「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

東京大空襲・慰霊

撮影:平成29年3月及び平成30年3月

昭和20年(1945)3月10日
「東京大空襲」
罹災者は100万人を超え、死者は7万から10万人以上といわれている…

3月10日。
毎年この日には、墨田区横網町公園「東京都慰霊堂」や台東区隅田公園「戦災により亡くなられた方々の碑」をはじめ、都内各所にて東京大空襲に関連した追悼慰霊行事がある。

慰霊鎮魂の日

合掌

東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
(戦災により亡くなられた方々の碑)

あゝ
東京大空襲
朋よやすらかに

戦災により亡くなられた方々の碑
台東区浅草七丁目一番
 
 隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
 昭和六十一年三月 台東区

言問橋の縁石
 ここに置かれているコンクリート塊は1992年言問橋の欄干を改修した際にその基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲になりました。
 この縁石は当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city001/index.html


言問橋

東京大空襲の際、浅草方面及び向島方面へ避難する人々などが、橋の上で交叉し身動きがとれない状態となってしまった。
それは、浅草(台東区)と本所深川(墨田区)とそれぞれの住民が川の向こう岸は安全だと信じて、火を逃れ対岸に逃げるために橋に殺到したためだった。
そうこうしているうちに橋の上に猛火が燃え移り、燃え盛る中で逃げるすべもなく、 両岸と橋上とすさまじき猛火の中で、行き場を失った人々が隅田川に飛び込んだとされ、そして多くの人々が焼死したという。

石柱には黒焦げた跡が残る・・・


言問橋の欄干と縁石

江戸東京博物館には、言問橋の欄干と縁石が保存されている。

言問橋の欄干と縁石
言問橋は、1928年(昭和3)に完成した、いわゆる震災復興橋梁のひとつである。1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとする人びとと、その反対側に渡ろうとする人びとが橋上で交叉し、身動きがとれない状態となった。人びとだけでなく、荷車やリヤカーも通行を妨げた。そこへ日が燃え移り、橋上はたちまち大火災に包まれた。橋上では逃げるすべもなく、多くの市民が焼死した。
1992年(平成4)の言問橋の改修工事にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることとなったため、東京大空襲の被災資料として、その一部を当館に譲っていただいた。


関東大震災・東京大空襲 犠牲者慰霊碑

場所は変わって隅田川の下流、東京湾のかつての防波堤。

賑わう「台場公園」の片隅にヒッソリとある石碑。

関東大震災・東京大空襲 犠牲者慰霊碑
東京は、関東大震災及び第二次世界大戦末期の空襲により甚大なる犠牲を被った。二度の被災により隅田川河口近くに位置したここ旧防波堤にも、漂着した犠牲者が数多くみられたという。
 これら諸霊に対し、故富川栄氏の呼びかけに共鳴した地元の心ある人々により、長い歳月に亘りたゆみなき供養が続けられてきた。
 いま、当地周辺は未来都市に発展すべくまちづくりがすすめられている。そして、ここお台場海浜公園も新たな海上公園として再整備することとなった。これを受け平成五年九月二七日当地での最後の慰霊祭が行われ、その後は都の施設にて慰霊が続けられることになった。この事実を後世に伝えるべくここに記録する。
 平成六年三月吉日  東京都港湾局


東京都慰霊堂(横綱町公園)
旧陸軍被服廠跡地

墨田区・都立横網町公園
「東京都の歴史的建造物」選定

https://tokyoireikyoukai.or.jp/index.html

伊東忠太設計。
昭和5年(1930)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂として創建。
昭和23年(1948)より東京大空襲の身元不明の遺骨も納め、死亡者の霊を合祀。昭和26年に現在の姿に。仏教各宗により慰霊祭祀されている。

当地は元々「陸軍被服廠」があったが1922年に赤羽に移転し、東京市が買収し公園として整備しているさなかに関東大震災が発生。造成中の横網町公園に避難していた3万8千人が犠牲となり、昭和5年に震災記念堂が創建。

200坪の講堂を持ち、三重塔がその奥にある。
三重塔は高さ約41m。基部が納骨堂。

昭和20年3月10日、東京大空襲。
多くの公園や寺院などに犠牲者が仮埋葬。終戦後に身元不明の遺骨などを「震災記念堂」納骨堂を拡張し合祀。
昭和26年(1951年)に「東京都慰霊堂」と改称され現在に至る。
祭壇には震災死亡者・空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した位牌が2基祀られている。

震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
 顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった、与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。
 爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った、戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった、江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千人を失った、当時殉難者は公園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが昭和二十三年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
 横網公園敷地は約六、〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
 昭和二十六年九月 東京都


震災遭難児童弔魂像

震災遭難児童弔魂像
 大正12(1923)年9月1日、関東大震災により東京市小学校児童約5000人が亡くなりました。
 この死を悼み、冥福を祈るため、全市学校長等が弔魂碑建立を計画し、寄付を募りました。その寄付金により彫刻家小倉右一郎氏に制作を依頼、昭和6(1931)年5月16日に除幕式が行われました。
 その後、像部分は、昭和19(1944)年、金属回収のため撤去されましたが、昭和36(1961)年、都は、小倉右一郎氏の高弟である、津山昌平、山畑阿利一両氏に制作を依頼し、往時の群像を模して再建されました。(略


東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city002/index.html

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
 第二次世界大戦で、東京は、昭和17年4月18日の初空襲から終戦当日の昭和20年8月15日に至るまで、アメリカ軍の度重なる空襲により甚大な被害を受け、大方が非戦闘員である多くの都民が犠牲
となりました。
 こうした東京空襲の史実を風化させることなく、また、今日の平和と繁栄が尊い犠牲の上に築き上げられていることを次の世代に語り継ぎ、平和が永く続くことを祈念するための碑を建設しました。
 この碑の建設に当たっては、「東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会」の呼びかけにより、多くの方々から寄附が寄せられました。
 斜面を覆う花は生命を象徴しています。碑の内部には東京空襲で犠牲になった方々のお名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が納められています。
 平成13年3月 東京都

内部には「東京空襲犠牲者名簿」が納められており、3月10日と9月1日の法要の際は、内部公開も行われる。

花壇のレイアウトデザインは、都度都度かわるという。


東京都復興記念館

震災記念堂(東京都慰霊堂)の付帯施設として昭和6年に建立。
「東京都の歴史的建造物」選定。

https://tokyoireikyoukai.or.jp/museum/history.html

(上記サイトより引用)
東京都復興記念館は、関東大震災の惨禍を永く後世に伝え、また官民協力して焦土と化した東京を復興させた当時の大事業を永久に記念するため、震災記念堂(現東京都慰霊堂)の付帯施設として昭和6年(1931年)に建てられました。
震災の記念品などは当初震災記念堂に展示する予定でしたが、昭和4年(1929年)に開催された帝都復興展覧会に出品された資料も加わり、その数が膨大となったことから予定を変更して「復興記念館」を建設し、展示することとしたものです。
大震災の被害、救援、復興を表す、遺品や被災物、絵画、写真、図表などが展示されました。
その後、第二次世界大戦の空襲により東京都下で亡くなった方々の遺骨を震災記念堂に合祀したため、記念館においても、東京空襲の被害や当時の状況、復興に向けた取り組みを伝える写真、図表などの展示を加えました。
平成元年(1989年)には、震災記念屋外展示場の解説等も充実させています。
平成11年(1999年)には東京都の歴史的建造物に選定されました。
平成29年11月~31年3月にかけて、基礎の補強や壁の増量などの耐震化工事を実施し、設備を含めて大幅に改修しました。
現在は、外壁の改修に着手していて、特徴あるテラコッタ仕上げなどの修復をしています。

摩耗していた怪獣は、復元リニューアル(令和3年3月撮影)

復興記念館館内

昭和4年開催 帝都復興展覧会出品模型
第二号幹線九段坂付近(靖國神社前) 復興局出品


築地本願寺慈光院

東京都慰霊堂のある墨田区横網町公園の南隣に。
陸軍本所被服廠跡にたつ寺院。

震災慰霊。
関東大震災を祈念して建立された寺院。
境内の梵鐘は、関東大震災および第二次世界大戦の犠牲者を偲ぶ。3月10日には、戦災記念追悼法要・東日本大震災追悼法要が斎行される。


なお、東京大空襲に際して、軍人・軍属の犠牲者は「東京都戦没者霊苑」において慰霊追悼している。

東京都戦没者霊苑


東京大空襲関連

戦災電柱

本記事は、ひとまず

愛の像(アガペの像)

令和元年11月撮影

東京駅の駅前広場再整備が完了したのが2017年。
2007年から10年間、人知れずに東京駅から姿を消していた「とある像」が、やはり人知れずにひっそりと戻ってきてました。

東京駅駅前広場の南側の隅に佇む何の説明もない男性像。
男性が両手を広げた祈りの像。
台座には「愛」と刻まれている。

愛の像(アガペの像)

戦後、戦争犯罪(戦犯)として捕まり、そしてスガモプリズンにて刑死および獄死、法務死された人々(いわゆるBC級戦犯、1068名)が残した幾多の遺書。
昭和27年(1952)4月28日にサンフランシスコ講和条約が発行され、昭和27年8月に巣鴨プリズンで遺族や関係者を軸に「巣鴨遺書編纂会」が結成。
翌年、昭和28年にそれらの遺書をまとめた「世紀の遺書」が出版。

そして、昭和30年11月11日に「世紀の遺書」の収益金の一部で「愛の像(アガペの像)」が多くの出征兵士が通った東京駅丸の内の駅前広場に設置。製作は横江嘉純。

昭和33年5月、巣鴨プリズンがGHQから返還され、最後の戦犯18名が釈放。「巣鴨遺書編纂会」 も解散し、「世紀の遺書」の編集著作権は「白菊遺族会」に寄贈された。

「愛の像(アガペの像)」は東京駅改修工事のために2007年10月に撤去されたが、2017年12月に東京駅に再設置された。

「アガペ」とは、ギリシャ語「αγάπη」(アガペー)、神の人間に対する愛、「無償の愛」の意味という。

関連する記事など。

朝日新聞>戦犯の祈り、平和問う像 東京駅前、台座に遺書集 2度撤去経て再建・元刑務官ら奔走

https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180226002723.html

MHK>「丸の内駅前広場と『愛の像』」(ここに注目!)

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/300/285997.html

Wikipedia>世紀の遺書

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E9%81%BA%E6%9B%B8#%E3%82%A2%E3%82%AC%E3%83%9A%E3%81%AE%E5%83%8F%EF%BC%88%E6%84%9B%E3%81%AE%E5%83%8F%EF%BC%89

戦犯の祈りが込められた像に深謝。


身代地蔵尊(護國寺)

護国寺にある身代地蔵尊は巣鴨プリズンの最後の教誨師であった「巣鴨の父」田嶋隆純大僧正の発願で昭和28年3月24日建立。
台石の下には戦争犯罪人として死刑宣告され殉じられた1068名の人々の氏名を刻んだ銅板と防蝕の処置された「世紀の遺書」が納められており、その御霊を慰めている。

関連

和気清麻呂公銅像(紀元二千六百年記念)

令和元年11月撮影

竹橋駅のすぐ近く、大手濠緑地内に鎮座。
現在地は令和2年4月まで竹橋駅エレベーター設置工事で 近寄れなかったため、遠巻きに見学。

和気清麻呂公銅像

昭和15年(1940年)に、紀元2600年記念事業として建立。
佐藤清蔵(佐藤玄々)作。

紀元二六〇〇年記念
 建設委員長
 陸軍大将 従二位勲一等功四級 林銑十郎
 寄贈者 石川博資

和気清麻呂公とは・・・
 奈良朝末期の廷臣、地方の豪族出身で藤原仲麻呂の乱で天平神護1年(765)右兵衛尉となり、姉広虫とともに信任を得ました。
 神護景雲3年(769)道鏡が皇位をうかがった時、宇佐八幡の神託をきき道鏡の野望を挫きました。
 清麻呂は別部穢 麻呂 と改名され大隅(鹿児島)に配流、天皇の死後、道鏡失脚により復帰しました。
 光仁・桓武天皇深く信頼され、平安遷都を推進、造都に活躍しています。
 この像は、昭和15年、紀元2600年記念事業として建立、楠公銅像とともに文武の二忠臣を象徴したものです。

ここに立たせるは護王大明神の神号を給はりし
贈正一位和気清麻呂公の像にして宇佐の大神の
貴く畏き御教言を承り復奏の為に参内せるさまを
うつせるなり公の誠忠は國史の上に顕著なるが殊に
孝明天皇の宣命に身の危うきを顧ず雄々しく
烈しき誠の心を盡せるはと稱へさせたまひまた
明治天皇の策命に日月と共に照り徹れる偉き
勲をめでさせたまへりこれの像は明治の大御代に允許を
忝うせしを今茲紀元二千六百年の記念として
宮城の御濠に沿へる地に建設せるなり公の英霊は
千載生けるが如く儼然として宮闕の下を離れず我が
國體を擁護しまつり天地と倶にとこしへに存せむ
 昭和十五年二月  大日本護王会

※令和5年、写真追加

公園整備完了していたので、再撮影しました


震災いちょう

震災いちょう
 この木は、震災いちょうと呼ばれています。樹齢一五〇年を超えると思われるこのいちょうは、かって文部省の跡地である一ツ橋一丁目一番一帯(現在のパレスサイドビル・住友商事竹橋ビル一橋総合ビル一帯)にありました。
 大正十二年(1923)九月の関東大震災によって一面焼け野原となった都心にあって奇跡的に生き残り、このイチョウは当時の人々に復興への希望を与えました。
 その後、復興事業に伴う区画整理によって切り倒されることになった際、当時の中央気象台長岡田武松氏がこれを惜しみなんとか後世に残したいと思い帝都復興局長官清野長太郎氏に申し入れたところ、長官もその意義を理解しこの地に移植されたという由緒をもっています。

岡田武松(1874~1956)
 千葉県に生まれ、東京大学物理学科卒業後、中央気象台に入り予報課長をへて明治三十七(1904)年、海洋気象台の創設とともに台長となりついで中央気象台長となる。海難防止のため無線送受信設備の完成、海洋気象設備を充実させたことや、測候技術官養成所の設立など研究・行政両面で活躍した。大正十三年(1924)にイギリスの王立気象学会からサイモン金杯をおくられ、昭和二五年(1950)には文化勲章を受ける。

清野長太郎(1869~1924)
 香川県に生まれ、東京大学法学科卒業後、旧内務省警備局に入り、富山県理事官・神奈川県理事官をへて内務省事務官となる。明治三六年(1903)に人口学万国会議の委員として、ベルギーへ派遣される。明治三九年(1906)に秋田県知事、同年南満州鉄道株式会社の理事に抜擢され大正二年(1913)までこの職にあった。 大正五年以降、兵庫県知事・神奈川県知事を歴任して帝都復興局長官となる。

※令和5年、写真追加

工事がおわったらまた足を運びましょう。

文武の二忠臣

鳴尾八幡神社慰霊塔(戦艦安芸の砲身?)

