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陸軍少年通信兵学校名残の石橋

平成29年撮影

西武線小川駅の西側。
現在の「明治学院 中学校・東村山高校」のあるあたり。
現在は通学路となっているこの石橋から先が往時は「陸軍少年通信兵学校」であったという。

陸軍少年通信兵学校名残の石橋

野火止用水に架かる石橋に当時の欄干が残る。

位置関係

航空写真を見てみる。米軍昭和23年3月撮影の航空写真と現在の様子。

陸軍少年通信兵学校

昭和16年10月に東村山に開設。
昭和17年に「陸軍少年通信兵学校」を「東京陸軍少年通信兵学校」と改称し、新潟県村松町に「村松陸軍少年通信兵学校」を設置。
通信関係の現役兵科下士官となる生徒に訓育、学科、術科の教育を行うことであった。生徒は少年飛行兵召募試験合格者。毎年一回の入学で、修学期間は約2年。

村松の陸軍少年通信兵学校はこちら。

東村山ふるさと歴史館

山中坂の戦災供養地蔵尊(立川)

平成31年4月撮影

立川には陸軍飛行場を中心に陸軍航空工廠や軍需工場が集中していた土地であった。米軍からは重要拠点とみなされ、昭和20年2月16日以降13回に及ぶ空襲を受けた。

昭和20年4月4日

立川市富士見町5丁目にある坂は「山中坂」と呼称されていた。残掘川の崖、川崖線に面した坂。
この地には崖を利用して横穴式の壕が掘られていた。もともとは役所の重要書類を退避させるために掘られた所蔵庫であったが、使われなくなったので近所の住民が防空壕として活用をしていた。

昭和20年4月4日午前1時頃に空襲警報が発令。 第二波の空襲が特に激しく人々は山中坂の防空壕に避難していた。

このとき、B29が投下した250kg爆弾が防空壕の入り口付近に命中し、防空壕の中にいた全員が犠牲となった。犠牲者は42名。

山中坂が被弾した理由は諸説ある。
 「立川陸軍航空工廠と立川飛行機砂川工場を狙ったものが逸れた」
 「中央線の鉄橋を狙ったものが逸れた」
 「防空壕の入口付近を出入りしていた子供たちが照明弾で発見された」

防空壕のあった被災地跡には亡くなった人々の霊を慰めるために「戦災供養地蔵尊」が建立されている。

山中坂の戦災供養地蔵尊

山中坂悲歌 (エレジー)

山中坂悲歌 (エレジー)
 作詞 小沢長治 
 作曲 新田光信

夜明けが遠い 闇の中 
山中坂の防空壕に
息つめよりそう四十一人
子ども年より女の人 
爆弾つんだ飛行機がくる

闇をひきさき とどろく音 
防空壕に爆弾が落ちた
埋められた四十一人
子ども年より女の人 
二度とかえらぬみんなの命

ああ 悲しみが坂を流れる 
桜の花がなきがらに降った
あの日のように花びらが舞う
山中坂よ 小さなほこら 
お地蔵さまに祈る誓い

あの悲しみを くり返さない 
あの悲しみを くり返さない 

「山中坂悲歌」では41人となっているが犠牲者は42人。
1人は氏名がわからない方がいらっしゃった、とも。

碑文
 太平洋戦争の末期、立川は1945年(昭和20年)2月16日から8月2日までの間、少なくとも13回の爆撃を受け、330余名が犠牲となった。
 ここ山中坂にあった横穴式防空壕は、4月4日未明、B29が投下した爆弾が直撃し、中に避難していた子供たち32名をふくむ42名が死亡した。
 平和をねがい、思いをおなじくする私たちの挙出金、土地所有者の株式会社伊藤商店のご協力によってこの歌碑を建立し、戦争の悲劇を再び起こさないことを誓います。
 1995年4月2日

合掌


参考

総務省サイト
総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 立川市における戦災の状況(東京都)

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_21.html

関連

市ヶ谷周辺の陸軍史跡散策

平成28年~29年撮影

市谷亀ヶ岡八幡宮

八紘一宇

裏参道(左内坂)の方向に向かいましょう。

裏参道。
右手は駿台予備校。左手は市ヶ谷駐屯地。

市谷亀ヶ岡八幡宮の陸軍用地境界標石

今でも境界の仕事をしている標石がアジサイに隠されるようにありました。 本来、地中に埋まっているべき部位も見えるので移築保存かも。

市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮の裏参道を往復していたら、更にもう一つ見つけました。 アジサイの裏側に。 二つ目。 良い状態です。

おっ、違う。
これは現在の境界石。 基本的に目的は同じ標石ですが。

引き続き裏参道にて。 三つ目。
これは左右の塀に対して、埋没しながら凄い状態で境界してます。

「陸軍用地」標記ではなく 「陸軍省所轄」境界石標石

市ヶ谷の亀ヶ岡八幡宮裏参道入口。
左内坂。
何度も参拝している身近な神社でも興味のアンテナの張り方次第で、まだまだ知らなかった発見がある。

長泰寺

市谷亀岡八幡宮の裏となりに鎮座している「長泰寺」

境内にある碑を見学。門を入って右手にありました。

祭馬碑

陸軍士官学校馬術教官部

陸軍士官学校 馬術教官部軍属之碑

陸軍少将安満欽一書

長泰寺の境内に、すぐ隣の市ヶ谷陸軍士官学校馬術教官部ゆかりの碑が2つ残っておりました。

陸士(陸軍士官学校)で犠牲になった軍馬や軍属の方々を祀った碑。
陸軍少将安満欽一は1920年(大9)に陸軍士官学校本科長に就任。

外濠公園

KR市ヶ谷駅からお堀に沿って伸びている細長い公園。

ここには「東京市外濠公園」旧名碑が残っております。
公園は1927年(昭2)に東京市によって整備。
「東京市」の響きにワクワクするのは歴史クラスタ

名前のとおりに外濠に沿って公園が整備されています。
 外濠
 JR線路
 土手
 外濠公園
 法政大学
 九段上(靖國など)
こんな感じの並び。
中央線と総武線を撮るには良い場所。
無駄に流し撮りの練習も出来ます(失敗するけど

陸軍軍医学校跡地(東京逓信病院)

外濠公園の近くにかつてあった陸軍施設。
1888年(明21)現在の「東京逓信病院」の地に「陸軍軍医学校」が開校。
1929年(昭4)に軍医学校は戸山(厚生労働省戸山研究庁舎界隈)へ移転。

現在の東京逓信病院は陸軍軍医学校移転後の昭和13年に、逓信省職員と家族を対象の職域病院として開業。1986年(昭61)に一般に解放。
この病院の隣道は地図を見れば分かるとおりに「北の方の某総連」のせいで非常に警備厳重。そんな中を緊張しながら歩いてみました。

現在の東京逓信病院

郵便マークの境界石がありました。
さすが逓信病院。

緊張します。
お巡りさんの視界の中で、しゃがみこんで写真を。
2つ見つけましたが写真は1種類だけ。
長々としゃがみこんでマジマジ見れる環境ではなく。

陸軍軍医学校 陸軍境界標石

現在の東京逓信病院と法政大学富士見坂校舎のある通り。
総連の向かい側、法政大学の入口脇近く。

このご時世でお巡りさんがたくさんいる場所。
法政大学の警備員さんもいらっしゃる場所。
とっても警備が厳重。

陸軍軍医学校の陸軍用地境界標石の見学。 緊張しました…

防衛省の市谷台がこちらで

防衛省・市ヶ谷台ツアー

平成30年6月撮影

6月某日。
縁あって防衛省・市ヶ谷地区の見学を。
通称「市ヶ谷台ツアー」に参加してきましたので、そのときのレポを以下に。

※令和3年(2021年)、現在とはツアーの内容が異なります。

令和3年は、大本営地下壕が見学コースに加わりましたが、メモリアルゾーンは見学コースから無くなりました。以下のレポートも参照に。



市ヶ谷台ツアー

通常は1回のツアーで多いときは60人から100人ほど集まるという人気の見学会。私が参加した日は団体のキャンセルがあったとのことで、なんと10人ほどの少人数のツアーに。
「皆さんラッキーですよ。ゆっくり案内できます」と、案内の方からご挨拶があったぐらいの少人数だったようです。

見学時は撮影可能エリアと撮影不可エリアがあり。もちろん掲載していく写真は撮影可能なところのみ。

私が参加したのは午前の部。午前の部はメモリアルゾーンの見学があり一番興味深かった。
午後の部は月~木は広報展示室見学、金は防衛研究所見学ということで3パターンある。(他も気になる…)


庁舎A棟前

儀仗広場

来賓がいらっしゃると、この広場で儀仗隊が儀仗を行ってますね。
広場の「日の丸」は、雨の日は晴れの日の3/1の大きさになったり、祝日はもう一回り大きいものになったりするらしい。

庁舎A棟前の「儀仗広場」の下側。
木々の中に見える「石灯籠」、実は「地下壕の通気口」でもある。
石灯籠カモフラージュ。
地下壕は4メートルのコンクリート壁で守られ、地下14メートルに3本掘られており、地下には炊事場や食堂なども設けられていた。

地下壕の発掘調査などは、このあと訪れる「市ヶ谷記念館」内での展示コーナーで知ることができます。

展示機。
市ヶ谷ツアー内で唯一の自衛隊装備品を見学。

UH-1H ひよどり


市ヶ谷記念館

昭和12年(1937)陸軍士官学校本部として1号館が建設。
その後、士官学校は座間、予科士官学校は朝霞に移転し、昭和16年に大本営陸軍部・陸軍省・参謀本部が市ヶ谷台に置かれた。終戦後はGHQに接収され極東軍事裁判法廷として使用。1998年に一部を移築復元し現在に至る。

市ヶ谷記念館
当記念館は、旧1号館の解体に伴いその象徴的部分とされる玄関前車寄せ、旧大講堂、旧便殿の間、旧陸軍大臣室を復元した建物であります。


市ヶ谷記念館
大講堂

昭和9年に「陸軍士官学校・大講堂」として作られ、終戦後の昭和21年5月から昭和23年11月までの間は「極東国際軍事裁判(東京裁判)」の法廷としても使用された空間。

復元は裁判当時の姿ではなく、戦前の陸軍大講堂の姿、ゆえに玉座もある。

玉座の場所に通訳ブース、その正面が特別傍聴席など。
向かって左が裁判官席、右が被告席。
撮影位置(講堂入口)は傍聴人席(2階)及び記者席(1階)から。

玉座側から。東京裁判当時は通訳ブースが置かれていた。
玉座から見た視点は遠近法が使われている。
本来は2階席は 陛下の玉座より高い位置にあるものの、玉座の 陛下からは2階が高く見えないように工夫されている。入り口の大扉も小さく見せる工夫あり。

大講堂入構時に映像「市ヶ谷台の歩み」を視聴。
著作権の兼ね合いで撮影は禁止。まずはこの映像で市ヶ谷台の歴史を学びます。

大講堂内は映像と展示物(著作権に関わるもの・撮禁表示有)の一部撮影禁止。 また撮影可能であってもフラッシュの使用は禁止。

パンフレット「市ヶ谷記念館 市ヶ谷台の歩み」 写真を撮ったものもあれば撮り忘れたものもある(!)ので、先にパンフレットを参考資料として置いておきます。


玉座

玉座の床は箱根の寄木細工。強度を保つためという。
そして玉座へ至る 陛下専用の階段。
写真では伝えにくいが、 陛下が階段を上がり易いように最初の段には中央に盛り上がりが、上部4段は中央に窪みが施されているという。


大講堂1階に歴史的な展示物が並んでいるので個人的な興味で幾点か紹介して見たいと思います。

阿南惟幾陸軍大将 御着用の軍服
(冬服)

阿南陸軍大臣の冬服は市ヶ谷台にあり、そして夏服は靖國遊就館に。

市ヶ谷台には後述しますが「メモリアルゾーン」があり、一角に「阿南惟幾荼毘の碑」もある。見学は不可でしたがパンフを戴きました。(不可だった理由も後述)

終戦の8月15日に陸軍大臣として三宅坂官舎で自刃された阿南大将の遺体は15日夜に荼毘に。
再整備時にその地にあった碑を移設。墓は多磨霊園に。

多磨霊園 阿南惟幾之墓

加藤隼戦闘隊 加藤少将の銅像の原型  

ガラスの反射が制御できませんでしたが…

加藤建夫陸軍中佐(戦死後に陸軍少将)


エンジンの音 轟々と
隼は征く 雲の果て
翼に輝く 日の丸と
胸に描きし 赤鷲の
印はわれらが 戦闘機


山下奉文大将から知人に宛てた礼状

昭和11年


極東国際軍事裁判用壁掛地図

極東国際軍事裁判(東京裁判)では多くの地図が法廷の壁に掛けられ使用されたが、この地図もマッカーサー率いるGHQが日本地図株式会社(当時)に発注し、同社が昭和21年5月3日に納入した地図と同じものである。
満洲、支那、佛印…


帝國軍艦比叡進水紀念品

軍艦比叡模型(文鎮)


航空母艦 飛龍模型 壹

昭和12年航空母艦進水記念として横須賀鎮守府長官より旧竹田宮王殿下に贈呈されたもの

横須賀鎮守府長官 百武源吾(海軍) から 竹田宮恒徳王(陸軍) への贈呈か。


今村中将着用品

功二級金鵄勲章
勲一等瑞宝章正章と副章
勲一等旭日大綬章正章と副章
今村中将着用品

今村均 陸軍大将 開戦時は第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。終戦時は第8方面軍司令官としてラバウルを守りきっている。


梅津美治郎大将愛用の軍刀  

終戦時の陸軍参謀総長、降伏文書調印式全権。東京裁判で終身刑、獄中死。


荒木貞夫大将愛用の軍刀  

皇道派の重鎮。二・二六事件で予備役に。東京裁判で終身刑。のち釈放。


栗林中将からの画手紙
(長男 太郎氏に宛てた手紙)

栗林忠道 陸軍大将
硫黄島の戦いにおける日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長・小笠原方面陸海軍最高指揮官)として防衛戦を指揮し玉砕。


栗林忠道 陸軍大将 からの 御書簡
(硫黄島から愛嬢 たか子さんへ)

栗林閣下は、次女のたか子さんを たこちゃん と呼び、「戦地のお父さんより」と手紙を送っている。


西郷従龍ゆかりの品

従龍って誰?と思って調べてみました。
西郷隆盛の弟 西郷従道 元帥海軍大将 初代海軍大臣 の孫にあたる人物でした。
西郷従龍 陸軍少佐

一階部分の展示は盛りだくさんでもっと時間が欲しいところでしたが時間切れ。
二階へ誘導されます。


旧陸軍大臣室

士官学校時代、士官学校長室として使用された。 昭和16年以降は陸軍大臣室であったが、その後は陸上自衛隊東部方面総監の執務室として使われた。

部屋の中央には解体前の「旧1号館」の縮尺1/50模型がドンッっと置かれております。陸自時代のものになりますね。

ちなみに模型でも掲げられている「旧1号館」時代(平成9年解体まで)のシンボルマーク「桜」と「大時計」は1階玄関に展示してありました。

部屋の片隅には
「大本営陸軍部標札」
「陸軍士官学校標札」

「陸軍省で使用した印」
「陸軍大臣及び陸軍省副官の公印」
「東条英機大将使用の実印」 なども展示。

これらの歴史的遺産に「おおおっ!!」です。

こちらはガイドの方が口頭で。そんなに深くは触れてくれるな…な感じでサラリと。

昭和45年11月25日の三島事件、この部屋(東部方面総監執務室)で総監を人質にした際に「三島由紀夫のつけた3つの刀傷」が扉に残っている。参加者的には撮影スポット。


旧便殿の間

士官学校時代、陛下の休憩所(御便殿の間)であった。
その後は陸上自衛隊幹部学校長室として使われた。

展示物がいくつか。
おもむろに展示してある「明治天皇御立場跡の碑」はもともとどこにあったものなんだろう・・・

扉や窓の上部にメッシュの小窓。実はこの部分は空洞になっており、地下から冷気をとりこみ、部屋を冷却していたというエアコンがなかった時代の工夫が、 陛下の休憩所に施されている。

陸軍特別大演習 昭和9年11月 群馬県

ガラス乾板。最前列から最後尾まで高画質に鮮明に写すためにガラスに焼き付けた写真。高い位置から集合写真を「長方形に写す」為に実際には台形で整列しての撮影という。(写り込みの反射が厳しい

陛下を中心に、演習に参加した士官がすべて写った集合写真。 前列には大将以下の将官、最後列は少尉となるようです。

よくみれば、山本五十六や、東条英機も写っておりますね。

けっこう見学時間がたりないですね。思ったよりも慌ただしい見学でした。
これはもう一度の見学をしたくなる…

このあとは隊舎の前を通り厚生棟で買物と休憩。なお撮影は禁止。
厚生棟にはスタバやセブンやミリタリーショップなどあり。
が、休憩が15分しかなく…


市ヶ谷台ツアー メモリアルゾーン

自衛隊殉職者慰霊碑

昭和25年に警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、自衛隊に至るまでの職務に殉じられた1934柱の御霊(霊璽簿・名簿)が祀られている。昭和37年建立。
毎年10月に追悼式が行われて平成29年には25柱が新たに祀られたという。

自衛隊殉職者慰霊碑
昭和55年10月再整備。碑銘は鈴木善幸首相揮毫。中央は黒御影石、左右は無垢白御影石で霊峰富士山を形どっており、中央の球体は平和の象徴たる鳩とともに、仲間が欠けることがない丸を表している。副碑として池田首相の旧慰霊碑を備える。

