「海軍」カテゴリーアーカイブ

嶋田繁太郎を偲ぶ

平成30年2月参拝(嶋田家之墓・盛雲寺)

嶋田繁太郎墓

豊島区西巣鴨 鎮座地
場所→https://goo.gl/maps/SdPVgypzZC22 …

嶋田繁太郎
1883年9月24日-1976年6月7日(92歳没) 海軍大将。
開戦時の第47代海軍大臣。第17代軍令部総長。A級戦犯として終身刑を受ける。

墓石には「昭和十七年十二月三十日 嶋田繁太郎建之」と記載がある。

昭和17年12月というと日本海軍はソロモン諸島ガダルカナルを巡る戦いで苦境に立たされていた時期。
嶋田は海軍大臣の要職にあったが、そのときに代々墓の墓石を建立は思うところがあったのだろうか…

海軍下瀬火薬製造所跡地散策(北区西ヶ原)

平成30年2月撮影

東京都北区西ヶ原及びその周辺の散策記録。

明治時代。日露戦争にて大日本帝国海軍が採用し大勝利の一因ともなった「下瀬火薬(下瀬爆薬)」の製造がこの地で行われていた。
東京都北区に僅かに残る「海軍」痕跡探しの散策をしてみます。

東京都北区にある海軍境界石

周辺の参考情報をメモしておきます。

今回は「今昔マップ on the web」さん(大正6年製図)をベースに。 http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.74723041858054&lng=139.73424168496706&zoom=15&dataset=tokyo50&age=0&map1type=roadmap&map2type=roadmap&dual=true&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2 …

現在の「西ヶ原みんなの公園」を中心とした場所が、かつての「海軍下瀬火薬製造所」。
その北西には「東京第一陸軍造兵廠」などもある場所。こちらも火薬がメイン。

「下瀬火薬」
大日本帝国海軍技師 下瀬雅允 (しもせ まさちか)が実用化したピクリン酸を成分とする爆薬(炸薬)。
明治26年(1893)下瀬雅允は下瀬火薬を完成させ下瀬火薬製造所長となる。 日清戦争(1894-1895)には間に合わなかったが、日露戦争(1904-1905)で使用され日本海軍大勝利の一因となる。

「下瀬火薬製造所」跡

現在は東京都北区「西ヶ原みんなの公園」(2010年開園)
下瀬火薬製造所(海軍爆薬部)が移転後の昭和19年に「東京外事専門学校」(東京外国語学校、のちの東京外語大学西ヶ原キャンパス)がこの地に移転。 平成12年(2000)に東京外語大学は府中に移転し、公園として再整備された。

「下瀬坂」

下瀬雅允の名を冠し、下瀬製作所の名を残す坂。

場所→
https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%B8%8B%E7%80%AC%E5%9D%82/@35.7412439,139.7355041,18z/data=!4m8!1m2!6m1!1s10Eq3VaKbm1RN8QosP52Fpi9tNlk!3m4!1s0x60188d839a3a453f:0x7595b6053c60adf7!8m2!3d35.7410061!4d139.7361964

この坂名は、明治32年(1899)、ここに設けられた「海軍下瀬火薬製造所」に由来します。戦前に製造所は舞鶴(京都府)へ移転し、跡地は東京外語大学のキャンパスとなりました(現在は移転)。このあたりは、江戸時代に幕府の御薬園があり、谷田川の水源となる湧水もありました。
平成20年3月 北区教育委員会 設置

「西ヶ原みんなの公園」から南に赴くと「染井霊園」があります。
そこに下瀬さんのお墓があるのでお参りをしてきましょう。

奇しくも下瀬火薬製造所の直ぐ近くに下瀬雅允が眠っている。
下瀬雅允墓の座標は「1種ロ2号4側」

「下瀬雅允墓」(染井霊園)

従四位勲二等工学博士下瀬雅允之墓
安政6年12月16日(1860年1月8日) – 明治44年(1911)9月6日。
享年53歳。

染井霊園には、 海軍軍人として 樺山資紀も眠っているので一緒に参拝してきた。

「樺山資紀墓」(染井霊園)

樺山資紀 海軍大将
天保8年11月2日(1837/12/9) – 大正11年(1922)2月8日。享年86歳。
警視総監(第3代)、海軍大臣(第4・5代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)などを歴任。日清戦争時の海軍軍令部長

「西ヶ原みんなの公園」に戻ってきて、公園の東側に。

住宅地に幾つか海軍の痕跡が残っていますので散策を。

前述の今昔マップ(http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.74444395470832&lng=139.73628016381838&zoom=16&dataset=tokyo50&age=0&map1type=roadmap&map2type=roadmap&dual=true&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2 …)で分かりやすく黄色線を追記。ここが海軍敷地の東の境界線の目安。2枚目の地図でいうと紫印ポイントに標石が残ってますので巡ってみましょう。

「西ヶ原みんなの公園」の東側に。
住宅地の角地にひょこんとたっている石。 摩耗しておりますが、きっと(たぶん)海軍境界石。境界石の周辺はコンクリでガードされてますね。

こちらは「西ヶ原みんなの公園」の北側。

(だいたいの場所→https://goo.gl/maps/LYHf6hqT1No …)

住宅の中に突然現れる標石
海軍標石(海軍境界石)

この境界石から奥は戦前は海軍敷地(下瀬火薬製造所)であった名残。
東京都内に「陸軍標石」は幾つか有るが、こうして沿岸部ではない都下に「海軍標石」が残っているのは珍しく感慨深い。

この路地には幾つかの標石が残ってました。
こちらは「海軍用地」と記載のある海軍標石(海軍境界石)
半分埋もれてますね。

「海軍用地」と記載のある海軍標石(海軍境界石)
戦前は「海軍用地の境界石(標石)」として、
戦後は気がつけば「北区の地籍調査」の目印として今も役に立っているようです。

「海軍用地」と記載のある海軍標石(海軍境界石)
けっこう目立ってますね。

あぁ、これは折れてしまったようです。
(折れた標石はどこに行ってしまったんだろう・・・

右側に。民家の軒先で植木が置かれている石は・・・海軍標石(海軍境界石)ですねえ。
「海軍用地」とはっきり読み取れます。

何気ない小道ですが、なかなか濃厚な海軍境界石ロード。
「海軍下瀬火薬製造所」跡地散策、坂と公園と標石から感じる散策から海軍史を堪能できました。オススメ。

鎮魂・戦艦「大和」(4月7日)

昭和20年(1945)4月7日を偲ぶ。 戦艦大和が沈没した節目の日に。

昭和20年4月7日14時23分。

大日本帝国海軍の栄光を担った戦艦「大和」。

象徴でもあった戦艦「大和」

一億総特攻の魁として、坊ノ岬沖に散華した。

感謝と哀悼を…。

第二艦隊旗艦「大和」

司令官・伊藤整一中将

第二水雷戦隊旗艦・軽巡「矢矧」 司令官・古村啓蔵少将

第四十一駆逐隊(冬月、涼月)

第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)

第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)

大和・矢矧・磯風・浜風・朝霜・霞沈没 戦死 約3700名


大和国延喜式内社・名神大社 「大和神社」

「祖霊社」(大和神社境内末社)

御例祭4月7日

戦艦大和を始めとする第二水上特攻隊に乗組み沖縄決戦に起死回天を計りし諸英霊戦没者を合わせ祀る。

戦艦大和には大和神社より艦内神社が勧請されていた。

※撮影は平成16年8月


呉海軍墓地(長迫公園)

戦艦大和戦死者之碑

昭和54年4月7日建立

合祀者 約2800柱

合掌

※撮影は平成29年3月


呉市海事歴史科学館

大和ミュージアム

※撮影は平成29年3月

大和ミュージアム

左1番目 白 46センチ九十一式徹甲弾

左2番目 赤 46センチ九十一式三式焼霰弾


大和の生まれた地 「大和のふるさと」

旧・呉海軍工廠造船船渠(大和の建造用ドック跡)

現在はドック跡は埋め立てられジャパンマリンユナイテッド社の部品組立工場として活用。屋根の骨組みは海軍工廠当時のまま残る。

※撮影は平成29年3月


噫(ああ)戦艦大和塔

昭和44年の30回目の大和進水日(8月8日)を記念して大和艦橋をかたどった塔が呉の大和ドック跡を望む丘に建立。

※撮影は平成29年3月

噫戦艦大和塔

…沖縄の危急を救うべく…大和は特攻艦隊旗艦として…再び生きて帰らぬ覚悟をもって出撃し…雄図空しく南冥の海に護国の華と散った… …日本海軍が研究を積み重ねてきた…造船技術は戦後いち早くその実力を表し「大和は沈んでもその技術は沈まなかった」と…

建塔の由来
戦艦大和は、この塔の左下方に見える造船々渠で、昭和十二年十一月 仮称第一号艦として起工、同十五年八月八日極秘裏に進水、翌十六年十二月十六日竣工、直ちに連合艦隊旗艦として太平洋戦争に歴戦、同二十年四月七日、国民の全く知らぬ内に乗員三千余名と共に九州西南海中に姿を没した空前絶後の大戦艦であった。
その頃(一九四〇年)までの海戦は、敵弾が届かない遠距離からの先制攻撃で勝敗を決しようとするいわゆる大艦巨砲時代であったが、大和の主砲は口径四六糎、長さ二〇米、その砲弾の長さ二米、重さ一・五噸、着弾距離四万二千米、ここから岩国付近まで飛ぶ世界無比の巨砲で、この大きさが大和の秘中の秘であった。
この大砲三門をならべた砲塔は、直径一三米、重量二千七百余噸もあり、これを製作したのは砲弾部で、またこの砲塔や船体の主要部を防御する四一糎乃至六五糎の厚い特殊甲鉄は製鋼部で製造された。
戦艦大和はこの砲塔三基を積むために特別に設計せられ、従って鑑は異様なまでに幅が広くなり、排水量は六万九千噸を越えたが、それでもなお、二七・五ノットの高速艇であった。
巨艦大和の建造は五万を数えた呉海軍工廠の従業員が、優秀な技術と精魂を傾け、四ヵ年余の短期間で、延べ約三百万人の力と、当時一億一千万円の巨費とをもって完成したのである。
昭和十六年十二月八日、太平洋戦争劈頭の真珠湾奇襲、続くマレー沖海戦で、飛行機魚雷が容易に大戦艦を撃沈できることを、皮肉にも日本海軍が実証して自ら大艦巨砲至上の夢を破り、やがて戦局不利を来し、敵の制空権下沖縄の危急を救うべく、航空戦力を伴わないで、大和は特攻艦艇旗艦として燃料片道再び生きて帰らぬ覚悟をもって出撃し、その持てる巨砲の猛威を発揮しようとしたが、雄図空しく南冥の海に護国の華と散ったことは誠に遺憾の極みであった。
併しながら、明治維新以来八十年間、日本海軍が研究を積み重ねて来た製鋼、機械、電機等の重工業並びに各種産業 殊に造船技術は戦後いちはやくその実力を現し、いまやわが国は造船王国として世界に雄飛するに至っている。これまことに「大和は沈んでもその技術は沈まなかった」といわれる所以である。
軍艦大和は二十世紀における世界最大最強の戦艦であって、しかも日本人の手で設計し、呉海軍工廠において呉市民の手で建造された誇り高き技術の結晶であったとの見地から、これを生んだ呉工廠の跡を一望できるここ宮原の高台に、全国大方有志諸賢の協賛を得て記念塔を建設しもって、平和を念願しつつ先人苦心の業績をたたえ、またその悲壮な最期を偲んでこれが霊を慰め、永くその栄誉を顕彰しようとするものである。後の世の人々よ、願わくば建塔の由来を諒とせられ、この塔を永久に維持保存されることを謹んで識す。
昭和四十四年八月八日 戦艦大和 第三十回進水記念日


呉海軍墓地

「大東亜戦争戦歿者之碑」

呉地方復員局長森下信衛書 (昭和22年1月25日建立)

森下信衛氏は大和特攻時には大和に乗艦し第二艦隊参謀長。 大和に殉じた最期の大和艦長・有賀幸作、そして大和を護衛した第二水雷戦隊司令官・古村啓蔵とは海兵同期。


愛知県護国神社

戦艦大和記念碑

戦艦大和乗組の英霊2,700余柱を顕彰のため、東海地区戦艦大和会が昭和42年4月7日建立。

記念碑主体は大和主砲(四六糎砲)弾の実物。 昭和60年4月7日に整備改修。

愛知県護国神社

戦艦大和記念碑
…時に昭和二十年四月七日、沖縄の北四八〇粁、想うにこの世紀の巨艦を造り得た国民の気迫と祖国の危急存亡のときにのぞみ 甘んじて死地に投じた崇高なる精神とは永くわが民族の中に脈動するであろう…

戦艦大和記念碑
碑文
戦艦大和は日本が建造した世界に誇る史上最大最強の戦艦であった
第二次世界大戦中海上作戦の中枢として活躍していたが昭和二十年に入り戦況急迫しついに連合軍が大挙して沖縄に進行して来たとき海上特別攻撃隊旗艦となり巡洋艦矢矧及駆逐艦八隻とともに徳山沖を出撃してこの敵艦隊に対し特攻不帰の悲壮なる突入作戦を決行した
進撃の途上優勢なる敵機の連続猛攻を受け優先奮闘したがわれには一機の護衛戦闘機もなく被害は累積して遂に沈没す
この時伊藤司令官有賀艦長以下乗組員弐千七百有余名は艦と運命を共にした
時に昭和二十年四月七日沖縄の北四八〇粁想うにこの世紀の巨艦を造り得た国民の気迫と祖国の危急存亡のときにのぞみ甘んじて死地に投じた崇高なる精神とは永くわが民族の中に脈動するであろう
ここに大和主砲弾を安置して光栄ある海軍を記念するとともに大和をはじめ幾多殉国の英霊に感謝の誠を捧げあわせて祖国日本の繁栄と世界平和を祈念する
昭和四十二年四月七日 東海地区 戦艦大和会


映画「男たちの大和」ロケセット

そこには、 英雄でも、 犠牲者でもなく、 3333名の、男たちがいた。
戦後60年記念作品 「男たちの大和」

※平成18年1月撮影(尾道) 撤去済み

映画「男たちの大和」

(2005年12月公開・東映)

これもまた、 往時を偲ぶべき、 大和へのレクイエム…


この世界の片隅に

(2016年公開映画)

なんですか?フネ…ですか?

「大和」…じゃ  東洋一の軍港で生まれた世界一の軍艦じゃ

はぁ、あれにも人が乗っとるの?

