「千葉県」カテゴリーアーカイブ

茂原海軍航空基地跡散策・その2「引込線跡と地下壕跡」

千葉県茂原市。掩体壕が残る街。そんな掩体壕群は「その1」で記載しました。

「その2」では、掩体壕以外の「茂原の戦跡」をまとめます。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-8
1947年02月22日、米軍撮影の航空写真。

以下、抜粋の上、補足加工。

滑走路は西側の1本完成していたが、東側の二本目と南側の東西滑走路は未完成。

茂原駅から、引込線の跡をたどりながら、北上をしていきます。


茂原海軍航空基地

1941年(昭和16年)07月に建設決定し、同年09月に着工。東郷地区の約150戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転。(旧東郷小学校跡記念碑がある)
1942年12月に「第五五二航空隊」が茂原に開隊。しかし翌年昭和18年にマーシャルに進出し、茂原に戻ることなくテニアンにて解隊。
1943年9月に佐伯空艦爆隊を主体とする「第五〇二航空隊」が茂原海軍航空基地の管理部隊となる(現駐は松島基地)。同隊は1944年2月に北海道に転進し、1944年10月に解隊。
1943年10月に夜戦部隊を主体とする「第三二一航空隊 (鵄)」が茂原に開隊。1944年2月にマーシャルに進出し、7月に解隊。
1943年11月に第三〇一航空隊 (艦戦)が、茂原基地を原駐として横須賀基地で開隊。1944年7月に硫黄島にて解隊。
1942年に館山で開隊した第二五二航空隊 (元山航空隊戦闘機部隊を主体) はマーシャルで壊滅状態となり、1944年2月に館山基地にて再建。本部は館山基地に置かれ、1944年(昭和19年)8月以降、茂原基地に転進している。
「二五二空」は本土防空の迎撃に従事。1945年(昭和20年)5月28日、米軍が茂原飛行場を強襲。「二五二空」は郡山飛行場に退避。そのまま終戦を迎えた。

戦後の1955年(昭和30年)3月18日、茂原海軍航空基地が自衛隊の基地になろうとしたとき、茂原市議会は満場一致で基地に反対する決議し、跡地の大部分は工業地帯と学校用地、農地、住宅地となった。


茂原駅

午前8時、茂原駅到着。散策のスタート駅。


茂原海軍航空基地引込線跡

サンシティ町保通りを北上する。この道がかつての引込線の跡。


北上していくと、文教エリアに到達する。

茂原海軍航空基地本部跡(茂原市立萩原小学校)

特に何もないけど、萩原小学校がかつての本部跡。

ちょっと雰囲気のある建屋があった。
往時の航空写真では一致できなかったので、茂原海軍航空基地とは関係ないとは重いけど。


茂原海軍航空基地兵舎跡(茂原市立茂原中学校)

茂原中学校のあたりには兵舎があった。こちらも何もない。

この道は引込線の跡。

なにもないと思ったが、ちょうど引込線が阿久川を渡るためにカーブするあたりに、古めの建屋があった。関係ないかもしれないけど兵舎っぽいといえば、兵舎っぽい。関係ないと思うけど。

長屋をぶった切った感じがするんです、、、


茂原海軍航空基地引込線橋脚土台跡

阿久川を渡るための引込線の橋脚土台が残っている。

場所

https://goo.gl/maps/4dwuYPRmr4p1oMc67

阿久川

沢井製薬の工場。滑走路エリア。

滑走路のあった方向。


茂原海軍航空基地誘導路跡

掩体壕を散策した記事は「その1」にまとめました。掩体壕があるのであれば。もちろん誘導路もあるわけで、誘導路を歩いてみる。

沢井製薬関東工場の前の道が誘導路。

誘導路が滑走路の向けて曲がるあたりは、三井化学アグロ株式会社。


茂原海軍航空基地滑走路跡

東西の誘導路が合流して、南に真っ直ぐ伸びる正面の道路が滑走路跡。

場所

https://goo.gl/maps/cWbGLbL27odWdUuN6

誘導路の先には、茂原市が管理している掩体壕への誘導がある。

このさきに掩体壕がある。この道も誘導路。

この先の掩体壕の記録は別記事の「その1」で。


茂原海軍航空隊病院壕「腰当地下壕」

場所は変わって、掩体壕エリアから外房線を横断して、茂原市腰当へ。ここにはかつて茂原海軍航空隊の海軍病院壕があり、通称「腰当地下壕」と呼称されている。

その山の下に地下壕がある。

ちかくにある、光福寺。

地下への入り口っぽいのがあるが、封鎖。

洞窟内の壁が一部崩れており危険ですので中には入れません。
茂原市教育委員会

あっ、はい。。。

場所

https://goo.gl/maps/2jttYmGYJhqHfFpy5

光福寺から山裾の道をたどって裏へ。天然ガス基地の裏。

いくつか開口している。そして毎回、思うわけです。夏に山を散策するのは駄目だと。。。

今回は、むりに壕には入らない。退散します。

腰当地下壕のある山。

そのまま山裾の道を歩いて行く。


茂原海軍航空隊司令部壕「長尾地下壕」

なにか見えた。
いい感じの素掘りのトンネル。海軍がこの地に地下壕を設置する前に掘られたトンネルのようで、海軍も連絡路として活用していたという。
この地にあった茂原海軍航空隊司令部壕は、通称で「長尾地下壕」と呼称されている。
私は北から歩いて来たが、茂原市立豊田小学校の脇から赴くのがわかりやすい。

切通のトンネル。

トンネルの北側に、なんとなく山に入れる獣道のような小道がある。
進んでみましょう。

開口してます。

入れそうなので、入ってみましょう。

入ってみたものの、装備はライトのみ。普通の靴なの足下がこころもとない。足下が水気を帯びた泥に張り付かれながら、慎重に歩いて行く。

まがりみち。

おおう。水没してみますね。これは長靴がないと厳しい。

引き返しましょう。
地下壕に関しては、諸先輩方がいらっしゃいますので、私はさわりのみで。
ちなみに他にも地下壕の開口がいくつかあり、山を縦断すれば、前述の腰当地下壕にも到達できるらしいが、何分にも夏場は山の散策は無理です。冬ですね、再訪するのであれば。

場所

https://goo.gl/maps/4WcqMt2WsrRHnfxP8

切り通しに戻ってきました。


長尾地下壕から新茂原駅まで歩き。

新茂原駅

新茂原駅に戻ってきました。
茂原駅に比べると、かなり寂しい駅ですね。

新茂原駅から北西方面には、地下壕があった。

新茂原駅から北東方面には、掩体壕群。

新茂原駅の東側には、誘導路があった。

そして新茂原駅の南東には、滑走路があった。

茂原駅から、引込線と誘導路を経由して掩体壕群を10基めぐって、地下壕を2箇所を確認して、新茂原に戻ってきた行程が下記となります。
15キロ約5時間、でした。真夏にやることではないですね。。。

※撮影:2022年8月


関連

茂原海軍航空基地跡散策・その1「茂原掩体壕群」

千葉県茂原市。掩体壕が残る街。それも10基もの掩体壕が今も残っている。これだけ残っているのは、全国屈指レベル。まさに掩体壕群と呼称するにふさわしい。
そんな掩体壕の街「茂原」を散策してみました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-8
1947年02月22日、米軍撮影の航空写真。

以下、抜粋の上、補足加工。

滑走路は西側の1本完成していたが、東側の二本目と南側の東西滑走路は未完成。

北側には誘導路があり、多くの掩体壕がある。
誘導路は現在の道路とは一部しか重なっていない。

番号は茂原市の管理番号に従います。


茂原海軍航空基地

1941年(昭和16年)07月に建設決定し、同年09月に着工。東郷地区の約150戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転。(旧東郷小学校跡記念碑がある)
1942年12月に「第五五二航空隊」が茂原に開隊。しかし翌年昭和18年にマーシャルに進出し、茂原に戻ることなくテニアンにて解隊。
1943年9月に佐伯空艦爆隊を主体とする「第五〇二航空隊」が茂原海軍航空基地の管理部隊となる(現駐は松島基地)。同隊は1944年2月に北海道に転進し、1944年10月に解隊。
1943年10月に夜戦部隊を主体とする「第三二一航空隊 (鵄)」が茂原に開隊。1944年2月にマーシャルに進出し、7月に解隊。
1943年11月に第三〇一航空隊 (艦戦)が、茂原基地を原駐として横須賀基地で開隊。1944年7月に硫黄島にて解隊。
1942年に館山で開隊した第二五二航空隊 (元山航空隊戦闘機部隊を主体) はマーシャルで壊滅状態となり、1944年2月に館山基地にて再建。本部は館山基地に置かれ、1944年(昭和19年)8月以降、茂原基地に転進している。
「二五二空」は本土防空の迎撃に従事。1945年(昭和20年)5月28日、米軍が茂原飛行場を強襲。「二五二空」は郡山飛行場に退避。そのまま終戦を迎えた。

戦後の1955年(昭和30年)3月18日、茂原海軍航空基地が自衛隊の基地になろうとしたとき、茂原市議会は満場一致で基地に反対する決議し、跡地の大部分は工業地帯と学校用地、農地、住宅地となった。


掩体壕(茂原市教育委員会)

第3掩体壕にある茂原市の解説板。

掩体壕
 太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約150戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始まりました。
 司令部跡は現萩原小学校、兵舎跡は現茂原中学校、滑走路跡は三井化学(株)東側の約1,000mの道路で、基地の東端は東郷保育所前を通る通称海軍道路と呼ばれている辺りです。基地の北側には誘導路が巡らされ、戦闘機を敵襲から守るための格納施設である掩体壕が造られました。
 この壕は土砂を壕の形に盛って転圧して筵(むしろ)や板を並べ、その上に鉄網等を張ってセメントを流して造られており、総面積365平方メートル、壕の中の面積286平方メートル、高さは最大6m70cmあります。
 築城は、主に横須賀鎮守府から派遣されてきた海軍設営隊が行っておりましたが、長生中学校や茂原農学校(現長生高校・茂原樟陽高校)の生徒、近隣住民等も動員されたことが確認されております。
 戦争の記憶が薄れていく中、当時の様子を物語る貴重な戦争遺跡です。
  令和2年12月25日
   茂原市教育委員会

茂原市

https://www.city.mobara.chiba.jp/0000007259.html


まずは、掩体壕を中心に散策を。

第1掩体壕

個人宅敷地内で車庫兼物置小屋。
掩体壕の番号は茂原市での管理番号。散策順番とは異なります。

敷地外から遠望。

個人宅の掩体壕は、さくっとチラ見で。

場所

https://goo.gl/maps/fvRLf8kpVHNc7pdq7


第10掩体壕

個人宅敷地内で車庫として利用。同じく敷地外から遠望。

裏にまわると、ソーラーパネル。

場所

https://goo.gl/maps/spg6VhoXtQW2L5ps7


第11掩体壕

ソーラーパネルに囲まれている、、、。

掩体壕とソーラーパネル。

ある意味で、新鮮な組み合わせ。

近寄ることはできない。

場所

https://goo.gl/maps/ejUFpKmWPZ5VF4wi6


第3掩体壕

茂原市が管理している掩体壕。

場所

https://goo.gl/maps/nqEvbGiV74ihoGAu7


第6掩体壕

田んぼの中に。

ムシロの様子もわかる。

場所

https://goo.gl/maps/roafNBT1nFcqvPcG9


第8掩体壕

個人宅で物置として活用。敷地外から遠望。

場所

https://goo.gl/maps/H6s5r7arH8oEYZ3p8


第9掩体壕

個人所有。作業場として活用。

住めそうな空間。

場所

https://goo.gl/maps/qw2w6behUU87MEmS9


旧東郷小学校跡記念碑

東郷小学校は飛行場設置に伴い、移転を強いられた。

場所

https://goo.gl/maps/zALnxudqvN4PY24S8


第7掩体壕

ちょっとした森の中に。

場所

https://goo.gl/maps/96DXpDWZqqaz61xN7


第5掩体壕跡

宅地造成で消失。第6掩体壕の北西だった。


第4掩体壕

物置小屋。状態はよくない。

場所

https://goo.gl/maps/Wutb7NoLGty4TtMa8


第2掩体壕

物置小屋。よい状態。

場所

https://goo.gl/maps/24UZZUzcigZ4Nah19

以上、茂原に残る掩体壕10基の散策でした。
「その2」では、掩体壕以外の茂原海軍航空基地関連の戦跡を巡ってみます。

※撮影:2022年8月


関連(千葉と茨城の掩体壕)

【解体済】鉄道第一聯隊炊事棟跡(千葉市中央区椿森)

千葉県千葉市中央区椿森。鉄道第一聯隊がこの地に展開されていた。

以下は解体前の記録です


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

鉄道第一聯隊は、度重なる空襲で壊滅していた。
そんな中で「炊事棟」が残っているのがわかる。


千葉空襲

1.空襲等の概況
 千葉市は、明治末期から太平洋戦争中にかけて、千葉聯隊区司令部、千葉陸軍病院、 鉄道第一聯隊、千葉陸軍兵器補給廠、気球聯隊、陸軍歩兵学校、千葉陸軍戦車学校、千葉陸軍高射学校、陸軍市下志津飛行学校などの軍事施設が設置され、蘇我地先の埋立地(現川崎製鉄千葉製鉄所付近)には、軍需工場の日立航空機千葉工場が設置され、「軍郷千葉市」と呼ばれていた。
 太平洋戦争中、千葉市への空襲は数度あったが、米軍が千葉市を目標にした空襲は、昭和20(1945)年6月10日と7月7日(七夕空襲)の2回であった。この空襲で中心市街地の約7割(約231ha)が焼け野原となりました。この2度にわたる空襲により死傷者は1,595人、被災戸数8,904戸、被災者4万1,212人に及んだ。(千葉戦災復興誌より)
(参考:昭和20(1945)年12月末の人口は、9万5,903人)

千葉市における戦災の状況(千葉県)https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_07.html

昭和20(1945)年7月7日の七夕空襲で、鉄道第一聯隊(椿森)、気球聯隊、歩兵学校(作草部町)、千葉陸軍高射学校(小仲台)などが被災している。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_07.html


陸軍鉄道第一聯隊炊事棟跡

昭和20(1945)年7月7日の七夕空襲で、鉄道第一聯隊が被災した中で、焼け残った炊事棟。一階部分が煉瓦であることがわかる。戦後に建屋を譲り受けた民間業者が二階部分を増設し寮として活用されているという。

イギリス積み。

表側からは、煉瓦の雰囲気が全く残っていない。

椿森ハイム。横壁に煉瓦が残っている。

建築計画のお知らせ、がありました。
解体されて、新しくマンションが立つようです。
工事着工は2023年予定。。。

見学はお早めに。。。

場所

https://goo.gl/maps/cLPxmUmg8XnkXL1x6

撮影:2022年8月


解体後

2023年8月、近隣を散策。解体を確認しました。


関連

貴重な明治期の煉瓦建築「鉄道聯隊材料廠」(千葉経済大学)

千葉県内に残る鉄道連隊の戦跡。千葉や習志野、津田沼界隈に多く残っている。
当サイト内でもいくつか掲載をしてきていた。

内部公開の記事は下記にて

今回は、千葉経済大学の構内に残る、貴重な煉瓦建造物を見学(外観のみ)。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

市内に点在している案内看板より。

上記の米軍航空写真から該当部分を拡大。


鉄道聯隊関連の記事

千葉の鉄道聯隊(鉄道聯隊作業場など)

習志野の鉄道聯隊

新京成電鉄沿線の鉄道聯隊

鉄道聯隊の蒸気機関車


鉄道聯隊材料廠煉瓦建築

千葉経済大学。北側の駐車場側から、建物の全貌がよく観察できる。

千葉県指定有形文化財
 旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
 この煉瓦建築は、明治41年、鉄道聯隊材料廠の機関車の修理工場として建築されたもので、その後昭和20年旧日本国有鉄道が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用、昭和60年から千葉経済学園の所有となったものである。
 千葉県内に数少い明治年間創建の大規模な煉瓦建築の一つであり、特に内部の東西方向に二列に連なった十連の雄大なアーチ構造は、全国的にも他に比類がなく、この建物の主な特色となっている。
 従って、我が国明治期の煉瓦建造構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。
 右の理由により、千葉県指定有形文化財として指定をうけたものである。
  一、指定年月日 平成元年3月10日
  一、構造 煉瓦造アーチ構造、木造小屋組
  一、面積 695.6平方メートル
     千葉経済学園

千葉県指定有形文化財
旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
  所在地 千葉県稲毛区轟町3-59-6
  所在者 学校法人 千葉経済学園
  指定日 1989(平成元)年3月10日
 この建物は1908(明治41)年、旧鉄道連隊の材料廠※として建築された。大正時代には旧陸軍の兵器庫としても利用されていたが、戦後は大蔵省、国鉄と引き継がれ、1985年(昭和60)年に千葉経済学園の所有となり現在に至る。
 主要部分は、54.4m×7.3mと細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積と呼ばれる技法を用いている。
 県内では数少ない明治時代の大規模な煉瓦建築であり、10連の雄大なアーチ構造は、全国的にも類例がない。我が国の近代建築史における初期煉瓦建築の構造を知る上で、極めて重要かつ貴重な建築である。
 ※廠:壁の仕切りがない、広い建物のこと。向上、倉庫。 

案内板から、内部写真を拡大。

西側。

上部の左側にヒビが確認できる。

建物の南側。
軌道が確認できる。

建物の東側。

ガラスから建屋を除いてみた。

素晴らしい煉瓦建築。
関東大震災を耐えた明治期の煉瓦建築は、極めて貴重なものではあるが、2011年の東日本大震災以降は、危険のために内部立入禁止となっている。

場所

https://goo.gl/maps/r6PaD71pAyPvxUh98

※撮影:2022年6月


参考

https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p111-042.html

https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/kyutetsudorentai.html


関連

千葉陸軍病院跡と陸軍歩兵学校跡

千葉市内の戦跡。

点在する戦跡の中から、学校と病院を掲載。以前の散策で見逃していた戦跡をフォローする。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

