「近代建築」カテゴリーアーカイブ

習志野の戦跡散策(鉄道聯隊と演習場跡)

平成29年8月

陸自・習志野駐屯地一般開放日「習志野駐屯地夏祭り」に赴く途中に、折角だから寄り道しながら周辺を散策してみました。

津田沼駅

午前9時。
目標地は習志野駐屯地だけど最初に降り立った駅は「津田沼」でした。

陸軍・鉄道第二聯隊兵営表門跡
(鉄道第二連隊隊門跡)

まず訪れたのがJR津田沼駅近くの「千葉工業大学」 大学正門が「陸軍・鉄道第二聯隊兵営表門跡」(鉄道第二連隊隊門跡)。登録有形文化財。

おっと、ちょうどオープンキャンパスでした。
人の出入りの合間をみてパチリ。

現在の千葉工業大学正門・国有形文化財

登録有形文化財 第12-0007号

この門は明治40年(1907年)当地に移駐した陸軍鉄道連隊第三大隊(大正7年に鉄道第二連隊に改組)兵舎の表門として使用されたものです。
第二次大戦後、ここが千葉工業大学の校地になった後も、「工大の煉瓦門」として親しまれています。
平成10年5月、国土の歴史的景観に寄与するものとして、国の登録有形文化財に指定されました。 
千葉工業大学

位置関係

津田沼駅周辺
1944年10月16日‐陸軍撮影の航空写真(8911-C1-4)

K2形機関車134号機

千葉工業大学から線路を挟んだ反対側にある公園。
習志野市「津田沼一丁目公園」

ここに鉄道連隊ゆかりの機関車が保存されている。
「K2形機関車134号機」

「K2形機関車134号機」
陸軍鉄道第2連隊の演習線で活躍し戦後は西武鉄道に払い下げられた機関車。
西武鉄道で使用されたのちにユネスコ村で静態保存。同村閉園の為に鉄道連隊ゆかりの千葉県習志野市に引き取られ当地で保存。
日本国内での現存唯一のK2形とされている。

K2形機関車134号

 この蒸気機関車は、かつてここ津田沼に本部を置いていた陸軍第2連隊がしようしていたもので、現在の新京成線敷地内にあった陸軍演習線での機関車として活躍したものです。
 この度、西武鉄道㈱ユネスコ村に保存してあったものを譲り受け、鉄道連隊ゆかりの、この津田沼一丁目公園に設置したものです。
 平成6年3月

新京成電鉄

新京成線は「カーブが多い路線」として有名。
カーブが多い理由は陸軍第2連隊時代に敷設や運転の演習の為に故意に曲げた為と。
その陸軍演習線を新京成線が一部転用した為に、ご覧の有様。
新津田沼駅から京成津田沼駅まで往時のカーブの気配を堪能しながら移動しましょう。

京成津田沼駅

京成津田沼駅から西に伸びている一本の道路。
線路脇に石碑が立っています。

御大典記念道碑

昭和4年2月建立
昭和天皇の即位(御大典)を記念して京成津田沼駅から線路に沿って谷津に向かう道路を作ったよ、という記念道。

京成津田沼駅から西に伸びる「御大典記念道」を歩く。
今でこそ普通の道ではあるが地元の寄付金などで建設されたこの「御大典記念道」は大仰な名前とともに悲願の賜物であっただろう。

陸橋の下にもひっそりと石碑が残っている。
こちらの碑は摩耗が目立っていた。

「御大典記念道」をチラリと見学して駅に戻る。 ここから陸軍鉄道連隊が敷設した線路跡の道路(鷺沼台遊歩道)を歩いてもよかったのですが、体力温存の為に京成津田沼から京成大久保までの一駅だけど電車で移動。

そういえば新京成「ふなっしー電車」がいました。

京成大久保駅

京成大久保駅周辺
1944年10月16日‐陸軍撮影の航空写真(8911-C1-4)

鉄道連隊演習線(習志野線)

京成大久保駅前の北側に、東西に伸びている遊歩道。
この道が「鉄道連隊演習線(習志野線)」
(新京成線は鉄道連隊演習線松戸線)の跡。
遊歩道としては「ハミングロード」

鉄道連隊演習線の路線図には往時の周辺情報も。
京成大久保駅の北側には「騎兵旅団司令部」「騎兵13聯隊」「騎兵14 聯隊 」「騎兵15 聯隊 」「騎兵16 聯隊 」と。 このあたりは別記事で。

https://www.google.co.jp/maps/place/35%C2%B041’10.8%22N+140%C2%B002’44.5%22E/@35.6863333,140.0451472,19z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d35.686321!4d140.045695?hl=ja

鉄道聯隊演習線跡

この地は、鉄道連隊の演習線が走っていたところです。
明治40年(1907年)東京中野にあった鉄道大隊は鉄道連隊に昇格し、千葉市と津田沼町に転営しました。この前年、津田沼-習志野間に軽便鉄道が敷設されました。日露戦争時に購入した鉄道資材を習志野の捕虜収容所跡に保管するためでした。この資材をさらに千葉の鉄道連隊材料廠に移転するため、明治41年~42年、習志野-千葉間に軽便鉄道が敷設されました。資材の移転は明治44年(1911年)に完了し、その後この鉄道は鉄道連隊の演習線路として用いられました。線路は、初期に多少のルート変更が有りましたが、津田沼-大久保-三山-高津-犢橋-宮之木-園生-千葉の約16.7㎞の区間で、軌間600mmの軽便鉄道でした。軌間1067mmや1435mmの普通鉄道が並行して布設されたこともあった様です。
津田沼に置かれた鉄道連隊第三大隊は、大正7年(1918年)に鉄道第二連隊に昇格し、この演習線や昭和7年(1932年)頃までに敷設が完了したと言われる津田沼-松戸間の演習線で、鉄道の敷設・撤去・修理の訓練や、機関車の運転訓練を行いました。
戦後、演習線の跡は津田沼-松戸間がほぼ新京成線になりました。津田沼-千葉間は、津田沼-高津間が一時期自衛隊の演習線として用いられた後、現在は大部分が道路となっています。

陸軍境界石

「陸軍習志野学校裏門」から東に歩み「鉄道連隊演習線跡」の道路と合流するあたり。往時は「演習場(練兵場)」が展開されていた場所らしい。
ここに2つありました。

https://goo.gl/maps/eDVB3c6yX1z66RVt6

「鉄道連隊演習線跡」の道路に合流してちょっと北上。
このあたりも 「演習場(練兵場)」 だったあたりなのかな。

畑の中に、仲良く葱と並んで「陸軍用地」(陸軍境界石)
見つけた時に、ちょっと笑ってしまいました。

https://goo.gl/maps/uPHJuAw7U43i863bA

鉄道連隊演習線(習志野線)

東に向かって歩いてます。

https://goo.gl/maps/1aMwiyWhZyhgSj499

演習線跡を歩みつつ。

支那囲壁砲台(旧陸軍演習場内圍壁)

異国的なものが見えてきました。

習志野演習場跡
「支那囲壁砲台」(旧陸軍演習場内圍壁) 国登録有形文化財
これは中国での戦いを想定し演習用に中国風家屋を模して作られた銃眼砲台ミニチュア。民家として一部現存している。

https://goo.gl/maps/gBE6ee7izinci81m7

号砲台跡

支那囲壁砲台から20分ほど歩く。イオンタウン東習志野の北側。

「号砲台跡」
「陸軍省所轄地」 が移設保存。
陸軍演習場習志野原の号砲台を記念して築かれた小塚。
現在は工場敷地内。道路側から小塚を眺める事が出来る。

https://goo.gl/maps/95kSWVSRovWwWdie7

本編はここまで。

京成大久保駅からの騎兵聯隊や習志野駐屯地は別にまとめます。

「陸軍中野学校 ・豊多摩監獄・野方配水塔」中野の戦跡・近代史跡散策

平成29年

・陸軍中野学校
・豊多摩監獄
・野方配水塔

平成29年10月28日。
当初の予定が雨で崩れたために予定変更の散策。

さすがに中野は再開発で見るべきところはすくないけど、ちょっとだけ往時を偲ぶ痕跡を探してみました。

中野駅前

JR中野駅北口。物産展やってました。
この場所がすでに陸軍用地。戦前の「陸軍中野学校」がこのあたりに展開されていました。
何度かの開発を経て、この写真に写っている「中野区役所」と「中野サンプラザ」の地は更なる再開発になるとのことで。

中野駅の北側に「陸軍中野学校」、
その北は「豊多摩刑務所」。

戦後、陸軍中野学校の跡には警察大学校・警視庁警察学校などがあったが2001年に府中に移転。
その後は2008年に東京警察病院がこの地に移転。
また「中野四季の森公園」が整備され、明治大・帝京平成大学などが開設している。

位置関係

以下は、1944/11/07(昭19)陸軍撮影の航空写真(8921-C6-140)

中野区役所の前に、お犬様がおりまして。

陸軍中野学校よりも前の時代。江戸時代。
この地には5代将軍・徳川綱吉公の時代、元禄8年(1695)に作られた「犬屋敷」があったという。この犬像は1991年に寄贈。

中野区役所の前庭に。
中野が歩んできた歴史の一節が記載されておりました。

中野史跡碑」(昭和43年建立)
徳川五代将軍綱吉の犬小屋、八代将軍吉宗が桃園と御立場を設置、明治に中野電信隊・鉄道隊・気球隊が創設、そして陸軍中野学校が整備、戦後のGHQ進駐から警察大学校など…。

中野四季の森公園

平成24年、警察大学校の跡地を活用してできた防災公園。
中野四季の森公園の周囲には「明治大学」「帝京平成大学」「中野セントラルパークサウス」「中野セントラルパークイースト」などが展開されている。

もちろん、この地も戦前は陸軍中野学校跡。

当地には陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊が明治30年(1897)に創設。
のちに鉄道隊と気球隊は千葉に移転。(習志野鉄道聯隊など
当地に残った電信隊が第一電信聯隊と改称し、のちの「陸軍中野学校」へと。 電信をスタートして諜報や防諜・宣伝など秘密戦へと進化。

中野四季の森公園 いまとむかし(一部抜粋)
時は流れ、明治期から第二次世界大戦の終戦までは陸軍関係の施設がありました。陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊兵舎が明治30年(1897年)に創設され、後に交通兵旅団司令部も置かれましたが、やがて鉄道隊・気球隊は千葉県下に移転し、電信隊のみが残り、第一電信連隊と改称しました。その後にできたのが陸軍中野学校でした。この学校は『「謀報謀略の化学化」に対応するための要員養成所』として設けられたと言われています。

陸軍中野学校

スパイ養成学校と言った感じでとにかく後世のイメージは悪いですよね。

陸軍中野学校は、諜報や防諜・宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍軍学校で情報機関のひとつ。
昭和13年に防諜研究所として創設され、昭和15年には陸軍中野学校と改称。

昭和13年の創設時は東京九段(軍人会館近く)にあった愛国婦人会本部別館にあったが、昭和14年4月に旧電信隊跡地の中野に移転。

昭和19年には静岡浜松天竜に遊撃戦(ゲリラ戦)要員養成の為の「陸軍中野学校二俣分校」が開校。

昭和20年4月、空襲激化に伴い陸軍中野学校は群馬富岡に疎開。松代大本営と東京の中間地が富岡の選定理由という。
そうして疎開先の富岡で終戦。(疎開先は現在の県立富岡高校)

東京警察病院

戦後、陸軍中野学校跡に「警察大学校」「警視庁警察学校」などが開設。それらの警察学校は平成13年(2001年)に府中に移設。
2008年(平成20年)に「東京警察病院」が千代田区富士見から当地に移転し現在に至る。一応、誰でも受診出来るらしい…

陸軍中野学校址碑

東京警察病院敷地内
敷地内の北西角にある「碑」を見学。
極めてわかりにく場所。その歴史を隠すかのようにひっそりと植え込みの中に「陸軍中野学校を物語る碑」があった…

陸軍中野学校址碑
碑裏面

國際情勢の緊迫と列強秘密戦の激化に鑑み軍は昭和十三年七月九段に後方勤務要員養成所を臨設 翌年四月現在地に移設し昭和十五年八月これを陸軍中野学校と改称した
昭和二十年四月群馬県富岡町に移転するまで六星霜、全軍より厳重に審査簡抜せる要員を集め情報勤務教育を施すと共に國軍高度の秘密戦研究に当たった
創設の精神を発揚し負荷の重責を果たすため本校は特に精神の陶冶を重視してその中心として楠公社を建立 学生は夙夜この社頭に魂の修練を重ねた此の碑の立つ所即跡地である

陸軍中野学校 初代幹事 福本亀治 謹書
中野校友会 建立

「陸軍中野学校址碑」を謹書した福本氏は陸軍中野学校の創設メンバーの一人。 (岩畔豪雄中佐・秋草俊中佐・福本亀治中佐の3名が創設委員)
福本亀治氏は二・二六事件当時は東京憲兵隊特高課長で取り調べを担当。のちに中野学校幹事に就任。その後は第六方面軍憲兵隊司令官兼漢口憲兵隊長・少将。

摂政宮殿下行啓記念碑

「陸軍中野学校址碑」の隣には「摂政宮殿下行啓記念碑」
これは大正12年5月28日に当地の「中野陸軍電信隊」を摂政宮殿下(昭和天皇)が行啓されたことを記念。

碑裏には「昭和6年3月」「軍用鳩調査委員事務所職員一同」と記載あり。
中野の電信隊では軍鳩の飼育研究も行われていたのだ。

中野陸軍電信隊と軍用鳩・・・

写真は靖國神社の「鳩魂塔 」

この靖國神社「鳩魂塔」は、伝書鳩の霊を慰める為に昭和4年に中野陸軍電信隊内に建立されたことに始まる。
その後、上野恩賜公園を経て昭和57年に靖國神社に復元奉納。

軍用鳩魂の記憶は、平和を希求する「靖國神社の白鳩」へと受け継がれているのだ。


陸軍中野学校の跡から北北東の方向に歩みをすすめる。

中野区立 平和の森公園

かつての豊多摩刑務所(後の中野刑務所)
1910年に開庁、1975年に廃庁。
1985年に跡地に平和の森公園として部分開園。

中野「平和の森公園」南側。
矯正研修所東京支所と野水再生センターの間の道から垣間見れます。

旧豊多摩刑務所表門
(豊多摩監獄・中野刑務所)

