「近代建築」カテゴリーアーカイブ

旧多摩聖蹟記念館(多摩市)

令和元年8月

京王線「聖蹟桜ヶ丘駅」。京王線ユーザーであれば馴染み深い駅名。

気にはなっていましたが、実はまだ「聖蹟」に脚を運んだことがなく。
近いと言えば近いので、ちょっと赴いてみました。

京王電鉄「聖蹟桜ヶ丘駅」
格別に美しい駅名だと思います。

ここから「記念館」行きのバスに。

旧多摩聖蹟記念館

明治天皇が当地に行幸されたことを記念して作られた施設。

旧多摩聖蹟記念館 多摩市指定有形文化財

 明治10年代、明治天皇が30才の頃、ここ連光寺の山や多摩川に兎猟 や鮎漁を行うため、4回ほど訪れました。
 時の天皇が行幸された地を「聖蹟」と呼び、全国的に多くの記念碑がみられます。
 この記念館は昭和5(1930)年に、明治天皇の偉業を讃えるため、元宮内大臣田中光顕が中心となり、当時の人々による土地の寄付や工事の協力などによって建設されました。
 「聖蹟桜ヶ丘」という駅名は、この建物の名前をもとにつけられたものです。
 この建物を設計した関根要太郎は、20世紀初頭にヨーロッパでおこった建築革新を目指す運動に関心をもった建築家といわれています。大正末期から昭和初期にかけての日本の近代建築は、鉄筋コンクリート構造の急速な普及に加え、外観のデザインとして欧米の古典主義的なものから、モダンデザインのものまで、さまざまな様式の影響を受けた建物がみられます。
 この記念館は、オーストリアでおこったセセッションと、ドイツのユーゲントシュテイルと呼ばれる建築デザインの影響をみることができます。数少ない多摩地域の近代洋風建築の中でも完成度が高く、最も優れたものであります。
 このように貴重な建築作品であることから、文化財保護の目的に沿って保存・公開すると同時に、建物の有効活用をはかるため、ギャラリーとしてもご利用いただくことができます。
 昭和61年6月24日指定
 多摩市教育委員会

多摩聖蹟記念館
昭和5年9月
伯爵田中光顕敬著

多摩市指定文化財
東京都「特に景観上重要な歴史的建造物」選定

関根要太郎と蔵田周忠が設計。
近代式鉄筋コンクリート造り、両袖の付いた円形の大殿堂。
起工1929年10月12日、竣工1930年6月26日

曲線の多用した大胆なデザインが美しい建造物。

渡辺長男作、明治天皇騎馬等身像(昭和5年)は圧巻。
明治天皇が当地に初めて訪れた30歳の姿を再現。

内部は撮影禁止のため、パンフレットと図録より。

五賢堂

五賢堂
 1968年(昭和48年)、明治維新100周年を祝して全国的に記念行事が行われました。当時、多摩聖跡記念館を管理・運営していた財)多摩聖跡記念会でも、維新の志士を顕彰する目的で「五賢堂」を建設することにしました。
 「五賢」とは、明治維新に功績のあった五人の志士(三条実美、岩倉具視、木戸孝充、大久保利通、西郷隆盛)を言います。五賢堂は神奈川県大磯の元総理大臣吉田茂邸にもありますが、西郷隆盛の代わりに伊藤博文が数えられています。西郷隆盛は西南戦争で朝敵とされましたが、吉田茂のすすめもあって五賢に数えられたとされます。
 1968年(昭和43年)11月3日に建設式典が行われ、小金丸幾久が制作した五賢のブロンズ製胸像が安置されました。なお、明治天皇の立像も小金丸幾久が同時期に作成したものですが、初代は記念館内に置かれており、1986年(昭和61年)の改修工事の際に五賢堂内に移されました。

明治大帝( 五賢堂 )

明治大帝

第一二二代天皇御名睦仁
御在位一八六七、一九一二年
嘉永五年九月二十二日孝明天皇の第二皇子として京都で御誕生され御年少の折のよび名を祐と称された
慶応二年十二月孝明天皇崩御のあとをうけ慶応三年一月九日御践祚
翌慶応四年一月に元服三月に五ヶ条の御誓文を神前に誓い九月八日明治と開眼して一世一元の制を定めた
十二月一条天皇の三女美子昭憲皇太后皇后に迎えられた
明治天皇は統帥権をもちみずから積極的に政治に携わられた
御性格は英邁御在位期間における国威の著しい伸長とあいまって英明の君主とうたわれ大帝とたたえられ国民の尊敬を一身に集められた
一九一二年全国民の病気回復の願望空しく病没京都伏見桃山御陵に葬られた
御歳六十一才であった

明治維新五賢堂建立の趣旨
五賢堂は明治維新にあたり明治大帝を補佐し新日本の建設に偉勲を樹てた三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛の功労を後古に伝えるため明治百年に際し明治百年記念事業の一環として明治維新五賢堂建立委員会を設け全国各方面にわたる有志のご協力によりその建立の実現をみたものであります
 昭和43年11月3日
 (以下略

五賢人(五賢堂)

三条実美之像

岩倉具視之像

木戸孝允之像

大久保利通之像

西郷隆盛之像

五賢堂のとなりに石碑がある。

田中光顕公歌碑

 結髪勤王事中年侍聖君
 老來濟世志不肯伍仙群
  奉祝 青山田中先生耆徳
 
 皇紀二千六百年三月二十八日
 田中光顕公追慕會

明治天皇御製
昭憲皇太后御歌 歌碑

明治天皇が明治17年(1884)に当地へ行幸された際の御製と、昭憲皇太后が詠まれた御歌2首。

明治天皇御製
 春の半頃山ふかく狩し
 ける折に鶯の鳴くを
 きゝて
春ふかき山の林にきこゆ
なりけふをまちけむ鶯の
聲


昭憲皇太后御歌
 御狩場よりかへらせたまひ
 ける日狩場雪といふことを
兎とる網にも雪のかかる日に
ぬれしみけしを思ひこそやれ
 おなしおり深山鶯といま
 ことを
春もまたさむきみやまの
鴬はみゆきまちてや鳴き
はしめけむ

正二位勲一等伯爵 田中光顕 謹書

明治百年
記念の樹

明治天皇御野立所跡の碑

皇紀二千六百年仲秋建立(1940年/昭和15年)

明治天皇御野立所
海軍大将末次信正謹書

御野立所からの遠望

桜ヶ丘公園

参考リンク

http://www.city.tama.lg.jp/0000003475.html

http://www.city.tama.lg.jp/0000001541.html

https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index065.html

〆

大正殿と富士森公園(八王子)

令和元年8月

中央線と京王線の中間あたり。位置で言うと、京王線山田駅と中央線八王子駅の間にある「富士森公園」。

ちょっと脚を運んでみました。

大正殿(浅間神社拝殿に流用)

昭和2年(1927)、 大正天皇多摩陵での「大喪の儀」で「祭場殿」として使用された建物。同年に下賜され「富士森公園」に移設。同じ年には「浅川駅(現在のJR高尾駅)」も移設されている。

昭和28年(1953)に、「浅間神社」の拝殿として公園内から富士塚前に移築。現在に至る。

公園入口の「大正殿」標石は昭和4年3月建立。

浅間神社は、慶長年間(1596~1613)に関東代官頭として八王子に陣屋を構えた大久保石見守長安の勧請による。

富士森公園ノ浅間神社
 (台町ノ浅間神社)

本務社は八幡八雲神社。

浅間神社縁起
 浅間神社は木花咲耶姫を祭神とし、一つに富士浅間様とも言い、駿河国の本宮浅間神社を分社したものです。
 慶長年間(1596~1613)、大久保石見守長安が高さ約二丈(約6m)周囲六十間(約109m)余りの塚を築き、頂上に浅間神社を勧請したのが当社の起源です。
 この場所は、往古より樹木生い茂れる森にて、藤森と言い、塚も藤塚と書かれていましたが、慶長年間、富士浅間神社創立後は富士森又は富士塚と書くようになりました。
 宝永年間(1705頃)、社殿破壊に及び、延享二年(1755)改めて石造りの社を再建したのが本殿で、現在の奥の院石造りの社です。又、天明六年(1787)には石の階段が造られました。当社は元々拝殿がなく、祭典は毎年山上で行ってきました。例祭は八月一日で七月三十一日の宵宮より参拝者で雑踏し、境内には団子を売る商人が軒を並べ、この団子を食べる者は暑気にあたらぬとの言い伝えに、別名『団子祭り』とも呼ばれる様になりました。
 この団子祭りの起こりは、明治の中頃社頭に住居して宮守をして居た者が、当社に献じた洗米で団子を作り、希望者へ分与したのが始まりです。
 当社の例祭に行う、湯の花の神事は、心身の汚れを祓い清め、すがすがしい精神で氏子一同神へ奉仕する意味です。
 当社は子授かり、安産の神として信仰されていますが、この由来は、天照大神の御孫瓊々杵命の皇后である当社の祭神木花咲耶姫命が、一夜にして身ごもったため夫の命より疑いを受けた際、身の潔白を立証するため、産屋に火を放ち、火中で皇子を安産されたと言う古事に起因するものです。
 現在の拝殿は昭和二十八年に大正殿(大正天皇のご大葬の時多摩御陵に造られた式典用の建物)を移築し建て直したものです。
 昔より古い歴史を持つこの浅間神社は今、台町一丁目、台町二丁目、台町三丁目、台町四丁目及び万町二丁目によりお護りされています。

灯籠

灯籠は「八王子軍人中」の奉納。
明治39年11月建立。

御大典記念植樹

御大典記念植樹は昭和3年11月。

JR高尾駅は、 大正天皇の大喪列車の始発駅として「新宿御苑に設置された仮設駅舎」(新宿御苑宮廷臨時停車場)を 大正天皇 多摩陵 の玄関口である八王子高尾に移築したもの。

https://senseki-kikou.net/?p=1387


八王子市戦没者慰霊塔(忠霊塔)

明治29年に日清戦争の犠牲者のために忠魂碑が富士森公園に建立されたことに始まる。日露戦争の忠魂碑も建立されたが、終戦に際して撤去。
昭和40年に現在の慰霊塔が改めて建立された。

灯籠は「在郷軍人会八王子市聯合分会」。戦前の気配を唯一残している。

碑文
 西南の役から太平洋戦争に至る殉国の英霊および戦災殉難の霊をここにまつる
  昭和40年10月
  八王子市長 植竹 国次

八王子海軍わだつみ会記念樹

昭和41年4月15日


平和の像

富士森公園内に。

八王子市は先の第二次世界大戦において大きな戦禍を被り多くの
尊い人命が犠牲になりました。
このような戦争による悲惨な生活は再び繰り返してはなりません。
よって、非核平和都市宣言十周年にあたり世界の恒久平和を願う
市民の象徴としてここに平和の像を建立します。
 平成五年一月
 八王子市

右
これは、昭和20年(1945年)8月6日、原子爆弾の被災を受けた広島市役所旧庁舎の前庭の敷石の一部です。

左
これは、昭和20年(1945年)8月9日、原子爆弾の被災を受けた長崎市山里国民学校の校舎の壁の一部です。


忠魂之碑

富士森公園内の浅間神社に。
篇額は元帥陸軍大将 大山巌 書、明治39年11月建立。日露戦争の戦没者を祀る。

石坂昌孝之碑(放庵石坂君碑記)

富士森公園内の浅間神社に。
篇額は 海軍大将 樺山資紀 書。
大正5年建立。

石坂昌孝は明治期の政治家、自由民権運動家。


浅川・大和田橋

この節のみ2017年11月撮影。
八王子空襲の戦跡遺産として掲載しておきます。

焼夷弾・弾痕の保存について

 八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に米空軍のB29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、2,000余名が負傷し、旧市街地の約80%の家屋が焼失する被害を受けました。そのとき多くの市民が大和田橋の下に避難し、尊い命が助かりました。
 大和田橋の歩道上には、この空襲のとき透過された焼夷弾の跡が17箇所残っています。
 車道の部分は過去の補修により弾痕は残っていませんが、現在歩道上に残っている弾痕数から推測すると橋全体では約50戸以上の焼夷弾が投下されたと思われます。建設省相武国道工事事務所では、この大和田橋の補修工事にあたり焼夷弾の弾痕を保存し太平洋戦争の痕跡を永く後世に伝えるものです。
 弾痕の保存については、上下歩道上各1箇所は、透明板で覆い、他15ヶ所は色タイルで、その位置を示してあります。
 平成9年10月
 建設省関東地方建設局
 相武国道工事事務所

八王子関連の戦跡は以下も参考に

〆

小野光賢と小野光景父子にまつわる史跡散策(信州小野と横浜)

平成28年4月ほか

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。

というよりも、もともと友人が「この記念館」に訪れるために事前予約をしており、私が便乗した、という機会があった。


小野光賢光景記念館

〒399-0601
長野県上伊那郡辰野町小野985
TEL 0266-46-2001(要事前連絡)

小野光賢と小野光景親子の記念館

信州小野の名士であった小野光賢(みつかた・小野兵助とも)は、創生期の横浜で活躍し、横浜発展の礎を築き横浜開港の創始者ともいわれている人物。
文政元年(1818年)信州小野生まれ。
安政6年(1859年)に横浜に出て貿易を営み、草創期に横浜発展に尽力し町名主や横浜副市長などを務めた人物。

光賢の子である小野光景(みつかげ)は横浜商法学校(現市立横浜商業高校)や横浜正金銀行などに絡む人物。

明治から大正にかけて、創生期の港町横浜の縁の下を支えた小野親子の記念館。

現在の小野家の当主は小野光賢の曾孫に当たる方。
小野家当主自ら小野光賢光景記念館の隅々を案内していただきました。話が非常に面白く時間を忘れるほどに。
以下、順番に記念館を見ていきます。


以下、館内写真は許可を得て撮影

光賢庵

小野光賢終焉の庵という。

光賢庵
横浜開港の創始者とうたわれた兵右エ門光賢(通称兵助)終焉の庵である。
安政6年(1859)横浜開港の時、苗字帯刀御免の大名主をつとめた兵助は、開港といふ激務のため健康をそこない「わが素志、成就のときなり」と時の県令陸奥宗光公に辞意を表明、許されて職を長子光景に譲り、明治5年十有余年ぶりに故郷信州に帰り、風月を共に悠々自適、静養につとめていたが、明治33年(1900)7月27日83歳の天寿を全うし、
ここ光賢庵に於いて波瀾の生涯をとじた。
 館長

蔵も残っている。

小野光賢光景記念館 館内

建物の創建年代は不詳。(聞いておけばよかったです)
信州小野に唐突に現れた洋館にビックリ。

小野光景翁像

横浜で活躍した小野光賢は幕末の三舟とも親交があり、記念館には勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟から小野光賢に贈られた書も展示してあった。

小野の集落を見下ろす高台に、小野光賢の像があった。
郷土の名士を誇る記念像。
例の如く戦中供出されて、今は台座のみ残っている。 (後述)
台座のレリーフは小野家の紋章。

レリーフは台座から落ちていたのを見つけた人が届けてくれた、と。
4面のうち、3面はまだ台座に残っていました。

台座から落下したレリーフ
小野光賢像の台座

戦前の外交官・来栖三郎は実は小野家の親戚にあたる。
小野光景の義弟が横浜財界を代表する来栖壮兵衛。その子が外交官の来栖三郎。

曜変天目茶碗(稲葉茶碗)
国宝茶碗にも小野家が絡んでいたり。
将軍家から春日局・稲葉家へと伝えられ、小野光景が大正7年に購入し昭和9年に岩崎小弥太へ。現在は静嘉堂文庫美術館所蔵。

旧家ゆえ色々と歴史的なものも多く。
川中島の合戦絵図。
この絵の面白いところは信玄が謙信に追われ騎馬で後ろを見せて逃げていたり。 ここは信玄の地元たる甲州ではなく信州諏訪ですから(意味深

光賢墓碑陰記

拓本・総持寺
日下部東作書

光景頌徳碑記
拓本

小野病院前庭
貴族院議員高橋作衛選

小野光景は横浜正金銀行頭取、横浜商工会議所会頭、貴族院議員などを歴任。郷里小野では病院設立、紡績工場運営などに携わっている。

明治21年9月29日 公論新報(明治の新聞)

私選東京市長最高点者 福沢諭吉 (右)
私選横浜市長最高点者 小野光景 (左)

あの福沢諭吉と並んで取り上げられてました。

小野光賢光景記念館 は要事前予約となりますが、ご興味ございましたら是非に。
当主の話が面白く展示も興味深いもの多く気がつけばあっという間に二時間を過ごしてしまいました。

小野光賢・光景記念館 紹介サイト

http://www.shiojiri.info/~ryouono/onomitsukage/HTML/index.html

場所

https://goo.gl/maps/t3yvPSQaXtXYbSrv7


小野宿


南塩終点の地

太平洋沿岸で取れる塩が伊那谷・伊那街道を北上してこの地(南小野)まで運ばれた。北隣の松本藩では越後の塩が糸魚川街道によって北小野まで運ばれた。
南北の小野が南北の塩の境目でもあった。


小野光景翁寿像
(小野公園)

小野駅の南東側、小野光賢光景記念館 の東側。
丘の上に小野光景の像が・・・あった。

小野公園

https://goo.gl/maps/jUpdtku6XDqXXdz58

小野光景翁寿像の台座。

小野光景翁寿像 の 台座

小野光景翁と寿像
 小野光景(みつかげ)は父光賢(みつかた)の長子として1845年(弘化2年)に生まれ、21歳の時、国内の政治混乱に「男子時至れり」と横浜に出奔。
 先に横浜に出て行政面で名を成した父の跡を継いで「横浜港内第一区小一区戸長」を手はじめに要職を歴任する傍ら生糸貿易にかかわり、横浜商法学校(現・市立横浜商業高校)創設、横浜商法会議所(現・横浜商工会議所)会頭、横浜成金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)頭取を務めるなど、貿易商としても成功しました。横浜は光賢(1900年没)と父子が活躍した縁とゆかりの地です。
 以来、一世紀半の歳月が流れ、2009年に横浜市は開港150周年を迎えました。改めて小野光賢・光景父子の功績が脚光を浴び、横浜市と新たな交流も始まりました。
 特に光景翁は郷里である小野(旧・小野村)の地にも、小野駅敷地を寄贈、小野病院(現・小野国保診療所)、小野図書館の設立、高等小学校の敷地、校舎の建設など、郷里の発展のために多大な貢献をされました。
 これらの功績を記念して、郷里の人々はこの小野公園山頂に小野光景翁の寿像を小野家の方向に向けて1919年(大正8年)に建立いたしました。その後、銅像部は第二次世界大戦のために供出され、現在は台座だけになっていますが、それでもこの大きさには圧倒されるものがあります。
 平成22年9月吉日
 小野地区振興会