ツアー参列者一同、一列に横に整列し、黙祷を捧げる。
1900余名の殉職なされた隊員の皆様に。
その功績を永久に顕彰し、敬意と哀悼の意を。


左手にいくつかの石碑があった。

市ヶ谷駐屯地・基地記念碑

防衛庁市ヶ谷移転に際して、昭和45年当時の市ヶ谷駐屯地・基地及び芝浦分屯地に在駐していた部隊が刻まれている。

東京オリンピック支援集団司令部跡の碑

昭和39年の東京オリンピックを支援するため自衛隊支援集団が編成され、その司令部跡地に置かれた碑を移設。

戦史室跡の碑

大東亜戦争に関する戦史叢書102巻が編纂された戦史室の跡地に置かれた碑を移設。


メモリアルゾーン

市ヶ谷台の各所に点在していた碑を移設し集めたエリア。ただこの市ヶ谷台ツアーでは時間の都合で「自衛隊殉職者慰霊碑」を遠目に拝するのみで案内は終了。ガイドの人に「メモリアルゾーンの石碑を見学することは出来ないの?」と聞いてみたところ・・・
過去に年に一度ぐらい、悪天候などでツアー参加者が少なくて(それこそ2人とか)、時間が余りまくったときには見学の機会があったらしい。そうでもない場合は時間の都合でメモリアルゾーンの細かな見学は設けていない、と。 今回は10人ほどの少人数でしたが、それでも駄目でした。残念。

実際の見学は出来ませんでしたが
以下、パンフレットをベースに見学した気分だけ味わっていこうと思います。

陸軍大将阿南惟幾荼毘之碑

終戦時の陸軍大臣として敗戦の責を感じ8月15日に自刃。

杉山元帥、吉本大将自決之跡の碑

第一総軍司令官杉山元元帥と軍令部付であった吉本貞一大将がそれぞれ9月12日と14日に市ヶ谷台で自決。

雄健神社跡

雄健(おたけび)神社は、大正5年(1916)に創建され、陸軍士官学校19代校長、与倉喜平中将が「雄健」と選名。昭和16年、御神体が奉還され、今回移設した。

全陸軍航空奉賛同人会碑

全陸軍航空部隊、陸軍法空本部、陸軍航空総監部における戦没者、殉職者の英霊を祭祀した主碑と、その後方に「鎖」、「魂」及び「追碑」の副碑がある。昭和52年この地に建立。

大元帥陛下御立所
九九式十糎山砲

砲一碑

野砲兵第1聯隊及び野砲兵第101聯隊の記念碑。昭和44年この地に建立。

陸軍士官学校跡の碑

明治7年、明治天皇の御聖旨により学校設立。第31代陸軍士官学校長、山田乙三大将の揮毫(大正5年)による碑を移設した。

東京陸軍幼年学校跡の碑

明治30年、明治天皇の御聖旨により学校設立。戸山ヶ原にあった碑を学校発祥の地市ヶ谷に移設した

陸軍少佐晴氣誠慰霊碑

晴氣少佐は大本営陸軍部作戦班に勤務中、敗戦となりその責任を感じて、昭和20年8月17日の早朝にこの地で自決

約2時間の市ヶ谷台ツアー。
見どころ満載で、見損ねたところも多数な感じで、非常に充実していたツアーでした。
これはまた参加したい(平日のみの開催だから、なかなか参加するのが難しいのが現実だけど)

あとは、難しいけどメモリアルゾーンをゆっくり見学したいものです… 〆

見学しました

市ヶ谷台ツアーリーフレット(旧版)


関連

市ヶ谷水管橋

宇垣纏を偲ぶ

宇垣纏
 海軍中将・第五航空艦隊長官

宇垣家之墓

宇垣家之墓

従三位
勲一等旭日大綬章
昭和四十四年十二月二十四日

海軍中将
正四位
勲一等
功三級

宇垣纏命

昭和二十年八月十五日戦死 享年五十六
部下ヲ率ヒ九機ヲ以テ沖縄海面ニ特攻

東京・多磨霊園「宇垣家の墓」

8月15日

「一六〇〇幕僚集合、別杯を待ちあり。之にて本戦藻録を閉づ。」

第五航空艦隊司令長官 宇垣纏中将
宇垣日記として名高い「戦藻録」最後の記述。

一七〇〇
最後の訓示を終え、最後の特攻として、 宇垣長官は「彗星」に乗り込んだ。
その指揮官機を操縦する中津留達雄大尉は大分県津久見の出身だった。

第五航空艦隊司令長官 宇垣纏中将らが飛び立った地が大分基地であった。


突然ですが嫁の実家は宇垣さんゆかりの大分なのです。
ちょっとだけ大分の話をしてみようと思います。

2015年の秋に嫁が帰郷した際に、大分空港ゆかりの場所を撮影しておりました。
この記事の大分の写真は全て嫁の撮影となります。

神風特別攻撃隊発進之地

碑文
昭和二十年八月十五日午後四時三十分
太平洋戦争最後の特別攻撃隊は
この地より出撃せり その時 沖縄の米艦艇に突入戦死せし者の氏名左の如し

氏名    年齢 出身地
宇垣纏   五五 岡山
中津留達雄 二三 大分
遠藤秋章  二二 愛媛
伊東幸彦  二〇 宮城
大木正夫  二一 福島
山川代夫  二一 山形
北見武雄  二〇 新潟
池田武徳  二二 福岡
山田勇夫  二〇 千葉
渡辺操   二二 千葉
内海進   二一 岩手
後藤高男  二四 福岡
磯村堅   二二 山口
松永茂男  二〇 福岡
中島英雄  一九 愛知
藤崎孝良  一九 鹿児島
吉田利   二〇 滋賀
日高保   二〇 鹿児島

旧制大分中学五十八期会一同 
同五十七 五十九期有志一同
旧海軍有志一同
昭和五十一年八月建之
平成六年十二月改修之

昭和23年に米軍が撮影した旧大分海軍航空隊の様子を見ることが出来る。
(国土交通省国土地理院サイトより)

こちらは現在の様子
おおざっぱに
赤→飛行場
青→大分海軍航空隊
緑→第十二海軍航空廠
黄→第5航空艦隊司令部

大分空港跡地


現在の大分市青葉町にある「大洲総合運動公園」が、かつての「大分基地跡地」にして「大分空港跡地」の地。

大洲総合運動公園
この公園敷地は旧大分空港跡地、その前身は「旧大分海軍航空基地」

戦後運輸省が第二種空港として整備し、その後大分空港が国東半島海岸に移転(1971年)したのを機会に公園用地として大洲総合運動公園が整備。
写真はかつての滑走路界隈。

七〇一空会記念植樹 豊後梅

七〇一空は昭和20年2月に第五航空艦隊附属に転籍となり、最前線にて終戦まで沖縄・九州方面の哨戒、対機動部隊攻撃、特攻攻撃に従事・・・

ここでは、論評は致しません…

ただ静かに感謝と哀悼の意を…


今回の大分写真は嫁撮影となります。
まだ私はこの地に訪れていないため、次に赴く機会がある際に改めて往時を偲んで参ろうと思っております…

神戸三宮の戦跡と近代史跡散策

平成29年3月

平成29年3月15日、神戸方面に赴く用事があった。
せっかくなので神戸に点在する戦跡・近代史跡スポットを午前中のスキマ時間で軽く散策。


三ノ宮駅高架橋の機銃掃射痕

JR三ノ宮駅。
この何気ない東西を結ぶ高架線路橋の景観の中に戦争の爪痕が残っている。
手前の遊歩道からJR線高架橋を覗いてみると・・・

神戸大空襲

神戸は昭和20年終戦までに128回の空襲の受けており、この穴は米軍戦闘機による機銃掃射の跡(山側から海側に貫通)とされている。

JR三ノ宮駅の高架線路橋。
橋の名前は「加納町第一架道橋」。
歩道から覗いてみると無数の穴が開いていた。

色が塗り替えされました。以下は2024年3月撮影。


JR「三宮駅」のほかに、阪急「神戸三宮駅」にも戦争の爪痕が残っている。阪急「神戸三宮駅」 駅ホームの上に広がる巨大な屋根をよくよく見てみると・・・

阪急・神戸三宮駅の弾痕

JR「三ノ宮駅」のほかに、阪急「神戸三宮駅」にも戦争の爪痕が残っている。

阪急「神戸三宮駅」
駅ホームの上に広がる巨大な屋根をよくよく見てみると・・・

駅ホームの上に広がる巨大な屋根。
見上げてみると修復の跡などが。

これも「神戸大空襲の傷跡」
B-29焼夷弾の貫通痕。

思った以上に修復の痕跡が残っていました。
なかには衝撃で曲がったままのものも。

駅に残る戦争の痕跡を感慨深く見上げつつ。
三宮駅から南下します。市役所方面へ。


神戸市役所

どうやら日本で最初に設置された「花時計」が、この「神戸の花時計」とのことで。(1957年4月26日稼働開始)
「へー」なスポット。

神戸市役所24階展望ロビーを目指します。
特に深い意味はないけど高いところからの眺望は好きですので。

神戸市役所24階展望ロビーより

「錨」と「神戸市章」「北前船(KOBE)」が見えました。
日没30分後から23時まで点灯される神戸のシンボル。

「錨山」の錨は明治36年の明治天皇行幸観艦式を記念して錨の形に植栽したことに始まり昭和56年に永久電飾となる。

神戸市役所24階展望ロビーより
摩耶の方向。
鵯越の方向。
ポートアイランドの方向。
長田須磨の方向。

神戸の歴史を鑑みると、今の景色も色々感慨深いものがあります。

市役所から海の方に向けて南下する。


神戸税関

2代目庁舎は1927年竣工。「帝国の大玄関番たる税関として決して恥ずかしからぬ近代式大庁舎」と称された日本最大の税関庁舎とのことだけど、今回は時間がなかったので外観をちらりと眺めて次へ。


神戸海軍操練所跡碑

元治元年(1864)5月、江戸幕府軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関・海軍工廠。
錨のモニュメントは旧戦艦の錨らしいが「旧戦艦の錨…」以下が読めない

神戸海軍操練所跡碑
碑文は「書」をかたどっており個性的な碑。

神戸海軍操練所跡碑
由来
 万延元年(1860年)1月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。その際、勝海舟は、咸臨丸(300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいながら一行の護衛と海洋技術習得の大任を果したのである。これ、日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。
 文久3年(1863年)4月、攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防備のため阪神海岸を巡視した。
当時、海舟は軍艦奉行並の職務にあって、これに随行し、神戸港が天然の良港であり国防の要港であることを力説した。かくてここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。
 この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした。その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の人材が輩出したのである。
 元治元年(1864年)、海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865年)3月、ついに閉鎖されるの止むなきに至ったのである。
 当時は、この「記念の錨」から東へ長くひろがり、南は京橋詰から税関本庁舎を望むあたりの、長方形の入堀約一万坪の一帯が海軍操練所であった。惜しくも現在では阪神高速道路の下に埋めたてられて当時の盛観をしのぶに由もない。今はただ、遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことのできるのがせめてもの救いである。
 ここに当時を偲び郷土を愛する人びとに、この記念碑を捧げる。
昭和四十三年十月建之

勝海舟による海軍の発祥の地。これが明治海軍への礎となるのだ。

実はこの場所は「NTTドコモ神戸ビル」の前。
「神戸海軍操練所跡碑」の隣には「神戸電信発祥の地」の碑。
明治3年に大阪川口電信局と神戸伝信機局の間(40km)に開通。これが関西地方における電信の発祥であるという。

「操練所跡碑」から「居留地通海岸通」を西に。
居留地通りの建物はまたのちほど触れていきます。
メリケン波止場の「港公園」に一対の碑がある。 (跡地とややこしいです)


神戸海軍操練所記念碑

海軍営之碑

「海軍営之碑」
徳川宗家16代当主徳川家達謹書
碑文は勝海舟謹書(軍艦奉行安房守勝物部義邦撰)

なおこの碑はレプリカで本物は六甲山の諏訪山公園にある。


陸奥宗光顕彰碑

「陸奥宗光顕彰碑」
陸奥宗光(1844~1897)は勝海舟の神戸海軍操練所で坂本龍馬らと共に学び、のちに第4代兵庫県知事となり第二次伊藤博文内閣での外務大臣を務めた人物。(伊藤博文は初代兵庫県知事)

「陸奥宗光顕彰碑」 碑裏面は昭和四八年当時の外務大臣大平正芳による。
「近代日本の揺籃期に内政外交に尽くした功績は不滅である」

国史を愛し郷土史を偲ぶ人びとに捧ぐ
 昔、この周辺を摂津国、神戸村小野浜と呼んだ。東は脇浜、西は弁天浜で、現在の神戸港の玄関口である。
 海の先覚者たちは、この浜が今に世界的な要港となるのを見通して、神戸海軍操練所を開設した。造船所、機関学校、兵学校もある広大なもので、その生徒も200名以上を数えた。ここから明治維新に活躍した大人物が多数輩出している。
 この浜は新しい日本の発祥の地である。
昭和48年5月吉日

海軍操練所の生徒で神戸に忘れられない人
所長・海軍奉行 勝海舟
塾頭・坂本龍馬(のち海援隊長)
伊藤俊助(のち伊藤博文・兵庫県初代知事・初代内閣総理大臣)
陸奥陽之助(のち陸奥宗光・兵庫県四代知事・第二次伊藤内閣外務大臣)

「みなと公園」をあとにして、旧居留地エリアにまいります。 ちなみに時間軸としては三宮駅9時散策開始で、ここまでで約30分経過しておりました。


神戸郵船ビル

大正7年(1918)に旧日本郵船神戸支店として建設された近代ビル。

「神戸郵船ビル」の反対側には近代ビルが林立しています。
これはワクワクします。

手前から「海岸ビル」「商船三井ビルディング」そして3つ先が「 チャータードビル」となります。
実は近くで見てみるとこれらのビルにも戦争の爪痕が残っているのです。


海岸ビル

旧三井物産神戸支店として1918年に竣工。
阪神淡路大震災で全壊し、高層ビル再建時に低層部(4階まで)旧外壁を再構築した。この4階建の旧外壁は国の登録有形文化財に登録されている。
近代化産業遺産。

「海岸ビル」
外壁には神戸大空襲による機銃掃射痕が残る。

海岸ビル。低層階内部が美しい・・・


商船三井ビルディング

旧大阪商船神戸支店として1922年(大正11年)に竣工。
近代化産業遺産。アメリカルネサンス様式。
大正期の大規模オフィスビルとして唯一現存。

「商船三井ビルディング」の 外壁にも神戸大空襲による機銃掃射痕が残る。
今となっては言われなければ気がつかない小さな痕跡。
戦争の爪痕。


神港ビル

1939年(昭和14年)に川崎汽船本社ビルとして竣工。現在もオフィスビルとして利用されている。近代化産業遺産。 アールデコ風の屋上の塔屋が目立つ。


チャータードビル

チャータード銀行(Chartered Bank)神戸支店として1938年に竣工。
近代化産業遺産。

「チャータードビル」 外壁に機銃掃射の痕をみる。


旧居留地エリアの内部へと足を進めます。

神戸市立博物館

この建物はかつての「横浜正金銀行神戸支店」(戦後は東京銀行神戸支店) 1935年(昭和10年)に竣工した新古典主義様式の建物。
国の登録有形文化財指定。

「神戸市立博物館」 旧「横浜正金銀行神戸支店」
入口の脇にちょっとだけ痕跡が残ってました。
機銃掃射の痕。

今回の神戸では「機銃掃射痕」ばかり探す散策をしてしまいまして。 オシャレな神戸の街なかで、観光とは程遠いフィールドワーク…


神戸外国人居留地の下水道(公開施設)

慶応3年(1868)の開港にともない居留地が展開。 居留地の下水道は明治5年(1872)頃に完成したもので、近代下水道としては日本最古のものという。
国登録有形文化財指定。土木学会選奨土木遺産。


旧居留地十五番館
旧アメリカ合衆国領事館

1880年竣工。
旧居留地に唯一現存する居留地時代(1868年~1899年)の建築物。
国重要文化財指定。
1995年の阪神・淡路大震災において全壊するも再建。現在はレストランが営業している。


南京町中華街

居留地エリアから次の目的地(花隈)に向かう途中に南京町中華街があったのでフラフラと寄り道してしまいました。
なんか珍しく観光っぽいことしてますね。


花隈公園(花隈城跡)

永禄10年(1567)織田信長が荒木村重に命じて築城させたと伝承。
荒木村重が信長に反旗を翻したため花隈城は荒木方の有岡城支城となるが天正8年(1580年)に落城。
池田恒興によって兵庫城が築城された為に花隈城は廃城。


「東郷の井碑(東郷井)」( 花隈公園 )

「東郷の井碑」 命名は財部彪、揮毫は小笠原長生。
元々は花隈7-16界隈にあった。
初代戦艦大和(神戸小野浜造船所・1887年起工) 建造監督官として東郷平八郎が就任し花隈に滞在。
大和進水時には初代艦長に就任。

「花隈公園」にならぶ2つの碑
「花隈城跡」 「東郷の井」
荒木村重と池田恒興
東郷平八郎と財部彪と小笠原長生

なかなか強烈です。


花隈公園から北上する。

神戸教会(日本基督教団神戸教会)

1932年に建設されている4代目の会堂で、スクラッチタイル張りの外壁に高い尖塔が聳える。
教会としては1874年(明治7年)4月に設立された日本最古級のプロテスタント教会という。

