海軍の碑記念行事(海軍記念日)

平成29年及び平成30年撮影

「海軍の碑」記念行事
(横須賀水交会)

5月27日。戦前の「海軍記念日」に。
横須賀はヴェルニー公園の片隅にある「海軍の碑」にて。

毎年、5月27日の午前11時30分頃に、午後から行われる「日本海海戦記念式典」(三笠)に先立ち、ヴェルニー公園にて横須賀水交会主催 「海軍の碑」 記念行事が執り行われている。

記念行事の前には、水交会有志で「海軍の碑」の清掃も行っております。
海軍記念日に行われる、往時を偲びし記念行事。

平成29年撮影

「海軍の碑」記念行事
横須賀水交会

式次第

国旗及び自衛艦旗掲揚
海軍英霊に対する黙祷
「海軍の碑」建立趣旨朗読
横須賀水交会会長挨拶
記念講話
鎮魂譜(同期の桜~巡検ラッパ~海行かば)
国旗及び自衛艦旗降納

午前11時30分から30分間

海軍の碑 建立趣旨

海軍の碑 建立趣旨
 浦賀に黒船が現れ、鎖国の夢を破られた幕府は、ここ横須賀の地に製鉄所を建設し、近代海軍の創設を企画した。
 その後、明治維新により明治政府が樹立され、政府は、西欧諸国に比し一世紀以上の遅れを取り戻すべく、わが国の近代化に着手した。
特に海軍の整備が重要視され日清及び日露両戦役を経て、わが国の海軍は次第に整備充実され、世界三大海軍国の一つとして、その地位を占めるに至った。
 こうした近代海軍の創設及び成長という歴史の流れの中において、横須賀はその最枢要基地として、かつての一寒村からわが国屈指の軍港都市となり発展を遂げることになった。
 しかしながら、その海軍も昭和二十年の太平洋戦争終結と共に八十年に亘る歴史を閉じることになった。
 海軍終息から五十年という節目に当たる本年、明治以来太平洋戦争終結までこの地にあった日本海軍の歴史、並びに太平洋戦争において亡くなられた多くの人々を偲びつつ、またわが国の永遠の平和を希求するため、この記念碑を建立する。

 なお、本記念碑は全国の海軍関係者及び有志から寄せられた浄財によるものである。
 平成七年十一月十七日
 海軍の碑建立委員会

横須賀水交会 「海軍の碑」建立趣旨PDF

http://y-suikoukai.sakura.ne.jp/page15/1505/kaigun_no_hi_konryu_shushi.pdf


平成29年度「海軍の碑」記念行事 (横須賀水交会)

「鎮魂譜(同期の桜~巡検喇叭~海行かば)」
拝聴中
行事参列者は「人生の大先輩の方々」が多いので無理せずに、国旗・自衛艦旗掲揚及び黙祷の後に日陰に移動してます。

平成29年 海軍の碑記念行事 横須賀水交会

海軍記念日。

海軍の偉業を偲び、散華された御英霊に対する追悼の念と平和の祈りを捧げつつ。

平成30年 海軍の碑記念行事 横須賀水交会
平成30年 海軍の碑記念行事 横須賀水交会

今年(令和元年)はタイミングが悪く参列できないのが非常に残念です・・・


横須賀水交会 平成30年

http://y-suikoukai.sakura.ne.jp/page18/201805/20180527/20180527_kaigun_no_hi.html

横須賀水交会 平成29年

http://y-suikoukai.sakura.ne.jp/page17/201705/170527_kaigun_no_hi.html


日本海海戦記念式典(5月27日)

毎年、5月27日に日本海海戦記念式典が行われております。
公益財団法人 三笠保存会 主催
記念艦「三笠」にて

令和元年(2019)は「日本海海戦114周年記念式典」ですね。
残念ながら都合により参列できませんが。


過去の様子

平成30年

日本海海戦113周年記念式典

記念艦三笠にて(三笠保存会)
平成30年の式典には防衛大臣( 当時は小野寺氏)も祝賀にいらっしゃいました。

平成29年

日本海海戦112周年記念式典

平成29年5月27日は日露戦争日本海海戦112周年。
横須賀の記念艦「三笠」にて記念式典がございましたので参列してきました。

駐車場には海上自衛隊横須賀音楽隊の楽器輸送トラックもおりました。

記念式典ののちに甲板にて海自音楽隊の演奏もあります。
記念式典は13時30分より講堂にて。

「日本海海戦112周年記念式典」 (公益財団法人三笠保存会)

記念式典は講堂で行われます。
受付(三笠保存会会員・事前申込制)からダイレクトに講堂に。
実は講堂に入るのも初めてだったりします。

式典が始まるまでの待ち時間に「記念呈茶」が行われていたので戴いてきました。

こっ…これはっ!
「Z旗のお茶菓子(餡)」でした。
ほんのりと拡がる甘さがステキでお茶も美味しく頂戴致しました。
ありがとうございました。

日本海海戦記念式典

13時30分 記念式典開始

式次第
開式の辞
国歌斉唱
黙祷
式辞
祝辞
来賓紹介
祝電披露
閉式の辞


国歌斉唱

海上自衛隊横須賀音楽隊の演奏での斉唱。
ついで日露両軍犠牲者に「国の鎮め」曲で黙祷を捧げる。

式辞祝辞

例年、
三笠保存会会長が式辞を。

祝辞は、
海上自衛隊横須賀地方総監
米横須賀海軍基地司令官
横須賀市長

来賓は、
各国大使館付武官や海自関係者、県市議会議員、東郷平八郎の御係累の皆様など。


講堂での記念式典は13時30分から14時10分まで。
14時20分からは甲板にて海上自衛隊横須賀音楽隊の演奏を堪能。
演奏は式典参列者に限らず三笠入艦者も見学可能。

「日本海海戦記念行進曲」の演奏。名曲です。

海上自衛隊横須賀音楽隊

14時20分から14時50分までは 上甲板にて海上自衛隊横須賀音楽隊の演奏を堪能 「日本海海戦記念行進曲」
「行進曲軍艦」
「海行かば」
など

日本海海戦記念式典

15時から16時までは記念祝宴。
立席パーティです。 好き勝手に飲み食べをすれば良いよっという空間。

そういえば、一瞬だけ小泉進次郎議員がいらしておりました。
横須賀の式典ですから、ね。
むちゃくちゃ忙しい中で、「三笠」の記念式典にお越しいただきましてありがとうございます!

16時に記念祝宴終了。

5月27日「海軍記念日」

日露戦争・日本海海戦を偲びし日。
歴史を刻んだ帝国海軍を偲びし日。


1905年(明治38年)5月27日
日本海海戦

東郷平八郎の旗艦三笠をはじめとする連合艦隊が対馬沖にてバルチック艦隊と海戦

翌5月28日
ロシア艦隊降伏により日本海海戦は終了し日本の勝利が確定 


日の本乃
 海にととろく
  かちときは
御陵威かしこむ
 聲とこそしれ
    東郷平八郎(花押)
昭和42年5月27日建立。清水多嘉示 作

皇國興廃在此一戦

「皇國興廃在此一戦」
元海軍大将 長谷川清書 (大正七志会・七洋会 昭和43年6月1日建之)

三笠公園
本公園は昭和36年5月27日完成を見たもので公園の名称はこの一角に保存されてある記念艦三笠に由来するものである。
三笠艦は日本海々戦-1905年-の際わが連合艦隊旗艦として参戦し時の司令長官東郷平八郎の大号令「皇国の興廃此の一戦に在り云々と共に世界海戦史上不滅の名をとどめた。

行進曲軍艦碑

行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長瀬戸口藤吉氏によって作曲された。
日本の勃興期における行進曲として親しまれ、未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである。
世界3大行進曲の一つとして、音楽史を彩る稀有の名曲で、作曲されてから一世紀を迎える年にあたり瀬戸口軍楽長がこよなく愛し、青春の日日を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである。
行進曲「軍艦」記念碑建立協賛会
(平成8年4月に建立。平成15年3月横須賀水交会によって修復)


三笠

東郷平八郎司令官と幕僚たち

東郷神社 平成28年5月27日

1905年(明治38年)5月27日
日本海海戦

東郷平八郎の旗艦三笠をはじめとする連合艦隊が対馬沖にて、バルチック艦隊と海戦

皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ 各員一層奮励努力セヨ

Z 旗が翻る

1905年(明治38年)5月28日。
会戦翌日。

ロシア戦艦・バルチック艦隊旗艦「ニコライ1世」の降伏により日本海海戦は終了し日本の勝利が確定した。

勝利が確定した5月28日が 東郷神社の例大祭。


靖國神社の大灯籠 三笠レリーフ


「東郷ビール」(東郷平八郎ビール)
「Z旗ビール」
「焼酎・東郷」(薩摩・麦)
「横須賀・海軍ラムネ」(横須賀海軍工廠since1903)

連合艦隊解散之辞

東郷筆。起草は秋山真之。

神明は唯平素の鍛練に力め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を褫ふ。 古人曰く勝て兜の緒を締めよと。

横浜海軍航空隊(浜空)と飛行艇の名残散策

平成28年6月

横浜海軍航空隊(浜空)の遺跡として国内最大級のものが残っている。

「飛行艇格納庫」

浜空は日本最初の飛行艇部隊であったのだ。
日本が誇る九七大型飛行艇や二式大艇を収納した大型格納庫。
ワクワクしますね…

現在の神奈川県警第一機動隊の敷地が横浜海軍航空隊の一部であり、そこで当時の飛行艇格納庫=第三格納庫が現在も補修されながら使用されている。

つまり、アレな場所なわけです…行ってみましょう…


位置関係


897-C4-38
1944年10月14日‐陸軍撮影写真を加工
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 より

南部市場駅

最寄り駅は横浜シーサイドライン「南部市場駅」


横浜海軍航空隊(浜空)
第三格納庫

横浜海軍航空隊(浜空)の第三格納庫。
補修され、見た目は奇麗な巨大倉庫。
道路から遠目に見学することをおすすめします。

監視カメラが働いておりますのであまり無茶はしないほうが賢明です。

GoogleMap航空写真からキャプチャ。


富岡総合公園

次いで富岡総合公園へ。
先ほどの格納庫の裏側の山の手にあたります。無茶苦茶広いです。


横浜海軍航空隊(浜空)隊門跡

富岡総合公園の南西側にあたる。

横浜海軍航空隊隊門跡。

浜空。
標札は後世のものではあるが往時の門柱に違和感なくおさまり、ここに横浜海軍航空隊の名残を伝えている。

静かに往時の名残を物語っていました。


横浜海軍航空隊

略称は浜空。 大日本帝国海軍初の飛行艇部隊として昭和11年(1936)10月1日に横浜海軍航空隊が開設。横須賀鎮守府所属。 1939年11月15日に南洋諸島を担当する第四艦隊附属となり内南洋哨戒に従事。

昭和12年(1937)九七式飛行艇が制式化。以後終戦まで215機生産。 昭和16年(1941)二式大艇が制式化。輸送用晴空含め167機生産。 約400機を誇っていた海軍飛行艇部隊は終戦時には稼働機3機のみとなる。内1機現存。

海軍航空隊で初めてレーザー索敵を運用し、水上機の利点を活かして南洋の空を索敵に従事。 運用のしやすさから最前線にも投入され、そして消耗していった部隊。

そのよすがをたどる。

海軍飛行艇部隊は開戦前から早くも南洋に展開されていた。

横浜航空隊は昭和16年9月に本部をマーシャル諸島ヤルートに置き周辺諸島に展開。開戦後はラバウルへ進出。
東港航空隊(台湾)は昭和16年11月にパラオ基地に展開。のちにインド洋アンダマンへ。

昭和17年(1942)8月7日、ラバウルから最前線のツラギに全力展開していた浜空は米軍に強襲上陸され係留中だった飛行艇等全機が駐機場で破壊、司令宮崎重敏大佐以下玉砕。

海軍飛行艇部隊の要たる浜空はソロモン海に全滅…
(昭和17年10月部隊再建)


浜空の碑
(富岡総合公園・旧横浜海軍航空隊基地)

題濱空
大鵬渡海奏奇功
離島守防意気隆
衆寡難勝嗟惨々
至誠不抜憶濱空

昭和四十六年十月二十一日
ソロモン・ガブツ島ニ於テ
草鹿任一 花押

碑裏面

浜空の碑
この地に原隊を有せし飛行艇隊元横浜海軍航空隊は昭和十七年八月七日未明南太平洋ソロモン群島ツラギに於いて米軍の反攻上陸を受け二晝夜にわたる死闘の末宮崎重敏司令外五百余名全員玉砕せり
これらの人々の冥福よ恒久平和を祈念してこの碑を建立す
 昭和61年4月吉日

富岡総合公園。
旧・横浜海軍航空隊基地跡。

浜空神社跡の真向かいに鎮座している慰霊碑。
ソロモンの海で散った横浜海軍航空隊を偲ぶ。

実は終戦時に日本軍人の手で日本の空を飛んだ最後の日本軍機は「二式大艇」(二式飛行艇)だった。
昭和20年11月11日、残った1機を米軍に引き渡す為に詫間海軍航空隊(香川県)から横浜基地に空輸され、この横浜の地にて二式大艇は米軍に引き渡された。

「最後の飛行艇」日辻常雄
水上機・飛行艇畑一本を歩み海軍飛行艇部隊とともにあった日辻氏(詫間空飛行隊長・海軍少佐)は、まさにこの米国へ引き渡された二式大艇で最後に日本の空を飛んだ人物。飛行艇好き必読の本。

この横浜基地から米軍に引き渡された「最後の二式大艇」(二式飛行艇/T-31号機/Tは詫間空/昭和18年3月製造第26号機)は返還運動もあり1979年に笹川良一氏の尽力により「船の科学館」にて引取され展示。
2004年以降は海自鹿屋基地にて展示されている。


二式大艇(二式飛行艇)

「船の科学館」に在りし日の彼女。2003年撮影。
※現在は鹿児島鹿屋に展示

連合国コードネームEmily。
「恐るべき機体」「空飛ぶ戦艦」「全世界の飛行艇に君臨する王者」

飛行艇技術では日本が世界に勝利したと讃えられ数々の勇名を誇る。

帝国海軍の飛行艇の伝統は、海自PS-1/US-1/US-2へと受け継がれ…

船の科学館、在りし日の姿。(2003年撮影)

