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日本飛行機山形製作所ゆかりの「日飛神社」(山形の戦跡散策・2)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。
その1は下記から。

日本飛行機山形製作所ゆかりの「日飛神社」(現在は鳥海月山両所宮の境内社の日枝神社)


日本飛行機

日本飛行機(ニッピ)
創業は昭和9年(1934)10月11日。
日飛の初代社長は加藤亮一(海軍中将)。
二代目社長が昭和11年11月から堀悌吉(海軍中将)。堀悌吉は山本五十六連合艦隊司令長官とは海軍兵学校の同期で無二の親友。
三代目社長は、昭和16年11月から大野寛(海軍中将)、大野氏で終戦となった。

1934年から量産された九三式中間練習機(赤トンボ)の生産を担当。2733機を生産した。
九四式水上偵察機、特殊輸送機(兵員輸送用大型グライダー)、秋水局地戦闘機、彩雲艦上偵察機等を生産。また、九六式陸上攻撃機、零式小型水上偵察機の尾翼や燃料タンク、九九式艦上爆撃機、桜花の主翼など部分品も生産した。
戦後は川崎重工の100%子会社。


日本飛行機山形製作所

1942年7月、従業員3,000人規模で、山形県に「日本飛行機 山形製作所」を開設。
練習飛行場も併設された。

市長のやまがた自慢「日飛神社」
皆さんは、「日飛神社」をご存じでしょうか。多くの方が初耳ではないかと思います。宮町の鳥海月山両所宮の敷地内にある弁天池の傍らに社が2つ並んでおり、その右側が通称「日飛神社(正式には「日枝神社」)」です。
日飛は「ニッピ」と読み、日本飛行機という会社名を略した言い方です。実はかつて山形駅の南側、現在の山形西高等学校周辺に巨大な飛行機の製造工場がありました。戦後、その敷地内にあった社が移され、現在、日飛神社と呼ばれているというわけです。
雇用の確保は戦時期から重要課題だったようで、大沼保吉山形市長をはじめとした企業誘致運動が行われ、日本飛行機の誘致に成功しました。昭和17年3月から海軍の演習機の製造を始め、従業員数が3,000人だったといいますからすごい規模です。
さらに興味深いのが、終戦近くになって当時最新鋭だったロケット戦闘機「秋水」の試作機が、山形で製造されたというのです。ドイツから運び込んだ設計資料を基に、極秘で製造されましたが、実戦に投入される前に終戦を迎えました。大変ミステリアスな話ですね。
戦後、この工場はなくなりましたが、そこで働いていた方の多くが会社を創業し、戦後山形の経済の基盤のひとつとなりました。また、今でも神奈川県横浜市に本社のある日本飛行機株式会社の社員の方が日飛神社にお参りするために山形にお越しになるそうです。
航空機産業も平和産業となり、また、将来の成長産業でもあります。現在、山形市にも航空機関連の部品を製造している企業があり、さらに伸ばしていければと考えています。
両所宮では節分祭、例大祭、たたら・ふいご祭りなど、さまざまな行事も行われます。お越しの際にはぜひ日飛神社にもお立ち寄りいただき、隠れたエピソードに思いをはせてみてはいかがでしょうか。
(広報やまがた平成28年6月1日号掲載)
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/shiseijoho/shicho/1006787/1006792/1005475.html

山形製作所は、山形駅の南、鉄砲町に山形西高等学校周辺にあった。

 JR北山形駅から北東に約700m進むと、鳥海月山両所宮の境内に1mほどの小さなほこらがたたずむ場所があります。「日枝神社」の名で親しまれる社は、かつて「日飛(ニッピ)神社」と呼ばれていました。
 「ニッピ」とは、戦闘機メーカーだった「日本飛行機」のことで、戦前、この場所から約4㎞南にあった日飛山形製作所の敷地内にまつられていた神社です。戦後の工場閉鎖に伴い、山形市宮町3丁目の鳥海月山両所宮の境内に移されました。
 戦争の進展とともに市内の工場は厳しい統制でほとんどが破滅に近い打撃を受け、多数の失業者を出すようになりました。市では、軍備工場の誘致運動も積極的に進め、昭和17年3月には、横浜に本社のある日本飛行機が鉄砲町に山形工場を完成し、海軍演習機の製造を開始しました。また、漆山にある山形刑務所の辺りには日飛(漆山)飛行場も整備されていました。日飛工場は、最盛期には従業員3,000人が働くという、山形市としては空前の規模の工場で、ほとんど地元の人が採用されていました。
 太平洋戦争末期、幻のロケット戦闘機「秋水」はこの日飛工場で作られていました。
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/495/marugoto-2-10.pdf

山形市の北にあった日飛の漆山飛行場。
漆山飛行場は、1945年8月9日早朝に、連合軍の空爆にて格納庫や滑走路が破壊され使用不能となり、戦後は、山形刑務所となった。

上記サイト「山形市>『ベニちゃんのまるごとやまがた』について(https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/kosodatekyoiku/shakaikyoiku/1006733/1004495.html)」から、引用

なお、現在の山形飛行場とは、別。

渋沢社史データベース>
昭和16年(1941)5月
富岡製作所(旧称富岡工場)が、京浜地区に所在することに起因する地域的制限、人的資源確保の困難性、下請工場の不確実等の理由から工場の地方分散を企画し、山形県に山形製作所を開設し、当日その開所式を行なった。山形製作所は、12万坪の飛行場をもつ敷地6万坪の工場で、現在航空局の山形飛行場になっている。
https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=6910&page=2

現在の山形飛行場(山形空港)は、大日本帝国海軍が昭和19年に造成した練習飛行場。
谷田部航空隊の飛行隊を神町に移し、神町航空隊を開隊している。(神町飛行場)
そのため、日飛の飛行場とは、また別の話となり、渋沢社史データベースでの記載は誤記と思われる。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M201-73
1947年04月12日、米軍撮影の航空写真

日飛の漆山飛行場界隈を拡大加工

ファイル:USA-M201-23
1947年04月12日、米軍撮影の航空写真

拡大加工

日飛山形製作所

前述の配置図(北を上に回転)も参照まで。


日飛神社(鳥海月山両所宮境内社・日枝神社)

日本飛行機山形製作所内で祀られていた神社「日飛神社」が、鳥海月山両所宮に日枝神社として遷座されている。
現地には、特に「日本飛行機」を物語る掲示などはされていない。

のんびりとした時間、のどかな昼下がり。


鳥海月山両所宮

鳥海・月山の両神を祀る。旧社格は県社。

随神門(山形県指定文化財)

場所

https://maps.app.goo.gl/xQHJc8QzS7xmKZsS7


平和の碑(山形市宮町北部班の慰霊顕彰碑)

鳥海月山両所宮のある宮町北部班から出征した戦没者41名の慰霊顕彰及び従軍者の顕彰をする碑。昭和39年5月11日建之。
銘文は、真壁仁(山形市宮町出身の詩人)

 われらいくさに従い大陸に海に離島に
 身をすててたたかったもの
 今ここに石ふみをおこし永遠の平和を誓う
 民族の歴史にふかい傷跡を刻んだあの体験を
 ふたたびくりかえさないために
 無限に貴い人間の生命と生活のよろこびまもるために
 不戦のねがいをあらたにする
 いのち若くしてあたら戦場の花と散ったつわものたち
 深夜の星を仰いで家郷を偲び肉親を思ったそのまなざしよ
 けれども死者の聲はよみがえらず痛ましき沈黙に
 残されたものの悲しみだけがいつまでもこだまする
 いま仰ぐふるさとの空は澄み山は青い
 不運の魂をいだく故山の平安よ永遠なれ
  真壁 仁


※撮影:2026年3月


その3へ(準備中)

「山形縣護國神社」と「薬師公園」「千歳山霊苑」巡拝(山形の戦跡散策・1)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。


山形縣護國神社(山形県護国神社)

山形県関係の戦没者40,845柱を祀る。
明治2年(1869年)1月、戊辰戦争で戦死した薩摩藩士10柱を祀るために山形市八日町に社殿を造影したことに始まる。
明治8年、官祭「山形招魂社」となり、以後は、山形県関係者の戦没者を祀る。
明治22年、山形市宮町に遷座。明治44年の山形市の大火で社殿焼失、大正3年に再建。
昭和9年(1934)に千歳公園内の現在地に遷座。昭和14年に、内務省指定護國神社となり、「山形縣護國神社」と称した。
GHQ占領下の昭和22年から昭和27年は、「千歳宮」と称していた。
現在の社殿は、平成6年(1994)に改築。
山形県内では、初詣参拝客1位を誇る(約13万人)

https://yamagataken-gokokujinja.jp

青銅日本一の狛犬。
平成29年8月15日の終戦記念日に奉納。
高さは7尺(2m10㎝)。

大鳥居から一直線に社殿まで伸びる参道

社号標

山形縣護國神社
陸軍大臣 小磯国昭 謹書
昭和十四年九月十八日

小磯国昭は山形県出身。東条英機の次の総理大臣でもある。

さくら陶板

さくら陶板
 靖國神社は令和元年に御創立150年を迎えられ、その記念事業として「さくら陶板」が作製されました。この陶板は47都道府県の土を使い、各地の著名な陶工の方々が奉納したものです。山形県の陶板は山形の土を使い、長井市出身の陶芸家和久井修氏が作成されました。「さくら陶板」には慰霊の心とそれを次世代に伝えることが祈念されております。
 和久井氏は当神社にも同じ陶板を奉納したいと希望され、山形建設株式会社の協力により、靖國神社に建立されている陶板と同じく山形県の土を使った「さくら陶板」が奉納されることとなりました。
 靖國神社と当神社がこの陶板を通してつながることで、御祭神もお喜びのことでしょう。この陶板を通じて御祭神の慰霊と平和への祈りが届くものと思っております。

社号標

山形縣招魂社
海軍大将 正二位勲一等功二級子爵 齋藤實 謹書
昭和九年十月三十日

昭和九年十月に、山形県招魂社は現在地に遷座している。

御社殿

みたまやすらかに

蔵王山は南東に。(社殿は南面)

山形県護国神社
御朱印

「祈りの塔」
巫女さんの像

祖国の安泰を念じて尊い生命を捧げたご英霊のお陰で今日の平和と繁栄があることを忘れてはなりません。
 山形県護國神社 宮司 宮舘厚悦

御本殿

山形県神社庁

https://maps.app.goo.gl/xLQccCk4q8zAWuU97

「建国記念塔」が境内にあるはずなのだが、あるべき場所に見当たらず。
うーん?

https://maps.app.goo.gl/ReGrgquy1jnpQ8uv9


山形招魂社 社号標(薬師公園)

山形招魂社時代の社号標。
大正2年六月建立。
「官祭」の文字は塗りつぶされている。

https://maps.app.goo.gl/guP1wCb8TNHcdNz96


雪部隊・戦没者慰霊碑(薬師公園)

山形県護国神社には、慰霊碑はなく、隣の薬師公園(出羽国分寺薬師堂・千歳公園)にいくつかの慰霊碑があるので、足を運んでみる。

雪部隊
戦没者慰霊碑
 雪部隊慰霊会長 
 山形県知事 板垣清一郎 謹書

碑文
 雪部隊は日華事変中の昭和14年(1939)弘前、秋田、山形の各歩兵聨隊を基幹とし、騎兵、砲兵、工兵、輜重各連隊を含む第36師団隷下各部隊の秘匿名で、雪国青森、岩手、秋田、山形県の東北健児をもって編成された郷土部隊である。
 雪部隊は昭和14年3月編成完結、4月北支派遣軍として中国大陸に渡り、華北、山西省に進撃、爾来約5ヶ年、華北の山岳地帯各地を転戦し、舞部隊(初代師団長舞伝男中将)井関部隊(2代師団長井関仭中将)としてその勇名を天下に轟かした。 当事山西省には閻錫山の率いる山西軍、朱徳の率いる共産八路軍、そして蒋介石政府軍と、中国の精鋭部隊が峨々たる峻嶮に拠って頑強に抵抗したのであるが、雪部隊は中原会戦、沁河作戦、大行作戦等二十数回にわたる作戦を敢行し、勇敢にして粘り強い東北健児の特色を遺憾なく発揮して激戦に次ぐ激戦を重ね遂に山西省を平定し北支派遣軍随一の武勲を樹てたのであるが、わが部隊も忠勇無比の将兵1,500名を失った。
 日華事変も遂に太平洋戦争に発展し、連合国軍の反攻作戦漸く激しくなる頃、昭和18年(1943年)10月雪部隊に突如として濠北派遣の命が下った。 部隊(3代師団長田上八郎師団長)は急ぎ華北山西省を後にして上海、南京附近に集結、11月末に上海出帆、一路南下して赤道を越え12月末ニューギニア島サルミ附近に上陸した。 この島は密林(ジャングル)と湿地帯とそしてマラリヤの猛威をふるう全くの未開地であった。 時既に戦局は我に不利、上陸後戦備を整える暇もなく昭和19年4月頃より敵はサルミ地区に対し圧倒的な空軍と海軍により攻撃を開始して来た。 わが雪部隊はマッカーサーの指揮する南東太平洋方面連合軍をこの地に迎撃して血みどろの激戦となったのである。 日本陸軍でも最強とうたわれたわが雪部隊は、悪条件にもかかわらず、よく善戦奮闘し、遂に敵上陸部隊を撃退したが、物量に物をいわせる連合軍の連日の猛爆撃と艦砲射撃、制空権と制海権を完全に奪われたわが軍は、密林と湿地帯に阻まれて作戦行動ままならず加えて赤道直下の炎熱と食糧不足、マラリヤ、栄養失調、脚気等により悪戦苦闘その極に達し、戦場は正にこの世の生地獄の様相を呈し、生残る戦友数うるに足らず、ワクデ島守備の石塚隊玉砕、そしてまたビアク島の雪3523部隊(葛目聨隊)も玉砕、雪部隊はその主力を失なってしまった。 ニューギニアに上陸した雪部隊隷下の将兵14,000名戦没者11,794名、生存して帰還したる者僅かに2,000余名に過ぎず。
 戦後昭和31年(遺族代表神保氏参加)と昭和46年(戦友代表鈴木健三郎氏・中沢農夫氏参加)にニューギニア遺骨収集団が派遣され多数の遺骨を故国に持ち帰ることができたが未だ南海の果、ジャングルの中には無数の戦友の遺骨が眠っている。
 九死に一生を得て僅かに帰還したる者われら断腸の思い、誠にしのびざるものある。 山形在住の雪部隊生存者による雪部隊慰霊祭実行委員会が中心となり、寄付を募り再度遺骨収集を計画したが現地政府の許可なく断念するのやむなきに至る。 よってこの地に雪部隊戦没者慰霊碑を建立し、純粋なる祖国愛に殉じた戦友の英霊を慰め心から冥福を祈るものである。
    昭和53年9月2日 謹日

 異国の地で散華された13,249名の、戦没者名簿、雪部隊史並びに聨隊史をカプセルにし、生存者の赤誠の鎮物として、慰霊碑の奥深きに納め埋蔵し、永久に慰めるものである。
  安らかにお眠り下さい。

https://maps.app.goo.gl/n3huzkkXFJSrcmSi8


戊辰薩藩戦死者墓(薬師公園)

山形県護国神社の前身である招魂社は、戊辰戦争での薩摩藩の戦死者を祀ることから始まっていた。

戊辰
薩藩戦死者墓
大勲位公爵 松方正義 書

大正4年11月合葬

戦死者名


出羽国分寺薬師堂(薬師堂)

聖武天皇の国分寺建立の詔により、天平13年(741)の建立に基づく。創建時は酒田の城輪柵の近隣に位置していたが、平安後期以降、国府が内陸の山形市に移転するとともに国分寺も移転。薬師堂が出羽国分寺の後継寺院とされている。

薬師堂
明治初期に山形県会の仮議事堂となり、山形県指定史跡「旧山形県会仮議事堂」でもある。
現在は、柏山寺が管理。

宮城浩蔵顕彰碑
明治大学の創設者

扁額は、西園寺公望
選文は、中江兆民

https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/miyagikozo.html

https://maps.app.goo.gl/Ct2RcBZtRJiMf5eR8


陣没軍馬慰霊塔(薬師公園)

