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「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)」跡地散策・4

桶川にあった陸軍桶川飛行学校の跡地散策。
本記事は、「その4」です。

「その1」から順を追って見ていただければ、幸いです。

埼玉県桶川市、そして荒川の対岸の川島町にまたがるホンダエアポート。この場所がかつての熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)の桶川飛行場の滑走路があった場所。


川田谷飛行場(桶川飛行場)

現在のホンダエアポート。
昭和12年(1937年)に熊谷陸軍飛行学校桶川分教場開校時に「川田谷飛行場」として開設。桶川分教場(桶川飛行学校)の演習施設として使用されてきた。
戦後、放置されていたこの地を、ホンダが航空産業参入を目指しホンダエアポート(本田航空)を設立し、かつての川田谷飛行場を再活用している。ただし、陸軍時代とは滑走路は同じではない。(滑走路の位置等が多少変わっている。)

太郎右衛門橋からホンダエアポート方面を望む。この河川敷にかつて桶川分教場(桶川飛行学校)の滑走路があった。

河川敷をホンダエアポート方面に近づく。
ホンダエアポートを運用する本田航空の本社と格納庫が見える。

埼玉県防災航空隊の「あらかわ2」が駐機されていた。
「ユーロコプター AS365 N3」(機体記号: JA31KN)

AIRPORT

コンクリート構造物1(給水塔基礎跡)

このあたりに格納庫がありました。

吹き流しの隣に、なにやらコンクリート構造物がある。
給水塔基礎とされている。

コンクリート構造物2(固定ブロック跡)

滑走路方面に向うと、横堤の上にもなにやらコンクリート構造物が残っている。
何を固定していたのか。

コンクリート構造物3(吹き流し塔の台座跡)

滑走路の横堤の突端には、吹き流しを立てた台座が残っている。さきほどの固定ブロックの先。

訓練時には、この台座に立っていた吹き流しを目指して急降下訓練などもおこなわれていたという。

ホンダエアポート(川田谷飛行場)を離陸する小型機。

横堤の上から、往時を知る戦跡のコンクリートともに、小型機を見送る。

滑走路エリアは、立入禁止。

スカイダイビングが落下してきた。

ホンダエアポートはちょっとアクセスしにくい場所。
途中のバス停からでも、だいぶ歩きました。。。

※撮影は2022年3月

場所

https://goo.gl/maps/Jh3k1KNi3dL6iYSU8

参考リンク

https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/soumubu/jichishinko/shisetsu_ichiran/shogai_bunka/otherfacilities/1937.html

https://www.okegawa-hiko.org/

https://www.jiji.com/jc/v4?id=okegaku15030001


関連

その2

その3

「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)」跡地散策・3

桶川にあった陸軍桶川飛行学校の跡地散策。
本記事は、「その3」です。

「その1」から順を追って見ていただければ、幸いです。

ここでは、おもに展示内容に関して掲載していきます。


旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 兵舎棟

旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 兵舎棟
市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 兵舎棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 兵舎棟は、主に生徒が居住していた建物です。当時は、午後9時に将校がそれぞれの寝室の点呼を行い、生徒たちは異常なしの報告をした後に就寝しました。朝は午前5時30分に起床し、乾布摩擦や清掃、食事の後、6時30分には飛行場へ移動して飛行機の操縦訓練を開始していました。寝室は寝る場所であること以外に、銃や刀の手入れをしたり、毎夜、「軍人勅諭」を読み上げる場所でもありました。兵舎棟の前は校庭で、入校式が行われたり、準備運動を行う場所でした。兵舎棟の建物は、守衛棟と同様に、木造平屋建て切妻造の建物です。簡易な木造であることから、寒さ対策として天井裏には藁が敷かれていました。5つの寝室のうち、最も西側に位置する部屋は、昭和18年(1943年)生徒の増員に伴い増築されたものです。寝室のほか、建物に残る墨書から「事務室」や「医務室」があったことがわかっています。

手前側は当時の木材を再利用している。

このあたりは、当時の木材を利用。

復原整備された寄宿舎
 この部屋は、桶川分教場当時、生徒たちが寝泊まりしていた様子を再現したものである。床や壁などの部材も、ほぼ当時使われていた部材を使って復原している。
 生徒たちは朝、この部屋から日々の訓練へと出発し、夕方、訓練から帰り、就寝した。そして、卒業を迎えるとこの部屋を去り、戦場へと向かっていった。
 1部屋には18台の木製のベットが置かれていたが、隣との感覚が狭いことから、頭の位置を互い違いにするように配置されていた。棚には各自の銃や服、帽子、水筒などが整理整頓して置かれていた。

もちろん、布団はイメージ。これは当時のものではありません。


熊谷陸軍飛行学校桶川分教場と昭和の戦争

飛行学校誕生までの歩み
 1903(明治36)年、アメリカのライト兄弟が飛行機の初飛行に成功。飛行機が誕生する。
 それから11年後の1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発する。大戦当初、飛行機は敵の軍の偵察をその任務としていた。しかし、その後、軍の関連施設や街を直接攻撃するために爆撃機が開発され、兵器としての重要性が増していった。
 日本においても第一次世界大戦の終了後の1920(大正9)年に所沢に陸軍航空学校が開校し、操縦者や研究者の育成が始まった。
 1931(昭和6)年に満州事変が勃発すると、日中関係の緊張が高まった。こうした情勢を受け、航空兵力の増強が必要と考えた陸軍は、軍比較台の後押しも受けて、各地に飛行学校や分教場を開校していった。1935(昭和10)年には熊谷市に熊谷陸軍飛行学校が開校し、2年後の1937(昭和12)年6月3日には川田谷に桶川分教場が開校した。桶川分教場の開校は新聞でも取り上げられ、各地から入隊希望者が集まった。

陸軍航空学校
 日本では1909(明治43)年に臨時軍用気球研究会が設立され、気球と飛行機の研究がなされていたが、第1次世界大戦により欧米列強の飛行機の技術は飛躍的に向上し、日本は技術や軍編成で大きく後れをとることとなる。
 この事態を打開するために、1919(大正8)年には所沢陸軍飛行場に陸軍航空学校(1924年所沢陸軍航空学校に改編)が開設され、操縦者や研究者の育成が本格的に始められた。

熊谷陸軍飛行学校
 1931(昭和6)年9月の満州事変勃発とその後の緊迫した国際情勢、さらに極東におけるソビエト軍の空軍増強により、陸軍は軍備や人員を拡充する必要に迫られることとなる。
 これを受け1935(昭和10)年7月に熊谷飛行学校令の勅令が交付され、8月より着工、同年12月1日に熊谷陸軍飛行学校が開校する。
 以後、1945(昭和20)年の閉校まで陸軍における少年飛行兵教育の中心的役割を担う。

熊谷陸軍飛行学校と各地の分教場
 1935(昭和10)年熊谷陸軍飛行学校が開校した後、航空兵力の増強のため、各地に分教場が開設されていった。
 1937(昭和12)年には桶川の他にも、栃木県に金丸原分教場(番号10)、長野県に上田分教場(番号4)が開設された。その後も群馬県の新田分教場(番号2)、館林分教場(番号3)といった関東地方のみならず、東北地方の仙台や朝鮮半島にも分教場が開設されていった。

第三の空都 桶川分教場
 東京日日新聞埼玉版は、桶川分教場の着工から開校まで約4ヶ月の様子を3回にわたり伝えている。
 1937(昭和12)年6月3日付けの新聞記事にみられる「第三の空都」とは、桶川分教場が所沢、熊谷に続く3番目の飛行学校施設であったことを伝えている。

飛行機に夢を託した国民
 1932(昭和7)年には有志が基金を募り、軍用飛行機を購入し国に寄附する「軍用機献納運動」がおこるなど、飛行機に対する国民の期待が高まっていった。こうした機運の中で、飛行学校の生徒は「若鷲」とも呼ばれ、憧れの的としてマスコミ等で取り上げられるようになった。桶川分教場においても、1943(昭和18)年からは「桶川教育隊」と呼称が変更され、施設の規模も最大となり、訓練生たちが最も多く入校した時期となっている。


桶川分教場での学校生活

桶川分教場の1日
 桶川分教場の1日は、午前5時30分の気象のラッパとともにはじまった。
 起床した生徒たちは、校庭での乾布摩擦、寝室の内外や校庭の整頓・掃除、洗面、朝食を済ました後、午前6時30分には飛行場へ集合し、飛行機の操縦訓練が始まった。
 午前中、操縦訓練をした後、昼食をとり午後1時30分からは飛行機学などの学科が午後4時まで行われた。
 なお、訓練と学科は2班に編成された。操縦訓練を午前中に行う半は午後に学科を、午前中に学科を行う班は、午後は操縦訓練を行っていた。
 午後5時30分に夕食をとると、午後9時までは自習時間となった。その後点呼がとられ、軍人勅諭の読み上げが終わると、午後9時30分に消灯となる。
 こうして、分教場での長い1日は終わりまた翌日の、忙しい朝が始まるのである。

飛行訓練の様子
 飛行訓練は、荒川の対岸にあった飛行場で行われた。
 生徒たちは、地上での操縦桿の操作方法学習から始まり、助教官が同乗しての操縦訓練、一人での操縦訓練、編隊を組んでの飛行訓練と段階を追って訓練を受けていた。
 桶川分教場での飛行訓練には、95式乙Ⅰ型中間練習機と九九式高等練習機が使用されていた。

学習の様子
 桶川分教場では飛行兵として必要な知識の学習も教室棟で行われていた。飛行機の高度計や速度計などの計器について学ぶ計測器学、地図や地形について学ぶ地形学、天候や天気図について学ぶ気象学など多岐にわたる授業が、日々行われていた。
 こうした熊谷陸軍飛行学校桶川分教場での共同生活を通じて、生徒たちは飛行兵として育てられていった。

橋本久氏の日誌
 橋本陸軍曹長は1918(大正7)年、茨城県長田村(現、境町)で農業を営む橋本家の三男として生まれました。21歳の時に満州歩兵国境守備隊へ入隊し、2年後、航空兵へ転属をします。そして8月には桶川分教場へ入校します。
 橋本氏は1941(昭和16)年8月から翌年の10月にかけて「熊谷陸軍飛行学校日誌」を書き残しています。日誌には訓練の様子や学習の内容、行事など、桶川分教場で行われていた教育の内容が詳細に記されています。

桶川分教場ゆかりの品々。

教本など


飛行学校から戦地へ

拡大する戦争と飛行学校
 1937(昭和12)にはじまった日中戦争は戦線を中国全土に拡大しながら長期化の様相を呈していた。戦争の長期化に伴い、石油をはじめとする資源の確保および中国を支援するイギリス・フランスの支援ルートを遮断するため、1941(昭和16)年7月に日本はフランス領インドシナに進軍する。このことは英・仏のみならずアメリカとの関係も悪化させることになった。アメリカは在米日本資産を凍結し、対日石油輸出の全面的禁止を決定した。同年12月、ハワイの真珠湾およびイギリス領マレー半島にて米英との先端を開くことになり、太平洋戦争が始まる。
 中国のみならず東南アジア・太平洋諸島への戦線の拡大と戦争の長期化は物資や兵員の不足を招いた。こうした中、航空兵力の補充が急務となり、1943年(昭和18)年には桶川分教場の増築工事が実施される。しかしながら、本来は金具で補強されるべき部分を木材で補強するなど、当時、鉄が不足していた影響が現れている。