鹿児島の鹿屋には行ったことがなく。
いつかは行かねばなるまい土地です・・・。

筑波空記念館には二式大艇のプロペラエンジンの遺品もありました・・・。

大艇ちゃん・・・。

さて、脇道にそれ過ぎましたね。

横浜海軍航空隊(浜空)は海軍飛行艇部隊の嚆矢でもあり二式大艇ゆかりの場所でもあるため、これもよすがを偲ぶきっかけの一つとして。

余談ついでに。
二式大艇は居なくなり展示も宗谷だけになった船の科学館ですが二式大艇にまつわる冊子が売っています。

これ、写真豊富で修復前後や艇内部の様子などもあり、頒布300円の癖して凄く良い冊子です。

話の筋を戻して富岡総合公園に。
この地に平成20年春迄、浜空神社が鎮座していた。

現在は追浜の雷神社に遷座。当地は浜空神社跡として鎮魂碑がある。


浜空神社跡

浜空神社由来

昭和十一年十月一日飛行艇隊の主力として横浜海軍航空隊が当地に開設された。
その守護神として造営されたのがこの浜空神社である。

昭和二十年八月十五日大東亜戦争終結後当航空隊跡地は横浜市富岡総合公園として生れ変ったのである。
浜空会では特に願い出て戦没者の鎮魂と恒久平和を祈念して浜空神社の修復復興をはかり全海軍飛行艇隊の戦没者殉職者約二千柱の御霊を合祀した。
横浜航空隊は浜空神社を中心とした広大な陸上の敷地と現在埋立てられた根岸湾水上の飛行艇発着場を専有していた。
隊員約一千名大型飛行艇二十四機を有する海軍最大の飛行艇専門航空隊としてその威容を誇ったものである。
今なお隊門附近の桜並木と飛行艇大格納庫が当時を偲ぶ面影を残し訪れる者に静かに語りかけてくれる。
時局の推移に伴い横浜航空隊から新たに東港航空隊が分立した。
昭和十六年十二月八日大東亜戦争勃発するやこの両隊は直ちに第一線に出動した。
引続き第十四航空隊対潜専門部隊輸送教育等各精鋭飛行艇隊が横浜空を母体として誕生し第一線に又後方に配備されその強大な航続力を発揮して洋上大遠距離の哨戒・攻撃・輸送・救出・作戦等を展開しハワイ・印度・アリューシャン・豪州・ソロモンにわたる広大な戦域を駆け巡って勇戦奮闘した。
作戦上部隊名を八〇一空(横浜)八五一空(東港)八〇二空(十四空)九〇一空(対潜)等に変更し戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して沖縄攻防戦に死闘を演じ満身創痍全力を尽し果たして戦の幕を閉じたのである。
中でも横浜航空隊はソロモン最前線のツラギに進攻作戦中強力な敵の反撃をうけて昭和十七年八月、宮崎司令官以下三三八名が壮烈な玉砕を遂げたのである。

富岡のこの地は、かくの如く誇りある海軍飛行艇部隊発祥の歴史をもっているのである。
この事実を永く後世に語り継がんが為、ここに記念碑を建立する次第である。

昭和63年1月 海軍飛行艇会 建立

鎮魂
海軍飛行艇隊

石碑正面のシンボルマークは飛行艇に音楽終止符を織り込み「休める飛行艇」を意味する「濱空会」の印。

海軍飛行艇部隊の犠牲者に。
慰霊と鎮魂、そして感謝を。

かつてこの地は浜空神社であった。

が、管理する世話人の老齢化により神社を維持する事が難しくなり、この浜空の地から横須賀空のあった追浜の雷神社に遷座し、今後の管理を委ねるという苦渋の選択があった・・・。

濱空神社の碑

此処に横濱海軍航空隊の戦没者、物故者二千余柱の英霊をお祀りしていた「濱空神社」がありました。
名称は、古事記の「石楠船神」又の名「天鳥船」に因み、鳥は水鳥のように速く進むという意味の「船神」に由来するものです。
昭和十一年十月一日、この地に我が国における飛行艇部隊の本部として横濱海軍航空隊が開隊され、以来「九七式大艇」や昭和十七年には世界最優秀艇と謳われた「二式大艇」が開発され隊員は日夜猛訓練を続け、先の大戦におきましては華々しい戦果を挙げ又の多くの隊員が祖国のために散華されました。
毎年四月と前線部隊がつらぎ島で玉砕された八月を記念して生存隊員並びに関係各位により、濱空神社で慰霊祭を行い、 英霊に対し、鎮魂と慰霊の誠を捧げて参りましたが、戦後六十三年を閲し神社の社屋の老朽化と境内の清掃などの維持管理に当たる世話人の老齢化により、誠に残念ではありますが濱空神社を今後も維持管理することが不可能となりましたので、平成二十年四月六日の春の慰霊祭を最後に神社の社屋は追浜本町雷神社に移築して今後の維持管理をお願いし、神社の跡地にこの石碑を建立することになりました。
石碑正面の記号は、飛行艇の記号に音楽の終止符を織り込み「休める飛行艇」を意味する濱空会のバッジです。
此処に謹んで英霊に対して鎮魂の誠を捧げ碑文を賦します。

平成二十年八月吉日  
遷座先 横須賀市追浜本町一-九 雷神社
世話人代表 加藤亀雄

浜空神社跡。この地に訪れる前週には追浜の雷神社を参拝し遷座先の浜空神社にも拝していた。
まだ浜空の地を訪れた事なかった私は、どうしてもこの元鎮座地に訪れたかったのだ。
ようやくこの地で手を合わせることが出来ました。 海軍飛行艇部隊の嚆矢たる地にて…


浜空神社
(遷座先の横須賀追浜・雷神社境内)

追浜の雷神社境内には「浜空神社」が鎮座。
正確に言うと遷座してきた。

浜空とは横浜海軍航空隊。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊の展開されていた追浜の地に、わけあって浜空神社が遷座してきたのだ。

維持の難しい性質の神社であることはわかります。特に戦友会や遺族会を軸とする場合は老齢化からは逃れられず。この場所での維持管理が難しいのであれば理解有る神社に遷座して管理を委ねる。こうやって遷座先でも変わらずに慰霊祭祀が行われる事は何よりも有難い事です。

「浜空神社」
昭和13年に浜空犠牲者を祀る鳥船神社として横浜富岡に創建。
昭和56年に鳥船神社跡地に浜空神社を再建。
平成20年に維持困難となり追浜空関係者の尽力により遷座。
遷座を機に、追浜空犠牲者を合祀。

浜空の地では毎年4月に慰霊祭が斎行されております。

水交会の平成28年盛夏号 「浜空鎮魂の碑」慰霊祭の記事。
浜空神社は雷神社に遷座しましたが、鎮魂の碑でも引き続き慰霊祭が行われており。 慰霊顕彰の火を絶やすことなく…。


公園の奥に。

富岡総合公園内に「海軍の横須賀水道関連施設遺構」があるという。
名前もズバリの浜空上広場から、もしや往時からの石段か?と思わせる古びた石段をゆく。

海軍・横須賀水道関連施設遺構

道?…道のような草むらをかき分けていくと、階段?…だった斜面が。

どうやらここは夏に来てはダメです。ヤブ蚊が凄いです。冬に来たいね。もう遅いけどw

石段跡を上ると不思議な空間が。
通気管のようなものと、もはや用途のよくわからない塔状の構造物が林立しています。

富岡総合公園内「海軍・横須賀水道関連施設遺構」
通気管のようなものを覗いてみます。
ポケットライトが手元にありましたので照らしてみると水が反射。
この下には貯水空間が残っている雰囲気。

この塔状構造物は全くもって何かよくわかりません。
6本ほど林立してました。

封鎖されている小屋は揚水ポンプ室跡?らしい。
あとはコンクリ基盤が二箇所。

まあ、とにかく藪蚊がすごいです。
やっぱ冬に来るべきですね。この手の場所はw

富岡総合公園内には海軍標石も残っているらしいですが、どうにも藪蚊との戦いで疲れきっていたので標石探しはやめておいて「見晴らし台」を目指す。

ちなみに先ほどの水道施設は多目的運動広場の右奥の方でした。


富岡総合公園見晴らし台。

風景をみるわけではなく「格納庫」を見る・・・うん、やっぱり冬に(

横浜海軍航空隊名残の「第三格納庫」を上からちょっとだけ見下ろす。

富岡総合公園見晴らし台。

第三格納庫の左側に広がる空間は第二格納庫跡地とのこと。 空き地が広がる。

富岡総合公園をあとにして南部市場駅に向かう途中。

さきほどの第二格納庫跡地を近くで見てみる。

日本飛行機

奥に見える工場は「日本飛行機 (ニッピ)」
戦前は旧海軍用航空機を製造しており局地戦「秋水」も製造していた。

シーサイドラインの車窓から「日本飛行機」(日飛/ニッピ)の工場群を眺める。

日飛の工場、往時の建屋が残っているかどうか、立ち入りできないけど。

日飛の初代社長は加藤亮一(海軍中将)。
そして二代目社長が堀悌吉(海軍中将)。堀悌吉といえば山本五十六の兵学校同期にして主席卒業。海軍軍政の将来を期待されるも大角人事で予備役…

http://www.nippi.co.jp/history/index.html

http://www.nippi.co.jp/history/history1940.html


場所は変わって根岸に。飛行艇つながり。

根岸飛行場跡
(大日本航空横浜水上飛行場跡)

現在は往時を物語る案内看板のみが残る。
横浜海軍航空隊の北側、昭和15年(1940)に大日本航空株式会社により日本初の飛行艇専用民間飛行場が作られた。

根岸飛行場跡
 昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社 により日本初の飛行艇 専用民間飛行場 が作られました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機 製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン 経由パラオ に向け飛び立ちました。
 発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
 昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇 が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26~64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
 97式大艇の最終飛行は終戦後昭和20年(1945)9月の台湾向け紙幣の輸送で、2式大艇は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の託間基地からここに飛来したのが最後です。
 根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。

97式大艇
2式大艇「晴空」型
イラスト・小川利彦

磯子区根岸地区連合町内会
横浜磯子ライオンズクラブ 
磯子区郷土研究ネットワーク

大日本航空株式会社は昭和15年に97式飛行艇で根岸からサイパン経由パラオに定期便を展開。南洋諸島と本土を結ぶ夢の航路であった。
そして戦中は海軍徴用で南方輸送航路として展開。

位置関係

「根岸飛行場跡」
当時、水上飛行場の隣にあった「動物検疫所」。
今も「農林水産省動物検疫所」として往時と変わらぬ場所に往時と変わらぬ役目で施設が残っていた。

「根岸飛行場跡」
大正12年関東大震災の復興後に石積護岸されたという往時と変わらぬ姿で、動物検疫所の脇を流れる掘割川。(土木学会選奨土木遺産に認定)

橋の脇には昭和3年「八幡橋親柱」も残されている。

さきほどの橋は「八幡橋」。

八幡様が鎮座している。
八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

近在の「根岸八幡」が元は当地に鎮座しており、現在地に遷座後( 明和3年1766)の空白地に当社が創建。

狛犬の表情がとても豊か。
大正8年

こちらの狛犬さんは何かを咥えていますね。
兎のようにもみえますが・・・。

御大典記念碑(昭和天皇陛下即位記念碑)

八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

このひときわに大きな球体が境内で目につきます。 一瞬「機雷」?とも思いましたが、どうやら「ブイ(浮標)」らしく。

社頭に

敬神 東郷平八郎謹書

横浜海軍航空隊を軸に、飛行艇の姿を夢想しながらの散策。
色々垣間見た横浜南部の散歩でした。

「こんなに焼けたか」昭和天皇と富岡八幡宮

令和元年5月撮影・門前仲町

富岡八幡宮

「こんなに焼けたか」

東京大空襲の被害状況のご説明を富岡八幡宮境内にて聞き終えた 昭和天皇は、しばし絶句されて、立ちすくまれた、という。


天皇陛下御野立所

(おのだちしょ)

天皇陛下御野立所

昭和二十年三月十八日
戦災地御巡幸ノ際
玉歩シ此處ニ駐ノサセ給フ

東京都

昭和三十五年四月二十九日建立

昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮

昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮

 昭和19(1944)年11月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。
昭和天皇はこの年10月に靖国神社例大祭に行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。
 天皇は3月10日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。軍は天皇の抗戦のご決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執された。
 宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせ、3月18日日曜日午前9時から1時間と決定された。
 御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。
 御料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。
 天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると、大達内相の先導によって、延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。粗末な机が置かれていた。
 内相が被害状況のご説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。
 この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。
 大戦が8月15日に終結した。8月15日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮の例大祭に当たった。終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。
 新日本の再建は、富岡八幡宮から始まった。

 富岡八幡宮友の会一同
 加瀬英明

 昭和天皇は、ここ富岡八幡宮から
東京大空襲の被災地を視察されました

江戸・東京の発展と、日本の平和と発展を願い、ここに石碑を建立する
平成31年3月18日
富岡八幡宮友の会

「日本ニュース 第248号」でも、 昭和天皇の視察のようすが記録されている。

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300376_00000&chapter=001

先日、富岡八幡宮に参拝する機会がありまして、手水舎脇に新たに設立された「石碑」を拝見。
東京大空襲後の東京を、1週間後の3月18日に 昭和天皇は富岡八幡宮から御巡幸なされ、焼け野原の様子をご覧になられたという。

参拝を

灯籠は明治45年奉納。
昭和天皇御巡幸の際も石灯籠は戦災から逃れ残っていた。


天皇陛下御製

昭和天皇御製

身はいかになるともいくさとどめけり
 ただたふれゆく民をおもひて

 元侍従次長 鈴木一謹書

昭和20年8月15日 終戦時の御製

鈴木 一(はじめ)氏は、侍従長・首相 鈴木貫太郎の長男。
元陸軍主計中尉、首相秘書官、侍従次長、外務省入国管理庁長官などを努めた。

天皇陛下御在位60年奉祝記念
 大東亜戦争末期の昭和20年3月18日、
天皇陛下は、大空襲で焼土と化した東京をご視察になり、ここ富岡八幡宮境内にお立ち寄りになった。この時、 陛下は爆撃の惨状に深く御心を痛められ、その後終戦の御聖断を下されたのである。この御製は、その当時お詠みになった大御歌である。陛下の御聖徳を讃え、後世に伝えるため、ここに刻む。
昭和61年10月26日
天皇陛下御在位60年東京都奉祝委員会


天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑

この碑の歴史的な意義とは別の、お家騒動的な話は、格別には触れません。
一時期は埋められていた「宮司」の二文字も戻されておりました。

合掌。

天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑
富岡八幡宮宮司富岡長子謹書

天皇皇后両陛下には、平成24年8月12日、富岡八幡宮に行幸啓の栄を賜りました。
この行幸啓は、昭和天皇が昭和20年3月18日という東京大空襲のわずか8日後に被害状況ご視察のため、当神社に行幸あそばされたことを忍ばれてのことと拝察され、当日はご参拝の後、婚儀殿にて東京大空襲に被災した江東区民と御懇談になり、当時の体験談を熱心にお聞きになって親しくお言葉をおかけになられました。(後略)
平成26年4月26日 江東区長 山崎孝明

https://www.tomiokahachimangu.club/

http://www.tomiokahachimangu.or.jp/shahou/h2404/htmls/p05.html


富岡八幡宮の周辺にいくつか近代史的なスポットがありますのであわせて掲載。

石造燈明台

明治31年 深川公園

江東区指定有形文化財(建造物)
石造燈明台 明治三十一年在銘 一基

 日清戦争(1894~1895)の勝利を記念して、深川不動堂の境内南東地に建てられました。明治28年(1895)12月に起工し、明治31年(1899)7月に竣工しました。高さ839.4cm、最大幅373.4cmの大きな燈明台で、内部煉瓦造り、外壁には安山岩の石板が貼られています。設計及び監督技師の佐立七次郎(1856~1922)は、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の第一期生でジョサイア・コンドルに師事した日本近代建築家の1人です。成田山新勝寺にもほぼ同形状の燈明台(明治27年〔1894〕竣工)が現存します。
 外壁には奉納者・奉納団体が刻まれた石板が359点貼られています。奉納者には「団菊左時代」を築いた9世市川団十郎、5世尾上菊五郎、初世市川左団次をはじめとする歌舞伎役者や常磐津などの芸能界、土木実業組合や東京石工組合、東京株式取引所などの実業界、また魚河岸、船頭、吉原・洲崎の遊郭や割烹料理屋などがみられ、深川不動堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがえます。就航当初は上部に八角の火袋がありましたが関東大震災により倒壊しました。平成19年度に区指定有形文化財に指定され、平成20年(2008)に現在地に移設されました。
 平成21年(2009)9月 江東区教育委員会

dav
dig

明治三十七 八年役戦死者忠魂碑

日露戦争の忠魂碑
渋沢栄一謹書

たまに足を運びたくなる深川散歩でした


関連

群馬縣護國神社

平成29年9月参拝


群馬縣護國神社

支那事変に至るまでの3573柱を合祀し昭和16年に現在地に鎮座。
そののち大東亜戦争の御祭神を合せ、群馬県関係者47000余柱を祀る。
戦後一時期は「誠霊廟」「上野神社」とも称していた。

