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「水戸陸軍飛行場跡(水戸東飛行場跡)」水戸つばさの塔(ひたちなか市)

茨城県ひたちなか市。

戦前、水戸の周辺には3つの陸軍飛行場があった。
水戸飛行場(水戸東飛行場)
水戸南飛行場(吉田飛行場)
水戸北飛行場(水戸北秘匿飛行場)、未完成の特攻用飛行場。

今回は、その中心にあたる「水戸飛行場(水戸東飛行場)」に関して。


水戸飛行場

昭和13年(1938年)、「水戸飛行場」設定。場所は茨城県那珂郡前渡村(現在のひたちなか市新光町)。
昭和14年(1939年)、「水戸陸軍飛行学校」が開校。東部には「陸軍航空審査部水戸試験場」が設置。
昭和15年(1940年)、水戸南飛行場に「陸軍航空通信学校」が開校。
昭和18年(1943年)8月、「水戸陸軍飛行学校」は仙台に移駐となり、「明野陸軍飛行学校分校」(明野陸軍飛行学校水戸分校)が開校。
昭和19年(1944年)6月、陸軍教育機関が随時で防空戦闘体制に移行。「明野陸軍飛行学校分校」も「常陸教導飛行師団」に改編。以降、水戸東飛行場及び水戸南飛行場から本土防衛のための特攻作戦が敢行された。
昭和20年(1945年)4月、「常陸教導飛行師団」主力は群馬の「新田飛行場」に移転。
昭和20年7月、各地の教導飛行師団は統合され地名を冠しない「教導飛行師団」(本部は宇都宮)に統括。「常陸教導飛行師団」も教育部隊と作戦部隊に分離改編され、「教導飛行師団第2教導飛行隊」「飛行第112戦隊」となる。

各地の教導飛行師団としては、下志津教導飛行師団、明野教導飛行師団、浜松教導飛行師団、鉾田教導飛行師団、常陸教導飛行師団、宇都宮教導飛行師団があった。統合後の単一組織としての教導飛行師団本部は宇都宮。明野には第1教導飛行隊が、常陸(水戸)には第2教導飛行隊が置かれた。

そして改編分離された作戦部隊として新設された、明野教導飛行師団第1教導飛行隊「飛行第111戦隊」と、常陸教導飛行師団第2教導飛行隊「飛行第112戦隊」は、最後の陸軍戦闘機部隊であった。

戦後は付近一帯の現国営ひたち海浜公園および常陸那珂地区が1946年(昭和21年)から27年間アメリカ軍の「水戸対地射爆場」として使用され、1973年(昭和48年)に日本に返還されている。


陸軍航空通信学校

昭和15年(1940年)8月、水戸陸軍飛行学校内で開設。
昭和15年12月、水戸南飛行場(吉田飛行場)に移転。
昭和20年5月、陸軍航空通信学校は「水戸教導航空通信師団」に改編。水戸教導航空通信師団の任務は主として将校と下士官の教育であった。

水戸教導航空通信師団事件
昭和20年8月17日、水戸教導航空通信師団教導通信第二隊第二中隊を率いる岡島哲少佐らは、宮城事件などで東京で終戦阻止で決起した部隊と合流しようと画策。林慶紀少尉は決起に反対する教導通信第二隊長田中常吉少佐を射殺。
そうして、水戸教導航空通信師団の将兵391人は、終戦阻止の動きに呼応して「東京での徹底抗戦」を目指し、水戸駅を出発、正午過ぎに続々と上野公園(東京美術学校)に集結。

近衛第一師団参謀石原貞吉少佐が上野で上京した水戸教導航空通信師団部隊に対し撤収の説得を行った。これは、指揮官岡島哲少佐が、石原の陸軍士官学校本科教練班長時代の教え子であったからという。
しかし、石原貞吉少佐は、林慶紀少尉に射殺され、そして林慶紀少尉は自決。林少尉の所属していた小隊長の松島利雄少尉も責任を取り自決。リーダー格であった岡島哲少佐、杉茂少佐も自決し事件は収拾した。


水戸飛行場に関係する組織

水戸陸軍飛行学校
 (仙台陸軍飛行学校)
陸軍航空通信学校
明野陸軍飛行学校分校
 (明野陸軍飛行学校水戸分校)
常陸教導飛行師団
 (教導飛行師団第2教導飛行隊と飛行第112戦隊)
水戸教導航空通信師団
陸軍航空審査部水戸試験場


水戸つばさの塔

かつての陸軍水戸飛行場跡の一角、現在の那珂湊運動公園の南東に、往時を偲ぶ空間があった。

水戸つばさの塔
 菅原道大書

散る桜 残る桜も
 散るさくら

菅原道大は、陸士21期。最終階級は陸軍中将。生粋の航空畑育ちで陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官であった菅原の名とともに垣間見る「残る桜」の重みを痛感。

合掌

昭和50年5月吉日建立。つばさと日本刀を象徴しているという。


由来記

由来記
 昭和13年、ここ前渡の地に千二百ヘクタールに及ぶ水戸飛行場を設定し翌年水戸陸軍飛行学校が開校。通信、戦技、武装、高射、化学戦、自動車、特操、佐尉官等の教育と研究を実施し、東部に陸軍航空審査部水戸試験場が設置された。
 昭和15年、水戸南飛行場に陸軍航空通信学校が開校され、通信教育と研究を移管した。
 戦局の要請により昭和18年8月、明野陸軍飛行学校分校が開校、水戸校は仙台に移駐した。昭和19年6月に至るや、分校は常陸教導飛行師団に改編。精鋭空中戦士の養成と研究に加え、本土防空の作戦任務を附与された。
 この地にあってその職に殉ずる者および、昭和20年2月16・17日の艦載機群邀撃等により身命を捧げた者その数百八十余柱、また南飛行場に於いても電鍵を片手に華と散った者数知れず。更に昭和19年11月以降特別攻撃隊一宇隊、殉義隊、第24振武隊、第53振武隊、第68振武隊、平井隊、誠35飛行隊の勇士七十余人は、相ついで進発レイテ沖に、台湾、沖縄海域に敵艦船を求めて突入し国難に殉じた。
 昭和20年4月、師団主力は群馬県新田飛行場に移動し終戦に至った。
 ここに終戦30周年を期し、関係者ならびに有志相計りこの戦跡を後世に伝え、殉国英霊の偉業を顕彰し、祖国永遠の平和を祈念して、この塔を建立す。
  昭和50年5月3日
   水戸飛行場記念会


陸軍 境界票石

上記の由来記の記念碑の隣に、さりげなくある。

2 陸軍用地


国旗掲揚塔(紀元2600年記念)

紀元2600年記念は、昭和15年(1940年)。

昭和15年に水戸陸軍飛行学校長であった、中薗盛孝の書と思われる。中薗盛孝は、最終階級は陸軍中将。
第3飛行師団長として出征し昭和18年(1943年)9月、搭乗機が広東上空で撃墜され戦死。


陸軍航空通信学校の門柱

水戸南陸軍飛行場にあった陸軍航空通信学校の門柱。


この校門は昭和15年陸軍航空通信学校が開校された元の所在地(水戸市住吉町)付近の畑に破損したまま放置されていたもので表題字は同校元副官山口敦氏の揮毫である。
 昭和56年4月16日
 水戸つばさの塔奉賛会

陸軍航空通信学校
山口敦の揮毫

金具が一つしか残っていない。


立川98式直協偵察機(キ36)プロペラ

立川九八式直接協同偵察機
別称は、九八式直協偵察機、九八式直協、九八直協、直協機など。司令部偵察機(司偵機)は戦略的な偵察任務を主とし、直接協同偵察機(直協機)は戦術的な偵察、近距離偵察を主任務としていた。立川飛行機としては初めての全金属製機であった。九八直協の総生産機数は1,334機で、立川飛行機としては最も多く生産した機種でもあった。

単葉機の割には短距離での離着陸が可能で、操縦性・低速安定性もよく、エンジン故障が少なく整備も容易だったため、使いやすい万能機として偵察、指揮、連絡、対地攻撃などの任務、さらには爆装した特攻機として終戦まで活躍した機体。

立川98式直協偵察機の「陸軍ハ13甲エンジン(九八式四五〇馬力発動機)(海軍呼称では天風エンジン」につけられていたプロペラが展示してある。

立川98式直協偵察機(キ36)プロペラ
このプロペラは、昭和20年2月26日の艦載機大空襲の際に、当飛行場から迎撃に飛び立ち、激闘のすえ壮烈な自爆を遂げた戦友(不詳)の最期を偲ぶもので、昭和51年8月11日、日立港沖合の海底から引揚げられたものである。
 昭和52年1月吉祥日
  水戸つばさの塔奉賛会


2式複座戦闘機(キ45改・屠龍)プロペラとエンジン

川崎二式複座戦闘機(二式複戦)。愛称は屠龍。エンジンは、三菱の陸軍ハ102(海軍呼称では瑞星21型)。
1942年(昭和17年)2月(皇紀2602年)に二式複座戦闘機として制式採用され。B-29迎撃で活躍。屠龍生産機数は1,704機。三菱のエンジン(陸軍ハ26・ハ102、海軍瑞星、陸海軍統合ハ31)としては、全型式総計で12,795台生産された。

2式複座戦闘機(キ45改・屠龍)プロペラとエンジン
この発動機は大洗沖で操業中の漁船の網に掛かりひき揚げられたもの。二式複座戦闘機(キ-45屠龍)のものと判明


増槽

屠龍のエンジンの後方には「増槽」も展示してある。
屠龍の増槽タンクなのかは不詳。後部には安定翼もあるジュラルミン製の燃料増槽タンク。


航空神社の御手洗

常陸教導飛行師団の本部前の航空神社の御手洗盤。


この御手洗はかつて本部前の航空神社に奉納されていたもので正面には当時の常陸教導飛行師団所属機が尾翼につけたマークが刻まれている
 昭和53年1月吉祥日
 水戸つばさの塔奉賛会

常陸教導飛行師団の所属機尾翼とおなじシンボルが描かれている。


水戸つばさの塔奉賛会

昭和50年5月3日、水戸つばさの塔竣工除幕式ならびに慰霊祭を執り行い、名称を水戸つばさの塔建立委員会(昭和42年発足)から水戸つばさの塔奉賛会と改称し、以後毎年慰霊祭を執り行い現在に至っている。


アクセス方法

私は、ひたちなか海浜鉄道「那珂湊駅」からレンタサイクルで訪問しました。バスもないエリアのようで、公共機関ではこの選択肢が最適な感じです。歩くとなると、阿字ヶ浦駅か磯崎駅かとなりますので、どのみち「ひたちなか海浜鉄道」となります。

場所

https://goo.gl/maps/vG1adtmDfo8E5vBJ8

※撮影:2022年9月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R526-6
1949年01月12日、米軍撮影の航空写真。
すでに北側に、射爆場が拡張されている。

「水戸つばさの塔」は、水戸飛行場(水戸東飛行場)の南東にあたる。


関連

「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)」跡地散策・4

桶川にあった陸軍桶川飛行学校の跡地散策。
本記事は、「その4」です。

「その1」から順を追って見ていただければ、幸いです。

埼玉県桶川市、そして荒川の対岸の川島町にまたがるホンダエアポート。この場所がかつての熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)の桶川飛行場の滑走路があった場所。


川田谷飛行場(桶川飛行場)

現在のホンダエアポート。
昭和12年(1937年)に熊谷陸軍飛行学校桶川分教場開校時に「川田谷飛行場」として開設。桶川分教場(桶川飛行学校)の演習施設として使用されてきた。
戦後、放置されていたこの地を、ホンダが航空産業参入を目指しホンダエアポート(本田航空)を設立し、かつての川田谷飛行場を再活用している。ただし、陸軍時代とは滑走路は同じではない。(滑走路の位置等が多少変わっている。)

太郎右衛門橋からホンダエアポート方面を望む。この河川敷にかつて桶川分教場(桶川飛行学校)の滑走路があった。

河川敷をホンダエアポート方面に近づく。
ホンダエアポートを運用する本田航空の本社と格納庫が見える。

埼玉県防災航空隊の「あらかわ2」が駐機されていた。
「ユーロコプター AS365 N3」(機体記号: JA31KN)

AIRPORT

コンクリート構造物1(給水塔基礎跡)

このあたりに格納庫がありました。

吹き流しの隣に、なにやらコンクリート構造物がある。
給水塔基礎とされている。

コンクリート構造物2(固定ブロック跡)

滑走路方面に向うと、横堤の上にもなにやらコンクリート構造物が残っている。
何を固定していたのか。

コンクリート構造物3(吹き流し塔の台座跡)

滑走路の横堤の突端には、吹き流しを立てた台座が残っている。さきほどの固定ブロックの先。

訓練時には、この台座に立っていた吹き流しを目指して急降下訓練などもおこなわれていたという。

ホンダエアポート(川田谷飛行場)を離陸する小型機。

横堤の上から、往時を知る戦跡のコンクリートともに、小型機を見送る。

滑走路エリアは、立入禁止。

スカイダイビングが落下してきた。

ホンダエアポートはちょっとアクセスしにくい場所。
途中のバス停からでも、だいぶ歩きました。。。

※撮影は2022年3月

場所

https://goo.gl/maps/Jh3k1KNi3dL6iYSU8

参考リンク

https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/soumubu/jichishinko/shisetsu_ichiran/shogai_bunka/otherfacilities/1937.html

https://www.okegawa-hiko.org/

https://www.jiji.com/jc/v4?id=okegaku15030001


関連

その2

その3

「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)」跡地散策・3

桶川にあった陸軍桶川飛行学校の跡地散策。
本記事は、「その3」です。

「その1」から順を追って見ていただければ、幸いです。

ここでは、おもに展示内容に関して掲載していきます。


旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 兵舎棟

旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 兵舎棟
市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 兵舎棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 兵舎棟は、主に生徒が居住していた建物です。当時は、午後9時に将校がそれぞれの寝室の点呼を行い、生徒たちは異常なしの報告をした後に就寝しました。朝は午前5時30分に起床し、乾布摩擦や清掃、食事の後、6時30分には飛行場へ移動して飛行機の操縦訓練を開始していました。寝室は寝る場所であること以外に、銃や刀の手入れをしたり、毎夜、「軍人勅諭」を読み上げる場所でもありました。兵舎棟の前は校庭で、入校式が行われたり、準備運動を行う場所でした。兵舎棟の建物は、守衛棟と同様に、木造平屋建て切妻造の建物です。簡易な木造であることから、寒さ対策として天井裏には藁が敷かれていました。5つの寝室のうち、最も西側に位置する部屋は、昭和18年(1943年)生徒の増員に伴い増築されたものです。寝室のほか、建物に残る墨書から「事務室」や「医務室」があったことがわかっています。