太平洋戦争末期には会堂が日本軍に接収され、外壁を黒く塗られたという。
なんとなく往時の黒塗りのあとが残っているような気がしないでもなく…

神戸大空襲時(昭和20年6月5日)に爆弾によって破壊された会堂前市道の溝蓋の敷石。
道路拡張時に教会にて保存。

今回の神戸散策では唯一の「戦争遺跡を明記した案内板」と出会えました。


生田神社

三宮の生田神社境内には、神戸大空襲で被災した楠の大木がある。 昭和20年6月5日の神戸大空襲で焼けただれた御神木。

生田神社
延喜式内名神大社。旧社格は官幣中社。 現在の神戸市中央区の一帯が社領であり「神戸」地名の語源となっている。
御祭神は稚日女尊 「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも妹とも和魂であるとも。

神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ神託があったと書紀には記載。
この時に神戸生田の地とともに、大阪住吉・神戸長田・西宮広田も同時に祀られ「四社鎮祭」とされている。

花隈駅から阪急神戸三宮駅に戻る。朝9時から散策を開始して所要3時間でした。

で、仕事先に向かうためにポートライナー(神戸新交通ポートアイランド線)に乗り込んだわけです。 神戸遠景が美しい…

陸軍相模飛行場跡地散策

平成30年2月
神奈川県愛甲郡愛川町中津地区に残る相模陸軍飛行場(中津飛行場)の跡地散策。

神奈川県愛川町に残る陸軍飛行場ゆかりの地。
ここには「相模陸軍飛行場」「熊谷陸軍飛行学校中津分教所」とも呼称された飛行場があった。
そんな往時を偲びつつ、ちょっと散策してみました。

海老名駅から愛川バスセンター行きのバスに乗って「中一丁目」バス停で下車。

この辺りの工業地帯が当時は滑走路であったという。
そして相模陸軍飛行場を縦断していた「水道みち」(横須賀水道) 、愛川町半原水源地から横須賀までの道。

水道みち

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
1947年(昭和22年)4月13日・1948年1月12日に米軍が撮影した航空写真。

1947年(昭和22年)4月13日、米軍撮影
1948年1月12日、米軍撮影

1948年(昭和23年)1月に米軍が撮影した航空写真とグーグルマップでの対比などを。
南西部に飛行場施設があり北東部は滑走地区。
今回は南西部の飛行場施設界隈を散策。

1948年(昭和23年)1月 、米軍撮影

陸軍中津飛行場
(相模陸軍飛行場)

もともとは少年飛行兵育成のための訓練所「熊谷陸軍飛行学校中津分教所」として昭和16年に完成。
舗装された滑走路はなく着陸地帯として離着降場を草を刈って造成された飛行場であった。練習機として「九五式中間練習機」(赤トンボ)が飛び交っていたという。

昭和17~18年ごろから中津飛行場には戦闘機も配備され、昭和19年には飛行学校閉鎖。
「四式戦疾風」の訓練基地となり、特別攻撃隊練成の地ともなり、当地からも特攻出撃が行われたという。

戦後、飛行場跡地が開墾。
工業地帯の片隅にある「中津工業団地第2公園」内に「開墾記念碑」が残されている。昭和31年建立。

昭和15年2月突如陸軍省は飛行場設置のため買収…昭和20年終戦と同時に施設は解体…国内混乱のさなかの開墾…

前述の米軍撮影の航空写真でも分かる通り、終戦間もない状況で区画整備され開墾が始まっている。


旧相模陸軍飛行場
通信室跡

当時の「通信室」とされる建物が建築会社敷地内に残っている。

訪れた際は日曜日ということもあり人の気配が無かった為、大野建設敷地外から撮影させていただきました。 見事に蔦が建物を覆ってます。

大野建設株式会社様紹介ページ

http://www.ohnokensetsu.com/iseki


旧相模陸軍飛行場
格納庫基礎跡

格納庫基礎とされるコンクリ塊。住宅地の中に忽然とコンクリの壁が残っている。 ワゴン車などと比べてみると、その異様な大きさがよくわかる。

隣は新築宅地造成中。 格納庫基礎のコンクリのまわりに新しい壁が造成されつつありますが、明白に保存体制に入っているのを感じることが出来ます。


旧相模陸軍飛行場
排水路

排水路は当時から変わらぬ位置で今も飛行場の南端から中津川へと注ぐ排水路として活用されている。


旧相模陸軍飛行場
排水路橋

排水路橋。陸軍飛行場時代から使われている配水橋。前述の排水路はこの場所で県道と立体交差して中津川へと流れていく。

旧相模陸軍飛行場「排水路橋」
 この排水路橋は、県道の道路面から橋の下部まで4.17mほどの高さがあります。橋の全長は15.75m。水路は中津川まで延び、厚さ35cmのコンクリート製で、水路内部幅は150cmです。
 第二次世界大戦中の相模陸軍飛行場は、地表面を平らに削り、草を刈っただけで、舗装されていませんでした。雨天時のぬかるみを防ぐため、排水設備が必要でした。 この排水路は、現在でも中津地区の一部の雨水排水に使用されています。
 平成28年9月
  愛川町教育委員会

下から覗くと排水路は橋の部分だけは二股となり、そして橋が終わると合流してます。理由は不明ですが水量が増した際に水流を弱らせる感じでしょうか?(根拠ない素人予想ですが・・・)

排水路と排水路橋を上から覗いてみました。 ちょうど分岐するあたり。

旧相模陸軍飛行場
正門通用門柱

正門通用門柱とされる遺物。「桜台ちびっこ広場」のあるあたり。
住宅の庭先に一柱。 このあたりに基地航空隊の正門があったという。
面白いことに電話ボックスと門柱で対の位置関係。
この門柱より奥に航空隊が展開されていた。


旧相模陸軍飛行場
正門門柱

正門通用門柱が残っている場所から400mほど西に行ったところに正門門柱が移築されている。

旧相模陸軍飛行場正門門柱」
 この正門門柱は、高さ216cm、71cmのコンクリート造りで、中ほどには駐留する部隊名を記した表札をはめ込むための長方形の切り込みがあります。頂部には、夜間照明用の電灯を設置した穴があります。
 第二次世界大戦中の正門所在地は現在の桜台附近で、2本の門柱がありました。 戦後。戦争遺跡が失わるのを惜しんだ方の手で、1本の門柱が、約400m西に離れたこの地に移設保存されました。
 平成28年9月
  愛川町教育委員会

門扉の金具あと。

移築するときに門柱の置き位置があべこべになっているような感じ。
写真手前の門柱の金具の位置、180度おかしいです…

案内看板にあった「頂部には、夜間照明用の電灯を設置した穴があります。」を探してみる。
向かって左側には「駐留する部隊名を記した表札をはめ込むための長方形の切り込み」もある。

飛行場のあった台地から中津川の方を望む。こうしてみると中津川が削り出した高低差ある台地上の平地は絶好の飛行場立地であったことがわかる。

関連する地下壕も残っているらしいけどそれは未調査。


豊橋の戦跡散策

平成30年6月撮影

  • 愛知県豊橋市内に点在する戦争史跡関連の散策
  • 主に豊橋公園と愛知大学豊橋キャンパスを中心に

平成30年6月下旬。愛知県豊橋市に足を運ぶ機会がありまして。軍都豊橋と呼ばれた街。
「豊橋公園」は歩兵第18聯隊
「愛知大学豊橋キャンパス」は第15師団
今回はこの2つを軸にして散策を展開していきます。

位置関係

「国土地理院」地図・空中写真閲覧サービス
1946年(昭21)07月16日の米軍撮影(ファイル:USA-M197-A-3No1-10)写真及びgoogle航空写真を加工

今回は豊橋陸軍墓地、工兵第15大隊、豊橋海軍航空隊方面には行けませんでした。18聯隊と15師団をメインに散策。

豊橋公園

かつての吉田城跡(三河吉田藩/豊橋城・豊橋藩)
明治維新後の版籍奉還により明治政府管轄。明治4年(1871)兵部省管轄。吉田城址に兵舎建設が進められ明治18年から大日本帝国陸軍歩兵第18連隊が移駐。

歩兵第18聯隊の正門と哨舎(豊橋公園)

明治31年に新設された営門。当初は木製であったが昭和10年台にコンクリート製に変更。

公園の入口にいまも残る哨舎が味わい深くて素晴らしい。
ついつい歩哨のように中に入って立ってみたくなったり。

歩兵第18聯隊・弾薬庫跡 (豊橋公園)

コンクリート製。床下は換気のために開けてあり、屋根は万が一の爆発時には爆風が抜けるように簡素な作りとなっている。

歩兵第18聯隊・馬頭観世音(豊橋公園)

紀元二千六百年建之
中部第六十二部隊長松本信吉書
昭和16年の紀元2600年に際して建立。軍馬守護神として馬頭観世音を祀る。

豊橋公園
公園内の片隅に寄せられていたこれはなんだろう。
庭園の残骸なのかな。
獅子だったり灯籠だったり。
気配的にはコンクリの雰囲気は新しそうなので、求めている史跡とは関係ないと思われるが。

歩兵第18聯隊・記念樹(豊橋公園)

表に「記念樹」、裏に「昭和5年兵」と刻まれている。
オガタマノキ(招霊木)

「歩兵第十八聯隊之阯」(豊橋公園)

昭和39年建立
副碑・平成9年建立
歩十八会(戦友会)
志を同じくするわれら会員は、この碑のもとに相集い、歩兵第18聨隊戦没将兵の業績顕彰及び慰霊並びに戦友、遺族の相互親睦及び福祉向上に努め、その歴史を後世に伝えるものである…

歩兵第十八聯隊之阯 裏面
我歩兵第十八聨隊ハ明治十七年夏名古屋鎮台下ニ創設 
八月十五日軍旗奉戴 
翌春豊橋旧城址内ノ新営ニ移リ尓後衛戍ス
(略)
大東亜戦争ノ緊迫スルヤ十九年二月南方ニ赴援シ防守に努ム 
夏米軍ノ大挙来攻ニ会シ衆寡敵セズ相次デさいぱん島及ぐあむ島ニ軍旗ヲ奉焼シテ玉砕セリ…
(略)
茲ニ同志相謀リ地ヲ旧営址ニ選ビ碑ヲ建テ事ヲ録シ先人陣中ノ偉績ヲ顕彰シ併セテ殉国ノ英霊ヲ弔イ其功勲ヲ不朽ニ伝ウ
昭和三十九年八月 元歩兵第十八聨隊々員有志建

歩兵第十八聯隊
明治17年(1884)名古屋にて設置され明治19年までに豊橋に移駐。
大東亜戦争では昭和19年3月にテニアン島進駐途中で輸送船が雷撃され聯隊は大損害を受けつつサイパン島に上陸。5月にグアム島に移駐。7月に米軍がグアム島に上陸し激戦を繰り広げ7月25日に軍旗奉焼し歩兵第18聯隊は玉砕。

彌健神社跡
奮藩祖豊城神社旧鎮座地(豊橋公園)

歩兵第18聯隊の営内神社跡。
鳥居は昭和8年4月3日建立(献納/三遠國防義會)
現在、社殿があった場所には「神武天皇銅像」が移設されている。
神武天皇像は、かつて歩兵第十八聯隊の戦病死者を追悼するために建立された軍人記念碑が遷座したもの。

神武天皇像(豊橋公園)

装いは故実に基づいた古代武人を模したもの。御尊顔はよりどころがないために、かしこくも 明治大帝をお写し申し上げた銅像。
かつては歩兵第18聯隊練兵場にて戦病死者を追悼する軍人記念碑として設置され敗戦後に当地に遷座。

http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=4348

旗杭は昭和12年4月、國防婦人會田原町分會の献納。

此処に歩兵第百十八聯隊ありき
歩兵第118聯隊記念碑 (豊橋公園)

碑文
軍靴の跡
 我が歩兵第百十八連隊(中部第六十二部隊)は昭和十六年四月一日国家の要請に応えこの地において編成され同年五月二十一日初代聨隊長陸軍大佐徳弘保衛が宮中で天皇陛下より軍旗を親授さる
 昭和十八年七月六日第四十三師団急遽編成に伴い主力は軍旗を奉じ静岡に移駐 或る者は他部隊に転属さる 
 越えて昭和十九年五月三十日祖国防衛の大任を帯び海路はるばるサイパン島守備の途につくもその大半が敵潜水艦のため海没の悲運に遭う
 一部上陸せるものは間もなく開始されたサイパン島攻防戦において昭和十九年七月七日軍旗とともに聖寿の万歳と皇国の弥栄を祈念しつつ全員玉砕す
 ここに生存者将兵相計り記念碑を建立 尽忠の偉業を顕彰し殉国の英霊を弔う

昭和五十五年十一月二日
 元歩兵第百十八連隊関係者有志建之

歩兵第二百二十九聯隊記念碑 (豊橋公園)

碑文
 歩兵第二百二十九聯隊は、昭和14年8月7日この地に於て陸軍大佐吉武秀人を初代聯隊長として編成完了。
 9月13日軍旗を授かり、10月13日豊橋を出発、征途についた。
 以後、泥濘の良口会戦をはじめとする南支那における幾多の戦闘の後、第二代聯隊長陸軍大佐田中良三郎率下の香港攻略作戦に始まり、南部スマトラ作戦、ガダルカナル島の戦いを含むニューギニア作戦、更に陸軍大佐平田源次郎を第三代聯隊長とするムンダ、ズンゲン、ラバウルなどを戦場としたソロモン及びビスマルク群島防衛戦から第五次ビスマルク戦に至るまで、大東亜戦争における最も画期的な作戦に参加した。
 かくて戦局不利とはいえ志気未だ軒昴たるうちに終戦を迎え、昭和20年8月18日ニューブリテン島のラバウルにおいて聯隊長以下慟哭裡に光輝ある歴戦の軍旗を奉焼、一塊の灰と化せしめた。
 聯隊生存者一同は、この灰をいま聯隊発祥の地に埋め、英霊の安らかんこと、足跡のとこしえならんことを祈念するものである。

昭和45年9月15日
 元歩兵第二百二十九聯隊戦友会(福々会)之を建立す

歩兵第十八聯隊
将校集会所通用門門柱跡 (豊橋公園)

将校集会所通用門の門柱跡。コンクリート製。上部に黄色のタイルで装飾が施されている。

歩兵第十八聯隊 聯隊記念碑跡 (豊橋公園)

かつてここには聯隊記念碑があった。もともとは上に砲弾型の碑が乗っていたというが現在は台座だけが残る。
戦後に台座の文字を埋めたようで、セメントの下に碑銘や碑文が埋もれていた。

表「聯隊記念碑」
裏「一北満派…」「一済南事変」と一部露出している。

歩兵第十八聯隊 貯水槽跡 (豊橋公園)

防火貯槽跡とされる部位。コンクリートの平面部が残る。

歩兵第十八聯隊 灰捨場跡 (豊橋公園)

煉瓦造り。
現在は塞がれているが上部の穴が開いており、裏側へ灰を掻き出して堀に落ちるようになっている。

戦災復興碑 (豊橋公園)

昭和33年10月建立

碑文
太平洋戦争の戦局非にして国内各都市が敵機の来襲におびやかされつつあつた昭和二十年六月十九日夜半ついに我が豊橋市も敵機B29の集中攻撃を受け市民必死の防禦もその甲斐なく瞬時にして市街地の大半を壊滅せしめらるに至つた
被災坪数128万6千、焼失戸数1万6千886、罹災者7万1502、死者624、重軽傷者344の犠牲を出し、惨憺たる焼土の混乱と窮乏とは人をして再び起つ日あるやを疑わしめたしかるに市民愛郷の熱誠と復興の意欲とは打つて一丸となり全燼なおふすぶる荒廃の中にこの日から雄々しくもたくましき建設が始められた
爾来十有三年全市民の刻苦たゆまぬ復興の努力は着々として功を奏し全国戦災都市にさきがけ産業経済文化の要衝として旧に倍する大豊橋市の盛容を見るに至つた今や再建復興の業成るに及びいたましくも尊き当時の犠牲者の冥福を祈り幾多の窮乏と苦難を排してこの大業に参加した市民不滅の業績をたたえ本市悠久の前途を祝福してここに戦災復興記念の碑を建立し大豊橋市の象徴とする
昭和33年10月

吉田城鉄櫓(豊橋公園)

内部は無料公開もしているけど、この日は外部のみで。

歩兵第18聯隊・西門門柱

豊橋公園の西側、豊橋市役所に面した国道1号線の脇に保存されている。
煉瓦造りの門柱で笠石は花崗岩。
明治18年の聯隊創設時は営門として使用されていたという。
国道1号線工事のために昭和34年に現在地に移築。
現在は門柱部と木製扉部をわずかに残している。

豊橋市公会堂

豊橋公園・市役所の手前にある「豊橋市公会堂」
昭和6年(1931)8月24日竣工。国の登録有形文化財。太平洋戦争末期の昭和20年6月の豊橋空襲で市が大きな被害を受けた際には豊橋市役所の機能がこの建物に一時移転している。


愛知大学豊橋キャンパス

かつての第15師団

歩兵第60聯隊正門跡
( 愛知大学豊橋キャンパス副門 )

