「神奈川県-横浜,川崎」カテゴリーアーカイブ

国歌「君が代」発祥の地(横浜)

国歌「君ヶ代」発祥の地は横浜だった。(幻となった初代メロディーとして)


初代「君が代」発祥の地

イギリス公使館護衛隊であった英国陸軍第十聯隊付軍楽長ジョン・ウイリアム・フェントンが、日本に国歌がなく儀礼音楽もないことを遺憾に感じ、作曲を申し出たことに始まる。
薩摩藩砲兵隊長であった大山弥助(のちの大山巌)は、古今和歌集に記載があり、めでたい歌として小唄や長唄・浄瑠璃でも親しまれており、大山巌が愛唱していたという薩摩琵琶歌「蓬莱山」の歌詞の一節でもあったという「君が代」を選び、フェントンが作曲。
横浜の妙香寺は薩摩藩洋楽伝習生(薩摩バンド・サツマバンド)がフェントンのもとで洋楽・吹奏楽の練習に励んだ地でもあり、この地で初代「君が代」(礼式曲君が代)が生まれた。
日本で最初に「君が代」を演奏したのも薩摩藩洋楽伝習生(薩摩バンド・サツマバンド)であった。
そうして、明治3年9月8日に、我が国最初の陸軍観兵式に際して明治天皇の前で初めて演奏された。

フェントン作曲の初代「君が代」は讃美歌風のメロディで日本人には歌いにくいものであったため、明治13年(1880)に雅樂調の改定版「君が代」が制定。

http://myokohji.jp/kimigayo.html


国歌 君が代由緒地

国歌 君が代由緒地
昭和十二年五月 建碑 


國歌君ヶ代発祥之地

名勝史蹟四十五佳選当選記念
国歌君ヶ代発祥之地
横浜貿易新報社

昭和十年十月起

横浜貿易新報社は現在の神奈川新聞。
横浜貿易新報社の45周年にあたる昭和10年に神奈川県下の45名勝史蹟を新聞読者投票で選定したもの。


日本吹奏楽発祥の地

明治2年(1869)に薩摩藩は自藩の洋式化をイギリスに相談。洋式化のひとつが軍楽隊の設立であった。
30名ほどの薩摩藩洋楽伝習生(サツマバンド)はイギリス軍第十聯隊の軍楽長ジョン・ウイリアム・フェントンの指導を妙香寺で受けたことから、日本の吹奏楽が始まったとされる。

日本吹奏楽発祥の地
 島津忠秀書

碑文
 明治2年(1869年)10月、薩摩藩の青年藩士30余名が当妙香寺に合宿し、英国陸軍第10連隊第1大隊所属軍楽隊の指導者ジョン・ウイリアム・フェントン(John William Fenton)から吹奏楽を学んだ。
 これが日本人による吹奏楽団創立の序であり、吹奏楽活動の諸となった。
 発祥から120年目にあたるこの年、日本吹奏楽が悠久に発展することを祈念し、ここに、吹奏楽界同志に諮りこれを建立、謹んで日蓮宗本牧山妙香寺に献呈するものである。
平成元年(1989年)9月8日建立
 日本吹奏楽発祥の地記念碑建立発起人会
  代表 春日 學

島津忠秀は島津家第31代当主。島津義弘から数えて第14代目。

http://myokohji.jp/brass.html


妙香寺(君が代寺)

弘仁5年(814年)真言宗の開祖弘法大師(空海)の創立。その後、日蓮の教化で日蓮宗に改宗したという。

http://myokohji.jp/index.shtml


場所

元町・中華街駅から徒歩20分ぐらい。

https://goo.gl/maps/tok68fBP9s8qSacr5

ちなみに鹿児島にも「君が代発祥の地」があるとのこと。

http://www.pref.kagoshima.jp/aa02/pr/gaiyou/itiban/hatu/kimigayo.html#:~:text=%E5%85%A5%E6%9D%A5%E7%94%BA%EF%BC%88%E7%8F%BE%EF%BC%9A%E8%96%A9%E6%91%A9,%E5%9C%B0%E3%81%A8%E3%81%84%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

平沼駅跡(京浜急行電鉄・横浜)

