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乃木大将像と護国忠魂碑(茅ヶ崎)

茅ヶ崎市に乃木希典の石像があると耳にしたので、足を運んでみた。

境内の東側に、慰霊の地がある。


護国忠魂碑

護國忠魂碑
 希典書

明治38年10月16日 茅ヶ崎村兵事會 建立

日清日露戦争における戦没者13柱を祀る。当初は茅ヶ崎小学校に建立されていたが、戦後に円蔵寺に移設されたという。


乃木希典大将石像

乃木大将立像。御影石製。乃木将軍の没後24年となる昭和10年に円蔵寺の境内に建立されたという。石像高は約189cm、台石50cm。

堂々たる乃木将軍。


二〇三高地 血染めの岩片

日露戦争において旅順港を巡る攻防に際して大激戦地であった「二〇三高地」。そのゆかりの岩片。

水師営のなつめの木

乃木将軍とステッセル将軍が旅順軍港攻防戦の停戦会見を行った場所が水師営。その水師営の庭に生えていたのが「なつめの木」であった。

水師営の会見
 佐々木信綱作詞・岡野貞一作曲/文部省唱歌

旅順開城 約成りて
敵の将軍 ステッセル
乃木大将と会見の
所はいずこ 水師営

庭に一本 棗の木
弾丸あとも いちじるく
くずれ残れる 民屋に
今ぞ相見る 二将軍
(略)

水師營の会見 
旅順開城約なりて 敵の将軍ステッセル 
乃木大将と会見の 所はいつこ水師營

庭に一本なつめの木 弾丸跡もいちしるく 
くずれ残れる民屋に 今ぞ会見る二将軍

乃木大将はおごそかに 御恵深き大君の 
大詔伝うれば 彼かしこみて謝しまつる

昨日敵は今日の友 語る言葉もうちとけて 
我はたゝへつ彼の防備 彼はたゝへつ我が武勇

形正して言い出でぬ この方面の戦闘に 
二子を失い給いつる 閣下の心如何にそと

二人の我子をそれそれに 死所を得たると喜べり 
これぞ武門の面目と 大将答へ力あり

両将晝餉兵にして 尚も盡せぬ物語 
我に愛する良馬あり 今日の記念に献すべし

好意謝するに余りあり 戦の掟に従いて 
他日我手に受領せば 永くいたわり養わん

さらばと握手ねんごろに 別れて行くや右左 
つゝ音絶へし砲台に ひらめき立てり日の御旗
 平成十九年十二月建立


旧招魂社の鳥居片

詳細不明。


円蔵寺

高野山真言宗総本山金剛峯寺末寺
茅ヶ崎山円蔵寺
茅ヶ崎厄除大師、とも呼称。
永享元年(1429)創建。
大正十二年(1923)関東大震災によって倒壊、旧地に観音堂を残し、昭和四年(1929)現在の地に遷座。

場所

https://goo.gl/maps/53jH3RpNM1YAkWYr7

※2022年4月訪問


関連

「初雁公園のラジオ塔と国旗掲揚台」(川越)

小江戸川越として著名な観光地。
小江戸といえば近世的な見どころが多数ではあるが、近代目線でも見どころが豊富。実は、川越には、大きな空襲が無かったことも幸いして、近代建築物も多数残されている。
(ゆくゆくは川越の近代建築物の散策記録も掲載していく予定だが、まだ準備中、、、)

※川越市における戦災の状況(総務省)

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_04.html

川越の「初雁公園」は、「現存2つのうち、東日本唯一現存の川越城本丸御殿」や「とおりゃんせにゆかりのある三芳野神社」などがあり、川越観光で足を運ぶ機会も多い場所。
初雁公園にある「川越市営初雁公園野球場」には、戦前のラジオ塔と国旗掲揚台が残されているというので足を運んでみた。


初雁公園のラジオ塔

ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。これらラジオ塔は「公衆用聴取施設」と称され、全国各地で人が集まるところに建設された。

初雁公園のラジオ塔は、建立年月は不詳であるが、後述する国旗掲揚台が昭和13年(皇紀2598年)6月建立であることから同年代と推定。

初雁公園野球場の一塁内野側に。
はたから見ると、野球場内にある不自然な灯籠。それでも違和感を感じさせないのは「小江戸川越」のイメージ感だからか。

前後に開口しているが、左右は壁がある。
通常の灯籠は、四方に開口しているが、ラジオ塔として音の広がりを意識していたのかもしれない。


初雁公園の国旗掲揚台

階段状のモニュメントを持つ国旗掲揚台。
初雁球場の1塁側フェンスに沿った駐車場にある。

建立は昭和13年6月。銘板には「皇紀二千五百九十八年六月」の文字をみることもできる。
高さの異なる5本の杭は、一部が色あせているが左から「青」「黄」「黒」「緑」「赤」となっている。
この5色はオリンピックのシンボルカラー。色の並びも同じく。

幻となった昭和15年(皇紀2600年、1940年)の東京オリンピック(東京五輪)を前に、盛り上がっていた地元有志の寄付でもって、オリンピックの五色を意識した国旗掲揚台が建立されたという。
なお、建立翌月の昭和13年7月に日中戦争(支那事変)の影響などもあり軍部の反対などから日本政府は東京五輪の開催権を返上している。

建立時に多額の寄付をした中心人物が前川道平氏。
川越出身で、のちの伊勢丹社長。昭和8年の第二回東京優駿(日本ダービー)優勝馬カブトヤマの馬主としても有名。

青は色あせており、わかりにくい。。。

本グランド施設ニ際シ前川道平氏ハ特志ヲ以テ金員ヲ寄與セラル
誠ニ時宜ニ適シ工備ヲ促進スルヲ得タリ
茲ニ厚ク其ノ行為ヲ録ス
 皇紀二千五百九十八年六月十日

川越市初雁公園野球場

場所

https://goo.gl/maps/3SLfJV7bwkei4A8b7

川越城本丸御殿

※撮影:2022年4月及び5月


川越関連

ラジオ塔関連

「日本の航空事始め・その2」グラーデ単葉機と日野熊蔵(所沢航空発祥記念館と代々木公園)

以前に、「日本の航空事始め」として、アンリ・ファルマン機と徳川好敏に触れてました。今回は、「日本の航空事始め・その2」として、グラーデ単葉機と日野熊蔵に関して、記載してみたいと思う。


日本の航空事始め・その1
アンリ・ファルマン機と徳川好敏


所沢航空発祥記念館での特別展「二人の空の開拓者 発明家日野熊蔵と航空人徳川好敏」展示は2022年3月31日で終了しました。

1910年(明治43年)12月。
代々木演習場にて、日本初の飛行に向けて準備を行っていた、アンリファルマン機の徳川好敏と、グラーデ単葉機の日野熊蔵。

実は公式記録の5日前。
明治43年12月19日の「初飛行を目的とした記録会」に先立つ、12月14日の滑走試験中、日野熊蔵陸軍大尉のグラーデ単葉機が飛行に成功し(滑走から誤って離陸?)、これが非公式な日本史上の初飛行ともされている。


グラーデ単葉機

グラーデ単葉機
80%スケール模型
所蔵:航空科学博物館

グラーデ単葉機とアンリ・ファルマン機は、今から110年前の1911(明治44)年4月に開設した所沢飛行場にその翼を並べました。
前年には代々木演習場(現在の代々木公園)において、グラーデ単葉機を日野熊蔵大尉が、アンリ・ファルマン機を徳川好敏大尉がそれぞれ操縦し、日本初飛行を記録しています。

グラーデ単葉機は、アンリ・ファルマン機のような補助翼式ではなく、竹製骨組の主翼をねじることで操縦する「たわみ翼式」です。また、アンリ・ファルマン機はグノーム社のエンジンを載せていたのに対し、グラーデ単葉機は自前のグラーデ社製空冷4気筒エンジンを載せていました。

この80%スケール模型は航空科学博物館(千葉県芝山町)が2010年に同館の企画展「日本の初飛行100年展」のために制作したものです。

操縦席は、エンジンの直下の布張りの椅子。
正直言って、怖い。


日野熊蔵

日野 熊蔵(ひの くまぞう)
1878年6月9日-1946年1月15日陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中佐。
発明家でもあり、日本航空界黎明期のパイロットの1人でもある。
1910年(明治43年)4月11日、臨時軍用軽気球研究会から徳川好敏大尉とともに操縦技術習得のためフランスのアンリ・ファルマン飛行学校エタンプ校に派遣され5月末に入学。その後7月25日に単身ドイツに移動しヨハネスタール飛行場で操縦技術を学びグラーデ単葉機を購入。
1910年(明治43年)12月14日、代々木錬兵場(現・代々木公園)において滑走試験中の日野熊蔵は飛行に成功し、これが非公式ながら日本史上の初飛行とされる。
1910年(明治43年)12月19日には「公式記録飛行会」が行われ、日野熊蔵・徳川好敏の両名が初飛行に成功した。これが改めて動力機初飛行として公式記録となる。
飛行順番として(華族であり清水徳川家の名門であった)徳川好敏が最初に飛んだために「アンリ・ファルマン機を駆る徳川大尉が日本初飛行」として記録に残ることとなる。

日本初飛行以降、順調に昇進する徳川好敏に対して、日野熊蔵は陸軍上層部と折り合わずに左遷。1918年(大正7年)に陸軍歩兵中佐を最後に陸軍を去り、民間で発明家となる。
1935年(昭和10年)には萱場製作所が実用化を目指したラムジェットエンジン搭載の無尾翼機、「HK-1(HKは日野のイニシャル)」の開発にも参加している。

1945年(昭和20年)、東京大空襲により日野は自宅と共に多くの発明品の資料の全てを焼失。敗戦後の1946年、栄養失調により死去。
1974年(昭和49年)、東京代々木公園に胸像と「日本初飛行の地」の碑が建立。
日野の胸像は1964年(昭和39年)建立の徳川の胸像と並んで設置され、碑文には日野・徳川の両名が日本初飛行の人物として顕彰されている。

日野熊蔵生誕の地、熊本県人吉市に建つ記念碑。人吉は戦跡的にも見どころ豊富で気になる地。いつか訪れたい。。。

日本初飛行
日野熊蔵生誕之地


日本の空のパイオニア
 日野熊蔵は、明治11年(1878)6月9日この地に生まれ、明治43年(1910)12月、東京代々木におけるわが国初の飛行テストに、ドイツ製ハンスグラーデ機を操縦し、フランス製アンリファルマン機に搭乗した徳川好敏氏とともに、日本最初のパイロットとなった。
 以来終生飛行機の研究と開発を続け、昭和21年(1946)67歳で逝去した。

 日野氏の生誕120年を記念してこの碑を建てる。

 平成10年6月9日 日野熊蔵顕彰会


日野熊蔵之像

以下は、代々木公園にて。

日野熊蔵之像
 美土路昌一書

限りなき大空
限りある人生
限りなき代々の祖国のため
限りある現世の定命をささぐ

翁は熊本の産 豪放磊落英仏独語に通じ 数理に秀で選ばれて 独逸に飛行機操縦を取得し一九一〇年十二月一九日此地に於いて発動機の不調を克服してグラーデ式を駆り一分間一〇〇〇米の飛行をした不屈の精神は次代の青少年の範とすべきである 
 昭和四一年四月二三日
  松野頼三

徳川好敏之像と日野熊蔵之像が代々木公園に並んで建立されている。

日本航空の父
徳川好敏之像
 井上幾太郎書

誠実 謹厳 航空に生涯を捧げた この人が明治四十三年(一九一〇年)十二月一九日 この地代々木の原でアンリ・ファルマン機を操縦しわが国の初飛行を行い飛行時間四分 飛距離三〇〇〇米 飛行高度七〇米の記録を創造して日本の空に人間飛翔の歴史をつくった 
 昭和三九年四月十七日 
  赤城宗徳 
 像作者 鋳金家 市橋敏雄

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

日日本航空発始之地
陸軍大将井上幾太郎書

日本初飛行の地
 1910年(明治43年)12月19日, 当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式複葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
 継いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単葉機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。これが日本航空史上、最初の飛行である。
日本航空発始之地記念碑
 建立 朝日新聞社
 設計 今井兼次
 彫刻 泉二勝麿
徳川好敏之像
 建立 航空同人会
 彫刻 市橋敏雄
日野熊蔵之像
 建立 航空五〇会
 彫刻 小金丸義久
 東京都 昭和49年12月

碑文
紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社

日本初飛行離陸之地

場所

https://goo.gl/maps/ZivgUwnzK7cbKwEq8


新宿にも日野熊蔵ゆかりの地がある。

国産飛行機発祥の地

新宿区指定史蹟
国産飛行機発祥の地
所在地 新宿区西五軒町34番地
指定年月日昭和60年12月6日
  明治42~43年(1909~1910)にかけて 日野熊蔵大尉により 最初の国産飛行機 「日野式一号機」が製作された林田商会 (のち日本醸造機株式会社) 跡地である。
 明治時代末期, 飛行機が欧米各国で長足の進歩を遂げているのを見て 日野大尉はその将来性に着目し, 全くの独力で英・米・独・仏の文献を参考に 飛行機用発動機, および飛行機の設計と製作に着手し, 明治43年2月この地で完成した。
 一層式で翼長8メートル, 全長3メートル, 発動機はニ衝程空冷式8馬力を搭載し, 完成まで3ヵ月の期間と約1900円を費やした。
 大尉はこの飛行機に自ら搭乗して外山ヶ原で試験飛行を実施した。
 平成3年11月  東京都新宿区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/aPi4WVLtspFVXpsK7


