「栃木県」カテゴリーアーカイブ

宇都宮市慰霊塔と宇都宮空襲(軍都宇都宮の戦跡散策6)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本編は「その6」です。「その5」はこちらから。


宇都宮市慰霊塔(北山霊園)

北山霊園行きのバスが、宇都宮駅から1時間に1本程度走っている。急に思い立って行こうと思ってもなんとかなる感じではある。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tochigi_utsunomiya_city001/index.html

宇都宮市慰霊塔は、北山霊園の奥まった高台に鎮座していた。

以前の写真よりもきれいになっているので、近年の再整備と思われれる。

合掌

昭和四十五年九月
宇都宮市慰霊塔建設委員会
  委員長
  宇都宮市長 小池嘉子

明治以来國運は時に隆替したが遂に今日の繁栄を見たのは先人達が義勇奉公國難に處した賜である
茲に郷土出身の戦歿者戦争引揚死者戦災死者並に公務殉職者の勲を讃えて感謝の誠を捧げ世界の平和と祖國の發展を祈念しこの聖地に慰霊の塔を建てその冥福を祈る


平和の塔(北山霊園)

鳩と地球の平和の塔

平和の塔
  宇都宮市長 小池嘉子

昭和47年4月の建立


陸軍少年飛行兵 栃木縣出身戦歿者 慰霊之碑(北山霊園)

栃木県出身の陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑。

陸軍少年飛行兵 栃木縣出身戦歿者 慰霊之碑
 元第十飛行師団長陸軍中将近藤兼利 書

 昭和9年に誕生した少年飛行兵は、同20年太平洋戦争終結までの間に、若干14、5歳の少年達が情熱のすべてを祖国に捧げ、日本陸軍航空部隊の中核となり、遼友と靖國の宮での再開を誓い合って、数々の武勲をたて、大空に華と散っていった。
 今は還らぬ友を偲び、英魂を慰め、その偉業を幾世に伝えると共に、永遠の平和を祈念して、生存者一同相はかり、ここに慰霊の碑を建立する。
 昭和49年9月23日
   少年飛行兵栃木県出身 生存者 関係者 一同 建立

皇太后陛下(香淳皇后)御歌
やすらかに
ねむれとぞ思ふ
 君のため
いのちささげ
志ますらをの
 とも


北山霊園

北山霊園は昭和39年開設。

東北新幹線を見下ろす高台

場所

https://maps.app.goo.gl/bHXmJQFgST9wj6uu6

※撮影:2024年8月


宇都宮空襲

軍都であった宇都宮は、軍需工場(中島飛行機)のあった太田市や大泉町ともども、たびたび空襲を受けた。
昭和20年(1945年)7月10日、7月12日、7月28日、7月30日、8月13日が主な空襲とされ、中でも7月12日の空襲ではB-29が133機到来し、市街地中心部を爆撃され600余名が死亡し特に「宇都宮大空襲」と称されている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_26.html

また、7月28日は宇都宮と同時に小金井も急襲されている。(小金井空襲)


枝病院門柱戦災記念碑(空襲を語り継ぐ門柱)

宇都宮市街地に。東武宇都宮駅のほど近く。

空襲を語り継ぐ門柱
 1945年(昭和20年)7月12日、宇都宮大空襲によって当時の市街地の大半が焦土と化し、この地にあった枝病院も焼け落ちてしまいました。
 このみかげ石の門柱は、枝病院院長・枝 全(たもつ)さん宅の玄関を支えていたもので「戦争の悲惨さを忘れまい」との枝さんの重いが込められ、現在まで大切に残されてきました。
 2000年4月1日
  うつのみや平和祈念館をつくる会

場所

https://maps.app.goo.gl/bywMzVXTPU25AJZUA

※撮影:2023年5月


旭町の大いちょう

昭和20年7月12日の宇都宮大空襲で被災し黒焦げとなり枯死するかと思われたが、復活を果たした「宇都宮の復興のシンボル」

樹齢は400年以上とされ、宇都宮城三の丸跡に位置する。
宇都宮城があったころからの現存物であり、宇都宮を取り巻く2つの戦争(戊辰戦争・大東亜戦争)を生き延びた貴重な存在でもある。

宇都宮市指定天然記念物
大いちょう
 昭和32年10月4日指定
推定樹齢 400年
樹高   33メートル
枝張東西 10メートル
  南北 13メートル
目通周囲 6.4メートル
大いちょうは、宇都宮城の三の丸と百間堀の堺の土塁の上にあり、宇都宮城ゆかりの名木である。今では、宇都宮市民のシンボルとして、多くの人々に愛されている。
 宇都宮市教育委員会
  (平成元年3月建)

宇都宮空襲と大いちょう
 宇都宮市は、一九四五(昭和二十)年の七月十二日深夜から翌日未明にかけての空襲で、中心市街地の約半分を焼失し多くの犠牲者をだしました。大いちょうも、この空襲により、真っ黒に焼けるほどの被害を受けましたが、翌年には、新芽を吹き見事に再生しました。空襲にも負けなかった大いちょうの強さは、戦後、焼け跡に残された宇都宮市民を勇気づけました。
 そのことにより、大いちょうは、宇都宮の戦後復興のシンボルとなり市民に親しまれています。その後、市制九十周年を向かえた一九八六(昭和六十一)年に、「いちょう」は、市の木に制定されています。

場所

https://maps.app.goo.gl/AHNJ8XCT22Vm3XFL8

※撮影:2023年5月


カトリック松が峰教会

大谷石建築としては現存最大級のロマネスク・リヴァイヴァル建築。
1932年(昭和7年)11月20日に聖堂が竣工している。
昭和20年の宇都宮空襲において、屋根と礼拝堂が被災し焼失してしまったが、戦後すぐに復元を果たした。

宇都宮空襲を生き延びた建造物

場所

https://maps.app.goo.gl/6iLiBgSj2KUz9TwFA

※撮影:2023年5月


宇都宮ライトレール

せっかく雷都・宇都宮にいるのだから、噂のライトレールに乗車。


宇都宮餃子と陸軍第14師団

宇都宮餃子は、陸軍第14師団が、1940年(昭和15年)8月以降、衛戍地を満州としたことから宇都宮出身の将兵が帰国に際して本場の餃子の製法を持ち込んだのが始まりといわれている。

まあ、せっかく、宇都宮にいるのだから、餃子を。
駅ナカんだけど、ここの餃子、特に水餃子が美味しい!でした。

別の餃子も

※撮影:2024年8月

いったん、宇都宮関連はひとまず〆。
また追記があれば、それはそれで。。。


宇都宮関連

栃木縣護國神社
はじめに

宇都宮偕行社と憲兵隊の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策5)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その5」にあたります。「その4」はこちら。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


宇都宮偕行社跡(桜美公園)

現在の桜美公園が宇都宮偕行社のあった場所。
偕行社は陸軍将校准士官ら会員同士の親睦・学術・英霊顕彰施設であり、師団所在に設置されていた。

石碑がある。偕行社時代の名残でもある。

御大典紀念植樹之碑
第14師団長山田忠三郎

大正4年11月10日

なにかの跡。これも偕行社時代の名残だろうか。

桜美公園

桜の古木。偕行社時代からと思われる桜。

偕行社時代からかわらない正面の道路。

場所

https://maps.app.goo.gl/tiBNgZt3GsNstovdA

なにやら大谷石の門柱があった。往時のものかどうかは不詳。

偕行社の入口にあたる。


第14師団長庁舎跡(宇都宮合同庁舎)

現在の宇都宮合同庁舎には、自衛隊栃木地方協力本部などが入っている。

軍用地境界標柱(境界標石・境界石)が、敷地の南側にあった。

陸軍省

軍用地境界標は、ほかにも北西側にもあるらしいが、見つけられず。
北西側はきれいになっていたので、消失したのでは、とも思いつつ。

場所

https://maps.app.goo.gl/bHqxDcRQLRxfUS1V8


宇都宮憲兵隊本部跡

師団長官舎の近くに、宇都宮憲兵隊本部があった。
ちょうど、駐車場として、区画が残っており、境界壁がよく分かる。

境界壁

門柱跡

軍用地境界標柱(境界標石・境界石)

削られているが、この雰囲気は、境界標

場所

https://maps.app.goo.gl/Ry7QWuNMjxDVP2SP6


宇都宮憲兵隊分隊跡

宇都宮憲兵隊本部から西に約1キロ。東武宇都宮駅の北側に、宇都宮憲兵隊分隊が展開されていた。宇都宮市街地の中心部。ここにも境界壁と境界標が残っている。

軍用地境界壁

用地

陸軍用地の陸軍が削られ、用地だけのこる境界標柱。

場所

https://maps.app.goo.gl/f9i6gKGWncsYefj86

※2024年8月撮影

「その6」へ


関連

宇都宮歩兵聯隊の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策4)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その4」です。「その3」は、以下にて。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


