令和元年9月参拝
阿波丸事件殉難者之碑
芝の増上寺境内に建立。
日本郵船が所有していた貨客船「阿波丸」は、三池丸級貨客船3番船として建造され、もともとは豪州航路向けであったが、開戦後の1943年3月5日竣工となり、海外航路に就役することもなく陸軍徴傭船となる。
阿波丸
総トン数 11,249トン
全長 154.97メートル
最大速力 20.8 ノット
昭和20年、残存する輸送船のなかで程度がよく優秀だった阿波丸は「緑十字船」となる。
日米間の協定で「赤十字船」(病院船)に準じた保護が約束され「緑十字」の識別マークが描かれ、アメリカ軍は阿波丸の航路情報を各部隊に通知し、攻撃しない約束がされていたはずの船であった。
阿波丸事件
昭和20年4月1日、シンガポールから日本に向けて航行中であった貨客船「阿波丸」がアメリカ海軍潜水艦クイーンフィッシュに雷撃により撃沈。
2000人以上の乗客のほとんどが死亡した事件。
→ 阿波丸事件(wikipedia)
合掌
碑文
阿波丸は第二次世界大戦も終りに近い昭和20年4月1日夜半台湾海峡で米国潜水艦クイン・フィッシュ号に不法撃沈された。同船は連合国側の要請に応じ日本軍占領の南方諸地域に抑留されている捕虜および民間人に對する救恤品の輸送に当っていた。国際法でその安全が保障されていたにもかかわらず、この悪魔のような所業により遭難者の数は2千有余名、世界史上最大の海難事故となった。
加害者に対する責任の追求や賠償交渉も進まないうち、同年8月わが国は無條件降伏し、軍政下の日本政府はなぜか事件の真相を究明せず、米国に対する賠償請求権を国会の決議として放棄した。いまや平和の時代となり、経済は復興したが戦争の悲惨と虚しさは私たちの胸を去らず、帰らぬ人のことを思ひ続け悲しみを抱いて三十餘年、事件の謎は今なほ解けず、船体の引揚げ遺骨の拾集も実行に移されないままである。
三十三回忌に当り、悲憂を文に記し世に訴へるとともに、法要の心とするものである。
昭和52年4月1日
阿波丸事件犠牲者 遺族一同
納骨
犠牲者等の遺骨は中国の手により引揚げられ、日本政府派遣の遺骨受領訪中団に引渡された。阿波丸遺族会代表はこれに参加し、かつ分骨をうけ、納骨供養を営んだ。遺骨の拾集は遺族の三十五年の永きに渉る悲願であり、これが実現に尽力された中国の関係者に対し、衷心より感謝をおくる。
昭和54年 7月5日 納骨
昭和55年 4月1日 納骨
昭和56年5月29日 納骨
阿波丸遺族会
礎
昭和52年10月1日
青木一男著
この慰霊碑は犠牲者の遺族をはじめ、故人がもと所属していた団体及先輩知人、知己並びに親戚等の、多大の協力を仰ぎ完成したものである。
芝の増上寺
〆