軍馬を祀る慰霊塔。創建団体や創建時期は不詳という。
建立にいたる銘記や碑誌もなく。

陣没軍馬慰霊塔
陸軍大将 小磯国昭 書

「陣没軍馬慰霊塔」の創建時期は不明というが、ある程度の推測で絞り込みは出来そうだ。

謹書している小磯国昭は、山形県新庄市の出身。山形出身の代表的な軍人として謹書したのであろう。肩書として「陸軍大将」と記載している。小磯は戦後はGHQに拘束され昭和25年に巣鴨拘置所で亡くなっているために、確実に戦前の建立であることは予想できる。
小磯国昭は、昭和12年7月21日に陸軍大将、昭和13年7月29日に予備役に編入となっている。
そして昭和14年に平沼騏一郎内閣の拓務大臣、昭和15年に米内光政内閣の拓務大臣をつとめ、昭和16年の開戦時は満洲移住協会理事長であった。
昭和17年5月29日から朝鮮総督、そして昭和19年に東條英機の次の総理大臣に就任している。
時局や情勢を考えると、昭和12年から昭和16年にかけての建立でないかと推測。朝鮮総督に就任した昭和17年以降は、軍馬のために慰霊塔を建立する時勢ではなく。

東日本大震災後は倒壊の恐れがあり、近づけなくなっている。

今にも飛び出してきそうな躍動感ある軍馬のレリーフ。
取り囲む銘板の刻は判別不能。なにかが刻まれていたかもしれないが。

https://maps.app.goo.gl/hxRsGz43fiTetZmq8


山形陸軍墓地(千歳山霊苑)

山形陸軍墓地の地。
閉門の為、敷地外から遥拝する。
みたまやすらかに

千歲山霊苑

千歲山霊苑沿革
一、明治二十九年十一月この地に始めて陸軍墓地が設置されました。
一、明治三十九年十一月
   日露戦役戦没者墓碑建立
一、昭和八年一月
   満洲事変戦没者慰霊塔建立
一、昭和二十七年八月
  靖霊塔建立
一、昭和二十八年以後山形県が奉祭維持管理にあたっている。
  昭和三十四年三月 山形県

千歲山霊苑の沿革
本霊苑は明治二十九年に設置された旧陸軍墓地であって、終戦に伴い昭和二十年十月陸軍省から大蔵省へ移管さらに昭和二十八年県において無償譲与を受けたものであり、昭和三十四年に名称を「千歳山霊苑」と改め今日に至っている。
霊苑内には、日露戦争戦没者の各墓碑、満洲事変戦没者慰霊塔並に昭和二十七年に県民有志からの寄附と国費、県費を併せて建立した太平洋戦争の英霊分骨約六千柱の納骨施設たる靖霊塔があリ、その後弘前佛舎利塔に納骨されていた日露戦争当時の県出身英霊約二百柱の分骨並びに南方戦域から収集された遺骨を併せ納めている。
毎年四月には県内の戦没者遺族代表参列のもと慰霊条を挙行するほか、彼岸等には供養拝礼式を行うなど県が奉系維持管理にあたっている。
 昭和六十三年三月再建 山形県

うーん。開門は「月」「水」「金」のみ。
(訪れたのは木曜日でした、惜しい)

陸軍軍人合葬之墓

陸軍軍人合葬之墓

拓魂碑

靖霊塔

満州事変戦没者慰霊塔は、敷地外からは見えず
盛岡の久昌寺と同じ形状の慰霊塔があるという。

https://senseki-kikou.net/?p=36368&

場所

https://maps.app.goo.gl/Y8jxTm3Ki9ymmNJy5


※撮影:2026年3月


その2へ

https://senseki-kikou.net/?p=57525

秋田の郷土部隊「歩兵第十七聯隊」(秋田の戦跡散策・4)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

東京への帰路前に時間があったので、秋田駅周辺を巡ってみました。

秋田の戦跡散策1は、こちらから


歩兵第17聯隊

明治18年(1885)に仙台鎮台の3つめの歩兵聯隊として設置。
明治31年(1898)に、歩兵第17聯隊は、秋田に衛戍地を移し、新設の第8師団所属となった。
明治37年の日露戦争では、当初は予備隊であったが、38年の黒溝台会戦に援軍として参戦、ロシア軍に包囲され、聯隊の半数を失う大きな被害を受ける。次いで第2軍に所属し、奉天会戦に参戦。

第二次世界大戦では、昭和19年(1944)にフィリピン戦線に投入され、歩兵第17聯隊は、フィリピン防衛を担当する第14方面軍下の振武集団・第41軍に所属し、ルソン島の戦いで、全滅寸前で終戦を迎える。
最後の歩兵第17連隊長となった藤重正従陸軍少将は終戦後の9月下旬に投降し戦犯として逮捕。マニラ軍事裁判で住民虐殺の容疑で昭和21年7月17日に絞首刑となっている。


歩兵第十七聯隊趾(中通四丁目)

NTT秋田支局裏手・平田篤胤誕生地碑の向かいに鎮座。
秋田駅前一帯にあった兵営の跡地(中心地)の裏通りに、ひっそりと立てられている。

歩兵第十七聯隊趾
統合幕僚会議議長 陸将 天野良英

我が歩兵第十七聯隊は明治十九年六月仙台市河内に創設。
同年八月十七日宮中にて軍旗を親授せらる。
明治三十一年九月此処旧久保田城址(千秋公園)と内濠を隔てて相対する風光明媚の地に転英す。
創設依頼日進日露の戦役を始め西比利亜事変満洲事変支那事変大東亜戦争に出征し赫赫たる武勲を樹てたり。
昭和二十年八月十五日終戦の命により軍旗は比島にて奉焼す。
百万県民に親しまれ秋田県児修練演舞の道場たりし四万二千有余坪の地も今や街路四通しビル建ち並び往昔の威容を偲ぶよすがなし。
茲に有志相図り碑を刻して陣没せられたる英霊の偉勲を後世に伝う。
 昭和四十一年八月十五日
  選文 三浦熊士郎 

歩兵第十七聯隊の衛戍地からの移築ですね。

北白川宮殿下御手植松

御慶事之松

明治三十三年五月十日

明治33年5月10日の御慶事は、皇太子(のちの 大正天皇)と公爵九条道孝の三女である九条節子姫(のちの貞明皇后)のご成婚(結婚式)。

忠節・礼儀・武勇・信義・質素
軍人勅諭50周年で植樹した公孫樹の碑
昭和7年
最初に記名された「歩兵大佐・日置勝騂」は秋田連隊区司令官。


平田篤胤先生誕生之地

むかいには、なんと平田篤胤の誕生地。
平田篤胤は国学四大人のひとりにして、復古神道の大成者。
土手谷地街区公園内に。

平田篤胤先生誕生之地
陸軍大将 本郷房太郎 書

平田篤胤生誕の地
 平田篤胤は、本居宣長らとともに国学四大人の一人と称される江戸後期の国学者。
 安永五年(一七七六)に秋田藩士・大和田祚胤の四男としてこの地に生まれ、幼少の頃から勉学に励み、二十歳で江戸に出て苦学を重ねると、やがて備中(岡山県)松山藩士·平田篤穏の養子となった。
 宣長の学風を色濃く受け継ぎながら、江戸や京都で復古神道を確立し、諸国にその名を知られたが、儒教を廃し極端な尊王思想を唱えたことで、幕府の体制を揺るがすとされ、天保十二年(一八四一)に久保田へ帰された。
 二年後、中亀ノ丁(南通亀の町)で、病により没するまで、秋田の国学界の発展に寄与した。
 篤胤の墓は手形大沢にあり、国指定史跡となっている。
  平成二十四年六月一日再設置
   秋田市教育委員会


歩兵第十七聯隊之碑(千秋公園)

千秋公園・久保田城址にある歩兵第十七聯隊の記念碑

歩兵第十七聯隊之碑
十七比島会長 尾張三郎 謹書

昭和57年4月29日建立
以下、カタカナをひらがなに置き換えて文字起こし。

歩兵第十七聯隊は明治十九年八月十七日仙台市青葉城址に於て創設され第二師団に属していたが、日清戦争後、弘前市に第八師団司令部が新設されるに及びその隷下部隊として仙台市より秋田市に移駐し、以来終戦まで約五十年の間秋田県の郷土部隊として存在した。
従って聯隊は太平洋戦争の他、遠くは日清日露の両戦役をはじめ、シベリヤ出兵、満洲事変、日華事変にも参加し、それ等の戦役を通じて真摯素朴忍不抜の秋田県民特有の精神を発揮して、輝かしい武勲を樹て隣県部隊と共に国宝師団の名を馳せた。
昭和十二年第八師団が中国旧満洲に移駐するに当り聯隊は同地牡丹江省に於て北満の守護に任ずこと七ヶ年太平洋戦争が愈々苛烈の度を加えるに及び、その決戦場たる比島戦線に投入されたのは昭和十九年八月のことである。
無傷の精鋭部隊として、フィリピン、ルソン島に上陸した当初三千余名を数えた兵員が、極度の劣悪な環境と過酷極まる条件のもとで激烈な死闘を繰り返し、わずか一ヶ年後の終戦時には、生存者九百余命に過ぎなかったことは、この戦闘が如何に苛烈なものであったかを物語るものである。
戦後三十三年を経て昭和五十三年に比島戦の生存者が相集い、比島戦線に於て散華した戦友の遺徳を顕彰するために十七比島会を結成し歩兵第十七聯隊比島戦史の編集に着手することが決議された。
以来三年間に亘り会員の献身的な努力の結果昭和五十六年四月二十九日比島戦史の発刊を見ると同時に生存者の願いであった戦没将兵の慰霊祭を厳粛に執行することが出来た。
同日の決議により今茲に聯隊駐屯の地を眼下に望む千秋公園の一画に記念碑を建立し、聯隊創設より太平洋戦争終末までの事績を収録し比島決戦に於て護國の礎として散華した聯隊長藤重従大佐以下の戦没者並びに生還者の氏名を列記した秋田歩兵第十七聯隊比島戦史壱冊を収納し、祖国平和追求の一布石として永く後世に伝えんことを希うものである。
 昭和五十七年四月二十九日 
  秋田歩兵第十七聯隊比島会 誌之

鎮魂之碑 四月二十九日
霊峰東拝太平山
眼下西望駐屯跡
幾万将兵比島散
英霊鎮魂千秋社


千秋公園・久保田城跡

秋田藩佐竹氏の居城久保田城の本丸・二の丸跡地を整備した公園が「千秋公園」

久保田城表門

佐竹義堯公像
幕末最後の佐竹藩主、出羽久保田藩十二代、佐竹氏第三十代、三十二代。龍角散の開発のきっかけになった殿様。

八幡秋田神社

殉職消防組員招魂碑

受難警察官之碑

大平山

小高い丘(神明山)を活かした平山城。


秋田駅

目いっぱいに散策していたので、時間がなくなってまして。
駅そばで、「秋田のぎばさ」を。
海藻の郷土食ですね。

秋田散策は、いったんこれで〆。

※撮影:2026年3月


日本最大の製油所を狙った「最後の空襲・土崎空襲」(秋田の戦跡散策・3)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

終戦前夜、秋田市の土崎地区が爆撃された。関連戦跡の慰霊巡拝を。

秋田の戦跡散策1はこちらから。


土崎空襲

終戦前夜の昭和20年8月14日午後10時半頃から15日午前3時半頃にかけて、土崎地区は約4時間にわたり激しい空襲を受けた。この空襲は「日本で最後の空襲」のひとつであった。
土崎空襲での攻撃目標は、終戦間際でも無傷のままであった当時日本で最大の産油量をあげていた日本石油秋田製油所であったが、近隣の民家も多大な被害を受けた。

土崎空襲はグアム島を出発したアメリカ軍のB29を中心とした爆撃機約132機が、100kg爆弾を7,360発、50kg爆弾が4,687発の合計1万2047発、953.9トンに及ぶ爆弾を投下。
犠牲者は一般市民92名、軍人50名に、確認できない人を合わせると250名以上を数え、製油所のほか104戸が全焼、及び全半壊した。
秋田県で唯一の大規模空襲でもあった。

ターゲットとなった日本石油秋田製油所は、内地では10番目の大きさであったが、秋田市周辺の油田(八橋油田は国内生産量の70%を占めていた)からの原油産出量は日本本土最大で、その原油を精製し、内地における精製石油の37パーセントを担ってた。さらに、他の製油所とは異なり、輸入原油に依存しないことがわかっていたことから、日本の石油産業におけるもっとも重要な攻撃地の一つであった。

https://thsk-akita-tsuchizaki.amebaownd.com/pages/2963902/page_201906081840

https://tuchizaki.com/kusyu/%E5%9C%9F%E5%B4%8E%E7%A9%BA%E8%A5%B2%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2

https://wararchive.yahoo.co.jp/airraid/detail/14

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tohoku_04.html


平和を祈る乙女の像(港湾公園)

昭和54年建立。土崎港の臨海、ポートタワー・セリオンの近くに鎮座。「土崎空襲犠牲者追悼平和祈念式典」が毎年、この地で実施。

慰霊

鳩を抱えた乙女の像。

 日本が開国以来の大敗戦を喫した昭和二十年八月十五日の前夜半、わが郷土は「日本石油」を中心に米国空軍の猛爆撃を受け、市民、軍人およそ一八四名の犠牲者を出すに至った。
 その後昭和五十年「被爆市民会議」の発足成り爾来各種の慰霊行事を行なって来たが、漸くここに官民一致の協力を得て、其の霊を永遠に慰むべく慰霊塔の建立を見るに至った。
 願わくば諸霊とこしないに安らかに、以て世界の恒久平和と郷土の繁栄を守り給わらんことを。
 昭和五十四年八月十五日
  土崎港被爆市民会議会長 藤田渓山 謹誌

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/akita_akita_city001/index.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city002/index.html

場所

https://maps.app.goo.gl/5bA9CpAFXmb6MYYB6


道の駅あきた港 ポートタワー・セリオン

秋田市ポートタワー・セリオン
高さ143.6メートル
展望台の高さは100メートル。

ENEOS秋田油槽所
終戦直前の「土崎空襲」では、土崎港北大浜地区にあった「日本石油秋田製油所」がターゲットであった。

秋田港(土崎港)は北前船で発達し、そして臨海鉄道が陸と海の結節点として活躍していたが、「秋田臨海鉄道」は2021年に廃線し、そして秋田港駅も2026年7月に廃止となった。

秋田港駅。
明治40年(1907)開業。陸と海の結節点として機能し、秋田港にある製油所や製錬所からの輸送需要多くの貨物列車が通ったが、2026年7月廃止。

場所:

https://maps.app.goo.gl/kD6BWVkjkbSxMG5L9


土崎みなと歴史伝承館

土崎空襲をはじめとした土先の歴史を伝える施設。

https://tuchizaki.com

空襲展示ホールには、旧日本石油秋田製油所の建物(被爆倉庫)の一部(爆撃で溶けた実物のコンクリート)を移設して展示してある。

なんと、、、休館日(おとづれたのが火曜日)

残念すぎる。。。再訪??