日中戦争
 大陸への進出を図っていた日本と中国の対立は深刻となり、1937(昭和12)年7月7日、中国の北京郊外の盧溝橋付近で日中両国軍の衝突事件が発生する。一時は現地で停戦協定が成立するものの、日本は現地へ兵を派遣して兵力を増加し、戦線を拡大した。これに対し中国の国民政府側も徹底抗戦の姿勢をとったことから、戦争は当初の日本側の予想をはるこにこえた日中の全面戦争に発展していった。

軍需工場と空襲被害
 戦争が長期化すると戦時体制は一層強まり、民需工場の軍需への転用が行われ、埼玉にも多くの軍施設や軍需工場が作られた。
 入間の豊岡には航空士官学校が、朝霞には予科士官学校が開設された。また、大宮には終戦まで世界屈指の業績を誇っていた日本の航空機・エンジンの会社である中島飛行機製作所の工場があった。このような軍需工場は、米軍による戦略爆撃の主な攻撃目標とされた。

太平洋戦争の推移
 開戦当初、日本軍は、マレー半島・ビルマ(ミャンマー)、オランダ領東インド(インドネシア)、アメリカ領フィリピンなど東南アジアから南太平洋にかけて、広大な地域を半年の内に制圧して、軍政下に置いた。国内では勝利が呼び起こした興奮の中で、政府・軍部に対する国内の指示が高まっていた。
 しかしながら、開戦から半年後の1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦の敗北をきっかけに、戦況は日本側に不利になっていった。
 1943(昭和18)年二月にはアメリカ軍との激しい戦いの末、ガダルカナル島から退却した。1944(昭和19)年7月には南洋諸島の中でも重要な軍事基地であったサイパン島が陥落した。こうしたことが機会となり、国内では小磯国昭内閣となったが、戦争はなお続けられた。
 1944(昭和19)年10月、アメリカ軍がフィリピンのレイテ島に上陸すると、日本軍は特攻(特別攻撃)隊による敵艦船への体当たり攻撃という作戦まで実行するようになった。

戦時下のくらし
 戦線の拡大と戦争の長期化は、やがて物資の不足と軍事費の増大を招き、ひいては、物価の上昇を招いた。
 1938(昭和13)には国家総動員法が制定された。その結果、政府は議会の承認なしに戦争に必要な物資や労働力を動員できるようになった。また翌年には国民徴用令の公布により、民間の人々が軍需産業に労働力として動員されるようになった。
 1940~1941(昭和15~16)年には、砂糖・マッチ・木炭・米・衣料などが次々に切符制・配給制となるなど。国民の生活はあらゆるところで切りつめられていった。
 さらに日中戦争が終結しないまま、豆理科・イギリスとの戦争を開始したことにより、物資・兵力・労働力の不足はより深刻化した。1943(昭和18)年には大学・高等学校・専門学校に在学中の学生を軍に徴集し、また学校に残る学生や女性を軍需工場で働かせた。

熊谷空襲
 熊谷空襲はポツダム宣言受諾を決定した1945(昭和20)年8月14日の午後11時30分頃から15日未明にかけての出来事であり、埼玉県下最大の空襲と記録されている。この空襲により、熊谷の市街地は一瞬のうちに火の海と化し、死者は266名、罹災者は15,390名にもおよぶ。
 終戦後、熊谷空襲から1ヶ月後の9月13日、軍政上の重要地として、県内で初めて熊谷陸軍飛行学校に米駐留軍12,000にんの進駐が始まる、その後、県内・近県に分散駐留することになった。

熊谷空襲に関しては、こちらの記事も。

熊谷陸軍飛行学校の廃止と特攻(徳月攻撃)隊
 1945(昭和20)年2月、不足する戦力を補うべく、教育隊の戦力化を図るため、熊谷陸軍飛行学校の機能が停止され、第52航空師団第6練習飛行隊として改編される。これに伴い、桶川分教場も閉鎖され、以後は特攻(特別攻撃隊)の訓練施設とて使用されることとなる。
 特攻(特別攻撃)とは200キロ爆弾や500キロ爆弾などを航空機等に装備し、期待ごと敵艦船に体当りするをする、操縦者の死を前提とした作戦である。特攻(特別攻撃)隊のうり、陸軍が沖縄戦のために編成し、知覧飛行場(現:南九州市)や万世飛行場(現:南さつま市)などの南九州の飛行場から出撃した部隊を「振武隊」と呼んだ。
 1945(昭和20)年3月27日に桶川分教場で教官を務めていた伍井氏が第二十三振武隊として、同年4月5日に第七九振武隊が知覧飛行場へ向かい飛び立った。

伍井芳夫 第二十三振武隊長
 伍井大尉(殉職後 中佐)は、1912(明治45)年7月、北埼玉郡豊野村(現、加須市)に父源助と母さたの二男として生まれました。小学校は豊野小学校に通い、中学校は加須の旧制不動岡中学に入学しました。若い頃から飛行機に憧れ、中学校卒業後は、航空士官学校を経て、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場にて教官を務めていました。その温厚で誠実な性格から、多くの出身者の記憶に残っています。
 1945(昭和20)年3月27日、鹿児島県の知覧飛行場へ向うため、他の隊員11名とともに、壬生飛行場を出発します。その途中、桶川上空を通ったときに、2度旋回し、翼を左右に振って、桶川にいた家族に別れを告げました。
 当時、桶川には妻と幼い3人の子供が暮らしていました。
 1945年(昭和20)年4月1日、満32歳で特攻(特別攻撃)隊第二十三振武隊の隊長として、知覧飛行場より出撃し、慶良間列島付近で敵艦隊に突撃、二度と帰らぬ人となりました。

伍井大尉の遺書(写し)。

第七九振武隊
 第七九振武隊は、12名の隊員で編成された特攻(特別攻撃)隊です。隊員たちは1945(昭和20)年4月まで桶川飛行場で特攻の練習を続け、同月5日の正午に鹿児島県の知覧飛行場に向けて出発しました。途中、岐阜県の各務原飛行場、山口県の小月飛行場に1泊し、4月7日には知覧飛行場に到着します。
 同隊は9日後の4月16日に知覧飛行場から出撃し、うち2機は期待の故障などで戻りましたが、1機は22日に再出撃して、沖縄の海に消えていきました。

山田孝准尉
 山田孝准尉は1918(大正7年)、福岡県西牟田町(現、筑後市)に生まれました。1938(昭和13)年に砲兵から航空兵へ転属し、熊谷飛行学校に入校しました。1940(昭和15)年に同校を卒業後、満州のハイラル基地に配属されます。
 さらに1943(昭和18)年からはラバウル島やニューギニア島などの南方戦線に配属されます。1944(昭和19)年、負傷の為、本国へ還送され入院しました。担任伍、佐賀県の目達原基地にて、訓練生の指導にあたります。

終戦後の特攻命令
 山田氏は1945(昭和20)年8月15日、目達原基地にて玉音放送を聞きます。しかし、その2日後、基地に出勤したヤマダ市に特攻(特別攻撃)命令が下されます。
 展示している遺書は命令を受けた直後、山田氏が家族に宛てて書いたものです。
 結果として出撃前に命令は中止されますが、終戦後の現場の混乱を今に伝える貴重な資料といえます。

山田准尉の遺書(写し)


戦争から平和へ

平和への道のり
 3年8ヶ月にわたった太平洋戦争は、1945(昭和20)年9月2日、日本と連合国とのあいだで降伏文書の調印がおこなわれ、終結した。
 終戦後、にほんにはGHQ(連合国最高司令官総司令部)が進駐した。GHQは新憲法案を日本に提示し、日本の政府はGHQあんをもとに草案をつくり、1946(昭和21)年11gタウ3日、国民主権・平和主義・基本的人権の保障の原理にもとづく日本国憲法が公布された。
 また、1948(昭和23)年12月10日、フランスで開かれた第3回の国際連合の総会で「世界人権宣言」が採択される。
 一方で、軍施設としての役割を終えた桶川分教場は大陸からの引揚者を対象とした市営住宅として利用されることとなる。
(以下略)

戦後の旧飛行学校桶川分教場
 1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎えると桶川分教場もその軍事的役割を終える。
 終戦後の当地には、1年ほど米軍が進駐したとの記録が残されている。また駐留米軍の指示により、軍事に直結した施設構造物は解体撤去され、火薬類や軍事書類の焼却処分が行われた。その後、桶川分教場は町が仲介する大陸からの引揚者寮(若宮寮)として、また空襲で家を失った人たちへの住宅としての活用がはじまった。
 若宮寮では最大で64世帯、約300人ほどが生活していた。
 若宮寮も2007(平成19)年3月に最後の住人が転出したことに伴い、約61年の歴史に幕を閉じたのである。

公共機関のアクセスは少々悪いけど、見ごたえのある展示。気がついたら90分ほど滞在してしまいました。過去を振り返っても致し方がないことですが、復原前の姿も見ておきたかった、、、ということはありますが。

次は、その4へ。荒川対岸の滑走路があった場所へ。

※撮影は2022年3月

場所

https://goo.gl/maps/gWNwrSWX2Uo1m1n4A

参考リンク

https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/soumubu/jichishinko/shisetsu_ichiran/shogai_bunka/otherfacilities/1937.html

https://www.okegawa-hiko.org/

https://www.jiji.com/jc/v4?id=okegaku15030001


関連

その2

その4

「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)」跡地散策・2

桶川にあった陸軍桶川飛行学校の跡地散策。
本記事は、「その2」です。

「その1」から順を追って見ていただければ、幸いです。


桶川飛行学校平和祈念館

桶川飛行学校平和祈念館

さて、敷地内に。

桶川飛行学校平和祈念館 施設案内
開館時間 午前9時~午後4時30分
休館日 月曜日(祝日の場合はその翌日休館)
    毎月月末(日曜の場合は開館)
    年末年始(12月27日~1月5日)
    その他特別整理期間等
入館料 無料


守衛棟

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場と建物
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場は、昭和10年(1935年)に現在の熊谷市に開校した熊谷陸軍飛行学校の分校として昭和12年(1937年)に設置されました。各地から集った生徒はここで寝食をともにしながら、陸軍航空兵になるための飛行機の操縦教育を受け、その後戦地へ向かいました。当時の桶川分教場には、飛行機学・発動機学・気象学など、複数棟の建物がありました。現在、本部棟や食堂棟など約半数の建物は基礎だけ残っている状態ですが、守衛棟・車庫棟・兵舎棟・便所棟・弾薬庫の5棟については建物全体が残されています。

市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 守衛棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 桶川分教場時代の守衛棟には、門衛が待機し、生徒や教官、分教場で働く地元の人々など、入場者の管理をしていました。一時期は、生徒が利用する売店があったとも伝えられています。建物は木造平屋建て切妻造で、壁は木材を横に張る南京下見板張とし、屋根はセメントを固めてつくるスレートという材料で葺かれています。


建物跡(消防ポンプ小屋)

