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「日本初の短波標準電波送信所」東京無線電信局検見川送信所跡(千葉)

検見川送信所。
解体話も飛び交っていたが保存の声が高まり「保存する」というところまでは、話を聞いていた建物。その後の話題を聞くこともなく、そういえば、で思い出しての訪問。
訪問は、日本戦跡協会さんと合同で実施しました。

本記事は、日本戦跡協会様との共同探索となります。
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訪問は夕刻。夕日の照り返しが、建物を彩る。


東京無線電信局検見川送信所

検見川送信所は1926年(大正15年)竣工。関東大震災以降に、これまでの木造やレンガ造から、堅牢であった鉄筋コンクリート造へと変遷していった大正期の建造物。

設計は逓信省の吉田鉄郎。吉田鉄郎はのちに東京中央郵便局の設計も手掛ける。
吉田鉄郎や山田守などが所属していた逓信省営繕課は、優秀な建築家があつまり「逓信建築」と称される公共建築を数々と手掛けていた。

検見川送信所は初期モダニズム作品として日本の近代建築の過渡期の時代として貴重なものとなる。

大正15年に、「東京無線電信局 検見川送信所」と、「東京無線電信局 岩槻受信所」が竣工。「東京無線電信局 東京中央通信所」が統括した。こうして、検見川送信所は、日本の無線通信の黎明期を支えてきた。

  • 昭和2年(1927) 日本初の標準電波発射
  • 昭和4年(1929) ドイツ飛行船ツエッペリン号と交信成功
  • 昭和5年(1930) 日本初の対航空機通信
  • 昭和5年(1930) 日本初の国際放送
    →浜口雄幸首相のロンドン軍縮会議締結記念放送
  • 昭和7年(1932) ロサンゼルスオリンピック中継放送
  • 昭和15年(1940) 標準電波業務を正式に開始
    →米国に継いで世界2番目の短波標準電波局を開設

戦中は、日本外地(南方地域)との通信拠点として活用。
戦後は、日本電信電話公社の無線交信所として使用され、昭和54年(1979年)に施設利用を廃止。
千葉市が敷地を取得し、取り壊し予定であったが、平成19年(2007年)に発足した「検見川送信所を知る会」が保存運動を開始。千葉市も保存の方針に意向を示すが、今後の方針は未定のまま。。。

検見川送信所を知る会

http://kemigawaradio.web.fc2.com/index.html

https://www.facebook.com/kemigawaradio/

不定期に内部公開なども行われている模様。。。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-M58-A-6-88
昭和21年(1946年)02月28日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

埋め立てが多すぎて、川も流路が変わっており、様相が全く異なる。。。

検見川送信所はのちに増築されている。現在、増築部分はすべて解体済み。


東京無線電信局検見川送信所の散策

敷地外より見学。いたずら防止などの観点から窓や出入り口などはすべて鉄板で塞がれている。

写真は2022年1月撮影。

「検見川無線送信所記念碑」は昭和59年(1984)に建立されたが、荒れるがままの状態。無残にも放置された記念碑ほど悲しいものはない。。。

「検見川無線送信所記念碑」 に掲げられていた銘板「検見川無線局跡」は剥がれ落ち、そして行方不明になったとのことで。。。

拡大。記念碑の面影はない。。。

以下に建立時の写真が掲載されている

http://kemigawaradio.web.fc2.com/cont/archive/monument01.html

給水塔。

建物背後には中央の出入り口から増築がされていた。増築部分の名残が中央に接続部として跡が残っている。

※撮影:2022年1月


関連

海軍無線電信所船橋送信所跡

印旛陸軍飛行場と無蓋掩体壕(印西)

千葉県印西市。
北総鉄道北総線「印西牧の原駅」。

正直言って乗る機会がなく、行く機会のない場所。なんせ北総線は運賃が高いので、用事がない限りは乗ることもなかった。そのため、印西市に「無蓋掩体壕」があるとは聞いていたが、それだけのために行く気がいまいち起きなかった。

先日、偶然で奇跡的な出会いをした「日本戦跡協会の代表様」から「印西の無蓋掩体壕を見てこようと思っている」という話を聞き、せっかくなので同行させていただくことにした。

そして、無蓋掩体壕と周辺探索を行い、記事をまとめるために、事後調査をしていたら、なにやら他にも見どころがあることが判明。このままでは、半端な記事になってしまう。

そういえば、日本戦跡協会さんと「同じところに何度も行くことってあるよね、、、調査漏れとかで」など話していた矢先、どうやら早速に、再訪しないと行けない感じ。

そんなわけで、本記事は、1回目を日本戦跡協会様との共同探索、2回目を再訪しての単独再調査ということで、まとめさせていただきました。

1回目は2022年1月上旬の晴天写真、2回目は1月下旬の曇天写真、です。


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逓信省印旛地方航空機乗員養成所
印旛陸軍飛行場
(印旛飛行場・深草飛行場)

深草とかいて「そうふけ」と読む。草深野(惣深野)。文字通りに草深く茂っている土地であった。
印旛飛行場は舗装をしていない滑走路で、なおかつパイロット養成のための飛行場であった。そのためにもともとの格納庫が少なく、陸軍が使用するようになった際に多くの無蓋掩体壕が造られたという。1982年調査段階では36基が確認されている。

昭和13年、逓信省印旛地方航空機乗員養成所が創設。
昭和17年6月、印旛飛行場が完成。
昭和18年10月、陸軍によって拡張工事が開始。
昭和19年10月、帝都防衛のため、陸軍飛行第二十三戦隊(天翔第19026)が配備。

第十飛行師団の指揮下にあって関東地区防衛任務に従事した陸軍飛行第二十三戦隊は、一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗」を保有していた。ただ、この時期は既に「隼」はB-29爆撃機を邀撃するには無力すぎる戦闘機であった。

陸軍飛行第二十三戦隊は、帝都防空に奮戦。昭和20年2月16~17日の米艦載機群による関東空襲に邀撃し、藤田重郎少佐(陸軍飛行第二十三戦隊 初代戦隊長)以下、多くの搭乗員が戦死。このときは、印旛・柏・松戸・成増・調布・水戸などの多くの陸軍飛行場から戦闘機が迎撃しており、そして多くの戦死者を出している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-R377-No1-144
昭和22年(1947年)10月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

飛行場部分を拡大。既に農地開墾が始まっている。

現在の様子に、飛行場用地を落とし込みしてみた。

西の原公園にあった地図。これで位置関係が把握できる。


印西牧の原駅

印西牧の原駅の南西に、当時は飛行場が広がっていた。

現在、線路部分は掘り下げられているが、もちろん当時は、平地であった。
滑走路は、印西牧の原駅の南北にも広がっていた。

南側の駅前に、アパホテル。上の階に泊まれば、往時の飛行場界隈を見渡すことも出来るだろ。ただ。泊まる用事が思い浮かばないが。

観覧車が見える。BIG HOP(ビッグホップ)ガーデンモール印西。
このあたりも飛行場エリア。


西の原公園に、記念碑がある。

印旛飛行場跡地記念碑

平和の碑

逓信省印旛地方航空機乗員養成所跡
陸軍飛行第二十三戦隊印旛飛行場跡
通称 草深飛行場跡 

草深野のあゆみ
 往古、印旛沼の畔に谷津を抱きし原野あり、草深野と名づく。そが谷津に開墾の鍬が入れられしは凡そ三百三十年前のことにて、開墾に従事せし先人よく過酷なる労働に耐え、豊穣の地となせり。惣深新田と称す。里人、早春には野に出て山菜を摘み、風の音に秋来たりなば、金波を漂わす水田に入りて鎌を振るう。四季は移ろい、凛たる寒気に包まれし野に雄鹿の声渡り大晦となりぬ。時は緩やかに流れ連綿として代を重ねたり。そが草深野に激動の時代を予感させし槌音響きたるは昭和十三年のことにて、逓信省印旛地方航空機乗員養成所の創設行わる。大志を抱きたる若人集い訓練に励む。しかるに軍靴の響き日増しに高く、昭和十八年十月、拡張工事に着手。翌十九年十月、帝都防衛の任に当たるべく陸軍飛行第二十三戦隊配備され、熾烈なる空中戦に挑みたる。雄々しき丈夫、勇躍銀翼を煌めかせ飛翔せしが帰還せざる者また多し。昭和二十年八月、幾多の尊き人命を奪いし第二次世界大戦終結せし後、飛行場跡地に開拓団入植し開墾に取り組みたる。その辛苦筆舌に尽くしがたし。されど不屈の闘志と団結力により、耕地は徐々に拡大し草深野は肥沃の地となりぬ。昭和三十年代後半に至り、国家政策として大都市周辺部に大規模なる新住宅地の造成が進められ、その一環として千葉北部地区宅地開発事業、即ち、「千葉ニュータウン事業構想」が発表されしは、昭和四十一年のことなり。爾来三十有余年、草深野は活気に漲り笑顔溢るる市街地へと変貌しつつあり。
 今般、印旛(草深)飛行場跡に有志の発意をもちて、多感なる往時に思いを馳せ、かつ恒久の平和を祈念せんと平和の碑を建立するにあたり、草深野の変遷をここに刻み後世に伝うるものなり。
  平成十五年十月吉日 
   印旛市長 海老原栄選文 
   印旛飛行場跡地記念碑建設委員会

説明板もある。

印旛地方航空機乗員養成所
陸軍飛行第23戦隊
印旛飛行場

印旛地方航空機乗員養成所
陸軍飛行第23戦隊
印旛飛行場

 昭和17年(1942年)、この地域(現在の印西市原、西の原及び草深周辺)に印旛地方航空機乗員養成所として飛行場が設置されました。このような航空機乗員養成所は、全国で15ヶ所ほど設けられた施設で、旧逓信省航空局により、民間の航空機乗員養成所として計画されたものです。
 昭和19年、太平洋戦争の戦況悪化によって拡張され、旧陸軍航空基地と兼用となり、首都防衛のため陸軍飛行第23戦隊が配備されました。
 部隊は、首都上空の迎撃のほか、硫黄島や北九州などに派遣され、隊員の一部は特別攻撃隊として出撃しました。終戦時には、50機ほどの機体が配備されていたといわれています。
 飛行場には、約2,000mの滑走路3本に加え、格納庫や飛行指揮所、射撃場などの付属施設、空襲時に飛行機を隠す掩体壕や誘導路などが整備されていました。
 戦後は、入植者による開拓が行われ、その大半が農地となりましたが、施設の一部は開拓事務所や鉄道教習所となり、その後、昭和24年から昭和60年までは、印旛少年院として利用されました。

 現在では、千葉ニュータウン事業などによる開発に伴い、当時の面影を残すものはほとんど残されていませんが、掩体壕や敷地内に植えられていた椎の木などが、往時の姿を今に伝えています。掩体壕は、現在1基が保存され、見学することができます。
 また、傍らにある「平和の碑」は、この飛行場の存在を後世に語り継ぐとともに、恒久の平和を祈念して、関係者や地元有志の尽力により、平成15年に設置されたものです。

参考文献
・印養誌出版委員会1977『わが青春―印旛航空機乗員養成所』
・山本忠良1979『草深野開拓』
・飛行第二十三戦隊印旛会編1987『飛行第二十三戦隊想い出の記:帝都防衛』
・印西町石造物調査会1987「消えゆく掩体壕」『印西町の歴史』第三号
・小林実ほか編1997『印旛の空:長浜清・陸軍特別攻撃隊員の記録と印旛航空機乗員養成所五期生の回想』

場所

https://goo.gl/maps/rKvoeFLK7ebw2BHJ6


椎の木(西の原南街区公園)

本部や講堂などの主要施設がおかれていたエリア。再開発で区画としても往時を思い起こすことが難しい中、敷地内に植えられていた「椎の木」が往時の姿を伝えているという。
印旛航空機乗員養成所本部跡にあたる。

場所

https://goo.gl/maps/HWFSa45kDDsdXR3s6

位置関係
※前述の航空写真より( ファイル: USA-R377-No1-144 )

道路も区画も全く異なっているために、位置関係の照合が難しい。
何も噛み合わない。。。
往時のロータリーの中央が、もしかしたら「椎の木」なのだろうか。


無蓋掩体壕モニュメント(東の原公園)

日本戦跡協会様と最初に訪れた場所が「東の原公園」でした。
ここに、「印旛飛行場と掩体壕」の案内看板がありますが、この公園自体は、往時の飛行場エリアからは敷地外。

印旛飛行場と掩体壕
 印西牧の原駅周辺には、昭和16年から昭和20年にかけて通信省航空局の印旛地方航空機搭乗員養成所(通称・印旛飛行場)の滑走路が広がっていました。昭和19年頃からは陸軍の軍用飛行場として使用され、首都防衛の任を果たしていました。現在では、千葉ニュータウンなどの開発が進み、当時の姿を見ることはできませんが、印旛飛行場があったことを示す痕跡として、掩体壕が残っています。
 掩体壕とは、飛行場に駐機する軍用機を上空の敵機から守るために作られた格納庫で、太平洋戦争末期、米軍による本土空襲が激しくなる状況で、全国の軍用飛行場に構築されました。掩体壕には、コンクリート製の屋根で作られた有蓋型と、屋根がなく土を土塁状に固めた無蓋型があります。印旛飛行場には、無蓋型の掩体壕が作られ、現存する掩体壕は、造谷川防災調整池の西側に保存されています。大きさは幅約20メートル、高さ3メートルほどで、小型の軍用機ならばほぼ一機格納できる規模となっています。
  印西市教育委員会

公園には、無蓋掩体壕を模したものがある。その中央には飛行機を模した砂場。
子どもたちが遊んでいるので、近づいての撮影は行いませんでした。

Google航空写真でみると、たしかに、無蓋掩体壕と飛行機、ですね。
これはなかなか粋です。

東の原公園は印旛飛行場跡地ではないが看板がありますので、脚を運んでみるのも良いかと。

場所

https://goo.gl/maps/EbSLq1GP6zntLoPB7


印旛飛行場の無蓋掩体壕

掩体壕
 正面に見える構築物は、掩体壕と呼ばれる戦争遺跡です。掩体壕とは、飛行場に駐機する軍用機を上空の敵機から守るために造られた格納庫で、昭和20年、太平洋戦争末期に、米軍による本土空襲が激しくなる状況の中で、全国の軍用飛行場に構築されました。掩体壕には、コンクリート製の有蓋型と、現状で屋根がなく、土塁状の形状の無蓋型が存在します。
 印西牧の原駅一帯には、昭和16年から昭和20年にかけて逓信省航空局の印旛地方航空機乗員養成所(通称 印旛飛行場)が所在し、昭和19年頃から、乗員養成所は陸軍の軍用飛行場として使用され、首都防衛の任を果たしていました。滑走路周辺には、規模が横幅約20m、高さ約3mほどの無蓋型の掩体壕が多数存在し、小型の軍用機ならば、ほぼ1機格納できる大きさです。
 現在では、千葉ニュータウンなどの開発が進み、当時の姿を見ることはできませんが、掩体壕はこの地域に、印旛飛行場があったことを示す貴重な文化財です。
 平成28年4月1日
  印西市教育委員会

無蓋掩体壕は、写真で伝えるのが難しいので、まずは、Google航空写真を。

2回目のリベンジ撮影で、魚眼レンズを持ち込みまして。

魚眼でなんとか全容を収めることに成功。
今度から、無蓋掩体壕を撮影するときは、魚眼必須ですね。いうほどに撮影機会はないですが。

無蓋掩体壕の前の道は、かつての誘導路。

晴天時の撮影は、1回目の撮影。日本戦跡協会様との探索時に標準レンズ、で。

スマホでパノラマ撮影もしてみました。
魚眼もしくは、パノラマでないと、左右が収まらないですね。


誘導路の名残、かな。

宅地造成とともに、アスファルト道路も新しくなっていく。

このあたりが飛行場エリアの南東部。写真の右側が飛行場エリア。

場所(無蓋掩体壕)

https://goo.gl/maps/4GhB2ZpmLc2ZWpdy8

位置関係
※前述の航空写真より( ファイル: USA-R377-No1-144 )

右の黄枠が現存している「無蓋掩体壕」の場所。
左の黄枠が「射撃場」、そして「排水路(用水路)」

現在と照合する。
現存する「無蓋掩体壕」の場所ははっきりとわかる。
また、航空写真では、「射撃場」の区画もはっくりと残っていることがわかる。


射撃場跡(原青年館)

