「陸軍」カテゴリーアーカイブ

松戸飛行場の掩体壕基礎跡(松飛台)

2023年11月25日(土)。
陸上自衛隊 松戸駐屯地で、創立71周年記念行事が行われ、駐屯地一般開放がありましたので、足を運んで見ました。

せっかく松戸駐屯地に来ていたので、そのまま帰るのももったいないということで、さらに足を伸ばしてみました。

松戸駐屯地内の松戸飛行場の戦跡に関しては下記も。


松飛台

地名ともなっている「松飛台」は、旧陸軍が監督した逓信省航空局中央乗員養成所の飛行場の滑走路が所在した台地(松戸飛行場の台地)に由来する。
格納庫等があった東が松戸駐屯地、誘導路があった西が八柱霊園の一部に当たっている。

松飛台(飛行場跡)
戦時中パイロット養成が目的の「松戸飛行場」がここにあった
昭和15年(1940)、この一帯に総面積132万3000㎡、東西・南北1.2kmづつのL字形滑走路を持つ逓信省航空局、松戸飛行場中央航空機乗員養成所が完成しました。飛行場は民間パイロット養成を目的としましたが、軍人が所長ほか要職を占めており緊急時には軍事基地に転用されるものでした。戦時下では帝都防空を担う陸軍飛行場として機能しました。戦後は主要施設が陸上自衛隊に使用されています。付近は1960年代から工業団地として造成されますが、松戸飛行場の名を「松飛台」という地名に残すこととなりました。

松戸市観光協会(https://www.matsudo-kankou.jp/sightseeing/%E6%9D%BE%E9%A3%9B%E5%8F%B0%EF%BC%88%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4%E8%B7%A1%EF%BC%89/

松戸飛行場の掩体壕基礎跡

松戸飛行場の西側の空き地に、掩体壕の基礎といわれるコンクリート片が残存している。

礫レキの混じり具合から、たしかにこれは往時ですね。

空き地。ドラックストアとクリーニングの隣。

場所:松飛台入口バス停ちかく

https://maps.app.goo.gl/3VQf8jqvLauo5MJf8

界隈は、「松飛台」を冠する名称多し。

松飛台工業団地

松飛台商店会

松飛台公園

松飛台駅

松戸飛行場の名前を伝える「松飛台」は地名として根付いていますね。

※撮影:2023年11月


関連

松戸駐屯地 創立71周年記念行事・その2(記念碑群と広報展示室)

2023年11月25日(土)。
陸上自衛隊 松戸駐屯地で、創立71周年記念行事が行われ、駐屯地一般開放がありましたので、足を運んで見ました。

本編は、その2として「記念碑と展示室」の散策を。

その1は、下記にて。


松戸駐屯地の記念碑群

一箇所に集められた記念碑。ちょと洒落た庭園のような。。。

そして、結構摩耗している。。。

 皇紀2601年秋

闘魂

第4期機関生徒
昭和19年9月25日卒業記念

第1期操縦生徒卒業紀念

昭和16年3月卒業記念 

育翼雄飛

第2期機関生徒
昭和18年2月27日

雄鵬

第1期普通科操縦生徒  
昭和19年9月25日

表が、よめない、、、

第1期普通科整備生徒  
昭和20年3月24日卒業記念

これだけ、新しい。


広報展示室

駐屯地の展示室は、かならずチェックですね。

陸軍特別攻撃隊を募る檄文

第五十三戦隊長

航空写真

階級章

旧軍コーナー

岡村寧次大将の正装

岡村寧次大将の三式軍装
なぜに、ここに岡村寧次大将なのだろう。(戦争末期の支那派遣軍総司令官)

秩父宮の幼年学校時の御着用軍服

明治天皇の御使用手袋と
昭和天皇の御使用手拭い

需品学校ならでは、の展示室。

部隊の在るところ需品あり

※撮影:2023年11月

その3へ。


関連

松戸駐屯地 創立71周年記念行事・その1(松戸飛行場の戦跡散策)

2023年11月25日(土)。
陸上自衛隊 松戸駐屯地で、創立71周年記念行事が行われ、駐屯地一般開放がありましたので、足を運んで見ました。
本編は、その1として「松戸飛行場跡」の散策を。


逓信省航空局・松戸飛行場(松戸高等航空機乗員養成所)

1940年(昭和15年)6月3日。逓信省航空局松戸飛行場が竣工し、松戸飛行場を使用する中央航空機乗員養成所が開所。民間操縦士や整備員を養成する目的で設立されたが、帝都防空のための飛行場として陸軍が建設当初から関与し、養成所所長も陸軍少将が務めていた。

なお、逓信省松戸中央航空機乗員養成所は、後に高等航空機乗員養成所と改称している。

昭和19年(昭和19年)には陸軍第一〇飛行師団指揮下の「飛行第五十三戦隊」が所沢から移り、首都防衛の任務に当たった。

松飛台(飛行場跡)
戦時中パイロット養成が目的の「松戸飛行場」がここにあった
昭和15年(1940)、この一帯に総面積132万3000㎡、東西・南北1.2kmづつのL字形滑走路を持つ逓信省航空局、松戸飛行場中央航空機乗員養成所が完成しました。飛行場は民間パイロット養成を目的としましたが、軍人が所長ほか要職を占めており緊急時には軍事基地に転用されるものでした。戦時下では帝都防空を担う陸軍飛行場として機能しました。戦後は主要施設が陸上自衛隊に使用されています。付近は1960年代から工業団地として造成されますが、松戸飛行場の名を「松飛台」という地名に残すこととなりました。

松戸市観光協会(https://www.matsudo-kankou.jp/sightseeing/%E6%9D%BE%E9%A3%9B%E5%8F%B0%EF%BC%88%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4%E8%B7%A1%EF%BC%89/

松戸駐屯地

戦後は、警察予備隊・保安隊の補給処を経て昭和29年の陸上自衛隊発足に伴い「陸上自衛隊需品補給処」となる。

現在は、需品学校、需品教導隊、関東補給処松戸支処、第2高射特科群が駐屯している。
松戸駐屯地司令は、陸上自衛隊需品学校長が兼務している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:892-C2B-153
昭和19年(1944年)9月24日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

松戸飛行場を拡大
滑走路地区は逆L字。西は八柱霊園。

本部地区を拡大

大きな格納庫があるのがわかる。


松戸飛行場時代の格納庫

昭和15年(1940)竣工の格納庫。
現在は、陸上自衛隊松戸駐屯地の倉庫として活用されている。

滑走路側(西側)

東側

北側

南側

内部

覗いてみた。


大型倉庫(戦後)

こちらは戦後と思われる格納倉庫。


ハンドサイレン(手動警報機)

なんかあった。手回しのサイレン、ですね。


木造建屋(戦後?移築??)

木造の建屋がいくつかある。この場所は、格納庫と滑走路の間になるので、往時の建屋ではないんですけど、移築なら、往時の可能性もある、、、

格納庫の西側。


松戸飛行場時代の木造建屋(格納庫東側)

格納庫の東側。往時から現存する木造建屋。

4つの建屋のうち、2棟が木造建屋。

こちらは戦後かな。木造建屋と並ぶコンクリの建屋。

こっちはさらに東側。これも戦後。


門柱跡

門柱跡。ちょっと不自然な場所に。往時のものかどうかも??


松戸飛行場時代の木造建屋(線路側)

松戸飛行場跡の木造建屋。線路際の2棟も、往時からの建屋。

すぐ裏を新京成が走る。もともとは鉄道連隊の線路でもある。

正門近く。


松戸飛行場時代の木造建屋(南側)

南側にある木造建屋。これも往時からの建屋。

独特なデザインの門柱。

同じく南側の建屋。

車両整備工場


駐屯地を横切る踏切

南側の踏切近く。今も昔も位置関係は変わっていない。

線路の東側にも大型倉庫がある。ただし、これも戦後かな。

駐屯地の東西を線路が貫いている。もともとは、鉄道連隊の線路。

松戸駐屯地を新京成が走り抜ける。

戦後の倉庫かな?

滑走路跡は、グランドに。

西門

松飛台の住宅地。かつては滑走路が広がっていた。

※撮影:2023年11月

その2へ。


関連

「観武ケ原」盛岡市青山地区の戦跡散策

盛岡市北西部の青山地区。往時は騎兵第三旅団や工兵第八連隊の駐屯地として発展した地域。
陸軍時代の面影を辿りつつ散策をしてみました。

観武ケ原(みたけがはら)

観武ヶ原(みたけがはら)は、現在の岩手県盛岡市の青山・みたけ・月が丘、及び滝沢市滝沢地区にあたる地域に広がっていた原野。後世に観武野(みたけの)とも。
大正天皇が皇太子時代に、練兵場を観閲した折に命名したと言われている。またそれ以前に、岩手山が眼前に見えることから、「御嶽(みたけ)」と呼ばれていたものを改めたという。

今昔マップ on the web


陸軍騎兵第三旅団・覆馬場(覆練兵場)(現・盛岡ふれあい覆馬場プラザ)

煉瓦造の建屋がのこっている。
かつて青山地区に6棟の「覆馬場」があったが、この1棟を残し解体されてしまった。
建築年代は、明治42年(1909年)となる。
陸軍第八師団騎兵第三旅団騎兵第二十三聯隊、騎兵第二十四聯隊が明治42年に編成配備。

盛岡ふれあい覆馬場プラザの施設概要と周辺案内
盛岡ふれあい覆馬場プラザと青山地区の歴史
 青山地区一帯は、藩政時代は荒涼とした原野でした。明治41年に、工兵第八大隊が弘前から移転、明治42年(1909)に、騎兵第三旅団第二十三聯隊、第二十四聯隊が編成配置され、煉瓦造の覆馬場が6棟建設されました。
 当時、南部駒は軍馬として優秀であり、岩手山から続く広い原野は絶好の演習地でした。終戦後の昭和21年には、観武原の開拓とともに、兵舎を応急仮設住宅とし、この年に青山町が誕生しました。
 青山地区一帯には、現在でも盛岡ふれあい覆馬場プラザ(旧覆馬場)をはじめ、近接する森永乳業盛岡工場敷地内には、騎兵第三旅団の兵舎の煉瓦造の門柱等が保存され、また独立行政法人国立病院機構盛岡病院の敷地内には、工兵第8聯隊の兵舎の門柱等が保存されています。
 また、平成18年に開業した青山駅の駅舎や門柱、ショッピングセンターの歩道境等にも煉瓦が使用されており、今日においても、煉瓦文化が根付いている地域となっています。

盛岡ふれあい覆馬場プラザの施設概要
 この建造物は、平成16年に地元住民や有識者、保存を求める団体等からの要望をうけ、平成17年に盛岡市が取得しました。その後、平成18年から平成21年まで、5回の旧覆練兵場活用懇話会を開催して策定した「旧覆練兵場整備基本構想」に基づき、平成23年度、24年度の2個年で整備を進めてきました。
 歴史的な景観を形成するうえで、復元を基本に、屋根等の外観の色彩は建築当時のものとし、外壁の煉瓦については、経年劣化部分を補修のうえ、煉瓦素地のままの外観としました。また、敷地内の桜の樹木も保存し、さらに、閉鎖的にならないよう緑化整備を行うなど、景観に配慮したものです。
 名称を「盛岡ふれあい覆馬場プラザ」とし、平成24年6月1日に、「多目的施設」として開館しました。この建造物は、約100年もの間、青山地区の歴史を見続けてきた建造物である、同地区における歴史的建造物のシンボルとして、また本市における近代化遺産として、次代に継承するものです。

境界柵の残骸かも。

内部を覗いてみる。

場所

https://maps.app.goo.gl/QpYMUoxPCGzWDZ7t9


第八師団工兵第八聯隊・工兵園
(現・国立病院機構盛岡医療センター)

病院内のちいさな庭園。整備されたこの庭園が、工兵の思い出の場所であった。

明治41年に、工兵第8大隊が弘前から移転してきている。

工兵園の由来(碑文)
1,この園庭は明治、大正、昭和に亘りこの地に駐屯した工兵第八聯隊及びその編成部隊の隊員の冥福と勲功を顕彰するため造営し後世の活用を希い、厚生大臣の承認を得て国立盛岡療養所に寄贈したものである。
1,工兵隊は第8師団管下青森、秋田、岩手、山形四県の壮丁を訓練し数々の戦役に従軍して、常に抜群の功績を挙げ国宝師団の名を高からしむると共に、平時災害に際しては身を挺して事に當り、その温厚純朴の気風は市民に深い愛敬を受けていた。
1,部隊の歴史は陸上自衛隊岩手駐屯部隊史料館に、また造園記録は当園管理者に委託し永く保存する。
 昭和44年夏
  工八会