黎明期の航空機

所沢航空発祥記念館にて。

アンリ・ファルマン1910年型飛行機(フランス)
日本初の公式記録飛行に成功した飛行機
明治43年12月19日、代々木演習場で行われた日本初の公式飛行に、徳川好敏大尉の操縦によって初飛行に成功した飛行機。同大尉が飛行研究のためにフランスに留学した時に購入した。初飛行の後、所沢飛行場で訓練飛行などに使われていたが大正5年頃に引退後、所沢の航空参考館に展示された。第二次大戦後、一時アメリカにわたっていたが、1960(昭和35)年、日米修好100年、日本の航空50年の折に、日本に返還された。

ハンス・グラーデ1910年型飛行機(ドイツ)
アンリ・ファルマンと共に公式記録飛行に参加
臨時軍用気球研究会の日野熊蔵大尉が、飛行機研究のためドイツに留学した時に購入した飛行機。明治43年12月19日に代々木練兵場で行われた公式飛行では、徳川大尉操縦の「アンリ・ファルマン機」と共に、日野大尉の操縦によって初飛行に成功した。その後、所沢飛行場で操縦訓練に使われたが、翌44年4月9日、訓練中に墜落した。乗員は助かったが機体が壊れ、日本初の飛行機墜落事故になった。

ブレリオXI bis飛行機(フランス・1911)
日本記録を更新した高性能単葉機
明治43年、臨時軍用気球研究会の委員、徳川好敏大尉がフランス留学中に「アンリ・ファルマン機」と共に現地で購入した飛行機。研究機として最初に購入された4機種中では最も高性能で、対空、距離、高度の日本記録を次々に更新した。所沢飛行場では主に偵察訓練に用いられていたが、大正2年3月28日に青山練兵場で行われた公開飛行の帰りに空中分解を起こして墜落、登場していた木村、徳田両中尉は脂肪、日本で初めての航空殉職者となった。

ライト飛行機(ドイツ・1910)
ドイツで作られたライト兄弟設計の飛行機
明治43年、日野熊蔵大尉が、ドイツに留学した時に「ハンス・グラーデ機」と共に購入した飛行機。世界で初めて動力飛行に成功したアメリカのライト兄弟によって設計され、ドイツで滑走するためのゴムタイヤを付けて生産された。明治44年3月に日本に到着し、4月に日野大尉によって所沢飛行場で初飛行が行われた。

会式一号飛行機(日本・1911)
所沢で富んだ日本初の国産軍用機
明治44年、徳川好敏大尉の設計・制作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功した「アンリ・ファルマン機」を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作ることを目的として、所沢飛行場格納庫内で制作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や空中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが生産された。

※撮影:2022年3月


関連

飛行神社・二宮忠八

戸山(戸山ヶ原の射撃場で飛行試験)

代々木(代々木練兵場で初飛行)

稲毛(民間航空発祥の地)

航空神社

日本初の航空犠牲者

さいたま市に残る「奉安殿」流用建造物

大宮浦和のさいたま市に残っている、かつての奉安殿を流用した建造物を求めて散策してみる。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


宮原町二丁目自治会館神輿蔵
宮原尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市北区宮原町。
昭和14年建立。流造一間社。
宮原尋常高等小学校の奉安殿として建立された。
戦後、建築後6年しか経過していないことなどもあり、小学校から撤去するには惜しく、そのまま宮原二丁目の公民館脇に移築し、神輿等祭礼具の収蔵庫として活用することとなった。

屋根には、奉安殿のころから変わらずに、菊花紋章が掲げられたまま残されている。

場所

https://goo.gl/maps/W1Ng1ATYhVDVosZa9

※撮影:2022年2月


日進神社境内門客人神社
日進尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市北区日進町。
昭和8年頃建立の日進尋常高等小学校奉安殿。
日進尋常高等小学校(現・日進小学校)の奉安殿を戦後に移築し、日進神社境内社の門客人神社となった。

日進神社。
創建年代は不詳。大宮氷川神社からの勧進。日進村の村社。

場所

https://goo.gl/maps/4ByoXWN1pPEnBPcf9

※撮影:2022年2月


並木氷川神社本殿
三橋尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市大宮区三橋。
昭和13年頃建立の三橋尋常高等小学校奉安殿。鉄筋コンクリート造。
三橋尋常高等小学校(現・三橋小学校)の奉安殿を戦後に移築し、並木氷川神社本殿となった。

並木氷川神社。
創建年代は不詳。並木村の村社。

神社合祀の記念碑と、日清日露戦役記念碑。

日清日露戦役記念碑の碑銘は、山県有朋。

場所

https://goo.gl/maps/TmxmeiehtyKw3bb77

※撮影:2022年2月


楢姫稲荷神社本殿
大宮南尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市大宮区吉敷町。
昭和7年頃建立の大宮南尋常高等小学校奉安殿(大宮尋常高等小学校南分校奉安殿)。
大宮南尋常高等小学校(現・大宮南小学校)の奉安殿を戦後に移築し、楢姫稲荷神社となった。

場所

https://goo.gl/maps/nZ3rrSCQXNZAgwMP8

※撮影:2021年7月


起志乃天神社
浦和第一尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市浦和区岸町。
昭和7年頃建立の浦和第一尋常高等小学校奉安殿(浦和第一国民学校奉安殿)。
浦和第一国民学校(現・さいたま市立高砂小学校)の奉安殿を昭和二十一年に譲り受けて当社の社殿とした。

起志乃天神由緒
菅原道真卿を祭神とする太宰府の天満宮は文教の祖神として崇敬のまとであるが、天歴元年後村上天皇が京都の北野に天満宮を造営され一条天皇の車駕行以来歴聖の行幸二十数変に及び世人これを北野行幸と呼んだ。
當天満宮は青山家祖先藤原朝臣忠勝が京都より移り住むに當り永仁六年に北野より勧鎮座したものであり、今から約六百八十数年前である。
尓来当地方の天神様として広く敬愛され幾星霜を経た、明治四年名主青山貞勝により石祠殿が建立された昭和六年青山治作他世話人により石祠殿の修理があった。
その後住人の移り変りと支那事変、大東亜戦争と騒乱の時代を迎え文教の守護神である當社は次第に荒廃の度を加えた。
昭和二十一年当町内相川、佐久間、辻村、内田等の諸氏が実行となり高砂小学校にあった旧奉安殿の建造物を当処に移築し石祠は新社殿に内臓した。さらに境内地は浦和市児童遊園地に指定を受け今日に至ったものである。
昭和五十五年社屋の修築と周辺の整備を行うに当たり地域在住諸氏の協賛に感謝しここに由緒を誌す。
   昭和五十五年二月
  起志乃天神奉賛会
    会長 相川曹司
     他 役員一同

場所

https://goo.gl/maps/s6a7HPhFe7t44SBEA

※撮影:2020年9月


関連

靖國信仰~人を神に祀るということ~


  • はじめに
  • 人を神に祀るということ
  • 御霊信仰と顕彰信仰
  • 祖霊信仰と靖國神社
  • みたままつり
  • 靖國のみたまへの想い 

はじめに 

 「靖國神社という神社」は、数多くの神社のなかでも、異彩を放っている。 

 異彩の一つとしては、その過程がそのまま「近代日本の具現化」であり、国家のために殉じた「英霊」が御祭神であることだろう。あまりにも強く明治維新以後の歴史に絡みつつ、またそれが定期的に政治イデオロギーに起因することも多く、そもそも「靖國神社とは何か?」と疑問符を抱くことも多い。 

 ここでは世の中に溢れる「靖國論争」ではあまり触れられることのない、「信仰」の側面から「靖國神社」を紐解いてみようと思う。 


人を神に祀るということ 

 靖國神社は明治二年(1869)六月二十九日に「東京招魂社」として設立している。 

 文字通りに「靖國神社は招魂社である」という大前提がこの創立起源にある。 

 東京招魂社の意義は一言でいうなれば「戦禍で斃れた者達の霊を慰め、その遺志を長く祈念するための社」である。 

 戦没将兵の慰霊鎮魂の為に、それが各藩ごと(官軍・幕府軍側問わず)であれ民間であれ明治政府であれ、慰霊・鎮魂・招魂の祭祀が各地でとりおこなわれたことは日本の文化側面的に何等おかしなことではない。これは自然な風習であり、何等「人工的」でも「作為的」なものでもない。 

 例えば、明治政府が主宰した「靖國神社」がこのような伝統的な「人を神に祀る風習」に反して、抑圧的なものであったならば、日本国民の信頼は決して得られるものではない。またこのような「信仰」が強制されたというなら靖國神社創立以来約150年も祭祀が休むことなくとりおこなわれ、確固たる民間によって維持されていることは何を意味しているのだろうか。 

 そこには民間風習が伝統として生きており、靖國の信仰が深く民間に根付いているからではないだろうか。では、その「靖國の信仰」に連なる「民間信仰・民間風習」とは何であろうか。 

 この世に生をうけ、そして亡くなった者を「カミ」として祀り上げる事は古くからの風習の一つであった。人を神に祀った施設で圧倒的に多いのが「神社」である。当然これらの祀り上げの儀式は、古俗に基づく「鎮魂(たましずめ・おおみたまふり)」に基づく神道式でとりおこなわれた。 

 本来の初期仏教・原始仏教は「魂」の存在自体を認めていなかったが、日本古来の風習や神道と巧みに融合してきた仏教は、「誰でも彼でも死ねばすべてホトケ」「死者を無差別に皆ホトケといふやう」(柳田國男『先祖の話』)になり、死せる霊を「成仏」という形で遠方(極楽浄土)に送りつけようとばかりし(柳田國男によれば霊は国土にとどまるという)、さらに祖霊の融合を認めず、古代以来培ってきた魂思想を機能神(守護神)信仰にねじまげ、家々の先祖祭や死者の霊の管理・葬送儀礼に関与しだした。 

 その結果、「人を祀る神社」とは別に「霊堂・霊廟・供養卒塔婆」等に「霊」が祀り上げ「人を祀る寺院」の例も多くなった。 

 仏教でも東南アジアに波及した部派仏教(=小乗仏教。近年の仏教界では小乗仏教とは呼称しない)系の生死観は「輪廻転生」、つまり生まれ変わりの精神であるので、そこには慰霊の精神は存在しない。同じく日本国内でも浄土真宗(真宗・一向宗)系は、その開祖である親鸞が先祖供養は不要だと主張している。(亡き人は諸仏となる。迷いなく即時転生。) 

 またシャマニズムや霊魂等をそもそもないキリスト教が靖國の慰霊行為に納得行かないとするのも宗教観的には理解できる。そこはお互いの文化が培ってきた伝統を尊重する必要があるだけであり、互いの宗教論で否定するのは無意味に等しい。 

 カミ・ホトケ・霊・魂と呼び名は様々にせよ「人を祀る」という根底には大差はない。「人を祀る」延長線上に「靖國信仰」がある以上、この古来の風習の起源を探っていく必要があるだろう。 

 柳田國男翁は人を祀る風習の根源について「最初に外から持ち込まれたと認むるべき証拠が無い」「民族固有のものだとする」理由も積極的には明確ではない、としている。「単に外から入つたもので無いならば、元から在つたと見るべきだと謂ふに過ぎぬ」ので、その「元から」が容易ではないが「永い年月の間に極めて徐徐として、所謂人格崇敬の思想は養はれて来たのである」としている。つまり根源を明確に出来ないほど身近なことであり死者の霊魂は生者が慰め供養するしかないという観念を日本人は伝統的に培ってきたのである。しかし柳田翁は人が祀られるのにかつては制限があったとし「弘く公共の祭を享け、祈願を聴容した社の神々の、人を祀るものと信ぜられる場合には、以前は特にいくつかの条件があった。即ち年老いて自然の終りを遂げた人は、先ず第一に之にあづからなかった。遺念予執といふものが、死後に於てもなほ想像せられ、従ってしばしばタタリと称する方式を以て、怒や喜の強い情を表示し得た人が、このあらたかな神として祀られることであつた」(柳田『人を神に祀る風習』)とされている。本来、死後に祀られる霊魂は「祟り」という観念に基づいており、とりわけ祟ることがない一般の死者の霊魂は「先祖」という霊体に融けこんで家(私)や公のために活躍する我が国固有の氏神信仰・祖霊信仰に基づく霊魂観念となり(柳田『先祖の話』)、これらの祖霊は子孫によって祀られるべき神格であった。 

 同じ「カミ」でも「遺念予執の人を神に祀る」はその多くが御霊信仰(怨霊信仰)であり、一方で「先祖を神に祀る」は祖霊崇拝(祖先祭祀)といえる。「人を祀る」という古来風習も歴史が経つと「生前に傑出した業績を残した人物を祀る」という「勲功顕彰信仰」というべき風習が出来あがる。いわば、三種の「人を祀る」信仰があるといえる。 

