第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。
本記事は、「その4」です。「その3」は、以下にて。
目次
位置関係
主要拠点は下記となる。
- 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
- 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
- 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
- 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
- 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
- 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
- 宇都宮偕行社:桜美公園
- 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
- 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
- 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
- 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
- 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
- 兵器支廠:栃木県中央公園
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。
現在の様子。
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。
司令部周辺を拡大。
同じく現在の位置関係。
上記に基づいて、各拠点を散策してみます。
見返り橋(水無橋)
かつての用水路あとに橋の欄干のみ残っている。
歩兵聯隊に入隊する新兵を、家族や友人がこの橋まで見送り、別れを告げる場所であったため、当時は見返り橋といわれたという。
場所
歩兵59聯隊の兵営地は、とちぎ福祉プラザとなっている。
いったん北に向かいます。
宝木開拓之碑(宝木練兵場跡地)
歩兵59聯隊と歩兵66聯隊の兵営地の北側に、開拓児童公園と若草町三区公民館があり、そこに「宝木開拓之碑」がある。
宝木
開拓之碑
碑文
この地は、明治41年以降宝木練兵場として陸軍の精鋭を育んで来たが昭和20年大東亜戦争の終結により我等36名が入植し開墾を行なった。
入植当時は、一望の原野でしかも永年に亘り軍靴に踏み固められた不毛の地であったが、(以下略)
昭和46年3月12日
宝木開拓農業協同組合
場所
宇都宮歩兵聯隊跡碑
わかくさアリーナ敷地内に記念碑がある。
碑文は、第16代聯隊長 林 茂清
扁額は、栃木県知事 横川信夫
建立は、昭和38年3月10日、宇都宮歩兵聯隊史跡保存会による。
宇都宮歩兵聯隊史跡保存会は、宝木会(歩兵第59聯隊および東部第36部隊の関係者)を主体とし、その他有志によって組織されたもの。
至誠
宇都宮歩兵聯隊跡
記念碑建立の趣旨
宇都宮歩兵聯隊は明治三十八年八月畏くも 明治天皇より軍旗を親授せられ明治四十一年 宇都宮市宝木の兵営に入城 爾来四十有余年間軍旗の下父子相継ぎ郷土部隊として特に県民に親しまれつつ護国の大任に当った
その間日露戦争 シベリヤ上海満州日支の各事変及び大東亜戦争に参加し常に赫々たる武勲を樹て野州健児の名聲を高からしめた
然るに昭和二十年八月終戦の天詔喚発せられ歩兵第五十九聯隊は南洋パラオ島において又歩兵第六十六聯隊は東部ニューギニヤにおいて夫々悲憤の涙に咽びつつ謹んで軍旗を奉焼した
我等聯隊出身者及び有志は今は無き軍旗の栄光を偲ぶと共に祖国の為散華せられた幾多先輩戦友の英魂を慰めるため思い出深き旧営庭跡に記念碑を建立し之を永く後世に伝えんとするものである
昭和38年3月10日
宇都宮歩兵聯隊史跡保存会
および 有志一同
場所
宇都宮歩兵聯隊の北営門の門柱(栃木県警察学校)
宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の北営門の門柱が、警察学校の門柱として、残っている。
場所
警察学校の西側敷地内。石碑とか胸像がある。
殉職警察官の慰霊碑。昭和3年3月建立の石碑。
胸像は委細不明
栃木県警察学校の門柱。これは陸軍とは関係なさそう。
宇都宮歩兵聯隊の倉庫
栃木県立宇都宮中央高等学校(旧・宇都宮中央女子高等学校)の敷地内に、赤レンガ倉庫がのこっている。
宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の炊事場として使われた庖厨棟という。
明治40年の宇都宮への第14師団設置に伴い、第66歩兵聯隊の厨房関係施設として建設され、現在は倉庫に用いられている。
切妻造・平屋建で、外壁がイギリス積み煉瓦造、小屋組は木造トラス。
宇都宮に残る軍事関連施設のうち、唯一の明治期の建物となる。
敷地外から遠望。
倉庫は2000年(平成12年)に「宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫(旧第六十六歩兵連隊倉庫)」として国の登録有形文化財に登録された。
場所
※撮影:2024年1月
「その5」へ