小野公園から見渡す小野の街なみ。
小野光賢と小野光景親子が育んだ街。


忠魂碑

右は乃木希典公、左は有馬良橘公


小野光賢翁・小野光景翁生誕記念碑


横浜開港と郷土発展の恩人
小野光賢光景父子の実績

横浜開港と郷土発展の恩人
小野光賢光景父子の実績

撰文 明海大学教授 岩下哲典
 小野光賢は、文政元年(1818)小野村名主小澤小左衛門の二男に生まれ、のち名主小野光珍の養子となった。安政6年(1859)42歳の時、幕府の開港事業を知り、これに応じて横浜に出た。横浜本町5丁目はじめ太田町等の名主を勤め、明治元年(1868)新政府設置の公選横浜町名主や副市長となった。また小野村周辺から横浜に出た郷土の人士をよく世話した。激務により退職し帰郷後、同33年7月7日、小野の光賢庵にて死去した。享年83。
 小野光景は、光賢の長男として弘化2年(1845)小野村に生まれた。慶応2年(1866)父光賢を頼って信州を出た。横浜では光賢を補佐して町政に携わり、神奈川県会議員となり、又貴族院議員に勅任され国家に貢献した。そのほか横浜商法学校(現Y高)設立者、横浜正金銀行頭取、横浜商法会議所会頭、横浜本町他十三か町貿易商組合総理、横浜鉄道会社創立発起人等を務めた。まさに横浜の財界発展やインフラ整備に果たした役割は大きかった。のみならず、小野高等小学校敷地・校舎建設費や小野駅敷地の寄付、小野病院の設立等々揚げて枚挙の遑あらざる偉業を成し遂げた。大正8年(1919)9月18日横浜別邸にて死去。享年74であった。
 小野光賢光景父子は、横浜開港とその発展のみならず常に郷土に思いを馳せ、その発展に多大なる貢献をした。ここに光賢翁生誕二百年を記念して一碑を建て、光賢・光景翁の実績を永く後世に伝えることを願ってやまない。
 平成24年9月9日 建立
 小野光賢・光景翁
 生誕記念碑建立委員会
 小野地区・北小野地区
 辰野町 


詠帰亭の碑

詠帰亭の碑
大正8年5月有志相はかり郷土出身の実業家小野光景翁の寿像が建立された際、翁のため此の地に別荘を新築。中国の故事に倣って詠帰亭と称した。然しながら翁は一度も入来することなく同年9月逝去。
以後詠帰亭は地域の人々の社交の場として利用されていた。
昭和3年11月、詠帰亭は昭和天皇即位の大礼記念事業として小野村青年会館と改称され、同時に図書館を併設、小野村がこれを管理することとなった。
その後、昭和28年に至って図書館は移設され、昭和36年辰野町へ合併するにあたり辰野町小野財産区の所有となり小野商工会工業部によって管理されてきた。
ところが、平成7年8月28日未明の火災によって全焼。建設以来70有余年にして詠帰亭の歴史は幕を閉ることとなった。
ここに詠帰亭の由来の一端を記し、末永く記憶にとどめるものである。
 平成8年10月吉日
 辰野町小野財産区


小野病院

小野光景氏が設立した小野病院は、今は両小野診療所となっている。


小野駅

小野駅の敷地も小野光景氏の寄付。
小野駅は明治39年(1906)、中央本線の岡谷-塩尻間開通と同時に開業。

小野の集落で、小野光賢光景父子を偲びし歴史散策。あまり知ることない郷土史の一幕に触れることができたのは貴重な経験。知的好奇心への良き刺激となりました。


場所と月日はかわって、平成28年(2016年)8月。
横浜の本牧に、脚を運んでみました。
小野の集落を訪ねたときと同じ友人と一緒に。

本牧臨海公園

本牧臨海公園が「小野光景別邸」跡地、という。
三渓園の隣。

https://goo.gl/maps/jtGGXc6NQb9Q4Jne7

公園には「横浜市 八聖殿 郷土資料館」があり、この場所もかつては「小野光景別邸」であった。

横浜市 八聖殿 郷土資料館内にも、小野光景の紹介がある。

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/hasei/

https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/midori-koen/koen/koen/daihyoteki/kouen006.html

https://shimin-rinkai.jp/

本牧臨海公園と小野光景氏
 ここ本牧臨海公園一帯は明治時代に生糸貿易商として活躍した小野光景氏の約2万6千坪(約8.6ha)に及ぶ別荘地であった。
 海が見渡せる丘に洋館を始めとする幾つかの建物が点在していた。
 当時、別荘地の一部分は市民に広く公開され、「小野公園」と呼ばれていた。

横浜開港の功労者
小野光景別邸跡
 かって、この地は幕末の激動がようやく鎮まった安政六年(1859)横浜開港の創始者とうたわれた横浜町名主小野塀上門光賢の長子小野光景の広大な別荘地で当時この公園と呼ばれていました。豪華絢爛たる洋式別荘は外国使節団当承知ノ場とされ、開港にかかわる歴史的場羽陽な場所であった。
 明治五年(1872)、光景は父光賢の職を継ぎ、次いで明治十三年(1880)、わが横浜商工会議所の創設を始め、横浜学校の始、壮行・如春の二学舎の開設、横浜正金銀行開設、横浜商法学校設立、新港埠頭の建設、八王子横浜間鉄道の新設等々、揚げて枚挙にいとまなく主唱者として貢献し、更に、明治十六年(1883)には自ら貿易行小野商店を開業するなど、障害の前半を成二に、後半を実業に捧げて燃えつくし、と横浜の地鶴見の総持寺の一隅に、父光賢の墓とならんで葬られている。
 このように、この地は横浜発展の礎を築いた小野光景を偲ぶことのできる場所であり、ここに一碑を建て光景の事情を永く後世に伝えることを願ってやまないものである。
 平成15年11月13日 横浜商工会議所会頭 高梨昌芳

春惜しむ
 臨海公園
  波遠し
    忠秋
     記念碑寄贈者 光景生家 忠秋

小野光景氏の功績
 1845年に長野県上伊那郡辰野町小野に生まれ、1859年の開港直後、横浜に移住した。
 父光賢氏の職を引き継ぎ町政業務に携わるとともに、横浜商法会議所(現横浜商工会議所)や横浜正金銀行(現三菱東京UFJ銀行)及び横浜商法学校(現横浜商業高等学校)、新港埠頭、横浜鉄道(現JR横浜線)等を設立・建設した。
 また、生糸貿易商としても活躍し、明治期の横浜の発展に大いに貢献した人物である。

「小野公園」の記憶
 この油絵は、往時の「小野公園」を海に向かって描いたもので、光景氏の三男哲郎氏の妻、煕子氏の作品である。
 広い芝地に50mのプールがあり、海の水をポンプアップして使っていた。また、海岸に出るためのトンネルが掘られ、崖下は絶好の釣り場となっていた。この芝地はいつも手入れが行き届いていて、秋にはよく運動会が開かれていたという。

小野光景氏別邸洋館
 小野光景氏別邸は、2階建ての洋館で、シャンデリアのついた大広間もあり実に立派なものであったという。
 この豪華絢爛な洋館には、政府の要人や外国の使節を招待するなど、華やかな政治・外交の舞台となっていた。
 しかし、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で倒壊したといわれる。
 前列中央の、赤ちゃんを抱いているのが小野光景氏である。

明治4年(1871年)頃の本牧の海岸
 かつての本牧の海には良質な漁場が広がっていた。明治末頃からは海苔の要職が盛んになった。また、景色も良く海も美しいことから海水浴場としても使われていくようになる。

埋立で大きく変わる本牧の海岸
 昭和34年(1959年)から46年(1971年)にかけて、根岸湾埋立が行われた。
 左は根岸湾の埋立前の写真。八聖殿が見え、「小野公園」の山の一部がまだ残っている。
 下は昭和30年代末の写真。埋立が進み、本牧臨海公園の整備が行われている。

本牧臨海公園・本牧市民公園・三渓園
周辺からみた景色。


2015年3月撮影

横浜正金銀行本店
(現・神奈川県立歴史博物館)

横浜正金銀行は明治13年(1880)開設。
小野光景氏は 横浜正金銀行 設立にかかわり、そして第二代頭取(1882-83)を務めた。
現在の建物は明治37年(1904)完成。残念ながら小野光景が関わっていた時代ではなく。

http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/syoukin/ysb_ayumi/nenpyo/d_toudori02.html


場所は変わって鶴見総持寺。

小野家墓所(総持寺)

鶴見の総持寺に小野家の墓、小野光賢墓と小野光景墓がある。浅野一族(浅野総一郎)と同じ並び。奥まった区画に小野家の墓があった。小野家墓所の区画番地は「中央ハ2」。具体的な場所の情報が皆無のため、この場所を見つけ出すのに結構時間を要してしまった。
(目印となる浅野総一郎墓「中央ハ6」、清浦奎吾墓「中央ニ1-27」とも近い。)

総持寺には、小野光賢夫妻と小野光景夫妻をはじめ、一族が眠っている。

※撮影は令和2年12月

小野光賢夫妻の墓。

小野光景夫妻の墓。

親子で並んでいる。

小野家の家紋。

通路の突き当りが浅野家の墓。小野家の墓は、浅野家の脇の通りに鎮座。


横浜開港の功労者である小野光賢と小野光景の親子。正直にいってほとんど知名度がなく、あまり知られていない人物。横浜の人ですら知らないのでは・・・といったレベル。
そんな横浜の功労者を知ることができた今回の散策はとても貴重なものとなりました。

惜しむらくは、信州小野の「祭林寺」のお墓に詣でていなかったこと。
またの機会は有るのだろうか。。。

本記事はいったん〆

海軍中将 真木長義 邸(調布市)

令和元年8月撮影

真木邸(真木家住宅)
 国登録有形文化財(建造物)

明治43年(1910)、海軍中将 真木長義(男爵)の隠居所として、長男・真木平一郎によって、現在の港区白金二丁目に建設。
その後、昭和11年秋から昭和12年5月にかけて、真木平一郎が調布の多摩川左岸の景勝地であった現在地に移築した邸宅。

明治後期の和館洋館併存住宅として貴重な建造物
 洋館部は、木造2階建、切妻造、桟瓦葺
 日本館部は、木造平屋建、寄棟造、桟瓦葺

平成12年(2000)、国登録有形文化財建造物に登録。

平成23年(2011)に「日本館」と「調度品」が調布市に寄贈。
平成29年9月に真木家先代当主婦人がなくなったことにより、「洋館部」ほか全てを調布市に寄贈。

現在は調布市郷土博物館の管理物件。(非公開)


真木長義(1836-1917)
最終階級は海軍中将、男爵。佐賀藩士。
長崎伝習所において海軍全般の軍事を学び、戊辰戦争では「電流」艦長として参戦。
明治4年、真木中佐は連合艦隊・常備艦隊の走りとなった、小艦隊指揮官に就任。この「小艦隊」は実質的な日本海軍の艦隊発祥でもある。

明治18年(1885)、海軍中将となり海軍機関学校長、将官会議幹事、呉鎮守府建築委員長などを経て明治38年(1905)に退役。
明治39年(1906)から明治44年まで貴族院議員をつとめた。
大正6年(1917)3月2日に死去。墓所は青山霊園。

真木平一郎(1869-1945)
明治2年に真木長義の長男として産まれる。
工学博士として京都市電や東京市電、感城市電などの敷設主任技師、技師長としてかかわった。真木男爵家を襲爵。三枝守富の次女 (大隈重信の養女) である知恵と結婚。

真木家住宅の外観写真

敷地外から撮影。令和元年(2019)8月

洋館部の玄関車寄せ
日本館(和館)
門柱

参考データ

文化遺産オンライン 真木家住宅日本館

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/138931

文化遺産オンライン 真木家住宅洋館

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/186390

調布市議会議員のレポート(2012年の見学会)

https://osuga01.tamaliver.jp/e212780.html

所在地

所在地:東京都調布市上石原2-48-4

https://goo.gl/maps/64j96DsJA6pf5Xqx8

現在は調布市郷土博物館の管理となっている真木家住宅。
一般公開を市民として期待してますので、再整備等よろしくお願いいたします。


真木長義の墓

真木家の墓は青山霊園にある。
場所は1種イ4-6

宮中顧問官
海軍中将
正二位勲一等男爵真木長義墓

〆

豊川海軍工廠跡地散策

平成30年6月

平成30年6月のある日。
この日の午前中は「豊橋」を巡っておりました。

豊橋の戦跡散策

位置関係

国土地理院の航空写真から。
1946年09月21日に米軍が撮影した写真を一部抜粋。
写真データ:M263-A-3-13

豊川へ

午後は豊橋から豊川に移動。
13時、豊川駅到着。

駅前にレンタサイクルがあればよかったのですが、駅前にはなく。
豊川市が運用するレンタサイクルが「桜ヶ丘ミュージアム」で無料貸出だったので、まずはそこまで移動。
駅からちょっと遠い。20分くらい歩きました。

専用線路

現在は「日本車輌製造 豊川製作所」で製造される車両の輸送用線路であるが、この側線のルーツは「豊川海軍工廠」へ通じる線路だった。
「豊川海軍工廠」時代は通勤者を運んだ線路。

線路を横断して、「豊川海軍工廠平和公園」に向かいます。

豊川海軍工廠

日本海軍の工廠として、機銃や弾丸の製造を行っていた。当時は東洋随一の規模と称された。

昭和14年(1939)12月に5番目の海軍工廠として「豊川海軍工廠」が開廠する。
拡張を続け昭和20年2月の段階では従業員は職員400名、工員10000名、徴用工員40000名、動員学徒6000名の計56400名規模であったという。

豊川空襲

昭和20年8月7日、B-29爆撃機124機による大規模爆撃を受け工廠は壊滅。
犠牲者は工員や勤労学生を含め2600名を超えると言われている。

豊川海軍工廠平和公園

平成30年6月9日に新しく整備されたばかりの平和公園。

13時30分。到着。

豊川市サイト

https://www.city.toyokawa.lg.jp/shisetsu/koen/toyokawaheiwakouen/heiwakouen.html

https://www.city.toyokawa.lg.jp/shisetsu/koen/toyokawaheiwakouen/heiwakouensisetu.html

豊川海軍工廠敷地外周の土塁と排水路

工廠敷地外周の土塁と排水路
豊川海軍工廠は敷地外周に土塁が巡り、その外側には排水路が設けられ数位と画されており、工廠内外への出入りは正門・西門・北門・北東門など限られておりました。昭和20(1945)年8月7日の空襲では、工廠外へ避難しようと人が集まった正門・西門附近に500ポンド爆弾が着弾し多くの犠牲者を出すなど、敷地が土塁と排水路により画され門が限られていたことは、空襲被害を大きくした一つの要員でもありました。排水路は戦後の改修整備で姿を変えつつも、今もなお豊川海軍工廠の存在を大地に刻んでいます。

防空壕跡

防空壕跡
豊川海軍工廠の敷地内には、空襲に備えた防空壕が各所に設けられていました。幹部職員が使用した鉄筋コンクリート地下室構造の防空壕もあったようですが、多くは素掘りで天井を木材で組み、その上に土を盛った簡単なもので、至近弾に対してほとんど無力なものでした。この説明板の左右にあるくぼんだところは防空壕の跡です。発掘調査の結果、全長4.5m、幅1m、深さ1.2mの長方形の本体に、二箇所の出入り口が屈折してとりつくコの字型の平面形であることが確認され(右側の防空壕)、掩蓋(天井の覆い)が無かった可能性もあります。公園内には、同じ構造の防空壕跡が3基残っています。

豊川海軍工廠時代の街路灯

豊川海軍工廠の構内通路の両側には、互い違いに街路灯が設置されていました。高さは4.45mで、鉄筋コンクリート製の柱身の上に鉄製の傘がのり、電球のソケットが傘の中心に埋め込まれています(園内に保存展示している街路灯は傘が失われています)。工廠内は、電気が地下配線となっており、電線は地下から中空となっている街路灯の柱身を通していました。公園整備前には園内に10基の街路灯が残存していましたが、そのうち8基を元位置及びその近くに保存・展示しています。

豊川海軍工廠当時の水槽跡

500ポンド爆弾の着弾跡

ここの旧第一火薬庫基底部をめぐるコンクリート側溝が壊れているのは、昭和20年(1945)8月7日の豊川海軍工廠の空襲で500ポンド爆弾がこの場所に着弾したことによるものです。この空襲では、124機のアメリカ軍B29爆撃機により3,256発もの爆弾が、10時13分から39分までの26分間に投下され、工員、職員、一般市民ら2,500名を超える人々が犠牲となりました。平和公園のある工廠の北側一帯は比較的空襲の被害が少なかったエリアですが、この空襲では短時間に大量の爆弾が投下され大きな被害を出しました。

旧第一火薬庫(豊川市指定史跡)

この建物は、鉄筋コンクリート・ラーメン構造(強固に接合された柱や梁などの軸組みによって建物を支える構造)の平屋建で、構造体に土をかぶせているため、建物の外観が見えません。本公園周辺は、豊川海軍工廠の火薬類を製造した工場があった場所で、火薬の保管のために使用された施設です。建物規模(盛土基底部で計測)は、東西47.75m、南北37.40mで、トンネル状の東西通路の北側に三つの部屋が並んでおり、部屋の出入口部には、全長27.15m、幅1.75mの木製足場が設けられています。木製足場から部屋に入ると間口6.87m、奥行2.14mの前室があり、その奥に間口8.21m、奥行7.87mの主室があります。鉄筋コンクリート造の部屋の内部に板壁を設けて二重壁構造とし、コンクリート壁と板壁の間の中空層が屋根部にある換気塔や北側の盛土基底部にある通気口などに通じるなど、火薬の保管のため室内の換気を調節する工夫が随所にみられます。

