「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

護れ傷兵 忘るな武勲「傷兵院」(巣鴨公園)

平和元年7月

先日、巣鴨に用事があった際に、ちょっと脚を伸ばして訪れてみました。

大塚駅と巣鴨駅の中間に位置する公園「巣鴨公園」。
ここに、かつて傷兵軍人のための療養所があった。

傷兵院跡地(廃兵院跡地)
巣鴨公園

傷兵院舊址
護れ傷兵 忘るな武勲
陸軍大将男爵本庄繁書

関東軍司令官や侍従武官長を歴任した本庄繁は、二・二六事件後の1936年(昭和11年)3月、待命となり翌4月に予備役編入。軍を退いてからは1938年(昭和13年)4月に新設の傷兵保護院総裁、1939年(昭和14年)7月から軍事保護院総裁に就任している。


「廃兵院」は、日露戦争により、四肢の欠損や脊髄損傷などの重傷を負い、社会復帰が困難で身寄りのない者を収容する施設であった。

日露戦争直後の明治39年(1906)に、「廃兵院法」によって戦傷病兵を国で扶養することを決定し、明治40年に東京予備病院渋谷分院の一画に「廃兵院」が設立。明治41年(1908)に渋谷から巣鴨に移転。

大正12年(1923)、廃兵院法の改正が行われ、陸軍省から内務省に移管。
昭和9年(1934) 、「廃兵院」は「傷兵院法」により「傷兵院」と改称。
昭和11年(1936)、巣鴨の地から現在の小田原市風祭へと移転。東京巣鴨周辺の都市化が進み、療養環境が維持できなくなったための移転という。
昭和13年(1938)、厚生省の設置とともに、傷兵院は厚生省の外局として発足。「傷兵保護院」に所属。
昭和14年(1939)、傷兵保護院は事業拡大し、「軍事保護院」と改称。

昭和15年(1940)、軍事保護院は「傷痍軍人箱根療養所」を併設。当時、臨時東京第1病院に入院していた支那事変による戦傷脊損患者を収容した療養所であり、国内唯一となる脊髄損傷専門の「療養所」であった。
これは、箱根病院が、全国唯一の「国立精髄療養所」に分類されている由来でもある。

昭和20年(1945)、終戦とともに傷痍軍人箱根療養所は厚生障害教区の医療局に所属。「国立箱根療養所」と改称。軍事保護院(傷兵院)は廃止。「国立箱根療養所」が所管を継承した。

昭和39年(1964)、東京パラリンピック開催。
箱根療養所からは日本代表選手53名のうち19名もの選手が出場。
そのうち傷痍軍人(傷病兵)出身は7名であり、選手宣誓を行った青野選手も戦地で傷つき箱根療養所で療養していた御方であった。

昭和50年、「国立療養所箱根病院」と改称。
平成16年、「独立行政法人 国立病院機 構箱根病院」に組織変更。
平成20年(2008)、最後の傷痍軍人の入院が終了となった。


時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」より。

http://ktgis.net/kjmapw/index.html

大塚巣鴨界隈。


巣鴨公園には、ここが旧跡であったという石碑のみが残る。

本庄繁の書。


しょうけい館
(戦傷病者史料館)

戦傷病者が体験した戦中・戦後の労苦を語り継ぐ施設。巣鴨の「廃兵院」から箱根の「傷兵院」「箱根病院」へと連なる戦傷病者の記録が展示されております。無料であれど充実した内容は一見の価値あり。
九段下駅すぐ近く。「しょうけい館」「昭和館」「靖國神社・遊就館」とあわせて見学するのも良いかと思います。

http://www.shokeikan.go.jp/


関連

傷兵院は巣鴨から箱根・小田原に。「傷痍軍人はこね療養所」、現在の箱根病院。

結核療養は、清瀬の「傷痍軍人東京療養所」。

私の片隅散策「呉編」その5

平成29年3月

広島・呉散策
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・呉編)


「この世界の片隅に」 私の片隅散策

すずさんの嫁いだ街「呉」
海軍と共にあった街「呉」

平成29年3月5日。私は呉にいた。
すずさん時代と海軍時代、重なる2つの時代の足跡を辿りながら呉の街を巡ってみたいと思う。


市内の中心部へ。

四つ道路

このあたりに戦後「ヤミ市」があったと。
「この世界の片隅に」では、すずさんと怪子さんが「うまあ~」した界隈ですね。 写真の向こうにみえるのは「鉢巻山」。

https://goo.gl/maps/Zr3VHG17uT5B1gN18

れんがどおり

呉の繁華街「れんがどおり」

街かど市民ギャラリー90
ヤマトギャラリー零
「このセカ」案内所(公認の聖地巡礼ご接待処)

訪れた時(2017年3月)には、ポスターやこうのさん原画展が行われていました。

呉の繁華街。
戦前は上陸した水兵さんで賑わっていた映画館などもあり、戦後は界隈で闇市もあり、今も昔も街の中心地。
れんが通りを抜けて川に沿って北上を。

東泉場跡

れんが通りの北側、この界隈が東泉場(現・栄町商店街)

「この世界の片隅に」で、すすざんが戦時中にやむおえず「砂糖」を買いに来た界隈。

「そんとな国で…生きていけるんかね…」

https://goo.gl/maps/4wR9Tvyatn5jtxVb6

砂糖を買った場所から北上すれば「三ツ蔵」。
でも迷子になって北東に進むと「朝日遊郭」。

折角だからちょっと迷子になってきます。
(灰ヶ峰の方向に歩けば迷子になるはずはないんだけど、そこは、すずさん。)

すずさんの家は、「長之木」
海軍墓地は「長迫」

朝日遊郭跡

朝日遊郭界隈。
呉空襲で灰燼に帰しており往時を偲ぶものは残っていない。

「ほいで、ここはどこね~いったい~?!」

すずさんの歩いた場所を巡り距離感を把握できる楽しさ。

https://goo.gl/maps/wWFRKygWL7V1wq4F8

千福

朝日遊郭界隈からちょっとルートを外れて酒蔵「千福」さんへ。
到着の時間は12時すぎ。
一休みを兼ねて「ギャラリー三宅屋商店」さんを見学してきましょう。

https://goo.gl/maps/7fmfWBtFRd7zz1XP8

「ギャラリー三宅屋商店」
酒蔵「千福」

伏流水
酒の源であるこの井水は、灰が峰(標高737m)の伏流水であります。

呉のシンボル「灰ヶ峰」の伏流水を使用した日本酒。
これは美味いに決まってます(思い込み強し

誇らしげな「海軍御用達」の札。

当酒蔵の日本酒は練習艦隊に積載され赤道を越えても腐らずに変味しなかった。軍艦の酒保担当より「証明書」が発行され「海軍御用達」の日本酒として人気を博し各軍艦に納入されたという。
※許可を得て撮影

呉の酒蔵「千福」さん。
「このセカ」コーナー。

監督のサイン色紙もありました。
試飲コーナーにもポスター。
(ホワイトバランスが狂ってしまいました。)

千福 と 海軍

千福 戦艦大和 パッケージ
壱の福 生貯蔵酒
弐の福 吟醸酒
参の福 純米原酒

迷わず買ってしまいました。
面白いですね、これ。 飲み比べ出来ます。

海軍御用達の日本酒「千福」
当時の日本酒は暑さに弱く夏を越すと味が変わることが多かったという。 そんな中で、呉の三宅本店の酒を積んだ艦艇は赤道を越えても味に変化がなく、艦隊の酒保委員長が感激して、これを期に海軍内で特別な人気を集めた、と。

呉が紡ぐ千福と戦艦大和のものがたり
赤道を越えども変味無し

大正九年、軍艦「浅間」を旗艦とする練習艦隊が南洋方面に遠洋航海の途中呉に入港し、当時の三宅本店の代表酒「呉鶴」を大量に積み込んで出港しました。当時、国内ですら日本酒は夏を越すとよほど保存がよくないかぎり、多少味が変わっていました。
それを艦艇に積んで赤道を往復するわけですから、それでなくても暑さに弱い傾向のある日本酒を南方に携行しても腐敗しないか、問題となったそうです。
三宅本店では断固としてこれを保証したと言われています。
果たして赤道を通過し練習地に着いた時、少しも味が変わっていないばかりでなく、再び通過してアメリカに入港したときにも変わっていなかった・・・!これには艦隊の酒保委員長が感激して、赤道通過の証明書を贈ってくださいました。これによって三宅本店の酒の真価は大いに認められ、海軍で特別の人気を集めました。

戦艦大和と千福
千福はこのように海軍御用達の日本酒として、戦艦大和にも乗組員3,332名の為に積み込まれていました。「昭和20年4月5日18:00酒保開け」沖縄海上特攻攻撃前日のことです。出撃前の士気高揚の為の宴が開かれました。どのような想いでお酒を酌み交わしたか、日本の未来を見ていたのか・・・。
大和建造の技術は、建造期間の短縮や作業の効率化を目指しブロック工法で建造されました。この大和型建造のための技術・効率的な生産管理は、戦後の日本工業・未来への礎となったのです。

お土産
お陰様で3種類揃いました。
(両脇2種類は東京TAU で以前に購入)

今回は中央の「千福もみじ吟醸~すずさんラベル~」を購入。
広島の酵母と呉の酒蔵で作られた「お酒」

お土産
「千の福 大吟醸無濾過生原酒 限定品」
広島で生まれた吟醸用酵母「広島吟醸」使用の大吟醸酒。
フルーティーな香味でしっかりした味わい。
お話をお伺いしたお姉さまおすすめの一品。

お土産
「純米酒配合 洗顔石鹸 千福」
嫁は酒が飲めないので酒ばかり買って帰るのもいかがなものかと。
純米酒由来の石鹸はレベル高いらしいので。佳いものです。

千福は、初代三宅清兵衛の母親「フク」と嫁「千登」由来。

お土産
「千福 帆布トートバッグ」
千福さんのトートバックも購入しました。
ちなみに一般的な「日本酒4合瓶(720ml)」は3本入りました。
ガッチリ丈夫で良い感じです。活用させていただきます

辰川小学校跡

千福さんを後にして一気に北上して辰川方面に。
辰川会館の南に。呉市立辰川小学校跡が残っていた。

この場所は、こうの原作「この世界の片隅に」
第9回19年5月にて描かれた「下長之木国民学校」の地。

畝原町自治会館

更に北上。
畝原町自治会館
この自治会館が、劇中の「上長之木隣保館」のモデルとされている。

このあたりから頑張れば「呉の港」を見渡すこと可能ですが撮影などは自粛致しました。
この場所から辰川バス停へと移動。

辰川バス停

この場所より奥は、「この世界の片隅に」の片渕監督が話されている狭い住宅地ゆえに立入は自粛で。

「やっぱり木炭バスは上がって来れませんでしたか」

バス停前は「上辰川橋」とありました。
この小川は上流で北條家の近くまで流れているかもしれませんね。

辰川バス停から一気に南下。
丁度バスが来ていたので乗りたいところですが、レンタサイクルゆえにバスは後回し。
坂道を一気に下っていくと見えてきました。
おなじみの「三ツ蔵」。

三ツ蔵

「この世界の片隅に」では、すずさんたちが家と街とを行ったり来たりする途中にその存在感ある佇まいでおなじみの建物ですね。

https://goo.gl/maps/cv1ZGj39VwJVXkn8A

正式名称は「旧澤原家住宅」

この地では江戸末期の尊王倒幕思想家であった宇都宮黙霖翁が晩年を過ごした地。明治20年代に澤原為綱氏の屋敷に迎えられ、明治30年に74歳でなくなったと。

広電バス「辰川線」

広電バス「辰川線」 次の予定はこれでした。
レンタサイクルをいったん駐輪して駅前から14時55分のバスに乗車。
でも辰川まで行かず一区間で下車。
まあ、あれです。バスに乗りたかったんです。
(「すずさんの嫁入り」ラリーの兼ね合い)

そうこうしていたら、そろそろ終わり。

16時すぎ。
朝に立ち寄った海上自衛隊呉集会所にもう一度立ち寄り、ラリーを終えて揃ったポストカードと記念の一枚をパチリ。
「う・ま・し・な・ん・こ・う・め・し」


今回の広島遠征でめぐったところ。
参考までにメモ

3/3午後
広島・中島本町と原爆ドーム

3/4午前
広島・江波散策

3/4午後
呉・大和ミュージアム
呉・軍港クルーズ

3/5午前
旧海軍下士官兵集会所
青葉終焉の地
アレイからすこじま
呉工廠跡
呉工廠神社跡
歴史の見える丘
大和建造ドック
呉海軍病院跡

3/5午後
亀山神社
千福三宅屋商店
長迫海軍墓地
鯛之宮神社
入船山記念館

すずさんの嫁入りラリー

などなど詰め込みすぎました。


17時。
呉駅前に到着してレンタサイクルを返却。
朝8時から借りていたので、9時間チャリチャリしていたわけですね。
結構頑張りました。
幾つか行けなかったところがありましたが、全体的には大満足です。
(ちょっと目標を詰め込みすぎました。)

今度はゆっくりと来たいです。難しいけど。

本編はこれで〆

長らくありがとうございました。

すずさんの嫁いだ街「呉」
海軍と共にあった街「呉」

その足跡は思った以上に残っていて。
なんとなく感じるすずさんの気配とともに呉の街を堪能。また行きたくなりました…


「この世界の片隅に」 散策ガイド

現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (呉市)

有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1o7HGZm0YISZ6RDNGTnoTn26_zjs&hl=en_US&ll=34.185055680214056%2C132.18369739999991&z=9

個人的に作成したメモ地図

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Q9v0RJdpnvAblLgnKXzboAPiwF4&ll=34.23842127633486%2C132.52778245274112&z=13

私の片隅散策「呉編」その4

平成29年3月

広島・呉散策
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・呉編)


「この世界の片隅に」 私の片隅散策

すずさんの嫁いだ街「呉」
海軍と共にあった街「呉」

平成29年3月5日。私は呉にいた。
すずさん時代と海軍時代、重なる2つの時代の足跡を辿りながら呉の街を巡ってみたいと思う。


「歴史の見える丘」界隈から北上します。
次の目標は旧海軍病院。
この時点で時間は午前10時45分。駅前をレンタサイクルでスタートしてかれこれ2時間45分経過。
なかなかの密度ですが順調に予定をこなしております。

旧海軍練兵場跡

https://goo.gl/maps/jLENtpQJW1iBzsLAA

「入船山公園」グランド
この場所は元々は旧海軍「練兵場」。

この練兵所の後方、現在の海自呉教育隊(未撮影)の地が「呉海兵団」。
「この世界の片隅に」では、周作さんが法務の一等兵曹として訓練を受けた場所。

呉海軍病院跡

「独立行政法人国立病院機構呉医療センター」の地が、かつての「呉海軍病院」。
唯一残存する海軍病院時代の構造物とされる。
「この世界の片隅に」作中でも御見舞にいくすずさんと晴美さんが登っていきました。
「こっち?」
「病院じゃけおとなしうせんとね」

この病院の片隅に。

呉海軍病院跡
元海軍軍医少将 金井泉書

呉海軍病院沿革史を見ていたら、終戦後は大竹の海軍潜水学校跡に移動して診療再開している記事がありました。
知らずと大竹の潜水学校跡にも行ってましたましたね。

「呉海軍病院」
昭和20年9月29日に駐留軍の進駐決定により10月28日に大竹海軍潜水学校跡に移動し診療を再開。国立大竹病院となる。呉海軍病院は国立呉病院として昭和31年に再発足。

底栗車之塔(チリシャの塔)

呉海軍病院では実験動物の慰霊碑を建てて毎年慰霊祭を行っていた。
行方知れずであった慰霊碑が昭和50年に発見され、呉海軍病院の地に再び建立された。
「底栗車」とは梵語で畜生という意味。
昭和9年9月に実験動物慰霊塔が建立されている。

余談ですが。
実は、「呉海軍病院跡碑」を探すのにだいぶ苦労しました。
10分位ぐるぐると探し回ってしまい。

参考としてメモを貼っておきます。
病院敷地内は、特に立ち入りの制限は記載ありませんでしたが、常識の範囲内で静粛に。

呉軍法会議所跡

かつてこのあたりに「この世界の片隅に」の周作さん勤務先の呉軍法会議所があたという。現在は海自敷地。

亀山神社

午前11時30分。
「入船山」から北東の方向「亀山神社」に移動。
(入船山はまたのちほど戻ってまいります)

旧呉地区の総鎮守。
旧社格は県社。現在は神社本庁の別表神社。 八幡系の神社となります。

https://goo.gl/maps/TqoUk41Y3FjJcEsG8

宇佐に鎮座していた八幡神が豊後国姫島・安芸国栃原を経て大宝3年(703)8月15日に宮原村亀山(入船山)に遷座したのに始まる。
明治19年(1886)、亀山(入船山)に呉鎮守府(長官官舎)を開設するのに伴い現在地に遷座。

※写真は入船山記念館にて

旧鎮座地にあたる入船山記念館「呉鎮守府長官官舎」の敷地内には一対の狛犬」が残っていたりしますが、記念館ボランティアの人が言うには「もともとこの地に鎮座していた亀山神社の名残」だそうで。

余談。入船山記念館の話はまたのちほど。ひとまず神社に戻ります。

御朱印を頂戴致しました。
オリジナルの御朱印帳は3種類ございましたが、荷物の兼ね合いと懐の兼ね合いと際限の無さを天秤にかけて自粛致しました。

→御朱印帳
 http://www.kameyama-jinja.com/menusyuin.html

現在の亀山神社には旧海軍を感じさせる何かは格別に残っていないけど、その由緒は元鎮座地が海軍呉鎮守府ともなっており無縁ではなく。
現在の亀山神社の鎮座地も高台であり呉港を見渡す眺望。
その鎮座地の下には呉線が走っている。
さてここから市内中心地へ向かおうと思う。

散策した順番は前後するけども、ここで「入船山」に触れていきます。

入船山記念館(入船山公園)

15時10分すぎ。 「入船山記念館(入船山公園)」へ。
(先に呉市立美術館でポストカードを貰ってきてましたが「すずさんの嫁入り」ラリーなどはのちほどまとめて)

旧・東郷家住宅離れ
入船山記念館(入船山公園)

東郷平八郎が呉鎮守府参謀長(海軍大佐)時代に呉に在任していた際(1890~1891)の居宅離れ座敷。 もとは宮原もにあったものを当地に移築保存されている。 登録有形文化財指定。

通路の石

何気ないこの石畳。
「通路の石」は、日本で六番目に開通した呉市内電車(1909~1967まで57年間運行)の敷石。
うん、すずさんの時代だw

旧呉海軍工廠塔時計

大正10年(1921)に呉海軍工廠造機部屋上に設置されたもの。
昭和46年に入船山記念館内に移設。
愛知時計電機株式会社の協力を得て時計としての機能を回復。
(愛知時計電機といえば海軍ゆかりの愛知航空機)

番兵塔

警備のために長官官舎や海兵団入口に建っていたもののひとつ。
「この世界の片隅に」劇中でも類似のものが登場してましたね。
礎石は足の部分ですり減っています。昼夜この場所に水兵さんが直立されていたわけで。

ボランティアガイドの詰め所のレンガ建物は、初代の呉鎮守府の庁舎レンガを流用したものだとか。

往来安全石灯籠

明治17年に広と郷原を結ぶ旧街道に建てられた常夜燈の一つを移築。
(海軍さんとは関係ないですね。)

火薬庫

明治32年(1899)から3年かけて建てられた石造建築物。
昭和42年に警固屋高烏砲台跡から移築。
(警固屋は青葉終焉の地の近くですね。)

ちなみに火薬庫の下側はアーチ状の空間となっている。
湿気防止ですね。

要塞地帯境界柱

ここから先は軍用地!立入禁止!の境界柱。

四十五口径十年式12cm高角砲の砲身

砲身。
奥は「四十五口径十年式12cm高角砲の砲身」
手前はパロット砲?

