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旧陸軍航空士官学校の格納庫跡(入間基地)

2024年11月の入間基地航空祭に際して、旧陸軍航空士官学校時代の倉庫が5棟残っているというので、航空機はそこそこに倉庫の見学をしてきました。

もっとも、2024年の航空祭は、C-1ばかり見ていましたけど。


陸軍航空士官学校

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

狭山飛行場

高萩飛行場

坂戸飛行場

館林飛行場関連は未訪問。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:891-C2-92
1944年9月28日、米軍撮影の航空写真

かつての陸軍航空士官学校時代の様子がわかる。

残存の格納庫部分を拡大

現在の様子

当時の写真と照合し、赤枠部分が残存と推測できる。


陸軍航空士官学校時代の北側建屋3棟の現況

2024年11月3日現在の様子。
北側には、3棟が残存している。

北側から。

南側から。
当時は、こちら側が駐機エリア。

西側の側面。


陸軍航空士官学校時代の西側建屋2棟の現況

西側には2棟、残存している。

現在も航空自衛隊入間基地の倉庫として活用されている。


修武台記念館・陸軍航空士官学校航空神社跡・修武台命名記念碑

そこにあるのはわかっているけど、見学は、いつになったらできるのかな、と。
申し込めばよいのですけど。

敷地外の柵の外から。

※2024年11月撮影


関連

「C-1 FOREVER」C-1よ永遠なれ(入間基地一般開放2025年3月)

2025年(令和7年)3月にて、C-1/EC-1は全機引退となる。
その引退前に入間基地一般開放にて、最後の晴舞台、最後の雄姿を魅せてくれた。

これは、行く以外の選択肢は無いでしょ、です。


キュージョンと402飛行隊

入間基地救助犬「キュージョン」と、C-1所属の402飛行隊の部隊旗がお出迎え。
救助とジョンソン(空自入間基地になる前の米軍ジョンソン空軍基地)なキュージョンは、パイロットに憧れている救助犬だとか。

402飛行隊は、航空自衛隊航空支援集団第2輸送航空隊隷下の輸送機部隊。入間基地に所属し、輸送機にC-2、多用途支援機にU-4を運用している。C-1も運用していた。


C-1(28‐1002号機/試作2号機/フィニックス特別塗装)

フィニックス(不死鳥)
永遠に飛び続ける思いを込めて。

第2輸送航空隊(2nd TAG)

C-1 FOREVER


EC-1(78-1021号機/電子線訓練機/カモノハシ)

カモノハシ!

最後のツーショット、、、


展示場所移動

フェニックスとカモノハシの移動。

あっ、C-2が来ました。

世代交代

C-1とC-2の最後のツーショットと思うと、なんか込み上げてくるものがあり。。。

このタイミングは粋な演出。

C-2を見送り。


EC-1カモノハシ地上滑走

カモノハシの地上滑走

放水のフィナーレ


C-1フェニックス地上滑走

同じく、放水のお出迎え

お疲れ様

パイロット


ターミナルから

入間基地ターミナルからの2機

投稿写真で描かれたEC-1

そして、C-1も。

よくみると、ひとつひとつの写真が。これはすごい力作!

段ボールすごい。。。


C-1地上展示(08-10030号機)

なにげに、C-1の機内をちゃんと見るのは初めてだったかも。


C-1地上展示(18-1031号機)

2024年11月3日の入間基地航空祭で、ラストフライトをした31号機。
もう飛べないけど、まだその姿をみることができました。


YS-11地上展示(02-1159号機/スーパーYS-11)

まさか、YS-11より先に、C-1が全機引退とは、誰が予想しただろうか。。。
エンジンを換装しプロペラ3枚に変更したスーパーYS-11はまだ、空自で運用されているという奇跡。

YS-11EB(159号機)

YS-EA(162号機)も。


こうやって、C-1最期の姿を眺めるだけで、感慨深くなります。
高校生のとき、初めて行った航空祭で、C-1の高機動に魅了されて以来、好きな機体でした。

ありがとうございました!!
お疲れ様でした!!

※撮影:2025年3月


関連

入間基地航空祭「C1 031号機ラストフライト」(2024年11月)

2024年11月、入間基地航空祭。
日本が誇る中型輸送機「C-1」の全機退役を控えて、最後のC-1揃い踏みな航空ショーが開催された。
体調はいまいちでしたが、なんとか観覧に。


C-1(試作1号機XC-1/空中試験母機/001号機/銀ちゃん)

岐阜基地所属

試作1号機と2号機、光景のC-2の揃い踏み


C-1展示飛行

C-1とC-2の編隊飛行


C-1 31号機ラストフライト

C-1量産の最終号機31号機のラストフライト。
僚機30号機とともに、最後の飛行。

31号機の着陸。

放水アーチでのお出迎え

LAST FLIGHT
C-1 18-1031

空自70周年


ブルーインパルス

毎度おなじみってことで。

※撮影:2024年11月


関連

荒川区の疎開道路(消防道路・尾久の原防災通り)

先日の博多散策で疎開道路のことを調べていたら、東京にも名残があったので、せっかくなので足を運んでみました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:B29-C3-64
1936年6月11日、帝国陸軍撮影の航空写真
昭和11年、まだ戦争前の航空写真。

ファイル:8921-C3-37
1944年11月07日、帝国陸軍撮影の航空写真。
いくつかの道路が拡張されているのがわかる。

拡大。1936年。

拡大。1944年11月7日。
ちょうど1944年11月24日にB29爆撃機が東京を初空襲する、その直前の航空写真。
赤線で挟んだ道路が、疎開道路となる。

現在の様子。


荒川区の疎開道路(消防道路・尾久の原防災通り)

「尾久の原防災通り」は、第二次世界大戦中に、空襲による延焼防止を目的として、建物を疎開させ、敷設・拡幅された疎開跡地。
戦後に、通称「疎開通り」と呼称された。
東尾久6-17先から東尾久1-1先明治通りまでの区道、約1360メートル。
昭和48年に「消防道路」と呼称され、平成24年に荒川区によって再整備後、公式な愛称が「尾久の原防災通り」となっている。

いまでは、普通の、歩道がちょっと広めの生活道路の様相。
戦争ゆかりの疎開道路を物語るものはない。

地味だけど、何もないけど、古地図と、通りの名称から、往時を偲んでみた。

場所:
https://maps.app.goo.gl/8p8bfZRkXjj31tgs9

撮影:2025年1月


「陸軍砲工学校跡地」と「産業遺産情報センター」(新宿区若松)

最近、若松河田駅の近くに行くことが多い。

この記事の追記(標石を追加で見に行ったり)で、再訪していたり。
周辺を調べていたら、陸軍砲工学校の標石もあるというので、再度で訪れてみました。


陸軍砲工学校

明治22年(1889)に設置。
昭和16年(1941)に陸軍科学学校に改組。
似たような校名の陸軍砲兵工科学校(陸軍兵器学校)とは異なる。
陸軍砲工学校では、砲兵科・工兵科将校の専門教育を実施。
昭和16年(1941)に陸軍科学学校に改組。
昭和19年(1944)に閉鎖。

陸軍砲工学校は、現在の総務省第二庁舎や新宿区立余丁町小学校のあるあたりにあった。


陸軍砲工学校の境界標石

国立国際医療研究センター前バス停の近く。総務省第二庁舎の北東の角に残っている境界標石。

「陸軍省所轄地」の上部が見える。

総務省第二庁舎の北側の入口。

統計博物館もあるけど、こちらには立ち寄らず。

国立国際医療研究センター

場所

https://maps.app.goo.gl/tDmxER1fQcDMLBSv7


産業遺産情報センター

予約制の資料館
公式サイトから予約が必要

https://booking.ihic.jp/l/ja-JP

2025年2月の某日に行ってきました。せっかくので。

東側の入口から入ります。

産業遺産情報センター

館内は撮影禁止

世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」を全体的に紹介する施設。
幕末から明治の日本の近代化の発展の様子を、産業革命遺産の観点から展示解説。わかりやすく佳き展示。

8つのエリア、全23資産により構成される「明治日本の産業革命遺産」
【製鉄製鋼】
萩(萩反射炉、大板山たたら製鉄遺跡等)
鹿児島(集成館)
韮山(韮山反射炉)
釜石(橋野鉄鉱山・高炉跡)
八幡(八幡製鐡所)
【造船】
萩(恵美須ヶ鼻造船所跡等)
佐賀(三重津海軍所跡)
鹿児島(集成館)
長崎(小菅修船場等)
長崎(長崎造船所)
(石炭)
長崎(高島炭鉱、端島炭鉱等)
三池(三角西(旧)港)
三池(三池炭鉱、三池港)

音声ガイダンス端末を借りて、資料に接し、そうして1時間ほど、滞在。

ガイドブック

https://www.ihic.jp/l/ja-JP/guidebook

刊行物

https://www.ihic.jp/l/ja-JP/publications

https://www.japansmeijiindustrialrevolution.com/conservation/interpretation.html

ガイドブックや冊子は地味に嬉しい。

場所

https://maps.app.goo.gl/3bVKkGp8VphhfPf69

撮影:2025年2月


若松台の陸軍経理学校跡地散策(新宿区)

終戦時には小平にあった陸軍経理学校。
かつては、牛込区河田町にあり、陸軍士官学校の「市ヶ谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」と呼称されていた。

そんな若松台の跡地を散策してみました。


陸軍経理学校

陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育、あるいは経理官への上級教育を行っていた陸軍学校。教育に限らず陸軍経理に関する調査と研究なども行っていた。陸軍経理とは会計だけに限らず、監査、被服、糧秣、建築も職務に含まれていた。

明治19年(1886)に陸軍軍吏学舎が設置されたことに始まる。
明治23年(1890)に陸軍軍吏学舎を廃止、陸軍経理学校を開校。
明治33年(1900)に「陸軍経理学校本校」を東京市牛込区河田町に移転。陸軍士官学校の「市谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」の愛称で呼称されることとなる。
昭和17年(1942)3月、陸軍経理学校は戦争による生徒、学生、幹部候補生等の人員増加のため、東京府北多摩郡小平村に移転。昭和20年8月の敗戦により閉校。

  • 市谷台 市ヶ谷:座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
  • 相武台 座間:陸軍士官学校(陸士)
  • 修武台 所沢:航空士官学校(航士)
  • 振武台 朝霞:陸軍予科士官学校(予士)
  • 若松台 若松:陸軍経理学校
  • 健武台 八王子:東京陸軍幼年学校(東幼)

小平の陸軍経理学校

陸軍経理学校「若松神社」

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑

https://maps.app.goo.gl/S4v4fQaUiLFFsACN8


若松台の陸軍経理学校跡地の散策

東京女子医大前に跡地の記念碑がある。
この界隈は、戦前は、成城学校、陸軍振武学校、陸軍経理学校などがあり、戦後は、都営若松アパート、東京韓国学校、東京女子医大学校となってきた。成城学校はいまもある。


陸軍経理学校跡碑(東京女子医大)

陸軍経理学校跡

若松台と称し、明治33年(1900)年から昭和17年(1942)年に、多摩・小平へ移転するまで経理部将校を養成した。

平成22年12月吉日
同窓会 若松会 建之

女子医大通り

東京女子医科大学の創設者は吉岡彌生。昭和5年(1930)に東京女子医科大学病院1号館が建設された。平成28年(2016)に解体。

場所

https://maps.app.goo.gl/S4v4fQaUiLFFsACN8


陸軍経理学校の境界壁跡と境界標石(水野原児童遊園付近)

東京女子医科大学の北側の住宅地に、陸軍経理学校時代の境界壁の残骸が残っている。
再開発もあり、すでに一部は撤去されてしまっている。

下記は2024年5月の様子。

下記は2025年1月の様子。ビルが新築され、煉瓦壁は除去された。

陸軍の境界標とおもわれる標石。

もう一個、あった。こちらも陸軍境界標石と思われる。

ぼちぼち、新築ビルが完成する。

場所はこのあたり

https://maps.app.goo.gl/G7bJe2BJndmCwzv46


陸軍経理学校の境界標石(日生薬局牛込店前)

X(Twitter)のフォロワー『遺構』散歩 カントさん(@6s8U7cYM1hiROXY)から、教えていただきました。

さっそく、見に行ってみましたので追記。

高さに違和感がないのが不思議。なんで飛び出ていないのだろうか。。。

場所

https://maps.app.goo.gl/v2BG1fKqrURcUWa96


若松町の陸軍境界標石(若松河田駅前)

若松河田駅の「若松口」のすぐ近く。

同じく、X(Twitter)のフォロワー『遺構』散歩 カントさん(@6s8U7cYM1hiROXY)から、教えていただきました。

こちらも足を運んでみました。

標石の隣の自販機が目印。

ビルの東側にも標石がある。

今昔マップon the webから抜粋

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.700688&lng=139.718118&zoom=17&dataset=tokyo50&age=2&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

場所的には、経理学校に近いけど、道を挟んだ反対側。なんの境界標か、ちょっと悩ましい。移転してる?

