Date-SKN のすべての投稿

「バックナー中将戦死之跡」と真栄里「栄里之塔」(沖縄戦跡慰霊巡拝7)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その7」となります。

その6は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


バックナー中将戦死之跡

糸満市真栄里(まえざと)。

沖縄方面連合軍最高指揮官・米第10軍司令官サイモン・B・バックナー中将は、昭和20年6月18日、戦闘指揮中にこの地で戦死した。(死後に大将に昇進)
第二次世界大戦中のアメリカ軍において、敵軍の攻撃によって戦死した最高位の軍人。

バックナー戦死後の、6月23日に日本陸軍第32軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将が自決し、沖縄における日本軍の組織的な戦闘は終了した。

バックナーが戦死した糸満市真栄里の高台、1952年に米軍によって記念碑が建立されたが、1974年に記念碑は、キャンプ瑞慶覧(キャンプ・フォスター)に移転され、1975年6月に日本側の沖縄県慰霊奉賛会によって、現在の慰霊碑が建立された。

IN MEMORIAM
CLAUDIUS M.EASLEY
1891-1945
BRIG.GEN.U.S.ARMY
KILLED ON THIS SPOT
19 JUNE 1945

追悼碑
米国陸軍准将
クローディアス エム イーズリー
1891 年-1945 年
1945 年6 月19 日
この地に於いて戦死す

 諸霊よ安らかに

米国第十軍司令官 
シモンB バクナー中将戦死之跡

一九四五年六月十八日米国陸軍中将サイモンボリバーバックナー此の地に於て戦死す

イーズリー准将慰霊碑

バクナー中将が戦死した翌日6月19日に戦闘指揮中に銃撃に遭い戦死

エドウィン・T・メイ大佐慰霊碑

米軍歩兵第383旅団長 エドウィン・T・メイの慰霊碑
昭和20年6月5日戦死

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/vice-admiral-buckners-death-trace

https://www.city.itoman.lg.jp/site/kankou-navi/1816.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/2Ai8ynUzZ5NpAgWe8


歩兵第22聯隊

愛媛県で編成された聯隊。「伊予の肉弾聯隊」と称された精鋭部隊。
4月1日の米軍上陸から始まった沖縄戦では、首里北方を守備していた第62師団を支援する為に第62師団に編成されたが、第62師団は4月下旬にはほぼ壊滅。
4月22日に、第24師団に編入され、「幸地の戦い」「首里防衛戦」にて激戦を繰り広げる。
沖縄防衛の中央部隊として奮戦するも6月11日、小緑の帝国海軍沖縄方面根拠地隊が全滅し、海軍壕に隣接していた22聯隊壕の第22聯隊も南部の「真栄里」に撤退。

真栄里で徹底抗戦を続けるも、17日に第22聯隊本部洞窟陣地に爆薬が投げ込まれ全滅玉砕。
6月18日には、第22聯隊と行動をともにしていた野戦重砲兵第1聯隊と連携し、アメリカ海兵隊第22連隊長ハロルド・C・ロバーツ大佐やアメリカ軍沖縄攻略部隊の司令官バックナー中将を戦死させ、19日、真栄里にて、アメリカ陸軍第96師団准将クラウディス・M・イーズリーも戦没。
しかし、19日には、日本軍の生き残り約9千名が掃討され、愛媛出身の独立歩兵第15大隊が総員玉砕し、翌20日に連携していた野戦重砲兵第1聯隊も玉砕。
21日はアメリカ軍は沖縄占領を宣言。
22日には、第22聯隊が一時隷属した第62師団の師団長・中将藤岡武雄と、独立混成第44旅団長・少将鈴木繁二が自決。
23日早朝、第32軍司令官の牛島大将と、参謀長・長勇中将が司令部壕で自決。
24日に、第22聯隊旗を託された連隊長附副官・少尉本田昇は、第24師団司令部に合流し、同じく第24師団隷下だった歩兵第89連隊の連隊旗とともに第24師団長・中将雨宮巽、24師団司令部付最先任上級曹長・准尉白石直之(松山市出身)らの立会いの下、奉焼した。
糸満市真壁「萬華之塔」敷地内には『山3474部隊慰霊之碑』が建立され、糸満市宇江城に『山雨之塔』「22連隊軍旗奉焼の地」の慰霊碑が建立されている。

17日に22連隊本部が玉砕した後も、第1大隊長・大尉小城正ほか生き延びている第22聯隊将兵は、最期まで徹底抗戦を続け、8月15日以降も戦い続け、11月15日に降伏をしている。

愛媛縣護國神社

栄里之塔(えいりのとう)

糸満市真栄里(まえざと)。
「真栄里」周辺には、「白梅乃塔」や「山形の塔」「バックナー中将の慰霊碑」「第32連隊終焉の地の碑」などの慰霊碑もあり、沖縄戦終盤で南部に撤退した日本軍とアメリカ軍の間で激戦が繰り広げられた地でもあり、愛媛の「歩兵第22聯隊」の最期の地でもある。
戦後、真栄里の住民が散らばっていた12,000柱を収集し、祀ったのが「栄里之塔」
昭和27年3月建立。合祀者数は12,000柱。

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/eirinotou


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その8」へ

白梅学徒隊「白梅之塔」と奮闘継戦した山形聯隊「歩兵第32聯隊終焉の地」(沖縄戦跡慰霊巡拝6)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その6」となります。

その5は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


白梅学徒隊「白梅之塔」

沖縄県立第二高等女学校の「白梅学徒隊」慰霊の塔

白梅之塔
 沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。
 米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。
 戦況は日毎に悪化し、同年六月四日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。その場所は殆ど不明である。
 また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年六月二十一、二十二の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最後を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。
 塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生百四十九柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和二十三年一月に建立した。
 毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。
  平成十年六月二十三日 
   沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会

白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)
 沖縄県立第二高等女学校の前身は、1905年(明治38年)那覇市に設立された女子講習会(同年私立那覇女子技芸学校となった)で、その後変遷を経て、1928年(昭和3年)に沖縄県立第二高等女学校になりました。
 1945年(昭和20年)3月24日、生徒たちは東風平村(現八重瀬町)富盛の八重瀬岳に置かれていた第二十四師団第一野戦病院に配置されることになりました。
 生徒たちの仕事は、負傷兵の看病や手術の手伝い、水汲み、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬などでした。
 その後、5名の生徒が具志頭村(現八重瀬町)新城の自然洞窟(ヌヌマチガマ)の新城分院に配置されましたが、米軍が迫ってきたため、6月3日、分院は閉鎖されました。
 6月4日、病院長から野戦病院の解散命令が下され、生徒たちはそれぞれ数名ずつ班をつくって南部へと向かいました。
 6月9日、一部の生徒は国吉(現糸満市)に到着。18日に国吉一帯で米軍による猛攻撃が始まり、辺りは一大殺りく場と化し、21日と22日に壕が馬乗り攻撃を受け、多数の死傷者を出しました。
 国吉に行かなかった生徒たちは、砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続 け、ほとんどの生徒が6月下旬に米軍に収容されました。
  平成28年3月 
   沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課

白梅之塔

建立は平成4年(1992)6月10日。
沖縄県立第二高等女学校同窓会

犠牲者の御芳名

ちいさな「白梅之塔」(もとの慰霊塔)と、「納骨堂」

白梅之塔

散りてなほ 香りい憂し 白梅(うめ)の花
 元教諭 金城宏吉
  昭和二十二年一月建立

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_012/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/Crj79zEr4x6yd3CF9


白梅学徒隊「自決之壕」

白梅学徒看護隊
自決之壕

昭和56年6月23日建立

マチドーヌティラ
 字国吉の南西に位置するこの自然洞穴を、地元ではマチドーヌティラといいます。ティラとは神が鎮座する洞穴のことを指すといわれ、毎年旧暦 9月にはクングゥチムヌメーという伝統行事が国吉自治会によって行われています。
 また、この壕は沖縄戦において第24師団第 1野戦病院に動員された白梅学徒の一部が入っていた壕としても知られています。八重瀬岳の麓にあった同野戦病院は 1945年 6月 4日に学徒に解散を命じ、この壕に撤退してきました。鉄の暴風が吹き荒れる中、行き場のない学徒16人は野戦病院の部隊と行動を共にし、この壕で再び負傷兵の看護を手伝うことになりました。この壕の南、「山形の塔」の近くには「上の壕」と呼ばれた壕があり、食糧や弾薬の倉庫、学徒らの仮眠所として利用されていました。一方のこの壕は「下の壕」と呼ばれ、負傷兵の看護場所でした。6月 21日に「下の壕」、翌 22日には「上の壕」 が米軍の激しい攻撃を受け、学徒 16人のうち 10人が死亡しました。
 戦後この敷地内には、第二高等女学校の全戦没者を祀る「白梅の塔」、字国吉の住民による「萬魂之塔」が建立されています。
  糸満市 平成31年3月

周辺の位置関係

マチドーヌティラは「下の壕」。2021年11月に内部で崩落があり、立入禁止となっている。

ティラとは神が鎮座する洞穴であり、この地は、慰霊の場でもあり、聖なる場でもある。

白梅学徒隊自決の壕の入口。
内部崩落があり、立ち入り禁止となっていた。

合掌

南禅廣寺
白梅之塔の東側にあり、向かって左側に白梅学徒看護隊の自決之壕がある。
琉球王朝時代からの寺院という。

場所:

https://maps.app.goo.gl/5atU1WwbfrJ5GyZr5

https://maps.app.goo.gl/c3d88QHHLwKXaW1J8


萬魂之塔

糸満市国吉地区は沖縄戦最後の激戦が繰り広げられた場所である。
同地区の住民は各所に散っていた遺骨を洞穴に納めたが、昭和30年5月にコンクリートの塔を完成、無名戦没者の4000余柱を合祀した。

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/mankonnotou

敵味方関係なく、純粋に真摯に、戦没者を弔っている。

場所:

https://maps.app.goo.gl/5atU1WwbfrJ5GyZr5


陸軍大尉中村巌之碑

歩兵第32聯隊に属する独立機関銃第17大隊の隊長。
6月18日、中村大尉以下17名が戦死している。

場所:

https://maps.app.goo.gl/NHCK5YNfsa45vocYA


上の壕

上の壕(眞山之塔裏)は食糧弾薬倉庫、下の壕(白梅之塔側)は傷病兵の看護場所、であった。

白梅之塔 上の壕
 左の竪穴は、沖縄戦当時軍の物資置場であったが、白梅学徒看護隊の仮眠所でもあった。
 昭和20年6月22日、米軍の攻撃を受け、軍人・白梅隊員及び一般住民が死傷した。
  昭和63年6月 白梅同窓会

格別に整備されていない竪穴は、静かに自然に埋没していた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/edhyv9DhT8k5GwBa9


眞山之塔

雨宮中将率いる第24師団の各部隊は運玉森を守っていたが、第32軍司令部が摩文仁へ移ったのに伴い、与座岳、国吉、真栄里の線に後退し布陣を敷き、米軍と戦った。ここに陣地を築いて戦い全滅した100人余りを祀っている。

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/mayamanotou

沖縄の守備を担った第32軍に属する第24師団は、圧倒的火力を誇る米軍相手に熾烈な抗戦を繰り広げるも南部に追い込まれ、師団長・雨宮巽陸軍少将は、6月20日に師団の自活自戦を指示し師団としての組織的な戦闘を終了させた。
第24師団の師団長・雨宮巽陸軍少将(死後に中将)と参謀長の木谷美雄大佐(死後に少将)は、1945年6月30日に自決している。
(なお、第32軍の軍司令官・牛島満陸軍中将は6月23日に自決)

 怒涛の南進を続ける米軍に対し第二四師団隷下の各部隊は最後の拠点として真栄里地区に陣地を構築し勇戦奮斗敵の心胆を寒からしめたるも、ついに昭和二十年六月十七日この附近の壕内において玉砕せり。
 ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て地下に眠る幾多の英霊を慰め永くその遺烈を伝う。
  昭和四二年二月財団法人 沖縄遺族連合会

場所:

https://maps.app.goo.gl/edhyv9DhT8k5GwBa9


山形の塔

糸満市真栄里、昭和40年建立。

1965年 2月山形県民の総意と誠心による碑石、台座を県から運び建立したもの。この地は歩兵第32連隊が激しい戦いを繰り広げた場所でもある。

合祀者数:40,834柱(沖縄戦戦没者 765柱、南方諸地域戦没者 25,612柱、その他地域戦没者 14,457柱)