見返り橋(水無橋)

かつての用水路あとに橋の欄干のみ残っている。
歩兵聯隊に入隊する新兵を、家族や友人がこの橋まで見送り、別れを告げる場所であったため、当時は見返り橋といわれたという。

場所

https://maps.app.goo.gl/zPXbBSDDFJEstx3F7

歩兵59聯隊の兵営地は、とちぎ福祉プラザとなっている。

いったん北に向かいます。


宝木開拓之碑(宝木練兵場跡地)

歩兵59聯隊と歩兵66聯隊の兵営地の北側に、開拓児童公園と若草町三区公民館があり、そこに「宝木開拓之碑」がある。

宝木
開拓之碑

碑文
この地は、明治41年以降宝木練兵場として陸軍の精鋭を育んで来たが昭和20年大東亜戦争の終結により我等36名が入植し開墾を行なった。
入植当時は、一望の原野でしかも永年に亘り軍靴に踏み固められた不毛の地であったが、(以下略)
 昭和46年3月12日
  宝木開拓農業協同組合

場所

https://maps.app.goo.gl/bM5vn2kj31xCRecQ6


宇都宮歩兵聯隊跡碑

わかくさアリーナ敷地内に記念碑がある。

碑文は、第16代聯隊長 林 茂清
扁額は、栃木県知事 横川信夫
建立は、昭和38年3月10日、宇都宮歩兵聯隊史跡保存会による。
宇都宮歩兵聯隊史跡保存会は、宝木会(歩兵第59聯隊および東部第36部隊の関係者)を主体とし、その他有志によって組織されたもの。

至誠
宇都宮歩兵聯隊跡

記念碑建立の趣旨
宇都宮歩兵聯隊は明治三十八年八月畏くも 明治天皇より軍旗を親授せられ明治四十一年 宇都宮市宝木の兵営に入城 爾来四十有余年間軍旗の下父子相継ぎ郷土部隊として特に県民に親しまれつつ護国の大任に当った 
その間日露戦争 シベリヤ上海満州日支の各事変及び大東亜戦争に参加し常に赫々たる武勲を樹て野州健児の名聲を高からしめた 
然るに昭和二十年八月終戦の天詔喚発せられ歩兵第五十九聯隊は南洋パラオ島において又歩兵第六十六聯隊は東部ニューギニヤにおいて夫々悲憤の涙に咽びつつ謹んで軍旗を奉焼した 
我等聯隊出身者及び有志は今は無き軍旗の栄光を偲ぶと共に祖国の為散華せられた幾多先輩戦友の英魂を慰めるため思い出深き旧営庭跡に記念碑を建立し之を永く後世に伝えんとするものである
 昭和38年3月10日
  宇都宮歩兵聯隊史跡保存会
  および 有志一同

場所

https://maps.app.goo.gl/RzEUFYdMboA2y72r7


宇都宮歩兵聯隊の北営門の門柱(栃木県警察学校)

宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の北営門の門柱が、警察学校の門柱として、残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/FSVb5ftYrrdAHxGF9

警察学校の西側敷地内。石碑とか胸像がある。

殉職警察官の慰霊碑。昭和3年3月建立の石碑。

胸像は委細不明

栃木県警察学校の門柱。これは陸軍とは関係なさそう。


宇都宮歩兵聯隊の倉庫

栃木県立宇都宮中央高等学校(旧・宇都宮中央女子高等学校)の敷地内に、赤レンガ倉庫がのこっている。
宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の炊事場として使われた庖厨棟という。

明治40年の宇都宮への第14師団設置に伴い、第66歩兵聯隊の厨房関係施設として建設され、現在は倉庫に用いられている。
切妻造・平屋建で、外壁がイギリス積み煉瓦造、小屋組は木造トラス。
宇都宮に残る軍事関連施設のうち、唯一の明治期の建物となる。

敷地外から遠望。

倉庫は2000年(平成12年)に「宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫(旧第六十六歩兵連隊倉庫)」として国の登録有形文化財に登録された。

場所

https://maps.app.goo.gl/mX4UCfw1DMHRQxtW8

※撮影:2024年1月

「その5」へ


関連

栃木縣護國神社

宇都宮第14師団司令部と衛戍病院の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策3)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その3」にあたります。「その2」はこちら。

また、撮影時期は2024年8月と1月が混在となります。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


第14師団

師団司令部は宇都宮。
日露戦争で日本は従来の師団すべてを動員したため、本土駐留師団がなくなる事態となった。そこで第14師団を含む4個師団が創設された。

明治38年(1905)に福岡小倉で結成。
明治40年(1907)に第14師団の衛戍地が宇都宮となる。
宇都宮第14師団水戸歩兵第27旅団隷下として、佐倉(水戸)歩兵第2連隊と習志野歩兵第59連隊。
宇都宮第14師団宇都宮歩兵第28旅団隷下として、高崎15聯隊と新設された宇都宮第66歩兵聯隊。
明治41年(1908)には、師団司令部が宇都宮の新庁舎に移転し、歩兵第28旅団司令部、騎兵第18連隊、満洲野砲兵第20連隊、輜重兵第14連隊が宇都宮への移駐を完了。翌年に、歩兵第59連隊が宇都宮への移駐を完了。
大正8年(1919年)4月、第14師団はシベリア出兵のため派遣。
大正9年(1920年)5月、ニコラエフスクで守備を行っていた水戸歩兵第2連隊第3大隊と一般市民が過激派によって虐殺される事件、いわゆる「尼港事件」が発生。
大正14年、宇都宮歩兵第66連隊が廃止。松本歩兵第50連隊が第14師団歩兵第28旅団の隷下となる。歩兵第27旅団司令部が水戸から宇都宮へ、歩兵第28旅団司令部が宇都宮から高崎へ移動。

支那事変では、第14師団は華北戦線に投入される。
太平洋戦争が始まると、満洲駐剳師団から南方へ転用され、第14師団はパラオ諸島に展開。
第14師団は主力をパラオ本島に、歩兵第2連隊(およびその配下に編入された歩兵第15連隊第3大隊)をペリリュー島に、歩兵第59連隊第1大隊をアンガウル島に配備。
ペリリュー島・アンガウル島の部隊は全滅し、パラオ本島に残る師団主力は飢餓と空襲で多くの損害をだし終戦を迎えている。

群馬縣護國神社

第14師団司令部・宇都宮衛戍病院跡

現在の栃木医療センター。
南のエリアには、栃木県体育館があったが、2021年度末で持って閉鎖となり、解体中。跡地は栃木県の公共機関の再開発予定。

独立行政法人国立病院機構栃木医療センター

結構大きい。

以下、サイトより。

沿革
明治41年4月20日(1908年) 宇都宮陸軍衛戍病院として創設され、その後、分院の設置を経て、宇都宮第一陸軍病院と宇都宮第二陸軍病院となり、昭和20年12月1日の厚生省へ移管と同時に、宇都宮第一陸軍病院が国立栃木病院へ、宇都宮第二陸軍病院が国立宇都宮病院として、それぞれ発足した。昭和21年12月20日には、この両院が合併し、国立栃木病院となり、更に昭和25年4月1日、本院の隣接地にあった日本医療団宇都宮中央病院を併合した。その後平成13年1月6日、省庁再編成により厚生労働省所管となった。平成16年4月1日に独立行政法人化に伴い、独立行政法人国立病院機構栃木病院となり、平成25年4月1日に独立行政法人国立病院機構栃木医療センターに名称変更した。

https://tochigi.hosp.go.jp/information/outline_shisetsu.html

場所

https://maps.app.goo.gl/6rRsSd3KGppZy6DT7


陸軍第14師団の東営門の門柱(栃木医療センター)

病院の東側の道路にそって、門柱がありました。
一柱は倒れた状態。このまま放置されるのか、消失してしまうのか、ちょっと心配です。

コンクリのモルタルが剥がれて、レンガが露出しています。

内側から

一柱は倒れておりました。

うーむ、な状態。

場所

https://maps.app.goo.gl/cofMc8nPd3PfYu5q9


宇都宮衛戍病院の軍用地境界標

宇都宮陸軍衛戍病院の北西端に。
歩兵連隊との境界にも当たる場所。

右が、陸軍衛戍病院、左が歩兵第59聯隊。

場所

https://maps.app.goo.gl/CwEqDDvsUmitLexr5


陸軍第14師団の西営門の門柱(栃木医療センター)

