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「戦艦・比叡の錨」と「九一式改二型航空魚雷」(海自「下総航空基地開設66周年記念行事」その2)

2025年10月11日に「下総航空基地開設66周年記念行事」にて一般開放がありましたので、行ってきました。

その1は、下記にて。


下総航空基地記念行事

以前にも訪れていましたので、下記参照で。


藤ヶ谷陸軍飛行場跡地


戦艦「比叡」の錨

前回の基地再訪問時に、存在は知っていたけれども見ることが叶わなかったのが「比叡の錨」。
今回の基地祭で、案内所の隊員に「比叡の錨は見学できるか?」と聞いてみたところ、「立ち入り禁止エリアかどうかちょっとわからないので、とりあえず近くまで行ってみると良いよ、場所は、ここを真っすぐ行って、ここを右に、、、」という感じで教えてもらったとおりに足を進めてみたら、ありました、近寄れました。ありがとうございます!

やっと見学できました。比叡の錨。


艦種   高速戦艦 比叡
重量   7.5トン
錨鎖重量 2.5トン

比叡要目
建造年 1914
排水量 26330トン
速力 27.5kt
全長 214.6m
全幅 28m
主砲 36cm砲8門
副砲 15cm
魚雷発射管 8門
高角砲 12.7cm2連装×18
飛行機 4機
乗員 1437人平常
機銃 12.7mm2連装×18


九一式改二型航空魚雷

航空魚雷もありました。

九一式改二型航空魚雷
この魚雷は旧海軍一式陸上攻撃機、天山艦上攻撃機にとう載されていたものである。
全長 5.71m
全備重量 1.06トン
炸薬量 420kg
直径 45cm
直進機構 ジャイロ
動力 星型8気筒エンジン

場所は、第3術科学校 2号隊舎・学生隊本部 のあたり。


史料室

下総厚生センターの史料室は公開

整備魂
 この絵は、一水会々友藤瀬部國画伯の作品で、昭和18年6月頃のラバウル飛行場における出撃前の零戦整備の風景を描いたものです。
 「整備魂」の名称は、愛機の武運を自らの技術の全てを懸け黙々と炎天下の野戦整備に励んだ兵士たちの精神を上手に表現しています。
 苛烈を極めた航空戦闘の陰には、このような日夜寸暇のない整備に明け暮れた兵士の努力がありました。
 しかし、戦況は悪化し整備関係の多くの兵士は艦艇や不慣れな陸戦に参加し、無念を胸中に亡くなられました。
 この絵は、その遺徳の顕彰と鎮魂を祈念して、海軍関係将兵の生存者の浄財により、靖国の御社に奉納されたものです

2025年は第3術科学校の史料室は非公開でした。残念。
旧軍的には、第3術科学校の史料室のほうが見ごたえ高し。

ポスター

厚生センターの売店(デイリーヤマザキ下総航空基地店)で、「市ヶ谷台(本格焼酎・長期貯蔵酒・宮崎の神楽酒造)」が売っていたので、思わず購入。

「下総航空基地メロンパン」と「下総クリームアンパン」と「梨ウォーター」


※撮影:2025年10月


関連

救難飛行艇「US-2」地上滑走展示(海自「下総航空基地開設66周年記念行事」その1)

2025年10月11日に「下総航空基地開設66周年記念行事」にて一般開放がありましたので、行ってきました。

関東で、滅多に見れない「US-2」を見れる!となれば、悪天候であっても行くしかない航空祭。年に一度の楽しみなのです。


「US-2」地上滑走・タクシーアウト

悪天候のため、飛行展示は中止となりましたが、代わりに、地上滑走展示がありました。
エンジンを稼働させて、エプロン(駐機場)から誘導路・滑走路に向け地上滑走していくだけですが、それでも、動いている「US-2」が見れるというだけでも大満足!でした。

滑走路を飛ぶ寸前まで滑走したUS-2。
次こそは、飛んでいるところを見たいです。


「US-2」地上滑走・タクシーバック

滑走路・誘導路からエプロンまで戻ってきました。

マーシャラー(グランドハンドリング)の見事な誘導。
まるで、US–2と会話しているかのように。
見惚れてしまいました。

グッド!な感じでエンジン停止。


「US-2」地上展示

なかなかの悪天候でしたが、逆に、人が少ないがゆえにゆっくり見学てきたのはラッキーだったかも、です。

まるで水面にいるかのようで、水たまり感が良い感じ。


「US-2」あれこれ


「P-1」地上滑走・地上展示

「P-1対潜哨戒機」も飛行展示は中止。
地上滑走の展示のみとなった。


そのほかの地上展示など

P-1が下総航空基地では、展示の主役ですね。

哨戒ヘリコプターSH-60K

P-3C対潜哨戒機たち

真ん中にいるのは、「多用機UP-3C」。
P-3Cの試験研究機となり、厚木基地所属。同型番機は、この一機のみ存在という。

悪天候で、人がいなさすぎるのも、また貴重な航空祭。

P-1対潜哨戒機

TC-90練習機

LC-90多用機

陸自からは、「対戦車ヘリAH-1S」

管制塔

格納庫

第2格納庫

第3格納庫

管制塔の隣は消防車庫

管制塔の上から

13時過ぎの様子。

下総航空基地と戦艦大和の対比イメージ


一日群司令任命式(松田実桜さん)

防衛省広報アドバイザー「松田実桜さん(まつだみお・サンミュージック所属)」の「下総航空基地・一日群司令任命式

「下総教育航空群司令」の吉田1等海佐から、松田実桜さんが、一日群司令に任命されました。

式典は第四格納庫、で。

下総航空基地の名物


「その2」は下記にて。

※撮影:2025年10月


関連

以前にも訪れていましたので、下記参照で。


藤ヶ谷陸軍飛行場跡地


「木更津海軍航空隊と第2海軍航空厰」木更津の海軍戦跡散策3

木更津の戦跡散策。
その1とその2は、陸上自衛隊木更津駐屯地を中心に取り上げましたが、「その3」では駐屯地の外を散策してみました。

「その1」は、下記にて。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-66
昭和22年(1947年)2月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

木更津には「木更津海軍航空隊」と「第2海軍航空厰」がありました。

現在の様子(GoogleMap)


巌根駅

袖ヶ浦駅と木更津駅の間に位置する、巌根駅。
開設は、昭和16年11月20日。太平洋戦争開戦の直前。
第2海軍航空厰を開設した大日本帝国海軍の要請に基づく。
現存する駅舎も、昭和16年11月の開業以来の佇まいを残している。

巌根駅


巌根駅・第2海軍航空厰の連絡道路

巌根駅から「第2海軍航空厰」への連絡道路。

連絡道路のつきあたりに「倉庫」がある。この敷地がかつての「第2海軍航空厰」となる。


海軍航空厰

海軍航空厰は、海軍航空隊で使用される軍用機の製造や部材調達・保管や修理などを行っていた工場。

昭和7年4月に「海軍航空厰」として、追浜に設置されたことに始まる。
昭和14年4月に追浜の海軍航空厰は「海軍航空技術厰」に改称。

第1海軍航空厰
昭和16年10月に、海軍航空技術厰霞ヶ浦出張所が、改めて「第1海軍航空厰」として独立。
第2海軍航空厰
第1と同じく、昭和16年10月に木更津に「第2海軍航空厰」が新設。第2海軍航空厰の本厰は「木更津(巌根)」。そのほか館山・八重原・瀬谷などに工場が展開され、昭和19年には松本にも疎開工場が展開された。
第11海軍航空厰
昭和16年11月に、広海軍工廠から航空機部が独立。本厰は広。
第12海軍航空厰
昭和16年10月、第11海軍航空厰分廠を改編。本厰は大分市今津留。
第21海軍航空厰
昭和16年10月、長崎県大村市に開庁。
第31海軍航空厰
昭和17年4月、第11海軍航空厰舞鶴支厰が独立。
第41海軍航空厰
昭和17年4月、第2海軍航空厰大湊支厰が独立。昭和19年10月に、千歳に本厰が移転。
第51海軍航空厰
昭和17年4月、第21海軍航空厰鎮海支厰が独立。


第2海軍航空厰・巌根工場の防音運転場
(現・貸スタジオ)

昭和16年10月開設。
現在は、木更津倉庫株式会社や貸スタジオの敷地となっている。

そこに残る建屋が「防音運転場」。
航空機の発動機の動作確認を行っていた防音施設だったようで。
現在は、防音ということを活かして、現在は、貸スタジオ(ハウススタジオ)となっている。
STUDIO ZERO NOIR (Pilot’s)
下記のサイトに内部写真が掲載されている。

https://studio.powerpage.jp/#!/detail/10784

大体の場所

場所:

https://maps.app.goo.gl/ab8ucVKCLmFi3mnt9


第2海軍航空厰・巌根工場の建屋
(現・貸スタジオ)

空自入り口の左側の三角屋根の建屋は海軍時代のもの。
空自の敷地ではなく、民間の撮影スタジオとなっている。

場所:
https://maps.app.goo.gl/hh2ektFWwp9iBrPp8


第2海軍航空厰跡
(現・航空自衛隊木更津分屯基地)

木更津の空自。
ちなみに、木更津には、陸自と海自と空自と揃っている。

航空自衛隊木更津分屯基地

第4補給処木更津支処
木更津地方警務隊

基地のなかには入れないので、外から外周を歩きながら見学。

なんかいた。

F-104J

T-1B


第2海軍航空厰・海軍木更津飛行場の連絡道路
(海軍道路)

この界隈では、交通量に見合わず格別に広い道路。
まさに、海軍のために設けられた道路。

第2海軍航空厰のあった「空自」から、木更津海軍航空隊のあった「海自」に赴く。「海自」の奥は「陸自」もある。


木更津海軍航空隊(木空)・海軍木更津飛行場

昭和11年(1936)4月1日、木更津海軍航空隊が現在の陸上自衛隊木更津駐屯地の場所に開隊。
木更津海軍航空隊は、鹿屋海軍航空隊と同時に開隊した日本初の陸上攻撃機部隊。
昭和17年(1942)11月1日に、第七〇七海軍航空隊と改称、翌12月1日に第七〇五航空隊(三沢空)に編入。
七〇七空の解散後も木更津飛行場は拠点基地として機能。
昭和20年8月7日には、木更津飛行場において、日本初の純国産ジェット機「橘花」が飛行に成功している。

敗戦直後の1945年8月19日、参謀次長河辺虎四郎中将を筆頭とする降伏全権団は、米軍の指示で木更津海軍飛行場から沖縄県の伊江島まで2機の飛行機=緑十字飛行(1番機一式大型陸上輸送機と2番機一式陸上攻撃機の緑十字機)で向かい、さらに伊江島から米軍機に乗り換えてフィリピンに向っている。

戦後は米軍の駐留を経て1956年(昭和31年)に航空自衛隊木更津基地が間借りする。
1961年(昭和36年)に米軍は立川飛行場に転出し、航空自衛隊が占有するが1968年(昭和43年)に入間基地に転出。
入れ替わりに陸上自衛隊が転入して木更津駐屯地となり、現在に至る。


木更津海軍飛行場の格納庫
(現・海上自衛隊航空補給処)

木更津の海自は、海上自衛隊の航空機が使用する搭載装備品の補給・整備を中心とした後方支援業務を実施している。
ここ木更津が本処。
海自は、千葉県内には「下総航空基地」と「館山航空基地」を有している。

何かのいかりと大きな格納庫

海軍飛行場時代の格納庫

敷地には入れないので、全て敷地外から。

色は、緑系で、手前が濃くて奥が薄め。

裏に回ってみました。

存在感

場所はこのあたり。


海軍時代の施設跡(防空壕・退避壕)
(現・陸上自衛隊木更津駐屯地)

木更津駐屯地の北東から北端の周辺道路を歩いてみる。
海軍時代の建造物が散見しているのがわかる。

こんなかんじで、不自然なコンクリート建造物がある。
1つめ。

2つめ。

3つめ。

4つめ。

なにか新しく建造中。富士山見えてる。

5つめ。
往時っぽい建造物はほかにあるかもしれないけど、周辺を歩いてみるだけでも、かなりの数が目に止まる。


木更津海軍飛行場時代の橋梁

北西端あたりに橋梁跡が残っている。


木更津海軍飛行場時代の掩体壕

北西端あたりに、掩体壕がいくつか残っている。
敷地外からも、垣間見ることができる。

木更津飛行場の北西端は、江川海岸・潮干狩場

東京湾を挟んで、富士山が見えた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/vyecfVRcwesDAEZf8


木更津海軍飛行場時代の施設

木更津市中里の交差点(セブンイレブンとかパールショップともえなどがある交差点)の北西部の住宅街に残るコンクリート施設。

だいたいこのあたり


海軍時代の止水栓蓋

木更津駅の北側、房総往還道路に面した商店街の歩道に残っていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/uzpYyMVZLNhwcTPm6

古そうな建物も周辺に残っている。
旧金田屋洋品店は、昭和7年の建立。

場所:

https://maps.app.goo.gl/6RLrUgELkNA7c8CFA


※撮影:2024年2月

日本の航空事始め6・日本初の国産軍用機「会式一号飛行機」

所沢航空記念館に展示してある「会式一号飛行機」。
入り口の天井に吊られているので、見逃しやすい飛行機であった。
せっかくなので、独立した記録として掲載しておきます。

所沢航空発祥記念館は、リニューアル工事中につき休館中です。
再開後は展示形態が異なっていることが予想されます。
再開は、2027年春予定。
https://tam-web.jsf.or.jp


日本の航空事始め

「日本の航空事始め」と題して、航空機の黎明期に注目した記録も、気がつけば「その6」となっておりました。

「その1」はこちら。


会式一号飛行機・会式一号機(日本・1911)

展示してある機体は、会式一号の原寸大レプリカです

所沢で飛んだ日本初の国産軍用機
明治44年、徳川好敏夫前の設計・製作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功した“アンリ・ファルマン機”を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作る事を目的として、所沢飛行場格納庫内で製作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や字中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが製作された。

空の英雄、徳川大尉の名を日本に広める
“会式一号機”の名称は、同大尉が所属していた「臨時軍用気球研究会」で作られた「1号機」という意味だが、当時の新聞がこの飛行機を“徳川式”と報道したため、一般には“徳川式”と呼ばれた。大正元(明治45)年10月27日、同大尉は初の東京訪問飛行を行うため、“会式一号機”を基に新たに開発した“会式二号機”に乗って所沢飛行場を飛び立ち、代々木練兵場を経て青山~愛宕山~芝公園~品川~日比谷~九段の96.5kmを飛行し、東京市民(当時)の熱狂的な歓迎を受けた。

“アンリ・ファルマン機”からの主な改良点
1.上翼よりも下翼が小さい一葉半とし、翼面積を減らして速力の向上をはかった。
2.異断面を変え、前部の湾曲を深くして揚力の向上をはかった。
3.補助翼を上翼にのみ取り付けた。
4.翼間支柱の断面を前後対称型から流線型に変え、空気抵抗の減少をはかった。
5.発動機とプロペラの位置を高くして、飛行機全体の姿勢を低くした。
6.座席の前に風よけの覆いを取り付けた。
7.各結合部の金具を強化した。
これらの改良によって、“会式一号機”は“アンリファルマン機”にくらべ速力で19km/h、高度で15m上回る記録を出した。


陸軍会式一号機
国 名:日本
用途:実験機
年代:1911年(明治44年)
エンジン:グノーム空冷回転星型7気筒(50馬力)
翼幅:11.00m
全長:11.00m
自重:450kg
全備重量:550kg
最大速度:72km/h
航続時間:3時間
人員:1名

初の国産軍用機一”会式一号”機
所沢飛行場が開設され、頻繫に飛行練習が行われるようになると、4機の飛行機は酷使され、損傷が激しくなってきた。徳川大尉は飛行機の不足を痛感し、1911(明治44)年4月、臨時軍用気球研究会の事業として新しい飛行機の設計を開始した。“アンリ・ファルマン1910年型”複葉機を参考にして設計されたが、機体強度、上昇力、速度などの向上が図られていた。同年7月より所沢飛行場の格納庫内で製作され、10月初頭に日本最初の国産軍用機、“臨時軍用気球研究会式一号”(略して会式一号”)が完成した。10月13日、所沢飛行場で試験飛行が行われ、時速72km/h、最高高度85mという良好な成績で成功した。