どうやら「牛込憲兵分隊」の陸軍境界標石らしいです。
コメントにて、ご教授頂きました

場所

https://maps.app.goo.gl/Q7h61t6rmKa2PeL16


小笠原伯爵邸
(昭和2年造・東京都選定歴史的建造物)

若松河田駅の近くには「小笠原伯爵邸」がある。東京都選定歴史的建造物。
旧小倉藩の華族小笠原長幹伯爵邸。1927年(昭和2年)建立。
スペイン風邸宅、スパニッシュ様式で鉄筋コンクリート造の地上2階、地下1階建て。
もともとは江戸時代の小笠原小倉藩下屋敷跡。
戦後1948年(昭和23年)に米軍に接収。4年後に東京都に返還。
1975年(昭和50年)まで東京都福祉保健局中央児童相談所として使用されたが、その後は放置。
2000年(平成12年)に東京都生活文化局から民間貸出となり、現在のレストラン「小笠原伯爵邸」としてオープンし、今日に至っている。

小笠原長幹は小笠原宗家30代当主。
信濃小笠原氏は5つの藩に別れた譜代大名であり、信濃小笠原氏のうち府中小笠原氏の流れをくむ旧小倉藩の小笠原宗家は伯爵家。(小笠原伯爵家)
そのほかの小笠原家は子爵家。
府中小笠原氏として、安志小笠原子爵家・千束小笠原子爵家・唐津小笠原子爵家。
松尾小笠原氏として、勝山小笠原子爵家。

ちなみに唐津小笠原子爵家の小笠原長生は海軍中将として著名。

https://senseki-kikou.net/?p=39525

場所

https://maps.app.goo.gl/QjjwQca2TvcARzvF7


若松河田駅

若松町と河田駅の複合地名駅。

場所的には、若松町。
陸軍経理学校は、若松台と呼称されていた。

ちかくには、成城学校もある。
創立当初は陸軍士官学校・陸軍幼年学校への全寮制予備校であった。

※撮影:2024年5月及び2025年1月


関連

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑

磯部浅一は、経理学校出身だった。(もちろん小平に移転する前に卒業しているが)

海軍経理学校

第1空挺団「降下訓練始め」(陸自習志野演習場・2025)

令和7年1月12日。

陸自第1空挺団による新春恒例の「降下訓練始め」が実施されましたので、足を運んでみました。


空の神兵

大日本帝国陸軍・海軍の落下傘部隊(空挺部隊・挺進部隊)、落下傘兵(空挺兵・挺進兵)に対する愛称。
海軍は「空挺部隊」
陸軍は「挺進聯隊・挺進集団」
そして、陸自は「空挺団」

太平洋戦争(大東亜戦争)蘭印作戦
1942年(昭和17年)1月11日
海軍の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊がセレベス島メナドに対し敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。。
1942年(昭和17年)2月14日
陸軍の第1挺進団(挺進第2連隊)がスマトラ島パレンバン(パレンバン空挺作戦)に対し同じく敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。
両作戦は成功しオランダ軍他が守備する飛行場(メナド・パレンバン)や、大油田・製油所(ともにパレンバン)を制圧した。
これらの活躍から日本軍落下傘部隊に対し「空の神兵」の愛称が付けられた。

「空の神兵」は、帝国陸軍落下傘部隊(第1挺進集団)の事実上の後身である陸上自衛隊第1空挺団にも継承されている。
習志野の陸自第1空挺団は、昭和27年より研究されれ昭和30年に設立した初代空挺教育隊を起点とし、初代空挺教育隊長を務めた衣笠駿雄元陸軍少佐(初代第一空挺団長)に率いられた第1次研究員20名によって昭和33年に創設された。
この第1次研究員20名こそが太平洋戦争末期に帝国陸軍落下傘部隊において教育途中であった元挺進兵であった。そのため帝国陸軍落下傘部隊の歴史は陸上自衛隊落下傘部隊の歴史とされ、その伝統を堂々と継承している第1空挺団の事実上の隊歌として使用、かつ「降下訓練始め」では歌唱付きの『空の神兵』がそのまま場内で放送されている。


降下訓練始め 準備

入口から、見学場所まで、まいどまいど、それなりの距離があるんですよね。

高台に陣取り。

アメリカの偉い人が乗っているヘリ。(あまり詳しくないので)

指揮官の降下

防衛大臣、いらっしゃいました。

続々と降下!!

米軍機

真白き薔薇の花模様

空の神兵
 梅木三郎作詞  高木東六作曲

藍より蒼き大空に大空に 忽ち開く百千の
真白き薔薇の花模様 見よ落下傘空に降り
見よ落下傘空を征く 見よ落下傘空を征く

世紀の花よ落下傘落下傘 その純白に赤き血を
捧げて悔いぬ奇襲隊 この青空も敵の空
この山川も敵の陣 この山川も敵の陣

敵撃摧と舞い降る舞降る まなじり高きつわものの
いずくか見ゆるおさな顔 ああ純白の花負いて
ああ青雲に花負いて ああ青雲に花負いて

讃えよ空の神兵を神兵を 肉弾粉と砕くとも
撃ちてしやまぬ大和魂 我が丈夫は天降る
我が皇軍は天降る 我が皇軍は天降る


降下訓練始め

地上展開

AH-1Sコブラの航空支援

白兵戦

迫撃砲陣地展開

テェッ

地上支援戦力投入

10式戦車と16式機動戦闘車

今回は、体調が今ひとつというのと、カメラの不調もあり、電池不足もあり、で、最後は半端な観戦になってしまいました。

難しいことは機にせずに、鑑賞していて楽しいのが空挺「降下訓練初め」

※2025年1月撮影


関連

「昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)」36年目の昭和天皇武蔵野陵に拝する(令和7年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。
国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

あの日から、36年。

今年も、 昭和天皇 武蔵野陵(しょうわてんのう むさしののみささぎ)へ参拝をいたしました。

昭和から平成、そして令和へと、時代は移り変わるも、決して忘れてはいけない昭和の記録を伝承し、そして歴史として、後世に紡いでいくために。

昭和天皇 武蔵野陵(むさしののみささぎ)

昭和天皇 武蔵野陵 
昭和六十四年一月七日午前六時三十三分崩御 平成元年二月二十四日斂葬

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。

拝礼


昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)

祭礼に関する撮影は一切禁止、です。
午前9時半頃より、一般参拝が停止され、祭員参進が始まります。
午前10時より、「山陵に奉幣の儀」が奉祭されます。
おわるのは、午前10時30分から11時の間くらい。
祭員が退出次第で、一般参拝が再開されます。

祭祀は、神道式。

  • 祭員参進
  • 式部官参進(宮内庁式部職)
  • 招待者参進
  • 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下)
  • 勅使参進
  • 献饌(奏楽)
  • 勅使拝礼(奉幣)
  • 皇族代表拝礼
  • 招待者拝礼
  • 撤饌(奏楽)
  • 勅使退出
  • 皇族代表退出
  • 招待者退出
  • 式部官退出
  • 祭員退出

祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

祭員退出のあたりで、写真撮影禁止ではなくなったり。

毎年、見かける人がいました、、、

今年も、佳子内親王殿下が参列、でした。

今年は10時30分頃には一通りが終わった感じで。


香淳皇后 武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)


大正天皇 多摩陵(たまのみささぎ)


貞明皇后 多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)


武蔵陵墓地・武蔵陵墓地

この先は、お察しください。。。

木漏れ日

撮影:2025年1月


関連

愛媛縣護國神社

2024年11月、愛媛県松山市に訪れる機会があった。自由時間がほとんどない中で、一箇所だけ行くのであれば、で、時間捻出して「愛媛縣護國神社」に足を運んでみました。


愛媛縣護國神社

愛媛縣護國神社御由緒
愛媛縣護國神社は、明治32年「私祭招魂社」として創建(現松山東署付近)され、大正2年新立町多賀神社に移設。その後、昭和14年内務大臣指定護國神社として、その創建が認められ、愛媛県民の総意により現在の社地を選定し、同年10月社殿竣工遷座申し上げました。社号は愛媛縣護國神社に改称、神饌幣帛供進神社、県社に指定されました。昭和20年7月戦災により焼失しましたが、復興奉賛会を創設し県内外の御遺族崇敬者の皆様方からの御浄財及び勤労奉仕により、昭和26年から造営に着手し、昭和30年10月現在の社殿が竣工しました。一時期、神道指令により社号を御幸神社と改称するも昭和27年9月平和条約締結により社号を愛媛縣護國神社に復称し現在に至っています。

御祭神
明治戊辰の役から大東亜戦争に至る迄の幾多の事変戦役に於いて国防の重任に当り、国難に殉じられた愛媛県出身の護国の英霊をはじめ、社会公共の為に尽力し、愛媛県の産業文化に貢献して、永く県民に恩恵を垂れさせられた功労者、並びに消防・警察・自衛隊公務殉職者を奉斎し、県民畏敬の神社として唯今49、727柱の御神霊をご鎮祭申し上げて居ります。

http://www.gokoku.org/contents/history.html

愛媛縣護國神社御由緒
御祭神
明治戊辰の役より大東亜戦争に至る迄の国難に殉ぜられたる愛媛県出身の英霊
公務殉職者(自衛官・警察官・消防団員)
又郷土の産業・文化発展の功労者等
 松山城初代城主 加藤嘉明命・俳人 正岡子規命
 伊予絣の創始者 鍵谷カナ命
49,700余柱を御奉斎

ご由緒
明治32年「私祭招魂社」として創建
大正2年 新立町多賀神社に「愛媛招魂社」と改称移設
昭和14年 現在地に遷座
 社号を「愛媛縣護國神社」と改称
 神饌幣帛供進神社県社に指定
昭和20年7月26日 戦災により焼失
同26年から30年の4年間で現在の社殿を竣工

皇室のご崇敬
昭和41年4月  天皇皇后両陛下御親拝
昭和49年7月  皇太子同妃殿下御参拝
昭和28年10月 高松宮宣仁親王殿下御参拝
       扁額「護國」のご奉納を賜る
昭和50年10月 常陸宮同妃殿下御参拝

護国神社
 護國の英霊や愛媛の産業文化に功績のあった人々をまつった神社で、広い境内には戦没者の慰霊塔や殉職者の追悼碑などがある。また、万葉植物園が設けられ、万葉集に詠まれた多くの植物が歌とともに植えられているのも興味深い。
(道後村めぐり 第19番)
  松山市

愛媛縣護國神社境内案内図

非常に細かい案内図は、参拝に際に助かる情報。

拝殿

拝する
ありがとうございます

拝殿には高松宮宣仁親王が揮毫した「護國」の額面が正面に掲げられている。昭和28年(1953年)の参拝時に奉納という。

松山御幸山を控える

松山御幸山麓に鎮座


御朱印


終戦70年記念事業顕彰碑

御幸殿新築、本殿改修、祈念史料室新設、神橋改修


祈念史料室 みゆき

愛媛縣護國神社
当社は、明治32年(1899)、私祭招魂社として現在の松山東警察署付近に創立、大正2年(1913)新立町の多賀神社境内に愛媛招魂社として移遷、昭和14年(1939)に歴史ある御幸の地に、愛媛縣護國神社と改称して創建された。
 戦後、一時期御幸神社と称していたが、昭和27年(1952)に復称した。
 爾来、正月三が日には県下一のご参拝を戴くなど、県民の心のよりどころとして鎮座しています。

愛媛縣護國神社の御祭神
御祭神は、戊辰戦争から大東亜戦争までの幾多の事変・戦役で、国難に殉じられた愛媛県出身の護国の英霊をはじめ、社会公共の為に尽力し、郷土の産業文化に貢献された功労者、並びに消防・警察・自衛隊の公務殉職者を奉斎しています。

祈念史料室みゆき
この祈念史料室みゆきは、終戦七十年記念事業の一つとして御幸殿の中に併設されました。
国のために尊い命を捧げ、現代日本の礎となられた英霊の遺品や遺書、手記などを通じて、御意志を受け継ぎ、平和と命の尊さを学ぶために、愛媛県遺族会等のご協力により開設しました。

梟や 聞耳立つる 三千騎
 明治28年 正岡子規命

櫻井忠温格言碑 堀之内
櫻井忠温は日露戦争の際、歩兵第22聯隊の聯隊旗手として戦い、瀕死の重傷を負った。
『最も愛情あるものは、最も勇敢なり』

歩兵第22聯隊は、「伊予の肉弾連隊」と畏怖された精鋭部隊であった。数々の戦役に出征して武勲を重ね、日本軍屈指の戦果を挙げた。

日本騎兵の父秋山好古陸軍大将は、晩年に松山に帰郷し、中学校校長を務めた。中学校長時代に日露戦争で散華された愛媛県出身者を悼み、秋山好古揮毫の忠魂碑が愛媛県下には13箇所、建立された。

本土防空の戦闘機主翼の機銃
(99式20粍機銃)

愛媛の戦没者の実態
愛媛県戦没者慰霊塔(丸山墓地)

愛媛の部隊・出身者の活躍と最後
歩兵第22聯隊
 満州から沖縄に派遣され、第32軍の隷下として沖縄戦で奮戦玉砕
第40師団第234聯隊
 大陸打通作戦、中支で終戦
第65旅団歩兵第122聯隊
 バターン半島攻略戦、第1支隊として南洋に転進し基地固守
南洋第6支隊
 西部ニューギニアで奮戦、ジャングルを転進し304名中5人のみ復員
富山丸
 沖縄輸送で轟沈、3,600名以上(うち愛媛県出身約370名)が犠牲

愛媛県下の空襲と戦後復興
空襲の激化と本土防空・松山の海軍航空隊(源田部隊)

愛媛県下では、松山、今治、宇和島が空襲被災

戦没者を奉恩顕彰し郷土で共に生きてきた人々

加藤嘉明命と正岡子規命


日本海軍零戦プロペラ

日本海軍零戦プロペラ
このプロペラは太平洋戦争当時最新鋭戦闘機として活躍した日本海軍の零式戦闘機に使用された可変ピッチ式(恒速プロペラ)のものである。
恒速プロペラは発動機の公称回転をたもつように速度の変化に敏速に応じて移動的にプロペラのピッチが調節される仕組になっているもので当時においては最高水準をいくものであった。
昭和43年10月宇和島市神田川原3区加藤勉氏が西宇和海で操漁中網にかかったものを回収し当松山駐とん部隊に寄贈されたものである。
(平成13年9月愛媛縣護國神社に移転しました)