後藤慶二・大正4年(1915)
旧豊多摩刑務所表門は大正時代の建築家であり35歳で急逝した後藤慶二の手による現存する唯一の建築物。 イギリス積。

豊多摩監獄設計者 後藤慶二
大正モダニズム建築の傑作 豊多摩監獄

豊多摩監獄の工事主任及び現場監督として、実質的な設計にあたったのが後藤慶二(明治16年‐大正8年・1883-1919)でした。
完成をみたのは大正4年(1915)、後藤が東京帝国大学卒業後司法省に入り、技師となってまだ6年目のことでした。洋画を学び豊かな芸術的才能を持ち合わせた後藤は、監獄という機能的な建築物の設計において、先進の技術を用いながら、大正モダニズム建築の代表作として評価される芸術的な作品を生み出しのたのです。しかし、彼は惜しくも36歳の若さで夭折しました。
中野刑務所の遺構である旧豊多摩監獄表門は、今日現存する彼の唯一の作品です。( 矯正図書館 展示より)

旧豊多摩刑務所表門から、そのまま道なりに歩いていけば「法務省 矯正研修所東京支所」に。
中野刑務所時代の塀かどうかはわからないけど、古さを感じさせる良き気配。 でもこの先は立入禁止。

矯正研修所東京支所の隣に「CAPIC刑務所作業製品展示ルーム」。
併設された「矯正会館・矯正図書館」ではちょうど矯正図書館開設五十周年特別展示が行われておりました。

「刑務所近代化の歴史とそれを支えた人びと」
まったく予定しておりませんでしたが面白そうなので立ち寄りを。

以下、興味を持った展示内容などを。

豊多摩監獄内の神社「寶樹稲荷社」
元は市ヶ谷の備中松山藩板倉家鎮守社。
明治8年の市ヶ谷監獄建設に伴い市ヶ谷監獄の鎮守社に。
大正4年に市ヶ谷監獄が豊多摩監獄に移転した際に当社も遷座。
平成27年に中野新井の新井天神・北野神社の境内稲荷社に遷座合祀。

清浦奎吾揮毫「刑は刑無きに期す」(昭和8年・複製)・尚書(書経)
清浦奎吾(1850-1942)は内務省警保局長・司法次官・司法大臣等を歴任し日本行刑制度の基礎を築いた。
1900年から1909年までは監獄協会(現在の矯正協会)の会頭・総裁。
1924年に内閣総理大臣就任。

旧豊多摩監獄(中野刑務所)で使用されていた煉瓦。
これは「桜花」が刻印された「小菅監獄製煉瓦」。
豊多摩監獄では「小菅監獄製」の他には「上敷免製」刻印の日本煉瓦製造会社製の2種類があったという。

廃庁嗟惜

惟時、昭和58年3月31日。
此の日、職員41名、在監者なく、天気麗燿なれど寒風強し。 
豊多摩監獄、豊多摩刑務所、中野刑務所と三代70年に亘り、行刑の栄光と苦難の道を一途に歩み来たりしも、今、将に永遠に終焉の帷りを閉じなんとす。
(中略)
孤独なれど粛然として消え去り行く、我が中野刑務所よ。
 静かに眠れ。
  そして、消え去れよ。
   嗚呼
昭和58年3月31日 中野刑務所長 …

矯正図書館企画展にて良き学習を。
刑務所からみる近代史というのは縁がなかったもので。

さて移動。
「平和の森公園」の平和資料展示室に行こうと思ったら…へっ?
「平和資料展示室」は展示終了、展示資料の一部は区役所に…って区役所は散策の最初だったし、区役所に戻るつもりもないのでまたの機会に。。。

北上。西武新宿線を越えて哲学堂公園近くまで歩む。

中野区立 水の塔公園

名前の通り、ここには水の塔=配水塔があります。

野方配水塔

国登録文化財
淀橋浄水場などを手がけ近代上水道の父と称された中島鋭治博士の設計。
着工は昭和2年(1927)、竣工は昭和4年。高さは33.6m、直径は約18mの鉄筋コンクリート造り。
世田谷区喜多見で多摩川から引水。
昭和41年まで稼働。東京近郊都市化のシンボル。

正面には弾痕の跡が残る。
大きくシンボル的であった給水塔も戦禍の歴史を刻んでいた。

野方配水塔
空襲時の弾丸の傷跡が残されている配水塔です。
関東大震災後、都市化による水の需要に応えるため、この地にあった給水場に、配水塔がつくられました。
この配水塔は1966(昭和41)年に配水を止め、その後、災害用給水槽として使われてきました。
中野区

旧野方配水塔(国登録文化財)

野方配水塔は、荒玉水道の給水場につくられた塔でした。荒玉水道は大正12年(1923)の関東大震災後、東京市に隣接した町村の急激な都市化による水の需要に応じるため、当時の豊多摩・北豊島両郡にある13の町々が連合して設立しました。
配水塔は、ドイツで衛生工学を学び、淀橋浄水場をつくった「近代上水道の父」中島鋭治博士(1858~1925)の設計です。
着工は昭和2年(1927)で竣工は同4年です。高さは33.6m、基部の直径約18mの鉄筋コンクリート造りです。
世田谷区の喜多見で多摩川から引水し、60万人の2時間分が貯水可能と言われ昭和41年(1966)まで使われていました。その後、解体計画もありましたが、平成22年(2010)に国登録文化財となり大切に保存されています。
ドーム型の屋根が、地域の特徴ある景観を形づくり、江古田の水道タンク・水の塔・給水塔などと親しまれてきた、東京近郊都市化のシンボルです。
平成26年2月 
中野区教育委員会

正面の「みずのとう幼稚園」側から、水の塔を臨む。
頂点の造形が配水塔にしておくにはもったないくらい美しい。

今回の中野散策編はこれでおしまい。

大阪城周辺の戦跡散策

平成29年4月

平成29年4月18日。大阪に用事のあった私は午前中の空き時間を利用して大阪城界隈へ。
実に10年ぶりの大阪城公園。
普通に廻っても面白くないので、近代史跡・戦争史跡(戦跡)を中心に散策してみました。 それでは参りましょう。


大阪城の戦跡関連


大阪城公園

JR環状線「大阪城公園駅」に到着したのが午前9時頃のことでした。
この日の散策は大阪城公園駅を起点終点に城の周りをぐるぐると。
真田さんの出迎えで気分が高揚してきますね。

大阪城公園駅から大阪城ホール方面に歩く。
最初に見えてきたのが「大阪砲兵工廠跡」


大阪砲兵工廠跡

昭和34年建立の記念碑。
もとは旧本館付近にあったが、大阪城ホールが建設されたため移築された。

現在の大阪城ホールのある場所(大坂城三の丸米蔵跡地)が「大阪砲兵工廠本館跡地」。 大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)はアジア最大の規模を誇り、陸軍唯一の大口径火砲の製造拠点であったという。

余談ながら。
靖國神社第二鳥居は、1887年(明治20年)に「大阪砲兵工廠」で鋳造されたもの。 靖國神社に4つある鳥居の中で一番古く、また青銅製鳥居として日本一の大きさを誇っている。
写真は靖國神社第二鳥居(大阪砲兵工廠鋳造)


砲兵工廠荷揚げ門(第一荷積場)

大阪城ホールの北側。 「砲兵工廠荷揚げ門」(第一荷積場)
明治4年(1871)に建設されたアーチ荷揚げ門という。
周辺は立入禁止なので回りから眺める感じで。

北外堀を西に向かいます。
「大阪城桃園」がありました。


大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)

大正8年(1919)竣工。
ネオ・ルネサンス様式、煉瓦造、地上2階・地下1階の建造物。
かつては阪大校舎や自衛隊建物として使用されるも、現在は使用されておらず放置中…。


守衛詰所(もしくは便所)とされる建物

化学分析場(化学試験場)の隣に。
筋鉄門跡附近。
建物は立入禁止。
化学分析場もであるが荒廃が進んでおり先行き不安。


大阪砲兵工廠 表門(正門)跡
明治天皇聖躅碑

碑には砲兵工廠と刻まれている。
筋鉄門跡。
「大阪砲兵工廠」としては左右の石組を残す。


大阪偕行社附属小学校跡

一度、大阪城公園から外に。
外堀と学校に沿って歩く。
この学校は「追手門学院」
学校に古風な門柱があり、戦前の「大阪偕行社附属小学校」名残。

偕行社とは陸軍将校倶楽部(海軍は水交社)。
戦後、大阪偕行社解散後に小学校は「追手門学院」として存続。

大阪偕行社附属小学校は、今は中高等学校。

当時からの壁か。古風な雰囲気を残す。

陸軍標石も残っている。

意味ありげな柱。


通りすがりに目についたのが

大阪府庁舎本館

大正15年(1926)竣工。
現行の都道府県庁舎として最も古いものであると。


その「大阪府庁舎本館」の道を挟んだ隣に。

大阪連隊区庁舎跡

コンクリ壁。 敷地は工事中でした。
コンクリ壁はなんとなく残ってますね。


大阪府庁から大手門の方に向かいます。 見えてきたのが

大阪市大手前配水場高地区ポンプ場

昭和6年(1931)建造とのことで。


大阪城大手門の近くに。
近代史跡じゃないけど、ここには立ち寄らねばと思いました。

生國魂神社お旅所跡

秀吉よりも前の時代。
難波を代表する大社である生國魂神社(式内名神大社・官幣大社)は、かつてこのあたりに鎮座していたという。

さて。そろそろ大阪城へ近寄りましょう。
堀の向こうに大きく見えるのは「教育塔 」。
そちら側へはまたのちほどで参ります。


大阪陸軍兵器補給廠

大手門から城内へと侵入すると右手に「大阪城公園内城内詰所」が見えてくる。
この場所は戦前は「大阪陸軍兵器補給廠」であり、レンガ壁と門柱は、往時を偲びし現存する貴重な遺構。


大阪砲兵工廠製造の水道管

ん?なんかパイプが見えますね。 大坂城天守閣南西側の内堀にかかるパイプ、実はこれは「水道管」 日本で初めて製造された「鋳鉄管」を用いた水道管は「大阪砲兵工廠製造」の水道管なのです。 これも貴重な近代産業遺産。

石山本願寺!


豊国神社(大阪)

折角なので大阪城内の「豊国神社」に参拝。
京都と名古屋は「とよくに」で大阪は「ほうこく」だそうです。

名古屋の豊国神社さんの御朱印帳に大阪の豊国神社さんの御朱印を頂戴致しました。ありゃ、これは京都にも行かないとダメですかね。

豊臣秀吉公像。

ところでこの日の大阪城界隈は中韓の観光客がぱっと見の体感で8割ほどおられましたが、秀吉公の像で記念撮影している方々もおられましたが、それで国に帰っても大丈夫なのでしょうか。


第四師団司令部庁舎

旧・大阪市立博物館 かつての「第四師団司令部庁舎」
第4師団司令部庁舎として昭和6年(1931)3月に竣工。 市立博物館としては2001年に閉館。2017に複合施設として再開業。

今回は天守閣には登りませんでした。
今思えば登れば上から「第四師団司令部庁舎」がみれたんですね。惜しいことしましたがどのみち時間が無かったと思います。


教育勅語記念碑

売店の裏手に。訪れる人もなくひっそりと碑がございました。
「教育勅語渙発40周年記念」として大阪市内の教育者たちによって建碑されたものです。
昭和6年2月11日竣工。

朕?惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇?ムルコト宏遠?ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ……

歴史を物語る一証人として、記念碑は静かにそこにあった。
記念碑を前にして、しばし教育勅語と対座する空間。

大阪城の天守閣を背にして南下します。


地下壕入口

第四師団司令部庁舎の向かい。内堀に穴が空いてまして。 これは「地下壕入口」とのことで。 よく見るといろいろありますね。


大阪城公園の南外堀に移動。

城南射撃場跡碑

城南射撃場は昭和7年5月に陸軍によって建設。戦後は自衛隊に引き継がれ昭和43年に撤去。大阪城公園として再整備された。
訪れた際は辺り一面が桜花びらの絨毯で、記念碑に腰掛けて記念撮影している方もいたり。

城南射撃場は昭和7年5月陸軍によって建設、戦後は陸上自衛隊に引き継がれて隊員の訓練などに供されていた。昭和43年11月、大阪市の緑化100年運動の一環である大阪城公園の整備推進に協力し撤去された。
昭和44年5月24日 大阪市


南外堀にひときわ大きな塔がある。

教育塔

昭和11年(1936)建立。
教育に関する殉職者・殉難者の慰霊を目的として建設された。

「教育塔」
レリーフは「教育勅語を奉読する校長先生と子供たち」「台風から子どもを守る先生」を描いたものという。元々は教育勅語が発布された10月30日に「教育祭」が行われていたが、2008年から最終日曜となったらしい。

外堀の南からぐるりと東廻りで北上。
ちょっと行程が悪いですね。

改めて北側の山里門から再度大阪城内堀へ。
秀吉公と淀君の自刃の地。


北側の山里郭にある記念碑。

真心 碑

旧中部第三十五航空情報隊
女子防空通信手有志
昭和四十一年十一月吉日

女子防空通信隊宿舎の跡。
昭和20(1945)年6月1日の空襲で焼夷弾により焼失。

北側の山里曲輪や天守台には「機銃掃射跡」や「1トン爆弾による石垣のずれ」もあるというが…天守台のほうは、うっかり忘れていたり、機銃掃射は石垣の上ばかりみていて見逃していたりしたとか。

