「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

昭和塾堂と城山八幡宮

令和元年9月撮影

愛知県名古屋市千種区城山町
城山八幡宮境内、昭和塾堂の場所はかつての末森城二の丸に位置する。

日没の直前でしたが、時間があったので脚を運んでみました。

位置関係

国土地理院より航空写真 USA-M158-A-6-3
1946年06月07日-米軍撮影
googleMapより
末森城址の丘の上に鎮座

昭和塾堂

愛知県が青年向けの社会教育のために建設した教育施設。

愛知県が城山八幡宮より境内を借り受けて建設。
昭和3年(1928)11月竣工。
地下1階、地上3階、塔屋4階、鉄筋コンクリート構造。

当時の日本建築構造学の権威、佐野利器(としかた)博士の助言のもとに愛知県営繕課酒井勝、足立武郎(設計主任)、黒川巳喜(意匠図・黒川紀章の父)、尾鍋邦彦(構造図)等が設計。
昭和塾堂の命名は第21代愛知県知事柴田善三郎による。
(その後、佐野利器博士は、明治神宮造営局参事を務め、名古屋市庁舎・愛知県庁舎建設の顧問にも就任している。)

昭和改元の記念事業として、柴田知事が中心となり青年教育・社会教育の施設「教化殿堂」として建設。
真上から見ても横から見ても「人文字型」に見える設計は、この施設の目的「人づくり」を表現したものとなっている。

昭和18年には軍部に接収され、陸軍の東海軍司令部(東海軍管区司令部・岡田資陸軍中将・第13方面軍司令官 兼 東海軍管区司令官)として使用。

戦後は名古屋大学医学部、愛知県教育文化研究所、名古屋市千種区仮庁舎などを経て、愛知大学院大学大学院歯学部研究棟として使用された。
昭和42年(1967)に愛知県から城山八幡神社に払い下げ。名古屋大学院大学との賃貸借契約は平成29年(2017)に終了している。

現在は城山八幡宮の管理。

昭和塾堂・写真

昭和塾堂付属体育館

昭和6年(1931)建設。木造平屋建。
現在は武道場「養心殿」として使用されている。

城山八幡宮>昭和塾堂

http://www.shiroyama.or.jp/outline/jyukudo.htm

名古屋大学医学部>愛知縣昭和塾堂概要

https://www.med.nagoya-u.ac.jp/medlib/history/archive/print/1933jukudo.html

名古屋市>千種区

http://www.city.nagoya.jp/chikusa/page/0000000647.html


靖國神社遥拝鳥居
殉国碑・忠魂碑(城山八幡宮境内)

殉国碑・忠魂碑
当地、旧田代村の田代小学校校庭に明治以来建っていたもので、昭和21年その維持管理と英霊(田代村出身の戦病死軍人)の慰霊顕彰を目的として当境内に移転されたものである。

靖國神社遥拝鳥居
当碑を通して靖國神社を遥拝する為の標として、昭和62年春、忠魂碑移設40年を記念し「城山三十日講」により造られたものである。

十山字錨

東海海軍連合会誌之

十字字錨
此の錨は往時横須賀港において大型艦艇停泊時の繋留用ブイ繋止錨として使用されたものであります。
重量は四、五トン明治年間の製造と推定されます。
昭和五十五年東海海軍連合会が海上自衛隊より払下げを受け城山三十日講の手によって設置されました。
錨は平和のシンボルでもあり海洋にて戦没された軍人軍属の御霊代として建立したものであります。
 昭和六十一年十月誌
 東海海軍連合会

城山八幡宮・末森城址

戦国時代の織田氏の末森城跡。
天文17年(1548)に織田信秀(織田信長の父)が築城し居城とした。
信秀死後は織田信勝(織田信行・信長の実弟)の城となるが、信長との争いに破れ謀殺される。
その後、末森城は廃城となるが、小牧・長久手の戦いに際して織田信雄が再利用をしている。
城山八幡宮は、織田信行時代の天文22年(1553)に、加賀白山比咩神社を分霊して白山社を祀ったことにはじまり、明治45年(1912)に末森城址が八幡宮の所有となり、近隣神社と合祀して、昭和11年(1936)に現在地に遷座。昭和31年に「城山八幡宮」と改称。

城山八幡宮 公式サイト 由緒

http://www.shiroyama.or.jp/siroyama-3.htm

末盛城跡
 天文17年(1548)織田信秀はこの地に城を築き、古渡城から移った。守山城を守る弟信光と連携して、三河の今川方に対する備えのためであった。翌年、信秀はこの城で病死し、三男信行が城主となった。その後、信行は兄のぶながと対立し、稲生原の合戦を起こして敗れ、永禄元年(1558)清洲城で謀殺された。城は翌年廃城となったといわれる。
 城山八幡宮の境内として保護されたため、戦国・織豊期の城郭遺稿がよく残っている。
 名古屋市教育委員会

末森城空掘跡
昭和8年建立の鳥居
昭和11年7月造の石鳥居を近年に塗装し直しした様子。
参拝時は、日没直前故に社務所は閉まっており、
御朱印はいただけませんでした。

近隣には、近代建築として
昭和3年竣工「愛知学院大学楠元学舎第1号館」(旧・ 旧制愛知中学本館 )
大正12年竣工「名古屋地方気象台」
そして、名古屋陸軍墓地などもあるが時間切れ。またの機会。

十河信二・新幹線建設記念碑(新幹線の父)

令和元年9月撮影

東海道新幹線18番・19番ホームの先端。
1973年に建立された「東京駅新幹線建設記念碑」がある。

碑の表には「十河信二のレリーフ」

十河信二 座右の銘「一花開天下春」

碑の裏面
「新幹線開業」記念と「鉄道百年」記念

新幹線 開業
鉄道百年 1972.10.14 日本国有鉄道
東京-新大阪 1964・10 552,6km
新大阪-岡山 1972・3 180,3km
岡山-博多 1975・3 443,6km

十河信二
1884年4月14日-1981年10月3日
第4代日本国有鉄道総裁を務め「新幹線の父」と称された人物。
鉄道院官僚、南満州鉄道理事、愛媛県西条市長。

第4代日本国有鉄道総裁。
日本国有鉄道総裁としての在任期間は1955年~1963年。
東海道新幹線建設を推進するも完成の前年に総裁職から退任。

1964年10月1日「東海道新幹線」開通。
ホームで行われた「出発式」に国鉄は十河を招待しなかった。

1973年、招待されなかった出発式が執り行われた場所に「東京駅新幹線建設記念碑」が建立。

その碑には十河信二の功績を讃え、十河のレリーフとともに座右の銘「 一花開天下春 」が刻まれている。
記念碑を目にした十河は一言「似とらん」と感想を発したそうである。

十河信二は東海道新幹線の出発を見つめ続けていた。


青梅鉄道公園

場所はかわって、青梅鉄道公園

青梅鉄道公園
日本国有鉄道
総裁 十河信二

明治5年、はじめて鉄道が新橋、横浜間に開通して以来、ここに90周年の輝かしい記念日を迎えるにあたって、永い間活躍した歴史的車両を保存し、あわせて国民の皆様に国鉄をよく理解していただくために、風光明媚な青梅に鉄道公園を設立しました。
 昭和37年10月14日


早川徳次像(地下鉄の父)

令和元年8月撮影(令和5年写真更新)

日比谷線銀座駅の地下通路に。


早川徳次(はやかわ のりつぐ)

明治14年(1881)10月15日~昭和17年(1942)11月29日

東京地下鉄道(のちの帝都高速度交通営団→東京地下鉄・東京メトロ)の創業者。
日本に地下鉄を紹介・導入したことから「日本の地下鉄の父」と称された。
山梨県出身。郷里の先輩に根津嘉一郎(東武鉄道・南海鉄道に関わった実業家、日本の鉄道王)がいる。
早川は根津の右腕として手腕を発揮し佐野鉄道(東武佐野線)や高野登山鉄道(南海高野線)の再建に成功。

大正9年(1920)8月29日に東京地下鉄道株式会社を設立。
大正14年(1925)9月27日に浅草ー上野間の地下鉄工事を開始。
昭和2年(1927)12月30日、浅草駅から上野駅まで開業。(現在の東京メトロ銀座線の同区間)

早川徳次の像は昭和16年の朝倉文夫作。
前年昭和15年の皇紀2600年記念式典において、早川徳次が緑綬褒章を賜ったことを記念し翌年の昭和16年に株主・社員一同によって設立された。
早川徳次はその翌年昭和17年に61歳で亡くなっている。

もともと早川徳次胸像は、昭和16年(1941年)に、新橋駅に建立されていたが、開通50周年に際して1977(昭和52)年に、銀座駅に転座している。
この旨は、金春安明様よりコメントを頂きまして、再確認をしました。

2025/07/13、投稿します。様々なページに、「東京メトロ銀座駅構内の早川徳次像」と紹介されてますが、「地下鉄開通50周年記念行事」までは早川徳次氏の会社と、渋谷駅から来た会場の接合点の「地下鉄銀座線の新橋駅」に有った像を銀座駅構内に移設したのです。地下鉄の博物館に説明が有りますし、能楽の金春安明の記憶にも新橋から銀座に移設という記憶あり。
2025年7月13日 11:18 PM

メトロアーカイブのサイトにも「早川徳次胸像」に関して下記の記載がありました。

早川徳次氏胸像の除幕式
地下鉄開通50周年記念行事のひとつとして、新橋駅構内に設置してあった「早川徳次氏の胸像」を銀座駅に移転し除幕式を行った時の様子。
その他の記念行事としては、記念乗車券の発売や、日本橋三越での地下鉄50年展などがあり、それぞれが大盛況であった

https://metroarchive.jp/pic_year/year1970/box09-082.html


早川徳次胸像

銀座駅に。

社長早川徳次像

以下は、駅改修工事中の写真(令和元年)

地下鉄の父
早川徳次像
(1881~1942)
朝倉文夫作

氏は明治14年山梨県に生まれ
帝都高速度交通営団の前身である
東京地下鉄株式会社を創立、幾多の困難を克服
昭和2年12月30日アジアで最初の地下鉄
浅草~上野間(2.2キロ)を開業させ
引き続きて銀座へ新橋へとレールを伸ばし、
今日に見る地下鉄時代の礎を築きました。

社長早川徳次像
夙ニ帝都ヲ立體的近代都市タラシムルノ計画ヲ樹テ 東京地下鐵道株式會社ヲ創立シ 未曾有ノ難事業ヲ完成セリ 洵ニ是レ我國交通史上ニ一新紀元を劃ヌルモノ 天下萬人之ニ依ツテ享クル利便頗ル大ナリ 其ノ功績畏クモ 天聴ニ達シ皇紀二千六百年記念式典ニ際シ緑綬褒章賜フ 茲ニ同志相謀リ壽像ヲ建立シテ永ク後世ニ傳フト爾云

昭和16年5月
重役株主社員一同

日比谷線・銀座駅

余談
早川徳次(はやかわのりつぐ)は、「東京地下鉄道」の創業者、地下鉄の父
早川徳次(はやかわとくじ) は、「シャープの創業者」


写真を追加(2023年1月)
駅改修完了後の写真

旧多摩聖蹟記念館(多摩市)

令和元年8月

京王線「聖蹟桜ヶ丘駅」。京王線ユーザーであれば馴染み深い駅名。

気にはなっていましたが、実はまだ「聖蹟」に脚を運んだことがなく。
近いと言えば近いので、ちょっと赴いてみました。

京王電鉄「聖蹟桜ヶ丘駅」
格別に美しい駅名だと思います。

ここから「記念館」行きのバスに。

旧多摩聖蹟記念館

明治天皇が当地に行幸されたことを記念して作られた施設。

旧多摩聖蹟記念館 多摩市指定有形文化財

 明治10年代、明治天皇が30才の頃、ここ連光寺の山や多摩川に兎猟 や鮎漁を行うため、4回ほど訪れました。
 時の天皇が行幸された地を「聖蹟」と呼び、全国的に多くの記念碑がみられます。
 この記念館は昭和5(1930)年に、明治天皇の偉業を讃えるため、元宮内大臣田中光顕が中心となり、当時の人々による土地の寄付や工事の協力などによって建設されました。
 「聖蹟桜ヶ丘」という駅名は、この建物の名前をもとにつけられたものです。
 この建物を設計した関根要太郎は、20世紀初頭にヨーロッパでおこった建築革新を目指す運動に関心をもった建築家といわれています。大正末期から昭和初期にかけての日本の近代建築は、鉄筋コンクリート構造の急速な普及に加え、外観のデザインとして欧米の古典主義的なものから、モダンデザインのものまで、さまざまな様式の影響を受けた建物がみられます。
 この記念館は、オーストリアでおこったセセッションと、ドイツのユーゲントシュテイルと呼ばれる建築デザインの影響をみることができます。数少ない多摩地域の近代洋風建築の中でも完成度が高く、最も優れたものであります。
 このように貴重な建築作品であることから、文化財保護の目的に沿って保存・公開すると同時に、建物の有効活用をはかるため、ギャラリーとしてもご利用いただくことができます。
 昭和61年6月24日指定
 多摩市教育委員会

多摩聖蹟記念館
昭和5年9月
伯爵田中光顕敬著

多摩市指定文化財
東京都「特に景観上重要な歴史的建造物」選定

関根要太郎と蔵田周忠が設計。
近代式鉄筋コンクリート造り、両袖の付いた円形の大殿堂。
起工1929年10月12日、竣工1930年6月26日

曲線の多用した大胆なデザインが美しい建造物。

渡辺長男作、明治天皇騎馬等身像(昭和5年)は圧巻。
明治天皇が当地に初めて訪れた30歳の姿を再現。

内部は撮影禁止のため、パンフレットと図録より。

五賢堂

五賢堂
 1968年(昭和48年)、明治維新100周年を祝して全国的に記念行事が行われました。当時、多摩聖跡記念館を管理・運営していた財)多摩聖跡記念会でも、維新の志士を顕彰する目的で「五賢堂」を建設することにしました。
 「五賢」とは、明治維新に功績のあった五人の志士(三条実美、岩倉具視、木戸孝充、大久保利通、西郷隆盛)を言います。五賢堂は神奈川県大磯の元総理大臣吉田茂邸にもありますが、西郷隆盛の代わりに伊藤博文が数えられています。西郷隆盛は西南戦争で朝敵とされましたが、吉田茂のすすめもあって五賢に数えられたとされます。
 1968年(昭和43年)11月3日に建設式典が行われ、小金丸幾久が制作した五賢のブロンズ製胸像が安置されました。なお、明治天皇の立像も小金丸幾久が同時期に作成したものですが、初代は記念館内に置かれており、1986年(昭和61年)の改修工事の際に五賢堂内に移されました。

明治大帝( 五賢堂 )

明治大帝

第一二二代天皇御名睦仁
御在位一八六七、一九一二年
嘉永五年九月二十二日孝明天皇の第二皇子として京都で御誕生され御年少の折のよび名を祐と称された
慶応二年十二月孝明天皇崩御のあとをうけ慶応三年一月九日御践祚
翌慶応四年一月に元服三月に五ヶ条の御誓文を神前に誓い九月八日明治と開眼して一世一元の制を定めた
十二月一条天皇の三女美子昭憲皇太后皇后に迎えられた
明治天皇は統帥権をもちみずから積極的に政治に携わられた
御性格は英邁御在位期間における国威の著しい伸長とあいまって英明の君主とうたわれ大帝とたたえられ国民の尊敬を一身に集められた
一九一二年全国民の病気回復の願望空しく病没京都伏見桃山御陵に葬られた
御歳六十一才であった

明治維新五賢堂建立の趣旨
五賢堂は明治維新にあたり明治大帝を補佐し新日本の建設に偉勲を樹てた三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛の功労を後古に伝えるため明治百年に際し明治百年記念事業の一環として明治維新五賢堂建立委員会を設け全国各方面にわたる有志のご協力によりその建立の実現をみたものであります
 昭和43年11月3日
 (以下略

五賢人(五賢堂)

三条実美之像

岩倉具視之像

木戸孝允之像

大久保利通之像

西郷隆盛之像

五賢堂のとなりに石碑がある。

田中光顕公歌碑

 結髪勤王事中年侍聖君
 老來濟世志不肯伍仙群
  奉祝 青山田中先生耆徳
 
 皇紀二千六百年三月二十八日
 田中光顕公追慕會

明治天皇御製
昭憲皇太后御歌 歌碑

明治天皇が明治17年(1884)に当地へ行幸された際の御製と、昭憲皇太后が詠まれた御歌2首。

明治天皇御製
 春の半頃山ふかく狩し
 ける折に鶯の鳴くを
 きゝて
春ふかき山の林にきこゆ
なりけふをまちけむ鶯の


昭憲皇太后御歌
 御狩場よりかへらせたまひ
 ける日狩場雪といふことを
兎とる網にも雪のかかる日に
ぬれしみけしを思ひこそやれ
 おなしおり深山鶯といま
 ことを
春もまたさむきみやまの
鴬はみゆきまちてや鳴き
はしめけむ

正二位勲一等伯爵 田中光顕 謹書

明治百年
記念の樹

明治天皇御野立所跡の碑

皇紀二千六百年仲秋建立(1940年/昭和15年)

明治天皇御野立所
海軍大将末次信正謹書

御野立所からの遠望

桜ヶ丘公園

参考リンク

http://www.city.tama.lg.jp/0000003475.html

http://www.city.tama.lg.jp/0000001541.html

https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index065.html

大正殿と富士森公園(八王子)

令和元年8月

中央線と京王線の中間あたり。位置で言うと、京王線山田駅と中央線八王子駅の間にある「富士森公園」。

ちょっと脚を運んでみました。

大正殿(浅間神社拝殿に流用)

昭和2年(1927)、 大正天皇多摩陵での「大喪の儀」で「祭場殿」として使用された建物。同年に下賜され「富士森公園」に移設。同じ年には「浅川駅(現在のJR高尾駅)」も移設されている。

昭和28年(1953)に、「浅間神社」の拝殿として公園内から富士塚前に移築。現在に至る。

公園入口の「大正殿」標石は昭和4年3月建立。

浅間神社は、慶長年間(1596~1613)に関東代官頭として八王子に陣屋を構えた大久保石見守長安の勧請による。

富士森公園ノ浅間神社
 (台町ノ浅間神社)

本務社は八幡八雲神社。

浅間神社縁起
 浅間神社は木花咲耶姫を祭神とし、一つに富士浅間様とも言い、駿河国の本宮浅間神社を分社したものです。
 慶長年間(1596~1613)、大久保石見守長安が高さ約二丈(約6m)周囲六十間(約109m)余りの塚を築き、頂上に浅間神社を勧請したのが当社の起源です。
 この場所は、往古より樹木生い茂れる森にて、藤森と言い、塚も藤塚と書かれていましたが、慶長年間、富士浅間神社創立後は富士森又は富士塚と書くようになりました。
 宝永年間(1705頃)、社殿破壊に及び、延享二年(1755)改めて石造りの社を再建したのが本殿で、現在の奥の院石造りの社です。又、天明六年(1787)には石の階段が造られました。当社は元々拝殿がなく、祭典は毎年山上で行ってきました。例祭は八月一日で七月三十一日の宵宮より参拝者で雑踏し、境内には団子を売る商人が軒を並べ、この団子を食べる者は暑気にあたらぬとの言い伝えに、別名『団子祭り』とも呼ばれる様になりました。
 この団子祭りの起こりは、明治の中頃社頭に住居して宮守をして居た者が、当社に献じた洗米で団子を作り、希望者へ分与したのが始まりです。
 当社の例祭に行う、湯の花の神事は、心身の汚れを祓い清め、すがすがしい精神で氏子一同神へ奉仕する意味です。
 当社は子授かり、安産の神として信仰されていますが、この由来は、天照大神の御孫瓊々杵命の皇后である当社の祭神木花咲耶姫命が、一夜にして身ごもったため夫の命より疑いを受けた際、身の潔白を立証するため、産屋に火を放ち、火中で皇子を安産されたと言う古事に起因するものです。
 現在の拝殿は昭和二十八年に大正殿(大正天皇のご大葬の時多摩御陵に造られた式典用の建物)を移築し建て直したものです。
 昔より古い歴史を持つこの浅間神社は今、台町一丁目、台町二丁目、台町三丁目、台町四丁目及び万町二丁目によりお護りされています。

灯籠

灯籠は「八王子軍人中」の奉納。
明治39年11月建立。

御大典記念植樹

御大典記念植樹は昭和3年11月。

JR高尾駅は、 大正天皇の大喪列車の始発駅として「新宿御苑に設置された仮設駅舎」(新宿御苑宮廷臨時停車場)を 大正天皇 多摩陵 の玄関口である八王子高尾に移築したもの。

https://senseki-kikou.net/?p=1387


八王子市戦没者慰霊塔(忠霊塔)

明治29年に日清戦争の犠牲者のために忠魂碑が富士森公園に建立されたことに始まる。日露戦争の忠魂碑も建立されたが、終戦に際して撤去。
昭和40年に現在の慰霊塔が改めて建立された。

灯籠は「在郷軍人会八王子市聯合分会」。戦前の気配を唯一残している。

碑文
 西南の役から太平洋戦争に至る殉国の英霊および戦災殉難の霊をここにまつる
  昭和40年10月
  八王子市長 植竹 国次

八王子海軍わだつみ会記念樹

昭和41年4月15日


平和の像

富士森公園内に。

八王子市は先の第二次世界大戦において大きな戦禍を被り多くの
尊い人命が犠牲になりました。
このような戦争による悲惨な生活は再び繰り返してはなりません。
よって、非核平和都市宣言十周年にあたり世界の恒久平和を願う
市民の象徴としてここに平和の像を建立します。
 平成五年一月
 八王子市