「開拓記念碑」が原青年館の脇に建立されている。
昭和46年2月16日建立。
この地は、かつて「射撃場」があった場所。

「草深飛行場跡」と刻まれている。

原青年館の周辺。畑と墓地と資材置き場。見渡せばきれいに四角形の空間が広がっていて、整地の先は林となっている。
この区画が「射撃場」の跡地。

この射撃場跡エリアも先行きが不安な雰囲気が。
なにやら造成されそうな気配が。。。

射撃場跡の茂みの中に、新しい境界杭が打たれ始めてました。これは。。。

1回目の探索時に日本戦跡協会様と、竹林を深入りしてみた。
そしたら、見事にビンゴでした。

資材置き場の奥の竹林は高台となっており、射撃場があった場所は低地となっていた。これは「射撃場」の土手の名残と思われます。一人では見つけられなかったかもしれません。

そして、往時の区画と同じ場所にある用水路。位置関係は往時と変わらず。
もちろん、改良さされているはずではあるが、これは飛行場エリアの排水路転用の用水路と思わます。

右側が飛行場エリア。

印税牧の原。再開発により、次々と姿を変えている。
椎ノ木の公園と無蓋掩体壕は、整備されたが、それ以外は、いつなくなってもおかしくない。畑がなくなれば用水も不要。平然と区画も変わるかもしない。
そして宅地化が郊外に広がっている現状で、射撃場跡もいつまでも残っているとは限らない。残る戦跡と消える戦跡の狭間をみつつ、少しでも記録として伝承をしていきたいものです。

※撮影は2022年1月


関連

藤ヶ谷陸軍飛行場専用線の廃線跡(鎌ヶ谷)

先日、藤ヶ谷陸軍飛行場の地下格納庫を探索してました。
その際にご一緒しました「日本戦跡協会様」の車で、 地下格納庫 から海自下総航空基地を南側から迂回して松戸方面に走っていた途中、「ちなみに・ ・ ・」 で、私が口にしたのが、藤ヶ谷陸軍飛行場の軍用鉄道廃線跡があるという話題でした。

道路と廃線跡が交差するあたりで、「ちょうどコンビニのあたり(セブン-イレブン 鎌ヶ谷東邦鎌ヶ谷病院前店)を左右に横切る感じで、軍用線の廃線跡があるらしいですよ。特に何かが残っているわけではないみたいですけど。」などと発言した私。

そしたら、その後に、急に、廃線跡が気になってしまいましたので、思い出して廃線跡の散策を実施してみました、というのが本記事となります。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M380-63
昭和22年(1947年)7月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

拡大。
左が東武野田線(東武アーバンパークライン)の「六実駅」。
右が「藤ヶ谷陸軍飛行場」(海自下総航空基地)
中央には大津川が流れる。

「藤ヶ谷陸軍飛行場専用線」は、いつ建設されて、いつ廃線されたのかが、いまいちよくわからないらしい。1947年の航空写真では、六実駅に貨車が写っているのは確認できる。

現在、一部が遊歩道として残っている。


藤ヶ谷陸軍飛行場専用線の廃線跡散策

スタートは東武野田線の六実駅から。

かつて側線があったホームの東側。このあたりから、「藤ヶ谷陸軍飛行場専用線」が伸びていたと思われる。

コンクリートの塊が積んである場所。ここに線路が伸びていたと思われる。

この先は、駐車場になっている。

駐車場の先は住宅地。
廃線跡の痕跡は住宅の中に現れた遊歩道。

こんな感じ。

廃線跡の遊歩道。

右手が低くなっている。築堤の名残かも。

この先、 セブンイレブン鎌ヶ谷東邦鎌ヶ谷病院前店の脇を抜ける。
写真左の建物がセブンイレブン。

また遊歩道が見えてきた。この先は大津川。

大津川。里山っぽく整備されている。良い感じ。

鉄道時代の橋脚などは残っておらず、再整備されたようだ。

大津川を渡り、遊歩道をさらに進む。

おお。左右に横たわるのは「枕木」。

「枕木」に「犬釘」が刺さったまま残っています。
これこそが、ここが鉄道の線路であったという、沿線に残る僅かな痕跡。

犬釘。線路のレールを固定していた名残。

廃線跡は緩やかなカーブを描く。

住宅地にぶつかりました。

この先は、なかなか追跡が困難。

この左側を線路が走っていたと思われる。

畑に横たわっていたコンクリート水槽。

コンクリートの瓦礫の具合が、往時からのものであっても違和感がないが、さすがに関係ないかな。。。(視点がなんでも往時のものか否かで見てしまうのが職業病かも)

このあたりが廃線跡、だったかもしれない。。。

この先は、森に埋もれてしまい踏破不可でした。

道路を大きく迂回して、下総航空基地のそばに。

痕跡は何も残っていないですね。
廃線跡は、産廃業者の敷地となっております。

右が、藤ヶ谷陸軍飛行場(空自下総航空基地)
左側から線路が伸びていたとおもれる。

空自下総航空基地の管制塔を垣間見ることが出来た。
下総教育航空群・第203教育航空隊の「P-3C」が駐留していますね。

廃線跡あるあるの遊歩道に、横たわる枕木、そして刺さっていた犬釘。見どころは、正直これしかないが、それでも何やら楽しい散策が出来ました。万人にオススメというわけではありませんが、ちょとした散策には良いかもしれません。なお、散策は枕木と犬釘を見たら引き返しで良いと思います。その先は、結構な徒労になります。。。

藤ヶ谷陸軍飛行場専用線の廃線跡は、以上で〆

※撮影:2022年1月

藤ヶ谷陸軍飛行場の地下格納庫跡(鎌ヶ谷)

本記事は、日本戦跡協会様との共同探索となります。

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2022年1月某日。偶然の産物からの日本戦跡協会様との共同探索を実施。
鎌ヶ谷の下総航空基地近くにやってきました。


藤ヶ谷陸軍飛行場
(海自下総航空基地)

藤ヶ谷の地名は、現在の柏市藤ケ谷。敷地としては、北の柏市と南の鎌ケ谷市にまたがっている。

もともと当地は、東洋一の規模を誇っていたゴルフ場であった「武蔵カンツリー倶楽部」の「藤ヶ谷コース」であった。ゴルフ場としては、昭和4年(1929年)に開発された。
「武蔵カンツリー倶楽部」 は、隣接する「六実リンクス18ホール」に「鎌ヶ谷コース18ホール」を有し、日本初の36ホールのゴルフ場であった。

「武蔵カンツリー倶楽部」は、昭和19年(1944年)に本土防空のための飛行場化のために、帝国陸軍に土地が接収され陸軍用地となったたことでゴルフ場は閉鎖され解散。

昭和20年4月、「藤ヶ谷陸軍飛行場」が完成。6月に飛行第53戦隊が、松戸陸軍飛行場から移動。
昭和20年8月、終戦により、アメリカ陸軍航空軍の白井基地としてGHQに接収。
その後、海上自衛隊と米軍による日米共同飛行場時代を経て、現在は「海上自衛隊下総航空基地」となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M676-153
昭和22年(1947年)11月28日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

黄色枠が今回の探索対象。

下総航空基地は戦後に滑走路が延伸されている。
そのため、滑走路の位置から確認をしようとすると位置関係を見誤るため、台地の森から位置関係を把握。
きっちり、L字型の構造物が確認できる。

というか、この周辺、柏と同じように、燃料庫が集中している感じ。

航空写真で見比べただけでも、この「L字型」の構造物には、かなりの既視感がある。
あぁ、これは柏の秋水燃料庫と同じ「L字型」だと。


藤ヶ谷陸軍飛行場の地下格納庫跡の散策

現地にて改めて、鎌ヶ谷の構造物を目の前にする。

見えてきた構造物に、「あぁ、柏の秋水だ」「これは同じだ」と、日本戦跡協会様と即座に意見の一致をみる。
これはすごく既視感があります。

藤ヶ谷陸軍飛行場で秋水が配備されていたかどうかは未知ですが、柏陸軍飛行場ともそんなに遠いわけでもなく。鉄道演習線を通じたら、むしろ近い位置関係。同じようなものがあっても、おかしくなさそう。

表現は人によってまちまち。
地下格納庫・地下燃料庫・地下燃料格納庫・地下燃料貯蔵庫・地下貯蔵庫…まあ、言わんとする方向性は大体一緒。

地下格納庫のある森の外周を歩いてみる。
今回は、森の中を総じての探索は出来ませんでしたが、もしかしたら、何か他にもあるかもという予感もあり。

森の西側には、入り口が開放されておりました。

市有地、だそうです。

キャンプ場としても活用されているっぽいです。

そのまま西から東に歩みを進めていきますと、開口部がありました。
最初に道路側から見たコンクリート構造物の反対側、です。

内部。
奥は右側に曲がっています。「L字型」。

構造物上部から。この先、右に伸びている。

右に折れた先は、道路側からみた部分となる。思ったよりも高台。

分かりにくいが、この部分がちょうど「L字型」に折れている箇所。奥が道路側。

振り返ると、コンクリート構造物が伸びているのが分かる。

隙間があった。造られてから77年の歳月を経ていれば、ちょっとしたズレも生じる。

この周辺、まだ何かあるかもしれないし、もう他にはないかもしれないけれども、じっくり調査をする価値はありそう。

場所
道路から見える場所

https://goo.gl/maps/Nvu3HhZ7NMmM3DQNA

キャンプ場側の入口はこっち

https://goo.gl/maps/m9rNHnav7vD9Zeyy7

今回の散策は、日本戦跡協会様の御協力がありましたこと、改めて御礼申し上げます。
ありがとうございました。

※撮影:2022年1月


関連

鉄道連隊演習線松戸線の散策4(津田沼~前原)

新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。


鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8911-C1-4
昭和19年(1944年)10月16日、日本陸軍撮影の航空写真。

一部拡大加工 。
津田沼駅周辺に展開されていた、鉄道第二連隊の様子がよく分かる。


津田沼の鉄道聯隊跡地散策

新京成電鉄「新津田沼駅」とJR総武線「津田沼駅」界隈から散策をしてみる。
津田沼駅の南に、鉄道聯隊の看板がたっている。

鉄道連隊跡
 ここは旧陸軍の鉄道連隊があった場所です。鉄道隊は、戦地で鉄道の敷設・補修・運転・破壊に従事した部隊で、明治28年(1895年)の日清戦争における臨時鉄道隊の編成に始まり、翌年には東京牛込に鉄道大隊が常設されました(翌30年、中野に転営)。日露戦争後の明治39年(1906)、派遣隊により津田沼-習志野間の軽便鉄道が敷設されます。そして翌40年(1907)、鉄道大隊は鉄道連隊に昇格し、千葉と津田沼に転営しました。千葉には連隊本部・第一大隊・第二大隊・津田沼には第三大隊が置かれました。総武線津田沼駅の南側に本部・兵舎・作業場があり、北側には器材の保営・整備を行う材料廠がありました。
 鉄道連隊第三大隊は、大正7年(1918)に鉄道第二連隊に昇格しました。千葉の鉄道連隊は鉄道第一連隊となります。両連隊は、明治44年に完成した津田沼-千葉間の演習線で訓練を行いました。千葉県営鉄道の建設にも大きく関わっています。
 日中戦争から第二次世界大戦にかけての戦時中、津田沼と千葉の両連隊をもとに多くの鉄道連隊が編成され、中国・東南アジアの戦地に派遣されて作戦に従事しました。中でも、多大な犠牲者を出した泰面鉄道の建設が知られています。
 戦後、連隊跡地は教育施設・鉄道車両工場などを経て、習志野文化ホール・千葉工業大学・習志野郵便局・商業施設へと変わり、総武線津田沼駅・新京成線津田沼駅を擁する本市の表玄関となっています。
  平成30年3月 習志野市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/FbgLamEwZR9L8c7S9


陸軍鉄道第二聯隊兵営表門跡
(千葉工業大学通用門)

登録有形文化財 
第12-0007号

この門は明治40年(1907年)当地に移駐した陸軍鉄道連隊第三大隊(大正7年に鉄道第二連隊に改組)兵舎の表門として使用されたものです。
第二次大戦後、ここが千葉工業大学の校地になった後も、「工大の煉瓦門」として親しまれています。
平成10年5月、国土の歴史的景観に寄与するものとして、国の登録有形文化財に指定されました。 
 千葉工業大学

場所

https://goo.gl/maps/pLeJe6UgX6A5iZLd8


K2形機関車134号機

千葉工業大学から線路を挟んだ反対側にある公園。
習志野市「津田沼一丁目公園」

ここに鉄道連隊ゆかりの機関車が保存されている。
「K2形機関車134号機」

K2形機関車134号
 この蒸気機関車は、かつてここ津田沼に本部を置いていた陸軍第2連隊がしようしていたもので、現在の新京成線敷地内にあった陸軍演習線での機関車として活躍したものです。
 この度、西武鉄道㈱ユネスコ村に保存してあったものを譲り受け、鉄道連隊ゆかりの、この津田沼一丁目公園に設置したものです。
 平成6年3月

場所

https://goo.gl/maps/rqDsPQtgZsfHU4iUA


新京成電鉄橋脚

鉄道連隊が津田沼から総武本線をオーバークロスさせていた路線跡は、今は新京成電鉄が同じようにオーバークロスしている。鉄橋などはもちろん往時のものではないが、位置関係は同じ。橋脚はどうだろうか。参考までに撮影。

新京成は、新津田沼から京成津田沼までは、文字通りに「S字カーブ」を描いている。この窮屈なカーブも鉄道聯隊時代の名残。


御大典記念道

京成電鉄の京成津田沼駅から、谷津駅に向けて伸びる一本の道路は、御大典記念。
昭和4年2月建立。
昭和天皇の即位(御大典)を記念して京成津田沼駅から線路に沿って谷津に向かう道路を作ったよ、という記念道。
昭和天皇は、昭和3年11月10日に、京都御所において即位式の大礼を挙行。これを記念して、道路を造成。工事費の半分を町が負担。残りを地元有志の寄付金でまかない、約2ヶ月で竣工。

京成津田沼駅。


前原駅~新津田沼駅間の鉄道聯隊跡地散策

新津田沼駅から一駅先の前原駅に移動。前原駅から線路沿いに歩いて、鉄道聯隊の名残を探してみる。
以下、みつけた陸軍境界標石(陸軍境界標杭・陸軍境界石・陸軍境界杭)の記録。

陸軍境界標石1(前原駅)

前原駅の南(新津田沼駅側)、上り番線から見えるところに、陸軍境界標石がある。


陸軍境界標石2(前原1号踏切)

前原駅の南側、最初の踏切。うっすらと「陸軍」の刻印をみることができる。


陸軍境界標石3・4(前原2号~前原3号踏切間)

線路脇の側道から。
前原3号踏切は、成田街道と交差している。

新京成電鉄。撮影するときはだいたい急カーブ。


陸軍境界標石5(前原4号踏切)

前原4号踏切。ブロック塀に埋もれていた。

前原5号踏切に差し掛かる新京成電鉄。やっぱりカーブ。


陸軍境界標石6(前原5号~前原6号踏切間)

線路脇の道路。半分だけ。

陸軍境界標石7(前原5号~前原6号踏切間)

電信柱の裏。やっぱり半分埋もれている。

陸軍境界標石8(前原5号~前原6号踏切間)

駐車場の塀が、境界標石を巧みに避けながら設けられていた。
ここまで来ると、新津田沼駅が近い。すぐ南の前原6号踏切は、御成街道と交差する。

陸軍境界標石9(前原6号~前原7号踏切間)

新京成線と道路を隔てる隙間、ガードレールの裏に隠れていた。

うっすらと「陸軍」の文字が見えるような気がする。

陸軍境界標石10・11・12(前原7号踏切近くの駐車場)

前原7号踏切近くの駐車場に3本残っているのが確認出る。


陸軍境界標石13(前原7号踏切~前原8号踏切間)

ちょっと怪しいが、いちおうカウントに入れておく。
ここまで来ると、津田沼パルコのすぐ裏。この先は新津田沼駅となる。

前原駅から新津田沼駅まで歩いただけでも10個以上の陸軍境界標石を見つけることが出来た。歩いていて楽しい区間。今回は、前原駅から南下したが、逆に北上しても、いくつか見つかるらしい。際限無くなりそうでちょっと怖いが、また時間がある時に歩いてみようと思う。

※撮影:2022年1月

今回は以上で〆。

嗚呼 海軍七勇士殉難之碑(船橋)