緑のトンネル参道を登っていく、高台に鎮座。佳き空間美。

維新前夜から大東亜戦争までの群馬県関係戦死者47000余柱を祀る。

感謝と哀悼を。
拝する。

御社殿の脇。
石柱と石灯籠がある空間。

特に何かの説明もない空間だけど、この場所に脚を踏み入れるのを躊躇わされる何かがあった。
きっとここは招魂斎庭かもしれない。
特別な空間であることを感じ取り、石柱の外から頭を垂れる。


御朱印

靖國神社の「靖國桜の御朱印帳」で 各地の護國神社を巡らせていただいております。


群馬県海外引揚物故者慰霊塔

昭和36年建立

昭和二十年八月十五日 大東亜戦争は吾々に敗戦の悲しみを残して終結した
祖国日本の発展を願って懸命の奮闘を続けた在外七百万の同胞は全く放棄されたのであった
海外に於ける辛苦の結晶は総て奪われ尊き人命は彼等の暴力と飢餓とによって失われてしまった
幸にも九死に一生を得て引揚げたもの貧困と病魔とが襲いかかったのである
吾々は地下に眠る県下三千四百有余の声なき犠牲者の霊を慰めんため推進委員会を設け広く引揚同志の協力を仰ぎ茲に慰霊塔を建設し謹んで物故同胞の霊に捧げるものである
昭和三十五年十二月八日
群馬県引揚者連合会
仝引揚物故者慰霊塔建設委員会


御製

御製
みそとせを へにける今も のこされし 
 うからの幸を ただいのるなり

昭和52年11月17日の日本遺族会創立30周年記念式典にて 昭和天皇より賜った御製。
碑は昭和53年に群馬県遺族の会により建立。


あゝ特攻 特攻勇士の像 

平成21年3月建立

日本は昭和の一時期、米英及び重慶支那と大東亜戦争を戦った。
自国の安全と欧米の植民地支配からアジアを開放するためだった。
戦は優勢に推移し南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島沖縄と敵の反攻を許した。
この時、一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必至の戦法が採られた。
貧しく誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十才前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。
その勇姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現在の人よ、命に代えて何を守ろうとしたか、この像に問い続けて欲しい。


鵬翼之塔

昭和40年5月5日建立

明治天皇御製
世とともに 語りつたへよ 国のため
命をすてし 人のいさおを

大東亜戦争の火が消えてすでに二十年
蒼空を仰ぐ度に、祖国の勝利を信じつつ散華した航空部隊の将兵各位を想う、雲こそわが墓標なりと肉弾となって、大陸に、北辺の空に、南溟の涯に、雄々しく羽ばたいた群馬県出身の諸士も、戦運利あらず遂に再び家郷に見えることなく、天翔ける護国の神と化した者が少なくなかった。
諸士の壮烈な殉国は、永く日本の歴史ともに語り伝えられることであろう。
幸い祖国は諸霊の加護により再び平和と繁栄を招いたが、ことある毎に日支事変・大東亜戦争において戦死された群馬県出身航空関係将兵の慰霊と顕彰が議せられ、その崇高な諸士の偉勲と忠誠を千載の世に伝えるため、ここに鵬翼之塔を建てる。
願わくば諸霊よ安らかに瞑し、折あらば空ゆく雲に座して後に続く者を照覧あれ。
群馬県航空関係戦没者顕彰碑建立委員会


平和の礎

日清日露の両戦争をはじめとし幾度かの戦争を経て太平洋戦争の終結まで約半世紀の年月が流れた
この間郷土群馬の若者は高崎部隊をはじめ全国各地の部隊に所属し北や南の遠い異国の地にまた国内の各地に身命を捧げ愛国の真心をもって戦争遂行に尽くしたのである
しかし祖国日本の安泰と繁栄を信じながら前途有為な先輩戦友が惜しくも戦没されたことに想いをよせるとき誠に残念の極みといわなければならない
一方銃後にあって困苦欠乏に堪えて食糧ならびに軍需物資の増産と輸送及び糎への慰問品発送など献身的に尽くされた方々の労苦は極めて多大であった
太平洋戦争終結から45年、平和でしかも世界各国の注目する大国としての繁栄は戦没者をはじめ国内にあって銃後を守られた方々そして終戦直後の困難をきりぬけ復興に尽くされた人々の犠牲と努力の上にうちたてられたことを思い、ここに深く感謝の誠を捧げるものである
激動の昭和時代も終り平成の時代となった今、戦争は悲惨の極みであることを痛感し平和の礎となられた英霊をはじめ多くの方々の慰霊とその功績を顕彰すると共に永遠の平和を祈念するものである
ここに同志相はかって群馬県護国神社の社頭にこれを建てる
平成2年10月30日建立

ちょうど晴れ着を纏った新婚さんがこの碑前で記念撮影をしておりました。
護国の「平和の礎」の前で、記念撮影をする若きカップル。
その碑の真意を知っているかいないかはいざ知らずですが、幸せのお裾分けをいただきました。平和に感謝です。


群馬縣護國神社 遺品館

御祭神の遺品を収蔵した建物は年に3日間の公開。
8月24日(みたま祭)
10月16日‐17日(例大祭)


群馬縣護國神社 祖霊殿(納骨殿)

平成10年建立

「祖霊殿」の高台からみた護國神社の鳥居。


高崎市連合郷友会 記念句碑

奉仕終へ 
流るる汗も 
清々し 
 金井勝太郎氏

高崎市連合郷友会
昭和30年に6000余名で発足。
会員の老齢化により各支部相ついで解散し平成21年に遂に会長一人となり、記念の句碑を建立。


嗚呼隆西丸遭難者之碑

隆西丸
昭和19年2月25日小スンダ列島バリ島沖に敵潜水艦の魚雷にて沈没。
隆西丸の乗船者6668名の内4968名、船員31名戦死。

戦没した船と海員の資料館 より 隆西丸 の記録を以下に。

http://www.jsu.or.jp/siryo/sunk/tairyou.html

http://www.jsu.or.jp/siryo/sunk/pdf/tango_ryusei.pdf


フィリピン方面戦没者慰霊顕彰碑

防衛庁長官 中曽根康弘謹書(昭和46年建立)
郷土出身陸海軍所属各部隊従軍比島方面戦没者将兵等6429柱

この碑は太平洋戦争に於てフィリッピン方面で散華した同胞四十七万六千余柱のうち、群馬県関係者六千四百二十九柱の英霊を顕彰する慰霊の碑であります。
大東亜戦争の天王山といわれた比島では、南方諸地域中、日本国でも、また群馬県でも最高数の戦没者を出した一大決戦場でありました。
顧みれば昭和十六年十二月十日、日本軍がルソン島リンガエン湾に上陸して以後、戦況が次第に苛烈となった。
昭和十八年、同十九年頃に内地より臨時召集や現役兵編入等で郷土部隊の母体(軍旗)と共に派遣されずに数百名が一単位となり、高崎連隊から或いは宇都宮・水戸・千葉その他の各連隊を始め、 海軍部隊諸基地や遠く朝鮮満州支那等の各現地部隊と共に続々と緊急南下され、途中台湾沖やバシー海峡等で敵潜水艦や空襲のため数千人が乗船したまま輸送船もろとも海中に消えた多くの将兵・軍属・従軍看護婦等を始め、昭和十九年十月レイテ島に米軍を迎撃して以来、遂に南方面の制海権と制空権を手中に納めた米軍は、総てに圧倒的優勢を誇る新鋭兵器・航空機・艦船等の絶対的物量を以て、ルソン島を始めミンダナオ島、ネグロス、セブ、ミンドロ、サマール、パラワン、パサイ、コレヒドール等の各島々に於て日本軍と対決しました。
特にレイテ、ルソン島等米軍との水際戦斗のその日から、 各兵団諸部隊は肉弾斬込み戦を繰返し山岳戦に至るまで悪戦苦闘し、全諸島に渡り将兵等は、ひたすら祖国日本を直接戦場にしてはならぬと胸に堅く誓い、悪条件の下爆弾を抱いて特別攻撃機となり、又は人間魚雷となって全機全員敵艦に体当りし、或いは人間爆弾となり、むらがる敵戦車に飛び込み、深山幽谷の地に或は南海の孤島に空に海に一塊の肉片も残さず散華、爆弾食料の補給全く途絶し、道なき熱帯のジャングルに分け入り、困難辛苦、飢餓と風雪にさらされ、勇戦奮斗むなしく戦傷やマラリヤ赤痢等の悪疫に尊くも斃れ、或は自決、血を血で洗う鬼哭啾々たる戦場で激斗の末、最後の突撃を敢行して全員玉砕するなど全滅的運命となり遂に護国の神となられたが、戦争の結末は敗戦という烙印を押され総ては無言の中に終了しました。
二度とこのような戦争を繰り返してはなりませんが、戦後二十有余年を過た今日に到ってもこの戦没英霊を讃る事は充分でなくすごして参りました。
然し平和を完全に取り戻した現今、この尊い殉国の犠牲、鬼神も泣く無言の戦没諸兄の武勲を顕彰し、御霊の御冥福を祈り、その勲功を永久に讃え奉るものであります。
昭和四十六年三月二十一日
フィリピン方面戦没者慰霊顕彰碑建立委員会


義勇軍之碑

昭和42年5月建立
群馬県出身元満州開拓青少年義勇軍生存者一同 亡き拓友の霊を護国神社の丘に祀る。


軍馬忠魂碑

この碑は元高崎部隊営庭に建立されしが大東亜戦争後同兵営の解放と共に荒廃 久しく顧みられざるにより…当神社境内に移設。
群馬県戦没軍馬三千有余頭の霊を此処に鎮め永く其の忠魂を讃えんとする。
(昭和27年)


傷痍軍人之碑

昭和57年建立

嘗ての大戦で戦線に立ち傷痍の身となって生死の境を彷徨した軍人たち。 国家のために戦い民族を守るために受けた傷病であるという鉾持。
戦没された英霊を慰霊顕彰するとともに戦傷病者の悲願を永く伝えるべく建立された碑。


高崎公園

高崎城址の南に展開されている公園は意外と歴史が古く、明治9年(1876)に造園されたという。
公園入口の石柱は大正4年の銘がある。


英霊殿跡
(群馬縣護國神社創建前の招魂社・高崎公園内)

明治42年、このところに英霊殿が建立され、昭和16年群馬縣護國神社創立に至るまで、毎年官民合同の群馬県招魂会によって盛大な招魂祭が営まれた。
昭和55年4月吉日
群馬縣護國神社
群馬縣護國神社奉賛会
英霊にこたえる会群馬県本部
歩十五会

今は長閑な公園であれど、かつては祭祀の場であったと思うと感慨も深く。

大阪護國神社

平成29年(2017)参拝

大阪府に戦没者の御霊を恒久的に奉斎する神社がなかったために、昭和15年に内務大臣指定護國神社として創建。

御祭神
明治維新前後の天誅組8柱をはじめ、西南の役、日清日露戦争、大東亜戦争に至る大阪にゆかりのある10万5600余柱の英霊を祀る。

敗戦後は進駐軍の監視のもとで慰霊祭が禁止され、社号も改称せざるを得なく、大阪浪速興隆の礎を築かれた仁徳天皇を祀り「浪速宮」と改称して存続。

昭和27年のサンフランシスコ講和条約締結後に「大阪護國神社」に復称。奉安殿に仁徳天皇をまつり、相殿には東郷平八郎元帥を御遺髪とともに祀っている。

御朱印

大鳥居

大阪府最大級の鳥居

昭和15年の社号標

御社殿

10万5600余柱の英霊を祀る

奉安殿

仁徳天皇 東郷元帥を祀る。

ほまれの宮

御英霊と深い絆で結ばれ亡くなられた戦友やご家族の皆様を御英霊のおそばでお祀りするお社。


さざれ石

母に感謝の像

辛い時 悲しい時
 何時も 私達を
力強く抱きしめ
 励まし育ててくれた
母の姿を
 忘れてはならない
お母さん
 ありがとう

財団法人 日本遺族会
 会長 古賀誠 書


あゝ特攻 特攻勇士之像

平成21年10月建立

特攻勇士に捧ぐ
 大東亜戦争の戦局が一段と厳しくなった昭和19年10月以降、多くの若者が愛する祖国と家族を護るために一命をなげうち、わが身もろとも敵艦に体当りする特別攻撃を敢行、遥かな南の空や海に散華されました。
 私たち「特攻勇士の像を奉納する会」一同は、大阪府ご出身の五百余の特攻戦士を慰霊しその功を永く伝えるため、像をここ大阪護國神社に建立いたしました。この像を仰ぐ方々が、若者たちが身命をかけて崇高な「日本人の心」を実践したこと、そして今日の平和と繁栄はその尊い死の上にあることに、ぜひ思いを致されんことを、一同こい願うものであります。
 平成21年10月24日
  (財)特攻隊戦歿者慰霊平和祈念協会
   日本人の心を伝える会
   碑文・揮毫 吉田 學
   慰霊碑像デザイン 塚本 哲


慰霊碑

大阪護國神社のサイトを参照

http://www.osakagokoku.or.jp/publics/index/84/

慰霊碑は東西の区画にわかれている。

大日本帝国海軍
海軍関係戦没者 慰霊碑

碑文
 明治初年に創設され、その後幾多の輝かしい歴史と伝統を保有し、わが国の栄光と国威の象徴として、国民に尊敬され親しまれた日本帝國海軍は、さきの太平洋戦争において善戦空しく敗れ、昭和20年8月15日の終戦と共に、その八十年の長い歴史を閉じた。
 この戦において、四十万余の海軍軍人・軍属が、その貴い生命を祖国に捧げて勇戦奮闘の末、国の御楯として散華した。
 大阪を中心とする近隣府県在住の海軍関係生存者ら有志相寄り相図り、ここ大阪護国神社の聖域に慰霊の碑を建立した。
 海軍を弔い、永遠の平和を希求し、戦没者に心から慰霊の誠を捧げ、以ってその芳勲を千秋に伝えんとするものである。
  昭和60年5月
   海軍関係戦歿者慰霊碑建立委員会
    委員長 岡山幸男

建立・管理建立委員会委員長 岡山幸雄
揮毫者大阪護國神社宮司 柳澤 寮
建立年月日昭和六十年六月
慰霊祭の主催者水交会
祭神数五四,○○○柱

豫科練 
貴様と俺と翼の碑

碑文
 昭和5年に、すぐれた飛行機搭乗員の養成は英才の早期教育に俣つとの観点より「海軍飛行予科練習生」の制度が創設され、昭和12年には甲種、乙種、その後丙種、特乙種の修業課程が定められた。国を愛し空に憧れた少年達が全国各地はもとより遠く海外にあった者も勇躍志願をしたのである。
 予科練出身搭乗員は、昭和12年8月、日支事変に於てその初陣を飾って以来、太平洋戦争では名実ともにわが航空戦力の中核となって、嚇々たる武勲をたてたのであるが、戦局利あらず本土決戦の秋来るや、祖国日本の弥栄を信じ一死もって国難に殉ぜんと相ついで航空、水上、水中特別攻撃隊員となり、空に海に敢然として散華していった。
 我ら元予科練習生は終生そのきづなを深め、この聖地に名を連ね、英霊の顕彰と昭和の御代に「予科練」という紅顔のさきがけありと後世に伝え、世界の平和と子孫の繁栄をこい希い本碑を建立する。
 嗚呼
昭和57年12月5日
 関西甲飛会 建立