これは、昭和20年(1945年)8月6日、原子爆弾の被災を受けた広島市役所旧庁舎の前庭の敷石の一部です。


これは、昭和20年(1945年)8月9日、原子爆弾の被災を受けた長崎市山里国民学校の校舎の壁の一部です。


忠魂之碑

富士森公園内の浅間神社に。
篇額は元帥陸軍大将 大山巌 書、明治39年11月建立。日露戦争の戦没者を祀る。

石坂昌孝之碑(放庵石坂君碑記)

富士森公園内の浅間神社に。
篇額は 海軍大将 樺山資紀 書。
大正5年建立。

石坂昌孝は明治期の政治家、自由民権運動家。


浅川・大和田橋

この節のみ2017年11月撮影。
八王子空襲の戦跡遺産として掲載しておきます。

焼夷弾・弾痕の保存について

 八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に米空軍のB29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、2,000余名が負傷し、旧市街地の約80%の家屋が焼失する被害を受けました。そのとき多くの市民が大和田橋の下に避難し、尊い命が助かりました。
 大和田橋の歩道上には、この空襲のとき透過された焼夷弾の跡が17箇所残っています。
 車道の部分は過去の補修により弾痕は残っていませんが、現在歩道上に残っている弾痕数から推測すると橋全体では約50戸以上の焼夷弾が投下されたと思われます。建設省相武国道工事事務所では、この大和田橋の補修工事にあたり焼夷弾の弾痕を保存し太平洋戦争の痕跡を永く後世に伝えるものです。
 弾痕の保存については、上下歩道上各1箇所は、透明板で覆い、他15ヶ所は色タイルで、その位置を示してあります。
 平成9年10月
 建設省関東地方建設局
 相武国道工事事務所

八王子関連の戦跡は以下も参考に

日本再建ノ三大恩人銅像(八王子・雲龍寺)

令和元年8月参拝


日本救民の恩人
 諾楽守 摩訶薩 元帥 (アメリカ合衆国・ダグラスマッカーサー元帥) 
日本再興の恩人
 蔣中正 大総統 (中華民国・蒋介石) 
日本独立の恩人
 謝得和畄天寧 大統領 (スリランカ・ジャヤワルデネ大統領) 

曹洞宗 天海山 雲龍寺

( 東京都八王子市山田町 )

京王線山田駅から南に10分ほど歩いたところに鎮座している寺院の駐車場の片隅に三体の銅像があった。
この寺院では、マッカーサー、蒋介石、ジャヤワルデネの3氏を「日本再建の三大恩人」として顕彰されている。


諾楽守 摩訶薩 元帥閣下
(ダグラスマッカーサー元帥)

BENEFACTOR IN RELIEF OF JAPANESE PEOPLE
COMMANDER-IN-CHIEF OF OCCUPATION FORCESE IN JAPAN
GENERAL DUGLAS MacAUTHOR

日本救民の恩人
日本占領軍総司令官
 諾楽守 摩訶薩 元帥閣下(ダグラスマッカーサー元帥)


蔣中正 大元帥閣下
(蒋介石) 

BENEFACTOR IN JAPANESE RECONSTRUCTION
PRESIDENT OF REPUBLIC OF CHINA
GENERAL CHIANG CHUNG CHENG

日本再興の恩人
中華民国大統領 蒋中正 介石 大元帥閣下
(蒋介石)


謝和畄得天寧 大統領
(スリランカ・ジャワエルデネ大統領) 

BENEFACTOR IN JAPANESE INDEPENDENCE
PRESIDENT OF SRILANKA
Dr J.R.JAYEWARDENE

日本独立の恩人
翠巒華国大統領  謝得和畄天寧 博士閣下
 スリランカ国大統領 ジャエワルデネ博士閣下
  (ジャヤワルダナ・ジャワエルデネ )


日本再建ノ三大恩人 銅像建立報恩之記

日本亡国
 1931(昭和6)年9月18日。日本は中国に難癖つけ兵火を開き、侵略拡大11年。彼我疲弊の極、無謀にも41年極月8日、釋尊成道の日、米国真珠湾に無通告の暴挙。鬼畜米英蘭支に正義膺懲の開戦とラジオが天皇詔勅を怒鳴る。更に東洋諸国に無差別侵攻。爾来4年。相手国立ち直り、不意打緒戦の勝利夢と消、陸海空三軍は詐称転進、敗退を続け、遂に全土灰燼に帰す。
 ’45(昭和廿年)盂蘭盆会8月15日、敵五十五ヶ国連合軍に無条件降伏せりと天皇ラジオ放送。二千六百年神州不滅と誇った大日本帝国遂に滅亡。天皇、政府、人民、国土。戦勝国軍下に入り明日の運命分からぬ民草のみ残る。

蔣中正大総統(蒋介石)
 中華民国。14年間全土侵攻され、二千万殺戮さる。東北は奪われ満州国とされ広大国土荒廃に帰す。
 然るに日本降伏となるや、蔣大総統は、「以徳報恩」(とくをもってうらみにむくいん)の大号令を発し、「悉く無事故国へ帰し、賠償等求めてはならぬ。」と厳命。何應鉄将軍は船車総動員。日本軍民二百十万の青壮を僅か十ヶ月にて家郷へ送還させた。
 東北侵攻のソ連共産軍に老幼婦女は凌辱虐殺され、捕虜は酷寒シベリヤ苦役幾年の果て、斃る十幾万。今も残留孤児の哀話絶えぬ例を比較せば、蔣大総統、何将軍、中華人民の大慈悲忘れ得ようか。
 日本の復興これより始まる。

摩訶薩元帥(マッカーサー元帥)
 ’45(昭和20)年8月30日、連合国代表占領軍総司令官 諾楽摩訶薩元帥、厚木に飛来。午後2時05分、コーンパイプを手に丸腰でタラップ下りる姿見て、生き残り日本人はホッと安堵の胸撫で下ろす。
 爾来7年。天皇、政府、官民悉く元帥の命の下に生きる。昨日の敵が今日飢餓に瀕しているを見て、同じく窮乏の本国より物資食料取り寄せて、元帥は一億餓死を救ってくれた。農家は米を隠したが、民家は摩訶薩給与で生き延びて「摩訶薩は神様だ。」と合掌した。まさに菩薩摩訶薩(ボーサーマッカーサー)である。
 足利正明創立の孤児院(村長の反対で閉鎖)、養老院、保育園、老幼すべて米国食料で命を繋いだ。元帥帰国を知り日本民衆は皆泣いた。

謝和得天寧大統領(ジャヤワルデネ大統領)
 ’51(昭和26)年9月4日。米国桑港(サンフランシスコ)にて戦勝五十一ヶ国が日本処分の講和会議である。戦中、日本にゴム等物資を奪取され苦しんだ錫蘭 (セイロン)翠藍華(スリランカ)国代表 謝和得天寧 ジャワエルデネ (現大統領)博士は堂々佛陀の教えを説き、「報怨以恨 恨永劫不尽。忘恨報慈悲」「狂気の戦いは終った。彼我倶に疲弊の今、日本に即時独立を許し、賠償等求めまい。日本は昔の通り亜細亜の兄、亜細亜の老となってくれ。」吉田茂日本代表は感泣し、米国は深考。ソ連圏は脱退し、四十八ヶ国の調印で、日本は分割統治から免れた。

報恩微衷
 主恩忘れぬハチ公は庶民の感動で首都駅頭に銅像となり、人間の師範となる。貴い人の身を享け恩を忘れて恩を忘れては犬畜生に劣る。恩を仇で返えす鬼畜ふえゆく日本はどうなる。
 大被害蒙った敵国の大慈悲で新日本は生れ、今日の繁栄を得た。然るに、物で栄え心で亡びゆく今の祖国を悲しみ、四十余年前の大恩忘れてならぬと子孫に伝うべく、その像をつくり、報恩の微衷を捧げ後世への警鐘とする。

 1987(昭和62)年10月21日
  中華民国何應欽将軍九十七才永眠ノ日
  天海山 37世 入笠沙門 曹洞宗大教師 足利正明 並 親友一同

この碑文を作成された、ご住職は独特の歴史感ですが、ここではその是非には触れません。解釈の線引は必要ですが、戦後の日本の発展を考える上で、この3人を欠かすことができないということには同意です。

雲龍寺第37世 足利正明 氏は、戦役から帰郷し当寺を運営し、平成19年3月に92歳で遷化されている。

https://unryuuji.com/

ちなみに、この八王子の雲龍寺、長野県戸倉上山田温泉「日本歴史館」の建屋と敷地を買い取ったらしく、その地にある「雲龍寺公園」では、同じようにこの像が陳列されているというが放置状態にあるという。未訪問。

小野光賢と小野光景父子にまつわる史跡散策(信州小野と横浜)

平成28年4月ほか

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。

というよりも、もともと友人が「この記念館」に訪れるために事前予約をしており、私が便乗した、という機会があった。


小野光賢光景記念館

〒399-0601
長野県上伊那郡辰野町小野985
TEL 0266-46-2001(要事前連絡)

小野光賢と小野光景親子の記念館

信州小野の名士であった小野光賢(みつかた・小野兵助とも)は、創生期の横浜で活躍し、横浜発展の礎を築き横浜開港の創始者ともいわれている人物。
文政元年(1818年)信州小野生まれ。
安政6年(1859年)に横浜に出て貿易を営み、草創期に横浜発展に尽力し町名主や横浜副市長などを務めた人物。

光賢の子である小野光景(みつかげ)は横浜商法学校(現市立横浜商業高校)や横浜正金銀行などに絡む人物。

明治から大正にかけて、創生期の港町横浜の縁の下を支えた小野親子の記念館。

現在の小野家の当主は小野光賢の曾孫に当たる方。
小野家当主自ら小野光賢光景記念館の隅々を案内していただきました。話が非常に面白く時間を忘れるほどに。
以下、順番に記念館を見ていきます。


以下、館内写真は許可を得て撮影

光賢庵

小野光賢終焉の庵という。

光賢庵
横浜開港の創始者とうたわれた兵右エ門光賢(通称兵助)終焉の庵である。
安政6年(1859)横浜開港の時、苗字帯刀御免の大名主をつとめた兵助は、開港といふ激務のため健康をそこない「わが素志、成就のときなり」と時の県令陸奥宗光公に辞意を表明、許されて職を長子光景に譲り、明治5年十有余年ぶりに故郷信州に帰り、風月を共に悠々自適、静養につとめていたが、明治33年(1900)7月27日83歳の天寿を全うし、
ここ光賢庵に於いて波瀾の生涯をとじた。
 館長

蔵も残っている。

小野光賢光景記念館 館内

建物の創建年代は不詳。(聞いておけばよかったです)
信州小野に唐突に現れた洋館にビックリ。

小野光景翁像

横浜で活躍した小野光賢は幕末の三舟とも親交があり、記念館には勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟から小野光賢に贈られた書も展示してあった。

小野の集落を見下ろす高台に、小野光賢の像があった。
郷土の名士を誇る記念像。
例の如く戦中供出されて、今は台座のみ残っている。 (後述)
台座のレリーフは小野家の紋章。

レリーフは台座から落ちていたのを見つけた人が届けてくれた、と。
4面のうち、3面はまだ台座に残っていました。

台座から落下したレリーフ
小野光賢像の台座

戦前の外交官・来栖三郎は実は小野家の親戚にあたる。
小野光景の義弟が横浜財界を代表する来栖壮兵衛。その子が外交官の来栖三郎。

曜変天目茶碗(稲葉茶碗)
国宝茶碗にも小野家が絡んでいたり。
将軍家から春日局・稲葉家へと伝えられ、小野光景が大正7年に購入し昭和9年に岩崎小弥太へ。現在は静嘉堂文庫美術館所蔵。

旧家ゆえ色々と歴史的なものも多く。
川中島の合戦絵図。
この絵の面白いところは信玄が謙信に追われ騎馬で後ろを見せて逃げていたり。 ここは信玄の地元たる甲州ではなく信州諏訪ですから(意味深

光賢墓碑陰記

拓本・総持寺
日下部東作書

光景頌徳碑記
拓本

小野病院前庭
貴族院議員高橋作衛選

小野光景は横浜正金銀行頭取、横浜商工会議所会頭、貴族院議員などを歴任。郷里小野では病院設立、紡績工場運営などに携わっている。

明治21年9月29日 公論新報(明治の新聞)

私選東京市長最高点者 福沢諭吉 (右)
私選横浜市長最高点者 小野光景 (左)

あの福沢諭吉と並んで取り上げられてました。

小野光賢光景記念館 は要事前予約となりますが、ご興味ございましたら是非に。
当主の話が面白く展示も興味深いもの多く気がつけばあっという間に二時間を過ごしてしまいました。

小野光賢・光景記念館 紹介サイト

http://www.shiojiri.info/~ryouono/onomitsukage/HTML/index.html

場所

https://goo.gl/maps/t3yvPSQaXtXYbSrv7


小野宿


南塩終点の地

太平洋沿岸で取れる塩が伊那谷・伊那街道を北上してこの地(南小野)まで運ばれた。北隣の松本藩では越後の塩が糸魚川街道によって北小野まで運ばれた。
南北の小野が南北の塩の境目でもあった。


小野光景翁寿像
(小野公園)

小野駅の南東側、小野光賢光景記念館 の東側。
丘の上に小野光景の像が・・・あった。

小野公園

https://goo.gl/maps/jUpdtku6XDqXXdz58

小野光景翁寿像の台座。

小野光景翁寿像 の 台座

小野光景翁と寿像
 小野光景(みつかげ)は父光賢(みつかた)の長子として1845年(弘化2年)に生まれ、21歳の時、国内の政治混乱に「男子時至れり」と横浜に出奔。
 先に横浜に出て行政面で名を成した父の跡を継いで「横浜港内第一区小一区戸長」を手はじめに要職を歴任する傍ら生糸貿易にかかわり、横浜商法学校(現・市立横浜商業高校)創設、横浜商法会議所(現・横浜商工会議所)会頭、横浜成金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)頭取を務めるなど、貿易商としても成功しました。横浜は光賢(1900年没)と父子が活躍した縁とゆかりの地です。
 以来、一世紀半の歳月が流れ、2009年に横浜市は開港150周年を迎えました。改めて小野光賢・光景父子の功績が脚光を浴び、横浜市と新たな交流も始まりました。
 特に光景翁は郷里である小野(旧・小野村)の地にも、小野駅敷地を寄贈、小野病院(現・小野国保診療所)、小野図書館の設立、高等小学校の敷地、校舎の建設など、郷里の発展のために多大な貢献をされました。
 これらの功績を記念して、郷里の人々はこの小野公園山頂に小野光景翁の寿像を小野家の方向に向けて1919年(大正8年)に建立いたしました。その後、銅像部は第二次世界大戦のために供出され、現在は台座だけになっていますが、それでもこの大きさには圧倒されるものがあります。
 平成22年9月吉日
 小野地区振興会

小野公園から見渡す小野の街なみ。
小野光賢と小野光景親子が育んだ街。


忠魂碑

右は乃木希典公、左は有馬良橘公


小野光賢翁・小野光景翁生誕記念碑


横浜開港と郷土発展の恩人
小野光賢光景父子の実績

横浜開港と郷土発展の恩人
小野光賢光景父子の実績

撰文 明海大学教授 岩下哲典
 小野光賢は、文政元年(1818)小野村名主小澤小左衛門の二男に生まれ、のち名主小野光珍の養子となった。安政6年(1859)42歳の時、幕府の開港事業を知り、これに応じて横浜に出た。横浜本町5丁目はじめ太田町等の名主を勤め、明治元年(1868)新政府設置の公選横浜町名主や副市長となった。また小野村周辺から横浜に出た郷土の人士をよく世話した。激務により退職し帰郷後、同33年7月7日、小野の光賢庵にて死去した。享年83。
 小野光景は、光賢の長男として弘化2年(1845)小野村に生まれた。慶応2年(1866)父光賢を頼って信州を出た。横浜では光賢を補佐して町政に携わり、神奈川県会議員となり、又貴族院議員に勅任され国家に貢献した。そのほか横浜商法学校(現Y高)設立者、横浜正金銀行頭取、横浜商法会議所会頭、横浜本町他十三か町貿易商組合総理、横浜鉄道会社創立発起人等を務めた。まさに横浜の財界発展やインフラ整備に果たした役割は大きかった。のみならず、小野高等小学校敷地・校舎建設費や小野駅敷地の寄付、小野病院の設立等々揚げて枚挙の遑あらざる偉業を成し遂げた。大正8年(1919)9月18日横浜別邸にて死去。享年74であった。
 小野光賢光景父子は、横浜開港とその発展のみならず常に郷土に思いを馳せ、その発展に多大なる貢献をした。ここに光賢翁生誕二百年を記念して一碑を建て、光賢・光景翁の実績を永く後世に伝えることを願ってやまない。
 平成24年9月9日 建立
 小野光賢・光景翁
 生誕記念碑建立委員会
 小野地区・北小野地区
 辰野町 


詠帰亭の碑

詠帰亭の碑
大正8年5月有志相はかり郷土出身の実業家小野光景翁の寿像が建立された際、翁のため此の地に別荘を新築。中国の故事に倣って詠帰亭と称した。然しながら翁は一度も入来することなく同年9月逝去。
以後詠帰亭は地域の人々の社交の場として利用されていた。
昭和3年11月、詠帰亭は昭和天皇即位の大礼記念事業として小野村青年会館と改称され、同時に図書館を併設、小野村がこれを管理することとなった。
その後、昭和28年に至って図書館は移設され、昭和36年辰野町へ合併するにあたり辰野町小野財産区の所有となり小野商工会工業部によって管理されてきた。
ところが、平成7年8月28日未明の火災によって全焼。建設以来70有余年にして詠帰亭の歴史は幕を閉ることとなった。
ここに詠帰亭の由来の一端を記し、末永く記憶にとどめるものである。
 平成8年10月吉日
 辰野町小野財産区


小野病院

小野光景氏が設立した小野病院は、今は両小野診療所となっている。


小野駅

小野駅の敷地も小野光景氏の寄付。
小野駅は明治39年(1906)、中央本線の岡谷-塩尻間開通と同時に開業。

小野の集落で、小野光賢光景父子を偲びし歴史散策。あまり知ることない郷土史の一幕に触れることができたのは貴重な経験。知的好奇心への良き刺激となりました。


場所と月日はかわって、平成28年(2016年)8月。
横浜の本牧に、脚を運んでみました。
小野の集落を訪ねたときと同じ友人と一緒に。

本牧臨海公園

本牧臨海公園が「小野光景別邸」跡地、という。
三渓園の隣。

https://goo.gl/maps/jtGGXc6NQb9Q4Jne7

公園には「横浜市 八聖殿 郷土資料館」があり、この場所もかつては「小野光景別邸」であった。

横浜市 八聖殿 郷土資料館内にも、小野光景の紹介がある。

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/hasei/

https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/midori-koen/koen/koen/daihyoteki/kouen006.html

https://shimin-rinkai.jp/

本牧臨海公園と小野光景氏
 ここ本牧臨海公園一帯は明治時代に生糸貿易商として活躍した小野光景氏の約2万6千坪(約8.6ha)に及ぶ別荘地であった。
 海が見渡せる丘に洋館を始めとする幾つかの建物が点在していた。
 当時、別荘地の一部分は市民に広く公開され、「小野公園」と呼ばれていた。

横浜開港の功労者
小野光景別邸跡
 かって、この地は幕末の激動がようやく鎮まった安政六年(1859)横浜開港の創始者とうたわれた横浜町名主小野塀上門光賢の長子小野光景の広大な別荘地で当時この公園と呼ばれていました。豪華絢爛たる洋式別荘は外国使節団当承知ノ場とされ、開港にかかわる歴史的場羽陽な場所であった。
 明治五年(1872)、光景は父光賢の職を継ぎ、次いで明治十三年(1880)、わが横浜商工会議所の創設を始め、横浜学校の始、壮行・如春の二学舎の開設、横浜正金銀行開設、横浜商法学校設立、新港埠頭の建設、八王子横浜間鉄道の新設等々、揚げて枚挙にいとまなく主唱者として貢献し、更に、明治十六年(1883)には自ら貿易行小野商店を開業するなど、障害の前半を成二に、後半を実業に捧げて燃えつくし、と横浜の地鶴見の総持寺の一隅に、父光賢の墓とならんで葬られている。
 このように、この地は横浜発展の礎を築いた小野光景を偲ぶことのできる場所であり、ここに一碑を建て光景の事情を永く後世に伝えることを願ってやまないものである。
 平成15年11月13日 横浜商工会議所会頭 高梨昌芳

春惜しむ
 臨海公園
  波遠し
    忠秋
     記念碑寄贈者 光景生家 忠秋

小野光景氏の功績
 1845年に長野県上伊那郡辰野町小野に生まれ、1859年の開港直後、横浜に移住した。
 父光賢氏の職を引き継ぎ町政業務に携わるとともに、横浜商法会議所(現横浜商工会議所)や横浜正金銀行(現三菱東京UFJ銀行)及び横浜商法学校(現横浜商業高等学校)、新港埠頭、横浜鉄道(現JR横浜線)等を設立・建設した。
 また、生糸貿易商としても活躍し、明治期の横浜の発展に大いに貢献した人物である。

「小野公園」の記憶
 この油絵は、往時の「小野公園」を海に向かって描いたもので、光景氏の三男哲郎氏の妻、煕子氏の作品である。
 広い芝地に50mのプールがあり、海の水をポンプアップして使っていた。また、海岸に出るためのトンネルが掘られ、崖下は絶好の釣り場となっていた。この芝地はいつも手入れが行き届いていて、秋にはよく運動会が開かれていたという。

小野光景氏別邸洋館
 小野光景氏別邸は、2階建ての洋館で、シャンデリアのついた大広間もあり実に立派なものであったという。
 この豪華絢爛な洋館には、政府の要人や外国の使節を招待するなど、華やかな政治・外交の舞台となっていた。
 しかし、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で倒壊したといわれる。
 前列中央の、赤ちゃんを抱いているのが小野光景氏である。