船橋市の内陸。
かつて、一式陸攻が墜落し若人7名が殉職した地に建立された慰霊碑がある。
行きにくい場所ではあるが、気になるので足を運んでみた。

新京成電鉄「高根公団駅」から「さつき台」行きのバスにのり「梨園」バス停で下車。そこから10分ほど歩くと、「海軍七勇士殉難之碑」慰霊碑がある。
バスは20分に1本ぐらい走っているので、訪問に手間はかかるが、そこまでは難易度は高くなかった。


嗚呼 海軍七勇士殉難之碑
嗚呼 海軍七勇殉難之趾 慰霊碑

この地に、一式陸攻が墜落し、搭乗員だった海軍七勇士が散華なされた。

合掌

(正面)
嗚呼海軍七勇殉難之趾

(右側面)
昭和十八年二月二十七日建立

(裏面)
故 海軍飛行兵曹長  松本博
  海軍一等飛行兵曹 横山彦造
  同        重村惠
  海軍一等整備兵曹 富澤正吉
  海軍二等飛行兵曹 島田茂
  同        高橋利省
  同        飯田輝與

嗚呼 海軍七勇士殉難之碑
 この碑は、太平洋戦争のさなか、昭和17年11月27日の早朝、木更津航空基地から海軍第七〇二航空隊の一式陸上攻撃機(一式陸攻)が訓練飛行に離陸した。機が当地付近上空にさしかかたころ、天候が急変、豪雨、落雷に遭難し墜落、機は飛散した。搭乗していた20歳前後の若き航空兵、下記7名全員が無念にも殉職散華されました。

    記
故 海軍飛行兵曹長  松本博  (京都府)
  海軍一等飛行兵曹 横山彦造 (愛知県)
  同        重村恵  (同)
  海軍一等整備兵曹 富澤正吉 (千葉県)
  海軍二等飛行兵曹 島田茂  (栃木県)
  同        高橋利省 (宮城県)
  同        飯田輝與 (埼玉県)
注 石碑の裏面「階級、氏名」右側側面「昭和十八年二月二十七日建立」とあり

 当時近隣住民の方々が殉職兵士を悼み殉難の碑を建立しましたが、戦中、戦後の混乱の中で永らく樹間に放置され墓参に訪れる人もなく、異境の地で淋しく眠っておられましたが、樹間に埋もれていた碑が、昭和39年たまたまこの地に訪れた葛西氏(松が丘1丁目)により発見されました。その後地主さんの御好意により周辺が整備され、再び白く輝く碑を見ることが出来ました。
 その後、近隣の住民の方々のおりに触れた献花、焼香等が手向けられ、慰霊に努めて来られました。10年前頃からは地元ボランティアによる周辺の整備に当って来られたためにきれいになり、近年は散策に訪れてついでに手を合わせてくださる姿が多くなりました。
 この大穴の地にもこのような戦争の傷跡が残っていることを、記憶にとどめて語り伝えていただければと思います。ここに改めて若くして散華した七勇士に哀悼の意を捧げるとともに、今後も後世のため、この殉難の碑を守り伝え、慰霊に務めるものであります。
 平成26年11月27日
  殉難の碑を守る有志の会

海軍第702航空隊の前身は、海軍第4航空隊。
昭和17年2月10日に、高雄空陸攻隊と千歳空陸攻隊と艦戦隊で編成された航空隊。トラック島で編成。
昭和17年9月にラバウルから木更津に帰還し昭和11月1日に第4航空隊から、第702航空隊に改称。
翌年の昭和18年5月に再びラバウルに進出。米軍の中部ソロモン進攻に対抗。ラバウル周辺で展開された「ろ号作戦」に参加後に解隊。

昭和17年11月27日に墜落した一式陸攻は、9月にラバウルから帰還し、そして11月に新たに第702航空隊となり、再び最前線のラバウルに進出するために、内地木更津で訓練を重ねていたタイミングであった。

一式陸攻のイラストもありました。

一式陸攻K310は、1941年12月10日のマレー沖海戦において、鹿屋航空隊第3中隊分隊長の壱岐春記大尉が機長を務めた機体。巡洋戦艦レパルスに魚雷を命中させた機体のひとつ。
一式陸攻が一番輝き、そして大活躍し、若き一式陸攻搭乗員たちのあこがれであったであろう機体のイラストをレクイエムとして奉納、かもしれない。

この場所に、一式陸攻が墜落した。。。

場所

https://goo.gl/maps/MdcdyZtJnPnsXdas5

※撮影:2022年1月


関連

鉄道連隊演習線松戸線の散策3(鉄道連隊橋脚・鎌ヶ谷)

鉄道連隊の跡地散策。
この日は、新京成線沿線から離れ、東武野田線(東武アーバンパークライン)の馬込沢駅から20分ほど歩いた場所にある、演習線の橋脚を見学。


新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。

鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。


鉄道連隊

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-45
昭和22年(1947年)09月24日、米軍撮影の航空写真

google航空写真でほぼ同位置。演習線の跡を色付け。ポイントが橋脚跡。
新京成の鎌ヶ谷大仏駅は、曲線をショートカットした新設線路で新駅であることがわかる。

拡大。


鎌ヶ谷の鉄道連隊橋脚

史跡 
鉄道連隊橋脚
  所在地 鎌ヶ谷市東道野辺6丁目8番

 この橋脚は、昭和初期に旧日本軍の鉄道大隊が、訓練や物資等の輸送のため、建設した鉄道の一部です。
 近代の戦争では、鉄道は人や物資の輸送のために重要な役割を担っていました。千葉県でも、鉄道大隊から独立した第1鉄道連隊が千葉町(現在の千葉市)に、第2鉄道連隊が津田沼町(現在の新京成新津田沼駅の辺り)に配備され、昭和20年(1945年)第2次世界大戦終了まで活躍しました。
 この橋脚は、第2鉄道連隊が、大戦中、鉄道を敷く訓練として津田沼~松戸間に設けた路線の一部でしたが、終戦後は放置されていたため、この部分を除くほとんどを京成電鉄が買い受けました。その後、昭和21年(1946年)に京成電鉄の出資により新京成電鉄が設立され、当路線の整備を行いました。しかし、この部分は整備から除かれ、この橋脚だけが残りました。現在の新京成電鉄の全線が、整備を終え開通したのは、昭和30年(1955年)のことでした。
  平成11年3月 
  鎌ヶ谷市教育委員会

アカシア児童遊園

児童遊園の中に橋脚が残っている。

西側の1番目。

西側の2番目。

西側の2本。

東側の二本。合計、四本の橋脚が残されている。

端の橋脚は凹型。

桜の季節が気になる枝ぶり。「戦跡と花見」というのは良きポイントですね。
もちろん、桜は戦後の植樹。

今は暗渠となっているが、この四本の橋脚のちょうど中間に川が流れていた。
そのために窪地となっており、鉄道連隊演習線は、この部分に橋を渡した。

地理院地図の標高地形図をみると、凹み具合がわかる。

https://maps.gsi.go.jp/#18/35.747603/140.002915/&base=std&base_grayscale=1&ls=std%7Crelief&blend=1&disp=11&lcd=relief&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

Google Mapsでも、道路のアップダウンが分かる。

場所

https://goo.gl/maps/MJrHPkUPMVwzxBqz6


陸軍境界標石(石杭)

公園の西端入口に、境界石もあった。

陸軍

場所

https://goo.gl/maps/oTpYKdmbq3JEzL5PA


出会い

実は、ここで偶然の出会いがありました。

私が橋脚の写真を撮っていると、同じくカメラを持っている御仁が。
「ん?同業者さんか??」と思って、そうこうして、挨拶を交わしてみると。。。

なんと、日本戦跡協会の代表さん!
(戦跡協会さんからすると、なんと、戦跡紀行さん!となったようですが。。。)
この場所で、タイミングよく出会うというのは、かなり奇跡的。
私が、橋脚を見ようかなと考えたのは、この日の移動中の電車の中でしたので、直前まで行き先も確定させていなかったので。

日本戦跡協会さんのサイト
 https://www.sensouiseki.com
日本戦跡協会さんのTwitter
 https://twitter.com/sensouiseki
日本戦跡協会さんのFacebook
 https://www.facebook.com/sensouiseki/

戦跡協会さんのTwitter等で発信される情報は、かなりの頻度で拝見しておりました。日本のみならず海外情報にも明るく、それらの記録は大変に秀逸なもので、まさかここで偶然の極みで御縁が出来るとは思いもよらず。今年(令和4年)の戦跡フィールドワークの幸先は良く、充実したものになりそうです。

このあと、せっかくの御縁なので、 日本戦跡協会さんと一緒に、千葉界隈の戦跡散策を実施。
それらの戦跡探訪記録は、おいおい掲載していきます。。。
ありがとうございました。

ひとまず、本編は以上で〆

※撮影:2022年1月


鉄道連隊演習線松戸線の散策2(新京成電鉄・常磐平駅~五香駅)

新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。

鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。

八柱駅界隈はこちら。


鉄道連隊

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:893-C1-168
昭和19年(1944年)09月27日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

上記を拡大、文字入れ加工。
オレンジ色は、現在の情報を追記。

常盤平駅と五香駅のあいだの鉄道連隊演習線区間は、北に大迂回をしていたが、新京成ではショートカットされたことがわかる。


常盤平駅

常盤平駅から北に。


「金ヶ作 熊野神社」と「囲いやまの森」の西側

境内地と森の西側を北に向けて歩く。
この道は、当時の鉄道連隊演習線の線路跡になる。

場所

https://goo.gl/maps/QYjKkZvYxQE4Uajy6

急に林となるが、そのまま北上する。ここも演習線の線路跡。


陸軍境界標石(陸軍境界杭)1

開けたところに、石杭がみえる。陥没しているが、これはきっと境界石。


陸軍境界標石(陸軍境界杭)2

そのまま北上すると、「印西道」に交差する。その交差の南側にありました。
はっきりと「陸軍」の刻印がわかる境界石が。

印西道は、さすがに交通量が激しい。

場所

https://goo.gl/maps/VV9AFECwZzjjCsQWA


陸軍境界標石(陸軍境界杭)3

北端部分にもいくつかの境界石があるというが、住宅地となっており、建て替えなどもすすんでおり、きれいになった住宅が多数。おそらく消失したものと思われる。

「千葉鎌ヶ谷松戸線」に面したところに、それっぽい石杭が残っていた。

https://goo.gl/maps/TnajYL8VcfgDRfPQ8

演習線路は、東に伸びて、ヨークマート青葉台店の辺りで南下するが、このあたりは痕跡は残っていない。


「松戸市立金ケ崎小学校」の東

北東側は道も残っていないほどに再開発がすすんでいる。
松戸市立金ケ崎小学校の東側に伸びる道路が、演習線路跡の名残を伝えている。


陸軍境界標石(陸軍境界杭)4

その南端部の突き当りの道 「千葉鎌ヶ谷松戸線」 と合流先に、石杭があった。
上部の一部が欠けているが、これもきっとそうに違いない。

右側の道路が「鉄道連隊演習線跡」。左側が、「千葉鎌ヶ谷松戸線」。
石杭は左の看板の陰にあった。

場所

https://goo.gl/maps/3NZVLZoegnUvCGnT9


五香駅

そのまま道沿いに南下すると、新京成電鉄「五香駅」に到着。
五香たかねちゃんがお迎えしてくれた。

他の境界石があるかもしれないが、再開発も進んでおり、なかなか住宅地の中を探し回るのも大変。

常盤平駅から五香駅まで、5キロで約1時間オーバーの散策でした。

※撮影は2022年1月

本記事は以上で〆


鉄道連隊演習線松戸線の散策1(新京成電鉄・八柱駅)

新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。


鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。


鉄道連隊

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M676-145
昭和22年(1947年)11月28日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

上記を抜粋。
現在の八柱駅は、集落から外れていた事がわかる。集落は「鮮魚街道」にあった。鉄道連隊の演習線であったことを鑑みれば、逆に集落の近くにあって欲しくはない。

今回の散策は以下のエリア。新京成電鉄「八柱駅」武蔵野線「新八柱駅」界隈を中心に散策しました。


八柱駅周辺散策

八柱駅から西に。住宅地のなかに標石があった。

陸軍境界標石(陸軍境界杭)

摩耗していて判別は難しいが、うっすらと「陸軍」と書いてあるのがわかる。

場所

https://goo.gl/maps/RUKPp931dg1SujtW8


八柱駅

八柱駅の周辺は、境界標石(境界杭)の宝庫。

陸軍境界標石(陸軍境界杭)・踏切

踏切近くに。

はっきりと「陸軍」と判読できる。

場所

https://goo.gl/maps/CwRVng6Vcpqy5MQd8

陸軍境界標石(陸軍境界杭)・駐車場

踏切の近くの駐車場にも「陸軍」があった。

場所

https://goo.gl/maps/fDbcJjAG6Ej9YKDFA


陸軍境界標石(陸軍境界杭)・鮮魚街道踏切近く

線路脇の歩道の真ん中近くに、陸軍の境界杭がそそり立っていた。通行の邪魔にもなる存在であれ、撤去されずに残っているのが嬉しい。

うっすらと陸軍の文字が読める。

けっこうな存在感。

場所

https://goo.gl/maps/zyHtuqBjsZKDQ1Cm9

陸軍境界標石(陸軍境界杭)・線路近く

新京成の線路沿いに、常盤平駅方面に歩く。


森のホール21

かつての演習線は、このあたりから、森のホール21・21世紀の森と広場方向に線路が伸びていた。

ちょっと寄り道します。


松戸市立博物館

陸軍工兵学校の門標が残っている。

陸軍工兵学校

陸軍工兵学校は、松戸駅の近くに。門柱も残っています。


平和の像

21世紀の森と広場の「光と風の広場」の奥まったところに、平和の像があった。
作者は雨宮敬子氏。

私たちの愛する街“松戸” 
緑あふれ、文化の香り高いこの地に
全ての市民と共に
世界の“生きとし生けるもの”の
恒久平和と豊かな未来を念願し
ここに、その象徴として『平和の像』を建立する。 
 平成3年3月 
 松戸市長 宮間 満寿雄

「21世紀の森と広場」には塹壕跡も残っているというが、公園はそこそこ広くて、散策の時間が取れなかったために、それは未訪。


鉄道連隊演習線跡と陸軍境界標石

森のホール21 (松戸市文化会館)から駐車場の脇の歩道を歩く。

ありましたね。

刻印は外側かもしれません。線路跡の歩道からは確認できませんでした。

埋もれてましたが、きっとこれもそうだと思います。

陸軍鉄道連隊の演習線路跡。

場所

https://goo.gl/maps/VdRUgnMcjFGSQc1b9


演習線路跡と新京成線の合流地点

演習線をショートカットするようにカーブを削った新京成線路と合流するあたり。
青面金剛碑がありました。

新京成の線路と、演習線路跡の合流地点。推測ですが。

新京成の標石もありました。

陸軍鉄道連隊の演習線は、この先の常盤平駅で大きく北に大カーブを描くが、新京成線は大カーブを嫌い、ショートカットした短絡線路を構築している。
常盤平駅と五香駅の記事は、別記事にて。

本記事は、ひとまずこれで〆。

※撮影は2021年10月


陸軍柏飛行場関連の戦跡散策(軍都柏・その7)

軍都柏の戦跡散策、その7。
柏飛行場の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。

本記事は、流山市内の戦跡も含みますが、便宜上「柏飛行場・軍都柏」として一緒に掲載します。


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ーーー

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


旧陸軍東部第105部隊の営門

高田原交差点、柏警察署高田原交番の隣、航空自衛隊 柏送信所の入り口に、往時と同じように営門門柱が残っている。
この場所から北側には柏飛行場「陸軍東部第105部隊」が展開。また、この営門より南に下れば、「陸軍東部102部隊」 が展開していた。