三種類の「人をまつる信仰」
 御霊信仰(怨霊信仰) 遺念予執の人を神に祀る
 祖霊信仰(祖先祭祀) 先祖を神に祀る
 勲功顕彰信仰     生前に傑出した業績を残した人物を祀る


御霊信仰と顕彰信仰 

 祟り神系は一般的には御霊信仰(怨霊信仰)とされる。この世に怨みを残して死んだ者の霊魂は、生者に祟りをなすと考えられ、これらの怨霊・亡霊は御霊・物の怪と恐れられてきた。本来の「たたり」という言葉は神の示現をいう意味にすぎなかったが、「巫蠱(ふこ)の幣なるもの」が「たたり」を変容させたという。。(柳田『先祖の話』)この巫蠱=呪術者が「たたり」を「祟り」として恐怖の世界の怨霊として明確化させ、本来は霊魂に関して沈黙していた仏教(密教)による呪術と古来の鎮魂儀礼の融合によって奈良末期から平安時代(最澄や空海が帰朝し密教を導入した後)に急速に「御霊信仰」が広がっていった。本来は天皇家の死者の霊を特別に御霊と呼んだが、このころには非業の死を遂げた人々の霊魂を御霊と呼ぶようになり、平安時代には疫病・飢饉・地震・雷等のあらゆる災害が、御霊の仕業とされ、これらの怨霊を鎮魂するための儀礼が必要となっていた。 

 古来、怨霊とされる霊も「神」として祀り祭礼儀式を行うことによって常に鎮魂してきた。その供養の結果、祭神の業績や伝説が世に語り継がれていくにつれて怨霊の力は弱まり祭神の性質がマイナスからプラスへと転換されていくことになる。有名な菅原道真が死後四十数年後に北野神社にまつられ、その後「文筆・学問の神」として祭神が顕彰されるように。 

 この顕彰化ということが後世に着目され「顕彰神」という人神が発生することになる。これが「勲功顕彰信仰」へのシフトといえる。一般的に「一定の年月を過ぎると、祖靈は個性を棄てゝ融合して一体になるものと認められて居た」(柳田『先祖の話』)といわれており神になれない「霊」というものは三十三年忌(もしくは四十九年忌・五十年忌)で最期の法事を行い「先祖」になるといわれている。つまりある程度の年月がたつと故人は先祖という枠の中に埋没して忘れ去られ記憶として残らなくなってしまう。しかし人を神に祀るということはその人物が永遠に記念として記憶され伝承されることを意味する。遺念予執がまったくなく祟り神とは到底思えない権力者や偉人が神として祀られる理由の一つにはこの記憶・記念される「顕彰」という機能が働いているといえる。つまり「祟り神」も時と共に「顕彰神」に転化するという根本があり、祭神が記憶・記念される場として神社が存在している。それもその神社が後世まで永続祭祀・信仰されていくという根本があって記憶され記念されるのである。このように「御霊信仰」と「顕彰信仰」というものは対極線上にあるもののようにみえて実は非常に近い関係にあるということがわかる。 

 また、天変地異等が「祟り」として認知認識されるときは得てして「政情不安定」な時である。誰かが「あれは祟りだ」と認定して「祟り神」を捜してこない限り「怨霊」は表面化して来ない。その「怨霊」を祭祀する役割は為政者や民衆が担っている。特に為政者にとっては政情安定化のために政治的目的で神社建立をするのが最良であった。つまり怨霊の転化ではなく最初から顕彰目的で建立された神社には政治的効果が大きいとされる。明治期の神社建立の動きを「国家神道のもとで、天皇崇拝を主軸に神社を再構築し、人為的作為的に改変し、国家神道の思想に立つ神社を次々と創建した」(村上重良『慰霊と鎮魂』)とみる見方もあるが、顕彰すべき必要性がない神というものもありえず、もし作為的作られた「顕彰に値しない神々」なら、少なくとも今の世の中では信仰されなくなるはずだが、明治以来の神社も今日多くの信仰を集めている。 


祖霊信仰と靖國神社 

 「人を神に祀る」概念を冒頭に三種類あげたが、一番最初に取りあげた「祖霊信仰(氏神信仰)」に関しては未だ詳述していない。

 「祖霊信仰」とは先に触れたように「先祖」という霊体に融けこんで家(私)や公のために活躍する我が国固有の霊魂観念のことを指し、本来これらの祖霊は子孫によって祀られるべき神格であり、子孫が先祖の霊を敬虔に祀り、それに対して「先祖の霊」は子孫の守護神として応えてくれるというものである。 

 以下、加地伸行氏の意見を参考にする。東北アジア(儒教文化圏)では亡霊を招き慰霊するシャマニズム(魂降ろし)が基本的宗教感覚であり、死者と生者とのきずなを断ち切ることのない祖先祭祀(仏教的には祖先供養)という宗教感覚が儒教によって体系化されてきた。日本古来の神道の根底はシャマニズムであり、印度から中国に波及した仏教(大乗仏教系)も儒教的慰霊観を取り入れ先祖供養重視の日本仏教に発展した。日本の古来神道は仏教・儒教体系や道教理論が伝来するにつれて原始信仰的なものから徐々に体制を整えていったが、ただ日本の神道は儒教にはない「穢れを忌む」思想があった。死に際しての火葬は禊的浄化であり、日本人にとっては「死」そのものは穢れである。しかし葬儀以降は「死」という厳粛な大事が聖化し、死者はカミもしくはホトケとなる。そしてこのように浄化された死者の生前のできごとを問うことは一切しない。死者は「死」という大事によって人間界の責任をすべて果たされ、あとは「カミ・ホトケ」となり人間界の子孫を護る存在となったと加地氏はいう。 

 例えば靖國神社で見てみれば「東京国際軍事裁判」という名の判決で裁かれたABC級戦犯の方々(便宜上「戦犯」と呼称)は、現世では「法務死」という一番重い刑で責任を果たされ「カミ・ホトケ」として祀られるべき存在といえる。 

 「祖霊信仰」は極めて儒教的なものであるが、そこに日本的な思想・伝統が加味されて「靖國信仰」が形成されてきた。私はそれらの昭和受難者たちが現世での罪を裁かれ「カミ・ホトケ」となったからには、もはや現世の罪を問うことはせず(問うこともできない)、ただ慰霊の一心で向き合うだけである。それが日本の伝統的な信仰のはずであるから。 

 彼らの御霊を後世の我々はどう祀ればよいのだろうか。以下、柳田國男翁・小堀桂一郎氏の見解を参考にしたい。御霊を祀れないという事態は、家が断絶して祀る人の無い霊が出来る場合もあれば、戦火で斃れ家の跡を継ぐものがいなくなる場合もある。柳田翁によれば、それらの「不祀の霊」の増加というものは、大きな恐怖であり、盆の先祖祭にてさまざまな外精霊や無縁ぼとけ(仏教呼称)等の為に、特別に外棚・門棚・水棚と呼ばれる棚(不祀の霊を祀るための棚)を設け、供物を分かち与えることをしなければならなかったという。これが古来の家の構造であり信仰であった。『先祖の話』の末尾で柳田翁は記す。「國家の為に戦つて死んだ若人だけは、何としても之を佛徒の謂う無縁ぼとけの列に、疎外して置くわけには行くまいと思ふ。」とし、子孫が絶え祭祀が行われなくなってしまうと「程なく家無しになつて、よその外棚を覗きまはるやうな状態にして置くことは、人を安らかにあの世に赴かしめる途では無く、しかも戦後の人心の動揺を、慰撫するの趣旨にも反するかと思ふ」と切実に記している。この言葉こそが「靖國信仰」の原核精神を示しているだろう。 

 靖國神社の祭神も個々の家々の墓に祀られている。それは柳田翁のいう両墓制のうち「いけ墓・上の墓・棄て墓」という、やがては記憶されなくなり(先祖と同化)、忘れ去られてしまう墓(所在不明になるのが良いとされる地域もある)であり、その地に死者の「魄」(肉体の象徴)は祀られる。一方で「参り墓・祭り墓」と呼ばれる参拝に都合の良い、社会的な霊魂の逗留地(招魂の祠)に死者の「魂」(精神の象徴)が祀られ、元の天に帰って、子孫の安寧を護ると考えられたきた。つまり、それらの招魂祭祀を司る場が「靖國神社」等であり、たとえ「いけ墓」での祭祀が廃れたり、または祭祀を司る子孫のない若い戦死者等の「不祀の霊」は、社会的立場ある「参り墓」での祭祀によって絶えることなく記憶され、霊は安んじてその祠にとどまり、それらの霊が「祀る者」を加護する。小堀桂一郎氏によれば「戦死者の霊を祀り、祭を営んだ人々と共鳴者が、恰も氏子が氏神に対する如き感情を自らのうちに育んでその神霊を尊崇し、かつその加護を祈るという信仰形体」が靖國神社・護国神社であり「霊(参い墓の霊=靖國・護国神社の霊)が加護を垂るべき子孫とは共同体の成員全体であると考えられる。祀る者と護る神とに関係が氏族の子孫と祖先という私的な関係から、共同体を軸とする公的な関係に移して考えられる様になる。祭神はその遺執を国を靖からしめんとの志に示現し、祀る氏子等は我等の安寧を守り給えと祈る。」とし、これこそが靖國信仰の形でもある。「いけ墓=私的な祭祀場」に対する「参い墓=公的な祭祀場」という考えによって招魂社は公的なものとして出発し、国家が主宰する祭祀によって公的な「国事殉難者」が祀られているのもなんら問題はなく自然の帰結である。 

 「靖國神社こそ国営にすべきだ」という声がある。本来なら靖國神社は国家機関たるべきだろう。いや根本の「神道」という信仰こそ「日本人の公的な信仰」とすべきだろう。(あくまで「宗教」とはせずに「信仰」というが。)ただ、そのようなことは現実には夢物語でしかない。ではどうするべきか。昭和五十三年七月から平成四年三月までの靖國神社の六代目宮司を務めていた松平永芳氏の意見が一番賛同的であると思う。以下一部抜粋する。「靖國神社は政府の維持すべき神社ではなくて、国民総氏子の神社ということでなければ、どうにもならないんじゃないかと考えています。(略)政府から庇護を受けていると、一時的にせよ、どんな政権が出現するかわからない。その時の不安があるから絶対に政府からお金は貰わない方がよいと考えているのです。仮に国家護持ということになると政府がお金を出せばよいと思うようになり、国民はノホホンとして靖國の存在を忘れ去ってしまうかもしれません。(略)少額でもいいからできるだけ多くの方々がここの神社を認識されて、ここのお陰で自分たちの今日の平和があるんだ、ということを理解していただくのが理想的なんだと考えております。」(『靖國神社創立百二十年記念特集』)たしかに、靖國神社がなんたるかすら理解できてない政府や国に、今後万が一でも委せる自体が発生する可能性はゼロではないとすれば、あとあとの不安が大きくなるばかりである。やはり小堀氏や松平氏のいう、この「祀る者と護る神」の関係を大切に、靖國神社を日本国民の氏神とした「国民総氏子」というのが理想ではなかろうか。 


みたままつり 

 毎年7月13日から16日にかけて、靖國神社では夏の風物詩として「みたままつり」が斎行されている。 

 この「みたままつり」とはなんであるかを簡単に触れてみようと思う。 

 靖國神社の「みたままつり」は靖國150年の歴史から鑑みれば決して古い祭儀ではない。従来、戦前の靖國神社は現在のように庶民がいつでも気楽に参拝できる神社ではなく、国家と軍部が管理していた神社であった。 

 昭和20年8月終戦後、靖國神社はGHQの厳しい統制下に置かれ、その段階で未合祀であった戦没者の御霊を今後合祀できるかどうかがわからないという懸念から11月19-20日に臨時大招魂祭を斎行。本来は戦没者氏名等を明白にし霊璽簿に奉斎すべきところを緊急時ということで、まずは氏名不詳のままで招魂しその後に調査が進み次第で霊璽簿奉安祭を行い逐次ご本殿におまつりする手はずとなった。こうして創建以来の軍部が関与する最後の招魂式が行われた。 

 その1ヶ月後にGHQは国家神道・神社神道をターゲットとした「神道指令」を発令。昭和21年2月を以って靖國神社は国家との関係を絶ち一宗教法人へと再生することとなる。 靖國神社規則では、「当神社は靖國神社と称し、国事に殉じた御霊を祭神とし、神徳光昭、遺族慰藉、平和醇厚なる民風を振励するのを目的として事業を行う」ことを明記している。 

 昭和21年7月、神社として国家と断絶し今後の立ち行く様を模索していた靖國神社に長野県遺族会の有志の方々が、神社の勧誘や依頼というべきものではなく自発的に上京してきて、境内で盆踊りを繰り広げ民謡を歌唱して戦没のみたまを慰めるという出来事があった。 