建立・管理関西甲飛会
建立年月日昭和五十七年十二月
慰霊祭の主催者関西甲飛会
祭神数一八,○○○柱

鎮魂 
第三十四師団通信隊

第34師団は昭和14年(1939)に新設。大阪にて編成。中国戦線に派遣される。

建立・管理健通会
建立年月日昭和五十九年三月
慰霊祭の主催者健通会
祭神数八八柱
軍馬・軍鳩之碑

つわもの之碑 
野砲兵第二十六聯隊

建立・管理野砲兵第二十六連隊
揮毫者陸軍少将正四位 吉富徳三
建立年月日昭和五十年四月
慰霊祭の主催者野砲二六会
祭神数四,三七七柱
軍馬之碑

龍山歩兵第七十九聯隊
戦友はここに眠る之碑

建立・管理歩兵第七九戦友会
揮毫者山崎孝三
建立年月日昭和五十七年四月
慰霊祭の主催者歩七九会
祭神数一八,○○○柱

慰霊
海軍第一期 飛行専修予備生徒慰霊碑

 海軍第1期飛行専修予備生徒は、戦雲急を告げる昭和18年12月10日、学業半ばにして臨時現役兵として應召し、各海兵団を経て、三重及び鹿児島の海軍航空隊に於て基礎訓練を受け、中練教程の後、予備士官として実戦に参加した。
 主として沖縄特攻、その他数々の戦場に於いて我々は同期165名を失った。
 戦後30年ここにその名を銘記し、今は亡き戦友の御霊を永遠に弔うものである。

建立・管理海軍第一期飛行学生
建立年月日昭和五十一年八月
慰霊祭の主催者一生会
祭神数一六五柱

サイパン島戦没者慰霊碑

明治二十九年、歩兵四十聯隊は大阪歩兵二十聯隊に仮兵舎をおいて聯隊本部を設置したことに始まる。
明治三十年に大阪から鳥取に転営。
大東亜戦争では歩兵第四十聯隊第三大隊がサイパンで玉砕。本体は本土決戦準備のため宮崎へ移動、そこで終戦を迎えた。

建立・管理サイパン奉賛会
揮毫者鳥取四十連隊長 愛甲立身
建立年月日昭和四十五年五月
慰霊祭の主催者サイパン奉賛会
祭神数五○,○○○柱

海軍大尉 粟井俊夫之碑

粟井俊夫命
神風特攻第三筑波隊にその名が確認できる。
飛行科予備学生第14期。 昭和20年4月16日に沖縄方面の機動部隊に対して特別攻撃を敢行。

建立・管理粟井岩吉
建立年月日昭和四十四年五月吉日

慰霊
独立輜重兵 第五十四大隊慰霊碑

昭和16年に大阪にて編成。東北満州の警備に当たる。昭和19年3月に中国戦線に転戦し、終戦。

建立・管理独立輜重兵第五十四大隊
建立年月日昭和五十二年八月
慰霊祭の主催者独立輜重兵第五十四大隊
祭神数六三九柱

歩兵第二百十七聯隊之碑

第34師団隷下。昭和14年に大阪にて編成。

建立・管理歩兵第二百十七連隊
揮毫者内閣総理大臣 田中角栄
建立年月日昭和四十八年三月
慰霊祭の主催者歩二一七会
祭神数二,三○五柱
軍馬・軍犬・軍鳩之碑

歩兵第十四聯隊之慰霊碑

明治8年に小倉で創設。昭和15年以降の徴募区は大阪を主体とする。昭和20年4月、本土決戦部隊として宮崎に進駐、終戦を迎える。

建立・管理大阪勝山会有志
建立年月日昭和六十三年十一月
慰霊祭の主催者大阪勝山会
祭神数七一一柱

騎捜会
鎮魂之碑

建立・管理騎捜鎮魂会
騎兵第四連隊
捜索第四連隊
騎兵第二十八連隊
捜索第二十連隊
ほか
揮毫者大阪府知事 岸 昌
建立年月日昭和六十年十月
慰霊祭の主催者騎捜鎮魂会
祭神数一,四○○柱
愛馬之碑

鎮魂
歩兵第二百十六聯隊鎮魂碑

建立・管理歩兵第二百十六連隊戦友会
建立年月日昭和五十二年九月
慰霊祭の主催者歩二一六会
祭神数二,三六二柱
軍馬・軍犬・軍鳩之碑

歩兵第百八聯隊
つわもの之霊
ここに鎮まる

建立・管理歩兵第百八連隊
揮毫者服部敏夫
建立年月日昭和五十三年十月
慰霊祭の主催者歩百八会
祭神数一,三○○柱

騎兵第四聯隊慰霊碑

建立・管理騎兵第四連隊
揮毫者大槻 章
建立年月日平成六年十一月
慰霊祭の主催者
祭神数三,○○○余柱

歩兵第三十七連隊慰霊碑

建立・管理歩兵第三十七連隊
揮毫者陸上幕僚長 杉田一次
建立年月日平成五年十一月
慰霊祭の主催者歩三七会
祭神数二,○○○余柱

檜 第六十八師団
慰霊碑

建立・管理檜第六十八師団
慰霊碑建立委員会
揮毫者大場軍勝
建立年月日昭和六十二年十一月
慰霊祭の主催者檜会
祭神数一○,六七二柱

平和の礎 歩兵第八連隊之慰霊碑

建立・管理歩兵第八連隊
揮毫者大阪護國神社宮司 柳澤 寮
建立年月日平成元年五月
慰霊祭の主催者歩八会
祭神数二,七○○柱

信太山砲四会之碑
鎮魂

建立・管理信太山砲四会
建立年月日昭和五十七年四月
慰霊祭の主催者信太山砲四会
祭神数七,五○○柱
愛馬の碑

香8114部隊の碑
殉國の英霊 このところに鎮まる

建立・管理独立歩兵第六十七大隊
第四中隊
揮毫者中山二郎
建立年月日昭和五十三年八月
慰霊祭の主催者香親会

塩沢幸一題
皇風洽六合 明徳侔太陽之碑

塩沢幸一海軍大将。海軍兵学校第32期。同期は堀悌吉、山本五十六、吉田善吾、嶋田繁三郎ら。日米開戦時は軍事参議官。山本五十六戦死時に国葬の司祭長を勤めた。昭和18年11月に病死。

建立・管理岡本忍一
揮毫者海軍大将 塩沢幸一
建立年月日昭和十七年八月

参拝は2月下旬。境内には梅が咲きつつある春間近な季節。
御英霊に感謝と哀悼の祈りを捧げつつの参拝。

ありがとうございます。

新宿戸山の戦跡散策

平成30年8月

新宿区戸山・戸山公園を中心としたエリアの散策。
陸軍戸山学校など。

新宿戸山散策

平成30年8月19日、新宿区戸山界隈を散歩してみました。
主たるポイントは「陸軍戸山学校」、現在の戸山公園を中心としたエリア。
以下、連々と写真を展開。


位置関係

今回の散策コースはこんな感じ。

JR新大久保駅スタートで戸山公園を経て都営新宿線・曙橋駅。
これでザックリと約8キロ。 所要時間は2時間半程度。歩数は約13000歩でした。

今昔マップ on the web さんで当時の様子を参考に。

東京西部(戸山) 昭和4年二修/昭和6年6月30日発行。
今回のポイントを黄色で示してみました。 エリア的にはこんな感じ。

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.702704&lng=139.713744&zoom=15&dataset=tokyo50&age=2&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2


海城中学校・高等学校

古賀喜三郎(海軍少佐)によって明治24年に海軍兵学校へのエリート人材育成の為の海軍予備校として創立。

海城とは戦艦を意味する古語に由来。

明治33年に海軍省の要請により海城学校と改称。
現在も海軍以来の伝統として「質実剛健・リベラルでスマート」な校風を標榜している。

海城のクスノキ

昭和2年に霞が関から当地に学校が移転して来たのちに植えられたものであり「海城のシンボル」として大切にされている。


海城から東に。

都立戸山公園大久保地区の南端にさしかかります。
このあたりは射撃場跡。

「今昔マップ on the web」より
(東京西部1/25000 昭和20年部修・昭和22年7月30日発行)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」より
(ファイル名8911-C2-82/昭和19年10月16日陸軍撮影)

射撃場土塁跡

都立戸山公園大久保地区の南端に土塁が残ってる。
「射撃場土塁跡」
射撃場の周りは土塁で囲まれており、その名残。

前述中心部の画像や地図で射撃場の場所に見える東西に細長く連なる建屋は昭和3年完成の屋根で覆われた射撃場。
周辺住民への配慮として流れ弾防止や騒音抑制の為に設けられたという。

戸山の射撃場土塁跡と陸軍境界石

射撃場の土塁がまさに境目。
コンクリート壁と一体化するように陸軍境界石も残ってました。

戸山の射撃場土塁跡
都立戸山公園大久保地区の南端の土塁から連なるように道を挟んだ東側の「西大久保住宅」の南側にも土塁が残っている。

黄枠の部分が土塁が残っているエリア

明治通りを北上し、低地へと下るエリアを東に向かう。

地図で見ると現在は唐突に細長く住宅地が拡がる。
当時は南北を陸軍施設に挟まれる区画。ここもかつての射撃場跡。

陸軍戸山学校射撃場跡

そのエリアに降り立てば周辺が高台となっており射撃場は低地にあったことがわかる。


明治通りを北上すると右手に赤い鉄門が見えてくる。

学習院旧正門(国指定重要文化財)

明治10年、当時の華族学校(現学習院)の正門として建立。川口の鋳物工場で製作された唐草模様をあしらった和洋折衷の鉄門。

昭和25年に現在地に移転。現在は学習院女子大学などの正門として使用。


明治通りと諏訪通りの交差点。 東に行けば学習院女子、西に行けば諏訪神社。

新宿ノ諏訪神社

弘仁年中(810~820)創建と伝わる古社。
現在の社殿は昭和55年造営。 境内にある宮神輿庫はコンクリート造の校倉造という珍しいもの。

諏訪の霊水

「新宿ノ諏訪神社」 境内には「明治天皇射的砲術天覧所阯碑」がある。

明治天皇射的砲術天覧所阯碑

明治15年、神社南の「近衛射的場」に、 明治天皇の行幸があり境内より射撃演習を天覧。その後も射撃場にみられる各宮殿下が諏訪神社社務所でご休息遊ばれたという。境内地の天覧高台は昭和18年に東京都より行幸史跡に指定。

明治天皇の天覧を記念し、諏訪神社御社殿の向拝の蟇股には菊の御紋を掲揚。
また、拝殿内に掲げられている神号額は小松宮彰仁殿下の御真筆という。
写真の拝殿の外側の神号額は佐文山(佐々木文山・江戸時代中期の書家)によるもの。

今回の参拝では御朱印を戴いておりませんでした。 (前回戴いたものを掲載)


新宿ノ諏訪神社のかつての別当寺であった玄国寺(真言宗豊山派)に。
こちらへは近代史的な話題で寄り道を。 境内案内の記載をよく見ると 「文化財 岩倉具視邸(現書院)」とありますね。気になります。

岩倉具視邸

玄国寺 「岩倉具視邸(現書院)」
元勲岩倉具視の旧邸の一部を大正年間?に移築したものという。和洋折衷の建築物。現在も寺院の庫裡として使用されており内部は非公開。

さて、本筋に。

近衛騎兵連隊

学習院女子大の方に向けて歩んでいく。
本当であれば学習院女子大の中にある「建造物」を見学したいが女子大ゆえに見学難易度は高そうなので別の機会?に。

学習院女子大には近衛騎兵連隊兵舎炊事所が残っており近衛騎兵聯隊之碑がある。画像は煉瓦壁とGoogle Earthを参考まで。

馬場下町交差点。わかりやすく言うと穴八幡の交差点。

三朝庵(閉店済)

この交差点の角に100年以上に渡り歴史を伝えてきた蕎麦屋があった
(過去形・・・)

「三朝庵」
元 近衛騎兵連隊 御用
元 大隈家 御用

残念ながら平成30年7月31日でもって閉店・・・。
ここへ訪れるのがあと一歩遅かったです、残念です。

別の日(令和2年)に撮影。コンビニになっておりました。。。

今回は時間の都合で穴八幡宮は社頭で遥拝。

高田馬場の流鏑馬の時代から、近衛騎兵聯隊まで。
馬つながりを感じつつつ。

穴八幡の南西にある箱根山を目指します(都立戸山公園箱根山地区)

陸軍戸山学校の野外演奏場跡

都立戸山公園箱根山地区
「陸軍戸山学校の野外演奏場跡」

気持ちよさそうに寝そべった方が居りました。 写真どうしよっかな…と悩みながらなるべくじゃまにならないようにパチリを。

この場所が野外演奏場(野外音楽堂)
陸軍戸山学校では軍楽隊の訓練も行われていたとのことで。

箱根山 陸軍戸山學校阯

都立戸山公園箱根山地区
「箱根山 陸軍戸山學校阯」

陸軍戸山学校
明治6年(1873)6月、旧尾張藩下屋敷跡に陸軍兵学寮戸山出張所が設置
明治7年2月、陸軍兵学寮戸山出張所を陸軍戸山学校と改称
大正元年(1912)9月、戦術科、射撃科、教導大隊が陸軍歩兵学校として分離独立
昭和20年9月10日、閉校

箱根山 陸軍戸山學校阯

この地は和田戸という武士の館の跡で源頼朝が源氏の勢ぞろいをした所と伝えられ後代和田戸山と呼ばれた
寛文年間尾張徳川侯の下屋敷となり殿堂宮祠等かずかずの建物と箱根山を中心とし東海道五十三次に擬した風雅な庭園が造成された
明治六年その地に兵学寮戸山出張所が設けられ翌明治七年陸軍戸山学校と改称されて以来約七十年にわたって軍事の研究教育が行なわれ国軍精強の基を培ったばかりでなく国民の体育武道射撃音楽の向上に幾多の寄与をした記念すべき地である
この度東京都がこの地に緑の公園を整備されるにあたってこの記念碑を建てて東京都に贈る
昭和四十二年十一月
元陸軍戸山学校緑故有志一同

箱根山地区の歴史
(略)
明治七年(1874)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦後は国有地となりその一部が昭和二十九年から今日の公園となった。
陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている。

戸山公園
箱根山 標高44.6m

「登頂証明書」は戸山公園大久保地区のサービスセンターにて。 (貰いそこねました)
山頂から見える建物を近くでみてみましょう。
陸軍戸山学校の名残の建造物。

陸軍戸山学校将校集会所

「陸軍戸山学校将校集会所」(戸山公園箱根山地区)
戸山学校時代は将校集会所として使われていたという建造物。
現在は「戸山教会・戸山幼稚園」として使用されている。
この半地下式の石造りの部分が将校集会所の跡とされている。

「陸軍戸山学校将校集会所跡」(戸山公園箱根山地区)
現在は戸山教会及び戸山幼稚園として現役。
常識の範囲内で見学を。


陸軍軍医学校跡

戸山公園の隣の区画
現在は「国立感染症研究所」「国立健康・栄養研究所」などがある地は、かつての「陸軍軍医学校」(昭和4年に麹町より移転) の地であった。

この軍医学校跡地からは国立感染症研究所(当時は前身の国立予防衛生研究所)建設に際して大量の人骨が発見されたりもしている(1989年)。

現在の国立国際医療研究センター研究所のある場所。

当時の「陸軍軍医学校」の向かい側には「陸軍第一病院」があり「陸軍軍医学校」とは地下でつながっていたという。
その地下道の入り口とされる場所。 なにやら塞いだ感に溢れてますね・・・。