ああ、ざっと2700人

にせん…ななひゃくにん? そうじゃ、呉へお帰り言うたってくれ、すずさん


かみちゅ!

第9話「時の河を越えて」

2005年放送・TVアニメ

「二宮くんがなついている大工の源さんは、かつて第二次世界大戦の時、あの戦艦・大和に乗っていたことがある人物だった。源さんからそんな話を聞いてすぐ、三つ輪丸という船の幽霊が一橋ゆりえのもとへとやってくる。彼は大和の沈んだ場所に同様に住む船で、大和の帰還を叶えてあげたくて、わざわざゆりえの下までお願いに来たのだった・・・」


入船山記念館(呉市)

ボランティアのおじさんが面白い話を。

「戦艦大和の大きさを体感してみませんか?」「え?」

入船山記念館と病院のある端から、突き当りまでが約263m。
これが戦艦「大和」の全長と同じ。
なんと、目の前の道路で大和の長さが体感できる!


矢矧・佐世保海軍墓地

軍艦矢矧戦没者慰霊碑 

(昭和44年4月13日建立)

艦と運命をともにした内野副長以下446名及び他海戦の戦死者などを含む486柱の英霊を祀る。
昭和20年4月7日、大和護衛の第二水雷戦隊旗艦として活躍し大和とともに轟沈。

※画像は公式サイト様(tvs12.jp/~s-kaigunbochi…)より


浜風・呉海軍墓地

「駆逐艦浜風戦歿者慰霊碑」

陽炎型13番艦「浜風」(濱風)

第17駆逐隊に所属した姉妹艦と主要な海戦に参加。戦艦武蔵・金剛・空母蒼龍・飛鷹・信濃といった帝国海軍主力艦の沈没に立ち会い救助活動に従事。
最後は昭和20年4月7日の坊ノ岬沖海戦で戦艦大和と共に撃沈。


初霜・佐世保海軍墓地

駆逐艦初霜慰霊碑

(昭和58年10月8日建立)

戦没者26名を祀る。初春型駆逐艦4番艦。初霜最後の艦長酒匂雅三少佐謹書。
大和の沖縄特攻に直衛艦として参加するも奇跡的に損傷を受けず佐世保に帰還。
昭和20年7月30日宮津港において対空戦闘回避中に機雷触雷し大破着底し終戦を迎えた。

駆逐艦 初霜の錨

第十七駆逐隊・呉海軍墓地

第十七駆逐隊之碑

谷風・浦風・浜風・磯風・雪風・初霜

碑文
第十七駆逐隊の戦歴 我が第十七駆逐隊は谷風浦風浜風磯風雪風初霜の六艦を以って編成され大東亜戦争を戦ったが昭和十九年六月九日北ボルネオ沖にて谷風を失い浦風は昭和一九年十一月二十一日台湾海峡にて沈没。
浜風・磯風は昭和20年4月7日沖縄洋上にて沈没。初霜は同年7月宮津湾で破損し憾みを千載に残した。雪風は最期まで艦が保全され終戦後は復員船として活躍した。
当駆逐艦隊は日本海軍の誇る精鋭の甲型駆逐艦でさきの大戦において祖国日本の防衛に任じ数々の武勲をたてたが総員六百五十五柱の戦没者をみた誠に痛恨の極みである。茲に第十七駆逐艦の栄光を後世に伝え且つは祖国の安泰と英霊の安からんことを祈念して同志相寄り謹んでこの碑を建立する。
昭和57年3月21日


涼月/冬月・佐世保海軍墓地

駆逐艦涼月・冬月・柳慰霊碑の案内標

上記3艦は北九州市若松区の高塔山に鎮座。その案内標が佐世保海軍墓地にある。涼月・冬月は大和特攻作戦に参加し2艦ともに佐世保に帰還。(涼月は大破後進帰還)
尚、涼月・冬月・柳は「軍艦堤防」として北九州の地で防波堤になっている。


軍艦防波堤

秋月型防空駆逐艦3番艦「涼月」8番艦「冬月」

桃型駆逐艦4番艦「柳」(初代)

この3艦は今も「軍艦防波堤」として北九州市若松港の防波堤として国土を護っている・・・

場所→goo.gl/maps/QWMGDqkgT…

いつかは訪れたい場所のひとつです・・・


旧・呉海軍工廠造船船渠 (大和の建造用ドック跡)

大日本帝国海軍・大和型戦艦1番艦「大和」
その史上最大の戦艦「大和」が生まれた呉の海では、 帝国海軍の伝統を墨守する海上自衛隊の護衛艦が停泊していた…

※撮影は平成29年3月


葬送の詩を奉じ大和を偲ぶ。

ありがとうございました…

「海行かば」

海行かば 水漬く屍

山行かば 草生す屍

大君の 辺にこそ死なめ

かへり見はせじ

(最後の写真出典)朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/topics/word/%E6%88%A6%E8%89%A6%E5%A4%A7%E5%92%8C.html …


掲載した写真

広島県呉市

 呉海軍墓地(長迫公園)

 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)

 大和ドック跡

 噫戦艦大和塔

広島県尾道市

 男たちの大和(展示終了)

奈良県天理市

 大和神社境内末社「祖霊社」

愛知県名古屋市

 愛知県護国神社「戦艦大和記念碑」


戦艦「大和」史跡関連で、まだ行ったことがなく将来の課題

鹿児島県徳之島の「犬田布岬(いぬたぶみさき)」

   戦艦大和慰霊塔

鹿児島県枕崎市の「平和祈念展望台(火之神公園内)」

 戦艦大和殉難鎮魂之碑


戦艦大和に関連する事柄を随時追記していきます・・・

「風船爆弾打ち上げの大津基地」と「震洋の平潟訓練基地」(北茨城)

平成29年8月撮影

茨城県北茨城市に点在する「震洋基地跡」と「風船爆弾放球台跡」。
あわせて平潟港と大津港の鎮守様も。

平成29年8月13日。
常磐線にて大津港駅へ。 茨城県最北端の地・北茨城市で、ちょっとした戦争関連の史跡とあわせて平潟港・大津港の鎮守神社2社を散策して参りました。

風船爆弾放球台

大津港

午前9時20分。大津港駅到着。1時間に1本クラスだと接続も悩ましいですね。 当地は観光地的には「岡倉天心」と「六角堂」などが有名。

大津港駅

大津港駅は平成25年リニューアルし「六角堂」を模すデザインに。(六角堂は東日本大震災の津波直撃で土台のみをのこして消失。その後平成24年に再建) 駅は平成27年3月ダイヤ改正で特急通過駅に。翌年には駅前にあった大津港駅前観光案内所(&レンタサイクル)も撤退。

つまりレンタサイクルはない。バスもない。

歩くしか無いわけです。
(財力があればタクシーという選択肢もありますが…)

駅前の観光案内図を見ればちゃんと「風船爆弾打上跡地」と記載ありますね。 目的地が記載してあって安心。

ざっくり30分くらい歩けばいいのかな。

大津港駅前

のっけから駅前にあるレンガ造り建物に吸い寄せられてしまい。
なんですか、この美しい造形は。
大正元年(1912)に造られた大津港駅で貨物業務を請け負っていた倉庫らしく。
※2016年に大津港駅前から撤退した観光案内所はここにありました。

平潟港へ歩いていると道標を見つけました。
「記念御成婚」とあります。
昭和天皇(大正当時は摂政)の御成婚ですね。
大正13年8月30日建立。 現在の陸前浜街道から関本駅(大津港駅)・平潟町・大津町への道しるべ。

ずいぶん遠くに来たような気がします。
「仙台」とか「いわき」とか書いてあります。
どうしてこんなところを歩いているんだろ、と我に返ってはダメです。
無心で歩いていたら平潟の集落を通り抜けてしまい。
よき港町だったのに写真に納めるのを忘れてしまいました。

平潟港

茨城観光百選「平潟港」 昭和60年に「つくば科学万博」関連事業で制定。 鮟鱇像(あんこう) 東北地方太平洋沖地震で被災した北茨城市。 このモニュメントは北茨城市の魚であるアンコウをシンボルとし被災地の安寧と明るい未来に向けた復興に願いを込め建立。

湾内を一望する。
むかって北西側に小高い丘、南東側にもちょこっと小高い丘。
南東の島のような丘が震洋基地跡という。(のちほど)
小さいけれども良い港。

北側の高台に穴が覗いていたり、神社が鎮座していたり。
やはり気になりますね。まずは神社に行ってみましょう。

|-`).。oO(真似する人がいるかどうか知りませんが参考情報。

ちなみに大津港駅から平潟港までは徒歩25分でした。
この日は港に着いたら雨が降ってきまして・・・

平潟八幡神社

平潟港を見下ろす平潟町の鎮守様
平潟港は仙台江戸間で唯一の自然港として仙台藩によって整備され河村瑞賢により築港(行政は棚倉藩)
八幡神社は寛和元年(985)に鎌倉より分霊し鎮座
現在地には延宝9年(1681)に遷座
嘉永6年(1853)棚倉藩により再建という

社頭の狛犬は昭和2年4月。ブロンズ製の狛犬。なかなか格好良い。

後述しますがこの平潟港には戦中に海軍特攻艇「震洋」訓練基地として平潟基地が展開されていた。
往時の震洋隊員たちも、きっと平潟港鎮守たる八幡様に武運長久を祈ってお参りし狛犬達が出迎えた事でしょう…

この神社、何やら凄い。
港から約50メートル高い台の崖の上に鎮座。
社殿後方の崖に幾つか穴が掘られており・・・

御社殿後方に「虎像」が奉納されておりました。
恵比寿様やら稲荷様なども鎮座しておりました。

境内から更に一段と高い崖の上にお社が鎮座。
奥社のような佇まい 。

境内から更に一段と高い崖の上にお社が鎮座。
予備知識無しでの参拝でしたが、予想以上の空間に驚きました。
山道が更に奥に続いているようでしたので、その気になればもっと探索できそうでしたがこれ以上は自粛。

神社境内から平潟湾を見下ろす。

対岸の小島のようにポッコリとした丘が、海軍特殊攻撃艇「震洋」が秘匿された平潟基地跡という。
灰色の蓋はされているが、確かに幾つかの穴が遠望でも確認できる。

忠魂碑
元帥子爵川村景明書
大正10年10月建立

川村景明は元帥陸軍大将。日露戦争時は鴨緑江軍司令官として明治38年に奉天会戦に参戦。
平潟町の犠牲者を慰霊。
川村が帝国在郷軍人会会長在任中に書に応じたものと思われる。

ご神木スギ
推定樹齢約300年

このあたり平潟八幡神社の鎮座している丘の先は「鵜ノ子岬」と呼ばれているそうで。

この岬の北側は「福島県」。まさに関東と東北の境目。
穴が開いていました。(近寄れず)

平潟港はアンコウ鍋の発祥の地とされていて時間があればゆっくりしたかったのですが(ムリでした…

震洋・海軍平潟訓練基地跡

平潟港には海軍特殊攻撃艇「震洋」の訓練基地が展開されていた。
昭和20年6月25日に小名浜基地に編成された141震洋隊が翌月下旬頃に平潟訓練基地に移動。搭乗員50名を含む173名であったという。
当部隊は出撃はせずに終戦を迎え9月20日に解隊。

※靖國神社遊就館大ホールには復元された震洋が奉納されている。

震洋は船首内に250キロ炸薬を搭載し敵艦への体当たり攻撃を目的とした特攻艇 各型合せて6200隻が量産され4000隻が配備。震洋隊戦没者は2500余名という
原寸模型は震洋一型
1/10模型は震洋五型

幸いにして平潟港で訓練を重ねていた震洋隊は出撃せずに終戦を迎えた。

が、終戦の翌日に1隊員が猛スピードで震洋を乗り回し沈没したという逸話が残っている。(※「フィールドワーク茨城県の戦争遺跡」による)

静かに往時を偲びしとき…

東日本大震災記録碑

2011年3月11日14時46分
北茨城市でも震度6弱を記録し15時31分に到達した津波は最大6.7mを記録。 死者5名、行方不明1名の尊き命を奪い、全壊半壊家屋は2400戸を越したという。

この場所は幾多の歴史が重なりし場所であった…合掌


風船爆弾放球台跡( 北茨城大津)

平潟港から南に歩むこと25分ほど。五浦海岸にアクセスする県道354号線の脇に不思議な空間(円形の何か)があるのが地図上でもわかります。
これが「いわゆる風船爆弾」を放球した台座の跡。

https://goo.gl/maps/66XpvazGJsmQ3qiR8

「風船爆弾放流大津基地」跡

夏場なので草が心配でしたが放球台座跡は整地されており見学は容易でした。 (助かりました)
直径約16m円形のコンクリート台座が残っておりました。

放球台座の円周縁に設けられている2箇所の四角い台座は気球を飛ばすための水素を充填する水素ボンベを設置した跡とされている。

「風船爆弾」は戦後の俗称。
往時は「気球爆弾」と呼称されており秘匿名称は「ふ号兵器」

第二次世界大戦で使用された兵器としての到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器でもある。

昭和19年11月に「ふ号兵器」として実用化。ジェット気流を利用し気球に爆弾を乗せ日本本土から米本土空襲を行うもので、茨城県大津(最大規模→18基の放球台があった)・千葉県一宮・福島県勿来の基地から19年11月から20年春までの間に約9300発が放球されたという。

9300発のうち米本土に到達したのは約300~1000程度(資料にブレあり)。 被害としては1945年5月5日オレゴン州で風船爆弾不発弾に触れた民間人6人が爆死。あとは小規模の山火事など。 風船爆弾による心理的効果は大きく米国内では箝口令が引かれていた。

風船爆弾を開発した登戸研究所

大津の北にある勿来の放球基地跡

一宮の放球基地跡


風船爆弾犠牲者鎮魂碑

「風船爆弾放球台」の向かい側にひっそりと鎮魂碑が建立されている。

昭和19年11月3日「明治節」に大津基地で最初の風船爆弾放球を行う際に誤爆事故が発生。3人が犠牲となり、のちに鎮魂碑が建立された。 この誤爆事故により放球は11月7日に延期。

風船爆弾放流地跡「わすれじ 平和の碑」

新しい誓い
海のかなた 大空のかなたへ 消えて行った 青い気球よ
あれは幻か 今はもう 呪いと殺意の 武器はいらない
青い気球よさようなら さようなら戦争
鈴木俊平作・書

