の地下壕がある座間の芹沢公園に建立されました。


相模野海軍航空隊線
(相模鉄道航空隊線)

さて、台湾亭と戦没台湾少年之慰霊碑を詣でたら、厚木飛行場の近くまで脚を伸ばしてみましょう。
地図をみると線路が伸びているのがわかるかと思います。
この線路は相模鉄道航空隊線・相模野海軍航空隊線・厚木海軍飛行場引き込み線・厚木基地引込線などと呼称されているようで。

元は昭和16年に開設された「相模野海軍航空隊・厚木飛行場」軍用線。
戦後は米軍への航空燃料輸送専用線として活用され、相模鉄道が平成10年(1998)までジェット燃料を輸送。現在は休止線の扱いのようです(実質は廃線)
ちょっと周辺を見てみましょう…

かつては厚木飛行場に燃料輸送をしていた線路であれど、現在は基地の手前でプッツリと線路は途絶。基地内には線路跡は残っておらず。
4枚目の写真が線路の末端。。。

防衛庁時代のものですね。 境界。

ふらふらと廃線跡の線路をみていきましょう。 航8踏切

厚木基地から相模鉄道方面に向けて歩んでおります。
航7踏切と航6踏切の間は「東名高速道路」とのクロス。
東名高速はもちろん戦後の開通なので戦前はここは橋はなく。

一緒のようにみえて、ふたつの橋が並んでいる形態です。
道路側は「大和5号橋」 鉄道側は「大和6号橋」

普段は横着して往時の地図や航空写真は格別に引っ張ってこないのですが、せっかくなので。
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより http://mapps.gsi.go.jp/ http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 … 1947/10/24(昭22)に米軍が撮影した「厚木飛行場」北西部の航空写真を参考まで。

樹木のトンネルになってました。
こうして自然の力が増して廃線路へと・・・

一部にコンクリ枕木もあったり。
小さき花が咲いていたり。

もう、でんしゃはこない

にゃあ

相模鉄道との合流地点。
航空隊線と線路は繋がっているけども、この分岐点が仕事をすることはない… 相模大塚駅を15時30分にスタートして戻ってきたのが17時ごろ。約1時間30分の散策でした。

このエリアは「高座海軍工廠跡」や「上瀬谷地区」なども控えておりますが、ひとまず今回はこれにて〆

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高座海軍工廠跡地散策(座間)

平成29年12月撮影

座間市に残る海軍戦跡散策。
高座海軍工廠ゆかりの地。
座間市の芹沢公園に残る防空壕(地下工場跡)など。

神奈川県座間市。相模鉄道さがみ野駅から北へ。
海軍厚木航空隊に隣接するこの地に海軍航空機製造の直轄工場「高座海軍工廠」(こうざかいぐんこうしょう)があった。
平成29年12月に周辺を散策しておりましたので、以下にレポを。


位置関係

まずは、国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より。
mapps.gsi.go.jp

1949年(昭和24年)1月10日米軍撮影の航空写真(USA-R2390-119)をベースに位置関係を。
終戦後4年過ぎた写真であれど工廠の建物が残っているのがわかります。
屋根は迷彩塗装してますね。

こちらはGoogle航空写真をベースにもう少し広域に。
相模大塚駅からの橙印の航空隊線路と台湾亭などは別記事で展開。
今回はさがみ野駅からの紫印が散策ポイント。


高座海軍工廠跡地散策
(こうざかいぐんこうしょう)

相模鉄道「さがみ野駅」から東に。東側の最初の踏切。
このあたりに正門があったという。 道路の位置は往時と変わらない雰囲気。 もっとも往時を偲ぶ何かがあるわけではなく。

場所→goo.gl/maps/qzDchk3Sx…

かつて高座海軍工廠の中心あたり。

場所→goo.gl/maps/CyNZmw8mE…

現在、桜並木が整備されているメインストリート。
海軍工廠の地から民間へと払い下げそうして開拓され、中央通りは「櫻花」彩る桜並木へと。

東原桜並木

昭和28年に周辺の農家が私財を出し合って畑かん水路の完成を記念して植樹。
前述の航空写真が昭和24年だったのでそれから4年後。昭和28年に桜並木が整備された頃には既に海軍工廠の名残もなくなっていたのかと。

高座海軍工廠(座間)

座間市による案内の看板が桜並木の駅近目の場所に建立されていた。

場所→goo.gl/maps/5UCqzLkt5…

昭和19年5月15日開廠。高座工廠では局戦「雷電」などが製造されたという。
昭和23年に海軍工廠跡地は地元に返還。再開発へと。

大和厚木バイパスとクロスする東原四丁目交差点附近。

場所→https://goo.gl/maps/EootLdviFXF2 …

座間コストコ周辺。
このあたりに海軍工廠の滑走路があったという。
完成したばかりの局地戦闘機「雷電」の試運転などが行われたのであろうか。
今はコストコ大渋滞の車列が尽きない・・・

芹沢公園(座間)

高座海軍工廠の名残を探し芹沢公園に。

場所→https://goo.gl/maps/Xd3GDoEFYNu …

案内図に気になる写真が掲載されてますね。
「防空壕跡」 行ってみましょう。

※以下、再訪した記事もありますのでご参照に。

芹沢の地下壕

「高座海軍工廠跡」(座間)

昭和19年、高座海軍工廠開廠。同時に地下工場3ヶ所と地下物資倉庫10数ヶ所も作られた。栗原中沢地区(芹沢公園)地下壕は東西南北に地下道が総延長1500mほど掘られたという。戦後は地下壕の定番「マッシュルーム栽培」なども行われ、一部が保存されている。

現在は地下壕は非公開。
見ての通りに柵がありますが、隙間から覗くことは可能。

大小、幾つかの開口部を崖に沿ってみることが出来ます。
3枚目は隙間から。
4枚目はもしかしたら崩落したあとかも。

ほんの僅かに開口しているところもありました。
壕内からはムワッとした湿気を帯びた熱気が吹き出しており、カメラのレンズがあっという間に曇ったり。
こうして公園内に往時を偲ぶ戦跡として地下壕が残されいるのも貴重な歴史伝承。

芹沢公園の南端附近

栗原水源ポンプ所

(場所→https://goo.gl/maps/azxsJDYPccq …

栗原水源ポンプ所
もともとは「高座海軍工廠の水道施設」として築造されたことにはじまり、終戦後、昭和30年より神奈川県企業庁に移管。昭和35年増設。昭和49年に座間市移管となり昭和58年に取水停止。見学用施設へと改修。

3枚目の写真は操作室。昭和58年まで使用されていた機器が展示。
取水施設があることから分かる通り、この芹沢公園の地は座間水源地のひとつであった。

周辺の標石は「神奈川県企業庁」かな。
かつて取水施設を運用していた絡みですね。

水源地らしく厳島の祠も。

ちょっと離れたところに座間市水道部の水道施設もありました。
実はこの向かいの崖下に「地下壕開口部」が集中していたり。

芹沢公園の南東に。

海軍工廠時代とともにあった芹沢の鎮守。

山王神社

御祭神:大山咋命
戦国時代末期に甲斐より芹沢の地に移り住んだ人々により集落が形成されたという。
文化5年(1808)に社殿造営の記録あり。
境内には芹沢の地より出征し戦死・戦病死された方々の慰霊碑もあり。(昭和44年建立)

こんな感じで高座海軍工廠の気配を地下壕に感じつつの散策。
相模鉄道さがみ野駅起点でざっと3時間ほどのフィールドワークでした。

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