中島飛行機大谷地下工場跡(軍都宇都宮の戦跡散策1)

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大谷石の地下採掘場も、戦時中は軍需工場であった。
JR宇都宮駅からバスで約30分。せっかくなので気になっていた大谷石資料館に足を運んでみました。


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大谷資料館

栃木県宇都宮市大谷町にある、大谷石採石場跡に関する博物館。
大谷資料館の地下採掘場跡は、1919年(大正8年)から1986年(昭和61年)までの約70年をかけて、 大谷石を掘り出して出来た巨大な地下空間となり、2万平方メートル(140m×150m)にもおよび、野球場が一つ入ってしまう大きさである。
戦争中は地下の秘密工場として、戦後は政府米の貯蔵庫として利用されてきた。
1943年:陸軍の糧秣廠・被服廠の地下秘密倉庫として使用。
1945年:中島飛行機(富士重工業・SUBARU)の四式戦闘機製造のため地下軍需工場として使用。
1969年:年平均気温が8度前後であるため、政府米(古々米)の保管庫として利用。
1979年:大谷資料館がオープン。地下採掘場が一般公開。

石の町「大谷」 大谷石に育まれ発展した大谷。現在では、大谷石採掘も手堀りから機械堀りへとなり、昔と大きく変わってきています。この変わり行く大谷石採掘の姿を、手堀り時代と機械化になった現在の道具などを通して展示しております。 また、地下30mの「大谷石地下採掘場跡」は、野球場が1っ入ってしまう程の巨大な地下空間で、古代ロ...
大谷資料館の地下採掘場跡は、1919年(大正8年)から1986年(昭和61年)までの約70年をかけて、 大谷石を掘り出して出来た巨大な地下空間です。その広さは、2万平方メートル(140m×150m)にもおよび、野球場が一 …

大谷地下工場について

大谷資料館の場所の地下は「中島飛行機宇都宮製作所城山工場」であった。
また南西部の地下には「中島飛行機武蔵製作所大谷工場」もあった。

大谷地下工場について
 太平洋戦争時の大谷地下工場、今では知る人も少なくなりましたが、1945年3月ごろ、この大谷地区には、日毎に激しくなる米軍機の爆撃を避けるため、工場の疎開が行われ、展示図の中島飛行機(株)(現富士重工)宇都宮製作所城山工場(機体)と、図面南西図に位置する戸室山を中心とした同武蔵製作所大谷工場(発動機)の二工場が飛行機の地下生産を開始しました。当時、この二工場には、正規従業員・徴用工・女子挺身隊員・通年動員による旧制中学校3年以上の男女学生・坑内工事関係者・関係軍人合計約15,000名の人達が勤務していたと言われています。
 これらの方達の中には、大谷で唯一公開されている当資料館坑内を訪れ、当時の思い出などを話して帰られる方もあります。ここは城山工場に属し、治工具・熱処理部門の工場になっていました。
 地元である宇都宮製作所は、1943年10月ごろから既にその準備に入っていましたが、外来の武蔵製作所は1944年11月からでした。
 大谷では、明治末期ごろから、坑内掘りが行われていて、多くの地下坑があり、軟石のため、拡張が容易なことから、工場の疎開先に選定されたわけです。既設坑の整備と共に坑の新設、各坑との連絡通路造成のためにダイナマイトの発破作業による隧道(トンネル)の掘削が、文字通り、日夜突貫工事で行われ、展示図(城山工場)の様な大地下工場群ができたのです。青図は白抜き部分、拡大図ではピンク染色部分が隧道です。
 最近大谷では、採掘跡(廃坑)が問題視されていますが、戦後の復興期、これらの隧道を利用して、盛んに採掘が行われたため、廃坑問題の一因ともなっています。
 しかし、廃坑になった所は採掘に伴う廃土石の捨て場として、埋め戻されることが多いため採掘跡全部が空洞になっているわけではありません。

空襲を避け、長期戦に備えるため、日本でも有数の地下工場群として、計画され、実施中だった城山工場(河内郡城山村大谷)の極秘配置図です。米軍も、この地下工場には全く気付かず、接収に当たり、その規模の大きさに驚いたそうです。

昭和17年 1942
 入江侍従、大谷石採掘場視察
昭和19年 1944
 陸軍糧秣廠・被服廠、大谷石採掘場を地下倉庫に使用
昭和20年 1945
 中島飛行機工場を地下工場に移転
 採掘場は地下工場となる

