令和元年9月撮影
国立の一橋大学。
戦前は「東京商科大学」
日本最初の官立単科大学、日本最初の商科商業大学。
関東大震災により「一ツ橋」の校舎が壊滅的な打撃をうけ、国立地区(国分寺と立川の間)に移転。
昭和19年9月、戦時体制のなかで「東京商科大学」は「東京産業大学」へと名称変更。改称理由は「商が営利主義を示すという理由」で改称させられたという。
目次
一橋大学「兼松講堂」
中島飛行機(第一軍需廠)
エンジン工場
昭和2年(1927年)8月竣工。
大学通り西側の国立キャンパス地に建設。
登録有形文化財(建造物)
設計は伊東忠太。ロマネスク風建設。
<戦跡として>
昭和19年(1944)3月10日、軍部指示により「中島飛行機株式会社」が「兼松講堂」を貸与されエンジン工場として活用。学生が勤労奉仕を行っている。
昭和20年4月、中島飛行機は「 第一軍需工廠第十一製造廠 」となり、兼松講堂も「 第一軍需工廠 工場」となっている。
文化遺産オンライン>一橋大学兼松講堂
中島飛行機に関してはこちらも
一橋大学「本館」
中島飛行機(第一軍需廠)
エンジン工場
昭和5年(1920年)12月竣工。
伊東忠太門下の文部省建設課陣によって設計。
兼松講堂と同じく本館の一部も中島飛行機の工場として活用されている。
一橋大学「附属図書館・時計台棟」
昭和5年(1930)6月竣工。
伊東忠太門下の文部省建設課陣によって設計。
戦争中、所蔵の貴重書籍は長野県伊奈町に疎開している。
一橋大学「別館」
昭和7年(1932年)に本科理化学教室として竣工。
竣工時に最先端だった「階段教室」は2015年にリニューアルしている。
一橋大学「職員集会所」
昭和初期竣工の木造建築。
一橋大学「旧門衛所」
昭和6年(1931年)竣工。
登録有形文化財(建造物)
外装はモルタル塗、腰スクラッチタイル矢筈積及び下見板張で、側面に鉄板葺の出窓を設けたフランス瓦葺ハーフティンバーの瀟洒な洋風建築。
文化財オンライン>一橋大学旧門衛所
一橋大学「東本館」
多摩陸軍技術研究所 電波兵器練習部隊
(陸軍東部第九二部隊)予科校舎
昭和4年(1929年)11月竣工。
大学通り東側の国立キャンパス地に「商学専門部本館」として建設される。
登録有形文化財(建造物)
伊東忠太門下の文部省建設課陣によって設計。
<戦跡として>
昭和19年2月、陸軍が東京商科大学東校舎を接収。
多摩陸軍技術研究所 電波兵器練習部隊(陸軍東部第九二部隊)予科校舎として使用される。
「多摩陸軍技術研究所」は、「陸軍登戸研究所の電波研究部門」が独立したもの。
「東部第92部隊」は、電波兵器研究と専門将校及び下士官養成の部隊。
陸軍登戸研究所
文化遺産オンライン>一橋大学東本館
一橋大学の銅像(西キャンパス)
矢野二郎先生像
1845年2月21日‐1906年6月17日
昭和6年(1931)5月に建立。
一橋大学の前身である商法講習所・東京商業学校・高等商業学校の草創期の校長を務めた。日本における商業教育の開拓者。
旧幕臣(開国派)、明治新政府外交官、教育者。貴族院議員(勅選議員)。
福田徳三先生レリーフ
1874年12月2日‐1930年5月8日
昭和35年五月に建立。
日本の経済学を開拓した経済学者。
佐野善作先生像
1873年8月29日‐1952年5月1日
昭和37年(1962)11月に建立。
1895年、高等商業学校(一橋大)を卒業。
1920年、東京商科大学(一橋大)の初代学長。
1923年、関東大震災により神田校舎崩壊。
堤康次郎と佐野善作の力によって国立を学園都市として開発し、1929年に校舎移転。
村瀬春雄先生像
1871年5月18日‐1924年4月9日
昭和39年(1964)11月に建立。
日本の海上保険学の祖といわれている。東京高等商業学校(一橋大)教授や帝国海上保険副社長などを歴任。
一橋大学の銅像(東キャンパス)
堀光亀先生像
1876年‐1940年
昭和16年(1941)4月に建立。
日本初の海運学を創設。東京商業学校の商科大学昇格に貢献。
佐野善作私邸跡の「佐野書院」敷地内にある「戦没学友の碑」は別立てしました。
別館の裏に。
紀元二千六百年四月
卒業廿五年記念
四月會
佐野善作と堤康次郎が築き上げた学園都市の中核「一橋大学」。
伊東忠太とその門下による統一された建築群の美しさとともに、戦争をくぐり抜けてきた歴史なども感じながらの近代建築・戦跡散策でした。
〆