現在は愛知大学豊橋キャンパスの副門
愛知大学前駅のすぐ隣に大学の門がある。
今風にリニューアルはされているが

当時の門柱の面影も残しつつ。(当時の門柱ではないと思われますが。)
まずはここからキャンパス散策と参りましょう。

第15師団
豊橋陸軍教導学校
豊橋陸軍予備士官学校

日露戦争で日本は従来師団の総てを動員してしまった為に本土駐留師団がなくなる事態に陥ってしまった。そこで「第15師団」を含む4個師団が新設され第15師団は明治38年(1905)4月1日に愛知県豊橋市で編成。

大正14年(1925)のいわゆる宇垣軍縮にて第15師団は第13・第17・第18師団と共に廃止される。宇垣軍縮で廃止された第15師団の残された施設を利用して、昭和2年に下士官候補者教育のため「豊橋陸軍教導学校」が開設され、昭和14年には甲種幹部候補生教育の「豊橋陸軍予備士官学校」が開設。 ゆえに本記事では同じ敷地内で「第15師団」だったり「陸軍教導学校」だったりが交じります 。

第15師団そのものは、日中戦争に際して大正14年に廃止された師団番号を利用し復活している。第二次編成としての第15師団は昭和13年に編成。この第二次編成は豊橋とは関係せず。

豊橋第15師団の地は、宇垣軍縮後は騎兵第4旅団司令部を経て陸軍教導学校、陸軍予備士官学校が置かれ、戦後は愛知大学へと推移していく。

豊橋陸軍教導学校・予備士官学校の神社跡
(愛知大学豊橋キャンパス副門広場)

歩兵六十聯隊正門から敷地内に入ったすぐの場所にこんもりとした円形造園がある。この場所にかつて陸軍学校時代は神社が鎮座していたという。
今は格別な何かは残っておらず空間だけが物語っているような雰囲気。

豊橋陸軍教導学校・吹雪山
(愛知大学豊橋キャンパス学生会館裏)

昭和2年の昭和天皇行幸を記念して昭和6年に陸軍教導学校の生徒によって築かれた小山で吹雪山と命名された。
山頂には記念碑が建てられている。陸軍第15師団司令部開庁から豊橋陸軍教導学校開校、豊橋陸軍予備士官学校、そして閉校まで物語る記念碑。

豊橋陸軍教導学校・吹雪山記念碑
豊橋陸軍教導学校時代の構内図が描かれている。
愛知大学豊橋キャンパス内で現存している建物は後述しますが「大講堂」「将校集会所」「養生舎」「機銃廠」「学校本部=第15師団司令部庁舎」

歩兵第60聯隊・将校集会所門柱

コンクリート製門柱 (愛知大学豊橋キャンパス内哲学の森)

歩兵第60聯隊・将校集会所
(愛知大学豊橋キャンパス・旧研究所)

よくぞ残ってくれましたといった感じです。
陸軍のシンボル五芒星もありますね。

豊橋陸軍教導学校大講堂
(愛知大学豊橋キャンパス第二体育館)

陸軍教導学校の大講堂として昭和2年に建立。鉄筋造。

天皇陛下行幸記念松
豊橋陸軍教導学校大講堂前
(愛知大学豊橋キャンパス第二体育館前)

昭和2年開校の陸軍教導学校に昭和天皇が行幸されたことを記念して植樹された松。当時の橋陸軍教導学校大講堂前に植樹された。

豊橋陸軍教導学校火薬庫(火薬倉)土塁跡
(愛知大学豊橋キャンパス・プール周辺)

プールの周辺に残る土塁は火薬庫の名残。 火薬庫は当時は土塁で覆われており、今でも土塁の一部が大学構内に残っている。

皇太子嘉仁親王殿下御手植松
(愛知大学豊橋キャンパス短大門付近)

大正天皇が皇太子時代の明治43年11月20日に豊橋偕行社(後述)に御駐泊された際にお手植えされた松と記念碑。 記念碑は昭和3年11月の御即位式に建立されている。

豊橋偕行社跡
(愛知大学短期大学本館跡地)

豊橋偕行社を戦後は愛知大学短期大学本館として利用されていたが老朽化により平成23年(2011)に取り壊し。
偕行社は各師団に置かれていた陸軍将校の集会所・社交場(将校倶楽部)を兼ねた一種の迎賓館施設。

在りし日の姿~Wikipediaより参考

第十五師団機銃廠
豊橋陸軍教導学校二機銃廠
(愛知大学中部地方産業研究所所属産業館)

明治41年に建造された機銃整備のための建屋。 基礎は煉瓦、壁は下見板張。
屋根瓦に陸軍のシンボル五芒星アリ

皇太子裕仁親王殿下御手植松
碑は大正14年に第15師団廃止の際に建立。

久邇宮邦彦親王殿下お手植松
大正7年、第15師団長として演習台覧の際の御手植松。

御大典記念幟立
昭和天皇即位礼がおこなわれた昭和3年11月10日建立。

豊橋陸軍教導学校・養正舎

昭和2年建立。 建屋の裏の塀は豊橋陸軍教導学校時代に設けられたコンクリート製の塀。 豊橋鉄道との境目。

豊橋陸軍教導学校・塀

昭和2年の豊橋陸軍教導学校時代に設けられたというコンクリート製の塀。 豊橋鉄道の線路との境界線をになっている。 現在も愛知大学の境界線。

第十五師団司令部址

明治41年(1908)誘致運動をした豊橋市に設置された。この地には師団司令部のほか、騎兵第4旅団司令部、歩兵第60聯隊などが置かれた。しかし師団は大正14年(1925)に廃止となり、その後は陸軍予備士官学校などに利用された。

陸軍第15師団司令部庁舎
(愛知大学旧本館)

国登録文化財 陸軍第15師団司令部庁舎として明治41年(1908)建立。 建物は木造2階建、寄棟造の桟瓦葺で、両翼屋を背後に突き出したコの字形の平面形を持つ。外壁は板貼りで装飾をあまり用いない軍隊関連建物らしい簡素な造り。木造の現存司令部としては貴重。

第15師団司令部庁舎
(愛知大学旧本館・愛知大学記念館)
正面

裏側はコの字。

第15師団司令部庁舎 (愛知大学旧本館・愛知大学記念館) 館内内部公開もしてますので入ってみましょう。
公開は月~土曜(日月祝は休館) 開館時間は10:00から16:00まで。 日曜と祝日は入れないのでご注意を。

http://edu.aichi-u.ac.jp/toa/about.html

正面入り口

正面階段

入り口の階段をあがった2階の正面
陸軍第15師団司令部時代には師団長室、戦後は学長室として使われた部屋

2階廊下

2階から外を

脇階段
けっこうな軋み音を感じた

1階

この日は見学者は私以外には居ない空間。
贅沢な時間を過ごすことが出来ました。
ありがとうございました。

第15師団司令部・正門
(愛知大学豊橋キャンパス正門)

石造りの門柱が残る。 この正門の奥に第15師団司令部庁舎がある。 このあとは愛知大学を離れて、周辺の関連史跡を見て廻りましょう。

第3師団兵器部豊橋出張所・正門と哨舎
(南部中学校)

愛知大学豊橋キャンパス(第15師団)の南方には第3師団兵器部が展開されておりました。
豊橋鉄道の線路越しに当時の哨舎と正門が保存されている。
南部中学校には、これ以外にも当時の門があるようだけれども校内は未見。

門柱・騎兵第26連隊跡?
(合同宿舎王ケ崎住宅敷地内)

詳細はわかりませんが、不自然極まりなく門柱が残ってました。
所在地には騎兵第26聯隊の場所。
道路を挟んだ向こう側は騎兵第25聯隊。
コンクリで煉瓦を隠すように覆っていますが、コンクリの上から扉金具も見えますね。

騎兵第26聯隊跡 門柱と哨舎・記念碑
(王ヶ崎東公園)

哨舎があるとついつい中に入って歩哨をしてしまいます・・・

騎兵第26聯隊跡

騎兵第26聯隊跡碑
松井麻之助書 松井麻之助は終戦時の騎兵第26聯隊長(陸軍中佐)。
西竹一らと共に、1936年のベルリンオリンピックに馬術競技日本代表として出場した経歴を持つ。戦後は調教師調教師として活躍。

騎兵第4旅団
 騎兵第26聯隊
明治42年4月1日 創設
明治42年9月23日 軍旗拝授
昭和21年5月18日 復員解隊

戦歴
昭和7年10月~昭和13年7月 満洲事変
昭和13年8月~昭和16年11月 支那事変
昭和16年12月~昭和20年8月 大東亜戦争

昭和46年軍旗拝授記念日
騎兵第26聨隊会建之

騎兵第26聯隊
創立以来在隊者将兵数
豊橋駐屯時代 明42.4~昭7.9 約7000名
満洲事変参加 昭7.10~昭14.7 約3000名
支那事変参加 昭14.8~昭16.11 約3500名
大東亜戦争参加  昭16.12~昭20.8 約4000名
計 約17500名
祖国のため殉じた戦(病)死者数 440余名
聨隊が従事した戦闘回数 230回

騎兵第26聯隊
聨隊が受けた賞詞感状
昭和14年4月 南昌攻略作戦 賞詞授与
昭和14年7月 襄東会戦 感状授与
昭和16年6月 中原会戦 賞詞授与
昭和18年9月 武号作戦 感謝状授与
昭和19年11月 一号作戦 感状授与
昭和20年3月 老河口作戦 感状授与
此の碑の建設に直接協力した人員数 1000名
(以下略

騎兵第26聯隊
軍旗遺品合祠記念碑
明治42年9月23日明治天皇から親授された軍旗は聨隊の象徴として戦中嚇々の武勲を樹てたが昭和20年8月25日北支河南省郾城で奉焼された
奉焼された灰の一部を秘かに持ち帰った者数名が奉持していたので靖国神社に奉納すると共に茲にこれを合祠することにした
昭和63年4月28日騎兵第26聯隊会

愛馬の鬣等埋没記念碑
我が聯隊の機動力の源泉として戦場を雄飛した軍馬のうち最後までその役に盡した960余頭は戦後異国にありて1頭だに祖国に帰ることはなかった
幸いに復員者数名が愛馬の鬣を持ち帰り保存して居られたのでそれを集め茲に埋没して愛馬に対し限りない感謝と親愛の情を披瀝しその霊を悼むものである
昭和63年4月28日騎兵第26聯隊会

騎兵第26聯隊跡 門柱と哨舎、記念碑が残る公園。(王ヶ崎東公園)

輜重兵第15大隊門柱
(愛知県立豊橋工業高等学校)

高校の敷地内に門柱が残されている。
文教地区はかつては軍事関連の場合が多い。
 愛知県立豊橋工業高校は輜重兵第15大隊
 愛知県立時習館高校は野砲兵第21聯隊
 豊橋市立福岡小学校は騎兵第19聯隊

時間都合でこのエリアはこのぐらいにしまして次の目的地に移動します…

愛知大学界隈から15分ほど北東に歩いていくと愛知大学が管理している飛地がある。

「第15師団長官舎」 (愛知大学公館) 

豊橋市指定有形文化財 明治45年(1912)建立。
第15師団長官舎→豊橋陸軍教導学校長官舎→豊橋陸軍予備士官学校長官舎。
昭和21年に愛知大学開設に伴い愛知大学学長公館などに使用。

「第15師団長官舎」 (愛知大学公館) 
豊橋市指定有形文化財
明治45年(1912)造。
洋館と和館が併設された平屋。洋館は公室、和館は私室として利用。 和漢洋館とも木造寄棟造桟瓦葺。
ほぼ完全の状態で残る師団長官舎としては全国でも稀な例であり、明治末期の和館洋館併設の木造住宅としても貴重。

洋館部分

和館部分

和館部分
1986年のカレンダー
30年以上、時を止めた空間がここにはあった

いつの日か、公開することはあるのだろうか・・・

「第15師団長官舎」(愛知大学公館) 
第15師団長官舎の地から豊橋鉄道小池駅に向かう途中、見つけました。

陸軍省所轄地 陸軍境界標石

9時半に愛知大学到着して散策開始、散策終了させたのが12時半。 ざっと3時間で愛知大学とその周辺の戦跡散策をしたかたちとなりました。
豊橋編はこれにて〆

今回、行ききれなかったところ(宿題)

時間の都合で今回の散策であきらめたところも多数。豊橋市内にはほかにも戦争当時を物語る遺跡が点在しております。
また次に往訪するときまでの宿題として。

豊橋市美術博物館 > 豊橋の美術・歴史・文化財・戦争遺跡を知る > 郷土の戦争遺跡・資料

http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=3315

東郷平八郎ゆかりの神社仏閣など

(平成29年12月及び平成30年4月ほか撮影)

東京近郊にある東郷平八郎ゆかりの寺社巡り
・東郷寺(府中・東郷別邸跡)
・二七山不動院(麹町・東郷崇敬の寺院)
  東郷元帥記念公園(麹町・東郷本邸跡)
・東郷神社(東郷を祀る神社)

東京以外を付記
・溝口神社(東郷元帥揮毫の社名額/扁額)
・記念艦三笠の艦内神社(東郷神社勧請)
・軍艦「三笠」
・各地に残る東郷邸宅など


東郷神社御朱印帳

表装の和歌

おろかなる 
心に尽くす誠をば
みそなはしてよ 
天つちの神

(意味)
  愚かな私ではございますが
  誠の心で尽くしますので
  なにとぞ天地の神々よ
  私を見守っていて下さい 

1913(大正3)年、
東郷元帥が東宮学問所総裁に任命された時に感激して詠まれた和歌。
 東宮=のちの昭和天皇、当時の皇太子
 東宮学問所 = 皇太子の御教育機関

御朱印

東郷神社
  御祭神 東郷平八郎
二七山不動院
  東郷崇敬の不動院 市ヶ谷の東郷本邸跡の近く
  「南無大聖天不動明王」は東郷奉納書写印
聖将山 東郷寺
  府中の東郷別邸跡に鎮座の寺院
  東郷元帥農園別墅跡

東郷寺

(府中市清水が丘3-40-10)

元帥海軍大将東郷平八郎を開基とし身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗寺院。
山号は「聖将山 東郷寺」
東郷没後に東郷家別荘・農園があった当地に昭和14年(1939)に小笠原長生を始めとする海軍関係者が中心となって建立。

聖将山 東郷寺 山号標

揮毫は小笠原長生(海軍中将)
小笠原長生(おがさわら ながなり)は、東郷平八郎に傾倒し「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

「しだれ桜」は日蓮宗総本山である身延山久遠寺から苗を移植したものという。

東郷寺 山門

設計者は伊東忠太、建設は昭和15年。
三間三戸の八脚門、部材は総けやき。
この山門を有名にしたのが黒澤明監督「映画・羅生門」。
この「東郷寺山門」をモデルにして劇中の羅生門が建設されたという。
二階部分以外の構造的な作りは、ほぼ同じという。

段丘(ハケ)を利用して造成されており、手前に急勾配の階段を備える。
質素ではあるが力強く巨大な山門。

東郷寺山門建立由来

題字は小笠原長生。
加藤寛治海軍大将を中心に山門を建立していたけど、加藤閣下は建立途中で亡くなってしまったよ。(昭和14年2月9日に死去) 加藤閣下の意思を継いで東郷寺の山門を(昭和15年に)作ったよ、の大意。
碑は昭和18年4月10日建立

「東郷寺」 参拝。
寺院そのものには東郷平八郎的な何か・・・はなく。
静寂で厳かな空間。

「聖将山 東郷寺」 東郷元帥と日蓮宗

東郷寺は東郷平八郎元帥海軍大将を開基とし、副開基を小笠原長生海軍中将とする、身延山久遠寺を総本山とした日蓮宗寺院。 東郷は日蓮宗の崇敬者でもあり、大正11年の日蓮聖人への「大師号宣下奏請」運動の請願書崇敬者代表の初筆に元帥の名が残っている。

大正12年に元帥が隠棲の地として府中の当地を購入。当時は晴天時に富士山が見え、その向こうに日蓮宗総本山身延山が位置する立地。 大正3年に東宮御学問所総裁に就任、大正9年に学問所閉鎖の後は、この地を農園別墅とされ、市ヶ谷麹町の本宅から馬に乗って通われたという。

昭和9年5月30日に東郷は88歳で薨去。6月5日に国葬でもって多磨霊園埋葬。 昭和11年に東郷寺建設会が設立。会長・加藤寛治海軍大将、副会長に小笠原長生海軍中将。東郷家より府中農園別墅地の寄進をうけ昭和14年に東郷寺建立。開基は東郷、副開基は小笠原、開山は日蓮宗管長大僧正酒井日慎(池上本門寺)

昭和14年に海軍将校寄進により客殿建立、昭和15年に山門建立。 しかし大戦勃発により昭和17年10月5日に落成式を行うも東郷寺建設計画は一時凍結されそのまま終戦を迎える。 終戦後の消滅危機の中で東郷寺は守り抜かれ、昭和29年より戦没者遺族に対して供養のための墓所無料分譲を開始。

現在の本堂は仮本堂を移設増設したにとどまっている状態とのことで。将来的には本堂を建設する計画があるという。
山門前のしだれ桜は、彼我の差別のない戦没者供養の為に建立された当山の為に総本山身延山久遠寺より苗を移植したもの。桜の季節に戦士たちの慰霊鎮魂の花が咲く季節が楽しみでもあり…

こちらの建物が別荘跡を元にしているかは不詳ですが良き佇まい。

東郷寺 しだれ桜

桜の季節に改めて足を運んできました(平成30年3月25日)

朝7時過ぎに参拝。 見事なしだれ桜が清々しく。

彼我の差別のない英霊供養を願い建立された東郷寺。 総本山身延山久遠寺より苗を植樹されたしだれ桜。 世界平和を渇望しながら遠い異国の地に散った若き兵士たちの御魂が美しい花となって咲き誇る・・・