旧陸軍東部第105部隊の営門
 この門柱は、昭和13年(1938)11月に開設された柏飛行場の兵営施設の営門(旧陸軍東部第105部隊営門)で、建設当時の位置のまま残されています。
 右の写真は、施設正面を撮影したもので、営門や衛兵の姿、本部建物など戦争当時の状況を伺うことができる貴重なものです。
 柏飛行場は、現在の県立柏の葉公園を含む柏の葉、中十余二の地区にありました。昭和初期、中国との関係悪化から、「国土防空」特に「帝都防空」のため飛行場建設を急ぐ必要がありました。そこで昭和12年(1937)6月、陸軍の近衛師団経理部が新設飛行場予定地を旧東葛飾郡田中村十余二に計画し、地元の誘致運動もあり、同年9月に旧田中村、八木村(現流山市)にまたがる約145万平方メートルの用地を買収し、同13年1月に起工式が行われ、同11月に1,500mの滑走路1本を有する飛行場が完成しました。合わせて同13年に東京立川から陸軍飛行第五戦隊が移転し、同17~18年(1942~1943)に兵員は700人を超えるまでになり、松戸、成増、調布などとともに同19年(1944)末から激しくなったB-29爆撃機に空襲に対し防空戦闘にあたりました。戦争末期の同20年1月には我が国発のロケット戦闘機「秋水」の基地となりましたが、テスト飛行で終わり、終戦を迎えます。
 戦後、米軍に接収され、同30年(1955)に「米空軍柏通信所」、トムリンソン通信基地が建設されましたが、返還交渉を経て、同54年(1979)に日本に全面返還となり現在に至ります。
 戦時中の様子を今に伝える市内に残された数少ない文化財です。
  平成24年3月31日 柏市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/j7tqHGqCidbGFem59


航空自衛隊 柏送信所

陸軍東部第105部隊の営門から奥に進めば、今は空自の柏送信所。
この場所は、東部第105部隊の中心的な位置に当たる。

場所

https://goo.gl/maps/vJYobndngLKLThKu6


旧陸軍東部第105部隊の弾薬庫
(柏飛行場弾薬庫)

前述の東部第105部隊営門門柱より東に少し移動。
中華料理屋の駐車場から、往時のコンクリート建造物を垣間見ることができる。
現在は、社会福祉法人千葉県厚生事業団「ひかり隣保館」の敷地。

2棟のうち、西側は屋根の部分がなくなっている。。。

東側は屋根も健在。

入り口側は、私有地のため確認不可。

場所

https://goo.gl/maps/xFeehEVyZMQ6U51DA


柏飛行場西側の境界土塁跡

住所は千葉県流山市駒木台。このあたりは、柏市と流山市の境界あたり。
柏の葉公園の南西、柏の葉第2水辺公園あたりから、外周は境界土塁を見ることができる。

陸軍柏飛行場時代から境界としては同じ区割り。

https://goo.gl/maps/u7N74JnwXq2G41We8


陸軍航空廠立川支廠柏分廠
ガス庫及び部品庫

昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成し、翌年昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
東部第105部隊の西側に陸軍航空廠立川支廠柏分廠が隣接していた。

こちらも住所は、流山市駒木台ではあるが、便宜上「軍都柏」にまとめる。

「ガス庫」とされる建物。扉も往時のまま。

「部品庫」とされる建物。

雑品庫

右の扉側は雑品庫とあった。

圧搾空気室

そして、左の扉は、圧搾空気室とあった。
右から読ませる札は、往時からのものか?

2つの建物は、背中あわせで建てられていた。

場所

https://goo.gl/maps/XYtN8ugpfG7Lit9R8


法栄寺の平和観音像
陸軍航空審査部特兵隊(秋水実験部隊)本部跡

流山市駒木台に鎮座する法栄寺。
昭和20年の戦争末期、陸軍は柏飛行場にロケット戦闘機「秋水」の実験隊を配備。
秋水の実験部隊であった「陸軍航空審査部特兵隊」の本部が置かれ、荒蒔義次少佐(特兵隊隊長)や木村秀政(東大教授・秋水開発に関与)、秋水搭乗パイロットなどは、法栄寺を宿舎としていた。

現在、法栄寺境内には、「平和観音像」が建立されている。

平和観世音

昭和24年11月20日、法栄寺住職によって建立。戦没者の法名と俗名を台座に刻んでいる。

法栄寺からまっすぐにのびる道路の突き当りは、「流山市駒木台福祉会館」がある。この場所に当時は、「柏航空観測所」があったというが、今は面影は残っていない。

場所(法栄寺)

https://goo.gl/maps/oWAfgbRtVF3RJ9RC8


場所は変わって、慰霊碑を掲載

長覚寺若紫観音堂の軍馬慰霊碑

柏飛行場は関係ないが、戦跡として。
陸軍第102部隊と、花野井の秋水地下燃料貯蔵庫の中間あたりに鎮座する長覚寺。
その観音堂の参道に、馬頭観音とともに、軍馬慰霊碑が建立されていた。

柏は鎌倉時代には、広大な牧場地帯でもあり、戦時中は陸軍の牧場もあった。
そして、昭和3年(1928)には、柏競馬場が開設された。柏競馬場は、「日本一の競馬場」「東洋一の近代競馬場」とも呼称された、前述の航空写真でも中央下部に競馬場の姿をみることができる。
柏競馬場は戦時中は軍需工場として使用され、戦後に再開するも、1952年に船橋競馬場に移転され廃止されている。現在の豊四季団地界隈。

柏は、軍馬とも縁が深い街であったのだ。

軍馬慰霊碑
とつ国に征きてかへらぬいくさ馬
 もの言ぬこそいさを尊し

復員(中支)三十三年記念として昭和54年に建立されている。

江戸後期や明治の「馬頭観音」とともに並ぶ「軍馬慰霊碑」。

場所

https://goo.gl/maps/CEoajSDS6ezvnGzbA


軍都柏の戦跡散策。
陸軍柏飛行場を中心に、往時を偲ぶ戦跡が、再開発で消えたものもありましたが、それでもまだまだ豊富に残っていました。後世に伝承すべき貴重な戦跡として、今残っているものは、この先も引き続き残して戴きたく。

本記事でもって、一連のシリーズ「軍都柏」はいったん締めです。
また何か、ありましたら追記します。


関連

無蓋掩体壕と柏飛行場の跡地散策(軍都柏・その6)

軍都柏の戦跡散策、その6。
柏飛行場の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R516-No.2-39
昭和24年(1949年)1月7日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ーーー

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


無蓋掩体壕

「こんぶくろ池自然博物公園」の飛び地に無蓋掩体壕が保存されている。

陸軍柏飛行場 柏歴史クラブ
 日中戦争(1937・昭和12年~)の開戦前夜から、帝都・東京の空を守る施設が東京周辺に建設され始めました。東京都心から30キロメートル圏にある柏でも、陸軍による飛行場設置が1937年に決まり、翌年11月頃、完成しました。実戦部隊の飛行第5戦隊が移駐し、飛行機の点検・整備をする航空廠柏分廠も竣工し、柏飛行場は第一線の飛行場となりました。
 滑走路は当所は1本だけでしたが、何度も行われた拡張に伴い、最終的にはコンクリート舗装の1500メートルと未舗装の計2本となり、飛行場面積も約1.8倍となっています。南の地域には、本部・将校集会所・兵舎・弾薬庫などの建物があり、南西には格納庫や気象観測所も設けられました。1942(昭和17)年には、ダンプカーやパワー・シャベルを使用した、機械化による飛行場設営の実験も行われています。
 日本本土への空襲がひんぱんになった1944(昭和19)年夏頃から、飛行場内の戦闘機を爆撃から守るため、場外へ移す誘導路3本(西・北・東)と、その道沿いに掩体壕が造られました。図中の水色の線が誘導路で、赤・茶・緑の馬蹄形で描かれているのが掩体壕です。赤丸で囲んでいるのが、現在地の掩体壕です。

掩体壕 柏歴史クラブ
 掩体壕とは、戦闘機を隠し、爆撃・爆風から守る施設です。掩体壕には有蓋掩体壕と無蓋掩体壕があり、柏飛行場では無蓋掩体壕が造られ、79基あったといいう記録も残っています。コンクリート製で屋根がある有蓋掩体壕は、千葉県内では茂原市や館山市に残っていますが、土手で築かれただけの無蓋掩体壕は風化しやすく、あまり見られなくなりました。
 空襲がひんぱんになる1944(昭和19)年夏頃から誘導路や掩体壕が造られ、この近辺では、朝、飛行場から掩体壕まで戦闘機を運び出し、夕方に戻す兵隊たちの姿が見られたといいます。戦闘機は上空から見えにくいように、木の枝や緑のネットで覆われました。
 2009年の柏歴史クラブによる調査では、柏飛行場関連の掩体壕は、6か所残っていました。しかし、そのうち4基は開発地区にあり、こんぶくろ池自然博物公園内にあった2基が保存されました。現在地にある掩体壕は、土手が低くなっているものの、ほぼ完全な形で、土手の長さは巻尺で測った概数ですが、下図のようになっています。

おおおっっっ!無蓋掩体壕だ!!

始めて見ました。結構興奮。
とはいえ、無蓋掩体壕は、基本的に土塁のため、写真で伝えるのは難しい。。。

パノラマで撮影してみた。クリックで拡大。

実は、冬場にも撮影してみた。以下は、令和元年(2019)12月 の撮影。

動画も撮ってみた。

https://senseki-kikou.net/wp-content/uploads/2019/12/VID_20191226_073731.mp4

場所

https://goo.gl/maps/QUd1Js2iY3Ty5wXj7


柏飛行場滑走路跡

「柏の葉公園通り」 が 滑走路というわけではなく、「柏の葉公園通り」の東側に滑走路があった。
現在の東大柏の葉キャンパス東側、国立がん研究センター東病院や、財務省税関研修所、 科学警察研究所などが滑走路跡と考えるとわかりやすい。
柏飛行場の看板は、柏の葉通りの北端交差点近くにある。

柏飛行場跡地
 第一次世界大戦は、航空機などの兵器の急激な発達をもたらしました。高性能な飛行機の開発の一方で、航空機による攻撃に対処するための施設の整備が必要となりました。
 柏飛行場は、成増・調布(東京)などとともに航空力強化と首都東京を守ることを目的として日本陸軍が設置しました。飛行場に選ばれた東葛郡田中村十余二は、東京の周辺部で畑地が大半を占める、平坦な土地を広く活用できる場所でした。昭和12年6月、近衛師団経理部が新飛行場を建設する旨を決定し、昭和13年11月に完成しました。同月、東京の立川から実戦部隊である飛行第5戦隊(東部105聯隊)が移転し、柏飛行場は首都東京防空の第一線の航空基地となりました。以後、いくつかの飛行戦隊の変遷があり、柏飛行場を基地としてB29をはじめとする米軍機の迎撃にあたりました。
 飛行場は北側が滑走路で、南側に本部・将校集会所・被服庫・兵舎・弾薬庫などの建物がありました。また、格納庫5つと、気象観測用の柏観測所も設けられました。
 終戦後もアメリカ軍の日本における最大の通信所として使用されていましたが、昭和54年に日本に全面返還されました。都市公園、学校、国の研究所などが立地する大規模なまちづくりが進められ、つくばエキスプレス開通に伴う区画整理の中で、掩体壕や秋水の燃料庫など新たな発見もありました。
参考文献:歴史アルバムかしわ-明治から昭和-、柏市史近代編、歴史ガイドかしわ
 令和3年3月31日 柏市教育委員会

柏の葉公園通り


柏通信所跡

柏飛行場は、戦後、米空軍に接収され、柏通信所として利用されてきた。

そんな米軍基地返還後の再開発記念の碑が、柏の葉公園の入口近くに建立されていた。

柏通信所跡地土地区画整理事業
完成記念
千葉県知事 沼田 武

事業の完成にあたって
 この「柏の葉」地区は、明治2年、千葉県で12番目に開拓されたことから、その地名を「十余二」といわれてきました。第二次世界大戦中は、旧日本陸軍の基地として使用され、また、終戦後、一旦農地として払い下げられたのち、再び米軍が接収し「米空軍柏通信所」として使用してきました。
 その後、県民の基地返還に対する熱意が伝わり、昭和54年8月14日全面変換されました。
 この土地区画整理事業は、千葉県が地域の身近な緑を生かし、市民がさわやかに憩う、文化の香り高い街づくりを目指して、昭和59年に着手し、7年余と事業費76億円を要し、このたび完成いたしました。
 この事業に携わった関係権利者、土地区画整理審議会、米空軍柏通信所跡地利用促進協議会及び関係機関の皆様の御協力に深く感謝致します。
 ここに事業の完成を祈念し、碑を建てました。
  平成2年11月吉日 
   千葉県知事 沼田 武

県立柏の葉公園

場所

https://goo.gl/maps/NtWNDecQujvzEyKH8

そのほか、柏飛行場関連の戦跡散策は別記事にて

※撮影:2021年7月


関連

ロケット戦闘機「秋水」地下燃料貯蔵庫の跡地散策(軍都柏・その5)

軍都柏の戦跡散策、その5。
柏飛行場の東側に展開していた「地下燃料貯蔵庫」の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。

柏の戦跡を代表するのが、秋水燃料貯蔵庫、だろう。地上に突き出た通気孔のインパクトがあまりにも大きい。私もかねてから、現地を訪れたくてウズウズしていたが、今回ようやくに足を運ぶことができた。


ロケット局地戦闘機「秋水」

秋水

日本海軍と日本陸軍が共同で開発をすすめたロケット局地戦闘機(十九試局地戦闘機)。ドイツ空軍のメッサーシュミットMe163をベースに試作された。
試製秋水海軍略称はJ8M陸軍キ番号はキ200
「秋水」の呼称は、陸海軍の命名規則に沿っていない例外的命名。

画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:J8M_Shusui_Sword_Stroke_Komet_J8M-10.jpg

高度1万メートル以上を飛来するアメリカ軍のボーイングB-29の邀撃に、日本陸海軍の従来のレシプロ戦闘機では高高度を維持することは極めて困難であった。
ロケット戦闘機は、酸化剤と燃料を全て機体内部に搭載し、酸素を外気に求めない=高高度の希薄な大気に影響されない特性を持つことから、邀撃機としてB-29の飛行高度まで加速度的に達し、1撃から2撃をかけるだけならば、設計上、数分の飛行時間しかない、当時のロケット戦闘機でも「局地的な防衛には十分に有効」との判断が下された。
そこで、ドイツから提供されたMe163Bの(資料を輸送していた潜水艦の撃沈によって不完全となってしまった)設計資料をベースに急ピッチで開発が推進。

この秋水プロジェクトに関しては、陸軍・海軍の枠を超えた、陸海軍民間共同の制作体制が整ったということは、当時の状況からすれば奇跡的なことであった。逆に言うと、陸海軍の意地を張る余裕もないほどにで日本は追い詰められていた状況であった。
機体の製作を海軍・海軍航空技術廠主導で、国産ロケットエンジンの開発を陸軍・陸軍航空技術研究所が主導、製造を三菱重工で実施。陸海民の連携であった。

秋水に搭載されるエンジン「特呂二号」の燃料は、2つの液体を化学反応させるものであった。
 酸化剤:濃度80%の過酸化水素、オキシキノリン・ピロリン酸ソーダ
 混合液:メタノール、水化ヒドラジン、水、銅シアン化カリウム
日本軍では前者を「甲液」、後者を「乙液」と呼称。(ドイツではT液とC液)
甲液の供給する酸素により燃料である乙液を燃焼させるシステムであるが、酸化剤(甲)と燃料(乙)の配合はデリケートなセッティングが要求され、また取り扱いが非常に難しい危険な劇薬でもあった。

昭和20年7月7日に、横須賀海軍航空隊追浜飛行場試製秋水(三菱第201号機)は試飛行するもエンジントラブルで墜落、テストパイロットの海軍三一二航空隊の犬塚豊彦大尉(海軍兵学校七十期)は殉職。

試製秋水生産2号機(三菱第302号機)が陸軍キ200として柏飛行場の飛行第70戦隊へ運搬され試験開始。しかしロケットエンジンが間に合わずに動力飛行を行うことができず、そのまま終戦を迎えた。

試作機製造とあわせて量産の準備も進んでいた秋水は、配備のための燃料タンクの準備も進められた。柏飛行場の地下燃料貯蔵庫も秋水配備のための準備であった。

秋水は、陸海軍共同開発機のため、それぞれに配備計画があった。
陸軍は、柏飛行場の「飛行第七〇戦隊」
海軍は、百里原飛行場の「第三一二海軍航空隊」
陸軍海軍ともに、秋水の実験部隊も兼ねていた。

以下の写真は、筑波海軍航空隊記念館の展示品。
陶器製燃料タンクは左が陸軍、右の錨印が海軍。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R393-117
昭和22年(1947年)10月23日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ーーー

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


ロケット戦闘機「秋水」地下燃料貯蔵庫(花野井)

柏警察署花野井交番の奥の住宅地におもむろにあらわれたコンクリート造形物。
コンクリート胴体が地下燃料貯蔵庫。現在は地上に露出しており、出入り口は塞がれている。

場所

https://goo.gl/maps/4Z1VvQqwzzNvRB2J8

「秋水」地下燃料貯蔵庫の出入口(花野井)