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/yamagatanotou

山形の塔

山形県知事安孫子藤吉謹書

山形の塔建立記
 大東亜戦争において祖国防衛のため惜しくも散華された山形県出身三万八千余の英霊を仰ぎその偉勲をしのび、み霊の冥福を祈り永久に鎮まりますことを念じここに県民の総意を結集してこの塔を建てたのである
 昭和四十年二月六日
   建設期成同盟会長 加藤富之助

山形の塔
 この塔は沖縄(七七六柱)をはじめ海外諸地域において戦没された山形県出身者四万余柱の諸霊を祀ってあります。
 一九六五年二月山形県民の総意と誠心による碑石、台座を県から運び建立してもので、この聖地は歩兵第三二連隊が軍旗を奉持勇戦奮斗し一九四五年八月この壕で奉焼した由緒ある丘であります。
 右の堂は観音像(二体)を安置する観音堂です。
   山形県
    一九八二年十月(再記)

場所:

https://maps.app.goo.gl/RsrasQkCDi1PpioX8


第二十四師団歩兵第三十二聯隊の壕(ウフ壕・田原屋取の壕)

歩兵第32聯隊の最期の壕
もともとは、真栄里の住民が整備した避難壕であった。

場所:

https://maps.app.goo.gl/RsrasQkCDi1PpioX8


歩兵第三十二聯隊終焉の地

沖縄戦初期の前田高地の激戦(米軍戦車群を擲弾筒射撃および肉薄攻撃によって阻止)、棚原の戦い(第32軍の総攻撃で米軍陣地を突破し、棚原一五四.九高地を奪取)から末期の国吉高地まで、終始激戦の最前線で戦ってきたのが第24師団の「歩兵第32聯隊」であった。

歩兵第32聯隊は、上級司令部にあたる第32軍(牛島満中将は6月23日に自決)、第24師団(雨宮巽中将は6月30日に自決)の組織的な戦闘行為が壊滅したのちも、第32聯隊長・北郷格郎陸軍大佐、第1大隊長の伊東孝一大尉のもとで組織的な戦闘を継続。

歩兵第32聯隊は、残存将兵をもって、米軍に多大な損害を与え続け、既に沖縄戦勝利を発表していた米軍を悩ませ続け、そして8月15日の終戦まで、国吉台の洞窟陣地を堅持し、最期まで健闘した。
8月29日の武装解除の段階で、歩兵第32聯隊の残存将兵は約300名であった。

我が興亡の史碑
歩兵第三十二聯隊終焉の地
呼名 霞城聯隊・満州八〇三部隊・山三四七五部隊、
   平成十七年八月 建
    聯隊関係者一同

 聯隊は明治31年3月末軍旗を拝受して山形に誕生し日露戦争黒溝台会戦で武勲を立て満州事変熱河作戦に活躍した。
 太平洋戦争の沖縄戦で終始敢闘し昭和20年6月23日軍の組織的戦闘が終了後も残存軍民協力してこの地を守り終戦後の8月28日夜軍旗を奉焼し翌日鉾を納めた。
 この間の戦没者に対し心から弔意を捧げる

場所:

https://maps.app.goo.gl/wokGqXuAjTMwQ1QVA


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その7」へ

「沖縄陸軍病院糸洲二外科壕跡」と「糸洲の壕跡」(沖縄戦跡慰霊巡拝5)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その5」となります。

その4は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


沖縄陸軍病院糸洲二外科壕

いままで見てきた壕とは違い、ここは詳細な説明がとくにない、目立つことのない静かな壕。糸満市の糸洲集落の北側にある。
半分埋もれかけている。

ぬちどうたから

「ぬちどぅ宝」「命どぅ宝」
沖縄の言葉で「命こそ宝」を意味する。
沖縄戦では、集団自決から「命こそ宝」の言葉で気の残ったという証言も残っている。

陸軍病院第二外科壕

壕内には入れない。

開口部で合掌する。

コンクリートの塊で塞がれている。

場所:

https://maps.app.goo.gl/EWBzQY65r5C9N5Yv9


糸洲の壕跡(ウッカーガマ)

糸満市字伊敷にある壕。
小池勇助少佐(死後に中佐昇進・佐久市出身)が率いた第24師団第二野戦病院の跡地。

6月26日、学徒隊の解散にともない、小池少佐は「ふじ学徒隊25人(積徳学徒隊・積徳高等女学校)」に、「君たちは非戦闘員だ。死んではならぬ。つらくても生きのび、戦争の悲惨さを後世に伝えるのが君たちのつとめだ」と訓示し解散命令を発した。小池少佐は、最後の訓示ののち学徒隊を送り出して自決。最終階級は中佐。

「ふじ学徒隊」は、多くの犠牲者をだした他の学徒隊と比べ、3人の犠牲者に留まり、小池少佐の教えを守った。
小池勇助軍医の辞世の句
 南の孤島の果てまで守りきて
  御盾となりてゆく吾を
 沖のかもめの翼にのせて
  黒潮の彼方の吾妹に告げん

「ふじ学徒隊(積徳学徒隊)」の「積徳高等女学校」は、沖縄県那覇市久茂地にあった高等女学校で、1930年に私塾として開設した高等女学校

なお、「糸洲の壕」の入り口は2つあり、それぞれ「ウッカーガマ」と「ウンジャーガマ」と呼ばれていたという。慰霊碑は、ウッカーガマの入口にある。また、北西の「轟の壕」まで一部は繋がていた、ともいう。

鎮魂之碑

此の洞窟は第二十四師団山第二野戦病院の跡である。長野富山石川出身の将兵現地防衛招集兵並に従軍看護婦積徳高等女学校看護隊が傷病兵を収容した壕跡である

鎮魂の碑
(御霊よ。安らかに)

戦闘避難中に、当地で戦没した民間の慰霊碑

糸洲の壕

合掌す

場所:

https://maps.app.goo.gl/gVEVG3D9eFyq5RU67

近年(2025年)、整備が行われました。

https://www.city.itoman.lg.jp/site/toretateitorepo/27891.html


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その6」へ

「沖縄陸軍病院山城本部壕跡」と「井原第一外科壕跡」(沖縄戦跡慰霊巡拝4)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その4」となります。

その3は、下記にて。

2022年10月記録です

「ひめゆりの塔」は、伊原第三外科壕の跡地。
ちかくには、同じように南部に追い込まれてきた陸軍病院本部壕と、伊原第一外科壕、伊原第二外科壕などもあった

みたま安らかに


沖縄陸軍病院

昭和19年6月、開南中学に開設したことに始まる。
南風原に移転したのちに、昭和20年5月下旬、南部に分散移転し、伊原の近くの山城集落の「山城壕」が本部となった。6月18日に解散した。

https://www.city.itoman.lg.jp/site/kankou-navi/1826.html


沖縄陸軍病院之塔

沖縄陸軍病院之塔
この塔は戦没された沖縄陸軍病院の傷病将兵及び職員と学徒の慰霊塔である
慰霊会(遺族及び戦友の会)が昭和39年1月26日に建立し平成4年6月23日これを再建す

春くると ひたすら待ちし 若草の 萌え立ついのち 君は捧げぬ
 水汲みに 行きし看護師 死ににけり 患者の水筒 四つ持ちしまま

陸軍病院の軍医であった長田紀春氏が詠んだ歌碑。

ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)
 沖縄師範学校女子部の前身は、1886年(明治19年)に師範学校内に設置された「女子講習科」でした。その後変遷を経て、1943年(昭和18年)に国立の専門学校に昇格し、「沖縄師範学校女子部」に名称を変更しました。
 沖縄県立第一高等女学校の前身は1900年(明治33年)に設置された「市立高等女学校」でした。1928年(昭和3年)に「沖縄県立第一高等女学校」に名称を変更しました。
 1945年(昭和20年)3月23日、学徒たちに動員命令が下され、配置先の沖縄陸軍病院があった南風原に向かいました。
 4月中旬~下旬、戦況悪化による負傷兵の増加に対応するため、一日橋分室、識名分室、糸数分室が設置され、学徒たちも配置されました。
 5月下旬、米軍は首里戦線へ侵攻を開始し、日本軍は南部への撤退の準備を始めました。25日には、沖縄陸軍病院にも撤退命令が下されました。
 26日に学徒らは井原に到着し、翌27日、山城、波平、糸洲、井原の壕へ分散配置されました。
 6月18日、学徒らは学徒隊の解散命令を受けました。米軍のg猛攻撃の中、負傷した学徒は壕に残され、壕を出た学徒たちは、砲弾が飛び交う中、逃げ惑い、追い詰められ、多くの命が失われました。
 平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部保護・援護課

沖縄陸軍病院山城本部壕(山城本部壕)
 地元ではサキアブと呼ばれる自然洞穴です。すり鉢状の窪地部分から中に入ると、壕口のある広場と奥の広場の2つに分かれています。
 1945年3月、米軍の猛爆撃や艦砲射撃が始まると、山城の住民の一部がこのサキアブに避難しました。
 5月下旬、南風原にあった陸軍病院が南部に撤退し、この場所を病院本部壕として、第一外科壕、第三外科壕を井原に、第二外科壕を糸洲におきました。陸軍病院には、沖縄師範女子部と県立第一高等女学校の学徒も配属されていました。廣池文吉病院長以下の首脳陣らは、伝令や命令受領者を通じ、分散した各外科壕を統率しましたが、撤退後は病院としての機能はほとんど失われていました。
 6月14日、本部壕入口付近に落ちた直撃弾によって、廣池文吉病院長をはじめとする兵士や学徒の多くが戦死または負傷しました。6月18日、沖縄陸軍病院は解散となり、病院勤務者や学徒らは、米軍の激しい包囲攻撃の中をさまようことになりました。
 糸満市 平成31年3月

下に降りることができる。

合掌

場所:

https://maps.app.goo.gl/G28xrGoZPsRcdzHP9


位置関係

陸軍病院本部壕と第一外科壕・第二外科壕・第三外科壕の位置関係


第一外科壕

第三外科壕(ひめゆりの塔)の近く。

碑文。
くずし字で非常に難解。。。

ここは陸軍病院第一外科及び糸数分室所属の軍医看護婦、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校職員生徒のいた壕である
米軍の迫まる1945年 6月18日夜、軍より学徒隊は解散を命ぜられて、弾雨の中をさまよい照屋秀夫教授以下多くはついに消息をたった
軍医看護婦患者も同じく死線を行く生死のわかれの地点である

ここで負傷戦没した生徒
(犠牲者の氏名省略)

藤野憲夫沖縄県立第一中学校長もここで最後を遂げられた
謹んで記して御冥福を祈り平和を祈願する

しらじらと 明けそむる野を 砲弾の
 雨に散りゆく 姿目に見ゆ
血にそまる 巌のしづくは 地底にしみて
 命の泉と 湧きて出でなむ 

  1974年 6月 ひめゆり同窓会

場所:

https://maps.app.goo.gl/vkhXLcBfB3TaUXfo8


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その5」へ

沖縄昭和高等女学校・梯梧学徒隊「梯梧之塔」(沖縄戦跡慰霊巡拝3)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その3」となります。

その2は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


梯梧之塔

「ひめゆりの塔」の隣接地に、「梯梧之塔」がある。
「梯梧」は、沖縄昭和高等女学校の校歌の一節にでてくる、沖縄県の木でもある「デイゴ」に由来する。

梯梧之塔

梯梧の塔説明碑文
 梯梧の塔は、昭和46年6月23日、旧校舎跡より、ゆかりの地に移転。母校の校歌「梯梧の花の緋の誠」にちなんで、「梯梧の塔」として建立された。
 昭和20年1月25日より約1月間の看護教育を受け、3月6日、17名(4年生)は、第62師団野戦病院(石5325)へ学徒看護隊として、ナゲーラの壕へ配属された。
 4月1日、地上戦が始まるや、日を逐うて前線からの負傷兵が激増、壕の中は、まるで生き地獄、昼夜の別なく看護は続いた。4月29日学友の中から最初の戦死者が出る。
ナゲーラの壕は満杯で収容できず、9名は第二分院の識名の壕へ移動した。壕の中で休息中、飛んで来た破片で学友2名が戦死。戦況の悪化で5月末、武富、米須、伊原へと後退。米軍は物量にものを言わせて猛攻撃は止むことなく、伊原の地で6名戦死。病院としての機能を果たす事ができず、6月19日、隊に解散命令が出た。
 無念にも学業半ばにして、戦禍の中で犠牲になった、同窓生57名と、職員3名、計60柱(旧字)が合祀されている。
 勝利を信じ若くして御霊となった学友の永遠に眠る南部終焉の地に建立、恒久平和を願いつつご冥福を祈っている。
 所在地 糸満市米須1150番地
 建立年月日 昭和46年6月23日(移設)
 敷地面積 70坪
 合祀柱数 60柱
 管理者 梯梧同窓会
     慰霊奉賛会と永久管理契約済