明治4年(1871年)頃の本牧の海岸
 かつての本牧の海には良質な漁場が広がっていた。明治末頃からは海苔の要職が盛んになった。また、景色も良く海も美しいことから海水浴場としても使われていくようになる。

埋立で大きく変わる本牧の海岸
 昭和34年(1959年)から46年(1971年)にかけて、根岸湾埋立が行われた。
 左は根岸湾の埋立前の写真。八聖殿が見え、「小野公園」の山の一部がまだ残っている。
 下は昭和30年代末の写真。埋立が進み、本牧臨海公園の整備が行われている。

本牧臨海公園・本牧市民公園・三渓園
周辺からみた景色。


2015年3月撮影

横浜正金銀行本店
(現・神奈川県立歴史博物館)

横浜正金銀行は明治13年(1880)開設。
小野光景氏は 横浜正金銀行 設立にかかわり、そして第二代頭取(1882-83)を務めた。
現在の建物は明治37年(1904)完成。残念ながら小野光景が関わっていた時代ではなく。

http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/syoukin/ysb_ayumi/nenpyo/d_toudori02.html


場所は変わって鶴見総持寺。

小野家墓所(総持寺)

鶴見の総持寺に小野家の墓、小野光賢墓と小野光景墓がある。浅野一族(浅野総一郎)と同じ並び。奥まった区画に小野家の墓があった。小野家墓所の区画番地は「中央ハ2」。具体的な場所の情報が皆無のため、この場所を見つけ出すのに結構時間を要してしまった。
(目印となる浅野総一郎墓「中央ハ6」、清浦奎吾墓「中央ニ1-27」とも近い。)

総持寺には、小野光賢夫妻と小野光景夫妻をはじめ、一族が眠っている。

※撮影は令和2年12月

小野光賢夫妻の墓。

小野光景夫妻の墓。

親子で並んでいる。

小野家の家紋。

通路の突き当りが浅野家の墓。小野家の墓は、浅野家の脇の通りに鎮座。


横浜開港の功労者である小野光賢と小野光景の親子。正直にいってほとんど知名度がなく、あまり知られていない人物。横浜の人ですら知らないのでは・・・といったレベル。
そんな横浜の功労者を知ることができた今回の散策はとても貴重なものとなりました。

惜しむらくは、信州小野の「祭林寺」のお墓に詣でていなかったこと。
またの機会は有るのだろうか。。。

本記事はいったん〆

諏訪護國神社

平成28年4月参拝

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。

諏訪湖の高島城。その高島城のある高島公園の南端に鎮座。

諏訪護國神社

諏訪招魂社として明治33年(1900)に創建したことにはじまる。
諏訪市、岡谷市、茅野市、諏訪郡より出征されて、戦死・戦病死された英霊、並びに国家公共の為に尽くした人々の神霊を祀る。
内務省指定外護國神社。

ちなみに参拝時に、あっちこっちに水が流れ出しているのは、なぜか庭園の水が溢れていたため。

境内に存在感のある胸像があった。

永田鉄山中将像

永田鉄山
明治17年(1884)11月14日-昭和10年(1935)8月12日
長野県諏訪郡上諏訪町本町(諏訪市)出身
永田家は代々、高島藩の藩医を努めてきた家であった。
高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現在の諏訪市立高島小学校)に入学。
父に死去に伴い東京牛込に転校し、明治31年に東京陸軍地方幼年学校に入校。
明治37年(1904)、陸軍士官学校を16期主席卒業。
昭和7年(1932)、陸軍少将に昇進。昭和9年、陸軍省軍務局長に就任。

永田軍務局長の押し進めた人事の刷新(派閥排除)は、皇道派の大御所である真崎甚三郎教育総監の逆麟に触れ、たまりかねた永田軍務局長は今井清人事局長とはかり、真崎教育総監を昭和10年7月に更迭。

相沢事件(永田事件・永田局長惨殺事件)
昭和10年(1935)8月12日、行動派の真崎甚三郎教育総監更迭に憤激し皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派の陸軍省軍務局長永田鉄山陸軍少将を惨殺した事件。その後の二・二六事件につながる。
永田鉄山は死後に陸軍中将昇進。

永田鉄山中将胸像碑文
(カタカナを平仮名に置き換え句読点を補完しました)

永田鉄山中将は明治十七年一月十四日上諏訪町本町に生まる。
郡立高島病院長永田志解理氏の四男なり。
高島尋常高等小学校に学ぶ年少志を立てて東京陸軍地方幼年学校に入り進みて陸軍士官学校陸軍大学校を卒ふ。
天禀の優秀に加ふるに非凡の勉強を以てし各校の卒業毎に成績抜群にして恩賜賞を授与せらる。
夙に上司の属望を受け官命に由つて渡欧する事三度、入りては陸軍省参謀本部教育総監部の諸要職に就き、出でては歩兵第三連隊長第一旅団長たり、遂に陸軍軍政の中心軍務局長に補せらる。
中将頭脳明晰識見高邁裁決流るるが如く思慮周到造詣深遠難局に処して苟も挙借を謬らず、最も独創企画に秀で軍隊教育令青少年訓練国家総動員等中将の立案献策に係るもの少なからず、国軍の進展に寄与せる所絶大なり。
陸軍の至宝として永田の前に永田無く永田の後に永田無しと称せらる。
多年意を大陸国策の研究に注ぐ。
満州事変以来の非常時局に際し其蘊蓄を傾け枢機に参画して処信に邁進せる間妖言累を及ぼし、昭和十年八月十二日不慮の災禍に遭つて執務中局長室に斃る。
享年五十二歳なり。
中将の死は真に身命を君国に処せるもの正に戦場の死と択ぶ所無し。
因て同郷の有志協議地を此処にとし中将の胸像を建て、以て此の偉材の英姿を永遠に伝へんとす。
 昭和十三年十一月十三日 永田鉄山中将記念会

この胸像は先の太平洋戦争に際して金属回収のため撤去したるも、このたび故人を崇敬する有志により新たに台石を築造原位置に復旧するを得たものである。
 昭和四十年四月十一日 
 永田鉄山中将胸像復旧期成同盟会

鎮魂慰霊碑
御祭神御英霊の尊い犠牲により今日の平和と繁栄があります。英霊奉賛の為に諏訪郡市軍人恩給者連盟は全国連盟五十周年記念事業として建立致します。
 平成16年11月吉日
 諏訪護国神社宮司 有賀寛典
 長野県軍恩連盟 諏訪郡市協議会

二・二六事件に関してはこちらも。


せっかくなので諏訪護國神社のある「高島城」にも触れておきます。

高島城

天正18年(1590)に日根野高吉によって築城。
これまで鎮座していた八剣神社を遷座させて、文禄元年(1592)着工。
慶長3年(1598)完成。
典型的な水城で「諏訪の浮城」と称された。

日根野氏以降は旧領主諏訪氏が復領し幕末まで諏訪氏代々の城となる。
明治8年1875に天守以下建造物は破却。
現在の天守・櫓・門・塀は昭和45年(1970)の復元。


諏訪と言われて何を思い出すだろうか?
少なくとも、私ですら流石に一番最初に「永田鉄山」は思い出さない。

諏訪大社、諏訪湖、温泉。
諏訪ゆかりの人物でと言ったら、諏訪姫とか武田勝頼とかを思い出すのが無難なところであるが、諏訪と言われて私は一人の鬼っ子を思い出してしまった。
鬼っ子といわれた悲運の男。 家康公の六男…

高島城の南之丸跡。現在は諏訪市役所。
その駐車場の片隅に祠がある。

松平忠輝公館跡
(高島城南之丸)

この南之丸跡に「松平忠輝公神社」ともいうべき小祠が鎮座している。
忠輝公が人生の大半を過ごしたのが高島城南之丸…

高島城南之丸跡
 高島城本丸の南方にある一郭を南之丸という。松平忠輝のお預かりを勤めて以来整備され、以後、高島藩が江戸幕府の罪人を預かった場所である。周囲は湿地で、堀と柵とで厳重に囲われ、ただ一つの橋が城に通じているだけの孤立した郭であった。
 忠輝は、徳川家康の六男で越後高田六〇万石の城主であったが、大坂夏の陣直後の元和元年(一六一五)家康から勘当を申し渡され、翌年幕府から改易され、正室五郎八(いろは)姫(伊達正宗の長女)とも離別、伊勢朝熊で二年、飛騨高山で七年過ごしたのち、寛永三年(一六二六)から初代高島藩主諏訪頼水が預かった。改易の理由は、乱暴な性格とも、大久保長安等と天下取りを企てたからとも伝えられるが、真相は不明である。
 忠輝の南之丸での生活は、外部との交渉を絶たれた寂しいものではあったが、家臣は諏訪で抱えた者を加えると八五人にもなり、大名の格式をもって生活した。五八年間の長きに渡り不遇な境涯にあったが、文芸に心を慰め、余生を楽しんだという。天和三年(一六八三)、九三歳の生涯をここで閉じ、市内の貞松院に葬られた。
 その後、幕府の儀式を司る高家を務めていた吉良上野介義央の養嗣子である吉良義周(よしちか)が、赤穂浪士襲撃事件後の評定によって、領地を召し上げられ元禄一六年(一七〇三)に四代藩主諏訪忠虎へお預けとなった。高島藩では南之丸を修理し住まわせたが、三年後の宝永三年(一七〇六)に病没、市内の法華寺に葬られた。以後も数人の預かり人がいたが、幕末までにはこの場所は「御茶園」となったようである。
 諏訪市教育委員会

松平忠輝公

越後高田75万石の大名であり徳川家康の六男。越後少将。

東北の雄たる伊達政宗の長女いろは姫を娶り家康公の息子であったにも関わらず、元和2年(1616)に高田藩は改易され忠輝公は配流。

元和2年(1616)25歳の時に改易され配流。伊勢朝熊で2年、飛騨高山で8年、そして寛永3年35歳のときに諏訪高島城南の丸に移り、その後58年を諏訪で過ごす。
天和3年(1683・五代綱吉の治世)に諏訪高島城南之丸で92歳の生涯を終える。
諏訪高島藩にとってなんとも厄介なお荷物であったろう。なんせ、この流人は藩主諏訪氏よりも位階が高く(藩主・諏訪頼水公は従五位下因幡守に対して、忠輝公は従四位下左近衛権少将)、さらには東照大権現・家康公の六男。そんな人物が58年間をこの諏訪高島城で過ごしていた。

ちなみに、 南の丸には松平忠輝のあとには赤穂事件の吉良上野介の子である吉良義周も配流されてきている。

歴史の上では松平忠輝という人物は何ら重要ではない。
教科書的には徳川家康の御子として兄の松平信康、(結城)秀康、そして二代将軍秀忠、弟の紀州・尾張・水戸御三家の間に埋もれ名前すら記載されていない。

私は、そんな松平忠輝という人物がどことなく好き。それは伊達政宗との縁かもしれない。忠輝の妻は政宗の長女いろは姫。天下を搖さぶり続けた政宗に翻弄され、実力を発揚する機会もないまま将軍秀忠に恐れられ改易。
そんな忠輝であったが、信長・秀吉・家康と伝えられた天下取りの名笛「野風」を父から賜り、笛を吹きつつ長き半生を諏訪湖畔で風流にすごした。
実際の忠輝はどのような人物であったかは知らない。
痛快な時代小説『捨て童子・松平忠輝』(隆慶一郎著)のような鬼っ子のイメージが強いが、家康の嫡子として信長に恐れられ自害させられた長男信康や、秀吉に疎まれ結城家に養子と出された次男秀康のような英雄型の人物であったとされている。

捨て童子・松平忠輝 隆慶一郎著
隆の代表作「影武者徳川家康」でスパイスを効かせていた忠輝は、この「 捨て童子 」で主役となる。

松平忠輝の墓は高島城の北東にある「貞松院」にある。
「東に忠輝、西に光悦」といわれたほどの名墓碑であり、忠輝が生前自ら撰んだ墓石であるという。

貞松院

ここに松平忠輝公の墓所がある。

また、忠輝公の遺品もある。
信長・秀吉・家康と天下人に受け継がれた銘笛「乃可勢」(野風)などが有名。ただし非公開、以下の公式サイトで拝見できます。

迎冬山 貞松院 月仙寺 サイト  

http://teishoin.jp/jihou.html

松平忠輝公墓
 寂林院殿心誉輝窓月仙大居士

貞松院・松平忠輝公墓
木立の下に一際に大きな墓石がある。
隆慶一郎の著作で忠輝公に魅了され、その数奇な運命を知って以来、ずっとお参りしたいと思っていました。 ようやく、訪れる事が出来ました。
合掌

松平忠輝公の略歴
文禄元年(1592)、江戸城において出生。家康公六男、母は茶阿の方、幼名辰千代。11歳で上総介に任ぜられ、14歳で参内し、従四位叙任、右近衛少将に補せらる。また同年将軍の名代として大阪城に秀頼を訪い、豊臣、徳川両家の緊張緩和に功績を挙げる。15歳、政宗公の娘五郎八姫と結婚。19歳にして越後60万石の大大名となる。その性俊英にして果敢、気宇また壮大、開国思想を持った逸材。たまたま鎖国政策に向かう幕府に入れられず、また政宗公や大久保長安との関係も幕府の注目するところとなり、大阪夏の陣後、怠戦等些細な理由で25歳元和2年改易された。伊勢に3年、飛騨に7年、35歳寛永3年当地に配流。当藩主頼水公は南の丸を整備して迎え厚遇した。この地に住むこと58年間、天和3年(1683)7月3日、93歳を一期に没せられ、当院に葬られた。生前当地の文化向上に多大な影響を与え、今日も郷土の恩人として敬われている。

境内には諏訪藩医井出家の墓所もありました。家康の侍医であった片山宗哲が、諏訪に流されていたときの縁で井出氏が諏訪藩医に。二代目井手苔庵は松平忠輝公の最期も看取っていた。

近代史跡や戦跡からは脱線してしまいましたが、たまにはこういうこともあります。

明治天皇巡幸記念碑(塩尻峠)

平成28年4月参拝

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。
なぜか午前7時の朝靄の中・・・であったが、これは予定の隙間の寄り道でした。

塩嶺御野立公園
(えんれいおのだち公園)

塩嶺御野立公園 展望台
 岡谷市中心部より北方5Kmに位置するこの公園は、八ヶ岳中信高原国立公園内にあり、信濃の国信州でも美しい自然に恵まれた公園とされている。ここからは南方に脚下の諏訪湖を隔てて遠く富士の霊峰、南西側に南アルプス、南東側に八ヶ岳連峰、北西側には日本アルプスの山々を見渡すことができる。日本一の富士山(3776m)、第二峰の北岳(3192m)、第三峰の奥穂高(3190m)といった我が国の三高峰が望める唯一の場所でもある。また、四季折々のすぐれた自然に恵まれ「小鳥の森」に指定され、「小鳥の楽園」として毎年5・6月の毎日曜日には早朝小鳥バスも運行され人気を呼んでいる。春は桜に始まり、レンゲツツジ、唐松の芽ぶき、夏はニッコウキスゲの群生、秋は紅葉と、県内外を問わず多くの観光客が訪れている。尚、右手にある明治天皇巡幸記念碑の前では日本一短いと言われている「御野立記念祭」が塩尻市と当市の間で毎年催されている。
 岡谷市役所経済部商業観光課

明治天皇巡幸記念碑

聖駕駐蹕記
大勲位 威仁親王 篇額 ( 有栖川宮 威仁親王 )
明治39年(1906) 従三位 一等 股野琢 撰并書 (宮内官僚・漢学者)

明治13年(1880)6月24日、塩尻峠を御巡幸された 明治天皇がお立ち寄りになられたことを記念して建立された石碑。

明治天皇塩尻峠御野立所

明治13年(1880) 6月24日、 明治天皇御巡幸
昭和22年(1947)10月14日、 昭和天皇御巡幸

塩嶺御野立記念祭

明治13(1880)年6月24日に 明治天皇が、
昭和22(1947)年10月14日に 昭和天皇が、
それぞれ同地を訪れたことを記念し、毎年6月24日と10月14日に両市が祭りを開いている。 春6月は岡谷市、秋10月は塩尻市の担当。

明治天皇が訪れた時間にあわせて午前10時に、参列者一同が一礼をする祭礼。
 1,整列
 2,一同 「礼」
 3,解散
春秋共に20秒ほどで終わる、「日本一短い祭」として有名。

塩尻市観光協会>御野立記念祭

https://tokimeguri.jp/annual_event/1195.php

毎日新聞>日本一短い祭り 100年の節目も20秒で終了 長野

https://mainichi.jp/articles/20160625/k00/00e/040/191000c

中仙道(中山道)
塩尻峠ノ富士浅間社

松本領と諏訪領の郡境の宮として塩尻峠に鎮座する石祠。
この地は中仙道。

塩嶺御野立公園 展望台

朝もやってましたが、かろうじて諏訪湖がわかりました・・・。
天気が良いと富士山も見えるらしいです。

塩尻市観光協会>塩尻峠

https://tokimeguri.jp/spot/1072.php

浜松陸軍墓地跡と戦跡散策【浜松1】

令和元年7月

浜松に赴く用事があったので、脚を運んでみました。

浜松陸軍墓地跡
(住吉墓苑平和記念広場)

浜松には歩兵第67聯隊が明治41年(1908)に進出したことにより軍都としての一歩が始まる。。
大正15年(1926)には立川の陸軍飛行第7聯隊が進出。のちに浜松陸軍飛行学校として拡大し、また三方原教導飛行団なども展開。周辺には軍需工場も展開され、浜松は一大軍事拠点となっていた。

浜松陸軍墓地は明治41年の歩兵第67聯隊の進出にあわせて、兵営・練兵場などとあわせて設置された。

昭和18年(1943)に浜松陸軍墓地の地に「忠霊殿」が竣工。戦後は遺族会が管理していたが平成17年(2005)に老朽化により解体。忠霊殿祀られていた10857体の位牌は処分を強いられたという。

総務省サイトには【1万857柱の戦死、戦災死者を合紀する住吉「忠霊殿」 】があると記載されているが、その忠霊殿は、既にない・・・

総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 浜松市における戦災の状況(静岡)

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tokai_03.html

浜松の瓦屋さん(柳本産業)のサイトに「忠魂殿」屋根瓦が保管されている旨の記事がありました。(2010年の記事、現在はわかりません)

https://yanagimoto.hamazo.tv/e2561754.html

公園に保存するという話も立ち消えてしまたようで、なんとも複雑な気持ち。
次回、浜松に訪れる機会があれば、この瓦屋さんにも足を運んで、残っていれば拝見させていただきたいな、と思いつつ。

濱松陸軍墓地道
(浜松陸軍墓地跡)

濱松陸軍墓地道
昭和七年十月 濱松會建之

平和の道標
皆さんの美しい故郷の
山や河を守り
日本の平和と豊かな
暮らしを願いながら
長い戦争の中で
亡くなられました。
今日の平和を思う時
私達はここに眠る人々を
決して忘れません。
この尊い心を受け継ぎ
感謝の心を持って
一日、一日を
大切に生きましょう。
 平成25年9月吉日
 浜松市遺族会

英霊顕彰之碑
(浜松陸軍墓地跡)

英霊顕彰之碑
昭和57年7月17日
静霊奉賛会浜松市連合支部長建立

平和祈念の碑
(浜松陸軍墓地跡)

平和祈念の碑
 この碑は、戦争中軍人や軍属として、弾丸に傷つき、あるいは、病魔に侵された傷痍軍人、及びその生涯を献身的に扶けた妻の記念碑である。
 われらは、戦争の悲惨を、身をもって体験した者として、二度と戦争をくりかえすことのないよう心から訴える。
 ここに、日本の繁栄と世界の恒久平和を祈念し、われらが最後の傷痍軍人であり、またその妻であることを願ってこの碑を建てる。

 終戦50周年記念
 平成7年8月吉日
 浜松市傷痍軍人会
 同 妻の会

忠霊殿 扁額か?
(浜松陸軍墓地跡)

忠霊殿
昭和廿八年八月とある。戦後の昭和28年に作られた忠霊殿の扁額か。

前述のとおり、ここにあった忠霊殿は解体されてしまった。

陸軍標石

「陸軍用地」と記載のある標石が、住吉墓苑平和記念広場公園内(恐らく移築されたもの)と、住吉墓苑南古墳近くの2つを確認。

「住吉墓苑平和記念広場」内の陸軍標石

「住吉墓苑南古墳」の近くにある陸軍標石

住吉墓苑南古墳

住吉墓苑南古墳 住吉四丁目
旧陸軍墓地(現青少年の家南側)にある住吉墓苑古墳は、古墳時代中期末、五~六世紀の前方後円墳である。現在は高さ3米、直径30米ほどの後円部が残るのみであるが、墳丘には楠やはぜの木などの多くの木々が枝を広げ、各種の野鳥の四季折々の住みかとなっている。
戦後、旧陸軍墓地は住吉墓苑と改められ、青少年の家、白亜の霊廟の忠霊殿などとともに、広く市民の憩いの場として親しまれている。

あぁ、「白亜の霊廟の忠霊殿」・・・

青少年の家

この地図をみて、いまさら気づきました。。。。
「トーチカ」ってなんですか???
見損ねました・・・あちゃあ。

門柱跡
(浜松陸軍墓地跡)

位置関係(浜松陸軍墓地)

今昔マップ on the web 」より。
「歩兵営」と「練兵場」「陸軍墓地」があるのがわかる。
(大正6年測図)
「歩兵営」は現在の「静岡大学浜松キャンパス」
「練兵場」は現在の「和知山公園」