火薬庫入り口
火薬庫換気口

旧第一火薬庫・内部

旧第一火薬庫と旧第三信管置場(ともに豊川市指定史跡)建物内部については、文化財保護のため常時公開はしていないが、見学時間のタイミングが合えば豊川海軍工廠語り継ぎボランティア案内により見学可能。

https://www.city.toyokawa.lg.jp/shisetsu/koen/toyokawaheiwakouen/zanzonikoukengaku.html

今回は運良くタイミングがあわせられたので、内部も見学。

手前の部屋

湿気を防ぐための二重壁構造が確認できるように展示してある。

奥の部屋

通路展示

配電盤と水道管など

この配電盤は、海軍工廠当時に使用されていたもので、平和公園東側にある旧薬筒乾燥場にあったものを、平和公園整備にあわせて移設しました。また、水道管は公園整備工事の不発弾処理で見つかったもので、制水弁には「水昭和十四年」、「水昭和十七年」の文字がみられます。

旧第三信管置場(豊川市指定史跡)

この建物は、弾丸の起爆装置である信管を保管した施設と考えられます。建物を高さ約5mの土塁で囲み、土塁内には南側のトンネルを介して出入するようになっており、これは爆発事故が起きた際に、周囲に被害が及ばないようにするものです。建物規模は、東西21.00m、南北10.00mで、東西方向の廊下の北側に三つの部屋が並びます。建物構造は、壁と廊下の屋根を鉄筋コンクリート造としますが、部屋の小屋組(屋根を支える骨組み)は木造となっています。これは部屋内で爆発事故が起きた際に、木造の屋根を吹き飛ばすことにより、鉄筋コンクリート造の躯体を残す工夫と考えられ、建物周囲の土塁とともに、豊川海軍工廠では火薬類を製造した施設に多く見られる建物構造です。各部屋の南北両側の壁上部には照明器具が設けられており、電球の交換は通気口のある部屋外側の扉を開閉して行う構造で、室内側はすりガラスで密閉されています。これは照明器具が発生する熱を、室内に入れないための工夫と考えられます。

旧第三信管置場・内部

豊川市指定史跡 豊川海軍工廠遺跡
「旧第三信管置場」「旧第一火薬庫」保存・修理工事概要
(略)
事業概要
昭和14年(1939)に開庁した豊川海軍工廠は、日中戦争から太平洋戦争、終戦に向かった日本の戦前の昭和史を如実に示す存在である。その設置は昭和18年(1943)の豊川市制施行の原動力となり、また昭和20年8月7日の空襲では2500人以上が犠牲となり多大な被害を出すなど、豊川海軍工廠は本市の近代史を理解する上で欠くことのできない歴史的事象である。
戦後、工廠跡地は工業団地、陸上自衛隊豊川駐屯地などに生まれ変わり復興を果たすが、ここ豊川海軍工廠平和公園及びその周辺地域では、空襲の被害を免れた旧工廠施設が名古屋大学の研究施設として再利用され、戦争遺跡として価値がクローズアップされてきた。
本事業は、戦争の記憶を伝えるモノ、豊川市の近代史を語るに欠かせない豊川海軍工廠を象徴する遺跡として「旧第三信管置場」「旧第一火薬庫」を保存することを目的とし豊川海軍工廠平和公園整備事業として、保存・修理を実施したものである。

工事概要
保存対象である「旧第三信管置場」と「旧第一火薬庫」は倉庫の一種であり、保管するものが火器に関わるものだったため、発火の原因を極力避け、また万一の場合にも周囲に被害を及ぼさないように工夫されていた。終戦後、名古屋大学が研究施設として活用する際に軽微な改装を施したが、この二つの遺構は当時の姿をよく伝えている。
しかしながら、長年の風雨によって破損・老朽化が進み、また遺構の周囲には草木が繁茂していたため、保存・修理の方針は、第一にこの貴重な戦争遺構を安全で容易に公開できる状態に復すること、第二に遺構のこれまでの時間経過を見学者が体験できるよう、破損・老朽化した部分すべてを建設当時の姿に修復するのではなく、部分的な復原にとどめることとした。

海軍の錨マーク付きの木材

豊川海軍工廠で使用されたと考えられるフライス盤と旋盤
(名古屋大学寄贈)
ここにある2台の機械は、名古屋大学空電研究所(現宇宙地球環境研究所)で観測用機器の制作や補修等のために使用されてきたものです。右側が横フライス盤(切削加工を行う工作機械で、刃物が回転して切削を行う)、左側が旋盤(切削加工を行う工作機械で、フライス盤と違い製品が回転して切削を行う)で、取り付けられているプレートから、横フライス盤は昭和16年(1941)、旋盤は昭和17年(1942)の製造と考えられます。当時としては高性能な機械であり、海軍工廠の使用機器を戦後に払い下げを受けたものと考えられます。

フライス盤
昭和17年
旋盤
昭和16年

建物を取り囲む土塁

豊川海軍工廠の北側エリアには、生産品の機銃の弾丸などで使用する火薬類を取り扱う建物が多くありました。これらの建物には土塁に取り囲まれたものがありますが、これは爆発事故が起きた際に、周囲に被害が及ばないようにするためのものです。本公園及び隣接する名古屋大学豊川キャンパス内には、このような建物を取り囲む土塁が数箇所残っており、土塁内外の基底部にコンクリート側溝を設けるもn(Aタイプ)と、土塁の外側には側溝を設けず(素掘り側溝が存在した可能性はあります)、内側の建物に石組みを備えた素掘り側溝を設けるもの(Bタイプ)があることが分かっています。また、土塁内外にはトンネルを介して出入りしますが、Aタイプは幅が広いトンネル、Bタイプは幅が狭いトンネルが設けられています。この二つのタイプの土塁構造は同時期の工法差ではなく、建設時期の差によるものと思われ、AタイプがBタイプに先行すると考えられます。この旧第三信管置場のど類はBタイプです。

豊川海軍工廠平和公園は再整備されたばかりでした。その再整備直後に運良く足を運ぶことができたのも、ボランティアさんの説明と時間がピッタリだったのも、何かの御縁かもしれません。再整備され見学しやすくなった戦跡の一方で公園外(名古屋大学豊川キャンパス)に残存している戦跡は更地になる方向だとかで・・・

さて、次の目的地に移動します。
豊川海軍工廠の西側を南下して、名鉄豊川線の南側にある墓苑に。

豊川市諏訪墓地
(豊川海軍工廠 諏訪慰霊碑)

元豊川海軍工廠被爆による戦没者のための施設です。
豊川市

墓苑内には豊川海軍工廠で犠牲となった皆様の慰霊碑が並んでいる。
ひとつひとつと対座し、そして合掌を。

豊商健児之碑
(豊川海軍工廠学徒動員犠牲者慰霊碑)

豊橋市立商業高等学校
豊商健児之碑

碑文
 神明宮の風清く
 森厳森に溢れたり
 聖諭奉載自己完結
 いざや励まむ友よ永劫に
太平洋戦争耐なる昭和十九年四月、我等豊商健児四百四十余名は学徒勤労動員令下、使命感に燃え紫紺の桐花旗はためく母校をあとに勇躍豊川海軍工廠に出動、増産にその愛国の至誠と青春の情熱を捧げた
爾来一年五ヶ月、昭和二十年八月七日、敵B29を主力とする戦爆連合百六十九機の波状攻撃による大空襲に遭遇、二千五百有余名の犠牲者と運命を共にされた友、又学徒出陣して白雲流るる南溟の果に、波騒ぐわだつみの底に、或いは北斗の星輝くシベリヤの原野に散華された友、又志半ばにして病に斃れた友等、祖国日本の栄光を信じ護国の礎となられた学友十二名の鎮魂と世界平和を祈念し、我等の友情と団結の象徴として同級生相図り、母校創立八十周年並びに卒業四十周年を記念し此処に此の碑を建立する
昭和六十一年九月
 豊橋市立商業学校
  第十八回卒業桐八会
  第十九回卒業桐久会

松操女学校慰霊碑
(豊川海軍工廠犠牲者慰霊碑)

昭和24年8月7日建立
 松操女子高等学校職員生徒
 松操学園 同窓会
 松操高等女学校 遺友会

松操殉職者之墓

昭和24年8月7日建立

供養の碑

「若き乙女の松操よ 永遠に安らかであれ」
戦時下、豊川海軍工廠において昭和20年8月7日の空襲により二千五百余名の多くの命が奪われ豊橋松操裁縫女学校より勤労学徒として動員された教師、生徒、当校卒業の女子挺身隊の中より四十七名の若い尊い犠牲者を出したことは痛恨の極みであります。ここに五十回忌を迎えるにあたり、この思いを永久に忘れることなく、深くからだに刻みこみ、犠牲になった松操の乙女達よ心安らかれとご冥福を祈りここに供養の碑を建立するものであります。
平成6年7月8日
財団法人 松操学園

立命館大学戦没学生慰霊碑
(豊川海軍工廠学徒動員犠牲者慰霊碑)

追悼文
広島に原爆が投下された日の翌昭和二十年八月七日午前九時二十五分から約一時間にわたり豊川海軍工廠は多数の米機によって爆撃された。そのさい学徒動員として勤労奉仕のために工廠にあった立命館大学の学生のうち表記の四名はむざんにも貴い生命と輝かしい未来を奪い去られた。終戦まぢかに散華したことは痛恨のきわみで諸君の心情を思うと断腸の感を深くする。ここに碑を建てて諸君の冥福を祈り安らかな眠りを念願する。

昭和五十一年八月七日建立
立命館大学
立命館大学学友会 
立命館大学二十二年専経専法同窓会一堂 
遺族一同

豊川海軍工廠
総務部戦没者六十柱之霊塔

愛知高等実修女子校慰霊碑
(豊川海軍工廠学徒動員犠牲者慰霊碑)

学徒動員により豊川海軍工廠に出勤中爆死せる愛知高等実修女子校生徒並びに卒業生二十九柱の霊ここに眠る(略

昭和二十五年三月二十一日建立
殉職者遺族一同 
愛知実修女子高等学校教職員一同 
愛知実修女子高等学校同窓会

豊川海軍工廠行員養成所 友魂之碑

豊川海軍工廠工員養成所は中堅幹部の養成機関として昭和十五年に開設
一期生から六期生まで数えて約4千名がひたむきに学んだ
今ここに三十三年の歳月を回想し不幸にして戦禍に遇れた多くの友を偲び 第二養成所跡に之を建立した
昭和五十四年三月二十一日  
元豊川海軍工廠工員養成所 
豊養会

記念樹 

海軍教官

早稲田大学戦没学生之碑
(豊川海軍工廠犠牲者慰霊碑)

昭和二十年八月七日(一九四五)豊川海軍工廠空爆ニ殉難死シタ故学友十二名ノ慰霊菩提(略

豊川海軍工廠
会計物資部戦没者五十三柱之霊

豊川海軍工廠
会計部計算部戦没者之霊

豊川海軍工廠
会計部慰霊碑

火材料係・指材料係

豊川海軍工廠
会計部機銃材料係供養塔

感謝と哀悼を

合掌

諏訪墓地をあとにして、北上。豊川海軍工廠の南側に向かう。
南門橋の交差点にも供養塔がある。

供養塔(豊川海軍工廠・南門橋)

供養塔建立の由来
この供養塔は、古よりこの地において戦乱により不慮の最期を遂げられた諸人、豊川海軍工廠戦没者並びに当構内における殉職者諸精霊供養のため、昭和54年8月10日に建立された。
はじめ、供養塔は当構内中央に建立されたが、豊川海軍工廠戦没者のご遺族並びに関係各位のご要望もあり、豊川市の遊歩道計画と期をあわせ、広く全国の皆様のお詣りがしやすいよう当敷地に遷座、諸精霊を供養し、合わせて永くこの地の平穏と繁栄を祈念する。
平成5年8月5日
建立者 株式会社 熊谷組

哀悼の意を。。。

南門橋の供養塔から東に赴くと、かつての「正門」の地に。

豊川海軍工廠正門跡
(日本車輌製造株式会社 豊川製作所)

豊川海軍工廠の正門は、現在は日本車輌製造株式会社の門として活用されている。

豊川海軍工廠開廠記念植樹ケヤキ並木

正門から一直線に伸びるケヤキ並木は豊川海軍工廠の開庁記念植樹という。

平和の像
(豊川海軍工廠神社跡地)

平和の像由来記
豊川海軍工廠は、東アジアに戦雲がたれこめた昭和十四年十二月、重火器、弾薬を製造する目的をもって開設された。
第二次世界大戦勃発とともに規模を光学兵器等の製造にまで拡大し、徴用工員、女子挺身隊員、学徒報国隊員を各地から動員して総員五万五千人を数えたが、昭和二十年八月七日午前十時三十分、アメリカ空軍の爆撃により一瞬にして尊い二千四百七十七名の人命を失い、広大を誇った工場も壊滅した。
終戦を迎えるや戦時中全従業員をもって組織した報国会が奉仕して、妙厳寺境内に大供養塔を建立し、台座に戦死者芳名を刻して冥福を祈った。
昭和三十二年八月七日、殉国者の十三回忌を迎えるにあたり元従業員をもって八七会を結成し、英霊の慰霊会員相互の親睦につとめ、毎年八月七日には盛大な慰霊祭を執り行い今日に至っている。
この間昭和三十七年には、金沢市卯辰山山頂に豊川海軍工廠女子挺身隊殉国者乙女の像が建立され同年八月十八日八七会員が金沢市を訪れて地下に眠る女子挺身隊員の慰霊祭を執り行った。
これを契機に被爆地豊川市に平和の像建立の委員会を結成し目的達成に努力した。
これが募金にあたっては豊川市を中心に全国各地から一千三百万円の浄財を集めることができた。
像の製作は、金沢美術工芸大学教授彫刻家矩幸成氏の力作を高岡市堺鋳芸社に委嘱し、昭和四十年八月一日完成をまって陸上自衛隊豊川駐屯部隊の協力を得て輸送隊を編成し、北陸道、東海道をパレードして沿道の県庁、市役所に立寄り、八月三日現地に安着した。
途上豊川海軍工廠において戦死した従業員の遺族が涙とともに礼拝する場面が各地に展開され、平和の像建立の意義がいかに大であるかを知ることができた。
かくして昭和四十年八月七日、数千の参会者を得て盛大な除幕式を挙行した。
ちなみに八七会の名称は、豊川海軍工廠壊滅の日八月七日を意味したものである。
記念すべき像の建立にあたり、この碑を建てる。
昭和四十年八月七日  
八七会

かなざわの松
由来
この松は殉難おとめの像の建つ金沢市の卯辰山公園から平和之像と共に陸送、この所に移植したものです。
八七会

殉難おとめの像は金沢市の「卯辰山公園」にある像。石川県出身の女子挺身隊員も豊川海軍工廠にて52名が犠牲となっている。

豊川海軍工廠植樹の桜並木

1941年に豊川海軍工廠によって植樹された桜並木。桜トンネルとして愛されている。
余談だが、奥に見える三重塔は、某新興宗教団体・・・。

海軍標石

豊川海軍工廠の南側に残っている。中日新聞社豊川通信局の手前。

豊川海軍工廠戦没者供養塔

豊川稲荷の隣に。

供養塔の由来
昭和二十年八月七日午前十時三十分突如米軍機B29の大編隊が豊川海軍工廠に来襲。数千の爆弾、焼夷弾、無数の機銃弾が投下され廠内は一瞬修羅の巷と化し阿鼻叫喚のうちに職員、従業員、学徒、女子挺身隊員、雇員、傭員等の尊い命二千有余を奪ってしまった。其の惨状目を被はしめ混乱の状筆舌の及ぶところではなかった。
同年八月十五日終戦和平となるや豊川海軍工廠報国団が中心となり現地 に供養塔を建立して挺身国難に殉じた英霊二千余柱の冥福を祈らんとの議が起こり全国の資金と団員の汗の奉仕とにより十月二十五日地鎮祭を行い翌二十一年九月二十三日竣工除幕式を挙行した。
因に塔中には戦死者名簿と廠内縁りの土を納め各工場の石定盤に戦死者氏名を刻し台座周囲に組込み以て永久に冥福を祈らんとした。
偶々昭和三十二年八月七日此の地に於て英霊十三回忌法要厳修の際、生存者一同相諮り供養塔の概要を記し後世に伝えんとて此の碑を建立す。
右記す
昭和三十二年八月七日  
元豊川海軍工廠従業員生存者一同
八七会

供養塔
昭和20年10月 豊川海軍工廠従業員一同建立

供養塔の四方には、戦没者の御名前が

職員 103名
総務部 204名
指揮兵器部 122名
機銃部 346名
光学部 111名
火工部 632名
器材部 176名
会計部 178名
医務部 17名
工員養成所 83名
派遣兵員 120名

学徒 452名
 早稲田大学
 日本大学
 明治大学
 立命館専門学校
 摂南工業専門学校
 豊橋市立工業学校
 豊橋中学校
 豊橋第三中学校
 豊橋市立商業学校
 豊川中学校
 成章中学校
 豊橋市立第二商業学校
 豊橋松操高等女学校
 豊橋桜ヶ丘高等女学校
 豊橋市立高等女学校
 豊橋市立女子商業学校
 豊橋高等家政女学校
 愛知高等実修女学校
 新城高等女学校
 国府高等女学校
 豊川高等女学校
 気賀高等女学校
 緑ヶ丘高等女学校
 誠心高等女学校
 国府国民学校
 牛久保国民学校
 前芝国民学校
 豊川国民学校
 小坂井東国民学校
 一宮西部国民学校
 八南国民学校

合計2544名

それぞれのお名前が刻まれていた。

感謝と哀悼を・・・

大慈地蔵尊

昭和二十年八月七日、当市に於ける戦災没者二千四百三十九霊の成仏と永劫の冥福を祈り茲に大慈地蔵尊を造顕し奉る

供養塔の後方の森の中に。

明治27-8年 明治37-8年
戦没牛馬記念碑

明治39年秋再建
三河国牛馬商

今回の散策で唯一、豊川海軍工廠とは関係のない石碑。

16時過ぎ。
ひととおり豊川海軍工廠関連の散策をおえたので、レンタサイクルを返却しに桜ヶ丘ミュージアムに。ギア無しの自転車で結構頑張りました。

豊川海軍工廠、東洋随一の規模を誇った海軍工廠。
そのほんの僅かであれ、当時の様子を知ることができ、そして当時の惨劇を知ることができました。
豊川海軍工廠平和公園、良き施設でした。
しかし豊川市の平和公園の整備に感謝しつつも、その公園の対象外となった旧海軍工廠用地は売却され再開発。なんとも複雑な心持ち。ここまで残っていたものを、再開発という名のもとにいとも簡単に破壊してしまう状況に極めて悔しく。何もできずにその事実を受け入れるしかないのですが・・・。

https://www.tonichi.net/news/index.php?id=73360

この日は豊橋と豊川の戦跡をはしごしたために、知識欲も満足をしてしまい、豊川稲荷などには立ち寄らずに離脱。また豊川には来たいものです。

ありがとうございました。

〆

調布にあった醤油醸造所(解体済)