手前側は当時の木材を再利用している。

このあたりは、当時の木材を利用。

復原整備された寄宿舎
 この部屋は、桶川分教場当時、生徒たちが寝泊まりしていた様子を再現したものである。床や壁などの部材も、ほぼ当時使われていた部材を使って復原している。
 生徒たちは朝、この部屋から日々の訓練へと出発し、夕方、訓練から帰り、就寝した。そして、卒業を迎えるとこの部屋を去り、戦場へと向かっていった。
 1部屋には18台の木製のベットが置かれていたが、隣との感覚が狭いことから、頭の位置を互い違いにするように配置されていた。棚には各自の銃や服、帽子、水筒などが整理整頓して置かれていた。

もちろん、布団はイメージ。これは当時のものではありません。


熊谷陸軍飛行学校桶川分教場と昭和の戦争

飛行学校誕生までの歩み
 1903(明治36)年、アメリカのライト兄弟が飛行機の初飛行に成功。飛行機が誕生する。
 それから11年後の1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発する。大戦当初、飛行機は敵の軍の偵察をその任務としていた。しかし、その後、軍の関連施設や街を直接攻撃するために爆撃機が開発され、兵器としての重要性が増していった。
 日本においても第一次世界大戦の終了後の1920(大正9)年に所沢に陸軍航空学校が開校し、操縦者や研究者の育成が始まった。
 1931(昭和6)年に満州事変が勃発すると、日中関係の緊張が高まった。こうした情勢を受け、航空兵力の増強が必要と考えた陸軍は、軍比較台の後押しも受けて、各地に飛行学校や分教場を開校していった。1935(昭和10)年には熊谷市に熊谷陸軍飛行学校が開校し、2年後の1937(昭和12)年6月3日には川田谷に桶川分教場が開校した。桶川分教場の開校は新聞でも取り上げられ、各地から入隊希望者が集まった。

陸軍航空学校
 日本では1909(明治43)年に臨時軍用気球研究会が設立され、気球と飛行機の研究がなされていたが、第1次世界大戦により欧米列強の飛行機の技術は飛躍的に向上し、日本は技術や軍編成で大きく後れをとることとなる。
 この事態を打開するために、1919(大正8)年には所沢陸軍飛行場に陸軍航空学校(1924年所沢陸軍航空学校に改編)が開設され、操縦者や研究者の育成が本格的に始められた。

熊谷陸軍飛行学校
 1931(昭和6)年9月の満州事変勃発とその後の緊迫した国際情勢、さらに極東におけるソビエト軍の空軍増強により、陸軍は軍備や人員を拡充する必要に迫られることとなる。
 これを受け1935(昭和10)年7月に熊谷飛行学校令の勅令が交付され、8月より着工、同年12月1日に熊谷陸軍飛行学校が開校する。
 以後、1945(昭和20)年の閉校まで陸軍における少年飛行兵教育の中心的役割を担う。

熊谷陸軍飛行学校と各地の分教場
 1935(昭和10)年熊谷陸軍飛行学校が開校した後、航空兵力の増強のため、各地に分教場が開設されていった。
 1937(昭和12)年には桶川の他にも、栃木県に金丸原分教場(番号10)、長野県に上田分教場(番号4)が開設された。その後も群馬県の新田分教場(番号2)、館林分教場(番号3)といった関東地方のみならず、東北地方の仙台や朝鮮半島にも分教場が開設されていった。

第三の空都 桶川分教場
 東京日日新聞埼玉版は、桶川分教場の着工から開校まで約4ヶ月の様子を3回にわたり伝えている。
 1937(昭和12)年6月3日付けの新聞記事にみられる「第三の空都」とは、桶川分教場が所沢、熊谷に続く3番目の飛行学校施設であったことを伝えている。

飛行機に夢を託した国民
 1932(昭和7)年には有志が基金を募り、軍用飛行機を購入し国に寄附する「軍用機献納運動」がおこるなど、飛行機に対する国民の期待が高まっていった。こうした機運の中で、飛行学校の生徒は「若鷲」とも呼ばれ、憧れの的としてマスコミ等で取り上げられるようになった。桶川分教場においても、1943(昭和18)年からは「桶川教育隊」と呼称が変更され、施設の規模も最大となり、訓練生たちが最も多く入校した時期となっている。


桶川分教場での学校生活

桶川分教場の1日
 桶川分教場の1日は、午前5時30分の気象のラッパとともにはじまった。
 起床した生徒たちは、校庭での乾布摩擦、寝室の内外や校庭の整頓・掃除、洗面、朝食を済ました後、午前6時30分には飛行場へ集合し、飛行機の操縦訓練が始まった。
 午前中、操縦訓練をした後、昼食をとり午後1時30分からは飛行機学などの学科が午後4時まで行われた。
 なお、訓練と学科は2班に編成された。操縦訓練を午前中に行う半は午後に学科を、午前中に学科を行う班は、午後は操縦訓練を行っていた。
 午後5時30分に夕食をとると、午後9時までは自習時間となった。その後点呼がとられ、軍人勅諭の読み上げが終わると、午後9時30分に消灯となる。
 こうして、分教場での長い1日は終わりまた翌日の、忙しい朝が始まるのである。

飛行訓練の様子
 飛行訓練は、荒川の対岸にあった飛行場で行われた。
 生徒たちは、地上での操縦桿の操作方法学習から始まり、助教官が同乗しての操縦訓練、一人での操縦訓練、編隊を組んでの飛行訓練と段階を追って訓練を受けていた。
 桶川分教場での飛行訓練には、95式乙Ⅰ型中間練習機と九九式高等練習機が使用されていた。

学習の様子
 桶川分教場では飛行兵として必要な知識の学習も教室棟で行われていた。飛行機の高度計や速度計などの計器について学ぶ計測器学、地図や地形について学ぶ地形学、天候や天気図について学ぶ気象学など多岐にわたる授業が、日々行われていた。
 こうした熊谷陸軍飛行学校桶川分教場での共同生活を通じて、生徒たちは飛行兵として育てられていった。

橋本久氏の日誌
 橋本陸軍曹長は1918(大正7)年、茨城県長田村(現、境町)で農業を営む橋本家の三男として生まれました。21歳の時に満州歩兵国境守備隊へ入隊し、2年後、航空兵へ転属をします。そして8月には桶川分教場へ入校します。
 橋本氏は1941(昭和16)年8月から翌年の10月にかけて「熊谷陸軍飛行学校日誌」を書き残しています。日誌には訓練の様子や学習の内容、行事など、桶川分教場で行われていた教育の内容が詳細に記されています。

桶川分教場ゆかりの品々。

教本など


飛行学校から戦地へ

拡大する戦争と飛行学校
 1937(昭和12)にはじまった日中戦争は戦線を中国全土に拡大しながら長期化の様相を呈していた。戦争の長期化に伴い、石油をはじめとする資源の確保および中国を支援するイギリス・フランスの支援ルートを遮断するため、1941(昭和16)年7月に日本はフランス領インドシナに進軍する。このことは英・仏のみならずアメリカとの関係も悪化させることになった。アメリカは在米日本資産を凍結し、対日石油輸出の全面的禁止を決定した。同年12月、ハワイの真珠湾およびイギリス領マレー半島にて米英との先端を開くことになり、太平洋戦争が始まる。
 中国のみならず東南アジア・太平洋諸島への戦線の拡大と戦争の長期化は物資や兵員の不足を招いた。こうした中、航空兵力の補充が急務となり、1943年(昭和18)年には桶川分教場の増築工事が実施される。しかしながら、本来は金具で補強されるべき部分を木材で補強するなど、当時、鉄が不足していた影響が現れている。

日中戦争
 大陸への進出を図っていた日本と中国の対立は深刻となり、1937(昭和12)年7月7日、中国の北京郊外の盧溝橋付近で日中両国軍の衝突事件が発生する。一時は現地で停戦協定が成立するものの、日本は現地へ兵を派遣して兵力を増加し、戦線を拡大した。これに対し中国の国民政府側も徹底抗戦の姿勢をとったことから、戦争は当初の日本側の予想をはるこにこえた日中の全面戦争に発展していった。

軍需工場と空襲被害
 戦争が長期化すると戦時体制は一層強まり、民需工場の軍需への転用が行われ、埼玉にも多くの軍施設や軍需工場が作られた。
 入間の豊岡には航空士官学校が、朝霞には予科士官学校が開設された。また、大宮には終戦まで世界屈指の業績を誇っていた日本の航空機・エンジンの会社である中島飛行機製作所の工場があった。このような軍需工場は、米軍による戦略爆撃の主な攻撃目標とされた。

太平洋戦争の推移
 開戦当初、日本軍は、マレー半島・ビルマ(ミャンマー)、オランダ領東インド(インドネシア)、アメリカ領フィリピンなど東南アジアから南太平洋にかけて、広大な地域を半年の内に制圧して、軍政下に置いた。国内では勝利が呼び起こした興奮の中で、政府・軍部に対する国内の指示が高まっていた。
 しかしながら、開戦から半年後の1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦の敗北をきっかけに、戦況は日本側に不利になっていった。
 1943(昭和18)年二月にはアメリカ軍との激しい戦いの末、ガダルカナル島から退却した。1944(昭和19)年7月には南洋諸島の中でも重要な軍事基地であったサイパン島が陥落した。こうしたことが機会となり、国内では小磯国昭内閣となったが、戦争はなお続けられた。
 1944(昭和19)年10月、アメリカ軍がフィリピンのレイテ島に上陸すると、日本軍は特攻(特別攻撃)隊による敵艦船への体当たり攻撃という作戦まで実行するようになった。

戦時下のくらし
 戦線の拡大と戦争の長期化は、やがて物資の不足と軍事費の増大を招き、ひいては、物価の上昇を招いた。
 1938(昭和13)には国家総動員法が制定された。その結果、政府は議会の承認なしに戦争に必要な物資や労働力を動員できるようになった。また翌年には国民徴用令の公布により、民間の人々が軍需産業に労働力として動員されるようになった。
 1940~1941(昭和15~16)年には、砂糖・マッチ・木炭・米・衣料などが次々に切符制・配給制となるなど。国民の生活はあらゆるところで切りつめられていった。
 さらに日中戦争が終結しないまま、豆理科・イギリスとの戦争を開始したことにより、物資・兵力・労働力の不足はより深刻化した。1943(昭和18)年には大学・高等学校・専門学校に在学中の学生を軍に徴集し、また学校に残る学生や女性を軍需工場で働かせた。

熊谷空襲
 熊谷空襲はポツダム宣言受諾を決定した1945(昭和20)年8月14日の午後11時30分頃から15日未明にかけての出来事であり、埼玉県下最大の空襲と記録されている。この空襲により、熊谷の市街地は一瞬のうちに火の海と化し、死者は266名、罹災者は15,390名にもおよぶ。
 終戦後、熊谷空襲から1ヶ月後の9月13日、軍政上の重要地として、県内で初めて熊谷陸軍飛行学校に米駐留軍12,000にんの進駐が始まる、その後、県内・近県に分散駐留することになった。

熊谷空襲に関しては、こちらの記事も。

熊谷陸軍飛行学校の廃止と特攻(徳月攻撃)隊
 1945(昭和20)年2月、不足する戦力を補うべく、教育隊の戦力化を図るため、熊谷陸軍飛行学校の機能が停止され、第52航空師団第6練習飛行隊として改編される。これに伴い、桶川分教場も閉鎖され、以後は特攻(特別攻撃隊)の訓練施設とて使用されることとなる。
 特攻(特別攻撃)とは200キロ爆弾や500キロ爆弾などを航空機等に装備し、期待ごと敵艦船に体当りするをする、操縦者の死を前提とした作戦である。特攻(特別攻撃)隊のうり、陸軍が沖縄戦のために編成し、知覧飛行場(現:南九州市)や万世飛行場(現:南さつま市)などの南九州の飛行場から出撃した部隊を「振武隊」と呼んだ。
 1945(昭和20)年3月27日に桶川分教場で教官を務めていた伍井氏が第二十三振武隊として、同年4月5日に第七九振武隊が知覧飛行場へ向かい飛び立った。

伍井芳夫 第二十三振武隊長
 伍井大尉(殉職後 中佐)は、1912(明治45)年7月、北埼玉郡豊野村(現、加須市)に父源助と母さたの二男として生まれました。小学校は豊野小学校に通い、中学校は加須の旧制不動岡中学に入学しました。若い頃から飛行機に憧れ、中学校卒業後は、航空士官学校を経て、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場にて教官を務めていました。その温厚で誠実な性格から、多くの出身者の記憶に残っています。
 1945(昭和20)年3月27日、鹿児島県の知覧飛行場へ向うため、他の隊員11名とともに、壬生飛行場を出発します。その途中、桶川上空を通ったときに、2度旋回し、翼を左右に振って、桶川にいた家族に別れを告げました。
 当時、桶川には妻と幼い3人の子供が暮らしていました。
 1945年(昭和20)年4月1日、満32歳で特攻(特別攻撃)隊第二十三振武隊の隊長として、知覧飛行場より出撃し、慶良間列島付近で敵艦隊に突撃、二度と帰らぬ人となりました。