令和元年12月参拝

西宮市に所用があった。隙間の時間を利用して阪神電車「甲子園」駅に。そこから歩いて10分ほどのところに「鳴尾八幡神社」という神社が鎮座。
まずは御社殿にて参拝をし、参道脇に建立されていた「慰霊塔」に拝する。

鳴尾八幡神社慰霊塔
 戦艦・安芸の砲身

鳴尾村関係の戦没者500余名を祀る慰霊塔。
この慰霊塔に使用されている砲身、伝聞では「戦艦安芸の砲身」と伝わっている。砲身の先には鷲が翼を拡げていた。

合掌

木々が茂っていて後ろには回り込みができなかったので境内地の外から慰霊塔の背面を。

慰霊塔の台座背面には獅子頭があった。

戦艦 安芸

姉妹艦「薩摩」とともに日本国内で建造された最初の戦艦。準弩級戦艦。

1907年進水、1911年(明治44年)竣工。
日本の戦艦として初めてカーチス式タービン機関を搭載。薩摩と違いタービン機関を搭載した安芸は姉妹艦とされる薩摩と違い初期の弩級戦艦に匹敵する速力(20ノット)を誇った戦術的価値の高い戦艦であった。
ワシントン海軍軍縮条約により薩摩・安芸ともに廃棄が決まる。1923年(大正12年)9月20日除籍。研究射撃の標的艦に指定される。
1924年(大正13年)、戦艦「扶桑」に曳航された「安芸」は、新鋭の長門型戦艦「長門」「陸奥」による射撃により沈没。

両舷の副砲として、
戦艦「薩摩」は、40口径12cm砲 に対し
戦艦「安芸」は、40口径15.2cm砲 を配備していた。

この慰霊塔に使用されているのは、一説には「12cm砲の砲身」という。ところが戦艦「安芸」には12cm砲は搭載されていなかったので、この慰霊碑の砲身が「12cm」なのか「15.2cm」なのかの真偽は不詳。

鳴尾八幡神社

兵庫県西宮市鎮座。鳴尾地区の総鎮守。旧村社。
創立年代不詳なれど、創立は文安時代(1444~1449)とされる。

社号標は昭和3年5月建立。

伊藤博文公墓所

平成29年11月参拝・ 東京都品川区西大井6-10-18

毎年11月3日「文化の日」前後に数日間のみ一般公開されている。
通常非公開。

その限られた一般公開の日。
JR西大井駅の近く。
ちょうど時間もあり良い機会でしたので、平成29年11月5日(日曜日)に詣でておりました。

伊藤博文

初代総理大臣。
明治42年(1909))10月26日にロシア蔵相と会談のために中国徳北部ハルビン訪問中に朝鮮独立運動家安重根に狙撃されて69歳で没。
11月4日に日比谷公園で国葬。
伊藤博文の別邸(後述)の近くであったこの地に埋葬された。

伊藤博文公胸像
伊藤博文公生誕百年記念 紀元2600年10月16日建立

大正八年十月二十六日丁伊藤公十周年祭左記
諸氏以墓前道路狭窄相謀購傍近民有地二十余
坪得東京府庁允可拡張合於公道以為記念
 子爵 伊東已代治 男爵 林権助 子爵 金子堅太郎
 頭本元貞 鍋島桂次郎 室田義文 小宮三保松
 小山善 安楽兼道 鮫島武之助

「上がり藤」
伊藤家の家紋

門柱は明治43年10月造
貴族院有志による建立。もともとは伊藤博文公の墓所敷石の鳥居であったが、担当大震災で倒壊し、その後に門柱に再利用されたものという。

大勲位伊藤博文公墓所
大正13年甲子5月1日

伊藤博文公墓所

伊藤博文公墓所
神式の円墳は高さ約2m。
従一位大勲位公爵伊藤博文墓
明治42年十月26日薨

従一位大勲位公爵伊藤博文墓

明治四十二年十月二十六日薨

石垣は明治43年に奉納。韓国統監府の職員などによる。

品川区指定史跡
伊藤博文墓所

 伊藤博文は、天保十二年(1841)に長州藩(山口県)の武士の子として生まれ、松下村塾(しょうかそんじゅく)で学んだ。若くしてイギリスに遊学し、帰国後は海外の状勢をもとに、新政府の樹立に力を尽した。
 明治の新政府では要職を歴任し、その間に三度も欧米諸国を巡って各国の制度を視察して、憲法制度や行政組織などの内閣制度の基礎をつくった。明治十八年(1885)にわが国初の総理大臣となり、長期間にわたって国政の発展に貢献した。
 明治四十二年(1909)十月に、中国のハルピンで朝鮮の独立運動家によって狙撃され、六十九歳で没した。
 平成8年3月31日
 品川区教育委員会

伊藤梅子墓

隣には伊藤博文夫人、梅子の墓所。

伊藤梅子
初の内閣総理大臣夫人
伊藤博文公が暗殺されれた際には
「国のため光をそえてゆきましし 君とし思へどかなしかりけり」
と詠んだという。
1924年4月12日に死去

末松謙澄夫妻の祠
 伊藤博文公墓所の祠

末松謙澄夫妻を祀るという。
末松謙澄夫人は、伊藤博文の次女、生子。

水盤

上がり藤の伊藤家家紋が描かれた水盤。
明治43年10月26日に奉納、福岡県 貝島大助

参道には多くの灯籠が林立している。

勤施四方
立憲政友会

明光上下
立憲政友会

墓所の隣は墓守さんのお宅でしょうか。敷地内には邸宅もありました。それゆえの制限付き一般公開なのかな、とも。
墓所参道には時代を物語る公爵子爵等により奉納された灯篭が林立。伊藤博文公への追慕の念を感じさせる空間でした。

しながわ観光協会>伊藤博文公墓所

https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/itouhirobumikumonjo/


近くには伊藤博文を偲ぶものが残されている。

品川区立伊藤学園の旧正門・伊藤門
(伊藤博文公宅の門柱と門扉)

「品川区立伊藤学園の旧正門」
旧正門は、昭和25年に伊藤博文公宅から譲り受けた門柱と門扉。
晩年をこの地で過ごし、没後この地へ埋葬された伊藤博文にちなみ、界隈はかつて伊藤町と呼称されていた。

伊藤学園の門
艱難辛苦に挑む
気迫あふれる
少年少女だけが
この門をくぐる
ことができる


伊藤博文公別邸跡

この地には平成10年まで伊藤博文別邸があった
(老朽化のため解体。別邸の一部は山口県萩市に移築)
今は再開発で当時の面影なく…

伊藤博文公別邸跡
 この解説板の南側一帯の広大な敷地(地図参照】は初代内閣総理大臣となった伊藤博文の別邸跡にあたります。明治40年(1907)、大日本帝国憲法制定に功績があった伊藤に対して、明治天皇から憲法草案の審議場であった元赤坂仮皇居会食所の建物と、移築費として2万1千円が下賜されました。伊藤は東京府荏原郡大井村のこの地に約五千坪の土地を購入して移築し、「恩賜館」と名づけました。
 その後、恩賜館の隣には和洋館並列型の二階建て邸宅が建てられ、伊藤の嗣子・博邦一家が居住しました。伊藤没後、大正7年(1918)に恩賜館は明治神宮に献納され、「憲法記念館」と呼ばれ皇室関係の行事に使用されました。昭和22年(1947)からは、明治神宮の結婚式場「明治記念館」として一般に利用されています。
 和洋館の邸宅と敷地は、大正11年に上杉伯爵家へ譲渡され、昭和19年には日本光学工業(株)の所有となりました。平成10年(1998)老朽化のため解体され、邸宅の一部は山口県萩市に移築・公開されています。
 平成27年12月25日
 品川区教育委員会

品川に残る伊藤博文公ゆかりの地でした。


付記:

伊藤博文像(国会議事堂)

きちんと撮影できていませんでした。形だけ写真を。。。

国会議事堂は撮影2017年5月


【封鎖中】児玉神社(江ノ島)

令和元年11月参拝

ちょっと最近、気になっていた児玉神社さんに参拝してきました。

ここでは深くは言及しませんが、再建の資金繰りも悪化しているところに台風被害などもあり、なかなか厳しい状況のようですので、この記事を目にしていただきました皆様も機会ありましたら是非に参拝を。。。

令和3年(2021)春に、境内地は封鎖。
石碑や社号標などにはブルーシートがかけられ、所有者によって「立入禁止」となりました。。。

以下、コメントをいただきましたので、一部記載内容を更新しました。

鵠沼在住の藤沢市民です。
残念なことに2020年、江ノ島児玉神社は競売により人手に渡りました。
現在は大鳥居だけはそのままですが、数々の石碑、掲示板などはブルーシートで覆われ、人目を拒んでいます。山道入り口は鉄扉が固く閉じられ、「立入厳禁・所有者」の貼紙が掲げられています。歴史的記念碑や台湾からの寄贈の物品などはどうなるのかとても心配です。

littleball より:2021年7月16日 9:13 AM(編集)

児玉神社

御祭神 児玉源太郎命

児玉源太郎(1852~1906)
明治政府及び明治陸軍の中枢で活躍。
日露戦争では満州軍総参謀長として日本の勝利に貢献。文部大臣・内務大臣・陸軍大臣なども歴任。第4代台湾総督も務める。
日露戦争開戦前は、台湾総督兼内務大臣であったが、参謀総長大山巌から請われて内務大臣を辞して、降格人事となる参謀本部次長に就任。日本陸軍史上で唯一となる降格人事を了承した例ともなった。

日露戦争直前のころ、参謀本部次長に就任した児玉源太郎は週末は鎌倉の別荘で静養をしていた。しかし面会希望者が殺到したために、江ノ島の山中に退避していたという。いつしか江ノ島にも面会希望者の面々(陸軍や政府の要人たち)が押し寄せるために、江ノ島町内では、誰が山中に籠もっているのかといぶかしんでいると、それが児玉源太郎であった知り、江ノ島町民は大いに徳としたという。
児玉源太郎は明治39年(1906)7月23日に55歳で急逝。三回忌を期し、親友であった杉山茂丸が向島の私邸に社を建立したのが児玉神社の始まりという。そののち児玉源太郎が、たびたび足を運んでいた江ノ島の現在地に遷座、江ノ島町民は将軍静養の地に将軍の霊祠を迎え、大正7年に正式に「児玉神社」となった。

社号標は昭和八年建立

勝運の神
児玉神社

児玉神社 明治45年(1912年)創建
日露戦争で日本を勝利に導いた救国の英雄 児玉源太郎 (1852-1906)をお祀りし、明治45年の創建以来、勝運の神として崇められてきました。御祭神は台湾総督在任時、善政によって現地の人々に慕われ、その縁で社殿の用材と石材は大部分が台湾からの寄進です。
社殿の設計は寺社建築の第一人者、伊東忠太博士によるもので、境内には山縣有朋歌碑を始め、後藤新平や石黒忠悳の詩碑、二〇三高地の石などの文化財があります。