歩兵第22聯隊の石柱と歩哨舎

石柱と歩哨舎
松山歩兵第22連隊は、明治17年2月7日創設以来最精強とうたわれた。この石柱は終戦まで60余年歳月の中に日本の盛衰を見つめながら幾多の将兵を送迎した由緒あるもので陸上自衛隊松山駐屯地にあったが、愛媛縣護國神社に移設し、その栄光をたたえつつ永久に保存することになった。
 平成13年10月1日


忠魂社(歩兵第22聯隊忠魂社)

忠魂社沿革誌
当社は昭和五年一月県下市町村並に一般有志の浄財により堀之内兵営内、衛兵所西側に聯隊忠魂社として建設、同年五月三十日鎮座祭が執行せられた。
爾来毎年軍旗祭当日、戦没者の慰霊祭が盛大且厳粛に執行せられていたが、昭和二十年の終戦により翌二十一年一月現在地に奉遷された。
その後護國神社の例大祭に併せて英霊鎮魂の祭典が執り行われている。


歩兵第22連隊記念之碑

歩兵第22連隊記念之碑

歩兵第22聨隊は、明治19年8月17日明治天皇より初代杉山直矢大佐が軍旗を拝受、爾来明治27年の日清戦役、明治378年の日露戦役には二百三高地に桜井忠温少尉が軍旗を立て、大正3年第1次世界大戦にはシベリヤに出征し野中保教中佐、永田常治郎准尉等が輝かしい武功を立て、大東亜戦争に中支満州最後沖縄にて勇戦せしも其の甲斐なく昭和20年6月22日吉田勝第27代聨隊長以下玉砕し軍旗を捧焼し、、まことに感慨無量、松山聯隊の遺史を回顧し、国事に殉じたる戦友の英霊を慰め平和の記念とし、1基を建立して後世に伝えんとす
 昭和44年5月27日

県会議長渡部高太郎氏沖縄軍旗捧燒ノ土奉納


大絵馬

恒例となっている地元出身の墨絵アーティスト・茂本ヒデキチさんによる奉納大絵馬


愛馬の像

忠勇な将兵の忠実な同伴者として、幾多の事変戦役に、戦線万里の荒野を暑さ寒さにも耐え、喜びも悲しみもともにしたその軍馬は、あるいは陣地に傷つき、病に倒れて骨を戦野に、さらしたものが少なくありません。
これを思うと傷心哀愁の情まことにせつないものがあります。
 このたび、大東亜戦争50周年記念事業として、英霊の伴侶とすべく軍馬の功を称へ、霊を慰めるため、「愛馬の像」を建立した次第であります。
  愛媛縣護國神社宮司 波爾荘 識


特別攻撃隊顕彰碑
あゝ特攻

私たちは決してあなたたちを忘れない

特別攻撃隊顕彰碑文
昭和十九年末、大東亜戦争の戦局も悪化の一途をたどる中、六千余名の勇士が航空特別攻撃隊として南溟の地に散華されました。日本の今日の平和と繁栄は、あなた達の至高至純の祖国愛と肉親愛の上に築かれたのであることを私達は決して忘れません。ここに愛媛県出身の七十四柱の顕彰慰霊の碑を建立し、その功績を讃え、精神を未来に伝えます。
  平成二十年四月吉日
    建立発起人
     愛媛偕行石鉄会 日本会議愛媛県本部 
     愛媛郷友会 愛媛県隊友会
     愛媛水交会 愛媛県海交会


天壌無窮碑(秋山好古揮毫)

秋山好古陸軍大将の揮毫。
昭和3年御大典・清水小学校開校記念碑として昭和3年建立。
戦後、GHQの撤去命令により記念碑を撤去保管し、後年に愛媛縣護國神社に再設置されたもの。撤去時に割れたものという。

天壌無窮とは、天地とともに永遠に極まりなく続くさま、を言う。
教育勅語「以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」(かくして神勅のまに々々天地と共に窮りなき宝祚あまつひつぎの御栄をたすけ奉れ。)


碑の道しるべ


歩兵第二十二聨隊 
忠魂碑

歩兵第二十二聨隊 忠魂碑

昭和54年3月10日建立
 題字 愛媛県知事 白石 春樹

碑文
 聯隊は、明治19年8月17日明治天皇の聖諭と共に軍旗を親授され、堀之内に創設された。
 尓来主として県内の若人が入営し、郷土聯隊として60有余年に亘り、日清、日露の両戦役を始め、シベリア派兵、上海事変、日支事変、北満の警備等、数度の外征に赫々たる武勲をたて、豫州健児の名聲を高めた。
 大東亜戦争の末期には、沖縄に転進して本土防衛の重任にあたり、優勢なる米軍の猛攻を受け、敢然死斗防戦につとめたが、遂に昭和20年6月、沖縄南部地区の戦斗において、軍旗もろとも将兵全員玉砕した。
 ここに、諸先輩の偉勲を偲び、その功績を称え、英霊の永久に安らかな鎮座を祈念する。


歩兵第百二二聯隊
南洋第一支隊 
忠魂碑

忠魂碑

第65旅団歩兵第122連隊は 昭和15年8月 松山市に於て編成 同12月4日軍旗を親授された 昭和16年11月16日三津浜を出港 同23日台湾に上陸 大東亜戦争勃発するや 昭和17年1月1日 比島ルソン島に上陸 バタアン要塞攻略戦に参加 爾後北部ルソン島の戡定作戦に参加 昭和18年8月24日 マーシャル群島方面に転進のためマニラを出港 同年9月7日 クエゼリン ミレー ヤルート ウオツチエ マロエラップ 各島に上陸 各基地海軍指揮官に配属され 基地防衛の任に就く 同年12月 南海第1守備隊の生存者約300名を加え 南洋第1支隊に改編された 昭和18年11月以降 米軍の完全な制空海権下に 苛烈な砲爆撃と深刻な飢餓のもと 困苦欠乏に堪ええて 悪戦苦闘すること1年10ヶ月 能く基地固守の任務を完遂した
比島及び マーシャル群島を通じ 我が部隊戦病没者数は3千余名に上る
  昭和50年5月3日
  歩兵第百二十二聯隊 南洋支隊 会 建立  題字 渡邊祐之介

大東亜戦争下に 祖国の興亡を憂いつゝ 比島の山野に マーシャル群島の沙汀に 若くして散華された多くの戦友への 追悼の念は歳を重ね 世相の移り変るに従い 愈々深い
茲に 旧隊員一同相謀り 忠魂碑を建立し 不朽の功績と崇高な精神を永遠に顕彰する


鯨部隊
歩兵第二百三十四連隊 
慰霊塔

慰霊塔
鯨部隊歩兵第二百三十四連隊

昭和14年8月部隊結成 同年10月6日中支戦線に出動 以来8年の間 中支 北支 南支に転戦 終戦により昭和21年5月末帰還 この間に戦歿せし 2768柱をはじめとし 護国の英霊のために之を建てる
  昭和43年3月3日
   鯨部隊 歩兵第234連隊生存者一同

鯨部隊歩兵第234連隊結成の地 松山御幸山麓護国神社の境内に 亡き戦友の御霊永久にお鎮り下さいと祈って 元連隊長 戸田義直氏の提唱で 慰霊塔を建立したものです
 昭和47年3月5日


満洲第712部隊
歩兵第43聯隊
慰霊碑

満州第712部隊 歩兵第43聯隊 慰霊碑

碑文
 昭和13年松山歩兵第22聨隊は松山より満州西東安に移駐した後第24師団に編入された為 昭和15年2月以降愛媛の若人は徳島歩兵第43聯隊等に入隊した 同年より聯隊は満洲第712部隊または錦2435部隊と呼称された
 昭和19年第3大隊の617名は大宮島(グアム島)に分遣され同年9月末米軍との熾烈な戦いに於て玉砕し其のうち164名は愛媛県出身者であった
 更に歩兵第43聯隊に在隊せし者で祖国の安泰と恒久平和を願いつつ国の砂として散華された多くの戦友の苦難を偲び御英霊に心からの感謝と畏敬の誠を捧げ茲に慰霊碑を建立す
 平成7年5月
 歩兵第43聯隊愛媛戦友会
 慰霊碑建立委員会 他戦友一同


海軍戦没者慰霊碑

海軍戦没者慰霊碑

終戦50年の節目に当り、日本民族の繁栄と、世界平和を念じながら散華された、郷土出身1万496柱の英霊と、戦後復員し荒廃した祖国の復興に貢献された御霊に対し、永遠にその偉業を讃え、愛媛県海交会相図り愛媛縣護國神社の神域に慰霊碑を建立することができました。
 ここに謹んで国家悠久の大義に殉じた海軍戦没者に鎮魂の誠を捧げて、その栄光と、併せて日本国の安泰と繁栄を祈念して、この慰霊碑を建立するものであります。
 平成7年12月8日
  愛媛県海交会
   会長 清水義隆
   会員一同


雄飛 豫科練鎮魂之碑

雄飛 豫科練鎮魂之碑

 豫科練雄飛
 それは、昭和5年日本海軍が航空兵力増強の期待を担って少年航空兵としての海軍豫科練習生制度を創設し弱冠15歳前後の紅顔無垢の少年達79名を第1期生として横須賀海軍航空隊に入隊させ呱々の声をあげたに始まる。爾来昭和20年8月の聖断下る日まで十年余の短い歴史に過ぎないが第24期生まで実に7萬1千名を数える。この間若人達は祖国を護らんと堅き決意を抱き飛行機搭乗員を志し飛行豫科練習生として続々入隊鉄石の猛訓練によく耐え搭乗員としての基礎を養い期待通りの成果をあげ大空に巣立っていった。
昭和12年支那事変勃発するや豫科練出身搭乗員は初陣の誉に浴しあの輝かしき渡洋爆撃行に列し活躍花を咲かせた。太平洋戦争においては、世界に誇る海の荒鷲としてハワイに、マレー沖に緒戦を飾り文字通り海軍航空隊の中核として熾烈な航空戦に従事し伝統の中に豫科練魂を築き上げ身を捨てて顧みない崇高な精神を鍛えあげた。戦い酣兄等は空の果てるところ海原遥か長躯翼を捷って祖国存亡の激戦に立ち向い、南太平洋、中部太平洋、遠くは印度洋に酷寒のアリューシャンに展開し常に第一線搭乗員として力の限り戦い、勇戦激闘赫々の武勲をたて武功を誇った。
戦雲急を告ぐる決戦のとき兄等は全員特攻を決意し何の代償も求めずひたすら祖国の繁栄を念じつつ莞爾として悠久の大義に殉じた。星霜すでに四十有余年瞑目すれば紅顔の英姿颯爽と今なお眼底に鮮やかなリ、愛媛県出身110柱在天の御霊よ希くば吾等が微哀を汲みて此処青松の神域に安らかに眠り給わんことを念じ碑を建立する。
 平成元年10月15日
  豫科練雄飛愛媛県人会


戦没陸軍少年飛行兵遺影顕彰碑

亡き友の御霊に捧ぐ
 昭和9年春2月、陸軍航空の華として少年飛行兵が誕生し、昭和20年8月終戦までの間、第1期生より第20期生迄約5万8千余名の若冠15歳前後の紅顔の少年達が情熱のすべてを祖国に捧げ、炎熱の朝に酷寒の夕に孜孜として猛訓練に励み黙々として古賢の道を学びつつひたすら死に通ずる大空へと巣立っていった。思えば十有二年の短い歴史ではあるが、此の間日支事変をはじめノモンハン事件、大東亜戦争と常に陸軍航空の中核として大陸の空に南冥の果てにまた北辺の孤島に雄戦激闘し赫々の武功を誇ったがその多くは祖国の繁栄と同胞の平和を念じつつ莞爾として悠久の大義に殉じていったのである。戦禍絶えて36年今は還らぬ友の御霊を慰め、その栄誉と武勲を永く後世に伝えると共に真の平和を祈念してここに出身生存者相はかり、愛媛県出身陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑を建立する。
  昭和57年4月4日
   陸軍少年飛行兵出身者の集い
    愛媛少飛会

皇后陛下御歌
 やすらかに
 ねむれとぞ思ふ
  君のため
 いのちささげ
 志ますらをの
  とも
  侍従入江相政謹書


殉國二十二烈士の碑

殉國二十二烈士の碑

 昭和44年11月建之
   白菊遺族会愛媛県支部
   愛媛県戦争裁判殉国者慰霊碑 建設世話会

大東亞戦後の戦争裁判は世界史に汚辱の一章を加え犠牲者の遺族に消える日のない痛恨を印した
愛媛ゆかりの二十二烈士亦大節を貫き恩讐を越え祖國の弥栄を念じ従容として平和の人柱となった
今や轉位して裁きの神の座にます尊霊たちよみそなわせ 敗戦祖国は世界驚異の発展をとげアジアの諸民族は相次いで獨立の宿願を成就しました
21世紀は日本の世紀在天の英霊とこしえに祖國を守りたまえ


