「護国観音」と「歩兵七十五聯隊通信隊戦歿者之碑」(秩父・大渕寺)

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秩父にある戦前に作られたコンクリ観音像を見に行ってきました。


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戦前のコンクリ観音・大仏建立ブーム

戦前、特に、昭和初期の日中戦争前夜の満州事変や第一次上海事変などの体外的な不安定要因や戦死者や戦災への慰霊、第一次世界大戦後の不況や飢饉などの社会情勢の不安定要因に対し、観音信仰によって国民の平安と国家の安寧を祈願しようという動きもあり、コンクリート製の大観音・大仏の建立が各地で盛んであった。
また、銅像などの金属製像に関しては、軍需用に金属供出などもあり、その代替えとしてのコンクリという側面もあった。
昭和12年の日中戦争を期に、戦前のコンクリート大観音・大仏建立ブームは縮小し、戦後にあらためて「平和観音(平和観世音菩薩)」として、同義で大観音像の建立が全国で盛んになっていくことになる。


大渕寺の護国観音

秩父三十四ヶ所霊場の27番札所「大淵寺」
大渕寺に1935年(昭和10年)に作られた戦前コンクリート観音。
高さは16.5m。

第7番札所法長寺住職、第27番札所大渕寺兼務住職の町田兼義師の発願。
仏彫師・志佐鳳洲のもと、コンクリート仏師であった福崎日精(志佐日精=師匠が志佐鳳洲)が手掛け、弟であり助師である福崎秀雲(大戦中に戦病死)との共作となる。

「関東三大観音」(関東三観音)の一つというが、高崎・大船の次の3番目は「韮崎」とする声のほうが強い。

当時の世相を反映し、「武運長久」祈願として、左手に「剣」を持っている。

下記に建立時のエピソードが記載されている。

観音の霊験(昭和15年) 172ページ(コマ92)
国立国会図書館デジタルコレクション

町田兼義師と護国大観音
(背景)町田兼義は、三十三尺(10メートル)の観音様の制作を旅の雲水に相談したところ、志佐鳳洲を紹介され、町田兼義は志佐鳳洲に手紙を書いた。手紙を受け取った志佐鳳洲は、「機が熟したらお訪ねする」と返事をよこし、そうして1年がたった。
(以下、観音の霊験(昭和15年)175ページから引用、現在仮名遣いに変換)
 昭和9年8月、その日は遂に来た。志佐鳳洲は随身二人を連れ、影森の山寺に姿を現した。彼は柔和な顔に微笑を浮かべながら、町田兼義師と瞳を合わせると、すぐ「此処三ヶ月の間に起工することにして戴きたい」と、相談も見積もりもあったものではない。志佐鳳洲はこの地に三十三尺の大観音を作ることが、自分の使命であるかの如く思い込んでいるのだ。若いが豪腹な町田兼義師も、この突然の話にはさすがに驚いた。「まあ、待って下さい、先立つものは金だが、今は一文の準備もない、少し資金をこしらえるまでお待ちを願いたい」「いや、ここ三ヶ月のうちに取りかからないと、向こう三カ年間は出来ない、もしかすると私の一生のうちには、もうこんなよい機会はないかも知れない」町田師も二の足を踏まざるを得ない。それもその筈、三十三尺の大観音を作るについては、何年かかるか、又どれ程の費用が必要か、皆目分からないのだ。滅茶苦茶に、無計算に工事を始め、中途で挫折するようでは、又、そんなことになってはかえって大慈大悲の観音さまの御徳を汚すことにもなる。
 南無観世音菩薩、南無観世音菩薩と繰り返しとなえていると「観音さまをつくるのだ、出来ない筈はない、きっと完成する、何も躊躇するには及ばないぞ、すぐに取りかかれ」と云う不退転の覚悟が決まった。町田師は顔を上げると徐に云った。「信徒の力を借りて作るから、制作にかかって頂きたい」(略)「それでは準備を整えてすぐにやって来ることにする」と云って志佐鳳洲はいったん郷里へ立ち帰った。10月2日、約にたがわず、まず鳳洲の弟子志佐日洲(=志佐日精)と福島秀雲(=福崎秀雲)がやって来た。
 数日後、師匠格の志佐鳳洲もや来て寺に泊まることになった。
 工事を始めるなかりになった。しかし金の準備はもとより、材料の用意も出来ていない。さしあたって第一の悩みの種は鉄剤である。町田師は熊谷にある秩父鉄道の本社へ行き、かねてから昵懇の松崎総務課長を通じて古レール8本を手に入れた。その夜すぐ村長黒澤保秀氏を訪ね、今度の計画を話し、また翌晩は有志50人ばかり寺に集まって貰った。そして27人の賛成を得た。
 昭和10年1月18日、観音の御命日、寺の後に聳える護国山頂の樹木を伐採し、地固めに着手した。(中略)秩父セメント株式会社からセメントも寄付もあった。先ずお顔の長さ九尺と云う頭部の制作に取りかかった。
 昭和11年4月18日。この日は永遠に記念すべき有難日である。 今上陛下の玉体康寧の祈願文を大観音の胎内へお納めいたした記念すべき聖日である、7月にはトキの第1師団長林仙之中将から「護国観音」の御揮毫を贈られた。11月17日おごそかに開眼式が催された。(後略)

