「埼玉県」カテゴリーアーカイブ

入間基地ランウェイウォーク2024

令和6年(2024)6月1日(土)。
航空自衛隊入間基地で開催された入間基地ランウェイウォーク2024。今年は、「航空自衛隊70周年記念」として制限なしの一般開放が実施されましたので、足を運んでみました。

YS-11やC-1など、いつ見納めになってもおかしくない機体が見れたのがなによりの収穫。


YS-11EB電子測定機

日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式飛行機。第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機でもある。
YS11(02-1159号機)は、1970年初飛行。
1996年にYS-11EBとして「スーパーYS」化改造した電子測定機(電子情報収集機)。

レアなツーショット!
YS-11EB電子測定機のうしろには、EC-1電子戦訓練機


YS-11EA電子戦訓練機

YS-11EA 12-1162号機と12-1163号機。
YS-11Eを「スーパーYS」化改造した電子戦訓練機。
航空自衛隊のYS-11としては、一番最後に導入された世代(1971年初飛行)
2機ともにプロペラが外されて保管されている状態。
すでに、事実上用廃ではあるが、2024年度内に、書類上でも正式に用途廃止(用廃)予定という。


EC-1電子戦訓練機

C-1輸送機を改造した機体。一機のみ。
78-1021号機
通称「カモノハシ」
2024年度内の用途廃止(用廃)予定という。


C-1輸送機

18-1031号機、28-1002号機が駐機。
23年末現在で現存6機のみという。
用途廃止(用廃)が迫っている。。。

18-1031号機。最終生産の機体。


C-2輸送機

C-1輸送機の後継。3機が駐機展示されていました。


T-4練習機


CH-47J輸送ヘリコプター


入間基地ランウェイウォーク

滑走路の北から南に、歩こう!!というのが本来のメインイベント。

最北端からスタート。

ざっくり2キロのウォーキング。
なお、滑走路を2キロ歩いて、誘導路を2キロ歩くので、実質4キロのウォーキング。

広い!

すごく気持ちよく歩けました。

滑走路を歩くだけだけど、滑走路は普段は絶対に歩けないので、楽しいw

西武線。
車窓から見ていた滑走路を、逆から見るのが新鮮。

最南端。

誘導路。

コンクリートが白くて綺麗。


入間ターミナル

入間飛行場の入間ターミナル。
基地間を飛ぶ定期便(航空自衛隊各分屯基地間の物資及び、人員の輸送任務)がある。


第3補給処

航空自衛隊第3補給処
「前進」

前進
第3補給処創立15周年ニ当タリ処全隊員ガ先輩の築カレタ輝カシイ伝統ヲ受ケ継ギ更二発展向上ノ努力ヲ重ネル決意ヲ前進ノ二字二表ワシコレヲ建立スル
昭和52年10月1日

北門から入場しました。

10時開門で、10時30分くらいについたら、行列もなく、そして手荷物検査もなく、非常にのんびりと、貴重な航空機の見学などができたのが、なによりのイベント。これは楽しいですね。

※撮影:2024年月

日本鉄道大宮工場「門柱」と「赤煉瓦倉庫」(さいたま市)

「鉄道のまち・大宮」
JR東日本が、公式にサイトを用意しているぐらいに、「鉄道のまち」である。

https://www.jreast.co.jp/omiya/tetsumachi_omiya/

現在も、「鉄道博物館」や「大宮総合車両センター」などを要し、またJR東日本の新幹線の一大ジャンクションでもある。

そんな大宮で、「鉄道のまち」の歴史を散策してみる。


日本鉄道大宮工場

現在の「JR東日本・大宮総合車両センター」は、かつて「日本鉄道大宮工場」であった。
自社工場を保有していなかった「日本鉄道(日本鉄道株式会社)=国鉄の前身」が、上野‐青森間を全通させたことを機に明治27年(1994)に、大宮に工場を設立したことにはじまる。


日本鉄道大宮工場の門柱

「JR東日本・大宮総合車両センター」の敷地内に開設されたフィットネスクラブ(JEXER大宮)の脇に、かつての「日本鉄道大宮工場」時代の門柱が残っている。

現在は、門として機能はしておらず、ブロック塀で埋められており、境界壁としての役目のみとなっている。


日本鉄道大宮工場の赤煉瓦倉庫(旧大宮車両センター倉庫8号)

竣工は明治30年(1897)。往時は、米の貯蔵として使用されていたという。

さいたま市観光国際協会>

https://www.stib.jp/saitama-aruki/area-omiya.php

フィットネスクラブの入り口は2階にあり、すぐ近くで赤レンガ倉庫の2階部分をみることもできる。


RAILWAY GARDEN PROMENADE
(レールウェイガーデンプロムナード)

大宮総合車両センター本所内の施設を見学できる。

休みの日なので、なにもないですね。。。

D51 187号

大宮工場で新製されたD51形の第1号機。

準鉄道記念物
D51187号蒸気機関車
D51形式蒸気機関車は、1936年(昭和11年)に誕生した優秀な大形貨物列車で、1945年(昭和20年)までに民間工場をはじめ、国鉄の8工場でも製造され、合計1,115両製造された。
大宮工場においては、1938年(昭和13年)4月から1942年(昭和17年)3月までに、当時の社会的な要請に応じて31両製造したが、展示されている187号機は、それらのうち第1両目の由緒ある機関車で、1938年(昭和13年)4月12日に着工し、同年8月8日に完成した。
当時の工場職員が寝食を忘れ、心血を注いで製造にあたり、その構成部品の全てを工場独自の力で製作したもので、歴史的にも技術の大宮工場の真価を現したものであり、記念物として先輩の偉業を讃えるとともに、当時の職員の21世紀の国鉄に向かっての自覚を具現する象徴として、保存することになり1971年(昭和46年)10月14日に準鉄道記念物に指定された。

D51187
形式D51

1号
大宮工場
昭和13年製造

※撮影:2023年5月及び2024年2月


関連

「日本の航空事始め・4」徳川好敏が初飛行祈願をした「所澤神明社」(鳥船神社/所沢航空神社)

「日本の航空事始め」としては、第4弾になります。
このシリーズは、実は自分でも良くまとめてあるかと思っていますが、今回は「その1」の追記みたいなものです。

2021年6月に本殿の東側から西側に遷座し、新たな装いになっておりましたので、再訪した次第。


鳥船神社(所澤航空神社)

初飛行の快挙から百年を迎えたのを記念して、2011(平成23)年10月に創建。

2021年6月に覆社内を設けた新境内地に遷座した「鳥船神社」。
所沢神明社内の摂末社がすべて境内の西側に集まったかたちとなっている。

https://www.shinmeisha.or.jp/info/%e9%b3%a5%e8%88%b9%e7%a5%9e%e7%a4%be%e5%be%a1%e9%81%b7%e5%ba%a7%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/

御由緒

鳥船神社(別称:所澤航空神社)
御祭神 鳥之石楠船神(天鳥船神)
例祭 4月5日(日本初動力飛行の日)
 御祭神の鳥之石楠船神は、伊邪那岐神・伊邪那美神の御子神で、別名を天鳥船神と申し上げます。高天原と豊葦原中国(日本)との間を鳥のように通う丈夫な船に坐し、大国主神の国譲りに際して建御雷神に副えて遣わされ、また、天孫降臨に先立つ邇芸早日命の天降りの際にも御乗船になったと伝えられています。このような御事蹟により、近代以降は航空の神とすても崇敬されています。
当社は、この所沢の地に我が国初の飛行場が造られ、徳川好敏大尉による初飛行という快挙が成し遂げられた明治44年から100年を迎えたのを記念して、平成23年10月に創建されました。
 我が国航空発祥のちに鎮り坐す、航空安全・交通安全の神社、八百萬の神々が鳥船に乗って降臨される神社、人々の願いを鳥船に乗せて高天原にお伝え下さる神社です。
(願を込めた「折鶴」や「紙飛行機」をお供えください。)

https://www.shinmeisha.or.jp/shinmeisha/hikouki.html

鳥船神社
別称 所澤航空神社
奉納
元所沢飛行学校教官
 陸軍航空中佐 衣川悦司
  長男 倉片幹人

社号標のうしろに隠されている標柱。。。

陸軍用地

文字面は社号標と背中合わせ。鳥船神社社殿に向いている。
これは、意識しないと全く気が付かない。

サルムソン2(仏名)で使用していたプロペラ(②で実用)
日本名
①陸軍サ式2型偵察機(大正8年)
②陸軍乙式1型偵察機(大正10年)

磐飛行機

願を込めて奉納された折鶴や紙飛行機

鳥船神社と招魂社と、摂末社が並んで鎮座。近年とりおこなわれた境内再整備、ですね。


招魂社

いわゆる指定外護國神社。所沢出身の戦争犠牲者を祀っている。

旧社地から遷座。
社号標と鳥居と基礎がまだ残っている。


所澤駐蹕碑(大正天皇行幸記念碑)

大正元年(1912年)の陸軍特別大演習。
所沢・川越付近でおこなわれた陸軍の特別大演習では、北軍と南軍に分かれ、あわせて約10万人という大規模で実施され、 大正天皇が行幸され駐蹕された。
所沢飛行場は前年の明治44年(1911年)4月に開設し、同年4月5日に、徳川好敏大尉が操縦する「アンリ・ファルマン機」が所沢飛行場で初飛行している。

所澤駐蹕碑
麝香間祇候 正二位勲一等 公爵 徳川家達 篆額
近時飛行機盛行于各國我邦亦設習技場於武州所澤會
今上天皇ト大正元年十一月統監陸軍大演習于近郊置 行在所於川越各地巡監之次以十七日 臨幸所澤習技場此地當南北軍對抗之衝飛行機翔干両軍之上能偵察之頗稱 二日十九日再 臨幸場内大賜酺於文部官僚又州内士民盖
天皇践祚後盛典也郷民以為栄欲建碑 駐蹕之處以表之来嘱銘鳴呼
天皇以武備之不可一日忽之忍 諒闇之憂躬統監之労不負
先皇在天之霊欣慰可知也海内臣民聞之皆欽仰敬崇況新拝観者乎謹繋銘日治兵之野飛行場 大纛臨矣 皇武維揚萬姓欽仰執不期待紹述先緒雄飛四海
 大正二年十一月
  宮内儒員 従三位勲二等 文学博士 三島毅 拝撰
  錦鶏間祗候 従二位勲一等 男爵 野邨素介 謹書


所澤神明社

御祭神
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
倉稲魂大神(うかのみたまのみこと)
大物主大神(おおものぬしのおおかみ)

日本武尊が東国平定の折にこの付近で休憩をした際に、天照大御神に祈りを捧げたという伝説にちなむ。
明治44年(1911年)4月に日本最初の飛行場として開設された所沢飛行場において、その初飛行のパイロットとなった徳川好敏が前日に関係者数名とともに正式参詣したことから、今日では特に飛行機と空の安全に関する祈願として崇敬をあつめている。

青島(山東省)・西伯利亜(シベリア)の出征記念の外垣

御朱印など。

https://www.shinmeisha.or.jp/omamori/

鳥船神社の御朱印は3ヶ月毎にデザインがかわっている。

所澤神明社サイトより

御朱印帳は、アンリ・ファルマン機をいデザイン

所澤神明社サイトより

こちらは明治天皇の行在所。駅までの道で目に止まったので。

明治天皇行在所跡

明治16年4月の近衛諸隊春季小演習での行在所が設けられた斎藤家。

※撮影:2024年2月


所沢関連

軍艦「三笠」のスクリューの一片と補助舵輪(川口市)

埼玉県川口市に、なぜか「戦艦三笠」に関係するものが残っているというので、足を運んでみた。

そこには、遠目でもわかる状態で、三笠のスクリューが住宅地に忽然と陳列してあった。


三笠

日露戦争の日本海海戦での第日本帝国海軍の連合艦隊旗艦を務めた。
世界三大記念艦のひとつ。

三笠は、敷島型戦艦の4番艦。イギリスのヴィッカース社で建造され1902年(明治35年)竣工。

昭和20年の終戦後、三笠はソ連の圧力で解体処分されそうになるが、米軍の調整により解体は免れるも、戦後の荒廃で金属やチーク材などは盗まれ、そして米軍によってダンスホールや水族館などの娯楽施設が艦上に開設された。


軍艦「三笠」のスクリューの一片と補助舵輪

軍艦「三笠」のスクリューの一片と補助舵輪
 明治38年5月27日は日本連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に大勝した日である。其の時の旗艦「三笠」の栄誉をたたえ横須賀に記念艦とし此のスクリューの一片と補助舵輪は共に保存されてありました。
 昭和20年8月15日終戦後進駐軍より三笠艦を解体せよとの命令に従い惜しくも東郷元帥が指揮をした司令塔Z旗を掲揚したマスト等の解体作業が進められた其の折此の三笠艦のスクリューの一片と補助舵輪は私石井が幸いにして入手した次第であります。
 此のスクリューはイギリスのストーンブロンズ社が鋳造したもので奇しくも石井を英訳するとストーンであり而も同じ特殊ブロンズの鋳造会社であるが故に栄光に奇縁を添えた三笠艦のスクリューの一片と補助舵輪は石井家の宝として保存するものであり恂寿
 昭和59年10月吉日
  ストーンブロンズ株式会社
  石井次郎 記述 書

STONE’S BRONZE
LONDON 1899

なお、「三笠」は、保存のため陸地と固定されているため、スクリュー含め艦底部分は埋められている。

補助舵輪

ちなみに下記は、今の三笠についている艦橋の舵輪。(意識せずに撮影してました)
かなり大きさが違う。
補助舵輪は、どこに設置されていたのだろうか。
この大きさを設置しようとすれば、艦内では、それなりのスペースを必要とする。

まちかどスポット賞 川口市 1988

大砲のような鋳造品。

場所

https://maps.app.goo.gl/TiYs772Fy3HHTb89A

撮影:2024年2月


三笠関連

川口関連

意外と川口には、いくつか戦跡関連の話題が集まっている。

大宮駐屯地創立66周年記念行事(大宮駐屯地一般公開)