梯梧之塔・沖縄昭和高等女学校説明碑文
 私立沖縄昭和高等女学校は昭和5年3月15日、山梨県北巨摩郡江草村出身の同校校長八巻太一氏によって那覇市崇元寺町(現泊町一丁目)に設立された。校舎は崇元寺橋の近く安里川沿いにあり当時、この付近に梯梧の並木道があって、梯梧の花は本校の象徴にもなっている。校舎は昭和20年5月、沖縄戦により焼失した。戦後、再建の取り組みが行われたが当時の情勢はそれを許さず、遂に閉校となった。
梯梧之塔は昭和25年8月1日、この沖縄戦で犠牲となった本校同窓生および教職員らの霊を慰めるため、八巻校長並びに同校関係者によって旧校舎跡に建立されたが昭和46年6月23日、ここ梯梧学徒隊ゆかりの地に元教職員、同窓生、遺族らの浄財によって移転建立された。

梯梧学徒隊(昭和高等女学校)
 昭和高等女学校は、1930年(昭和5年)に設立された、戦前の沖縄で一番若い私立女学校でした。
 1945年(昭和20年)3月15日ごろ、生徒たちは、新川のナゲーラ壕(現南風原町)の第62師団野戦病院に配置されました。
 4月1日に米軍が上陸し、宜野湾ー浦添戦線が激化し、負傷芸の激増に伴い、4月17日ごろに昭和高女生の9名は識名分室(現那覇市)へ配属されました。
 5月13日には、識名分室壕での勤務を終え生徒たちが一眠りしていたころ、壕入り口に爆弾が落ち生徒2名が亡くなりました。
 5月下旬、米軍が守備軍司令部のある首里まで迫ってきたため、野戦病院は5月27日に南部へ撤退することになりました。生徒たちは、負傷兵に肩を貸しあるいは担架を担ぎながら南部へ向かいました。6月の上旬、米須の壕に到着し、満杯の状態で全員入れず、生徒は井原の壕に入りました。
 6月8日、野戦病院の兵隊は看護婦や生徒を集め、解散命令を伝えました。生徒たちは、壕を出て米須の壕に行きましたが、19日に二度目の解散命令が出され、米須一帯を彷徨し、21日米軍に収容されました。

梯梧之塔
所在地 糸満市米須
設置 1950(昭和25)年8月1日
移設 1974(昭和49)6月23日
合祀者数 62柱
所有者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団
清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団

梯梧の塔に捧ぐ
いたましく 二八に散りし 乙女等の
         血潮に咲ける 紅の花
                 藤岡 豊子
ゆさぶりて 碑をゆさぶりて 思い切り
         きけどもきけぬ 声をききたし
一人来て 抱きしめて見ぬ わが友よ
         名刻まれし 濡れし碑文(いしぶみ)              
                 瑞慶覧 道子

梯梧隊の乙女のレリーフ

合掌

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_010/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/cW4LrygHxnNmUziU6


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その4」へ

荒崎海岸に追い込まれ自決した「ひめゆり学徒・散華の地」(沖縄戦跡慰霊巡拝2)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その2」となります。

その1は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


ひめゆり学徒・散華の地

昭和20年6月18日、南風原の陸軍病院から南部に撤退し、伊原第三外科壕に避難していた「ひめゆり部隊(女師・一高女の看護女子学徒隊)」に解散命令が発布。
翌19日、第三外科壕に米軍によるガス攻撃があり壕内は地獄と化した。
第三外科壕を脱した、ひめゆり学徒隊は、小さなグループに分かれて、戦場を彷徨うこととなった。
南に追い込まれ、荒崎海岸一帯で隠れ場所を求めて右往左往していた人たちの中に「ひめゆり学徒」のグループもいた。

昭和20年6月21日、平良松四郎教諭(一高女教頭)が引率する学徒隊は、突如、米軍の自動小銃の凶弾に倒れ、そして混乱の最中で、手榴弾で自決をした。

ひめゆり学徒散華の跡

石版には、この地で亡くなった学徒隊や教員の名前が刻銘。

平良松四郎教頭(一高女)と、一高女生徒8名と卒業生1名、師女生徒3名と二高女1名、そして、一高女教諭2名の名が刻まれている。
生徒たちは、16歳や17歳などの若き女子学徒。

合掌

遠くからでも、ひめゆり学徒の最期の岩場がわかる。

荒崎海岸

場所:

https://maps.app.goo.gl/MmUkgArVCTE1sg938


関連資料

糸満市ホームページ

https://www.city.itoman.lg.jp/site/kankou-navi/1828.html

ひめゆり平和祈念資料館

https://www.himeyuri.or.jp/himeyuri/study_war


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その3」へ

沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校・ひめゆり学徒隊「ひめゆりの塔」と「沖縄陸軍病院第三外科壕跡」(沖縄戦跡慰霊巡拝1)


沖縄へ

2022年10月記録です

2022年10月。
人生で初の沖縄に赴く機会があった。
しかし、それは能動的なものではなく、受動的なきっかけとする、ある意味で偶然の機会。
そう、たまたまで、社員旅行が「沖縄」だったのだ。
社員旅行であれど、滞在合計3日間のうち拘束は1.5日で、自由時間も1.5日。まるまる1日使える2日目と、午前中のみ使える半日の3日目があった。あとは、どのように使うか。

正直言って、沖縄の戦跡は、巡り始めたら終わりがない。官民を巻き込んでの地上戦の痕跡は至るところに残っている。私としては、はじめての沖ということもあり、行くべきところ、最低限、これは行っておかねばと決めた戦跡のみを巡り、そうして、手を合わせておきたいと考えていた。そうでないと収拾がつかない。
ただ、実のところ、私は車を運転する権利はあるが、身分証以外の活用をしていないレベルだったのでレンタカーという選択肢を有していなかった。そのため、沖縄では非常に不利ではあるが、バスをはじめとした公共交通機関のみで戦跡を回ろうと考えていた。

そうして、事前に沖縄で、どこを廻るかを調べていた際に、他部署ながらよく仕事を一緒にすることのあるAさんから、こう言われた。

Aさん
 「沖縄の自由行動、どうされますか?」
わたし
 「歴史好きだから、歴史散歩でブラタ○リするつもり」
Aさん
 「面白そうですね、沖縄は何度も行ったことあるので、知らないところに行けそうですね、ご一緒しても良いですか、ちなみに歴史はどんな歴史ですか?」
わたし
 「(語弊があるかもしれないですが)、沖縄の歴史って、大きく分けると2つかなと。琉球王国の歴史と、戦争の歴史。私が行こうと思っているのは、重い方です、、、」
Aさん
 「あっ、重い方ですか、、、」

Aさんは、「重い歴史」は余り知らないという。それでも「沖縄は車がないと不便ですよ、レンタカー手配しますよ」と、私の散策に乗ってきたので、そこで、大きく私のプランと行動範囲は変更されることとなった。
さらに直前に、私とAさんは自由行動で、沖縄の歴史散歩するということを聞いた同僚のBさん(Bさんは年齢的には人生の大先輩)も、沖縄の歴史には興味あるということで、そうしていつのまにか、ツアーみたいな感じで同行がきまって、都合3人で「沖縄慰霊の戦跡散策」を実施することとなった。

ちなみにAさんは、私の歴史散策の初手からの行程都合ということもあったが「地下壕」続きにかなりびっくりされ、「こんなにディープなところに行くとは思いませんでした」というような状況になり、途中から、「いやあー、沖縄ドライブ楽しいんで、遠慮せず」という状況だったような。。。

沖縄の南部地区は、1日を使って「レンターカー」での移動。
那覇市街地は、ソロ活動で半日使って「レンタサイクル」を活用した次第、でした。

以下、行程順ではなく、エリアごと、内容ごとに、順不同で掲載していきます。
「はじめての沖縄」ということもありますので、探訪漏れも多く、1日半の短い時間でしたが、沖縄巡拝の記録として、徒然と。

みたま安らかに


ひめゆりの塔・沖縄陸軍病院第三外科壕跡

沖縄の代表的な戦跡として、慰霊巡拝先として必須の地。
まずは、ひめゆりの塔から掲載をしていきます。

「2代目・ひめゆりの塔」の手間に、ちいさく「初代・ひめゆりの塔」が鎮座している。

ひめゆりの塔
沖縄戦で亡くなった「女師「一高女」の教師・学徒の慰霊碑。
終戦翌年の1946年、付近の収容所にいた真和志村民により建立された。

そして、「沖縄陸軍病院第三外科壕」跡が開口している。

刻銘碑
「女師「一高女」の教師・学徒戦没者の刻銘碑。戦後、間もない頃に建立されたために、戦没者全員は刻まれていない。

伊原第三外科壕
このガマ(自然洞窟)は、沖縄戦時、南風原町にあった沖縄陸軍第三外科配属の軍医、看護婦、ひめゆり学徒たちが、南部への撤退後に避難した場所。1945年6月19日朝の米軍の攻撃により、ガマに入っていた約100名中80余名(うち42名がひめゆり学徒と教師)が亡くなった。ひめゆり学徒の最期の地のひとつである。

ひめゆりの塔
1957年に建立された新しいひめゆりの塔。
「納骨堂」を覆った白壁には、学徒戦没者の名を刻み、「女師「一高女」のシンボルである百合のレリーフを手むけた。
2009年、改修。学徒戦没者を追記。
納骨堂には、この洞窟「伊原第三外科壕」や「伊原第一外科壕」「荒崎海岸」など、沖縄戦最期の地から回収された遺骨が眠っている。


ひめゆり学徒隊

1944年12月、看護訓練によって動員された女子学徒隊のうち、沖縄県立女子師範学校と沖縄県立第一高等学校の生徒で構成された部隊。
沖縄女子師範学校は沖縄第一高等学校と併設されていたことから、校名はことのあるものの実質的には一つの学校に等しかった。

1945年3月22日、両校の生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる「ひめゆり学徒隊」は、沖縄第32軍直轄となる沖縄陸軍病院(通称:南風原陸軍第一病院)に看護要員として動員。40近くの横穴壕に分散配置された。
敗色濃厚となった6月18日に解散命令が出され、翌日19日からの1週間のあいだに多数の犠牲者を出した。最終的には、240人の学徒隊のうち、136名が死亡している。
戦後、最大の犠牲者を出した伊原第三外科壕跡に、慰霊塔として「ひめゆりの塔」が建立された。


沖縄の女子学徒隊

沖縄にあった旧制中学校21のすべての学校が動員された。
男子生徒は、鉄血勤皇隊、通信隊に配属され、女子生徒は、看護隊に配属された。

  • 沖縄県立女子師範学校・ひめゆり学徒隊:犠牲81名/動員157名(戦死率52%)
     配属:第32軍司令部直轄・沖縄陸軍病院
  • 沖縄県立第一高等女学校・ひめゆり学徒隊:犠牲42名/動員65名(戦死率65%)
     配属:第32軍司令部直轄・沖縄陸軍病院
  • 沖縄県立第二高等女学校・白梅学徒隊:犠牲17名/動員46名(戦死率37%)
     配属:第24師団第1野戦病院
  • 沖縄県立大三高等女学校・なごらん学徒隊:犠牲1名/動員10名(戦死率10%)
     配属:第32軍司令部直轄・沖縄陸軍病院名護分院
  • 沖縄県立首里高等女学校・瑞泉学徒隊:犠牲33名/動員61名(戦死率54%)
     配属:第62師団野戦病院
  • 沖縄積徳高等女学校・ふじ学徒隊:犠牲3名/動員25名(戦死率12%)
     配属:第24師団第2野戦病院
  • 昭和高等女学校・梯梧学徒隊:犠牲9名/動員17名(戦死率53%)
     配属:第62師団野戦病院
  • 沖縄県立宮古高等女学校・宮古高女学徒隊:犠牲1名/動員48名(戦死率2%)
     配属:第28師団野戦病院・宮古島陸軍病院
  • 沖縄県立八重山高等女学校・八重山高女学徒隊:犠牲1名/動員60名(戦死率2%)
     配属:石垣島陸軍病院・海軍病院