伍井大尉の遺書(写し)。

第七九振武隊
 第七九振武隊は、12名の隊員で編成された特攻(特別攻撃)隊です。隊員たちは1945(昭和20)年4月まで桶川飛行場で特攻の練習を続け、同月5日の正午に鹿児島県の知覧飛行場に向けて出発しました。途中、岐阜県の各務原飛行場、山口県の小月飛行場に1泊し、4月7日には知覧飛行場に到着します。
 同隊は9日後の4月16日に知覧飛行場から出撃し、うち2機は期待の故障などで戻りましたが、1機は22日に再出撃して、沖縄の海に消えていきました。

山田孝准尉
 山田孝准尉は1918(大正7年)、福岡県西牟田町(現、筑後市)に生まれました。1938(昭和13)年に砲兵から航空兵へ転属し、熊谷飛行学校に入校しました。1940(昭和15)年に同校を卒業後、満州のハイラル基地に配属されます。
 さらに1943(昭和18)年からはラバウル島やニューギニア島などの南方戦線に配属されます。1944(昭和19)年、負傷の為、本国へ還送され入院しました。担任伍、佐賀県の目達原基地にて、訓練生の指導にあたります。

終戦後の特攻命令
 山田氏は1945(昭和20)年8月15日、目達原基地にて玉音放送を聞きます。しかし、その2日後、基地に出勤したヤマダ市に特攻(特別攻撃)命令が下されます。
 展示している遺書は命令を受けた直後、山田氏が家族に宛てて書いたものです。
 結果として出撃前に命令は中止されますが、終戦後の現場の混乱を今に伝える貴重な資料といえます。

山田准尉の遺書(写し)


戦争から平和へ

平和への道のり
 3年8ヶ月にわたった太平洋戦争は、1945(昭和20)年9月2日、日本と連合国とのあいだで降伏文書の調印がおこなわれ、終結した。
 終戦後、にほんにはGHQ(連合国最高司令官総司令部)が進駐した。GHQは新憲法案を日本に提示し、日本の政府はGHQあんをもとに草案をつくり、1946(昭和21)年11gタウ3日、国民主権・平和主義・基本的人権の保障の原理にもとづく日本国憲法が公布された。
 また、1948(昭和23)年12月10日、フランスで開かれた第3回の国際連合の総会で「世界人権宣言」が採択される。
 一方で、軍施設としての役割を終えた桶川分教場は大陸からの引揚者を対象とした市営住宅として利用されることとなる。
(以下略)

戦後の旧飛行学校桶川分教場
 1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎えると桶川分教場もその軍事的役割を終える。
 終戦後の当地には、1年ほど米軍が進駐したとの記録が残されている。また駐留米軍の指示により、軍事に直結した施設構造物は解体撤去され、火薬類や軍事書類の焼却処分が行われた。その後、桶川分教場は町が仲介する大陸からの引揚者寮(若宮寮)として、また空襲で家を失った人たちへの住宅としての活用がはじまった。
 若宮寮では最大で64世帯、約300人ほどが生活していた。
 若宮寮も2007(平成19)年3月に最後の住人が転出したことに伴い、約61年の歴史に幕を閉じたのである。

公共機関のアクセスは少々悪いけど、見ごたえのある展示。気がついたら90分ほど滞在してしまいました。過去を振り返っても致し方がないことですが、復原前の姿も見ておきたかった、、、ということはありますが。

次は、その4へ。荒川対岸の滑走路があった場所へ。

※撮影は2022年3月

場所

https://goo.gl/maps/gWNwrSWX2Uo1m1n4A

参考リンク

https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/soumubu/jichishinko/shisetsu_ichiran/shogai_bunka/otherfacilities/1937.html

https://www.okegawa-hiko.org/

https://www.jiji.com/jc/v4?id=okegaku15030001


関連

その2

その4

「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)」跡地散策・2

桶川にあった陸軍桶川飛行学校の跡地散策。
本記事は、「その2」です。

「その1」から順を追って見ていただければ、幸いです。


桶川飛行学校平和祈念館

桶川飛行学校平和祈念館

さて、敷地内に。

桶川飛行学校平和祈念館 施設案内
開館時間 午前9時~午後4時30分
休館日 月曜日(祝日の場合はその翌日休館)
    毎月月末(日曜の場合は開館)
    年末年始(12月27日~1月5日)
    その他特別整理期間等
入館料 無料


守衛棟

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場と建物
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場は、昭和10年(1935年)に現在の熊谷市に開校した熊谷陸軍飛行学校の分校として昭和12年(1937年)に設置されました。各地から集った生徒はここで寝食をともにしながら、陸軍航空兵になるための飛行機の操縦教育を受け、その後戦地へ向かいました。当時の桶川分教場には、飛行機学・発動機学・気象学など、複数棟の建物がありました。現在、本部棟や食堂棟など約半数の建物は基礎だけ残っている状態ですが、守衛棟・車庫棟・兵舎棟・便所棟・弾薬庫の5棟については建物全体が残されています。

市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 守衛棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 桶川分教場時代の守衛棟には、門衛が待機し、生徒や教官、分教場で働く地元の人々など、入場者の管理をしていました。一時期は、生徒が利用する売店があったとも伝えられています。建物は木造平屋建て切妻造で、壁は木材を横に張る南京下見板張とし、屋根はセメントを固めてつくるスレートという材料で葺かれています。


建物跡(消防ポンプ小屋)

井戸跡。


車庫棟

旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 車庫棟
市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 車庫棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 車庫棟は、桶川分教場で使用されていたトラックなどの軍事車両を格納・整備するための建物です。室内のコンクリートの土間には一段下がった部分があり、これは車両整備のためのピットとして使用されていました。車庫棟は、木造平屋建て切妻造の建物で、壁には主に波板鉄板張としながら、一部がささら子下見板張で、屋根はスレートで葺かれています。当時は陸軍省経理局から「陸軍建築設計要領」が発行されていたため、桶川分教場もこれにならい、やめに不燃材料であるスレートを使用し、屋根の骨格には洋小屋(キングポストトラス)を採用しています。また、この建物は昭和18年(1943年)に増築され、4間半(9m)文、建物が拡大されました。当初部分と増築部分では、異なる工法が用いられています。屋根を構成する洋小屋の合掌の補強を見ると、当初部分は金属製の留め具が用いられていますが、増築部分は木の板に釘留めをすることで代用されています。戦争が長期化したことで、金属資源が不足したことによるものであると考えられます。

ピット(作業用のくぼみ)
ピットをまたぐ形で車両を停め、車体の整備を行っていました。
ピットの寸法
幅 0.93m
奥行4.03m
深さ1.04m

1 建物の概要
桶川市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物
 1.守衛棟
 2.車庫棟
 3.兵舎棟
 4.便所棟
 5.弾薬庫

2 桶川分教場の敷地
 陸軍省は、昭和12年(1937年)に桶川分教場の建設用地を購入しました。昭和14年(1939年)及び昭和18年(1943年)にも、周囲の土地を買い足しています。
 当時の桶川分教場は、現在の桶川飛行学校平和祈念館の敷地より広い敷地を有していました。

3 桶川分教場の建設
 桶川分教場は当時の陸軍の規定に則して、守衛棟・車庫棟・兵舎棟・便所棟は木造で、爆発するおそれがある弾薬庫は、鉄筋コンクリート造で設計されました。
 建物の工事期間は、わずか4ヶ月ほどで、建設を急いでいる様子が当時の新聞でも報道されています。建設を急いだためか、建物の部材各所に残る墨書の筆跡からは、複数の大工集団が建設にあたっていた様子が伺えます。敷地内の植樹は、地元川田谷村青年団の努力奉仕により行われました。
 荒川対岸にあった飛行場では、開校当時、飛行機は天幕によって格納されていましたが、昭和14年(1939年)、格納庫の建設が決まりました。現在は、その基礎のみが残っています。

4 建物の特徴

5 建物の調査

6 文化財建造物の修理


建物跡(学校本部棟)


建物跡(食堂棟)


便所棟

旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 便所棟
市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 便所棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 便所棟は、生徒の便所・洗面場として使用された建物です。生徒は午前5時30分に起床し掃除の後、ここで顔を洗い、葉を磨き、身支度を整えました。便所は汲み取り式で、便房の床下に設置した甕に溜まったものを、取り出し口からひしゃくなどで汲み取っていました。便所棟の建物は、守衛棟・兵舎棟と同様に、木造平屋建て切妻造の建物で、壁は南京下見板張、屋根はスレートで葺かれています。守衛棟・車庫棟・兵舎棟は屋根の骨格が「洋小屋」ですが、便所棟の屋根の骨格は「和小屋」です。当時、陸軍省から発行されていた「陸軍建築設計要領」には、間仕切壁の多い厠(現在の便所)は和小屋にすることが規定されていたので、これに従い和小屋を採用したと考えられます。昭和18年(1943年)には生徒の増員に伴い、便房が2室増築されました。創建当初からある甕は陶器製ですが、増築部分の甕はコンクリート製です。

昭和18年(1943年)増築部の便房(東側の2室)で使用されたコンクリート製の甕

井戸


建物跡(教室棟)


防火水槽跡(円形)


防火水槽跡(八角形)


講堂跡

桶川飛行学校平和祈念館の敷地裏。ここは、桶川飛行学校平和祈念館の敷地外。講堂があったという。ホンダの管理敷地。

次は、その3へ。メインの兵舎棟へ。


関連

その3

その4

「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)」跡地散策・1

桶川にあった陸軍桶川飛行学校は、戦後は市営住宅として活用されていたが、木造建築であったために老朽と廃墟化が進んでいた。その後、私が戦跡に興味を持ったときは、桶川飛行学校跡地は復元整備工事の最中となり、長く立ち入ることができなかった。
そういえばそろそろ落ち着いたかなと、ふと思い出して脚を運んだのが2022年3月のこと。そうして復元が完了した桶川飛行学校の跡地を散策してみる。


熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)

熊谷陸軍飛行学校
昭和9年、所沢陸軍飛行学校が開設。翌年の昭和10年(1935年)12月に、操縦分科の生徒教育のために、熊谷陸軍飛行学校が開設。主として飛行機操縦に従事する航空兵科下士官となる生徒、少年飛行兵、あるいは将校、下士官の操縦学生などに対し、飛行機操縦の基本教育を行った。
昭和12年に所沢陸軍飛行学校が廃止され、操縦学生は本格的に、熊谷陸軍飛行学校で教育されることとなった。
熊谷陸軍飛行学校は昭和20年2月に第52航空師団の一部に改編のため閉鎖。

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場
昭和12年(1935年)6月に、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場として竣工。
昭和20年(1945年)2月、熊谷陸軍飛行学校は廃止され、傘下の桶川分教場(「桶川教育隊」と呼称)も、第52航空師団第6練習飛行隊(秘匿名称「紺第540部隊」)に改編され、特攻攻撃の訓練基地となった。
昭和20年4月5日、桶川で訓練をしていた「第79振武特別攻撃隊」12機が特攻隊として知覧基地へ移動し16日に沖縄に向けて出撃をしている。使用された航空機は、旧式の「九九式高等練習機」。特別攻撃隊第79振武隊は、陸軍で初めての練習機編成による特攻隊とされている。

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡
 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(桶川飛行学校)は、昭和10年に開校した熊谷陸軍飛行学校(現在の航空自衛隊熊谷基地)の分教場として、昭和十二年六月ここに開校しました。
 守衛所(衛兵所)、車庫、本部宿舎、便所、弾薬庫などが現存し、滑走路は荒川の対岸にあり、現在、ホンダ航空が使用しています。川島町側、本田航空社屋脇の堤防から滑走路に向かう広々とした所には、格納庫と現地事務所がありました。教官、学生以外は熊谷本校に雇用された地元の人たち(軍属)で、学校事務のほか、飛行機の整備や通信、気象などの業務にあたりました。
 昭和十八年三月までは、ほかの兵科から飛行兵を希望してきた召集下士官学生を教育し、以後、陸軍少年飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習士官など、昭和二十年二月の閉校までに二十期余り、推定千五百~千六百の飛行兵を教育しました。昭和十八年九月に卒業した陸軍少年飛行兵第十二期生は四十五名中十八名が、昭和十九年三月卒業の特別操縦見習士官第一期生は八十余名中二十名近くが戦死しています。
 昭和二十年二月以降は特攻隊の訓練基地として使用され、同年四月五日、陸軍初の練習機による特攻となる特別攻撃隊第七十九振武隊が出撃基地である鹿児島県知覧飛行場に向け出発しています。隊員十二名は四月十六日に沖縄の海に向け出撃し、十一名がなくなりました。特攻機は隊員たちが高等練習機を近隣の飛行場から集めてきて戦闘機の色に塗装したもので、尾翼に描いた標識(マーク)も隊員たちが考案したものだあると推定されています。特攻機が知覧飛行場に向かう際、下関の小月飛行場まで同乗していった元整備員の体験談も公表され、また、特攻隊出発時の写真や隊員の手記、寄せ書きなども残されています。
 戦後、旧校舎は内部を改造して、住宅困窮者の住居(通称「若宮寮」)として使用され、昭和三十一年には六十四世帯、三百人余りがひとつのコミュニティを形成していました。
 平成十六年、桶川市による戦争体験記募集の事業をきっかけに、この歴史を調査記録するNPOが設立され、多くの関係者の手記や当時のエピソードが収集されています。平成十九年三月に最後の住民が転出した後、桶川市は、同NPOが実施した保存署名に応える形で敷地を国から購入し、現在、保存に向けて事業が進められています。
 平成二十七年五月
 看板寄贈 桶川ロータリークラブ
 文責 NPO法人 旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会

参考
NPO法人旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会

https://www.okegawa-hiko.org/


桶川飛行学校平和祈念館

昭和12年に熊谷陸軍飛行学校桶川分教場、昭和20年に特攻隊訓練基地として使用され終戦。戦後は、GHQにより進駐もあったが、その後は市営住宅(若宮寮)として2007年まで使用されていた。
その後、跡地建屋を解体して国に返還する予定であったが、保存活動もあり、桶川市として保存に方針転換。2018年から2020年にかけて、復元整備工事が行われ、2020年8月に「桶川飛行学校平和祈念館」として開館した。

