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日本陸軍史上初の近代兵士反乱「竹橋事件」の戦跡散策

都内をいろいろと巡っていたら、いつの間にか、「竹橋事件」に関係する散策が出来ていたので、簡単にまとめてみることにしました。


竹橋事件

1878年(明治11年)8月23日に竹橋付近に駐屯していた「近衛砲兵大隊竹橋部隊」を中心とした兵士の反乱が発生。動機は、西南戦争における財政の削減、行賞についての不平であった。

近衛砲兵を中心に東京鎮台予備砲兵や近衛歩兵の一部も同調した、日本陸軍史上初の近代兵士による反乱「竹橋事件」

7月上旬、かねてより士官に比べ兵卒の恩賞が極めて少ない事に不満を抱いていた近衛砲兵大隊第2小隊馭卒の長島竹四郎は、同馭卒小島萬助と増給を強請せんと論じた。
続いて彼らは8月上旬、近衛歩兵第2連隊第2大隊第2中隊兵卒の三添卯之助と接触、近衛砲兵大隊第1小隊馭卒高橋小三郎、小川弥蔵、東京鎮台予備砲兵第1大隊の兵卒らとも接触した。反乱の機運は同予備砲兵第1大隊附内山定吾少尉、下副官梁田正直曹長、第1中隊平山荊火工下長(一等軍曹相当官)ら将校下士官も巻き込み、決起の計画が練られた。

そうして、8月23日に反乱兵259名が山砲2門を引き出して蜂起。
近衛砲兵第一大隊長の宇都宮茂敏陸軍少佐は、騒ぎを聞きつけ部下の反乱兵を制止しようとするが反乱兵に殺害され、続いて週番士官の深沢巳吉大尉も殺害されてしまう。

東京鎭台予備砲兵第一大隊長の岡本柳之助陸軍少佐は、一度は暴動に賛成するも、直前で静観姿勢に転換。竹橋事件に際しては、東京鎮台予備砲隊は飛鳥山に行軍し、近衛砲兵大隊竹橋部隊の暴動発生後も、そのまま飛鳥山で静観を続け暴動には不参加であった。しかし、岡本は、竹橋兵営の隊長としての責任を問われ事件後に官職剥奪となっている。

近衛砲兵大隊竹橋部隊は、砲兵隊の門前を出ると、すでに、近衛歩兵第1聯隊、近衛歩兵第2聯隊が出動しており、これと銃撃戦になった。
反乱軍は、近衛歩兵聯隊との戦闘にまぎれて、大蔵卿であった大隈重信邸に銃撃を加える。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したから、とされている。

1時間にわたる戦闘で鎮圧軍側では坂元彪少尉ら2名が死亡し、4名が負傷。対する反乱軍側も6人が死亡し、70名以上が捕縛された。

この戦闘で小銃弾を大幅に消耗してしまった反乱軍は午後12時、やむをえず天皇のいる赤坂仮皇居へと向かい、集まる参議を虜らえようとした。この道中で、さらに20余名が馬で駆け付けた近衛局の週番士官の説得に応じて投降、営舍へ戻った。残る94名は仮皇居である赤坂離宮に到着すると、騒ぎを諌めようとした近衛局当直士官・磯林真三中尉に誘導され、正門へ到着し、「嘆願の趣きあり」 と叫んだ。

赤坂離宮正門を警備している西寛二郎少佐率いる近衛歩兵隊が一行を阻止し、武器を渡せと叫ぶと、反乱側代表として前へ出た兵士は一瞬斬り掛る風を見せたが、士官の背後に近衛歩兵一個中隊が銃を構えているのを見て、士気を喪失し、刀を差し出した。
続いて絶望したリーダー格の一兵士大久保忠八が銃口を腹に当てて自決した。これを潮に、残り全員が午前1時半をもって武装解除し投降。蜂起してからわずか2時間半後のことであった。

一方、東京鎮台予備砲隊では内山少尉が数名の部下を連れ赤羽火薬庫まで弾薬を取りに行くが、時既に暴動は鎮圧されていた。

竹橋事件での戦闘での死者は鎮圧側は2名、反乱側は6名、であった。

https://maps.app.goo.gl/EM4v9p9fBeW6oeQ19

https://maps.app.goo.gl/n2vkbMSNdFVRmFiR9

23日に勃発した竹橋事件は、収束後の8月24日午前8時に、早くも陸軍裁判所で逮捕者への尋問が開始された。
そして、約2ヶ月後の10月15日に竹橋事件関係者への判決がくだされた。
騒乱に加わった者のうち、55名は同日銃殺刑(うち2名は翌年4月10日処刑)。内山定吾少尉ら118名が准流刑(内山はのちに大赦)、懲役刑15名、鞭打ち及び禁固刑1名、4名が禁固刑。
士官でも岡本少佐のほか、近衛砲兵大隊第2小隊長の津田震一郎大尉、松尾三代太郎騎兵大尉らが官職剥奪で除隊、甲斐宗義大尉が降官、川上親枝中尉、池田綱平少尉、松村恒久大尉らが停職となった。事件に直接参加していない兵士、民間人1名を含め、全体で処罰を受けたものは394名だった。

竹橋事件の結果、軍人への統制を強めるために「軍人訓戒」や「軍人勅諭」が発布、軍内部の秩序を維持するために「憲兵」が創設、近衛兵以外の皇居警備組織として「問部(のちの皇宮警察)」の設置などが進んだ。


竹橋

明治時代には、橋西詰に近衛砲兵大隊竹橋部隊があった。
1878年(明治11年)8月23日、西南戦争後の処遇を巡って、竹橋兵営に居住する同部隊の兵士215名が武装蜂起したために、のちに竹橋事件と呼ばれることになる騒乱が起きた。
天皇と宮城を警護する近衛兵が、宮城に向かって発砲したために明治政府は驚愕し、反乱が鎮圧されたのちに53名の兵士が銃殺で処刑された。

大正15年5月竣工。平成5年三月改修。
「竹橋事件」は、明治11年。

場所

https://maps.app.goo.gl/TCJ168oPbYB8NvoeA

竹橋の橋西詰

警視庁第一機動隊や厚遇系猿の宿舎のあるあたり、科学技術館の裏手に、竹橋事件を起こした「近衛砲兵大隊」(竹橋部隊)が駐留していた。


大隈重信候 雉子橋邸跡

竹橋のすぐ近くにあった大隈重信邸。
竹橋事件で、反乱兵士は、大隈重信邸を襲撃する。

大隈重信邸跡
 近代になるとこの地は、明治政府の既が置かれましたが、明治9年には二度の総理に就任し、早稲田大学を創設するなど多方面に活躍した大隈重信が邸宅を構えます。
 その後、フランス公使館、憲兵練習場、国営竹平住宅を経て現代を迎えます。

 早稲田大学創立者大隈重信(1838~1922)は、明治新政府に出任し、大蔵卿等を歴任し、日本国の「円」の創設に尽力しました。また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎作りに貢献しました。
 大隈重信は、1876(明治元年)年10月から1884(明治17年)年3月まで、この雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)に住み、1882(明治15)年10月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。
 創立125周年を記念して
  2007(平成19)年10月  
   早稲田大学・千代田稲門会

「大隈記念講堂」の時計塔を模している。

清水門の前。

早稲田大学>

https://www.waseda.jp/top/news/60890

https://www.waseda.jp/top/news/60918

場所

https://maps.app.goo.gl/BGGgP9irB892wkSa6


清水門

近衛砲兵大隊の兵営(竹橋の砲兵営)や、近衛歩兵連隊の兵営(近衛歩兵営)などに一番近い門が清水門であった。
反乱軍は清水門近くの清水橋を渡り、隣接する雉子橋付近にあった参議・大隈重信の邸宅に向けて砲撃・銃撃を加えるなど、この清水門・竹橋周辺の一帯は一晩にして激しい戦闘・暴動の現場となった。

場所

https://maps.app.goo.gl/MmYZmPJnGjkvP8SA8


竹橋事件処刑場跡
(東京海洋大学越中島キャンパス)

竹橋事件から2ヶ月後の10月15日。
竹橋事件関係者への判決がくだされた。
騒乱に加わった者のうち、55名は判決即日に銃殺刑となった。
処刑場所は、越中島練兵場の地。

現在は、東京海洋大学越中島キャンパスのグランド。

https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/bunkazaisiseki/shiseki/16061.html

場所

https://maps.app.goo.gl/WSkLVpYxk2zVQc4D7


竹橋事件の合葬墓(青山霊園)

青山霊園の西側にひっそりと佇む竹橋事件の合葬墓。
青山霊園内 2種イ11-29

合葬之墓

「合葬の墓」としか記載がないが、これが竹橋事件で銃殺処刑された反乱兵士たちの墓。

昭和18年12月建之

旧近衛鎮台砲兵之墓

大赦 明治二十二年二月十一日

明治22年の大赦によって、福井清介(詳細不明)、内山定吾(竹橋事件では鎮台予備砲兵大隊の陸軍砲兵少尉・無期流刑から後に大赦)らの発起により、建立された。

 この碑は、一八六七年(明治11年)八月二十三日夜に起きた「竹橋事件」殉難者の鎮魂のためのものである。事件は東京竹橋にあった、近衛砲兵大隊の兵士を主力に東京鎮台予備砲兵第一大隊、近衛歩兵第二聯隊の同調者をまじえて、将校、下士官の連座者をふくみ、日本陸軍史上唯一の兵士の叛乱となった。三百余人が、待遇改善その他の要求をかかげて直接行動に訴えたのである。兵士たちはすべて徴兵によって陸軍にとられ、その多くは、前年の西南戦争の戦火をくぐりぬけて命をひろっている。徴兵制度への根本的疑問、明治維新以後の政治に対する不満が、天皇への直訴をふくむ行動へ兵士たちを馳りたてていった。生れ在所の百姓一揆の伝統、のちの自由民権運動につながる志向も、兵士たちをささえる火であったと思われる。
 叛乱は鎮圧され、同年十月十五日、兵士五三名が深川越中島で銃殺刑になり、遺体は青山墓地に埋められた。現在の都立赤坂高校正門付近と推定される。
 一八八九年(明治二二年)帝国憲法発布にちなむ大赦ののちに、福井清介、内山定吾らの発起により、計五六名の事件殉難者を祀る「旧近衛鎮台砲兵之墓」が埋葬地に建立された。
 この墓は、第二次世界大戦末期の混乱で行方不明になっていたが、百回忌にあたる一九七七年十一月、現在地に移されているのを発見した。
 事件の真相は明治政府によって抹殺され埋歿せしめられ忘れられた歳月が過ぎたが、全国的な研究と調査がすすみ、ようやく全容があきらかになろうとしている。
 たたかい、かつ踏みにじられた明治の青春の記念としていまここにこの碑を建て、「竹橋事件」が後世に伝えられるべき火となることを願う。
この碑は、遺族をはじめ事件にかかわったわれら一同の反戦平和への悲願の証でもある。
  一九八七年十月十五日  澤地久枝 撰

竹橋事件殉難者名簿

1878(明治11)年10月15日刑死
近衛砲兵大隊兵士
浅見綾次郎 伊藤丈三郎 今井政十郎 岩本久蔵 浦塚城次郎 小川弥蔵 門井藤七 金井惣太郎 菊池作次郎 木島次三郎 木村円解 久保田善作 小島万助 是永虎市 近藤租舟 桜井鶴次 笹井常七 佐藤種五郎 沢本久米吉 新熊保治郎 新家仲吉 高橋小三郎 高橋竹四郎 田島盛介 谷新四郎 辻亀吉 堤熊吉 中沢章治 長島竹四郎 永合竹次郎 野中与吉 羽成常助 馬場鉄市 広瀬喜市 藤橋吉三郎 布施仙吉 松井善助 松宮弁次郎 松本久三郎 宮崎関四郎 水上丈平 見山今朝治 本橋兼次郎 山中繁蔵 山部七蔵 山本丈作 吉田定吉

東京鎮台予備砲兵第一大隊兵士  
真田兼松 鈴木直次 高見沢卯助 宮崎忠次 横山昇

近衛歩兵第二連隊兵士
三添卯之助

1879(明治12)年4月10日 刑死
東京鎮台予備砲兵第一大隊下士  
平山荊 梁田正直

1879年8月23日 自殺
近衛砲兵大隊兵士 
大久保忠八

竹橋事件  
墓と碑の由来
 「旧近衛鎮台砲兵之墓」は、一八七八(明治一一)年八月二三日の竹橋事件で死刑に処せられた、近衛砲兵大隊兵士四七名・近衛歩兵第二連隊兵士一名・東京鎮台予備砲兵第一大隊兵士五名・同隊下士官二名および事件当日夜自殺した近衛砲兵大隊兵士一名の・計五六名の墓である。
 下士官二名は、翌一八七九(明治一二)年四月一〇日になって処刑されたが、兵士五三名は事件後二か月足らずの一〇月一五日深川越中島で銃殺され、当青山墓地の陸軍墓所(現都立赤坂高校正門付近)に埋葬された。
 一八八九(明治二二)年の帝国憲法発布に伴う大赦により、墓碑建設が許され、無期流刑から生還した鎮台予備砲兵大隊少尉内山定吾や同志、遺族らの手によって、頭書の墓碑が建立された。
 しかし、第二次大戦後、赤坂高校の建設の際、墓は現在地に移されたという(異説もあって、経緯の詳細は不明)。たまたま隣接地に住む遺族の高樋和夫氏が、独力で墓を探し当て、守って来たが、くしくも、兵士の一〇〇回忌に当たる一九七七(昭和五二)年、作家澤地久枝氏も墓を突き止め、広く世間に紹介した。
 同じ年、麻生三郎氏を中心に、「明治一一年竹橋近衛暴動の真相を追求する会」(現「竹橋事件の真相を明らかにする会」)が結成され、すでに澤地氏が始めていた全国的な遺族の「掘り起こし」を、さらに精力的に進めた。
 その結果、多くの遺族が判明し、一九八五(昭和六〇)年遺族有志によって全国遺族会が発足し、左隣の「合葬之墓」と、合わせた「旧近衛鎮台砲兵之墓」の管理権を、東京都から委譲された。
 「竹橋事件の真相を明らかにする会」の運動も大きく前進し、事件の真相とその意義の解明は本格的な軌道に乗りつつある。
 墓の右隣の碑(撰文澤地久枝)は、この事件を、裏面に刻まれた五六名の殉難兵士たちの名とともに日本の歴史に永遠に留めるため、兵士たちの一一〇回忌を機として多くの人々の思いと協力を集めて、建てられたものである。
 なお、前記「合葬の墓」は明治年間に陸軍刑務所で刑死ないし獄死した兵士の内、引き取り手のなかった一七名を合葬して一九四三(昭和一八)年に建てられた(その経緯も不明)。
 その中には事件に参加して準流刑一〇年に処せられ、獄死した、近衛砲兵大隊兵士市川朝吉・宮崎又作の二名も、含まれている。
  一九七八年一〇月一五日   
   竹橋事件全国遺族会  
   竹橋事件の真相を明らかにする会

陸軍境界標もある。
詳細は不明だが、墓石と同じく青山霊園にあった陸軍墓地からの移設だろうか?