児玉神社扁額
李登輝元台湾総統の揮毫

鳥居
昭和八年三月奉献
台湾婦人慈善会

現在、神楽殿は改修工事中です

御社殿改修工事および境内整備工事ご奉賛のお願い

山縣有朋歌碑

山縣有朋歌碑
(碑文)
児玉藤園の身まかりける日
讀ける 有朋
越えはまた里やあらむと
 頼みてし
杖さへをれぬ老のさかみち

明治の元勲山県有朋が、御祭神の逝去を悼んで詠んだ歌である。この石碑は当初、杉山茂丸が向島の別邸に建てた私祠内にあったが、遷座のとき境内に移された。なお下段には山県の側近であった政治家芳川顕正が、御祭神と山県とを竜虎に喩えた詩を刻している。

児玉神社誌
昭和四年十二月建立

台湾奉納の灯籠

謝介石詩碑

謝介石詩碑
(碑文)
伏鉞登壇衆所尊功成百戦得雄藩
大賢自著多聞政
賤子頻嘗有味言萬里驅馳思景行
卅年事變遡重源
神鴉社鼓江之嶋矍相當時盖僅存
奉題
 児玉公神社 大同元年十二月
 満州國外交部總長謝介石

 台湾の人謝介石の奉献。国民の尊敬を集めた御祭神の武勲、才知、徳を讃えている。謝介石(字は又安)は満州国初代外交部総長を務め、のち満州国駐日全権大使として日本に駐在したこともある。

後藤新平詩碑

後藤新平詩碑
(碑文)
森厳羽衛老將軍 功烈眞兼武興文 
造次不離忠孝旨 于花于月又思君
             新平
寄兒玉爵帥在満州舊製

 政治家後藤新平が、御祭神の文武の功績と忠孝の徳を讃えて奉献した。御祭神の台湾総監時代、後藤は民政長官に任じられ、日本統治下にあった台湾の運営と近代化に手腕を発揮した。

石黒忠悳詩碑

石黒忠悳詩碑
(碑文)
出將入相無匹儔 
 武功文勲傳千秋 
英魂長鎮画島裡
 天朗海洪浮白鴎

 子爵であった石黒忠悳(いしぐろただのり)の奉献。御祭神の文武の功績は千年先まで伝えられるであろうと絶賛している。石黒は陸軍軍医総監まで務めた軍医であり、医学者として西洋医学の普及に尽くし、退官後は貴族院議員や日本赤十字社社長などに就任している。

爾霊山の石

爾霊山の石
 二〇三高地は、日露戦争において激戦地となった旅順市(中国東北部遼東半島南端)背後にそびえる標高二百三メートルの高地である。当地の石を横須賀鎮守府が日本に持ち帰って別地に寄贈したが、のち当社境内に移設され現在に至る。この「二〇三」に爾霊山(にれいさん。「なんじの霊の山」の意)の字をあてたのは乃木希典将軍である。

昭和拾年一月一日
爾霊山高地
  石
  棗萩松碑
横須賀鎮守府


江ノ島の入り口近く。
「片瀬江ノ島駅入口」交差点の南側の駐車場近くに「乃木希典銅像」があった。その地のあったものを平成13年(2001年)に移設したという。

児玉神社のある江ノ島とは別の場所ですが以下にまとめておきます。

乃木大将像台座石
ここはかつて日露戦争時に陸軍司令官として知られる乃木大将の銅像が建っていましたが、太平洋戦争の終戦直後に行方不明となり、台座だけが残されました。この石は、その台座石として使われたものです。

藤沢市生涯学習部郷土歴史課
みゆネットふじさわ より

http://www.fujisawa-miyu.net/search/result.html?CN=1019


児玉神社に戻ります。

我が国を守った砲弾

我が国を守った砲弾
明治日本の技術遺産二十八センチ榴弾砲の砲弾

 明治三十七~三十八年(一九〇四~一九〇五)、圧倒的武力で日本を占有しようとする帝政ロシアに対し、日本の国民が一丸となって戦ったのが日露戦争です。列強が世界中を植民地化していた時代に、我が国だけが最強国のロシアに勝ち、尊厳ある独立を守り抜いたのです。日本の勝利に東アジアの諸民族は歓喜し独立の気運に沸き立ちました。
 この戦争の勝敗を決したのが旅順攻略です。旅順は極東侵攻を見据えた露の軍事的要衝で、鍵となる二百三高地占領に日本は苦戦を強いられました。その時、御祭神が司令部から直接戦場へ赴いて指揮を執り、巨大な二十八センチ榴弾砲を用いて猛攻をかけ、二百三高地を確保、旅順港停泊中のロシア艦隊をも全滅させました。これが日本海海戦での完勝へとつながり、我が国の勝利を決定的にしました。もし日本が負けていれば、日本はロシアの植民地とされて事実上消滅、全日本人は人権をもたぬ奴隷民とされ労働力として生涯を搾取苦役に従事し、歴史は断絶、ひいては東アジア全体もロシア領となっていたであろうことは多くの歴史家が指摘しております。
 今日、我が国が独立国家として存在し繁栄を享受し得るのは、ひとえに先人の御蔭であり、その勇気、祖国愛、犠牲を我々は決して忘れてはなりません。その二十八センチ砲弾が、京都嵐山美術館館長の新藤源吾氏より寄贈されました。寄贈に当たり佐々木信之氏、甲飛喇叭隊隊長の原知崇氏と隊員の方々にご尽力頂きました。砲弾は全長八十センチ、直径二十八センチ、重量約二百五十キログラム、現存の砲弾としては珍しく完全形を残すものです。
 ロシアの支配をはねのけた日本戦勝を記念し、御祭神の御功績を仰ぐよすがとして、さらには維新後三十年程で、国土防衛のための近代兵器を知恵と工夫を以って作り上げた明治日本の技術遺産として、この砲弾を末永く当社境内に安置し、後世に伝えるものであります。
 西暦二〇一九年四月十四日 御祭神御生誕百六十七年祭
 児玉神社宮司 山本白鳥

咸臨丸図面発見の地

咸臨丸図面発見の地
 日章旗をひるがえしてはじめて、太平洋横断の壮挙をなした
本艦乗員の進取をたたへ咸臨丸の復元保存と「青少年に夢と希望を」ねがい、先年、オランダ政府の尽力により、設計図発見、贈与をうけたことに対し、謝恩をこめ、永世に記念するため本碑を建立した。
 昭和五十五年十二月十六日

児玉神社御社殿

百年経過の為 ただ今 神楽殿を修復中です。
この工事期間のみ普段は見えない本殿をここから拝むことができます
 児玉神社

御本殿は大正7年(1918)造営。神門の奥に鎮座。

神楽殿(拝殿)は再建中

供養塔

創建時からの物故者、日清日露の英霊、日本領有時の台湾にて殉職・戦死された日台の英霊を祀る。

台湾の狛犬

昭和5年(1930)11月に奉納された狛犬。
第13代台湾総督石塚英蔵の寄進。台湾の名工によって台湾観音山の石で作られた逸品。口の中で動く丸石が転がる造形は見事。


児玉神社の境内から眺める風光明媚な湘南の海

江ノ島


児玉神社を参拝。久しぶりでした。
神楽殿は再建中で、境内の景観はしょうしょう寂しい状況ですが、心配していた最悪の状況ではなく。

運良く、社務所に神職様がいらしましたので、御朱印と御神札、お守りなどを頂戴しました。

御朱印は東郷神社の御朱印帳に。
これは乃木神社にもお参りしないと、ですね。


児玉神社公式サイト

https://www.kodamajinja.or.jp/

ひとまず〆

「日本の航空事始め・その3」民間初飛行の奈良原三次(民間航空発祥之地散策・千葉)

令和元年11月

先日、幕張・稲毛方面に赴く機会がありましたので散策をしてみました。


民間航空のパイオニア
奈良原三次

奈良原三次
明治10年(1877年)2月11日~昭和19年(1944年)7月14日
鹿児島出身

東京帝国大学工学部造兵科を卒業して日本海軍少技士として横須賀海軍工廠造兵部に勤務。
新設された臨時軍用気球研究会の委員となり飛行機研究を行う。
明治43年(1910)10月に自ら設計した「奈良原式1号飛行機」を自費で製作するも当初予定されたエンジン(仏製ノーム50馬力)の半分しかない仏製アンザニー25馬力での取り付けを余儀なくされ、戸山ヶ原での飛行試験はエンジン出力不足で地上滑走のみに終わり離陸に失敗。

その2ヶ月後の明治43年12月19日、代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が国内初飛行に成功。日本人による(外国機)国内初飛行となる。

明治44年に奈良原は海軍を退役し「奈良原式2号飛行機」を製作。
明治44年 (1911) 5月5日、国産機「奈良原式2号飛行機」は、所沢飛行場にて自らの操縦にて高度約4メートル、距離約60メートルの飛行に成功。
これが日本人による民間国産機での国内初飛行となる。

明治45年(1912)5月、千葉県の稲毛海岸に民間初の飛行場を開設。稲毛海岸の干潟を利用した飛行場であった。
ここで奈良原は、一番弟子 白戸栄之助 や二番弟子 伊藤音次郎 らのパイロットを養成。
奈良原式4号機「鳳号」を制作し、日本の民間航空の発展に尽くした。

※以下は所沢航空発祥記念館にて

奈良原式2号複葉機
1911(明治44)年5月5日、所沢飛行場で奈良原三次の操縦によって高度4m、距離約60mを跳び、国産機による最初の飛行記録を作る。その後、最大距離約600m、高度約60mを記録した。奈良原三次は海軍技師として臨時軍用気球研究会に参加していたが、委員会の活動とは別に自作の飛行機を設計、制作した。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:1
 全備重量:550kg
 全幅:10.00m
 全長:10.00m


民間航空発祥之地 記念碑

京葉線「稲毛海岸駅」北東約700メートル。稲毛公園の南端にひときわ大きな記念碑が建立されている。
この稲毛飛行場の地を飛んだ、奈良原式4号機「鳳号」の全長は9メートル、翼幅も9メートルであり、この記念碑の高さと幅も9メートル。
恩師 奈良原三次 のために、二番弟子の 伊藤音次郎 が建立。

民間航空発祥之地
 笹川良一 書

1912年5月 奈良原三次氏 この海浜に初めて練習飛行場を創設
教官白戸栄之助氏により 飛行士の養成をはじめた
この地がわが民間航空発祥の地である
1971年7月
 伊藤音次郎 記
 航空振興財団

松の由来
 この松は昭和35年日本初飛行50周年を記念して、アメリカ・ノースカロライナ州のホッジス知事から送られた、キティホークの丘(ライト兄弟が世界で初めて動力による飛行に成功した丘)の松の種を我が国、民間航空の草分けで、当地ともゆかりの深い故伊藤音次郎氏が、成田市の自宅で育てたものをこの地に植樹したものであります。
 昭和46年6月 
 千葉市

発祥記念碑の基部には「奈良原式4号機・鳳号」複葉機とその諸元を示すプレートが表示されている。

記念碑

奈良原式4号機「鳳号」
千葉市サイトより

奈良原式4号機「鳳号」復元機は、稲毛民間航空記念館に展示してあったが、現在は閉館中。リニュアルオープンを待ちたいと思います。。。

https://www.chibacity-ta.or.jp/spots/inage-kouku-kinenkan

記念の周辺に、気になるものがいくつかありました。

礎の碑
この碑は明治初期より貝類のり漁場として代々漁業を営み又関東一の汐干狩り海水浴場としてひろく親しまれた稲毛の海でしたが国土開発に協力し埋め立てのため昭和44年6月に解散した記念です。
千葉市稲毛町漁業協同組合

明治45年(1912)5月、千葉県の稲毛海岸に飛行場ができた当時から埋め立てが進むまで、遠浅の海外線がこの地に広がっていた。

蒸気機関車も保存されていました。

NUS7
 この蒸気機関車は昭和28年から昭和43年まで川崎製鉄千葉製鉄所において資材原材料等の運搬に使用されておりました。
 しかしディーゼル機関の発達にともない蒸気機関車は使われなくなり千葉市に寄贈され当公園に置かれたものです。
 昭和52年9月 
 千葉市

道路名は、「つばさ記念ロード」


こじま公園

稲毛海岸駅から記念碑に向かう道路を歩いていたら、バス停が「こじま公園」。
今はなにもないけども、かつてここに「こじま」がいました。
帝国海軍海防艦「志賀」
海上保安庁巡視船「こじま」
1998年に解体・・・

ファイル名:CKT881-C3-6(一部加工)
1988年10月30日・国土地理院撮影
地図空中写真閲覧サービス(国土地理院)

寄り道でした


以下、民間の航空をいくつか。

日本の民間操縦士第一号
白戸栄之助

白戸栄之助
明治19年(1886年)11月12日~昭和11年(1936)3月2日
青森県出身

明治39年(1906年)12月に陸軍交通兵団気球隊に入隊、43年に軍曹で退役。上官だった徳川好敏陸軍大尉の推薦で、奈良原三次のもとで操縦士としての訓練を受ける。

明治45年(1912年)4月、川崎競馬場で開催された、日本で初めて開催された有料民間飛行大会で、白戸栄之助は奈良原式4号機「鳳号」を操縦して「日本の民間操縦士第1号」の名声を得て、続いて5月11日東京の青山練兵場で時の皇太子殿下(大正天皇)、皇孫殿下(昭和天皇)の台臨飛行を行って大成功を納めた。

