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亀山上皇立像と招魂社跡地のある「東公園」(福岡博多の戦跡散策6)

福岡博多の戦跡と史跡を。
個人的に興味をもった気になるところをピックアップして散策。


官祭妙見馬出招魂社遺跡保存地

福岡縣護国神社の元となった招魂社。

福岡縣護国神社は、明治元年(1868年)11月、福岡藩主・黒田長知が、戊辰戦争に殉じた藩士を祀るため那珂郡堅粕村(妙見招魂社)と馬出村(馬出招魂社)に招魂社を創建したのに始まる。
明治39年(1906年)6月27日、「馬出招魂社」に「妙見招魂社」を合祀して「妙見馬出招魂社」とした。
当地は、その跡地である。

昭和13年(1938年)に「福岡招魂社」と改称。
昭和18年(1943年)4月、「福岡護國神社」は、現在地の福岡城址南側の練兵場跡に遷座している。

官祭妙見馬出招魂社遺跡保存地

招魂社の由来
畏くも 明治天皇の大御心によって明治維新以来国事に殉じた志士の英霊を合祀して永く祭祀を行うよう明治元年五月十日太政官布告を以て仰せ出だされた
ここに於いて当時の筑前藩主黒田長知は 聖骨を奉体し明治元年十一月今の東公園当時の筑前国那珂郡堅粕村字東松原に妙見招魂社を筑前国那珂郡馬出村字東松原に馬出招魂社をそれぞれ創設し官費を以て永く祭祀を行うこととなった
然るにこの中官祭妙見招魂社を明治三十九年六月二十七日官祭馬出招魂社の隣接地に移転し更にこの官祭妙見招魂社を昭和十三年一月二十一日官祭馬出招魂社に合併と同時に官祭福岡招魂社と改称次いで昭和十四年勅令に基づきこの招魂社名を昭和十四年四月一日福岡護國神社と改称し更に昭和十八年四月三十日福岡市六本松に県下一円を総括する福岡縣護國神社が創立されたので同日この福岡護國神社の護神霊を福岡縣護國神社に合併したのである。
然るに東公園に於ける旧招魂社跡は記念碑墓石その他一切の施設がそのまま存置されていたので福岡県護国神社に於ては毎年墓前祭を執行祭祀を継続してきたのであるが戦後急激な都市の発展は護国の英霊鎮座にふさわしかった所謂千代の松原たる白砂青松の淨地も激変し招魂社跡の墓石や人名標石玉垣等も或は倒され或は破壊され清浄を保持し得ざるに至ったのでこれが移転は久しい懸案であった
然るに今般福岡県に於ては東公園の整備を計画両招魂社跡の移転方について要請があったよって検討を重ね約二五〇米北方にあった両招魂社社地に建設されていた由緒を記した石心松標・旌忠祠・玉砕光存の碑石三基を此の地に移しこの由来碑を立てて馬出の地名と共に永遠に伝え妙見招魂社の御祭神加藤司書徳成以下四十一柱と馬出招魂社の御祭神青木彌平増秀以下百十六柱の御遺骨等はこれを福岡市谷二丁目の旧陸軍墓地に改葬することにした
茲に由来を記し謹んで後世に遺す次第である
  昭和四十四年四月三十日
    福岡県護国神社 宮司 平川隆一

場所:

https://maps.app.goo.gl/SMc2ZfyoRcD6YYeR9


銅造亀山上皇立像

像本体4.8メートル。
福岡県指定有形文化財。
高村光雲の弟子であった博多出身の山崎朝雲によって木彫原型が制作。
銅像は、谷口鉄工場が制作。

福岡警察署長の湯地丈雄が長崎事件(1886年)を期に主唱した元寇記念碑建設運動に端を発し、日露戦争中の1904年(明治37年)12月25日に除幕式が挙行された。木型は、筥崎宮に安置されている。

亀山上皇は、南朝(大覚寺統)の祖。
正元元年(2369)に第90代天皇に即位され、文永11年(1274)で譲位、上皇となられた。
元寇(文永の役(1274年)、弘安の役(1281年))時の治天の君。(天皇は子の後宇多天皇)。

亀山上皇は、元寇来襲に際し、「我が身をもって国難に代わらん」と敵国降伏祈願を行うと共に、全国の神社・仏閣にも祈願を命じられた。

亀山上皇立像の設置に功績のあった石工として、廣田弘毅の父親である廣田徳平も関わっている。

敵國降伏

文永の役後の筥崎宮社殿再建時に亀山上皇により寄進された宸筆。
筥崎宮伏敵門「敵國降伏」扁額にも掲げられている。

明治39年十一月建之

亀山上皇銅像
13世紀後半の元(モンゴル)軍の来襲の際に、「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国の降伏を祈願された亀山上皇の故事を記念し、福岡県警務部長(現在の警察署長)だった湯地丈雄氏等の17年有余の尽力により、明治37年(1904年)元寇に縁あるこの地に建立されました。高さ約6メートルを誇るこの像の原型となった木彫像は、当時、高村光雲門下で活躍していた、博多櫛田前町生まれの彫刻家山崎朝雲の代表作のひとつで、現在は営崎宮の奉安殿に安置されています。

国旗掲揚台
皇紀二千六百有一年記念

https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=1&id=260

https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/sp/cultural_properties/detail/211

場所:

https://maps.app.goo.gl/oayb67aE4vbkcd5n8


日蓮聖人銅像

公園内には、日蓮さんの立像もありました。
鳥羽上皇は、台座を除くと6メートル、日蓮は、なんと10メートル。。。

日蓮聖人銅像
日蓮聖人は、文応元年(1260年)『立正安国論』を記し、当時の鎌倉幕府執権北条時頼にいち早く元(モンゴル)軍の襲来を警告しました。明治37年(1904年)に完成したこの銅像は、高さ10.55メートル、重さ74.25トン。8角形の台座には「立正安国」の文字と、日蓮聖人の一代記を描いたレリーフがはめ込まれています。この像の木製原型は、当時東京美術学校の教授で彫刻家竹内久ー、レリーフの原画は洋画家矢田一嘯により作製されました。

場所:

https://maps.app.goo.gl/xZ8jSk6QaySDKWtr7


元帥伯爵東郷平八郎之像

さらには、東郷さんの胸像も。

胸像の由来
 東郷平八郎元帥は、法華経の篤信者であった。明治38年5月、日本海海戦で勝利を収めた後、同年8月19日、加藤友三郎参謀長等と共に博多に寄港し、松下直美福岡市長の案内で亀山銅像とこの日蓮銅像へ勝利御礼に参拝された。
 また、大正9年4月8日には、皇太子殿下(昭和天皇)に従って再度両銅像に参拝された。
 この銅像は、昭和10年に元帥の偉功を讃え日本海海戦会の有吉憲彰・中野昇外有志が、建立したものである。
 当初、前面の銘板には「おろかなる心につくす誠をば みそなわしてよ天つちの神」という歌を付してあった。
 これは大正3年4月、元帥が東宮学問所総裁に任命された時の感激を詠まれたものである。
 その後、銘板が剥がされていたものを福岡鹿児島県人会・南洲会有志が改修し奉納するものである。
 この胸像が日蓮聖人のお側に未来洋々立ち続けることを祈念して止まない。
 平成8年9月吉日

場所:

https://maps.app.goo.gl/SEWUZj8Ycr9M9xQe8


東公園

もともとは、千代の松原の一部であった。
1873年(明治6年)の太政官布告に基づいて1876年に公園地とした。
福岡県内最初の県営公園。
公園化する以前は、1868年(明治元年)には旧福岡藩主黒田長知によって招魂社が妙見・馬出の地に創建。
当初は東松原公園の名称であったが、1900年(明治33年)に東公園と改めるとともに県の管理となった。

場所:

https://maps.app.goo.gl/3ogNTTFmhB3U1Ckc6


箱崎公園碑

昔は千代松原であった歴史を記録する碑。

箱崎公園碑
縣治を距る東半里弱、松林海に傍ふ有り。箱崎と曰ひ、又千代の松原と曰ふ。宗祇指南抄に曰く、南北壹里、東西十町餘りと。明人之を稱して十里松と曰ふ。大江匡房太宰權帥たり、嘗て文を作り景勝を記す。其の天下の稱する所と爲るや久し。豊臣關白の島津氏を征するとき、箱崎八幡の祠を以て牙營と爲し、千利休を召して茗を林間に煮たり。利休松の稱焉よりして起る。黒田氏の封を此國に受くるに及び、厳に斬伐を禁ず。蒼翠蓊鬱、其の舊を改めず、千代の松の名誣ひざるなり。
余乏きを縣令に承け、是地を以て公園と爲す。博多の人、下澤、深澤、内海の諸氏、首として貲を捐し、役を督す。衆庶歡むで起ち、或は理して庭園と爲し、或は鑿りて池沼と爲す。花卉を雜植し、亭樹を列置す。青松白沙、點綴相映じ、匡房の所謂海岬斗出、一帶の青松、他に雜樹無く、位置天然にして殆むど造花の巧を弄する者の如く、指顧して來たすべきなり。園既に成り、余に文を請ひ之を記す。
嗚呼、豊臣氏の西征するや、貔貅百萬、海陸皆兵なり。而も翠を探りて茗を綴り、優遊暇豫す。眞に一世の雄なり。黒田氏の封を襲ぐ三百年、恩澤洪洽、今に至りて治め易きを稱す。余無似罪を此の地に待つこと八年、政績一の記すべきもの莫し、獨り心に愧ぢざらむや。但し車を下りしより以來、縣民貼然として安く治まるは實に土風の淳撲に由るも余が拙誠も亦或は焉を相孚ふに足るもの有らんか。乃ち所感を書して之を與へ、後人をして是地の景勝古今に稱せられて、其の公園と爲ることの遇然に非ざるを知らしむと云う。
 渡邊清撰


十日恵比須神社

東公園の西側に。神社本別表神社。

十日恵比寿神社
社伝では、天正19年(1591年)正月、武内五右衛門が香椎宮·笤崎宮参詣の帰途、千代松原の波打ち際で恵比須神像を拾い上げたのが神社の起こりとされます。恵比須神は七福神の一神で、漁民、商家の守護神とされ、人々の信仰を集めています。正月の縁起をかつぐ十日恵比須祭りは、8日を初えびす、9日を宵えびす、10日を正大祭、11日を残りえびすと呼び、多数の参詣者はもとより、参道を埋める露店や博多芸妓の「徒歩参り」で大変な賑わいを見せます

場所:

https://maps.app.goo.gl/TazgxN1pDnNfsJ5P8


福岡市赤煉瓦文化館(旧日本生命九州支店)

エリアは違うけど、写真を撮っていたのでメモとしてここに掲載。

1909年(明治42年)に日本生命保険株式会社九州支店として建てられた。
設計は、東京駅舎などの設計で知られる辰野片岡建築事務所(辰野金吾・片岡安)。
明治末期の本格的な煉瓦造建築物として価値が高く、国の重要文化財に指定されている。

https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/sp/cultural_properties/detail/51

場所

https://maps.app.goo.gl/wJo9cdnZoAMoJTyG9


博多港発祥の地

エリアは違うけど、写真を撮っていたのでメモとしてここに掲載。

博多港発祥の地

THIS IS THE PLACE HAKATA
PORT WAS FIRST ESTABLISHED

日本三大津の一つ「那ノ津」と呼ばれ古来より大陸文化受け入れの要衝の地であった博多港は明治32年7月13日開港の指定をうけ博多船溜を中心に近代港湾としての道を進み国際貿易港として現在に至っている。博多船溜にはかって魚市場も併設されていた。博多港のより一層の発展を念じこの地に記念の碑を建立する。
 昭和60年7月20日
  福岡市長 進藤一馬

博多港引揚記念碑(那の津往還)まで足を伸ばせばよかった。訪問時はそこまで知らなかったということもあり。
5大引揚港のひとつ。
また今度、かな。

場所:

https://maps.app.goo.gl/81XQNg6qRusrYZSh9


関連

歩兵第24聯隊「福岡聯隊の跡」(福岡博多の戦跡散策5)

福岡の聯隊「歩兵第24聯隊」の跡地散策。

「福岡博多の戦跡散策4」はこちらから。


歩兵第二十四聯隊

歩兵第二十四聯隊、通称「福岡聯隊」。
明治17年(1884年)、小倉にて歩兵第14聯隊第1大隊ほかから抽出された第1大隊が編成されたことに始まる。
明治21年(1888年)、第6師団が創設され、福岡城内が正式な聯隊衛戍地となる。
明治27年(1894年)、日清戦争に従軍。第2軍隷下。
明治29年(1896年)、第6師団から第12師団に所属変更。
明治36年(1903年)、陸軍管区改正により、歩兵第23旅団に編入。
明治37年(1904年)、日露戦争に従軍。第1軍隷下。
大正7年(1918年)、シベリア出兵に従軍。第1梯団に編入。
大正15年(1926年)、福岡聯隊差別事件が発生し、水平社(被差別部落)との差別解消にむけた交渉が始まる。
昭和7年(1932年)、第1次上海事変に第1大隊を派遣
昭和11年(1936年)、満洲駐屯。
昭和19年(1944年)2月、第3大隊、独立第49旅団に編入。
 ヤップ島に派遣され、終戦まで駐屯。
昭和19年(1944年)12月、連隊主力、台湾高雄州鳳山群林子に移駐。
 そのまま終戦を迎える。

福岡聯隊の跡

1963年に建てられた福岡連隊の記念碑。

題字 中牟田辰六 書

中牟田辰六は、第17代連隊長。在任は、1931年8月1日 -1933年7月31日

福岡聯隊より要員を出した主な編成師団名
第十二師団 第五十六師団 第百十二師団
第十八師団 第六十二師団 第百五十四師団
第二十三師団 第七十師団 第百五十六師団
第三十一師団 第八十六師団 第二百十二師団
第三十七師団 第百九師団 第三百十二師団

かって郷土の人々に福岡聨隊として親しまれた歩兵第二十四聯隊は明治一九年八月十七日 明治天皇から軍旗の親授をうけてこの地福岡城跡に創設された部隊である。
 尓来明治二十七八年日清戦役後三十七八年日露戦役その他の事変に出動し輝かしい武勲をたて 平時あっては衛戌地の信頼を厚くし国運の伸張と社会の安寧とに多大の貢献をなした 大正の第一次世界大戦においてはシベリヤに出征し、昭和の第二次世界大戦においては部隊の主力は満州に駐屯中であったが 昭和十二年八月第十八師団歩兵第百二十四聨隊 同十四年四月第三十七師団歩兵第二百二十六聨隊 同十五年七月第五十六師団歩兵第百十三聨隊 同十九年五月第百九師団歩兵第三百十二大隊 同三百十四大隊等の諸部隊がつぎつぎに編成され 郷土部隊は遠く中南支 マレー ボルネオ ガダルカナル ビルマ 雲南等の各地に転戦敢闘した 第百九師団の硫黄島部隊 第三十二軍の沖縄部隊は ついに名を後世に残して玉砕した また国土防衛のための部隊が編成され南九州等に赴いて護國の任に當った しかるに昭和二十年八月十五日終戦の詔勅下るにおよび 勇強を天下に誇った福岡聨隊も一切の軍備撤廃にともない 創設以来六十余年の歴史に終止符がうたれた
 そして兵営の跡には平和台競技場その他の体育施設があいついで完備し 兵営の殆ど滅失して往事を偲ぶよすがとなるものはすでにして數株の樹木のみという有様となった まことに感慨無量なるものがある
 ここに有志相諮り 福岡聨隊の歴史を回顧し国事に殉じた戦友の英霊を慰めるために 記念碑一基を建立し事跡の一端を刻んでこれを後世に伝えることにしたところ 幸にも郷土各位の賛同をえて目的を達成することができた 一同の感激これにまさるものはない 記して大方の厚意に深甚の謝意を表す
 昭和三十八年五月三日  福岡聨隊跡記念碑建設会

陸軍境界標柱が4つ。

営門の桃の木

舞鶴公園
福岡城跡に位置し、大濠公園に隣接している。

福岡城址のある同場所には、1871年に福岡県庁が設置。
福岡県庁が、1876年に福岡市中央区天神に移転したのち、陸軍第12師団歩兵第24連隊駐屯地が置かれるが、第二次世界大戦後、福岡城址、連隊跡地をまとめる形で当公園が設置された。
舞鶴公園には、「平和台総合運動場」が併設され、そのほかにも続々と公共施設等が建築された。

福岡城址

※撮影:2025年7月


福岡県関連

はじめに

関連

黙して刑場の露と消えた宰相「広田弘毅」所縁の地を巡る(福岡)

戦前、唯一の福岡県出身の首相。
そして戦後、唯一の文官として「いわゆるA級戦犯」有罪判決を受け死刑となった政治家、広田弘毅。

福岡市内で、広田弘毅にゆかりある地を巡ってみました。


廣田弘毅(広田弘毅)

広田 弘毅(廣田 弘毅)
1878年〈明治11年〉2月14日 – 1948年〈昭和23年〉12月23日)
日本の外交官、政治家。勲等は勲一等。
外務大臣(第49・50・51・55代)、内閣総理大臣(第32代)、貴族院議員などを歴任。
「石屋の倅から総理大臣へ」
石屋の倅から立身出世して位を極めたが、戦後の極東軍事裁判で文官としては唯一のA級戦犯として有罪判決を受け死刑となった。

国立国会図書館・近代日本人の肖像>

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/183

廣田弘毅(初名は、廣田丈太郎)の父・廣田徳平は箱崎の農家であったが、石材店の廣田家に師弟で修行し養子として石材店を継いだ。
明治22年(1889年)10月18日、国家主義組織「玄洋社」の出身である来島恒喜の大隈重信への爆弾襲撃(大隈重信遭難事件)で、襲撃後に自決した、来島恒喜の墓碑を寄贈したのが、石材職人として廣田徳平であった。
廣田家と玄洋社のつながりを物語るエピソード。

廣田弘毅は、福岡県立尋常中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に入学。玄洋社の所有する柔道場で柔道に励み、新しい柔道場落成式では総代を務めている。このころ玄洋社の社員になったという。
修猷館卒業直前、『論語』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅〈「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力〉ならざるべからず)から採った「弘毅」に改名している。

1898年(明治31年)修猷館卒業後、東京帝国大学法科大学政治学科に学んだ。学費は玄洋社(初代社長)の平岡浩太郎が提供している。また頭山満の紹介で副島種臣(政治家)、山座円次郎(玄洋社社員・外交官)、内田良平(黒龍会)や杉山茂丸の知遇を得た。
1904年(明治37年)日露戦争に際しては、捕虜収容所で通訳を行い、ロシア情報の収集に当たった。
1905年(明治38年)の外交官及領事官試験は落第、韓国統監府に籍を置いて次期試験に備えた。赴任直前に玄洋社幹部・月成功太郎の次女の静子と結婚。
1906年(明治39年)の外交官及領事官試験は、合格者11人のうち首席で合格し、外務省に入省した。吉田茂と外務省で同期。

外交官として、廣田弘毅は、第二次山本内閣・幣原内閣での欧米局長を務め日露戦争語の国交回復として日ソ基本条約締結に尽力する。
1926年(大正15年)にオランダ公使を拝命し、ハーグ対独賠償会議の日本代表を務める。
1930年(昭和5年)、駐ソビエト連邦特命全権大使を拝命、満洲事変に対応する。
1933年(昭和8年)斎藤内閣の外務大臣に就任。前任者の内田康哉の推薦によるものであった。次の岡田内閣でも外相留任。「協和外交」として万邦協和を目指した。

1936年(昭和11年)2月、二・二六事件が発生すると岡田内閣は総辞職。
1936年(昭和11年)3月5日、廣田弘毅内閣が発足。
二・二六事件直後の対応に追われ、特に陸軍に対して、当時の陸軍次官、軍務局長、陸軍大学校長の退官・更迭、軍事参事官全員の辞職、陸軍大臣・寺内寿一ら若手3人を除く陸軍大将の現役引退、計3千人に及ぶ人事異動、事件首謀者の将校15人の処刑など大規模な粛軍を実行させた。
その見返りとして、軍部大臣現役武官制を復活させ、軍備拡張予算を成立させざるを得なかった。

1937年(昭和12年)近衛内閣の外務大臣に就任。
直後に、盧溝橋事件が勃発。不拡大方針は実らず戦線は拡大。近衛内閣による「国民政府を対手とせず」声明に至る。

1938年(昭和12年)五月、廣田弘毅は外務大臣を辞任した。後任は陸軍出身の宇垣一成であった。その後、太平洋戦争中は、元首相として重臣会議に参加。

1945年(昭和20年)12月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、廣田弘毅を逮捕。A級戦争犯罪人容疑者として巣鴨プリズンに収監した。
GHQは、廣田弘毅に対し、組閣時に閣僚人事に軍の干渉を受けたことや、首相時代に軍部大臣現役武官制を復活させた点を重視し、日中戦争をはじめたことによる「対アジア侵略の共同謀議」や「非人道的な行動を黙認した罪」を起訴。
外交官出身で平和主義者であったにもかかわらず、軍部の台頭を抑えられなかった責任を問われた廣田弘毅。
「高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては喜んで全責任を負うつもりである」という意志でもって、極東軍事裁判に臨んでいた広田弘毅は、他の被告が自己の正当性を主張する中でも、「自分一人が責任を取ればよい」という覚悟からか、家族に対しても裁判の内容を語らず、廣田は公判で沈黙を貫き通し、無罪の主張を一切行わなかった。
裁判において軍部や近衛文麿に責任を負わせる証言をすれば、死刑を免れる事ができたとされているなかで、重臣会議や御前会議に参加していた廣田が弁明をすることで、 天皇に類が及ぶことを心配したから、であったともいう。

1948年(昭和23年)11月4日、死刑判決。
A級戦犯として起訴された28名のうち、文官で死刑となったのは廣田弘毅、ただ一人であった。
11人の裁判官のうち、3人(インド・オランダ・フランス)が無罪、2人(オーストラリア・ソ連)が禁錮刑を主張するも6人が死刑を主張。近衛文麿が自決していたために、文官の大物戦犯であった廣田弘毅の死刑判決には衝撃がはしり、減刑運動もあり郷里の福岡で7万人、東京で3万になど、全国で数十万という署名が集まった。
なお、廣田弘毅の妻・静子は東京裁判開廷前の1946年(昭和21年)5月18日に鵠沼の別邸で服毒自殺している。自殺は玄洋社幹部を親に持つ自分の存在が夫の裁判に影響を与えると考えていたためとされている。

1948年(昭和23年)12月23日の午前0時21分、巣鴨プリズン内で絞首刑を執行された。70歳没。


廣田弘毅像(広田弘毅像)

広田弘毅銅像は、舞鶴公園の南側、NHK福岡放送局・国体道路に面した北側に立像している。

廣田弘毅
 進藤一馬書

廣田弘毅先生銅像碑銘
 廣田弘毅先生は1878年2月14日、徳平、タケの長男として福岡市鍛冶町(現中央区天神3丁目)に生れる。幼名を丈太郎といい、のち自ら改めて弘毅とす。修猷館、一高、東大に学び、柔道を玄洋社明道館にて練磨す。学を卒えて外務省に入り、山座圓次郎氏の薫陶を受く。東亜の平和維持に心を砕き、特に韓国、中国、ソ連との関係改善に努力す。外務省欧米局長、駐オランダ公使、駐ソ連大使を歴任、1933年国際連盟脱退後の難局を受けて斎藤内閣の外務大臣となる。
 1936年、2・26事件突發直後、内外の情勢緊迫せるなかに内閣総理大臣の大命を拝し、死力を盡して粛軍の徹底を期す。さらに近衛内閣の外務大臣として入閣、軍部の暴走阻止と日中戦争の早期和平を図るが果たさず第一線を退く。太平洋戦争終結に当たり、重臣としてソ連大使マリクと和平を図るも及ばず終戦を迎う。
 然るに、極東軍事裁判は先生が文官なるにもかかわらず軍と通謀、大陸、南方への侵略を企図したとして絞首刑を宣す。而して当たらず。全国民、この悲報を意外とす。先生、毅然として判決を受け、一言の弁解もなく従容として巣鴨刑場の露と消ゆ。時に1948年12月23日午前零時34分なり。郷党この不当を悲しみ、不運を嘆く。ここに同志相図り像を刻んで、その遺徳を永遠に顕彰せんと之を建つ。
 後学 進藤一馬 撰并書
1982年5月15日
 廣田弘毅先生銅像建設期成会
  会長 進藤一馬 