場所

https://maps.app.goo.gl/exTM7198KE3JR1gQ6

ちなみに、隣には、、、


「高岡市護國神社」と高岡散策

富山県高岡市の高岡古城公園を中心に散策をしてみました。


伏木・新湊空襲

富山大空襲で大規模な損害を被った富山市とは異なり、富山県第二の都市であった高岡市街地は大規模な空襲を免れた。しかし、米軍の空襲目標指定は84番目の都市であり、終戦が遅れていたら、空襲されていた可能性が高い状況ではあった。

昭和20年5月24日から25日にかけて、伏木港・新湊一帯に、富山県として、はじめての空襲があり、70機のB-29が、海上に「機雷」を大量に投下している。
そして、伏木では、投下された機雷の不発弾処理中に爆発事故が起き、13人が亡くなっている。
以後も、伏木・新湊は、たびたび空襲による機雷投下が行われおり、重要な港湾を要していた高岡(伏木・新湊)は、常に米軍の脅威にさらされていた。


高岡市護國神社

高岡市出身の戦没者および空襲殉難者など3,576柱の御霊を祀る。
射水神社の境外末社。
昭和8年に「高岡市忠魂社」として創建。昭和10年に「高岡市招魂社」となり、昭和27年(1952年)に「高岡市護国神社」へ改称され、昭和37年に現在の地ニの丸へ移転された。

みたまやすらかに

高岡市特志消防隊、昭和八年十月の奉納狛犬

高岡市護國神社
陸軍大将 林銑十郎 敬書
帝国在郷軍人会高岡市連合分会
昭和十五年十一月建之

忠魂社時代の社号標も残っている。

高岡市忠魂社
陸軍大臣 荒木貞夫 敬書
昭和八年十一月建之

昭和八年奉納の手水鉢

なお、現在は射水神社の境外末社として、管理されている。

https://www.imizujinjya.or.jp/about/setsumatsusha

サイトには、「昭和10年(1935)12月に高岡市招魂社として創祀」と記載があるが、社号標・手水鉢・狛犬等の建立が「昭和8年」となっていることから、創建は「昭和8年」と思われる。


忠魂永存

高岡古城公園(高岡市護国神社左側)に鎮座。
昭和30年8月15日の建立。
「蘇峰徳富正敬頽齢九十三書」とある。
徳富蘇峰が93歳のときの書。(徳富蘇峰は94歳で没している)

徳富蘇峰による、高岡市出身犠牲者に対する慰霊鎮魂顕彰碑


射水神社

越中国一之宮。延喜式内社。旧社格は国幣中社。
大日本帝国海軍軽巡洋艦「神通」の艦内神社として、御祭神の分霊が祀られていた。


皇太子殿下御野立所

明治42年(1909年)10月2日に皇太子殿下(後の大正天皇)が北陸行啓で訪れた際の御野立所跡の記念碑。


瑞龍前田公遺徳碑

瑞龍院は前田利長公の戒名。

瑞龍前田公遺徳碑
陸軍大尉正四位勲五等公爵前田利為扁額

扁額を揮毫した、前田利為は、陸士17期・陸大23期恩賜。最終階級は陸軍大将。旧加賀藩前田家第16代当主。位階・勲等・爵位は正二位勲一等侯爵。

鷹狩する前田利長公


前田利長公像

前田利長は、加賀前田家2代目。前田利家の長男。加賀藩初代。


高岡城

日本100名城のひとつ。
富山城に隠居した初代加賀藩主の前田利長が、1605年(慶長10年)6月28日の富山城火災焼失で魚津城に移り、幕府に新たな築城許可を得て築城。前田家の客将であった高山右近による縄張りともいう。
前田利長が1614年(慶長19年)5月20日に死去すると、一国一城令の影響もあり、前田家の隠居場としての役割も失い、高岡城は配乗となった。

高岡古城公園

http://www.kojyo.sakura.ne.jp/index.shtml


高岡大仏

高岡市の大佛寺にある阿弥陀如来坐像。
奈良大仏、鎌倉大仏に並ぶ「日本三大大仏」とされている。
1907年に建立が開始され、1932年に完成、1933年に開眼供養が行われた。


万葉線

高岡の路面電車。
富山県には、富山駅と高岡駅、それぞれに路面電車がある。

万葉線のドラえもんトラム

まんが家藤子・F・不二雄氏は、高岡市の出身。

https://www.city.takaoka.toyama.jp/gyosei/gyoseijoho/koho_kocho/3/6/5648.html


※撮影:2026年9月


日本で最初の私立測候所「高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所)」と「藤井能三」

伏木にある測候所に足を運んでみました。


伏木測候所

伏木測候所は、1883年(明治16年)12月1日に日本最初の私立測候所として藤井能三の首唱により設立された。
藤井能三は私費をもって伏木小学校を建設し、1875年(明治8年)10月には金澤米商会所を設立して伏木に商店を置き、あるいは越中汽船の取締役を務め、あるいは北陸通船の社長を務めた明治期の豪商であった。

伏木測候所は1884年(明治17年)1月1日から定時観測を開始し、1885年(明治18年)1月には内務大臣の認可を得、同年2月からは内務省地理局所属の各測候所と同等の資格をもって東京気象台と気象電報を交換することとなった。
1887年(明治20年)4月1日からは富山県伏木測候所として、富山県に移管され観測業務を推進。
1892年(明治25年)5月に富山県射水郡伏木町大字伏木臥浦町に新庁舎建設工事に着手され、同年6月20日に完成、同年7月1日に移転。
1909年(明治42年)3月31日に同郡同町古国府に再び新庁舎を建設し、同年4月30日に移転して、同年5月1日より同所にて業務を開始。
この庁舎が高岡市伏木気象資料館として現存するもので、当初は風向計を備えた望楼を有する建物であったが、1937年(昭和12年)にその隣に測風塔が建設されたのを機に1939年(昭和14年)に撤去された。
1939年(昭和14年)10月31日限りをもって、県営としての富山県伏木測候所は廃止され、同年11月1日からは国営に移管。中央気象台伏木観測所と改称された。
1941年(昭和16年)10月25日には再び伏木測候所に名称を改称。
伏木測候所は、戦時中は防空監視哨としても機能していた。

国登録 有形文化財(建造物)
指定年月日 平成18年3月2日
高岡市伏木気象資料館
(旧伏木測候所庁舎·測風塔)


1883年、廻船問屋出身の藤井能三が、船舶の安全確保を目的に設立した全国初の私立測候所。今も全国に日々気象データを提供している。

旧伏木測候所は、明治10年(1877年)、廻船問屋出身の藤井能三が、伏木港を大型汽船が接岸できる近代港湾とすべく私費で建設した燈明台(灯台)の一室に、明治16年(1883年)、全国初の私立測候所として設立されたものである。その後、明治42年(1909年)、現在地に移転し、県営、国営への移管を経て、現在に至るまで気象観測を続けている。
現建物は、平成17年(2005年)より、「高岡市伏木気象資料館」として公開されており、日本海側屈指の商工業都市として発展した高岡の経済を支えてきた伏木港、その近代化を象徴する建物である
 文化庁

伏木測候所庁舎
1909年(明治42年)当時のもので桟瓦葺木造平屋建て、面積は153.67平米。
登録有形文化財。
測風のための望楼は、1939年(昭和14年)に取り壊されたが、2017年(平成29年)3月18日に復元された。

測風塔
1937年(昭和12年)に建設されたもので、鉄筋コンクリート造3階建て、39.66平米の面積を有する。
旧庁舎と共に登録有形文化財に登録されている。
風速風向計及び日照計が設置されており、現在も「伏木特別地域気象観測所」の一部として観測業務を行っている。

復元された望楼

望楼は立ち入り禁止。

現在も観測を続けている、伏木特別地域気象観測所の機器群。


藤井能三

藤井能三像
(一八四六~一九一三)六六歳
 藤井能三さんは明治時代の実業家で先見性に富んだ考えを持たれ、来るべき新しい時代の息吹をいち早く捉えられ、郷土だけでなく、北陸地方の発展のために私財を投じて寄与されました。
 伏木港の波除け工事の取り組み、明治六年(一八七三年)には富山県で最初の伏木小学校の設立、明治一〇年(一八七七年)日本海側で最初の西洋式灯台の完成、明治十六年(一八八三年)には私立伏木測候所(現在の気象資料館)の観測がはじめられ、明治三十三年(一九〇〇年)には能三さんらの鉄道誘致運動が実って高岡·伏木間に中越鉄道が開通となるなど全精力を尽くされ数々の多大なる功績を残され、一九一三年(大正三年)享年六六歳、伏木の人々は町葬をもって能三さんを報いた。
 今もなお私たち住民の心に深く刻みこまれ、語り伝えられている。
  平成二十八年六月五日建立
   伏木校下自治会連絡協議会
   古府校区自治会連絡協議会
   勝興寺まちづくり協議会

初の私立測候所を設置した
藤井能三
 藤井能三(幼名 嘉他郎)は、越国射水郡伏木村(現在の高岡市伏木)廻船問屋 能登屋三右衛門の長男として生まれました。
 当時能登屋は豪商銭屋五兵衛と並び称されるほどの実力を発揮してい と伝えられる廻船問屋で、江戸後期には、北海道から下関を経て大阪に至る和船の航路北前船による廻運を業として活躍していました。
 能三は、彼自身が政治家ないしは官僚となって、地域開発という目的を達成したいとは考えてはおらず、地域開発事業を推進していくには、地方の人々を集結するとともに、中央を動かすことが必要だという考え方をもっていました。
 また、産業を振興するためには、伏木港の近代化を生涯の目標に定め、需要を広げ貿易の道を開くことが重要であると考えていた能三は、富山県が冬期間の船舶運送が途絶していたことに危惧し、定期航路の開拓や東京、大坂、北海道などと伏木を結ぶために奔走しました。

ひとこと!!
能三達が測候所を造ったきっかけ
 明治8年8月27日、能三の斡旋によって、東京三菱会社所有の西洋型商船が伏木港に姿をあらわしました。
 これは、能三が、三菱の社長岩崎弥太郎に同社汽船の伏木回航を交渉したものでした。しかし、北陸の一小港に採算が取れるだけの積荷があると考えなかった弥太郎は、以下の条件を示しました。
 1 廻船ごとにその積貨数量が船腹の半分に達しない時は、その運賃を弁償すること
 2 積貨数量が船腹の半分に達することを担保すること
 3 伏木港頭に公式の燈台を建設し、航海業者の利便を図ること
 このことが、のちに伏木測候所の設置に結び付きました。
 明治6年、能三は、富山県初の公立学校「伏木小学校」を設立し、その後、洋式燈明台や測候所を設置するなど私財を投じて港の整備を行い、伏木港を洋式船が寄港できる近代港湾に発展させました。


越中国守館址

万葉歌人・大伴家持が越中国守として赴任した際(746年〜751年)に居宅(国司の役所・官衙)があったとされる場所。

越中国守館跡推定地


伏木駅

氷見線の駅。現在の駅舎は昭和4年(1929年)の改築。

この雰囲気、良いです。

伏木駅から能町駅へ移動しました。万葉線に乗り換えのため。

なかなか、風情ある情景。


※撮影:2026年10月


富山大空襲 被災者漂流無縁仏供養地蔵尊(氷見・島尾海浜公園)

氷見の島尾海岸。
富山大空襲で被災した犠牲者が、富山市から遠く離れたこの地に漂着した、という。

氷見の浅野総一郎に会った帰路に、足を運んでみました。


富山大空襲

昭和20年8月1日、富山は米軍B-29爆撃機182機による大空襲を受けた。
富山市街地は99・5%を焼き尽くされ廃墟となり、死者は約3,000人、負傷者は約8,000人、被災者は約11万人にのぼった。
「富山大空襲」は、地方都市としては人口比で最も多くの犠牲者を出した空襲であった。

当時、米軍は、空襲目標として中小都市を選定していた。すでに空襲により都市機能を破壊した東京・大阪・名古屋・横浜・神戸・川崎・尼崎を外し、原爆投下候補として、京都・広島・新潟・小倉を外した、空襲対象地は137都市となり、富山市は人口12万7,000人で36番目であった。
しかし富山市は呉羽紡績・日清紡績・日本曹達・不二越などの近代的大工場が集まり東岩瀬港の改修と東岩瀬臨海工業地帯を始めとした臨海工業地帯が発展しつつあり、米軍としては重要な爆撃目標であった。
ただ、米軍は、富山において工場群を狙う戦略爆撃は実施せず(結果、工場群は、ほぼ無傷)ではなく、労働者(市民)の住む都市爆撃を敢行し、富山は多大な犠牲を払った。

https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/kuushuu

https://www.toyama-gokoku.jp/ihouroku/2013/12/post-44.html


富山大空襲 被災者漂流無縁仏供養地蔵尊

合掌

趣意書
 昭和二十年夜半、東南の夜空は夕焼けの様に真赤でした。私達の上空ではサーチライトの光芒に小さい機影を見せて、B29の編隊が何度も富山市の方に向つて行きました。
 富山市の大半が焼き払らわれ、二二七五人の無辜の市民が無残に焼き殺された富山空襲の遠い夜景でありました。
 それから数日、劫火に追はれ川に逃がれて甲斐なく溺死した人々でありましょう、この海岸に点ゝと漂流死体が打上げられました。生まれたばかりの嬰児をしっかり胸に抱いた若い母、十二、三才の姉と六、七才の弟と手を縛り合せた寝まき姿のいたいけな骸に涙しながら村の古老達が近くの松の根方に懇ろに葬むりました。
 それから毎年八月一日、この不幸な無縁仏に野花を供えて供養をいたしておりますが、国泰寺管長稲葉心田老師の御激励と地元有志の協力を得まして、本年三十年忌に当り地蔵尊像を建立いたしました次第であります。
 御芳志賜りました多数の皆様のお心を念じまして、永く供養いたしたいと思います。
 昭和五十年八月一日

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/toyama_himi_005/index.html

供養地蔵尊は、富山の海に向いて鎮座している。

和光同塵

昭和50年(1975)8月1日の建立。
金沢出身で、朝倉文夫に師事した、米林勝二が彫刻。

趣意書
地蔵尊に刻まれた趣意書以外にも、案内板として2枚が公園内に。わかりやすくて良い。

地蔵尊建立の寄附者。
富山地区、高岡地区、氷見地区、宮田地区、県内外からのご芳名。

海の方向を。

富山大空襲で犠牲となり、神通川河口から流され漂流となった亡き骸が島尾の海岸に浮かび、打ち上げられた。

南側、富山市の方向

北側、能登半島の方向

遺体は、松の根方に懇ろに葬むられたという。

場所

https://maps.app.goo.gl/Xk15XpsBLXtTzWX57


島尾海浜公園

快水浴場百選の島尾海水浴場を有する白砂青松の島尾海岸に隣接した公園。
万葉の頃より「松田江の長浜」と呼ばれた景勝地。

猿が居ました。

孔雀も居ました。


交通手段

行きは、氷見線の島尾駅から。

氷見線。キハ40・47形。
いいぞ、気動車!

帰りは、運良くバスがあったので、「島尾」バス停から。

バスで高岡駅まで行けるが、途中の伏木駅前で下車、そこからはまた別の記録で。

※撮影:2026年9月


九転十起の像・浅野総一郎翁像(富山・氷見)

以前に、横浜の浅見総一郎関連の史跡を巡った際に「氷見」が浅見総一郎の出身地と知り、訪れる機会があれば、、、としていたところ、思ったよりも早くにその機会が訪れまして。
氷見の浅見総一郎翁を訪問してきました。

横浜の浅見総一郎に関しては、下記を。
「京浜工業地帯の父」浅野財閥・浅野総一郎像と墓


浅野総一郎(淺野總一郎)

1848年4月13日(嘉永元年3月10日) – 1930年(昭和5年)11月9日)

越中氷見の生まれ。明治4年(1871年)、23歳の時に上京。夏はお茶の水の冷たい名水に砂糖を入れた水売り、冬は本郷赤門でおでん屋をして資金を蓄え、横浜で贈呈用の竹の皮を販売し、薪炭商に転向。
明治6年、薪炭商のつながりから横浜ガス局より、石炭からガスを製造したあとに廃棄されていたコークスを安価で買取。セメント製造の燃料として、コークスを官営深川セメント製造所に納めることで利益を得た。
明治17年には、官営深川セメント製造所が浅野総一郎に払い下げされ、これが浅野セメントの基礎となる。払い下げ時には渋沢栄一のサポートもあった。
明治29年(1896)に欧米視察に赴いた浅野総一郎は、帰国後に東京から横浜にかけて日本初の臨海工業地帯の建設を計画。
浅野総一郎の計画に理解を示した安田善次郎(安田財閥)も支援。浅野と安田は富山出身の同郷でもあった。
浅野総一郎と安田善次郎は「浅野はエンジン、安田は石炭(燃料)」と呼ばれるほどの名コンビであった。

大正2年(1913)から昭和3年(1928)にかけて約15年をかけて、横浜鶴見から川崎にかけての埋立が完成。いわゆる「浅野埋立」は京浜工業地帯の元となった。現在のJR鶴見線沿線が浅野総一郎が埋め立てした「浅野埋立」の地。
昭和5年、欧米視察中の6月26日にベルリンで発病。8月2日に帰国して大磯別邸で療養していたが11月9日に死去。
墓は横浜市鶴見区の大本山総持寺。
法名は積功院殿偉業総成大居士。

浅野総一郎の銅像は以下に建立されている。

  • 浅野学園(浅野総一郎が創設した学校)
  • アサノコンクリート深川工場(旧官営深川セメント製造所)
  • 東亜建設工業技術研究開発センター(浅野埋立)
  • 氷見市(浅野総一郎出生地)
  • 渋川市(浅野総一郎が設立した佐久発電所)
  • 砺波市(浅野総一郎が設立した庄内小牧ダム)

日本におけるセメント産業を軌道に乗せた浅野総一郎は「セメント王」と呼ばれ、京浜工業地帯のもとになった浅野埋立によって「京浜工業地帯の父」「日本の臨海工業地帯開発の父」とも呼ばれている。
また、台湾高雄港築港にも尽力し高雄市の発展にも寄与している。


九転十起の像(浅野総一郎翁像)

九転十起の像(浅野総一郎翁像)
 この像は、事業を起こしては失敗・挫折を繰り返しながらも人生の夢と希望に向かって邁進し、一代で財閥を築きあげセメント王や京浜工業地帯の父と呼ばれている浅見総一郎翁の像です。
 人は、生を受け七転八起の人生を送りますが、事業にはその時節によって良し悪しが必ずめぐってきます。
 そうした中において、いかなる時も努力と勤勉を惜しまずに頑張れば、必ず道が開けることを我々に身をもって教えてくれた浅野翁です。
 翁は、幾多の失敗と挫折を繰り返し若い頃には何かと面倒を見てもらっていた村の肝いり役山崎善次郎氏から七転八起で足りなければ。九回転んで十回起きれば良いと教えられ。懸命な努力をし成功を掴みました。このことから、本像を「九転十起の像」と命名しました。
 長い人生の歩みの中で、行き詰まったり失敗しても、必ず立ち上がる勇気を持って努力すれば必ず道が開けるという九転十起の像を心静かに拝見していただき、すべての人々の人生が豊かになるよう願うものです。