再訪しています


位置関係

午前9時ちょい前にスタートして11時半に駅に戻りまして。
所要時間はざっと2時間半で8キロの散策。

大阪城には意外と近代の何かが残っていて。
思ったよりは結構楽しい散策ができました。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

このエリア、取りこぼしが多いので、再訪すると思います


関連

東京砲兵工廠はこちら

西淡路高射砲陣地跡(解体済)

(西淡路高射砲台・国次高射砲陣地)

平成30年(2018)8月及び令和元年(2019)6月撮影

※解体済み

大阪に出張に行く機会がありまして。
フォロワーさん(盡忠報國さん)情報で、道路新設の為に近々取り壊し予定という高射砲台跡をみてきました。


西淡路高射砲陣地
(西淡路高射砲台・国次高射砲陣地)

大阪市東淀川区

戦後に住居として再利用された高射砲台跡。


位置関係

以下、参考として。
戦後に米軍が撮影した航空写真(1948年02月20日撮影)

ファイル:USA-M18-4-21-2.jpg
地図・空中写真閲覧サービス
及び
Google航空地図を抜粋加工。

北のほうを拡大

現在の様子

3D


高射砲陣地の解体前写真

写真など。

以下は平成30年

以下は令和元年6月、まだ現状維持のままでした。


高射砲陣地の指揮所

指揮所は、2021年春の段階では、まだ残っていた。。。


名古屋熱田の戦跡散策

平成29年1月

・名古屋陸軍造兵廠跡
・熱田神宮被爆鳥居
・堀川被爆護岸堤防

平成29年1月29日昼過ぎ。熱田到着。
過去、熱田神宮には何度か参拝に来たことはあった。しかしかつては熱田神宮と境外社などしか訪れておらず、で。
熱田に戦争関連の史跡が残っているとは露知らず、でした。


神宮東公園

JR熱田駅に東側に、「神宮東公園」という公園がある。
その一番北の方に、案内も特にないけどなにやら記念碑のようなものがあって、それが最初の目的地。


名古屋陸軍造兵廠跡

1904年(明37)東京砲兵工廠熱田兵器製造所として発足。
1923年(大12)名古屋工廠熱田兵器製造所。
1940年(昭15)名古屋陸軍造兵廠熱田製造所。

名古屋陸軍造兵廠シンボルマークは「名古屋城の金鯱」をイメージしたもの。

名古屋陸軍造兵廠跡・碑文

名古屋陸軍造兵廠は明治三十七年陸軍省がこの地に東京砲兵工廠分廠として創設以来昭和二十年八月の終戦まで国家の要請に応えて来た。 第二次大戦末期には本部の外、熱田・高蔵・千草・鳥居松・鷹来・楠・柳津等の製造所を有し、三万五千人が奉職して居た。 私達は多くの殉職者のご冥福と世界平和を祈ります。 碑は名古屋陸軍造兵廠のマークで名古屋城の金の鯱を象ったものである。
 昭和五十四年十一月三日
  名古屋陸軍造兵廠記念碑建立委員会

一大軍需工場であった熱田の地を偲ぶ記念碑。
いまは静かな公園の片隅に佇むこの記念碑に見向きをする人もすくなくはなってしまったが、私のような人がときより訪れるわけで。
往時を偲び、自然と手を合わせてしまう場所でもある・・・

名古屋陸軍造兵廠跡
現在はその敷地の大部分を「中京倉庫」が活用をしている。
倉庫敷地内にはおそらく往時からと思われるレンガ造りの建造物が点在しておりました。

中京倉庫敷地の一番北側。
道路に面してレンガ造りの建物が横たわっております。
これはなかなか見ごたえのある建造物ですね。

歩道橋から俯瞰してレンガ建物を見学することが出来ました。
これは圧巻。

名古屋陸軍造兵廠跡
中京倉庫の敷地内には、よく見るとほかにもレンガ建物が点在してますね。

名鉄とレンガが一緒に見れるポイントに、心がワクワクしてます。


熱田神宮

さて、続いては熱田神宮さんへ。
熱田神宮を境内境外含めじっくり参拝すると半日は余裕で消費してしまいますが、さすがに時間がないので今回はさくっと参ります。
名鉄神宮前駅の入り口から参進。
東門ですね。
・・・というか、熱田神宮宮廳の入り口ですね。

参拝。
すごい人出です・・・さすが熱田さんや。

熱田神宮さんの御朱印・・・いえ熱田神宮さんでは「御神印」と表現しております。
今回は熱田神宮さんの御神印だけを頂戴致しました。
(別宮や境内社・境外社、それぞれ参ればいろいろいただけます)

御神木 大楠
圧巻の存在感です。


熱田神宮 南の鳥居

さて本題。 熱田神宮に訪れたのは参拝したかったというのも勿論ですが、戦災の記憶がここにもあるわけで。

昭和20年6月9日。
米軍爆撃機B29が名古屋市熱田区を空襲。
熱田神宮南側の鳥居には、その時の爆弾の破片で受けた傷とされるものが残っておりました。 破片傷だけで済んでおり類焼を免れたのは奇跡的というしかなく。

さて、熱田神宮の次は、川岸に向かいます。
熱田神宮の川岸といえば、察しの良い方は「七里の渡し」(東海道熱田‐桑名の海路)を思い出すかもしれませんが、今回は七里の渡しのある堀川の対岸のちょっと北側になります。

めざす目標は愛知時計電機のすぐ隣の土手。


愛知時計電機

航空機製造メーカーとして著名であった「愛知航空機」は、まさにこの愛知時計電機から航空分門が分社した会社であり、親会社の「愛知時計電機」もまた戦前は軍需産業を担っていた。

さきほどの熱田神宮の鳥居でも触れた、昭和20年6月9日の熱田空襲の本命目標は、それこそ軍需工場であった「愛知時計電機」や「名古屋陸軍造兵廠」であった。
写真は 「愛知時計電機」 本社建屋(名古屋市まちなみデザイン貢献賞受賞)


熱田空襲 被爆堤防

堀川運河。
愛知時計電機のすぐ脇に保存されている戦跡。
そこには、 熱田空襲の爆撃を喰らった堤防が移築の上で保存されている。

被爆堤防の碑文

この護岸は、昭和八年に築造され、平成四年度から実施した「マイタウン・マイリバー整備事業」による新たな護岸の設置にあたり、撤去したものの一部である。
護岸表面にみられるくぼみは、昭和二十年六月九日のいわゆる「熱田空襲」の爆撃によりできたものである。
 平成八年三月 
  名古屋市

護岸表面にみられるくぼみ。写真では伝えにくいが、見た目以上に深くくぼんでおります。試しに10円玉を置いてみました。爆弾の破片の威力の大きさを感じることが出来ます。

往時を記録する堤防を前にして、空襲で犠牲になった方々のことを思い静かに手を合わせる。

南湖院第一病舎(茅ヶ崎)

令和元年5月撮影

南湖院は神奈川県茅ヶ崎市にあったサナトリウム(結核療養所)
医師・高田畊安 (1861-1945) によって1899年9月に開院。

地名の「南湖」(なんご)によるが、濁音を嫌った高田畊安によって当施設は「なんこいん」と呼称。

全盛期の昭和10年代には敷地5万坪、建坪4500坪、病室は158室。
「東洋一のサナトリウム」と称された。

1945年5月に海軍に全面接収されて解散。
1946年8月、連合国接収。
1952年、在日米軍施設キャンプ茅ヶ崎の一部となる。
1956年、米軍の接収解除。
1979年、畊安の孫にあたる高田準三により有料老人ホームが開設。
2015年12月10日、第一病棟と付随する土地が茅ヶ崎市に寄付され、再整備。


旧南湖院第一病舎

第一病舎は、明治32年(1899年)の竣工以来幾度となく改修を経て現在に至っている。療養地として著名な湘南に残る希少な明治期の結核病棟。
木造・2階建て 延床面積:68.75坪 病室数:10
国登録有形文化財(建造物)に登録。

正面
門柱左右には「南湖院」「高田病院」

南湖院記念 太陽の郷庭園

受付で入場時間を記入して番号札をセルフで持ち出すシステム。

第一病舎

内部は整備が終わってからの公開

高田畊安碑

昭和13年5月
キリスト教を信奉していた高田畊安の独特な宗教観(神武天皇とキリストを同一視)が刻まれている。
1940年及び1942年に独特の宗教観を織り込んだ入院者ガイドブック「南湖院一覧」は「皇室ニ対シ不敬」として発禁処分。
1945年2月1日‐2日には 高田畊安 院長は特高に呼び出され出頭。その1週間後の9日後に 高田畊安 院長は83歳で死去している。

(碑・表)

イエサヤ豫言
第九章五及六
神武天皇及皇國に關はる聖書の豫言一兒は吾等の為に生れたり 一男子は吾らに賜ひたり 其の肩上に統治の政權は降さる 其の名は神智神武恒久の父平安の主と稱へらるダビデの王位の上に統治の政權は増し加はり 又其の王國の上に平和幸福は窮りなし 彼は正義と公道を以て之を立て且つ強め今よりして永遠に至る全能の主の執心は斯の事を成就したまふへし  
南湖院長醫學博士 高田畊安 謹譯  
昭和十三年五月 岡田起作 謹書

(碑・裏)
高田畊安 曽孫 増田守正 同竹子 二男 高田畊安 
勝 海舟 孫  疋田正善 同孝子 長女 同 輝子

高田畊安の妻は勝海舟の孫娘であった。

旧院長室棟

いつの建設かは不明


太陽の郷 南湖院の歴史

https://www.taiyonosato.co.jp/nankoin/

茅ヶ崎市‐指定文化財

http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/shiteibunkazai/1029671.html

金沢の近代建築散策

平成30年12月 石川県金沢市

金沢市内の散策。まずは金沢城の南側にある近代建築物。

旧・石川県庁舎
(現・石川県政記念しいのき迎賓館)

大正13年(1924)に国会議事堂(東京都千代田区永田町)の設計に携わった矢橋賢吉の設計。レンガ造りを施した3階建(一部4階)の鉄筋コンクリート構造。 平成15年に県庁が移転し、現在の姿に。

正面には立派なシイノキ
「堂形のシイノキ」(国指定天然記念物)

正面から見ると堂々とした重厚な建物も、あれれ・・・
後ろから見れば近代的なガラス張り。
うーむ。

摂政殿下御手植(大正13年11月)

旧・第四高等中学校
(石川近代文学館・四高記念文化交流館)

石川県政記念しいのき迎賓館の隣に。 明治24年(1891)に建てられた旧第四高等中学校本館。国重要文化財。

「旧・第四高等中学校」 (石川近代文学館・四高記念文化交流館)
建物内部

旧・第四高等中学校門衛所

本館と同じく明治26年建造とされている。

四高記念碑

昭和33年建立

雄魂碑

第四高等学校漕艇部 琵琶湖遭難追悼記念
昭和16年に四高漕艇部員等11名が琵琶湖での練習中に殉難。 雄魂碑が建てられた。

尾山神社

明治6年(1873)、加賀藩主別邸であった金谷御殿跡に、初代加賀藩主前田利家公と正室おまつの方を祀る神社として建立。
旧社格は別格官幣社。

神門は明治8年(1875)建立、国重要文化財。
中華風を取り入れた擬洋風建築。日本最古の避雷針を持つ。

尾山神社拝殿
1873年(明治6年)建立

尾山神社 本殿
1873年(明治6年)建立

ちょうど、本殿・渡り廊下・煉瓦塀の修復工事をおこなっており。 煉瓦はマーキングされておりました。 前田梅鉢紋が施された煉瓦塀

全面ガラス張りの授与所は平成27年完成。
神門のステンドグラスとともにガラスのハイカラさを感じさせてくれる空間。 ちょと落ち着かないけど。
(拝殿脇の社務所では木製を含む何種類かの御朱印帳と月ごとに梅鉢紋印があしらわれた御朱印が頒布されておりましたが今回は戴かずで…)

尾山神社 利家公金鯰尾兜

尾山神社
前田利家公騎乗像 おまつの方座像

尾山神社 摂社金谷神社

前田家歴代藩主・当主の正室(婦人)もお祭りしている。

尾山神社神苑 加賀藩主別邸であった旧金谷御殿の庭園。

尾山神社
皇大神宮遥拝所 明治神宮遥拝所

元金沢城の二の丸の唐門。金沢城が火災に見舞われた際に、彫刻の二頭の龍が水を吹いて火災を免れたという伝説が残る。
明治3年以来、旧卯辰山招魂社(遷座前の石川護国神社)前にあったものを昭和38年に尾山神社境内地に移築。
有形文化財。

尾山神社をあとにして尾崎神社まで北上。
みちすがらの塀が古き佳き冬支度の塀。

尾崎神社(金沢東照宮)

天照大神、東照大権現(徳川家康)、加賀藩三代藩主前田利常を祀る。 当社は「金沢城の江戸」「北陸の日光」と呼ばれ崇められた。
嘉永20年(1643)に東照宮として建立。
明治7年(1874)尾崎神社と改称。
明治期に陸軍都合で現在地に遷座。
社殿・透塀が国重要文化財。

御社殿は「雪囲い」中でした。
最初は、残念っておもったけど、よく考えれば「雪囲い」の神社を見る機会のほうがよっぽどレアなので、これは逆にラッキーということで。

旧高峰家・旧検事正官舎

まったく由緒の違う家をせっとにして保存。
なかなかおもしろいコンセプト。

高峰家、高峰譲吉博士邸宅の離れが当地に移築。
で、
この地は平成7年まで金沢地方検察庁検事正官舎であった、と。

旧・金沢貯蓄銀行
(北陸銀行尾張町支店)