呉鎮守府長官官舎(国指定重要文化財)

ふぁっ!? 正面の洋館部が修復工事中でした。
ちなみに私は過去にこの場所に3回来たことありますが、今回を含めて2回は修復工事中でした、とか。
まあ、こればかりはしょうがないことです。

まあ、官舎内はざっくり。
洋館部と和館部の融合が醍醐味。

世の中には良き写真が大層でまわっているので。
(修復中でモチベさがったらしいw) こちらは洋館部。

明治38年竣工。 和館部。

水蓄式重油槽

何気ない蓋は「水蓄式重油槽」
旧海軍の燃料タンク基地の水蓄式重油槽の鉄蓋。

海軍水道防火栓

明治22年(1889)
日本で2番目に竣工した近代水道(海軍水道・海軍専用)の防火栓(消火栓)。

旧・水交神社

水交社の守り神。昭和18年に海軍によって建立。
祭神は天照大神。
終戦後、海軍解体のため祭主を失った同神社は、戦災のため焼失した亀山神社の仮社殿として同神社にて奉祀。
亀山神社再建後の昭和43年4月に水交会呉支部により復元。

旧・水交会神社由来

この水交神社はこの麓にあった旧水交社の守り神として、昭和18年海軍の手によって建立され、天照大神を祀ったものである。
終戦後、海軍解体のため祭主を失った同神社は、たまたま戦災のため焼失した亀山神社の仮社殿として同神社に迎えられ同神社の祭神とともに奉祀せられた。
昭和30年、亀山神社改築後、この社殿は一時転々として一市民の手によって保存されていた。
その後、この社殿が旧水交神社のものであることが判明、水交会呉支部(旧海軍士官の会)の好意により史跡として旧形の通り昭和43年4月このところに復元したものである。

萬古清風の碑

呉鎮守府司令長官海軍大将野村直邦書
(呉鎮長官在任:昭和18年10月20日 -昭和19年7月16日)

古来より変わらない、清らかな風…

至誠の碑

これは海軍第二門の衛兵所(国立呉病院と清水丘高校との境)跡にあったもので、当時の衛兵によって、昭和19年6月8日に建てられたものをここに移したものである。
昭和42年6月8日

「入船山記念館(入船山公園)」 郷土館を見学。

うん、だんだん慣れてきたw・・・と思いきや、
すずさんの脇に「のんさん(能年玲奈さん)」のサインがあって無駄にテンションあがる私がいたり。

資料館では呉の繁華街の写真がございました。
呉四ツ道路、市内電車・・・
このあたりは呉空襲で灰燼に帰してしまいましたが、すずさんも見たであろう繁華街の光景でもあり。 (写真は明治後期ですが)

第三喞筒室の銘板

そういえば火薬庫の下に、なにやら石版が落ちていて(?)、ちょうどボランティアの人がいたので聞いてみたら「なんだろ、わかんない」と。どうやら展示準備中なのかな。
調べてみたら「第三喞筒室」銘板。どうやら呉工廠のポンプ室らしい。

そのボランティアのおじさんが面白い話を。

「戦艦大和の大きさを体感してみませんか?」
「え?」

入船山記念館と病院のある端から、突き当りまでが約263m。
これが戦艦「大和」の全長と同じ。
なんと、目の前の道路で大和の長さが体感できる!

さて、続きは、その5で。


「この世界の片隅に」 散策ガイド

現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (呉市)

有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1o7HGZm0YISZ6RDNGTnoTn26_zjs&hl=en_US&ll=34.185055680214056%2C132.18369739999991&z=9

個人的に作成したメモ地図

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Q9v0RJdpnvAblLgnKXzboAPiwF4&ll=34.23842127633486%2C132.52778245274112&z=13

私の片隅散策「呉編」その3

平成29年3月

広島・呉散策
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・呉編)


「この世界の片隅に」 私の片隅散策

すずさんの嫁いだ街「呉」
海軍と共にあった街「呉」

平成29年3月5日。私は呉にいた。
すずさん時代と海軍時代、重なる2つの時代の足跡を辿りながら呉の街を巡ってみたいと思う。


呉海軍工廠造船船渠 
「大和ドック」

いわゆる「大和ドック」「大和のふるさと」
かつての呉海軍工廠造船船渠。

現在は「ジャパンマリンユナイテッド呉造船所」部品組立工場としてドック跡を埋めて大和建艦当時の骨組みのままの建屋を活用している。

いわゆる「大和ドック」

現在の「ジャパンマリンユナイテッド呉造船所」(JMU)
現在も大型船の建造が行われております。
大和ドック内の組立工場からブロック式に建造が進んでいるのがよくわかります。

歴史の見える丘

このあたりにかつての海軍工廠第3門があった、と。

現在は公園として整備されており、大和ドックと呉海軍工廠、呉港を見渡す高台に幾つかの記念碑などが集まっております。 順に見ていきましょう。

宮原地区風水害犠牲者慰霊碑

終戦後の昭和20年9月17日の枕崎台風。
呉市内だけで1156人死亡。宮原地区は309名の犠牲者。

「この世界の片隅に」映画ではカットされたが、こうの史代原作で描かれている台風。
迷惑な神風…

正岡子規碑「呉港」 
 呉かあらぬ 春の裾山 灯をともす

正岡子規が明治28年(1895)に、友人の古嶋一雄氏が日清戦争・海軍従軍記者として軍艦松島で出征するのを見送るために呉を訪れた際、船から日暮れの休山を見て詠んだもの。子規真筆を復刻した碑。

澤原為綱翁之像・台座

像は第二次大戦で供出。
元は「二河公園」にあった。
澤原為綱は呉軍港誘致に尽力した名士。

ん? 二河公園は、すずさんたち北条一家やリンさんが花見をした公園ですね。 「この世界の片隅に」こうの原作では二河公園で花見は昭和20年4月3日。
こうのさんによると広島では神武天皇祭を起源として4月3日に花見をする風習があった、と。 銅像供出が盛んになったのは昭和18年頃。 すずさんの嫁入りが19年2月。 あっ、すずさんが呉に来た頃には既に銅像が供出されたあとの可能性大…

呉海軍工廠記念塔

呉海軍工廠の残存した礎石、旧呉鎮守府開庁当時の庁舎建材、銘板などを(芸術的に)寄せ集めて建立した記念塔。
(どうしてこんなふうになってしまったのか、若干理解に悩むモニュメント)

海軍工廠の面影をしのぶよすがとして・・・

この記念塔は、旧海軍工廠の面影をしのぶよすがとして残存した工廠礎石を集める此所「歴史の見える丘」の一角に建立したものである
レンガは旧鎮守府開庁当時の庁舎建材
縁石は堺川にかかる二重橋に使用されていたみかげ石遺構の踏石
頭部にあるカモメのブロンズ像は日本彫塑会会員般若純一郎氏の作になるものである。
 昭和57年3月 呉市

造船船渠記念碑

平成5年にIHI寄贈。
呉海軍工廠内に明治44年(1911)3月完成以来、昭和46年(1971)11月にその幕を閉じるまでの間使用されてきた造船船渠を記念し、造船船渠側壁から渠底に降りるための石段部分の一部を再現した記念碑。

噫(ああ)戦艦大和塔

昭和44年の30回目の大和進水日(8月8日)を記念して大和艦橋をかたどった塔。呉の大和ドック跡を望む丘に建立。

塔の両脇には主砲徹甲弾のレプリカが並んでいる。
向かって左は41センチの長門用。
向かって右は46センチの大和用。

その勇姿を。

建塔の由来
戦艦大和は、この塔の左下方に見える造船々渠で、昭和十二年十一月 仮称第一号艦として起工、同十五年八月八日極秘裏に進水、翌十六年十二月十六日竣工、直ちに連合艦隊旗艦として太平洋戦争に歴戦、同二十年四月七日、国民の全く知らぬ内に乗員三千余名と共に九州西南海中に姿を没した空前絶後の大戦艦であった。
その頃(一九四〇年)までの海戦は、敵弾が届かない遠距離からの先制攻撃で勝敗を決しようとするいわゆる大艦巨砲時代であったが、大和の主砲は口径四六糎、長さ二〇米、その砲弾の長さ二米、重さ一・五噸、着弾距離四万二千米、ここから岩国付近まで飛ぶ世界無比の巨砲で、この大きさが大和の秘中の秘であった。
この大砲三門をならべた砲塔は、直径一三米、重量二千七百余噸もあり、これを製作したのは砲弾部で、またこの砲塔や船体の主要部を防御する四一糎乃至六五糎の厚い特殊甲鉄は製鋼部で製造された。
戦艦大和はこの砲塔三基を積むために特別に設計せられ、従って鑑は異様なまでに幅が広くなり、排水量は六万九千噸を越えたが、それでもなお、二七・五ノットの高速艇であった。
巨艦大和の建造は五万を数えた呉海軍工廠の従業員が、優秀な技術と精魂を傾け、四ヵ年余の短期間で、延べ約三百万人の力と、当時一億一千万円の巨費とをもって完成したのである。
昭和十六年十二月八日、太平洋戦争劈頭の真珠湾奇襲、続くマレー沖海戦で、飛行機魚雷が容易に大戦艦を撃沈できることを、皮肉にも日本海軍が実証して自ら大艦巨砲至上の夢を破り、やがて戦局不利を来し、敵の制空権下沖縄の危急を救うべく、航空戦力を伴わないで、大和は特攻艦艇旗艦として燃料片道再び生きて帰らぬ覚悟をもって出撃し、その持てる巨砲の猛威を発揮しようとしたが、雄図空しく南冥の海に護国の華と散ったことは誠に遺憾の極みであった。
併しながら、明治維新以来八十年間、日本海軍が研究を積み重ねて来た製鋼、機械、電機等の重工業並びに各種産業 殊に造船技術は戦後いちはやくその実力を現し、いまやわが国は造船王国として世界に雄飛するに至っている。これまことに「大和は沈んでもその技術は沈まなかった」といわれる所以である。
軍艦大和は二十世紀における世界最大最強の戦艦であって、しかも日本人の手で設計し、呉海軍工廠において呉市民の手で建造された誇り高き技術の結晶であったとの見地から、これを生んだ呉工廠の跡を一望できるここ宮原の高台に、全国大方有志諸賢の協賛を得て記念塔を建設しもって、平和を念願しつつ先人苦心の業績をたたえ、またその悲壮な最期を偲んでこれが霊を慰め、永くその栄誉を顕彰しようとするものである。後の世の人々よ、願わくば建塔の由来を諒とせられ、この塔を永久に維持保存されることを謹んで識す。
昭和四十四年八月八日 戦艦大和 第三十回進水記念日

大和の故郷。
宮原の地は、すずさんと晴美さんが義父である北條円太郎を見舞いに海軍病院に寄った帰りに…
「あーなんも見えん」
うっ… こうの史代さん描かれた日本観光ポスター。 晴美さん・・・

大和神社

「歴史の見える丘」からちょとだけ南下すると「大和神社」がある。

https://goo.gl/maps/gAxDHzuxcYd8P4fr6

実は私も誤解していたが、これは「戦艦大和」の神社ではなく。

https://www.sankei.com/west/news/141228/wst1412280009-n1.html

昭和39年10月。
呉海軍工廠廃止後の「播磨造船所」から「呉造船所」(後に石川島播磨重工業が合併)が独立して10年になるのを記念し建立。
「大きな和をもって結ばれる」の意であるという。
とはいえ戦艦大和建造の造船技術を受け継ぐ企業神社でもある。

「大和神社」の「慰霊碑」

尊くも殉職散華されたみ霊に対し心からなる哀悼の念をこめて敬けんな祈りをささげごめい福を祈ります
み霊よ私達を安全と栄光への道へお導きください 
謹白
株式会社 呉造船所 従業員一同 昭和39年10月1日建之

呉の「大和神社」境内の「慰霊碑」をみれば、企業神社だって確かにわかりますね。実は私もこの神社が「戦艦大和」関連の神社、奈良の大和神社の分霊?って思っていたことが昔にありました。調べてみれば違うって分かることでしたが。けっこう誤解をしている人が多いようです。


「 歴史の見える丘 」から北上。

続きは、その4で。


「この世界の片隅に」 散策ガイド

現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (呉市)

有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1o7HGZm0YISZ6RDNGTnoTn26_zjs&hl=en_US&ll=34.185055680214056%2C132.18369739999991&z=9

個人的に作成したメモ地図

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Q9v0RJdpnvAblLgnKXzboAPiwF4&ll=34.23842127633486%2C132.52778245274112&z=13

私の片隅散策「呉編」その2

平成29年3月

広島・呉散策
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・呉編)


「この世界の片隅に」 私の片隅散策

すずさんの嫁いだ街「呉」
海軍と共にあった街「呉」

平成29年3月5日。私は呉にいた。
すずさん時代と海軍時代、重なる2つの時代の足跡を辿りながら呉の街を巡ってみたいと思う。


朝8時過ぎ。
自転車に跨って走り出したら、目の前に「海上自衛隊呉集会所(海上自衛隊青山クラブ)」が見えてきました。
さっそくのポイントです。自転車を降りて散策してみましょう。

海軍下士官兵集会所(青山クラブ)

1903年(明治36年)4月1日に開設。
「この世界の片隅に」劇中で、すずさんが「しみじみニヤニヤしとるんじゃ」しちょった場所。

ちょっと入ってみましょう。
あっ、ここには「呉水交会」(水交会呉支部)が入っておりましたので、「水交会横須賀支部」会員の私は(一応)関係者ということでお願い致します…
呉水交会

通路からあちこちを。
海上自衛隊関連事務所や水交会・隊友会事務所などが残っているが、使われていない部屋も多い。

節々に老朽化を感じさせる。 なかなか厳しい・・・。

この海軍下士官兵集会所の裏手は入船山。
呉鎮守府長官官舎があり、ここより南は海軍用地としてかつては立入禁止の場所。
(すずさんは周作さんが海軍関係者だったので…

呉市サイト

https://www.city.kure.lg.jp/soshiki/7/aoyama.html

https://goo.gl/maps/z35XPUS4TBNNSsNi9

海軍・呉鎮守府庁舎
( 呉地方総監部 第1庁舎 )

入船山とか旧海軍病院とかは後回しにして、レンタサイクルで一路南下します。
が、すぐに足止めw
「呉地方総監部 第1庁舎」
かつての
「帝国海軍 呉鎮守府庁舎」

もちろん中には入れないので外からチラ見だけ。

南下。
国道487号線を内陸ルートで。これが失敗。大人しく海ルート取ればよかったです。内陸ルートはアップダウンが激しくて疲労w
(海ルートは帰りの楽しみで)

道中、「大和神社」を上から。
あぁ、帰りにちゃんと参拝します。

とにかく南下していきます。

警固屋

辿り着いた先は警固屋の集落。
終戦後に刈谷さんとすずさんが音戸の農家の帰りにリアカーを押して歩いていた場所のひとつが警固屋。

「鍋桟橋跡」 昭和時代の岸壁の石垣が残る。

鍋桟橋跡 1910-1973
大正・昭和時代の桟橋係留
チェーンと岸壁の石垣

https://goo.gl/maps/9X2zDPtcivsDKKtX7

ちなみに「青山クラブ(呉集会所)」から「警固屋」まで、レンタサイクルで20分かかりました。
バスもありますので寄り道を想定せずにピンポイントで訪れる場合はバスのほうが便利。
ここに来た理由は「巡洋艦青葉終焉之地」のため。

巡洋艦青葉終焉之地

碑文
巡洋艦青葉終焉之地
元内閣総理大臣 中曽根康弘揮亳

中曽根康弘氏は昭和16年8月に海軍経理学校にて初任教育を受け、海軍主計中尉に任官。 海軍主計科士官として、第一艦隊第六戦隊の旗艦でああった巡洋艦青葉に乗艦したことがある縁あり。

建碑記

「巡洋艦青葉」は太平洋戦争のフィリピン沖海戦において昭和19年10月23日ルソン島西方で米潜水艦の魚雷を受けて大破し、呉海軍工廠に帰還しましたが、修理の見込みが立たないため防空砲台として警固屋地区の海岸に繋留されていました。
しかしながら、昭和20年7月24日と28日のアメリカ爆撃機の熾烈な爆撃を受け、「青葉」は大破着底しました。この爆撃により警固屋地区にも死者3名、民家全壊48戸という被害を生じてしまいました。
これら戦争の事実とともに、「命と平和の尊さ」を次世代に伝えるため、「青葉」に乗艦経験を有する中曽根康弘元内閣総理大臣にご揮亳いただき、終焉であるこの地に碑を建立しました。 呉市警固屋まちづくり協議会 巡洋艦青葉終焉之地碑建設保存会

一等巡洋艦青葉戦歴表

昭和2年9月20日 三菱長崎造船所にて建造
排水量 約10,000頓(改装後)
乗組員 約800名
戦没者 172名

昭和20年7月28日 艦載機の攻撃により後部切断着底
昭和20年8月15日 終戦となり青葉終焉

警固屋 「巡洋艦青葉終焉之地」

何のフネがおりんさるか見えたよ、晴美さん おったのは…
青葉よ
哲さん、今あんたの笑顔の端に うさぎのはねる海が鷺の渡る空が宿っていた…
(この世界の片隅に)

https://goo.gl/maps/hL4N1aytquXJEzkH8

青葉終焉の地で、その勇姿を偲ぶ。

おったのは、青葉よ…

幾多の海戦を戦い抜き、幾多の僚艦が沈んでいく中で、辛うじて呉に戻ってきた青葉。歴戦の勇艦はこの地で大破着底しその運命を終えた。

しばし静かに佇む…

※補足
呉の長迫の海軍墓地には「軍艦青葉戦没者慰霊碑」がある。
「青葉終焉の地」に訪れるのであれば、こちらの戦没者慰霊碑にもぜひ足をお運びいただければ…

青葉型重巡洋艦の1番艦「青葉」
昭和17年第一次ソロモン海戦・サボ島沖海戦で活躍。
昭和19年捷号作戦(レイテ沖海戦)で大破、かろうじて呉軍港に帰投。
修理の見込みが立たないまま昭和20年7月呉空襲で大破着底。
昭和22年7月解体完了。


午前9時過ぎ。
呉駅前でレンタサイクルを借りて早くも1時間がたちました。

青葉終焉の地が、訪問を予定していた場所で一番遠い場所でした。
さて、ここから北上していきます。
次の目的地は「アレイからすこじま公園」となります。

呉海軍工廠

レンタサイクルで北上「アレイからすこじま公園」を目指す途中に。
現在の「ダイクレ興産(株)呉第二工場」
こちらは往時の「 呉海軍工廠砲填部精密兵器工場 」という。
重厚なレンガ造りの建造物が堪らんないです。(敷地外より撮影)

https://goo.gl/maps/QBdd6jG5XnmEmASB7

アレイからすこじま公園

9時15分。
「アレイからすこじま公園」到着。
国内で唯一の「潜水艦が間近に見れる」公園。
そして旧海軍の本拠地を偲ばせる公園。
あわせて、「旧呉鎮守府兵器部護岸及び関連施設」として土木遺産認定。

魚雷揚げ下しクレーン

「アレイからすこじま公園」に保存されている「旧魚雷揚げ下しクレーン」

明治34(1901)年に設置された英国製の15トンクレーン。
旧海軍が魚雷などを潜水艦に積み込むために使用していたクレーンであり、奇跡的に戦火をまぬがれ、戦後もしばらく稼動していたという。