 このような民間発案の慰霊行事は戦中戦前含めかつてなかった事例であり、これが今日の「みたままつり」の起源とされている。 

 これにヒントを得て、翌年の昭和22年7月には、13日の前夜祭にはじまり、新暦のお盆の3日間(14日・15日・16日)に神社主導ではじめての「みたままつり」を斎行、以後は夏の恒例となった。 

 お精霊様の迎え火を焚き、茄子や胡瓜の馬・牛の乗り物を飾り、先祖の霊の一時帰宅を待ち受けるという古い民間習俗の風習は、平安期には京都では廃れていたが関東では盛んであったと兼好法師の「徒然草(第19段)」には記載されている。 「亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なおする事にてありしこそ、あわれなりしか」 

 往時は歳事であった古習も時代の変遷の中で、いつしかお盆の祭事として、先祖の祭り・家の祭りとして伝承されてきた。もともと家々の祭りであった祖霊の祭りは「公」の祭りではなく「私」のまつりであり、昭和21年2月に「公」たる靖國神社が、一宗教法人にならざるを得なかった以後をもって、その年の7月に「私」たる民間有志の発案でもってはじまった「みたまのまつり」であった。 

 こうして長野県遺族会の方々が自発的に盆踊りを始められた「みたまのまつり」は、その契機は柳田國男の「先祖の話」で記述された下地が根底にある。 

 柳田翁の先祖の話は昭和20年4月から5月にかけて書かれたものであり、昭和21年4月に刊行されている。その柳田翁は日本降伏後の昭和20年10月付けの序文に「まさか是ほどまでに社会の実情が改まってしまうとは思わなかった」とし「家の問題は自分の見るところ、死後の計畫と關聯し、また靈魂の觀念とも深い交渉をもつて居て、國毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論は是から何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ惡しかれ多數の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、又どうなつて行くべきであるか。もしくは少なくとも現在に於て、どうなるのがこの人たちの心の願ひであるか。」と記している。、終戦後の日本の行く末を案じ混沌からの憂いが強く伝わってくる序文である。 

 先祖の話。すなわち「先祖から子孫に向けての相続と先祖祭祀の継承という民俗の根底になしている伝統に大いなる断絶がせまっていることへの危機感と解決方法」「子孫を残さずに死んでいく(戦死者の)霊の存在を目の当たりにし、日本の家の構造と先祖の祀りの有り様」を記述している。 

 靖國神社で祀られる「みたま」は「国のために戦って死んだ若人」「国難に身を捧げた者」というのが特徴的であり、中でも若人の御霊は、これを家々の先祖として祭るであろう子孫を有していない場合も多い。そこに祖霊信仰の断絶が発生してしまう。祭ってくれる子孫を持たぬ御霊を直系の子孫に代わって祭り、その記憶を伝承し、それら先祖の霊を後世の祭祀される人々の守護霊として安んじる。これが「靖國神社」であり、後世の社会が祭る「みたままつり」である。「この祭りは、祭ってくれるべき子孫を欠いた若き御霊達を安らかにあの世に在らんしめんがために、あるべかりし子孫に代わって共同体の常民が営む祭」(小堀桂一郎氏)であり、その祭りは格別な儀礼に基づくものではない。 

 「みたままつり」は伝統的な民間風習を兼ね備えるとともに、「個」ではない社会的な祭祀が行われるという公的な位置づけも帯びた、昭和22年にはじまった新しい「お祭り」ではある。その新しいお祭りは新暦お盆の三日間で斎行され、東京では一番最初の盆踊りも奉納されるということもあり、異色な趣も感じさせずに自然なカタチで受け入れられたのも、その性質が「日本人の信仰」の根底に根付いたものであった、といえる。 

 後世の我々が御霊の献身的な御心を記憶に留めて回想し、往時に想いをはせる。そうして御霊とともに「お盆」を過ごし、その意志を継承することで御霊達は後世の守護神となる。これを「祖霊信仰」から一段と特化した「靖國信仰」と称しても良いのかもしれない。 

  みたまを慰めるこの信仰。「生きた人の社会と交通しようとするのが、先祖の霊だといふ日本人の考へ方」(柳田國男)が共通共同の事実として根付いていたからこそのまつりであり信仰である。「この曠古(こうこ)の大時局に当面して、目ざましく発露した国民の精神力、殊(こと)に生死を超越した殉国の至情には、種子とか特質とかの根本的なるもの以外に、是を年久しく培ひ育てて来た社会制、わけても常民の常識と名づくべきものが、隠れて大きな動きをして居るのだといふことである。(略)人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳に、信仰の基底が無かつたといふことは考へられない。」とこの「常民の常識」が共通した信仰に根ざしていたのであり、「信仰はただ個人の感得するものでは無くて、寧ろ多数の共同の事実だつたといふことを、今度の戦ほど痛切に証明したことは曾て無かつた。」と力説をされている。 

 そのうえで柳田翁は「但しこの尊い愛国者たちの行動を解説するには、時期がまだ余りにも早過ぎる」と昭和20年春の段階ではこれ以上の追求は遠慮されているが、その言わんとしている深意は日本人の心底に根付いており、戦後も連綿と続く靖國の祭祀、みたまのまつりに継承されてきている。 


靖國のみたまへの想い 

 今回、信仰という側面から靖國神社を紐解いでみた。 

 世間的なイメージで言えば、靖國神社への参拝は慰霊・鎮魂・顕彰・感謝などの側面が多いが、その根底には「日本人の伝統的な民俗意識」があることもわかった。その「民俗的な先祖の祭り」を戦後改革の中で一宗教法人となり「神社神道形式」で伝承しているのが現在の靖國神社となる。 

 この信仰の根底を気にもしないような政治的なイデオロギーに巻き込まれるのも現在の靖國神社の一つの姿であり、嘆かわしい自体ではあるが、そんな事は関係なく心静かに拝する人々の願いとともに、これからも御霊の御心を伝承を願っていきたいと思う。 

 靖國信仰とは? 

「靖國神社・靖國信仰は日本人の心であり、日本人が築いてきた民俗文化である」ということも出来るかも知れない。 

 後世に生きる我々の多種多様の想いのなかでも不動のものがある。それが御霊への鎮魂と感謝の祈りであり、その行為は日本人の伝統でもあり伝承されるべき風習でもある。 

 彼ら御霊の想いと願いを記憶し、御霊を未来永劫に祈念し回想する。幕末以来今日まで246万6500余柱もの英霊たちが国家のために殉じられ、幾多の無名人が国難に立ち向かっていった。 

 後世の我々は彼らが身を挺して護り抜いた「日本」に生きるものとして残された義務がある。「家=国」を身を挺して護った彼らの想いを、「家=国」に残された子孫が引き継ぐ。御霊の遺志を後世に伝え続ける。そして先祖の御霊は子孫の「守護神」となり、国靖らかであることを願う「靖國の想い」へと導き、未来を馳せていく。 


主な参考文献(順不同) 

靖國及び周辺事項 

小堀桂一郎『靖国神社と日本人』PHP新書・1998年 

神社本庁編『靖国神社』PHP研究所・2012年 

加地伸行・新田均他『靖国神社をどう考えるか』小学館文庫・2001年 

村上重良『慰霊と鎮魂 靖国の思想』岩波新書・1974年 

神道及び思想全般 

柳田國男「先祖の話」昭和21年/「人を神に祀る風習」大正15年 

(『定本柳田國男集第十巻・新装版』所収 筑摩書房・昭和44年) 


初 稿 :平成14年(2002)5月
一次改訂:平成14年(2002)11月
二次改訂:平成28年(2016)7月 (みたままつり項目を追記)
三次改訂:令和04年(2022)4月 (Web掲載用に表記微修正)

学生の頃に、とある同人誌に寄稿した論文。
読み直せば、若気の至りも多数はあるが、基本的な考え方としての根底は今も変わりない。
うっかり発掘してしまったので、せっかくなのでWeb用に再構築して掲載しました。 


関連

霊璽奉安祭

「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和4年)

令和四年。終戦から77年。
今年も靖國神社の桜花を愛でる。

境内に献木された桜たち。
一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、花を咲かせる。

御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。
「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。

靖國の桜花「靖國櫻」には御英霊の御心が宿っている。
感謝を。哀悼を。


散る桜 残る桜も 散る桜
 良寛和尚

奉頌歌「靖國神社の歌」

日の本の 光に映えて
尽忠の 雄魂祀る
宮柱 太く燦たり
  あゝ大君の 御拝し給ふ
  栄光の宮 靖國神社
日の御旗 断乎と守り
その命 国に捧げし
ますらをの 御魂鎮まる
  あゝ国民の 拝み称ふ
  いさをしの宮 靖國神社
報国の 血潮に燃えて
散りませし 大和をみなの
清らけき 御霊安らふ
  あゝ同胞の 感謝は薫る
  桜咲く宮 靖國神社
幸御魂 幸はへまして
千木高く 輝くところ
皇国は 永遠に厳たり
  あゝ一億の 畏み祈る
  国護る宮 靖國神社

奉頌歌「靖國神社の歌」 
昭和16年(1941)3月  
献納:主婦之友社 
作詞:細渕国造 作曲:陸海軍軍楽隊

軍歌「同期の桜」

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
 みごと散りましょ 国のため

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
 なぜか気が合うて 別れられぬ

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に
 未だ還らぬ 一番機

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
 なぜに死んだか 散ったのか

貴様と俺とは 同期の桜
 離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
 春の梢に 咲いて会おう

軍歌「同期の桜」
昭和14年

神雷桜と桜花。


令和4年春の靖國神社

写真を。

※撮影:20220403

雨の日

また、来年。

※撮影:20220404


関連

所沢駅周辺の戦跡散策

所沢といえば、日本の航空の発祥の地。
日本初の航空機専用飛行場は所沢陸軍飛行場が明治44年(1911)に完成したことにはじまる。
以来、昭和20年(1945)の終戦に至るまで、日本の航空発展の歴史は、所沢とともにあった。

「空都所沢」の歴史は、明治44年(1911年)4月1日、日本初の航空機専用飛行場として「所沢陸軍飛行場」が完成したことに始まる。


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R741-123
昭和22年(1947年)12月29日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。


陸軍東京憲兵隊赤坂憲兵分隊所沢分遺所

所沢駅と所沢陸軍飛行場のを結ぶ道路の途中に。所沢陸軍飛行場の手前に、陸軍東京憲兵隊赤坂憲兵分隊所沢分遺所があった。憲兵隊は明治44年の飛行場開設と同時に配置された。

現在は、「陸軍用地の境界標石」と「門柱」「壁」が残っている。

陸軍用地

この先は、陸軍所沢飛行場。

門柱も残っている。

所沢憲兵隊の名残の壁。

場所
所沢憲兵隊の跡地には、現在は、所沢市消防団第2分団がおかれている。

https://goo.gl/maps/Q4x4crCNr135TzNn7


旭橋と飛行機新道

日本最初の飛行場である所沢飛行場の開設(明治44年)に伴い、所沢駅から飛行場へつながる道「飛行機新道」が整備された際に東川を渡るために架けられた橋。
旭橋は当初は土橋であったが、昭和5年(1930年)に、より強固でかつ空都所沢にふさわしいモダンなデザインの現在の橋に架け替えられた。
平成21年(2009年)8月に国の有形文化財に登録。

国登録有形文化財
旭橋
 旭橋は、わが国初の飛行場となった所沢飛行場が、明治44年(1911)に開設された際につくられた橋です。最初は土橋でしたが、昭和に入り飛行場が拡張されることととなり、橋の架け替えも計画されました。そして約2年の歳月をかけて昭和5年3月に現在の橋が完成しました。
 当時としては、重厚なつくりとモダンなデザインが施されており、「空都所沢の表玄関にふさわしい橋を」との関係者の意気込みが伝わってくるようです。

橋の特徴
 鉄筋コンクリート造りの単純桁橋(1本の桁を両端2点の支点で支える構造)です。
 両端の親柱には赤御影石が使用され、西洋風な彫刻が施されています。上部にはかつてブロンズ製で唐草模様をあしらった六角形の電灯がありましたが、戦時中の金属供出により台座だけが残されています。
 欄干はリズミカルな白タイル貼りの連続アーチで飾られています。西洋建築の様式的モチーフが所々に取り入れられている点が、この橋の魅力となっています。
  平成22年3月
   所沢市教育委員会

国登録有形文化財
「旭橋」の昔の写真を探しています
 旭橋は、日本最初の飛行場である所沢飛行場の開設(明治44年)にともない、所沢駅から飛行場へつながる道(飛行機新道)が整備された際に、東川を渡るために架けられました。
 当初は土橋でしたが、所沢飛行場が拡張されて飛行機新道を通る物資や飛行機を見物する人々が増えたため、昭和5年、より強固でかつ空都所沢にふさわしいモダンなデザインの現在の橋に架け替えられました。
 欄干はリズミカルな白タイル貼りの連続アーチで、両端の親柱には赤御影石を使用し、西洋風の彫刻を施されています。親柱の上部には、かつてブロンズ製で唐草模様をあしらった六角形の電灯が設置されていたと伝わりますが、戦時中の金属供出で失われ、現在は台座だけが残されています。
 文化財保護課では、電燈が失われる前の旭橋の写真を探しています。戦前の旭橋の写真をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひご提供ください。写真はお借りして複写した後、お返しします。
 所沢市教育総務部文化財保護課