場所→https://goo.gl/maps/KUdRHetRF1x …

風船爆弾放流地跡

この辺一帯は、昭和19年11月から昭和20年4月の間、アメリカ本土に向けて風船爆弾を放流させた地です。…大本営直属の部隊本部はこの地にあり、作戦の中心でした。…永遠の歴史の片隅で人目を忍び、いぶし銀のようにささやかに光る夢の跡です。昭和59年11月25日建之

五浦海岸ジオサイト
海を渡ってアメリカへ…戦争の記憶を将来へ伝える地

青い青い海を見ながら、
歴史の一幕に感じつつ、
往時を偲ぶ…

放球台跡から山道に入った所に「水素ガス製造の為にケイ素鉄を粉砕した工場跡」遺構があるというが
うん、夏場に探索はムリです…
一宮基地・勿来基地では水素供給工場が被災し途中で作戦遂行不可になる中で大津基地のみは工場は無事で最後まで作戦が遂行されたという

山道を踏破はしました、なんとか。

白丸が風船爆弾放球台跡。
赤丸が風船爆弾放流地跡石碑。
青丸が水素生成ケイ素鉄粉砕工場跡推定(夏はムリw

のどかでした。
水田の緑が眩しい。黄金色に輝くときが楽しみです。
今日の安寧に感謝する。

さて、ここで駅に向かうか寄り道をするかの二択を迷う。
散策を開始して約8キロ2時間半経過。
電車は1時間に1本。寄り道すれば次は13時18分。

うん、寄り道してみるか

ここからは寄り道。戦跡とは離れます。
大津港に鎮座している「佐波波地祇神社」を目指します。
常陸国延喜式内論社
この前述の場所からは歩いて30分位かかりそうです… https://goo.gl/maps/ZJeZJBz93h12 …

道途中に「おおっ??」と反応してしまいました。
「聖徳太子碑」 大津平潟桶師組合・大正4年建立
「即位紀念」とありますが、 どうして「聖徳太子」と刻んだのか。
それも「桶師組合」が。
謎です。
場所→https://goo.gl/maps/xezpWnmm2Bo …

佐波波地祇神社

大津港駅からは徒歩約40分の道のり。現実的に歩いて行く距離ではないのですが、戦跡巡りで歩き続けていた私には誤差になっていたようで。無駄にテンション上げて歩いておりました。
場所→https://goo.gl/maps/yoKw6u77aTP2 …

さすがにもう石段はつらいですね。
やっとの思いで登ると、海が見えました。

大津の港。
地図で見るとわかるとおり阿字ヶ浦から小名浜にかけての海岸線でちょこっと突き出た五浦の北の平潟港と南の大津港は良港であったことがわかる。 高台に鎮座した大津港の鎮守様。

延喜式内社の古社。常陸國二十八座多珂郡一座小「佐波波地祇社」
古くは佐波波神また六所明神と尊称。
元禄年間に西山公(徳川光圀公)が神徳を景仰して大宮大明神と尊称。
鎮座の丘は「唐帰山」(からかいさん)と称され航海の目標となっている。

御本殿は享保12年(1727)造営とされている。
海上守護の神として崇敬されており、御社殿の脇には「錨」が多く奉納されていることからも崇敬の篤さが伝わってくる。

航海故事としては東征時の日本武尊や水戸光圀公の逸話も残っている。

「唐帰山の御神水」
鎮座地の台地は宮平と呼称され唐帰山は海抜55m。
この井戸は享保年間以前に掘られており爾来300年以上に渡り地下30mの水脈より枯れることなく汲み上げている。
わざわざ歩いて登ってきただけある良き佇まいの古社でした。

帰路。
あとはもう駅への道を真っ直ぐに。
なにげない橋だけど「昭和9年2月竣工」
場所→https://goo.gl/maps/A5R6pyNK3tz …
歴史重ねし建造物が、今も何食わぬ顔してこうして縁の下を支えていると思うと感慨深いものがあります。

この日の行程。
午前9時20分に大津港駅に到着。
平潟港には午前9時50分着。
平潟港の散策を約1時間行ない10時45分に南下開始して風船爆弾放球台跡には11時10分到着。大津港を経由して駅に戻ってきたのは13時10分。
約13キロ約4時間所要の散策でした。

海軍工作学校と海軍通信学校(久里浜)

平成31年3月(通信学校・久里浜駐屯地)及び平成30年5月(工作学校関連)撮影

海軍通信学校庁舎(昭和14年)

「海軍工作神社」

久里浜八幡神社
境内社「海軍工作神社」
昭和16年4月に久里浜にて開校した、海軍の工作術教育を行う海軍術科学校「海軍工作学校」校内に祀られた神社を発祥とし、戦後に海軍工作学校戦没者慰霊として久里浜八幡神社境内に遷座したという。 社号標は「平成7年8月吉日建立・・・」と銘記あり。

「久里浜八幡神社」を参拝。
境内地からは弥生式土器も出土しており、周辺には古墳も点在。 当社の創建は養老4年(720)という。


「海軍工作学校跡」碑

海軍少将 美原泰三 謹書(終戦時の海軍工作学校長)
久里浜公園

海軍工作学校は工作術専門の教育機関として昭和16年4月開校。(それまでは工機学校が工作術を兼務)特殊潜航艇「海龍」は海軍工作学校の研究開発であった。 海軍工作学校卒業者のうち戦死者は5千余人という。

海軍工作学校跡碑
建設之趣旨
 昭和十六年此の地に創設された海軍工作学校は、従来工機学校の一分科であった工作科が始めて独自の教育機関を持った画期的なもので、その後更に沼津分校の設立に拠て発展して行ったのであります。其の間、数万の学生、練習生に工業技術(金工、木工、潜水)教育を施し大きな成果を挙げました。
 此の学校を卒業した若者或は職員として深いゆかりのあった、工作科関係の多数の人達が太平洋戦争に殉じ尊い生命を捧げ、北海の果て又は南冥の戦場に散華されましたことは誠に痛恨に耐えません。戦後復員した者達は、本校等で習得した技術と旺盛な精神力を夫々の分野に於て発揮し祖国復興に大きな役割を果し、平和日本建設の原動力となったものと確信致します。
 今此の母校跡に記念の碑を建設し、謹んで海軍工作科関係戦没英霊の御冥福を御祈りするとともに此の地を訪れる卒業生、遺族並びに関係の皆様が当時を偲ぶよすがとし、永くその業績を称えたいと念願するものであります。
昭和五十二年三月 発起人一同 (碑文引用ここまで)

旧海軍工作学校戦没者慰霊祭
http://kurihama.info/event/kousakugakkou_ireisai/

当地は毎年5月22日13時に久里浜八幡神社より神職が出向し、神式にて慰霊祭が斎行されているという。 すでに遺族会は数年前に解散しており現在は久里浜観光協会が主導・・・


久里浜には海軍工作学校のほかにも、海軍通信学校(現在の久里浜駐屯地)や海軍機雷学校(のち海軍対潜学校)があった。海軍対潜学校は現在の「横須賀刑務支所・久里浜少年院」の近く。ちなみに最後の対潜学校長は木村昌福 少将。そこにも跡地の石碑がある。

久里浜駅近くの長安寺に慰霊碑があるというので立ち寄ってみました。

「浦賀引揚援護局引揚者精霊塔」

昭和22年1月 
浦賀引揚援護局建立 引揚船コレラ病没者(身元不明者)を祀っているという。
(神奈川県忠魂碑等建立調査集・参考)
合掌を…

同じく、久里浜の長安寺にある「祠」


「通校神社(海軍通信学校神社)」

海軍通信学校庁舎前に鎮座していた「通校神社」。
「通校神社」 は終戦後に長安寺に遷座されている。

久里浜駐屯地 歴史館にて

「海軍通信学校」跡

現在の陸上自衛隊久里浜駐屯地

日本海軍においては、明治36年(1903)に海軍水雷学校に於いて無線電信術練習生として無線通信要員の育成がはじまり、昭和5年(1930)に海軍通信学校が独立するに至っている。
昭和14年(1939)11月に通信学校は 久里浜に移転。昭和18年には通信科要員の需要が増し、海軍防府通信学校が併設され、従来の通信学校は「海軍横須賀通信学校」と改称。

碑は志摩清英(通信学校長・海軍中将) 謹書

平成31年3月の久里浜駐屯地「桜まつり」で敷地内見学。「海軍通信学校跡」の碑は立入禁止エリアでしたので許可を得て望遠撮影。

立入禁止エリアが多くて・・・

海軍通信学校庁舎(現在の本館)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」は閉校後は復員局を経て米軍が接収。
戦後、昭和25年に「警察予備隊」が発足すると久里浜部隊が開設され、その後は「保安隊」の通信学校となる。
昭和29年に陸上自衛隊が設立すると、当地は「陸上自衛隊通信学校」が開設。陸上自衛隊として最も古い駐屯地であり、旧海軍通信学校庁舎をそのまま使用している。


海軍通信学校兵舎
(第一兵舎・第二兵舎)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」
おそらく本庁舎と第一兵舎・第二兵舎は開校当初同じ時期に建設されたものと推測。

海軍通信学校以来の建物は「1」「2」「3」と棟番号が振られている。

海軍通信学校・海軍栓

陸上自衛隊久里浜駐屯地内

歴史館前に
歴史館前に
第一、第二兵舎の間に
第一、第二兵舎の間に

海軍通信学校・車庫

陸自時代の現在も同じく車庫として使用されている。


久里浜駐屯地内の記念碑

甲種飛行予科練習生 電信術錬成之地
昭和62年4月吉日建立
保安隊記念碑 昭和29年
保安隊駐屯記念碑 昭和28年
保安大学校開校之地(防衛大学校創設の記念碑)
平成31年3月吉日建立

久里浜駐屯地「歴史館」

海軍甲種飛行予科練習生の電信術錬成之碑建立記念
帝国海軍 精神注入棒
海軍通信学校時代の軍艦旗掲揚に使用された竿
海軍通信学校校歌
山下奉文ゆかりの書

山下奉文閣下から陸軍少年通信学校長に就任された高木正実大佐に宛てて書かれたもの。

観桜

もともと「桜まつり」でしたね。観桜も。

非常に空いていた久里浜駐屯地。午前9時から2時間ほど滞在。

ちょうどこの日は米軍のフレンドシップデーとも被っていたというのもあるのかな。私は、このあとは横須賀走水方面に赴きました・・・

「忠魂祠堂」と「軍艦比叡鎮魂碑」

平成30年8月撮影・横須賀・光心寺

「忠魂祠堂」

明治33年10月28日に創建。
昭和12年2月6日に再建。
建立は横須賀鎮守府。


明治二十七八年戦役(日清戦争)、明治三十七八年戦役(日露戦争)、満洲・支那事変、大東亜戦争戦死病没者を祀る御堂。

「忠魂祠堂」光政謹書
扁額は米内光政によるもの
再建時(昭和12年)の海軍大臣

横須賀・光心寺
忠魂祠堂の手前に

「軍艦比叡鎮魂碑」


昭和57年5月吉日、比叡会及び遺族外有志一同建立
軍艦比叡戦死者188柱を祀る

「軍艦比叡戦没者供養塔」五輪塔
昭和61年4月19日 軍艦比叡会建立

軍艦比叡艦歴  
 比叡は大正三年八月巡洋戦艦として横須賀海軍工廠で完成し横須賀在籍の新鋭艦として活躍した。
 昭和五年軍縮会議の結果練習戦艦となりその兵装機関の一部を撤去し第一線を退いたがその間にも昭和八年の特別大演習、同十年の南九州行幸及び翌十一年の特別大演習の三回にわたり大元帥陛下の御召艦としての栄に浴した。 
 昭和十二年「アーマー」の取付け、「バルジー」の新装備、前檣楼の改装射撃盤の近代化等の再改装が呉工廠で行われ同十五年初めに最新鋭の高速戦艦として第一線に復帰した。同年秋横浜沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式には重ねて御召艦となった。
 昭和十五、六年には高松宮宣仁親王殿下がその砲術長として勤務された。
 昭和十六年十二月大東亜戦争が勃発すると、比叡は新編成の第一航空艦隊の支援部隊として「ハワイ」、印度洋「ミッドウエー」等の海戦に参加し大いに武威を輝かした。 昭和十七年後半南東方面の戦局が急を告げるや 同方面に再び作戦し、第二次「ソロモン」南太平洋海戦に参加した。同年十一月十二日深夜「ガダルカナル」島敵飛行場砲撃の任を帯びた特別挺身攻撃隊(戦艦霧島、軽巡一隻、駆逐艦十二隻)の旗艦として目的地に突入したとき、予期しない敵重巡部隊と遭遇し激しく交戦した。比叡の放った主砲の初弾で敵重巡部隊の旗艦「サンフランシスコ」の艦橋を吹き飛ばしよく敵の大部を倒したが、比叡も亦百発以上の被弾を受けその一発が不運にも舵取機に命中し航行不能に陥った。十三日早朝から敵機の反復攻撃を受け単艦よく奮戦したが日没におよび阿部司令官の命により、乗員を駆逐艦に移乗し、自ら「キングストンバルブ」を開いたがなお沈まず、最後に駆逐艦雪風の雷撃で止めの一撃を加えざるを得なかった。英霊百八十八柱は艦と運命を共にした。
( 「軍艦比叡鎮魂碑」碑裏面の引用は以上 )

軍艦比叡戦没者供養塔趣旨
軍艦比叡は昭和十六年十二月(一九四一年)今次大東亜戦争開戦と同時に第一航空艦隊支援艦隊としてハワイ 印度洋 南太平洋及びミッドウエー海戦等に参加し輝かしい武勲を樹てた。昭和十七年後半戦局は極度の急を告げ南太平洋海戦特に第三次ソロモン海戦に参加
「ガダルカナル島」の敵飛行場の撃破粉砕の任を帯び特別挺身攻撃隊の旗艦として同泊地に突入したが期せずして十一月十二日敵重巡部隊と遭遇暗夜の混戦となり比叡の主砲及び各砲は一斉に敵艦船に対し火蓋を切り精錬された砲員の的確で痛烈な斉射は敵重巡部隊を撃滅した。比叡もまた敵の好目標となり昭和十七年十一月十二日夜から十三日に亘る敵の激しい砲雷爆撃により露天甲板以上の戦闘員多数は肉を裂かれ骨を砕かれこの鮮血に埋もれた伏屍が累々と激戦の惨状を呈した。この海戦で実に一八八柱に及ぶ犠牲者は比叡と共に同十三日夕刻南海の果てにその姿を没した。
戦死された尊い犠牲者の魂は戦後日本の復興と悠久の平和世界に誇る経済の発展に繋がる原動力となっていることは正に戦没者の遺産で日本人の心の奥に今も脈々と生き続けており軍艦比叡会はこの栄光の軍艦比叡と英霊の遺徳を後世に残すべくさきに軍艦比叡鎮魂碑を建立したが更に茲に有志相集い永代の供養を捧げる赤心を結集して軍艦比叡戦没者供養塔を建立して英霊の安らぎを念願するものである。 (「軍艦比叡戦没者供養塔」塔側面 趣旨引用は以上)