埼玉県の大宮駐屯地。埼玉県さいたま市北区日進町。
かつては、陸軍の光学レンズ工場などがあった場所。現在は「陸上自衛隊化学学校」や「第32普通科連隊」などが展開している。

一般公開があったので、足を運んでみました。


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。


東京第一陸軍造兵廠 大宮製造所

昭和8年(1933年)、東京・小石川にあった東京第一陸軍造兵廠(東一造)の製造部門が十条に移転。
陸軍は昭和14年(1939年)、この陸軍造兵廠を拡張するため光学レンズの製造、組立などを行う光学工場を「大宮」に移転することを決定。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)

東京第一陸軍造兵廠 大宮製造所
昭和16年(1941年)4月、一部の施設が完成。操業開始。
昭和18年(1943年)4月、陸軍東京造兵廠大宮製造所が完成。本格的な稼働を開始。
大宮製造所工場は光学レンズの製造、組立を行う第一工場、機械、レンズの製造、組立を行う第二工場、算定具、測遠器を製造する第三工場、生産に必要な工具を製造する第四工場と次々に建設
された。出来上がった光学レンズの用途については、主に機関銃や狙撃銃用の光学照準器などに組み込まれた。

戦後は米軍キャンプが置かれてたが、昭和32年(1957年)から陸上自衛隊が駐留している。


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-3-80
昭和21年(1946年)2月15日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

拡大

Google航空写真


大宮駐屯地

大宮駐屯地創立66周年記念行事
一般開放
令和5年6月4日(日)10時~14時30分

大宮駅からバスで赴きました。

大宮駐屯地は、昭和32年開設。
駐屯地司令は、陸上自衛隊化学学校長が兼務。
陸上自衛隊化学学校、中央特殊武器防護隊、第32普通科連隊などが駐屯している。

正門

北門

案内看板

駐屯地案内図


駐屯地史料館(大宮駐屯地)

各地の駐屯地の史料館を見学するのが楽しみ。普段、見ること出来ないので、これが一番の目標でもあったりする。

文化祭な雰囲気の展示コーナー。
しかし展示物そのものは、本物の重みがある。。


旧陸軍資料コーナー・大宮駐屯地コーナー
(駐屯地史料館)

駐屯地史料館 全般配置図

旧軍のコーナー

陸軍兵器行政本部 東京第一造兵廠大宮製造所の地図。

初代所長に長山少将(陸士13期、工学博士)が就任。
従業員6000命の多くを数えた。
軍属4400名の半分が女子がしめ、動員学徒1600名の中には、大宮高女、久喜高女、浦和実践の乙女たちも含まれていたという。

埼玉県内の軍事施設など。思えば、ほとんど赴いている。。。

北から名称を列記してみる。

あれ、上記に記載のない、軍需施設もあるなああ、、、

米軍進駐後にドル支弁財産として作られたときの教会の鐘。地中からの掘り出し。

米軍の進駐と大宮
 埼玉県内への米軍の進駐は、昭和20年9月8日の朝霞、大和(現、和光市)に始まり、以後県北の熊谷、本庄を初め各地に行われた。大宮では、9月27日に中島飛行機製作所大宮工場(現、ステラタウン(宮原町))、翌10月8日(一説には3日)に陸軍造兵廠大宮製造所(現、大宮駐屯地)、10月12日には、片倉工業大宮工場(現、コクーンシティ(さいたま新都心))などに相次いで進駐が行われた。
 昭和20年11月1日(一説には10月15日)に、片倉工業大宮工場にいわゆる「埼玉軍政部」がおかれ、埼玉県の占領統治の中心となったが、翌3月6日には浦和市内の旧陸軍司令部跡、更に6月1日には県庁隣の埼玉会館別館へと移った。
 大宮市域での進駐軍は、昭和21年3月の埼玉軍政部移転後も旧陸軍造兵廠大宮大宮製作所はキャンプ・キングとして残ったが、その後撤退し、昭和32年10月15日に大宮駐屯地が新設された。(出典「大宮市史4」)

電気時計

電気時計
重錘巻上式 昭和16年12月制 東京雄工社
 時計は、重錘巻上式であり、巻上方法には「手動」及び「100V交流電源」の2つであるが、現在は交流電源で動かしています。
 手動式で動かす場合は1週間に1回手動巻上を実施します。自動巻上式は内蔵機械により自動的動作により6時間毎に自然に重錘を巻上げます。
 この時計は、造兵廠として駐屯地が建設された時に設置されたもので、駐屯地の中央時計です。
 この時計を中心に各建築子時計が設置されていました。
 施設再配置事業により施設解体のため、業務隊管理課が取り外し、整備したものである。
  平成8年9月18日

旧陸軍資料コーナー

沖縄・硫黄島遺品

中央の肖像写真は、東京第一陸軍造兵廠長 杉浦辰雄(陸軍中将)。
1940年から1945年の終戦まで、一貫して造兵廠長であった。

陶器製の陸軍手榴弾。
大宮製造所とも近い、川越製造所に縁がある。

98式衛生濾水器丙 小隊用


CBRNコーナー(駐屯地史料館)

CBRN(シーバーン)とは、化学(Chemical)、生物(Biological)、放射性物質(Radiological)、核(Nuclear)のことを示している。
大宮駐屯地は、中央特殊武器防護隊や陸自化学学校の拠点となっていることから、特徴的な展示となっている。

駄馬用の防毒マスク。これははじめてみた。貴重。
馬用化学防護衣(ゴム製)
97式馬防毒被(前被・駄馬用)
94式防毒脚絆(左右)
97式馬防毒被(中被)
97式馬防毒被(後被)


記念碑

特に戦前の旧軍関係の記念碑はなく、戦後の自衛隊関連の記念碑が点在。

融和団結
平成19年5月20日
大宮駐屯地創立50周年記念

通信補給処創立30周年記念碑(昭和56年)

大宮駐屯地創立20周年記念碑


大宮駐屯地創立66周年記念行事

記念行事は駐屯地毎に色合いが違っていて、いくつかを見ていくと、だんだんと差分が面白くなってくる。
大宮駐屯地はこじんまりとした感じで、のんびり見学できた。

観閲行進

中央特殊武器防護隊の新型液体散布車。泥濘にハマって立ち往生。観閲行進列から外れ、行進終了後に、後進離脱となりました。

太鼓演舞

ドリルパフォーマンス

ラッパ演舞

格闘武術演舞

模擬戦
科学テロを想定したデモンストレーション

ドローン偵察

偵察オートバイ

狙撃手

みんな大好き、ラヴ
軽装甲機動車 Light Armored Vehicle:LAV(ラヴ

テロリスト、、、

制圧完了

模擬戦は、小規模だったけど、いつみても楽しめますね。


大宮駐屯地散策

中央特殊武器防護隊(陸上総隊直轄)

大宮駐屯地業務隊(東部方面隊隷下)

第32普通科連隊(第1師団隷下)

第32普通科連隊

全国諸兵の模範
三十二普連

近衛兵の精神
近衛兵は常に輦下を護衛し千軍万馬の中を整正独歩するの胆勇を有し又平常にありては信義を旨とし先進を敬い後進を善導し以って全国諸兵の模範たるを期すべし

第32普通科連隊は、近衛連隊といわれている。
中央のナイトのマークは 天皇陛下をお護りする近衛兵を表し、近衛の精神を受け継ぐ32普連隊員を表しているという。
そして下部の紋章は、皇居の二重橋を模ったものという。

陸軍時代(東一造 大宮製造所)の痕跡は特に残っていなかったが、なかなかに探訪できた大宮駐屯地。

自衛隊の皆様に敬意と感謝を表し、本記事は〆

※撮影:2023年6月


造兵廠関連

「八丁八反の飛行場」児玉陸軍飛行場跡地の戦跡散策(埼玉児玉)

埼玉県は、本庄(児玉)・上里にあった陸軍飛行場。
往時を偲ぶものがいくつかあるというので、足を運んでみた。

児玉飛行場のあったあたりは、上里町・本庄市(旧児玉町)・神川町境の八町八反と地元で呼ばれた地域であったために「八町八反の飛行場」と呼称された。ちなみに「八」は末広がりとしての意味であり、実際の面積ではない。


児玉陸軍飛行場

昭和十八年十月、熊谷陸軍飛行学校児玉教育斑として使用開始。
昭和十九年四月、学徒動員の陸軍特別操縦見習士官200名が入校し、児玉教育隊と改称。
昭和十九年十月、児玉基地と改称。第一四四飛行場大隊が配備される。
児玉基地には、第1航空軍の第27飛行団(飛行団長 野中俊雄)が配備。
特別攻撃隊の基地、拠点となって帝都の防衛、硫黄島攻撃等の重要航空作戦の任に当たった。
昭和二十年八月十五日、児玉基地は、映画「日本の一番長い日」(1967年版)にも登場する。(ただし内容はフィクションなので注意が必要。児玉飛行場からは8月15日に特攻出撃が実施していません。)
現在は、大部分が児玉工業団地となっている。

余談だが、児玉飛行場の第27飛行団長であった野中俊雄大佐は、戦後は富士飛行場の跡地に部下とともに入植開墾し、その地を「靖国」としたと伝わっている。

https://www.at-s.com/news/sengo70/senka/vol06.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R465-No1-203
1947年11月3日に米軍が撮影した航空写真を参照。

一部拡大。

いまでも形がはっきりわかる。


児玉飛行場之跡碑

児玉飛行場跡地の北東側に、慰霊碑を設けた区画がある。

児玉飛行場之跡碑

鎮魂

合掌

碑文
第二次世界大戦の苛烈な戦局下、当地に建設された児玉飛行場の生涯は、まさに戦いの歴史であった、即ち陸軍航空特別攻撃隊の出撃基地として、日本々土に来襲する敵軍の勢を砕く古今未曽有の航空作戦に貢献した。児玉飛行場の栄誉は埼玉県はもとより全国に其の名を馳せている。其の建設を胸に秘める児玉郡下市町村住民の血と汗の協力に拠る「八丁八反の飛行場」こそ日本最後の砦として神洲不滅の奇跡を信じ、各種団体から小学校児童に至るまで、困苦欠乏に耐えつゝ工事に奉仕し、昭和十七年春より約一年有半の歳月を経て完成した。昭和十八年十月熊谷陸軍飛行学校児玉教育斑(初代隊長浅井策大尉)として使用開始し、同校の九十五式一型練習機が初めて児玉飛行場に着陸した。先ず、暁部隊の将校、下士官学生十五名に飛行機の操縦技術を施し前線に送った。続いて、昭和十九年四月学徒動員の陸軍特別操縦見習士官二○○名が入校し、児玉教育隊と改称され、三ヶ月の最短期間に操縦教育を終了し陸軍特別攻撃隊要員として第一線に配属された。又同年八月、第一練習飛行隊の編成を見るや全将兵は、児玉郷の山河に別れ南国ジャワ島に移駐した。同年十月児玉基地と改称、第一四四飛行場大隊が配備され、各分科飛行部隊及び、特別攻撃隊の基地、拠点となって帝都の防衛、硫黄島攻撃、或いは太平洋近海を遊弋する敵機動艦隊に対する攻撃等、重要航空作戦の任に当たった。昭和二十年八月十五日大詔を拝し戦局を結ぶ、児玉基地は、映画「日本の一番長い日」によって全国民に伝えられたが、祖国日本の栄光を背負って戦った、児玉飛行場は尊くも又悲しい無限の教訓を残して、その思い出だけを住民、軍関係の記憶に止どめて日本と運命を共にし、三年有余の歴史を閉じた。我が民族の限り無い雄叫は、歴史の試練に苛なまれ乍らも、同年秋、百十余名の開拓団員の入植となり、農耕地にすると同時に一部は工業団地として再生し今日に至る。戦後三十五年を閲し、往時の留魂、姿を偲ぶ何物もなく、追想のみ錯綜し物心共に漠々たるものを覚ゆる時此の縁故ある地に生存する有志の悲願が凝って記念碑建立の声こんこんとして湧くが如く起る。幸にして地元同志の篤志と物心両面の援助と更に碑建設の諸般に亘り住民各位の甚大なる協力を受けたことはまさに天佑神助と信じ共に感謝するところである。茲に熊谷陸軍飛行学校、第一練習飛行隊第一四四飛行場大隊の関係者並びに地元有志の発願により、児玉飛行場を飛び立ち祖国の為に散華された幾多将士を始め教育訓練中殉職した戦友の冥福を永久に祈り、再び戦争を繰返さないことを願いつゝ世界の平和と日本の繁栄を祈念してこの碑を建立する。
 昭和五十五年十一月十五日 児玉飛行場跡記念碑建設委員会

「八丁八反の飛行場」

観世音菩薩

第四教育飛行隊鎮魂碑
児玉飛行場跡に、護国生死を共にと集いたる第四教育飛行隊に在籍の士が、今茲に訓練中、不幸その任に殉ぜし者、或は米機襲来に斃れし者を部隊終焉の地に、永えに眠られん事を願い、この碑を建立する。
部隊は昭和十七年滋賀縣八日市に飛行第三戰隊北方進出の後を享け軽爆撃機操縦者の戰技訓練を主務とした新設部隊であったが、戰局の推移に鑑み、南方補給作戰更に名阪神地区の要地防空戰斗等の戰斗行動に参加、昭和二十年三月部隊はこの地に移駐、戰局漸く悪化するや本然の任務たる教育訓練から特別攻撃隊の養成へと変遷を経て、振武第二九九隊、三○○隊、三○一隊、三○二隊、三○三隊、三○四隊を編成、沖縄特攻作戰の為南下征途に就かしめた。此の間の訓練においても幾多の尊き命が失われたが屍を越え国の護持に訓練は日夜を分かたず続けられた。 
二十年八月に入るや米機の空襲も熾烈を極め対空戰斗においても戰死者が出るに至った。斯くして頽勢の挽回ならざるまゝに終戰の日を迎えたが、青春の血滾る憂国の至情も詔勅の渙発に旬日を出ずして敗戰の處理を完了、茲にこの児玉において部隊の歴史は閉ざされた。短期間乍ら苛酷な情勢下における児玉飛行場での生活の一日一日は終生忘れ得ぬものがあり、更に幽明境を異にした幾多の戰友をこの地に残したまま家郷に戻らねばならなかつたことは断腸の思であつた。離散の日より三十七年を歴し、今漸く兄等の安住と、兄等に心の再開を願える地を、児玉飛行場之跡碑奉賛会の御厚志により得ることが出来、この碑の建立される日を迎え得た。
庶幾兄等観世音菩薩の慈悲に抱かれ永えに此の地に鎮まらんことを。
 昭和五十七年十月十日 合掌
  八日市会 冲之原会 児玉会