昭和5年3月竣工

飛行機新道は所沢飛行場(1911年)の開設に合わせて作られた道。

飛行機新道

場所

https://goo.gl/maps/qLtcV8k8bqFQT6Zw8


将校住宅

所沢駅近くの洋館付き和風住宅。
所沢陸軍飛行場・陸軍航空学校に勤務する佐官クラスの将校が住んでいたという。

表通りは駅前商店街。

この界隈は所沢駅から100メートルも離れていない場所。駅前開発の流れから置き去りにされたかのような不思議な空間。いつまでも残っているとは思えないが、貴重な往時の空間が残されていた。

場所

https://goo.gl/maps/6P518LJ1H1mH9vbW8

日本で初めて飛行した飛行機「アンリ・ファルマン機」に由来。


秋田家住宅

秋田家は屋号を「井筒屋」といい、所沢の織物産業の発展を支えた綿糸商。
秋田家住宅は、明治後期の建造。所沢市寿町の銀座通りに南面して店舗を構える商家の建物。
国登録有形文化財。

大正元年 11 月の陸軍特別大演習の際に、伏見宮貞愛親王が宿泊している。
内部は通常非公開。

場所

https://goo.gl/maps/kAAtf2FUufLs1dMq5


陸軍航空部補給部所沢支部「南倉庫」
(所沢航空参考館)跡地

所沢駅前の再開発エリア西武鉄道車両工場跡地。その前身は、陸軍用地であった。
この地に運ばれた元ドイツ軍青島飛行場格納庫は、「所沢航空参考館」として活用され、戦後は「西武鉄道車両工場」としても活用されてきた。

数年前までは陸軍時代からの遺構があったが、再開発によって、「往時の建物」から「陸軍境界標石」に至るまで、現在はすべて消失し更地となっている。。。

なにもなくなった。。。

場所

https://goo.gl/maps/bz86N56WKE9ogYmb9

※撮影:2022年3月


なお、南倉庫に関しては、「所沢航空発祥記念館」にも展示コーナーがある。

所沢航空発祥記念館の展示コーナー
航空参考館

東洋一の航空博物館だった航空参考館
 大正10(1921)年、陸軍航空部補給部所沢支部の資材倉庫用地が所沢駅西口に整備されました。5.5haの広さのこの用地は当時の陸軍所沢飛行場(現在の所沢航空公園)に対して南に位置していたため通称「南創庫」と呼ばれていました。南創庫は所沢駅に隣接しており、駅からの専用の引き込み線に飛行機や機材を載せて南倉庫に収容していました。
 大正12(1923)年、それまでは木造の倉庫だった南倉庫に、第一次世界大戦でドイツから押収した鉄骨造の二棟の巨大な倉庫(展示模型の中の奥の角にある建物と手前角にある建物)が建設されます。
 昭和10(1935)年、南創庫は陸軍航空技術学校分教場として各種の教育、訓練の場となりました。
 賞あ14(1939)年、南倉庫に陸軍航空士官学校の展示施設として「航空参考館」が設けられます。航空参考館には国内外の多数の航空機をはじめ、部品類や航空関係の遺品などが展示され、終戦まで「東洋一の航空博物館」といわれました。
 戦後は西武鉄道の車輌工場として平成12(2000)年まで鉄道車輌を製造してきましたが、車輌工場の建物は全て撤去され、所沢駅西口土地区画整理事業に基づく街づくりが進められることになりました。

西棟で使用されていたドイツ製の鉄骨(実物)

所沢の戦跡散策をするのであれば、所沢航空発祥記念館も欠かせません。


有志が建立した「神奈川縣護國神社」

全国47都道府県で唯一「護國神社」が無い県が神奈川県。
(内務大臣指定護國神社として。東京は靖國神社で包括している。)

もちろん、神奈川県にも公式に護国神社建立の予定はあった。


神奈川縣護國神社(内務大臣指定護國神社)

神奈川縣護國神社(神奈川県護国神社・神奈川県護國神社)が完成直前であった昭和20年5月29日、横浜一帯を襲った「横浜大空襲」によって、社殿は焼失。そして、そのまま、公式には神奈川縣護國神社が完成することはなかった。

もともと「神奈川縣護國神社」は、横浜市三ツ沢の三ツ沢総合グランドの地に建立される予定であった。現在は横浜市によって跡地に「慰霊塔」が建立されている。

もともとの「神奈川縣護國神社」に関しては、以前の記事に詳しい。


私祭招魂社

「招魂社」は、後に全国各都道府県に一社の護國神社となる「官祭招魂社」と、地域住民の崇敬から自ずと創建された町・村単位から端を発する「私祭招魂社」に分けられる。

「私祭招魂社」の創建は明治以降、特に日露戦役終結以後の戦没者の増加に伴い、主に地域住民が発起人となる形で盛んに建立が進んだ。
政府は、官祭・私祭を含めた招魂社の把握・維持をする目的で新たな招魂社創建には、各種の必要条件を規定することとなる。
そうして、昭和14年、内務省は「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」という法令を発し、全国各都道府県に一社または二社の護國神社を指定することとなった。
これにより官祭、私祭招魂社は内務省に指定された指定護國神社(内務省指定護國神社)と、指定を受けない指定外の護國神社や招魂社となった。
御英霊を祀るということが、招魂社、指定内護國神社、指定外護國神社と様々であれ、いつの時代であれ、慰霊鎮魂の真心でもって、人々の願いの場は創られてきたのである。


神奈川縣護國神社(民間の有志が建立)

噂は聞いておりました。
有志が「神奈川縣護國神社」の建立を目指している、と。
思えば、御英霊を慰霊鎮魂し感謝顕彰するという御心には、公的なものも私的なものも、その心がけには大小の差はない。
内務大臣指定護國神社の創建は夢と終わった。
しかし、私的であれど護國神社を創建することはできる。それを具現化したものが、この小さな小さな「神奈川縣護國神社」といって良いかもしれない。

しかし、小さくても、御英霊に対する御心に深く溢れているお社。
彼らの公式サイトから、その心意気を感じることができる。
今回、たまたま大船に足を運ぶ機会あって、ようやく参拝する機会を得ることができた。

ありがとうございます。

ー>神奈川縣護國神社氏子會サイト

https://peraichi.com/landing_pages/view/gokoku0529

神奈川縣護國神社 由緒
創祀:紀元2672・平成24年5月29日
創建:紀元2678・平成30年5月29日
祭神:神奈川縣英霊(かながわすべてのほつみたま)
 幕末より現代に至るまで、祖国や故郷を護るために尊い生命を捧げられた神奈川県(旧相模国含む)出身の英霊を祀り、感謝と顕彰の誠を奉げるべく、県民有志によって創建されました。
 神奈川県は日本全国で唯一「護国神社のない県」という汚名に甘んじて来ましたが、本社の創建を先駆けとして、先人たちの愛と勇気、我が国の平和と独立を次世代に受け継いで参ります。
 神奈川縣護國神社氏子会

大船観音を垣間見ることができる高台に鎮座している。
大船観音は、護國観音。
奇しくも、護國神社と護國観音が相まみえた空間。

場所

https://www.google.com/maps?ll=35.342707,139.531131&z=16&t=m&hl=ja&gl=US&mapclient=embed&cid=9671488658464060009

※2022年3月参拝


関連

「護国観音」(大船観音寺)

大船駅に到着すると、ひときわに存在感を放つ白亜の観音様がみえてくる。通称「大船観音」。
実は、この観音様は戦前に「護国観音」として建立が予定されていた観音様であった。

昭和4年(1929)に「護国大船観音」の建立に着手。
昭和9年(1934)に像の輪郭部分が完成するも、社会情勢や資材不足により、未完のまま工事は一時中断。戦後の工事再開を待つこととなる。。。


大船観音寺

大船の駅から、その異様な姿を拝することができる。山の上に上半身から上の胸像として建立されている。

参拝料は大人300円。セルフにて。

観音像の由来
 昭和四年、当時の日本は第一次世界大戦後の不況や飢饉など、不安定社会情勢の中にありました。そこで、観音信仰によって国民の平安と国家の安寧を祈願しようと、護国大船観音建立会を設立。 昭和九年には観音像の輪郭まで完成したのですが、日中戦争・太平洋戦争に突入し資金や資材不足となり、観音像は未完成のまま放置されました。
 昭和三十二年に放置された観音像を完成させようと、曹洞宗管長高階瓏仙、吉田内閣国務大臣安藤正純東急会長五島慶太等を中心に財団法人大船観音協会が設立され、修仏工事が着工されました。 そして昭和三十五年、現在の観音像が完成されたのです(胎内にはこの修仏工事の写真が展示されております)。
 その後、昭和五十六年、大船観音協会は宗教法人大船観音と改称し、曹洞宗大本山總持寺の末寺として現在に至っております。

鎌倉市戦歿者の英霊を観音胎内に祀る

大船観音寺

・宗派 曹洞宗
・山号寺号 仏海山大船観音寺
・建立 昭和56年(1981)
・開山 大本山總持寺貫首乙川瑾瑛
・開基 岩本勝俊

 昭和4年(1929)に平和祈願のため地元有志が大船観音の建立に着手し、昭和9年(1934)に像の輪郭部分だけが出来上がりましたが、当時の社会情勢や資材不足により、未完のまま工事は一時中断となりました。
 戦後、曹洞宗管長高階瓏仙禅師らが中心となり財団法人大船観音協会を設立し、多くの人々からの募金による浄財で、昭和35年(1960)に現在の白衣観音像(高さ約25m、幅約19m)を完成させ、その後、昭和56年(1981)に曹洞宗の大船観音寺となりました。境内には、印象的な観音像の他に、子育地蔵や厄除地蔵が祀られてあり、また、恒久平和を祈願して、原爆慰霊碑や「原爆の火」の石灯籠なども建てられています。

石段のうえには、堂々たる白衣観音様。

大船観世音
曹洞管長瓏仙書

上半身の大船観音。
もともとは立像を計画していたらしいが、地盤の影響などもあり、上半身のみとなったそうで。
下半身が埋まっているわけではなく。

護国観音。

低頭し合掌す。


大船観音の胎内

胎内には、太平洋戦争で亡くなった人々への供養と戦争や原爆のない平和な世界への祈りを込めた千体仏や千羽鶴が収められている。

1934年、永遠に平和の礎を築かんと護国観音建立会が発足し、尊像の輪郭ができる。
その後、日華事変や太平洋戦争により、資金、資材その他意に任せず、未完成のまま20余年の歳月が流れていきます。

 観世音とは、世の中の音(声)を聞くのではなく、観(み)るという。苦悩にうちひしがれた人々が、一心に観音の名を称えれば観世音は、人々の苦しみの音声を観察して、慈悲の心をもって救うと言われています。
 熱心な観音信仰の発起人の中にも完成するのを念願しつつ、倒れられた方もいます。それぞれの労苦が渾然と混じりあって完成を待つ姿。

千体仏

日本の無条件降伏により、太平洋戦争終結から60年以上が経ちました。
そして、我々日本人の中にも、戦争を知らない世代が半数以上になりました。
これを機に、この戦争で亡くなられた多くの人々や、原爆被害によりなくなられた方々に対して、少しでも慰めになりますよう、そして今後の平和の為にお役に立てればと思い、木彫家植草等雲氏とその受講生、又一般の有志の方々とで神仏による千体仏を制作しております。
現在、その数は980体を超え、その思いはまだまだ増え続けております。
多くの方々の思いを、そしてその願いをご理解戴ければ幸いです。

現在でも、千体仏を制作して戴ける方を募集しておりますので、ご賛同戴ければ幸に存じます。

佛海山大船観音寺

胎内に鎮座する木造の大船観世音


大船観音寺の境内には、原爆関連の慰霊碑もある。

原爆慰霊碑

被爆40周年平和祈念塔

核兵器もない 
  戦争もない 
 平和な世界を 
   神奈川県知事 長洲 一二

 第二次世界大戦の末期、一九四五年八月六日午前八時十五分広島 九日午前十一時二分長崎に米軍機により投下された原子爆弾は、一瞬の閃光とともに両市を壊滅させ数十万の人びとを殺傷しました。
 慰霊碑は、県下の原爆死没者の霊を合祀し、みたまを慰めるために 生き残った県下在住の被爆者が、放射能障害とたたかいながら、一九七〇年四月末被爆二十五周年を記念して建立しました。
 平和祈念塔は、核戦争の危機を憂い、すべての核兵器の廃絶と世界の恒久平和への切なる被爆者の願いを永久に銘記するために、一九八五年八月末被爆四十周年に、ここ大船観音境内に建立したものであります。
  一九八五年八月吉日
   神奈川県原爆被災者の会

原爆の火

 被爆四十五周年 
原爆の火 
 神奈川県知事長洲一二

原爆の火
 一発の原子爆弾によって、数十万人の広島を焼き尽くした“怨念の炎”は、いまなお福岡県星野村で燃えつづけている。
 未来永劫、平和を願う“原爆の火”としてその火をこの塔に採火した。
  被爆45年7月29日 神奈川県原爆被災者の会