進藤一馬は、福岡市出身の政治家。
玄洋社2代目社長であった進藤喜平太の子息。
中野正剛の秘書を経て、最後の玄洋社社長(1944‐1946)に就任。
A級戦犯として起訴されるが起訴されずに釈放。
衆議院議員、福岡市長などを歴任した。

浩々丹心輝萬古

広田弘毅の辞世の句。

浩々丹心輝萬古
 浩々たる丹心万古に輝く
 大きな真心は永遠に輝く

広田弘毅の菩提寺「崇福寺」で揮毫されたご遺墨を写したもの。

廣田弘毅の句としては、下記も有名。

風車、風の吹くまで昼寝かな

「今は風が吹かずとも(不遇の時でも)、風車が回るように好機が巡ってくるまで、焦らずじっくりと(昼寝するように)時を待つ」の意。
外交官としてオランダに赴任していた頃、3年間を過ごす中で詠まれたという。
忍耐と好機を待つ心境は、広田弘毅の潔い生き方と、不遇を乗り越える精神力を示している。

東京裁判で文官としてただ一人死刑判決を受け処刑された、元内閣総理大臣・広田弘毅。
処刑直前、面会に訪れた教誨師の花山信勝氏に対し、多くを語らず「すべては無に帰して、言うべきことは言ってつとめ果たすという意味で自分は来たから、今更何も言うことは事実ない。自然に生きて自然に死ぬ」と述べたと言う。

士不可以不弘毅」(『論語』巻四 泰伯第八)
 士はもって、弘毅ならざるべからず
  「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力

道を挟んで福岡縣護国神社が鎮座している。

場所

https://maps.app.goo.gl/bTDpSXV2Nahm6wNR7


水鏡天満宮

旧社格は村社。菅原道真が川の水面に写る自分の姿のやつれ具合を見て嘆いたことにちなみ創建された古社。
江戸時代初期に福岡城の鬼門にあたる現在地に遷座された。
福岡の「天神」の地名の由来ともなった神社。
廣田弘毅が揮毫した社号標と扁額が残る。

天満宮

水鏡天満宮の南側の鳥居の「天満宮」の石額の書は、広田弘毅が11歳の時に揮毫したもの。

水鏡神社

日清戦争戦勝祝いに建立された社号標「水鏡神社」は、廣田弘毅が17歳のときに揮毫したもの。

場所

https://maps.app.goo.gl/94WGb8CqtnVfxb3g6


廣田弘毅先生生誕之地

1878年(明治11年)2月14日
福岡県早良郡福岡鍛冶町(のち福岡市中央区天神三丁目)の広田徳平(通称:広徳)とタケの長男として生まれる。初名は丈太郎(じょうたろう)。

 「丈太郎」から「弘毅」に改名したのは旧制修猷館中学卒業直前。
「論語」巻四、泰伯第八にある「士不可以不弘毅」から採ったという。

廣田弘毅先生生誕之地

出光石油の創業者・出光佐三による揮毫
出光佐三は、福岡県宗像市の出身。

場所

https://maps.app.goo.gl/ey9vPAA5KMBmJDRU9


興禅護国・聖福寺(廣田弘毅菩提寺)

聖福寺(しょうふくじ)
福岡県福岡市博多区にある臨済宗妙心寺派の寺院。
栄西創建で、日本最初の本格的な禅寺、「扶桑最初禅窟」
境内は国の史跡に指定
福岡空襲の戦災からは逃れ江戸時代に再建された伽藍などが残る。
山号は安国山(通称は安山)。

第三十二代首相 廣田弘毅の菩提所

平岡浩太郎(玄洋社初代社長)の菩提所でもある。
廣田弘毅の東京帝国大学法科大学政治学科の学費は玄洋社(初代社長)の平岡浩太郎が提供していた。

興禅護国
 弘毅書

広田弘毅が聖福寺に贈るために書いたもの。

興禅護国
 この碑は、広田弘毅(1870~1948)が聖福寺に贈るために
書いたものです。(裏面には興禅護国論の序文の一部が刻まれています。)
弘毅は福岡市出身の外交官・政治家で第32代の内閣総理大臣を
務めた。
 『弘毅』の名は修猷館中学時代に聖福寺第2世東瀛老師に相談
して「論語」 巻四、泰伯第八にある「士不可以不弘毅」から採って幼名『丈太郎』から変えた。又『弘毅書』という自署は巣鴨プリズンにいた時に用いたと伝えられている。
 妻の死去に際して、聖福寺第1世戒應老師に妻と自分の戒名
を授かった。
 「興禅護国」は聖福寺開山栄西禅師の著した『興禅護国論』からとったもので、二度目の中国渡海から戻った禅師は京都で布教を始めたが、在来仏教側から批判を受けた。これに対して禅師は禅宗が天台宗の教えに反するものでないことを主張し、禅を興すことが国を護る要因となるとの考えから護国の教えを説いた『仁王護国般若波羅密経』から書名を付けた。
ちょうど聖福寺造営中(1195~1204)の事であった。

日本茶発祥の木

禅寺らしい静謐な佇まい。

廣田家の墓所(廣田弘毅・静子夫妻の墓、両親の廣田徳平・タケ夫妻の墓)も、聖福寺墓地内にある。(一般非公開)
下記を参照。

場所

https://maps.app.goo.gl/CA9BrGQUagaqX6CQA

以上、福岡市での、廣田弘毅を巡る散策でした。


※撮影:2025年7月


関連

大アジア主義の第一人者「頭山満」と福岡の政治結社「玄洋社」関連の史跡散策(福岡・東京)

福岡に赴いていたときに、福岡の地図を眺めていたら、歴史的に香ばしい感じで「玄洋社」とか「頭山満」とか、興味をひいたポイントがいくつかあったので、そんな関連史跡をふらりと巡ってみました。
そして記事を書いているうちに、東京に玄洋社関係者の墓がいくつかあったので、それもあわせて掲載してみました。


頭山満

頭山 満(とうやま みつる)
安政2年4月12日(1855年5月27日)- 昭和19年(1944年)10月5日
玄洋社の中心人物、右翼・国家主義者、アジア主義者。
昭和の巨人とよばれた国家主義の第一人者であった。

頭山満が組織した玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。
また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となり孫文とともに中国同盟会も設立し、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。
一方で、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、遠縁のアナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流があった。
鳥尾小弥太、犬養毅、広田弘毅、中野正剛など政界にも広い人脈を持ち、実業家(新聞社代表)や民族的活動を支援する篤志家としての側面も持っていた。
中国の孫文や蔣介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウ、朝鮮の金玉均など、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。

遠山満は、歴史の節々に影響力を発揮しており、孫文亡命、ラス・ビハリ・ボーズと新宿中村屋の仲介、井上日召の血盟団事件、五・一五事件・犬養毅暗殺事件、などに関わっていた。

晩年は、静岡県御殿場の富士山を望む山荘で、第二次世界大戦末期の昭和19年(1944年)10月5日、89年の生涯を閉じた。
葬儀委員長は元総理の広田弘毅、副委員長は緒方竹虎がつとめた。

頭山満の墓は、以下の3箇所にある。
・頭山家の菩提寺である圓應寺(未訪問)
・玄洋社墓地のある崇福寺
・東京の青山霊園

https://www.ennouji.or.jp/concept/history-omen/h8.html


玄洋社

1881年(明治14年)に旧福岡藩士が中心になって、結成された政治団体。
日本で初めて誕生した右翼団体ともいわれている。
自由民権運動の拡充を目指し結成され、植民地支配に対抗して、アジア民族の欧米隷属からの脱却を目指し、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。
同時に、対外的にはアジア民族の欧米隷属からの独立を支援し、アジア諸国との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。

明治10年(1877年)の西南戦争の後、高知の板垣退助のもとで学んだ頭山満は、明治12年(1879年)帰郷し、自由民権運動の結社として向陽義塾(後に向陽社)を設立した。これが、玄洋社の前身である。社長は箱田六輔、幹事は頭山満、進藤喜平太。

明治14年(1881年)、向陽社を玄洋社と改称する。
旧福岡藩士らが中心となり、 藩立修猷館出身の平岡浩太郎を社長として、頭山満、箱田六輔、大原義剛、福本誠、内田良五郎(内田良平の父)、進藤喜平太(進藤一馬の父・玄洋社2代目社長)、月成功太郎(廣田弘毅夫人となる静子の父)、末永純一郎、武井忍助、古賀壮兵衛、的野半介、月成勲、児玉音松らが創立に参画、のち杉山茂丸も加わった。
明治22年(1889年)、大隈重信爆殺未遂事件の首謀者であった来島恒喜も玄洋社社員。
日露戦争で勝利に貢献した明石元二郎も玄洋社社員であった。
昭和期に活躍する、廣田弘毅や中野正剛、緒方竹虎なども玄洋社に関係があった。
また、玄洋社2代目社長であった進藤喜平太の子息で、中野正剛の秘書や玄洋社の最後の社長を務めた「進藤一馬」は戦後に福岡市長を務めている。

玄洋社は「皇室を敬戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権 利を固守すべし」の三憲則を基幹とし、自由民権の普及に献身、憲法の新設、国会の開設、次いで祖国の国力の伸張に奔走する一方、屈辱的外交条約の破棄、アジア主義に基くアジア民族の自決独立の援助に勇往邁進した。
中でも中国革命に於ける玄洋社の存在は大きく、第二次世界大戦終了直後まで日中和平工作を継続していた政治結社は玄洋社を除いて他になかった。

https://genyosha.jp

本編では、下記の玄洋社の主要人物に言及。
・頭山満
・高場乱
・来島恒喜
・中野正剛
・緒方竹虎
・内田良平

※広田弘毅は、別記事にて。


玄洋社跡碑

福岡市中央区舞鶴の玄洋社跡地に隣接して「玄洋ビル」があったが解体済み。同ビル跡地はNTTドコモ舞鶴ビルとなり一角に記念碑が建立されている。
玄洋社関係の各種資料を収蔵した「玄洋社記念館」も玄洋ビル内にあった。1978年(昭和53年)11月に開館し、2008年(平成20年)5月末をもって閉館したが、資料は福岡市博物館に寄託された。

玄洋社跡

玄洋社跡記念碑
明治、大正、 昭和と激動する世界の中にあって、日本の独立を守りアジアの解放を目指して活躍した玄洋社は 自由民権運動の中で、明治十二年(一八七九)談生した。
以来昭和二十一年(一九四六)解散まて、六十七年にわたりこの地を本拠地として活動を続けた。
 平成九年十月
  社団法人玄洋社記念館建之


玄洋社墓地(崇福寺)

臨済宗大徳寺派の寺院、三道場のひとつ。福岡藩主黒田家の菩提寺。かつての伽藍は広大な寺域を誇っていたが、福岡大空襲で灰燼に帰した。(現在の寺域は戦前の五分の一の規模に縮小)

玄洋社墓地には、頭山満、来島恒喜、高場乱の墓、そして154基ある玄洋社員の墓などがある。

西都法窟
勅賜萬年崇福禅寺

頭山満先生之墓所

玄洋社墓地

玄洋社基地整備趣旨
「玄洋社の生みの親」高場乱の生誕百九十年を迎えるにあたり その偉業に思いを触せ高場乱の子孫である株式会社アキラホールティンクス代表取締役安部泰宏は私財を投じて、玄洋社基地を整備し、遺徳を未来永幼に伝え残すものとする。
 令和四年八月二十日

安部泰宏氏は、玄洋社の創始者・高場乱の姉の子孫にあたるという。
高場乱保存会「人参畑塾の会」顧問、高場乱の銅像建立にも尽力。

獨 朗 天 眞

先亡霊塔

昭和十一年十月改葬の折、立ち並んでいた玄洋社員の墓標を整理し、全物故者を弔うために五輪塔が建てられた。
裏面には論語の一節「殺身成仁」(自分を犠牲にして仁を成す)(頭山満書)
※写真撮り忘れ

場所:

https://maps.app.goo.gl/VwtnVS626nUnXYWs8


頭山満先覚之墓(玄洋社墓地)

玄洋社の先覚者として、祀られている頭山満。

頭山満先覚之墓

昭和十九年十月五日於富士山麓御殿場帰幽享寿九十歳乞分骨同年十一月六日葬於崇福寺玄洋社墳域
 後学 宮川五郎三郎敬書

宮川五郎三郎は、奈良原至の弟。
奈良原至は、玄洋社の草創期からの社員で 玄洋社随一の豪傑と呼ばれた人物。
宮川五郎三郎は玄洋社の組織の根幹を支えた人物。


高場乱(玄洋社墓地)

高場 乱(たかば おさむ)
天保2年10月8日(1831年11月11日)- 明治24年(1891年)3月31日)
江戸時代末期の女性儒学者で、眼科医、教育者。
頭山満ら多くの国士を育てた。「人参畑の先生」。

代々眼科医の名門で福岡藩の藩医を務めていた高場家・高場正山の末子として生まれる。
高場乱は男子扱いで育てられており、天保12年(1841年)、10歳で男性として元服した。16歳で結婚したが、これを不服として自ら離縁し、20歳の時に儒学者・亀井昭陽(亀門学)の亀井塾に入った。亀井塾は当時身分性別を問わない学風で、女性の弟子も多かった。

明治6年(1873年)、福岡藩住吉村の薬用人参畑の跡(現在博多駅の近く)に私塾興志塾(通称「人参畑塾」)を開設。
興志塾に明治7年(1874年)頃に入門したのが、頭山満であり、のちに玄洋社の主要なメンバーとなった平岡浩太郎や進藤喜平太、箱田六輔、武部小四郎などが、いずれも興志塾で学んだ。
頭山満らが結成した向陽社(玄洋社の前身)内部の抗争を仲裁するなど、弟子となる玄洋社の面々を見守ってきた。
弟子の一人である来島恒喜が大隈重信へテロを仕掛けた上で自殺したことには衝撃を受け嘆きの歌を詠んでいる。
来島の自殺の翌年、乱は病床に伏し、弟子たちに看取られつつ逝去した。明治24年(1891年)3月31日、59歳であった。

高場先生之墓

勝海舟の揮毫

碑面題識勝海舟先生之書也

2023年には高場乱の生誕190周年を記念し、高場乱の銅像が建立された。
「高場乱騎牛象」牛に横乗りする高場乱

高場乱先生之像

高場乱先生は、天保二年(一八三一)博多の瓦町に誕生。家は代々、眼科医である。乱先生の父である正山先生は高場流眼科の九世を継承したが、元々は福岡藩医の一統でもある。
正山先生には二女があり、長女は小田家に嫁いだことから、次女の乱先生を高場流眼料の後継者に据えた。しかし、時は封建時代。正山先生は乱先生を男子として福岡藩庁に届け出、刀を持つことも許された。正山先生は乱先生を男子として教育。乱先生も正山先生の意に応え、医学を学び、漢籍の学問にも励まれた。後年、正山先生の代診を務めるほど乱先生は評判の眼料医になられた。
乱先生は、福岡藩の薬草園である人参畑近くに学塾を構え、眼科診療の傍ら、有為の青年教育にも尽力された。この塾が人参畑塾こと興志塾である。乱先生は塾生からの謝礼どころか、貧しい人からは治療代を受け取らない無欲の人。博多の衆は乱先生を「人参畑の婆さん」と、尊敬と親しみを込めて呼んだ。
乱先生の学墊には、入門を願う青年が多数押しかけた。しかも、塾生の行動に対し、一身に責任を負うという気概を示され、ごの事実は今もって語り草てある。塾は歴史に名を刻む著名な志士を多数輩出。門弟たちの活躍の場は遠くアジアにまで及び、乱先生の教育方針が、どれほど壮大なものてあったかが窺いしれる。しかし、明治二十四年(一八九一)三月三十一日、乱先生は病没された。
医師として自身の余命を知り、静かに息を引き取られたという。弟子たちは旧藩主黒田家の墓地を分けてもらい、乱先生の墓を建てた。葬儀の会葬者は五百人余り。葬列は整然とじて、見送りの人垣が続いたという。
墓碑銘には、乱先生の人柄を著す言葉が簡潔に刻まれている。
金銭や名誉を求めず、清貪に負けず、よく他人を援け、自身の事は後回しだった。名を成した後も、師について易経を学んだ。時代が変わっても、その教育方針に変わりはなく、門下生たちは皆、豪傑揃いで盛ん。皆、義を胸に抱いたものばかりで、美しい綾を織りなすがごとく。だが、志は大きいが行いが伴っていない。この春、俄かに高場先生は具合が悪くなり、亡くなられた。その天命は果てしないだけに、敬愛する人を喪い茫然とするばかり。形もなく、変化もなく、どどまることを知らない万物の母。その識見が高い人はかくれてしまった。平原は薄暗くなり、その魂は愛する故鄉に帰るがごとく天に還っていった。
  高場乱先生略伝慧碑後面の「勝海舟書」より


来島恒喜之墓(玄洋社墓地)

来島 恒喜(くるしま つねき)
1860年1月31日〈安政6年12月30日〉 – 1889年〈明治22年〉10月18日
玄洋社元社員。
条約改正に絡む外国人司法官任用問題から、当時外務大臣を務めていた大隈重信の暗殺を計画。
計画には同じく玄洋社の社員であった月成功太郎も加わっていたが、老母、妻子を持つ月成の身を欺き、単独で決行。

1889年(明治22年)10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車へ爆弾を投げつけた。
爆弾は馬車の中に入り、大隈の足元で爆発。来島はその場で短刀で喉を突き自害。享年29。
大隈は命はとりとめたものの、顔と手に軽症、右膝と踝に重症を負い、右脚を切断することとなった。

来島も学んだ興志塾(通称・人参畑塾)の塾長高場乱は、かつて塾生だった来島が爆弾テロ事件を起こしたことを聞くと、国際情勢や日本の国際環境を理解しない浅はかな者だと否定し、批判した。一方で、自決したことには「ながらえて明治の年の秋なから心にあらぬ月を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる、

来島の葬儀の際、弔辞を読むこととなった頭山満は「天下の諤諤(がくがく)は君が一撃に若(し)かず」と、国民輿論を無視し条約改正に突き進む政府の政策を打ち破った来島を激賞した。

来島の墓碑を寄贈した石工の広田徳平は、後に首相となる広田弘毅の父。また、計画に加わっていた月成功太郎は弘毅の妻の父であり、岳父にあたる。

来島恒喜之墓

明治廿二年十月十八日於東京霞関自刃行年三十一


玄洋社墓地内の碑群

満洲義軍志士之碑
明道館柔道之碑

154基ある玄洋社員の墓

時間がなかったので、福岡藩主黒田家の墓所には訪れず。
そのあたりは、また次回かな。


頭山満墓(東京・青山霊園)

頭山満の墓は、東京の青山霊園にもある。参考掲載。

頭山 満 墓
室 峰尾

1855年、福岡藩士・筒井亀策の三男として生まれた「筒井満」。
1873年の春、男手のなかった母方の頭山家に当時3歳だった娘の峰尾の婿として迎え入れられ、頭山に姓を改め「頭山満」となる。
頭山が峰尾と正式に結婚するのは、1885年頭山が30歳になってから。

昭和19年10月5日
享年89歳

※青山霊園撮影:2021年5月


来島恒喜之墓(東京・谷中霊園)

来島恒喜の墓は、東京の谷中霊園にもある。参考掲載。

来島恒喜之墓
 頭山満書

来島恒喜の墓は、勝海舟によって谷中霊園に建立されたが、その後に、玄洋社の頭山満によって長け替えられた。当初の墓石も、傍らに残されている。

来島恒喜の碑。
昭和13年に頭山満揮毫で墓碑が建立されたことを記す。

当初の墓石、一部が摩耗している。
来島恒喜之墓 勝安芳書

明治廿三年十一月建

東京の来島恒喜の墓は、谷中霊園の乙10号17側

※谷中霊園撮影:2026年1月


頭山満手植えの楠

西新緑地に、頭山満が手植えしたクスノキがある。

楠木の由来
このクスノキは、政治結社「玄洋社」の創設者の一人、頭山満翁(1855~1944年)が植えたものです。
そばに建つ石碑には、慶応元(1865)年、頭山満翁が11歳の時に「楠木正成のような人になりたい」との願いを込めて生家の庭に苗木を植えたとあります。

場所:

https://maps.app.goo.gl/ZsAJ6iL2P3ecxZhb7


中野正剛

中野 正剛(なかの せいごう)
1886年(明治19年)2月12日 – 1943年(昭和18年)10月27日
ジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。

旧藩校の流れをくむ修猷館を卒業後、早稲田大学高等予科に進学。修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿する仲であった。
1909年(明治42年)7月早稲田大学政治経済学科を卒業し、東京日日新聞(現・毎日新聞)を発行していた日報社に入社、同年11月退社。
同年12月東京朝日新聞(東朝、現・朝日新聞)に入社。1911年(明治44年)11月大阪朝日新聞に移籍。
1913年(大正2年)に三宅雪嶺(金沢出身の哲学者・評論家)の長女・多美子と結婚。仲人は、頭山満と古島一雄(三宅雪嶺が主宰する雑誌「日本人」の記者、のちに衆議院議員・貴族院議員)であった。
1916年(大正5年)7月大阪朝日新聞を退職し、東方時論社に移って社長兼主筆に就任。
1920年(大正9年)5月の総選挙で当選する。以後、8回当選。
反軍派政党人として名を馳せ、政府では、内務大臣だった濱口雄幸の推薦で、大蔵参与官や逓信政務次官などを歴任した。1928年(昭和3年)1月から1929年(昭和4年)4月まで九州日報社長も務めた。
1936年(昭和11年)3月に、東方会を結成し会長となった。
1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)3月にかけて、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラーと会見。秘書として中野正剛に進藤一馬(後の衆議院議員、福岡市長)が随行していた。
1940年(昭和15年)10月大政翼賛会常任総務に就任。

東條英機倒閣運動
1941年(昭和16年)3月、東條英機の権力強化に反対するために大政翼賛会を脱会。
1942年(昭和17年)4月の翼賛選挙に際しては、東方会総裁として非推薦候補を擁立し、東条首相に反抗。中野正剛は非推薦でありながら当選。
同年11月10日、早稲田大学大隈講堂において、2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を実施。当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志し当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している。
戦時中の中野正剛は反東條英機の動きを鮮明し、倒閣運動を実施。

中野正剛事件
1943年(昭和18年)年9月21日、東方同志会の会長だった中野をはじめとする39人が一斉に検挙された。
国会議員であった中野 正剛(なかの せいごう)
1886年(明治19年)2月12日 – 1943年(昭和18年)10月27日
ジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。