第十五輸送飛行中隊発祥の地

第十五輸送飛行中隊
 発祥の地記念碑
  内閣総理大臣 中曽根康弘

第十五輸送飛行中隊戦死者 
  大松少佐  中田少尉  萩野曹長
  国分中尉  若林准尉  小南曹長
  西田准尉  加納准尉  西沢伍長
  山崎准尉  岡辺曹長  武川兵長
  門屋准尉  遠藤曹長  加藤候補生 
   中隊戦友会建之

却火
大東亜戦争末期の昭和二十年五月から七月に遠く太平洋の波頭を超えて来襲した米機動艦隊のグラマン機によって児玉飛行場は爆撃や機銃掃射の攻撃を受けた。
この爆弾は、戦後の昭和三十五年児玉飛行場跡北西隅の地下二メートルから出土した三発である。
犠牲者の冥福を祈り、久遠の平和を祈念する。
 昭和五十五年一月十五日 
  児玉開拓 岩田七郎

児玉飛行場を空襲した焼夷弾の欠片。

場所

https://goo.gl/maps/vxRECE83L5YCmxw28


立野南公民館(兵舎流用)

児玉飛行場にあった兵舎の一部を移築し再利用した公民館。
なお、出入り口は増築したもの。

拓魂
開拓30周年記念之碑
 
埼玉県児玉開拓農業共同組合

碑文
開拓地は太平洋戦争遂行の為航空後方基地として終戦二年前に完成した旧陸軍児玉飛行場跡地である 
戦後緊急食料増産対策として、基地残留部隊員を基幹として復員軍人引揚者開拓者及び周辺町村の次男三男百十六名を以って昭和二十年十月開墾に着手した 
以来三十年困苦に耐え欠乏を忍んでひたむきの努力を重ねて今日に至る 
ここに三十周年を迎へるに当り今は亡き友と共に入植者の足跡を記し子孫の繁栄を祈りこの碑を建立するものである 
 昭和五十二年四月二十日
  児玉開拓農業協同組合

西瓜記念碑

昭和38年建立。
昭和20年10月に、児玉飛行場跡地に入植した開拓農家がスイカの栽培を初め、児玉スイカとして特産品になった。

場所

https://goo.gl/maps/xcSmcLAFzcEGZu5Q6


上部を伐採されたマキの大木

児玉飛行場の北西。

マキの大木。児玉飛行場を離着陸する飛行機の妨げになるということで、上部をばっっさりと切り取られてしまった。
それでも立派に存在感を発揮しているマキの大木。

上里町指定の天然記念物。 樹齢800年という。

マキの大木の向こうを飛ぶ飛行機。

場所:

https://goo.gl/maps/i7XV1d3iA4UMHNzBA


宝蔵寺の被災石灯籠

マキの大木の隣にあるのが宝蔵寺。
機銃掃射の弾痕が残る石灯籠がある。

無数の弾痕。

場所

https://goo.gl/maps/2Y9BoEQvibjJrf7J6


児玉飛行場の滑走路跡(西側)

飛行場滑走路があった西側から、東に向けて歩いてみます。

このあたりが西端。

場所

https://goo.gl/maps/sQhcYm2TLoc6abe38

滑走路跡の道路。

場所

https://goo.gl/maps/aEAJ42jNSePxbTeb7


児玉工業団地造成事業完成記念碑(共栄公園)

共栄公園は、工業団地の真ん中辺りにある。
すなわち、児玉飛行場の真ん中あたり、滑走路のあったあたりともいえる。

児玉工業団地造成事業
完成記念碑

完成記念碑建立の由来
 この工業団地は、児玉郡市広域市町村圏の地域振興と既成市街地の土地利用の純化を図るため、埼玉県企業局が造成したものである。
 昭和四十七年に事業を開始以来三百六十五名の土地所有者をはじめ、本庄市、児玉町、神川村および上里町その他多数の関係者の深い御理解と御協力を得て、十三年の歳月と約百九十六億円の事業費を投じて一〇六・五ヘクタールの団地造成を昭和五十九年十一月に完了したものである。
 この地域は、かつての共和村、七本木村、長幡村、丹荘村の村境に位置し、通称八丁八反と呼ばれていた。第二次世界大戦末期の昭和十九年には、一部集落の移転を行い、陸軍飛行場が建設されたが、戦後は開拓地として入植農民による野菜栽培等の農業振興が図られ、特に西瓜の特産地であった。
 造成以前は、児玉丘陵を南に望み、上毛の山々や秩父連峰を遠望するのどかな農村地帯であったが、時代の要請により自然環境と調和のとれた近代的な工業団地として生れ変わったものである。
 ここに工業団地造成事業の完了に当たり、この地の由来と土地提供者の氏名を彫刻した記念碑を建立し、永く後世にこれを伝えるものである。
 昭和五十九年十一月吉日
  埼玉県企業局

場所

https://goo.gl/maps/fvxcT98mjiWKcCVA7


児玉飛行場の滑走路跡(東側)

東側は、工業団地となるまえに、入植していた開拓民の集落がそのまま住宅地となっている。

歩いていて、不自然に感じたのが、アスファルトの盛り方。
左右が低くなっていて、じつに歩きにくい路肩であった。

ちなみに当時の滑走路は、マカダム工法で造られたために、いまでも掘ると砂利が出てくるという。

場所

https://goo.gl/maps/oEj8QYSWzfGeVC8d7

児玉飛行場の外周。東端。

セブンイレブン本庄共栄店のあるあたりが、飛行場エリアの北東端。

一昔前は、側溝のコンクリート蓋が往時のまま残っていたが、消失した。


児玉飛行場入口跡(推定)

現在のエステー埼玉工場のあたりが、飛行場エリアの入口であったと推定。
ここより北側は、飛行場エリアに付属する施設エリア。

飛行場の入口からまっすぐに伸びる道路。


児玉飛行場正門跡(推定)

嘉美の信号のあるあたり。
児玉飛行場の正門はこのあたりにあったのではと推測。

場所:

https://goo.gl/maps/Hb5MuGArPVBmSTLw6

近くには、嘉美神社がある。
児玉飛行場のある嘉美の鎮守様。

児玉飛行場に付属する施設エリアの北東端。

児玉飛行場跡地は、公共交通機関のアクセスは芳しくない。
すくないバスをうまく利用して、散策を実施。

ちなみに徒歩7キロで2時間15分歩いていたようです。

※撮影:2023年5月


関連

「空自・熊谷基地さくら祭」熊谷陸軍飛行学校跡地散策

令和5年(2023年)4月2日。
熊谷市の航空自衛隊熊谷基地(航空自衛隊第4術科学校)にて、「令和5年度 熊谷基地さくら祭」が開催されましたので、足を運んでみました。
かつての熊谷陸軍飛行学校跡地、です。


熊谷陸軍飛行学校
(三尻飛行場・熊谷飛行場・稜威ケ原飛行場)

昭和9年、所沢陸軍飛行学校が開設。
翌年の昭和10年(1935年)12月に、操縦分科の生徒教育のために、熊谷陸軍飛行学校が開設。
主として飛行機操縦に従事する航空兵科下士官となる生徒、少年飛行兵、あるいは将校、下士官の操縦学生などに対し、飛行機操縦の基本教育を行った。
昭和12年に所沢陸軍飛行学校が廃止され、操縦学生は本格的に、熊谷陸軍飛行学校で教育されることとなった。
昭和13年10月に昭和天皇行幸。
熊谷陸軍飛行学校は昭和20年2月に第52航空師団の一部に改編のため閉鎖。

熊谷陸軍飛行学校の跡地は1945年九月に進駐したアメリカ陸軍第43師団によって接収され米軍キャンプ「U.S.ARMY CAMP WHITTINGTON」として使用。昭和33年(1958)返還され、同年8月より「航空自衛隊熊谷基地」となっている。

熊谷陸軍飛行学校に関しては、航空自衛隊熊谷基地の記事も参照で。

https://www.mod.go.jp/asdf/kumagaya/Base_tour.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R465-No1-78
1947年11月3日、米軍撮影の航空写真を加工。

庁舎や格納庫のあったエリアを拡大。

黄丸が陛下行幸の御野立所があった「御稜威ヶ原の碑」
赤丸が「給水塔」

GoogleMapで現在の航空写真と照合。
格納庫の位置関係もよく分かる。


御稜威ヶ原の碑(みいづがはら)

昭和13年10月10日(月)
天皇陛下が熊谷陸軍飛行学校に行幸され教育状況を御覧になられた。
学校長である江橋陸軍中将は、この日を記念して、この地を「御稜威ケ原(みいづがはら)」と命名して、記念碑を中央格納庫と第二格納庫の間の中央道路の真中(御野立所となった場所)に設置した。

御稜威ヶ原
 昭和13年10月10日
 御臨幸記念
 
  さしつけに
   仰ぎまつれる
大御稜威 
 伝えてはげめ 
  空の益良雄

熊谷陸軍飛行学校長陸軍中将
従四位勲二等功五級 江橋英二郎 選書

中央道路の真ん中に。

御稜威ヶ原の碑
昭和13年10月
昭和天皇の行幸を記念し、御野立所となった場所に建立

昭和初期まで、現在の基地及びその一帯は赤松・くぬぎ等の樹木が生い茂る森林であったが、昭和10年2月に突如として陸軍の飛行場が建設されることとなり、その秋までに森林は伐採され飛行場に変わった。飛行場としての工事も完了に近い昭和13年10月10日天皇陛下が行幸され、平の訓練状況や高等飛行などを観閲された。時の熊谷陸軍飛行学校長江橋英二郎中将は、この感激を後世に伝えようと「さしつけに 仰ぎまつれる 大御稜威 伝えてはげめ空の益良雄」と歌い、当時の飛行場を「御稜威ヶ原」と名付けた。行幸の際、御野立所となった地点に建てられた江橋中将自筆のこの碑は、今なお当時を偲ぶよすがとなっている。

現代略:直接に見申し上げた天皇陛下の御威光を、皆に伝えては空の勇者たちよ


方位盤

当時のものと思われる方位盤。

かすれていて、細かくは不明であるが、方位盤とおもわれる。


荒鷲之碑

昭和50年5月、航空自衛隊熊谷基地内に、荒鷲の慰霊碑が建立された。揮毫は、菅原道大。

荒鷲之碑
菅原道大書

昭和50年5月建立

由来
昭和十年この地に熊谷陸軍飛行学校が誕生した。爾来、万を数える若鷲が巣立っていった。戦いの場は遠く洋の南北に拡がり勇士は荒鷲となり愛機と共に生死し昭和二十年歴史を閉じた。散華した荒鷲の霊を慰め勲を顕彰し事実を後世に永く伝える為、残りし者、相集って、この碑を建てる。
 昭和50年5月5日

由来碑
昭和33年8月航空自衛隊熊谷基地発足以来任務遂行中殉職され基地発展の礎となった自衛隊員を慰霊するため「荒鷲の碑」を奉祀し永くその栄誉を伝承するものである

平成12年4月8日
航空自衛隊熊谷基地司令 空将補 原充男

熊谷陸軍飛行学校
荒鷲之碑奉賛会
平成11年3月建之

揮毫をした菅原道大は、陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官でもあった。

菅原道大は、陸軍中将。
大正14年(1925年)に菅原は陸軍航空科へ転科し航空少佐として飛行第6聯隊に着任。
昭和6年(1931年)、「下志津陸軍飛行学校教官
昭和14年12月に、「下志津陸軍飛行学校長」
昭和16年(1941年)、開戦時は第3飛行集団長。マレー作戦の航空作戦を指揮。
昭和17年7月、新設された第3航空軍司令官に着任。ビルマ航空戦を指揮。
昭和18年5月、内地に帰還し陸軍航空士官学校長に着任。
昭和19年3月、航空総監部次長。7月には、航空総監兼航空本部長を拝命。12月、第6航空軍司令官。沖縄方面の航空作戦の責任者として、海軍の戦艦大和の菊水作戦の支援や、指揮下の義烈空挺隊の義号作戦の指揮を執ることとなる。
昭和20年8月15日、終戦。
海軍の九州方面の航空責任者であった宇垣纏が沖縄に特攻出撃する中で、陸軍の九州方面の航空責任者であった菅原のもとにも部下たちが最後の特攻出撃を申し出る中で、「陛下の終戦玉音を拝聴した後は、余は一人の兵士も殺すわけにはゆかぬ。皆、おとなしく帰れ」と部下を諭している。
海軍側の宇垣纏中将、大西瀧治郎中将が亡き後、陸軍側の責任者とて、自決することを断念し、特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決意。
「特攻平和観音奉賛会」を設立し、「特攻平和観音像」「知覧特攻平和観音像」「知覧特攻観音堂」を建立している。

関連では、熊谷陸軍飛行学校のほか、下志津陸軍飛行学校、水戸陸軍飛行学校の跡地に、菅原道大の碑がある。


給水塔

推測の域を出ないが、かもし出す雰囲気からして往時のものと思われる給水塔。前述の位置関係の航空写真でも照合したが、場所も適合している。近寄れないので望遠で。

給水塔の手前は、「基地補給倉庫」。


格納庫跡

かまぼこ型の格納庫のような建屋がある。手前は「武道場」、そして格納庫型の「基地体育館」と「基地補給倉庫」。位置関係は、熊谷陸軍飛行学校時代と同じ場所。
ここだけ切り取ると飛行場な雰囲気。


教育参考館

熊谷陸軍飛行学校や航空自衛隊航空生徒隊の資料を展示。


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の玄関扉

本部庁舎で実際に使用されていた玄関扉が、移設保存されている。

 この扉は、昭和10年12月陸軍熊谷飛行学校開校以来、本部庁舎玄関で使用していました。
 平成14年11月、庁舎取り壊しに伴い、約67年の歴史の一部を保存するため、当施設に移設し保存しました。


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の中央階段

おなじく、熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の中央階段の一部が移設保存されている。

 この階段は、昭和10年12月陸軍熊谷飛行学校開校以来、本部庁舎の中央階段として使用していました。
 平成14年11月、庁舎取り壊しに伴い、約67年の歴史の一部を保存するために、当場所に下側3段部分を移設し保存しました。
 基地司令室が2階にあったため、赤絨毯が敷かれていました。
 昭和13年10月昭和天皇が行幸された際、この階段を登られた由緒ある階段です。
 木材:ケヤキ材使用


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の一部

とくに説明はなかったが、取り壊しの旧庁舎の一部かと。


熊谷基地展示エリア

旧軍資料

通信機材など。

戦争末期のドラム缶。竹製、、、ですね。

図書館戦争コーナー?


