「陸軍」カテゴリーアーカイブ

「陸軍重砲兵学校」跡地散策・その2(横須賀)

馬掘小学校・中学校の東の坂道を進む。馬掘自然教育園へ向かう。往時から残る道。

本記事はその2となります。その1はこちらから。


境界塀

馬掘中学校に残る不自然な境界塀。往時からの塀かもしれないし、関係ない塀かもしれない。参考まで。

馬掘中学校。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-122
昭和21年(1946年)2月15日、米軍撮影の航空写真。

一部拡大の上、加工。
当時は、重砲兵学校のすぐ先が海岸線であったた。現在は海岸線が埋め立てられていることが分かる。


馬堀自然教育園

馬堀自然教育園
 昭和34年、市の博物館付属施設として開園しました。戦前は旧陸軍重砲兵学校の弾薬庫などがあった場所で面積は38600平方メートルあります。
 園内はタブノキ、スダジイ、オオシマザクラなどが茂る自然林で約250種の植物が生育し様々な鳥類がやってきます。池や水路ではホタルやトンボ、メダカなど水生生物が保護・育成され、学習棟には園内の地質・動植物を紹介した展示室があります。
 園内には旧陸軍の弾丸庫や火薬庫、御稜威神社の鳥居や記念碑が現在も残されており近代化遺産としても貴重な所です。
 この緑地は小原台台地から観音崎公園につながる自然観察ルートになっています。
  大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ

横須賀市自然博物館付属
馬掘自然教育園

横須賀市自然・人文博物館付属
馬掘自然教育園

駐車場はないのでご注意を。

歴史遺産の宝庫!馬掘自然教育園
園内にある旧陸軍重砲兵学校の遺構


陸軍重砲兵学校

明治22年(1989)。要塞砲兵幹部練習所が市川市の国府台に創設。
明治29年(1896)に、陸軍要塞砲兵射撃学校と改称。翌年明治30年に横須賀馬堀の新校舎に移転。明治41年(1908)に陸軍重砲兵射撃学校と改称し、大正11年(1922)に、陸軍重砲兵学校と改称した。


馬掘自然教育園に残る陸軍重砲兵学校跡地散策

散策を。

コンクリート擁壁

火薬庫1

火薬庫は2棟残っている。それぞれ形状は異なる。

水路の遺構?

上の池。これは旧軍とは関係ないのかもしれないが。

火薬庫2

ふたつめの火薬庫。

火薬庫の後ろには巨大な壁がある。

防爆壁

火薬庫が万が一に爆発した際に被害を防ぐ爆風防護壁。

水路

水源地施設

水源地。今も水が湧いている。

寄り添う大木

ムクノキとシラカシ。馬掘自然教育園に残る大木。

古井戸

正方形の枠が設けられた井戸。

御稜威神社跡

陸軍重砲兵学校内神社として設けられた御稜威神社。
創建は昭和14年(1939)という。

御稜威神社跡。台座。

「稜威神社之記」記念碑

稜威神社之記 
陸軍重砲兵學校創立セラレテヨリ茲ニ五十年稜威ノ下幾多先輩ノ赤誠ニ依リ今日ノ隆昌ヲ見タリ我等亦愈之カ發展ヲ希ヒ先輩有志ノ協力ヲ得校内ニ聖域ヲ卜シテ神殿ヲ造營シ伊勢大神宮明治神宮及香取鹿島兩宮ヲ奉祀シテ禮拜ノ儀典ヲ継承シ絶エス神前ニ忠誠ヲ誓ヒ益ゝ盡忠報國ノ志ヲ鞏ウセンコトヲ期ス 
 昭和十四年三月二十七日

(裏面)
准士官下士官兵 判任文官雇庸傭人

狛犬台座跡?

参道跡

御稜威神社鳥居

御稜威神社社号標

(表)
御稜威神社
(裏)
陸軍重砲兵学校長 太田勝海

石段の一部が欠けていた。

防空壕跡

防空壕を塞いだであろう箇所がいくつかあった。

園内を1時間ぐらい散策。
陸軍火薬庫であったがゆえに、立ち入りが制限され、それゆえに、戦後は自然教育園として活用されてきた空間。自然教育とあわせて歴史教育もできるという貴重な場所。敷地内はアップダウンもあり、足元は湿り気もあるため、しっかりとした靴での散策を推奨。

場所

https://goo.gl/maps/TQKy7qBbsp8ELvQS8

公式

https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/exinfo/mabori-map/educationgarden

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8161/sisetu/fc00000383.html

※撮影:2022年5月


関連

「陸軍重砲兵学校」跡地散策・その1(横須賀)

横須賀の防衛大学校の手前、馬掘小中学校や馬掘自然教育園のあるエリアは、かつて陸軍の重砲兵学校があった場所。昭和40年代に海岸線を埋め立てる前は、この地が海岸線の南西端でもあった。
そんな馬掘の陸軍重砲兵学校関連戦跡を散策してみる。

その2(馬掘自然教育園)はこちらから。


陸軍重砲兵学校

明治22年(1989)。要塞砲兵幹部練習所が市川市の国府台に創設。
明治29年(1896)に、陸軍要塞砲兵射撃学校と改称。翌年明治30年に横須賀馬堀の新校舎に移転。明治41年(1908)に陸軍重砲兵射撃学校と改称し、大正11年(1922)に、陸軍重砲兵学校と改称した。

陸軍重砲兵学校跡
 現在の馬堀小・中学校は戦前に旧陸軍重砲兵学校が置かれていた所です。
 明治8年(1875)浦賀に海軍の兵士を育てる屯営が置かれ、その後、要塞砲兵幹部練習所・要塞射撃学校と変遷しました。大津練兵場に一時移転しましたが、明治30年(1897)馬掘の地に重砲兵学校を設置しました。
 この学校は砲術の訓練と発達に寄与し、養成した将兵は3万人を超えました。終戦後の一時期、浦賀が陸軍の復員手続きや馬堀援護所として使用されました。
 現在も校庭西側の丘に「重砲兵発祥の地」の碑があります。
 大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ

現在の馬掘小学校の入り口に、跡地の案内板が立っている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-122
昭和21年(1946年)2月15日、米軍撮影の航空写真。

一部拡大の上、加工。
当時は、重砲兵学校のすぐ先が海岸線であったた。現在は海岸線が埋め立てられていることが分かる。


重砲兵発祥地の碑

馬掘小学校の校庭西側の丘のうえに、重砲兵発祥の地の記念碑がある。
小学校の校庭内になるためにご注意下さい。私は校庭開放日に見学をさせていただきました。

この地は、重砲兵学校将校集会所前庭であったという。

重砲兵発祥地 
永持源次謹書

永持源次の最終階級は陸軍中将。
陸士15期、砲兵畑をすすみ、陸軍要塞砲兵射撃学校教官、陸軍重砲兵射撃学校教官、陸軍野戦砲兵学校教官、横須賀重砲兵連隊長、造兵廠大阪工廠長、砲工学校長、造兵廠長官などを歴任した。
昭和13年(1938年)、予備役。除隊後は、日本製鐵常務や日本特殊鋼社長、全国軍人恩給連合会長を務め昭和53年に94歳で没している。

(裏面)
当処は明治二十二年創立せる陸軍重砲兵学校の旧址なり本校は重砲兵の進歩発展に貢献し昭和二十年迄に三万の将兵を練成す正に重砲兵発祥の地と謂うへし 然るに往時の施設は逐年改廃せられ近くその姿を没せんとす全国同憂の士深く之を惜しみ由緒ある遺跡を永く顕彰する為明治百年に方り此の碑を建つ
昭和四十三年十一月 重砲校遺跡顕彰会

本記念碑本体は富士の溶岩塊により築かれていたが、この度の修復に当たり保全上堅固な伊達冠石に交換した。
 平成十九年八月
 重砲会碑修復事業協力者一同


行幸之地碑

重砲兵発祥地記念碑の隣には、行幸の記念碑がある。
昭和天皇は、この地に2回、行幸されている。

行幸之地

昭和天皇当地行幸記録
昭和三年五月二十四日 陸軍重砲兵学校時代
昭和二十一年二月二十日 浦賀引揚援護局時代
右の碑は浦賀引揚援護局が建立したものを、平成十九年八月重砲会が修復しこの記録を刻した。
重砲会碑修復事業協力者一同

場所

https://goo.gl/maps/oyKDGk9pW4oXMtn69

※撮影:2022年5月


関連

「横須賀重砲聯隊」跡地散策

横須賀には「陸軍重砲兵学校」があった。そして横須賀には「要塞」があった。横須賀に残る重砲聯隊の名残を散策してみる。
汐入駅からの衣笠駅を結んでいるバスで、坂本坂上バス停下車。


横須賀重砲聯隊

明治24年(1891年)11月に、要塞砲兵第一聯隊が、横須賀に創設されたことに始まる。
明治27年、日清戦争に参戦。
明治29年、東京湾要塞砲兵聯隊と改称。
明治37年、日露戦争に参戦し旅順二〇三高地攻略戦で活躍。
明治40年、重砲兵第一聯隊第二聯隊に改編。
大正9年12月に、「横須賀重砲兵聯隊」と改称。
以来、終戦まで東京湾要塞重砲兵聯隊として首都を防衛。
横須賀重砲兵連隊は第1師団に所属し、有事の際は東京湾要塞司令部の指揮下にあった。


横須賀重砲兵連隊営門

横須賀重砲兵連隊の正門。
明治40年(1907)10月26日に竣工。連なって残る約16mの塀は、明治24年(1891)に出来上がったものと推定。
門柱は58cm角で、高さは3.24m、塀の高さは1.8m。
横須賀に残る数少ない明治建造物で、現在は桜小学校、坂本中学校の門として使用されている。

横須賀市指定市民文化資産
旧横須賀重砲兵連隊営門
連隊の正門で、明治40年10月に竣工した。これに連なる塀は、明治24年に完成したものと推定される。本市に残る数少ない明治建造物である。

公式

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004017.html

場所

https://goo.gl/maps/64ukQw8YBMzfWuJAA


横須賀重砲兵聯隊跡記念碑

桜小学校の校庭南側の鎮座。道路を挟んだ反対側は坂本公園。道路側からも記念碑を伺うことは可能。

現在は、桜小学校の校庭南側に2つの記念碑が並んで建立されている。
小学校の校庭内になるためにご注意下さい。私は校庭開放日に見学をさせていただきました。

横須賀重砲兵聯隊跡記念碑
誠心山之碑
ふたつの碑がある。

記念碑
横須賀重砲兵聯隊跡

嗚呼横重
鎌倉山の星月夜
衣笠城址の蝉時雨
山河に残る英雄の
感化は如何で浅からん
桜花の春の競技会
紅葉の秋の裾野原

一 明治二十四年十一月要塞砲兵第一聯隊当地に創設
一 明治二十七年日清戦争に参戦
一 明治二十九年五月東京湾要塞砲兵聯隊と改稱
一 明治三十七年日露戦争に参戦二十八榴を以て旅順二〇三高地攻略戦に偉勲を樹つ
一 明治四十年十月重砲兵第一第二聯隊に改編
一 大正三年一部を以て日独戦争に参戦
一 大正八年十二月芸豫重砲兵大隊当隊に編入
一 大正九年九月深山重砲兵連隊より第三大隊転入 同年十二月横須賀重砲兵聯隊と改稱
一 昭和十三年第三大隊満州国阿城に転営
一 自昭和十二年至昭和二十年支那事変及大東亜戦争に於て各種野戦部隊を編成派遣し且つ東京湾
   要塞重砲兵聯隊を編成し首都を防衛す
一 昭和二十年八月十五日終戦
  
昭和四十六年四月
 横須賀重砲兵聯隊遺跡保存会建之
  施工 田中石材工業

誠心山之碑

陸軍重砲兵聯隊の敷地内にあった人口の丘「誠心山」があった。大正14年12月に、「誠心山」由来を刻んだ碑が建立された。

誠心山之碑の扁額は上原勇作の揮毫。

誠心山之碑

横須賀市立桜小学校

※撮影:2022年8月


関連

【解体済】鉄道第一聯隊炊事棟跡(千葉市中央区椿森)

千葉県千葉市中央区椿森。鉄道第一聯隊がこの地に展開されていた。

以下は解体前の記録です


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

鉄道第一聯隊は、度重なる空襲で壊滅していた。
そんな中で「炊事棟」が残っているのがわかる。


千葉空襲

1.空襲等の概況
 千葉市は、明治末期から太平洋戦争中にかけて、千葉聯隊区司令部、千葉陸軍病院、 鉄道第一聯隊、千葉陸軍兵器補給廠、気球聯隊、陸軍歩兵学校、千葉陸軍戦車学校、千葉陸軍高射学校、陸軍市下志津飛行学校などの軍事施設が設置され、蘇我地先の埋立地(現川崎製鉄千葉製鉄所付近)には、軍需工場の日立航空機千葉工場が設置され、「軍郷千葉市」と呼ばれていた。
 太平洋戦争中、千葉市への空襲は数度あったが、米軍が千葉市を目標にした空襲は、昭和20(1945)年6月10日と7月7日(七夕空襲)の2回であった。この空襲で中心市街地の約7割(約231ha)が焼け野原となりました。この2度にわたる空襲により死傷者は1,595人、被災戸数8,904戸、被災者4万1,212人に及んだ。(千葉戦災復興誌より)
(参考:昭和20(1945)年12月末の人口は、9万5,903人)

千葉市における戦災の状況(千葉県)https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_07.html

昭和20(1945)年7月7日の七夕空襲で、鉄道第一聯隊(椿森)、気球聯隊、歩兵学校(作草部町)、千葉陸軍高射学校(小仲台)などが被災している。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_07.html