場所

https://maps.app.goo.gl/c338R4yiH9aNYry79


祈恒久平和(雄物岸街区公園)

雄物岸街区公園にある慰霊碑

祈恒久平和
 秋田市長
  石川錬治郎

碑の由来
  昭和二十年八月十四日夜半から十五日未明にかけて、B29爆撃機百三十二機による、日本最後の土崎空襲で、上酒田町 新城町・稲荷町・小鴨町・加賀町で三十名の方々が尊い生命を失ないました。
  この碑は、この犠牲者の慰霊と戦争のない恒久平和をきずく誓いとして市民の篤志募金で建立したものです。
 平成四年八月十四日
  土崎港被爆市民会議
  平和祈念碑建立実行委員会
   委員長 佐藤 実 謹書

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city001/index.html

明治天皇行在遺蹟
1881年(明治14年)9月の 明治天皇「山形・秋田・北海道巡幸」のおりに、土崎港に行在所が設けられたことを記念。

場所:

https://maps.app.goo.gl/bfHSscHVKd7GxHd79


慰霊碑つばさ(古川町街区公園)

古川町街区公園に鎮座。
犠牲者の遺体を集めた場所という。

祈恒久平和
 この周辺は、一九四五年八月十四日夜半から、終戦の十五日未明にかけて米軍機B29による日本最後の土崎空襲で犠牲になった百数十人の遺体を鉄道線路上に置かれた痛恨の地である。
 ここに、慰霊と恒久平和の誓いを捧げる。
  一九九一年八月十四日
   建立
    土崎港被爆市民会議
    平和祈念碑建立実行委員会
     文 委員長佐藤実
         吉田金也謹書

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city003/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/jT68umsydWLVz2Np6


祈平和(光沼の祈念碑)

光沼近隣公園の駐車場近くに鎮座。

祈平和
土崎港被爆市民会議

土崎空襲で光沼に沈んだ犠牲者に捧げる

昭和20年8月14日の土崎空襲のとき、当時、燃え盛る日本石油秋田製油所などから逃れてきた多くの市民が、この光沼に飛び込んで熱や火を避けたと伝えられているが、亡くなった人も多数いたという。戦後、再開発によって光沼は段階的に埋め立てが行われ、沼としての姿は消滅している。

場所:

https://maps.app.goo.gl/o9far4p5ymqF5bDfA


慰霊塔
(高射砲台座上に建てられた慰霊塔)

土崎港(日本石油秋田製油所などの重要施設)を守るために配備された高射砲第四八大隊第四中隊の九九式八糎高射砲陣地のあった場所。そして秋田県でただ一つの戦場の跡でもある。

慰霊塔
秋田県知事小畑勇二郎書

この塔を建てた由来
この町内は太平洋戦争の末期の昭和二十年八月十四日から同十五日にかけて連合軍の大型爆撃機延べ二百五十機により約二千発の爆弾を投下され猛爆を受けたのであるがその際当地を警備中の独立高射砲隊(高射砲一箇中隊高射機関銃一箇小隊)および同隊を救援するため駆けつけた郷土部隊は最後まで勇敢に応戦し隊員の大部分が戦死されまた同時に一般市民も多数被爆し尊い命の失われた秋田県でただ一つの戦場であったのである よってこの人々の霊を慰めあわせてこの戦跡を永久に記念し再び戦争の悲劇をくりかえさぬことを誓うため当町内一同の総意によってここにこの塔を建立したのである
 昭和四十年八月十四日
  秋田市土崎港相染字緑町々内会一同

慰霊碑の台座が高射砲台座

場所:

https://maps.app.goo.gl/aQ6jdSMRreWzzvVG8


平和祈念碑
(土崎空襲 犠牲者に捧げる 慰霊平和)

通称、浜ナシ山。旧日石通りの慰霊碑。
日本石油秋田製油所従業員らを慰霊する。

土崎空襲 犠牲者に捧げる
慰霊平和
 祈念碑建立実行委員長 佐藤 実 謹書
  平成七年八月十四日

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city005/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/Z5rfLQAAdrGxS33RA


雲祥院

土崎空襲で被災した秋田県内で唯一の戦災寺院という。

https://unshouin.com/history

空しゅう被弾地域

場所:

https://maps.app.goo.gl/cxhvDHgh9xN1sdqM7


雲祥院の首無し地蔵

四体のお地蔵さまは、爆撃の破片で首が削ぎ取られ無くなっていた。被爆地蔵。


被爆した墓石(雲祥院)

境内の墓石にも被爆した痕跡が残る。


被爆した宝篋印塔(雲祥院)

秋田県内最古の宝篋印塔とされ、南北朝期の建立という。
上部は土崎空襲での被爆によって破損している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M1022-2
1948年5月16日、米軍撮影の航空写真を加工。
日石秋田製油所と、各慰霊碑の位置関係。

ちなみに、このエリアをすべて歩いて散策しました。
秋田県護國神社を起点に、ポートタワーセリオンを経由し、各慰霊碑を巡って、ゴールの上飯島駅までざっくり3時間でした。(土崎みなと歴史伝承館に寄れていればプラス1時間だったかも)


※撮影:2026年3月


空襲関連

昭和20年8月14日から8月15日にかけて、「最後の空襲」として被害をうけた空襲として「土崎空襲」のほかに「熊谷空襲」「伊勢崎空襲」「小田原空襲」などがある。

秋田港にあった軍艦防波堤の名残(秋田の戦跡散策・2)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

その1では、秋田県護國神社を参拝。

https://senseki-kikou.net/?p=57246

そこから北上して、「ポートタワーセリオン」に到着。


秋田港の軍艦防波堤

第二次世界大戦終戦寺の秋田港(土崎港)は、砂がたまって港としての機能を十分に発揮することができなくなっていた。
堤防を整備する予算も資材もない中で、軍艦を沈めて防波堤を構築することになった。
1948年(昭和23年)6月30日に秋田県秋田港の防波堤として、樅型駆逐艦「竹」、橘型駆逐艦「栃」、海防艦「伊唐」の3隻の船体が「軍艦防波堤」として、沈艦式が行われ、秋田港北防波堤となった。
軍艦防波堤は、砂の堆積を防いで秋田港の復興を支えたが、1975年(昭和50年)、秋田港の外港展開に伴う港拡張工事により、新しく北防波堤を築造することになり、旧来の北防波堤は撤去され、竹、伊唐、栃の船体も撤去された。

東北地方整備局 港湾空港部>

https://www.pa.thr.mlit.go.jp/akita/060/050/030/20200101013000.html

268mの軍艦防波堤
秋田港は、かつては土崎港と称していましたが、1941年(昭和16年)、南秋田郡土崎港町が秋田市と合併したことから、港の名前も秋田港と改称されました。同じ1941年からはじまった太平洋戦争は、秋田港にも大きな爪痕を残します。終戦前日の土崎大空襲(1945年/昭和20年8月14日)により港は大きな被害を受けます。さらに、海底にたまった砂を掘り出す浚渫船2隻が爆撃により沈没したことから、終戦後、港内にたまった砂を浚渫することができません。資材も乏しい戦後の混乱期、廃港の危機に立たされた秋田港は、旧軍艦を沈め防波堤を造るという住民の英知により復興します。1948年(昭和23年)駆逐艦「栃·竹」、海防艦「伊唐」の三隻が沈められ、長さ約268m、高さ6m、幅8mの北防波堤が築堤されました。その後、たびたび補修されながら四半世紀にわたり荒波をさえぎり、1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに取り除かれ、その役目を終えました。軍艦の再利用により復興した秋田港の歴史は、戦争の時代から平和な時代への転換を物語っています。現在は、北防波堤の付け根部分の長さ30mに面影が残っています。

海防艦「伊唐」
駆逐艦「栃」
駆逐艦「竹」(初代)

駆逐艦「竹」
樅型駆逐艦の6番艦。1919年(大正8年)竣工。
1940年除籍され、舞鶴海兵団の練習船となった。
1944年に海軍機関学校付属練習船となり終戦。

海防艦「伊唐」
鵜来型海防艦の10番艦。1945年4月竣工。
終戦直前の7月31日に海上護衛総司令部第一護衛艦隊第一海防隊として、七尾港で輸送船団護衛を実施のさなか、触雷し大破。七尾港埠頭に係留され終戦を迎えた。

駆逐艦「栃」
戦時量産型の松型駆逐艦(改松型)。「栃」は未成艦であった。
1945年5月工事中止。「栃」の船体は船台を開けるために進水しており、船体は軍艦防波堤として活用された。

このあたりに、軍艦防波堤があった。
前述の説明に「現在は、北防波堤の付け根部分の長さ30mに面影が残っています。」とあったが、どうなのかな。


航空写真から

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス

1948年(昭和23年)に軍艦防波堤が完成。

ファイル:MTO628-C28-12
1962年10月18日

ファイル:MTO722X-C3-2
1972年05月28日

1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに軍艦防波堤は撤去。

ファイル:TO791-C8-3
1979年06月15日


ポートタワー・セリオン

ポートタワー・セリオンから、四方を展望。

南側

海保
PS20しんざん

北側
秋田港駅
2026年7月で廃止となっている。(撮影は26年3月)

ENEOS秋田油槽所
終戦直前の「土崎空襲」では、土崎港北大浜地区の日本石油秋田製油所がターゲットであった。

秋田市ポートタワー・セリオン
高さ143.6メートル
展望台の高さは100メートル。


うどんそば自販機

おお、そういえば、ここでしたね。
うどんそば自販機があるって聞いたことあります。

かきあげうどん

へー、学校給食で使われている麺なのか。

※撮影:2026年3月

その3では、「土崎空襲」関連を散策します。


軍艦防波堤

秋田縣護國神社と秋田城跡(秋田の戦跡散策・1)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策としては、じつは秋田初上陸。まずは、秋田県護國神社へ参拝。


秋田縣護國神社(秋田県護國神社)

明治2年(1869年)、秋田藩主佐竹義堯が戊辰戦争に殉じた官軍戦没者425柱を高清水丘に「招魂社」として祀ったのが起源。
明治26年(1893年)に焼失。
明治32年(1899年)、秋田市千秋公園(久保田城址)に再建。
秋田県出身の軍人・軍属を合祀して官祭秋田招魂社と称した。
昭和14年(1939年)、内務大臣指定護国神社として秋田県護國神社に改称し、翌年、旧秋田城址である現在地に遷座した。
第二次大戦後の一時期、「軍国主義施設」として廃止されるのを防ぐ目的で、鎮座地名に因んで「高清水宮」と称し、伊弉諾尊・伊弉冉尊を合祀した。

戦後は県に関係した軍人、軍属の霊を合祀。
護国の神霊の御祭神は37,841柱。

平成2年(1990年)7月9日、中核派のテロにより当社社殿にしかけられた2つの時限爆弾が爆発し、社殿は全焼した。
しかし、本殿内に安置されていた神体および霊璽簿は無傷であった。
社殿は平成4年9月に再建。

昭和15年11月建立の社号標
佐竹義春(佐竹家宗家34代)の謹書

広々とした参道

そして、開放感あふれる境内

神門

この御門は伊勢神宮第61回御遷宮に当り「豊受大神宮端垣南門御扉他一部」を拝受し終戦五十周年記念事業として造営しました。
この神門をくぐり参拝される方々の更なる「いのち」の若返りと「生成発展」「平安」を心から祈念致します。

御拝殿

みたまやすらかに


御朱印(秋田縣護國神社)


天皇陛下皇后陛下御親拝記念碑

昭和四十四年八月二十六日
天皇 皇后両陛下 秋田県に
行幸啓の御砌り御拝をを賜う
仍て永く其の栄を伝えんとし
御在位六十年の慶祝を迎える
に当り篤志者のまことを募り
之を建つ
 昭和六十年十一月吉日
  宮司謹記


国歌、君が代さざれ石の由来


殉国秋田県人之碑

秋田県人戦没者の慰霊顕彰
平成七年建立

殉国秋田県人之碑
明治天皇御製
 かぎりなき 世にのこさむと 国の為 
  たふれし人の 名をぞとどむる
昭和天皇御製
 国のため 命をささげし 人びとの 
  ことを思えば 胸せまりくる

独立歩兵第八十四大隊戦友会の献納。
独立歩兵第八十四大隊の通称号は勝第四二一四部隊、第69師団の傘下部隊として中国方面等で活動


慰霊と平和を祈念する「リレー(relay)の火」

戦没者の慰霊顕彰と平和を祈念する灯火


真之御柱


建国記念の日碑


明治天皇御休憩所碑

1881年(明治14年)9月の 明治天皇「山形・秋田・北海道巡幸」にて、9月16日に秋田招魂社を参拝した際の休憩所を記念。


大正天皇御休憩所碑

明治41年9月21日に、当時皇太子であった 大正天皇が、秋田招魂社を参拝っした際の休憩所を記念。


高清水公園

戸崎清蔵翁顕彰碑

五輪塔

高清水公園 展望台
ポートタワーセリオンが見えますね。
このあとはそこまで行く予定。

伊藤永之介歌碑


満蒙開拓青少年義勇軍慰霊碑

秋田県出身の満蒙開拓青少年義勇軍の戦没者の慰霊顕彰碑
(左の碑)
昭和五十三年八月十五日建之

ぼくは満州へ行きます   
ぼくは大陸の土となります
かって国策の名のもとに 
鍬の柄肩に海を渡っていった 
私達少年です
その数八万六千五百三十名 
私達はひたすら五族協和王道楽土建設に
その青春を燃やした
敗戦・・・
戦争という極限の中で 
私達仲間の多くが 
大陸の土と化した
三十三年の歳月が流れた
彼等の前には一枝の花もない
私達の名は 
満蒙開拓青少年義勇軍

鎮魂歌
一 
秋田の郷を あとにして 五族協和の 国作り 
鍬の戦士の 千五百 我ら満蒙 義勇軍
二 
広漠千里 満州の 花の広野 肥沃にて 
男の子勇みて 犁をとる 我ら青年 義勇隊
三 
運命は哀し 大戦に 祖国敗れて 犠牲の 
満州の国原 風寒く 四百の霊の 還らざる
四 
国破るれど 山河あり 護国の岡の 君の碑 
北の国にも 春が来て 桜花は薫る 春爛漫
 碑前祭 例祭 五月第一日曜 
  昭和六十二年建碑十周年記念

われらは若き義勇軍
一 
われらは若き 義勇軍 
祖国のためぞ 鍬とりて 
万里涯なき 野に立たむ
いま開拓の 意気高し 
 いま開拓の 意気高し

われらは若き 義勇軍 
祖先の気魄 享けつぎて 
勇躍風に さきがけむ
打ち振る腕に 響きあり 
 打ち振る腕に 響きあり

細野三千雄君之碑


忠魂碑

戊辰戦争から日清日露戦争等における戦没者慰霊顕彰碑
大正七年五月建立
元帥海軍大将伯爵 東郷平八郎 謹書


秋田城跡

秋田県護國神社は、秋田城址のなかにある。
秋田城跡史跡公園と高清水公園と秋田県護國神社があるという感じかな。

秋田城は、古代の律令政権での城柵であり、中世の城跡ではないので、ちょっと紛らわしい。秋田県の佐竹藩(秋田藩)の城跡は久保田城、となる。

さて、ポートタワー方面に向けて北上します。

その2へ

※撮影:2026年3月


富士吉田市戦没者慰霊塔(新倉山浅間公園・忠霊塔)

例の場所。
富士山と桜と五重塔の、いかにも日本的な風景。外国人観光客、インバウンドにとにかく人気の場所。
ただ、ここが「戦没者慰霊塔」であることを知ったうえで訪れている人は、極めて少なそう。

富士山は見えませんでした。。。


富士吉田市戦没者慰霊塔(新倉山浅間公園・忠霊塔)

みたまやすらかに
合掌

富士吉田市戦没者慰霊塔(通称:忠霊塔)
五重塔と富士山が織りなすこの美しい景色の背後には、戦争によって失われた多くの尊い命があります。
この塔は、その方々を追悼し、二度と戦争の悲しみを繰り返してはならないという想いと、戦争のない平和な世界への願いを後世に伝えるために建てられました。

この塔は、富士吉田市戦没者慰霊塔(通称:忠霊塔)といいます。
明治以降、日本国として参戦した戦争において、富士吉田市から出征し、尊い命を落とされた方々を追悼するため、市の援護会を中心に、多くの市民の浄財によって建設が進められました。
昭和33年(1958年)8月、富士吉田市長を委員長とする富士吉田市慰霊塔建設委員会が設置され、昭和34年(1959年)4月に起工し、3年の歳月を経て、昭和37年
(1962年)4月に完成しました。この塔内には、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦及び太平洋戦争において亡くなられた本市出身の戦没者1,055名の位牌が納められており、その方々を追悼する場となっています。
戦争で大切な家族を失った遺族にとって、世界中から国境を越えて多くの人々がこの地に集う今日の姿は、平和の尊さをあらためて感じさせてくれるものです。
来訪者の皆さまが、戦争の悲惨さと平和の尊さ、また、命の大切さに静かに心を寄せてくださることを願っています。
 令和8年8月
  富士吉田市戦没者慰霊塔奉賛会
  富士吉田市遺族会

Fujiyoshida City War Memorial Tower
(commonly known as Chureito Pagoda)

Behind the breathtaking view created by the five-story pagoda and Mount Fuji lies the memory of
countless precious lives lost to war.
This memorial tower was built to honor those who sacrificed their lives, to remind future generations that the tragedy of war must never be repeated, and to express our hope for a peaceful world free from conflict.