被爆二十五周年記念 慰霊碑
 一九七〇年(昭和四十五年)完成

 この慰霊碑は、神奈川県の原爆死没者の霊を合祀し、みたまを慰めるために、県下在住の被爆者が「財団法人大船観音協会」の関係者(代表五島慶太氏)のご好意により、この地に慰霊碑を建立することができました。
 慰霊碑は、広島・長崎の爆心地の石及びビキニで被爆した第五福竜丸の遺品を添え千羽鶴を刻んだ橇に乗せ、被爆者が平和の丘に向かう姿を表しています。
 この慰霊碑の地蔵土台石(二〇〇kg)は広島の爆心地の西蓮寺から、被爆石(五〇kg)は長崎の浦上天主堂から、碑内に納められたケロイド状の瓦は広島原爆資料館から寄贈されたものです。
 慰霊碑のカロートには亡くなられた被爆者の氏名を刻んだ御影石の名札が納められています。

慰霊碑のソリの上の地蔵土台石(二〇〇kg)は広島の爆心地の西蓮寺から、被爆石(五〇kg)は長崎の浦上天主堂から、という。


戦歿者慰霊碑

西部ニューギニア派遣第三十五師団工兵隊の慰霊碑。
石碑は昭和56年に行われた37回忌法要の際に建立。
碑前面の碑誌及び石碑左手の観世音菩薩像は平成5年の50回忌に建立。

西部ニューギニア派遣第三十五師団工兵隊(東第二九二五部隊)
戦歿者慰霊碑

昭和十九年四月北支河南省方面より転進す
途中海歿せる者又無事に任地に着くも食糧の補給等全く無く加えて赤道直下瘴癘蛮雨のなか飢餓と病魔のために逝った多くの戦友の慰霊のため謹みて三十七回忌法要を勤め併せて恒久の平和を祈念し之を建つ
    昭和五十六年七月吉日 鎌倉市台 金子秋雄 旧姓福岡

 曩に戦友諸霊の三十七回忌 に因み当山の御慈慮を忝うし 慰霊碑を建立開眼法要を厳修 永代供養の喪情を捧げ頓証菩 提を冀う
 國民思想の善導と永遠の平 和を築き此れを看守せらるゝ 大観世音菩薩の脚下に建立し 得たるは是れ一重に南溟の孤 島に散華せる戦友の慰霊と御 遺族各位の慰藉を衷心より念 ずるに外ならざるものなり
 第二次大戦後既に半世紀を 閲し茲に諸霊の五十回忌令辰 に相遇て観世音菩薩尊像並碑 誌を建立し専ら祈る大悲の願 力以て去来を示現せんことを
 伏して冀う驪珠滄海に輝き 普く世間を導き賜はんことを
  一九九三年三月
   鎌倉市台 金子(旧姓福岡)秋雄謹誌


JR大船駅からは、横顔となる。
大船観音の名前は聞いたことがあっても、それが戦前から平和を願った護国観音として建立を目指していたものとは知りませんでした。たまたま今回、訪問にあたり調べて知ったことでした。よき機会を得ることができ、感謝です。

駅からは歩いて5分ほどと近いので、大船でちょっとしたスキマ時間が産まれた際には、参拝をオススメ。

※参拝:2022年3月


関連

おなじ大船の界隈に。

都内現存唯一のラジオ塔「聖蹟公園とラジオ塔」(品川)

戦前の日本。まだまだ一般家庭にラジオが普及していなかった時代。
ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。「公衆用聴取施設」として各地にラジオ等が建設された。


聖蹟公園のラジオ塔

品川聖蹟公園のラジオ塔は、公園の開園と同じ年の昭和13年(1938年)に建設された。現在は聖蹟の記念碑とともに並んでいる。
公園内の看板には「灯籠」としか記載されておらず、これが歴史的な意義のある「ラジオ塔」であることが明記されていないのが残念。

寄贈
日の丸奉仕團


品川聖蹟公園

情報量が多い公園。
江戸時代は、東海道品川宿本陣。明治には 明治天皇の行在所となり、昭和には聖蹟公園と。

品川区指定史跡
東海道品川宿本陣跡
 品川宿は、江戸四宿の一つで、東海道五十三次の第一番目の宿駅として発達した。ここはその本陣跡であり、 品川三宿の中央に位置していた。 東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところである。明治五年(1872)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用された。
 現在、跡地は公園となり、明治元年(1868)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、聖蹟公園と命名されている。
 平成14年3月28日
  品川区教育委員会

聖蹟公園の石碑案内
聖蹟公園由来の碑
昭和13年(1938年)聖蹟公園として整備開園するに当たり、その由来を記して東京市が建てたものである。
灯籠
聖徳の碑
東京市品川聖蹟公園開設までの明治天皇品川聖蹟保存会の活動について記録した碑。
御聖徳の碑
明治天皇の行在所になった品川宿本陣跡が昭和十三年(1938年)に東京市の公園となったのを機に設置された碑である。
旗台
石井鐵太郎氏胸像
常に住民の福祉増進と社会福祉の向上に尽くし、昭和五十年に社会福祉国労を検証し名誉区民となった。
夜明けの像
昭和二十四年に二宮尊徳像が建立さられたが、昭和四十二年に石井鉄太郎によって、現在の子どもたちが親しみやすい像ということであらためて新聞少年の像が贈られた。

「灯籠」としか記載されていない「ラジオ塔」。
ちょっと寂しい。

東京市
品川聖蹟公園
昭和13年11月開園

聖蹟公園由来の碑

昭和13年に東京市によって建立された「聖蹟公園由来の碑」。摩耗していて判読不能。。。

御聖徳の碑

昭和13年11月15日建立。聖蹟公園の開園に際し、 明治天皇の御聖徳を記念する碑。

御聖徳の碑

御聖蹟

ボール遊びの弊害かもしれないが、激しく摩耗しており、判別不能。畏れ多いことではある。

旗台

のちに両サイドが増設されたのか、寄贈〇〇、読めなくなっている。

石井鐵太郎氏胸像

品川区名誉区民第一号、という。

夜明けの像

聖蹟公園。
江戸の品川宿から明治の行在所、昭和のラジオ塔まで、地味に歴史が詰まった公園。面白い。

品川区立聖蹟公園

品川宿本陣跡

もちろん本陣跡ゆえに、東海道に面している。

場所

https://goo.gl/maps/q1jUwoM7U1QtX12x7


関連

3月10日・東京大空襲(あの日から77年)

令和4年(2022年)3月10日。

あの日から77年。

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。

犠牲者10万人を超す規模であり、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
世にいう、東京大空襲(下町大空襲)であった。

「東京都平和の日」

慰霊鎮魂を。

3月10日に手を合わせてきました。


東京都慰霊堂

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、遭難者慰霊大法要が執り行なわれている。

震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
 顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった、与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。
 爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った、戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった、江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千人を失った、当時殉難者は公園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが昭和二十三年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
 横網公園敷地は約六、〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
 昭和二十六年九月 東京都

新型コロナの影響で規模が縮小。
法要の参列者は限定され、法要終了後に一般参列者が祭壇で追悼可能となりました。


東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」の中には、「東京空襲犠牲者名簿」が納められている。
大法要が行われる3月10日と9月1日に内部公開。

こちらも手を合わせてきました。

東京空襲犠牲者名簿

現在は、35巻まで納められており、令和2年(2020年)3月現在、81,273名のお名前が登載されている。

3月10日。
この日は、「陸軍記念日」だった。
1905年(明治38年)3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天城に入城した日。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲は、この陸軍記念日を狙って実施されたという説もある。

ちなみに、同じく1945年(昭和20年)5月27日の「海軍記念日」(日本海海戦で海軍が勝利)には、呉大空襲があった。


リンク

公益財団法人 東京都慰霊協会 都立横綱町公園-震災、戦災の記憶-

https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html

総務省 一般戦災死没者の追悼

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city001/index.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/tokyo.html

東京大空襲・戦災資料センター 東京大空襲とは

https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/

東京都生活文化局 東京都平和の日関連事業

https://www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp/bunka/bunka_seisaku/0000000632.html#:~:text=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%81%E3%80%8C%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD,%E3%82%92%E5%AE%9F%E6%96%BD%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82


関連

はじめに
東京大空襲・慰霊
戦災電柱

二ヶ領用水久地円筒分水・昭和16年完成の円筒型自然分水装置(川崎・溝口)

武蔵溝ノ口駅・東急溝の口駅から北西に15分ほどの道のり。
駅前に紹介の看板があったので予備知識無しで興味本位で足を運んでみた。結果として、なかなか見ごたえのある曲線美のある建造物に出会うことができた。


二ヶ領用水久地円筒分水

昭和16年(1941)に完成した円筒分水装置。

今も昔も日本を支える稲作を欠かせないのが、農業用水。各村々に、平等に水を分けるというのが、欠かせないものであった。

国登録有形文化財 
二ヶ領用水久地円筒分水
 この円筒分水工と呼ばれる分水装置は、送水されてくる流量が変わっても分水比が変わらない定比分水装置の一種で昭和16(1941)年に造られました。内側の円形の構造物は整水壁とも呼ばれ、一方向から送水されて吹き上げる水を放射状に均等にあふれさせ、送水されてくる流量が変わっても、円弧の長さに比例して一定の比率で分水される、当時の最先端をいく装置でした。平成10(1998)年6月9日に、国登録有形文化財になっています。

「土木学会選奨土木遺産2012」の認定
 二ヶ領用水は、江戸幕府の用水奉行 ・小泉次大夫 の指揮のもと、江戸時代直前の1597年(慶長2年)に開削着手されました。現在の多摩区から川崎区にわたる灌漑用水路として、14年におよぶ歳月をかけて、1611年(慶長16年)に完成しました。当時の川崎領と稲毛領の二つの領に水を引いたことが名前の由来とされています。
 現在では、農業用水の役割をほぼ終えつつありますが、都市化のなかで、憩いや安らぎを与えてくれる水と緑の空間として、また川崎市の発展の礎を築いた歴史のシンボルとして、多くの市民に愛され、親しまれています。
 本用水は、当時とは姿を変えていますが、多摩川流域では最古で最大の農業用水であり、現在にもその機能を残す貴重な土木遺産として、後世に保存すべきとの評価を得て、平成24年度に土木学会より認定されました。
 土木学会選奨土木遺産
 2012
 二ヶ領用水

二ヶ領用水 400年・久地円筒分水70年記念 
平賀柴治 顕彰碑
 この世界に冠たる独創的な久地円筒分水は、平賀栄治 (ひらがえいじ)が設計し手がけたもので、1941(昭和16)年に完成した。多摩川から取水された二ヶ領用水を平瀬川の下をトンネル水路で導き、中央の円筒形の噴出口からサイフォンの原理で流水を吹き上げさせて、正確で公平な分水比で四方向へ泉のように用水を吹きこぼす装置により、灌漑用水の分水量を巡って渇水期に多発していた水争いが一挙に解決した。
 平賀栄治は1892(明治25)年甲府市生まれ。東京農業大学農業土木学科を卒業し、宮内省帝室林野管理局、農商務省等の勤務を経て、1940(昭和15)年に神奈川県の多摩川右岸農業水利改良事務所長に就任。多摩川の上河原堰や宿河原堰の改修、平瀬川と三沢川の排水改修、そして久地円筒分水の建設などに携わった。川崎のまちを支える水の確保に全力を捧げた「水恩の人」は、1982(昭和57)年、89歳の生涯を閉じた。
 2010(平成22)年3月27日
 寄贈 川崎西ライオンズクラブ
 結成 45周年記念事業

円筒分水
中野島と宿河原の取入れ口から流れ込んだ水は久地で合流し、分量樋へ導かれていた。「久地分量樋」は、川崎堀、根方堀、六ヶ村堀、久地・二子堀に水を分ける施設。それぞれの耕地面積に応じて用水の幅を分割する樋が使われていたが、水量をめぐる争いが絶えず、より正確な分水が望まれていた。
この円筒分水がつくられたのは昭和十六年。サイフォンの原理を応用して新平瀬川の下をくぐり、円筒の切り口の角度で分水量を調節するしくみになっている。農業用水の施設としては、当時の科学技術の粋を集めた大変すぐれたものだった。

正確な自然分水を目的としており、平瀬川の下を潜ってきた用水は、直径8mのコンクリート製円筒から吹き上がり、その外側にある直径16mの円周を、それぞれの灌漑面積に合わせた比率で水量を分ける、当時としては最も理想的で正確な自然分水方式であった。