戸山「陸軍軍医学校」と「陸軍第一病院」

うっすらと「医療…」と書かれた御影石。
これも「陸軍軍医学校」の名残かどうか
向こう側には「陸軍第一病院」地下道出入り口が見える。


戸山から牛込まで南下。
奇しくも海の海城から陸の成城への散策。

成城中学校・高等学校

明治18年(1885)創立。当初は文武講習館として、築地に創立。軍人志望の少年の養成にあたる。
明治19年に「成城学校」と改称し陸軍士官学校・陸軍幼年学校への全寮制予備校となる。明治24年に現在地に移転。

牛込までくればアンテナが見えてくる。

市ヶ谷の防衛省。
かつての陸軍士官学校。

そのまま南下すれば都営地下鉄の曙橋駅。
今回の新宿区戸山界隈の散策はこれで〆

学習院大学の近代建築

平成29年4月撮影

乃木館(旧・総寮部)

学習院第10代院長乃木希典ゆかりの建造物。

明治41年(1908)竣工。学習院が全寮制だった頃に宿舎として使われており、10代目院長の乃木希典も4年間をここで過ごしていた。
昭和19年に総寮部取り壊しに際し、 乃木院長が居住していた部分のみを移築・保存されている。国登録有形文化財。

乃木館
この建物は、明治41年9月に建てられた学習院学生寄宿舎の総寮部の一部分を移設したものである。
乃木希典院長は開寮と同時にここに起臥し、学生と寝食を共にしてその薫陶に当たられた。

乃木希典院長の歌
寄宿舎で 楽しきことを 数ふれば
撃剣音読 朝めしの味

乃木希典大将の榊壇

明治43年(1910)、学習院第10代院長 乃木希典が自ら設計し私費を投じて建設した「榊壇」

全長約7m、後円部高約1.4m
当時の四境(小笠原諸島・樺太・遼東半島・台湾)などから集められた147個の礫石を使用。
後円部には 学習院新校舎落成式で明治天皇が天覧した榊が植えられている。

榊壇入り口の柱石、榊壇前の踏み石などは、乃木の後の第11代院長 大迫尚敏が大正5年(1916)に整備したもの。

乃木大将に関連する史跡が学習院内に残っていて。
こうして観覧可能なことに、ちょっと興奮してしまいました。

学習院大学構内の6ヶ所が「国登録有形文化財」に指定されておりました。

正門 東別館(旧・皇族寮)
北別館(旧・図書館)
西1号館(旧・中等科教場)
南1号館(旧・理科特別教場)
乃木館(旧・総寮部)
厩舎

せっかくなので巡ってみましょう。

厩舎

明治41年竣工。
現在も現役で馬術部が使用している建物。
邪魔をしては悪いので外観をちょっとだけ見学。
馬場を駆ける馬の鳴き声が響いておりました。

南1号館(旧・理科特別教場)

昭和2年(1927)竣工。ネオ・ゴシック様式。
昭和24年に大学理学部創設とともに理学部研究棟に。
平成21年に構内のその他の建物とともに国登録有形文化財に登録。

西1号館(旧・中等科教場)

昭和5年(1930)中等科教場として竣工。ネオ・ゴシック様式。鉄筋コンクリート造。朝香宮邸(現在の東京都庭園美術館)を設計した内匠寮技師権藤要吉の設計。
大学開設後は文政学部本部。玄関を中心としたシンメトリー建造物。

北別館(旧・図書館)

明治42年(1909)に図書館として建立。木造平屋造。
設計は東京音楽学校奏楽堂(現東京藝術大学旧奏楽堂)や帝国図書館(現国際子ども図書館)を設計した久留正道による。

床下通風口には学習院校章「桜」紋がモチーフされている。

「北別館(旧・図書館)」
現在は学習院大学史料館(事務室)として使用。

私が訪れたときは土曜日午後でしたので事務室は閉館しておりました。
(平日及び土曜日午前に開館)
平成21年、国登録有形文化財に登録。

東別館(旧・皇族寮)

当時全寮制だった学習院の皇族寮として大正2年(1913)に建造。
山階宮武彦王や秩父宮雍仁親王をはじめとする皇族が使用。
正面玄関の車寄玄関飾りには学習院の校章「桜」紋のレリーフが掲げられている。

明治から大正期に建築された学校寄宿舎の現存は少く貴重な建造物。

学習院大学正門

明治41年(1908)以来使用されており当時のままの姿を残している。
揮毫は学習院大学初代学長 安倍能成 によるもの。

安倍氏は学習院としては第18代院長。
10代が乃木希典、16代が野村吉三郎、17代が山梨勝之進

「明治丸」と「東京高等商船学校」(東京海洋大学)

平成29年7月

海の日(7月第3月曜日)

海の日は1995年(平成7年)に制定され1996年(平成8年)から施行された日本の国民の祝日の一つ。
「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨としている。
祝日化される前は「海の記念日」(7月20日)

海の記念日

海の記念日は1876年(明治9年)、 明治天皇の東北地方巡幸の際、汽船「明治丸」によって航海をし7月20日に横浜港に帰着したことにちなみ1941年(昭和16年)に制定。
その後、明治丸は東京商船学校練習船として使用され、現在は東京海洋大学越中島キャンパスに保存。

東京海洋大学

海の記念日・明治天皇ゆかりの「明治丸」は東京海洋大学越中島キャンパスにて保存されている。

本日、「海の日」記念行事として東京海洋大学にて公開などが行われていたので、行って参りました。

最寄りはJR越中島駅。
駅のタイルも海洋っぽい感じで良いですね。

私の目的は「明治丸」
まだ見たことがなかったので、せっかくだから海の日に見学してみたかったのだ。

明治丸

明治丸は明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し明治7年に竣工した鉄船。翌8年横浜に回航。
明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に日本政府の調査団を乗せ英国船より早く小笠原に到達し日本統治を宣言。これにより小笠原諸島は我国の領土となった。

明治9年(1876年)  明治天皇が東北・北海道巡幸の際、青森から明治丸に乗船され函館を経由し7月20日に横浜に安着。
この安着された7月20日を記念して昭和16年に「海の記念日」が制定され平成8年に国民の祝日「海の日」となる。
写真は明治丸船内の 明治天皇御座所

明治丸は、その後の約20年間を燈台巡廻船として活躍し明治29年に商船学校に譲渡。
係留練習船として昭和20年までの約50年間に5000余人の海の若人を育成。

大正12年の関東大震災や昭和20年の東京大空襲では被災民を収容するなど災害救援にも貢献。

明治丸は終戦後の1945年(昭和20年)9月には商船学校とともに進駐米軍に接収され酒保とされる。
接収中の1951年に係船地で座礁したのを契機に接収解除。

1952年には浮揚させて上甲板などの修理が行われたが1954年に老朽化のため練習船の任務は解除となる。

昭和53年(1978)、鉄船時代の造船技術を今に伝える貴重な遺産として、かつ現存する唯一の「鉄船」として「明治丸」は国の重要文化財に指定。
「船としての重要文化財指定」は明治丸が初めてであった。

平成27年に大規模修復工事が終了し現在の姿を伝える。

船首と船尾に装飾として使用されている「アカンサス文様」(アカンサスは地中海原産)は日本の船の文様としては珍しく、この船がイギリス産であることを物語っている。(日本での定番の文様は「唐草文様」)

近くでは、ちょうどアカンサスの花が咲いておりました。

この日は海の日イベントでの開放日となっておりましたので船内も自由に見学できました。(普段はガイド引率のようです)

前甲板など。
大規模修復工事のあとということもあってかなり綺麗です。

舵は後甲鈑に。
まっすぐに伸びるマストが気持ち良いです。

船内に降りる階段。

船内後方は曲線美しいサロンとなっておりました。
明治天皇もここで休まれたと。

空間は上甲版に作られた天窓の光が差し込む自然の明るさ。当時は船には電気が導入なかったために暗くなると蝋燭が柱に設けられたスプリング機能付き台座(柱頭ランプ)などに灯されたとのことです。

船内前方は船員室などがあったといいます。
現在は展示スペースなど。
やはり天窓が大きく明るい日差しを船内に届けておりました。 この時代の船は、ひと味違いますね。

窓が豊富にあるのは明かりを取り込む工夫。
電気がなかった時代の特徴。
これが軍艦だとここから砲身が伸びてきますが・・・


アンカーの塔

商船教育発祥を記念して昭和40年に85周年記念として建立。
このアンカー(錨)は係留練習船としての明治丸をポンド内に定置する際に使用されたもの。
アンカー主幹は北極を、ストックは天の赤道を指している。

日本海軍駆逐艦「磯風」
左舷プロペラ

ん?
17駆の磯風は大和随伴で沖縄…と思ったらこちらは初代磯風でした。
(17駆の磯風は2代目)

1918年(大正7)竣工
1935年(昭和10)除籍

百周年記念資料館

日本海軍制式短艇用コンパス(上陸用舟艇に使用)
昭和16年

鉄球の羅針盤から鉄板と磁力棒へと進化。
ジャイロコンパスはもうちょっと後。

左は「九〇式三号磁気羅針儀1型」(昭和18年)
大きな鉄球は「戦艦伊勢用大型自差修正用鉄球」

軍人が帯刀してるだけでも磁場が狂うらしいです

90式測深儀(指示部・発振部)
昭和18年

百周年記念資料館
文系の私には細かいレベルではよくわかりませんが、エンジン機関とか歯車とか航海学に関するものとかいろいろ盛り沢山。

大成丸 (初代)関係資料

1903年12月2日に進水。日露戦争開戦の年に竣工した本船は海軍に徴用され試運転後は帆装を取り外し輸送船として軍事輸送に従事。
1906年に東京高等商船学校の航海練習船として運用開始。

大成丸 (初代)
練習船として活躍するも1941年に再び海軍に徴用。
輸送船として石炭輸送に従事。航行可能状態で終戦を迎えたが1945年10月9日11時頃に神戸港内で米軍残存機雷に触雷して沈没。

写真は遺品の御真影奉安庫


キャンパス周辺の史跡を散策してみます。

東京商船大学1号館
(現・東京海洋大学海洋工学部1号館)

関東大震災で焼失した校舎跡地に昭和7年(1932)建設。
航海船橋を模した建造物。
登録有形文化財。

東京海洋大学

明治8年11月(1875)私立三菱商船学校が東京に設立
明治15年(1882)三菱商船学校は官立となり東京商船学校と改称
大正14年(1925)東京高等商船学校と改称

戦時中は、東京高等商船学校に入校した学生は海軍予備生徒に任命され兵籍に入り徴兵の対象外となった。海軍予備生徒は海軍三校(海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校)の生徒に準じる立場であり、下士官の上位、准士官の下位に位置づけられた。卒業後は海軍予備少尉。

1号館は昭和7年の建造ゆえに正確には文部省所管の官立「東京高等商船学校」時代の建物となる。

1945年(昭和20年)に 東京・神戸・清水の高等商船学校3校が統合し「高等商船学校」が発足。
消耗が激しい海軍初級士官の大量養成の一端を担っている。

戦後は東京商船大学と呼称していたが、2003年に東京水産大学と統合して東京海洋大学となる。

越中島→元・東京商船大学(工学系)
品川 →元・東京水産大学(水産系)

統合して「海洋」だけど、たしかに両者の趣はだいぶ違いますね。

第一観測台 (東京海洋大学・越中島)

明治36年(1903)建設。(官立「商船学校」時代)
赤道儀室と呼ばれ、内部には東洋一といわれた天体望遠鏡を備え教育研究に使用された。
平成9年(1997)に登録有形文化財。

第二観測台 (東京海洋大学・越中島)

第一観測台と同時期の明治36年(1903)建設。(官立「商船学校」時代)
子午儀室と呼称され、内部には子午線測定用望遠鏡が備えられた。
平成9年(1997)に登録有形文化財。

G.E.O.ラムゼー功徳碑 (東京海洋大学・越中島)

ラムゼー先生は明治9年から6年間に渡り、前身の私立「三菱商船学校」時代に航海術を教えた教員。
没後の明治19年(1886)に門弟達によって碑が建立された。
碑には琅西君(=ラムゼー氏)と記載されている。

招魂碑 (東京海洋大学・越中島)

東京商船学校の生徒であった田福重右衛門は英国船に乗船し米国に渡る途中で暴風雨に遭遇して死亡した。
この碑は僚友たちが出資して明治21年10月に建立。
題字は逓信大臣榎本武揚の篆書。

精神不滅碑 (東京海洋大学・越中島)

昭和19年8月、清水高等商船学校生徒3名は不屈の精神で持って遠泳訓練に挑んだが豪雨の影響もあり最後まで泳ぎ着いたものの力尽きて死亡。この碑は敢闘精神を記すために昭和19年11月に建立。
撰文は清水高等商船学校長・海軍中将 松永次郎

管船長石像 (東京海洋大学・越中島)

菅源三郎は商船学校を卒業後、上海航路貨客船・長崎丸の船長として活躍。
昭和17年に長崎港外で機雷に触れたが沈没するまで同船を指揮。救助された後も遭難者への事後処理に奔走し責任を負って自決。
昭和20年1月建立。

船模型は長崎丸姉妹船の上海丸

明治天皇聖蹟(越中島)

こちらは大学の敷地に食い込むように建立されておりましたが、現在は敷地外の扱い。
碑文を読み解くと、

明治天皇聖蹟(近衛文麿謹書)
紀元二千六百年記念建設
越中島には明治3年9月、明治5年9月、明治6年12月、明治8年6月に天覧の為に行幸された由

さて10時に越中島キャンパスにたどり着いてランチ休憩も含めて気がつけば3時間経過の13時すぎ。
ちょうど13時35分に越中島キャンパスから品川キャンパスを結ぶシャトルバスが運行でしたので、バスに揺られてなんとなく品川キャンパスに向かいます。

写真は豊洲運河から明治丸

品川キャンパスは歴史要素が薄いのでサラリと終わります。
品川は元水産大学なので、越中島のような船メイン(海軍要素あり)ではなく、海の生き物中心。


14時。品川キャンパスに到着。

この地は旧海軍経理学校品川校跡地。往時を偲ぶものはない。

海軍経理学校品川校舎は昭和18年に開設され昭和19年には築地から品川に本校機能が移転。 終戦後に米軍に接収され、そののち東京水産大学が展開された。

築地  →海軍経理学校之碑
東郷神社→海軍経理学校正門敷石
靖國神社→海軍経理学校正門敷石と品川校の揚艇柱部品など

この地で保存されている船

雲鷹丸

登録有形文化財。 東京水産大学の前身、農商務省水産講習所の第2代練習船。
1909年竣工。1929年航海終了、その後は係留練習船として活躍。
昭和37年に喫水線上部船体を現在地に移設し現在に至っている。


ノルウェー式捕鯨砲
19世紀末の近代捕鯨で船首に備えられた捕鯨砲 旧型と新型

鯨ギャラリー
セミクジラとコククジラの骨格が展示

品川キャンパス内での歴史的建造物

中部講堂(なかべこうどう)

昭和34年(1959)水産関係の実業家であった大洋漁業(株)社長中部謙吉氏が寄贈した建造物。当時は旧海軍経理学校及びGHQ接収建造物を校舎流用しており満足な施設がない時代であった。

「中部講堂」の周辺にある記念碑など。
松原新之助像(水産講習所初代専任所長)
伊谷以知二郎像(水産講習所第三代所長)
水産翁碑(水産伝習所第二代所長・村田保水産翁記念碑)

水産大学・・・東京海洋大学品川キャンパスの写真は以上。
マリンサイエンスで剥製や骨格などを見学したりして海の生き物たちの造詣を深めるのもなかなかよろしでしたが、ワタシ的にはやはり商船な越中島の方が楽しかったようです。


明治神宮
なぜ7月20日に「海の日」が制定されたのですか?

http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/04.html

「砕氷艦AGB-5003しらせ」と「5002SHIRASE」

平成29年8月撮影

平成29年8月20日
チャレンジングSHIRASE
マリンフェスタinFUNABASHI

船橋港にて6年ぶりに5002と5003の「しらせ」が再会。
実は先代も現役もどちらにも乗艦したことが無かったので、これは良き機会。行って参りました。

砕氷艦AGB5003しらせ

AGB→Auxliary Ice Breaker 砕氷艦

自衛艦「AGB5003しらせ」は我が国唯一の「砕氷艦」。
基準排水量は12650トン。
手強い氷厚に対して最大馬力(軸出力3万馬力)で氷の上に乗上げで艦の自重で氷を砕いて邁進する。

「5003しらせ」艦内一般公開。
思ったより空いており、ノンビリと艦内見学ができました。

しらせ1号

自衛艦旗

ファンネル(煙突)と上部見張所

「5003しらせ」艦橋からは、先代の「5002しらせ(SHIRASE)」の姿が。

Suicaのペンギンっぽい生き物からのお願い

吹っ飛んだり、挟まれたり、大変危険!!