明治45年5月末には奈良原三次の提案で千葉の稲毛海岸の干潟を利用した飛行場を本拠地として移動し、教官として伊藤音次郎を教育した。
大正5年(1916)、奈良原三次の稲毛飛行場内に「白戸共同飛行練習所」を設立。 翌年に奈良原から独立し「白戸飛行機練習所」を開設。
大正13年(1924年)に門下生が相次いで飛行機事故で殉職したことから航空業界を引退し木工業へ。

白戸工業株式会社

http://www.shirato-web.com/history.html


民間機による初の帝都訪問飛行
伊藤音次郎

伊藤音次郎
明治24年(1891年)6月3日~昭和46年(1971年)12月26日

大阪の恵美須町生まれ。
17歳のときにライト兄弟の飛行写真をみて、飛行機に興味を持ち、奈良原式飛行機発明記事をみて、奈良原三次に手紙を送ったことから奈良原との交流がはじまる。
明治43年(1910年)に上京。奈良原三次に弟子入りし白戸栄之助教官の教えを受け「民間飛行士第2号」となる。

大正2年(1913年)、事情により航空業界から一時引退した奈良原三次の稲毛飛行場の地にて、大正4年(1915年)に伊藤音次郎は奈良原のもとから独立した形で「伊藤飛行機研究所」を設立。

大正5年、大阪の出身地・恵美須町の名をつけた「伊藤式・恵美1号」を制作し、民間機として初めての帝都東京訪問飛行に成功。
大正6年(1917年)、台風と高潮により稲毛海岸の施設(稲毛飛行場と伊藤飛行機研究所)が壊滅したことから、翌年大正7年に津田沼町鷺沼に移転し「伊藤飛行機製作所」(津田沼飛行場・鷺沼飛行場)として拡張する。

大正8年には、開発した日本初の曲芸専用機が連続2回宙返りに成功する。
昭和12年(1937)「伊藤飛行機株式会社」に名称変更。
昭和17年、日本航空工業と合併。
戦後、伊藤音次郎は、GHQの航空禁止令を受けて航空業界から引退。
昭和23年に(1948)に「恵美開拓農業協同組合」を設立し現在の成田市東峰に入植し開墾開拓に携わり農場主となった。
昭和40年代に始まった「成田空港建設予定地」の一部に東峰地区が決定し、現地では伊藤音次郎ただ一人が大歓迎を表明。軌道に乗っていた農業用地をすべて売却。航空業界から身を引いた伊藤音次郎ではあったが数奇な巡り合わせであった。

その後、恩師奈良原三次が築いた稲毛飛行場を記念するために稲毛海岸に「民間航空発祥の地記念碑」建立に尽力し、自ら育てていたライト兄弟ゆかりの貴重な松を植樹している。

昭和46年(1971)、伊藤音次郎は成田空港の開港を見ることなく他界。


旧 伊藤飛行機研究所 滑走路跡

現在の「袖ヶ浦第二児童遊園」に。

旧 伊藤飛行機研究所 滑走路跡
 伊藤飛行機研究所は、大正七年四月一日、鷺沼三丁目の旧千葉街道沿いに、伊藤音次郎氏によって開設されました。
 伊藤氏は、明治四十五年日本初の民間飛行機練習所を稲毛海岸に開いた奈良原男爵の弟子で、大正四年に独立し稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設しましたが、大正六年九月の台風と高潮で施設が壊滅したため、翌年鷺沼海岸に再開しました。当時この辺は遠浅の海で、潮が引いたあとの干潟は格好の滑走路となり、この干潟を利用して約百五十名の飛行士が養成されました。
 昭和六年、研究所は飛行機製作部門の伊藤飛行機製作所、飛行士養成部門の東亜飛行学校・帝国飛行学校に分かれ、昭和二十年八月、第二次世界大戦終戦とともにすべて解散されました。大正四年の創設以来、製作された飛行機は五十四機、グライダーは十五機種二百余機でした。
 平成十八年三月
 習志野市教育委員会

伊藤音次郎日記(日本航空協会)

http://www.aero.or.jp/isan/archive/Ito_Otojiro_diary/index.htm

日本航空史 明治大正編(日本航空協会)

http://www.aero.or.jp/isan/archive/Japanese_Aviation_Histroy_upto_taisho-era/isan-archive-History_of_Japan_Aeronautic_Meiji-Taisho.htm

ならしの豆知識(習志野市)

https://www.city.narashino.lg.jp/smph/citysales/kanko/mamechishiki.html


山縣飛行士殉空之地

伊藤音次郎の一番弟子であった山縣豊太郎。民間初の曲芸飛行家
大正7年(1918)5月4日に民間初の宙返り飛行に成功。5月10日には連続2回宙返りにも成功し天才飛行士として絶賛された。
しかし大正8年(1919)8月29日、連続3回転宙返りの際に翼が折れて、鷺沼の畑に墜落。享年23歳であった。

山縣飛行士殉空之地
 男爵 奈良原三次 書

紀元二千六百年八月二十九日 
 伊藤音次郎建立

山縣豊太郎君は明治三十二年九月百太郎氏の三男として広島に生まれ資性温健謙譲然も豪毅果断十六歳志を立てて東京に出叔父鳥飼繁三郎氏に寄り身を航空界に投ず
大正四年二月伊藤飛行機研究所創設されるや所長伊藤音次郎氏に師事して飛行機の操縦及び製作を習得し大正六年第一回卒業生首席として飛行士免状を授与せらる
爾来技愈々熟し出藍の誉高く東京大阪間最初の郵便飛行同区間周航の六百三十哩飛行等の競技に優勝し又民間最初の曲技飛行家として其天才的技量を発揮し後輩を指導して多数の優秀な飛行士を養成す
大正九年八月二十九日の曲技飛行中空中分解の為愛機恵美号と共に此の地に玉砕す
我が航空界の第一人者として称賛を受けたる君は航空界に幾多の大功績を残して遂に逝けり享年僅二十三
官民間人今猶ほ惜しまざるはなし
建碑に当って其昔を偲ぶ 嗚呼
 昭和十五年八月二十九日
 男爵 奈良原三次

「山縣飛行士殉空之地」は今も昔も畑の中。
海岸側からはちょとした高台にあった。

伊藤音次郎 の一番弟子であった 山縣豊太郎 を偲びし碑。
事故の21年後、紀元2600年の節目、昭和15年に 伊藤音次郎 によって建立された。揮毫と碑文は、伊藤の恩師 奈良原三次 の書。

合掌

はるかに幕張新都心を望む。当時は海だった場所。


参考

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

日本の航空発祥の地


位置関係

今昔マップ On The Web

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.646807&lng=140.052355&zoom=14&dataset=kanto&age=1&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

国道14号が海と陸の境界線。

稲毛飛行場跡

津田沼飛行場・鷺沼飛行場


付記

伊藤音次郎が、昭和12年(1937)に鷺沼の伊藤飛行機製作所の工場敷地内に空難犠牲者を祀る「航空神社」を建立。
戦後、伊藤音次郎が成田東峰に入植した際に、航空神社も移設され「東峰神社」として鎮座。その際に勤労の神として二宮尊徳を祀ったという。

東峰神社は開拓集落の産土神として東峰地区にて崇敬。
伊藤音次郎は成田空港を喜んで迎えたが、空港反対派が東峰神社を拠点として反対活動を行ったことは皮肉でしかなく。

東峰神社=航空神社は2001年に伊藤音次郎の子孫の要請で航空科学博物館の野外展示場に遷座。御神体も遷座しているために、現在の東峰神社は空座という。

伊藤音次郎ゆかりの神社として、航空科学博物館の航空神社と、東峰神社にも赴かねば、です。宿題ですね。

山縣有朋邸庭園跡(三番町共用会議所)

平成30年11月撮影

山縣有朋邸庭園跡・明治天皇行幸碑

山縣有朋邸庭園跡の一般公開にいってきました。(平成30年11月23日)

三番町共用会議所は明治18年に山縣有朋が建築した邸宅跡。当時の建物は関東大震災で大破し、再建後は昭和20年5月空襲で焼失し現存していないが、当時を偲ぶものが残っているので探訪してみました。
現在は全省庁共用の国の会議所。

三番町共用会議所
(山縣有朋邸庭園跡)
一般公開(無料)

 三番町共用会議所は、明治18年に山縣有朋伯爵(当時)が建築した邸宅跡です。
 当時の建物は、関東大震災(大正12年)で大破し、再建した建物も、昭和20年5月にあった空襲の焼夷弾により焼失したため、現存しておりませんが、庭園跡(昭和55年整備)と明治天皇の行幸を賜ったことを示す記念碑(明治18年山縣有朋公建立)が今も残っており当時を偲ぶことができます。
農林水産省

三番町共用会議所
山縣有朋邸庭園跡

明治18年に山縣有朋公が当地に私邸を建設。同年10月19日には明治天皇が行幸。
山縣は明治19年に内務大臣兼農商務大臣に就任し、国が山縣私邸を農商務大臣官舎として購入。大正12年の関東大震災で大破。昭和18年に改築するも昭和20年に空襲焼失。

昭和27年に旧本館竣工。
昭和29年に別館が竣工。この別館は現存している。設計は大江宏。大江の代表作としては大阪万博日本館、国立能楽堂などが知られる。

三番町共用会議所別館

写真は現存する三番町共用会議所別館 。昭和29年造。

三番町共用会議所別館内部
1階は会議室

昭和38年以降の米価審議会はここで行われていた。
(米流通自由化などもあり平成11年に米価審議会は廃止)

2階は大臣室など

三番町共用会議所本館

現在の本館は昭和48年に竣工
平成11年からは全省庁で利用できる共用の会議所となっている。

山縣有朋邸庭園跡(三番町共用会議所庭園)

昭和55年に庭園を再整備している。

明治天皇行幸記念碑

明治19年10月19日、山縣有朋邸で行われた銃剣術並演刀槍術展覧に、
明治天皇が行幸されたことを記念して山縣有朋が建立。山縣有朋が詠まれた和歌を山縣有朋本人の書体で掘られている。山縣有朋邸の当時を物語る石碑。

天津かせ えたをならさぬ 君がよは 
  こゝろ のとけく 匂ふ梅かゝ
 山縣有朋直筆

 山縣有朋邸(当地)で行われた銃剣術並演刀槍術天覧に、明治天皇が行幸されたことを記念して、山県有朋が建立したものです。碑文は隷書体で行幸の一部始終が石版全体に書かれています。表面には山県有朋が詠まれた和歌が本人の書体で彫られています。

明治天皇行幸碑 裏面(概要)
 今年(明治18年)10月19日。
 今上天皇が有朋の私邸に行幸され、光栄に預かること大である。又、銀杯、貨幣を下賜される。有朋は謹んで来国光の刀一口及び松蔭先生の書二幅献上した。この日、宴に侍する者は、皇族、内閣諸侯及び武官若干名なり。(陸軍)戸山学校の下士が銃剣技を奏し、宮内官吏等は刀槍術を演じ御覧頂いた。饗応の際、夕刻となり陸軍楽隊に演奏させる。夜になり、多くの玉燈を点け、煙火を放つ。既に儀仗兵の隊列の準備の知らせが入り、龍旗(錦旗)は宮城に還られた。嗟、有朋の幸この上なし。ここに臨幸の始末を記し、併せて二品の由来を録し、将来に伝える。
明治18年11月
従三位 伯爵 山縣有朋 謹んで識るす。

石灯籠

庭園内の灯籠も山縣有朋邸庭園時代からのものと推定。
土台が六角形の灯籠は江戸後期から明治初期の技法とされている。

石畳
木の根の広がりに年月を感じさせる。

三番町共用会議所・山縣有朋邸庭園跡は、毎年11月12月に数日間に公開されているようです。

給水塔と車庫は取り壊し予定だそうで・・・(昭和20年代の建築という)

山縣有朋邸宅庭園として現存している有名な庭園は以下。
 椿山荘 東京都文京区
  明治11年
 無鄰菴 京都府左京区 京都別荘
  明治27~29年
 古稀庵 神奈川県小田原市 小田原別邸
  明治40年 70歳の古希を迎えた晩年の別荘

この三番町共用会議所の庭園は、山縣有朋の時代を石碑などに残すのみではあるが、人知れずの史跡。一般公開もひっそりと行われていたので、私も最近まで存在を知りませんでした。なかなかの良き歴史スポット。


関連

戦争の犠牲になった動物たち「上野動物園と動物慰霊碑」

令和元年(2019)11月

「上野動物園」
日本で最初の動物園、明治15年(1882)開園。
東京市時代の戦前は「東京市公園局・上野恩賜公園動物園」と称していた。
現在の正式名称は「東京都恩賜上野動物園」

そんな歴史由緒ある上野動物園の園内に、ひっそりと「動物慰霊碑」があった。

これもまた戦跡としての慰霊碑・・・。

合掌を


戦時猛獣処分

戦争において空襲等に巻き込まれた動物園の猛獣が逃亡して被害を及ぼすのを未然に防ぐための殺処分のことをいう。


上野動物園の戦時猛獣処分

昭和18年(1943)以降、日本の各動物園で戦時猛獣処分が行われた。
食糧不足も重なり、多くの動物達も、戦争の犠牲となった。

昭和18年8月11日に上野動物園において、象1匹の殺処分が決定したのを皮切りに、昭和19年には全国の動物園で戦時猛獣処分が始まった。
処分は軍部による命令ではなく、あくまで行政機関の命令をうけた動物園の判断での実施であったという。