公募空士第1期生入隊20周年記念

歴代航空幕僚長の名前もある。

この寄せ書きは、公募空士第1期生の20周年を祝って書かれたものです。
寄せ書きには、歴代の航空幕僚長「源田実元空将」「白河春元元空将」「角田義隆元空将」の名前があります。

源田実
帝国海軍では、海兵52期を卒業し最終階級は海軍大佐、航空参謀を経て、松山の第343海軍航空隊司令で終戦を迎える。
空自では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長、ブルーインパルス創設、航空自衛隊育ての親。また、参議院議員を4期24年努めている。

白川元春
白川義則の三男。白川義則は、上海天長節爆弾事件で死去。
白川元春は陸士51期、陸大58期卒。最終階級は陸軍少佐。
航空自衛隊では第11台航空幕僚長

角田義隆
帝国海軍では海軍機関学校卒。最終階級は海軍大尉。
航空自衛隊では、第12代航空幕僚長。
海軍機関学校出身者が大将(幕僚長たる将)に相当する地位まで昇進したのは、帝国海軍・自衛隊を通じて角田が唯一の事例となる。


生徒隊展示エリア

航空自衛隊生徒隊の展示エリア。2006年に募集が停止され、2011年に生徒隊は廃止となっている。
虚空自衛隊航空教育隊生徒隊で採用時は、3等空士となり4年間の教育修了後は3等空曹として、通信、レーダー操作及び整備などに補職されたという。


航空自衛隊生徒隊創立50周年記念モニュメント

負けじ魂

流れも清き大利根の
 岸辺に緑の色染めし
練武の庭に都度至る
 若人の任いや重し
  誇りに満てり
   航空生徒隊

このモニュメントは生徒隊創立50周年記念を機に教育環境整備の一環として、第8航空団からF-1垂直尾翼を譲り受け、表面は生徒隊歌詩を裏面は第8航空団(築城)第6飛行隊のマーク等を遺して、第4術科学校の支援を得て建立したものである。
なお、表面のデザインは生徒隊生活4年間で培った「負けじ魂」に代表される不撓不屈の精神を持って巣立っていく生徒の翼をイメージしてデザインしたものである。
 平成17年5月吉日


熊谷基地 友縁の酒「空の華」

基地内の売店にて購入(熊谷基地厚生棟ミニストップ熊谷基地店)

空の華
ソラノハナ 
勲業赫々 輝萬國
埼玉縣大里郡三ヶ尻
権田酒造店吟醸

赤とんぼ

空の華
 昭和10年、熊谷陸軍飛行学校が当地に創立されたことを記念して発売した「空の華」を平成14年秋、約60年ぶりに復刻させて頂きました。
 熊谷の研究所で開発された酵母で醸し、熊谷の水と大気の中で育んだ熊谷基地の地酒です。
 上質の旨味を湛えた柔らかな香味、冷やしても温めても美味しくお召し上がり頂けます。


熊谷基地さくら祭

令和5年(2023)は、4月2日の公開でした。

以下は、さくら祭の写真を。

熊谷基地庁舎。平成15年(2003)新設。

桜並木が気持ち良い。

桜とトラック

熊谷基地には、「第1移動通信隊」が所在している。

御稜威フィールド

現在、航空自衛隊熊谷基地には、滑走路はない。
運動場にヘリが着陸することは可能。

草刈り機。パイロット座乗。

来年もおいでをお待ちしています

なかなか楽しめました熊谷基地。
熊谷陸軍飛行学校の名残もあり、興味ある方はこれは必見ですね。

※2023年4月撮影


熊谷関連

陸軍飛行学校関連

銚子の戦跡散策

「朝霞駐屯地 観桜 一般開放」陸軍予科士官学校跡地散策(令和5年)

陸上総隊司令部や東部方面総監部のある「朝霞駐屯地」。
戦前は、ゴルフ場を買収して新設された「陸軍予科士官学校」があり、そして戦後は「米軍朝霞キャンプ」もあった場所。

今回、あいにくの雨ではあったが、観桜での一般公開があるというので足を運んでみた。


朝霞駐屯地の歴史

東京ゴルフ倶楽部
昭和7年(1932)5月、東京ゴルフ倶楽部が朝霞コースを開場。
東京ゴルフ倶楽部の痕跡として「びわ湖」がある。これは「東京ゴルフ倶楽部」朝霞コース(膝折ゴルフ場)の三番ショートホールの名残。
昭和15年、東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの地が、陸軍省によって買収され、東京ゴルフ倶楽部は狭山に移転。朝霞コースは昭和16年閉鎖。

陸軍予科士官学校
昭和16年(1941)10月1日、陸軍予科士官学校が市ヶ谷から朝霞に移転。
昭和18年(1943)12月9日、 昭和天皇行幸し、「振武台」と命名。

アメリカ陸軍
昭和20年9月(1945)9月、アメリカ陸軍が朝霞地区を接収し、「キャンプ・サウス・ドレイク」(米軍朝霞キャンプ)として進駐。

陸上自衛隊
昭和29年(1954)の警察予備隊時代を経て、昭和35年(1960)3月15日に「朝霞駐屯地」が開設。
朝霞駐屯地(2023年現在)の主な駐屯部隊は以下

  • 陸上総隊司令部
  • 東武方面総監部
  • 第1師団第1偵察戦闘大隊
  • 第1師団第1施設大隊
  • 第1師団第1後方支援連隊
  • 中央音楽隊
  • 陸上自衛隊輸送学校
  • 自衛隊体育学校

朝霞駐屯地 観桜 一般開放

コロナ禍で、公開中止が続いていたため、令和になってからは初の一般公開。
朝霞駐屯地は、創立記念行事などは一般公開しておらず、桜の季節と夏祭り以外ではなかなか入る機会がない。

振武臺記念館の桜

振武臺記念館(陸軍士官学校皇族舎)に関しては下記にて。

駐屯地側から、振武臺記念館を垣間見る。

今回は、振武臺記念館の公開はありませんでした。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス

【1】
ファイル:8921-C5-115
1944年11月7日、日本陸軍軍撮影の航空写真。

【2】
ファイル:USA-M380-18
1947年07月24日、米軍撮影の航空写真。

それぞれを切り取ってみるとこんな感じ。
【1】1944年の「びわ湖」と「交差点」

【2】1947年の「びわ湖」と「交差点」

そして現在の「びわ湖」と「交差点」
Google航空写真から。


「びわ湖」の桜

駐屯地構内の池「びわ湖」は東京ゴルフ倶楽部三番ショートホールの名残り。
ゴルフ場~陸軍予科士官学校~米軍朝霞キャンプ~朝霞駐屯地と、変遷とともにあった人工湖。

現在は、渡河訓練場としても使用されているそうで。

これはなんだろう。。。

びわ湖の周辺は野外走路、でした。


石灯籠

後世センターや居酒屋のある東側に、石灯籠がありました。
絶妙に放置されている石灯籠。

もしかして、陸軍予科士官学校時代に関係ある?
将校集会所庭園跡とか?

真相はわかりませんが、なにやら直感で反応しましたので、記録しておきます。

1つ目の灯籠。

水盤?

2つ目の灯籠

これは、往時の庭園跡なのでは。。。

すぐとなりには、いまは居酒屋。
将校集会所と親和性あるし、、、、

こっちはラウンジ店だそうで。


自衛隊車両と桜

自衛隊っぽい、自衛隊ならではの観桜写真。


厚生センター

お買い物ができます。
陸自っぽい迷彩カラーの数々も。


北グランド

北グランドも開放されていましたが、雨のため、ほぼ人がいません。。。

第一施設大隊


朝霞駐屯地の桜

観桜を。


交差点の桜

交差点の中心部の円形の場所は、陸軍時代から変わっていない。


朝霞駐屯地入口(朝霞門)

朝霞門は、広報センター(りっくんランド)も併設。

雨が強く、見学者もそこまで多くはなかったので、自分のペースで陥凹できたのは良いことですが、写真撮るのは大変でした。。。
あと、大泉門にも行けばよかった、です。。。
(次回は、立ち入り制限の有無はわかりませんが大泉門周辺も探索したく)
※撮影:2023年3月26日



入間川神社(八幡神社境内社)・入間川国民学校奉安殿(狭山市入間川)

狭山市駅から西の高台に鎮座している古社。新田義貞ゆかりの八幡神社の境内に鎮座している地元の犠牲者を祀る護国神社は入間川神社として、祭祀されている。
この入間川神社も、もとは奉安殿の建物を流用したものであった。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


入間川神社

終戦後、取り壊しの予定となっていた入間川小学校の奉安殿を、護国神社として町民の勤労奉仕によって、八幡神社の境内に移し22年2月に鎮座した。

入間川神社
祭神
日進、日露、第二次世界大戦の戦役に殉じた軍人軍属及び旧入間川町の発展に貢献した文化人を祀る。
由緒
昭和20年大戦の集結にともない旧入間川小学校の奉安殿を現在地に移し22年2月鎮座祭が斎行された。
例祭
4月15日

昭和28年に書かれた由緒書。

由緒
當社は昭和廿年八月十五日大東亜戦争が我国に利あらず遂に未曾有の敗戦となった結果国の状勢が一変し敬神の念をもって建設せられた各学校の奉安殿も全部とりのぞくこととなり茲に入間川町當局にあっても種々協議の結果護国神社として町の鎮守たる八幡神社に移管し保存方正式に交渉があったので八幡神社役員審議の上戦歿者の英霊を祀ることによって英霊双びに遺家族をなぐさめ励まし困苦を克服して生活していただく様にと決しここに早速この由を町當局に申出同二十年十二月に町より移転費の交付を受けただちに工事に着手し神社役員日清日露以来の遺家族を始め同町共生會青年団婦人會帰還軍人等の心からの賛同を得て全員汗と涙の勤労奉仕に当り寒風膚をさす十二月より翌年初頭に渡る約四十日間を奉仕し二月一日ここに入間川神社として恵まれた天候の下に日清日露戦役以来の英霊の遺家族双びに名士有志各位多数参列の中に盛大なお且厳粛なる遷座祭を挙行全員涙の中に終了をみましたその後国の規則の変更によって軍人軍属以外でも国家双び地方公共のために尽力されたる人も文化人として祀るようにとの達しがありこれにより昭和二十一年より最初の文化人として審議厳撰の結果三名の合祀をみるにいたりました昭和二十六年末よりは入間川神社奉賛会発足によってこの神社の維持運営を司るようになった
 昭和二十八年四月八日
  入間川神社奉賛会

砲弾がある。

昭和六年十一月 
移転改築記念

戦捷紀念碑(乃木希典書)

忠魂碑

狭山市サイト

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/irumagawa_chiku/irumagawajinjya.html

場所

https://goo.gl/maps/BAtFgRKkdHGMu9dX6


八幡神社(入間川八幡神社)

入間川村の総鎮守。
九州宇佐八幡宮を本社とする。
新田義貞必勝祈願の八幡宮。「新田の八幡宮」と呼称されたこともあった。

本殿並びに彫刻は、狭山市指定文化財(江戸時代末期)

新田義貞駒つなぎの松。

元弘3年5月、北条高時を討つべく上州新田群生品明神の社頭に挙兵した新田義貞は、5年10日所沢小手指原に幕府軍との戦火を交えた。その時、新田軍は源氏ゆかりの当八幡神社へ自ら戦勝を祈願した。

八幡神社サイト

https://www.sayamahachimanjinja.com/

狭山市サイト

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/irumagawa_chiku/hachimanjinjya.html

撮影:2022年2月

下新河岸ノ日枝神社・高階国民学校奉安殿(川越市下新河岸)

川越市下新河岸。
新河岸川は江戸時代は船運が盛んな河川であり、新河岸の日枝神社の近くには多くの船問屋が集まっていたという。ここも奉安殿が流用とのことで、足を運んでみた。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


新河岸ノ日枝神社

本殿は、高階小学校奉安殿を流用したものという。
昭和23年に同地に移築。
下新河岸日枝神社の創建年代等は不詳。
明治5年に村社に列格、明治40年に上新河岸の村社厳島神社及び同境内社の水神社・琴平神社を合祀。

場所

https://goo.gl/maps/f3b3jnhronEDdJk37


砂氷川神社

奉安殿とは関係ないが、新河岸駅から、下新河岸日枝神社に赴く途中にあった神社。
道路の両脇に、旗掲揚台が備えられていた。
明治39年建立とあるので、日露戦争の凱旋記念の構造物。なかなか立派。

場所

https://goo.gl/maps/JchK5rYUFJUJRt8CA

※撮影:2022年2月

「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)」跡地散策・4

桶川にあった陸軍桶川飛行学校の跡地散策。
本記事は、「その4」です。

「その1」から順を追って見ていただければ、幸いです。

埼玉県桶川市、そして荒川の対岸の川島町にまたがるホンダエアポート。この場所がかつての熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)の桶川飛行場の滑走路があった場所。


川田谷飛行場(桶川飛行場)

