麻布・青山・赤坂の戦跡散策

平成30年9月撮影

歩兵第三連隊兵舎跡(国立新美術館別館)

位置関係

昭和19年10月16日に陸軍が撮影した空中写真をベースに。
近衛歩兵第三聯隊、歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊などを。

散策のスタートは赤坂見附駅と日枝神社から。
ここから赤坂を目指します。 日枝神社は今回は遥拝にて。

曲面ビルは赤坂ザレジデンス、その左には「赤坂TBS」、右には「赤坂パークビル」、赤坂のビルディングに囲まれた地区。

そんな赤坂の裏、「円通寺坂」のある通りに、かつて「近衛歩兵第三聯隊」のあった名残を求めてみます。

近衛歩兵第三聯隊 陸軍境界石

自販機と仲良くならんで林立している標石。
うっすらと「陸軍」と読むことが出来ます。

もうひとつ。
ちょっと摩耗ではっきりとは読み取れませんが。

赤坂パークビルの敷地内の一角に、三菱地所の好意によって「銀杏ヶ丘」という森が平成5年に整備されており、そこにひっそりと記念碑がある。

近衛歩兵第三聯隊跡

近衛歩兵第三聯隊

記念碑に添えて
 近衛歩兵第三聯隊は、明治18年7月3日霞ヶ関に創設され、10月27日軍旗を拝受した。明治24年5月、周縁を桜に囲まれ赤煉瓦三階建兵舎二棟が立つ、赤坂台上の新兵営に移転した。全国から選ばれた近衛兵達は、この兵営で49年間、練武に励み、禁闕守衛の大任を果たし、 日清・日露の両役に出征して偉勲を樹てた。又、支那事変以降は昭和15年6月出征、中国の広西・広東両省南部仏印、シンガポール、北部スマトラ、アンダマン・ニコバル諸島方面に転戦し、この間、補充隊は檜町兵営に移転して業務を遂行したが、昭和20年8月の終戦により、本体はスマトラに於いて軍旗を奉焼し、補充隊とともに60年の歴史を閉じた。
 昭和37年秋、赤坂兵営のシンボル銀杏ヶ丘に聯隊跡記念碑を建てたが、土地開発の進展に伴い、三菱地所のご厚意により老銀杏とともに、ここに移され安置された。
 平成5年7月 近衛歩兵第三連隊聯隊会

銀杏ヶ丘の森のなかで、静かに佇む空間の中で昭和の歴史に思いをはせる。

老銀杏は幹の半分を支えられながらも見事な枝を伸ばしていた。
これは秋の姿を見てあげたい。
秋にまた来よう…そんなことを感じつつ、次の場所へと。


赤坂から南に。
東京ミッドタウンのある「港区立檜町公園」。
此のエリアはもともとは長州毛利藩下屋敷跡。
その後は歩兵第一連隊となり防衛庁(市ヶ谷に移転する前)となり東京ミッドタウンとなり、再開発を重ねてきた地。

歩一の跡

港区立桧町公園
「歩一の跡」
公園の南方の池の畔にひっそりと何の説明もなく佇む記念碑があった。
公園を歩む人々は格別な関心も寄せないし、説明もないのでこれでは意味もわからない碑。

歩一 ・・・ 歩兵第一聯隊

歩一の跡
歩兵第一聯隊 碑誌
当公園一帯は江戸時代長州藩毛利侯の下屋敷であった。明治7年歩兵第一聯隊がここに創設され以来67年間東京および近県の郷土部隊として明治大正昭和に亘って駐屯しこの門をくぐった人々は夥しい数にのぼる。 乃木将軍は第2代の聯隊長であった。ここに出身者有志相集って本碑を建てて永くその跡を留める。
昭和38年秋

「歩一」歩兵第一聯隊のあった檜町公園。
東京ミッドタウンから西にすすむ。
国立新美術館・政策研究大学院大学の地には「歩三」歩兵第三聯隊があった。

陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎跡
国立新美術館別館

1928年(昭和3)に建設。戦後は在日米軍接収。1962年に東大生産技術研究所が当地に移転し2001年まで使用(生研は駒場に移転)。 その後一部を残して解体。2007年に「国立新美術館別館」として活用。