なお、この当時、会式一号機が完成するまで、日本国内には「アソリ・ファルマン機」「ハンス・グラーデ機」「ブレリオ機」「ライト機」のわずか4機しか保有していなかった。

“会式一号”機と徳川大尉
“会式一号”機は、徳川大尉の監督指導により製作された。機体材料はすべて国内で調達したが、適当な工作機械がなかったため木材は鋸で加工した。当時の日本の工業水準は低く、製作は試行錯誤であった。多くの困難を克服して完成した”会式一号”機は、設計・製作の両面で徳川大尉の功績が大きかったため、一般には徳川式と呼ばれていた。

次々につくられた “会式機”
“会式一号”機の成功に自信をつけた臨時軍用気球研究会は、次々に新しい飛行機を開発し、1912(明治45)年から1916(大正5)年までの間に、合計6機の“会式機”が誕生した。“会式二~四号”機は徳川大尉の設計で、会式一号”機を改良した飛行機であった。“会式五号”機からは設計が沢田秀中尉となり、続いて六号機、七号機がつくられた。最後に製作された “会式七号小型飛行機(会式七号駆逐機)”は沢田中尉が独自に設計した、日本最初の国産戦闘機であった。

あらためて、復元機(レプリカ)を観察してみる。

日本初の国産軍用機といっても、武装をしているわけではなく、陸軍が作ったというわけでの軍用機。

※撮影:2025年8月


帝都近郊で初実施「大正元年の陸軍特別大演習」関連の記念碑探訪(狭山・所沢・川越)

川越を歩いていたら「御野立の森公園」という公園があって、「おっ」と思い、なんとなく写真を撮っていました。そこから少し調べてみたら、川越と狭山と所沢から色々話題が集まってきたのうえに、以前なんとなく記録していた記念碑なども「大正元年の陸軍特別大演習」の関係として芋蔓式に繋がってきたので、まとめてみましたという記録になります。

今回、記念碑を辿ることで、 大正天皇は下記の行程で、陸軍特別大演習に臨まれたことがわかりました。

大正元年
11月14日-15日 川越
11月16日 狭山
11月17日-19日 所沢


大正元年の陸軍特別大演習(第11回陸軍特別大演習)

大元帥であらせられる 大正天皇が入間川で指揮を執った「陸軍特別大演習」
大正元年(1912年)11月15日〜19日の4日間、実施された。

明治45年/大正元年(1912年)7月30日に 明治天皇の崩御に伴い第123代天皇に即位した 大正天皇として、初めての陸軍特別第演習。
参加総数は4万8700人余り、軍馬は8200頭であったという。

  • 統裁 大元帥 大正天皇
  • 参謀総長 長谷川好道(軍事参議官・陸軍大将)
  • 北軍司令官 大島久直(軍事参議官・陸軍大将)
  • 北軍 第13師団(高田)師団長:長岡外史(陸軍中将)
  • 北軍 第14師団(宇都宮)師団長:山田忠三郎(陸軍中将)
  • 南軍司令官 大島義昌(陸軍大将)
  • 南軍 近衛師団(東京)師団長:閑院宮載仁親王(陸軍中将)
  • 南軍 第1師団(東京)師団長:木越安綱(陸軍中将)

演習は、首都占領を目指す北軍に対し南軍が防衛するという設定で行われた。


特別大演習御野立所記念碑
狭山の御野立所(狭山市立稲荷山公園)

特別大演習御野立所記念碑
宮内大臣伯爵渡邊千秋書

渡辺千秋は、1910年(明治43)から1914年(大正3)の宮内大臣。
この間に、明治天皇の大葬の儀、大正天皇の即位の礼などがあった。

狭山は、「稲荷山」に「16日」。後述する川越と少し異なりますが、基本の文意は同じですね。

3つに割れた痕跡がある。薄い石碑ゆえに、、、か。

思ったよりも薄い石碑。

御野立所から入間川の方向を望む。
記念碑は斜面の先の入間川に面した方向を向いている。
大正天皇が望んだ方向ときっと同じなのだろう。

石碑の周りの石柱柵も往時のものと思われる。

狭山市立中央児童館が目の前にある。

隣には、埼玉県最古のプラネタリウムもある。(昭和52年設置)

場所:

https://maps.app.goo.gl/yjQnD2FmdKGzvbMr6


稲荷山公園(狭山市営稲荷山公園)

大演習からちょうど1年後の11月16日。
大正天皇の行幸を記念した碑の除幕式が行われた。
碑は現在、中央児童館脇の階段を上ってすぐのところにある。
除幕式後の町議会で、稲荷山付近を記念公園にすることが可決された。

「稲荷山公園」の見晴台からの展望

参照:狭山市

https://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/shisetsu/bunkashisetsu/hakubutsukan/index.files/4241103-4250114kiti.pdf

場所:

「埼玉県営狭山稲荷山公園」ではなく「狭山市営稲荷山公園」が今回、話題とした公園。
紛らわしいが、西武線の「稲荷山公園」の最寄りは「埼玉県営狭山稲荷山公園」

https://maps.app.goo.gl/qaHxjq2zP9SdgYBm8


大正天皇御駐輦之跡碑
(所沢航空記念公園)

所沢航空記念公営にある記念碑。
大正元年の陸軍特別第演習では、所沢飛行場からの航空機も参加した。
陸軍特別大演習で航空機の参加も、初となる。

大正天皇御駐輦之跡
 大正元年(1912)11月15日から19日にかけて関東地方で10万人の将兵が参加する陸軍特別大演習が行われました。所沢飛行場からはブレリオ機、会式3号機、会式4号機と飛行船パルセバルが初参加しました。この碑は、同年11月17日に大正天皇が所沢飛行場に行幸され、飛行機の飛行を統監されたのを記念して建立されたものです。
 尚、この碑には当時の井上幾太郎大将の直筆による文字が刻まれれており価値ある記念碑と言われています。
 2020年3月
  所沢市
  所沢資料調査収集する会

井上幾太郎大将は、初代陸軍航空部本部長でもあり、航空黎明期において陸軍航空の第一人者。

場所:

https://maps.app.goo.gl/msALrPY9tbwWvHYM6


所澤駐蹕碑・大正天皇行幸記念碑
(所沢神明社)

大正元年(1912年)の陸軍特別大演習。
大正天皇が行幸され駐蹕された。

所澤駐蹕碑
麝香間祇候 正二位勲一等 公爵 徳川家達 篆額
近時飛行機盛行于各國我邦亦設習技場於武州所澤會
今上天皇ト大正元年十一月統監陸軍大演習于近郊置 行在所於川越各地巡監之次以十七日 臨幸所澤習技場此地當南北軍對抗之衝飛行機翔干両軍之上能偵察之頗稱 二日十九日再 臨幸場内大賜酺於文部官僚又州内士民盖
天皇践祚後盛典也郷民以為栄欲建碑 駐蹕之處以表之来嘱銘鳴呼
天皇以武備之不可一日忽之忍 諒闇之憂躬統監之労不負
先皇在天之霊欣慰可知也海内臣民聞之皆欽仰敬崇況新拝観者乎謹繋銘日治兵之野飛行場 大纛臨矣 皇武維揚萬姓欽仰執不期待紹述先緒雄飛四海
 大正二年十一月
  宮内儒員 従三位勲二等 文学博士 三島毅 拝撰
  錦鶏間祗候 従二位勲一等 男爵 野邨素介 謹書

別記事にて。

場所:

https://maps.app.goo.gl/kiqEy1bZw7a1iUHq8


秋田家住宅(所沢)

大正元年 11 月の陸軍特別大演習の際に、伏見宮貞愛親王が宿泊している。
伏見宮貞愛親王は、陸軍大将であったが、大正元年の陸軍特別大演習当時は、内大臣府出仕として即位されたばかりの 大正天皇を補佐していた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/qthJ66qa8hHnXAw69


特別大演習御野立所記念碑
川越の御野立所(御野立の森公園)

こちらは、川越にある記念碑。

特別大演習御野立所記念碑
宮内大臣伯爵渡邊千秋書

大正元年十一月 
今上登極之初行陸軍特別大演習於武蔵野其十五日
龍駕臨幸仙波村躬親統督三軍此地實繫當時之 
聖蹤也因鎸以諗後世

大正二年十一月上浣 
 埼玉縣入間郡長從六位勲五等 市川春太郎撰并書

川越は、「仙波村」に「15日」。他は、狭山にある記念碑と同文。
ただ、狭山の薄い記念碑と違って、川越の記念碑は、石碑に厚みがある。

大正天皇は、陸軍特別大演習に際して、記念碑を辿ることで、初日の15日に川越の「仙波村の御野立所」、翌16日に狭山の「稲荷山の御野立所」、そして16日に所沢飛行場に御臨席されたことがわかる。

場所:

https://maps.app.goo.gl/ELG9pHNQDnjqBY8s8


大正元年特別大演習行在所
(川越高校)

大正天皇は、川越高校に宿泊(当時の川越中学校)された。
川越城跡地でもある場所であった。

大正元年11月14日、川越駅に(現・本川越駅)お着きになった天皇は、喪章をつけて白馬に乗られ、町をあげてお迎えする中を大本営(川越中学校の大本営)に入られた。

大正元年特別大演習行在所

学校敷地内にあるため、表からのみ、見学。

川越高校の正門

場所:

https://maps.app.goo.gl/xWT5ZqsQrdS6qu4i8


撮影:2025年9月

防空壕きくらげ(川崎市麻生区)

川崎市麻生区に、「防空壕」で作られた「きくらげ」があり、それを販売する自販機がある聞いたので、足を運んでみました。


川崎初空襲

昭和17年4月18日、日本本土に対する空襲(ドーリットル空襲)
米陸軍所属のB-25爆撃機16機が米海軍所属の空母ホーネットより発進し、日本本土への空襲を実施。この空襲がアメリカ軍による日本初空襲(東京初空襲)であり、ミッドウェー海戦のきっかけともなった。
「ドーリットル空襲」の名称は爆撃機隊の指揮官であったドーリットル中佐に由来する。
日本側の被害は、死亡約90人、負傷約460人であったという。

川崎には、ドーリットル爆撃隊16機のうち、東京を目的としていた5番機・6番機・7番機と横浜を目的としていた12番機の4機が、結果として川崎に爆撃を実施している。


川崎大空襲

昭和20年4月4日、川崎地区において、B-29 による初空襲。
以後、川崎は、大規模な重化学工業や軍需生産に欠かせない大規模工場が多く集まっていたために、臨海地区や南武線沿線の工場を中心に何度も空襲被害にあってきた。
そして4月15日には、B-29爆撃機200機を超す編隊にて川崎を空襲された。
「川崎大空襲」での死者は700人から1500人といわれている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_22.html


川崎市麻生区栗木の防空壕

川崎市麻生区栗木に鎮座している「常念寺」。
戦時中に、川崎市川崎区の大島国民学校(現・川崎市立大島小学校)に通う児童が常念寺に疎開していたという。なお、川崎臨海部の国民学校は内陸の麻生区の寺院に分散して疎開していたようでもある。
麻生区の隣の町田鶴川には白洲次郎の武相荘もあった。

川崎市麻生区栗木の防空壕は、常念寺で疎開児童のためにつくられた防空壕であった。

防空壕について
神奈川県川崎市麻生区栗木の住宅街のそばの竹林に防空壕があります。終戦1年前の昭和19年8月、空襲に備えて学童疎開が発令され、川崎区の大島国民学校の3年生4年生の女子児童39名が、家族と離れて栗木の常念寺に来て終戦までの一年間共同生活をしました。
この防空壕はその子供たちを守るためにお寺のすぐ近くに日本軍によって掘られたものだと伝えられています。軍によって掘られたものは特殊地下壕と呼ばれています。
防空壕きくらげをお召し上がりいただくことでご家庭で戦争や平和、防空壕のない世界について話し合うきっかけになれば幸いです。

すぐ近くの日本軍?
同じ、川崎市麻生区には、探照灯基地(照空灯基地)もあったので、展開している部隊が居ても、まあ、おかしくはない。

https://senseki-kikou.net/?p=14765


防空壕きくらげ

【防空壕きくらげについて】
菌床:日本産
品種:アラゲキクラゲ
戦前の防空壕を補修改修し、国産キクラゲ栽培をしています。
防空壕の中は、夏は25℃、冬は15℃です。キクラゲの成長温度は20℃~25℃なので、冬場に少しヒーターで御園してあげれば、夏しか育たないキクラゲが一年中収穫できるのです。適温でゆっくり育ったキクラゲは肉厚でプリプリの食感です。国内のキクラゲ市場は95%が中国産の感想キクラゲとなっています。希少な国産のキクラゲは食感良く、食物繊維が豊富に含まれています。

自販機で、キクラゲが売っている!!

大ボトル 乾燥きくらげ(22g)1,000円
大ボトル 生きくらげ(170g) 800円
小ボトル 乾燥きくらげ(12g)600円
小ボトル 生きくらげ(100g) 500円
防空壕きくらげキムチ 1200円
 (麻生区限定おつけもの慶)

防空壕

購入しました。
小ボトル 生きくらげ(100g) 
 と
防空壕きくらげキムチ

サイト

https://netsugen-system.co.jp

https://boukuugoukikurage.stores.jp

場所

https://maps.app.goo.gl/XEyaWqZDprqP6HwJ9

※2025年8月


関連

地下壕では、日本酒も熟成されます

沖縄戦で失われたケービン鉄道「旧沖縄県営鉄道那覇駅跡の転車台遺構」(沖縄戦跡慰霊巡拝14)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その14」となります。

その13は、下記にて。

2022年10月記録です


泊まっていたホテルの最寄駅が「旭橋駅」であったことから、旧那覇駅にも程近く、せっかくなので足を運んでみました。


旧沖縄県営鉄道那覇駅跡

軽便鉄道の起点となっていた那覇駅だけにあったとされる「転車台」の遺構が移設保存されている。
那覇駅遺構は沖縄戦や戦後のバスターミナル建設などによって残っていないと考えられていた。
ところが、2015年に那覇バスターミナル再開発工事で「転車台」の遺構が発見された。

那覇駅跡
 沖縄における軽便鉄道各路線の起点となった那覇駅跡。
 日本の鉄道は、近代化への象徴として、明治新政府により推進され、1872年に初めて新橋〜横浜間が開通した。沖縄県でも、本土から来た寄留商人を中心に、鉄道事業の計画が何度かなされたが、資金調達等で目途が付かず、計画中止が相次いだ。
 通常の線路幅である1067mmに対し、それ未満の線路幅の鉄道設置を認め、建設費や維持費の抑制を図った「軽便鉄道法」(1910年)の成立を受け沖縄県では、1913年(大正2)に線路幅762mmの計便鉄道の敷設を決定した。
 1914年(大正3)12月1日に、那覇と与那原を結ぶ与那原線(全長約9.8km)の操業が開始され、その後、1922年(大正11)に那覇〜嘉手納線(約23.6km)、1923年(大正12)に那覇〜糸満線(約18.3km)が開業した。那覇港への引き込み線(約0.7km)も敷かれ、貨物専用として使用された。沖縄の軽便鉄道は「アギフィーグルマ」(陸火車:陸蒸気船)とも呼ばれたが、人々からは「ケービン」の愛称で親しまれた。
 那覇駅は、与那原線開業時に整備され、路線増加とともに拡充された。赤瓦葺きの木造平屋建ての駅舎には売店もあり、林s熱して鉄道管理所や交番が置かれた。構内には転車台・機関庫・石炭置き場、北端には職員住宅もあった。
 車両は、蒸気機関車12両、ガソリン動車6両、客車52両、貨車51両あったといい、1930年(昭和5)に初めて導入されたガソリン動車では、快速運転も行われ、乗客から人気があったという。那覇からはそれぞれ30分(与那原)、60分(嘉手納)、50分(糸満)程で結ばれていた。普段は3両編成であったが、キビの収穫時期や盆・正月、波上祭の時期には、5〜8両編成になったという。沿線地域の子どもたちは、「シッタンガラガラ」と音を立てて走る「ケービン」の姿や、「アフィー・アフィー」と聞こえる汽笛を真似て、遊んだという。
 那覇駅は、1944年(昭和19)10月10日の空襲により甚大な被害を受けたが、1ヶ月後には、運行が再開され、沖縄守備隊の兵站輸送や、住民の本島北部への疎開に利用された。しかし、翌年の3月下旬には、米軍の攻撃により破壊され、運休となった。
 終戦後の1947年(昭和22)には鉄道復興の計画もあったが、幹線道路の整備が優先された。さらに1950年(昭和25)の朝鮮戦争勃発による鋼材不足のため、スクラップ(くず鉄)ブームが起こり、車両やレールの残骸もスクラップとなった。
 那覇駅跡周辺は、1953(昭和28)から区画整理が始められ、1959年(昭和34)には那覇バスターミナルとなった。かつての那覇駅構内の北端に位置した仲島の大石は、ターミナル内の出入り口付近に二個慣れている。