ここに展示されたパネル写真は、終戦当時進駐軍関係者により撮影された大谷地下工場の数少ない写真です。

1 発破作業により開坑された工場(または倉庫)の入口

2 カムフラージュされた望楼

3 当時最新の工作機械

4 中島飛行機製作の戦闘機「疾風」(通称ハチヨン)の星型エンジンケース

5 工場接収時、日本側の説明を受ける、米国調査団。
  中島飛行機夏処理工場付近(当大谷資料館地下採掘場)

キ‐84 四式戦闘機「疾風」
 キ‐84、四式戦闘機「疾風」)以後キ84)は中島飛行機が開発・生産を行った重戦闘機で、速度、運動性、武装と防御、航続距離など最もバランスに優れ、昭和19年(1944年)4月の制式採用後、陸軍は「大東亜決戦機」と称して、最も重要な航空機として位置づけ、大戦における運命を託した。日本国民の総力を注いで送り出されたキ‐84は終戦迄の短い期間におよそ3,500機が生産され大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン戦線、および本土防空戦において活躍。戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が発揮できず、苦戦を強いられたが、よく敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を撃墜、あるいは特攻機として出撃、御盾となり南溟に散った。千フォ、連合国は、接収したキ‐84に再整備を施し、飛行テストを実施したところ、秘められた性能を発揮。P‐51を上回る最高速度を記録。その性能に驚愕し、日本戦闘機の最高傑作と消化した。


地下軍事工場跡(大谷資料館)

地下軍事工場跡
この地下空間は戦時中、陸軍の地下倉庫として、また、中島飛行機の戦闘機「疾風」の機体工場として利用されました。
当時、他の地下工場や外につながるたくさんの隧道(トンネル)が掘られ現在もこの奥に残っています。

地下工場の隧道

広大な地下空間
この地下坑内は、大正8年(1919)から昭和61年(1986)に渡り採掘が行われ、下図のような構造になりました。
広さは、約20,000㎡(間口150mx奥行140m)、深さは地下約30mで、野球場がひとつ入る大きさがあります。
この空間の容積は、約300,000㎥で、約1,000万本の石が切り出され日本全国に出荷されました。

芸術的な地下空間美でもある。

教会エリアは通常非公開とのことで。

圧巻の空間。

いろいろ凄まじい、、、

政府米を預かったときに取り付けられた鉄扉。
採掘場と倉庫の仕切りで、大形トラックが出入りしたという。

石の華
大谷石に含まれる塩分が冬の乾燥時期に結晶として吹き出たもの。
夏場は消滅するという。

なかなか楽しい地下空間でした

外に出ました。

外の景観もなかなか圧巻。

坑口に自販機

場所


平和観音(大谷公園)

公園に移動しまして。

天狗の投岩

平和観音

平和観音
 大谷寺の南側に高くそびえる平和観音は、身丈26.93メートル(88尺8寸8分)の高さで、第二次世界大戦による戦没者の霊を弔い、世界平和を祈念するために、大谷観音の御前立として彫刻されたものです。
 戦後間もない昭和23年9月より、当時の大谷観光協会と地元の人々の熱心な後援のもとに、大谷石の採石場であった壁面を利用し、南側の岩肌に観音像を刻みました。東京芸術大学教授・飛田朝次郎氏が彫刻を手がけ、その指導のもと、大谷町の大工・上野浪造氏らが制作にあたりました。6年の歳月を費やした結果、昭和29年12月に完成しました。
 昭和31年には、日光輪王寺門跡菅原大僧正により開眼供養が行われ、それ以降大谷の顔としてそびえ立っています。

平和観音の隣は見晴台になってました。

場所

あいかわらず、見事な石の造形があっちこっちに、です。


慰霊之塔(大谷公園)

大谷の城山村地区戦没者390余名の慰霊顕彰碑

慰霊之塔

撰文
我が日本は開国と共に世界の文化を吸収して近代国家に発展したが幾多の戦乱に遭い遂に太平洋戦争に突入して許多の多くの尊い生命が祖国進展の為に捧げられた 明治大正昭和の三代に亘り我が家郷を出て、故国の悲運に殉じたる者実に三百九十余名の多きに及んで居る 其の愛国の情を祖国再建の礎石たらんことを確信して茲に慰霊之塔を建立し霊を慰むると共に世界永遠の平和を祈念して人類理想具現の道標とせんとする者である
 城山村長 安納 基 謹書
  昭和29年10月 建立

以上、大谷関連の戦跡散策、でした。

場所

撮影:2024年1月


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