旧藩校の流れをくむ修猷館を卒業後、早稲田大学高等予科に進学。修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿する仲であった。
1909年(明治42年)7月早稲田大学政治経済学科を卒業し、東京日日新聞(現・毎日新聞)を発行していた日報社に入社、同年11月退社。
同年12月東京朝日新聞(東朝、現・朝日新聞)に入社。1911年(明治44年)11月大阪朝日新聞に移籍。
1913年(大正2年)に三宅雪嶺(金沢出身の哲学者・評論家)の長女・多美子と結婚。仲人は、頭山満と古島一雄(三宅雪嶺が主宰する雑誌「日本人」の記者、のちに衆議院議員・貴族院議員)であった。
1916年(大正5年)7月大阪朝日新聞を退職し、東方時論社に移って社長兼主筆に就任。
1920年(大正9年)5月の総選挙で当選する。以後、8回当選。
反軍派政党人として名を馳せ、政府では、内務大臣だった濱口雄幸の推薦で、大蔵参与官や逓信政務次官などを歴任した。1928年(昭和3年)1月から1929年(昭和4年)4月まで九州日報社長も務めた。
1936年(昭和11年)3月に、東方会を結成し会長となった。
1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)3月にかけて、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラーと会見。秘書として中野正剛に進藤一馬(後の衆議院議員、福岡市長)が随行していた。
1940年(昭和15年)10月大政翼賛会常任総務に就任。

東條英機倒閣運動
1941年(昭和16年)3月、東條英機の権力強化に反対するために大政翼賛会を脱会。
1942年(昭和17年)4月の翼賛選挙に際しては、東方会総裁として非推薦候補を擁立し、東条首相に反抗。中野正剛は非推薦でありながら当選。
同年11月10日、早稲田大学大隈講堂において、「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を実施。

諸君は、由緒あり、歴史ある早稲田の大学生である。便乗はよしなさい。歴史の動向と取り組みなさい。天下一人を以て興る。諸君みな一人を以て興ろうではないか。日本は革新せられなければならぬ。日本の巨船は怒涛の中にただよっている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君は自己に目覚めよ。天下一人を以て興れ、これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である。

中野の雄弁と早稲田の聴衆の興奮熱気はあまりにすさまじく、憲兵隊の制止どころではなかった。
当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志し当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している。
1943年(昭和18年)正月、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を発表し、名指しこそしなかったものの、東條首相を痛烈に批判。この記事の内容に東條は激怒し、朝日新聞に対して記事の差し止めを命じた。
戦時中の中野正剛は反東條英機の動きを鮮明し、倒閣運動を実施。宇垣一成擁立を進めるが重臣会議での連携不足で失敗、次いで東久邇宮稔彦王擁立を進めるが、東條側の対策の打つ手が先行してしまう。

中野正剛事件
1943年(昭和18年)年9月21日、東方同志会(東方会の改称)の会長だった中野をはじめとする39人が一斉に検挙された。
東條英機は大いに溜飲を下げたが、国会議員であった中野の身柄拘束は強引すぎるものとして世評の反発を買うことになった。結局、中野は10月25日に釈放される。
釈放されたものの、憲兵2名の見張りがつき、追い詰められた中野は10月27日に割腹自殺した。
享年57歳。

戦前の帝国議会議員で最初の自殺者であった。


中野正剛先生像

中野正剛像
昭和30年3月27日に鳥飼八幡宮境内に建立された。


中野正剛先生碑
 緒方竹虎書

緒方竹虎と、中野正剛は修猷館、早稲田大学、東京朝日新聞記者を通じ、変わらぬ親友であった。大学時代には2人で下宿をしていた時期もあった。

中野正剛先生略伝
明治十九年二月十二日福岡市西湊町(現荒戸一丁目)ニ生レ中学修猷館、早稲田大學ニ学ブ。
東京朝日新聞記者、東方時論主幹トシテ健筆ヲ揮イ郷土紙九州日報ヲ経営ス。
福岡県一区ヨリ衆議院議員ニ当選スルコト八回在職二十年四月。
其間大蔵参與官逓信政務次官トナル。
後、東方会ヲ組織シ全国ノ青年同志ヲ糾合国事ニ奔走ス。
性剛直果断、愛国ノ至誠ハ熱血ノ雄弁不抜ノ筆陣トナリ毅然トシテ所信ニ邁進、太平洋戦争酣ナルヤ戦局日ニ非ナルヲ憂イ東條内閣ノ退陣ヲ図リ其収拾ニ盡瘁。
東條首相ノ熾烈ナル弾圧ニ屈セズ抗議スルモ志成ラズ。
昭和十八年十月二十七日渋谷ノ自邸ニテ自刃。
 歳 満五十七
  門人 進藤一馬 謹書

豪傑之志
雖無文王
猶興

 耕堂正剛

孟子「豪傑之士雖無文王猶興」
「才知や徳のある豪傑は、文王の教えがなくても、自発的に立ち上って善を行うことができる」の意
中野正剛が提唱した猶興は アジア主義(南進論)の思想的拠点、「猶興居(ゆうこうきょ)」に関連し、中野正剛の「アジア主義」と「東方会」の活動の根幹をなす概念。
「猶興(東洋の興隆)」は中野正剛の理想を表している。

中野正剛先生旧家跡

鳥飼八幡宮の参道脇に。

鳥飼八幡宮

筑前藩主黒田家の氏神、 福岡市の鎮守。
旧社格は県社。2022年に建て替えられたモダンな神社建築。
神功皇后が胎内の応神天皇の将来をお祝いした地・鳥飼村に社を建てたのが創始という。

場所:

https://maps.app.goo.gl/SBRmrqjoGFe2g9Yf9


中野正剛生家跡

電信柱に、生家跡の表記があった。石碑があるものばかり思って探していたら、これはなかなか見つける難易度が高い。

中野正剛生家跡
明治19年(1886)年2月12日、旧筑前藩士中野泰次郎とトラの長男として、当地の伯父中野和四郎宅で出生。幼名甚太郎。
中野正剛という人物には謎がある。朝日新聞の辣腕記者であって、電信電話の民営論者。大塩中斎と西郷隆盛と頭山満に憧れていて、犬養毅と尾崎咢堂の擁護者。シベリア出兵の反対者にして極東モンロー主義者。それでいて満州国支持者で、ファシストであって東条英機の戦線拡大反対者。酒も煙草もやらないが、論争と馬には目がなく、やたらに漢詩漢文が好きな男。いったいこれは何者か。はっきりいえるのは、自死は中野正剛が最後の最後に選んだ結論だったということである。腹は真一文字に切り、左頸動脈を切断した。(昭和18年(1943年)10月27日未明、知らせで駆けつけた頭山満が、「古武士のような見事な最期」と言った。)中野正剛については、ほとんど詳細な研究がない。(松岡正剛「千夜千冊」より)

場所:

https://maps.app.goo.gl/A4zabw5yiDoQ16FK7


中野正剛墓(多磨霊園)

中野正剛の墓は、東京の多磨霊園にもある。参考掲載。
12区1種1側2番

中野家之墓

昭和十年六月 中野正剛 建之

扁額は、頭山満。
碑の撰は徳富蘇峰、書は緒方竹虎

才該衆美 氣吐長虹 矯々不群 國士之風

友人 蘇峰徳富正敬撰
同学 緒方竹虎書

※多磨霊園撮影:2026年1月


緒方竹虎墓(青山霊園)

中野正剛の友であった緒方竹虎。
玄洋社の頭山満は緒方竹虎の結婚の仲人を務めた。
そして、緒方竹虎は頭山満の葬儀副委員長を務めている。葬儀委員長は、廣田弘毅であった。

緒方竹虎は、朝日新聞社副社長・主筆、自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任。栄典は正三位勲一等旭日大綬章。

緒方竹虎の墓は、東京の青山霊園にもある。参考掲載。

緒方家之墓

※青山霊園撮影:2021年5月


内田良平墓(多磨霊園)

黒龍会主幹。柔道家。
頭山満の玄洋社の三傑といわれた平岡浩太郎が伯父(父・内田良五郎の実弟)。
明治34年(1901年)黒龍会を結成。玄洋社の一部がアジア主義を掲げて大陸で活動するために、玄洋社初代の平岡浩太郎の甥に当たる内田良平を中心として設立。頭山満が顧問であった。
昭和6年(1931年)に大日本生産党を結成し、その総裁となる。
昭和7年(1932年)の血盟団事件・昭和8年(1933年)の神兵隊事件などの黒幕と呼ばれた。
昭和9年(1934年)大本教系昭和神聖会副統管。
昭和12年(1937年)7月26日死去。没年64歳。墓所は多磨霊園14区1号9番地。

内田良平之墓

頭山満書

昭和12年7月26日逝去 享年64歳
 昭和13年7月26日建之

※多磨霊園撮影:2026年1月

※福岡の写真撮影:2025年7月


靖國神社の新春初詣(令和8年)

あけましておめでとうございます。
靖國神社、正月朔日の初詣。

境内の様子などを、徒然に。

令和丙午

昨年の様子。

2025年もいろいろなことがありました。
仕事的なことですが、結果として、今の職場を年度末で退職することに決めました。今の会社は7年半ほど務めまして、中堅的な立ち位置で学びも多く、出張も国内外いろいろ赴くこともでき、仲間も居て、そういう意味では居心地の良い感じでしたが、上層部との方向性の違いなどもあり、最後は私の意地と信念もあり、このままではダメだなってことで。

さて、2026年はどうなることやら。
ただ、引き続き、サイト運営など、あまりアクティブな状態には、できなさそうですが。

御英霊の皆様、やすらかに。

御朱印
正月限定の刺繍御朱印と切り絵御朱印と。

おみくじは、末吉。
これから良くなるヤツですね。
自制心を働かせ、ます、です。

おしるこを。

甘酒も。

毎年、ありがとうございます。

いななき

遊就館の特別展示室

いつもこれが気になっていたけど、記録を撮っていなかったので。
星と錨とプロペラで、陸海空の意匠ですね。

馬年ですね。軍馬慰霊。

振る舞い酒

樽酒ならではの風味を楽しむ。
ありがとうございます。

※撮影:2026年1月1日

八戸の盾「海防艦・稲木」八戸の戦跡と近代史跡散策

八戸に赴く機会がありました。
せっかくなので、八戸の戦跡と近代史跡を中心に歴史散策を。

地震の影響で、「八戸線」が運休するなどもあり、バスを活用しての八戸の東西移動になりましたが、思った以上にバス路線が充実しており、当初の予定より、だいぶアクティブに行動できた感じ。
新幹線の「八戸駅」が、まったくもってイメージしていた「八戸」(八戸中心街)とは違う場所にあって、ちょっと焦りましたが。


海防艦稲木之碑(蕪島神社)

1945年(昭和20年)8月9日。
八戸の鮫港の蕪島沖に仮泊していた「海防艦・稲木」は、米軍艦載機の集中攻撃を受け、激しい攻防の末に撃沈した。

米軍艦載機約50機の空襲をたった一艦で迎撃し「八戸の盾」として、八戸市民と八戸の街を護った「海防艦・稲木」。
約4時間にわたる海空の激戦が鮫港で繰り広げられ、ロケット弾と銃撃により稲木は撃沈し、稲木乗組員243名のうち稲木艦長の山田忠太少佐以下乗員29名が戦死、重軽傷者83人を出した。

「八戸の盾」として活躍をした稲木を偲ぶ慰霊碑が「蕪島神社」の境内にある。

海防艦稲木之碑

昭和20年8月9日、八戸港内に仮泊中の海防艦稲木は来襲せる米三十八機動部隊の艦載機群と交戦勇戦敢闘遂に沈没す
爾来38年、当時の乗組員並びにその父母2世及び関係者相図り記念碑を建立して、物故者の霊を追悼し、あわせて世界の恒久平和を祈念するものである。
 昭和58年8月7日

合掌

稲木乗組員
物故者皆様方のご冥福を
心からお祈り申し上げます

蕪島からみた八戸の港

場所:

https://maps.app.goo.gl/DewsSiQdS5AugEnp9


海防艦・稲木

1944年(昭和19年)5月15日、三井造船玉野造船所で起工。
仮称艦名「第4701号艦」。香川県高松市の離島「稲木島」から「稲木」と命名され、鵜来型海防艦の12番艦となる。
基準排水量:940トン
全長:78.77m
最大幅:9.10m
速力:19.5ノット
乗員定員:149名
兵装・搭載機材:
 45口径12cm高角砲 連装1基、単装1基
 25mm機銃 3連装5基、単装1基
 三式迫撃砲 単装1基
 九四式爆雷投射機2基
 三式爆雷投射機16基
 爆雷120個
 短艇3隻搭載
 レーダー 22号電探改四 1基
 レーダー 13号電探改三 1基
 ソナー 九三式水中聴音機 1基
 ソナー 三式水中探信儀 2基
1944年12月16日竣工、山田忠太少佐が稲木海防艦長となる。
就役後は、船団護衛に従事。
1945年(昭和20年)8月8日、「稲木」は船団を護衛し釜石を出港し八戸に入港。翌8月9日朝、八戸はアメリカ軍第38任務部隊艦載機の空襲を受ける。稲木は午前9時頃、空母「ランドルフ」と「エセックス」から発進したF6F、SB2Cによる空襲を受けて後甲板に直撃弾を受けて機械室が大破。夕方頃に沈没した。海防艦長の山田忠太少佐以下乗員29名が戦死。

八戸港国際物流拠点化推進協議会
>八戸港の歴史
https://hachinohe-port.org/hachinohe-port/history/
海防艦「稲木」の残骸(昭和20年)

Wikipedia > 鵜来型海防艦

鵜来型海防艦「宇久」の画像(参考)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/ff/IJN_escort_vessel_UKU_in_1944.jpg


海防艦稲木戦歿者慰霊碑(呉海軍墓地)

稲木の慰霊碑は、呉海軍墓地にもある。関連として掲載。


海防艦顕彰碑 護国 海防艦(靖國神社)

海防艦顕彰碑が靖國神社の境内にある。関連として掲載。

船団護衛と沿岸警備を主任務とする排水量約800トンの小艦であった「海防艦」
海防艦189隻の内85隻が海没し、1万余の尊い命が捧げられた。

 船団護衛と沿岸警備を主任務とする海防艦は、昭和15年6月竣工の「占守」を第一号艦として、さきの大東亜戦争終結までに未就役19隻を含め建造数189隻にのぼった。
 要目は全長約70メートル排水量約800トン乗員200余名、小艦ながら優秀な対潜対空兵器をもち 操縦性と航洋性の点においてもすぐれていた。
 乗組員延総数3万余、士官に商船学校出身者、学徒出身者、兵よりの昇進者多く、兵員中には17才前後の少年の姿もみられた。
 十分な訓練を受けるいとまなきまま、北は千島から南はシンガポールに至る広い海域で、不眠不休、日夜任務の遂行に当った。人員、兵器、物資の輸送を果しつつ、途上、潜水艦、航空機を撃沈撃墜する戦果もあげたが戦局の悪化に伴って被害艦続出し、85隻を失い、1万余の人びとが尊い生命を国に捧げた。
 ここに海防艦顕彰の碑を建て、戦没乗員の勇戦と労苦をしのび、併せてわが国海上輸送の宿命的重要性を後世に伝える資としたい。
  昭和55年5月5日 海防艦顕彰会

冬の季節に。


八戸と戦争

八戸港
昭和18年頃には制海権を失っていた日本。昭和18年8月には、八戸沖にも米海軍潜水艦が進出していた。8月に「明和丸」「美福丸」、9月に「第六多聞丸」、10月には「幹雲丸」が撃沈され、八戸沖の近海航路も危険な状態となっていた。
そんななかでも八戸港からは漁船船団が、ボルネオまで石油積取得のために決死の航海を行っている記録も残っている。しかし、昭和19年6月にマリアナ沖海戦で日本艦隊は壊滅的な打撃をうけ、そしてサイパン島が陥落したことで、南方資源との航路も閉ざされることとなった。

八戸永久築城(八戸要塞)
昭和19年7月、大本営は「本土沿岸築城実施要綱」を発令し、「捷号作戦」本土防衛計画が策定された。本土方面決戦(捷三号作戦)として、連合国軍の上陸を迎え撃つための重点地域が下記の3箇所に絞られた。
・九十九里浜
・鹿島灘
・八戸周辺
八戸には、大規模な上陸作戦を可能とする長大な砂浜が多いという地理的な要因もあり戦略的な要衝となっていた。米軍の本土上陸に備え、昭和19年10月に、八戸永久築城緊急工事が始まった。
わずか半年の工期で、八戸の後背地の新井田川沿いの山中の「是川」「舘」「島守」にまたがる1,380ヘクタールの地域に、地下壕が掘られ、トーチカ陣地が造られた。この八戸要塞の築城には98万人の人員と43,000台の馬車が動員された。昭和20年1月からは、八戸中学校500名、八戸商業200名、八戸水産200面、八戸高等女学校700名、千葉学園400名のほか、八戸市内国民学校高等科の男女生徒2,200名など、近隣の学徒も動員された。

八戸の防衛配備状況
八戸永久築城(八戸要塞)が昭和20年3月末に完成後、昭和20年4月8日に、大本営は「決号作戦準備要項」を決定。東北は第十一方面軍が守備を担当することとなり、仙台と八戸の二ヶ所を重点地とした。
八戸守備として、独立混成第九十五旅団(旅団長・石黒岩太陸軍少将、石黒兵団)が配備。
「陸軍八戸飛行場」には、飛行部隊が展開。「蕪島」には海軍が特攻艇の配備を計画。「鮫港」には海防艦・稲木が停泊。「鮫角」には軍司令部直轄の電波探知機(電探)が配備。「鮫」には陸軍3個中隊と機関銃25、高角砲16、重砲2が配備された。しかし重砲は日露戦争時代(明治45年1912年)の代物、であった。
また、その他の部隊として、「白銀」に弾薬補給部隊、「湊」に食料補給部隊が置かれた。


八戸空襲

八戸には、陸軍の「八戸飛行場」(現在の海自八戸航空基地)や、米軍上陸に備えた「八戸防衛陣地(八戸要塞)」、蕪島の海軍基地(特攻基地)が配備され、軍需工場に指定された民間企業も多数ある街であった。

昭和20年7月になると、関東の主要都市に対し空襲を重ねてきた米軍は、東北にも及んできた。

昭和20年7月14日15日に、八戸は、米空母機動部隊艦載機(F6Fグラマン戦闘機)による初空襲を受ける。
朝5時から7時、9時、11時と2時間ずつの波状攻撃で、高舘飛行場(現在の海上自衛隊八戸航空基地)、日東化学、尻内駅が被害を受けた。この攻撃は翌日も続き、死者行方不明者452名、重軽傷者は多数にのぼった。

ついで、7月27日には、青森市に爆撃予告のビラが撒かれ、翌28日夜にB29が青森市を空襲し、結果、「青森大空襲」として約700名が死亡した。

青森大空襲のあと、八戸では学童疎開がはじまった。
八戸国民学校から縁故疎開した生徒は800名、引率集団疎開した生徒は135名に及んだ。

そして、2回目の八戸空襲は、8月9日午前6時、グラマン戦闘機50機の来襲であった。
八戸港に仮泊していた海防艦「稲木」はこれに応戦したが、ロケット弾を集中的にあびせられ撃沈、艦長以下29名が戦死した。
翌10日も空襲があり、工場、民家等が爆撃され、多数の死者を出した。
おなじ8月9日に、一部が兵舎として使用されていた八戸国民学校も米海軍機の機銃掃射で炎上したが、第一陣の学童疎開が八戸を去った直後(八戸駅=現在の本八戸駅を発車まもなく)であり、重大な被害から逃れることが出来た。

3回目として、「八戸大空襲」を米軍は8月17日に予告してきていたが、8月15日に終戦を迎えたために「八戸大空襲」は幻となり、壊滅的な被害を免れることができた。

総務省>八戸における戦災の状況(青森県)

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tohoku_01.html


蕪島海軍基地跡(蕪島要塞跡)

蕪島では、1944年10月ごろから、東西に島を貫通する坑道5本、南北に坑道1本が築造された。
「駆潜艇」用爆雷格納庫、であったという。
海軍では、捕鯨船のキャッチャーボートに爆雷投下装置と機銃を備え付け、応急の駆潜艇としており、八戸にも4~5隻が配備されていたという。蕪島の格納壕は未完成だったが、50~55個の爆雷が貯蔵される予定だったという。また、特攻艇「震洋」の格納庫として転用予定もあったという。

以下、八戸市蕪島休憩所にて

1942
内務省と海軍省のイラク工事として旧海軍により埋め立て工事が行われる。2年がかりで埋め立てられ本土と陸続きとなった。
1945
7月15日/太平洋戦争の末期にアメリカ軍からの空襲を受ける。

1942年(昭和17年)、軍需施設建設のため旧海軍による埋め立て工事が2年がかりで行われました。戦時中「北の要塞」と呼ばれた蕪島。写真には東西に掘られた5本の坑道口も見えます。

坑道の開口部が見える。

「NPO法人鮫町蕪島ウミネコvillage」が運営している建屋の中にあった資料。

https://www.daily-tohoku.news/archives/344351

デイリー東北(2025年8月15日)
蕪島が痛がっている
軍事要塞化で陸続きに
(略)
 1941年(昭和16年)12月、日本が米国などを相手に始めた太平洋戦争に合わせ、翌42年から着手された蕪島の軍事要塞化工事だ。

 鮫地区の沿岸に位置する蕪島はかつて、陸地と切り離された文字通りの「島」であり、頂上の蕪嶋神社と共に、漁師が会場の安全と豊漁を祈願する聖域だった。
 その島域を軍事要塞とすべく、海軍は架け橋を取り壊して陸続きに埋め立て、さらに島内に5本の坑道を掘った。爆薬を搭載して敵艦に体当たりする有人の水上特攻艇を坑道に隠す計画だった。
(略)
 蕪島だけではない。太平洋戦争末期の1944年10月、国は「八戸永久築城計画」に着手し、館・是川・南郷島守地区に100基を超える要塞を建設させた。対米戦の敗退が続き、米軍の上陸が想定されたことに伴う措置。実際、沿岸部を中心に米国の爆撃機による空襲も相次ぎ、上陸の危機は現実味を帯びていた。
(略)

マリエントから見る蕪島もおすすめ。

改めて、蕪島にて。坑道の気配は感じない。

戦後しばらくは開口していたが、十勝沖地震(1968)による陥没などもあり、埋め戻されている。

マリエントの展望台から

八甲田山がみえた。

ウミネコ?