沖縄戦の推移

1945年
3/17
 硫黄島の日本守備隊、玉砕する
3/23 
 ひめゆり学徒、南風原陸軍病院へ動員。
 米軍、沖縄諸島に空襲を開始  
3/26
 米機動隊が慶良間諸島に上陸。地上戦のはじまり。島民集団自決。
4/1
 沖縄本島の中部西海岸(北谷・嘉手納・読谷地区)に米軍上陸。
4/7
 沖縄に向けて出撃した戦艦「大和」が九州南方沖で撃沈される
5/23
 米軍が那覇市に進攻。
5/25
 陸軍病院、南部へ撤退。
5/27
 第32軍司令部、首里を撤退。喜屋武半島の摩文仁地区に司令部を移す。
5/31
 米軍が首里を占領する。
6/18
 米軍司令官バックナー中将が糸満市前栄里で戦死する。
 学徒隊に解散命令。
6/19
 第三外科壕にガス弾が打ち込まれ、多くの学徒が死亡。
6/21
 荒崎海岸で

多くの学徒が死亡。(集団自決)
6/23
 第32軍司令官牛島満中将、参謀長長勇中将が自決。
7/2
 米軍、沖縄作戦終了宣言。


陸軍病院第三外科職員之碑・沖縄戦殉職医療人之碑

ひめゆり学徒とともに、第三外科壕にいた職員や、沖縄戦で殉職した医療関係者の慰霊碑。

沖縄戦殉職医療人之碑

陸軍病院第三外科職員之碑


ひめゆり平和祈念資料館

https://www.himeyuri.or.jp

「ひめゆり学徒隊」の沖縄戦を伝える施設。
第三外科壕の下部、断面を垣間見ることができる。

ひめゆりの塔
沖縄戦に動員されたひめゆり学徒の最期の地のひとつである伊原第三外科壕跡に建立された慰霊碑。

ひめゆり平和祈念資料館
亡き学友の慰霊と平和への願いを発信する場として、同窓生たちが1989年に開館しました。写真や遺品、実物資料、生き残った学徒の証言集が、沖縄戦とひめゆり学徒の実相を伝えています。
正面は、ひめゆり学徒たちの学び舎、沖縄師範学校女子部・沖縄系ん立第一高等女学校を模し、校門までの並木道をなしていた相思樹が植えられています。
那覇にあった学園は沖縄戦で消滅しました。

沖縄戦とひめゆり学徒隊
動員
1945年3月、米軍の上陸作戦開始とともに沖縄の男女学とは戦場に動員されます。
ひめゆり学徒隊は3月23日、南風原の「沖縄陸軍病院」に配置されました。
戦場の病院は、丘の中腹に掘り巡らされた横穴壕にベットを備えただけの施設で、砲煙弾雨の中、学徒は医師と看護婦の下、負傷兵の看護や水汲み、伝令、食料運搬などを担いました。
4月1日の米軍上陸後の激しい戦闘により負傷兵が急増し、3つの分室ができていきます。

撤退
5月下旬、米軍の攻撃が日本軍司令部のある首里まで迫り、5月25日、軍の南部撤退命令により、陸軍病院も南部への撤退が始まります。
学徒たちは砲弾と悪路の中をこの南部までたどり着きます。病院としての機能を失った後も6つの壕に分散して不難死、伝令や水汲み、食糧確保の任務に当たりました。

解散
6月18日夜、緊迫した戦況の中でひめゆり学徒に突然「解散命令」が下されます。激化する戦場で、負傷した学徒は壕に残され、外に放り出された学徒たちは、砲弾の飛び交う中、逃げまどい、追い詰められ、多くの命が失われました。

儀間真一顕彰碑
(ハーリー・シンイチ・ギマ)
沖縄系ハワイ2世、昭和27年に、ひめゆりの塔の敷地を購入するための資金援助をした。

冊子を購入しました


ひめゆりの塔の記

ひめゆりの塔の記
昭和二十年三月二十四年、島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員生徒二百九十七名は軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。
戦闘が激しくなるにつれて、前戦から運ばれる負傷兵の数は激増し、病院の壕はたちまち超満員となり、南風村一日橋・玉城村糸数にも病室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜晝となく力のかぎりをつくして負傷兵の看護をつづけた。
日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜、南風原陸軍病院は重症患者は豪にに残し歩ける患者だけをつれて手を引き肩をかし砲弾をくぐり包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。
南に下って後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科にわかれて業務をつづけた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
六月十八日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌十九日・第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げこまれて地獄圖絵と化し、奇跡的に生き残った五名をのぞき職員生徒四十名は岩に枕を並べた。軍醫・兵・看護婦・炊事婦等二十九名民間人六名も運命をともにした。その他の豪にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追いつめられて追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最後をとげたのである。
戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により昭和二十一年四月七日最初のひめゆりの塔が建ち次第に整備された。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員十六名生徒二百名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。
 いはまくら かたくも あらむ やすらかに
 ねむれ とぞいのる まなびの ともは

裏面には、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の「校歌」が刻まれている。


いはまくら碑

いはまくら碑 1990
ひめゆり学徒の引率教師 仲宗根政善先生の歌
いはまくら 
 かたくもあらむ 
  やすらかに
ねむれとぞいのる 
 まなびのともは
「固いごつごつした岩場で亡くなったのはさぞ無念で辛かったでしょうあ。心安らかに眠って欲しいと学友たちは願っています」という哀悼の歌です。
島の南の果てに追いつめられて岩陰や洞窟で学友たちは亡くなっていきました。この恩師の歌は、戦争のおろかさと平和の素晴らしさを、亡き学友に代わって訴えていくことを誓う私たちの心そのものです。


赤心之塔

赤心之塔 1948
伊原第三外科壕に入っていた民間人(大田家)5名の戦没者の慰霊碑。遺族によって建立された。

女神の像

ひめゆりの石

井伊文子の歌碑
琉球王朝の末裔にあたる井伊文子氏の歌

ひめゆりのいしぶみに
ふかくぬかづけば
たいらぎをこひのむ
乙女らのの声す


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その2」へ

展示終了となる「ニューポール81E2(陸軍甲式一型練習機)」(リニューアル前の最期の展示・所沢航空発祥記念館)

所沢航空記念公園にある、所沢航空発祥記念館が2025年8月末でもって、長期休館、リニューアルを経て再開は2027年3月予定という。
平成5年の開館から30年以上経過したことから、今回の大規模なリニューアル工事を迎えることとなる。

http://tam-web.jsf.or.jp/

https://www.pref.saitama.lg.jp/a1105/news/page/news2025070801.html

リニューアルに伴い、展示を終える展示機もあるので、足を運んでみました。


所沢航空発祥記念館関連の過去記事


長期休館のお知らせ

長期休館のお知らせ
今年9月1日からリニューアル工事のため長期休館となります。
休館期間:2025年9月1日~2027年3月末(予定)
2027年春(予定)、さらに魅力をアップしてリニューアルオープンいたします。この夏、8月末までイベントもりだくさんで開館しております。ぜひご来館ください。
2025年7月吉日 所沢航空発祥記念館


休館前の写真スポット

今回のリニューアルに伴い役目を終える展示物にスポットを当てた写真撮影スポットです。その姿を思い出に残しましょう。
<今回のリニューアルで役目を終える主な展示物・展示機>
航空機(展示機)
・ニューポール81E2 (レプリカ)
・HU-1B(ベル204B)
・ハングライダー
・ウルトラライトプレーン

スペースウォーカーとかベルヌーイの研究室、とかは、特に終わると言われても食指は動かない。。。


ニューポール81E2 (レプリカ)

ニューポール機の展示が終了するのは、非常に残念。
終了に「レプリカ」とあるので、終わるのは「レプリカ」だけであって、もともと展示のきっかけとなった機体残骸はそのまま展示されるとは思われるけど。

展示終了で撤去となったのちに、本機がどうなるのかは2025年8月現在では不詳。。。

ニューポール機の展示は8月末で終了です。
これまでたくさん見学していただいてありがとう。

ニューポール81E2(甲式一型練習機)
1918年(大正7年)、陸軍がフランスから輸入したニューポール81E2練習機。
翌大正8年に来日したフォール大佐のフランス航空団の教材として所沢陸軍航空学校設立以来、活用された練習機。その後、国内でも三菱によって国産化されている。写真の機体はレプリカ機。
埼玉県が発注し、米国にてレプリカを作成、平成4年(1992)9月に完成し亜t。


岩田正夫のニューポール81E2

岩田正夫のニューポール81E2
埼玉県ときがわ町の慈光寺に保存されていた「ニューポール81E2」の残骸。都幾川村出身の民間飛行家であった岩田正夫が、郷土訪問飛行時に機体を破損させたために、そのまま村に寄贈した機体。

慈光寺の”ニューポール81E2”複葉機
ここに展示されている”ニューポール81E2”は、埼玉県比企郡都幾川村出身の民間飛行家、岩田正夫が1926(大正15)年に郷土訪問飛行を行った時のものである。玉川村都幾川の河原へ着陸した際、機体を破損したため、そのまま村へ寄贈され、以後この村にある慈光寺に、およそ70年間保存されていた。機体は腐食のやめエンジンと操縦室周辺、着陸装置などをのこすのみとなったため、往年の姿が残された設計図などを参考にレプリカとして再現された。

埼玉が生んだ民間飛行家、岩田正夫
岩田正夫は1901(明治34)年12月2日、埼玉県比企郡平村(都幾川村)の地主の三男として生まれた。東京府立豊島師範学校を卒業後、陸軍に入ったが、大正ロマンティスズムの影響を受け、北海道、樺太、朝鮮などを放浪、1925(大正14)年大空への飛行を志して日本飛行学校に入学し、三等操縦士となった。その後、代々木で行われた競技大会などで優勝し、1928(昭和3)年には一等飛行機操縦士免許を取得、台北ー立川ー札幌間の航空路を開発、フリーの民間航空家となる。この年、日本電報通信社航空部に入社した岩田は、行方不明になった同僚を捜索中、三重県松阪市吹井の浦海岸で墜落、殉職した。

父の慰霊をかねた郷土訪問飛行
1926(大正15)年8月13日、ちょうど新盆に当たるこの日、2度目の郷土訪問飛行のため、岩田は明覚村付近を流れる都幾川の河原に不時着を装って降りる計画をたてた。立川飛行場を飛び立って、恋人の住む明覚村に飛んできた正夫は、彼女の住む家の上空をハンカチを振りながら低く旋回し、そばの河原に着陸しようとした。しかし、盆の支度のため川に盆棚を洗いにきていた人々が飛行機を見て河原に集まってきたので、危険を避け隣の村の河原に着陸した。翌日、正夫は友人や村人たちのために航海飛行を行った。しかし、正夫の飛行ぶりに興奮した見物人たちが着陸を待ちきれず河原中央に押しかけ、それを避ける為に急上昇した時土手に機体を接触し機体の一部を壊してしまった為、機体を記念として村に寄贈した。

フランスから輸入された”ニューポール81E2”
”ニューポール81E2”は、1918(大正7)年、陸軍がフランスから輸入した練習機で、80式とともに前後の座席に操縦装置がついており、翌年から来日したフランス航空教育団の教材として、所沢陸軍飛行学校設立以来、甲式一型練習機として使用された。その後三菱で国産化され、57機が製作された。エンジンは、”ル・ローンC”空冷式回転星型(9気筒、80馬力)で、プロペラと共にエンジン全体が回転するものであった。機体はエンジンの取付部と操縦室周辺が金属製のフレームで構成され、そのほかの胴体と翼は木製のフレームにドープ油を塗った絹布が張られていた。


HU-1B(ベル204B)

同じく展示が終了するHU−1B
機体番号41547
屋内展示の綺麗な状態での「HU-1B」は本機だけであるが、今回のリニューアルで展示終了となり撤去されるという。


ウルトラライトプレーン・ハングライダー

この2機も、今回のリニューアルで撤去となる。


屋内展示機各種

リニューアル後にどのような展示になるかもあるので、なんとなくリニューアル前の状態を、特に熱意は込めずに気ままに撮影。
機体の細かい説明は省略。


2025夏の特別展(零戦とYS-11)

リニューアル前の最後の企画展。せっかくなので。

2025夏の特別展
時代を翔けた零戦、そしてYS-11
戦時中最も多く生産された国産戦闘機と戦後初めて生産された国産旅客機

YS-11は私の最も印象に残る仕事となった。課長で始めたこのプロジェクトを私は局長の時一八二機で打ち止めにした。今ではいろいろな評価があると思うが、戦時中私の目の前で勇戦したあの零戦の技術を何とか戦後の日本で生かしたいという私なりの気持ちがあって始めた日本初の旅客機だけに、この時は大いに悩みに悩んだ
 YS-11生みの親・赤澤璋一(戦艦比叡元乗組員、元通産官僚)「傘寿の記」平成12年刊より)

赤澤璋一は東京帝大を出て、商工省入省、海軍経理学校を経て、戦艦比叡に主計官として乗組。
主計中尉だった赤澤璋一は、ソロモン海戦で比叡沈没の際に、駆逐艦・雪風に引き上げられ九死に一生を得ている。