西側にも門柱が残っています。
栃木医療センターの南西端に位置します。
現在、門柱としては機能していませんが、残す意図があると良いのですが。

場所

https://maps.app.goo.gl/nFmQF8N2JLnf61bz9

※撮影:2024年1月及び8月

「その4」へ


関連

栃木縣護國神社

八幡山地下司令部跡(軍都宇都宮の戦跡散策2)

2024年1月に宇都宮周辺を散策してみました。

本記事は、「その2」です。「その1」はこちら。


旧陸軍地下司令部跡

八幡山公園。宇都宮駅から徒歩で30分くらいの道のり。

そういえば、むかしむかし、2002年に、八幡山公園の南側に鎮座する「蒲生神社(蒲生君平は「寛政の三奇人」として高山彦九郎、林子平とともに名を連ねる人物。天皇陵の探査修復をした「山陵志」で知られている。)」に訪れていた。
その時の私は、全国の神社に夢中だった頃で、戦跡等は興味がなかった年頃(20代前半のころですね)でした。
約20年後に、全く違う目的で、同じような場所に訪れるというのが、奇縁でもあり。

そんなことを思いながら、八幡山まで歩く。

ありました。穴が。

宇都宮には、第14師団の司令部がありました。

旧陸軍地下司令部跡
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、陸軍は空襲と本土決戦に備え、この地に地下司令部を建設していました。6月中旬から約2ヶ月間で、総延長721mにおよぶ横穴を掘り上げました。完成前に終戦となり、実際に使用されることはありませんでした、戦争の悲惨さと平和の大切さを語り継ぐものとして、現在もその姿を留めています。

https://utsunomiya-8story.jp/search_post/%E6%97%A7%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8%E8%B7%A1/

地下壕は、機密保持のため宇都宮師管区の東部36・37・38・42部隊に属する隊員約250人が秘密裏に工事を進めた。
作業隊は11個小隊に分けられ、各々が1か所ずつ出入り口の建設を担当した。
司令部の壕は、「Aライン」から「Jライン」まで10本の壕で構成され、八幡山公園地下を南北に貫く最も長いAラインは364.6 mに及ぶ。他のラインはすべてAラインに接続しており、最も長いCラインが49.6 m、最も短いFラインは25.0 mという。

八幡山公園のアドベンチャーUや交通公園など、北東部に地下壕がある。

入口のつくり
 入口を頑丈にするために、支保工(柱や梁で壁や天井を支えるしくみ)が施されていました。
 壁のくぼみは柱の跡です。

ひょうたん池のむこうに開口部が見える。

入口は2箇所確認でできた。
もう一箇所は、少し南に、ちょっと高い場所に。
南北に連なる開口部の最南部。

一般公開ある時に、また期待ですね。(あるのかな?)


八幡山公園

宇都宮二荒山神社の鎮座する明神山の北に連なる八幡山。
1927年に宇都宮市立八幡山公園として開園。
戦時中は、現在のアドベンチャーUの場所(地下壕の地上部分)は対空高射砲陣地で、何基も設置されていたという。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-192
昭和22年(1947年)10月25日、米軍撮影の航空写真。

一部加工

主要拠点は下記となる。

  • 第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。


※2024年1月撮影

「その3」、へ続きます。


関連

中島飛行機大谷地下工場跡(軍都宇都宮の戦跡散策1)

大谷石の地下採掘場も、戦時中は軍需工場であった。
JR宇都宮駅からバスで約30分。せっかくなので気になっていた大谷石資料館に足を運んでみました。


大谷資料館

栃木県宇都宮市大谷町にある、大谷石採石場跡に関する博物館。
大谷資料館の地下採掘場跡は、1919年(大正8年)から1986年(昭和61年)までの約70年をかけて、 大谷石を掘り出して出来た巨大な地下空間となり、2万平方メートル(140m×150m)にもおよび、野球場が一つ入ってしまう大きさである。
戦争中は地下の秘密工場として、戦後は政府米の貯蔵庫として利用されてきた。
1943年:陸軍の糧秣廠・被服廠の地下秘密倉庫として使用。
1945年:中島飛行機(富士重工業・SUBARU)の四式戦闘機製造のため地下軍需工場として使用。
1969年:年平均気温が8度前後であるため、政府米(古々米)の保管庫として利用。
1979年:大谷資料館がオープン。地下採掘場が一般公開。

http://www.oya909.co.jp/

http://www.oya909.co.jp/contents/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E7%9F%B3%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E6%8E%A1%E6%8E%98%E5%A0%B4%E8%B7%A1/


大谷地下工場について

大谷資料館の場所の地下は「中島飛行機宇都宮製作所城山工場」であった。
また南西部の地下には「中島飛行機武蔵製作所大谷工場」もあった。

大谷地下工場について
 太平洋戦争時の大谷地下工場、今では知る人も少なくなりましたが、1945年3月ごろ、この大谷地区には、日毎に激しくなる米軍機の爆撃を避けるため、工場の疎開が行われ、展示図の中島飛行機(株)(現富士重工)宇都宮製作所城山工場(機体)と、図面南西図に位置する戸室山を中心とした同武蔵製作所大谷工場(発動機)の二工場が飛行機の地下生産を開始しました。当時、この二工場には、正規従業員・徴用工・女子挺身隊員・通年動員による旧制中学校3年以上の男女学生・坑内工事関係者・関係軍人合計約15,000名の人達が勤務していたと言われています。
 これらの方達の中には、大谷で唯一公開されている当資料館坑内を訪れ、当時の思い出などを話して帰られる方もあります。ここは城山工場に属し、治工具・熱処理部門の工場になっていました。
 地元である宇都宮製作所は、1943年10月ごろから既にその準備に入っていましたが、外来の武蔵製作所は1944年11月からでした。
 大谷では、明治末期ごろから、坑内掘りが行われていて、多くの地下坑があり、軟石のため、拡張が容易なことから、工場の疎開先に選定されたわけです。既設坑の整備と共に坑の新設、各坑との連絡通路造成のためにダイナマイトの発破作業による隧道(トンネル)の掘削が、文字通り、日夜突貫工事で行われ、展示図(城山工場)の様な大地下工場群ができたのです。青図は白抜き部分、拡大図ではピンク染色部分が隧道です。
 最近大谷では、採掘跡(廃坑)が問題視されていますが、戦後の復興期、これらの隧道を利用して、盛んに採掘が行われたため、廃坑問題の一因ともなっています。
 しかし、廃坑になった所は採掘に伴う廃土石の捨て場として、埋め戻されることが多いため採掘跡全部が空洞になっているわけではありません。

空襲を避け、長期戦に備えるため、日本でも有数の地下工場群として、計画され、実施中だった城山工場(河内郡城山村大谷)の極秘配置図です。米軍も、この地下工場には全く気付かず、接収に当たり、その規模の大きさに驚いたそうです。

昭和17年 1942
 入江侍従、大谷石採掘場視察
昭和19年 1944
 陸軍糧秣廠・被服廠、大谷石採掘場を地下倉庫に使用
昭和20年 1945
 中島飛行機工場を地下工場に移転
 採掘場は地下工場となる

ここに展示されたパネル写真は、終戦当時進駐軍関係者により撮影された大谷地下工場の数少ない写真です。

1 発破作業により開坑された工場(または倉庫)の入口

2 カムフラージュされた望楼

3 当時最新の工作機械

4 中島飛行機製作の戦闘機「疾風」(通称ハチヨン)の星型エンジンケース

5 工場接収時、日本側の説明を受ける、米国調査団。
  中島飛行機夏処理工場付近(当大谷資料館地下採掘場)

キ‐84 四式戦闘機「疾風」
 キ‐84、四式戦闘機「疾風」)以後キ84)は中島飛行機が開発・生産を行った重戦闘機で、速度、運動性、武装と防御、航続距離など最もバランスに優れ、昭和19年(1944年)4月の制式採用後、陸軍は「大東亜決戦機」と称して、最も重要な航空機として位置づけ、大戦における運命を託した。日本国民の総力を注いで送り出されたキ‐84は終戦迄の短い期間におよそ3,500機が生産され大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン戦線、および本土防空戦において活躍。戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が発揮できず、苦戦を強いられたが、よく敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を撃墜、あるいは特攻機として出撃、御盾となり南溟に散った。千フォ、連合国は、接収したキ‐84に再整備を施し、飛行テストを実施したところ、秘められた性能を発揮。P‐51を上回る最高速度を記録。その性能に驚愕し、日本戦闘機の最高傑作と消化した。


地下軍事工場跡(大谷資料館)

地下軍事工場跡
この地下空間は戦時中、陸軍の地下倉庫として、また、中島飛行機の戦闘機「疾風」の機体工場として利用されました。
当時、他の地下工場や外につながるたくさんの隧道(トンネル)が掘られ現在もこの奥に残っています。