東郷寺山門
設計者は伊東忠太、建設は昭和15年。三間三戸の八脚門、部材は総けやき。

山門側から

東郷寺墓苑

東郷寺境内
境内地を散策(地図
ポイントを地図に記載してみました。

境内はかなり広いので迷子にならないようにご参考まで。
なお当たり前のことですが 清浄な寺域ですので失礼の無きように…

東郷元帥墓(供養墓)

境内の西エリア手前。 東郷寺開基の東郷平八郎元帥海軍大将を祀る。
本墓は多磨霊園内。こちらは供養墓(供養塔)。

小笠原長生墓(供養墓)

境内の西エリア手前。
東郷寺副開基の小笠原長生子爵(海軍中将)を祀る。
小笠原長生の本墓は世田谷区烏山幸龍寺に。
東郷元帥墓と小笠原墓は並んで建立。
当地にて死してなお東郷の側にいられるというのは小笠原としては本望極まりないことだろう…

「枢軸国必勝祈念塔」

昭和18年10月建立
当時の時局を色濃くあらわした戦跡。

正面から真っすぐ西墓苑に向けて伸びた参道の脇に唐突に聳え立つ塔がある。

日獨伊親善協會會長でもあった小笠原長生の揮毫

奉仰東郷元帥神霊照覧 「◯◯◯◯◯◯◯◯」
はい、戦後に塗り潰しされております。

ここには海軍ゆかりの人物として意外な方が祀られている

「豊田副武墓」

海軍大将。第29代・第30代連合艦隊司令長官。最後となる第19代軍令部総長。 戦後、戦犯容疑で逮捕されたが極東国際軍事裁判では不起訴。GHQ裁判(豊田裁判)でも無罪判決。昭和32年9月22日死去。享年72歳。

「豊田副武墓」墓区には娘婿である貞閑勝見の墓も有る。
右隣に「豊田家の墓」
左隣に「貞閑家の墓」
貞閑勝見は海軍中佐。豊田副武の娘婿。砲術参謀。海軍大臣秘書官。 昭和20年3月5日、東シナ海東沙島附近で戦没。享年32歳。

更にここには意外な人物が祀られている

「河本大作墓」

元陸軍大佐、関東軍参謀として張作霖爆殺事件の首謀者とされる。除隊後は満州鉄道理事や満州炭坑理事長、国策会社山西産業社長に就任。戦後、中国共産党に戦犯として捕まり昭和30年8月25日に収容所にて病死。享年72歳。遺骨はその後帰国。

東郷寺
満州開拓青少年義勇隊東京中隊
「殉難英魂碑」
東京都知事 安井誠一郎書
昭和33年5月18日建立
東京出身の若人237名が満州の曠野に五族協和の楽土建設のため渡満し…

大地を愛した 心は一つ
桃山の友情 いつまでも
昭和58年5月15日建立

妙法
東郷寺・東郷元帥の浄願、戦没者の供養を
幾多の卒塔婆が

戦犯処刑者之諸精霊
戦死病没公務殉職之諸英霊
殉難戦災死者原爆死者之諸精霊
殉難軍馬軍犬軍鳩之諸精霊 ・・・

合掌

東郷寺は静謐な日蓮寺院ですので真摯な御心にて御参拝をお願い致します。 「参拝者」以外は境内立ち入り禁止となっております・・・

鬼瓦

東郷寺御朱印

妙法
東郷元帥 農園別墅跡
聖将山 東郷寺

※持参したのが他宗派である東郷神社御朱印帳でしたので「妙法」での授与でした。授与は書き置きでしたが帳面の確認がありました。日蓮宗御首題帳であれば「御首題」での授与も可能だそうです。

二七山不動院

さて、場所は変わって市ヶ谷・九段エリア。 ここには東郷平八郎の本邸跡「東郷公園」がありますが、そちらはのちほどとして先に東郷平八郎崇敬の寺院に脚を運んでみたいと思います。(この九段の寺院は実は私は未知でフォロワーさんに教えていただきました。ありがとうございました。)

二七山不動院
創建は江戸時代。旗本桜井遠江之守の屋敷の不動尊に通りかかった僧がお告げにより二七日間断食の荒行を行ったことから「二七不動尊」と呼称。この不動尊のある通りには二と七の日に縁日が催され大変賑わったという。 平成17年に火災でお堂焼失。そして12年の歳月を要し再興

東郷元帥と二七不動(九段)

東郷元帥は明治15年に九段の地に移り住みそして88歳で逝去するまでを当地で過ごしている。 明治27年日清戦争時に東郷平八郎は浪速艦長として出征。その際に母堂が武運長久を祈り二七不動尊にお百度参りをしている。

明治37年日露戦争時には東郷元帥の妻テツが二七不動のご縁日である5月27日を満願の日と定め毎朝日参してお百度を踏み勝利を祈願。「満願の日の大勝利」となった。元帥は帰宅後にその事実を知り、自宅にあった楓の木を二七不動境内に手植えられ御縁日には夫婦ともども参拝されるようになったという

大正12年9月1日、関東大震災に際し二七不動尊も全焼。御本尊不動明王は無事に救出。不思議と焼け残った東郷邸を「神が二七不動尊のご避難先」とされたと東郷元帥は申され、二七不動尊の御本尊は東郷邸に再建までの80余日間も奉祀奉安されたという。

大正12年11月、関東大震災被災により東郷邸に避難されていた不動明王は復興した御本堂に無事に奉安。お帰りになられた。 東郷元帥は自ら筆を取り二七不動尊のために 「南無大聖不動明王」と書かれて奉納された。 その東郷元帥書の写しが現在「二七不動院の御朱印」に用いられている。

二七山不動院(九段)
平成17年にお堂を火災で焼失した当院は再建まで12年を要し、二七通り近くに再興。(この九段とは別に墨田区にも再興した二七不動があるようですが、私は寺院方面の事情は疎いので詳細不明) 九段に再興した二七不動院はマンションの1階に真新しい雰囲気で鎮座。

インターフォンで「御朱印を頂戴したい旨」をお話し恐縮しながら本堂に上がらせていただき参拝。神社専な私ですから寺院で参拝&御朱印は緊張しました。 しばし女性住職さんとお話を。「東郷さんゆかりの寺社を東郷神社の御朱印帳で廻っておりまして。3寺社だけですけど…」

写真は切支丹灯篭。千代田区番町九段地区で出土したそうで。 キリシタン禁令が発令されていた江戸幕府のお膝元であったこの界隈で隠れキリシタンの灯籠が発見されたというのは珍しく発掘後に当山に奉納されたもの。

東郷元帥記念公園

平成30年1月撮影

「二七通り」と「東郷通り」が交わるところに「東郷平八郎邸跡」がある。手前の坂は「東郷坂」 元帥は当地に明治14~15年(1881~82)から昭和9年(1934)に88歳で逝去されるまでの約53年を過ごしている。 戦災によって邸宅は焼失してしまったが邸宅跡は記念公園となっている。

かつて東郷邸の玄関に対に据えつけられていたという石造りのライオンの内の一つが公園の中央に静かに佇んでいる。この「東郷元帥記念公園」内で残された往時の名残。

東郷元帥記念公園
公園の沿革
当公園は当初関東大震災の復興計画により、上六公園として昭和4年7月最下段の部分が開園された。 当時東郷平八郎元帥邸が隣接しており、東郷平八郎元帥の没後東郷元帥記念会より寄付を受け、その地形地物を活かして造成され昭和13年11月東郷元帥記念公園として開園した。

東郷平八郎元帥
元帥は弘化4年薩摩に生まれ、日露戦争時には連合艦隊司令長官として活躍し、その後元帥の称号を授かる。
この地には明治14年より居住して、永く区民から親しまれ地域の文化向上にも寄与し、人々の尊敬のうちに昭和9年88歳の生涯を閉じる。
公園内には力石も残っている

公園上段部分。このあたりが東郷邸の関連するものなのかどうかは定かではない。
もしかしたら昭和13年の公園整備の際の造成かもしれないし、それよりも跡のものかもしれないし。 雰囲気的には年代を感じさせる造形物。
東郷元帥記念公園は獅子石が全て・・・ではありますが。

平成31年4月現在、東郷元帥記念公園は一部のみ開放。公園内の鉛含有(基準値超え)が問題となっており。

東郷神社

平成30年1月、久しぶりの参拝。

第一駆逐隊(駆逐艦 神風・野風・波風・沼風) 奉納灯籠

東郷蔵
蔵の手前は工事中。 昭和20年5月の戦災にて前述の市ヶ谷麹町の東郷邸は土蔵を残して全焼。 昭和23年に麹町より土蔵を東郷神社に移築。 損傷が激しくなったため東郷元帥50年祭に当り昭和59年に不燃建造物として従来の蔵を模し少し大きくした状態で新築したものという。

東郷神社
参拝
この日は結婚式が行われておりましたので赤絨毯

東郷神社御朱印

平成28年5月28日は海軍記念日の翌日。日本海海戦勝利の日が東郷神社例祭の日。そして今回(平成29年12月3日)の御朱印。
帳面の和歌は、東郷元帥が大正3年4月1日に東宮御学問所の総裁を拝命された際に詠歌されたもの。

おろかなる 心に尽くす誠をば みそなはしてよ 天つちの神

東郷神社例大祭

1905年(明治38年)5月27日
日本海海戦
東郷平八郎の旗艦三笠をはじめとする連合艦隊が対馬沖にてバルチック艦隊と海戦

翌5月28日
ロシア艦隊降伏により日本海海戦は終了し日本の勝利が確定。

5月28日は日本海海戦にて日本の勝利が確定した日。

東郷神社例大祭の日。
例大祭は本日11時から斎行。

おおおっ!!千福!
さすが海軍御用達!

海軍の神様「東郷神社」に、
海軍御用達な呉の日本酒「千福」と
東郷神社御神酒「神聖」とが
奉納されておりました。

千福一杯いかがです♪
Z旗と千福のコラボはちょっとうれしい

東郷神社御神酒

東郷神社では御神酒を。
京都「山本本家」(代表銘柄「神聖」)製。
(焼酎「東郷」は横須賀調達品)

トップ水雷

鳥取米子の稲田本店
純米酒「トップ水雷」
東郷元帥によって命名。水雷の字は元帥直筆。
水雷一発 轟然ト響ク 一酌ノサケ陶然トシテ 酔ウ

お酒つながりで掲載。

伝統の技と風格 トップ水雷なればこそ

東郷焼酎
東郷ビールとZ旗ビール
海軍ラムネ

いずれも横須賀にて


以下は徒然に

秩父御嶽神社

御祭神:
国常立命、大巳貴命、少彦名命、清貫一誠霊神(鴨下清八)、東郷平八郎、乃木希典、他

埼玉県飯能市鎮座。
東郷平八郎像とともに摂社として東郷神社がある。

郷公園
東郷平八郎元帥の銅像が建ってからは秩父御嶽神社の境内は「東郷公園」と呼ばれている。
公園内には東郷元帥像のほかに乃木希典陸軍大将銅像、日露戦争の遺物(ロシア製大砲、戦艦三笠被弾甲板)、海軍省からの記念品が点在されている。


溝口神社

川崎市高津区溝口鎮座。かつての赤城大明神。 矢倉沢往還(大山道)溝口宿の溝口村総鎮守。旧社格は村社。明治期に伊勢神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と改称。 天照皇大御神を祀る

溝口神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書
社宝の扁額(社名額)は東郷平八郎謹書


神職さんに東郷さんの由緒を伺ってみると、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で社殿全壊。昭和8年(1933)に社名額を東郷さんに頼み揮毫して戴き翌9年に再建とのことでした。
ちょうど1月限定で東郷元帥謹書の御朱印符も頒布!

東郷平八郎は昭和9年5月30日に亡くなっておりますので、溝口神社社名額への揮毫は亡くなる一年前ということになります。ぎりぎりのタイミング。


軍艦三笠艦内神社 三笠神社

三笠神社。(艦内神社)
とは言っても日露戦争当時には現在イメージされているような艦内神社の姿ではなかったと思います。 明文化された艦内神社の概念は昭和に入ってから。
現にこちらは「東郷神社」ですし…


三笠神棚

日露戦争当時の艦内神社として考える場合は昭和海軍のような「進水時に艦にゆかりのある神社から奉幣」ではなく、その時の祈願から発展したと考えるのが自然体。

筥崎宮 敵国降伏 御守護

軍艦「三笠」

今回は外側を眺める程度で。


連合艦隊解散之辞
東郷筆。起草は秋山真之。

神明は唯平素の鍛練に力め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を褫ふ。 古人曰く勝て兜の緒を締めよと。

「東郷平八郎銅像」(三笠公園)

日本海海戦後言志
日の本乃
 海にととろく
  かちときは
御陵威かしこむ
  聲とこそしれ
    東郷平八郎(花押) 昭和42年5月27日建立。清水多嘉示 作

「皇國興廃在此一戦」元海軍大将 長谷川清書
(大正七志会・七洋会 昭和43年6月1日建之)

三笠公園
本公園は昭和36年5月27日完成を見たもので公園の名称はこの一角に保存されてある記念艦三笠に由来するものである。
三笠艦は日本海々戦-1905年-の際わが連合艦隊旗艦として参戦し時の司令長官東郷平八郎の大号令「皇国の興廃此の一戦に在り云々と共に世界海戦史上不滅の名をとどめた
(碑文引用ここまで)

「行進曲軍艦碑」
行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長瀬戸口藤吉氏によって作曲された。 日本の勃興期における行進曲として親しまれ、未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである。 世界3大行進曲の一つとして、音楽史を彩る稀有の名曲で、作曲されてから一世紀を迎える年にあたり瀬戸口軍楽長がこよなく愛し、青春の日日を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである。
行進曲「軍艦」記念碑建立協賛会」
(平成8年4月に建立。平成15年3月横須賀水交会によって修復)

「謎の軍艦甲板の一部」

横須賀市諏訪公園の片隅に。詳細は不明。 横須賀市でも詳細不明で「以前は緑が丘高校入口付近にあった」「戦艦三笠の物ではないか?」と言われているようです。 甲板を砲弾に打ち抜かれた跡が生々しい。


呉・ 東郷家住宅離れ

入船山記念館(入船山公園)

旧・東郷家住宅離れ
東郷平八郎が呉鎮守府参謀長(海軍大佐)時代に呉に在任していた際(1890~1891)の居宅離れ座敷。
もとは宮原もにあったものを当地に移築保存されている。
登録有形文化財指定。

舞鶴・ 東郷邸

舞鶴鎮守府にも東郷邸があるといいますが未訪問。

舞鶴鎮守府初代長官・東郷平八郎
1901年(明治34年)10月1日、舞鶴鎮守府が開庁。その初代司令長官に任命されたのが当時海軍中将だった東郷平八郎。

https://www.mod.go.jp/msdf/maizuru/kengaku/tougoutei01.html

佐世保

佐世保は邸宅は残っていないけど、
海軍墓地に東郷さんの銅像があります。

佐世保海軍墓地
墓園入口から拡がる慰霊祭式場の広場、その奥には「礼拝殿」、そして広場に面して「東郷平八郎像」。
東郷平八郎は明治32年に佐世保鎮守府司令長官。明治38年に連合艦隊司令長官として日露戦争バルチック艦隊に勝利。(凱旋時に旗艦三笠は佐世保港内の爆発事故で一度沈没…)


東郷氏祖先発祥の地

東郷氏祖先発祥地

ひとまずは以上で〆

そのほか随時で登録していきます

東京駅にのこる近代史跡

先日、東京駅に用事があったので立ち寄ってみました。


伊号潜水艦の潜望鏡?