現在のホンダエアポート。
昭和12年(1937年)に熊谷陸軍飛行学校桶川分教場開校時に「川田谷飛行場」として開設。桶川分教場(桶川飛行学校)の演習施設として使用されてきた。
戦後、放置されていたこの地を、ホンダが航空産業参入を目指しホンダエアポート(本田航空)を設立し、かつての川田谷飛行場を再活用している。ただし、陸軍時代とは滑走路は同じではない。(滑走路の位置等が多少変わっている。)

太郎右衛門橋からホンダエアポート方面を望む。この河川敷にかつて桶川分教場(桶川飛行学校)の滑走路があった。

河川敷をホンダエアポート方面に近づく。
ホンダエアポートを運用する本田航空の本社と格納庫が見える。

埼玉県防災航空隊の「あらかわ2」が駐機されていた。
「ユーロコプター AS365 N3」(機体記号: JA31KN)

AIRPORT

コンクリート構造物1(給水塔基礎跡)

このあたりに格納庫がありました。

吹き流しの隣に、なにやらコンクリート構造物がある。
給水塔基礎とされている。

コンクリート構造物2(固定ブロック跡)

滑走路方面に向うと、横堤の上にもなにやらコンクリート構造物が残っている。
何を固定していたのか。

コンクリート構造物3(吹き流し塔の台座跡)

滑走路の横堤の突端には、吹き流しを立てた台座が残っている。さきほどの固定ブロックの先。

訓練時には、この台座に立っていた吹き流しを目指して急降下訓練などもおこなわれていたという。

ホンダエアポート(川田谷飛行場)を離陸する小型機。

横堤の上から、往時を知る戦跡のコンクリートともに、小型機を見送る。

滑走路エリアは、立入禁止。

スカイダイビングが落下してきた。

ホンダエアポートはちょっとアクセスしにくい場所。
途中のバス停からでも、だいぶ歩きました。。。

※撮影は2022年3月

場所

https://goo.gl/maps/Jh3k1KNi3dL6iYSU8

参考リンク

https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/soumubu/jichishinko/shisetsu_ichiran/shogai_bunka/otherfacilities/1937.html

https://www.okegawa-hiko.org/

https://www.jiji.com/jc/v4?id=okegaku15030001


関連

その2

その3

「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)」跡地散策・3

桶川にあった陸軍桶川飛行学校の跡地散策。
本記事は、「その3」です。

「その1」から順を追って見ていただければ、幸いです。

ここでは、おもに展示内容に関して掲載していきます。


旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 兵舎棟

旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 兵舎棟
市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 兵舎棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 兵舎棟は、主に生徒が居住していた建物です。当時は、午後9時に将校がそれぞれの寝室の点呼を行い、生徒たちは異常なしの報告をした後に就寝しました。朝は午前5時30分に起床し、乾布摩擦や清掃、食事の後、6時30分には飛行場へ移動して飛行機の操縦訓練を開始していました。寝室は寝る場所であること以外に、銃や刀の手入れをしたり、毎夜、「軍人勅諭」を読み上げる場所でもありました。兵舎棟の前は校庭で、入校式が行われたり、準備運動を行う場所でした。兵舎棟の建物は、守衛棟と同様に、木造平屋建て切妻造の建物です。簡易な木造であることから、寒さ対策として天井裏には藁が敷かれていました。5つの寝室のうち、最も西側に位置する部屋は、昭和18年(1943年)生徒の増員に伴い増築されたものです。寝室のほか、建物に残る墨書から「事務室」や「医務室」があったことがわかっています。

手前側は当時の木材を再利用している。

このあたりは、当時の木材を利用。

復原整備された寄宿舎
 この部屋は、桶川分教場当時、生徒たちが寝泊まりしていた様子を再現したものである。床や壁などの部材も、ほぼ当時使われていた部材を使って復原している。
 生徒たちは朝、この部屋から日々の訓練へと出発し、夕方、訓練から帰り、就寝した。そして、卒業を迎えるとこの部屋を去り、戦場へと向かっていった。
 1部屋には18台の木製のベットが置かれていたが、隣との感覚が狭いことから、頭の位置を互い違いにするように配置されていた。棚には各自の銃や服、帽子、水筒などが整理整頓して置かれていた。

もちろん、布団はイメージ。これは当時のものではありません。


熊谷陸軍飛行学校桶川分教場と昭和の戦争

飛行学校誕生までの歩み
 1903(明治36)年、アメリカのライト兄弟が飛行機の初飛行に成功。飛行機が誕生する。
 それから11年後の1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発する。大戦当初、飛行機は敵の軍の偵察をその任務としていた。しかし、その後、軍の関連施設や街を直接攻撃するために爆撃機が開発され、兵器としての重要性が増していった。
 日本においても第一次世界大戦の終了後の1920(大正9)年に所沢に陸軍航空学校が開校し、操縦者や研究者の育成が始まった。
 1931(昭和6)年に満州事変が勃発すると、日中関係の緊張が高まった。こうした情勢を受け、航空兵力の増強が必要と考えた陸軍は、軍比較台の後押しも受けて、各地に飛行学校や分教場を開校していった。1935(昭和10)年には熊谷市に熊谷陸軍飛行学校が開校し、2年後の1937(昭和12)年6月3日には川田谷に桶川分教場が開校した。桶川分教場の開校は新聞でも取り上げられ、各地から入隊希望者が集まった。

陸軍航空学校
 日本では1909(明治43)年に臨時軍用気球研究会が設立され、気球と飛行機の研究がなされていたが、第1次世界大戦により欧米列強の飛行機の技術は飛躍的に向上し、日本は技術や軍編成で大きく後れをとることとなる。
 この事態を打開するために、1919(大正8)年には所沢陸軍飛行場に陸軍航空学校(1924年所沢陸軍航空学校に改編)が開設され、操縦者や研究者の育成が本格的に始められた。

熊谷陸軍飛行学校
 1931(昭和6)年9月の満州事変勃発とその後の緊迫した国際情勢、さらに極東におけるソビエト軍の空軍増強により、陸軍は軍備や人員を拡充する必要に迫られることとなる。
 これを受け1935(昭和10)年7月に熊谷飛行学校令の勅令が交付され、8月より着工、同年12月1日に熊谷陸軍飛行学校が開校する。
 以後、1945(昭和20)年の閉校まで陸軍における少年飛行兵教育の中心的役割を担う。

熊谷陸軍飛行学校と各地の分教場
 1935(昭和10)年熊谷陸軍飛行学校が開校した後、航空兵力の増強のため、各地に分教場が開設されていった。
 1937(昭和12)年には桶川の他にも、栃木県に金丸原分教場(番号10)、長野県に上田分教場(番号4)が開設された。その後も群馬県の新田分教場(番号2)、館林分教場(番号3)といった関東地方のみならず、東北地方の仙台や朝鮮半島にも分教場が開設されていった。

第三の空都 桶川分教場
 東京日日新聞埼玉版は、桶川分教場の着工から開校まで約4ヶ月の様子を3回にわたり伝えている。
 1937(昭和12)年6月3日付けの新聞記事にみられる「第三の空都」とは、桶川分教場が所沢、熊谷に続く3番目の飛行学校施設であったことを伝えている。

飛行機に夢を託した国民
 1932(昭和7)年には有志が基金を募り、軍用飛行機を購入し国に寄附する「軍用機献納運動」がおこるなど、飛行機に対する国民の期待が高まっていった。こうした機運の中で、飛行学校の生徒は「若鷲」とも呼ばれ、憧れの的としてマスコミ等で取り上げられるようになった。桶川分教場においても、1943(昭和18)年からは「桶川教育隊」と呼称が変更され、施設の規模も最大となり、訓練生たちが最も多く入校した時期となっている。


桶川分教場での学校生活

桶川分教場の1日
 桶川分教場の1日は、午前5時30分の気象のラッパとともにはじまった。
 起床した生徒たちは、校庭での乾布摩擦、寝室の内外や校庭の整頓・掃除、洗面、朝食を済ました後、午前6時30分には飛行場へ集合し、飛行機の操縦訓練が始まった。
 午前中、操縦訓練をした後、昼食をとり午後1時30分からは飛行機学などの学科が午後4時まで行われた。
 なお、訓練と学科は2班に編成された。操縦訓練を午前中に行う半は午後に学科を、午前中に学科を行う班は、午後は操縦訓練を行っていた。
 午後5時30分に夕食をとると、午後9時までは自習時間となった。その後点呼がとられ、軍人勅諭の読み上げが終わると、午後9時30分に消灯となる。
 こうして、分教場での長い1日は終わりまた翌日の、忙しい朝が始まるのである。

飛行訓練の様子
 飛行訓練は、荒川の対岸にあった飛行場で行われた。
 生徒たちは、地上での操縦桿の操作方法学習から始まり、助教官が同乗しての操縦訓練、一人での操縦訓練、編隊を組んでの飛行訓練と段階を追って訓練を受けていた。
 桶川分教場での飛行訓練には、95式乙Ⅰ型中間練習機と九九式高等練習機が使用されていた。

学習の様子
 桶川分教場では飛行兵として必要な知識の学習も教室棟で行われていた。飛行機の高度計や速度計などの計器について学ぶ計測器学、地図や地形について学ぶ地形学、天候や天気図について学ぶ気象学など多岐にわたる授業が、日々行われていた。
 こうした熊谷陸軍飛行学校桶川分教場での共同生活を通じて、生徒たちは飛行兵として育てられていった。

橋本久氏の日誌
 橋本陸軍曹長は1918(大正7)年、茨城県長田村(現、境町)で農業を営む橋本家の三男として生まれました。21歳の時に満州歩兵国境守備隊へ入隊し、2年後、航空兵へ転属をします。そして8月には桶川分教場へ入校します。
 橋本氏は1941(昭和16)年8月から翌年の10月にかけて「熊谷陸軍飛行学校日誌」を書き残しています。日誌には訓練の様子や学習の内容、行事など、桶川分教場で行われていた教育の内容が詳細に記されています。

桶川分教場ゆかりの品々。

教本など


飛行学校から戦地へ

拡大する戦争と飛行学校
 1937(昭和12)にはじまった日中戦争は戦線を中国全土に拡大しながら長期化の様相を呈していた。戦争の長期化に伴い、石油をはじめとする資源の確保および中国を支援するイギリス・フランスの支援ルートを遮断するため、1941(昭和16)年7月に日本はフランス領インドシナに進軍する。このことは英・仏のみならずアメリカとの関係も悪化させることになった。アメリカは在米日本資産を凍結し、対日石油輸出の全面的禁止を決定した。同年12月、ハワイの真珠湾およびイギリス領マレー半島にて米英との先端を開くことになり、太平洋戦争が始まる。
 中国のみならず東南アジア・太平洋諸島への戦線の拡大と戦争の長期化は物資や兵員の不足を招いた。こうした中、航空兵力の補充が急務となり、1943年(昭和18)年には桶川分教場の増築工事が実施される。しかしながら、本来は金具で補強されるべき部分を木材で補強するなど、当時、鉄が不足していた影響が現れている。

日中戦争
 大陸への進出を図っていた日本と中国の対立は深刻となり、1937(昭和12)年7月7日、中国の北京郊外の盧溝橋付近で日中両国軍の衝突事件が発生する。一時は現地で停戦協定が成立するものの、日本は現地へ兵を派遣して兵力を増加し、戦線を拡大した。これに対し中国の国民政府側も徹底抗戦の姿勢をとったことから、戦争は当初の日本側の予想をはるこにこえた日中の全面戦争に発展していった。

軍需工場と空襲被害
 戦争が長期化すると戦時体制は一層強まり、民需工場の軍需への転用が行われ、埼玉にも多くの軍施設や軍需工場が作られた。
 入間の豊岡には航空士官学校が、朝霞には予科士官学校が開設された。また、大宮には終戦まで世界屈指の業績を誇っていた日本の航空機・エンジンの会社である中島飛行機製作所の工場があった。このような軍需工場は、米軍による戦略爆撃の主な攻撃目標とされた。

太平洋戦争の推移
 開戦当初、日本軍は、マレー半島・ビルマ(ミャンマー)、オランダ領東インド(インドネシア)、アメリカ領フィリピンなど東南アジアから南太平洋にかけて、広大な地域を半年の内に制圧して、軍政下に置いた。国内では勝利が呼び起こした興奮の中で、政府・軍部に対する国内の指示が高まっていた。
 しかしながら、開戦から半年後の1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦の敗北をきっかけに、戦況は日本側に不利になっていった。
 1943(昭和18)年二月にはアメリカ軍との激しい戦いの末、ガダルカナル島から退却した。1944(昭和19)年7月には南洋諸島の中でも重要な軍事基地であったサイパン島が陥落した。こうしたことが機会となり、国内では小磯国昭内閣となったが、戦争はなお続けられた。
 1944(昭和19)年10月、アメリカ軍がフィリピンのレイテ島に上陸すると、日本軍は特攻(特別攻撃)隊による敵艦船への体当たり攻撃という作戦まで実行するようになった。

戦時下のくらし
 戦線の拡大と戦争の長期化は、やがて物資の不足と軍事費の増大を招き、ひいては、物価の上昇を招いた。
 1938(昭和13)には国家総動員法が制定された。その結果、政府は議会の承認なしに戦争に必要な物資や労働力を動員できるようになった。また翌年には国民徴用令の公布により、民間の人々が軍需産業に労働力として動員されるようになった。
 1940~1941(昭和15~16)年には、砂糖・マッチ・木炭・米・衣料などが次々に切符制・配給制となるなど。国民の生活はあらゆるところで切りつめられていった。
 さらに日中戦争が終結しないまま、豆理科・イギリスとの戦争を開始したことにより、物資・兵力・労働力の不足はより深刻化した。1943(昭和18)年には大学・高等学校・専門学校に在学中の学生を軍に徴集し、また学校に残る学生や女性を軍需工場で働かせた。