京急の横浜駅と戸部駅のあいだにかつて、平沼駅という駅があった。駅としての実働は実に12年半であった。

そして、横浜大空襲で残存施設は壊滅・・・。

平沼駅跡

昭和6年(1931)12月26日に、京浜電気鉄道(現在の京浜電気鉄道・京急)の「平沼駅」として開業。昭和17年に合併により東京急行電鉄(大東急)の駅となる。
昭和18年(1943)6月30日、営業休止。昭和19年11月20日に廃止。
昭和20年5月29日の横浜大空襲により被災。駅残存施設が壊滅的な被害を受ける。

今も残る駅ホームに通じる階段。
そして横浜大空襲の被害を感じさせる黒ずんだ煤の気配を残すコンクリート。

半円状のアーチ。

平沼商店街
かつて、平沼駅の入口はこのあたりにあったという。

この高架の上にホームが残る。

当時の造形物、タイルがわずかに残されていた。

ホームへ通じる階段

訪れた時は、剥離剥落対策工事が施されている最中であった。

最近、架道橋は新しくなったようだ。

車窓から

京急の車窓から「平沼駅跡」の様子を観察。
電車ではあっという間に通り過ぎてしまう。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:897-C8-108
昭和19年(1944)10月14日、日本陸軍撮影

横浜大空襲前の航空写真

上記を一部加工

現在の様子
google航空写真


余談だが、近くには二代目横浜駅の遺構があった。

二代目横浜駅

二代目横浜駅
二代目横浜駅は大正四年八月十五日に開業され、大正十二年九月一日関東大震災のため焼失した。
わずか八年という短命で、半ば「幻の駅」といわれている。この以降は駅舎の基礎部分にあたる。
また、横浜共同電燈会社裏高島発電所の第二海水引入口の遺構もあり、二つの歴史上貴重な遺構が重なった珍しい遺構である。

横浜市認定歴史的建造物
二代目横浜駅基礎等遺構
第二代横浜駅舎基礎遺構および横浜共同電燈会社高島発電所遺構
建築年 駅舎:1914(大正3)年 発電所:1907(明治40)年ころ
設計者 駅舎:鉄道院 発電所:横浜共同電燈会社
2006 横浜市

ガラスの下が、「横浜共同電燈会社裏高島発電所の第二海水引入口の遺構」というが、ガラスが曇っていて、よくわからない・・・


横浜駅から平沼駅跡に赴く途中に2つほど橋を渡る。それらの橋も歴史的な価値あるもの。そして横浜大空襲をくぐり抜けた橋でもあった。

万里橋

養和4年2月竣工

浅山橋

昭和3年2月竣工


関連

横浜の見どころは豊富にあるが、いったん〆

旧横浜船渠ドックと帆船日本丸

2019年11月撮影

横浜みなとみらいに用事があった早朝に。周辺を散策してみました。


帆船日本丸

国重要文化財
初代日本丸は川崎造船所(神戸)にて進水し昭和5年(1930)竣工、昭和59年(1984)引退後に現在地にて保存。
航海練習船として活躍。「太平洋の白鳥」「海の貴婦人」と呼称。

太平洋戦争中の昭和18年(1943)には帆装が外されてディーゼル機関での輸送任務などに従事。戦後は復員船としても活躍。

日本丸について
 昭和2年練習帆船霧島丸999総トンが千葉県銚子沖で暴風のため沈没、乗務員及び学生全員が船と運命を共にしました。この惨事を切っ掛けに昭和3年の国の予算において、大型練習帆船2隻の建造費182万円、1隻あたり91万円が認められました。当時我が国の一般会計予算は、軍事費、国債費をのぞくと8億7千万円程度にすぎず、2隻の建造費のしめる割合は2/1000に及ぶ巨額でした。建造は神戸の川崎造船所が当たりました。
 昭和5年、田中隆三文部大臣は日本の海の王者にふさわしい船にしたいとの期待から1月27日に進水した第1号船を「日本丸」、2月14日に進水した第二船を「海王丸」と命名しました。 日本丸は昭和5年3月31日竣工し、同年横浜からカロリン諸島のポナペ島へ初遠洋航海に出帆しました。 昭和18年には第二次世界大戦激化のため残念ながら帆装を撤去し、戦争中の緊急物資輸送や戦後の引揚者25,423人の輸送などにも従事しました。 その後昭和27年に帆装を復旧し、現在の姿に戻ることができました。 建造以来昭和59年9月16日の退役までの半世紀余のあいだに地球45.5周に相当する約183万キロメートルを航海し、約11,500人の海の男を育てました。また、主機関ディーゼルエンジンの稼働年数54年半は舶用機関として現在最長記録です。 退役後の誘致運動は全国10都市に及び、その中で保存、公開、活用の計画に優れていた横浜市に払い下げが決まり、公開のための整備をした後、昭和60年4月28日より、ここで公開されています。