もともとは東京ステーションホテルを支えていた柱。
当時は「日本海軍(帝国海軍)の伊号潜水艦の潜水鏡」流用とされていたが、近年の研究ではその可能性は薄いという。 とはいっても戦災復旧以降、支えてきた歴史ある柱。 (平成30年5月撮影)


原敬首相遭難現場(東京駅)

東京駅丸の内南口改札外に。
「原敬首相遭難現場」
大正10(1921)年11月4日 この場所で原敬首相が暗殺されました。
この丸い印が暗殺現場。
よく見ないと見落としてしまいます。 (平成27年7月撮影)


浜口首相遭難現場(東京駅)

東京駅の新幹線中央乗り換え口近く。
この場所も人の往来が多く見逃しやすいです。
原敬よりかは目立つタイルですが。
「浜口雄幸首相遭難現場」
昭和5(1930)年11月14日。
浜口雄幸首相が狙撃され重傷となった現場。 (平成27年7月撮影)


東京駅開業時からの柱

1914年(大正3年)の東京駅開業時からホームに残っていた鋳鉄製の柱2本が展示されている。
山手線と京浜東北線の5・6番線ホーム南端の事務室前。
上部がレリーフで装飾、下部には製造年とみられる「明治四十一年」(1908)の文字あり。
(平成27年10月撮影)


東京駅

東京駅ドーム屋根・祝賀ライトアップ

(平成27年11月撮影)

東京ステーションホテル開業100周年記念の祝賀赤色ライトアップ

中島飛行機半田製作所飛行場跡と半田散策

平成29年1月撮影

中島飛行機半田製作所

知多半田地区には、戦前に中島飛行機の工場があった。

中島飛行機といえば陸軍の戦闘機「隼」「鍾馗」「疾風」などが有名であるが、この半田製作所では海軍機を製造。

1943年1月末に主要建物が完成し半田製作所開設。
中島飛行機半田製作所では、主に海軍機2種類を製造。

艦上攻撃機「天山」
半田第1号機は1943年12月8日に完成。
終戦までに月産最大90機、平均月産49機、総生産機数は977機。

艦上偵察機「彩雲」
偵察機として抜群の性能を誇り、海軍最速機として追撃してきたF6Fを振り切ったときに発した「我ニ追イツクグラマン無シ」は有名。
半田第1号機は1944年6月に完成。半田製作所での制作機は427機。

北東の駅がJR武豊線「亀崎駅」(後述)。
西が「乙川駅」。
その南側の工場が中島飛行機半田製作所が転換された「輸送機工業株式会社」(富士重工の子会社)。
往時の滑走路跡を書いてみました。

中島飛行機半田製作所 滑走路跡

滑走路は長さ924mの1本。
南東側が堤防に当たるため、生産機である天山や彩雲を離陸できても着陸はできない離陸専用滑走路だったという。
ここより離陸した天山や彩雲は鈴鹿航空隊などに空輸されて再整備のうえで海軍へ納入された、と。

中島飛行機半田製作所の工場は滑走路の西に展開。
中島飛行機半田製作所は、戦後は輸送機工業株式会社に。(富士重工の子会社)。隣接する半田ソーラー発電所も当時の工場跡。

中島飛行機半田製作所滑走路跡。

もうね、この滑走路末端部の「ターニングポイント」がこんな風に残って、往時の歴史を物語っているって興奮しますよね。

こりゃ、せっかく半田界隈にいるのであれば現地に行ってみないと。

戦後に米軍が撮影した航空写真

USA-R728-25
1947年12月26日撮影(昭22)
ターニングパッドと滑走路がはっきりと見える。無数の穴痕も・・・。
USA-R1493-154
1948年06月07日(昭23)
東の滑走路と、中央の工場部分がよく分かる。

中島飛行機半田製作所滑走路末端部
「ターニングパッド」跡


コンクリが見事に曲線を描いており、滑走路わきの排水路を構築しておりました。 円の中心部は住宅地となっておりますので、そちらは余り写さないように…。

円の反対側。
こちらは枯草に覆われ気味でしたが、排水路はキチンと残ってます。

この砂利が混じったコンクリート具合がステキです。

円形のターニングパッドから、真っ直ぐな に伸びる滑走路方向へと歩いてみました。

現地には案内看板のようなものは一切ないけど、間違いなくこの場所から戦地へと海軍機「天山」「彩雲」が飛び立っていった歴史があるのだ。

中島飛行機半田製作所滑走路跡。
知らない人が見れば、ただの側溝。この側溝が戦前からここにあって、こうして今の世でもここにある奇跡に感謝する。歴史遺産として、静かに軍需工場の名残を伝えている空間は積極的な保存ではなく…ここにいつまでこうして残っていることか…と。

中島飛行機半田製作所跡

滑走路跡から西に歩むと「輸送機工業株式会社」がみえてくる。中島飛行機半田製作所の地に戦後に設立された会社。
2004年に富士重工業の完全子会社となっている。

建屋には大きく「SUBARU」 中島飛行機のDNAを継ぐ会社でもある。

JR武豊線「乙川駅」

この駅もまた中島飛行機半田製作所と縁が深い駅なのだ。工場への貨物側線を引くために高低差をなくす嵩上げ工事(盛土)を行い、その工事費用を中島飛行機が全額負担したという。
今も乙川駅の入口付近は嵩上げ名残の急坂が残っている。

中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫

そのまま歩いて辿り着いたのは「半田赤レンガ建物」

今でこそオシャレな建物ではあるが、このレンガ建物も紆余曲折あり、当初はビール工場、そして戦中は「中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫」となっていたのだ。

明治31年(1898年)にカブトビール製造工場として誕生。
昭和19年(1944年)に中島飛行機半田製作所の衣糧倉庫として活用され、戦後は民間のコーンスターチ製造工場となり、平成8年3月が半田市が所有。
登録有形文化財・近代化産業遺産

昭和20年(1945)7月15日。
「中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫」に米軍P-51戦闘機が超低空で飛来し急降下による機銃掃射を受け、その傷跡がレンガ壁面に残っている。この空襲では衣糧倉庫に火災も発生しており一部焼失する被害も出ている、と。

半田赤レンガ建物、今回は時間が無かったので外側を眺めただけで退散。
残念なことに赤レンガ建物の復刻ビールにありつけなかったのだ。半田ってビールもあれば、酒蔵もある(国盛)良い街ですね。これは今度ゆっくりもう一度来たい街になりました。


付記

JR武豊線「亀崎駅」
(JR最古の現役駅舎)

駅全体を損ねないカラーリングではあれど一際に大きいエレベーター跨線橋は2014年に新設されたもの。 今回の注目点はこれではなく駅舎そのもの。

この亀崎駅の駅舎。
なんと、1886年(明治19年)の開業当時から残るものとして「日本最古の現役駅舎」とされている。
(異説ありますが、現役駅舎として最古級なのは間違いなし)
この佇まい。
佳き雰囲気を醸し出しています。
とても綺麗です。

建物資産標
M19年1月

日本最古の現役駅舎。
当駅は、JR東海が2013年10月1日より導入した「集中旅客サービスシステム」により、大府駅管理の無人駅となっている。

駅舎後方。
まるで住居のようでもあり、面白いですね。(いまは無人駅だけど)
駅自体はこじんまりと綺麗に良くまとまっていました。
佳き駅舎。
もっとも、あっという間に鑑賞が終わってしまったので…さて、次に参りましょう…

JR武豊線「半田駅」
(JR最古の現役跨線橋)

日本最古の現役駅舎「亀崎駅」に次いで鉄道ネタとして訪れたのが同じくJR武豊線「半田駅」。
(亀崎駅から歩いてきて)到着は11時ごろでした。

※半田駅の跨線橋は2021年6月で現役運用終了。半田市が保存に向けて調整中という。

半田駅の跨線橋は、建築当時から変わらずに利用されている現役の跨線橋としては日本最古。
コチラも古く1910年(明治43年)11月完成という。
まずは駅の外側から見学してみましょう。

奇しくも武豊線には明治の鉄道建築物が集中して残っていることになります。
今回、たまたま半田に用事があったので、こうして見学できることになり運がよいです。これは。
跨線橋に萌えてきました。これもまた良い建造物です。

1910年(明治43年)11月建造の跨線橋。
良き味わい。

1910年(明治43年)11月建造の跨線橋。
跨線橋の脇には「ランプ小屋」も。 こちらも良き味わい。

せっかくなので入場券を買って中も見てみましょう。

開駅 明治19年3月(1886)
このこ線橋は、明治43年11月に完成 JRでは最古の駅です。

階段部分の斜めのガラス窓が美しい。

そして通路の天井。

跨線橋の根本。
ホーム上でずっと興奮しまくってます、わたしw

鉄柱には「明四十三 鐡道新橋」と書いてあるのかな。

こんな感じに跨線橋にだいぶ萌えてしまった私がいました。
まさか武豊線に歴史的な価値のある鉄道建造物があるとは思いもよらずで。

「荻外荘と目白近衛町」近衛家と近衛文麿旧宅

平成30年撮影

現在、杉並区によって「荻外荘公園」として再整備中。
豊島区に移築されている建物( 荻外荘の一部 )も、杉並区に戻して再整備をする計画だというので、経過を見守りつつ。

「荻外荘公園」
国史跡 荻外荘(近衛文麿旧宅)

杉並区にある「荻外荘公園」 この地に残る「国史跡 荻外荘(近衛文麿旧宅)」に旧宅が残っているので見学してみました。平成30年2月撮影。

通常は南側の公園部から邸宅跡を外観のみ見学可能。
(午前9時から午後5時まで)
将来的には近衞文麿居住当時への復元が予定されているという。

中央の部屋が近衛文麿が自決した書斎部。

昭和20年、近衛文麿にGHQから逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが決定。
近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日12月16日未明に荻外荘で青酸カリを服毒して自殺。享年54歳。

公園内(敷地南部)には井戸がありました。
川本式手押しポンプ井戸

敷地南側。
井戸で遊んでいたらレンズの下部に水滴がついたままだったようで。

公園部から北側に回り込んで、近衛邸正門へ。
現在、入口は堅く閉ざされている。 再整備が終わったら、こちらから荻外荘の見学もできるようになれば・・・ですね。

荻外荘・一般公開(杉並)

昨日(平成30年9月29日)、荻窪にある荻外荘(近衛文麿旧宅)の一般公開に参加することができまして。
(公開情報を教えてくれましたフォロワーさんの情報に感謝です!)
見学の様子を以下に展開。

近衛文麿が自殺した書斎部屋

普段は門が閉じられ立ち入りができない近衛邸。

近衛通隆氏(近衛文麿氏の次男)が平成24年に亡くなるまで居住されていた屋敷。 「近衛」と高らかに標識も掲げられており。
近衛通隆氏死後の平成26年に杉並区が荻外荘を含む敷地を購入し再整備計画中。
国指定史跡指定。

荻外荘の変遷は3つの時代に別れる。

入澤家時代(昭和2年~昭和12年)
近衛文麿家時代(昭和12年~35年)
近衛通隆家時代(昭和35年~平成)

現在の近衛家の玄関は文麿時代のものではなく通隆時代のもの。
(文麿時代の玄関は現在は文京区に移築されている)
昭和35年に屋敷が分割しており玄関等も付け替えされている。
将来的には分割部分を戻して復元予定という。

敷地の東側部分の空き地。

この部分に近衛文麿時代の「客間棟」と「玄関棟」があった。
(昭和35年に文京区染井に移築)
ゆえに荻外荘に残っている建屋は「居住棟」と「別棟」を改修したもの。
杉並区の計画では移築された建屋もこの地に戻して、改めて復元をするとのことで。

東側。
戦後の改修部分。
和室の手前にバルコニー。
奥は食堂、そして暖炉の煙突。

耐震補強工事実施前ゆえに見学には制限があり。
この日は15人で1組の整理券制で先着順受付。
全14回。30分見学。見学時はヘルメット着用。

戦後は長らく近衛通隆氏が居住していた空間でありそんなに古さはない。
「文麿時代の何か」を期待してはいけない。
ガイドの人も「お宝的なものはないです」と言ってました。

写真は食堂部分。
窓の外にはかつては「屋敷(客間棟)」があったが移築後の改修で外窓となっている。

復元模型の中心部で会談している人たち。

昭和15年「荻窪会議」と日独伊三国同盟問題
近衛文麿(首相)
松岡洋右(外相)
吉田善吾(海相)
東条英機(陸相)
この部分は「客間棟」(染井に移築現存)。
移築された東側が荻窪に戻ってきて復元されてからが史跡「荻外荘」の本番ですね。

昭和20年12月6日
近衛文麿に対する逮捕命令発令。
巣鴨拘置所出頭日は12月16日。
その16日午前2時まで文麿は次男の通隆と和室にて話し合いを行っていた。
そして午前6時過ぎに文麿が和室で息絶えていたのが発見された。
享年54歳。青酸カリによる自殺。
法名は荻外院殿象山道賢。

写真は近衛文麿が自殺をした和室。

本棚にあったものなどは陽明文庫に送られたようです。
陽明文庫は近衛家伝来の史料を保管している京都の施設。
昭和13年に近衛文麿が設立。

荻外荘(近衛文麿旧宅)の蔵

居住棟と別棟の間にあるのが「蔵」
近衛家の至宝が納められていた名家の蔵。
堂々たる蔵扉。
入澤氏から邸宅を譲られた近衛文麿が建設。
別棟とともに昭和13年と推測。

蔵外観。
近衛文麿時代から、おおむね往時の姿を留めているという。
2階建ての蔵は、平屋の荻外荘のなかでは高さが頭一つ飛び出ている。

荻外荘(近衛文麿旧宅)別棟

昭和13年増築。
もともとは近衛文隆(文麿長男)が母親のために作ったものという。
アメリカ留学後に文隆も別棟に一時居住をしている。
(近衛文麿の長男近衛文隆はのちシベリアに連行され獄死している)

受付のとなりで販売がありましたので、 おもわず書籍を購入してしまいました。
(こういう書籍は見逃せないんですよね・・・)

敷地内にあった何か。
そんなに古くはなさそう・・・

荻外荘
案内人の一言が印象深く
「復元するとしてもどの時代にあわせるのか。伊東忠太が手がけた木造建設にも価値がある。(伊東忠太の現存する数少ない木造建造物、昭和2年) そして歴史舞台としては荻窪会談、近衛文麿邸としての価値がある。史跡登録もされた。」
あぁ、これは複雑な気持ちになります…

荻外荘・近衛文麿旧宅
豊島区の移築部分)

染井霊園の正面近くに近代史跡として意外なものが残っている。

「荻外荘」
もともと荻窪にあった近衛文麿別邸が何故か染井の地にある。
これも近いうちに荻窪に戻る(再移築)らしいので、ここで見れるのも残り僅かかもしれず…

もともと荻外荘は大正天皇侍医頭であった入澤達吉邸(昭和2年・伊東忠太設計)であったが昭和12年に近衛文麿別邸となる。
昭和20年近衛文麿が荻外荘にて服毒自殺。
戦後は吉田茂が荻外荘に居住したこともあった。
※敷地外より撮影

昭和35年に北半分にあたる玄関・応接間・客間が「天理教東京教務支庁」東京寮として移築。
荻窪に残った南半分は杉並区が取得し「荻外荘公園」として再整備。
杉並区では天理教と交渉し元の荻窪に再移築の上で復元を予定しているという。

近衛町(東京都新宿区下落合

場所は変わって新宿区へ。
東京都新宿区下落合
かつては「目白近衛町」と呼称された高級住宅地。
いまでもあちこちに「近衛」の名が残っている。

前述の荻外荘は「近衛別邸」
かつてこの目白近衛町に「近衛本邸」があった。
東京電力やNTTの電柱にも「近衛」の名が。

近衛篤麿公記念碑

かつて近衛邸があった地区に近衛篤麿公(近衛文麿の父)を記念する碑が残っている。大正13年(1924)に建立。
明治37年の篤麿死後、大正11年頃から近衛邸宅の一部が「近衛町」として分譲され近衛家の足跡を記録するために建立。

入口は極めて細く、その細い空間の中ほどに「記念碑」が残っている。

新宿区地域文化財第五号
「近衛篤麿公記念碑」

この地には大正末まで近衛公爵家の屋敷があり、分譲後も近衛町と呼ばれた。
大正13年建立。


近衛篤麿公記念碑

 公の諱は篤麿、霞山と号した大職冠藤原鎌足の後裔で、五摂家筆頭近衛家の第二十八代当主。文久三(1863)年六月二六日京都に生まる。  
 明治一七(1884)年、華族に列し公爵。翌年ドイツに留学、明治二三(1890)年帰国し、貴族院議員。明治二八(1895)年学習院院長、翌年貴族院議長に就任。時の内閣からしばしば入閣を懇請されたが固辞し、常に野にあって国政の大局的指導に当たった。
 日清戦争前後における西欧列強の清国侵略に慷慨し、中国の保全と日中の協力を提唱。明治三一(1898)年東亜同文会を組織し、次いで上海に東亜同文書院、
東京に東京同文書院を設立、日中両国学生の教育に尽瘁した。
 ロシアの中国への南下を憂慮し、国民同盟会、対露同志会を結成し、国論の喚起に努めた。しかし不幸にして難病に罹り、日露開戦直前の明治三七(1904)年一月一日逝去・行年僅か四二歳。
 当地は、公が明治三五(1902)年に晩年の居を定めたところでもあり、終焉の地となった。現在この辺は下落合と呼ばれるが別称近衛町ともいう。この記念碑は、公没後、二〇余年の大正一三(1924)年七月に建立された。
 平成八(1996)年一月  
 財団法人 霞山会  
 会長 近衛通隆

かつての霞山公の碑は良く整備されたこの地(広さ百坪)に築かれた塚の上に東側を正面に向けて建てられていた。
平成8年1月に現在のように再建された。
(昔日の霞山公紀念碑)昭和初期の大雪の日

霞山公記念碑・・・のうしろの煉瓦壁
たぶん近衛云々とは関係ないとおもうけど良い雰囲気。

旧近衛邸のケヤキ

旧近衛家のケヤキ
新宿区地域文化財第10号
樹齢100年を超えるケヤキの大木で、近衛家屋敷の車廻しにあったと伝えられる。地域の要望により残された。

現在は道路の真ん中に残された欅の大木。これも近衛家の名残。

「昭和寮」(旧・学習院高等科寄宿舎)

近衛家が分譲されたのちに当地に建てられた学習院の寄宿舎。
近衛篤麿は第7代学習院院長でもあり。
昭和3年建築、設計は宮内省。
現在は「日立目白クラブ」として活用されている。
(関係者以外立ち入り不可)

昭和寮跡碑

学習院大学建立

昭和寮跡
 昭和寮は、昭和3年(1928)に学習院高等科(旧制)学生の寄宿舎として現在の新宿区下落合2丁目13番28号の敷地に建設された。
 西洋式建築の堅牢な建物であったが、昭和27年(1952)に廃寮。同年、此の地に大学学生のための新たな寮を設け、それ以前の寮の名称を引き継ぎ「昭和寮」とした。以後、当初から数えると70年近い歴史を刻み多くの学生に利用、親しまれてきた昭和寮は、平成9年(1997)3月その幕を閉じた。
 平成13年6月 建立

杉並と目白と近衛にゆかりのある地を巡ってみました。


以下は補足。

近衛家墓所(近衛秀麿墓)