拓魂

拓魂

国のため旧満州へ渡り 再び祖国の土を踏むことなく散華されし愛媛の開拓者の御霊よ永遠に安らかに

 昭和48年
  満州開拓者殉難碑 建設委員会 建立
 題字
  愛媛県知事 白石 春樹


殉職女子挺身隊員慰霊之碑

挺身
殉職女子挺身隊員慰霊之碑

太平洋戦争激化の昭和十九年県立松山高等女学校卒業と同時に祖国の危急に応じて女子挺身隊員となり呉海軍工廠に赴き電気部三次電池工場に勤務中 終戦を三ヶ月程に控えた昭和二十年六月二十二日米機B29の爆撃を受け殉職された三柱の霊を慰め併せてこれら乙女達が身命をかけてかち得た国の平和が永遠に続く事を願ってこの碑を建てる
 昭和五十二年十二月
  愛媛県立松山高等女学校  四十二期生


殉職女子学徒追憶之碑

殉職女子学徒追憶之碑

戦はよしや無謀侵略の師であったにしてもこれら乙女達がその最期まで祖国に捧げた熱情は至純であった 時恰も終戦直前の昭和20年8月5日今治市空襲の夜波止浜へ通ずる通稱近見縣道に於て散った真白の花二十四遺骨は名勝波止浜の丘上に安らけく眠って戦なく争なき天国に久遠の楽を享けているがそのみ魂をこゝに請じて亡き友への追慕の誠を捧げると共にうまし国わが日の本のこの地上に永遠に戦火の災あらしめ給うなと祈るはわれら生けるものゝ心からなる願いである
  昭和26年11月
   安倍能成題字  
   坂本良介撰文
   真鍋士鴻書丹
   同窓生有志建之


鎮魂

鎮魂
第3航空教育隊
西部第99部隊 
中部第571部隊 
終焉地

この鎮魂碑は昭和54年6月城山公園堀の内の第3航空教育隊跡地に建立され、平成16年4月吉日に移設したものである。


熟田津の歌碑

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな

 紀元1321年 今から1306年の昔 唐と組んだ新羅が 百済をくだして日本に向うのを憂えられた斉明天皇は 皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)その弟君の大海人皇子(後の天武天皇)などとともに 百済を助けるため 筑紫に軍を進められようとされた その途中 熟田津の石湯の行宮に泊らせられて 伊予水軍を集結し 兵船を整え 進発の時を待たれたのである。
 時は来た!十五夜の月はまさに出でようとし 潮は満ちふくらんできた 軍を統率する中大兄皇子のかたわらに侍する額田王の詩情は高まってくる 天皇をようする大軍船団と 月の光と満潮とが融合して豊にたゆたい その大生命が満ちきった一瞬 充実しきった額田王の心気は発せられた 「今はこぎ出でな!」渾身の力をこめて しかも優容迫らず 清明雄大 緊密なる流動の節奏と磐石の重き格調をもって歌いあげられたのである 天皇の大号令が この歌にはこもっている
 古今の絶唱がここに生まれたのである
 この歌は 日本女性の詩歌として世界に誇り得るものであり また 日本の歴史的意義をもつものである
 「今はこぎ出でな」と進発した当時の伊予水軍が 武運つたなく白村江の戦いに敗れ 国難に殉じたことをしのぶとき 哀悼の情切なるものがある しかし 潔く山桜のように散った伊予水軍の心気は ついに唐 新羅をして日本を侵させなかったのである
 この歌碑を仰ぐもの よくこの大生命を感受し 雄大清明なる気象を養い 「いざ!」の充実した心気に生きられんことを

附記
 この歌碑は 少年たちの壱円から特別の寄付まで また県内から県外まで 数多くの人々の心からなるきょ金によってできたのである しかし すべてその名をとどめないことにして ただ「熟田津の歌を讃うる会」とし ゆかしく千載までのこることを願うのである この歌碑の字は 元暦本万葉集から採ったものである
 なお この碑は熟田津の場所をここと決定して建てたものではない
  昭和42年7月5日
     熟田津の歌を讃うる会


殉職自衛官等 慰霊之碑

殉職自衛官等 
慰霊之碑
元防衛庁長官 増原恵吉 書

この慰霊碑は昭和25年警察予備隊創設以来自衛隊に勤務しわが国の平和と安全のために尽された愛媛県出身者でその職に殉ぜられた方、志半で物故された方、予備自衛官としての勤務期間中、物故された方、隊友会員として活躍中物故された方々の御霊をおまつりしてお慰めするため隊友会愛媛県支部連合会全員の意志により多くの方々の御理解御協力御厚志により建立したものであります
 昭和53年9月24日 平成2年3月改修
  社団法人 隊友会 愛媛県支部連合会


シベリア抑留者慰霊之碑

シベリア抑留者慰霊之碑

碑文
悲惨な第二次世界大戦は、日本のポツダム宣言受諾により、昭和20年8月15日を以て終結した。
 然るに旧ソ連は、その宣言を守ることなく、終戦後、60余万人の日本人を酷寒のシベリア、モンゴル、北朝鮮、サハリン及び千島等の各地に連行抑留し、長期に亘る過酷な労働を強制した。
 飢えと寒さと重労働の生き地獄の中、祖国日本への帰還の願いも空しく、本県出身者1千余名は、遂に力尽きて無念の死を遂げた。誠に痛恨の極みである。
 幾多の辛酸に耐えて帰国した抑留者、及び最愛の夫又は肉親を悲しくも失った遺族の私達は、苦節50余年を経た今日、この事に深く想いを致すとともに、その事実を後世に正しく伝え、且つ抑留死没者の冥福と恒久の平和を祈念し、財団法人全国強制抑留者協会の助成、及び県内外各界各層の温かい賛助を得て、ここにこの碑を建立する。
  平成9年12月吉日
    愛媛県シベリア抑留者慰霊碑建立委員会


茶筅塔


ボーイスカウト松山第16団
結団30周年記念碑

弥栄


愛媛万葉苑

愛媛万葉苑
 昭和28(1953)年、八木繁一が中心となり、この護国神社境内に、御霊を慰めるために「郷土植物園」として造られたのがはじまりである。
 その後、園内に万葉集の傑作「熟田津にぎたつの歌」の碑が建立され、それを契機として、一帯に万葉歌人の詠んだ植物を蒐集栽培し、昭和43(1968)年に『愛媛万葉苑』として開苑した。「万葉集」4516首の歌のうち約1500首に約150種の植物が詠まれている。本苑にはムラサキ、フユアオイ等の希少植物や、食用のアワ、薬用のキキョウ、和紙衣料の原料のカジノキ、ミツマタのような日常的に有用な植物など百余種が植えられている。
 苑内を散策しながら、和歌と植物を鑑賞することで、古人が植物に寄せた関心の深さ、観察眼の確かさ、大宮人の心のゆかしさ、古名と現代名の違いの驚きなど、各季節の味わいの中で、豊かな時間を過ごすことができる。
 松山市教育委員会


華塚


殉職警察官消防組員 彰功碑

殉職警察官消防組員 彰功碑
伯爵 清浦奎吾 書


松山あれこれ

松山出張中のあれこれ。こあるメーカーのパートナーサミットにお呼ばれされたのだ。

道後温泉駅

坊っちゃん列車

道後温泉

行きの飛行機

旅館の蛇口みかん

夜の道後温泉

松山鯛めし弁当

会食

旅館の日本酒

朝食のみかんジュース

みかん

情報量が。

鯛めし

鯛そうめん

松山って、なんか、ざっくり20年ぶりっぽいかんじ。当時の私は伊予鉄に乗ることがメインだったんで、、、
こうして、久しぶりに視点を変えて訪れると、やっぱ楽しい。
今度はゆっくり再訪したいです。

※撮影:2024年11月


関連

福岡大空襲名残の戦跡を巡る(福岡博多の戦跡散策4)

福岡博多の戦跡散策、その4になります。
雨が降る中、飛行機の時間も迫っていたので、空港に戻る地下鉄沿線でさくっと散策できそうなところを何箇所かピックアップして巡ってみました。

その3は、こちら

陸軍墓地から空港に向かう帰りに、さくっと寄ってみた感じです。


福岡大空襲

福岡大空襲は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)6月19日から翌日の6月20日までアメリカ軍により行われた空襲。
福岡県福岡市の市街地を標的にした。
これにより1,000人以上が行方不明・死亡となった。

マリアナ諸島を出発したB-29爆撃機の編隊237機は、途中14機が引き返し2機が父島と宮崎に投弾、221機が九州を北上して福岡上空に到達。福岡市南部の脊振山方面から進入してきた爆撃隊は、日本時間6月19日23時11分から焼夷弾投下が開始された。
博多や天神を中心に爆撃が行われ、東西は御笠川から樋井川まで、南北は博多湾海岸線から櫛田神社・大濠公園までの一帯が焼失した。約2時間の空襲により福岡市の3分の1の家屋が罹災。


戦災地蔵尊(黒田稲荷神社)

福岡大空襲後に福岡市内にはいくつかの戦災地蔵尊が設置された。
そのうちの一つに手を合わせてきた。

黒田稲荷神社
黒田稲荷神社は、寛政11年(1799年)頃、黒田藩が福岡城内に祀ってあった社を、現在地(旧下対馬小路)より数間北の場所へ勧請したものと伝えられています。
当時の名称は「正一位金一稲荷大明神」呼称は「金一稲荷」「金一様」であったと推察されるが、城内から勧請した理由に、より藩を尊び、何時からか、黒田稲荷と呼ばれるようになった。
福岡大空襲により全焼し、戦災復興の都市計画案により現在地に移動。
2月の初午祭、7月の夏越祭、12月の鞴祭を執り行っております。

戦災地蔵尊
初代地蔵尊は、昭和25年(1950)5月に旧下対馬小路の町民方々の浄財により建立
砂岩材質の為、ひび割れの侵食、崩落の為、平成18年再建
福岡大空襲により三百八人の死者をだした旧奈良屋校区には、本尊と共に須崎町(旧下州崎町)の恵比須神社境内に、古門戸町(旧中対馬小路)の沖濱稲荷神社境内に、戦災地蔵尊が祀られています。
旧十五銀行での犠牲者を祀った「じゅうご地蔵尊」は栄昌寺の移転で西区今宿の寺境内に移動
須崎問屋街(旧上州崎町)入口東側の「州崎地蔵尊」は東区馬出の宗玖寺に移動

福岡大空襲
昭和20年(1945年)6月19日午後11時11分より、翌20日午前零時53分までにわたり、南太平洋の米軍マリアナ基地から飛来した230機あまりのB29爆撃機が、福博の街を、1358トンもの焼夷弾による無差別爆撃をした。
福岡市の調査では、焼失面積は市域の29パーセント、東西は御笠川から涌井川までの5キロ、南北は博多港の海岸線から櫛田神社、大濠公園までの1.8キロに囲まれた区域はほぼ全焼、被災戸数は、全戸の18パーセントの、12,692戸、被災者数は市民の22パーセントの60,599人、死者は、郡都合わせて868人、行方不明者107人、負傷者1,048人なお負傷者のうちその後、死亡した人も多く死者数は未定。

中央が戦災地蔵尊

合掌

場所

https://maps.app.goo.gl/X6zM9PDy2wQ7VMXKA


戦災記念碑(冷泉公園)

冷泉公園にある「戦災記念碑」。
昭和40年の建立。
福岡大空襲に際しては、特に奈良屋、冷泉、大浜、大名、 簀子の5校区の被害が激しく多くの死傷者をだしている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/fukuoka_fukuoka_010/index.html

ん。戦災記念碑に近寄れない。。。

なにやら、イベント(雨天中止だけど)で、公園が占有されているようで。

戦災記念碑は、それはそれとして、公園としての機能が最優先。
まあ、そんな日もあります。。。
このあたりは運の善し悪し。

場所

https://maps.app.goo.gl/6XGuj5xdbCUUSWsZ8


疎開道路

博多呉服町界隈の町並みは、城下町ということもあり、碁盤の目のように細い道が縦横に区画整備されていますが、そんななかで少しだけ、他の道路よりも幅の広い道路がある。
その名も「疎開道路」
福岡市が米軍空襲を予感し、6町にわたり約600メートルの長さにわたり、延焼防止を目的に建物を疎開させ敷設・拡幅させた道路。
この道路に面して、日本で最初の本格的な禅寺とされる「聖福寺」(扶桑最初禅窟)が鎮座しており、結果として、福岡大空襲に際しては「聖福寺」は類焼を免れている。
※「聖福寺」を今頃調べてみたら、広田弘毅墓や緒方竹虎墓などがあった、やっぱりここは再訪しないと、、、。

場所

https://maps.app.goo.gl/EckhvgyyxMwWfxf19


福岡博多の美食

スキマ時間で、名物を堪能。

仕事の移動中に、「だるま」

これは、次の日の昼。
おすすめというので。

泊まったホデルの朝飯は、もちろん明太子ご飯。

初日の夜の会食。

二日目の夜の会食

帰り間際に、博多駅でもう一回「だるま」

※撮影:2024年10月

博多、楽しいですね、また来ます!