横須賀・光心寺
「忠魂祠堂」の裏山には防空壕跡もありました。
今回は友人車で参拝させていただきましたが、最寄り駅はJR衣笠駅より徒歩5分ほどの地に鎮座。 清廉な寺院空間となりますので失礼のないように参拝を。

駆逐艦「峯雲慰霊碑」

平成30年8月撮影

横須賀・満昌寺
「駆逐艦峯雲慰霊碑」

駆逐艦 峯雲
大東亜戦争に於て
祖国のためと信じ
純粋な心で戦い
多くの若い命を捧げて
平和の願いをこめた思を
慰霊碑に永く残す。

平成七年三月五日
駆逐艦峯雲戦友会代表世話人 名生 正孝 建

昭和十三年四月三十日
大阪藤永田造船所に於て竣工
第四十一駆逐隊編成第三予備艦
(略)
昭和十六年十二月八日
大東亜戦争参加
(略)
昭和十八年三月五日
ソロモン群島コロンバンガラ島クラ湾夜戦に於て敵巡洋戦隊巡洋艦三隻駆逐艦三隻と交戦 轟沈 戦死者二百八名

横須賀・満昌寺 (臨済宗建長寺派 義明山満昌寺)

「駆逐艦 峯雲 慰霊碑」は墓苑の片隅の一番高い場所に鎮座。
三浦義明を追善するために創建と伝承され、源頼朝とゆかり深き寺院。

駆逐艦「村雨の碑」

平成28年4月撮影

浦賀は鴨居港に面した地に、駆逐艦「村雨」の慰霊碑が建立されている。

駆逐艦 村雨

大東亜戦争に於いて
純粋に日本のために
青春を捧げて
戦歿した戦友を偲び
祖国愛と
平和への願いをこめて
この慰霊碑を建立する

昭和五十七年三月五日
村雨会会長 鹿山譽

感謝と鎮魂を。

駆逐艦「村雨」は太平洋戦争中の昭和18年3月5日の深夜、敵艦の集中砲火を受け、ソロモン群島(コロンバンガラ島沖)にて艦と共に乗組員119名の方々が南の海に散華された。

観音崎・多々良浜に面した静かな海。

駆逐艦村雨の碑は遙かに太平洋、ソロモン諸島に連なる海を見つめていました。 ありがとうございます…

駆逐艦村雨の碑
場所: https://goo.gl/maps/bEDqcC5U79s …

旧・横須賀鎮守府司令長官官舎

平成28年4月撮影

現在の海上自衛隊横須賀地方総監部田戸台分庁舎。
桜の季節に一般公開。
友人に連れられてサクッといって参りました。

基本情報(公式サイト内案内ページ) http://www.mod.go.jp/msdf/yokosuka/event/tadodai/tadodai.html …

到着したのは9時過ぎ。

公開開始時間も9時からなので絶妙なタイミング。

桜に錨は海軍のシンボルマーク。

自衛艦旗も美しく。 伝統墨守の海上自衛隊。

横鎮長官官舎は大正2年(1913)に建設。

建設時の横鎮長官は瓜生外吉海軍中将。企画設計は桜井小太郎。桜井氏はロンドン大学で学んだ日本人初の英国公認建築士で帰国後に海軍技師。呉時代に呉鎮司令長官官舎を設計。こちらは現在の入船山記念館(国重文)。

米国でステンドグラスの製作技法を学び、日本のステンドグラス草創期に業績を残した小川三知氏の作品。 館内には往時のステンドグラスが残る。

洋風館と和風館の接続建築。

洋風館部分は木造平屋建て、亜鉛葺切妻屋根、イギリス伝統のハーフティンバー(柱はそのままで間の壁を漆喰で埋める)の建物。

なお、もとは木造平屋建てですが、ぱっと見でレンガ造りぽくみえるのは、のちに煉瓦タイル張りに変更されたもので、もともとは木造板張りとのことで。 _φ(・_・

洋風館部分で特に美しいのが庭園側に張り出した切妻屋根に三連チューダーアーチを挟んだ位置にあるトンガリ屋根。 アーチ上には流造のような屋根と小窓、三角屋根の小窓も屋根裏のワンポイント。

和風館部分は二階建て。こちらは洋風館部分に対して簡素にして質素。 洋風館部分と和風館部分がくっついてひとつの建物として成立しているのが面白い。 呉鎮守府司令長官官舎(入船山記念館)もそうですが。

さて、館内を見学していきましょう。

建築当初は応接室として使われた一室。 現在は記念室として司令長官室的執務室的に展示されおります。

記念室展示。

おや、野村吉三郎さん。駐米大使で余りにも有名ですが海軍出身なのです。 軍令部次長ー呉鎮長官ー横鎮長官ー上海事変の第三艦隊司令長官ー阿部信行内閣外相ー開戦時の駐米大使ー戦後も色々…

記念室。展示。

本棚に収められた書籍が魅惑的すぎるっぽい。 施錠してあったけどw

歴代横須賀鎮守府長官

田戸台鎮守府長官官舎(横須賀鎮守府長官官舎)の歴代居住者。

建築当初は客室だった部屋。 室内にあるピアノは大正14年1925にドイツ・ハンブルクにて制作されたスタインウェイC型のグランドピアノ。 現在も演奏会で使用されている。

横鎮長官をはじめとする提督たちが揃いし空間を夢想させる長テーブル。

海気集 東郷平八郎書。
部屋には東郷平八郎の書が掲げられ、小さな像も棚にそなえられておりました。

洋風館の隣は和風館。
八畳間が二部屋。

窮理以致其知 東郷平八郎書。
儒学・朱子の一節。

廊下には海自艦のイラストが掲示されてました。
「しらせ」に「かとり」。 これはチョイスが渋い。

南極の石が寄贈されておりました。

桜を愛でる。

庭園からの眺望。
遠くに走水・観音崎を望む風光明媚の地。
この高台は「長官山」とも呼称されているのだ。

ちなみに立ち入り禁止でしたが、壕がありました。

こんな感じで約1時間。
横鎮長官官舎を見学させていただきました。

桜の季節のみの一般公開。
ゆっくりと歴史の重みを感じさせる趣を堪能させていただきました。 ありがとうございます。

となりは横須賀地方総監宿舎。
ちなみに撮ってはいませんが総監個人名の表札もぶらさがってました。 敷地内に掩体壕みたいなものが見えますね。

官舎から下り道を。こうしてみると高台(通称は長官山)にあるということが良くわかりますね。

白金台に残る海軍墓地の名残「白金海軍葬儀場跡」

平成30年5月撮影

港区白金台にある明治学院大学・白金キャンパス。 この地はかつては海軍墓地であった。


旧海軍軍人白金墓地記念堂

現在は「旧海軍軍人白金墓地記念堂」という納骨堂形式の建物が明治学院大の隣に残る。(非公開)
主に日清日露戦争時代の犠牲者を祀る海軍墓地。

施錠してあり敷地内は非公開。門の隙間から内部を見学を。

白金海軍墓地
 帝国在郷軍人会芝区連合分酋長(個人名略


昭和13年9月  
 芝区海軍分会建立

旧海軍軍人白金墓地記念堂の現在の建屋

定礎
 1991年9月 学校法人明治学院大学

現在は明治学院大学の管理。


旧海軍軍人白金墓地記念堂

白金海軍墓地(白金海軍葬儀場)

歴史的な背景。
終戦後の昭和20年秋、海軍の解体と共に旧海軍墓地は大蔵省に移管。
東京白金海軍墓地(白金海軍葬儀場)は明治学院大学に有償で払い下げられている。
白金海軍葬儀場は、その後に現在の「納骨堂方式」に変更されている。


位置関係

地図を見てみます。
「今昔マップ on the web」を活用。 http://ktgis.net/kjmapw/index.html …

明治42年、はっきりと「海軍墓地」と記載あり

昭和20年、墓地の南部に学校がありますね

昭和41年、明治学院大!!

敷地内は非公開。過去に公開したことがあるのかどうかも不明。

今回は、ひとまずこれで本記事を〆・・・


場所

https://goo.gl/maps/UC3Um7Rpk8s21TNL7

「水交会」あれこれ

戦前の水交社。戦後の水交会。


水交社・水交会

明治9年に海軍省外郭団体として創設した「水交社」は戦後に海軍省と共に消滅したが、昭和27年(1952)に、財団法人「水交会」として復興。
水交会」は、帝国海軍戦没者及び海上自衛隊殉職隊員等の慰霊顕彰・海軍の良き伝統精神の継承・海上自衛隊に対する支援協力を目的としている。

由来は、「莊子」 (山木篇) の「君子之交淡若水 」から。
「君子之交淡若水」「小人之交甘若醴」に由来。
「君子の交わりは淡きこと水のごとし」「小人の交わりは甘きこと醴(れい:甘酒)のごとし」


公益財団法人「水交会」

https://suikoukai-jp.com/suikoukai/

水交社 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%BA%A4%E7%A4%BE

水交会 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%BA%A4%E4%BC%9A

東郷神社のとなり、東郷記念館に水交会本部がありました。

東郷記念館が改修工事中の為、水交会の事務所は、原宿ピーターハウスに移転。

横須賀水交会
毎年5月27日 海軍記念日の日。
横須賀「海軍の碑」にて。
横須賀水交会にて「海軍の碑記念行事」が行われている。

水交社本部跡

終戦とともに当時の水交社は解散し「水交社本部」はフリーメイソンによって占拠される。
昭和56年に跡地に「東京メソニックビル」が建設され、一室には水交社時代の応接室が再現されているという…

かつて水交会本部のあった地
現在の「東京メソニックビル」

水交神社鳥居

東郷神社の庭園に移築保存されている。かつては水交会本部にあった。

水交神社鳥居の由来
この鳥居は、もと築地・海軍用地(現在の東京中央卸売市場)の水交社敷地内にあった水交神社の二代目の鳥居です。 水交神社は、日清戦争に際し、海軍の戦勝を祈願し全国から寄せられた神符・護符を奉安し、また同戦役以後の戦没社員の霊を合祀するため創建された神社で、その初代の鳥居は戦利品の魚雷で作った異形のものであったため、明治四十四年に神明鳥居に建替えられました。 水交神社とその鳥居は、関東大震災の災禍をまぬがれ、昭和三年に水交社が芝区栄町(現在の東京タワー北西隣)に移転した際、同地に遷座されました。その后社殿は昭和二十年三月の東京大空襲で焼失しましたが、この鳥居だけは毀損をまぬかれました。しかし戦後、東京水交社の建物と共に進駐軍に接収され、その後曲折を経て昭和五十六年、同地に新しくビルが建てられることになったので、鳥居は(財)水交会に返還され、同年六月十五日、由縁深い東郷神社へ奉納されたものであります。 この鳥居は、半世紀もの間、変転する日本海軍を見つめつづけ、二度の大災禍にも堪えてきたものであります。そして皇族方や海軍大臣以下多くの武官文官、また水交神社で結婚式を挙げた方など、この鳥居をくぐった人々は数えきれません。
  以上

水交社

明治四十四年十月建之


偕行社/陸修会/陸修偕行社

海の「水交会」に対して、陸は「偕行社」であった。

元々が旧陸軍の組織であったため、戦後も正会員は陸軍出身者に限られていたが会員の高齢化が進み、1992年(平成4年)に18,715人を数えた会員も物故による退会者が毎年500名を数える状況になり、2001年(平成13年)の評議会において規則が改定され、主として陸自元幹部自衛官の正会員資格が認められるようになった

2011年(平成23年)2月1日に偕行社が公益財団法人に認定されたことに伴い、「英霊に敬意を。日本に誇りを。」を組織の理念とした。偕行社の果たす役割として、戦没者・自衛隊殉職者等の慰霊・顕彰、日本の安全保障問題に関する提言、自衛隊に対する協力を挙げた。

2022年4月27日、偕行社からの将来的な移行組織として陸上自衛隊元幹部によるOB組織「陸修会」が結成された。当初より陸修会は偕行社の事業を段階的に承継することとされていたが、最終的には2団体の合併の方針となり、2024年4月1日、偕行社を存続団体として陸修会と合併、新たに「公益財団法人陸修偕行社」として発足した。
海の「水交会」は、一般有志会員枠もあるが、陸の「陸修偕行社」では一般有志会員の枠は用意なく、そもそも陸上自衛隊の幹部退職者のみの団体となっている。

https://rikushukaikosha.or.jp/about.html


つばさ会

大日本帝国陸軍元将校の親睦組織である「偕行社」、大日本帝国海軍の親睦団体である「水交会」は、戦後それぞれ陸上自衛隊元幹部退職者、海上自衛隊の親睦組織として継承されたが、独立空軍がないため戦後に発足した航空自衛隊において、幹部退職者団体として会員相互の親睦と航空防衛力の発展に寄与することを目的として、1965年(昭和40年)に設立された。その後、会員資格者の拡大が行われ航空自衛隊の在隊者だけでなく、航空自衛隊勤務歴のある事務官(文官)も対象となっている。

陸修偕行社・水交会と異なり、「つばさ会」は公益財団法人ではない。


水交会会員

水交会は帝国海軍及び海自関係者が大半ではあるが、一般有志の会員もいる。(私も一般有志会員です)

水交会会員です
横須賀水交会(横須賀支部)所属

入会手続きについて
入会資格
本会の趣旨に賛同し、理事長が入会を承認した方はどなたでも会員になれます。

https://suikoukai-jp.com/suikoukai/admission-guide/procedure

ただし、一般有志会員の場合は、「紹介者氏名(必須)」なのが、ちょっとだけ敷居が高いかも、です。

戦艦武蔵の碑

平成28年3月撮影

武蔵一宮・氷川神社(大宮氷川神社)

