千葉県大網白里市。
この地にかつて日立航空機の疎開工場があった。
大網駅から小湊バスで「宮谷」へ。このあたりは文字通り「谷」が多いが、再開発で切り開かれている。このバスの終点は、「みどりが丘車庫」。土地区画整理事業により、大規模な土地基盤整備が行われた。それに伴い、大規模な道路も切り開かれ、戦時下の地下工場跡もだいぶ消失している。
ちなみに「宮谷」は「みやざく」と読む。
目次
日立航空機千葉工場大網地下工場
日立航空機株式会社は、昭和14年(1939)5月に、日立製作所から分離独立。
1941年(昭和16年)1月から終戦までの間に航空機(練習機)4機種1,783機とエンジン14機種13,571基を製造。
日立航空機千葉工場は、昭和10年(1935年)に、海軍航空本部長であった山本五十六の航空産業拡大要求に応じて建設された」工場。蘇我の埋立地で昭和17年(1942年)に操業開始。昭和19年に空襲回避の疎開として、大網に大規模な地下工場を建設。工事進捗40%で終戦を迎えた。
日立航空機千葉工場は、千葉空襲(昭和20年6月10日及び7月7日)で攻撃を受けたが、工作機械は大網に疎開が進んでいたために、生産能力への影響は軽微であった。
日立航空機大網地下工場・第1工場跡
宮谷の谷戸に開口部がある。周辺は谷の地名が多く「宮谷」「名谷」「安楽寺谷」「真行谷」「相ノ谷」「門ノ谷」などがあり、大網地下工場は、広域に4箇所に分かれて展開されていた。
第1地下工場の北側に開口部と解説板がある。
戦蹟 日立航空機大網地下工場跡
日立航空機(株)千葉製作所大網工場の建設工事は、昭和19年12月頃に開始された。その背景には、第二次世界大戦で日本の戦局が悪化し、10月に千葉市にあった同工場が空襲を避けて、大網に疎開計画を立てたことに始まる。
施設は、地下・半地下の二種類あり、地下工場は海抜30~70m程の笠森層に造られた幅4m、高さ4mの蒲鉾[かまぼこ]型の施設で、五か所の工場に分けられ総延長3kmであった。半地下工場(伏土[ふくど]工場)は、間口10m、奥行き20~30mで厚板を五重六重に張り、土砂で覆い、芝や草を植え擬装した。実際に三十数箇所の施設が確認されていたが、残念ながら現存していない。『米国戦略爆撃調査報告書』には、「本格的に製造が開始されると日本でも優れた工場の一つになったであろう」「地下・半地下工場共に各二箇所が稼働していた」ときさいされている。この施設では、海軍零式戦闘訓練機(機体)と発動機(航空エンジン)の部品が生産された。
工場の建設は、軍・日立航及び大林組の三者により厳しい統制下で行われた。軍の設営隊や社員・工員の他に婦人会や大網国民学校(現大網小学校)の児童までがもっこ担ぎ等の勤労奉仕に従事した。特に工場建設のために雇用された数百人におよぶ朝鮮人の強制労働によって行われていた。
戦時における我が国は、アジア諸国やその他の人々に甚大な禍害を加え、自らも多大な被害を被ったことを決して忘れてはならない。
戦争という悲惨な行為を二度と繰り返すことの内容「地球は一つ」「生命の尊厳」更に「恒久平和」への願いを込め、この戦蹟説明板を設置した次第である。
二〇〇〇年八月
日朝友好大網白里町民の会
大網白里町教育委員会
※文章・団体名は看板作成当時のまま
1992年の調査。
場所
日立航空機大網地下工場(第1工場)の左の開口部。
奥は土砂で塞がれており、水が溜まっていた。
日立航空機大網地下工場(第1工場)の中央の開口部は、足元がぬかるんでおり、普通の靴では侵入が困難なために断念。
日立航空機大網地下工場(第1工場)の右の開口部は竹やぶの奥に。
同じく、水没。
日立航空機大網地下工場・第2工場跡
宮谷八幡神社。この下には、日立航空機大網地下工場(第2工場)があった。
開口部のひとつは民家の裏。未確認。
宮谷八幡神社が谷の上に鎮座。
神社の裏山に穴があった。
非常に高いところに穴が開いているが、どうなっているのだろうか。
本國寺の北側にも開口部がある。
遠目でもわかる開口部。フェンスが目印。
わかりにくいが、やっぱり水没。
造成により失われた日立航空機大網地下工場の跡地
大規模開発で、谷戸は切り開かれ、直線的な道路が伸びる。
そうして地下工場の遺構も多くは失われてしまった。
宅地造成された、みどりが丘のニュータウン方面に伸びる道路。
このあたりは、第5工場があったらしいが、何もない。
第1工場跡の南側は、道路で切り開かれなにもない。前述した通り、北側の開口部のみが残っている。
敷地の北側にあたる第3工場と第4工場があったあたりは、みどりが丘ニュータウンの宅地造成で失われた。
地下工場の近くにある「本國寺」は、かつては県庁でもあった。
宮谷県庁跡
明治新政府が、新治世として旧天領には府県を置き知事・県令を任命。その際に「宮谷県」が誕生。当地に県庁が置かれた。
明治元年(1868年)7月、明治新政府から安房上総知県事として久留米藩士柴山典が任命され、同年12月宮谷の本國寺に知県事役所を設置。
翌年2月に宮谷県が誕生し、その管轄地は藩領を除く幕領・旗本領(天領)で、旧安房、上総を中心として、下総、茨城県の一部までにおよんでいた。
明治4年11月、第1次府県統合で安房・上総全域が新たに木更津県に統合され、宮谷県は廃止された。
場所
大網駅までは、約1.5キロ、歩いて20分くらい。せっかくなので、旧大網駅跡に寄り道しながら、駅に戻ることにする。
旧大網駅
明治29年(1896)に開業した大網駅は、開業時は今よりも東側にあった。現在地に移転したのが昭和47年(1972)。この移転により、外房線は大網駅でのスイッチバックが解消された。
現在、旧大網駅地は、簡易的な公園とJR東日本大網保線技術センターとなっている。
線路の北側の空き地。かつてはここまで側線が伸びており、転車台があったという。現在は特に何もない空き地。
線路は東金線。
場所
そして線路に沿って歩けば、旧大網駅跡地がある。
旧大網駅跡地は、ちょっとした公園として整備されている。
日立航空機大網地下工場の最寄り駅でもある。
場所
駅跡を偲ぶように、腕木式信号機があった。
大網の人々は、この場所で出生していく家族を見送ったのだ。
旗ふりて
出征兵士を見送りし
駅舎の跡に
子らの歓声
大塚喜一
鎮魂・平和を祈りて
2004年秋
町民有志建立
ホームの跡。
なんとなくホームがあった名残を感じることができる。
西側から、かつての大網駅があった方向を望む。
JR東日本大網保線技術センター関連の車両が停車している。
位置関係
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M1209-42
1948年10月31日、米軍撮影の航空写真。一部加工。
Google航空写真。みどりが丘の造成がわかりやすい。
※撮影:2023年2月