This monument is officially known as the Fujiyoshida City War Memorial Tower,
commonly called the Chureito Pagoda.
It was constructed through generous donations from many citizens, led by the city’s War Bereaved Families Association, to commemorate the people of Fujiyoshida who left their hometown to serve Japan in wars from the Meiji era onward and lost their lives.
In August 1958, the Fujiyoshida City War Memorial Tower Construction Committee, chaired by the Mayor of Fujiyoshida, was established. Construction began in April 1959, and after three years of work, the tower was completed in April 1962.
Enshrined within the tower are memorial tablets dedicated to the 1,055 men and women from Fujiyoshida who lost their lives in the First Sino-Japanese War, the Russo -Japanese War, the First World War, and the Pacific War. The tower serves as a place to remember and honor their sacrifice.
For the families who lost their loved ones in war, seeing people from around the world gather here today, crossing national borders to visit this place, is a powerful reminder of the value of peace.
We hope that all who visit this memorial will take a quiet moment to reflect on the tragedy of war, the preciousness of peace, and the value of every human life.
 August 2026
  Fujiyoshida City War Memorial Tower Support Association
  Fujiyoshida City Bereaved Families Association

忠霊塔の概要
1.正式名称 富士吉田市戦没慰霊塔(通称:忠霊塔)
2.所在地 富士吉田市浅間2丁目3360番地の1
    市立新倉山浅間公園内
3.構造等
1構 造 鋼板一文字葺鉄筋コンクリート五層建
   大阪四天王寺の五重塔を模している。
2大きさ 基礎部分7.3m四方 一階床面積四坪(13m2)
3高 さ 19.5m(本体部分13m、相輪6.5m)
4総工費 9,368,884円
    (工事費9,210,767円 事務費158,117円)

「富士山眺望日本一」の写真

殉国之塔
昭和27年4月21日建立

忠霊塔建立前の石碑。殉国。

展望デッキからの眺め。
富士山は見えませんね。

富士山は見えなかったけど、外国人の皆様がとにかく多く、体感的には、日本人は10%、残り90%が外国人の皆様。。。


新倉山浅間公園(あらくらやませんげんこうえん)

1959年10月設置。三國第一山新倉富士浅間神社が鎮座しており、新倉山は神域となっている。

三國第一山新倉富士浅間神社
宗教法人名称は「富士浅間神社」、旧社格は村社。

創建は、慶雲3年(705年)9月9日。甲斐国八代郡荒倉郷の氏神として祀られる。
大同2年(807年)、富士山の大噴火があり、同年8月22日、当社に勅使が参向、国土安泰富士山鎮火祭を執行し、その時、平城天皇より「三國第一山」の称号並びに天皇親筆による大鳥居勅額・金幣・破魔宝面(勅使面)が奉納された。

「三國第一山」の扁額。

咲くや姫階段 398段

お土産・軽食堂屋さんは、外国人観光客仕様。


下吉田駅

富士吉田市戦没者慰霊塔(新倉山浅間公園・忠霊塔)の最寄り駅。


都留市駅

都留市駅で途中下車。

温泉寄り道してみました。
「より道の湯」
なかなかに良い温泉。ゆっくり出来ました。また来ましょう。

大月駅にはフジサン特急が居ました。

河口湖駅には、「富士山ビュー特急」とJRの特急「富士回遊」も。

※撮影:2026年8月


関連

河口湖自動車博物館・飛行舘(2026年8月版)

夏の恒例となりつつある「河口湖自動車博物館・飛行舘」。
今年で、5年連続、です。
「彩雲」の進捗を中心に。


前回の記録

2022年
※展示機の紹介は2022年が一番詳しいです。

2023年

2024年

2025年


艦上偵察機「彩雲」(11型1290号機)

昨年からの更新は、発動機架覆(エンジンマウント覆)が完成し、機体に組付けされた状態での展示。

※彩雲の説明とは、上記リンクの過去記事を参照で。
 以下、写真メインで。

長いですよね。


河口湖自動車博物館・飛行舘 そのほか写真

そういえば、小型カメラ(コンデジ)は撮影OKでした。(スマホだけOKかと思ってた)
引き続き、一眼レフカメラは禁止ですが。

開いているときと閉まっているときがありますね。

本日は河口湖飛行舘にご来館頂き有り難うございます
 当館では1935年~1945年頃の大東亜戦争の期間中に開発、使用された航空機と関連部品·資料などを収集し、公開しております。
 日米戦争(太平洋戦争)は、日本海軍による1941年の真珠湾攻撃から始まり、アメリカ軍の広島·長崎への原爆投下によって、3年8ヵ月も続いた大戦が終了いたしました。
 戦争では船や航空機などに重点が置かれ、様々なものが開発されました。
戦後、世界の航空機に使われている“ジェットエンジン”なども、そのひとつです。
 当館では、その時代に開発された優れた産業技術を後世に残す為、歴史的に重要な昭和の技術遺産を修復し、保存しております。


公式サイト

https://www.car-airmuseum.com/index.html

それにしても、毎年、通っているけど、富士山が富士山らしく見えた試しがない。。。


船津口

船津口の登山口のルートでお伺いしてます。

※撮影:2026年8月


大阪に残る民間防空壕「加賀谷家防空壕」

大阪に残る民間防空壕。
外観のみですが、眺めてみましょう。


加賀谷家防空壕

住之江公園駅最寄り。大阪護國神社とあわせて訪れると良いかも。

個人所有の防空壕。
昭和20年8月14日に完成したという。
大阪では、終戦前日の、この日に「大阪大空襲(京橋空襲)」があり(大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)がターゲットとなっていた。

住宅地に残る民間防空壕

換気口も設けられている。

屋根部分にも排気口

ちょっと歩くと、路地に隠れて、見えなくなる。

路地の入口には古い井戸がある。往時の道幅を推し量ることができる。

神社もある。古くからの集落であることもわかる。

場所

https://maps.app.goo.gl/p4gfqcxPwqU7xVH59

※撮影:2026年7月


関連

https://senseki-kikou.net/?p=48610

81年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

終戦から81年目の8月15日、終戦の日の靖國神社。
令和8年、西暦2026年、皇紀2686年の夏、節目の日。
毎年恒例。
変わることなく、祈りを捧げる。


靖國神社・午前9時15分

神門前。昨年、80年の節目と比べると人手は少ない、か。
昨年は、此の時間帯で、第二鳥居まで、参拝列ができていた。

このときは青空が見えていましたが、正午は雨になるという天候でした。

今年は、崇敬奉賛会は、サンバイザーと瞬間冷却保冷パックを配布。これは有難いですね。


放鳩式 靖國神社・午前10時

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

昨年と看板のデザインがかわりましたね。

毎年恒例、講談師の室井さん。

靖国神社、大塚宮司

英霊、ありがとう
心をこめて
放鳩式

室井さんも、毎年ありがとうございます。


御朱印・靖國神社白鳩の会

ストラップは毎年色がかわります。


遊就館

冷を求めて一休み。


靖國神社・午前11時15分

今年は麦茶ではなく、お水。
お水のコップをお盆に乗せて、参列者の列に配って下さいました。
瞬間冷却保冷パックもあわせて配布。
ありがとうございます。


靖國神社・午前11時50分

正午直前に、雨が振ってきました。

国歌
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

黙祷

全国戦没者追悼式
令和8年8月15日(土)(日本武道館)
おことば

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来81年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

https://www.kunaicho.go.jp/watch/okotoba/imperial-family01/addresses/ceremony2026.html#twords-2721bjlbufr4w

毎年、この場所で、海行かばを

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

みたまやすらかに


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

合掌。

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」

※撮影:2026年8月15日


富山大空襲(富山の戦跡散策6)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
その6では、「富山大空襲」と富山市街地を。


富山の戦跡散策1


富山大空襲

昭和20年8月1日、富山は米軍B-29爆撃機182機による大空襲を受けた。
富山市街地は99・5%を焼き尽くされ廃墟となり、死者は約3,000人、負傷者は約8,000人、被災者は約11万人にのぼった。
「富山大空襲」は、地方都市としては人口比で最も多くの犠牲者を出した空襲であった。

当時、米軍は、空襲目標として中小都市を選定していた。すでに空襲により都市機能を破壊した東京・大阪・名古屋・横浜・神戸・川崎・尼崎を外し、原爆投下候補として、京都・広島・新潟・小倉を外した、空襲対象地は137都市となり、富山市は人口12万7,000人で36番目であった。
しかし富山市は呉羽紡績・日清紡績・日本曹達・不二越などの近代的大工場が集まり東岩瀬港の改修と東岩瀬臨海工業地帯を始めとした臨海工業地帯が発展しつつあり、米軍としては重要な爆撃目標であった。
ただ、米軍は、富山において工場群を狙う戦略爆撃は実施せず(結果、工場群は、ほぼ無傷)ではなく、労働者(市民)の住む都市爆撃を敢行し、富山は多大な犠牲を払った。

https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/kuushuu

https://www.toyama-gokoku.jp/ihouroku/2013/12/post-44.html


戦災復興記念像(天女の像)

富山城址公園内に。

 昭和二十年、太平洋戦争は激烈の度を加え、八月二日未明に、富山市は、B29百七十余機の焼夷爆弾攻撃を受け、市街地は一夜にして焦土と化しました。
 約二万五千の世帯、十一万人の市民が罹災し、約八千人が重軽傷を負い、二千七百余人の尊い生命が失われ、まさに、壊滅的な状況になりました。
 惨憺たる焼土と、絶望の虚脱の中から、富山市民は、平和を渇望し郷土の復興に気力を燃やし、槌音高く、県都富山の再建に立ち上がりました。
 市民の決意と総力の結集が実を結び、戦災復興の大大事業が完成し、今日の近代的都市に生まれ変わりました。
 この天女の像は、恒久の平和を念願するとともに、尊い犠牲に敬虔な祈りを捧げ、市民の努力による偉大な業績を記念して、富山復興特別事業協議会により、昭和四十九年八月一日に、戦災復興記念像として建立されたものです。
 平成二十年八月一日
  富山市

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/toyama_toyama_003/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/bfEzy39FMocorHACA


富山城址公園

富山市郷土博物館(模擬天守)。

加賀前田藩の分家となる富山前田藩の居城。
富山大空襲では、米軍は爆撃中心点を富山城址の東南に設定している。
なお富山城自体は、明治4年(1870)の廃藩置県により廃城となり払下げ解体となっている。
現在の模擬天守は、1954年(昭和29年)完成。

呑んだあとに散歩していたので、夜の様相も。

場所:

https://maps.app.goo.gl/UvCBUbbZ3Mg6Ukhe6


殉職警防團員之碑

富山城址公園内に。

皇紀2600年(1940年・昭和15年)を記念して建立。
明治42年から昭和15年までの30年間で、消防・水防活動中に亡くなった消防組員および警防団員20名の殉職者の慰霊顕彰碑。
また第二次大戦中に活動していた当時の消防関係者の志気を高めるという意味も込められていた。

警防団は昭和14年に結成。防護団(防空)と消防団(火防・水防)を統合し、警察の指揮下にあった。

殉職警防團員之碑

殉職警防団員之碑
 警防団員とは、戦前の名称で、現在の消防団員をいいます。
 消防団員は、住民の生命、身体、財産をあらゆる災害から守るという崇高な使命と長い伝統のなかで培われた旺盛な郷土愛護の精神に燃えています。
 水火災害に敢然と身を挺してその職に殉じた消防職団員の霊を弔い、その功績を永くたたえるとともに、県下消防関係者の志気を鼓舞するために建設されました。
 昭和20年8月2日未明の富山市空襲には奇跡的に戦禍を免れています。
    昭和15年12月竣工 (皇紀二千六百年)
    木曽川産 水成岩
    本碑揮毫 富山県知事 矢野兼三
    (財)富山県消防協会 

明治天皇御製
事しあらば 火にも水にも いりなむと
思ふがやがて やまとだましひ

明治40年に詠まれた歌
意訳:事故があったときには、火の中水の中飛び込んででも、救助しようとするその心こそが大和魂だ
万葉集の「事しあらば火にも水にもわれなけなくに」の表現が取り入れられている。

https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori34/tayori34.htm

場所:

https://maps.app.goo.gl/4RJxHoMYSa5uyrX37


前田正甫像

富山城址公園内に。

前田正甫(まえだ まさとし)は、富山藩二代目藩主。産業奨励とし富山売薬(富山反魂丹)を推進し、いわゆる「越中富山の薬売り」を発展させた人物。

場所:

https://maps.app.goo.gl/QfuQLr2w7SYBTLHe7


殉職警察官之碑

富山県庁前公園に。

殉職警察官之碑
内務大臣 男爵 山本 達雄 書

昭和9年5月竣工

殉職警察官之碑
 昭和九年五月竣工 (常願寺川産水成岩)
 殉職者 建立時 三十柱
     令和六年八月現在 一四四柱 
 本碑 揮毫 内務大臣 山本達雄
 副脾 稿 漢詩家 国府種德
    撰文 富山県知事 斎藤樹
    揮毫 臨済宗国泰
       寺派管長 佐竹竜水

碑文要旨
 立山を仰ぎ見れば、高くそびえてまことに崇高であり、越の海を望み見れば、まことに広大である。しかし、わが富山県の殉
職警察官の義勇もその崇高、広大さにおいては、かの立山や越の海に比類するものというべきである。
 警察官の任務は、安寧を擁護し、秩序を維持し、邪悪を戒め、災禍を救うにあり、一身の安危を忘れて、敢然として職務に挺
身すべきものであるが、思うに、旺盛な義勇心がなくては、どうして至難の事に処し、ひいては世人の期待にそい得ることができ
ようか。まさにこの旺盛な義勇心こそ、警察精神というべきである。
 社会の治安と民衆の福祉のために捧げられた、本県殉職警察官の義勇を知るならば、かの立山の山霊、越の海の海神も、その崇
高偉大さに一歩も二歩も譲るであろう。
 富山県警察本部
 富山県警友会

場所:

https://maps.app.goo.gl/gjyoNzQK5S2GR4jc8


富山県庁本庁

国会議事堂の設計を担当した大蔵省営繕管財局工務部長の大熊喜邦が監修し、1935年(昭和10年)8月17日に完成。
1945年(昭和20年)8月1日に富山市一円を焼き尽くした富山大空襲では、焼夷弾の直撃を受けたとされるが焼け残った。
全国の庁舎の中では5番目に古い建造物。国登録有形文化財。

夜の散歩

場所:

https://maps.app.goo.gl/v9im9SuXp9kkNNjJ6


富山市役所

1992年完成。最上階の展望塔から富山市街を一望できる。

富山城方面

富山県庁方面

富山電気ビルディング方面


富山電気ビルデイング

1936年(昭和11年)4月8日に竣工。
富山市内では富山県庁舎(富山県庁)とともに第二次世界大戦以前に竣工した建築物。
富山大空襲では焼夷弾の屋上への直撃で焼失した5階部分を除き、耐えぬいた。
第二次世界大戦後の1945年11月には、進駐軍の富山司令部が設置(1952年6月廃止)されている。