堀越二郎

赤澤璋一


過去の企画展ポスター


機体以外の、展示もおそらく大幅なリニューアルで変わることが予想されますので、それはそれで、記録しておきました。
随時、記事を展開時に参照できれば、です。

※2025年8月撮影

「全員玉砕せるものと認む」アッツ観音(保寿院・山梨)と山崎保代の墓(多磨霊園・東京)

毎年恒例の「河口湖(「河口湖自動車博物館・飛行舘」)」の往復で乗車している「富士急行線(富士山麓電気鉄道富士急行線)」。

そんな富士急行線「赤坂駅」すぐ近くに、「アッツ観音」があるというのを知ったのはつい最近。実は車窓からも見える、ことも知らなかった。
知ったからには、すぐさまに足を運びたくなり、そうして、8月の河口湖行きの復路に参拝をしていきました。


山崎保代(やまざき やすよ)

山崎 保代(やまざき やすよ)
1891年10月17日 – 1943年5月29日
最終階級は陸軍中将。
都留市の四日市場保寿院住職山崎玄洞の二男に生まれた。
太平洋戦争(大東亜戦争)中、山崎保代は北海守備第2地区隊長に任命され、アッツ島の戦いを指揮し17日間の激しい抗戦の後戦死した。

https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/kingendai/yasuyo.htm


アッツ島の戦い

1942年6月7日以来「日本軍」が占領していたアッツ島を、「アメリカ軍」が奪還を目指して始まった戦い。
アメリカとしては、1812年に始まった米英戦争以来、131年ぶりにアメリカ領土を奪還する戦いとなった。
日本軍の守備兵力は2650名に対し、米軍は5倍以上の戦力を投入し、日本守備隊は激戦の末に全滅した。
アッツ島の戦いは、日本国内で初めて「玉砕」という表現で報じられた戦いであった。

昭和17年6月、ミッドウェー作戦(ML作戦)の支援を兼ねたアリューシャン作戦(AL作戦)が決行された。
6月8日、日本軍はアッツ島に上陸し占領。アッツ島を「熱田島」と命名した。なお、アッツ島には米軍は駐留していなかった。
侵攻に際しては、アッツ島は陸軍、キスカ島は海軍の担当であった。

昭和17年8月、キスカ島への守備強化を実施するために、アッツ島は放棄となったが、アメリカ軍の攻撃に際して、10月に方針を変更し、アッツ島の再占領を実施。

昭和18年2月、北太平洋方面の守備を見直し。
 北方軍司令部
  (司令官 樋口季一郎陸軍中将)
 北海守備隊
  (司令官 峯木十一郎陸軍少将 キスカ在)
 キスカ島を担当する第一地区隊
  (歩兵三コ大隊、地区隊長 佐藤政治陸軍大佐)
 アッツ島を担当する第二地区隊
  (歩兵一コ大隊、地区隊長 山崎保代陸軍大佐)

2月11日に山崎保代陸軍大佐が北海守備第2地区隊長に補職された。
3月27日にはアッツ島沖で「アッツ島沖海戦」が発生、日本軍の輸送船団はアッツ行きをやめて幌筵に撤退し、乗船していた山崎大佐もアッツ島に着任できなかった。
山崎大佐は潜水艦に乗り換え、4月18日にアッツ島に上陸。

1943年5月12日、戦艦3隻を擁するアメリカ太平洋艦隊の支援下、第7歩兵師団の15,000名のアメリカ軍が上陸を開始した。

山崎保代北海守備第2地区隊長は、アッツ島の戦いで、2,650名の守備隊を指揮し水際防御ではなく、のちのペリリュー島の戦いや硫黄島の戦いと同じく敵を島の内部や高地に引き込む戦略を採用し陣地を構築。

1943年5月29日、過酷な戦闘が繰り広げられ、17日間の激闘のすえ、最後の突撃にて守備部隊は壊滅し、戦闘で指揮していた山崎保代も戦死し、アッツ島守備隊は玉砕した。

大本営発表(昭和18年5月30日17時付)
アッツ島守備部隊は5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵兵に対し血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。
爾後通信は全く途絶、全員玉砕せるものと認む。
傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、之に先立ち悉く自決せり。
我が守備部隊は2500名にして、部隊長は陸軍大佐山崎保世なり。
敵は特種優秀装備の約2万にして5月28日までに与えたる損害6000を下らず。

山崎保代は、死後2階級特進し、陸軍中将に進級している。
享年51歳。

なお、大本営発表として「玉砕」と発表されたのは、「アッツ島の戦い」が最初であるが、以後は「総員壮烈なる戦死」と発表されている。


アッツ観音

戦後全国のアッツ島戦没者遺族と地域の人々によって、勇士の菩提を弔い、かつ、世界平和を願って、昭和29年5月19日、父親の山崎玄洞により生家の保寿院境内に「アッツ観音」が建立される。
1994年(平成6年)には、追悼の石碑も建立される。

部隊の長として遠く不毛に入り
骨を北海の戦野に埋む 
眞の本懐に存じ候えや
護國の神霊として悠久の大義に生く 
快える哉
 山崎大佐

山崎保代は当山十七世玄洞和尚の次男として明治二十四年十月十七日生を享く
長じて陸軍に身を捧し 大東亜戦争北方の要衝アッツ島守備部隊の長として出陣
その折上野甲子氏に碑面の遺書を託した 
昭和十八年五月二十九日 二千六百三十八勇士と共に北海の孤島に於いて 世界平和と祖国の安泰を祈念しつつ玉砕した
その功により陸軍中将に任ぜられる
 平成六年仲秋
  当山二十世洞岳明三敬建

台座は、アッツ島をイメージしているという。

合掌

富士山を背に、アッツ島の方角を向く「アッツ観音」

富士急行線のすぐとなり。


保寿院

曹洞宗
山号は岩生山
都留七福神の大黒天
アッツ観音霊場
アッツ島の守備隊長・山崎保代の生家

車窓からも見えます。

場所:

https://maps.app.goo.gl/E6qfMkZ4jdMD8cu36


山崎保代の墓

多磨霊園の山崎保代の「山崎家之墓」がある。
多磨霊園19地区1種2側

山崎家之墓

従四位勲二等功三級
陸軍中将 山崎保代 
 昭和18年5月29日
  アッツ島・戦死・53歳

だいぶ昔に、多磨霊園の山崎保代の墓に詣でていました。

https://maps.app.goo.gl/SY8QD1FTT9tm2UiS7

※2016年2月撮影


アッツ島玉砕・藤田嗣治(東京国立近代美術館)

東京国立近代美術館に「アッツ島玉砕」(藤田嗣治)が収蔵されている。ちょうど、特別展もやっていたので、作品を見ておきたく、こちらも足を運んでみました。

東京国立近代美術館
2025年夏の特別展
コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ

https://www.momat.go.jp/exhibitions/563

この特別展にて、「アッツ島玉砕」が掲示されていたので、以下に記録。

「アッツ島玉砕」(藤田嗣治)

写真では絵画ならではの迫力も凄惨も伝わらないが。

戦争画(戦争記録画)の代表作として著名

藤田嗣治
アッツ島玉砕

1943 作戦記録画
1943年5月29日、アリューシャン列島のアッツ島で、アメリカ軍の攻撃により日本の守備隊が全滅した出来事が、敵味方入り乱れる死闘図として描かれています。全滅は「玉砕」という言い方で美化され、国に殉じる行為が軍人の鑑であると報じられたため、藤田の絵は陰惨な図柄であるにもかかわらず、観衆に熱狂的に受け入れられました。同年9月の国民総力決戦美術展に展示された際には、作品の前に賽銭箱が置かれ、脇には藤田自身が直立し、観客が賽銭を入れると藤田がお辞儀をしたというエピソードもあります(野見山暁治「四百字のデッサン」河出書房新社、1978年)。ここで作品は単なる記録を超え、追悼と「仇討ち」の気分を醸成するための機能を果たしました。その気分の醸成には、報道や文学、絵本、歌などのメディア・ミックスがあったことも見逃せません。

https://www.momat.go.jp/collection/x00120

「写真週報」276号
昭和18(1943)年6月16日

アジア歴史資料センターより

https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A06031087100

https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2006070420550957726

同特別展では、
「アッツ島爆撃」という作品も掲示されていた。

※2025年8月撮影


関連

山崎保代の上官にあたるのが、北方軍司令部(北部軍司令部)の司令官であった樋口季一郎。

富士急行線の目的は、、、

80年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

終戦から80年目の8月15日、終戦の日の靖國神社。
毎年恒例。
変わることなく、祈りを捧げる。


靖國神社・午前9時30分

すでに、第二鳥居まで行列ができていました。

良き青空。


放鳩式 靖國神社・午前10時

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

毎年恒例、講談師の室井さん。

午前9時55分ごろに、白鳩が手渡しされました。

靖国神社、大塚宮司

英霊、ありがとう
心をこめて
放鳩式


放鳩式 靖國神社・午前10時すぎ

すでに神門の外まで、参拝列が連なっておりました。


「白鳩の会」と「御朱印」

毎年、ありがとうございます。

靖国の御神紋の金刺繍がひときわに。


靖國神社拝殿・正午

正午の20分くらい前。ギリギリまで直射日光は避けたいという空間。

国家
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

黙祷

おことば
 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来80年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/295#3132

毎年、この場所で、海行かばを

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

ありがとうございます。

靖らかに。


遊就館

8月15日、ひときわに暑い夏。

終戦80年企画展
青少年に伝えたい
沖縄戦の学徒隊・特攻隊

私も知らなかったエピソード、多数。
これは、青少年に限らず、すべからく必見ですね、。


靖國神社・正午すぎ

ご苦労様です、冷たい麦茶ありがとうございます

今年は例年以上の人手で、麦茶も行列ができていました


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

合掌。

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」

千鳥ヶ淵にも足を伸ばす。

全国戦没者追悼式のため、北の丸は立ち入り禁止


昭和館

戦後80年 特別企画展
社会を映す、動かす
ポスターにあらわれる国策宣伝の姿

企画展をやっていたので、足を運んでみました。

図録。
今回の企画展と、過去のポスター関係の図録もまとめて購入してしまいました。


映画『雪風 YUKIKAZE』

戦後80年の、ちょうど8月15日公開の映画。
幸運艦「雪風」の物語。

※撮影:2025年8月15日


河口湖自動車博物館・飛行舘(2025年8月版)

このところ、夏の恒例となりつつある「河口湖自動車博物館・飛行舘」詣で。

正式名称は「河口湖自動車博物館・飛行舘」となりますが、「飛行館」の表記揺れがあります。

今年で、4年連続、です。
彩雲の進捗を中心に。


前回の記録

2022年

2023年

2024年


艦上偵察機 彩雲 11型1290号機

彩雲の説明とは、上記リンクの過去記事を参照でお願いします。
以下、写真メインで。

2025年で胴体の復元が完了。
尾翼のフェアリングが装着され、方向舵のラダーも取り付けられた。


そのほか飛行舘展示品

置き方がちょっと変わりましたね。

靖国のコレ、去年は、なかったです。。。

この大型模型も去年は無かったはず。(大和と赤城と)

銀河のプロペラ(前は表示がなかった)

ちなみに、河口湖駅からレンタサイクル、です。
もう4回目なので、レンタサイクルの行程も慣れたものです。
さすがに初見ではないので、3時間で往路と見学と復路と問題ないです。
(電動は必須です、往路は富士山に向かって上り坂なので)
(自転車で行く人、そんなに居ないと思われ、ですが)
(帰りは下り坂をすごい勢いで漕がずに帰ってこれます、危ないので安全運転で)


河口湖駅

河口湖

今度こそ、温泉?