旧帝国海軍最後の戦艦が大和型戦艦二番艦「武蔵」

武蔵に勧請された艦内神社は武蔵一宮氷川神社。沈没より71年後の平成27年(2015)10月24日。昨年、遺族悲願の顕彰碑が境内に建立。

戦艦武蔵

 戦艦武蔵は世界最高技術を駆使し、大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦である。
 パナマ運河幅の制限から、40cm(16インチ)を超える主砲を持つ戦艦を建造できない米海軍の弱点に注目し、主砲46cm砲三連装砲塔3基を搭載した世界最強かつ最大の戦艦として建造された。武蔵誕生に到るまでには多くの技術的困難があり、関係者の苦労は並大抵のものではなかった。また、海軍の指示により建造造船所である三菱重工業は、所員に対する緘口令等、建造秘匿の徹底を図った。
 昭和17年8月5日に広島県呉で行われた竣工式には、氷川神社より6名の神職が出向し、四季が厳しく執り行われた。艦内神社には、氷川神社が分祀され武蔵神社と命名された。
 昭和19年10月17日「捷一号」作戦発令により、日米両海軍の主力が艦隊決戦を行わんとフィリピンレイテ沖を目指した。武蔵は米海軍の航空攻撃を一手に引き受け、10月24日シブヤン海に没した。同作戦により戦艦武蔵の乗員1039名戦死、生存1329名もマニラ防衛戦等に投入され最終的に祖国の土を踏めた者は430余名と言われている。
 ここに戦艦武蔵を顕彰し、碑建立に協賛、賛同するものである。

平成27年10月24日建立
 戦艦武蔵顕彰会
協賛団体
 軍艦武蔵会
 埼玉県防衛協会(創立50周年記念事業)

設立趣旨
 連合艦隊旗艦であり世界最大の戦艦武蔵がフィリピン沖で戦没してから平成26年10月24日で満70年となりました。「武蔵」の艦名は埼玉県、東京都、神奈川県北東部の旧国名である「武蔵国」に由来し、乗組員の拠り所でもあった艦内神社として武蔵一宮氷川神社の分社である武蔵神社が艦内に祀られていました「大宮」の地名の由来ともなった「大いなる宮居」として尊崇されている氷川神社が鎮守するこの大宮後において、没後70年を節目として多くの心ある有志が集まり、戦艦武蔵顕彰会が設立されました。
 当時の世界最高水準である造船技術と、類まれなる操船技術で、不沈艦の相応しい最期を遂げた戦艦武蔵と乗組員の不屈の武蔵魂を後世に伝承し、先人たちへ感謝を捧げ、未来永劫、顕彰していくべく、この顕彰碑を建立する。
 平成27年10月24日
  戦艦武蔵顕彰会会長 新藤享弘
  権宮司 東角井真臣 揮毫

吉村昭さんの名著「戦艦武蔵」を片手に。
筑波空記念館の武蔵コーナーを思い出しつつ。

宇垣纏は「戦藻録」にて、
武蔵沈没の報を受け、以下のように記している。
「嗚呼、我が半身を失えり!誠に申し訳なき次第とす。さりながらその斃れたるるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり。遅かれ早かれこの両艦は敵の集中攻撃を喰らう身なり」

シブヤン海にて、71年ぶりに姿を伝えた戦艦武蔵に敬意を表し、犠牲となられた戦艦武蔵・乗組員・関係者に感謝と哀悼の誠を捧げる。

軍艦多摩慰霊碑

平成26年10月25日撮影

平成30年12月撮影

2014年10月 大國魂神社境内に建立された軍艦多摩慰霊碑。 碑が建立された慰霊祭の翌日に見に行ってきました。

境内参道脇におおきな石碑がある。 忠魂永存。 昭和33年4月12日。 徳富蘇峰撰。門人静峯塩崎彦書。 その傍に昨日10月25日。新しい碑が建立されました。

大日本帝国海軍 
軍艦多摩戦歿者慰霊碑

玉の緒の
 あらんかぎりは
  大神の
御恵うけて
 國や守らん
海軍少佐松川彦太郎
大正十三年一月二十七日献歌

大国魂神社境内に 平成二十六年十月二十五日建立

碑裏文

軍艦多摩
 球磨型二等巡洋艦 基準排水量五一〇〇頓 全長一六二・一五米 全幅一四・一七米 出力九〇〇〇〇馬力 速力三六節
 艦内には守護神として大國魂神社が祀られていた。  
 昭和十九年十月十八日、捷一号作戦が発動され、多摩は第一機動部隊の一艦として出撃した。 二十五日、フィリピンエンガノ岬沖に於いて敵機動部隊と交戦し機関室に被雷、呉へ単艦回航中、米潜水艦ジャラオの雷撃により沈没した。 山本岩多艦長以下総員戦死。 北緯二一度二三分、東経一二七度一九分、時間午後十一時十分。
 本年、軍艦多摩沈没七十年にあたり、軍艦多摩と戦死された英霊を鎮め、世界の恒久平和を祈念しこの碑を建立する。

艦歴
大正 七年八月 三菱長崎造船所に於いて起工
大正 十年一月 竣工 呉鎮守府籍に編入
大正十一年五月 軍艦多摩鎮祭の為慰霊祭を奉仕
大正十三年一月 松川彦太郎少佐 御神璽拝受の為来社参拝
昭和 二年十月 横須賀鎮守府籍に移籍
昭和十六年七月 聯合艦隊に編入
昭和十七年五月 アリューシャン攻略作戦支援
昭和十七年十月 第二次アリューシャン攻略作戦従事
昭和十八年三月 アッツ島輸送船団護衛従事
昭和十八年三月 アッツ島沖海戦参加
昭和十八年七月 キスカ島撤収護衛従事
昭和十九年六月 硫黄島へ陸軍部隊輸送
昭和十九年十月二十五日  
 捷一号作戦フィリピンエンガノ岬沖海戦参加
 米潜水艦ジャラオによる被雷三本 海没
昭和十九年十二月二十日 除籍

平成二十六年十月二十五日  
 大國魂神社 宮司 猿渡昌盛  
 軍艦多摩顕彰会  
 大國魂神社氏子青年崇敬会  
 
 題字 吉野大巨  
 詠歌書 荒井紫峰  
 石工 室井石材

在りし日の姿を偲ぶ。

軽巡洋艦多摩。

70年目にして。

沈没の日(10月25日)に合わせて建立された慰霊碑。

艦内神社として勧請されていた大国魂神社の神霊でもって慰霊をする。

近代海軍発祥之地跡散策(築地)

平成29年5月撮影 ※現在は築地再開発により現地状況変わっております。

近代海軍発祥の地「築地」散策。 そのほか魚河岸水神社・波除神社・本願寺・聖路加病院などの散策。

築地

江戸時代に「地を埋め立てて築いた」ことから築地と呼称されたという土地。いまでこそ「築地市場」のイメージしか湧かない場所柄ですが、戦前は海軍用地として展開。 そんな海軍ゆかりの地を散策してみました。

「築地」の歴史をざっくりと。

江戸時代。 1657年(明暦3)明暦大火の際に焼失した浅草御門南の「西本願寺」の代替地として佃島の住人によってこの土地が埋め立てられ造成。 現在の「築地本願寺」を中心した寺町が形成される。 ※現在の本堂は1934年竣工(後述)

江戸時代末期、江戸幕府は軍事力増強を目的として築地に講武所を設置。 これが海軍部門の軍艦教授所(安政4年/1857)となり、のちに「軍艦操練所」(築地軍艦操練所)に改称され勝海舟らが教授として赴任している。(勝はのちに神戸海軍操練所を設立する)

明治維新の後、築地界隈の大名屋敷や築地軍艦操練所跡は明治政府に接収。
明治2年(1869)「海軍操練所」が創立。
明治3年「海軍兵学寮」に改称。
明治9年「海軍兵学校」と改称。
「海軍兵学校」は明治20年に広島・江田島に移転。

旗山碑

明治5年(1872)築地の元尾張別邸に「海軍省」(前身)が創立。 大名屋敷庭園の築山に「海軍卿の旗」(海軍大臣の前身が海軍卿)が掲げられた為「旗山」(きざん)と呼称。 のちにこの地が「海軍発祥の地」として記念碑が建立された。

旗山碑

この旗山碑はもともとは今の市場の中心地にあったというが、戦後の市場再整理に伴い移動。
同じく「築地の水神社(後述)」も移動して、それぞれが現在の場所に鎮まったとされます。
今後の築地再開発(?)で、どうなるかは知りませんが。

築地の海軍省は明治15年に築地より移転。(兵学校は明治21年移転ですのでそれよりも早く移動)
海軍省と兵学校が移転後の築地には海軍軍医学校や経理学校(後述)などが展開されていきます。

築地は明治期の海軍一大拠点だったのです。

旗山碑 銘文

此処ハ往昔徳川幕府ノ時、松平定信ノ別業浴恩園内勝地タル賜山ノ一部ニ属ス。
明治二年海軍庁衙ヲ此地ニ置ク、五年本省設立後、海軍卿旗ヲ此丘陵ニ樹ツ、世人呼ンテ旗山ト称ス。此地ヤ実ニ海軍経営ノ根基ヲ為セリ。
蓋シ其発祥ノ地ト謂ツヘシ。
爾來、春風秋雨幾星霜、省庁転移シ僅ニ一二ノ衙門ヲ留ムルノミ、地形漸ク変リ、旧時ノ状景亦尋ヌルニ由ナカラントス。
乃チ旗山ノ地点ヲ相シテ一碑ヲ建テ以テ記念ト爲スト云爾
 昭和十二年一月五日  海軍大臣 永野修身

永野修身海軍大将の謹書

余談。
築地「海軍発祥之地」は永野修身海軍大臣。
で、私はこれを「近代海軍発祥之地」と表現しました。

ややこしいことに昭和15年に皇紀2600年として宮崎県に神武東征ゆかりの「日本海軍発祥之地碑」(米内光政 首相 海軍大将)が建立されてまして。(未訪

築地魚市場

大正12年(1923)関東大震災発生。 日本橋魚市場が壊滅的な打撃を受け市民生活復旧の為に水運・陸運に恵まれていた築地の「海軍用地」を一時的に借り受けて魚市場を再開。
気がつけばそのまま昭和10年、東京市中央卸売市場が開設。

築地の水神社

魚河岸水神社遥拝所
日本橋魚市場が関東大震災で被災し、この築地の「海軍用地」に移転してきた際に「魚市場の守護神」として当神社の築地に新たに祀られた。

天正18年(1590)徳川家康公の江戸入府とともに移住してきた日本橋魚市場の開祖・森孫右衛門ら摂津国の佃村・大和田村の漁師たちが、大漁・海上安全と子孫繁栄を祈願して「弥都波能売命」を祀った「大市場交易神」が起源という。

神田神社の境内に「魚河岸水神社」が建立。 日本橋魚市場は関東大震災以後に築地に移転し、現在地に遥拝所が建立され「水神さま」として市場関係者の崇敬が篤い。

※写真は神田明神境内の「魚河岸水神社」の本社。(平成29年5月撮影)

築地の水神社(魚河岸水神社遥拝所)
御祭神 弥都波能売命

築地市場の護り神
「海軍の築地」から「魚市場の築地」へ 気がつけば、近代海軍発祥之地碑「旗山碑」も魚市場を守護する神社境内の片隅に。

鳥居は昭和10年(1935)建立。関東大震災ののちに築地海軍用地に臨時の東京市設魚市場が設置され、正式に現在地に東京市中央卸売市場が開設された年が昭和10年。
旗掲揚台は昭和17年造でした。

今は使われていない水盤は舟形でした。 狛犬の台座には昭和11年の銘あり。

ところで魚河岸水神社遥拝所は遷座の歴史を繰り返してきたわけで。

日本橋魚市場→築地魚市場。

この先は豊洲魚市場となった場合は、魚河岸水神社遥拝所も豊洲に遷座する可能性があるわけで。
今は神社と同居している近代海軍発祥の地「旗山の碑」は、どうなるんだろうね。近隣移動するのかな…
水神社前。大盛況。 観光客から市場関係者まで往来がひっきりなし。 これは築地ならではの活気ある光景ですね。

せっかく築地にいるのだから。 水神社の横にある「水神様通り」に。

吉野家です。噂に聞く「吉野家・築地一号店」 築地といえば海鮮物も迷いどころですがどこも並んでおりまして、ここはサクッと吉野家ですよw

ターレットトラック(ターレ)で乗り付ける市場関係者で大盛況。

吉野家・築地一号店

日本橋魚市場に鎮座していた「魚河岸水神社」は関東大震災後に市場とともに築地に遷座。関係する商店も移動。 日本橋魚市場で開業した「吉野家」もまた築地に移動しており、ここが「吉野家一号店」

「近代海軍発祥の地」は「吉野家発祥の地」でもあり…

吉野家・築地一号店
威勢良いおばちゃんが「いらっしゃいませ。今日は何にいたしましょう!」と声をあげる。この雰囲気は良いです。朝から麦酒が呑みたくなります(仕事あるので自粛したけど)
いつもの「吉野家の牛丼」が、…いつも以上に美味しく感じられますw

市場場内域をでるとすぐそこに鎮座している神社

波除神社

江戸時代の万治2年(1659) 「築地」埋立時に海面を漂う光り物(稲荷大神の御神体)を祀ったところ、波風がおさまり埋立工事が無事に完了したという説話が残っている築地の鎮守様。魚市場関係者の崇敬が篤い。

境内には漁業及び市場関係者の奉納碑が多い。 ここでは個別掲載はしないので、公式サイト参照で。 →http://www.namiyoke.or.jp/jinjyanogosyoukai.html …

ん?この碑は昔に参拝した時には無かったぞ。 去年奉納されたようで知りませんでした。
「奉納 吉野家 碑」
銘文によると、築地市場の豊洲への移転に伴い「築地一号店」も移転することになった、と記されてました。 移転問題は引き続き推移を見守りましょう…

さて築地エリア・波除神社から道をまっすぐに北西方向に。
「国立がんセンター」が次の目的地。
場所→https://goo.gl/maps/pQMrusHNDwH2 …
東京都中央区築地4丁目15の北側。 料金所の近くにひっそりと、海軍関係の2つの碑があります。

海軍兵学寮跡
海軍軍医学校跡

国立がん研究センター築地キャンパス構内に鎮座する2つの碑。

「海軍兵学寮跡碑」
明治2年1869、前身の海軍操練所が築地に開設。 翌3年「海軍兵学寮」、明9年に「海軍兵学校」と改称。 明21年1888に海軍兵学校は江田島に移転。 齋藤實海軍大将の揮毫。昭和9年5月建立。