呉海軍工廠電気部

「アレイからすこじま公園」の向いには赤レンガ倉庫が立ち並んでおります。 現在の呉貿倉庫運輸株式会社。
かつては呉海軍工廠電気部であったと。

潜水艦

「アレイからすこじま公園」
この公園の名物は潜水艦。
こんなに間近で潜水艦を見ることが出来るのです

海軍桟橋

この桟橋も旧海軍時代の名残。

この石段も岸壁も旧海軍時代の名残。重厚です。

呉海軍工廠砲熕部と呉海軍工廠水雷部

「アレイからすこじま公園」から工場地帯に目を向けると、白い大きな建物が見える。これが旧海軍工廠砲熕部。手前が旧海軍工廠水雷部。
現在は三菱日立パワーシステムズ(旧・バブコック日立)と淀川製鋼所。

呉海軍工廠製鋼部

「アレイからすこじま公園」隣、工場敷地内に。
おそらくこのあたりの工場煙突群がたぶん旧海軍工廠製鋼部。現在の日新製鋼。 この界隈の密度はやばい。流石に呉工廠の中枢部跡。

呉海軍工廠電気部

「アレイからすこじま公園」から串山公園方面に移動。
こちらにあるのも呉海軍工廠電気部。現在はオカモト産業。
隣にある丘が串山。

呉海軍工廠 工廠神社

串山公園。 かつてここは「旧呉海軍工廠 工廠神社」であった。

御祭神は 天照大御神 ・・・であった。

工廠神社
御祭神 天照大御神
皇紀二六百年記念
昭和十五年11月建設

旧呉海軍工廠 工廠神社跡
参道を歩む。
この立派な参道の脇には「串山防空監視所」が残る。
こちらは帰りにマジマジと見てみましょう。
まずは参道の突き当りを目指します。

参道の突き当りは、礎石が残るのみであった。
空虚な空間。
手水盤と礎石が往時を物語る。
これだけ立派な参道があって、これだけ立派な礎石があっても、ここには鎮まるべき社はもう無かった。
往時を物語る時代の足跡。

ちなみに手水盤の跡に新しめのお椀が鎮座していました。
なんだろうなと思ったら近所の方がやってきて、猫に餌をあげておりました。

呉海軍工廠・工廠神社跡

串山防空監視所

工廠神社参道脇の「串山防空監視所」に近づいてみました。
神社跡の隣に平然と残っている要塞跡にちょっと興奮してます。

「串山防空監視所」を覗いてみました。
うーん、ゴミが投げ込まれてますね。

こうやって往時を物語る何かが残っているだけでも貴重な空間。

「アレイからすこじま公園」に赴く機会がございましたら、ちょっと足を伸ばしてこの「串山公園」でも往時を偲んでいただければ。
良き海軍歴史遺産です。

さて、次に移動します…

おおすみ(LST-4001)が潜水艦桟橋の隣に停泊していました。
敷地外から。
そのままIHIの工場地帯をかすめながら、大和ドック方面に向かいます。

呉海軍工廠造船部工場

現在の「株式会社IHI 呉事業所」工場敷地内にも旧海軍の面影が展示しております。
敷地外からちょっと見てみました。
旧・海軍呉工廠造船部工場

https://goo.gl/maps/wbq3UuKLYgWaXJts9

呉海軍工廠造機部庁舎

「株式会社IHI 呉事業所」工場敷地外より撮影。
かつての呉海軍工廠造機部庁舎。
この奥には呉海軍工廠造船部庁舎も残っていると(未撮影)

この隣の敷地が(ようやくの)「大和ドック」(現在のジャパンマリンユナイテッド呉造船所)となります。

次は「大和ドック」、その3へ


「この世界の片隅に」 散策ガイド

現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (呉市)

有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1o7HGZm0YISZ6RDNGTnoTn26_zjs&hl=en_US&ll=34.185055680214056%2C132.18369739999991&z=9

個人的に作成したメモ地図

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Q9v0RJdpnvAblLgnKXzboAPiwF4&ll=34.23842127633486%2C132.52778245274112&z=13

私の片隅散策「広島・江波編」

平成29年3月

広島・江波散策
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・江波編)


この世界の片隅に 私の片隅散策

平成29年3月4日、広島市江波。
すずさんが生まれ育った街。

目立った観光地ではなく、この映画に出会わなければきっと訪れることもなかったであろう街。そんな街を私なりの目線で歩いてみようかな、と。

午前8時過ぎ。
宿屋を出発し活動開始。

広島駅から広島電鉄に乗車。
江波往復では元は取れないけど一日乗車券を購入。(市内線4回乗車でお得、原爆ドーム・中島本町と梯子する際は便利かと思います) 広島電鉄江波線の終点へ、と。

江波へ

広島電鉄江波線の終点へ、江波電停に向かいます。
広島電鉄は各地から集まった路面電車があちらこちらに走っており、見ていて飽きない。
すれ違った1913は京都市電出身。

江波

すずさんが嫁入りした時はまだ江波線は江波まで開通しておらず、昭和18年に江波線が舟入本町まで開通したばかり。
これは江波で埋立てていた新設軍需工場通勤需要。
すずさん幼年期は路面電車はまだ無かったのね。
江波停留所は昭和29年開業。

江波車庫後方に見えるのが皿山。
かつては皿山は江波山とつながっていて江波島と呼称。
また皿山を上山(かみやま)、江波山を下山(しもやま)とも。

すずさんの時代は射撃場があった。

http://www.asahi.com/area/hiroshima/articles/MTW20160404351100001.html

江波停留所にて案内看板を眺める。

ありゃー、見所たくさんあるよー
(事前調査が甘くて慌てる…街歩きのルートをざっと組み立て )

forever ほぉ〜江波! すばらしい、江波らしい。

おさん狐の像

かつて江波皿山に住んでいた「おさん狐」。
年齢80歳、500匹の一族を操る。 人をからかうも、人を苦しめることはなかった、と。また、京参りや伏見に位を貰いにいったりと風格があった、と。

江波停留所の隣の道路。
おさん狐は口に木の葉を咥えてました。

広島市江波児童館・江波第二保育園

すずさんが通っていた尋常小学校は、かつてこのあたりにあった。
尋常小学校から南に赴けば江波港。 学校と江波山の位置関係を把握。

太田川河川敷

尋常小学校のあった場所から太田川の川沿いへ。

太田川上流が中島本町や原爆ドーム界隈。 幼年期のすずさんが舟に便乗しておつかいへと向かった場所。

江波を横切るように渡る高架道路は広島高速3号線。

松下商店

太田川の河川敷から道路に戻ると松下商店がみえてくる。

すずさんとすみちゃんが元気に走って尋常小学校に通った道。
鬼イチャンの白木の箱(遺骨…)を家族とともに運び歩いた道。

松下商店。
往時と変わらぬ姿で、すずさんが育った時代が目の前に残っていた。リアルと映画がリンクした瞬間。
何とも言えない感動的な光景が拡がる。
窓にはロケ地マップが貼られおり、すずさんの足跡を辿るランドマークとしても機能していた。

丸子山不動院

松下商店の南側に小高い高台がある。
「丸子山不動院」
この江波地区は江波皿山、江波山、そして、丸子山の三つの島があり、その高台の一つ。
丸子山不動院は広島新四国八十八ヶ所霊場第76番霊場という。 また、丸子山の下部には古井戸も残る。

小さな稲荷祠が境内に鎮座していた。
この稲荷社、前述した、江波の「おさん狐」を祀っているともいう。

「丸子山不動院」
文化5年(1808)、江波の仲屋幸助が筑紫国に航海の際、豊後国の海中で漁師の網にかかった像を貰い受け江波に持ち帰り、丸子山に堂宇を建立。
大正5年(1916)火災消失し同年再建。

「丸子山不動院」丸子山からの眺望。

北側の太田川方面。
西側の江波皿山方面
南側の似島・安芸小富士方面。

安芸小富士が見える方向は、すずさんも波の兎とともに眺めた海。
(波の兎は後述の江波山ですが安芸小富士を眺めるには丸子山がベスト)

「丸子山不動院」境内に。

江波地区 戦死者戦病死者並原爆死者之霊

現実に呼び戻される空間。
ここは広島であった。
被爆の歴史とともに。
卒塔婆に頭を下げて合掌を…

江波港

丸子山から南に。
小さな小さな瀬戸内の漁港がみえてくる。

「江波港」
江戸時代は広島の外港として栄え半農半漁の集落であった。特に海苔とカキが採取され養殖が盛んな港。
明治期に宇品港が開港したことにより広島の外港の地位を譲る。

「江波」
江波がまだ島であった頃、漁業の餌が肥え魚も良く獲れたという。このことから良いエサ場の意「餌場」(えば)と呼ばれるようになり「衣波・衣羽・江波」と転嫁。

鎮守は「衣羽神社」。 すずさんたちが過ごした江波港を巡る。

海神宮

江波港の鎮守。江波港の出入口に鎮座。
海上交易と海上守護を願い江戸時代に創建。
御祭神は、大綿津見神。
現在の社殿は安政7年(1860)再興。

原爆に耐えた被爆建物。
江波港は爆心より3330mの距離。

海苔製造を生業としていた浦野家もきっとお世話になったであろう江波港の護り神。
幼年期のすずさんやすみちゃんは、この江波港を元気に駆けずりまわっていたのだろうなあ。
江波港の鎮守を前にして、夢想するひととき。

松下商店・江波港界隈。
広島ロケ地マップより。

聖山稲生神社

江波港の北西に。
「聖山稲生神社」が鎮座している。
鎮座地はもと海中の一小島であったと。江戸期の創建。
江波のこのあたりは徐々に埋め立てられていった歴史を持つ。

御神木は榎。樹齢300年超えとされている。
なんか変だなと思ったら、木の後ろ半分が失われている状態でした。

沿岸部では希少な巨木という。
飢饉の時、榎の葉は貴重な食料でもあった、と。

衣羽神社

江波港から南に江波山方面に歩く。
その江波山の北東側中腹に神社が鎮座。

「衣羽神社」(えばじんじゃ)
江波の集落の総鎮守。
御祭神は市杵島姫神、 多紀理比売神、多岐都比売命
いわゆる宗像三神(厳島三神)

鎮座年代は不詳なれど、正和2年(1313)編纂による安芸国国司所祭官社を集録した古代神名帳(官社神名帖安藝國官社百八十社)に「三位衣羽明神」とあり、広島市内でも有数の古社。
現在の社殿は宝暦3年(1753)、天井構造を「船底様式」で造営。

本殿は江波山の斜面に沿うように拝殿よりも一段高い場所に鎮座。
この拝殿と本殿は昭和20年8月6日の原爆に耐えた被爆建物。
爆心地より3,590mの距離。

御神木。

ふと見上げたら、御社殿の屋根瓦に狛犬がおられました。

江波山中腹に鎮座している衣羽神社から江波港を望む。往時から変わらず鎮座している江波の鎮守様。きっと浦野家(お父ちゃん、お母ちゃん、鬼イチャン、すずさん、すみちゃん)も初詣でここに参拝に来ただろうなあ、とか思いながらしばし佇む。

衣羽神社から山頂方面へ。
すぐ裏手に江波のお大師さま「龍光院」(広島新四国八十八ヶ所霊場第七十七番、江波の観音さま、お大師さま)
そして隣に「江波山気象館」

港方面から江波山に最短で向かおうとすると、いやがおうでも衣羽神社参道を進んでいくことになりますね。

江波山気象館

もとは昭和9年に建築された「旧広島測候所」。旧広島地方気象台。 原爆にも耐えた被爆建物であり、広島市重要文化財指定。

建築様式的には、20世紀初頭に花開いたドイツ表現主義の影響を受けたモダンな造形、というものらしい。

「江波山気象館」からの展望。

北側。広島中心部方面。
北東側。江波港方面。
南側。安芸小富士がちょっとだけ見える。埋立地方面。

「江波山気象館」
気象に関する展示がある中で、どうしても建物内にある原爆痕に目がいってしまう。

昭和20年8月6日8時15分頃。原爆の爆風で窓ガラスが吹き飛ばされ多くの破片が壁に突き刺さり痕跡が今も残っている。
江波山での爆風の速さは秒速700mだったと推定。

原爆痕の残っている部屋の片隅で。
何気なく馴染んでいました。

http://kuresc.net/ksk/

そうそう。 もう終わってしまったけど(3/20で終了)、訪れた時にちょうど開催されていた「すずさんの嫁入り」スタンプラリーにも参加しました。

江波山気象館(広島市江波)をスタートし入船山記念館(呉市)ゴール。

昭和19年2月
広島江波から呉へと、 すずさんの嫁入りを辿る、なかなか粋なスタンプラリー。

全部回ると記念ポストカードが貰えました。
ちょうどスタンプラリーのタイミングで広島に赴けたのも運がよかったと。

「江波山気象館」
戦前の鉄筋コンクリート造としては最末期の建造物としても価値があるこの建物。

そういえば、柳田国男の「空白の天気図」ではこの広島測候所での枕崎台風の記録が描かれているとのことで読んでみたくなりました。

さて、名残惜しいけど次へ向いましょう。

江波山公園

江波山の山頂。 すずさんが「コクバ」(焚き付け)を拾ってくる山
すずさんと水原が「波のうさぎ」を眺めた山

「困ったねえ」と晴れ着を被った珍奇な女(すずさん)が途方にくれていた山

そして、例のアングルを探す私w

江波山公園。 江波山の山頂。

実はこのあたりは眺望が良くない。3月の枯木だからまだ何とか向こうが見えるも、夏に訪れたら樹木の茂りで結構厳しさな状態。

例の位置関係を探す。

南側。今でこそ埋め立てられているが、向こうに微かに、似島の安芸小富士が見えるこの場所。確かにこの場所だ。

瀬戸内を向こうに感じるこの場所で、すずさんは「波のうさぎ」が跳ねる姿を描いたのだ。

「うさぎがよう跳ねよる。ほれ白い波が立っ取ろう 白いうさぎが跳ねよるみたいなが」
「ああ、ほんまじゃねえ 白うさぎみたいなねえ」


水原の運命を決めた兄の転覆事故死。
すずさんの脳裏に刻まれた江波の思い出。 安芸小富士を望むこの場所…

江波山公園。江波山の山頂。

戦後に開通した道路が江波山の下を抜ける。
江波トンネル。

江波山公園。
原爆の記録は至る所に残っている。それは広島市南端の江波も例外ではなく。

被爆者慰霊 母子愛の像

碑によせて
 昭和二十年八月六日午前八時十五分。
 一発の原子爆弾は相生橋上空五百数十米において炸裂した。一瞬にして街は阿鼻叫喚の場と化した。
 わが江波町の人的物的被害は中心部に比して軽かったが、時を経ずして、多くの負傷者が見るも無残な姿で殺到し、その数は一万人を突破した。
 一方、炎熱に耐えかねて本川に入水した無数の死傷者が折からの下げ潮にのって江波町の波打ち際に漂着して来た。
 その日、江波町は夏祭りであったが暗転して惨劇の街と化していった。
 肉親探し、救護、看護、更には火葬等の諸活動は町内会・警防団・婦人会等、役割を分担しながら秋まで続いた。
 あれから時は流れて半世紀、今日に至る江波町有縁の犠牲者は推定一万数千万にも及んでいる。
 襟を正して、これらすべての犠牲者の魂安かれと祈ることは現代に生きる者の責務であろう。更には人類の滅亡につながる核兵器の廃絶を願い、不戦の決意も新たに、ひいては世界恒久平和の実現を誠実に希求するその証しとして、心ある人々の浄財をもってこの碑を建立するに至った。
 碑面は「平和希望」を礎に、不変の真理である「おやこの愛」と「生命の尊さ」を訴えた。作者は中国広州美術学院教授曹崇恩先生であり、日中友好の架け橋ともなればとの想いも含まれている。
 願わくばこの心を子々孫々に至るまで受け継ぎ護り給わんことを。

平成七年八月七日 除幕 江波地区社会福祉協議会

「来月の6日は江波のお祭りじゃけえ、早う帰っておいでね…」

その日、江波町は夏祭りであったが暗転して惨劇の街と化していった。

あぁ…

廣島工業港 魚介藻類慰霊碑

昭和15年11月。
すずさんが呉に嫁入りに行く3年ほど前。(嫁入りは昭和19年2月)
江波沖を埋め立てる工事がはじまる。 この慰霊碑は埋立てにあたって江波沖の魚介藻類の生命を奪うことを慰霊するという珍しいもの。

魚介藻類慰霊碑「生物ノ多クハ多年漁家ノ人為増殖シテ其ノ生活ヲ支エ來リシモノナレバ此ノ漁場ノ異變ハ直チニ其ノ生活ニ甚大ナル影響ヲ及ボスモノナリ」 浦野家の海苔も江波港埋立で廃業。
「うちも江波の埋め立てで海苔はやめてましてのう」

廣島工業港 魚介藻類慰霊碑
碑文裏

廣島工業港修築ハ萬般ノ準備整フテ着工ノ日(昭和十五年十一月三日)近キニ在リ
此ノ工タル實ニ百三十萬坪ノ地域ニ及ブ大事業ニシテ地下ニ埋没シ生命ヲ絶ツ魚介藻類其ノ數ヲ知ラズ
而モ是等ノ生物ノ多クハ多年漁家ノ人為増殖シテ其ノ生活ヲ支エ來リシモノナレバ此ノ漁場ノ異變ハ直チニ其ノ生活ニ甚大ナル影響ヲ及ボスモノナリ
然レドモ國家興亡ノ此ノ秋ニアタリ本工業港完遂ノ一日モ速カナランコトヲ待望スル朝野ノ念ニ應ヘ漁業関係者各位ハ萬苦ヲ忍ビ漁業関係者各位ハ萬苦ヲ忍ビ敢然此ノ擧ニ賛同シ協力支援ノ態度ヲ表明セラレタリ
茲ニ魚介藻類ニ回向スルト共ニ漁業關係者各位ニ深甚ナル敬意ト感謝ヲ捧グ

昭和十五年九月二十一日魚介藻類
慰霊法要ニオケル廣島縣知事
相川勝六氏ノ式辭ヨリ抜萃

江波山(高さ37.6m)を後にして次へ。

江波山は元々「江波島」。
江戸時代から埋め立てが進み文化8年(1811)に陸続きに。その当時の江波島は江波山(下山)と皿山(上山)と連なっており両山の土砂を埋立に活用して現在に至る。

なんとなく陸と海の境目を歩く。
左側に見える建物が「広島市江波山気象館」

こうやってみると、思ったほどには高くない。

昭和の頃は江波と対岸の草津は渡し船があったり干潮時に遠浅の海を歩いて渡ったりもできたようだけれども、平成の世になると高架道路が江波を東西に貫いている。広島南道路・広島高速三号線。草津ー江波ー吉島ー宇品を結ぶ。奥が草津方面。

シュモーハウス

シュモー博士が被爆者の為に建てた住宅のうち唯一の現存建造物。
2012年より広島平和記念資料館の附属展示施設。
ちょうど3月末まで映画に関するパネル展も行っていたので足を運んでみました。

「シュモーハウス」この世界の片隅にin江波
「波のうさぎ」鏝絵(こて・え)の新聞記事など。

関連パネル展。

原爆ドームと中島本町。T字型の相生橋。
被爆直後の昭和20年10月5日撮影。

昭和26年(1951)に米国のフロイド・シュモー氏は原爆により家を失った人々の為に尽力し、該当施設はシュモー氏にとって集会所として建設された。

江波の界隈を改めて。 ロケ地マップ抜粋。

さて時刻はそろそろ12時になろうかという頃合い。
足は自然と松下商店の方向に向いていた。

江波には有名なラーメン屋があるけども、それじゃあ味気ない。
せっかくなので、松下商店の右隣にある「お好み焼き屋」さんに。

「お好み焼き・わいわい」
松下商店の隣。先客が1人。映画を見て訪れたとか。しばし談笑。
私のあとからは近所で仕事をしていた方が2人来客。そのあとにやはり映画ファンが1人来客。
お姉さんが忙しく鉄板でお好み焼きを焼いてくれます。