市内に点在している案内板より。

椿森の周辺。


千葉市内の関連する戦跡など


千葉陸軍病院

現在の「独立行政法人国立病院機構千葉医療センター」。当時の門柱が正門に残されている。もともとは南通用門の門柱であったが移設保存。正門の門柱ではない。

1908年(明治41年)、千葉衛戍病院として開院。
1936年(昭和11年)、千葉陸軍病院となる。

千葉市に残る戦跡
千葉陸軍病院跡
 明治41年(1908年)6月の交通兵旅団と鉄道聯隊第二大隊の椿森移転以来、本市には、陸軍歩兵学校、気球聯隊など多くの陸軍施設が中央区(椿森、弁天)や稲毛区(作草部、天台、穴川、小仲台、園生)の台地に集積し、その総面積は約462ヘクタール(約140万坪)に及びました。
 ここ椿森の地には、傷病兵の治療にあたるため、同年に千葉衛戍病院(昭和11年(1936年)、千葉陸軍病院に改称)が設立され、隣接する鉄道聯隊(大正7年(1918年)、鉄道第一聯隊に改組)のほか、気球聯隊、歩兵学校、戦車学校などの将兵に対する医療の中心的な役割を果たしていました。
 昭和20年(1945年)7月の千葉空襲(右下解説)により鉄道第一聯隊をはじめとする多くの陸軍施設が焼失しましたが、千葉陸軍病院は被災を免れ、空襲で負傷した将兵や市民を受け入れました。
 終戦後、同年12月に千葉陸軍病院は厚生省(現厚生労働省)の管轄となり、国立千葉病院として発足、その後、更なる名称変更、建て替えを経て、現在の独立行政法人国立病院機構千葉医療センターとなりました。この正面入口には当時の門柱※が現存しており、この地がかつて陸軍病院であった面影を残しています。
※門柱は、千葉陸軍病院の南通用門(現在の椿森中学校側出口付近)として設置されていましたが、平成22年(2010年)の建て替え時に現在の正面入口に移設されました。

国立病院機構千葉医療センターの正門。
道幅が広すぎて、門柱が心もとない。

場所

https://goo.gl/maps/QXeta5xPdMHonvmk8


陸軍歩兵学校(歩兵学校)

場所的には、鉄道聯隊材料廠煉瓦建物の近く。天台駅最寄りの作草部公園に往時をしのぶ記念碑がある。

陸軍歩兵学校は、1912年(大正元年)9月に、陸軍戸山学校内に創設されたことに始まる。

大正元年11月に作草部の現在地に移転。
歩兵戦闘法の研究・普及などを行っていた陸軍教育機関。

平和之礎

陸軍歩兵学校之跡

由来
 陸軍歩兵学校は大正元年この地に創設され以来30有余年歩兵の実施学校としてもっぱら歩兵戦闘法の研究とその普及に任し 軍練成上をきわめて重要な使命を遂した
 この間数次の事変戦争において収めたるかくかくたる成果は本校の努力に負うところまことに多大であり又一面本校の存在が所在地軍都千葉市発展の一要因となったのである
 不幸にして大東亜戦争の末期空襲を受け諸施設は灰に帰し 終戦により昭和20年8月本校は閉鎖されその上戦後の市街復興に伴いその跡は様相一変し ほとんど往年の面影をとどめないようになった
 われら本校ゆかりの者は深く現況を嘆きこの地に旧軍練成の中枢的機関が存在した事実を後世に伝えるとともに 先人の功績をたたえ あわせて建軍の目的が日本国の興隆と世界平和維持にほかならなかったことを広く国民に理解されんことを願い財を集めてここに記念碑を建てたものである

昭和39年11月吉日
陸軍歩兵学校由縁者建之
題字 矢野機 書

揮毫の矢野機は、最終階級は陸軍中将。陸士18期。陸大25期。昭和19年(1944年)10月に陸軍歩兵学校長に就任し終戦を迎えている。

作草部公園

場所

https://goo.gl/maps/QsUrQdREXRWLtnjR9

※撮影:2022年6月


「為萬世開太平」終戦内閣総理大臣・鈴木貫太郎の関連史跡2(晩年の地・千葉県野田市関宿町)

千葉県野田市関宿町。
この地に、鈴木貫太郎記念館がある。
関宿町は、鈴木貫太郎が幼年期と最晩年を過ごした土地。
前々から気に掛かる場所でした。

実は先日に、関西に出張がありました。
せっかくなので、足を伸ばしたのが、「鈴木貫太郎生誕の地」。
生誕の地に行ったのであれば、晩年の地、にもです。

本記事は「その2・晩年の地」です。
「鈴木貫太郎関連史跡1・誕生の地(大阪府堺市)」は以下より。


鈴木貫太郎

1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日。
海軍大将。終戦時の内閣総理大臣。
海軍士官として、海軍次官・連合艦隊司令官・海軍軍令部長などを歴任。
予備役後に侍従長・枢密院顧官・枢密院議長などを歴任。
小磯国昭内閣のあと、内閣総理大臣に就任。日本を終戦へと導いた。

1868年1月18日(慶応3年12月24日)、和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾)に生まれる。伏尾は下総関宿藩の飛地であり、関宿藩久世家の家老であった父の鈴木由哲は、代官として和泉国大鳥郡伏尾に赴任しており、鈴木貫太郎は、その関宿藩飛地の堺伏尾で生まれている。3年後の1871年(明治4年)、鈴木貫太郎は本籍地の関宿に居住を移している。

日清戦争

1884年(明治17年)、海軍兵学校に入校(海兵14期)。
1895年(明治28年)、日清戦争に従軍。第三水雷艇隊所属の第五号型水雷艇第6号艇艇長として威海衛の戦いに参加。水雷射出の失敗があり部下の上崎辰次郎上等兵曹は戦後に責任を感じ艇内で自刃。追悼碑「上崎上等兵曹之碑」が、今も海自第二術科学校(海軍水雷学校跡)に残っている。

日露戦争

1897年(明治30年)、海軍大学校入校。(海大1期)
1903年(明治36年)、ドイツ駐在中に海軍中佐昇進。イタリアで建造されていた装甲巡洋艦「春日」の回航委員長となり日本に向けて航行中に日露戦争が開戦。日本に到着した鈴木貫太郎は、そのまま春日副長に就任に黄海海戦に参戦。

1905年(明治38年)、第四駆逐艦司令として、高速近距離射法でもって、ロシア戦艦3隻に魚雷を命中させる活躍をする。この際の猛訓練から、鬼の貫太郎・鬼の艇長・鬼貫と渾名された。

1914年(大正3年)、海軍次官に就任し、シーメンス事件の事後処理を行う。
1915年(大正3年)、先妻とよ(1912年、死去)の後妻として、足立たかと再婚。足立たかは 裕仁親王( 昭和天皇)の年少期の教育係を勤めたこともあり、後に侍従長を務める鈴木貫太郎ともども、夫妻で 昭和天皇に仕えることとなる。
1923年(大正12年)、海軍大将に昇進。1924年に連合艦隊司令官、1925年に海軍軍令部長に就任。

侍従長

1929年(昭和4年)、 昭和天皇の希望があり、鈴木貫太郎は海軍を予備役となり、侍従長に就任。
「大侍従長」として、 昭和天皇の信任が厚かったが、1930年(昭和5年)、ロンドン軍縮会議の政府案に反対する加藤寛治海軍軍令部長を説得するなどが、青年将校たちからは、のちに牧野伸顕とともに「君側の奸」として命を狙われることとなる。

二・二六事件

1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件が勃発。
鈴木貫太郎はたか夫人とともに、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの夕食会に参加し、2月25日11時過ぎに麹町三番町にあった侍従長官邸に帰宅
2月26日午前5時頃に安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が官邸を襲撃。
下士官が兵士たちに発砲を命じ鈴木は四発撃たれ、肩、左脚付根、左胸、脇腹に被弾。
安藤輝三陸軍大尉がとどめをさそうとすると、たか夫人が「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。
安藤は軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令し、たか夫人に「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と発し、侍従長官邸を立ち去っている。
反乱部隊が去った後、たか夫人は止血処置を行い、湯浅倉平内大臣に連絡。湯浅内大臣に鈴木貫太郎は、「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と話をするが、こののちに出血多量で意識を失い、近くの日医大飯田町病院に運び込まれている。
瀕死の重傷ではあったが、幸いにして急所を外れおり、快復した。

1937(昭和12年)1月に、鈴木貫太郎は、生地に鎮座する多治比売神社に、二・二六事件での負傷からの本快祝の参拝をしている。
「重症を負った時、多治速比売命が、枕元にお立ちになって命を救われました。そのお礼にお参りに来ました」と語られている。

終戦内閣総理大臣

1941年(昭和16年)12月8日、対米英開戦。大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発する。
1945年(昭和20年)戦況悪化の責任をとり辞職した小磯国昭内閣の後任として、内総理大臣に就任。 昭和天皇から頼まれ首相に就任する異例の事態であった。また、77歳2ヶ月での内閣総理大臣就任は戦前戦後を通じて日本最高齢の記録、江戸時代の生まれで非国会議員での就任は最後にあたる。

今日、私に大命が降下いたしました以上、私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります。

昭和20年4月7日、内閣総理大臣  鈴木貫太郎の表明

昭和20年の鈴木貫太郎内閣主要人物
内閣総理大臣:鈴木貫太郎
外部大臣:東郷茂徳
内大臣:木戸幸一
陸軍大臣:阿南惟幾
参謀総長:梅津美治郎
 参謀次長:河辺虎四郎
海軍大臣:米内光政
軍令部総長: 豊田副武
 軍令部次長:大西瀧治郎
内大臣:木戸幸一
枢密院議長 :平沼騏一郎

ポツダム宣言を黙殺する

1945年7月26日、イギリス・アメリカ・中華民国の名において発表された「ポツダム宣言」は、7月27日未明、外務省経由で宣言内容を把握。直ちに最高戦争指導会議及び閣議を開き、その対応について協議を開始。

外務大臣・東郷茂徳の「この宣言は事実上有条件講和の申し出であるから、これを拒否すれば重大な結果を及ぼす恐れがある。よって暫くこれに対する意見表示をしないで見送ろう。」という意見で合意し、政府の公式見解は発表しないという方針に決まった。
しかし、継戦派の梅津美治郎・阿南惟幾・豊田副武らが、宣言の公式な非難声明を出すことを政府に強く提案し押し切られる形で、28日午後におこなわれた記者会見で、鈴木貫太郎首相は「「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な價値あるものとは認めず默殺し、斷乎戰爭完遂に邁進する」とコメント。「ポツダム宣言を黙殺する」との発言には、鈴木貫太郎首相は「黙殺=ノーコメント(特に意見を言わない)」の意であったが、「黙殺する」が大きく取り上げられ、連合国側は拒絶と解し誤解を生むこととなってしまった。
鈴木貫太郎は、のちに「(軍部強硬派の)圧力で心ならずも出た言葉であり、後々にいたるまで余の誠に遺憾とする点」であると反省している。

昭和20年8月9日・御前会議

広島そして長崎と新型爆弾(原子爆弾)が投下され、ポツダム宣言を受諾するしか道がない状況下での御前会議は、昭和20年8月9日に開催された。

これまで陸軍を代表して「一撃講和」、一線を交えてからの講和を(陸軍へのジェスチャーとしての側面もあったが)主張していた阿南惟幾陸軍大臣も、ここに至って、ポツダム宣言の受諾を受け入れる方向へとなりつつあった。

陸軍の声を代表する阿南惟幾陸軍大臣は、米内光政海軍大臣と激論を戦わせ、結論が出ず、ついに鈴木貫太郎首相は、最後の手段として、 昭和天皇のご臨席を仰ぐ御前会議を決断する。

昭和天皇ご臨席のもとに午後11時50分に開始された御前会議。

阿南惟幾陸軍大臣は「本土決戦は必ずしも敗れたというわけではなく、仮に敗れて1億玉砕しても、世界の歴史に日本民族の名をとどめることができるならそれで本懐ではないか」という意見をし、梅津美治郎陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長は阿南の意見に賛同。
東郷茂徳外務大臣は「終戦やむなき」と意見し、米内光政海軍大臣と平沼騏一郎枢密院議長が賛同。
意見が出揃った8月10日深夜2時ごろ、鈴木貫太郎総理大臣は、自らは発言せずに「意見の対立のある以上、甚だ畏れ多いことながら、私が 陛下の思召しをお伺いし、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと思います」と 昭和天皇の意見を求めた。終戦反対の強硬派は不意を突かれた形となった。
昭和天皇は身を乗り出すと
「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の意見に同意である」
「もちろん忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持ちをしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」との「ご聖断」を下した。

そうして、ご聖断が下された御前会議が終了した。
しかし、8月13日に、ご聖断があったにも関わらず、最高戦争指導会議は紛糾しており、翌日に再び 聖断を仰ぐことになった。

昭和20年8月14日・御前会議

8月14日午前11時、御前会議開催。
阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍令部総長は、「このままの条件で受諾するならば、国体の護持はおぼつかなく、是非とも敵側に再照会をすべき」という意見を述べた。阿南らにとって最期に死守すべき事項が「国体護持」(天皇制の継続)であった。
意見を聞いた 昭和天皇は、「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と述べられた。その瞬間、会議は慟哭に包まれ、鈴木貫太郎首相は、至急詔書勅案奉仕の旨を拝承し、繰り返し聖断を煩わしたことを謝罪した。

慟哭する阿南陸相に対して、 昭和天皇は「あなん、あなん、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」とやさしく説いたという。

大東亜戦争終結ノ詔書

昭和20年8月14日、終戦の詔書の審議も無事に終わり閣僚たちが終戦の詔勅への署名する。

大東亜戦争終結ノ詔書

(全文)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣總理大臣鈴木貫太郞

大東亜戦争終結ノ詔書
(読み下し)
朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置を以って時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ

朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり

そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず 延べて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何を以ってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉し 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排せい 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うか如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣鈴木貫太郎

国立公文書館で公開のあった「終戦の詔書原本」。

こうして、日本の降伏が決まった。

鈴木貫太郎内閣閣僚の署名が終わり、総理大臣室を訪れた阿南陸相が、鈴木貫太郎に最後の言葉を発している。。
「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍の意志を代表して、これまでいろいろと強硬な意見ばかりを申し上げましたが、総理に対してご迷惑をおかけしたことと想い、ここに謹んでお詫びを申し上げます。総理をお助するつもりが、かえって対立をきたして、閣僚としてはなはだ至りませんでした。自分の真意は一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、あえて他意あるものではございません。この点はなにとぞご了解いただくよう」と謝罪。
同席していた迫水内閣書記官長は、陸軍の暴発を抑えるために心にもない強硬意見を発していた阿南の心情を理解しもらい泣きをしている。

鈴木首相は、阿南陸相の肩に手をやって「阿南さん、あなたの気持ちはわたくしが一番よく知っているつもりです。たいへんでしたね。長い間本当にありがとうございました」「今上陛下はご歴代まれな祭事にご熱心なお方ですから、きっと神明のご加護があると存じます。だから私は日本の前途に対しては決して悲観はしておりません」と答え、阿南は「わたくしもそう信じております」と同意。

阿南陸相が部屋を離れた後に、鈴木首相は迫水に「阿南君は暇乞いに来たんだね」と。
鈴木貫太郎は阿南惟幾に最期の覚悟を感じ取っていた。
ちなみに昭和4年に、阿南惟幾が侍従武官に就任した際の、当時の侍従長は鈴木貫太郎であり、その時から阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかった。

私邸焼き討ち(宮城事件)

昭和20年8月15日の早朝、終戦反対派が決起し、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員など数名が身柄を拘束され、宮中占拠、そして近衛第一師団長森赳中将を殺害する宮城事件が発生。
佐々木武雄陸軍大尉ら国粋主義者が宮城事件に連動して総理官邸及び小石川丸山町私邸、平沼騏一郎邸などを襲撃。
鈴木貫太郎も襲撃されるも、からくも私邸から脱出。そのときに鈴木貫太郎私邸は焼き討ちされた。今は石垣のみ残る。

鈴木貫太郎邸跡

8月15日の未明、阿南惟幾が自刃。
8月15日の玉音放送後、終戦に伴う臨時閣議が開催。
まず鈴木貫太郎首相から冒頭に話があった。
「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。反対論を吐露しつつ最後の場面までついて来て、立派に終戦の詔勅に副署してのち、自刃して逝かれた。このことは立派な態度であったと思います」「実に武人の最期らしく、淡々たるものであります……謹んで、弔意を表する次第であります」との報告とともに、阿南の遺書と辞世の句も披露した。
同日、鈴木は昭和天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職。東久邇宮内閣が成立する8月17日まで職務は執行している。

永遠の平和、永遠の平和

1945年(昭和20年)12月15日に、枢密院議長であった平沼騏一郎が戦犯容疑で逮捕されたために、鈴木貫太郎が就任(2回目)。翌年の昭和21年6月3日に公職追放令の対象となったために辞職し、郷里の関宿に隠棲。

1948年(昭和23年)4月17日、肝臓癌のため関宿町で死去、享年81。
死の直前、鈴木貫太郎翁は危篤状態で口がきけなくなっていましたが、突然唇が動き、非常にはっきりとした声で「永遠の平和、永遠の平和」と二度繰り返し、再び口を開くことなくまもなく永眠したという。
墓所は関宿町の実相寺。
遺灰の中に二・二六事件の時に受けた弾丸が混ざっていたという。
遺品の多くは野田市の鈴木貫太郎記念館で管理されている。


鈴木貫太郎翁終焉の地

野田市関宿町。
鈴木貫太郎が晩年を過ごした邸宅跡に建つ鈴木貫太郎記念館の周辺には、関連する史跡が点在している。

終戦内閣総理大臣
鈴木貫太郎翁終焉の地
吉田茂謹書

昭和33年2月 関宿農事研究会建立

正二位勲一等 鈴木貫太郎閣下経歴
 慶応三年     関宿須主久世大和守代官の長男として泉州境に生る
 明治二十年    海軍少尉
 明治三十九年   授功三級金鵄勲章
 大正三年     海軍次官
 同 七年     海軍兵学校長
 同十一年     呉鎮守府司令長官
 同十二年     海軍大将
 同十三年     連合艦隊司令長官
 同十四年     海軍々令部長
 昭和四年     侍従長兼枢密院顧問官
 同十一年     男爵
 同十九年     枢密院議長
 同二十年四月   内閣總理大臣
 同二十年十一月  萬世の為に太平を開き郷里関宿に帰山
 同二十一年十二月 枢密院議長再任
 同二十二年    青年有志を集め農事研究会を結成
 同二十三年四月  関宿に於て薨去八拾一歳
  日本青年協会理事 青木常盤撰文      
  関宿町教育長 奥原謹爾書

鈴木貫太郎翁邸跡

終戦内閣総理大臣
鈴木貫太郎翁邸跡

 終戦内閣総理大臣鈴木貫太郎翁は、終戦処理の大任を果たし、昭和21年9月、郷里関宿に帰られました。
 時に80才であり、且つ2・26事件の時には、数発の弾丸を身に受け、その内の時の一発は体に残っていましたが、矍鑠として居られました。
 翁はこの地に農事研究会を発足させ、青年を指導され、将来酪農を農業経営に採り入れていくべきことを助言されました。
 「酪農の町関宿」の基礎は、翁がきずかれたといっても過言ではありません。
 昭和23年4月17日「永遠の平和」の一言を残し、82才で大往生されました。
 平成2年8月
  野田市教育委員会