陸軍鉄道第一聯隊炊事棟跡

昭和20(1945)年7月7日の七夕空襲で、鉄道第一聯隊が被災した中で、焼け残った炊事棟。一階部分が煉瓦であることがわかる。戦後に建屋を譲り受けた民間業者が二階部分を増設し寮として活用されているという。

イギリス積み。

表側からは、煉瓦の雰囲気が全く残っていない。

椿森ハイム。横壁に煉瓦が残っている。

建築計画のお知らせ、がありました。
解体されて、新しくマンションが立つようです。
工事着工は2023年予定。。。

見学はお早めに。。。

場所

https://goo.gl/maps/cLPxmUmg8XnkXL1x6

撮影:2022年8月


解体後

2023年8月、近隣を散策。解体を確認しました。


関連

貴重な明治期の煉瓦建築「鉄道聯隊材料廠」(千葉経済大学)

千葉県内に残る鉄道連隊の戦跡。千葉や習志野、津田沼界隈に多く残っている。
当サイト内でもいくつか掲載をしてきていた。

内部公開の記事は下記にて

今回は、千葉経済大学の構内に残る、貴重な煉瓦建造物を見学(外観のみ)。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

市内に点在している案内看板より。

上記の米軍航空写真から該当部分を拡大。


鉄道聯隊関連の記事

千葉の鉄道聯隊(鉄道聯隊作業場など)

習志野の鉄道聯隊

新京成電鉄沿線の鉄道聯隊

鉄道聯隊の蒸気機関車


鉄道聯隊材料廠煉瓦建築

千葉経済大学。北側の駐車場側から、建物の全貌がよく観察できる。

千葉県指定有形文化財
 旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
 この煉瓦建築は、明治41年、鉄道聯隊材料廠の機関車の修理工場として建築されたもので、その後昭和20年旧日本国有鉄道が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用、昭和60年から千葉経済学園の所有となったものである。
 千葉県内に数少い明治年間創建の大規模な煉瓦建築の一つであり、特に内部の東西方向に二列に連なった十連の雄大なアーチ構造は、全国的にも他に比類がなく、この建物の主な特色となっている。
 従って、我が国明治期の煉瓦建造構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。
 右の理由により、千葉県指定有形文化財として指定をうけたものである。
  一、指定年月日 平成元年3月10日
  一、構造 煉瓦造アーチ構造、木造小屋組
  一、面積 695.6平方メートル
     千葉経済学園

千葉県指定有形文化財
旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
  所在地 千葉県稲毛区轟町3-59-6
  所在者 学校法人 千葉経済学園
  指定日 1989(平成元)年3月10日
 この建物は1908(明治41)年、旧鉄道連隊の材料廠※として建築された。大正時代には旧陸軍の兵器庫としても利用されていたが、戦後は大蔵省、国鉄と引き継がれ、1985年(昭和60)年に千葉経済学園の所有となり現在に至る。
 主要部分は、54.4m×7.3mと細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積と呼ばれる技法を用いている。
 県内では数少ない明治時代の大規模な煉瓦建築であり、10連の雄大なアーチ構造は、全国的にも類例がない。我が国の近代建築史における初期煉瓦建築の構造を知る上で、極めて重要かつ貴重な建築である。
 ※廠:壁の仕切りがない、広い建物のこと。向上、倉庫。 

案内板から、内部写真を拡大。

西側。

上部の左側にヒビが確認できる。

建物の南側。
軌道が確認できる。

建物の東側。

ガラスから建屋を除いてみた。

素晴らしい煉瓦建築。
関東大震災を耐えた明治期の煉瓦建築は、極めて貴重なものではあるが、2011年の東日本大震災以降は、危険のために内部立入禁止となっている。

場所

https://goo.gl/maps/r6PaD71pAyPvxUh98

※撮影:2022年6月


参考

https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p111-042.html

https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/kyutetsudorentai.html


関連

千葉陸軍病院跡と陸軍歩兵学校跡

千葉市内の戦跡。

点在する戦跡の中から、学校と病院を掲載。以前の散策で見逃していた戦跡をフォローする。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

市内に点在している案内板より。

椿森の周辺。


千葉市内の関連する戦跡など


千葉陸軍病院

現在の「独立行政法人国立病院機構千葉医療センター」。当時の門柱が正門に残されている。もともとは南通用門の門柱であったが移設保存。正門の門柱ではない。

1908年(明治41年)、千葉衛戍病院として開院。
1936年(昭和11年)、千葉陸軍病院となる。

千葉市に残る戦跡
千葉陸軍病院跡
 明治41年(1908年)6月の交通兵旅団と鉄道聯隊第二大隊の椿森移転以来、本市には、陸軍歩兵学校、気球聯隊など多くの陸軍施設が中央区(椿森、弁天)や稲毛区(作草部、天台、穴川、小仲台、園生)の台地に集積し、その総面積は約462ヘクタール(約140万坪)に及びました。
 ここ椿森の地には、傷病兵の治療にあたるため、同年に千葉衛戍病院(昭和11年(1936年)、千葉陸軍病院に改称)が設立され、隣接する鉄道聯隊(大正7年(1918年)、鉄道第一聯隊に改組)のほか、気球聯隊、歩兵学校、戦車学校などの将兵に対する医療の中心的な役割を果たしていました。
 昭和20年(1945年)7月の千葉空襲(右下解説)により鉄道第一聯隊をはじめとする多くの陸軍施設が焼失しましたが、千葉陸軍病院は被災を免れ、空襲で負傷した将兵や市民を受け入れました。
 終戦後、同年12月に千葉陸軍病院は厚生省(現厚生労働省)の管轄となり、国立千葉病院として発足、その後、更なる名称変更、建て替えを経て、現在の独立行政法人国立病院機構千葉医療センターとなりました。この正面入口には当時の門柱※が現存しており、この地がかつて陸軍病院であった面影を残しています。
※門柱は、千葉陸軍病院の南通用門(現在の椿森中学校側出口付近)として設置されていましたが、平成22年(2010年)の建て替え時に現在の正面入口に移設されました。

国立病院機構千葉医療センターの正門。
道幅が広すぎて、門柱が心もとない。

場所

https://goo.gl/maps/QXeta5xPdMHonvmk8


陸軍歩兵学校(歩兵学校)

場所的には、鉄道聯隊材料廠煉瓦建物の近く。天台駅最寄りの作草部公園に往時をしのぶ記念碑がある。

陸軍歩兵学校は、1912年(大正元年)9月に、陸軍戸山学校内に創設されたことに始まる。

大正元年11月に作草部の現在地に移転。
歩兵戦闘法の研究・普及などを行っていた陸軍教育機関。

平和之礎

陸軍歩兵学校之跡

由来
 陸軍歩兵学校は大正元年この地に創設され以来30有余年歩兵の実施学校としてもっぱら歩兵戦闘法の研究とその普及に任し 軍練成上をきわめて重要な使命を遂した
 この間数次の事変戦争において収めたるかくかくたる成果は本校の努力に負うところまことに多大であり又一面本校の存在が所在地軍都千葉市発展の一要因となったのである
 不幸にして大東亜戦争の末期空襲を受け諸施設は灰に帰し 終戦により昭和20年8月本校は閉鎖されその上戦後の市街復興に伴いその跡は様相一変し ほとんど往年の面影をとどめないようになった
 われら本校ゆかりの者は深く現況を嘆きこの地に旧軍練成の中枢的機関が存在した事実を後世に伝えるとともに 先人の功績をたたえ あわせて建軍の目的が日本国の興隆と世界平和維持にほかならなかったことを広く国民に理解されんことを願い財を集めてここに記念碑を建てたものである

昭和39年11月吉日
陸軍歩兵学校由縁者建之
題字 矢野機 書

揮毫の矢野機は、最終階級は陸軍中将。陸士18期。陸大25期。昭和19年(1944年)10月に陸軍歩兵学校長に就任し終戦を迎えている。

作草部公園

場所

https://goo.gl/maps/QsUrQdREXRWLtnjR9

※撮影:2022年6月


真田山の騎兵第四聯隊(大阪)

大阪城の南に築かれた出城、真田丸。
その真田丸のあったエリアに展開されていたのが、騎兵第四聯隊であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

真田山陸軍墓地と騎兵第四聯隊。
もっとも実際には騎兵第四聯隊は、昭和7年に真田山から堺に転営し、昭和14年に真田山公園となっているので、航空写真も「真田山公園」。


騎兵第四聯隊

大坂第四師団所属の騎兵第四聯隊。
明治22年に創立。戦歴としての最初の出動は日清戦争。ついで日露戦争に参戦。日露戦争では第2軍に属し、遼陽会戦・沙河戦に参戦。明治38年3月10日奉天入城。
昭和7年に手狭となったために聯隊兵舎は堺(金岡)に移転。

その後、騎兵第四聯隊跡地は大阪市に払い下げ、昭和14年(1939)に全域が真田山公園として整備。
騎兵第四聯隊は、昭和17年にフィリピンから内地に帰還し解隊、軍旗は奉還された。
昭和18年に再動員、捜索第四聯隊となる。昭和20年にタイ国で終戦を迎えている。


騎兵第四聯隊忠魂碑

もともとあった2つの下段「真田山兵舎史跡碑(騎兵営址碑」に、戦後増設で、最上段に「忠魂碑」が建立されている。

忠魂

騎馬のレリーフ

騎兵營址
陸軍大将鈴木荘六書

昭和8年11月
 騎兵将卒建之

騎兵第4聯隊歌
1.東に生駒の山高く
  西にはチヌの海眺め
  軍馬のいななき勇ましく
  集う八州の健児なり
  その名も高き桃山に
  聞かずや高くうたわるる
  錦城騎兵四聯隊
2.春は花咲く吉野山
  若草もゆる信太森
  吹く朝風に勇ましく
  栗毛の駒にまたがりて
  槙尾の山の桜花
  駒の蹄の音高く
  わが駒勇め今しばし
3.青葉若葉の風薫る
  はつ夏の頃早やすぎて
  炎熱もゆる八月の
  波風高き高師浜
  水馬演習も勇ましく
  武門の名誉偲びつつ
  怒涛に駒を乗り入れる
4.秋風立ちて中つ頃
  播州加古川上流の
  青野ヶ原の原頭に
  四百の騎兵勇ましく
  襲え襲えの号令に
  戦場の華とうたわるる
  あゝ爽快の襲撃ぞ
  あゝ爽快の襲撃ぞ

騎兵第4聯隊之歴史

騎兵第4連隊は、もとこの真田山公園の全域にあった。
明治22年(1889年)2個中隊の大隊編成として始めて大阪に新設され、兵員250、馬匹200程度で、大隊長は大高坂正元少佐である。
明治29年日清戦役の直後同年11月19日、軍旗を拝受し爾来昭和7年まで此の地にあり、軍旗を拝受すると共に、騎兵第4連隊と改編、茲に、日本帝国の、陸軍の華として発足した。
当時は国民皆兵制のため、徴兵令に従い、男子21才に達すると全国一斉に徴兵検査が施行せられ、身体、精神の厳密な検査をうけ、少しの故障、又は欠陥ある者は不合格となり、徴兵司令官より甲種合格の証書を自ら渡された時は、軍人の資格を得たことに、男子の本懐として強く感激したものである。
古来日本民族には 武勇を尊び、正義を愛し、その貫徹には死をも恐れぬ気概があり、入隊した者は、軍隊生活の第一日から厳格な訓練をうけた。
騎兵は又特科隊とも呼ばれ、馬も活兵器として、むしろ兵より大切にとり扱われ、食事も兵は馬よりいつも後であった。
戦歴としては、日清戦役に出動が最初で、日露戦役には、明治37年(1904年)第2軍に属し、金洲、南山の攻撃、蓋平、大石橋、海上の戦闘に続いて遼陽会戦に参加、次いで沙河戦を経て明治38年3月10日、敵の最重要拠点、奉天に入城、国運を懸けた。
さしもの大戦も、連合艦隊の大勝と相俟って、遂に露軍の全面降伏となった。
斯くして、この戦況に重大な関心をもつ世界の列強を驚かせ日本恐るべしの感を抱かせたのも事実である。
その後昭和20年(1945年)までこの3月10日を陸軍記念日(祭日)として全国民を挙げて戦勝記念日の行事が各地で行われた。
昭和7年の春、現連隊では狭隘のため訓練に支障の故をもって、堺、金岡に兵舎は移転された。
昭和12年に入るや、日本に対するアメリカの経済封鎖は日を経て強まり、日、中、米の情勢は緊迫を告げ、支那事変、大東亜戦争に突入するの止むなきに至った。
真田山連隊の出身者にして外地に出征した将兵は極めて少なく金岡部隊の出征者が殆んどで8割を超えるものと思われる。
昭和17年8月比島方面の連隊は一旦内地に帰還し、軍旗は奉還された。
翌18年9月再び動員下令となり、この度は南方に出動した。
この時は捜索第4連隊となり連隊長は、やはり今村安大佐であった。
昭和20年2月タイ国に進駐、同4月タイ国の師団主力の位置に復し、同地に於て終戦となった。
茲に於て我が誇りとした騎兵第4連隊は光輝ある大日本帝国、陸、海軍と共に惜しくも永遠にその歴史の幕を閉じた。
作戦の建制上堺留守隊に於て編成出征した各部隊及其の長は次のようである。
捜索第34連隊(森岡正中佐・田川泉中佐)、騎兵第75連隊(吉沢末俊中佐)、騎兵第104大隊(高橋保和中佐)、堺金岡留守部隊(森岡正中佐)、独立輜重兵第54大隊(内木彦一少佐)、独立輜重兵第55大隊(浅利正基少佐)、同第75大隊(藤原長治少佐)である。
尚全戦線に亘り、軍直轄部隊として、自動車廠、碇泊場司令部に多数の騎兵第4連隊出身者がその要職につかれた。
以上は騎兵第4連隊創設以来の概要であるが、此の忠魂碑は昭和7年連隊が堺へ移転の翌8年11月建立された。
顧りみれば戦争終結以来星流れ時移りて40年、我々は言語に絶する猛訓練に堪え、更に命運を決する数多くの戦闘に参加、遺憾なく果敢な騎兵精神を発揮した。
この記録は不滅のものであり、永く日本の戦史を飾るものと思う。
我々日本の国民は、一時は信ぜざる事態に直面し呆然としたが、戦争に従軍した我々軍人は死力を尽して戦った。
勝敗の如何に拘らず、死線を超え不思議に生還した我々に今は何の悔いもない。
しかしながら不運にして戦病死された勇士、亦帰還後亡くなられた方々のお心を察するとき、我々は国民各位と共に深く犠牲者に感謝し、その名誉を称え、み霊に対し奉り、とわの安らかなる眠りにつかれんことを心から祈念するものである。
 騎兵第4聯隊並関連諸部隊有志