「お好み焼き・わいわい」

アツアツの鉄板。広島ならではのお好み焼き。
お姉さんがテキパキと作ってくれます。

あー、なんか良いですね。こういう雰囲気。
見ているだけで楽しいです。

出来ました。アツアツです。
(生ビールをうっかり頼んでしまいました。
(熱すぎたので取り皿もらいました。

旨いです。
鉄板で食べる。そして広島江波で食べるというシチュエーションが旨さを倍増させてくれます。

江波停留所に戻る。午前9時半に江波停留所をスタートして12時半に戻ってきたので約3時間の散策。

すずさんの足跡を辿りながら、
原爆と向き合う旅ともなった江波散歩。
楽しみつつ、神妙になりつつの
充実した散策となりました。

13時半頃。広電で広島駅に戻ってきました。
広島駅は爆心地より1.9kmの場所。

さようなら
さようなら江波
さようなら広島

乗り込んだJR呉線は「広」行きでした。
広(広工廠の地)は今回いけませんでしたが。

「江波」編はこのあたりで〆ていきましょう。


※呉編は準備中


「この世界の片隅に」 散策ガイド

現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (広島中島本町・広島江波)

有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1o7HGZm0YISZ6RDNGTnoTn26_zjs&hl=en_US&ll=34.185055680214056%2C132.18369739999991&z=9

広島散策。江波散策。
街を歩けば常に感じさせられる戦災と原爆の爪痕。
すずさんたちの生きた世界の片隅を垣間見つつ。
現実と虚構の狭間をゆらゆらと漂いながら。
不思議な心持ちでの重厚な聖地巡礼のひとときでした。

江波編〆

私の片隅散策「広島・中島本町と原爆ドーム編」

平成29年3月

広島・中島本町と原爆ドーム散策
・平和記念公園
・原爆ドーム
・レストハウス
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・中島本町編)


この世界の片隅に 私の片隅散策

平成29年3月3日夕暮れ。
その象徴的な空間に吸い寄せられるように歩みを進める。

その尊き墓標に真正面から対座する。
極めて神妙な面持ちの中で、 魂が、心が、震え緊張する空間を。

この日は、広島護國神社を参拝し、そして南下。 

広島電鉄八丁堀電停。
八丁堀の交差点に着いたのは17時ごろであった。

福屋百貨店

八丁堀交差点の「 福屋百貨店 」

里帰りしたすずさんが鉛筆を持つ右手を伸ばし構図を作りながら描いた建物ですね。 早速の既視感のある光景に早速興奮してしまう私…。

八丁堀交差点「福屋百貨店」
爆心地から約710メートル

鉄筋コンクリート造地上8階地下2階建て建造物。
原爆の炸裂により被災した建物は、骨組みと外郭を残すだけと。

広島の町に残る被災建造物は、そのひとつひとつが歴史の伝承者であり。

紙屋町交差点

八丁堀の交差点から西に歩めば紙屋町交差点。
広島城の真南であり、今も昔も往来激しい交通の要所。

旧・広島県産業奨励館(原爆ドーム)

昭和20年8月6日。
史上初の原子爆弾はこの建物の直上600mで空中爆発。

実は昔、ここには来たことはあった。
しかし当時はさほどに興味を抱いていなかった。

あれから十数年。
改めてこの場所で、真摯に対座する。

各地の戦争遺跡や慰霊碑をめぐるようになって 各地で手を合わせ、頭を垂れるようになって、そうして一段とこの場所が重くのしかかってきた。

薄っぺらい平和学習では伝わらなかった、凄みが。
まさに墓標であった。
しばし立ち竦み緊張した面持ちで静かに対座する…

歩みを進める。原爆ドームから対岸へ。

右上が旧市民球場(旧・護國神社)。
原爆ドーム隣の橋は相生橋。
T字の相生橋の南は中洲となっている「旧・中島本町」が現在の平和記念公園。
この中島本町こそが原爆で消滅し、「この世界の片隅に」で蘇った街。

広島・平和記念公園

平和の灯
平和の池

「核兵器が地上から姿を消す日まで火を燃やし続けよう」という象徴の灯火。 慰霊碑と原爆ドームの中間に位置する。

原爆死没者慰霊碑

鎮魂

無心で手を合わせる。
政治や思想の色を持たずに雑念を捨てて、 真摯に頭を垂れる。
余計なことはここでは言わない…

広島市平和記念公園レストハウス

元安川にかかる元安橋まで戻る。

この橋の先に見えてくる建物が「広島市平和記念公園レストハウス」
原爆被災の中心となった中島地区でただ一つ残った戦前からの建造物。

「レストハウス」
1929年「大正屋呉服店」として中島本町に開業。
1943年に閉店し「広島県燃料配給統制組合」が使用。
1945年に原爆被爆するも全壊は免れた。

幼少のすずさんがおつかいにきた冒頭の街が被爆前の中島本町。

中島地区。
爆心から100~700m
戦前は市内有数の繁華街。スズラン灯が設置されモダンな街であった。

街の北側の相生橋は市の中心部でT字型であったために原爆投下目標となり、1945年8月6日に被爆し「中島本町」は全滅する。

「大正屋呉服店」(レストハウス)以外にはもちろん往時を物語る何かはない。失われてしまった空間。
あの瞬間から約70年後。
「この世界の片隅に」で、昭和8年12月22日の歳末で賑わうモダンな「中島本町」が蘇ったのだ…

中島本町・中洲の西側。
太田川にかかる本川橋付近。

ここあたりが、幼少のすずさんが江波からおつかいに行く途中に、舟から上陸した場所。
石垣の石段(雁木)は上陸地点の対岸の石段をイメージで撮影。
(かなり滑りやすいので注意!)

中島本町北端。嫁入り後の里帰り。
この場所で、すずさんは「産業奨励館(原爆ドーム)」をスケッチ。

「さようなら広島」

そして昭和21年1月。
草津の森田家にすみちゃんを見舞いに訪れた帰路。同じ場所で破壊された建物を見つめる。

中島の中洲から元安川むこうの対岸に。

産業奨励館(原爆ドーム)
爆心地から約160m 1915年(大正4年)4月完成。
原爆によって建物は大破・全焼。

相生橋

橋名の由来は、2つの橋が「相合う」ことから、と。

初代親柱 1878
二代目親柱 1945再建
三代目親柱 1983 が現在の相生橋。

相生橋。
その特徴的なT字の橋は1940年(昭和15年)に形成されている。
幼年期のすずさんが中島本町におつかいに来たとき、すなわち「ばけものにさらわれて、そして周作さんとはじめて会った」時は、まだT字にはなっておらず。

戦後、相生橋上の二人。

周作さん
「もうあの頃には戻らん。この街もわしらも変わり続けていくんじゃろうが。」
すずさん
「周作さんありがとう。この世界の片隅にうちを見つけてくれて…」


幼少のあの頃と戦争を乗り越えたその後の光景。

原爆ドーム

再びこの場所に。
18時15分。

徐々に闇へと包まれていく、その墓標を前に。

18時30分。
相生橋の片隅で。

奇妙な心持ちであった。
これは皮肉なものであった。

語弊のある言い方になってしまうが、美しかった。
緊張する美しさがそこにあった。

慰霊の念とともに、 心静かにファインダーを覗きシャッターを切る。

気がつけば19時近く。
立ち去るのが名残惜しい。が、時間は有限であった。

最後に深々と一礼、そうして私は新たな歩みを。

多様な目線と思案とともに貴重な反芻を行いつつ、薄っぺらい平和学習では得られない良き経験ができました。

ありがとうございました。


※呉編はこちら。


「この世界の片隅に」 散策ガイド

現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (広島中島本町・広島江波)

有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1o7HGZm0YISZ6RDNGTnoTn26_zjs&hl=en_US&ll=34.185055680214056%2C132.18369739999991&z=9

習志野の戦跡散策(騎兵から空挺へ・習志野駐屯地)

平成29年8月

この日は陸自・習志野駐屯地一般開放日「習志野駐屯地夏祭り」
基地公開日に見学できる施設が「空挺館」
未訪でしたので、是非これは行っておきたい。
ついでに折角だから寄り道しながら駐屯地を目指してみました。

※第一空挺団の降下訓練初め

習志野駐屯地

空挺館 (旧御馬見所)

「空挺館」(明治44年/1911年建立)
こちらが見たかったのです。
このために習志野に脚を運んだのです。
年に何回かの基地公開日にしか入れませんから。

明治44年建立。
もともとは目黒の陸軍騎兵実施学校に明治天皇が天覧あそばされた際の「天覧台」(御馬見所 )として建設。
大正5年(1916)に習志野に騎兵学校が移転に際して当館も移築。

正面入口からは傾斜のゆるやかな帝王階段。

明治天皇が天覧されたという2階のバルコニー。

実は装飾の菊御紋は2種類あり15弁と16弁がある。
これは正規の枚数だけだと天皇陛下以外は御立所に上がれなくなってしまうため他の皇族にも配慮したためという。

明治天皇が天覧されたという2階のバルコニー。
この椅子は津田沼駅で皇族が利用された貴賓室用椅子。

貴賓用椅子
津田沼駅は明治40年9月1日に鉄道省の一駅として営業を開始。旧軍時代は騎兵旅団、騎兵学校などがあり、習志野練兵場の表玄関だったので、皇族がたくさんこの駅を利用されていた。その当時皇族が使用されていた貴賓用椅子である。

習志野原

明治天皇(諱は睦仁)が命名されたという「習志野原」の額も展示。

睦仁
習志野原

習志野之原演習行幸

明治6年4月30日に明治天皇は習志野原にて近衛兵の演習を天覧されている。

帝王の階段とも称された中央階段の装飾。

精鋭無比

中央階段踊り場に掲げられた文字は降下塔にあるものの原本。(平成24年12月取り付け。)
書家青華氏による。お孫さんが第1空挺団に所属していた際に無理を言ってかいてもらったものという。

自衛隊唯一の空挺部隊
空挺精神「精鋭無比」

空の神兵像

立像と座像と

2階部分は旧軍に関する展示。
いくつか注目してみてみましょう。

秋山好古 日本騎兵の父

日露戦争時の騎兵第1旅団長(直下に騎兵第13連隊及び騎兵第14連隊)での活躍は言うまでもなく。あとは「坂の上の雲」を参考に。

騎兵の街・習志野に縁の深き人物であり、第2代騎兵学校長でもあった。

西竹一 騎兵中佐

昭和7年ロサンゼルスオリンピック障害馬術の部で日本人としての初の金メダルを受賞。(今日に至るまで馬術の金メダルは西のみ)
男爵でもあった西は「バロン西」として社交界で愛されるも、硫黄島において戦車26連隊長として参戦し散華。

日本軍空挺部隊と空挺作戦

日本軍には陸軍と海軍とそれぞれに落下傘部隊が展開されておりました。

まず海軍としては日本史上初の落下傘降下作戦を成功させた横須賀特別陸戦隊によるメナド降下作戦(昭和17年1月11日)や続くクーバン降下作戦などの展示あり

日本海軍
横須賀鎮守府第1陸戦隊 メナド降下作戦
横須賀鎮守府第3陸戦隊 クーパン降下作戦

横一特・横三特(海軍陸戦隊)
空挺部隊の慰霊碑は海軍落下傘部隊発祥の地館山の安房神社境内にありますので参考まで

安房神社境内
海軍落下傘部隊慰霊碑 内閣総理大臣田中角栄揮毫

パレンバン空挺作戦 
昭和17年2月14日

陸軍・挺進第2聯隊
南方の石油資源確保のために精油所を空挺攻撃し占領。
陸軍が初めて実施した空挺作戦であり、日本国民が初めて落下傘部隊を知った作戦。
往時の衣装や遺品が展示

血染めのどくろ旗

パレンバン空挺作戦 昭和17年2月14日

陸軍・挺進第2聯隊第1中隊中尾隊の小隊長・長谷部正義少尉が出撃前夜に小隊員39名と共に寄せ書きしたドクロの小隊旗。中央にはドクロと共に「落下傘大明神」と記載。
長谷部少尉は降下占領作戦中に戦死。

レイテ空挺作戦 
昭和19年12月6日~

陸軍第二挺身団「高千穂部隊」
レイテに上陸した米軍に対しての防衛作戦に呼応しレイテ島ブラウェン飛行場に空挺作戦を決行。一時的に飛行場を占領したものの援護なく後退。オルモック救援降下部隊ともどもほとんどの将兵は戦死…

陸軍・義烈空挺隊
義号(沖縄)空挺作戦 
昭和20年5月24日

沖縄本島に上陸した米軍に対し陸海軍特攻機を援護するため、奥山道郎大尉率いる義烈空挺隊(97式重爆撃機12機)に乗り込み読谷・嘉手納飛行場に特攻し強行着陸・飛行場機能停止を目指した作戦。

昭和20年5月24日18時40分。
沖縄を救援するために熊本・健軍飛行場を飛び立った義烈空挺隊12機。
そのうちの1機が読谷北飛行場への強行着陸成功し破壊活動を実施。

挺進殉國
義烈空挺隊 隊長 奥山道郎

義烈空挺隊 隊長 奥山道郎 
遺書
昭和二十年五月二十二日
此の度、義烈空挺隊長を拝命 
御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します
絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります
只々感謝感激の外ありません
幼年学校入校以来十二年
諸上司の御訓誡も今日の為のように思はれます
必成以て御恩の万分の一に報ゆる覚悟であります
拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます
二十有六年親不孝を深く御詫び致します 
                          道郎
御母上様

配布資料
知っていますか?義烈空挺隊
~昭和20年5月24日夜の話~

配布資料
腹が減っては戦は出来ぬ
~義烈空挺隊「食」の話~

配布資料
神兵を癒やした観音湯
~「堤はつ」さんと義烈空挺隊~

空の神兵

空の神兵
作詞 梅木三郎
作曲 高木東六

藍より蒼き 大空に大空に
忽ち開く 百千の
真白き薔薇の 花模様
見よ落下傘 空に降り
見よ落下傘 空を征く
見よ落下傘 空を征く

空挺館の1階部分は陸自のコーナーでした。
(旧軍関連が2階)

配布資料
遠い神代の物語
~陸上自衛隊「空の神兵」事始め~

配布資料
ようこそ空挺館へ!!
習志野駐屯地広報室


駐屯地内に点在するあれこれを見て回ります。

軍人勅諭下賜五十周年記念碑

手前の砲弾のようなものは
「軍人勅諭下賜五十周年」砲弾型記念碑。
明治十五年軍人勅諭が下賜されて50周年の昭和7年に建立された記念碑。
騎兵学校建立。

軍馬慰霊之碑

軍馬慰霊之碑・秋山好古揮毫

日本騎兵の父と称された秋山好古は日露戦争時の騎兵第1旅団長であり第2代騎兵学校長であった。
この軍馬慰霊碑は秋山が逝去する1ヶ月前に揮毫され、そしてこれが絶筆となった。建立は昭和5年11月。秋山好古大将の亡くなった月であった。

日本騎兵の碑

昭和41年建立
碑文は武藤一彦(元中将・元大分市長)
裏面は秋山久三少将(最後の騎兵学校長)の筆による。

ちょうど「日本騎兵の碑」の向こう側では駐屯地イベントの大人気スポット「お化け屋敷」が展開されておりました。
大盛況。 私はしずしずと駐屯地内の石碑めぐりなどを。

94式37mm速射砲

昭和9年(皇紀2594年・1934年)に帝国陸軍が開発・採用した対戦車砲(速射砲)。
正式名称は九四式三十七粍砲 俗称は九四式三十七粍速射砲

備える防人(ひと)

空の神兵の像

古賀忠雄が昭和17年の大東亜戦争美術展にて朝日新聞社賞を受賞した名作「天降る像」が原型。
昭和19年に三宅坂の陸軍第1航空軍司令部が武蔵野市吉祥寺の成蹊大学に疎開した時に当時の司令官部屋を飾った像をベースにしている。戦後は成蹊大学から偕行社を通じ第1空挺団に寄贈。
本像は昭和46年に復元銅像化。

鎮魂之碑

「礎」の碑 初代空挺団長・衣笠駿雄揮毫
昭和33年に創隊された第1空挺団
陸軍挺進隊より継承する「挺進赴難」の伝統と「精鋭無比」を目標に部隊を練成してきたが、不幸にも志半ばで職に殉じた第1空挺団同僚先輩たち「殉職された御霊のご冥福」を慰霊。
殉職者慰霊之碑

第1空挺団殉職者慰霊之碑が立ち並ぶ空間。

「挺身赴難」「精鋭無比」の精神で志半ばで斃れられた方々に合掌

第1空挺団 本部

第1とはあるけども、第2以下はなく、日本で唯一の空挺部隊。

降下訓練塔

敷地に中央部に聳えるは「降下訓練塔」
空挺降下の訓練に使われる高さ80mをほこる訓練塔。

心字池

昭和3年、習志野に移転する前に、目黒にあった陸軍騎兵実施学校の庭園・階段・門柱などの一部を材料に建設された池。
「心」という字を型どっている。
騎兵学校時代は将校集会所の庭園として親しまれていたという。

駐屯地夏祭り

各部隊の幟がでていて、ちょっと一味違う空間。

習志野駐屯地

このあたりの建物は陸軍時代のものの可能性高し。東門近く。

習志野駐屯地東門。
このレンガの門柱も陸軍時代のものなのかどうか。
古さが漂っていましたが、詳細は不明。

位置関係

習志野駐屯地、また改めて散策したいですね。


習志野に騎兵学校が移転する前は、目黒にありました。

習志野界隈の関連はこちらも

習志野の戦跡散策(騎兵聯隊編)

平成29年8月

かつて存在せしものは、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文明というものである。
 司馬遼太郎

この日は陸自・習志野駐屯地一般開放日「習志野駐屯地夏祭り」
基地公開日に見学できる施設が「空挺館」
未訪でしたので、是非これは行っておきたい。
ついでに折角だから寄り道しながら駐屯地を目指してみました。


京成大久保駅

天地無私 秋山好古大将

京成大久保駅前の商店街を北上すると「馬のモニュメント」が。

習志野第一騎兵旅団長
秋山好古大将

天地無私

いよいよ「騎兵の町・軍郷習志野」の地です。

秋山好古と習志野

日本とロシアの間に緊張が高まった明治36年(1903年)、秋山好古は当時大久保にあった騎兵第一旅団に赴任し、翌37年、日露戦争が始まると同旅団長として中国に渡りました。
戦地では、沙河・黒溝台・奉天等の激戦地を駆け巡り、当時世界最強と呼ばれたロシア・コサック騎兵と互角に渡り合い、あるいは凌ぎ、日本軍の危機を幾度も救う活躍を見せました。
司令官でありながら最前線で指揮を執り、退却時には自ら殿をつとめた好古の勇姿は、敵・味方をこえて評判となり明治38年9月、日本とロシアの間に講和条約が締結されると開けて明治39年早春、好古は歴戦の痕跡を残す聯隊旗と共に
堂々と大久保の地に凱旋しました。
この戦功により後に日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古、そして日本海海戦で赫赫たる戦果を上げた連合艦隊の主席参謀、実弟・秋山真之の活躍は世界から驚きをもって称賛され、後に小説「坂の上の雲」(司馬遼太郎著)の主人公として描かれ、現在も多くの人々にその名が知られています。
当時の日本が他のアジア諸国のように西洋列強の隷属や植民地にならなかったのは秋山兄弟の功績に追うところが大きく、習志野の地にいた数年間は好古の人生にとっても日本にとっても重要な日々であったとこは後の歴史が物語っております。

注・習志野騎兵第一旅団の編成軍
騎兵第十三聯隊(現東邦大学)騎兵第十四聯隊(現日本大学)

平成21年4月吉日

習志野・誉田八幡神社

商店街の東に「誉田八幡神社」という神社が鎮座。この神社の北西側、現在の「八幡公園」に「騎兵第一旅団司令部」があった。
神社の創建は延宝年間(1673年~1681年)と伝承。豊臣方の武将市角頼母によって大阪羽曳野の誉田八幡が分霊され当地が開拓。