浅野総一郎 座右の銘
「度胸・努力・勤勉」

(略) 
平成二十年七月二十日 建立

浅野總一郎翁関係事業
(昭和33年12月調)
セメント事業
浅野セメント株式会社 明治16年4月創立
 (日本セメント株式会社に改名)
東亜セメント株式会社 明治40年1月創立
 (浅野セメント株式会社に併合)
浅野スレート株式会社 大正4年2月創立
第一セメント株式会社
 (旧浅野セメント株式会社川崎工場)
会津鑛業株式会社 大正9年6月設立
日本石膏株式会社 明治45年3月設立
 (会津鑛業株式会社に併合)
日本カーリット株式会社 大正9年7月創立
旭コンクリート工業株式会社 大正12年11月創立
大阪石綿工業株式会社 大正14年8月創立
 (浅野スレート株式会社に併合)
日本ヒューム管株式会社 大正14年10月創立

製鉄造船事業
浅野合資会社製鉄所 大正6年9月創立
 (現在 日本鋼管株式会社鶴見製鉄所)
日本銑鉄株式会社 大正6年9月創立
 (旧小倉製鋼株式会社に併合)
株式会社大島製鋼所 大正6年11月創立
 (日曹製鋼株式会社に併合)
中央製鉄株式会社 大正6年11月創立(解散)
小倉製鋼株式会社 大正7年12月創立
 (住友金属工業株式会社に整合)
日本鋳造株式会社 大正9年9月創立
東京シャリング株式会社 大正15年9月創立
 (現在 東都製鋼株式会社及び東京シャリング株式会社)
株式会社浅野造船所 大正5年4月創立
 (現在 日本鋼管株式会社鶴見造船所)
株式会社浅野造船所船渠部 大正12年4月創立
 (現在 日本鋼管株式会社浅野船渠)

海運陸運部門
東洋汽船株式会社 明治29年6月創立
日之出汽船株式会社 大正元年11月創立
国際汽船株式会社 大正8年7月創立
 (大阪商船株式会社に併合)
関東運輸株式会社 大正9年7月創立
青梅電気鉄道株式会社 明治26年12月創立
 (国有鉄道に譲渡)
小倉鉄道株式会社 明治40年6月創立
 (国有鉄道に譲渡)
南部鉄道株式会社 大正10年3月創立
 (国有鉄道に譲渡)
鶴見臨港鉄道株式会社 大正13年7月創立
 (国有鉄道に譲渡)
留萠鉄道株式会社 昭和3年6月創立
 (国有鉄道に譲渡)
三岐鉄道株式会社 昭和3年9月創立

埋築地所事業
鶴見埋築株式会社 大正3年3月創立
 (東京湾埋立株式会社に併合更に東亜港湾工業株式会社に改名)
京浜運河株式会社 大正6年9月創立
 (旧東京湾埋立株式会社に併合)
台湾地所建物株式会社 明治43年6月創立(解散)

石油事業
宝田石油株式会社 明治35年6月創立
 (旧日本石油株式会社に併合)
南北石油株式会社 明治38年創立
 (旧宝田石油株式会社に併合)
東亜石油株式会社 明治39年8月創立
 (旧南北石油株式会社に併合)

鑛山事業
磐城炭鑛株式会社 明治16年創立
 (現在 常磐炭鑛株式会社)
茨城探炭株式会社 明治34年9月創立
 (旧磐城炭鑛株式会社に併合)
石狩石炭株式会社 明治39年4月創立
 (北海道炭礦汽舩株式会社に譲渡)
大日本鑛業株式会社 大正4年11月創立
日支炭礦汽舩株式会社 大正6年10月創立(解散)
朝鮮鉄山株式会社 大正6年10月創立(解散)
浅野雨龍炭礦株式会社 昭和4年9月創立
 (古河鉱業株式会社に譲渡)

貿易事業
浅野物産株式会社 大正7年4月創立

電気事業
沖電気株式会社 大正元年8月創立
庄川水力電気株式会社 大正8年9月創立
 (関西電力株式会社に譲渡)
関東水力電気株式会社 大正8年10月創立
 (東京電力株式会社に譲渡)

文化事業
浅野綜合中学校 大正9年1月創立
 (浅野学園に改名)

銀行業
 株式会社日本昼夜銀行 大正5年5月創立
 (旧安田銀行に併合)

其他の事業
東京瓦斯株式会社 明治18年10月創立
大日本人造肥料株式会社 明治20年2月創立
 (日産化学鉱業株式会社に改名)
東京製鋼株式会社 明治20年3月設立
札幌麦酒株式会社 明治21年創立
 (日本麦酒株式会社に改名)
株式会社帝国ホテル 明治23年6月創立
浅野石材工業株式会社 明治38年9月創立(解散)
神奈川コークス株式会社 大正8年4月創立
 (東京瓦斯株式会社に併合)
鶴見木工株式会社 大正9年8月創立(解散)
伏木板紙株式会社 大正12年9月創立
 (中越パルプ株式会社に併合)

この事業一覧は横浜市の学校法人浅野学園敷地内にある浅野総一郎翁銅像に表示していあるものを写したものです。
 製作 藪下紙工印刷(株)

浅野総一郎が関連した事業(会社)の列記。

年譜。
浅野総一郎の九転十起を物語る波乱万丈の一生が年譜レベルでも垣間見れて、なかなかに面白い。

浅野総一郎年譜
嘉永元年三月十日
富山県氷見郡薮田村に医師・浅野泰順の長男として生まれる。幼名泰治郎。後に総一郎と改名。
嘉永六年(6歳)
富山県氷見郡氷見町の医師・宮崎南禎の養子となる。
文久元年(14歳)
考えるところあって養家より離縁し浅野に復帰する。
文久二年(15歳)
母親を説得し資本を出させ編機を始める。
文久三年(16歳)
醤油醸造を営む。
元治元年(17歳)
稲扱仕入れのため氷見針を行商しながら陸路を単身京都へ赴く。
慶応二年(19歳)
二月、近村の大野村豪農・鎌仲惣右衛門長女の婿養子となり、泰治郎を総一郎と改名。
慶応三年(20歳)
産物会社を創設し常務担当となる。柏崎と新潟に事務所を設け、裏日本一帯に産物を商い、その名をようやく顕れる。
明治元年(21歳)
積極行動に因を発し、産物会社破綻。鎌仲家より離縁となる。
明治三年(23歳)
実家の薮田村近郷各村へ農業の副業として蓆機を宣伝。氷見町に浅野商店の看板を掲げ産物会社の再挙を計る。
明治四年(24歳)
能州の有名な金貸お熊より無担保にて金三百両を借入。
五月五日、夜事業に失敗して故郷を脱走。同月十九日初めて東京に入る。
夏、万世橋際およびお茶の水の路傍にて冷水を売る。
秋、横浜の醤油および味噌商・小倉屋に奉公。
冬、独立して横浜で竹の皮商を始める。
明治五年(25歳)
栃木県人鈴木長右衛門の次女サクと結婚。
明治六年(26歳)
横浜住吉町に大塚屋・大熊良三の仮名に隠れて薪炭商を営み、石炭販売を兼業する。
明治七年(27歳)
石炭商専業となる。七月強盗に襲われる。
明治八年(28歳)
二月、近火に類焼し無一文になる。横浜寿町に再挙を図る。
明治九年(29歳)
横浜瓦斯局よりコークスの払い下げを受け奇利を博する。
明治十年(30歳)
西南戦争のため全国の汽船は御用船に徴用され、九州・横浜間の輸送が途絶したために石炭の価格は暴騰し一挙に巨利を収める。
明治十二年(32歳)
横浜の市中六十三ヵ所に公衆便所を建設する。
明治十六年(36歳)
四月、渋沢栄一らの助力を得て深川のセメント工場の払い下げを受ける。品川弥太郎、榎本武揚らの後援を得て、益田孝、渋沢喜作と協力し共同運輸株式会社を創立する。磐城炭礦社を創立する。
明治十八年(38歳)
十月、共同運輸を岩崎汽船部に合併し、日本郵船会社となる。
明治二十年(40歳)
二月、大日本人造肥料会社の創立に参与する。
三月、大倉喜八郎、渋沢栄一と図り東京製綱会社を創立する。
明治二十一年(41歳)
渋沢栄一と共に平・上野間の鉄道布設を企てる。
札幌麦酒会社の創立に参与する。
明治二十三年(43歳)
六月、帝国ホテルの創立に参与する。
明治二十六年(46歳)
十二月、磐城炭礦社を株式組織とし磐城炭礦株式会社と改称する。
明治二十九年(49歳)
七月、東洋汽船会社を創立し、新船注文のため渡米。
明治三十七年(57歳)
日露戦争開戦のため東洋汽船の所有船三隻、御用船に徴発される。
鶴見海岸埋立計画の認可申請を神奈川県庁に提出する。
明治四十年(60歳)
安田善次郎と協り、東京湾築港を計画し、東京府へ認可を申請する。
明治四十一年(61歳)
鶴見海岸百五十万坪の埋立計画を企てる。
大正元年(65歳)
八月、沖電気会社の設立成る、
大正二年(66歳)
鶴見埋立組合成り、二月、工事に着手する。同月、セメント工場を株式組織に改め、浅野セメント会社と改称する。
大正五年(69歳)
四月、浅野造船所を創設する。
五月、日本昼夜銀行を創立する。
大正七年(71歳)
四月、浅野物産を創立する。
五月、日本昼夜銀行を浅野昼夜銀行と改称する。
同月、日本鋳造会社を創立する。
大正八年(72歳)
十月、水電界の有力者と協り、各水電会社の送電統一を計ろうとの大抱負をもって、東京電力会社設立の計画を企てる。
大正九年(73歳)
一月、宿願の浅野綜合中学校を創立する。
大正十一年(75歳)
八月、浅野昼夜銀行を安田家に譲渡する。浅野セメント会社の拡張工事を行う。
大正十二年(76歳)
関東大震災救護金百万円を公共に寄付する。
大正十三年(77歳)
五月、約二十五万人の寄付金により浅野綜合中学校校庭の一角に、身長一丈六尺(四.八メートル)台座二十尺(六メートル)の寿像成り、除幕式を挙行する。
十一月、郷里の薮田小学校入口に寿像成り、除幕式を挙行する。
昭和五年(83歳)
高齢をものともせず、約三ヶ月の欧米視察の旅を終えて八月帰朝。横浜埠頭の歓迎の群衆ににこやかに帽子を振った翁の、この秋の長逝を誰が予想しえたか。
十一月九日長逝

この年譜は、浅野総一郎翁の喜寿を祝して嗣子・浅野泰治郎および良三の両氏が著した「浅野総一郎」(初版発行大正十二年六月八日)並びに「日本セメント七十年史」に基づいて作成したものであります。
 製作 (有)総合宣伝シミズ

富山湾(有磯海・ありそうみ)を望む

有効提携の記念樹。川崎市木の「つばき」


浅野総一郎翁誕生地

浅野総一郎翁誕生地
武安千春謹書

セメント王浅野総一郎翁小伝
明治大正昭和にわたりわが国実業界の巨人であった浅野総一郎翁は嘉永元年三月十日富山県氷見郡薮田村医師浅野泰順の長男としてこの地に生まれた 
年少にして上京し薪炭コークス等の商業に従事して功を納めた
燃料の納入で関係のあった東京深川清澄町所在の官営セメント工場が経営に行き詰まるや明治十六年これを借り受け次いで払下げを受けて経営に当たった 
これが現在の日本セメント株式会社の前身浅野セメント株式会社である 
以来翁はセメント事業を主柱として開運炭鉱埋立て水力電気製鉄造船貿易等の事業を興しわが国産業界に多大の貢献をなし昭和五年十一月九日八十三歳をもって長逝した
一生を通し「努力と度胸かせぐに追いつく貧乏なし」の信条を掲げて国家社会のために活躍し事業の権化と仰がれた 
生誕百二十五年に当たりこの地に誕生碑を建て翁の鴻業を顕彰する
 昭和四十八年三月十日
  日本セメント株式会社
   取締役社長 武安千春

「日本セメント」の前身が「浅野セメント」。
「秩父小野田」(秩父セメント・小野田セメント)と「日本セメント」が合併して、現在の「太平洋セメント」となる。「太平洋セメント」は、日本最大のセメント会社にして、朝のセメントを源流とすることから、会社設立の年月では最も古い企業とされている。

横浜の浅野中学校・浅野高等学校の寄贈
浅野総一郎が立ち上げた学校。

薮田港

場所

https://maps.app.goo.gl/u1CyYUoxtNxEMNSu6


交通手段

高岡駅から加越能バス(新守谷経由灘浦海岸・脇)で「薮田」バス停下車。バスはだいたい1時間に1本。高岡からの所要時間はざっくり1時間。

薮田バス停留所

太平洋セメントが建てた看板がある。

公園

帰りのバス。

「氷見駅口」で下車。逆を言えば、「氷見駅」からバスでも行ける。氷見駅前にはバスは乗り入れしていないので、「氷見駅口」から「氷見駅」には、5分くらい歩く。
氷見線との接続の良し悪しは未確認。

氷見駅に。

氷見は藤子不二雄Aのまち。

氷見駅から氷見線に乗って隣駅の島尾駅に移動でした。
下記に赴くため、に。


国内現存最大級のスロープ「河和海軍航空隊」跡地散策(愛知・美浜)

2026年2月、愛知県を散策していました。
午前中に軍人像を見学し、昼前に河和駅に到着、でした。 約3時間の散策。


河和海軍航空隊

第一河和海軍航空隊は南側で「整備教育部隊(整備訓練)」
第二河和海軍航空隊は北側で「編成教育隊(搭乗訓練)」
河和海軍航空隊は、性質の異なる2つの教育部隊が集まったものであった。


第一河和海軍航空隊

昭和18年4月1日「追浜海軍航空隊」から整備教育の分派として「追浜海軍航空隊知多分遺隊」が設置。
「追浜海軍航空隊」は幹部養成の高等科、「河和海軍航空隊」は現場整備員養成の普通科教育部隊。
昭和18年12月1日「河和海軍航空隊」として独立。連合練習航空総隊隷下の第十八連合航空隊(整備教育隊)に編入。
昭和19年2月1日「河和海軍航空隊岡崎分遣隊」が設置。
4月1日「岡崎海軍航空隊」が分離。
昭和20年3月1日「第一河和海軍航空隊」に改称。十八連空解散。横須賀鎮守府第二十連合航空隊に転籍。そのまま終戦を迎える。


第二河和海軍航空隊

昭和18年12月1日「小松島海軍航空隊」から水上機錬成部隊の分派として「小松島海軍航空隊知多分遣隊」が設置。
昭和19年4月1日「第二河和海軍航空隊」として独立。連合練習航空総隊隷下の第十一連合航空隊(横須賀鎮守府隷下練成教育隊)に編入。
昭和20年1月、名古屋へのB-29空襲に際し、訓練用に配備されていた「強風」「二式水上戦闘機」での迎撃を開始。
2月26日「神風特別攻撃隊・御楯隊」の「河和隊」を編成。
5月5日、実施部隊に変更。第三航空艦隊第十三航空戦隊に転籍。
8月5日、御楯隊は玄界灘水上基地に進出し、15日出撃命令が発令されるが、玉音放送により中止、終戦を迎える。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R2985-9
1949年8月5日、米軍撮影の航空写真。

以下、拡大加工

第2河和海軍航空隊

第一河和航空隊


第二河和海軍航空隊・正門跡

美浜町立河和中学校の南側の道路に「第二河和海軍航空隊の正門」が残っている。

旧第二河和海軍航空隊 正門跡
 第二河和海軍航空隊は、太平洋戦争中の昭和19年(1944)4月に水上機の操縦訓練技術を養成する練習航空隊として開隊しました。昭和18年から飛行機の整備教育を行った第一河和海軍航空隊と併せて、河和から豊丘までの1.8平方kmの用地が接収されました。特に、旧古布·旧浦戸の集落は、航空隊の用地内となり集団移転を余儀なくされました。
 この正門は、上部が欠損していますが、高さ160cm、縦57cm、横91cmあり、コンクリートブロックを積み上げて全体をコンクリートで塗る方法で造られています。正門を入った北側には、兵舎や病院などがありました。また、現国道247号線の海側には司令部や士官舎がありました。
 昭和20年7月30日、アメリカ軍機の機銃掃射により、この門周辺で多数の戦死者を出しました。
  美浜町教育委員会
   平成28年3月

機銃掃射の跡も残る。

美浜町立河和中学校

場所

https://maps.app.goo.gl/Y7EMcHiC9u1FMbeX9


第二河和海軍航空隊・給水タンク土台

美浜町立河和中学校の敷地内に残っているコンクリート構造物。西側の道路上から垣間見ることができる、この巨大な円筒のコンクリート構造物は、兵舎に供給するための高架水槽の土台跡。

敷地外から見学。

場所

https://maps.app.goo.gl/EFSH6xXzz3daHxkv9


河和海軍航空隊跡記念碑(森下公園)

森下公園に、河和海軍航空隊の跡地記念碑があった。
第一も第二もあわせた記念碑となっているが、この場所は、「第二」。

河和海軍航空隊跡記念碑
 第二次世界大戦中、河和の地に海軍航空隊設立され、全国より集結した隊員の、青春の広場となったことを、ここにとどめ、この碑を建立する
 昭和五十三年八月吉日 河和会