井戸跡。


車庫棟

旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 車庫棟
市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 車庫棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 車庫棟は、桶川分教場で使用されていたトラックなどの軍事車両を格納・整備するための建物です。室内のコンクリートの土間には一段下がった部分があり、これは車両整備のためのピットとして使用されていました。車庫棟は、木造平屋建て切妻造の建物で、壁には主に波板鉄板張としながら、一部がささら子下見板張で、屋根はスレートで葺かれています。当時は陸軍省経理局から「陸軍建築設計要領」が発行されていたため、桶川分教場もこれにならい、やめに不燃材料であるスレートを使用し、屋根の骨格には洋小屋(キングポストトラス)を採用しています。また、この建物は昭和18年(1943年)に増築され、4間半(9m)文、建物が拡大されました。当初部分と増築部分では、異なる工法が用いられています。屋根を構成する洋小屋の合掌の補強を見ると、当初部分は金属製の留め具が用いられていますが、増築部分は木の板に釘留めをすることで代用されています。戦争が長期化したことで、金属資源が不足したことによるものであると考えられます。

ピット(作業用のくぼみ)
ピットをまたぐ形で車両を停め、車体の整備を行っていました。
ピットの寸法
幅 0.93m
奥行4.03m
深さ1.04m

1 建物の概要
桶川市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物
 1.守衛棟
 2.車庫棟
 3.兵舎棟
 4.便所棟
 5.弾薬庫

2 桶川分教場の敷地
 陸軍省は、昭和12年(1937年)に桶川分教場の建設用地を購入しました。昭和14年(1939年)及び昭和18年(1943年)にも、周囲の土地を買い足しています。
 当時の桶川分教場は、現在の桶川飛行学校平和祈念館の敷地より広い敷地を有していました。

3 桶川分教場の建設
 桶川分教場は当時の陸軍の規定に則して、守衛棟・車庫棟・兵舎棟・便所棟は木造で、爆発するおそれがある弾薬庫は、鉄筋コンクリート造で設計されました。
 建物の工事期間は、わずか4ヶ月ほどで、建設を急いでいる様子が当時の新聞でも報道されています。建設を急いだためか、建物の部材各所に残る墨書の筆跡からは、複数の大工集団が建設にあたっていた様子が伺えます。敷地内の植樹は、地元川田谷村青年団の努力奉仕により行われました。
 荒川対岸にあった飛行場では、開校当時、飛行機は天幕によって格納されていましたが、昭和14年(1939年)、格納庫の建設が決まりました。現在は、その基礎のみが残っています。

4 建物の特徴

5 建物の調査

6 文化財建造物の修理


建物跡(学校本部棟)


建物跡(食堂棟)


便所棟

旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 便所棟
市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 便所棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 便所棟は、生徒の便所・洗面場として使用された建物です。生徒は午前5時30分に起床し掃除の後、ここで顔を洗い、葉を磨き、身支度を整えました。便所は汲み取り式で、便房の床下に設置した甕に溜まったものを、取り出し口からひしゃくなどで汲み取っていました。便所棟の建物は、守衛棟・兵舎棟と同様に、木造平屋建て切妻造の建物で、壁は南京下見板張、屋根はスレートで葺かれています。守衛棟・車庫棟・兵舎棟は屋根の骨格が「洋小屋」ですが、便所棟の屋根の骨格は「和小屋」です。当時、陸軍省から発行されていた「陸軍建築設計要領」には、間仕切壁の多い厠(現在の便所)は和小屋にすることが規定されていたので、これに従い和小屋を採用したと考えられます。昭和18年(1943年)には生徒の増員に伴い、便房が2室増築されました。創建当初からある甕は陶器製ですが、増築部分の甕はコンクリート製です。

昭和18年(1943年)増築部の便房(東側の2室)で使用されたコンクリート製の甕

井戸


建物跡(教室棟)


防火水槽跡(円形)


防火水槽跡(八角形)


講堂跡

桶川飛行学校平和祈念館の敷地裏。ここは、桶川飛行学校平和祈念館の敷地外。講堂があったという。ホンダの管理敷地。

次は、その3へ。メインの兵舎棟へ。


関連

その3

その4

「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)」跡地散策・1

桶川にあった陸軍桶川飛行学校は、戦後は市営住宅として活用されていたが、木造建築であったために老朽と廃墟化が進んでいた。その後、私が戦跡に興味を持ったときは、桶川飛行学校跡地は復元整備工事の最中となり、長く立ち入ることができなかった。
そういえばそろそろ落ち着いたかなと、ふと思い出して脚を運んだのが2022年3月のこと。そうして復元が完了した桶川飛行学校の跡地を散策してみる。


熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)

熊谷陸軍飛行学校
昭和9年、所沢陸軍飛行学校が開設。翌年の昭和10年(1935年)12月に、操縦分科の生徒教育のために、熊谷陸軍飛行学校が開設。主として飛行機操縦に従事する航空兵科下士官となる生徒、少年飛行兵、あるいは将校、下士官の操縦学生などに対し、飛行機操縦の基本教育を行った。
昭和12年に所沢陸軍飛行学校が廃止され、操縦学生は本格的に、熊谷陸軍飛行学校で教育されることとなった。
熊谷陸軍飛行学校は昭和20年2月に第52航空師団の一部に改編のため閉鎖。

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場
昭和12年(1935年)6月に、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場として竣工。
昭和20年(1945年)2月、熊谷陸軍飛行学校は廃止され、傘下の桶川分教場(「桶川教育隊」と呼称)も、第52航空師団第6練習飛行隊(秘匿名称「紺第540部隊」)に改編され、特攻攻撃の訓練基地となった。
昭和20年4月5日、桶川で訓練をしていた「第79振武特別攻撃隊」12機が特攻隊として知覧基地へ移動し16日に沖縄に向けて出撃をしている。使用された航空機は、旧式の「九九式高等練習機」。特別攻撃隊第79振武隊は、陸軍で初めての練習機編成による特攻隊とされている。

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡
 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(桶川飛行学校)は、昭和10年に開校した熊谷陸軍飛行学校(現在の航空自衛隊熊谷基地)の分教場として、昭和十二年六月ここに開校しました。
 守衛所(衛兵所)、車庫、本部宿舎、便所、弾薬庫などが現存し、滑走路は荒川の対岸にあり、現在、ホンダ航空が使用しています。川島町側、本田航空社屋脇の堤防から滑走路に向かう広々とした所には、格納庫と現地事務所がありました。教官、学生以外は熊谷本校に雇用された地元の人たち(軍属)で、学校事務のほか、飛行機の整備や通信、気象などの業務にあたりました。
 昭和十八年三月までは、ほかの兵科から飛行兵を希望してきた召集下士官学生を教育し、以後、陸軍少年飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習士官など、昭和二十年二月の閉校までに二十期余り、推定千五百~千六百の飛行兵を教育しました。昭和十八年九月に卒業した陸軍少年飛行兵第十二期生は四十五名中十八名が、昭和十九年三月卒業の特別操縦見習士官第一期生は八十余名中二十名近くが戦死しています。
 昭和二十年二月以降は特攻隊の訓練基地として使用され、同年四月五日、陸軍初の練習機による特攻となる特別攻撃隊第七十九振武隊が出撃基地である鹿児島県知覧飛行場に向け出発しています。隊員十二名は四月十六日に沖縄の海に向け出撃し、十一名がなくなりました。特攻機は隊員たちが高等練習機を近隣の飛行場から集めてきて戦闘機の色に塗装したもので、尾翼に描いた標識(マーク)も隊員たちが考案したものだあると推定されています。特攻機が知覧飛行場に向かう際、下関の小月飛行場まで同乗していった元整備員の体験談も公表され、また、特攻隊出発時の写真や隊員の手記、寄せ書きなども残されています。
 戦後、旧校舎は内部を改造して、住宅困窮者の住居(通称「若宮寮」)として使用され、昭和三十一年には六十四世帯、三百人余りがひとつのコミュニティを形成していました。
 平成十六年、桶川市による戦争体験記募集の事業をきっかけに、この歴史を調査記録するNPOが設立され、多くの関係者の手記や当時のエピソードが収集されています。平成十九年三月に最後の住民が転出した後、桶川市は、同NPOが実施した保存署名に応える形で敷地を国から購入し、現在、保存に向けて事業が進められています。
 平成二十七年五月
 看板寄贈 桶川ロータリークラブ
 文責 NPO法人 旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会

参考
NPO法人旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会

https://www.okegawa-hiko.org/


桶川飛行学校平和祈念館

昭和12年に熊谷陸軍飛行学校桶川分教場、昭和20年に特攻隊訓練基地として使用され終戦。戦後は、GHQにより進駐もあったが、その後は市営住宅(若宮寮)として2007年まで使用されていた。
その後、跡地建屋を解体して国に返還する予定であったが、保存活動もあり、桶川市として保存に方針転換。2018年から2020年にかけて、復元整備工事が行われ、2020年8月に「桶川飛行学校平和祈念館」として開館した。

桶川飛行学校平和祈念館は、当時の熊谷陸軍飛行学校桶川分教場の建物を活用し、平和を発信し、平和を尊重する社会の実現、及び地域の振興に寄与するための施設として、2020年(令和2年)8月4日に開館しました。
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場は、1935年(昭和10年)に現在の熊谷市に開校した熊谷陸軍飛行学校の分校として1937年(昭和12年)に設置されました。各地から集まった生徒はここで寝食をともにしながら、陸軍航空兵になるための飛行機の操縦教育を受け、その後戦地へ向かいました。
戦後、桶川分教場の建物は、引揚げ者のための市営住宅「若宮寮」として使用されました。2016年(平成28年)には、守衛棟、車庫棟、兵舎棟、便所棟、弾薬庫の5棟が市の文化財に指定され、2018年(平成30年)から2020年(令和2年)にかけて、これらの建物について復原整備工事を実施しました。 

桶川市 https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/soumubu/jichishinko/shisetsu_ichiran/shogai_bunka/otherfacilities/1937.html

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R402-14
昭和22年(1947年)10月28日、米軍撮影の航空写真。

荒川を挟んで、東西。ちょっと不便そうな立地。。。


「桶川飛行学校平和祈念館」散策

川越駅と桶川駅を結んでいる東武バスウエストにて、最寄りとなるは柏原バス停で下車。跡地に向かう。バスは少ない。。。

旧陸軍桶川飛行学校跡地

95式1型乙練習機(赤とんぼ)

アプローチ道路。


熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 弾薬庫と周辺施設

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 弾薬庫と周辺施設
市指定文化財 
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 弾薬庫
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 弾薬庫は、桶川分教場の時代から存在する建物の一つで、鉄筋コンクリート造平屋建て、室内の内寸が間口1.82m、奥行き1.47mほどの小さな建物です。室内の床を地面より高くすることで、湿気が上がらないように配慮されています。屋根を木造、壁をコンクリート造とすることで、爆発したときには屋根のみが引き飛ぶ構造とされています。桶川分教場は戦闘用の基地ではなく、あくまで訓練用の施設であったため、大きな弾薬庫が必要なかったものと考えられます。

飛行場(滑走路・格納庫)
 荒川の西側にある河川敷に、かつては滑走路と格納庫を備えた60万㎡ほどの飛行場があり、生徒はそこで通称「赤とんぼ」と呼ばれる九五式1型練習機に乗って操縦訓練を受けていました。当時の飛行場は残っていませんが、現在、同じ場所を本田航空株式会社が滑走路として使用しています。