紀元二千六百年記念参道敷石竣工之碑

境内にある一際大きな石碑
紀元二千六百年記念参道敷石竣工之碑
陸軍少将 栗林忠道書

なんと硫黄島の栗林忠道陸軍大将謹書。
昭和15年(1940)が紀元2600年。
このとき栗林少将は習志野にて騎兵第2旅団長、次いで騎兵第1旅団長であった縁あり。

騎兵第一旅団司令部跡地

習志野の八幡公園
「騎兵第一旅団司令部跡地」
誉田八幡神社の近く。
騎兵第一旅団司令部(現・八幡公園)の下には騎兵第13連隊(現・東邦大学)及び騎兵第14連隊(現・日本大学)が編成。

公園の入口は往時の門柱が残っている。

習志野騎兵旅団発祥の地

閑院純仁書
昭和51年4月建立

碑銘を書かれた閑院純仁は臣籍降下前は閑院宮春仁王(陸軍少将)
日露戦争時の騎兵第二旅団長であった閑院宮載仁親王(元帥陸軍大将)の次男。

騎兵連隊・旅団司令部跡

 明治初頭より旧陸軍の演習が行われていた小金原は、同6年(1873年)明治天皇行幸の祭に「習志野原」と命名されてから、周辺に軍隊が急速に創設され、それにともない拡張されてきました。 
 明治32年、日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野原に創設され、同34年には大久保に転営して、現在の東邦、日本大学付近に第13・14連隊からなる第一旅団と、東邦中学校・高校附近に第15・16連隊からなる第二旅団がおかれました。 
 さらに、八幡公園・習志野郵便局の地に旅団司令部がおかれました。 
 日露戦争(明治37~38年)の折には、両旅団が派遣されましたが、満州事変(昭和6年)・支那事変(同12年)には第一旅団が派遣されました。この頃より軍隊の機械化がすすみ、騎兵連隊は装甲部隊に最編制されていきました。 
 第二次世界大戦後、連隊跡は学校に、旅団司令部本部の建物は郵便局になり、八幡公園にあった司令部の講堂には、私立大久保保育園が開設されました。この保育園は昭和24年(1949年)津田沼町に移管されて、本市第一号の公立保育所となり、昭和40年、泉町三丁目に移転しました。 
 昭和56年12月 習志野市教育委員会

習志野の騎兵

近衛師団
 騎兵第1旅団→麾下 騎兵13聯隊 騎兵14聯隊
第1師団
 騎兵第2旅団→麾下 騎兵15聯隊 騎兵16聯隊

日露戦争時の旅団長(少将)
騎兵第1旅団長→秋山好古 【秋山支隊】
騎兵第2旅団長→閑院宮載仁親王

旅団司令部のあった八幡公園の北側には文教エリアが拡がる。

すなわち
習志野陸軍病院→習志野病院
騎兵第13連隊→東邦大学
騎兵第14連隊→日本大学
騎兵第15連隊→東邦中学校高等学校
騎兵第16連隊→大久保住宅

昭和19年10月16日に陸軍が撮影した航空写真(8911-C1-1)

騎兵第14連隊跡
(日本大学津田沼キャンパス )

騎兵第14連隊跡地は日本大学生産工学部津田沼キャンパス。
私が訪れた時は絶賛オープンキャンパス中。
うわっ、高校生多し。気が引けたけど何食わぬ顔で守衛さんに「スミマセン、石碑が見たいんですけど」と申告。許可を得まして石碑の場所も教えてくれました。

現在の日本大学生産工学部津田沼キャンパス内に。

騎兵第十四聯隊之跡

昭和43年14号館前デ発掘サレタルモノヲ復元
昭和62年10月

石碑群は大学構内の南西、駐輪場の奥に。

騎兵第十四聯隊発祥之地

竹田恒徳書
竹田恒徳は皇籍離脱前の竹田宮恒徳王。
最終階級は陸軍中佐。陸軍大学校卒業後に満州ハイラルの騎兵第14連隊第3中隊長を拝命している。
騎兵第十四聯隊会奉納の馬像も凛々しく。

明治天皇御製
人ならば
 ほまれのしるし
  授けまし
軍(いくさ)の庭に
 立ちし荒駒(あらこま)

墓碑
騎兵第十四聯隊ハ畏クモ明治天皇ヨリ軍旗ヲ 親授セラレテ明治三十四年十一月創設サレ此 ノ地習志野ニ駐屯シタ
明治三十七年日露戦争ガ勃発スルヤ満州ニ出 征シ沈旦堡ニ於イテ勇戦奮闘シテ克ク騎兵ノ 精華ヲ発揮シタ
戦終ッテ此ノ地ニ帰還シ練武ニ精励シタガ昭 和七年六月満州事変ニ出動シ其ノ後此ノ地ニ ハ戦車第二聯隊ガ駐屯シタ
騎兵第十四聯隊ハ満州ニ於イテ夏季豪雨ニヨ ル泥濘ヲ冒シテ馬占山討伐等ニ従軍シ同年冬 広漠タル厳寒ノ北満ホロンバイルニ進出シ海 拉爾周辺ニ駐留シテ六年に亘リ満ソ国境守備 ノ重責ヲ遂行シタ
昭和十三年六月騎兵集団ニ出動命令ガ下リ其 ノ隷下ニアッタ聯隊ハ海拉爾ヨリ長駆河南省 帰徳淮陽方面ニ進撃次イデ蒙彊地区ニ転戦シ 昭和十七年十二月機甲兵団ノ新設ニ伴ヒ包頭 附近ニ於イテ機動歩兵第三聯隊ニ改編セラレ 戦車第三師団ニ属シテ再ビ河南省ノ鄭州洛陽 周辺一部ハ遠ク湘桂方面ニ作戦シ赫々タル武 勲ヲ挙ゲタ
此ノ兵営跡ハ昭和二十九年日本大学ノ敷地ト ナッタガ大学御当局ヨリ深イ御理解ト温カイ 御厚意ヲ戴キ有志相図リ幾多先輩戦友ノ偉勲 ヲ偲ビツツ此処騎兵第十四聯隊発祥ノ地ニ此 ノ碑ヲ建テ我ガ聯隊ノ事績ヲ永ク伝エヨウト スルモノデアル

昭和六十一年十月二十六日
騎兵第十四聯隊会

戦車第二聯隊の跡

騎兵から戦車の時代に。
戦車第二聯隊は昭和8年に久留米の第一聯隊とともに日本で最初の戦車聯隊として創設。騎兵第14聯隊駐屯の跡に移駐。ビルマ・ガダルカナル島・レイテ・マニラと各地で奮戦。

戦車第二聯隊の跡
戦車第2聯隊は昭和8年8月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第14聯隊駐屯の跡に移駐した。
その練習部は、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。
昭和12年7月動員下令、聯隊の主力は北支に出動。
保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。
13年7月、部隊は戦車第8聯隊に改編され、中原会戦、満州、北支警備等の後、17年秋、南海のラバウルへ転進した。
戦車第2聯隊は昭和13年7月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。
16年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。
分遣された第1中隊はビルマ、第4中隊はガダルカナルに於て悪戦苦闘した。
聯隊は17年秋習志野に帰還した。
この間、習志野で編成した戦車第4大隊は昭和9年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は11年天津、戦車第17聯隊は17年綏遠省平地泉、独立戦車第7・第8中隊は19年夏フィリッピンに派遣された。
河野第7中隊はレイテ島に、岩下第8中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。
戦局緊迫するや、動員令により戦車第2聯隊は昭和19年相模地区に移動、その補充隊は20年4月新たに6個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、8月終戦を迎えた。
この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。
昭和63年8月1日
戦車第2聯隊会

勅諭拝受50周年記念碑

為聖諭拝戴五十周年並御紋章掲揚記念
昭和7年

実は石碑群のすぐ隣に神社もありました。

日本大学津田沼キャンパス構内の稲荷神社。
騎兵連隊時代と関係あるかないかはわかりませんが、これはこれで興味深いですね。

騎兵第13聯隊跡
(東邦大学習志野キャンパス)

さて、日大の隣の東邦大に向かいます。
こちらもオープンキャンパスやっていて高校生多数。
気にせずに守衛さんに石碑の見学許可を得て構内に。
東邦大の守衛さんも石碑の場所を教えてくれました。
ありがとうございます。

あら、こちらにも稲荷神社さんです。
碑には大正9年度除隊紀念とあります。
それこそ騎兵聯隊と関係ありそうな感じですね。
石碑を探しにきた大学構内で、おもむろに連続で出会った神社さんは想定外。

騎兵第十三聯隊跡
騎兵第十三聯隊発祥之地

「騎兵第十三聯隊跡」
「騎兵第十三聯隊発祥之地」 
船橋市長大橋和夫書 平成5年4月29日建立

実は東邦大の「騎兵第十三聯隊」の碑と日大の「騎兵第十四聯隊」の碑は塀を挟んでとなり合っています。それぞれ入口は違いますが。

騎兵第十三聯隊概史

 日露の戦雲漸く急を告ぐる秋 日清戦争の経験に基づき宇内の趨勢に鑑み騎兵大部隊の必要性を痛感せる我が陸軍は明治三十二年騎兵第一, 第二旅団の編成に着手 我が騎兵第十三聯隊は騎兵第十四聯隊と共に騎兵第一旅団の兄弟聯隊として此の地習志野原の南隅千葉県津田沼町大久保(現船橋市三山)に創設され明治三十四年十二月十九日軍旗を拝受す
 明治三十七年二月日露の開戦に及び聯隊は我が国騎兵の父と仰がれし秋山好古旅団長指揮の許勇躍出征 五月遼東半島塩大澳に上陸第二軍に属して曲家店、沈旦堡等の戦闘に於いて世界に名だたるコサック騎兵と交戦赫々たる偉功を奏し早くもその名声を中外に宣揚す 奉天大会戦に於いては敵の右翼を包囲せんとする第三軍の迂回運動を庇護して全軍大勝の基を拓き更に長駆奉天北方に進出して敵軍主力の側背に迫り露軍敗退の因をなせり
 降って満洲事変勃発するや昭和七年六月出動 泥濘悪路を克服してその機動力を発揮し馬占山討伐を始め東辺道討伐、乾元鎮の攻略等全満各地の作戦に活躍 八年二月海拉爾に進駐対蘇戦に備えて教育訓練に邁進す 支那事変に於いては昭和十三年八月海拉爾より長駆北支に出動主力を以て歸徳一部を以て寧陵、睢縣に在って新黄河北方地域に於ける掃蕩及び陽動作戦に活躍 十四年二月更に遠く蒙彊の地へ転進主力を以て固陽一部を以て薩拉齋に駐屯 駐蒙軍に属して各種の作戦警備に任ず 特に十四年十二月の包頭戦に於いては集団司令部の危急を救い十五年の二次に亘る五原作戦に於いてはその中核として活躍敵の蠢動を封殺し蒙彊地区の安寧に寄与す この間十四年十月我が騎兵機械化施策の一環として自動車編制に改編され更に十七年十月には戦車第三師団の創設に伴い騎兵第十四聯隊と共に機動歩兵第三聯隊を編成軍旗を奉還 茲に騎兵甲聯隊たる四十余年の栄えある歴史を閉ず 然れどもその輝ける伝統は新しき聯隊に脈々として継承せられ特に十九年五月 太平洋方面の戦況非なる時支那大陸戦線に於いて敢行せられし大陸打通作戦の一環たる洛陽攻略に於けるその活躍は永く青史にその名を止むべし 但惜しむらくは敗戦による皇軍の解体と共に聯隊の栄誉を後世に伝うる術もなかりしに幸い戦後此の地に設立せられし東邦大学より記念碑建設の快諾を得 依って我等戦友有志相諮り此処聯隊発祥の地に碑を建て聯隊歴史の概要を刻し以てその栄誉を永く後世に伝えると共に亡き戦友の霊を慰めんとす
 庶幾くは後人后後我等が微衷を察し祖国の安泰と発展に尽瘁あらん事を

歴代集団長
第1代 宇佐美 興屋  
第2代 蓮沼 蕃  
第3代 笠井 平十郎  
第4代 稲葉 四郎  
第5代 内藤 正一  
第6代 吉田 悳  
第7代 小島 吉蔵  
第8代 馬場 正郎  
第9代 西原 一策

歴代旅団長
第1代 渋谷 在明  
第2代 秋山 好古  
第3代 本多 道純  
第4代 河野 政次郎  
第5代 永沼 秀文  
第6代 稲垣 三郎  
第7代 田村 守衛  
第8代 小畑 豊之助  
第9代 宮内 英熊  
第10代 原田 宗一郎  
第11代 梅崎 延太郎  
第12代 柳川 平助  
第13代 吉岡 豊輔  
第14代 高波 祐治  
第15代 中山 蕃  
第16代 小川 正輔  
第17代 黒谷 正忠 
第18代 野沢 北地  
第19代 大賀 茂  
第20代 片桐 茂  
第21代 栗林 忠道  
第22代 森 茂樹

歴代聯隊長
第1代 田村 久井  
第2代 小池 順  
第3代 永沼 秀文  
第4代 牧野 正臣  
第5代 渡部 為太郎  
第6代 南 次郎  
第7代 高須 一万太郎 
第8代 土屋 篤  
第9代 原田 宗一郎  
第10代 宇佐美 興屋  
第11代 中山 蕃  
第12代 山内 保次  
第13代 星 松尾  
第14代 和田 義雄  
第15代 横田 卓二  
第16代 猪木 近太  
第17代 小原 一明  
第18代 山崎 武四

司馬遼太郎氏文学碑

「かつて存在せしものは、
  時代の価値観をこえて保存し、
      記念すべきものである。
 それが、文明というものである」
          司馬遼太郎

司馬遼太郎
我が国騎兵の父と仰がれ騎兵第13聯隊等を指揮した、騎兵旅団長秋山好古は、司馬文学最高傑作の一つ「坂の上の雲」の主人公である
こいねがわくば在天の魂 時にこの故郷ふるさとに訪れ給はむことを
平成八年 騎兵第十三聯隊会

騎兵十三聯隊と碑について

本学習志野キャンパスがあるこの地には、かつて騎兵第十三聯隊が置かれていました。
騎兵第十三聯隊は、日露戦争が風雲急を告げる明治三十四年、騎兵第十四聯隊(隣接する日本大学の地)と共に、騎兵第一旅団の兄弟聯隊として創設されました。
その後、騎兵連隊は日露戦争において。当時世界最強と謳われたロシアのコサック騎兵を奉天会戦などにおいて退けるという偉業を成し遂げます。これは当時のロシア帝国主義から日本を守った大きな一因になったと言われております。
騎兵第十三聯隊は、司馬遼太郎氏の傑作「坂の上の雲」に登場する主人公のひとり、秋山好古旅団長が指揮したことでも有名です。
秋山好古旅団長は後に陸軍大将となり、「日本騎兵の父」と仰がれることとなります。
ここには次の碑が残されています。
一、騎兵第十三聯隊跡碑 (昭和七年)
二、 軍人勅諭下賜五十周年碑 (昭和七年)
三、 騎兵第十三聯隊発祥の地碑 (平成五年)
四、 司馬遼太郎氏文学碑 (平成八年)

司馬遼太郎氏の文学碑には、司馬氏から騎兵第十三聯隊会会長宛に送られた手紙の一節が、次のように刻まれています。

「かつて存在せしものは、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文明というものである」

軍人勅諭下賜五十周年碑

軍人勅諭下賜五十周年碑(昭和7年4月24日建立)
五角柱の碑。
各面に「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の5つの徳目が彫られている。陸軍大将南次郎書。

騎兵第13聯隊倉庫

すぐとなりにある「柔道場」
実はこの建物は騎兵第13連隊倉庫であったという。
陸軍騎兵連隊時代を今に伝える貴重な建物。

取り壊しとなりました

騎兵第15聯隊跡
(東邦大学付属東邦中学校高等学校)

騎兵13聯隊の東邦大と騎兵14聯隊の日大を巡り東に向かう。
東邦大学付属東邦中学校高等学校の入口に小さな標柱が建っている。

「騎兵第十五聯隊跡地」
裏面には平成26年5月7日と記載があった。

騎兵16聯隊跡

騎兵13聯隊・騎兵14聯隊・騎兵15聯隊ときましたがその隣の「騎兵16聯隊跡地」はあるようでないようで。
騎兵16聯隊のあった場所は、昭和7年(1932年12月)より陸軍習志野学校の敷地として編入されている。

「陸軍習志野学校」は化学戦学校であり毒ガス研究が行われていた、と。

陸軍習志野学校
(習志野の森)

もと陸軍騎兵第16聯隊及び騎兵15聯隊の地に展開されたのが「陸軍習志野学校」(昭和8年~昭和20年)。
戦後は警察署・学校・住宅・保育園などに転用。中心部は「千葉大腐食研究所」が展開されていたというが現在は移転。その跡地は「習志野の森」として国有地になっている。

「習志野の森」
現在は国有地となっており年に何度かの公開日以外は立入禁止。戦後に学校建屋を活用して展開された千葉大腐食研究所跡地に習志野学校時代の基礎や土台のみが残っているという。
奥には動物実験の犠牲になった「動物慰霊之塔」もあるという。

※見学してきました


※写真は敷地外より

陸軍習志野学校跡の兵舎跡

習志野学校兵舎の一部といわれる建屋が「習志野の森」近くに残っているが、詳細は割愛。

陸軍習志野学校の車廠床跡

習志野市立大久保保育所の敷地内に。
「陸軍習志野学校の車廠床跡」といわれる往時からのコンクリート床という。
レールのようなものも名残か。
が、駐車場整備が行われているので、その後どうなったかはは不明。
(撮影は2017年)

陸軍習志野学校の弾薬庫跡

習志野市「泉児童公園」
この不思議な形の古めかしいコンクリートの遊び場?は「弾薬庫跡」を利用したものとされている。

陸軍習志野学校の裏門柱跡

よくみると「門柱だなあ」とわかるが、ぱっと見ただけでは草に覆われすぎていてなかなか分かりにくい。
残っているのはこの片方側。もう片方側は何も残ってない。

習志野学校の裏門柱の跡の裏には以前はコンクリート製の「衛兵所」が残っていあっというが現在は取り壊しされている。
敷地は「国有地」

門柱から伸びる「境界土居跡」にそって東に歩む「鉄道連隊演習線跡」の道路に合流。


場所は変わって。

陸軍習志野演習場は広大な面積を占めており船橋市・八千代市・習志野市にまたがっている。
「習志野駐屯地」は船橋市だし、これから向かう習志野霊園も船橋市。習志野市ではないのです。

船橋市習志野霊園
(習志野陸軍墓地)

市民霊園の片隅に今となっては異色な空間がある。

「陸軍墓地」旧習志野陸軍墓地
日露戦争戦没者墓と慰霊碑。
捕虜として習志野に連れられてきたロシア軍人戦没者慰霊碑、第一次大戦のドイツ人戦没者慰霊碑がある。
戦後再整備が行われ昭和44年に船橋市民霊園として開設。

記念碑
 この墓地は旧陸軍の墓地として遠く明治37、8年の日露戦争当時の日本軍人戦没者の碑50数基をはじめ、西端のほぼ中央に第一次世界大戦におけるドイツ軍人戦没者の慰霊碑1基、更にその南端には不明確ではあったが、日露戦争時におけるソ連軍人戦没者慰霊の墓標があった。
 第二次世界大戦後放置状態にあった当墓地は旧陸軍習志野演習場に入植した開拓農業協同組合員が墳墓として使用していたが、当市は旧軍人を始め国際的意義の見地からこの異国の地に眠る両国軍人の英霊を祭祀し、併せて一般市民の利用に供すべく国有財産である当墓地の整備を計画し、昭和44年3月国からの貸与を受け、茲に三国軍人碑の移設・改葬を行ない船橋市習志野霊園と称し開設したものである。 
昭和46年4月  船橋市