鈴木貫太郎翁邸跡・門扉

鈴木貫太郎翁邸跡・井戸

鈴木貫太郎翁邸跡・戦没者慰霊碑

鈴木貫太郎翁の19回忌に85歳なった鈴木たか夫人が昭和42年に奉納したもの。
タカ夫人は貫太郎翁の没後も関宿に居住して、酪農の推進など関宿の発展に尽力し、昭和46年に逝去している。

萬霊供養塔

為 
日清日露両戦役・太平洋戦・戦死病没者諸霊・殉国出陣学徒・原爆・被災諸霊
追善菩提

大乗妙典一字一石寫経奉納

昭和42年4月17日
 願主 鈴木孝子
      85歳


鈴木貫太郎記念館

鈴木貫太郎記念館。
昭和38年(1963年)、吉田茂総理の提案などもあり開館。
令和元年(2019年)10月の東日本台風で被災、耐震診断でも建物強度不足が指摘され、長期休館(臨時休館)を余儀なくされている。
鈴木貫太郎記念館の補強改修が困難なために、記念館の再建を予定している。

「為萬世開太平」塔碑

「万世のために太平を開く」

大東亜戦争終結ノ詔書(玉音放送)の一節。
堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
(堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す)

大東亜戦争終結ノ詔書(終戦詔書・玉音放送)は、8月14日付けで詔として発布された。
大筋を内閣書記官長・迫水久常が作成、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、更に14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が加筆して完成し同日の内に天皇の裁可があった。
大臣副署は当時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎以下16名による。

安岡正篤が加筆した「以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」は、もとは、張横渠(ちょうおうきょ、1020~1077、張載とも、北宋の儒学者)が残した「四言教」という名文の一節からとられたという。

為萬世開太平
 鈴木貫太郎書

終戦内閣総理大臣
鈴木貫太郎記念館
 迫水久常書

迫水久常は、鈴木内閣の内閣書記官長。
終戦詔書(いわゆる玉音放送)を起草した人物の一人。

 本館は故内閣総理大臣海軍大将男爵鈴木貫太郎の遺品を蒐集陳列しその事蹟を保存する
 鈴木貫太郎は慶應三年に生れ日清日露の両戰役には水雷艇長として威海衛の敵港深く突入し或は駆逐隊司令として日本海海戦に敵艦二隻を撃沈水雷戦術の第一人者であったが武運に恵まれ身に一彈も受けず部下に一人の戰死者も出さなかったという
 海軍軍人最高の栄誉たる軍令部長に就任在任中侍従長の下命を受け今上陛下の側近に奉仕せらる昭和十一年所謂二・二六事件勃発し反乱軍の撃った三彈は眉間心臓の急所を突いたが奇跡的に一命を取り止められた而して第二次世界大戰の終末史上未曽有の国難であった終戰内閣の宰相となり特に天皇陛下の萬世の為に太平を開くとの御聖旨を体し祖国を救う大勇猛心に一億玉砕民族滅亡への方途に追いつめられていた至難な戰局の収拾に身命をささげられ克く国体の護持と民族存続の大偉業を達成された即ちポツダム宣言の無條件受諾を敢行し昭和二十年八月十五日終戰詔勅の玉音放送を奏請して日本を今日に救い世界平和の礎を築いた功績は世界史上に燦として不滅の光を放つものである実にかくの如き行動は盡忠無私の人ならでは不可能事であって国民として何人も忘れ去ることが出来ない
 終戰後は郷里関宿に歸住村民古老と交わって農事を奨励し或は郷土青年の先頭に立って国民精神の
振興に専念されたが余生僅か一年有七ヶ月昭和二十三年四月十七日永遠の平和の一語を残してこの地関宿の自邸に眠るが如き大往生を遂げられた享年八十一歳菩提寺実相寺に葬る
 この不世出の偉人を顕彰し国民の亀鑑として永く後世に傳える為近郷市町村の有志が相図り當記念館を発起建立する
  昭和三十七年  財団法人 鈴木貫太郎記念会

入館料は、無料。しかし、閉館中。。。

お知らせ
 現在、諸事情により館内展示物がございません。ご来館の皆さまには申し訳ございませんが、ロビーでの資料映像(タカ夫人による2・26事件の証言)のみとなりますので、ご了承承りたく案内いたします。
 尚、説明希望の方は、担当までお申し出下さい。
  鈴木貫太郎記念館

鈴木貫太郎記念館の早期再建を期待しています。
再建は、やはり鈴木貫太郎ゆかりの関宿でお願い致します。


集乳所新設記念の碑

集乳所新設記念の碑が東側の駐車場にある。

以和為貴
関宿町酪農組合は去る昭和廿四年同志廿四名を以て創立し同廿六年事務所と集乳所を鈴木家邸内に設けその機能を拡充強化して発展の態勢を整へ同廿九年近代的集乳所を同邸内に新設して不動の基盤を確立した今や組合員八十名を数へその旺盛なる活動と合理的経営進歩的運営とはラヂオ放送に新聞報道に数次採擇せられて広く世の注視を浴びてゐる組合結成以来僅に五星霜真に驚異的な躍進と謂はざるを得ない按ずるに本組合の創設並に爾後の進展向上は一に元首相故鈴木貫太郎翁と孝子令夫人の薫化誘掖の賜で翁の遺訓「正直に腹を立てずに撓まず励め」の一語は組合員の信條であり全員その高諭を服膺し高風を欽慕して百折不撓千挫不屈の精神を堅持し夙夜精励してゐる更に本町酪農事業の創始者杉本峯蔵翁並に本町農事研究會に於ける有畜農業の提唱指導者岡本敏夫先生酪農経営の合理化近代化の教示啓発者楢原恭爾博士及び常に助言を惜しまざる浜野政三博士の懇志芳情は組合員の深く銘記する所である茲に集乳所新設に際し碑を建て由来を記してこれを記念する
 昭和二十九年五月十四日   鈴木孝子篆額  奥原謹爾撰文並書

以和為貴

鈴木孝子の名前が見える。

集乳所新設記念の碑
 晩年をこの地で過ごした鈴木貫太郎翁は、地元の農家の若者を教育するために、指導者を招いたり尽力しました。その影響もあり、関宿地域で酪農がさかんとなったといわれています。
 この碑は、昭和29年(1954年)、鈴木家の敷地に集乳所が新設されたのを記念して、関宿町酪農組合によって建てられた記念碑です。タカ夫人により書かれた貫太郎翁に日常訓「以和為貴(和をもって貴しとなす)」の文字が刻まれています。
 野田市教育委員会

集乳車が停まっている。

関連

https://www.city.noda.chiba.jp/shisetsu/bunka/1001064.html

https://www.city.noda.chiba.jp/kantaro_museum/index.html

場所

https://goo.gl/maps/qiGnabvYRPuF6sPz7


実相寺

鈴木貫太郎、鈴木孝雄兄弟のお墓がある。
関宿藩主久世家の菩提寺でもある寺院。

旧関宿藩主久世家
終戦内閣総理大臣鈴木貫太郎翁 菩提寺
日蓮宗 寶樹山 實相寺

寶樹山 實相寺
海軍大将
男爵 鈴木貫太郎書

報恩感謝
 この門柱は昭和18年2月、矢口米男・寛両氏の浄財により建立されました。「宝樹山 實相寺」の山号寺号は、終戦内閣総理大臣・鈴木貫太郎翁の直筆であります。建立当時、袖垣も取り付けられた姿を予定していましたが、戦中戦後の動乱期のため、完成することはできませんでした。(略

実相寺
 当山は、宝樹山本足院実相寺と称し、日蓮宗のお寺です。創建は神亀元年(724年)行基により、法相寺として茨城県総和町水海の地に開山したといわれています。
 その後、真言宗に改宗しましたが、応永16年(1409年)、日蓮宗の高僧の一人と言われる妙親院日英上人により、日蓮宗に再度改宗され現在に至っております。
 長禄元年(1475年)の頃、古河公方足利成氏の重臣であった簗田氏が関宿城に入場した時、当山は水海より関宿の地に移されました。
 境内には、中雀門と呼ばれる唐破風形式の山門、大きな袴をはいた鐘楼堂、そして明治4年(1871年)に関宿城本丸の一部の建物{宝歴6年(1709年)に建造}を移築した現在の客殿(千葉県では本丸の建物が現存するのはここだけです)があります。また、本山は江戸中期以後、明治まで関宿城主であった久世家の香華院(菩提寺)であったため、久世家歴代の城主と奥方の位牌が安置されています。
 墓地内には関宿藩の家老職を勤めた富田家・奥原家・亀井家など久世家関係の家臣を始め、終戦内閣総理大臣を勤めた、鈴木貫太郎翁(元海軍大将・元侍従長)夫妻、弟の鈴木孝雄翁(元陸軍大将・元靖国神社宮司)夫妻など鈴木家の墓もあります。 
 野田市教育委員会


海軍大将
終戦内閣総理大臣
 鈴木貫太郎翁墓所 左手奥
陸軍大将
 鈴木孝雄翁墓所 左手前


鈴木貫太郎墓所

鈴木貫太郎墓

鈴木貫太郎墓には、鈴木貫太郎と鈴木タカが眠る。

大勇院殿尽忠孝徳日貫大居士
 昭和23年4月17日 薨 (俗名 鈴木貫太郎)
貞烈院殿妙聞賢徳日孝大姉
 昭和46年9月23日 薨
  俗名 タカ 享年89

鈴木貫太郎墓の右隣には、両親である鈴木由哲・きよ夫妻の墓。
鈴木由哲は、幕末の関宿藩久世家の家老。晩年は関宿町町長を務めた。
鈴木家に子供がなかったため、由哲が倉持家から養子入り(倉持家は足利氏家臣の家柄で足利家管財文書係)。

鈴木家の墓

鈴木貫太郎の長男、鈴木一は、鈴木家の墓に眠る。

鈴木一(はじめ)
農林省山林局長、侍従次長、外務省出入国管理庁長官等を歴任。鈴木貫太郎内閣では内閣総理大臣秘書官も勤めている。。

鈴木由哲家
長男
 鈴木貫太郎:海軍大将、内閣総理大臣
次男
 鈴木孝雄:陸軍大将、第14師団長、靖國神社宮司
三男
 鈴木三郎:関東都督府外事総長、久邇宮御用掛
四男
 鈴木茂(永田茂):永田家養子、陸軍中佐、40代で若死している


鈴木孝雄墓所

鈴木貫太郎の弟(鈴木由哲次男)の鈴木孝雄墓所も同じく実相寺にある。

鈴木孝雄家之墓

鈴木孝雄
明治2年10月29日(1869年12月2日) – 1964年(昭和39年)1月29日)
陸軍大将。栄典は勲一等功三級。砲兵監・第14師団長・陸軍技術本部長・軍事参議官を歴任。
昭和10年(1935年)に現役を退いて、昭和13年から昭和21年までは靖国神社第4代宮司に就任。また、大日本青少年団長も務めている。戦後は、公職追放されるが、追放解除後の昭和29年(1954年)からは、旧陸軍将校たちで結成された偕行社会長となる。
昭和39年(1964年)1月29日死去。

鈴木武之墓

鈴木武は、鈴木孝雄の長男。
岡田啓介内閣の首相秘書官を勤めおり、2・26事件に際しては、岡田啓介首相救出や鈴木貫太郎侍従長遭難収拾などに功績があった。
昭和19年、北見航空機副社長に就任。
昭和20年には、叔父である鈴木貫太郎の内閣総理大臣秘書官を拝命。終戦工作に協力をする。

鈴木孝雄次男の鈴木英は、岡田啓介の次女を娶っている。義理兄にあたる岡田貞外茂と鈴木英は海兵同期。岳父の岡田啓介が襲撃された二・二六事件の際は横須賀海軍航空隊教官であった。鈴木英の海軍時代の最終階級は海軍中佐、海自では海将まで昇進している。

写真の右手に鈴木孝雄家墓所。
写真の突き当りに鈴木貫太郎家墓所。

実相寺。

明治4年(1871年)に関宿城本丸の一部の建物{宝歴6年(1709年)に建造}を移築した現在の客殿。
千葉県内に残る唯一の本丸建造物。

実相寺 場所

https://goo.gl/maps/o5qEcb2tZTNWDHA79


野田市郷土博物館

「令和4年度企画展 見て、見て、ハッケン! 野田の歴史」(令和4年6月11日から9月19日まで)にて、鈴木貫太郎の展示があるというので足を運んでみた。

実際には、関宿から公共機関では野田市内を縦断できず、関宿からは横の春日部まで戻ってからの東武線で南下して野田市駅まで赴くという、移動にかなりの手間が生じている。

https://www.city.noda.chiba.jp/eventinfo/bunka/1033892/1035100.html

https://noda-muse.jp/exhibition/schedule

鈴木貫太郎の展示資料(野田市郷土博物館)

鈴木貫太郎翁の生涯
 鈴木貫太郎翁は、慶応3年12月24日に関宿藩飛び地領の代官所で生まれました。その後は、江戸を経て明治5年に関宿に移り住むと、現在の野田市立関宿小学校に通います。幼少期の翁は心優しい性格で、よく泣くことから「泣き貫」とあだ名されました。その鳴き声は、大工町(現在の境大橋千葉県側のたもと付近)まで聞こえたと伝わります。
 貫太郎翁は、海軍に入ると日清・日露の両戦役に参加します。特に水雷の専門家として知られ、海軍大将まで出世すると、連合艦隊司令長官や軍令部長を歴任しました。その後は侍従長、枢密院議長を経て内閣総理大臣に就任し、日本を終戦へ導きます。戦後は、故郷の関宿に戻り地元の若手農家を中心に酪農を推奨するなど郷土の発展に尽くし、昭和23年4月17日、「永遠の平和」の言葉を残しこの世を去ります。

鈴木貫太郎海軍時代成績表
明治20年(1887)
鈴木貫太郎の海軍兵学校の成績表。成績表の中でも、5位佐藤鐵太郎(中将)は貫太郎へタカっを紹介し、結婚の仲立ちをした。38位小笠原長生(中将)は、鈴木貫太郎を顕彰する「鈴木貫太郎記念太平会」の顧問に就任するなど、後々まで交流を持っていた。

絵はがき
「帝国駆逐艦 朝霧」

当時、海軍中佐であった貫太郎翁が、日露戦争の日本海海戦において第四駆逐隊司令とし乗船していた駆逐艦・朝霧の絵はがき。

儀礼長剣
大正2年(1913)
鈴木貫太郎が海軍軍人として儀礼の際帯剣したもの。この剣は士官級の者が所持し、基本的に皆同じ形式であったが、明治29年の変更により将官級の者は金具に桐紋を付す事となった。本資料はこの桐紋が付され、少将任官以降に使用したことがわかる。また、他の者とほぼ同じ形式とはいえ上質なつくりとなっている。

鈴木貫太郎肖像
作者:安達真太郎
昭和40年(1965)
鈴木貫太郎の肖像。モデルとなった時期は海軍軍令部長時代と推測される。軍服などは現存するが、勲章は戦時中に焼損してしまったため、写真を元に描かれたと考えられる。この絵画は「8月9日の御前会議」などの絵画と共に、記念館拡充事業の中で制作された。

鈴木タカ肖像
作者:安達真太郎
昭和41年(1966)
鈴木タカの肖像。写真のモデルとなった時期は、昭和初期頃と推測される。タカは、昭和天皇の「養育掛」をつとめ、その中でも最も信頼された人物である。二・二六事件の際は、襲撃した安藤輝三大尉らにとどめを想い留まらせ、貫太郎翁の窮地を救った。
※現在、野田市鈴木貫太郎記念館では、二・二六事件を語るタカ夫人の肉声を公開中

礼用檜扇
大正期
鈴木タカが儀礼の際に使用したもの。元々は宮中で使用されたものだが、近代では、主に儀礼の際に使用されており、収納箱には「礼用」と書かれている。扇には、蝶や鳥が描かれている。

地元の英雄として
 鈴木貫太郎は関宿を離れた後も、小学校の式典や両親への近況報告などで、度々関宿に帰ってきていました。そのため、市内の小学校には貫太郎翁の書が残されている学校もあります。特に旧関宿町の人々は地元の著名人として捉え、貫太郎翁が二・二六事件で瀕死の重傷を負った際は、出身校の関宿小学校では児童と教職員が皆で快復を祈るほか、町内にはお百度参りをする人もいたと伝わります。また内閣総理大臣就任時には、関宿の食材を直接東京の邸宅へ届けるなど、物心両面で支えました。

鈴木貫太郎就任祝い作文
昭和20年(1945)6月頃
鈴木貫太郎の内閣総理大臣就任を祝い、東葛飾郡の小学生が書いた作文。各学校1名程度が選抜されて送られたと考えられる。児童が郷土の誇りや高齢であった貫太郎翁の身体を心配する内容が多いが、B29による爆撃など当時の様相についても書かれている。

子どもたちの感想文では、鈴木貫太郎が東葛飾郡出身で郷土のほまれと書かれているが、「関宿の飛び地」は「関宿」という解釈で問題ないということですね。

辞令(首相退任)
昭和20年(1945)8月17日
鈴木貫太郎の首相退任時の辞令。稔彦王は、貫太郎の後任で、皇族出身の唯一の内閣総理大臣東久邇宮稔彦親王のこと。首相就任時の辞令書は行方不明で戦災で焼失してしまったと考えられる。

鈴木貫太郎顕彰と記念館建設
 鈴木貫太郎記念館の建設は、貫太郎翁を顕彰する「洗心会」からはじまり、関宿町、野田市、流山町を巻き込みます。野田市が建設の主体となると中央財政会へ働き掛けを行い資金を集めました。建物は昭和38年には完成しますが、内装や展示物の充実を図るため、吉田茂や鈴木貫太郎内閣の元閣僚の力を借り、絵画の制作や松屋銀座を会場とした企画展を行います。その結果、昭和41年に開館式が行われ正式に開館しました。

鈴木貫太郎記念館建設会議(市民会館会議)
昭和三五年(1960)三月29日
鈴木貫太郎記念館建設に関する書類郡。鈴木貫太郎記念館建設を貫太郎翁の13回忌追悼会でPRするための会議を市民会館菊の間で行ったことが分かる。また、出席者の中には当時野田市郷土博物館の運営協議委員を務めた市山盛雄の名前も見られる。

パース図
昭和36年頃
鈴木貫太郎記念館の建設前のイメージ図。設計した創建設設計事務所は、旧関宿町役場など、町内の公共建築に携わっていた。

起工式木槌
昭和37年(1962)7月7日
起工式で使用された木槌。柄には、「昭和37年7月7日」と記載されており、「為」の字型木の裏にも「7月7日着工」と記載されていることから、同日が着工日であることがわかる。