地下工場の隧道

広大な地下空間
この地下坑内は、大正8年(1919)から昭和61年(1986)に渡り採掘が行われ、下図のような構造になりました。
広さは、約20,000㎡(間口150mx奥行140m)、深さは地下約30mで、野球場がひとつ入る大きさがあります。
この空間の容積は、約300,000㎥で、約1,000万本の石が切り出され日本全国に出荷されました。

芸術的な地下空間美でもある。

教会エリアは通常非公開とのことで。

圧巻の空間。

いろいろ凄まじい、、、

政府米を預かったときに取り付けられた鉄扉。
採掘場と倉庫の仕切りで、大形トラックが出入りしたという。

石の華
大谷石に含まれる塩分が冬の乾燥時期に結晶として吹き出たもの。
夏場は消滅するという。

なかなか楽しい地下空間でした

外に出ました。

外の景観もなかなか圧巻。

坑口に自販機

場所

https://maps.app.goo.gl/BzL8iqm7W1suWECH8


平和観音(大谷公園)

公園に移動しまして。

天狗の投岩

平和観音

平和観音
 大谷寺の南側に高くそびえる平和観音は、身丈26.93メートル(88尺8寸8分)の高さで、第二次世界大戦による戦没者の霊を弔い、世界平和を祈念するために、大谷観音の御前立として彫刻されたものです。
 戦後間もない昭和23年9月より、当時の大谷観光協会と地元の人々の熱心な後援のもとに、大谷石の採石場であった壁面を利用し、南側の岩肌に観音像を刻みました。東京芸術大学教授・飛田朝次郎氏が彫刻を手がけ、その指導のもと、大谷町の大工・上野浪造氏らが制作にあたりました。6年の歳月を費やした結果、昭和29年12月に完成しました。
 昭和31年には、日光輪王寺門跡菅原大僧正により開眼供養が行われ、それ以降大谷の顔としてそびえ立っています。

平和観音の隣は見晴台になってました。

場所

あいかわらず、見事な石の造形があっちこっちに、です。


慰霊之塔(大谷公園)

大谷の城山村地区戦没者390余名の慰霊顕彰碑

慰霊之塔

撰文
我が日本は開国と共に世界の文化を吸収して近代国家に発展したが幾多の戦乱に遭い遂に太平洋戦争に突入して許多の多くの尊い生命が祖国進展の為に捧げられた 明治大正昭和の三代に亘り我が家郷を出て、故国の悲運に殉じたる者実に三百九十余名の多きに及んで居る 其の愛国の情を祖国再建の礎石たらんことを確信して茲に慰霊之塔を建立し霊を慰むると共に世界永遠の平和を祈念して人類理想具現の道標とせんとする者である
 城山村長 安納 基 謹書
  昭和29年10月 建立

以上、大谷関連の戦跡散策、でした。

場所

https://maps.app.goo.gl/5yzScbRZP6wbFQXT9

撮影:2024年1月


中島飛行機関連

はじめに

「鐵道院」「浦賀船渠」銘のある「鶴田駅の跨線橋」(明治44年造・JR日光線)

JR日光線の鶴田駅。
ここの跨線橋が、「完成当初から同じ場所で現役として使用されている最古の跨線橋」というので足を運んでみた。


(2021年時点)完成当時から同じ場所で使用されていた現役最古の跨線橋だった「半田駅」

かつて愛知県半田市のJR武豊線の半田駅にあった跨線橋が完成当初から同じ場所で現役として使用されていた最古の跨線橋建造物(明治43年築)であった。
しかし、2021年6月に役目を終えて撤去。半田駅は高架化され、かつての跨線橋は駅前公園に移築保存されることになった。

そうして半田駅の次に、同じ条件で古い跨線橋であったJR日光線の鶴田駅が、日本最古の跨線橋として、昇格した、ということになる。

ちなみに「移設された跨線橋」を含めると、1890年(明治23年)製のJR山陰本線の「大田市駅の跨線橋」が日本最古となる。

半田駅。2017年の半田散策のときに記録していましたね。
現在は撤去済み。


「鶴田駅」の跨線橋

改めて、完成当時から同じ場所で使用されている現役として、日本最古の跨線橋となる「鶴田駅の跨線橋」を見学。
明治44年(1911年)造の跨線橋。

駅ホーム側。

浦賀船渠株式会社製造

明治四十四年 鐵道院

駅舎(駅本屋)側。同じですね。

明治四十四年 鐵道院

浦賀船渠株式会社製造

浦賀船渠株式会社と、まさか鉄道駅の跨線橋で出会えるとは!です。

近代化遺産 に指定されています。

JR日光線。新型車両に置き換わっていますね。

鶴田駅
2014年に新造された駅舎。

※撮影:2024年1月


関連

鐵道院

浦賀船渠

明治時代の面影を残す「日光駅」(大正元年/1912年竣工)

日本有数の観光地である日光の玄関口。
鉄道黎明期のころから、日光に対する観光需要は高く、明治23年(1890)に、日光駅は早くも開業している。


JR日光駅

1912年(大正元年)8月25日に、現在の2代目駅舎が落成。(起工は同年4月9日)。
ネオ・ルネサンス様式のハーフティンバー様式木造洋風建築2階建て建造物。

関東の駅100選。選定理由は「明治時代の面影を残す白亜の木造建築の駅」。

日光駅貴賓室

貴賓室は非公開。

日光駅一等車利用者用待合室

平成元年(1989)に「ホワイトルーム」として再整備。多目的ホールとして活用されている。


日光線

なんとなく、常に混み合っているイメージの日光線。

9月の週末。10時すぎの日光駅。なかなかの賑わい。

※撮影:2023年9月


日光田母沢御用邸の防空壕跡

日光で、何するというわけでもないけど、時間があったので、せっかくなので御用邸に赴いてみた。


日光田母沢御用邸

https://www.park-tochigi.com/tamozawa/

元は皇太子時代の大正天皇の静養所として造営された旧御用邸の建物と庭園を公園として整備し一般公開されている。

明治期以降に数多く造られた御用邸建築のうち、全体がほぼ完存する唯一の例として貴重であり、建造物群は国の重要文化財に指定されている。

御用邸の創設は明治32年(1899年)で、病弱であった皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の夏の静養所として設けられたもの。
大正天皇即位後にも多くの部屋が増築され、東京赤坂東宮御所の江戸期の移築建築もあり、明治・大正の各時代の用途の異なる建築が混在している。


日光田母沢御用邸の防空壕

1944年(昭和19年)7月、東京への大空襲に備え、日光田母沢御用邸が、当時皇太子(学習院初等科5年生)であった第125代天皇明仁の疎開先となった。その時に、防空壕も設営されたものと思われれる。

内部の写真。

水没しているようだ。

防空壕の上部。

この下に防空壕がある。

もうひとつの入り口。
防空壕の入り口は2つあった。


日光田母沢御用邸見学

正門。

入り口。御用邸の車寄せ。

御玉突所

謁見所

御学問所の丸窓

中央の建物は御食堂

2階へ

後日拝所

剣璽の間

御寝室

3階の御展望室は期間限定公開。

御座所

御食堂

御湯殿

庭園から

3階建屋。

なんかのんびりできました、たまにはこういう文化的なものも良いですね。

場所

https://maps.app.goo.gl/dPNqQeTv6zXzxRBE7

※2023年9月撮影


関連

烏山防空監視哨

那須烏山市。
烏山城に連なる南の筑紫山の山頂に、防空監視の戦跡があったので足を運んでみました。


烏山防空監視哨

筑紫山の山頂に、コンクリートの円筒がある。

筑紫山についての看板。

烏山防空監視哨の案内は、山の麓にある。(山頂には無い)

那須烏山市の近代化遺産
烏山防空監視哨
分類:軍事/監視哨
所在地:那須烏山市筑紫山頂
建造年:不明(昭和16年以降)
構造形式:コンクリート造
昭和16年12月に「防空監視隊令」が公布され(勅令1136号)、これを基に「栃木県防空計画」が選定されました。この計画では、県内に3ヶ所の監視隊本部と防空監視哨43ヶ所・補助監視哨4ヶ所の設置が定められ、監視隊本部の一つ宇都宮監視隊本部には19ヶ所の監視哨が配置され、烏山は6番目に位置していました。烏山防空哨は、当初毘沙門山頂にあった従来の監視用施設を供用し、その後、筑紫山頂にコンクリートで建造されたものと思われます。ラッパ型円筒形で外径4.25m・内径2.76m・高さ1.5m、地元那珂川産の川砂・川砂利が使用され、また表面はセメントペーストで成形されています。このような戦争遺産は、平和学習の教材として評価・関心が高まっており、烏山防空監視哨はその先導的施設として貴重な遺産といれるでしょう。