富士山駅でみた富士山が、この日の一番の富士山でした。
あとは雲隠れで、ほぼ見えませんでした。

※撮影:2025年8月


「遺髪塚」終戦2日前の大月空襲

富士急行線から大月で乗り換えるのに、時間があったので、大月の町を散策してみた。


大月空襲

1945年8月13日午前8時過ぎ、終戦2日前にあった米軍による大月空襲。
大月駅の裏にあった興亜航空(興亜航空工業株式会社)などの軍需工場や、大月に疎開していた軍事施設(都留中に立川航空廠、都留高女に陸軍航空本部第4技術研究所の工場疎開)を狙った空襲で、旧制都留中学(現県立都留高校)や旧・都留高等女学校の生徒や教職員、市民など、あわせて50人以上が犠牲になった。
もっとも被害が大きかったのが、都留高等女学校であった。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/yamanashi_ootsuki_005/index.html

大月は、道路や鉄道の合流点として栄えており、線路の北側には能登精機(現・大月東中)、興亜航空(興和コンクリート跡地)、大月産業(住宅地や大月倉庫跡地)、線路の南側には、大月東国民学校(現・大月東小)、都留中学校、都留高等女学校(現・大月短期大学)があり、東側には、長距離大容量発電を可能とした駒橋水力発電などどがあった。


遺髪塚

行願寺の墓苑、もっとも高い場所に位置しておる。
都留高等女学校があった、大月短期大学を見下ろす東の高台に。

https://www.gyoganji-otsuki.com/memorial.html

遺髪塚
山梨県立都留高等学校東校舎生徒会

遺髪塚合祀霊名
24名の氏名略

遺髪塚の記
太平洋戦争もまさに終わらんとする昭和二十年八月十三日午前八時二十分思いもよらぬ無差別の空襲
たちまち悲惨な血の地獄と化した都留高女
このたった数分の挙があたら十数名の尊い命を奪う
戦い終わり悲しみの中に校葬を挙行 
遺髪を塚に納めて弔う三十年
旧都留高女校舎の歴史を閉するの時生徒会の名にて碑を建立
今年三十三回忌に当たり同窓旧師四百余名挙りて遺髪塚を整備し懇ろに回向して永久の冥福を祈る。
 昭和五十二年八月十三日  遺髪塚整備委員会

終戦既に五十年、歴史の重さを痛感しつつ旧師同窓願い一つに遺髪塚をば大改修し追悼の法要も営み、以後の管理を都留高等学校同窓会並びに学校当局にゆだね、永久の供養と歩み来し五十年の思いを託し万感込めて、み霊の冥福を祈る。
 平成六年七月二十四日  遺髪塚管理委員会

合掌

都留高等女学校のあった方向

遺髪塚あります、の記載あり。

場所

https://maps.app.goo.gl/Fv2oPqtCQ7D1YwxLA


平和祈願の石(厄王大権現)

厄王大権現、大月市駒橋の鎮守。
境内に、大月空襲に関係する巨石がある。

平和祈願の石
昭和二十年八月十三日午前八時三十二分米軍艦載機は突如大月町を襲い山間の町民に恐怖の中で甚大な被害を与えた
この時投下された爆弾の一つは桂川で爆発しその爆風は一、五トンの石をふき上げ百余米の高さに達したという
附近は国道沿いの人家密集地であったがこの石は厄王大権現の霊験によって当山地先に落下し町民はあやうく難をまぬかれた
時移り世が進むにつれ世人びと厄王大権現を畏敬し当時落下したこの石を、平和祈願の石と名づけここに安置したものである
 昭和四十七年四月八日
  大月市長 志村寛識


大月駅

明治35年、中央本線とともに開業。
岩殿山がそびえ立つ。

駅の南西方向には「むすび山」
大月防空監視哨があった。

大月の市街地方面


浅利防空壕跡

大月駅の北側、桂川にかかる浅利橋に向かう道の途中には崖面がある。
往時、ここには防空壕が多数あったとされている。
興亜航空の工場から避難した工員や勤労学生・学徒は、この場所にあった横穴の防空壕に避難したが、都留中学生がここで被災し亡くなっている。


興亜航空工業跡地

大月駅北側の広大な空き地には、「興亜航空」という軍需工場があった。
海軍の零式輸送機の翼を製造。
また、木製のおとり飛行機(デコイ)も造っていた。
都留中や都留高女の生徒たちが学徒勤労動員で作業に従事していた。

https://www.kkn.co.jp/ja/company/enkaku.html

2022年にオープンした大月の東横INNの存在感が。。。

工場跡地

とにかく主張が強いのは東横INN。。。

御太刀塚

興和産業(興亜航空)の工場創設の造成に際し、周辺にかけて幾つかの古墳や墓碑は破壊されたが、多くの遺物が掘出されたという。

※撮影:2025年8月


関連

ハワード・キャノン航空博物館・Howard W. Cannon Aviation Museum(ハリー・リード国際空港・ラスベガス)

ラスベガスの国際空港。
空港内にちょっとした展示コーナーがあったので、写真をぱちぱちと。
何が書いてあるかは、よく理解していません。(英語が出来ない民なので)


ハリー・リード国際空港

ネバダ州ラスベガスの国際空港
2021年に「マッカラン国際空港」から、「ハリー・リード国際空港」に改称した。
いずれも、ネバダ州出の上院議員の名前から名付けられている。

もともとは1942年開設の「アラモ空港」に始まり、1948年にクラーク郡が買取「クラーク郡営空港」となり、そして「マッカラン飛行場」となった。

ちなみに米軍基地としては、「ネリス空軍基地」がラスベガス北東7マイル(約11キロ)の距離にある。


ハワード・キャノン航空博物館

ハリー・リード国際空港の展示コーナー。

ターミナル1の2階部分、荷物受け取り所を見下ろす位置にある。
ネバダ州の航空の歴史資料が展示されている。
ハワード・キャノンはネバダ州出身の上院議員。

T-50ボブキャット(セスナ)のプロペラ。

戦略爆撃機の時代。
B-17
B-29
爆撃機に搭乗する機関銃座の担当者は、ラスベガスにあった航空砲術学校で訓練を受けたという。
現在もラスベガスのネリス空軍基地には「アメリカ空軍戦闘センター」があり、テストプログラムが実施されている。

セスナがぶら下がっていました。

下は、到着フロア
手荷物を回収したら、そのまま外に出れる感じで、この辺りは日本とはだいぶ違うなあ、と。

いたるところにカジノマシンがあります。


羽田→ロサンゼルス→ラスベガス

写真を徒然。
アメリカン航空で、往復しました。

昼食?夜食?
時差があるので、どっちの時間軸になるのかな、、、。

夜食?朝食?

ロサンゼルス
アメリカに着いたって感じ。
ここから入国審査で1時間くらいかかって、乗り継ぎはやはり2時間は必要な感じでした。
英語できない民にとっては、入国審査で、どこに行く?どこに泊まる?何しに来た?とか説明するのが大変なので、泊まる場所とか、目的とか、全てプリントしておくと宜し。

ロサンゼルスでトランジットで国内線に乗り換え。
ラスベガスに。
国内線の保安検査も、日本とは違って、靴を脱いで、チェック。
パソコン出し忘れると、引っかかります。(引っかかった。。。)

アメリカの大地って感じ。

ラスベガスにつくと、カジノ機が迎えてくれます。
おっ、ラスベガスに来た!って感じ。


ラスベガスあれこれ

とりあえず、BBQっぽい肉を喰らう。
アメリカに来たって感じ。

人生に於いて、これ以上はないステーキに出会ってしまった。
分厚いのに柔らかく美味すぎて、もうヤバい。。。
こういうのは出会ってはいけない奴です。
もう普通の食べれなくなるやんw

約400グラム(14オンス)で64ドル。

Oscar’s Steak House @ Las Vegas BOBBY Gs’ 14oz NEW YORK STRIP

ジン マティーニ とか エスプレッソ マティーニ とか マティーニも過去最高に美味。

プライムリブステーキ
Lawry’s The Prime Rib Las Vegas

もはや何を飲んだっけな?

コンビニでお買い物

ファーストフード

ラスベガスの丸いやつ。

MSGスフィア

ラスベガスのモノレール

ザ・ラスベガス!!っていう場所。

ダウンタウン

屋根がLED
こういうのは日本では無理だろうなあ。維持管理も大変そう。

WELCOME TO Fabulous LAS VEGAS NEVADA

すばらしいネバダ州ラスベガスにようこそ!

例の有名なウェルカムボードのコピーですね。


ラスベガス→ロサンゼルス→羽田

帰りもアメリカン航空。

ロサンゼルス

ちなみに、行きも帰りも遅れて。
異国の地の飛行機の遅れは勝手がわからなくて、結構困りますね。
ロサンゼルスでは、搭乗口も何回か変わって、あっち行ったりこっち行ったりもあって。

ゲート155から

ゲート41に移動って、場所がぜんぜん違うし。

夜飯?

ワインが美味しかった。

朝飯?

実は、人生初のアメリカ、でした。
それなのに、ソロでの移動、なかなかの緊張感で、、、いやあ、英語できない民としては、怖かったですわ。
(ラスベガス着いたら、現地の業務委託スタッフと合流できたので、なんとかなりましたが)

※撮影:2025年4月



「Atomic Museum(核実験博物館)」(アメリカ合衆国ネバダ州ラスベガス)

仕事でラスベガスに行く機会があった。
砂漠を開拓した都市なので歴史的なネタはないかなと思いつつ、それでも、なにかしらの面白い発見があればと地図を眺めていたら「アトミックミュージアム(核実験博物館)」があった。そういえば、ネバダ核実験場か、、、ということで、脚を運んでみた。

もっとも、私は英語がダメなので、ほぼフィーリングになりますが。


マンハッタンプロジェクト・トリニティ実験

オッペンハイマーを中心としたマンハッタン計画の研究者たちがニューメキシコ州のロスアラモスに研究所が置かれることが決定したのが1941年11月であった。
そして、1945年7月16日にアメリカで実施された人類最初の核実験が「トリニティ実験」。
ニューメキシコ州のトリニティ実験場で実施された。
トリニティ実験では、のちに長崎に投下された「ファットマン」と同様の構造であったが、ファットマンのように空中投下ではなく、鉄塔添え付けでの爆発であった。
7月16日のトリニティ実験の成功を踏まえて、1ヶ月も経たない短期間で、8月6日に広島に「リトルボーイ」、8月9日に長崎に「ファットマン」が投下された。

そういえば、映画「オッペンハイマー」もみましたが、なんというか、「原爆の父」であるオッペンハイマーの心理的な自伝であって、戦後のオッペンハイマー事件も含め、その背景を知っているか知っていないかで、だいぶ見え方が変わってくる作品でした。良くも悪くも日本人として描いてほしい原爆の話は皆無で、そういう観点でいうと、日本人にとっては駄作なのかもしれず。
まあ、そういう意味でも、このラスベガスの核実験博物館も然りで、米国からみる原爆の見え方は、日本とは異なるわけで。


核実験博物館( Atomic Museum)

核実験博物館( Atomic Museum)はアメリカ合衆国ネバダ州ラスベガスにある博物館。非営利団体であるネバダ核実験場歴史財団(Nevada Test Site Historical Foundation)の運営であり、核実験とネバダ核実験場の歴史を主に展示している。2005年3月に開館した。スミソニアン協会にも加盟している。
おもな展示物は、核爆弾の発達に関するものやファットマンの模型など。

ATOMIC MUSEUM
A SMITHSONIAN AFFILIATE

It’s A BLAST!

最高だよっ!
核爆発級の、科学と歴史の体験を!!ってこと、らしいですが。。。

ノリノリの女性の写真は、1950年台にラスベガスで発生した「ミス・アトミックボム(ミス・原爆)」で知られる「リー・マリーン」(1957年)
キノコ雲水着というのが、当時の「核実験鑑賞ツアーブーム」とともに文化的象徴でもある。

うーん、なんというか、表現が、ラスベガスというか、アメリカンっぽいですね。
なんか、核に対する根本的な意識が、これに集約されている感もあり。

入館料は、大人$29。だいたい4,000円~4,500円くらい。

National Atomic Museum

メインの展示室

HARRY REID GALLERY
ATOMIC ODYSSEY

このコーナーは、科学技術的な展示室。私には難しすぎた。。。

ハーリー・リードはネバタ州出身の政治家。
ラスベガスの国際空港も以前はマッカラン国際空港であったが、改名され「ハーリー・リード国際空港」と、その功績を讃えている。

ATOMIC LOUNGE & GALLERY

SPY関係の展示があるというがクローズだった。
ここに、ドイツのエニグマ暗号機関連の展示を中心としたコーナーというが、見学できずで残念。。。

DINA TITUS GALLERY
THE MANHATTAN PROJECT

マンハッタンプロジェクトに関連する展示室。
日本人的には、ここが一番、見どころあるというか見ておかないとダメなコーナー。


Fat Man(長崎に投下された原子爆弾)模型

Fat Man(ファットマン)
長崎に投下された原子爆弾の原寸大の模型。
太った男性の丸い形、、、

人類史上初の核実験である「トリニティ実験」に使用されたガジェットと同型。
アメリカ軍での分類番号は「Mk.3」
マンハッタン計画の一部として、ロスアラモス国立研究所でつくられた核兵器。
リトルボーイ(Mark .1)が高濃度ウランに対し、ファットマンはプルトニウムを用いてた。
1945年8月9日に、実戦投入され、長崎に投下された。