福岡陸軍墓地(福岡博多の戦跡散策3)

福岡の戦跡散策その3です。
「福岡縣護國神社」には、慰霊碑のたぐいはなかったけど、代わりにこの福岡陸軍墓地に集約されている感じです。

その1はこちら。

その2はこちら。

福岡陸軍墓地の由来
 明治19年 陸軍歩兵第24聯隊が福岡城(舞鶴城)に設置された。陸軍省の所管であったこの丘には、日清戦役以降の戦病死者等の墓が建てられていた。昭和10年、上村聯隊長が墓の改修統合を命じ、軍民一体となった協力で、那珂川町片縄から巨大な御影石が切り出された。
 そして「日清」「日露」「青島・西比利亜」「殉職将兵」の墓が、昭和15年『皇紀2600年』に「満州・上海」「支那事変」の2基が建立、計6基となった。戦後昭和57年5月には「大東亜戦争碑」が建立、他に「ガダルカナル島」「ビルマ・雲南」「ドイツ軍人」等の墓碑がある。

「谷公園」が正式な公園の名称。
ゆえに、「谷陸軍墓地」とも呼称される。

国有地であれろ、管理は福岡市の管轄。
福岡陸軍墓地慰霊祭の主催は、福岡県郷友連盟が執り行っている。


福岡陸軍墓地巡拝

厳かなる聖域へ。

一段目の石段を登り、ちょっとした空間の先に、二段目の石段がある。

3段目に慰霊碑が林立する空間が控えている。


福岡県西方沖地震の被害復旧に関して

大東亜戦争戦病歿者之墓に刻まれた「福岡県西方沖地震」に際しての福岡陸軍墓地の被害と復旧に関して。別枠で記載をしておきたい。

福岡県西方沖地震の被害復旧経緯
平成17年3月20日(日)午前10時53分 マグニチュード7の地震が発生し、当墓碑にも「ズレ」等相当の修復があった。此の修復については諸官公庁の対応は無かった。
(1)平成19年3月 止むなく民間有志団体にて修復改良委員会を組織し、広く募金をし約千百万円の浄財を得て、第1次として石碑のズレ直しを行った。
(2)さらに協議の結果、改組された新委員会では、英霊の御声を聞いて各墓碑内部を開き、その惨状に驚き以後誠心誠意修復改良に努め平成20年12月6日墓碑の修復落成式を行った。
(3)平成20年10月 NPO陸軍墓地修復改良保存委員会を設立し、第3次修復改良事業を行っているが、国による墓地管理の1日も早い実現を望んでいる。

福岡県西方沖地震の被害復旧内容
第1次
石碑7基の内「ズレ」ている5基について、重機が使えないので人力作業により修復す。平成19年10月21日の秋季慰霊祭に間に合った。
第2次
委員会の体制を切り替えて墓碑の扉錠を破壊して内部調査、その惨状に驚く。水抜きの上吸込枡の設置等の排水改良、倒壊棚は撤去し新しく楠材を使用して組み替え。1万4千有余のお骨の奉安替え。正面階段2か所に手摺取設。車椅子通路の新設等を実施す。
第3次
委員会をNPOに変更して登記。各碑前の繁りすぎた樹木を撤去し榊を植栽しての改良。案内板・由来板等の制作。公的な交渉を進行中
 (平成22年1月末現在)


忠霊鎮護之地

最初に目についたのが、「忠霊鎮護之地」の碑
聖域の入口。

歩兵第24聯隊の戦没者の階級氏名が刻まれている。


手水盤

献奉
福岡市曹洞宗 星華婦人會
昭和11年7月建設


灯篭

奉献
愛国婦人会福岡県支部
皇紀2596年

皇紀2596年は、1936年(昭和11年)建立。
手水盤と同じですね。


日清戦役戦病歿者之墓

日清戦役戦病歿者之墓
皇紀2595年建之
陸軍少将 森部静夫 謹書

皇紀2595年は、1935年(昭和10年)。

森部静夫は、福岡県出身。最終階級は陸軍少将。士官生徒10期。
息子の森部静武はバイオリニストで有名。


日露戦役戦病歿者之墓

日露戦役戦病歿者之墓
皇紀2595年建之 
陸軍大臣 林銑十郎 謹書

皇紀2595年は、1935年(昭和10年)。

林銑十郎は石川県出身。最終階級は陸軍大将。士候8 陸大17。
揮毫の昭和10年の陸軍大臣が、林銑十郎であった。
昭和12年に内閣総理大臣に就任するも4ヶ月の短命政権におわった。昭和18年に薨去。


青島及西比利亜戦役戦病歿者之墓

青島及西比利亜戦役戦病歿者之墓
皇紀2595年建之
陸軍中将 西川虎次郎 謹書

皇紀2595年は、1935年(昭和10年)。

西川虎次郎は、福岡県出身。最終階級は陸軍中将。士官生徒11 陸大11期。
第13師団長や第1師団長などを歴任。


満洲及上海事変戦病歿者之墓

満洲及上海事変戦病歿者之墓
皇紀2600年建之 
陸軍少将 中牟田辰六 謹書

皇紀2600年は、1940年(昭和15年)。

中牟田辰六は、佐賀県出身士族。最終階級は陸軍少将。士候14期。
歩兵第24連隊長(通称:福岡聯隊)や歩兵第27旅団長などを歴任した。


支那事変戦病歿者之墓

支那事変戦病歿者之墓
皇紀2600年建之 
陸軍中将 長瀬武平 謹書

皇紀2600年は、1940年(昭和15年)。

長瀬武平は、富山県出身。最終階級は、陸軍中将。士候18 陸大30期。
佐世保要塞司令官や、留守第12師団長(北部九州)などを歴任した。
昭和15年に予備役となるが、昭和20年には対馬要塞司令官に就任している。


殉職将兵合葬之墓

殉職将兵合葬之墓
紀元2595年建之 
歩兵第24聯隊長 上村利道 謹書

紀元2595年は、1935年(昭和10年)

上村利道は熊本県出身。最終階級は陸軍中将。士候22 陸大34期。
昭和8年に、福岡聯隊と呼称される歩兵第24聯隊長に就任。
終戦時の昭和20年には、第36軍司令官に就任、本土決戦に備えた精鋭の決勝兵団の軍司令官であった。


大東亜戦争戦病歿者之墓

大東亜戦争戦病歿者之墓
勲一等旭日大褒章 剱木亨弘 謹書

剱木亨弘(けんのき としひろ)は福岡県出身の政治家。
佐藤栄作内閣の文部大臣、政界引退後は、福岡県立美術館長や共立女子大学学長などを歴任した。

碑文
 昭和20年8月15日「万世のために太平を開かん」との詔により 万魁の涙をのみ終戦を迎えた その後36年営々として祖国再建に努力いまや世界の大国となった 惟うに今次の大戦は自存自衛のため日本国の存亡をかけ 虐げられた民族の解放と万邦共栄を願っての聖なる戦いであった 遂には敗戦の悲境に沈淪せしも次々よ亜細亜の民は独立と自由の栄光をかち得たことは 世界史上嘗てなき歴史の荘厳なる事実である
 この間 わが郷土部隊は各地の激戦に参加し言語に絶する凄惨苛烈なる闘いを展開 軍の華とうたわれた かくして本県出身の英霊 8万8千676柱に及ぶ しかるに碑の未だ無きを嘆く 同じ戦場に生死をともにし万死に生を得た戦友並びに遺族とともに先覚有志のこころざしを承け 多くの人々の赤心浄財を募り 本日「大東亜戦争戦歿者之碑」建立となる
 改めて英霊の崇高なる精神と偉大なる業績に対し限りなき敬慕と感謝のおもいをとこしえに伝えまつる
 み霊よ とわに安らかなれ
  昭和57年5月30日
   福岡県大東亜戦争戦歿者戦歿者慰霊顕彰会 建立


ガ島戦士之碑

ガ島戦士之碑
福岡市長 新藤一馬 謹書

昭和十七年八月三十日より翌十八年二月七日に至る間 英領ソロモン群島ガダルカナル島ルンガ飛行場の争奪をめぐる米軍との戦いに 食なく弾薬尽きて尚勇戦し要地アウフテン山をよく死守した福岡歩兵第百二十四連隊の将兵三千百七十九柱の霊 此の地に静まる
 昭和四十九年三月吉日建立
  ガ島会


ビルマ・タイ 垃猛雲南地区戦没者之碑

ビルマ・タイ
垃猛雲南地区戦没者之碑
中国雲南の激流怒江の上に聳ゆる垃猛並びに雲南地区に眠る三千四百余の戦没者の御霊安かれと祈る
 昭和五十九年九月建立
  垃猛雲南地区戦没者之碑 建立賛同者一同


明治維新志士之墓

明治維新志士之墓

明治維新志士之墓由来記
 畏くも、明治天皇の有難き 聖旨を奉体として筑前藩士黒田長知が明治元年十一月筑前国那珂郡堅粕村字東松原に妙見招魂社を同馬出村字東松原に馬出招魂社を創設し明治維新以来国事に殉した藩出身志士の忠霊を慰められた再来祭祀を厳修して来たのであるが昭和十八年四月三十日福岡市六本松に県下一円を総括する福岡県護国神社が創立されたので同日この両招魂社の御神霊を同神社に合祀せられた
然るに両招魂社の施設は該地にそのまま存置されたので福岡県護国神社に於いては毎年ここに墓前祭を執行し祭祀はこれを継続して来たのであるが戦後都市の急激な発展に伴い千代松原の浄地も激変しこの招魂社跡の諸施設も或いは倒され或いは破壊されてその聖域はこれを旧の如く保持し得ざるに至りこれが移転は多年の懸案であった此の秋に際り福岡県に於ては東公園整備を計画両招魂社跡の移転について要望があったので検討の結果御神霊は神社に合祀済みであり遺跡は由来の地である東公園地内に保持しその御遺骨はこの陸軍墓地にお鎮まり願いこの墓碑を建設永遠に祭祀を厳修する事になった今ここに移した祭神名を列記すれば次の通りである
 謹んで建碑の由来を録し後世に遺す次第である
   昭和四十四年八月十日
    福岡県護国神社 宮司 平川隆一


満洲及上海事変戦病死者合同碑

満洲及上海事変戦病死者合同碑
第十二師団長 杉山元 書

杉山元は福岡県出身。最終階級は元帥陸軍大将。士候12 陸大22期。
昭和7年2月29日に第12師団長に就任している。第12師団の編成地は小倉。
なお、昭和8年に3月18日に杉山は陸軍航空本部長に転籍している。
杉山元は、こののち昭和11年に教育総監に就任し陸軍大将を拝命。昭和12年に陸軍大臣、昭和15年に参謀総長、元帥。そして昭和19年に再び、教育総監、そして陸軍大臣となり、昭和20年に第一総軍司令官で終戦を迎えた。
そして昭和20年9月12日に自決。


明治廿七八年之役歩兵第廿四聯隊忠死之碑

明治廿七八年之役=日清戦争
歩兵第24聯隊(福岡聯隊)の戦死者の慰霊碑

明治廿七八年之役歩兵第廿四聯隊下士忠死之碑

明治廿七八年之役歩兵第廿四聯隊兵卒忠死之碑


個人墓

個人墓もいくつか。

なお、個人墓の中に、青島でのドイツ兵捕虜の墓もあるというが、見落とし。
このあたり、事前の調査を怠ったがゆえの凡ミスです。
ドイツ兵捕虜墓のさらに奥には、協会標柱もあるというが、あわせて見落とし。
福岡、再訪必須だが再訪・・・できるのか?

非常に綺麗に整備されている聖域。
行政に対する不満が、福岡県西方沖地震に際しての復興の記録で爆発していたが、保存会の皆々様のご尽力に感謝。ありがとうございます。

それぞれの慰霊碑に合掌巡拝

ありがとうございました

雨が降る中での参拝であったが、福岡滞在中に、どうしても訪れたかった聖地。
福岡縣護國神社と、福岡陸軍墓地を巡拝できたので、福岡県の最初の一歩としては、まずまずかと。これ以上は、贅沢な感じです。時間的な制約などもありましたので、また今度、ゆっくりと来ましょう。

場所

https://maps.app.goo.gl/aWVGktFJAp7jdmKT6

※撮影:2024年11月


関連

陸軍墓地巡拝

はじめに

西部軍司令部防空作戦室残壁(福岡博多の戦跡散策2)

福岡城阯の東端に、西部軍司令部があった。
そこにコンクリート壁が残っているというので足を運んでみた。

その1はこちら。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R236-No2-30
1948年4月7日、米軍撮影の航空写真を加工。

北西が、大濠公園や舞鶴公園、福岡城址など。

福岡城址、拡大。

部軍司令部防空作戦室は中央。南側に、コンクリート壁が設けられた


西部軍司令部防空作戦室残壁

西部軍司令部があった福岡城三の丸跡。
戦後、米軍の接収を経て、福岡高等裁判所や地方裁判所の庁舎が置かれ、2023年10月に舞鶴公園の駐車場として整備された。

西部軍司令部防空作戦室残壁
1940年12月、防空を担う西部軍司令部が小倉市から福岡市に移転された。
1942年頃、地下1階、地上2階のコンクリート造の防空作戦室が完成しました。この作戦室には「情報表示版」「情報表示燈」が設置され、これらの通信機と通信隊員・参謀・司令官を爆撃から保護するため、壁の二重構造などの特殊な設計が施されていました。
このコンクリート壁はその壁の一部です。

なかなかに圧巻なコンクリート壁。

場所

https://maps.app.goo.gl/cU3qrBtsZhTyLKAj6

撮影:2024年11月

その3はこちら


関連

そういえば、広島城にも防空作戦室(中国軍管区司令部)がありました。

福岡縣護國神社(福岡博多の戦跡散策1)

2024年10月末に、福岡県に出張がありまして。
例のごとく、スキマ時間に福岡市内を散策してみました。
実は、いまの仕事7年くらいしているけど、九州出張は初めて。意外と九州とは縁がなかったのだ。

まずは、福岡縣護国神社へ。


福岡縣護國神社

明治維新から大東亜戦争に至るまでの国難において、尊い生命を捧げて私たちをお守りくださった福岡出身の方々約十三万柱の御英霊をお祀りしている。
祭神の柱数は護国神社では沖縄県護国神社(17万8689柱)に次いで、二番目に多い。