桶川飛行学校平和祈念館は、当時の熊谷陸軍飛行学校桶川分教場の建物を活用し、平和を発信し、平和を尊重する社会の実現、及び地域の振興に寄与するための施設として、2020年(令和2年)8月4日に開館しました。
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場は、1935年(昭和10年)に現在の熊谷市に開校した熊谷陸軍飛行学校の分校として1937年(昭和12年)に設置されました。各地から集まった生徒はここで寝食をともにしながら、陸軍航空兵になるための飛行機の操縦教育を受け、その後戦地へ向かいました。
戦後、桶川分教場の建物は、引揚げ者のための市営住宅「若宮寮」として使用されました。2016年(平成28年)には、守衛棟、車庫棟、兵舎棟、便所棟、弾薬庫の5棟が市の文化財に指定され、2018年(平成30年)から2020年(令和2年)にかけて、これらの建物について復原整備工事を実施しました。 

桶川市 https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/soumubu/jichishinko/shisetsu_ichiran/shogai_bunka/otherfacilities/1937.html

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R402-14
昭和22年(1947年)10月28日、米軍撮影の航空写真。

荒川を挟んで、東西。ちょっと不便そうな立地。。。


「桶川飛行学校平和祈念館」散策

川越駅と桶川駅を結んでいる東武バスウエストにて、最寄りとなるは柏原バス停で下車。跡地に向かう。バスは少ない。。。

旧陸軍桶川飛行学校跡地

95式1型乙練習機(赤とんぼ)

アプローチ道路。


熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 弾薬庫と周辺施設

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 弾薬庫と周辺施設
市指定文化財 
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 弾薬庫
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 弾薬庫は、桶川分教場の時代から存在する建物の一つで、鉄筋コンクリート造平屋建て、室内の内寸が間口1.82m、奥行き1.47mほどの小さな建物です。室内の床を地面より高くすることで、湿気が上がらないように配慮されています。屋根を木造、壁をコンクリート造とすることで、爆発したときには屋根のみが引き飛ぶ構造とされています。桶川分教場は戦闘用の基地ではなく、あくまで訓練用の施設であったため、大きな弾薬庫が必要なかったものと考えられます。

飛行場(滑走路・格納庫)
 荒川の西側にある河川敷に、かつては滑走路と格納庫を備えた60万㎡ほどの飛行場があり、生徒はそこで通称「赤とんぼ」と呼ばれる九五式1型練習機に乗って操縦訓練を受けていました。当時の飛行場は残っていませんが、現在、同じ場所を本田航空株式会社が滑走路として使用しています。

境界杭
 敷地の周囲には境界を示す杭が残り、「陸軍」と刻まれています。桶川分教場の敷地は複数回にわたって買い増しされています。
  令和2年3月 桶川市

滑走路跡は「その4」で掲載。


陸軍桶川飛行学校の陸軍境界標

アプローチ道路の両脇には「陸軍境界標」が林立している。

1つ目。

2つ目。

境界標「陸軍」

3つ目。

4つ目。

5つ目。

6つ目。

7つ目。

8つ目。

9つ目。

10つ目。
門柱の脇に。

もっとあるかもしれないけど、とりあえず「陸軍境界標石」は10個を確認。

陸軍桶川飛行学校


陸軍桶川飛行学校の弾薬庫

弾薬庫は往時から残る建屋。上部は復元されている。


陸軍桶川飛行学校の防火水槽

弾薬庫の目の前に残る防火水槽。

さて、次は「桶川飛行学校平和祈念館」の敷地内にむかいます。

※撮影は2022年3月

場所

https://goo.gl/maps/gWNwrSWX2Uo1m1n4A

参考リンク

https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/soumubu/jichishinko/shisetsu_ichiran/shogai_bunka/otherfacilities/1937.html

https://www.okegawa-hiko.org/

https://www.jiji.com/jc/v4?id=okegaku15030001


関連

その3

その4

「陸軍重砲兵学校」跡地散策・その2(横須賀)

馬掘小学校・中学校の東の坂道を進む。馬掘自然教育園へ向かう。往時から残る道。

本記事はその2となります。その1はこちらから。


境界塀

馬掘中学校に残る不自然な境界塀。往時からの塀かもしれないし、関係ない塀かもしれない。参考まで。

馬掘中学校。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-122
昭和21年(1946年)2月15日、米軍撮影の航空写真。

一部拡大の上、加工。
当時は、重砲兵学校のすぐ先が海岸線であったた。現在は海岸線が埋め立てられていることが分かる。


馬堀自然教育園

馬堀自然教育園
 昭和34年、市の博物館付属施設として開園しました。戦前は旧陸軍重砲兵学校の弾薬庫などがあった場所で面積は38600平方メートルあります。
 園内はタブノキ、スダジイ、オオシマザクラなどが茂る自然林で約250種の植物が生育し様々な鳥類がやってきます。池や水路ではホタルやトンボ、メダカなど水生生物が保護・育成され、学習棟には園内の地質・動植物を紹介した展示室があります。
 園内には旧陸軍の弾丸庫や火薬庫、御稜威神社の鳥居や記念碑が現在も残されており近代化遺産としても貴重な所です。
 この緑地は小原台台地から観音崎公園につながる自然観察ルートになっています。
  大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ

横須賀市自然博物館付属
馬掘自然教育園

横須賀市自然・人文博物館付属
馬掘自然教育園

駐車場はないのでご注意を。

歴史遺産の宝庫!馬掘自然教育園
園内にある旧陸軍重砲兵学校の遺構


陸軍重砲兵学校

明治22年(1989)。要塞砲兵幹部練習所が市川市の国府台に創設。
明治29年(1896)に、陸軍要塞砲兵射撃学校と改称。翌年明治30年に横須賀馬堀の新校舎に移転。明治41年(1908)に陸軍重砲兵射撃学校と改称し、大正11年(1922)に、陸軍重砲兵学校と改称した。


馬掘自然教育園に残る陸軍重砲兵学校跡地散策

散策を。

コンクリート擁壁

火薬庫1

火薬庫は2棟残っている。それぞれ形状は異なる。

水路の遺構?

上の池。これは旧軍とは関係ないのかもしれないが。

火薬庫2

ふたつめの火薬庫。

火薬庫の後ろには巨大な壁がある。

防爆壁

火薬庫が万が一に爆発した際に被害を防ぐ爆風防護壁。

水路

水源地施設

水源地。今も水が湧いている。

寄り添う大木

ムクノキとシラカシ。馬掘自然教育園に残る大木。

古井戸

正方形の枠が設けられた井戸。

御稜威神社跡

陸軍重砲兵学校内神社として設けられた御稜威神社。
創建は昭和14年(1939)という。

御稜威神社跡。台座。

「稜威神社之記」記念碑

稜威神社之記 
陸軍重砲兵學校創立セラレテヨリ茲ニ五十年稜威ノ下幾多先輩ノ赤誠ニ依リ今日ノ隆昌ヲ見タリ我等亦愈之カ發展ヲ希ヒ先輩有志ノ協力ヲ得校内ニ聖域ヲ卜シテ神殿ヲ造營シ伊勢大神宮明治神宮及香取鹿島兩宮ヲ奉祀シテ禮拜ノ儀典ヲ継承シ絶エス神前ニ忠誠ヲ誓ヒ益ゝ盡忠報國ノ志ヲ鞏ウセンコトヲ期ス 
 昭和十四年三月二十七日

(裏面)
准士官下士官兵 判任文官雇庸傭人

狛犬台座跡?

参道跡

御稜威神社鳥居

御稜威神社社号標

(表)
御稜威神社
(裏)
陸軍重砲兵学校長 太田勝海

石段の一部が欠けていた。

防空壕跡

防空壕を塞いだであろう箇所がいくつかあった。

園内を1時間ぐらい散策。
陸軍火薬庫であったがゆえに、立ち入りが制限され、それゆえに、戦後は自然教育園として活用されてきた空間。自然教育とあわせて歴史教育もできるという貴重な場所。敷地内はアップダウンもあり、足元は湿り気もあるため、しっかりとした靴での散策を推奨。

場所

https://goo.gl/maps/TQKy7qBbsp8ELvQS8

公式

https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/exinfo/mabori-map/educationgarden

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8161/sisetu/fc00000383.html

※撮影:2022年5月


関連

「陸軍重砲兵学校」跡地散策・その1(横須賀)

横須賀の防衛大学校の手前、馬掘小中学校や馬掘自然教育園のあるエリアは、かつて陸軍の重砲兵学校があった場所。昭和40年代に海岸線を埋め立てる前は、この地が海岸線の南西端でもあった。
そんな馬掘の陸軍重砲兵学校関連戦跡を散策してみる。

その2(馬掘自然教育園)はこちらから。


陸軍重砲兵学校

明治22年(1989)。要塞砲兵幹部練習所が市川市の国府台に創設。
明治29年(1896)に、陸軍要塞砲兵射撃学校と改称。翌年明治30年に横須賀馬堀の新校舎に移転。明治41年(1908)に陸軍重砲兵射撃学校と改称し、大正11年(1922)に、陸軍重砲兵学校と改称した。

陸軍重砲兵学校跡
 現在の馬堀小・中学校は戦前に旧陸軍重砲兵学校が置かれていた所です。
 明治8年(1875)浦賀に海軍の兵士を育てる屯営が置かれ、その後、要塞砲兵幹部練習所・要塞射撃学校と変遷しました。大津練兵場に一時移転しましたが、明治30年(1897)馬掘の地に重砲兵学校を設置しました。
 この学校は砲術の訓練と発達に寄与し、養成した将兵は3万人を超えました。終戦後の一時期、浦賀が陸軍の復員手続きや馬堀援護所として使用されました。
 現在も校庭西側の丘に「重砲兵発祥の地」の碑があります。
 大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ

現在の馬掘小学校の入り口に、跡地の案内板が立っている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-122
昭和21年(1946年)2月15日、米軍撮影の航空写真。

一部拡大の上、加工。
当時は、重砲兵学校のすぐ先が海岸線であったた。現在は海岸線が埋め立てられていることが分かる。


重砲兵発祥地の碑

馬掘小学校の校庭西側の丘のうえに、重砲兵発祥の地の記念碑がある。
小学校の校庭内になるためにご注意下さい。私は校庭開放日に見学をさせていただきました。

この地は、重砲兵学校将校集会所前庭であったという。

重砲兵発祥地 
永持源次謹書

永持源次の最終階級は陸軍中将。
陸士15期、砲兵畑をすすみ、陸軍要塞砲兵射撃学校教官、陸軍重砲兵射撃学校教官、陸軍野戦砲兵学校教官、横須賀重砲兵連隊長、造兵廠大阪工廠長、砲工学校長、造兵廠長官などを歴任した。
昭和13年(1938年)、予備役。除隊後は、日本製鐵常務や日本特殊鋼社長、全国軍人恩給連合会長を務め昭和53年に94歳で没している。

(裏面)
当処は明治二十二年創立せる陸軍重砲兵学校の旧址なり本校は重砲兵の進歩発展に貢献し昭和二十年迄に三万の将兵を練成す正に重砲兵発祥の地と謂うへし 然るに往時の施設は逐年改廃せられ近くその姿を没せんとす全国同憂の士深く之を惜しみ由緒ある遺跡を永く顕彰する為明治百年に方り此の碑を建つ
昭和四十三年十一月 重砲校遺跡顕彰会

本記念碑本体は富士の溶岩塊により築かれていたが、この度の修復に当たり保全上堅固な伊達冠石に交換した。
 平成十九年八月
 重砲会碑修復事業協力者一同


行幸之地碑

重砲兵発祥地記念碑の隣には、行幸の記念碑がある。
昭和天皇は、この地に2回、行幸されている。

行幸之地

昭和天皇当地行幸記録
昭和三年五月二十四日 陸軍重砲兵学校時代
昭和二十一年二月二十日 浦賀引揚援護局時代
右の碑は浦賀引揚援護局が建立したものを、平成十九年八月重砲会が修復しこの記録を刻した。
重砲会碑修復事業協力者一同

場所

https://goo.gl/maps/oyKDGk9pW4oXMtn69

※撮影:2022年5月


関連

「横須賀重砲聯隊」跡地散策

横須賀には「陸軍重砲兵学校」があった。そして横須賀には「要塞」があった。横須賀に残る重砲聯隊の名残を散策してみる。
汐入駅からの衣笠駅を結んでいるバスで、坂本坂上バス停下車。


横須賀重砲聯隊

明治24年(1891年)11月に、要塞砲兵第一聯隊が、横須賀に創設されたことに始まる。
明治27年、日清戦争に参戦。
明治29年、東京湾要塞砲兵聯隊と改称。
明治37年、日露戦争に参戦し旅順二〇三高地攻略戦で活躍。
明治40年、重砲兵第一聯隊第二聯隊に改編。
大正9年12月に、「横須賀重砲兵聯隊」と改称。
以来、終戦まで東京湾要塞重砲兵聯隊として首都を防衛。
横須賀重砲兵連隊は第1師団に所属し、有事の際は東京湾要塞司令部の指揮下にあった。


横須賀重砲兵連隊営門

横須賀重砲兵連隊の正門。
明治40年(1907)10月26日に竣工。連なって残る約16mの塀は、明治24年(1891)に出来上がったものと推定。
門柱は58cm角で、高さは3.24m、塀の高さは1.8m。
横須賀に残る数少ない明治建造物で、現在は桜小学校、坂本中学校の門として使用されている。

横須賀市指定市民文化資産
旧横須賀重砲兵連隊営門
連隊の正門で、明治40年10月に竣工した。これに連なる塀は、明治24年に完成したものと推定される。本市に残る数少ない明治建造物である。