平成31年(2019)4月撮影 / 令和元年7月解体

調布駅すぐ北側の旧甲州街道。
往来するたびに立派な塀に囲われた旧家が目についてました。

「ここが醤油醸造所だった」と知って、なんとなく記録写真を撮っていたところ、なんと2019年7月に、建屋が解体されておりました。
記録しておこうと思ったのも虫の知らせだったのかもしれません。
今はもう見ることができない「調布のまちなかの想い出」。


昭和43年まで調布市内で醤油醸造業を行っていた建屋であったという。
しばらく前に当主( 井上欣一 氏)が亡くなり、屋敷の去就が気になるところとなっておりましたが先日、建屋の解体を確認いたしました。

解体はとても残念ですが、調布市民として市内にあった近代建築物としての記録を以下にとどめておきます。

井上家(調布市小島町)

創業は、明治 16 年2月という。
店舗棟は明治期
表門・塀・倉庫・醤油醸造所等の建屋は昭和7~8年(1932~33)

井上家は明治期には銀行経営を行っていた旧家。
昭和43年までは醤油醸造業を営んでいた。

店舗棟はかつては「井上銀行」であった。
2階建てのコンクリート造建築にみえるが、本来は大壁造。2階建ての塗屋造建築をコンクリート造建築のように化粧直ししたものという。
店舗物置は鉄筋コンクリート造平屋。
表門は鉄筋コンクリート造で屋根を切妻造桟瓦葺としている。

参考データ
「東京都の近代和風建築~東京都近代和風建築総合調査報告書~」
(2009年3月31日発行 編集・東京都教育庁地域教育支援部管理課)
「多摩のあゆみ」第141号
(平成23年2月15日 たましん地域文化財団)

2019年4月撮影<すべて解体済>

店舗棟(明治期)
アーチ門・店舗物置建屋(昭和7-8年)
アーチ門 (昭和7-8年)
表門 (昭和7-8年)
通用門 (昭和7-8年)
渦巻装飾が意匠的

奥に見える煙突は「醤油醸造所)」
通用門と店舗棟
店舗棟 (明治期)
通用門(昭和7-8年)
通用門 (昭和7-8年)
店舗棟 (明治期)
コンクリート塀 (昭和7-8年)
通用門 (昭和7-8年)
建屋 (昭和8年)
醤油醸造所の煙突 (昭和8年)
建屋(昭和8年)

2019年7月撮影

解体済み。

表門跡
醸造所跡
店舗棟跡

地図

USA-R556-No1-148
1947年(昭和22年)11月14日‐USA米軍撮影

GoogleMAP

https://goo.gl/maps/Yfbd1n9kju9sSkdo8


井上家は調布の旧家でもあり、調布の発展に尽力された名家でもあり。
調布市役所や文化会館(たづくり)の用地も、井上家の所有地であった。
先代の井上欣一氏のご遺贈において、平成29年にいままで調布市への長期貸与であった所有地が、調布市に寄贈となっている。
また調布市は福祉基金の名称を平成29年に「 調布市井上欣一社会福祉事業基金 」と改め、故人の功績を讃えている。
井上欣一氏は調布市議会議員・ 調布市社会福祉協議会会長 を歴任し、布多天神社総代なども尽力なされてきた御人。


調布市
https://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1517209342605/index.html

〆

私の片隅散策「呉編」その5

平成29年3月

広島・呉散策
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・呉編)


「この世界の片隅に」 私の片隅散策

すずさんの嫁いだ街「呉」
海軍と共にあった街「呉」

平成29年3月5日。私は呉にいた。
すずさん時代と海軍時代、重なる2つの時代の足跡を辿りながら呉の街を巡ってみたいと思う。


市内の中心部へ。

四つ道路

このあたりに戦後「ヤミ市」があったと。
「この世界の片隅に」では、すずさんと怪子さんが「うまあ~」した界隈ですね。 写真の向こうにみえるのは「鉢巻山」。

https://goo.gl/maps/Zr3VHG17uT5B1gN18

れんがどおり

呉の繁華街「れんがどおり」

街かど市民ギャラリー90
ヤマトギャラリー零
「このセカ」案内所(公認の聖地巡礼ご接待処)

訪れた時(2017年3月)には、ポスターやこうのさん原画展が行われていました。

呉の繁華街。
戦前は上陸した水兵さんで賑わっていた映画館などもあり、戦後は界隈で闇市もあり、今も昔も街の中心地。
れんが通りを抜けて川に沿って北上を。

東泉場跡

れんが通りの北側、この界隈が東泉場(現・栄町商店街)

「この世界の片隅に」で、すすざんが戦時中にやむおえず「砂糖」を買いに来た界隈。

「そんとな国で…生きていけるんかね…」

https://goo.gl/maps/4wR9Tvyatn5jtxVb6

砂糖を買った場所から北上すれば「三ツ蔵」。
でも迷子になって北東に進むと「朝日遊郭」。

折角だからちょっと迷子になってきます。
(灰ヶ峰の方向に歩けば迷子になるはずはないんだけど、そこは、すずさん。)

すずさんの家は、「長之木」
海軍墓地は「長迫」

朝日遊郭跡

朝日遊郭界隈。
呉空襲で灰燼に帰しており往時を偲ぶものは残っていない。

「ほいで、ここはどこね~いったい~?!」

すずさんの歩いた場所を巡り距離感を把握できる楽しさ。

https://goo.gl/maps/wWFRKygWL7V1wq4F8

千福

朝日遊郭界隈からちょっとルートを外れて酒蔵「千福」さんへ。
到着の時間は12時すぎ。
一休みを兼ねて「ギャラリー三宅屋商店」さんを見学してきましょう。

https://goo.gl/maps/7fmfWBtFRd7zz1XP8

「ギャラリー三宅屋商店」
酒蔵「千福」

伏流水
酒の源であるこの井水は、灰が峰(標高737m)の伏流水であります。

呉のシンボル「灰ヶ峰」の伏流水を使用した日本酒。
これは美味いに決まってます(思い込み強し

誇らしげな「海軍御用達」の札。

当酒蔵の日本酒は練習艦隊に積載され赤道を越えても腐らずに変味しなかった。軍艦の酒保担当より「証明書」が発行され「海軍御用達」の日本酒として人気を博し各軍艦に納入されたという。
※許可を得て撮影

呉の酒蔵「千福」さん。
「このセカ」コーナー。

監督のサイン色紙もありました。
試飲コーナーにもポスター。
(ホワイトバランスが狂ってしまいました。)

千福 と 海軍

千福 戦艦大和 パッケージ
壱の福 生貯蔵酒
弐の福 吟醸酒
参の福 純米原酒

迷わず買ってしまいました。
面白いですね、これ。 飲み比べ出来ます。

海軍御用達の日本酒「千福」
当時の日本酒は暑さに弱く夏を越すと味が変わることが多かったという。 そんな中で、呉の三宅本店の酒を積んだ艦艇は赤道を越えても味に変化がなく、艦隊の酒保委員長が感激して、これを期に海軍内で特別な人気を集めた、と。

呉が紡ぐ千福と戦艦大和のものがたり
赤道を越えども変味無し

大正九年、軍艦「浅間」を旗艦とする練習艦隊が南洋方面に遠洋航海の途中呉に入港し、当時の三宅本店の代表酒「呉鶴」を大量に積み込んで出港しました。当時、国内ですら日本酒は夏を越すとよほど保存がよくないかぎり、多少味が変わっていました。
それを艦艇に積んで赤道を往復するわけですから、それでなくても暑さに弱い傾向のある日本酒を南方に携行しても腐敗しないか、問題となったそうです。
三宅本店では断固としてこれを保証したと言われています。
果たして赤道を通過し練習地に着いた時、少しも味が変わっていないばかりでなく、再び通過してアメリカに入港したときにも変わっていなかった・・・!これには艦隊の酒保委員長が感激して、赤道通過の証明書を贈ってくださいました。これによって三宅本店の酒の真価は大いに認められ、海軍で特別の人気を集めました。

戦艦大和と千福
千福はこのように海軍御用達の日本酒として、戦艦大和にも乗組員3,332名の為に積み込まれていました。「昭和20年4月5日18:00酒保開け」沖縄海上特攻攻撃前日のことです。出撃前の士気高揚の為の宴が開かれました。どのような想いでお酒を酌み交わしたか、日本の未来を見ていたのか・・・。
大和建造の技術は、建造期間の短縮や作業の効率化を目指しブロック工法で建造されました。この大和型建造のための技術・効率的な生産管理は、戦後の日本工業・未来への礎となったのです。

お土産
お陰様で3種類揃いました。
(両脇2種類は東京TAU で以前に購入)

今回は中央の「千福もみじ吟醸~すずさんラベル~」を購入。
広島の酵母と呉の酒蔵で作られた「お酒」

お土産
「千の福 大吟醸無濾過生原酒 限定品」
広島で生まれた吟醸用酵母「広島吟醸」使用の大吟醸酒。
フルーティーな香味でしっかりした味わい。
お話をお伺いしたお姉さまおすすめの一品。

お土産
「純米酒配合 洗顔石鹸 千福」
嫁は酒が飲めないので酒ばかり買って帰るのもいかがなものかと。
純米酒由来の石鹸はレベル高いらしいので。佳いものです。

千福は、初代三宅清兵衛の母親「フク」と嫁「千登」由来。

お土産
「千福 帆布トートバッグ」
千福さんのトートバックも購入しました。
ちなみに一般的な「日本酒4合瓶(720ml)」は3本入りました。
ガッチリ丈夫で良い感じです。活用させていただきます

辰川小学校跡

千福さんを後にして一気に北上して辰川方面に。
辰川会館の南に。呉市立辰川小学校跡が残っていた。

この場所は、こうの原作「この世界の片隅に」
第9回19年5月にて描かれた「下長之木国民学校」の地。

畝原町自治会館

更に北上。
畝原町自治会館
この自治会館が、劇中の「上長之木隣保館」のモデルとされている。

このあたりから頑張れば「呉の港」を見渡すこと可能ですが撮影などは自粛致しました。
この場所から辰川バス停へと移動。

辰川バス停

この場所より奥は、「この世界の片隅に」の片渕監督が話されている狭い住宅地ゆえに立入は自粛で。

「やっぱり木炭バスは上がって来れませんでしたか」

バス停前は「上辰川橋」とありました。
この小川は上流で北條家の近くまで流れているかもしれませんね。

辰川バス停から一気に南下。
丁度バスが来ていたので乗りたいところですが、レンタサイクルゆえにバスは後回し。
坂道を一気に下っていくと見えてきました。
おなじみの「三ツ蔵」。

三ツ蔵

「この世界の片隅に」では、すずさんたちが家と街とを行ったり来たりする途中にその存在感ある佇まいでおなじみの建物ですね。

https://goo.gl/maps/cv1ZGj39VwJVXkn8A

正式名称は「旧澤原家住宅」

この地では江戸末期の尊王倒幕思想家であった宇都宮黙霖翁が晩年を過ごした地。明治20年代に澤原為綱氏の屋敷に迎えられ、明治30年に74歳でなくなったと。

広電バス「辰川線」

広電バス「辰川線」 次の予定はこれでした。
レンタサイクルをいったん駐輪して駅前から14時55分のバスに乗車。
でも辰川まで行かず一区間で下車。
まあ、あれです。バスに乗りたかったんです。
(「すずさんの嫁入り」ラリーの兼ね合い)

そうこうしていたら、そろそろ終わり。

16時すぎ。
朝に立ち寄った海上自衛隊呉集会所にもう一度立ち寄り、ラリーを終えて揃ったポストカードと記念の一枚をパチリ。
「う・ま・し・な・ん・こ・う・め・し」


今回の広島遠征でめぐったところ。
参考までにメモ

3/3午後
広島・中島本町と原爆ドーム

3/4午前
広島・江波散策

3/4午後
呉・大和ミュージアム
呉・軍港クルーズ

3/5午前
旧海軍下士官兵集会所
青葉終焉の地
アレイからすこじま
呉工廠跡
呉工廠神社跡
歴史の見える丘
大和建造ドック
呉海軍病院跡

3/5午後
亀山神社
千福三宅屋商店
長迫海軍墓地
鯛之宮神社
入船山記念館

すずさんの嫁入りラリー

などなど詰め込みすぎました。


17時。
呉駅前に到着してレンタサイクルを返却。
朝8時から借りていたので、9時間チャリチャリしていたわけですね。
結構頑張りました。
幾つか行けなかったところがありましたが、全体的には大満足です。
(ちょっと目標を詰め込みすぎました。)

今度はゆっくりと来たいです。難しいけど。

本編はこれで〆

長らくありがとうございました。

すずさんの嫁いだ街「呉」
海軍と共にあった街「呉」

その足跡は思った以上に残っていて。
なんとなく感じるすずさんの気配とともに呉の街を堪能。また行きたくなりました…


「この世界の片隅に」 散策ガイド

現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (呉市)

有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1o7HGZm0YISZ6RDNGTnoTn26_zjs&hl=en_US&ll=34.185055680214056%2C132.18369739999991&z=9

個人的に作成したメモ地図

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Q9v0RJdpnvAblLgnKXzboAPiwF4&ll=34.23842127633486%2C132.52778245274112&z=13

〆

私の片隅散策「呉編」その4

平成29年3月

広島・呉散策
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・呉編)


「この世界の片隅に」 私の片隅散策

すずさんの嫁いだ街「呉」
海軍と共にあった街「呉」

平成29年3月5日。私は呉にいた。
すずさん時代と海軍時代、重なる2つの時代の足跡を辿りながら呉の街を巡ってみたいと思う。


「歴史の見える丘」界隈から北上します。
次の目標は旧海軍病院。
この時点で時間は午前10時45分。駅前をレンタサイクルでスタートしてかれこれ2時間45分経過。
なかなかの密度ですが順調に予定をこなしております。

旧海軍練兵場跡

https://goo.gl/maps/jLENtpQJW1iBzsLAA

「入船山公園」グランド
この場所は元々は旧海軍「練兵場」。

この練兵所の後方、現在の海自呉教育隊(未撮影)の地が「呉海兵団」。
「この世界の片隅に」では、周作さんが法務の一等兵曹として訓練を受けた場所。

呉海軍病院跡

「独立行政法人国立病院機構呉医療センター」の地が、かつての「呉海軍病院」。
唯一残存する海軍病院時代の構造物とされる。
「この世界の片隅に」作中でも御見舞にいくすずさんと晴美さんが登っていきました。
「こっち?」
「病院じゃけおとなしうせんとね」

この病院の片隅に。

呉海軍病院跡
元海軍軍医少将 金井泉書

呉海軍病院沿革史を見ていたら、終戦後は大竹の海軍潜水学校跡に移動して診療再開している記事がありました。
知らずと大竹の潜水学校跡にも行ってましたましたね。

「呉海軍病院」
昭和20年9月29日に駐留軍の進駐決定により10月28日に大竹海軍潜水学校跡に移動し診療を再開。国立大竹病院となる。呉海軍病院は国立呉病院として昭和31年に再発足。

底栗車之塔(チリシャの塔)

呉海軍病院では実験動物の慰霊碑を建てて毎年慰霊祭を行っていた。
行方知れずであった慰霊碑が昭和50年に発見され、呉海軍病院の地に再び建立された。
「底栗車」とは梵語で畜生という意味。
昭和9年9月に実験動物慰霊塔が建立されている。

余談ですが。
実は、「呉海軍病院跡碑」を探すのにだいぶ苦労しました。
10分位ぐるぐると探し回ってしまい。

参考としてメモを貼っておきます。
病院敷地内は、特に立ち入りの制限は記載ありませんでしたが、常識の範囲内で静粛に。

呉軍法会議所跡

かつてこのあたりに「この世界の片隅に」の周作さん勤務先の呉軍法会議所があたという。現在は海自敷地。

亀山神社

午前11時30分。
「入船山」から北東の方向「亀山神社」に移動。
(入船山はまたのちほど戻ってまいります)

旧呉地区の総鎮守。
旧社格は県社。現在は神社本庁の別表神社。 八幡系の神社となります。

https://goo.gl/maps/TqoUk41Y3FjJcEsG8

宇佐に鎮座していた八幡神が豊後国姫島・安芸国栃原を経て大宝3年(703)8月15日に宮原村亀山(入船山)に遷座したのに始まる。
明治19年(1886)、亀山(入船山)に呉鎮守府(長官官舎)を開設するのに伴い現在地に遷座。

※写真は入船山記念館にて

旧鎮座地にあたる入船山記念館「呉鎮守府長官官舎」の敷地内には一対の狛犬」が残っていたりしますが、記念館ボランティアの人が言うには「もともとこの地に鎮座していた亀山神社の名残」だそうで。

余談。入船山記念館の話はまたのちほど。ひとまず神社に戻ります。

御朱印を頂戴致しました。
オリジナルの御朱印帳は3種類ございましたが、荷物の兼ね合いと懐の兼ね合いと際限の無さを天秤にかけて自粛致しました。

→御朱印帳
 http://www.kameyama-jinja.com/menusyuin.html

現在の亀山神社には旧海軍を感じさせる何かは格別に残っていないけど、その由緒は元鎮座地が海軍呉鎮守府ともなっており無縁ではなく。
現在の亀山神社の鎮座地も高台であり呉港を見渡す眺望。
その鎮座地の下には呉線が走っている。
さてここから市内中心地へ向かおうと思う。

散策した順番は前後するけども、ここで「入船山」に触れていきます。

入船山記念館(入船山公園)

15時10分すぎ。 「入船山記念館(入船山公園)」へ。
(先に呉市立美術館でポストカードを貰ってきてましたが「すずさんの嫁入り」ラリーなどはのちほどまとめて)

旧・東郷家住宅離れ
入船山記念館(入船山公園)

東郷平八郎が呉鎮守府参謀長(海軍大佐)時代に呉に在任していた際(1890~1891)の居宅離れ座敷。 もとは宮原もにあったものを当地に移築保存されている。 登録有形文化財指定。

通路の石

何気ないこの石畳。
「通路の石」は、日本で六番目に開通した呉市内電車(1909~1967まで57年間運行)の敷石。
うん、すずさんの時代だw

旧呉海軍工廠塔時計

大正10年(1921)に呉海軍工廠造機部屋上に設置されたもの。
昭和46年に入船山記念館内に移設。
愛知時計電機株式会社の協力を得て時計としての機能を回復。
(愛知時計電機といえば海軍ゆかりの愛知航空機)

番兵塔

警備のために長官官舎や海兵団入口に建っていたもののひとつ。
「この世界の片隅に」劇中でも類似のものが登場してましたね。
礎石は足の部分ですり減っています。昼夜この場所に水兵さんが直立されていたわけで。

ボランティアガイドの詰め所のレンガ建物は、初代の呉鎮守府の庁舎レンガを流用したものだとか。

往来安全石灯籠

明治17年に広と郷原を結ぶ旧街道に建てられた常夜燈の一つを移築。
(海軍さんとは関係ないですね。)

火薬庫

明治32年(1899)から3年かけて建てられた石造建築物。
昭和42年に警固屋高烏砲台跡から移築。
(警固屋は青葉終焉の地の近くですね。)

ちなみに火薬庫の下側はアーチ状の空間となっている。
湿気防止ですね。

要塞地帯境界柱

ここから先は軍用地!立入禁止!の境界柱。

四十五口径十年式12cm高角砲の砲身

砲身。
奥は「四十五口径十年式12cm高角砲の砲身」
手前はパロット砲?