「砕氷艦しらせ艦内神社」

勧請は駿河国一宮「富士山本宮浅間大社」
先代「しらせ」先々代「ふじ」の艦内神社も富士山の浅間様

恐らくは先々代「ふじ」に因んで「富士山本宮浅間大社」が勧請されたものを踏襲していると推測
(「宗谷」の勧請は確証なく不明であるが、やはり浅間大社といわれている。)

艦内床屋
ちゃんと床屋名物の回る看板(サインポール)がクルクルしてましたw

2代目しらせは、舞鶴生まれ。
2009年(平成21年)5月20日にユニバーサル造船舞鶴事業所において竣工式並びに艦旗授与式がおこなわれた。
横須賀地方隊に編入され、母港は横須賀基地。 Ship of the Year 2009 も受賞。

南極探検隊長・白瀬矗(しらせ のぶ)
開南丸で南極探検に向かい明治15年(1912)日本人初の南極上陸に成功した探検家。
その功績を称えるプレートが「しらせ」艦内に掲揚。 砕氷艦しらせの艦名は白瀬中尉の功績を称えて命名された白瀬氷河に由来。

平成28年、豪州観測船「オーロラ・オーストラリス号」座礁における支援活動の表彰など。

ジロを見つけました(タロは見つかりませんでした

二人部屋


艦内見学を終えて下船したら…

あっ。 精鋭無比な第1空挺団がおられました。

千葉地本広報車「業務車2号」 (千葉地方協力本部)

千葉地本のイメージキャラクター「千葉3兄弟」ラッピング痛車…広報車。

さて次は先代「5002しらせ」(SHIRASE)の見学行ってみましょう。

「5002しらせ」(SHIRASE5002)と「5003しらせ」
このときが6年ぶりの再会とのことです。

「5002しらせ」(SHIRASE5002)艦橋から「5003しらせ」を。

「5002しらせ」(SHIRASE5002)

再会「SHIRASE」x「しらせ」

砕氷艦AGB-5003しらせ イベント会場では出店も多数。
船橋市政80周年記念イベントも兼ねており、地元ベースの盛り上がりも垣間見れてなかなか楽しい空間でした。

夕呉クルーズ

平成29年(2017)3月

呉艦船めぐりの夕暮れクルージング 、おすすめ。


平成29年3月4日夕方。私は広島県呉市にいた。

夕暮れに軍港巡りが出来るというのを知り、実は昼前に電話予約していました。

この日は1745出港のクルーズ船にて、海自護衛艦の国旗・自衛艦旗の降納と君が代ラッパを観覧。
初めての洋上観覧!

呉艦船めぐり

http://kure-kansen.com/

運行スケジュールは昼5便に、夕暮れの臨時便。
ここは迷いなく夕暮れな「夕呉クルーズ」でしょう。

この日の出港は1745。受付は1715から。
集合は出港5分の1740。

海軍伝統の5分前の精神で。

これは良き夕暮れクルーズが期待できそうです!

1740

出港5分前に乗船開始。
クルーズ船の旅客定員は80人。
数えてないけど参加者もたぶんそれくらいいた感じ。盛況です。(事前予約しといた方が安全です)

出港しました!

建物は「呉中央桟橋ターミナル」。
ここから、江田島や松山・広島方面の船が出る海上交通の要所。
どことなく呉鎮守府庁舎をモチーフにしてそうな感じ。

そして、正面の山!
こうして見ると、呉のシンボル「灰ヶ峰」がよくわかります。

ちなみに呉市の真正面に聳える灰ヶ峰。
一部のみなさんには、お馴染みな山になりました。
(この世界の片隅に)

山頂には気象レーダー観測所があり、また戦時中は防空高射砲陣地も展開されており、元高射砲台基部を使用した展望台がある。
標高は呉市の郵便番号上3ケタと同じ737m。

支援船がいっぱい!

大和ドックの手前。
ドックでは、ちょうど「DD-105 いなづま」が整備中なのです!
2016年7月10日に第25次派遣海賊対処行動水上部隊として護衛艦「すずつき」と共にソマリア沖に向けて呉から出航しており17年1月12日に呉に帰港したばかりなのです!
(撮影は17年3月)

大和ドックを海上から。
ドックの説明は改めて別でも触れると思いますが、現在はドックとしては機能しておらず(埋立済み)、部品組立工場として機能。大和建設当時の「大和ドックを覆っている骨組み建屋」を記念として残してあります。
横では大型貨物船の建造中。

こちらも建造中の大型貨物船。
「NYK」すなわち「日本郵船株式会社」
二隻同時建造。完成はもう間もなくとのことで。
「NYK HAWK」「NYK FALCON」
空荷のために喫水線が浅いですね。

船首は「バルバス・バウ」(球状船首)。大和型と同じです。

「DDH-182 いせ」が整備入りしておりました。 IHIドッグ

松山~呉~広島を結ぶ高速船(瀬戸内海汽船スーパージェット)が横を走っていきました。
こいつは速いw

1753

江田島の稜線に沈む太陽。

護衛艦の旗降納は水平線への日没時間に行われるので、あとすこしだけ時間があります。

呉のヌシ
「LST-4001 おおすみ」
桟橋の一番陸地側にいました。

輸送艦 LST-4003くにさき
補給艦 AOE-422とわだ

輸送艦 LST-4003くにさき
訓練支援艦 ATS-4202くろべ

「くにさき」と「くろべ」
艦尾には「自衛艦旗(十六条旭日旗)」、艦首には「国旗」

海上自衛隊第1潜水隊群
潜水艦の細かい見分け方は・・・わかりません。

φ(..)メモ 舵がX型なのがそうりゅう型、十字型のがおやしお型。

1808

海上自衛隊第1潜水隊群
隊司令旗(甲)が翻っております。

そろそろ、です。

1810

海上自衛隊第1潜水隊群。

10秒前~パンパパ~ン(ラッパ)気をつけ!
日没とともに喇叭譜君が代(ドソドミソの五音の組み合わせで吹かれるラッパ「君が代」)吹奏。

自衛艦旗に対し挙手敬礼。
自衛艦旗降下。

湾内の護衛艦各艦にて一斉に行われます。

動画のほうが伝わるのですが…スミマセン、写真専の人なもので。
検索してみれば動画もあっちこっちに上がっているかと。

湾内の緊張した空気感で背筋がキッと伸びます。
この気持ちよさが、日本人の誇りでもあり。

日没後、国旗自衛艦旗降下降納が終わると、電灯が点火されます。

クルーズ船は港へと一直線に戻り始めます。

日没後は明るさが失われるのも速く。。。

旧帝国海軍・呉鎮守府庁舎
現在は、海上自衛隊呉地方総監部庁舎

海から見るのは新鮮ですね。
(下に穴というか壕が開いてますねえ・・・)

呉の港へ。

「ここが呉」
「九つの峰に守られているんで、ほいで九嶺(くれ)いうんで」
「ほいで、真ん中のんが、灰ヶ峰…」

18時25分すぎ。予定時間よりも10分ほど伸びたクルージング。

なかなか貴重な体験をさせていただきました。
潜水艦を、まさかの洋上から日没に立ち会えるとは夢のようなひとときでした。

これは呉に行って時間があれば是非とも体験してほしいオススメのクルーズですよ!

こんな感じで夕暮れ呉ツイレポ〆

空母赤城と赤城神社

平成28年(2016)9月撮影

空母赤城に関係する神社を。

大洞赤城神社・旧鎮座地。
社頭向かって左側にある「碑」

大日本帝国
軍艦赤城奉納碑

境内地は立入禁止ゆえ望遠トリミングで。

奉納は昭和10年10月とのことです。

「赤城」の関係者が奉納した歴史を感じつつ、往時を偲ぶよすがとして。

大洞赤城神社・旧鎮座地

昭和45年(1970)現在地に遷座するまでは大洞赤城神社はこの地に鎮座していた。
現在は旧地として空間が残っている。

尚、旧社地は立入禁止。外側から遠巻きに拝見させていただく。 

大洞赤城神社・現鎮座地

大洞赤城神社

群馬県前橋市富士見町赤城山に鎮座。
式内名神大社論社、上野国二宮論社、旧社格は郷社。
正式な社号は「赤城神社」であるが、他の赤城神社との区別のため「大洞赤城神社」と呼称。

御祭神
正殿 赤城大明神
大国主命・磐筒男神・磐筒女神・経津主神

創建年代は不詳。社伝では豊城入彦命(崇神天皇皇子・上毛野君や下毛野君の始祖)が上毛野を支配することになった際に山と沼の霊を奉斎したと伝承。

平安時代中期編纂の「延喜式神名帳」では名神大社として「上野国勢多郡 赤城神社」の記載あり。
ただし式内論社としては赤城山頂に鎮座する当社「大洞赤城神社」のほか、山腹の「三夜沢赤城神社」、山麓の「二宮赤城神社」もある。

当社は赤城神社の「山宮」とされている。 「里宮」とされる二宮赤城神社に対して、三夜沢赤城神社も「山宮」とされる説もあり、このあたりの三社の関係はややこしい。

明治の近代社格制度では郷社列格。 (なお三夜沢赤城は県社、二宮赤城は郷社)
三夜沢・大洞・二宮の三社を合わせて「国幣中社」にしようとする動きもあったが、終戦により社格制度が廃止され、これは実現はしなかった。

昭和45年(1970)。
社殿が荒廃したために、大沼南端の畔の旧社地(大洞地区)より、現在地の小鳥々島に遷座。
現在の社殿はその時の再建となる。


三夜沢赤城神社
赤城会奉納札

空母赤城会の奉納。 (赤城空母会とも)

三夜沢赤城神社

群馬県前橋市三夜沢町鎮座。
式内社名神大社論社、上野国二宮論社。旧社格は県社。 赤城三社のうち(二宮・大洞・三夜沢)で、当社が唯一の県社列格。
御祭神は、赤城神・豊城入彦命・大己貴命

創建は不詳。
崇神天皇の皇子・豊城入彦命が上毛野国を支配することになった際、大己貴命を奉じたのに始まるとされる。
豊城入彦命は上州の上毛野氏・下毛野氏の祖。

崇神天皇の長男であった豊城入彦命がどうして東国に派遣されたか。
書記曰く。
崇神天皇が皇太子を定める際に豊城命(とよきのみこと)と活目尊(いくめのみこと)を呼び寄せ「皇太子を決めかねている。お前たちの見た夢で占うことにしよう」と仰せられた。

夢を見た翌日の報告
兄の豊城命は「自ら御諸山(三輪山)に登り、東方に向かって八回槍を突きだし、八回矛を突きだし、八回刀を打ち振りました」と申し上げた。
弟の活目尊は「自ら御諸山の嶺に登り、縄を四方に引き渡し、粟を食べていた雀を追い払いました」と申し上げた。

崇神天皇は夢占いをなされて、
「兄は東方に向かって武器を振るっていた。だから東国を治めるがよい。弟は四方に臨んでいた。まさに私の跡を継ぐのに相応しい」と仰せられた。
そこで弟の活目尊を皇太子(のちの垂仁天皇)に立て、兄の豊城命は東国(毛野国=上州)を治められた。

崇神天皇といえば、大和朝廷の権力を周辺に拡げていた時代。

すなわち四道将軍を任命し、大毘古命を北陸に、建沼河別命を東海に、吉備津日子命を山陽(吉備)に、日子坐王を山陰(丹波)に派遣。 出雲臣に圧力をかけ神宝を提出させ、三輪と伊勢の祭祀を整理し…と強権を振るっていた。

大和に従わない東国に対して。
四道将軍として大毘古命(孝元天皇皇子)を北陸道に、建沼河別命(大毘古命の子)を東海道に派遣、この両者が出会った場所が「会津」(福島県)となる。
そして武勇に優れた崇神天皇長男・豊城入彦命を更に東国に派遣し、毛野国から蝦夷ににらみを働かせる。

第10代崇神天皇は東国に皇子・親戚たちを派遣。
次代は四方を見渡し治世に優れていた弟・活目尊(のちの第11代垂仁天皇)が皇位を継ぐ。
兄・豊城入彦命が治める東国はまだまだ平定に時間を要し、こののち第12代景行天皇の皇子・倭建命(日本武尊)の東国派遣へと繋がっていくのだ。

三夜沢赤城神社・御本殿(県指定重要文化財)

社殿は、拝殿・中門・本殿となっており、本殿はより高台に鎮座。
本殿内には由良成繁(新田四天王由良具滋の末裔・新田金山城主)奉納の宮殿が納められている。

神社は好きだけど、本筋から外れるので簡単に〆

東農大周辺の戦跡散策

平成29年(2017年)5月撮影

東京都世田谷区桜丘。
現在の東京農業大学世田谷キャンパスがある一帯。
この地は戦前は陸軍用地であった。
「陸軍自動車学校」(陸軍機甲整備学校)
その名残を辿ってみようと思う。

陸軍自動車学校
陸軍機甲整備学校
正門門柱
(東京農業大学正門)

これは旧・陸軍機甲整備学校の門柱跡。
現在は東農大の正門。

位置関係

8910-C1-27
昭和19年(1944年)10月16日‐陸軍撮影を加工
USA-M388-111
1947年08月01日-米軍写真を加工

この写真のころはすでに東農大が移転後の状況。
GoogleMapを加工

陸軍自動車学校
陸軍機甲整備学校

1925年(大正14年)陸軍自動車学校が設立
1941年(昭和16年)陸軍機甲整備学校に名称変更
1943年(昭和18年)神奈川県相模原市に移転

昭和20年終戦とともに解散

1946年(昭和21年)世田谷の陸軍機甲整備学校跡地に東京農業大学が移転。


往時を偲ぶものは少ない。

冒頭の門柱が最大の見どころ。 あとは界隈に境界標石が点在しているレベル。

「東京農業大学」正門柱
旧・陸軍機甲整備学校門柱跡


東京農業大学と隣接する東京農業大学第一高等学校・中等部が、陸軍用地とほぼ等しい。

せっかくだから、大学構内を散策してみます。

正面奥に胸像がありますね。

榎本武揚先生像

実は榎本武揚が農大創設者。
(開設は地下鉄飯田橋駅A4番出口附近の「東京農業大学開校の地」)
本胸像は昭和56年に創立90周年記念にて建立。

東京農業大学は、1898年(明治31年)より、渋谷常磐松町(渋谷の青学や國學院の近く)に校舎を構えていたが第二次世界大戦の際に空襲により校舎を焼失。

1946年(昭和21年)、世田谷の陸軍機甲整備学校跡地に移転。これが現在の世田谷キャンパス。


湖北農場慰霊碑「寂」

湖北農場慰霊碑「寂」の由来

この碑は昭和二十年の終戦時に当時の満州(現中国の東北地方)のソ連国境近くにあった東京農業大学湖北農場において実習中の農業拓殖科学生五十六名と教員二名が戦禍に遭遇し、不幸にして殉難した霊を慰めるために、農業拓殖学科創立二十周年を機に建立したものである。
昭和53年10月30日 東京農業大学