日本暦2645年  
西暦1985年 
昭和60年11月3日
 忠魂碑維持 大阪騎兵会
  永代供養 三光神社

大きい。。。陸軍境界標柱。北側。

陸軍省所轄地

往時のコンクリート塀。

陸軍境界標柱。南側。こっちは摩耗している。

陸軍省所轄地

うっすら、「陸」はわかるかな、という感じ。

往時のコンクリート塀。真田山公園側。

南側はコンクリートの状態がかわっている。。。

真田山公園。

場所

https://goo.gl/maps/9Pr8qubXmyGJRPXH9

※撮影:2022年7月


関連

大阪護國神社

「森之宮団地の大阪砲兵工廠跡」と「鵲森宮の機銃掃射弾痕跡」(大阪)

大阪城の東を走る大坂環状線。そのさらに東側に大阪メトロ森之宮検車場や森之宮小学校、大坂公立大学森ノ宮キャンパスや、UR森之宮団地がある場所、さらには、大阪城公園の近くや、大阪城ホール、大坂ビジネスパークなどの広大なエリアは、かつて軍需工場であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

大阪城には陸軍第四師団司令部が置かれ、そして大阪城の西側、森ノ宮駅の北側には「軍需工場」(大阪砲兵工廠・大阪陸軍造兵廠)が展開されていた。

大阪陸軍造兵廠は、空襲により、80%を焼失している。
このエリアが重要な軍事拠点であり、逆に言うと、米軍からすれば重要攻撃拠点であったことがわかる。

赤い線の内側が大阪砲兵工廠。
大阪城の北側に正門があり、化学分析所と守衛所は今も残る。
大阪環状線は、砲兵工廠のある大阪城の東側のみが高架ではなく、唯一の地上線路となっている。これは高架にして工場を一望されることを防いだためという。なお、大阪城公園駅ができたのは戦後。当時は駅は設けていなかった。


大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)

大阪砲兵工廠は、陸軍の大口径火砲を製造していた極東最大の軍需工場であった。戦前の日本では最先端の重工業工場でもあったため、兵器以外の金属製品も多く製造していた。

明治維新後、大日本帝国陸軍創設指揮をとっていた大村益次郎の建言により造兵司(大坂造兵司)を設置。
明治5年(1872年)の陸軍省発足とともに、「大坂製造所」と呼称。
明治12年(1879年)に、「大阪砲兵工廠」と呼称。
大正12年(1923年)に、「陸軍造兵廠大坂工廠」と改称。
昭和15年(1940年)に、陸軍兵器本部の設置に伴い、「大坂陸軍造兵廠」と改称。

大阪砲兵工廠は、陸軍唯一の大口径火砲工場として、火砲や戦車、弾薬などを開発・製造していた。また鋳造や金属加工に関する最先端の技術水準を誇っていたということもあり、軍需のみではなく民需の依頼も受注していた。

靖國神社第二鳥居は、1887年(明治20年)に「大阪砲兵工廠」で鋳造されたもの。 靖國神社に4つある鳥居の中で一番古く、また青銅製鳥居として日本一の大きさを誇っている。
写真は靖國神社第二鳥居(大阪砲兵工廠鋳造)

終戦前日の昭和20年8月14日午後の集中空襲で、大阪砲兵工廠は80%以上の施設が破壊され、工廠としての機能を失った。

大阪城の近くに残る大坂砲兵工廠関連の戦跡に関しては、以下も。

南の玉造には機銃掃射弾痕が残る。


大阪砲兵工廠跡

現在、UR森之宮団地内に「大阪砲兵工廠跡」の碑が建立されている。

大阪砲兵工廠跡

誰がいつ建立したのか、跡碑には詳細がなく履歴は不明。

大坂砲兵工廠跡碑と、地蔵様と、よくわからないモニュメントの3つが並んでいる。

場所

https://goo.gl/maps/BdAWGGJc6MUNmxzN7


もう一つの「大坂砲兵工廠跡碑」

上記は別に大阪城ホールの近くにも「砲兵工廠跡」の碑がある。
大阪城ホールに大阪砲兵工廠本館があった。

場所

https://goo.gl/maps/ME5yP49RVPxWuEVT8


鵲森宮(森之宮神社)

森ノ宮駅の南西すぐ近くにあるのが、鵲森宮(森之宮神社)。「かささぎのもり」。
創建は、聖徳太子の時代まで遡る。
御祭神は、聖徳太子の両親である用明天皇と穴穂部間人皇后、そして聖徳太子を祀る古社。

当社の狛犬台座には機銃掃射の銃痕が残っている。

大東亜戦争ノ為メ青銅製ノ狛犬ヲ献納シテ之ヲ再建ス
昭和19年7月

狛犬の台座に残る無数の修復の痕跡が、機銃掃射の弾痕の名残。

場所

https://goo.gl/maps/D66eh6nPQZmrwiez7


森ノ宮駅

城見エリア、がある。

大阪城の天守が見えました。

ホームからみる大阪城、いいですね。
大阪城の戦跡という言い方をすると、戦国時代も含まれますね。私のサイト内では、もっぱら昭和にしか触れていませんでしたが。

※撮影:2022年7月撮影


関連

高射第3師団司令部があった大阪市立美術館

天王寺公園の大阪市立美術館。
戦時中は、高射砲第3師団司令部が置かれていた。


大阪市立美術館

大阪市立美術館は、大阪市天王寺区の天王寺公園内にある美術館。
東京府、京都市に次いで日本で三番目に設立された公立美術館。

当地には1914年(大正3年)に住友家本邸が建てられたが、後に住友家から美術館建設を目的に日本庭園「慶沢園」とともに敷地を寄贈され、1936年(昭和11年)に旧本邸跡地に開館。
建造は1936年(昭和11年)4月、鉄骨鉄筋コンクリート構造。

太平洋戦争突入後の1942年(昭和17年)には陸軍が接収。戦争末期には高射第3師団司令部が置かれた。

1945年(昭和20年)から1947年(昭和22年)までは占領軍が接収している。

耐震補強及び設備の全面更新のため、2022年(令和4年)10月から2024年度(令和6年度)までの予定で休館


高射第3師団司令部

昭和20年(1945年)4月、主として阪神地区を主とする政治、軍事、軍需の中枢を防衛するため編成された。
第15方面軍(第15方面軍司令部は大阪城内、旧大阪市立博物館)に属していた。


大阪市立美術館の写真など

以下、周辺の写真など

訪れたときは、閉館中だったので中に入れず、残念。。。

この建屋も歴史ありそう。

裏に佇む門柱。

手前の門柱。

夕方のスキマ時間にちょっと軽い気持ちで予備知識無しで足を運んだら、大きさにびっくりしました。。。

※撮影:2022年7月

場所

https://goo.gl/maps/ytbRuo7oNfEEE9pB8


関連

鶴舞公園に残る戦跡(名古屋)

名古屋市昭和区の鶴舞公園。
名古屋初の都市公園として明治42年に誕生した鶴舞公園にも、戦争に関連する歴史が残されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M550-1-72_19471013
1947年10月13日に米軍が撮影した航空写真を加工。

鶴舞公園周辺を拡大。


鶴舞公園

住居表示やJR駅名は「つるまい」ではあるが、公園の名前は「つるま」。
1909年(明治42年)に開設された名古屋市が設置した初の公園。
名古屋大空襲で複数の建造物を焼失している。


「鶴舞公園」扁額

明治42年の開園当時に内閣総理大臣であった陸軍大将桂太郎の扁額。当初の青銅板は、戦時下の金属回収で供出。コンクリート代用品に変えられたが、昭和41年に復元。当初は公園の正門ゲートを兼ねていたJR中央線ガードに掲げられていたが現在は正面花壇に設置されている。


陸軍高射第二師団司令部
(名古屋市公会堂)

大正13年(1924)1月の摂政宮(昭和天皇)御成婚記念事業として計画され、昭和5年(1930)9月30日建立。
外観は茶系の落ち着いた色調で整え、最上階の円形アーチ窓や隅部の丸み等、ロマネスク的表現とする。初期の鉄骨鉄筋コンクリート造建築。

昭和16年(1941年)8月に「名古屋防空隊本部」が名古屋市公会堂に開設される。
「名古屋高射砲隊司令部」を経て、昭和20年(1945年)5月には、第13方面軍隷下となる「陸軍高射第二師団」となり、引き続き「名古屋公会堂」に司令部を設置。名古屋地区の防衛にあたった。

戦後は進駐軍に接収。米空軍の専用施設としての10年を経て、名古屋市に昭和31年に返還され、再び公会堂として復活。


高射第二師団司令部の門柱

高射第二師団司令部の門柱が一対、残されている。


吉田山の高射砲台陣地跡

鶴舞公園野球場の周辺に、高射砲陣地(4門)が展開されていた。台座の跡が3箇所残っている。

1つ目

2つ目

3つ目

野球場

吉田山は、もともと元名古屋区長吉田禄在の所有地であった。


八幡山古墳の高射砲台陣地跡

八幡山古墳
国の史跡に指定(昭和6年)されている県下最大の円墳。高さ10メートル、直径82メートル、まわりは堀になっています。
大正8年、公園敷地に編入された当時は老松がうっそうとしていましたが、戦争中、高射砲陣地設営のため伐採されてしまいました。戦後再び緑化され、昭和57年から緑地保全地区(平成16年の法改正に伴い、特別緑地保全地区に名称変更)されています。

立ち入りは禁止。


名古屋大学医学部附属病院門及び外塀
(旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀)

旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀
大正3年(1914年)建立。
名古屋大学鶴舞キャンパス敷地の南辺にあり、道路を挟んで鶴舞公園に面する。門柱は花崗岩の方柱で、中央2本が当初のものである。塀は当初の煉瓦造に昭和5年(1930)にスクラッチタイルとテラコッタで改修し仕上げたもので、当時のデザイン傾向が窺える。

名大病院


鶴舞公園のそのほか

鶴舞公園内は、ほかにも近代史跡が多く残っているが、私は大部分を見逃してしまっていた。。。


噴水塔

明治43年、鶴舞公園を会場として、第10回関西府県連合共進会が開かれた。会場の正面広場を飾ったのがこの噴水塔であった。
設計は鈴木禎次工学士、ローマ様式の大理石柱に岩組みという和洋折衷式。
地下鉄3号線工事のため一時撤去されたが、昭和52年復元された。


奏楽堂

明治43年、鶴舞公園を会場として第10回関西府県連合共進会が開催された際に、中心的施設として各種の演奏会が催された。
イタリアルネサンス風の建物で、細部にはアールヌーボーのデザインが施されている。設計者は噴水塔と同じ鈴木禎次工学士。
昭和9年に老朽化のうえ室戸台風で大被害を受けたので取り壊され、昭和11年から平成7年まではデザインの異なる奏楽堂が建てられていたが、平成9年に築造当時の姿に復元された。


近代史の目線では、以下も興味深かったが、見逃し。
2022年9月に再訪しました。

青年団令旨碑壇

名古屋市連合青年団が昭和5年に建設した記念碑壇。青年のスポーツ精神を高揚する令旨が掲げられています。陸上競技場は、大正2年に大運動場として発足しました。昭和7年には施設も充実し、乙種認定を受けましたが、戦後の接収時代に荒れてしまいました。現在は認定外の陸上競技場として、各種のスポーツ、行事に利用されています。


普選壇

普通選挙法(大正14年施行)を記念した野外劇壇。中日新聞社の前身名古屋新聞社が解題20周年(大正15年)を記念して昭和3年に建造しました。壁面には普通選挙の基本精神「五箇条の御誓文」とその英訳、および建設の趣旨とが掲げられています。この青銅板は戦争で失われましたが昭和42年に復元されました。昭和61年に市指定文化財に指定されました。


加藤高明伯銅像跡

昭和3年、愛知県出身の内閣総理大臣であった加藤高明氏を顕彰し、銅像建設会により同氏の銅像が建立されました。同氏の銅像は、昭和19年に戦時物資の不足を理由に供出され、現在は台座だけが残されています。


鶴舞公園は広いので、全部をまわろうとすると結構な時間が必要。結局、6月の訪問ではすべてをまわりきれず、見逃しもあり、機会があったので9月に再訪をした次第でした。

※撮影:2022年6月 再訪9月


関連

多摩陸軍飛行場(横田基地)の格納庫

在日米空軍横田基地で「日米友好祭フレンドシップフェスティバル2022」が、5月21日22日にかけて、3年ぶりの開催された。

実は横田基地は初めて。
事前学習せずに、何気ない気持ちで行ってみたら、大行列と雨に巻き込まれて散々な状態となり、写真もまともに撮れていないひどいありさま。今回の記事は、掲載を見合わせようかと思うレベルではありましたが、来年以降のリベンジの念も込めて、かなり半端な内容ですが掲載します。

2023年にリベンジしました。
より詳細な記事は、以下にて


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-80_19471114
1947年11月14日に米軍が撮影した航空写真を加工。