五摂家の一つである近衛家の墓所は京都の大徳寺。近衛文麿はそこに眠る。
近衛文麿(近衛篤麿の長男)の弟である近衛秀麿(近衛篤麿の次男)、そして近衛秀麿養子となった近衛通隆(近衛文麿の次男)の墓は東京池袋にほど近い練馬区桜台の広徳寺にある。

公爵 子爵 近衛家墓所

近衛秀麿

1898年(明治31年)11月18日-1973年(昭和48年)6月2日
作曲家・指揮者
元子爵 正三位勲三等
元貴族院議員
後陽成天皇男系十二世子孫

父は、近衛篤麿
異母兄は、近衛文麿(政治家・元内閣総理大臣)
実弟は、近衛直麿(雅楽)、水谷川忠麿(春日大社宮司)

第2次世界大戦中は主にヨーロッパで音楽活動に従事。
1945年4月に、ドイツの敗戦によりアメリカ軍に抑留。
1945年12月に帰国を果たすが、その同じ12月には兄の近衛文麿が自殺をしている。

近衛秀麿墓(近衛文麿の弟)
近衛秀麿
公爵子爵 近衛家墓所

近衛秀俊

1921年-1923年(大正12年)9月1日
後陽成天皇男系十三世子孫

近衛秀麿の長男。
関東大震災で死去。

近衛秀俊墓(近衛秀麿長男・関東大震災で死去)

近衛通隆

1922年(大正11年)5月11日-2012年(平成24年)2月11日
後陽成天皇男系十三世子孫
歴史学者
東京大学史料編纂所教授、霞山会会長、陽明文庫理事長を歴任。

近衛文麿の次男。(近衛文麿の長男である近衛文隆の次弟)
1935年に近衛秀麿の養子となる。近衛忠煇の叔父。

近衛家墓
近衛通隆墓(近衛文麿次男・近衛秀麿養子)

近衛秀健

1931年(昭和6年)2月4日-2003年(平成15年)3月31日
後陽成天皇男系十三世子孫
作曲家・指揮者

近衛秀麿の次男。非嫡出子。1935年に近衛秀麿から認知。
近衛秀健氏の子息は音楽一家として現在も活躍中。

近衛秀健墓(近衛秀麿の次男)

近衛牡丹の家紋

余談ではあるが、東京の近衛家墓所のある広徳寺にはいくつかの大名家の墓所があつまっている。

広徳寺には、以下の歴史的な著名人の墓がある。
柳生家 柳生宗矩・柳生十兵衛三厳・柳生宗冬
小堀家 小堀遠州正一
立花家 立花宗茂

柳生家墓所
立花家墓所
小堀家墓所

最後は余談でした。
近衛家に関するなんやかんや、でした。

JR銚子駅舎建替前の記録(海軍香取航空基地の格納庫転用の駅舎?)

すでに解体済みです。平成30年に新駅舎となりました。

1945年(昭和20年)7月19日
空襲で銚子駅舎は焼失しており、終戦直後に海軍香取航空基地の格納庫を転用し駅本屋に改築したものとされている。
訪れてみればわかるが空間が広く格納庫転用の名残を感じる。

海軍香取航空基地跡の記録はこちら

内田百閒 「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」

銚子駅。夏目漱石の弟子である作家・内田百閒は昭和28年に「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」の中で銚子駅に関してこう記していた。

「…間もなく銚子駅の構内に這入った。終着の大きな駅ではあるが、本屋全体の感じが倉庫か格納庫の様で、少し薄暗く、よその駅とは丸で工合が違う」

さすがの内田百閒先生。
陸軍士官学校や海軍機関学校のドイツ語教官、法政大学ドイツ語教授時代に法政大学航空研究会会長に就任していただけあって、知ってか知らずか「格納庫の様だ」とご名答されていました。

内田百閒全集第7巻(講談社)
「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」
内田百閒全集第7巻(講談社)
「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」

銚子駅 平成28年10月18日撮影

既に一部では工事も開始されておりました。

駅構内では待合室とニューデイズは既に封鎖・・・。
柱が少ない内部空間が、僅かに格納庫の名残を残しているのかもしれない。

外側から駅舎を見てみれば、この長い建物が「格納庫らしい」とも。

建て替え前に。 いろいろと見て歩く。

跨線橋から、つい銚子電鉄ホームを見てしまいました。

地元駅から始発に乗って、電車に揺られて銚子駅にたどり着いたら、一休みしつつ待合室のTVで「小さな旅」を見たのも思い出の一つになりました・・・。

銚子駅  平成28年12月11日撮影

建替工事中のJR銚子駅。
平成28年12月11日の記録。

ホーム側から撮影。
この時はまだ違和感に気がつきませんでした。

跨線橋から撮影。
ん?…ない?あれ? 駅舎ブツ切りされてる……

正面。
あぁ…真ん中が…ない!
真ん中が完全に撤去…

覚悟はしてましたし、しょうがないこととはいえ、海軍香取航空基地格納庫転用とされた銚子駅駅舎の半身不随の姿。

銚子の青空と太陽は絵になる。 それは皮肉なことに、半身不随の姿で横たわるJR銚子駅の半壊な姿ですら…

バッサリと切り捨てられた姿が痛々しい。

覗きこんでみました。
これもまた、消えゆくものへの供養の記録。

海軍香取航空基地格納庫の気配を夢想しつつ、いち歴史ファン・海軍フリークとして、その姿を脳裏に刻む…

銚子駅舎さん!お疲れさまでした…

海軍香取航空基地跡散策

平成28年1月撮影・千葉県匝瑳市及び旭市

海軍香取航空基地跡散策レポ。(平成28年1月10日)
千葉県旭市鎌数工業団地がその跡地。
航空写真で見れば滑走路跡も歴然。
総武本線干潟駅スタートで散策行程は約10キロ3時間。

  • 建設が決定されたのは1938年(昭和13年)完成は1942年(昭和17年)頃。
  • 名称:海軍香取航空基地。通称は香取飛行場。
  • 滑走路は1500mと1400mの2本で互いの中央部が十字状に交差。
米軍撮影 1948/03/02(昭23)
USA-R1069-107

まずは1500メートル滑走路南西部エンド。
金属加工工場がはいってます。
航空写真を見ての通り、不自然に斜めってますね。
滑走路の上に工場が展開。

1500メートル滑走路と1400メートル滑走路のクロスポイント。
南西側の1500メートル滑走路跡からなんとなく当時の舗装を垣間見ることができました。

北西ー南東に伸びる1400メートル滑走路跡は、日清紡ブレーキの旭テストコースとして活用されてます。
航空写真でサーキット場に見えるわけです。ただしテストコースは樹木に覆われており、中を伺うことは叶わず。

航空写真を。
テストコース中央部に滑走路跡の舗装が残っているのがわかります。日清紡ブレーキ社の都合があえば事前申し込みで見学も出来るらしいです。
私は時間なかったので航空写真で満足しておきますが。


滑走路跡からちょっとはなれた場所に、飛行機と慰霊碑があります。 順に見ていきましょう。
(千葉県旭市鎌数5146−32付近)

黄色な零戦?

「米国からのMAP供与品」を海自から旭市が借り受け……って又貸し?
米軍練習機SNJ/T-6テキサン。

飛行機所縁の地にせめてレシプロ機を展示したいという意気込みが伝わってきました。

テキサン

香取航空基地に馴染みある旧帝国海軍航空機を展示するのは無理な相談。
そうであれば、せめて似たような雰囲気のレシプロ機を展示して、この場所で往時記憶を留めるという展示者の意欲が伝わってきました。

展示飛行機テキサンの向かいには慰霊碑があります。

海軍香取航空基地跡 慰霊碑

「慰霊」

黙祷。
この地より飛び立ち若き海鷲たちに感謝の意と哀悼の誠を捧げつつ。

「慰霊」題字は源田實氏。
海軍軍人としての最終階級は大佐。戦後は空自、政治家へと。

海軍香取航空基地跡慰霊碑
この地は昭和十八年、太平洋戦争さなかに完成せる香取海軍航空基地跡なり
慰霊碑はこの飛行場より飛び立ち訓練に或は戦場に向い遂に還らざりし若鷲達と空襲により没せし市民の御霊を祀るものなり
彼等に限りなき敬意と愛情を抱く全国の戦友と近隣の市民有志は「御霊よ永遠に安かれ」と祈り、又「将来の平和の礎たれ」 と念じ互いに力を合わせこの碑を建立し、謹みて碑内に霊璽簿を納む

昭和51年11月23日 慰霊碑建設期成会
慰霊題字 源田實

巨大な慰霊碑の片隅に、隠れるようにひっそりと小さな碑もありました。
はっ とその存在に気がつき、慌てて手を合わせる。

「香取基地戦没者之墓」
昭和30年12月建立の墓碑。建立は慰霊碑に先立つ事21年前。

慰霊の場所から北上。
北西に伸びる1400メートル滑走路のエンドは日清紡ブレーキ社のテストコース。
ここより更に北上へと歩いて行きます。

素晴らしき快晴の中を歩く。気持ちの良い天候でした。暫し歩くと土盛りのようなものが見えてきて。
これが次の目的地の掩体壕。
掩体壕は水田の中と聞いていたので農閑期に訪問。作業の邪魔をしてはいけないので。

海軍香取航空基地跡の掩体壕(匝瑳市)

掩体壕。
鉄筋コンクリートアーチ型。
開口19.5メートル、奥行10.6メートル。高さ6メートル、コンクリート厚0.3メートル。
匝瑳市椿海地区には隣接して2基現存している。

匝瑳市椿海地区の掩体壕2基。
ご覧のとおりに水田の中に。農作業の邪魔をしてはいけないので農閑期に訪れたわけです。
地元の調布飛行場の界隈にも掩体壕は残っておりますが、こちらはより大型な掩体壕。

激動の時代を物語るよすがを。
今はただ静かに。

望遠してみた。

なんか不思議な感じがします。
知らない人にはどういう風に見えているのかな。
水田の中にあらわれた人工物。

歴史を体感するキッカケとして、後世に大切に伝えて欲しいです。

橋を渡り対岸から掩体壕を望む。

長閑な風景はどこか牧歌的ですらあり、皮肉なものである。

ここより飛び立てり若き海鷲たちに感謝の意を。哀悼の誠を。
今はただ、静かに掩体壕という器だけが残る大地の中で。

匝瑳市椿海地区の掩体壕から、南東に歩く。
次の目的地は鎌数伊勢大神宮。
この神社の隣にも掩体壕が残っているのだ。
滑走路跡に沿って歩いてみる。

海軍香取航空基地跡の掩体壕(旭市)

旭市鎌数の掩体壕。旭市に残る唯一のもの。 近くに寄ってみます。
こちらも農業倉庫として使われているため、やはり邪魔にならないように、農閑期に訪れるのが良いかと。

旭市鎌数の掩体壕。旭市に残る唯一のもの。 近くに寄ってみます。 こちらも農業倉庫として使われているため、やはり邪魔にならないように、農閑期に訪れるのが良いかと。

旭市鎌数の掩体壕。
鎌数伊勢大神宮側から後ろを見学する事も出来ました。

鎌数伊勢大神宮

鎌数の掩体壕の隣に鎮座しております 鎌数伊勢大神宮さんへ。 こちらもほんのちょっとだけ香取航空基地に絡んできます。 写真は脇参道。掩体壕のある側から。

旧社格は郷社。
御祭神は天照大神。

もともと界隈は寛文11年(1671)までは「椿の湖」という周囲42キロメートル(東西12キロメートル・南北6キロメートル)の湖であった。

寛文年間。
江戸の白井治郎衛門、伊勢桑名の辻内刑部右衛門両名が湖の干拓事業を開始。 当初は農民や漁民より強い反対があり工事が中断されるも両名は工事再開のために神助を得ようと考え伊勢神宮内宮神主であった梅谷左近大夫長重に工事遂行の祈願を依頼。

両名は御神木と御神札を持ち帰り、この湖に浮かべたところ、流れ着いたのが現在の大神宮のある東方の岸であったという。これは神意に違いないと工事を再開したところ、不思議なことに今度は反対活動も起きずに工事が進んだ。

寛文11年12月28日に〆切の式を行い水を九十九里に流し、翌寛文12年に待望の大干潟が生まれ18の村が成立。 これを干潟八万石と呼称。 寛文12年5月に内宮神主の梅谷左近大夫長重(現宮司家の12代前)により現在地に伊勢皇大神宮より御分霊を移し干潟総鎮守産土神として祭祀。

昭和15年に海軍香取航空基地が建設され、当境内は滑走路の東南となった。 幸いにして神社境内は買収されなかったが背の高い樹木は飛行妨害を懸念され伐採。

往時より70余年を経て、今日に至る。

境内遠望

航空基地跡とは逸脱しますがさらりと境内を散策してみましょう。

「落花生の碑」
碑題字は山岡鉄太郎(山岡鉄舟)
千葉の落花生は1845年に千葉県旭市鎌数の役人金谷総蔵氏の尽力より始まったのだ。

椿の湖を物語る石。
寛文年間に干拓された当地は干潟八万石と称された。 昭和年間に海軍香取航空基地建設のための工事の最中に発掘されたこの石は実は「塩の化石」だとか。

御神木 夫婦杉。
樹齢約320余年とのことで、ほぼ創建年代まで遡れますね。 高さは夫杉は4メートル、婦杉は3メートル。

境内には地元の方々の参拝がちらほら。

千葉県旭市は実は神社が豊富。
郷社クラスでも飯岡の玉崎神社(下総国二ノ宮)、見広の雷神社(式年銚子大神幸祭の1社)、熊野神社(家康公朱印地)、そして鎌数様と名社が多い。

8時44分に干潟駅着。
香取航空基地跡を周回し鎌数さんを詣でて11時41分に干潟駅離脱。
ちょっと慌ただしく約3時間約10キロといったところでした。

海軍香取航空基地の格納庫を転用したとされている銚子駅舎の記事は以下に。残念がらすでに解体済みです。

横浜開港祭「たかなみ」電灯艦飾

平成29年6月3日撮影

平成29年6月3日 の横浜開港祭。
護衛艦「たかなみ」が「横浜港大さん橋」に寄港。夜間には電灯艦飾も行われるということで行ってみました。
結果的には運良く花火とのコラボも楽しめました〜!

「横浜港大さん橋」に到着したのが、18時15分過ぎ。 日没30分前に到着出来たので一安心。 艦首「国旗」と艦尾「自衛艦旗」と迷いますね。

やっぱり艦尾でしょ。
旭日の「自衛艦旗」が美しいです。
「たかなみ」の奥に佇む海軍の大先輩「氷川丸」も美しいです。

18時50分すぎ。
「たかなみ」後甲板に隊員が集まってきました。
そろそろ日没。

たなびく「自衛艦旗(十六条旭日旗)」の誇り。

18時53分。日没。

10秒前~
パンパパ~ン(ラッパ)気をつけ!

日没ととともに国旗・自衛艦旗降下。電灯艦飾点灯。

自衛艦旗に対し挙手敬礼。

喇叭譜「君が代」
(ドソドミソの五音の組み合わせで吹かれるラッパ「君が代」)吹奏

19時。
さあこれより電灯艦飾を楽しむ時間の始まりです。

横浜港大さん橋北側のみなとみらい側は花火見学の人々で賑わい、南側では「たかなみ」ライトアップを見学する人々で賑わっております。

「たかなみ」電灯艦飾
艦首側より。(19時20分頃撮影)
暗くなりすぎない日没後のわずかな時間帯がベストショット。

「たかなみ」電灯艦飾
艦首側より。(19時20分頃撮影)
後方はベイブリッジと大黒ふ頭。

美しいです。

「たかなみ」電灯艦飾の向こうには「氷川丸」
(輝くタワーは横浜マリンタワー)

氷川丸は日本海軍時代は「特設病院船」として重用され各海域の後方支援で活躍。帝国海軍を知る生き残りの船でもあるのだ。

「たかなみ」電灯艦飾。 艦尾から。
(一気に人が引け撮影がしやすくなりました。19時30分から花火が始まり、南側が空き始めたのだ。)

そうなのです。
艦を撮ってる場合じゃないんです。
花火が始まったんです。
せっかくだから花火を見ないと・・・ と、思いながら艦を撮っていたり。

だって大桟橋の北が「花火」で南が「護衛艦」でしょ。

どうやって撮るのよ。

・・・超広角なら。あっ魚眼持ってた!