静岡大学浜松キャンパス には、往時の門柱が残るというが今回は未訪問。
さきほどのトーチカとあわせて次回の宿題とする。


浜松城公園に移動。

浜松市戦災被爆者慰霊碑
(浜松城公園)

浜松市戦災被爆者慰霊碑
浜松市長 平山博三 書

慰霊碑撰文
昭和十六年(一九四一年)十二月八日
太平洋戦争に突入したわが国は緒戦に勝利を収めたもののやがて戦況は逆転し同二十年八月十五日遂に降伏のやむなきに至った
この間浜松市は三十回余りに及ぶ空爆艦砲射撃を受け市の大半が廃墟と化し死傷者も八千人を越えた
特に昭和二十年六月十八日の敵機による焼夷弾投下は熾烈を極め市の中心部は一瞬にして紅蓮の炎に包まれた恐怖の一夜が明け死を免れた
人々が肉親を求めて彷いあるいはあとかたも無いわが家の跡を茫然と眺める悲惨な姿は言語に絶するものであった
しかし戦争が終わってすでに三十四年戦前をはるかに越える豊かで平和な暮しは人々をしてその念頭から死の街と化した郷土の惨状や往時の苦難やまた戦災死者の方々への痛恨の情を日ごとに稀薄なものにしていく
かかる時市民の間からこれを何らかのかたちで後世に遺そうとの議が興り市各界の方々からも深いご理解による浄財が寄せられここに浜松市戦災被爆者慰霊碑を建立して悲惨な戦争の絶滅を期し三千有余名の戦災死者のご冥福と世界の恒久平和を祈念するものである
 昭和五十四年三月二十一日
 浜松市戦災被爆者慰霊記念碑建設委員会

浜松市及び周辺の空襲被害状況
戦災死者 3,549人
戦災重軽傷者 4,870人
全半壊建物 7,536戸
全焼家屋 20,303戸
半焼家屋 462戸
投下弾 3,081発
焼夷弾 79,553発
砲弾(艦砲射撃) 20,000発
飛来機 B29 557機
    小型機 500機
被災地域 全市の70%

合掌。


浜松復興記念館

戦後の復興土地区画整理事業が昭和58年3月に終了したことを記念して、昭和63年に開館。

艦砲弾の破片、焼夷弾の弾頭、爆弾の筒
武蔵
武蔵

浜松市復興記念館公式サイト

http://fukkoukinenkan.com/

浜松城公園の南、五社神社・諏訪神社の南に位置している。この場所はかつての浜松医学校跡。

せっかくなので、こちらにも足を運んでみた。
郷土資料からみる戦争資料と復興資料。こじんまりとした空間であれど、なかなか見応えはあった。
浜松は空爆のみならず艦砲射撃を受けた街ということもあり、その破片も生々しく。

五社公園

向かいの五社公園は「旧浜松市役所」という。
さらに前にさかのぼると「杉浦国頭邸跡」という。
いくつかの記念碑があった。

戊辰之役報国隊紀念碑(五社公園)

遠州報国隊。
慶応四年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで勝利し、徳川慶喜追討のため江戸に向かった官軍に、同行・協力するため神職を中心に結成された有志隊。

万葉歌碑 引馬野爾の歌 (五社公園)

万葉集遠江歌考
賀茂馬渕

浜松といえば賀茂真淵。すっかり失念していました。

愛郷 顕彰碑(五社公園)

浜松市消防殉職者を祀る。昭和41年建立。

誠忠碑・鳩の塔(五社公園)

帝国在郷軍人会浜松連合分会が発起、浜松尚兵義会が建立。
大正8年(1919)の創建。
日清戦争・日露戦争・第一次大戦の戦死者の霊を祀る。

ここには何も説明がなく、予備知識がないとまったくよくわからない塔。
ただ造形美と、堂々とした姿に「これは只者ではない」と感じさせるなにかがある。忠魂塔と知れば、なおさらである。
できることであれば解説板を設けてほしい。ちょっと残念な状態が嘆かわしく。


浜松には、「 エアーパーク 航空自衛隊浜松広報館 」もあり、他にも多くの戦跡が残っており見どころ豊富。
次回以降の課題としたいと思う。

高尾山の戦争慰霊碑

平成31年1月

2019年の1月は高尾山に。硫黄島の慰霊碑に。

高尾山有喜苑

高尾山薬王院へ赴く途中、 男坂と女坂に挟まれた高台に仏舎利塔がある。
その敷地内に幾つかの慰霊碑もある。

高尾山有喜苑
 護國英霊碑
 南無護国英霊

硫黄島戦没者慰霊碑

 硫黄島は此処から南六百里の洋上に浮かぶ孤島であるが 大東亜戦争の末期 太平洋に於ける日米攻防戦の天王山であった
 されば昭和二十年二月十九日から展開された戦闘は凄惨熾烈を極め 日本軍は約二万名が玉砕したのに対し 米軍も亦戦死約七千名 負傷二万千名を算した
 米軍の上陸した同島南海岸正面の防衛戦闘に 独立歩兵第309大隊の機関銃中隊長として奮戦した阿部武雄氏は死闘の末遂に捕らえられて 米軍野戦病院に収容され奇しくも生還した
 阿部氏は当協会常任理事 組織部長として 協会の事業目的達成の為献身奔走する一方 戦没者の供養と平和を祈念する為 この慰霊碑及び平和観音を建立の上 碑下に戦没者舎利を納める事を発願し今茲に結願す 功徳実に大である
 仏舎利塔に隣接した聖域を 薬王院当局の好意に依り卜する事が出来たが 硫黄島への渡島が困難である事情に鑑み 此処に詣でて 遥かに南溟の空を仰げば 必ずや平和観音の妙智が作用して現地供養を彷彿たらしめる効を顕わすものと信ずる次第である
 讃に曰く
  丘上新碑影 尊像馥郁香 
  佇立望南溟 滂沱憶硫黄
 昭和四十六年四月十八日
 硫黄島協会 会長  和智恒蔵 謹撰
       副会長 森本一善 謹書

硫黄島の形をした慰霊碑

永代供養
厚生大臣 小泉純一郎書

鎮魂
平和への
 もといとなりし
  み霊よび
 高尾の森に 
  小鳥とあそべと
 丁丑皐月二十四日(平成9年5月 24日)
 硫黄島協会

支那駐屯歩兵第二聯隊
慰霊顕彰碑

高尾山大僧正秀順書 
昭和55年建立

支那駐屯歩兵第二聯隊は昭和11年に天津駐屯歩兵隊を改編して設けられ、天津の海光寺に在ったことから、海光寺部隊と呼ばれた。

七生報国
盧溝橋事件勃発 
昭和12.7.14日 聯隊は通州に向う

望郷 シベリアに眠る抑留者供養碑
異国の丘

大本山高尾薬王院貫首隆玄謹書
平成22年10月28日建立

嗚呼シベリア鎮魂歌(レクイエム)
一、嗚呼シベリアの七ツ星
  眺める夜空に出る涙
  鶴嘴持つ手に血もゆかず
  息吹きも凍る密林の
  拓く茨の身は哀し

二、酷寒零下四十度
  飢えと寒さにまたノルマ
  今日も凍える友を抱く
  たおれし六万同胞の
  慰霊は眠る北の国

三、バーム鉄道鳴る汽笛
  あゝ誰がためぞそのレール
  平和を叫けぶ友の声
  耐えし抑留その史実
  語り伝えよ北の星

満蒙大陸林業人供養塔

昭和49年6月
外林会 満蒙部会 建立

碑文
 近代日本の国策に則り 曽てアジア大陸の一角で満蒙林野の正業経営に挺身すべく 官民一体の民族の大移動が行われた しかし残念ながら敗戦により雄図空しく祖国に帰還せざるを得なくなった
 その間国境を越えた物故の五族協和同人は多数に上っている
 この「満蒙大陸林業人供養塔」は これら物故者の英霊に供養を捧げ その冥福を祈るために 満蒙に住んだ官民林業関係者が悉く参画し 全魂こめた体制で建立したものである
 これが建立にあたっては 特に 高尾山薬王院をはじめ 林野庁 東京営林局 東京営林署 東京都 日本林業技術協会 全国林業改良普及協会 その他の 絶大なるご援助を賜った なお工事関係については 吉田茂八 後藤東吉両氏の労を多とするものである 以上銘記し 深甚の謝意を表する
 昭和四十九年六月

観音像
みたまよ やすらかに ねむれ

みたまよ やすらかに ねむれ
 平成15年4月9日開眼
 陸軍士官学校第六十一期生会
 陸軍軍官学校第七期生会
 陸軍経理学校第十一期生会


日泰親善高尾山仏舎利塔

1956年建立。

東日本大 震災物故者追善菩提也


高尾山薬王院

高尾山薬王院飯縄権現堂

たこ杉(蛸杉)

高尾山

高尾山ケーブルカー 高尾登山電鉄

旅順港閉塞作戦・小池幸三郎を偲ぶ(日露戦争の戦跡散策・埼玉川口)

令和元年8月散策

2019年の8月某日、この日は埼玉県川口市に足を運ぶ機会があった。
せっかくなので、川口市内に残る戦跡を散策してみる。

川口市総鎮守「川口神社」
境内に「川口護國神社」が鎮まっており、その傍らに水兵姿の凛々しく躍動感あふれる胸像が鎮座してた。

小池幸三郎像(日露戦争)
軍帽のペンネント(兵用軍帽前章)は、乗艦「大日本軍艦高千穂」

小池幸三郎

小池幸三郎は明治13年(1880)7月15日、現在の川口市に産まれる。
明治33年(1900)、徴兵年齢に達した20歳の小池幸三郎は横須賀海兵団に入団。
明治35年(1902)に軍艦「高千穂」の乗組員となる。
明治37年(1904)2月10日、日露戦争が勃発する。
同年3月27日、連合艦隊は第二回旅順港閉塞作戦を実施。小池幸三郎は閉塞隊に志願し、広瀬武夫指揮する福井丸に乗組し敢然と作戦に従事。
閉塞船福井丸沈没後、カッターボートにて帰還途中に、小池幸三郎は被弾し戦死を遂げる。享年二十五歳。

小池幸三郎の葬儀は川口市内の善光寺で斎行。(墓所も善光寺)

日露戦争戦勝30周年を記念して昭和11年(1936)に川口市公会堂(現在の川口市立中央公民館)前に小池幸三郎像が設置。

平成7年5月27日に川口市海交会によって、川口神社境内「川口護國神社」に小池幸三郎銅像を移転。

海軍一等機関兵小池幸三郎を偲ぶ

海軍一等機関兵小池幸三郎を偲ぶ
君は小池武平氏の次子。
明治13年7月15日、川口町268番地に生る。
明治33年12月横須賀海兵団に入り、同35年6月軍艦高千穂の乗組員となる。
日露の戦役起るや直ちに旅順の攻略に従い、決死旅順港口第二次閉塞隊に志願し、広瀬武夫海軍中佐指揮の福井丸に乗船して、猛砲火の下に港口水道に突入したが、黄金山の西海岸半鏈に達した時、ついに敵駆逐艦の魚雷をうけた。
よって自ら爆沈して任務を完遂し、広瀬中佐・杉野兵曹長と共に帰らず、英魂とこしえに靖国の霊となる。
実に明治37年5月23日夜である。

忠勇義烈

旅順港閉塞作戦

第二回目の旅順閉塞作戦において広瀬武夫指揮下で使用された「福井丸」。
福井丸は旅順港閉塞作戦に際して、閉塞船として自沈用の爆薬やセメントなどを積み込み出港。
旅順港にて爆薬に点火し、乗組員はボートで退避。
その際に杉野孫七上等兵曹が福井丸にて行方不明となり、広瀬武夫少佐が船内を三度捜索したが見つからず。
 ※ このときのエピソードが唱歌「広瀬中佐」の題材となる。

1.轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。
  荒波洗ふ デッキの上に、
  闇を貫く 中佐の叫び。
  「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」。

2,船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)、
  呼べど答へず、さがせど見へず、
  船は次第に 波間に沈み、
  敵弾いよいよあたりに繁し。

3.今はとボートに 移れる中佐、
  飛来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、
  旅順港外 恨みぞ深き、
  軍神廣瀬と その名残れど

文部省唱歌「広瀬中佐」

広瀬少佐は退却時に艇上にて砲弾の直撃を受けて戦死。
この際に菅波政次二等信号兵と小池幸三郎二等機関兵も戦死している。

第二回旅順口閉塞作戦での戦死者は4名。
 広瀬武夫 少佐(没後、中佐)
 杉野孫七 上等兵曹「朝日」乗組(没後、兵曹長)
 小池幸三郎 二等機関兵 「朝日」乗組(没後、一等機関兵)
 菅波政次 二等信号兵曹 「高千穂」乗組(没後、一等信号兵曹)
いずれ福井丸に乗り込んでいた。

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」でも、小池幸三郎 二等機関兵の戦死シーンが描かれている。

旅順港閉塞作戦を記念した小池像。

つい最近まで、川口市にこのような素晴らしい像があるとは知りませんでしたし、大河ドラマ「坂の上の雲」で観ていた小池幸三郎の戦死シーンのことも失念してしまっていたことが申し訳なく。
小池の地元である川口市では、いまも胸像がこうして損なうこともなく後世に伝承され慰霊顕彰されおりました。
この素晴らしい躍動感あふれる胸像、変わらずに伝承されていくことを祈念。

ちかくの善光寺には「小池幸三郎のお墓」があるというのであわせて脚を運んでみました。


善光寺(埼玉県川口市)にある小池幸三郎之墓

海軍一等機関兵勲八等功七級
小池幸三郎之墓

川口市舟戸町にある真言宗智山派寺院善光寺

海軍一等機関兵勲八等功七級小池幸三郎之墓
香炉台 桜に錨

小池幸三郎の勇姿に

合掌

感謝と哀悼を


小池幸三郎像のある川口神社の境内には川口護國神社が鎮座している。

川口護國神社

平和の神 
川口護國神社

【御祭神】
国家公共につくした人の神霊
【御祭日】
四月第二土曜日
【御由緒】
川口護國神社は、昭和二十三年四月、時の川口市長の指導により市役所神殿の譲渡を受け、西南戦争から大東亜戦争に至る各戦役にて戦没せられた川口市出身全英霊を奉斎するお社として、川口神社境内に設立を見たものである。
爾来毎年四月あるいは五月に、川口市遺族会が主体となり例大祭を斎行してきた。平成十五年からは市民有志が主催し、遺族のほか市内各界代表者の参列を得て川口市民平和祈願祭を奉行してゐる。

御製
國がため あまた逝きしを 悼みつつ 
 平らけき世を 願ひあゆまむ

わが郷土から出征して尊い一命を国に捧げ、平和と繁栄の礎となられた英霊に感謝し、また平和への努力を誓うため、全市民こぞって参拝すべき神社である。

川口神社

埼玉県川口市金山町鎮座。川口市総鎮守。明治社格は県社。

国威宣揚台
大東亜戦争戦勝祈願の大鳥居

日露戦争ゆかりの橋が近くに保存されているというので脚を運んでみた。

凱旋橋(川口市指定文化財)

明治39年(1906)1月に日露戦争出征兵士の凱旋を祝し架設された。

凱旋橋
明治39年1月架設
片側の欄干のみが残されている。

川口市指定記念物 史跡
凱旋橋跡付凱旋橋之碑
平成21年6月24日指定

 日露戦争終結の翌年の明治39年(1906)5月13日に挙行された川口町(当時)出身兵士の凱旋祝賀会に際し、凱旋パレードの通過点として当時ここを流れていた錫杖寺杁用水に架設された石像アーチ型の凱旋橋の遺構です。橋は同年1月に、たもとに建立された凱旋橋之碑とともに竣工し、2月18日には開通式が行われました。由来などを記した凱旋橋之碑は、現在、川口神社境内に移設されています。
 川口の鋳物業は、日露戦争(1904~1905)を契機として砲弾や機械部品などの製造が盛んになり、工場数も倍増し大量受注大量生産体制が確立しました。これが戦時体制下での鋳物生産体制に組み込まれたことにより、技術の進展と相まって飛躍的に近代化が図られるようになったのです。
 この凱旋橋跡は、江戸時代にあっては日光御成街道川口宿の北の玄関口に位置し、続く近代には本市を代表する地場産業である鋳物業発展のエポックとなった日露戦争とこれにかかわった人々の記憶を留めている貴重な歴史遺産です。
川口市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/nb9T8cnksdZ4LhAMA

川口市立文化財センター

http://www.kawaguchi-bunkazai.jp/center/bunkazai/CulturalProps/bunkazai_131.html

川口神社の境内には、「凱旋橋之碑」が移設保存されている。

凱旋橋之碑 (川口市指定文化財)

川口神社境内。凱旋橋の由来が記載されている。

近衛師団長陸軍中将 浅田信興 題額
浅田信興(1851‐1927)は武蔵国川越藩出身。
日露戦争時は近衛歩兵第一旅団長として出征し、戦中の明治37年(1904)9月に陸軍中将に進級し近衛師団長に新補。最終階級は陸軍大将、男爵。

日露戦争に際して川口町からの応召従軍者は74名。
凱旋橋之碑には、海軍一等機関兵 小池幸三郎 をはじめ、生きて凱旋が叶わなかった川口出身の戦死者三士のことを讃えている。

川口には何度も脚を運んだことがあり、川口神社も過去に参拝をしたことがあったが、かつての私はさほどに戦史に興味を抱いていなかったということもあり、小池幸三郎像を気にすることもなく、凱旋橋の存在も知らなかった。

いま、改めて興味をもって訪れてみれば、その極めて貴重な存在に感じ入ることでき、戦後の破壊等を免れて、こうして今日まで残ったことの意義深さを知ることができた。これは後世に伝承し続けなければならない史跡。
良き見聞ができたことに感謝。
今回は時間がなかったので訪れませんでしたが、川口には海軍史的に興味深いエピソードもった艦長のお墓もあるので、また来ることになりそうです。


高島秋帆と馴染みのあった川口の鋳物師・増田安二郎の復元18インチカノン砲は、こちらにて掲載。

茨城縣護國神社と水戸歩兵第二聯隊の戦跡散策

平成29年8月

レンタサイクルで水戸市内の戦跡散策を。

茨城県護国神社

茨城縣護國神社は昭和16年11月に創建。
御祭神は幕末から明治維新以後、日清日露の戦役、大東亜戦争に至る支那事変等において国事にたおられ護国の礎となられた茨城県出身の63400余柱の戦没者(軍人・軍属のほか従軍看護婦など女性も含む)の英霊を祀る。

慰霊安鎮

訪れたらちょうど「みたままつり」の季節。
7月10日から8月19日まで実施されているようです。
良き時期の参拝。ありがとうございます。

御朱印。
女性の神職さんが力強い筆使いで書いてくださいまして。 そして一言「全国の護國神社を廻られているんですか?」と。
気がついて戴けました。ありがとうございます。
「靖國神社の御朱印帳に護國神社の御朱印」集印を。地道に少しずつ…

征清記念碑

陸軍大将 小松宮彰仁親王篆額
日清戦争に際して犠牲となった茨城県人を慰霊。

征清記念碑
陸軍大将大勲位功二級彰仁親王篆額
 我が神州、建國以来、外征の史に見るる者、蓋し十有餘次なり。遠くは、神后三韓を征し、近くは豊太閤朝鮮を伐つ。其の功烈最も古今に卓絶す。而して輓近、皇師討清の役、實に二役以来の大事たるなり。已に甲数十萬を起して、兵を千里の外に用ひ、陸は堅城を抜き、海は大艦を奪ふ。而して訊馘以て京観を築くべきなり。斥地以て版圖を廣ぐるに足るなり。其の、皇威を震耀し、國光を宣揚するは想ひ如何と為すや。其の功夐に豊太閤に軼りて、其の烈實に、神后より光有り。亦古今の大捷と謂ふべきなり。惟ふに其の役大なる故に、我が喪ふ所の兵士の數、蓋し亦少しと為さず。今や、茨城一縣を以て之を算ふるに、其の戰ひて敵弾に斃れ虜鋒に殞し、及び盡瘁して病没せる者、數百人を下らず。是れ盡く桓桓の将士に非ずんば、則ち赳赳の武夫なり。誰か國家の為に惜しまざらんや。水戸の常磐の地には、素より鎮靈の社有りて、其の嘗て命を國事に致せる者を祀る。今茲志士相謀り、縣内の士にして討清の役に死せる者を合祀し、以て大いに弔祭を修し、而して又特に一大碑を社の側に建て、以て其の忠烈を表彰し、其の靈をして憑る所有り、而して其の名をして傳はる所有らしめんと欲し、余に其の文を撰ばんことを請ふ。余嘗て國乗を讀み、夙に關東の古俗、特に義勇を以て著るるを欽ぶ。嚮に清に事有るに及び、東兵果たして克く恥を重んじ、死を輕んじ、實に古の勇名に負かざるを聞く。乃ち彼の戰勝功取に於て蓋し最も與って力有るを知る。其の勲功は寧ぞ没すべけんや。善きかな此の舉たるや。余適任に在り、毎に管民軍士を歸葬し、郡市を舉げて、輙ち哀を致すを観る。而して今又修祭を為し碑を建つ。嗚呼闔縣協力此の如し。其れ至れるなり。亦能く國家の兵士を待つの恩意を體すると謂ひつべし。之を太閤征韓の役の、陣没する者算ふる無く、其の屍を原野に委ねて俺ず、其の魂は彷徨して之れが憑る所無く、哀れむべきを視るに、豈其れ日を同じくして談ずべけんや。是れ固より昭代の至徳に由るなりと雖も、抑も亦東人の義を好むの致す所を見んのみ。夫れ此の勇也、義也、今併せて以て之を表す。庶幾くは、後人をして風を聞きて、激励奮起する所有らんことを。是に於てか書す。
 明治30年4月
 茨城県知事正五位勲五等江木千之撰 
 茨城県書記官従五位勲五等渡邊秀書
 (社)日本郷友連盟茨城県支部建之 