境界杭
 敷地の周囲には境界を示す杭が残り、「陸軍」と刻まれています。桶川分教場の敷地は複数回にわたって買い増しされています。
  令和2年3月 桶川市

滑走路跡は「その4」で掲載。


陸軍桶川飛行学校の陸軍境界標

アプローチ道路の両脇には「陸軍境界標」が林立している。

1つ目。

2つ目。

境界標「陸軍」

3つ目。

4つ目。

5つ目。

6つ目。

7つ目。

8つ目。

9つ目。

10つ目。
門柱の脇に。

もっとあるかもしれないけど、とりあえず「陸軍境界標石」は10個を確認。

陸軍桶川飛行学校


陸軍桶川飛行学校の弾薬庫

弾薬庫は往時から残る建屋。上部は復元されている。


陸軍桶川飛行学校の防火水槽

弾薬庫の目の前に残る防火水槽。

さて、次は「桶川飛行学校平和祈念館」の敷地内にむかいます。

※撮影は2022年3月

場所

https://goo.gl/maps/gWNwrSWX2Uo1m1n4A

参考リンク

https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/soumubu/jichishinko/shisetsu_ichiran/shogai_bunka/otherfacilities/1937.html

https://www.okegawa-hiko.org/

https://www.jiji.com/jc/v4?id=okegaku15030001


関連

その3

その4

毛呂駅(昭和7年の駅本屋)

JR八高線。
文字通りに八王子と高崎を結んでいる鉄道。現在は八王子ー高麗川の南側は電化区間として電車が走り、高麗川ー高崎の北側は非電化区間として気動車(ディーゼル車)が走っている。非電化の鉄道としては埼玉県唯一。東京都内のJRとしては唯一の地方交通線。

八高線

昭和6年(1931)に、「東京府八王子ヨリ埼玉県飯能ヲ経テ群馬県高崎ニ至ル鉄道」として建設が開始。八高南線として八王子駅ー東飯能駅が開業。八高北線として倉賀野駅ー児玉駅間が開業。
昭和8年に南線は東飯能駅ー越生駅間、北線は児玉駅ー寄居駅間が延伸開業。
昭和9年3月に、南線は越生駅ー小川町駅まで延伸し、昭和9年10月6日に小川町駅ー寄居駅が延伸し、全線開通となる。

毛呂駅

昭和8年(1933)4月15日、八高線が東飯能駅ー越生駅まで開通とともに開業。
現在の駅舎は開業当時の姿を残しつつ、左側は増築なども施されている。

毛呂駅

毛筆を彫り込んだ駅名標。

三角形の屋根が可愛らしい。

座布団にぬくもりを感じる待合室。

入場券を購入しましてホームに。

いきなり、昭和感、全開ですよ。

駅長
STATIONMASTER

停第四号
驛本屋

開業 昭和八年四月十五日

建物財産標

本屋1号
昭和7年 月 日

ホーロー引きの行き先案内。
(琺瑯焼き付き)

ちょうど電車、、、もとい列車(気動車)が入線してきました。

首都圏近郊で貴重な昭和戦前の面影を残す木造駅舎。
機会がありましたら、是非に。


毛呂駅の近くには、武蔵国の古社がある。
界隈では、抜きん出た古社であり、オススメの神社でもあるので、あわせて是非に。

出雲伊波比神社

武蔵国入間郡延喜式内社・埼玉県内最古の神社建築・国重要文化財

http://jinja-kikou.net/tojyo.html#4

御祭神
大名牟遅神(おおなむちのかみ)
天穂日命(あめのほひのみこと)
品陀和気命(ほんだわけのみこと・応神天皇)
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと他16柱

出雲を中心として国土経営・農事・産業・文化を興され、全ての災いを取り除かれたオオナムヂ神、天孫のために出雲の国土を移譲する国譲りに奔走し、オオナムヂ神が杵築宮(出雲大社)に入られたのち、そのみたまをいわい祀る司祭となられたアメノホヒ命(アマテラスの御子)の二柱を主祭神とした神社である。
古くは出雲臣(いずもおみ)が祭祀する社であったという。景行天皇53年(123年)に倭建命(ヤマトタケル命)が東征凱旋の際に、景行天皇から賜った「比々羅木鉾(ひひらぎのほこ)」を神体として侍臣である武日命(タケヒ命=大伴武日)に命じて社殿を創建し、東北に向けて鎮座させたという。今も本殿内で鉾の先を東北にむけているという。
当社は宝亀3年(772)12月の太政官府に朝廷の奉幣が絶えたのを怒り雷神を率いて入間郡の正倉を焼いたとされている神社で、中世に活躍する毛呂氏や越生氏が祭祀した神社だろうとされる。
本殿建築は流造一間社で屋根は桧皮葺形式、大永8年(享禄元年=1528年)9月15日に毛呂三河守藤原朝臣顕重が再建したもので、埼玉県内最古の室町期の神社建築であり、棟札二面とともに国指定重要文化財である。
中世期には茂呂(毛呂)明神、飛来明神、八幡宮とも称されていた。ちなみに八幡宮は源頼義父子が当社を参詣後に凱旋し、八幡宮を相殿にまつったことに始まり、明治期まで二社併立していた。明治4年に八幡宮その他を合祀し明治6年に郷社列格。
当社は、埼玉県内で「流鏑馬」(11月3日)が唯一毎年奉納される神社でもある。

出雲伊波比神社
忠魂碑
招魂碑

忠魂碑は元帥陸軍大将伯爵奥保鞏謹書。

出雲伊波比神社。

※2022年2月撮影


関連(周辺)

世界無名戦士之墓

関連(駅舎)

はじめに

https://senseki-kikou.net/?p=6348

「初雁公園のラジオ塔と国旗掲揚台」(川越)

小江戸川越として著名な観光地。
小江戸といえば近世的な見どころが多数ではあるが、近代目線でも見どころが豊富。実は、川越には、大きな空襲が無かったことも幸いして、近代建築物も多数残されている。
(ゆくゆくは川越の近代建築物の散策記録も掲載していく予定だが、まだ準備中、、、)

※川越市における戦災の状況(総務省)

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_04.html

川越の「初雁公園」は、「現存2つのうち、東日本唯一現存の川越城本丸御殿」や「とおりゃんせにゆかりのある三芳野神社」などがあり、川越観光で足を運ぶ機会も多い場所。
初雁公園にある「川越市営初雁公園野球場」には、戦前のラジオ塔と国旗掲揚台が残されているというので足を運んでみた。


初雁公園のラジオ塔

ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。これらラジオ塔は「公衆用聴取施設」と称され、全国各地で人が集まるところに建設された。

初雁公園のラジオ塔は、建立年月は不詳であるが、後述する国旗掲揚台が昭和13年(皇紀2598年)6月建立であることから同年代と推定。

初雁公園野球場の一塁内野側に。
はたから見ると、野球場内にある不自然な灯籠。それでも違和感を感じさせないのは「小江戸川越」のイメージ感だからか。

前後に開口しているが、左右は壁がある。
通常の灯籠は、四方に開口しているが、ラジオ塔として音の広がりを意識していたのかもしれない。


初雁公園の国旗掲揚台

階段状のモニュメントを持つ国旗掲揚台。
初雁球場の1塁側フェンスに沿った駐車場にある。

建立は昭和13年6月。銘板には「皇紀二千五百九十八年六月」の文字をみることもできる。
高さの異なる5本の杭は、一部が色あせているが左から「青」「黄」「黒」「緑」「赤」となっている。
この5色はオリンピックのシンボルカラー。色の並びも同じく。

幻となった昭和15年(皇紀2600年、1940年)の東京オリンピック(東京五輪)を前に、盛り上がっていた地元有志の寄付でもって、オリンピックの五色を意識した国旗掲揚台が建立されたという。
なお、建立翌月の昭和13年7月に日中戦争(支那事変)の影響などもあり軍部の反対などから日本政府は東京五輪の開催権を返上している。

建立時に多額の寄付をした中心人物が前川道平氏。
川越出身で、のちの伊勢丹社長。昭和8年の第二回東京優駿(日本ダービー)優勝馬カブトヤマの馬主としても有名。

青は色あせており、わかりにくい。。。

本グランド施設ニ際シ前川道平氏ハ特志ヲ以テ金員ヲ寄與セラル
誠ニ時宜ニ適シ工備ヲ促進スルヲ得タリ
茲ニ厚ク其ノ行為ヲ録ス
 皇紀二千五百九十八年六月十日

川越市初雁公園野球場

場所

https://goo.gl/maps/3SLfJV7bwkei4A8b7

川越城本丸御殿

※撮影:2022年4月及び5月


川越関連

ラジオ塔関連

「日本の航空事始め・その2」グラーデ単葉機と日野熊蔵(所沢航空発祥記念館と代々木公園)

以前に、「日本の航空事始め」として、アンリ・ファルマン機と徳川好敏に触れてました。今回は、「日本の航空事始め・その2」として、グラーデ単葉機と日野熊蔵に関して、記載してみたいと思う。


日本の航空事始め・その1
アンリ・ファルマン機と徳川好敏


所沢航空発祥記念館での特別展「二人の空の開拓者 発明家日野熊蔵と航空人徳川好敏」展示は2022年3月31日で終了しました。

1910年(明治43年)12月。
代々木演習場にて、日本初の飛行に向けて準備を行っていた、アンリファルマン機の徳川好敏と、グラーデ単葉機の日野熊蔵。

実は公式記録の5日前。
明治43年12月19日の「初飛行を目的とした記録会」に先立つ、12月14日の滑走試験中、日野熊蔵陸軍大尉のグラーデ単葉機が飛行に成功し(滑走から誤って離陸?)、これが非公式な日本史上の初飛行ともされている。


グラーデ単葉機

グラーデ単葉機
80%スケール模型
所蔵:航空科学博物館

グラーデ単葉機とアンリ・ファルマン機は、今から110年前の1911(明治44)年4月に開設した所沢飛行場にその翼を並べました。
前年には代々木演習場(現在の代々木公園)において、グラーデ単葉機を日野熊蔵大尉が、アンリ・ファルマン機を徳川好敏大尉がそれぞれ操縦し、日本初飛行を記録しています。

グラーデ単葉機は、アンリ・ファルマン機のような補助翼式ではなく、竹製骨組の主翼をねじることで操縦する「たわみ翼式」です。また、アンリ・ファルマン機はグノーム社のエンジンを載せていたのに対し、グラーデ単葉機は自前のグラーデ社製空冷4気筒エンジンを載せていました。

この80%スケール模型は航空科学博物館(千葉県芝山町)が2010年に同館の企画展「日本の初飛行100年展」のために制作したものです。

操縦席は、エンジンの直下の布張りの椅子。
正直言って、怖い。


日野熊蔵

日野 熊蔵(ひの くまぞう)
1878年6月9日-1946年1月15日陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中佐。
発明家でもあり、日本航空界黎明期のパイロットの1人でもある。
1910年(明治43年)4月11日、臨時軍用軽気球研究会から徳川好敏大尉とともに操縦技術習得のためフランスのアンリ・ファルマン飛行学校エタンプ校に派遣され5月末に入学。その後7月25日に単身ドイツに移動しヨハネスタール飛行場で操縦技術を学びグラーデ単葉機を購入。
1910年(明治43年)12月14日、代々木錬兵場(現・代々木公園)において滑走試験中の日野熊蔵は飛行に成功し、これが非公式ながら日本史上の初飛行とされる。
1910年(明治43年)12月19日には「公式記録飛行会」が行われ、日野熊蔵・徳川好敏の両名が初飛行に成功した。これが改めて動力機初飛行として公式記録となる。
飛行順番として(華族であり清水徳川家の名門であった)徳川好敏が最初に飛んだために「アンリ・ファルマン機を駆る徳川大尉が日本初飛行」として記録に残ることとなる。