公式

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004017.html

場所

https://goo.gl/maps/64ukQw8YBMzfWuJAA


横須賀重砲兵聯隊跡記念碑

桜小学校の校庭南側の鎮座。道路を挟んだ反対側は坂本公園。道路側からも記念碑を伺うことは可能。

現在は、桜小学校の校庭南側に2つの記念碑が並んで建立されている。
小学校の校庭内になるためにご注意下さい。私は校庭開放日に見学をさせていただきました。

横須賀重砲兵聯隊跡記念碑
誠心山之碑
ふたつの碑がある。

記念碑
横須賀重砲兵聯隊跡

嗚呼横重
鎌倉山の星月夜
衣笠城址の蝉時雨
山河に残る英雄の
感化は如何で浅からん
桜花の春の競技会
紅葉の秋の裾野原

一 明治二十四年十一月要塞砲兵第一聯隊当地に創設
一 明治二十七年日清戦争に参戦
一 明治二十九年五月東京湾要塞砲兵聯隊と改稱
一 明治三十七年日露戦争に参戦二十八榴を以て旅順二〇三高地攻略戦に偉勲を樹つ
一 明治四十年十月重砲兵第一第二聯隊に改編
一 大正三年一部を以て日独戦争に参戦
一 大正八年十二月芸豫重砲兵大隊当隊に編入
一 大正九年九月深山重砲兵連隊より第三大隊転入 同年十二月横須賀重砲兵聯隊と改稱
一 昭和十三年第三大隊満州国阿城に転営
一 自昭和十二年至昭和二十年支那事変及大東亜戦争に於て各種野戦部隊を編成派遣し且つ東京湾
   要塞重砲兵聯隊を編成し首都を防衛す
一 昭和二十年八月十五日終戦
  
昭和四十六年四月
 横須賀重砲兵聯隊遺跡保存会建之
  施工 田中石材工業

誠心山之碑

陸軍重砲兵聯隊の敷地内にあった人口の丘「誠心山」があった。大正14年12月に、「誠心山」由来を刻んだ碑が建立された。

誠心山之碑の扁額は上原勇作の揮毫。

誠心山之碑

横須賀市立桜小学校

※撮影:2022年8月


関連

【解体済】鉄道第一聯隊炊事棟跡(千葉市中央区椿森)

千葉県千葉市中央区椿森。鉄道第一聯隊がこの地に展開されていた。

以下は解体前の記録です


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

鉄道第一聯隊は、度重なる空襲で壊滅していた。
そんな中で「炊事棟」が残っているのがわかる。


千葉空襲

1.空襲等の概況
 千葉市は、明治末期から太平洋戦争中にかけて、千葉聯隊区司令部、千葉陸軍病院、 鉄道第一聯隊、千葉陸軍兵器補給廠、気球聯隊、陸軍歩兵学校、千葉陸軍戦車学校、千葉陸軍高射学校、陸軍市下志津飛行学校などの軍事施設が設置され、蘇我地先の埋立地(現川崎製鉄千葉製鉄所付近)には、軍需工場の日立航空機千葉工場が設置され、「軍郷千葉市」と呼ばれていた。
 太平洋戦争中、千葉市への空襲は数度あったが、米軍が千葉市を目標にした空襲は、昭和20(1945)年6月10日と7月7日(七夕空襲)の2回であった。この空襲で中心市街地の約7割(約231ha)が焼け野原となりました。この2度にわたる空襲により死傷者は1,595人、被災戸数8,904戸、被災者4万1,212人に及んだ。(千葉戦災復興誌より)
(参考:昭和20(1945)年12月末の人口は、9万5,903人)

千葉市における戦災の状況(千葉県)https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_07.html

昭和20(1945)年7月7日の七夕空襲で、鉄道第一聯隊(椿森)、気球聯隊、歩兵学校(作草部町)、千葉陸軍高射学校(小仲台)などが被災している。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_07.html


陸軍鉄道第一聯隊炊事棟跡

昭和20(1945)年7月7日の七夕空襲で、鉄道第一聯隊が被災した中で、焼け残った炊事棟。一階部分が煉瓦であることがわかる。戦後に建屋を譲り受けた民間業者が二階部分を増設し寮として活用されているという。

イギリス積み。

表側からは、煉瓦の雰囲気が全く残っていない。

椿森ハイム。横壁に煉瓦が残っている。

建築計画のお知らせ、がありました。
解体されて、新しくマンションが立つようです。
工事着工は2023年予定。。。

見学はお早めに。。。

場所

https://goo.gl/maps/cLPxmUmg8XnkXL1x6

撮影:2022年8月


解体後

2023年8月、近隣を散策。解体を確認しました。


関連

貴重な明治期の煉瓦建築「鉄道聯隊材料廠」(千葉経済大学)

千葉県内に残る鉄道連隊の戦跡。千葉や習志野、津田沼界隈に多く残っている。
当サイト内でもいくつか掲載をしてきていた。

内部公開の記事は下記にて

今回は、千葉経済大学の構内に残る、貴重な煉瓦建造物を見学(外観のみ)。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

市内に点在している案内看板より。

上記の米軍航空写真から該当部分を拡大。


鉄道聯隊関連の記事

千葉の鉄道聯隊(鉄道聯隊作業場など)

習志野の鉄道聯隊

新京成電鉄沿線の鉄道聯隊

鉄道聯隊の蒸気機関車


鉄道聯隊材料廠煉瓦建築

千葉経済大学。北側の駐車場側から、建物の全貌がよく観察できる。

千葉県指定有形文化財
 旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
 この煉瓦建築は、明治41年、鉄道聯隊材料廠の機関車の修理工場として建築されたもので、その後昭和20年旧日本国有鉄道が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用、昭和60年から千葉経済学園の所有となったものである。
 千葉県内に数少い明治年間創建の大規模な煉瓦建築の一つであり、特に内部の東西方向に二列に連なった十連の雄大なアーチ構造は、全国的にも他に比類がなく、この建物の主な特色となっている。
 従って、我が国明治期の煉瓦建造構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。
 右の理由により、千葉県指定有形文化財として指定をうけたものである。
  一、指定年月日 平成元年3月10日
  一、構造 煉瓦造アーチ構造、木造小屋組
  一、面積 695.6平方メートル
     千葉経済学園

千葉県指定有形文化財
旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
  所在地 千葉県稲毛区轟町3-59-6
  所在者 学校法人 千葉経済学園
  指定日 1989(平成元)年3月10日
 この建物は1908(明治41)年、旧鉄道連隊の材料廠※として建築された。大正時代には旧陸軍の兵器庫としても利用されていたが、戦後は大蔵省、国鉄と引き継がれ、1985年(昭和60)年に千葉経済学園の所有となり現在に至る。
 主要部分は、54.4m×7.3mと細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積と呼ばれる技法を用いている。
 県内では数少ない明治時代の大規模な煉瓦建築であり、10連の雄大なアーチ構造は、全国的にも類例がない。我が国の近代建築史における初期煉瓦建築の構造を知る上で、極めて重要かつ貴重な建築である。
 ※廠:壁の仕切りがない、広い建物のこと。向上、倉庫。 

案内板から、内部写真を拡大。

西側。

上部の左側にヒビが確認できる。

建物の南側。
軌道が確認できる。

建物の東側。

ガラスから建屋を除いてみた。

素晴らしい煉瓦建築。
関東大震災を耐えた明治期の煉瓦建築は、極めて貴重なものではあるが、2011年の東日本大震災以降は、危険のために内部立入禁止となっている。

場所

https://goo.gl/maps/r6PaD71pAyPvxUh98

※撮影:2022年6月


参考

https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p111-042.html

https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/kyutetsudorentai.html


関連

千葉陸軍病院跡と陸軍歩兵学校跡

千葉市内の戦跡。

点在する戦跡の中から、学校と病院を掲載。以前の散策で見逃していた戦跡をフォローする。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

市内に点在している案内板より。

椿森の周辺。


千葉市内の関連する戦跡など


千葉陸軍病院

現在の「独立行政法人国立病院機構千葉医療センター」。当時の門柱が正門に残されている。もともとは南通用門の門柱であったが移設保存。正門の門柱ではない。

1908年(明治41年)、千葉衛戍病院として開院。
1936年(昭和11年)、千葉陸軍病院となる。

千葉市に残る戦跡
千葉陸軍病院跡
 明治41年(1908年)6月の交通兵旅団と鉄道聯隊第二大隊の椿森移転以来、本市には、陸軍歩兵学校、気球聯隊など多くの陸軍施設が中央区(椿森、弁天)や稲毛区(作草部、天台、穴川、小仲台、園生)の台地に集積し、その総面積は約462ヘクタール(約140万坪)に及びました。
 ここ椿森の地には、傷病兵の治療にあたるため、同年に千葉衛戍病院(昭和11年(1936年)、千葉陸軍病院に改称)が設立され、隣接する鉄道聯隊(大正7年(1918年)、鉄道第一聯隊に改組)のほか、気球聯隊、歩兵学校、戦車学校などの将兵に対する医療の中心的な役割を果たしていました。
 昭和20年(1945年)7月の千葉空襲(右下解説)により鉄道第一聯隊をはじめとする多くの陸軍施設が焼失しましたが、千葉陸軍病院は被災を免れ、空襲で負傷した将兵や市民を受け入れました。
 終戦後、同年12月に千葉陸軍病院は厚生省(現厚生労働省)の管轄となり、国立千葉病院として発足、その後、更なる名称変更、建て替えを経て、現在の独立行政法人国立病院機構千葉医療センターとなりました。この正面入口には当時の門柱※が現存しており、この地がかつて陸軍病院であった面影を残しています。
※門柱は、千葉陸軍病院の南通用門(現在の椿森中学校側出口付近)として設置されていましたが、平成22年(2010年)の建て替え時に現在の正面入口に移設されました。

国立病院機構千葉医療センターの正門。
道幅が広すぎて、門柱が心もとない。

場所

https://goo.gl/maps/QXeta5xPdMHonvmk8


陸軍歩兵学校(歩兵学校)

場所的には、鉄道聯隊材料廠煉瓦建物の近く。天台駅最寄りの作草部公園に往時をしのぶ記念碑がある。

陸軍歩兵学校は、1912年(大正元年)9月に、陸軍戸山学校内に創設されたことに始まる。

大正元年11月に作草部の現在地に移転。
歩兵戦闘法の研究・普及などを行っていた陸軍教育機関。

平和之礎

陸軍歩兵学校之跡

由来
 陸軍歩兵学校は大正元年この地に創設され以来30有余年歩兵の実施学校としてもっぱら歩兵戦闘法の研究とその普及に任し 軍練成上をきわめて重要な使命を遂した
 この間数次の事変戦争において収めたるかくかくたる成果は本校の努力に負うところまことに多大であり又一面本校の存在が所在地軍都千葉市発展の一要因となったのである
 不幸にして大東亜戦争の末期空襲を受け諸施設は灰に帰し 終戦により昭和20年8月本校は閉鎖されその上戦後の市街復興に伴いその跡は様相一変し ほとんど往年の面影をとどめないようになった
 われら本校ゆかりの者は深く現況を嘆きこの地に旧軍練成の中枢的機関が存在した事実を後世に伝えるとともに 先人の功績をたたえ あわせて建軍の目的が日本国の興隆と世界平和維持にほかならなかったことを広く国民に理解されんことを願い財を集めてここに記念碑を建てたものである

昭和39年11月吉日
陸軍歩兵学校由縁者建之
題字 矢野機 書

揮毫の矢野機は、最終階級は陸軍中将。陸士18期。陸大25期。昭和19年(1944年)10月に陸軍歩兵学校長に就任し終戦を迎えている。

作草部公園

場所

https://goo.gl/maps/QsUrQdREXRWLtnjR9

※撮影:2022年6月


真田山の騎兵第四聯隊(大阪)

大阪城の南に築かれた出城、真田丸。
その真田丸のあったエリアに展開されていたのが、騎兵第四聯隊であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

真田山陸軍墓地と騎兵第四聯隊。
もっとも実際には騎兵第四聯隊は、昭和7年に真田山から堺に転営し、昭和14年に真田山公園となっているので、航空写真も「真田山公園」。


騎兵第四聯隊

大坂第四師団所属の騎兵第四聯隊。
明治22年に創立。戦歴としての最初の出動は日清戦争。ついで日露戦争に参戦。日露戦争では第2軍に属し、遼陽会戦・沙河戦に参戦。明治38年3月10日奉天入城。
昭和7年に手狭となったために聯隊兵舎は堺(金岡)に移転。

その後、騎兵第四聯隊跡地は大阪市に払い下げ、昭和14年(1939)に全域が真田山公園として整備。
騎兵第四聯隊は、昭和17年にフィリピンから内地に帰還し解隊、軍旗は奉還された。
昭和18年に再動員、捜索第四聯隊となる。昭和20年にタイ国で終戦を迎えている。


騎兵第四聯隊忠魂碑

もともとあった2つの下段「真田山兵舎史跡碑(騎兵営址碑」に、戦後増設で、最上段に「忠魂碑」が建立されている。

忠魂

騎馬のレリーフ

騎兵營址
陸軍大将鈴木荘六書

昭和8年11月
 騎兵将卒建之

騎兵第4聯隊歌
1.東に生駒の山高く
  西にはチヌの海眺め
  軍馬のいななき勇ましく
  集う八州の健児なり
  その名も高き桃山に
  聞かずや高くうたわるる
  錦城騎兵四聯隊
2.春は花咲く吉野山
  若草もゆる信太森
  吹く朝風に勇ましく
  栗毛の駒にまたがりて
  槙尾の山の桜花
  駒の蹄の音高く
  わが駒勇め今しばし
3.青葉若葉の風薫る
  はつ夏の頃早やすぎて
  炎熱もゆる八月の
  波風高き高師浜
  水馬演習も勇ましく
  武門の名誉偲びつつ
  怒涛に駒を乗り入れる
4.秋風立ちて中つ頃
  播州加古川上流の
  青野ヶ原の原頭に
  四百の騎兵勇ましく
  襲え襲えの号令に
  戦場の華とうたわるる
  あゝ爽快の襲撃ぞ
  あゝ爽快の襲撃ぞ