記
昭和十八年十二月
 河和海軍航空隊設立
 第十八連合航空隊に編入(整備教育)
昭和十九年四月
 第二河和海軍航空隊開設
 第十一連合航空隊に編入(水上機操縦教育)
昭和二十年二月
 河和海軍航空隊は第一河和海軍航空隊になる
昭和二十年五月
 第二河和海軍航空隊は第十一連合航空隊から第三航空艦隊第十三連合航空戦隊に編入さる
昭和二十年八月
 終戦 
 戦没者数三十七名

碑名 青春
制作者 三谷 勲

場所

https://maps.app.goo.gl/Tvz5VEfCH9yMYd2W6


第二河和海軍航空隊・滑走台跡

日本最大級の滑走台(スロープ)が残る河和海軍航空隊跡。

旧第二河和海軍航空隊 滑走台跡
 目の前に広がる海への傾斜面は、旧海軍の水上機の上げ下ろしに使った施設「滑走台」です。通称「スベリ」と呼んでいます。工事は昭和17年から19年(1942~1944)に行われ、北側に1面、東側に2面造られ、全て現存しています。
 北側の第1滑走台は幅50m長さ92m、東側の第2滑走台は幅220m長さ92m、第3滑走台は幅90m長さ92m(防衛研究所資料)、勾配は1/14(傾斜4度)です。特に第2滑走台は、現存する日本最大規模の滑走台です。
 第二河和海軍航空隊は、昭和19年に開隊された水上機の練習航空隊でした。波穏やかな知多湾の水面を滑走路代わりに練習機による操縦訓練や、実戦機による特攻訓練が行われました。現在、西側の大川と国道247号線までの広大な場所には、指揮所·駐機場·格納庫·整備場など多くの施設がありました。
 美浜町教育委員会 平成28年3月

93式水上中間練習機

案内は、第二滑走台のところに掲示がありました。


第二河和海軍航空隊・第1滑走台跡

北側の第1滑走台は幅50m長さ92m
第1滑走台は、近くで見ることが可能でした。

すぐ近くでスロープを見ることができる。
これは良い!
気持ち良い空間。なんかずっと居られる。
しばし、往時を偲びながら、波を無心に眺めてしまう。

海が綺麗!
ここも三河湾の湾内なのに、普段見ている海とは雲泥の違い。

東側は少し崩壊。

場所

https://maps.app.goo.gl/SjMT4RjBuXvWvktp9


第二河和海軍航空隊・第2滑走台跡

東側の第2滑走台は幅220m長さ92m
現存する日本最大規模の滑走台。
降りることは出来ない。

幅220メートルは圧巻。

場所

https://maps.app.goo.gl/cm5ZnqpzNB8F66HA6


第二河和海軍航空隊・第3滑走台跡

第3滑走台は幅90m長さ92m
第2と同じく降りることは出来ない。

第3滑走台の方向を望む。

広い空。陸地側はソーラーパネル。
往時は、エプロン(駐機場)があった。

場所

https://maps.app.goo.gl/HR1AuJSY7DYCgZTU6


第一河和海軍航空隊・軍港跡

事故や故障で不時着水・墜落した水上機などを、台船を使って引き揚げたり運び込んだりするための入江状の施設として機能していたという。
当時の入江には堤防が築かれ、現在は水門で海と繋がっている状態。

下段が、往時の軍港の名残。

場所

https://maps.app.goo.gl/xzsPPA7ij5mSm64i6


第一河和海軍航空隊・機体整備場基礎跡

機体整備場の基礎が残っている。
見事に真っ直ぐに綺麗に残ってますね。

東側の基礎は、トレーラーの土台になってました。

場所

https://maps.app.goo.gl/UH5sZQyQFQkD5AfN6


第一河和海軍航空隊・連絡橋橋脚基礎跡

水上機運搬用の陸橋の橋脚跡が残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/M9QZct42GhgNHWNo6


第一河和海軍航空隊・防空指揮所跡

半地下式のコンクリート製で、内部は通路で結ばれたかまぼこ形の部屋が3つあるというが、現在は入口は全て塞がれている。

入口が塞がれているため、よくわからない不思議な土盛り感がある。

天井部分のコンクリートが露出。

通気口

覗いてみた(小型ライト持ってた笑)

石段が残っている

場所

https://maps.app.goo.gl/GoKiweRfKHTCRzvr9


第一河和海軍航空隊・兵員浴場基礎跡

一直線に残っている基礎。畔の境界として活用?されている感。

このあたりに兵舎があった、、、

場所

https://maps.app.goo.gl/2nxDtQ9oBad7PvEW7

このあと、兵舎の西南にあったという対空機銃陣地跡とか貯水槽跡とか防空壕とかを探しに行ってみたが、迷子になりそうな雰囲気濃厚で、帰りの時間も考慮しギブアップ。


河和駅

ちなみにいまさらだけど「かわわ」ではなく「こうわ」。

今回の散策では、河和駅を起点に「海っ子バス」(一日乗車券)を活用しました。

※撮影:2026年2月


関連

「軍人像」第二次上海事変で奮戦した歩兵第六聯隊(愛知南知多・中之院)

知多半島に眠る軍人像。
以前より気になっていたこの地に、ようやく足を運ぶことが出来ました。

みたま、やすらかに、と。


中之院軍人像について

もともとは、1939年から43年頃にかけて、名古屋市千種区の大日寺の月ケ丘墓苑に、第二次上海事変の戦没者、その多くは歩兵第六聯隊の兵士たちであり、めいめいのご遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立されたものであった。大日寺廃寺に伴い、1995年に現在地に遷座。

中之院軍人像について
 ここの軍人像のほとんどは昭和12年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で戦死された名古屋第三師団歩兵第六連隊の兵士達です。
 緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、艀で野間沖に待機していた巡洋艦・駆逐艦に乗り込み、わずか26時間で揚子江河口付近に到着後の昭和12年8月23日の敵前上陸でした。が、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。
 軍人像そのものはめいめいのご遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものです。昭和12年から18年のことと言います。
 また戦後進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない、あれを日本人の手で壊すことはできない、どうしても壊すというなら、我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろうと頑張った。
 おかげで像は壊されずに済んだということです。
 建立当時より名古屋市千種区月ヶ丘にあったもので、当山には御縁により平成7年11月にお移しし、この地で安住いただいております。
 現在もよくご遺族ご縁者の方が御参りにいらっしゃっています。
  天台宗 大慈山 中之院

英霊ニ捧ル詩

きょうもさむい
  雪がふる 
 われらは無言で
   たっている 
花はさけども
  ぼちはさかず
 きょうもあつい
   水はなし 
かぜがつよい
  かれはがおちる 
 また冬がくる
  やどはなし 
よろこびも
 かなしみも
  昭和63年5月
  (個人名略)


第二次上海事変と名古屋第三師団歩兵第六聯隊

「第一次上海事変」が起きた昭和7年(1932年)ごろから、上海の日中間は常に緊張状態であった。
日中間の衝突は、昭和12年7月7日に「盧溝橋事件」(北支事変)が勃発し、7月28日には河北全面に戦線が拡大していた。
そして、8月9日、上海海軍特別陸戦隊西部派遣中隊長の大山勇夫海軍中尉と、斎藤與蔵一等水兵が中国保安隊に射殺される「大山事件」が起こり、上海での情勢も緊迫することになった。
中国軍による上海居留地に対する攻撃に対し、居留地をまもる上海海軍特別陸戦隊・海軍単独での対応が困難となった8月12日に、海軍軍令部は陸軍派兵を要請。そうして、13日に近衛内閣は内地2個師団の上海派兵を決定した。

海軍戦略と中支派兵問題
中支派兵決定後の海軍及び近衛内閣
海軍の対支政戦略と近衛内閣

上海では、8月12日には、上海海軍特別陸戦隊(約5,000)と、中国軍2個師団(約5万)の対峙は、既に10倍の戦力がついており、緊迫した状態から小競り合いに突入。13日には、本格戦闘が開始された。
上海居留民保護のためとして陸軍2個師団の派兵を決定した近衛内閣は、8月15日に名古屋第三師団と善通寺第十一師団に動員下命され、上海派遣軍が編成された。(司令官は松井石根大将)

中国軍は8月15日には、約7万名に増強(一方、日本軍は海軍陸戦隊を中心に約7,000名)し、上海租界を猛攻撃する。海軍特別陸戦隊は約10倍の敵を相手に上海租界を死守。
松井石根大将を司令官とし名古屋第三師団と善通寺第十一師団の2個師団の先遣隊は海軍が用意した艦艇群により上海に急送。

8月23日に名古屋歩兵第六聯隊と岐阜歩兵第六十八聯隊の応急動員分を主力とする第三師団先遣隊は、呉淞(ウースン)小運河(クリーク)南方の黄浦江岸の呉淞鉄道桟橋周辺へ強行上陸を決行し、多大な犠牲を払い橋頭保を構築。

この「第二次上海事変」で奮戦した歩兵第6聯隊の犠牲者の遺族によって建立されたのが「軍人像」であった。


浅野祥雲

浅野祥雲(1891年 – 1978年)
「軍人像」を造ったのは、岐阜中津川出身の浅野祥雲であった。
コンクリート像の造型家として著名。
代表作は「関ヶ原ウォーランド」「五色園」「桃太郎神社」


九十二体の軍人像

軍人像と対峙する。

生前の写真をもとに造られた軍人像。
一体一体の表情が異なる。

1938年(昭和13年)初頭に、歩兵第六連隊長の倉永辰治陸軍少将ら3人の胸像が造られたことに始まり、その後、43年頃までに108体が建立されたという。

倉永辰治聯隊長は、8月29日敵弾の胸部貫通により戦死。第二次上海事変の高級指揮官として最初の戦死、であった。

生前の写真をもとに作られた軍人像の大きさは、約50~約180センチ。
戦争の戦局が悪化してからはコンクリート像の柱となる金属が不足し、小さくなっていったという。

https://www.asahi.com/articles/ASR8B7QNRR70OIPE005.html

大日寺の月ケ丘墓苑が廃寺することになり、1995年に知多半島の「中之院」が軍人像を引き取り、現在の姿となった。
92体の軍人像を遷座することになったが、全部を台座ごと置く場所がなく、遺族と連絡が付いた22体は台座ごと遷座し、残る70体は台座の上部のみを遷座。結果、向かって右側に台座のある軍人像、左側に台座のない軍人像が並んでいる。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/447815

軍犬も

陸軍軍人も、海軍軍人も。愛知県出身の犠牲者を慰霊する。

後姿もきちんと造形されている。

無心となって、時間を忘れて軍人像と対座。

改めて

みたまやすらかに、と、祈念する。

梅の花が咲いていました。

知多半島から、伊勢志摩方面を望む。

神島、かな

答志島、かな。

河和駅からバスに乗って「サンタバーバラサンセット」バス停で下車。そこから約三十分ほど歩いて、軍人像まで、という道のりでした。

山海海水浴場

バスはだいたい1時間に1本。行きたいところには、アクセスがもっと悪い場所も多いので、1時間に1本なら有難いと私は思ってしまうが、訪問には時間の計画と組み立ては必要なところですね。

河和駅前 行き

サンタバーバラサンセット 帰り

場所

https://maps.app.goo.gl/zD1eokwLLiHENA9GA

※撮影:2026年2月

この日の午後は、こちらに。


参考掲載

歩兵第六聯隊長・倉永辰治陸軍少将の墓(東京・賢崇寺)

倉永辰治陸軍少将。佐賀県出身。
陸士23期、陸大34期。

昭和10年(1935)に歩兵大佐に昇任し、翌年に歩兵第6連隊長となった。
昭和12年(1937)の、第二次上海事変で、呉淞上陸作戦の前線指揮を担う。火力優勢な中国軍に対し、8月23日に勇敢な正面敵前上陸を敢行し、多大な犠牲を払うも上陸に成功し橋頭保を構築。しかし歩兵第六連隊長の倉永辰治も8月29日に敵弾が胸部貫通し戦死。第二次上海事変の高級指揮官として最初の戦死、であった。死後、陸軍少将に特進。

この第二次上海事変で奮戦した歩兵第六聯隊の犠牲者に対する遺族の慰霊顕彰の願いが軍人像建立のきっかけになった。

倉永辰治の墓は佐賀藩の江戸の菩提寺であった賢崇寺にある。上官にあたる上海派遣軍司令官の松井岩根陸軍大将の書。
また、歩兵第6連隊長の倉永辰治少将、そして同じく上海で戦死した歩兵第101連隊長の加納治雄少将など7名の「戦没勇士の胸像」が昭和14年に作られ、靖國神社遊就館に献納されている。

陸軍少将倉永辰治墓
 陸軍大将松井岩根書

「七つ日足に三つ巴」の家紋。
日足紋は、戦国時代に肥前の龍造寺氏が初めて使用したといわれ、北部九州の武家でよく使われた家紋。倉永家は佐賀藩の馬術指南の家柄。

倉永辰治は、佐賀藩士の袋武辰の次男であったが、陸軍中尉時代に父の実家である藩の元馬術指南倉永勝太郎の跡を継いで倉永姓となっている。

法号 永勝院殿徳忠辰光居士 享年五十
 昭和十二年八月二十九日 於上海戦死

賢崇寺には「肥前佐賀藩主鍋島家墓所」や「二十二士之墓」(二・二六事件の墓)もある。

※撮影:2026年9月


関連

山形の近代建築散策(山形の戦跡散策・4)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。
その1は下記から。

県庁所在地としては戦災を免れた数少ない「非戦災都市」の一つ。
大規模な空襲がなかった山形市内には、比較的に近代建築物が残っている。


山形県旧県庁舎(山形県郷土館・文翔館)

第2代山形県庁舎。
1911年(明治44年)5月の山形市北大火によって初代山形県庁舎および県会議事堂は焼失。
再建新庁舎は耐火建築物として建設され、1916年(大正5年)6月、2代目の県庁舎および県会議事堂がイギリス・ルネサンス様式で竣工した。建物はレンガ造りで(床・天井・小屋組は木造)、県庁舎は地上2階、半地下1階の3階建て。議事堂は平屋建て一部2階建て。
創建時から稼働する時計塔の機械式大時計は札幌市時計台に次いで国内で2番目に古いものとなる。
1975年(昭和50年)9月、総工費97億円余りを投じ建設された地下2階、地上16階の3代目県庁舎が完成し、歴史資料館として永久保存となった。
国指定重要文化財。

重要文化財
山形県旧県庁舎

この建物は、レンガ造りの三階建で大正5年6月15日に落成し、昭和50年9月に新県庁舎が建設されるまでの間、県庁舎として使用されました。
その後、東南村山合同庁舎として昭和59年まで使用されました。
昭和59年12月28日に旧県会議事堂とともに国の重要文化財に指定されております。

中央階段

バルコニー
昭和22年、 昭和天皇行幸の際に、バルコニーから山形県民にお手を振られた記録が残っている。

稼働する機会式時計としては、日本で二番目に古い(最古は札幌市時計台)。

貴賓室(副知事室)

知事官房(知事秘書室)

初代県令(初代県知事)
三島通庸胸像

栗子山隧道
國の為 尽くす心は 陸奥の
 山の坑道 踏みてこそしれ
            通庸

栗子山隧道(栗子隧道)は、山形県米沢市と福島県福島市の県境間のトンネル。明治14年(1881)開通当時の日本最長トンネル。

三島通庸所用佩刀

知事室

山形の歴史も。

1.県都山形の発展
市制を築いた明治22年(1889)、当時の山形市の戸数は2,212戸、人口は28,400人でした。その後、大火や水害の大きな被害もありましたが、35年に5,884戸・37,348人、大正10年(1921)には8,794戸・47,257人と、戸数・人口ともに増加し、とくに工業従事者数が急増しました。
その間、日清戦争後の軍備拡張の気運が高まる中で明治30年に歩兵第三十二連隊が設置され、34年には奥羽線が山形まで開通しました。また、大火後の復旧事業も進み、大正5年には、新県庁と県会議事堂の完成を記念して、奥羽六県連合共進会が開催されました。

歩兵第三十三聯隊の設置
日清戦争後の三国干渉の結果、軍備拡張の気運が高まり、旧山形城本丸・二の丸跡に歩兵第三十二聯隊が設置されました(明治30年)。
歩兵第三十二聯隊は、初めて従軍した日露戦争で大活躍しました。

中庭側から。


山形県旧県会議事堂(山形県郷土館・文翔館)

旧県庁に隣接する、旧県会議事堂。
第2代山形県会議事堂。

こちらは、改装工事中のため、見学は不可でした。

旧県庁と旧県会議事堂を結ぶ通路。

https://www.pref.yamagata.jp/110001/sangyo/sangyoushinkou/him_top/him_maincat1/him_24.html

https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/145381

場所

https://maps.app.goo.gl/ojUcJE5fpBXGNJnp7


旧山形師範学校本館(山形博物館・教育資料館)

旧山形師範学校本館は、山形県師範学校時代の1901年に建設された本館。
ルネサンス様式の木造洋風建築。

1973年に国の重要文化財に指定され、1980年から山形県立博物館分館教育資料館となっている。
旧山形師範学校講堂は、本館に隣接しており山形県指定有形文化財二指定されている。

師範学校道場の大鏡
 師範□□山川□□具店。鏡面の下には文字が削り取られた跡があります。もとは、師範道場、山川武道具店の文字がありました。終戦直後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令により、教育現場では軍国主義の一掃が図られました。戦時下に中学校や師範学校などで行われていた軍事教練はもとより、柔道や剣道などの武道も軍国主義につながるものとして一切が禁止され、関係する道具類もすべて廃棄処分されました。
 この大鏡は、昭和13年(1938)に山形師範学校の道場落成記念として寄贈されたものです。武具に類するものではなかったために、処分を免れたものですが、「道場」と「武道」の語が注意深く削除されています。当時の軍国主義排除の徹底ぶりを物語る貴重な資料といえます。


旧山形師範学校・門衛所(国指定重要文化財)

門衛所(国指定重要文化財)
明治34年に山形県師範学校が旅籠町から現在地に移転新築された時からある建物です。本館に続き、昭和55年に国重要文化財に追加指定されました。昭和15年奉安殿建設のため正門内南側に移されましたが、昭和57年の改修工事の際に元の位置に移築されました。木造平屋建ての擬洋風建築で、屋根は亜鉛引鉄板一文字葺、外装には下図のような意匠が凝らされています。


旧山形師範学校・講堂(山形県指定有形文化財)


教学百年

昭和五十五年の建立。

「創立二十五年祝典記念」
1901年9月に、現在地の馬見ヶ崎河畔の新校舎(馬畔校舎)に移転。
師範学校は1878年9月に開校して、1903年に25周年を迎えた。

https://www.pref.yamagata.jp/110001/sangyo/sangyoushinkou/him_top/him_maincat1/him_25.html

https://www.yamagata-museum.jp/education-museum

https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/192840

場所

https://maps.app.goo.gl/rAaBhFy5iGvVQqYF9

このあと、「山形大学附属博物館」に赴いたけど、臨時閉館。残念。ここには、陸軍丁式二型爆撃機用プロペラがあるというが。再訪?