工兵園

工兵第八聯隊碑

工兵営跡

盛岡医療センター内にある。

病院敷地内の為、節度ある見学を。

場所

https://maps.app.goo.gl/XSrLGVZYyi9MJBSS9


騎兵第23連隊跡地
(現・青山児童公園)

いくつか「御手植えの碑」があった。
どうも見逃したものもあるようで。。。 
大正天皇の碑を確認漏れしていることをあとから知りました。。。

閑院宮殿下御手植

大正9年◯月◯日

月日は判読できなかった。

竹田宮殿下御手植

昭和7年5月7日

淳宮殿下御手植

淳宮は、 昭和天皇の弟で、後の秩父宮。

大正5年◯月◯日

月日は判読できなかった。

岩手県営体育館

場所

https://maps.app.goo.gl/qgnHPvLsWL5zEMiv5


騎兵第三旅団第23聯隊跡の門柱
陸軍豫備士官學校跡の碑
(現・森永乳業盛岡工場)

第23聯隊の門柱、盛岡陸軍予備士官学校の碑などがある。

旧騎兵第三旅団第二十三聯隊

明治41年に、工兵第8大隊が弘前から移転、明治42年(1909)に、騎兵第三旅団第23聯隊、第24聯隊が編成配置されている。

騎兵第三旅団
観武練兵之跡
 飯田貞固謹書

飯田貞固は、最終階級は陸軍中将。昭和8年(1933年)に騎兵第三旅団長を務め満州事変に出動している。

盛岡陸軍豫備士官學校跡

「陸軍予備士官学校」は、昭和13年に「仙台陸軍教導学校」内に「陸軍予備士官学校」を設置したことにはじまる。
「盛岡陸軍予備士官学校」は、「騎兵第三旅団」が昭和10年(1935)に満州に移駐したのち、昭和14年(1939)に騎兵第三旅団兵営跡地に、仙台から移転して創設された。
昭和16年8月に、盛岡から前橋に移動となり、前橋陸軍予備士官学校となっている。

  • 1938年8月 陸軍予備士官学校を設置(仙台陸軍教導学校内)
  • 1939年3月 陸軍予備士官学校を盛岡近郊に移転(騎兵第23連隊跡地)
  • 1939年8月 陸軍予備士官学校を盛岡陸軍予備士官学校と改称
  • 1941年8月 盛岡陸軍予備士官学校を前橋近郊に移転、前橋陸軍予備士官学校と改称
  • 1945年8月 敗戦によりすべての予備士官学校を閉校

建立志
 盛岡陸軍豫備士官學校は、兵制上はじめての陸軍予備士官学校として昭和14年に創設され、改正甲種幹部候補生制度上での第三期生が、同年4月にはじめて入校し、ついで同年11月第四期生、昭和15年12月第五期生が入校し、昭和16年7月、この期の卒業と同時に新設された前橋陸軍豫備士官學校に、その教育が引き継がれた。
 日支事変や、それに続く大東亜戦争では、多くの卒業生を戦場で失った。また生き長らえた私たち同窓生が、戦後の混乱と困難を乗り越えて、国家の債権に多大の貢献を成し得たのも、この校に学び性根を尽くして鍛えられ培われた不撓不屈の精神に因るところが大きい。
 この地に私たちが人生の足跡を残した證として「學校跡」の記念碑を建立した所以である。
 平成5年9月吉日
  盛士校記念碑建立委員会

場所:

https://maps.app.goo.gl/zPUpf7WhuTn47pzp9

「燕飛行隊発祥の地」「大元帥陛下御野立所聖蹟」とかがある「観武ヶ原」の北部(演習場跡地)には訪れる時間がなかった。これは再訪案件です。。。

※撮影:2023年8月


関連

岩手護國神社

盛岡陸軍墓地にあった忠霊塔(久昌寺・移設)

盛岡にあった陸軍墓地関連の散策。


盛岡陸軍墓地にあった忠霊塔(久昌寺)

久昌寺の記載によると以下の説明がある。

放光塔(忠霊塔)
元陸軍墓地にあった忠霊塔を二十二世義雄和尚が、戦争殉難者供養のためにこの地に移設したものと伝えられています。

久昌寺 http://www.kyushoji.com/history.html

久昌寺の放光塔(忠霊塔)

昭和9年10月建之

久昌寺の山門。昭和8年に建立。

場所:

https://maps.app.goo.gl/1jceTVuYxsXDacjK7


盛岡陸軍墓地跡(盛岡市高松2丁目)

当所は、岩手県滝沢市穴口にある「穴口公葬地」に陸軍墓地があった。その後、盛岡市高松にあった元岩手県庁舎第二分庁舎の地に移転している。
現在、元岩手県庁舎第二分庁舎は解体されており、更地となっている。ここは特に遺構は残っていない。
※滝沢市の跡地には境界標が残っているという。

更地。格別になにかは残されていない。

場所:

https://maps.app.goo.gl/WfdQEZvRBx68UHiu7

撮影:2023年8月


関連

岩手護國神社

仙台陸軍墓地・常盤台霊苑(仙台の戦跡散策・その5)

仙台陸軍墓地のあった場所を巡ってみました。
本編は、「その5」です。


仙台陸軍墓地(常盤台霊苑)

歩兵第四聯隊が駐留した仙台。往時の陸軍墓地は、「特話題霊苑」として宮城県によって管理されている。
宮城県が、昭和28年に国から譲渡を受け、戦没者慰霊の合葬碑等を建立し、慰霊祭等を行っている。
現在は、一般非公開となっており施錠され、敷地内に立ち入ることができない。

常盤台霊苑

入れないと知ってはいたが、訪れてみた。
入口で、手を合わせ黙祷をする。

常盤台霊苑の由来
 ここ常盤台霊苑はもとの陸軍墓地であり明治年間平時に病没した第二師団将兵軍属の墓であった。後に日露戦争及び満洲事変における戦歿勇士合葬の墓をそれぞれこの地に建立したのは当時世界列強の包囲と抑圧に耐えて我が民族の独立と生存を守り抜いた国民的心意気の発露であった。
 昭和20年8月大東亜戦争の配線と共に人身極度に混迷し為にこの聖域は荒廃してこの戦争に斃れた勇士の遺品は仮の堂中に納められたまま永くその所に安んずることができなかった。
 サンフランシスコ平和条約成り我が国独立の快復と共に県民の総意は再びここに大東亜戦争勇士合葬の墓を建立し聖域を補修し昭和28年11月これを完成したのである。
天主台の護國神社が戦没者英霊の神域であればここはその墓域である。
 その名も常盤台霊苑と改め不滅の遺芳を偲びつつ毎年毎月の祭を絶やすことはない。
 日本民族無窮の生命は古来敬神崇祖の伝統に輝く
ここに霊苑の由来を碑に刻んで永く後世に伝える所以である
  昭和44年3月
   文 島貫常行

文責の島貫常行は、宮城県出身の陸軍大佐(砲兵・士候39 陸大47優等)ルーマニア駐在武官などを務めた。

標柱

陸軍墓地

占用期間が記されていた。どうやら5年更新のようです。

占用期間
自 昭和13年10月1日
至 同 18年9月30日

閉門。立入禁止。
脇の隙間から入れそうだけど、もちろん入らない。
門前で拝礼する。


常盤台霊苑の後方

敷地の後方から、見渡せる高台があった。
多くの陸軍墓地に足を運んだが、立入を制限しているだけあって、霊域として見事な空間を保っていた。

左:満州事変戦没勇士合葬之墓
中央:明治三十七・八年役戦死病没者合葬之墓
右:大東亜戦争戦没勇士合葬之墓

宮城県

https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/syahuku/shisetsu.html

場所

https://maps.app.goo.gl/gtzcAmj8n64y5SrH7

撮影:2023年8月


関連

宮城野の戦跡散策(仙台の戦跡散策・その4)

榴岡公園周辺の宮城野地区の戦跡を巡ってみました。
本編は、「その4」です。


仙台陸軍地方幼年学校阯

仙台市立宮城野中学校の敷地内にいくつかの記念碑が建立されている。
敷地外から見学。

仙台陸軍地方幼年学校阯

第一期生 多田駿書

昭和14年建立。

多田 駿
1882年(明治15年)2月24日 – 1948年(昭和23年)12月18日)
陸士15期・陸大25期。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市出身。
支那事変のトラウトマン和平工作の中心人物。

こちらは、1939年(昭和14年)4月1日に、再生した仙台陸軍地方幼年学校の記念碑。
再興した幼年学校は、太白区三神峯であったので、この記念碑は移設。
太白区三神峯時代の仙台陸軍地方幼年学校の記念碑も、宮城野区五輪時代の敷地に移設されたので、ちょっとややこしい。

なお、三神峯公園にも「雄大剛健」幼年学校の碑が建立されているが、未訪問。

以下は、仙台市歴史民俗資料館より。

仙台陸軍地方幼年学校
 日清戦争後の軍備拡張に応じるため、明治29年(1896)5月の条例改正により、陸軍中央幼年学校と陸軍地方幼年学校(東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)が設けられた。地方幼年学校の採用生徒は各校50名、年齢は13~15歳、毎月の納金は6円50銭、陸海軍将校の子弟は半額、戦死者の遺児は免除、修学期間は3年だった。明治30年(1897)9月には、榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東側に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設立された。
 しかし、第一次世界大戦後の軍備縮小で大正13年(1924)には廃校となる。その後、昭和12年(1937)には、仙台幼年学校として復活し、第1期生は第41期生として広島陸軍幼年学校に入校し、昭和13年(1938)には仙台市三神峯に完成した仙台陸軍幼年学校に転校した。昭和20年(1945)8月の配線まで、49期生におよんだ。仙台幼年学校の出身者には、多田駿(第1期生)、板垣征四郎(第2期生)、土肥原賢二(第2期生)、中島鉄蔵(第4期生)、石原莞爾(第6期生)などがいる。

いくつかの石碑があつまっている。

仙台陸軍地方幼年学校記念碑

1924年(大正13年)3月。軍縮により地方幼年学校が廃止となったことにより、設置された記念碑。
当地=宮城野区五輪時代の仙台陸軍地方幼年学校。

明治42年建立の「皇太子殿下手植えの松」碑と
「明治天皇 昭憲皇太后 御大葬遥拝之地」碑

場所

https://maps.app.goo.gl/e7w3xHqJFx5xMqBWA


宮城野原練兵場跡
(宮城野原公園総合運動場)

いまは楽天イーグルスの本拠地、ですね。
この地は、かつて練兵場でした。


明治天皇 大正天皇 御野立所跡

正門入口のすぐ脇に、記念碑がありました。

明治天皇 大正天皇 御野立所跡

第二師団在仙各部隊、将校下士卒等一同によって、昭和2年(1927) 建立
練兵場の北端にあり、戦後に撤去されていたものを昭和44年(1969)に再建したもの

場所

https://maps.app.goo.gl/ktSKDqDnsgMp63N59


騎兵 捜索 第二聯隊之跡

明治40年(1907)に第2師団編成改正があり、宮城野練兵場の南端に山砲兵第1大隊が設置。大正14年の軍縮によって、山砲兵第1聯隊は新潟高田に移転。
跡地には、騎兵第二聯隊が移転。騎兵第二聯隊は昭和15年(1940)に乗馬中隊と軽装甲車中隊編成となり、太平洋戦争中は、捜索第二聯隊と称された。

東海道
騎兵 捜索 第二聯隊之跡

東街道
 東街道は「あずま」への道で白河から多賀城までの道であった。
 この街道は仙台市では、鈎取から木ノ下の西、宮城野原を経て多賀城に、向かっていた。

騎兵捜索第二聯隊之跡
大正14年 川内からこの地に移駐

宮城野の 萩喰いさかる 軍馬かな
 虚子

場所

https://maps.app.goo.gl/ZZcvEZb5typb17tw7

※撮影:2023年8月


関連

榴岡公園の戦跡散策(仙台の戦跡散策その3)