習志野霊園
「陸軍墓地」旧習志野陸軍墓地

中央には「日本軍人戦没者慰霊之碑」
向かって左には「ドイツ軍人戦没者慰霊之碑」
向かって右には「ソ連軍人戦没者慰霊之碑」

日露戦争と第一次世界大戦と。

敷地の周辺には日露戦争時の戦没者墓が林立している。

中央部はちょっとした広場になっており。

友愛の木  
日露戦争習志野収容所病歿者慰霊の木

安らぎの木  
第一次世界大戦習志野収容ドイツ軍人戦没者慰霊の木

習志野霊園の奥に見える塔は、習志野駐屯地の「降下訓練塔(高さ80m)」

船橋市郷土資料館

耐震補強工事中でした。
もっとも郷土資料館(や野外展示してあるD51)には直接的な用事はなく、その隣の「薬円台公園」にある石碑に御用が。

習志野 地名発祥の地
附 明治天皇駐蹕之処の碑

当地は明治7年より昭和20年(1874~1945)まで陸軍演習場であった。
明治6年、明治天皇が近衛兵を率いて行幸され近衛兵の演習を天覧。
皇居還御後に勅諭をもって当地に「習志野ノ原」と名を賜ったことに始まる。 碑は大正6年建立。山県有朋謹書。

東部軍教育隊の裏門門柱
(東部軍管区教育隊)

新京成線・習志野駅のすぐちかく。
ここに門柱が1本だけ残っている。

https://goo.gl/maps/oByFNCw1NtR8uFEQ8

こうして歴史の証言物として残っている姿に感謝。

本編はいったんここで〆

習志野編の関連はこちらも。

駒澤練兵場跡地の戦跡散策

平成30年2月‐4月

世田谷区池尻・三宿・下馬、目黒区駒場・大橋界隈の散策
駒沢練兵場や陸軍騎兵学校、騎兵第一聯隊、陸軍獣医学校、糧秣廠、野砲兵第一聯隊など。


世田谷区の池尻・三宿・下馬や目黒区の駒場・大橋といったエリアはかつての陸軍軍用地であった。
以下に残存する面影を求めつつ散策した記録を。
なお本記事は平成30年2月及び4月の幾日かにエリアを分割して散策をしております。


位置関係

参考地図
今昔マップ on the webさんをベースに、グーグル地図は実際に散策したエリア。それぞれに補足記載。駒澤練兵場(現在の三宿駐屯地)を中心に軍用地が広がっているのがわかります。


上目黒氷川神社

池尻大橋駅近くに鎮座しているのが「上目黒氷川神社」
まずはここから行きましょうか。
ん?戦跡散策ですよね、神社??
実は神社境内の裏側には「陸軍騎兵実施学校」(のちの陸軍騎兵学校)があったのです。
現在の駒場高校や目黒区立第一中学校、東邦大学医療センター大橋病院のあたり。


「上目黒氷川神社」境内社「稲荷神社」後方。
神社敷地の隣りの私有地にありました。

陸軍境界石(陸軍騎兵学校・上目黒氷川神社境内)

明治期に上目黒氷川神社の後方に展開されていた「陸軍実施学校」は、大正5年に習志野に移転し「陸軍騎兵学校」と改称。
目黒の騎兵学校跡地には陸軍輜重兵第一連隊が駐留。その名残。


仰光寮

神社から北へ。 都立駒場高校と目黒区立第一中学校の間の道路の突き当り、高校の敷地内。
「仰光寮」大正7年 香淳皇后が皇太子(後の 昭和天皇)妃に内定された大正7年に御実家の久邇宮邸内に建てられた建物。
当初は麹町一番町の久邇宮邸内にあったが昭和26年に現在地に移築という。(敷地外より撮影)


天覧台

都立駒場高校グランドを周回するように西側に。
このグランド、かつての「陸軍輜重兵第一連隊の射撃場」の地であり、さらには「陸軍乗馬学校(陸軍騎兵実施学校)」の地でもあり。
そんなグランドと大橋住宅の間に「天覧台」という碑がある。
そして東側には前述の「仰光寮」の屋根も垣間見れる。

天覧臺(天覧台)
陸軍中将畑英太郎書 (畑俊六の兄)

由来記
記念碑天覧台は 明治天皇親しく此の台上より陸軍乗馬学校(後の陸軍騎兵学校)卒業馬術を明治25年(1892年)天覧なされてより延11回 大正天皇におかせられても4回行幸なされた御聖徳を偲び昭和3年11月14日陸軍輜重兵第一大隊が建立したものである
以来部隊の象徴として日夜心身の錬磨に努めていたが昭和20年8月復員発令に伴ない題字及び碑文を抹消放置したまま30有余年を閲した
此の碑を心の糧として軍の補給輸送に任じ祖国の平和を祈り異郷に散華された数多将兵の忠誠を顕彰し併せて陸軍輜重兵第一聯隊及び関連部隊の栄誉を永遠に伝えるため戦友相寄り相計ると共に明治神宮宮司高澤信一郎先生の題字復元を得て修理を完成した
昭和56年11月14日
 天覧台保存会

記念碑天覧台は明治25年以来
明治天皇11回
大正天皇4回
に亙(わた)り陸軍乗馬学校卒業馬術展覧のため行幸なされた御聖徳を偲び昭和3年11月14日陸軍輜重兵第一大隊が之を建立した

天覧台周辺地図が掲示されてました。
大正5年(1916)に「陸軍乗馬学校(陸軍騎兵実施学校)」が習志野に移転(陸軍騎兵学校)したのち、この地には「陸軍輜重兵第一聯隊」が駒場高校及び区立第一中学の地に、「陸軍輜重兵学校」が駒場東邦中学高校及び筑波大学附属駒場中学高校の地に展開された事がわかる。


馬神碑

天覧台から西に。「陸軍輜重兵学校」があった駒場東邦中学校・高等学校の南西、騎兵山とも呼称されている斜面(高層マンションが建ってます)に碑が残っておりました。

「馬神碑」(昭和5年7月建立)
戦没した馬たちを霊を祀る碑 騎兵にとって馬は何よりも大切な相棒 蹄鉄と人参が備えてありました

馬神碑のある騎兵山はすなわち「騎兵第一聯隊」の跡でもあり。

で、その聯隊跡を物語る跡地を探してプチ迷子。
慌てて検索してみると扉付きの階段の上に公園があるらしく、そこが聯隊跡を物語る碑の場所。行ってみます。(扉の開放しっぱなしはNG、立ち入りの制限はなし)


騎兵第一聯隊阯
戦死病没者表忠碑

明治二十七八年及三十七十八年戦役(日清戦争及び日露戦争)

「戦死病没者表忠碑」
陸軍中将大勲位功四級 載仁親王 書


明治28年9月 陸軍騎兵中佐 秋山好古 建立
明治39年11月 陸軍騎兵中佐男爵 名和長憲 再建

騎兵第一聯隊阯
「戦死病没者表忠碑」脇石碑

征清之役戦死者哀
悼碑建設工ヲ竣ル
滋二其姓名ヲ勒シ
永ク後世ニ傳フ
明治29年6月30日 騎兵第一聯隊長 秋山好古 謹記

日清戦争時、秋山好古は陸軍騎兵少佐(戦中に中佐昇進)として出征。
明治29年8月には陸軍乗馬学校長(のち陸軍騎兵実施学校長)に就任。

騎兵第一聯隊阯
「騎兵第一連隊創設百年記念」
竹田恒徳(陸軍中佐)
昭和48年3月吉日 騎兵第一聯隊会

…昭和二十年一月今田義男聯隊長以下全員悉く国難に殉じ斃れて後已む壮烈真に鬼神も為に哭く…先人の英魂を弔い其遺烈と勲業とを永く後毘に伝えんが為、聯隊の旧阯駒場台上忠魂碑の傍に此碑を建つ

騎兵第一聯隊阯
満洲事変・支那事変・大東亜戦争
戦没者慰霊塔


木標に書かれた文字は風化しており辛うじて読み取れるものでした。
日清・日露戦争の表忠碑の隣に。

日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争…
厳粛な空間が保たれている騎兵山の慰霊碑で、心静かに哀悼と感謝を捧げる…


陸軍獣医学校跡

騎兵山から北上。突き当りにある学校が「駒場学園高等学校」、この地はかつての「陸軍獣医学校」 。
騎兵と馬、馬と獣医。深き関係。 秋山好古は明治31年に駒場の陸軍騎兵実施学校長に赴任し、翌年には陸軍獣医学校長を兼務している。

駒場学園高等学校の守衛さんの許可を得て入構し跡地の碑を見学。

陸軍獣医学校軍馬碑

過ぐる大戦において多くの俊馬が大陸にまた南方に徴発され一頭も帰還することなく彼の地に没した
人為による無謀とはいえそのいたみを忘れぬことこそ我らの務めである
軍馬と因縁浅からぬこの地に小碑を建立し永遠にその霊を慰める
平成2年5月1日 駒場学園高等学校 校長 笠原喜四郎

陸軍獣医学校にあった「動物慰霊之碑」は両国回向院に戦後に移転している。


陸軍境界石(陸軍獣医学校)

陸軍獣医学校のあった駒場学園高等学校の東側の道路に「陸軍境界石」がいくつか残っておりました。
保育園建設敷地に沿って2つ。これはこのまま残ってくれるかな、保育園の完成後にどうなるかは気になるところ。

https://www.google.com/maps/place/35%C2%B039’23.3%22N+139%C2%B040’41.7%22E/@35.6564722,139.6760613,17z/data=!3m1!4b1!4m9!1m2!6m1!1s10Eq3VaKbm1RN8QosP52Fpi9tNlk!3m5!1s0x0:0x0!7e2!8m2!3d35.6564703!4d139.6782459

※保育園完成後に撤去されました。。。現存してません。。。

駒場学園高等学校と隣接する富士中学校の東側にもありました。
「陸軍境界石」(陸軍獣医学校)
陸軍省と見えますね。
笹藪の中に唐突に境界石を見つけて、ちょっと嬉しくなりました。 陸軍軍用地であったことを物語る歴史の証人。

この場所からそのまま北上していくと「京王井の頭線」。
その北側は駒場東大。
駒場東大には東京帝大航空研究所があったり、駒場公園前田家本邸には中島飛行機本社が疎開してきたりしますが、それはまた別の機会に。


池尻稲荷神社

この神社の南方には「駒澤練兵場」が展開。
今昔マップ on the web に合わせてみると、駒澤練兵場は現在は世田谷公園・自衛隊中央病院・三宿駐屯地などになっていることがわかります。


駒澤練兵場の排水水路・排水溝跡

神社の脇にちょっとした空間が不自然に残っていて。
これが「駒澤練兵場の排水水路・排水溝」の跡といわれている暗渠。
神社の敷地に沿うようにウネウネと排水溝跡が残っておりました。

池尻稲荷神社から駒澤練兵場方面へは暗渠が通路として活用されている。
(写真1枚のバイクの先が神社)
練兵場方面に進んでいたら途中で暗渠は見失いましたが。


陸軍糧秣廠の馬糧倉庫

池尻稲荷神社と駒澤練兵場のあいだあたりに。
「陸軍糧秣廠の馬糧倉庫」の転用倉庫が残っている。
現在は「ヤマト運輸 太子堂センター」と「生協パルシステム東京池尻センター」が利用している倉庫。
外装は今風だけれど、骨組は往時の基礎を活かしているようです。

かつての「陸軍糧秣廠の馬糧倉庫」の近くに、今は「学校法人 食糧学院 東京栄養食糧専門学校」。
なんだかんだで食糧つながり。
食糧学院のルーツは大正7年発足の食糧問題研究会。 昭和14年に食糧学校が開校。初代学長は三井清一郎陸軍中将・貴族院議員。 戦後の昭和21年に現在地に移転している。


陸軍境界石(陸軍糧秣廠)

「食糧学院」かつての「陸軍糧秣廠」の敷地に沿って歩いていると、ありました。(サイト「帝都を歩く」さんの)案内つきです。

「陸軍用地」(陸軍境界石)
黒く塗っているのが斬新。わかりやすくはありますが。
このあたりが「駒沢練兵場」の北端。


野砲兵連隊の兵営

駒沢練兵場西側。駅的には池尻大橋駅より三軒茶屋駅のほうが近いです。
例のごとく今昔on the web で補完。

駒沢練兵場西側には野砲兵連隊の兵営が集中。

近砲=近衛野砲兵聯隊 →昭和女子大
野重砲八=第一師団野戦重砲兵第八連隊
野砲一=第一師団野砲兵第一連隊 →下馬アパート

第一師団野砲兵第一連隊兵舎跡

下馬アパート近く。野砲兵第一連隊兵営の地。今となっては時代錯誤感にあふれる木造平屋建造物が残っている。

東京世田谷某国会館 (写真見ればわかりますが某国と伏せます) かつての第一師団野砲兵第一連隊の兵舎跡。 戦後に某国会館として利用されるようになった経緯は不明。なんとなく複雑な気分。


馬魂碑(野砲兵第一聯隊)

都営下馬アパート近く。
このあたりは前述したとおり野砲兵第一連隊の兵舎があった場所。
都営団地に囲まれるように小さな公園があり、その公園の片隅に幾つかの石碑が集められていた。

軍馬慰霊の碑…

https://www.google.com/maps/place/35%C2%B038’31.4%22N+139%C2%B040’33.8%22E/@35.6420556,139.6738669,17z/data=!3m1!4b1!4m9!1m2!6m1!1s10Eq3VaKbm1RN8QosP52Fpi9tNlk!3m5!1s0x0:0x0!7e2!8m2!3d35.6420648!4d139.6760489

「馬魂碑」
(都営下馬アパート近くの小公園「下馬アパート公園」)
昭和14年12月建立
(右の小碑は昭和44年12月に下馬史跡保存会建立)

野砲を牽引する為に馬の力が必要。砲兵と軍馬の繋がりも深く。愛護憐憫に溢れた慰霊の碑。
裏面を見ると「野砲兵第一聯隊留守隊長陸軍砲兵中佐◯◯」と記載がある。

「馬頭観音」
都営下馬アパート近くの小公園「下馬アパート公園」に。
ここでいう馬頭観音は仏教菩薩でもあり軍馬の仏でもあるのか。
軍馬慰霊の馬頭観音。

「軍馬梨山号 昭和十一年一月二十四日殉職」と書かれた慰霊碑もあった。


以下、2021年5月再訪

馬魂碑(再開発中)

都営下馬アパート再開発のために、馬魂碑のあった公園は封鎖されていました。
そのまま公園として復してくれるとよいのですが。

2024年 移築保存されていることを確認しました


東山の馬頭観音

馬頭観世音。軍馬を慰霊する馬頭観音。

東山の馬頭観音
 かつて、このあたり一帯は旧駒沢練兵場の跡で、旧陸軍の近衛第一師団5000人の将兵と1300頭の軍馬が日夜訓練に励んでいたところです。特に東山の傾斜地での急坂路訓練は大砲を6頭立てや8頭立ての馬に引かせて坂を駆け上がり下りをくりかえす人馬一体となっての厳しい訓練でした。
 この馬頭観音は軍馬を愛し大切にしていた旧軍隊の兵士が訓練に倒れた2頭の軍馬の供養碑として建てたものです。正面に馬頭観音の文字を刻み、背面には「〝苫良号〟腰椎骨折、大正11年5月22日供養、第3中隊」と由来が書かれています。東山中学生や地元の人々の善意で屋架が大切に保存されています。  
平成4年3月 
目黒区教育委員会

結構な坂道。かつて軍馬もこの地で訓練に明け暮れ、そして斃れた。

場所

https://goo.gl/maps/92W54pc343rEDGXr9


記事追加(2021年5月)

陸軍境界石

都営下馬二丁目アパートの南側に、境界標石が2つ確認できた。

ひとつめ。

ふたつめ

場所

https://goo.gl/maps/NUgMaQRLAddaRGuK9


三軒茶屋と池尻大橋界隈。
この界隈は、軍馬との繋がりを深く感じる散策でした。

動物慰霊之碑(陸軍獣医学校・両国回向院)

平成30年参拝

かつて陸軍獣医学校内にあった「動物慰霊之碑」(昭和3年3月建立)が、紆余曲折あって、戦後に両国回向院に移転している。
陸軍獣医学校 はかつては世田谷区の、現在の 駒場学園高等学校 のあたりにあった。(後日まとめます)

両国回向院(本所回向院)は、動物供養でも著名な寺院さん。

動物慰霊之碑

昭和3年3月建立陸軍獣医総監 岡田勝男 謹書。
岡田勝男は、東京帝大獣医学科卒の陸軍獣医中将。

昭和三年三月
動物慰霊之碑
陸軍獣医総監 岡田勝男 建立

碑裏面
この碑は東京都世田谷区下代田町旧陸軍獣医学校内にあったもので、同校明治以降の教育研究に犠牲となった動物及び物言えぬ戦士として戦場に散華した軍用動物の霊を慰めるため、当時の学校長岡田勝男氏により建立され懇ろに祀られて来たのであるが、昭和20年敗戦の後は全く荒廃に委ねられて来たこと、幸い当回向院並に多数援助者の厚志により、今回この地に移し永く供養し得ることとなったこと、当時それら40数万に及ぶ軍用動物と生死を共にした旧陸軍獣医部員5千余名の深く喜びとするところである。
昭和38年4月29日
紫陽会
会長 渡辺満太郎

陸軍獣医学校の跡はこちら


回向院

 明暦3年(1557)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は10万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引き取り手のない有様でした。そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
 有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
墨田区 

諸宗山 回向院
明暦三年(一六五七年)江戸大火(振袖火事)に依る死者10万8千余人を弔うために建立された。
本尊 阿弥陀如来 (東京都重要文化財)
安政大地震(一八五五年)の死者2万5千人余を初めとして、江戸府内の無縁仏、天地地変に因る死者も埋葬され近くは大正12年の関東大震災の死者10万余人の分骨も納骨堂に安置されています(以下略

「陸軍中野学校 ・豊多摩監獄・野方配水塔」中野の戦跡・近代史跡散策

平成29年

・陸軍中野学校
・豊多摩監獄
・野方配水塔

平成29年10月28日。
当初の予定が雨で崩れたために予定変更の散策。

さすがに中野は再開発で見るべきところはすくないけど、ちょっとだけ往時を偲ぶ痕跡を探してみました。

中野駅前

JR中野駅北口。物産展やってました。
この場所がすでに陸軍用地。戦前の「陸軍中野学校」がこのあたりに展開されていました。
何度かの開発を経て、この写真に写っている「中野区役所」と「中野サンプラザ」の地は更なる再開発になるとのことで。

中野駅の北側に「陸軍中野学校」、
その北は「豊多摩刑務所」。

戦後、陸軍中野学校の跡には警察大学校・警視庁警察学校などがあったが2001年に府中に移転。
その後は2008年に東京警察病院がこの地に移転。
また「中野四季の森公園」が整備され、明治大・帝京平成大学などが開設している。

位置関係

以下は、1944/11/07(昭19)陸軍撮影の航空写真(8921-C6-140)

中野区役所の前に、お犬様がおりまして。

陸軍中野学校よりも前の時代。江戸時代。
この地には5代将軍・徳川綱吉公の時代、元禄8年(1695)に作られた「犬屋敷」があったという。この犬像は1991年に寄贈。

中野区役所の前庭に。
中野が歩んできた歴史の一節が記載されておりました。

中野史跡碑」(昭和43年建立)
徳川五代将軍綱吉の犬小屋、八代将軍吉宗が桃園と御立場を設置、明治に中野電信隊・鉄道隊・気球隊が創設、そして陸軍中野学校が整備、戦後のGHQ進駐から警察大学校など…。

中野四季の森公園

平成24年、警察大学校の跡地を活用してできた防災公園。
中野四季の森公園の周囲には「明治大学」「帝京平成大学」「中野セントラルパークサウス」「中野セントラルパークイースト」などが展開されている。