騎兵第4聯隊之歴史

騎兵第4連隊は、もとこの真田山公園の全域にあった。
明治22年(1889年)2個中隊の大隊編成として始めて大阪に新設され、兵員250、馬匹200程度で、大隊長は大高坂正元少佐である。
明治29年日清戦役の直後同年11月19日、軍旗を拝受し爾来昭和7年まで此の地にあり、軍旗を拝受すると共に、騎兵第4連隊と改編、茲に、日本帝国の、陸軍の華として発足した。
当時は国民皆兵制のため、徴兵令に従い、男子21才に達すると全国一斉に徴兵検査が施行せられ、身体、精神の厳密な検査をうけ、少しの故障、又は欠陥ある者は不合格となり、徴兵司令官より甲種合格の証書を自ら渡された時は、軍人の資格を得たことに、男子の本懐として強く感激したものである。
古来日本民族には 武勇を尊び、正義を愛し、その貫徹には死をも恐れぬ気概があり、入隊した者は、軍隊生活の第一日から厳格な訓練をうけた。
騎兵は又特科隊とも呼ばれ、馬も活兵器として、むしろ兵より大切にとり扱われ、食事も兵は馬よりいつも後であった。
戦歴としては、日清戦役に出動が最初で、日露戦役には、明治37年(1904年)第2軍に属し、金洲、南山の攻撃、蓋平、大石橋、海上の戦闘に続いて遼陽会戦に参加、次いで沙河戦を経て明治38年3月10日、敵の最重要拠点、奉天に入城、国運を懸けた。
さしもの大戦も、連合艦隊の大勝と相俟って、遂に露軍の全面降伏となった。
斯くして、この戦況に重大な関心をもつ世界の列強を驚かせ日本恐るべしの感を抱かせたのも事実である。
その後昭和20年(1945年)までこの3月10日を陸軍記念日(祭日)として全国民を挙げて戦勝記念日の行事が各地で行われた。
昭和7年の春、現連隊では狭隘のため訓練に支障の故をもって、堺、金岡に兵舎は移転された。
昭和12年に入るや、日本に対するアメリカの経済封鎖は日を経て強まり、日、中、米の情勢は緊迫を告げ、支那事変、大東亜戦争に突入するの止むなきに至った。
真田山連隊の出身者にして外地に出征した将兵は極めて少なく金岡部隊の出征者が殆んどで8割を超えるものと思われる。
昭和17年8月比島方面の連隊は一旦内地に帰還し、軍旗は奉還された。
翌18年9月再び動員下令となり、この度は南方に出動した。
この時は捜索第4連隊となり連隊長は、やはり今村安大佐であった。
昭和20年2月タイ国に進駐、同4月タイ国の師団主力の位置に復し、同地に於て終戦となった。
茲に於て我が誇りとした騎兵第4連隊は光輝ある大日本帝国、陸、海軍と共に惜しくも永遠にその歴史の幕を閉じた。
作戦の建制上堺留守隊に於て編成出征した各部隊及其の長は次のようである。
捜索第34連隊(森岡正中佐・田川泉中佐)、騎兵第75連隊(吉沢末俊中佐)、騎兵第104大隊(高橋保和中佐)、堺金岡留守部隊(森岡正中佐)、独立輜重兵第54大隊(内木彦一少佐)、独立輜重兵第55大隊(浅利正基少佐)、同第75大隊(藤原長治少佐)である。
尚全戦線に亘り、軍直轄部隊として、自動車廠、碇泊場司令部に多数の騎兵第4連隊出身者がその要職につかれた。
以上は騎兵第4連隊創設以来の概要であるが、此の忠魂碑は昭和7年連隊が堺へ移転の翌8年11月建立された。
顧りみれば戦争終結以来星流れ時移りて40年、我々は言語に絶する猛訓練に堪え、更に命運を決する数多くの戦闘に参加、遺憾なく果敢な騎兵精神を発揮した。
この記録は不滅のものであり、永く日本の戦史を飾るものと思う。
我々日本の国民は、一時は信ぜざる事態に直面し呆然としたが、戦争に従軍した我々軍人は死力を尽して戦った。
勝敗の如何に拘らず、死線を超え不思議に生還した我々に今は何の悔いもない。
しかしながら不運にして戦病死された勇士、亦帰還後亡くなられた方々のお心を察するとき、我々は国民各位と共に深く犠牲者に感謝し、その名誉を称え、み霊に対し奉り、とわの安らかなる眠りにつかれんことを心から祈念するものである。
 騎兵第4聯隊並関連諸部隊有志

日本暦2645年  
西暦1985年 
昭和60年11月3日
 忠魂碑維持 大阪騎兵会
  永代供養 三光神社

大きい。。。陸軍境界標柱。北側。

陸軍省所轄地

往時のコンクリート塀。

陸軍境界標柱。南側。こっちは摩耗している。

陸軍省所轄地

うっすら、「陸」はわかるかな、という感じ。

往時のコンクリート塀。真田山公園側。

南側はコンクリートの状態がかわっている。。。

真田山公園。

場所

https://goo.gl/maps/9Pr8qubXmyGJRPXH9

※撮影:2022年7月


関連

大阪護國神社

「森之宮団地の大阪砲兵工廠跡」と「鵲森宮の機銃掃射弾痕跡」(大阪)

大阪城の東を走る大坂環状線。そのさらに東側に大阪メトロ森之宮検車場や森之宮小学校、大坂公立大学森ノ宮キャンパスや、UR森之宮団地がある場所、さらには、大阪城公園の近くや、大阪城ホール、大坂ビジネスパークなどの広大なエリアは、かつて軍需工場であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

大阪城には陸軍第四師団司令部が置かれ、そして大阪城の西側、森ノ宮駅の北側には「軍需工場」(大阪砲兵工廠・大阪陸軍造兵廠)が展開されていた。

大阪陸軍造兵廠は、空襲により、80%を焼失している。
このエリアが重要な軍事拠点であり、逆に言うと、米軍からすれば重要攻撃拠点であったことがわかる。

赤い線の内側が大阪砲兵工廠。
大阪城の北側に正門があり、化学分析所と守衛所は今も残る。
大阪環状線は、砲兵工廠のある大阪城の東側のみが高架ではなく、唯一の地上線路となっている。これは高架にして工場を一望されることを防いだためという。なお、大阪城公園駅ができたのは戦後。当時は駅は設けていなかった。


大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)

大阪砲兵工廠は、陸軍の大口径火砲を製造していた極東最大の軍需工場であった。戦前の日本では最先端の重工業工場でもあったため、兵器以外の金属製品も多く製造していた。

明治維新後、大日本帝国陸軍創設指揮をとっていた大村益次郎の建言により造兵司(大坂造兵司)を設置。
明治5年(1872年)の陸軍省発足とともに、「大坂製造所」と呼称。
明治12年(1879年)に、「大阪砲兵工廠」と呼称。
大正12年(1923年)に、「陸軍造兵廠大坂工廠」と改称。
昭和15年(1940年)に、陸軍兵器本部の設置に伴い、「大坂陸軍造兵廠」と改称。

大阪砲兵工廠は、陸軍唯一の大口径火砲工場として、火砲や戦車、弾薬などを開発・製造していた。また鋳造や金属加工に関する最先端の技術水準を誇っていたということもあり、軍需のみではなく民需の依頼も受注していた。

靖國神社第二鳥居は、1887年(明治20年)に「大阪砲兵工廠」で鋳造されたもの。 靖國神社に4つある鳥居の中で一番古く、また青銅製鳥居として日本一の大きさを誇っている。
写真は靖國神社第二鳥居(大阪砲兵工廠鋳造)

終戦前日の昭和20年8月14日午後の集中空襲で、大阪砲兵工廠は80%以上の施設が破壊され、工廠としての機能を失った。

大阪城の近くに残る大坂砲兵工廠関連の戦跡に関しては、以下も。

南の玉造には機銃掃射弾痕が残る。


大阪砲兵工廠跡

現在、UR森之宮団地内に「大阪砲兵工廠跡」の碑が建立されている。

大阪砲兵工廠跡

誰がいつ建立したのか、跡碑には詳細がなく履歴は不明。

大坂砲兵工廠跡碑と、地蔵様と、よくわからないモニュメントの3つが並んでいる。

場所

https://goo.gl/maps/BdAWGGJc6MUNmxzN7


もう一つの「大坂砲兵工廠跡碑」

上記は別に大阪城ホールの近くにも「砲兵工廠跡」の碑がある。
大阪城ホールに大阪砲兵工廠本館があった。

場所

https://goo.gl/maps/ME5yP49RVPxWuEVT8


鵲森宮(森之宮神社)

森ノ宮駅の南西すぐ近くにあるのが、鵲森宮(森之宮神社)。「かささぎのもり」。
創建は、聖徳太子の時代まで遡る。
御祭神は、聖徳太子の両親である用明天皇と穴穂部間人皇后、そして聖徳太子を祀る古社。

当社の狛犬台座には機銃掃射の銃痕が残っている。

大東亜戦争ノ為メ青銅製ノ狛犬ヲ献納シテ之ヲ再建ス
昭和19年7月

狛犬の台座に残る無数の修復の痕跡が、機銃掃射の弾痕の名残。

場所

https://goo.gl/maps/D66eh6nPQZmrwiez7


森ノ宮駅

城見エリア、がある。

大阪城の天守が見えました。

ホームからみる大阪城、いいですね。
大阪城の戦跡という言い方をすると、戦国時代も含まれますね。私のサイト内では、もっぱら昭和にしか触れていませんでしたが。

※撮影:2022年7月撮影


関連

高射第3師団司令部があった大阪市立美術館

天王寺公園の大阪市立美術館。
戦時中は、高射砲第3師団司令部が置かれていた。


大阪市立美術館

大阪市立美術館は、大阪市天王寺区の天王寺公園内にある美術館。
東京府、京都市に次いで日本で三番目に設立された公立美術館。

当地には1914年(大正3年)に住友家本邸が建てられたが、後に住友家から美術館建設を目的に日本庭園「慶沢園」とともに敷地を寄贈され、1936年(昭和11年)に旧本邸跡地に開館。
建造は1936年(昭和11年)4月、鉄骨鉄筋コンクリート構造。

太平洋戦争突入後の1942年(昭和17年)には陸軍が接収。戦争末期には高射第3師団司令部が置かれた。

1945年(昭和20年)から1947年(昭和22年)までは占領軍が接収している。

耐震補強及び設備の全面更新のため、2022年(令和4年)10月から2024年度(令和6年度)までの予定で休館


高射第3師団司令部

昭和20年(1945年)4月、主として阪神地区を主とする政治、軍事、軍需の中枢を防衛するため編成された。
第15方面軍(第15方面軍司令部は大阪城内、旧大阪市立博物館)に属していた。


大阪市立美術館の写真など

以下、周辺の写真など

訪れたときは、閉館中だったので中に入れず、残念。。。

この建屋も歴史ありそう。

裏に佇む門柱。

手前の門柱。

夕方のスキマ時間にちょっと軽い気持ちで予備知識無しで足を運んだら、大きさにびっくりしました。。。

※撮影:2022年7月

場所

https://goo.gl/maps/ytbRuo7oNfEEE9pB8


関連

鶴舞公園に残る戦跡(名古屋)

名古屋市昭和区の鶴舞公園。
名古屋初の都市公園として明治42年に誕生した鶴舞公園にも、戦争に関連する歴史が残されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M550-1-72_19471013
1947年10月13日に米軍が撮影した航空写真を加工。

鶴舞公園周辺を拡大。


鶴舞公園

住居表示やJR駅名は「つるまい」ではあるが、公園の名前は「つるま」。
1909年(明治42年)に開設された名古屋市が設置した初の公園。
名古屋大空襲で複数の建造物を焼失している。


「鶴舞公園」扁額

明治42年の開園当時に内閣総理大臣であった陸軍大将桂太郎の扁額。当初の青銅板は、戦時下の金属回収で供出。コンクリート代用品に変えられたが、昭和41年に復元。当初は公園の正門ゲートを兼ねていたJR中央線ガードに掲げられていたが現在は正面花壇に設置されている。


陸軍高射第二師団司令部
(名古屋市公会堂)

大正13年(1924)1月の摂政宮(昭和天皇)御成婚記念事業として計画され、昭和5年(1930)9月30日建立。
外観は茶系の落ち着いた色調で整え、最上階の円形アーチ窓や隅部の丸み等、ロマネスク的表現とする。初期の鉄骨鉄筋コンクリート造建築。

昭和16年(1941年)8月に「名古屋防空隊本部」が名古屋市公会堂に開設される。
「名古屋高射砲隊司令部」を経て、昭和20年(1945年)5月には、第13方面軍隷下となる「陸軍高射第二師団」となり、引き続き「名古屋公会堂」に司令部を設置。名古屋地区の防衛にあたった。

戦後は進駐軍に接収。米空軍の専用施設としての10年を経て、名古屋市に昭和31年に返還され、再び公会堂として復活。


高射第二師団司令部の門柱

高射第二師団司令部の門柱が一対、残されている。


吉田山の高射砲台陣地跡

鶴舞公園野球場の周辺に、高射砲陣地(4門)が展開されていた。台座の跡が3箇所残っている。

1つ目

2つ目

3つ目

野球場

吉田山は、もともと元名古屋区長吉田禄在の所有地であった。


八幡山古墳の高射砲台陣地跡

八幡山古墳
国の史跡に指定(昭和6年)されている県下最大の円墳。高さ10メートル、直径82メートル、まわりは堀になっています。
大正8年、公園敷地に編入された当時は老松がうっそうとしていましたが、戦争中、高射砲陣地設営のため伐採されてしまいました。戦後再び緑化され、昭和57年から緑地保全地区(平成16年の法改正に伴い、特別緑地保全地区に名称変更)されています。