合掌

動物実験 供養

昭和49年4月建立

横井時敬先生胸像

東京農業大学初代学長、近代農学の祖。
榎本武揚から私立東京農学校の学校経営を委託され明治44年から昭和2(1927)年まで東京農業大学学長として農業教育の発展に尽力尽力。

「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」

基準点がありました。

東京農業大学基準点 標高47.002


さて大学の敷地外へと足を進めましょう。

今回の散策範囲はこちら。

大学の南が正門。
そこから東に2ヶ所あるマークが陸軍用地の東端。 大学の北側4箇所が陸軍用地の北端となります。
それぞれ陸軍境界石などがありました。


陸軍境界石

住宅地の道路の脇に。
こうやってひょっこり顔を出している歴史的な標石を見つけるのが楽しいんです。なんか宝探しをしている感覚。

「陸軍自動車学校」(陸軍機甲整備学校) 陸軍境界石

なんとなく「陸」と書いてあるような気がします。

ひとつめ

ふたつめ

もう一つ、それぽいものがありました。

こちらは「東京農業大学第一高等学校・中等部」の裏門。

さきほどの陸軍標石の奥に学校が展開されてます。

ここも陸軍用地。 学校に沿って北上していきます。

ここからは陸軍用地の北端となります。

これは解りやすいです。
今では道路拡張の境界でもありますね。

みっつめ

よっつめ

陸軍用地北端部を歩いていきます。
北西側の道路に、「陸」なアイツが境界してました。道路拡張されてない場所というのがひとつのポイントですね。

陸軍自動車学校
陸軍機甲整備学校
裏門門柱跡(とされるもの)

ちょっと前の情報ではここに一対の門柱が残っていたのですが、訪れたときには片柱が工事エリア内となっており…

裏門の片側の工事エリアは「東京農業大学第一高等学校・中等部」の北東西。 「東京農業大学稲花小学校」(平成31年開校予定)の工事。

完成予想図の南東角が「裏門柱」のある場所なのですが、歩道整備で道路拡張っぽいので…片側は消滅かも?

で、ストリートビューしましたら。

片側は消滅してました・・・

庚申塔

このエリアの最後は近代と近世の出会い。
実はこの北端の道は江戸時代からの古道でもあり庚申塔が鎮座。

庚申様は安永8年(1779)建立
四街道の道標(四谷道・青山道・府中道・大山道)

陸軍境界石は刻印が掠れている。
いつつめ

「庚申様」
碑面には「安永八亥年九月吉日」と記載あり。

「庚申様」
台座は「昭和五十三年」建立

表には「古老の話」「地名変遷」 が刻まれている。
そして
裏には「当地の話」(陸軍用地になった話など)が刻まれている。
記銘年が異なっており表面は昭和53年、裏面は昭和59年銘。

で、困ったことに裏面が壁と接していて…
角度的に読めない…

当地の話
大正5年4月陸軍自動車学校の設立が決定され、土地の買い上げ通知があり、7月に買い上げとなりました。地主は大貫孝・長嶋作太郎外数名で一坪金1円80銭でした。同年6月工事着工、大正6年4月に信濃町輜重兵大隊より80名が自動車班として着任した。大正7年水谷少佐が英国より洗車を導入。大正8年練兵場に鉄条網・坂・穴等の妨害物を赤羽工兵隊が作り2月2日より戦車・自動車の総合訓練が摂政宮殿下隣席の下に行われました。戦車は穴に落ちて出られず立ち往生しました。2月5日は大雪で戦車を穴から出すために7日に工兵隊の人が雪の中を大貫の台所の火で代わる代わる暖を取り5日がかりで戦車を穴から出したのです。大正10年11月には第二次買収通知があり大正11年3月大貫孝・常徳院の土地合計六千坪が坪4円で買い上げられました。ここに大正12年11月には研究部ができました。また全国中で一番危険な自動車の坂道をつくりました。昭和12年3月馬場建設のため第三次買収が決められ、大貫菊次郎の土地六百坪が坪6円で買い上げられました。昭和20年8月終戦。昭和21年には渋谷より東京農大が自動車学校跡に移転してきました。又桜丘中学校も昭和22年にできました。研究部跡には農大付属高校が設立されました。
 昭和59年1月 設立者 大貫菊次郎 90歳

この庚申塔より西側は道路が拡張されていたりで痕跡薄そうでしたので割愛。

小田急線千歳船橋駅を13時30分スタートで東農大周辺をぐるぐると散策して小田急線経堂駅に到着したのが16時。
ざっと2時間30分散策でした。
23区内にこうしてひっそりと残る戦争の痕跡、奥深いものあります。

おまけ
東京農業大学・開校の地

飯田橋駅A4出口近くに「開校の地」碑がありました。

明治24年(1891)
徳川育英会育英黌農業科が設立。
初代黌主は榎本武揚。
明治25年に大塚窪町に、明治31年に渋谷に移転。
※黌=(こう)、学校の意

北辰社牧場跡

飯田橋~九段下界隈
戊辰戦争で幕府海軍を率いて活躍した榎本武楊は戦後は捕らわれの身となるも、その才能を惜しんだ明治政府に重用。
一方で幕府時代にオランダ留学していた知識を活かし旧幕臣子弟の為に育英黌農業科(のちの東京農業大学)や北辰社牧場を開設している。

以上で〆

観音崎の戦跡散策(横須賀)

令和元年(2019)5月11日撮影・横須賀市

戦没船員の碑

午前中に「馬門山横須賀海軍墓地墓前祭」に参列し、午後はフリータイム。
一緒に行動していた友人から一言「観音崎行ったことある?」

実はわたしはまだ観音崎に行ったことがなく。事前調査で情報量が多すぎて怖気づいていたもので、この方面は「走水」まででした。

良い機会でしたので友人と「まずは斥候の気持ち」で「観音崎」に赴くことに。
結果としては、予想以上の情報量に圧倒されてしまい。

そんなわけで、今回がはじめての観音崎。
いろいろと散策が甘いかと思いますが、そこは諸先輩の後塵を拝しながら、初見のレポを以下に。

位置関係

USA-M46-A-7-2-120
1946年02月15日‐米軍撮影

午前11時スタート

駐車場に車を止めて、散策開始。止めた場所は「観音崎自然博物館」の近く。つまり観音崎の南側。あとから思えばこの判断が失敗だったような。

観音崎公園の案内図

れんが構造物のマークもついているのが散策にはありがたいですね。

トーチカ跡?

まずは多々良浜近くの「トーチカ?」とされている海岸のコンクリート構造物を拝見。

南側の駐車場から一気に踏破をして、「戦没船員の碑」を目指します。この場所が実は前々から気になっていた地。駐車場も直線距離で一番近いところが南側だったので南に止めたというのもあったが、どうやらそれが失敗だったようで、直線距離が近い=急勾配。完全にトレッキングでした。

なお、墓前祭に参列したあとでしたので、革靴とワイシャツと・・・という格好。この格好で観音崎はダメですね。しかし動き出してしまったのであとの祭り。

戦没船員の碑

かつて第二次世界大戦や海難事故の犠牲となり海洋で失われた6万余人の船員たちの霊を慰める慰霊碑。

戦没船員の碑建立記

昭和12年7月に端を発したさきの戦争において、わが国の海運水産界は6万余人に及ぶ尊い船員の生命と2500隻840万総トンを超える船舶を失うというまことに大きな犠牲を払いました。
それから25年、わが国の海運水産界は再び隆盛をとりもどし昔日にまさる反映をみるに至りましたが、私どもはこれら多くの戦没された船員の労苦を偲びその霊を慰めるとともに世界の海に二度とこのような悲劇をくり返さないように致さねばなりません。
こうした私どもの願いは昭和44年7月財団法人戦没船員の碑建立会の発足となり、多数の人びとの協力を得てここに記念碑を建て、戦没船員の名簿を納めることになりました。
見渡す限りの大海原、変わることのないこの大自然を前にして、この地を訪れる人びとと、また沖をゆく船の人びとと共に心をあわせてこの記念碑が永遠の平和の光となりますよう深い祈りを捧げるものであります。

昭和46年3月25日
財団法人 戦没船員の碑建立会
会長 足立正

殉職船員追悼式の記

昭和46年5月6日この碑前において 皇太子同妃両殿下ご臨席のもとに全国遺族代表を招いて戦没船員追悼式を挙行し、以来毎年5月に式典を実施して参りました。
近来海難殉職船員の慰霊に対する要望が高まって参りましたので本年4月財団法人日本殉職船員顕彰会を設立し本日第一回殉職船員追悼式を執り行ない、以後5月15日を式日と定めて戦没海難全殉職船員の労苦に思いをいたしそのみ霊を慰めるとともに海洋永遠の平和を祈る式典を行うことにいたしました。
この追悼式には、大戦中輸送船船長として活躍された宮越賢治氏の自作能「海霊」が、鎮魂と平和を祈念して奉納されます。
殉職船員追悼式が、わが国民の海洋精神高揚の一助となって海洋立国の認識を深めることを切に念願するものであります。

昭和56年5月15日
財団法人日本殉職船員顕彰会
会長 佐々木周一

戦没船員の碑

 第二次世界大戦や海難事故の犠牲となって海洋で失われた、6万余人の船員の霊を慰め、かつ永遠の平和への願いを込めて設けられました。
 高さ24メートルの白磁の大碑壁を中心に、天皇陛下御製碑、皇后陛下御歌碑のほか、かつての練習船の錨などを配し、太平洋を望む格好のモニュメントとなっております。

設計/東京藝術大学教授 吉村順三
群像/東京藝術大学教授 菊池一雄

その後の進徳丸

 神戸商船大学構内に保存されていた進徳丸は、平成7年1月17日、阪神・淡路地方を襲った大震災により、設置地盤が崩壊したため、老朽化していた船体は解体撤去されることになり、平成8年2月、多くの人々に惜しまれつつ、その波乱に満ちた障害を閉じました。
 解体された進徳丸の船首とマストは、神戸商船大学の「進徳丸メモリアル」に残りました。

進徳丸
1923年に竣工した神戸高等商船学校の帆船練習船。
帆船練習船として21年、汽船練習船として16年、約1万1900名の船員を養成した。
太平洋戦争中は逓信省海務院の管轄。昭和19年に帆船から汽船に改良。石炭輸送従事中の昭和20年7月24日に米軍艦載機の攻撃で着底。昭和21年に引き上げ。その後は引き揚げ輸送や練習船として活躍し、昭和38年に廃船。

戦没船員の碑
 安らかに ねむれ わが友よ
 波静かなれ とこしえに

海に没した船員たちの御霊に合掌。
感謝と哀悼を。

戦没の地、太平洋。船員たちが活躍した舞台が描かれている。

群像

船員と人魚

戦没船員の碑
御製碑
御歌碑

天皇陛下御製 
 戦没船員の碑

戦日(いくさび)に 逝きし船人を
悼む碑の彼方に見ゆる
海平らけし

天皇陛下には、平成4年1月20日
皇后陛下とこの碑に行幸啓遊ばされ、お詠みになられました。

皇后陛下御歌
かく濡れて 遺族らと祈る
更にさらにひたぬれて
君ら逝ゆき給ひしか

観音崎戦没船員の碑除幕式
激しき雨の中にとり行はれぬ

皇后陛下御歌 副碑
昭和46年5月6日
皇太子同妃両殿下の行啓を仰ぎ雨降りしきるなか戦没船員追悼式を執り行いました
御歌はその時賜ったものです
御心が末永く語り継がれることを念願いたします。

行幸啓お成りの碑

記載以外でも葉山御用邸と併せて、この地に足を運ばれることもある。
直近だと平成31年1月に 天皇皇后両陛下が慰霊のために訪れている。8回目。

公益財団法人 日本殉職船員顕彰会

http://www.kenshoukai.jp/index.htm

民間徴用船の参考(こちらにも行きたいのです)
「戦没した船と船員の資料館」全日本海員組合

http://www.jsu.or.jp/siryo/


大浦堡塁跡

戦没船員の碑のすぐ近く。
明治期の堡塁跡。「大浦堡塁(ほうるい)」の跡に、戦没船員の碑が建立されている。現在は、面影はほとんど残っておらず、「壁」と「階段」が残るのみ。


めがね橋

めがね橋は、明治時代に軍が資材運搬用の道路として切り開いた道に架けた橋で、初代のものは下図に示す、れんがによるアーチ構造であり、それが名前の由来になったようです。
現在の橋は、昭和40年台に架けた2代目のもので、一般的な鋼材による桁構造となりました。当時のれんがはは次第の一部に残っています。

dav

腰越堡塁(うみの子とりで

明治期の堡塁。現在は子供たちの遊び場「うみの子とりで」
かつての東京湾防御陣地が、アスレチック公園として有効活用。大人も子供も楽しめる場は、ある意味で史跡空間の有効活用かもしれない。

土塁への階段
砲座跡?