熊谷空襲
 熊谷空襲はポツダム宣言受諾を決定した1945(昭和20)年8月14日の午後11時30分頃から15日未明にかけての出来事であり、埼玉県下最大の空襲と記録されている。この空襲により、熊谷の市街地は一瞬のうちに火の海と化し、死者は266名、罹災者は15,390名にもおよぶ。
 終戦後、熊谷空襲から1ヶ月後の9月13日、軍政上の重要地として、県内で初めて熊谷陸軍飛行学校に米駐留軍12,000にんの進駐が始まる、その後、県内・近県に分散駐留することになった。

熊谷空襲に関しては、こちらの記事も。

熊谷陸軍飛行学校の廃止と特攻(徳月攻撃)隊
 1945(昭和20)年2月、不足する戦力を補うべく、教育隊の戦力化を図るため、熊谷陸軍飛行学校の機能が停止され、第52航空師団第6練習飛行隊として改編される。これに伴い、桶川分教場も閉鎖され、以後は特攻(特別攻撃隊)の訓練施設とて使用されることとなる。
 特攻(特別攻撃)とは200キロ爆弾や500キロ爆弾などを航空機等に装備し、期待ごと敵艦船に体当りするをする、操縦者の死を前提とした作戦である。特攻(特別攻撃)隊のうり、陸軍が沖縄戦のために編成し、知覧飛行場(現:南九州市)や万世飛行場(現:南さつま市)などの南九州の飛行場から出撃した部隊を「振武隊」と呼んだ。
 1945(昭和20)年3月27日に桶川分教場で教官を務めていた伍井氏が第二十三振武隊として、同年4月5日に第七九振武隊が知覧飛行場へ向かい飛び立った。

伍井芳夫 第二十三振武隊長
 伍井大尉(殉職後 中佐)は、1912(明治45)年7月、北埼玉郡豊野村(現、加須市)に父源助と母さたの二男として生まれました。小学校は豊野小学校に通い、中学校は加須の旧制不動岡中学に入学しました。若い頃から飛行機に憧れ、中学校卒業後は、航空士官学校を経て、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場にて教官を務めていました。その温厚で誠実な性格から、多くの出身者の記憶に残っています。
 1945(昭和20)年3月27日、鹿児島県の知覧飛行場へ向うため、他の隊員11名とともに、壬生飛行場を出発します。その途中、桶川上空を通ったときに、2度旋回し、翼を左右に振って、桶川にいた家族に別れを告げました。
 当時、桶川には妻と幼い3人の子供が暮らしていました。
 1945年(昭和20)年4月1日、満32歳で特攻(特別攻撃)隊第二十三振武隊の隊長として、知覧飛行場より出撃し、慶良間列島付近で敵艦隊に突撃、二度と帰らぬ人となりました。

伍井大尉の遺書(写し)。

第七九振武隊
 第七九振武隊は、12名の隊員で編成された特攻(特別攻撃)隊です。隊員たちは1945(昭和20)年4月まで桶川飛行場で特攻の練習を続け、同月5日の正午に鹿児島県の知覧飛行場に向けて出発しました。途中、岐阜県の各務原飛行場、山口県の小月飛行場に1泊し、4月7日には知覧飛行場に到着します。
 同隊は9日後の4月16日に知覧飛行場から出撃し、うち2機は期待の故障などで戻りましたが、1機は22日に再出撃して、沖縄の海に消えていきました。

山田孝准尉
 山田孝准尉は1918(大正7年)、福岡県西牟田町(現、筑後市)に生まれました。1938(昭和13)年に砲兵から航空兵へ転属し、熊谷飛行学校に入校しました。1940(昭和15)年に同校を卒業後、満州のハイラル基地に配属されます。
 さらに1943(昭和18)年からはラバウル島やニューギニア島などの南方戦線に配属されます。1944(昭和19)年、負傷の為、本国へ還送され入院しました。担任伍、佐賀県の目達原基地にて、訓練生の指導にあたります。

終戦後の特攻命令
 山田氏は1945(昭和20)年8月15日、目達原基地にて玉音放送を聞きます。しかし、その2日後、基地に出勤したヤマダ市に特攻(特別攻撃)命令が下されます。
 展示している遺書は命令を受けた直後、山田氏が家族に宛てて書いたものです。
 結果として出撃前に命令は中止されますが、終戦後の現場の混乱を今に伝える貴重な資料といえます。

山田准尉の遺書(写し)


戦争から平和へ

平和への道のり
 3年8ヶ月にわたった太平洋戦争は、1945(昭和20)年9月2日、日本と連合国とのあいだで降伏文書の調印がおこなわれ、終結した。
 終戦後、にほんにはGHQ(連合国最高司令官総司令部)が進駐した。GHQは新憲法案を日本に提示し、日本の政府はGHQあんをもとに草案をつくり、1946(昭和21)年11gタウ3日、国民主権・平和主義・基本的人権の保障の原理にもとづく日本国憲法が公布された。
 また、1948(昭和23)年12月10日、フランスで開かれた第3回の国際連合の総会で「世界人権宣言」が採択される。
 一方で、軍施設としての役割を終えた桶川分教場は大陸からの引揚者を対象とした市営住宅として利用されることとなる。
(以下略)

戦後の旧飛行学校桶川分教場
 1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎えると桶川分教場もその軍事的役割を終える。
 終戦後の当地には、1年ほど米軍が進駐したとの記録が残されている。また駐留米軍の指示により、軍事に直結した施設構造物は解体撤去され、火薬類や軍事書類の焼却処分が行われた。その後、桶川分教場は町が仲介する大陸からの引揚者寮(若宮寮)として、また空襲で家を失った人たちへの住宅としての活用がはじまった。
 若宮寮では最大で64世帯、約300人ほどが生活していた。
 若宮寮も2007(平成19)年3月に最後の住人が転出したことに伴い、約61年の歴史に幕を閉じたのである。

公共機関のアクセスは少々悪いけど、見ごたえのある展示。気がついたら90分ほど滞在してしまいました。過去を振り返っても致し方がないことですが、復原前の姿も見ておきたかった、、、ということはありますが。

次は、その4へ。荒川対岸の滑走路があった場所へ。

※撮影は2022年3月

場所

https://goo.gl/maps/gWNwrSWX2Uo1m1n4A

参考リンク

https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/soumubu/jichishinko/shisetsu_ichiran/shogai_bunka/otherfacilities/1937.html

https://www.okegawa-hiko.org/

https://www.jiji.com/jc/v4?id=okegaku15030001


関連

その2

その4

「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)」跡地散策・2

桶川にあった陸軍桶川飛行学校の跡地散策。
本記事は、「その2」です。

「その1」から順を追って見ていただければ、幸いです。


桶川飛行学校平和祈念館

桶川飛行学校平和祈念館

さて、敷地内に。

桶川飛行学校平和祈念館 施設案内
開館時間 午前9時~午後4時30分
休館日 月曜日(祝日の場合はその翌日休館)
    毎月月末(日曜の場合は開館)
    年末年始(12月27日~1月5日)
    その他特別整理期間等
入館料 無料


守衛棟

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場と建物
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場は、昭和10年(1935年)に現在の熊谷市に開校した熊谷陸軍飛行学校の分校として昭和12年(1937年)に設置されました。各地から集った生徒はここで寝食をともにしながら、陸軍航空兵になるための飛行機の操縦教育を受け、その後戦地へ向かいました。当時の桶川分教場には、飛行機学・発動機学・気象学など、複数棟の建物がありました。現在、本部棟や食堂棟など約半数の建物は基礎だけ残っている状態ですが、守衛棟・車庫棟・兵舎棟・便所棟・弾薬庫の5棟については建物全体が残されています。

市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 守衛棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 桶川分教場時代の守衛棟には、門衛が待機し、生徒や教官、分教場で働く地元の人々など、入場者の管理をしていました。一時期は、生徒が利用する売店があったとも伝えられています。建物は木造平屋建て切妻造で、壁は木材を横に張る南京下見板張とし、屋根はセメントを固めてつくるスレートという材料で葺かれています。


建物跡(消防ポンプ小屋)

井戸跡。


車庫棟

旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 車庫棟
市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 車庫棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 車庫棟は、桶川分教場で使用されていたトラックなどの軍事車両を格納・整備するための建物です。室内のコンクリートの土間には一段下がった部分があり、これは車両整備のためのピットとして使用されていました。車庫棟は、木造平屋建て切妻造の建物で、壁には主に波板鉄板張としながら、一部がささら子下見板張で、屋根はスレートで葺かれています。当時は陸軍省経理局から「陸軍建築設計要領」が発行されていたため、桶川分教場もこれにならい、やめに不燃材料であるスレートを使用し、屋根の骨格には洋小屋(キングポストトラス)を採用しています。また、この建物は昭和18年(1943年)に増築され、4間半(9m)文、建物が拡大されました。当初部分と増築部分では、異なる工法が用いられています。屋根を構成する洋小屋の合掌の補強を見ると、当初部分は金属製の留め具が用いられていますが、増築部分は木の板に釘留めをすることで代用されています。戦争が長期化したことで、金属資源が不足したことによるものであると考えられます。

ピット(作業用のくぼみ)
ピットをまたぐ形で車両を停め、車体の整備を行っていました。
ピットの寸法
幅 0.93m
奥行4.03m
深さ1.04m

1 建物の概要
桶川市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物
 1.守衛棟
 2.車庫棟
 3.兵舎棟
 4.便所棟
 5.弾薬庫

2 桶川分教場の敷地
 陸軍省は、昭和12年(1937年)に桶川分教場の建設用地を購入しました。昭和14年(1939年)及び昭和18年(1943年)にも、周囲の土地を買い足しています。
 当時の桶川分教場は、現在の桶川飛行学校平和祈念館の敷地より広い敷地を有していました。

3 桶川分教場の建設
 桶川分教場は当時の陸軍の規定に則して、守衛棟・車庫棟・兵舎棟・便所棟は木造で、爆発するおそれがある弾薬庫は、鉄筋コンクリート造で設計されました。
 建物の工事期間は、わずか4ヶ月ほどで、建設を急いでいる様子が当時の新聞でも報道されています。建設を急いだためか、建物の部材各所に残る墨書の筆跡からは、複数の大工集団が建設にあたっていた様子が伺えます。敷地内の植樹は、地元川田谷村青年団の努力奉仕により行われました。
 荒川対岸にあった飛行場では、開校当時、飛行機は天幕によって格納されていましたが、昭和14年(1939年)、格納庫の建設が決まりました。現在は、その基礎のみが残っています。

4 建物の特徴

5 建物の調査

6 文化財建造物の修理


建物跡(学校本部棟)


建物跡(食堂棟)


便所棟

旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 便所棟
市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 便所棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 便所棟は、生徒の便所・洗面場として使用された建物です。生徒は午前5時30分に起床し掃除の後、ここで顔を洗い、葉を磨き、身支度を整えました。便所は汲み取り式で、便房の床下に設置した甕に溜まったものを、取り出し口からひしゃくなどで汲み取っていました。便所棟の建物は、守衛棟・兵舎棟と同様に、木造平屋建て切妻造の建物で、壁は南京下見板張、屋根はスレートで葺かれています。守衛棟・車庫棟・兵舎棟は屋根の骨格が「洋小屋」ですが、便所棟の屋根の骨格は「和小屋」です。当時、陸軍省から発行されていた「陸軍建築設計要領」には、間仕切壁の多い厠(現在の便所)は和小屋にすることが規定されていたので、これに従い和小屋を採用したと考えられます。昭和18年(1943年)には生徒の増員に伴い、便房が2室増築されました。創建当初からある甕は陶器製ですが、増築部分の甕はコンクリート製です。

昭和18年(1943年)増築部の便房(東側の2室)で使用されたコンクリート製の甕

井戸


建物跡(教室棟)


防火水槽跡(円形)


防火水槽跡(八角形)


講堂跡

桶川飛行学校平和祈念館の敷地裏。ここは、桶川飛行学校平和祈念館の敷地外。講堂があったという。ホンダの管理敷地。

次は、その3へ。メインの兵舎棟へ。


関連

その3

その4

「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)」跡地散策・1

桶川にあった陸軍桶川飛行学校は、戦後は市営住宅として活用されていたが、木造建築であったために老朽と廃墟化が進んでいた。その後、私が戦跡に興味を持ったときは、桶川飛行学校跡地は復元整備工事の最中となり、長く立ち入ることができなかった。
そういえばそろそろ落ち着いたかなと、ふと思い出して脚を運んだのが2022年3月のこと。そうして復元が完了した桶川飛行学校の跡地を散策してみる。


熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)

熊谷陸軍飛行学校
昭和9年、所沢陸軍飛行学校が開設。翌年の昭和10年(1935年)12月に、操縦分科の生徒教育のために、熊谷陸軍飛行学校が開設。主として飛行機操縦に従事する航空兵科下士官となる生徒、少年飛行兵、あるいは将校、下士官の操縦学生などに対し、飛行機操縦の基本教育を行った。
昭和12年に所沢陸軍飛行学校が廃止され、操縦学生は本格的に、熊谷陸軍飛行学校で教育されることとなった。
熊谷陸軍飛行学校は昭和20年2月に第52航空師団の一部に改編のため閉鎖。

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場
昭和12年(1935年)6月に、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場として竣工。
昭和20年(1945年)2月、熊谷陸軍飛行学校は廃止され、傘下の桶川分教場(「桶川教育隊」と呼称)も、第52航空師団第6練習飛行隊(秘匿名称「紺第540部隊」)に改編され、特攻攻撃の訓練基地となった。
昭和20年4月5日、桶川で訓練をしていた「第79振武特別攻撃隊」12機が特攻隊として知覧基地へ移動し16日に沖縄に向けて出撃をしている。使用された航空機は、旧式の「九九式高等練習機」。特別攻撃隊第79振武隊は、陸軍で初めての練習機編成による特攻隊とされている。