「為」の字型木
昭和37年(1962)7月
鈴木貫太郎記念館の「為萬世開太平」の碑塔の「為」の字の型木。型木は塔の字を埋めるためのくぼみをつくるためのもので、ほとんどの型木は塔から剥がす際に壊れており、「為」が唯一原型のまま残った。長年、地元出身の工事関係者が保存していた。

扇子「為萬世開太平」
昭和41年(1966)8月
鈴木貫太郎記念館の開館式典で配布された扇子。印刷物。鈴木貫太郎翁が生前に揮毫した書をもとに作成し、落款を押したもの。関宿地域をはじめ複数の現存が確認されている。

開会式写真
昭和41年(1966)
記念館に入館する鈴木家と関係者の写真。左からタカ夫人、貫太郎長男の妻である布美、貫太郎の長男一と続いている。

内閣総理大臣からの花輪
昭和41年(1966)
当時、内閣総理大臣であった佐藤栄作は鈴木貫太郎記念会の名誉総裁を務めていた。この人選は名誉総裁であった吉田茂によるものと考えられる。

開会式の出席者
昭和41年(1966)
鈴木貫太郎記念館の開館の主体となった鈴木貫太郎記念会の役員ら。前列左から須賀清八(関宿町長)、戸邊鐵太郎(元野田市長)、茂木啓三郎(キッコーマン社長)、迫水久常(参議院議員)、太田耕造(亜細亜大学学長)の順で着席している。

鈴木貫太郎掛軸
昭和18年(1943)
貫太郎翁77歳の書。翁が好んだ「老子」の一節、「慈は、以て戦えば則ち勝ち、以て守れば則ち固し。天将に之を救わんとす、慈を以て之を衛」が書かれている。「慈愛がある人は、それによって戦って勝利を収め、守っては攻略されがたい。天が(その国を)救おうとすれば慈愛をもって保護する」の意である。

鈴木貫太郎記念館再建へ

場所

https://goo.gl/maps/682ML43VsAhLT47TA

※撮影:2022年7月


靖國神社内苑「為萬世開太平碑」

靖國神社の境内内苑は、靖國神社の方針もあって記念碑のたぐいは少ない。そんななか、斎館の前に、人知れず石碑が有る。

為萬世開太平
 八十叟 貫太郎 書

昭和天皇御在位六十年奉祝の記念碑であるという。
鈴木貫太郎が昭和21年に揮毫した条幅をもとにとしている。
昭和61年建。

「万世のために太平を開く」

大東亜戦争終結ノ詔書(玉音放送)の一節。
堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
(堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す)


「陸軍野戦砲兵学校」四街道の陸軍戦跡散策

軍郷四街道。
軍郷としての四街道の繁栄は、佐倉藩が洋式砲術(高島秋帆流砲術)の演習を行っていた「下志津原」にはじまる。
下志津原に築かれた砲兵演習場(射場)を軸に、明治19年には、「陸軍砲兵射的学校」が創立している。


陸軍野戦砲兵学校(野砲兵校)

野戦砲兵監の管轄下で、野戦砲、高射砲の射撃・観測等の教育と、野戦砲、高射砲に関する諸学術、兵器、資材等の調査・研究を行った機関。
1886(明治19)年4月、下志津原(現在の千葉県佐倉市)に設立された陸軍砲兵射的学校を前身とする。
1896(明治29)年、陸軍野戦砲兵射撃学校に改称され、四街道(現在の千葉県四街道市)に移転した。
1922(大正11)年8月、陸軍野戦砲兵学校に改称。
甲種学生(大尉)に射撃・戦術、乙種学生(大・中尉)に射撃・高射砲術、観測通信学生(中・少尉)に観測通信術、馭法学生(中・少尉)に馬術・馭法術などの教育が行われた。研究部は、野戦砲兵・高射砲に関する調査研究・試験を行った。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R2769-109
1949年04月26日に米軍が撮影した航空写真を加工。

四街道界隈を拡大。

今回の散策エリア。


陸軍野戦重砲兵第四聯隊跡(愛國学園)

愛国学園大学(学校法人愛国学園)の正門は、当時の陸軍野戦重砲兵第四聯隊の正門を流用している。昭和14年に近衛師団に所属する陸軍野戦重砲兵第四聯隊が満洲に移転後は、野戦砲兵学校幹部候補生隊となっている。

史蹟
野戦重砲兵第四聯隊跡
吉永朴謹書

建碑之辞
 この地は旧陸軍近衛師団に所属する当聯隊が馬編成四年式十五糎榴弾砲部隊として武を練った所である。
 その期間は発祥の地・広島県呉要塞からここに居を移した。大正十一年から北満の牡丹江に移駐した昭和十四年までの十七年間である。
 渡満移駐後この地は野戦砲兵学校幹部候補生隊となり、聯隊はノモンハン事変に参加したあと、自動車編成九六式十五糎榴弾砲装備に改編されその面目を一新し、太平洋戦争勃発に伴い昭和十七年九月南太平洋戦線に展開された。
 かくして聯隊はガダルカナル及びブーゲンビル両島の作戦に参加し死闘を重ねつつその本領を発揮したが、終戦と共に事実上かの地において五十年にわたる歴史の幕を閉じた。
 この間あるいは満州の曠野に、あるいは南溟の密林に陣没した戦士は聯隊長以下千三百有余名の多きに達した。
 この小碑は当聯隊の生存者等が計画し、之に市と学校法人愛国学園が協賛し以て縁り深きこの地に史蹟として建立したものである。
 昭和三十八年三月
  四街道市史蹟保存会

謹書にある吉永朴(すなお)は、終戦時は陸軍少将。陸士31期、陸大38期。砲兵出身で野砲兵校にゆかりあり。

聯隊の歴史
(略

陸軍野戦重砲兵第四聯隊の正門跡

愛国学園大学(学校法人愛国学園)の正門として活用されている。

場所

https://goo.gl/maps/67QKbs1KYfv2FYuz7


将校集会所跡(四街道公民館)

四街道公民館の場所は、かつての将校集会所の跡地。

門が残っている。
正門のすぐ近く。

場所

https://goo.gl/maps/ToLxZSPCCccfyVpL8


松脂油採取跡と将校集会所の築堤(四街道公民館)

将校集会所のあった公民館の近くにある松の切り株。
戦時中に松脂油を採取した名残もあった。

「松のきずあと」
何かが書いてあるようだけど風化して判読不可能。。。

築堤も当時の名残と思われる。


陸軍野戦重砲兵第四聯隊の裏門跡

愛国学園大学と千葉敬愛高校の裏側。方向でいうと北西側にあたる。「コープみらいえ四街道」の近くの道路に裏門の門柱が残っている。

一本は、門柱として残っているが、もう一つは土台だけが残っている。

敷石も残っている。

位置がおかしい。

どうやら近年の道路拡張で、片側の土台だけが移動したようだ。敷石はそのままでの拡張という、心遣いがありがたい。
ストリートビューで2013年にはまだ移築していなかったが、2015年で移動されているのを確認できた。

場所

https://goo.gl/maps/nQdnyQmPXerEdLBEA


大土手山(別名・ルボン山) 

砲兵射朶の跡の石碑と、射朶(射的)の築堤の山が残っている。標高25.1mという。

大土手山
神社を頂いたこの丘は大土手山と呼ばれている。
麓には昭和四十年に四街道町史蹟保存会と陸軍野戦砲兵学校遺跡保存会有志一同によって建てられた「砲兵射垜の跡」の碑があり碑裏には次のように刻まれている。

 「この地は佐倉藩士大筑尚志が藩の砲術練習所として築いたものを明治六年(一八七三)教師として招聘されたフランスのルボン砲兵大尉が増築し初めて砲術を伝習した射垜の一角である射的場は南北三千米幅三百米であった。 
 明治十九年その北端に陸軍砲兵射的学校が創立されたが同三十年四街道に移転してより射場は急速に拡張され射場はルボン台または大土手山と呼ばれた。
 大正七年(一九一八)五月皇太子が台上で射撃をご覧になった。
 下志津原演習場は砲兵学校とともに拡大し四街道の発展に寄与したが射垜は実にその始祖である。
 由来ある遺蹟の消滅せんことを惜しみ碑を建ててその由来を記すものである。
   昭和四十年(一九六五)四月二日 
    四街道町史蹟保存会 
    陸軍野戦砲兵学校遺跡保存有志一同」
  昭和五十一年十一月 
  四街道市

砲兵射垜の跡
陸軍野戦砲兵学校長 室兼次書

室兼次は、昭和2年(1927年)7月26日から昭和5年(1930年)7月30日までの陸軍野戦砲兵学校長であった。
最終階級は陸軍中将。陸軍野戦砲兵学校長の次は昭和5年8月からは第20師団長。昭和7年に予備役編入。昭和41年に89歳で没している。
「砲兵射垜の跡碑」は昭和40年建立のため、亡くなる1年前の揮毫であった。

登ってみた。
「神社を頂いたこの丘は大土手山と呼ばれている。」と記載があったが、神社は無くなっているようだ。
見晴らしが良いですね。

陸軍野戦砲兵学校があった方向。

北側は、射場があった。

場所

https://goo.gl/maps/SY6Ux69pRrkxFPrS9


陸軍野戦砲兵学校跡

大土手山 (ルボン山)の南に、陸軍野戦砲兵学校があった。
現在の四街道市役所の北側の街道沿いに記念碑が建立されている。

陸軍野戦砲兵学校跡
東久邇盛厚書

東久邇盛厚は東久邇宮稔彦王第1王子。大日本帝国陸軍での階級は陸軍少佐。陸軍では砲兵に縁があり、(昭和12年)6月陸軍士官学校を卒業、同年8月陸軍砲兵少尉に補任され、野戦重砲第1連隊附の陸軍将校となる。
昭和15年には、陸軍砲兵中尉として陸軍野戦砲兵学校附ともなっている。
終戦後は皇籍を離脱。昭和44年に52歳で没している。

砲兵学校跡
 明治十九年四月下志津原に創立された陸軍砲兵射的学校は明治三十年に陸軍射撃学校と改称され四街道に移転しました
学校の移転に伴ないそれまでは閑散としていた四街道駅(移転の三年前に建設)周辺は次々と整備され、東京に至便な演習場という利点と、明治中期から終戦までの時代の要求は多くの軍事施設の設置を見、四街道は軍都としての歴史を歩んできた。
終戦を機とし四街道はその景観と機能を一変し新しい四街道へと脱皮、砲兵射撃学校跡も現在は市民の憩いの公園、小学校となり文化都市の一翼をになっている。
 四街道市

 明治十九年(一八八六)四月二日下志津原の北端に創立した陸軍砲兵射的学校は鉄道の開通に伴い同三十年春野山砲から成る教導大隊を持つ陸軍野戦砲兵射撃学校としてこの地に移転し砲兵の戦術及び射撃術の研究教育にあたった。
 大正十一年(一九二二)陸軍野戦砲兵学校と改称し野戦重砲兵を含む教導聯隊に拡張し高射砲練習
隊を新設して初めて一部を機械化した。
 昭和八年(一九三三)以降下士官候補者隊・情報隊・観測隊幹部候補者隊を相次いで新設し大東亜戦争に入り少年兵の生徒隊ロケットを含む迫撃砲隊・ 自走砲隊などを新設した。
 この間明治三十三年六月と同四十五年五月とに天皇の行幸を仰ぎ、同四十四年五月と大正七年五月とに 皇太子の行啓をお迎えした。
 惟うに学校は創立以来六十年まさに日本砲兵最高の指導的殿堂として大いに国運の興隆に貢献した。
 しかも四街道はその昔人家まれな寒村であった頃から学校と緊密な協力をして今日の繁栄の基礎を築いた。
 この壇は学校創立五十年記念として築いたもので終戦にあたり全校将兵はここで 御真影と勅諭とを奉焼し日本の再建を誓い合った由緒ある遺跡の消滅せんことを惜しみ碑を建ててその由来を記するものである。
 昭和四十年(一九六五)四月二日  
  四街道町史蹟保存会 
  陸軍野戦砲兵学校遺跡保存有志 一同

昭和62年8月15日
観測隊之碑
観測隊有志建之

御歌
 北白川房子
志もしつの原に栄えて
 御国守る
わさにはけみし其日しのはむ
わかつまもわか子もともにはけみけむ
御代の光りを永久に仰かむ

生徒隊之碑

(生徒隊之碑裏面)
少年砲兵生存者一同
平成14年10月吉日建之

15センチ榴弾砲砲弾
10センチ加農砲砲弾
7.5センチ野山砲砲弾

場所

https://goo.gl/maps/h3vsHYafK9mGf85N7

隣は、四街道市役所。


軍馬の碑(栗山半台児童公園)

陸軍野戦砲兵学校のエリアから北東に離れた場所に、下志津陸軍墓地(下志津陸軍埋葬地)がある。
現在は、栗山半台児童公園と栗山半台区集会所が併設されている。

軍馬の碑

軍馬の慰霊顕彰碑。

軍馬之碑

 昭和10年3月建之
  陸軍野戦砲兵学校
  野戦重砲第4聯隊
  下志津憲兵分遣隊

同じ空間に、観世音菩薩と馬頭観音もある。

場所

https://goo.gl/maps/pJMkZYasppa6nBd47


下志津陸軍墓地(栗山半台児童公園)

下志津陸軍墓地(下志津陸軍埋葬地)は、明治30年代に栗山地区の有力者が、土地を陸軍に寄付したことにはじまる。

引き取り手が無いまま眠る八の遺体
 墓地全体は、明治二十年代に栗山地区の当時の有力者が土地を陸軍に寄付し、下志津陸軍埋葬地としたものです。
 ここには、いまだに引き取り手が無いまま眠っている兵士の墓があります。土葬で埋葬された士官や兵士たちの遺体は総計で十三名です。戦後になって、墓は栗山地区半台の方々の厚意で管理され、供養も続けられています。
 遺族による遺骨の引き取りは。戦前一名、戦後に四名の計五名で、若い身空を他国で不運にも果てた八名の人々が、今なお無縁仏として眠っています。
 戦後、栗山半台地区の方々の厚意で、本籍地の市町村役場へ照会しても遂にわからずじまいでした。

軍人墓地に眠る人々
諫早 消輝   砲兵中尉   山口県阿武郡萩町 .
宮地 徳太郎  砲兵二等卒  栃木県宇都宮市  .
藤原 喜助   砲兵一等卒  宮崎県西臼杵郡七折村
福田 荒吉   砲兵一等卒  宮崎県東臼杵郡南郷村
原  愛正   砲兵二等卒  山梨県北巨摩郡熱見村
小沢 兼吉   砲兵二等卒  東京都西多摩郡調布村
金丸 茂之   砲兵二等卒  山梨県中巨摩郡南湖村
加藤 真一   砲兵上等兵  山口県佐波郡牟礼村

合掌

場所

https://goo.gl/maps/HTqmVNX4J9tnhzMU8


下志津陸軍墓地の陸軍境界標

下志津陸軍墓地(下志津陸軍埋葬地)のあった四隅に境界標石が残っていた。当時の敷地の東西南北四辺に対して境界標石がきちんと残っているというのが、嬉しい。

南の境界標石

陸軍用地

北の境界標石

南の境界標石
ちょっと摩耗が激しいですが、きっと陸軍用地って書いてある。

陸軍用地

北の境界標石

陸軍用地

場所

https://goo.gl/maps/HTqmVNX4J9tnhzMU8


四街道町護國神社・野砲兵校神社「千代田宮」社殿流用?
(津之森児童遊園)

愛国学園と給水塔の近くにある児童公園。

四街道の護国神社は、四街道駅北側にある八百稲荷神社の境内にあった招魂社を戦後現在地に移したものという。

手前の鳥居は、昭和49年に四街道町遺族会が建立。

四街道町護国神社
 千葉縣護國神社宮司

拝する。

御社殿は、旧陸軍野戦砲兵学校内にあった「千代田宮」の社が流用されているという。

もしかしたら、狛犬や手水石も陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の流用かも知れないが、未確認。

2つ目の鳥居は、戦前の建立。
1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端にはじまった支那事変の1周年記念とのことなので、1938年の建立。
これも、陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の流用だろうか。

支那事変一週年記念

しかし、陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の流用とするならば、この鳥居は陸軍野戦砲兵学校と下志津陸軍飛行学校の連名となっていることから、もしかしたら「千代田宮」は、両校の共同祭祀だったのもしれない。思いつきなので、根拠はないです。

陸軍野戦砲兵学校
下志津陸軍飛行学校

ジャンルは違うが同じ陸軍の学校が連名して奉納した鳥居、良いですね。
飛行学校の観測射撃と、砲兵の観測射撃の共同訓練も行っていた、という話もありますので。

慰霊碑が4基、林立している。

明治丗七八年日露役忠魂碑
 西南戦役戦没者・北清事変戦没者・戦病死者
 明治丗九年7月建設
 建碑・発起出征軍人
徳頌
 昭和12年以降の旭村戦争犠牲者
 昭和25年9月旭村招魂碑石保存会建之
忠魂
 支那事変以降戦没者
 昭和28年11月千代田町建之
忠魂碑
 陸軍大将男爵田中義一書
 昭和3年11月千代田村分会建

場所

https://goo.gl/maps/drMJcQ5QXKaoQdrW6


千代田宮・野砲兵校神社跡(四街道中央公園)

陸軍野戦砲兵学校に祀られていた校内神社「千代田宮」。
ご祭神
 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
 天之常立神(あめのとこたちのかみ)
 明治天皇
千代田宮の御祭神は、1947(昭和22)年、桜ヶ丘地区に入植した開拓者有志によって創建された「櫻ヶ丘神社」に奉遷されている。
そして、陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の御社殿は、前述の四街道護国神社に流用されたという。

野砲兵校内神社「千代田宮」の跡地は、中央公園として整備され、公園内に唯一残された「奉納」の石柱が当時を物語っている。

奉納

裏面は削られていて判読不可であった。

場所

https://goo.gl/maps/yRqakqtigzuXVUmw6


下志津陸軍病院(国立病院機構下志津病院)

国立病院機構下志津病院は、ご多分に漏れずかつての陸軍病院。

明治30年4月に下志津衛戌病院として発足、その後、終戦までは下志津陸軍病院であった。

場所

https://goo.gl/maps/FZzhfTSKcr2KSVvQ7


四街道駅

1894年(明治27年)12月9日、総武鉄道(初代)の四ツ街道駅(よつかいどうえき)として開業。
1907年(明治40年)9月1日、総武鉄道買収により、帝国鉄道庁の駅となり、11月1日に四街道駅に改称。


下志津陸軍飛行学校(下志津駐屯地)