かつての敷地は国立新美術館別館と政策研究大学院大学となっている。

国立新美術館別館
一部保存された兵舎の裏側はガラス張りのオシャレな様相に。

展示コーナーは毎週月・水・木・金の公開。
運良く平日だったので展示コーナーも見学してみましょう。

陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎跡
国立新美術館別館展示コーナー

陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎模型 「日」の字を模した地下一階・地上三階の建物は関東大震災復興の象徴でもあったという。
陸軍としては初の鉄筋コンクリ造兵舎。 現在は別館として中庭通路口の一部と外壁の一部が保存されている。

国立新美術館別館展示コーナー

2001年の全体空撮写真のパネル

参考比較として現在の様子をGoogle Mapsをトリミングしてみた

兵舎時代の正面写真パネル

展示パネル
地階・1階〜3階
中央部分は一段低く2階までだったということがわかります。

歩兵第三連隊兵舎跡(国立新美術館別館)
一部保存された兵舎跡

入り口スロープ 弾痕の跡・・・とされているが、いつのなんの弾痕かは不明。
二・二六事件との因果関係も不明。

歩兵第三連隊兵舎跡(国立新美術館別館)

国立新美術館をあとにして移動を。
道路(外苑東通り)を挟んで「東京都立青山公園 南地区」に向かいましょう。

「東京都立青山公園 南地区」も歩兵第三聯隊、そして近衛歩兵第五聯隊ゆかりの地。

麻布台懐古碑
(東京都立青山公園・南地区)

かつてこの麻布台には歩兵第三聯隊が展開されていた。
思えばこの日に巡った歩一(歩兵第1聯隊)、歩三(歩兵第3聯隊)、近歩三(近衛歩兵第3聯隊)はいずれも二・二六事件に関与の部隊だったり。
それを記録する何かはいずれも皆無でしたが。

麻布台懐古碑
麻布・赤坂・青山地区の歴史は古く、縄文時代(紀元前8000年頃より)にはすでに人類が居住しており、同時代の各種の土器や石器が発見され、平安時代には農耕を守護する神として、弘仁13年(822)に竹千代稲荷、天慶年間(938〜946)に朝日神社(日ヶ窪稲荷)等が建立された。
 (中略)
明治7年(1874)11月創立された歩兵第三聯隊は、明治22年1月から昭和14年(1939)8月近衛歩兵第五聯隊が編成されるまでこの地に駐屯し、聯隊主力は昭和11年5月中国東北部に渡った。その後昭和18年8月より沖縄県宮古島の防衛に任じたが、終戦により聯隊歴史の幕を閉じた。
近衛歩兵第五聯隊は昭和16年1月中国南部に駐屯して、12月太平洋戦争勃発と共に南方戦線に出動し、マレー半島、シンガポール、ジャワを経て北部スマトラ(インドネシア)に駐留し終戦を迎えた。 昭和18年5月首都防衛のため近衛歩兵第7聯隊が創立された。
現在東京大学生産技術研究所の使用している鉄筋コンクリート造り3階建楕円形の建物は、関東大震災のため倒壊した兵舎を昭和3年6月再建したものである。  (注:現在は解体され、一部が国立新美術館別館として保存)
現在の港区六本木7丁目22番、同23番のここ麻布台に立って、その変貌を目のあたりにし、栄枯盛衰の歴史を回顧すると、万感こもごも至ってやまない。よって桜花咲き誇った馬屋跡の青山公園に記念の碑を残す。
  昭和62年10月25日
  近衛歩兵第五聯隊 
  歩兵第三聯隊 
   有志一同建立 (裏面は寄付者芳名・略)

東京都立青山公園・南地区

かつて歩兵第三聯隊(麻布三聯隊)や近衛第五聯隊・近衛第七聯隊のあった麻布台には、現在は米軍基地がある。
東京都区部唯一の在日米軍基地「赤坂プレスセンター」(麻布米軍ヘリ基地・ハーディー・バラックス )

この地は明治22年(1889)歩兵第三聯隊駐留以来、変わらずの軍用地…


常陸丸殉難 近衛後備隊将士之墓
(青山霊園)