※撮影:2026年3月

沖縄で奮闘継戦した霞城聯隊「歩兵第三十二聯隊」と「山形城址」(山形の戦跡散策・3)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。
その1は下記から。


歩兵第三十二聯隊

明治29年(1896)に秋田市に聯隊本部を設置。
明治31年(1898)に軍旗拝受。
明治37年(1904)日露戦争に参戦。戦後に、秋田市から山形城に転営。
本拠地にちなみ「霞城聯隊」とも称された。
大正7年(1918)シベリア出兵、大正11年に帰還。
昭和14年(1939)10月、第8師団から満洲で新設された第24師団に所属変更。
昭和19年(1944)満洲から南方戦線に兵力転用となり、歩兵第32聯隊は1個大隊はサイパンに派遣となり、連隊主力は沖縄に派遣となった。

歩兵第32聯隊の沖縄戦
沖縄戦初期の前田高地の激戦(米軍戦車群を擲弾筒射撃および肉薄攻撃によって阻止)、棚原の戦い(第32軍の総攻撃で米軍陣地を突破し、棚原一五四.九高地を奪取)から末期の国吉高地まで、終始激戦の最前線で戦ってきたのが第24師団の「歩兵第32聯隊」であった。

歩兵第32聯隊は、上級司令部にあたる第32軍(牛島満中将は6月23日に自決)、第24師団(雨宮巽中将は6月30日に自決)の組織的な戦闘行為が壊滅したのちも、第32聯隊長・北郷格郎陸軍大佐、第1大隊長の伊東孝一大尉のもとで組織的な戦闘を継続。

歩兵第32聯隊は、残存将兵をもって、米軍に多大な損害を与え続け、既に沖縄戦勝利を発表していた米軍を悩ませ続け、そして8月15日の終戦まで、国吉台の洞窟陣地を堅持し、最期まで健闘した。
8月29日の武装解除の段階で、歩兵第32聯隊の残存将兵は約300名であった。


山形歩兵第三十二聯隊之跡

山形城(霞城)に駐屯した歩兵第三十二聯隊

山形歩兵第三十二聯隊之跡
昭和四十三年七月 山形三十二聯隊会建之

歩兵第32聯隊足跡の大要
 聯隊は、明治31年3月24日、宮中にて軍旗を拝受。最上義光公の居城であったこの地に誕生し、國防の一翼を担い、霞城聯隊とも称した。
 日露戦争では、明治38年、緒戦の黒溝台会戦に抜群の勲を樹て、勇名を馳せた。
 満州事変では、昭和7年、熱河作戦に参加し万里の長城の古北口、南天門等の戦闘で活躍。12~19年の間、満州東部國境の防衛に任じた。
 大東亜戦争の戦況急迫に伴い、19年、聯隊は一個大隊をメレオン島に急派、主力は転進して沖縄防衛第32軍の指揮下に入った。
 昭和20年3月末から沖縄本島は、圧倒的優勢な米陸海空軍の猛攻を受け、各部隊は勇戦敢闘したが、逐次壊滅、6月23日、軍司令官の自刃により組織的抵抗を終えた。
 しかし、我が聯隊だけは、軍旗を奉じ、残存二百五十名が、沖縄南部の國吉台とウテル原台一帯を死守した。8月末終戦の大命を知り、26日夜軍旗を奉焼し翌日聯隊は終焉を迎えた。
 ここに恒久平和を願い、聯隊創設以来の戦没者の遺徳を偲び哀悼の誠を捧げる。
  平成十九年四月
   山形歩兵第三十二聯隊会・関係者一同

建碑由来
 霞ヶ城は最上義光の居城にして歩兵第三十二聯隊は明治三十一年三月軍旗親授とともにここに創設され爾来鋭意国防訓練に励み霞城聯隊と称す。
 明治三十七八年日露戦役には黒溝台の戦闘に勇名をはせ、大正七年朝鮮守備、同十一年サガレン派遣、こえて昭和七年満洲事変には万里の長城古北口等の戦闘に参加して数々の功績を樹てり、同十二年再度渡満しソ満国境警備の任につき田原山ノモンハン事件に出動し同十六年遂に大東亜戦争を迎う同十九年主力は沖縄本島に転進し歩兵一ヶ大隊をメレオン島に派遣す。翌二十年三月十数倍の敵機動部隊の攻撃を受け勇戦敢闘し多大の損害を与えたるも聯隊もまた死傷続出し将兵の大半を失ない寡兵克く敵の重囲下死闘を続けること五ヶ月余、遂に終戦の大命を拝し同年八月二十八日夜軍旗を奉焼して終る。
 ここに異国の丘に眠る幾多戦友の武勲をしのび恒久平和の願いをこめて霞城聯隊跡にこの碑を建て永久に伝う
 昭和四十三年七月 山形三十二聯隊会

歴代の聯隊長
初代 岩元 貞英
二代 安村 範雄
三代 森川 武
四代 高山 公通
五代 山本 延身
六代 森川 武
七代 岡沢 慶三郎
八代 柴 豊彦
九代 大川 盛行
十代 山田 留太郎
十一代 宮地 太郎
十二代 倉茂 三蔵
十三代 堀之内 直
十四代 佐藤 正三郎
十五代 田中 清一
十六代 阿部 規秀
十七代 山本 源右衛門
十八代 野地 嘉平
十九代 川村 脩
二十代 泉 可畏翁
二十一代 北郷 格郎

歴代の知事
初代 三島 通庸
(以下略)

場所:

https://maps.app.goo.gl/6DTgyKVx3nRafVyb6


山形城(霞城・霞ヶ城)

国史跡、日本100名城。
最上義光が整備し、出羽57万石の本城となる。
三の丸の内側の面積は、日本国内で5番目の広さを誇り、奥羽地方では最大の城であった。
最上57万石時代から藩主交代と石高削減に伴い、幕末の水野氏5万石時代には、広大な城を維持するのが難しい状態であったという。

明治に、山形市が城跡を取得し、陸軍を誘致。歩兵第三十二聯隊の兵営となった。

最上義光像

山形城主最上義光顕彰詞


霞城聯隊(山形市郷土館・済生館)

山形市郷土館にある「霞城聯隊(かじょうれんたい)」に関係する展示と解説など。

血染めの桜

霞城連隊の発足
 明治時代以降、急速な近代化政策に伴う軍備増強のため、旧山形城内に陸軍が駐屯するなど、山形も国の政策とそれに伴う戦争に巻き込まれていきました。
 1894(明治27)年に始まった日清戦争は日本の勝利に終わり、戦後調停された下関条約により、日本は新たな領土と多額の賠償金獲得しました。しかし、三国干渉により遼東半島の返還を余儀なくされ、また本土から離れた台湾統治の必要があり、国内における軍備増強が急務となりました。
 そのような背景から、山形県にも連隊が設置されることが決定しました。それを受けて、山形市は旧山形城本丸·二ノ丸の跡地を買収して国に寄付することを決議しました。連隊の誘致が成功し、1897(明治 30)年から駐屯したのが、第八師団管下の歩兵第三十二連隊(通称、霞城連隊)です。
 連隊入隊のため、山形県内の青年が二千人近くも山形市に集まり、市経済は大いに潤いました。連隊は、日露戦争で活躍を見せ、その後も朝鮮、樺太、満州に派遣されたほか、ソ満国境にも駐屯しました。太平洋戦争末期には、満州から沖縄への移動を命ぜられ、力戦の末、終戦を迎えました。

日露戦争・血染の桜
 1904(明治37)年に日露戦争が勃発すると、しばらくして歩兵第三十二連隊にも出征の要請がかかりました。連隊が属する第八師団は、初め遼陽の警備にあたっていましたが、翌年1月、ロシア軍の攻撃を受け壊滅の危機に瀕していた黒溝台に進軍し、多大な犠牲を出しながらも同地を死守し、日本の勝利に貢献しました。日露戦争の勝敗を分ける要因となったといわれる黒溝台会戦です。
 日露戦争終結後も遼東地方で警備を続けた連隊は、1906(明治39)年に帰還しました。生存者の中では、凱旋したら兵営に記念の桜を植えようという話が持ち上がっており、それが実現して植えられたのが、現在の霞城公園の桜といわれます。
 日露戦争以前から、連隊のシンボルとなっていた桜の木がありました。「血染の桜」です。この名前は、最上義光が病気を装い、敵対していた谷地(現在の山形県河北町)城主、白鳥十郎長久を山形城に呼び寄せて斬った際に、桜が返り血で染まったという伝承に由来します。戦後、霞城公園内の野球場建設のために移植されて枯れるまで、山形城及び霞城公園のシンボルでした。

第二次世界大戦と山形の生活
 1920年代の日本は、第一次世界大戦後の戦後恐慌や昭和恐慌という慢性不況に陥っていましたが、それを打破すべく中国大陸に新領土を求めました。
 1931(昭和6)年、満州事変で日中両軍は衝突し、1937(昭和 12)年に日中は本格的な戦争状態に突入しました。満州事変以降、経済統制が進み、日本は軍需·戦時経済へ移行しました。
 市内でも軍需産業への転換が起きました。1938年、金属工業の軍需品以外への原材料使用が禁止されると、銅町の銅鉄器鋳物工業は鉄瓶製造を禁止されました。それにより失業した者の一部は、軍需品製造の下請けとして職を得ました。また戦闘機の生産を手掛ける日本飛行機株式会社の山形工場が1942(昭和17)年に設置され、統制経済による地元の廃業失業者を吸収しました。さらに民間の銅鉄器供出も始まり、公共施設の門扉·鉄柵のほか、豊烈神社境内の水野三郎右衛門元宣銅像も供出されてしまいました。
 1944年以降、空襲激化により学童集団疎開が進み、山形市は6月30日に東京都豊島区から小学生600名以上の集団疎開を受け入れました。

戦禍を免れた山形市
 1945(昭和20年)3月10日の東京大空襲の後、山形市には多くの疎開者が流入し、深刻な食糧不足に陥りました。そのような中で6月29日、山形市上空に初めてB29機が飛来しました。その後7月10日、ついに隣県宮城県仙台市で米軍による大規模な空襲が行われ、山形においても空襲を免れえないという危機感が強まりました。山形市では急ぎ防空壕を作り、分散備蓄や建物疎開を進めました。旧済生館本館は、当時県内で最も高い建物であり、空襲の標的とされる恐れがあったため、最上階部分を撤去し、低くする工事が行われました。
 戦時中、現在の市内漆山駅付近(当時は出羽村、楯山村)に設置されていた日本飛行機の飛行場では、市内工場で生産した戦闘機の飛行実験をしていました。それにより、8月9日、米軍による空襲を受けました。
 済生館病院の医師看護師たちは、8月15日の終戦を中庭で聞いたそうです。山形市は、無差別爆撃を受けずに終戦を迎えた数少ない県庁所在地です。城下町特融の丁字路やかぎ形路、食い違い道路などが残っているほか、歴史的建造物など文化財も多く残っています。

昭和8年作
七生報国


陸軍用地境界標杭(山形城周辺)

山形城址の北にいくつか境界標杭が残っている。

「四六」とありますね。

場所:

https://maps.app.goo.gl/NbbEfu2WSHM31VpG9

こっちは「四五」

埋もれてますね。

これは?


山形市郷土館・済生館

旧済生館病院本館
1873年(明治6年)に私立病院として設立され、1878年9月に当時の県庁そばに本館が竣工した。
全国的に見ても唯一の明治初年の病院遺構として貴重であり、明治初期の下見板張擬洋風建築の最高傑作として、国の重要文化財に指定。
戦後、病院としては役目を終えて、1969年に霞城公園内に移築され山形市郷土館として利用されている。

明治11年(1878年)太政大臣三条実美により「済生館」と命名された。

3層楼なのに実は4層。
1階部は、ドーナツ型。
2階部は16角形の直径10メートルほどの柱のないホール。
トラス構造で、中3、4階を支え、8角形へと楼の形を変え、そして螺旋階段で上階へとつながっている。

1階から

1階から2階への階段

ステンドグラス

3階へは螺旋階段

中庭で終戦の玉音放送を聞いたという。

明治洋風建築系統図
これは興味深い

ローレツ先生
明治に来日したオーストリアの医師。山形県公立病院済生館医学寮に教頭に就任した。

木村逸堂は、明治時代初期に山形公立病院(のちの済生館)で働いていた医師。

場所

https://maps.app.goo.gl/3Yzwzj6xsJpu7mbJ8


霞城セントラル展望台

おー、霞城がよく見える!

済生館

蔵王山もよく見える!

山形駅。四方を山に囲まれているのがよく分かる。

1階には、日本酒の利き酒エリアも!

500円で3コイン、1000円で6コイン

6杯いただきました!

山形駅のうしろに見えるのが、霞城セントラル

https://maps.app.goo.gl/p6AVPnN6dbV3o7a28


※撮影:2026年3月


その4へ(準備中)

日本飛行機山形製作所ゆかりの「日飛神社」(山形の戦跡散策・2)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。
その1は下記から。

日本飛行機山形製作所ゆかりの「日飛神社」(現在は鳥海月山両所宮の境内社の日枝神社)


日本飛行機

日本飛行機(ニッピ)
創業は昭和9年(1934)10月11日。
日飛の初代社長は加藤亮一(海軍中将)。
二代目社長が昭和11年11月から堀悌吉(海軍中将)。堀悌吉は山本五十六連合艦隊司令長官とは海軍兵学校の同期で無二の親友。
三代目社長は、昭和16年11月から大野寛(海軍中将)、大野氏で終戦となった。

1934年から量産された九三式中間練習機(赤トンボ)の生産を担当。2733機を生産した。
九四式水上偵察機、特殊輸送機(兵員輸送用大型グライダー)、秋水局地戦闘機、彩雲艦上偵察機等を生産。また、九六式陸上攻撃機、零式小型水上偵察機の尾翼や燃料タンク、九九式艦上爆撃機、桜花の主翼など部分品も生産した。
戦後は川崎重工の100%子会社。


日本飛行機山形製作所

1942年7月、従業員3,000人規模で、山形県に「日本飛行機 山形製作所」を開設。
練習飛行場も併設された。

市長のやまがた自慢「日飛神社」
皆さんは、「日飛神社」をご存じでしょうか。多くの方が初耳ではないかと思います。宮町の鳥海月山両所宮の敷地内にある弁天池の傍らに社が2つ並んでおり、その右側が通称「日飛神社(正式には「日枝神社」)」です。
日飛は「ニッピ」と読み、日本飛行機という会社名を略した言い方です。実はかつて山形駅の南側、現在の山形西高等学校周辺に巨大な飛行機の製造工場がありました。戦後、その敷地内にあった社が移され、現在、日飛神社と呼ばれているというわけです。
雇用の確保は戦時期から重要課題だったようで、大沼保吉山形市長をはじめとした企業誘致運動が行われ、日本飛行機の誘致に成功しました。昭和17年3月から海軍の演習機の製造を始め、従業員数が3,000人だったといいますからすごい規模です。
さらに興味深いのが、終戦近くになって当時最新鋭だったロケット戦闘機「秋水」の試作機が、山形で製造されたというのです。ドイツから運び込んだ設計資料を基に、極秘で製造されましたが、実戦に投入される前に終戦を迎えました。大変ミステリアスな話ですね。
戦後、この工場はなくなりましたが、そこで働いていた方の多くが会社を創業し、戦後山形の経済の基盤のひとつとなりました。また、今でも神奈川県横浜市に本社のある日本飛行機株式会社の社員の方が日飛神社にお参りするために山形にお越しになるそうです。
航空機産業も平和産業となり、また、将来の成長産業でもあります。現在、山形市にも航空機関連の部品を製造している企業があり、さらに伸ばしていければと考えています。
両所宮では節分祭、例大祭、たたら・ふいご祭りなど、さまざまな行事も行われます。お越しの際にはぜひ日飛神社にもお立ち寄りいただき、隠れたエピソードに思いをはせてみてはいかがでしょうか。
(広報やまがた平成28年6月1日号掲載)
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/shiseijoho/shicho/1006787/1006792/1005475.html