蕪島神社

八戸駅からバスを乗り継いで「鮫小学校通」バス停に到着。
地震によりJR八戸線が運休中のため「鮫駅」を横目に、バスを駆使して、蕪島神社には歩いての訪問となりました。

ちなみに、バスは「八戸市内共通1日乗車券(800円)」を活用。これで、八戸市営バス(青いバス)と南部バス(赤いバス)が乗り放題。

蕪島は、戦時中に海軍の工事によって地続きとなった。

ちなみに、ウミネコは春から夏にかけて、なので、冬にはそんなに居ないのだ。

八戸小唄
昭和6年に造られた新民謡。

もともと「稲木」の碑を見に来たということを鑑みると、ウミネコがいないほうが落ち着いてゆっくり見学できるとも。

1933年の津波

2011年の津波

参道の石段脇に、津波の高さを示すプレートが設置されている。

2020年に再建の御社殿(2015年に焼失のため)

蕪嶋神社は社伝によれば1269年に江ノ島弁才天を勧進したのがはじまりだという。
祭神は市寸嶋比売命、多紀理毘売命、多岐都比売命の宗像三女神(厳島神社の主祭神である)で「蕪嶋の弁天様」として信仰を集めてきた。弁財天は商売繁盛や子授けにご利益があるとされているが、漁業の守り神でもある。

チョコクランチが、かわいらしかったので、お土産にしました。

場所:

https://maps.app.goo.gl/YrYpwUkTL9HcrdhR7


葦毛崎展望台(葦毛崎海軍電探基地跡)

「うみねこ号」(鮫駅~種差海岸駅)を結ぶバスを活用して、葦毛崎展望台まで移動。これも一日乗車券で。

葦毛崎展望台
幕末時代には台場が築かれ、異国の船を監視するのに使われ、戦時中は、旧帝国海軍の「電探基地」(レーダー基地)の円盤基礎が設けられた。
2式1号電波探信儀(二式二号電波探信儀一型・二号一型電探、21号電探)が配備され、海軍による監視哨が置かれた。

上部構造物は戦後に観光地化で展望台として造営されたものだが、下部の円盤基礎は、戦時中の帝国海軍の電探基地(レーダー基地)の土台。

防空レーダーを備えた海軍の無線基地跡。

太平洋の眺望を楽しむ

鮫角灯台も見える

苫小牧の方向

うーん、さすがに見えない。

海軍時代の土台を基礎とする。

鮫角灯台側から。

場所:

https://maps.app.goo.gl/odqxUZJEtcgjLeaS8


八戸のマイルポスト

高さ5mほどにもなるコンクリート製の柱。
このそびえ立つ柱は、新造船の速度を計測するためのマイルポストであった。もともとは5本あったというが、現在は2本が残っている。
船の速度を測る計測器が発達していなかったころの産業遺産。

青森県庁>

https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kotsu/seikatsu/files/kenshi-mado148.pdf

鮫角灯台と2本のマイルポスト


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R272-93
1948年(昭和23年)4月29日、米軍撮影

葦毛崎周辺を拡大

現在の様子


マイルポスト(鮫角)

海側のマイルポスト。こっちは近くに寄ることが出来ます。

場所:

https://maps.app.goo.gl/qVyfZMEGAh395RV88


マイルポスト(小舟渡平)

こちらは近くに寄れなかったので、鮫角灯台から。

ギリギリ、2本が写った画角

場所:

https://maps.app.goo.gl/tF77BUj7ftKFNQHM7


鮫角灯台

「日本の灯台50選」に選ばれている灯台。
昭和13年(1938)2月16日に初点灯。
毎年期間限定(4月~10月の土日祝日など)で一般開放しているが、私が訪れたこのとき(12月)は非解放。。。

鮫角灯台
初点
昭和13年2月16日

鮫角灯台
~美しい景観で地域に愛される灯台~
 鮫角灯台は、1938年(昭和13年)2月16日に点灯した灯台で、昭和初期からのハ戸港の目覚ましい発展に伴い、漁船や貨物船の安全な航行のため、地元からの強い要望により設置されました。
 1997年(平成9年)に、灯器は長寿命のメタルハライドランプを採用した回転式に変更しましたが、外観は設置当時のまま変わりなく海を照らし、航行船舶の道しるべとなっています。
 灯台の周辺地域は2013年(平成25年)に「三陸復興国立公園」に指定され、翌年の2014年(平成26年)には「白亜の灯台と青い空と海のコントラストが美しく、周辺の景観とも見事に調和し、地域のシンボルとして相応しい。」との評価から、第26回ハ戸市景観賞(まちなみ空間部門)を受賞しています。

位置 北緯 40度32分24秒
東経 141度34分34秒
光り方 単閃白光 毎8秒に1閃光
光の強さ 100,000カンデラ(約本分の明るさで
光の届く距離 19.5海里(約36キロメートル)
高さ 地上から灯台頂部 約23メートル
水面から灯火 約58メートル

鮫角灯台
海上保安庁
八戸海上保安部

鮫角灯台
施設の概要
初点
 昭和13年2月16日
位置
 北緯40度32分24秒
 東経141度34分34秒
構造
 白色塔型鉄筋コンクリート造
等級及び灯質
 第4等 単閃白光(毎8秒に1閃光)
光度
 100,000 カンデラ
光達距離
 19.5 海里(約36キロメートル)
高さ
 地上~頂部 23メートル
 水面上~灯火 58メートル
管理事務所
 第二管区海上保安本部 八戸海上保安部
 電話 0178-32-4691

なんだろ、築山

馬?

タイヘイ牧場が隣接している。サラブレッドの競走馬の牧場。
大川財閥の大川平三郎氏の「大」と「平」からの命名。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Dup6FbgSZqukGdCJ9


物見岩(種差防空監視哨跡)

鮫角灯台近くに、海抜52メートルの岩山「物見岩」があり、藩政時代から魚群発見や大漁などを狼煙を揚げて知らせる場所であったという。
この地に、戦時中は、陸軍の防空監視哨が設けられていた。

物見岩自然植物園
 このあたり一帯は、夏でも冷たい風や霧に包まれる日が多いため、さまざまの植物が自生しています。美しい自然を構成している植物には、南限または、北限の学術上貴重な植物なども見られるといわれています。
 市では、この自然を生かした小さな植物園を、市民の憩の場として利用できるよう整備しました。
 園内にある岩山は、海底から隆起したと思われる安山岩で、海抜五ニメートル、藩政時代から魚群の発見や、大漁など、のろしを揚げて知らせる場所であったということから、「物見岩」と名付けられました。また、海図にも記載され、海路の重要な目印になっています。また、このあたりは、名勝地と鳥戦保護区に指定されていますので、植物や鳥類をとることは禁止されています。

うーん、立入禁止。自身の影響かな。。。

岩場、、、

まあ、立入禁止ってあるので、強行はしない。

場所:

https://maps.app.goo.gl/xBFpZoYjeWeq7Ko39


根城跡

おお。南部師行!!

実は、私は、最近はもっぱら近代史専攻な感じですけど、南北朝期も結構好きでして。南朝の南部師行は、義良親王と北畠顕家の陸奥将軍府を支えた重臣。北畠顕家と最期まで行動をともにし、石津の戦いで戦死した。

八戸市博物館は、休館中、、、残念。

せっかくだから、戴きました。

今回のサイトの記録に、八戸市博物館刊行の「戦後60年特別展・戦争と八戸市民‐苦難とともに‐」の図録が役に立ちました。
あと、「はちのへ文化財ガイドブック」は在庫僅少だそうで、そういうフレーズに弱いのであわせて戴きました。

根城跡
南朝方の根本となる城として、南部師行が築城。
日本100名城

場所:

https://maps.app.goo.gl/uK3isTWrZA2Pw4Xb7

https://maps.app.goo.gl/SWZ7SiqgxRUikCWEA


櫛引八幡宮

場所は変わって、八戸が誇る国宝スポットの「櫛引八幡宮」へ。
南部総鎮守一之宮。
本殿・旧拝殿(長所)・末社神明社・末社春日社・正門が5棟が国指定重要
文化財。
赤糸威鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:菊一文字の鎧)と白糸威褄取鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:卯の花威)が国宝。
紫糸威肩白浅黄鎧(兜、大袖付)と唐櫃入白糸威肩赤胴丸(兜、大袖付)と、兜(浅黄糸威肩赤大袖2枚付)が国重要文化財。

拝殿

本殿は改修工事中。
国重要文化財
正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもの

国宝館

赤糸威鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:菊一文字の鎧)
白糸威褄取鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:卯の花威)
国宝の2つの鎧を、ぐるぐると、ずーっと飽きることなく、みていられます。
これは良いものだ。
写真では伝わらないですね、これは生でないと。この鎧を生で見るためだけに八戸に赴いても損ではないかも。こういうのが好きな人であれば。

JR八戸駅でもアピールされてました

旧拝殿(長所)
国重要文化財
正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもの

南門(正門)
国重要文化財
正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもの

末社(脇宮)春日社本殿
国重要文化財
東北では数少ない一間社春日造。
元文4年(1739年)に勧請、創祀されたと伝わる

末社(脇宮)神明宮本殿
国重要文化財
元文4年(1739年)に勧請、創祀されたと伝わる


明治記念館(旧八戸小学講堂)

明治14年(1881年)竣工。
明治12年(1879)11月に立柱式を挙げ、明治14年(1882)8月に完成した八戸小学講堂は、青森県内に現存する洋風建築では最古のものである。
校舎が完成した明治14年8月に明治天皇の東北御巡幸があり、落成したばかりのこの講堂が、行在所として用いられた。
昭和4年には「八戸市図書館」として使用され、後の昭和37年に櫛引八幡宮境内に移築され「明治記念館」として現在に至る。

明治天皇八戸行在所

昭和10年4月建設

明治記念館の内部は見学できません
櫛引八幡宮

明治記念館の由来
 明治記念館は八戸市堀端に八戸小学講堂として、明治14年(1882)8月に竣工した、県内に現存する最古の洋風建築である。洋風の下見板張りの外壁が真壁として納まり柱の頂部には飾を載せ、胴蛇腹と幹蛇腹とを備えている。
 明治14年の明治天皇東北御巡章に際し行注所として用いられた。昭和4年には八戸市図書館となり御聖蹟として維待される。
 昭和37年に櫛引八幡宮境内へ移築し、その際窓回り等に若千の改造が加えられてはいるが、「明治」の雰囲気を色濃く伝えており、「明治記念館」として現在に至る。(現在は直会所・神前結婚式控室・会議室等に使用している。県重宝平成3年3月13日指定)

明治大帝御聖像

御大典奉祝
八戸市傷痍軍人会

碑文
 皇紀二千六百五十年 今上天皇御即位の礼 大嘗祭に世界百六十有ヶの国の元首代表が参列し 内閣総理大臣以下一億二千萬人の国民が挙って 御奉祝申上げる
 我等は
滿洲事麥以降大東垂戰爭の終結に至るまで 戦地に赴き 国家の干城として奮闘
 九死に一生を授かって この目出度き国家の慶事に遭う 生涯の恵に感泣し
 七生報国の誓を新たにす
 今茲に 先帝陛下の「耐ヘ難キヲ堪へ忍ビ難キラ忍ビ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」との聖旨を仰ぎ 国体の精華を讃え我が国の悠久の弥栄を祈念し 聖寿の万歳を寿ぎ奉り御大典奉祝の記念碑とす
 平成2年8月15日

場所:

https://maps.app.goo.gl/EorGdiXFBEbFb4iC9


八戸あれこれ

今回、人生初の八戸ということもあり、いろいろ堪能してみました。

へー、サバ日本一なのか。
サバのまち八戸

八戸駅の駅そば
駅そばはみかけると入ってしまいます。

天玉そば

地震の影響で、市街地に道路封鎖あり。

NTTの鉄塔に被害。
あと、JR西日本八戸線の鉄橋にも被害があって、JR八戸線も運休。

出張先の六ケ所村での昼食。
貝の味噌鍋、貝のエキスが染み出て美味でした。

JR八戸駅

JR八戸駅ちかくの海鮮居酒屋「浜小屋」さん。
おおあたりで美味。

本つぼ鯛
一番のおすすめ

本マグロカマトロにぎり、やばい

地場の日本酒も美味。

JR駅前のホテルから。

朝飯。
しじみ出汁茶漬け

八戸せんべい汁

なんばんみそ

八戸の山車、三社大祭

お土産ランキング。

「鶴子まんじゅう」を買いました。

もちろん、「なかよし」も。

駅中横丁、で。
イカ飯とせんべい汁を。

帰りの新幹線。

この日の移動距離など。

八戸、楽しく美味しい街でした。
今度は、ゆっくり散策してみたく。

撮影:2025年12月


百里基地航空祭(2025年)

12月開催の百里基地航空祭は、私の中での航空祭納め。その年の最後を飾る航空祭。
今年の来場者は、約65,000人(前年差で25,000人増)とのことで。

「救難隊60周年記念塗装」のUH-60J


百里の戦跡

百里原の戦跡などは、下記にて。


百里基地航空祭スケジュール(2025)

こんな感じ、でした。

  • 航路飛行(UH-60J・U-125A・T-4・F-2)
     時間:8:00~8:40
  • 機動飛行(F-15)
     時間:9:05~9:25
  • 捜索救助(UH-60J・U-125A)
     時間:9:40~10:10
  • ブルーインパルス曲技飛行
     時間:10:55~11:35
  • 機動飛行(F-2)
     時間:13:00~13:20
  • 模擬空対地射爆撃(F-2)
     時間:13:40~14:00

で、私の実際の行動時間は、下記でした。

  • 0630 石岡駅着
  • 0740 石岡駅からバス乗車
  • 0840 百里基地到着、バス下車
  • 1400 航空祭終了
  • 1435 石岡駅からバスに乗車
  • 1545 石岡駅に到着

F-2着陸(午前)

百里基地に着いたら、F-2が着陸してきました。
早いし。


F-15機動飛行展示

0900
場所取りをする前に、もうF-15が飛び始め。あわただしい朝。
F-15をゆっくり見ることも叶わないし。

機動飛行(F-15)
 時間:9:05~9:25

適当な場所で、飛行展示するF-15を見学。


捜索救助(UH-60J・U-125A)展示

「救難隊60周年記念塗装」のUH-60JとU-125A。
救難コンビの飛行展示。

百里 エアレスキュー
HYAKURI AR

Air Rescue
Always Reliable 常に信頼、いつも頼りになる

60th


ブルーインパルス曲技飛行

ブルーインパルス曲技飛行
 時間:10:55~11:35

筑波山をバックに、フライトするブルーインパルス
百里基地ならではの光景。


F-2機動展示・模擬空対地射爆撃展示

機動飛行(F-2)
 時間:13:00~13:20

模擬空対地射爆撃(F-2)
 時間:13:40~14:00

場所を変えて、滑走路の端の方に。バス乗り場近く。
ここから、すぐに撤収モードに移れるので。

模擬空対地射爆撃は「F-2」4機で。

14時に飛行展示は終了。


百里基地あれこれ

第7航空団司令部

第7航空団司令部庁舎

管制塔

今年は「慰霊碑・記念碑」エリアは、立入禁止、でした。。。

茨城空港、でもあるので、航空祭は定期便の合間を見つつ。


百里基地往復

メモとして。

0630 石岡駅着
 ※上野始発の最速時間
 ※土浦始発だと0602に石岡に到着できるので、次回の検討?
 ※もしくは水戸方面だと、下り組より早く石岡に到着できる。。。
0740 バス乗車
0840 バス下車

1400 航空祭終了
1435 バス乗車
1545 石岡駅着

帰り。

お疲れ様でした

※2025年12月


「戦争記録画」の記録・東京国立近代美術館(2025年企画展) 

東京国立近代美術館で、2025年7月15日から10月26日まで展示された企画展。
 コレクションを中心とした特集 
  記録をひらく 
  記憶をつむぐ
昭和100年、戦後80年の節目の展示は、企画展のタイトルからは読み取ることができかったが、蓋を開けてみれば、「戦争記録画(戦争絵画)」の展示であった。

図録の用意もない企画展ゆえ、今後の備忘のために、以下、私自身のためにも、記録と記憶の形を残しておきたいと思う。

以下、余計な主観は交えずに、粛々と作品を掲載をしていきたい。

アッツ島玉砕(藤田嗣治)


記録をひらく 記憶をつむぐ

東京国立近代美術館

ごあいさつ
 「昭和100年」、「戦後80年」という節目の年となる2025年、美術を手がかりとして、1930年代から1970年代の時代と文化を振り返る展覧会を開催します。当館のコレクションを中心に、他機関所蔵の作品·資料を加えて、絵画や写真や映画といった視覚的な表現が果たした「記録」という役割と、それらを事後に振り返りながら再構成されていく「記憶」の働きに注目しながら、過去を現在と未来につなげていく継承の方法を、美術館という記憶装置において考察するものです。
 東京国立近代美術館は、戦時下の1930年代から1940年代の美術について
は、購入や寄贈によって収集した作品のほか、いわゆる「戦争記録画」を153点収蔵しています。これらは戦意昂揚と戦争の記録を目的に制作され、戦後アメリカに接収された後、1970年に「無期限貸与」という形で「返還」されたものです。本展では戦時中の作品に、戦争体験を想起させる戦後美術を加えて、美術が戦争をどのように伝えてきたかを検証します。
 戦中にプロパガンダとして機能した戦争記録画の展示においては、戦時体制下で美術が担った社会的な役割を歴史的事実に基づいて見つめ直していきます。このような当時の経験を時代や地域を超えて共有し、未来の平和に資する想像力を引き出すことを試みます。
 戦後80年となる今年、戦争体験を持たない世代が、どのように過去に向き合うことができるかが問われています。それは他でもない、現在を生きる私たちの実践にかかっているといえるでしょう。これまで蓄積されてきた過去の記録に触れながら、それらをもとに新たな記憶を紡ぎだしていくこと。私たちは、美術館がこのような記憶を編む協働の場になることができると考えています。
 なお、本展に展示される作品や資料の中には、今日の社会通念や人権意識に照らして不適切な表現を含むものがありますが、当時の時代背景を伝える歴史資料としての意義を重視し、改変や削除などは施さずに紹介しています。
 最後になりますが、本展開催にあたり、貴重な作品·資料をご出品くださいました美術館、博物館、所蔵家の皆さま、ならびにご協力いただきました関係各位に深く感謝申し上げます。
 東京国立近代美術館

戦時の美術の分類(その名称と画題)
戦時に制作·発表された絵画は膨大な数にのぼります。そのうち東京国立近代美術館が保管する「作戦記録画」は軍によって委嘱された公式な作品群ですので、全体のごく一部にすぎません。画題は戦史に残すべき戦闘の場面が選ばれています。一方で「戦争記録画」という呼称は、軍からの依頼の有無にかかわらず戦闘場面を記念碑的に描いた作品を指します。
そのまわりに、「前線の光景」「銃後の光景」「大陸·南方風景」「歴史主題」「仏教主題」「象徴(桜·富士山など)」などを主題とする時局を反映した美術のすそ野が広がっているのです。これらを総称する用語として定着したものはありませんので、この図では仮に「戦時の美術」としました。「戦争画」という一般的な用語も使われますが、その境界を確定すること
は難しく、狭義には上記の「戦争記録画」を、広義には総力戦を表象する絵画全体を指す場合があります。

■作戦記録画を発注した軍部の認識を、当時の文献から抜粋して紹介しましょう。
-黒田千吉郎「戦争画について」『南方画信』1942年9月
「美術、特に戦争美術の重要性を知る陸軍は、支那事変勃発するや、直ちにこれを記録して永く後世に残すべく作戦記録画の制作を企図した」
「渾身の力を傾注して完成された作品は、銃後国民の士気を昂揚せしむるのみならず、永く後世に残って子々孫々に至るまで、我等日本人の血を湧き立てさせずにはおかない」

-画家·山口蓬春の手元に残っていた「昭和十九年度大東亜戦争陸軍作戦記録画制作計画(案)」
【註:読みやすいようひらがな表記にしています】
「三、作画公開目的 1国内 作画を以て国内展覧会を開催し銃後一般国民をして戦況裡に正確なる聖戦の実相を把握せしめ第一線将兵の労苦を偲ばしむると共に英霊に対する感謝の念を深め一層奉公精神の強化奮起を以て志気の昂揚に努めんとす」
「五、記録すべき戦闘並画材 画材選定に当たりては関係方面と密に連絡し将来記録として必要なる著名若くは重要なる戦闘を選択し併せて銃後国民に対する宣伝価値を考慮せり」

戦時の美術・戦争画
戦争記録画
作戦記録画


【1】絵画は何を伝えたか

二つの世界大戦が勃発した20世紀は、しばしば「戦争の世紀」と呼ばれます。日本は、1931年から1945年までの間に、満洲事変から日中戦争、太平洋戦争を経験しました。この時代の日本は、新聞、雑誌、ラジオ、映画などのメディアが発達し、人々の間に浸透した時期でもありました。1930年代になると、誕生間もないラジオ放送やニュース映画が戦況を伝えるようになり、戦争報道の速報性や迫真性をめぐってメディア間の競争が激しくなります。このような中、旧来の絵画という「遅い」メディアは、どのようにその存在感を示したのでしょうか。展覧会芸術としての絵画からは、大画面によって戦果を伝える
「作戦記録画」という新たなジャンルが生まれました。それ以外にも、ポスター、軍事郵便絵葉書、子ども向けの絵本などの印刷物を介して、他のメディアには欠けている「想像力」と「色彩」を武器に、絵画は社会に浸透していきました。展覧会の冒頭となる本章では、戦時下のメディアのひとつとして絵画が果たした役割を整理します。

本間、ウエンライト会見図(宮本三郎)

宮本三郎
本間、ウエンライト会見図
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

日中戦争から太平洋戦争中に、陸海軍によって委嘱された公式な戦争画としての「作戦記録画」は、展覧会で公表されることで銃後における啓発宣伝の役割を担うと同時に、後世に記録を残すという機能も期待されていました。したがって「作戦記録画」の中には対戦国との停戦会見を主題とする「会見図」というカテゴリーが存在します。本作は米軍とのフィリピン、コレヒドール島での戦果を示す1942年5月の会見を描いたものですが、戦況が悪化した1944年の陸軍美術展に発表されていることが示す通り、「作戦記録画」はある記念すべき出来事を後から振り返るという性格を持っています。本作の創意は、会見図そのものというよりは、それを後方から撮影する報道班員を中心に据えた構図にあり、「戦争」を伝達するメディアの舞台裏に注目するメタ戦争画となっている点が特徴的です。

ニューギニア沖東方敵機動部隊強襲(御厨純一)

御厨純一
ニューギニア沖東方敵機動部隊強襲
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

海軍作戦記録画に描かれる海戦は、大海原と青空という広大な空間を背景に、戦艦、空母、戦闘機など軍事技術の最先端を体現する兵器の活躍を示すという点で、大衆の好奇心をかきたてる戦争エンタテイメントとの親和性が高いといえるでしょう。この御厨純一の作品は、「記録画」といいながら、躍動感あふれる空中戦を絵画にしかできない脚色によって描いた想像図にほかなりません。1940年5月に創刊された「国防科学雑誌」を謳う『機械化』は、小松崎茂などの人気の挿絵画家を起用し、その空想科学兵器のイラストによって少年たちを魅了しました。このようなイラストと作戦記録画との間には、表現ジャンルを超えた共通点が見て取れます。


【2】アジアへの/からのまなざし

明治時代以降の日本は、台湾と朝鮮を植民地として領有し、アジアにおける帝国主義国家としてその圏域を拡張していきました。台湾、朝鮮、満洲、華北は戦時下にあっても観光地として紹介され、人々の旅行熱を掻き立てるとともに、異国の文化や風俗が美術のモチーフになり、画家に豊富な画題を提供しました。
さらに「大東亜共栄圏」というスローガンが発表されて以降、東南アジアにメディアの関心が向かうと、フィリピン、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシアなどの自然や生活文化を異国趣味的に描き出す作品が多数制作されました。
こういった過程で、美術は自己と他者の差異を視覚的なイメージとして表現することを通して、「日本」や「日本人」の自己像(アイデンティティ)の形成に寄与しました。絵画に描かれたものと描かれなかったものに注目しながら、日本とアジアの間の視線のやり取りと、そこに含まれる政治的な力学について想像を巡らせます。

薬水を汲む(岩崎勝平)

岩崎勝平
薬水を汲む
油彩·キャンバス
川越市立美術館

岩崎は1937年の暮れから翌年にかけて朝鮮を何度か旅行しており、そのときの取材をもとに1938年の第2回新文展に《水くみ》、1941年の第4回新文展に本作を出品しました。いずれも朝鮮の民族衣装をまとった女性が大きな水瓶を携え、泉の水を汲む様子が描かれています。本展であわせて展示される絵葉書にも見られるように、女性と水瓶の組み合わせは当時、朝鮮風俗を表す定番のモチーフでしたが、本作では俯瞰の構図をとり、空を描かずに大地と樹木と女性たちだけで画面をシンプルに構成しています。彼女たちの視線は画面下の水くみの動作に集中しており、穏やかな中にも一種の張りつめた空気を感じさせます。

満洲の収穫(リウ·ロンフォン)