町民文化館(県指定有形文化財)
明治40年建築。
和洋折衷の銀行建築。明治期の銀行の姿をよく残す。

古き時代の銀行の姿を感じさせる内部

裏には煉瓦倉庫が残っている。
明治40年、本館と同時期に建造と推定。
レンガの積み方や寸法は前述の「第四高等中学校」や「金澤陸軍兵器支廠兵器庫」と共通しているとのことで。

旧石黒ファーマシー本社ビル

大正15(1926)年建築。
金沢で最も古いオフィスビルといわれている。

尾張町老舗交流館

旧商家を復元した大正浪漫の建物

茶寮不室屋

慶応元(1865)年創業の老舗麩専門店「不室屋(ふむろや)」・・・のうしろの建物。木造で良い感じです。 「旧・松田診療所」といわれております。寄ってみます。

旧・松田診療所

明治29年(1896)建築という。
近代和風住宅(兼医院) 詳細は不明。

市媛神社(大市比売神社)

通りすがりに参拝。 金沢市尾張町。
天文年中、近江国高宮の人が京都の市比売宮を勧請したと伝承。
金沢・近江町市場の氏神。

谷庄古美術店

金沢市十間町。和洋並立の店舗兼住宅。
昭和2年建造。国登録有形文化財。 洋館の一階部分が店舗。

旧・加能合同銀行本店
(現・北國銀行武蔵ヶ辻支店)

昭和7年(1932)竣工 金沢の食の観光地「近江町市場」のすぐ近く。

旧専売公社C-1号工場
(日本専売公社たばこ工場)

現在は金沢市立玉川図書館別館(金沢市玉川町)
大正2年(1913)建造。
登録有形文化財。

金沢城周辺の戦跡散策

平成31年12月散策 石川県金沢市

金沢城公園

金沢城公園。
金沢城址の周辺にも、興味深いものがあるので散策してみましょう。


金沢城に残る戦跡

レンガ造りのトンネル

明治から昭和にかけて金沢城は旧陸軍の所管となり軍用施設が設けられました。このトンネルは旧陸軍によって弾薬庫が建設された明治から大正期につくられたものとされています。

明治8年(1875)に陸軍歩兵第7連隊、明治31年からは陸軍第9師団司令部が金沢城址に駐留。 弾薬庫に通じるトンネル。


鶴丸倉庫(金沢城土蔵)

国重要文化財
幕末の嘉永元年(1848)に建立。城郭内の土蔵としては最大級の規模。 明治以降は陸軍第九師団被服倉庫として使用。


第六旅団司令部

明治31年に建てられた木造平家建て建造物。
換気口には陸軍のシンボル五芒星もある。

「旧第六旅団司令部」と札はあるものも内部は公開されておらず。
それ以上の格別な案内もなく。金沢城内の西のはずれにあり、訪れる人も少なし。


ここからは金沢城の周辺に。まずは金沢城の南から南東方面へ。
ちょっと神社に立ち寄りつつ。

「石浦神社」
金沢市本多町鎮座
旧社格は県社。延喜式神名帳 加賀国加賀郡 小社「三輪神社」式内社論社。金沢市最古の神社という。
奈良時代には神仏習合し石浦山慈光院長谷寺とも。(旧日本三大長谷寺第二番所)。金沢城地の産土神。 参拝を。


陸軍第九師団長官舎

登録有形文化財
現在は石川県立美術館広坂別館

元は加賀藩家老本多氏上屋敷の地。
大正11年(1922)に第9師団の司令長官舎として建立。かつては和館も併設されていた。戦後は米軍将校官舎、金沢家庭裁判所、児童会館などで使用。平成28年に修復再整備。

玄関回りは当時の姿をよく残している。

建屋の裏側。

「陸軍第九師団長官舎」
内部は一部の部屋が公開されておりました。
かつての「応接室」
現在は石川県立美術館広坂別館修復工房ガイダンス室。

なおかつての「師団長公室」は事務室となっており非公開。

内部は一部の部屋が公開されておりました。
かつての「食堂・会議室」
現在は「多目的室」
なにかの展示会をしていました。お邪魔して室内を撮影。

現在は石川県立美術館広坂別館

長官舎の裏庭には築山が残る。
当時からの庭園の名残を感じる。


「金澤神社」
兼六園の南東に鎮座。
寛政6年(1794)、加賀藩11代藩主前田治脩が藩校明倫堂を建てた際、その鎮守社として学問の神であり前田家の祖先とされる菅原道真を奉斎する神社を創建したことにはじまる。
本殿および拝殿が登録有形文化財。

金城霊沢(きんじょうれいたく)
金沢ローカルでは著名な芋掘藤五郎伝説。
藤五郎が芋を洗っていたら、泉の水がキラキラ光って砂金が泉に溜まっていた。金洗沢と呼ばれたことが金沢の地名由来のひとつだとか。

金城霊沢碑
洞の中には碑文、天保15年(1844)建立。


石川県立能楽堂、しかし工事中。残念。

第九師団司令部庁舎と金沢偕行社

実は、この敷地内には「第九師団司令部庁舎」「金沢偕行社」があるのだがリニューアル工事中で見学不可。東京国立近代美術館工芸館が移転してくるのだ。

つまり「近衛師団司令部庁舎」から「第九師団司令部庁舎」へ移転。


金澤陸軍兵器支廠兵器庫三棟
(石川県立歴史博物館)

手前の第一棟は大正3年(1914)、真ん中の第二棟は大正2年(1913)、奥の第3棟は明治42年(1909)に竣工。国重要文化財。
戦後は金沢美術工芸専門学校(金沢美術工芸大学)の校舎に転用され、昭和61年から石川県立歴史博物館となった。

建屋内の撮影を試みたのですが、外気との急激な寒暖の差でレンズが曇ってしまい。ほんの僅かだけ撮影。


圓山貯水池と圓山水神社(台湾台北)

令和元年5月散策

スキマ時間に駆け足で。

台湾 台北市
「圓山水神社」社号標 (昭和13年4月)

最寄りは
MRT(台北捷運淡水信義線)
路線記号「R」RedLine。
剣潭駅(Jiantan ジェンタン)

「剣潭駅」 東側の山(剣潭山)の中腹に、日本統治時代を物語る史跡「円山貯水池」と「円山水神社」が残されていると言うので、足を運んでみました。

剣潭山
左の建物が 「 台北自来水事業処 陽明営業分処 」
この裏側に目指す目的地がある。
中央は「昭明寺」

水道局(台北自来水事業処 陽明営業分処)の脇の細道。

圓山水神社の案内地図が出ておりました。

水神社はこっちと矢印が。
ここは台湾台北ですが違和感なく神社が案内されております。


山道を登っていきます。


圓山貯水池

日本統治時代の社会インフラのひとつとして「近代的な水道整備」がある。
台湾総督府は明治期より水源の整備をすすめていたが、人工が急増する台北市において従来の浄水設備だけでは追いつかなくなり、台北市北部に新しい浄水設備の建設を決定する。

明治42年(1909)に台北市南部に完成した観音山浄水場を保管するために、昭和7年(1932)に台北市北部の草山浄水場が完成。
圓山貯水池も昭和3年(1928)から工事開始しており昭和7年に完成。
そうして、「草山水道系統」として草山から圓山まで水道管で結ばれそこから台北市内に送水が始まった。
台北市にとっては2番目の水道施設。


台北市指定の古蹟「草山水道系統」

圓山貯水池施設群(現在は使用されていない)
 含量水室・鋳鉄排気管・水量表・八角配水井
 圓山水神社之石碑・手洗石製水槽・石灯籠・石獅・涼亭

圓山貯水池「通気塔」

掲げられた額には「活水頭」とある。
昭和6年早春
台北市長 武藤針五郎 

圓山貯水池「八角配水井」

圓山貯水池の古蹟

中央の膨らみが埋設された「水道管」か?
貯水池は地下に。

圓山水神社(丸山水神社)

草山水道系統の施設建設は昭和3年(1928年)着工。昭和7年完成。
山の中腹ということもあり工事は難航し事故による死者も出たため、水道職員の寄付により、殉職者の慰霊と水神を祀るために圓山水神社を設けことにはじまるという。
1990年(民国79年)に荒れ果てていた神社跡を台北の水事業関係者の寄付金を募って修復したという。

この剣潭山の南側には「官幣大社 台湾神社」が鎮座していた。浄水場はその台湾神社の北側。
当時、神社を統括していた内務省の台帳に当社の記載はないため公的なものではなく、水道職員有志の私的な神社であることが伺い知れる。
創建は昭和13年4月27日。奉納された石灯籠には「昭和13年4月吉祥日」、社号標には「昭和13年4月27日」と日付が刻まれている。

当時の社殿はすでにないが、石灯篭や狛犬などが当時のままで保存されている。この地は日本統治時代の台湾水道事業の発展を物語る貴重な史跡といえるだろう。


社号標は昭和13年4月27日銘

主殿
中華風の四柱屋根の中にちいさな祠が鎮座していた。

ご由緒書

中華民国79年の再建時の石碑。(1990年、平成2年)

狛犬の台座。2017年に狛犬が盗難されてしまいました。
まだ戻ってきてません。。。盗まれたのは阿形の狛犬。

いたるところに警告がある。
2017年に水神社に落書きをし狛犬を盗難される事件があったためか・・・

もう1体の狛犬(吽型の狛犬)は無事でした。

台湾にいるのか、日本なのか、だんだんとわからなくなってきました。

奉献
水道課現業員
その下段には奉納者の名前が刻まれていた。

水盤 
 奉納 水

何やら小屋の跡。水道及び神社に関係する付随施設でしょうか。

日本統治時代の台湾を物語る古蹟。

水道施設としては昭和7年から、
水道施設の守り神「水神社」としては昭和13年に創建して、
そして昭和20年に終戦。

わずか7年の信仰からの断絶。
戦後の台湾においては多くの神社が破却された中で、当地では奇跡的に社号標や石灯籠、狛犬などが残っていた。これは歴史の中では伝承されていないが「残そうと尽力してくれた人々の力」があったからに違いない。

そうして1990年にかつての神社跡は台湾の人々の手によって修復され祠も設けられ「水神社」は再興している。

台湾で神社に拝する。
台湾の人々によって、日本式に祀られた祠。
国を超えた空間に感慨深いものが多く。


MRT(台北捷運淡水信義線)
路線記号「R」RedLine。
車中から。

日本統治時代は、「台湾神宮」の地。

きっとここにまた来ることになりそうです。
それが何時になるかはわかりませんが。


ちょこっと台湾台北散策

令和元年5月

隙間の時間に。ほんの少しだけ。時間がほとんどなかったので。

行政院(旧 台北市役所)

日本統治時代の昭和15年(1940)竣工。

監察院(旧 台北州庁舎)

大正4年(1915年)竣工。修復工事中でした。

立法院(旧 台北第二高等女学校 )

竣工年代は不詳。

濟南基督長老教会
(旧 日本基督教団台北幸町教会)

1916年(大正5年)竣工。台湾宗教100景

台北駅

現在の駅舎は4代目。1989年竣工。

台湾鉄路管理局
LDK50型蒸気機関車

もとは、日本統治時代の台湾総督府鉄道が1915年(大正4年)から762mm軌間の台東線で使用するために導入。

展示のLDK58号は1923年に日本車輌が製造。 花東線で運用された。

連結された車両は台東線LDR2201気動車。1957年製。

西門紅樓(旧 台北西門市場 八角楼)

西門町。日本統治時代の明治41年(1908)竣工。

まちなか、とか。

sdr

台北松山空港

機内(羽田→台北松山)

機内 (台北松山→羽田)

あまり散策は出来ませんでした。

また行きたいですね。観光で。

海軍工機学校(海軍機関学校)跡地散策

平成29年10月及び平成31年3月撮影

海軍工機学校兵舎(横須賀学院2号館)

横須賀は三笠公園の近く。
神奈川歯科大学と横須賀学院の界隈は、かつては「海軍工機学校」(海軍機関学校)であった。

米軍側から見た「海軍工機学校」と「横須賀海軍病院」の記事はこちらから。


位置関係

USA-M378-25
1947年(昭和22年)07月24日‐米軍撮影を加工
GoogleMap航空写真 現在の様子

海軍工機学校跡(海軍機関学校跡)

神奈川歯科大学及び神奈川歯科大学附属病院
守衛さんの許可を得て、ちょと見学にいってみましょう。

守衛の許可を得て入校しております。

神奈川歯科大学及び神奈川歯科大学附属病院 大学中庭の西側に。

海軍工機学校・軍人勅諭の碑

昭和7年1月4日建立
軍人勅諭下賜50年記念
海軍工機学校長 村田豊太郎謹書(海軍中将)

村田校長は工機校長ののちに横須賀工廠長に任命

誠心
一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし
二 軍人は礼儀を正しくすへし
三 軍人は武勇を尚ふへし
四 軍人は信義を重んすへし
五 軍人は質素を旨とすへし
海軍工機学校長 村田豊太郎謹書

海軍工機学校正門門柱及び壁

海軍工機学校 海軍栓

海軍工機学校 煉瓦倉庫

神奈川歯科大学校舎の裏側に。

倉庫の向こう側は、現在は米軍基地。

旧横須賀海軍病院跡
 (米海軍横須賀基地内)