仙台市内の榴岡公園の戦跡を散策してみました。
本編は、「その3」です。


榴岡公園

宮城県仙台市宮城野区。
江戸時代からの桜の名所。
戦前は、歩兵第四聯隊が営所をおいた。
仙台市歴史民俗資料館は、旧陸軍歩兵第四聯隊兵舎。


歩兵第四聯隊

宮城県仙台市の榴岡に営所を設置。仙台鎮台(第2師団)の司令部が仙台城に設置されたことに対して、聯隊が榴ヶ岡に設置されたのは、仙台城が要害の地にあり、広瀬川の氾濫時には、交通途絶し、仙台城から部隊が出動できなくなるために、白に対して広瀬川の対岸に位置し、街道に近い榴ヶ岡に置かれた。
歩兵第四聯隊は、明治8年(1875年)に発足。太陽戦争では、初戦をジャワ島、ついでガダルカナル島での激戦を経て、終戦はビルマで迎えている。


旧第四聯隊兵舎
(仙台市歴史民俗資料館)

陸軍第2師団歩兵第4聯隊の兵舎。
宮城県内最古の洋風木造建築。

宮城県指定有形文化財 令和5年3月24日指定
旧第四連隊兵舎
 明治7年(1874)に造営された兵舎建築で、宮城県内に現存する洋風建築では 最古のもの、瓦葺寄棟造り木造2階建で、漆喰塗りの大壁、建物角にはコーナー ストーン、ガラス入り上下窓、出入り口のポーチには洋風円柱、雲形の彫刻のある 階段等の特徴を持つ、これらは明治6年完成の名古屋第六連隊兵舎と似ている ことから、当時の兵舎建築の基準に則ったものと考えられる。
 終戦まで70年間にわたり旧陸軍の兵舎として使用された後、終戦から昭和31年 までは米軍が駐留、その後昭和50年まで東北管区警察学校等に使用された。 内部はその都度改造されているが、昭和53年文化財に指定された後、明治37年 の状態に復元された。昭和54年(1979)11月3日、仙台市歴史民俗資料館 として開館した。
 なお、同様の兵舎が7棟残されていたが、これ以外の兵舎や本部等の建物は榴岡 公園整備のため昭和52年2月に取り壊された。
 平成27年3月
  仙台市教育委員会

白を基調としたシンプルな美しさがあります。

中に入ってみましょう。

四聯隊コーナーがあります。

大正四年に空撮した歩兵第四聯隊。
中央が榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の兵営地。

軍隊生活の再現。

仙台陸軍地方幼年学校
榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東隣に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設置された。

仙台陸軍地方幼年学校
 日清戦争後の軍備拡張に応じるため、明治29年(1896)5月の条例改正により、陸軍中央幼年学校と陸軍地方幼年学校(東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)が設けられた。地方幼年学校の採用生徒は各校50名、年齢は13~15歳、毎月の納金は6円50銭、陸海軍将校の子弟は半額、戦死者の遺児は免除、修学期間は3年だった。明治30年(1897)9月には、榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東側に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設立された。
 しかし、第一次世界大戦後の軍備縮小で大正13年(1924)には廃校となる。その後、昭和12年(1937)には、仙台幼年学校として復活し、第1期生は第41期生として広島陸軍幼年学校に入校し、昭和13年(1938)には仙台市三神峯に完成した仙台陸軍幼年学校に転校した。昭和20年(1945)8月の配線まで、49期生におよんだ。仙台幼年学校の出身者には、多田駿(第1期生)、板垣征四郎(第2期生)、土肥原賢二(第2期生)、中島鉄蔵(第4期生)、石原莞爾(第6期生)などがいる。

仙台空襲

仙台空襲は、昭和20年7月9日深夜から10日未明にかけて、131機編成のB29爆撃機のうち123機が仙台上空に到達し、約3000mの高度より爆撃を行い、合計1万2961発、911.3トンの焼夷弾と焼夷集束弾が投下された。7月17日・8月9日・10日の小規模な爆撃も含め、1400名近い人々が空襲によって亡くなった。
(以下略)

満洲事変勇士合奏の墓は、常盤台霊苑にある。立ち入りできないけど。
昭和6年に勃発した満洲事変での日本軍の最初の戦死者は、仙台第二師団だった。

仙台と西南戦争

軍都仙台の誕生
仙台と日清戦争
仙台と日露戦争

愛国婦人会と国防婦人会
帝国在郷軍人会

仙台と満洲事変

満洲事変、日中戦争、アジア太平洋戦争

徴兵制と庶民のくらし

対外戦争と歩兵第四聯隊

歩兵第四聯隊全図

榴ヶ岡歩兵営図

招魂社
宮城縣護國神社

ガイドブック 仙台の戦争遺跡 2008
こちら、購入しました。はかどりますね。


歩兵第四聯隊営門跡

榴岡公園の西側。このあたりに営門があったという。


歩兵第四聯隊之碑

至誠無息
歩兵第四聯隊之碑

今村均(仙台出身の陸軍大将)による謹書。

 歩兵第四聯隊は明治八年九月九日重陽の佳節にあたりわが郷土出身者によってここ榴ヶ岡に編成せられてから星霜実に八十有余年父子相継いで護國の大任についた 其間明治十年西南の役を初めとし日清日露の両戰役満州事変昭和十二年日支事変引続き大東亜戰争等幾多の事変戰争に参加し二回に亘り感状を賜はる等抜群の功績は永く記念すべき聯隊であった 然るに昭和二十年終戰に遭い 畏くも 明治大帝より親授された我が軍旗は昭和二十年八月三十一日午後十二時南部佛領印度支那サイゴン市西北方約八十粁ホックモン町のゴム林内で涙を呑んで奉焼した 我等聯隊出身者竝に縁故者有志は今は無き軍旗の榮光
を偲び併せて陣歿せる幾多先輩戰友諸氏の英魂を慰むるためここに思出深き営門前に記念碑を建立し之を後世に伝うるものである
 昭和三十五年九月九日   
  重陽会
  その他有志一同


陸軍省所轄地標柱(境界標柱)


朝鮮戦役記念の碑

明治17年(1884)の甲申事変の開化派(独立党)と守旧派(事大党)が衝突し、京城(ソウル)の日本大使館護衛にあたったのが、歩兵第四聯隊第一中隊であった。
歩兵第四聯隊第一中隊は、事大党側の清国軍及び朝鮮軍と戦闘し死傷者を出している。
朝鮮戦役記念の碑は、軍功を称えて明治18年12月建立。


梅の園碑
(石原莞爾を偲ぶ碑)

石原莞爾は、昭和6年に陸軍中佐として関東軍の作戦主任参謀として、満洲事変を指揮。翌年の昭和7年8月に大佐に任ぜられ、陸軍省兵器本部付で内地に帰還。
昭和7年10月、石原莞爾は、満州問題に関するリットン調査団報告書を受けたジュネーブでの国際連盟総会に、松岡洋祐全権の随員として派遣。そして、この総会で日本は国際連盟脱退を宣言。
翌昭和8年6月に日本に帰国し、8月の異動で第四聯隊長に着任。
石原莞爾が第四聯隊長として在任したのは、昭和8年8月から昭和10年8月までの2年間であったが、出身地である東北の名門の聯隊に着任できたことを喜んでいる。

石原莞爾氏は昭和八年九月から二ヶ年間この地に歩兵第四連隊長として在任し連隊諸兵の栄養源又非常用として自ら植えられた
この四連隊跡地が仙台市民の公園として開放されたことを祈念してこの碑を建立する
 昭和五十二年三月二十五日
  石原莞爾将軍を偲ぶ会
  建立会一同

歩兵第四連隊長
石原莞爾大佐の日記から
昭和九年三月二十五日日曜(晴)
梅二〇〇本植える

榴岡公園は桜の名所として知られるが、今も石原莞爾なごりの梅園も残っている。


場所

https://maps.app.goo.gl/qB5NDWXWPL62xa78A

※撮影:2023年8月


関連

仙台城址周辺の戦跡散策(仙台の戦跡散策その2)

仙台城周辺の戦跡を巡ってみました。
本編は、「その2」です。


野砲兵第二聯隊之跡
(第二師団野砲兵第二聯隊)

仙台城の北にある国際センター駅のさらに北側。
宮城県美術館の東側道路の植え込みの陰に、ひっそりと跡地の石碑があった。

野砲兵第二聯隊之跡

昭和58年の建立。

明治11年(1878)に砲兵第2大隊が榴ヶ岡に創設され、後に山砲兵第2大隊となり、明治16年(1883)に川内に移転、明治17年に野砲兵第2聯隊となった。

これはわかりにくい。。。

場所

https://maps.app.goo.gl/ftq371WNTHgudYye8


親兵淵
(第二師団野砲兵第二聯隊)

親兵淵
ここの淵は「親兵淵」と呼ばれ、対岸の崖の上に駐屯していた旧陸軍野砲第二聯隊の親兵さんがこの淵で泳いだり、洗濯したちしていたことから名付けられたものです。

場所

https://maps.app.goo.gl/BNCdAXDrtBLPJgtA7

広瀬川

左側に高台に、野砲第二聯隊が駐留していた。


軍馬軍用動物彰忠塔

昭和15年(1940)の紀元二千六百年奉祝行事を記念して、軍馬や伝書鳩や警戒犬などの軍用動物の慰霊のために建立。

軍馬軍用動物彰忠塔

参加聖戦
 日清戰役
 日露戰役
 西伯利亞事變
 満洲事變
 支那事變

場所

https://maps.app.goo.gl/sHJhsudzFKbHh1S8A


満洲事変軍馬戦歿之碑

満洲事変軍馬戦歿之碑

昭和六年九月十八日以降無言ノ戰士トシテ満洲事変變ニ参加セシ第二師團下諸部隊戰病死馬八十七頭ノ霊ヲ合祀ス
 昭和八年十二月
  正六位勲六等四竃仁邇書

四竃仁邇(雅号は静堂)は、仙台の裁縫教育の先駆者であり、音楽教育の先駆者でもある。

2つの軍馬関連の慰霊碑

場所

https://maps.app.goo.gl/VhJEBPpknEA5BSXP7


家畜慰霊碑

昭和30年建立

場所

https://maps.app.goo.gl/Cf587NmoUbGEtm918


工兵隊の跡
(第二師団工兵第二聯隊)

明治15年(1882)に工兵第二中隊が創設。
明治22年(1889)に工兵第二大隊となり、明治30年(1897)に旧駐留地の亀岡から仙台大橋通に移転。
昭和11年(1936)6月1日に、工兵第二聯隊に改編された。

工兵隊の跡

場所

https://maps.app.goo.gl/9HDZ3H2DP8e94Xi66


フリーメイソンの石碑(米軍仙台ロッジ跡?)

仙台城大手門の入り口近くに「フリーメイソン」らしき石がある。

諸説あるが、仙台城(青葉城)には、戦後に進駐軍が駐留しており、米軍「フリーメイソン」の「仙台ロッジ」があったということから、「フリーメイソン仙台ロッジの礎石」であるという説が濃厚とのことで。

場所

https://maps.app.goo.gl/XyiCrwpzpT8NRrH66


松川大将之碑

仙台出身である松川敏胤の記念碑。
仙台城唯一の復元建築物である大手門隅櫓のちかくにある。

松川敏胤は、軍事参議官・朝鮮軍司令官・東京衛戍総督や第10・第16師団長を歴任し、階級は陸軍大将従二位勲一等功二級に至る。陸士旧5期、日露戦争時は満州軍作戦参謀であった。

松川大将之碑

題額は閑院宮載仁親王

発起人はそうそうたる面々が名をつられている。

松川将軍薨シテ追慕措ク能ハス我等集リテコノ碑ヲ建ツ
協力者ハ陸軍大学兵学教官当時ノ学生旧部下其ノ恩顧ヲ受ケタル者ニシテ題額ハ畏クモ 閑院宮載仁親王殿下ノ御深筆ナリ 
友田宣剛文ヲ撰シ四竃仁邇之ヲ書ス
 昭和4(1929)年4月30日
発起人
 河合操 田中義一 田中國重 奈良武次 武藤信義 大庭二郎 尾野實信 山梨半造 町田経宇 福田雅太郎 白川義則 森岡守成 鈴木荘六(イロハ順)

場所

https://maps.app.goo.gl/3v6g3MQCLUnLribBA

大手門隅櫓のすぐちかく。


御大典記念樹

三の丸跡に。

御大典記念樹

これは別の石碑

大正14年10月竣功

なにが竣功したのは不詳。。。


林子平の碑

江戸時代後期の経世論家、元仙台藩士。
高山彦九郎、蒲生君平と並ぶ「「寛政の三奇人」の一人。


魯迅の像と魯迅の碑

魯迅は中国の小説家、翻訳家、思想家。
魯迅と仙台とは、1904年、仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)の最初の中国人留学生として入学した縁がある。