護国観音からの展望

台座には観音画

重機も貧弱だった昭和の戦前に、山頂に見事な観音さまを建立した当時の人々の熱意に脱帽。
ありがたいものです。


歩兵七十五聯隊 通信隊戦歿者之碑

「歩兵七十五聯隊・通信隊戦歿者之碑」が、大渕寺の護国観音に至る参道の途中にあった。

歩兵七十五聯隊 
通信隊戦歿者之碑
小池 清

歩兵第七十五連隊通信隊慰霊碑文
北辺鎮護に在った北鮮会寧歩兵第七十五連隊通信隊は、比島決戦場への命を受け勇躍昭和十九年十二月比島呂宋島北サンフェルナンドに上陸し、二十年一月九日リンガエン湾に上陸した精鋭米軍とナギリアン、、ロザリオ、アシンにおいて砲爆撃下熾烈なる戦開を繰り返し、既に兵力の半数を失った。
続いて山岳地帯のボンドックロー高地の戦闘では弾薬、食糧、通信機器の補給も全く無く、飢餓状態での死闘を続け、特に通信隊は通信網確保の為多くの隊員を失い電波は敵の探知の目標となり大打募を受け、砲爆撃下での連日の死闘で通信隊も銃をとって陣地の防衛に尽くした。八月十六日、残存兵力を結集し最後の総攻撃を敢行することにあっていたが、八月十五日終戦。
比島投入兵力五十八万余、戦死者四十八万人、誠に補給絶無の苛烈苛酷な飢餓決戦であった。戦後昭和六十年呂宋島南部バクサンハンの比島寺に建立した慰霊碑を、故あって除魂式を行い、有志の努力に依り、祖国日本に持ち帰り、埼玉県秩父護国観音山麓の地に通信隊を主とする慰霊碑を再建し、供養を行うものである。祖国の安泰を願い散華した戦友よ、此の地に安らかにお眠り下さい。
 平成九年七月吉日
  虎兵団八五〇五部隊
羅南十九師団会寧歩兵第七十五連隊
    通信隊代表 小池 清

合掌


大渕寺

護国観音の御姿を山頂に垣間見る。

秩父札所第27番 龍河山 大渕寺
創建年代は不詳。
伝承によると弘法大師空海が立ち寄り、7年もの間、病に臥せっていた宝明という僧侶に観音菩薩を彫って与え、宝明が空海作の観音様に祈願したところ、病気快癒したという。
宝明は観音様を私物化すべきではないとして、観音像を安置する観音堂を建立したという伝承から、平安初期には創建されたと想定されている。
大正8年(1919)に秩父鉄道の蒸気機関車からの火の粉で、観音像は無事であったが、寺院は全焼、再建している。

護国観音往復は40分以上。

宝明の伝説。

ちょうど、紅葉も良い感じでした。

観音山延命水

熊注意


場所


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