もちろん、この地も戦前は陸軍中野学校跡。

当地には陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊が明治30年(1897)に創設。
のちに鉄道隊と気球隊は千葉に移転。(習志野鉄道聯隊など
当地に残った電信隊が第一電信聯隊と改称し、のちの「陸軍中野学校」へと。 電信をスタートして諜報や防諜・宣伝など秘密戦へと進化。

中野四季の森公園 いまとむかし(一部抜粋)
時は流れ、明治期から第二次世界大戦の終戦までは陸軍関係の施設がありました。陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊兵舎が明治30年(1897年)に創設され、後に交通兵旅団司令部も置かれましたが、やがて鉄道隊・気球隊は千葉県下に移転し、電信隊のみが残り、第一電信連隊と改称しました。その後にできたのが陸軍中野学校でした。この学校は『「謀報謀略の化学化」に対応するための要員養成所』として設けられたと言われています。

陸軍中野学校

スパイ養成学校と言った感じでとにかく後世のイメージは悪いですよね。

陸軍中野学校は、諜報や防諜・宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍軍学校で情報機関のひとつ。
昭和13年に防諜研究所として創設され、昭和15年には陸軍中野学校と改称。

昭和13年の創設時は東京九段(軍人会館近く)にあった愛国婦人会本部別館にあったが、昭和14年4月に旧電信隊跡地の中野に移転。

昭和19年には静岡浜松天竜に遊撃戦(ゲリラ戦)要員養成の為の「陸軍中野学校二俣分校」が開校。

昭和20年4月、空襲激化に伴い陸軍中野学校は群馬富岡に疎開。松代大本営と東京の中間地が富岡の選定理由という。
そうして疎開先の富岡で終戦。(疎開先は現在の県立富岡高校)

東京警察病院

戦後、陸軍中野学校跡に「警察大学校」「警視庁警察学校」などが開設。それらの警察学校は平成13年(2001年)に府中に移設。
2008年(平成20年)に「東京警察病院」が千代田区富士見から当地に移転し現在に至る。一応、誰でも受診出来るらしい…

陸軍中野学校址碑

東京警察病院敷地内
敷地内の北西角にある「碑」を見学。
極めてわかりにく場所。その歴史を隠すかのようにひっそりと植え込みの中に「陸軍中野学校を物語る碑」があった…

陸軍中野学校址碑
碑裏面

國際情勢の緊迫と列強秘密戦の激化に鑑み軍は昭和十三年七月九段に後方勤務要員養成所を臨設 翌年四月現在地に移設し昭和十五年八月これを陸軍中野学校と改称した
昭和二十年四月群馬県富岡町に移転するまで六星霜、全軍より厳重に審査簡抜せる要員を集め情報勤務教育を施すと共に國軍高度の秘密戦研究に当たった
創設の精神を発揚し負荷の重責を果たすため本校は特に精神の陶冶を重視してその中心として楠公社を建立 学生は夙夜この社頭に魂の修練を重ねた此の碑の立つ所即跡地である

陸軍中野学校 初代幹事 福本亀治 謹書
中野校友会 建立

「陸軍中野学校址碑」を謹書した福本氏は陸軍中野学校の創設メンバーの一人。 (岩畔豪雄中佐・秋草俊中佐・福本亀治中佐の3名が創設委員)
福本亀治氏は二・二六事件当時は東京憲兵隊特高課長で取り調べを担当。のちに中野学校幹事に就任。その後は第六方面軍憲兵隊司令官兼漢口憲兵隊長・少将。

摂政宮殿下行啓記念碑

「陸軍中野学校址碑」の隣には「摂政宮殿下行啓記念碑」
これは大正12年5月28日に当地の「中野陸軍電信隊」を摂政宮殿下(昭和天皇)が行啓されたことを記念。

碑裏には「昭和6年3月」「軍用鳩調査委員事務所職員一同」と記載あり。
中野の電信隊では軍鳩の飼育研究も行われていたのだ。

中野陸軍電信隊と軍用鳩・・・

写真は靖國神社の「鳩魂塔 」

この靖國神社「鳩魂塔」は、伝書鳩の霊を慰める為に昭和4年に中野陸軍電信隊内に建立されたことに始まる。
その後、上野恩賜公園を経て昭和57年に靖國神社に復元奉納。

軍用鳩魂の記憶は、平和を希求する「靖國神社の白鳩」へと受け継がれているのだ。


陸軍中野学校の跡から北北東の方向に歩みをすすめる。

中野区立 平和の森公園

かつての豊多摩刑務所(後の中野刑務所)
1910年に開庁、1975年に廃庁。
1985年に跡地に平和の森公園として部分開園。

中野「平和の森公園」南側。
矯正研修所東京支所と野水再生センターの間の道から垣間見れます。

旧豊多摩刑務所表門
(豊多摩監獄・中野刑務所)

後藤慶二・大正4年(1915)
旧豊多摩刑務所表門は大正時代の建築家であり35歳で急逝した後藤慶二の手による現存する唯一の建築物。 イギリス積。

豊多摩監獄設計者 後藤慶二
大正モダニズム建築の傑作 豊多摩監獄

豊多摩監獄の工事主任及び現場監督として、実質的な設計にあたったのが後藤慶二(明治16年‐大正8年・1883-1919)でした。
完成をみたのは大正4年(1915)、後藤が東京帝国大学卒業後司法省に入り、技師となってまだ6年目のことでした。洋画を学び豊かな芸術的才能を持ち合わせた後藤は、監獄という機能的な建築物の設計において、先進の技術を用いながら、大正モダニズム建築の代表作として評価される芸術的な作品を生み出しのたのです。しかし、彼は惜しくも36歳の若さで夭折しました。
中野刑務所の遺構である旧豊多摩監獄表門は、今日現存する彼の唯一の作品です。( 矯正図書館 展示より)

旧豊多摩刑務所表門から、そのまま道なりに歩いていけば「法務省 矯正研修所東京支所」に。
中野刑務所時代の塀かどうかはわからないけど、古さを感じさせる良き気配。 でもこの先は立入禁止。

矯正研修所東京支所の隣に「CAPIC刑務所作業製品展示ルーム」。
併設された「矯正会館・矯正図書館」ではちょうど矯正図書館開設五十周年特別展示が行われておりました。

「刑務所近代化の歴史とそれを支えた人びと」
まったく予定しておりませんでしたが面白そうなので立ち寄りを。

以下、興味を持った展示内容などを。

豊多摩監獄内の神社「寶樹稲荷社」
元は市ヶ谷の備中松山藩板倉家鎮守社。
明治8年の市ヶ谷監獄建設に伴い市ヶ谷監獄の鎮守社に。
大正4年に市ヶ谷監獄が豊多摩監獄に移転した際に当社も遷座。
平成27年に中野新井の新井天神・北野神社の境内稲荷社に遷座合祀。

清浦奎吾揮毫「刑は刑無きに期す」(昭和8年・複製)・尚書(書経)
清浦奎吾(1850-1942)は内務省警保局長・司法次官・司法大臣等を歴任し日本行刑制度の基礎を築いた。
1900年から1909年までは監獄協会(現在の矯正協会)の会頭・総裁。
1924年に内閣総理大臣就任。

旧豊多摩監獄(中野刑務所)で使用されていた煉瓦。
これは「桜花」が刻印された「小菅監獄製煉瓦」。
豊多摩監獄では「小菅監獄製」の他には「上敷免製」刻印の日本煉瓦製造会社製の2種類があったという。

廃庁嗟惜

惟時、昭和58年3月31日。
此の日、職員41名、在監者なく、天気麗燿なれど寒風強し。 
豊多摩監獄、豊多摩刑務所、中野刑務所と三代70年に亘り、行刑の栄光と苦難の道を一途に歩み来たりしも、今、将に永遠に終焉の帷りを閉じなんとす。
(中略)
孤独なれど粛然として消え去り行く、我が中野刑務所よ。
 静かに眠れ。
  そして、消え去れよ。
   嗚呼
昭和58年3月31日 中野刑務所長 …

矯正図書館企画展にて良き学習を。
刑務所からみる近代史というのは縁がなかったもので。

さて移動。
「平和の森公園」の平和資料展示室に行こうと思ったら…へっ?
「平和資料展示室」は展示終了、展示資料の一部は区役所に…って区役所は散策の最初だったし、区役所に戻るつもりもないのでまたの機会に。。。

北上。西武新宿線を越えて哲学堂公園近くまで歩む。

中野区立 水の塔公園

名前の通り、ここには水の塔=配水塔があります。

野方配水塔

国登録文化財
淀橋浄水場などを手がけ近代上水道の父と称された中島鋭治博士の設計。
着工は昭和2年(1927)、竣工は昭和4年。高さは33.6m、直径は約18mの鉄筋コンクリート造り。
世田谷区喜多見で多摩川から引水。
昭和41年まで稼働。東京近郊都市化のシンボル。

正面には弾痕の跡が残る。
大きくシンボル的であった給水塔も戦禍の歴史を刻んでいた。

野方配水塔
空襲時の弾丸の傷跡が残されている配水塔です。
関東大震災後、都市化による水の需要に応えるため、この地にあった給水場に、配水塔がつくられました。
この配水塔は1966(昭和41)年に配水を止め、その後、災害用給水槽として使われてきました。
中野区

旧野方配水塔(国登録文化財)

野方配水塔は、荒玉水道の給水場につくられた塔でした。荒玉水道は大正12年(1923)の関東大震災後、東京市に隣接した町村の急激な都市化による水の需要に応じるため、当時の豊多摩・北豊島両郡にある13の町々が連合して設立しました。
配水塔は、ドイツで衛生工学を学び、淀橋浄水場をつくった「近代上水道の父」中島鋭治博士(1858~1925)の設計です。
着工は昭和2年(1927)で竣工は同4年です。高さは33.6m、基部の直径約18mの鉄筋コンクリート造りです。
世田谷区の喜多見で多摩川から引水し、60万人の2時間分が貯水可能と言われ昭和41年(1966)まで使われていました。その後、解体計画もありましたが、平成22年(2010)に国登録文化財となり大切に保存されています。
ドーム型の屋根が、地域の特徴ある景観を形づくり、江古田の水道タンク・水の塔・給水塔などと親しまれてきた、東京近郊都市化のシンボルです。
平成26年2月 
中野区教育委員会

正面の「みずのとう幼稚園」側から、水の塔を臨む。
頂点の造形が配水塔にしておくにはもったないくらい美しい。

今回の中野散策編はこれでおしまい。

近藤家ゆかりの日露戦争記念碑(調布)

地元調布の忠魂碑と記念碑を掲載。

調布の布多天神社境内。近藤勇の孫にゆかりがあるのです。

日露戦争記念碑

日露戦争忠魂碑
日露戦争記念碑

近藤勇と新選組のゆかりの地
日露戦争記念碑(中央の碑)の裏には、日露戦争に従軍し、戦病死した近藤勇の孫(近藤勇の娘瓊(たま)と勇五郎の一人息子)近藤久太郎の名がみえる。
近藤久太郎の墓は、祖父近藤勇が眠る龍源寺に一族とともにある。
碑文を書いたのは、近藤勇が甲陽軍鑑を率いて甲府に向かう途中に立ち寄って歓待を受けた上石原宿名主中村勘六の長男で、多摩三筆の一人に数えられた中村克昌である。
平成二七年三月設置 調布市観光協会

近藤久太郎は明治16年(1883)に近藤勇五郎と近藤たまの長男として誕生。 「近藤たま」は新選組局長近藤勇の一人娘。近藤勇五郎は旧姓宮川、近藤勇の甥(勇の兄の子)で、のちに近藤勇の婿養子となっている。

近藤久太郎 は近藤勇直系のただ一人の孫であった。
日露戦争に出征し、明治38年に戦病死。23歳。

記念碑には「現役陸軍騎兵一等卒」と記載あり。

日清戦争忠魂碑(左)

西光寺(西調布)


近藤神社と産湯の井戸

近藤勇は宮川家のうまれで近藤家に養子にでている。
産湯の井戸は宮川家。
人見街道の北側には宮川家の近藤勇産湯の井戸と近藤神社。

近藤勇ゆかりの近藤道場(天然理心流道場)「撥雲館」。
調布飛行場の北側、人見街道に面した地に残る。
調布飛行場建設の為に従来の近藤家は取り壊されて移動しており、撥雲館もあわせて現在の近藤家敷地内に移築。

近藤勇の出生地は調布。市内には近藤勇ゆかりの場所がほかにもあるけれども、それはおいおいで。

大西瀧治郎を偲ぶ

総持寺境内

鶴見駅から鶴見総持寺に足を運んでみた。大西瀧治郎の墓に。

大西瀧治郎

従三位勲二等功三級

海軍中将 大西瀧治郎之墓

合掌

海軍中将。第1航空艦隊司令長官、軍令部次長を歴任。

「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」
神風特別攻撃隊の創設者の一人。

昭和20年8月16日。
遺書を残し割腹自決。享年55歳。

墓裏には

昭和三十八年八月廿三日再建之
大西 淑恵
児玉 誉士夫

とある。
大西 淑恵 は 大西 瀧治郎 の妻。
児玉 誉士夫 は大西と懇意な関係にあり、児玉機関への支援などを大西は積極的に行っていたということもあり、交流が深かった。

遺書の碑

2000年に「遺書の碑」が建立。発起人は元副官であった門司親徳(海軍主計少佐)。命日である8月16日に除幕式が行われた。

遺書

特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉
弾として散花せり然れ
共其の信念は遂に達
成し得ざるに至れり
吾死を以つて旧部下の
英霊と其の遺族に謝せ
んとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利
敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自
重忍苦するの誡とも
ならば幸なり
隠忍するとも日本人た
るの矜持を失う勿れ
諸士は国の宝なり
平時に処し猶お克く
特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世
界人類の和平の為
最善を尽せよ

海軍中将 大西瀧治郎
八月十六日

之でよし百万年の仮寝かな

「 之でよし百万年の仮寝かな 」は辞世の句

海鷲観音

大西 淑恵 婦人によって建立。
「故人は特攻隊に申し訳ないと言い残して自決したのですから、特攻で散華された方々をお祀りする観音様を故人の墓と並べて建立したい」との希望で建てられたもの。

海鷲観音
昭和27年9月彼岸 
施主 大西淑恵

大西瀧治郎君の碑

親友一同による「大西瀧治郎君の碑」がある。

いわく。
今や一身以て一艦を屠る特別攻撃法を敢行するの外救国の途なしと断じ進んでその任に当らんことを申出つ
君中宵沈思幾度か遂に血涙を呑んでその採用止むなきを進言し自ら特攻部隊の指揮官に任したり
朝に空母を沈め夕に戦艦を傷け連日の猛撃に敵陣色を失い恐慌甚だしきものあり
去り乍ら彼我物力の大差は如何ともすべからず遂に刀折れ矢尽き終戦の日を迎うるに到る君即ち我事ここに終れりと従容として古武士の法に遵い敬愛する特攻戦士の跡を追へり ・・・

大西瀧治郎君の碑
大西瀧治郎君は兵庫県芦田の産長して海軍に志し明治四十五年七月優秀の成績を以って兵学校を卒業す人と為り豪宕不屈進んで草創期の航空界に身を投じ険難を意とせす研鑽に精進する事数年その特性を体得するに及び将来我が国防の最大要素たるべきを痛感し海軍航空を急速に発展せしむる事こそ自己に課せられたる使命なりとし益々拮据精励特に要員教育訓練の基礎確立に力を到せり爾来累進して要職を歴任するの間軍政の府に在っては航空優先の施策実現に全力を傾注し熱誠倦むところを知らす又部隊を率いては率先垂範積極的指導に終始し士気の昴揚自ら風を為す大東亜戦争の初期海鷲よく太平洋の全域を掩□無敵の名を肆に到したるその因由素より多々あるへしと雖君等明達径行の士万難を排して精強部隊の育成に汲々として盡瘁したる多年の苦心に負うもの甚た大なるは信じて疑はさるところなり戦局漸く我に利あらす皇國の前途轉た暗□たるの秋果然至誠純忠なる青年将校等今や一身以て一艦を屠る特別攻撃法を敢行するの外救国の途なしと断じ進んでその任に当らんことを申出つ君中宵沈思幾度か遂に血涙を呑んでその採用止むなきを進言し自ら特攻部隊の指揮官に任したり朝に空母を沈め夕に戦艦を傷け連日の猛撃に敵陣色を失い恐慌甚だしきものあり去り乍ら彼我物力の大差は如何ともすべからず遂に刀折れ矢尽き終戦の日を迎うるに到る君即ち我事ここに終れりと従容として古武士の法に遵い敬愛する特攻戦士の跡を追へりその遺書に曰く青壮士諸氏は國の宝なり日本人の矜持を失う事なく民族の福祉と世界人類平和の為め最善を尽せと茲に偉人大西海軍中将が踏み来たりたる大道を追想しその高風を永く後毘に傳へんとす
昭和三十七年三月二十一日 親友一同


鶴見総持寺

大祖堂の裏にひろがる五院墓地(五院右1-1)に大西瀧治郎の墓がある。


宇垣纏墓

大西さんと宇垣さんと。

宇垣纏を偲ぶ

神風特別攻撃隊之魁甲飛十期之碑

児玉誉士夫墓

大西と縁が深かった児玉誉士夫は池上本門寺に墓がある。

そのほか、総持寺関連

満蒙護國神社

平成30年6月参拝

埼玉県・出雲大社朝霞教会 境内社

満蒙護國神社
平成元年四月十五日建立

照清大権現縁起
霊夢に依り昭和十四年五月ソ満国境ノモンハン事変に参戦護国の英霊となられた戦友七千六百拾六名の御霊を靖国神社より分祀 
この地の守護神としてここに祭る

ノモンハンの桜

満蒙護国神社
由緒
昭和14年5月、ソ満(旧・ソ連と満州)国境に勃発して”ノモンハン事変”にて英霊となられた戦友7,616名の御霊をお祀りしています。(先代教会長・渡邉清はこの戦争を経験しました。)

出雲大社朝霞教会

埼玉県朝霞市鎮座。
宗教法人 出雲大社朝霞教会は昭和58年3月に宗祠(出雲大社)よりご分霊をお祀りし、埼玉県内唯一の出雲大社として創建されました。
地域の皆様には、“朝霞の出雲大社”“埼玉の出雲さん”などの愛称で親しまれています。 由緒はサイトより

2019年現在、新社殿造営中。仮社殿となっております。
以下の写真は過去の模様です。

御朱印をいただきました。
あわせて幸福の飴もいただきました。
ありがとうございます。

大阪城周辺の戦跡散策

平成29年4月

平成29年4月18日。大阪に用事のあった私は午前中の空き時間を利用して大阪城界隈へ。
実に10年ぶりの大阪城公園。
普通に廻っても面白くないので、近代史跡・戦争史跡(戦跡)を中心に散策してみました。 それでは参りましょう。


大阪城の戦跡関連


大阪城公園

JR環状線「大阪城公園駅」に到着したのが午前9時頃のことでした。
この日の散策は大阪城公園駅を起点終点に城の周りをぐるぐると。
真田さんの出迎えで気分が高揚してきますね。

大阪城公園駅から大阪城ホール方面に歩く。
最初に見えてきたのが「大阪砲兵工廠跡」


大阪砲兵工廠跡

昭和34年建立の記念碑。
もとは旧本館付近にあったが、大阪城ホールが建設されたため移築された。

現在の大阪城ホールのある場所(大坂城三の丸米蔵跡地)が「大阪砲兵工廠本館跡地」。 大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)はアジア最大の規模を誇り、陸軍唯一の大口径火砲の製造拠点であったという。

余談ながら。
靖國神社第二鳥居は、1887年(明治20年)に「大阪砲兵工廠」で鋳造されたもの。 靖國神社に4つある鳥居の中で一番古く、また青銅製鳥居として日本一の大きさを誇っている。
写真は靖國神社第二鳥居(大阪砲兵工廠鋳造)