日本初飛行以降、順調に昇進する徳川好敏に対して、日野熊蔵は陸軍上層部と折り合わずに左遷。1918年(大正7年)に陸軍歩兵中佐を最後に陸軍を去り、民間で発明家となる。
1935年(昭和10年)には萱場製作所が実用化を目指したラムジェットエンジン搭載の無尾翼機、「HK-1(HKは日野のイニシャル)」の開発にも参加している。

1945年(昭和20年)、東京大空襲により日野は自宅と共に多くの発明品の資料の全てを焼失。敗戦後の1946年、栄養失調により死去。
1974年(昭和49年)、東京代々木公園に胸像と「日本初飛行の地」の碑が建立。
日野の胸像は1964年(昭和39年)建立の徳川の胸像と並んで設置され、碑文には日野・徳川の両名が日本初飛行の人物として顕彰されている。

日野熊蔵生誕の地、熊本県人吉市に建つ記念碑。人吉は戦跡的にも見どころ豊富で気になる地。いつか訪れたい。。。

日本初飛行
日野熊蔵生誕之地


日本の空のパイオニア
 日野熊蔵は、明治11年(1878)6月9日この地に生まれ、明治43年(1910)12月、東京代々木におけるわが国初の飛行テストに、ドイツ製ハンスグラーデ機を操縦し、フランス製アンリファルマン機に搭乗した徳川好敏氏とともに、日本最初のパイロットとなった。
 以来終生飛行機の研究と開発を続け、昭和21年(1946)67歳で逝去した。

 日野氏の生誕120年を記念してこの碑を建てる。

 平成10年6月9日 日野熊蔵顕彰会


日野熊蔵之像

以下は、代々木公園にて。

日野熊蔵之像
 美土路昌一書

限りなき大空
限りある人生
限りなき代々の祖国のため
限りある現世の定命をささぐ

翁は熊本の産 豪放磊落英仏独語に通じ 数理に秀で選ばれて 独逸に飛行機操縦を取得し一九一〇年十二月一九日此地に於いて発動機の不調を克服してグラーデ式を駆り一分間一〇〇〇米の飛行をした不屈の精神は次代の青少年の範とすべきである 
 昭和四一年四月二三日
  松野頼三

徳川好敏之像と日野熊蔵之像が代々木公園に並んで建立されている。

日本航空の父
徳川好敏之像
 井上幾太郎書

誠実 謹厳 航空に生涯を捧げた この人が明治四十三年(一九一〇年)十二月一九日 この地代々木の原でアンリ・ファルマン機を操縦しわが国の初飛行を行い飛行時間四分 飛距離三〇〇〇米 飛行高度七〇米の記録を創造して日本の空に人間飛翔の歴史をつくった 
 昭和三九年四月十七日 
  赤城宗徳 
 像作者 鋳金家 市橋敏雄

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

日日本航空発始之地
陸軍大将井上幾太郎書

日本初飛行の地
 1910年(明治43年)12月19日, 当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式複葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
 継いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単葉機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。これが日本航空史上、最初の飛行である。
日本航空発始之地記念碑
 建立 朝日新聞社
 設計 今井兼次
 彫刻 泉二勝麿
徳川好敏之像
 建立 航空同人会
 彫刻 市橋敏雄
日野熊蔵之像
 建立 航空五〇会
 彫刻 小金丸義久
 東京都 昭和49年12月

碑文
紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社

日本初飛行離陸之地

場所

https://goo.gl/maps/ZivgUwnzK7cbKwEq8


新宿にも日野熊蔵ゆかりの地がある。

国産飛行機発祥の地

新宿区指定史蹟
国産飛行機発祥の地
所在地 新宿区西五軒町34番地
指定年月日昭和60年12月6日
  明治42~43年(1909~1910)にかけて 日野熊蔵大尉により 最初の国産飛行機 「日野式一号機」が製作された林田商会 (のち日本醸造機株式会社) 跡地である。
 明治時代末期, 飛行機が欧米各国で長足の進歩を遂げているのを見て 日野大尉はその将来性に着目し, 全くの独力で英・米・独・仏の文献を参考に 飛行機用発動機, および飛行機の設計と製作に着手し, 明治43年2月この地で完成した。
 一層式で翼長8メートル, 全長3メートル, 発動機はニ衝程空冷式8馬力を搭載し, 完成まで3ヵ月の期間と約1900円を費やした。
 大尉はこの飛行機に自ら搭乗して外山ヶ原で試験飛行を実施した。
 平成3年11月  東京都新宿区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/aPi4WVLtspFVXpsK7


黎明期の航空機

所沢航空発祥記念館にて。

アンリ・ファルマン1910年型飛行機(フランス)
日本初の公式記録飛行に成功した飛行機
明治43年12月19日、代々木演習場で行われた日本初の公式飛行に、徳川好敏大尉の操縦によって初飛行に成功した飛行機。同大尉が飛行研究のためにフランスに留学した時に購入した。初飛行の後、所沢飛行場で訓練飛行などに使われていたが大正5年頃に引退後、所沢の航空参考館に展示された。第二次大戦後、一時アメリカにわたっていたが、1960(昭和35)年、日米修好100年、日本の航空50年の折に、日本に返還された。

ハンス・グラーデ1910年型飛行機(ドイツ)
アンリ・ファルマンと共に公式記録飛行に参加
臨時軍用気球研究会の日野熊蔵大尉が、飛行機研究のためドイツに留学した時に購入した飛行機。明治43年12月19日に代々木練兵場で行われた公式飛行では、徳川大尉操縦の「アンリ・ファルマン機」と共に、日野大尉の操縦によって初飛行に成功した。その後、所沢飛行場で操縦訓練に使われたが、翌44年4月9日、訓練中に墜落した。乗員は助かったが機体が壊れ、日本初の飛行機墜落事故になった。

ブレリオXI bis飛行機(フランス・1911)
日本記録を更新した高性能単葉機
明治43年、臨時軍用気球研究会の委員、徳川好敏大尉がフランス留学中に「アンリ・ファルマン機」と共に現地で購入した飛行機。研究機として最初に購入された4機種中では最も高性能で、対空、距離、高度の日本記録を次々に更新した。所沢飛行場では主に偵察訓練に用いられていたが、大正2年3月28日に青山練兵場で行われた公開飛行の帰りに空中分解を起こして墜落、登場していた木村、徳田両中尉は脂肪、日本で初めての航空殉職者となった。

ライト飛行機(ドイツ・1910)
ドイツで作られたライト兄弟設計の飛行機
明治43年、日野熊蔵大尉が、ドイツに留学した時に「ハンス・グラーデ機」と共に購入した飛行機。世界で初めて動力飛行に成功したアメリカのライト兄弟によって設計され、ドイツで滑走するためのゴムタイヤを付けて生産された。明治44年3月に日本に到着し、4月に日野大尉によって所沢飛行場で初飛行が行われた。

会式一号飛行機(日本・1911)
所沢で富んだ日本初の国産軍用機
明治44年、徳川好敏大尉の設計・制作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功した「アンリ・ファルマン機」を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作ることを目的として、所沢飛行場格納庫内で制作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や空中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが生産された。

※撮影:2022年3月


関連

飛行神社・二宮忠八

戸山(戸山ヶ原の射撃場で飛行試験)

代々木(代々木練兵場で初飛行)

稲毛(民間航空発祥の地)

航空神社

日本初の航空犠牲者

さいたま市に残る「奉安殿」流用建造物

大宮浦和のさいたま市に残っている、かつての奉安殿を流用した建造物を求めて散策してみる。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


宮原町二丁目自治会館神輿蔵
宮原尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市北区宮原町。
昭和14年建立。流造一間社。
宮原尋常高等小学校の奉安殿として建立された。
戦後、建築後6年しか経過していないことなどもあり、小学校から撤去するには惜しく、そのまま宮原二丁目の公民館脇に移築し、神輿等祭礼具の収蔵庫として活用することとなった。

屋根には、奉安殿のころから変わらずに、菊花紋章が掲げられたまま残されている。

場所

https://goo.gl/maps/W1Ng1ATYhVDVosZa9

※撮影:2022年2月


日進神社境内門客人神社
日進尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市北区日進町。
昭和8年頃建立の日進尋常高等小学校奉安殿。
日進尋常高等小学校(現・日進小学校)の奉安殿を戦後に移築し、日進神社境内社の門客人神社となった。

日進神社。
創建年代は不詳。大宮氷川神社からの勧進。日進村の村社。

場所

https://goo.gl/maps/4ByoXWN1pPEnBPcf9

※撮影:2022年2月


並木氷川神社本殿
三橋尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市大宮区三橋。
昭和13年頃建立の三橋尋常高等小学校奉安殿。鉄筋コンクリート造。
三橋尋常高等小学校(現・三橋小学校)の奉安殿を戦後に移築し、並木氷川神社本殿となった。

並木氷川神社。
創建年代は不詳。並木村の村社。

神社合祀の記念碑と、日清日露戦役記念碑。

日清日露戦役記念碑の碑銘は、山県有朋。

場所

https://goo.gl/maps/TmxmeiehtyKw3bb77

※撮影:2022年2月


楢姫稲荷神社本殿
大宮南尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市大宮区吉敷町。
昭和7年頃建立の大宮南尋常高等小学校奉安殿(大宮尋常高等小学校南分校奉安殿)。
大宮南尋常高等小学校(現・大宮南小学校)の奉安殿を戦後に移築し、楢姫稲荷神社となった。

場所

https://goo.gl/maps/nZ3rrSCQXNZAgwMP8

※撮影:2021年7月


起志乃天神社
浦和第一尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市浦和区岸町。
昭和7年頃建立の浦和第一尋常高等小学校奉安殿(浦和第一国民学校奉安殿)。
浦和第一国民学校(現・さいたま市立高砂小学校)の奉安殿を昭和二十一年に譲り受けて当社の社殿とした。

起志乃天神由緒
菅原道真卿を祭神とする太宰府の天満宮は文教の祖神として崇敬のまとであるが、天歴元年後村上天皇が京都の北野に天満宮を造営され一条天皇の車駕行以来歴聖の行幸二十数変に及び世人これを北野行幸と呼んだ。
當天満宮は青山家祖先藤原朝臣忠勝が京都より移り住むに當り永仁六年に北野より勧鎮座したものであり、今から約六百八十数年前である。
尓来当地方の天神様として広く敬愛され幾星霜を経た、明治四年名主青山貞勝により石祠殿が建立された昭和六年青山治作他世話人により石祠殿の修理があった。
その後住人の移り変りと支那事変、大東亜戦争と騒乱の時代を迎え文教の守護神である當社は次第に荒廃の度を加えた。
昭和二十一年当町内相川、佐久間、辻村、内田等の諸氏が実行となり高砂小学校にあった旧奉安殿の建造物を当処に移築し石祠は新社殿に内臓した。さらに境内地は浦和市児童遊園地に指定を受け今日に至ったものである。
昭和五十五年社屋の修築と周辺の整備を行うに当たり地域在住諸氏の協賛に感謝しここに由緒を誌す。
   昭和五十五年二月
  起志乃天神奉賛会
    会長 相川曹司
     他 役員一同

場所

https://goo.gl/maps/s6a7HPhFe7t44SBEA

※撮影:2020年9月


関連

所沢駅周辺の戦跡散策

所沢といえば、日本の航空の発祥の地。
日本初の航空機専用飛行場は所沢陸軍飛行場が明治44年(1911)に完成したことにはじまる。
以来、昭和20年(1945)の終戦に至るまで、日本の航空発展の歴史は、所沢とともにあった。