山形製作所は、山形駅の南、鉄砲町に山形西高等学校周辺にあった。

 JR北山形駅から北東に約700m進むと、鳥海月山両所宮の境内に1mほどの小さなほこらがたたずむ場所があります。「日枝神社」の名で親しまれる社は、かつて「日飛(ニッピ)神社」と呼ばれていました。
 「ニッピ」とは、戦闘機メーカーだった「日本飛行機」のことで、戦前、この場所から約4㎞南にあった日飛山形製作所の敷地内にまつられていた神社です。戦後の工場閉鎖に伴い、山形市宮町3丁目の鳥海月山両所宮の境内に移されました。
 戦争の進展とともに市内の工場は厳しい統制でほとんどが破滅に近い打撃を受け、多数の失業者を出すようになりました。市では、軍備工場の誘致運動も積極的に進め、昭和17年3月には、横浜に本社のある日本飛行機が鉄砲町に山形工場を完成し、海軍演習機の製造を開始しました。また、漆山にある山形刑務所の辺りには日飛(漆山)飛行場も整備されていました。日飛工場は、最盛期には従業員3,000人が働くという、山形市としては空前の規模の工場で、ほとんど地元の人が採用されていました。
 太平洋戦争末期、幻のロケット戦闘機「秋水」はこの日飛工場で作られていました。
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/495/marugoto-2-10.pdf

山形市の北にあった日飛の漆山飛行場。
漆山飛行場は、1945年8月9日早朝に、連合軍の空爆にて格納庫や滑走路が破壊され使用不能となり、戦後は、山形刑務所となった。

上記サイト「山形市>『ベニちゃんのまるごとやまがた』について(https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/kosodatekyoiku/shakaikyoiku/1006733/1004495.html)」から、引用

なお、現在の山形飛行場とは、別。

渋沢社史データベース>
昭和16年(1941)5月
富岡製作所(旧称富岡工場)が、京浜地区に所在することに起因する地域的制限、人的資源確保の困難性、下請工場の不確実等の理由から工場の地方分散を企画し、山形県に山形製作所を開設し、当日その開所式を行なった。山形製作所は、12万坪の飛行場をもつ敷地6万坪の工場で、現在航空局の山形飛行場になっている。
https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=6910&page=2

現在の山形飛行場(山形空港)は、大日本帝国海軍が昭和19年に造成した練習飛行場。
谷田部航空隊の飛行隊を神町に移し、神町航空隊を開隊している。(神町飛行場)
そのため、日飛の飛行場とは、また別の話となり、渋沢社史データベースでの記載は誤記と思われる。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M201-73
1947年04月12日、米軍撮影の航空写真

日飛の漆山飛行場界隈を拡大加工

ファイル:USA-M201-23
1947年04月12日、米軍撮影の航空写真

拡大加工

日飛山形製作所

前述の配置図(北を上に回転)も参照まで。


日飛神社(鳥海月山両所宮境内社・日枝神社)

日本飛行機山形製作所内で祀られていた神社「日飛神社」が、鳥海月山両所宮に日枝神社として遷座されている。
現地には、特に「日本飛行機」を物語る掲示などはされていない。

のんびりとした時間、のどかな昼下がり。


鳥海月山両所宮

鳥海・月山の両神を祀る。旧社格は県社。

随神門(山形県指定文化財)

場所

https://maps.app.goo.gl/xQHJc8QzS7xmKZsS7


平和の碑(山形市宮町北部班の慰霊顕彰碑)

鳥海月山両所宮のある宮町北部班から出征した戦没者41名の慰霊顕彰及び従軍者の顕彰をする碑。昭和39年5月11日建之。
銘文は、真壁仁(山形市宮町出身の詩人)

 われらいくさに従い大陸に海に離島に
 身をすててたたかったもの
 今ここに石ふみをおこし永遠の平和を誓う
 民族の歴史にふかい傷跡を刻んだあの体験を
 ふたたびくりかえさないために
 無限に貴い人間の生命と生活のよろこびまもるために
 不戦のねがいをあらたにする
 いのち若くしてあたら戦場の花と散ったつわものたち
 深夜の星を仰いで家郷を偲び肉親を思ったそのまなざしよ
 けれども死者の聲はよみがえらず痛ましき沈黙に
 残されたものの悲しみだけがいつまでもこだまする
 いま仰ぐふるさとの空は澄み山は青い
 不運の魂をいだく故山の平安よ永遠なれ
  真壁 仁


※撮影:2026年3月


その3へ

「山形縣護國神社」と「薬師公園」「千歳山霊苑」巡拝(山形の戦跡散策・1)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。


山形縣護國神社(山形県護国神社)

山形県関係の戦没者40,845柱を祀る。
明治2年(1869年)1月、戊辰戦争で戦死した薩摩藩士10柱を祀るために山形市八日町に社殿を造影したことに始まる。
明治8年、官祭「山形招魂社」となり、以後は、山形県関係者の戦没者を祀る。
明治22年、山形市宮町に遷座。明治44年の山形市の大火で社殿焼失、大正3年に再建。
昭和9年(1934)に千歳公園内の現在地に遷座。昭和14年に、内務省指定護國神社となり、「山形縣護國神社」と称した。
GHQ占領下の昭和22年から昭和27年は、「千歳宮」と称していた。
現在の社殿は、平成6年(1994)に改築。
山形県内では、初詣参拝客1位を誇る(約13万人)

https://yamagataken-gokokujinja.jp

青銅日本一の狛犬。
平成29年8月15日の終戦記念日に奉納。
高さは7尺(2m10㎝)。

大鳥居から一直線に社殿まで伸びる参道

社号標

山形縣護國神社
陸軍大臣 小磯国昭 謹書
昭和十四年九月十八日

小磯国昭は山形県出身。東条英機の次の総理大臣でもある。

さくら陶板

さくら陶板
 靖國神社は令和元年に御創立150年を迎えられ、その記念事業として「さくら陶板」が作製されました。この陶板は47都道府県の土を使い、各地の著名な陶工の方々が奉納したものです。山形県の陶板は山形の土を使い、長井市出身の陶芸家和久井修氏が作成されました。「さくら陶板」には慰霊の心とそれを次世代に伝えることが祈念されております。
 和久井氏は当神社にも同じ陶板を奉納したいと希望され、山形建設株式会社の協力により、靖國神社に建立されている陶板と同じく山形県の土を使った「さくら陶板」が奉納されることとなりました。
 靖國神社と当神社がこの陶板を通してつながることで、御祭神もお喜びのことでしょう。この陶板を通じて御祭神の慰霊と平和への祈りが届くものと思っております。

社号標

山形縣招魂社
海軍大将 正二位勲一等功二級子爵 齋藤實 謹書
昭和九年十月三十日

昭和九年十月に、山形県招魂社は現在地に遷座している。

御社殿

みたまやすらかに

蔵王山は南東に。(社殿は南面)

山形県護国神社
御朱印

「祈りの塔」
巫女さんの像

祖国の安泰を念じて尊い生命を捧げたご英霊のお陰で今日の平和と繁栄があることを忘れてはなりません。
 山形県護國神社 宮司 宮舘厚悦

御本殿

山形県神社庁

https://maps.app.goo.gl/xLQccCk4q8zAWuU97

「建国記念塔」が境内にあるはずなのだが、あるべき場所に見当たらず。
うーん?

https://maps.app.goo.gl/ReGrgquy1jnpQ8uv9


山形招魂社 社号標(薬師公園)

山形招魂社時代の社号標。
大正2年六月建立。
「官祭」の文字は塗りつぶされている。

https://maps.app.goo.gl/guP1wCb8TNHcdNz96


雪部隊・戦没者慰霊碑(薬師公園)

山形県護国神社には、慰霊碑はなく、隣の薬師公園(出羽国分寺薬師堂・千歳公園)にいくつかの慰霊碑があるので、足を運んでみる。

雪部隊
戦没者慰霊碑
 雪部隊慰霊会長 
 山形県知事 板垣清一郎 謹書

碑文
 雪部隊は日華事変中の昭和14年(1939)弘前、秋田、山形の各歩兵聨隊を基幹とし、騎兵、砲兵、工兵、輜重各連隊を含む第36師団隷下各部隊の秘匿名で、雪国青森、岩手、秋田、山形県の東北健児をもって編成された郷土部隊である。
 雪部隊は昭和14年3月編成完結、4月北支派遣軍として中国大陸に渡り、華北、山西省に進撃、爾来約5ヶ年、華北の山岳地帯各地を転戦し、舞部隊(初代師団長舞伝男中将)井関部隊(2代師団長井関仭中将)としてその勇名を天下に轟かした。 当事山西省には閻錫山の率いる山西軍、朱徳の率いる共産八路軍、そして蒋介石政府軍と、中国の精鋭部隊が峨々たる峻嶮に拠って頑強に抵抗したのであるが、雪部隊は中原会戦、沁河作戦、大行作戦等二十数回にわたる作戦を敢行し、勇敢にして粘り強い東北健児の特色を遺憾なく発揮して激戦に次ぐ激戦を重ね遂に山西省を平定し北支派遣軍随一の武勲を樹てたのであるが、わが部隊も忠勇無比の将兵1,500名を失った。
 日華事変も遂に太平洋戦争に発展し、連合国軍の反攻作戦漸く激しくなる頃、昭和18年(1943年)10月雪部隊に突如として濠北派遣の命が下った。 部隊(3代師団長田上八郎師団長)は急ぎ華北山西省を後にして上海、南京附近に集結、11月末に上海出帆、一路南下して赤道を越え12月末ニューギニア島サルミ附近に上陸した。 この島は密林(ジャングル)と湿地帯とそしてマラリヤの猛威をふるう全くの未開地であった。 時既に戦局は我に不利、上陸後戦備を整える暇もなく昭和19年4月頃より敵はサルミ地区に対し圧倒的な空軍と海軍により攻撃を開始して来た。 わが雪部隊はマッカーサーの指揮する南東太平洋方面連合軍をこの地に迎撃して血みどろの激戦となったのである。 日本陸軍でも最強とうたわれたわが雪部隊は、悪条件にもかかわらず、よく善戦奮闘し、遂に敵上陸部隊を撃退したが、物量に物をいわせる連合軍の連日の猛爆撃と艦砲射撃、制空権と制海権を完全に奪われたわが軍は、密林と湿地帯に阻まれて作戦行動ままならず加えて赤道直下の炎熱と食糧不足、マラリヤ、栄養失調、脚気等により悪戦苦闘その極に達し、戦場は正にこの世の生地獄の様相を呈し、生残る戦友数うるに足らず、ワクデ島守備の石塚隊玉砕、そしてまたビアク島の雪3523部隊(葛目聨隊)も玉砕、雪部隊はその主力を失なってしまった。 ニューギニアに上陸した雪部隊隷下の将兵14,000名戦没者11,794名、生存して帰還したる者僅かに2,000余名に過ぎず。
 戦後昭和31年(遺族代表神保氏参加)と昭和46年(戦友代表鈴木健三郎氏・中沢農夫氏参加)にニューギニア遺骨収集団が派遣され多数の遺骨を故国に持ち帰ることができたが未だ南海の果、ジャングルの中には無数の戦友の遺骨が眠っている。
 九死に一生を得て僅かに帰還したる者われら断腸の思い、誠にしのびざるものある。 山形在住の雪部隊生存者による雪部隊慰霊祭実行委員会が中心となり、寄付を募り再度遺骨収集を計画したが現地政府の許可なく断念するのやむなきに至る。 よってこの地に雪部隊戦没者慰霊碑を建立し、純粋なる祖国愛に殉じた戦友の英霊を慰め心から冥福を祈るものである。
    昭和53年9月2日 謹日

 異国の地で散華された13,249名の、戦没者名簿、雪部隊史並びに聨隊史をカプセルにし、生存者の赤誠の鎮物として、慰霊碑の奥深きに納め埋蔵し、永久に慰めるものである。
  安らかにお眠り下さい。

https://maps.app.goo.gl/n3huzkkXFJSrcmSi8


戊辰薩藩戦死者墓(薬師公園)

山形県護国神社の前身である招魂社は、戊辰戦争での薩摩藩の戦死者を祀ることから始まっていた。

戊辰
薩藩戦死者墓
大勲位公爵 松方正義 書

大正4年11月合葬

戦死者名


出羽国分寺薬師堂(薬師堂)

聖武天皇の国分寺建立の詔により、天平13年(741)の建立に基づく。創建時は酒田の城輪柵の近隣に位置していたが、平安後期以降、国府が内陸の山形市に移転するとともに国分寺も移転。薬師堂が出羽国分寺の後継寺院とされている。

薬師堂
明治初期に山形県会の仮議事堂となり、山形県指定史跡「旧山形県会仮議事堂」でもある。
現在は、柏山寺が管理。

宮城浩蔵顕彰碑
明治大学の創設者

扁額は、西園寺公望
選文は、中江兆民

https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/miyagikozo.html

https://maps.app.goo.gl/Ct2RcBZtRJiMf5eR8


陣没軍馬慰霊塔(薬師公園)

軍馬を祀る慰霊塔。創建団体や創建時期は不詳という。
建立にいたる銘記や碑誌もなく。

陣没軍馬慰霊塔
陸軍大将 小磯国昭 書

「陣没軍馬慰霊塔」の創建時期は不明というが、ある程度の推測で絞り込みは出来そうだ。

謹書している小磯国昭は、山形県新庄市の出身。山形出身の代表的な軍人として謹書したのであろう。肩書として「陸軍大将」と記載している。小磯は戦後はGHQに拘束され昭和25年に巣鴨拘置所で亡くなっているために、確実に戦前の建立であることは予想できる。
小磯国昭は、昭和12年7月21日に陸軍大将、昭和13年7月29日に予備役に編入となっている。
そして昭和14年に平沼騏一郎内閣の拓務大臣、昭和15年に米内光政内閣の拓務大臣をつとめ、昭和16年の開戦時は満洲移住協会理事長であった。
昭和17年5月29日から朝鮮総督、そして昭和19年に東條英機の次の総理大臣に就任している。
時局や情勢を考えると、昭和12年から昭和16年にかけての建立でないかと推測。朝鮮総督に就任した昭和17年以降は、軍馬のために慰霊塔を建立する時勢ではなく。

東日本大震災後は倒壊の恐れがあり、近づけなくなっている。

今にも飛び出してきそうな躍動感ある軍馬のレリーフ。
取り囲む銘板の刻は判別不能。なにかが刻まれていたかもしれないが。

https://maps.app.goo.gl/hxRsGz43fiTetZmq8


山形陸軍墓地(千歳山霊苑)

山形陸軍墓地の地。
閉門の為、敷地外から遥拝する。
みたまやすらかに

千歲山霊苑

千歲山霊苑沿革
一、明治二十九年十一月この地に始めて陸軍墓地が設置されました。
一、明治三十九年十一月
   日露戦役戦没者墓碑建立
一、昭和八年一月
   満洲事変戦没者慰霊塔建立
一、昭和二十七年八月
  靖霊塔建立
一、昭和二十八年以後山形県が奉祭維持管理にあたっている。
  昭和三十四年三月 山形県

千歲山霊苑の沿革
本霊苑は明治二十九年に設置された旧陸軍墓地であって、終戦に伴い昭和二十年十月陸軍省から大蔵省へ移管さらに昭和二十八年県において無償譲与を受けたものであり、昭和三十四年に名称を「千歳山霊苑」と改め今日に至っている。
霊苑内には、日露戦争戦没者の各墓碑、満洲事変戦没者慰霊塔並に昭和二十七年に県民有志からの寄附と国費、県費を併せて建立した太平洋戦争の英霊分骨約六千柱の納骨施設たる靖霊塔があリ、その後弘前佛舎利塔に納骨されていた日露戦争当時の県出身英霊約二百柱の分骨並びに南方戦域から収集された遺骨を併せ納めている。
毎年四月には県内の戦没者遺族代表参列のもと慰霊条を挙行するほか、彼岸等には供養拝礼式を行うなど県が奉系維持管理にあたっている。
 昭和六十三年三月再建 山形県

うーん。開門は「月」「水」「金」のみ。
(訪れたのは木曜日でした、惜しい)

陸軍軍人合葬之墓

陸軍軍人合葬之墓

拓魂碑

靖霊塔

満州事変戦没者慰霊塔は、敷地外からは見えず
盛岡の久昌寺と同じ形状の慰霊塔があるという。

https://senseki-kikou.net/?p=36368&

場所

https://maps.app.goo.gl/Y8jxTm3Ki9ymmNJy5


※撮影:2026年3月


その2へ

https://senseki-kikou.net/?p=57525

秋田の郷土部隊「歩兵第十七聯隊」(秋田の戦跡散策・4)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

東京への帰路前に時間があったので、秋田駅周辺を巡ってみました。

秋田の戦跡散策1は、こちらから


歩兵第17聯隊

明治18年(1885)に仙台鎮台の3つめの歩兵聯隊として設置。
明治31年(1898)に、歩兵第17聯隊は、秋田に衛戍地を移し、新設の第8師団所属となった。
明治37年の日露戦争では、当初は予備隊であったが、38年の黒溝台会戦に援軍として参戦、ロシア軍に包囲され、聯隊の半数を失う大きな被害を受ける。次いで第2軍に所属し、奉天会戦に参戦。