神奈川歯科大学敷地内から、米軍基地方面を望む。フェンスの向こう側にある建物が、かつての「横須賀海軍病院」。現在も米海軍病院として使用されている。

旧横須賀海軍病院 奉安殿跡

横須賀海軍病院の建屋の前には「奉安殿」も残っている。
こちらもフェンス越しに拝見。

奉安殿とは 天皇陛下と皇后陛下の写真(御真影)や教育勅語などを納めていた建物。

前述の「神奈川歯科大学」及び「神奈川歯科大学附属病院」の東隣には「横須賀学院」という小中高一貫の私立学校がある。

横須賀学院
戦前の海軍工機学校(海軍機関学校)跡地に戦後「青山学院横須賀分校」が開校。その後、青山学院は撤退し昭和25年に継承した横須賀学院が当地に設立している。

横須賀学院の守衛さんにお伺いを。
「海軍の学校の碑を見学したい」と申告すると「一般に公開はしてないけど良いよ、授業中だから気をつけてね。碑の場所は・・・」と気さくに碑の場所を教えていただきました。
ありがとうございます。ちょっと見学に行ってみましょう。

海軍機関学校跡碑

横須賀学院(許可を得て入校)
碑には正面写真と碑文を刻んだ銅板が貼付されている。

海軍機関学校跡
記念碑建立の由来
海軍機関学校の沿革は明治2年に遡るのであるが、明治34年9月1日白浜校舎が現在地に落成し日夜機関生徒の訓育に当り、その後大正12年9月1日関東大震災により校舎を全焼し江田島に移転する迄の22年間延1,324名の卒業生を送り機関科将校揺籃の地として寔に意義深く記念すべき場所であるので、当横須賀学院の御厚意と同窓生諸賢の熱意によって校跡を後世に遺したく旧校庭の一角にこの記念碑を建立した次第である。
昭和43年6月3日建之

学校跡碑のある場所のうしろの建物(横須賀学院2号館)が、実はかつての工機学校兵舎。昭和13年頃の建設とされている。

生徒たちの邪魔をしないように撮影してサクッと退散。

学校内は、なかなか立ち入るのに緊張しますね。
次はフェンスの向こうの米軍敷地内が気になります。


関連

新宿戸山の戦跡散策

平成30年8月

新宿区戸山・戸山公園を中心としたエリアの散策。
陸軍戸山学校など。

新宿戸山散策

平成30年8月19日、新宿区戸山界隈を散歩してみました。
主たるポイントは「陸軍戸山学校」、現在の戸山公園を中心としたエリア。
以下、連々と写真を展開。


位置関係

今回の散策コースはこんな感じ。

JR新大久保駅スタートで戸山公園を経て都営新宿線・曙橋駅。
これでザックリと約8キロ。 所要時間は2時間半程度。歩数は約13000歩でした。

今昔マップ on the web さんで当時の様子を参考に。

東京西部(戸山) 昭和4年二修/昭和6年6月30日発行。
今回のポイントを黄色で示してみました。 エリア的にはこんな感じ。

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.702704&lng=139.713744&zoom=15&dataset=tokyo50&age=2&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2


海城中学校・高等学校

古賀喜三郎(海軍少佐)によって明治24年に海軍兵学校へのエリート人材育成の為の海軍予備校として創立。

海城とは戦艦を意味する古語に由来。

明治33年に海軍省の要請により海城学校と改称。
現在も海軍以来の伝統として「質実剛健・リベラルでスマート」な校風を標榜している。

海城のクスノキ

昭和2年に霞が関から当地に学校が移転して来たのちに植えられたものであり「海城のシンボル」として大切にされている。


海城から東に。

都立戸山公園大久保地区の南端にさしかかります。
このあたりは射撃場跡。

「今昔マップ on the web」より
(東京西部1/25000 昭和20年部修・昭和22年7月30日発行)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」より
(ファイル名8911-C2-82/昭和19年10月16日陸軍撮影)

射撃場土塁跡

都立戸山公園大久保地区の南端に土塁が残ってる。
「射撃場土塁跡」
射撃場の周りは土塁で囲まれており、その名残。

前述中心部の画像や地図で射撃場の場所に見える東西に細長く連なる建屋は昭和3年完成の屋根で覆われた射撃場。
周辺住民への配慮として流れ弾防止や騒音抑制の為に設けられたという。

戸山の射撃場土塁跡と陸軍境界石

射撃場の土塁がまさに境目。
コンクリート壁と一体化するように陸軍境界石も残ってました。

戸山の射撃場土塁跡
都立戸山公園大久保地区の南端の土塁から連なるように道を挟んだ東側の「西大久保住宅」の南側にも土塁が残っている。

黄枠の部分が土塁が残っているエリア

明治通りを北上し、低地へと下るエリアを東に向かう。

地図で見ると現在は唐突に細長く住宅地が拡がる。
当時は南北を陸軍施設に挟まれる区画。ここもかつての射撃場跡。

陸軍戸山学校射撃場跡

そのエリアに降り立てば周辺が高台となっており射撃場は低地にあったことがわかる。


明治通りを北上すると右手に赤い鉄門が見えてくる。

学習院旧正門(国指定重要文化財)

明治10年、当時の華族学校(現学習院)の正門として建立。川口の鋳物工場で製作された唐草模様をあしらった和洋折衷の鉄門。

昭和25年に現在地に移転。現在は学習院女子大学などの正門として使用。


明治通りと諏訪通りの交差点。 東に行けば学習院女子、西に行けば諏訪神社。

新宿ノ諏訪神社

弘仁年中(810~820)創建と伝わる古社。
現在の社殿は昭和55年造営。 境内にある宮神輿庫はコンクリート造の校倉造という珍しいもの。

諏訪の霊水

「新宿ノ諏訪神社」 境内には「明治天皇射的砲術天覧所阯碑」がある。

明治天皇射的砲術天覧所阯碑

明治15年、神社南の「近衛射的場」に、 明治天皇の行幸があり境内より射撃演習を天覧。その後も射撃場にみられる各宮殿下が諏訪神社社務所でご休息遊ばれたという。境内地の天覧高台は昭和18年に東京都より行幸史跡に指定。

明治天皇の天覧を記念し、諏訪神社御社殿の向拝の蟇股には菊の御紋を掲揚。
また、拝殿内に掲げられている神号額は小松宮彰仁殿下の御真筆という。
写真の拝殿の外側の神号額は佐文山(佐々木文山・江戸時代中期の書家)によるもの。

今回の参拝では御朱印を戴いておりませんでした。 (前回戴いたものを掲載)


新宿ノ諏訪神社のかつての別当寺であった玄国寺(真言宗豊山派)に。
こちらへは近代史的な話題で寄り道を。 境内案内の記載をよく見ると 「文化財 岩倉具視邸(現書院)」とありますね。気になります。

岩倉具視邸

玄国寺 「岩倉具視邸(現書院)」
元勲岩倉具視の旧邸の一部を大正年間?に移築したものという。和洋折衷の建築物。現在も寺院の庫裡として使用されており内部は非公開。

さて、本筋に。

近衛騎兵連隊

学習院女子大の方に向けて歩んでいく。
本当であれば学習院女子大の中にある「建造物」を見学したいが女子大ゆえに見学難易度は高そうなので別の機会?に。

学習院女子大には近衛騎兵連隊兵舎炊事所が残っており近衛騎兵聯隊之碑がある。画像は煉瓦壁とGoogle Earthを参考まで。

馬場下町交差点。わかりやすく言うと穴八幡の交差点。

三朝庵(閉店済)

この交差点の角に100年以上に渡り歴史を伝えてきた蕎麦屋があった
(過去形・・・)

「三朝庵」
元 近衛騎兵連隊 御用
元 大隈家 御用

残念ながら平成30年7月31日でもって閉店・・・。
ここへ訪れるのがあと一歩遅かったです、残念です。

別の日(令和2年)に撮影。コンビニになっておりました。。。

今回は時間の都合で穴八幡宮は社頭で遥拝。

高田馬場の流鏑馬の時代から、近衛騎兵聯隊まで。
馬つながりを感じつつつ。

穴八幡の南西にある箱根山を目指します(都立戸山公園箱根山地区)

陸軍戸山学校の野外演奏場跡

都立戸山公園箱根山地区
「陸軍戸山学校の野外演奏場跡」

気持ちよさそうに寝そべった方が居りました。 写真どうしよっかな…と悩みながらなるべくじゃまにならないようにパチリを。

この場所が野外演奏場(野外音楽堂)
陸軍戸山学校では軍楽隊の訓練も行われていたとのことで。

箱根山 陸軍戸山學校阯

都立戸山公園箱根山地区
「箱根山 陸軍戸山學校阯」

陸軍戸山学校
明治6年(1873)6月、旧尾張藩下屋敷跡に陸軍兵学寮戸山出張所が設置
明治7年2月、陸軍兵学寮戸山出張所を陸軍戸山学校と改称
大正元年(1912)9月、戦術科、射撃科、教導大隊が陸軍歩兵学校として分離独立
昭和20年9月10日、閉校

箱根山 陸軍戸山學校阯

この地は和田戸という武士の館の跡で源頼朝が源氏の勢ぞろいをした所と伝えられ後代和田戸山と呼ばれた
寛文年間尾張徳川侯の下屋敷となり殿堂宮祠等かずかずの建物と箱根山を中心とし東海道五十三次に擬した風雅な庭園が造成された
明治六年その地に兵学寮戸山出張所が設けられ翌明治七年陸軍戸山学校と改称されて以来約七十年にわたって軍事の研究教育が行なわれ国軍精強の基を培ったばかりでなく国民の体育武道射撃音楽の向上に幾多の寄与をした記念すべき地である
この度東京都がこの地に緑の公園を整備されるにあたってこの記念碑を建てて東京都に贈る
昭和四十二年十一月
元陸軍戸山学校緑故有志一同

箱根山地区の歴史
(略)
明治七年(1874)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦後は国有地となりその一部が昭和二十九年から今日の公園となった。
陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている。

戸山公園
箱根山 標高44.6m

「登頂証明書」は戸山公園大久保地区のサービスセンターにて。 (貰いそこねました)
山頂から見える建物を近くでみてみましょう。
陸軍戸山学校の名残の建造物。

陸軍戸山学校将校集会所

「陸軍戸山学校将校集会所」(戸山公園箱根山地区)
戸山学校時代は将校集会所として使われていたという建造物。
現在は「戸山教会・戸山幼稚園」として使用されている。
この半地下式の石造りの部分が将校集会所の跡とされている。

「陸軍戸山学校将校集会所跡」(戸山公園箱根山地区)
現在は戸山教会及び戸山幼稚園として現役。
常識の範囲内で見学を。


陸軍軍医学校跡

戸山公園の隣の区画
現在は「国立感染症研究所」「国立健康・栄養研究所」などがある地は、かつての「陸軍軍医学校」(昭和4年に麹町より移転) の地であった。

この軍医学校跡地からは国立感染症研究所(当時は前身の国立予防衛生研究所)建設に際して大量の人骨が発見されたりもしている(1989年)。

現在の国立国際医療研究センター研究所のある場所。

当時の「陸軍軍医学校」の向かい側には「陸軍第一病院」があり「陸軍軍医学校」とは地下でつながっていたという。
その地下道の入り口とされる場所。 なにやら塞いだ感に溢れてますね・・・。

戸山「陸軍軍医学校」と「陸軍第一病院」

うっすらと「医療…」と書かれた御影石。
これも「陸軍軍医学校」の名残かどうか
向こう側には「陸軍第一病院」地下道出入り口が見える。


戸山から牛込まで南下。
奇しくも海の海城から陸の成城への散策。

成城中学校・高等学校

明治18年(1885)創立。当初は文武講習館として、築地に創立。軍人志望の少年の養成にあたる。
明治19年に「成城学校」と改称し陸軍士官学校・陸軍幼年学校への全寮制予備校となる。明治24年に現在地に移転。

牛込までくればアンテナが見えてくる。

市ヶ谷の防衛省。
かつての陸軍士官学校。

そのまま南下すれば都営地下鉄の曙橋駅。
今回の新宿区戸山界隈の散策はこれで〆

学習院大学の近代建築

平成29年4月撮影

乃木館(旧・総寮部)

学習院第10代院長乃木希典ゆかりの建造物。

明治41年(1908)竣工。学習院が全寮制だった頃に宿舎として使われており、10代目院長の乃木希典も4年間をここで過ごしていた。
昭和19年に総寮部取り壊しに際し、 乃木院長が居住していた部分のみを移築・保存されている。国登録有形文化財。

乃木館
この建物は、明治41年9月に建てられた学習院学生寄宿舎の総寮部の一部分を移設したものである。
乃木希典院長は開寮と同時にここに起臥し、学生と寝食を共にしてその薫陶に当たられた。

乃木希典院長の歌
寄宿舎で 楽しきことを 数ふれば
撃剣音読 朝めしの味

乃木希典大将の榊壇

明治43年(1910)、学習院第10代院長 乃木希典が自ら設計し私費を投じて建設した「榊壇」

全長約7m、後円部高約1.4m
当時の四境(小笠原諸島・樺太・遼東半島・台湾)などから集められた147個の礫石を使用。
後円部には 学習院新校舎落成式で明治天皇が天覧した榊が植えられている。

榊壇入り口の柱石、榊壇前の踏み石などは、乃木の後の第11代院長 大迫尚敏が大正5年(1916)に整備したもの。

乃木大将に関連する史跡が学習院内に残っていて。
こうして観覧可能なことに、ちょっと興奮してしまいました。

学習院大学構内の6ヶ所が「国登録有形文化財」に指定されておりました。

正門 東別館(旧・皇族寮)
北別館(旧・図書館)
西1号館(旧・中等科教場)
南1号館(旧・理科特別教場)
乃木館(旧・総寮部)
厩舎

せっかくなので巡ってみましょう。

厩舎

明治41年竣工。
現在も現役で馬術部が使用している建物。
邪魔をしては悪いので外観をちょっとだけ見学。
馬場を駆ける馬の鳴き声が響いておりました。

南1号館(旧・理科特別教場)