三軒家砲台跡

三軒家砲台跡
この砲台は明治27年12月15日着工、明治29年12月20日完成の27加砲4門12加砲2門の砲台で原形に近い形で残されています。
地下庫、見張所、井戸、便所等もありましたが昭和9年8月20日廃止されました。

三軒家園地 旧砲台跡
見張所へ続く階段
見張所
見張所
門柱
門柱金具
後方掩蔽部の入り口
弾薬庫は地下に。入り口。
後方掩蔽部の掘割通路
二十七センチ加農砲座の空間
二十七センチ加農砲座の空間
見張所へとつながると思われる階段
便所跡
井戸跡
イタチの通り道・・・ではなく伝声管を通す穴

完全に油断していました。比較的お手軽に見学できる遺構が残っていると聞いて言いましたが、これほどの規模が残っていて、見学できることに興奮気味。
もっと早くこの地に足を運んでおくべきでした。


三軒家砲台跡からいったん下に降りまして。
パークセンター方面に移動する途中、門柱の片側のみ残っていました。


観音崎砲台火薬庫
(パークセンター)

構造について
パークセンターの建物は、日清戦争の後、明治31年に旧日本陸軍が東京湾要塞の観音崎砲台の火薬庫として整備したものです。
構造は「木骨れんが造」の平屋建てであり、屋根部分は「キングポストトラス」と呼ばれる木造の洋小屋組、基礎部分は地盤面に通気性の良いれんがアーチが連続しており、火薬を保管するため、防湿性などの工夫が凝らされています。

改修工事について
平成23年までは。建設当時のれんが壁面にモルタルを塗り、白壁に改修され、観音崎青少年の村の集会室などととして利用されてきました。
パークセンターとして利用するにあたり、歴史的建造物の価値を最大限に活かし、白壁をはがし、れんが壁を再現・補修するとともに、現在の耐震基準を満たすように柱・梁の補強や新たにスロープを設置するなどの改修を行い、平成28年1月にオープンしてます。


観音崎

砂浜にある構造物。もともとは何だったのでしょうか?
戦前からあるのは間違いないです。
現在は桟橋は途中から消失してますね。

USA-M46-A-7-2-120
1946年02月15日の米軍写真を加工
GoogleMap航空写真

海岸散策

洞窟

日本武尊と弟橘媛命伝説と行基伝説。

観音崎灯台

これは二代目・観音崎灯台の残骸。
関東大震災で被災し撤去廃棄された
現在の観音崎砲台は三代目
観音崎燈臺所轄地の境界石
古さを感じさせる灯台への道

水中聴測所跡

昭和12年6月に完成した水中聴測所 跡(潜水艦を監視するソナーを設置)という。この周辺地域は現在は海上自衛隊の管理敷地のため、近づくことは不可。

この海上自衛隊観音崎警備所のある丘の場所は「北門第四砲台跡」ともいう。

この海上自衛隊観音崎警備所の敷地内には「ある慰霊碑」がひっそりと建立されていた。
第一富士丸遭難者の慰霊碑。
すなわち、なだしお事件・・・ 合掌

海岸から灯台に登る道の片隅に。

防二〇三
燈台所轄地 境界石
何かの小屋の跡

北門第一砲台跡

日本で最初に建築された近代砲台。モルタルがところどころ剥がれて下地のレンガが露出しはじめている。


北門第二砲台跡

北門第二砲台について
ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため古くから東京湾防備の要塞地帯として使用されてきました。この砲台は明治13年5月26日着工、明治17年6月27日完成しました。24加砲6門と弾薬庫がつくられましたが現在は4砲座と弾薬庫が残っています。

弾薬庫
一ノ一 一ノニと番号が振ってある。

隧道は通行禁止。弾薬庫への入口があった。

防衛施設庁と運輸省の境界石


東京湾海上交通センター

海上保安庁の所轄。


レンガトンネルの向こうにあるのが「北門第三砲台跡」

北門第三砲台跡


北門第三砲台跡、「海の見らし台」
見晴らしていたら、米軍艦が航行。


南門砲台

観音崎自然博物館のあるあたりもかつての砲台跡。

観音崎砲台について
ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため東京湾防備の重要地点として明治13~28年の間に観音崎各所にレンガとコンクリートによる15ヶ所の近代的砲台は築かれました。これらの砲台は日清日露戦争時代に活躍したもので関東大震災で大破したため大正末期にはすべて廃止されています。この場所は南門砲台跡で当時をしのぶ姿はまったくありません。

15時ゴール

約4時間の散策、17000歩。iPhoneの「登った階段数」は65階と記録されておりました。

昼ごはん休憩を挟んだとはいえ、アップダウンの繰り返しで、久しぶりのハードウォーキングをした気持ち。
予想以上に見どころ豊富で、初見の下見としては大成功。またそのうち散策に期待ですね。季節が変われば見えてくるものも違ってきそうですし。

今回はこれでいったん〆

ソレイユの丘(横須賀第二飛行場跡)

平成30年8月訪問

横須賀第二飛行場(横須賀長井飛行場)跡

横須賀の「ソレイユの丘」と「航空自衛隊レーダー基地」のあたりに。
かつて飛行場があった。
が、本格稼働する前に終戦。
今は特になにもなく。
なんとなくそんな感じが残っている空間が広がっている。

横須賀第二飛行場(横須賀長井飛行場)跡

1955年(昭30)01月25日米軍撮影(USA-M76-59)
GoogleMap
1948年(昭23)04月10日米軍撮影(USA-M898-78)

空間に空港の名残を感じる場所。

大竹の海軍戦跡散策

平成29年(2017年)3月撮影

岩国方面でスキマ時間が出来た際に寄り道を。

天気は芳しくない中でも、隙間時間の過ごし方を悩む。
岩国観光をするか否か…。
悩んで結局はあるあるな岩国観光を止めて、敢えて大竹に足を運んでみました。


位置関係

USA-R507-3-155
1947年09月23日-米軍撮影写真を加工
現在の様子

大竹

昭和16年11月20日広島県佐伯郡大竹町に「呉第二海兵団」が設置。
昭和19年1月4日「大竹海兵団」改称。
戦後は大竹港港湾施設に転用。

大竹港には復員港となり昭和22年1月末までに、実に41万783人の在外の軍人や民間人が大竹港から復員している。

大竹駅到着は0930頃。
天気は不安定でしたが、ひとまず歩みを進めてみる。

大竹駅前。
長州方と幕府方の古戦場。

駅から歩くこと15分ほど。
工場エリアが目的地。

三井 デュポン・ポリケミカル敷地内になります。
関係者以外立ち入り禁止…ですが臆せずに。
守衛所で「海兵団の碑を見に来ました」で立入許可を得られました。

香川隆昭様 より:2020年7月24日 11:08 午後
地元の資料を探していて、つい立ち寄りました。
三井 デュポン・ポリケミカルの写真3枚目、正門の奥にある平屋の大きな建物が海兵団当時の烹炊所です。

コメント欄より

末元雅也様 より:2021年10月1日 2:36 PM
海兵団当時の烹炊所ですが21年10月より取り壊して立て替えることになりました。内部は相当傷んで耐震は保証できないですからね。床などは石畳でできており歴史を感じます。

コメント欄より

こちらが「海兵団当時の烹炊所」という。
当時は何気なく撮影しておりましたが、往時の建物とは気がついておりませんでした。コメントありがとうございました。

改めて位置関係を確認。

国土地理院ファイル:USA-R507-3-155
1947年09月23日米軍撮影(一部加工)
GooleMap 一部加工

拡大


大竹海兵団跡之碑

三井 デュポン・ポリケミカル敷地内に鎮座。
碑の創建は新しく平成3年(1991年)。
工場の駐車場に鎮座。
現在、大竹海兵団の跡地は工場エリアとなっている。

碑文は出雲大社の千家達彦書

大竹海兵団跡之碑

碑文
 大竹海兵団は大東亜戦争を前にした昭和十五年十二月呉鎮守府管下の呉海兵団大竹分団として開団され、翌昭和十六年十一月二十日大竹海兵団として独立した海兵団は明治健軍以来海軍精神即ち、海軍魂を鍛えた伝統ある場所であった。
 曾ってこの地において大日本帝国海軍の基礎教育と訓練をうけるため各地より青少年が志願及び徴兵等によって入団し、尽忠報国の念に燃え愛する祖国のために血と汗と涙を流した人数は実に十五万数千人に達したと言われている。
 又基礎教育訓練終了後前線に配属され青春の尊い命を散華した英霊は数えつきない。
 茲に大竹海兵団創設五十周年にあたり同団関係者各位等のご協力により記念の跡之碑を建立して平和の尊さを永く後世に伝えるものである。

 平成三年十一月二十日建立
 大竹海兵団跡地記念碑建設委員会

大竹海兵団跡之碑
建立協力戦友会等名

軍艦伊勢、駆逐艦浜風、駆逐艦桜 どうしても艦に目がいってしまいます。

台座の敷石は、大竹海兵団の烹炊所の敷石が使われていたもの、と。
僅かに残る往時の名残。

この場所で、ふと「この世界の片隅に」での主人公、周作さんのセリフを思い出す。

昭和20年10月6日。
周作「わしらは大竹に移る。海軍を解体しきるまでは何があっても秩序を守り通すのが法務の仕事じゃ」
作中では描かれていない大竹での職務を夢想する。

※昭和20年12月1日。
海軍省は廃止され、かわって復員業務を主体とした「第二復員省」(第一は旧陸軍省)が設立。
周作「海軍も11月いっぱいでのうなった。お役御免じゃ」

昭和21年1月に広島草津の森田家に妹のすみちゃんの見舞いに帰っていたヒロインすずさんと広島での周作との再会に繋がるやりとり。

大竹海兵団跡之碑
海軍の足跡を辿り、往時を偲ぶよすがを。


さて、次の目的地へ。
潜水学校の名残を残す史跡が臨海部の公園に残っていると。

次の場所までは海兵団の碑からは20分ほど歩くことになりました。

大竹海兵団は塀の右側の工場エリアにあった

末元雅也様 より:2021年10月1日 2:36 PM
大竹海兵団は塀の右側の工場エリアにあった・・・この右手の建物は当時からある飛行機の格納庫です。
3棟今でも倉庫として使っております。表からはスライド式の横開きのドアがまだ残っており床にもレールの跡が残っております。

コメント欄より

道すがら。
道路の下に瓦礫があった。おそらく往時からのものと推測。

正面の山は「宮島」
右手が「大竹海兵団跡」
古そうな橋。大竹港に向かう。

大竹港

大竹港に着きました。

大竹港(あこがれみなと)
引き揚げ港として、望郷の想いから来ているかどうかは知りません。
港についたら、ちょうど雨風が酷いことになりました…宮島も霞んでます。

大竹港を北に歩いていくと、「東栄地区港湾緑地」にたどり着きます。
ここが次の目的地。


海軍潜水学校探知講堂跡

「東栄地区港湾緑地」に保存されている不思議なモニュメント。
海軍潜水学校探知講堂の一部。

昭和17年。海軍潜水学校が呉から大竹に移設。
潜水学校探知講堂は、柱によって海上に建てられた施設。
ここで潜水艦のスクリュー音を聞き分ける訓練が行われた。

旧日本海軍潜水学校探知講堂
 昭和15年12月、旧日本海軍の呉海兵団大竹分団が大竹に開設され、昭和16年11月に大竹海兵団として独立しました。さらに、昭和17年11月には海軍潜水学校が呉から大竹へ移転し、潜水艦の乗組員を養成するための訓練が行なわれました。
 地方港湾大竹港港湾整備事業により、現在緑地となっているこの場所は、以前は海で、昭和17年に建築された探知講堂(正式名称:電測水測講堂)がありました。探知講堂は15本のコンクリート製の柱で支えられて海上に立つ特異な構造で、潜水艦の乗組員が艦船のスクリュー音を聞き分ける訓練が行われていたと伝えられています。
 海軍潜水学校が大竹にあったことをしのぶため、探知講堂の一部を切り取り、モニュメントして整備しました。

海軍潜水学校探知講堂の一部。

近年まで海上に残されていたが大竹港・大竹工業団地の埋め立て事業により、平成20年(2008年)に現在の形に切り取られて保存された、と。

何もないよりかはマシだけど、陸上でも建物として完全体で保存して欲しかった。 空間に余裕のあることだし・・・もう遅いけど。


この時が雨のピークで、臨海部で酷い目に遭いました。
しばらく雨宿りしていたら、雨も落ち着いてきてお天気雨に。
宮島も姿を見せてくれました。

このあたりの構造物も、もしかしたら往時と関係あるかも。

大竹駅にもどりました。

大竹の海軍史跡散策は90分くらいを要しましたね。
ほとんど歩いてました。

大竹海兵団の碑見学に際しての工場敷地立入に感謝して、三井デュポンポリケミカルさんの製品を眺めたり。(すごくお馴染みの製品でした。)

大竹駅、良き雰囲気です。古レールが多用されてますね。

馬門山横須賀海軍墓地墓前祭

令和元年(2019)5月11日

第64回馬門山横須賀海軍墓地墓前祭が、令和元年5月11日、午前9時30分から約1時間にわたり、まるで夏のような日差しが降り注ぐ新緑の墓苑にて開催されました。今回はじめて参列してまいりました。

馬門山久海軍墓地合祀者霊位

祖国のために散華された御英霊を追悼
感謝と哀悼の誠を捧げる


令和元年度(第64回)
馬門山横須賀海軍墓地墓前祭次第

日時 令和元年5月11日(土) 9時30分から10時30分
場所 馬門山横須賀海軍墓地

1開会の言葉
2国歌斉唱
3追悼のことば
4黙とう
5儀仗隊拝礼
6弔銃発射
7献花
8閉会のことば

主催
 大津地区社会福祉協議会
 大津地区連合町内会
 横須賀水交会
 隊友会横須賀支部
 大津観光協会
協力
 海上自衛隊横須賀教育隊
 湘南学院高等学校

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馬門山墓地(旧海軍墓地)

 明治15年(1882)海軍省が戦死や殉職した海軍軍人の埋葬地として開設しました。
 軍艦「河内」「筑波」等の殉職者の碑や上海事変・太平洋戦歿者の忠霊塔などがあり、英霊1592柱(内、独立埋葬者179柱)が祀られています。終戦までは鎮守府により神式と仏式の交互で式典が行われていました。
 現在は毎年5月に墓前祭が行われています。
 昭和26年大蔵省より横須賀市に譲渡され現在は市民墓地もあります。
 馬門山の名の由来は字名か屋号「馬門・まかど」を読み替えたものといわれています。
 園内はソメイヨシノが多く桜の名所となっています。

昭和52年市制施行70周年記念
横須賀市風物百選
「馬門山墓地」

 右手御門内約2万5千平方メートルの丘陵地が市営馬門山墓地です。
 この墓地は、東海鎮守府長官の埋葬地設定要請に基づいて、海軍省が明治15年1月に馬門山海軍墓地と定めたものです。
 以後、昭和20年8月の第2次世界大戦終結までの間、横須賀鎮守府が管理してきました。
 横須賀鎮守府は、横浜にあった東海鎮守府が、明治17年12月に市内の楠ヶ浦(現米海軍基地内)に移されて改称したもので、旧日本海軍の中枢的存在でした。
 昭和3年に定められた「横須賀鎮守府海軍葬儀場規則」によれば、毎総面積は階級によって6段階に分けられており、士官は8尺四方、平は4尺四方となっていました。
 墓地は、地形に従って三段に分けられています。下段、中断は兵たちの墓地で、高さ1mほどの墓石が整然と並んでいます。芝生が敷きつめられた上段には、7基の供養塔と士官たちの墓石が建っています。
 終戦後、市営墓地となると、新たに約4356平方メートルを造成し、墓地をもたない一般市民に提供されました。
 現在、この墓地に眠る御霊は次の通りです。
 海軍関係
  単独埋葬者            279柱
  供養塔
   軍艦河内殉難者の碑       621柱
   軍艦筑波殉難者の碑       152柱
   特務艦関東殉難者の碑      68柱
   北京籠城軍艦愛宕戦死者の碑   5柱
   上海事変死者の碑        59柱
   第4艦隊遭難殉職者の碑      36柱
   支那事変大東亜戦争戦歿者の碑  372柱
  一般市民             305基

墓前祭

来賓 海上自衛隊や県市議会議員や行政関係者など

中央席の最前列は遺族・遺族関係者席
中央2列目以降は町内会や一般参列者など
海上自衛隊の音楽隊
横須賀市長 追悼のことば

国歌斉唱


黙とう
追悼の譜 「国の鎮め」演奏

儀仗隊
儀仗隊

捧げ銃

儀仗隊 捧げ銃

弔銃発射

「命を捨てて」
弔銃のときは、譜の8小節を速度早く、毎発射後直ちに奏する。

弔銃発射

墓前祭、終了は10時20分頃でした。


馬門山海軍墓地の慰霊碑参拝と写真はまた後日。
この日は会場の邪魔にならないように墓前祭の参列のみで。

良き天気の下、馬門山横須賀海軍墓地墓前祭は滞りなく執り行われました。

厳粛な空間の中での、ひととき。
御英霊に感謝と哀悼を捧げることが出来ました。
ありがとうございました。

御供物

横須賀水交会も協力となっております

横須賀水交会

http://y-suikoukai.sakura.ne.jp/index.html

横須賀市

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2488/kankou/20190511mamonzan.html