豆知識
■哨員の構成と仕事
監視哨は哨長1名、副哨長3名および哨員24名で構成され、8名1組の3班で概ね3日交代で勤務していました。哨員の仕事は飛来する敵機の監視で、目視・聴覚で判別して本部に通報することでした。
■現存する防空監視哨
現在、各地にいくつかの防空監視哨が確認されており、その構造・形状も多様です。栃木県では設置されたとされる47ヶ所のうち烏山と粟野の2ヶ所が現存・確認されており、どちらもラッパ型円筒形をしています。

土木学会の選奨土木遺産の認定書。
栃木県の防空関連施設群として、掩体壕3基と監視哨2基が認定されている。

防空監視哨を見学。

内部にベンチのようなものがある。

はしごもあるので、内部に入ることもできる。

けっこう、怖い。内部にはいるのは、やめておく。

場所

https://maps.app.goo.gl/6xRkJi6jeBSk8Jvz9

筑紫山、遠望。

那須烏山市 烏山庁舎のとなりにある「八雲神社」から登山できる。

案内看板がある。

となりの空き地には、「彰徳碑」がある。

削られている。

筑紫山の登山道。

毘沙門天が祀られている。

八雲神社から、だいたい15分くらいで山頂に到着できる。

ちなみに、JR烏山駅からは、八雲神社まで、15分くらい。
わたしは、「どうくつ酒蔵」から歩いたんので、八雲神社まで20分くらい。けっこう歩きまくりました。


JR烏山線

烏山線、初めて乗りました。

烏山線は、蓄電池駆動電車が運用されている。
JRグループ初の「蓄電池動車」。リチウムイオン電池でウドいている電車。

烏山駅で、急速充電中。

地下工場跡を再利用した「どうくつ酒蔵」(東京動力機械製造地下工場跡・島崎酒造どうくつ酒蔵・烏山)

栃木県那須烏山市。
ここに、地下工場(地下壕)を再利用した酒蔵があるというので、足を運んでみた。


東京動力機械製造地下工場

第2次世界大戦末期に戦車を製造するために建造された地下工場跡。
昭和19年11月に民間企業であった東京動力機械製造株式会社の疎開が決定。戦車を製造していた軍需工場でもあった。
疎開先の烏山の山裾に半地下式工場が建造され、隣接して地下工場も造営。
半地下式工場では、終戦までに約20台の戦車が製造されたと言われている。しかし、この地下工場では戦車を製造することなく終戦を迎えている。
地下工場は、高さ幅ともに3.5mの3本の坑道とそれを結ぶ5本の横坑で構成され、総延長は600m。
人力だけで素掘りされた隧道群。

「東京動力機械製造株式会社地下工場跡」として土木学会選奨土木遺産に認定されている。
選奨理由「戦車製造の軍需工場として人力だけで建造された総延長600mの素掘り隧道群で、意匠・技術力を超越した迫力が感受される土木遺産である。」
また、那須烏山市の近代化遺産にも認定されている。


島崎酒造どうくつ酒蔵

「東力士」で知られる島崎酒造。
戦後に、東京動力機械製造地下工場を酒蔵として活用。通称「どうくつ酒蔵」。
2011年に、旧地下工場跡の洞窟を酒蔵化している。

https://azumarikishi.co.jp/tour/

場所

https://maps.app.goo.gl/AGRbgAH85ZRSxG7Q8


東京動力機械製造地下工場跡(どうくつ酒蔵)散策

土日祝日が開放日。

入口。

受付時に音声ガイドのタブレットが手渡されました。
なかなかハイテクですね。

音声自動ガイド。

まだまだ暑い9月の訪問でしたが、中は一気に温度が下がりました。
日本酒を貯蔵するのに最適されています。

どうくつ施設について
歴史
第二次大戦末期、1944~45年頃、戦車を製造するために作られた地下工場跡地です。
当時、400人程度の人の手が掘削作業にあたり、約1年半という短い期間で地下施設を完成させました。

どうくつの大きさ
約12,000㎡の山一つの地下に
縦穴 100m 3本
横穴  60m 5本
トンネル横幅 3~4.5m
トンネル高さ 3.5m~4m
トンネル延べ 600m

形状
上から眺めると格子状ですが、真横から見ると、3本の縦穴は入り口から奥の突き当りの非常口まで貫通しており、すべて上り勾配がついています。これは暖かい空気は上に上るといった現象を利用してどうくつ掘削作業、施設稼働時の酸欠の危険を防ぐ空気循環の考慮だと言われています。

どうくつ内温度
どうくつ内の温度は年間を通じ平均10℃前後、冬場は5℃、夏場は15℃前後になっており、お酒の熟成には最適の温度環境になっております。

周辺減光してますね、、、洞窟内なので撮影が難しい。。。

つきあたりに、観光地でよくある顔出しパネルが、、、

洞窟内では、テレビや映画の撮影や、音楽コンサート、イベントなども開催。

温度は、18℃くらいで、湿度は65%くらい。

オーナーズボトルの貯蔵。5年から20年ものあいだ、寝かせるという。

外が見える。

下に降りる階段がある。

下は、売店。日本酒が買える。

どうくつから外に出る。
温湿度差でカメラのレンズが一気に曇る。。。

土木学会選奨土木遺産

土木学会の認定証

烏山市の近代化遺産

https://www.city.nasukarasuyama.lg.jp/data/doc/1610777525_doc_6_0.pdf

どうくつの酒場で購入しました。
「東力士純米吟醸 どうくつ熟成酒」

外で、サイダーとアイスも。
「東力士サイダー」「東力士吟醸酒アイスクリーム」

パンフレット

東力士ステッカー

どうくつ酒場から見えていた開口部。

どうくつ酒場のある山。

ちなみに、烏山線の滝駅から歩きました。電車の本数が少なくて調整必要。
どうくつ酒蔵のあとは、歩いて神長トンネルを抜けて烏山の筑紫山の防空監視哨(別記事で記載します)に行きましたが、この2つを歩いていくのは修行ですね。

※撮影:2023年9月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M561-104
1947年11月17日、米軍撮影の航空写真。

該当部分を拡大。

現在の位置関係。


関連

零式艦上戦闘機と九六式陸上攻撃機のプロペラを祀る「零戦堂」(日光今市)

JR今市駅のちかくに、プロペラを祀るお堂があるという。
けっこう気になっていたので、行ってみることにした。


零戦堂

なんでも日光名産の「けっこう漬」の創始者は、かつて日本海軍に所属していたらしく、戦後にお店の敷地内にお堂を立てて、往時の同僚を慰霊したことにはじまるという。
創業者の福田義雄は、予科練、土浦海軍航空隊を経て鹿島海軍航空隊へ入隊し、特攻隊に志願。戦友が沖縄の海に散華するなかで、生還。
戦後は国鉄の機関車乗りを経て、地元の老舗醤油会社で営業をし、雜貨店を足がかりに、近隣農家で栽培された野菜を漬物にして販売することを決断。
故事にいう「日光を見ずしてけっこうと云うなかれ」から、社名は「けっこう漬本舗」となったという。

https://kekkozuke.co.jp/about

九六陸攻のプロペラは、マーシャル諸島のメジロ島沖合で現地人によって引き揚げられた。昭和61年に気仙沼の漁船によって日本に帰還し、ここに鎮座、多数の弾痕がある。
零戦のプロペラは、昭和57年に横浜沖で底引き網にかかり、柴漁港に引き揚げられたものを、ここに鎮座。

鎮魂
前席のプロペラ。太平洋戦争の激戦地マーシャル諸島のメジロ島沖合より原住民により引上げられた旧海軍九六式陸上攻撃機プロペラ。宮城県気仙沼市第一一〇卓昌丸石崎漁労長により昭和六十一年七月二十日この社に鎮座、無数の弾痕あり。
後席のプロペラ。零戦(零式艦上戦闘機)。横浜市金沢区柴町二四二綱元宍倉弥一氏の底引網により昭和五十七年六月二十一日午后一時横浜沖合にて収納される。海中にあること三十七、八年祖国の繁栄と幸せを願い信じて、太平洋戦争に散華した若鷲の魂が、このプロペラに宿されて、今ここに同じ人類の戦いのはかなくむなしさを呼びかけている。
 昭和六十三年十一月吉日
  日光けっこう漬本舗代表 福田義雄建之