昭和2年(1927)竣工。ネオ・ゴシック様式。
昭和24年に大学理学部創設とともに理学部研究棟に。
平成21年に構内のその他の建物とともに国登録有形文化財に登録。

西1号館(旧・中等科教場)

昭和5年(1930)中等科教場として竣工。ネオ・ゴシック様式。鉄筋コンクリート造。朝香宮邸(現在の東京都庭園美術館)を設計した内匠寮技師権藤要吉の設計。
大学開設後は文政学部本部。玄関を中心としたシンメトリー建造物。

北別館(旧・図書館)

明治42年(1909)に図書館として建立。木造平屋造。
設計は東京音楽学校奏楽堂(現東京藝術大学旧奏楽堂)や帝国図書館(現国際子ども図書館)を設計した久留正道による。

床下通風口には学習院校章「桜」紋がモチーフされている。

「北別館(旧・図書館)」
現在は学習院大学史料館(事務室)として使用。

私が訪れたときは土曜日午後でしたので事務室は閉館しておりました。
(平日及び土曜日午前に開館)
平成21年、国登録有形文化財に登録。

東別館(旧・皇族寮)

当時全寮制だった学習院の皇族寮として大正2年(1913)に建造。
山階宮武彦王や秩父宮雍仁親王をはじめとする皇族が使用。
正面玄関の車寄玄関飾りには学習院の校章「桜」紋のレリーフが掲げられている。

明治から大正期に建築された学校寄宿舎の現存は少く貴重な建造物。

学習院大学正門

明治41年(1908)以来使用されており当時のままの姿を残している。
揮毫は学習院大学初代学長 安倍能成 によるもの。

安倍氏は学習院としては第18代院長。
10代が乃木希典、16代が野村吉三郎、17代が山梨勝之進

「明治丸」と「東京高等商船学校」(東京海洋大学)

平成29年7月

海の日(7月第3月曜日)

海の日は1995年(平成7年)に制定され1996年(平成8年)から施行された日本の国民の祝日の一つ。
「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨としている。
祝日化される前は「海の記念日」(7月20日)

海の記念日

海の記念日は1876年(明治9年)、 明治天皇の東北地方巡幸の際、汽船「明治丸」によって航海をし7月20日に横浜港に帰着したことにちなみ1941年(昭和16年)に制定。
その後、明治丸は東京商船学校練習船として使用され、現在は東京海洋大学越中島キャンパスに保存。

東京海洋大学

海の記念日・明治天皇ゆかりの「明治丸」は東京海洋大学越中島キャンパスにて保存されている。

本日、「海の日」記念行事として東京海洋大学にて公開などが行われていたので、行って参りました。

最寄りはJR越中島駅。
駅のタイルも海洋っぽい感じで良いですね。

私の目的は「明治丸」
まだ見たことがなかったので、せっかくだから海の日に見学してみたかったのだ。

明治丸

明治丸は明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し明治7年に竣工した鉄船。翌8年横浜に回航。
明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に日本政府の調査団を乗せ英国船より早く小笠原に到達し日本統治を宣言。これにより小笠原諸島は我国の領土となった。

明治9年(1876年)  明治天皇が東北・北海道巡幸の際、青森から明治丸に乗船され函館を経由し7月20日に横浜に安着。
この安着された7月20日を記念して昭和16年に「海の記念日」が制定され平成8年に国民の祝日「海の日」となる。
写真は明治丸船内の 明治天皇御座所

明治丸は、その後の約20年間を燈台巡廻船として活躍し明治29年に商船学校に譲渡。
係留練習船として昭和20年までの約50年間に5000余人の海の若人を育成。

大正12年の関東大震災や昭和20年の東京大空襲では被災民を収容するなど災害救援にも貢献。

明治丸は終戦後の1945年(昭和20年)9月には商船学校とともに進駐米軍に接収され酒保とされる。
接収中の1951年に係船地で座礁したのを契機に接収解除。

1952年には浮揚させて上甲板などの修理が行われたが1954年に老朽化のため練習船の任務は解除となる。

昭和53年(1978)、鉄船時代の造船技術を今に伝える貴重な遺産として、かつ現存する唯一の「鉄船」として「明治丸」は国の重要文化財に指定。
「船としての重要文化財指定」は明治丸が初めてであった。

平成27年に大規模修復工事が終了し現在の姿を伝える。

船首と船尾に装飾として使用されている「アカンサス文様」(アカンサスは地中海原産)は日本の船の文様としては珍しく、この船がイギリス産であることを物語っている。(日本での定番の文様は「唐草文様」)

近くでは、ちょうどアカンサスの花が咲いておりました。

この日は海の日イベントでの開放日となっておりましたので船内も自由に見学できました。(普段はガイド引率のようです)

前甲板など。
大規模修復工事のあとということもあってかなり綺麗です。

舵は後甲鈑に。
まっすぐに伸びるマストが気持ち良いです。

船内に降りる階段。

船内後方は曲線美しいサロンとなっておりました。
明治天皇もここで休まれたと。

空間は上甲版に作られた天窓の光が差し込む自然の明るさ。当時は船には電気が導入なかったために暗くなると蝋燭が柱に設けられたスプリング機能付き台座(柱頭ランプ)などに灯されたとのことです。

船内前方は船員室などがあったといいます。
現在は展示スペースなど。
やはり天窓が大きく明るい日差しを船内に届けておりました。 この時代の船は、ひと味違いますね。

窓が豊富にあるのは明かりを取り込む工夫。
電気がなかった時代の特徴。
これが軍艦だとここから砲身が伸びてきますが・・・


アンカーの塔

商船教育発祥を記念して昭和40年に85周年記念として建立。
このアンカー(錨)は係留練習船としての明治丸をポンド内に定置する際に使用されたもの。
アンカー主幹は北極を、ストックは天の赤道を指している。

日本海軍駆逐艦「磯風」
左舷プロペラ

ん?
17駆の磯風は大和随伴で沖縄…と思ったらこちらは初代磯風でした。
(17駆の磯風は2代目)

1918年(大正7)竣工
1935年(昭和10)除籍

百周年記念資料館

日本海軍制式短艇用コンパス(上陸用舟艇に使用)
昭和16年

鉄球の羅針盤から鉄板と磁力棒へと進化。
ジャイロコンパスはもうちょっと後。

左は「九〇式三号磁気羅針儀1型」(昭和18年)
大きな鉄球は「戦艦伊勢用大型自差修正用鉄球」

軍人が帯刀してるだけでも磁場が狂うらしいです

90式測深儀(指示部・発振部)
昭和18年

百周年記念資料館
文系の私には細かいレベルではよくわかりませんが、エンジン機関とか歯車とか航海学に関するものとかいろいろ盛り沢山。

大成丸 (初代)関係資料

1903年12月2日に進水。日露戦争開戦の年に竣工した本船は海軍に徴用され試運転後は帆装を取り外し輸送船として軍事輸送に従事。
1906年に東京高等商船学校の航海練習船として運用開始。

大成丸 (初代)
練習船として活躍するも1941年に再び海軍に徴用。
輸送船として石炭輸送に従事。航行可能状態で終戦を迎えたが1945年10月9日11時頃に神戸港内で米軍残存機雷に触雷して沈没。

写真は遺品の御真影奉安庫


キャンパス周辺の史跡を散策してみます。

東京商船大学1号館
(現・東京海洋大学海洋工学部1号館)

関東大震災で焼失した校舎跡地に昭和7年(1932)建設。
航海船橋を模した建造物。
登録有形文化財。

東京海洋大学

明治8年11月(1875)私立三菱商船学校が東京に設立
明治15年(1882)三菱商船学校は官立となり東京商船学校と改称
大正14年(1925)東京高等商船学校と改称

戦時中は、東京高等商船学校に入校した学生は海軍予備生徒に任命され兵籍に入り徴兵の対象外となった。海軍予備生徒は海軍三校(海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校)の生徒に準じる立場であり、下士官の上位、准士官の下位に位置づけられた。卒業後は海軍予備少尉。

1号館は昭和7年の建造ゆえに正確には文部省所管の官立「東京高等商船学校」時代の建物となる。

1945年(昭和20年)に 東京・神戸・清水の高等商船学校3校が統合し「高等商船学校」が発足。
消耗が激しい海軍初級士官の大量養成の一端を担っている。

戦後は東京商船大学と呼称していたが、2003年に東京水産大学と統合して東京海洋大学となる。

越中島→元・東京商船大学(工学系)
品川 →元・東京水産大学(水産系)

統合して「海洋」だけど、たしかに両者の趣はだいぶ違いますね。

第一観測台 (東京海洋大学・越中島)

明治36年(1903)建設。(官立「商船学校」時代)
赤道儀室と呼ばれ、内部には東洋一といわれた天体望遠鏡を備え教育研究に使用された。
平成9年(1997)に登録有形文化財。

第二観測台 (東京海洋大学・越中島)

第一観測台と同時期の明治36年(1903)建設。(官立「商船学校」時代)
子午儀室と呼称され、内部には子午線測定用望遠鏡が備えられた。
平成9年(1997)に登録有形文化財。

G.E.O.ラムゼー功徳碑 (東京海洋大学・越中島)

ラムゼー先生は明治9年から6年間に渡り、前身の私立「三菱商船学校」時代に航海術を教えた教員。
没後の明治19年(1886)に門弟達によって碑が建立された。
碑には琅西君(=ラムゼー氏)と記載されている。

招魂碑 (東京海洋大学・越中島)

東京商船学校の生徒であった田福重右衛門は英国船に乗船し米国に渡る途中で暴風雨に遭遇して死亡した。
この碑は僚友たちが出資して明治21年10月に建立。
題字は逓信大臣榎本武揚の篆書。

精神不滅碑 (東京海洋大学・越中島)

昭和19年8月、清水高等商船学校生徒3名は不屈の精神で持って遠泳訓練に挑んだが豪雨の影響もあり最後まで泳ぎ着いたものの力尽きて死亡。この碑は敢闘精神を記すために昭和19年11月に建立。
撰文は清水高等商船学校長・海軍中将 松永次郎

管船長石像 (東京海洋大学・越中島)

菅源三郎は商船学校を卒業後、上海航路貨客船・長崎丸の船長として活躍。
昭和17年に長崎港外で機雷に触れたが沈没するまで同船を指揮。救助された後も遭難者への事後処理に奔走し責任を負って自決。
昭和20年1月建立。

船模型は長崎丸姉妹船の上海丸

明治天皇聖蹟(越中島)

こちらは大学の敷地に食い込むように建立されておりましたが、現在は敷地外の扱い。
碑文を読み解くと、

明治天皇聖蹟(近衛文麿謹書)
紀元二千六百年記念建設
越中島には明治3年9月、明治5年9月、明治6年12月、明治8年6月に天覧の為に行幸された由

さて10時に越中島キャンパスにたどり着いてランチ休憩も含めて気がつけば3時間経過の13時すぎ。
ちょうど13時35分に越中島キャンパスから品川キャンパスを結ぶシャトルバスが運行でしたので、バスに揺られてなんとなく品川キャンパスに向かいます。

写真は豊洲運河から明治丸

品川キャンパスは歴史要素が薄いのでサラリと終わります。
品川は元水産大学なので、越中島のような船メイン(海軍要素あり)ではなく、海の生き物中心。


14時。品川キャンパスに到着。

この地は旧海軍経理学校品川校跡地。往時を偲ぶものはない。

海軍経理学校品川校舎は昭和18年に開設され昭和19年には築地から品川に本校機能が移転。 終戦後に米軍に接収され、そののち東京水産大学が展開された。

築地  →海軍経理学校之碑
東郷神社→海軍経理学校正門敷石
靖國神社→海軍経理学校正門敷石と品川校の揚艇柱部品など

この地で保存されている船

雲鷹丸

登録有形文化財。 東京水産大学の前身、農商務省水産講習所の第2代練習船。
1909年竣工。1929年航海終了、その後は係留練習船として活躍。
昭和37年に喫水線上部船体を現在地に移設し現在に至っている。


ノルウェー式捕鯨砲
19世紀末の近代捕鯨で船首に備えられた捕鯨砲 旧型と新型

鯨ギャラリー
セミクジラとコククジラの骨格が展示

品川キャンパス内での歴史的建造物

中部講堂(なかべこうどう)

昭和34年(1959)水産関係の実業家であった大洋漁業(株)社長中部謙吉氏が寄贈した建造物。当時は旧海軍経理学校及びGHQ接収建造物を校舎流用しており満足な施設がない時代であった。

「中部講堂」の周辺にある記念碑など。
松原新之助像(水産講習所初代専任所長)
伊谷以知二郎像(水産講習所第三代所長)
水産翁碑(水産伝習所第二代所長・村田保水産翁記念碑)

水産大学・・・東京海洋大学品川キャンパスの写真は以上。
マリンサイエンスで剥製や骨格などを見学したりして海の生き物たちの造詣を深めるのもなかなかよろしでしたが、ワタシ的にはやはり商船な越中島の方が楽しかったようです。


明治神宮
なぜ7月20日に「海の日」が制定されたのですか?

http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/04.html

麻布・青山・赤坂の戦跡散策

平成30年9月撮影

歩兵第三連隊兵舎跡(国立新美術館別館)

位置関係

昭和19年10月16日に陸軍が撮影した空中写真をベースに。
近衛歩兵第三聯隊、歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊などを。

散策のスタートは赤坂見附駅と日枝神社から。
ここから赤坂を目指します。 日枝神社は今回は遥拝にて。

曲面ビルは赤坂ザレジデンス、その左には「赤坂TBS」、右には「赤坂パークビル」、赤坂のビルディングに囲まれた地区。

そんな赤坂の裏、「円通寺坂」のある通りに、かつて「近衛歩兵第三聯隊」のあった名残を求めてみます。

近衛歩兵第三聯隊 陸軍境界石

自販機と仲良くならんで林立している標石。
うっすらと「陸軍」と読むことが出来ます。

もうひとつ。
ちょっと摩耗ではっきりとは読み取れませんが。

赤坂パークビルの敷地内の一角に、三菱地所の好意によって「銀杏ヶ丘」という森が平成5年に整備されており、そこにひっそりと記念碑がある。

近衛歩兵第三聯隊跡

近衛歩兵第三聯隊

記念碑に添えて
 近衛歩兵第三聯隊は、明治18年7月3日霞ヶ関に創設され、10月27日軍旗を拝受した。明治24年5月、周縁を桜に囲まれ赤煉瓦三階建兵舎二棟が立つ、赤坂台上の新兵営に移転した。全国から選ばれた近衛兵達は、この兵営で49年間、練武に励み、禁闕守衛の大任を果たし、 日清・日露の両役に出征して偉勲を樹てた。又、支那事変以降は昭和15年6月出征、中国の広西・広東両省南部仏印、シンガポール、北部スマトラ、アンダマン・ニコバル諸島方面に転戦し、この間、補充隊は檜町兵営に移転して業務を遂行したが、昭和20年8月の終戦により、本体はスマトラに於いて軍旗を奉焼し、補充隊とともに60年の歴史を閉じた。
 昭和37年秋、赤坂兵営のシンボル銀杏ヶ丘に聯隊跡記念碑を建てたが、土地開発の進展に伴い、三菱地所のご厚意により老銀杏とともに、ここに移され安置された。
 平成5年7月 近衛歩兵第三連隊聯隊会

銀杏ヶ丘の森のなかで、静かに佇む空間の中で昭和の歴史に思いをはせる。

老銀杏は幹の半分を支えられながらも見事な枝を伸ばしていた。
これは秋の姿を見てあげたい。
秋にまた来よう…そんなことを感じつつ、次の場所へと。


赤坂から南に。
東京ミッドタウンのある「港区立檜町公園」。
此のエリアはもともとは長州毛利藩下屋敷跡。
その後は歩兵第一連隊となり防衛庁(市ヶ谷に移転する前)となり東京ミッドタウンとなり、再開発を重ねてきた地。

歩一の跡

港区立桧町公園
「歩一の跡」
公園の南方の池の畔にひっそりと何の説明もなく佇む記念碑があった。
公園を歩む人々は格別な関心も寄せないし、説明もないのでこれでは意味もわからない碑。

歩一 ・・・ 歩兵第一聯隊

歩一の跡
歩兵第一聯隊 碑誌
当公園一帯は江戸時代長州藩毛利侯の下屋敷であった。明治7年歩兵第一聯隊がここに創設され以来67年間東京および近県の郷土部隊として明治大正昭和に亘って駐屯しこの門をくぐった人々は夥しい数にのぼる。 乃木将軍は第2代の聯隊長であった。ここに出身者有志相集って本碑を建てて永くその跡を留める。
昭和38年秋

「歩一」歩兵第一聯隊のあった檜町公園。
東京ミッドタウンから西にすすむ。
国立新美術館・政策研究大学院大学の地には「歩三」歩兵第三聯隊があった。

陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎跡
国立新美術館別館

1928年(昭和3)に建設。戦後は在日米軍接収。1962年に東大生産技術研究所が当地に移転し2001年まで使用(生研は駒場に移転)。 その後一部を残して解体。2007年に「国立新美術館別館」として活用。

かつての敷地は国立新美術館別館と政策研究大学院大学となっている。

国立新美術館別館
一部保存された兵舎の裏側はガラス張りのオシャレな様相に。

展示コーナーは毎週月・水・木・金の公開。
運良く平日だったので展示コーナーも見学してみましょう。

陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎跡
国立新美術館別館展示コーナー

陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎模型 「日」の字を模した地下一階・地上三階の建物は関東大震災復興の象徴でもあったという。
陸軍としては初の鉄筋コンクリ造兵舎。 現在は別館として中庭通路口の一部と外壁の一部が保存されている。

国立新美術館別館展示コーナー

2001年の全体空撮写真のパネル

参考比較として現在の様子をGoogle Mapsをトリミングしてみた

兵舎時代の正面写真パネル

展示パネル
地階・1階〜3階
中央部分は一段低く2階までだったということがわかります。

歩兵第三連隊兵舎跡(国立新美術館別館)
一部保存された兵舎跡

入り口スロープ 弾痕の跡・・・とされているが、いつのなんの弾痕かは不明。
二・二六事件との因果関係も不明。

歩兵第三連隊兵舎跡(国立新美術館別館)

国立新美術館をあとにして移動を。
道路(外苑東通り)を挟んで「東京都立青山公園 南地区」に向かいましょう。

「東京都立青山公園 南地区」も歩兵第三聯隊、そして近衛歩兵第五聯隊ゆかりの地。

麻布台懐古碑
(東京都立青山公園・南地区)

かつてこの麻布台には歩兵第三聯隊が展開されていた。
思えばこの日に巡った歩一(歩兵第1聯隊)、歩三(歩兵第3聯隊)、近歩三(近衛歩兵第3聯隊)はいずれも二・二六事件に関与の部隊だったり。
それを記録する何かはいずれも皆無でしたが。

麻布台懐古碑
麻布・赤坂・青山地区の歴史は古く、縄文時代(紀元前8000年頃より)にはすでに人類が居住しており、同時代の各種の土器や石器が発見され、平安時代には農耕を守護する神として、弘仁13年(822)に竹千代稲荷、天慶年間(938〜946)に朝日神社(日ヶ窪稲荷)等が建立された。
 (中略)
明治7年(1874)11月創立された歩兵第三聯隊は、明治22年1月から昭和14年(1939)8月近衛歩兵第五聯隊が編成されるまでこの地に駐屯し、聯隊主力は昭和11年5月中国東北部に渡った。その後昭和18年8月より沖縄県宮古島の防衛に任じたが、終戦により聯隊歴史の幕を閉じた。
近衛歩兵第五聯隊は昭和16年1月中国南部に駐屯して、12月太平洋戦争勃発と共に南方戦線に出動し、マレー半島、シンガポール、ジャワを経て北部スマトラ(インドネシア)に駐留し終戦を迎えた。 昭和18年5月首都防衛のため近衛歩兵第7聯隊が創立された。
現在東京大学生産技術研究所の使用している鉄筋コンクリート造り3階建楕円形の建物は、関東大震災のため倒壊した兵舎を昭和3年6月再建したものである。  (注:現在は解体され、一部が国立新美術館別館として保存)
現在の港区六本木7丁目22番、同23番のここ麻布台に立って、その変貌を目のあたりにし、栄枯盛衰の歴史を回顧すると、万感こもごも至ってやまない。よって桜花咲き誇った馬屋跡の青山公園に記念の碑を残す。
  昭和62年10月25日
  近衛歩兵第五聯隊 
  歩兵第三聯隊 
   有志一同建立 (裏面は寄付者芳名・略)

東京都立青山公園・南地区

かつて歩兵第三聯隊(麻布三聯隊)や近衛第五聯隊・近衛第七聯隊のあった麻布台には、現在は米軍基地がある。
東京都区部唯一の在日米軍基地「赤坂プレスセンター」(麻布米軍ヘリ基地・ハーディー・バラックス )

この地は明治22年(1889)歩兵第三聯隊駐留以来、変わらずの軍用地…


常陸丸殉難 近衛後備隊将士之墓
(青山霊園)


常陸丸殉難 近衛後備隊将士之墓
明治37年8月20日建立

青山霊園の中央通り(この表現が正しい不明ですが)に面した慰霊墓。
近衛聯隊(後備近衛歩兵第一聯隊)にまつわる墓があるので、参拝してきました。

常陸丸殉難 近衛後備隊将士之墓
 
 明治37年(1904)日露戦争が勃発し、同年6月14日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸に乗船し宇品を出港し、勇躍征途に就いた。翌15日午前十時頃、沖ノ島付近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として三隻の敵艦が現れ、猛砲撃を加えてきた。 もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術なく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃れた。
 野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益良雄も、海上では如何とも為し難く、今はこれまでと覚悟した聯隊長は、皇城を遙拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も無念の涙を飲んで玄海灘の波間に没した。
 武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。
 明治37年10月30日、殉難者墓碑を建設し、近衛隊の英霊635柱の遺骨、遺髪、遺品、写真などを納め、神式および佛式で盛大な慰霊祭が執り行われた。
 
昭和61年6月15日
殉難82周年慰霊祭にあたり誌す
 常陸丸遺族会
 全国近歩一会

以下は余談ですが、常陸丸事件について。

常陸丸事件

日露戦争
1904年(明治37年)6月15日、玄界灘を西航中の陸軍徴傭運送船3隻がロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊によって撃沈破された事件。
陸軍徴傭運送船「常陸丸」(日本郵船 6,172トン)の喪失は国内世論を憤激、特に海上警備の第二艦隊・上村彦之丞中将に対して強い非難が集まった。

日露戦争後、千鳥ヶ淵公園に常陸丸殉難慰霊碑建立。
しかし第二次大戦後に一度撤去され、昭和40年(1965)に靖国神社境内に移設の上で慰霊碑が再建されている。

毎年6月15日午前10時より、靖國神社では常陸丸殉難御祭神霊祭が斎行されている。

常陸丸殉難記念碑 (靖國神社)

元帥伯爵 東郷平八郎 書
常陸丸殉難記念碑 碑裏面
昭和9年10月
陸軍大将正三位勲一等功四級 荒木貞夫 撰文揮毫
常陸丸殉難記 明治三十七年皇師海ヲ越エテ露ヲ征ス・・・(略

常陸丸殉難記念碑
 明治37年(1904)日露戦争が勃発し、同年6月14日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知(すち)中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸に乗船して宇品を出港し勇躍征途に就いた。翌15日午前10時頃、沖ノ島附近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として3隻の敵艦が現われ猛砲撃を加えてきた。もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術もなく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃れた。
 野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益良雄(ますらお)も、海上では如何とも為し難く今はこれまでと覚悟した聯隊長は、皇城を遥拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も、無念の涙を飲んで玄界灘の波間に没した。
 武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。

 昭和61年(1986)6月15日
 殉難八十二周年慰霊祭にあたり誌す
  常陸丸遺族会
  全国近歩一会

碑の裏面には、荒木貞夫陸軍大将の選文揮毫による碑文が刻んである。

常陸丸殉難記念碑
本碑ハ曽テ牛ヶ渕ニ在リ偶々大東亜戦争終結ニ際シ破却セラル仍テ日露戦争六十周年ニ当リ此ノ処ニ復興再建ス
昭和四十年十一月十五日 常陸丸受難記念碑 
復興期成会


常陸丸殉難記念碑の表を東郷平八郎、裏を荒木貞夫が記していることが興味深い。陸海あげての受難記念碑。

合掌


少々脱線でした。

そういえば、今回巡った
 歩兵第一聯隊
 歩兵第三聯隊
 近衛歩兵第三聯隊
は二・二六事件にが関与してたり・・・


近衛聯隊のメモ
 近衛歩兵第一聯隊 北の丸
 近衛歩兵第二聯隊 北の丸
 近衛歩兵第三聯隊 赤坂 
 近衛歩兵第四聯隊 明治神宮外苑(北青山)に記念碑あり(未訪問)
 近衛歩兵第五聯隊 麻布台
 近衛歩兵第六聯隊 明治神宮外苑(北青山)に記念碑あり(未訪問)
 近衛歩兵第七聯隊 麻布台

これは都内の次の課題は明治神宮外苑(北青山)ですかね…

北の丸・千鳥ヶ淵周辺の戦跡散策

平成28年5月撮影

灯台下暗し。近いと何時でも良いやと思って訪れない場所がある。

ある日の午後。
ふと思いたって北の丸の戦跡史跡散策を決行。考えてみれば良く歩くわりにはこの界隈は気にしてなかったなあ、と。

(北の丸といえば、近隣の近代建築としての九段会館は、もう・・・)

北の丸公園の田安門から散策開始。

彌生慰霊堂(弥生慰霊堂)

戦前は「彌生神社」(弥生神社)として祀られていた聖域。 参道脇には力強い狛犬が控えていました。

警視庁及び東京消防庁の殉職者を祀る。

警察・消防殉職者のために、1885年(明治18年)10月7日「弥生神社」創建。
弥生とは当初の鎮座地である文京区向ヶ岡弥生町に由来。

戦後、警視庁として「弥生神社」を管理できなくなった為、1947年(昭和22年)10月に現在地に遷座するとともに名称を「弥生廟」と改称。
1983年(昭和58年)9月に「弥生慰霊堂」に改称し、従来の神式慰霊祭から無宗教形式の慰霊祭に変更。

慰霊、そして感謝を。

昭和天皇御野立所

この彌生慰霊堂の地は、もう一つ歴史的な場所。

昭和天皇御野立所

 大正12年(1923)9月1日午前11時58分、関東地方一帯に大地震が発生した。死者、行方不明者14万人、家屋の全壊、焼失57万戸、罹災所帯69万に及ぶというわが国災害史上未曽有の大惨事であり、東京遷都の噂すら流れたほどであった。
 時に摂政であらせられた 昭和天皇は「東京ハ依然トシテ国都タルノ地位ヲ失ハズ、コレヲ以テソノ善後策ハヒトリ旧態ヲ回復スルニ止マラズ、進ンデ将来ノ発展ヲ図リ・・・・・」との詔書を発せられて、復興の方針を明示されると共に、同月十五日親しく被災地を御視察遊ばされた。
 それより6年有余の歳月と7億円(昭和5年度一般会計歳出16億円)の巨費を投じて鋭意再建に努めてきたが、漸く復興が成り、昭和5年3月26日皇居前広場に於いて、天皇陛下の親臨を仰ぎ、帝都復興祝賀の式典が盛大に挙行された。
 昭和天皇は、これに先立つ24日、被害の甚だしかった下町一帯の復興状況を、約五時間に亙り御視察遊ばされた。その第一歩を駐めさせ給うたのがこの地である。当時はここから東京湾まで眺望することが出来た。
 その後ここに「御野立所記念碑」が建てられたが、長年の風雪に曝されて損傷が著しくなっていた。この地は嘗て近衛歩兵第一聯隊が駐屯していたところである。そこで有志相倚り昭和天皇御誕生日を卜して「御野立所記念碑」を再建し、御聖徳を偲び奉るものである。
  平成元年(1989)4月26日
   近衛歩兵第一聯隊會