呉鎮守府長官官舎(国指定重要文化財)

ふぁっ!? 正面の洋館部が修復工事中でした。
ちなみに私は過去にこの場所に3回来たことありますが、今回を含めて2回は修復工事中でした、とか。
まあ、こればかりはしょうがないことです。

まあ、官舎内はざっくり。
洋館部と和館部の融合が醍醐味。

世の中には良き写真が大層でまわっているので。
(修復中でモチベさがったらしいw) こちらは洋館部。

明治38年竣工。 和館部。

水蓄式重油槽

何気ない蓋は「水蓄式重油槽」
旧海軍の燃料タンク基地の水蓄式重油槽の鉄蓋。

海軍水道防火栓

明治22年(1889)
日本で2番目に竣工した近代水道(海軍水道・海軍専用)の防火栓(消火栓)。

旧・水交神社

水交社の守り神。昭和18年に海軍によって建立。
祭神は天照大神。
終戦後、海軍解体のため祭主を失った同神社は、戦災のため焼失した亀山神社の仮社殿として同神社にて奉祀。
亀山神社再建後の昭和43年4月に水交会呉支部により復元。

旧・水交会神社由来

この水交神社はこの麓にあった旧水交社の守り神として、昭和18年海軍の手によって建立され、天照大神を祀ったものである。
終戦後、海軍解体のため祭主を失った同神社は、たまたま戦災のため焼失した亀山神社の仮社殿として同神社に迎えられ同神社の祭神とともに奉祀せられた。
昭和30年、亀山神社改築後、この社殿は一時転々として一市民の手によって保存されていた。
その後、この社殿が旧水交神社のものであることが判明、水交会呉支部(旧海軍士官の会)の好意により史跡として旧形の通り昭和43年4月このところに復元したものである。

萬古清風の碑

呉鎮守府司令長官海軍大将野村直邦書
(呉鎮長官在任:昭和18年10月20日 -昭和19年7月16日)

古来より変わらない、清らかな風…

至誠の碑

これは海軍第二門の衛兵所(国立呉病院と清水丘高校との境)跡にあったもので、当時の衛兵によって、昭和19年6月8日に建てられたものをここに移したものである。
昭和42年6月8日

「入船山記念館(入船山公園)」 郷土館を見学。

うん、だんだん慣れてきたw・・・と思いきや、
すずさんの脇に「のんさん(能年玲奈さん)」のサインがあって無駄にテンションあがる私がいたり。

資料館では呉の繁華街の写真がございました。
呉四ツ道路、市内電車・・・
このあたりは呉空襲で灰燼に帰してしまいましたが、すずさんも見たであろう繁華街の光景でもあり。 (写真は明治後期ですが)

第三喞筒室の銘板

そういえば火薬庫の下に、なにやら石版が落ちていて(?)、ちょうどボランティアの人がいたので聞いてみたら「なんだろ、わかんない」と。どうやら展示準備中なのかな。
調べてみたら「第三喞筒室」銘板。どうやら呉工廠のポンプ室らしい。

そのボランティアのおじさんが面白い話を。

「戦艦大和の大きさを体感してみませんか?」
「え?」

入船山記念館と病院のある端から、突き当りまでが約263m。
これが戦艦「大和」の全長と同じ。
なんと、目の前の道路で大和の長さが体感できる!

さて、続きは、その5で。


「この世界の片隅に」 散策ガイド

現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (呉市)

有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1o7HGZm0YISZ6RDNGTnoTn26_zjs&hl=en_US&ll=34.185055680214056%2C132.18369739999991&z=9

個人的に作成したメモ地図

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Q9v0RJdpnvAblLgnKXzboAPiwF4&ll=34.23842127633486%2C132.52778245274112&z=13

〆

私の片隅散策「呉編」その2

平成29年3月

広島・呉散策
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・呉編)


「この世界の片隅に」 私の片隅散策

すずさんの嫁いだ街「呉」
海軍と共にあった街「呉」

平成29年3月5日。私は呉にいた。
すずさん時代と海軍時代、重なる2つの時代の足跡を辿りながら呉の街を巡ってみたいと思う。


朝8時過ぎ。
自転車に跨って走り出したら、目の前に「海上自衛隊呉集会所(海上自衛隊青山クラブ)」が見えてきました。
さっそくのポイントです。自転車を降りて散策してみましょう。

海軍下士官兵集会所(青山クラブ)

1903年(明治36年)4月1日に開設。
「この世界の片隅に」劇中で、すずさんが「しみじみニヤニヤしとるんじゃ」しちょった場所。

ちょっと入ってみましょう。
あっ、ここには「呉水交会」(水交会呉支部)が入っておりましたので、「水交会横須賀支部」会員の私は(一応)関係者ということでお願い致します…
→呉水交会

通路からあちこちを。
海上自衛隊関連事務所や水交会・隊友会事務所などが残っているが、使われていない部屋も多い。

節々に老朽化を感じさせる。 なかなか厳しい・・・。

この海軍下士官兵集会所の裏手は入船山。
呉鎮守府長官官舎があり、ここより南は海軍用地としてかつては立入禁止の場所。
(すずさんは周作さんが海軍関係者だったので…

呉市サイト

https://www.city.kure.lg.jp/soshiki/7/aoyama.html

https://goo.gl/maps/z35XPUS4TBNNSsNi9

海軍・呉鎮守府庁舎
( 呉地方総監部 第1庁舎 )

入船山とか旧海軍病院とかは後回しにして、レンタサイクルで一路南下します。
が、すぐに足止めw
「呉地方総監部 第1庁舎」
かつての
「帝国海軍 呉鎮守府庁舎」

もちろん中には入れないので外からチラ見だけ。

南下。
国道487号線を内陸ルートで。これが失敗。大人しく海ルート取ればよかったです。内陸ルートはアップダウンが激しくて疲労w
(海ルートは帰りの楽しみで)

道中、「大和神社」を上から。
あぁ、帰りにちゃんと参拝します。

とにかく南下していきます。

警固屋

辿り着いた先は警固屋の集落。
終戦後に刈谷さんとすずさんが音戸の農家の帰りにリアカーを押して歩いていた場所のひとつが警固屋。

「鍋桟橋跡」 昭和時代の岸壁の石垣が残る。

鍋桟橋跡 1910-1973
大正・昭和時代の桟橋係留
チェーンと岸壁の石垣

https://goo.gl/maps/9X2zDPtcivsDKKtX7

ちなみに「青山クラブ(呉集会所)」から「警固屋」まで、レンタサイクルで20分かかりました。
バスもありますので寄り道を想定せずにピンポイントで訪れる場合はバスのほうが便利。
ここに来た理由は「巡洋艦青葉終焉之地」のため。

巡洋艦青葉終焉之地

碑文
巡洋艦青葉終焉之地
元内閣総理大臣 中曽根康弘揮亳

中曽根康弘氏は昭和16年8月に海軍経理学校にて初任教育を受け、海軍主計中尉に任官。 海軍主計科士官として、第一艦隊第六戦隊の旗艦でああった巡洋艦青葉に乗艦したことがある縁あり。

建碑記

「巡洋艦青葉」は太平洋戦争のフィリピン沖海戦において昭和19年10月23日ルソン島西方で米潜水艦の魚雷を受けて大破し、呉海軍工廠に帰還しましたが、修理の見込みが立たないため防空砲台として警固屋地区の海岸に繋留されていました。
しかしながら、昭和20年7月24日と28日のアメリカ爆撃機の熾烈な爆撃を受け、「青葉」は大破着底しました。この爆撃により警固屋地区にも死者3名、民家全壊48戸という被害を生じてしまいました。
これら戦争の事実とともに、「命と平和の尊さ」を次世代に伝えるため、「青葉」に乗艦経験を有する中曽根康弘元内閣総理大臣にご揮亳いただき、終焉であるこの地に碑を建立しました。 呉市警固屋まちづくり協議会 巡洋艦青葉終焉之地碑建設保存会

一等巡洋艦青葉戦歴表

昭和2年9月20日 三菱長崎造船所にて建造
排水量 約10,000頓(改装後)
乗組員 約800名
戦没者 172名
…
昭和20年7月28日 艦載機の攻撃により後部切断着底
昭和20年8月15日 終戦となり青葉終焉

警固屋 「巡洋艦青葉終焉之地」

何のフネがおりんさるか見えたよ、晴美さん おったのは…
青葉よ
哲さん、今あんたの笑顔の端に うさぎのはねる海が鷺の渡る空が宿っていた…
(この世界の片隅に)

https://goo.gl/maps/hL4N1aytquXJEzkH8

青葉終焉の地で、その勇姿を偲ぶ。

おったのは、青葉よ…

幾多の海戦を戦い抜き、幾多の僚艦が沈んでいく中で、辛うじて呉に戻ってきた青葉。歴戦の勇艦はこの地で大破着底しその運命を終えた。

しばし静かに佇む…

※補足
呉の長迫の海軍墓地には「軍艦青葉戦没者慰霊碑」がある。
「青葉終焉の地」に訪れるのであれば、こちらの戦没者慰霊碑にもぜひ足をお運びいただければ…

青葉型重巡洋艦の1番艦「青葉」
昭和17年第一次ソロモン海戦・サボ島沖海戦で活躍。
昭和19年捷号作戦(レイテ沖海戦)で大破、かろうじて呉軍港に帰投。
修理の見込みが立たないまま昭和20年7月呉空襲で大破着底。
昭和22年7月解体完了。


午前9時過ぎ。
呉駅前でレンタサイクルを借りて早くも1時間がたちました。

青葉終焉の地が、訪問を予定していた場所で一番遠い場所でした。
さて、ここから北上していきます。
次の目的地は「アレイからすこじま公園」となります。

呉海軍工廠

レンタサイクルで北上「アレイからすこじま公園」を目指す途中に。
現在の「ダイクレ興産(株)呉第二工場」
こちらは往時の「 呉海軍工廠砲填部精密兵器工場 」という。
重厚なレンガ造りの建造物が堪らんないです。(敷地外より撮影)

https://goo.gl/maps/QBdd6jG5XnmEmASB7

アレイからすこじま公園

9時15分。
「アレイからすこじま公園」到着。
国内で唯一の「潜水艦が間近に見れる」公園。
そして旧海軍の本拠地を偲ばせる公園。
あわせて、「旧呉鎮守府兵器部護岸及び関連施設」として土木遺産認定。

魚雷揚げ下しクレーン

「アレイからすこじま公園」に保存されている「旧魚雷揚げ下しクレーン」

明治34(1901)年に設置された英国製の15トンクレーン。
旧海軍が魚雷などを潜水艦に積み込むために使用していたクレーンであり、奇跡的に戦火をまぬがれ、戦後もしばらく稼動していたという。

呉海軍工廠電気部

「アレイからすこじま公園」の向いには赤レンガ倉庫が立ち並んでおります。 現在の呉貿倉庫運輸株式会社。
かつては呉海軍工廠電気部であったと。

潜水艦

「アレイからすこじま公園」
この公園の名物は潜水艦。
こんなに間近で潜水艦を見ることが出来るのです

海軍桟橋

この桟橋も旧海軍時代の名残。

この石段も岸壁も旧海軍時代の名残。重厚です。

呉海軍工廠砲熕部と呉海軍工廠水雷部

「アレイからすこじま公園」から工場地帯に目を向けると、白い大きな建物が見える。これが旧海軍工廠砲熕部。手前が旧海軍工廠水雷部。
現在は三菱日立パワーシステムズ(旧・バブコック日立)と淀川製鋼所。

呉海軍工廠製鋼部

「アレイからすこじま公園」隣、工場敷地内に。
おそらくこのあたりの工場煙突群がたぶん旧海軍工廠製鋼部。現在の日新製鋼。 この界隈の密度はやばい。流石に呉工廠の中枢部跡。

呉海軍工廠電気部

「アレイからすこじま公園」から串山公園方面に移動。
こちらにあるのも呉海軍工廠電気部。現在はオカモト産業。
隣にある丘が串山。

呉海軍工廠 工廠神社

串山公園。 かつてここは「旧呉海軍工廠 工廠神社」であった。

御祭神は 天照大御神 ・・・であった。

工廠神社
御祭神 天照大御神
皇紀二六百年記念
昭和十五年11月建設

旧呉海軍工廠 工廠神社跡
参道を歩む。
この立派な参道の脇には「串山防空監視所」が残る。
こちらは帰りにマジマジと見てみましょう。
まずは参道の突き当りを目指します。

参道の突き当りは、礎石が残るのみであった。
空虚な空間。
手水盤と礎石が往時を物語る。
これだけ立派な参道があって、これだけ立派な礎石があっても、ここには鎮まるべき社はもう無かった。
往時を物語る時代の足跡。

ちなみに手水盤の跡に新しめのお椀が鎮座していました。
なんだろうなと思ったら近所の方がやってきて、猫に餌をあげておりました。

呉海軍工廠・工廠神社跡

串山防空監視所

工廠神社参道脇の「串山防空監視所」に近づいてみました。
神社跡の隣に平然と残っている要塞跡にちょっと興奮してます。

「串山防空監視所」を覗いてみました。
うーん、ゴミが投げ込まれてますね。

こうやって往時を物語る何かが残っているだけでも貴重な空間。

「アレイからすこじま公園」に赴く機会がございましたら、ちょっと足を伸ばしてこの「串山公園」でも往時を偲んでいただければ。
良き海軍歴史遺産です。

さて、次に移動します…

おおすみ(LST-4001)が潜水艦桟橋の隣に停泊していました。
敷地外から。
そのままIHIの工場地帯をかすめながら、大和ドック方面に向かいます。

呉海軍工廠造船部工場

現在の「株式会社IHI 呉事業所」工場敷地内にも旧海軍の面影が展示しております。
敷地外からちょっと見てみました。
旧・海軍呉工廠造船部工場

https://goo.gl/maps/wbq3UuKLYgWaXJts9

呉海軍工廠造機部庁舎

「株式会社IHI 呉事業所」工場敷地外より撮影。
かつての呉海軍工廠造機部庁舎。
この奥には呉海軍工廠造船部庁舎も残っていると(未撮影)

この隣の敷地が(ようやくの)「大和ドック」(現在のジャパンマリンユナイテッド呉造船所)となります。

次は「大和ドック」、その3へ


「この世界の片隅に」 散策ガイド

現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (呉市)

有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1o7HGZm0YISZ6RDNGTnoTn26_zjs&hl=en_US&ll=34.185055680214056%2C132.18369739999991&z=9

個人的に作成したメモ地図

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Q9v0RJdpnvAblLgnKXzboAPiwF4&ll=34.23842127633486%2C132.52778245274112&z=13

〆

習志野の戦跡散策(騎兵から空挺へ・習志野駐屯地)

平成29年8月

この日は陸自・習志野駐屯地一般開放日「習志野駐屯地夏祭り」
基地公開日に見学できる施設が「空挺館」
未訪でしたので、是非これは行っておきたい。
ついでに折角だから寄り道しながら駐屯地を目指してみました。

※第一空挺団の降下訓練初め

習志野駐屯地

空挺館 (旧御馬見所)

「空挺館」(明治44年/1911年建立)
こちらが見たかったのです。
このために習志野に脚を運んだのです。
年に何回かの基地公開日にしか入れませんから。

明治44年建立。
もともとは目黒の陸軍騎兵実施学校に明治天皇が天覧あそばされた際の「天覧台」(御馬見所 )として建設。
大正5年(1916)に習志野に騎兵学校が移転に際して当館も移築。

正面入口からは傾斜のゆるやかな帝王階段。

明治天皇が天覧されたという2階のバルコニー。

実は装飾の菊御紋は2種類あり15弁と16弁がある。
これは正規の枚数だけだと天皇陛下以外は御立所に上がれなくなってしまうため他の皇族にも配慮したためという。

明治天皇が天覧されたという2階のバルコニー。
この椅子は津田沼駅で皇族が利用された貴賓室用椅子。

貴賓用椅子
津田沼駅は明治40年9月1日に鉄道省の一駅として営業を開始。旧軍時代は騎兵旅団、騎兵学校などがあり、習志野練兵場の表玄関だったので、皇族がたくさんこの駅を利用されていた。その当時皇族が使用されていた貴賓用椅子である。

習志野原

明治天皇(諱は睦仁)が命名されたという「習志野原」の額も展示。

睦仁
習志野原

習志野之原演習行幸

明治6年4月30日に明治天皇は習志野原にて近衛兵の演習を天覧されている。

帝王の階段とも称された中央階段の装飾。

精鋭無比

中央階段踊り場に掲げられた文字は降下塔にあるものの原本。(平成24年12月取り付け。)
書家青華氏による。お孫さんが第1空挺団に所属していた際に無理を言ってかいてもらったものという。