リウ·ロンフォン(劉栄楓)
満洲の収穫
1930
油彩·キャンバス
福岡アジア美術館

リウ·ロンフォン(劉栄楓)は、1892年神奈川県出身。日本に帰化して陸軍大学校等で教授を務めた中国系日本人の父の家庭に生まれました。独学で油彩画を学んだのち、「満洲」を画題とする作品を大正時代から描きはじめ、文展等で発表。旧関東州に縁のある人物だったのか、大連で個展を開催するなど、日本と関東州を往復していたようです。日露戦争後に日本が満洲の権益を得たことによって、その肥沃な大地のイメージが絵画に描かれるようになりました。明らかに19世紀のフランスの画家ミレーの絵画を参照したと思われる本作の収穫風景は、満洲事変前の作品とはいえ、その後の日本の大陸進出を予見する希望のイメージを創出しています。同種の地平線が広がる田園風景が、その後の満蒙開拓団募集の広告等に繰り返し使用され、1932年に建国された満洲国の典型的な視覚像として定着します。

満洲へ!!(拓務省ポスター)

1930年代

手前に大きく、笑顔の農夫/農婦を配し、背後に果てしなく広がる大地を描く構図のポスターが、満洲開拓移民募集として数多く制作されました。これはその典型的な一枚。同様の構図は、旅行案内である『満鮮の旅』の表紙や、プロパガンダ誌『満洲グラフ』裏表紙にも見られます。福沢一郎の《牛》は、この構図を逆手にとって諷刺化しているわけです。

「五族協和」のスローガン

1932年に「満洲国」が日本の傀儡国家として建国された際に提唱されたのが、複合民族国家を志向する「五族協和」という理念です。ここでいう「五族」とは、基本的には漢族、満洲族、モンゴル族、朝鮮人、日本人を指します。このイデオロギーは、ポスターやグラフ誌を媒体に、様々なパターンで視覚化されましたが、新京(現長春)の満洲国国務院総務庁玄関の壁画として描かれた岡田三郎助《民族協和》をはじめ、しばしば女性や子どもの姿で表象されました。

満洲·中国観光と戦争

1937年に日中戦争が始まり、当時のいわゆる「北支」(現在の華北地区に重なる)が日本軍の占領下におかれると、すぐさま観光案内パンフレットが発刊されました。日本人画家や写真家も現地を訪問し、競うように中国の文化·風物を題材に制作しました。なかでも万里の長城、河北省の承徳のラマ廟、北平(現北京)の紫禁城、山西省大同の雲崗石窟といった「文化遺産」が主題として選択されたことが注目されます。
貴重な文化遺産の庇護者としての日本、という象徴的な意味合いが、その表象の背後に潜んでいるためです。

牛(福沢一郎)

福沢一郎

1936
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館

福沢は1935年に「満洲国」を旅行しましたが、旅行前には建設と生産の国と聞いていたのに、現地を訪れてみると多くの人々が道端で昼寝をしているのに驚いたといいます(『みづ系』1935年10月号)。その体験はこの作品にも反映されているようです。地平線の広がる乾いた大地の手前には、二頭の牛が威容を誇りますが、よく見ると部分的に穴があき、安普請の看板のようです。理想国家と宣伝された「満洲国」の、遠く離れた日本から見える虚像と、現地で体験した現実とのギャップが、象徴的に描き出されているといえるでしょう。

「行軍」の情景

日中戦争の過程で、緒戦においては戦果を伝える報道に人々は沸き立ちましたが、長期化するにつれ、次第に兵士の日常を伝える戦争ルポルタージュ文学が注目されるようになります。その代表的なものが、火野葦平(陸軍伍長·玉井勝則)の『麦と兵隊』です(1938年9月単行書刊行)。また「露営の歌」(1937年)や「愛馬進軍歌」(1939年)などの軍歌もこの当時ヒットしました。このように「行軍」の主題は、文学や音楽や映画などのメディアの複合により、大衆的な共感の磁場を形成したのです。絵画もこれに加わり、「歴史画」と呼ぶべきモニュメンタルな表象をめざしました。

娘子関を征く(小磯良平)

小磯良平
娘子関を征く
1941 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1937年10月の中国山西省の要衝、娘子関での日本軍の進軍を描いた作品です。小磯は、激しい戦闘場面ではなく、進軍する兵士の群像として本作を描きました。画面の右端には休息をとる兵士、そこから左に進むにつれ、画面奥へと進む隊列に、兵士や馬が加わっ
ていくように、見る者の視線が誘導されます。縦長の画面を1:2で分割する石橋の下に、綿密に人と馬を
構成し(画面全体に下書きのグリッドが鉛筆で描かれているのがわかります)、一見、何気ない軍隊の日常
を、あたかもモニュメンタルな歴史画のように描きだしています。

臨安攻略(硲伊之助)

硲伊之助
臨安攻略
1941年代 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

空爆の視点

空爆の視点
1941年に開催された第5回海洋美術展には、田辺至《南京空襲》など「空爆」に関わる絵画が数多く展示されました。上空から俯瞰の視点で、空爆する航空機の機影と、その下に広がる攻撃対象となる大地を同一フレームに収める典型的な空爆イメージが、公式な作戦記録画として定着を見たのです。一方でこの構図からは、破壊された日常や難民化する人々といった地上の被害の情景が排除され、空を支配したという優越性が美的に強調されています。

南京空襲(田辺至)

田辺至
南京空襲
1940 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

大東亜共栄圈の夢

1940年8月、第二次近衛内閣は「大東亜共栄圏」の構想を唱えました。これは欧米の帝国主義の打倒と、日本主導によるアジア全体の共存共栄を謳うものでしたが、その背景には、戦争を継続するための資源を東南アジアで確保しようとするねらいがありました。『写真週報』など当時のグラフ誌には、南方の豊かな資源を紹介する記事が頻出します。また同じグラフ誌をめくると、これらの地域で「日本語学習」「ラジオ体操」「神社設営」といった「日本化」が進められていたことを示す記事も目につきます。

シンガポール最後の日(藤田嗣治)

藤田嗣治
シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1941年12月8日から始まるマレー作戦の大詰め、翌年2月11日のシンガポール、ブキ·テマ高地の占領を描いた作品です。画面手前の高地には日本軍兵士の群像が描かれ、画面右では傷ついた戦友を抱きかかえた兵士が、はるか遠方を眺めるように促しています。
彼らの視線の先にはシンガポール市街がパノラマ的に広がり、陥落直前の市街の随所から煙が立ち上る一方、画面左上からは陽光が幾条も差し込み、市街を明るく照らし出しています。藤田は、西洋の古典的歴史画の系譜に連なるように近代戦を描くことを企図して、このような演出を施したと考えられます。

古い通り(リウ·カン)

リウ·カン(劉抗)
古い通り
1950
油彩·キャンバス
福岡アジア美術館

1911年、中国福建省の生まれ。1916年家族とともに英領マラヤに移住。1928年上海新華芸術大学卒業後渡仏、アカデミー·ド·ラ·グランド·ショミエールで学びました。1941年よりシンガポールの南僑師範学校で教鞭をとり、シンガポールの近代美術のパイオニアのひとりとして自身の制作と後進の指導にあたります。
 ここで描かれているのは、ショップハウスと呼ばれる、1階が店舗、2、3階が住居になっているマレー半島の華人居住区独特の建築様式です。南洋のローカルな華人文化としてしばしば画題に取り上げられた風景ですが、本作にその賑わいはありません。1階の入口部分が木材を打ち付けて封鎖されており、「何かが起こったあと」の荒んだ場景として表現されています。抜けるような青空と対照させることで、戦争と日本占領下で受けた傷が、戦後も癒えずに残っていることを物語っています。

神兵の救出到る(藤田嗣治)

藤田嗣治
神兵の救出到る
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

場所は蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシアおよびマレーシアの一部)。現地に駐在するオランダ人の邸宅に、今まさに日本兵が踏み込んだ瞬間が描かれています。壁にかけられた絵や調度品から、その富裕ぶりがうかがえますが、家の主はすでに逃げ出し、縛り上げられた現地女性(家政婦)だけが怯えるようにうずくまっています。題名が示すように、欧米による植民地支配から東南アジアを解放するために、日本兵が「救出」に来た場面のはずですが、怯える現地女性の様子からは、日本兵もまた脅威でしかないことが露呈しているようにも見えます。

衛生隊の活躍とビルマ人の好意(鈴木良三)

鈴木良三
衛生隊の活躍とビルマ人の好意
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

医師の子として生まれ、自身も医学を学んだ後に画家に転向した鈴木は、戦闘場面よりも医療や看護の場面を描いた作品を得意としました。1943年に陸軍と日本赤十字社から記録画作成の依頼を受けた彼はビルマ(現ミャンマー)に渡り、シャン高原の野戦病院に1ヶ月ほど滞在して、その取材をもとに本作を描きました。作戦記録画で現地の人々が描かれる場合は女性か子どもであることが多く、「守る日本兵/守られる·奉仕する現地女性」という関係の枠組みが堅持されていますが、兵士たちにヤシの実を供給する女性たちを描いた本作も、そのバリエーションとして位置づけられます。

四月九日の記録 バタアン半島総攻撃(向井潤吉)

向井潤吉
四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1942年4月9日、日本はフィリピンのルソン島にあるバターン半島を占領しました。左右に画面を横切る人々は、前景がアメリカ兵とフィリピン兵の捕虜、中景が日本兵であり、後景にはフィリピンの避難民が立ち尽くしています。日本陸軍の報道班員として現地に赴いた向井はこの光景を「濁流」と形容し、人々がひしめき合う混沌とした様子で描き残しています。マラリアなどで多くの死者を出したこの移動は、のちに「バターン死の行進」と呼ばれることになります。

バターンの少女(フェルナンド·アモルソロ)

フェルナンド·アモルソロ
バターンの少女
1942
油彩·キャンバス
福岡アジア美術館

20世紀のフィリピンを代表する国民画家のひとり。牧歌的な田園風景を描く穏健な作風で定評のある画家でしたが、1942年以降の日本占領下のマニラで、日本軍への抵抗の意思を示す絵画を多数制作しました。本作が言及するバターン半島での日本軍との激戦は「死の行進」(投降した米軍·フィリピン軍捕虜を収容所まで歩かせ、多くの犠牲者を出した出来事)で知られ、バターン半島は後にフィリピンの愛国·抵抗を象徴する場所となりました。キリスト教の図像学を介して倒れた兵士を悼むこの作品は、1967年に切手の図柄に採用されています。


【3】戦場のスペクタクル

戦場のスペクタクル
日中戦争から太平洋戦争にかけて、陸海軍は当時の中堅画家に対して、前線における兵士たちの活躍を銃後に伝え、後世に永く残すことを目的とする作戦記録画の制作を依頼しました。大画面に構成された戦争を「記録」する絵画は、聖戦美術展、大東亜戦争美術展、陸軍美術展、海洋美術展など、全国を巡回した展覧会で公開され大勢の観客を集めました。これらの展覧会には、軍の委嘱による記録画のみならず、公募による作品も含まれていました。例えば、1939年開催の第1回聖戦美術展の公募要項をみると、「戦線」「占拠地」「銃後」等と主題別のカテゴリーが設けられていたことがわかります。これらが「戦争画」と総称される絵画ジャンルを形成したのです。公式の作戦記録画が担ったのは主として「戦線」の描写となりますが、戦況を伝えるために写真や映画ではなく絵画が選択された理由はどこにあったのでしょうか。他のメディアと異なる「絵画」の性質や約束事に注目しつつ、戦闘場面のスペクタクル化という観点から代表的な作品を読み解きます。

香港島最後の総攻撃図(山口蓬春)

山口蓬春
香港島最後の総攻撃図
1942 作戦記録画
紙本彩色
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1941年に起きた、英国が支配する九龍半島および香港島への日本軍の攻撃を題材にしています。戦争記録画の制作において、日本画は油彩に比べ迫真性に欠けると指摘されましたが、この絵は「静的なピトレスクな絵画的効果」(『国画』1943年1月号)をあげ、「大和絵風の描写をうまく生かして、陥落三日前の香港島を美しく描き出している」(『旬刊美術新報』1942年12月20日号)と評価されました。岩絵具の鮮やかな群青(山並み)や金(炎)が描き出す「美しい」風景は、しかし同時に戦争の「美化」という、戦争と芸術を考える際に避けて通れない問題をはらんでいるともいえます。

哈爾哈河畔之戦闘(藤田嗣治)

藤田嗣治
哈爾哈河畔之戦闘
1941 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1939年7月に満蒙国境をめぐって日本軍とソ連軍が衝突した「ノモンハン事件」を描いたものです。実際の戦闘は、双方が多大な犠牲を払う悲惨なものでしたが、その事実は当時の国民には伝えられていません。この作品の発注者である予備役中将·荻洲立兵はノモン
ハンで戦死した部下の鎮魂のために、藤田に制作を依頼しました。藤田は4mを超える極端に横長のキャンバスを用いてこれに応え、匍匐前進する日本軍兵士の隊列によって横の広がりを、手前の戦車と画面奥の戦闘との大きさの対比によって奥行きを強調し、パノラマ的な効果を高めています。

佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す(田村孝之介)

田村孝之介
佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1942年12月15日、ガダルカナル島の米軍司令部に奇襲攻撃を行った大野挺身隊の3人が、出撃前に部隊長と別れの盃を交わしている場面を描いた作品です。題名の通り3人は帰還することはありませんでした。密林の暗がりの中、画面中央の彼らにスポットライトのように光が差し込み、劇的な演出効果を挙げています。悲壮な場面ではありますが、当時の人々はこの絵を宗教画における殉教図のように受け止めたものと思われます。

神兵パレンバンに降下す(鶴田吾郎)

鶴田吾郎
神兵パレンバンに降下す
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

本作品に描かれたのは、1942年2月14日、蘭印スマトラ島のパレンバンに陸軍落下傘部隊が降下した模様です。落下傘部隊のイメージは鮮烈な印象を与え、同じ年に「藍より蒼き 大空に大空に 忽ち開く 百千の 真白き薔薇の 花模様 見よ落下傘 空に降り…(以下略)」と謳われた「空の神兵」という軍歌も誕生します。鶴田は空挺作戦の一連の動きを異時同図法的に構成しようと努力しますが、最終的に青空に舞う落下傘の遠景に重きを置く構図を選択しました。それは当時「見るからに楽天的」(『新美術』1943年2月号)と評されたようです。


【4】神話の生成

神話の生成
戦時下の美術は、他の表現分野から切り離された形で存在していたわけではありません。美術は、文学や音楽や映画など他の芸術ジャンルと連動しながら、時局を反映したイメージを供給し続けました。特に紀元二千六百年を記念する事業や、太平洋戦争の開戦、そして戦況が悪化してからの「玉砕」、「特攻」など社会的に大きな影響を与えた報道に際しては、必ず複数のジャンルから作品が登場し、それらが連鎖することで国民感情に働きかける力が増幅していった過程が見て取れます。ラジオからは軍歌や愛国詩が流れ、街中には標語やポスターが溢れ、展覧会では戦果を記念する壁画大の戦争画が展示されていました。このように目と耳に訴える表現がかけ合わされて、人々を動かす「物語」が生まれていくのです。

「12月8日」という記念日
米英蘭を相手に太平洋戦争が始まった1941年12月8日。一般にはハワイの「真珠湾攻撃」をその端緒として認識する人が多いですが、実際には英領マレー半島への上陸作戦がわずかに先行します。中村研一《コタ·バル》はその作戦を描いたものです。開戦はラジオによって国民に広く報じられ、緒戦の勝利は国民を熱狂させました。ラジオではまた、高村光太郎ら詩人たちによる「愛国詩」が朗読される番組が誕生します。開戦から1年後の1942年12月に開かれた第1回大東亜戦争美術展では、《コタ·バル》をはじめ戦勝を描いた作戦記録画が展示され、多くの観衆を集めました。

コタ·バル(中村研一)

中村研一
コタ·バル
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1941年12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争は始まったと言われることが多いのですが、その1時間ほど前に、マレー半島北端のコタ·バルへの上陸作戦は始まっていました。対英米開戦を告げる歴史的作戦を描くにあたって、中村は翌年6月に現地を訪れ、実際に作戦のあった日と同じ月齢、同じ時間帯の海岸を取材しました。中村はこの取材をもとに、月明かりによる光と闇の対比と、敵側からの視点による迫力ある構図によって、はいつくばりながら鉄条網を切断しようとする兵士や手榴弾を投げようとする兵士を劇的に描き出しました。発表時には「レアリズムの段階から、すでに浪漫主義絵画の域に踏み入っている」(『新美術」1943年2月号)と評されています。

「玉砕」の神話

「玉砕」の神話
1943年5月、アリューシャン列島のアッツ島で、日本陸軍守備隊がアメリカ軍との戦闘により全滅しました。同年4月の、海軍連合艦隊司令長官·山本五十六のパプアニューギニアでの戦死の知らせと続けて報道されたこともあり、日本国民に大きな衝撃を与えました。部隊の全滅は「玉砕」という言葉により美化され、歌や文学や絵本などさまざまなメディアに取り上げられて、「仇討ち」の国民感情を醸成しました。藤田嗣治の作品《アッツ島玉砕》もその文脈の中で生み出されたのです。

アッツ島玉砕(藤田嗣治)

藤田嗣治
アッツ島玉砕
1943 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1943年5月29日、アリューシャン列島のアッツ島で、アメリカ軍の攻撃により日本の守備隊が全滅した出来事が、敵味方の入り乱れる死闘図として描かれています。全滅は「玉砕」という言い方で美化され、国に殉じる行為が軍人の鑑であると報じられたため、藤田の絵は陰惨な図柄であるにもかかわらず、観衆に熱狂的に受け入れられました。同年9月の国民総力決戦美術展に展示された際には、作品の前に賽銭箱が置かれ、脇には藤田自身が直立し、観客が賽銭を入れると藤田がお辞儀したというエピソードもあります(野見山暁治『四百字のデッサン』河出書房新社、1978年)。ここで作品は単なる記録を超え、追悼と「仇討ち」の気分を醸成するための機能を果たしました。その気分の醸成には、報道や文学、絵本、歌などのメディア·ミックスがあったことも見逃せません。

アッツ島爆撃(小川原脩)

小川原脩
アッツ島爆撃
1944
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1942年6月に日本軍はアリューシャン列島のアッツ島を占領します。その際の爆撃の様子を描いた作品ですが、写真をもとに描いたというその描写は淡々としていて、派手な爆炎も燃え盛る敵陣も見当たりません。しかも不思議なことに、本作が発表されたのは1944年3月の第2回陸軍美術展。つまりすでにアッツ島は米軍に奪還され、日本軍の守備隊が玉砕した1943年5月よりずっと後のことでした。玉砕が国民に知れ渡った後に、それ以前の戦闘を淡々と描いた作者の真意はどのようなものだったのでしょうか。

「肉弾」、特攻の原型

1932年2月22日、第一次上海事変において、敵陣に爆弾とともに突入して戦死した3人の兵士(江下武二、北川丞、作江伊之助)は「肉弾三勇士」または「爆弾三勇士」の名で、新聞各紙で大きく報道され、その後、映画、歌舞伎、軍歌から童謡や玩具に至るまで、さまざまなメディアで表されました。美術においても、銅像や絵画がいくつも制作されています。こうしたブームは軍主導ではなく、メディアと大衆の側の自発的な活動だったといえますが、結果として、自己犠牲を尊重する後の「特攻」の原型をかたちづくることになります。

「特攻」の表象

「特攻」は特別攻撃の略で、軍の組織的作戦としては1944年10月に編成された「神風特別攻撃隊」を端緒とする、体当たり攻撃を指します。航空機によるものと潜航艇(人間魚雷)によるものとがありました。士気高揚の面から、体当たりの場面そのものが描かれる例は稀で、むしろ出撃前の盃をかわす儀式、旗を振っての見送り、そして飛び立つ飛行機と大空に消えていくまでのロングショットが、当時のメディアに繰り返し表されました。さらに、子どもたちを次世代の航空兵として「空」へといざなう言葉とイメージが頻出したことも見逃せません。

萬朶隊比島沖に奮戦す(宮本三郎)

宮本三郎
萬朶隊比島沖に奮戦す
1945 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

萬朶隊は、富嶽隊とともに陸軍最初の特別攻撃隊として1944年10月に編成されました。フィリピンで特攻を行うべく準備を進める中、移動中に米軍機の攻撃を受け隊長以下主力の4名を失いましたが、その後11月12日に残された部下たちはレイテ湾において米軍の艦隊に突入、任務を遂行しました。ただひとり生還した操縦士については、鴻上尚史『不死身の特攻兵』(講談社、2017年)に詳しく記されています。なお、このときの戦果は過大に報道されましたが、本作もそれを受けてか、爆炎や荒波の過剰なまでの交錯によって、現代の戦闘をフランス19世紀のロマン主義絵画のように描き出し、記録を超えてモニュメンタルなものにしようとする意図を感じさせます。

特攻隊内地基地を進発す(伊原宇三郎)

伊原宇三郎
特攻隊内地基地を進発す(一)
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1944年12月3日、茨城県水戸東飛行場から飛び立つ陸軍特別攻撃隊「殉義隊」と、それを見送る同僚や家族が描かれています。機体の尾翼に記されたカタカナは、飛行士の頭文字で、「ツ」は隊長の敦賀真二の搭乗機であることを示しています。彼らはフィリピンに向かい、12月21日と22日にミンドロ島付近で特攻を行いました。伊原は隊長の敦賀と同郷だったこともあり、出撃前の彼らを取材する際に、彼とその両親に話を聞く機会があったといいます。見送る人々の中にはその両親もいたそうですが、その中に一人だけ、画面を見る私たちのほうを見つめ返す少女がいて、はっとさせられます。

水戸東飛行場


【5】日常生活の中の戦争

日中戦争から太平洋戦争は、日本がはじめて経験する総力戦でした。総力戦は、兵士のみならず民間人も含めてすべての人々とあらゆる資源を動員するものです。前線/銃後、男/女、大人/子どもなどの境界は、戦況の変化とともに揺れ動き、それに応じて日常生活の形やそれぞれに割り当てられた役割が変化していきました。
本章では、とりわけ女性画家が集団制作した作品や『主婦之友』の挿図などの戦時の女性イメージの分析を通して、日常と戦争が隣り合わせにあった当時の暮らしを追体験するとともに、様々な分野にわたって戦時の労働を担った女性のあり方について考察します。
さらに、戦況が悪化する過程で、安定していると思われた前線/銃後の境が根本から揺らいだ事態を表す戦争画が登場します。ひとつは民間人も巻き込んだ戦闘場面を描いた作品。もうひとつは空襲下で逃げ惑う人々を描いた作品です。兵士を中心とする前線の戦闘場面から、日常が戦場と化していく戦争表象の変化をたどります。

女流美術家奉公隊

戦時下において、女性は「良妻賢母」として、さらに男性に代わる労働力として銃後を守る役割を担っていました。美術の分野においては、多くの男性画家が従軍して戦地に赴く一方で、女性画家には静物画や風俗画を描くことが求められていました。そんな中、1943年に洋画家·長谷川春子を中心に女流美術家奉公隊が結成されます。奉公隊は「戦ふ少年兵」展を開催し、世の母親たちに息子を少年兵として志願させるよう呼びかけました。また1944年には陸軍省の依頼により、銃後を支える女性たちの諸相をモンタージュした《大東亜戦皇国婦女皆働之図》を共同制作しています。

大東亜戦皇国婦女皆働之図・春夏の部
(女流美術家奉公隊)

女流美術家奉公隊
大東亜戦皇国婦女皆働之図
春夏の部
1944
筥崎宮

この作品には、防空訓練や軍需工場での労働をはしめ、さまざまな場面が描かれています。近代日本美術研究者·吉良智子氏の研究により、ここに描かれた女性たちの労働の具体的な内容が明らかになりました。たとえば、画面上段左中央に描かれた白い服の女性たちは、製図作業に従事しています。中段左端からは、炭鉱での選炭作業、造船、砲弾の製造、塩田での労働、さらにその隣には海女の姿も見て取れます。これらの描写にあたっては、当時の雑誌や新聞、グラフ誌に掲載された写真や挿絵が参照されました。