鎮魂由緒書とは異なり、現在は、以下の鎮座配置となっている。
手前は、零式艦上戦闘機のプロペラ
奥は、九六式陸上攻撃機のプロペラ 

零戦堂

プロペラの依代として、勇士を祀る慰霊のお堂。

無数の弾痕。九六式陸攻のプロペラ。

手前は、零戦のプロペラ。

五省
五省は昭和7年、当時の海軍兵学校長 松下 元 少将が創始したもの。

一、至誠に 悖る なかりしか
一、言行に 恥づる なかりしか
一、氣力に 缺くる なかりしか
一、努力に 憾み なかりしか
一、不精に 亘る なかりしか

お堂のとなり。
これはなんだろう。。。


けっこう漬今市インター店(日光けっこう漬の直売店)

https://kekkozuke.co.jp/store/inter

零戦道は、日光けっこう漬の直売店の敷地内にある。
手打ちそばも名物らしい。

残念ながら、私は朝8時前に訪問のため、お店は開店前。

帰路に宇都宮駅内の売店で売っていたので、買いました!!
たまり醤油にワイン、ハチミツを加えたタレで漬け込んだお漬物。
これは美味しいですね!!お酒のおともになりました。

場所

https://maps.app.goo.gl/VxDkyFDUG1skPetq5

※撮影:2023年9月


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板垣退助銅像と板垣退助墓所

青梅に赴いたときに、地図を見ていたら「板垣退助の銅像」と記載があり。
気になったので、赴いてみました。
板垣退助の墓所は、品川に何度か足を運んでいたこともありましたので、せっかくなので一緒に掲載。


板垣退助

天保8年4月16日、4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日。
日本の政治家、軍人としては土佐藩陸軍総督。土佐藩士。
従一位勲一等伯爵。
明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。

天保8年4月16日、4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日。
日本の政治家、軍人としては土佐藩陸軍総督。土佐藩士。
従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。
東アジアで初となる帝国議会を樹立。
「国会を創った男」。
伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人。(国会議事堂内に3人の銅像もある。)
国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。

岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。

板垣退助の銅像

全国に、板垣退助の墓は下記の6ヵ所であるが、芝公園は現存していないので、実質は5ヵ所となる。
・国会議事堂
・芝公園(戦時供出で焼失)
・青梅釜の淵公園(昭和36年建立)
・岐阜公園(板垣遭難の岐阜事件にちなむ、戦時供出され、現在は2代目)
・高知城(出身地、戦時供出され、現在は2代目)
・日光東照宮(戊辰戦争で戦禍を回避した縁、戦時供出され、現在は2代目)


板垣退助銅像(青梅)

青梅市の釜の淵公園に。

明治時代に三多摩自由党の有志が、党首板垣退助を対岸の大柳河原に招いて鮎漁を楽しんだという。
それを記念して、昭和36年(1961)5月3日に建立したもの。

板垣死すとも自由は死せず
 大野伴睦書

自由民権確立のため其の生涯を捧げ、今なお憲政の父と仰がるる板垣先生、かつてこの地に遊ぶ。多摩の老政客・岩浪光二郎翁つとに先生を景慕すること厚く、その偉業を顕彰。以て高風を永く後世に伝えんとす。
ここに先生ゆかりの地を卜し、同志協力してこの像成る。
 昭和三十六年五月
  板垣退助先生銅像建設会
   設計作成 松野伍秀

多摩川の上流。風光明媚な景観。

場所

https://goo.gl/maps/2pNjBG2e5sRiU2RS9


板垣退助像(日光)

戊辰戦争に際して、日光に立てこもった大鳥圭介ら旧幕府軍を説得し日光を兵火から守った。
昭和4年の像は、金属供出され、昭和42年に再建。
2023年9月撮影。

神橋の近く


板垣退助像(岐阜)

工事中でしたので、望遠にて。(2023年9月)

明治15年(1882年)4月6日、板垣退助暗殺未遂事件。
岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。

岐阜城の近く。


板垣退助像(国会議事堂)

あまり興味のなかった2017年の撮影。これは取り直し、しないといけません。。。。

大日本帝国憲法施行五十周年を記念して1940年の建立。北村西望作。


板垣退助墓

高源院飛び地。
わかりやすくいくと品川神社の裏。
むかしから何故に品川神社の裏にあるんだろと思っていたが、もともと高源院という寺院があったんですね。高源院は、品川東海寺の塔頭であったが、関東大震災で被災し、昭和14年に世田谷区に移転している。寺院が世田谷に移転したのちも、板垣退助の墓所はそのまま高源院の飛び地として品川に残されている。
そのため、品川神社とは関係ない。。。

板垣退助の地元の高知県にも墓所はあるけど、こちらは東京の墓所。

邦光院殿賢徳道圓大居士

大正八年七月十六日薨 享年八十三

従一位勲一等伯爵板垣退助之墓

板垣退助の墓は第4正妻・板垣絹子と並んで建てられている。

品川区指定史跡
 板垣退助墓
  所在 北品川三丁目七番十五号 品川神社裏
  指定 昭和五十三年十一月二十に日(第四号)
 板垣退助は、天保八年(一八三七)に土佐(高知県)で生まれた。幕末に藩主山内豊信の側用人となるが、倒幕運動や戊辰戦争(一八六八)に参加して功績をあげた。明治七年(一八七四)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治十四年(一八八一)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことばは、当時の若者達を感激させ湧わかせた。明治二十九年(一八九六)から伊藤内閣や大隈内閣の内相をつとめたが、明治三十三年(一九○○)に政界を引退した。大正八年(一九一九)に亡くなり、この地に葬られた。
  平成七年三月三十一日  
    品川区教育委員会

板垣
 死すとも
自由は
 死せず
   自由民主党
    総裁佐藤栄作書

明治100年及び板垣退助50回忌を記念して建立。

https://goo.gl/maps/QBbxsNPNm3wpdvHd7


品川神社

現在、板垣退助の墓は品川神社を経由しないと訪れることができない。
しなし板垣退助の墓所は品川神社の境内ではなく、高源院の飛び地。

品川神社は関係ないけど、絶対の通り道なので、、、

戦跡として。もはや、板垣退助とはなんら関係ないけど。

忠魂碑(品川神社)

この忠魂碑は明治43年4月に品川町在郷軍人会が日清日露戦争における戦没者の慰霊のため乃木大将の揮毫により当時の東海小学校構内に建立された 其の後昭和7年9月に権現山公園(現城南中学校校舎前)に移し 日支事変・大東亜戦争の戦没者をも加えて慰霊を行なってまいりました。
 昭和20年終戦後占領軍の命令により撤去させられましたが 北品川三丁目田島卯之吉氏が引き取られ千葉県南行徳の源心寺に移され慰霊を行なってまいりました。
 この度源心寺及び田島孝作氏のご厚意により終戦50周年記念事業として品川神社に引き取らせて頂き戦没者の追悼慰霊祭を執り行い平和の尊さを後世に伝えて行きたいと存じます
 平成7年7月15日
   宮司 小泉和夫 識

撮影:2022年3月及び2023年1月


関連

伊藤博文公墓所

北宇都宮駐屯地開設50周年記念行事(北宇都宮駐屯地一般公開)

北宇都宮駐屯地の一般公開。
雀宮駅から北側に「北宇都宮駐屯地」があって、南側には「宇都宮駐屯地」がある。
北宇都宮駐屯地は、飛行場があるので、ちょっと趣が異なるのだ。


北宇都宮駐屯地

陸上自衛隊航空学校宇都宮校などが駐屯。
1700mの滑走路を持つ宇都宮飛行場があり、官公庁向け航空機を制作するSUBARU宇都宮製作所南工場と、栃木県警警察航空隊との共同使用となっている。

公式

https://www.mod.go.jp/gsdf/kitautunomiya/index.html


中島飛行機宇都宮製作所飛行場
(宇都宮南飛行場)

中島飛行機宇都宮製作所飛行場として開設。
昭和19年1月に、中島飛行機宇都宮製作所が開設。主に四式戦「疾風」を生産。
昭和20年8月、終戦により、中島飛行機宇都宮製作所は解散、富士産業宇都宮工場となり、平和産業に転換。
のちに富士重工業宇都宮製作所となり航空機の生産を開始。現在は、SUBARU宇都宮製作所南工場が滑走路に隣接している。また、中島飛行機宇都宮製作所は、SUBARU 航空宇宙カンパニーとなっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M83-A-6-105
ファイル:USA-M83-A-6-93
1946年3月24日に米軍が撮影した航空写真。

北にあるのが、中島飛行機宇都宮製作所。誘導路で滑走路と結ばれている。

中島飛行機宇都宮工場と南飛行場の位置関係、誘導路などは、いまでもわかりやすい。


北宇都宮駐屯地開設50周年記念行事

本部庁舎

若々しき航空戦士たらん

鵬翼無窮

航空自衛隊宇都宮基地としての石碑。

航空安全


航空資料館(北宇都宮駐屯地)

旧軍関係としては、陸軍航空学校の資料など。

宇都宮陸軍飛行学校は昭和15年の開設。宇都宮陸軍飛行場は、この地ではなく、東方の清原にあった。(現在の清原工業団地)