戦前の那覇駅構内図

那覇駅構内図
転車台の位置がわかる。

沖縄県営鉄道及びバス路線図

沖縄県営鉄道那覇駅跡出土の転車台遺構
 沖縄県営鉄道那覇駅は、沖縄戦による破壊や戦後のバスターミナル建設等によって当時の施設は全く残っていないと思われていました。ところが、再開発中に、当時の駅構内にあった施設の遺構が発見されました。発掘調査の結果、遺構は沖縄では唯一那覇駅だけに設置されていたと言われる、機関車を方向転換させるための「転車台」と呼ばれる施設であることがわかりました。
 「転車台」遺構はコンクリートの基礎とその上にレンガを積み上げたドーナツの形をした構造で、かなり破壊されていましたが、全体の形がほぼわかる状態で残っていました。大きさは直径約6.8m、高さは最も残りの良い状態で最大約1.1mあります。
 基礎部分の地中には、直径約18cm前後の木杭が多数埋め込まれていました。これは、那覇駅一帯が埋め立て地で地盤が軟弱なため、「転車台」全体の沈下を防ぐための工事であったと考えられます。発見された「転車台」遺構は、近代沖縄の交通の歴史、建築・土木技術など、様々なことを知ることができる大変貴重な文化財です。

戦前の那覇駅構内(左側に見える円形が転車台)

機関車と転車台のイメージ模型(縮尺:6分の1)


沖縄都市モノレール線(ゆいレール)

沖縄県営鉄道「ケービン」が昭和20年3月に運行を停止し、沖縄戦で鉄路が破壊されて以来、沖縄には鉄道がなかった。
戦後、米軍主導で道路整備が優先されるも、経済活動が活発化してくると慢性的な道路交通の渋滞が発生していた。
そうした中、「沖縄県内に存在する唯一の鉄軌道路線・モノレール」として、2003年に「沖縄都市モノレール線・ゆいレール」が誕生した。


付記:沖縄の海保(第十一管区海上保安本部)

海上保安庁のなかで、最大規模の管区を誇る。

沖縄の海をクルージングするタイミングがあって、そこで海保の船をいくつかみたので、記録程度に、メモしておきます。

PLH06「おきなわ」

PLH09「りゅうきゅう」

PL03くだか

双胴船でのクルージング、でした。


付記:沖縄で飲食したものとか

なんとなく記録的に。これで締めなので。

ブルーシール

沖縄限定の紅茶花伝

オリオンビール

ソーキソバ

パワーギア

オリオンビール

ステーキハウス88(締めのステーキ)

ブルーシール

シークワーサー

さんぴん花茶
べにいもたると

ブルーシール(塩ちんすこう)

なんかスマホにのこっていた飲食系の写真がだいぶ偏っていることがわかりました。
もちろん、他にもいろいろ飲み食いしていたんですけど、写真に残っていたのが。。。


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

本編は、これで締めです。1日半の記録、でした。
1日目(全日) 沖縄本島南部周辺
2日目(半日) 那覇中心部周辺
また、行きたいですね。
今回のまとめで、かなり沖縄戦に関する知識が増えました。
次回もより深い巡拝ができるかと思います。まとめればまとめるほど、行かなばならない場所が増えてしまい。

みたまやすらかなれ、と深く拝し、合掌し。

「その1」に戻る

学童疎開船の悲劇「対馬丸記念館と旭ヶ丘公園」(沖縄戦跡慰霊巡拝13)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その13」となります。

その12は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


対馬丸事件

対馬丸は、日本郵船のT型貨物船の一隻。
総トン数は6,754トンの貨物船。
T型貨物船は、日本郵船の事実上最初の大型貨物船であり、高速ディーゼル船が就役するまで日本郵船の貨物船隊の主力であった。
大正2年(1913)から大正10年(1921)まで合計28隻が建造された。
1920年代以降は、高速ディーゼル船に第一線を譲り、1930年代後半からの世界情勢の悪化に伴い、援用貨物航路は縮小され、太平洋戦争とともに、陸海軍徴用船として使用され、多数の被害を出した。
終戦時にT型貨物船として残存したのは、28隻のうち1隻のみ(鳥羽丸)であった。

対馬丸は、大正4年(1915)竣工、大正5年(1916)6月21日就役。
就役後は、第一次世界大戦後に再開されたパナマ運河経由の貨物船として、横浜ーニューヨーク航路第一便として出航する栄誉を担った。
昭和12年(1937)に、対馬丸は日本郵船新鋭船にメインルートを譲り、カルカッタ航路を担当。
昭和16年(1941)9月21日付で日本陸軍に徴傭され南方戦線の輸送に投入。
昭和17年(1942)5月5日に日本陸軍の徴傭船としては解傭され、6月12日からは船舶運営会使用船となり物資輸送任務を担った。
昭和18年10月28日付で、再び日本陸軍に徴傭され、陸軍徴傭船となる。

昭和19年7月、サイパンの戦いが終結し、沖縄の防衛が急務となっていた。
そのため輸送船団は、沖縄本島に展開する兵員や軍需輸送を本土から沖縄に往路は軍事輸送、沖縄から本土への帰路は沖縄疎開の非戦闘員を乗せた疎開輸送を担っていた。

8月1日。本土からの沖縄への往路として、対馬丸は「モ05船団」に加入して、門司港を出港。「対馬丸」には、船舶工兵隊第二十六聯隊第一中隊211名が乗船し、同行輸送船には「和浦丸」「暁空丸」、護衛には敷設艦「白鷹」駆逐艦「響」などの船団であった。

8月5日。嘉手納港に入港した「モ05船団」は陸軍部隊を揚陸。対馬丸・和浦丸・暁空丸は「609船団」として上海・呉淞に回航し、沖縄防衛を担う第62師団の兵員を搭載して、護衛する駆逐艦「蓮」「栂」砲艦「宇治」とともに8月19日に那覇に到着した。

8月21日18時35分。
「ナモ103船団」として、「対馬丸」「和浦丸」「暁空丸」と、駆逐艦「蓮」砲艦「宇治」は長崎に向けて那覇を出港。
対馬丸には、学童疎開と民間人で1,661名が乗船。また、船舶砲兵隊41名も乗船していた。乗員は86名であった。
なお、和浦丸は、学童疎開者だけで1,514名、暁空丸は、一般疎開者だけで1,400名の乗船であった。

アメリカ海軍は、暗号解読などにより「ナモ103船団」の動向を把握しており、アメリカ潜水艦ボーフィン(SS-287 USS Bowfin)がレーダーでナモ103船団を探知。

8月22日22時9分、「ナモ103船団」を捉えた米潜水艦ボーフィンは、魚雷6発を発射。
対馬丸に2本魚雷が命中。船長は「総員退船」を命するも、魚雷命中の11分後の22時23分頃、対馬丸は大爆発をして沈没した。
乗員乗客あわせて1,484名が死亡した。このうち、15歳以下は1040名が犠牲となった。
(学童疎開者784名、疎開介添者30名、一般疎開者625名、船員24名、船舶砲兵隊員21名)
なお、学童疎開者で生き残った児童はわずかに59名であった。

なお、米潜水艦ボーフィンは、「真珠湾の復讐者」として、日本の艦船44隻を沈めたとされ、現在は、真珠湾のボーフィン記念公園に保存されている。


対馬丸記念館

対馬丸記念館

https://www.tsushimamaru.or.jp

対馬丸デジタルアーカイブ

https://www.tsushimamaru.net

對馬丸記念館

疎開船対馬丸で犠牲になった子どもたちの資料館
対馬丸記念館

昭和19年(1944)年7月7日、サイパン島の日本軍が全滅すると、次はいよいよ沖縄が戦場になる危険が大きくなり、政府は沖縄の子どもやお年寄り女性など、10万人を県外に疎開させる決定を下し、学童疎開のために沖縄県学童疎開準備要項を発令しました。学童疎開は文部省の指示を受けた沖縄県教学課が推進しましたが、すでに米軍の潜水艦が沖縄・鹿児島間の海上に出没し、多くの犠牲者が出始めていることを親たちは公然の秘密として知っていたので、疎開業務は容易に進めませんでした。その結果として沖縄県が策定した疎開計画では、国民学校初等科3年生から6年生までの学童が原則でしたが、実際には1.2年生や女子、高等科の学童もいました。学童疎開は8月14日から9月14日まで数回にわたって実施され、5,586人が船で九州に向かいました。
疎開船対馬丸はそのなかの一隻で、昭和19年8月21日那覇港から学童834名、一般・引率827名を乗せ僚船2隻、護衛艦2隻とともに長崎に向けて出港しました。翌22日那覇の沖合から追跡してきた、米潜水艦ボーフィン号(USS BOWFIN)の魚雷攻撃によって午後10時12分頃鹿児島県トカラ列島悪石島近海で撃沈され、学童780名を含むおおよそ1,500名が犠牲機となりました。
平成9年(1997)12月12日、科学技術庁海洋技術センター(現独立行政法人海洋研究開発機構)の海底探査によって海底に横たわる対馬丸が発見され、遺族は遺骨収集と船体引き上げを政府に要請しましたが、引き上げ不可能との回答をうけました。その結果、船体引き上げに代わる遺族慰謝事業として全額国庫補助により対馬丸記念館を建設、撃沈から60年後の平成16年(2004)8月22日に開館しました。
館内には、対馬丸事件の経緯や数少ない遺品や遺影を、子どもたちにも理解できるように展示しています。
沖縄で唯一の子どもの記念館として、平和発信と子供達の未来を創造する活動を行なっています。

疎開船対馬丸
6754トン
1914年に作られた、建造後30年の貨物船。那覇市内の8つの国民学校の生徒をはじめ、県内各地から集まった一般疎開者合計1661名が乗船していたと言われています。

建物について
対馬丸記念館は対馬丸への乗船をイメージして作られた建物です。屋上までの高さは、約10メートル。海面から甲板までと同じ高さに設計しています。
船の長さは135メートルで、この敷地の左端から波の上ビーチ入り口までの距離とほぼ同じ長さです。
館内への入り口を2階に設け、タラップから館(艦)に乗船するイメージで設計されました。また、2階の第一展示室から1階の第二展示室への階段は、船倉へ降りるイメージを再現しています。

対馬丸の模型と絵画

日本郵船寄贈
T型貨物船(戦時中は陸軍徴用船・学童疎開船)
対馬丸100分1模型

寄贈:船舶砲兵部隊慰霊碑を守る会
画:上田毅八郎(船舶画家)

「船舶砲兵部隊慰霊碑」は広島の比治山陸軍墓地に建立されている慰霊碑(未訪)

https://www.tsushimamaru.net/3019

対馬丸には、船舶砲兵隊も乗船をしていた。

真っ暗な海に投げ出され漂流する様子を再現。
はり巡るロープは波を表している。

対馬丸は、もともと貨物船だったということもあり、甲板の下は窓もなく2段に仕切られた板の上で、蒸し暑い中を我慢して過ごしたという。

学童疎開

学校の様子

遺影
みたまやすらかに

小桜の塔のシンボル。
対馬丸の子どもたちが平和の使いとなって大空に羽ばたくようすを表している。

いま「対馬丸」を語ること
昭和19年(1944)8月22日午後10時12分対馬丸は鹿児島県・悪石島沖で米国海軍ボーフィン号の魚雷を受け沈没しました。乗っていた疎開学童、訓導・世話人、一般疎開、船員・兵隊ら1418人(氏名判明者数)が一瞬にして帰らぬ人となりました。あれから60年、このことは悲劇として知られることはあっても史実として語られたことはありません。

私たちは考えました
いま「対馬丸」を語ること、それは何でしょう?
戦争のこと?それとも平和?
本当に語って欲しいこと、それはいまそこにある
それぞれの「夢」のことです

暗くつらい戦時でも「夢」は持っていました
でも、生きれいればこその「夢」
犠牲になった彼らの無くしてしまった「夢」
彼らが持っていたであろう未来への「夢」
その「夢の未来」に私たちは生きています

この館に身を置いたら、感じてみて下さい
そして、考えてみて下さい

この館には犠牲者の数と比較して
遺品など、「物」があまりありません
どうしてでしょう?
あまりにも長い時間がたったから?
思い出を残そうとしなかったから?

沖縄戦では、多くが焼かれ破壊しつくされました
形あるものは失われました
しかし、人々の「想い」は決して失われません

人々の「想い」、それは平和への強い「希望」です
戦争を語るとき、悲しみと憎しみが生まれます
悲しみの大きさを、「希望」にかえる努力をしないと
憎しみが報復の連鎖をよびます
しかし、報復の連鎖で悲しみは癒やされるのでしょうか?

いま「対馬丸」を語ること、それはなんでしょう?

いまも世界では報復の連鎖が
子供達から新たな夢と希望を奪っています
この報復の連鎖を断ち切る努力を一人ひとりがすること
これこそが、対馬丸の子どもたちから指し示された
私たちへの「課題」ではないでしょうか
 2004年8月22日 財団法人 対馬丸記念会

場所

https://maps.app.goo.gl/pJcdKjfXGJ96fAjv7


旭ヶ丘公園

波の上ビーチに隣接する公園。多くの記念碑・慰霊碑が集まっている。
対馬丸記念館、波上宮、護国寺などが近隣にある。


小桜の塔(旭ヶ丘公園)

対馬丸の犠牲者の慰霊碑

昭和19年8月22日夜半、学童疎開船対馬丸は、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて、悪石島沖で撃沈し、いたいけな学童と付添の人・1484人の尊い生命が、ひと時に奪われてしまいました。
 これらのみたまを弔い慰め、世界の恒久平和を念ずるために、多くの人々の善意で「小桜の塔」は建立されました

小桜之塔
厚生大臣 草葉隆圓書

小桜の塔建立について
愛知県丹陽村の「すずしろ子供会」会長川井桂氏は、戦争の犠牲となった子供達の慰霊塔が沖縄にないことを憂え、昭和28年護国寺の名幸芳章住職を通じて対馬丸遭難者遺族会に建立の意志を申し出た。河井氏を始め 関係者は愛知県の児童に広く1円募金を呼びかけて20余万円の浄財及び資材を集めるに至り、同年5月五日小桜の塔が建立された。

悪石島の霊石
この敷石は、対馬丸が沈没した悪石島海岸の石を集めた霊石です。

小桜の塔のシンボル。
対馬丸の子どもたちが平和の使いとなって大空に羽ばたくようすを表している。

弔歌
いのちみじかく青汐に 花とちりつつ過ぎゆけリ 
 年はめぐれど帰りこぬ おさなき顔の眼には見ゆ
  山崎敏夫

犠牲になられた皆様のご芳名
みたまやすらかに

小桜地蔵尊
昭和45年建立

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_naha_004/index.html


海鳴りの像・戦時船舶遭難碑(旭ヶ丘公園)

戦時遭難船舶での犠牲者を祀る。
戦時遭難船舶は二六隻。「海なりの像」には、対馬丸を除く二五隻の船舶で犠牲になられた県民1,927人(沖縄県調査)の御霊を祀っている。
対馬丸の犠牲者は、上記の「小桜の塔」で祀っている。

海鳴りの像

海鳴りの像
 第二次世界大戦(太平洋戦争)で沖縄県は、全国で唯一地上戦が闘われ、軍・民併せて
二十万余の尊い命が犠牲になりました。戦後六十二年経った今日なお、戦争で犠牲になった人々の遺骨がいまだに山野に残されたままになっています。他方沖縄県は、離島県である
が故に、海で犠牲になった県民は三四〇五人(沖縄県調査)にのぼります。学童疎開船
「対馬丸」を初め、軍需工場に向かった若者や女子挺身隊・少年航空兵になるために
乗船した者・召集令状を受け、郷里から出征しようと本土から沖縄に向かったもの・満州
開拓団から帰郷した者・南洋方面から軍命によって強制送還された者などです。
 沖縄県民が乗船して撃沈された戦時遭難船舶は二六隻です。海なりの像には、対馬丸を除く二五隻の船舶で犠牲になられた県民一九二七人(沖縄県調査)の霊を祀ってあります。二度と再び悲惨な戦争は起こしてはならないと堅く誓い、犠牲になられた御霊に心から追悼の誠を捧げます。戦時遭難船舶遺族会は、一九八七年六月二十三日「海鳴りの像」を建立しました。
二〇〇七年六月二十三日、赤城丸(四〇六人)・嘉義丸(三六八人)・開城丸(十人)・湘南丸(五七七人)・台中丸(一八六人)など五隻の犠牲者(一五四七人)の「刻銘板」を建立しました。
 戦時遭難船舶遺族会