「空都所沢」の歴史は、明治44年(1911年)4月1日、日本初の航空機専用飛行場として「所沢陸軍飛行場」が完成したことに始まる。


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R741-123
昭和22年(1947年)12月29日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。


陸軍東京憲兵隊赤坂憲兵分隊所沢分遺所

所沢駅と所沢陸軍飛行場のを結ぶ道路の途中に。所沢陸軍飛行場の手前に、陸軍東京憲兵隊赤坂憲兵分隊所沢分遺所があった。憲兵隊は明治44年の飛行場開設と同時に配置された。

現在は、「陸軍用地の境界標石」と「門柱」「壁」が残っている。

陸軍用地

この先は、陸軍所沢飛行場。

門柱も残っている。

所沢憲兵隊の名残の壁。

場所
所沢憲兵隊の跡地には、現在は、所沢市消防団第2分団がおかれている。

https://goo.gl/maps/Q4x4crCNr135TzNn7


旭橋と飛行機新道

日本最初の飛行場である所沢飛行場の開設(明治44年)に伴い、所沢駅から飛行場へつながる道「飛行機新道」が整備された際に東川を渡るために架けられた橋。
旭橋は当初は土橋であったが、昭和5年(1930年)に、より強固でかつ空都所沢にふさわしいモダンなデザインの現在の橋に架け替えられた。
平成21年(2009年)8月に国の有形文化財に登録。

国登録有形文化財
旭橋
 旭橋は、わが国初の飛行場となった所沢飛行場が、明治44年(1911)に開設された際につくられた橋です。最初は土橋でしたが、昭和に入り飛行場が拡張されることととなり、橋の架け替えも計画されました。そして約2年の歳月をかけて昭和5年3月に現在の橋が完成しました。
 当時としては、重厚なつくりとモダンなデザインが施されており、「空都所沢の表玄関にふさわしい橋を」との関係者の意気込みが伝わってくるようです。

橋の特徴
 鉄筋コンクリート造りの単純桁橋(1本の桁を両端2点の支点で支える構造)です。
 両端の親柱には赤御影石が使用され、西洋風な彫刻が施されています。上部にはかつてブロンズ製で唐草模様をあしらった六角形の電灯がありましたが、戦時中の金属供出により台座だけが残されています。
 欄干はリズミカルな白タイル貼りの連続アーチで飾られています。西洋建築の様式的モチーフが所々に取り入れられている点が、この橋の魅力となっています。
  平成22年3月
   所沢市教育委員会

国登録有形文化財
「旭橋」の昔の写真を探しています
 旭橋は、日本最初の飛行場である所沢飛行場の開設(明治44年)にともない、所沢駅から飛行場へつながる道(飛行機新道)が整備された際に、東川を渡るために架けられました。
 当初は土橋でしたが、所沢飛行場が拡張されて飛行機新道を通る物資や飛行機を見物する人々が増えたため、昭和5年、より強固でかつ空都所沢にふさわしいモダンなデザインの現在の橋に架け替えられました。
 欄干はリズミカルな白タイル貼りの連続アーチで、両端の親柱には赤御影石を使用し、西洋風の彫刻を施されています。親柱の上部には、かつてブロンズ製で唐草模様をあしらった六角形の電灯が設置されていたと伝わりますが、戦時中の金属供出で失われ、現在は台座だけが残されています。
 文化財保護課では、電燈が失われる前の旭橋の写真を探しています。戦前の旭橋の写真をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひご提供ください。写真はお借りして複写した後、お返しします。
 所沢市教育総務部文化財保護課

昭和5年3月竣工

飛行機新道は所沢飛行場(1911年)の開設に合わせて作られた道。

飛行機新道

場所

https://goo.gl/maps/qLtcV8k8bqFQT6Zw8


将校住宅

所沢駅近くの洋館付き和風住宅。
所沢陸軍飛行場・陸軍航空学校に勤務する佐官クラスの将校が住んでいたという。

表通りは駅前商店街。

この界隈は所沢駅から100メートルも離れていない場所。駅前開発の流れから置き去りにされたかのような不思議な空間。いつまでも残っているとは思えないが、貴重な往時の空間が残されていた。

場所

https://goo.gl/maps/6P518LJ1H1mH9vbW8

日本で初めて飛行した飛行機「アンリ・ファルマン機」に由来。


秋田家住宅

秋田家は屋号を「井筒屋」といい、所沢の織物産業の発展を支えた綿糸商。
秋田家住宅は、明治後期の建造。所沢市寿町の銀座通りに南面して店舗を構える商家の建物。
国登録有形文化財。

大正元年 11 月の陸軍特別大演習の際に、伏見宮貞愛親王が宿泊している。
内部は通常非公開。

場所

https://goo.gl/maps/kAAtf2FUufLs1dMq5


陸軍航空部補給部所沢支部「南倉庫」
(所沢航空参考館)跡地

所沢駅前の再開発エリア西武鉄道車両工場跡地。その前身は、陸軍用地であった。
この地に運ばれた元ドイツ軍青島飛行場格納庫は、「所沢航空参考館」として活用され、戦後は「西武鉄道車両工場」としても活用されてきた。

数年前までは陸軍時代からの遺構があったが、再開発によって、「往時の建物」から「陸軍境界標石」に至るまで、現在はすべて消失し更地となっている。。。

なにもなくなった。。。

場所

https://goo.gl/maps/bz86N56WKE9ogYmb9

※撮影:2022年3月


なお、南倉庫に関しては、「所沢航空発祥記念館」にも展示コーナーがある。

所沢航空発祥記念館の展示コーナー
航空参考館

東洋一の航空博物館だった航空参考館
 大正10(1921)年、陸軍航空部補給部所沢支部の資材倉庫用地が所沢駅西口に整備されました。5.5haの広さのこの用地は当時の陸軍所沢飛行場(現在の所沢航空公園)に対して南に位置していたため通称「南創庫」と呼ばれていました。南創庫は所沢駅に隣接しており、駅からの専用の引き込み線に飛行機や機材を載せて南倉庫に収容していました。
 大正12(1923)年、それまでは木造の倉庫だった南倉庫に、第一次世界大戦でドイツから押収した鉄骨造の二棟の巨大な倉庫(展示模型の中の奥の角にある建物と手前角にある建物)が建設されます。
 昭和10(1935)年、南創庫は陸軍航空技術学校分教場として各種の教育、訓練の場となりました。
 賞あ14(1939)年、南倉庫に陸軍航空士官学校の展示施設として「航空参考館」が設けられます。航空参考館には国内外の多数の航空機をはじめ、部品類や航空関係の遺品などが展示され、終戦まで「東洋一の航空博物館」といわれました。
 戦後は西武鉄道の車輌工場として平成12(2000)年まで鉄道車輌を製造してきましたが、車輌工場の建物は全て撤去され、所沢駅西口土地区画整理事業に基づく街づくりが進められることになりました。

西棟で使用されていたドイツ製の鉄骨(実物)

所沢の戦跡散策をするのであれば、所沢航空発祥記念館も欠かせません。


殉職救護員之碑・日本赤十字社埼玉県支部(浦和)

浦和の調神社の隣の調公園の隣に、日本赤十字社埼玉県支部がある。
その駐車場の片隅に、従軍看護婦を顕彰する慰霊碑がある。

殉職救護員之碑

日本赤十字従軍看護婦(第一種服装)の銅像。見事な造形。

殉職救護員之碑
博愛人道の赤十字の旗のもと、身を捨て、家を忘れて、召に応じ不眠不休、自愛懇切に、ひたすら戦傷病者の救護に奉仕する姿は、崇高の限りである。然も大陸の曠野に太平洋上の孤島に、或いは人跡未踏のジャングルに、その若き一生を捧ぐるに至っては実に一死仁を成すと謂うべきである。
茲に同志相謀り、殉職救護員のため、その徳を頌し又もつて永く吾等の師表として敬仰する姿となす
 昭和31年3月31日
  殉職救護員慰霊碑 建立委員会

「 殉職救護員之碑 」のプレートの左右に、32名の殉職救護員の名が刻まれている。
救護員、救護看護婦副監督、救護看護婦長、そして救護看護婦のお名前。

合掌

裏面。

精密な造形。

日本赤十字社 埼玉県支部

場所

https://goo.gl/maps/ojZMpUyhTotduBzJ9

※撮影2022年2月


関連

「調公園のラジオ塔」浦和の戦跡・近代史跡散策

埼玉県さいたま市。浦和地区にある調公園。武蔵国の古社「調神社」の隣にある公園に、戦前の建造物や慰霊碑などがある。あわせて浦和地区(旧浦和市)の近代建築物など、散策してみる。


調公園のラジオ塔(ラヂオ塔)

ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。これらラジオ塔は「公衆用聴取施設」と称され、全国各地で人が集まるところに建設された。
調公園のラジオ塔は、NHKの寄贈によって昭和15年に建立された。

寄贈
社団法人 日本放送協会
昭和15年3月建之

今は、子供が、なにかしらを投げ込む場所。

かつて、この前に人々が集まり、ラジオ放送に耳を傾けていた時代があった。
きっと、8月15日正午も、そうだっただろう。


調公園

調神社の隣りにある公園。
かつては調神社の境内であったことは予想に固くない。
公園内にいくつかの慰霊碑や記念碑が有るので見てみよう。


慰霊塔(調公園)

日清戦争、日露戦争から大東亜戦争における戦没者の慰霊顕彰の碑。

慰霊塔

英霊奉祭

由来
 この慰霊塔は、祖国の繁栄と世界の恒久平和とを祈念しつつ戦場に或は国土の護りに貴い犠牲となられた明治二十七八年戦役から太平洋戦争までの英霊を奉祀してその功績を永遠に顕彰し慰霊するため市議会及び関係者並びに関係諸団体等が協力して市民の浄財と市費等により建立したものである。
 この男性像は市民が英霊の念願に背かぬよう力強く邁進しようとの決意を表現し、女性像は、英霊の冥福を祈りその霊を慰める心持を表現したるものである。
  昭和三十九年十月
   浦和市慰霊塔建設期成会 会長 相川宗次郎

「英霊奉祭」と記されたレリーフ。


埼玉忠魂社(調公園)

靖国神社から分霊された埼玉県関係の戦歿者を祀る埼玉忠魂社


平和の灯(調公園)

平和の灯
世界の恒久平和は全人類の最大の願いである。
浦和市は、この悲願の達成を記念し、昭和62年6月、平和宣言を行い、全市民が心を合わせて努力することを誓った。
ここに、そのモニュメントとして、平和の灯を建立し、崇高なる目標を照らすとともに、精進し継承する光にしようとするものである。
 平成2年3月吉日
 浦和市長 中川健吉
  題字 佐藤浦州


埼玉縣人殉難之碑(調公園)

西南戦争の殉難者195名を顕彰。
題額は陸軍大将兼右大臣議定官二品大勲位熾仁親王の御揮毫、撰文は県令白根多助、書は正五位日下部東作の筆になる。
明治10年11月4日に、 西南戦争の殉難者を浦和調神社神殿前に祭壇を設け、大宮氷川神社権宮司が祭主となって慰霊祭が行われた、という記録があり、明治13年に慰霊碑として建立。
東京靖国神社に合祀された旨が記載されている。