ちょっと足を伸ばしてみました。
行政的には、四街道市ではなく、千葉県‎千葉市‎若葉区。

下志津陸軍飛行学校では、射撃観測などで、砲兵との連動訓練などを実施することもあり、野砲兵校が近くにあることは多くのメリットがあったという。

下志津陸軍飛行学校
主に空中偵察に関する各種の教育と研究を行った陸軍の学校。
1921年(大正10年)4月、陸軍航空学校下志津分校として開設。
1924年(大正13年)5月、下志津陸軍飛行学校として独立。
下志津陸軍飛行学校は本校以外に、銚子八街、広島県広島市に分教場、分教所があった。

下志津陸軍飛行学校の門柱と歩哨舎

平成23年に正門改修工事が行われている門柱(手前)。
これは、下志津陸軍飛行学校の「歩哨舎」であった。
外観を生かして、内部空間を塞いで門柱としたようだ。

下志津駐屯地

当時の正門は以下。

陸上自衛隊下志津駐屯地より抜粋。

https://www.mod.go.jp/gsdf/aasch/aaspr-hp/history/slide1/slide1.html

https://www.mod.go.jp/gsdf/aasch/aaspr-hp/history.html

「高射学校」も併設されている。

高射学校

場所

https://goo.gl/maps/3NpbXXeyXaVWVcBM6

まだ四街道には、いくつかの戦跡のネタがありますが、本記事はいったん以上で締めます。
実は2022年5月に散策したのちに記事を書くために調査をしていたらいくつかのポイントを見逃していたことが発覚したために5月にも再訪しております。まだ地味ですが見たいところがあるので、また行くことにはなりそうですが。。。


下志津駐屯地はこちらにて


関連

銚子の戦跡散策

「動物慰霊之塔と陸軍習志野学校跡地」習志野の森散策

騎兵の町・軍郷習志野。
日露戦争当時、この地には4つの「騎兵聯隊」が駐留していた。
その後、第一次大戦後の軍縮や軍備近代化の流れなどもあり、騎兵連隊は規模を縮小し騎兵は戦車兵と統合し機甲兵としてなり、兵種としての騎兵は消滅していった。

習志野の騎兵第16聯隊の敷地は、昭和7年(1932)より、陸軍習志野学校の敷地へと編入されている。
今回のレポートは、そんな「陸軍習志野学校」にまつわる戦跡散策。


習志野の森

以前に、習志野の騎兵聯隊関連の散策を行った際に気になっていた場所があった。

https://senseki-kikou.net/?p=2829

「習志野の森」
立ち入りできず外から眺めるのみであったこの場所に、入れる機会があった。
当サイトでも何度かお世話になっていた日本戦跡協会さんが、「習志野の森」の保存活動と掃除を行っている団体(「習志野みどりの会」)と連絡をとり、とある日の午前中の掃除時間に見学できる道筋を用意し、そこに私も便乗する機会を得られたのだ。

そんなわけで。。。

本記事は、日本戦跡協会様との共同探索となります。
 日本戦跡協会サイト
  https://www.sensouiseki.com
 日本戦跡協会Twitter
  https://twitter.com/sensouiseki
 日本戦跡協会Facebook
  https://www.facebook.com/sensouiseki/

いつもありがとうございます。


習志野の騎兵

近衛師団
 騎兵第1旅団→麾下 騎兵13聯隊 騎兵14聯隊
第1師団
 騎兵第2旅団→麾下 騎兵15聯隊 騎兵16聯隊

日露戦争時の旅団長(少将)
 騎兵第1旅団長→秋山好古 【秋山支隊】
 騎兵第2旅団長→閑院宮載仁親王

習志野陸軍病院→習志野病院
騎兵第13聯隊→東邦大学
騎兵第14聯隊→日本大学
騎兵第15聯隊→東邦中学校高等学校
騎兵第16聯隊→大久保住宅や「習志野の森」←【今回の対象エリア】


位置関係(騎兵聯隊)

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8911-C1-1
昭和19年10月16日に大日本帝国陸軍が撮影した航空写真を加工。

位置関係(陸軍習志野学校)

騎兵第16聯隊は、昭和7年より陸軍習志野学校。
当初は、騎兵第16聯隊の跡地のみだったが、のちに騎兵第15聯隊の跡地にも敷地拡大している。

陸軍習志野学校周辺をクローズアップする。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M737-103
1948年01月18日に米軍が撮影した航空写真を加工。

見学の際に頂いた資料。
「学校内建物配置図」と照合する。

「習志野の森」該当部分を更に拡大。

「習志野の森」に残されている基礎などは、上記と照らし合わせると「学校本部」「実験講堂」「学生舎」「厠」「医務室」「将校集会所」などであることがわかった。

習志野演習場 周辺住民説明会(第1回)

http://www.env.go.jp/chemi/gas_inform/local/nara_en/01/index.html

環境省の説明会資料にて「習志野学校」関連、位置関係などがわかる資料が公開されている。


陸軍習志野学校

もと陸軍騎兵第16聯隊及び騎兵15聯隊の地に展開されたのが「陸軍習志野学校」(昭和8年~昭和20年)。
戦後は警察署・学校・住宅・保育園などに転用。
中心部は「千葉大腐食研究所」が展開されていたというが現在は移転。その跡地は「習志野の森」として国有地になっている。

「習志野の森」
現在は国有地となっており年に何度かの公開日以外は立入禁止。戦後に学校建屋を活用して展開された千葉大腐食研究所跡地に習志野学校時代の基礎や土台のみが残っている。奥には動物実験の犠牲になった「動物慰霊塔」もある。

陸軍習志野学校では、帝国陸軍の化学戦(毒ガス戦)に関する研究が行われた。「毒ガス学校」とも呼称されて、毒ガス兵器の開発や実験をしていたと思われやすいが、実際には、化学兵種である化兵・瓦斯兵に毒ガス戦に対する防御法の教育訓練する学校であったという。
陸軍習志野学校は運用訓練、大久野島の陸軍造兵廠忠海製造所で化学物質の製造が行われ北九州小倉の陸軍造兵廠曽根製造所まで輸送され兵器として製造(充填)されたという。

大正7年(1918)、陸軍省で臨時毒ガス調査委員会が設立。
大正8年、板橋陸軍火薬研究所を改編し陸軍技術本部に陸軍科学研究所が新設。
大正11年、戸山ヶ原に創設された陸軍化学研究所第2課化学兵器班で研究開始。
大正15年、参謀本部内に毒ガス研究会が設置。
昭和4年(1929)、化学兵器を製造する大久野島忠海製造所が稼動開始。
昭和8年(1933)、毒ガスを中心とする化学戦学校として習志野学校が開校。同時に細菌戦は関東軍防疫給水部本部(731部隊)で行うことも決定。

昭和20年の終戦時、学校は空襲を受けずほぼ無傷の状態であったが、校内では文書や設備の破壊・焼却が行われた。
戦後は、警察署・学校・住宅・保育園などに転用。特に中心施設があった騎兵第16連隊跡地には千葉大学の分院・附属の腐敗研究所などが置かれた。1977年(昭和52年)腐敗研究所が千葉市内に移転した跡は、「習志野の森」となっている。
習志野の森も再開発で失われるところであったが、貴重な在来種「カントウタンポポ生息地」として「習志野みどりの会」による緑地保全活動が行われている。


動物慰霊之塔(習志野の森)

陸軍習志野学校の敷地内に残る慰霊塔。登戸研究所もそうであったが、実験での犠牲となった動物たちを慰霊する空間。敷地の端ではなく、本部と講堂と学生舎の中間に建立されていた。

動物慰霊之塔
 〇〇〇〇〇〇〇〇

慰霊之塔に刻まれている揮毫者の名前は削りとられていた。

揮毫者の名前を何らかの理由で削ったものと思われるが、削られた理由は不詳。
上4文字が「陸軍少将」と読めることから、陸軍習志野学校校長など、それなりの立場であった人物であったことは容易に予想できる。
その上で、裏面は「皇紀2600年」に建立されたことが刻まれている。
皇紀2600年=1940年(昭和15年)であれば、ちょうど陸軍習志野学校第4代校長の 西原貫治 少将(陸士23期)が、立場も時期も該当する。最後の漢字の削られ方も「治」とも読めそうだ。

西原貫治(にしはらかんじ)は、陸軍習志野学校幹事や陸軍習志野学校校長、化兵監、第4軍司令官、第57軍司令官などを歴任し、1945年(昭和20年)10月、西部軍管区司令官となり、翌月、予備役に編入され、同年12月から翌年3月にかけて西部復員監を務めている。

皇紀二千六百年一月建之


陸軍習志野学校跡地散策(習志野の森散策)

清掃開放日に許可を得て見学を実施。
一般開放は年4回(4月、6月、8月、11月の第一土曜日1000-1600)とされているが、実際の実施の可否は、都度確認でお願い致します。

入り口の門柱脇のレンがは、当時のものと思われます。

習志野の森。

このあたりに「貯水池」があったと思われる。

貯水池の隣で、「この字型」に残るレンガ基礎は「厠」の跡か?

貯水池と厠の北側は、学校本部。
学校本部の階上は研部、階下は経理室。

写真を撮っているうちに位置関係がわからなくなりました。。。

学生舎の入り口?

手洗所。水道管も残っている。

電柱も残っている。

境界杭

基礎であることはわかるが、何がなにやら、位置関係をトレースせずに写真を撮っていたので、整理ができていない状況です。

習志野の森エリアの建屋位置関係を後学のためにメモしておきます。

乱暴に記載するとこんな感じ。

        【実験講堂】
      【慰霊塔】 【厠】 【印刷所】 
【学 校 本 部】【学 生 舎】
【貯水池】【厠】     【貯水池】
【衛兵所】 【医務室】 【将校集会所】
【表門】

今回まとめることで、位置関係を把握できたので、これはわかるように写真を取り直そう。。。
また、訪問したいと思います。

掲載が遅くなってしまいましたが、「習志野みどりの会」の皆様と、日本戦跡協会様と、ありがとうございました。

※2022年1月撮影

https://goo.gl/maps/NHn3wesHvVCd7bpM6


関連リンク

習志野みどりの会

https://commu-chika.jp/organizations/50

https://narashino.mypl.net/commu-chika/50


陸軍中野学校

陸軍登戸研究所

習志野関連

新境内地に御遷座した「千葉縣護國神社」

千葉縣護國神社(千葉県護國神社)が令和4年(2022年)に遷座しました。


ご遷座した千葉縣護國神社

千葉県出身5万7828柱の御英霊を祀る千葉縣護國神社。
千葉県千葉市中央区弁天から千葉県千葉市若葉区桜木へ、令和4年(2022)2月に御神体がご遷座した。

遷座の背景として、戦没者遺族や戦友の高齢化があり、バリアフリー化が必要であったということ、旧社殿老朽化に伴う耐震補強化が必要であったということが挙げられている。

遷座の背景は以下から。

千葉縣護國神社は、昭和42年9月亥鼻山から現境内地に御遷座以来50有余年、英霊奉慰顕彰の祭祀を御遺族・戦友・ 崇敬者また、地元の皆様のご支援・ご協力をいただきながら続けて参りました。しかしながら、本殿等主要建造物の老朽化が顕著となり、また近年の自然災害の影響に依る被害が毎年発生し、更に昭和40年代の建造物であるため、非耐震構造であり、かつ高齢御遺族・身体障害者の皆様方に対するバリアフリーにも対応しておらず、大変ご心配・ご不便をお掛けしている状態でありました。
 神社では、戦後75年余を経て、御遺族が年々減少している状況を鑑み、責任役員会に於いて将来の神社護持運営のあり方を、あらゆる角度から検討して参りました。その結果、今般神社本庁の承認を得て、新境内地(千葉市若葉区桜木4丁目2番) に新たに本殿・社務所等を移転し、御遷座申し上げることと相成りました。
 就きましては、御遺族・戦友・崇敬者各位のご理解を賜りまして、御創立百四十五年の記念事業として、千葉県戦歿英霊鎮まる齋場建設にあたり、真心籠もるご浄財をご奉賛いただき、度く、ご支援ご協力のほど謹んでお願い申し上げます。

https://www.chiba-gokoku.jp/gohousan.html

千葉縣護國神社

幕末の嘉永6年(1853年)以降
約一世紀にわたり、戊辰の役・西南の役・日清戦争・日露戦争・
第一次世界大戦・満州事変・支那事変・大東亜戦争などに
おいて、ひたすら「国安かれ」との一念のもとに、その尊い
いのちを捧げられた方々のみたまを、軍人だけでなく、従軍看護婦や児童、生徒など女性の御祭神を含み、「護國」の神として、5万7828柱をお祀り申し上げている。

明治11年1月27日に、千葉県庁公園に「千葉縣招魂社」として創建したことに始まる。
明治22年に千葉神社境内に奉遷。
昭和12年に猪鼻山に改築奉遷。
昭和42年に猪鼻山から千葉公園・千葉県忠霊塔隣地に改築奉遷。
令和4年に千葉公園・千葉県忠霊塔隣地から桜木の地に改築奉遷。


改築奉遷した千葉県護國神社

もともとは千葉市の市有地であった土地を、令和元年度の市有地売払でもって、千葉縣護國神社が2億3,541万円で落札。

千葉県護國神社の御英霊に、黙祷を捧げる。

真新しい境内。


神門脇には旧鎮座地から移設された記念碑などがある。

あゝ特攻 千葉県特攻勇士顕彰碑

あゝ特攻 
千葉県特攻勇士顕彰碑

我が祖国日本は昭和16-20年米英支ソ蘭豪と大東亜戦争を戦った
自国の安泰と欧米の植民地支配からアジアを解放するためだった
戦は連戦連勝南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島から沖縄と敵の反攻を許した
この時一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必死の特攻戦法が採られた
貧しくとも誇り高い民族の苦渋の選択だった
二十歳前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った
その雄姿を此処に置く敗戦国に育ち歴史を絶たれた現代の人よ
命に代えて何を守ろうとしたのか
この像に問いかけてほしい
戦後同26年5月3日連合国最高司令官マッカーサー元帥が米上院軍事外交合同委員会で日本の戦は自衛のためであったと証言し米報道機関が全米に発信した
日本国民よ
この事実を銘記せよ

(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会
日本人の心を伝える会
 碑文・揮毫 吉田學
 慰霊碑像デザイン 塚本哲
  平成23年5月

特別攻撃隊として出撃、散華された多くの千葉県出身英霊の遺徳顕彰のため公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会又靖國神社の御支援御協力のもと、千葉県下遺族戦友崇敬者各崇敬団体から寄せられた真心籠もる浄財を以て茲に「千葉県特攻勇姿之像」を謹んで建立する
 平成23年5月26日
  千葉県特攻勇姿之像 建設実行委員会
   委員長 臼井日出男

天皇陛下 皇后陛下 御親拝記念
皇太子殿下 皇太子妃殿下 御参拝記念

天皇皇后両陛下には 昭和48年 第28回国民体育大会開会式御臨場を機に10月13日当神社に後親拝
皇太子同妃両殿下には 同年第9回全国身体障害者スポーツ大会御臨場を機に10月28日御参拝遊ばされた
千葉県戦歿英霊の御嘉納のほどいかばかりかと拝察 また遺族 戦友 県民崇敬者の光栄と喜びとを茲に永久に伝える
 昭和49年6月
 千葉県護國神社奉賛会会長
 千葉県知事
  友納武人

千葉県護國神社御創立145年記念事業新境内地新社殿造営工事にあたり 記念すべき行幸啓碑を茲に新設し 畏き大御心を永く 後世に伝え 英霊の安らかならんことを祈念する
 令和4年2月25日
  一般財団法人 千葉県遺族会
   会長 椿 唯司


御朱印(千葉縣護國神社御遷座記念御朱印)

御遷座・新社殿造営記念参拝
千葉県護國神社 御朱印

場所
千葉モノレール「桜木駅」から徒歩約20分。

https://goo.gl/maps/SgsKqxmTWUCS67VSA


千葉縣護國神社旧鎮座地(22年5月)

下記は、平成29年(2017)の参拝記録。

そして、改めて旧鎮座地にも足を運んでみました。
令和4年(2022年)5月の記録です。

千葉モノレール「千葉公園」で下車。

すでに大方の社殿は解体中でした。

かつての千葉縣護國神社の「二の鳥居」の姿が残る。

かつての千葉縣護國神社の参道脇には千葉市が奉納した大灯籠も残る。

そして千葉縣護國神社「一の鳥居」もまだ残っている。

千葉縣護國神社一の鳥居

昭和17年6月

富岡徴兵保険相互会社

社号標も残っている。

社号標、一の鳥居、大灯籠などは、千葉公園の敷地だから、早急には解体などの手がつけられないのだろうか。
できることであれば、このまま残してほしいものではあるが。。。

護国神社通り

護国神社入口

この地には、すでに護国神社はない。。。
千葉縣護國神社の跡地にはマンションが建つともいわれている。。。
隣の千葉陸軍墓地跡地にたつ忠霊塔や慰霊碑群の景観を壊さなければよいのだが。


千葉縣護國神社旧鎮座地(23年8月)

千葉公園内に残っていた灯籠や鳥居、社号標なども撤去されておりました。

交差点の名称は、まだ「護國神社入口」のままでしたが、確実に、ここに神社があった痕跡がなくなりつつあります。


関連

はじめに

千葉県忠霊塔(千葉陸軍墓地跡・千葉公園)

千葉公園は戦前は鉄道連隊の演習場や陸軍墓地があった。しばらく前までは千葉縣護國神社もあったが、令和4年に遷座している。

遷座前

遷座後

また、千葉公園は下記の記事にも記載している。
千葉公園の鉄道連隊は以下から。


千葉県忠霊塔
(千葉陸軍墓地跡)

かつての「千葉陸軍墓地」
戦時中に忠霊塔の建設が始まっていたが、工事途中で終戦。戦後の昭和27年に工事が再開され 昭和29年4月建立。
日清戦争以降の戦没者を追悼するとともに恒久平和を祈念して千葉県が建設し管理している。(なお千葉公園そのものは千葉市管理、忠霊塔は千葉県の管理。)

https://www.pref.chiba.lg.jp/kenshidou/engo/tsuitou/chuureitou/goannai.html

千葉県陸軍合同碑

海軍の碑

謎の構造物

日中戦士鎮魂碑

由来記
 我が楓4256部隊(歩兵212聯隊)は、昭和14年陽春、佐倉57聯隊に於て第32師団管下の部隊として編成。
 軍旗を親授され、同年端午節屯営を出発北支派遣、山東省魯西道の治安警備に当たり、昭和19年壕北ハルマヘラに転進現地において軍旗を奉焼。 渡史数か月後には第1大隊、長田部隊長を始め数百名の戦死者を輩出、部隊は壊滅状態となる。所謂「梁山事件」である。各隊は駐屯地周辺における寧日なき作戦、討伐行は、日中彼我双方に幾多の戦死者を出す。 日中両国戦士の立場に相反し、砲火を交え、救国の美名の下、戦線に立ち散兵戦に散華した。
 日中両国戦士の遺族一統の心中を思う時正に断腸の感あり。
 日中国交正常化した今我が魯桜会有志は「永久不戦」を誓い両国戦没者の怒れる魂よ鎮まり給えと、「日中戦士鎮魂碑」を建立したものである。
  昭和52年4月吉日 建立