第二次世界大戦後も製造が続けられ、1940年台の米軍の核戦力の中心にあった。1947年にはロスアラモス国立研究所にはファットマン60発分の部品が備蓄され、アメリカ兵器廠には使用可能な状態で13発が備蓄されていた。そして1949年までに120発が生産された。

降伏文書のコピー

参考までに。
外務省外交史料館別館で展示されている降伏文書(原本特別公開時に撮影)

ファットマンの模型の後ろで、ミズーリの降伏調印の画像を展示。
ファットマンのおかげで、米国が勝利し、日本が降伏、その通りではあるが。

降伏文書調印式の日本全権 重光葵

ミズーリ号の甲板上にて。

WAR IS OVER
戦争終結

原爆投下部隊が語る JAP 日本の都市襲撃のエピソード。

原子爆弾が、ジャップを驚愕させる。。。

なんとも複雑な思い。


核実験博物館での「ヒロシマ」「ナガサキ」

カメラマンが福岡で出会った男性。

Old Man

<意訳>
この時代の男性の珍しい西洋スタイルのロングコートと帽子が目に止まり写真を撮りました。
撮影した人から簡単な質問をされることは慣れていましたが、この男性は過去のことを語ってくれました。
「アメリカに住んでいたが戦争が始まった際に家族を訪ねていた際に日本で捕えられた。」
原爆についても言及し、私を驚かせました。

「私は家族全員とほとんどの友人を失いました。彼らはあなたや私と同じように罪のない人々で、死ぬべきではありませんでした。私はアメリカを許しますが、忘れろとは言わないでください。土に種をまくように、この灰の中から建物が立ち上がるでしょうが、残念ながら私が生きている間には無理です。あなたは、原爆投下後の状況を人々に伝えてください。」

彼の言葉は、その後、数ヶ月間、私の心を悩ませました。

I lost my entire family and most of my friends. They were like you and me, Innocent ones, and they did not deserve to die. I can forgive America, but don’t ask me to forget. Like planting seeds in the dirt, buildings will rise out of these ashes, but unfortunately not in my life time. You tell your people what it was like after the bomb.


ガジェット(人類初の原子爆弾)模型

人類初の原子爆弾(プロトニウム原子爆弾)
マンハッタン計画で製造
1945年7月16日、ニューメキシコ州のホワイトサンズ射爆場での核実験「トリニティ」で爆発した。
ガジェット(ちょっとした装置)の名称は、爆弾を連想させないことで、情報漏洩を防止し開発を秘匿する意味があった。
「ガジェット」は、「ファットマン」と同様の構造をしていた。
当時、米国では「ガジェット」「リトルボーイ」「ファットマン」を並行して製造しており、トリニティで「ガジェット」の爆発成功から1ヶ月以内に、「リトルボーイ」と「ファットマン」を実戦に投入している。


核開発の歴史

核兵器を開発せざるをえなかった歴史的なお話。
「5W1H」で。

WHY?

WHAT?

WHO?

WHERE?

HOW?

WHAT NOW?


メイン展示室

いったん、メイン展示室に。

トルーマン大統領、、、

<意訳>
製造が間に合わず、原子爆弾を2発しか保有しておらず、実験もトリニティ実験の1回のみであったが、米国として「日本との戦争を迅速に最小限の犠牲者で終わらせるために」、未実験だったリトルボーイをヒロシマに投下。それでも日本は降伏をしなかったために、トリニティ実験で成功した同型のファットマンをナガサキに投下し、日本は降伏した。

<意訳>
1945年7月26日、連合国(アメリカ・イギリス・ソ連)は、日本にポツダム宣言を通告するも、日本はこれを拒否した。連合国による日本本土侵攻はアメリカ軍だけでも推定100万人の犠牲者がでるとされ、政策立案者たちは全員一致で、原子爆弾が最も少ない流血で戦争を終結させ、軍事目標に対して警告なしで使用すべきと結論づけた。
そして、1945年8月に、2発の原子爆弾が投下され、日本は降伏した。
連合国による大規模な侵攻作戦と戦後の戦勝国間の分裂を回避することができた。
<意訳ここまで>

うん、、、、

結果、ヒロシマとナガサキで、21万人以上という市民の犠牲者を招いたわけで。

ヒロシマにリトルボーイを投下した「B-29 エノラ・ゲイ」の模型。


ネバダ核実験場

ラスベガスの北西約105キロのネバダ砂漠にある核実験場。
1951年に核実験場として開設。
ラスベガスに、核実験博物館がある理由でもあり。


展示あれこれ

ネバダ州と、核と、その歴史などが時系列で、いろいろと展示してある。
私は、何度も言いますが、英語がダメなので、なんとなくフィーリングで察しつつ、気になるところはスマホ翻訳をさせながら、観覧をば。

第二次世界大戦後の、原子爆弾の開発の歴史。

あっ、またこのおねえさん。。。

ネバダ実験場

原爆実験をネタにしたグッツの数々。

戦艦ネバダ
1916年就役、1948年海没処分
1941年の真珠湾攻撃に際して日本軍機の攻撃によって被弾するも戦艦列の中では損害は軽微であったが着底座礁。1942年2月に引きげられ1943年3月に大改造を経て修理完了。アリューシャン列島でアッツ島攻略作戦に加わり、その後、ノルマンディー上陸作戦を支援。
1945年2月、硫黄島の砲撃に参加し、その後、沖縄攻略作戦に参戦。
戦後、ビキニ環礁における原爆実験(クロスロード作戦)の標的艦に供出。
1946年7月1日と25日の2回の核爆発実験で、ネバダは生き残った。
真珠湾で調査を受けた後、1848年に標的艦に指定され、7月31日に戦艦アイオワなどから砲撃され、海没処分となった。

クロスロード作戦

核開発の歴史はすすむ。

地下核実験へ、と。

核弾頭ミサイルの変遷

アメリカからみた、戦勝国からみた、核兵器・原子爆弾。
ここでは良し悪しを言うつもりはありませんが、いろいろと考えさせられた博物館。
ラスベガスといえば、ギラギラしたカジノをはじめとしたエンターテイメントの街のイメージしか持っておりませんでしたが、核実験場もある街であったこと、学ばさせていただきました。

※撮影:2025年4月


関連

陸軍通信学校集会所(相模女子大学・2025年8月解体)

相模女子大に残る旧陸軍通信学校の集会所が老朽化のために2025年8月に解体されるとのことで、慌てて足を運んできました。
なお、最後の一般公開日には間に合わず、その翌日に、外見の見学をしてきた次第となります。

2025年8月解体

https://www.sagami-wu.ac.jp/info/20250612_11

相模原女子大学のサイトには以下の記載がある。

解体の経緯
本学では、茜館の文化的価値を尊重し保存に努めてまいりましたが、建設時の図面がなく耐震診断も出来ない状態で、安全上及び居住環境上に大きな懸念があることから、関係機関との協議の上、解体を決定いたしました。
なお、相模原市文化財保護課には、相模原市文化財の保存及び活用に関する条例に基づく「現状変更等届出書」を提出しており、2025年3月31日に受理されています。

茜館の記憶を未来につなぐ取り組みについて
茜館は、戦前・戦後を通じて多くの歴史を刻んできた貴重な建築物であることから、本学ではその価値を未来に伝える取り組みを進めています。
具体的には、茜館の四季をテーマにした動画の制作や、解体後の茜館の一部部材について学内で保管・展示するほか、相模原市立博物館への寄贈を予定しています。


陸軍通信学校

1925年(大正14年)5月1日に、杉並に設置されたことに始まる。跡地は馬橋公園。
その後、陸軍士官学校の移転にあわせて、1939年(昭和14年)に、相模原に移転。
近くには、相模原陸軍病院や陸軍兵器学校などもあった。


陸軍通信学校将校集会所(相模原女子大学・茜館)

1939年(昭和14年)に杉並から相模原に陸軍通信学校が移転したときに、将校集会所として建設された建物。戦後は、相模原女子大学の前身となる帝国女子専門学校が跡地に移転してから教室や本部棟、生涯学習施設などに使われてきた。
近年、雨漏りなどの痛みがひどく、補修困難となり、2025年夏に解体となった。

相模原市登録有形文化財
旧陸軍通信学校将校集会所(相模原女子大学第1本部棟)
相模原市登録名勝
旧陸軍通信学校将校集会所庭園(相模原女子大学フランス庭園)

旧陸軍通信学校が当時の大野村に移転してきたのは昭和13年から昭和14年にかけてです。
将校集会所の外壁は改装されていますが、外観は全体として当時の姿を良く残しています。
庭園は集会所に付設された庭園で、現存する洋風庭園として貴重であり、当時の優れた施工技術を知ることができます。
 注 室内は原則として見学できません。
 登録年月日 平成15年4月1日
  相模原市教育委員会

見学会に参加できなかったのが、つくづく、残念。。。

側溝の蓋、当時からの雰囲気あります。

裏側。

窓から室内を覗く。前日の見学会の名残。。。


陸軍通信学校将校集会所庭園(フランス庭園)

庭園部分も散策


練兵場

今は校庭的な。


陸軍通信学校時代の建屋?

守衛所のうしろの建物。
当時からの雰囲気が濃厚。


陸軍通信学校門衛所

いまは、相模原女子大学の守衛所。当時から役割は変わっていない。


陸軍通信学校正門

門柱が残る。


サガジョ歴史マップ

サガジョで作成された下記が詳しい

https://ymkn.sagami-wu.jp/wp-content/uploads/2023/10/sagajohistorymap2023.pdf

今回は、取り壊し前の建物に夢中になってしまい、結果として、陸軍の星マークのマンホールや、防空壕跡などを完全に見逃しており、さらに奥の給水塔などにも行けず、でしたが。
まあ、いろいろ、また今度かな。。。


行幸道路奉仕記念碑

昭和12年に陸軍士官学校が移転し、その後、相模原には陸軍通信学校や陸軍兵器学校、相模原陸軍病院などが設置され軍都相模原として、南北にわたり陸軍の施設があった。
行幸道路として、最初は士官学校と小田急線士官学校前駅 (現在の相武台前駅) を結ぶ道路の拡張・改修工事が行われた。御幸道路は、その後も延伸され、原町田駅(町田駅)まで整備された。

奉仕記念碑
昭和十二年九月陸軍士官学校ノ本県ヘノ移転ニ伴ヒ
府県道厚木調布線ノ一大改修ヲナスコトトナレリ、
県下青年ノ勤労奉仕ヲ求メ長期建設ニ処スル団体訓練ノ機会タラシムルハ
最モ意義深キヲ思ヒ、関係各方面ノ協力ヲ得テ、
昭和十三年七月ヨリ同十一月ニ亘リ、延人員青年団員三千三百九十三名、
学校報国団員四千八百四十四名、女子青年団員二百七十九名ヲ
奉仕セシメタリ、其ノ結果所期ノ目的ヲ達シ青年ノ心身鍛錬上
極メテ有意義ナリシノミナラズ、工事進捗ノ上ニ貢献スルトコロ亦洵ニ
甚大ナルモノアリタリ、仍テ之ヲ録シ記念トナス  
昭和十四年三月

場所

https://maps.app.goo.gl/n1ts9HpFGUWw3Wys7

※撮影:2025年7月


模擬原子爆弾「パンプキン」長崎に原爆投下したB-29「ボックスカー」の最終投下訓練地(西東京)

西東京市に、模擬原子爆弾が投下されていた。
つい最近にそのことを知り、投下現場に足を運んできました。
ちょうど、戦後80年の節目に当たる2025年の夏に、新しい看板が設置されたとのことで。


模擬原子爆弾の着弾・爆発地点(しじゅうから第2公園)

模擬原子爆弾の着弾・爆発地点
 第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年7月29日午前9時23分、1機のB-29爆撃機が中島飛行場武蔵製作所をねらって模擬原子爆弾を投下し、この付近に着弾・爆発しました。当時この場所はじゃがいも畑で、3人の女性が亡くなり、8人が重傷、3人が軽傷という記録が残っています。2人の女性は、それぞれわが子を自分の体で守り、子ども(女の子:当時7歳、男の子:当時5歳)は助かりました。
 このB-29爆撃機は「ボックスカー」と呼ばれ、その後8月9日に長崎に原子爆弾を投下することになります。

模擬原子爆弾とは
 原子爆弾を確実に目的地に投下して爆発させる訓練のために作られたもので、東京で2発、日本各地に計49発が投下されました。長崎に投下された原子爆弾と同じ形、同じ重さ(4.5t)で、核物質ではなく高性能爆薬が込められていました。
 黄色く塗られ丸い形をしていたことから「パンプキン(かぼちゃ)爆弾」と呼ばれました。
  戦後80年の節目にあたり、模擬原子爆弾が投下され市民が犠牲になった歴史を後世に伝え、平和を考える場とするため解説板を設置しました。
 令和7年7月29日
  西東京市教育委員会 教育部 地域学習推進課