昭和18年8月16日、大達茂雄東京都長官(東京市と東京府が廃止されて東京都が設置された際の初代東京都知事)は、上野動物園などの都内の動物園に猛獣殺処分を発令。
これは前職でシンガポール市長(昭南特別市長)を努めていた大達茂雄が、既に時局の厳しさを感じ取り、猛獣被害予防という点以外にも、国民の危機意識を高めるために行ったという側面もある。
大達茂雄東京都長官が決断をした、昭和18年夏の段階では、まだ東京に対して空襲が頻発する前段階であり、そのため空襲のために殺処分が決まった、というわけでもなかった。
しかし「絵本」では、わかりやすく、軍の命令、空襲が続く中で・・・となっている。

上野動物園では、ゾウ・ライオン・トラ・クマ・ヒョウ・ヘビなど14種27頭が殺処分対象となる。
特に気性が荒く危険とされていたゾウの「ジョン」は、処分命令に先立つ8月11日に早くも殺処分が決定され、13日から絶食状態となっていた。 
そうして、8月17日から9月1日までに、ゾウ1頭(ジョン)を含む24頭の殺処分され、そして9月23日に最後のゾウが死亡し、計画された一連の殺処分が終わった。

なかでも、3頭のインドゾウの殺処分は特に有名。
気性の荒い「ジョン」は、いち早く8月13日に餓死による殺処分が着手され、17日後の8月29日に餓死。残る2頭のゾウも餓死による殺処分。
当初は、ゾウも他の動物と同じように薬殺が予定されていたが、繊細なゾウは毒餌を受け入れなかったために餓死させることとなったという。
食べ物を欲した象たちは、痩せた体でヨロヨロと飼育員の前で必死の芸をしたという。芸当をすれば、きっと餌がもらえると信じての行動であったが、飼育員たちは餌を与えることは出来ず、ただただ、象たちのやせ細る姿を見守ることしか出来なかった。
そうして、9月11日に「ワンリー(別称「花子」)」が餓死、最後まで残った「トンキー」も9月23日に餓死した。

昭和18年9月2日に「時局捨身動物」として戦時猛獣処分実施が公表。
さらには、9月4日には「処分動物慰霊祭」(殉難猛獣慰霊法要)が斎行された。
慰霊祭は象舎の前で行われたが、そのときはまだ象舎では「ワンリー(花子)」と「トンキー」は絶食中でも生存しており、慰霊祭に際して象舎に鯨幕を張り、象の姿を見せないために目隠しをしたという。

「処分動物慰霊祭」(殉難猛獣慰霊法要)
位牌は「殉難猛獣霊位」
墓標は「時局捨身動物」


上野動物園の猛獣を懇切処置

懇切処置という表現といい、記事の文面のもやもやした言い回しが、時局を表していて、とても複雑な気持ちになる・・・。

昭和18年(1943年)9月2日
同盟時事月報(通号208号) 第7巻 第09号

上野動物園の猛獣を懇切処置

【二日】東京都では、日頃都民から限りない親愛の情をもたれて来た、上野動物園の人気者象の花子さんを始めライオンなどの猛獣が、馴染みの姿を柵から消す処置がとられた。
(東京都発表)(二日午後二時)
東京都に於いては非常時に際しての万一の場合を考慮し、上野動物園に飼育する最も危険な猛獣をこのほど懇切に処置した。依ってこれらの動物供養のため、来る四日午後二時、本園内動物慰霊塔に於て、浅草寺大森大僧正を導師として法要を営む。如何に馴れた動物でも激烈な衝撃によって怖るべき狂乱状態となるので、誠に不憫ながらライオン以下の猛獣を処置することは止むを得ざる次第で、平素愛護を頂いた都民皆様の御諒解を願ひ度い。


上野動物園 動物慰霊碑

動物よ安らかに
 古賀忠道書

古賀忠道(1903-1986)
1937年に園長制度が設立され上野動物園初代園長に就任。
戦前から戦後まで上野動物園とともにあったお人。
「動物よ安らかに」に重みを感じる。
1962年の動物園創立80周年記念行事を最後に園長を引退。

「動物園は平和なり」は古賀忠道氏の残した言葉。

なお、動物慰霊の後方に見える、石塔は、津藩藤堂家墓地。
上野公園の地には、かつて津藩藤堂家の屋敷地があり、東京の「上野」は高虎の領した「伊賀上野」が語源になったとの説もある。
上野の寛永寺内にあった藤堂高虎の菩提寺「寒松院」の地が、上野動物園となり、そして、藤堂高虎を始めとした歴代の藤堂藩主の墓は、上野動物園内に残された。なお、藤堂家墓地は非公開立入禁止エリア。

動物慰霊碑
動物慰霊碑は、動物園で死亡した動物の霊をなぐさめるためのものです。戦争の犠牲となった動物たちをはじめ、園内で暮らしたすべての動物たちが供養されています。ブロンズのリボンは動物への愛情と弔意をあらわし、フクロウは動物たちの霊をみまもる象徴として選ばれました。
最初は1931年に、今のゴリラとトラの森付近に建立され、当時は動物たちを近くに埋葬していました。この慰霊碑は1975年、園内の改修にあたり新たに建立されました。


上野動物園旧正門

明治44年建立。昭和9年頃までは恩賜上野動物園の玄関口として使用されていた表門。
現在は臨時門として使用されることもある。


上野動物園

上野動物園。久しぶりに園内に。

象舎の裏に慰霊碑がある。


上野動物園モノレール(廃止)

「東京都交通局 上野懸垂線」
日本で最初に開業したモノレール。 開業は1957年。日本最短のモノレール。
現在の車両は4台目の車両(2001年導入)であったが、令和元年(2019年)11月1日で車両経年劣化もあり運行休止。

https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/other/monorail/


関連

動物慰霊碑

上野界隈の散策

立川駐屯地の戦跡散策(立川防災航空祭)

令和元年11月9日

立川駐屯地の一般公開に合わせて見学をしてきました。
旧軍や戦跡に関することを中心に記載を。

以下、内容更新版も参照に

立川の戦跡としては、以下も参照に。


史料館の中庭にいくつかの記念碑が集められている。まずはそこから。

八紘一宇


八紘一宇
陸軍中将 山下奉文 謹書
昭和15年建立


紀元二千六百年記念
陸軍大佐 川崎正寴 謹書

八紘一宇 (立川駐屯地 史料館 より)

※ 昭和15年に、紀元2600年を記念して陸軍航空補給廠本部前に建立されました。
「陸軍航空補給廠」は、昭和9年3月所沢より立川に移転しました。当時立川や近在の人々からは「航空支廠」と呼ばれており、まさに日本陸軍航空補給の総元締でありました。」

※ 長年にわたりアジアが欧米列強の植民地と化している実情を憂い、アジアおよび世界が一つの家族のように一つの傘のもと、いつまでも平和で共に栄えるようにとの願いをこめて、昭和15年に記念して建立されました。そして、八紘一宇の願いどうり、我国によって大東亜戦争がはじまり、数多くのアジアの国々が植民地から開放され、その勢いは、アフリカなど全世界へ広がりました。

※ 字は、陸軍中将 山下 奉文が書いた字です。

行幸紀念

行幸紀念
周次郎 謹書

維時昭和八年五月四日  聖駕此地へ幸シ給ヒ親シク陸軍航空ノ威容ヲ臠セラレ當所ノ研究兵器亦  天覧ノ光栄二浴ス乃テ碑ヲ以テ之ヲ不朽二傳フ

周次郎とは、伊藤周次郎陸軍少将のこと。陸軍航空本部技術部長(1932~1935)、昇格後の陸軍航空技術研究所所長(1935~1936)を努めている。
天覧のあった、昭和8年(1933)に、伊藤周次郎が部長を努めていた。

飛行第五戦隊記念碑

飛行第五戦隊之碑
開雲 高木秀明謹書


飛行第五戦隊の母隊である航空第五大隊は 大正十年各務原で創設 翌年立川に移駐し 同十四年飛行第五連隊となった
昭和十三年夏飛行第五連隊の戦闘中隊は改編して飛行第五戦隊となり 千葉県柏に移駐した
昭和十六年大東亜戦争の勃発により戦隊は首都防空に任じた 次いで昭和十八年夏南方戦線に進出してジャワ、チモール、ハルマヘタ、比島方面で作戦任務を遂行した
戦局の推移に伴い昭和十九年秋小牧に転進し 同二十年終戦まで中京地区の要塞防空に任じた この間戦隊は武勲を重ねて感状を授与され陸軍戦闘戦隊の華と謳われた
茲に戦隊の歴史を刻し創隊以来国家に殉じた幾多の戦友病没隊員の遺徳を偲びこの碑を建立する
 昭和五十八年五月二十九日
 飛行第五戦隊生存者有志一同

行啓記念碑

昭和10年11月19日 皇太子殿下の行啓

皇太子殿下行啓記念碑

昭和16年10月28日

史料館東庭園

移駐当時の隊員が造成。飛んでいった飛行機が無事に帰ってくるようにと、ブーメランの形を模している。

立川駐屯地竣工記念植樹碑

昭和58年5月29日

ちょっと移動しまして「本館」前に。

立川黒松

立川黒松の由来
 立川の発展は 飛行場とともにあり 立川は歴史の中から また立川を語る上でも飛行場を忘れることが出来ない
 過ぎた日の飛行場を懐ひ 飛行場がもつ歴史的背景をおもいおこすときいつも立川飛行場を見守っているのが 此の黒松であり現在もそのさまはみごとである
 当駐屯地は 大正10年陸軍が飛行場の建設を開始し 翌年飛行場の開港とともに陸軍飛行場第5大隊が創隊して 兵舎の間には桜や梅など様々な植木が植樹された
 その中でも ひときわ立派で枝振りの良い此の黒松は 本部隊舎前の植え込みに植樹されたもので 昭和56年現在の立川駐屯地が建設された際に現在地に移植された

立川駐屯地史料館

陸軍飛行第五聯隊配置図

ステンドグラス
陸軍飛行第五大隊将校集会所の2階窓に取り付けられていたもの。
大正11年製

灯籠
立川駐屯地東地区 旧軍通用門門柱

国連旗・日章旗・星条旗
米合衆国極東空軍立川基地全面返還式当日に降納された国連旗・日章旗・星条旗 昭和52年11月30日

オルガン
陸軍飛行第五戦隊の将校集会所にあった

昭和初期の蓄音機

杉山元 元帥の書
板垣征四郎 大将の書

二式射撃照準器甲一号
皇紀2602年(昭和17年)正式採用

三菱式双発型輸送機ニッポン号羅針盤
大毎東日新聞社が帝国海軍九六式陸上攻撃機を改造し世界一周を行った機体の羅針盤

そのほか展示など

野外展示

立川防災航空祭
駐屯地の様子など

飛行展示

史料館に籠もっていたので、飛行展示はあまり見れませんでした・・・

スタートダッシュが遅かったので、大型ヘリ搭乗整理券は貰えず・・・でした。そのあたりはまた次回にでも。

「陸軍登戸研究所」跡地散策(明治大学生田キャンパス)

令和元年9月散策

神奈川県川崎市多摩区生田の丘の上に。
現在の明治大学生田キャンパスはかつて大日本帝国陸軍の研究所であった。


登戸研究所(第九陸軍技術研究所)

昭和14年(1939)、陸軍中野学校を創設し「謀略の岩畔」と異名を残す陸軍省軍務局軍事課長・岩畔豪雄大佐によって、秘密戦研究部門として、通称「登戸研究所」が陸軍科学研究所の下に設立された。
前身は、大正8年(1919)に陸軍火薬研究所が改編して発足した「陸軍科学研究所登戸出張所」であった。

昭和19年(1944)の「陸軍登戸研究所」組織
陸軍第9研究所(登戸研究所)
 所長 篠田鐐 中将 (工学博士)
第一科 科長 草場秀喜 少将
 第一班 風船爆弾・宣伝用自動車
 第二班 特殊無線機・ラジオゾンデ
 第三班 怪力電波・殺人光線
 第四班 人工雷
第二科 科長 山田桜 大佐(工学博士)
 第一班 科学的秘密通信法・防諜器材・謀略兵器
 第二班 毒物合成・え号剤
 第三班 毒物謀略兵器・耐水耐風マッチ
 第四班 対動物謀略兵器
 第五班 特務機関用カメラ・超縮写法・複写装置
 第六班 対植物謀略兵器
 第七班 対動物謀略兵器
第三科 科長 山本憲蔵 大佐
 北方班 用紙製造
 中央班 分析・鑑識・印刷インキ
 南方班 整版・印刷
第四科 科長 畑尾正央 大佐
 第一科・第二科研究品の製造、補給、指導


明治大学・生田キャンパス内を散策してみましょう。

登戸研究所跡碑

明治大学生田キャンパスの「弥心神社」境内に往時を物語る石碑が建立されていた。

登戸研究所跡

すぎし日は この丘に立ち めぐり逢う
 昭和63年10月建之
 旧陸軍登戸研究所 有志


弥心神社(現・生田神社)