千葉県出身 陸軍少年飛行兵 慰霊之碑

千葉県出身 
陸軍少年飛行兵 
慰霊之碑
 千葉県知事 友納武人謹書

平和の翼(由来)
 戦火絶えて27年 いま私達の胸に去来するものは、大空に憧れ、大空に生き、そして大空に散って行った君達のあの林檎のような頬っぺと澄みきった眼差しだ。今日の平和な日本の繁栄は君達の尊い尊い死によって築かれたものなのだ。
 若くして大空の華と散った君達の至純な姿を忘れぬために、再び戦争を繰り返さぬことを誓いながら、私達は「平和の翼」の碑を此の地に建てた。
 亡き友よ、安らかに眠り給え。そして、愛する日本を、美しい郷土を、永久に護り給え。
  昭和47年8月 建立
   元陸軍少年飛行兵 千葉県出身 生存者 一同


慰霊碑 支那駐屯地歩兵第三聯隊

墓碑
 この聯隊は北清事変以来北支に駐留した支那駐屯軍の伝統を継ぎ 昭和13年3月中国北京において編成され、その兵員は千葉県人を主体とし、東京埼玉山梨その他の各府県出身者により構成されていた。
 その後聯隊は北京保定附近の警備に任じ同年5月一部をもって徐州会戦に臨み 同年7月新たに編成された第27師団(極兵団)の基幹部隊として武漢攻略戦に参加し、赫々たる武勲を遺し 発祥の地北支に帰還し冀忠及び冀東地区の警備討伐に任じ 昭和18年戦力培養のため満州国錦県に移駐した。翌19年再び中国戦線に出動、京漢作戦、湘桂作戦に参加し、転じて江西省在支米空軍基地を覆滅し、さらに広東省に進出し三南作戦江西作戦を闘い、北上中、南昌南方地において終戦を迎えた。
 この間将兵は炎熱に耐え、酷寒を忍び峻嶮に挑み、困苦欠乏を極めたなかに常に勇戦して聯隊の名誉を高めた。不幸戦歿した2300余柱の英霊は故国の平和と繁栄を知ることなく今なお中国大陸の山野に眠っている。この尊い犠牲こそ今日の礎石であったことを銘肝し、ここ郷土の地に碑を刻んで諸霊の冥福を祈る。
 昭和54年7月22日
  支駐歩三戦友一同 建立

愛馬慰霊


鎮魂 シベリア強制抑留死没者慰霊碑

鎮魂
悲惨を極めた第2次大戦は、日本が連合国のポツダム宣言を受諾して終結した。
しかし、多くの将兵は酷寒のシベリアなどに抑留され、長期にわたり、労役に就かされた。
戦友の多くは、厳しい環境の中で病と戦いながら望郷の願いも空しく、凍土の中に永遠の眠りについている。
亡き同胞の昔日を偲び世界の恒久平和を祈念して、この碑を建立する。
 1996年3月吉日
 財団法人全国強制抑留者協会千葉県支部連合会 建立

大地

忠魂(鉄道隊創立80周年記念忠魂碑)

日本鉄道隊創立80周年記念忠魂碑改築由来
 我が鉄道隊の淵源は日清戦役直後中野に1大隊が創設されたのに始まる。爾来北清事変・日露戦役・青島戦役・シベリヤ出兵・満州事変と累次の征戦に参加し、赫々たる武勲を奏した。 此の間大隊は連隊に改編千葉津田沼に分屯していたが大正7年夫々鉄1、鉄2にかくちょうされ、更に満州事変後満州に第3・第4が新設常駐新たに装甲車の装備も加えられ名実共に野戦鉄道隊たるに至った。
 支那事変勃発するや鉄道隊は殆どその全力を以て北支に転戦常に軍の戦闘にあって活躍鉄緒戦を有利ならしめ爾来鉄一は中支に、鉄五は南支に、次いで仏印に転戦大東亜戦争突入と共に鉄五・鉄九は海陸相携えてマレー半島を席捲爾後鉄五はビルマに転進戡定作戦終了と共に反転鉄九と共に困難辛苦に絶する世紀の大作戦泰緬鉄道の建設等其戦力を遺憾なく発揮軍の作戦に貢献するところ頗る大であった。此の間或は剣電弾雨に斃れ、或は瘴癘病魔に斃れ名を鬼籍に列つれ、多くの英霊に対し、其の遺勲を伝え、追慕惜く能わざるものあり、茲に碑を建立し、其の遺勲を永遠に伝え、其の霊を慰めんとする次第である。
  昭和50年11月23日 建立
   地元発起人代表 鉄道聯隊会会長 藤原勝正 誌

「荒木大尉の脱線器装着戦闘場面の銅板額」について
 大東亜戦争が勃発して軍需物資が欠乏し、町内の金属類「火鉢、半鐘」と同様に大尉の銅像も供出されることになった。
 台座を壊す際に、この解体作業を担当した石屋の主人が大尉の武勲を語るこの銅板額の処分されるのを惜しみ、密かに自宅に持ち帰り保存していた。その後(昭和40年頃)旧鉄道第1聯隊の遺品として提出され、現自衛隊下志津高射学校資料室に保管されていた。
 この度、銅板額と銅像の除幕式に、当時学生で参列し、その後鉄道兵となり、また自衛隊のOBでもあり、現在、隊友会千葉県支部連合会の参与でもある私が、この銅板額をお預かりすることになった。今はその姿もない旧鉄道連隊の一部分の戦績に過ぎないかもしれないが、荒木大尉の武勲を語る貴重な記念品として、鉄道隊創立百周年迎えるに当り行事の一端として、千葉県護国神社境内に在る鉄道隊の忠魂碑の傍に建立し、後世に伝える。
  平成7年
   全国鉄道連隊連合会 千葉市 黒川日出松 記


忠魂塔からは、すこし離れた場所にあるが、同じ千葉公園内に追加された新しい保存展示。あわせて掲載しておきます。残念ながら2020年に解体された格納庫構造物の一部。

陸軍気球連隊
第二格納庫のダイヤモンドトラス

 陸軍気球連隊は、昭和2年(1927年)現在の埼玉県所沢市から千葉市稲毛区作草部に移転してきた日本陸軍で唯一の軍用気球を扱う連隊でした。気球連隊では敵地の偵察や砲弾の着弾点を観測するための訓練を行い、戦時中は気球部隊を戦地に派遣し、太平洋戦争末期には風船爆弾の実施部隊となりました。
 気球連隊には気球を入れる格納庫が2つあり、第二格納庫は昭和9年(1934年)に完成、大きさは間口38m、奥行き44m、高さ18.5m、かまぼこ屋根の巨大な建物でした。昭和20年(1945年)の千葉空襲で焼け残った第二格納庫は戦後長く民間の倉庫として使われましたが、令和2年(2020年)に老朽化のため解体されました。
 この鉄骨は第二格納庫で使われた「ダイヤモンドトラス」と呼ばれる立体構造物の一部で、解体時に切り出したものです。細い鉄骨材を三角形につくり、アーチ型に組み合わせることで、柱のない大きな空間を足場なしで建設することができる、構造技術者 野澤一郎氏による戦前の著名な発明でした。
 この展示はコンクリート基礎から斜めに立ち上がるダイヤモンドトラスを再現しており、外側には赤いサビ止め、内側は銀色のペンキで塗られていたものを復元しています。

https://www.city.chiba.jp/somu/shichokoshitsu/hisho/hodo/documents/220401-2-1.pdf

https://www.city.chiba.jp/kyodo/tenji/kikakutenji/kikaku_2021_01.html

※撮影は2022年5月


「海軍無線電信所船橋送信所」と「無線電信所道」(船橋)

以前に記載した記事の内容が浅かったために、「海軍無線電信所船橋送信所」を中心に記事を再編集。再編集するに当たり、未掲載写真や新規取材分の写真を追加しました。

元記事:船橋西部の戦跡散策(2017年6月撮影)

追記の再々編集を2022年11月にさらに実施しました。

船橋無線塔記念碑
(海軍無線電信所船橋送信所跡)

送信所は大正4年(1915年)完成。


昭和16年12月1日。柱島の連合艦隊旗艦「長門」から発信された電文は呉鎮守府を通じ海軍省を経て、12月2日に船橋送信所から無線にて南雲機動部隊を初めとする全艦隊に伝達された。
ちなみに、船橋送信所が艦船へ向けて短波・中波を送信し、依佐美送信所が潜水艦に向けて超長波を発信という。

現在は行田公園となっている。

船橋無線塔記念碑
ここ下総台地の一角にかつて無線塔が聳えていた。大正4年(1915年)に船橋海軍無線電信所が創設された。大正5年にはハワイ中継でアメリカのウイルソン大統領と日本の大正天皇とで電波の交信があった。広く平和的にも利用されたのでフナバシの地名がはじめて世界地図に書きこまれた。大正12年(1923年)の関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた。昭和16年(1941年)の頃には長短波用の大アンテナ群が完成し、太平洋戦争開幕を告げる「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の電波もここから出た。船橋のシンボルとして市民に親しまれていたが昭和46年(1971年)5月解体され栄光の歴史を閉じた。

この記念碑以外には、往時を物語るものは残っておらず。あとは道路の円形の雰囲気をなんとなく楽しむぐらい。
(※道路の反対側に開設板が新設されました、後述)

しかし、記念碑以外、何もなくても、この船橋の地から「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の無線が発せられ、日本の運命が決せられたと思うと感慨深い歴史の重みを感じてしまう。

場所

https://goo.gl/maps/iTWhzR4ioYDKTBt57

撮影:2017年6月


行田無線塔(船橋海軍無線電信所跡)

2022年11月に再訪してみたので、記事を追記。令和4年(2022年)3月に新たに設置された解説版もあった。

行田無線塔(船橋海軍無線電信所跡)
 大正4年(1915)この地(塚田村行田新田)に「船橋海軍無線電信所」が開設されました。当時最先端の通信技術の粋を集めた東洋一の施設でした。次年、逓信省(現:総務省)の「船橋無線電信局」を併設、日米通信をはじめ、世界各国との電信が、この行田無線塔を経由して行われました。無線施設は、敷地中央のレンガ造の局舎の脇に高さ200mの主塔が立ち、高さ約60mの副塔18基が周り(円形道路際)を取り巻き、アンテナ線がその間に36本張り巡らされ、あたかも笠の如しと評判でした。
 昭和16年(1941)頃、無線塔は高さ182mの自立式鉄塔6基に替えられました。この無線塔群は「行田の無線塔」として、船橋の目印として、永く市民に親しまれ、日本近代史の中で、重要な役割を果たしてきました、太平洋戦争後、アメリカ軍に接収されますが、昭和41年に返還され、昭和46年(1971)に解体されました。
 跡地は都市計画により、県立行田公園・行田団地・小学校などになりました。地図や航空写真でみると円形の道路に囲まれていますが、当初、副塔を管理する道路を外縁上に設置したためで、珍しい風景が今に残ることとなりました。
 なお、この説明板の左手(北側)にある石垣で囲われた四角い一角は、当初の無線塔の200m主塔が建てられた場所で、植え込みの下には無線塔の基礎部分が現在も残されています。
 令和4年3月 船橋市教育委員会

https://www.city.funabashi.lg.jp/gakushu/0005/p046654_d/fil/gyodamusentou.pdf

この石垣の場所に、200m主塔が立っていたという。

基礎跡は埋没されていると思われる。
現在はサツキが植樹されており、基礎は露出していない。

案内板は東側に新設されており、記念碑は道路の西側にある。

ニイタカヤマノボレ1208の箇所のみ、見やすくなっていた。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M871-93
昭和23年(1948年)03月19日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

中山競馬場の「楕円」
行田公園を中心とした「円」
新船橋駅となりの「四角」

円形は「送信所跡」で、四角は「軍需工場跡」。
どちらも海軍に関係した場所。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M860-62
昭和23年(1948年)03月29日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

赤い丸の部分に182mの無線塔が6基。
これが 「ニイタカヤマノボレ一二〇八」 を発した「長短波用の大アンテナ群」。


周辺道路は円形。

上から見ないとわからない。


海軍境界標石

円周の東側、ちょっとへこみがあるところに「海軍境界標」がのこっている。ちょうど諏訪神社あり、この部分のみ、円周に凹みがあるのは、当時から諏訪神社があったことも意味している。

場所

https://goo.gl/maps/1ZwLYbVSECG6K5Gu6


日本建鐵船橋製作所跡

「船橋無線塔記念碑」のある行田公園から南東の方向、新船橋駅の近くの四角いエリアが「日本建鐵船橋製作所」跡地。
船橋送信所とは関係ないけど、近くなので、一緒に掲載。

「日本建鐵船橋製作所」跡地
現在は三菱電機管理地とイオン船橋を始めとする商業エリアとなっている。
(日本建鐵は三菱の完全子会社となり会社清算済)

三菱の下請けということで往時は三菱系の航空機部品も制作。

具体的には海軍局地戦闘機「雷電」部品を製造していたという。
バス停の名前は「日本建鉄前」であれど、既に工場撤退しているのでバス停名も変更される未来は近そうです・・・

場所:

https://goo.gl/maps/4okHm4TgUfKAxSDY7

撮影:2017年6月および2022年11月


無線電信道の道標

西船橋駅の北西。庚申塔などと一緒にまとめられている。
ここから東の道を北上すれば「 海軍無線電信所船橋送信所 」の行田公園に到達できる。文字通り、無線電信所への道。

無線電信所道

東 船橋方面ニ至ル
西 市川方面ニ至ル

従是北八百餘間至無線電信所
大正六年行啓ヲ奉迎ニ付國縣郡費補助ヲ受耕地會沿道民ノ寄附並村費等金四千餘円ヲ以テ葛飾村ニ於テ大改修工事ヲ施行セル記念ニ建之

もとは違う場所にあったようだ。

場所

https://goo.gl/maps/Sibmkab5q2zVJW1U8

撮影:2022年1月


海軍境界標

船橋法典駅の東側。七面堂というお堂の境内に、海軍境界標石があった。
ちょうどこの場所から南に行けば、行田公園の円の中心に到達できる。

ここも、無線電信所への道の目印。

場所

https://goo.gl/maps/sVyoWKx7i6fTUp3d6

撮影:2022年1月


関連

「日本初の短波標準電波送信所」東京無線電信局検見川送信所跡(千葉)

検見川送信所。
解体話も飛び交っていたが保存の声が高まり「保存する」というところまでは、話を聞いていた建物。その後の話題を聞くこともなく、そういえば、で思い出しての訪問。
訪問は、日本戦跡協会さんと合同で実施しました。

本記事は、日本戦跡協会様との共同探索となります。
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訪問は夕刻。夕日の照り返しが、建物を彩る。


東京無線電信局検見川送信所

検見川送信所は1926年(大正15年)竣工。関東大震災以降に、これまでの木造やレンガ造から、堅牢であった鉄筋コンクリート造へと変遷していった大正期の建造物。

設計は逓信省の吉田鉄郎。吉田鉄郎はのちに東京中央郵便局の設計も手掛ける。
吉田鉄郎や山田守などが所属していた逓信省営繕課は、優秀な建築家があつまり「逓信建築」と称される公共建築を数々と手掛けていた。

検見川送信所は初期モダニズム作品として日本の近代建築の過渡期の時代として貴重なものとなる。

大正15年に、「東京無線電信局 検見川送信所」と、「東京無線電信局 岩槻受信所」が竣工。「東京無線電信局 東京中央通信所」が統括した。こうして、検見川送信所は、日本の無線通信の黎明期を支えてきた。

  • 昭和2年(1927) 日本初の標準電波発射
  • 昭和4年(1929) ドイツ飛行船ツエッペリン号と交信成功
  • 昭和5年(1930) 日本初の対航空機通信
  • 昭和5年(1930) 日本初の国際放送
    →浜口雄幸首相のロンドン軍縮会議締結記念放送
  • 昭和7年(1932) ロサンゼルスオリンピック中継放送
  • 昭和15年(1940) 標準電波業務を正式に開始
    →米国に継いで世界2番目の短波標準電波局を開設

戦中は、日本外地(南方地域)との通信拠点として活用。
戦後は、日本電信電話公社の無線交信所として使用され、昭和54年(1979年)に施設利用を廃止。
千葉市が敷地を取得し、取り壊し予定であったが、平成19年(2007年)に発足した「検見川送信所を知る会」が保存運動を開始。千葉市も保存の方針に意向を示すが、今後の方針は未定のまま。。。

検見川送信所を知る会

http://kemigawaradio.web.fc2.com/index.html

https://www.facebook.com/kemigawaradio/

不定期に内部公開なども行われている模様。。。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-M58-A-6-88
昭和21年(1946年)02月28日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

埋め立てが多すぎて、川も流路が変わっており、様相が全く異なる。。。

検見川送信所はのちに増築されている。現在、増築部分はすべて解体済み。


東京無線電信局検見川送信所の散策

敷地外より見学。いたずら防止などの観点から窓や出入り口などはすべて鉄板で塞がれている。

写真は2022年1月撮影。

「検見川無線送信所記念碑」は昭和59年(1984)に建立されたが、荒れるがままの状態。無残にも放置された記念碑ほど悲しいものはない。。。

「検見川無線送信所記念碑」 に掲げられていた銘板「検見川無線局跡」は剥がれ落ち、そして行方不明になったとのことで。。。

拡大。記念碑の面影はない。。。

以下に建立時の写真が掲載されている

http://kemigawaradio.web.fc2.com/cont/archive/monument01.html

給水塔。

建物背後には中央の出入り口から増築がされていた。増築部分の名残が中央に接続部として跡が残っている。

※撮影:2022年1月


関連

海軍無線電信所船橋送信所跡

印旛陸軍飛行場と無蓋掩体壕(印西)

千葉県印西市。
北総鉄道北総線「印西牧の原駅」。

正直言って乗る機会がなく、行く機会のない場所。なんせ北総線は運賃が高いので、用事がない限りは乗ることもなかった。そのため、印西市に「無蓋掩体壕」があるとは聞いていたが、それだけのために行く気がいまいち起きなかった。

先日、偶然で奇跡的な出会いをした「日本戦跡協会の代表様」から「印西の無蓋掩体壕を見てこようと思っている」という話を聞き、せっかくなので同行させていただくことにした。