拡大。

当時の写真と、Google航空写真との照合を行ってみる。
横田に行く前に事前に、この照合作業をおこなっていれば、よいものを、今回は手抜かりもあり、記事に漏れが多数。。。

日本戦跡協会さまより、
「南の右の格納庫は、米軍が建てたもの」とコメントを頂きました。


多摩陸軍飛行場(福生飛行場・横田飛行場)

昭和15年(1940)、立川陸軍飛行場の付随施設として建設。
同年4月に、陸軍飛行実験部(陸軍航空審査部飛行実験部)が立川から多摩に移転。
大戦末期の本土防空戦時には、飛行実験部戦闘隊を「福生飛行隊」と通称し、第10飛行師団指揮下の臨時の防空飛行部隊として投入され、戦果も上げている。
戦時中の米軍は、従来把握していなかった多摩陸軍飛行場を「横田飛行場」と名付たことから、「横田基地」と呼ばれるようになった。
終戦後は、アメリカ軍に接収され、朝鮮戦争やベトナム戦争でも積極的に活用された。


横田基地に残る陸軍の格納庫

上記の位置関係と照合した結果、格納庫がいくつか残っていることがわかる。

三角屋根の格納庫が当時からの格納庫。
オスプレイと一緒に写る。

こちらも当時からの格納庫。最南部。

撮影していた格納庫の写真は以上のみ。
記録写真としても、まったくできていないので、リベンジが必須。

オスプレイ
初めて垣間見たオスプレイは、おもったよりも小さかった。

2022
Firendship Festival
Yokota Air Base

いろいろ

いろいろ。

また、リベンジします。

※撮影:2022年5月


関連

松井石根大将ゆかりの神社(椿神明社・名古屋)

愛知県名古屋市中村区牧野町。
名古屋駅の駅裏(駅西)、つまり名古屋駅の西側には、牧野公園や牧野小学校など牧野の名前を残した場所がある。

椿神社は牧野村の北端。
この牧野村で、松井石根は明治11年(1878年)7月27日に生まれた。


神明社(椿神明社)

祭神は、豊宇気比売神。創建年代は不詳。旧社格は村社。
伊勢の神宮の神領地であった牧野村で、椿神明社は外宮とされ「上ノ宮」、牧野神明社は内宮とされ「下ノ宮」と呼称されていたという。

JR東海が施行するリニア中央新幹線(品川・名古屋間)の事業用地として椿神明社の境内北側を一部譲渡することとなり、境内整備が実施された。工事は2020年4月 ~ 2022年3月。
私の参拝は2022年6月。工事完了後の参拝。

社号標の銘は削り取られていた。
昭和9年10月建立。

境内の随所に柵が設けられ、立ち入りできる空間が少ない。


松井石根ゆかりの石碑(池に沈めた大将の碑)

石碑がある。
これが、松井石根ゆかりの石碑。近くで見ることができないのが残念。

松井石根は、椿神社のある牧野村の出身であった。
昭和12年(1937年)7月、盧溝橋事件により支那事変(日中戦争)が勃発。
第二次上海事変に際し、予備役の松井石根は召集され上海派遣軍司令官として陣頭指揮を取ることとなり、昭和12年(1937年)12月、中支那方面軍司令官として南京攻略戦が開始。12月13日に南京陥落。
昭和13年1月、近衛文麿首相の近衛声明「蔣介石を対手とせず」宣言で、中国寄りであった松井石根は考え方の相違もあり更迭され予備役とり、昭和13年3月に帰国。

昭和14年(1939年)12月に、地元の有力者が石碑を建立。
石碑の内容は、地元の英雄であった松井石根大将が南京入城後に作った漢詩。
「南京入城之感」

松井石根は昭和15年(1940年)2月、支那事変(日中戦争)における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた。

昭和21年5月、松井石根は、いわゆる南京事件の責任者として戦争犯罪人(BC級)逮捕。極東国際軍事裁判において起訴され巣鴨プリズンに収監。東京裁判において、11月12日に死刑判決。
昭和23年12月23日に死刑が執行された。享年70歳。

東京裁判と久保山火葬場(横浜)

松井石根の石碑は、この判決よりも前に、GHQに見つかることや戦犯と関わり合いになることを恐れた人々によって、中村公園近くの池に放り込まれたという。
その後、松井石根の石碑は引き上げられ、再び椿神明社に建立されたという。

南京入城之感
燦矣旭旗颺石城江南風色
忽澄清豼貅百萬軍容肅
仰見 皇威輝八綋
 陸軍大臣 松井石根

昭和十二年七月支那事変起也皇国直進膺懲之師
吾郷英傑陸軍大将松井石根閣下為上海方面軍最
高指揮官督戦於江南之地撃破頑敵不出九旬而陥
其首都南京此詩即将軍陣中之作讀者宜相傳唱以
仰皇軍威武乎不朽也昔豊太閤裂明之封冊也其意
欲席捲四百余州而不果焉今経三百有余年豊公之
霊有知同郷英傑偉績如此其感喜果如何必應含会
心之笑於泉下也矣
 昭和十四年十二月
    陸軍中将    大塚堅之助 撰
    陸軍軍医中将  石黒大介  書
        幼友  恒川増太郎 建立

大塚堅之助陸軍中将も石黒大介陸軍軍医中将も愛知県出身。恒川増太郎氏は、松井石根陸軍大将の幼友達で地主。恒川増太郎氏が音頭を取って建立したものと思われる。

「南京入城之感」の隣の碑も、松井石根の謹書であった。
一緒に、池の中に投げ込まれたものかどうかは不詳。

大津武五郎直行君頌徳碑
 陸軍大将 松井石根書

大津直行は、尾張藩士。明治維新後は、鳥取県権参事などを努めている。大正14年に84歳で没。

手水石は昭和10年。
狛犬は昭和14年。

昭和14年に郷土の英雄として讃えられていた松井石根大将。
南京陥落の英雄は、8年後には、いわゆる南京事件の責任者として死刑となり、建立された記念碑は、関わりたくないものとして、池の中に沈められてしまった。
戦後、松井石根大将の石碑はもとのように神社に戻ってきたが、昨今の政治的事情もあり、(偏った歴史感を持った方々による)神社自体に対する不貞な行為などもあり、その保護のために松井大将の石碑は、金網に囲まれてしまった。そうして貴重な石碑が、多くの人々にとっては「よくわからない石碑」になってしまったことが、申し訳なく。

場所

https://goo.gl/maps/rdjUFoaLJPqxyCzXA

※撮影は2022年6月

「陸軍野戦砲兵学校」四街道の陸軍戦跡散策

軍郷四街道。
軍郷としての四街道の繁栄は、佐倉藩が洋式砲術(高島秋帆流砲術)の演習を行っていた「下志津原」にはじまる。
下志津原に築かれた砲兵演習場(射場)を軸に、明治19年には、「陸軍砲兵射的学校」が創立している。


陸軍野戦砲兵学校(野砲兵校)

野戦砲兵監の管轄下で、野戦砲、高射砲の射撃・観測等の教育と、野戦砲、高射砲に関する諸学術、兵器、資材等の調査・研究を行った機関。
1886(明治19)年4月、下志津原(現在の千葉県佐倉市)に設立された陸軍砲兵射的学校を前身とする。
1896(明治29)年、陸軍野戦砲兵射撃学校に改称され、四街道(現在の千葉県四街道市)に移転した。
1922(大正11)年8月、陸軍野戦砲兵学校に改称。
甲種学生(大尉)に射撃・戦術、乙種学生(大・中尉)に射撃・高射砲術、観測通信学生(中・少尉)に観測通信術、馭法学生(中・少尉)に馬術・馭法術などの教育が行われた。研究部は、野戦砲兵・高射砲に関する調査研究・試験を行った。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R2769-109
1949年04月26日に米軍が撮影した航空写真を加工。

四街道界隈を拡大。

今回の散策エリア。


陸軍野戦重砲兵第四聯隊跡(愛國学園)

愛国学園大学(学校法人愛国学園)の正門は、当時の陸軍野戦重砲兵第四聯隊の正門を流用している。昭和14年に近衛師団に所属する陸軍野戦重砲兵第四聯隊が満洲に移転後は、野戦砲兵学校幹部候補生隊となっている。

史蹟
野戦重砲兵第四聯隊跡
吉永朴謹書

建碑之辞
 この地は旧陸軍近衛師団に所属する当聯隊が馬編成四年式十五糎榴弾砲部隊として武を練った所である。
 その期間は発祥の地・広島県呉要塞からここに居を移した。大正十一年から北満の牡丹江に移駐した昭和十四年までの十七年間である。
 渡満移駐後この地は野戦砲兵学校幹部候補生隊となり、聯隊はノモンハン事変に参加したあと、自動車編成九六式十五糎榴弾砲装備に改編されその面目を一新し、太平洋戦争勃発に伴い昭和十七年九月南太平洋戦線に展開された。
 かくして聯隊はガダルカナル及びブーゲンビル両島の作戦に参加し死闘を重ねつつその本領を発揮したが、終戦と共に事実上かの地において五十年にわたる歴史の幕を閉じた。
 この間あるいは満州の曠野に、あるいは南溟の密林に陣没した戦士は聯隊長以下千三百有余名の多きに達した。
 この小碑は当聯隊の生存者等が計画し、之に市と学校法人愛国学園が協賛し以て縁り深きこの地に史蹟として建立したものである。
 昭和三十八年三月
  四街道市史蹟保存会

謹書にある吉永朴(すなお)は、終戦時は陸軍少将。陸士31期、陸大38期。砲兵出身で野砲兵校にゆかりあり。

聯隊の歴史
(略

陸軍野戦重砲兵第四聯隊の正門跡

愛国学園大学(学校法人愛国学園)の正門として活用されている。

場所

https://goo.gl/maps/67QKbs1KYfv2FYuz7


将校集会所跡(四街道公民館)

四街道公民館の場所は、かつての将校集会所の跡地。

門が残っている。
正門のすぐ近く。

場所

https://goo.gl/maps/ToLxZSPCCccfyVpL8


松脂油採取跡と将校集会所の築堤(四街道公民館)

将校集会所のあった公民館の近くにある松の切り株。
戦時中に松脂油を採取した名残もあった。

「松のきずあと」
何かが書いてあるようだけど風化して判読不可能。。。

築堤も当時の名残と思われる。


陸軍野戦重砲兵第四聯隊の裏門跡

愛国学園大学と千葉敬愛高校の裏側。方向でいうと北西側にあたる。「コープみらいえ四街道」の近くの道路に裏門の門柱が残っている。

一本は、門柱として残っているが、もう一つは土台だけが残っている。

敷石も残っている。

位置がおかしい。

どうやら近年の道路拡張で、片側の土台だけが移動したようだ。敷石はそのままでの拡張という、心遣いがありがたい。
ストリートビューで2013年にはまだ移築していなかったが、2015年で移動されているのを確認できた。

場所

https://goo.gl/maps/nQdnyQmPXerEdLBEA


大土手山(別名・ルボン山) 

砲兵射朶の跡の石碑と、射朶(射的)の築堤の山が残っている。標高25.1mという。

大土手山
神社を頂いたこの丘は大土手山と呼ばれている。
麓には昭和四十年に四街道町史蹟保存会と陸軍野戦砲兵学校遺跡保存会有志一同によって建てられた「砲兵射垜の跡」の碑があり碑裏には次のように刻まれている。

 「この地は佐倉藩士大筑尚志が藩の砲術練習所として築いたものを明治六年(一八七三)教師として招聘されたフランスのルボン砲兵大尉が増築し初めて砲術を伝習した射垜の一角である射的場は南北三千米幅三百米であった。 
 明治十九年その北端に陸軍砲兵射的学校が創立されたが同三十年四街道に移転してより射場は急速に拡張され射場はルボン台または大土手山と呼ばれた。
 大正七年(一九一八)五月皇太子が台上で射撃をご覧になった。
 下志津原演習場は砲兵学校とともに拡大し四街道の発展に寄与したが射垜は実にその始祖である。
 由来ある遺蹟の消滅せんことを惜しみ碑を建ててその由来を記すものである。
   昭和四十年(一九六五)四月二日 
    四街道町史蹟保存会 
    陸軍野戦砲兵学校遺跡保存有志一同」
  昭和五十一年十一月 
  四街道市

砲兵射垜の跡
陸軍野戦砲兵学校長 室兼次書

室兼次は、昭和2年(1927年)7月26日から昭和5年(1930年)7月30日までの陸軍野戦砲兵学校長であった。
最終階級は陸軍中将。陸軍野戦砲兵学校長の次は昭和5年8月からは第20師団長。昭和7年に予備役編入。昭和41年に89歳で没している。
「砲兵射垜の跡碑」は昭和40年建立のため、亡くなる1年前の揮毫であった。

登ってみた。
「神社を頂いたこの丘は大土手山と呼ばれている。」と記載があったが、神社は無くなっているようだ。
見晴らしが良いですね。

陸軍野戦砲兵学校があった方向。

北側は、射場があった。

場所

https://goo.gl/maps/SY6Ux69pRrkxFPrS9


陸軍野戦砲兵学校跡

大土手山 (ルボン山)の南に、陸軍野戦砲兵学校があった。
現在の四街道市役所の北側の街道沿いに記念碑が建立されている。

陸軍野戦砲兵学校跡
東久邇盛厚書

東久邇盛厚は東久邇宮稔彦王第1王子。大日本帝国陸軍での階級は陸軍少佐。陸軍では砲兵に縁があり、(昭和12年)6月陸軍士官学校を卒業、同年8月陸軍砲兵少尉に補任され、野戦重砲第1連隊附の陸軍将校となる。
昭和15年には、陸軍砲兵中尉として陸軍野戦砲兵学校附ともなっている。
終戦後は皇籍を離脱。昭和44年に52歳で没している。