常陸丸殉難 近衛後備隊将士之墓
明治37年8月20日建立

青山霊園の中央通り(この表現が正しい不明ですが)に面した慰霊墓。
近衛聯隊(後備近衛歩兵第一聯隊)にまつわる墓があるので、参拝してきました。

常陸丸殉難 近衛後備隊将士之墓
 
 明治37年(1904)日露戦争が勃発し、同年6月14日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸に乗船し宇品を出港し、勇躍征途に就いた。翌15日午前十時頃、沖ノ島付近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として三隻の敵艦が現れ、猛砲撃を加えてきた。 もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術なく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃れた。
 野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益良雄も、海上では如何とも為し難く、今はこれまでと覚悟した聯隊長は、皇城を遙拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も無念の涙を飲んで玄海灘の波間に没した。
 武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。
 明治37年10月30日、殉難者墓碑を建設し、近衛隊の英霊635柱の遺骨、遺髪、遺品、写真などを納め、神式および佛式で盛大な慰霊祭が執り行われた。
 
昭和61年6月15日
殉難82周年慰霊祭にあたり誌す
 常陸丸遺族会
 全国近歩一会

以下は余談ですが、常陸丸事件について。

常陸丸事件

日露戦争
1904年(明治37年)6月15日、玄界灘を西航中の陸軍徴傭運送船3隻がロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊によって撃沈破された事件。
陸軍徴傭運送船「常陸丸」(日本郵船 6,172トン)の喪失は国内世論を憤激、特に海上警備の第二艦隊・上村彦之丞中将に対して強い非難が集まった。

日露戦争後、千鳥ヶ淵公園に常陸丸殉難慰霊碑建立。
しかし第二次大戦後に一度撤去され、昭和40年(1965)に靖国神社境内に移設の上で慰霊碑が再建されている。

毎年6月15日午前10時より、靖國神社では常陸丸殉難御祭神霊祭が斎行されている。

常陸丸殉難記念碑 (靖國神社)

元帥伯爵 東郷平八郎 書
常陸丸殉難記念碑 碑裏面
昭和9年10月
陸軍大将正三位勲一等功四級 荒木貞夫 撰文揮毫
常陸丸殉難記 明治三十七年皇師海ヲ越エテ露ヲ征ス・・・(略

常陸丸殉難記念碑
 明治37年(1904)日露戦争が勃発し、同年6月14日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知(すち)中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸に乗船して宇品を出港し勇躍征途に就いた。翌15日午前10時頃、沖ノ島附近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として3隻の敵艦が現われ猛砲撃を加えてきた。もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術もなく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃れた。
 野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益良雄(ますらお)も、海上では如何とも為し難く今はこれまでと覚悟した聯隊長は、皇城を遥拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も、無念の涙を飲んで玄界灘の波間に没した。
 武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。

 昭和61年(1986)6月15日
 殉難八十二周年慰霊祭にあたり誌す
  常陸丸遺族会
  全国近歩一会

碑の裏面には、荒木貞夫陸軍大将の選文揮毫による碑文が刻んである。

常陸丸殉難記念碑
本碑ハ曽テ牛ヶ渕ニ在リ偶々大東亜戦争終結ニ際シ破却セラル仍テ日露戦争六十周年ニ当リ此ノ処ニ復興再建ス
昭和四十年十一月十五日 常陸丸受難記念碑 
復興期成会


常陸丸殉難記念碑の表を東郷平八郎、裏を荒木貞夫が記していることが興味深い。陸海あげての受難記念碑。

合掌


少々脱線でした。

そういえば、今回巡った
 歩兵第一聯隊
 歩兵第三聯隊
 近衛歩兵第三聯隊
は二・二六事件にが関与してたり・・・


近衛聯隊のメモ
 近衛歩兵第一聯隊 北の丸
 近衛歩兵第二聯隊 北の丸
 近衛歩兵第三聯隊 赤坂 
 近衛歩兵第四聯隊 明治神宮外苑(北青山)に記念碑あり(未訪問)
 近衛歩兵第五聯隊 麻布台
 近衛歩兵第六聯隊 明治神宮外苑(北青山)に記念碑あり(未訪問)
 近衛歩兵第七聯隊 麻布台

これは都内の次の課題は明治神宮外苑(北青山)ですかね…