「海軍軍医学校跡」
明治6年1873、海軍病院付属学舎が設立するものち廃校。 紆余曲折があり明22年に芝に「海軍軍医学校」開設。 明治41年1908、築地移転し昭和20年11月1日閉校。 碑は最後の軍医学校校長であった神林美治海軍医中将揮毫。

「海軍兵学寮跡」 「海軍軍医学校跡」 この2つの碑がある場所の横の意味ありげな柵が気になりました。 なんの説明もないけども、なんか年代物です。 きっと歴史的な何かなんでしょう(わからないけど

日本国海図及び海洋調査発祥の地

東京国税局の前庭に。

水路記念碑
日本国海図及び海洋調査発祥の地
明治4年、ときの政府は、海運や国防のために船舶が安全に航海するため海の深
さや目標物を記した海図の整備が急務であると考え、兵部省海軍部水路局を現在の東京都中央区築地に創設し、外国人に頼らず独力で海洋調査を行って日本国として初めての海図を作製しました。これらの業務は海上保安庁海洋情報部に引き継がれ、現在も続けられています。
平成23年、海洋情報部の庁舎を江東区青海に移転することとなり、140年に亘る
長い歴史を刻んだ築地の地を発祥の地として後世に伝えることとしました。
 平成23年9月12日
 海洋情報部関係者一同

軍艦操練所跡

晴海通りを隅田川方面に移動。皇居桜田門・凱旋濠界隈から勝鬨橋方向に伸びる晴海通りにシレッとある看板は「軍艦操練所跡」案内。 案内看板はありますが、特に碑はありません‥ これもまた、近世から近代へと移り変わるさなかの海軍発祥の布石でもあり。

八紘一宇の碑(国旗掲揚台)

近くには八紘一宇の碑もありました。
紀元2600年(昭和15年・1900)記念、築地門跡青年団 の建立

勝鬨橋

昭和15年竣工。国重要文化財指定。 隅田川にかかる可動橋(跳開橋)。 1970年11月29日を最後に開閉が停止、1980年には電力供給も停止。 勝鬨橋にも興味は深々ですが今回は軽く触れるに留めておきます。

勝鬨橋之記
勝鬨橋竣工の昭和15年建立された碑 碑文 明治三十七八年の戦役に於て皇軍大捷す京橋區民は之が戦勝を記念し此處に渡船場を設け勝鬨の渡と名付け東京市に寄附す
昭和八年六月東京市は新に双葉可動橋の架設に着手し偶日支事變勃發せるも今年六月功を竣ふ即ち橋に名付くるに亦勝鬨を以てし長く皇軍戦勝の記念となす
 昭和十五年十二月
 東京市長  大久保留次郎 撰併書

勝鬨橋の由来が記されし碑文。時代の名残が現在の名称に残る。
「かちどきの渡し」 明治38年、日露戦争の旅順要塞陥落を契機として有志が築地月島間に渡船場を設置し「勝鬨の渡し」と命名。 昭和15年に新たに橋が開通すると「勝鬨橋」とその名残の名称が受け継がれ「勝鬨の渡船」は廃止。

海軍経理学校之碑

海軍経理学校は、海軍兵学校および海軍機関学校とならぶ旧海軍三校のひとつ。 明治7年1874、海軍会計学舎が芝に開校。 明治21年1888、築地へ移転。 明治40年1907、海軍主計官練習所を海軍経理学校と改称。

海軍経理学校之碑
明治7年海軍会計学舎が芝山内天神谷に設けられたがのち幾変遷を経て明治40年にそれが海軍経理学校となった。その間明治21年校舎は築地に移されたがその敷地は松平定信邸の浴恩園の跡に当たった。明治時代その付近には海軍の施設が多くその一帯は海軍発祥の地とも称されている。校舎はさらに幾度か移改築を経て、昭和7年この西側築地の一角に移築されたが、太平洋戦争中就学人員激増のため、品川ほか地方三ヶ所に校舎を増設した。戦後の海軍解体に伴い昭和20年9月、同校は約70年の歴史を閉じた 。その間の出身者は万余をかぞえ輝かしい功績を残したが、戦後もわが国復興の中核となって活躍した。戦後30年を機にここにその栄誉と同校の跡を記念してこの碑をたてる。
昭和51年4月

ちなみに、 中曽根康弘氏は海軍経理学校の短期現役士官出身。

海軍経理学校之碑 裏面

裏面に掲げられし門標は昭和18年に開校した海軍経理学校品川校のもの。 学生の増加と戦局の悪化による疎開を兼ね、築地と品川のほかに浜松・垂水・橿原に分校が置かれた。

海軍経理学校校歌 (作詞・片岡覚太郎)

ゆるぎなき 御代のすがたのうつすてふ 東京湾頭
 波よする 築地の岸に聳えたつわれ等が母校
星うつり 人はかはれど古し庭 昔をかたり
 五十年 光栄ある歴史とこしえに我等をてらす
ああなつかしき われ等が母校
 母校の光栄はわれ等が誇り
この誇りすてず進みゆくこそ
 われ等が担う 永遠の使命ぞ

築地における海軍経理学校の最初の校舎敷地が、松平定信邸の浴恩園の跡に当たり、かって生徒クラス会を浴恩会と称したいきさつにちなんで、戦後は海軍経理学校同窓会を浴恩会と称することとしたが、この碑はその浴恩会が建立した。  昭和51年4月 浴恩会

附記) 今回は脇道にばかり逸れてしまってますが、せっかくなのでこの機会に触れておきます。

「海軍経理学校」ゆかりのものが都内の神社に残っています。

東郷神社御水舎の前の敷石
海軍経理学校正門敷石

浴恩会・昭和55年5月
※平成28年5月撮影

附記) 「海軍経理学校」ゆかりの史跡。

海軍経理学校正門敷石

浴恩会・昭和55年4月
「靖國神社」社殿裏梅園ちかくに。
こちらは東郷神社の敷石とは違い金属片が残っています。

附記) 「海軍経理学校」ゆかりの遺産。

海軍経理学校揚艇柱(ダビット)部の部品

「靖國神社」遊就館大展示室。
海軍経理学校揚艇柱(ダビット)部の部品が奉納されています。
(海軍経理学校品川校)
滑車・網巻・吊金具
(浴恩会・昭和60年5月) ※平成29年3月撮影


さて話を築地に戻さないと。 とは言っても実はこの先は海軍ネタはもうオシマイ。 近代建築を観て歩くことにしました。
その前にいったん休憩。 例の焼きたての「玉子焼」

築地といえば

築地本願寺

国重要文化財指定建造物。 昭和9年(1934)に竣工。 設計は伊東忠太。インド石窟寺院風の独特なデザイン。

昭和9年(1934)竣工。国重要文化財。伊東忠太設計。

細部も観ていて楽しい。

築地本願寺(浄土真宗本願寺派)
本願寺派や大谷派の寺院は朱印はございません、って。
西本願寺
(本願寺派 →http://www.hongwanji.or.jp/faq/#q000522 
東本願寺
(大谷派 →http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/leaflet/02.html …
神社専門なので深入りはしません…

現在進行形で境内整備中。平成29年10月までは工事が行われる模様です。

で、実は私がここに訪れた理由がもう一つありました。

築地本願寺境内西側にあるという記念碑
「日清戦争・近衛師団碑」  野津道貫 近衛師団長陸軍大将謹書
「日露戦争・後備第一師団記念碑」 川村景明 鴨緑江軍司令官陸軍大将謹書

これが…境内をどこを探しても「ない」んです。

ん?
途方に暮れて、工事警備員の方にスマホで検索して出てきた個人サイトのweb画像を見せつつ聞いてみます。


「こんな記念碑、見たことあります?」
工事警備員の方
「みたことないあ。ちょっとわからないなあ」
え? (けっこう大きいのに見たこと無い…だと?

警備の人が見た事ないというので、本堂事務所の受付の方に同じように聞いてみました。


「記念碑を探しているんです?」
寺務所の人
「境内の碑は全てあのエリア(写真の場所)に集めてあります。そこにない場合、重要度が高くないと判断して区画整理の際に処分してます。」

えっ? ええええ

動揺しました。
そりゃあ寺院側からすれば日清日露のなんやかんやは「重要度が高くない」と判断したかもしれませんが、記念碑にはそれを建立した人々の願いがこめられているんですよ。


「どこかに保存とかしてないんですか?」
寺務所の人
「担当ではないのでわかりませんが保存とは聞いていません」

あぁ…
頭が真っ白です。 建造物は安全性耐震性等で無くなることはありますが、記念碑が無くなる事態は想定してませんでした。

在りし日の参考
http://www.paper-band.jp/ppBlog/index.php?UID=1393635829 …

http://s-ohtsuki.sakura.ne.jp/sansakutenbyou/beautifulspot/Tsukiji-Teppouzu-Tsukudajima_SansakuH260916/Sub1_Tsukiji-Jougai_Ichiba-Tsukiji_Honganji-Sei_Roka_Kokusai_Byouin/newpage06-S.html …

http://www.visiting-japan.com/ja/articles/tokyo/j13co-tsukiji-honganji.htm …

なくなってしまったものはしょうがないです。
記念碑が何処かにあるかもしれないって、まだかすかな希望を抱いていますが参考Webの写真群と私の撮った最新写真と背景位置やアングルが被るため、そこにないことか確定なんですよね。

とぼとぼと歩いてだどり着いたのが「聖路加国際大学」
へー、芥川龍之介生誕の地…でしたか。
明治16年で、このあたりに牧場があったのも驚きです。

聖路加国際大学の裏手。このあたりが築地の居留地だったそうです。 明治の居留地時代のレンガ塀遺構。イギリス積。 あわせて明治末期のガス灯と大正15年に建築された明石小学校旧校舎の石剤がベンチに再活用されてました。 明治大正の不思議な保存空間。

聖路加国際病院旧病院棟・旧館

一部保存棟
昭和8年(1933)竣工 昭和18年(1943)には 戦時体制下で「大東亜中央病院」と呼称。 戦時中は当病院があることにより築地・明石町一帯はアメリカ軍機による東京大空襲の爆撃を免れたともされている。

聖路加国際病院旧病院棟 基礎石
神の栄光と人類の奉祀のため 
聖路加国際医道院 徳川家達書(徳川宗家16代当主)

上下の穴は大戦中に憲兵命令で遮蔽強制された名残。
(敵性語とか敵性文化とか面倒くさいやつですね。。。

「聖路加国際病院トイスラー記念館」
昭和8年、聖路加国際病院の宣教師館として竣工。(旧館と同じ時期の竣工ですね) 昭和初期の住居としては珍しい鉄筋コンクリート造一部木造建造物

ルドルフ・ボリング・トイスラー
(Rudolf Bolling Teusler、1876年2月25日 – 1934年8月10日)
米国聖公会の宣教医師、聖路加国際大学の創立者。日本初の近代型医療施設の聖路加病院 開設者で初代院長。

「アメリカ公使館跡石標」
明治8年に築地の外国人居留区に米公使館が新築。 明治23年に赤坂の現在地に移転し残された8個の石標のうち3個は赤坂のアメリカ大使館、2個は聖路加ガーデンに、残り3個が聖路加国際病院に設置。 白頭鷲(米国国鳥)・星条旗・星の彫刻。

朝7時過ぎに大江戸線築地市場駅に到着して、築地市場から「近代海軍発祥の地巡り」を本来の目的としつつ築地鎮守の神社と寺院(波除と本願寺)を巡り、聖路加(キリスト教)まで巡るという見事な神仏習合を発揮してしまい、だいたいの所要2時間半。 今回はなかなか有意義で楽しい散策でした

|-`).。oO(若干、かなり、ショッキングなこともございましたが。それもふくめて「フィールドワーク」の成果が得られたと思います。巡ってみなければわからないことです。 (とはいえ、まさか記念碑がなくなるなんて・・・ですが・・・

海軍省跡・軍令部跡の碑

平成29年5月撮影

平成29年5月。 現在の「農林水産省」があるあたりに、戦前は「海軍省・軍令部」があった。 その同じ区画「中央合同庁舎第5号館」の北東脇に往時の海軍時代を偲ぶ碑が建立されている。 しょうしょう訪れるのが大変な場所ですが参りましょう 。

現在の「中央合同庁舎第5号館」
この区画に戦前は「海軍省・軍令部」が展開されておりました。 (正確な位置は「中央合同庁舎第5号館」の北側に当たる「農林水産省」がある界隈)

この庁舎の内庭に「往時を偲ぶ碑」が建立されているが見学難易度が高く…

中央合同庁舎第5号館

まずは、日比谷公園の隣にある「厚生労働省の東玄関(正門)」からアクセスすることとなります。

厚生労働省アクセス案内
http://www.mhlw.go.jp/general/syozai/annai.html …

ストリートビュー的にはこんな感じの建物。

中央合同庁舎第5号館

https://goo.gl/maps/RnYRmBU4qrKTsktS7

正門(日比谷公園側)入館方法

https://www.mhlw.go.jp/topics/2009/02/tp0209-1.html

まずは入口の警備員に「海軍省跡の碑を見学させて下さい」と申告しましょう。
警備員が「庁舎受付」に誘導してくれます。

このご時世ですので部外者が庁舎に入館するのはなかなか大変です。
警備員の誘導に従って受付に参りましょう。

受付では「身分証の提示」と「名前・住所など」を記帳し「入館申請」をします。

なお、警備員に聞きましたが「碑の見学は平日のみ」だそうです。「土日祝日は対応不可」とのことでした。

入館申請が終わりますと、警備員さん誘導のもと「海軍碑」まで案内していただけます。

「海軍碑」(警備員さんたちは「海軍碑」と呼称していました。「〇〇さん、海軍碑の見学だって、案内してあげて!」という感じで。)は、画像でいうところの地下鉄「B3a」出入口近くの敷地内・庁舎内庭です。

そうしてようやく対面

海軍省跡 軍令部跡 碑

海軍省跡
軍令部跡

内閣総理大臣 
中曽根康弘書

碑の上面は波打っておりました。
(晴天時は反射が厳しいので撮影は曇天が良いかも)

なお、見学時には警備員の指示に従って撮影等を行って下さい。
状況により見学に制約がある場合があります。

昭和60年11月 財団法人・海軍歴史保存会 建立

中曽根康弘氏は海軍第六期短期現役主計士官(海軍経理学校・主計短現六期)出身。重巡洋艦「青葉」乗組経験あり。終戦時は海軍主計少佐。

海軍碑裏面も警備員の許可を得て見学致しました。
(状況により見学制約がある場合あります。警備員に従ってください。)