明治元年(1868年)11月、福岡藩主・黒田長知が、戊辰戦争に殉じた藩士を祀るため那珂郡堅粕村(妙見招魂社)と馬出村(馬出招魂社)に招魂社を創建したのに始まる。
明治39年(1906年)6月27日、「馬出招魂社」に「妙見招魂社」を合祀して「妙見馬出招魂社」とした。
昭和13年(1938年)に「福岡招魂社」と改称。
昭和14年(1939年)、招魂社の制度改正により「福岡護國神社」に改称した。
これとは別に、県内には他に4つの護国神社があった。
 山川護國神社 
  三井郡山川村(現・久留米市)
  明治元年、久留米藩知藩事有馬頼咸により創建
 柳河護國神社 
  山門郡三橋村(現・柳川市)
  明治元年、柳川藩主立花鑑寛により創建
 八景山護國神社 
  京都郡祓郷村(現・みやこ町)八景山
  明治元年、小倉藩主小笠原忠忱により創建
 田川護國神社 
  田川郡伊田町(現・田川市)。
  明治2年、華族高千穂教育により創建
昭和18年(1943年)4月、「福岡護國神社」は、現在地の福岡城址南側の練兵場跡に遷座し、上記の4つの護国神社を統合して「福岡縣護國神社」に改称、内務大臣指定護国神社となった。
第二次世界大戦後は「正中宮」と称していた。
日本の主権回復後の昭和32年(1957年)5月17日、元の「福岡縣護國神社」に復した。


福岡縣護國神社参拝

大鳥居
檜の原木で建てられたものとしては日本最大級の鳥居

福岡聯隊会の奉納狛犬

福岡聯隊会

  • 歩兵第24聯隊
  • 歩兵第124聯隊
  • 歩兵第226聯隊
  • 歩兵第113聯隊
  • 歩兵第187聯隊
  • 歩兵第292聯隊
  • 歩兵第359聯隊
  • 歩兵第453聯隊
  • 歩兵第517聯隊
  • 歩兵第72聯隊第2大隊
  • 独立歩兵第12聯隊
  • 第312独立歩兵大隊
  • 第314独立歩兵大隊
  • その他福岡聯隊にて編成された各隊

清々しい神域。

拝する。

ありがとうございます。

広々とした境内であるが、なにかが足りない。
慰霊碑や顕彰碑がない護国神社であった。


御朱印(福岡縣護国神社)

御朱印を頂きました


招魂斎庭(福岡縣護国神社)

明治3年の鳥居。護国神社前身の招魂社時代のものと思われる。
妙見招魂社のもか、馬出招魂社のものかは不明。


あゝ特攻勇士之像(福岡縣護国神社)

私たちは決して忘れはすまい

日本が昭和十六年から二十年にかけて、日本の独立と存続とを守り、且つ欧米列強から植民地化されたアジア諸国を開放するために大東亜戦争で米・英・支・蘭と戦い、緒戦の赫々たる戦果にも拘らず、戦い利非ずして戦況不利となる。沖縄県にまで敵の上陸を許す事態となり、この敵の圧倒的戦力を阻止すべく、遂に一機一艇をもって敵艦に体当たりする苦渋かつ壮絶な攻撃戦法を取らざるを得なかったことを。

持てる力をすべて尽くして散華された二十歳前後の英霊の崇高な勇姿を末永く後世に伝えるべく、特攻隊戦没者慰霊顕彰会の協力を得て、ここに設けた。
戦後の教育と謀略とにより平和・個人主義に偏りがちな現代の人よ、福岡県出身の三○一名の英霊の名を台座に収めしこの像を見て触れて、自分の命に代えても護るものが存在するということを考えて欲しい。
 平成二十四年十二月八日(大東亜戦争開戦記念日)
  特攻勇士之像建立福岡県委員会


平和の像(福岡縣護国神社)

球技禁止って貼られているのが、なにやら悲しい。

平和の像
 第2次世界大戦に斃れし戦士230万 痛恨なり 本県の御霊実に8万8千余に及ぶ 永遠につきざる縁者の 断腸の思い
 されど戦火おさまり巡り来る30余春秋 いま 遺族 県民あい集いて 涙を押さえ世界の平和を祈る ここに万感を込め この神域に”平和の像”を建立す
 優しかりし父よ 愛しき夫よ 子らよ 兄弟よ
 願わくば 空高く 海清く 緑深きわがふるさとに安らぎ給え
  昭和51年6月吉日  福岡県遺族連合会 会長 野見山清造

 この像は五基のブロンズ像から構成されています。また台座後面のレリーフは、戦死された方々のみたまを象徴しています。
 男性像は遺された父であり兄であり弟であり、女性像は母であり姉妹であり、児童像は遺児です。
 亡くなられた方々、遺された人々、みんなの努力によって今の時代が築かれたことを表しています。
 この群像は、置かれる場所の雰囲気を考慮し、静的な中に深く平和への願いを込めたものです。
  制作:廣瀬不可止、小田部泰久、柴田善二、小串英次郎、木戸隆一 


大正天皇御野立所跡・大正5年大演習観兵式玉座御跡
(福岡縣護国神社)

もともと福岡縣護国神社の地は、演習場であった。
歩兵第24聯隊(福岡聯隊)が建立。


末社・堀出稲荷神社(福岡縣護国神社)

由緒
大正年間福岡歩兵聯隊兵士の夢枕に立たれ「吾は祐徳稲荷の弟なり 永き年月埋められたままである 今こそ吾を掘り出し吾を祀れ」と御神託が下り その処から稲荷神の御神体が掘り出されました
その史実に基づいて掘出稲荷と命名されました
此の地に御遷座となったのは 昭和27年9月3日であります

福岡縣護國神社

https://fukuoka-gokoku.jp

福岡に居たときは気が付かず、こうして記事をまとめている最中に知ったのだが、
 境内には「台湾歩兵第一聯隊ゆかりの奉納狛犬」
 舞鶴公園の北側には「福岡聯隊の碑」「営門の桃の木」
 NHK福岡放送局の向かいには「広田弘毅像」
 東公園には「官祭 妙見馬出招魂社遺跡保存地」
次回の課題ですね、見逃し悔しい、、、


福岡城址

通りすがらに。

※撮影:2024年10月

その2はこちら


関連

全國護國神社巡拝(全國護國神社會の御朱印帳)

全国の護國神社を巡拝するということを、わたしの生涯の目標に掲げております。

以前より気になっていた「全國護國神社の御朱印帳(御朱印帖)」には、各頁に「社号記載あり」と「記載なし」の2種類があり、せっかく戴くなら「社号記載あり」で戴きたいと思いつつ、導入のきっかけを逃しておりました。(「社号記載なし」を入手する機会は多かったのですが、どうしても「社号記載あり」を戴きたく、なおかつ「社号記載あり」を授与いただける護國神社には、なかなか出会えなかったということもあり)

かねてより、護國神社の御朱印を、ひとつの御朱印帳にまとめようと巡拝をしており、そしていままでは、「桜柄の靖國神社の御朱印帳」で参拝をし、靖國神社の帳面に全国の護國神社の御朱印を集めておりました。
そして、22社(靖國神社と護國神社21社)を戴き片面が埋まったタイミングで、そんな折に、23社目の護國神社で、前から気になっていた「全國護國神社の御朱印帳(各頁に社号記載あり)」に出会いました。
これは、間違いなく、御縁ですね。
決して無理をすることなく、御縁を大切にしつつ、ひきつづき巡拝を続けて参ります。

「全國護國御朱印帳」
刺繍で織りこまれた帳面は、白色を基調とした崇高な気配を漂わせている。
桜の花びらが1つだけ桜色に染まっているアクセント。
そして、金の模様は英霊の御心を表しているという。

左は、靖國神社の御朱印帳(桜柄)
右が、全國護國神社の會の御朱印帳


護國神社について

全國護國神社會「御朱印帳」より

護國神社について
 靖國神社と護國神社は、愛する家族や国家、郷土の安寧と繁栄を願いながら尊い命を捧げられた先人の神霊を御祭神としています。
 どちらも幕末維新から昭和初期にかけて「招魂社」として創建された比較的歴史の新しい神社で、その御祭神のことを私たち日本人は「英霊」と称え、崇敬と感謝の心をこめて日々祭祀をおこなってきました。
 道府県に鎮座する護國神社は。故郷出身ゆかりの英霊を、そして東京九段の靖國神社は、全國の英霊をお祀りしています。
 昭和初期の頃までは、日本全国に招魂社が百社以上創建されました。
 昭和十四年に内務省の告示により、招魂社は「護國神社」と改称され、おおむね一府県一社を原則とした「内務大臣指定護國神社」と、「指定外護國神社」の二種に分類されました。
 この制度は、大東亜戦争終結後に廃止されましたが、各護國神社は現在も地元の方々から厚く信仰され、お祭、日々の暮らしの中の諸祈祷などに参拝されています。
 「全國護國神社會」は、旧内務大臣指定の護國神社など、主要な護國神社で構成されており、靖國神社とともに日々英霊の慰霊顕彰をおこなっております。


護國神社参拝について

護國神社参拝について
 護國神社信仰の背景には「祖先や共同体に尽くした人々を神としてお祀りする」「その神は子孫や共同体を守ってくださる」という古来日本人の伝統的風習があり、共同体の単位で祀られているために、それぞれ地方色も豊かです。
 各地の護國神社の多くは、その道府県の主要都市に鎮座しています。
 名所旧跡が近くにあることも多く、その巡拝は、日本全国一周の有意義な旅になります。何より、英霊と故郷は切っても切れないものがあります。英霊が思いを馳せるふるさとを隈なく訪ねる全国の護國神社参拝は、英霊に感謝の真心を捧げる素晴らしい巡拝の旅となることでしょう。
 御朱印を授与される方々は、必ずや英霊の大きな御神徳を受けられ、この御朱印帖はかけがいのないご家族の宝物となることでしょう。
 この御朱印帖を手にされた皆さまが、靖國神社及び全国の護國神社に鎮まる英霊を慰め、末永く崇敬者としてご尽力くださいますことを心よりお願い申し上げます。
  全國護國神社會

※この御朱印帖の五十二社護國神社は、概ね北から南の順となっており、全國護國神社會監修「全国護国神社巡拝ガイドブック」の記載に準拠しています。


御朱印授与の履歴

  • 1 靖國神社    ※靖國神社の御朱印帳で授与開始
  • 2 愛知縣護國神社
  • 3 大阪護國神社
  • 4 廣島護國神社
  • 5 埼玉縣護國神社
  • 6 茨城縣護國神社
  • 7 千葉縣護國神社
  • 8 栃木縣護國神社
  • 9 群馬縣護國神社
  • 10 長野縣護國神社
  • 11 山梨縣護國神社
  • 12 兵庫縣神戸護國神社
  • 13 新潟縣護國神社
  • 14 石川縣護國神社 
  • 15 沖縄縣護國神社 ※サイト未掲載
  • 16 滋賀縣護國神社
  • 17 兵庫縣姫路護國神社
  • 18 福島縣護國神社
  • 19 宮城縣護國神社
  • 20 岩手護國神社
  • 21 岐阜護國神社
  • 22 静岡縣護國神社 ※靖國神社の御朱印帳で片面終了
  • 23 福岡縣護國神社 ※全國護國神社會の御朱印帳に切替
  • 24 愛媛縣護國神社 

靖國神社

全國には護國神社があるが、東京には護國神社はなく、靖國神社がその役目を担っている。
そのうえで、靖國神社は、東京に限らず、全國の御英霊をお祀り申し上げている。

下記は、靖國神社の「令和7年の正月限定の刺繍入り御朱印」と「冬季限定 大東亜戦争終戦八十年記念御朱印」。

神紋の刺繍入りの御朱印もある。


全國護國神社一覧

「全國護國神社會」は52社で構成されている。
もちろん、靖國神社や旧指定護國神社(旧内務大臣指定護國神社)以外にも、指定外の護國神社や招魂社・鎮魂社など全国各地に御英霊を祀る神社は多いが、まずは、都道府県を代表する護國神社を列記する。

【北海道地方】3社

  • 函館護國神社
     〒040-0044 函館市青柳町 9-23 電話:0138-23-0950
     例祭日:5/11
  • 札幌護國神社
     〒064-0915 札幌市中央区南十五条西 5-1-3 電話:011-511-5421
     例祭日:7/6
  • 北海道護國神社
     〒070-0901 旭川市花咲町1-2282-2 電話:0166-51-9191
     例祭日:6/4 〜 6

【東北地方】6社

  • 福島縣護國神社
     〒960-8025 福島市駒山 1 電話:024-535-0519
     例祭日:4/23・9/23
福島縣護國神社
  • 宮城縣護國神社
     〒980-0862 仙台市青葉区川内 1 電話:022-223-7255
     例祭日:4/29 〜 5/1・10/22 〜 23
  • 山形縣護國神社
     〒990-0053 山形市薬師町 2-8-75 電話:023-631-5086
     例祭日:5/11
  • 岩手護國神社
     〒020-0872 盛岡市八幡町 13-1 盛岡八幡宮社務所内 電話:019-652-5211
     例祭日:春の大型連休前の日曜日
岩手護國神社
  • 秋田縣護國神社
     〒011-0939 秋田市寺内大畑 5-3 電話:018-845-0337
     例祭日:4/29・10/24
  • 青森縣護國神社
     〒036-8356 弘前市大字下白銀町 1-3 電話:0172-32-0033
     例祭日:4/28 ~ 29