北上する。
台地の下には地下燃料庫が隠されている。台地縁辺には燃料庫出入口がいくつか見られる。3箇所は確認できた。

1つ目。

2つ目。むき出してる。近くで見てみたいが私有地のために近寄れず。

3つ目。わかりにくい。。。

「秋水」地下燃料貯蔵庫の通気孔(花野井)

畑に唐突にあらわれるコンクリート筒。連なる砲台のように見えるこの筒が、地下燃料貯蔵庫の通気孔であった。これは貴重な戦跡。地下の貯蔵庫とあわせてぜひとも史跡公園などに整備していただけると良いのだが、現実的にはいまのままの自然な保存が良いのかもしない。後世に残してほしい、いや、後世に残していかねばならない空間。

場所

https://goo.gl/maps/s4fjUhW51Ws5yLvi6


柏飛行場の近くにも、秋水の燃料庫があった。柏飛行場は別記事でまとめるが、先に柏飛行場近くの燃料庫にもあわせて言及しておく。

ロケット戦闘機「秋水」燃料貯蔵庫(正連寺)

こんぶくろ池自然博物公園の南東側(一号近隣公園エリア)内にある、一号丘と二号丘に燃料庫が保存されている(現在は埋没保存のため、燃料庫そのものをみることはできない)

 ※燃料庫2号基が再整備され公開となりました。

陸軍柏飛行場と秋水
 日中戦争(1937・昭和12年~)の開戦前夜から、帝都・東京の空を守る施設が東京周辺に建設され始めました。東京都心から30キロメートル圏にある柏でも、1938(昭和13)年11月頃、陸軍飛行場が完成しました。
 柏飛行場は第一線の飛行場でしたが、神奈川県の厚木飛行場とともに、有人ロケット戦闘機「秋水」の基地に予定されたことが特徴の一つです。秋水は、ドイツで開発されたロケット戦闘機をモデルに、B29迎撃用の新兵器として、陸海軍共同で開発されました。1944(昭和19)年夏から始まった開発は急ピッチで進み、年末には訓練用の軽滑空機「秋草」のパイロット訓練にこぎつけました。しかし、完成前に配線となり、柏飛行場にあった軽滑空機・重滑空機・実機の計4機とも、すべて燃やされてしまいました。
 秋水の燃料庫は柏市内の「飛行場隣接地」と。3~4キロメートル離れた「花野井・大室」に建設されました。まず飛行場東側の隣接地に、1944(昭和19)年末から建設。その地域が柏ゴルフ倶楽部(1961~2001年)となり、コンクリート製だったために、一部がコース小丘に埋められて破壊されず現在に至りました。
 図①内の赤丸が現在地で、2010年に柏歴史クラブが燃料庫5基を発見しました。公園内に保存されているのは、そのうち3基で、秋水の遺構は全国的に見ても少なく、大変貴重な戦争遺跡です。(ただし3号基は本体なし)

秋水燃料庫(1号基)
 柏飛行場東側の隣接地に造られた秋水燃料庫は、航空写真②のようにエル字型をしていました。飛行場隣接地では飛行訓練のため急いで燃料庫を造る必要があり、1944(昭和19)年末から、既製のヒューム管(下水道管)を利用・加工して建設されました。ヒューム管の長さは約2メートルで、9~10個つないだ燃料保管場所が、エル字の長い部分にあたります(柴田一哉氏)。
 この1号基は、戦時中と少し位置が変わって埋まっていました。写真①の「リング状の遺構」は、もともとは「煙突状の遺構」の上にあり、両者はつながっていました。柏ゴルフ倶楽部を造成するときに、コースに設ける丘の高さを調整するため、「リング状の遺構」を移動させたと思われます。
 柏歴史クラブは2010年の調査で、5か所の燃料庫跡を発見しました。そのうち1~3号基は、こんぶくろ自然博物公園内にあったため、柏市で保存してくれることとなり、一旦埋め戻されました。4・5号基は開発地域内にあったため、残念ながら撤去されました。

秋水燃料庫(2号基)
 この2号基は、戦時中の構造がそのまま残っている燃料庫で、柏市により保存、整備したうえで公開される予定です。
 柏飛行場東側の隣接地に造られた秋水燃料庫は、航空写真③のようにエル字型をしていました。柏市には、現在の地の「飛行場隣接地」と、3~4キロメートル離れた「花野井・大室」に燃料庫が建設されました。飛行場隣接地では、飛行訓練のため、急いで燃料庫を造る必要があり、1944(昭和19)年末から、既製のヒューム管(下水道管)を利用・加工して建設されました。ヒューム管の長さは約2メートルで、9~10個つないだ燃料保管場所が、エル字の長い部分にあたります(柴田一哉氏)。そこには写真④のように両側に溝があり、過酸化水素20リットルを入れたガラス瓶(写真⑤)を並べて保管しました。
 また先端部分に、リング状の遺構が出土しました。このリングは、円筒状の消火用貯水槽の底部だったと思われます。その貯水槽とヒューム管は管でつながれ、過酸化水素の流出や火災の場合などに大量の水を流す仕組みでした。

現在地は森の中、立入禁止。丘の中に埋没保存されている。

場所

https://goo.gl/maps/r6WNGkgNh5M3TRGEA

※撮影は2021年7月


関連

東部第102部隊の跡地散策(軍都柏・その4)

軍都柏の戦跡散策、その4。
柏飛行場の南側に展開していた部隊の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

柏飛行場の南部に展開していた部隊が、陸軍第4航空教育隊(東部第102部隊)。
拡大してみた。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


陸軍第4航空教育隊(陸軍東部第102部隊)
陸軍第四航空教育隊(陸軍東部第百二部隊)

1938年(昭和13年)に陸軍東部第百五部隊の飛行場として柏飛行場が開設。その2年後の昭和15年に、第四航空教育隊(東部百二部隊)が当地に移駐してきた。
航空兵教育機関として、航空教育隊に入隊すると、基礎訓練が3か月、そのあと、特業教育と称して、機関・武装・通信・写真・自動車・電気・計器などの部門で3か月の教育を受ける。都合半年の教育終了後は、各地の実戦部隊に配置される。


陸軍第4航空教育隊(東部第102部隊)
弾薬庫?

前述の見取り図では「弾薬庫」と記載のある北端のエリア。
このエリアは現在は、柏市浄水センターと工場地帯。その一角に不自然に古びたコンクリート建造物が残っていた。

コンクリート建造物の右側には、煉瓦建造物っぽいものもあった。

一説には、陸軍時代の給水塔の残骸ともいうが真偽不明。防火水槽として利用されている。
東部第102部隊の給水塔は別の場所にあったので、その場合は移築されてきたことになる。

場所

https://goo.gl/maps/x4iQK8ktrMpxLVoB9


陸軍第4航空教育隊(東部第102部隊)
営門門柱

梅林第4公園に、営門門柱が残っていた。本来の営門は西側だが、真逆の東側にある。移築保存する公園の都合、だろう。

旧陸軍第4航空教育隊(東部第102部隊)営門
 この門柱は、昭和15年(1940)2月に開設された旧陸軍第4教育隊(東部102部隊)の営門です。
 同隊は、現在の十余二と高田にまたがる地域に置かれた部隊で、門柱は現在保存されている梅林第4公園から西方にある現在の梅林第3公園付近から移設されたものです。
 同部隊は、入隊すると、初年兵として基礎訓練が3か月、そのあと、特業教育と称して、機関・武装・通信・写真・自動車・電気・計器などの部門で3か月の教育を受けます。それが終了すると、各地の実戦部隊に配置されます。当時の兵員はおよそ3,000人でしたが、終戦時には全部隊で7,000人を超えていたといわれます。
 右上の写真は、右手の門に大きく部隊名が掲げられ、門左手の哨舎(警戒や見張りをする兵が詰めている小屋)に衛兵が直立し、入り口を入った左手に部隊本部の屋根、続いて兵舎が配置されていることがわかります。
 柏市は、かつて「軍都柏」と呼ばれたように、十余二、花野井、大室、根戸、高田、若紫、藤ヶ谷に軍施設がありましたが、現在は本隊の跡地を含め工業団地や住宅地に変わり当時の面影をみることはできません。
 戦時中の様子を今に伝える市内に残された数少ない文化財です。
  平成24年3月31日 柏市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/Ez4eguk22aaEPTGP9


陸軍第4航空教育隊(東部第102部隊)
営門

梅林第三公園の近くの交差点。もともと営門はこの辺りにあった。

場所

https://goo.gl/maps/897YMnxfM7vzhVTYA


「百二」陸軍境界標石

うっすらと、「百二」と刻まれていることがわかる。
前述の営門近くの民家の塀の近くに。側溝の蓋も杭を挟むように置かれていた。

また、同じく営門近くには、陸軍境界石と思われるものが埋没していた。


陸軍境界標石( 陸軍第4航空教育隊・東部第102部隊の入口)

柏飛行場に展開する第105部隊の営門から南にまっすぐ下ったところに標石がある。
住所は、流山市駒木となるが、一緒に掲載。

場所

https://goo.gl/maps/K9MbSbSuZqHz54PV6

この場所から北上すれば、柏飛行場の第105部隊の営門がある。

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


おまけ

大東亜戦争記念国旗掲揚台(成願寺)

参道に、戦時中に奉納された掲揚台が残っている。
第102部隊の南西の地。住所は流山市駒木となるが、近隣ということで便宜上、一緒に掲載。

大東亜戦争記念
昭和18年8月吉日

場所

https://goo.gl/maps/j9E7Vj6Ua25WUrSK6

一連の柏飛行場関連の戦跡散策は随時別途掲載。

※撮影は2021年7月


関連

https://senseki-kikou.net/?p=16606

https://senseki-kikou.net/?p=16647

https://senseki-kikou.net/?p=16801

柏陸軍病院の跡地散策(軍都柏・その3)

柏市で陸軍の戦跡をめぐる記事も3つ目。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-R393-81
昭和22年(1947年)10月23日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

拡大。

更に拡大。

google航空写真にて。
舌状台地の敷地は、今でもはっきりとわかる。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


柏陸軍病院

昭和14年4月に、陸軍柏病院が開設。病院長は佐々倉操軍医中佐。柏に多くの陸軍施設が集まったことから各部隊傷病兵の入院加療のための開院であった。

第二次世界大戦後、陸軍の解体により厚生省へ移管した。
厚生省移管後は、国立療養所柏病院、国立柏病院を経て、松戸市にあった国立療養所松戸病院と1992年に統廃合。組織は国立がんセンター東病院(現・国立研究開発法人国立がん研究センター・柏飛行場跡地)へ移行、施設は柏市へ移譲され、1993年から柏市立柏病院となっている。

山下清の「放浪日記」には、「勤労奉仕で、柏の陸軍病院でネギの皮むきをした」という戦時中の記述があるという。

http://www.kashiwacity-hp.or.jp/hospital/outline.html


陸軍境界標石(柏陸軍病院入口)

柏市立柏病院の入り口交差点にある標石。
風化が進んでいるが、往時からの境界をしめしている。

場所

https://goo.gl/maps/6hmwpSYa1sqHi1Fc7


陸軍境界標石(柏陸軍病院南西端)

もう一つ、南側の道路にも、それっぽい境界標石があった。

場所

https://goo.gl/maps/ZtoZFCFFj9xxPaWn8

その他、柏関連の記事は別途にて。

※撮影は2021年7月


関連

柏陸軍墓地跡散策(軍都柏・その1)

柏駅から柏公園へと足を運んでみる。徒歩では約20分といったところ。
かつて、陸軍墓地として造営が進むも、実際には陸軍墓地として使用されることなく終戦となり、戦後は「柏公園」となった。その柏公園内に、現在は慰霊碑「忠霊之碑」が建立されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-R522-25
昭和24年(1949年)1月10日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

柏陸軍墓地予定地。旧水戸街道から東に参道が伸びる。舌状台地の様子もわかる。

現在の様子。GoogleMap航空写真。

軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ーーー

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


柏陸軍墓地の門柱
(柏公園の門柱)

現在の「柏公園入口」信号に残る門柱。
柏陸軍墓地の参道ともなる道路の両脇に設けられた門柱。旧水戸街道に面している。

柏公園入口交差点


境界標石?

柏公園入口交差点から参道にはいったすぐのところに。
境界標石っぽい石があった。削れて摩耗しているが、きっと往時の名残。

そのまま参道を歩む。


「陸軍」標石

柏公園の近く。参道脇に。
「陸軍」と刻まれていることがわかる境界標石。
この地が、柏陸軍墓地の造成地であったことを物語る史跡。


柏公園

電話機があった。

電話機のすべり台と、受話器のベンチ。

プッシュホン形すべり台
千葉県の加入電話150万台公衆電話3万台突破記念
昭和56年3月・寄贈電電公社/柏電報電話局


柏公園 忠霊之碑

公園の奥にそびえ立つ「忠霊之碑」。
柏陸軍墓地の由緒を受け継ぐ、慰霊顕彰の碑。

柏公園 忠霊之碑
 この地に柏陸軍墓地忠霊塔が建設されたのは、太平洋戦争の最中、昭和18年11月のことでした。戦争が長期化する中で、戦没者を祀るための施設として建設されましたが、終戦に至るまで遺骨が納められることはありませんでした。戦後、この地は、大蔵省(現在の財務省)から柏市が借り受け現在のような柏公園として整備されました。
 我が国は終戦時の混乱を経て、復興の道を力強く歩み、経済の発展と国民生活の安定を実現してきましたが、忠霊塔は歳月の経過とともに、破損状態もひどくなり見る影もなくなりました。終戦から十年余を過ぎた昭和31年、柏市でも忠霊碑建設の意欲が高まり、議会の承認を受け、鈴木悦三市長を会長とした柏市慰霊碑建設奉賛会が設立され、市民からも多くの寄付を受け、建設が進められました。
 そして、昭和33年7月、戦没者を弔い、そして祖国再興を誓い、永遠の平和への悲願を籠めて現在の忠霊塔の姿に改新築されました。
 建設当初、この碑には、明治、大正、昭和を通じた柏市の戦没者803柱が祀られましたが、今では、その後判明したシベリア等の抑留死者、あるいは平成17年に柏市と合併した旧沼南町の戦没者などを含む合計1023柱が祀られています。
 また、市内にはその他に慰霊碑が30か所あり、忠霊之碑はそれらを代表する碑にもなっています。
 昭和から平成、そして令和へと時代が流れても、今日の日本を築いてきた多くの先人達に想いを致し、我が国及び世界の平和を改めて祈念する心の拠り所として、この忠霊之碑はあります。
 令和元年12月
  柏市

入り口は封鎖されている。

ちなみに忠霊の碑の後方はブルーシートでテントが構築され、居住されている方がいたために近寄らず。。。

柏公園内には、「聖徳太子の碑」もあった。
明治26年建立、陸軍墓地造成よりも古い碑。もっとも最初からこの地にあったか、移転されてきたものかは不詳。


関連

陸軍墓地関連

陸軍工兵学校跡地散策(松戸)

千葉県松戸市。
松戸駅のすぐ東側の高台に、かつて陸軍の学校があった。そんな駅チカ戦跡散策を実施してみる。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M860-194
昭和23年(1948年)3月29日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

上記、航空写真を一部拡大。
「松戸工兵学校」のあった台地は、かつて「相模台城」と呼ばれていた城跡でもあり。
この地は、城跡=競馬場跡=陸軍工兵学校跡、でもあった。

Google航空写真で現在の様子を。
松戸駅のすぐ東側。松戸中央公園・聖徳大学・松戸市立第一中学校を中心に、往時の境界線を今でも感じることができる。


陸軍工兵学校(松戸)

大正8年(1919)、相模台にあった松戸競馬場の跡地に開校。
日本陸軍が創設した工兵教育・下士官教育・甲種幹部候補生教育の為の学校であり、工兵用兵器資材の研究試験なども行われた。
日本陸軍では、騎兵・砲兵。歩兵などの学校はすでにあったが、松戸に設置された、工兵学校は、日本陸軍唯一の工兵学校であった。
現在の松戸中央公園・聖徳大学・松戸市立第一中学校・相模台公園・法務局松戸支局・松戸簡易裁判所・松戸市立相模台小学校などのある高台が、そのまま松戸工兵学校であった。


松戸駅から松戸中央公園へ

あとあと歩いてみて気がついたことではあったが、松戸駅前にそびえ立つ「イトーヨーカドー」の後ろが、陸軍工兵学校の地であり、イトーヨーカードーの店内を抜けて行くのが目的地への最短ルート。もっともそれは味気なさすぎるので、外周から赴くが。

聖徳大学に向けて歩く。陸軍工兵学校の敷地は今は聖徳大学となっている。

聖徳大学

ついつい「しょうとく」と読みたくなるが、「せいとく」が正しい読み方。
女子一貫教育を行なっている。大学院と通信教育課程のみ男女共学というが、基本は女子大のイメージ。
聖徳家政学院として昭和8年(1933年)に創立。陸軍工兵学校のあとにこの地に展開していた千葉大学工学部が転出(昭和39年)したのちの昭和40年(1965年)に千葉県松戸市に聖徳学園短期大学を開設。


「陸軍」境界標石(陸軍工兵学校・西部)

イトーヨーカドーから高台を右手に北上をする。
さっそくありました。境界石。
下は埋もれていますが、はっきりと「陸軍」と読むことができます。

場所

https://goo.gl/maps/1WQDpTG9ghKBgb1KA


「陸軍用地」境界標石(聖徳大学入口)

この細い路地を「女子大」の入り口とするのもどうかと思うが、ここを進むと「聖徳大学」に赴くことができる。
陸軍工兵学校の戦跡散策としても、ここが重要なポイント。

「陸軍用」と見ることができる境界標石。「地」は埋もれてますね。

場所

https://goo.gl/maps/PkFLe3j9fr5KgdAc9


聖徳大学石段小路

石段を登っていきます。絶対、女子大の入り口ではないだろ、この雰囲気は。

「松戸市」の標石

このあたりは、どうだろう。

埋もれているし、摩耗しているからなんともいえないけど、もしかしたら、陸軍の標石かもしれない。


「陸軍用地」境界標石(陸軍松戸工兵学校・北部)

石段を登りきった突き当りに、「陸軍用地」境界標石と「コンクリート造の倉庫」がみえる。
ここの「陸軍用地」は、立派に存在感を放っていた。

上部に矢印が刻まれている。これは、矢印の範囲で陸軍の敷地を示していると思われる。
この場所でいうと内側の90度が陸軍敷地外で、外側の180度は陸軍敷地内、か?