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_naha_003/index.html


戦没新聞人の碑(旭ヶ丘公園)

新聞社の戦没者14柱の慰霊碑。

戦没新聞人の碑

1945年春から初夏にかけて沖縄は戦火につつまれた。砲煙弾雨の下で新聞人たちは二ヵ月にわたり新聞の発行を続けた。
 これは新聞史上例のないことである。その任務を果たして戦死した14人の霊はここに眠っている。
   昭和36年9月 建立

沖縄新報社(1940年に沖縄日報・沖縄朝日新聞・琉球新報が戦時統合)、同盟通信社、朝日新聞社、毎日新聞社

「沖縄新報」は、沖縄戦の進捗とあわせ第32司令部壕の東側に設けられた「新聞社壕」に移り、3月下旬からは、地下壕で印刷発行が行われた。第32軍司令部の南部撤退が決まった直後の5月25日まで続けられた。
第32軍司令部の南部撤退とともに新聞発行が不可となり1945年5月25日に廃刊となった。

犠牲になられた皆様のご芳名
みたまやすらかに


台湾遭難者之墓(臺灣遭害者之墓)

敷地としては、「波の上の護国寺」の境内にあたる。
戦争とは関係なく、「宮古島島民遭難事件」(琉球漂流民殺害事件)の遭難者の墓。
明治4年(1871年)宮古の船が台湾に漂着し、69人のうち3人が溺死、54人が漂着先の台湾原住民に殺害された。
日本政府は、清国に抗議するも、清国から「化外の民(台湾原住民は国家統治外)」と回答されたことから、のちに、明治7年の「台湾出兵」につながることとなる。


琉球箏曲先師顕彰碑

戦争とは関係ない、「琉球箏曲」(琉球琴)の「かつての師匠」を「顕彰する碑」かと。


波上宮(沖縄総鎮守・琉球国新一の宮・官幣小社)にも、行けばよかったのですが、時間があまりなかったので、見送りとなりました。以前の私であれば、全国一宮巡拝として必ず参拝したと思うのですが、今回は軸点が戦跡に集約されていいたので。

撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その14」へ

全国最多の御祭神をお祀りする護国神社「沖縄県護国神社」(沖縄戦跡慰霊巡拝12)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その12」となります。

その11は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


沖縄県護国神社

沖縄県那覇市の奥武山公園に鎮座。
御祭神は、沖縄関係の戦死者だけではなく、沖縄戦に殉じた本土出身者や一般市民も祀っており、17万8,800余柱を祀っており、全国各地の護国神社では最多の御祭神となっている。

沖縄護国神社は昭和11年に創建した招魂社に始まり、昭和15年に内務大臣指定の護国神社(沖縄県護国神社)となった。
昭和20年4月の沖縄戦で社殿を焼失し<昭和34年に仮社殿を竣工、昭和40年に現在の社殿が建立している。

以下、公式サイトより

由緒
沖縄県護国神社が鎮座する那覇市奥武山の地は、古くは奥(ア)武之(フノ)山(ヤマ)と呼ばれる集落のない小島でした。「奥武(アフ)」とは、神々と通ずる地という意味があり、古くから信仰の地とされてきました。
護国神社は、明治三十九年にこの地で県出身戦没者の御霊を招き鎮め、神として祀る「大招魂祭」が県主催で行われたのが始まりです。その後、昭和十一年に沖縄県招魂社として社殿が建立され、昭和十四年に沖縄県護国神社へと改称、昭和十五年に内務大臣指定護国神社となりました。
そして、皇紀二六〇〇年の那覇市の筆頭事業として境内が整備されました。昭和二十年の沖縄戦では米軍の砲撃を受けましたが社殿は奇跡的に残り、戦後は学校用地として供用されるなどを経て、沖縄戦戦没者をお祀りしようとの声が沸き起こり昭和三十四年に仮社殿が建立されました。現在の社殿は沖縄県内外御遺族崇敬者の御浄財により昭和四十年に竣功し、現在に至っております。昭和四十七年沖縄本土復帰を機に宗教法人認証申請の末、翌四十八年に「宗教法人沖縄県護国神社」となり県内外より多くの参拝者が訪れています。

ご祭神
沖縄県護国神社のご祭神は、日清日露戦争以降、先の大戦で国難に殉ぜられた沖縄県出身の軍人軍属を始め沖縄戦にて散華された一般住民の尊い御霊も神様としてお祀りしています。その中には那覇の十・十空襲や対馬丸の犠牲者なども含まれます。さらに、北海道から鹿児島までの本土出身軍人軍属で沖縄戦戦没者も合祀しており、現在のご祭神名簿には一七七、九一三柱のご祭神が記されています。
(柱数は追加合祀の都度異なります。)

https://okinawa-gokoku.jp

大鳥居

沖縄縣護國神社

昭和19年12月建之
陸軍大将鈴木孝雄書

昭和19年建立の社号標??
沖縄戦で焼失を免れたのか?

二の鳥居

御社殿

深く拝する
みたまやすらかに

御朱印

靖國神社 南部利昭宮司御植樹
平成20年10月23日
第50回記念秋季例大祭


御製の碑(沖縄県護国神社)

上皇陛下(平成)ご即位20周年、上皇上皇后両陛下ご成婚50周年記念の碑。

御製
弥勒世よ 願て 揃りたる人たちと 戦場の跡に 松よ植ゑたん

天皇皇后両陛下が、平成5年当県米須・山城での第44回全国植樹祭に行幸啓の砌、沖縄県に贈った御製です。当神社企画の今上陛下ご即位20年奉祝記念事業として、広く大御心をお伝えするため歌碑を建てました。平和な世を願って集まった人々とともに戦場の跡に松をお植えになったことを詠まれた琉歌です。

御歌
鹿子じもの ただ一人子を 捧げしと 護国神社に 語る 母はも

天皇皇后両陛下が、平成5年当県米須・山城での第44回全国植樹祭に行幸啓の砌、沖縄県に贈った御製です。当神社企画の今上陛下ご即位20年奉祝記念事業として、広く大御心をお伝えするため歌碑を建てました。平和な世を願って集まった人々とともに戦場の跡に松をお植えになったことを詠まれた琉歌です。


平和の像(沖縄県護国神社)

大東亜戦争終結50周年記念
沖縄県遺族連合会
平成7年(1995)9月7日建立

恒久平和
碑文
 大東亜戦争終結50周年にあたり、沖縄県護国神社に神鎮まる戦没者の御霊を末永く慰霊顕彰すると共に、恒久平和希求の切なる願いを込めて沖縄県内遺族の総意を結集し、この像を建立する。
 御英霊は、祖国防衛と民族の安泰を守るため、尊い生命を祖国に捧げられたのであり、私たち遺族は常に尊崇と感謝の念を持ち続けている。
 今日、わが国は、この半世紀に亘り、自由と平和の恩恵を享受している。
 これもひとえに諸霊の尊い犠牲によってもたらされいることを決して忘れてはならない。
 私たちは、命の貴さ、平和の尊さを常に肝に銘じ、二度と戦争の悲劇を繰り返してはならないことを後世に伝え、我が国唯一の地上戦が展開された激戦地沖縄が、恒久平和の発信地として「広げよう平和の輪、伝えよう沖縄の心」を内外に強く訴えるものである。
 二十一世紀に向け、私たちは世界の人々と手を携えて恒久平和の確立に邁進することを固く誓うものである。
  平成7年9月7日
   沖縄県遺族連合会 建立

慰霊顕彰
いくとしゆひてん
 忘しる間やねこみ
すぎし日ぬ姿
 朝ん夕さん

共存友好
今年今月ぬ
 今日吉日に
たげにはいするて
 ありし別ら

文字は起こしましたが、意味がわからない内地人でして。


悲歌(沖縄県護国神社)

悲歌
遺骨だにまだ見ぬ
 人にたのまれて 
泣き泣きひろう
 沖縄の石

 沖縄は太平洋戦争終焉の地として 日本国民にとって永遠に忘れ得ぬ土地であります
 祖国の必勝を信じ祈りながら 軍官民一丸となり 老幼婦女子、学園の健児や乙女に至るまで 山野を血に染め 祖国防衛の防人として 散りゆきし英霊の眠られるこの聖地沖縄県護国神社の社頭に 由緒深き京都霊山護国神社にある 大鳥居を日本民主同志会の発起によって碑礎に留めん 有志の篤きご協賛により 之を奉納し併せて表記の悲歌を碑となし 遺恨を千載に留めて硝煙の中に散りゆきし御霊に捧げ 英勲の安らかに眠られんことを祈ると共に世界平和を悲願といたします。
  昭和41年4月19日 建立
   日本民主同志会中央執行委員長
   泉湧寺管長


人命尊愛・神石(沖縄県護国神社)

新宗教の「修養団捧誠会」の教祖・出居清太郎による建立。

アジアにひとたび戦雲おおえば
惨禍およばざるところなし
と昭和三年天啓によって諭され時の政府に再三謹告したにもかかわらず聴聞に達することを得ずかえって獄舎の身となる 
時の流れはそのまま推移し時局は予言にたがわず第二次世界大戦へと突入アジア全域にわたって戦塵の巷と化す 
このとき再び 琉球は聖地なり の天啓をいただくもいかんとする術を知らず 
日ならずして沖縄に戦火燃え彼我の熾烈なる攻防に山容あらたまり幾多の人命は失わる 
やがて戦火止むといえども人心その拠るところを失う 
たまたま修養団捧誠会沖縄県支部の発会を機として仲本興徳支部長護得久和子根波朝造副支部長以下同志の熱誠と沖縄県護国神社奉賛会具志堅宗精会長ほか三好邦忠加治順正両氏等同神社関係の人達の協力を得てここに人命尊愛和石の建立をみる 
まさに天の理と人の和の合掌の姿なり 
人命尊愛は人の命を長らうるのみにあらず尊い命を与えられし万人が活かされる大恩に感謝し他自ともに助けあい悠久なる平和の郷をこの地上に実現せんとするためなり 
これ吾人の七十年の願望なり 
沖縄はアジアの要にして東洋の平和の根元たるべき聖地なり 
ここに人命尊愛の和石を通じ広く万人に呼びかくるものなり
 昭和四十九年九月吉日
  修養団捧誠会
  教祖ならびに総裁 出居清太郎
  清堂亀井安之助謹書


傷痍軍人夫妻像(沖縄県護国神社)

傷痍軍人夫妻像
去る第二次世界大戦において多くの若者が異国の戦場で散華し、又は、傷痍の身となった。
特に、沖縄戦においては、民間人も 戦闘に協力し、尊い命を失い、又は負傷した。
昭和29年1月沖縄傷痍軍人会を結成し、2630名の旧軍人及び戦傷病者が入会した。戦後、塗の苦しみを体験した私達は、世界の恒久平和を渇望し、その証として、この像を建立する。
 平成23年6月22日
  財団法人 沖縄県傷痍軍人会
  沖縄県傷痍軍人妻の会


あゝ特攻(沖縄県護国神社)

(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会 日本人の心を伝える会

私たちはあなたたちを忘れない
あゝ特攻

沖縄を護るため、航空機による空の特攻、戦艦や特殊潜航艇による海の特攻、爆雷を用いての陸の特攻で散華されたすべての特攻戦没者、並びに戦地に赴き特攻にて散華された沖縄県出身の戦没者を永久に顕彰する。

空の特攻
 大東亜戦争末期、最後の手段として航空機による特攻が行われた。 特攻隊員の中には、昭和19年12月16日フィリピン・スミラフ島付近で海軍神風特攻隊 として散華した 我喜屋元太郎少尉 (伊計島出身) ら沖縄県出身者も存在する。 沖縄戦においては、昭和20年3月26日那覇南西洋上にて戦死した陸軍特攻隊の伊舎堂用久中佐 (石垣島出身) をはじめ、終戦まで沖縄を護るため海軍1,957名 (982機)、陸軍1,021名 (義烈空挺隊 含む891機) が特攻で散華した。

海の特攻 
 昭和20年4月7日 戦艦大和 を旗艦とする第二艦隊は、海上特攻隊として沖縄を死守すべく出撃したが、坊ノ岬沖にて米軍機の攻撃を受け、約三千名が散華した。その中には沖縄県出身者37名も含まれている。 また、沖縄守備隊として渡嘉敷、阿嘉、慶留間、座間味、北谷、読谷、与那原、那覇、具志頭、糸満、玉城に配備されていた陸軍海上挺進戦隊「マルレ」、金武、石垣、宮古、小浜に配備されていた海軍「震洋隊」、運天港に配備された特殊潜航艇「蛟竜」は、米軍の砲撃を受けつつも米軍艦艇に対し攻撃を行った。 他にも人間魚雷「回天」は伊号潜水艦に搭載され、昭和20年3月から沖縄近海に出撃し、多くが艦艇と共に散華した。

陸の特攻
 首里に司令部を置き、宜野湾、浦添以南に陣地を配備した沖縄守備隊第三十二軍は、昭和20年4月1日沖縄本島中部西海岸に上陸した米軍と壮絶な戦いを繰り広げた。その際、激戦地となった嘉数高地 (現在の宜野湾市嘉数高台公園) や安里52高地 (現在の那覇市おもろまち) での戦いでは、手作りの梱包爆雷を抱えた兵士による敵戦車への肉弾特攻が行われた。また、県内各地の戦場でも 鉄血勤皇隊 などの沖縄県出身学徒による肉弾特攻が行われ、壮絶な最期を遂げた。
 平成30年4月23日 
  沖縄県護国神社


場所

https://maps.app.goo.gl/A69QvQT6PkSnL63X7


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その13」へ

南西諸島海軍航空隊「巌部隊」本部陣地壕「寿山海軍壕」(沖縄戦跡慰霊巡拝11)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その11」となります。

その10は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


カテーラムイ(寿山)旧海軍壕

小緑駅の東側にある田原公園に。
海軍小禄飛行場(現在の那覇空港)を防衛するための海軍航空隊「巌部隊」(南西諸島海軍航空隊)の本部陣地が置かれた壕。

カテーラムイ(寿山)旧海軍壕
 海軍航空隊巌部隊の本部陣地壕。日本軍は、この地を寿山と称した。小緑飛行場防衛のため、小緑・豊見城一帯では、海軍少将大田実司令官の指揮下に連合陸戦部隊が編成され、多くの陣地壕が掘られた。その一つが本壕で、1944年8月から12月にかけて住民も動員して突貫工事で完成した。総延長は約350mで、その中に司令室・兵員室・暗号室などが設けられた。
 1945年6月4日、米軍は飛行場のある字鏡水に上陸、戦闘が始まった。6月7日、米軍はここカテーラムイ一帯に激しい攻撃を加え、数日で制圧した。壕内には最大1,000人余の将兵・住民がいた。南部への撤退、避難民、戦死者ともに不明であるが、8月段階でも約50人が壕内にとどまっていたいう。

開口部が2つ見える。

案内板のある開口部。

https://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/spot/154

場所:

https://maps.app.goo.gl/FF7zfmyNRsF8hscn8


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その12」へ

「沖縄県民斯ク戦ヘリ」沖縄方面根拠地隊司令官・大田実海軍中将と「海軍司令部壕」(沖縄戦跡慰霊巡拝10)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その10」となります。

その9は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


大田実(大田實)

最終階級は海軍中将。千葉県長生郡長柄町出身。
大田實生家前(生誕地)には「海軍中将大田実顕彰碑」が建立されている。
海兵41期。同期には草鹿龍之介、木村昌福、田中頼三などがいる。
大田実は海軍の陸戦隊の隊長として上海事変や二・二六事件などで活躍している。
太平洋戦に於いては、ミッドウェー島の上陸部隊の海軍指揮官(陸軍指揮官は一木清直)となるも、ミッドウェー海戦の敗北により上陸作戦は中止となった。
沖縄戦では、海軍先任者として、沖縄根拠地隊司令官として、約一万人の海軍陸戦部隊を指揮。沖縄本島の小緑半島を防衛するも、陸軍の南部撤退により海軍司令部は孤立し、部隊は玉砕。
大田實は豊見城の海軍壕で自決。