【関東地方】5社

  • 千葉縣護國神社
     〒264-0028 千葉市若葉区桜木 4-1-1 電話:043-497-4864
     例祭日:4/10・10/10
  • 埼玉縣護國神社
     〒330-0803 さいたま市大宮区高鼻町 3-149 電話:048-641-6070
     例祭日:4/9
埼玉縣護國神社
  • 群馬縣護國神社
     〒370-0867 高崎市乗附町 2000 電話:027-322-6309
     例祭日:10/16~17
群馬縣護國神社
  • 栃木縣護國神社
     〒320-0063 宇都宮市陽西町 1-37 電話:028-622-3180
     例祭日:4/28
栃木縣護國神社
  • 茨城縣護國神社
     〒310-0912 水戸市見川 1-2-1 電話:029-241-4781
     例祭日:4/10・11/10

【中部地方】11社

  • 山梨縣護國神社
     〒400-0013 甲府市岩窪町 608 電話:055-252-6371
     例祭日:4/5・10/5
  • 靜岡縣護國神社
     〒420-0821 静岡市葵区柚木 366 電話:054-261-0435
     例祭日:10/22~23
  • 愛知縣護國神社
     〒460-0001 名古屋市中区三の丸 1-7-3 電話:052-201-8078
     例祭日:4/28~30・10/28~30
愛知縣護國神社
  • 岐阜護國神社
     〒500-8002 岐阜市御手洗 393 電話:058-264-4321
     例祭日:4/12・10/5
岐阜護國神社
  • 濃飛護國神社
     〒503-0887 大垣市郭町 2-55 電話:0584-78-4048
     例祭日:4/23・9/22
  • 飛驒護國神社
     〒506-0837 高山市堀端町 90 電話:0577-32-0274
     例祭日:5/2~3・11/4~5
  • 長野縣護國神社
     〒390-0801 松本市美須々6-1 電話:0263-36-1377
     例祭日:4/29~30
  • 新潟縣護國神社
     〒951-8101 新潟市中央区西船見町 5932-300 電話:025-229-4345
     例祭日:5/8・9/8
新潟縣護國神社
  • 富山縣護國神社
     〒930-0077 富山市磯部町 1-1 電話:076-421-6957
     例祭日:4/25・10/5
  • 石川護國神社
     〒920-0935 金沢市石引 4-18-1 電話:076-221-2110
     例祭日:4/19・10/19
石川護國神社
  • 福井縣護國神社
     〒910-0016 福井市大宮 2-13-8 電話:0776-22-5872
     例祭日:4/12〜13・11/1〜2

【関西地方】8社

  • 三重縣護國神社
     〒514-0006 津市広明町 387 電話:059-226-2559
     例祭日:4/22・10/22
  • 滋賀縣護國神社
     〒522-0001 彦根市尾末町 1-59 電話:0749-22-0822
     例祭日:4/5・10/5
滋賀縣護國神社
  • 京都霊山護國神社
     〒605-0861 京都市東山区清閑寺霊山町 1 電話:075-561-7124
     例祭日:4/28・10/14
  • 大阪護國神社
     〒559-0015 大阪市住之江区南加賀屋 1-1-77 電話:06-6681-2372
     例祭日:5/20・10/20
大阪護國神社
  • 兵庫縣神戸護國神社
     〒657-0068 神戸市灘区篠原北町 4-5-1 電話:078-882-1700
     例祭日:5/6・11/6
  • 兵庫縣姫路護國神社
     〒670-0012 姫路市本町 118 電話:079-224-0896
     例祭日:5/2・11/2
  • 奈良縣護國神社
     〒630-8424 奈良市古市町 1984 電話:0742-61-2468
     例祭日:4/15・10/22
  • 和歌山縣護國神社
     〒640-8146 和歌山市一番丁 3 電話:073-425-2911
     例祭日:5/5・10/5

【中国地方】7社

  • 岡山縣護國神社
     〒703-8272 岡山市中区奥市 3-21 電話:086-272-3017
     例祭日:5/6・10/6
  • 備後護國神社
     〒720-0061 福山市丸之内 1-9-2 電話:084-922-1180
     例祭日:5/19・10/23
  • 廣島護國神社
     〒730-0011 広島市中区基町 21-2 電話:082-221-5590
     例祭日:4月7日に近い日曜日・10月22日に近い日曜日
  • 山口縣護國神社
     〒753-0015 山口市平野 2-2-1 電話:083-922-2027
     例祭日:4/29・11/3
  • 松江護國神社
     〒690-0887 松江市殿町 1-15 電話:0852-21-2454
     例祭日:10/23
  • 濱田護國神社
     〒697-0027 浜田市殿町 123-30 電話:0855-22-0674
     例祭日:4/12
  • 鳥取縣護國神社
     〒680-0001 鳥取市浜坂 1318-53 電話:0857-22-4428
     例祭日:4/22・9/22

【四国地方】4社

  • 徳島縣護國神社
     〒770-8021 徳島市雑賀町東開 21-1 電話:088-669-3090
     例祭日:11/2
  • 香川縣護國神社
     〒765-0013 善通寺市文京町 4-5-5 電話:0877-62-0048
     例祭日:5/5・11/5
  • 愛媛縣護國神社
     〒790-0824 松山市御幸 1-476 電話:089-925-2353
     例祭日:4/9~10・10/9~10
愛媛縣護國神社
  • 高知縣護國神社
     〒781-8126 高知市吸江 213 電話:088-882-2760
     例祭日:4/1~2・11/1~2

【九州地方・沖縄地方】8社

  • 福岡縣護國神社
     〒810-0044 福岡市中央区六本松 1-1-1 電話:092-741-2555
     例祭日:5/3~4・10月第2月曜日及びその前日
  • 佐賀縣護國神社
     〒840-0843 佐賀市川原町 8-15 電話:0952-23-3593
     例祭日:4/12~14・10/12~15
  • 大分縣護國神社
     〒870-0925 大分市大字牧 1371 電話:097-558-3096
     例祭日:4/8~9・10/8~9
  • 熊本縣護國神社
     〒860-0005 熊本市中央区宮内 3-1 電話:096-352-6353
     例祭日:4/2・10/10
  • 宮崎縣護國神社
     〒880-0053 宮崎市神宮 2-4-3 電話:0985-25-2719
     例祭日:4/10
  • 長崎縣護國神社
     〒852-8034 長崎市城栄町 41-67 電話:095-844-3221
     例祭日:4/22・10/26
  • 鹿児島縣護國神社
     〒890-0014 鹿児島市草牟田 2-60-7 電話:099-226-7030
     例祭日:4/13・10/13
  • 沖繩縣護國神社
     〒900-0026 那覇市奥武山町 44 電話:098-857-2798
     例祭日:4/23・10/23

終戦80年ポスター

知っていますか
 命をかけて私たちを
守ってくれた人たちのこと

あなたは知っていますか
私たちのために戦った人たちのこと

あなたは聞こえますか
私たちを守ってくれた人たちの声

あなたはわかりますか
私たちのために戦った人たちの思い

令和七年(二〇二五)は終戦より八十年目の年です
全国に五十二社鎮座する護國神社は
日本を守るために戦歿された
二百四十六万余柱のみやまをお祀りし
日々平和を祈念しています

令和七年は終戦八十年 全國護國神社會


旧朝香宮邸「東京都庭園美術館」散策(港区)

国立科学博物館附属自然教育園が、明治時代の「白金火薬庫の跡地」で、大正時代に宮内省の白金御料地になり、そして、朝香宮邸として、朝香宮鳩彦王が、昭和22年に皇籍離脱をするまで居住していた建物。
白金火薬庫からの流れで、足を運んでみました。


旧朝香宮邸(東京都庭園美術館)

需要文化財(建造物)
旧朝香宮邸
  四棟 本館・茶室・倉庫・自動車庫
  一基 正門
  所在地 港区白金台五丁目二六番
  指定 平成二七年七月八日
 朝香宮鳩彦王の住宅として昭和8年(1933年)に竣工した建築群で、昭和22年まで朝香宮の本邸として使われていた。
 本館は鉄筋コンクリート造2階建(一部3階建)で、外観は簡明な意匠である。中庭を囲むロの字形平面の南半分を客間や住居とし、他を事務や厨房にするのは、この時期の宮内省内匠寮設計の邸宅に共通の配置である。南側テラスは洋風庭園へ続き、和風庭園や正門からのアプローチも往時の雰囲気を良く留める。和風庭園には茶室が現存する。
 本館主要室の内装設計はフランス人装飾美術家アンリ・ラパンが担当、実施設計は内匠寮工務課技師の権藤要吉らが分担して行った。鳩彦殿下と允子(のぶこ)妃殿下は大正14年(1925年)にパリで、のちにアール・デコ博といわれる美術博覧会を視察。新邸にもアール・デコ様式が随所に採用され、新鮮かつ洗練された華やかな意匠に満ちている。正面玄関のガラス扉は工芸家ルネ・ラリックの作品として有名である。
 当時最新のフランスの芸術作品を取り入れたこの建物は、宮内省内匠寮による邸宅建築の頂点のひとつとして意匠的に優れ、価値が高い。
  東京都教育委員会

重要文化財 旧朝香宮邸 東京都庭園美術館 本館
アール・デコの館と呼ばれる旧朝香宮邸。1925年のアール・デコ博覧会でその様式美に魅せられた朝香宮ご夫妻は、自邸の建設にあたり、フランス人装飾美術家アンリ・ラパンに主要な部屋の設計を依頼。ルネ・ラリックのガラス扉など、アール・デコの精華を積極的に取り入れました。基本設計は宮内省内匠寮が担当し、建造には日本古来の高度な職人技が随所に発揮されています。旧朝香宮邸は、アール・デコ様式を正確に留め、昭和初期の東京における文化受容の様相をうかがうことができる貴重な歴史的建造物として、2015年に国の重要文化財に指定されました。

「建物公開2024」のイベントに便乗して、建物見学してきました。

正門

旧朝香宮邸本館
鉄筋コンクリート造2階建て(一部3階建て)、地下1階で1929年(昭和4年)頃から建築準備に取り掛かり1933年(昭和8年)5月に完成。

香淳皇后の叔父にあたる朝香宮鳩彦王がパリ遊学後2年をかけて建設し、1947年の皇籍離脱まで暮らした邸宅だった。この土地は白金御料地と呼ばれ、近世には高松藩松平家の下屋敷があった。明治期には陸軍の火薬庫が一時置かれ、後に皇室財産となっている。
宮邸は朝香宮一家が退去した後、吉田茂によって外務大臣公邸(ただし、外相は総理の吉田が兼務していたので実質的には総理大臣仮公邸)として、1947年から1950年にかけて使用された。
1950年には西武鉄道に700万円で払い下げられ、1955年4月に白金プリンス迎賓館として開業し、国賓・公賓来日の際の迎賓館として1974年まで使用された。
1971年にホテル建設計画が発表されたが反対運動が起こり、1974年5月からプリンスホテルの本社として使用された後、1981年12月に139億円で東京都に売却され、1983年(昭和58年)に都立美術館の一つとして一般公開される。


旧朝香宮邸外観散策

正面から。
やばいですね、ずっと見ていられる。全然飽きない。現在でも通用するデザインの美しさ。

庭園側から。

庭園側は、表とはまた雰囲気が変わる。これはこれで良き。四角と、ワンポイントな曲線のバランスが良き。


旧朝香宮邸内部散策

年に一度の「建物公開」の際は、館内撮影もOK。何も考えずに足を運んでいたが、これは私はだいぶ運が良いですね。

正面玄関

建物公開のコンセプトが「あかり、ともるとき」
朝香宮邸の特徴的な「あかり」が「ともされるとき」は、いちいち狙いすぎて、きれいすぎる。

第一応接室

大広間

次室

小客室

大客室

1階テラス

大食堂

大食堂の曲線美が、ね。

第一階段

2階広間

若宮寝室

若宮居間

テラス

書斎

殿下居間

殿下寝室

第一浴室

妃殿下寝室

朝香宮鳩彦王妃允子内親王
明治天皇第8皇女

ベランダ

妃殿下居間

2階廊下

姫宮寝室

姫宮居間

3階への階段

ウインターガーデン(温室)

小食堂

姫宮寝室前廊下

これはずるい。こんなライト、絶対的に勝利すぎる。

こんな感じで、朝香宮邸とライトを堪能した建物見学でした。

※2024年9月撮影


関連

白金火薬庫跡地「国立科学博物館付属自然教育園」散策(港区)

国立科学博物館附属自然教育園が、明治時代の「白金火薬庫の跡地」であったと聞き、何もないとは思うけれども足を運んでみました。

ちなみに、白金火薬庫は、大正期には、白金御料地になりまして。


位置関係

「今昔マップ on the web」より。

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.638639&lng=139.714004&zoom=16&dataset=tokyo50&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

山手線の東側に「白金火薬庫」(旧白金御用地)、そして西側には「火薬製造所」があり、両地を軽便鉄道が結んでいることがわかる。


国立科学博物館付属自然教育園

「国立科学博物館付属自然教育園」の地は、古代においては「旧白金御料地遺跡」として埋蔵文化財包蔵地であり、中世においては「白金長者屋敷」として中世城館遺跡であり、近世においては、「高松藩主松平家下屋敷」であった。
明治時代に、「陸海軍の火薬庫」となり、大正時代に宮内省「白金御料地」となり、戦後に文部省「旧白金御用地」、そして「国立科学博物館附属自然教育園」となった。