征清記念碑
 この碑は明治34年4月即ち日清戦争の直後に水戸常盤地内鎮霊社の傍らに茨城県人で日清戦役に従軍した将士が国のために壮烈に戦い戦死し又は病に斃れた数百柱を合祀した際、その名誉を後の世に人々に伝えようと県を挙げて慰霊祭を執り行い県で建てられたものであります。
 碑文の概要は過去に神功皇后の三韓征伐、豊臣秀吉の朝鮮征伐とあったが、今度の日清戦争はその比ではない大戦果であった。
 戦が大きかっただけに、我軍の損害も多く茨城県だけでも戦死、戦病者が数百人以上ある。誰が国家のため惜しまないものがあろうか。茨城県人は古来から義勇心が強かったが今度の戦役でも勇名を挙げた。
 後世の人もこの話を聞いて奮起することであろう。

北征記功碑

陸軍中将 閑院宮載仁親王篆額
日露戦争に際して犠牲となった茨城県人千数百名を慰霊。

北征記功碑
 この碑は明治39年(1906年)2月即ち日露戦争(明治37年1904年 明治38年1905年)の直後、茨城県内の戦死、戦傷病者千数百名の慰霊祭を行ない碑を建て戦況を叙しその功績を永久に伝えようとして県で建てたものであります。
碑文の概要は弘安の役(1274年)では、元軍を一挙に全滅した。
日露戦争では海陸大小数百の戦いに勝ち世界を震撼させた。
 これは上に神のように賢い天皇陛下がおわしまし 下には賛襄の良民がおり 将士の忠勇義烈の心がすぐれていたからである。
 元寇は10万以下の兵力であったがロシヤ軍は100万以上で戦も大きく偉大な功績も挙げ弘安の役の比ではなかった。
 茨城県の従軍軍人は数万人海に陸に勇戦奮闘し茨城男子の面目をあげ皇国軍人の精華を発揮したが戦死、戦病死者千数百人その死にかたは違うが忠義の鬼である。
 この碑を読む人は必ず感奮して我が国の権威と力を大いにあげるだろう。

北征記功碑
陸軍中将大勲位功四級載仁篆額
 我が邦の威武、四表に烜燿たるや尚史し。弘安の役、元寇を一輿に殲す者は、上に軫憂祈神の亀山上皇有り、下に勇断斬使の北条時宗有るを以てなり。三十七八秊の役、我軍を百戦に剿する者は、・に叡聖神武の 英主有り、下に輔弼賛襄の良臣有るを以てなお将士の忠勇義烈に至りては、即ち日を同じくして語るべからざるもの有り、且つ元寇は十萬を出ず、我軍は即ち百萬を過ぐ。故に戰大にして功も亦偉なること、決して弘安の比に非ざるなり。彼は宇内の強大國を以て一母五乳の意図を懐き、満韓を侵蝕し、以て東洋の平和を擾さんと欲す。我安んぞ其の亡状を責めざるを得ん。是に於て 王師海を絶り以て掃蕩を期す。海軍は即ち敵艦を旅順港外に撃破し死士をして船を沈め港口を壅せしむ。又浦塩艦隊を蔚山の洋に摧残し、終に波羅斯艦隊を日本海に邀撃し、之を殲滅す。海上権は全く我に帰す。陸軍は則ち先づ鴨緑江の儉を奪ひ、普蘭店、王家屯の要を扼へ、鳳凰、摩天嶺、南山、得利寺、岫崿、柝木、遼陽、旅順の諸要砦を抜き、遂に奉天を破り、以て敵を北満州に駆逐する有り。海陸大小數百戦、竒勛偉績は天地を震撼し、鹵獲俘虜の夥しきこと勝げて紀すべからず。我が縣の従軍する者、将士合わせて數萬人、海に陸に勇戦奮闘し、以て常総男子の面目を顕揚し、皇国軍・・の精華を発揮す。而して戦死病没する者千九百餘人、其の死は殊にすと雖も忠義の鬼たるは、即ち一なり。今や和成り、事平なり。余郷紳と胥ひ謀り、大に弔祭を脩し、且つ碑を建て戦況を略叙し、以て之を不朽に傅へん。顧みて邦人の談元寇の事に及べば、草野安達等慮艦を斫つの壮烈を稱せざるは無く、以て武夫の龜鑑と為す。後の今を視ること猶今の昔を視るがごとく、即ち其の碑を讀む者、必ず應に感奮する所有り、以て倍我が邦の威武を宣揚すべきなり。
 明治三十九年二月    
 茨城縣知事正四位勲三等寺原長輝撰并書
  (社)日本郷友連盟茨城県支部建之 

大東亜戦争記念碑

天皇陛下御在位60年を奉祝し昭和61年8月15日建立。

碑銘
 過ぐる昭和初期における世界的政治経済大恐慌のさなか、祖國日本の苦難の歴史は、昭和六年九月十八日、満州事変に発し、支那事変(昭和十二年七月七日)、張鼓峰事件(同年七月九日)、ノモンハン事件(同十四年五月十二日)を経て遂に昭和十六年十二月八日には米英両大国に対する大東亜戦の布告となり、その後昭和二十年八月十五日の終戦に至るまで、約十五年にわたる日本民族存亡の命運を賭する肇国以来未曾有の長期大戦争に進展するに至った。
 かくしてその戦域は中国全土及び東南アジア諸域はもとより遥か度洋、豪北、ニューギニア各地、さらには全太平洋海域にまたがる実に全地球の二分の一に渡る広大な範囲に拡大され、四百余万にのぼるわが将兵は、過去数世紀の間西欧先進諸国の隷属化に喘いでいた旧植民地の各地に転戦。終始連合国軍の圧倒的物量攻勢と対決し、陸に海に空に善戦敢闘苛烈な敵攻撃を受けて屍山血河の激戦を展開した。
 その間、わが本土もまた度重なる敵の無差別爆撃や艦砲射撃を受け、なかんずく非人道的極まりない原子爆弾投下により一面の焦土と化し、銃後一般国民の蒙る戦禍も日毎に増大するに立ち至った。しかも一億国民の気概は屈することなく、なお総力を挙げて徹底抗戦の構えは不動なものがあったにもかかわらず、戦局は必ずしも我に利あらず、最後に本土決戦による皇国興亡の関頭に立ち、折しもソ連の機を穿っての不法参戦大挙侵入に遭うなど、諸般の大勢の赴くところ、遂に聖断によってポツダム共同宣言受諾の止むなきに至り、終戦の大勅を拝するに及び、一億国民号泣の涙と共にこの長期にわたる大戦の幕は閉じられた。
 この戦いに全国二百五十万有余の同胞の尊い生命が失われ、茨城健児も精悍無比、この国家危急の秋に当たり終始伝統たる不抜の闘魂を遺憾なく発揮したが、五万三千五百余名の軍人軍属を始め、四千八百余名の内地外地における婦女子を含む被災死亡者を合わせ五万八千四百余名の県民が国難に殉じたのである。これらの人々の鮮血に塗れた最後の姿は今にして想い起こすだに惨烈悲痛の極みである。
 終戦のこのかた四十年、我が国民は「終戦の詔書」の示されるところに従い 敗戦の汚名を甘受し、耐え難きを耐え、偲び難きを偲んで今日の国家隆盛の姿をみるに至ったのであるが、われわれ県民も同様、筆舌に尽くしがたい数々の屈辱と苦渋を乗り越え、辛苦勉励によりこの経済復興し繁栄とをもたらし得たのである。ここに及んで往時を顧みればこれひとえに今は亡き諸英霊の献身と御加護の賜と衷心からの感謝の誠を捧げたい。さらにまた、長い戦乱の陣痛ののち、かってのアジアを始めとするも全世界の植民地が次々に解放され、新たなる希望に満ち、民族独立の雄叫びが聞かれるとき、この西欧列強と伍し、日本がよく明治開国以来アジアにおいて唯一の栄光ある独立国家とし、その名誉と道統を守り抜いた日清日露の両戦役と同様、この度の戦いは日本民族が自存自衛とアジア植民地解放の宿命的使命を果たした「聖戦」であり、世界人類史上に残した燦然たる足跡は永く後世に伝承せられることを確信する。
 よって時あたかも今上陛下御在位六十年の千載一遇のこの年に当たり、聖寿のいや栄えまさんことと、祖国日本の永遠の伸展並びに世界恒久の平和を祈念しつつこの碑を建立し、以て英霊の功績をとこしえに顕彰するものである。
 昭和六十一年八月十五日 
 茨城県大東亜戦争記念碑建立発起人

大東亜戦争記念碑 大東亜戦争要図

満州事変以降大東亜戦争本県人戦没者
軍人軍属 53,542人
一般県人 4,879人
計 58,421人

平和のねがい

工兵第22連隊戦友会(昭和62年8月9日建立)
昭和十三年六月に水戸工兵隊より編成され第二十二師団工兵第二十二聯隊として創立。
主に中国大陸で展開され、終戦時はビルマ反撃作戦準備の為道路構築中であった。

顕勲の塔

碑文
この塔は日清の役から太平洋戦争までの幾多の戦いにおいて国のため散華された県下の五万八千余柱の英霊を慰めその偉勲を後世に伝えようと県のはからいにより全遺族の祈りをこめて建てられたものであります
なおこの塔には支那事変以来分骨された七千七百余柱の遺骨が納められております 諸霊やすらかにこの地に鎮まり郷土の平和繁栄にながく加護を垂れ賜わりますよう祈念いたします
 昭和三十八年五月

戦没者留魂の處

戦没者留魂の処と碑
戦没者留魂の処は、財団法人茨城県遺族会連合会が戦没者の納骨施設として昭和二十五年十一月水戸市堀町字立原二〇八五番地の旧陸軍墓地跡に建設し七千七百余柱の分骨を納骨していたが昭和三十八年三月に「顕勲の塔」が建立されたため この分骨は顕勲の塔内に移管され留魂の処には碑のみが遺された。
このたび留魂の処跡地を水戸市に返還したことを機会にこの碑および灯篭などをここに移転したものである。
 昭和五十九年六月吉日
 財団法人茨城県遺族会連合会 会長 狩野明男

さくら山遺品館

開館時間は午前10時から午後2時まで。
私が参拝したのは午後3時すぎ。
残念です。また来ましょう。

ペリリュー島守備部隊鎮魂碑

水戸第十四師団隷下、水戸歩兵第二聯隊を鎮魂する。
歩兵第二聯隊長は中川州男大佐。
中川連隊長がペリリュー島守備隊長となり、水戸連隊がペリリュー島の戦いの主役となる…

ペリリュー島守備部隊鎮魂碑
碑文
明治七年建軍以来、幾多の国難に出陣して赫々たる武勲に輝く水戸歩兵第二聯隊は、大東亜戦争酣の昭和十九年三月、北満の守りから中部太平洋の要衝ペリリュー島に転用され聯隊長中川州男大佐は、一万有余名の陸海軍諸部隊を併せ指揮して同島に布陣し敵の侵攻に備えて堅固な陣地を構築すると共に、全島民をパラオ本島に避難させた。
九月十五日、四万有余名の米軍機動部隊来襲し、想像を絶する砲爆撃の掩護下海面を圧する敵上陸舟艇群を迎撃して大打撃を与えた。爾後上陸せる敵増援部隊と七十余日に及び、洞窟陣地に拠る死闘を繰り返しつつ持久の任務を遂行したが、十一月二十四日、遂に戦力尽き、中川部隊長は、軍旗を奉焼し訣別電報「サクラ、サクラ」を打電して自決、残る将兵は遊激戦に転じ悉く悠久の大義に殉じた。
守備部隊の武勲は畏くも天聴に達し御嘉賞十一回に及び、陸海軍最高指揮官の感状により全軍に布告され、 世界戦史に比類無き精強部隊の名を残した。 ここに、その偉勲を景仰し、英霊の御加護による祖国の平和と繁栄を祈念して、五十年祭を期し、有志相図り、この碑を建立する。
 平成五年十一月二十四日
 歩二会・ペリリュー島慰霊推進会

ペリリュー島の戦い

昭和19年9月15日~11月25日
水戸歩兵第二連隊を中心とした日本軍が要塞化した洞窟陣地などを利用したゲリラ戦法により組織的な抵抗戦術で米軍を苦しめた戦い。
この戦い方法が、のちに硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになる。

日本軍戦死者10,695名・捕虜202名・最後まで戦った生存者34名
アメリカ軍戦死者 2,336名・戦傷者 8,450名
一般人(島民など)死者・負傷者ともに0名  
 ※ 戦闘開始前に日本軍は島民を強制退避させている

鎮魂 岩上大隊の英霊ここに眠る

国のため散りし御魂の名をぞ記さん

岩上大隊とは独立混成歩兵第1連隊第2大隊の通称。
アドミラルティ諸島の戦い
部隊はアドミラルティ諸島ロスネグロス島に展開するも昭和19年3月3日の夜襲総攻撃にて壊滅玉砕。生存者の一部はマヌス島転進。

昭和十八年十一月茨城健児八百有余名は動員下令により応召、宇都宮歩兵第六十六連隊に集合、独立混成歩兵第一連隊(剛四八一九部隊)第二大隊(岩上隊)を編成同年一二月横須賀港より戦艦大和に便乗、トラック島に寄港し巡洋艦大淀、能代にて一九年一月一日、ニューアイルランド島カビエンに上陸せるも、同年一月二十五日アドミラルテイ諸島ロスネグロス島に増派を命ぜられ守備につく。同年二月二十九日、米豪連合軍は艦砲射撃と機銃掃射による絨毯攻撃を繰り返しながら、同日未明ハイン湾に上陸し来る。
 依って我が方は連日連夜反撃を加え、夜襲を決行撃退を図りしが効を奏せず、三月三日夜襲による総攻撃を敢行せるも、如何せん十数倍の兵力と物量戦には敵し難く部隊長以下多数の戦死者を出し、壊滅的打撃を受け玉砕を遂げたり。
 かろうじて生存せる者、マヌス本島に転進せるが食糧全く尽き、木の実、草の芽、その他ヘビ、トカゲに至るまで総てを食しながら遂にマラリヤ、アメーバ赤痢等病魔に侵され全滅せり、時に昭和十九年五月三十一日なり。
 されどその後になり十六名の九死に一生を得た者判明しその方々と相謀り昭和五十六年五月マヌス遺族会を結成し昭和五十七年十月現地ヌマス島に赴き懇ろな慰霊祭を行った。その時抱き返りし現地の霊砂と、個人の愛用せる遺品等を此の地に埋葬し、永遠に今は亡き戦没者のご冥福をお祈りし、併せて二度と戦争を繰返すまじきことを誓うものである。
 願わくば在天の諸霊安らかに眠られんことを。合掌
 平成元年五月吉日(西暦一九八九年)
 岩上大隊遺族マヌス会 

蟹石

自然石に「蟹」
日本画家・木村武山のゆかりの石。

「壇ノ浦ノ本石ニ蟹ヲ描キテ寄進ス 藤沢校長」
藤沢校長とは藤沢繁三陸軍中将、陸軍航空通信学校長。 のちにフィリピン担当の第14方面軍第2航空通信司令官となる。

境内社 桜ノ宮


茨城県護国神社の境内入口に2つの石碑が林立している。

鎮魂
(歩兵第二百十三聯隊碑)

昭和五十二年十一月吉日建立
第三十三師団歩兵第二百十三聯隊(弓六八二二部隊)戦友会

歩兵第213聯隊は茨城県出身者にて編成。
第33師団隷下としてインパール作戦に参戦。
聯隊の犠牲者のほとんどはインパール作戦であったという。

 昭和十二年支那事変勃発し、次いで昭和十六年大東亜戦争に突入するや八紘一宇の聖戦のみ旗のもと、支那大陸並びに南方戦線に遠征し、史上最も惨烈を極めたるインパール作戦を始め、各作戦に於て、軍の主兵として連日連夜克く苦難に堪えて善戦敢闘せり。此の間祖国の平和の礎となりて異國の山野に散華戦没されし戦友や将又幾許ぞ、あゝ山行かば草蒸す屍とすべてを祖国に捧げける崇高なる戦友の魂塊は、今や髣髴として甦り、春は桜に匂い秋は紅葉に色染めて、世々是れ照覧し給ふ。あゝ尊き哉、靖國の神々、戦後三十有余年堅き戦友愛に結ばれし戦友会は、み魂鎮めの碑を建立して赫々たる武勲を顕彰し、以て不滅の祖国愛の久遠の光を万古不変に輝かすべく、その梗概を録して永く後世に伝ふると共に日本の永久の平和と繁栄を庶幾はんとするものなり。
 昭和五十二年十一月吉日
 第三十三師団歩兵第二百十三聯隊
 (弓六八二二部隊)戦友会一同

あゝ戦友の碑
(茨城県東部ニューギニア戦友会)

茨城県東部ニューギニア戦友会
昭和四十七年二月吉日建立

国を想い
 南溟の果てに
  散り行きし
戦友の亡きがら抱き涙す

碑文
 とこしえの平和を願って
 過ぐる大東亜戦争に際し、わが茨城県出身の将兵は第四十一、五十一師団、第四十四兵站等の主力として昭和十八年十一月より昭和二十年八月の終戦に至る間、灼熱瘴癘の地ニューギニアの地に優勢なる米豪軍と激闘を続け、実に八千六百三十九名の若い命を失うに至りました。
 これら戦友の諸子はその戦いの場において命終わる人とするとき、何を願い何を祈ったことでありましょうか
 終戦後二十七年、我が国は奇跡的とも云うべき復興大発展を遂げ、本県また今日の隆昌を迎えましたが、これこそただひとすじに日本民族の平和と繁栄を願い、無量の望郷の懐いを抱きつつ絶海の地に散華したこれら8千有余の同胞のご加護によるものと信じるのであります。昭和四十四年秋県民各層のご支援のもとニューギニアの生存帰還者は収骨団としてニューギニアの戦跡に派遣され念願久しかった現地での慰霊を行うとともに御遺骨を郷里にお迎えし、翌四十五年春、茨城県護国神社顕勲の塔納骨大祭を催すことを得ました。
 しかるに、この二十有余星霜、今なお南海の孤島ニューギニアのジャングル奥深く苔むす屍をととしる英霊の鬼気は陰々として膚に寒くその慟哭は惻々として耳朶を打つことしきりであります。
 ひるがえって、日本の現状に想いを致すとき、世をあげて安寧豊饒の泥海に浸り、巧詐恥なく若人はまたその理想を失い堕弱享楽の幣風吹きて止まざるものがあります。人間として耐えうる限界をはるかに越えた悪条件のもと三年有余にわたる悪戦敢闘の末に散った益荒男の意志を偲び祖國の前途を思うものまことに寒心に堪えざるものを覚えます。
 よって、ここに記念碑を建立し亡き戦友諸子の冥福を祈るとともに、そのいさおしを後世に伝えもって祖國恒久の平和と繁栄を心からこいねがう次第であります。
 昭和四十七年二月吉日
 茨城県東部ニューギニア戦友会 

御英霊に感謝と哀悼を。

こうしてだいたい1時間ほど境内を巡らせていただきまして茨城県護国神社をあとします。
しばし千波公園・沢渡川のあたりをふらふら。ちらりと好文亭も見えました。

次はちょっと北上し茨城大学方面に。


レンタサイクルにて茨城大学、茨城県営球場方面に。

水戸歩兵部隊の跡碑

水戸歩兵第2聯隊の練兵場跡(堀原練兵場)に建立。
茨城県営球場の道を挟んで北側の公園内。

水戸歩兵第二聯隊の練兵場跡に建立。歩兵第二聯隊は明治7年に宇都宮に開隊。その後は佐倉から水戸に転営。尼港事件では石川正雅少佐以下水戸歩兵第二聯隊第三大隊が在留邦人を保護し赤軍に対して防戦をするが全滅。
先の大戦では、歩兵第二聯隊(聯隊長中川州男大佐)がペリリュー島守備の主役となり玉砕… 

大東亜戦争の終結既に遠く 水戸歩兵部隊跡は一変して いま僅かに尼港記念碑を残すに過ぎない
滄桑の変誠に感慨無量である
ここに終戰二十周年を期し 有志相図り 我々の郷土部隊が残した歴史を後々まで伝えたい念願から 大方の協賛を得て この碑を建てるに至った
歩兵第二聯隊は 明治七年明治天皇から軍旗を授かり千葉県佐倉に創設され 爾来西南の役 日清日露両大戦に出征し 明治四十二年水戸に移駐後は シベリア派兵 満洲 支那各事変に参加し 勇名を轟かした
大東亜戦争の戦勢傾くや 満洲から太平洋の要衝ペリリュー島に馳せ 中川大佐以下五千 敵の猛攻に堪えること七旬 昭和十九年十一月遂に玉砕し 七十年の歴史を閉じた
また歩兵第百二聯隊は ニューギニアに転戦敢闘し これに劣らない偉勲をたてた
東部第三十七部隊外留守機関は 困難な後方業務を完遂し 両聯隊をはじめ幾多郷土部隊善戦の基盤をなした
顧みて水戸歩兵部隊の武勲は 祖國の歴史とともに朽ちることなく 永遠に輝くであろう
この碑が つわものどもの夢の跡を偲ぶよすがとなり 後世に資することができるならば幸である
 昭和四十一年四月
 水戸歩兵聯隊遺跡保存会

尼港殉難者記念碑

陸軍大臣山梨半造書
水戸歩兵部隊の跡碑の隣にひときわ大きな石碑
大正11年(1922年)3月建立

尼港事件の犠牲者を慰霊する碑
大正9年(1920)シベリア出兵に際して勃発した尼港事件
派遣された守備隊、水戸歩兵第2聯隊第3大隊は在留邦人を保護し防戦をするがパルチザン軍との戦いで玉砕…