位置関係

USA-M377-65
1947年(昭和22年)07月24日‐米軍撮影

北の丸公園 

武道館の前、通りを挟んだ茂みに石碑がありました。

皇紀二千六百年 植樹記念碑

陸軍少将 三浦真書

詳細は不明。


近衛歩兵第一連隊跡記念碑

日本陸軍最初の連隊として、明治7年(1874年)創設。
皇居守護の要たる名誉ある連隊。
その近衛歩兵第一連隊、通称「近歩一」を記念する碑

近衛歩兵第一連隊跡記念碑

近衛歩兵第一聯隊記念碑

 近衛歩兵第一聯隊は、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、明治7年(1874)1月23日、
 明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年(1945)大東亜戦争の終末に至るまで、71年余りの間この地に駐屯して、日夜皇居の守護に任じ、
 大正天皇 今上天皇も皇太子であらせられたとき、それぞれ10年の長きに亘り御在隊遊ばされた名誉ある聯隊である。
 西南・日清・日露の各戦役及び日華事変には、軍に従って出征して輝かしい勲功を樹て、大東亜戦争に於いては、帝都防衛の一翼を担った。
 近衛兵には、毎年の徴兵検査で全国から厳選された優秀な壮丁を以て充てられていた。
  昭和42年(1967)1月23日 全国近歩一会


近衛歩兵第二連隊跡記念碑

こちらは近衛歩兵第二連隊の記念碑。
近歩一と同じく日本陸軍最初の歩兵連隊。
栄光ある近衛連隊として、近歩一とは別に独立した記念碑が建立されている。

近衛歩兵第二連隊記念碑
傍らに植えられるは橘の木。

近衛歩兵第二連隊記念碑
昭和8年建立の柱
近衛歩兵第二連隊将校一同

天業快弘
皇道宣布

近衛歩兵第二聯隊記念碑

 近衛歩兵第二聯隊は、明治7年1月23日、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、
 明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年大東亜戦争の終結に至るまで、70余年の間此の地に駐屯して日夜皇居の守護に任じ、この間明治10年西南の役、ついで日清、日露の各戦役に出陣し更に昭和には、日支事変にて南支、拂印へ出征し、輝かしい勲功を残した。
 近衛兵は毎年全國から選抜された、優秀な壮丁を以って編成されていた。
 平成10年1月23日 近歩二会


吉田茂像

船越保武 作
安岡正篤 文
桑原翠邦 書

吉田茂像の碑文を「昭和の黒幕」と称された安岡正篤氏が作文なされたのが趣深い。

吉田茂像碑文
吉田茂
古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦ニ社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩ニ方リ萬世ノ為ニ太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事ニ任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ舉用シ民心ヲ鼓舞シ以テ復興ノ大義ニ盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉勲ト謂フベシ後人相謀ツテ茲ニ厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善イ哉
昭和五十六年九月

北の丸公園の南出口。

こちらの門は、乾門。
正月の一般参賀の北の参出口としておなじみですね。

北白川宮能久親王銅像

東京国立近代美術館工芸館の隣。
明治28年、近衛師団を率いて台湾出征。疫病に罹らせ給い台南に於いて薨去遊ばされた。御年49歳。

騎兵の銅像として、躍動感も一級品。


東京国立近代美術館工芸館
近衛師団司令部庁舎

国重文
明治43年(1910)造営。
陸軍技師田村鎮の設計による赤レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風。明治洋風建築の代表建築。

東京国立近代美術館工芸館
かつての「近衛師団司令部庁舎」(国重文)

魚眼にて。

「近衛師団司令部庁舎」(近代美術館工芸館)

正面中央の玄関部には、小さな八角形の塔屋。
両翼部には、張り出しがある簡素なゴシック様式の建物。
日本人技術者が設計した現存建物としても貴重。

細部をみてみると、陸軍名残の星型もあり。

流線形が美しい雨樋。
流線部に開口窓があり、異物を除去する事が出来ます。
これは機能美溢れてますね。

ちょうど無料開放日でしたので内部にも。
エントランスホールを内側から。

1階階段を下から。

階段踊り場の曲線美に萌える。

階段踊り場から。

2階

風格に溢れてます。
見ていて全く飽きないですが、ぼちぼち次の場所に。

千鳥ヶ淵をめぐる。

近衛師団司令部庁舎から首都高を渡った先、この緑のこんもりとした空間が次のポイント。

近衛第一師団
 地下壕・地下防空陣地跡

陥没の恐れがあるため、立入禁止

近衛師団司令部庁舎と皇居に挟まれた、この場所。

今は入口が塞がれてしまっているが、この場所が近衛第一師団隷下の近衛機関砲第一大隊の地下壕、地下防空陣地跡という。

近衛第一師団隷下の近衛機関砲第一大隊が展開された地下壕・地下防空陣地跡。

そのこんもりとした台地の上には竪穴通気口があった。
この下が地下空間がある証でもあり。
覗いてみましたが木の枝ばかり…

高射機関砲台座跡

唐突に、不自然な石のベンチが見えてくる。

これ、実は高射機関砲(九八式二十粍高射機関砲・九八式高射機関砲)の台座跡という。七座残っていた。

ここに先ほどの近衛機関砲第一大隊が展開されていた、と。

今は特に何かを説明するでも案内するでもなく、台座は静かにベンチとして第二の余生を過ごしていた…


せっかく千鳥ヶ淵まできたので、参りましょう。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

千鳥ヶ淵戦没者墓苑。

鎮魂と…
感謝と…

祈念する空間。

戦士たちは名を残し、戦士たちは靖國で逢おうと散りゆけれど。
ただ不幸にもその戦士たちの遺骨に名が紐付け出来ず、帰る場所を失ったために、千鳥ヶ淵墓苑に眠る…

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

いつも8月15日には、この場所にも足を運んでたが、8月15日の政争空間を垣間見てしまうと心にはざわつきがあった。
この日は初めて、この場所で心穏やかに拝する事が出来たかも知れない。

御製
いくさなきよを
あゆみきて
おもひいづ
かのかたきひを
いきしひとびと

終戦60周年の御製を常陸宮妃殿下が謹書

御製
くにのため
いのちささげし
ひとびとの
ことをおもへば
むねせまりくる

千鳥ヶ淵墓苑創建の年(昭和34年)に 昭和天皇から下賜された御製を秩父宮妃殿下が謹書

墓苑の一隅に。
引き揚げに伴う死没者の永遠の平和祈念碑 強制抑留者の尊い命を失われた方々の追悼慰霊碑
改めて合掌。

さざれ石に、大賀ハス。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑。
はじめて、こんなにゆっくりと参拝させていただきました。

昭和34年、国により建設された「無名戦没者の墓」です。

無名戦没者などはいない…と。

不幸にして千鳥ヶ淵戦没者墓苑に埋葬されたのは名が残らなかった遺骨であれども、その御霊は靖國神社に集う、と。
靖國神社で会おうと誓って散った名のある戦士たちの御霊は靖國神社に祀られ家族達に祀られ、名が判明しなかった遺骨のみが千鳥ヶ淵に眠ると…


千鳥ヶ淵を北上して靖国通りに。
スタート地点近くに戻ってきました。

元帥陸軍大将大山巌公像

日露戦争の陸軍の中心人物。満州軍総司令官。 「陸の大山、海の東郷」

品川 弥二郎像

大山は薩摩、品川は長州。 軍人と政治家。両者の像が今は並んでいる。

九段下の靖国通りに。

高燈篭(常燈明台)

靖国神社の常夜灯として明治4年(1871)に建設。靖国神社に祭られた霊のために建てられたという。
昭和5年(1930)に現在地に移転。

豪北方面戦没者慰霊碑

靖國神社入口の向かって右脇。北の丸の反対側に人知れず鎮座。

豪北とは、東南アジア地域のこと。
靖國神社には良く参拝している方々もここに目を向けることは少ないかもしれない。
私も久し振りに訪れました。

九段下から北の丸公園~千鳥ヶ淵を経て、靖國神社に。
たまにはこんな散策も良いかもしれない。

靖國神社境内の慰霊碑等はまたの機会で。
幾つか点在してるんですが、今回はいったん〆

日比谷通りと日比谷公園散策

平成30年12月

日比谷通りと日比谷公園を散策したときの写真などを。

第一生命館
 東部軍管区司令部(陸軍)
 連合国最高司令官総司令部(GHQ)

昭和13年(1938)竣工。
平成元年から平成5年にかけて解体及び改築され現在はDNタワー21として再開発された姿を残す。内装はマッカーサー記念室など一部が残っている。 戦争中は東部軍管区司令部が設置。

終戦後は昭和27年7月に返還されるまで連合国最高司令官総司令部として使用。

第一生命館

旧・陸軍東部軍管区司令部
旧・連合国最高司令官総司令部(GHQ)

明治生命館
 アメリカ極東空軍司令部

昭和9年3月31日竣工。
終戦後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収。アメリカ極東空軍司令部として使用され昭和31年に返還。

昭和建造物としては、はじめて平成9年に「明治生命保険相互会社本社本館」として重要文化財指定。

三菱一号館

元は明治27年竣工の日本初のオフィスビル(洋風貸事務所建築)であった。

昭和43年に三菱地所が解体したが平成21年に同社により復元された。
つまり現在の三菱一号館は往時のレプリカ復元。

日比谷公園

旧・日比谷公園事務所
(フェリーチェガーデン日比谷)

明治43年(1910)竣工。
我が国初の洋式公園である日比谷公園の管理事務所。
ドイツ・バンガロー風の意匠。
明治期の数少ない近代洋風建築のひとつ。

市政会館
日比谷公会堂

昭和4年(1929)竣工。 東京都選定歴史的建造物。
建物の北側が日比谷公会堂となり、残りは市政会館となっている。

日比谷公会堂は、現在は東京都によって施設の老朽化及び耐震化を理由とした大規模改修工事を実施するため、平成28年から改修工事終了まで施設の使用は休止されている。

国立科学博物館と上野散策

平成30年10月撮影

高射第一師団司令部(国立科学博物館)

昭和19年12月、東部高射砲集団を改編して「高射第一師団」創設。
京浜地方を主とする本州東部の防空(高射砲)を担った。

昭和20年5月に、司令部を代官山から上野の東京科学博物館本館(現・国立科学博物館日本館)に移転。

国立科学博物館としては、現在の日本館は昭和5年竣工(1930年)

当時は東京博物館・上野新館。
戦争中の昭和20年3月10日に博物館は閉館し標本を近県6か所に疎開。
昭和20年5月に建物が軍に徴用され終戦まで高射第1師団の司令部となっている。

零式艦上戦闘機21型 改造複座機
 国立科学博物館展示

※令和3年、科博廣澤航空博物館に展示移転

ここに展示されているのは、ラバウルにて魔改造された複座偵察機仕様の零戦。
栄エンジンがよく見えるようにカウルを外した状態で展示。

日本の航空技術を代表する飛行機
零式艦上戦闘機
21型改造複座機

この零戦は、1972年(昭和47年)ラバウル北西ニューブリテン島沖の海底で発見され、引き上げられた。ベースは零戦21型で、数機の部品を合わせて作られており、偵察用として2座席に改造されている。

この機体は、エンジンが見えるようエンジンカバーを外して展示しています。

1944年にラバウル航空隊が撤退した後に、現地残留部隊が数機の零戦を組み合わせて複座偵察機に改造した機体。
ベース機は中島製31870号機。機番53-122

国立国会図書館国際子ども図書館
(帝国図書館)

旧帝国図書館は明治39年(1906)竣工の第一期工事と昭和4年(1929)竣工の第二期の二次にわたって建設され、構造は第一期が鉄骨補強煉瓦造り、第二期増築部分が鉄筋コンクリート造り。

上野公園近くの国際子ども図書館の前庭に。

「小泉八雲記念碑」
昭和10年建立。
小泉八雲の東京帝国大学時代の教え子であった土井晩翠が、23歳で結核によりなくなった長男英一の遺言に基づいて、小泉八雲を偲んで建立したものという。

小泉八雲記念碑

碑文
先生原名ハ らふかぢお・へるん 英国ノ人 西紀千八百五十年地中海ノ れふかす島ニ生レ四十一歳ニシテ来朝シ尋デ帰化シ姓名ヲ改メテ小泉八雲ト日フ 職ヲ東京帝国大学ニ奉ジ英文学ヲ教授シ日本ニ関スル著述頗ル多シ 千九百四年東京ニ没シ雑司ヶ谷ニ葬ル 先生ヲ景仰セル土井英一ノ遺言因リ父林吉松本喜一ト相謀リテ此記念碑ヲ帝国図書館ニ建ツ小倉右一郎コレガ彫刻設計ヲ為ス
昭和10年(1935)6月
藍谷温 撰 市河三喜 書

土井林吉が土井晩翠のこと。
碑の左右には「筆開皇國華」「文盡人情美」と。

2002年に安藤忠雄建築研究所が中心となって歴史的建造物の保全を軸に設計がおこなわれたのが現在の姿。

上野界隈は散策が半端なので、追記するかも。

建物以外の上の散策はこちらも