大東亜戦皇国婦女皆働之図・秋冬の部
(女流美術家奉公隊)

女流美術家奉公隊
大東亜戦皇国婦女皆働之図
秋冬の部
1944
油彩·キャンバス
靖國神社遊就館

この作品の遠景には、「春夏の部」の太陽と対比をなすように、月と富士山のイメージが配されています。上段右中央には靖國神社が描かれ、その脇には千人針を縫う女性たちの姿が見られます。さらに中段右側では、6人の女性たちが飛行機の翼に張る白い大きな羽
布を縫っている様子が描かれています。終戦後、多くの戦争画が廃棄·焼却処分される中で、《皆働之図》の2点は、長谷川春子のはたらきにより崎宮に保管されました。本作には靖國神社が描かれていることから、その後1962年に同社へ奉納されました。

総力戦と国民の生活

日中戦争勃発後の1938年に国家総動員法が公布され、日本は総力戦へと突入していきました。男性が戦地へと徴兵されるなか、女性や子どもたちも検約に努め、千人針を縫い、労働に従事することで、国家に貢献しました。総動員体制の確立とともに、ポスターは商品やサービスの広告にとどまらず、国策宣伝を担うメディアへと変化し、戦況が悪化するにしたがってその傾向を強めていきます。
戦時下のスローガン「進め一億火の玉だ」の「一億」という数字には、銃後の女性や子どもだけでなく、当時の外地の日本人および植民地の人口も含まれていました。

前線と銃後の境がなくなるとき

サイパン島に日本空襲のための航空基地を設置しようとする米軍と日本の守備隊との闘いは、7月7日の日本軍の「玉砕」で終結しました。大本営による発表後、新聞紙上ではサイパン島陥落に至る状況と、兵士と民間人の自決の様子が詳細に報道されました。藤田嗣治はこの記事をもとに、民間人を中心に据えて集団自決の場面を描く群像表現を構想し、1945年4月から東京府美術館で開催された陸軍美術展で発表しました。サイパン島陥落後の報道では「前線も銃後もない。正に国土が戦場」(『写真週報』1944年7月6日)であると、本土決戦の覚悟が唱えられましたが、藤田の作品《サイパン島同胞臣節を全うす》は、まさに日常生活が戦場と化した東京空襲の最中に公表されたのです。

サイパン島同胞臣節を全うす(藤田嗣治)

藤田嗣治
サイパン島同胞臣節を全うす
1945 作戦記録画油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1944年、サイパン島では日米両軍による死闘が繰り広げられました。戦火に巻き込まれた住民たちは、島の北端に位置するマッピ岬へと追い詰められ、次々と身を投じたことから、この断崖は後に「バンザイ·クリフ」と呼ばれるようになります。製糖業が盛んだったサイパン島には沖縄からの移民が多く、民間人の犠牲者の大半は沖縄県出身者でした。藤田は報道記事をもとに、戦闘のなかで集団自決に至った民間人の姿を想像によって描いています。宗教画のような劇的な描写は、しばしばドラクロワの《キオス島の虐殺》(ルーヴル美術館蔵)と比較されます。

空襲のイメージ 地上の視点から

第2章2-6で空爆イメージの定着について紹介しましたが、実はそれと同時に空襲を受ける地上の観点から「防空思想」の普及が図られていました。空からの爆撃に備えて、日中戦争勃発直後の1937年10月に、灯火管制や防毒や避難といった防空業務を統制する「防空法」が施行されました。そのシンボルとして様々なメディアに流布したのが「ガスマスク」です。空襲の恐怖をあおる画像と、そこから身を守る道具としての物々しいガスマスク、そして「銃後」を守る役割を負わされた女性がセットとなって、日本における地上の側の「空襲」イメージが生成されました。

空襲!備へよ防毒面(東京・藤倉工業株式会社ポスター)

1930年代
山崎記念 中野区立歴史民俗資料館

皇土防衛の軍民防空陣(鈴木誠)

鈴木誠
皇土防衛の軍民防空陣
1945 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

画面左側には防火活動にあたる女性たち、右側には避難する人々の姿が描かれています。防災頭巾や女性が手にするバケツ、延焼を防ぐための鳶口といった道具は、物資が不足するなかで重要な防災用具とされていました。戦時下の国民は「隣組」単位でバケツリレー
などの防空演習に励みました。本作は、1945年3月10日の東京大空襲の様子を描いたもので、翌月に開催された陸軍美術展覧会に出品されました。多くの作戦記録画が前線を題材とする中、銃後の市民生活を描いた本作は、珍しい作品といえるでしょう。


【6】身体の記憶

1945年8月15日の戦争終結を伝える玉音放送、そして9月2日の日本による降伏文書の調印によって太平洋戦争は終結しました。敗戦国となった日本は連合国の占領下で非軍事化や民主化等の改革を進めます。深刻な不況に陥っていた日本経済は、1950年に勃発した朝鮮戦争の特需によって回復し、焼け跡からの経済的な復興を実現しました。東西冷戦が激化する中、日本は西側諸国との講和を選択。1952年のサンフランシスコ平和条約の発効によって日本は主権国としての独立を回復しますが、同時に日米安全保障条約によって独立後も米軍への基地提供義務を負うことになります。
このような複雑な力学で成り立つ「戦後」の社会において、過去の戦争の事実から何が記憶され、何が忘却されたかという現在にまで続く「戦争の記憶」の問題が立ち上がります。1950年代には忘却に抗うように、戦争の痛ましい記憶を定着しようと試みる一群の作家が登場しました。戦時中には描かれることのなかった傷つき、変形した身体イメージが媒介となり、容易には消えることのない過去の戦争の悪夢が呼び起こされたのです。

原爆の図 第2部 火 再制作版(丸木位里·俊)

丸木位里·俊
原爆の図 第2部 火(再制作版)
1950-51(後年に加筆)
紙本彩色
広島市現代美術館

この作品は、丸木位里と赤松俊子(丸木俊)による「原爆の図」三部作の「火」(前期展示)、「水」(後期展示)の再制作版です。被爆した人々の身体を克明に描写した「原爆の図」は全国を巡回し、占領下において統制されていた原爆被害の情報をいち早く国民に伝えるメディアとしての機能を果たすようになります。1950年末頃にアメリカでの展示を打診されると、丸木夫妻は「原爆の図」を複数化するためにこの再制作版を制作。海外展示は実現しませんでしたが、「原爆の図」への関心と需要が高まるなか、再制作版も各地で展示されました。なお、1974年に作者自身によって彩色などの大幅な加筆が施されています。


【7】よみがえる過去との対話

1965年以降ベトナム戦争が激化すると、その映像はテレビや週刊誌等を介して日本にも届けられました。日本と沖縄に存在する米軍基地が出撃·兵站基地となり、日本がベトナム戦争に間接的に関与していることが明らかになると、1965年4月に「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)が結成され、様々なメディアを駆使して反戦運動が展開されました。同時に日本人の作家、写真家、美術家、漫画家、デザイナー等がベトナム戦争に反応する仕事を発表します。ベ平連の主要メンバーであった小田実が主張したように、ベトナム戦争は日本人が過去の戦争を想起する契機となりました。戦争体験の風化が叫ばれた1970年前後に、アジアとの関係において過去の戦争を捉え直す視点が芽生えたのです。
さらに、この時期に特筆すべきは、「空襲」「原爆」「沖縄戦」において、歴史から零れ落ちてしまいそうな民間人の戦争体験を収集·記録する活動が、市民を巻き込んで立ち上がったことです。戦争の「小さな」記憶を掘り起こす実践が、過去に向き合う意識の変化をもたらしました。

証言の時代

戦後20年が経過し、戦争体験の「風化」が叫ばれた1965年以降、一般の人々の体験を記録する動きが活発になりました。1968年に『暮しの手帖』は、公募で集まった原稿をもとに「戦争中の暮しの記録」特集を組みました。1970年には空襲体験の記録を残そうと「東京空襲を記録する会」が発足します。軍隊の戦闘の経緯を記す公式の戦記とは異なり、そこから零れ落ちてしまう民間人の「小さな」記憶を拾い集める動きが、市民運動と連動しながら全国に拡大していきました。漫画家の手塚治虫や水木しげるが、個人史に基づいた戦争漫画を発表するのも同時期のことです。終戦から時を経て、封印していた記憶の扉が開きはじめたのです。


【8】記録をひらく

戦争の記録を目的に制作された戦争美術は、他国においては戦争博物館や
歴史博物館に収蔵されることが多いのですが、日本では近代美術館である当館が保管しています。これらは、終戦直後に米軍に接収され、長らく米国内で保管されていましたが、「日本近代美術史上の一つの大きな穴となっており、これを補填する文化的な観点」から返還交渉を行ったという報告が残されています(当館発行『現代の眼』188号、1970年7月)。このような1960年代の交渉の結果、1970年、日本に「無期限貸与」という形で「返還」されました。
接収された日本映画や戦争美術といった文化財を取り戻そうとする流れがこの時期に進行していたのです。では、戦時のプロパガンダとして機能した美術が、戦後25年を経た社会の変化を背景に、どのように読み替えられ、歴史の中に位置づけられたのでしょうか。戦争画を描いた作家の反応や、本土とは異なる眼差しで事態を見つめていた沖縄の作家の視点も交えて、当時の日本社会の受容の仕方を様々な資料を通して検証し、戦争記録画から受け取ることのできる「学び」を提示します。

山下、パーシバル両司令官会見図(宮本三郎)

宮本三郎
山下、パーシバル両司令官会見図
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

太平洋戦争の緒戦のシンガポール陥落を伝える本作は、当時、歴史画の達成として高く評価されたものです。1960年代に戦争画返還に向けた世論が形成されていく過程でも、この作品は象徴的に使われ、1967年8月18日の『週刊読売』の「失われた戦争絵画」特集の表紙も飾っています。作者の宮本三郎は、戦争画について語る座談会にしばしば招かれて発言をしていますが、返還前に、現在の視点からの読み替えについて次のように語っていました。「ああいう絵画は、ある意味では戦争を避けるための戒めにもなるだろうし、まとまった場所に、外国の例にしたがって保管されてしかるべきだ」と(『週刊読売』1967年8月18日号)。

無題(真喜志勉)

真喜志勉
[無題]
1977
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館

沖縄出身の画家·真喜志勉は、ジャズをはじめとするアメリカ文化への憧れと、沖縄に存在する米軍基地への反発とが混ざり合った感情を抱えながら、ベトナム戦争下の沖縄の現実を、マスメディアに流布するイメージのコラージュを通して描き出しました。その作品に、日本の軍人のイメージが登場するのは1970年代半ばのことです。アメリカから返還された宮本三郎の《山下·パーシバル両司令官会見図》を参照する本作は、沖縄、アメリカ、日本の関係の織物となっています。1972年に基地はそのままに沖縄の施政権は「返還」され、1975年の沖縄国際海洋博覧会を契機として本土資本による開発が急速に進展します。アメリカ世からヤマト世への移行を象徴するイメージとして宮本三郎の作品が召喚されたのです。

成都爆撃(小川原脩)

小川原脩
成都爆撃
1945 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

小川原は「殺し合いや撃ち合いといった人間を主題とした絵はやりたくなかった」と考えていたようで、制作した戦争画はすべて飛行機をモチーフにしたものです(『画家たちの「戦争」』新潮社、2010年)。いずれも現場に立ち会うことなく写真と資料をもとに描いたといいます。戦後は、軍部に協力したことを理由に美術界との関係が疎遠になり、また小川原自身が自責の念を抱えていたこともあって、故郷北海道に戻ることを決心しました。その後亡くなるまで中央画壇と距離をとって制作を続けました。小川原の戦後の代表作のひとつ《群れ》(図)に描かれた孤独な犬の姿には、作者自身が投影されているといえるでしょう。90年代のインタビューで、小川原は戦争画が実在することの責任は自分にあると言い、50年以上にわたってその運命に向き合ってきた胸の内を吐露していました。

マユ山壁を衝く(向井潤吉)

向井潤吉
マユ山壁を衝く
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

向井潤吉は、自ら志願して従軍するなど、日中戦争初期から戦争という大きな出来事に積極的に向き合い、表現のレベルで可能なことを模索してきました。本展の第2章で示した、敵側から日本兵の姿を捉えた《突撃》(絵葉書)は戦争表象に新しいボキャブラリーを加えるものでした。しかし、戦況が悪化してからの《マユ山壁を衝く》は、もはや兵士が主役ではなく、それを飲み込む熱帯の植物群に焦点が当たっています。この克明な自然描写と、向井が戦後に開始した民家のシリーズのリアリズムには共通する眼を感じることができるでしょう。向井は、全国を旅して消えゆく民家を記録することに、生涯をかけて取り組みました。

おわりに

本展覧会では、当館が保管する戦争記録画を、どのように次世代に継承すべきかがひとつのテーマとなりました。最大の課題は、すでに終戦から80年が経過し、戦争体験者がますます少なくなる中で、戦時下の文化が置かれていた社会的·政治的な文脈が共有されにくくなっていることです。本展が明らかにしたように、美術を含む視覚的な表現は、決して他のメディアから自立していたわけではなく、同時代に流通していた言説に密接にかかわるものでした。
本展は、「戦争を知らない」世代が、実体験者と異なる視点で過去に向き合うことを積極的に考える機会でもありました。美術や文学などの芸術が虚構を交えて構成する戦争表象を、ジャンル間の比較や大衆文化との関係も含めて俯瞰できる視座を持つこと、さらに、時代や地域を超えた戦争経験との比較考察ができる視点を持つことは、戦争の記憶の継承にとって大きな可能性となるのではないでしょうか。
この展覧会で見てきたように、芸術は過去に、人々を戦争へと駆り立てる役割を果たしました。人々の心を動かす芸術の力の両義性を理解したうえで、未来の平和に向けた想像力に繋げていくために、今後も当館が収蔵する戦争記録画をはじめとする作品は貴重な記録として存在し続けるのです。


別フロアで連動して展示していた戦争画関連

日本画家の戦前/戦中

日本画家の戦前/戦中
昭和に入ると、日本画にもモダンな表現が見られるようになります。単純化されたフォルムや明快な色彩が特徴的です。一方で、戦争がはじまると、日本画家も絵筆によって国に貢献しました。洋画家たちが臨場感に満ちた写実的な描写を目指したのに対し、日本画家たちが使用する岩絵具は写実表現には不向きな画材でした。そのため、日本画家による戦争画には、劇的な演出や迫真的な描写はあまり見られません。しかし、彼らはそれまでの画業で培った造形感覚をいかしながら、外地の風土や自然、日常の光景を描きました。
戦前と戦中の作品を見比べたとき、どのような関係を見出せるでしょうか。

軍用機献納作品展
日本画家報国会が主催したこの展覧会は1942(昭和17)年3月19日から22日
に日本橋三越で開催され、その後、大阪に巡回しました。当館はこの時に出品された184点を所蔵しています。これらはすべて三越に買い上げられ、代価20万円(現在の約5億円)は陸海軍に、作品は東京帝室博物館に納められました。一見、戦争とは無関係な作品に見えますが、国土を象徴する富士や桜、国花である菊、戦闘機を暗示する猛禽類、祝勝を象徴する鯛などのモチーフには、戦勝祈願の意図が込められています。そのほかにも、歴史画や、良妻賢母の理念を説く主題などが好まれました。

戦艦献納展
こちらの2点は、1944年2月に東京帝室博物館表慶館(現在の東京国立博物
館)で開催された「戦艦献納帝国芸術院会員美術展」の出品作です。さかのぼること2年前、日本海軍は第三次ソロモン海戦で戦艦2隻を失いました。兵力の要である戦艦の喪失は国民に衝撃を与え、戦艦献納運動が広がります。戦艦献納展には帝国芸術院の会員である横山大観、川合玉堂、小林古径、安田報彦などの大家が参加しました。

基地に於ける整備作業(山口華楊)

山口華楊
基地に於ける整備作業
1943 昭和18年
紙本彩色
無期限貸与

1943(昭和18)年、華楊は海軍の従軍画家としてインドネシアに赴きました。海辺の前線基地に着水した戦闘機を整備兵たちが迎えています。中央には、パンツ姿のたくましい兵士が、搭乗員のブーツが海水に濡れないように背負って浜まで運んでいる様子が描かれています。水上戦闘機は、プロペラや水上滑走用のフロートなど細部に至るまで克明に描写されており、花鳥画や動物画の名手として知られる華楊としては稀有な作例です。

《基地に於ける整備作業》のための下絵(山口華楊)

山口華楊
《基地に於ける整備作業》のための下絵
1943 昭和18年
鉛筆、彩色·紙
上田研一氏寄贈

当館が保管する戦争記録画《基地に於ける整備作業》の下絵として描かれました。海軍の従軍画家としてインドネシアに派遣された華楊は、1943(昭和18)年10月に帰国すると、直ちに作品の制作に取り掛かり、本画は同年12月に開催された第2回大東亜戦争美術展に出品されています。下絵の右下には紙が貼り足され、人物の大きさやポーズを試行錯誤しながら構図を練っていたことがわかります。兵士たちが着用している白いふんどしが、本画では丈の長いパンツに描き直されている点も興味深いです。

山口華楊発 上田秀雄宛書簡
1943 昭和18年
墨·紙
上田研一氏寄贈

1943(昭和18)年5月25日、従軍画家としてインドネシアに派遣される直前、華楊は知人に一通の手紙を出しました。そこには「銃後もいよいよ第一線と変りが無くなりました[…]絵画がこれからどうなるだろうとか世の中がどうなるだろうとか、そんな空想の時ではありません。もっと切実に此の戦争を勝ちぬく為めに闘ふべき時代です」と書かれており、当時の画家としての華楊の覚悟がうかがい知れます。

輸送船団海南島出発(川端龍子)

川端龍子
輸送船団海南島出発
c.1944 昭和19年頃
紙本墨画淡彩
無期限貸与

海南島は南シナ海北部に位置します。この島で鉄鉱石を採掘し本土へ送る輸送作戦は、太平洋戦争末期になると決死の様相を帯びました。そんな主題に日月と南十字星が描きこまれているのはなぜでしょう?日月の意匠には天に命運を祈るという意味合いがあり、戦国時代には武具や衣裳の飾りにも用いられました。一方、南十字星は当時、南方への領土拡大のシンボルでしたが、祈りの仕草にも見えることを龍子は意識していたでしょうか。

小休止(岩田専太郎)

岩田専太郎
小休止
1944 昭和19年
紙本彩色
無期限貸与

岩田専太郎は、大正から昭和にかけて雑誌や新聞などで連載される大衆小説の挿絵を描き、とりわけ華麗で官能的な女性像が絶大な人気を博しました。そんな岩田もまた時代に翻弄され、
本作のような戦争記録画を描いています。
「…華麗な絵を描いて、ものの役に立たない絵かきのごとく扱われた口惜しさに、無理とは知りつつも兵隊の絵を描いて、戦争末期の昭和二十年には、陸軍報道局の命令で、『神風特攻隊基地出発』の記録画を描いている。[…]それが、戦争が終わると、またもとのような華麗な絵を描け、との注文である。どうすればい
いのだ!と思った。」
岩田専太郎『わが半生の記』(家の光協会、1972年)より

攻略直後のシンガポール軍港(矢沢弦月)

矢沢弦月
攻略直後のシンガポール軍港
c.1942 昭和17年頃
紙本彩色
無期限貸与

山田新一と戦争記録画

山田新一と戦争記録画
山田は東京美術学校で油彩画を学んだ後、1923(大正12)年の関東大震災を機に、当時日本の植民地下にあった京城(現在のソウル)に渡り、朝鮮美術展や帝展を中心に活躍しました。1928年からは、友人·佐伯祐三の誘いを受けて2年間パリに滞在します。その後再び朝鮮に戻り、終戦まで同地を拠点としました。戦時中は朝鮮軍報道部美術班長を務め、自らも作戦記録画を制作しました。
敗戦直後、軍司令部から京城駅構内の倉庫に保管されていた戦争画の焼却命令を受けますが、山田はそれらを後世に残すことを望み、朝鮮人の知人宅に分散して隠しました。
そこには宮本三郎、鶴田吾郎、猪熊弦一郎などの代表的な作例も含まれていました。
帰国後にGHQから依頼を受けた山田は、日本各地と朝鮮を巡って151点の戦争画を収集し、東京都美術館に集めました。戦後、画家たちは戦争責任を追及されることをおそれ、戦争画の多くが焼かれたり、行方不明になったりしましたが、当館が保管する戦争記録画は、このような経緯により残された作品群なのです。

仁川俘虜収容所に於ける英豪兵の作業(山田新一)

山田新一
仁川俘虜収容所に於ける英豪兵の作業
1943 昭和18年
無期限貸与

日本軍は1942(昭和17)年に朝鮮の京城(現在のソウル)と仁川に捕虜収容所を設置し、フィリピンやシンガポールなど南方の地域から捕虜を送り込みました。仁川に収容された捕虜たちは港や製鉄所などで労働に従事したとい
われています。朝鮮を拠点にしていた山田は朝鮮軍報道部美術班長を務め、「内鮮一体」(日本本土と朝鮮の一体化を目指す標語)を推し進めるべく戦争画を描きました。敗戦後、戦争記録画の保存に奔走した人物としても知られています。

曉明の天津附近戦闘(山田新一)

山田新一
曉明の天津附近戦闘
1944 昭和19年
油彩·キャンバス
無期限貸与

1937(昭和12)年7月の盧溝橋事件をきっかけに、日本軍は華北へ侵攻し、北平(現在の北京)や天津を制圧しました。本作は、当時の戦闘の様子を描いた作品で、京城の総督府美術館で開催された決戦美術展に出品されました。戦前から朝鮮を拠点に活動していた山田は、1946年にGHQの命令を受け、朝鮮に残された作戦記録画の回収のため現地へ渡航します。捜索の末、京城YMCAのロビーで本作を発見し、日本へ持ち帰りました。


国立工芸館

国立工芸館は近現代の工芸·デザイン専門の美術館です。
1977年に東京の北の丸公園に「東京国立近代美術館工芸館」として開館し、2020年には政府関係機関の地方移転政策により、石川県金沢市へ移転。2021年には館名を「国立工芸館」と改めました。
陶磁、ガラス、漆工、木工、竹工、染織、人形、金工、工業デザイン、グラフィック·デザインなどの各分野にわたって、総数約4,000点を収蔵し、特定のテーマに基づいた所蔵作品展、企画展を年に4~5回開催しています。他にも工芸の技法や専門用語をわかりやすく解説したデジタル鑑賞システムを備えた「工芸とであう」や、漆芸家·松田権六(1896-1986)の工房を移築·復元した「松田権六の仕事場」のコーナーがあります。
建物は明治期に建てられた国登録有形文化財の旧陸軍第九師団司令部庁舎と旧陸軍金沢偕行社を移築するとともに、過去に撤去された部分や外観の色などを復元して活用しています。周辺には石川県立美術館、金沢21世紀美術館、兼六園などの文化施設も充実しています。


図録 藤田嗣治、全所蔵作品展示

今回の企画展の図録はなかったけれども、藤田嗣治に注目した図録があったので購入しました。

2026年は、藤田嗣治・生誕140周年。
軽井沢安東美術館 では「生誕140周年 藤田嗣治展」の開催を予定している、とか。

https://www.musee-ando.com/blogs/exhibition/exhibit202601

藤田嗣治の戦争絵画以外も知りたくなってきたり、です。猫とか少女とか。


関連

秩父の近代史跡散策

秩父に行っていたので、駅周辺を散策してみました。



羊山公園

武甲山から北に尾根上に伸びる羊山丘陵にある応援。
「羊山」の名称は、戦前に埼玉県の「綿羊種畜場」が設けられていたことによる。

眺望。西側に秩父市街地が広がる。

秩父公園橋(秩父ハープ橋)


忠霊塔(羊山公園)