(花火撮影は場数を踏んでいないので、ちょっと苦手です)

「たかなみ」電灯艦飾
花火は20時前に終了。だいたい30分間ぐらいの打ち上げでした。

横浜港大さん橋に停泊する鋼鉄の艨艟
海洋立国日本の守り神
これからも日本の海をよろしくお願い致します!
(/”`・ω・´)

賑やかで華やかなほうの横浜。
かすかに海保のPLH-32あきつしまが見える、かも!
今度は明るいうちに観察しましょう。
山下公園の方に向かいます。

「たかなみ」電灯艦飾

まあ夜の山下公園はアウェーなのは知ってます。
花火大会のあとですよ。夜ですよ。横浜の山下公園ですよ。
えぇ、察してます。
気にせず三脚をセットして「たかなみ」を撮影。
かなり風が強くて厳しい。

「氷川丸」電灯船飾(ライトアップ)

電灯船飾と電灯艦飾 日

本郵船「氷川丸」(国重文)の後ろ姿。
1930年竣工

その左奥に護衛艦「たかなみ」の姿も。
2003年竣工

そんな誇らしい2隻を眺めつつ、 静かに横浜の夜をあとにする。
佳き夜でした。 〆

都内の射的場跡散策・弥生と大森

平成29年11月撮影

戦前の都内にはいくつか「射的場」があり、今でも地図上でその痕跡を見つけることが出来る。
有名なところでは現在は戸山公園となっている「陸軍戸山射撃場」などがあるが、今回は「弥生」と「大森」にあった射的場跡を(極めて地味に)巡ってみます。

射的場跡散策・弥生

弥生、いわずと知れた東京大学。
その東大エリアの地図を眺めてみると気になる住宅街があるかと思います。
東京大学本郷キャンパス・弥生キャンパス・浅野キャンパスに三方を囲まれた一画。現在は住宅地となっているエリアにかつて「射的場」があった。

この地区は「弥生式土器発掘ゆかりの地」で有名。
明治からの射的場を偲ぶものは特になく、それこそ地図が物語っているといった感じです。

東大武田先端知ビル建設時には射的場で使用された弾丸も出土。

東京共同射的会社射的場
明治10年(1887)に警視局(警視庁)射的場として開設。明治15年に宮内省所轄射的場となり皇宮地附属地の東京共同射的会社射的場となった。明治21年に射的場は大森に移転。

東京共同射的会社射的場は明治21年に大森に移転(後述)しているので、当地には射的場を物語るなにかは残っていない。
敢えて言えば直線的な住宅地空間が唯一の名残。
射的場の南東端(4枚目)は、ちょうど文京区と台東区の境目。

これだけで弥生はおわり…だと寂しいので蛇足を。
射的場跡の隣に現在は東大病院がある。
東大病院近くの 「東大弥生門」を出てすぐ近くの「弥生美術館」の壁にレリーフがあった。

東京大学医学部戦没同窓生の碑

平成13年5月27日建立
満洲事変・日中戦争・太平洋戦争の犠牲となった東大医学部同窓生200余名を慰霊。

射的場跡散策・大森

弥生から大森に移った射的場は、大森にて明治22年(1889)から昭和12年(1937)ごろまで使用されていたという。

「日本帝国小銃射的協会跡碑」

この碑が何時建立されたかは不明。碑右上部に欠落が有る。裏面無銘。

「大森射的場」
「日本帝国小銃射的協会跡碑」
地図を見てみるとやはり空間が。射的場跡は現在は「大森テニスクラブ」として活用。
射的場時代の大正12年には「大森庭球倶楽部」が併設開設されており、周辺環境の変化から射的場は昭和12年頃に鶴見北寺尾に移転。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
http://ktgis.net/kjmapw/index.html より

現在の「大森テニスクラブ」。
もちろん射的場当時を物語るものは地図上の形ぐらいしかなく。 やはり敢えて言えば弥生と同じく直線的な道路。

こんな感じで極めて地味すぎる散策でした。

面白いのは弥生式土器発見の地「弥生」日本考古学発祥の地「大森」「射的場」で繋がっていた歴史にニヤリと出来た事。 大森の射的場跡から駅に向かう途中にも弥生があったり。

「特攻観音堂」と「特攻勇士の像」

(特攻観音堂は平成30年5月撮影 )

世田谷観音 (世田谷山観音寺)

江戸三十三観音第32番札所

昭和26年に睦賢和尚が独力で建立。
同年5月、金竜山浅草寺に請い開眼の法を修したとされる寺院。 境内には特攻で犠牲となられた英霊を慰霊する「特攻観音堂」が鎮座。

入口の左右に。

石碑 「奉安 特攻平和観音」元竹田宮 竹田恒徳 書

門標 「世田谷山観音寺」元内閣総理大臣 吉田茂 書

参道の左手、赤門の奥には「旧小田原代官屋敷」
現在は観音寺本坊として使用。

特攻平和観音

昭和27年5月。
元海軍大将 及川古志郎、元海軍大将 高橋三吉、元陸軍大将 河辺正三、元陸軍中将 菅原道大、元海軍中将 寺岡謹平らが発起人となり特攻平和観音像が造立。(法隆寺夢違観音像模写)
陸軍側及び海軍で犠牲になられた英名が各々二体の特攻平和観音尊像胎内に奉蔵されている。

特攻観音堂

昭和31年05月。世田谷観音寺内に旧宮家「華頂宮家」の持念仏堂を移築し「特攻平和観音」を遷座。

陸軍2244柱
 航空1355柱・空挺615柱・海上挺進265柱・戦車9柱
海軍4174柱
 航空2548柱・特潜437柱・回天104柱・震洋1085柱
合計6418柱

国のために生還を期することのない特攻作戦に志願して若き命を捧げた特攻隊員英名が「特攻平和観音」に奉蔵されている。

石碑「世界平和の礎」

昭和39年10月吉日 吉田茂 謹書
特攻観音堂の左手前に。

特別攻撃隊の頌

 わが国が存亡をかけた大東亜戦争においては、開戦当初から生還を期すことのない特攻作戦が決行された。
 弱冠十七、八歳から三十歳代までの勇士が、肉親への愛着を断ち切り洋々たるべき人生を捨てて、空に、海に、陸に、決然として肉弾攻撃を敢行し、偉大なる戦果を挙げ、ことごとく散華された。その数およそ六千柱。壮烈無比なこの攻撃は敵の心胆を寒からしめ、国民はひとしくその純忠に感泣した。
 特別攻撃隊の戦闘は、真に至高至純の愛国心の発露として国民の胸奥に生き続け、また世界の人人に強い感銘を与え、わが国永遠の平和と発展の礎となっている。
 ここに心から愛惜の情をこめて特別攻撃隊の諸資料を、この遊就館に納め、その精神と偉業とを後世に伝える。
昭和六十年十二月八日 特別攻撃隊慰霊顕彰会 会長 竹田恒徳

あゝ 特攻(特攻勇士の像

特攻隊戦没者慰霊顕彰会は全国各地に「特攻像」建立を行っており世田谷観音には平成19年09月23日建立。

私たちはあなたたちを忘れない
あゝ特攻

多くの「特攻勇士の像」が護國神社境内に建立されている中で、当寺には特攻観音堂があり地蔵菩薩と特攻像が並んで建立されている。

天山隊之碑

元海軍大将 高橋三吉 書
昭和36年12月 天山隊遺族会建之

特攻観音堂の左脇に慰霊碑。
「天山」は日本海軍が九七式艦上攻撃機(九七式艦攻)後継機として配備した艦上攻撃機。戦争末期には零戦や彗星とともに特攻機となっている。碑には天山を模した彫刻あり。

「天山隊之碑」 碑銘
大東亜戦争末期昭和20年4月6日鹿児島県串良基地進発沖縄周辺に来寇中の敵機動部隊に体当り攻撃を敢行し戦艦5隻空母2隻及び艦種不詳3隻を轟沈或は大破し多大の戦果を挙げ全員散華せり
神風特別攻撃隊菊水部隊天山隊員(以下個人名は略)

(もちろん記録として、歴史としては、そのような多大な戦果を挙げていなかったことは今では明らかではあるが、「戦果を挙げた」として信じて特攻された御英霊に対して無粋なことはしたくなく。歴史を知るものとして事象を理解しつつ… ここは、いち日本人の心情として碑銘に気持ちを委ねる。)

神州不滅特別攻撃隊之碑

昭和42年5月 神州不滅特別攻撃隊顕彰会建立

第二次世界大戦も昭和二十年八月十五日、祖国日本の敗戦と云う結果で終末を遂げたのであるが、終戦後の八月十九日午後二時、当時満州派遣第一六六七五部隊に所属した今田均少尉以下十名の青年将校が、国敗れて山河なし生きてかひなき生命なら死して護国の鬼たらむ、と又大切な武器である飛行機をソ連軍に引渡すのを潔しとせず、谷藤少尉の如きは結婚間もない新妻を後に乗せて、前日二宮准尉の偵察した赤峰附近に進駐し来るソ連軍戦車群に向けて大虎山飛行場を発進、前記戦車群に体当たり全員自爆を遂げたもので、その自己犠牲の精神こそ崇高にして永遠なるものなり 此処に此の壮挙を顕彰する為記念碑を建立し英霊の御魂よ永久に安かれと祈るものなり (碑銘引用は以上、以下個人名は略)

「特攻観音堂」
関連冊子などを戴きました… 公式サイト→PDFダウンロード可

「特攻平和観音経」
恭しく伏して惟んみるに天地開闢以来この世に生を享けしもの幾十百千万億兆なるを知らず。…
嗚呼尊い哉、嗚呼仰がん哉、長存不滅の光
南無特攻平和観世音菩薩…

公式サイトによると特攻平和観音様 月例参拝日が毎月18日午後2時より行われているということで。 機会があれば参列してみたいものです。


世田谷観音の境内を散策。
紙垂のある木。敬しく恭しい御神木。
ご住職のメッセージが掲示してあった。

大地は命の根源である

私達は大地を粗末に扱っている 大地は私達のものだと思っているからである そうではなくて私達が大地の一部なのだと知ればもっと愛情と敬意をもって扱うようになるだろう

阿弥陀堂(1枚目)は京都二条城からの移築という。
三層の建物は金閣寺を模している。向かい合った六角堂(不動堂/2枚目)も特徴的な様相。
寺歴は浅いが、移築建築や移築物が多い寺院。
不動堂「不動明王ならびに八大童子」は国重文。

狛獅子を従えた文殊観音様

境内にはさざれ石がありました。
「さざれ石のいわおとなりて苔のむすまで」
良き苔むす。
ちょっと交通の便は悪いけれども、とても佳き空間でした。
また訪れたいと思います。

御英霊の真心に感謝と哀悼の誠を捧げつつ…

各地の「特攻勇士の像」

訪れたことのある、ほんの一部ではございますが。

靖國神社

特攻勇士を讃える

戦局がいよいよ悪化した大東亜戦争の末期、
陸軍航空 西尾少佐以下1344名、
義列空挺隊 奥山少佐以下88名、
戦車隊 丹羽准尉以下9名、
海上挺進戦隊 岡部少佐以下266名、
海軍航空 関大尉以下2514名、
特殊潜航艇 岩佐大尉以下436名、
回天 上別府大尉以下104名、
震洋 石川大尉以下1082名、
計5843名の陸海軍人は敢然として敵艦船等に突入散華され今日の平和と繁栄の我が日本の礎となられた。
その至純崇高な殉国の精神は、国民ひとしく敬仰追悼し、永久に語り継ぐべきものである。
平成17年(2005)6月28日
財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会

群馬縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士の像 
平成21年3月建立

日本は昭和の一時期、米英及び重慶支那と大東亜戦争を戦った。
自国の安全と欧米の植民地支配からアジアを開放するためだった。
戦は優勢に推移し南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島沖縄と敵の反攻を許した。
この時、一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必至の戦法が採られた。
貧しく誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十才前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。
その勇姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現在の人よ、
命に代えて何を守ろうとしたか、
この像に問い続けて欲しい。

栃木縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士の像

私たちは決して忘れない

かつて太平洋戦争の末期、敵の圧倒的戦力を阻止しようと爆弾をかかえ、あるいは魚雷を抱いて敵艦等に体当たりを敢行した特攻隊員のことを。
祖国の安泰を信じ、太平洋の陸に海に空に散華した特攻隊員は、全国で実に五千八百余柱、本県で九十四柱に及ぶ。
このたび、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会寄贈の「特攻勇士の像」を、多くの県民の浄財によってここに顕彰碑として建立することができた。
特攻隊員の崇高な美挙が、この碑によって永遠に語り継がれることを願うものである。
平成二十二年八月十五日
     栃木県特攻慰霊顕彰の会

埼玉縣護國神社

埼玉県特攻勇士之像 (平成25年建立)

あの苛烈を極めた大東亜戦争の末期、多くの埼玉県出身の若者たちが特攻隊員となり家族・故郷・祖国を守るため、烈々たる祖国愛に燃え敢然として散華されました。
生還を期せず、若い命を進んで国に捧げられたこれら特攻隊員の崇高な精神が永く県民の心に刻まれるとともに次代を担う若門精神の糧となることを願うものであります。
ここに散華された英霊の勇姿を末永く後世に伝えるため、公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会のご協力を得て、埼玉県下遺族、戦友、崇敬者団体をはじめ幅広い県民の真心籠るご浄財をもって埼玉県特攻勇士之象を建立し謹んで奉納いたします。 
平成二十五年十月吉日
埼玉県特攻勇士之像建設委員会

千葉縣護國神社

あゝ特攻
千葉県特攻勇士顕彰碑

我が祖国日本は昭和16-20年米英支ソ蘭豪と大東亜戦争を戦った。
自国の安泰と欧米の植民地支配からアジアを解放するためだった。
戦は連戦連勝南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島から沖縄と敵の反攻を許した。
この時一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必死の特攻戦法が採られた。 貧しくとも誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十歳前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。

その雄姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現代の人よ、
命に代えて何を守ろうとしたのか、
この像に問いかけてほしい。

戦後同26年5月3日連合国最高司令官マッカーサー元帥が米上院軍事外交合同委員会で日本の戦は自衛のためであったと証言し米報道機関が全米に発信した。

日本国民よ、この事実を銘記せよ。

長野縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士之像

大東亜戦争の末期、特別攻撃隊が編成され、祖国の平和と繁栄を祈り、愛おしい父母妻子家族と別れ、一機一艇をもって敵艦に体当たりして、勇戦敢闘し散華されました。
長野県出身者は、陸海軍合せ百六十余名の若者が特攻隊員として戦死されております。
松本市内には、出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立って行きました。
又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。
国家存亡の危機に敢然と立ち向かわれ、今日の平和な日本の礎となられた諸英霊の崇高なる精神を永く県民の心に刻み 、後世に伝えるため、終戦七十周年を期しここに建立いたしました。
平成27年10月10日 長野県特攻勇士之像建立委員会

國の為 誠の道を一筋に
 進み行くこそ大和魂
  秋山白厳 詠


特攻勇士之像 に拝する機会がありましたら、記事を追記してまいります・・・

愛知航空機工場スリップ跡散策

平成29年1月撮影

愛知航空機永徳機体工場スリップ跡。 (稲永スリップ跡)

平成29年1月28日午後。
名古屋駅から「あおなみ線」に乗り南下を。
観光地的ではない場所。目的地は「野跡駅」より徒歩10分ほどだった。

通称、「愛知航空機永徳機体工場スリップ跡」。
「稲永スリップ跡」ともいわれる場所へ。

現在は「愛知機械工業株式会社永徳工場」。
戦前は「愛知航空機永徳工場」。
この愛知航空機(愛知時計電機から分社)は主に海軍機を製造していた軍需工場。
その南西にある跡地…

稲永スリップ跡

スリップとは?
つまり「滑る」わけであり「スロープ」「水上機用傾斜面」のことをいう。

水上機は車輪の変わりに下駄(フロート)をつけており、地上から斜面を滑り着水するのだ。

愛知航空機

戦前日本では屈指の航空機メーカー。
日本海軍向けの攻撃機、爆撃機、水上機等を製造してきた会社。

代表作
「九九式艦上爆撃機」
「流星」
「流星改」
「零式水上偵察機」
「瑞雲」
「晴嵐」
「九八式水上偵察機(夜偵)」…
水冷式発動機「アツタ」
など。

このスリップから水面へ滑り出し飛び立っていった水上機たちに想いを馳せる…

零式水上偵察機(零式水偵)
戦艦・巡洋艦・潜水艦などの艦載機として、また水上基地からも運用できる長距離偵察機として昭和15年12月採用。
愛知航空機での生産数133機。

瑞雲
水上偵察機と水上爆撃機(急降下爆撃も含め)の統合を目指し、開発は難航するも昭和18年8月制式採用。
日本海軍が誇る傑作水上機のひとつ。

第634航空隊として、第四航空戦隊・航空戦艦「伊勢・日向」に搭載予定だったが…(師匠…
総生産数は約220機。

晴嵐
水上攻撃機・特殊攻撃機
伊400型・伊13型潜水艦に搭載。急降下爆撃も可能な潜水艦搭載用水上攻撃機。
昭和18年11月に初号機完成。
愛知航空機が産んだ最後の傑作水上機。

「愛知航空機永徳機体工場スリップ跡」
(稲永スリップ跡)

ちょうど私が訪れた時、15時ごろは干潮から満潮へとシフトしている最中でした。
赤い屋根は稲永スポーツセンター。
この先にかつての愛知航空機がありました、

この凸部は係留用の杭でしょうか?
コンクリートの粗さがたまらなく、歴史を感じさせてくれます。

石段が残っていました。

スロープになっているのがわかります。

しばし、往時を偲び佇むとき。

このスリップを滑りつつ、水面から大空へと飛び立てし水上機たちに想いを馳せる。

堤防の上より。
気がつけば、界隈で1時間近くを過ごしてしまいました。

感無量の空間。ここには案内看板もなにもないけれども、往時の激動の時代を伝承し歴史を刻みし空間が残っているのだ。

このスリップ跡界隈は、現在はラムサール条約湿地「藤前干潟」でもある。

現在の「愛知機械工業株式会社永徳工場」。
(戦前は「愛知航空機永徳工場」。昭和20年8月の終戦により軍需工場から民需転換)

脇を歩きながら、駅にもどりましょう。
現在の愛知機械工業株式会社は、日産の子会社。

あおなみ線「野跡駅」(のせき・えき)に戻ってきました。
名古屋駅から電車一本20分で行ける戦争史跡。往時の感じることが出来る貴重な空間。良き場所でした。