陸軍航空育ての親
近藤兼利 陸軍中将

宇都宮教導飛行師団長、でもあった。(昭和10年)

こっちは戦後。

航空公園には、いくつかの飛行機が展示。

F-86F(旭光)


宇都宮駐屯地滑走路(宇都宮飛行場)

管制塔

側溝
なんの根拠もないけど、往時からの側溝だと良いな、という気持ち。蓋は新しいので、今と昔と位置関係があっているかどうか、です。

第三格納庫と管制塔

第二格納庫と第三格納庫は一緒。

式典のメイン観覧席になってます。

第一格納庫。
戦後かな。中島飛行機時代は、格納庫は航空写真で確認できなかったので。

体育館

側溝

こういうのが気になります。往時かどうかは不明。

車庫

古そうなものはとりあえず撮影してしまいます。


航空行事

航空学校宇都宮校の教官が操るブルーホーネットの一斉離陸。
ヘリコプターの飛行演舞は珍しい。

練習ヘリコプター(TH-480B)

多用途ヘリコプター(UH-1J)

飛行展示

栃木県警察航空隊と栃木県消防防災航空隊も交えての救難飛行展示

ブルーホーネット(練習ヘリコプターTH-480B)の演舞

CH-47地上滑走の搭乗抽選は外れました。
まだ乗ったことはありません、、、

厚生センターでカレーを。

ごく普通の味わい。

※撮影:2023年5月


関連

宇都宮駐屯地創立73周年記念行事(宇都宮駐屯地一般公開その2)

宇都宮駐屯地の一般公開。
最近は、各地の自衛隊駐屯地などに、機会があれば足を運んでいる。
駐屯地内にも、もちろん戦跡や近代史跡が点在しており、そして資料館もあったりで、見どころ満載なのだ。

本編は、その2。いまのどきなものを。
歴史的な話題は「その1」で。


宇都宮駐屯地創立73周年記念行事式典

陸自駐屯地の記念行事の式典。
基本的な流れはどこも同じだけど、駐屯地ごとの個性もあって、それはそれで面白い。

観閲の指揮官は、駐屯地副司令。

東部方面特科連隊第二大隊ほか、観閲。

執行者は、駐屯地司令。東部方面特科連隊第二大隊の大隊長。

巡閲

「ひげの隊長」こと、佐藤正久議員も多忙の中で来場。自衛隊員に激励の言葉を。

観閲行進

訓練展示(模擬戦)

模擬戦

模擬戦終了。

模擬戦参加車両が反転すると、自衛官募集中!アピールに

16式機動戦闘車はいいですね。


その他

厚生センター

体育館

地元の高校生による書道パフォーマンスも有りました。

作新学院高校

国学院栃木高校

ポスター

チラシ

※撮影:2023年5月


関連

宇都宮駐屯地公式

https://www.mod.go.jp/gsdf/utunomiya/utsunomiyahp/

雀宮駅

宇都宮駐屯地創立73周年記念行事(宇都宮駐屯地一般公開その1)

宇都宮駐屯地の一般公開。
最近は、各地の自衛隊駐屯地などに、機会があれば足を運んでいる。
駐屯地内にも、もちろん戦跡や近代史跡が点在しており、そして資料館もあったりで、見どころ満載なのだ。

本編は、「その1」。歴史的なものを中心に。
いまどきな話題は「その2」で。


宇都宮駐屯地

陸上自衛隊の中央即応連隊や東部方面特科連隊第2大隊等が駐屯。
昭和25年(1950年)に、軍需工場であった関東工業跡地に警察予備隊宇都宮官舎が創設したことに始まる。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M83-A-6-71
1946年3月24日に米軍が撮影した航空写真を加工。

拡大

現在の様子(Google航空写真)


宇都宮駐屯地正門
(旧・関東工業雀宮工場正門)

軍需工場であった「関東工業株式会社 雀宮工場」の跡地に現在の宇都宮駐屯地はある。
昭和19年に関東工業雀宮工場は操業を開始している。主に20ミリ機関砲弾薬などを生産。雀宮駅とは専用の引込線路も引かれていた。

関東工業雀宮工場の門柱が、現在も正門門柱として活用されている。

陸上自衛隊 宇都宮駐屯地
中央即応連隊

東部方面特科連隊第2大隊
第307施設隊

宇都宮駐屯地北門
(旧・関東工業株式会社北門)


旧歩兵第59連隊門柱

歩兵五十九聯隊の営門門柱と哨舎(歩哨舎)が移設保存されている。

旧歩兵第59連隊門柱
明治42年5月21日、旧歩兵第59連隊が、習志野より宇都宮宝木(現 若草)へ移駐した際、新兵舎とともに建築された門柱である。
かねてから門柱の移設については、旧軍関係者の強い要望もありこのたび第四施設群の協力で復元された。
 平成2年3月27日

旧歩兵第五十九聯隊営門


38式野砲

38式野砲
諸元
 口径 75mm
 重量 947Kg
 弾量 6,8Kg
 初速 520/秒
 最大射程 10,700m

特性
この野砲は満州事変、支那事変、大東亜戦争等に主力野砲として参加し優秀性を誇った。機動は馬6頭で索引し日本最初の砲身後座式を採用、明治38年制式化された。
※この砲は戦後米軍が富士重工太田工場に進駐戦利品として展示されていたが米軍引揚げ後富士重工社長横田信夫氏の好意により出品されている。

車輪は木材も使われている。


宝の木

宝の木(学名・猿の手柏)
由来
本木は宇都宮第十四師団司令部設置の際に司令部前庭木として移植されたものである。
現宇都宮市宝木町の町名の由来となった花木の種子より育ったものである。


南京占領記念碑

南京占領記念碑
由来
現NHK宇都宮放送局からこの地に移したものである。

南京戦に際して、中支那方面軍の隷下にあたる第10軍に、第114師団(宇都宮)が参戦していた。
第114師団は、宇都宮第14師団からの特設師団。

摩耗していて判別不可能


宇都宮歩兵第五十九連隊記念碑

宇都宮歩兵第59連隊記念碑
由来
現宇都宮共同高等産業技術校からこの地に移したものである。

第59連隊碑。題字は第17代連隊長の萩原直之。
宇都宮歩兵第59連隊長で著名なのは、第6代聯隊長の松尾伝蔵。二・二六事件で岡田圭右首相の身代わり犠牲となっている。


軍道桜植樹記念碑

軍道桜植樹記念碑
由来
旧第十四師団長官舎前 現栃木地方協力本部(合同庁舎)からこの地に移したものである。

明治四十四年建立。
扁額は、宇都宮の第十四師団長を勤めた鮫島重雄(陸軍中将、最終階級は陸軍大将)
宇都宮グランドホテルのあった場所が、宇都宮師団長時代の鮫島重雄の別邸であった。庭園は別邸時代の名残を残していたが、宇都宮グランドホテルの廃業と再開発で名残も失われることとなった。


防衛資料館

宇都宮駐屯地の資料館。

防衛資料館内部は撮影禁止

陸軍第14師団をはじめとする宇都宮駐屯部隊(第51師団や214聯隊など)のコーナーや、栃木にゆかりのある大山巌元帥関連のコーナーなど、見どころは多数。

参考>

https://www.mod.go.jp/gsdf/utunomiya/utsunomiyahp/siryoukann.html

74式戦車、ほか


防衛資料館前庭の記念碑群

自衛隊関係の記念碑も多数。

守死善道

宇都宮駐屯地愛唱歌
宇都宮の防人

作曲は、船村徹氏。

部隊の歴史

盡忠制海

第307施設隊の歩み

第4施設群


本部庁舎

宇都宮の防人
 平成22年4月吉日

宇都宮駐屯地
創立60周年記念

石灯籠


礎(慰霊の碑)


 栃木県知事
  横川信夫謹書

合掌

慰霊の碑建立のことば
 昭和25年警察予備隊として発足以来自衛隊の今日に至るまで我が国の安全と平和のため陸に海に空に旺盛な責任感と不撓不屈の精神をもって任務遂行中旬職された不滅の霊魂に対し深甚なる敬意を捧げ自衛隊の礎としてその偉勲を永久に顕彰する
 昭和47年10月27日
 栃木県自衛隊駐とん部隊代表
  第十二特科連隊長一等陸佐 今西 四
 慰霊の碑建立委員長
 駐とん地業務隊長二等陸佐 谷中 光雄

駐屯地慰霊碑
 移設記念
  平成2年11月2日

そのほか石碑群。

䢖施乃絆

鈴見池

池?

尚武園

園?