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡
 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(桶川飛行学校)は、昭和10年に開校した熊谷陸軍飛行学校(現在の航空自衛隊熊谷基地)の分教場として、昭和十二年六月ここに開校しました。
 守衛所(衛兵所)、車庫、本部宿舎、便所、弾薬庫などが現存し、滑走路は荒川の対岸にあり、現在、ホンダ航空が使用しています。川島町側、本田航空社屋脇の堤防から滑走路に向かう広々とした所には、格納庫と現地事務所がありました。教官、学生以外は熊谷本校に雇用された地元の人たち(軍属)で、学校事務のほか、飛行機の整備や通信、気象などの業務にあたりました。
 昭和十八年三月までは、ほかの兵科から飛行兵を希望してきた召集下士官学生を教育し、以後、陸軍少年飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習士官など、昭和二十年二月の閉校までに二十期余り、推定千五百~千六百の飛行兵を教育しました。昭和十八年九月に卒業した陸軍少年飛行兵第十二期生は四十五名中十八名が、昭和十九年三月卒業の特別操縦見習士官第一期生は八十余名中二十名近くが戦死しています。
 昭和二十年二月以降は特攻隊の訓練基地として使用され、同年四月五日、陸軍初の練習機による特攻となる特別攻撃隊第七十九振武隊が出撃基地である鹿児島県知覧飛行場に向け出発しています。隊員十二名は四月十六日に沖縄の海に向け出撃し、十一名がなくなりました。特攻機は隊員たちが高等練習機を近隣の飛行場から集めてきて戦闘機の色に塗装したもので、尾翼に描いた標識(マーク)も隊員たちが考案したものだあると推定されています。特攻機が知覧飛行場に向かう際、下関の小月飛行場まで同乗していった元整備員の体験談も公表され、また、特攻隊出発時の写真や隊員の手記、寄せ書きなども残されています。
 戦後、旧校舎は内部を改造して、住宅困窮者の住居(通称「若宮寮」)として使用され、昭和三十一年には六十四世帯、三百人余りがひとつのコミュニティを形成していました。
 平成十六年、桶川市による戦争体験記募集の事業をきっかけに、この歴史を調査記録するNPOが設立され、多くの関係者の手記や当時のエピソードが収集されています。平成十九年三月に最後の住民が転出した後、桶川市は、同NPOが実施した保存署名に応える形で敷地を国から購入し、現在、保存に向けて事業が進められています。
 平成二十七年五月
 看板寄贈 桶川ロータリークラブ
 文責 NPO法人 旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会

参考
NPO法人旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会

https://www.okegawa-hiko.org/


桶川飛行学校平和祈念館

昭和12年に熊谷陸軍飛行学校桶川分教場、昭和20年に特攻隊訓練基地として使用され終戦。戦後は、GHQにより進駐もあったが、その後は市営住宅(若宮寮)として2007年まで使用されていた。
その後、跡地建屋を解体して国に返還する予定であったが、保存活動もあり、桶川市として保存に方針転換。2018年から2020年にかけて、復元整備工事が行われ、2020年8月に「桶川飛行学校平和祈念館」として開館した。

桶川飛行学校平和祈念館は、当時の熊谷陸軍飛行学校桶川分教場の建物を活用し、平和を発信し、平和を尊重する社会の実現、及び地域の振興に寄与するための施設として、2020年(令和2年)8月4日に開館しました。
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場は、1935年(昭和10年)に現在の熊谷市に開校した熊谷陸軍飛行学校の分校として1937年(昭和12年)に設置されました。各地から集まった生徒はここで寝食をともにしながら、陸軍航空兵になるための飛行機の操縦教育を受け、その後戦地へ向かいました。
戦後、桶川分教場の建物は、引揚げ者のための市営住宅「若宮寮」として使用されました。2016年(平成28年)には、守衛棟、車庫棟、兵舎棟、便所棟、弾薬庫の5棟が市の文化財に指定され、2018年(平成30年)から2020年(令和2年)にかけて、これらの建物について復原整備工事を実施しました。 

桶川市 https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/soumubu/jichishinko/shisetsu_ichiran/shogai_bunka/otherfacilities/1937.html

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R402-14
昭和22年(1947年)10月28日、米軍撮影の航空写真。

荒川を挟んで、東西。ちょっと不便そうな立地。。。


「桶川飛行学校平和祈念館」散策

川越駅と桶川駅を結んでいる東武バスウエストにて、最寄りとなるは柏原バス停で下車。跡地に向かう。バスは少ない。。。

旧陸軍桶川飛行学校跡地

95式1型乙練習機(赤とんぼ)

アプローチ道路。


熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 弾薬庫と周辺施設

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 弾薬庫と周辺施設
市指定文化財 
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 弾薬庫
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 弾薬庫は、桶川分教場の時代から存在する建物の一つで、鉄筋コンクリート造平屋建て、室内の内寸が間口1.82m、奥行き1.47mほどの小さな建物です。室内の床を地面より高くすることで、湿気が上がらないように配慮されています。屋根を木造、壁をコンクリート造とすることで、爆発したときには屋根のみが引き飛ぶ構造とされています。桶川分教場は戦闘用の基地ではなく、あくまで訓練用の施設であったため、大きな弾薬庫が必要なかったものと考えられます。

飛行場(滑走路・格納庫)
 荒川の西側にある河川敷に、かつては滑走路と格納庫を備えた60万㎡ほどの飛行場があり、生徒はそこで通称「赤とんぼ」と呼ばれる九五式1型練習機に乗って操縦訓練を受けていました。当時の飛行場は残っていませんが、現在、同じ場所を本田航空株式会社が滑走路として使用しています。

境界杭
 敷地の周囲には境界を示す杭が残り、「陸軍」と刻まれています。桶川分教場の敷地は複数回にわたって買い増しされています。
  令和2年3月 桶川市

滑走路跡は「その4」で掲載。


陸軍桶川飛行学校の陸軍境界標

アプローチ道路の両脇には「陸軍境界標」が林立している。

1つ目。

2つ目。

境界標「陸軍」

3つ目。

4つ目。

5つ目。

6つ目。

7つ目。

8つ目。

9つ目。

10つ目。
門柱の脇に。

もっとあるかもしれないけど、とりあえず「陸軍境界標石」は10個を確認。

陸軍桶川飛行学校


陸軍桶川飛行学校の弾薬庫

弾薬庫は往時から残る建屋。上部は復元されている。


陸軍桶川飛行学校の防火水槽

弾薬庫の目の前に残る防火水槽。

さて、次は「桶川飛行学校平和祈念館」の敷地内にむかいます。

※撮影は2022年3月

場所

https://goo.gl/maps/gWNwrSWX2Uo1m1n4A

参考リンク

https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/soumubu/jichishinko/shisetsu_ichiran/shogai_bunka/otherfacilities/1937.html

https://www.okegawa-hiko.org/

https://www.jiji.com/jc/v4?id=okegaku15030001


関連

その3

その4

毛呂駅(昭和7年の駅本屋)

JR八高線。
文字通りに八王子と高崎を結んでいる鉄道。現在は八王子ー高麗川の南側は電化区間として電車が走り、高麗川ー高崎の北側は非電化区間として気動車(ディーゼル車)が走っている。非電化の鉄道としては埼玉県唯一。東京都内のJRとしては唯一の地方交通線。

八高線

昭和6年(1931)に、「東京府八王子ヨリ埼玉県飯能ヲ経テ群馬県高崎ニ至ル鉄道」として建設が開始。八高南線として八王子駅ー東飯能駅が開業。八高北線として倉賀野駅ー児玉駅間が開業。
昭和8年に南線は東飯能駅ー越生駅間、北線は児玉駅ー寄居駅間が延伸開業。
昭和9年3月に、南線は越生駅ー小川町駅まで延伸し、昭和9年10月6日に小川町駅ー寄居駅が延伸し、全線開通となる。

毛呂駅

昭和8年(1933)4月15日、八高線が東飯能駅ー越生駅まで開通とともに開業。
現在の駅舎は開業当時の姿を残しつつ、左側は増築なども施されている。

毛呂駅

毛筆を彫り込んだ駅名標。

三角形の屋根が可愛らしい。

座布団にぬくもりを感じる待合室。

入場券を購入しましてホームに。

いきなり、昭和感、全開ですよ。

駅長
STATIONMASTER

停第四号
驛本屋

開業 昭和八年四月十五日

建物財産標

本屋1号
昭和7年 月 日

ホーロー引きの行き先案内。
(琺瑯焼き付き)

ちょうど電車、、、もとい列車(気動車)が入線してきました。

首都圏近郊で貴重な昭和戦前の面影を残す木造駅舎。
機会がありましたら、是非に。


毛呂駅の近くには、武蔵国の古社がある。
界隈では、抜きん出た古社であり、オススメの神社でもあるので、あわせて是非に。

出雲伊波比神社

武蔵国入間郡延喜式内社・埼玉県内最古の神社建築・国重要文化財

http://jinja-kikou.net/tojyo.html#4

御祭神
大名牟遅神(おおなむちのかみ)
天穂日命(あめのほひのみこと)
品陀和気命(ほんだわけのみこと・応神天皇)
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと他16柱

出雲を中心として国土経営・農事・産業・文化を興され、全ての災いを取り除かれたオオナムヂ神、天孫のために出雲の国土を移譲する国譲りに奔走し、オオナムヂ神が杵築宮(出雲大社)に入られたのち、そのみたまをいわい祀る司祭となられたアメノホヒ命(アマテラスの御子)の二柱を主祭神とした神社である。
古くは出雲臣(いずもおみ)が祭祀する社であったという。景行天皇53年(123年)に倭建命(ヤマトタケル命)が東征凱旋の際に、景行天皇から賜った「比々羅木鉾(ひひらぎのほこ)」を神体として侍臣である武日命(タケヒ命=大伴武日)に命じて社殿を創建し、東北に向けて鎮座させたという。今も本殿内で鉾の先を東北にむけているという。
当社は宝亀3年(772)12月の太政官府に朝廷の奉幣が絶えたのを怒り雷神を率いて入間郡の正倉を焼いたとされている神社で、中世に活躍する毛呂氏や越生氏が祭祀した神社だろうとされる。
本殿建築は流造一間社で屋根は桧皮葺形式、大永8年(享禄元年=1528年)9月15日に毛呂三河守藤原朝臣顕重が再建したもので、埼玉県内最古の室町期の神社建築であり、棟札二面とともに国指定重要文化財である。
中世期には茂呂(毛呂)明神、飛来明神、八幡宮とも称されていた。ちなみに八幡宮は源頼義父子が当社を参詣後に凱旋し、八幡宮を相殿にまつったことに始まり、明治期まで二社併立していた。明治4年に八幡宮その他を合祀し明治6年に郷社列格。
当社は、埼玉県内で「流鏑馬」(11月3日)が唯一毎年奉納される神社でもある。

出雲伊波比神社
忠魂碑
招魂碑

忠魂碑は元帥陸軍大将伯爵奥保鞏謹書。

出雲伊波比神社。

※2022年2月撮影


関連(周辺)

世界無名戦士之墓

関連(駅舎)

はじめに

https://senseki-kikou.net/?p=6348

「初雁公園のラジオ塔と国旗掲揚台」(川越)

小江戸川越として著名な観光地。
小江戸といえば近世的な見どころが多数ではあるが、近代目線でも見どころが豊富。実は、川越には、大きな空襲が無かったことも幸いして、近代建築物も多数残されている。
(ゆくゆくは川越の近代建築物の散策記録も掲載していく予定だが、まだ準備中、、、)

※川越市における戦災の状況(総務省)

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_04.html

川越の「初雁公園」は、「現存2つのうち、東日本唯一現存の川越城本丸御殿」や「とおりゃんせにゆかりのある三芳野神社」などがあり、川越観光で足を運ぶ機会も多い場所。
初雁公園にある「川越市営初雁公園野球場」には、戦前のラジオ塔と国旗掲揚台が残されているというので足を運んでみた。


初雁公園のラジオ塔

ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。これらラジオ塔は「公衆用聴取施設」と称され、全国各地で人が集まるところに建設された。

初雁公園のラジオ塔は、建立年月は不詳であるが、後述する国旗掲揚台が昭和13年(皇紀2598年)6月建立であることから同年代と推定。

初雁公園野球場の一塁内野側に。
はたから見ると、野球場内にある不自然な灯籠。それでも違和感を感じさせないのは「小江戸川越」のイメージ感だからか。

前後に開口しているが、左右は壁がある。
通常の灯籠は、四方に開口しているが、ラジオ塔として音の広がりを意識していたのかもしれない。


初雁公園の国旗掲揚台

階段状のモニュメントを持つ国旗掲揚台。
初雁球場の1塁側フェンスに沿った駐車場にある。

建立は昭和13年6月。銘板には「皇紀二千五百九十八年六月」の文字をみることもできる。
高さの異なる5本の杭は、一部が色あせているが左から「青」「黄」「黒」「緑」「赤」となっている。
この5色はオリンピックのシンボルカラー。色の並びも同じく。

幻となった昭和15年(皇紀2600年、1940年)の東京オリンピック(東京五輪)を前に、盛り上がっていた地元有志の寄付でもって、オリンピックの五色を意識した国旗掲揚台が建立されたという。
なお、建立翌月の昭和13年7月に日中戦争(支那事変)の影響などもあり軍部の反対などから日本政府は東京五輪の開催権を返上している。

建立時に多額の寄付をした中心人物が前川道平氏。
川越出身で、のちの伊勢丹社長。昭和8年の第二回東京優駿(日本ダービー)優勝馬カブトヤマの馬主としても有名。

青は色あせており、わかりにくい。。。

本グランド施設ニ際シ前川道平氏ハ特志ヲ以テ金員ヲ寄與セラル
誠ニ時宜ニ適シ工備ヲ促進スルヲ得タリ
茲ニ厚ク其ノ行為ヲ録ス
 皇紀二千五百九十八年六月十日

川越市初雁公園野球場

場所

https://goo.gl/maps/3SLfJV7bwkei4A8b7

川越城本丸御殿

※撮影:2022年4月及び5月


川越関連

ラジオ塔関連

「日本の航空事始め・2」グラーデ単葉機と日野熊蔵(所沢航空発祥記念館と代々木公園)

以前に、「日本の航空事始め」として、アンリ・ファルマン機と徳川好敏に触れてました。今回は、「日本の航空事始め・その2」として、グラーデ単葉機と日野熊蔵に関して、記載してみたいと思う。