沖縄戦に際して、沖縄知事・島田叡とは戦闘の最中でも密接な連絡を取り合い、肝胆相照らす仲であったという。

大田海軍司令が最後に発した電報の冒頭にある「県知事より報告せらるべきも」「本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども」の文言を添えたのも、本来民間人の苦労を伝えるのに最も相応しいのは、「県民に関して、殆ど顧みるに暇なかりき」と言った軍人からではなく、最後まで彼ら県民と共にあった島田県知事であるはずであるが、既に沖縄県庁の組織自体に通信能力が無く、やむを得ず大田が、行政官である島田に代わって県民の姿を伝えるという意思から綴られたものであった。

最後の電報は、1945年6月6日午後8時16分に、海軍次官多田武雄宛に発せられた。
玉砕決別電報の常套句であった「天皇陛下万歳」等の言葉はなく、ただただ沖縄県民の敢闘の伝えている電報であった。
 沖縄県民斯ク戦ヘリ
 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

1945年6月13日、海軍壕で自決。
死後、海軍中将に特別昇進。満54歳没。

辞世の句
 大君の
  御はたのもとに
   死してこそ
 人と生まれし
  甲斐ぞありけり


海軍戦没者慰霊之塔(海軍壕公園)

「旧海軍司令部壕」は、那覇市の南西、豊見城市の豊見城の小高い丘にある。
海軍戦没者慰霊之塔は、昭和33年(1958)の建立。

海軍戦没者慰霊之塔
野村吉三郎謹書

野村吉三郎は海軍大将・外交官。阿部内閣で外務大臣、第二次近衛内閣で駐米大使に任じられ、真珠湾攻撃まで日米交渉に奔走し戦争回避を模索。
戦後は日本ビクターの社長を経て、海上自衛隊の前身となる海上警備隊の創設に関わる。その後、参議院銀として政界人として活躍した。

旧海軍司令部壕
この壕は太平洋戦争中沖縄方面根拠地隊司令部のあった場所で昭和20年6月13日午前1時戦い利あらず遂に大田実司令官は
 大君の 御はたのもとに 死してこそ
 人と生まれし 甲斐ぞありけり
の辞世の句を残し将兵四千余名と共に壕内で壮烈な最期を遂げ太平洋戦争中最も悲惨を極めた沖縄戦における海軍部隊の組織的戦闘はここで終わった。鋤やつるはしで掘った壕には司令官室作戦室等があった当時の姿をしのび世界の恒久平和を祈念するにふさわしい戦跡でもある。

参加部隊名
沖縄方面根拠地隊
南西諸島航空隊(巌部隊)
第九五一航空隊 沖縄派遣隊(護部隊)
神風特別攻撃隊
佐世保軍需部那覇派遣隊
佐世保運輸部那覇派遣隊
佐世保工廠那覇派遣隊
沖縄海軍地方人事部
第二二六設営隊
第三二一〇設営隊
第三十七魚雷調整班
沖縄島連合陸戦隊
第二十七魚雷艇隊
第二蛟龍隊
第二一空廠派遣隊
震洋隊 第19 第22 第23 第26 第38 第41 第42

参加艦艇
軍艦 大和・矢矧・迅鯨
駆逐艦 磯風・雪風・濱風・初霜・朝霜・霞・冬月・涼月・沼風
潜水艦 伊号第8・伊号第44・伊号第56・伊号第361
    呂号第41・呂号第46・呂号第49・呂号第56・呂号第109
特務艦 杵崎
特設砲艦 長白山丸
敷設艦 廣島・鴎・燕
海防艦 第四十二号
輸送艦 第十八号・第158号
水雷艇 真鶴・友鶴
回天隊 多々良隊・天武隊・振武隊・轟隊・多聞隊・白龍隊
駆潜艇 海威
 昭和33年10月30日
 海軍軍人軍属生存者一同建立

沖縄戦に関係したすべての海軍部隊が明記されている。

南無阿弥陀仏

旧海軍いわお部隊
地域住民
戦没者之碑

特設陸戦隊第二大隊
第一中隊員之慰霊碑

海軍壕のある丘からの景観。はるかに海を望む。


旧海軍司令部壕・展示室

海軍壕公園ビジターセンターから展示室に。

https://kaigungou.ocvb.or.jp

大田実司令の最後の伝文。
沖縄県民に大きな感銘を与えた。

大田司令官の少将旗

旧海軍司令部號見取図
昭和19年8月着工、同年12月完成
第226設営隊(山根部隊3,000名)
司令官室、幕僚室、作戦室、通信室、暗号室、下士官室、信号室、その他

合掌


旧海軍司令部壕

下に


旧海軍司令部壕・信号室

この部屋からモールス信号などにより部隊間の通信を実施していた。


旧海軍司令部壕・作戦室

コンクリート漆喰でかためた当時のままの部屋。

作戦を練る重要な部屋でコンクリート漆喰で固めた当時のままの部屋です

当時の配電用碍子


旧海軍司令部壕・幕僚室

自決の手榴弾の弾痕が残っている。

合掌

みたまやすらかに

司令官室・作戦室に近いこの部屋は幕僚が手榴弾で自決した時の破片のあとがくっきり残っています。当時のままの部屋です。

自決された時の手榴弾の弾痕

なまなましい弾痕が残る。

合掌


旧海軍司令部壕・司令官室

司令官室で大田實と幕僚たちが自刃した。
みたまやすらかに。

大田実少将(当時)外幕僚6名が最期を遂げた当時のままの部屋です。

大田実司令官の辞世の句

 大君の
  御はたのもとに
   死してこそ
 人と生まれし
  甲斐ぞありけり

「大君の錦の御旗のもとに屍をさらしてこそ、日本に人と生まれて来た甲斐があるというものだ。」

この辞世の句は、寺田屋騒動の首謀者とされている幕末の志士・田中河内介(綏猷)の詩。大田実司令が愛唱していた。

大田司令の辞世の句は、フィルム保護がされていた。

神州不滅

神国である日本は不滅である

醜米覆滅

当時、戦闘中に記載された四文字は、かすれてきていた。「醜いアメリカを覆し滅ぼす」
この4文字に対しては、フォルム保護などが行われておらず、で。

観音菩薩様

やすらかに
 鎮まりませと 
  ひたすらに
願ひをこめし
 黄菊白菊

平和祈念
至心合掌

なお、施主に名を連ねている板垣愛子氏は大田司令官の3女。

沖縄県民はこのように戦いました

司令官室
大田司令官は県民の将来を憂い、「沖縄県民かく戦えり」の電文をこの部屋で書きました。

1945年6月6日20時16分
大田實海軍少将は自決する直前、沖縄司令部発、沖縄県民の献身的作戦協力を伝える電文を海軍次官宛に発信。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結んだ。


旧海軍司令部壕・医療室


旧海軍司令部壕・発電室

壕掘り作業
この壕はすべて兵士たちの「つるはし」や「くわ」によって掘られた手作りの壕です。


旧海軍司令部壕・下士官室

下士官室
玉砕前この部屋には兵士達がいっぱいで、立ったままで睡眠や休息をとったといわれています。

下士官室復元図
当時の壕内には、国頭方面から運ばれてきた琉球松が、支柱として多数使われていました。


旧海軍司令部壕・出撃の出口

出撃風景(出口付近)
兵士たちのほとんどは武器らしい武器もなくこの出口から出撃、大半が二度と帰ってきませんでした。


旧海軍司令部壕・出口

頒布物

場所:

https://maps.app.goo.gl/jGcbK9fNwVuiDE5ZA


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その11」へ

沖縄県庁最後の地「轟壕」と「沖縄の島守・島田彰沖縄県知事」(沖縄戦跡慰霊巡拝9)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その9」となります。

その8は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


「沖縄の島守」島田叡沖縄県知事

兵庫県神戸市須磨区出身。
1901年(明治34年)12月25日〜1945年(昭和20年)6月26日。
兵庫県立第二神戸中学校時代に第1回全国中等学校優勝野球大会(いわゆる夏の甲子園の第1回大会)に出場、東京帝国大学法学部)は野球部のスター選手でもあった。
野球殿堂博物館に建立された戦没野球人モニュメントも島田叡の名前が刻まれている。

当時、前任者の泉守紀沖縄県知事は頻繁に東京に出張していた。(在任期間の三分の一を出張で沖縄から離れていた)、1944年末から1月も東京に出張しており、そうして1945年1月に出張中にもかかわらず香川県知事に転任する辞令を得ており、米軍上陸直前で、後任の沖縄県知事選出が難航している状況であった。

その、沖縄がまさに激戦地になること必至の状況下の1945年1月、大阪府内政部長から、沖縄県最後の官選知事として、島田叡は死を覚悟で決然と沖縄に赴いた。

1944年10月の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前のことであった。

戦禍の中において県民を守るため、死を賭して尽力。五ヶ月に及ぶ苦難な戦下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で 疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救い「沖縄の島守」として慕われた。

1945年3月、空襲が始まり、沖縄県庁は、首里の地下壕に移転。以後、沖縄戦の選局の推移に伴い、壕を移転させながら、行政を担っていく。

6月7日ごろに、島田叡知事以下の県庁首脳部が「轟壕」に移動。
6月15日の夜、島田叡知事は県幹部・職員・警察官らを集めて県庁の活動停止を命令。そのため轟豪が「沖縄県庁最後の地」とも言われている。
島田知事と荒井沖縄県警察部長は、翌16日朝、摩文仁の司令部に移動。
6月26日、島田沖縄県知事と、荒井沖縄警察部長は、摩文仁の壕を出たきり消息不明となっており、現在まで遺体は発見されていない。享年43歳。最後まで、沖縄県民とともにあった「沖縄の島守」であった。

1945年7月9日、島田沖縄県知事の殉職の報に際し内務大臣は、行政史上初の内務大臣賞詞を贈り、「其ノ志、其ノ行動、真ニ官吏ノ亀鑑ト謂フベシ」と称えた。内務大臣が一知事に対し賞詞を授与することは、前例がなかった。

墓所は、多摩霊園。


沖縄県庁最後の地「轟壕」

島田叡沖縄県知事がこの地で、沖縄県庁の活動停止を発したことにより、沖縄県庁最後の地とされている。

轟壕
 轟壕は東西方向に伸びる自然洞穴で、地元ではトゥルルチ、またはトゥルルシなどと呼ばれています。
 1945年3月に米軍による空爆や艦砲による攻撃が始まると、真壁村名城の住民が避難しましたが、日本軍の南部撤退で司令部を摩文仁に移した5月末頃から、戦禍に追われた地域外からの住民も避難して来ました。
 6月7日頃に島田叡知事以下の県庁首脳部がこの壕に移動。15日の夜、知事は県幹部を集めて県庁の活動停止を命じており、沖縄県庁最後の地とも言われています。知事は16日朝、摩文仁の司令部に向かいました。同じ頃、銃剣などで武装した日本兵十数人が入り込み、入り口付近を占拠し、軍官民雑居の状態となりました。
 6月18日頃から米軍による、ガソリンや爆薬の入ったドラム缶を落とし込むなどの「馬乗り攻撃」が始まり、死傷者が出ました。手持ちの食糧が尽きた住民のなかには衰弱死する者も出ました。
 6月25日頃、先に米軍の捕虜となった宮城嗣吉さんらが投降呼びかけを再三行ったことから、約500人から600人の避難民は壕を出てきました。

戦没者犠牲者霊供養

合掌

自己責任で。

場所

https://maps.app.goo.gl/RgCtdKnSrNkY79167


島田叡氏顕彰碑

沖縄県最後の官選知事、沖縄戦で殉職した島田叡氏の顕彰碑が、「奥武山公園」に建立されている。
場所は異なるが、島田知事繋がりで掲載。

第27代 沖縄県知事
島田叡氏顕彰碑

《建立の詞》
 1945年1月、島田叡氏は風雲急を告げる沖縄に、大阪府内政部長から第27代県知事として赴任しました。その頃沖縄は、前年の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前でした。それは死を賭した「決断」の着任でした。
 以来、五か月に及ぶ戦時下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救いました。
 最後の官選知事・島田叡は、沖縄戦で覚悟の最期を遂げ、摩文仁の「島守の塔」に荒井退造警察部長をはじめとする旧県庁殉職職員(469柱)とともに祀られています。沖縄県民からいまも「沖縄の島守」として慕われている所以です。享年43歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
 また島田叡は、高校、大学野球でフェアプレーに徹した名選手でもありました。野球をこよなく愛し、すべてに全力を傾けるそのスポーツ精神は、県政の運営にも通底し、つながっていたと思われます。1964年に、故郷・兵庫県の「島田叡氏事跡顕彰会」から沖縄へ「島田杯」が贈られました。そのことが高校球児に甲子園の夢へ育み、大きな励みになりました。
 1972年、「本土復帰」の年に兵庫と沖縄両県は友愛提携を結び、兵庫県民からの寄贈「沖縄。兵庫友愛スポーツセンター」をはじめとするさまざまな交流事業を展開してきました。
 この島田叡知事のご縁でもたらされた兵庫・沖縄両県のこれまでの交流の歴史と絆は、私たち県民の誇りです。島田叡知事の心を表す「友愛の架け橋」は、これまでも、これからも沖縄県民に引き継がれ、次世代を担う若者たちにとって、大きな宝になるものと信じます。
 ここ沖縄県野球の聖地・奥武山にこの碑を建立し、県民のための県政を貫き、県民とともに歩み、沖縄の地に眠る島田叡氏の事蹟を顕彰すると同時に、併せて世界の恒久平和を心から祈念します。
  2015年6月吉日
   島田叡氏事跡顕彰期成会 会長 嘉数昇明
《碑の構想》
祈り(合掌)、命(ぬちどぅ宝)、平和(球、同心円)、希望(両手)、絆(友愛)

《至誠の人・島田叡の素顔》
「座右の銘・愛蔵書」
○「断而敢行鬼神避之」(『史記』李斯列伝より)
“断じて行えば鬼神もこれを避く”
 …意を決して敢然と行えば、鬼神でさえもその勢いを避ける…
○「西郷南洲翁遺訓」「葉隠」
(沖縄赴任に携行した愛蔵書)

「敢然と沖縄に赴任」
○「沖縄も日本の一県である。誰かが行かなければならない。断るわけにはいかんのや、誰か行って死んでくれとは言えない。」
○官尊民卑の時代、同胞意識を持つ知事
 米軍に制海空権を握られ、県外逃避や戦列離脱者が相次ぐ困難の状況下での赴任。
「沖縄の人も同胞じゃないか、同じ人間じゃないか…という気持ちがあった。そう考えていなければ、激戦地になることの必至のあの時期に沖縄にはこない」(元県庁職員の証言)

「極限の沖縄戦のなかで『生きろ!』」
○玉粋・自決という言葉が飛び交う戦場で、「最後は手を上げて(壕を)出るんだぞ…。生きのびて、沖縄再建のために尽くしなさい。」と戒める。

「花も実もある親心」
○「(戦争で)共に死ぬ運命共同体の意識の中で、県民を不憫に思い統制の酒、たばこの増配や村芝居を復活させた。それが島田叡知事の親心です。」(元県庁職員の証言)

《野球人・島田叡の球魂》
「スポーツ・敢闘精神」
○「劣勢としりつつも、なんとかならないかと知恵をしぼり、あくまでも全力を傾けベストを尽くす。これがスポーツ精神だ。叡さんは障害、それを実行した」(三高野球部球友の回想)

「俊足、強肩、巧打の花形選手」
○旧制第二神戸中学(現・県立兵庫高校)、第三高等学校(現・京都大学教養部) 東京帝国大学(現・東京大学)で野球部レギュラー/主将としてチームを牽引。東大三年時には三高の監督も務めた。精神的野球ではなく、頭とスピードでやる島田式科学野球を実践。常に本塁生還を目指した。
○野球殿堂博物館(東京ドーム)には、戦没野球人の一人としてその名が刻まれている。