羊山公園にある、忠霊塔。
秩父出身の英霊を慰霊する。

忠霊塔

合掌

秩父市民心を同じくし力を協せて特に此の地を選び忠霊塔の威容ここに仰ぐ
先に太平洋戦争の暗雲去って平和来たり
我が国の独立更に陽光を迎えて国民斉しく忠魂を偲ぶ我が郷土
日露戦争以来殉国の英霊を景仰し愛国奉公の至情を追慕すること厚く
ここに高くその英風を顕彰し常に深く其の正気を思念す
庶幾わくは魏然たるこの聖塔を郷土の柱石と観じ相共に平和自治の建設と文化産業の興隆とに邁進せむ
 昭和29年7月
  秩父市忠霊塔建設委員会
  文学博士河野省三撰文並謹書

おっ、河野省三先生。埼玉出身の国学・神道学者。神社関係を調べていた時は、河野先生の関連はよく目にしていたが、戦跡関連では初めてかも。


柿原万蔵翁像(羊山公園)

秩父鉄道の前身となる上武鉄道の創始者、初代社長。
秩父織物業界、秩父産業を代表する人物、秩父銀行の設立等にも参加。
現在の柿原万蔵翁像(2代目)は、北村西望が昭和29年に建立。

柿原万蔵翁像
ここに立つのは秩父鉄道の創業者で初代社長 柿原万蔵翁(1860-1919年)の銅像です。
1939年に同翁頌徳会建立の像は先次大戦に供出されたため1954年同会が再度北村西望氏に依頼し製作しました
 1994年11月
  秩父鉄道株式会社

台座は、創建時の昭和14年建立。

柿原万蔵翁銅像入口

昭和14年3月
頌徳会

入り口の石柱は、創建当時のもの。


秩父事件追念碑(羊山公園)

尾崎咢堂(尾崎行雄)の扁額。
1949年(昭和24年)10月の建立。

秩父事件は、自由民権運動の影響下で発生した埼玉県秩父郡の農民と士族が政府に対して負債の延納、雑税の減少などを求めて起こした武装蜂起事件。

秩父事件関係は、吉田の椋神社にも訪れているので、別でそのうちまとめてみたいとは思いつつ、ですが。


牧水の滝・若山牧水 喜志子 比翼歌碑(羊山公園)

羊山公園にある人工の滝。
大正時代に秩父を数回訪れている歌人・若山牧水にちなむ。

秩父町出はづれ来れば機をりのうた声つゞく古りし家並に(若山牧水)

のび急ぐしたもえ草のあさみとりあやふくぞおもふ生ひ立つ子らを(若山喜志子)


せっかくなので秩父のあれこれ、を。

西武鉄道 西武秩父駅

2017年にリニューアルした駅舎。「特急Laview」と「武甲山」
秩父散歩のはじまりは、西武秩父駅から。

羊山公園にいったのであれば、武甲山資料館にも行くべきでしたが、時間の兼ね合いで、未訪問。また今度。


秩父鉄道 御花畑駅

西武秩父駅から御花畑駅までは、歩いて5分ほど。
御花畑駅の駅舎は大正6年造営となり「国登録有形文化財」登録。

https://www.city.chichibu.lg.jp/4263.html


秩父そば 御花畑駅そば店

「せきた」の特挽地そば
天皇陛下に献上の蕎麦が、駅そばで食べれる贅沢。
普通に美味しい、し。

「みそぽてと」は、優勝


秩父鉄道 影森駅

地上の旧駅舎は2016年に取り壊しとなり、現在は、駅ホーム上に駅舎がある。
今回、秩父に行こうと思った「大淵寺・護国観音」の最寄り駅。


秩父パリー食堂/カフェ・パリー(秩父の近代建築)

国登録有形文化財
昭和2年

https://www.city.chichibu.lg.jp/4274.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/141101

カフェ・パリー
所在地:秩父市番場町19番8号
年代:昭和2年
構造:木造2階建、鉄板葺
建築面積:60㎡
登録日:平成16年2月17日
 この建物は、店舗兼用住宅の木造2階建て片流れ造金属板葺き屋根となっています。屋根は正面側
が高く、この屋根を隠す位置までラスモルタル塗の外壁が大きく立ち上がり、最上部にコーニスを廻しています。コーニスの下にはエッグアンドダーツ(卵鏃文様)のモールディングが施されています。小屋裏にあたる位置は窓を付け3階建てを思わせる外観となっています。正面建具はこの小屋裏窓の他は建築当時のものではありませんが、窓上部の装飾はみな当初のものとなっています。このように外観は近代洋風の様相となっていますが、内部は店舗部分の調理場と客席を除き、従来の木造建築の様相となっています。
 昭和時代初期から昭和30年代かけての秩父の賑わいを今に伝える近代商店建築の一つとして貴重な建造物となっています。
 <登録基準:「造形の規範となっているもの」に該当>

秩父で、有名な食堂。
近代建築としても、興味深い、昭和レトロ食堂。

せっかくなので。

一番人気の「オムライス・プリンセット(クリームソーダ付き)」


安田屋(秩父の近代建築)

パリーの隣の安田屋も昭和レトロ。
建築は、昭和5年ごろ。国登録有形文化財。

https://www.city.chichibu.lg.jp/4275.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/169142

創業は大正5年。猪牛豚味噌漬けの安田屋。

https://yasudaya-shop.com

秩父名物なので、購入しました。
「安田屋のみそ漬(豚肉)」


小池煙草店(秩父の近代建築)

現在は、たばこ店ではなく、リノベーションした「小池カフェ」と「NIPPONIA秩父 門前町(KOIKE・MIYATANI棟)古民家ホテル」として営業をしている。
国登録有形文化財。
昭和初期の建造。

https://www.city.chichibu.lg.jp/4276.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/141101

小池煙草店
所在地:秩父市番場町17番10号
年代:昭和初期
構造:木造2階建、鉄板葺
建築面積:61m2
登録日:平成16年2月17日
 この建物は、番場通りと昭和通りの交差する角地に建てられた木造2階建てで、北西側(番場通り
側)の屋根が高くした片流れ造金属板葺きとなっています。外壁は屋根を隠す位置まで大きく立ち上
がり、最上部にはコーニスと葉飾りのモールディングを施し、交差点隅部を曲面として、煙草売場力ウンターを設け正面としています。正面建具は1階の出入り口と販売カウンターを除いてほぼ建築当初のもので、2階の窓周りの縁取りなど装飾性に富んだ店舗兼用住宅となっています。
 開店当時は東京の専売公社からモデル店舗に指定され写真入で関係機関に宣伝されたと伝えられています。昭和時代初期の近代商店建築の好例として貴重な建造物となっています。
 <登録基準:「造形の規範となっているもの」に該当>



西武秩父駅前温泉 祭の湯

2017年に開設された秩父の温泉

風呂上がりに。生ビール。

2杯目は、「リポビ」(リポビタンD&ビール)
みそポテトアイスも美味。

温泉むすめ 秩父美祭

名物 ちちぶ餅
やわらかさにびっくりする、「つぶしあん」の餅

秩父錦甕口酒の日本酒ジェラート

たまには、のんびり秩父観光も楽しいですね。


※撮影:2025年11月


「護国観音」と「歩兵七十五聯隊通信隊戦歿者之碑」(秩父・大渕寺)

秩父にある戦前に作られたコンクリ観音像を見に行ってきました。


戦前のコンクリ観音・大仏建立ブーム

戦前、特に、昭和初期の日中戦争前夜の満州事変や第一次上海事変などの体外的な不安定要因や戦死者や戦災への慰霊、第一次世界大戦後の不況や飢饉などの社会情勢の不安定要因に対し、観音信仰によって国民の平安と国家の安寧を祈願しようという動きもあり、コンクリート製の大観音・大仏の建立が各地で盛んであった。
また、銅像などの金属製像に関しては、軍需用に金属供出などもあり、その代替えとしてのコンクリという側面もあった。
昭和12年の日中戦争を期に、戦前のコンクリート大観音・大仏建立ブームは縮小し、戦後にあらためて「平和観音(平和観世音菩薩)」として、同義で大観音像の建立が全国で盛んになっていくことになる。


大渕寺の護国観音

秩父三十四ヶ所霊場の27番札所「大淵寺」
大渕寺に1935年(昭和10年)に作られた戦前コンクリート観音。
高さは16.5m。

第7番札所法長寺住職、第27番札所大渕寺兼務住職の町田兼義師の発願。
仏彫師・志佐鳳洲のもと、コンクリート仏師であった福崎日精(志佐日精=師匠が志佐鳳洲)が手掛け、弟であり助師である福崎秀雲(大戦中に戦病死)との共作となる。

「関東三大観音」(関東三観音)の一つというが、高崎・大船の次の3番目は「韮崎」とする声のほうが強い。

当時の世相を反映し、「武運長久」祈願として、左手に「剣」を持っている。

下記に建立時のエピソードが記載されている。

観音の霊験(昭和15年) 172ページ(コマ92)
国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/1031589/1/1

町田兼義師と護国大観音
(背景)町田兼義は、三十三尺(10メートル)の観音様の制作を旅の雲水に相談したところ、志佐鳳洲を紹介され、町田兼義は志佐鳳洲に手紙を書いた。手紙を受け取った志佐鳳洲は、「機が熟したらお訪ねする」と返事をよこし、そうして1年がたった。
(以下、観音の霊験(昭和15年)175ページから引用、現在仮名遣いに変換)
 昭和9年8月、その日は遂に来た。志佐鳳洲は随身二人を連れ、影森の山寺に姿を現した。彼は柔和な顔に微笑を浮かべながら、町田兼義師と瞳を合わせると、すぐ「此処三ヶ月の間に起工することにして戴きたい」と、相談も見積もりもあったものではない。志佐鳳洲はこの地に三十三尺の大観音を作ることが、自分の使命であるかの如く思い込んでいるのだ。若いが豪腹な町田兼義師も、この突然の話にはさすがに驚いた。「まあ、待って下さい、先立つものは金だが、今は一文の準備もない、少し資金をこしらえるまでお待ちを願いたい」「いや、ここ三ヶ月のうちに取りかからないと、向こう三カ年間は出来ない、もしかすると私の一生のうちには、もうこんなよい機会はないかも知れない」町田師も二の足を踏まざるを得ない。それもその筈、三十三尺の大観音を作るについては、何年かかるか、又どれ程の費用が必要か、皆目分からないのだ。滅茶苦茶に、無計算に工事を始め、中途で挫折するようでは、又、そんなことになってはかえって大慈大悲の観音さまの御徳を汚すことにもなる。
 南無観世音菩薩、南無観世音菩薩と繰り返しとなえていると「観音さまをつくるのだ、出来ない筈はない、きっと完成する、何も躊躇するには及ばないぞ、すぐに取りかかれ」と云う不退転の覚悟が決まった。町田師は顔を上げると徐に云った。「信徒の力を借りて作るから、制作にかかって頂きたい」(略)「それでは準備を整えてすぐにやって来ることにする」と云って志佐鳳洲はいったん郷里へ立ち帰った。10月2日、約にたがわず、まず鳳洲の弟子志佐日洲(=志佐日精)と福島秀雲(=福崎秀雲)がやって来た。
 数日後、師匠格の志佐鳳洲もや来て寺に泊まることになった。
 工事を始めるなかりになった。しかし金の準備はもとより、材料の用意も出来ていない。さしあたって第一の悩みの種は鉄剤である。町田師は熊谷にある秩父鉄道の本社へ行き、かねてから昵懇の松崎総務課長を通じて古レール8本を手に入れた。その夜すぐ村長黒澤保秀氏を訪ね、今度の計画を話し、また翌晩は有志50人ばかり寺に集まって貰った。そして27人の賛成を得た。
 昭和10年1月18日、観音の御命日、寺の後に聳える護国山頂の樹木を伐採し、地固めに着手した。(中略)秩父セメント株式会社からセメントも寄付もあった。先ずお顔の長さ九尺と云う頭部の制作に取りかかった。
 昭和11年4月18日。この日は永遠に記念すべき有難日である。 今上陛下の玉体康寧の祈願文を大観音の胎内へお納めいたした記念すべき聖日である、7月にはトキの第1師団長林仙之中将から「護国観音」の御揮毫を贈られた。11月17日おごそかに開眼式が催された。(後略)

護国観音からの展望

台座には観音画

重機も貧弱だった昭和の戦前に、山頂に見事な観音さまを建立した当時の人々の熱意に脱帽。
ありがたいものです。


歩兵七十五聯隊 通信隊戦歿者之碑

「歩兵七十五聯隊・通信隊戦歿者之碑」が、大渕寺の護国観音に至る参道の途中にあった。

歩兵七十五聯隊 
通信隊戦歿者之碑
小池 清

歩兵第七十五連隊通信隊慰霊碑文
北辺鎮護に在った北鮮会寧歩兵第七十五連隊通信隊は、比島決戦場への命を受け勇躍昭和十九年十二月比島呂宋島北サンフェルナンドに上陸し、二十年一月九日リンガエン湾に上陸した精鋭米軍とナギリアン、、ロザリオ、アシンにおいて砲爆撃下熾烈なる戦開を繰り返し、既に兵力の半数を失った。
続いて山岳地帯のボンドックロー高地の戦闘では弾薬、食糧、通信機器の補給も全く無く、飢餓状態での死闘を続け、特に通信隊は通信網確保の為多くの隊員を失い電波は敵の探知の目標となり大打募を受け、砲爆撃下での連日の死闘で通信隊も銃をとって陣地の防衛に尽くした。八月十六日、残存兵力を結集し最後の総攻撃を敢行することにあっていたが、八月十五日終戦。
比島投入兵力五十八万余、戦死者四十八万人、誠に補給絶無の苛烈苛酷な飢餓決戦であった。戦後昭和六十年呂宋島南部バクサンハンの比島寺に建立した慰霊碑を、故あって除魂式を行い、有志の努力に依り、祖国日本に持ち帰り、埼玉県秩父護国観音山麓の地に通信隊を主とする慰霊碑を再建し、供養を行うものである。祖国の安泰を願い散華した戦友よ、此の地に安らかにお眠り下さい。
 平成九年七月吉日
  虎兵団八五〇五部隊
羅南十九師団会寧歩兵第七十五連隊
    通信隊代表 小池 清

合掌


大渕寺

護国観音の御姿を山頂に垣間見る。

秩父札所第27番 龍河山 大渕寺
創建年代は不詳。
伝承によると弘法大師空海が立ち寄り、7年もの間、病に臥せっていた宝明という僧侶に観音菩薩を彫って与え、宝明が空海作の観音様に祈願したところ、病気快癒したという。
宝明は観音様を私物化すべきではないとして、観音像を安置する観音堂を建立したという伝承から、平安初期には創建されたと想定されている。
大正8年(1919)に秩父鉄道の蒸気機関車からの火の粉で、観音像は無事であったが、寺院は全焼、再建している。

護国観音往復は40分以上。

宝明の伝説。

ちょうど、紅葉も良い感じでした。

観音山延命水

熊注意


場所

https://maps.app.goo.gl/q1KDAcmHmvmUhTP27


関連(観音様)

幻の東京オリンピック「大宮公園陸上競技場兼双輪場」

大宮公園を歩いていたら、みつけましたので。


1940年東京オリンピック(東京1940)

1940年東京オリンピック(第12回)は、1940年(昭和15年)9月21日から10月6日まで、東京府東京市での開催が予定されていた夏季オリンピック。東京1940(Tokyo 1940)と呼称。
史上初となるアジアで行われる五輪大会と紀元二千六百年記念行事(第12回夏季オリンピック東京大会と第5回冬季オリンピック札幌大会と紀元2600年記念日本万国博覧会を大規模開催予定だった)として準備が進められていたものの、支那事変の勃発や物資や兵士を取られる軍部の反対などから日本政府は1938年(昭和13年)に開催権を返上、実現には至らなかった。
第二次世界大戦後、1964年(昭和39年)の東京オリンピックが、日本、そしてアジアで初のオリンピックとなった。


大宮公園陸上競技場兼双輪場(大宮競輪場)

大宮競輪場は1939年に大宮公園に建設された国内初の自転車競技場。
これは1940年に開催予定(中止)だった「東京オリンピック」の自転車競技(トラック競技)の会場として使用する事を想定されたために建設されたものであった。
しかし、芝浦自転車競技場(芝浦オリンピック自転車競技場・現存せず)の建設が決まったために、幻の東京オリンピックが開催されたとしても、どのみち大宮で自転車競技は幻に終わるものであった。

1949年1月には福岡・小倉に続いて全国2カ所目、東日本では初の競輪が開催された。
「東日本競輪発祥の地」

幻の東京オリンピックと陸上競技場・双輪場建設(日本初の傾斜バンク)
 大宮公園の陸上競技場兼双輪場は、幻となった第12回東京オリンピック大会(昭和15年開催予定)のために建設されたものです。
 昭和11年8月の東京大会開催決定を受けて、昭和5年に着工されながらも建設が中断されていた陸上競技場の外側に一周500m、最大傾斜40%のバンクを設置するもので、この年の夏から本格的な工事が始められました。
 しかしながら、日中事変の影響で昭和13年7月、東京大会の中止が決まりましたが建設は続けられ、昭和14年9月に双輪場が、翌15年6月には陸上競技場が完成しました。双輪場はドイツ自転車連盟の好意で入手したペドローム競走路の設計図に基づく東洋初の近代的な施設でした。
 オリンピックに代わり、昭和15年6月6日には「紀元二千六百年記念東亜大会」の自転車競技が、7月20日・21日には、第1回県民体育大会が開・催されました。
 また、昭和24年1月15日には東日本初となる第1回大宮競輪も開催されました。
  平成17年9月 大宮公園事務所

夜にちかい夕方ですが。


再訪(2026年1月4日)

再訪しました。写真撮り直し。

ちなみに、ちかくの大宮公駅前の二郎に赴く途中でした。。。

※2025年11月撮影


関連

戦艦武蔵の碑
埼玉縣護國神社

生玉公園地下壕跡(生玉公園・大阪)

谷町9丁目駅からほど近くに鎮座している「生国魂神社」(いくだまさん)に隣接する「生玉公園」に地下壕があるというので足を運んでみた。


生玉公園

生玉公園は1940(昭和15)年5月着工、42(昭和17)年5月に開園。
生玉公園の地下壕は当時軍部が戦局を拡大させる中で空襲に備えるための「都市防空壕」として大阪市によって建設されたもの。

生玉公園地下壕
 先の戦争において我が国はアジア・太平洋地域の人々に対し大きな災禍と苦痛をもたらしたことをわすれてはなりません。また、大阪においても8次にわたる大空襲を含む50回を超える空襲を受け、まちは一面の廃墟となりました。
 生玉公園は1940(昭和15)年5月着工、42(昭和17)年5月に開園、地下壕は当時軍部が戦局を拡大させる中で空襲に備えるための「都市防空壕」として大阪市によって建設された。
 地下壕については、その建設経過や使用状況などの詳細は明らかになっていませんが、戦争末期には陸軍が使用していました。戦後、米国戦略爆撃調査団により刊行された報告書では、当時、一般では入手できなかった資材を使用して建設された「特別防空壕」の例として報告されています。
 また、この地下壕建設にあたっては、当時の植民地支配の下で「強制連行などにより集められた朝鮮人が苛酷な労働に従事させられた」との体験者の証言があります。
 戦後の50年にあたり、戦争の悲惨さを語り継ぎ、国籍・民族・文化等の違いを超えた相互理解と友好を深め、世界平和を心から願う気持ちを込め、ここに銘板を設置します。
 1996年(平成8年)3月 大阪府/大阪市

地下壕の構造
 内部の構造はアーチ状で鉄筋コンクリート造り、2階建て(ただし2階部分は現存せず)で、本体は幅約9m、高さ約6.5m、長さ約24m、1階部分の床面積203平方メートルとなっています。

生玉公園の上部に、「通気口」が残る。

斜面

開口部はコンクリートで閉鎖をされている。

しばらく工事していました。
2025年3月に訪れた際に工事していて、10月に訪問した際に工事が完了してました。
(そのまえ9月の段階でもまだ工事していて、実のところ、工事がいつ終わるかわからなかったため、不定期に何回か様子見るために訪問していました)

場所

https://maps.app.goo.gl/79iT3oobLXTJVNxZ6


生國魂神社

祭神:
生島神(いくしま神)
足島神(たるしま神)
相殿:大物主神

祭神は神祇官西院にて生島巫によって祀られる神。
歴代天皇が即位の際に祀る神として国家祭祀(八十島祭)の社。国土神霊として崇敬されてきた。

由緒:
 神武天皇が九州から難波津にお着きになられた際に、現在の大阪城付近に生島大神・足島大神を祀られたのが、当社の創祀とされている。そののち相殿に大物主神を祀っている。
 平安期の延喜式には「難波坐生國咲國魂神社」(二座)と記載され、御祭神は特別に生島巫によって祀られるなど、国家祭祀(八十島祭)の社として知られている。
 中世期には当社に隣接して「石山本願寺」が建立。元亀年間には信長の本能寺攻めにより延焼。その後、再興されるも秀吉の大阪築城によって天正11年(1585)に現在地に遷座したとされている。
 以来、当社は「難波大社」の尊称をもって広く崇敬され、明治期には官幣大社に列せられ、国土守護神・大坂総鎮守として篤く信仰されてきた。

 本殿社殿は「生國魂造」と呼ばれる独特の建築様式。本殿と幣殿は一つの流れ造りでふきおろし、正面屋根には千鳥破風・すがり唐破風、さらに千鳥破風の三破風をすえたものとなっている。
 社殿は明治45年、昭和20年に焼失し、さらには昭和25年の台風によって総檜素木造の本殿が倒壊。
 現在の社殿は昭和31年に鉄筋コンクリートによって建てられたもの。


※撮影:

2025年3月・10月


大阪関連

はじめに

ナウシカ「メーヴェ」を模した「M-02J」ラストフライト!「空まつり 2025 in SEKIYADO NODA」(関宿滑空場)

ナウシカの「メーヴェ」を再現した、ジェットエンジン搭載グライダー「M-02J」(メディアアーティストの八谷和彦氏の自作有人飛行機)が、2025年の野田市・空まつりでラストフライトをするという。
これは見に行かねば、ということで、関宿滑空場に足を運んでみました。

戦跡でもなく、近代史跡でもないけど。
空を飛ぶことを夢見た人々の情熱は、今も昔も変わることなく、それこそ航空黎明期に空を翔けることを追い求めた技術者たちの想いと通じるものもあるのかな、と。

以下、写真メインで。


関宿滑空場

昭和45年に運用を始めた、首都圏に最も近い日本国内で最大面積の公共用滑空場。
草地の滑走路は長さ1500m、幅100m。

旧格納庫

新格納庫

草地滑走路は平行に4本。
堤防側から川側へと、A(アルファ)、B(ブラボー)、C(チャーリー)、D(デルタ)と名づけられている。


空まつり 飛行展示

パラモーター(PPG パワードパラグライダー)
ドリフター、PHG 超軽量動力機
オープンスカイ
マイクロライトプレーン
宿滑空場 展示飛行
U-コン(コントロール・ライン)
ラジコン飛行機


M-02J(メーヴェ)

オープンスカイプロジェクト
『風の谷のナウシカ』に登場する架空の乗り物「メーヴェ」の機体コンセプトを参考に八谷和彦氏が、実際に飛行可能な一人乗りのジェットグライダーの試作を試みたプロジェクト。

風の谷のナウシカに出てくる「メーヴェ」を参考に制作したジェット機「M-02」のデモフライト。

今回が、最後のフライト、という。


地上展示・飛行展示

パワードパラグライダー(PPG)は、背中にプロペラのついたエンジンを背負って、平地から飛び立つことのできるパラグライダーのことをいう。

関宿滑空場の曳航機

JA4087 パイパー・スーパーカブ(アメリカ製)