仙台市地下鉄の国際センター駅を拠点に南北を散策しました。

※撮影:2023年8月


関連

陸軍通信隊に接収された「浴風会本館」(杉並区)

東京都杉並区高井戸にある社会福祉法人「浴風会」。
歴史的建造物にして、陸軍に接収された歴史を有するというので、足を運んでみた。


浴風会

社会福祉法人。高齢者医療の浴風会病院や老人ホームなどを運営。

大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で自活できなくなった高齢者の援護を行うために、御下賜金や義損金を財源として内務大臣の許可を得て財団法人として大正14年に設立。


陸軍中央通信調査部と浴風会

浴風会は、空襲対象となる地図では白塗り(白抜きは爆撃禁止)となっており、米軍爆撃対象から外れていた。それは、医療施設ということが米軍にも認識されていたからだろうか。
結果として、浴風会は爆撃されなかった。

昭和17年(1942)9月1日に浴風園東館上下を「陸軍参謀本部・陸軍中央通信調査部」に貸与したことから、陸軍の接収がはじまる。
昭和19年(1944)3月25日に西館上を同じく貸与し、5月11日には西館下と礼拝堂を貸与。

昭和20年5月25日に、浴風会本館の第二第三病室、つづいて6月29日に第一第四病室を貸与。
こうして、浴風会の大半を、「陸軍中央通信調査部」が接収することになった。

「陸軍中央通信調査部」とは体外的な組織名で、実際に浴風会を接収していた部隊は「陸軍中央特殊情報部(特種情報部)」(略称:特情部)であった。
特情部は暗号解読や通信傍受などの極秘任務の最高機密情報を取り扱っていたことから、部隊名を隠していたという。

陸軍の北多摩陸軍通信所が、昭和18年に陸軍中央特種情報部(特情部)通信隊と改称し、戦局が悪化すると、この特情部は、「浴風園」に疎開したというものであった。

特情部は、昭和20年8月6日に広島に原爆を投下したB‐29がテニアン島を発進した通信や海外放送でポツダム宣言受諾する通信なども傍受していた。
終戦時に、特情部は、浴風会本館3階で、現存する全機密文書の焼却を実施している。

参考:
https://www.yokufu-hp.jp/about/history.html

https://meigaku.repo.nii.ac.jp/record/474/files/shakaifukushi_146_23-65.pdf

北多摩陸軍通信所


皇后陛下行啓記念碑

正門近くに記念碑がある。

皇后陛下行啓記念碑

昭和12年5月24日 行啓
 昭和13年5月
  浴風会建之

建立時は、銀色で行啓の御道筋が描かれていたようだ。

昭和12年5月24日
皇后陛下浴風園行啓園内御道筋畧図
御道筋銀色線


乙女地蔵

横浜分園(昭和18年廃止の分園)にゆかりのある地蔵。

「乙女地蔵」の由来
 この石碑は、浴風会横浜分園(昭和3年から昭和18年まで設置)勤務の主任看護婦若田ナカさんが23歳の若さで病死されたのを惜しみ、有志の手で昭和17年に建立されたものです。
 若田ナカさんは、昭和11年から当分園に勤務され、同僚からは姉のように慕われ、利用者からは天使のように愛され、青春をかけて献身看護にあたられた方です。
 永らく分園の跡地(現神奈川県立栄養短大)にありましたものを、このたび移設いたしました。
 この碑の表面には「聖ナル使命ニ殉セシ乙女ノタメニコノ碑ヲ建ツ」とあります。
  平成15年9月吉祥日
   社会福祉法人 浴風会

聖ナル使命ニ殉セシ乙女ノタメニコノ碑ヲ建ツ
昭和17年9月吉祥日

笠地蔵
こちらはユーモラス。由来は不詳。


浴風会・本館

大正15年(1926年)8月1日竣工。内田祥三の設計による。内田祥三は東京大学安田講堂を始めとした「安田ゴシック」建物が有名。
「東京都選定歴史的建造物」指定。

昭和20年5月に、陸軍に接収されている。

浴風会本館
東京都選定歴史的建造物
 所在地 杉並区高井戸西1-12-1
 設計者 内田祥三・土岐達人
 建築年 大正13年(1926)

浴風会本館は関東大震災後、高齢・障害のある被災者のために建てられたものである。建設当時は、この本館を中心としてほかの建物をほぼ対称に敷地全体に配置した構成となっていた。
鉄筋コンクリート造り、地下1階:地上2階一部3階建て、壁はスクラッチタイルで大きな窓がある。中央の塔が全体を象徴し、塔で垂直線を強調したデザインを用い、翼部は庇等によって水平線を表している。このデザインは、東京大学安田講堂(設計:内田祥三)と共通するもので、この時代の特徴でもある。
 東京都生活文化局
  平成13年3月

内田ゴシック感のある本館。

完全なシンメトリーではなく、中央の塔がずらしてある。


浴風会・礼拝堂

昭和2年(1927)竣工の礼拝堂。
昭和19年には、陸軍に接収されている。


浴風会・庭園

中庭の庭園。シンメトリーなモニメントもある。

小さな池には、本館を模したミニチュアモニメントもある。

※撮影:2023年12月

※場所:

https://maps.app.goo.gl/2sDHytgYNwaQRYht8


杉並関連

「立川駐屯地創立50周年記念行事(航空祭)」その1(立川駐屯地史料館と歴史散策)

2023年10月29日、一般公開にあわせて、ひさしぶりに立川駐屯地に足を運びました。
以下では、前回の補完もあわせて、記事を再編していきます。

飛行展示は、「その2」で。

以下は以前の記事
「立川駐屯地」

「立川飛行場」

「立川飛行機(立飛)」


立川陸軍飛行場

大正11年(1922)に帝都防衛構想の陸軍航空部隊の中核拠点として開設。
日中戦争さなかの昭和13年(1938)に立川に駐留していた飛行第五連隊隷下の戦闘中隊は「飛行第五戦隊」に改編され、翌年には柏飛行場に移駐。 そののちは実働部隊は置かれなかった。

大東亜戦争のさなかは、実戦部隊は展開されていなかったが、陸軍航空部隊の研究・開発・製造の一大拠点として機能。また軍用機製造の民間工場もあつまっており、戦争末期にはたびたび空襲に見舞われた。

アメリカ空軍立川基地
戦後、アメリカ軍が立川飛行場を接収。アメリカ軍の飛行場運用は昭和44年まで続き、飛行活動停止後に徐々に基地返還が行われる。
昭和47年に立川駐屯地発足、昭和52年に全ての敷地が全面返還。再開発が行われ、今日に至る。

2013年より始まった立川基地跡地再開発事業により、それまで残存していた旧軍の遺構も解体撤去。残るものは少ない。


立川陸軍航空廠

1933年(昭和8年)、所沢にあった陸軍航空本部補給部所沢支部が立川に移転して陸軍航空本部補給部立川支部となる。1941年(昭和16年)8月、立川陸軍航空廠に改称。
北側には陸軍航空技術研究所、西側には陸軍航空工廠が存在していた。


陸軍航空工廠

1940年(昭和15年)発足。
陸軍唯一の航空機製造施設であり、主に航空機用発動機の製造、航空機の設計・試作・製造を目的としていた。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-16
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

立川飛行場東側
USA-R556-No1-16
1947年(昭和22)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
立川飛行場西側
USA-R556-No1-17
1947年(昭和22年)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
再開発の進む現在の様子

立川駐屯地史料館

2019年以来、4年ぶりの再訪です。

展示機MAPと庭園MAPは新しい。
参考にさせていただきます。

CAMP TACHIKAWA 庭園MAP
昭和48年 東部方面航空隊 立川に全面移駐完了
昭和48年に滑走路東側の旧立川駐屯地から現立川駐屯地へと移駐した際、隊員の手によって整備された。移駐にあたり、庭園を整備したほか、旧軍施設や旧立川駐屯地にあった石碑を移設している。

CAMP TACHIKAWA 展示機MAP
航空機としての役目を終え、広報用展示機となった航空機4機種と装甲車

では、MAPに従って散策してみましょう。


【1】八紘一宇

八紘一宇
昭和15年(1940)
 陸軍航空廠本部に建立された。
 アジアが欧米列強の植民地となっている状況を憂い、アジア及び世界が一つの家族のように平和でともに栄えるようにとの願いが。

八紘一宇
陸軍中将 山下奉文 謹書
昭和15年建立

紀元二千六百年記念
陸軍大佐 川崎正寴 謹書

史料館資料より

陸軍航空廠本部
航空廠は、陸軍航空関係の直轄工場です。
写真は、正門から本館を望んだもので、正面の八紘一宇の碑は、マレーの虎と恐れられた山下奉文大将の筆によるもので、現在は史料館東側に展示しています。

史料館にある拓本


【2】行幸記念碑(行幸紀念)

行幸記念碑
昭和8年(1933)
 昭和天皇が初めて行幸されたことを記念して建立された。
 部隊や試験中の航空機を視察されたほか、展覧飛行も行われ、その様子は新聞にも取り上げられた。

行幸紀念
周次郎 謹書

維時昭和八年五月四日  聖駕此地へ幸シ給ヒ親シク陸軍航空ノ威容ヲ臠セラレ當所ノ研究兵器亦  天覧ノ光栄二浴ス乃テ碑ヲ以テ之ヲ不朽二傳フ

周次郎とは、伊藤周次郎陸軍少将のこと。陸軍航空本部技術部長(1932~1935)、昇格後の陸軍航空技術研究所所長(1935~1936)を努めている。
天覧のあった、昭和8年(1933)に、伊藤周次郎が部長を努めていた。

立川駐屯地史料館より。
昭和8年5月4日の 天皇陛下行幸のようすなど。


【3】池

昭和48年(1973)
 隊員の手によって整備された。
 任務に向けて離陸した航空機が無事に帰投するようにとの願いを込めて「ブーメラン」の形を模して設計された。


【4】行啓記念碑

昭和10年11月19日 皇太子殿下の行啓

行啓記念碑
昭和10年(1935)
 皇太子殿下が行啓されたのを記念し、翌年12月に当時の飛行第5連隊長の柴田大佐により建立された。

飛行第5連隊長の柴田信一の最終階級は陸軍中将。陸士24期、陸大33期。
浜松陸軍飛行学校幹事や鉾田陸軍飛行学校長などを歴任した。


【5】行啓記念碑2(皇太子殿下行啓記念碑)

行啓記念碑の2つめ。
昭和16年10月28日 皇太子殿下の2回目の行啓

行啓記念碑
昭和16年(1941)
 再度皇太子殿下が行啓されたことを記念して建立された。
 裏には「陸軍大将土肥原賢二謹書」とあり、当時、航空総監を務めた土肥原大将が書いたことを示している。

土肥原賢二の最終階級は陸軍大将。奉天特務機関長として満州で活躍。欧米では「満蒙のロレンス」と畏怖された。
極東国際軍事裁判では、A級戦犯として処刑された。


【6】飛行第5戦隊記念碑(飛行第五戦隊之碑

飛行第5戦隊記念碑
昭和58年(1983)
 「飛行第5戦隊」の生存者の会により。
 飛行第5戦隊は、大正10年に岐阜県の各務原飛行場で編成され、翌11年に立川に移駐。昭和14年まで立川飛行場に駐屯した。

飛行第五戦隊之碑
開雲 高木秀明謹書


飛行第五戦隊の母隊である航空第五大隊は 大正十年各務原で創設 翌年立川に移駐し 同十四年飛行第五連隊となった
昭和十三年夏飛行第五連隊の戦闘中隊は改編して飛行第五戦隊となり 千葉県柏に移駐した
昭和十六年大東亜戦争の勃発により戦隊は首都防空に任じた 次いで昭和十八年夏南方戦線に進出してジャワ、チモール、ハルマヘタ、比島方面で作戦任務を遂行した
戦局の推移に伴い昭和十九年秋小牧に転進し 同二十年終戦まで中京地区の要塞防空に任じた この間戦隊は武勲を重ねて感状を授与され陸軍戦闘戦隊の華と謳われた
茲に戦隊の歴史を刻し創隊以来国家に殉じた幾多の戦友病没隊員の遺徳を偲びこの碑を建立する
 昭和五十八年五月二十九日
 飛行第五戦隊生存者有志一同