調神社

武蔵国延喜式内社の古社。旧社格は県社。狛兎で有名。趣旨がことなるのでここでは深入りしない。。。

社殿は安政5年(1858)造営。

旧本殿は、享保18年(1733)造営。


さいたま市立 高砂小学校西門(勇愛門)

創建年代は不詳。門柱の造形に戦前ぽさを感じる。

高砂小学校は、明治4年(1871)創立。

中仙道浦和宿


浦和諸聖徒教会

日本聖公会浦和諸聖徒教会の聖堂は昭和3年竣工という。

撮影は2020年9月、ほか。


「日本の近代化を支えた砂利鉄道」西武安比奈線廃線跡の散策・その2(川越)

埼玉県川越市。
西武川越線「南大塚駅」から「安比奈駅」を結んでいた貨物線。
日本の近代化を支えた砂利鉄道の跡を散策してみる。

本記事は、「その2」です。「その1」は以下から。

「砂利鉄道」と「西武安比奈線」

入間川で採取した砂利運搬を目的とした「砂利線」として、1925年(大正14年)2月15日に開業。
砂利の需要減や採取規制強化により、1963年(昭和38年)休止。2017年(平成29年)に正式に廃線となった。

1900年代初頭に河川敷で採取した砂利を首都圏でのコンクリート建設資材などで活用するために「砂利鉄道」の敷設が相次いだ。東京近郊では入間川や多摩川などで砂利採取が活発であった。
しかし砂利採取は、堤防の破壊、河床面の低下、水質汚染などを巻き起こすこととなった。
戦後、1964年に多摩川、相模川、入間川、荒川などの主要河川での砂利採取は全面禁止され、近代化を支えていた砂利鉄道の役目も終わった。

ちなみに、安比奈は「あひな」と読む。

西武安比奈線では、かつて鉄道聯隊で活躍していた蒸気機関車も戦後、「安比奈のコッペル」として走っていた。


西武安比奈線廃線跡の散策

西武池袋線「南大塚駅」。北東方面にかつての線路跡が伸びている。
沿線に沿って歩いてみようと思う。

続きの場所はここから、

https://goo.gl/maps/koorCr847N5jWNwd6

廃線跡近くの小路から線路が見えた。ちょっと覗いてみる。

あぁ、これは良いですね。

道路と交差。

橋が見えた。

かつて、遊歩道として公開されていたらしいが、いまは再び封鎖。

再度の木枠は遊歩道時代の名残。

そのまま廃線跡を意識しながら、脇のあぜ道をあるく。

廃線跡と交差しながら。

良いカーブ。木の成長が根っこでレールを持ち上げている。

レールが盛り上がってる。。。

場所

https://goo.gl/maps/3AhMxL8JLKDvB5wP7

廃線跡は、川越越生線「八瀬大橋」によって分断。

八瀬大橋をくぐって、反対側に。

入間川の河川敷へ。

バイクの講習コースがとなりに。

場所

https://goo.gl/maps/k89R2Q6CUCm612CEA

切断時に、変な力が加わったのか。すごい曲がり方をしている。

SKマテリアル安比奈工場が、今も砂利を採掘しており、入間川の南北にパイプラインが渡されている。

その下を、安比奈線の廃線跡が伸びる。

伐採されていた。

根っこがすごい。

根っこの力で、レールが浮いている。

しかし、力強い根を這わせていた樹木は伐採されてしまった。

安比奈駅にむかってレールが分岐している。その後、分岐点を遮るかのように、大木が立ちふさがり、そしてその大木は伐採され、分岐するレールと切り株が、無用のものとして残った。
すごい光景。

レールを遮る切り株。正直いってわけがわからない。

この先は、安比奈駅跡。

場所

https://goo.gl/maps/pmYCiSwDfNNfZGPn6

安比奈駅跡。

砂利鉄道として、近代化を象徴するコンクリート建材を運び出していた鉄道は、戦後に需要が低下し、そして、廃線。廃線跡のレールを押しのけるかのように成長した樹木も伐採され、不思議な空間が目の前に広がっていた入間川河川敷の安比奈線。なかなかの見応えでした。

11時に南大塚駅を散策開始し、12時30分に安比奈駅跡に到着。
そこから南大塚駅に戻ってきたのが、13時15分。

約8キロで2時間15分、でした。

※撮影:2022年2月

「日本の近代化を支えた砂利鉄道」西武安比奈線廃線跡の散策・その1(川越)

埼玉県川越市。
西武川越線「南大塚駅」から「安比奈駅」を結んでいた貨物線。
日本の近代化を支えた砂利鉄道の跡を散策してみる。


「砂利鉄道」と「西武安比奈線」

入間川で採取した砂利運搬を目的とした「砂利線」として、1925年(大正14年)2月15日に開業。
砂利の需要減や採取規制強化により、1963年(昭和38年)休止。2017年(平成29年)に正式に廃線となった。

1900年代初頭に河川敷で採取した砂利を首都圏でのコンクリート建設資材などで活用するために「砂利鉄道」の敷設が相次いだ。東京近郊では入間川や多摩川などで砂利採取が活発であった。
しかし砂利採取は、堤防の破壊、河床面の低下、水質汚染などを巻き起こすこととなった。
戦後、1964年に多摩川、相模川、入間川、荒川などの主要河川での砂利採取は全面禁止され、近代化を支えていた砂利鉄道の役目も終わった。

ちなみに、安比奈は「あひな」と読む。

西武安比奈線では、かつて鉄道聯隊で活躍していた蒸気機関車も戦後、「安比奈のコッペル」として走っていた。


西武安比奈線廃線跡の散策

西武池袋線「南大塚駅」。北東方面にかつての線路跡が伸びている。
沿線に沿って歩いてみようと思う。

南大塚駅北口。
11時散策スタート。

コンクリート枕木が山積み。

道路部分に線路が残る。

場所

https://goo.gl/maps/c86ndHKjifRoMcx87

レールが端に寄せられている。

場所

https://goo.gl/maps/mhy88LYFuRsmaSUFA

国道16号と交差。渡りたいけど、渡ってはだめ。迂回する。

横断禁止 わたるな危険!

国道を迂回して北側に。
廃線跡は立ち入り禁止なので、迂回しながら廃線跡を辿る。

ここから北はレールが残っている。

歩行者用の通路。車は入れないように意図的に細くしているのかも。

https://goo.gl/maps/XM2aP6XwttTy6PDBA

柑橘と廃線。絵になる組み合わせ。

焼団子屋さん。入間川街道と交差。

場所

https://goo.gl/maps/gKTQgJ6qBNnPZte87

住宅地が終わり、目の前がひらけた。
この先に新河岸川。

場所

https://goo.gl/maps/V7pMRxUwDh9H5rS2A

用水にかかる小さな鉄橋が見える。

畑のあぜ道から回り込めた。枕木も残っている。

もうひとつ鉄橋がある。

場所

https://goo.gl/maps/XeEf7y8vT1eT3cCW6

新河岸川にかかる鉄橋。こちらも枕木が残っている。

鉄橋。

新河岸川。ここでは小さな小川。下流の岩淵水門で隅田川と合流している。

田んぼのなかを伸びる廃線跡。

場所

https://goo.gl/maps/DyxkXffgo7U84ehm8

場所

https://goo.gl/maps/EysDKQ6c35nWy7Dp8

この先の森がトンネルのようになっている。

場所

https://goo.gl/maps/3d8WY4muT2Vy5RwY7

場所

https://goo.gl/maps/TRnsH9g5MTNaAWtr9

森の中へ。

この先は、「その2」で。

「45cm四四式二号魚雷」東雲寺に残る国産第1号魚雷(深谷)

埼玉県深谷市北部。利根川を渡る新上武大橋の近くにある寺院「東雲寺」に魚雷があるというので足を運んでみた。

実は、以前に訪問をしていた、神奈川県小田原市の神社「神山神社」で魚雷を拝見し、その際に色々と調べていたら深谷市にもあることを知り、これは行かねばと思った次第でした。

深谷駅近くで、レンタサイクルを利用し、利根川近くまで北上。
この界隈は、渋沢栄一関連の史跡も豊富。そして利根川を渡れば中島知久平の史跡もある。
自転車を借りて、かなり濃厚な散策ができる地域でもあり。


45cm四四式二号魚雷
44式2号魚雷(明治44年製)

日清・日露戦争時の帝国海軍は輸入魚雷に頼っていた。
日露戦争後、明治44年(1911)に国産化にはじめて成功した魚雷が「45cm四四式魚雷」。
直径450ミリ、全長5,510ミリ

この四四式魚雷が帝国海軍の魚雷技術発展の礎となり、世界で唯一実用化に成功した酸素魚雷を生み出すこととなる。

小田原の神山神社で拝見したのと、ほぼほぼ同じな魚雷。この深谷市の東雲寺に残る魚雷のほうが、多少ではあるが状態がよさそう。弾頭の部分のみが、ちょと違うようだ。

魚雷
 これは、44式2号魚雷(明治44年製)と云い、第1次世界大戦で使用されたと言われる。構造は下図のとおりで、軍艦に魚雷発射管があり、空気圧力200kgで海中に発射すると、自動的にエンジンがかかり、敵艦船に向かって時速50km~60kmで進行する。重量1,000kg位で、敵艦船に命中すると爆薬が炸裂する兵器である。呉海軍工廠で製造国産第1号と思われ「下瀬」の刻印があり国内唯一のものである。

 昭和8年新会出身の海軍軍人の好意で新会村青年団に寄贈され新会国民学校校庭の忠魂碑前に青年団が奉納した。
 昭和25年現在地に移設した。

  平成11年10月調
  21世禅峰宗雄代

 調査協力者
  内田 伝太郎(本郷)
  川崎 春美(全国回天会)
  村岡 武(新戒)

頭部に刻印が残っているのが特徴。

下瀬 
449

「下瀬」とは、下瀬火薬のことだろうか。
日本海軍が日露戦争で勝利をおさめた要因の一つに、下瀬火薬(下瀬爆薬)」があった。

海軍下瀬火薬製造所跡地散策(北区西ヶ原)

頭部の先端、信管があった部分にも、なにやら刻印がある。

45×5/100×150
呉167

「呉」と明確に刻まれている。呉海軍工廠で製造された証。

100の左下に「桜印」もある

スクリューもきれいに残っている。

かなり貴重な一品。よくぞ残していただいたものです。
これからも伝承が続いてくれれば、です。


英霊塔

魚雷と並んで英霊塔がある。
日露戦争で鹵獲されたカノン砲が払い下げられたもの。
帝国在郷軍人会新会村分会から大正9年に陸軍に「十六珊克虜伯砲砲身」が下附願いが出され、翌年東京陸軍兵器支廠が忠魂碑用に払い下げとなっている。

忠霊塔

右柱 西比利亜(シベリア)
左柱 凱旋記念

大正7年(1918)から大正11年(1922)にかけて出兵された「シベリア出兵」に関係する記念碑。

大正10年1月建設

大正十年一月

征清従軍記念碑

征清従軍記念碑

元帥公爵大山巌書

征露記念碑

征露記念碑

元帥公爵大山巌書


東雲寺

的龍山東雲禅寺

東雲寺は、鎌倉期の開基とされる古寺。
東雲寺は男寺とされ、隣の大林寺が女寺とされている。

場所

https://goo.gl/maps/LjgLjfbTkU5UzjqZ8


関連

深谷といえば、渋沢栄一

深谷には軍需工場もあった
利根川を挟んだ対岸の群馬県太田市は、中島知久平

大應寺のコンクリート代用梵鐘(富士見市)