海軍省・軍令部略史 (一部表記を見やすく変更しております)

慶應三年十二月   王政復古
慶應四年一月    海陸軍務課設置
明治二年七月    兵部省設置
明治四年七月    兵部省に海軍部を置く
明治五年二月    海軍省設置
明治六年十月    初代海軍卿 勝安房
明治十一年十二月  参謀本部設置
明治十八年十二月  内閣制度発足 海軍大臣 西郷従道
明治十九年三月   参謀本部に海軍部を置く
明治二十二年二月  大日本帝国憲法発布
明治二十二年三月  海軍大臣の下に海軍参謀部を置く
明治二十六年五月  海軍参謀部を海軍軍令部とし
          天皇の直隷機関とす
明治二十七年七月
明治二十八年四月  日清戦争(黄海海戦)
明治二十七年十二月 海軍省・海軍軍令部をこの地に移す
明治三十七年二月
明治三十八年九月  日露戦争(日本海海戦)
大正三年七月
大正八年六月    第一次世界大戦
昭和八年十月    海軍軍令部を軍令部とす
昭和十六年十二月
昭和二十年八月   大東亜戦争
昭和二十年十月   軍令部廃止
昭和二十年十一月  海軍省廃止 海軍大臣 米内光政

昭和六十年十一月
 財団法人海軍歴史保存会

帝国海軍の中枢があった事を偲ばせる唯一の空間。
感慨深いものがあった。

初代海軍卿 勝安房(勝海舟)

最初の海軍大臣 西郷従道

最後の海軍大臣 米内光政

この碑に淡々と刻まれし海軍の歴史は濃縮の重みがあった。

見学するのはとても大変な場所ですが、海軍史にご興味があれば是非とも訪れて欲しい空間です。

なお当たり前の事ですが警戒厳重な「中央省庁舎」ですので、くれぐれも警備員の指示に従うようにお願い致します。

神雷桜と桜花~靖國神社の桜

靖國神社に献木された神雷桜から、往時を偲ぶきっかけを…

  • 靖國神社の神雷桜
  • 桜花公園の神雷桜
  • 桜花
  • 靖國櫻(靖国桜)

靖國神社

桜の季節になるとどうしても「桜花」のことに触れたくなります
桜賑わう靖國神社で、桜にまつわる先人たちの物語を。
以下に「神雷桜と桜花」にまつわるあれこれをまとめていきます

感謝と哀悼を…


桜花

この美しき言霊は、時に残酷な言霊でもあり。

海軍神雷部隊「桜花」

母機である一式陸攻の爆弾倉に懸吊された状態でロケット特攻機「桜花」は目標近くまで運ばれ、放たれた桜花は操縦士もろとも目標に向かって突入する。

神雷部隊は特攻専門部隊であった…

神雷桜

かつて神雷部隊の将兵たちは戦死したら「靖國神社の御神門を入って右の二番目の桜の木の下に集まって再会しよう」を合言葉にしていた。

戦後生き残った戦友は、この合言葉を大切にし、そうして桜を奉納した。

奉納された桜は「神雷桜」と名を記されている。 (海軍神雷部隊戦友会)

神雷桜
海軍神雷部隊戦友会

今年もまた桜花の季節がやってくる。
靖國神社の桜は、戦友の想い、遺族の想いが込められし桜。 特別な桜。

 貴様と俺とは 同期の桜

 離れ離れに 散ろうとも

 花の都の 靖国神社

 春の梢に 咲いて会おう

境内の桜を見上げつつ、今年もまた往時を偲ぶよすがを。

「桜花」と共に戦いし神雷部隊。
その名を伝承する神雷桜。

靖國神社 神雷桜

見事な桜花… ありがとうございます


靖國神社みたままつり(平成29年7月13日(木)前夜祭)

夏夜の神雷桜

第71回みたままつり(平成29年7月13日(木)前夜祭の朝)

ついつい神雷桜に目がいってしまう。葉桜の木陰で楽しむ境内。

平成29年5月

新緑の神雷桜

平成29年8月

夏の神雷桜


第七二一海軍航空隊
「神雷部隊」

https://ja.wikipedia.org/wiki/第七二一海軍航空隊

桜花

https://ja.wikipedia.org/wiki/桜花_(航空機)


神ノ池神雷桜・桜花公園

茨城県鹿嶋市光。 2016年撮影。
海軍神之池航空基地の跡地。
神雷部隊「桜花」練成の地。
この地にも戦友会の献木がある。 「神ノ池神雷桜」
いつの日か、この地の桜花が咲くときに訪れてみたい…

献木
神ノ池神雷桜
平成8年3月(1996)
寄贈 海軍神雷部隊戦友会

慰霊と感謝を。 若き海鷲たちに。

神ノ池海軍航空基地を物語る掩体壕。

721航空隊「神雷部隊」として特攻機「櫻花(桜花)」訓練基地が展開。 この神ノ池で訓練をした若者たちが鹿屋に出撃し、そして鹿屋から特攻へと…

神ノ池海軍航空基地を物語る掩体壕。

その上部は自然へと帰りつつ。

掩体壕には復元された櫻花11型が展示してあった。

一式陸攻を母機とし、1200キロの爆弾に推進ロケットを装備した有人ロケット爆弾。敵艦上空で母機より切り離されて高速滑空し特攻…

神ノ池海軍航空基地

昭和19年。筑波海軍航空隊では戦闘機パイロット養成施設が手狭になった為に、神ノ池飛行場に戦闘機練成隊を新設し開隊。 のちに秘匿性の高さから桜花訓練基地となり、当地で訓練をつんだ若者たちが鹿屋から特攻へと飛び立つ事となる…

※ 神ノ池は「ごうのいけ」と読みます。常陸国風土記にも記載される歴史ある池。1969年に埋め立てる前は現在の7倍はあった、という。

神ノ池海軍航空基地は、そのほとんどが工場地域。

現在の航空写真で御覧の有様。 この掩体壕が、今日まで歴史を物語る遺産として残ったことにも感謝。

公園の由来
太平洋戦争末期、この地に海軍航空隊神之池基地が開設され、特攻兵器”櫻花”の訓練が行われました。
鹿島製鉄所では、地元及び櫻花関係者の御意向に沿い、構内に残る神之池基地の掩体壕の周辺を整備し、ゆかりの櫻花碑をここに移し、土地の歴史を記念する公園として開放することとしました。壕内には往時がしのべるよう櫻花の復元機を置きました。
この公園が、先の大戦の記憶が風化する中、平和への思いを新たにするよすがとなれば幸いです。
平成5年12月 住友金属工業株式会社鹿島製鉄所 所長 長谷 登

櫻花公園(桜花公園)

神雷竜巻
櫻花隊員

錬成之地

櫻花

山岡荘八

のちに時代小説作家として大家となる山岡荘八氏は当時、海軍報道班員として神雷部隊櫻花隊員と生活を共にしていた。


櫻花
山岡荘八碑裏

太平洋戦争も一段と熾烈を極めた昭和十九年十月一日、祖国日本の興廃をその一身に背負おうと志願して来た紅顔の若者達は海軍百里原航空隊で、特別攻撃隊櫻花隊を結成同年十一月七日この神之池に訓練基地の設置を見た 。

やがて神之池基地で至難な訓練を受けた若者たちは九州最南端の鹿屋の野里村に移り、鹿屋を特攻基地として祖国の国難に殉じて行ったのである。

云わば神之池は、特別攻撃隊発祥の地として、わが日本国民として忘れてはならない、祖国の存立を護った尊い大和魂の故里である。

撰文 山岡荘八  昭和五十三年三月吉日 

建立者 元櫻花隊員小城久作 妻泰子

櫻花の碑。

前面には山岡荘八氏による建碑由来も記載。碑は元桜花隊員の小城久作氏が昭和53年に私費を投じて建立。

側面には小城氏の献歌もある。

 錬成の
 名残とどめぬ鹿島灘
 いまだただよう
 戦友のおもかげ

櫻花
山岡荘八


散った桜を静かに見送る。

手向け花を。散りし桜花を。

自然と手を合わせ頭を下げる。

ありがとうございました。

また来よう。桜の季節に。 そう感じさせる空間であった。


筑波海軍航空隊記念館

霞ヶ浦海軍航空隊(教育部隊・予科練)

鹿島空(水上機部隊独立)
谷田部空(霞空補助)
土浦空(霞空から予科練を引受)

筑波海軍航空隊(戦闘機)

★神ノ池空★(桜花部隊)
谷田部空(戦闘機)

桜花・筑波海軍航空基地 (茨城県笠間市 筑波海軍航空隊記念館にて。)


神栖中央公園

神栖中央公園。 ここに櫻花(桜花)が展示されてます。 ガラスショーケースの中に原寸大復元の桜花が。 この桜花は映画「サクラ花」の撮影で使われたものであり、2015年に神栖市に寄贈された。

櫻花(桜花)

映画「サクラ花 桜花 最期の特攻」復元機体。


桜花・靖國神社遊就館

靖國神社遊就館の大展示場の片隅に。

復元された「桜花一一型」と「海軍神雷部隊桜花攻撃ジオラマ」が展示してある。

圧巻で胸が詰まる空間。 しばし見上げ見つめ、静かに哀悼と感謝を捧げる空間。

その足跡を。

「靖國神社遊就館」
平成29年3月現在、大ホール展示のみ撮影可

http://yusyukan.yasukuni.jp


【靖國櫻】(靖国桜)

今回は「神雷桜」を例としましたが、境内に無数にある靖國桜にはそれぞれ奉納された人々の物語があります。

これからの桜の季節。

せっかくですので花の都「靖國神社」で桜を愛でながら、ちょっとだけでも感慨にふけっていただければ幸いです…

散る桜 残る桜も 散る桜

想い積もりし靖國櫻

花の都の靖國神社、春の梢に…

献木奉納桜「南会桜」
第六三四海軍航空隊呉瑞雲隊有志一同

第六三四海軍航空隊は航空戦艦で運用する水上機(瑞雲)艦上機部隊(彗星)部隊として整備。しかし連携する機会なく水上機基地航空隊として終戦まで運用。 第九三四海軍航空隊も水上機部隊。消耗により昭和19年10月解隊 。


靖國神社招魂斎庭跡。

その片隅に咲く緋桜。靖國桜。

空挺櫻

「花の都の靖國神社 庭の梢で咲いて会おう」

平成元年4月8日 陸軍落下傘部隊戦友一同

空挺櫻 (靖國神社招魂斎庭跡)
 散る桜 残る桜も 散る桜

陸軍落下傘部隊の歌 「空の神兵」
 藍より蒼き 大空に大空に
 たちまち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く

見上げていたらグッとくるものが… ありがとうございます…

駆逐艦 初霜の錨

平成28年5月撮影

旧帝国海軍駆逐艦「初霜」の錨
墨田区:山田記念病院

初霜の錨

一等駆逐艦初春型の4番艦 「初霜」
その錨が記念として保存されていた。
今となっては数少ないあり日の帝国海軍のよすがを偲びに。

墨田区の山田記念病院。

入口脇に初霜の錨が保存されています。
病院の初代院長が初霜に乗艦したことがあったというご縁でもって。

場所 https://goo.gl/maps/LmStTMAmjiw …

この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨である。


 この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨である。 初霜はさきの大戦に北はアリューシャン列島、南は佛印、シンガポール、比島にわたる広い太平洋海で勇戦、 最後は昭和20年4月戦艦大和沖縄特攻作戦にも参加し、同年7月30日宮津湾に於いて対空戦闘中触雷擱坐して任務を終わった。
 終戦時には日本海軍の駆逐艦203隻の多くが遠い海に沈み、残存の33隻の内ほとんどを連合軍に接収された。 初霜は日本に残り解撤され、その錨がこれである。
 私は昭和15年軍医長として初霜に乗込み作戦に参加した。縁あって私のところに来たこの錨を伝統ある帝国海軍の遺産として長く後世に残しておきたい。

昭和54年5月
山田病院初代院長
元海軍々医少佐 山田正明


初霜

横須賀浦賀船渠で1933年(昭和8年)1月31日に起工。翌34年9月27日に竣工。
各地で勇戦し、坊ノ岬沖海戦…所謂あの大和特攻作戦からも生還するも終戦直前の昭和20年7月30日に舞鶴にて機雷触雷し沈没。
このとき第17駆逐隊として「初霜」最期の僚艦が「雪風」だった。

大和特攻作戦からも生還した幸運艦であったが、終戦まであと半月のところで擱座。
擱座・着底した初霜は戦後に解体。
錨が初霜にゆかりのあった山田病院院長の手によってこうして保存されている。

海自第2術科学校一般公開(横須賀田浦)

横須賀田浦
海自第2術科学校(2術校) 一般公開・オープンスクール(平成28年9月)


海自第2術科学校一般公開

9月10日。
この日は海上自衛隊第2術科学校でオープンスクール(一般公開)がございました。 JR田浦駅に到着したのは午前10半すぎ。 観てきたものを簡単にレポしてみましょう。

田浦トンネル

JR田浦駅名物の三連トンネル(横須賀側)
中央トンネル(電車走行中)は、明治22年(1889)横須賀線開通時の最も古いもの。 右のレンガ造トンネルは大正13年(1924)に増設。 左の大きなトンネルは昭和18年(1943)海軍軍需輸送引込線用。

JR田浦駅の東逗子側は2連トンネル。
下り線(右側)は明治22年(1889)建設。 上り線(左側)は大正13年(1924)複線化に伴って建設。

JR田浦駅。
因みにホーム長がいまどきのJRロング編成車両には対応していない為、横須賀側1両目はトンネルに頭を突っ込んで停車。扉は開かず。乗降は2両目以降でお願い致しますな駅です。 駅の両端がトンネルに挟まれている為にどーしようもない。

海上自衛隊第2術科学校

JR田浦駅から歩くこと5分ほど。 海上自衛隊第2術科学校正門に到着です。 敷地の外側はよく歩いていましたが、敷地の中に入るのは初めてですw 敷地を巡っている水堀がなんかもう古そうで、これも海軍時代の名残なのかなどうなのかな、とか。

マップです。 広いです。
盛りだくさんすぎて、迷い箸状態です。 さあ、どこから参りましょうかね?