二ヶ領用水 久地分量樋 
 稲毛川崎ニヶ領用水は、徳川家康の命を受けて小泉次大夫が、慶長 ニ(1597)年から東京側の六郷用水とともに工事に着手し、十四年の歳月をかけて慶長一六(1611)年に完成させた神奈川県最古で最大の農業用水 です。この用水の完成により、米の収穫量は飛躍的にのびていきました。
 その後、百年あまり経た頃、荒廃したニヶ領用水を蘇らせたのは、川崎宿の名主であった田中休愚 (丘隅)です。休愚は水争いをなくすために、多摩川から上河原と宿河原のニケ所で取水し、久地で合流したニヶ領用水の水を、決まった水量に分けるための施設として、久地分量樋を樋を作りました(写真は明治四三年撮影のものです)。
 昭和一六(1941)年、多摩川右岸農業水利政良事務所長であった平賀栄治の設計建設により、水害防止のための新しい平瀬川の開前とニヶ領用水の伏せ越し、そして久地円筒分水が完成しました。これに伴い、久地分量樋は、ニヶ領用水の水量調節と分量を洪水から守るための施設・久地大樋とともに役目を終えました。
 久地分量樋があった場所は、ここより二百メートルほど上流に御影石で示されています。

ニヶ領用水知絵図
ニヶ領用水知絵図は、川崎の地を四百年にわたって流れるニヶ領用水のことを市民の皆さんに、もっと知っていただくために、平成四年度に作成された「ニヶ領用水総合基本計画」に沿って、過去、現在、未来の視点から用水の姿をとらえて描いたものです。
 左の図は、ニヶ領用水水路網が最も広く張りめぐらされた時期である江戸時代後期~明治時代初期の姿と、都市化が進んだ現在の姿を対比して図示してあります。
 久地分量樋と久地円筒分水の位置も示してあります。

円形の造形が美しい。手前は「川崎堀」

奥は「根方堀」、手前は左が「六ヶ村堀」と右が「久地堀」。

二ヶ領用水の右側の堰から、二ヶ領用水久地円筒分水へと用水を引き込む。

二ヶ領用水の本流は平瀬川と合流する。
二ヶ領用水久地円筒分水向けの用水は、平瀬川をアンダークロスする、

川崎堀の流れ。

国道246号(大山街道の新道)を、二ヶ領用水はアンダークロスし、人は歩道橋でオーバークロスする。

場所

https://goo.gl/maps/VrTf7xgi2H9SZ9i68

※撮影は2022年2月

溝口神社境内稲荷社・高津尋常高等小学校奉安殿(川崎・溝口)

溝口の鎮守、溝口神社の境内稲荷社は、かつての奉安殿であった。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


溝口神社境内稲荷社
高津尋常高等小学校奉安殿

戦前に、高津尋常高等小学校(現在の高津小学校)で使用されていた「御真影( 天皇陛下と 皇后陛下のお写真)」と「教育勅語(勅語謄本)」を納めていた鉄筋コンクリートの建物「奉安殿」が、昭和21年1月に、現在の稲荷社として移築され、御社殿として再活用された。


溝口神社

創建年代は不明。江戸時代には、神仏習合のお社として、大山街道の溝口宿近在の村々の総鎮守として赤城社と称された。
旧社殿は、関東大震災で倒壊。
昭和8年(1933)に新社殿建設が起工され昭和9年11月完成。

本殿は土蔵造。昭和9年築。
同じく拝殿も昭和9年築。

拝殿に掲げられた「溝口神社」の社名額は、元帥海軍大将東郷平八郎の書。昭和8年9月に新社殿完成を記念して奉納。
東郷平八郎が直接に揮毫し彫刻されたもので大変貴重な扁額。

溝口神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

東郷平八郎は昭和9年5月30日に亡くなっているため、溝口神社社名額への揮毫は亡くなる1年前ということになり、最晩年の揮毫としても貴重。

東郷平八郎謹書
ご朱印符

東郷平八郎直筆の書体を転写し、ご朱印符として奉製いたしました。

東郷平八郎に関しては、以下も参照で

奉安殿に関してば、以下を。

はじめに

※撮影:2022年2月

「お化け灯籠と陸軍東部62部隊」の戦跡散策(川崎・宮崎台)

東急田園都市線「宮崎台駅」。今でこそよくある住宅街のこの地に、かつて陸軍部隊が展開されていた。
六本木で編成された東部62部隊(陸軍101聯隊)は、招集兵の訓練と東京近郊に駐留する部隊の演習場として、川崎市宮前区を中心に、川崎市高津区や横浜市青葉区の一部などに進出したという。


東部62部隊(陸軍歩兵第101聯隊)

昭和15年(1940年)12月、歩兵第1聯隊留守居隊を基幹に歩兵第101聯隊が改編され、近衛歩兵第3聯隊の兵舎に駐屯。(近衛歩兵第3聯隊の兵舎は、現在の赤坂TBS界隈。)
昭和17年(1942年)11月、歩兵第101聯隊は、川崎北部の高台、溝の口界隈に転営。

以下は、川崎市平和館・掲示 より

陸軍東部62部隊と溝の口演習場
 宮前区宮崎から高津区梶ケ谷にかけては「陸軍歩兵101連隊(通称東部62部隊)が敗戦までの3年間所在していた場所です。1942年に東京赤坂から移転し、連隊本部は現在の宮崎中学校におかれました。神奈川県を中心とする招集兵を短期間訓練して数万人も外地へ送り出す軍事施設でした。
 現在でも、部隊と共に赤坂から移された「お化け灯籠」(現 市青少年の家)や、被服廠・馬房の一部が残っています。
 また、陸軍は強制的に農地を買収し、宮前区の約3割と高津区・横浜市青葉区にまたがる約9平方kmもの広大な溝ノ口演習場を設置しました。当時の射撃場は現在の国学院大学たまプラーザキャンパスにあたります。

陸軍東部62部隊跡と溝ノ口演習場の現存している遺跡


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-M376-26
昭和22年(1947年)7月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

再開発で、界隈の様相が大きく変わっている。
交通網だけでも、バイパスが南北を縦断し、東急が東西を横断している。


宮崎台駅

東急田園都市線・宮崎台駅。
「電車とバスの博物館」がすぐとなりにある。
開業は昭和41年。陸軍時代にはまだ鉄道は敷かれていなかった。

界隈の鉄道では、昭和2年(1927年)、玉川電気鉄道の溝ノ口線(二子玉川‐溝の口間)が開業。溝の口駅から長津田駅間は、昭和41年(1966)の開業まで待たねばならなかった。


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石1
(宮前区宮崎台・馬絹)

宮崎台の台地の南側、馬絹との境目のあたりにいくつかの陸軍境界標石が残っている。

階段の脇と階段に埋め込まれた、面白い境界標石。

陸軍

ちょうど、ぴったり階段に埋め込まれている。
これは、階段を作った人の心意気に感謝。

場所

宮崎台サニーハイツと宮崎台パークハイツの間の石段。

https://goo.gl/maps/79XJsgKeCRBm79qv7


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石2
(宮前区宮崎台・馬絹)

こちらも石段の脇。こうしてみると宮崎台という台地が分かる。
台地の上が陸軍用地であった、と。

場所

宮崎台ハイツの手前の石段

https://goo.gl/maps/wb6cDyVfRZ5qdFC99


馬絹ノ稲荷神社

この稲荷神社の界隈にも、境界標があるというが、見つけられませんでした。。。

場所

https://goo.gl/maps/mLixMHczBRBEeMYa6


陸軍東部62部隊・馬房跡

宮前区梶ケ谷。
「虎の門病院分院」から、東京横浜バイパスを南下したエリアの住宅地。ここに、当時「馬房」として使用されていた長屋建物が、戦後に住居に転用された。現在も長屋の一部が数カ所に残っている。

関係者の方より「馬房跡の長屋」を切り離した際の写真を頂戴しました。
ご提供ありがとうございます。


ーーー
戦後、この長い馬房跡に人々が寄り合い早い者勝ちというような感じで土地を取り合ったようです。
なので広さはマチマチみたいです。
時代が変わり、代もかわり当時から住んでいる方もだいぶ居なくなりました。
(下記の写真は、)長屋を切り離した際に撮影したものです。工事中で乱雑に板が貼り付けてありますが、馬房の形跡がよくわかるかと思います。
ーーー

以下は、現在の通りの様子。
この通りの右手側に馬房の長屋があった。いまも一部の建屋にその痕跡をみることができる。
 ※建屋の写真は割愛。

場所

神奈川県川崎市高津区梶ケ谷4丁目の住宅地。

※界隈は、住宅地ですので、配慮の上でお願いいたします。


虎の門病院分院・宮崎中学校

陸軍東部62部隊の兵舎や酒保があったあたりが、虎の門病院分院。
陸軍東部62部隊本部があったあたりは、川崎市立宮崎中学校となっている。


陸軍東部62部隊・将校集会所跡

陸軍東部62部隊の将校集会所があったあたりは、現在は「川崎市青少年の家」となっている。庭園に将校集会所時代の石灯籠が残されている。

陸軍東部62部隊・将校集会所庭園
お化け灯籠

川崎市地域文化財
お化け灯籠
 この灯籠は、1941年(昭和16年)まで、元日本陸軍東部62部隊の将校集会所の庭にありました。(部隊の場所は、現在の東京都港区六本木)そのころ、灯籠が夜になると六本木辺りに出るという噂が立ちました。
 1942年に、部隊は灯籠も一緒に連れて、現在の青少年の家を中心としたこの場所に移しました。その時、この噂を消す願いを込めて、動かないように足の部分を埋めたとも、また足を切って移したとも言われ、本当のことははっきりしていません。
 今では化けて出るかどうか定かではありませんが、「お化け灯籠」と呼ばれ、この青少年の家の庭で、平和を願い、青少年の健やかな成長を見守っています。

けっこう、おおきな灯籠。

下はどうなっているのだろう。埋められているのか、切られているのか。。。

場所

https://goo.gl/maps/9CaDuLt1xTNTFBgv8


宮崎大塚古墳(高射砲陣地跡?)

高さ4.7メートルの方墳、という。頂上部には、「馬絹大塚供養塔」が建立されている。
陸軍東部62部隊が駐留していた当時は、高射砲陣地がおかれていた、とも伝承されている。

場所

https://goo.gl/maps/DSzvsnuf2fsfFUeSA


陸軍東部62部隊・ 被服廠の建屋跡

陸軍東部62部隊の被服廠は、川崎市宮前生活環境事業所の界隈にあった。
川崎市宮前生活環境事業所から東の住宅街の一角に、「被服廠の建物の一部」とされている木造建造物が残存している。

現在は、物置小屋として使用されているようだ。

場所

https://goo.gl/maps/9YopjwbfL4Yi4K3V9


陸軍東部62部隊・門柱跡?

被服廠跡ちかくにあるレンガの残骸。
往時の門柱跡?もしくは、なにかの基礎かもしれない。 

今は駐車場の角。

奥に 川崎市宮前生活環境事業所 が見える。

川崎市宮前生活環境事業所が、陸軍東部62部隊の被服廠跡。

場所

https://goo.gl/maps/2uq2B8HZsp7C5moJ8


長坂(陸軍用地迂回路)

長坂
国道246号線梶ヶ谷付近の坂は、かつて「長坂」と呼ばれていた。この坂道は、現在の「青少年の家」周辺が陸軍に接収され、迂回路としてつくられたものですが、「長坂」という名が残りました。
 平成12年2月1日制定
  宮前区

場所

https://goo.gl/maps/CmBERJpqQUnwjtvo6


陸軍東部62部隊・弾薬庫跡?

東急田園都市線の作延トンネル西出口付近がかつての弾薬庫であった。
トンネルは弾薬庫の転用?ともいうが定かではない。
作延トンネルの上部には、今は虎の門病院分院・宮崎中学校などがある。
往時は、このトンネルのうえに、部隊本部があった。

場所

https://goo.gl/maps/TH2ZCCgRw1cr8Kqi9


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石3
(高津区向ケ丘)

宮崎台駅の北側。しばられ松(聖社)の境内に保存されている。

陸軍

しばられ松

しばられ松、聖社の由来
昔、上作延南の原に聖松という大きな曲がり松がありました。
相模の国の或る六部(六十六部の経典を寺々に修める修行僧)が、諸国巡礼の折、この地で百日咳に苦しみ亡くなったという。
又、一説には、この地で穴の中にて鉦をたたき、念仏を唱え修行をしていたが、「この鉦の音が止んだら死んだと思ってくれ」と言い残し入定したといわれる。
その跡に植えたのが、この聖松であるいう(←「あるいう」って書いてあるけど、「あるという」のまちがいでしょうねたぶん)。松の樹勢は、高さ五メートル根廻り三メートル余りある大木となり、枝葉は相模の方向を向き生い繁っていた。明治二十年ごろ落雷にあい、焼け落ちて今日の姿となったが、残る枝ぶりは今も往年の面影をとどめている。近郷の人々は、子供が百日咳にかかると素縄を左に編んで、聖松に縛り願をかけ、病が治ると、右縄を編み幹に縛り直して願ほどきをしたと、言われる。
その由に、この松を別名「しばられの松」という。
社殿がある。又、このしばられ松は古くより稲毛領の七本松の一つとされ、百合ヶ丘の「「弘法の松」、久地の「綱下げの松」などと共によく知られた松である。
稲毛三郎重松が鎌倉に赴く途中、馬の鞍を掛けた「鞍掛けの松」とも言われている。
民俗信仰の対象としても江戸時代、大変崇められ、親しまれたと言われている。平成十二年、聖社を新築建立したのを記念してその縁起由来の伝聞を要約してここに記す。