小田急線生田駅から明治大学生田キャンパスに赴く通学路、坂道を登りきった先に鎮座している。
今は学生の通学路、当時は研究員の通勤路であった。(小田急線生田駅を利用する場合は、神社のある裏門を通る。南武線登戸駅を利用する場合は、ここではなく正門を通る。)

弥心神社は昭和18年建立。陸軍技術有功賞を受賞したときの金一封で、後述する「動物慰霊碑」と同時期に建立。
登戸研究所の前身であった新宿戸山の陸軍科学研究所から分祀した「発明の神・八意思兼神」を祀り、同時に研究所殉職者を慰霊のために祀ったという。

弥心神社(現 生田神社)
 現在は生田神社といいますが、もとは登戸研究所が1943(昭和18)年に建立した神社で、研究(知恵)の神様である「八意思兼神」を祀る「弥心神社」と呼ばれていました。
 境内向かって右手、1988(昭和63)年に元所員有志により建てられた「登戸研究所跡碑」裏面には「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」という句が刻まれています。これには、一度胸の奥にしまい込んだ研究所時代の記憶を、戦後数十年を経て再びこの丘に立ち、ようやく話し合うことが許された、という万感の思いが込められています。


位置関係

ファイル:USA-M1121-A-20
1948年07月26日に米軍が撮影した航空写真(国土地理院より)

抜粋の上、拡大

上の赤丸が「弥心神社」
右の赤丸が「動物慰霊碑」
下の赤丸が「登戸研究所資料館」

道の雰囲気が、さほどに変わっていないこともわかる。


消火栓

生田キャンパス内に2つ残されている。陸軍の五芒星を残す消火栓。

1つ目は「学生会館」の前に。地中に半分埋まっていた。

もうひとつは「図書館」の前に。

消火栓
 登戸研究所時代に設置された消火栓です。明治大学生田キャンパスとなった今も当時と同じ場所に残る貴重なものです。すでに消火栓として機能しませんが、旧陸軍の☆のマーク(五芒星)が確認できます。現在は埋もれている学食棟前に残る消火栓もこの消火栓同様、以前は左の写真の姿をしていました。


動物慰霊碑

生田キャンパス正門の守衛所裏手に鎮座。動物慰霊碑としては国内最大級。

(表)
動物慰霊碑
篠田鐐書

(裏)
昭和十八年三月
陸軍登戸研究所建之

揮毫の 篠田鐐 は登戸研究所所長。

動物慰霊碑
 1943(昭和18)年、研究で用いられた実験動物の霊を慰めるために登戸研究所が建立しました。台座を含め、高さ約3m、幅約95cm、奥行約15cmの大きさは動物慰霊碑としては国内最大級です。
 敗戦後、軍により証拠隠滅を図られた登戸研究所ですが、この裏面に刻まれた「陸軍登戸研究所」の文字は、戦時中より登戸研究所がここに存在した事実を如実に語ります。


登戸研究所本館跡(ヒマラヤ杉)

「第二校舎A館」と「ヒマラヤ杉」、「図書館」の間にかつて「登戸研究所本館」があったという。
往時からの名残としては、「ヒマラヤ杉」とアスファルトを敷いた車寄せへのアプローチ部分が路面上に残る。

旧登戸研究所本館前一帯
 登戸研究所の本館は、ちょうどこのヒマラヤ杉並木と現在の図書館との間に建っていました。
 1944(昭和19年)に撮影された写真でも当時の杉並木の様子が確認できます。また、写真背景足元に映る円形に囲われた車寄せへのアプローチも、そのままに近い形で植え込みとして残っており、この一帯は登戸研究所時代の名残をもっともよく残す場所となっています。


防火水槽

キャンパス内にいくつか点在して残っている。火薬も扱っていた登戸研究所ゆえに防火水槽の数も多かったという。

中央校舎の脇に。

防火水槽
 登戸研究所時代からある防火水槽です。火災に備え、敷地内の各建物付近に設置されました。現在は花壇として使用されていますが、当時は中に水をためておき、その水を火災の消火に使用しました。この他に資料館エントランス横、農学部南田圃などキャンパス内各所に現存しています。

資料館の入口に。


倉庫跡(通称 弾薬庫)

資料館の裏手に。
登戸研究所で製造された「特殊携行兵器」などが収納されていたとされる倉庫。

倉庫跡(通称 弾薬庫)
 登戸研究所時代に設置された建築物で、通称「弾薬庫」と呼ばれていますが詳細な用途は不明です。
 外観は台形ですが、内部は奥行約3.2m、間口約2.7mの長方形をしており、天井までの高さは約3m。壁面にはスイッチやコンセント跡が見られます。
 第一校舎1号館裏手にも同様の倉庫跡が残っています。


倉庫跡(通称 弾薬庫)

第一校舎1号館の裏手に。
草に覆われた建物。「花卉園芸同好会」と表記が残る。

倉庫跡(通称 弾薬庫)
 登戸研究所時代に設置された建築物で、通称「弾薬庫」と呼ばれていますが詳細な用途は不明です。明治大学となってからは、一時、花卉園芸部が部室として使用していたこともありました。
 外観は台形ですが、内部は奥行約5.7m、間口約4.0mの長方形をしており、天井までの高さは約3m。資料館裏手の倉庫跡より内部は広く、入り口すぐの前室と奥の広い部屋の二間に分かれています。


登戸研究所第二科研究棟(36号棟)
明治大学平和教育登戸研究所資料館

鉄筋コンクリート造りの生物兵器研究棟。この建物は、かつて細菌・ウイルスなど生物・化学兵器の研究開発をしていた登戸研究所第二科の研究棟。
2009年までは明治大学農学部の研究棟として使用され、2010年から明治大学平和教育登戸研究所資料館として開館。

明治大学平和教育登戸研究所資料館
設立趣旨

登戸研究所は、戦前日本の戦争・軍隊を知る上で、きわめて貴重な戦争遺跡である。登戸研究所は、戦争には必ず付随する「秘密戦」(防諜・謀報・謀略・宣伝)という側面を担っていた研究所であり、そのため、その活動は、戦争の隠された裏面を示しているといえる。私たちはこうした戦争の暗部ともいえる部分を直視し、戦争の本質や戦前の日本軍がおこなってきた諸活動の一端を、冷静に後世に語り継いでいく必要がある。

私たちは、登戸研究所の研究施設であったこの建物を保存・活用して「明治大学平和教育登戸研究所資料館」を設立し、登戸研究所という機関のおこなったことがらを記録にとどめ、大学として歴史教育・平和教育・科学教育の発信地とするとともに、多年にわたり、登戸研究所を戦争遺跡として保存・活用することをめざして地道な活動を続けてきた地域住民・教育者の方々との連携の場としていきたいと考えている。
 2010年3月29日


陸軍境界石

資料館の前に。どこからの移築かと思われる。


登戸研究所第二科研究棟(36号棟)
明治大学平和教育登戸研究所資料館
 建屋外観


登戸研究所第二科研究棟(36号棟)
明治大学平和教育登戸研究所資料館
 内部

当時からの設備、流し台などもそのままで残っている。


風船爆弾(ふ号作戦)

登戸研究所第一科を中心に風船爆弾の研究が行われた。

気球紙は、和紙と蒟蒻糊の貼り合わせ、

風船爆弾放球の地

大津

勿来

一宮


偽札

登戸研究所第三科では主に中国大陸向けの紙幣を偽造していた。通貨謀略戦の要。


解体された26号棟の保存資料

26号棟に第三科が展開されていた。偽札研究の拠点。


時計式時限装置一号

「缶詰爆弾」と「時計」を接続させると「時限式爆弾」となった。
登戸研究所は諜報活動向けに最適な小型兵器の開発が多い。


秘密戦

「秘密戦関係」書籍は防諜教育に用いられた憲兵学校のテキスト。


陸軍技術有功章の賞状

昭和18年4月14日、総理大臣兼任陸軍大臣の東条英機の名で授与された賞状。「秘密戦兵器」は「特殊理化学資材」として記されている。


クランク式暗室

36号棟の当所から作られていた暗室。
写真の現像や細菌戦の研究に使用されていたという。


石井式濾水機 濾過筒

「軍事秘密」として扱われていた濾過筒。
濾過筒には防疫給水に役立つほか、細菌戦実施時にも飲料水を確保できるという側面もある。


登戸研究所本館将校食堂に飾られていた日本画

この絵画が飾られていた理由は不明。
「漁を待つ人々」佐藤耕寛 作


陸軍 電波兵器練習部隊

「登戸研究所」の電波部門が独立して「陸軍多摩研究所(多摩陸軍技術研究所)」となり、その直属部隊となったのが「東部第九二部隊( 東部第92部隊 )」。一橋大学に展開していた。

気がつけば3時間くらい、大学構内を散策していたようです。

明治大学平和教育登戸研究所資料館、なかなか見応えがありました。よい展示。

また来ましょう。


明治大学平和教育登戸研究所資料館サイト

https://www.meiji.ac.jp/noborito/index.html

「若宮八幡宮と川崎大師」周辺の戦跡散策

令和元年10月

川崎でちょっとだけ時間が出来たので、京急大師線で川崎大師駅まで足を伸ばしてみました。

若宮八幡宮御本殿
(旧川中島国民学校奉安殿)

若宮八幡宮本殿
旧川中島国民学校奉安殿

昭和12年4月
川崎市立大師尋常小学校より分立独立して「川崎市立川中島尋常小学校」として創立。
昭和16年4月「川崎市立川中島国民学校」と名称変更。(現在の川崎市立川中島小学校)
「奉安殿」の創建年代は不詳。1935年(昭和10年)頃に全国各地の小学校にて奉安殿建設が活発化してきたという。

若宮八幡宮が戦災で焼失してしまい、戦後に「川中島国民小学校」から奉安殿を移設し、若宮八幡宮の本殿として再活用。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

若宮八幡宮(川崎)

旧大師河原総鎮守
境内には「かなまら祭」で有名な金山神社がある。
室町期1500年代の創建。
創建以来、川崎大師平間寺の鎮守社。明治の神仏分離で平間寺から独立。

境内社の金山神社

若宮八幡宮から川崎大師へ移動。

祈りと平和の像
(川崎大師 平間寺)

川崎大師境内に、弘法大師1150年遠忌を記念して昭和59年(1984)建立。制作者は円鍔勝三。
中央には富士山の上に降臨した観音をモチーフとした女神が「祈り」、周囲には鹿野苑で楽器を奏でる天女たちが「平和」を表している。

一心祈念 恒久平和
     大本山川崎大師 平間寺
一盌からピースフルネスを
     茶道裏千家淡交会川崎支部
修練 奉仕 友情
     社団法人川崎青年会議所

「祈りと平和」の像に寄す
 茶道裏千家家元勤仕による当山ご供茶式と茶道裏千家淡交会川崎支部、川崎青年会議所、川崎大師平間寺共催の大茶会は、三者の協調に献身的な努力のもとに、大いに地域社会の文化向上に寄与し、ここに、心新たに意義ある20周年を迎えた。
 本年、宗祖弘法大師壱千百五十年御遂忌並びに、当山吉例十年目ごと大開帳奉修の法縁にあたり、大師の鴻恩に報謝の誠を捧げ三者の目的達成、発展を期するとともに、更に祈りに徹してやすらぎに住し、永遠の平和を願う真心を伝承せんがために、ここにこの像を建立する。
 作者は、霊峰冨士の頂上に来迎された観世音菩薩(女神)の天にひろがる大慈悲心と釈尊の初転法輪の聖地・鹿野苑にみなぎる世界永遠の平和の祈りを象徴されている。
 因みに、彫刻家である、文化功労者・日本芸術院会員・圓鍔勝三先生にこの制作を依頼した。
 昭和59年10月7日 
  大本山平間寺貫首
   第四十四世 
   中興第一世 
    大僧正 隆天

「祈りと平和」像賛歌
   貫主 高橋隆元
いまここに
  仰がん祈りの像
いまここに
  讃えん平和の像  
みほとけは
  女神とともに
  神鹿のあそぶ苑に
 平和を奏でて
  人びとを見まもり
 慈悲の
  まなざしを示し給う 
祈りの声は 
 宇宙に広がる 
  朋友よ 幸せに 
  朋友よ 豊かに
平和のハトは
 蒼天に翔ぶ 
  朋友よ 明るく 
  朋友よ 健やかに
   
昭和60年10月7日
 「祈りと平和」の像建立1周年に寄せて

霊木「奇跡の銀杏」
(川崎大師 平間寺)

霊木「奇跡の銀杏」
 この銀杏は、第二次世界大戦の大空襲により幹の大半を焼失。今でも痕跡を樹木の根元に見ることができます。戦後、川崎大師はご信徒の信授により大本堂をはじめ七堂伽藍を復興。
同様にこの銀杏も奇跡的に蘇生、灰燼に帰した川崎大師の歴史を今に伝える古木であります。
「奇跡の銀杏」の樹勢にあやかり、健康長寿、心願成就を祈念ください。 
 平間寺

忠魂碑
(川崎大師 平間寺)