JA4016 ロバン (フランス製)

非常に軽量・小型で動力を有する航空機。
アメリカではウルトラライトプレーン、ヨーロッパではマイクロライトプレーン、日本では、超軽量動力機と呼称。

舵面式は昇降舵、方向舵、補助翼を有し、この3舵により機体をコントロールするタイプ。 補助翼のない2舵式もある。

超軽量動力機(ウルトラライトプレーン・マイクロライトプレーン)
体重移動式
トライクとも呼ばれる。ハングライダーに座席と降着装置とエンジンを付けたような機体

ジャイロプレーン。
固定翼の代わりに回転翼を装備し、ヘリコプターに似ているが、ジャイロプレーンは回転翼を動力で回転させていない。飛行時にはパイロットの背中側のエンジンの動力によって前進し、前進によって起こる相対的な気流を回転翼に受け、回転させて揚力を生み出し飛行する。

グライダー(滑空機)

飛行機に曳航されるグライダー

モーターグライダー(モグラ)

関宿滑空場の最寄り駅は川間駅。バスで「平井入口」まで赴く。

※撮影:2025年11月


関連

「雄大剛健」三神峯公園の仙台陸軍幼年学校跡(仙台の戦跡散策・その13)

仙台市南部の「三神峯公園」。いまは桜の名所で知られる公園。
戦前は、仙台陸軍幼年学校。戦後は、旧制の第二高等学校、東北大学に利用され、1967年に三神峯公園が設置された。


仙台陸軍幼年学校

仙台陸軍幼年学校(仙台陸軍地方幼年学校)は、はじめ今の宮城野区五輪一丁目に校舎を置いていたが、1924年(大正13年)に廃止されていた。

1937年(昭和12年)に、仙台陸軍幼年学校が場所を三神峯に定めて再建された。
仙台陸軍幼年学校の入校年齢は13歳から15歳までで、3年間の教育を受け、卒業後は陸軍予科士官学校に無試験で入学できた。
1945年(昭和20年)の7月10日にあった仙台空襲で被害を受け、敗戦で陸軍とともに廃止された。


雄大剛健(仙台陸軍幼年学校)

仙台陸軍幼年学校を記念する石碑

「雄大剛健」石碑
 右の石碑はこの三神峯一帯に仙台陸軍幼年学校があったことを記念する碑です。
 石碑の裏面にその趣旨の記載があります。

雄大剛健
規模や心が非常に大きく雄々しく、心身ともに強くたくましく、困難にも決してくじけない様子、を意味する。
仙台陸軍幼年学校では、雄大剛健感恩報謝を校風としていた。

仙台陸軍幼年学校ののちに、戦後にこの地にあった旧制第二高等学校(現在の東北大学)でも、奇しくも「雄大剛健」は二高のモットーであった。旧制二高は昭和20年に戦災に遭って北六番丁校舎が全焼し、戦後に旧仙台陸軍幼年学校跡に移転した。昭和25年に閉校になるまでを「三神峯時代」と呼ばれている。

 仙台陸軍幼年学校は、明治三十年榴岡に開校し大正十三年一旦廃止、昭和十二年ここ三神峯の地に復活、同二十年第二次大戦の終焉を以って武窓の歴史を閉ず。
 雄大剛健感恩報謝を校風とし修分練武をかさねし生徒二千九百余名を算う。その多くは祖国の危急に際し艱難の戦野に赴き、戦空を翔り身命を同胞の守護に捧ぐ。曽て台上に桜樹を植栽し爛漫の春に謳い玲瓏の秋を愛でし若武者の姿、今や無し。
 同窓相寄り昭和四十八年校史「山紫に水清き」編纂して事蹟を誌すも杜の都を心の故郷と慕う、情やみ難く開校八十年再建四十年を卜し英霊の誠を彰れし祖国の平和と繁栄を祈念して校跡に建碑す。
 昭和五十二年五月
  仙幼会

仙台の南部を見下ろす高台。


雄建神社跡(仙台陸軍幼年学校)

「雄健神社」跡
ここに仙台陸軍幼年学校の校風「雄大剛健」に因んだ「雄健神社」がありました。

第42期生卒業記念

昭和16年3月

第41期生卒業記念

昭和14年11月


東北大学三神峯明善寮懐旧の碑

散りにし花は幻か わが若き日の夢なるか

東北大学三神峯明善寮懐旧の碑
 東北大学三神峯明善寮は、一九四九年(昭和二十四年)五月旧制第二高等学校明善寮の後身として発足した。寮は、当時の東北大学第一教養部構内の一角に、現在ある碑の北二百五十米の所に、木造二階建の寮舎及び食堂の二棟があって百六十余名収容の自治寮であった。
 一九五三年五月長町鹿野に有朋寮が新設されるに及び、在寮生の殆どが新寮に移り、翌年四月には増築された同寮及び臨設された鴻学寮に残余の全員が移って、寮は約5年間の歴史を閉じた。この間の寮生は延四百数十名でああった。
 当時の社会は敗戦の荒廃から未だ回復せず混乱と窮乏のさなかであったが、寮生は困難な環境に屈せず新しい日本を創る気概に燃えて勉学に励んだ。また、時として夜を撤して世界を論じ、人生を語り、三神峯の丘を遥しては青春を謳歌した。
 爾来三十幾星霜、寮生は各界で活躍しているが苦しい時代に培われた互の友情はいささかも色褪せることなく続いている。教養部も寮も、もはや痕跡すら残していない。今往時を偲ぶよすがとすべくこの碑を建立するものである。
一九八九年五月
東北大学三神峯明善寮
元寮生有志


聖徳光被の碑(明治天皇後遺蹟記念碑)

明治9年と14年には 明治天皇が巡幸された。
明治44年には、 皇太子(大正天皇)も行啓されている。


三神峰公園

こうしてまとめているときに、どうにも見逃していたのが多数あることに気がついており。

・仙台陸軍幼年学校の正門門柱
・行啓記念の松 
・行啓記念碑

三神峰公園にはバスで訪れたのだが、入口がわからず、変なところから峰に登ってしまったので、結果として、正門をスルーしてしまっていたようで。

うーん、再訪必須か。

これは一番東側の入口。(正門は真逆だった)

奥が三神峰の高台。

※撮影:2025年9月


関連

仙台の戦跡散策・その1から

「仙台市・西公園(桜ケ岡公園)」散策(仙台の戦跡散策・その12)

仙台市の西側にある総合公園。開園は明治8年(1875)と仙台市内で最も古い都市公園となる。広瀬川の東側に位置しており、広瀬川を挟んで対岸は、青葉山公園となっている。

西公園には記念碑が多く集まっているので、ちょっと散策してみましょう。


西公園

開園は1875年(明治8年)で、仙台市内で最も古い都市公園。
開園当時は「桜ケ岡公園」と呼ばれていたが、市の東側に「榴岡公園」が設けられた際(明治35年・1902)に、「榴岡公園」を東公園、「桜ケ岡公園」を西公園と呼称されるようになったが、「西公園」の呼称が定着した。
明治19年(1886)には陸軍第二師団の陸軍将校クラブの「仙台偕行社」が設置。 
天皇や皇族が仙台を訪問した際の宿泊や休憩にも利用された。
第二次世界大戦中には、西公園内に防空壕が設けられ、仙台空襲に際しては西公園は焦土と化したが、多くの仙台市民が防空壕に避難をした。

場所

https://maps.app.goo.gl/NMSSmhoUK8zuVVAz6


明治天皇御駐輦址碑

明治天皇御駐輦址碑
元帥伯爵東郷平八郎謹書

昭和2年建立。

1876年(明治9年)4月15日から宮城県博覧会が桜ケ岡公園で開催。
明治9年年6月には、 明治天皇が巡幸に訪れた。(明治九年六月東北巡幸)
博覧会では競馬が催された。


故内大臣海軍大将子爵齋藤公碑

昭和15年建立。

斎藤実は、岩手県水沢市出身。
海軍大将、海軍大臣、文部大臣、外務大臣、朝鮮総督、そして、第9代 内大臣、第30代 内閣総理大臣を歴任した。
内大臣時に、二・二六事件で暗殺された。


宮城縣殉職警察宦之碑(解体済)

昭和8年建立。
殉職した警察官の霊をまつり、永遠にその勲功を讃えるもの公益財団法人警察協会が管理、であった。
2024年に名取市の宮城県警察学校内に慰霊碑が新設され、それに伴い西公園の慰霊碑は撤去されたもよう。

うーん、なくなった


支倉六右衛門碑

明治41年建立。
支倉常長の記念碑。
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、武将慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航した伊達家臣。

扁額は東郷平八郎。


殉職消防組員招魂碑

昭和6年6月6日建立。
公益財団法人宮城県消防協会が慰霊祭を行っている。


広瀬川橋梁・西公園高架橋(地下鉄東西線)

広瀬川をわたる地下鉄東西線。
全駅が地下駅であるが、広瀬川は橋梁となっている。これは広瀬川を地下とした場合、青葉山で極端に深い地下駅となってしまうのを防ぐため。


明治天皇御駐輦所址

明治天皇御駐輦所址

昭和5年建立。
明治9年に西公園内で旧仙台藩士12名により行われた天覧騎射が開催され、その観覧を記念したもの。


西公園の防空壕跡

「仙台市・西公園」周辺の地下を広瀬川の崖から掘った横穴式の防空壕。総延長は200メートル超という。

工事中、でした。


大橋

広瀬川に架かる橋梁。
現在の大橋は、1938年(昭和13年)にコンクリートの橋となる。
鉄筋コンクリートのアーチ橋で、親柱、灯篭、高欄に和風の装飾を凝らす。長さ約116メートル、幅約11メートル。

仙台城の石垣も見える。

大橋の東側ちかくには、「仙台キリシタン殉教碑」「仙台高等学校発祥の地」などがある。

※撮影:2025年9月


関連

仙台の戦跡散策・その1から

仙台空襲からの戦災復興「壱弐参横丁・仙台朝市」(仙台の戦跡散策・その11)

仙台空襲で焦土と化した焼け野原。
戦後、露天商などが集まり誕生したのが「横丁」であった。


壱弐参横丁(いろは横丁)

昭和20年7月10日。「仙台空襲」で焦土と化した仙台の中心部。
焼け野原となった街なかで、昭和21年(1946年)、「仙台中央公設市場」が誕生したのが「壱弐参横丁」の始まり。
長屋の集合体に屋根を付けた商店街。
戦後の仙台の復興を象徴する横丁。東日本でも最大級のバラック商店街だ。
ちなみに、一番町2丁目3番地にあるから「壱弐参」(いろは)という。

東側の入口は「仙台市立東二番丁小学校」に面している。

西側は「サンモール一番街」というアーケード商店街と接続している。

長屋の連なり。

場所

https://maps.app.goo.gl/ey51XHnS6e6fK5GFA


文化横丁

壱弐参横丁の隣には「ブンヨコ」と愛称される「文化横丁」がある。文化横丁は、昭和元年設立で、100周年。
大正13年に誕生した「東百軒店街」が原型とされ、大正14年に開業した「文化キネマ」に由来するという。
もともと文化横丁はサンモール一番町商店街を挟んで反対側にあった。
仙台空襲で文化キネマと文化横丁は焼失、戦後復興の昭和24年に露店・闇市から再スタートした「文化横丁」は現在の場所で再開されたという。

https://www.sendaimiyagi-fc.jp/search/%E6%96%87%E5%8C%96%E6%A8%AA%E4%B8%81

まったく、横丁とは関係ないけど、
ちかくの「ラーメン二郎 仙台店2」を食す。


仙台朝市

仙台朝市の歴史は、仙台空襲で焼け野原となった仙台駅前に並んだ露店、通称「青空市場」から始まると言われている。

https://sendaiasaichi.com/history

時間の都合で、朝には来れませんでしたが。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Fybh58uTLnnWx2zU7

仙台の戦後復興といえば、牛タンも関係している。


※撮影:2025年9月


関連

仙台の戦跡散策・その1から

入間航空祭(2025年11月3日)

11月3日(文化の日)といえば、入間基地航空祭。

今年は、うっかり、ブルーインパレスの最前列を確保してしまっため、8時から12時まで、人垣の最前列で身動き取れず、トイレにも行けず(行ったら最後、戻ってこれないほどの人垣)、で。
そんな人垣に揉まれる苦行の先に、ブルーインパルスを最前に観覧できたという収穫はあれど、さすがにそこまでブルーインパレスには執着していないので、最前列の修行は、しばらくはいいかなって感じ。

そういえば、C-1が居なくなった入間は、結果としてC-2とブルーがメインの航空祭。


入間基地航空祭

午前6時10分に、「北門」の行列に並び、6時30分には北門への移動が始まり、7時には誘導路手前まで誘導され、7時30分にはメイン会場が解放。
手荷物検査もなしで、あっという間に、観客を基地内に入れたというのも、国内最大の来場者を誇る入間基地航空祭、ゆえか。
2025年は26万人が来場した、という。

今年は、かなり圧縮されたタイムスケジュールで、開門が8:00で終了が13:00と、午前中に集約され、かなり締めが早い時間軸。


展示飛行

0800 地上展示開始
第2輸送航空隊
0900 オープニングフライト C-2 第1空挺団空挺降下
0930 U-680A
0940 T-4
0950 CH-47J
1000 C-2 U-4
ブルーインパルス
1030 ウォークダウン開始
1100 離陸
1140 着陸
1200 ウォークバック終了
1300 地上展示終了

いつも、ブルーインパルスは、午後という感覚があったので、午前中に終わってしまうのはかなり新鮮。今年の入間のスケジュールは、違和感が多いが、今後のスタンダートとなるのか?


ブルーインパレス・ウォークダウン

以下、写真メインで。


ブルーインパレス・展示飛行


ブルーインパレス・ウォークバック


C-1地上展示

おおお、2025年3月で引退したC-1がまだ駐機されておりました。

C-1 031

おもえば、1年前に、このC-1 031号機がちょうどラストフライトであった。あれから1年後に、まだこうして会えるのが何よりも嬉しく。

C-1 02試作機 フェニックスも

フェニックスも居ました!

招待者観覧エリアの奥なので近寄れないのが残念


YS-11

スーパーYS-11も


飛行展示・地上展示

退出は、正門にしました。
ホームから人が溢れてホーム入場規制が始まっていた稲荷山公園駅は回避で。

正門についたのが、13時50分とだったり。

13時で終了な航空祭。
ブルーインパルス終了、イベント終了という感じで、一番多くの人が集まっている状態からの脱出ゲームの開始。退出路の導線が非常によろしくなく、トイレに行くのも大変で、過去一番に航空祭から打出するのに難儀した、感じでした。私はゆっくり帰るつもりだったのですが、退出路の途中にしかトイレがないというのが、導線的によろしくなく、とにかく大変でした。

※撮影:2025年11月3日


「空襲警報を伝えたサイレン」と「仙台市戦災復興記念館」(仙台の戦跡散策・その10)

仙台の戦跡散策。
仙台市の戦災復興記念館に足を運んでみました。


警報サイレン

モーターサイレンは今も昔も形状は大きく変更がない確立された原理っぽい。

サイレン
 旧仙台市役所庁舎の塔屋内にあり、正午の時報を知らせていま
した。
 戦争中は、空襲の警戒警報、空襲警報にも使われました。
 イヤホンを耳にあてて、ボタンを押すと当時の警報を聞くことができます。

不明のジャンボサイレン発見 毎日新聞1983年(昭和58年)6月30日
戦前から正午の時知らせ
戦時下空襲警報も
(省略)
発見されたサイレンは、真っ赤にサビ付いていたが鉄製で、内部の羽根はアルミで出来ている。内蔵されたモーターが羽根を回し”うなり”を出す仕組み。大きさは約1メートル立方もあるジャンボサイズ。
このサイレンの製造、設置年月日は不明だが、記念館側の話では、戦前に旧庁舎のサイレン塔に取り付けられ、戦中、戦後と市民に正午の時を知らせたり、戦時下では空襲警報や警戒警報を伝え、多くの市民に知られた存在だったという。
しかし、背負わ41年、現市庁舎の前庭部分に建っていた旧庁舎が取り壊された際、行方がわからなくなった。
このほど、このサイレンが確認された場所は仙台市追廻の市公園管理事務所青葉山倉庫で、他のガラクタと一緒に放置されたままになっていたという。
(省略)

なかなか迫力のあるサイレン


仙台市戦災復興記念館

仙台市戦災復興記念館について
 当館は、仙台市の「戦災復興の資料及び記録を総合的に展示し、市民の戦災復興への努力とその成果を記念するとともに、市民に文化活動の場を提供し、市民文化の向上に資する」(仙台市戦災復興記念館条例)ことを目的として、昭和56年4月1日に設置されました。

館内の様子。
ちなみに、入館料は大人120円。安すぎる。

仙台空襲と戦後の復興事業に関する展示

軍都仙台
軍都への歩みは、1871(明治4)年川内(仙台城二の丸跡)に軍の「東北鎮台」が置かれた事に始まります。後に仙台鎮台と改称し、鎮台は1888(明治21)年には第二師団となりました。また、榴岡には歩兵第四連隊がおかれました。

仙台空襲前後の空撮

明治·大正·昭和初期の建物
仙台の近代化の象徴であった、洋風建築物の多くは戦災によって焼失しましたが、県庁や市役所、仙台市立病院、三越百貨店など、戦災を免れた建物もわずかにあります。榴岡公園内に建つ歴史民俗資料館は、元歩兵第四連隊兵 舎 [1874( 明 治 7) 年 築 ] で 、 現存する県内最古の洋風建築です。

戦時下の食事

仙台に投下された焼夷弾

B-29による都市空襲の経緯
大都市に続いて、中小65都市が空襲されていった

仙台空襲

仙台空襲
1945(昭和20)年7月10日、0時3分ごろから約2時間にわたって、仙台はアメリカ軍B29型爆撃機による空襲を受け、被災者は57,000人、1,000人を超す尊い命が奪われました。917.6トンもの焼夷弾や爆弾が、仙台駅西側の街の中心部、第二師団のおかれていた川内の軍事施設及び市内の住宅地に投下され、静かなたたずまいをみせていた仙台は、一夜にして瓦礫の原にかわってしまいました。

1945年(昭和20年)7月10日午前0時3分

米軍資料から見た仙台空襲

1.B-29の日本本土空襲
 第2次世界大戦末期の1944年夏、米軍はマリアナ諸島にB-29の基地を造り、同年11月から2500km以上離れた日本本土への空襲を開始した。
 連日のように軍需産業や都市が空襲され66都市が焦土となった。そして原爆投下。この他にも数多くの町や村が小規模な空襲にさらされ、また米英海軍の艦載機攻撃や艦砲射撃を受けた。その結果,数10万人の生命が失
われた。

2.B-29による本土空襲の区分
B-29による空襲は下の資料1のように区分される。
*第|期は主に航空機産業を高高度より精密爆撃を行った。
*第Ⅱ期は東京・大阪等大都市への焼夷空襲で、低空から主に夜間のレーダー攻撃。沖縄作戦支援。工場爆撃を行った。
*第Ⅲ期は6月中旬より全国の中小都市を、1夜に4都市ずつ低空からレーダーで焼夷空襲。梅雨時の悪天候対策であった。

 7月10日の仙台空襲は第II期、16回に及ぶ中小都市空襲の7回目で、比較的大きな市街地への最後の攻撃であった。
戦争終結のわずか1か月余り前のことである。

3.なぜ仙台は,空襲されたか
 この問いの答えは,米軍資料にあった。米軍は日本の戦争継続能力に打撃を与えるため、大都市の大規模空襲に続き全国の中小都市を次々と空襲していった。
 攻撃目標の都市を選択する資料となったのが、180の都市を人口順に並べた資料2である。この中で仙台市は13番目、223,630人 *。人口の他,都市の密集性・延焼性・軍需や輸送等徹底分析が行われ、目標として選ばれたのである。
*1940年国勢調査

4.空襲への手順
米軍は空襲前に収集した情報と偵察写真により、綿密な空襲計画を立て実行した。実行中も戦史将校をおき自らの戦闘を記録、 空襲後の評価を含む膨大な記録を残した。これらは米国立公文書館などに保存されており、情報公開されている。
この資料によって、仙台空襲がどのように計画され実行されたのかを知ることができる。
 空襲への主な経緯は、5月に偵察機が仙台地域の写真撮影。これを基に6月に計画の概略を、7月初めに爆撃中心点を表示したリト・モザイクを作成。立案空襲への主な経緯は、5月に偵察機が仙台地域の写真撮影。これを基に6月に計画の概略を、7月初めに爆撃中心点を表示したリト・モザイクを作成。立案した詳細な計画に従い、7月10日に空襲を実施した。
 空襲によって与えた損害を知るため7月25日に航空写真を撮影し分析。焼失しなかった駅東部に対し、8月10日、再空襲計画を立てた。しかし15日に戦争が終わり、駅東部地域は再空襲を免れた。

7月10日仙台空襲と再空襲の計画

写真加工提供:工藤洋三氏
写真:米国立公文書館所蔵

街は2時間3分で焼け野原
空襲中の写真に現在の地図を重ねる
*左上は元写真。炎上部分の現在地がわかる。1時27分撮影
*空襲開始から1時間半後、左下の現東北大川内キャンパスにあった旧陸軍施設は盛んに燃えている。
*右側、現在の地下鉄南北線沿いの街並みは燃え、当時の木町通国民学校が炎上中。約30分後に攻撃は終わった。
*爆撃中心点は右下写真外に位置する。

空襲前後の写真比較 市街地の27%が焼失
損害評価図-与えた被害の程度を分析した図-
(図上に空襲目標の円と主な位置を記した)
*空襲後の写真上に焼失区域が斜線で示されている。円内にある市街地中心部と円外左の川内の軍事施設が焼失。
*円内でも駅の東部、南部(東北帝大)は焼け残った。
*黒の実線内が米軍の設定した住宅密集地域.。焼失した斜線部はこの27%で、他都市に比べて小さい。
*このため、再び空襲する計画が立てられた。

焼け残った東部に再空襲計画
再空襲の2つの目標エリア
(写真上に再空襲目標を示す2つの実線円と爆撃中心点座標、7月10日仙台空襲時の空襲目標を示す破線円を記した)
*8月10日、再空襲の計画が立てられ、焼け残った北東部と南東部に、半径0.9kmの円が設定された。
爆撃中心点は現在の常盤木学園南方(座標:081123)と、仙台一高南方(座標:081081)。どちらも東北本線沿線であった。
*半径1.2kmの破線円は仙台空襲時に設定された円。
*8月15日,戦争が終わり、再空襲を免れた。

仙台空襲と防空壕

下記で展開しました

空襲警報旗

米軍が透過した伝単

米軍が投下した伝単
伝単とは戦争相手国の市民や兵士の戦闘意欲を失わせる目的でばらまくビラ。
太平洋戦争末期、米軍は日本本土上空から大量の伝単をまいた。空襲予告や降伏勧告、戦況の不利などを知らせる内容で、これらの伝単を拾った者は、憲兵や警察へ届けることになっていた。拾って持っていると、非国民として処罰されたため、現在残っている物は少ない。

君達の指導者は嘘つきだ!!

変わる身近な街並み

仙台市電
1926(大正15)年、仙台市街電車(市電)が開通しました。区間は仙台駅前~大町一丁目間と東五番丁~荒町間。
その後北仙台、長町、八幡町まで延長され、1948(昭和23)年原町線の開通で完成をみました。通勤·通学·買い物客の足として多くの市民に愛され、利用されましたが、1976(昭和51)年、半世紀にわたる歴史を閉じました。


宮城県の戦争遺跡「防空壕」

特別コーナー的にまとめられていて、なかなか興味深い展示であったので、メモとして記録。

仙台戦災復興記念館

https://www.hm-sendai.jp/sisetu/sensai

※撮影:2025年9月


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