第二次世界大戦では、昭和19年(1944)にフィリピン戦線に投入され、歩兵第17聯隊は、フィリピン防衛を担当する第14方面軍下の振武集団・第41軍に所属し、ルソン島の戦いで、全滅寸前で終戦を迎える。
最後の歩兵第17連隊長となった藤重正従陸軍少将は終戦後の9月下旬に投降し戦犯として逮捕。マニラ軍事裁判で住民虐殺の容疑で昭和21年7月17日に絞首刑となっている。


歩兵第十七聯隊趾(中通四丁目)

NTT秋田支局裏手・平田篤胤誕生地碑の向かいに鎮座。
秋田駅前一帯にあった兵営の跡地(中心地)の裏通りに、ひっそりと立てられている。

歩兵第十七聯隊趾
統合幕僚会議議長 陸将 天野良英

我が歩兵第十七聯隊は明治十九年六月仙台市河内に創設。
同年八月十七日宮中にて軍旗を親授せらる。
明治三十一年九月此処旧久保田城址(千秋公園)と内濠を隔てて相対する風光明媚の地に転英す。
創設依頼日進日露の戦役を始め西比利亜事変満洲事変支那事変大東亜戦争に出征し赫赫たる武勲を樹てたり。
昭和二十年八月十五日終戦の命により軍旗は比島にて奉焼す。
百万県民に親しまれ秋田県児修練演舞の道場たりし四万二千有余坪の地も今や街路四通しビル建ち並び往昔の威容を偲ぶよすがなし。
茲に有志相図り碑を刻して陣没せられたる英霊の偉勲を後世に伝う。
 昭和四十一年八月十五日
  選文 三浦熊士郎 

歩兵第十七聯隊の衛戍地からの移築ですね。

北白川宮殿下御手植松

御慶事之松

明治三十三年五月十日

明治33年5月10日の御慶事は、皇太子(のちの 大正天皇)と公爵九条道孝の三女である九条節子姫(のちの貞明皇后)のご成婚(結婚式)。

忠節・礼儀・武勇・信義・質素
軍人勅諭50周年で植樹した公孫樹の碑
昭和7年
最初に記名された「歩兵大佐・日置勝騂」は秋田連隊区司令官。


平田篤胤先生誕生之地

むかいには、なんと平田篤胤の誕生地。
平田篤胤は国学四大人のひとりにして、復古神道の大成者。
土手谷地街区公園内に。

平田篤胤先生誕生之地
陸軍大将 本郷房太郎 書

平田篤胤生誕の地
 平田篤胤は、本居宣長らとともに国学四大人の一人と称される江戸後期の国学者。
 安永五年(一七七六)に秋田藩士・大和田祚胤の四男としてこの地に生まれ、幼少の頃から勉学に励み、二十歳で江戸に出て苦学を重ねると、やがて備中(岡山県)松山藩士·平田篤穏の養子となった。
 宣長の学風を色濃く受け継ぎながら、江戸や京都で復古神道を確立し、諸国にその名を知られたが、儒教を廃し極端な尊王思想を唱えたことで、幕府の体制を揺るがすとされ、天保十二年(一八四一)に久保田へ帰された。
 二年後、中亀ノ丁(南通亀の町)で、病により没するまで、秋田の国学界の発展に寄与した。
 篤胤の墓は手形大沢にあり、国指定史跡となっている。
  平成二十四年六月一日再設置
   秋田市教育委員会


歩兵第十七聯隊之碑(千秋公園)

千秋公園・久保田城址にある歩兵第十七聯隊の記念碑

歩兵第十七聯隊之碑
十七比島会長 尾張三郎 謹書

昭和57年4月29日建立
以下、カタカナをひらがなに置き換えて文字起こし。

歩兵第十七聯隊は明治十九年八月十七日仙台市青葉城址に於て創設され第二師団に属していたが、日清戦争後、弘前市に第八師団司令部が新設されるに及びその隷下部隊として仙台市より秋田市に移駐し、以来終戦まで約五十年の間秋田県の郷土部隊として存在した。
従って聯隊は太平洋戦争の他、遠くは日清日露の両戦役をはじめ、シベリヤ出兵、満洲事変、日華事変にも参加し、それ等の戦役を通じて真摯素朴忍不抜の秋田県民特有の精神を発揮して、輝かしい武勲を樹て隣県部隊と共に国宝師団の名を馳せた。
昭和十二年第八師団が中国旧満洲に移駐するに当り聯隊は同地牡丹江省に於て北満の守護に任ずこと七ヶ年太平洋戦争が愈々苛烈の度を加えるに及び、その決戦場たる比島戦線に投入されたのは昭和十九年八月のことである。
無傷の精鋭部隊として、フィリピン、ルソン島に上陸した当初三千余名を数えた兵員が、極度の劣悪な環境と過酷極まる条件のもとで激烈な死闘を繰り返し、わずか一ヶ年後の終戦時には、生存者九百余命に過ぎなかったことは、この戦闘が如何に苛烈なものであったかを物語るものである。
戦後三十三年を経て昭和五十三年に比島戦の生存者が相集い、比島戦線に於て散華した戦友の遺徳を顕彰するために十七比島会を結成し歩兵第十七聯隊比島戦史の編集に着手することが決議された。
以来三年間に亘り会員の献身的な努力の結果昭和五十六年四月二十九日比島戦史の発刊を見ると同時に生存者の願いであった戦没将兵の慰霊祭を厳粛に執行することが出来た。
同日の決議により今茲に聯隊駐屯の地を眼下に望む千秋公園の一画に記念碑を建立し、聯隊創設より太平洋戦争終末までの事績を収録し比島決戦に於て護國の礎として散華した聯隊長藤重従大佐以下の戦没者並びに生還者の氏名を列記した秋田歩兵第十七聯隊比島戦史壱冊を収納し、祖国平和追求の一布石として永く後世に伝えんことを希うものである。
 昭和五十七年四月二十九日 
  秋田歩兵第十七聯隊比島会 誌之

鎮魂之碑 四月二十九日
霊峰東拝太平山
眼下西望駐屯跡
幾万将兵比島散
英霊鎮魂千秋社


千秋公園・久保田城跡

秋田藩佐竹氏の居城久保田城の本丸・二の丸跡地を整備した公園が「千秋公園」

久保田城表門

佐竹義堯公像
幕末最後の佐竹藩主、出羽久保田藩十二代、佐竹氏第三十代、三十二代。龍角散の開発のきっかけになった殿様。

八幡秋田神社

殉職消防組員招魂碑

受難警察官之碑

大平山

小高い丘(神明山)を活かした平山城。


秋田駅

目いっぱいに散策していたので、時間がなくなってまして。
駅そばで、「秋田のぎばさ」を。
海藻の郷土食ですね。

秋田散策は、いったんこれで〆。

※撮影:2026年3月


日本最大の製油所を狙った「最後の空襲・土崎空襲」(秋田の戦跡散策・3)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

終戦前夜、秋田市の土崎地区が爆撃された。関連戦跡の慰霊巡拝を。

秋田の戦跡散策1はこちらから。


土崎空襲

終戦前夜の昭和20年8月14日午後10時半頃から15日午前3時半頃にかけて、土崎地区は約4時間にわたり激しい空襲を受けた。この空襲は「日本で最後の空襲」のひとつであった。
土崎空襲での攻撃目標は、終戦間際でも無傷のままであった当時日本で最大の産油量をあげていた日本石油秋田製油所であったが、近隣の民家も多大な被害を受けた。

土崎空襲はグアム島を出発したアメリカ軍のB29を中心とした爆撃機約132機が、100kg爆弾を7,360発、50kg爆弾が4,687発の合計1万2047発、953.9トンに及ぶ爆弾を投下。
犠牲者は一般市民92名、軍人50名に、確認できない人を合わせると250名以上を数え、製油所のほか104戸が全焼、及び全半壊した。
秋田県で唯一の大規模空襲でもあった。

ターゲットとなった日本石油秋田製油所は、内地では10番目の大きさであったが、秋田市周辺の油田(八橋油田は国内生産量の70%を占めていた)からの原油産出量は日本本土最大で、その原油を精製し、内地における精製石油の37パーセントを担ってた。さらに、他の製油所とは異なり、輸入原油に依存しないことがわかっていたことから、日本の石油産業におけるもっとも重要な攻撃地の一つであった。

https://thsk-akita-tsuchizaki.amebaownd.com/pages/2963902/page_201906081840

https://tuchizaki.com/kusyu/%E5%9C%9F%E5%B4%8E%E7%A9%BA%E8%A5%B2%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2

https://wararchive.yahoo.co.jp/airraid/detail/14

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tohoku_04.html


平和を祈る乙女の像(港湾公園)

昭和54年建立。土崎港の臨海、ポートタワー・セリオンの近くに鎮座。「土崎空襲犠牲者追悼平和祈念式典」が毎年、この地で実施。

慰霊

鳩を抱えた乙女の像。

 日本が開国以来の大敗戦を喫した昭和二十年八月十五日の前夜半、わが郷土は「日本石油」を中心に米国空軍の猛爆撃を受け、市民、軍人およそ一八四名の犠牲者を出すに至った。
 その後昭和五十年「被爆市民会議」の発足成り爾来各種の慰霊行事を行なって来たが、漸くここに官民一致の協力を得て、其の霊を永遠に慰むべく慰霊塔の建立を見るに至った。
 願わくば諸霊とこしないに安らかに、以て世界の恒久平和と郷土の繁栄を守り給わらんことを。
 昭和五十四年八月十五日
  土崎港被爆市民会議会長 藤田渓山 謹誌

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/akita_akita_city001/index.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city002/index.html

場所

https://maps.app.goo.gl/5bA9CpAFXmb6MYYB6


道の駅あきた港 ポートタワー・セリオン

秋田市ポートタワー・セリオン
高さ143.6メートル
展望台の高さは100メートル。

ENEOS秋田油槽所
終戦直前の「土崎空襲」では、土崎港北大浜地区にあった「日本石油秋田製油所」がターゲットであった。

秋田港(土崎港)は北前船で発達し、そして臨海鉄道が陸と海の結節点として活躍していたが、「秋田臨海鉄道」は2021年に廃線し、そして秋田港駅も2026年7月に廃止となった。

秋田港駅。
明治40年(1907)開業。陸と海の結節点として機能し、秋田港にある製油所や製錬所からの輸送需要多くの貨物列車が通ったが、2026年7月廃止。

場所:

https://maps.app.goo.gl/kD6BWVkjkbSxMG5L9


土崎みなと歴史伝承館

土崎空襲をはじめとした土先の歴史を伝える施設。

https://tuchizaki.com

空襲展示ホールには、旧日本石油秋田製油所の建物(被爆倉庫)の一部(爆撃で溶けた実物のコンクリート)を移設して展示してある。

なんと、、、休館日(おとづれたのが火曜日)

残念すぎる。。。再訪??

場所

https://maps.app.goo.gl/c338R4yiH9aNYry79


祈恒久平和(雄物岸街区公園)

雄物岸街区公園にある慰霊碑

祈恒久平和
 秋田市長
  石川錬治郎

碑の由来
  昭和二十年八月十四日夜半から十五日未明にかけて、B29爆撃機百三十二機による、日本最後の土崎空襲で、上酒田町 新城町・稲荷町・小鴨町・加賀町で三十名の方々が尊い生命を失ないました。
  この碑は、この犠牲者の慰霊と戦争のない恒久平和をきずく誓いとして市民の篤志募金で建立したものです。
 平成四年八月十四日
  土崎港被爆市民会議
  平和祈念碑建立実行委員会
   委員長 佐藤 実 謹書

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city001/index.html

明治天皇行在遺蹟
1881年(明治14年)9月の 明治天皇「山形・秋田・北海道巡幸」のおりに、土崎港に行在所が設けられたことを記念。

場所:

https://maps.app.goo.gl/bfHSscHVKd7GxHd79


慰霊碑つばさ(古川町街区公園)

古川町街区公園に鎮座。
犠牲者の遺体を集めた場所という。

祈恒久平和
 この周辺は、一九四五年八月十四日夜半から、終戦の十五日未明にかけて米軍機B29による日本最後の土崎空襲で犠牲になった百数十人の遺体を鉄道線路上に置かれた痛恨の地である。
 ここに、慰霊と恒久平和の誓いを捧げる。
  一九九一年八月十四日
   建立
    土崎港被爆市民会議
    平和祈念碑建立実行委員会
     文 委員長佐藤実
         吉田金也謹書

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city003/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/jT68umsydWLVz2Np6


祈平和(光沼の祈念碑)

光沼近隣公園の駐車場近くに鎮座。

祈平和
土崎港被爆市民会議

土崎空襲で光沼に沈んだ犠牲者に捧げる

昭和20年8月14日の土崎空襲のとき、当時、燃え盛る日本石油秋田製油所などから逃れてきた多くの市民が、この光沼に飛び込んで熱や火を避けたと伝えられているが、亡くなった人も多数いたという。戦後、再開発によって光沼は段階的に埋め立てが行われ、沼としての姿は消滅している。

場所:

https://maps.app.goo.gl/o9far4p5ymqF5bDfA


慰霊塔
(高射砲台座上に建てられた慰霊塔)

土崎港(日本石油秋田製油所などの重要施設)を守るために配備された高射砲第四八大隊第四中隊の九九式八糎高射砲陣地のあった場所。そして秋田県でただ一つの戦場の跡でもある。

慰霊塔
秋田県知事小畑勇二郎書

この塔を建てた由来
この町内は太平洋戦争の末期の昭和二十年八月十四日から同十五日にかけて連合軍の大型爆撃機延べ二百五十機により約二千発の爆弾を投下され猛爆を受けたのであるがその際当地を警備中の独立高射砲隊(高射砲一箇中隊高射機関銃一箇小隊)および同隊を救援するため駆けつけた郷土部隊は最後まで勇敢に応戦し隊員の大部分が戦死されまた同時に一般市民も多数被爆し尊い命の失われた秋田県でただ一つの戦場であったのである よってこの人々の霊を慰めあわせてこの戦跡を永久に記念し再び戦争の悲劇をくりかえさぬことを誓うため当町内一同の総意によってここにこの塔を建立したのである
 昭和四十年八月十四日
  秋田市土崎港相染字緑町々内会一同

慰霊碑の台座が高射砲台座

場所:

https://maps.app.goo.gl/aQ6jdSMRreWzzvVG8


平和祈念碑
(土崎空襲 犠牲者に捧げる 慰霊平和)

通称、浜ナシ山。旧日石通りの慰霊碑。
日本石油秋田製油所従業員らを慰霊する。

土崎空襲 犠牲者に捧げる
慰霊平和
 祈念碑建立実行委員長 佐藤 実 謹書
  平成七年八月十四日

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city005/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/Z5rfLQAAdrGxS33RA


雲祥院

土崎空襲で被災した秋田県内で唯一の戦災寺院という。

https://unshouin.com/history

空しゅう被弾地域

場所:

https://maps.app.goo.gl/cxhvDHgh9xN1sdqM7


雲祥院の首無し地蔵

四体のお地蔵さまは、爆撃の破片で首が削ぎ取られ無くなっていた。被爆地蔵。


被爆した墓石(雲祥院)

境内の墓石にも被爆した痕跡が残る。


被爆した宝篋印塔(雲祥院)

秋田県内最古の宝篋印塔とされ、南北朝期の建立という。
上部は土崎空襲での被爆によって破損している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M1022-2
1948年5月16日、米軍撮影の航空写真を加工。
日石秋田製油所と、各慰霊碑の位置関係。

ちなみに、このエリアをすべて歩いて散策しました。
秋田県護國神社を起点に、ポートタワーセリオンを経由し、各慰霊碑を巡って、ゴールの上飯島駅までざっくり3時間でした。(土崎みなと歴史伝承館に寄れていればプラス1時間だったかも)


※撮影:2026年3月


空襲関連

昭和20年8月14日から8月15日にかけて、「最後の空襲」として被害をうけた空襲として「土崎空襲」のほかに「熊谷空襲」「伊勢崎空襲」「小田原空襲」などがある。

秋田港にあった軍艦防波堤の名残(秋田の戦跡散策・2)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

その1では、秋田県護國神社を参拝。

https://senseki-kikou.net/?p=57246

そこから北上して、「ポートタワーセリオン」に到着。


秋田港の軍艦防波堤

第二次世界大戦終戦寺の秋田港(土崎港)は、砂がたまって港としての機能を十分に発揮することができなくなっていた。
堤防を整備する予算も資材もない中で、軍艦を沈めて防波堤を構築することになった。
1948年(昭和23年)6月30日に秋田県秋田港の防波堤として、樅型駆逐艦「竹」、橘型駆逐艦「栃」、海防艦「伊唐」の3隻の船体が「軍艦防波堤」として、沈艦式が行われ、秋田港北防波堤となった。
軍艦防波堤は、砂の堆積を防いで秋田港の復興を支えたが、1975年(昭和50年)、秋田港の外港展開に伴う港拡張工事により、新しく北防波堤を築造することになり、旧来の北防波堤は撤去され、竹、伊唐、栃の船体も撤去された。