投下から着弾までの想定図

西東京市は、中島飛行場武蔵製作所の北側。

8921-C6-132
1944年(昭19)11月07日‐陸軍撮影を編集 空襲前

東伏見稲荷の西側に位置する。

下記はアメリカ・ラスベガスのアトミックミュージアム展示の「ファットマン原寸大模型」
(2025年4月撮影)

模擬原子爆弾の着弾・爆発地
ここが長崎の原爆攻撃機の最終訓練地でした。
昭和20年(1945年)7月29日午前9時23分、この公園の近くに原子爆弾の投下訓練のため米軍によって模擬原子爆弾(パンプキン)が落とされました。
当時、この場所はじゃがいも畑で、作業中の3人の女性が亡くなり、11人が負傷しました。

西東京市サイトには、以下の記載もある。

1945年8月9日長崎に投下された原子爆弾。
この投下に先立ち、訓練のため、全国で49発の模擬原子力爆弾が投下されました。
そのうちの1発は、武蔵野市にあった中島飛行機武蔵製作所を狙って投下されましたが、
実際には西東京市の柳沢駅近く、現在のしじゅうから第2公園付近に着弾し、複数の死傷者がでました。

https://www.city.nishitokyo.lg.jp/enjoy/rekishi_bunka/bunkazai/pumpkinbomb_shijyukara2.html

以下、西東京市による資料も添付。

https://www.city.nishitokyo.lg.jp/enjoy/heiwa/manabu/sensaipaneru.files/a20.pdf

パンプキン爆弾
重さ4.5トン(通常の高性能爆薬2.5トン)
投下したB29(愛称ボックスカー)は、10日後、長崎に原爆を投下

原爆模擬爆弾の被害
1945年(昭和20年)7月29日、西武柳沢駅南にある現在のしじゅうから第二公園の東側に、強力な爆風を生じる爆弾1発が投下され、畑仕事をしていた女性ら3名が亡くなりました。その爆弾が何であるのか長い間不明でしたが、米軍資料関係者らの調査により、原子爆弾の投下訓練のために全国50ヶ所で実施された作戦の一つであることが判明しました。

いまは、静かな公園。

ちなみに、西武柳沢駅に近い北側には「しじゅうから公園」がある。
模擬原爆が投下されたのは「しじゅうから第二公園」の近く。

「しじゅうから」は、西東京市の鳥、とのこと。

※撮影:2025年7月

※場所:

https://maps.app.goo.gl/5Bs2uhBD9jDEkHhL7


模擬原爆関連

「残された横浜市電最後のポール」と横浜大空襲(横浜市電保存館)

疎開道路散策をしていたら、横浜市電保存館に辿り着きました。

面白そうなので、立ち寄ってみましょう。


残された横浜市電最後のポール

横浜市電保存館の入口にあるポール。
横浜市電を物語る残された最後のポールは、「横浜大空襲を物語る戦跡」でもあった。

ポールの下の部分の穴。
1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲で受けた被弾の跡といわれている。

1928(昭和3)年の横浜市電生麦線開業時に建てられた架線用のポールという。

残された横浜市電最後のポール
このポールは、1928(昭和3)年の横浜市電生麦線開業時に建てられた架線用のポールです。
かつては、市電沿線に列をなして建てられました。横浜の市電は、1904(明治37)年に横浜電気鉄道㈱によって発足しましたが、1921(大正10)年に横浜市が買収して市電となりました。横浜の市電の最盛期は昭和30年代で、路線長は50キロを超えていました。しかし、自動車交通の波にのまれ、1972(昭和47)年3月31日限りで横浜からその姿を消してしまいました。その後市電の線路は道路となり、架線用ポールも道路整備や腐食のために撤去されていきました。
このポールは、神奈川新町の国道15号線の歩道上に奇跡的に残った最後のポールです。このたび道路整備のため撤去されることになったので、記念に保存するため横浜市電保存館に移設しました。なお、撤去されたのは2007(平成19)年6月3日で、高さは地上から7.3mあります。先端のねぎぼうずみたいなポールトップは鉄製の飾りもので、いくつかの型があります。市電保存館の館内に展示されています。
社営時代から取り付けられていました。
このポールの下の部分に穴があいていますが、戦時下の1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲で受けた被弾の跡といわれています。
2007(平成19)年7月
横浜市電保存館

当館のアプローチには、昭和3年(1928年)の市電生麦線開通時に立てられた架線用のポールが展示されています。かつては、市電の線路に沿い列をなして立てられていました。
ポールの下部には、空襲での被弾の跡とされる穴が残っています。


横浜市電

1921年(大正10年)、横浜電気鉄道を買収し、横浜市電気局(現在の横浜市交通局)によって運行開始。
元となる横浜電気鉄道は、横浜市初の路面電車として1904年(明治37年)から路面電車を運行していた民間企業。総延長距離は28.86キロ、8路線、保有車両は104両であった。

関東大震災
1923年(大正12年)の関東大震災では、保有車両143両のうち、72台が火災焼失、13台が大破し、変電所や道路、橋梁、架線の被害も甚大であった。復旧に際しては帝国陸軍鉄道第一聯隊工兵3000人が携わった。

横浜大空襲
1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲では、保有車両203台のうち、48両が焼失等で被害をうけ、関東大震災と同じく、変電所や架線、線路の被害も甚大であった。

廃止
戦後復興と共に財政は逼迫し累積赤字が膨れ上がり、経営が悪化。
モータリゼーションによる慢性的な道路渋滞もあり定時運行も困難となり、そして横浜市の急速な郊外の都市化もあり、時代に変化に追随できなくなった横浜市電は、1972年(昭和47年)3月31日に全廃された。


横浜市電保存館

横浜市電保存館は、神奈川県横浜市磯子区にある、1972年(昭和47年)に廃止された横浜市交通局の路面電車(横浜市電)に関する資料を保存・展示する施設。
もともとは、横浜市電の滝頭電停前・滝頭車庫・滝頭車両工場跡地。現在は、横浜市営バス滝頭営業所、でもある。

以下、館内展示など興味持ったところを。

横浜大空襲


関東大震災

関東大震災とその復興
大正12年(1923年)、関東大震災が発生。横浜市電は車両の半数以上を失い、一ヶ月間、全線が不通となりました。しかし、復興事業による街路の整備や区画整理とあわせて、線路の改良が進められ、郊外の各方面へ新しく路線がつくられていきました。
その距離は震災前の二倍以上となり、市電の路線網はこの時期にほぼ完成したのです。


戦時下の横浜市電

奉祝 紀元二千六百年祝典

戦争と市電
戦時体制下になると、軍事施設への動員による輸送が大きく増加します。スピードアップと電力節約のため急行運転が導入され、工場地帯の鶴見方面への延伸も行われました。しかし、昭和20年(1945年)、空襲によって横浜の中心市街は焦土と化し、市電の車両は約4分の1が焼失、車庫や変電所などの施設も大きな被害を受けました。

横浜大空襲
大空襲直後の横浜市街地
桜木町駅上空付近から根岸湾を望む。
写真中央が現大岡川にかかる吉田橋から伊勢佐木町通りの付近。
桜木町駅は無事だったが、中心市街地のほとんどは焼け野原となった。

空襲の罹災状況を示す地図

戦災車両の記録ノート

戦災被害状況

戦前の横浜市電女性車掌

良き笑顔


戦後の横浜市電

戦後、市民の足として復興した横浜市電は昭和30年代に最盛期を迎える。

昭和35年
路線規模が最大となり運転系統本数がもっとも多かった時期の横浜市電。

昭和41年、生麦線と中央市場線が廃止。

昭和44年、久保山線が廃止。
また杉田線、浅間町線なども廃止済み。

昭和45年
本牧線、保土ヶ谷線の廃止。

昭和46年
山元町線廃止。
もう運転系統路線もだいぶ少なくなってきている。

昭和46年度末での市電全廃。


旧横浜駅東口大時計

昭和3年(1928年)10月の旧横浜駅完成時から、昭和54年(1979年)2月まで半世紀にわたり、東口正面で時を刻んできた大時計です。戦時中は出征兵士が学童疎開、戦後は戦災復興、経済発展、横浜の都市開発が進むなか、多くの出会いと別れを見てきた時計です。激動の昭和を見つめつづけたこの大時計は70余年を走った市電の歴史を刻んできたものでもあり、縁あって当館で展示することとなりました。そしてリニューアルを期に再び時を刻む大時計として蘇りました。


横浜市電の保存車両たち

523号車(500型)

昭和3年、震災復興車両、戦後に15両を600型に改造、昭和44年に廃車


1007号車(1000型)

初ボギー車。昭和3年に震災復興事業として20両を購入。
昭和45年に全廃。


1104号車(1100型)

昭和11年に5両を購入。
昭和47年の市電全廃まで活躍。


1311号車(1300型)

昭和22年の30両を製造。
昭和46年に廃車。


1601号車(1600型)

昭和32年に製造。昭和45年に廃車。


1510号車(1500型)

昭和26年に20両を導入。
「ちんちん電車の決定版」ともいわれた。
昭和47年の市電廃止の最後の日まで走った車両。


無蓋貨車10号

昭和23年製造。戦後復興で市電軌道を修理するために活躍。
レールや枕木、バラスト、石炭輸送などを担い、また祝賀装飾の花電車としても活躍し、昭和47年の市電全廃まで運用された。

いまは、横浜市営バス滝頭営業所

※撮影:2025年6月


周辺の関連記事

根岸の疎開道路(横浜市磯子区)

最近、疎開道路を巡っています。
もちろん、いま、そこに何かが残っているわけではないのだけれども、なんとなく空間が往時を偲んでいるような、そんな気配を感じつつの散策の記録です。


疎開道路

第二次世界大戦中に空襲による延焼防止を目的に、建物を疎開(建物疎開)させ、敷設・拡張された道路を、通称「疎開道路」と呼称してている。


横浜の疎開道路

1944年1月、建物疎開を推進するために、横浜市に臨時疎開課が設立された。第一次として44年4月に鶴見区で工場周辺の民家除却を実施。
第六次として、磯子区では堀脇川下流近くで建物疎開と消防道路の整備が行われた。
実際に1944年5月29日の横浜大空襲では、延焼防止や住民避難、消火活動の役割を果たしたという。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R498-6
1947年11月5日、米軍撮影の航空写真。

上記を拡大。
建物疎開で拡げられた疎開道路の様子がよく分かる。

現在の様子。
紫の線が、疎開道路。上記の拡張された道路空間と一致する。


磯子橋疎開道路

根岸小学校の南北の道路と、磯子橋に至る東西の道路。

以下、疎開道路であったことを記す看板のみが往時を物語っているので、見つけたら写真を撮りつつの散策。


根岸飛行場

根岸疎開道路の入口は、「根岸飛行場跡」
戦前は、ここに飛行艇専用の飛行場があったのだ。

以前、散策していました。
下記の記録の際は、疎開道路をまったく認知せずに周辺を散策していたのだから、モノを知っているか知らないかで、目線が大きく変わるのが、新鮮でもあり。
こうして同じところを目線を変えつつ、何度も往訪することになるのだ。


根岸疎開道路

根岸飛行場跡を南端に、根岸橋に至る南北道路。

根岸疎開道路と磯子橋疎開道路の交差エリア


坂下疎開道路

坂下橋を東西とする疎開道路。


ヘルムドック跡

堀割川の右岸、坂下橋と磯子橋の間に、ヘルム・ドックという木造船所の跡があり、堀割川に水門が開いている痕跡が残っている。開港地の外国人居留地にあったヘルム・ブラザーズ商会。
戦後、このドックの跡地に大入産業という解体業者が入り、その大入産業の次男が松山善三で、大女優高峰秀子と結婚している。

なお、堀割川の石積は、太平洋戦争の被害を免れたため、昭和初期の震災復興期の姿をそのまま残すものとして、2010(平成12)年に土木学会の土木遺産に認定されている。


滝頭疎開道路

掘割川の左岸。南北に連なっている疎開道路。

横浜市電保存館も滝頭疎開道路に面している。

横浜市電保存館は別記事にて。

掘割川河口近く

掘割川

八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

御大典記念碑(昭和天皇陛下即位記念碑)
「ブイ(浮標)」

敬神 東郷平八郎謹書

根岸駅前

根岸マップ

やはり、こういう土地に根付いた郷土史はなかなか興味深い。

※撮影:2025年6月


周辺の関連記事