場所

https://goo.gl/maps/UjLcgG6FgDCtM7zAA


陸軍工兵学校の倉庫跡

陸軍工兵学校の倉庫、とされるコンクリート造の建物が残されている。
この先にある旧公務員住宅(相模台住宅)は閉鎖済み。このあたりも近いうちに再開発されるのだろうか。この先はどうなるかわからないが、少なくとも1945年に廃止されてから、75年以上たっているが2021年7月現在では、残っている。
陸軍工兵学校の軽油保管庫(軽油庫)とされている。
扉の上位部の穴から煙突が出ていたと思われ、気化したガスを抜くための穴であったことが予想できる。

場所

https://goo.gl/maps/sHfnSUexbUVooxDT8


松戸中央公園

そのまま歩むと、イトーヨーカドーの裏、聖徳大学の入口、に到着する。
その先は、松戸中央公園。公園内には、いくつか往時を物語るものが残っている。

陸軍工兵学校跡

記念碑がある。ここに陸軍工兵学校があった証。

宮原國雄
明治7年(1874)7月15日、広島県福山市生まれ。
昭和46年(1971)8月26日に享年97歳で没。
軍歴は、陸軍中将。陸軍士官学校を卒業し、陸軍砲工学校に入校。工兵畑を進む。
明治35年(1902)に陸軍工兵大尉となり、英国チャタム陸軍工兵学校に入校。日露戦争勃発のために帰国し第三軍工兵部副官として、旅順要塞攻撃や奉天会戦などに参戦。
大正6年(1917)、 陸軍工兵大佐となり陸軍省軍務局工兵課長に就任していた宮原國雄が工兵学校設立を進言したことにより、大正8年に工兵学校が設立したきっかけとなったとされている。 その後も、大正14年(1925)、佐世保要塞司令官、大正15年(1926)に陸軍中将となり、陸軍砲工学校校長などを歴任している。
宮原國雄は、昭和2年(1927)に予備役編入となっているが、その後も昭和46年まで余生を全うした。

陸軍工兵学校跡
 元陸軍中将 宮原國雄謹書

陸軍工兵学校は主として工兵が技術を研究練磨しその成果を全国各工兵隊の将兵に普及する使命をもって大正八年十二月一日景勝の地ここ相模台上に創立せられ逐年その実績を挙げ大正十五年十月二十八日摂政宮殿下の台臨を始めとして幾多の栄誉に浴せしが昭和二十年戦争の終局とともに光輝ある二十七年の歴史を閉じたり。いま台上往年の面影を留めずよって縁故者あい謀り記念碑を建立して後世に遺す。 
 昭和四十二年四月 
 工友会


陸軍工兵学校の跡地には、千葉大学工学部が進出していた。
千葉大学工学部が千葉市に移転した後に、聖徳大学がこの地に展開し、現在に至る。

千葉大学工学部跡

千葉大学工学部跡
 ここは昭和20年10月から同39年7月まで、旧制東京工業専門学校とそれに引き続く千葉大学工学部、同工業短期大学部があった場所です。
 両校の前身である東京高等工芸学校は大正10年、東京芝浦に創立されました。戦時下の昭和19年3月東京工業専門学校と解消され、同20年5月戦災による焼失のため、旧陸軍工兵学校のあった当所に移転してきました。
 昭和24年学制改革により新たに千葉大学として発足し、同39年千葉市に移転するまでの19年間、この地で多くの人材を輩出してきました。
 本年、創立80周年を記念し、ここに沿革を記します。
  平成13年12月吉日 
   千葉大学工学部
   千葉大学工学同窓会

松戸中央公園。
陸軍工兵学校の前は、松戸競馬場であったというが流石にその面影は残っていない。


旧陸軍工兵学校正門門柱
旧陸軍工兵学校歩哨哨舎

松戸中央公園の正門は、往時は陸軍工兵学校の正門であった。
往時と今と、門柱などがかわらずに、入り口の役目を果たしている。

松戸市 市指定有形文化財
○松戸中央公園正門門柱
 (旧陸軍工兵学校正門門柱)
○旧陸軍工兵学校歩哨哨舎

旧陸軍は、工兵のより高度な技術研修のため、相模台にあった松戸競馬場(船橋市・中山競馬場の前身)跡地に大正8年(1919)工兵学校を開校し、昭和20年8月まで存続させました。
煉瓦造の正門は、大正9年に造られたもので、市内に残る数少ない煉瓦建造物です。警備のための歩哨哨舎は、竣工当時木造でしたが、昭和2年から昭和10年頃にコンクリート造にしたものです。
正門は、門柱頂部の門灯と門扉がなくなっていますが、現存する門柱4基と歩哨哨舎が当時の様子を伝えています。
 平成21年6月18日
  松戸市教育委員会

門扉のレール跡もくっきりと残っている。

門灯と門扉はなくなっているが、堂々たる風格。

門柱の隣には、歩哨舎。

関東近郊で、気楽に立ち入りできる歩哨舎は貴重。

場所

https://goo.gl/maps/ZNYG7xCPgTUcXwv68


「陸軍用地」境界標石(陸軍工兵学校・西部)

正門跡から坂を下る。
かつて工兵学生たちが、訓練を終えて最後に駆け上がっていた急勾配の坂は、「地獄坂」と呼称されている。
そんな「地獄坂」は、今も昔も変わらぬ場所に。
その坂の途中に、境界石があった。

くっきりと残る「陸軍用地」境界標石。

場所

https://goo.gl/maps/ZNYG7xCPgTUcXwv68


相模台公園

地獄坂の南側の高台にある「相模台公園」。
この南側の高台には、「馬場」や「校南作業場」や「相模台練兵場」などがあった。

場所

https://goo.gl/maps/65UW1XQdjGb4GNCn7


相模台公園の片隅に、ひっそりと忠魂碑があった。
合掌。

松戸市忠魂碑

忠魂碑
総理大臣 吉田茂謹書

松戸市忠魂碑
 この碑は明治維新以降、日清日露、第1次世界大戦、満州事変、支那事変、大東亜戦争、その他に於て、国のため一命を捧げた本市出身の将兵、当時千二百二十柱を合祀せる、松戸市戦没者慰霊の碑であります。
 本市社会福祉協議会と建設特別委員会の合同により、昭和三十一年三月末、この地に建設されたものであります。
 その費用の内には当時大関「松登」が全盛時代の頃であり本市に於いて大相撲を開催し、その利益金を寄附されたという話も聞いております。
 遺族会では、毎年春彼岸、お盆、秋彼岸とお正月に各支会の役員により聖僧都参拝をし、市の追悼式当日には、常任委員会全員の参拝を実施しております。
 現在は、転入御家族の増加に伴い、千八百余柱の御霊をお慰めする鎮魂の碑として市内全域から高く崇められておるものであります。
 先の大戦から既に七十年が経ち関係syが徐々に少なくなってきている時期にあたり国家国民のために命を捧げられた先人に感謝の念をもってその御心を体し後世に傳えると共に我が国の平和と発展を祈念しここに忠魂碑の謂れを明らかにするものであります。
註記
 昭和三十年八月五日までに、大東亜戦争のため海外に居た日本軍将兵は母国へ帰国した。
 然し、ソ連は満州に居た日本軍将兵約六十万人を強制的にシベリヤへ抑留し、日本へ帰国させずに苛酷な労働を強いた。このため約六万人が病に倒れ、彼の地で亡くなった。
 その中には松戸市出身の将兵十余人がおり、この松戸市忠魂碑の御霊千二百二十柱の中に含まれている。
 平成二十七年八月吉日
   松戸市社会福祉協議会 松戸市遺族会 東葛偕行会


「陸軍用地」(陸軍工兵学校・南西部)
相模台公園

相模台公園の中にも「陸軍用地」境界標石があった。公園の中=相模台の高台となるため、正直いって公園の中にあることがイマイチ理解できないが、移転してきた?

相模台城の郭があったっぽい公園。

相模台城と第一次国府台合戦

「相模台城」は、戦跡としても著名。もちろん近代陸軍ではなく、中世の戦跡として。

天文7年(1538)に勃発した「第一次国府台合戦」。
房総の豪族であった真里谷氏や里見氏に擁立された小弓公方・足利義明は古河公方や千葉氏と対立していた。関東で勢力を広げていた後北条氏・北条氏綱は、扇谷上杉氏の本拠地であった河越城をい攻略。古河公方・足利晴氏は、小弓公方・足利義明や扇谷上杉氏との対抗で、北条氏綱と同名を結ぶことで、小弓公方・ 足利義明と北条氏綱が激化。
国府台北側の相模台で戦闘が始まるも、 足利義明の弟・基頼や息子・義純の討ち死に報が入り、足利義明が逆上して北条軍目がけて自ら突撃を図り戦死。
そんな複雑怪奇な足利公方の古戦場でもあり・・・。

よくわからない構造物もある。

松戸工兵学校時代の何か?かどうかはわからない。


境界標石?(陸軍工兵学校・南部)

相模台公園から南端の道路を歩く。
境界石っぽい、それっぽい、なにかをいくつか見つけることができた。

場所

https://goo.gl/maps/S414513DxbkdscL1A


陸軍工兵学校・南東部
相模台城土塁?

そのまま南端部を歩くと、松戸拘置支所の南側にたどり着く。
この土塁は、中世の相模台城の名残か、それとも陸軍工兵学校名残か。。。

境界石っぽいものもあった。

場所

https://goo.gl/maps/8xiiEP5DvKue2yWcA


「陸軍」境界標石(陸軍松戸工兵学校・東部)

東側の道を北上していたら、ありました。
「陸軍」と刻まれた境界石。

場所

https://goo.gl/maps/dkJhyBkL2aJNXFDc8


松戸工兵学校・北東部

このあたりが、敷地の北東部。それっぽい何かはありませんでした。


松戸工兵学校・北部

北側の岩瀬住吉公園内に土地区画整理竣工記念碑があった。
記念碑の竣工は皇紀2600年(昭和15年)。

松戸工兵学校の北部は、すでに戦前の段階で区画整理されていたことがわかる。
確かに冒頭の航空写真をみれば宅地となっていることがわかる。

場所

https://goo.gl/maps/BQtJU2cHZphsc4mt7

高台の向こうには、聖徳大学。

そうして、陸軍松戸工兵学校のあった地を一周して、最初の場所に戻ってきました。

松戸の陸軍工兵学校の跡地。駅チカ感覚で散策してみましたが、往時を物語る戦跡が豊富でした。これは良いですね。特に門柱と歩哨舎が残っているのが、すばらしい。
このまま戦跡を伝承する土地として、残していってほしいものです。


散策ログ

1時間45分で約4.5キロ、でした。

※2021年6月撮影


関連

工兵つながりとして。

赤羽台の戦跡散策

陸軍流山糧秣廠跡地と千草稲荷神社

「流山糧秣廠」、正式名称は「陸軍糧秣本廠流山出張所」。
流鉄平和台駅近くに、かつて日本陸軍の糧秣保管の施設があった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R393-54
1947年10月23日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


流山糧秣廠

糧秣廠は、兵士の食糧と軍馬の飼料を管理していた日本陸軍の部署であった。
糧秣本廠は越中島にあり、倉庫は向島本所(墨田)にあったが、手狭になったことや、干し草などの飼料の自然発火などの危険性があっために、大正14年に出張所として流山に倉庫が設けられた。流山は水運と鉄路に恵まれ、また軍馬飼料の藁や干し草の産地とも近いという好立地であった。
当地からは近衛第一師団への糧秣や宮内省・警視庁などに牧草を供給した。
戦後は、民間に払い下げられ、キッコーマンの工場となっていたが、現在は再開発され、イトーヨーカドーやマンションなどになり、当時の面影は残されていない。

元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑

元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑について
当所は元陸軍馬糧倉庫として、東京本所錦糸堀の旧津軽藩屋敷跡にあったが周辺の人家増加して火災の危険を生じたため流山に移り、大正十四年七月一日開庁、敷地三五、二六〇坪建物七、五九七坪(倉庫二〇棟、事務所、工場等一五棟)であった。業務は軍馬用大麦、燕麦、高粱、牧草は本廠の指示により、また干草、ワラは関東地方各都県より買入れて貯蔵し、干草は圧搾工場にて四〇瓩梱包に精撰加工し、近衛第一師団下各部隊並びに宮内省、警視庁に補給した。また所管下の習志野、駒沢支庫がこれを補足した。なお江戸川岸に架空輸送機があって舟運の荷役に用いられ、ガラガラと称され名物であった。
流山がこの基地に選定された主因は、干草、ワラの主産地が千葉、茨城県下でその収集、補給に水陸両運の便が得られたためである。かくて流山は特徴ある有名な町となった。
やがて終戦となり、進駐軍に英和文リストを提出し接収された。その後構内及び職員共に運輸省東京鉄道局所管となり、特殊物資(進駐軍返還の各軍用品)を受け入れて整理、出納する鉄道用品庫流山支庫として6カ年余つづいたが、国鉄改革のため、昭和二十七年三月五日閉止され大蔵省を経て野田醤油並びに東邦酒類両会社と流山町に払下げられ、現在の状態となった。
回顧すれば、大戦中は敵機の攻撃目標となり、爆弾も投下され、且つ東京糧秣本廠が空襲のため全焼するや、その業務の一部が当所に加重されるなど重大任務の遂行と防空対策とで職員は殆ど不眠不休の苦労を重ねた。さらに終戦直後は軍廃止のため全員失職の運命に遭い、物資の欠乏、生活の困窮は実に甚しく、またともすれば流言飛語に迷わされがちな不安の中にあって、複雑な引継ぎと残務処理を一同一糸乱れず誠実に無事に完遂した。その労苦多としたい。
右の実情に鑑み、ここに本碑を建立して、史跡の標識とし、後代の参考に供する次第である。
 昭和五十五年八月十五日
  元陸軍糧秣本廠流山出張所長
  記念碑建設委員長 瀧上浦治郎
       建立者氏名裏面参照

流山糧秣廠跡(ながれやまりょうまつしょうあと)
大正14年~昭和20年(1925~1945)に陸軍馬糧倉庫があった。敷地35,260坪、建物7,597坪。業務は軍馬用の大麦等の貯蔵や干し草の加工。正式名は陸軍糧秣本廠流山出張所(りくぐんりょうまつほんしょうながれやましゅっちょうじょ)。