日本の航空事始め・1
アンリ・ファルマン機と徳川好敏


所沢航空発祥記念館での特別展「二人の空の開拓者 発明家日野熊蔵と航空人徳川好敏」展示は2022年3月31日で終了しました。

1910年(明治43年)12月。
代々木演習場にて、日本初の飛行に向けて準備を行っていた、アンリファルマン機の徳川好敏と、グラーデ単葉機の日野熊蔵。

実は公式記録の5日前。
明治43年12月19日の「初飛行を目的とした記録会」に先立つ、12月14日の滑走試験中、日野熊蔵陸軍大尉のグラーデ単葉機が飛行に成功し(滑走から誤って離陸?)、これが非公式な日本史上の初飛行ともされている。


グラーデ単葉機

グラーデ単葉機
80%スケール模型
所蔵:航空科学博物館

グラーデ単葉機とアンリ・ファルマン機は、今から110年前の1911(明治44)年4月に開設した所沢飛行場にその翼を並べました。
前年には代々木演習場(現在の代々木公園)において、グラーデ単葉機を日野熊蔵大尉が、アンリ・ファルマン機を徳川好敏大尉がそれぞれ操縦し、日本初飛行を記録しています。

グラーデ単葉機は、アンリ・ファルマン機のような補助翼式ではなく、竹製骨組の主翼をねじることで操縦する「たわみ翼式」です。また、アンリ・ファルマン機はグノーム社のエンジンを載せていたのに対し、グラーデ単葉機は自前のグラーデ社製空冷4気筒エンジンを載せていました。

この80%スケール模型は航空科学博物館(千葉県芝山町)が2010年に同館の企画展「日本の初飛行100年展」のために制作したものです。

操縦席は、エンジンの直下の布張りの椅子。
正直言って、怖い。


日野熊蔵

日野 熊蔵(ひの くまぞう)
1878年6月9日-1946年1月15日陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中佐。
発明家でもあり、日本航空界黎明期のパイロットの1人でもある。
1910年(明治43年)4月11日、臨時軍用軽気球研究会から徳川好敏大尉とともに操縦技術習得のためフランスのアンリ・ファルマン飛行学校エタンプ校に派遣され5月末に入学。その後7月25日に単身ドイツに移動しヨハネスタール飛行場で操縦技術を学びグラーデ単葉機を購入。
1910年(明治43年)12月14日、代々木錬兵場(現・代々木公園)において滑走試験中の日野熊蔵は飛行に成功し、これが非公式ながら日本史上の初飛行とされる。
1910年(明治43年)12月19日には「公式記録飛行会」が行われ、日野熊蔵・徳川好敏の両名が初飛行に成功した。これが改めて動力機初飛行として公式記録となる。
飛行順番として(華族であり清水徳川家の名門であった)徳川好敏が最初に飛んだために「アンリ・ファルマン機を駆る徳川大尉が日本初飛行」として記録に残ることとなる。

日本初飛行以降、順調に昇進する徳川好敏に対して、日野熊蔵は陸軍上層部と折り合わずに左遷。1918年(大正7年)に陸軍歩兵中佐を最後に陸軍を去り、民間で発明家となる。
1935年(昭和10年)には萱場製作所が実用化を目指したラムジェットエンジン搭載の無尾翼機、「HK-1(HKは日野のイニシャル)」の開発にも参加している。

1945年(昭和20年)、東京大空襲により日野は自宅と共に多くの発明品の資料の全てを焼失。敗戦後の1946年、栄養失調により死去。
1974年(昭和49年)、東京代々木公園に胸像と「日本初飛行の地」の碑が建立。
日野の胸像は1964年(昭和39年)建立の徳川の胸像と並んで設置され、碑文には日野・徳川の両名が日本初飛行の人物として顕彰されている。

日野熊蔵生誕の地、熊本県人吉市に建つ記念碑。人吉は戦跡的にも見どころ豊富で気になる地。いつか訪れたい。。。

日本初飛行
日野熊蔵生誕之地


日本の空のパイオニア
 日野熊蔵は、明治11年(1878)6月9日この地に生まれ、明治43年(1910)12月、東京代々木におけるわが国初の飛行テストに、ドイツ製ハンスグラーデ機を操縦し、フランス製アンリファルマン機に搭乗した徳川好敏氏とともに、日本最初のパイロットとなった。
 以来終生飛行機の研究と開発を続け、昭和21年(1946)67歳で逝去した。

 日野氏の生誕120年を記念してこの碑を建てる。

 平成10年6月9日 日野熊蔵顕彰会


日野熊蔵之像

以下は、代々木公園にて。

日野熊蔵之像
 美土路昌一書

限りなき大空
限りある人生
限りなき代々の祖国のため
限りある現世の定命をささぐ

翁は熊本の産 豪放磊落英仏独語に通じ 数理に秀で選ばれて 独逸に飛行機操縦を取得し一九一〇年十二月一九日此地に於いて発動機の不調を克服してグラーデ式を駆り一分間一〇〇〇米の飛行をした不屈の精神は次代の青少年の範とすべきである 
 昭和四一年四月二三日
  松野頼三

徳川好敏之像と日野熊蔵之像が代々木公園に並んで建立されている。

日本航空の父
徳川好敏之像
 井上幾太郎書

誠実 謹厳 航空に生涯を捧げた この人が明治四十三年(一九一〇年)十二月一九日 この地代々木の原でアンリ・ファルマン機を操縦しわが国の初飛行を行い飛行時間四分 飛距離三〇〇〇米 飛行高度七〇米の記録を創造して日本の空に人間飛翔の歴史をつくった 
 昭和三九年四月十七日 
  赤城宗徳 
 像作者 鋳金家 市橋敏雄

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

日日本航空発始之地
陸軍大将井上幾太郎書

日本初飛行の地
 1910年(明治43年)12月19日, 当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式複葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
 継いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単葉機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。これが日本航空史上、最初の飛行である。
日本航空発始之地記念碑
 建立 朝日新聞社
 設計 今井兼次
 彫刻 泉二勝麿
徳川好敏之像
 建立 航空同人会
 彫刻 市橋敏雄
日野熊蔵之像
 建立 航空五〇会
 彫刻 小金丸義久
 東京都 昭和49年12月

碑文
紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社

日本初飛行離陸之地

場所

https://goo.gl/maps/ZivgUwnzK7cbKwEq8


新宿にも日野熊蔵ゆかりの地がある。

国産飛行機発祥の地

新宿区指定史蹟
国産飛行機発祥の地
所在地 新宿区西五軒町34番地
指定年月日昭和60年12月6日
  明治42~43年(1909~1910)にかけて 日野熊蔵大尉により 最初の国産飛行機 「日野式一号機」が製作された林田商会 (のち日本醸造機株式会社) 跡地である。
 明治時代末期, 飛行機が欧米各国で長足の進歩を遂げているのを見て 日野大尉はその将来性に着目し, 全くの独力で英・米・独・仏の文献を参考に 飛行機用発動機, および飛行機の設計と製作に着手し, 明治43年2月この地で完成した。
 一層式で翼長8メートル, 全長3メートル, 発動機はニ衝程空冷式8馬力を搭載し, 完成まで3ヵ月の期間と約1900円を費やした。
 大尉はこの飛行機に自ら搭乗して外山ヶ原で試験飛行を実施した。
 平成3年11月  東京都新宿区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/aPi4WVLtspFVXpsK7


黎明期の航空機

所沢航空発祥記念館にて。

アンリ・ファルマン1910年型飛行機(フランス)
日本初の公式記録飛行に成功した飛行機
明治43年12月19日、代々木演習場で行われた日本初の公式飛行に、徳川好敏大尉の操縦によって初飛行に成功した飛行機。同大尉が飛行研究のためにフランスに留学した時に購入した。初飛行の後、所沢飛行場で訓練飛行などに使われていたが大正5年頃に引退後、所沢の航空参考館に展示された。第二次大戦後、一時アメリカにわたっていたが、1960(昭和35)年、日米修好100年、日本の航空50年の折に、日本に返還された。

ハンス・グラーデ1910年型飛行機(ドイツ)
アンリ・ファルマンと共に公式記録飛行に参加
臨時軍用気球研究会の日野熊蔵大尉が、飛行機研究のためドイツに留学した時に購入した飛行機。明治43年12月19日に代々木練兵場で行われた公式飛行では、徳川大尉操縦の「アンリ・ファルマン機」と共に、日野大尉の操縦によって初飛行に成功した。その後、所沢飛行場で操縦訓練に使われたが、翌44年4月9日、訓練中に墜落した。乗員は助かったが機体が壊れ、日本初の飛行機墜落事故になった。

ブレリオXI bis飛行機(フランス・1911)
日本記録を更新した高性能単葉機
明治43年、臨時軍用気球研究会の委員、徳川好敏大尉がフランス留学中に「アンリ・ファルマン機」と共に現地で購入した飛行機。研究機として最初に購入された4機種中では最も高性能で、対空、距離、高度の日本記録を次々に更新した。所沢飛行場では主に偵察訓練に用いられていたが、大正2年3月28日に青山練兵場で行われた公開飛行の帰りに空中分解を起こして墜落、登場していた木村、徳田両中尉は脂肪、日本で初めての航空殉職者となった。

ライト飛行機(ドイツ・1910)
ドイツで作られたライト兄弟設計の飛行機
明治43年、日野熊蔵大尉が、ドイツに留学した時に「ハンス・グラーデ機」と共に購入した飛行機。世界で初めて動力飛行に成功したアメリカのライト兄弟によって設計され、ドイツで滑走するためのゴムタイヤを付けて生産された。明治44年3月に日本に到着し、4月に日野大尉によって所沢飛行場で初飛行が行われた。

会式一号飛行機(日本・1911)
所沢で富んだ日本初の国産軍用機
明治44年、徳川好敏大尉の設計・制作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功した「アンリ・ファルマン機」を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作ることを目的として、所沢飛行場格納庫内で制作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や空中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが生産された。

※撮影:2022年3月


関連

飛行神社・二宮忠八

戸山(戸山ヶ原の射撃場で飛行試験)

代々木(代々木練兵場で初飛行)

稲毛(民間航空発祥の地)

航空神社

日本初の航空犠牲者

さいたま市に残る「奉安殿」流用建造物

大宮浦和のさいたま市に残っている、かつての奉安殿を流用した建造物を求めて散策してみる。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、のちに被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされているものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社の社殿などに再活用もされ、現在に残っている例も多い。


宮原町二丁目自治会館神輿蔵
宮原尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市北区宮原町。
昭和14年建立。流造一間社。
宮原尋常高等小学校の奉安殿として建立された。
戦後、建築後6年しか経過していないことなどもあり、小学校から撤去するには惜しく、そのまま宮原二丁目の公民館脇に移築し、神輿等祭礼具の収蔵庫として活用することとなった。

屋根には、奉安殿のころから変わらずに、菊花紋章が掲げられたまま残されている。

宮原尋常高等小学校奉安殿について

場所

https://goo.gl/maps/W1Ng1ATYhVDVosZa9

※撮影:2022年2月


日進神社境内門客人神社
日進尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市北区日進町。
昭和8年頃建立の日進尋常高等小学校奉安殿。
日進尋常高等小学校(現・日進小学校)の奉安殿を戦後に移築し、日進神社境内社の門客人神社となった。

日進神社。
創建年代は不詳。大宮氷川神社からの勧進。日進村の村社。

場所

https://goo.gl/maps/4ByoXWN1pPEnBPcf9

※撮影:2022年2月


並木氷川神社本殿
三橋尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市大宮区三橋。
昭和13年頃建立の三橋尋常高等小学校奉安殿。鉄筋コンクリート造。
三橋尋常高等小学校(現・三橋小学校)の奉安殿を戦後に移築し、並木氷川神社本殿となった。

並木氷川神社。
創建年代は不詳。並木村の村社。

神社合祀の記念碑と、日清日露戦役記念碑。

日清日露戦役記念碑の碑銘は、山県有朋。

場所

https://goo.gl/maps/TmxmeiehtyKw3bb77

※撮影:2022年2月


楢姫稲荷神社本殿
大宮南尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市大宮区吉敷町。
昭和7年頃建立の大宮南尋常高等小学校奉安殿(大宮尋常高等小学校南分校奉安殿)。
大宮南尋常高等小学校(現・大宮南小学校)の奉安殿を戦後に移築し、楢姫稲荷神社となった。

場所

https://goo.gl/maps/nZ3rrSCQXNZAgwMP8

※撮影:2021年7月


起志乃天神社
浦和第一尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市浦和区岸町。
昭和7年頃建立の浦和第一尋常高等小学校奉安殿(浦和第一国民学校奉安殿)。
浦和第一国民学校(現・さいたま市立高砂小学校)の奉安殿を昭和二十一年に譲り受けて当社の社殿とした。

起志乃天神由緒
菅原道真卿を祭神とする太宰府の天満宮は文教の祖神として崇敬のまとであるが、天歴元年後村上天皇が京都の北野に天満宮を造営され一条天皇の車駕行以来歴聖の行幸二十数変に及び世人これを北野行幸と呼んだ。
當天満宮は青山家祖先藤原朝臣忠勝が京都より移り住むに當り永仁六年に北野より勧鎮座したものであり、今から約六百八十数年前である。
尓来当地方の天神様として広く敬愛され幾星霜を経た、明治四年名主青山貞勝により石祠殿が建立された昭和六年青山治作他世話人により石祠殿の修理があった。
その後住人の移り変りと支那事変、大東亜戦争と騒乱の時代を迎え文教の守護神である當社は次第に荒廃の度を加えた。
昭和二十一年当町内相川、佐久間、辻村、内田等の諸氏が実行となり高砂小学校にあった旧奉安殿の建造物を当処に移築し石祠は新社殿に内臓した。さらに境内地は浦和市児童遊園地に指定を受け今日に至ったものである。
昭和五十五年社屋の修築と周辺の整備を行うに当たり地域在住諸氏の協賛に感謝しここに由緒を誌す。
   昭和五十五年二月
  起志乃天神奉賛会
    会長 相川曹司
     他 役員一同

場所

https://goo.gl/maps/s6a7HPhFe7t44SBEA

※撮影:2020年9月


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