砲兵学校跡
 明治十九年四月下志津原に創立された陸軍砲兵射的学校は明治三十年に陸軍射撃学校と改称され四街道に移転しました
学校の移転に伴ないそれまでは閑散としていた四街道駅(移転の三年前に建設)周辺は次々と整備され、東京に至便な演習場という利点と、明治中期から終戦までの時代の要求は多くの軍事施設の設置を見、四街道は軍都としての歴史を歩んできた。
終戦を機とし四街道はその景観と機能を一変し新しい四街道へと脱皮、砲兵射撃学校跡も現在は市民の憩いの公園、小学校となり文化都市の一翼をになっている。
 四街道市

 明治十九年(一八八六)四月二日下志津原の北端に創立した陸軍砲兵射的学校は鉄道の開通に伴い同三十年春野山砲から成る教導大隊を持つ陸軍野戦砲兵射撃学校としてこの地に移転し砲兵の戦術及び射撃術の研究教育にあたった。
 大正十一年(一九二二)陸軍野戦砲兵学校と改称し野戦重砲兵を含む教導聯隊に拡張し高射砲練習
隊を新設して初めて一部を機械化した。
 昭和八年(一九三三)以降下士官候補者隊・情報隊・観測隊幹部候補者隊を相次いで新設し大東亜戦争に入り少年兵の生徒隊ロケットを含む迫撃砲隊・ 自走砲隊などを新設した。
 この間明治三十三年六月と同四十五年五月とに天皇の行幸を仰ぎ、同四十四年五月と大正七年五月とに 皇太子の行啓をお迎えした。
 惟うに学校は創立以来六十年まさに日本砲兵最高の指導的殿堂として大いに国運の興隆に貢献した。
 しかも四街道はその昔人家まれな寒村であった頃から学校と緊密な協力をして今日の繁栄の基礎を築いた。
 この壇は学校創立五十年記念として築いたもので終戦にあたり全校将兵はここで 御真影と勅諭とを奉焼し日本の再建を誓い合った由緒ある遺跡の消滅せんことを惜しみ碑を建ててその由来を記するものである。
 昭和四十年(一九六五)四月二日  
  四街道町史蹟保存会 
  陸軍野戦砲兵学校遺跡保存有志 一同

昭和62年8月15日
観測隊之碑
観測隊有志建之

御歌
 北白川房子
志もしつの原に栄えて
 御国守る
わさにはけみし其日しのはむ
わかつまもわか子もともにはけみけむ
御代の光りを永久に仰かむ

生徒隊之碑

(生徒隊之碑裏面)
少年砲兵生存者一同
平成14年10月吉日建之

15センチ榴弾砲砲弾
10センチ加農砲砲弾
7.5センチ野山砲砲弾

場所

https://goo.gl/maps/h3vsHYafK9mGf85N7

隣は、四街道市役所。


軍馬の碑(栗山半台児童公園)

陸軍野戦砲兵学校のエリアから北東に離れた場所に、下志津陸軍墓地(下志津陸軍埋葬地)がある。
現在は、栗山半台児童公園と栗山半台区集会所が併設されている。

軍馬の碑

軍馬の慰霊顕彰碑。

軍馬之碑

 昭和10年3月建之
  陸軍野戦砲兵学校
  野戦重砲第4聯隊
  下志津憲兵分遣隊

同じ空間に、観世音菩薩と馬頭観音もある。

場所

https://goo.gl/maps/pJMkZYasppa6nBd47


下志津陸軍墓地(栗山半台児童公園)

下志津陸軍墓地(下志津陸軍埋葬地)は、明治30年代に栗山地区の有力者が、土地を陸軍に寄付したことにはじまる。

引き取り手が無いまま眠る八の遺体
 墓地全体は、明治二十年代に栗山地区の当時の有力者が土地を陸軍に寄付し、下志津陸軍埋葬地としたものです。
 ここには、いまだに引き取り手が無いまま眠っている兵士の墓があります。土葬で埋葬された士官や兵士たちの遺体は総計で十三名です。戦後になって、墓は栗山地区半台の方々の厚意で管理され、供養も続けられています。
 遺族による遺骨の引き取りは。戦前一名、戦後に四名の計五名で、若い身空を他国で不運にも果てた八名の人々が、今なお無縁仏として眠っています。
 戦後、栗山半台地区の方々の厚意で、本籍地の市町村役場へ照会しても遂にわからずじまいでした。

軍人墓地に眠る人々
諫早 消輝   砲兵中尉   山口県阿武郡萩町 .
宮地 徳太郎  砲兵二等卒  栃木県宇都宮市  .
藤原 喜助   砲兵一等卒  宮崎県西臼杵郡七折村
福田 荒吉   砲兵一等卒  宮崎県東臼杵郡南郷村
原  愛正   砲兵二等卒  山梨県北巨摩郡熱見村
小沢 兼吉   砲兵二等卒  東京都西多摩郡調布村
金丸 茂之   砲兵二等卒  山梨県中巨摩郡南湖村
加藤 真一   砲兵上等兵  山口県佐波郡牟礼村

合掌

場所

https://goo.gl/maps/HTqmVNX4J9tnhzMU8


下志津陸軍墓地の陸軍境界標

下志津陸軍墓地(下志津陸軍埋葬地)のあった四隅に境界標石が残っていた。当時の敷地の東西南北四辺に対して境界標石がきちんと残っているというのが、嬉しい。

南の境界標石

陸軍用地

北の境界標石

南の境界標石
ちょっと摩耗が激しいですが、きっと陸軍用地って書いてある。

陸軍用地

北の境界標石

陸軍用地

場所

https://goo.gl/maps/HTqmVNX4J9tnhzMU8


四街道町護國神社・野砲兵校神社「千代田宮」社殿流用?
(津之森児童遊園)

愛国学園と給水塔の近くにある児童公園。

四街道の護国神社は、四街道駅北側にある八百稲荷神社の境内にあった招魂社を戦後現在地に移したものという。

手前の鳥居は、昭和49年に四街道町遺族会が建立。

四街道町護国神社
 千葉縣護國神社宮司

拝する。

御社殿は、旧陸軍野戦砲兵学校内にあった「千代田宮」の社が流用されているという。

もしかしたら、狛犬や手水石も陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の流用かも知れないが、未確認。

2つ目の鳥居は、戦前の建立。
1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端にはじまった支那事変の1周年記念とのことなので、1938年の建立。
これも、陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の流用だろうか。

支那事変一週年記念

しかし、陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の流用とするならば、この鳥居は陸軍野戦砲兵学校と下志津陸軍飛行学校の連名となっていることから、もしかしたら「千代田宮」は、両校の共同祭祀だったのもしれない。思いつきなので、根拠はないです。

陸軍野戦砲兵学校
下志津陸軍飛行学校

ジャンルは違うが同じ陸軍の学校が連名して奉納した鳥居、良いですね。
飛行学校の観測射撃と、砲兵の観測射撃の共同訓練も行っていた、という話もありますので。

慰霊碑が4基、林立している。

明治丗七八年日露役忠魂碑
 西南戦役戦没者・北清事変戦没者・戦病死者
 明治丗九年7月建設
 建碑・発起出征軍人
徳頌
 昭和12年以降の旭村戦争犠牲者
 昭和25年9月旭村招魂碑石保存会建之
忠魂
 支那事変以降戦没者
 昭和28年11月千代田町建之
忠魂碑
 陸軍大将男爵田中義一書
 昭和3年11月千代田村分会建

場所

https://goo.gl/maps/drMJcQ5QXKaoQdrW6


千代田宮・野砲兵校神社跡(四街道中央公園)

陸軍野戦砲兵学校に祀られていた校内神社「千代田宮」。
ご祭神
 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
 天之常立神(あめのとこたちのかみ)
 明治天皇
千代田宮の御祭神は、1947(昭和22)年、桜ヶ丘地区に入植した開拓者有志によって創建された「櫻ヶ丘神社」に奉遷されている。
そして、陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の御社殿は、前述の四街道護国神社に流用されたという。

野砲兵校内神社「千代田宮」の跡地は、中央公園として整備され、公園内に唯一残された「奉納」の石柱が当時を物語っている。

奉納

裏面は削られていて判読不可であった。

場所

https://goo.gl/maps/yRqakqtigzuXVUmw6


下志津陸軍病院(国立病院機構下志津病院)

国立病院機構下志津病院は、ご多分に漏れずかつての陸軍病院。

明治30年4月に下志津衛戌病院として発足、その後、終戦までは下志津陸軍病院であった。

場所

https://goo.gl/maps/FZzhfTSKcr2KSVvQ7


四街道駅

1894年(明治27年)12月9日、総武鉄道(初代)の四ツ街道駅(よつかいどうえき)として開業。
1907年(明治40年)9月1日、総武鉄道買収により、帝国鉄道庁の駅となり、11月1日に四街道駅に改称。


下志津陸軍飛行学校(下志津駐屯地)

ちょっと足を伸ばしてみました。
行政的には、四街道市ではなく、千葉県‎千葉市‎若葉区。

下志津陸軍飛行学校では、射撃観測などで、砲兵との連動訓練などを実施することもあり、野砲兵校が近くにあることは多くのメリットがあったという。

下志津陸軍飛行学校
主に空中偵察に関する各種の教育と研究を行った陸軍の学校。
1921年(大正10年)4月、陸軍航空学校下志津分校として開設。
1924年(大正13年)5月、下志津陸軍飛行学校として独立。
下志津陸軍飛行学校は本校以外に、銚子八街、広島県広島市に分教場、分教所があった。

下志津陸軍飛行学校の門柱と歩哨舎

平成23年に正門改修工事が行われている門柱(手前)。
これは、下志津陸軍飛行学校の「歩哨舎」であった。
外観を生かして、内部空間を塞いで門柱としたようだ。

下志津駐屯地

当時の正門は以下。

陸上自衛隊下志津駐屯地より抜粋。

https://www.mod.go.jp/gsdf/aasch/aaspr-hp/history/slide1/slide1.html

https://www.mod.go.jp/gsdf/aasch/aaspr-hp/history.html

「高射学校」も併設されている。

高射学校

場所

https://goo.gl/maps/3NpbXXeyXaVWVcBM6

まだ四街道には、いくつかの戦跡のネタがありますが、本記事はいったん以上で締めます。
実は2022年5月に散策したのちに記事を書くために調査をしていたらいくつかのポイントを見逃していたことが発覚したために5月にも再訪しております。まだ地味ですが見たいところがあるので、また行くことにはなりそうですが。。。


下志津駐屯地はこちらにて


関連

銚子の戦跡散策

「動物慰霊之塔と陸軍習志野学校跡地」習志野の森散策

騎兵の町・軍郷習志野。
日露戦争当時、この地には4つの「騎兵聯隊」が駐留していた。
その後、第一次大戦後の軍縮や軍備近代化の流れなどもあり、騎兵連隊は規模を縮小し騎兵は戦車兵と統合し機甲兵としてなり、兵種としての騎兵は消滅していった。

習志野の騎兵第16聯隊の敷地は、昭和7年(1932)より、陸軍習志野学校の敷地へと編入されている。
今回のレポートは、そんな「陸軍習志野学校」にまつわる戦跡散策。


習志野の森

以前に、習志野の騎兵聯隊関連の散策を行った際に気になっていた場所があった。

https://senseki-kikou.net/?p=2829

「習志野の森」
立ち入りできず外から眺めるのみであったこの場所に、入れる機会があった。
当サイトでも何度かお世話になっていた日本戦跡協会さんが、「習志野の森」の保存活動と掃除を行っている団体(「習志野みどりの会」)と連絡をとり、とある日の午前中の掃除時間に見学できる道筋を用意し、そこに私も便乗する機会を得られたのだ。

そんなわけで。。。

本記事は、日本戦跡協会様との共同探索となります。
 日本戦跡協会サイト
  https://www.sensouiseki.com
 日本戦跡協会Twitter
  https://twitter.com/sensouiseki
 日本戦跡協会Facebook
  https://www.facebook.com/sensouiseki/

いつもありがとうございます。


習志野の騎兵

近衛師団
 騎兵第1旅団→麾下 騎兵13聯隊 騎兵14聯隊
第1師団
 騎兵第2旅団→麾下 騎兵15聯隊 騎兵16聯隊

日露戦争時の旅団長(少将)
 騎兵第1旅団長→秋山好古 【秋山支隊】
 騎兵第2旅団長→閑院宮載仁親王

習志野陸軍病院→習志野病院
騎兵第13聯隊→東邦大学
騎兵第14聯隊→日本大学
騎兵第15聯隊→東邦中学校高等学校
騎兵第16聯隊→大久保住宅や「習志野の森」←【今回の対象エリア】


位置関係(騎兵聯隊)

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8911-C1-1
昭和19年10月16日に大日本帝国陸軍が撮影した航空写真を加工。

位置関係(陸軍習志野学校)

騎兵第16聯隊は、昭和7年より陸軍習志野学校。
当初は、騎兵第16聯隊の跡地のみだったが、のちに騎兵第15聯隊の跡地にも敷地拡大している。

陸軍習志野学校周辺をクローズアップする。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M737-103
1948年01月18日に米軍が撮影した航空写真を加工。

見学の際に頂いた資料。
「学校内建物配置図」と照合する。

「習志野の森」該当部分を更に拡大。

「習志野の森」に残されている基礎などは、上記と照らし合わせると「学校本部」「実験講堂」「学生舎」「厠」「医務室」「将校集会所」などであることがわかった。

習志野演習場 周辺住民説明会(第1回)

http://www.env.go.jp/chemi/gas_inform/local/nara_en/01/index.html

環境省の説明会資料にて「習志野学校」関連、位置関係などがわかる資料が公開されている。


陸軍習志野学校

もと陸軍騎兵第16聯隊及び騎兵15聯隊の地に展開されたのが「陸軍習志野学校」(昭和8年~昭和20年)。
戦後は警察署・学校・住宅・保育園などに転用。
中心部は「千葉大腐食研究所」が展開されていたというが現在は移転。その跡地は「習志野の森」として国有地になっている。