以下は、立川駐屯地の史料館から第五戦隊関連を。

陸軍飛行第5聯隊配置図

ステンドグラス
陸軍飛行第五大隊将校集会所の2階窓に取り付けられていたもの。
大正11年製

オルガン
陸軍飛行第五戦隊の将校集会所にあった

灯籠
立川駐屯地東地区 旧軍通用門門柱

昭和14年まで立川飛行場に駐屯した飛行第五戦隊は柏に移駐となっている。

飛行第五戦隊 その後
千葉県柏で本土防空任務に就いていた飛行第5戦隊は二式複座戦闘機”屠龍”(キ‐45改)を保有していました。昭和18年になると南方戦線を防衛するため、インドネシアのジャワ島マランに展開して船団護衛や要地の防空任務に従事していましたが、、昭和19年7月に名古屋地区の防空任務を命ぜられて本土へ帰還。愛知県の清洲飛行場を拠点として夜間防空に活躍しています。昭和20年7月には五式戦闘機(キ‐100)に徐々に機種改変して対艦攻撃の訓練を行っていました。しかし、本土決戦のため戦力を温存する傾向となり、出撃を延期することが多くなって、8月15日を迎えたのでした。


【7】駐屯地竣工記念碑(竣工記念植樹)

駐屯地竣工記念碑
昭和58年(1983)
 現立川駐屯地移駐の10年後、第5代駐屯地司令の菱田司令の時代に建立された。
 これに合わせて記念樹としてハナミズキが植樹された。


立川駐屯地史料館見学

いくつか目に止まったものをピックアップ。

昭和15年頃の陸軍施設等の配置図。
「立川飛行場」を中心とした、位置関係がわかる。

東側に
陸軍航空技術学校、陸軍病院
立川飛行機(民間)、陸軍獣医資材廠(東立川駐屯地)、立川工作所(民間)。
西側に
陸軍航空技術研究所、陸軍航空廠立川支廠、陸軍気象部立川出張所、陸軍航空工廠、東亜航空機(民間)、千代田航空機(民間)

立川と空襲
 米軍による日本本土空襲が始まったのは、昭和19年11月のこと。同年7月にサイパン島が占領され、ここを基地としたB-29が大挙して来襲するようになった。以来、空襲は激しさを増し、終戦までの10ヶ月足らずにうちに、日本の主要都市のほとんどが爆撃された。
 立川が空襲を受けた理由としては、軍事関連施設が多かったこと、B-29が東京に襲来するときのコースが、サイパン島からまっすぐ富士山めがけて北上し、伊豆諸島上空付近で進路を北東に向け侵入するため、多摩地区が通過コースとなっていたことなどが考えられる。このため立川は、昭和20年2月16日以降、13回の空襲を受けた。なかでも昭和20年4月4日の空襲は激しく、富士見町山中坂ではB-29が落とした250Kg爆弾が命中し、防空壕にいた全員が犠牲となった。立川飛行場にも空襲はあったが、市内の空襲よりも被害は少なかった。これは、終戦後立川飛行場をそのまま使おうと米軍が考えていたから、などと言われている。
 「昭和記念公園は飛行場だった」より抜粋

山中坂の防空壕跡。

昭和初期~昭和15年頃の軍用機

立川は民間航空発祥地

「神風号」昭和12年に立川を離陸して英国へ。

「ニッポン号」の世界一周(昭和14年)

木製プロペラ
日本楽器株式会社(ヤマハ・YAMAHA)

九三式単軽爆撃機の木製プロペラ
(被包式プロペラ甲型)
川崎造船飛行機工場製、昭和9年

八八式偵察機の木製プロペラ
(刃部包装)
日本楽器(ヤマハ)製、昭和6年

二式射撃標準器甲一号
日本工学工業製(ニコン・NIKON)

板垣征四郎大将の書
杉山元大将の書

陸上自衛隊の引退航空機

陸上自衛隊の現役航空機


野外展示機も見学。

【1】UH-1H

UH-1H
全長:17.4m/全幅:2.85m/巡行速度:215km/h
航行距離:420km/乗員:操縦士2名+兵員11名
UH-1Bの後継として1972年から1991年にかけて133基を導入。現在はUH-1Jに託し全て退役。
陸自ではコールサインから「ハンター」と呼ばれる。「ひよどり」という別名もある。米国では「ヒューイ」(先住民族の名)という愛称も。


【2】OH-6D

OH-6D
全長:9.54m/全幅:1.97m/巡行速度:239km/h
航行距離:460km/乗員:操縦士1名+兵員3名
1969年からOH-1J、1979年からはH-6Dが1997年まで310基を導入、2020年に全て退役。
陸自ではコールサインから「オスカー」と呼ばれる。米国では「カイユース」(先住民族の名)とい愛称も。


【3】LR-1

LR-1
全長:10.13m/全幅:11.95m/巡行速度:460km/h
航行距離:2000km/乗員:操縦士2名+兵員5名
1967年から1984年かけて20基が納入。現在はLR-2に託し2016年に全て退役。
陸自では「LR」コールサインから「レコン」と呼ばれる。


【4】L-19

L‐19
全長:7.62m/全幅:10.97m/巡行速度:160km/h
航行距離:750km/乗員:2名
セスナ社で制作されたセスナ170の軍用機。
1954年に米軍から貸与を受け1986年に全て退役。
「L-19」とそのまま呼ばれている。「そよかぜ」という愛称も。

常設の展示場所には、姿が見えず。。。

イベント限定で、滑走路にお引越ししていました。L-19にとっては、何年ぶりの滑走路だろうか。久しぶりの晴れ舞台でちょっと嬉しそうに見えました。

コクピットになにかいました。
こいつ、前から気になっていたんだけど、なぜにここにいるのだろう。ミニオンズ。

今にも飛び立ちそうな佇まい。


【5】60式装甲車

入り口近くに。
何かが乗っている。

60式装甲車
全長:4.85m/全幅:2.40m/速度:45km/h
行動距離:230km/乗員:4名+兵員6名
1960年に制式化され2006年に全て退役。
戦後米国から提供され、三菱重工業が開発。
「60式」は1960年に制式化されたことを示している。災害派遣でも活躍。


立川黒松

庁舎まえの庭園に。

立川黒松の由来
 立川の発展は 飛行場とともにあり 立川は歴史の中から また立川を語る上でも飛行場を忘れることが出来ない
 過ぎた日の飛行場を懐ひ 飛行場がもつ歴史的背景をおもいおこすときいつも立川飛行場を見守っているのが 此の黒松であり現在もそのさまはみごとである
 当駐屯地は 大正10年陸軍が飛行場の建設を開始し 翌年飛行場の開港とともに陸軍飛行場第5大隊が創隊して 兵舎の間には桜や梅など様々な植木が植樹された
 その中でも ひときわ立派で枝振りの良い此の黒松は 本部隊舎前の植え込みに植樹されたもので 昭和56年現在の立川駐屯地が建設された際に現在地に移植された

八紘一宇に続いて、再び本部庁舎前の写真。

現在の庁舎。

撮影:2023年10月


関連

浜松三方原の陸軍戦跡散策・その2【浜松6】

本記事は、以前の「三方原の陸軍戦跡散策」で、未訪問の箇所を補填した記録となります。

浜松三方原の陸軍戦跡散策【浜松3】の続きとして。

本記事のメインは、前回の訪問時に、移転先がわからなかった「四勇士碑」石碑の確認でした。


浜松の陸軍飛行場

浜松には陸軍の飛行場が2つあった。
「三方原飛行場」と「浜松飛行場」。
この2つの飛行場は誘導路で結ばれており、非常に近い関係であった。

「三方原陸軍飛行場」は、三方原教導飛行団と第7航空教育隊
「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊
なお。浜松陸軍飛行場は、現在は航空自衛隊浜松基地となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M142-A-5No3-21
1946年5月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


四勇士碑

三方原神社の境内に、四勇士碑がありました。

合掌

扁額は、徳川好敏の揮毫

四勇士碑
航空兵団長陸軍中将従四位勲二等功四級男爵徳川好敏題字
維時 昭和十二年三月十九日 故陸軍航空兵少佐従六位勲六等寿圓正隆 故陸軍航空兵曹長勲八等今泉正夫 故陸軍航空軍曹勲八等小川高平 故陸軍航空塀軍曹勲八等岡崎勝ノ四士 九三式重爆撃機第一〇二九号ニ搭乗シ爆撃演習中発動機ニ故障ヲ生シ此処ニ墜落 火ヲ発シ一瞬悉ク其職ニ殉ス 痛恨何ソ堪へン 今ヤ東亜ノ風雲急ニシテ空軍ノ飛躍拡張ヲスルノ秋此精鋭ノ士ヲ失フ国家ノ損失甚大ナリ 然レトモ其壮烈ハ深ク国民ヲ感奮セシメ其沈勇ハ蓋シ武人ノ亀鑑タリ報 天聴ニ達シ 畏クモ進級又ハ叙位叙勲ノ恩命ヲ賜フ 洵ニ餘栄アリト謂フへキナリ 此日壮烈永ク想フク此処ニ痛恨竟ニ忘ルへカラス 因テ村民相計リ碑ヲ建テ以テ之ヲ伝フ
 昭和十二年五月
 飛行第七聯隊長陸軍航空兵大佐
           従五位勲三等 島田隆一撰
           従七位勲六等 中島録平書

四勇士の碑
 昭和12年(1937)3月19日、飛行第7連隊の九三式重爆撃機がエンジン呼称のため失速し、今の三方原南研修会館に墜落して炎上、搭乗していた四人の兵士が殉職した。四人は殉職により二階級特進で、寿円正隆陸軍少佐、今泉正夫陸軍曹長、小川高平陸軍曹長、岡崎勝陸軍軍曹となった。この爆撃機の操縦士は非常事態に直面しても沈着に行動し、墜落の場所を民家や学校を避けていたことが判明した。これに感動した地元民は多くの資金を出し合い、墜落地点へ同年に石碑を建てた。四人は勇敢な行動をとったことから四勇士とされ「四勇士碑」が建立されたのである。篆額は航空兵団長、陸軍中将、男爵の徳川好敏、撰文は島田隆一飛行第七連隊長である。
 なお、この四勇士の碑は、平成29年(2017)に建立地点から三方原神社の境内に移転した。
 三方原歴史文化保存会
 浜松北地域まちづくり協議会
 三方原地区自治会連合会

陸軍士官学校第三十九期航空同期生一同

ちなみに、三方原神社境内には、多くの記念碑があった。

忠魂碑

陸軍大将 田中義一の書

三方原神社

三方原神社 
場所:

https://maps.app.goo.gl/fk8axzTa3QTbNg7WA

四勇士の碑
場所:

https://maps.app.goo.gl/3KQVFpJpZWcZ71BD6


四勇士碑跡地
(九三式重爆撃機墜落の地)

かつての墜落現場に、四勇士碑は建立されていたが、現在は跡地となっている。

四勇士の碑
 昭和12年3月19日、飛行第7聯隊の重爆撃機がこの地に墜落炎上し、搭乗の四勇士が殉職した。
 四勇士は殉職により階級特進で、陸軍少佐寿円正隆、陸軍曹長今泉正夫、陸軍軍曹小川高平、陸軍軍曹岡崎勝、に昇進した。
 この爆撃機が失速、墜落の直前一人の搭乗員が座席を立って、着陸地点を注視していた姿を見た人がいる。非常事態に直面しても沈着、冷静に行動し、民家や学校への被害を避けたことに感激した、地元民の熱意によって、この慰霊碑が建てられました。
 この碑の題字は、航空兵団長陸軍中将、男爵、徳川好敏閣下、撰文飛行第7聯隊長、島田隆一である。
  三方原歴史文化保存会

移転したことが書いていなかったために、前回の訪問時に現地で大混乱をしてしまった。三年ぶりに訪問し、ようやく移転後の石碑に接することが出来た。

四勇士の碑跡地(墜落の地)
場所:

https://maps.app.goo.gl/R9oUC96YH5a6eQCj9


第7航空教育隊の門柱

三方原教導飛行団の門柱のすぐ近くに、第7航空教育隊の門柱もある。こちらも前回、見逃していたので、ようやくの訪問。

場所

https://maps.app.goo.gl/dUfup4WDcu4t1ARt9


三方原教導飛行団の門柱

現在の自衛隊官舎の南側の門柱は、当時の「三方原教導飛行団」の門柱。

三方原教導飛行団は昭和19年4月に浜松飛行学校から独立。
中部第九十七部隊の使用していた三方原飛行場の一角に展開。任務は航空化学戦の実行と教育であった。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Vwyoit7uejnJvfMa8