場所:

https://maps.app.goo.gl/X6zsLvAKqtfPaj7y9


富山あれこれ

富山地方鉄道の路面電車でなんとなく南富山駅に行ってみたり。

富山駅

駅そば、立山そば

「しろえび天ぷら」と「ますずし」、「ニシンの昆布巻」
ますの寿司でおなじみの「源」
駅そばで富山を満喫。

特別純米「立山」

富山スペシャル天丼(白えび・ブリ・ほたるいか)

ねばり昆布生姜

「焼き鯖すし」「幻の瀧」

居酒屋、「呉羽梨」とほうじ茶のJIN

千代鶴

羽根屋

勝駒

シメそば

とろろそば、とろろ昆布おにぎり

あんばやし(味噌田楽)

冷やしそば出しラーメン

富山ブラックラーメン

おでん

ビーバー
ロングサラダ

新幹線アイス

パウチ日本酒

ビーバーとハッピーターンと柿の種

高田屋の「鱒の寿」
先輩におすすめされて。

富山の食も堪能満喫、また来ますね。富山良い街です。
いちれんの富山散策は、いったん、〆で。

※撮影:2025年9月


関連

富山市に投下された模擬原爆(富山の戦跡散策5)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
その5では、「富山に投下された模擬原爆」に関連する戦跡に赴いてみました。


富山の戦跡散策1


パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾)

パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾)は、1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾(原爆)である「ファットマン」の模擬爆弾として開発された。「パンプキン」は特殊形状な爆弾であった「ファットマン」の投下訓練とデータ取得の爆弾として、日本全国に投下され、その訓練と解析の実績が長崎に投下された「ファットマン」へのつながることとなった。
パンプキンは、18都道府県30都市に50発(うち1発は任務放棄し爆弾は海上投棄された)が7月20日 – 8月14日の間に投下され、全体で死者400名・負傷者1200名を超す被害が記録されている。

下記はアメリカ・ラスベガスのアトミックミュージアム展示の「ファットマン原寸大模型」
(2025年4月撮影)


富山に投下された模擬原爆

米軍の原爆投下部隊・第509混成群団が広島・長崎を前に模擬原爆・パンプキン爆弾で投下訓練を実施。
富山市内には4発の模擬爆弾が投下された。
7月20日、3発の模擬原爆が、富山市内の重要な軍需工場となっていた不二越製鋼東岩瀬工場、日満アルミニウム及び日本曹達富山製鋼所を目標に投下。
これによる被害は死者47人、重軽傷者40人、また家屋4戸が火災に遭ったほか、家屋約50戸が損害を受けた。
7月20日の爆撃は天候不順のために目標には命中できず、観測も失敗したために、7月26日に富山市豊田地区に対して一発のパンプキン爆弾と再度投下している。この26日の爆撃では死者は6人、重軽傷者は50人、全壊家屋は8戸、半壊家屋は50戸が被害を受けた。
この一連の富山市の中田地区・森地区・下新西町地区・豊田本町地区における4発の模擬原爆による被害は、死者53人、負傷者90人であった。

そして、富山市は、8月1日に「富山大空襲」を迎えることとなる。


爆心地
(7月20日・中田地区の模擬原爆の爆心地)

昭和20年7月20日に投下された模擬原爆の「爆心地」。

昭和二十年
世界初の原子爆弾の模擬爆弾の跡地
 終戦間際の昭和二十年(一九四五年)七月二十日朝八時過ぎ、突然「Bニ十九」が飛来して、市の北部で基幹産業の工場地帯に三発(当地の他·森地内·下新地内)の爆弾を投下されました。
 後に解ったことですが、後に広島·長崎に投下された、世界初の原子爆弾の模擬爆弾であること、当初は、新潟もその候補地であった為、気象条件も似た富山が選ばれ、時間帯も朝に設定されていたとのことです。
その為、当地域では、通勤途上の十数人が犠牲となられ、また負傷者も多く出ました。
 当町内では、奇跡的に犠牲者はありませんでした。負傷者は、数名あったようです。
 しかし、家屋にも焼失した家、屋根も床も抜け柱だけの家や半壊の家が多く出ました。
 又、遠く離れた「小学校」の南向き窓ガラスはすべて割れ、破片も屋根·床を貫通していたようです。又、工場のスレートも多く破損しました。
 その爆風の威力は、田んぼの稲もまるで刈り取ったかのように、根元から綺麗に何處かに消し飛んでしまったと、翌日の新聞が報じています。
 跡地には、大きな窪地ができ、数年間に亘り直径十五メートルを超える池となり、筏を浮かべることもできました。
 これは、長崎に投下されたものと同じ形状であること·色合いが黄褐色でもあり「パンプキン」と云われていました。

爆弾の大きさ
直径:1.5M
長さ:3.5M
重さ:4.5トン

被爆後の空撮写真には、
1の現在地には、明らかに爆弾の跡に水がたまっているのが、はっきりと写っています。
窪地を年々埋めて現在のようになりました。
2は、中田八幡社の元の場所で、森地内の投下場所とほぼ等距離にあった為、被災しませんでした。
昭和31年に、全体を持ち上げて、コロ引きで、現在地まで移設遷座されました。
その後、経路沿いに植樹して、現在の桜並木になりました。

爆撃により発生した大きな窪地

爆心地の裏手にある不二越の工場。
ちなみに不二越のブランド名「NACHI」は、那智熊野大社に由来する富山発祥のメーカー。
もともとは、不二越を目標にした爆撃であった。

中田八幡

場所:

https://maps.app.goo.gl/kA6FDoP8nMExcaqL7


上記の東岩瀬の爆心地の最寄り駅。

東富山駅

あいの風とやま鉄道(旧・JR北陸本線)の駅。
明治41年(1908年)開業時は「東岩瀬駅」。
昭和13年に「不二越鋼材工業株式会社東岩瀬工場」が駅近くに設置され、工業地帯への貨物駅も担うことになった。
戦後の昭和25年に富山港線の越中岩瀬駅が東岩瀬駅へと改称することになり東富山駅に改称。

西口駅舎本屋は1908年(明治41年)9月竣工。

レンガ倉庫。
かつては、駅灯室として用いられ、駅本屋と同じく、1908年(明治41年)9月築。


平和祈願之碑

7月26日、富山市での2回目となる「模擬爆弾」が投下されたのが、「富山市豊田地区」であった。

平和祈願之碑

大東亜戦争被爆地の記
一九四五年(昭二十年)七月二十六日朝八時頃アメリカ軍の爆撃機B29が飛来し豊田のこの地に爆弾を投下しました そのため鈴木善作(当時四十九才)ほか十五名の者が被爆犠牲者として尊き生命を断ちました。
人類にとって戦爭ほど醜く嘆き悲しまずにいられないものはありません。
再びと、このようなことの起ることはなく未来永遠に人類が平和でありますことを請い願ってこの碑を建立します。
 一九八八年(昭六十三年)七月二十六日

昭和六十三年七月建之
犠牲者の遺族が自費で建立した「平和祈願之碑」。
当地で犠牲になった鈴木善作・レツ夫妻ら住民16人を悼み、善作氏の息子である故・善蔵氏が1988年、着弾地から数十メートルの所有地に退職金を元手に建立。内部には爆弾の破片と防空頭巾が収められたという。

総務省>追悼施設
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/toyama_toyama_004/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/p3sKeQFoFVbNrq2Y9

帰路は富山港線ポートラムで富山駅に。

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策6 へ


富山関連

模擬原爆関連

砲身を台座とした「利田忠魂碑」(富山の戦跡散策4)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
その4では、「砲身を用いた忠魂碑」に赴いてみました。


富山の戦跡散策1


富山駅から東に約10キロ。
富山県中新川郡立山町の利田小学校脇にある「利田忠魂碑」。
バスの場合は、富山駅から日置バス停で下車して、そこから歩きで、ざっくりトータル1時間ほどで到着。


利田忠魂碑

青の砲身と金の地球と金の鷲
みたまやすらかに、と、忠魂碑に合掌

建立の由来
大正十三年
利田忠魂碑は利田村民の総力により戦没者のみたまに感謝の誠を捧げんと建設費二千八百円(当時の村年予算二千円)の巨費と四百六十人の奉仕によって建設される
上部は日本海海戦に武勲をたてし志保丸の砲身で長さ七・二米、重さ六・七屯、海軍軍人として活躍中の曽我大佐 宮崎中尉 保正一等兵曹の三氏が海軍省から払下げに努力されたものである。
昭和十四年
蘇我の藤田金太郎翁が砲身の上に地球と鷲を寄贈される
昭和四十三年
明治百年を記念し大改装を行い追悼法要を執行する
平成三年八月
利田小学校グランド整備のため現在地に移転建設する

忠とはまごころ いつわりのない心 まことの心である
合祀する六十五柱のまごころに感謝し
永遠の平和を祈念するものである

合祀する六十五柱のまごころに感謝し永遠の平和を記念するものである
 平成三年八月吉日
  利田自治振興会

碑文中に出てくる「志保丸」という艦船は、日本海海戦時には海軍には存在しておらず、調査の結果、戦艦「安芸」の砲身が下附されたともいわれている。

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/tut/1339942?page=2

ん?戦艦安芸??となると、砲身の忠魂碑(慰霊碑)は、兵庫西宮の鳴尾八幡でも拝見してましたが、そちらも戦艦安芸という話が伝承されている。。。

「金鷲輝く 日本の 栄ある光 身に受けて」、、、あっ金鵄か、国民歌「紀元二千六百年」は。

場所

https://maps.app.goo.gl/o1xFzDnWAQQWJWPbA


行き帰り

バスは休日は2時間に1本程度。

行きは良いけど、帰りのバスが無いので、越中三郷駅まで50分くらい歩きました、地方あるあるです。

富山地方鉄道

越中三郷駅

ちょうど、電車が入線して、行ってしまいました。。。

これは良い佇まい。

昭和6年(1931年)開業。

「鐵電山富」「驛鄕三」
開業時の社名で右書き

予備知識無しで訪れましたが、これは良い。歩いて正解でした。

「みさと」ではなく、「さんごう」

ぼーっと、無人駅で一休みする時間も良いものです。

富山駅に戻ります。

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策5 へ


関連

富山県忠霊塔・富山陸軍墓地(富山の戦跡散策3)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
初の富山県散策、その1の「富山縣護國神社(富山県護国神社)」、その2の「富山歩兵聯隊」関連の戦跡に次いで「富山陸軍墓地」に赴いてみました。


富山の戦跡散策1


富山歩兵聯隊跡のある富山大学前から、シェアサイクルを活用して、一気に「富山陸軍墓地」へ。
富山市の西にある呉羽山。その呉羽山の南東に富山大学、北東に「富山陸軍墓地」という位置関係。


富山県忠霊塔(旧富山陸軍墓地)

富山陸軍墓地は市営長岡墓地にある。現在は「富山県忠霊塔」。
陸軍墓地として個人墓はなく、忠霊塔と3つの合葬碑が残っている。

富山県忠霊塔の沿革について
 明治四十一年、歩兵第六十九連隊が富山で編成され、同隊の公傷病死者の分骨を埋葬する「陸軍墓地」が、この富山市北代の地に設けられました。その後、各戦役ごとに「忠魂碑」が建立されて、陸海軍戦没者を合葬されております。
 向かって中央の「忠霊塔」は昭和十六年十月に建設されましたもので、昭和十二年七月よりの日華事変関係戦没者四七八六柱を合葬し、以来、太平洋戦争の戦没者を合葬してあります
 向かって右の一番目の碑は、昭和七年第一次上海事変戦没者一四八柱が合葬され、同年十二月に建立されました。
 向かって右の二番目の碑は、昭和十年から同十二年にわたる、第一次満州事変に従軍された、歩兵第三十五連隊の戦没将兵五八柱の分骨を合葬してあります。
 忠霊塔の向かって左の碑は、歩兵第三十五連隊が富山に移駐したため、金沢陸軍墓地に合葬してあった、日清日露戦役の戦死者の分骨を富山に移されたもので、昭和八年に建立されたものであります。
 これら旧陸軍墓地の合葬者は二八七四八柱にのぼっています。
 現在ご英霊に対しましては、富山県遺族会によりまして毎年八月に、慰霊祭が厳修されております。
 ご英霊の永遠のご冥福をお祈りします。
  平成九年七月吉日
   寄贈 社団法人 日本郷友連盟富山県支部

中央に忠霊塔
むかって右に上海事件陣歿者合葬碑、
むかって左に、満州事変陣歿者合葬碑と陣歿者病死者合祀碑がある。


忠霊塔(旧富山陸軍墓地)

「忠霊塔」は、昭和十六年十月に建設。
昭和十二年七月よりの日華事変関係戦没者四七八六柱を合葬し、以来、太平洋戦争の戦没者を合葬。

2023年に改修工事があり、忠霊塔は安全面を考慮し、建立時の14メートルから9メートルに低くなった。

合掌
みたまやすらかに

2023年の改修工事の際に、銘板には高岡銅器を使用。


陣歿者病死者合祀碑(旧富山陸軍墓地)

大正14年5月に歩兵第35聯隊が、金沢から富山に転営したため、金沢陸軍墓地に合葬されていた日新日露戦争の戦死者の分骨を、富山に移されたもので、昭和8年9月に建立された。

陣歿者病死者合祀碑
陸軍中将 荒蒔義勝書

荒蒔義勝は、昭和7年(1932年)9月から昭和9年8月までに第9師団長であった。第9師団は北陸3県(富山・石川・福井)を管轄。

大正14年5月転営
昭和8年9月建之


上海事件陣歿者合葬碑(旧富山陸軍墓地)

昭和七年第一次上海事変戦没者一四八柱が合葬され、同年十二月に建立。

上海事件陣歿者合葬碑
陸軍中将 植田謙吉 書

昭和4年(1929) 支那駐屯軍司令官、昭和5年12月に第9師団長となる。第9師団長在任中に、第一次上海事変勃発し出動。停戦交渉中の昭和7年(1932)4月29日の天長節爆撃事件により左脚を失う重傷を負う。上海事件陣歿者合葬碑は、第9師団長として揮毫している。

昭和7年12月建之


満州事変陣歿者合葬碑(旧富山陸軍墓地)

昭和10年から同12年にわたる、第一次満州事変に従軍された、歩兵第三十五連隊の戦没将兵五八柱の分骨を合葬。昭和12年5月建立。

満州事変陣歿者合葬碑
陸軍中将 蓮沼蕃 書

蓮沼蕃は石川県出身。陸大兵学教官時代の教え子が栗林忠道であった。
昭和10年8月から昭和14年8月まで第9師団長。その後、最後の侍従武官長を終戦まで務めた。

昭和12年5月建之


石灯篭(旧富山陸軍墓地)

陸軍星の五芒星が刻まれた石灯篭

これは何だろう?