立ち入りは禁止。


名古屋大学医学部附属病院門及び外塀
(旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀)

旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀
大正3年(1914年)建立。
名古屋大学鶴舞キャンパス敷地の南辺にあり、道路を挟んで鶴舞公園に面する。門柱は花崗岩の方柱で、中央2本が当初のものである。塀は当初の煉瓦造に昭和5年(1930)にスクラッチタイルとテラコッタで改修し仕上げたもので、当時のデザイン傾向が窺える。

名大病院


鶴舞公園のそのほか

鶴舞公園内は、ほかにも近代史跡が多く残っているが、私は大部分を見逃してしまっていた。。。


噴水塔

明治43年、鶴舞公園を会場として、第10回関西府県連合共進会が開かれた。会場の正面広場を飾ったのがこの噴水塔であった。
設計は鈴木禎次工学士、ローマ様式の大理石柱に岩組みという和洋折衷式。
地下鉄3号線工事のため一時撤去されたが、昭和52年復元された。


奏楽堂

明治43年、鶴舞公園を会場として第10回関西府県連合共進会が開催された際に、中心的施設として各種の演奏会が催された。
イタリアルネサンス風の建物で、細部にはアールヌーボーのデザインが施されている。設計者は噴水塔と同じ鈴木禎次工学士。
昭和9年に老朽化のうえ室戸台風で大被害を受けたので取り壊され、昭和11年から平成7年まではデザインの異なる奏楽堂が建てられていたが、平成9年に築造当時の姿に復元された。


近代史の目線では、以下も興味深かったが、見逃し。
2022年9月に再訪しました。

青年団令旨碑壇

名古屋市連合青年団が昭和5年に建設した記念碑壇。青年のスポーツ精神を高揚する令旨が掲げられています。陸上競技場は、大正2年に大運動場として発足しました。昭和7年には施設も充実し、乙種認定を受けましたが、戦後の接収時代に荒れてしまいました。現在は認定外の陸上競技場として、各種のスポーツ、行事に利用されています。


普選壇

普通選挙法(大正14年施行)を記念した野外劇壇。中日新聞社の前身名古屋新聞社が解題20周年(大正15年)を記念して昭和3年に建造しました。壁面には普通選挙の基本精神「五箇条の御誓文」とその英訳、および建設の趣旨とが掲げられています。この青銅板は戦争で失われましたが昭和42年に復元されました。昭和61年に市指定文化財に指定されました。


加藤高明伯銅像跡

昭和3年、愛知県出身の内閣総理大臣であった加藤高明氏を顕彰し、銅像建設会により同氏の銅像が建立されました。同氏の銅像は、昭和19年に戦時物資の不足を理由に供出され、現在は台座だけが残されています。


鶴舞公園は広いので、全部をまわろうとすると結構な時間が必要。結局、6月の訪問ではすべてをまわりきれず、見逃しもあり、機会があったので9月に再訪をした次第でした。

※撮影:2022年6月 再訪9月


関連

多摩陸軍飛行場(横田基地)の格納庫

在日米空軍横田基地で「日米友好祭フレンドシップフェスティバル2022」が、5月21日22日にかけて、3年ぶりの開催された。

実は横田基地は初めて。
事前学習せずに、何気ない気持ちで行ってみたら、大行列と雨に巻き込まれて散々な状態となり、写真もまともに撮れていないひどいありさま。今回の記事は、掲載を見合わせようかと思うレベルではありましたが、来年以降のリベンジの念も込めて、かなり半端な内容ですが掲載します。

2023年にリベンジしました。
より詳細な記事は、以下にて


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-80_19471114
1947年11月14日に米軍が撮影した航空写真を加工。

拡大。

当時の写真と、Google航空写真との照合を行ってみる。
横田に行く前に事前に、この照合作業をおこなっていれば、よいものを、今回は手抜かりもあり、記事に漏れが多数。。。

日本戦跡協会さまより、
「南の右の格納庫は、米軍が建てたもの」とコメントを頂きました。


多摩陸軍飛行場(福生飛行場・横田飛行場)

昭和15年(1940)、立川陸軍飛行場の付随施設として建設。
同年4月に、陸軍飛行実験部(陸軍航空審査部飛行実験部)が立川から多摩に移転。
大戦末期の本土防空戦時には、飛行実験部戦闘隊を「福生飛行隊」と通称し、第10飛行師団指揮下の臨時の防空飛行部隊として投入され、戦果も上げている。
戦時中の米軍は、従来把握していなかった多摩陸軍飛行場を「横田飛行場」と名付たことから、「横田基地」と呼ばれるようになった。
終戦後は、アメリカ軍に接収され、朝鮮戦争やベトナム戦争でも積極的に活用された。


横田基地に残る陸軍の格納庫

上記の位置関係と照合した結果、格納庫がいくつか残っていることがわかる。

三角屋根の格納庫が当時からの格納庫。
オスプレイと一緒に写る。

こちらも当時からの格納庫。最南部。

撮影していた格納庫の写真は以上のみ。
記録写真としても、まったくできていないので、リベンジが必須。

オスプレイ
初めて垣間見たオスプレイは、おもったよりも小さかった。

2022
Firendship Festival
Yokota Air Base

いろいろ

いろいろ。

また、リベンジします。

※撮影:2022年5月


関連

松井石根大将ゆかりの神社(椿神明社・名古屋)

愛知県名古屋市中村区牧野町。
名古屋駅の駅裏(駅西)、つまり名古屋駅の西側には、牧野公園や牧野小学校など牧野の名前を残した場所がある。

椿神社は牧野村の北端。
この牧野村で、松井石根は明治11年(1878年)7月27日に生まれた。


神明社(椿神明社)

祭神は、豊宇気比売神。創建年代は不詳。旧社格は村社。
伊勢の神宮の神領地であった牧野村で、椿神明社は外宮とされ「上ノ宮」、牧野神明社は内宮とされ「下ノ宮」と呼称されていたという。

JR東海が施行するリニア中央新幹線(品川・名古屋間)の事業用地として椿神明社の境内北側を一部譲渡することとなり、境内整備が実施された。工事は2020年4月 ~ 2022年3月。
私の参拝は2022年6月。工事完了後の参拝。

社号標の銘は削り取られていた。
昭和9年10月建立。

境内の随所に柵が設けられ、立ち入りできる空間が少ない。


松井石根ゆかりの石碑(池に沈めた大将の碑)

石碑がある。
これが、松井石根ゆかりの石碑。近くで見ることができないのが残念。

松井石根は、椿神社のある牧野村の出身であった。
昭和12年(1937年)7月、盧溝橋事件により支那事変(日中戦争)が勃発。
第二次上海事変に際し、予備役の松井石根は召集され上海派遣軍司令官として陣頭指揮を取ることとなり、昭和12年(1937年)12月、中支那方面軍司令官として南京攻略戦が開始。12月13日に南京陥落。
昭和13年1月、近衛文麿首相の近衛声明「蔣介石を対手とせず」宣言で、中国寄りであった松井石根は考え方の相違もあり更迭され予備役とり、昭和13年3月に帰国。

昭和14年(1939年)12月に、地元の有力者が石碑を建立。
石碑の内容は、地元の英雄であった松井石根大将が南京入城後に作った漢詩。
「南京入城之感」

松井石根は昭和15年(1940年)2月、支那事変(日中戦争)における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた。

昭和21年5月、松井石根は、いわゆる南京事件の責任者として戦争犯罪人(BC級)逮捕。極東国際軍事裁判において起訴され巣鴨プリズンに収監。東京裁判において、11月12日に死刑判決。
昭和23年12月23日に死刑が執行された。享年70歳。

東京裁判と久保山火葬場(横浜)

松井石根の石碑は、この判決よりも前に、GHQに見つかることや戦犯と関わり合いになることを恐れた人々によって、中村公園近くの池に放り込まれたという。
その後、松井石根の石碑は引き上げられ、再び椿神明社に建立されたという。

南京入城之感
燦矣旭旗颺石城江南風色
忽澄清豼貅百萬軍容肅
仰見 皇威輝八綋
 陸軍大臣 松井石根

昭和十二年七月支那事変起也皇国直進膺懲之師
吾郷英傑陸軍大将松井石根閣下為上海方面軍最
高指揮官督戦於江南之地撃破頑敵不出九旬而陥
其首都南京此詩即将軍陣中之作讀者宜相傳唱以
仰皇軍威武乎不朽也昔豊太閤裂明之封冊也其意
欲席捲四百余州而不果焉今経三百有余年豊公之
霊有知同郷英傑偉績如此其感喜果如何必應含会
心之笑於泉下也矣
 昭和十四年十二月
    陸軍中将    大塚堅之助 撰
    陸軍軍医中将  石黒大介  書
        幼友  恒川増太郎 建立

大塚堅之助陸軍中将も石黒大介陸軍軍医中将も愛知県出身。恒川増太郎氏は、松井石根陸軍大将の幼友達で地主。恒川増太郎氏が音頭を取って建立したものと思われる。

「南京入城之感」の隣の碑も、松井石根の謹書であった。
一緒に、池の中に投げ込まれたものかどうかは不詳。

大津武五郎直行君頌徳碑
 陸軍大将 松井石根書

大津直行は、尾張藩士。明治維新後は、鳥取県権参事などを努めている。大正14年に84歳で没。

手水石は昭和10年。
狛犬は昭和14年。

昭和14年に郷土の英雄として讃えられていた松井石根大将。
南京陥落の英雄は、8年後には、いわゆる南京事件の責任者として死刑となり、建立された記念碑は、関わりたくないものとして、池の中に沈められてしまった。
戦後、松井石根大将の石碑はもとのように神社に戻ってきたが、昨今の政治的事情もあり、(偏った歴史感を持った方々による)神社自体に対する不貞な行為などもあり、その保護のために松井大将の石碑は、金網に囲まれてしまった。そうして貴重な石碑が、多くの人々にとっては「よくわからない石碑」になってしまったことが、申し訳なく。

場所

https://goo.gl/maps/rdjUFoaLJPqxyCzXA

※撮影は2022年6月

「陸軍野戦砲兵学校」四街道の陸軍戦跡散策

軍郷四街道。
軍郷としての四街道の繁栄は、佐倉藩が洋式砲術(高島秋帆流砲術)の演習を行っていた「下志津原」にはじまる。
下志津原に築かれた砲兵演習場(射場)を軸に、明治19年には、「陸軍砲兵射的学校」が創立している。


陸軍野戦砲兵学校(野砲兵校)

野戦砲兵監の管轄下で、野戦砲、高射砲の射撃・観測等の教育と、野戦砲、高射砲に関する諸学術、兵器、資材等の調査・研究を行った機関。
1886(明治19)年4月、下志津原(現在の千葉県佐倉市)に設立された陸軍砲兵射的学校を前身とする。
1896(明治29)年、陸軍野戦砲兵射撃学校に改称され、四街道(現在の千葉県四街道市)に移転した。
1922(大正11)年8月、陸軍野戦砲兵学校に改称。
甲種学生(大尉)に射撃・戦術、乙種学生(大・中尉)に射撃・高射砲術、観測通信学生(中・少尉)に観測通信術、馭法学生(中・少尉)に馬術・馭法術などの教育が行われた。研究部は、野戦砲兵・高射砲に関する調査研究・試験を行った。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R2769-109
1949年04月26日に米軍が撮影した航空写真を加工。

四街道界隈を拡大。

今回の散策エリア。


陸軍野戦重砲兵第四聯隊跡(愛國学園)

愛国学園大学(学校法人愛国学園)の正門は、当時の陸軍野戦重砲兵第四聯隊の正門を流用している。昭和14年に近衛師団に所属する陸軍野戦重砲兵第四聯隊が満洲に移転後は、野戦砲兵学校幹部候補生隊となっている。

史蹟
野戦重砲兵第四聯隊跡
吉永朴謹書

建碑之辞
 この地は旧陸軍近衛師団に所属する当聯隊が馬編成四年式十五糎榴弾砲部隊として武を練った所である。
 その期間は発祥の地・広島県呉要塞からここに居を移した。大正十一年から北満の牡丹江に移駐した昭和十四年までの十七年間である。
 渡満移駐後この地は野戦砲兵学校幹部候補生隊となり、聯隊はノモンハン事変に参加したあと、自動車編成九六式十五糎榴弾砲装備に改編されその面目を一新し、太平洋戦争勃発に伴い昭和十七年九月南太平洋戦線に展開された。
 かくして聯隊はガダルカナル及びブーゲンビル両島の作戦に参加し死闘を重ねつつその本領を発揮したが、終戦と共に事実上かの地において五十年にわたる歴史の幕を閉じた。
 この間あるいは満州の曠野に、あるいは南溟の密林に陣没した戦士は聯隊長以下千三百有余名の多きに達した。
 この小碑は当聯隊の生存者等が計画し、之に市と学校法人愛国学園が協賛し以て縁り深きこの地に史蹟として建立したものである。
 昭和三十八年三月
  四街道市史蹟保存会

謹書にある吉永朴(すなお)は、終戦時は陸軍少将。陸士31期、陸大38期。砲兵出身で野砲兵校にゆかりあり。

聯隊の歴史
(略

陸軍野戦重砲兵第四聯隊の正門跡

愛国学園大学(学校法人愛国学園)の正門として活用されている。

場所

https://goo.gl/maps/67QKbs1KYfv2FYuz7


将校集会所跡(四街道公民館)

四街道公民館の場所は、かつての将校集会所の跡地。

門が残っている。
正門のすぐ近く。

場所

https://goo.gl/maps/ToLxZSPCCccfyVpL8


松脂油採取跡と将校集会所の築堤(四街道公民館)