金属類回収令

昭和18年8月12日勅令第667号
戦局の激化による金属資源不足を補うために、官民所有の金属類回収を行なった勅令。
各地の寺院にあった鐘楼の梵鐘も金属供出の対象となった。

寺院の鐘楼は、梵鐘の重みで建屋のバランスを保つ構造でもあったため、梵鐘を外したままでは鐘楼崩壊の危険性があったため、コンクリートや自然石など何らかの重みを確保できる代替梵鐘が釣り下げられた。

もちろん、コンクリートの梵鐘は叩いても音を出すことはない。

大應寺(大応寺)

水光山不動院大應寺。真言宗智山派。
創建は不詳であるが室町時代には開山している。

鐘楼門は享保4 年(1719)造立。朱色の回廊の見える上層部が鐘撞堂に
なっている鐘楼門。
この鐘楼門に吊り下がる梵鐘が、戦時中に金属供出された際は、コンクリート代替梵鐘が備え付けられていたと思われる。
現在、役目を終えたコンクリート代替梵鐘は、本堂右手に静かにその姿を鎮座させていた。

吊り下げ部から、若干の崩壊が始まっていた。

「鐘楼門」 に吊り下がる、梵鐘。

参道から「鐘楼門」を望む。

「本堂」は平成21年に建て替え。


大應寺の隣には「水宮神社」。
狛蛙で有名。志木市の敷島神社の本務社、でもある。

そして、大應寺の向かいには 「水子貝塚公園」もある。

場所

https://goo.gl/maps/ZFBpk4wfg34a6ahJ6

※撮影は2021年9月


関連

東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場・精工舎南桜井工場の跡地散策(春日部)

埼玉県春日部市。東武野田線「南桜井駅」の北側は、かつて軍需工場であった。
しかし、2021年の夏に、軍需工場時代を物語る門柱が撤去され、往時を偲ぶものは皆無となった。。。

上記の場所に、かつて門柱があった。取り壊し済み。
以下は、Googleストリートビューにて。奥に見える門が、軍需工場時代からの正門であった。


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)


東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場
精工舎南桜井工場(服部時計店南桜井工場)

戦時下体制により半官半民であった「精工舎」は、昭和18年夏頃に東京第一陸軍造兵廠から陸軍関係時計信管部門を南桜井村に疎開するよう伝達を受け、昭和19年3月より錦糸町の工場からの疎開を開始。
精工舎南桜井工場(服部時計店南桜井工場)として、昭和19年10月より操業を開始。精工舎南桜井工場では、服部時計店が培ってきた時計生産技術を生かし、高射砲弾丸の頭につけ爆発を誘発する45秒時計信管、55秒時計信管とよばれた時限信管を製造していた。

昭和20年3月から4月にかけて、東京都北区十条の東京第一陸軍造兵廠第三製造所の空襲によって、工場の一部疎開を決定。第三製造所の一部が、先行して南桜井の地で操業していた半官半民の「精工舎南桜井工場」の未使用であった北部の敷地と建物を借用し疎開することとなった。
東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場は、13万4,646平方メートル(約4万800坪)、工場建屋面積は5,000平方メートル、機械509台、従業員数1,291人、であった。

昭和20年5月から7月にかけて、十条の第三製造所から、大小様々な機械を運び工場を移転。昭和20年7月1日より、高射砲用信管部品・組立、一般信管部品・組立、航空信管部品製造、風船爆弾用信管などの製造を開始。しかし操業1ヶ月半後の8月15日に終戦となり工場は閉鎖。短命と終わった。

南側の半官半民の軍需工場であった「服部時計店・精工舎南桜井工場」では、時限式信管を製造し、そして北側の東京第一陸軍造兵廠の「第三製造所江戸川工場」では、瞬発信管を製造。
南北に隣接する両工場を合わせると、敷地面積は51万677平方メートル(約15万5,000坪)であった。

「精工舎南桜井工場」 「 第三製造所江戸川工場」跡地に、キリスト教社会運動家の賀川豊彦の構想のもと工場施設設備が転用され、昭和21年3月28日に「農村時計製作所」が設立。しかし、農村時計は昭和25年10月に事業を停止。
昭和25年11月3日、 農村時計の末期に好評だった「リズム時計」を由来とする新会社「リズム時計工業株式会社」が発足。「リズム時計南桜井工場」は平成9年(1997)年9月に東京都墨田区に移転。
現在は再開発中。なお、この地には朝倉病院事件を起こした精神病院もあった。


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M452-16
昭和22年(1947年)9月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

上記を拡大。

Google航空写真


東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場・精工舎南桜井工場の跡地

足を運ぶのが、一歩遅かったです。

帝都を歩く」様の2021年5月記事では、残存していた「門柱」は、2021年7月訪問の段階で跡形もなく。

残念・・・

この更地は、かつてここにあった精神病院(朝倉病院)の跡地でもあり、そして時計工場(リズム時計)の跡地でもあり、軍需工場(精工舎)の跡地でもあった。

いまは、かつての歴史をすべて上書きすべく大規模再開発のために造成中。

貯水池、があった。
かつての軍需工場時代では、この近くに給水塔があった。

住宅地。軍需工場の北西端にあたる。

軍需工場の北辺を歩く。
写真の右手が工場エリア。写真の左手が病院・男子寮エリア。

この先は、男子寮エリア。工場エリアとの境目も、いまは普通の住宅地。

この場所が、工場エリアの北端。
春日部市立桜川小学校の北端でもある。

安永6年(1777)建立の五穀成就の仏様。この場所で軍需工場時代も見つめていたことになる。

古そうな建物もあったが、往時のものかは不詳。

春日部市立桜川小学校に何かあった。トンネル?
信管工場ということもあるので、往時の防爆壁等であるば興味深いが不詳。

裏側。

なにかの基礎もあった。

春日部市立桜川小学校は、東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場の圧延工場や組立工場などがあったエリア。

そのまま南下。軍需工場の南東端。


南桜井駅

東武野田線(東武アーバンパークライン)。

1930年(昭和5年)12月9日、永沼臨時停留所として開業。
1931年(昭和6年)7月3日、永沼停留所、常設の停留所化。
1932年(昭和7年)8月、永沼停留所を柏寄りに約400m移転し「南桜井駅」に改称。

1943年(昭和18年)11月6日、精工舎南桜井工場の資材・製品輸送のために、現在の南桜井駅の位置に貨物専用の米島仮停車場(米島駅)を開業。

1945年(昭和20年)9月30日、米島駅休止。
1956年(昭和31年)12月23日、南桜井駅と米島駅を統合、南桜井駅を米島駅の位置に移転し「南桜井駅」として再開業。

かつての軍需工場・時計工場の跡地は、面影を残すことなく商業地区として生まれ変わっていた。

※2021年7月撮影


関連

旧上武大橋橋桁に残る機銃掃射弾痕

上州・群馬県伊勢崎市と武州・埼玉県深谷市とを結ぶ「上武大橋」。
旧上武大橋は昭和6年起工し、昭和9年10月に竣工した。

昭和20年7月、群馬方面の空襲の帰路に、米軍戦闘機の飛行経路上にあった上武大橋は、機銃掃射の標的となり、トラス桁には複数の弾痕が残された。
平成30年3月、新上武大橋が完成し、旧上武大橋の一部がモニュメントとして残された。

米軍戦闘機による機銃掃射の弾痕は、貫通していた。

新「上武大橋」。橋の向こうは群馬県。


場所

モニュメントは、深谷側の歩道に設置されている。

https://goo.gl/maps/r7LEDPjoPcRzKw6k8


関連

東京第二陸軍造兵廠深谷製造所深谷工場跡地散策

埼玉県深谷市。
かつてここには兵器工場「陸軍造兵廠」があった。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所として深谷市内に「原郷工場(深谷工場)」「明戸工場」「櫛挽工場」の3工場が展開。
今回はそのうちの南西側にあった「原郷工場(深谷工場)」の戦跡を散策してみる。


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所

昭和15年(1940)の組織改編によって、陸軍兵器廠の板橋火薬工場が「東京第二陸軍造兵廠」となり、隣の十条兵器工場が「東京第一陸軍造兵廠」となった。

埼玉県内には「大宮」「川越」「春日部」に東京第一陸軍造兵廠が置かれていた。
そして「深谷」には東京第二陸軍造兵廠が置かれた。これは板橋の疎開先としての設置であった。深谷には「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」があり、利根川の対岸の高崎には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」があったことから工場疎開先として都合が良かったとされる。
昭和18年11月より移転のための用地買収が開始。
もともとの「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」を「明戸工場」とし、日本煉瓦製造専用線沿線の幡羅地区に「深谷工場」(原郷工場)を建設。深谷駅南の櫛挽地区に「櫛挽工場」を建設。
用地買収の1年後となる昭和19年10月に「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所」が設立され、本部は現在の「深谷第一高等学校」の地に置かれた。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦。

「櫛挽工場」は以下で。

「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」「明戸工場」は以下で。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-B-80
1947年11月04日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

GoogleMapにて補完。

今回の散策は深谷の中心部に位置する「深谷工場」跡地を散策してみる。


二造深谷製造所深谷工場跡地散策

当時の給水塔が住居として再利用されている。
現在は個人所有のため、立ち入りは不可。

ティーサロン詩季

喫茶店が営業している。

登録有形文化財

給水塔は文化財指定。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/116147

旧東京第二陸軍造兵廠深谷製造所給水塔
 この建物は第二次世界大戦(太平洋戦争)末期、1943年~1944年にかけて旧陸軍造兵廠が周辺の軍火薬工場に給水する為に建設したものです。1955年より個人所有となり現在は住居として利用しています。2002年10月18日登録有形文化財に指定されました。

構造   鉄筋コンクリート造5階建
     (最上部5階部分が水のタンクになっていた)
高さ   18m
延床面積 205.5平方メートル

住居としての記事が、以下のサイトに詳しい。
給水塔の家 → http://www.karasaki.org/top/top.html 

この建物は住居です。
敷地内に不法侵入した場合は警察に通報します。

1階と2階部分の天井が高く、3階4階までが住居。5階部分がかつての貯水槽。

4階からは外階段で屋上にアクセスする構造。

場所

埼玉県深谷市原郷1118

https://goo.gl/maps/5TtfpvV4Saem1wGp7


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所本部跡

現在の埼玉県立深谷第一高等学校に、東京第二陸軍造兵廠深谷製造所の「本部」が設けられていた、という。
(当時は、埼玉県深谷高等女学校)

埼玉県立深谷商業高等学校記念館

近くには、埼玉県立深谷商業高等学校もある。
国の登録有形文化財「埼玉県立深谷商業高等学校記念館」は1922年(大正11年)4月竣工。

中山道深谷宿

深谷宿は中山道で最大規模の宿場。
深谷市内には随所に、往時の賑わいを感じさせる佇まいが残っている。

「中山道深谷宿本舗」でレンタサイクルを借りました。
渋沢栄一関連なども交えて観光するには広域移動が必要なので、自電車必須です。

https://fukaya-tmo.com/project/

煉瓦の街、深谷って感じです。


造兵廠関係

東京第二陸軍造兵廠

https://senseki-kikou.net/?p=11875

埼玉県内にあった陸軍造兵廠のひとつ


深谷関係