自衛隊唯一の空挺部隊
空挺精神「精鋭無比」

空の神兵像

立像と座像と

2階部分は旧軍に関する展示。
いくつか注目してみてみましょう。

秋山好古 日本騎兵の父

日露戦争時の騎兵第1旅団長(直下に騎兵第13連隊及び騎兵第14連隊)での活躍は言うまでもなく。あとは「坂の上の雲」を参考に。

騎兵の街・習志野に縁の深き人物であり、第2代騎兵学校長でもあった。

西竹一 騎兵中佐

昭和7年ロサンゼルスオリンピック障害馬術の部で日本人としての初の金メダルを受賞。(今日に至るまで馬術の金メダルは西のみ)
男爵でもあった西は「バロン西」として社交界で愛されるも、硫黄島において戦車26連隊長として参戦し散華。

日本軍空挺部隊と空挺作戦

日本軍には陸軍と海軍とそれぞれに落下傘部隊が展開されておりました。

まず海軍としては日本史上初の落下傘降下作戦を成功させた横須賀特別陸戦隊によるメナド降下作戦(昭和17年1月11日)や続くクーバン降下作戦などの展示あり

日本海軍
横須賀鎮守府第1陸戦隊 メナド降下作戦
横須賀鎮守府第3陸戦隊 クーパン降下作戦

横一特・横三特(海軍陸戦隊)
空挺部隊の慰霊碑は海軍落下傘部隊発祥の地館山の安房神社境内にありますので参考まで

安房神社境内
海軍落下傘部隊慰霊碑 内閣総理大臣田中角栄揮毫

パレンバン空挺作戦 
昭和17年2月14日

陸軍・挺進第2聯隊
南方の石油資源確保のために精油所を空挺攻撃し占領。
陸軍が初めて実施した空挺作戦であり、日本国民が初めて落下傘部隊を知った作戦。
往時の衣装や遺品が展示

血染めのどくろ旗

パレンバン空挺作戦 昭和17年2月14日

陸軍・挺進第2聯隊第1中隊中尾隊の小隊長・長谷部正義少尉が出撃前夜に小隊員39名と共に寄せ書きしたドクロの小隊旗。中央にはドクロと共に「落下傘大明神」と記載。
長谷部少尉は降下占領作戦中に戦死。

レイテ空挺作戦 
昭和19年12月6日~

陸軍第二挺身団「高千穂部隊」
レイテに上陸した米軍に対しての防衛作戦に呼応しレイテ島ブラウェン飛行場に空挺作戦を決行。一時的に飛行場を占領したものの援護なく後退。オルモック救援降下部隊ともどもほとんどの将兵は戦死…

陸軍・義烈空挺隊
義号(沖縄)空挺作戦 
昭和20年5月24日

沖縄本島に上陸した米軍に対し陸海軍特攻機を援護するため、奥山道郎大尉率いる義烈空挺隊(97式重爆撃機12機)に乗り込み読谷・嘉手納飛行場に特攻し強行着陸・飛行場機能停止を目指した作戦。

昭和20年5月24日18時40分。
沖縄を救援するために熊本・健軍飛行場を飛び立った義烈空挺隊12機。
そのうちの1機が読谷北飛行場への強行着陸成功し破壊活動を実施。

挺進殉國
義烈空挺隊 隊長 奥山道郎

義烈空挺隊 隊長 奥山道郎 
遺書
昭和二十年五月二十二日
此の度、義烈空挺隊長を拝命 
御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します
絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります
只々感謝感激の外ありません
幼年学校入校以来十二年
諸上司の御訓誡も今日の為のように思はれます
必成以て御恩の万分の一に報ゆる覚悟であります
拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます
二十有六年親不孝を深く御詫び致します 
                          道郎
御母上様

配布資料
知っていますか?義烈空挺隊
~昭和20年5月24日夜の話~

配布資料
腹が減っては戦は出来ぬ
~義烈空挺隊「食」の話~

配布資料
神兵を癒やした観音湯
~「堤はつ」さんと義烈空挺隊~

空の神兵

空の神兵
作詞 梅木三郎
作曲 高木東六

藍より蒼き 大空に大空に
忽ち開く 百千の
真白き薔薇の 花模様
見よ落下傘 空に降り
見よ落下傘 空を征く
見よ落下傘 空を征く

空挺館の1階部分は陸自のコーナーでした。
(旧軍関連が2階)

配布資料
遠い神代の物語
~陸上自衛隊「空の神兵」事始め~

配布資料
ようこそ空挺館へ!!
習志野駐屯地広報室


駐屯地内に点在するあれこれを見て回ります。

軍人勅諭下賜五十周年記念碑

手前の砲弾のようなものは
「軍人勅諭下賜五十周年」砲弾型記念碑。
明治十五年軍人勅諭が下賜されて50周年の昭和7年に建立された記念碑。
騎兵学校建立。

軍馬慰霊之碑

軍馬慰霊之碑・秋山好古揮毫

日本騎兵の父と称された秋山好古は日露戦争時の騎兵第1旅団長であり第2代騎兵学校長であった。
この軍馬慰霊碑は秋山が逝去する1ヶ月前に揮毫され、そしてこれが絶筆となった。建立は昭和5年11月。秋山好古大将の亡くなった月であった。

日本騎兵の碑

昭和41年建立
碑文は武藤一彦(元中将・元大分市長)
裏面は秋山久三少将(最後の騎兵学校長)の筆による。

ちょうど「日本騎兵の碑」の向こう側では駐屯地イベントの大人気スポット「お化け屋敷」が展開されておりました。
大盛況。 私はしずしずと駐屯地内の石碑めぐりなどを。

94式37mm速射砲

昭和9年(皇紀2594年・1934年)に帝国陸軍が開発・採用した対戦車砲(速射砲)。
正式名称は九四式三十七粍砲 俗称は九四式三十七粍速射砲

備える防人(ひと)

空の神兵の像

古賀忠雄が昭和17年の大東亜戦争美術展にて朝日新聞社賞を受賞した名作「天降る像」が原型。
昭和19年に三宅坂の陸軍第1航空軍司令部が武蔵野市吉祥寺の成蹊大学に疎開した時に当時の司令官部屋を飾った像をベースにしている。戦後は成蹊大学から偕行社を通じ第1空挺団に寄贈。
本像は昭和46年に復元銅像化。

鎮魂之碑

「礎」の碑 初代空挺団長・衣笠駿雄揮毫
昭和33年に創隊された第1空挺団
陸軍挺進隊より継承する「挺進赴難」の伝統と「精鋭無比」を目標に部隊を練成してきたが、不幸にも志半ばで職に殉じた第1空挺団同僚先輩たち「殉職された御霊のご冥福」を慰霊。
殉職者慰霊之碑

第1空挺団殉職者慰霊之碑が立ち並ぶ空間。

「挺身赴難」「精鋭無比」の精神で志半ばで斃れられた方々に合掌

第1空挺団 本部

第1とはあるけども、第2以下はなく、日本で唯一の空挺部隊。

降下訓練塔

敷地に中央部に聳えるは「降下訓練塔」
空挺降下の訓練に使われる高さ80mをほこる訓練塔。

心字池

昭和3年、習志野に移転する前に、目黒にあった陸軍騎兵実施学校の庭園・階段・門柱などの一部を材料に建設された池。
「心」という字を型どっている。
騎兵学校時代は将校集会所の庭園として親しまれていたという。

駐屯地夏祭り

各部隊の幟がでていて、ちょっと一味違う空間。

習志野駐屯地

このあたりの建物は陸軍時代のものの可能性高し。東門近く。

習志野駐屯地東門。
このレンガの門柱も陸軍時代のものなのかどうか。
古さが漂っていましたが、詳細は不明。

位置関係

習志野駐屯地、また改めて散策したいですね。


習志野に騎兵学校が移転する前は、目黒にありました。

習志野界隈の関連はこちらも

〆

習志野の戦跡散策(鉄道聯隊と演習場跡)

平成29年8月

陸自・習志野駐屯地一般開放日「習志野駐屯地夏祭り」に赴く途中に、折角だから寄り道しながら周辺を散策してみました。

津田沼駅

午前9時。
目標地は習志野駐屯地だけど最初に降り立った駅は「津田沼」でした。

陸軍・鉄道第二聯隊兵営表門跡
(鉄道第二連隊隊門跡)

まず訪れたのがJR津田沼駅近くの「千葉工業大学」 大学正門が「陸軍・鉄道第二聯隊兵営表門跡」(鉄道第二連隊隊門跡)。登録有形文化財。

おっと、ちょうどオープンキャンパスでした。
人の出入りの合間をみてパチリ。

現在の千葉工業大学正門・国有形文化財

登録有形文化財 第12-0007号

この門は明治40年(1907年)当地に移駐した陸軍鉄道連隊第三大隊(大正7年に鉄道第二連隊に改組)兵舎の表門として使用されたものです。
第二次大戦後、ここが千葉工業大学の校地になった後も、「工大の煉瓦門」として親しまれています。
平成10年5月、国土の歴史的景観に寄与するものとして、国の登録有形文化財に指定されました。 
千葉工業大学

位置関係

津田沼駅周辺
1944年10月16日‐陸軍撮影の航空写真(8911-C1-4)

K2形機関車134号機

千葉工業大学から線路を挟んだ反対側にある公園。
習志野市「津田沼一丁目公園」

ここに鉄道連隊ゆかりの機関車が保存されている。
「K2形機関車134号機」

「K2形機関車134号機」
陸軍鉄道第2連隊の演習線で活躍し戦後は西武鉄道に払い下げられた機関車。
西武鉄道で使用されたのちにユネスコ村で静態保存。同村閉園の為に鉄道連隊ゆかりの千葉県習志野市に引き取られ当地で保存。
日本国内での現存唯一のK2形とされている。

K2形機関車134号

 この蒸気機関車は、かつてここ津田沼に本部を置いていた陸軍第2連隊がしようしていたもので、現在の新京成線敷地内にあった陸軍演習線での機関車として活躍したものです。
 この度、西武鉄道㈱ユネスコ村に保存してあったものを譲り受け、鉄道連隊ゆかりの、この津田沼一丁目公園に設置したものです。
 平成6年3月

新京成電鉄

新京成線は「カーブが多い路線」として有名。
カーブが多い理由は陸軍第2連隊時代に敷設や運転の演習の為に故意に曲げた為と。
その陸軍演習線を新京成線が一部転用した為に、ご覧の有様。
新津田沼駅から京成津田沼駅まで往時のカーブの気配を堪能しながら移動しましょう。

京成津田沼駅

京成津田沼駅から西に伸びている一本の道路。
線路脇に石碑が立っています。

御大典記念道碑

昭和4年2月建立
昭和天皇の即位(御大典)を記念して京成津田沼駅から線路に沿って谷津に向かう道路を作ったよ、という記念道。

京成津田沼駅から西に伸びる「御大典記念道」を歩く。
今でこそ普通の道ではあるが地元の寄付金などで建設されたこの「御大典記念道」は大仰な名前とともに悲願の賜物であっただろう。

陸橋の下にもひっそりと石碑が残っている。
こちらの碑は摩耗が目立っていた。

「御大典記念道」をチラリと見学して駅に戻る。 ここから陸軍鉄道連隊が敷設した線路跡の道路(鷺沼台遊歩道)を歩いてもよかったのですが、体力温存の為に京成津田沼から京成大久保までの一駅だけど電車で移動。

そういえば新京成「ふなっしー電車」がいました。

京成大久保駅

京成大久保駅周辺
1944年10月16日‐陸軍撮影の航空写真(8911-C1-4)

鉄道連隊演習線(習志野線)

京成大久保駅前の北側に、東西に伸びている遊歩道。
この道が「鉄道連隊演習線(習志野線)」
(新京成線は鉄道連隊演習線松戸線)の跡。
遊歩道としては「ハミングロード」

鉄道連隊演習線の路線図には往時の周辺情報も。
京成大久保駅の北側には「騎兵旅団司令部」「騎兵13聯隊」「騎兵14 聯隊 」「騎兵15 聯隊 」「騎兵16 聯隊 」と。 このあたりは別記事で。

https://www.google.co.jp/maps/place/35%C2%B041’10.8%22N+140%C2%B002’44.5%22E/@35.6863333,140.0451472,19z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d35.686321!4d140.045695?hl=ja

鉄道聯隊演習線跡

この地は、鉄道連隊の演習線が走っていたところです。
明治40年(1907年)東京中野にあった鉄道大隊は鉄道連隊に昇格し、千葉市と津田沼町に転営しました。この前年、津田沼-習志野間に軽便鉄道が敷設されました。日露戦争時に購入した鉄道資材を習志野の捕虜収容所跡に保管するためでした。この資材をさらに千葉の鉄道連隊材料廠に移転するため、明治41年~42年、習志野-千葉間に軽便鉄道が敷設されました。資材の移転は明治44年(1911年)に完了し、その後この鉄道は鉄道連隊の演習線路として用いられました。線路は、初期に多少のルート変更が有りましたが、津田沼-大久保-三山-高津-犢橋-宮之木-園生-千葉の約16.7㎞の区間で、軌間600mmの軽便鉄道でした。軌間1067mmや1435mmの普通鉄道が並行して布設されたこともあった様です。
津田沼に置かれた鉄道連隊第三大隊は、大正7年(1918年)に鉄道第二連隊に昇格し、この演習線や昭和7年(1932年)頃までに敷設が完了したと言われる津田沼-松戸間の演習線で、鉄道の敷設・撤去・修理の訓練や、機関車の運転訓練を行いました。
戦後、演習線の跡は津田沼-松戸間がほぼ新京成線になりました。津田沼-千葉間は、津田沼-高津間が一時期自衛隊の演習線として用いられた後、現在は大部分が道路となっています。

陸軍境界石

「陸軍習志野学校裏門」から東に歩み「鉄道連隊演習線跡」の道路と合流するあたり。往時は「演習場(練兵場)」が展開されていた場所らしい。
ここに2つありました。

https://goo.gl/maps/eDVB3c6yX1z66RVt6

「鉄道連隊演習線跡」の道路に合流してちょっと北上。
このあたりも 「演習場(練兵場)」 だったあたりなのかな。

畑の中に、仲良く葱と並んで「陸軍用地」(陸軍境界石)
見つけた時に、ちょっと笑ってしまいました。

https://goo.gl/maps/uPHJuAw7U43i863bA

鉄道連隊演習線(習志野線)

東に向かって歩いてます。

https://goo.gl/maps/1aMwiyWhZyhgSj499

演習線跡を歩みつつ。

支那囲壁砲台(旧陸軍演習場内圍壁)

異国的なものが見えてきました。

習志野演習場跡
「支那囲壁砲台」(旧陸軍演習場内圍壁) 国登録有形文化財
これは中国での戦いを想定し演習用に中国風家屋を模して作られた銃眼砲台ミニチュア。民家として一部現存している。

https://goo.gl/maps/gBE6ee7izinci81m7

号砲台跡

支那囲壁砲台から20分ほど歩く。イオンタウン東習志野の北側。

「号砲台跡」
「陸軍省所轄地」 が移設保存。
陸軍演習場習志野原の号砲台を記念して築かれた小塚。
現在は工場敷地内。道路側から小塚を眺める事が出来る。

https://goo.gl/maps/95kSWVSRovWwWdie7

本編はここまで。

京成大久保駅からの騎兵聯隊や習志野駐屯地は別にまとめます。

〆

「陸軍中野学校 ・豊多摩監獄・野方配水塔」中野の戦跡・近代史跡散策

平成29年

・陸軍中野学校
・豊多摩監獄
・野方配水塔

平成29年10月28日。
当初の予定が雨で崩れたために予定変更の散策。

さすがに中野は再開発で見るべきところはすくないけど、ちょっとだけ往時を偲ぶ痕跡を探してみました。

中野駅前

JR中野駅北口。物産展やってました。
この場所がすでに陸軍用地。戦前の「陸軍中野学校」がこのあたりに展開されていました。
何度かの開発を経て、この写真に写っている「中野区役所」と「中野サンプラザ」の地は更なる再開発になるとのことで。

中野駅の北側に「陸軍中野学校」、
その北は「豊多摩刑務所」。

戦後、陸軍中野学校の跡には警察大学校・警視庁警察学校などがあったが2001年に府中に移転。
その後は2008年に東京警察病院がこの地に移転。
また「中野四季の森公園」が整備され、明治大・帝京平成大学などが開設している。

位置関係

以下は、1944/11/07(昭19)陸軍撮影の航空写真(8921-C6-140)

中野区役所の前に、お犬様がおりまして。

陸軍中野学校よりも前の時代。江戸時代。
この地には5代将軍・徳川綱吉公の時代、元禄8年(1695)に作られた「犬屋敷」があったという。この犬像は1991年に寄贈。

中野区役所の前庭に。
中野が歩んできた歴史の一節が記載されておりました。

「中野史跡碑」(昭和43年建立)
徳川五代将軍綱吉の犬小屋、八代将軍吉宗が桃園と御立場を設置、明治に中野電信隊・鉄道隊・気球隊が創設、そして陸軍中野学校が整備、戦後のGHQ進駐から警察大学校など…。

中野四季の森公園

平成24年、警察大学校の跡地を活用してできた防災公園。
中野四季の森公園の周囲には「明治大学」「帝京平成大学」「中野セントラルパークサウス」「中野セントラルパークイースト」などが展開されている。

もちろん、この地も戦前は陸軍中野学校跡。

当地には陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊が明治30年(1897)に創設。
のちに鉄道隊と気球隊は千葉に移転。(習志野鉄道聯隊など)
当地に残った電信隊が第一電信聯隊と改称し、のちの「陸軍中野学校」へと。 電信をスタートして諜報や防諜・宣伝など秘密戦へと進化。

中野四季の森公園 いまとむかし(一部抜粋)
時は流れ、明治期から第二次世界大戦の終戦までは陸軍関係の施設がありました。陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊兵舎が明治30年(1897年)に創設され、後に交通兵旅団司令部も置かれましたが、やがて鉄道隊・気球隊は千葉県下に移転し、電信隊のみが残り、第一電信連隊と改称しました。その後にできたのが陸軍中野学校でした。この学校は『「謀報謀略の化学化」に対応するための要員養成所』として設けられたと言われています。