尼港殉難者記念碑
 この碑は、大正九年(一九二〇)シベリア出兵の際、尼港事件に遭い殉難された方々に対する慰霊の為在郷軍人会が建立したものである 尼港事件とは、ロシア革命後の混乱期に、東部シベリア治安維持等のため、英・仏・米等の要請を受け共同出兵(シベリヤ出兵)の際、ニコライエフスク(尼港)守備隊及び邦人が共産革命軍の残虐行為により全滅した事件である。
尼港は、沿海地方北部アムール川河口の政治経済の中心地で、僻遠の港町であった。
 大正8年4月第十四師団は東部シベリヤに派遣され、これに伴い水戸歩兵第ニ聯隊第三大隊(長陸軍少佐・石川正雅)は、ハバロスクの聯隊と別れて尼港に到り、守備隊となって在留邦人の保護等にあたった。
九月海軍と漁業関係者等が引き揚げ後の越冬者は、守備隊320名・海軍43名と石田領事ほか約350人の邦人であった。
この方面の革命軍は、極端な過激思想を持つ悪質なパルチザン軍(パ軍)で、情勢の悪化を憂い中央では増援部隊の派遣を図ったが、結氷積雪等に阻まれて断念を余儀なくされた。
ニ月五日海軍電信所はパ軍の砲撃を受けて破壊され、守備隊は約4千のパ軍と反日的市民の中に孤立した。
以来両軍は交戦状態に入ったが、二十八日秩序維持協定が成立し、市内に入ったパ軍は、協定を無視して不法暴虐の限りを尽くし、武装解除を要求してきた。
石川守備隊長は海軍及び領事等と協議の結果事態打開のため三月十二日未明一斉に攻撃を開始した。
緒戦は有利に進展したが逐次死傷者続出し、石田領事は家族と共に自決した。
その後軍民協力して防戦を続けたが、パ軍の謀略による改ざん電報により停戦し、十九日武装を解除されて全員投獄され悲惨な獄中生活を送った。
五月下旬我が救援部隊の接近を察知したパ軍は、獄内外の日本人全員を惨殺し全市を焼き払って遁走した。
獄舎内の生々しい血痕や「五月二十四日を忘れるな」と無念の恨みを込めた文字、辞世の数々が、最後を物語り、六月三日到着した救援部隊員は、なすすべもなく悲憤の涙を流すばかりであったという。
 平成八年五月二十四日
 水戸歩兵第二聯隊会
 (社)日本郷友連盟茨城県支部建立
 (撰 加藤保男)

https://goo.gl/maps/TY5mFANjA6AZ3tVW7

尼港事件

ロシア革命の内戦に際し1920年(大正9年)3月から5月に勃発した赤軍パルチザンによる大規模虐殺事件。
赤軍は尼港(ニコラエフスク)住民を虐殺。その中には日本人居留民・日本領事一家・駐留日本軍守備隊(石川正雅少佐以下水戸歩兵第2連隊第3大隊)などが犠牲に。

あぁ 在留邦人を護るために戦い玉砕した水戸歩兵第2連隊第3大隊
焼け落ちる領事館で自決した領事一家や在留邦人
投獄された日本人全員の虐殺

事件全体の日本人犠牲者は、軍属を含む陸軍関係者が336名、海軍関係者44名、外務省関係者(石田領事とその家族)4名、判明している民間人347名。合計731名…

尼港事件犠牲者の遺書 「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」

監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書
「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」
Wikipedia「尼港事件」より

https://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b0%bc%e6%b8%af%e4%ba%8b%e4%bb%b6

尼港陣歿将士銘碑

聳え立つ記念碑の隣に「尼港陣歿将士銘碑」
水戸歩兵第2連隊第3大隊の犠牲者の名が刻まれていた。
隊長石川正雅(陸軍少佐)以下、軍属の馬丁に至るまでの305名という。

龍車閲軍之跡
賜閲駐輦之跡

尼港殉難者記念碑の隣にひっそりと2つの碑がありました。

「龍車閲軍之跡」陸軍大将井上幾太郎書
「賜閲駐輦之跡」

「龍車」「輦」は天皇の乗物を示しており「閲」は閲兵。
昭和4年(1929)に茨城県で行われた「陸軍特別大演習」関連の記念碑
昭和5年建立

石碑がある公園は人影も少く静まり返っている。

道路を挟んだ向かい側には「茨城県営球場」や「茨城県武道館」などの運動公園が広がっており賑わっている。 石碑のある公園の裏側は「茨城交通茨大前営業所」がありバスが連なっていた。
そんなところに「第二聯隊」を偲びし碑が静かにあった。


水戸工兵隊記念碑

国立茨城大学教育学部附属中学校の隣、道路の片隅の標石。
「水戸工兵隊記念碑」
水戸工兵隊の一部は水戸歩兵第二聯隊とともにペリリュー島の戦いに参加。ペリリューの要塞構築にも尽力したことであろう。

https://goo.gl/maps/VqkdWMxM3yyABNJf6

水戸工兵隊跡碑

安井栄三郎書
「水戸工兵隊記念碑」のあった道路をすすみ団地を抜けると「跡碑」があった。 安井栄三郎は工兵出身で陸軍少将。津軽要塞司令官を勤めた人物。
碑は昭和四二年建立。 水戸工兵隊の兵営があった地。

https://goo.gl/maps/zHXnL6dnBs6KvNPAA

茨城県護国神社と陸軍関連の石碑などを探索でした。
ほかにも探せば何かしらが残っている可能性もありますが本編はひとまずは以上。
水戸ではレンタサイクルで約14キロ約2時間30分所要でした。

栃木縣護國神社

平成29年参拝

平成29年8月26日。
この日は、栃木県宇都宮市に鎮座している「栃木縣護國神社」を参拝。

宇都宮駅西口からバスで作新学園前下車。
すぐ隣が護国の社叢。

栃木縣護國神社

祖国と郷土の為に身命を捧げられた栃木県関係の英霊55,361柱を祀る、かつての内務大臣指定護国神社。

「宇都宮招魂社」として明治5年(1872)戊辰の役に殉じた旧宇都宮藩主戸田忠恕公及びその臣下等97柱の英霊を祀ったことにはじまる。(旧地は二荒山神社隣)

明治8年、官祭招魂社。
昭和14年、栃木縣護國神社と改称。
現在地には昭和15年4月29日遷座。

終戦後GHQ占領下の昭和22年11月14日に彰徳神社と改称。
昭和28年4月2日には栃木県護国神社と旧称に復称。

平成8年7月25日には、
天皇・皇后両陛下が御親拝をされており
天皇・皇后両陛下が唯一公式に御親拝された護国神社とされている。

感謝と哀悼を捧げる
参拝を

社務所で女性の神職様から御朱印を頂戴いたしました。
(靖國神社の桜の御朱印帳に戴いております)
ありがとうございます。

西側の鳥居。
社号標は昭和15年3月建立。
樞密顧問官・陸軍大将 奈良武次謹書。
奈良武次は栃木県鹿沼市の出身。陸軍大将。開戦前の昭和14年(1939年)3月に退役している。

名木「宝の木」(猿の手柏)

推定樹齢300年
明治6年の土地改良があった際に、この珍木にちなみ界隈は「宝木村」と呼称。
明治39年に宇都宮第十四師団司令部(現在の国立病院の地)が設置された際に寄進。昭和57年に社頭に献木という。

役立たずの御柱

「役立たず」と思う物を「役立ち」に変えてくれる御柱。
厄だけは「やくたたず」で結構。
なかなか面白い趣向です。

御製

今上陛下御製  

広芝をうむる人群旗持ちて
   振る音聞ゆ今日のよき日を

なんじゃもんじゃの木

ヒトツバタゴ
東日本で樹齢100年余りの「なんじゃもんじゃ」の巨木が3本も見られるのは珍しい、とのことです。


社頭のむかって左側には各部隊の「慰霊碑」が集められた「慰霊碑区画」があります。栃木の先人たちをお慰めしている慰霊碑へと。 ゆっくりと参ります。


忠霊塔

元宇都宮陸軍墓地(現在の東妙寺墓地)に眠っていた遺骨などを栃木縣護國神社境内の忠霊塔へと改葬したという。

栃木県東部ニューギニア会慰霊碑

この慰霊碑は昭和44年の遺骨収集の際に遺骨とともに持ち帰られたニューギニアの霊石。

大東亜戦争中 原始未開の東部ニューギニア北岸一帯は陸軍は第十八軍(猛部隊)の隷下に属する第二十(朝部隊)第四十一(河部隊)第五十一(基部隊)の各師団及び第四航空軍(洋)船舶団(暁)など 海軍は第二十七特別根拠地隊を主とした部隊が南太平洋防衛第一線の中央拠点として懸軍長躯孤立無援の作戦環境であったにもかかわらず 純正無比 ひたすら祖国の安泰と平和を念じて食料彈薬の欠乏を意とせず 悪疫瘴癘の地に敢闘すること実に三年有余 この間その犠牲は優に十二万人に達し しかもその大半は宇都宮師団管区に属し これら忠勇なる郷土将兵の遺骨の大部分は戦後二十有余年彼の僻遠の山野に埋れておりましたことはその遺族 戦友会は勿論 県民の一大痛恨事でありました。
万死に一生を得て生還したわれわれ戦友は栃木県東部ニューギニア会を結成し予てよりの収骨慰霊の悲願を達成するため昭和四十四年秋 厚生省が遺骨収集団を派遣する機会にこれが協力団を派遣することを企図し その趣旨の徹底とこれが費用の募金を全県下に呼びかけましたところが期せずして県民総ぐるみの一大運動として共感を喚び 予期以上の浄財を得て 昭和四十四年十月三日より十一月四日に至る約一ヶ月間収骨団は幾多の悪條件を克服し 亡き戦友に無言の対面を遂げ弔慰の辞を捧げ収骨の悲願を達成いたしました。
碑上の巌石こそは団員がかっての戦場より持帰ったもので亡き戦友の凄絶なる死闘を物語る無言の戦史であり 戦友の面影に接する感一入のものがあります。
茲に永久に英霊の偉勲を讃え その冥福を祈ってこの慰霊碑を建てるものであります。      
 昭和四十五年三月二十二日
 栃木県東部ニューギニア会 建之
 会長 澤田芳見

戦友よ安らかに眠れ
第三十三師団第二百十四聯隊戦没者慰霊塔

吾が聯隊は昭和十四年三月白虎隊の精神を受継ぐ会津若松聯隊に於いて編成を終え勇躍一路支那大陸に出陣かん湘会戦を初め錦江作戦中原会戦続く普察冀辺区作戦など数次に亘る戦闘に参加その都度赫々たる武勲をたて大東亜戦争の勃発するや長駆南方戦線へ転進を命ぜられ泰国「バンコック」へ上陸泰緬国境の峻険を突破ビルマ戡定作戦に入るや破竹の快進撃を続け遂に敵の要衝「ラングーン」そして「エナンジヨン」の油田地帯を占領中部ビルマ一帯の掃蕩を完了数々の感状を受領。 
然し十九年に入るや各戦線とも熾烈な反撃を受け作戦転換を余儀なくされた方面軍は「インパール作戦」を企図約十ケ師団二十三万の兵力を投入無謀に等しい戦闘にも拘らず聯隊はひたすら祖国の安泰と平和を念じ愛国の血と白虎魂を以って圧倒的優勢を誇る敵軍を動揺せしめた。 
この間彈薬食料の欠乏と悪疫を克服斬込み肉薄攻撃など悪戦苦闘実に三年有余その犠牲は十八万人を数え而もその大半は宇都宮師団管区内に属し本県出身者も実に五六八五名の勇士がビルマの山野に再び還らぬ護国の鬼神と化したその尊い遺骨の大半は未だに異国の山野に埋もれ収集と慰霊塔の建立は遺族戦友は勿論国民の一大悲願であり吾等生存者一同の責務でもある。
昭和四十六年一月ビルマ戦跡慰霊巡拝の壮途に参加した増渕幹男氏は一同を代表して山野の英霊と再会碑の建立を誓い碑中に奉納すべく現地の仏像と戦場の石をひそかに運んだ。 
聖域に南十字星輝くこの碑は亡き戦友の死闘を後世に伝える無言の戦史であり平和の希求である。
殉国の英霊願わくばとこしえに安らかに眠り給え 茲に吾等はその御遺功をたたえ聯隊の武勲を永久に顕彰するものなり。
 昭和四十六年九月廿日
 元支那、元ビルマ 遣第三十三師団歩兵第二百十四聯隊 生存者一同

鎮魂

昭和六十年十一月二十三日建之   
 北支派遣陣第二九九三部隊    
 独立歩兵第七十八大隊高陽一九会 

鎮魂

明治天皇御製
 身をすてて いさををたてし 人の名は
  くにのほまれと ともにのこさむ

鎮魂
第三十三師團 山砲兵第三十三聯隊之碑

山砲兵第三十三聯隊は弓第三十三師團の師團砲兵として昭和十四年仙台及び高田において東北各県新潟県茨城県栃木県群馬県長野県の出身者をもって編成され中国江西省に出征
その後北関東及び長野県出身者を主とするよう変更され揚子江南及び黄河北方の大小の作戦に参加
昭和十六年暮から終戦までタイ国上陸後ビルマ進攻作戦インパール作戦イラワジ会戦等苛烈な作戦に参加輝かしい弓師團の戦斗に貢献しました
この間には一八九六名の戦友が尊い生命を捧げた事は痛恨の極みであります
ここに故友の遺烈を後世に傳える為この碑を建立します
 平成三年三月十日
 弓六八二五部隊山砲兵第三十三聯隊戦友会

軍馬慰霊 山砲兵第三十三聯隊

軍馬は、かけがえのない、我々の戦友であった。召されて故国を出て、中国大陸の南に北に、ついでタイ、ビルマ、インドと多くの作戦に参加し、重い火砲や弾丸を負い、暑さ寒さひもじさに堪えて働いてくれた。この間弾丸に倒れ或は糧食の欠乏と豪雨とにより、多くが戦陣に死し、戦い敗れて一頭も故国に帰ることなく、悉くが南方の土に帰した。ここに万斛の涙とともに聯隊千三百頭の無言の戦友の霊を弔う。
 平成九年三月十日
 山砲兵第三十三聯隊戦友会

慰霊 宝木会

宝木会は昭和二十五年旧歩兵第五十九聯隊並に東部第三十六部隊関係者により創設、英霊の顕彰と遺族の慰霊及び会員相互の親睦をはかり、毎年慰霊祭を実施してきた。
宝木会は護国神社参道、前庭、及び神苑に桜樹二百数十本のほか銀杏の木を献木、忠霊塔の修理参道の整備及び神社幔幕、錦旗、旗幟等を寄進し、また歩兵第五十九聯隊激戦終焉の地パラオ諸島より戦友の遺骨を収集、我が歩兵第五十九聯隊兵営跡に宇都宮歩兵聯隊跡の碑を建てた。
我々は大東亜戦争終結後早くから、祖国の安泰と発展のため殉ぜられた、先輩戦友諸士の偉大なる功績顕彰と英魂の平安を祈り、護国神社及び忠霊塔を中心と仰ぎ、神霊の尊崇敬仰慰霊に精魂を傾け、また日本の安全と平和を祈念してきた。
茲に本会並に関係者の意図と哀情を子孫がこれを理解し永えに継承されんことを念願し、創立三十周年を記念してこの碑を建立する。
 昭和五十五年四月吉日   
 宝木会

慰霊
宇都宮第14師団・照集団 野砲兵第20連隊之碑

第十四師団砲兵として編成されるも島嶼防衛の為に部隊改編。
水戸歩兵第二連隊、宇都宮歩兵第五十九連隊、高崎第十五連隊等に転属。
パラオ本島に歩十五連隊、そして歩二はペリリュー島、歩五十九はアンガウル島に展開。
昭和19年7月20日、歩五十九連隊はパラオ本島防衛強化の為、ア島に後藤大隊を残置主力は本島に転進。
9月6日、米機動部隊来襲ペリリュー・アンガウル両島を猛爆艦砲射撃。
9月23日、歩十五連隊飯田大隊はペ島に逆上陸を敢行し玉砕…

野砲兵第20連隊が配属されたペ島・ア島。
ペリリュー島は11月24日「サクラ」「サクラ」を連送して玉砕。
ペ島砲兵隊関係戦死者五三六名。
アンガウル島には9 月17日に米軍来襲。
残留の後藤守備隊長は連隊本部との連絡も途絶えたまま二十倍の敵と対峙し10月19日玉砕と推察

野砲兵第二十連隊は明治三十八年満洲で創立凱旋後第十四師団砲兵として宇都宮に駐屯し茨城・栃木・群馬・長野四県より選ばれた壮丁で構成。
昭和十五年三十余年練武の地宇都宮からチチハルに移駐し関東軍の中核としてソ連軍の侵攻に備えた。
昭和十九年二月師団に動員下令。
島嶼作戦に適応した編成装備に改変し、水戸歩兵第二連隊、宇都宮歩兵第五十九連隊に砲兵各一ケ大隊を配属、高崎第十五連隊には個々に転属、編成外人員は全員他部隊に転出、馬匹はチチハルに残置し連隊は栄光に満ちた四十年の歴史を閉じた。三月大連出航、制空制海権共になき海域を奇跡的に無事パラオ到着。
本島に照集団司令部 歩十五連隊主力等を置き歩二連隊をペリリュー島、歩五十九連隊をアンガウル島に配備、硬いさんご礁に苦しみながら陣地構築に励んだ。
七月二十日歩五十九連隊はパラオ本島防衛強化の為、ア島に後藤大隊を残置主力は本島に転進。
九月六日機動部隊来襲パ・ア両島を猛爆艦砲射撃も加え連日続行された。
米戦史によれば上陸前三日間に十七万トンの砲爆弾を使用し島形変じ地上物件すべて飛散した。
九月十五日中川州男守備隊長以下一万の守備するペ島に上陸開始、大隊長小林与平中佐・常持良二大尉・天童隆大尉・大橋栄一大尉率いる各中隊の砲兵は第一波の海兵隊を猛射千名に壊滅的打撃を与え緒戦は勝利したが装備物量の差に加え四倍の敵に対し複郭陣地に依り抗戦、九月二十三日歩十五連隊は砲兵より転属した新井道彦大尉以下五九名を含む飯田大隊の逆上陸救援作戦も効果なく軍旗を奉焼して十一月二十四日「サクラ」「サクラ」を連送して玉砕した。
ペ島砲兵隊関係戦死者五三六名。
ア島には九月十七日来襲、後藤丑男守備隊長は連隊本部との連絡も途絶えたまま二十倍の敵と対峙し配属砲兵中隊長芝崎省三郎大尉以下一九七名高射機関砲隊柏原中尉以下三〇名も一致団結よく敢闘したが十月十九日玉砕せるものと推察される。
本島の近藤大隊・丸山・谷口両中隊では飢餓との戦いにより三三名・砲兵団神山大隊・小宮山中隊他三ケ中隊で六二名の犠牲を生じた。

遠い南海の孤島で家族の安泰と祖国日本の弥栄を念じつゝ激闘の末若い尊い命を捧げた亡き戦友達の霊を慰め其の業績を永く後世に伝えるべく遺家族・戦友の有志相集い深い感謝を込めここに慰霊碑を建立し御霊の安穏を祈念し奉る。
 平成十九年十月 建之

英霊顕彰碑
山砲第三十三聯隊第四中隊

戦没勇士196柱 
永遠に讃え祀らむ平和の礎

戦友の霊に
国破れて山河あり 
先の大戦が終結し五十年の星霜は緑の大地は蘇らせることはできたが異境に眠る御英霊への思いは愈々つのるばかりである 
時の流れと共に戦争の悪夢は次第に風化されたとは言え、戦争体験者にとっては脳裏に焼き付いた心の痛みは永遠に消えることはない
懐古すれば、長い歴史と伝統を誇る我が国は、千古の昔から瑞穂の国を標榜する住みよい国である
然るに昭和の時代に至るや俄に世界の風雲急を告げ、世界諸国連合は我が国に経済封鎖の包囲網を繞らし強圧したるも大和民族は断じてこれに屈せず国家の存亡を賭けて総決起し、万止むなく大東亜戦争開戦の悲運となる 
この時代に生を享けた我等青年は、青春の全てを捧げ国難に立ち向かうべく、従容として戦地に赴き、幾多の戦線に従軍する 
かくして緒戦を飾ることはできたが、凄惨苛烈な死闘に国力の差を乗り越え幾百万の同朋は尊くも犠牲という人類最悪の悲劇を蒙り終戦を迎える結果となる。
思えば、今なを戦友の多くは、中国の広野に万里異境のビルマの地で、そして白骨街道のインパール(印度領)の果てに無念の涙を流し、当地の守護神と化して山野に眠っている。
九死に一生を得た私共は、祖国再建と平和国家実現に最善を尽すことが亡き戦友への供養であろうと確信し、その道を歩み続ける。
今や日本は苦難の道を乗り越え、戦争を放棄し、自由と平等の下教育文化は言うに及ばず経済大国として世界に誇示する迄に至る。
これぞ、まさしく悠久の大義に殉じられ、平和の礎となられた御英霊の賜である。
この時に及んで中隊戦没勇士の御尊名を深く刻み、ここに顕彰の碑を建立し、その偉業を声を大にして子子孫孫に伝えんことを我等一同お誓いするものである。
 平成八年(一九九六)五月十六日  
 復員五十周年記念日建立
 弓山砲山四会生存者一同 