「沖縄県高野連に贈られた島田杯」
○「島田さんとスポーツ精神とは生涯を通じて一貫したものである。この機会に…島田杯を沖縄の高校野球連盟に贈呈する」(昭和三九年兵庫県「島田叡氏事跡顕彰会」)
 さらに島田氏のご縁で、千葉県からも島田杯が贈られている。それらの優勝杯は、沖縄県高校野球の隆盛に寄与している。

「球場に島田知事の名前を」
○旧制三高時代の一年後輩で、野球部で二年間一緒だった東大教授/英文学者・中野好夫氏(沖縄資料センター設立者)は生前、沖縄戦で戦死した先輩を偲んでこう要望した。
 「将来、沖縄に野球場が出来るのなら、戦時中に住民のために奔走した故島田叡さんの名を祈念につけてもらえないだろうか」

南東側の碑文。島田の生誕の地・須磨と、終焉の地・糸満市摩文仁を詠んだ詩。「北へ」は沖縄戦では「ひめゆり学徒隊」の引率教官も務めた言語学者・仲宗根政善氏(1907~1995)の詩。「南へ」は島田と同じ神戸二中の後輩で詩人の竹中郁氏(1904~1982)の詩。また碑には母校神戸二中(現・県立兵庫高校)の校庭にあるユーカリの樹と摩文仁の海岸の写真が焼き付けられている。

詩碑《追憶の詩》
北へ(須磨・兵庫県)
 ふるさとの
 いや果てみんと
 摩文仁岳の
 巌に立ちし
 島守のかみ
  (詠人 仲宗根政善)

南へ(摩文仁・沖縄県)
 このグラウンド
 このユーカリプタス
 みな目の底に
 心の中に収めて
 島田叡は沖縄に赴いた
 一九四五年六月下浣
 摩文仁岳近くで
 かれもこれも砕け散った
  (詠人 竹中郁)

島田叡氏を縁とする深い絆
兵庫・沖縄友愛グランド

 沖縄がまさに激戦地になること必至の状況下の1945年1月、沖縄県最後の官選知事として、島田叡(あきら)は死を覚悟で決然と沖縄に赴いた。戦禍の中において県民を守るため、死を賭して尽力し、「沖縄の島守」として慕われる。最後は県民と運命をともにする。享年43歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
 その島田叡知事の縁によりもたらされた至誠と信頼。そして尊敬を礎とする兵庫・沖縄の交流の歴史は、1972年「復帰の年」に締結された「兵庫・沖縄友愛提携」を機に一層深まり、数々の交流事業が展開された。
 かつてこの地には、兵庫県民から贈られた「兵庫・沖縄友愛スポーツセンター」があり、多くの若者・県民がスポーツやレクレーションを楽しんだ。
 このグラウンドは、スポーツをこよなく愛した島田叡知事が青少年の嬉戯する姿を思い描き、将来にわたって、なお一層の両県の「絆」が発展することを祈念して「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と呼称するとともに、両県の「友愛の証」とする。
  2015年6月吉日  
  島田叡氏事跡顕彰期成会

兵庫・沖縄
友愛グランド

沖縄・兵庫友愛スポーツセンター跡地の碑

レリーフは、沖縄・兵庫両県の県花デイゴとのじぎくを図案化したものです。

 沖縄・兵庫友愛スポーツセンターは、日本復帰後の昭和50年(1975年)6月、兵庫県民から「友愛の証」として沖縄県に贈られた。
 そして、スポーツやレクリエーション活動の拠点として、沖縄県のスポーツの振興に寄与するとともに、兵庫県との友愛の象徴として中心的な役割を果たした。
 沖縄・兵庫両県の友愛の絆が、より深く恒常的なものとなることを祈念し、ここに記念碑を建立する。
 平成21年3月  沖縄県教育委員会

場所:

https://maps.app.goo.gl/ZrXC2YdMirwW6jVf7

撮影:2022年10月


島田叡墓所(多摩霊園)

多摩霊園の11−1−6に、島田彰の墓がある。

合掌

場所

https://maps.app.goo.gl/jqD7D5GueNDJSagy5

※多磨霊園の撮影のみ2025年9月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その10」へ

英空母「プリンス・オブ・ウェールズ」(東京国際クルーズターミナル)

2025年8月、イギリス海軍が誇る空母「プリンス・オブ・ウェールズ」が東京港(東京国際クルーズターミナル)に入港したので、ちょっと観に行ってきました。


プリンス・オブ・ウェールズ (空母)

イギリス海軍の航空母艦(空母)
クイーン・エリザベス級航空母艦の2番艦。
プリンス・オブ・ウェールズとしては、8代目。
就役は2019年12月10日。満載排水量は65,000トン。全長は284m、全幅は73m。


東京国際クルーズターミナル駅から「プリンス・オブ・ウェールズ」

以下、写真にて。

うーん、船の科学館、、、跡地。。。

入場制限。。。


東八潮緑道公園から「プリンス・オブ・ウェールズ」

東京国際クルーズターミナルは立ち入り制限があったので、この東八潮緑道公園からが一番近くでPoWが見える場所。かなり多くの人々が見にきていました。


青海北ふ頭公園から「プリンス・オブ・ウェールズ」

「宗谷」とセットで見たり、艦尾を見たりするなら、こちら。


レインボーブリッジ(台場)から「プリンス・オブ・ウェールズ」

せっかくなので、レインボーブリッジを歩いて、望遠でPoWを観覧。


レインボーブリッジ(中間地点)から「プリンス・オブ・ウェールズ」

海上保安庁の測量船「HL01昭洋」(3,128トン)が手前に。

羽田空港をバックにするために、ジャンボ機の着陸も頻繁に。


レインボーブリッジ(芝浦)から「プリンス・オブ・ウェールズ」

芝浦からでも、見えるんですね。さすが巨艦。

おがさわら丸(総トン数11,000トン、全長150m、全幅20.4m)
11,000トンですら、英空母(65,000トン)と並んでしまうと、かなり小さく見えます。。。

※撮影:2025年8月31日


夜の「プリンス・オブ・ウェールズ」

次の日の夜にも足を運んでみました。夜の空母を見る機会もそうそうないので。

フルターの汚れで光線が伸びてしまい。それはそれで。

※撮影:2025年9月1日

沖縄最古の慰霊塔「魂魄之塔」と「有川中将以下将兵自決の壕」米須霊域(沖縄戦跡慰霊巡拝8)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その8」となります。

その7は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


米須霊域

沖縄本島南部の糸満市に所在する「米須霊域」は、「平和祈念公園」に次ぐ霊域。
米須霊域は、「ひめゆりの塔」の南側に位置している。
米須霊域の西側には、全国植樹祭の会場となった「平和創造の森公園」が広がっている。


有川中将以下将兵自決の壕

歩兵第64旅団長・有川主一陸軍少将(ありかわもりかず・死後に中将)

歩兵第64旅団は、第32軍 第62師団 所属
第32軍隷下の全部隊が玉砕した。

有川中将以下将兵自決の壕

石第64旅団は沖縄県民の絶大なる協力を得て奮戦力闘したが武運拙く、将兵は悉く玉砕し、旅団長有川圭一中将は高級副官竹下勇大尉以下の将兵と共に此の壕で自決した。時は昭和20年6月21日の未明であった。
茲に全国篤志家の賛助を受け、記念の碑を建てその偉烈を後世に伝える云爾
   昭和56年6月21日 建立
     鹿児島県沖縄戦歿者慰霊会

場所

https://maps.app.goo.gl/TpMPfHeQ5hCvy2eHA


魂魄乃塔

沖縄では最古にして最大の合祀数となる慰霊塔。
沖縄戦最後の激戦地「米須」に建立された。
元々は納骨堂であり、沖縄各地に点在する慰霊塔で最古のものとされている。
(ご遺骨は、現在は、国立沖縄戦没者墓苑に転骨されている)

魂魄

<建立の経緯>
糸満市米須集落の南方300m、海岸寄りにある。ここは沖縄戦最後の激戦地であり、日本軍も住民も米軍に追い詰められて逃げ場を失い、陸海空からの激しい攻撃を受け命を落とした人は数多い。敗戦直後、米須地区に移転収容された旧真和志村(現在の那覇市)の住民が米軍の許可を得て遺骨収集班を結成、道路や畑、丘、森に散っていた遺骨を集め魂魄の塔を建立した。合祀柱数3万5000は沖縄では最大の慰霊塔にあたるが、昭和54年2月摩文仁が丘に完成した国立沖縄戦没者墓苑にその大部分は転骨された。
なお、塔は終戦直後の石積みで素手造りであり崩れる恐れがあったため、平成元年補修され、あわせて碑文の刻板が設置された。
塔の裏側には
 にぎたまと なりてしづもる おくつきの
 み床の上を わたる潮風
と刻まれている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_007/index.htmlhttps://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/konpakunotou

魂魄の塔
 この地は今次大戦でも一番の激戦地であり、日本軍も住民も追いつめられて逃げ場を失い、陸、海、空からの攻撃を受けて、敵弾にあたって倒れた屍が最も多い激戦地の跡である。
 戦後、真和志村民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのがこの魂魄の塔である。
 祭神三万五千余柱という、沖縄で一番多く祀った無名戦士の塔であったが、その後、昭和五十四年二月摩文仁の丘に国立沖縄戦没者墓苑が完成し、遺骨は同墓苑に分骨して安置してあります。
 和魂となりてしづもるおくつきの
 み床の上を渡る潮風
  建立年月日 昭和二十一年二月
   財団法人 沖縄県遺族連合会

和魂となりてしづもるおくつきの
み床の上を渡る潮風
 翁長助静 詠 
  潭洞 書

 歌意は、和魂「平和でもの柔らかな徳を備えた霊魂」となってねむるおくつき(奥津城=墓)のみ床の上を潮風が吹き渡っている、ということです。
 終戦の翌年の昭和二十一年一月、沖縄の各地に散らばっていた旧真和志村民は自分の村に帰る予備的措置として、この米須一帯の地に集結させられました。
 沖縄戦において、島の南の果てまで追いつめられ、逃げ場を失った日本軍や民間人は、ここ
で夥しい数の戦死者をだしました。 戦死者の屍は目をおうばかりに散在し、放置されたままとなっていました。
 このような惨状をみかねた当時の金城和信真和志村長は村民に呼びかけ、遺骨の収集へと乗り出しました。そのとき、糸満高校真和志分校校長をされていた翁長助静先生は、生徒を指揮して遺骨収集の先頭にたつかたわら、この魂魄建立に協力し、表記の歌を墓碑の裏に刻まれました。
 この歌はいわば無名の戦死者に捧げられた鎮魂歌となっています。
 なお、当時の歌碑は長い年月の流れに風化され、歌の文字もほとんど読取ることができないまでに失せてしまっていました。そこで、この歌碑はこれに心を痛めた当時の教え子たちが、戦後五十周年の節目にこの歌碑を建立しました。
       平成七年六月

 沖縄は国内でひとり戦場となり、言語に絶する状況下、20万余の同胞が散華した。
 かかる中で、昭和21年1月23日、九死に一生を得た真和志村民は、米軍によって当地に終結させられ、金城和信氏が村長に任命されたが、一帯は累々として亡骸が横たはる有様であった。
 この光景を痛嘆した金城村長は、先づ御遺体を弔ふべく決意し、夫人と共に、村民の協力を仰いで鄭重なる収拾を始めた。
そして、今は敵も味方もないとの信念で、彼我2万余柱を奉じて納骨堂を造り、同年2月27日、金城村長はこれを魂魄と名付け、自ら石碑に墨書して「魂魄」と刻んだ。
 更に、金城ご夫妻は、信子と貞子の愛娘を戦死させたこともあって、同年4月5日、乙女たちを祀る「ひめゆりの塔」を建立した。
 ひめゆりの名は、金城村長が、女子師範学校と県立第1高等女学校の姫百合に因んで命名したもので、自ら石碑に「ひめゆり」と刻み、亡き生徒たちの名を刻んだ。
 続いて金城ご夫妻は、同年4月9日、男子学徒を祀る「健児の塔」も建立した。
 後に金城和信氏は、遺族連合会の会長となり、戦没者とその遺族のために生涯を捧げ、正五位勲三等に叙せられた。
 今では、方々に慰霊塔が建つようになったが、思えば、焼土と化した終戦直後に建立されたこの「魂魄の塔」こそは、沖縄における最初の鎮魂碑である。
 東京大学名誉教授 中野精一

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_007/index.html

場所

https://maps.app.goo.gl/LieJx2sixz3cGvu99


金城和信翁の胸像

「魂魄の塔」の隣に建立、北村西望の製作。昭和55年10月23日除幕式。
金城和信翁は、明治31年3月1日生まれ。戦前は沖縄県の小学校長などを歴任され、戦後の米軍占領下では、摩文仁におかれた真和志村の村長に就任。
米軍の許可を得て、ご遺骨の収集を開始し、昭和21年(1946年)2月に、戦後初の慰霊塔であり納骨堂として「魂魄の塔」が建立された。

金城和信翁は、明治三十一年沖縄に生れ その性寡黙にして温情溢れ 進んで艱難に当たる
思えば昭和二十年春夏の間 凄絶比類なき戦場となった沖縄は学徒を含む県民の殆どが戦列に加はり 実にその大半が国に殉じた
然るに戦火終るも 沖縄は引続いて米軍占領下に置かれ 為に人々は戦没者を祀ることに対し 先方の干渉を慮り実行を恐れたこのとき身を挺して県民の先頭に立った偉丈夫があった その人こそ金城和信である 翁は戦野に累々たる三万余の遺骨を拾収するや「魂魄の塔」を建立 鄭重にこれを収めてその尊い霊を慰め 続いて「ひめゆりの塔」「健児の塔」を建て戦没学徒を悼んだ
爾来 翁は沖縄県遺族連合会会長となり 英霊の顕彰 遺家族の福祉援護 戦没学徒の処遇及び全国都道府県慰霊塔建設などのために尽瘁し その業績は遺家族の親 戦没学徒の父として遍く知られるに至った
しかして日本国家は 八十一歳の翁を正五位勲三等に叙し 授くるに瑞宝章を以てし 翁が一生の労苦に報いその功績を讃へた ここに翁の威徳を慕ふ者相集って胸像を建立するに至る
見よ いまなほ この地に在りて ふる里を見守る翁のまなざしを 翁よ 翼はくは魂魄この世に留まり次代を背負ふ人々を加護し給はらんことを
 昭和五十五年十月
  金城和信先生威徳顕彰会議 
  文化勲章日展会長北村西望書 

沖縄戦継承事業 戦場に動員された21校の学徒隊
 戦前、沖縄には21の中等学校がありました。沖縄戦では、これらのすべての男女中等学校の生徒たちが戦場に動員されました。女子学徒は、15歳から19歳で、主に看護活動にあたりました。男子学徒は14歳から19歳で、上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成されました。鉄血勤皇隊は、軍の物資運搬や爆撃で破壊された橋の補修などにあたり、通信隊は、爆撃で切断された電話線の修復、電報の配達などの任務に従事しました。沖縄戦により、学業半ばで多くの学徒が短い生涯を散らしました。

https://www.pref.okinawa.lg.jp/kyoiku/seikatufukushi/1006765/1027103.html


東京之塔(東京都)

所在地糸満市山城
建立年月日昭和46年10月27日
敷地面積8,000㎡
合祀者数103,500柱(沖縄戦戦没者6,500柱、南方諸地域戦没者97,000柱)
管理団体東京都

東京之塔

 さきの大戦中、南方諸地域において戦没せられた東京都の関係者は実に10万有余柱に及ぶ。
 顧みればわれら同胞が戦禍に堪えて刻苦精励すること20有余年、よく平和の恩恵に浴しえたことは、ひとえに英霊が戦火の悲惨と生命の尊厳を貴い血をもって示されたたまものにほかならない。
 よって戦没者遺族をはじめ都民1100余万こぞって慰霊の誠を捧げ平和への誓いをこめ、ここ沖縄の激戦地米須の丘に謹んで東京の塔を建立する。
 み霊よ安らかに眠りたまえ
  昭和46年10月
   東京都南方地域戦没者慰霊碑建設委員会

「東京乃塔」の概要 東京都
この「東京之塔」は、さきの大戦において、南方諸地域で戦没された、東京都関係十万余柱の慰霊のために、建立されたものであり、一千百余万都民の心からなる平和への願いを象徴するものであります。