東北地方整備局 港湾空港部>

https://www.pa.thr.mlit.go.jp/akita/060/050/030/20200101013000.html

268mの軍艦防波堤
秋田港は、かつては土崎港と称していましたが、1941年(昭和16年)、南秋田郡土崎港町が秋田市と合併したことから、港の名前も秋田港と改称されました。同じ1941年からはじまった太平洋戦争は、秋田港にも大きな爪痕を残します。終戦前日の土崎大空襲(1945年/昭和20年8月14日)により港は大きな被害を受けます。さらに、海底にたまった砂を掘り出す浚渫船2隻が爆撃により沈没したことから、終戦後、港内にたまった砂を浚渫することができません。資材も乏しい戦後の混乱期、廃港の危機に立たされた秋田港は、旧軍艦を沈め防波堤を造るという住民の英知により復興します。1948年(昭和23年)駆逐艦「栃·竹」、海防艦「伊唐」の三隻が沈められ、長さ約268m、高さ6m、幅8mの北防波堤が築堤されました。その後、たびたび補修されながら四半世紀にわたり荒波をさえぎり、1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに取り除かれ、その役目を終えました。軍艦の再利用により復興した秋田港の歴史は、戦争の時代から平和な時代への転換を物語っています。現在は、北防波堤の付け根部分の長さ30mに面影が残っています。

海防艦「伊唐」
駆逐艦「栃」
駆逐艦「竹」(初代)

駆逐艦「竹」
樅型駆逐艦の6番艦。1919年(大正8年)竣工。
1940年除籍され、舞鶴海兵団の練習船となった。
1944年に海軍機関学校付属練習船となり終戦。

海防艦「伊唐」
鵜来型海防艦の10番艦。1945年4月竣工。
終戦直前の7月31日に海上護衛総司令部第一護衛艦隊第一海防隊として、七尾港で輸送船団護衛を実施のさなか、触雷し大破。七尾港埠頭に係留され終戦を迎えた。

駆逐艦「栃」
戦時量産型の松型駆逐艦(改松型)。「栃」は未成艦であった。
1945年5月工事中止。「栃」の船体は船台を開けるために進水しており、船体は軍艦防波堤として活用された。

このあたりに、軍艦防波堤があった。
前述の説明に「現在は、北防波堤の付け根部分の長さ30mに面影が残っています。」とあったが、どうなのかな。


航空写真から

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス

1948年(昭和23年)に軍艦防波堤が完成。

ファイル:MTO628-C28-12
1962年10月18日

ファイル:MTO722X-C3-2
1972年05月28日

1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに軍艦防波堤は撤去。

ファイル:TO791-C8-3
1979年06月15日


ポートタワー・セリオン

ポートタワー・セリオンから、四方を展望。

南側

海保
PS20しんざん

北側
秋田港駅
2026年7月で廃止となっている。(撮影は26年3月)

ENEOS秋田油槽所
終戦直前の「土崎空襲」では、土崎港北大浜地区の日本石油秋田製油所がターゲットであった。

秋田市ポートタワー・セリオン
高さ143.6メートル
展望台の高さは100メートル。


うどんそば自販機

おお、そういえば、ここでしたね。
うどんそば自販機があるって聞いたことあります。

かきあげうどん

へー、学校給食で使われている麺なのか。

※撮影:2026年3月

その3では、「土崎空襲」関連を散策します。


軍艦防波堤

秋田縣護國神社と秋田城跡(秋田の戦跡散策・1)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策としては、じつは秋田初上陸。まずは、秋田県護國神社へ参拝。


秋田縣護國神社(秋田県護國神社)

明治2年(1869年)、秋田藩主佐竹義堯が戊辰戦争に殉じた官軍戦没者425柱を高清水丘に「招魂社」として祀ったのが起源。
明治26年(1893年)に焼失。
明治32年(1899年)、秋田市千秋公園(久保田城址)に再建。
秋田県出身の軍人・軍属を合祀して官祭秋田招魂社と称した。
昭和14年(1939年)、内務大臣指定護国神社として秋田県護國神社に改称し、翌年、旧秋田城址である現在地に遷座した。
第二次大戦後の一時期、「軍国主義施設」として廃止されるのを防ぐ目的で、鎮座地名に因んで「高清水宮」と称し、伊弉諾尊・伊弉冉尊を合祀した。

戦後は県に関係した軍人、軍属の霊を合祀。
護国の神霊の御祭神は37,841柱。

平成2年(1990年)7月9日、中核派のテロにより当社社殿にしかけられた2つの時限爆弾が爆発し、社殿は全焼した。
しかし、本殿内に安置されていた神体および霊璽簿は無傷であった。
社殿は平成4年9月に再建。

昭和15年11月建立の社号標
佐竹義春(佐竹家宗家34代)の謹書

広々とした参道

そして、開放感あふれる境内

神門

この御門は伊勢神宮第61回御遷宮に当り「豊受大神宮端垣南門御扉他一部」を拝受し終戦五十周年記念事業として造営しました。
この神門をくぐり参拝される方々の更なる「いのち」の若返りと「生成発展」「平安」を心から祈念致します。

御拝殿

みたまやすらかに


御朱印(秋田縣護國神社)


天皇陛下皇后陛下御親拝記念碑

昭和四十四年八月二十六日
天皇 皇后両陛下 秋田県に
行幸啓の御砌り御拝をを賜う
仍て永く其の栄を伝えんとし
御在位六十年の慶祝を迎える
に当り篤志者のまことを募り
之を建つ
 昭和六十年十一月吉日
  宮司謹記


国歌、君が代さざれ石の由来


殉国秋田県人之碑

秋田県人戦没者の慰霊顕彰
平成七年建立

殉国秋田県人之碑
明治天皇御製
 かぎりなき 世にのこさむと 国の為 
  たふれし人の 名をぞとどむる
昭和天皇御製
 国のため 命をささげし 人びとの 
  ことを思えば 胸せまりくる

独立歩兵第八十四大隊戦友会の献納。
独立歩兵第八十四大隊の通称号は勝第四二一四部隊、第69師団の傘下部隊として中国方面等で活動


慰霊と平和を祈念する「リレー(relay)の火」

戦没者の慰霊顕彰と平和を祈念する灯火


真之御柱


建国記念の日碑


明治天皇御休憩所碑

1881年(明治14年)9月の 明治天皇「山形・秋田・北海道巡幸」にて、9月16日に秋田招魂社を参拝した際の休憩所を記念。


大正天皇御休憩所碑

明治41年9月21日に、当時皇太子であった 大正天皇が、秋田招魂社を参拝っした際の休憩所を記念。


高清水公園

戸崎清蔵翁顕彰碑

五輪塔

高清水公園 展望台
ポートタワーセリオンが見えますね。
このあとはそこまで行く予定。

伊藤永之介歌碑


満蒙開拓青少年義勇軍慰霊碑

秋田県出身の満蒙開拓青少年義勇軍の戦没者の慰霊顕彰碑
(左の碑)
昭和五十三年八月十五日建之

ぼくは満州へ行きます   
ぼくは大陸の土となります
かって国策の名のもとに 
鍬の柄肩に海を渡っていった 
私達少年です
その数八万六千五百三十名 
私達はひたすら五族協和王道楽土建設に
その青春を燃やした
敗戦・・・
戦争という極限の中で 
私達仲間の多くが 
大陸の土と化した
三十三年の歳月が流れた
彼等の前には一枝の花もない
私達の名は 
満蒙開拓青少年義勇軍

鎮魂歌
一 
秋田の郷を あとにして 五族協和の 国作り 
鍬の戦士の 千五百 我ら満蒙 義勇軍
二 
広漠千里 満州の 花の広野 肥沃にて 
男の子勇みて 犁をとる 我ら青年 義勇隊
三 
運命は哀し 大戦に 祖国敗れて 犠牲の 
満州の国原 風寒く 四百の霊の 還らざる
四 
国破るれど 山河あり 護国の岡の 君の碑 
北の国にも 春が来て 桜花は薫る 春爛漫
 碑前祭 例祭 五月第一日曜 
  昭和六十二年建碑十周年記念

われらは若き義勇軍
一 
われらは若き 義勇軍 
祖国のためぞ 鍬とりて 
万里涯なき 野に立たむ
いま開拓の 意気高し 
 いま開拓の 意気高し
二
われらは若き 義勇軍 
祖先の気魄 享けつぎて 
勇躍風に さきがけむ
打ち振る腕に 響きあり 
 打ち振る腕に 響きあり

細野三千雄君之碑


忠魂碑

戊辰戦争から日清日露戦争等における戦没者慰霊顕彰碑
大正七年五月建立
元帥海軍大将伯爵 東郷平八郎 謹書


秋田城跡

秋田県護國神社は、秋田城址のなかにある。
秋田城跡史跡公園と高清水公園と秋田県護國神社があるという感じかな。

秋田城は、古代の律令政権での城柵であり、中世の城跡ではないので、ちょっと紛らわしい。秋田県の佐竹藩(秋田藩)の城跡は久保田城、となる。

さて、ポートタワー方面に向けて北上します。

その2へ

※撮影:2026年3月


富士吉田市戦没者慰霊塔(新倉山浅間公園・忠霊塔)

例の場所。
富士山と桜と五重塔の、いかにも日本的な風景。外国人観光客、インバウンドにとにかく人気の場所。
ただ、ここが「戦没者慰霊塔」であることを知ったうえで訪れている人は、極めて少なそう。

富士山は見えませんでした。。。


富士吉田市戦没者慰霊塔(新倉山浅間公園・忠霊塔)

みたまやすらかに
合掌

富士吉田市戦没者慰霊塔(通称:忠霊塔)
五重塔と富士山が織りなすこの美しい景色の背後には、戦争によって失われた多くの尊い命があります。
この塔は、その方々を追悼し、二度と戦争の悲しみを繰り返してはならないという想いと、戦争のない平和な世界への願いを後世に伝えるために建てられました。

この塔は、富士吉田市戦没者慰霊塔(通称:忠霊塔)といいます。
明治以降、日本国として参戦した戦争において、富士吉田市から出征し、尊い命を落とされた方々を追悼するため、市の援護会を中心に、多くの市民の浄財によって建設が進められました。
昭和33年(1958年)8月、富士吉田市長を委員長とする富士吉田市慰霊塔建設委員会が設置され、昭和34年(1959年)4月に起工し、3年の歳月を経て、昭和37年
(1962年)4月に完成しました。この塔内には、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦及び太平洋戦争において亡くなられた本市出身の戦没者1,055名の位牌が納められており、その方々を追悼する場となっています。
戦争で大切な家族を失った遺族にとって、世界中から国境を越えて多くの人々がこの地に集う今日の姿は、平和の尊さをあらためて感じさせてくれるものです。
来訪者の皆さまが、戦争の悲惨さと平和の尊さ、また、命の大切さに静かに心を寄せてくださることを願っています。
 令和8年8月
  富士吉田市戦没者慰霊塔奉賛会
  富士吉田市遺族会

Fujiyoshida City War Memorial Tower
(commonly known as Chureito Pagoda)

Behind the breathtaking view created by the five-story pagoda and Mount Fuji lies the memory of
countless precious lives lost to war.
This memorial tower was built to honor those who sacrificed their lives, to remind future generations that the tragedy of war must never be repeated, and to express our hope for a peaceful world free from conflict.

This monument is officially known as the Fujiyoshida City War Memorial Tower,
commonly called the Chureito Pagoda.
It was constructed through generous donations from many citizens, led by the city’s War Bereaved Families Association, to commemorate the people of Fujiyoshida who left their hometown to serve Japan in wars from the Meiji era onward and lost their lives.
In August 1958, the Fujiyoshida City War Memorial Tower Construction Committee, chaired by the Mayor of Fujiyoshida, was established. Construction began in April 1959, and after three years of work, the tower was completed in April 1962.
Enshrined within the tower are memorial tablets dedicated to the 1,055 men and women from Fujiyoshida who lost their lives in the First Sino-Japanese War, the Russo -Japanese War, the First World War, and the Pacific War. The tower serves as a place to remember and honor their sacrifice.
For the families who lost their loved ones in war, seeing people from around the world gather here today, crossing national borders to visit this place, is a powerful reminder of the value of peace.
We hope that all who visit this memorial will take a quiet moment to reflect on the tragedy of war, the preciousness of peace, and the value of every human life.
 August 2026
  Fujiyoshida City War Memorial Tower Support Association
  Fujiyoshida City Bereaved Families Association

忠霊塔の概要
1.正式名称 富士吉田市戦没慰霊塔(通称:忠霊塔)
2.所在地 富士吉田市浅間2丁目3360番地の1
    市立新倉山浅間公園内
3.構造等
1構 造 鋼板一文字葺鉄筋コンクリート五層建
   大阪四天王寺の五重塔を模している。
2大きさ 基礎部分7.3m四方 一階床面積四坪(13m2)
3高 さ 19.5m(本体部分13m、相輪6.5m)
4総工費 9,368,884円
    (工事費9,210,767円 事務費158,117円)

「富士山眺望日本一」の写真

殉国之塔
昭和27年4月21日建立

忠霊塔建立前の石碑。殉国。

展望デッキからの眺め。
富士山は見えませんね。

富士山は見えなかったけど、外国人の皆様がとにかく多く、体感的には、日本人は10%、残り90%が外国人の皆様。。。


新倉山浅間公園(あらくらやませんげんこうえん)

1959年10月設置。三國第一山新倉富士浅間神社が鎮座しており、新倉山は神域となっている。

三國第一山新倉富士浅間神社
宗教法人名称は「富士浅間神社」、旧社格は村社。

創建は、慶雲3年(705年)9月9日。甲斐国八代郡荒倉郷の氏神として祀られる。
大同2年(807年)、富士山の大噴火があり、同年8月22日、当社に勅使が参向、国土安泰富士山鎮火祭を執行し、その時、平城天皇より「三國第一山」の称号並びに天皇親筆による大鳥居勅額・金幣・破魔宝面(勅使面)が奉納された。

「三國第一山」の扁額。

咲くや姫階段 398段

お土産・軽食堂屋さんは、外国人観光客仕様。


下吉田駅

富士吉田市戦没者慰霊塔(新倉山浅間公園・忠霊塔)の最寄り駅。


都留市駅

都留市駅で途中下車。

温泉寄り道してみました。
「より道の湯」
なかなかに良い温泉。ゆっくり出来ました。また来ましょう。

大月駅にはフジサン特急が居ました。

河口湖駅には、「富士山ビュー特急」とJRの特急「富士回遊」も。

※撮影:2026年8月


関連

河口湖自動車博物館・飛行舘(2026年8月版)

夏の恒例となりつつある「河口湖自動車博物館・飛行舘」。
今年で、5年連続、です。
「彩雲」の進捗を中心に。


前回の記録

2022年
※展示機の紹介は2022年が一番詳しいです。

2023年

2024年

2025年


艦上偵察機「彩雲」(11型1290号機)

昨年からの更新は、発動機架覆(エンジンマウント覆)が完成し、機体に組付けされた状態での展示。

※彩雲の説明とは、上記リンクの過去記事を参照で。
 以下、写真メインで。

長いですよね。


河口湖自動車博物館・飛行舘 そのほか写真

そういえば、小型カメラ(コンデジ)は撮影OKでした。(スマホだけOKかと思ってた)
引き続き、一眼レフカメラは禁止ですが。

開いているときと閉まっているときがありますね。

本日は河口湖飛行舘にご来館頂き有り難うございます
 当館では1935年~1945年頃の大東亜戦争の期間中に開発、使用された航空機と関連部品·資料などを収集し、公開しております。
 日米戦争(太平洋戦争)は、日本海軍による1941年の真珠湾攻撃から始まり、アメリカ軍の広島·長崎への原爆投下によって、3年8ヵ月も続いた大戦が終了いたしました。
 戦争では船や航空機などに重点が置かれ、様々なものが開発されました。
戦後、世界の航空機に使われている“ジェットエンジン”なども、そのひとつです。
 当館では、その時代に開発された優れた産業技術を後世に残す為、歴史的に重要な昭和の技術遺産を修復し、保存しております。


公式サイト

https://www.car-airmuseum.com/index.html

それにしても、毎年、通っているけど、富士山が富士山らしく見えた試しがない。。。


船津口

船津口の登山口のルートでお伺いしてます。

※撮影:2026年8月


大阪に残る民間防空壕「加賀谷家防空壕」

大阪に残る民間防空壕。
外観のみですが、眺めてみましょう。


加賀谷家防空壕

住之江公園駅最寄り。大阪護國神社とあわせて訪れると良いかも。

個人所有の防空壕。
昭和20年8月14日に完成したという。
大阪では、終戦前日の、この日に「大阪大空襲(京橋空襲)」があり(大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)がターゲットとなっていた。

住宅地に残る民間防空壕

換気口も設けられている。

屋根部分にも排気口

ちょっと歩くと、路地に隠れて、見えなくなる。

路地の入口には古い井戸がある。往時の道幅を推し量ることができる。

神社もある。古くからの集落であることもわかる。

場所

https://maps.app.goo.gl/p4gfqcxPwqU7xVH59

※撮影:2026年7月


関連

https://senseki-kikou.net/?p=48610