「習志野の森」
現在は国有地となっており年に何度かの公開日以外は立入禁止。戦後に学校建屋を活用して展開された千葉大腐食研究所跡地に習志野学校時代の基礎や土台のみが残っている。奥には動物実験の犠牲になった「動物慰霊塔」もある。

陸軍習志野学校では、帝国陸軍の化学戦(毒ガス戦)に関する研究が行われた。「毒ガス学校」とも呼称されて、毒ガス兵器の開発や実験をしていたと思われやすいが、実際には、化学兵種である化兵・瓦斯兵に毒ガス戦に対する防御法の教育訓練する学校であったという。
陸軍習志野学校は運用訓練、大久野島の陸軍造兵廠忠海製造所で化学物質の製造が行われ北九州小倉の陸軍造兵廠曽根製造所まで輸送され兵器として製造(充填)されたという。

大正7年(1918)、陸軍省で臨時毒ガス調査委員会が設立。
大正8年、板橋陸軍火薬研究所を改編し陸軍技術本部に陸軍科学研究所が新設。
大正11年、戸山ヶ原に創設された陸軍化学研究所第2課化学兵器班で研究開始。
大正15年、参謀本部内に毒ガス研究会が設置。
昭和4年(1929)、化学兵器を製造する大久野島忠海製造所が稼動開始。
昭和8年(1933)、毒ガスを中心とする化学戦学校として習志野学校が開校。同時に細菌戦は関東軍防疫給水部本部(731部隊)で行うことも決定。

昭和20年の終戦時、学校は空襲を受けずほぼ無傷の状態であったが、校内では文書や設備の破壊・焼却が行われた。
戦後は、警察署・学校・住宅・保育園などに転用。特に中心施設があった騎兵第16連隊跡地には千葉大学の分院・附属の腐敗研究所などが置かれた。1977年(昭和52年)腐敗研究所が千葉市内に移転した跡は、「習志野の森」となっている。
習志野の森も再開発で失われるところであったが、貴重な在来種「カントウタンポポ生息地」として「習志野みどりの会」による緑地保全活動が行われている。


動物慰霊之塔(習志野の森)

陸軍習志野学校の敷地内に残る慰霊塔。登戸研究所もそうであったが、実験での犠牲となった動物たちを慰霊する空間。敷地の端ではなく、本部と講堂と学生舎の中間に建立されていた。

動物慰霊之塔
 〇〇〇〇〇〇〇〇

慰霊之塔に刻まれている揮毫者の名前は削りとられていた。

揮毫者の名前を何らかの理由で削ったものと思われるが、削られた理由は不詳。
上4文字が「陸軍少将」と読めることから、陸軍習志野学校校長など、それなりの立場であった人物であったことは容易に予想できる。
その上で、裏面は「皇紀2600年」に建立されたことが刻まれている。
皇紀2600年=1940年(昭和15年)であれば、ちょうど陸軍習志野学校第4代校長の 西原貫治 少将(陸士23期)が、立場も時期も該当する。最後の漢字の削られ方も「治」とも読めそうだ。

西原貫治(にしはらかんじ)は、陸軍習志野学校幹事や陸軍習志野学校校長、化兵監、第4軍司令官、第57軍司令官などを歴任し、1945年(昭和20年)10月、西部軍管区司令官となり、翌月、予備役に編入され、同年12月から翌年3月にかけて西部復員監を務めている。

皇紀二千六百年一月建之


陸軍習志野学校跡地散策(習志野の森散策)

清掃開放日に許可を得て見学を実施。
一般開放は年4回(4月、6月、8月、11月の第一土曜日1000-1600)とされているが、実際の実施の可否は、都度確認でお願い致します。

入り口の門柱脇のレンがは、当時のものと思われます。

習志野の森。

このあたりに「貯水池」があったと思われる。

貯水池の隣で、「この字型」に残るレンガ基礎は「厠」の跡か?

貯水池と厠の北側は、学校本部。
学校本部の階上は研部、階下は経理室。

写真を撮っているうちに位置関係がわからなくなりました。。。

学生舎の入り口?

手洗所。水道管も残っている。

電柱も残っている。

境界杭

基礎であることはわかるが、何がなにやら、位置関係をトレースせずに写真を撮っていたので、整理ができていない状況です。

習志野の森エリアの建屋位置関係を後学のためにメモしておきます。

乱暴に記載するとこんな感じ。

        【実験講堂】
      【慰霊塔】 【厠】 【印刷所】 
【学 校 本 部】【学 生 舎】
【貯水池】【厠】     【貯水池】
【衛兵所】 【医務室】 【将校集会所】
【表門】

今回まとめることで、位置関係を把握できたので、これはわかるように写真を取り直そう。。。
また、訪問したいと思います。

掲載が遅くなってしまいましたが、「習志野みどりの会」の皆様と、日本戦跡協会様と、ありがとうございました。

※2022年1月撮影

https://goo.gl/maps/NHn3wesHvVCd7bpM6


関連リンク

習志野みどりの会

https://commu-chika.jp/organizations/50

https://narashino.mypl.net/commu-chika/50


陸軍中野学校

陸軍登戸研究所

習志野関連

所沢駅周辺の戦跡散策

所沢といえば、日本の航空の発祥の地。
日本初の航空機専用飛行場は所沢陸軍飛行場が明治44年(1911)に完成したことにはじまる。
以来、昭和20年(1945)の終戦に至るまで、日本の航空発展の歴史は、所沢とともにあった。

「空都所沢」の歴史は、明治44年(1911年)4月1日、日本初の航空機専用飛行場として「所沢陸軍飛行場」が完成したことに始まる。


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R741-123
昭和22年(1947年)12月29日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。


陸軍東京憲兵隊赤坂憲兵分隊所沢分遺所

所沢駅と所沢陸軍飛行場のを結ぶ道路の途中に。所沢陸軍飛行場の手前に、陸軍東京憲兵隊赤坂憲兵分隊所沢分遺所があった。憲兵隊は明治44年の飛行場開設と同時に配置された。

現在は、「陸軍用地の境界標石」と「門柱」「壁」が残っている。

陸軍用地

この先は、陸軍所沢飛行場。

門柱も残っている。

所沢憲兵隊の名残の壁。

場所
所沢憲兵隊の跡地には、現在は、所沢市消防団第2分団がおかれている。

https://goo.gl/maps/Q4x4crCNr135TzNn7


旭橋と飛行機新道

日本最初の飛行場である所沢飛行場の開設(明治44年)に伴い、所沢駅から飛行場へつながる道「飛行機新道」が整備された際に東川を渡るために架けられた橋。
旭橋は当初は土橋であったが、昭和5年(1930年)に、より強固でかつ空都所沢にふさわしいモダンなデザインの現在の橋に架け替えられた。
平成21年(2009年)8月に国の有形文化財に登録。

国登録有形文化財
旭橋
 旭橋は、わが国初の飛行場となった所沢飛行場が、明治44年(1911)に開設された際につくられた橋です。最初は土橋でしたが、昭和に入り飛行場が拡張されることととなり、橋の架け替えも計画されました。そして約2年の歳月をかけて昭和5年3月に現在の橋が完成しました。
 当時としては、重厚なつくりとモダンなデザインが施されており、「空都所沢の表玄関にふさわしい橋を」との関係者の意気込みが伝わってくるようです。

橋の特徴
 鉄筋コンクリート造りの単純桁橋(1本の桁を両端2点の支点で支える構造)です。
 両端の親柱には赤御影石が使用され、西洋風な彫刻が施されています。上部にはかつてブロンズ製で唐草模様をあしらった六角形の電灯がありましたが、戦時中の金属供出により台座だけが残されています。
 欄干はリズミカルな白タイル貼りの連続アーチで飾られています。西洋建築の様式的モチーフが所々に取り入れられている点が、この橋の魅力となっています。
  平成22年3月
   所沢市教育委員会

国登録有形文化財
「旭橋」の昔の写真を探しています
 旭橋は、日本最初の飛行場である所沢飛行場の開設(明治44年)にともない、所沢駅から飛行場へつながる道(飛行機新道)が整備された際に、東川を渡るために架けられました。
 当初は土橋でしたが、所沢飛行場が拡張されて飛行機新道を通る物資や飛行機を見物する人々が増えたため、昭和5年、より強固でかつ空都所沢にふさわしいモダンなデザインの現在の橋に架け替えられました。
 欄干はリズミカルな白タイル貼りの連続アーチで、両端の親柱には赤御影石を使用し、西洋風の彫刻を施されています。親柱の上部には、かつてブロンズ製で唐草模様をあしらった六角形の電灯が設置されていたと伝わりますが、戦時中の金属供出で失われ、現在は台座だけが残されています。
 文化財保護課では、電燈が失われる前の旭橋の写真を探しています。戦前の旭橋の写真をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひご提供ください。写真はお借りして複写した後、お返しします。
 所沢市教育総務部文化財保護課

昭和5年3月竣工

飛行機新道は所沢飛行場(1911年)の開設に合わせて作られた道。

飛行機新道

場所

https://goo.gl/maps/qLtcV8k8bqFQT6Zw8


将校住宅

所沢駅近くの洋館付き和風住宅。
所沢陸軍飛行場・陸軍航空学校に勤務する佐官クラスの将校が住んでいたという。

表通りは駅前商店街。

この界隈は所沢駅から100メートルも離れていない場所。駅前開発の流れから置き去りにされたかのような不思議な空間。いつまでも残っているとは思えないが、貴重な往時の空間が残されていた。

場所

https://goo.gl/maps/6P518LJ1H1mH9vbW8

日本で初めて飛行した飛行機「アンリ・ファルマン機」に由来。


秋田家住宅

秋田家は屋号を「井筒屋」といい、所沢の織物産業の発展を支えた綿糸商。
秋田家住宅は、明治後期の建造。所沢市寿町の銀座通りに南面して店舗を構える商家の建物。
国登録有形文化財。

大正元年 11 月の陸軍特別大演習の際に、伏見宮貞愛親王が宿泊している。
内部は通常非公開。

場所

https://goo.gl/maps/kAAtf2FUufLs1dMq5


陸軍航空部補給部所沢支部「南倉庫」
(所沢航空参考館)跡地

所沢駅前の再開発エリア西武鉄道車両工場跡地。その前身は、陸軍用地であった。
この地に運ばれた元ドイツ軍青島飛行場格納庫は、「所沢航空参考館」として活用され、戦後は「西武鉄道車両工場」としても活用されてきた。

数年前までは陸軍時代からの遺構があったが、再開発によって、「往時の建物」から「陸軍境界標石」に至るまで、現在はすべて消失し更地となっている。。。

なにもなくなった。。。

場所

https://goo.gl/maps/bz86N56WKE9ogYmb9

※撮影:2022年3月


なお、南倉庫に関しては、「所沢航空発祥記念館」にも展示コーナーがある。

所沢航空発祥記念館の展示コーナー
航空参考館

東洋一の航空博物館だった航空参考館
 大正10(1921)年、陸軍航空部補給部所沢支部の資材倉庫用地が所沢駅西口に整備されました。5.5haの広さのこの用地は当時の陸軍所沢飛行場(現在の所沢航空公園)に対して南に位置していたため通称「南創庫」と呼ばれていました。南創庫は所沢駅に隣接しており、駅からの専用の引き込み線に飛行機や機材を載せて南倉庫に収容していました。
 大正12(1923)年、それまでは木造の倉庫だった南倉庫に、第一次世界大戦でドイツから押収した鉄骨造の二棟の巨大な倉庫(展示模型の中の奥の角にある建物と手前角にある建物)が建設されます。
 昭和10(1935)年、南創庫は陸軍航空技術学校分教場として各種の教育、訓練の場となりました。
 賞あ14(1939)年、南倉庫に陸軍航空士官学校の展示施設として「航空参考館」が設けられます。航空参考館には国内外の多数の航空機をはじめ、部品類や航空関係の遺品などが展示され、終戦まで「東洋一の航空博物館」といわれました。
 戦後は西武鉄道の車輌工場として平成12(2000)年まで鉄道車輌を製造してきましたが、車輌工場の建物は全て撤去され、所沢駅西口土地区画整理事業に基づく街づくりが進められることになりました。

西棟で使用されていたドイツ製の鉄骨(実物)

所沢の戦跡散策をするのであれば、所沢航空発祥記念館も欠かせません。


「お化け灯籠と陸軍東部62部隊」の戦跡散策(川崎・宮崎台)

東急田園都市線「宮崎台駅」。今でこそよくある住宅街のこの地に、かつて陸軍部隊が展開されていた。
六本木で編成された東部62部隊(陸軍101聯隊)は、招集兵の訓練と東京近郊に駐留する部隊の演習場として、川崎市宮前区を中心に、川崎市高津区や横浜市青葉区の一部などに進出したという。


東部62部隊(陸軍歩兵第101聯隊)

昭和15年(1940年)12月、歩兵第1聯隊留守居隊を基幹に歩兵第101聯隊が改編され、近衛歩兵第3聯隊の兵舎に駐屯。(近衛歩兵第3聯隊の兵舎は、現在の赤坂TBS界隈。)
昭和17年(1942年)11月、歩兵第101聯隊は、川崎北部の高台、溝の口界隈に転営。

以下は、川崎市平和館・掲示 より

陸軍東部62部隊と溝の口演習場
 宮前区宮崎から高津区梶ケ谷にかけては「陸軍歩兵101連隊(通称東部62部隊)が敗戦までの3年間所在していた場所です。1942年に東京赤坂から移転し、連隊本部は現在の宮崎中学校におかれました。神奈川県を中心とする招集兵を短期間訓練して数万人も外地へ送り出す軍事施設でした。
 現在でも、部隊と共に赤坂から移された「お化け灯籠」(現 市青少年の家)や、被服廠・馬房の一部が残っています。
 また、陸軍は強制的に農地を買収し、宮前区の約3割と高津区・横浜市青葉区にまたがる約9平方kmもの広大な溝ノ口演習場を設置しました。当時の射撃場は現在の国学院大学たまプラーザキャンパスにあたります。