白金火薬庫

国立科学博物館附属自然教育園飛び地にかかる 調査報告書
【資料編】
史跡にかかる個別調査報告

https://ins.kahaku.go.jp/research/download/ins_tobichi03.pdf

資料をもとに、白金火薬庫について、以下にまとめておきたい。

「白金火薬庫」
「高松藩主松平家下屋敷」は、明治4年(1871)新政府の所有となり、松平下屋敷跡地に「海軍火薬庫(海軍白金火薬庫)」が置かれたことにはじまる。

徳川幕府が設立した「目黒砲薬製造所」は、明治元年十月に軍務官の所管となり、「目黒火薬庫」として使用。
明治5年2月に海軍省の兵部省より独立分置されるが、「目黒火薬庫」は陸軍省に所属。松平讃岐守下屋敷に海軍の「白金火薬庫」が設置された。明治12年10月24日、海軍は「目黒火薬庫」を廃止して「白銀火薬庫」に合併。「目黒火薬庫」跡地に「火薬製造所」を新設。
明治26年(1893)まで、「白金火薬庫」は海軍の所管であったが、同年4月に陸軍省に移管。「目黒火薬製造所」も海軍省から陸軍の東京砲兵工廠に移管となり、「東京砲兵工廠目黒火薬製造所」となった。
陸軍の「白金火薬庫」は大正2年(1913)に廃止。
陸軍の「目黒火薬製造所」も昭和3年(1928)に群馬県岩鼻に移転している。

「東京砲兵工廠目黒火薬製造所」
現在の防衛省の目黒地区は、明治11年に海軍の火薬製造所として建設が進められて明治18年に完成したのち、明治26年に陸軍へ引き継がれて砲兵工廠所轄の目黒火薬製造所となった。
その後、大正12年に発生した関東大震災の影響で、設備は他へ移転して目黒火薬製造所は廃止されることとなり、替わって海軍技術研究所が築地から移転した。

「火薬運搬軌道」
明治34年(1901)、目黒火薬製造所と白金火薬庫の間に、火薬や物資運搬用の軽便軌道が敷かれた。
現在も、目黒区立茶屋坂児童公園から目黒三田通りに向かう道には、「陸軍」と記した石柱が残っており、軍用軌道の跡とわかる。
軍用軽便軌道は、明治44年(1911)、白金火薬庫の管理換えにより廃止撤去となった。


国立科学博物館付属自然教育園の散策

国立科学博物館附属自然教育園
歴史と自然
 自然教育園は、室町時代に白金長者と呼ばれる豪族が館を構えていたといわれています。江戸時代は高松藩主松平讃岐守の下屋敷、明治時代は海軍省・陸軍省の火薬庫、大正時代は白金御料地と移り変わり、昭和24年に国の「天然記念物及び史跡」に指定されるとともに、国立自然教育園として一般に公開されるようになりました。
(以下略)

自然教育園のおいたち
古代   縄文中期、この地に人が住みつく
室町時代 豪族 白金長者が館を構えていたといわれる
江戸時代 高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷
明治時代 海軍省・陸軍省の火薬庫
大正時代 宮内省の白金御料地
昭和24年
1949年  国の天然記念物及び史跡に指定
     国立自然教育園として一般に公開
昭和37年
1962年  国立科学博物館附属自然教育園となる

自然教育園の地図。散策してみましょう。

一番、北の赤丸で囲んだところがポイント。

火薬庫跡のレンガ片
現在、建屋の痕跡は残っておらず、レンガ片(煉瓦片)は。火薬庫時代の名残という。

中世の痕跡もある。

土塁。

土塁は、火薬庫時代にも造成されていると思われる。

前述の資料(国立科学博物館附属自然教育園飛び地にかかる 調査報告書【資料編】 史跡にかかる個別調査報告)によると、敷地内の南西に境界を示す「陸軍用地の標柱」があるいうが、立ち入り禁止エリア。

前述の資料の引用に留める。

白金火薬庫の名残を探して、レンガ片でもって往時を感じる。
ちょっとした断片的なものであれど、このちょっとした痕跡があるだけでもだいぶ、趣きが出てきて、散策のやりがいがあるものとなる。

※2024年9月撮影


関連

陸軍清洲飛行場(甚目寺飛行場)跡地散策(愛知)

愛知県に出張の折、時間ができたので、名古屋から足を伸ばして、名鉄大里駅に。ここから、清須飛行場跡地を目指してみる。



位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:97L24-C1-7
1945年4月22日、帝国陸軍撮影の航空写真を加工。

清須飛行場部分を拡大

現在の様子。戦後の農地開拓のまま、かつての清須飛行場の用地が残っている。


清須飛行場(甚目寺飛行場)

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月、海部郡甚目寺町と西春日井郡清洲町にまたがる約200ヘクタールの農地に建設された。正式名称は清洲飛行場だが、飛行場の大部分が甚目寺町にあったため、地元では甚目寺飛行場と呼ばれていた。
終戦時には、飛行第5戦隊が所在し、中京地区の防衛任務にあたりつつ、来たるべき本土決戦に向けて戦力を温存していた。


清須飛行場の建屋

清須飛行場にあった建屋を戦後に移築して倉庫に転用したという。

https://www.asahi.com/articles/ASNDV7RSVND4OIPE02F.html

記事より、転載

 横井さんら地元住民によると、終戦直後から1947(昭和22)年ごろにかけて、飛行場に放置されていた建物群や備品は次々と持ち去られた。横井さんの父親は飛行場跡を開拓して田畑に戻す組合の役員を務めていたといい、「使える物は何でも使う時代だったから住民が引き取ったようだ。集落総出で大八車に積んでここまで運び、組み立てたと聞いた」。
 横井さんも自宅に軍用機の燃料タンクと座席を保管している。飛行場の建設時には勤労奉仕で土運びに駆り出された経験を持つ。
 倉庫は後に、板張りの壁をトタンに変えたり、屋根をスレートにふき替えたりしたが、柱などの部材は当時のままという。昭和30年代にはボヤ騒ぎにも見舞われたが、令和に至るまで残った。宮崎亮一さん(81)は「しっかりした建物だったので補修で済んで、壊さずに使い続けることができた」と振り返る。

場所:

https://maps.app.goo.gl/3swzrukcTCfKqiN5A

バス停は「増田(ました)」

増田長盛の出生の地、という。
ましたながもり

場所

https://maps.app.goo.gl/UosXAJcWK7YjNdvDA


清須飛行場跡地

広がる農地は、戦後の開拓。この広大な農地がそのまま清須飛行場の跡地となる。


清須飛行場の作戦室跡

宅地の奥に、作戦室跡が残っていた。
頑丈なコンクリート建屋は、これを撤去するのも大変な労力を割くことが容易に想像され、それが撤去を諦めて残ったとも言えそうだ。

場所

https://maps.app.goo.gl/UosXAJcWK7YjNdvDA

飛行場エリア=農地開拓エリアの外周となり、周辺は宅地造営が進むも、作戦室跡地だけは取り残されている模様。

南に進む。

高架道路は、名古屋第二環状自動車道。
清須飛行場跡を北東から南西にかけて斜めに横断している。


元飛行場開拓記念碑

あま市甚目寺公民館の敷地内に開拓記念碑がある。
清須飛行場の南端近く。

元飛行場
開拓記念碑

元飛行場開拓記念碑文
太平洋戦争の砌(みぎり)国土防衛のため建設された飛行場が終戦と共に廃棄された。
元来この地は農民の至宝で五穀豊壌の沃野であった。
戦後国力は極度に疲弊し農家と雖も食料に事欠く時であったから関係町村民は挙ってこの地に開拓の意欲を燃やし主食の甘薯馬鈴薯の作付けをしたが大半は雑草の茂る荒蕪地として放置されてあった。
時の甚目寺町長・近藤寿治氏は大いに之を憂い昔日の美田に復帰せむと払下げの請願書を関係官庁に提出しあらゆる困難を押して運動された結果、昭和二十三年十月十八日遂に氏の至誠が認められ入植の許可が下付された。
宿願のかなった農民は一致団結して工事に勉励した。
理事長・山田善吉氏の人格と手腕は衆望を集めて事業の推進に精励せられた。
又、関係農民のたゆまざる努力により灌漑排水共に整備せる理想の開拓地が十有余年の星霜を経て完成し、黄金波打つ豊穣の沃野が限りなく展開されて穀倉地帯の名にふさわしい美田が復興した。
今回清浄の地を選んで開拓記念碑の建設されることは山田善吉氏を始め尽力された人々の頌徳碑でもある。
茲に功労者各位の氏名を列記して永久にその功績を讃えます。
 里人が こころ合わせて 拓きたる
    飛行場の跡  白鷺群れる

場所:

https://maps.app.goo.gl/xAj1YJR68yNThp4BA

あま市甚目寺公民館

※撮影:2024年6月


関連

愛知縣護國神社

「鉄道聯隊材料廠・内部公開」(千葉経済大学)

千葉県内に残る鉄道連隊の戦跡。
千葉や習志野、津田沼界隈に多く残っている。
当サイト内でもいくつか掲載をしてきていた。

今回は、千葉経済大学の構内に残る、貴重な煉瓦建造物の内部公開があったので、足を運んできた次第。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

市内に点在している案内看板より。

上記の米軍航空写真から該当部分を拡大。


千葉経済大学企画展
「学び舎に残る歴史‐煉瓦棟と千葉の戦跡‐」

https://www.cku.ac.jp/news_all/11789

https://www.cku.ac.jp/news_all/12889

千葉経済大学総合図書館では、前期企画展示として「学び舎に残る歴史 ~煉瓦棟と千葉の戦跡~」を5月27日から開催しています。展示期間は当初8月23日までの予定でしたが、好評につき展示ブースを拡大し、10月31日(木)まで期間を延長いたします。
 本学の敷地内に残る「旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)」は、千葉県内でも珍しい明治に創建された大規模煉瓦建築物で、千葉県有形文化財に指定されています。今回の企画展示では、その「旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築」を中心に、本学周辺に残る旧軍施設の成り立ちや現状、および地域史に欠くことのできない背景についても紹介しています。

通常は非公開。2024年の企画展で特別に内部も公開された。

千葉県指定有形文化財
 旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
 この煉瓦建築は、明治41年、鉄道聯隊材料廠の機関車の修理工場として建築されたもので、その後昭和20年旧日本国有鉄道が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用、昭和60年から千葉経済学園の所有となったものである。
 千葉県内に数少い明治年間創建の大規模な煉瓦建築の一つであり、特に内部の東西方向に二列に連なった十連の雄大なアーチ構造は、全国的にも他に比類がなく、この建物の主な特色となっている。
 従って、我が国明治期の煉瓦建造構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。
 右の理由により、千葉県指定有形文化財として指定をうけたものである。
  一、指定年月日 平成元年3月10日
  一、構造 煉瓦造アーチ構造、木造小屋組
  一、面積 695.6平方メートル
     千葉経済学園

千葉県指定有形文化財
旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
  所在地 千葉県稲毛区轟町3-59-6
  所在者 学校法人 千葉経済学園
  指定日 1989(平成元)年3月10日
 この建物は1908(明治41)年、旧鉄道連隊の材料廠※として建築された。大正時代には旧陸軍の兵器庫としても利用されていたが、戦後は大蔵省、国鉄と引き継がれ、1985年(昭和60)年に千葉経済学園の所有となり現在に至る。
 主要部分は、54.4m×7.3mと細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積と呼ばれる技法を用いている。
 県内では数少ない明治時代の大規模な煉瓦建築であり、10連の雄大なアーチ構造は、全国的にも類例がない。我が国の近代建築史における初期煉瓦建築の構造を知る上で、極めて重要かつ貴重な建築である。
 ※廠:壁の仕切りがない、広い建物のこと。工場、倉庫。 


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)内部公開

通常は非公開。今回の企画展に伴い特別にスタッフ立ち会いのもとで内部公開も実施された。ヘルメット着用必須。

1908年(明治41年)8月に、陸軍鐵道第一聯隊の材料廠として鉄道軌道の材料や蓄積の管理、列車の組立や修理を行うことを目的に建設。
主要構造部分は、東西54.4m、南北12.7mの東西に長い長方形。(南北にそれぞれ2.7m幅の下屋を含む)主屋の東西:煉瓦造、下屋・小屋組:木造、屋根:トタン葺き、木造部分の外壁:トタン張り
内部は煉瓦造の連続した10連の弧形アーチが5.4m間隔で並んでいる。

煉瓦の積み方は、オランダ積み。交差イギリス積みとも。

建設当時から使用されているクレーン。

クレーン用にもレールが曳かれている。

棟内にあった資料。
限られた時間で、詳細を目通しするのはムリでした、、、

昭和63年の煉瓦試験結果報告書

煉瓦建築に関する調査報告書
平成元年


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)軌道跡

南側の外には2種類の幅の違うレール600mm(鉄道聯隊演習路線)・1067mm(軍用鉄道・国鉄など)が一部残っており、当時の出入り口に続いている

ふたつのレール幅が確認できる。


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)外観

ところどころ、崩れかかっている箇所が気になる。


千葉経済大学企画展
「学び舎に残る歴史‐煉瓦棟と千葉の戦跡‐」
展示コーナー(図書室)

配布資料

ペーパークラフトにて煉瓦棟を模型再現

旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築 模型
千葉経済大学模型部作成 1/150サイズ

航空写真

旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
概要や歴史、工事年表など

鉄道聯隊について(1)

小湊鐵道に残る鉄道聯隊の痕跡
鉄道聯隊で使用されていた蒸気機関車(B104)や」鉄道聯隊のマークが刻まれたレール、97式貨車の写真など。

枕木
旧千葉県営鉄道多古線の路線跡から出土した金属製の軽便鉄道枕木
千葉経済大学敷地内にかつてあった千葉レールセンターで使用されていたと推測される木製枕木

鉄道聯隊について(2)

千葉県営鉄道

近隣(習志野・佐倉・四街道)の軍施設

大学周辺(千葉市内)の軍施設

※撮影:2024年10月


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