将校集会所のあった公民館の近くにある松の切り株。
戦時中に松脂油を採取した名残もあった。

「松のきずあと」
何かが書いてあるようだけど風化して判読不可能。。。

築堤も当時の名残と思われる。


陸軍野戦重砲兵第四聯隊の裏門跡

愛国学園大学と千葉敬愛高校の裏側。方向でいうと北西側にあたる。「コープみらいえ四街道」の近くの道路に裏門の門柱が残っている。

一本は、門柱として残っているが、もう一つは土台だけが残っている。

敷石も残っている。

位置がおかしい。

どうやら近年の道路拡張で、片側の土台だけが移動したようだ。敷石はそのままでの拡張という、心遣いがありがたい。
ストリートビューで2013年にはまだ移築していなかったが、2015年で移動されているのを確認できた。

場所

https://goo.gl/maps/nQdnyQmPXerEdLBEA


大土手山(別名・ルボン山) 

砲兵射朶の跡の石碑と、射朶(射的)の築堤の山が残っている。標高25.1mという。

大土手山
神社を頂いたこの丘は大土手山と呼ばれている。
麓には昭和四十年に四街道町史蹟保存会と陸軍野戦砲兵学校遺跡保存会有志一同によって建てられた「砲兵射垜の跡」の碑があり碑裏には次のように刻まれている。

 「この地は佐倉藩士大筑尚志が藩の砲術練習所として築いたものを明治六年(一八七三)教師として招聘されたフランスのルボン砲兵大尉が増築し初めて砲術を伝習した射垜の一角である射的場は南北三千米幅三百米であった。 
 明治十九年その北端に陸軍砲兵射的学校が創立されたが同三十年四街道に移転してより射場は急速に拡張され射場はルボン台または大土手山と呼ばれた。
 大正七年(一九一八)五月皇太子が台上で射撃をご覧になった。
 下志津原演習場は砲兵学校とともに拡大し四街道の発展に寄与したが射垜は実にその始祖である。
 由来ある遺蹟の消滅せんことを惜しみ碑を建ててその由来を記すものである。
   昭和四十年(一九六五)四月二日 
    四街道町史蹟保存会 
    陸軍野戦砲兵学校遺跡保存有志一同」
  昭和五十一年十一月 
  四街道市

砲兵射垜の跡
陸軍野戦砲兵学校長 室兼次書

室兼次は、昭和2年(1927年)7月26日から昭和5年(1930年)7月30日までの陸軍野戦砲兵学校長であった。
最終階級は陸軍中将。陸軍野戦砲兵学校長の次は昭和5年8月からは第20師団長。昭和7年に予備役編入。昭和41年に89歳で没している。
「砲兵射垜の跡碑」は昭和40年建立のため、亡くなる1年前の揮毫であった。

登ってみた。
「神社を頂いたこの丘は大土手山と呼ばれている。」と記載があったが、神社は無くなっているようだ。
見晴らしが良いですね。

陸軍野戦砲兵学校があった方向。

北側は、射場があった。

場所

https://goo.gl/maps/SY6Ux69pRrkxFPrS9


陸軍野戦砲兵学校跡

大土手山 (ルボン山)の南に、陸軍野戦砲兵学校があった。
現在の四街道市役所の北側の街道沿いに記念碑が建立されている。

陸軍野戦砲兵学校跡
東久邇盛厚書

東久邇盛厚は東久邇宮稔彦王第1王子。大日本帝国陸軍での階級は陸軍少佐。陸軍では砲兵に縁があり、(昭和12年)6月陸軍士官学校を卒業、同年8月陸軍砲兵少尉に補任され、野戦重砲第1連隊附の陸軍将校となる。
昭和15年には、陸軍砲兵中尉として陸軍野戦砲兵学校附ともなっている。
終戦後は皇籍を離脱。昭和44年に52歳で没している。

砲兵学校跡
 明治十九年四月下志津原に創立された陸軍砲兵射的学校は明治三十年に陸軍射撃学校と改称され四街道に移転しました
学校の移転に伴ないそれまでは閑散としていた四街道駅(移転の三年前に建設)周辺は次々と整備され、東京に至便な演習場という利点と、明治中期から終戦までの時代の要求は多くの軍事施設の設置を見、四街道は軍都としての歴史を歩んできた。
終戦を機とし四街道はその景観と機能を一変し新しい四街道へと脱皮、砲兵射撃学校跡も現在は市民の憩いの公園、小学校となり文化都市の一翼をになっている。
 四街道市

 明治十九年(一八八六)四月二日下志津原の北端に創立した陸軍砲兵射的学校は鉄道の開通に伴い同三十年春野山砲から成る教導大隊を持つ陸軍野戦砲兵射撃学校としてこの地に移転し砲兵の戦術及び射撃術の研究教育にあたった。
 大正十一年(一九二二)陸軍野戦砲兵学校と改称し野戦重砲兵を含む教導聯隊に拡張し高射砲練習
隊を新設して初めて一部を機械化した。
 昭和八年(一九三三)以降下士官候補者隊・情報隊・観測隊幹部候補者隊を相次いで新設し大東亜戦争に入り少年兵の生徒隊ロケットを含む迫撃砲隊・ 自走砲隊などを新設した。
 この間明治三十三年六月と同四十五年五月とに天皇の行幸を仰ぎ、同四十四年五月と大正七年五月とに 皇太子の行啓をお迎えした。
 惟うに学校は創立以来六十年まさに日本砲兵最高の指導的殿堂として大いに国運の興隆に貢献した。
 しかも四街道はその昔人家まれな寒村であった頃から学校と緊密な協力をして今日の繁栄の基礎を築いた。
 この壇は学校創立五十年記念として築いたもので終戦にあたり全校将兵はここで 御真影と勅諭とを奉焼し日本の再建を誓い合った由緒ある遺跡の消滅せんことを惜しみ碑を建ててその由来を記するものである。
 昭和四十年(一九六五)四月二日  
  四街道町史蹟保存会 
  陸軍野戦砲兵学校遺跡保存有志 一同

昭和62年8月15日
観測隊之碑
観測隊有志建之

御歌
 北白川房子
志もしつの原に栄えて
 御国守る
わさにはけみし其日しのはむ
わかつまもわか子もともにはけみけむ
御代の光りを永久に仰かむ

生徒隊之碑

(生徒隊之碑裏面)
少年砲兵生存者一同
平成14年10月吉日建之

15センチ榴弾砲砲弾
10センチ加農砲砲弾
7.5センチ野山砲砲弾

場所

https://goo.gl/maps/h3vsHYafK9mGf85N7

隣は、四街道市役所。


軍馬の碑(栗山半台児童公園)

陸軍野戦砲兵学校のエリアから北東に離れた場所に、下志津陸軍墓地(下志津陸軍埋葬地)がある。
現在は、栗山半台児童公園と栗山半台区集会所が併設されている。

軍馬の碑

軍馬の慰霊顕彰碑。

軍馬之碑

 昭和10年3月建之
  陸軍野戦砲兵学校
  野戦重砲第4聯隊
  下志津憲兵分遣隊

同じ空間に、観世音菩薩と馬頭観音もある。

場所

https://goo.gl/maps/pJMkZYasppa6nBd47


下志津陸軍墓地(栗山半台児童公園)

下志津陸軍墓地(下志津陸軍埋葬地)は、明治30年代に栗山地区の有力者が、土地を陸軍に寄付したことにはじまる。

引き取り手が無いまま眠る八の遺体
 墓地全体は、明治二十年代に栗山地区の当時の有力者が土地を陸軍に寄付し、下志津陸軍埋葬地としたものです。
 ここには、いまだに引き取り手が無いまま眠っている兵士の墓があります。土葬で埋葬された士官や兵士たちの遺体は総計で十三名です。戦後になって、墓は栗山地区半台の方々の厚意で管理され、供養も続けられています。
 遺族による遺骨の引き取りは。戦前一名、戦後に四名の計五名で、若い身空を他国で不運にも果てた八名の人々が、今なお無縁仏として眠っています。
 戦後、栗山半台地区の方々の厚意で、本籍地の市町村役場へ照会しても遂にわからずじまいでした。

軍人墓地に眠る人々
諫早 消輝   砲兵中尉   山口県阿武郡萩町 .
宮地 徳太郎  砲兵二等卒  栃木県宇都宮市  .
藤原 喜助   砲兵一等卒  宮崎県西臼杵郡七折村
福田 荒吉   砲兵一等卒  宮崎県東臼杵郡南郷村
原  愛正   砲兵二等卒  山梨県北巨摩郡熱見村
小沢 兼吉   砲兵二等卒  東京都西多摩郡調布村
金丸 茂之   砲兵二等卒  山梨県中巨摩郡南湖村
加藤 真一   砲兵上等兵  山口県佐波郡牟礼村

合掌

場所

https://goo.gl/maps/HTqmVNX4J9tnhzMU8


下志津陸軍墓地の陸軍境界標

下志津陸軍墓地(下志津陸軍埋葬地)のあった四隅に境界標石が残っていた。当時の敷地の東西南北四辺に対して境界標石がきちんと残っているというのが、嬉しい。

南の境界標石

陸軍用地

北の境界標石

南の境界標石
ちょっと摩耗が激しいですが、きっと陸軍用地って書いてある。

陸軍用地

北の境界標石

陸軍用地

場所

https://goo.gl/maps/HTqmVNX4J9tnhzMU8


四街道町護國神社・野砲兵校神社「千代田宮」社殿流用?
(津之森児童遊園)

愛国学園と給水塔の近くにある児童公園。

四街道の護国神社は、四街道駅北側にある八百稲荷神社の境内にあった招魂社を戦後現在地に移したものという。

手前の鳥居は、昭和49年に四街道町遺族会が建立。

四街道町護国神社
 千葉縣護國神社宮司

拝する。

御社殿は、旧陸軍野戦砲兵学校内にあった「千代田宮」の社が流用されているという。

もしかしたら、狛犬や手水石も陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の流用かも知れないが、未確認。

2つ目の鳥居は、戦前の建立。
1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端にはじまった支那事変の1周年記念とのことなので、1938年の建立。
これも、陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の流用だろうか。

支那事変一週年記念

しかし、陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の流用とするならば、この鳥居は陸軍野戦砲兵学校と下志津陸軍飛行学校の連名となっていることから、もしかしたら「千代田宮」は、両校の共同祭祀だったのもしれない。思いつきなので、根拠はないです。

陸軍野戦砲兵学校
下志津陸軍飛行学校

ジャンルは違うが同じ陸軍の学校が連名して奉納した鳥居、良いですね。
飛行学校の観測射撃と、砲兵の観測射撃の共同訓練も行っていた、という話もありますので。

慰霊碑が4基、林立している。

明治丗七八年日露役忠魂碑
 西南戦役戦没者・北清事変戦没者・戦病死者
 明治丗九年7月建設
 建碑・発起出征軍人
徳頌
 昭和12年以降の旭村戦争犠牲者
 昭和25年9月旭村招魂碑石保存会建之
忠魂
 支那事変以降戦没者
 昭和28年11月千代田町建之
忠魂碑
 陸軍大将男爵田中義一書
 昭和3年11月千代田村分会建

場所

https://goo.gl/maps/drMJcQ5QXKaoQdrW6


千代田宮・野砲兵校神社跡(四街道中央公園)

陸軍野戦砲兵学校に祀られていた校内神社「千代田宮」。
ご祭神
 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
 天之常立神(あめのとこたちのかみ)
 明治天皇
千代田宮の御祭神は、1947(昭和22)年、桜ヶ丘地区に入植した開拓者有志によって創建された「櫻ヶ丘神社」に奉遷されている。
そして、陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の御社殿は、前述の四街道護国神社に流用されたという。

野砲兵校内神社「千代田宮」の跡地は、中央公園として整備され、公園内に唯一残された「奉納」の石柱が当時を物語っている。

奉納

裏面は削られていて判読不可であった。

場所

https://goo.gl/maps/yRqakqtigzuXVUmw6


下志津陸軍病院(国立病院機構下志津病院)

国立病院機構下志津病院は、ご多分に漏れずかつての陸軍病院。

明治30年4月に下志津衛戌病院として発足、その後、終戦までは下志津陸軍病院であった。

場所

https://goo.gl/maps/FZzhfTSKcr2KSVvQ7


四街道駅

1894年(明治27年)12月9日、総武鉄道(初代)の四ツ街道駅(よつかいどうえき)として開業。
1907年(明治40年)9月1日、総武鉄道買収により、帝国鉄道庁の駅となり、11月1日に四街道駅に改称。


下志津陸軍飛行学校(下志津駐屯地)

ちょっと足を伸ばしてみました。
行政的には、四街道市ではなく、千葉県‎千葉市‎若葉区。

下志津陸軍飛行学校では、射撃観測などで、砲兵との連動訓練などを実施することもあり、野砲兵校が近くにあることは多くのメリットがあったという。

下志津陸軍飛行学校
主に空中偵察に関する各種の教育と研究を行った陸軍の学校。
1921年(大正10年)4月、陸軍航空学校下志津分校として開設。
1924年(大正13年)5月、下志津陸軍飛行学校として独立。
下志津陸軍飛行学校は本校以外に、銚子八街、広島県広島市に分教場、分教所があった。

下志津陸軍飛行学校の門柱と歩哨舎

平成23年に正門改修工事が行われている門柱(手前)。
これは、下志津陸軍飛行学校の「歩哨舎」であった。
外観を生かして、内部空間を塞いで門柱としたようだ。

下志津駐屯地

当時の正門は以下。

陸上自衛隊下志津駐屯地より抜粋。

https://www.mod.go.jp/gsdf/aasch/aaspr-hp/history/slide1/slide1.html

https://www.mod.go.jp/gsdf/aasch/aaspr-hp/history.html

「高射学校」も併設されている。

高射学校

場所

https://goo.gl/maps/3NpbXXeyXaVWVcBM6

まだ四街道には、いくつかの戦跡のネタがありますが、本記事はいったん以上で締めます。
実は2022年5月に散策したのちに記事を書くために調査をしていたらいくつかのポイントを見逃していたことが発覚したために5月にも再訪しております。まだ地味ですが見たいところがあるので、また行くことにはなりそうですが。。。


下志津駐屯地はこちらにて


関連

銚子の戦跡散策