陸軍東部62部隊跡と溝ノ口演習場の現存している遺跡


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-M376-26
昭和22年(1947年)7月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

再開発で、界隈の様相が大きく変わっている。
交通網だけでも、バイパスが南北を縦断し、東急が東西を横断している。


宮崎台駅

東急田園都市線・宮崎台駅。
「電車とバスの博物館」がすぐとなりにある。
開業は昭和41年。陸軍時代にはまだ鉄道は敷かれていなかった。

界隈の鉄道では、昭和2年(1927年)、玉川電気鉄道の溝ノ口線(二子玉川‐溝の口間)が開業。溝の口駅から長津田駅間は、昭和41年(1966)の開業まで待たねばならなかった。


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石1
(宮前区宮崎台・馬絹)

宮崎台の台地の南側、馬絹との境目のあたりにいくつかの陸軍境界標石が残っている。

階段の脇と階段に埋め込まれた、面白い境界標石。

陸軍

ちょうど、ぴったり階段に埋め込まれている。
これは、階段を作った人の心意気に感謝。

場所

宮崎台サニーハイツと宮崎台パークハイツの間の石段。

https://goo.gl/maps/79XJsgKeCRBm79qv7


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石2
(宮前区宮崎台・馬絹)

こちらも石段の脇。こうしてみると宮崎台という台地が分かる。
台地の上が陸軍用地であった、と。

場所

宮崎台ハイツの手前の石段

https://goo.gl/maps/wb6cDyVfRZ5qdFC99


馬絹ノ稲荷神社

この稲荷神社の界隈にも、境界標があるというが、見つけられませんでした。。。

場所

https://goo.gl/maps/mLixMHczBRBEeMYa6


陸軍東部62部隊・馬房跡

宮前区梶ケ谷。
「虎の門病院分院」から、東京横浜バイパスを南下したエリアの住宅地。ここに、当時「馬房」として使用されていた長屋建物が、戦後に住居に転用された。現在も長屋の一部が数カ所に残っている。

関係者の方より「馬房跡の長屋」を切り離した際の写真を頂戴しました。
ご提供ありがとうございます。


ーーー
戦後、この長い馬房跡に人々が寄り合い早い者勝ちというような感じで土地を取り合ったようです。
なので広さはマチマチみたいです。
時代が変わり、代もかわり当時から住んでいる方もだいぶ居なくなりました。
(下記の写真は、)長屋を切り離した際に撮影したものです。工事中で乱雑に板が貼り付けてありますが、馬房の形跡がよくわかるかと思います。
ーーー

以下は、現在の通りの様子。
この通りの右手側に馬房の長屋があった。いまも一部の建屋にその痕跡をみることができる。
 ※建屋の写真は割愛。

場所

神奈川県川崎市高津区梶ケ谷4丁目の住宅地。

※界隈は、住宅地ですので、配慮の上でお願いいたします。


虎の門病院分院・宮崎中学校

陸軍東部62部隊の兵舎や酒保があったあたりが、虎の門病院分院。
陸軍東部62部隊本部があったあたりは、川崎市立宮崎中学校となっている。


陸軍東部62部隊・将校集会所跡

陸軍東部62部隊の将校集会所があったあたりは、現在は「川崎市青少年の家」となっている。庭園に将校集会所時代の石灯籠が残されている。

陸軍東部62部隊・将校集会所庭園
お化け灯籠

川崎市地域文化財
お化け灯籠
 この灯籠は、1941年(昭和16年)まで、元日本陸軍東部62部隊の将校集会所の庭にありました。(部隊の場所は、現在の東京都港区六本木)そのころ、灯籠が夜になると六本木辺りに出るという噂が立ちました。
 1942年に、部隊は灯籠も一緒に連れて、現在の青少年の家を中心としたこの場所に移しました。その時、この噂を消す願いを込めて、動かないように足の部分を埋めたとも、また足を切って移したとも言われ、本当のことははっきりしていません。
 今では化けて出るかどうか定かではありませんが、「お化け灯籠」と呼ばれ、この青少年の家の庭で、平和を願い、青少年の健やかな成長を見守っています。

けっこう、おおきな灯籠。

下はどうなっているのだろう。埋められているのか、切られているのか。。。

場所

https://goo.gl/maps/9CaDuLt1xTNTFBgv8


宮崎大塚古墳(高射砲陣地跡?)

高さ4.7メートルの方墳、という。頂上部には、「馬絹大塚供養塔」が建立されている。
陸軍東部62部隊が駐留していた当時は、高射砲陣地がおかれていた、とも伝承されている。

場所

https://goo.gl/maps/DSzvsnuf2fsfFUeSA


陸軍東部62部隊・ 被服廠の建屋跡

陸軍東部62部隊の被服廠は、川崎市宮前生活環境事業所の界隈にあった。
川崎市宮前生活環境事業所から東の住宅街の一角に、「被服廠の建物の一部」とされている木造建造物が残存している。

現在は、物置小屋として使用されているようだ。

場所

https://goo.gl/maps/9YopjwbfL4Yi4K3V9


陸軍東部62部隊・門柱跡?

被服廠跡ちかくにあるレンガの残骸。
往時の門柱跡?もしくは、なにかの基礎かもしれない。 

今は駐車場の角。

奥に 川崎市宮前生活環境事業所 が見える。

川崎市宮前生活環境事業所が、陸軍東部62部隊の被服廠跡。

場所

https://goo.gl/maps/2uq2B8HZsp7C5moJ8


長坂(陸軍用地迂回路)

長坂
国道246号線梶ヶ谷付近の坂は、かつて「長坂」と呼ばれていた。この坂道は、現在の「青少年の家」周辺が陸軍に接収され、迂回路としてつくられたものですが、「長坂」という名が残りました。
 平成12年2月1日制定
  宮前区

場所

https://goo.gl/maps/CmBERJpqQUnwjtvo6


陸軍東部62部隊・弾薬庫跡?

東急田園都市線の作延トンネル西出口付近がかつての弾薬庫であった。
トンネルは弾薬庫の転用?ともいうが定かではない。
作延トンネルの上部には、今は虎の門病院分院・宮崎中学校などがある。
往時は、このトンネルのうえに、部隊本部があった。

場所

https://goo.gl/maps/TH2ZCCgRw1cr8Kqi9


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石3
(高津区向ケ丘)

宮崎台駅の北側。しばられ松(聖社)の境内に保存されている。

陸軍

しばられ松

しばられ松、聖社の由来
昔、上作延南の原に聖松という大きな曲がり松がありました。
相模の国の或る六部(六十六部の経典を寺々に修める修行僧)が、諸国巡礼の折、この地で百日咳に苦しみ亡くなったという。
又、一説には、この地で穴の中にて鉦をたたき、念仏を唱え修行をしていたが、「この鉦の音が止んだら死んだと思ってくれ」と言い残し入定したといわれる。
その跡に植えたのが、この聖松であるいう(←「あるいう」って書いてあるけど、「あるという」のまちがいでしょうねたぶん)。松の樹勢は、高さ五メートル根廻り三メートル余りある大木となり、枝葉は相模の方向を向き生い繁っていた。明治二十年ごろ落雷にあい、焼け落ちて今日の姿となったが、残る枝ぶりは今も往年の面影をとどめている。近郷の人々は、子供が百日咳にかかると素縄を左に編んで、聖松に縛り願をかけ、病が治ると、右縄を編み幹に縛り直して願ほどきをしたと、言われる。
その由に、この松を別名「しばられの松」という。
社殿がある。又、このしばられ松は古くより稲毛領の七本松の一つとされ、百合ヶ丘の「「弘法の松」、久地の「綱下げの松」などと共によく知られた松である。
稲毛三郎重松が鎌倉に赴く途中、馬の鞍を掛けた「鞍掛けの松」とも言われている。
民俗信仰の対象としても江戸時代、大変崇められ、親しまれたと言われている。平成十二年、聖社を新築建立したのを記念してその縁起由来の伝聞を要約してここに記す。

慰霊碑
忠魂碑

しばられ松(聖社)の境内に、2つの慰霊碑がある。

慰霊碑は、日支事変、大東亜戦争における戦没者の慰霊顕彰。
忠魂碑は、西南の役から日清日露戦役における戦没者の慰霊顕彰。

碑文
 昭和の初期をふりかえって見れば日支事変、又大東亜戦争と、中期は二十年八月終戦、すべての物資の不足等で国全体がもっとも貧窮な時を迎えました。
 又此の戦争により入営や召集により北は大陸の果に南の海に島々に又空地とお国の為とは云え多くの方々が祖国をあとにして戦禍により散っていった。誠にお気の毒に耐えません。
 私達も此のような戦争は二度とあってはならない。いつまでもいつまでも平和な日本であってほしいとただただ祈り願うものであります。
 我が上作延に於ても戦没された方は日支事変で二名、大東亜戦争にて十二名の方が亡なっています。
 そして昭和三十九年東京オリンピック大会が過ぎる頃より経済の急成長により安定した克つてない平和な日本となりました。
 戦後五十年になろうとする今日、戦没者皆様の遺影に感謝申し上げここに慰霊碑を建立して衷心より哀悼の意を表し冥福をお祈りし其の名を後世まで伝え遺族の方々の心よりの慰めとして毎年慰霊祭の出来る事を願い度い。
  平成5年12月5日建立
   上作延戦没者慰霊碑建立委員会建立

場所

https://goo.gl/maps/6myByRTS6P3scmNv7


川崎市平和館

川崎市平和館には、東部62部隊の境界標石が展示してある。

陸軍軍用地境界標
近隣の家の庭に埋まっていたものを、陸軍東部62部隊の研究をしている関係で譲り受けた。東部62部隊・溝口演習場の境界を示すために使われていた境界標。
 川崎市平和館所蔵

陸軍軍用地境界標(宮前区馬絹で使用)
 軍用地の境界には、長さ1m余の御影石が30cm程度頭を出して埋められていました。「陸軍」という文字が刻まれています。都市開発の影響でほとんどが抜かれてしまいましたが、当時のまま埋まっているもの、別の場所に移されたものが約50本、宮前区・高津区に残っています。

撮影:2022年1月及び2月


関連

溝口

陸軍東部62部隊(101聯隊)は、宮崎台に移る前は、六本木に駐留していた。

「防空壕と溝口演習場」溝口の戦跡散策(川崎・溝口)


東急溝の口駅・JR武蔵溝ノ口駅前の防空壕

表記ゆれしているでややこしいが、東急溝の口駅・JR武蔵溝ノ口駅の南口ロータリー。
その向かい側の台地の下には、ぽっかりと穴が空いていた。

どうみても防空壕ですね。

穴は、左に折れた構造。

溝の口には昭和15年(1940年)に軍需工場として「日本光学」が建設。
南武線沿線は軍需工場は集中していたために、大規模空襲「川崎空襲」の被害を被ることとなる。

駅前ロータリー。

場所

https://goo.gl/maps/2iRVRoXvgKewFEn7A


久本神社裏山の防空壕

東急溝の口駅・JR武蔵溝ノ口駅から南に。
久本神社の裏山にも防空壕が残っている。

開口している。

近くには、久本横穴墓群もある。ただし横穴古墳群が埋められている。

場所

https://goo.gl/maps/PNYM9N9pdJLZ7rv99


馬坂ノ庚申堂

武蔵溝ノ口駅から南に、「馬坂」「兎坂」という動物の名を冠した坂がある。
このあたりにも陸軍の境界標が残っている。

場所

https://goo.gl/maps/YmFhR4KgYWVuNZDf8


溝口演習場の陸軍境界標石(兎坂)

兎坂に2つ、境界標石が残っている。

ひとつめ。南側。

ふたつめ。北側。

ふたつの境界標石を見比べれば、天面の刻みの向きが違うことがわかる。
この角度で陸軍用地の方向を表している。

場所

https://goo.gl/maps/ViXV79Japdm6GfcY6


溝口演習場の陸軍境界標石(馬坂)

勾配26%(14.6度)の急坂。「馬坂」と書いて「まさか」という。急坂として有名らしい。

ここには、陸軍境界標席が1つ残っているといわれているが、見つけることが出来なかった。

もしかして、新しくフェンスが設けられた際に、撤去されたのかもしれない。不自然な痕跡を見つけた。

これは、境界石跡?かもしれない。関係ないかもしれない。

奥に、横たわっている石柱のような、なにかがあった。もしや…

庚申塚の手前の細道にも、標石があったが、これは違うかもしれない。

うーん、ちょっと違うかな??