※撮影:2023年11月


関連

浜松

はじめに

海自 下総航空基地開設64周年記念行事・その1

藤ヶ谷陸軍飛行場跡に、現在は海上自衛隊下総航空基地が展開している。
2023年10月21日に、記念行事で一般開放があったので、足を運んでみた。

本記事は、その1となります。
その2は下記にて。

写真は、T-5展示飛行(やっぱりその2にて、、、)


藤ヶ谷陸軍飛行場
(海自下総航空基地)

藤ヶ谷の地名は、現在の柏市藤ケ谷。敷地としては、北の柏市と南の鎌ケ谷市にまたがっている。

もともと当地は、東洋一の規模を誇っていたゴルフ場であった「武蔵カンツリー倶楽部」の「藤ヶ谷コース」であった。ゴルフ場としては、昭和4年(1929年)に開発された。
「武蔵カンツリー倶楽部」 は、隣接する「六実リンクス18ホール」に「鎌ヶ谷コース18ホール」を有し、日本初の36ホールのゴルフ場であった。

「武蔵カンツリー倶楽部」は、昭和19年(1944年)に本土防空のための飛行場化のために、帝国陸軍に土地が接収され陸軍用地となったたことでゴルフ場は閉鎖され解散。

昭和20年4月、「藤ヶ谷陸軍飛行場」が完成。6月に飛行第53戦隊が、松戸陸軍飛行場から移動。
昭和20年8月、終戦により、アメリカ陸軍航空軍の白井基地としてGHQに接収。
その後、海上自衛隊と米軍による日米共同飛行場時代を経て、現在は「海上自衛隊下総航空基地」となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M380-62
昭和22年(1947年)7月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

現在の様子。GoogleMapより。


管制塔(海自下総航空基地)

まずは管制塔に行ってみます。

下総運航隊

下総運航隊のゆるキャラ。こいつは格納庫にいました。
あと、自転車ベースっぽいミニPも。

タワりん
うまれたところ:しもふさきちたいかんせいとう
うまれたひ:2023.10.20
レーダーのようせい
とくぎ:ミニPかんせい
すきなたべもの」:レーダー波(は)
なやみごと:ミニPかんせいがいうことをきかない
しんちょう:たぶんりんご30こぶん
たいじゅう:ひみつ♡

基地案内とイベントスケジュール

管制塔。8階の展望回廊。もうひとつ上の9階が管制室。

南側

南西

西

西

西

北西

北、筑波山

北東

南東

下総基地歴史ツアー

千葉県柏市にある、ここ海上自衛隊下総航空基地はもともと・・・

ゴルフ場でした!!!

1932年(昭和7年)~1945年(昭和20年)
当時は「武蔵野カントリークラブ藤ヶ谷コース」という名のゴルフ場でした。     

1945年(昭和20年)4月
第二次世界大戦の最中、帝都防衛※のため
(※帝都=東京)
ゴルフ場は急遽
「陸軍藤ヶ谷飛行場」に変わりました。

1945年(昭和20年)9月、第二次世界大戦後に陸軍藤ヶ谷飛行場は、
「米第5空軍基地」となり、
14年の間、アメリカが管理する基地でした。

1959年(昭和34年)10月
基地内の一部に
海上自衛隊の航空機整備の学校として、
「白井術科教育隊」が誕生し、
  ※1961年~現 第産3術科学校
米空軍と基地の共同使用を開始しました。

翌年1960年(昭和35年)6月
基地から米空軍が撤退し、全面返還され、
海上自衛隊の基地として運用する準備が次々に進みました。

1962年(昭和37年)には
滑走路及び管制塔などの建設が終わり、
航空機としての機能を確立していきます。
それまで白井基地という名称でしたが、
新たに「下総基地」という名称に変わりました。

管制塔の大きさ
高さ38メートル。

「戦艦大和」と「下総基地・管制塔」の大きさ比較。

管制塔の見学記念。
最近、はやりの御朱印タイプ。

こちらをいただきました。


第三術科学校史料室

まずは、史料室に。

下総基地史跡MAP

全部、まわりたいけど、、、立ち入り禁止区域にあるし。

雄魂の碑(立入禁止区域)

九一式改二型航空魚雷(立入禁止区域)
見たかった、、、

戦艦比叡の錨(立入禁止区域)
すごく見たかった、、、

これは横須賀にお引越し。
40糎被帽徹甲弾

藤ヶ谷飛行場概説。
かなり詳しくて、わかりやすい。

藤ヶ谷飛行場関連遺構(その1)

これですね。

藤ヶ谷飛行場関連遺構(その2)

これですね。

陸軍飛行第53戦隊の帝都防空戦

第3震天制空隊(特別攻撃隊)

陸軍飛行第53戦隊
二式複座戦闘機(キ45改)「屠龍」
キ46三型改「防空戦闘機(武装司偵)」(百式司令部偵察機に上向き銃装備)

「B29」VS「屠龍」の諸元対比

B‐29夜間迎撃戦概要

B-29に対する前方攻撃(推定)

藤ヶ谷飛行場への連合軍進駐

下総基地に関連する戦闘機、など

南方部隊航空部隊第一空襲部隊、第二空襲部隊に対する連合艦隊司令長官山本五十六の感状。開戦時のフィリピン航空戦。

左上の賞状は、呉鎮守府長官時代の嶋田繁太郎によるもの。

となりの安全啓発室。

海自の事故を踏まえた安全啓発室。

弔いの記録。
繰り返さないよう、安全への啓発へと。


下総厚生センター史料室

史料室が、もうひとつある。

日本海軍関連。
海自創設時は、教科書に日本海軍で使用されていた教育資料を礎としていた。

整備魂

YS-11のコクピット。


野外展示機(海自下総航空基地)

SNB型航空機

SNJ型航空機

V-107A型航空機

B-65型航空機


海自下総航空基地

庁舎

格納庫

そういえば、(敷地外の)どこかが火事だったようです。

飛行機の展示は、「その2」で。

※撮影:2023年10月21日


関連

陸軍伊那飛行場の跡地散策(熊谷陸軍飛行学校伊那分教所跡)

長野県伊那市。
のどかな信州の山間にも、戦前は陸軍の飛行場が設けられていた。
往時を物語るものが残されているので足を運んでみた。


旧陸軍 伊那飛行場について

第二格納庫跡に、伊那市によって詳細な案内板がセットされているので、以下に紹介をする。

旧陸軍 伊那飛行場について
旧陸軍伊那飛行場と格納庫

 ここは旧陸軍伊那飛行場の跡地です。
 昭和18年8月、この高台の広大な畑や林を軍が接収し、沢二つを埋め立てる大規模な工事が開始されました。同年11月には上伊那各地の住民に勤労奉仕の命令が出され、さらに翌春には、地元の旧制伊那中学校や上伊那農学校をはじめ南信の旧制中学校、旧制松本高校、長野師範学校などの学徒の勤労動員も行われました。軍や建設会社に所属した朝鮮人労働者にも過酷な作業が課せられました。昭和19(1944)年2月には、米軍の空襲をさけるため、この六道原に、埼玉県の「熊谷陸軍飛行学校」の「伊那分教場」が開設されました。
 伊那飛行場では、少年航空兵や見習士官などが、それぞれ3ヶ月の訓練を受けた後、戦地に配備され、特攻隊員となるものもありました。当時は、その飛行訓練のための赤い複葉飛行機(通称赤トンボ)や単葉飛行機(通称飛燕)などが終日伊那の空を飛び回っていました。そして、4回生まで送り出した後、昭和20年2月からは「各務原航空工廠」に所属し戦闘機作りの工場となりました。
 昭和20年8月の敗戦に伴い、米軍によって陸軍伊那飛行場は廃止されました。

・旧飛行場概要(右記の復元図参照)
伊那市六道原 標高650m~700m
南北約2km~2.5km 東西約0.6km~0.8km 総面積約150ha
・本部・兵舎・飛行機の格納庫・弾薬庫等建築物
・滑走路南北方向(芝植栽) 幅80m 長さ1,300m
・誘導路付掩体壕(飛行機を隠すところ)北の林の中に20ヶ所(航空写真)

旧伊那飛行場復元図


位置関係

案内板より

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R198-10
1947年09月22日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。
案内板と同じ航空写真ですね。

拡大。

赤いピンが案内板のある第二格納庫跡。


陸軍伊那飛行場跡地の散策。

第二格納庫の基礎が残っている。

建屋がある場所が格納庫の内部にあたる。

鉄筋がむき出し。

奥が滑走路の方向

格納庫の後ろ側。

滑走路あと。

滑走路跡にある「上の原公民館」に開拓碑がある。

開拓碑

昭和21年12月入植ㇱ此ノ地ヲ拓ク

前述の航空写真は昭和22年なので、開拓の1年後でもあり。

上の原公民館

この通りの奥に、本部があった。
何気ない道だけど、この直線が当時のメインストリート。

弾薬庫跡。一つだけ残っている。

弾薬庫跡を物置小屋に活用。個人宅なので、敷地外から。
場所は明記しませんが、前述の陸軍伊那飛行場の地図から、弾薬庫の場所を落とし込めば、だいたいの位置関係はわかるかと。

本部エリア周辺。

兵舎とかもこのあたりに。

本部はこのあたりかな。

真っ直ぐの道。
本部も兵舎も工場も格納庫も、この通りに接続していた。

このあたりに、陸軍伊那飛行場の営門があった、はず。

戦跡としては、第二格納庫の基礎と弾薬一棟を残すだけではあるが、伊那市によって整備されており、価値のあるものでした。

※撮影:2023年9月


関連

市ヶ谷台メモリアルゾーン(防衛省)

市ヶ谷の防衛省。
敷地内に、歴史的なメモリアルゾーンがある。

その様子は、以前にレポートしましたが、細部は見学コースに含まれておらず、で、

また、大本営地下壕が見学コースに含まれて以降は、時間の都合と思われるが、「メモリアルゾーン」への見学が、コースから、そもそも無くなっておりますが、、、

詳細は伏せますが、仕事の都合で、市ヶ谷の防衛省内に立ち入る機会があり、なおかつ時間的な制約もなく、比較的フリーで行動できたので、念願の「メモリアルゾーン」見学を実施することができました。以下、その模様を。


市ヶ谷台メモリアルゾーン

公務による殉職者の慰霊碑、殉職者慰霊碑をはじめ、市ヶ谷地区に点在していた記念碑・慰霊碑を集約整備した慰霊碑地区。

防衛庁本庁庁舎の市ヶ谷移転に伴い、1998(平成10)年、自衛隊員殉職者慰霊碑などを「メモリアルゾーン」として整理したが、地積が狭く儀仗隊を伴った式典などの実施が困難などの問題があり、平成14年度から同地区の整備を開始し、現在の「メモリアルゾーン」となった。

残念ながら、2023年現在、「市ヶ谷台ツアー」のコースには含まれていないので、見学難易度は高い。

場所

https://maps.app.goo.gl/wgxMjv6xSzGdPvfbA


自衛隊殉職者慰霊碑(殉職者慰霊碑)

昭和25年に警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、自衛隊に至るまでの職務に殉じられた1934柱の御霊(霊璽簿・名簿)が祀られている。昭和37年建立。昭和55年に新たに整備。

富士山をかたどった慰霊碑。

現行法では、自衛隊員の殉職者は、靖國神社に合祀はできない。
そのため、公的には、このメモリアルゾーンにある「自衛隊殉職者慰霊碑」での慰霊するほかないという。防衛大臣主催の追悼式は毎年10月に実施されている。

合掌

建碑の辞
 昭和25年警察予備隊が創設され、爾来保安隊、警備隊を経て、今日、自衛隊は創立30周年を迎えたが、この間、隊員はわが国を取りまく諸情勢の変化に対応するとともに、国民の期待と信頼に応えるべく日夜精励し,祖国防衛の責務完遂に努めている。
 しかしながら、陸に海に空に任務遂行の志半ばにして不幸にもその職に殉ぜられた隊員諸君の英魂に思いをいたすとき、痛恨の念を新たにするものである。
 過くる昭和37年5月、この市ヶ谷台上に慰霊顕彰の碑を建立すると思に霊域を整え、その御霊を慰めて来たところであるが、すでに十有八年余の風雪を経た慰霊碑は、落剝甚だしいものがあった。
 たまたま自衛隊創立30周年を迎えるに当たり、ご遺族をはじめ隊員一同から新たに碑の整備を望む声が昂まり、ここに財団法人防衛弘済会事業として、全隊員の参画の下にこれを整備するとともに、さきに建立された碑の碑銘と建碑の辞を副碑としてとどめ、改めて諸君の不滅の英魂に対し、深甚なる哀悼の意を捧げるものである。
  昭和五十五年十月
  国務大臣 防衛庁長官 大村 譲治 