砲兵工廠荷揚げ門(第一荷積場)

大阪城ホールの北側。 「砲兵工廠荷揚げ門」(第一荷積場)
明治4年(1871)に建設されたアーチ荷揚げ門という。
周辺は立入禁止なので回りから眺める感じで。

北外堀を西に向かいます。
「大阪城桃園」がありました。


大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)

大正8年(1919)竣工。
ネオ・ルネサンス様式、煉瓦造、地上2階・地下1階の建造物。
かつては阪大校舎や自衛隊建物として使用されるも、現在は使用されておらず放置中…。


守衛詰所(もしくは便所)とされる建物

化学分析場(化学試験場)の隣に。
筋鉄門跡附近。
建物は立入禁止。
化学分析場もであるが荒廃が進んでおり先行き不安。


大阪砲兵工廠 表門(正門)跡
明治天皇聖躅碑

碑には砲兵工廠と刻まれている。
筋鉄門跡。
「大阪砲兵工廠」としては左右の石組を残す。


大阪偕行社附属小学校跡

一度、大阪城公園から外に。
外堀と学校に沿って歩く。
この学校は「追手門学院」
学校に古風な門柱があり、戦前の「大阪偕行社附属小学校」名残。

偕行社とは陸軍将校倶楽部(海軍は水交社)。
戦後、大阪偕行社解散後に小学校は「追手門学院」として存続。

大阪偕行社附属小学校は、今は中高等学校。

当時からの壁か。古風な雰囲気を残す。

陸軍標石も残っている。

意味ありげな柱。


通りすがりに目についたのが

大阪府庁舎本館

大正15年(1926)竣工。
現行の都道府県庁舎として最も古いものであると。


その「大阪府庁舎本館」の道を挟んだ隣に。

大阪連隊区庁舎跡

コンクリ壁。 敷地は工事中でした。
コンクリ壁はなんとなく残ってますね。


大阪府庁から大手門の方に向かいます。 見えてきたのが

大阪市大手前配水場高地区ポンプ場

昭和6年(1931)建造とのことで。


大阪城大手門の近くに。
近代史跡じゃないけど、ここには立ち寄らねばと思いました。

生國魂神社お旅所跡

秀吉よりも前の時代。
難波を代表する大社である生國魂神社(式内名神大社・官幣大社)は、かつてこのあたりに鎮座していたという。

さて。そろそろ大阪城へ近寄りましょう。
堀の向こうに大きく見えるのは「教育塔 」。
そちら側へはまたのちほどで参ります。


大阪陸軍兵器補給廠

大手門から城内へと侵入すると右手に「大阪城公園内城内詰所」が見えてくる。
この場所は戦前は「大阪陸軍兵器補給廠」であり、レンガ壁と門柱は、往時を偲びし現存する貴重な遺構。


大阪砲兵工廠製造の水道管

ん?なんかパイプが見えますね。 大坂城天守閣南西側の内堀にかかるパイプ、実はこれは「水道管」 日本で初めて製造された「鋳鉄管」を用いた水道管は「大阪砲兵工廠製造」の水道管なのです。 これも貴重な近代産業遺産。

石山本願寺!


豊国神社(大阪)

折角なので大阪城内の「豊国神社」に参拝。
京都と名古屋は「とよくに」で大阪は「ほうこく」だそうです。

名古屋の豊国神社さんの御朱印帳に大阪の豊国神社さんの御朱印を頂戴致しました。ありゃ、これは京都にも行かないとダメですかね。

豊臣秀吉公像。

ところでこの日の大阪城界隈は中韓の観光客がぱっと見の体感で8割ほどおられましたが、秀吉公の像で記念撮影している方々もおられましたが、それで国に帰っても大丈夫なのでしょうか。


第四師団司令部庁舎

旧・大阪市立博物館 かつての「第四師団司令部庁舎」
第4師団司令部庁舎として昭和6年(1931)3月に竣工。 市立博物館としては2001年に閉館。2017に複合施設として再開業。

今回は天守閣には登りませんでした。
今思えば登れば上から「第四師団司令部庁舎」がみれたんですね。惜しいことしましたがどのみち時間が無かったと思います。


教育勅語記念碑

売店の裏手に。訪れる人もなくひっそりと碑がございました。
「教育勅語渙発40周年記念」として大阪市内の教育者たちによって建碑されたものです。
昭和6年2月11日竣工。

朕?惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇?ムルコト宏遠?ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ……

歴史を物語る一証人として、記念碑は静かにそこにあった。
記念碑を前にして、しばし教育勅語と対座する空間。

大阪城の天守閣を背にして南下します。


地下壕入口

第四師団司令部庁舎の向かい。内堀に穴が空いてまして。 これは「地下壕入口」とのことで。 よく見るといろいろありますね。


大阪城公園の南外堀に移動。

城南射撃場跡碑

城南射撃場は昭和7年5月に陸軍によって建設。戦後は自衛隊に引き継がれ昭和43年に撤去。大阪城公園として再整備された。
訪れた際は辺り一面が桜花びらの絨毯で、記念碑に腰掛けて記念撮影している方もいたり。

城南射撃場は昭和7年5月陸軍によって建設、戦後は陸上自衛隊に引き継がれて隊員の訓練などに供されていた。昭和43年11月、大阪市の緑化100年運動の一環である大阪城公園の整備推進に協力し撤去された。
昭和44年5月24日 大阪市


南外堀にひときわ大きな塔がある。

教育塔

昭和11年(1936)建立。
教育に関する殉職者・殉難者の慰霊を目的として建設された。

「教育塔」
レリーフは「教育勅語を奉読する校長先生と子供たち」「台風から子どもを守る先生」を描いたものという。元々は教育勅語が発布された10月30日に「教育祭」が行われていたが、2008年から最終日曜となったらしい。

外堀の南からぐるりと東廻りで北上。
ちょっと行程が悪いですね。

改めて北側の山里門から再度大阪城内堀へ。
秀吉公と淀君の自刃の地。


北側の山里郭にある記念碑。

真心 碑

旧中部第三十五航空情報隊
女子防空通信手有志
昭和四十一年十一月吉日

女子防空通信隊宿舎の跡。
昭和20(1945)年6月1日の空襲で焼夷弾により焼失。

北側の山里曲輪や天守台には「機銃掃射跡」や「1トン爆弾による石垣のずれ」もあるというが…天守台のほうは、うっかり忘れていたり、機銃掃射は石垣の上ばかりみていて見逃していたりしたとか。

再訪しています


位置関係

午前9時ちょい前にスタートして11時半に駅に戻りまして。
所要時間はざっと2時間半で8キロの散策。

大阪城には意外と近代の何かが残っていて。
思ったよりは結構楽しい散策ができました。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

このエリア、取りこぼしが多いので、再訪すると思います


関連

東京砲兵工廠はこちら

名古屋熱田の戦跡散策

平成29年1月

・名古屋陸軍造兵廠跡
・熱田神宮被爆鳥居
・堀川被爆護岸堤防

平成29年1月29日昼過ぎ。熱田到着。
過去、熱田神宮には何度か参拝に来たことはあった。しかしかつては熱田神宮と境外社などしか訪れておらず、で。
熱田に戦争関連の史跡が残っているとは露知らず、でした。


神宮東公園

JR熱田駅に東側に、「神宮東公園」という公園がある。
その一番北の方に、案内も特にないけどなにやら記念碑のようなものがあって、それが最初の目的地。


名古屋陸軍造兵廠跡

1904年(明37)東京砲兵工廠熱田兵器製造所として発足。
1923年(大12)名古屋工廠熱田兵器製造所。
1940年(昭15)名古屋陸軍造兵廠熱田製造所。

名古屋陸軍造兵廠シンボルマークは「名古屋城の金鯱」をイメージしたもの。

名古屋陸軍造兵廠跡・碑文

名古屋陸軍造兵廠は明治三十七年陸軍省がこの地に東京砲兵工廠分廠として創設以来昭和二十年八月の終戦まで国家の要請に応えて来た。 第二次大戦末期には本部の外、熱田・高蔵・千草・鳥居松・鷹来・楠・柳津等の製造所を有し、三万五千人が奉職して居た。 私達は多くの殉職者のご冥福と世界平和を祈ります。 碑は名古屋陸軍造兵廠のマークで名古屋城の金の鯱を象ったものである。
 昭和五十四年十一月三日
  名古屋陸軍造兵廠記念碑建立委員会

一大軍需工場であった熱田の地を偲ぶ記念碑。
いまは静かな公園の片隅に佇むこの記念碑に見向きをする人もすくなくはなってしまったが、私のような人がときより訪れるわけで。
往時を偲び、自然と手を合わせてしまう場所でもある・・・

名古屋陸軍造兵廠跡
現在はその敷地の大部分を「中京倉庫」が活用をしている。
倉庫敷地内にはおそらく往時からと思われるレンガ造りの建造物が点在しておりました。

中京倉庫敷地の一番北側。
道路に面してレンガ造りの建物が横たわっております。
これはなかなか見ごたえのある建造物ですね。

歩道橋から俯瞰してレンガ建物を見学することが出来ました。
これは圧巻。

名古屋陸軍造兵廠跡
中京倉庫の敷地内には、よく見るとほかにもレンガ建物が点在してますね。

名鉄とレンガが一緒に見れるポイントに、心がワクワクしてます。


熱田神宮

さて、続いては熱田神宮さんへ。
熱田神宮を境内境外含めじっくり参拝すると半日は余裕で消費してしまいますが、さすがに時間がないので今回はさくっと参ります。
名鉄神宮前駅の入り口から参進。
東門ですね。
・・・というか、熱田神宮宮廳の入り口ですね。

参拝。
すごい人出です・・・さすが熱田さんや。

熱田神宮さんの御朱印・・・いえ熱田神宮さんでは「御神印」と表現しております。
今回は熱田神宮さんの御神印だけを頂戴致しました。
(別宮や境内社・境外社、それぞれ参ればいろいろいただけます)

御神木 大楠
圧巻の存在感です。


熱田神宮 南の鳥居

さて本題。 熱田神宮に訪れたのは参拝したかったというのも勿論ですが、戦災の記憶がここにもあるわけで。

昭和20年6月9日。
米軍爆撃機B29が名古屋市熱田区を空襲。
熱田神宮南側の鳥居には、その時の爆弾の破片で受けた傷とされるものが残っておりました。 破片傷だけで済んでおり類焼を免れたのは奇跡的というしかなく。

さて、熱田神宮の次は、川岸に向かいます。
熱田神宮の川岸といえば、察しの良い方は「七里の渡し」(東海道熱田‐桑名の海路)を思い出すかもしれませんが、今回は七里の渡しのある堀川の対岸のちょっと北側になります。

めざす目標は愛知時計電機のすぐ隣の土手。


愛知時計電機

航空機製造メーカーとして著名であった「愛知航空機」は、まさにこの愛知時計電機から航空分門が分社した会社であり、親会社の「愛知時計電機」もまた戦前は軍需産業を担っていた。

さきほどの熱田神宮の鳥居でも触れた、昭和20年6月9日の熱田空襲の本命目標は、それこそ軍需工場であった「愛知時計電機」や「名古屋陸軍造兵廠」であった。
写真は 「愛知時計電機」 本社建屋(名古屋市まちなみデザイン貢献賞受賞)


熱田空襲 被爆堤防

堀川運河。
愛知時計電機のすぐ脇に保存されている戦跡。
そこには、 熱田空襲の爆撃を喰らった堤防が移築の上で保存されている。

被爆堤防の碑文

この護岸は、昭和八年に築造され、平成四年度から実施した「マイタウン・マイリバー整備事業」による新たな護岸の設置にあたり、撤去したものの一部である。
護岸表面にみられるくぼみは、昭和二十年六月九日のいわゆる「熱田空襲」の爆撃によりできたものである。
 平成八年三月 
  名古屋市

護岸表面にみられるくぼみ。写真では伝えにくいが、見た目以上に深くくぼんでおります。試しに10円玉を置いてみました。爆弾の破片の威力の大きさを感じることが出来ます。

往時を記録する堤防を前にして、空襲で犠牲になった方々のことを思い静かに手を合わせる。

広島護國神社と戦跡散策

平成29年(2017年)

廣島護國神社

3月3日夕刻。この日は広島中心部に宿を取っていた。
宿に向かう途中、広島護國神社に立ち寄り。
実は3回目の参拝。とはいっても10年ぶり。
その10年前は、一部で有名な例の「万灯みたままつり」の参拝でした。それはそれで懐かしい思い出…

広電に揺られて紙屋町経由で社頭に到着したのは15時30分のこと。
現在の鎮座地は「広島城跡」内。
戦後の遷座。

広島護国神社

明治元年12月、戊辰戦争において陣没された七十八柱を「水草霊社」に奉祀されたのが創建。

以来、大東亜戦争に至るまでに戦没された御英霊約九万二千余柱(勤労奉仕中に原爆の犠牲となられた動員学徒、女子挺身隊等約一万柱を含む)の御神霊をお祀りしている。

昭和9年、御社殿の老朽化に伴い、創建の二葉の地より西練兵場(旧市民球場の辺り)西端に新社殿を造営し遷座。
昭和14年に広島護国神社と改称。
昭和20年8月6日、至近距離上空で原子爆弾が炸裂し御社殿すべてを焼失。

写真は旧鎮座地の旧市民球場かいわい。

これは完全に余談。
映画「この世界の片隅に」にて
昭和16年12月に護國神社参道で、すずさんとすみちゃんが貝を売っていた参道は現在の護國神社の地ではなく、被爆前の旧鎮座地(=現在の原爆ドームの向かいの旧市民球場界隈)。

画像は「この世界の片隅に」ロケ地マップ及び絵コンテ集より

被爆後、同地に小祠にて再建。
昭和31年秋に現在の広島城跡に新社殿が造営され遷座。
平成5年4月、本殿拝殿などが竣功し、平成21年6月に社務所などが再整備され、現在に至る。

深く拝する。

感謝と哀悼を。

御由緒

9万2000余柱を奉斎。
そのうち1万柱は、地域・職域・義勇隊・動員学徒・女子挺身隊などの公務原爆関係の御祭神。

社号標は陸軍中将田部正壮。幕末から日清日露戦争の頃の軍人。広島出身。退役後は広島市長も務めている。

双鯉の像
昇鯉の像

狛鯉…ここは確かに広島ですね。

完全に逆光シルエットになってしまいましたが、護國神社らしい力強い狛犬もちゃんとおります。

英霊にささぐ

英霊にささぐ

父慕い
母の育み
幾春秋
深き恵みに
われはこたえん

昭和53年10月吉日 広島市遺族会青年部

神馬像

御朱印を戴きました。
桜柄の靖國神社御朱印帳に各地の護國神社の御朱印を戴く事に。

広島護國神社にはオリジナル御朱印帳が三種類ございました。
凄く悩みましたが戴くのは自粛。 錦鯉の御朱印帳! 巫女さんの御朱印帳!

やはり、広島護國神社といえば「万灯みたままつりの巫女おどり」が有名です。
護國のみたま祭。 御霊を慰める為の華やかなみこ踊りの祭礼。

かなり昔の平成16年(2004)に「万灯みたままつりの巫女おどり」を見学しておりまして。100人位の巫女さんが踊るのですが。
以下はそのときの写真。

まあ、そのはなしは良いかな。戻ります。

護國神社周辺の散策に向かいましょう。


中国軍管区司令部 防空作戦室跡

広島護國神社の向かって左側に。
中国軍管区司令部防空作戦室跡が残っている。
が、工事……

中国軍管区司令部 防空作戦室跡(爆心から約700メートル)
広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の防空作戦室が設けられていた。ここでは、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報と言われている。

中国軍管区司令部防空作戦室跡。
入れなかったので覗いてみた。

中国軍管区司令部 地下通信室跡

中国軍管区司令部原爆慰霊碑

慰霊碑にて頭を垂れる。
(慰霊碑の撮影をするのを忘れておりました。そういう時もあります……

慰霊碑や中国軍管区司令部のあった場所のすぐ裏は堀があり、そして広島城二の丸跡が。

広島大本営跡

広島護國神社から天守閣のある方へ。
ここに広島大本営の基礎石が残っている。

日清戦争当時、広島城内にあった第五師団司令部建物が 明治天皇の行在所となり大本営が明治27年(1894)9月15日から翌年4月27日まで設けられた。 建物は原爆により倒壊。

基礎石のみが残る空間。

標柱は残るも上部を埋め固められている。

昭憲皇太后御座所跡

こちらは昭憲皇太后の御座所跡。
大本営跡の向かって左側に独立した基礎。

近代化の歩みのなかで、日清戦争当時、 明治天皇と皇后が前線近くの広島まで遷座され指揮を執られたといことだけでも、国を挙げての大決戦であったことを窺い知ることが出来る。

広島城

昭和20年の原爆によってすべてを建築物の焼失。
昭和33年に鉄筋コンクリートにて五層天守が再建。
今回は時間都合により天守閣は外から眺めるのみで…。

広島城趾をあとにして、外堀に沿って歩みを進める。

池田勇人像

逆光のなか、誰の像かなと近づいてみたら、池田勇人でした。
広島出身でしたか。
このポージングはインパクト大です。

歩兵第十一連隊跡

広島城の外堀に。
ひっそりと往時を偲ぶ空間がありました。

歩兵第十一連隊入口正門の門柱跡。
原爆被災するも残存。

門柱の由来
この石柱は歩兵第十一聯隊入口正門として建っていた門柱で長年月にわたり入隊訓練帰還と幾多の年代的過程を静かに見守って来た歴史の商人とも言える記念すべき門柱であります。しかも原爆被災の中で残存し得た当時を偲ぶ唯一の遺跡でもあります。幸い篤志家の手により広島市立福木保育園に保存されていたもので今般譲りうけゆかりの地に移転建立し歴史の証とするものであります。
昭和五十九年九月吉日 歩十一会

歩兵第十一聨隊略歴
一、明治八年五月広島の地に創設。同年九月九日聨隊旗受領
二、明治九年十月萩の乱に出動
三、明治十年西南の役に出動
四、明治二十七年日清戦争に出動、朝鮮、中国北部各地を転戦。同二十八年七月復員
五、明治三十三年北清事変に出動
六、明治三十七年四月日露戦争に出動、南満州(現中国東北部)の各地を転戦し、同三十八年十二月復員
七、大正八年七月シベリアに出兵。
八、昭和十二年七月二十七日中戦争に出動、中国全土を転戦
九、昭和十六年十二月八日太平洋戦争勃発、マレー作戦に参加し、のち南太平洋諸島を転戦中、昭和二十年八月十五日終戦となる。同年八月二十六日シンガポールにおいて軍旗を焼く。創設以来七十二年の歴史を閉じ解隊する。
十、この間、特に、昭和十二年日中戦争以降、歩兵第十一聨隊を母体とする藤部隊、槍部隊、開部隊、望部隊、西部第二部隊等を創設、各々克く健闘した。  
ここに、聨隊跡碑を建立し往時を偲ぶ縁とする。  
昭和五十五年七月建立
平成六年八月改刻 歩十一会


どうしても広島護國神社となると「万灯みたま祭」の印象が脳裏を離れないもので。
当時、戴いた団扇を。

護国の祈り

 春は微笑む 広島ざくら
  秋は冴えざえ 城の月
 平和を祈り 偲ぶは誰ぞ
  涙うるむ 大鳥居

 人のこころに 大本営の
  遠い明治を 語る風
 戦雲晴れて 社にねむる
  わが父わが子 わが友よ

 明治大正 昭和の御代の
  歴史映した 大田川
 九万余柱 勲は朽ちず
  いまは御国の 守り神
 
 世界平和を 求めて散りし
  人のいのちの 尊さよ
 護國の庭の 玉砂利踏んで
  御霊に平和 ただ祈る