元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑の後方に神社がある。

千草稲荷神社

流山糧秣廠で祀られていた稲荷様。
「干し草」をあつかう糧秣廠倉庫の鎮守様ということで「千草稲荷」だろうか。

元を辿れば錦糸町にある錦糸公園内にある「千種稲荷神社」からの勧請ともいえる。
「陸軍糧秣廠本所倉庫」があった場所の地主神が「千種稲荷神社」。陸軍が倉庫を設けた際に稲荷社を撤去したところ、火災が頻発し対応に苦慮した陸軍は撤去した「千草稲荷神社」を再建したところ、火災はおさまったという。そして関東大震災に際しても、「千草稲荷神社」は無傷で残ったという。
「陸軍糧秣廠本所倉庫」が流山に移転するにあたり、霊験ある「本所の千種稲荷神社」も流山に勧請したものと考えるられる。

千種稲荷社

千草稲荷

陸軍糧秣本廠流山出張所奉納の手水鉢。

昭和17年8月
陸軍糧秣本廠流山出張所

陸軍糧秣本廠流山倉庫奉納の石灯籠

陸軍糧秣本廠流山倉庫親和會
昭和11年6月

陸軍糧秣本廠流山倉庫奉納の狛狐

陸軍糧秣本廠流山倉庫職員以下一同
大正15年7月1日

なかなかの茂り具合。。。

場所

https://goo.gl/maps/6eLZbPugbtK8NTmm7

https://goo.gl/maps/AEyrgDaFZv7hYito9


流山糧秣廠跡地散策

元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑と千種稲荷神社の北側にはイトーヨーカドー流山店。
南側には千葉県立流山南高等学校。
東側のビバホーム流山店や、ミニストップ 流山平和台店、城の星保育園、柳田団地などがあるあたりがすべて流山糧秣廠の敷地であった。

位置関係には違和感がないため、当時から同じように水路があったかもしれない。
糧秣廠の南側。

流山糧秣廠の方向は暗渠となっていた。

流鉄平和台駅の南側。このあたりも流山糧秣廠の敷地。
流鉄(総武流山電鉄、当時は流山鉄道)から引き込み線が流山糧秣廠に伸びていた。
東邦酒類(東邦酒類株式会社流山工場があったが閉鎖済み、東邦酒類は現・メルシャン)の引き込み線もあった。

昭和8年(1933)に赤城駅として開業。昭和40年に赤城台駅に解消し、昭和49年に平和台駅に改称し現在に至る。

駅前の案内マップ。

「流山糧秣廠跡」もバッチリ記載があります。

電車が走ってきたのであわててパチリ。

普段の設定で建物撮影メインのためにシャッタースピードを下げていたのを忘れていたので、見事に電車にシャッタースピード合わずな写真。

昭和20年7月17日、流山鉄道(流鉄)の列車が米軍戦闘機の機銃掃射を受けて被弾している。
馬橋駅から流山駅に向けて走行していた列車が狙われ、特に蒸気機関車が集中攻撃を受けたために機関士が重傷を受けている。
列車は貨客混載で、貨車には陸軍糧秣本廠流山出張所へ運ぶ乾燥芋などを積載し、客車は最後尾に連結されていた。

流山は陸軍糧秣本廠があり、そしてすぐ北部には陸軍柏飛行場、南部の松戸に陸軍工兵学校などがあったために、このエリアも米軍の攻撃ターゲットとなっていた。

以下、流鉄流山線の機銃掃射の記録がまとめられている動画があったのでリンクしておく。

https://www.youtube.com/watch?v=dZyKB4PyhCU

列車と機銃掃射の関連記事


流山の周辺は、別途それぞれに散策記事をまとめる予定。
柏や松戸はかなり話題豊富なので。。。

館山の海軍戦跡散策・その1

平成28年4月

・館山海軍航空隊跡
  赤山地下壕
  掩体壕
  水上班滑走台跡(米軍上陸の地)
・第二海軍航空廠館山補給工場跡
・安房神社
  館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生戦没者慰霊碑
  海軍落下傘部隊慰霊碑
・館山海軍砲術学校跡
  正門跡・戦車橋
  平和祈念塔
  炊事場跡(ボイラー室跡)
  飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
  化学兵器実験施設跡
  ヤシの木
・震洋滑走台跡

令和元年房総半島台風(令和元年台風第15号)被災前の記録です

その2は、海自で。

この日(平成28年4月某日)は、突然ではあれど友人と館山へ。
友人車の機動力を活かして、館山に点在する海軍戦跡と神社をいくつか散策。


館山海軍航空隊(館空)

昭和5年(1930)に館山海軍航空隊(館空)開隊。海軍航空隊としては5番目。
横須賀海軍航空隊(横空)の実戦部隊が館山に移動することで「横空」は研究航空隊に特化。
昭和11年に木更津海軍航空隊(木空)が開隊すると、「木空」が外戦作戦任務を担当し、「館空」は内戦作戦部隊となる。
開戦後の1944年(昭和19年)に、東日本の哨戒航空隊を統合した「第九〇三海軍航空隊」が館山を中心に展開され、対潜哨戒機が配備され広大な哨戒区域をカバーする事となる。

洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-25」米軍撮影-1947年10月23日

USA-M583-25を一部加工。クリックして拡大。

上記地図のオレンジ色の箇所を散策。紫色の箇所は次回の宿題。未訪問個所。


赤山地下壕

まずは「赤山地下壕跡」へ。
館山市内の戦跡として一番有名な場所から。

https://www.city.tateyama.chiba.jp/syougaigaku/page001892.html

館山市指定史跡 館山海軍航空隊 
赤山地下壕跡
平成17年1月27日指定
 1930(昭和5)年、海軍5番目の実戦航空部隊として、館山海軍航空隊がつくられました。それから、1945(昭和20)年の終戦までの間、館山市香(こうやつ)から沼(ぬま)にかけての一帯には、航空機の修理部品の補給などをおこなった第2海軍航空廠館山補給工場、食料・衣服・燃料などを補給した横須賀軍需部館山支庫関係の施設や、1943(昭和18)年に兵器整備の練習航空隊として開かれた洲ノ崎海軍航空隊など、さまざまな軍事施設がつくられました。
 東京湾の入り口にあることから、館山市には、海軍の施設だけではなく陸軍の砲台や、教育機関(洲ノ崎海軍航空隊、館山海軍砲術学校)など、いろいろな種類の戦争遺跡が残されています。
 このような場所は、わが国のなかでも例が少ないといわれていますが、この赤山地下壕は、合計した長さが約1.6㎞と全国的にみても大きな地下壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
 つくられた時期は、はっきりしていませんが、このような大きな地下壕が、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前につくられた例はないといわれています。
 その一方で、昭和10年代のはじめに建設が始まったという証言もありますが、当時の軍部が本格的に防空壕をつくり始めたのは、1942(昭和17)年より後であるという歴史的な事実があります。
 全国各地につくられた大規模な地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10~20m以上(長野市松代大本営の象山壕は25mであるとされていますが、この赤山地下壕は5~10mと狭い上、計画的に掘られたとは考えにくい、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後にけんせつされたのではないかと考えられています。
 アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは内部にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行ったという体験や、病院の施設があったなどの証言から、知ることができます。
 平成15年 館山市・館山市教育委員会

赤山地下壕跡。
豊津ホールの受付で200円を納めて住所氏名を記載。
そしたらヘルメットと懐中電灯をお借りして地下壕に入ることができます。

今ではストリートビューもできるの便利になったものです。

https://www.google.com/maps/@34.9817322,139.841558,3a,75y,248.85h,83.7t/data=!3m4!1e1!3m2!1s4cv31GKv7mIAAAQo8FbG5A!2e0

自力発電所跡
 この一角は、壁面がコンクリートで補強され、コンクリートの土台や、床面の鉄筋が残っています。発電所があったところで、昭和20年2月に、航空隊の正門前の変電所から移転して使用されていたということです。4気筒200馬力のディーゼルエンジンが2台、発電機が2台、変圧器が9個あったそうです。

このクボミは?その1
 変電所電気員の待機所です。右側の浅いクボミには2段式のベットがあったそうで、10人くらいが交代勤務していたとか。空襲で爆弾の振動があると、天井の土がサラサラと落ちてきたそうです。
 壕内には科(職種)ごとの居住区があったらしく、木の棚のベットがあったそうです。

このクボミは?その2
 この縦長のクボミには、電話番が腰掛けて勤務をしていたそうで、中段左右の突起にコードを巻いていたということです。左隣の窪みはトイレで、桶がおいてあったそうです。

この壕はどうのように使われたのだろう
 防衛庁防衛研究所に「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」という図面があります。太平洋戦争末期につくられたこの図面をみると、赤山地下壕跡の位置には、「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所」と記されています。天井が高い壕は、格納庫として使われたのかもしれません。

戦後の赤山地下壕跡
 終戦後は「忘れられた存在」になっていましたが、温度が年中一定していることから、昭和30年前後頃より、キノコ栽培に使われていました。国内の他の戦争遺跡にも、戦後しばらくキノコ栽培に使われた地下壕跡があります。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどは、そのときに設置されたものです。

このクボミは?その3
 この部屋はがんルームとよばれていたという証言があります。少尉クラスの士官たちの部屋だったようです。奥の四角く切った大きなクボミは御真影を安置した奉安殿で、桧の板張りだったそうです。空襲のときに航空隊から御真影を移したということで、少尉クラスの士官の役割でした。

とにかく地層が美しい。
自然の芸術としても、よりいっそうの見応えがある。 現実には戦跡であるが。

安全に見学でき、そして良く整備されていた空間。
戦跡として歴史伝聞物として、このインパクトは極めて貴重。

海軍の街館山の最初の歴史散策として、この地下壕はうってつけの場でした。


掩体壕

赤山地下壕からはすぐ隣に。

サイズは小ぶり。戦闘機用かと。 掩体壕のすぐ隣は畑。日常との同居。 内部が解放され、自由に中に入れる掩体壕は貴重な存在だったり。


第二海軍航空廠館山補給工場跡

海自館山基地の隣にのこる大きな建物。
現在は民間企業が使用している。


米軍上陸の地


昭和20年9月2日降伏文書調印。 翌9月3日午前9時20分、米陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊戦闘団約3,500人(司令官カニンガム准将)が館山上陸。 この館山が米軍による本土初上陸の地なのだ。

米軍上陸の地
1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリの降伏文書調印式によって第二次大戦が終わった。翌3日、カニンガム准将の率いる米陸軍第8軍約3500名が館山海軍航空隊水上半滑走台から上陸した。東京湾の入口である軍都館山は、このとき本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。


館山海軍航空隊水上班滑走台跡

館山海軍航空隊水上班滑走台跡。
この場所にて水上機が運用されていた、と。
水上機用スロープ(スリップ)が残っている。

9月3日に館山に上陸した米軍司令官カニンガム准将は「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」指令を発出。外務省が抗議し4日後の9月7日に軍政解除。 これが日本本土唯一の直接軍政となっている。

米軍上陸の地であり館空水上班滑走台跡でもある界隈から、第二海軍航空廠館山補給工場跡を遠望。 降伏文書調印翌日の9月4日。 館山から日本の戦後が始まっていたのを知るのも感慨深い。

スリップ関連では、ほかに・・・


館山の沖ノ島

館山の沖ノ島。沖ノ島公園。
海自館山航空基地の先、なかなか面白いところにある島。 関東大震災で隆起して陸続きになったらしい。

こんな感じで陸続き。 夏場はリア充空間になりそうですねw

島の入り口脇にいきなりなんかありました。
なんかの建物の基礎ですね。
海軍関係かな? 島内には地下壕なども点在しているらしいですが時間の都合で散策割愛。 せっかくなので島の鎮守様を参拝する。

館山の沖ノ島宇賀明神

安房国司源親元が嘉保3年(1096年)勧請の古社。 宇賀は「なが」に通じ「白い蛇」とも。 館山沖ノ島の鎮守様。

ご神木はタブノキ。 島内一の巨木。

館山沖ノ島宇賀明神神社。 社頭から対岸を望む。海上自衛隊 館山航空基地方面。
島を巡るのはまたの機会にして次に。


安房神社

安房神社。
安房国一ノ宮・延喜式内明神大社・旧官幣大社。
社号標は東郷平八郎謹書。
私にとっては平成14年以来の参拝。
新緑が鮮やかな境内に心が踊りつつの参拝。

本社(上の宮) 天太玉命 天比理刀咩命(天太玉命の后)
摂社(下の宮) 天富命(天太玉命の御孫) 天忍日命(天太玉命の御弟)

天富命が神武天皇勅命によって阿波の忌部氏を率いて東国安房・上下総国に渡った事に始まる。

安房国開拓の祖神。 創建年代は神武天皇の頃まで遡る古社。
安房国開拓を進めた天富命は、祖神であり祖父である天太玉命(天太玉命は天照大神の側近)をこの地に祀ったことに始まる。

延喜式神明帳「安房坐社」名神大社。
千葉県内では「香取神宮」に次ぐ神階。

社頭には「日露戦役記念碑」

新緑が鮮やかな境内。
境内が気持ち良すぎて満足してしまい、なんか色々写真を撮るのを忘れてしまったような。

安房神社オリジナル御朱印帳。
黒をベースに御神紋と社号。シンプルなデザインは好みを分けるかも知れませんが、私は好きですね。格好良いと思います。 初穂料は1500円。御朱印代は別。

御神水。 安房神社後方に鎮座する、吾谷山の霊水。

洞窟遺跡とあったので、戦跡か?と早とちりするも、古代遺跡。
安房神社界隈での原始的な人々の営みの記録。 古社たるべき格がここにあった。

安房神社境内には幾つか横穴がある。
ただし、これが信仰的な穴なのか、戦跡的な壕なのかは不詳。

安房神社界隈には布良陣地群が展開されていたという。
周辺も興味深いが、それは宿題。


館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生
戦没者慰霊碑

安房神社境内に。
館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
 ※ 館山海軍砲術学校(館砲)に関しては、後述。

昭和45年10月10日建立。
慰霊碑には館山海軍砲術学校の第三期兵科予備学生229名の戦没者の名が記載。

館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
碑文
過ぐる大戦のさ中 当地神戸村地先にあった館山海軍砲術学校へ入校し教育訓練を受けた第三期兵科予備学生は1440名に及び 彼等は全て全国官公私立の大学高専等より志願によって馳せ参じ 選抜されて入校した学徒である
昭和18年10月8日入校式が行われ海軍予備学生を拝命 直ちに日夜の猛訓練が開始された 翌昭和19年1月末基礎教程を終了 一部は他の術科学校へ転属したが大部は2月1日術科教程に入る 術科では陸戦、対空、化兵の各班に分科し それぞれ第一線指揮官としての徹底的専門教育を受けた
同年5月31日術科教程を修了 卒業式が行われ 即日海軍少尉に任官した 戦雲正に急を告げるの秋 太平洋全域から印度洋に亘る前線へ あるいは諸艦艇等へ赴任し 熾烈な戦列に身を投じた
既にこの年の4月緊急な要請で卒業を繰り上げられて先発して行った同期を含めて任官総数は 陸戦班385名 対空班772名 化兵班50名で 総員1207名である
しかして戦勢は日を追って凄絶となり 勇戦奮闘した同期戦友も相次いで倒れて行った あるいは北海に あるいは南冥の果てに ときに戦争と平和を想い ときに戦局の前途を憂えながら 祖国にその青春の総てをかけたのである かくして尊き英霊となった者は実に228名に及ぶのである
われらはこのことを永久に忘れることはできない ここに栄光有る我等同期生一同の冥福を祈念し 永遠の芳名を刻印して 由緒あるこの神社に一碑を建立するものである
 昭和45年10月10日
 館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 慰霊碑建設委員長 高橋末吉 誌

同期戦没者二二九名に捧ぐ

参道のソメイヨシノ。
安房神社の染井吉野229本は、この慰霊碑建設の際に229名の戦没者に因んで植えられたものという。


海軍落下傘部隊慰霊碑

海軍落下傘部隊慰霊碑
内閣総理大臣田中角栄揮毫

館山は海軍落下傘部隊発祥の地でもある。

正面には、 翼をひろげた鷲と落下傘、そして地球と錨の彫刻。

海軍落下傘部隊慰霊碑
碑誌
太平洋戦争を告ぐる昭和十六年後期我が国最初の海軍落下傘部隊として誕生し、 十八才より四十五才までの精鋭なる将兵二千有余名により編成、任務の特質上、其の訓練は厳正なる軍規の基猛烈にして不撓不屈の落下傘部隊魂は茲に編成された。
第一特別陸戦隊は昭和十七年一月十一日・十二日 セレベス島メナドランゴワン飛行場に十字砲火を浴び戦闘降下を敢行 更に第三特別陸戦隊は、同年二月二十日・二十一日 チモール島クーパンに戦闘降下を敢行共に占領に成功
其の功績の顕著なる事に対し時の連合艦隊司令長官山本五十六大将より感状を授与せらる。 爾後大スンダ、小スンダ列島の島々を制圧、次期作戦準備の為、一旦内地に帰還し、戦争の末期再度灼熱の南洋サイパン、トラック、ナウルの諸島に作戦し、
特にサイパンの戦いは惨烈を極め善戦の甲斐もなく昭和十九年七月十六日全員玉砕す。 我等茲に往事を顧み戦友相謀り志を結集し今は亡き戦友の霊を慰め其の功績を永く讃えんものと当隊発祥の地、ここ舘山に慰霊碑を建立した。
 昭和四十八年十一月十日
 元海軍落下傘部隊隊員一同建立