以下は、以前にもらっていたリーフレットの案内文を掲載。

自衛隊殉職者慰霊碑
 昭和25年、警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、今日の自衛隊に至るまで、隊員は、国民の期待と信頼に応えるべく祖国防衛の責務完遂に努めてきた。加えて、国際平和協力活動など自衛隊の任務も多様化し、国際社会の平和と安全にも大きく貢献している。これは、隊員一人一人が自らの使命に、自信と誇りを持ち、全力をもって任務を果たしてきたからにほかならない。
 しかしながら、創設以来、陸に海に空に、訓練演習、災害派遣等に当たり旺盛な責任感で身の危険をも顧みず任務の完遂に努めた幾多の隊員が職務に殉ぜられ、その数は1900を超える。
 これらの御霊は、自衛谷あっては良き上司部下あるいは良き同僚として、また家庭にあっては最愛の伴侶、心温かい親あるいは頼もしい子として敬愛されていた方々であり、防衛省・自衛隊としては、このような掛け替えのない方々を失ったご遺族の心情や御霊のご遺志、ご偉業を片時も忘れることはない。
 自衛隊殉職者慰霊碑は、このような職務に殉ぜられた隊員の功績を永久に顕彰し、深甚なる敬意と哀悼の意を捧げるものである、昭和37年建立された。その後、風化による傷みが著しくなったことからご遺族の要望もあり、防衛弘済会共助事業費と全自衛隊隊員の拠金をもって新たに整備され、昭和55年10月15日に完成した。
 碑銘は鈴木首相の揮毫によるもので、中央の石は黒御影石で、左右の石は無垢白御影石で霊峰富士山を形どっている。前面には、副碑として旧慰霊碑の「池田首相の銘石」と「建碑の辞の碑銘」が一緒に備え付けられた。

 自衛隊殉職者慰霊碑には、歴代防衛大臣等の防衛省幹部の離着任時に欠かさず、また、外国要人からも献花が行われている。

 警察
呼びたい創設以来、職務に殉ぜられた方々の御遺族も御高齢になられたことを考慮し、御遺族が来訪の時には心安らかにご参拝ができるよう、また同僚・後輩諸氏が事故絶滅の誓いを新たにするに、より相合しい場所となるよう慰霊碑を移設し、メモリアルゾーンの整備を行った。


阿南惟幾 陸軍大臣陸軍大将荼毘之碑

敗戦の責任を感じ、三宅坂の官舎に於て自刃された阿南大将の遺体は高等官集会所に安置され、昭和20年8月15日夜、荼毘に付された碑を移設したもの。


杉山元帥・吉本大将 自決之跡の碑

終戦時、第一総軍司令官杉山元元帥(昭和20年9月12日)、軍令部付であった吉本貞一大将(昭和20年9月14日)は、敗戦の責任を感じて市ヶ谷台で自決。この地にあった碑を移設したもの。


赤玉石

阿南大将及び杉山元帥・吉本大将の外囲いが整備された際、寄贈されたものである。

この慰霊碑台座下の敷石は「卵石」と称し、国内はもとより外国からも輸入された化粧石であります。
 杉山・阿南・吉本・晴木・その他各烈士の慰霊碑に参拝の方々は、是非とも、一個を参拝紀念に、形・色合いを選んでお持ち帰り下さい。
 それが先士先人の事迹に思いをはせ後世に語り継ぐべき、よすがになれば幸いであります。
  市ヶ谷台慰霊会


雄健神社跡(陸軍士官学校神社・市ヶ谷台の地主神)

市ヶ谷台の雄健神社。
陸軍士官学校の神社として、雄健(おたけび)神社は、大正5年(1916)に創建され、陸軍士官学校19代校長、与倉喜平中将が「雄健」と選名。
天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之命、明治天皇、大食津神とともに陸軍士官学校出身将兵の戦病歿者の霊を合祀。

昭和16年(1941)、陸軍予科士官学校の移転にともない御神体が御神体は、朝霞に奉遷。
なお、市ヶ谷台の地主神として大食津神は、引き続きこの地に祀られていたが、占領軍の接収を防ぐために、祭神(大食津神神)を靖国神社へ奉遷。
平成14年(2002)に、メモリアル地区整備(記念碑等の集約)に伴い、現位置に移設。

記念碑(雄健神社跡)
沿革
大正5年
 第19代陸軍士官学校長であった余倉中将により天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之男神、明治大神、大食津神、陸軍士官学校戦病歿者英霊を合祀する目的で建立
昭和12年
 陸軍士官学校が陸軍士官学校と陸軍予科士官学校に分離し、陸軍士官学校は座間へ移転
昭和16年
 陸軍予科士官学校の朝霞への移転に伴い祭神(市ヶ谷台の地主である大食津神以外)を朝霞へ奉遷
昭和20年
 終戦後、占領軍の接収を防ぐため、祭神(大食津神神)を靖国神社へ奉遷
昭和35年
 市ヶ谷駐屯地発足の際、歴史的資料の一つとして保存
平成12年
 防衛庁本庁移転に伴い、祈念碑(雄健神社跡)として管理
平成14年
 メモリアル地区整備(記念碑等の集約)に伴い、現位置に移設され、今に至る

雄健神社跡の記
市ヶ谷台の雄健神社は大正五年に創建された
天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之命、明治天皇、大食津神とともに陸軍士官学校出身将兵の戦病歿者の霊を合祀し、日夜生徒の参拝するところであった
昭和十六年陸軍予科士官学校の移転にともない御神体は朝霞に奉遷された
戦後は長野県の大伴神社にお祀りしてあったが、昭和三七年六月靖国神社にお迎えして昇神の儀が執り行われた。
 陸士二十五期建之

市ヶ谷台から相武台に移転した「雄健神社」。
相武台の旧鎮座地(米軍座間キャンプ)には、雄健神社を偲ぶ鳥居が再建されている。


全陸軍航空部隊・陸軍航空本部・陸軍航空総監部碑
(全陸軍航空部隊碑・全陸軍航空奉賛同人会碑

全陸軍航空部隊、陸軍法空本部、陸軍航空総監部における戦没者、殉職者の英霊を祭祀した主碑と、その後方に「鎮」「魂」及び「追碑」の副碑がある。昭和52年この地に建立。

 全陸軍航空部隊戦没者の慰霊顕彰の碑。菅原道大による謹書。

全陸軍航空部隊 陸軍航空本部 陸軍航空総監部碑
 菅原 道大 書

揮毫をした菅原道大は、陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官でもあった。

全陸軍航空部隊碑

 この碑は陸軍航空を育成管轄した陸軍航空本部、陸軍航空総監部ならびに全陸軍航空部隊を後世に記念し、かつ終戦に際し責を負って自決された航空本部長熊本中将を始め創始以来陸軍航空に在籍し、国の内外において戦歿或は殉職された全英霊の偉勲を偲んで敬虔な追悼の誠を捧げ、もってわれら陸軍航空同人の心のふるさととしてその友誼を深め、永遠に世界の平和と日本の空の安泰を祈念するものである。
   昭和52年3月10日
    建立委員長 川嶋虎之輔 謹書

鎮・魂の副碑について
主碑後方の「鎮」「魂」の副碑には陸軍航空始まって以来の二千百余の部隊名が彫記されております。
 陸軍航空碑奉賛会


九九式十糎山砲

大日本帝国陸軍が1939年(昭和15年)に制式化した口径105mmの山砲。
昭和42年9月から戦史室前に展示されていたものを移設。


砲一碑

野砲兵第1聯隊及び野砲兵第101聯隊の記念碑。昭和44年この地に建立。

野砲兵第一聯隊
野砲兵第百一聯隊

 聯隊は市ヶ谷台国府台世田谷に駐屯 昭和11年北満州に警備に任じた。其間 西南の役 日清日露両戦役に従軍、支那事変には第101聯隊其他を編成して参戦 大東亜戦争には一部をグアム島に派遣 最後はレイテ島に追撃して玉砕 70有余年に亘る栄光の歴史を閉じた
 茲に同志相計り由緒深い此地に碑を建立し 聯隊歴史同志芳名録記念の品々を納めて永く後世に伝える
 昭和44年6月3日
  砲一碑建設有志一同 建立


陸軍士官学校趾

明治7年、明治天皇の御聖旨により学校設立。第31代陸軍士官学校長、山田乙三大将の揮毫(大正5年)による碑を移設した。

陸軍士官学校趾
陸軍大将 山田乙三 書

山田乙三陸軍大将は。最後の関東軍総司令官(兼任で在満州国特命全権大使)であった。


東京陸軍幼年学校之跡

明治30年、明治天皇の御聖旨により学校設立。
戸山ヶ原にあった碑を学校発祥の地市ヶ谷に移設した。

東京陸軍幼年学校之跡
陸軍大将 山田乙三 書


陸軍少佐晴氣誠慰霊碑

晴氣少佐は大本営陸軍部作戦班に勤務中、敗戦となりその責任を感じて、昭和20年8月17日の早朝にこの地で自決。

 少佐は太平洋正面の作戦を担当し戦勢の挽回に精魂を注ぎ万策を盡したが、戦局の赴く所、如何ともし難く遂に終戦に至る。少佐はその責を一身に帰し、此の地で自決した。
 高潔な人格と全戦役を通ずる輝かしい功績とは軍人の鑑である。


大本営陸軍参謀 晴気誠少佐(陸士44期 佐賀県出身)は、前大戦中、サイパン島陥落の責任を痛感し、昭和20年8月17日未明、この地に於いて同期親友の益田兼利少佐を介錯として自決された。
この碑は、参謀本部作戦課有志により、昭和40年8月に建立。更に高柳實氏の奉仕により平成5年8月16日石碑の台座を修復した。


大元帥陛下御立所

大元帥陛下( 昭和天皇)が士官候補生の馬術訓練を御見学された場所。


謎の建造物

これ、謎なんです。通風孔?


戦史室跡の碑

大東亜戦争に関する戦史叢書102巻が編纂された戦史室の跡地に置かれた碑を移設。
戦史叢書は、みんなお世話になりますよね。

この地で大東亜戦争に関する戦史叢書百二巻を編纂し その業績は防衛研修所戦史部に引き継がれた
 昭和五十四年十二月
  有志一同 建立


東京オリンピック支援集団司令部跡の碑

1964年(昭和39年)の東京オリンピックを支援するため自衛隊支援集団が編成され、司令部は当時の22号館が当てられた。司令部跡に置かれた碑を移設。


市ヶ谷駐屯地・基地記念碑

防衛庁市ヶ谷移転に際して、昭和45年当時の市ヶ谷駐屯地・基地及び芝浦分屯地に在駐していた部隊が刻まれている。昭和45年は、、、三島由紀夫、、、


改めて

メモリアルゾーンに深々と拝礼を。

以前に配布のあった、案内リーフレット。

メモリアルゾーン
 自衛隊殉職者慰霊碑、雄健神社跡、市谷台の各所に点在していた記念碑等を移設した市谷台の東側一帯の地域です。

詳細。

ちなみに、私はA棟(防衛中枢機関)とC棟(情報本部)以外の庁舎棟には立ち入り可でした。

なかなか、立ち入る機会がない場所なので、今回は、貴重な記録になりました。

※撮影:2023年

地下工場跡を再利用した「どうくつ酒蔵」(東京動力機械製造地下工場跡・島崎酒造どうくつ酒蔵・烏山)

栃木県那須烏山市。
ここに、地下工場(地下壕)を再利用した酒蔵があるというので、足を運んでみた。


東京動力機械製造地下工場

第2次世界大戦末期に戦車を製造するために建造された地下工場跡。
昭和19年11月に民間企業であった東京動力機械製造株式会社の疎開が決定。戦車を製造していた軍需工場でもあった。
疎開先の烏山の山裾に半地下式工場が建造され、隣接して地下工場も造営。
半地下式工場では、終戦までに約20台の戦車が製造されたと言われている。しかし、この地下工場では戦車を製造することなく終戦を迎えている。
地下工場は、高さ幅ともに3.5mの3本の坑道とそれを結ぶ5本の横坑で構成され、総延長は600m。
人力だけで素掘りされた隧道群。