昭和8年3月1日建之


旧富山陸軍墓地入口

富山陸軍墓地の入口。

大灯篭

昭和12年奉納

手水石も陸軍星の五芒星、昭和12年奉納

門柱

場所:

https://maps.app.goo.gl/qSyiVWewrN2ZSANF9

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策4 へ


関連

富山歩兵聯隊跡(富山の戦跡散策2)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
初の富山県散策、その1の「富山縣護國神社(富山県護国神社)」に次いで、「富山歩兵聯隊」関連の戦跡を巡ってみました。


富山の戦跡散策1


富山の歩兵聯隊

明治29年(1896年)、石川県野田村(現在の陸自金沢駐屯地)に「歩兵第35聯隊」聯隊本部を設置。
明治40年(1907年)、「歩兵第69聯隊」が歩兵第7連隊(金沢)及び歩兵第35聯隊(石川)内に設置。
明治41年(1908年)、「歩兵第69聯隊」が石川から富山の東呉羽村に移転。
大正10年(1921年)、「歩兵第69聯隊」は富山からシベリア出兵。七尾港からシベリアに出征。
大正14年(1925年)5月、宇垣軍縮により富山「歩兵69聯隊」は廃止。「歩兵第35聯隊」が金沢から富山に転営。「歩兵第69聯隊」の600余名は、新たに富山に配属された歩兵第35聯隊に編合。

歩兵第35聯隊
昭和7年(1932年)「歩兵第35聯隊」は第一次上海事変に出征。
昭和12年(1937年)「歩兵第35聯隊」は第二次上海事変に出征し、南京追撃戦の第9師団の主力として活躍。その後、徐州会戦などに参戦し、昭和15年からは満洲駐屯。
昭和19年(1944年)7月、沖縄に移駐し防御陣地の構築に参加。11月に台湾に移駐し、終戦を迎えている。

歩兵第69聯隊
昭和12年(1937年)動員され、第109師団隷下。
昭和15年(1940年)再動員され、第52師団隷下。
昭和17年(1942年)大本営予備として待機
昭和18年(1943年)トラック島に進出、防御陣地構築にあたり、そのままトラック島で終戦を迎える。


富山歩兵聯隊跡

富山市五福の県営富山野球場のちかくに、記念碑が建立されている。
現在の富山大学五福キャンパスから県営野球場のあたりが、富山歩兵聯隊の地であった。

富山歩兵聯隊跡

題字は、瀬島龍三氏。
瀬島龍三氏は、富山県出身。陸士44期次席、陸大51期主席。最終階級は中佐。太平洋戦争のほとんどを陸軍参謀本部部員として陸軍中枢の作戦担当にあたった人物。
戦後は伊藤忠商事会長、亜細亜大学理事長、中曾根康弘首相顧問などを務めた。

この地は明治41年5月より昭和20年10月まで37年間、越中飛騨信濃等の青年が入隊し錬武に励んだところである
 題字 瀬島龍三 書
 昭和53年8月19日建之
富山聯隊跡地記念碑建設協賛会


本土決戦機動兵団歩兵第514聯隊動員編成跡地

昭和20年(1945年)4月に本土決戦に備えて創設された陸軍聯隊の動員編成地。

1945年(昭和20年)4月2日、第209師団が創設され、第209師団所属歩兵第514聯隊(加越第21613部隊・加越第3部隊)が動員された。
第209師団は機動打撃師団として、上陸してくる敵に対し、「地上特攻」総攻撃すべく水際殲減決戦部隊であった。
富山大空襲では、隊員25人が爆死している。

本土決戦機動兵団歩兵第514聯隊動員編成跡地
歩共第514聯隊(通称加越第3部隊)(富山市)の創設記念碑文

 昭和20年終戦目前の4月、本土決戦(米軍本土進攻)準備のため、陸軍において8個の機動師団が動員され、その款下に第1総軍、第12方面軍 第36軍(浦和)、金沢師管区では第209師団が編成され、その隷下部隊として 步兵第514聯隊(通称加越第3部隊)総勢4368名が富山市に創設された。
 機動師団の特質は、師団を拳げて、一意怒涛の「地上特攻」総攻撃を連続不断に実施し、上陸してくる敵を水際において殲減すべき決戦の思想のもと、皇士防衛の重大任務を帯び、穿貫戦力を保持するため、兵は、昭和19年懲集の19歳から20歳の現役兵を主力とし、下士官は25歳以下とし、小隊長は、全員、予備士官学校卒業直後の見習士官を当て、中隊長並びに将校は年齢30歳以下、大隊長は、陸軍士官学校区隊長(現役将校)より赴任し、各方面軍の優秀戦歴者を現地から充用し、当時陸軍では最も若い年龄の最精銳で編成された。
 4月27日動員第1日、富山聯隊兵営(現国立富山大学)から5月5日次の各分駐所べ移駐した。聯隊本部及び直轄中隊の聯隊砲中隊·通信中隊·作業中隊·乗馬小隊は、富山男子師範学校(現富山市立南部中学校)及び西田地方国民学校(現市立西田地方小学校)へ、
第1大隊は安野屋国民学校(現富山中部高校校庭)及び県立神通中学校(現県立富山中部高校)
第2大隊は、私立大谷女学校(現機部町公園)及び星井町国民学校(現富山市角川介護予防センター)へ
第3大隊は、県立富山中学校(現県立富山高校)へ移駐
 5月5日及び5月25日の2回にわたり、現役初年兵入隊。5月12日第209師団長初度巡視を神通中学校て受閲、聯隊は編成定員を充足し、将兵一同強固な団結のもと、日夜重大任務の即戦必須の猛訓練に邁進。
 6月19日軍旗親授式が宮中で拳行、大元帥陛下御手づから聯隊長陸軍中佐力石勝寿、聯隊旗手陸軍少尉山口重信に親授され、荘重にして御力強い勒語を賜る。6月21日神通中学校按庭において、軍、官民、国防諸団体、学生ら県民総参加で、軍撰奉拝式を盛大に挙行。8月1日第36軍司令官初度巡視·検開を呉羽山練兵場で受閲。
 8月1日深夜~2日未明にかけて、B29爆撃機170余機(米軍戦術任務報告書)による富山市への大空襲時、聯隊各分駐所は富山中学校以外は全焼し、隊員25人が爆死した。焼実弾の猛火の中、聯隊旗手山口重信陸軍少尉は、師範学校裏の 冷川の中で天佑神助無事軍旗泰安の任を果たす。
 聯隊は、空襲後富山中学校及び校庭に集結するも、本土決戦の重大任務のため8月3日一面の焼野原となった富山市を後に、転進地下新川郡の16ヶ所の各国民学校、光闡寺に移駐したが、戦況は米軍進攻の危機が急迫し、聯隊は、引続き本土決戦に即応すべく必須の訓練に邁進した。8月13日決号作戦警戒命令発令され将共士気旺盛なりしところ、突如運命の8月15日終戦(聯隊本部、三日市国民学校·現黒部市役所)、8月25日 軍旗奉還式を挙行(三日市国民学校)、軍旗は8月29日に陸軍省へ奉還した。聯隊は9月3日復員下令され、三日市国民学校において解散式を挙行し、9月5日解散した。聯隊は、決戦地域関東に赴くことなく創設から5ヶ月で青史を終えた。11月中旬兵器弾薬一切は残留部隊が立野ヶ原演習場廠舎(現城端·福光地区)において進駐軍(司令部富山電気ビルに駐屯)に引渡しを終了した。
 戦後平和の礎に、昭和の大戦末期において国家存亡の危機に直面し、終戦·占領·独立·復興を経て平和日本への史実があったことを後世に伝える。
  平成27年4月27日(動員編成70周年記念日)
   公益財団法人借行社 富山偕行会
   一般社团法人日本郷友連盟 富山県郷友会
   防衛大学校同窓会北陸地区支部

機動兵団歩兵第514聯隊創設記念碑 建立誌
 聯隊旗手山口重信陸軍中尉(昭和20年8月20日昇任)は97才でご健在であり、終戦後70年の節目にあたり、当時の米軍本州上陸が差し迫り、日本が土壇場の中、富山で聯隊が編成された歴史を後世に伝えようとの声が彷彿と上がり、当時の憂国と明日への希望の思い出を留め、新たなる日本、新たなる北陸、新たなる富山の建設の思いの礎としたく、記念碑建の隣の旧歩兵第35聯隊碑傍地に記念碑を建立したものである。
(以下、記念建立委員会名簿及び建立協賛及び賛同団体名・会社名・個人名などは略)

県営富山野球場

富山地方鉄道富山市内軌道線呉羽線

富山縣護國神社の最寄りとなる「安野屋」から、歩兵聯隊跡地となる「富山大学前駅」まで、路面電車を活用。

ちょうど居合わせたのが「7018号」
富山地鉄の路面電車7000形で唯一、登場時からのクリーム色と緑の「旧塗装」を維持している車両。

富山大学前電停の近くにあったシェアサイクルを活用して、その3では、陸軍墓地に訪問します。

場所:

https://maps.app.goo.gl/c3vayBNuBCaSq1br8

※2025年9月撮影


富山の戦跡散策3 へ


関連

富山縣護國神社(富山の戦跡散策1)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
初の富山県散策、まずは「富山縣護國神社(富山県護国神社)」から。


富山縣護國神社(富山県護国神社)

富山縣護國神社は、富山県出身の明治維新から大東亜戦争までの戦没者を祀る。また、境内の伊佐雄志神社として、富山大空襲での戦災死された御霊、公務殉職者、神社関係者の御霊を祀る。

明治45年(大正元年・1912年)3月に「富山縣招魂社」として設立が認められ、翌年の大正2年(1913年)8月に竣工、9月18日に鎮座式が執り行われた。
昭和14年(1939年)4月1日、全国の招魂社が護國神社に改称されるにあわせて「富山縣護國神社」に改称。
昭和20年(1945年)8月の富山大空襲で手水舎など一部を残して社殿焼失。
昭和22年、「富山縣鎮靈神社」と改称し、仮殿竣工。
昭和26年10月24日、「富山縣護國神社」に復称。
昭和29年10月20日、現在の社殿の竣工となる。

https://www.toyama-gokoku.jp/concept/

 私達の祖國日本は、幕末以來、幾多の戦役を經験してまゐりました。そして、その折、澤山の方々が國の爲、又、家族、郷土の為に、世界の平和と共存共榮を祈りつつ、尊い命を棒けられました。

 ここ、富山縣護國神社は、それらの方々の御靈を尊んで、「御英靈」とお呼びし、神さまとしてお礼り申し上げてゐます。
 現在、日本の國が平和で、何不自由なく暮せるのも、ひとへに、諸英靈の大きなお守りのおかけであることを私達は決して忘れてはなりません。
 御英靈に感謝の
 まことを棒けませう
 どうぞ、手水舎にて身心を清められ、神さまのおそば近くで御參拜下さい。


大灯篭(富山縣護國神社)

昭和13年4月の建立。富山空襲の難を逃れた。

富国徴兵保険相互会社、世相を感じる会社。

大灯篭のレリーフ。
靖國神社の大燈籠の基壇部分日清戦争から満洲事変までの主な戦闘場面が、陸海軍それぞれ7面描かれているが、そのなかから「日露戦争奉天入城式」(左)と「日本海海戦の戦艦三笠艦橋の東郷元帥」(右)を、靖國神社の許可を得て、奉掲。


御社殿(富山縣護國神社)

広々とした境内。参道が折れ曲がっている。

清々しい神域

大拝殿

みたまやすらかに
参拝

旧社号標

「富山縣招魂社」

昭和10年7月建之、富山大空襲の難を逃れた。

昭和12年3月10日再建とある鳥居


御朱印(富山縣護國神社)

御朱印。「忠魂不滅」
遺詠は、お祀りされている高田豊志命が御家族に遺言としておくられた最後の手紙の中の「母上様」宛の歌

忠魂不滅
 遺詠
  夢にだに忘れぬ
   母の涙をばいだきて
   三途の橋を渡らむ

 この御朱印に書かれてる歌は、富山縣護國神社にお祀りされてをります高田豊志命が御家族様宛に遺言としておくられた最後の手紙の中の「母上さま」宛とした歌でございます。
 高田豊志命は昭和二十年五月十三日、飛行第二十戦隊陸軍伍長として台湾宜蘭基地を出撃、沖縄本島西海岸に群がる米艦船に体当たりし散華されました。
 父豊次郎さんが、八十歳になられた時、戦後久しく仏壇に収められてるた白木の箱の中に「うた日記」を発見されました。この「うた日記」には、高田豊志命が昭和十八年の三月から二十年の四月まで、毎日和歌を作ることを志し、和歌七八三、俳句十七、詩文九が書き綴られてをりました。この「うた日記」は遺芳館に展示されてをります。


伊佐雄志神社(富山縣護國神社)

伊佐雄志神社として、富山大空襲での戦災死された御霊、公務殉職者、神社関係者の御霊を祀る。


遺芳館(富山縣護國神社)

御英霊の遺書や遺品を展示。

見学を。

奉納模型

幣帛料など。

富山大空襲
昭和20年8月1日、死者約3,000人、負傷者約8,000人。

朝倉豊次海軍少将の軍装
朝倉豊次は、富山県出身(現在の黒部市前沢の出身)
富山県出身の唯一の閣下(海軍少将)
海兵44期48番卒業
太平洋戦争開戦時は重巡洋艦「高雄」艦長。1943年12月に、戦艦「武蔵」艦長(第三代艦長)。
1944年5月に海軍少将に昇進、8月に武蔵艦長を猪口敏平大佐に引き継ぎ、南遣艦隊参謀長を経て、第10方面艦隊参謀長兼第13航空艦隊参謀長兼第1南遣艦隊参謀長として昭南島(シンガポール島)で終戦を迎えた。
終戦後は、富山に戻り、黒部市の初代教育長を務めている。

天に星 地に花 人に愛

左は、山崎定義陸軍中将の軍装
山崎定義は、富山県出身(現在の富山市)
名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校(15期)を卒業。金沢歩兵第35聯隊勤務。日露戦争では小隊長として出征し、旅順包囲戦で負傷。
1910年、陸軍大学校(22期)卒業し、陸軍歩兵学校勤務。
桜歩兵第57連隊長や東京歩兵第2旅団長などを務め、1934年に陸軍中将昇進し待命、予備役編入。
1936年に富山市長に就任。1940年に市長を退任。


聖帝四代御製碑建立の記

聖帝四代御製
明治天皇御製
 世とともに 語りつたへよ 國のため 
  命をすてし 人のいさをを

大正天皇御製
臨靖国神社大祭有作
武夫重義不辞危 
想汝従戎殞命時 
靖国祠中嚴祭祀 
忠魂萬古皇基

昭和天皇御製
爆撃に たふれゆく民の 上をおもひ 
いくさとめけり 身はいかならむども

今上天皇御製
國がため あまた逝きしを 悼みつつ 
平らけさせき世を 願いあゆまむ

 富出縣護園神社が御創立百周年を迎え 、しづかに戦歿御英霊のおこころをおしのび申し上げ、その精神が青少年の教育の基本となることを願ひつつ、御創立百周年記念大祭を齋行し、そしてその記念大祭を更に意義あらしめる為に、明治天皇、大正天皇、今上天皇が我国の為、散華された御英霊の遺徳を偲び、或は、国民の上を思ひ遣り給ひてお詠みなられました御製・ 御製詩を石に謹刻申し上げたのであります。
 この『 聖帝四代御製碑』が、これからの日本を擔ふ青少年諸君を始め縣民全ての精神的指針となり、祖國日本の復古維新の源となることを祈念してやまないのであります。
    富山縣護園神社
      宮司 栂野守雄


拓魂

富山県出身の満蒙開拓殉難者1千4百余柱の慰霊顕彰碑。

建立の由来 
満蒙開拓の事業は 昭和7年に始まり 終戦まで重要国策として進められ 本県からは 県選出の開拓団並びに青少年義勇隊 報国農場等合せて5千5百余名の多数の同志が入植していた 私達開拓者は 故国を離れ 満蒙の地に民族の先達として 不屈の精神をもって五族協和の道義世界建設の理想に燃え 新天地の開拓に精進していた しかるに敗戦という冷厳なる事実に直面し 言語に絶する民族の悲劇に遭い 1千4百余名の将来ある生命が絶たれた かって日本の生命線と呼ばれた彼地に 雄図空しく斃れた非命に痛恨の情が尽きない 開拓の精神は創意発展の神髄であり 真理探究の道である 諸君の悠久の生命を信じ 遺志を無にすることなく 恒久平和への道標としてここに合祀し 碑を建立して 道義日本の将来を祈念するものである
  昭和51年8月 建立
   富山県満蒙開拓引揚者一同


馬魂碑

陸軍歩兵第69聯隊の軍馬慰霊顕彰碑。
富山大学の地は、陸軍歩兵聯隊の軍用地、であった。のちほどで訪問しますが、後述。

碑歴
旧陸軍歩兵第69連隊時代の建立になる馬魂碑は、戦後長い歳月その所在が明らかでなかったが、昭和51年3月富山大学構内整備作業中発見
 ここ護国神社境内に移設し永くその魂の安らかんことを祈る
   昭和51年8月11日 (再建)
     富山県馬術連盟会長 平野平好
     富山県馬事振興会会長 松村清年