伝統讃えて
第104建設大隊廃止
第4施設群創設   記念
 昭和47年8月1日


そのほか

ちょっと古そうなもの。航空写真と照合してみたけど、戦後かな。

なぞの門柱。。。


四季桜

宇都宮に駐留していた第12特科隊のラベル
第12特科隊は2023年3月廃止され、東部方面特科連隊第2大隊に改編された。

四季桜 特別純米酒
宇都宮酒造

※撮影:2023年5月


関連

宇都宮駐屯地公式

https://www.mod.go.jp/gsdf/utunomiya/utsunomiyahp/

雀宮駅

北宇都宮

「鐵道院」「高田商會」銘のある鋳鉄柱(雀宮駅・大森駅)

かつて、「乗換跨線橋」に使われていた鋳鉄柱が、大森駅と雀宮駅に残っているというので、足を運んでみました。


雀宮駅下りホームに残る「鐵道院銘の跨線橋鉄柱」

跨線橋の柱に使用されていた鉄柱が、外灯として使用され、そしてモニュメントとして保存されている。

雀宮駅旧こ線橋の柱について
 この柱は、かつて雀宮駅で使用されていた乗換えこ線橋の階段下の門柱で、乗換えこ線橋自体は1984(昭和59)年の駅改良工事に伴い撤去されましたが、その後乗降場の外灯として2009(平成21)年まで再利用されていました。
 この門柱は鋳鉄製で、柱下部の刻印のとおり、合資会社高田商會(現株式会社高田商会)の柳島製作所(現東京都墨田区錦糸4丁目の錦糸公園東側付近)にて1912(明治45)年に製作されたものです。
 わが国の鉄道工場で鋳鉄柱が製造されるのは1882(明治15)年からですが、1907(明治40)年の鉄道国有化を境として民間会社でも製造されるようになりました。
 しかし、大正時代になると古レールや形鋼などの鋼材を利用するようになり、急速に廃れてしまいました。
 合資会社高田商會の銘がある鋳鉄柱は、今のところ全国でも当駅と京浜東北線の大森駅東口に保存されているもののみです。
 そのような時代に製造された鋳鉄柱の一つとして、また当時の鉄道建造物の技術を伝える貴重な柱です。  
 2011年3月  
 東日本旅客鉄道会社 大宮支社

「合資会社高田商會」の銘がある鋳鉄柱は、今のところ全国でも当駅と京浜東北線の大森駅東口に保存されているもののみです。
 ↓
雀宮駅もたまたま足を運んだだけで、この鉄柱の存在は知りませんでした。さらには大森駅にもあるというのであれば、大森にも行かないと、、、です。

鐵道院(鉄道院)

合資会社高田商會柳島製作所
明治45年7月製造


雀宮駅上りホームに残る「鐵道院銘の跨線橋鉄柱」

雀宮駅上りホームにも同じようにありました。
こっちは説明の案内看板がないので、ちょっとわかりにくい。。。

鐵道院(鉄道院)

合資会社高田商會柳島製作所
明治45年7月製造

雀宮駅。
実は雀宮駅には「宇都宮駐屯地」「北宇都宮駐屯地」に赴くために利用しました。その時のレポートはまた後日。。。(記事作成前)


高田商会

もともとは、日本の兵器機械商社。日清日露戦争で急成長した。
鉄柱を製造した明治45年(1912、明治最後の年)は、日露戦争からは7年後。
高田商会は兵器機械などの輸入販売業としては業界トップの地位にあたる。
明治40年(1907年)に合資会社に改組している。
しかし大正7年(1918年)に贈賄事件があり、明治10年に創設者の高田慎蔵が病死、1923年(大正12年)の関東大震災で社屋が倒壊、商品が焼失、為替差損もあり、1925年(大正14年)2月に経営破綻、整理会社となっている。
1925年(大正14年)8月に新会社の株式会社高田商会(第二次)が設立。
戦後の1963年(昭和38年)に日綿実業(双日)に吸収されたものの、同年に旧高田商会関係者により株式会社高田商会(第三次)が設立、機械商社として社名を存続している。


大森駅駅前に残る「鐵道院銘の跨線橋鉄柱」

さて、雀宮駅で、もうひとつは大森駅と知ったので、大森駅にも足を運んできました。
これはかなりさり気なく、「鉄道院」ですね。
そして、なにも説明もありません。。。

鐵道院(鉄道院)

合資会社高田商會柳島製作所
明治45年7月製造

雀宮駅でみたものと同じですね。

大森駅

※撮影:2023年5月


錦着山護国神社(栃木市)

栃木駅から、歩いていける場所に、ちょっと気になる神社があったので、足を運んでみた。

社殿の脇にたつ記念燈台がひときわに存在感を放つ錦着山護国神社。


錦着山護国神社

栃木県の初代県令鍋島幹が、戊辰戦争・西南戦争(明治10年)の戦死者を祭り、忠魂を慰めるために、招魂社(栃木招魂社・私祭招魂社)の建立を検討。
明治11年(1878)に起工し、明治12年9月に社殿・社務所が完成。
明治17年(1884)に、栃木県庁が栃木町から宇都宮町に移転するとともに、管理は栃木県から下都賀郡へ移管となり、その後は栃木町への移管となっている。
大正10年(1921)に、栃木町長と帝国在郷軍人会栃木町分会で協議の結果、日清戦争日露戦争の下都賀郡出身の英霊を合祀。
昭和14年(1939)に、招魂社制度の改正となり「錦着山護国神社」と改称。
その後、上海事変・満州事変・支那事変・大東亜戦争の英霊も合祀し、下都賀郡の8300余柱を祀っている。
なお、招魂社としての官祭招魂社は、宇都宮招魂社(栃木県護国神社)と黒羽招魂社の2社のみ。
栃木招魂社(錦着山護国神社)は、私祭招魂社とされる。

ちなみに、錦着山とは、巾着の形ににているからとも、つつじが満開の頃は錦を着ているように美しいことからとも名前がつけられたとされている。

栃木市観光協会

https://www.tochigi-kankou.or.jp/spot/kinchakusan

栃木県観光物産協会

https://www.tochigiji.or.jp/spot/s9016

大鳥居は、大正12年(1923)11月帝国在郷軍人会下都賀郡連合分会の建立。

社号標は一度折れてしまったようです。

「錦着山護國神社」名称での社号標

参道途中の鳥居。

神額には「招魂社」と記載あります。謹書が誰かは読み取りできず。

両脇には、「獅子の子落とし」の阿吽の狛犬。
帝国在郷軍人会栃木市総合分会の奉納。昭和13年8月。

錦着山護國神社御社殿(拝殿)

合掌

至誠の扁額。謹書は読み取れず。

錦着山護國神社御社殿(ご本殿)

錦着山護國神社社務所。年季が入っている。


日露戦争記念燈台

社殿の向かって右隣りに高くそびえる「燈台」。
詳細は不明であるが、日露戦争を記念して建てられたものという。


栃木市海友会の碑(同期の桜碑)

昭和46年5月27日の建立。海軍記念日の建立ですね。

大日本帝国海軍
貴様と俺とは同期の桜
同じ海兵団の庭に咲く
栃木市海友会

錨と桜

海軍旗(旭日旗)

碑のことば
我々は日本の海を護って戦った。平和のために。
貴様と俺と呼びあい相擁して戦いの歌を若い血潮のたぎりの中に歌いあげた。
はげしく厳しかった、その道を何時も我々は支え堪えた。
眼を閉じるとその励まし慰めあいの戦いの日々が胸を往き来して果てしない。
平和が続いている。何時までも続けなければならない。
其の為にあの嵐の中に命を賭けてかち得た、ちえを感激にとかして持ちよろう。
関東の山野に風薫る朝、同期の桜、相寄りて此の碑を建つ。
 昭和46年5月27日
  栃木市海友会会長 森戸清一郎


栃木市海友会の碑(七つの海は桜に錨碑)

栃木市海友会
創立15周年記念
昭和52年五月27日設置
七つの海は桜に錨
海友会長 森戸清一郎かく

海行かば
 水漬く屍
山行かば
 草むす屍
大君の辺に
 こそ死なめ
返り見はせじ


奉祝 御大典紀念碑

下都賀郡傷痍軍人會
昭和3年閏戊辰11月10日建之


日露戦役忠魂碑

伏見宮貞愛親王殿下謹書。
明治41年12月20日竣工。


支那事変大東亜戦争 戦歿者慰霊碑

栃木市青年学校同窓会
昭和38年9月24日建之


記念塔

詳細不明。銘板等は外されたような形跡あり。

ちょっとした山。
三等三角点がある。
標高80.45m

記念燈台は、道路からもよく見える。

栃木駅からは、徒歩約20分。

場所

https://goo.gl/maps/YfAi1XFf6nD17RCQ6