慰霊碑
忠魂碑

しばられ松(聖社)の境内に、2つの慰霊碑がある。

慰霊碑は、日支事変、大東亜戦争における戦没者の慰霊顕彰。
忠魂碑は、西南の役から日清日露戦役における戦没者の慰霊顕彰。

碑文
 昭和の初期をふりかえって見れば日支事変、又大東亜戦争と、中期は二十年八月終戦、すべての物資の不足等で国全体がもっとも貧窮な時を迎えました。
 又此の戦争により入営や召集により北は大陸の果に南の海に島々に又空地とお国の為とは云え多くの方々が祖国をあとにして戦禍により散っていった。誠にお気の毒に耐えません。
 私達も此のような戦争は二度とあってはならない。いつまでもいつまでも平和な日本であってほしいとただただ祈り願うものであります。
 我が上作延に於ても戦没された方は日支事変で二名、大東亜戦争にて十二名の方が亡なっています。
 そして昭和三十九年東京オリンピック大会が過ぎる頃より経済の急成長により安定した克つてない平和な日本となりました。
 戦後五十年になろうとする今日、戦没者皆様の遺影に感謝申し上げここに慰霊碑を建立して衷心より哀悼の意を表し冥福をお祈りし其の名を後世まで伝え遺族の方々の心よりの慰めとして毎年慰霊祭の出来る事を願い度い。
  平成5年12月5日建立
   上作延戦没者慰霊碑建立委員会建立

場所

https://goo.gl/maps/6myByRTS6P3scmNv7


川崎市平和館

川崎市平和館には、東部62部隊の境界標石が展示してある。

陸軍軍用地境界標
近隣の家の庭に埋まっていたものを、陸軍東部62部隊の研究をしている関係で譲り受けた。東部62部隊・溝口演習場の境界を示すために使われていた境界標。
 川崎市平和館所蔵

陸軍軍用地境界標(宮前区馬絹で使用)
 軍用地の境界には、長さ1m余の御影石が30cm程度頭を出して埋められていました。「陸軍」という文字が刻まれています。都市開発の影響でほとんどが抜かれてしまいましたが、当時のまま埋まっているもの、別の場所に移されたものが約50本、宮前区・高津区に残っています。

撮影:2022年1月及び2月


関連

溝口

陸軍東部62部隊(101聯隊)は、宮崎台に移る前は、六本木に駐留していた。

「防空壕と溝口演習場」溝口の戦跡散策(川崎・溝口)


東急溝の口駅・JR武蔵溝ノ口駅前の防空壕

表記ゆれしているでややこしいが、東急溝の口駅・JR武蔵溝ノ口駅の南口ロータリー。
その向かい側の台地の下には、ぽっかりと穴が空いていた。

どうみても防空壕ですね。

穴は、左に折れた構造。

溝の口には昭和15年(1940年)に軍需工場として「日本光学」が建設。
南武線沿線は軍需工場は集中していたために、大規模空襲「川崎空襲」の被害を被ることとなる。

駅前ロータリー。

場所

https://goo.gl/maps/2iRVRoXvgKewFEn7A


久本神社裏山の防空壕

東急溝の口駅・JR武蔵溝ノ口駅から南に。
久本神社の裏山にも防空壕が残っている。

開口している。

近くには、久本横穴墓群もある。ただし横穴古墳群が埋められている。

場所

https://goo.gl/maps/PNYM9N9pdJLZ7rv99


馬坂ノ庚申堂

武蔵溝ノ口駅から南に、「馬坂」「兎坂」という動物の名を冠した坂がある。
このあたりにも陸軍の境界標が残っている。

場所

https://goo.gl/maps/YmFhR4KgYWVuNZDf8


溝口演習場の陸軍境界標石(兎坂)

兎坂に2つ、境界標石が残っている。

ひとつめ。南側。

ふたつめ。北側。

ふたつの境界標石を見比べれば、天面の刻みの向きが違うことがわかる。
この角度で陸軍用地の方向を表している。

場所

https://goo.gl/maps/ViXV79Japdm6GfcY6


溝口演習場の陸軍境界標石(馬坂)

勾配26%(14.6度)の急坂。「馬坂」と書いて「まさか」という。急坂として有名らしい。

ここには、陸軍境界標席が1つ残っているといわれているが、見つけることが出来なかった。

もしかして、新しくフェンスが設けられた際に、撤去されたのかもしれない。不自然な痕跡を見つけた。

これは、境界石跡?かもしれない。関係ないかもしれない。

奥に、横たわっている石柱のような、なにかがあった。もしや…

庚申塚の手前の細道にも、標石があったが、これは違うかもしれない。

うーん、ちょっと違うかな??

溝口演習場と関連する「陸軍東部62部隊」に関しては、以下の頁にて

※撮影:2022年2月

殉職救護員之碑・日本赤十字社埼玉県支部(浦和)

浦和の調神社の隣の調公園の隣に、日本赤十字社埼玉県支部がある。
その駐車場の片隅に、従軍看護婦を顕彰する慰霊碑がある。

殉職救護員之碑

日本赤十字従軍看護婦(第一種服装)の銅像。見事な造形。

殉職救護員之碑
博愛人道の赤十字の旗のもと、身を捨て、家を忘れて、召に応じ不眠不休、自愛懇切に、ひたすら戦傷病者の救護に奉仕する姿は、崇高の限りである。然も大陸の曠野に太平洋上の孤島に、或いは人跡未踏のジャングルに、その若き一生を捧ぐるに至っては実に一死仁を成すと謂うべきである。
茲に同志相謀り、殉職救護員のため、その徳を頌し又もつて永く吾等の師表として敬仰する姿となす
 昭和31年3月31日
  殉職救護員慰霊碑 建立委員会

「 殉職救護員之碑 」のプレートの左右に、32名の殉職救護員の名が刻まれている。
救護員、救護看護婦副監督、救護看護婦長、そして救護看護婦のお名前。

合掌

裏面。

精密な造形。

日本赤十字社 埼玉県支部

場所

https://goo.gl/maps/ojZMpUyhTotduBzJ9

※撮影2022年2月


関連

「調公園のラジオ塔」浦和の戦跡・近代史跡散策

埼玉県さいたま市。浦和地区にある調公園。武蔵国の古社「調神社」の隣にある公園に、戦前の建造物や慰霊碑などがある。あわせて浦和地区(旧浦和市)の近代建築物など、散策してみる。


調公園のラジオ塔(ラヂオ塔)

ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。これらラジオ塔は「公衆用聴取施設」と称され、全国各地で人が集まるところに建設された。
調公園のラジオ塔は、NHKの寄贈によって昭和15年に建立された。

寄贈
社団法人 日本放送協会
昭和15年3月建之

今は、子供が、なにかしらを投げ込む場所。

かつて、この前に人々が集まり、ラジオ放送に耳を傾けていた時代があった。
きっと、8月15日正午も、そうだっただろう。


調公園

調神社の隣りにある公園。
かつては調神社の境内であったことは予想に固くない。
公園内にいくつかの慰霊碑や記念碑が有るので見てみよう。


慰霊塔(調公園)

日清戦争、日露戦争から大東亜戦争における戦没者の慰霊顕彰の碑。

慰霊塔

英霊奉祭

由来
 この慰霊塔は、祖国の繁栄と世界の恒久平和とを祈念しつつ戦場に或は国土の護りに貴い犠牲となられた明治二十七八年戦役から太平洋戦争までの英霊を奉祀してその功績を永遠に顕彰し慰霊するため市議会及び関係者並びに関係諸団体等が協力して市民の浄財と市費等により建立したものである。
 この男性像は市民が英霊の念願に背かぬよう力強く邁進しようとの決意を表現し、女性像は、英霊の冥福を祈りその霊を慰める心持を表現したるものである。
  昭和三十九年十月
   浦和市慰霊塔建設期成会 会長 相川宗次郎

「英霊奉祭」と記されたレリーフ。


埼玉忠魂社(調公園)

靖国神社から分霊された埼玉県関係の戦歿者を祀る埼玉忠魂社


平和の灯(調公園)

平和の灯
世界の恒久平和は全人類の最大の願いである。
浦和市は、この悲願の達成を記念し、昭和62年6月、平和宣言を行い、全市民が心を合わせて努力することを誓った。
ここに、そのモニュメントとして、平和の灯を建立し、崇高なる目標を照らすとともに、精進し継承する光にしようとするものである。
 平成2年3月吉日
 浦和市長 中川健吉
  題字 佐藤浦州


埼玉縣人殉難之碑(調公園)

西南戦争の殉難者195名を顕彰。
題額は陸軍大将兼右大臣議定官二品大勲位熾仁親王の御揮毫、撰文は県令白根多助、書は正五位日下部東作の筆になる。
明治10年11月4日に、 西南戦争の殉難者を浦和調神社神殿前に祭壇を設け、大宮氷川神社権宮司が祭主となって慰霊祭が行われた、という記録があり、明治13年に慰霊碑として建立。
東京靖国神社に合祀された旨が記載されている。


調神社

武蔵国延喜式内社の古社。旧社格は県社。狛兎で有名。趣旨がことなるのでここでは深入りしない。。。

社殿は安政5年(1858)造営。

旧本殿は、享保18年(1733)造営。


さいたま市立 高砂小学校西門(勇愛門)

創建年代は不詳。門柱の造形に戦前ぽさを感じる。

高砂小学校は、明治4年(1871)創立。

中仙道浦和宿


浦和諸聖徒教会

日本聖公会浦和諸聖徒教会の聖堂は昭和3年竣工という。

撮影は2020年9月、ほか。


「日本の近代化を支えた砂利鉄道」西武安比奈線廃線跡の散策・その2(川越)

埼玉県川越市。
西武川越線「南大塚駅」から「安比奈駅」を結んでいた貨物線。
日本の近代化を支えた砂利鉄道の跡を散策してみる。

本記事は、「その2」です。「その1」は以下から。

「砂利鉄道」と「西武安比奈線」

入間川で採取した砂利運搬を目的とした「砂利線」として、1925年(大正14年)2月15日に開業。
砂利の需要減や採取規制強化により、1963年(昭和38年)休止。2017年(平成29年)に正式に廃線となった。

1900年代初頭に河川敷で採取した砂利を首都圏でのコンクリート建設資材などで活用するために「砂利鉄道」の敷設が相次いだ。東京近郊では入間川や多摩川などで砂利採取が活発であった。
しかし砂利採取は、堤防の破壊、河床面の低下、水質汚染などを巻き起こすこととなった。
戦後、1964年に多摩川、相模川、入間川、荒川などの主要河川での砂利採取は全面禁止され、近代化を支えていた砂利鉄道の役目も終わった。

ちなみに、安比奈は「あひな」と読む。

西武安比奈線では、かつて鉄道聯隊で活躍していた蒸気機関車も戦後、「安比奈のコッペル」として走っていた。


西武安比奈線廃線跡の散策

西武池袋線「南大塚駅」。北東方面にかつての線路跡が伸びている。
沿線に沿って歩いてみようと思う。

続きの場所はここから、

https://goo.gl/maps/koorCr847N5jWNwd6

廃線跡近くの小路から線路が見えた。ちょっと覗いてみる。

あぁ、これは良いですね。

道路と交差。

橋が見えた。

かつて、遊歩道として公開されていたらしいが、いまは再び封鎖。

再度の木枠は遊歩道時代の名残。

そのまま廃線跡を意識しながら、脇のあぜ道をあるく。

廃線跡と交差しながら。

良いカーブ。木の成長が根っこでレールを持ち上げている。

レールが盛り上がってる。。。

場所

https://goo.gl/maps/3AhMxL8JLKDvB5wP7

廃線跡は、川越越生線「八瀬大橋」によって分断。

八瀬大橋をくぐって、反対側に。

入間川の河川敷へ。

バイクの講習コースがとなりに。

場所

https://goo.gl/maps/k89R2Q6CUCm612CEA

切断時に、変な力が加わったのか。すごい曲がり方をしている。

SKマテリアル安比奈工場が、今も砂利を採掘しており、入間川の南北にパイプラインが渡されている。

その下を、安比奈線の廃線跡が伸びる。

伐採されていた。

根っこがすごい。

根っこの力で、レールが浮いている。

しかし、力強い根を這わせていた樹木は伐採されてしまった。

安比奈駅にむかってレールが分岐している。その後、分岐点を遮るかのように、大木が立ちふさがり、そしてその大木は伐採され、分岐するレールと切り株が、無用のものとして残った。
すごい光景。

レールを遮る切り株。正直いってわけがわからない。

この先は、安比奈駅跡。

場所

https://goo.gl/maps/pmYCiSwDfNNfZGPn6

安比奈駅跡。

砂利鉄道として、近代化を象徴するコンクリート建材を運び出していた鉄道は、戦後に需要が低下し、そして、廃線。廃線跡のレールを押しのけるかのように成長した樹木も伐採され、不思議な空間が目の前に広がっていた入間川河川敷の安比奈線。なかなかの見応えでした。

11時に南大塚駅を散策開始し、12時30分に安比奈駅跡に到着。
そこから南大塚駅に戻ってきたのが、13時15分。

約8キロで2時間15分、でした。

※撮影:2022年2月