忠魂碑
栃木県立宇都宮商業高等学校同窓会

陸軍大将従二位勲一等功三級男爵奈良武次書
昭和9年1月、栃木県立宇都宮商業学校同窓会
昭和30年4月、 栃木県立宇都宮商業高等学校同窓会

満洲事変戦死者及び支那事変戦死者・大東亜戦争戦死者の名が刻まれている。

白鹿丸遭難之碑

昭和十九年十月十八日
コレヒドール沖合

兄小田尚命は、さきの第二次大戦において陸軍少年飛行兵を志願し 
昭和十七年四月東京陸軍航空学校に入学 
昭和十八年3月同校卒業同年四月陸軍航空通信学校(水戸)に入学 
翌住区年七月同校卒業 
第三航空軍に配属されその任地に赴くにあたり瑞穂丸に乗船 
同年九月二十一日比島周辺で沈没、護衛駆逐艦に救助された 
その後白鹿丸に乗船、少年飛行兵第十四規生(甲)二十一名を含む軍人約二千名と軍需品を積載 
船団を編成してマニラから、シンガポールに向かい航行中十月十八日午前七時五十分ごろ東経一一九度五一分、北緯十四度〇四分地点で敵の潜水艦により撃沈され 名誉ある戦死をとげた
正に弱冠十九才   
ここに兄の戦績を偲び文碑を建立した
 平成十六年十二月八日  
 小田信明(博)「九百九十九日の青春」に基づいて編集
 第十四期生甲 大曽根 敬雄  小田 清子

慰霊碑区画の反対側。
御社殿の向かって右側にも幾つかの碑が集まっておりましたので、そちらにも参りましょう。

境内社

日本赤十字社殉職救護員慰霊碑

栃の木かげに還る

この碑は日華事変から大東亜戦争にかけて日本赤十字社栃木県支部所属救護員として応召し黄塵と酷寒の大陸や、灼熱の南方地域に派遣されあるいは浪荒き海を海上輸送の任務について戦傷者の救護に献身し、若く尊い命を捧げた殉職救護員二十六名の清く凛々しい姿をしのびみたまを慰めるとともに、永遠の安らぎと世界平和の深い祈りをこめて建立し、その遺徳を後世に伝え師表と仰ぐ資とするものであります
 昭和五十三年十一月八日
 日本赤十字社看護婦同方会栃木県支部

特攻勇士の像

私たちは決して忘れない 
かつて太平洋戦争の末期、敵の圧倒的戦力を阻止しようと爆弾をかかえ、あるいは魚雷を抱いて、敵艦等に体当たりを敢行した特攻隊員のことを 。
祖国の安泰を信じ、太平洋の陸に海に空に散華した特攻隊員は、全国で実に五千八百余柱、本県で九十四柱に及ぶ。
このたび、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会寄贈の「特攻勇士の像」を 多くの県民の浄財によってここに顕彰碑として建立することができた。 特攻隊員の崇高な美挙が、この碑によって永遠 に語り継がれることを願うものである。
 平成二十二年八月十五日  
 栃木県特攻慰霊顕彰の会

満洲開拓青年義勇隊慰霊碑

我等は若き義勇軍  祖国の為ぞ鍬とりて  萬里涯なき野に立たん
今開拓の意気高し  今開拓の意気高し

満洲開拓青少年義勇隊は昭和十二年に創設され、十四歳から十九歳までの青少年が、茨城県内原訓練所を経て満洲(中国東北地方)に移住し、前後三年間、各種の訓練に従事しつつ北方守備の一翼を担ったのである
当時政府は、民族協和、王道楽土、第二の祖国建設等の政策を掲げ、全国の青少年がその国策推進に協力することを奨励した。
この政策に夢と理想を見出した幾多の純粋な若い魂は、進んで義勇隊に入り、内原での厳しい訓練に堪えて渡満した。この数全国で九万余、本県からも二千数百余名が応じた。
この間義勇隊の訓練と生活は言語を絶するものがあったが、夢と使命感を秘めていた拓友は、酷寒猛暑を克服してひたすら開拓の鍬を振るい、初志貫徹のため日夜精励した。そしてその苦闘も報いられ、理想郷の実現する日も近くにあるやに思っていた。
しかるに昭和二十年八月、敗戦という過酷な現実に、若い情熱と努力の結晶は水泡に帰した。その後の苦難は筆舌に尽くし難く、酷寒と飢餓、病魔に侵される悲惨な日が続き、斃れて若い生命を奪われたもの、本県のみでも三百六十余名に及んだ。  
幸いわれわれは、励まし合い助け合って九死に一生を得、なつかしい母国の土を踏むことが出来たが、大陸の広野に空しく消えた拓友を忘れることは出来なかった。
ここにかれらの魂魄を故郷に幾久しく鎮めるため、生還し得た本県の有志が相集まり、相謀って、聖なるこの地に慰霊碑を建て、その冥福を祈念するものである。願わくば友よ、安らかに眠られんことを。

鎮魂賦
少年雄叫ぶ満洲の原  
戦い敗れ辛酸言うに耐えず
八百の青雲興国の志
故郷の山は英魂を鎮めんと欲す

 昭和四十七年十一月十二日  
 元満洲開拓青年義勇隊  
 慰霊碑建設協議会建之

防人の歌 (万葉歌碑)

昭和15年1月10日、栃木縣教育會建立

火長今奉部與曽布の歌
今日よりは顧みなくて大君の
 志このみたてと出で立つ我は
樞密顧問官陸軍大将従二位勲一等功三級男爵奈良武次書


西側の「鳥居の外側」になにかいました。

「夢福神」
栃木県内では「夢福神・九難除け至福神社めぐり」というものが有るんですね。

栃木県護国神社の散策は以上にて。

栃木県護国神社サイト

http://www.gokoku.gr.jp/index.html

栃木県護国神社・慰霊碑のご案内

http://www.gokoku.gr.jp/sanctuary_9.html

あぁ、見逃しがあるのが判明しました・・・再訪ですね。
・平和の門( 基第二八〇二部隊(歩兵第六十六聯隊) )
・憲兵之碑

愛国婦人会発祥之地碑

九段 令和元年8月撮影

愛国婦人会発祥之地碑

愛國婦人會 發祥之地碑
小笠原長生書

碑裏
會祖 奥村五百子刀自銅像跡記念の為 之を建つ
昭和三十年秋
奥村刀自法要會

明治33年(1900)に勃発の北清事変(義和団事件)に際し、婦人運動家の奥村五百子(1845年06月07日-1907年02月07日)が、慰問団の一員として現地視察をしたことをきっかえに、女性による兵士慰問と救護、遺族支援が必要と考え、1901年に近衛篤麿・小笠原長生や華族婦人らの支援を受けて愛国婦人会を創設したことにはじまる。

初代会長は、宮内大臣であった岩倉具定の妻岩倉久子
明治36年(1903)には閑院宮載仁親王妃智恵子を総裁に迎え入れた。

大正9年(1920)、会長に下田歌子が就任。下田歌子は実践女子学園の創設者。

https://www.jissen.ac.jp/school/shimoda_utako/biography/biography07.html


愛国婦人会は昭和16年6月、大日本連合婦人会・大日本国防婦人会との婦人3団体と統合が決定。

愛国婦人会
 1901-1942 内務省・厚生省系 略称「愛婦」 
大日本連合婦人会
 1931-1932 文部省系 略称「連婦」 
大日本国防婦人会
 1932-1942 陸軍省・海軍省系 略称「国婦」 

昭和17年(1942)2月2日に3婦人団体が統合して「大日本婦人会」が新設結成。
位置づけとしては、大政翼賛会の下部組織。

大日本婦人会
 1942-1945
 陸軍省・海軍省・内務省・厚生省・拓務省の共同所管下
 略称「日婦」

昭和20年6月13日、国民義勇隊が編成され、大政翼賛会は解散。大日本婦人会も解散となり、国民義勇隊女子隊に改組編入された。(昭和20年9月2日解散)

愛国婦人会発祥のこの地には奥村五百子銅像があったというが現存せず。
奥村五百子 故郷の佐賀唐津では、戦後に奥村五百子銅像が再建している。

石碑は再開発によって九段坂病院の駐輪場の後ろ、お堀側に移築。

軍人会館(九段会館)の隣が愛国婦人会の発祥の地。
 日本体育会体操学校之碑
 愛國婦人会発祥之地碑
 九段精華学校発祥地
3つの石碑がまとめて保存。

写真奥の九段会館は(腰巻建築)工事中。

巣鴨プリズン跡地と護國寺界隈の戦跡散策

平成29年10月・12月23日ほか撮影


巣鴨プリズン跡

池袋サンシャイン60。
かつて巣鴨プリズンと呼ばれていた巣鴨拘置所跡地。
そのサンシャイン足元の東池袋公園。

そこには、ひっそりと往時を偲ぶよすががある。

「永久平和を願って」
鎮魂の碑 この節目の日(12月23日)には、多くの人々が訪れていた。

永久平和を願って

永久平和を願って

碑裏文
第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。 戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
昭和五十五年六月

昭和23年12月23日。
極東国際軍事裁判にて、いわゆるA級戦犯とされ、死刑囚とされた7名に対する絞首刑が執行された。
これは当時の皇太子殿下(現在の 天皇陛下)の誕生日という、12月23日の尊い「国民の祝い日」を敢えて刑の執行日に選んだともされている。

昭和受難者

1978年(昭和53年)10月17日に「昭和殉難者」(国家の犠牲者)として靖国神社に合祀。

靖國神社に合祀された「昭和受難者14柱」は以下の方々。

昭和23年12月23日に絞首刑執行(刑死)
 東條英機
 広田弘毅
 土肥原賢二
 板垣征四郎
 木村兵太郎
 松井石根
 武藤章
終身刑(刑期中に病死)
 平沼騏一郎
 白鳥敏夫
 小磯国昭
 梅津美治郎
 東郷茂徳
戦犯指定を受けたが判決前に病死
 永野修身
 松岡洋右

豊島区立 東池袋中央公園

公園案内図には該当の碑の案内はなく、碑文も奥歯に物が挟まった感が強く、なかなかに複雑な気分にさせられる。

そびえたつ池袋サンシャイン60。 まるで墓標のようでもあり……


巣鴨プリズンの排水口跡

移設保存されました

サンシャイン60と造幣局東京支局跡の台地の下。
石垣が連なっており、よく見ると穴が。

これが巣鴨プリズンの排水口跡。
この排水口から、ここにかつて流れていた水窪川に排水がされていたという。
巣鴨プリズンの名残。

これが巣鴨プリズン(巣鴨監獄)を物語る唯一の残存した史跡。

あの当時の歴史を思い起こすには、史跡のインパクトは弱く小さいけど、逆に考えると「よくぞ残ってくれた!」という感慨も強い。
ここにはなにも案内看板も無いけども、貴重な歴史証言物。

https://goo.gl/maps/mNpYJCvRYaeDN2eD7

巣鴨プリズンの排水口跡があるのであれば、排水口が設けられたこの石垣も往時の名残なのか。
石垣の向こう側の台地が巣鴨プリズン跡。 サンシャイン60を遠望することが出来る場所は、今は静かな住宅街。
歴史的には極めて感慨深い空間であった。

移設保存されました。
以下で、新規に記載。


東条英機墓(雑司ヶ谷霊園)

東條家墓 (東条英機・東條英樹)

サンシャインの真南側に雑司ヶ谷霊園がある。
その霊園には東条英機が眠る。

昭和23年(1948)12月23日午前零時1分
巣鴨拘置所(スガモプリズン)内
東条英機は極東国際軍事裁判(東京裁判)にて裁かれ、ときの皇太子誕生日であった12月23日に死刑(絞首刑)が執行された。64歳没。

巣鴨プリズン跡に墓標のようにそそりたつサンシャイン60ビルを見つめつつ参拝を…

「東條家墓」(東條英機墓)

明治四十四年七月 第二代英俊埋葬の機会に於て墓地を浅草区松葉町清水寺より雑司ヶ谷共葬地に移し新に此墳墓を築く 第三代英教 識す

※東條家第二代東條英俊(盛岡藩士)、第三代が東條英教(陸軍中将・東条英機の父)、そして第四代が東條英機。

奇しくも東條家墓の後方には、
サンシャイン60が、
かつての巣鴨プリズンが、
まるで東條英機を偲びし墓標のように大きくそびえ立っていた。

用賀にあった東条英機邸

東条英機邸跡

身代地蔵尊(護國寺)

巣鴨プリズンの最後の教誨師であった「巣鴨の父」田嶋隆純大僧正の発願で昭和28年3月24日建立。
台石の下には戦争犯罪人として死刑宣告され殉じられた1068名の人々の氏名を刻んだ銅板と防蝕の処置された「世紀の遺書」が納められており、その御霊を慰めている。

「世紀の遺書」の収益金の一部で建立されたのが東京駅前の「愛の像(アガペの像)」

雑司ヶ谷霊園の東隣には豊島岡墓地と護国寺。
そこに陸軍墓地もある。脚を運んでみましょう。


陸軍省境界石

「陸軍省」と記された陸軍境界石(陸軍標石)
ちょっと傾いてますね。

陸軍省が管理していた「陸軍音羽埋葬地」との境目。
この境界線の前の道路は不忍通り、後の敷地が護国寺と日大豊山高校。

https://goo.gl/maps/pRt73yrCJg1gM9KA9


音羽陸軍埋葬地(音羽陸軍墓地)

塀に囲まれた一角に「音羽陸軍埋葬地(音羽陸軍墓地)」と呼称される空間がありました。

音羽陸軍埋葬地 英霊之塔

明治陸軍黎明期の早い段階で設けられた陸軍墓地。 2400余柱を祀る。
戦後は護国寺に管理が委ねられ、墓地は整理され現在はこの英霊之塔を中心に40基ほどの区画となっている。

音羽陸軍埋葬地 英霊之塔の由来
この地は戦前、明治以降の近衛その他の在京部隊に在籍し、幾多の戦役等で身を挺して勇戦敢闘され、国に殉じた二千四百余柱の英霊を埋葬した墓地でしたが、戦後は護国寺が管理しています 。
本英霊之塔は昭和三十二年十一月、護国寺第五十一世岡本教海大僧正の建立によるもので、中央に英霊と仏像を安置した英霊之塔、その周囲に有縁墓地四十を配して現在の姿に改葬され、殉国の英霊の眠る聖地となりました。
毎年十一月にはその遺徳を偲び顕彰する慰霊祭が行われ、敬虔な感謝の誠が捧げられております。 平成七年十一月十一日  社団法人日本郷友連盟東京都支部

英霊之塔の両脇には合葬碑が。

「陸軍軍人合葬之碑」
向かって右 明治三十七八年戦役戦歿将校以下遺骨
明治39年8月建 (日露戦争)

向かって左
満州事変戦歿将校以下
昭和7年12月建 陸軍中将林仙之書

護国寺多宝塔

護國寺多宝塔の由来
この多宝塔はもと当山の薬師堂の西側に、明治二十五年十二月二十一日に建立されたものである。
明治二十七・八年の日清戦争で遼東半島の各地の野に戦病没した、忠勇義烈の軍人の遺骨を収集、本国に送還し一時京都泉涌寺の舎利殿に仮安置された。明治三十五年秋、多宝塔の正面に拝殿としての忠霊堂が完成、同年十一月二日当山に遺骨も移され、塔下に埋葬、慰霊大法要が厳修された。
その後、この塔は長い年月風雨に曝され、近年は破損甚だしく今般大修理を施し、音羽陸軍埋葬地遺族会の協賛を得て、この地に移築建立したものである。
平成八年十一月十一日 
大本山護國寺

https://goo.gl/maps/BYz1koQaFKb4Mfxm8

護國寺墓地

ここには「陸軍埋葬地」以外にも著名人のお墓が多い。
が、この日はあまり持ち時間が無かったので個々のお参りはせずに。

明治の有名人では 三条実美・大隈重信・田中光顕・山田顕義・山県有朋など
軍人では 武藤信義・土肥原賢二・野村吉三郎など

日を改めて…


位置関係

国土地理院サイトより
1947年08月08日-米軍撮影航空写真(USA-M390-34)より。

今昔マップ on the web より

Google Map より


巣鴨監獄道碑

巣鴨小学校近くの東福寺の門前に石碑がある。

右 大塚道
向 巣鴨監獄道
左 巣鴨庚申塚道

明治三捨七年七月建立

巣鴨監獄、のちの巣鴨拘置所、そして巣鴨プリズン。
往時の名前を残す石碑。


関連

殉国七士を偲びし慰霊の鐘「仁慈の鐘」

東海道品川宿・品川寺(ほんせんじ)にある「仁慈の鐘」
戦争裁判・殉国七士慰霊の鐘
最寄り駅は京急「青物横丁駅」

品川寺

東海道の品川寺(ほんせんじ)
真言宗醍醐派の別格本山。

海外に渡った大梵鐘のエピソードが有名な当寺ですが、 この寺院「品川寺」には極東軍事裁判にて、いわゆるA級戦犯として裁かれた殉国七士を偲びし慰霊の鐘「仁慈の鐘」というものもあるのです…

仁慈の鐘 (いつくしの鐘)

本堂向かって右側に小さな梵鐘。
戦争裁判殉国者慰霊の鐘「仁慈の鐘」(いつくしの鐘)

この鐘には、いわゆるA級戦犯として処刑された七士の遺墨が揮毫されている。

東條英機
土肥原賢二
松井石根

板垣征四郎
木村兵太郎

広田弘毅
武藤章


慰霊鎮魂の鐘

品川寺
「仁慈の鐘」

撞座の面には「傳法(伝法)」銘。

「傳法」
昭和庚辰秋仲文麿
 昭和庚辰は昭和15年。
 秋仲文麿とは近衛文麿のこと。

昭和15年の近衛文麿の書を写し戦後に鋳造したもの…極めて意味深である。

「仁慈の鐘」鋳造は昭和27年12月23日。
(処刑は昭和23年)

鎮魂の鐘を撞き、合掌を…

学徒出陣慰霊の鐘「まことの鐘」

品川寺
本堂の向かって左側

学徒出陣慰霊の鐘「まことの鐘」
昭和35年鋳造

本堂

本堂の両脇に「仁慈の鐘」「まことの鐘」がある。

英霊堂(聖観音)

軍馬・軍犬・軍鳩を慰霊している。
観音様に導かれし馬・犬・鳩。

よく見れば馬の背に鳩が乗っている。

大梵鐘(国指定重要美術品)

明暦3年(1657)鋳造、数奇な運命を辿った大梵鐘。
江戸末期に理由不明ながらも海外に流出。
慶応3年(1867)パリ万国博覧会、明治4年ウィーン万国博覧会に展示。
その後ジュネーブ市アリアナ美術館所蔵。昭和5年に60年ぶりに海外から品川に返還。戦中の供出も辛うじて逃れる。

http://honsenji.net/bousyo.html

品川寺のイチョウ(品川区指定天然記念物)

幹周り5.35m、樹高25m、推定樹齢は約600年。
整然な姿に樹勢旺盛、多くの乳が垂れているのが特徴。

銅造地蔵菩薩坐像

江戸六地蔵のひとつ

数奇な運命を辿った大梵鐘の物語の影に隠れた、もうひとつの知られざる鐘「仁慈の鐘」(戦争裁判殉国者七士の鐘)を偲びし参拝でした。


関連

豊川海軍工廠跡地散策

平成30年6月

平成30年6月のある日。
この日の午前中は「豊橋」を巡っておりました。

豊橋の戦跡散策

位置関係

国土地理院の航空写真から。
1946年09月21日に米軍が撮影した写真を一部抜粋。
写真データ:M263-A-3-13

豊川へ

午後は豊橋から豊川に移動。
13時、豊川駅到着。

駅前にレンタサイクルがあればよかったのですが、駅前にはなく。
豊川市が運用するレンタサイクルが「桜ヶ丘ミュージアム」で無料貸出だったので、まずはそこまで移動。
駅からちょっと遠い。20分くらい歩きました。

専用線路

現在は「日本車輌製造 豊川製作所」で製造される車両の輸送用線路であるが、この側線のルーツは「豊川海軍工廠」へ通じる線路だった。
「豊川海軍工廠」時代は通勤者を運んだ線路。

線路を横断して、「豊川海軍工廠平和公園」に向かいます。

豊川海軍工廠

日本海軍の工廠として、機銃や弾丸の製造を行っていた。当時は東洋随一の規模と称された。

昭和14年(1939)12月に5番目の海軍工廠として「豊川海軍工廠」が開廠する。
拡張を続け昭和20年2月の段階では従業員は職員400名、工員10000名、徴用工員40000名、動員学徒6000名の計56400名規模であったという。

豊川空襲

昭和20年8月7日、B-29爆撃機124機による大規模爆撃を受け工廠は壊滅。
犠牲者は工員や勤労学生を含め2600名を超えると言われている。

豊川海軍工廠平和公園

平成30年6月9日に新しく整備されたばかりの平和公園。

13時30分。到着。

豊川市サイト

https://www.city.toyokawa.lg.jp/shisetsu/koen/toyokawaheiwakouen/heiwakouen.html

https://www.city.toyokawa.lg.jp/shisetsu/koen/toyokawaheiwakouen/heiwakouensisetu.html

豊川海軍工廠敷地外周の土塁と排水路

工廠敷地外周の土塁と排水路
豊川海軍工廠は敷地外周に土塁が巡り、その外側には排水路が設けられ数位と画されており、工廠内外への出入りは正門・西門・北門・北東門など限られておりました。昭和20(1945)年8月7日の空襲では、工廠外へ避難しようと人が集まった正門・西門附近に500ポンド爆弾が着弾し多くの犠牲者を出すなど、敷地が土塁と排水路により画され門が限られていたことは、空襲被害を大きくした一つの要員でもありました。排水路は戦後の改修整備で姿を変えつつも、今もなお豊川海軍工廠の存在を大地に刻んでいます。