そして、無蓋掩体壕と周辺探索を行い、記事をまとめるために、事後調査をしていたら、なにやら他にも見どころがあることが判明。このままでは、半端な記事になってしまう。

そういえば、日本戦跡協会さんと「同じところに何度も行くことってあるよね、、、調査漏れとかで」など話していた矢先、どうやら早速に、再訪しないと行けない感じ。

そんなわけで、本記事は、1回目を日本戦跡協会様との共同探索、2回目を再訪しての単独再調査ということで、まとめさせていただきました。

1回目は2022年1月上旬の晴天写真、2回目は1月下旬の曇天写真、です。


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逓信省印旛地方航空機乗員養成所
印旛陸軍飛行場
(印旛飛行場・深草飛行場)

深草とかいて「そうふけ」と読む。草深野(惣深野)。文字通りに草深く茂っている土地であった。
印旛飛行場は舗装をしていない滑走路で、なおかつパイロット養成のための飛行場であった。そのためにもともとの格納庫が少なく、陸軍が使用するようになった際に多くの無蓋掩体壕が造られたという。1982年調査段階では36基が確認されている。

昭和13年、逓信省印旛地方航空機乗員養成所が創設。
昭和17年6月、印旛飛行場が完成。
昭和18年10月、陸軍によって拡張工事が開始。
昭和19年10月、帝都防衛のため、陸軍飛行第二十三戦隊(天翔第19026)が配備。

第十飛行師団の指揮下にあって関東地区防衛任務に従事した陸軍飛行第二十三戦隊は、一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗」を保有していた。ただ、この時期は既に「隼」はB-29爆撃機を邀撃するには無力すぎる戦闘機であった。

陸軍飛行第二十三戦隊は、帝都防空に奮戦。昭和20年2月16~17日の米艦載機群による関東空襲に邀撃し、藤田重郎少佐(陸軍飛行第二十三戦隊 初代戦隊長)以下、多くの搭乗員が戦死。このときは、印旛・柏・松戸・成増・調布・水戸などの多くの陸軍飛行場から戦闘機が迎撃しており、そして多くの戦死者を出している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-R377-No1-144
昭和22年(1947年)10月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

飛行場部分を拡大。既に農地開墾が始まっている。

現在の様子に、飛行場用地を落とし込みしてみた。

西の原公園にあった地図。これで位置関係が把握できる。


印西牧の原駅

印西牧の原駅の南西に、当時は飛行場が広がっていた。

現在、線路部分は掘り下げられているが、もちろん当時は、平地であった。
滑走路は、印西牧の原駅の南北にも広がっていた。

南側の駅前に、アパホテル。上の階に泊まれば、往時の飛行場界隈を見渡すことも出来るだろ。ただ。泊まる用事が思い浮かばないが。

観覧車が見える。BIG HOP(ビッグホップ)ガーデンモール印西。
このあたりも飛行場エリア。


西の原公園に、記念碑がある。

印旛飛行場跡地記念碑

平和の碑

逓信省印旛地方航空機乗員養成所跡
陸軍飛行第二十三戦隊印旛飛行場跡
通称 草深飛行場跡 

草深野のあゆみ
 往古、印旛沼の畔に谷津を抱きし原野あり、草深野と名づく。そが谷津に開墾の鍬が入れられしは凡そ三百三十年前のことにて、開墾に従事せし先人よく過酷なる労働に耐え、豊穣の地となせり。惣深新田と称す。里人、早春には野に出て山菜を摘み、風の音に秋来たりなば、金波を漂わす水田に入りて鎌を振るう。四季は移ろい、凛たる寒気に包まれし野に雄鹿の声渡り大晦となりぬ。時は緩やかに流れ連綿として代を重ねたり。そが草深野に激動の時代を予感させし槌音響きたるは昭和十三年のことにて、逓信省印旛地方航空機乗員養成所の創設行わる。大志を抱きたる若人集い訓練に励む。しかるに軍靴の響き日増しに高く、昭和十八年十月、拡張工事に着手。翌十九年十月、帝都防衛の任に当たるべく陸軍飛行第二十三戦隊配備され、熾烈なる空中戦に挑みたる。雄々しき丈夫、勇躍銀翼を煌めかせ飛翔せしが帰還せざる者また多し。昭和二十年八月、幾多の尊き人命を奪いし第二次世界大戦終結せし後、飛行場跡地に開拓団入植し開墾に取り組みたる。その辛苦筆舌に尽くしがたし。されど不屈の闘志と団結力により、耕地は徐々に拡大し草深野は肥沃の地となりぬ。昭和三十年代後半に至り、国家政策として大都市周辺部に大規模なる新住宅地の造成が進められ、その一環として千葉北部地区宅地開発事業、即ち、「千葉ニュータウン事業構想」が発表されしは、昭和四十一年のことなり。爾来三十有余年、草深野は活気に漲り笑顔溢るる市街地へと変貌しつつあり。
 今般、印旛(草深)飛行場跡に有志の発意をもちて、多感なる往時に思いを馳せ、かつ恒久の平和を祈念せんと平和の碑を建立するにあたり、草深野の変遷をここに刻み後世に伝うるものなり。
  平成十五年十月吉日 
   印旛市長 海老原栄選文 
   印旛飛行場跡地記念碑建設委員会

説明板もある。

印旛地方航空機乗員養成所
陸軍飛行第23戦隊
印旛飛行場

印旛地方航空機乗員養成所
陸軍飛行第23戦隊
印旛飛行場

 昭和17年(1942年)、この地域(現在の印西市原、西の原及び草深周辺)に印旛地方航空機乗員養成所として飛行場が設置されました。このような航空機乗員養成所は、全国で15ヶ所ほど設けられた施設で、旧逓信省航空局により、民間の航空機乗員養成所として計画されたものです。
 昭和19年、太平洋戦争の戦況悪化によって拡張され、旧陸軍航空基地と兼用となり、首都防衛のため陸軍飛行第23戦隊が配備されました。
 部隊は、首都上空の迎撃のほか、硫黄島や北九州などに派遣され、隊員の一部は特別攻撃隊として出撃しました。終戦時には、50機ほどの機体が配備されていたといわれています。
 飛行場には、約2,000mの滑走路3本に加え、格納庫や飛行指揮所、射撃場などの付属施設、空襲時に飛行機を隠す掩体壕や誘導路などが整備されていました。
 戦後は、入植者による開拓が行われ、その大半が農地となりましたが、施設の一部は開拓事務所や鉄道教習所となり、その後、昭和24年から昭和60年までは、印旛少年院として利用されました。

 現在では、千葉ニュータウン事業などによる開発に伴い、当時の面影を残すものはほとんど残されていませんが、掩体壕や敷地内に植えられていた椎の木などが、往時の姿を今に伝えています。掩体壕は、現在1基が保存され、見学することができます。
 また、傍らにある「平和の碑」は、この飛行場の存在を後世に語り継ぐとともに、恒久の平和を祈念して、関係者や地元有志の尽力により、平成15年に設置されたものです。

参考文献
・印養誌出版委員会1977『わが青春―印旛航空機乗員養成所』
・山本忠良1979『草深野開拓』
・飛行第二十三戦隊印旛会編1987『飛行第二十三戦隊想い出の記:帝都防衛』
・印西町石造物調査会1987「消えゆく掩体壕」『印西町の歴史』第三号
・小林実ほか編1997『印旛の空:長浜清・陸軍特別攻撃隊員の記録と印旛航空機乗員養成所五期生の回想』

場所

https://goo.gl/maps/rKvoeFLK7ebw2BHJ6


椎の木(西の原南街区公園)

本部や講堂などの主要施設がおかれていたエリア。再開発で区画としても往時を思い起こすことが難しい中、敷地内に植えられていた「椎の木」が往時の姿を伝えているという。
印旛航空機乗員養成所本部跡にあたる。

場所

https://goo.gl/maps/HWFSa45kDDsdXR3s6

位置関係
※前述の航空写真より( ファイル: USA-R377-No1-144 )

道路も区画も全く異なっているために、位置関係の照合が難しい。
何も噛み合わない。。。
往時のロータリーの中央が、もしかしたら「椎の木」なのだろうか。


無蓋掩体壕モニュメント(東の原公園)

日本戦跡協会様と最初に訪れた場所が「東の原公園」でした。
ここに、「印旛飛行場と掩体壕」の案内看板がありますが、この公園自体は、往時の飛行場エリアからは敷地外。

印旛飛行場と掩体壕
 印西牧の原駅周辺には、昭和16年から昭和20年にかけて通信省航空局の印旛地方航空機搭乗員養成所(通称・印旛飛行場)の滑走路が広がっていました。昭和19年頃からは陸軍の軍用飛行場として使用され、首都防衛の任を果たしていました。現在では、千葉ニュータウンなどの開発が進み、当時の姿を見ることはできませんが、印旛飛行場があったことを示す痕跡として、掩体壕が残っています。
 掩体壕とは、飛行場に駐機する軍用機を上空の敵機から守るために作られた格納庫で、太平洋戦争末期、米軍による本土空襲が激しくなる状況で、全国の軍用飛行場に構築されました。掩体壕には、コンクリート製の屋根で作られた有蓋型と、屋根がなく土を土塁状に固めた無蓋型があります。印旛飛行場には、無蓋型の掩体壕が作られ、現存する掩体壕は、造谷川防災調整池の西側に保存されています。大きさは幅約20メートル、高さ3メートルほどで、小型の軍用機ならばほぼ一機格納できる規模となっています。
  印西市教育委員会

公園には、無蓋掩体壕を模したものがある。その中央には飛行機を模した砂場。
子どもたちが遊んでいるので、近づいての撮影は行いませんでした。

Google航空写真でみると、たしかに、無蓋掩体壕と飛行機、ですね。
これはなかなか粋です。

東の原公園は印旛飛行場跡地ではないが看板がありますので、脚を運んでみるのも良いかと。

場所

https://goo.gl/maps/EbSLq1GP6zntLoPB7


印旛飛行場の無蓋掩体壕

掩体壕
 正面に見える構築物は、掩体壕と呼ばれる戦争遺跡です。掩体壕とは、飛行場に駐機する軍用機を上空の敵機から守るために造られた格納庫で、昭和20年、太平洋戦争末期に、米軍による本土空襲が激しくなる状況の中で、全国の軍用飛行場に構築されました。掩体壕には、コンクリート製の有蓋型と、現状で屋根がなく、土塁状の形状の無蓋型が存在します。
 印西牧の原駅一帯には、昭和16年から昭和20年にかけて逓信省航空局の印旛地方航空機乗員養成所(通称 印旛飛行場)が所在し、昭和19年頃から、乗員養成所は陸軍の軍用飛行場として使用され、首都防衛の任を果たしていました。滑走路周辺には、規模が横幅約20m、高さ約3mほどの無蓋型の掩体壕が多数存在し、小型の軍用機ならば、ほぼ1機格納できる大きさです。
 現在では、千葉ニュータウンなどの開発が進み、当時の姿を見ることはできませんが、掩体壕はこの地域に、印旛飛行場があったことを示す貴重な文化財です。
 平成28年4月1日
  印西市教育委員会

無蓋掩体壕は、写真で伝えるのが難しいので、まずは、Google航空写真を。

2回目のリベンジ撮影で、魚眼レンズを持ち込みまして。

魚眼でなんとか全容を収めることに成功。
今度から、無蓋掩体壕を撮影するときは、魚眼必須ですね。いうほどに撮影機会はないですが。

無蓋掩体壕の前の道は、かつての誘導路。

晴天時の撮影は、1回目の撮影。日本戦跡協会様との探索時に標準レンズ、で。

スマホでパノラマ撮影もしてみました。
魚眼もしくは、パノラマでないと、左右が収まらないですね。


誘導路の名残、かな。

宅地造成とともに、アスファルト道路も新しくなっていく。

このあたりが飛行場エリアの南東部。写真の右側が飛行場エリア。

場所(無蓋掩体壕)

https://goo.gl/maps/4GhB2ZpmLc2ZWpdy8

位置関係
※前述の航空写真より( ファイル: USA-R377-No1-144 )

右の黄枠が現存している「無蓋掩体壕」の場所。
左の黄枠が「射撃場」、そして「排水路(用水路)」

現在と照合する。
現存する「無蓋掩体壕」の場所ははっきりとわかる。
また、航空写真では、「射撃場」の区画もはっくりと残っていることがわかる。


射撃場跡(原青年館)

「開拓記念碑」が原青年館の脇に建立されている。
昭和46年2月16日建立。
この地は、かつて「射撃場」があった場所。

「草深飛行場跡」と刻まれている。

原青年館の周辺。畑と墓地と資材置き場。見渡せばきれいに四角形の空間が広がっていて、整地の先は林となっている。
この区画が「射撃場」の跡地。

この射撃場跡エリアも先行きが不安な雰囲気が。
なにやら造成されそうな気配が。。。

射撃場跡の茂みの中に、新しい境界杭が打たれ始めてました。これは。。。

1回目の探索時に日本戦跡協会様と、竹林を深入りしてみた。
そしたら、見事にビンゴでした。

資材置き場の奥の竹林は高台となっており、射撃場があった場所は低地となっていた。これは「射撃場」の土手の名残と思われます。一人では見つけられなかったかもしれません。

そして、往時の区画と同じ場所にある用水路。位置関係は往時と変わらず。
もちろん、改良さされているはずではあるが、これは飛行場エリアの排水路転用の用水路と思わます。

右側が飛行場エリア。

印税牧の原。再開発により、次々と姿を変えている。
椎ノ木の公園と無蓋掩体壕は、整備されたが、それ以外は、いつなくなってもおかしくない。畑がなくなれば用水も不要。平然と区画も変わるかもしない。
そして宅地化が郊外に広がっている現状で、射撃場跡もいつまでも残っているとは限らない。残る戦跡と消える戦跡の狭間をみつつ、少しでも記録として伝承をしていきたいものです。

※撮影は2022年1月


関連

藤ヶ谷陸軍飛行場専用線の廃線跡(鎌ヶ谷)

先日、藤ヶ谷陸軍飛行場の地下格納庫を探索してました。
その際にご一緒しました「日本戦跡協会様」の車で、 地下格納庫 から海自下総航空基地を南側から迂回して松戸方面に走っていた途中、「ちなみに・ ・ ・」 で、私が口にしたのが、藤ヶ谷陸軍飛行場の軍用鉄道廃線跡があるという話題でした。

道路と廃線跡が交差するあたりで、「ちょうどコンビニのあたり(セブン-イレブン 鎌ヶ谷東邦鎌ヶ谷病院前店)を左右に横切る感じで、軍用線の廃線跡があるらしいですよ。特に何かが残っているわけではないみたいですけど。」などと発言した私。

そしたら、その後に、急に、廃線跡が気になってしまいましたので、思い出して廃線跡の散策を実施してみました、というのが本記事となります。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M380-63
昭和22年(1947年)7月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

拡大。
左が東武野田線(東武アーバンパークライン)の「六実駅」。
右が「藤ヶ谷陸軍飛行場」(海自下総航空基地)
中央には大津川が流れる。

「藤ヶ谷陸軍飛行場専用線」は、いつ建設されて、いつ廃線されたのかが、いまいちよくわからないらしい。1947年の航空写真では、六実駅に貨車が写っているのは確認できる。

現在、一部が遊歩道として残っている。


藤ヶ谷陸軍飛行場専用線の廃線跡散策

スタートは東武野田線の六実駅から。

かつて側線があったホームの東側。このあたりから、「藤ヶ谷陸軍飛行場専用線」が伸びていたと思われる。

コンクリートの塊が積んである場所。ここに線路が伸びていたと思われる。

この先は、駐車場になっている。

駐車場の先は住宅地。
廃線跡の痕跡は住宅の中に現れた遊歩道。

こんな感じ。

廃線跡の遊歩道。

右手が低くなっている。築堤の名残かも。

この先、 セブンイレブン鎌ヶ谷東邦鎌ヶ谷病院前店の脇を抜ける。
写真左の建物がセブンイレブン。

また遊歩道が見えてきた。この先は大津川。

大津川。里山っぽく整備されている。良い感じ。

鉄道時代の橋脚などは残っておらず、再整備されたようだ。

大津川を渡り、遊歩道をさらに進む。

おお。左右に横たわるのは「枕木」。

「枕木」に「犬釘」が刺さったまま残っています。
これこそが、ここが鉄道の線路であったという、沿線に残る僅かな痕跡。

犬釘。線路のレールを固定していた名残。

廃線跡は緩やかなカーブを描く。

住宅地にぶつかりました。

この先は、なかなか追跡が困難。

この左側を線路が走っていたと思われる。

畑に横たわっていたコンクリート水槽。

コンクリートの瓦礫の具合が、往時からのものであっても違和感がないが、さすがに関係ないかな。。。(視点がなんでも往時のものか否かで見てしまうのが職業病かも)

このあたりが廃線跡、だったかもしれない。。。

この先は、森に埋もれてしまい踏破不可でした。

道路を大きく迂回して、下総航空基地のそばに。

痕跡は何も残っていないですね。
廃線跡は、産廃業者の敷地となっております。

右が、藤ヶ谷陸軍飛行場(空自下総航空基地)
左側から線路が伸びていたとおもれる。

空自下総航空基地の管制塔を垣間見ることが出来た。
下総教育航空群・第203教育航空隊の「P-3C」が駐留していますね。

廃線跡あるあるの遊歩道に、横たわる枕木、そして刺さっていた犬釘。見どころは、正直これしかないが、それでも何やら楽しい散策が出来ました。万人にオススメというわけではありませんが、ちょとした散策には良いかもしれません。なお、散策は枕木と犬釘を見たら引き返しで良いと思います。その先は、結構な徒労になります。。。

藤ヶ谷陸軍飛行場専用線の廃線跡は、以上で〆

※撮影:2022年1月

藤ヶ谷陸軍飛行場の地下格納庫跡(鎌ヶ谷)

本記事は、日本戦跡協会様との共同探索となります。

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2022年1月某日。偶然の産物からの日本戦跡協会様との共同探索を実施。
鎌ヶ谷の下総航空基地近くにやってきました。


藤ヶ谷陸軍飛行場
(海自下総航空基地)

藤ヶ谷の地名は、現在の柏市藤ケ谷。敷地としては、北の柏市と南の鎌ケ谷市にまたがっている。

もともと当地は、東洋一の規模を誇っていたゴルフ場であった「武蔵カンツリー倶楽部」の「藤ヶ谷コース」であった。ゴルフ場としては、昭和4年(1929年)に開発された。
「武蔵カンツリー倶楽部」 は、隣接する「六実リンクス18ホール」に「鎌ヶ谷コース18ホール」を有し、日本初の36ホールのゴルフ場であった。