「東京動力機械製造株式会社地下工場跡」として土木学会選奨土木遺産に認定されている。
選奨理由「戦車製造の軍需工場として人力だけで建造された総延長600mの素掘り隧道群で、意匠・技術力を超越した迫力が感受される土木遺産である。」
また、那須烏山市の近代化遺産にも認定されている。


島崎酒造どうくつ酒蔵

「東力士」で知られる島崎酒造。
戦後に、東京動力機械製造地下工場を酒蔵として活用。通称「どうくつ酒蔵」。
2011年に、旧地下工場跡の洞窟を酒蔵化している。

https://azumarikishi.co.jp/tour/

場所

https://maps.app.goo.gl/AGRbgAH85ZRSxG7Q8


東京動力機械製造地下工場跡(どうくつ酒蔵)散策

土日祝日が開放日。

入口。

受付時に音声ガイドのタブレットが手渡されました。
なかなかハイテクですね。

音声自動ガイド。

まだまだ暑い9月の訪問でしたが、中は一気に温度が下がりました。
日本酒を貯蔵するのに最適されています。

どうくつ施設について
歴史
第二次大戦末期、1944~45年頃、戦車を製造するために作られた地下工場跡地です。
当時、400人程度の人の手が掘削作業にあたり、約1年半という短い期間で地下施設を完成させました。

どうくつの大きさ
約12,000㎡の山一つの地下に
縦穴 100m 3本
横穴  60m 5本
トンネル横幅 3~4.5m
トンネル高さ 3.5m~4m
トンネル延べ 600m

形状
上から眺めると格子状ですが、真横から見ると、3本の縦穴は入り口から奥の突き当りの非常口まで貫通しており、すべて上り勾配がついています。これは暖かい空気は上に上るといった現象を利用してどうくつ掘削作業、施設稼働時の酸欠の危険を防ぐ空気循環の考慮だと言われています。

どうくつ内温度
どうくつ内の温度は年間を通じ平均10℃前後、冬場は5℃、夏場は15℃前後になっており、お酒の熟成には最適の温度環境になっております。

周辺減光してますね、、、洞窟内なので撮影が難しい。。。

つきあたりに、観光地でよくある顔出しパネルが、、、

洞窟内では、テレビや映画の撮影や、音楽コンサート、イベントなども開催。

温度は、18℃くらいで、湿度は65%くらい。

オーナーズボトルの貯蔵。5年から20年ものあいだ、寝かせるという。

外が見える。

下に降りる階段がある。

下は、売店。日本酒が買える。

どうくつから外に出る。
温湿度差でカメラのレンズが一気に曇る。。。

土木学会選奨土木遺産

土木学会の認定証

烏山市の近代化遺産

https://www.city.nasukarasuyama.lg.jp/data/doc/1610777525_doc_6_0.pdf

どうくつの酒場で購入しました。
「東力士純米吟醸 どうくつ熟成酒」

外で、サイダーとアイスも。
「東力士サイダー」「東力士吟醸酒アイスクリーム」

パンフレット

東力士ステッカー

どうくつ酒場から見えていた開口部。

どうくつ酒場のある山。

ちなみに、烏山線の滝駅から歩きました。電車の本数が少なくて調整必要。
どうくつ酒蔵のあとは、歩いて神長トンネルを抜けて烏山の筑紫山の防空監視哨(別記事で記載します)に行きましたが、この2つを歩いていくのは修行ですね。

※撮影:2023年9月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M561-104
1947年11月17日、米軍撮影の航空写真。

該当部分を拡大。

現在の位置関係。


関連

「三島陸軍墓地」三島の戦跡散策・その2

静岡県三島市。
町おこしで軍隊の誘致を実施し、陸軍の街となった「軍都・三島」。
現在も、往時を物語るものが残っていると聞き、散策してみました。

本編は「その2」となります。
「その1」はこちらから。


三島陸軍墓地

かつて川原ケ谷と呼ばれた地であり、古くは源頼朝が三嶋大社へ参詣する際には、三島から川原ケ谷付近を通って芦ノ湖畔に出る箱根路を往来したと言われている場所。
「川原ケ谷城」という中世城址と、頼朝にもゆかりのある「願成寺」のちかくに、近代には「陸軍墓地」が設けられていた。

三島陸軍墓地の入口。

表札のある部分は、えぐられている。

空き地であった隣に、新築住宅ができた。
この草むらに陸軍境界標があるらしいがあるのかないのか確認できず。
消失した可能性が大。

陸軍境界標石
1つ目。

陸軍用地

陸軍境界標石
2つ目。

陸軍境界標石
3つ目。
西側の敷地。埋もれている。

三島陸軍墓地跡。

1週間後に再訪したら、草刈りされていました。
(三島が一回で終わらなかったので、短期間に2回訪れたという)

忠魂碑

野戦重砲兵第21大隊戦没者慰霊

平和の碑
御製

碑文
我らは戦争の悲惨を身をもって体験した者として二度と戦争を繰り返す事のないよう訴え、日本の繁栄と、世界の恒久的平和を祈念する。
 従って、我等が最後の傷痍軍人であり、又その妻であることを願望して、その名をここに残す。
   昭和55年10月吉日
    三島市傷痍軍人会
    同    妻の会 建立

子どもでも読めるように、丁寧にルビが振ってあります。

平和への道標
 ここ城山墓地に祀られている方々は、皆さんの美しい故郷の山や河を守り、日本の平和と豊かな暮らしを願いながら、長い戦争の中で亡くなられました。
 今日の平和を思うとき、私たちは、ここに眠る方々を決して忘れません。この尊い御霊の心を受け継いで、感謝の心を持って二度と戦争のない平和な国をめざして、一日一日を大切に暮らしましょう。
 平成30年11月吉日
  三島市遺族会

墓標はない。
ここにまつられていた戦士たちの暮鐘がどうなってしまったかは不詳…

陸軍墓地の境界柵の跡。

道路を挟んで、古刹「願成寺」。

場所(三島陸軍墓地跡)

https://goo.gl/maps/QFNkZFZHF4xwn1tx8


三島憲兵分所跡(三島商工会議所)

三島商工会議所の裏に、陸軍境界標石(陸軍境界標柱)が残っている。かつてこのあたりに、憲兵隊司令部三島分隊が駐留していたという。

場所:

https://goo.gl/maps/5JKj9E2oHbRBD88U8

うなぎがいた、三島のうなぎ。


三島

三島といえば、三嶋大社。

伊豆国一宮。延喜式内名神大社。旧社格は官幣大社。
戦争中も被災せずに、神域を保っている。
社殿は慶応2年(1866)の造営、国重要文化財。

水の都、三島。あっちこっちで湧き水。

撮影:2023年6月


野戦重砲兵関連

「三島野戦重砲兵聯隊」三島の戦跡散策・その1

静岡県三島市。
町おこしで軍隊の誘致を実施し、陸軍の街となった「軍都・三島」。
現在も、往時を物語るものが残っていると聞き、散策してみました。

本編は「その1」となります。
「その2」はこちらから。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R440-27
1948年11月12日、米軍撮影の航空写真。


軍都・三島

明治22年(1889)に東海道線が国府津駅から静岡駅まで開通(現在の御殿場線)した際は、東海道の宿場町であった三島には駅が開設されなかった。
鉄道が開通しなかったことにより街が寂れ、そうして町おこしとして軍隊の誘致活動が始まり、大正8年(1919)に野戦重砲兵第一旅団・第二聯隊が横須賀から三島に移転。三島衛戌(えいじゅ)病院(国立病院機構静岡医療センター)も開設。
翌年、大正9年に第三聯隊も三島に移転。
昭和9年(1934)には丹那トンネル開通に伴い、東海道線のルートも変更され、現在の三島駅も開業している。

野戦重砲兵第二聯隊及び第三聯隊をもって野戦重砲兵第一旅団となる。
こうして、三島に聯隊が来て、鉄道も来たことで活気を取り戻し道路も整備された。
現在の日大通りは、大学、高校、中学校、小学校と並んでいるが、このころは十間道路と呼ばれ、道の両側には桜と銀杏が植えられたという。現在は、銀杏だけが残って見事なイチョウ並木となっている。

また、現在の国立遺伝学研究所のある一帯には、中島飛行機株式会社三島製作所が進出していた。


野戦重砲兵第二聯隊跡(三島市立北中学校)

野戦重砲兵第二聯隊の正門門柱と歩哨舎、記念碑などがある。

野戦重砲兵第二聯隊跡
従四位 木下 滋 謹書

木下 滋 は、陸士22期。最終階位が陸軍大佐(陸軍砲兵大佐)。昭和11年に野戦重砲兵第二聯隊長。昭和12年に予備役となるも、招集され昭和20年に重砲兵第13聯隊長となり終戦を迎えている。

略歴
明治23年要塞砲兵大隊として神奈川県浦賀に創設爾来野戦重砲兵第二聯隊と改称、大正8年10月三島に移転、大正天皇、今上陛下の行幸を仰ぎ日清、日露、日独戦役、上海事変、支那事変m大東亜戦争等に参加
昭和20年8月終戦、聯隊の跡を永く残すため此の地に記念碑を建つ
 昭和47年10月1日
 野戦重砲兵第二聯隊
  関係者有志一同

公孫樹碑

大正八年巳未の春三島野戦重砲兵旅団当地に新設さる当時市民挙げて之を歓迎す 人馬絡繹として殷賑を加え新明の地ここに軍容を重ぬ 今の街道を以て然りとなす 当時在郷軍人会相計つて 之が新設を永久に記念すべく公孫樹を植う 爾来四十有八年今や天空を摩さんとす 既往の兵舎は学舎と化し軍歌嘶馬は攻学の和声と変せしも公孫樹は語らず天中を指す 嗚呼 市民朝夕この銀杏並樹の美観に酔う ここに公孫樹並樹記念の碑を建立す 蓋し八万市民の心肺に通う企挙なるを疑わす
 昭和42年11月3日
 (略)

場所(三島北中学校)

https://goo.gl/maps/Am43Rkriq87deQHX8


野戦重砲兵第三聯隊跡(三島市立北幼稚園)

野戦重砲兵第三聯隊も同じく、正門門柱と歩哨舎、記念碑がある。

野戦重砲兵第三聯隊兵営址

野戦重砲兵第三聯隊は当初紀州深山の地に誕生し大正9年11月5日此の地に転営す 終始15糎榴弾砲を装備とし初は輓馬後に自動車を以て牽引せり 尓来星霜40年 訓練に実戦に常に軍の骨幹たるの重責を果し昭和20年ビルマ及チモールに於て解隊す 此の間死生相許したる戦友実に3万を越ゆべし その士どもの夢の跡 東西四百米南北凡そ七百米に亘る兵営の址 歳と共に面影を失うに至るを嘆き残存有志相図って茲に碑を刻し以て永く記念とするもの也
 昭和四十年3月10日
 元野戦重砲兵第3聯隊出身 愛鷹会員有志一同
 撰文並書 元大隊長 本田森造

場所(三島市立北幼稚園)

https://goo.gl/maps/GiTzNbqxP4W2udZX8


野戦重砲兵第三聯隊の通用門跡(三島市立北小学校)

三島市立北小学校の北側には、通用門が残っている。

こちらにも、歩哨舎が残っている。

歩哨舎の窓は塞がれている

門扉。
なんて書いてあるのだろうか。

公孫樹並木に、3つの門跡と歩哨舎跡が集中して残っているのは、なかなかに貴重な空間。

場所(三島市立北小学校)

https://goo.gl/maps/Xh9m1Uysxoe3Y5U8A


日大三島校舎

文教エリアの中心にかまえる日大。
かつての野戦重砲兵第二聯隊の跡地。


野戦重砲兵第二聯隊の境界塀の支柱(日大三島校舎最北端)

日大三島校舎の最北端に、往時の境界の支柱が残っている。

場所

https://goo.gl/maps/hrrgETNpFrKMtTg86


野戦重砲兵第二聯隊の将校集会所

日大三島校舎11号館の奥にある建屋。
コの字型の平屋。
大学構内への部外者立ち入りができないために敷地外より見学。
シンプルだけどモダンなデザイン。

立ち入りできれば正面玄関も見ることができるが、立ち入りできないので、敷地外から側面のみ。

場所

https://goo.gl/maps/77p9P5YycV2NpBwx6

※撮影:2023年6月

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野戦重砲兵関連