1、所在地
沖縄県糸満市字山城南コブサ原五百六十八番地

1、規模構造
敷地は約八千平方メートルあります。
基壇は八メートル四方で、遺族代表が多摩川で採取した小石を敷き詰めてあります。
基壇中央に直径五メートルの塚があり、塚は建設当時の、二十三区、二十三市九町、九村を象徴する六十四個の石をもって構成されています。
塚の中心に縦一.三メートル、横二.三メートルの石棺の形を模した舟型式の黒御影石の塔が据えられています。
上段広場は、約四百五十平方メートルで三方を石垣で囲んであります。
この石垣は、沖縄産の栗石を用い、沖縄特有の積み方をしております。

1、竣工
昭和四十六年九月三十日

南方戦域方向盤

トラックやマリアナの方向を拝む

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/tokyonotou

場所

https://maps.app.goo.gl/q69EgP4NEbqat66d8


因伯の塔(鳥取県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和46年11月4日
敷地面積1,894㎡
合祀者数13,904柱(沖縄戦戦没者539柱、南方諸地域戦没者13,365柱)
管理団体鳥取県

因伯の塔

鳥取県民はその総意に依り此所に碑を建て大東亜戦争に当たり沖縄その他南方地域に於て戦没した郷土の勇士の偉勲を偲びその冥福を祈る
塔石は佐治石である
 昭和46年11月
  鳥取県知事石破二朗書

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/inpakunotou

場所

https://maps.app.goo.gl/amtQyiFHE565GC4e9


紀乃國之塔(和歌山県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和36年11月30日
敷地面積932㎡
合祀者数839柱
管理団体和歌山県

紀乃国之塔はこの地で祖国の安泰を祈念しながら壮烈な最期をとげた和歌山県出身839柱の英霊を祀るため、昭和36年11月敬弔の誠をこめて県民が建設したものであります。爾来遠く海を渡ってこの塔を訪れ英霊に対面されるご遺族や県民が年を追うて多くなりました。私も昭和44年11月参拝する機会を得ましたが、浄域を拡張整備したいとの声がとみに高まるを聞き、且つまた建塔された各位の意向を推察するとき、浄域を更に荘厳にすることが戦後25周年記念事業として最もふさわしいと考えて整備することにいたしました。 こいねがわくは諸霊には郷土の人々の捧げる追弔敬祭の微衷をおうけ下さらんことを。
 昭和45年11月
  和歌山県知事 大橋正雄

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/kinokuninotou

場所

https://maps.app.goo.gl/npfAGbtcJ8yBVfAYA


北霊碑(北海道)

所在地沖縄県糸満市米須
建立年月日昭和29年4月(昭和47年10月と平成8年11月に改修)
敷地面積640平方メートル
合祀者数40,850柱(沖縄戦戦没者10,850柱、南方諸地域戦没者30,000柱)
管理団体(一財)北海道連合遺族会

曠古の大東亜戦争はその惨烈ここ沖縄の決戦に極まって我北海道出身の将兵1万有余名も玉砕護国の楯とはなった。昭和29年4月北海タイムス社、北海道沖縄遺族会が、その霊を悼み全国に魁けて本碑を創建したが、爾来風雨18年漸くその補繕を迫られるに及び茲に本会の発議により、本年恰も沖縄の祖国復帰を卜し道並に全道市町村の助成及び沖縄会の協力をも得て浄財を募り、本島はもとより伊江島、慶良間等40余島並に広く南方海域諸島に散華した北霊凡そ3万余柱の招魂の聖碑ともなして之を改修した。
願わくは英魂、永遠に瞑せられんことを。改修にあたり終戦以来慰霊事業諸般に亘り献身的な奉仕援助を戴いた沖縄遺族連合会会長金城和信翁以下の御恩徳を銘記し永く後世に伝うる次第である。
 昭和47年5月15日

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/hokureihi

場所

https://maps.app.goo.gl/Pf7oHS8V7BsUQmdW8


大和の塔(奈良県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和42年11月16日
敷地面積642㎡
合祀者数15,871柱(沖縄戦戦没者556柱、南方諸地域戦没者15,315柱)
管理団体奈良県

この塔は、すぐる太平洋戦争においてふるさとを遠くはなれた南海の島々で、祖国の安泰と繁栄をいのりつつ散華された奈良県出身戦没者 1万 5000余柱のみたまを慰めるため、県民の心をこめて ゆかりの地ここ米須の丘に建立したものである。
1967年11月
奈良県知事 奥田良三

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/daiwanotou

場所

https://maps.app.goo.gl/Qz3Z5YeUaV6zHtWV7


大分の塔(大分県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和40年11月17日
敷地面積314㎡
合祀者数約1,430柱(沖縄戦戦没者)
管理団体(一財)大分県遺族連合会

建塔の記
 太平洋戦争における最終段階としての沖縄の死闘の歴史は何人も涙なくして語ることができません。
 戦後10余年、県民生活もやや安定した1961年11月、大分県の遺族代表が初めて沖縄に巡拝したとき
 ふるさとの
  山河も泣かむ
   この島に
 散りたる若き
  御霊祭れば
と記した県産檜の白木の柱を建て、沖縄に散華した県出身 900余柱の霊を慰めたのであります。
 他方数県で現地に永久的な慰霊塔を次々に建立するようになりましたので、このたび県遺族会の発意で、ここ最後の激戦地米須の丘に大分県耶馬渓産の霊石を用い「大分の塔」を建てることにいたしました。
 謹んで哀悼の誠を捧げ、英霊の御冥福と世界の平和を祈念する次第であります。
  1965年11月
   大分県知事 木下 郁
   大分県沖縄戦没者慰霊塔建設委員会 会長 小林政治

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/oitanotou

場所

https://maps.app.goo.gl/bLoH7t7h1Yeob5bg8


ひろしまの塔(広島県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和43年5月23日
敷地面積1,594.2㎡
合祀者数34,635柱(沖縄戦戦没者1,271柱、南方諸地域戦没者33,364柱)
管理団体広島県

献辞
海を渡り また 海を渡り
郷土はるかに 戦って還らず
沖縄に散り 南方に散る 護国の英霊 3万4600余柱
ここに とこしえに 鎮まりませば
ふるさとの 妻子 父母 老いも若きも
海を渡り また 海を渡り
ここに もうでて み霊安かれと
祈らざらめや 祈らざらめや
 昭和43年 5月
  広島県戦没者沖縄慰霊塔建設委員会
  会長 県議会議長 檜山袖四郎

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/hiroshimanotou

場所

https://maps.app.goo.gl/RAVz9ZwbkfhMYf5v7


讃岐の奉公塔(香川県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和43年5月18日
敷地面積910㎡
合祀者数32,413柱(沖縄戦戦没者1,120柱、南方諸地域戦没者18,637柱、満州および中国方面戦没者12,656柱)
管理団体香川県

むかしむかし、
讃岐の国の殿様に仕える可憐な乙女がおってな
その娘はお姫様の身代わりに病気になり、悲しくも命を失った
人々はその死をいたみ、誠実にして至純
献身的なその心をあわれんで
「奉公さん」と名づけ
人形を作り功績をたたえたそうな

讃岐の奉公塔建立の碑
ここ沖縄、南方諸地域、中国大陸で祖国の安泰を願い
家族を案じつつ亡くなられた
3万2413柱の御霊
とこしえに安かれと祈るとともに
郷土の発展と恒久平和の実現を心から願いつつ
郷土人形奉公さんを想い起し
「讃岐の奉公塔」と命名する
  昭和43年5月吉日
   香川県戦没者沖縄慰霊塔建立委員会

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/sanukinohokotou

場所

https://maps.app.goo.gl/HDpFti5EXqyqReiM6


島根の塔(島根県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和44年3月28日
敷地面積1,179㎡
合祀者数908柱(沖縄戦戦没者)
管理団体(一財)島根県遺族連合会

島根の塔
美しく花開くためには
そのかくれた根のたえまない
営みがあるように
私達の平和で心静かな日々には
この地に散ったあなた達
の深い悲しみと苦しみが
そのいしずえになっていることを思い
ここに深い祈りを捧げます
 昭和44年 3月
  島根県知事 田部長右衛門

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/shimanenotou

場所

https://maps.app.goo.gl/LBp6XqrWH6HdVqp5A


開南健児之塔

開南鉄血勤皇隊・開南通信隊(開南中学校)
 開南中学校は、戦前の沖縄県で唯一の旧制私立中学校で1936年(昭和11年)に創設されましたが、沖縄戦によりわずか9年という短い歳月で廃校になりました。
 1945年(昭和20年)3月25日前後、教頭から「空襲下で学校としてまとまって入隊するのは難しいので、各自で入隊するように」との指示を受け、各自で部隊に向かうことになりました。
 開南鉄血勤皇隊の入隊先の第六十二師団独立歩兵第二十三大隊は、激戦地となった宜野湾ー浦添戦線に配置され多くの犠牲者を出した部隊で、入隊した開南中学生が全員戦死しました。
 3月9日、通信隊要員の生徒は、高嶺村の大城森(現糸満市)に駐屯していた第24師団司令部に配属されました。
 生徒らは、同地で訓練を受けた後、5月中旬、部隊とともに首里に移動しましたが、前田(現浦添市)方面の劣勢がはっきりした5月下旬頃、高嶺村の大城森に撤退することになりました。その後、真栄里集落西側に布陣していた大隊へ配置換えになり、それから国吉集落西側に布陣していた大隊へ配置換えとなりました。
 国吉へ配置換えになって間もなく、米軍野営陣地へ切り込みましたが、多くの犠牲者を出しました。8月29日に生徒らは米軍に収容されました。

戦没生徒らのご芳名が刻まれた銘板

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_008/index.html

場所

https://maps.app.goo.gl/dqDimAps5vBUVaT28


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その9」へ

「バックナー中将戦死之跡」と真栄里「栄里之塔」(沖縄戦跡慰霊巡拝7)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その7」となります。

その6は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


バックナー中将戦死之跡

糸満市真栄里(まえざと)。

沖縄方面連合軍最高指揮官・米第10軍司令官サイモン・B・バックナー中将は、昭和20年6月18日、戦闘指揮中にこの地で戦死した。(死後に大将に昇進)
第二次世界大戦中のアメリカ軍において、敵軍の攻撃によって戦死した最高位の軍人。

バックナー戦死後の、6月23日に日本陸軍第32軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将が自決し、沖縄における日本軍の組織的な戦闘は終了した。

バックナーが戦死した糸満市真栄里の高台、1952年に米軍によって記念碑が建立されたが、1974年に記念碑は、キャンプ瑞慶覧(キャンプ・フォスター)に移転され、1975年6月に日本側の沖縄県慰霊奉賛会によって、現在の慰霊碑が建立された。

IN MEMORIAM
CLAUDIUS M.EASLEY
1891-1945
BRIG.GEN.U.S.ARMY
KILLED ON THIS SPOT
19 JUNE 1945

追悼碑
米国陸軍准将
クローディアス エム イーズリー
1891 年-1945 年
1945 年6 月19 日
この地に於いて戦死す

 諸霊よ安らかに

米国第十軍司令官 
シモンB バクナー中将戦死之跡

一九四五年六月十八日米国陸軍中将サイモンボリバーバックナー此の地に於て戦死す

イーズリー准将慰霊碑

バクナー中将が戦死した翌日6月19日に戦闘指揮中に銃撃に遭い戦死

エドウィン・T・メイ大佐慰霊碑

米軍歩兵第383旅団長 エドウィン・T・メイの慰霊碑
昭和20年6月5日戦死

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/vice-admiral-buckners-death-trace

https://www.city.itoman.lg.jp/site/kankou-navi/1816.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/2Ai8ynUzZ5NpAgWe8


歩兵第22聯隊

愛媛県で編成された聯隊。「伊予の肉弾聯隊」と称された精鋭部隊。
4月1日の米軍上陸から始まった沖縄戦では、首里北方を守備していた第62師団を支援する為に第62師団に編成されたが、第62師団は4月下旬にはほぼ壊滅。
4月22日に、第24師団に編入され、「幸地の戦い」「首里防衛戦」にて激戦を繰り広げる。
沖縄防衛の中央部隊として奮戦するも6月11日、小緑の帝国海軍沖縄方面根拠地隊が全滅し、海軍壕に隣接していた22聯隊壕の第22聯隊も南部の「真栄里」に撤退。

真栄里で徹底抗戦を続けるも、17日に第22聯隊本部洞窟陣地に爆薬が投げ込まれ全滅玉砕。
6月18日には、第22聯隊と行動をともにしていた野戦重砲兵第1聯隊と連携し、アメリカ海兵隊第22連隊長ハロルド・C・ロバーツ大佐やアメリカ軍沖縄攻略部隊の司令官バックナー中将を戦死させ、19日、真栄里にて、アメリカ陸軍第96師団准将クラウディス・M・イーズリーも戦没。
しかし、19日には、日本軍の生き残り約9千名が掃討され、愛媛出身の独立歩兵第15大隊が総員玉砕し、翌20日に連携していた野戦重砲兵第1聯隊も玉砕。
21日はアメリカ軍は沖縄占領を宣言。
22日には、第22聯隊が一時隷属した第62師団の師団長・中将藤岡武雄と、独立混成第44旅団長・少将鈴木繁二が自決。
23日早朝、第32軍司令官の牛島大将と、参謀長・長勇中将が司令部壕で自決。
24日に、第22聯隊旗を託された連隊長附副官・少尉本田昇は、第24師団司令部に合流し、同じく第24師団隷下だった歩兵第89連隊の連隊旗とともに第24師団長・中将雨宮巽、24師団司令部付最先任上級曹長・准尉白石直之(松山市出身)らの立会いの下、奉焼した。
糸満市真壁「萬華之塔」敷地内には『山3474部隊慰霊之碑』が建立され、糸満市宇江城に『山雨之塔』「22連隊軍旗奉焼の地」の慰霊碑が建立されている。

17日に22連隊本部が玉砕した後も、第1大隊長・大尉小城正ほか生き延びている第22聯隊将兵は、最期まで徹底抗戦を続け、8月15日以降も戦い続け、11月15日に降伏をしている。

愛媛縣護國神社

栄里之塔(えいりのとう)

糸満市真栄里(まえざと)。
「真栄里」周辺には、「白梅乃塔」や「山形の塔」「バックナー中将の慰霊碑」「第32連隊終焉の地の碑」などの慰霊碑もあり、沖縄戦終盤で南部に撤退した日本軍とアメリカ軍の間で激戦が繰り広げられた地でもあり、愛媛の「歩兵第22聯隊」の最期の地でもある。
戦後、真栄里の住民が散らばっていた12,000柱を収集し、祀ったのが「栄里之塔」
昭和27年3月建立。合祀者数は12,000柱。

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/eirinotou


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その8」へ

白梅学徒隊「白梅之塔」と奮闘継戦した山形聯隊「歩兵第32聯隊終焉の地」(沖縄戦跡慰霊巡拝6)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その6」となります。

その5は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


白梅学徒隊「白梅之塔」

沖縄県立第二高等女学校の「白梅学徒隊」慰霊の塔

白梅之塔
 沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。
 米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。
 戦況は日毎に悪化し、同年六月四日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。その場所は殆ど不明である。
 また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年六月二十一、二十二の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最後を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。
 塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生百四十九柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和二十三年一月に建立した。
 毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。
  平成十年六月二十三日 
   沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会

白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)
 沖縄県立第二高等女学校の前身は、1905年(明治38年)那覇市に設立された女子講習会(同年私立那覇女子技芸学校となった)で、その後変遷を経て、1928年(昭和3年)に沖縄県立第二高等女学校になりました。
 1945年(昭和20年)3月24日、生徒たちは東風平村(現八重瀬町)富盛の八重瀬岳に置かれていた第二十四師団第一野戦病院に配置されることになりました。
 生徒たちの仕事は、負傷兵の看病や手術の手伝い、水汲み、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬などでした。
 その後、5名の生徒が具志頭村(現八重瀬町)新城の自然洞窟(ヌヌマチガマ)の新城分院に配置されましたが、米軍が迫ってきたため、6月3日、分院は閉鎖されました。
 6月4日、病院長から野戦病院の解散命令が下され、生徒たちはそれぞれ数名ずつ班をつくって南部へと向かいました。
 6月9日、一部の生徒は国吉(現糸満市)に到着。18日に国吉一帯で米軍による猛攻撃が始まり、辺りは一大殺りく場と化し、21日と22日に壕が馬乗り攻撃を受け、多数の死傷者を出しました。
 国吉に行かなかった生徒たちは、砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続 け、ほとんどの生徒が6月下旬に米軍に収容されました。
  平成28年3月 
   沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課