「武蔵カンツリー倶楽部」は、昭和19年(1944年)に本土防空のための飛行場化のために、帝国陸軍に土地が接収され陸軍用地となったたことでゴルフ場は閉鎖され解散。

昭和20年4月、「藤ヶ谷陸軍飛行場」が完成。6月に飛行第53戦隊が、松戸陸軍飛行場から移動。
昭和20年8月、終戦により、アメリカ陸軍航空軍の白井基地としてGHQに接収。
その後、海上自衛隊と米軍による日米共同飛行場時代を経て、現在は「海上自衛隊下総航空基地」となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M676-153
昭和22年(1947年)11月28日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

黄色枠が今回の探索対象。

下総航空基地は戦後に滑走路が延伸されている。
そのため、滑走路の位置から確認をしようとすると位置関係を見誤るため、台地の森から位置関係を把握。
きっちり、L字型の構造物が確認できる。

というか、この周辺、柏と同じように、燃料庫が集中している感じ。

航空写真で見比べただけでも、この「L字型」の構造物には、かなりの既視感がある。
あぁ、これは柏の秋水燃料庫と同じ「L字型」だと。


藤ヶ谷陸軍飛行場の地下格納庫跡の散策

現地にて改めて、鎌ヶ谷の構造物を目の前にする。

見えてきた構造物に、「あぁ、柏の秋水だ」「これは同じだ」と、日本戦跡協会様と即座に意見の一致をみる。
これはすごく既視感があります。

藤ヶ谷陸軍飛行場で秋水が配備されていたかどうかは未知ですが、柏陸軍飛行場ともそんなに遠いわけでもなく。鉄道演習線を通じたら、むしろ近い位置関係。同じようなものがあっても、おかしくなさそう。

表現は人によってまちまち。
地下格納庫・地下燃料庫・地下燃料格納庫・地下燃料貯蔵庫・地下貯蔵庫…まあ、言わんとする方向性は大体一緒。

地下格納庫のある森の外周を歩いてみる。
今回は、森の中を総じての探索は出来ませんでしたが、もしかしたら、何か他にもあるかもという予感もあり。

森の西側には、入り口が開放されておりました。

市有地、だそうです。

キャンプ場としても活用されているっぽいです。

そのまま西から東に歩みを進めていきますと、開口部がありました。
最初に道路側から見たコンクリート構造物の反対側、です。

内部。
奥は右側に曲がっています。「L字型」。

構造物上部から。この先、右に伸びている。

右に折れた先は、道路側からみた部分となる。思ったよりも高台。

分かりにくいが、この部分がちょうど「L字型」に折れている箇所。奥が道路側。

振り返ると、コンクリート構造物が伸びているのが分かる。

隙間があった。造られてから77年の歳月を経ていれば、ちょっとしたズレも生じる。

この周辺、まだ何かあるかもしれないし、もう他にはないかもしれないけれども、じっくり調査をする価値はありそう。

場所
道路から見える場所

https://goo.gl/maps/Nvu3HhZ7NMmM3DQNA

キャンプ場側の入口はこっち

https://goo.gl/maps/m9rNHnav7vD9Zeyy7

今回の散策は、日本戦跡協会様の御協力がありましたこと、改めて御礼申し上げます。
ありがとうございました。

※撮影:2022年1月


関連

鉄道連隊演習線松戸線の散策4(津田沼~前原)

新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。


鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8911-C1-4
昭和19年(1944年)10月16日、日本陸軍撮影の航空写真。

一部拡大加工 。
津田沼駅周辺に展開されていた、鉄道第二連隊の様子がよく分かる。


津田沼の鉄道聯隊跡地散策

新京成電鉄「新津田沼駅」とJR総武線「津田沼駅」界隈から散策をしてみる。
津田沼駅の南に、鉄道聯隊の看板がたっている。

鉄道連隊跡
 ここは旧陸軍の鉄道連隊があった場所です。鉄道隊は、戦地で鉄道の敷設・補修・運転・破壊に従事した部隊で、明治28年(1895年)の日清戦争における臨時鉄道隊の編成に始まり、翌年には東京牛込に鉄道大隊が常設されました(翌30年、中野に転営)。日露戦争後の明治39年(1906)、派遣隊により津田沼-習志野間の軽便鉄道が敷設されます。そして翌40年(1907)、鉄道大隊は鉄道連隊に昇格し、千葉と津田沼に転営しました。千葉には連隊本部・第一大隊・第二大隊・津田沼には第三大隊が置かれました。総武線津田沼駅の南側に本部・兵舎・作業場があり、北側には器材の保営・整備を行う材料廠がありました。
 鉄道連隊第三大隊は、大正7年(1918)に鉄道第二連隊に昇格しました。千葉の鉄道連隊は鉄道第一連隊となります。両連隊は、明治44年に完成した津田沼-千葉間の演習線で訓練を行いました。千葉県営鉄道の建設にも大きく関わっています。
 日中戦争から第二次世界大戦にかけての戦時中、津田沼と千葉の両連隊をもとに多くの鉄道連隊が編成され、中国・東南アジアの戦地に派遣されて作戦に従事しました。中でも、多大な犠牲者を出した泰面鉄道の建設が知られています。
 戦後、連隊跡地は教育施設・鉄道車両工場などを経て、習志野文化ホール・千葉工業大学・習志野郵便局・商業施設へと変わり、総武線津田沼駅・新京成線津田沼駅を擁する本市の表玄関となっています。
  平成30年3月 習志野市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/FbgLamEwZR9L8c7S9


陸軍鉄道第二聯隊兵営表門跡
(千葉工業大学通用門)

登録有形文化財 
第12-0007号

この門は明治40年(1907年)当地に移駐した陸軍鉄道連隊第三大隊(大正7年に鉄道第二連隊に改組)兵舎の表門として使用されたものです。
第二次大戦後、ここが千葉工業大学の校地になった後も、「工大の煉瓦門」として親しまれています。
平成10年5月、国土の歴史的景観に寄与するものとして、国の登録有形文化財に指定されました。 
 千葉工業大学

場所

https://goo.gl/maps/pLeJe6UgX6A5iZLd8


K2形機関車134号機

千葉工業大学から線路を挟んだ反対側にある公園。
習志野市「津田沼一丁目公園」

ここに鉄道連隊ゆかりの機関車が保存されている。
「K2形機関車134号機」

K2形機関車134号
 この蒸気機関車は、かつてここ津田沼に本部を置いていた陸軍第2連隊がしようしていたもので、現在の新京成線敷地内にあった陸軍演習線での機関車として活躍したものです。
 この度、西武鉄道㈱ユネスコ村に保存してあったものを譲り受け、鉄道連隊ゆかりの、この津田沼一丁目公園に設置したものです。
 平成6年3月

場所

https://goo.gl/maps/rqDsPQtgZsfHU4iUA


新京成電鉄橋脚

鉄道連隊が津田沼から総武本線をオーバークロスさせていた路線跡は、今は新京成電鉄が同じようにオーバークロスしている。鉄橋などはもちろん往時のものではないが、位置関係は同じ。橋脚はどうだろうか。参考までに撮影。

新京成は、新津田沼から京成津田沼までは、文字通りに「S字カーブ」を描いている。この窮屈なカーブも鉄道聯隊時代の名残。


御大典記念道

京成電鉄の京成津田沼駅から、谷津駅に向けて伸びる一本の道路は、御大典記念。
昭和4年2月建立。
昭和天皇の即位(御大典)を記念して京成津田沼駅から線路に沿って谷津に向かう道路を作ったよ、という記念道。
昭和天皇は、昭和3年11月10日に、京都御所において即位式の大礼を挙行。これを記念して、道路を造成。工事費の半分を町が負担。残りを地元有志の寄付金でまかない、約2ヶ月で竣工。

京成津田沼駅。


前原駅~新津田沼駅間の鉄道聯隊跡地散策

新津田沼駅から一駅先の前原駅に移動。前原駅から線路沿いに歩いて、鉄道聯隊の名残を探してみる。
以下、みつけた陸軍境界標石(陸軍境界標杭・陸軍境界石・陸軍境界杭)の記録。

陸軍境界標石1(前原駅)

前原駅の南(新津田沼駅側)、上り番線から見えるところに、陸軍境界標石がある。


陸軍境界標石2(前原1号踏切)

前原駅の南側、最初の踏切。うっすらと「陸軍」の刻印をみることができる。


陸軍境界標石3・4(前原2号~前原3号踏切間)

線路脇の側道から。
前原3号踏切は、成田街道と交差している。

新京成電鉄。撮影するときはだいたい急カーブ。


陸軍境界標石5(前原4号踏切)

前原4号踏切。ブロック塀に埋もれていた。

前原5号踏切に差し掛かる新京成電鉄。やっぱりカーブ。


陸軍境界標石6(前原5号~前原6号踏切間)

線路脇の道路。半分だけ。

陸軍境界標石7(前原5号~前原6号踏切間)

電信柱の裏。やっぱり半分埋もれている。

陸軍境界標石8(前原5号~前原6号踏切間)

駐車場の塀が、境界標石を巧みに避けながら設けられていた。
ここまで来ると、新津田沼駅が近い。すぐ南の前原6号踏切は、御成街道と交差する。

陸軍境界標石9(前原6号~前原7号踏切間)

新京成線と道路を隔てる隙間、ガードレールの裏に隠れていた。

うっすらと「陸軍」の文字が見えるような気がする。

陸軍境界標石10・11・12(前原7号踏切近くの駐車場)

前原7号踏切近くの駐車場に3本残っているのが確認出る。


陸軍境界標石13(前原7号踏切~前原8号踏切間)

ちょっと怪しいが、いちおうカウントに入れておく。
ここまで来ると、津田沼パルコのすぐ裏。この先は新津田沼駅となる。

前原駅から新津田沼駅まで歩いただけでも10個以上の陸軍境界標石を見つけることが出来た。歩いていて楽しい区間。今回は、前原駅から南下したが、逆に北上しても、いくつか見つかるらしい。際限無くなりそうでちょっと怖いが、また時間がある時に歩いてみようと思う。

※撮影:2022年1月

今回は以上で〆。

嗚呼 海軍七勇士殉難之碑(船橋)

船橋市の内陸。
かつて、一式陸攻が墜落し若人7名が殉職した地に建立された慰霊碑がある。
行きにくい場所ではあるが、気になるので足を運んでみた。

新京成電鉄「高根公団駅」から「さつき台」行きのバスにのり「梨園」バス停で下車。そこから10分ほど歩くと、「海軍七勇士殉難之碑」慰霊碑がある。
バスは20分に1本ぐらい走っているので、訪問に手間はかかるが、そこまでは難易度は高くなかった。


嗚呼 海軍七勇士殉難之碑
嗚呼 海軍七勇殉難之趾 慰霊碑

この地に、一式陸攻が墜落し、搭乗員だった海軍七勇士が散華なされた。

合掌

(正面)
嗚呼海軍七勇殉難之趾

(右側面)
昭和十八年二月二十七日建立

(裏面)
故 海軍飛行兵曹長  松本博
  海軍一等飛行兵曹 横山彦造
  同        重村惠
  海軍一等整備兵曹 富澤正吉
  海軍二等飛行兵曹 島田茂
  同        高橋利省
  同        飯田輝與

嗚呼 海軍七勇士殉難之碑
 この碑は、太平洋戦争のさなか、昭和17年11月27日の早朝、木更津航空基地から海軍第七〇二航空隊の一式陸上攻撃機(一式陸攻)が訓練飛行に離陸した。機が当地付近上空にさしかかたころ、天候が急変、豪雨、落雷に遭難し墜落、機は飛散した。搭乗していた20歳前後の若き航空兵、下記7名全員が無念にも殉職散華されました。

    記
故 海軍飛行兵曹長  松本博  (京都府)
  海軍一等飛行兵曹 横山彦造 (愛知県)
  同        重村恵  (同)
  海軍一等整備兵曹 富澤正吉 (千葉県)
  海軍二等飛行兵曹 島田茂  (栃木県)
  同        高橋利省 (宮城県)
  同        飯田輝與 (埼玉県)
注 石碑の裏面「階級、氏名」右側側面「昭和十八年二月二十七日建立」とあり

 当時近隣住民の方々が殉職兵士を悼み殉難の碑を建立しましたが、戦中、戦後の混乱の中で永らく樹間に放置され墓参に訪れる人もなく、異境の地で淋しく眠っておられましたが、樹間に埋もれていた碑が、昭和39年たまたまこの地に訪れた葛西氏(松が丘1丁目)により発見されました。その後地主さんの御好意により周辺が整備され、再び白く輝く碑を見ることが出来ました。
 その後、近隣の住民の方々のおりに触れた献花、焼香等が手向けられ、慰霊に努めて来られました。10年前頃からは地元ボランティアによる周辺の整備に当って来られたためにきれいになり、近年は散策に訪れてついでに手を合わせてくださる姿が多くなりました。
 この大穴の地にもこのような戦争の傷跡が残っていることを、記憶にとどめて語り伝えていただければと思います。ここに改めて若くして散華した七勇士に哀悼の意を捧げるとともに、今後も後世のため、この殉難の碑を守り伝え、慰霊に務めるものであります。
 平成26年11月27日
  殉難の碑を守る有志の会

海軍第702航空隊の前身は、海軍第4航空隊。
昭和17年2月10日に、高雄空陸攻隊と千歳空陸攻隊と艦戦隊で編成された航空隊。トラック島で編成。
昭和17年9月にラバウルから木更津に帰還し昭和11月1日に第4航空隊から、第702航空隊に改称。
翌年の昭和18年5月に再びラバウルに進出。米軍の中部ソロモン進攻に対抗。ラバウル周辺で展開された「ろ号作戦」に参加後に解隊。

昭和17年11月27日に墜落した一式陸攻は、9月にラバウルから帰還し、そして11月に新たに第702航空隊となり、再び最前線のラバウルに進出するために、内地木更津で訓練を重ねていたタイミングであった。

一式陸攻のイラストもありました。

一式陸攻K310は、1941年12月10日のマレー沖海戦において、鹿屋航空隊第3中隊分隊長の壱岐春記大尉が機長を務めた機体。巡洋戦艦レパルスに魚雷を命中させた機体のひとつ。
一式陸攻が一番輝き、そして大活躍し、若き一式陸攻搭乗員たちのあこがれであったであろう機体のイラストをレクイエムとして奉納、かもしれない。

この場所に、一式陸攻が墜落した。。。

場所

https://goo.gl/maps/MdcdyZtJnPnsXdas5

※撮影:2022年1月


関連

鉄道連隊演習線松戸線の散策3(鉄道連隊橋脚・鎌ヶ谷)

鉄道連隊の跡地散策。
この日は、新京成線沿線から離れ、東武野田線(東武アーバンパークライン)の馬込沢駅から20分ほど歩いた場所にある、演習線の橋脚を見学。


新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。

鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。


鉄道連隊

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-45
昭和22年(1947年)09月24日、米軍撮影の航空写真

google航空写真でほぼ同位置。演習線の跡を色付け。ポイントが橋脚跡。
新京成の鎌ヶ谷大仏駅は、曲線をショートカットした新設線路で新駅であることがわかる。

拡大。


鎌ヶ谷の鉄道連隊橋脚

史跡 
鉄道連隊橋脚
  所在地 鎌ヶ谷市東道野辺6丁目8番

 この橋脚は、昭和初期に旧日本軍の鉄道大隊が、訓練や物資等の輸送のため、建設した鉄道の一部です。
 近代の戦争では、鉄道は人や物資の輸送のために重要な役割を担っていました。千葉県でも、鉄道大隊から独立した第1鉄道連隊が千葉町(現在の千葉市)に、第2鉄道連隊が津田沼町(現在の新京成新津田沼駅の辺り)に配備され、昭和20年(1945年)第2次世界大戦終了まで活躍しました。
 この橋脚は、第2鉄道連隊が、大戦中、鉄道を敷く訓練として津田沼~松戸間に設けた路線の一部でしたが、終戦後は放置されていたため、この部分を除くほとんどを京成電鉄が買い受けました。その後、昭和21年(1946年)に京成電鉄の出資により新京成電鉄が設立され、当路線の整備を行いました。しかし、この部分は整備から除かれ、この橋脚だけが残りました。現在の新京成電鉄の全線が、整備を終え開通したのは、昭和30年(1955年)のことでした。
  平成11年3月 
  鎌ヶ谷市教育委員会

アカシア児童遊園

児童遊園の中に橋脚が残っている。

西側の1番目。

西側の2番目。

西側の2本。

東側の二本。合計、四本の橋脚が残されている。

端の橋脚は凹型。

桜の季節が気になる枝ぶり。「戦跡と花見」というのは良きポイントですね。
もちろん、桜は戦後の植樹。

今は暗渠となっているが、この四本の橋脚のちょうど中間に川が流れていた。
そのために窪地となっており、鉄道連隊演習線は、この部分に橋を渡した。

地理院地図の標高地形図をみると、凹み具合がわかる。

https://maps.gsi.go.jp/#18/35.747603/140.002915/&base=std&base_grayscale=1&ls=std%7Crelief&blend=1&disp=11&lcd=relief&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

Google Mapsでも、道路のアップダウンが分かる。

場所

https://goo.gl/maps/MJrHPkUPMVwzxBqz6


陸軍境界標石(石杭)

公園の西端入口に、境界石もあった。

陸軍

場所

https://goo.gl/maps/oTpYKdmbq3JEzL5PA


出会い

実は、ここで偶然の出会いがありました。

私が橋脚の写真を撮っていると、同じくカメラを持っている御仁が。
「ん?同業者さんか??」と思って、そうこうして、挨拶を交わしてみると。。。

なんと、日本戦跡協会の代表さん!
(戦跡協会さんからすると、なんと、戦跡紀行さん!となったようですが。。。)
この場所で、タイミングよく出会うというのは、かなり奇跡的。
私が、橋脚を見ようかなと考えたのは、この日の移動中の電車の中でしたので、直前まで行き先も確定させていなかったので。

日本戦跡協会さんのサイト
 https://www.sensouiseki.com
日本戦跡協会さんのTwitter
 https://twitter.com/sensouiseki
日本戦跡協会さんのFacebook
 https://www.facebook.com/sensouiseki/

戦跡協会さんのTwitter等で発信される情報は、かなりの頻度で拝見しておりました。日本のみならず海外情報にも明るく、それらの記録は大変に秀逸なもので、まさかここで偶然の極みで御縁が出来るとは思いもよらず。今年(令和4年)の戦跡フィールドワークの幸先は良く、充実したものになりそうです。

このあと、せっかくの御縁なので、 日本戦跡協会さんと一緒に、千葉界隈の戦跡散策を実施。
それらの戦跡探訪記録は、おいおい掲載していきます。。。
ありがとうございました。

ひとまず、本編は以上で〆

※撮影:2022年1月