陸軍中野学校

スパイ養成学校と言った感じでとにかく後世のイメージは悪いですよね。

陸軍中野学校は、諜報や防諜・宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍軍学校で情報機関のひとつ。
昭和13年に防諜研究所として創設され、昭和15年には陸軍中野学校と改称。

昭和13年の創設時は東京九段(軍人会館近く)にあった愛国婦人会本部別館にあったが、昭和14年4月に旧電信隊跡地の中野に移転。

昭和19年には静岡浜松天竜に遊撃戦(ゲリラ戦)要員養成の為の「陸軍中野学校二俣分校」が開校。

昭和20年4月、空襲激化に伴い陸軍中野学校は群馬富岡に疎開。松代大本営と東京の中間地が富岡の選定理由という。
そうして疎開先の富岡で終戦。(疎開先は現在の県立富岡高校)

東京警察病院

戦後、陸軍中野学校跡に「警察大学校」「警視庁警察学校」などが開設。それらの警察学校は平成13年(2001年)に府中に移設。
2008年(平成20年)に「東京警察病院」が千代田区富士見から当地に移転し現在に至る。一応、誰でも受診出来るらしい…

陸軍中野学校址碑

東京警察病院敷地内
敷地内の北西角にある「碑」を見学。
極めてわかりにく場所。その歴史を隠すかのようにひっそりと植え込みの中に「陸軍中野学校を物語る碑」があった…

陸軍中野学校址碑
碑裏面

國際情勢の緊迫と列強秘密戦の激化に鑑み軍は昭和十三年七月九段に後方勤務要員養成所を臨設 翌年四月現在地に移設し昭和十五年八月これを陸軍中野学校と改称した
昭和二十年四月群馬県富岡町に移転するまで六星霜、全軍より厳重に審査簡抜せる要員を集め情報勤務教育を施すと共に國軍高度の秘密戦研究に当たった
創設の精神を発揚し負荷の重責を果たすため本校は特に精神の陶冶を重視してその中心として楠公社を建立 学生は夙夜この社頭に魂の修練を重ねた此の碑の立つ所即跡地である

陸軍中野学校 初代幹事 福本亀治 謹書
中野校友会 建立

「陸軍中野学校址碑」を謹書した福本氏は陸軍中野学校の創設メンバーの一人。 (岩畔豪雄中佐・秋草俊中佐・福本亀治中佐の3名が創設委員)
福本亀治氏は二・二六事件当時は東京憲兵隊特高課長で取り調べを担当。のちに中野学校幹事に就任。その後は第六方面軍憲兵隊司令官兼漢口憲兵隊長・少将。

摂政宮殿下行啓記念碑

「陸軍中野学校址碑」の隣には「摂政宮殿下行啓記念碑」
これは大正12年5月28日に当地の「中野陸軍電信隊」を摂政宮殿下(昭和天皇)が行啓されたことを記念。

碑裏には「昭和6年3月」「軍用鳩調査委員事務所職員一同」と記載あり。
中野の電信隊では軍鳩の飼育研究も行われていたのだ。

中野陸軍電信隊と軍用鳩・・・

写真は靖國神社の「鳩魂塔 」

この靖國神社「鳩魂塔」は、伝書鳩の霊を慰める為に昭和4年に中野陸軍電信隊内に建立されたことに始まる。
その後、上野恩賜公園を経て昭和57年に靖國神社に復元奉納。

軍用鳩魂の記憶は、平和を希求する「靖國神社の白鳩」へと受け継がれているのだ。


陸軍中野学校の跡から北北東の方向に歩みをすすめる。

中野区立 平和の森公園

かつての豊多摩刑務所(後の中野刑務所)
1910年に開庁、1975年に廃庁。
1985年に跡地に平和の森公園として部分開園。

中野「平和の森公園」南側。
矯正研修所東京支所と野水再生センターの間の道から垣間見れます。

旧豊多摩刑務所表門
(豊多摩監獄・中野刑務所)

後藤慶二・大正4年(1915)
旧豊多摩刑務所表門は大正時代の建築家であり35歳で急逝した後藤慶二の手による現存する唯一の建築物。 イギリス積。

豊多摩監獄設計者 後藤慶二
大正モダニズム建築の傑作 豊多摩監獄

豊多摩監獄の工事主任及び現場監督として、実質的な設計にあたったのが後藤慶二(明治16年‐大正8年・1883-1919)でした。
完成をみたのは大正4年(1915)、後藤が東京帝国大学卒業後司法省に入り、技師となってまだ6年目のことでした。洋画を学び豊かな芸術的才能を持ち合わせた後藤は、監獄という機能的な建築物の設計において、先進の技術を用いながら、大正モダニズム建築の代表作として評価される芸術的な作品を生み出しのたのです。しかし、彼は惜しくも36歳の若さで夭折しました。
中野刑務所の遺構である旧豊多摩監獄表門は、今日現存する彼の唯一の作品です。( 矯正図書館 展示より)

旧豊多摩刑務所表門から、そのまま道なりに歩いていけば「法務省 矯正研修所東京支所」に。
中野刑務所時代の塀かどうかはわからないけど、古さを感じさせる良き気配。 でもこの先は立入禁止。

矯正研修所東京支所の隣に「CAPIC刑務所作業製品展示ルーム」。
併設された「矯正会館・矯正図書館」ではちょうど矯正図書館開設五十周年特別展示が行われておりました。

「刑務所近代化の歴史とそれを支えた人びと」
まったく予定しておりませんでしたが面白そうなので立ち寄りを。

以下、興味を持った展示内容などを。

豊多摩監獄内の神社「寶樹稲荷社」
元は市ヶ谷の備中松山藩板倉家鎮守社。
明治8年の市ヶ谷監獄建設に伴い市ヶ谷監獄の鎮守社に。
大正4年に市ヶ谷監獄が豊多摩監獄に移転した際に当社も遷座。
平成27年に中野新井の新井天神・北野神社の境内稲荷社に遷座合祀。

清浦奎吾揮毫「刑は刑無きに期す」(昭和8年・複製)・尚書(書経)
清浦奎吾(1850-1942)は内務省警保局長・司法次官・司法大臣等を歴任し日本行刑制度の基礎を築いた。
1900年から1909年までは監獄協会(現在の矯正協会)の会頭・総裁。
1924年に内閣総理大臣就任。

旧豊多摩監獄(中野刑務所)で使用されていた煉瓦。
これは「桜花」が刻印された「小菅監獄製煉瓦」。
豊多摩監獄では「小菅監獄製」の他には「上敷免製」刻印の日本煉瓦製造会社製の2種類があったという。

廃庁嗟惜

惟時、昭和58年3月31日。
此の日、職員41名、在監者なく、天気麗燿なれど寒風強し。 
豊多摩監獄、豊多摩刑務所、中野刑務所と三代70年に亘り、行刑の栄光と苦難の道を一途に歩み来たりしも、今、将に永遠に終焉の帷りを閉じなんとす。
(中略)
孤独なれど粛然として消え去り行く、我が中野刑務所よ。
 静かに眠れ。
  そして、消え去れよ。
   嗚呼
昭和58年3月31日 中野刑務所長 …

矯正図書館企画展にて良き学習を。
刑務所からみる近代史というのは縁がなかったもので。

さて移動。
「平和の森公園」の平和資料展示室に行こうと思ったら…へっ?
「平和資料展示室」は展示終了、展示資料の一部は区役所に…って区役所は散策の最初だったし、区役所に戻るつもりもないのでまたの機会に。。。

北上。西武新宿線を越えて哲学堂公園近くまで歩む。

中野区立 水の塔公園

名前の通り、ここには水の塔=配水塔があります。

野方配水塔

国登録文化財
淀橋浄水場などを手がけ近代上水道の父と称された中島鋭治博士の設計。
着工は昭和2年(1927)、竣工は昭和4年。高さは33.6m、直径は約18mの鉄筋コンクリート造り。
世田谷区喜多見で多摩川から引水。
昭和41年まで稼働。東京近郊都市化のシンボル。

正面には弾痕の跡が残る。
大きくシンボル的であった給水塔も戦禍の歴史を刻んでいた。

野方配水塔
空襲時の弾丸の傷跡が残されている配水塔です。
関東大震災後、都市化による水の需要に応えるため、この地にあった給水場に、配水塔がつくられました。
この配水塔は1966(昭和41)年に配水を止め、その後、災害用給水槽として使われてきました。
中野区

旧野方配水塔(国登録文化財)

野方配水塔は、荒玉水道の給水場につくられた塔でした。荒玉水道は大正12年(1923)の関東大震災後、東京市に隣接した町村の急激な都市化による水の需要に応じるため、当時の豊多摩・北豊島両郡にある13の町々が連合して設立しました。
配水塔は、ドイツで衛生工学を学び、淀橋浄水場をつくった「近代上水道の父」中島鋭治博士(1858~1925)の設計です。
着工は昭和2年(1927)で竣工は同4年です。高さは33.6m、基部の直径約18mの鉄筋コンクリート造りです。
世田谷区の喜多見で多摩川から引水し、60万人の2時間分が貯水可能と言われ昭和41年(1966)まで使われていました。その後、解体計画もありましたが、平成22年(2010)に国登録文化財となり大切に保存されています。
ドーム型の屋根が、地域の特徴ある景観を形づくり、江古田の水道タンク・水の塔・給水塔などと親しまれてきた、東京近郊都市化のシンボルです。
平成26年2月 
中野区教育委員会

正面の「みずのとう幼稚園」側から、水の塔を臨む。
頂点の造形が配水塔にしておくにはもったないくらい美しい。

今回の中野散策編はこれでおしまい。

〆

大阪城周辺の戦跡散策

平成29年4月

平成29年4月18日。大阪に用事のあった私は午前中の空き時間を利用して大阪城界隈へ。
実に10年ぶりの大阪城公園。
普通に廻っても面白くないので、近代史跡・戦争史跡(戦跡)を中心に散策してみました。 それでは参りましょう。


大阪城の戦跡関連


大阪城公園

JR環状線「大阪城公園駅」に到着したのが午前9時頃のことでした。
この日の散策は大阪城公園駅を起点終点に城の周りをぐるぐると。
真田さんの出迎えで気分が高揚してきますね。

大阪城公園駅から大阪城ホール方面に歩く。
最初に見えてきたのが「大阪砲兵工廠跡」


大阪砲兵工廠跡

昭和34年建立の記念碑。
もとは旧本館付近にあったが、大阪城ホールが建設されたため移築された。

現在の大阪城ホールのある場所(大坂城三の丸米蔵跡地)が「大阪砲兵工廠本館跡地」。 大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)はアジア最大の規模を誇り、陸軍唯一の大口径火砲の製造拠点であったという。

余談ながら。
靖國神社第二鳥居は、1887年(明治20年)に「大阪砲兵工廠」で鋳造されたもの。 靖國神社に4つある鳥居の中で一番古く、また青銅製鳥居として日本一の大きさを誇っている。
写真は靖國神社第二鳥居(大阪砲兵工廠鋳造)


砲兵工廠荷揚げ門(第一荷積場)

大阪城ホールの北側。 「砲兵工廠荷揚げ門」(第一荷積場)
明治4年(1871)に建設されたアーチ荷揚げ門という。
周辺は立入禁止なので回りから眺める感じで。

北外堀を西に向かいます。
「大阪城桃園」がありました。


大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)

大正8年(1919)竣工。
ネオ・ルネサンス様式、煉瓦造、地上2階・地下1階の建造物。
かつては阪大校舎や自衛隊建物として使用されるも、現在は使用されておらず放置中…。


守衛詰所(もしくは便所)とされる建物

化学分析場(化学試験場)の隣に。
筋鉄門跡附近。
建物は立入禁止。
化学分析場もであるが荒廃が進んでおり先行き不安。


大阪砲兵工廠 表門(正門)跡
明治天皇聖躅碑

碑には砲兵工廠と刻まれている。
筋鉄門跡。
「大阪砲兵工廠」としては左右の石組を残す。


大阪偕行社附属小学校跡

一度、大阪城公園から外に。
外堀と学校に沿って歩く。
この学校は「追手門学院」
学校に古風な門柱があり、戦前の「大阪偕行社附属小学校」名残。

偕行社とは陸軍将校倶楽部(海軍は水交社)。
戦後、大阪偕行社解散後に小学校は「追手門学院」として存続。

大阪偕行社附属小学校は、今は中高等学校。

当時からの壁か。古風な雰囲気を残す。

陸軍標石も残っている。

意味ありげな柱。


通りすがりに目についたのが

大阪府庁舎本館

大正15年(1926)竣工。
現行の都道府県庁舎として最も古いものであると。


その「大阪府庁舎本館」の道を挟んだ隣に。

大阪連隊区庁舎跡

コンクリ壁。 敷地は工事中でした。
コンクリ壁はなんとなく残ってますね。


大阪府庁から大手門の方に向かいます。 見えてきたのが

大阪市大手前配水場高地区ポンプ場

昭和6年(1931)建造とのことで。


大阪城大手門の近くに。
近代史跡じゃないけど、ここには立ち寄らねばと思いました。

生國魂神社お旅所跡

秀吉よりも前の時代。
難波を代表する大社である生國魂神社(式内名神大社・官幣大社)は、かつてこのあたりに鎮座していたという。

さて。そろそろ大阪城へ近寄りましょう。
堀の向こうに大きく見えるのは「教育塔 」。
そちら側へはまたのちほどで参ります。


大阪陸軍兵器補給廠

大手門から城内へと侵入すると右手に「大阪城公園内城内詰所」が見えてくる。
この場所は戦前は「大阪陸軍兵器補給廠」であり、レンガ壁と門柱は、往時を偲びし現存する貴重な遺構。


大阪砲兵工廠製造の水道管

ん?なんかパイプが見えますね。 大坂城天守閣南西側の内堀にかかるパイプ、実はこれは「水道管」 日本で初めて製造された「鋳鉄管」を用いた水道管は「大阪砲兵工廠製造」の水道管なのです。 これも貴重な近代産業遺産。

石山本願寺!


豊国神社(大阪)

折角なので大阪城内の「豊国神社」に参拝。
京都と名古屋は「とよくに」で大阪は「ほうこく」だそうです。

名古屋の豊国神社さんの御朱印帳に大阪の豊国神社さんの御朱印を頂戴致しました。ありゃ、これは京都にも行かないとダメですかね。

豊臣秀吉公像。

ところでこの日の大阪城界隈は中韓の観光客がぱっと見の体感で8割ほどおられましたが、秀吉公の像で記念撮影している方々もおられましたが、それで国に帰っても大丈夫なのでしょうか。


第四師団司令部庁舎

旧・大阪市立博物館 かつての「第四師団司令部庁舎」
第4師団司令部庁舎として昭和6年(1931)3月に竣工。 市立博物館としては2001年に閉館。2017に複合施設として再開業。

今回は天守閣には登りませんでした。
今思えば登れば上から「第四師団司令部庁舎」がみれたんですね。惜しいことしましたがどのみち時間が無かったと思います。


教育勅語記念碑

売店の裏手に。訪れる人もなくひっそりと碑がございました。
「教育勅語渙発40周年記念」として大阪市内の教育者たちによって建碑されたものです。
昭和6年2月11日竣工。

朕?惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇?ムルコト宏遠?ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ……

歴史を物語る一証人として、記念碑は静かにそこにあった。
記念碑を前にして、しばし教育勅語と対座する空間。

大阪城の天守閣を背にして南下します。


地下壕入口

第四師団司令部庁舎の向かい。内堀に穴が空いてまして。 これは「地下壕入口」とのことで。 よく見るといろいろありますね。


大阪城公園の南外堀に移動。

城南射撃場跡碑

城南射撃場は昭和7年5月に陸軍によって建設。戦後は自衛隊に引き継がれ昭和43年に撤去。大阪城公園として再整備された。
訪れた際は辺り一面が桜花びらの絨毯で、記念碑に腰掛けて記念撮影している方もいたり。

城南射撃場は昭和7年5月陸軍によって建設、戦後は陸上自衛隊に引き継がれて隊員の訓練などに供されていた。昭和43年11月、大阪市の緑化100年運動の一環である大阪城公園の整備推進に協力し撤去された。
昭和44年5月24日 大阪市


南外堀にひときわ大きな塔がある。

教育塔

昭和11年(1936)建立。
教育に関する殉職者・殉難者の慰霊を目的として建設された。

「教育塔」
レリーフは「教育勅語を奉読する校長先生と子供たち」「台風から子どもを守る先生」を描いたものという。元々は教育勅語が発布された10月30日に「教育祭」が行われていたが、2008年から最終日曜となったらしい。

外堀の南からぐるりと東廻りで北上。
ちょっと行程が悪いですね。

改めて北側の山里門から再度大阪城内堀へ。
秀吉公と淀君の自刃の地。


北側の山里郭にある記念碑。

真心 碑

旧中部第三十五航空情報隊
女子防空通信手有志
昭和四十一年十一月吉日

女子防空通信隊宿舎の跡。
昭和20(1945)年6月1日の空襲で焼夷弾により焼失。

北側の山里曲輪や天守台には「機銃掃射跡」や「1トン爆弾による石垣のずれ」もあるというが…天守台のほうは、うっかり忘れていたり、機銃掃射は石垣の上ばかりみていて見逃していたりしたとか。

再訪しています


位置関係

午前9時ちょい前にスタートして11時半に駅に戻りまして。
所要時間はざっと2時間半で8キロの散策。

大阪城には意外と近代の何かが残っていて。
思ったよりは結構楽しい散策ができました。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

このエリア、取りこぼしが多いので、再訪すると思います


関連

東京砲兵工廠はこちら

〆

西淡路高射砲陣地跡(解体済)

(西淡路高射砲台・国次高射砲陣地)

平成30年(2018)8月及び令和元年(2019)6月撮影

※解体済み

大阪に出張に行く機会がありまして。
フォロワーさん(盡忠報國さん)情報で、道路新設の為に近々取り壊し予定という高射砲台跡をみてきました。


西淡路高射砲陣地
(西淡路高射砲台・国次高射砲陣地)

大阪市東淀川区

戦後に住居として再利用された高射砲台跡。


位置関係

以下、参考として。
戦後に米軍が撮影した航空写真(1948年02月20日撮影)