白梅之塔

建立は平成4年(1992)6月10日。
沖縄県立第二高等女学校同窓会

犠牲者の御芳名

ちいさな「白梅之塔」(もとの慰霊塔)と、「納骨堂」

白梅之塔

散りてなほ 香りい憂し 白梅(うめ)の花
 元教諭 金城宏吉
  昭和二十二年一月建立

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_012/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/Crj79zEr4x6yd3CF9


白梅学徒隊「自決之壕」

白梅学徒看護隊
自決之壕

昭和56年6月23日建立

マチドーヌティラ
 字国吉の南西に位置するこの自然洞穴を、地元ではマチドーヌティラといいます。ティラとは神が鎮座する洞穴のことを指すといわれ、毎年旧暦 9月にはクングゥチムヌメーという伝統行事が国吉自治会によって行われています。
 また、この壕は沖縄戦において第24師団第 1野戦病院に動員された白梅学徒の一部が入っていた壕としても知られています。八重瀬岳の麓にあった同野戦病院は 1945年 6月 4日に学徒に解散を命じ、この壕に撤退してきました。鉄の暴風が吹き荒れる中、行き場のない学徒16人は野戦病院の部隊と行動を共にし、この壕で再び負傷兵の看護を手伝うことになりました。この壕の南、「山形の塔」の近くには「上の壕」と呼ばれた壕があり、食糧や弾薬の倉庫、学徒らの仮眠所として利用されていました。一方のこの壕は「下の壕」と呼ばれ、負傷兵の看護場所でした。6月 21日に「下の壕」、翌 22日には「上の壕」 が米軍の激しい攻撃を受け、学徒 16人のうち 10人が死亡しました。
 戦後この敷地内には、第二高等女学校の全戦没者を祀る「白梅の塔」、字国吉の住民による「萬魂之塔」が建立されています。
  糸満市 平成31年3月

周辺の位置関係

マチドーヌティラは「下の壕」。2021年11月に内部で崩落があり、立入禁止となっている。

ティラとは神が鎮座する洞穴であり、この地は、慰霊の場でもあり、聖なる場でもある。

白梅学徒隊自決の壕の入口。
内部崩落があり、立ち入り禁止となっていた。

合掌

南禅廣寺
白梅之塔の東側にあり、向かって左側に白梅学徒看護隊の自決之壕がある。
琉球王朝時代からの寺院という。

場所:

https://maps.app.goo.gl/5atU1WwbfrJ5GyZr5

https://maps.app.goo.gl/c3d88QHHLwKXaW1J8


萬魂之塔

糸満市国吉地区は沖縄戦最後の激戦が繰り広げられた場所である。
同地区の住民は各所に散っていた遺骨を洞穴に納めたが、昭和30年5月にコンクリートの塔を完成、無名戦没者の4000余柱を合祀した。

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/mankonnotou

敵味方関係なく、純粋に真摯に、戦没者を弔っている。

場所:

https://maps.app.goo.gl/5atU1WwbfrJ5GyZr5


陸軍大尉中村巌之碑

歩兵第32聯隊に属する独立機関銃第17大隊の隊長。
6月18日、中村大尉以下17名が戦死している。

場所:

https://maps.app.goo.gl/NHCK5YNfsa45vocYA


上の壕

上の壕(眞山之塔裏)は食糧弾薬倉庫、下の壕(白梅之塔側)は傷病兵の看護場所、であった。

白梅之塔 上の壕
 左の竪穴は、沖縄戦当時軍の物資置場であったが、白梅学徒看護隊の仮眠所でもあった。
 昭和20年6月22日、米軍の攻撃を受け、軍人・白梅隊員及び一般住民が死傷した。
  昭和63年6月 白梅同窓会

格別に整備されていない竪穴は、静かに自然に埋没していた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/edhyv9DhT8k5GwBa9


眞山之塔

雨宮中将率いる第24師団の各部隊は運玉森を守っていたが、第32軍司令部が摩文仁へ移ったのに伴い、与座岳、国吉、真栄里の線に後退し布陣を敷き、米軍と戦った。ここに陣地を築いて戦い全滅した100人余りを祀っている。

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/mayamanotou

沖縄の守備を担った第32軍に属する第24師団は、圧倒的火力を誇る米軍相手に熾烈な抗戦を繰り広げるも南部に追い込まれ、師団長・雨宮巽陸軍少将は、6月20日に師団の自活自戦を指示し師団としての組織的な戦闘を終了させた。
第24師団の師団長・雨宮巽陸軍少将(死後に中将)と参謀長の木谷美雄大佐(死後に少将)は、1945年6月30日に自決している。
(なお、第32軍の軍司令官・牛島満陸軍中将は6月23日に自決)

 怒涛の南進を続ける米軍に対し第二四師団隷下の各部隊は最後の拠点として真栄里地区に陣地を構築し勇戦奮斗敵の心胆を寒からしめたるも、ついに昭和二十年六月十七日この附近の壕内において玉砕せり。
 ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て地下に眠る幾多の英霊を慰め永くその遺烈を伝う。
  昭和四二年二月財団法人 沖縄遺族連合会

場所:

https://maps.app.goo.gl/edhyv9DhT8k5GwBa9


山形の塔

糸満市真栄里、昭和40年建立。

1965年 2月山形県民の総意と誠心による碑石、台座を県から運び建立したもの。この地は歩兵第32連隊が激しい戦いを繰り広げた場所でもある。

合祀者数:40,834柱(沖縄戦戦没者 765柱、南方諸地域戦没者 25,612柱、その他地域戦没者 14,457柱)

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/yamagatanotou

山形の塔

山形県知事安孫子藤吉謹書

山形の塔建立記
 大東亜戦争において祖国防衛のため惜しくも散華された山形県出身三万八千余の英霊を仰ぎその偉勲をしのび、み霊の冥福を祈り永久に鎮まりますことを念じここに県民の総意を結集してこの塔を建てたのである
 昭和四十年二月六日
   建設期成同盟会長 加藤富之助

山形の塔
 この塔は沖縄(七七六柱)をはじめ海外諸地域において戦没された山形県出身者四万余柱の諸霊を祀ってあります。
 一九六五年二月山形県民の総意と誠心による碑石、台座を県から運び建立してもので、この聖地は歩兵第三二連隊が軍旗を奉持勇戦奮斗し一九四五年八月この壕で奉焼した由緒ある丘であります。
 右の堂は観音像(二体)を安置する観音堂です。
   山形県
    一九八二年十月(再記)

場所:

https://maps.app.goo.gl/RsrasQkCDi1PpioX8


第二十四師団歩兵第三十二聯隊の壕(ウフ壕・田原屋取の壕)

歩兵第32聯隊の最期の壕
もともとは、真栄里の住民が整備した避難壕であった。

場所:

https://maps.app.goo.gl/RsrasQkCDi1PpioX8


歩兵第三十二聯隊終焉の地

沖縄戦初期の前田高地の激戦(米軍戦車群を擲弾筒射撃および肉薄攻撃によって阻止)、棚原の戦い(第32軍の総攻撃で米軍陣地を突破し、棚原一五四.九高地を奪取)から末期の国吉高地まで、終始激戦の最前線で戦ってきたのが第24師団の「歩兵第32聯隊」であった。

歩兵第32聯隊は、上級司令部にあたる第32軍(牛島満中将は6月23日に自決)、第24師団(雨宮巽中将は6月30日に自決)の組織的な戦闘行為が壊滅したのちも、第32聯隊長・北郷格郎陸軍大佐、第1大隊長の伊東孝一大尉のもとで組織的な戦闘を継続。

歩兵第32聯隊は、残存将兵をもって、米軍に多大な損害を与え続け、既に沖縄戦勝利を発表していた米軍を悩ませ続け、そして8月15日の終戦まで、国吉台の洞窟陣地を堅持し、最期まで健闘した。
8月29日の武装解除の段階で、歩兵第32聯隊の残存将兵は約300名であった。

我が興亡の史碑
歩兵第三十二聯隊終焉の地
呼名 霞城聯隊・満州八〇三部隊・山三四七五部隊、
   平成十七年八月 建
    聯隊関係者一同

 聯隊は明治31年3月末軍旗を拝受して山形に誕生し日露戦争黒溝台会戦で武勲を立て満州事変熱河作戦に活躍した。
 太平洋戦争の沖縄戦で終始敢闘し昭和20年6月23日軍の組織的戦闘が終了後も残存軍民協力してこの地を守り終戦後の8月28日夜軍旗を奉焼し翌日鉾を納めた。
 この間の戦没者に対し心から弔意を捧げる

場所:

https://maps.app.goo.gl/wokGqXuAjTMwQ1QVA


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その7」へ

「沖縄陸軍病院糸洲二外科壕跡」と「糸洲の壕跡」(沖縄戦跡慰霊巡拝5)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その5」となります。

その4は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


沖縄陸軍病院糸洲二外科壕

いままで見てきた壕とは違い、ここは詳細な説明がとくにない、目立つことのない静かな壕。糸満市の糸洲集落の北側にある。
半分埋もれかけている。

ぬちどうたから

「ぬちどぅ宝」「命どぅ宝」
沖縄の言葉で「命こそ宝」を意味する。
沖縄戦では、集団自決から「命こそ宝」の言葉で気の残ったという証言も残っている。

陸軍病院第二外科壕

壕内には入れない。

開口部で合掌する。

コンクリートの塊で塞がれている。

場所:

https://maps.app.goo.gl/EWBzQY65r5C9N5Yv9


糸洲の壕跡(ウッカーガマ)

糸満市字伊敷にある壕。
小池勇助少佐(死後に中佐昇進・佐久市出身)が率いた第24師団第二野戦病院の跡地。

6月26日、学徒隊の解散にともない、小池少佐は「ふじ学徒隊25人(積徳学徒隊・積徳高等女学校)」に、「君たちは非戦闘員だ。死んではならぬ。つらくても生きのび、戦争の悲惨さを後世に伝えるのが君たちのつとめだ」と訓示し解散命令を発した。小池少佐は、最後の訓示ののち学徒隊を送り出して自決。最終階級は中佐。

「ふじ学徒隊」は、多くの犠牲者をだした他の学徒隊と比べ、3人の犠牲者に留まり、小池少佐の教えを守った。
小池勇助軍医の辞世の句
 南の孤島の果てまで守りきて
  御盾となりてゆく吾を
 沖のかもめの翼にのせて
  黒潮の彼方の吾妹に告げん

「ふじ学徒隊(積徳学徒隊)」の「積徳高等女学校」は、沖縄県那覇市久茂地にあった高等女学校で、1930年に私塾として開設した高等女学校

なお、「糸洲の壕」の入り口は2つあり、それぞれ「ウッカーガマ」と「ウンジャーガマ」と呼ばれていたという。慰霊碑は、ウッカーガマの入口にある。また、北西の「轟の壕」まで一部は繋がていた、ともいう。

鎮魂之碑

此の洞窟は第二十四師団山第二野戦病院の跡である。長野富山石川出身の将兵現地防衛招集兵並に従軍看護婦積徳高等女学校看護隊が傷病兵を収容した壕跡である

鎮魂の碑
(御霊よ。安らかに)

戦闘避難中に、当地で戦没した民間の慰霊碑

糸洲の壕

合掌す

場所:

https://maps.app.goo.gl/gVEVG3D9eFyq5RU67

近年(2025年)、整備が行われました。

https://www.city.itoman.lg.jp/site/toretateitorepo/27891.html


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その6」へ

「沖縄陸軍病院山城本部壕跡」と「井原第一外科壕跡」(沖縄戦跡慰霊巡拝4)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その4」となります。

その3は、下記にて。

2022年10月記録です

「ひめゆりの塔」は、伊原第三外科壕の跡地。
ちかくには、同じように南部に追い込まれてきた陸軍病院本部壕と、伊原第一外科壕、伊原第二外科壕などもあった

みたま安らかに


沖縄陸軍病院

昭和19年6月、開南中学に開設したことに始まる。
南風原に移転したのちに、昭和20年5月下旬、南部に分散移転し、伊原の近くの山城集落の「山城壕」が本部となった。6月18日に解散した。

https://www.city.itoman.lg.jp/site/kankou-navi/1826.html


沖縄陸軍病院之塔

沖縄陸軍病院之塔
この塔は戦没された沖縄陸軍病院の傷病将兵及び職員と学徒の慰霊塔である
慰霊会(遺族及び戦友の会)が昭和39年1月26日に建立し平成4年6月23日これを再建す

春くると ひたすら待ちし 若草の 萌え立ついのち 君は捧げぬ
 水汲みに 行きし看護師 死ににけり 患者の水筒 四つ持ちしまま

陸軍病院の軍医であった長田紀春氏が詠んだ歌碑。

ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)
 沖縄師範学校女子部の前身は、1886年(明治19年)に師範学校内に設置された「女子講習科」でした。その後変遷を経て、1943年(昭和18年)に国立の専門学校に昇格し、「沖縄師範学校女子部」に名称を変更しました。
 沖縄県立第一高等女学校の前身は1900年(明治33年)に設置された「市立高等女学校」でした。1928年(昭和3年)に「沖縄県立第一高等女学校」に名称を変更しました。
 1945年(昭和20年)3月23日、学徒たちに動員命令が下され、配置先の沖縄陸軍病院があった南風原に向かいました。
 4月中旬~下旬、戦況悪化による負傷兵の増加に対応するため、一日橋分室、識名分室、糸数分室が設置され、学徒たちも配置されました。
 5月下旬、米軍は首里戦線へ侵攻を開始し、日本軍は南部への撤退の準備を始めました。25日には、沖縄陸軍病院にも撤退命令が下されました。
 26日に学徒らは井原に到着し、翌27日、山城、波平、糸洲、井原の壕へ分散配置されました。
 6月18日、学徒らは学徒隊の解散命令を受けました。米軍のg猛攻撃の中、負傷した学徒は壕に残され、壕を出た学徒たちは、砲弾が飛び交う中、逃げ惑い、追い詰められ、多くの命が失われました。
 平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部保護・援護課

沖縄陸軍病院山城本部壕(山城本部壕)
 地元ではサキアブと呼ばれる自然洞穴です。すり鉢状の窪地部分から中に入ると、壕口のある広場と奥の広場の2つに分かれています。
 1945年3月、米軍の猛爆撃や艦砲射撃が始まると、山城の住民の一部がこのサキアブに避難しました。
 5月下旬、南風原にあった陸軍病院が南部に撤退し、この場所を病院本部壕として、第一外科壕、第三外科壕を井原に、第二外科壕を糸洲におきました。陸軍病院には、沖縄師範女子部と県立第一高等女学校の学徒も配属されていました。廣池文吉病院長以下の首脳陣らは、伝令や命令受領者を通じ、分散した各外科壕を統率しましたが、撤退後は病院としての機能はほとんど失われていました。
 6月14日、本部壕入口付近に落ちた直撃弾によって、廣池文吉病院長をはじめとする兵士や学徒の多くが戦死または負傷しました。6月18日、沖縄陸軍病院は解散となり、病院勤務者や学徒らは、米軍の激しい包囲攻撃の中をさまようことになりました。
 糸満市 平成31年3月

下に降りることができる。

合掌

場所:

https://maps.app.goo.gl/G28xrGoZPsRcdzHP9


位置関係

陸軍病院本部壕と第一外科壕・第二外科壕・第三外科壕の位置関係


第一外科壕

第三外科壕(ひめゆりの塔)の近く。

碑文。
くずし字で非常に難解。。。

ここは陸軍病院第一外科及び糸数分室所属の軍医看護婦、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校職員生徒のいた壕である
米軍の迫まる1945年 6月18日夜、軍より学徒隊は解散を命ぜられて、弾雨の中をさまよい照屋秀夫教授以下多くはついに消息をたった
軍医看護婦患者も同じく死線を行く生死のわかれの地点である

ここで負傷戦没した生徒
(犠牲者の氏名省略)

藤野憲夫沖縄県立第一中学校長もここで最後を遂げられた
謹んで記して御冥福を祈り平和を祈願する

しらじらと 明けそむる野を 砲弾の
 雨に散りゆく 姿目に見ゆ
血にそまる 巌のしづくは 地底にしみて
 命の泉と 湧きて出でなむ 

  1974年 6月 ひめゆり同窓会

場所:

https://maps.app.goo.gl/vkhXLcBfB3TaUXfo8


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その5」へ