つばさの塔

富山県出身陸軍少年飛行兵の戦没者48柱の慰霊顕彰碑

つばさの塔
 昭和9年2月に誕生した陸軍少年飛行兵は同20年8月の終戦に至るまで 航空部隊の中核として約3万人が巣立ち 富山県からも多くの紅顔の少年たちがこれに参加した
 顧みれば 支那事変や大東亜戦争で 祖国の繁栄と同胞の幸せを祈りながら 尊い命を捧げられた多くの人たちが思い出される
 なかでも 14歳で志願し 17歳で出陣して 大空の決戦場に花と散った陸軍少年飛行兵の至純な姿を忘れることはできない
 日本の空に 平和が訪れて既に26年 かって苦楽を共にした われわれ生存者相集い今は亡き 郷土出身の友を偲び 心からその栄誉と崇高な精神を讃え 永く後世に伝えるとともに 世界永遠の平和と人類の福祉を祈念して ここに「つばさの塔」を建立する
  昭和46年6月13日
   元陸軍少年飛行兵 富山県内生存者一同


嗚呼 海原よ 大空 に

海軍甲種飛行予科練習生の戦没者の慰霊顕彰碑

神風特別攻撃隊第五七生隊
海軍大尉森丘哲四郎辞世
ちはやふる 
 神の持たせる
  命なり 
砕きて守れ 
 大君と國
  同期 千玄室謹書

富山県黒部市出身の森丘哲四郎氏は海軍飛行14期予備学生
裏千家家元であった千玄室が同期であった。

連合艦隊告示(布)第一〇九号
布告
海軍少尉森丘哲四郎外二十六名神風特別攻撃隊第五七生隊員トシテ昭和二十年四月二十九日勇躍出撃沖縄本島東方約六五浬附近ニ於テ航空母艦四隻戦艦三隻ヲ基幹トスル有力ナル敵機動隊ヲ捕捉相続イテ必死必中ノ体当リ攻撃ヲ決行シ克ク其精華ヲ発揚シテ悠久ノ大義ニ殉ス忠烈万世ニ燦タリ
仍テ茲ニ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス
 昭和二十年六月十日
  聯合艦隊司令長官 小沢治三郎


金鵄勲章碑

金鵄勲章受勲戦没者の慰霊顕彰碑

金鵄奉献
 金鵄勲章は明治23年2月11日勅令をもって制定せられ戦場における武功抜群の軍人にのみ授与せされた国家最高勲章であります。
 御英霊は国家の興亡に際し身命を捧げて護国の華と散られたものでその武勲は悠久不滅でありよき平和日本の礎を築かれたことは厳然たる事実であります。国民は斉しくご英霊の至誠に応え崇敬の誠を捧げなければなりません。
 ここにご英霊の鎮魂を慰めその勲を顕彰し併せて金鵄の尊厳を後世に伝え国運の隆昌を祈念するためこの碑を奉納いたします。
 敬白
  昭和53年10月吉日
    富山県金鵄会

金鵄勲章のレリーフ


建国記念塔

建国の日 2月11日


パール判事の碑

不正なる裁判の害悪は原子爆弾の被害よりも著しい
印度国判事
ラダビノード・パール


明治百年記念

碑歴
明治維新の大業成り明治改元より百年を迎えるに当たり不滅の偉業と恩恵を讃えその精神と教訓を今に生かし世界的視野のもと新世紀に臨む決意を確固とし次代へ継承し限りない希望をこめ富山市大場町奉納の安政の大鳶崩れに流出と伝えられるこの巨石に刻してこれを建立する
 明治43年4月吉日 
  明治維新百年富山縣護國神社記念事業実行委員会


天皇皇后両陛下御親拝記念碑

昭和33年10月19日の御親拝


第一次世界大戦従軍記念碑

第一次世界大戦において青島に出兵した戦没者の慰霊顕彰と従軍者を顕彰する碑

大勲位守正王御諚
  國護る自衛の躾道義心
 第一次世界大戦従軍記念碑
 山東省青島
   ビスマルク兵舎駐屯

國のため 朽ちて流れん みなと川 来くむ人の あれを悟りて
 昭和44年1月11日 建立


噫 ニューギニア

ニューギニアに出征した富山県出身の戦没者の慰霊顕彰碑

ニューギニア島を思わせる形をした碑石


嗚呼 トラック諸島

トラック諸島にて戦没された御英霊200余柱の慰霊顕彰碑

 大東亜戦の様相益々苛烈を極め、南方戦域死守の要いよいよ急を告げる昭和18年秋、精鋭を誇る我が聯隊及び師団司令部は中部太平洋トラック諸島に急派された。
 遠征途次、南海に幾度か魚雷・空爆の猛襲を受け乍ら救援のため、サイパン島を迂回した第2陣と一丸となり、海軍と密に連携して夏島を中心とする各島に分散配置した聯隊は、敵の制海・制空により補給途絶・孤立無援の戦況下、連日の凄惨執拗な艦・空爆撃を受け、人間生存の極限とも思える飢餓及び、特有の悪疫を克服し乍ら玉砕の覚悟を以て、遂に敵の攻略を許さなかったのである。
 しかし乍らこの大任遂行中、酷熱の赤道間近に於いて戦歿された御英霊が200余柱の多きに達したことは、痛恨の極みである。
  嗚呼悲壮なるかな!!
 戦後正に40年、嘗ては死生血涙を共に苦闘を続け今は亡き戦友のご冥福を祈ると共に、涙を呑んで散華なされた南溟の空を仰ぎ、鎮魂の誠を捧げるためゆかりのある聖域にこの碑を建立した。
   昭和60年12月8日
    金沢第52師団司令部 富山歩兵第69聯隊 トラック諸島戦友会

お知らせ
 1 碑文の裏面にトラック諸島の位置を表示してあります
 2 碑の正面下にトラック諸島夏島に現存する「戦没者の墓」の1/5の模型と、その上に墓石を用いた玄武石(現地より持参)の原石を添えてあります
 3 碑に正面した方向(南南東)にトラック諸島が在ります。機会ある毎に遥拝し英霊をお慰めして下さい

トラック諸島夏島に現存する「戦没者の墓」の1/5の模型

墓石を用いた玄武石(現地より持参)の原石


皇太子殿下御降誕記念

陸軍大臣の林銑十郎の謹書
昭和8年12月23日に、 明仁さまが御降誕あそばされた。


紀元二千六百年記念

昭和15年(1940年)は紀元2600年。


支那事変記念

昭和12年(1937年)の盧溝橋事件から始まった支那事変の戦没者慰霊顕彰碑。
昭和14年に建立。
歩兵第35聯隊の第22代聯隊長の川久保鎮馬による揮毫


大正天皇御製 登呉羽山碑

大正天皇御製 登呉羽山
皇太子時代の明治42年(1909)に呉羽山に登られた。

珍しい漢詩の御製

登呉羽山
雨後風無秋気温 (雨後に風無くして秋気温かく)
呉羽峻阪留履痕 (呉羽峻阪にして履痕を留む)
維昔秀吉進征旆 (維れより昔秀吉進みて旆を征し)
敵将力窮降軍門 (敵将力窮まりて軍門に降る)
吾来此地見形勢 (吾此地に来りて形勢を見れば)
中越全景眼中存 (中越の全景眼中に存り)
立岳衝空向東聳 (立岳空を衝き東に向かいて聳え)
神通水漲指北奔 (神通水漲り北を指して奔る)
兵営一路連城中 (兵営一路城中に連なり)
海湾直接罷亞原 (海湾直に罷亞原に接す)
眺望如此難多得 (眺望かくの如く多く得ること難からん)
真是北国好公園 (真に是れ北国の好き公園なり)


陸軍省境界杭(陸軍省境界標石)

境内の一画に、陸軍の境界標石(境界石・境界杭)がまとめられている。

片側には「陸軍省」、もう片側には「疆界」

「疆界」の境界は珍しい、あまり見かけない。

上から

奉納砲弾も残る

富山縣護國神社
静謐な凛とした神域を保たれた良きおやしろでした。
ありがとうございます。

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策2 へ


関連

「二引の旗章」信濃丸サロンチェアと「青い目の人形」(横浜・山手資料館)

「敵艦見ユ」を打電した仮装巡洋艦(哨艦)「信濃丸」
そんな信濃丸ゆかりの「椅子」が横浜に残っているので、足を運んでみた。


信濃丸

日本郵船の貨客船「信濃丸」
日露戦争に際しては、仮装巡洋艦として哨戒中にバルチック艦隊を発見し、日本海海戦での日本海軍の勝利に貢献した。

信濃丸は日本郵船の貨客船として1900年4月に竣工。
竣工後は欧州航路に就航したが、1901年にシアトル航路に転用。1903年には信濃丸で、永井荷風が渡米している。

1904年2月6日、日露戦争開戦。信濃丸は当初は、陸軍御用船として徴用されたが、12月に徴用解除。翌1905年3月15日に海軍に徴用され、呉鎮守府所属の仮装巡洋艦として整備された。仮装巡洋艦として十五栂安式速射砲1基、十二斤安式速射砲3基が兵装された。
信濃丸は、4月に対馬海峡に移動し、哨戒任務にあたった。
1904年5月27日午前2時45分、信濃丸は五島列島沖合を北東方面に向かって航行中に1隻の汽船・病院船「アリヨール」を発見。
「アリヨール」に接近し回り込んだ結果、バルチック艦隊の列に入り込むかたちとなり、午前4時45分。信濃丸は直ちに転舵し、全速力で退避。
三六式無線機にて「敵艦見ユ」として知られる一連の通報を送信しバルチック艦隊が確実に対馬海峡を目指していることを伝え、6時過ぎに巡洋艦「和泉」に引き継ぐまで触接を続けた。

翌5月28日、信濃丸と台南丸、八幡丸の仮装巡洋艦3隻は、沖ノ島北方海上で哨戒を行い、戦艦と駆逐艦を発見。八幡丸が駆逐艦を追跡し、信濃丸と台南丸が戦艦に接近すると、戦艦は前日の日本海海戦で大破損傷した「シソイ・ヴェリキィー」海防戦艦であった。
「シソイ・ヴェリキィー」は降伏し、乗員は信濃丸と台南丸が救助。「シソイ・ヴェリキィー」は曳航を試みるも浸水が止まらずに沈没。
6月、信濃丸は仮装巡洋艦としての役目を解かれ、徴用解除となった。

徴用解除後の信濃丸は、シアトル航路に復帰。のちに、神戸基隆航路に転じ、1913年の孫文亡命の際は、信濃丸に乗船している。

第一次大戦では徴用から免れ、1923年に日本郵船の近海航路部門が独立し「近海郵船」が設立。神戸基隆航路は近海郵船に継承され、信濃丸も移籍し、引き続き神戸基隆航路に就航した。

1929年に「北進汽船」に売却。1930年に「日魯漁業(ニチロ)」に売却され、蟹工船に改装。1932年に「太平洋漁業」に売却され、サケ・マス工船や北洋漁業の母船として活用。

1941年12月に勃発した太平洋戦争では、輸送船として徴用。水木しげるも陸軍兵士として乗船していた。
1943年に「太平洋漁業」が「日魯漁業」に合併。信濃丸の所属は再び「日魯漁業」となった。すでに船歴40年近い老朽船であったが、無事に戦争を生き延びた。

戦後は、引揚船として、シベリアからの引揚者の輸送に従事。大岡昇平も同船で復員した。

1951年に船籍解除。スクラップとして売却解体された。
日露戦争と第二次世界大戦と2度の徴用を受け戦没せずに戦後まで生き延びた「信濃丸」は、激動の51年の長き生涯を誇った強運船であった。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6e/Japanese_AMC-Shinano_Maru.jpg


信濃丸サロンチェア

「二引(にびき)の旗」が彫られた重厚な椅子。

白地に引かれた二本の赤いライン
通称「二引の旗章」
日本郵船のシンボル

1885(明治18)年、郵便汽船三菱会社(岩崎弥太郎)は、国内の競争相手であった共同運輸会社(渋沢栄一)と合併し「日本郵船会社」が誕生する。
当時の日本海運界を代表する三菱会社と共同運輸の二社が大合同したことを表すとともに、日本郵船の航路が地球を横断するという決意を示していた。

https://museum.nyk.com/history.html

https://museum.nyk.com/permanent_exhibition.html

信濃丸の椅子は、横浜の「山手資料館」とレストラン「馬車道十番館」に残されている。
「信濃丸」のサロンで使用されていたものを、廃船時に譲り受けたもの。

https://museum.nyk.com/kouseki/200110/index.html

あら、青い目の人形さん。
青い目の人形も戦争に関連する史跡(戦跡)のひとつ、ですね。

山手資料館

馬車道十番館に行くことがあれば、写真を追加するかもしれませんが、いったんはこれで。


青い目の人形

信濃丸の椅子に座っていた人形。
「青い目の人形」

日米親善のため海を渡った人形。
1927年(昭和2年)に日米関係の悪化を憂いたアメリカの牧師ギューリック博士らと渋沢栄一が中心となり、友情の証としてアメリカから日本の子供たちへ贈られた約1万2000体の人形。

※深谷駅前の「渋沢栄一からくり時計」

人形をとおして相互の友情と交流を図り、日米両国民の理解と親善を深めようとして日本に贈られ、善意の人々の想いを抱いた「平和の親善大使」。
米国から日本に送られたのが「青い目の人形」、その返礼として日本から米国に贈ったのが「市松人形」であった。

しかし、1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発すると、アメリカは「敵国」とされ、人形は「敵国の人形」「スパイ人形」としてみなされるようになりました。その結果、多くの人形が竹槍で突かれたり、焼却されたり、池に沈められたりして処分される悲劇もあった。
現在日本に残っている人形は、当時の先生や子供たちが校庭の隅や床下などに隠して守り抜いたごく一部(全体の約3%)という。


※撮影:2026年5月


関連

納豆売りから海軍軍令部次長へ「刻苦勉励の篤志家・斎藤七五郎海軍中将」(仙台市若林区荒町)

仙台でちょっとした時間ができたので、仙台駅周辺で戦争関係の史跡を調べていたときに「斎藤七五郎記念元気広場(海軍中将斎藤七五郎生誕地)」という文字列を発見。
これは?と目に止まり、調べてみました。こうして、知らなかった人物のことを調べるのは、知的好奇心が刺激されて楽しいですね。

以下、斎藤七五郎に関係する史跡に足を運んでみた記録。


斎藤七五郎

斎藤 七五郎(1870年1月13日[1](明治2年12月12日[2]) – 1926年(大正15年)7月23日)
海兵20期恩賜、海大4期首席。最終階級は海軍中将。

仙台荒町の麹屋の家に生まれる。生家は貧しく納豆売りなどをして家計を助けた。海軍兵学校に20期として入学。
1893年(明治26年)12月卒業。卒業順位3位で恩賜品を拝受。
少尉候補生として「扶桑」に乗り組み日清戦争に従事。

1896年(明治29年)、一等戦艦「富士」廻航委員としてイギリス出張。ロンドンでは、南方熊楠と意気投合し大英博物館を一緒に訪れている。
海軍大尉に進級し、「豊橋」分隊長、「金剛」砲術長、「鳥海」航海長、「千代田」航海長、呉鎮守府副官を歴任。

1902年(明治35年)、海軍大学校将校科甲種学生(4期)。このときの海軍大学校戦術教官が秋山真之。秋山真之が教官としてはじめて教えた生徒の一人が斎藤七五郎であり、日露戦争の参謀として先輩後輩の仲となる。

1904年(明治37年)、日露戦争に際して、海軍大学校を退校し第一艦隊参謀、連合艦隊参謀。
連合艦隊先任参謀の有馬良橘中佐を中心とした旅順港封鎖作戦の策定に参加し、第1回閉塞作戦では「仁川丸」、第2回閉塞作戦では「弥彦丸」の指揮官として参加し勇名を馳せる。のちに旅順海戦の状況や戦況報告を 明治天皇の御前注進(直接の報告)申した。