乃木希典書
明治三十七八年戦役(日露戦争)にて戦没した大師河原村出征軍人を祀る。
明治四十二一月建立。

川崎大師 平間寺

平間寺(へいけんじ)は真言宗智山派の大本山。
大治3年(1128)建立。本尊は弘法大師。

川崎大師駅へ。

発祥之地
京浜急行電鉄株式会社

京急「発祥之地」碑

 京浜急行電鉄株式会社は、明治31年2月25日 大師電気鉄道株式会社 として設立され、翌明治32年1月21日、川崎六郷橋~川崎大師間の営業を開始した。
 開業時の資本金は 9万8千円、営業路線は 単線2粁、車輌数は5両で 開業当時の営業報告書には、次の通りに記されている。
 
 全般ノ機械運転上成績好結果ニシテ一日モ運転ヲ中止セシ事ナク即チ 五月丗一日ニ至ル本期間ノ営業日数ハ一百三十一日ナリシ而シテ乗客ハ相応ニ多ク 毎月廿一日ノ如キハ非常ノ雑踏ヲ極メシモ線路ノ単線ナリシト車輌ノ不足ナリシ為メ 充分ニ乗客ヲ運ビ能ハザリシノ感アリ本期間平均一日一哩ノ乗車賃ハ 五拾円九拾銭二厘ニ相当セリ。元来本社ハ関東ニ於ケル電気鉄道ノ嚆矢ニシテ 成績ノ如何ハ将来電気鉄道事業ノ発達ニ重大ナル関係ヲ有セシモノナリ 幸ニシテ今ヤ営業初期ニ於テ相応ナル純益配当ノ報告をナスヲ得 又運転開始以来一人ノ負傷者ヲ生ズルナク毎月廿一日ノ如キ数万ノ老幼群集シ 往来叢ルガ如キ場所ニ於テ乗客ヲ満載シ乍ラ一日弐百五六十回余ノ運転ヲナシテ 過チナカリシハ実ニ本社ノ幸福ニシテ亦以テ電気鉄道ノ市街交通機関ニ適シ 更ニ危害ノ虞レナキヲ表示スルヲ得タルモノナリ

 かくて好調裡に営業を開始した大師電鉄は 同年4月 京浜電気鉄道と改称 昭和23年6月 京浜急行電鉄 となり 逐次事業の拡張を図って今日の隆昌をみるに至った。
 ここに創立70周年に当り
会社設立発起人代表 立川勇次郎 はじめ先人の遺徳を偲び 大師電鉄発祥のこの地 に本記念碑を建立する。
 昭和43年12月21日
  京浜急行電鉄株式会社

以上、川崎大師と若宮八幡宮を近代史・戦跡目線での参拝散策でした。

上野公園の戦跡・近代史跡散策

令和元年10月

上野恩賜公園、通称は「上野公園」
「戦争に纏わる史跡」「近代史跡」としての公園散策をしてみた。

時忘れじの塔

東京大空襲の犠牲者を悼む慰霊碑
初代林家三平夫人の海老名香葉子さんらにより平成17年3月9日建立

時忘れじの塔
関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年)

  東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を
思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の
目印として、この時計台を寄贈しました。
 建立、寄贈 初代林家三平妻 海老名香葉子
 建立有志一同

海老名香葉子さんのもう一つの慰霊碑
「哀しみの東京大空襲」

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city005/index.html


上野大仏(上野大佛)

もともとは 明暦万治(1655~1660)頃に建立された像高約6メートルの釈迦如来坐像であった。
幕末の上野戦争では辛くも被害を免れたが、明治6年に大仏殿が解体され、そして大正12年(1923)の関東大震災により頭部が落下。大破した頭部、解体撤去した胴体部以下が上野寛永寺に保管され再建を目指すも資金難により頓挫。
昭和15年(1940)に顔面部を除く頭部及び胴体部は、戦時中の金属供出で失われ、現在は顔面部のみがレリーフとして、昭和47年に旧跡の地に安置された。これ以上落ちない合格大仏として現在では信仰を集めている


小松宮彰仁親王銅像

小松宮彰仁親王銅像
台東区上野公園八番
 彰仁親王は伏見宮邦家親王の第八王子。安政五年(一八五八)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応三年(一八六七)勅命により二十二歳で還俗、東伏見宮嘉彰親王と改称した。同四年一月の鳥羽・伏見の戦に、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督となり、戊辰戦争に従軍した。明治十年五月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、九月その総長に就任した。同十五年には、小松宮彰仁親王と改称。同二十年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同三十六年一月十八日、五十八歳で没。
 銅像は明治四十五年二月に建てられ、同三月十八日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。『下谷區史』は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川官能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
 平成8年7月
 台東区教育委員会


グラント将軍植樹碑

ユリシーズ・シンプソン・グラント
南北戦争時の北軍の将軍
アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領として第18代アメリカ大統領(1869‐1877)に就任。
1872年にアメリカを訪問した岩倉使節団と会見。
大統領職後の1879年7月から9月まで国賓として日本に滞在、アメリカ大統領経験者では初めて日本にきた人物でもある。

「Let us have peace」
将軍の言葉「平和を我等に」の文字を刻む植樹碑。

グラント将軍植樹碑
上野公園八番
 明治十年(一八七七)から同十三年にかけて、グラント将軍は家族同伴で、世界を周遊した。その際、来日。同十二年八月二十五日、ここ上野公園で開催の大歓迎会に臨み、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を記念に植えた。植樹の由来が忘れられるのを憂い、昭和四年八月、この碑を建設。碑は正面に将軍の胸像を刻み、向かって右側に和文、左側に英文で、将軍の略歴・日本滞在中の歓迎の模様、植樹の由来を記している。胸像下部には、英語で、将軍の言葉「平和を我等に」の文字を刻む。
 グラント将軍のフルネームはユリシーズ・シンプソン・グラントという。北軍の義勇軍大佐として、南北戦争に従軍。戦功を重ね、のち総司令官となり、北軍を勝利に導いた。明治二年、アメリカ合衆国大統領に選ばれ、同十年まで二期在任した。いま、将軍植樹の木は大木に成長している。
 平成4年11月
 台東区教育委員会


明治天皇日本美術協會行幸所阯

上野の森美術館

史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ史蹟トシテ昭和16年8月文部大臣指定

昭和18年3月建設


西郷隆盛銅像

西郷像は高村光雲作、犬(ツン)は後藤貞行作
明治22年(1889)の大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が説かれたのをきっかけに建設計画が始まり、明治31年(1898)12月18日に西郷隆盛銅像除幕式が行われた。
銅像の高さは370.1cm。頭部が大きく見えるのは足下からの遠近法を考慮したデザインという。

敬天愛人
西郷隆盛と銅像の由来

西郷隆盛は文政10年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島加冶屋町に生まれた。通称吉之助、南州はその号である。
若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること2回、元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年(1867年)ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。
その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦火から救ったことは余りにも有名である。
その後は故郷に退隠したが、明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて状上京、参議に昇任し、廃藩置県その他の近代国家建設のための主動的役割を果した。
然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上がるや断乎反対して、大使派遣による平和的修好を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷、私学校を興して後進青年の育成に努めた。
明治10年2月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦7カ月余、ついに敗れて城山に自刃した。9月24日、享年51才。
そのため一時逆賊とされたが、明治22年2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。
この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を表わすべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を得て、明治26年起工、同30年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村高雲の作である。
西郷隆盛の偉大な功業は、その心情たる敬天愛人の至誠没我な精神に発した愛と所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここに在るのである。

近くには、かなりの年代を経たと思われる燈籠が残されていた。


西郷像の右手に。

摂政宮関東大震災視察碑

大正12年9月15日 摂政殿下大震災の惨状御視察に際し、畏くも此地より御展望遊され被害の情況を聞召さる。越えて7歳昭和5年3月24日 天皇陛下此に臨御あらせられ親しく街衢の復興を曫はせ給ふ。乃て石を此處に樹て以て 聖恩を不朽に傳へんとす。

西郷像の奥に。

彰義隊の墓

彰義隊の墓(台東区有形文化財)
上野公園一番
 江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
 慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによって当地で茶毘に付された。
 正面の小墓石は、明治二年(一八六九)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、改府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
 平成8年3月
 台東区教育委員会


そのほか

楠木正成像(皇居外苑)

令和元年9月撮影

楠木正成像

「東京三大銅像」のひとつ。(残りは上野公園の西郷隆盛像、靖國神社の大村益次郎像)
本体の高さは約4メートル、花崗岩の台座を含めると8メートルに及ぶ。

別子銅山開坑200周年事業として住友財閥から宮内庁に献納されたもの。

高村光雲と後藤貞行らの制作による、我が国で初めての分解鋳造法による銅像。
明治29年(1896年)9月、銅像が完成。
明治33年(1900年)台座の完成を待ち、ついに楠木正成像は二重橋外に竣工。

像は台座正面から見ると背を向けているが、これは皇居に背を向けない配慮という。

住友グループ広報委員会>住友の歴史>楠木正成像

 この楠木正成像は、別子銅山開坑200周年事業として住友から宮内庁に献納されものだ。明治22年(1889年)末、当時の住友総理人の広瀬宰平(初代総理事)は、翌年に別子銅山開坑200周年を控え、住友家13代当主住友友忠と相談し、別子銅を用いて銅像を製作し献納することを決めた。
 製作は、岡倉天心が校長を務めていた東京美術学校(現在の東京藝術大学の前身)に依頼。当時、東京美術学校には塑造科はなく、原型は木彫を使用する時代だったため、同校の木彫科教授であった高村光雲が主任となり、指揮をとった。翌年、東京美術学校は後に製作担当者となる3人を次々と教師として採用。高村光雲は頭部を担当し、山田鬼斎と石川光明が身体・甲冑部などを、後藤貞行が馬の製作を担当した。

https://www.sumitomo.gr.jp/history/related/kusunoki/

環境省>皇居外苑>楠木正成像
皇居外苑の南東の一角に、花崗岩の台座に据えられた騎馬姿の武者像が楠木正成の銅像です。この銅像は、別子銅山を開いた住友家が、開山200年の記念として企画し、東京美術学校に依頼し作成し、宮内庁へ献納したもので、高村光雲など東京美術学校の職員らにより当時の技術の粋を集めて作成され、明治33年7月に完成し献納されたものです。

https://www.env.go.jp/garden/kokyogaien/1_intro/his_06.html

 楠木正成(くすのきまさしげ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて後醍醐天皇(ごだいごてんのう:1288年‐1339年)に仕えた武将です。鎌倉幕府を倒し、約150年の武家政権から、朝廷による支配の復活を図りました。
 この銅像は、隠岐(おき)から還幸した後醍醐天皇を兵庫で迎えた楠木正成の勇姿を象ったものです。

自臣祖先友信開伊
予別子山銅坑子
孫継業二百季亡
兄友忠深感国恩
欲用其銅鋳造楠公
正成像献之闕下
家允未果臣継其志
菫工事及功竣謹献
明治三十年一月
従五位臣住友吉左衛門謹識

台座の銘文には、住友家第15代・住友友純(住友家養嗣子、徳大寺実則・西園寺公望の実弟)の銘で、「亡兄友忠、深く国恩を感じ、別子銅を用いて楠木正成像を鋳造し、天皇陛下の御前に献納したい」と記されている。

愛宕山の戦跡散策(青松寺と愛宕神社)

令和元年9月参拝

芝鎮座の「青松寺」の境内には、戦争にまつわる史跡がいくつか残されている。
境内裏手の墓地の一角に。

肉弾三勇士(爆弾三勇士)

「肉弾三勇士」は大阪朝日新聞・東京朝日新聞の呼称。
「爆弾三勇士」は大阪毎日新聞・東京毎日新聞の呼称。
それぞれの新聞社が公募した「肉弾三勇士の歌」「爆弾三勇士の歌」もある。

肉弾三勇士・爆弾三勇士とは、独立工兵第18大隊(久留米)の、
 江下武二(えした たけじ)
 北川丞(きたがわ すすむ)
 作江伊之助(さくえ いのすけ)
の3名の一等兵のことをいう。
3名は戦死後に2階級特進し陸軍伍長となった。

昭和7年(1932年)2月22日
第一次上海事変にて、トーチカと鉄条網とクリークで守られた敵陣へ突入するために、 鉄条網を破壊し突撃路を切り開くために点火した破壊筒を3名で抱えて敵陣に突入。破壊の爆発に巻き込まれて3名は戦死したが鉄条網の破壊には成功。
突撃路を切り開いた英雄として讃えられ「昭和最初の軍神」とされる。

昭和9年。
全国からの寄付金が集まり、貴族院議員・金杉英五郎が委員長となった「肉弾三勇士銅像建設会」によって東京都港区の青松寺に三人が破壊筒を抱えて突撃する様子の銅像「肉弾三勇士の像」(新田藤太郎作)が設置された。
しかし戦後に撤去され、後に切り離された「江下武二の像」の部分のみが新たな台座とともに青松寺に安置されている。「北川丞の像」は長崎県北松浦郡佐々町にある三柱神社に移築。「作江伊之助の像」は所在不明。