海上自衛隊第2術科学校庁舎 (ここは非公開でした。まあ、そりゃそうだ)

φ(..)メモ
第1術科学校・江田島 水上艦艇術科教育
第2術科学校・横須賀 機関・電機・外国語等の特殊部門専門教育
第3術科学校・下総 航空機整備員・航空基地員養成機関
第4術科学校・舞鶴 経理・補給関係術科教育訓練


海自第2術科学校、すなわち「2術校」

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/ 

機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を主体とする機関


まず最初に何処に行こうか迷って、機関とか電機とかタービンとかエンジンとか英会話教室とか…私の頭では処理しきれない催し物ばかりでパンクしそうだったので、まずは一番得意なところに足が赴きました。

歴史保存エリア

海軍通信教育発祥記念碑

明治34年、この地「海軍水雷術練習所」にて日本で始めての無線電信術の教育が行われた。 明治40年に海軍水雷学校となり、昭和5年に海軍通信学校が分離独立し、昭和14年に海軍通信学校は久里浜に移転し終戦。

海軍水雷学校跡碑

明治26年12月2日に水雷術練習所が設置。明治40年4月20日に海軍水雷学校。昭和20年の終戦までこの地で海軍教育が行われてきた。

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑

明治28年2月4日夜。日清戦争威海衛の戦いにおいて第六号水雷艇(艇長は鈴木貫太郎大尉・のちの総理)は港内に突入し敵艦鎮遠に水雷攻撃をしようとした矢先、発射管が氷に閉ざされ射出が不可能となってしまった。
水雷術を専攻し担当していた上崎上等兵曹は水雷攻撃ができなかった事を責任を感じ、敵降伏後の3月14日に艇内において自刃。36歳であった。 鈴木貫太郎艇長をはじめ艇員はその忠誠を永久に伝えるために横須賀竜本寺にこの碑を建立。昭和43年に「水雷ゆかりの2術校」内に移転。

海上自衛隊発祥乃碑

昭和27年4月26日、海上自衛隊の前身である海上警備隊がこの地にて創設。戦後の海軍の再建を検討していた「Y委員会」において地元と米軍の了解が得られた場所がこの「田浦」の地だったのだ。

すなわち田浦は海自発祥の地!

米内光政(海軍大臣)がその晩年を傾けた「海軍再建」の意志を引き継いだ保科善四郎(軍務局長)、そしてY委員会委員長となった山本義雄(総務局長)、調整に尽力した野村吉三郎…


国旗掲揚旗竿基部

海上自衛隊創設時にこの地に建てられたもの。 海上自衛隊の歴史を残し物語るもの。

タイムカプセル

意外でした。
海自の学校でタイムカプセルって、なんかオチャメ。

伝統と飛躍
海上自衛隊第2術科学校
開校40周年記念
タイムカプセル
 1998.4.1設置
 2018.4.1開封

(2019年に記事編集してますので、もう開封されてますね・・・)

第2術科学校開校20周年記念機関

350馬力蒸気往復機関 海自が昭和27年発足時から昭和32年まで「えい船4号」として使用した旧帝国海軍雑役船の主機械。同船除籍後に教材として活用。創立20周年に際して記念機関として永く保存されている。

こんな感じで「歴史保存エリア」を満喫満足したら、庁舎をみながら敷地の中心部に向かいます。

時間は11時半頃。 ちょっと早いけど「お昼」にしましょう。 厚生センターの食堂へ向かいます。

田浦厚生センター

海自第2術科学校の食堂でいただくカレー。

「DDGきりしま」カレー(ポーク)を「海自のプレート」で戴きました。 海自で使用されている本物のアルミプレートにカレーとサラダ・玉子焼・福神漬・コロッケ・牛乳がセット。 食堂の隣は売店。

食事を終えたらプラプラとお散歩を。

格納庫のようにみえる建屋は「内燃実習棟」。 この海自第2術科学校内に、旧海軍時代からの建造物がどれだけ残っているかは未調査・未把握でしたので、なんとなく建物の記録もしておきました。

行進展示

プラプラしていたらちょうど、グランドでは学生たちによる「行進展示」がおこなわれておりました。 もちろんここは海自の学校ですので、左側は陸自ではなく海自隊員の陸上迷彩服ってことです。

PS07あしたか
AGS-5106海洋観測艦しょうなん
MST-463掃海母艦うらが

内燃機関実習場

さきほどの格納庫みたいな建屋。 ・・・文系人間には。どうにも難しい展示なので内燃機関の見物よりも建物の観察がメインでした・・・。 うーむ。

第二ガスタービン実習場

V6V機関室。
うっ、うむ。

電機・応急工作実習場

四角い建物。 ここも・・・はい、難しいです・・・。 隊員の人が展示物に関していろいろ教えてくれるんですが、、、馬耳東風・・・。 うーむ。

電機・応急工作実習場

パソコンでクイズに挑戦。 これなら、私でもなんとかなりそうですw 難問!!海上自衛隊クイズ!海上自衛隊創設問題
やってみました

・・
・・・
合格! 歴史系だったので面目保てて助かりました(1問、間違えた)

掃海艦を見に行きましょう!

掃海艦はちじょう ※除籍

やえやま型掃海艦3番艦
磁気反応型機雷を避けるために木造艦。世界最大級の木造船舶。
排水量基準1,000トン / 満載1,200トン
全長67.0m/全幅11.8m

因みに、やえやま型掃海艦
1番艦「やえやま」は2016年(平成28年)6月28日除籍
2番艦「つしま」は2016年(平成28年)7月1日除籍
3番艦「はちじょう」のみが現役。(補足→平成29年に除籍されました)
姉妹引退艦は「はちじょう」の近くに佇んでおりました・・・

掃海隊群第1掃海隊
MSO-303掃海艦はちじょう
海自としての再出発。
その根源は「掃海部隊」にあり。
海軍の伝統を受け継ぎ、国際貢献の主役として今も掃海部隊は活躍をしている。

機雷処分用として、前甲板にJM-61-M20mm多銃身機銃1基を備える。

艦橋

掃海艦はちじょう艦内神棚

近くにいた隊員に質問をしてみたところ、艦にゆかりのある八丈島の神社もお祀りしているとのことです。(その隊員さんはどこの神社かまでは詳しくはわからないけど、とのことでしたが。)

掃海艦はちじょう艦上から、田浦倉庫群を望む。

B倉庫・C倉庫・D倉庫
※平成30年7月22日にB倉庫C倉庫が焼失してしまいました。

K倉庫・F倉庫・G倉庫

海自横須賀造修補給所比与宇油脂庫地区

B・C・D・K・E・F・G・H倉庫

帝國海軍軍需部長浦倉庫の名残を海側から。
※平成30年7月22日にB倉庫C倉庫が焼失してしまいました。

参考情報 →倉庫略番写真地図

一部に熱烈なファンがいるらしい?
海自リアカー(折りたたみ式) 「はちじょう」のものではなく・・・
掃海艇「はつしま甲板」とラベル有り

掃海艦「はちじょう」スタンプ色々

旧帝国海軍横須賀海軍軍需部倉庫。

こちらは2術校と隣接する海自横須賀造修補給所N-4倉庫。
この旧帝國海軍名残の倉庫が、海自敷地内から間近に見ることが出来たのが地味に嬉しく。 (敷地外からも見ることは出来ますが・・・)

隊舎

隊舎では学生居室の公開も。
バームクーヘン・・・といえばベッドメイキングw
このピシーっとした毎朝のベットメイキングも海軍の伝統。
皺があろうがなかろうが上官が(以下自主規制)なのは旧海軍ですが海自もアレコレ伝統墨守してるのかな…

スタンプラリー

(資料室系の難しい話は後回し 集めると「ペーパークラフト」が貰えました。(まだ作ってません)

因みにペーパークラフト一番難易度は「きりしま」とのことでしたが、私は「ひゅうが」を。
航空戦艦の時代ですか?日向師匠!

さて、いよいよこちらに参ります。

第2術科学校

「海軍機関術参考資料室」

「海上自衛隊創設史料室」

実はここを一番の楽しみにしていたのですが、結果として時間切れをおこしてしまい、次回はここをメインにしようと改めて決意をした、など。

歴史講座「掃海がつないだ海軍のこころ」
帝国海軍から海自まで脈々と受け継がれてきた伝統。
「サイレントネイビー」

軍人は政治に関与せず、ひたすらに任務を果たせ、と。 縁の下で掃海部隊が黙々と営々と繋いできた「海軍のこころ」を。

海自の創設物語。

そして日本近海・朝鮮戦争・ペルシャ湾掃海作戦など。 まさにサイレントネイビーゆえに、あまり物語られることのない掃海部隊の活躍を学ぶことが出来ました。

まずは「海軍機関術参考資料室」へ。

ここには海軍機関学校関係の貴重な史料、また海軍の歴史的な史料が集まっております。
幾つかは公式Webにも掲載がございますね。

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/dentou/rekisieria/rekisieria_index.html

豊田副武書 「丹心答聖明」 たんしんせいめいにこたう

元末期の西域詩人である薩都刺(さつら)の詩が原作。
「真心をもって、天子の聖徳に答える」の意。
豊田副武は、最後となる第19代軍令部総長。海軍大将。

古賀峯一書 「竭誠盡敬」 まことをつくしてけいをつくす

「真心を尽くして尊敬の念を持つ」の意。
古賀峯一は山本五十六の後任として第28代連合艦隊司令長官となるも海軍乙事件にて殉職。最終階級は元帥海軍大将。

永野修身書
「庶昭忠誠」「憑高跳遠」

第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。開戦時の軍令部総長。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。

山本五十六書
「常在戦場」

長岡藩の藩風・藩訓「常在戦場」。 河井継之助とともにあった長岡藩家老・山本帯刀家を継いだ高野五十六は、その長岡の精神を常に座右の銘としていた。

幾つか目に止まったものをつらつらと掲載していきます。
史料は無数にあり、見逃したものも多いため再訪したいですね。

山本五十六の書

古賀峯一の元帥刀

旧海軍用燃料(塊炭)
明治末頃まで艦艇の燃料として使われていた炭

ちなみに展示品がのっている、この机は「海軍水雷学校記念材」だったり。

旧海軍水雷学校鐘鈴

昭和16年12月8日当時の「海軍士官夏服外套肩章」

進水式斧金槌
右から 駆逐艦・暁(進水式)
航空母艦・飛龍(起工式使用金槌)
特務艦・高崎(進水式使用斧)

井上成美の懇談録音テープ

米内光政・山本五十六とともに海軍三羽烏(左派トリオ)と称された井上成美。米内海軍大臣の次官としてその片腕を担った人物。
声は聞こえぬ展示物であれ、背筋がすっと伸びてしまいました。

軍艦「長門」水圧管水管系図の銘板

終戦後に英国進駐軍が軍艦「長門」機関室から外して英国に持ち帰っていたものが昭和61年に英国から海自に寄贈。 ビキニ前に取り外されたからこそ残った長門の銘板。感無量です…。

あぁ、これは貴重な本棚だ・・・。

こんな感じで上から下まで貴重な史料のオンパレードでレポはほんの一部。圧倒的に時間たりませんでした。これは、また見学に来たいです。

「海上自衛隊創設史料室」
続いては向かいの部屋に。
戦後、海軍解体後に、海上自衛隊が創設するまでを物語る史料室。知らなかったことも多く大変勉強になりました。

Y委員会

1945年(昭和20年)12月1日。

旧海軍組織・海軍省は廃止され、かわって復員業務を主体とした「第二復員省」(第一は旧陸軍省)が設立。 第二復員省資料整理部では米海軍が関与する中で海軍再建の研究がなされた。

最期の海軍大臣・米内光政。

米内は小磯・鈴木貫太郎・東久邇宮・幣原内閣と戦中戦後の海軍大臣を歴任し、その帝國海軍の最期(1945/12/1海軍省廃止)を見守った人物。 米内が軍務局長・保科善四郎に託す想い…

戦後、米内は保科善四郎軍務局長に「海軍再建を模索すべし」「海軍には優秀な人材が数多く集まり、その伝統を引き継いできた。先輩たちがどうやってその伝統を築き上げてきたか、後世に伝えるべし」「海軍が持っていた技術を日本復興に役立てること」と指示したという。

保科善四郎が戦後に政界に入ったのはこの「米内の遺言」を一つでも達成しようとしたためと述べており、Y委員会(海軍再建検討のための組織)を通して、現在の海上自衛隊創設の際に「米内の遺志」を反映されていると言われている。

保科善四郎(海軍中将)は、開戦時の駐米大使で海軍大将であった野村吉三郎とともに海軍再建の検討を開始。 野村は復員庁第二復員局の元海軍軍人とともに海軍再興の私的な検討に入り、のち政府・米海軍とも調整を進め1952年(昭和27年)にはその道筋が構築された。

Y委員会。 昭和26年10月。吉田茂内閣直属の「秘密組織」として「海軍再建」を検討した組織がY委員会。同委員会が日本の海上防衛力再建のための計画策定にあたった。

Y委員会。
Yの由来には諸説ある。
ひとつは、
「A」は陸軍、「B」は海軍という海軍隠語。しかしBでは「海軍」のことを指しているのがストレートすぎるので逆順にしてZに次いだ「Y」とした説。

Y委員会由来もう一つの説は、
旧海軍側の中心人物であった山本善雄(元少将)、吉田英三(元大佐)両氏の苗字の「Y」、さらに海保側の中心人物であった海上保安庁長官の柳沢米吉の「Y」。 また、海軍再建を願った米内光政の「Y」をも含む・・・とも。

戦後。
帝国海軍解体後に、如実に日本の沿岸・港湾警備に問題が生じたために、1948年(昭和23年)に連合国軍占領下の日本において洋上警備・救難および交通の維持を担当する文民組織として海上保安庁が設立。

そして1950年(昭和25年)、朝鮮戦争において対機雷戦戦力が不足してた米軍より指令が下り、海上保安庁より掃海部隊が派遣。朝鮮半島海域において特別掃海活動を実施。(日本特別掃海隊)

これにより米軍側からも日本の海軍戦力の再建が必要との認識が沸き起こる。

Y委員会での検討がすすみ、結果として1952年(昭和27年)には第3次吉田内閣の下で、より軍事組織に近い海上警備隊(沿岸警備隊)が海上保安庁附属機関として組織。その後まもなく「海上警備隊」として海保より分離され、これが後の「海上自衛隊」となった。

こんな感じで海自の創設を学びつつ。(概要はかなり端折りました・・・) 勉強になりました。

昭和33年ごろの第二術科学校。

服務の宣誓  
 保安庁職員  
 自衛隊員

16時ちょっと前。
史料室でズッポリと沼にハマってしまい。
これで時間切れ。
まだまだ見たりなかった気がします。
これはまた来年のオープンスクールにお伺いしないと、ですね。

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