ファイル:USA-M18-4-21-2.jpg
地図・空中写真閲覧サービス
及び
Google航空地図を抜粋加工。

北のほうを拡大

現在の様子

3D


高射砲陣地の解体前写真

写真など。

以下は平成30年

以下は令和元年6月、まだ現状維持のままでした。


高射砲陣地の指揮所

指揮所は、2021年春の段階では、まだ残っていた。。。

〆


名古屋熱田の戦跡散策

平成29年1月

・名古屋陸軍造兵廠跡
・熱田神宮被爆鳥居
・堀川被爆護岸堤防

平成29年1月29日昼過ぎ。熱田到着。
過去、熱田神宮には何度か参拝に来たことはあった。しかしかつては熱田神宮と境外社などしか訪れておらず、で。
熱田に戦争関連の史跡が残っているとは露知らず、でした。


神宮東公園

JR熱田駅に東側に、「神宮東公園」という公園がある。
その一番北の方に、案内も特にないけどなにやら記念碑のようなものがあって、それが最初の目的地。


名古屋陸軍造兵廠跡

1904年(明37)東京砲兵工廠熱田兵器製造所として発足。
1923年(大12)名古屋工廠熱田兵器製造所。
1940年(昭15)名古屋陸軍造兵廠熱田製造所。

名古屋陸軍造兵廠シンボルマークは「名古屋城の金鯱」をイメージしたもの。

名古屋陸軍造兵廠跡・碑文

名古屋陸軍造兵廠は明治三十七年陸軍省がこの地に東京砲兵工廠分廠として創設以来昭和二十年八月の終戦まで国家の要請に応えて来た。 第二次大戦末期には本部の外、熱田・高蔵・千草・鳥居松・鷹来・楠・柳津等の製造所を有し、三万五千人が奉職して居た。 私達は多くの殉職者のご冥福と世界平和を祈ります。 碑は名古屋陸軍造兵廠のマークで名古屋城の金の鯱を象ったものである。
 昭和五十四年十一月三日
  名古屋陸軍造兵廠記念碑建立委員会

一大軍需工場であった熱田の地を偲ぶ記念碑。
いまは静かな公園の片隅に佇むこの記念碑に見向きをする人もすくなくはなってしまったが、私のような人がときより訪れるわけで。
往時を偲び、自然と手を合わせてしまう場所でもある・・・

名古屋陸軍造兵廠跡
現在はその敷地の大部分を「中京倉庫」が活用をしている。
倉庫敷地内にはおそらく往時からと思われるレンガ造りの建造物が点在しておりました。

中京倉庫敷地の一番北側。
道路に面してレンガ造りの建物が横たわっております。
これはなかなか見ごたえのある建造物ですね。

歩道橋から俯瞰してレンガ建物を見学することが出来ました。
これは圧巻。

名古屋陸軍造兵廠跡
中京倉庫の敷地内には、よく見るとほかにもレンガ建物が点在してますね。

名鉄とレンガが一緒に見れるポイントに、心がワクワクしてます。


熱田神宮

さて、続いては熱田神宮さんへ。
熱田神宮を境内境外含めじっくり参拝すると半日は余裕で消費してしまいますが、さすがに時間がないので今回はさくっと参ります。
名鉄神宮前駅の入り口から参進。
東門ですね。
・・・というか、熱田神宮宮廳の入り口ですね。

参拝。
すごい人出です・・・さすが熱田さんや。

熱田神宮さんの御朱印・・・いえ熱田神宮さんでは「御神印」と表現しております。
今回は熱田神宮さんの御神印だけを頂戴致しました。
(別宮や境内社・境外社、それぞれ参ればいろいろいただけます)

御神木 大楠
圧巻の存在感です。


熱田神宮 南の鳥居

さて本題。 熱田神宮に訪れたのは参拝したかったというのも勿論ですが、戦災の記憶がここにもあるわけで。

昭和20年6月9日。
米軍爆撃機B29が名古屋市熱田区を空襲。
熱田神宮南側の鳥居には、その時の爆弾の破片で受けた傷とされるものが残っておりました。 破片傷だけで済んでおり類焼を免れたのは奇跡的というしかなく。

さて、熱田神宮の次は、川岸に向かいます。
熱田神宮の川岸といえば、察しの良い方は「七里の渡し」(東海道熱田‐桑名の海路)を思い出すかもしれませんが、今回は七里の渡しのある堀川の対岸のちょっと北側になります。

めざす目標は愛知時計電機のすぐ隣の土手。


愛知時計電機

航空機製造メーカーとして著名であった「愛知航空機」は、まさにこの愛知時計電機から航空分門が分社した会社であり、親会社の「愛知時計電機」もまた戦前は軍需産業を担っていた。

さきほどの熱田神宮の鳥居でも触れた、昭和20年6月9日の熱田空襲の本命目標は、それこそ軍需工場であった「愛知時計電機」や「名古屋陸軍造兵廠」であった。
写真は 「愛知時計電機」 本社建屋(名古屋市まちなみデザイン貢献賞受賞)


熱田空襲 被爆堤防

堀川運河。
愛知時計電機のすぐ脇に保存されている戦跡。
そこには、 熱田空襲の爆撃を喰らった堤防が移築の上で保存されている。

被爆堤防の碑文

この護岸は、昭和八年に築造され、平成四年度から実施した「マイタウン・マイリバー整備事業」による新たな護岸の設置にあたり、撤去したものの一部である。
護岸表面にみられるくぼみは、昭和二十年六月九日のいわゆる「熱田空襲」の爆撃によりできたものである。
 平成八年三月 
  名古屋市

護岸表面にみられるくぼみ。写真では伝えにくいが、見た目以上に深くくぼんでおります。試しに10円玉を置いてみました。爆弾の破片の威力の大きさを感じることが出来ます。

往時を記録する堤防を前にして、空襲で犠牲になった方々のことを思い静かに手を合わせる。

〆

南湖院第一病舎(茅ヶ崎)

令和元年5月撮影

南湖院は神奈川県茅ヶ崎市にあったサナトリウム(結核療養所)
医師・高田畊安 (1861-1945) によって1899年9月に開院。

地名の「南湖」(なんご)によるが、濁音を嫌った高田畊安によって当施設は「なんこいん」と呼称。

全盛期の昭和10年代には敷地5万坪、建坪4500坪、病室は158室。
「東洋一のサナトリウム」と称された。

1945年5月に海軍に全面接収されて解散。
1946年8月、連合国接収。
1952年、在日米軍施設キャンプ茅ヶ崎の一部となる。
1956年、米軍の接収解除。
1979年、畊安の孫にあたる高田準三により有料老人ホームが開設。
2015年12月10日、第一病棟と付随する土地が茅ヶ崎市に寄付され、再整備。


旧南湖院第一病舎

第一病舎は、明治32年(1899年)の竣工以来幾度となく改修を経て現在に至っている。療養地として著名な湘南に残る希少な明治期の結核病棟。
木造・2階建て 延床面積:68.75坪 病室数:10
国登録有形文化財(建造物)に登録。

正面
門柱左右には「南湖院」「高田病院」

南湖院記念 太陽の郷庭園

受付で入場時間を記入して番号札をセルフで持ち出すシステム。

第一病舎

内部は整備が終わってからの公開

高田畊安碑

昭和13年5月
キリスト教を信奉していた高田畊安の独特な宗教観(神武天皇とキリストを同一視)が刻まれている。
1940年及び1942年に独特の宗教観を織り込んだ入院者ガイドブック「南湖院一覧」は「皇室ニ対シ不敬」として発禁処分。
1945年2月1日‐2日には 高田畊安 院長は特高に呼び出され出頭。その1週間後の9日後に 高田畊安 院長は83歳で死去している。

(碑・表)

イエサヤ豫言
第九章五及六
神武天皇及皇國に關はる聖書の豫言一兒は吾等の為に生れたり 一男子は吾らに賜ひたり 其の肩上に統治の政權は降さる 其の名は神智神武恒久の父平安の主と稱へらるダビデの王位の上に統治の政權は増し加はり 又其の王國の上に平和幸福は窮りなし 彼は正義と公道を以て之を立て且つ強め今よりして永遠に至る全能の主の執心は斯の事を成就したまふへし  
南湖院長醫學博士 高田畊安 謹譯  
昭和十三年五月 岡田起作 謹書

(碑・裏)
高田畊安 曽孫 増田守正 同竹子 二男 高田畊安 
勝 海舟 孫  疋田正善 同孝子 長女 同 輝子

高田畊安の妻は勝海舟の孫娘であった。

旧院長室棟

いつの建設かは不明


太陽の郷 南湖院の歴史

https://www.taiyonosato.co.jp/nankoin/

茅ヶ崎市‐指定文化財

http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/shiteibunkazai/1029671.html

〆

金沢の近代建築散策

平成30年12月 石川県金沢市

金沢市内の散策。まずは金沢城の南側にある近代建築物。

旧・石川県庁舎
(現・石川県政記念しいのき迎賓館)

大正13年(1924)に国会議事堂(東京都千代田区永田町)の設計に携わった矢橋賢吉の設計。レンガ造りを施した3階建(一部4階)の鉄筋コンクリート構造。 平成15年に県庁が移転し、現在の姿に。

正面には立派なシイノキ
「堂形のシイノキ」(国指定天然記念物)

正面から見ると堂々とした重厚な建物も、あれれ・・・
後ろから見れば近代的なガラス張り。
うーむ。

摂政殿下御手植(大正13年11月)

旧・第四高等中学校
(石川近代文学館・四高記念文化交流館)

石川県政記念しいのき迎賓館の隣に。 明治24年(1891)に建てられた旧第四高等中学校本館。国重要文化財。

「旧・第四高等中学校」 (石川近代文学館・四高記念文化交流館)
建物内部

旧・第四高等中学校門衛所

本館と同じく明治26年建造とされている。

四高記念碑

昭和33年建立

雄魂碑

第四高等学校漕艇部 琵琶湖遭難追悼記念
昭和16年に四高漕艇部員等11名が琵琶湖での練習中に殉難。 雄魂碑が建てられた。

尾山神社

明治6年(1873)、加賀藩主別邸であった金谷御殿跡に、初代加賀藩主前田利家公と正室おまつの方を祀る神社として建立。
旧社格は別格官幣社。

神門は明治8年(1875)建立、国重要文化財。
中華風を取り入れた擬洋風建築。日本最古の避雷針を持つ。

尾山神社拝殿
1873年(明治6年)建立

尾山神社 本殿
1873年(明治6年)建立

ちょうど、本殿・渡り廊下・煉瓦塀の修復工事をおこなっており。 煉瓦はマーキングされておりました。 前田梅鉢紋が施された煉瓦塀

全面ガラス張りの授与所は平成27年完成。
神門のステンドグラスとともにガラスのハイカラさを感じさせてくれる空間。 ちょと落ち着かないけど。
(拝殿脇の社務所では木製を含む何種類かの御朱印帳と月ごとに梅鉢紋印があしらわれた御朱印が頒布されておりましたが今回は戴かずで…)

尾山神社 利家公金鯰尾兜

尾山神社
前田利家公騎乗像 おまつの方座像

尾山神社 摂社金谷神社

前田家歴代藩主・当主の正室(婦人)もお祭りしている。

尾山神社神苑 加賀藩主別邸であった旧金谷御殿の庭園。

尾山神社
皇大神宮遥拝所 明治神宮遥拝所

元金沢城の二の丸の唐門。金沢城が火災に見舞われた際に、彫刻の二頭の龍が水を吹いて火災を免れたという伝説が残る。
明治3年以来、旧卯辰山招魂社(遷座前の石川護国神社)前にあったものを昭和38年に尾山神社境内地に移築。
有形文化財。

尾山神社をあとにして尾崎神社まで北上。
みちすがらの塀が古き佳き冬支度の塀。

尾崎神社(金沢東照宮)

天照大神、東照大権現(徳川家康)、加賀藩三代藩主前田利常を祀る。 当社は「金沢城の江戸」「北陸の日光」と呼ばれ崇められた。
嘉永20年(1643)に東照宮として建立。
明治7年(1874)尾崎神社と改称。
明治期に陸軍都合で現在地に遷座。
社殿・透塀が国重要文化財。

御社殿は「雪囲い」中でした。
最初は、残念っておもったけど、よく考えれば「雪囲い」の神社を見る機会のほうがよっぽどレアなので、これは逆にラッキーということで。

旧高峰家・旧検事正官舎

まったく由緒の違う家をせっとにして保存。
なかなかおもしろいコンセプト。

高峰家、高峰譲吉博士邸宅の離れが当地に移築。
で、
この地は平成7年まで金沢地方検察庁検事正官舎であった、と。

旧・金沢貯蓄銀行
(北陸銀行尾張町支店)

町民文化館(県指定有形文化財)
明治40年建築。
和洋折衷の銀行建築。明治期の銀行の姿をよく残す。

古き時代の銀行の姿を感じさせる内部

裏には煉瓦倉庫が残っている。
明治40年、本館と同時期に建造と推定。
レンガの積み方や寸法は前述の「第四高等中学校」や「金澤陸軍兵器支廠兵器庫」と共通しているとのことで。

旧石黒ファーマシー本社ビル

大正15(1926)年建築。
金沢で最も古いオフィスビルといわれている。

尾張町老舗交流館

旧商家を復元した大正浪漫の建物

茶寮不室屋

慶応元(1865)年創業の老舗麩専門店「不室屋(ふむろや)」・・・のうしろの建物。木造で良い感じです。 「旧・松田診療所」といわれております。寄ってみます。

旧・松田診療所

明治29年(1896)建築という。
近代和風住宅(兼医院) 詳細は不明。

市媛神社(大市比売神社)

通りすがりに参拝。 金沢市尾張町。
天文年中、近江国高宮の人が京都の市比売宮を勧請したと伝承。
金沢・近江町市場の氏神。

谷庄古美術店

金沢市十間町。和洋並立の店舗兼住宅。
昭和2年建造。国登録有形文化財。 洋館の一階部分が店舗。

旧・加能合同銀行本店
(現・北國銀行武蔵ヶ辻支店)

昭和7年(1932)竣工 金沢の食の観光地「近江町市場」のすぐ近く。

旧専売公社C-1号工場
(日本専売公社たばこ工場)

現在は金沢市立玉川図書館別館(金沢市玉川町)
大正2年(1913)建造。
登録有形文化財。

〆

金沢城周辺の戦跡散策

平成31年12月散策 石川県金沢市

金沢城公園

金沢城公園。
金沢城址の周辺にも、興味深いものがあるので散策してみましょう。


金沢城に残る戦跡

レンガ造りのトンネル

明治から昭和にかけて金沢城は旧陸軍の所管となり軍用施設が設けられました。このトンネルは旧陸軍によって弾薬庫が建設された明治から大正期につくられたものとされています。

明治8年(1875)に陸軍歩兵第7連隊、明治31年からは陸軍第9師団司令部が金沢城址に駐留。 弾薬庫に通じるトンネル。


鶴丸倉庫(金沢城土蔵)

国重要文化財
幕末の嘉永元年(1848)に建立。城郭内の土蔵としては最大級の規模。 明治以降は陸軍第九師団被服倉庫として使用。


第六旅団司令部

明治31年に建てられた木造平家建て建造物。
換気口には陸軍のシンボル五芒星もある。

「旧第六旅団司令部」と札はあるものも内部は公開されておらず。
それ以上の格別な案内もなく。金沢城内の西のはずれにあり、訪れる人も少なし。


ここからは金沢城の周辺に。まずは金沢城の南から南東方面へ。
ちょっと神社に立ち寄りつつ。

「石浦神社」
金沢市本多町鎮座
旧社格は県社。延喜式神名帳 加賀国加賀郡 小社「三輪神社」式内社論社。金沢市最古の神社という。
奈良時代には神仏習合し石浦山慈光院長谷寺とも。(旧日本三大長谷寺第二番所)。金沢城地の産土神。 参拝を。


陸軍第九師団長官舎

登録有形文化財
現在は石川県立美術館広坂別館

元は加賀藩家老本多氏上屋敷の地。
大正11年(1922)に第9師団の司令長官舎として建立。かつては和館も併設されていた。戦後は米軍将校官舎、金沢家庭裁判所、児童会館などで使用。平成28年に修復再整備。

玄関回りは当時の姿をよく残している。

建屋の裏側。

「陸軍第九師団長官舎」
内部は一部の部屋が公開されておりました。
かつての「応接室」
現在は石川県立美術館広坂別館修復工房ガイダンス室。

なおかつての「師団長公室」は事務室となっており非公開。

内部は一部の部屋が公開されておりました。
かつての「食堂・会議室」
現在は「多目的室」
なにかの展示会をしていました。お邪魔して室内を撮影。

現在は石川県立美術館広坂別館

長官舎の裏庭には築山が残る。
当時からの庭園の名残を感じる。


「金澤神社」
兼六園の南東に鎮座。
寛政6年(1794)、加賀藩11代藩主前田治脩が藩校明倫堂を建てた際、その鎮守社として学問の神であり前田家の祖先とされる菅原道真を奉斎する神社を創建したことにはじまる。
本殿および拝殿が登録有形文化財。

金城霊沢(きんじょうれいたく)
金沢ローカルでは著名な芋掘藤五郎伝説。
藤五郎が芋を洗っていたら、泉の水がキラキラ光って砂金が泉に溜まっていた。金洗沢と呼ばれたことが金沢の地名由来のひとつだとか。

金城霊沢碑
洞の中には碑文、天保15年(1844)建立。


石川県立能楽堂、しかし工事中。残念。

第九師団司令部庁舎と金沢偕行社

実は、この敷地内には「第九師団司令部庁舎」と「金沢偕行社」があるのだがリニューアル工事中で見学不可。東京国立近代美術館工芸館が移転してくるのだ。

つまり「近衛師団司令部庁舎」から「第九師団司令部庁舎」へ移転。


金澤陸軍兵器支廠兵器庫三棟
(石川県立歴史博物館)

手前の第一棟は大正3年(1914)、真ん中の第二棟は大正2年(1913)、奥の第3棟は明治42年(1909)に竣工。国重要文化財。
戦後は金沢美術工芸専門学校(金沢美術工芸大学)の校舎に転用され、昭和61年から石川県立歴史博物館となった。

建屋内の撮影を試みたのですが、外気との急激な寒暖の差でレンズが曇ってしまい。ほんの僅かだけ撮影。


〆