肉弾三勇士三霊
肉弾三勇士・江下武二の像

当地には肉弾三勇士の一人、江下武二の像のみが残されている。

肉弾三勇士の三霊に合掌を

碑文
 忠孝の心を存し仁義の事を行い難至って節見はれ累至って行明かなるは我日本帝国臣民の伝統的精神にして其れも善き例を示したるは廟行鎮の役に挺進爆薬筒を抱き肉弾と化して瞬間に能く敵前鉄条網の堅陣を爆破し以て皇軍進出に便ならしめ砕身奉公の誠を致したる作江伊之助・北川丞・江下武二の3士にして其忠烈古今に絶し其壮烈世界を震撼す真に所謂死して護国の鬼となり永く報国の訓を掲けたるものと謂ふへし依て茲に銅像を建て建設して3士の遺骨を其の内に納め以て忠魂を無窮に弔い義烈を万代に顕彰する所以なり
 昭和9年2月22日
  肉弾三勇士銅像建設委員会 

「肉弾三勇士三霊」の隣に。

國體護持 孤忠留魂之碑

いわゆる「宮城事件」に関係する、陸軍・畑中健二少佐らを祀る。
 椎崎二郎中佐(陸軍省軍務局軍務課内政班)
 畑中健二少佐(陸軍省軍務局軍務課内政班)
 古賀秀正少佐(近衛師団参謀)
 上原重太郎大尉(陸軍航空士官学校区隊長)
上記四士の慰霊碑が青松寺に鎮座している。

宮城事件

昭和20年8月14日深夜から8月15日にかけて、宮城(皇居)で一部の陸軍省将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件。

日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は、8月15日に決起。
午前0時過ぎに玉音放送の録音を終えて宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員などの身柄を拘束。
近衛第一師団長森赳中将に面会を強要しクーデターの参加を求めるも決裂し、近衛第一師団長森赳中将と同席していた第二総軍参謀白石通教中佐を殺害。
師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠し東部軍管区 にクーデター参加を求めたが、東部軍管区司令部で司令官の田中静壱大将は鎮圧を決定。

昭和20年8月15日
5時半
 陸相官邸で阿南惟幾陸軍大臣が自決。
午前11時過ぎ
 椎崎中佐と畑中少佐は、皇居前広場(二重橋と坂下門の間の芝生)で自決。
正午
 古賀少佐は、玉音放送の放送中に近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の遺骸の前で自決。
 上原大尉は、修武台航空神社前で自決
事件鎮圧の功労者だった田中静壱東部軍管区司令官は8月24日に自決している

碑文
陸軍中佐 椎崎二郎
陸軍少佐 畑中健二
陸軍少佐 古賀秀正
陸軍大尉 上原重太郎

大東亜戦争終結に際し 護るべからざる講和条件即ち国体護持の確認こそ日本国民の果たすべき責務なりとし 上記四士は畑中健二主導のもとに近衛師団の決起を策し 大事去るや従容自決す これ宮城事件なり
その孤忠留魂の至誠は神州護持の真髄といふべく 仰いで茲にこれを継述せんとするものなり
 昭和五十九年秋 有志建之

旧山口藩出身御親兵死没者合祀之碑

明治22年11月建立

軍馬之碑

工兵第二十三聯隊 戦友之碑

青松寺の右手、愛宕グリーンヒルズフォレストタワーの通り道に。

故市来・吉住両君の記念碑

インドネシアゆかりの記念碑。
日本敗戦後もインドネシアに留まり、独立軍に参加して戦死した市来龍夫氏 、吉住留五郎氏の名前の刻まれたスカルノ・インドネシア大統領の直筆の顕彰碑。この石碑のある青松寺の隣にある老舗料亭「醍醐」は、スカルノ大統領ゆかりの料亭であったという。

昭和20年(1945)8月17日、インドネシアは独立を宣言。それに対しイギリスの支援を受けたオランダ軍が再びインドネシアを支配するべく進駐し。4年間にわたる独立戦争が勃発。
日本軍撤退後もインドネシアに留まり義勇軍・独立派に身を投じた元日本兵の多くがインドネシア独立戦争に協力。
昭和20年8月15日以降の、元日本軍死者は1000人を超え、独立戦争で命を落とした元日本兵はインドネシア各地の英雄墓地に葬られている。生き延びた元日本兵もインドネシア国籍を得て1960年代の日本企業のインドネシア進出が本格化する際には橋渡し役として活躍もされている。

1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表すとともに、インドネシア独立戦争において特に活躍した、 市来龍夫氏(アブドルラフマン) 、吉住留五郎(アレフ)氏 に対して感謝の言葉を贈り、それが記念碑として建立された。

市来龍夫君と
 吉住留五郎君へ

独立は一民族の
 ものならず
全人類のものなり

1958年8月15日
 東京にて
  スカルノ

PRESIDEN
REPUBLIK INDONESIA

 市来龍夫君、熊本縣の人、明治三十九年生
 吉住留五郎君、山形縣の人、明治四十四年生
 両君は共に青春志を抱いてジャワに渡航力学よくイ語の蘊蓄を極め、相次いでインドネシアで現地の新聞記者となる。爾来インドネシア民族の独立達成を熱望して蘭印政府より投獄追放の厄に会うも不撓不屈、第二次大戦に乗じて、再びインドネシアに渡り、終戦に際して同志を統合、イ軍に投ずるや共に軍参謀、指揮官となり、激闘、転戦ののち、遂に市来君は一九四九年マラン・ダンペッドの戦場に、吉住君はそれに先立つこと一年ケデリ州セゴンの山中に、インドネシア永遠の礎石となって散す。

青松寺

曹洞宗・萬年山青松寺
太田道灌ゆかり寺院。文明8年(1476)創建。
江戸時代は長州藩・土佐藩・津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用した。

青松寺の北隣、愛宕山に現在はNHK放送博物館がある。

NHK放送博物館

NHKの前身のひとつである社団法人東京放送局はこの愛宕山に放送局を置き、1925年から1938年まで、ここからラジオ放送が発信された。
1956年にNHK発祥の地である地に世界初の放送専門博物館が開館。当時の建物は現存しておらず、現在の建物は1968年(昭和43年)に建設されたもの。

NHK放送博物館の隣には、愛宕山の愛宕神社が鎮座している。

殉皇十二烈士女之碑
弔魂碑

いわゆる「愛宕山事件」
昭和20年8月15日の降伏終戦に対して、反対する民間団体「尊攘同志会 」首領・飯島与志雄ら12名が決起。
内大臣木戸幸一邸を襲撃し殺害を試みるも失敗し、抗戦派軍人の呼応を期待し愛宕山に籠城。
警視庁は70余名の警官隊を動員し愛宕山を包囲し投降を呼びかけるも決裂。
8月22日午後6時ごろ、警官隊が発砲し突入。手榴弾で自決を図り10名が死亡。8月27日には残された2婦人が集団自決が行われた場所でピストル自決をしている。

弔魂碑碑文
昭和二十年八月廟議降伏に決するや決起して内府木戸邸を襲ふ
転じて愛宕山に篭り所在の同志と呼応
天日を既墜に回さむとする者 即ち尊攘義軍十烈士
しかれども遂に二十二日午後六時相擁して聖寿万歳とともに手榴弾を擲ち一瞬にして玉砕す 
時俄に黒風暴雨満山を蔽ふ
二十七日払暁 同じき処に座して二夫人亦従容後を遂ふ
忠霊芳魂 永遠に此処に眠る 
遺烈万古尽くる時なからむ
 天なるや 秋のこだまか とこしえに 
 愛宕のやまの 雄たけびのこゑ

愛宕神社

愛宕山鎮座の愛宕神社。天然の山としては東京23区内最高峰。(25.7m)
京都の愛宕神社が総本社。
1603年(慶長8年)、徳川家康の命にて創建。

青松寺と愛宕神社

愛宕山は「爆弾三勇士」「宮城事件」「愛宕山事件」といった慰霊鎮魂の地でもありました。

合掌

「ペルリ提督の像」と「遣米使節記念碑」(芝公園)

令和元年9月撮影

増上寺の向かいの芝公園に。

ペルリ提督の像

マシュー・ペリーの頭像。
Matthew Calbraith Perry(1794年4月10日 – 1858年3月4日)
「蒸気船海軍の父」
1853年に浦賀に入港し、東インド艦隊司令長官として日本開国交渉を行った。
「ペルリ(漢字では彼理)」 と来航当時は表記されていた。

昭和27年(1952)に催された日本開国百年記念祭に際し、ペリーの生誕地・ロードアイランド州ニューポート市から親善のために贈られた像という。


嘉永6年7月(1853年)および安政元年(1854年)に日本の開港のため米国代表として江戸湾を訪れたペルリ提督の出生地でありまた当時日本訪問の出港地である米国ロードアイランド州ニューポート市から親善のしるしに東京都に贈られたものである
米国人フェリックス・ド・ウエルドン作
東京都

その向かい側に。

万延元年遣米使節記念碑

 西暦1860年2月9日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。
副使村垣淡路守範正の詠にいう、
 竹芝の浦波遠くこぎ出でて
  世に珍しき舟出なりけり
 遣米使節渡航より百周年にあたり、日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。
 1960年6月 日米修好通商百年記念行事運営会

なぜ、芝のこの場所にあるのかは不詳。
開国に揺れる徳川幕府と深い関係にある芝増上寺の門前というのが意味深であった。


関連

阿波丸事件殉難者之碑(増上寺)

令和元年9月参拝

阿波丸事件殉難者之碑

芝の増上寺境内に建立。

日本郵船が所有していた貨客船「阿波丸」は、三池丸級貨客船3番船として建造され、もともとは豪州航路向けであったが、開戦後の1943年3月5日竣工となり、海外航路に就役することもなく陸軍徴傭船となる。

阿波丸
 総トン数 11,249トン
 全長 154.97メートル
 最大速力 20.8 ノット

昭和20年、残存する輸送船のなかで程度がよく優秀だった阿波丸は「緑十字船」となる。
日米間の協定で「赤十字船」(病院船)に準じた保護が約束され「緑十字」の識別マークが描かれ、アメリカ軍は阿波丸の航路情報を各部隊に通知し、攻撃しない約束がされていたはずの船であった。

阿波丸事件
昭和20年4月1日、シンガポールから日本に向けて航行中であった貨客船「阿波丸」がアメリカ海軍潜水艦クイーンフィッシュに雷撃により撃沈。
2000人以上の乗客のほとんどが死亡した事件。
阿波丸事件(wikipedia)

合掌

緑十字船「阿波丸」
File:Awa Maru 11249gt.JPG
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Awa_Maru_11249gt.JPG より

碑文
 阿波丸は第二次世界大戦も終りに近い昭和20年4月1日夜半台湾海峡で米国潜水艦クイン・フィッシュ号に不法撃沈された。同船は連合国側の要請に応じ日本軍占領の南方諸地域に抑留されている捕虜および民間人に對する救恤品の輸送に当っていた。国際法でその安全が保障されていたにもかかわらず、この悪魔のような所業により遭難者の数は2千有余名、世界史上最大の海難事故となった。
 加害者に対する責任の追求や賠償交渉も進まないうち、同年8月わが国は無條件降伏し、軍政下の日本政府はなぜか事件の真相を究明せず、米国に対する賠償請求権を国会の決議として放棄した。いまや平和の時代となり、経済は復興したが戦争の悲惨と虚しさは私たちの胸を去らず、帰らぬ人のことを思ひ続け悲しみを抱いて三十餘年、事件の謎は今なほ解けず、船体の引揚げ遺骨の拾集も実行に移されないままである。
 三十三回忌に当り、悲憂を文に記し世に訴へるとともに、法要の心とするものである。
 昭和52年4月1日 
 阿波丸事件犠牲者 遺族一同

納骨
 犠牲者等の遺骨は中国の手により引揚げられ、日本政府派遣の遺骨受領訪中団に引渡された。阿波丸遺族会代表はこれに参加し、かつ分骨をうけ、納骨供養を営んだ。遺骨の拾集は遺族の三十五年の永きに渉る悲願であり、これが実現に尽力された中国の関係者に対し、衷心より感謝をおくる。
 昭和54年 7月5日 納骨
 昭和55年 4月1日 納骨
 昭和56年5月29日 納骨
  阿波丸遺族会


昭和52年10月1日
青木一男著

この慰霊碑は犠牲者の遺族をはじめ、故人がもと所属していた団体及先輩知人、知己並びに親戚等の、多大の協力を仰ぎ完成したものである。

芝の増上寺

殉職救護員慰霊碑と看護婦立像(日本赤十字社)

令和元年9月撮影

港区芝大門の日本赤十字社本社前庭に。

慰霊碑には明治27年の日清戦争から第二次世界大戦において戦時救護に服し、殉職した1317人と、関東大震災や集中豪雨災害などの際の救護による殉職救護員9人の合計1326人の名簿と各人の功績を収録した「遺芳録」が納められている。

合掌

殉職救護員慰霊碑
 この慰霊碑及び救護看護婦立像は、日本赤十字社創立以来、戦地或いは災害の現場において救護活動に従事し、このため殉職された救護員の方々の御霊の安らかならんことを願い、創立百周年行事の一環として昭和52年に建立されたものです。
 立像は、元東京芸術大学教授 菊池一雄氏 の彫塑によるものです。
  日本赤十字社

http://www.jrc.or.jp/activity/international/news/140815_002057.html