防空壕跡

防空壕跡
豊川海軍工廠の敷地内には、空襲に備えた防空壕が各所に設けられていました。幹部職員が使用した鉄筋コンクリート地下室構造の防空壕もあったようですが、多くは素掘りで天井を木材で組み、その上に土を盛った簡単なもので、至近弾に対してほとんど無力なものでした。この説明板の左右にあるくぼんだところは防空壕の跡です。発掘調査の結果、全長4.5m、幅1m、深さ1.2mの長方形の本体に、二箇所の出入り口が屈折してとりつくコの字型の平面形であることが確認され(右側の防空壕)、掩蓋(天井の覆い)が無かった可能性もあります。公園内には、同じ構造の防空壕跡が3基残っています。

豊川海軍工廠時代の街路灯

豊川海軍工廠の構内通路の両側には、互い違いに街路灯が設置されていました。高さは4.45mで、鉄筋コンクリート製の柱身の上に鉄製の傘がのり、電球のソケットが傘の中心に埋め込まれています(園内に保存展示している街路灯は傘が失われています)。工廠内は、電気が地下配線となっており、電線は地下から中空となっている街路灯の柱身を通していました。公園整備前には園内に10基の街路灯が残存していましたが、そのうち8基を元位置及びその近くに保存・展示しています。

豊川海軍工廠当時の水槽跡

500ポンド爆弾の着弾跡

ここの旧第一火薬庫基底部をめぐるコンクリート側溝が壊れているのは、昭和20年(1945)8月7日の豊川海軍工廠の空襲で500ポンド爆弾がこの場所に着弾したことによるものです。この空襲では、124機のアメリカ軍B29爆撃機により3,256発もの爆弾が、10時13分から39分までの26分間に投下され、工員、職員、一般市民ら2,500名を超える人々が犠牲となりました。平和公園のある工廠の北側一帯は比較的空襲の被害が少なかったエリアですが、この空襲では短時間に大量の爆弾が投下され大きな被害を出しました。

旧第一火薬庫(豊川市指定史跡)

この建物は、鉄筋コンクリート・ラーメン構造(強固に接合された柱や梁などの軸組みによって建物を支える構造)の平屋建で、構造体に土をかぶせているため、建物の外観が見えません。本公園周辺は、豊川海軍工廠の火薬類を製造した工場があった場所で、火薬の保管のために使用された施設です。建物規模(盛土基底部で計測)は、東西47.75m、南北37.40mで、トンネル状の東西通路の北側に三つの部屋が並んでおり、部屋の出入口部には、全長27.15m、幅1.75mの木製足場が設けられています。木製足場から部屋に入ると間口6.87m、奥行2.14mの前室があり、その奥に間口8.21m、奥行7.87mの主室があります。鉄筋コンクリート造の部屋の内部に板壁を設けて二重壁構造とし、コンクリート壁と板壁の間の中空層が屋根部にある換気塔や北側の盛土基底部にある通気口などに通じるなど、火薬の保管のため室内の換気を調節する工夫が随所にみられます。

火薬庫入り口
火薬庫換気口

旧第一火薬庫・内部

旧第一火薬庫と旧第三信管置場(ともに豊川市指定史跡)建物内部については、文化財保護のため常時公開はしていないが、見学時間のタイミングが合えば豊川海軍工廠語り継ぎボランティア案内により見学可能。

https://www.city.toyokawa.lg.jp/shisetsu/koen/toyokawaheiwakouen/zanzonikoukengaku.html

今回は運良くタイミングがあわせられたので、内部も見学。

手前の部屋

湿気を防ぐための二重壁構造が確認できるように展示してある。

奥の部屋

通路展示

配電盤と水道管など

この配電盤は、海軍工廠当時に使用されていたもので、平和公園東側にある旧薬筒乾燥場にあったものを、平和公園整備にあわせて移設しました。また、水道管は公園整備工事の不発弾処理で見つかったもので、制水弁には「水昭和十四年」、「水昭和十七年」の文字がみられます。

旧第三信管置場(豊川市指定史跡)

この建物は、弾丸の起爆装置である信管を保管した施設と考えられます。建物を高さ約5mの土塁で囲み、土塁内には南側のトンネルを介して出入するようになっており、これは爆発事故が起きた際に、周囲に被害が及ばないようにするものです。建物規模は、東西21.00m、南北10.00mで、東西方向の廊下の北側に三つの部屋が並びます。建物構造は、壁と廊下の屋根を鉄筋コンクリート造としますが、部屋の小屋組(屋根を支える骨組み)は木造となっています。これは部屋内で爆発事故が起きた際に、木造の屋根を吹き飛ばすことにより、鉄筋コンクリート造の躯体を残す工夫と考えられ、建物周囲の土塁とともに、豊川海軍工廠では火薬類を製造した施設に多く見られる建物構造です。各部屋の南北両側の壁上部には照明器具が設けられており、電球の交換は通気口のある部屋外側の扉を開閉して行う構造で、室内側はすりガラスで密閉されています。これは照明器具が発生する熱を、室内に入れないための工夫と考えられます。

旧第三信管置場・内部

豊川市指定史跡 豊川海軍工廠遺跡
「旧第三信管置場」「旧第一火薬庫」保存・修理工事概要
(略)
事業概要
昭和14年(1939)に開庁した豊川海軍工廠は、日中戦争から太平洋戦争、終戦に向かった日本の戦前の昭和史を如実に示す存在である。その設置は昭和18年(1943)の豊川市制施行の原動力となり、また昭和20年8月7日の空襲では2500人以上が犠牲となり多大な被害を出すなど、豊川海軍工廠は本市の近代史を理解する上で欠くことのできない歴史的事象である。
戦後、工廠跡地は工業団地、陸上自衛隊豊川駐屯地などに生まれ変わり復興を果たすが、ここ豊川海軍工廠平和公園及びその周辺地域では、空襲の被害を免れた旧工廠施設が名古屋大学の研究施設として再利用され、戦争遺跡として価値がクローズアップされてきた。
本事業は、戦争の記憶を伝えるモノ、豊川市の近代史を語るに欠かせない豊川海軍工廠を象徴する遺跡として「旧第三信管置場」「旧第一火薬庫」を保存することを目的とし豊川海軍工廠平和公園整備事業として、保存・修理を実施したものである。

工事概要
保存対象である「旧第三信管置場」と「旧第一火薬庫」は倉庫の一種であり、保管するものが火器に関わるものだったため、発火の原因を極力避け、また万一の場合にも周囲に被害を及ぼさないように工夫されていた。終戦後、名古屋大学が研究施設として活用する際に軽微な改装を施したが、この二つの遺構は当時の姿をよく伝えている。
しかしながら、長年の風雨によって破損・老朽化が進み、また遺構の周囲には草木が繁茂していたため、保存・修理の方針は、第一にこの貴重な戦争遺構を安全で容易に公開できる状態に復すること、第二に遺構のこれまでの時間経過を見学者が体験できるよう、破損・老朽化した部分すべてを建設当時の姿に修復するのではなく、部分的な復原にとどめることとした。

海軍の錨マーク付きの木材

豊川海軍工廠で使用されたと考えられるフライス盤と旋盤
(名古屋大学寄贈)
ここにある2台の機械は、名古屋大学空電研究所(現宇宙地球環境研究所)で観測用機器の制作や補修等のために使用されてきたものです。右側が横フライス盤(切削加工を行う工作機械で、刃物が回転して切削を行う)、左側が旋盤(切削加工を行う工作機械で、フライス盤と違い製品が回転して切削を行う)で、取り付けられているプレートから、横フライス盤は昭和16年(1941)、旋盤は昭和17年(1942)の製造と考えられます。当時としては高性能な機械であり、海軍工廠の使用機器を戦後に払い下げを受けたものと考えられます。

フライス盤
昭和17年
旋盤
昭和16年

建物を取り囲む土塁

豊川海軍工廠の北側エリアには、生産品の機銃の弾丸などで使用する火薬類を取り扱う建物が多くありました。これらの建物には土塁に取り囲まれたものがありますが、これは爆発事故が起きた際に、周囲に被害が及ばないようにするためのものです。本公園及び隣接する名古屋大学豊川キャンパス内には、このような建物を取り囲む土塁が数箇所残っており、土塁内外の基底部にコンクリート側溝を設けるもn(Aタイプ)と、土塁の外側には側溝を設けず(素掘り側溝が存在した可能性はあります)、内側の建物に石組みを備えた素掘り側溝を設けるもの(Bタイプ)があることが分かっています。また、土塁内外にはトンネルを介して出入りしますが、Aタイプは幅が広いトンネル、Bタイプは幅が狭いトンネルが設けられています。この二つのタイプの土塁構造は同時期の工法差ではなく、建設時期の差によるものと思われ、AタイプがBタイプに先行すると考えられます。この旧第三信管置場のど類はBタイプです。

豊川海軍工廠平和公園は再整備されたばかりでした。その再整備直後に運良く足を運ぶことができたのも、ボランティアさんの説明と時間がピッタリだったのも、何かの御縁かもしれません。再整備され見学しやすくなった戦跡の一方で公園外(名古屋大学豊川キャンパス)に残存している戦跡は更地になる方向だとかで・・・

さて、次の目的地に移動します。
豊川海軍工廠の西側を南下して、名鉄豊川線の南側にある墓苑に。

豊川市諏訪墓地
(豊川海軍工廠 諏訪慰霊碑)

元豊川海軍工廠被爆による戦没者のための施設です。
豊川市

墓苑内には豊川海軍工廠で犠牲となった皆様の慰霊碑が並んでいる。
ひとつひとつと対座し、そして合掌を。

豊商健児之碑
(豊川海軍工廠学徒動員犠牲者慰霊碑)

豊橋市立商業高等学校
豊商健児之碑

碑文
 神明宮の風清く
 森厳森に溢れたり
 聖諭奉載自己完結
 いざや励まむ友よ永劫に
太平洋戦争耐なる昭和十九年四月、我等豊商健児四百四十余名は学徒勤労動員令下、使命感に燃え紫紺の桐花旗はためく母校をあとに勇躍豊川海軍工廠に出動、増産にその愛国の至誠と青春の情熱を捧げた
爾来一年五ヶ月、昭和二十年八月七日、敵B29を主力とする戦爆連合百六十九機の波状攻撃による大空襲に遭遇、二千五百有余名の犠牲者と運命を共にされた友、又学徒出陣して白雲流るる南溟の果に、波騒ぐわだつみの底に、或いは北斗の星輝くシベリヤの原野に散華された友、又志半ばにして病に斃れた友等、祖国日本の栄光を信じ護国の礎となられた学友十二名の鎮魂と世界平和を祈念し、我等の友情と団結の象徴として同級生相図り、母校創立八十周年並びに卒業四十周年を記念し此処に此の碑を建立する
昭和六十一年九月
 豊橋市立商業学校
  第十八回卒業桐八会
  第十九回卒業桐久会

松操女学校慰霊碑
(豊川海軍工廠犠牲者慰霊碑)

昭和24年8月7日建立
 松操女子高等学校職員生徒
 松操学園 同窓会
 松操高等女学校 遺友会

松操殉職者之墓

昭和24年8月7日建立

供養の碑

「若き乙女の松操よ 永遠に安らかであれ」
戦時下、豊川海軍工廠において昭和20年8月7日の空襲により二千五百余名の多くの命が奪われ豊橋松操裁縫女学校より勤労学徒として動員された教師、生徒、当校卒業の女子挺身隊の中より四十七名の若い尊い犠牲者を出したことは痛恨の極みであります。ここに五十回忌を迎えるにあたり、この思いを永久に忘れることなく、深くからだに刻みこみ、犠牲になった松操の乙女達よ心安らかれとご冥福を祈りここに供養の碑を建立するものであります。
平成6年7月8日
財団法人 松操学園

立命館大学戦没学生慰霊碑
(豊川海軍工廠学徒動員犠牲者慰霊碑)

追悼文
広島に原爆が投下された日の翌昭和二十年八月七日午前九時二十五分から約一時間にわたり豊川海軍工廠は多数の米機によって爆撃された。そのさい学徒動員として勤労奉仕のために工廠にあった立命館大学の学生のうち表記の四名はむざんにも貴い生命と輝かしい未来を奪い去られた。終戦まぢかに散華したことは痛恨のきわみで諸君の心情を思うと断腸の感を深くする。ここに碑を建てて諸君の冥福を祈り安らかな眠りを念願する。

昭和五十一年八月七日建立
立命館大学
立命館大学学友会 
立命館大学二十二年専経専法同窓会一堂 
遺族一同

豊川海軍工廠
総務部戦没者六十柱之霊塔

愛知高等実修女子校慰霊碑
(豊川海軍工廠学徒動員犠牲者慰霊碑)

学徒動員により豊川海軍工廠に出勤中爆死せる愛知高等実修女子校生徒並びに卒業生二十九柱の霊ここに眠る(略

昭和二十五年三月二十一日建立
殉職者遺族一同 
愛知実修女子高等学校教職員一同 
愛知実修女子高等学校同窓会

豊川海軍工廠行員養成所 友魂之碑

豊川海軍工廠工員養成所は中堅幹部の養成機関として昭和十五年に開設
一期生から六期生まで数えて約4千名がひたむきに学んだ
今ここに三十三年の歳月を回想し不幸にして戦禍に遇れた多くの友を偲び 第二養成所跡に之を建立した
昭和五十四年三月二十一日  
元豊川海軍工廠工員養成所 
豊養会

記念樹 

海軍教官

早稲田大学戦没学生之碑
(豊川海軍工廠犠牲者慰霊碑)

昭和二十年八月七日(一九四五)豊川海軍工廠空爆ニ殉難死シタ故学友十二名ノ慰霊菩提(略

豊川海軍工廠
会計物資部戦没者五十三柱之霊

豊川海軍工廠
会計部計算部戦没者之霊

豊川海軍工廠
会計部慰霊碑

火材料係・指材料係

豊川海軍工廠
会計部機銃材料係供養塔

感謝と哀悼を

合掌

諏訪墓地をあとにして、北上。豊川海軍工廠の南側に向かう。
南門橋の交差点にも供養塔がある。

供養塔(豊川海軍工廠・南門橋)

供養塔建立の由来
この供養塔は、古よりこの地において戦乱により不慮の最期を遂げられた諸人、豊川海軍工廠戦没者並びに当構内における殉職者諸精霊供養のため、昭和54年8月10日に建立された。
はじめ、供養塔は当構内中央に建立されたが、豊川海軍工廠戦没者のご遺族並びに関係各位のご要望もあり、豊川市の遊歩道計画と期をあわせ、広く全国の皆様のお詣りがしやすいよう当敷地に遷座、諸精霊を供養し、合わせて永くこの地の平穏と繁栄を祈念する。
平成5年8月5日
建立者 株式会社 熊谷組

哀悼の意を。。。

南門橋の供養塔から東に赴くと、かつての「正門」の地に。

豊川海軍工廠正門跡
(日本車輌製造株式会社 豊川製作所)

豊川海軍工廠の正門は、現在は日本車輌製造株式会社の門として活用されている。

豊川海軍工廠開廠記念植樹ケヤキ並木

正門から一直線に伸びるケヤキ並木は豊川海軍工廠の開庁記念植樹という。

平和の像
(豊川海軍工廠神社跡地)

平和の像由来記
豊川海軍工廠は、東アジアに戦雲がたれこめた昭和十四年十二月、重火器、弾薬を製造する目的をもって開設された。
第二次世界大戦勃発とともに規模を光学兵器等の製造にまで拡大し、徴用工員、女子挺身隊員、学徒報国隊員を各地から動員して総員五万五千人を数えたが、昭和二十年八月七日午前十時三十分、アメリカ空軍の爆撃により一瞬にして尊い二千四百七十七名の人命を失い、広大を誇った工場も壊滅した。
終戦を迎えるや戦時中全従業員をもって組織した報国会が奉仕して、妙厳寺境内に大供養塔を建立し、台座に戦死者芳名を刻して冥福を祈った。
昭和三十二年八月七日、殉国者の十三回忌を迎えるにあたり元従業員をもって八七会を結成し、英霊の慰霊会員相互の親睦につとめ、毎年八月七日には盛大な慰霊祭を執り行い今日に至っている。
この間昭和三十七年には、金沢市卯辰山山頂に豊川海軍工廠女子挺身隊殉国者乙女の像が建立され同年八月十八日八七会員が金沢市を訪れて地下に眠る女子挺身隊員の慰霊祭を執り行った。
これを契機に被爆地豊川市に平和の像建立の委員会を結成し目的達成に努力した。
これが募金にあたっては豊川市を中心に全国各地から一千三百万円の浄財を集めることができた。
像の製作は、金沢美術工芸大学教授彫刻家矩幸成氏の力作を高岡市堺鋳芸社に委嘱し、昭和四十年八月一日完成をまって陸上自衛隊豊川駐屯部隊の協力を得て輸送隊を編成し、北陸道、東海道をパレードして沿道の県庁、市役所に立寄り、八月三日現地に安着した。
途上豊川海軍工廠において戦死した従業員の遺族が涙とともに礼拝する場面が各地に展開され、平和の像建立の意義がいかに大であるかを知ることができた。
かくして昭和四十年八月七日、数千の参会者を得て盛大な除幕式を挙行した。
ちなみに八七会の名称は、豊川海軍工廠壊滅の日八月七日を意味したものである。
記念すべき像の建立にあたり、この碑を建てる。
昭和四十年八月七日  
八七会

かなざわの松
由来
この松は殉難おとめの像の建つ金沢市の卯辰山公園から平和之像と共に陸送、この所に移植したものです。
八七会

殉難おとめの像は金沢市の「卯辰山公園」にある像。石川県出身の女子挺身隊員も豊川海軍工廠にて52名が犠牲となっている。

豊川海軍工廠植樹の桜並木

1941年に豊川海軍工廠によって植樹された桜並木。桜トンネルとして愛されている。
余談だが、奥に見える三重塔は、某新興宗教団体・・・。

海軍標石

豊川海軍工廠の南側に残っている。中日新聞社豊川通信局の手前。

豊川海軍工廠戦没者供養塔

豊川稲荷の隣に。

供養塔の由来
昭和二十年八月七日午前十時三十分突如米軍機B29の大編隊が豊川海軍工廠に来襲。数千の爆弾、焼夷弾、無数の機銃弾が投下され廠内は一瞬修羅の巷と化し阿鼻叫喚のうちに職員、従業員、学徒、女子挺身隊員、雇員、傭員等の尊い命二千有余を奪ってしまった。其の惨状目を被はしめ混乱の状筆舌の及ぶところではなかった。
同年八月十五日終戦和平となるや豊川海軍工廠報国団が中心となり現地 に供養塔を建立して挺身国難に殉じた英霊二千余柱の冥福を祈らんとの議が起こり全国の資金と団員の汗の奉仕とにより十月二十五日地鎮祭を行い翌二十一年九月二十三日竣工除幕式を挙行した。
因に塔中には戦死者名簿と廠内縁りの土を納め各工場の石定盤に戦死者氏名を刻し台座周囲に組込み以て永久に冥福を祈らんとした。
偶々昭和三十二年八月七日此の地に於て英霊十三回忌法要厳修の際、生存者一同相諮り供養塔の概要を記し後世に伝えんとて此の碑を建立す。
右記す
昭和三十二年八月七日  
元豊川海軍工廠従業員生存者一同
八七会

供養塔
昭和20年10月 豊川海軍工廠従業員一同建立

供養塔の四方には、戦没者の御名前が

職員 103名
総務部 204名
指揮兵器部 122名
機銃部 346名
光学部 111名
火工部 632名
器材部 176名
会計部 178名
医務部 17名
工員養成所 83名
派遣兵員 120名

学徒 452名
 早稲田大学
 日本大学
 明治大学
 立命館専門学校
 摂南工業専門学校
 豊橋市立工業学校
 豊橋中学校
 豊橋第三中学校
 豊橋市立商業学校
 豊川中学校
 成章中学校
 豊橋市立第二商業学校
 豊橋松操高等女学校
 豊橋桜ヶ丘高等女学校
 豊橋市立高等女学校
 豊橋市立女子商業学校
 豊橋高等家政女学校
 愛知高等実修女学校
 新城高等女学校
 国府高等女学校
 豊川高等女学校
 気賀高等女学校
 緑ヶ丘高等女学校
 誠心高等女学校
 国府国民学校
 牛久保国民学校
 前芝国民学校
 豊川国民学校
 小坂井東国民学校
 一宮西部国民学校
 八南国民学校

合計2544名

それぞれのお名前が刻まれていた。

感謝と哀悼を・・・

大慈地蔵尊

昭和二十年八月七日、当市に於ける戦災没者二千四百三十九霊の成仏と永劫の冥福を祈り茲に大慈地蔵尊を造顕し奉る

供養塔の後方の森の中に。

明治27-8年 明治37-8年
戦没牛馬記念碑

明治39年秋再建
三河国牛馬商

今回の散策で唯一、豊川海軍工廠とは関係のない石碑。

16時過ぎ。
ひととおり豊川海軍工廠関連の散策をおえたので、レンタサイクルを返却しに桜ヶ丘ミュージアムに。ギア無しの自転車で結構頑張りました。

豊川海軍工廠、東洋随一の規模を誇った海軍工廠。
そのほんの僅かであれ、当時の様子を知ることができ、そして当時の惨劇を知ることができました。
豊川海軍工廠平和公園、良き施設でした。
しかし豊川市の平和公園の整備に感謝しつつも、その公園の対象外となった旧海軍工廠用地は売却され再開発。なんとも複雑な心持ち。ここまで残っていたものを、再開発という名のもとにいとも簡単に破壊してしまう状況に極めて悔しく。何もできずにその事実を受け入れるしかないのですが・・・。

https://www.tonichi.net/news/index.php?id=73360

この日は豊橋と豊川の戦跡をはしごしたために、知識欲も満足をしてしまい、豊川稲荷などには立ち寄らずに離脱。また豊川には来たいものです。

ありがとうございました。