溝口演習場と関連する「陸軍東部62部隊」に関しては、以下の頁にて

※撮影:2022年2月

印旛陸軍飛行場と無蓋掩体壕(印西)

千葉県印西市。
北総鉄道北総線「印西牧の原駅」。

正直言って乗る機会がなく、行く機会のない場所。なんせ北総線は運賃が高いので、用事がない限りは乗ることもなかった。そのため、印西市に「無蓋掩体壕」があるとは聞いていたが、それだけのために行く気がいまいち起きなかった。

先日、偶然で奇跡的な出会いをした「日本戦跡協会の代表様」から「印西の無蓋掩体壕を見てこようと思っている」という話を聞き、せっかくなので同行させていただくことにした。

そして、無蓋掩体壕と周辺探索を行い、記事をまとめるために、事後調査をしていたら、なにやら他にも見どころがあることが判明。このままでは、半端な記事になってしまう。

そういえば、日本戦跡協会さんと「同じところに何度も行くことってあるよね、、、調査漏れとかで」など話していた矢先、どうやら早速に、再訪しないと行けない感じ。

そんなわけで、本記事は、1回目を日本戦跡協会様との共同探索、2回目を再訪しての単独再調査ということで、まとめさせていただきました。

1回目は2022年1月上旬の晴天写真、2回目は1月下旬の曇天写真、です。


本記事の一部は、日本戦跡協会様との共同探索となります。
 日本戦跡協会サイト
  https://www.sensouiseki.com
 日本戦跡協会Twitter
  https://twitter.com/sensouiseki
 日本戦跡協会Facebook
  https://www.facebook.com/sensouiseki/


逓信省印旛地方航空機乗員養成所
印旛陸軍飛行場
(印旛飛行場・深草飛行場)

深草とかいて「そうふけ」と読む。草深野(惣深野)。文字通りに草深く茂っている土地であった。
印旛飛行場は舗装をしていない滑走路で、なおかつパイロット養成のための飛行場であった。そのためにもともとの格納庫が少なく、陸軍が使用するようになった際に多くの無蓋掩体壕が造られたという。1982年調査段階では36基が確認されている。

昭和13年、逓信省印旛地方航空機乗員養成所が創設。
昭和17年6月、印旛飛行場が完成。
昭和18年10月、陸軍によって拡張工事が開始。
昭和19年10月、帝都防衛のため、陸軍飛行第二十三戦隊(天翔第19026)が配備。

第十飛行師団の指揮下にあって関東地区防衛任務に従事した陸軍飛行第二十三戦隊は、一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗」を保有していた。ただ、この時期は既に「隼」はB-29爆撃機を邀撃するには無力すぎる戦闘機であった。

陸軍飛行第二十三戦隊は、帝都防空に奮戦。昭和20年2月16~17日の米艦載機群による関東空襲に邀撃し、藤田重郎少佐(陸軍飛行第二十三戦隊 初代戦隊長)以下、多くの搭乗員が戦死。このときは、印旛・柏・松戸・成増・調布・水戸などの多くの陸軍飛行場から戦闘機が迎撃しており、そして多くの戦死者を出している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-R377-No1-144
昭和22年(1947年)10月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

飛行場部分を拡大。既に農地開墾が始まっている。

現在の様子に、飛行場用地を落とし込みしてみた。

西の原公園にあった地図。これで位置関係が把握できる。


印西牧の原駅

印西牧の原駅の南西に、当時は飛行場が広がっていた。

現在、線路部分は掘り下げられているが、もちろん当時は、平地であった。
滑走路は、印西牧の原駅の南北にも広がっていた。

南側の駅前に、アパホテル。上の階に泊まれば、往時の飛行場界隈を見渡すことも出来るだろ。ただ。泊まる用事が思い浮かばないが。

観覧車が見える。BIG HOP(ビッグホップ)ガーデンモール印西。
このあたりも飛行場エリア。


西の原公園に、記念碑がある。

印旛飛行場跡地記念碑

平和の碑

逓信省印旛地方航空機乗員養成所跡
陸軍飛行第二十三戦隊印旛飛行場跡
通称 草深飛行場跡 

草深野のあゆみ
 往古、印旛沼の畔に谷津を抱きし原野あり、草深野と名づく。そが谷津に開墾の鍬が入れられしは凡そ三百三十年前のことにて、開墾に従事せし先人よく過酷なる労働に耐え、豊穣の地となせり。惣深新田と称す。里人、早春には野に出て山菜を摘み、風の音に秋来たりなば、金波を漂わす水田に入りて鎌を振るう。四季は移ろい、凛たる寒気に包まれし野に雄鹿の声渡り大晦となりぬ。時は緩やかに流れ連綿として代を重ねたり。そが草深野に激動の時代を予感させし槌音響きたるは昭和十三年のことにて、逓信省印旛地方航空機乗員養成所の創設行わる。大志を抱きたる若人集い訓練に励む。しかるに軍靴の響き日増しに高く、昭和十八年十月、拡張工事に着手。翌十九年十月、帝都防衛の任に当たるべく陸軍飛行第二十三戦隊配備され、熾烈なる空中戦に挑みたる。雄々しき丈夫、勇躍銀翼を煌めかせ飛翔せしが帰還せざる者また多し。昭和二十年八月、幾多の尊き人命を奪いし第二次世界大戦終結せし後、飛行場跡地に開拓団入植し開墾に取り組みたる。その辛苦筆舌に尽くしがたし。されど不屈の闘志と団結力により、耕地は徐々に拡大し草深野は肥沃の地となりぬ。昭和三十年代後半に至り、国家政策として大都市周辺部に大規模なる新住宅地の造成が進められ、その一環として千葉北部地区宅地開発事業、即ち、「千葉ニュータウン事業構想」が発表されしは、昭和四十一年のことなり。爾来三十有余年、草深野は活気に漲り笑顔溢るる市街地へと変貌しつつあり。
 今般、印旛(草深)飛行場跡に有志の発意をもちて、多感なる往時に思いを馳せ、かつ恒久の平和を祈念せんと平和の碑を建立するにあたり、草深野の変遷をここに刻み後世に伝うるものなり。
  平成十五年十月吉日 
   印旛市長 海老原栄選文 
   印旛飛行場跡地記念碑建設委員会

説明板もある。

印旛地方航空機乗員養成所
陸軍飛行第23戦隊
印旛飛行場

印旛地方航空機乗員養成所
陸軍飛行第23戦隊
印旛飛行場

 昭和17年(1942年)、この地域(現在の印西市原、西の原及び草深周辺)に印旛地方航空機乗員養成所として飛行場が設置されました。このような航空機乗員養成所は、全国で15ヶ所ほど設けられた施設で、旧逓信省航空局により、民間の航空機乗員養成所として計画されたものです。
 昭和19年、太平洋戦争の戦況悪化によって拡張され、旧陸軍航空基地と兼用となり、首都防衛のため陸軍飛行第23戦隊が配備されました。
 部隊は、首都上空の迎撃のほか、硫黄島や北九州などに派遣され、隊員の一部は特別攻撃隊として出撃しました。終戦時には、50機ほどの機体が配備されていたといわれています。
 飛行場には、約2,000mの滑走路3本に加え、格納庫や飛行指揮所、射撃場などの付属施設、空襲時に飛行機を隠す掩体壕や誘導路などが整備されていました。
 戦後は、入植者による開拓が行われ、その大半が農地となりましたが、施設の一部は開拓事務所や鉄道教習所となり、その後、昭和24年から昭和60年までは、印旛少年院として利用されました。

 現在では、千葉ニュータウン事業などによる開発に伴い、当時の面影を残すものはほとんど残されていませんが、掩体壕や敷地内に植えられていた椎の木などが、往時の姿を今に伝えています。掩体壕は、現在1基が保存され、見学することができます。
 また、傍らにある「平和の碑」は、この飛行場の存在を後世に語り継ぐとともに、恒久の平和を祈念して、関係者や地元有志の尽力により、平成15年に設置されたものです。

参考文献
・印養誌出版委員会1977『わが青春―印旛航空機乗員養成所』
・山本忠良1979『草深野開拓』
・飛行第二十三戦隊印旛会編1987『飛行第二十三戦隊想い出の記:帝都防衛』
・印西町石造物調査会1987「消えゆく掩体壕」『印西町の歴史』第三号
・小林実ほか編1997『印旛の空:長浜清・陸軍特別攻撃隊員の記録と印旛航空機乗員養成所五期生の回想』

場所

https://goo.gl/maps/rKvoeFLK7ebw2BHJ6


椎の木(西の原南街区公園)

本部や講堂などの主要施設がおかれていたエリア。再開発で区画としても往時を思い起こすことが難しい中、敷地内に植えられていた「椎の木」が往時の姿を伝えているという。
印旛航空機乗員養成所本部跡にあたる。

場所

https://goo.gl/maps/HWFSa45kDDsdXR3s6

位置関係
※前述の航空写真より( ファイル: USA-R377-No1-144 )

道路も区画も全く異なっているために、位置関係の照合が難しい。
何も噛み合わない。。。
往時のロータリーの中央が、もしかしたら「椎の木」なのだろうか。


無蓋掩体壕モニュメント(東の原公園)

日本戦跡協会様と最初に訪れた場所が「東の原公園」でした。
ここに、「印旛飛行場と掩体壕」の案内看板がありますが、この公園自体は、往時の飛行場エリアからは敷地外。

印旛飛行場と掩体壕
 印西牧の原駅周辺には、昭和16年から昭和20年にかけて通信省航空局の印旛地方航空機搭乗員養成所(通称・印旛飛行場)の滑走路が広がっていました。昭和19年頃からは陸軍の軍用飛行場として使用され、首都防衛の任を果たしていました。現在では、千葉ニュータウンなどの開発が進み、当時の姿を見ることはできませんが、印旛飛行場があったことを示す痕跡として、掩体壕が残っています。
 掩体壕とは、飛行場に駐機する軍用機を上空の敵機から守るために作られた格納庫で、太平洋戦争末期、米軍による本土空襲が激しくなる状況で、全国の軍用飛行場に構築されました。掩体壕には、コンクリート製の屋根で作られた有蓋型と、屋根がなく土を土塁状に固めた無蓋型があります。印旛飛行場には、無蓋型の掩体壕が作られ、現存する掩体壕は、造谷川防災調整池の西側に保存されています。大きさは幅約20メートル、高さ3メートルほどで、小型の軍用機ならばほぼ一機格納できる規模となっています。
  印西市教育委員会

公園には、無蓋掩体壕を模したものがある。その中央には飛行機を模した砂場。
子どもたちが遊んでいるので、近づいての撮影は行いませんでした。

Google航空写真でみると、たしかに、無蓋掩体壕と飛行機、ですね。
これはなかなか粋です。

東の原公園は印旛飛行場跡地ではないが看板がありますので、脚を運んでみるのも良いかと。

場所

https://goo.gl/maps/EbSLq1GP6zntLoPB7


印旛飛行場の無蓋掩体壕

掩体壕
 正面に見える構築物は、掩体壕と呼ばれる戦争遺跡です。掩体壕とは、飛行場に駐機する軍用機を上空の敵機から守るために造られた格納庫で、昭和20年、太平洋戦争末期に、米軍による本土空襲が激しくなる状況の中で、全国の軍用飛行場に構築されました。掩体壕には、コンクリート製の有蓋型と、現状で屋根がなく、土塁状の形状の無蓋型が存在します。
 印西牧の原駅一帯には、昭和16年から昭和20年にかけて逓信省航空局の印旛地方航空機乗員養成所(通称 印旛飛行場)が所在し、昭和19年頃から、乗員養成所は陸軍の軍用飛行場として使用され、首都防衛の任を果たしていました。滑走路周辺には、規模が横幅約20m、高さ約3mほどの無蓋型の掩体壕が多数存在し、小型の軍用機ならば、ほぼ1機格納できる大きさです。
 現在では、千葉ニュータウンなどの開発が進み、当時の姿を見ることはできませんが、掩体壕はこの地域に、印旛飛行場があったことを示す貴重な文化財です。
 平成28年4月1日
  印西市教育委員会

無蓋掩体壕は、写真で伝えるのが難しいので、まずは、Google航空写真を。

2回目のリベンジ撮影で、魚眼レンズを持ち込みまして。

魚眼でなんとか全容を収めることに成功。
今度から、無蓋掩体壕を撮影するときは、魚眼必須ですね。いうほどに撮影機会はないですが。

無蓋掩体壕の前の道は、かつての誘導路。

晴天時の撮影は、1回目の撮影。日本戦跡協会様との探索時に標準レンズ、で。

スマホでパノラマ撮影もしてみました。
魚眼もしくは、パノラマでないと、左右が収まらないですね。


誘導路の名残、かな。

宅地造成とともに、アスファルト道路も新しくなっていく。

このあたりが飛行場エリアの南東部。写真の右側が飛行場エリア。

場所(無蓋掩体壕)

https://goo.gl/maps/4GhB2ZpmLc2ZWpdy8

位置関係
※前述の航空写真より( ファイル: USA-R377-No1-144 )

右の黄枠が現存している「無蓋掩体壕」の場所。
左の黄枠が「射撃場」、そして「排水路(用水路)」

現在と照合する。
現存する「無蓋掩体壕」の場所ははっきりとわかる。
また、航空写真では、「射撃場」の区画もはっくりと残っていることがわかる。


射撃場跡(原青年館)

「開拓記念碑」が原青年館の脇に建立されている。
昭和46年2月16日建立。
この地は、かつて「射撃場」があった場所。

「草深飛行場跡」と刻まれている。

原青年館の周辺。畑と墓地と資材置き場。見渡せばきれいに四角形の空間が広がっていて、整地の先は林となっている。
この区画が「射撃場」の跡地。

この射撃場跡エリアも先行きが不安な雰囲気が。
なにやら造成されそうな気配が。。。

射撃場跡の茂みの中に、新しい境界杭が打たれ始めてました。これは。。。

1回目の探索時に日本戦跡協会様と、竹林を深入りしてみた。
そしたら、見事にビンゴでした。

資材置き場の奥の竹林は高台となっており、射撃場があった場所は低地となっていた。これは「射撃場」の土手の名残と思われます。一人では見つけられなかったかもしれません。

そして、往時の区画と同じ場所にある用水路。位置関係は往時と変わらず。
もちろん、改良さされているはずではあるが、これは飛行場エリアの排水路転用の用水路と思わます。

右側が飛行場エリア。

印税牧の原。再開発により、次々と姿を変えている。
椎ノ木の公園と無蓋掩体壕は、整備されたが、それ以外は、いつなくなってもおかしくない。畑がなくなれば用水も不要。平然と区画も変わるかもしない。
そして宅地化が郊外に広がっている現状で、射撃場跡もいつまでも残っているとは限らない。残る戦跡と消える戦跡の狭間をみつつ、少しでも記録として伝承をしていきたいものです。

※撮影は2022年1月


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