日露戦争の終結後、1905年(明治38年)12月に海軍大学校に復学、1906年7月に首席で卒業し、第一艦隊参謀、練習艦隊参謀、出雲航海長、軍令部参謀、参謀本部部員を歴任し、1908年(明治41年)に海軍中佐進級。
1910年(明治43年)2月からアメリカ駐在、翌年にイギリス駐在。
1911年(明治44年)12月、敷島副長、翌1912年(大正元年)12月に海軍大学校教官、1913年(大正2年)12月、海軍大佐に進級。

その後、海軍省人事局員、人事局第1課長、人事局第2課長、八雲艦長、第三艦隊参謀長を歴任し、1918年(大正11年)12月、海軍少将に進級し、呉鎮守府参謀長に就任。

1920年(大正9年)12月、軍令部第1班長、1922年(大正11年)12月、海軍中将に進級すると同時に第5戦隊司令官に就任。

1923年(大正12年)6月、練習艦隊司令官。斎藤七五郎が練習艦隊司令官であった際の練習艦「磐手」艦長が米内光政であった。

翌24年に軍令部次長に就任するも、胃癌を発症し、1926年(大正15年)7月、軍令部次長在職のまま、満56歳で死去。

仙台市若林区荒町の生家の敷地は、斎藤七五郎の遺言により、1934年(昭和9年)に仙台市に寄付。生家跡は「斎藤記念館」となった。
戦後は公共施設用地となり、2010年までは荒町市民センターが所在。荒町市民センターが移転後に「斎藤七五郎記念 元気広場」として整備され、斎藤七五郎顕彰碑が現存している。
斎藤七五郎の遺品(練習艦隊司令官として遠洋航海を指揮した際の土産物など)は、荒町市民センターに展示されている。


齋藤七五郎記念 元気広場

齋藤七五郎記念 
元気広場
本広場は、齋藤七五郎氏の遺言”生家・私邸の一切を仙台市に寄付し、子弟の教育と社会の薫化の一端を資して欲しい”に依るものである。
 平成23年 元気広場 協議会

齊藤七五郎頌德碑(石碑転記)
至誠 海軍大将正三位勲一等功三級 有馬良橘 題額
齋藤記念館記
大正十五年七月二十三日
 海軍々令部次長 海軍中将正四位勲一等功四級 齋藤公溘焉として易簀す。嗚呼惜しい哉
 公、諱は七五郎、明治二年(一八六九年)十二月十二日
 仙臺荒町の自邸に生まる。人と為り誠實勤勉、幼くして學を好む。其の家太富ならず。苦学力行以って家計を資く。人皆其の至性に感ずと云う。年甫弱冠、奮然として志を立て、海軍兵學校に入る。刻苦精励、優等にて卒業、特に双眼鏡を賜り、海軍少尉に任ぜられる。
 明治三十七年日露戰役の興るや海軍大尉を以って従軍す。東卿聯合艦隊司今長官幕僚と為り、旅順口閉塞之事を進策す。擢られて仁川丸及び弥彦丸の指揮官と為り、奮聞して功有り。当時広瀬海軍中佐と並び称される。功を以って功四級に叙せられ、全鶏勲章を賜る。尋いで海軍少佐に進み海軍大學校教官に補さる。海軍中将に累進し大正十二年六月練習艦隊司令長官と為る。十三年四月抜擺されて海軍々令部次長に補さる。世學げて以って榮と為す。超すこと二年不幸にして病を獲て起ず。享壽五十有八。朝野歎惜せざるは莫し。
 公、人格崇高、独力修養、誘掖を好まざれども、後進を諄々と教悔して終始渝らず。郷党の子弟之が為に立身し、名を為す者一にして足らず。公、幼き時荒町小學挾に學び、始めて讀書と習字とを知る。徳の深きに因って常に母抜の為に盡力す。前後金品を寄与するに枚挙に違あらず。其の卒する数日前、特に親友 鈴木重兵衛君を枕頭に延き、慇懃に遺嘱して曰く、
 余の生家は母校と隣接して日タ就學す。
 余の今日有るは即ち母校の賜なり。
 乃って生家邸宅の一切を仙臺市に寄附し、
 聊か子弟の教育、社会薰化の一端に資せんと欲す。
 幸いにして之の利用を得れば則ち余の望足れり。
 君余の為に之を謀らんことを願う。
鈴木君感奮し泣きて焉を諾す。公の嗣子富士郎君、克く其の遺志を体して更に請うところあり。未亡人静子も亦、具状して公の意を懇陳す。
 仙臺市長渋谷君感激惜かず。昭和九年三月具案して諸を市会に咨り、満場一致採納を可決す。是に於て邸宅利用の議起り、遂に齋藤記念館建設後援會組織さる。広く義金を募りしに、四方饗應、忽にして數千金を得たり。市会も亦其の學に賛し相議して市費を支出し以って之を大成せしむ。及ち材を鳩め匠を戒え昭和十二年四月起工、同年七月竣成す。
 館、輪奐の美 無しと雖も、堂宇は宏荘にして、建築は素撲、數百人を容るるに足る。洵に文式両道修養の一大道場たるに愧じず。亦以って公の遺志に副うものと謂ふべし。項者有志 胥に謀りて記念館碑を建て、以って公の遺徳を頌えんと終し、余をして其の事を記せしむ。余公と素故あり。敢て記するを辞さず。其の梗概、若夫、公の進退、行動其の偉人為る所以は、別に傳記有りて之を存す。故に之を贅せずと云。
 昭和十二年九月
  仙臺
   処士篁洲 今泉 彪 謹撰
   正六位勲六等 四寵 仁通 書

齋藤七五郎 記念広場 概要
所在地 仙台市若林区荒町97番地
面積 約500平方メートル
付属施設 齋藤記念館記(石碑)·薫化の園(花壇)

沿革
1934年 仙台市へ寄付(板碑本文参照)
1937年 齋藤記念館 完成
1973年まで 仙台市役所 荒町出張所
1973年 荒町市民福祉会館として改称、改築
1983年 荒町市民センターと改称
2010年 移転改築のため 現状となる
2011年 元気広場(愛称)と命名

至誠

海軍大将有馬良橘の題額。
有馬良橘は、日露戦争の連合艦隊先任参謀であり、旅順閉塞作戦では、斎藤七五郎とともあった。

董化の園
「薫化の園」命名の由来 齊藤七五郎さんが残した次の遺言に拠る。
“生家及び邸宅の一切を仙台市に寄付し、子弟の教育、社会の薫化に資して欲しい“に拠るものです。此の言葉の中から二文字を頂きました。

整えられた花壇。

地元の荒町商店街でも、「斎藤七五郎さんを知ろう」のイベントがあったようです。

https://www.aramachi.info/shichigoro_2024

隣には、荒町小学校。仙台の「一番小学校」

場所:

https://maps.app.goo.gl/ZJrAWEU2G3x73viV6


斎藤七五郎記念室(仙台市荒町市民センター)

仙台市荒町市民センターの中に「娯楽室兼記念室」という部屋がある。
記念室とは、すなわち斎藤七五郎の記念室。
仙台市荒町市民センターに許可を得て、記念室を見学をさせていただきました。

娯楽室兼記念室

刻苦勉励の人
齋藤 七五郎

 粉雪が降る寒い2月の朝荒町のまち。
「なっとう なっとう」
 みの笠をかぶって小走りに通り過ぎる少年。
「だれだと思ったら、斉藤糀屋の七さんでねがや」
「そうだ、こんなに降っているのに感心だなや」
「七兵衛さんは本当にしあわせだなや」
「成績もうんといいどしゃ。朝早くから手伝いはやるしね。」
 こんな会話が荒町のまちかどで交わされました。少年は七五郎といって斎藤屋の子供でした。明治13年頃は糀の売れ行きが悪く、生活が逼迫して、七五郎少年も家計を手伝わざるを得ませんでした。年譜によれば「この頃より行商して家計を助ける(11歳)」とあります。
 二高生の時、2円50銭の授業料が払えず中途退学し、長町小学校の代用教員になりました。しかし、青雲の志やみがたく上京して(明治21年)、夜学にも通いました。翌22年、念願の海軍兵学校に合格しました。
 兵学校の生活は厳しいものでした。七五郎は人一倍努力して、心身を鍛えました。当時の日記の中に次のような文章があります。
 日記は何のために作る。身を省み行を改め気質を変化し、以て
 我が到らんと欲する人にならんがためにあらずや…。

七五郎は4年の苦闘が報われて、3番の成績で卒業しました。
 明治37年日露戦争が始まり、七五郎大尉は旅順口閉塞作戦で戦果をあげました。

  一日も早く平和になれかしと
  捧ぐるいのち聞 し召せ神

平和のために自分の命を捧げる、なんと崇高な精神でありましょうか。その後七五郎は、艦隊司令官などを歴任し軍令部次長に栄転しました。大正15年、七五郎は疲労が重なったのか志なかばにして倒れ、58歳で帰らぬ人となりました。中将七五郎の死は海軍はもとより仙台市民からも惜しまれました。次に紹介するのは詩人土井晩翠の弔辞の一部です。

  納豆売りし いたいけな子は遂に占めぬ
  海軍軍令部次長の椅子を
  旅順口再び鰐の口わけて
  命をかけし君にやあらぬ

 七五郎は刻苦勉励の人でした。納豆売り、高校中退、代用教員、上京し夜学にも通いました。海軍に身を投じて旅順口海戦で活躍、中将までのぼりつめました。高級軍人には旧士族出身が多くを占めた当時としては異例の出世でした。七五郎の努力には血のにじむものがありました。

自ら定めた〈家訓10則>の一部を紹介します。

 一つ 太陽とともに起き、夜9時と10時の間にねる
 二つ 酒色は遠ざける。
 三つ 禁煙。
 四つ わが身を自分のものと思うな。

 強靱な精神力をもつ一方で郷土への愛情も深く、軍人となっても度々故郷仙台に帰ってきました。母校などでの講演を重ね、父母の墓参も欠かしませんでした。

 斎藤七五郎中将は明治2年12月12日斎藤屋の七番目の子として荒町(現荒町市民センター所在地)に生まれました。

   ~あらうんどあらまち 荒町界限物語~より抜粋

斎藤七五郎の写真

斎藤七五郎の肖像画と写真

仙台・荒町出身
斎藤中将 輝き戻った
「郷土の先人 姿見て」

仙台の洋画家、小山喜三郎さんが、斎藤七五郎海軍中将の肖像画を2009年12月に修復。(写真上左のカラー肖像画)

齋藤七五郎の歌
昭和二年四月 文部省認可 唱歌
 我が郷土荒町地区には 此の詩にあるような 偉大な人物がありました。齋藤 七五郎と云います。彼の死を悼み その一生を詩に託し 霊前に弔詩として捧げたのが 友人だった土井 林吉 後の 土井晩翠である。詩の内容が立派だったので当時の文部省(現文化省)は 此れを“斉藤七五郎の歌”として 児童生徒に 教えることを 認可しました。昭和2年1927年のことです。
 しかし不幸にして太平洋戦争終結後は 時流に合わないと次第に 歌われ無くなり いつの間にか 楽譜まで逸散してしまいました。八方手を尽くして関係者に当たってみたけれど遂に見つからず 此の儘では 偉大な先輩の遺業も 地域から忘れられ 終いには 歴史からも消えて無くなるのではないだろうかと さえ 思われるようになってしまいました。
 そこで昭和初期と云う数奇な歴史の舞台に立って居た荒町小学校同窓生(昭和20年まで唱歌として 愛唱した人達)が自分たちが元気な中に あの詩と楽譜を揃えて復元し 後世に残そうではないか と 衆議一決しました。
 或る者は 忘れかけていた メロデーを思いだしながら歌い、地域の有志はそれを楽譜に書き起こして下さるなど 夫々の分野を 持ち合うことで 漸く発掘の態勢が出来上がりました。2014年 年頭のことでした。
 ところが 如何なる天の配剤か 此の活動の最中に 七五郎公の孫に当る 齋藤 幸子様が偶々 別の御用で 市民センターに 御挨拶に お見えになりました。担当の職員が 唱歌復元の話を 申しあげましたところ 即座に 御協力を 快諾下さいました。それから 数日後 皆が 夢にまで見ていた 弔詩と楽譜が贈られて参りました。此の歌に関しては 現存する最初の 唱歌教材では 無いかと思われます。これで復元活動の総てが完結しました。真に 佛の導きとも 思われる 有難い事でした。
 復元を誓い合った 彼らは 活動の趣旨を次のように 締め括っている。
これから先 歴史がながれ 200年、300年 否それ以上 経った時 誰かが 何かの理由で 郷土史の研究をする機会に 此の詩と楽譜を必要とすることがあるだろう。其の日の為に 改めて 復元して後世に残すものである。郷土の歴史を明かす ーコマとなれば 望外の
喜びである。
 証し として 一紙を添える
  平成26年(2014)7月23日
  荒町第二豊齢社交クラブ 会長 庄司 博

齋藤中将の歌
 作詞 土井林吉 後の土井晩翠
 作曲 梁田貞 他に「どんぐりころころ」等


青葉の麓 廣瀬川 清らぎ咽ぶ 岸近く
 生まれを享けし 運命の 奇なりし君を 今思ふ

五十餘年の 古に 中将 齋藤七五郎
 貧しく生れ いたいけの 子は朝夕の なっと賣り

立志の模範 金鐵の 堅きは心 山と積む
 辛苦を凌ぎ 勝ち得たり 海軍軍令部 次長の職

日露の役よ 旅順港 雨と飛び来る弾丸の
 下に再び その港 封ぜし中の 花なりき

南極星を 仰ぎ見る おほ海神に 練習の
 艦隊率ゐ 藍の波 分けしも昔 今は夢

雲散り風吹き水流る 變転無窮の 世の姿
 中に留まり 揺るぎなく 大いなるもの 誠あり

誠一つに 國のため 尽くしし址の 芳しき
 中将 齋藤七五郎 静かに眠る 五城楼

  (荒町尋常小学校 昭和2年12月2日 文部省認可)

荒町が生んだ 誠の人 斎藤七五郎

齋藤記念館について
故齋藤七五郎氏の遺志により、昭和九年三月
当地にあった生家を市に寄贈され、市はその遺
志を永く記念するため昭和一二年七月齋藤記念
館を建設しました。

木造瓦葺二階建 延床面積 三八0·九五㎡
一階 出張所、マザースホーム、管理人室
   延床面積 二四七·〇七㎡
二階 集会所、会議室
   延床面積一三三·八八㎡
その後、昭和四八年五月に荒町市民福祉会館
として全面改築され、昭和五八年四月に名称が
荒町市民センターと変更されて現在に至ってお
ります。

※齋藤七五郎氏
 一八六九年(明治二年)
   ~ 一九二六年(大正一五年)
海軍中将、仙台市荒町生まれ
麹商糀屋齋藤七兵衛氏の第七子

荒町の齋藤家

大正12年の正月の書。

斎藤七五郎書

斎藤七五郎と、仙台の第二師団長に着任した井上一次との往来書簡

大正11年の「第五戦隊司令官」時代の書簡か?
名取に将旗を掲げた、云々。

八雲
斎藤七五郎が練習艦隊司令官として乗艦した艦。

斎藤七五郎の遺品。
練習艦隊司令官として遠洋航海を指揮した際の土産物(椰子の実の加工品など)が残されている。
幼少時にお世話になった荒町小学校の子供たちに見せたいと珍しいものを土産物として寄贈した。

記念室

場所

https://maps.app.goo.gl/TNCq1sGneKEo3iEv7


斎藤七五郎墓(昌傳庵)

故海軍中将 正四位勲一等功四級 斎藤七五郎墓

大正十五年七月二十三日
 行年五十八

篤屋院殿忠純至道居士

「詳しくはこちらへ」のQRコードはリンクが切れてました。
木板に記された文字はかすれており、全文の判別が不可能でした。

墓苑の端に寄せられていた。
斎藤七五郎の墓にたどり着くまで、境内には特に案内板などもなく、探し出すのにしょうしょう時間を要した。

奕葉山 昌傳庵(昌伝庵)
曹洞宗

場所:

https://maps.app.goo.gl/GjxiCoAoPQDX5un89

※撮影:2026年6月


仙台関連

はじめに