昭和48年に元海軍落下傘部隊一同によって建てられた慰霊碑。
右に横須賀鎮守府 第一特別陸戦隊43名、
左に横須賀鎮守府 第三特別陸戦隊46名、の戦没者名が記されている。

横一特・横三特(海軍陸戦隊)として、その勇名を歴史に残している。
合掌。

空の神兵

 藍より蒼き 大空に大空に
 忽ち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く
心のなかで奉歌し慰霊する…


館山海軍砲術学校

館山海軍砲術学校跡。
安房神社からはすぐ北隣に展開されていました。

館山海軍砲術学校。
昭和16年(1941)に館山砲術学校(館砲)が新設。
館砲では陸戦隊の操練術や高角砲対空砲の操作術・化学戦術など。一方、従来の横須賀砲術学校(横砲)では、艦載兵装の操作術を担当。
昭和20年4月25日に横須賀砲術学校分校に格下げ。終戦直前の同年7月31日には閉鎖。これは米軍上陸地点想定地近くでの教育訓練は適切ではないため、という。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-14」米軍撮影1947年10月23日

「USA-M583-14」一部加工。画像はクリックで拡大可。

館山海軍砲術学校跡
 第二次世界大戦以前は海戦における主な攻撃力は大砲であると考えられ、明治時代以来、旧海軍の砲術教育は神奈川県横須賀で行われていました。
 昭和16(1941)年6月1日、陸上砲術の実地訓練を目的とした館山海軍砲術学校 (館砲)が新設されると、それまでの海軍砲術学校は横須賀海軍砲術学校(横砲)と名称をあらためました。
 「館砲」の特色は、士官候補であった大学出身の海軍予備学生が訓練を受けていたことです。陸戦、対空、化兵(3期以降)の3班にわかれ、陸戦班では、敵前上陸や対戦車戦闘などの訓練が、対空班では、高角砲などの射撃訓練が、化兵班では、毒ガス戦の訓練が行われていました。
 「館砲」で訓練を受けた学生は、海軍予備学生の1期から6期に及び、開校直後は軍医学生が海軍士官としての素養を学ぶ基礎教育の場でもありました。
 昭和19(1944)年10月に入隊した5期予備学生等の約4000名は5ヶ月間の基礎教育を受けたあと、それぞれが術科(各職種)学校に進み、館砲には655名が入校したとされています。
 訓練施設としては広大な平砂浦演習場、東砲台・西砲台の対空訓練砲台、犬石射撃場、飛行特技訓練プールなどがありました。
 昭和20(1945)年4月25日に、館砲は横砲の分校となり、終戦を目前にした同年7月31日には閉鎖されました。その理由はアメリカ軍の本土上陸か想定されていたなか、太平洋岸の平砂浦で教育訓練を行うことが適当ではなくなったためといわれています。  
 平成18年3月 館山市・館山市教育委員会

館山海軍砲術学校と訓練に向う予備学生隊
 真継不二夫氏撮影

 昭和18年10月、この館山海軍砲術学校へ入学した海軍第三期予備学生は1,440名であった。
 かれらは全て全国の官公私立の大学、高等専門学校より馳せ参じ、選抜されて入隊した学徒である。
 昭和18年10月 8日入校式が行われ海軍第三期兵科予備学生を拝命、直ちに日夜の猛訓練が開始された。
 翌昭和19年1月末基礎教程を修了、引続き術科教程に入り、陸戦、対空、化兵の各班に分科し、夫々第一戦指揮官としての専門教育を受けた。同三月末、あるいは五月末術科教程を修了。卒業式が行われ、即日海軍少尉に任官し、戦雲まさに急を告げる太平洋全域からインド洋に亘る前線に赴任し、激烈なる戦列に身を投じたのである。この隊列(写真)の中にも多数の戦没者がいる。
戦没者はフィリピン(比島)、硫黄島を第一として各地域の部隊および艦船(大和9、武蔵6、山城6、長門5、扶桑3、那智3、大鷹・大鳳・熊野・羽黒・葛城各1)における戦没者は次ぎの通りである。
グアム4名、テニアン5名、パラオ1名、
比島方面92名、インド洋方面6名、ビルマ4名、
ビアク2名、ボルネオ10名、セレベス2名、
ラボール3名、南漢島2名、マレー方面1名、
スマトラ1名、舟山島1名、東支那海3名、
モルッカ諸島1名、マリアナ群島1名、黄海3名、
内南洋2名、アンボン1名、ニューギニア1名、
ペリリュー島5名、サイパン方面11名、硫黄島18名、
東シナ海方面13名、台湾方面8名、
沖縄方面8名、南西諸島方面10名、千島2名、内地近辺8名
合計229名。この外基礎教程後他術科へ転出後戦死者若干名、法務死若干名。
 ここに館砲校全景を伝える希少な写真を展示し、「鬼の館砲」といわれた猛訓練を受け、勇敢敢闘の末倒れた万余といわれる将兵・同期生たちの護国の想念を偲び、深き感謝と鎮魂の想いを捧げる次第である。終
 平成年5月27日(1999年海軍記念日)
 館砲3期会有志(以下個人名略)

館山海軍砲術学校正門跡には往時を偲ぶ記念板がある。
「鬼の館砲」と称された海軍陸戦隊の教育機関。


館山海軍砲術学校
正門跡・戦車橋

正門跡の通りにかかる橋は「戦車橋」と言われている。戦車橋脇の側溝も往時のままのもの。 砲術学校ゆえに「戦車橋」。正門の道はさながら「戦車道」。


館山海軍砲術学校
平和祈念塔

館山海軍砲術学校平和祈念塔。
戦車橋からまっすぐ進んでいくと右手に砲身のようなものが見えてくる。 砲身のような塔。

館山海軍砲術学校跡

舘山海軍砲術学校の沿革
 舘山海軍砲術学校(「舘砲」)は大東亜戦争の開戦直前、風雲急を告げる秋に当たり、阿部孝壮初代校長(後に、第六特別根拠地隊司令官。戦後敗軍の将としての責めに任じ、グァムで慫慂として法務死)を載して、昭和十六年六月一日、当地(千葉県粗郡神戸村、現在は、舘山市佐野地区)に開設された。
  学校用地は、帝国海軍当局の現地調査による当地が最適との報告に基づき決定された。用地問題は安田義達開設委員(初代教頭。後年、横須賀第五特別陸戦隊指令としてブナで壮烈な戦死)の熱誠溢れる説得と、耕地及び山林原野の大半を失うという苦難を克服して、なお誠心誠意の協力を惜しまなかった出口常次村長、錦織寅吉助役を初めとする村民各位の尊い愛国の至情と献身的努力により解決され、急遽、建設の運びとなったものである。
  「舘砲」は、横須賀海軍砲術学校(「横砲」)の陸戦、対空等、陸上関係の砲術部門が分離独立する形で開設された術科学校である。訓練設備として広大な平砂浦演習場並びに東砲及び西砲台の対空訓練砲台を備えていた。後に、化学兵器に関する部門が加えられ、常時、一万数千人の将兵を擁する規模であった。
  戦局の悪化に伴い昭和二十年四月二十五日、「横砲」に併合されて同校の分校となり、終戦直前の昭和二十年七月三十一日、閉鎖、廃校となった。開校から廃校までの存続期間は、僅か四年間に過ぎなかったが、厖大な人員が教育訓練を受けたと推定される。しかし、記録喪失のため詳細は不明である。
 「舘砲」では研究部員が、陸戦、対空、化兵に関する専門技術・教育訓練に関する指導研究に当たった。その術科教育の対象は、兵科将校学生及び術科講習員の他、初級幹部の緊急訓練対策として、第一期兵科予備学生、第二期兵科予備学生、特別第三期兵科予備学生と第三期兵科予備学生、学徒動員の第四期兵科予備学生と第一期兵科予備学生、第五期兵科予備学生及び第二期兵科予備生徒並びに第一下士官候補訓練生及び第二下士官候補訓練生(師範学校卒)が挙げられる。
  更に優秀な下士官兵指導員の練成を目指して、高等科訓練生及び普通科練習生に対する教育訓練にも重点がおかれた。また、若年者の特別志願制度に基づく特年兵の教育訓練も行われ、その第一期及び第二期は、年少のまま実戦にも参加した。なお、台湾・朝鮮半島出身志願兵に対する教育も実施された。
  初期にはメナド落下傘降下で勇名を馳せた横須賀第一特別陸戦隊、中期にはソロモン群島方面で悪戦苦闘を続けていた横須賀第七特別陸戦隊、呉第六陸戦隊、佐世保第六特別陸戦隊、呉第七特別陸戦隊並びに佐世保第七特別陸戦隊、末期には、山岡S特攻部隊等々の部隊編成及び特別訓練も行われ発信基地ともなった。
 この間、前線の各地に向けて多数の防空隊が陸続として派遣されたが、その部隊編成及び特別訓練も行われ、その発進基地ともなった。その隊員の中には、国民兵役から徴集された多数の、年長の補充兵も含まれていた。
 「舘砲」は、開校直後、軍医科学生、薬剤科学生及び歯科医科の普通科学生の基礎教育の場としても利用されており、また、終戦間際の段階では、飛行科士官に対する陸戦指導法の演錬、艦船乗組の機関科・工作科系統の特務士官・準士官に対する防空指導法の演錬等、緊急の切替教育も行われた。
  このように、「舘砲」は、帝国海軍の各種陸上部隊、とりわけ、特別陸戦隊、基地警備隊、特別根拠地隊等の陸戦・対空専門技術に関する教育訓練の中核であったため、その影響する範囲は、広く、且つ、深く、その実戦即応を重視した教育内容は、誠に、多岐多彩なものがあった。
 「舘砲」の特色は帝国海軍の指揮官先頭の伝統による猛特訓を特徴とし、人は、「鬼の舘砲」と呼んだという。ここの教育訓練を受けた戦友は、陸戦、対空の実戦に臨んでは、遺憾なく指導力を発揮した。北は極寒不毛の孤島から南は、炎熱の島に至るまで、悪条件をものともせず、縦横無尽に活躍し、時として、激しい爆撃弾の下、寡兵よく大敵に屈せず、長期持久の戦いを闘い抜き、或は、力尽きて倒れ玉砕された将校各位も多い。その数は、一千数千柱にも及ぶと推定されている。この勇戦奮闘が、今日の日本繁栄の基礎を築いた原動力である。祖国の安泰を願い、同朋への愛に殉じる志こそ、国家の存立及び発展に不可欠なものである。
  祖国愛に殉じたこれら多数の戦士のご遺徳を偲び、切に、そのご冥福を祈りつつ、開校五十周年の記念日に、想い出尽きない舘山海軍砲術学校跡に、地元各位の絶大なるご協力を仰ぎつつ、ここに、多年念願の記念碑を建立し、永世に、太平を開かせ給えと、希うものである。
 平成三年六月一日
 舘山海軍砲術学校跡に記念碑を建立する会

雄魂
元連合艦隊兼横須賀鎮守府参謀 寺崎隆治謹書

平和祈念の塔
 平成3年6月吉日
 館山市長 庄司厚書

過ぎし戦に 玉と砕けし戦友の 英霊安かれと祈り
 永世に 太平を開かせたまえと ひたすら 希う

朽ちていく四一式山砲。
20センチ・ロケット弾(噴進弾)。
戦地より収集された遺品(銃剣)などが塔の周辺に展示してありました。

館山海軍砲術学校時代からの井戸という。

世界各地を示す標識


館山海軍砲術学校
炊事場跡(ボイラー室跡)

館山海軍砲術学校炊事場跡(ボイラー室跡)
赤煉瓦の壁だけが奇跡的に残っている空間。
何というか、存在感に圧倒されてしまった。


館山海軍砲術学校
飛行特技訓練プール跡
(落下傘部隊訓練プール跡)

炊事場跡から高台に移動。
その高台から見えるは、館山海軍砲術学校飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
この場所も奇跡的に残っていた。

Google航空写真より抜粋


館山海軍砲術学校
化学兵器実験施設跡

館砲の中心から隔離された場所に朽ちかけた史跡がある。
軍機(軍事機密)であったが、館砲では細菌などの生物兵器や毒ガスなどの化学兵器に関する教育や訓練が行われた海軍唯一の養成機関もあり、教育機関としては陸戦班、対空班、化兵班の三班制であった。

館砲化兵班が何らかの化学兵器実験施設として使用していた建物跡という。
いまは、何を語るでもなく畑の中に風化しつつある歴史遺産。


通りすがりに参拝。

洲崎神社

「洲崎神社」 安房国一宮
(ただし一宮は江戸期以降の主張、安房神社に対する二宮とも。洲崎神社に対する二宮は洲宮神社)
旧社格は県社。 延喜式内論社。
御祭神は天比理乃咩命(天太玉命の后神)

参道石段に圧倒。これは見事な神域。
御手洗山中腹に鎮座している。

神武天皇の御代、安房忌部一族の祖天富命が勅命により四国の忌部族を率いて房総半島を開拓。 忌部族の総祖神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀ったことにはじまる古社。

延喜式内社神名帳では、式内大社・后神天比理刀咩命神社。(論社)

治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総半島に逃れてきた源頼朝は当社に参詣し源氏の再興を祈願。以後、武家の崇敬が篤い。 ちなみに。 文治3年(1187)に源頼朝が洲崎神社から天比理乃咩命を勧請したのが品川神社の創建由来ともなる。

東京湾海上鎮護神として。 洲崎神社から品川神社へと連なる歴史を辿るのも興味深いものではあり。 更には阿波国から房総へと渡ってきた忌部一族の足跡を辿るのも一興。

洲崎神社。浜鳥居へ。 洲崎神社の旧鎮座地は、この浜であった、と。 浜から現在の鎮座地を望めば、美しい神奈備山。

御神石

洲崎神社。御神石。
なんとも言えない格を帯びている御神石。 長さは2.5メートル。

実は洲崎神社に奉納された神石は二対ある。 ひとつは、この吽形の神石。
もう一つは三浦半島安房口神社の阿形の神石。

洲崎神社の吽形の御神石と対になる御神石。
もう一つの御神石は三浦半島に飛んでいったと伝承。 房総半島から東京湾を挟むように対坐する三浦半島の御神石。 これは忌部一族の海上支配の具現化であろうか。古代の信仰文化圏を夢想する。

こちらは三浦半島の安房口神社(2014年撮影)

三浦半島。安房口神社の阿形の御神石。
安房口神社は三浦半島最古の神社。 館山で三浦半島を感じる。海の目線で見れば隣。まさに安房口。 洲崎神社の文化は深いですね… 実に面白い。

洲崎神社の浜。対岸を眺めつつ洲崎神社を後にする。ここは興味深い信仰文化の宝庫。きっとまた来ることになりそうです。 時間は16時過ぎ。最後に戦跡を一カ所だけ寄り道してみる。


震洋滑走台

洲崎から海岸線沿いを進む。
波左間漁港。

ここの海に不思議な造形物がある。
震洋滑走台。

震洋は、いわゆる特攻兵器。爆薬をつんだモーターボート。
付近には震洋を格納した壕も点在しているという。

訪れた時が満潮だったようで、形は今ひとつ。雰囲気レベルで。

第一特攻戦隊第18突撃隊
波左間「震洋」特攻基地跡


館山駅前のヤシの木

館山駅前のヤシの木は館山砲術学校正面にあったものを戦後に移植したものだとか。 車のなかから撮影したので今ひとつな写りですが、記録として。

googleMapのストリートビューも参照に。

館山は、戦跡の宝庫であり、今回の掲載はそのほんの一部。見逃したところも多いので、いずれかに再訪せねばならない地であれど、今回はいったんこれにて〆。