帆船日本丸のメインマスト

帆船日本丸のメインマスト用トップ・ゲルンマスト
日本丸の4本のマストの下から約5分の3は鋼製ですが、残りの上部約5分の2はトップ・ゲルンマストといい、檜材が使われています。
このトップ・ゲルンマストは、日本丸のメインマストで使用されていたものです。1952(昭和27)年の帆装復帰工事の時、三重県北牟婁郡長島町産の樹齢約200年と推定される檜の一本材を自然乾燥後、加工して取り付けられました。以来、約40年間使用されてきましたが、根元部分の腐食がはげしくなったため、1990(平成2年)11月から翌年3月にかけて行われた定期検査工事で、吉野産檜のマスト材に取り替えました。
 ※展示にあたり、腐食防止のためマスト表面はプラスチック加工しました。

帆船日本丸のスクリュー・プロペラ

帆船日本丸のスクリュー・プロペラ
帆船日本丸はディーゼル主機関を右舷と左舷に備えています。このプロペラは左舷機用の予備プロペラです。回転方向は右舷・左舷、互いに外回りで前進力を出します。

https://www.nippon-maru.or.jp/nipponmaru/


横浜船渠株式会社

イギリス人技師・パーマーのアドバイスを受けて、渋沢栄一と横浜財界人らによって「横浜船渠」(横濱船渠)が明治22年(1889)に設立され、3基のドック(うち2基は遺構保存)が建設された。

横浜船渠では日本郵船「氷川丸」や「秩父丸(のちの鎌倉丸)」を建造、また海軍艦艇の建造にも携わっている。
昭和10年(1935)に三菱重工業と合併し、「三菱重工業横浜船渠」と呼称。昭和18年(1943)には「三菱重工業横浜造船所」と名称変更し、横浜船渠の名称は消失。造船所は昭和58年(1983)に本牧・金沢地区に移転し閉鎖。再開発が行われた。

横浜船渠第5号船台では「空母・龍驤」「軽巡洋艦・那珂」「氷川丸・秩父丸」などを建造。「龍驤」は進水までは横浜船渠で行い、空母艤装工事は横須賀海軍工廠で実施。

横浜船渠で建造された主な艦船
日本郵船
 氷川丸・日枝丸
 秩父丸(鎌倉丸)
大日本帝国海軍
 軽巡洋艦 那珂
 練習巡洋艦 香取・鹿島・香椎
 航空母艦 龍驤(船体まで)・山汐丸
 駆逐艦 白雪(吹雪型)
など

ファイル:897-C8-107
1944年10月14日-陸軍撮影
上記を拡大

横浜船渠会社と横浜市
 横浜は開港から明治期にかけて、生糸、茶、船来品などを取り扱う外国貿易により発展しました。明治5(1872)年には日本初の鉄道開業により内陸への貨客輸送が増大すると、これを契機に横浜における外国貿易はさらに活発となり、横浜港はますます重要な港となりました。出入りする船舶は界面を埋めるほどに増加し、船舶を修理するドックが必要とされるようになりました。そこで地元横浜正金銀行頭取の原六郎をはじめ、原善三郎、茂木惣兵衛、大谷嘉兵衛や浅野総一郎、東京の渋沢栄一、益田孝ら名士33名が協力して横浜船渠(せんきょ)会社(後の三菱重工業横浜造船所)を設立、本格的なドックを築造し、明治29(1896)年より船舶修理業が開始されました。明治後期には潮入りドック(明治41(1908)年完成)、第三号ドック(明治43(1910)年完成の増設により、横浜船渠会社は高い修理能力をもつ大工場へと発展しました。
 横浜船渠会社の設立が神奈川県から認可されたのは明治24(1891)年ですが、その2年前の明治22(1889)年、市制施行により横浜市が誕生しました。横浜船渠会社は横浜の発展を支えた地元実業家が設立に大きく関わったこともあり、横浜市と横浜船渠会社は発展を共にした兄弟のような関係とも言われています。それは横浜市の徽章「ハマーマーク」にドックの「D」を加えた、通称「ハマディー」と呼ばれる社章を横浜船渠会社が使用したことにも象徴されています。横浜船渠会社は横浜の金d内工業を支えるとともに、「ハマのドック」の愛称でその後長きにわたって横浜市民に親しまれる存在となっていきました。

旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)
「日本丸メモリアルパーク」

国指定重要文化財。
横浜船渠、のちの三菱重工業横浜造船所。
明治31年12月竣工、昭和58年(1983)までドックとして活用。
現在は「日本丸」係留保存ドックとして横浜市が保存管理を行っている。

国指定重要文化財
旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)

 第一号ドックは、隣接する第二号ドック(現在ドックヤードガーデン)と同様、安政6年(1859)の横浜開港以来進められていた港湾施設の拡充整備に伴い、横浜船渠株式会社が船の修繕用に建設したものです。
 横浜港修築第一期工事を構想した英国人技師H.S.パーマーが、明治22年(1889)に作成した計画案に基づき、海軍技師恒川柳作が設計し、明治31年12月に竣工しました、建設当初は総長約168mでしたが、横浜港に入港する船舶の大型化に伴い、大正6年(1917)5月から7年8月にかけてドックの渠頭部を内陸方向に延長し、総長204mとなりました。横浜船渠株式会社は、昭和10年(1935)三菱重工業株式会社と合併し、三菱重工業横浜船渠(後、同横浜造船所)となりました。昭和58年(1983)同横浜造船所移転に伴い、第一号ドック及びその周囲地は横浜市の所有となり、昭和60年からは日本丸メモリアルパーク内で帆船日本丸を係留するドックとして保存活用されています。
 この旧横浜船渠株式会社第一号ドックは、建設当時、最大規模を有した明治期の代表的乾船渠(ドライドック)の一つで、大正期に築造された躯体延長部分も土木技術の時代的特徴をよく示し、ドライドック築造技術を知るうえで価値が高く、また、官民の強調により実現した横浜港修築第一期工事の最後を飾る土木構造物で、近代横浜の都市形成史上も重要です。

ドッグゲート(扉船)

ドックゲート(扉船)について
このゲートは、ドック開設以来使われてきた先代に代わって、昭和32年に造られたものを日本丸保存のために昭和59年9月に改修したものです。
また、構造的には船と同じ形態をとっていて日本丸を出し入れするときは扉船内の水を排出して浮上させ移動できるようにつくられています。
さらに、修理の難しさや潮汐の影響を考えて鉄板を厚くしたり、左右対称にし両面を使えるように工夫しています。

旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)
「ドックヤードガーデン」

横浜ランドマークタワーに隣接する。
明治30年(1897)竣工。「日本に現存する最古の旧商用船用石造ドック」として国の重要文化財に指定される。

横浜船渠株式会社
ドック用排水ポンプ・カバー

横浜船渠株式会社
第一号・第二号ドック用排水ポンプ・カバー

1896年 アレン社製(イギリス)

横浜船渠株式会社が第一号と第二号の2基のドック内の水を排水するために、創業期(1899年開業)にイギリスから購入しました。修理を重ねながら約85年にわたってドックの排水機能を担ってきました。当初は蒸気機関で運転されました。そのためポンプと一緒にボイラー(蒸気を発生させる装置)も導入し、その購入金額は37,114円29銭でした。ポンプは第一号ドッグと第二号ドッグの間の海寄り(渠口部)に造られた地下ポンプ室に2基設置されていました。横浜船渠株式会社の修繕部門を象徴する設備です。第一号ドックの付属として、2000(平成12)年12月4日国の重要文化財に指定されました。
 三菱重工業株式会社横浜製作所 寄贈

横浜船渠株式会社
エアー・コンプレッサー

横浜船渠株式会社
エアー・コンプレッサー

1918年 ニューマチック・ツール社(アメリカ)製
このエアー・コンプレッサー(空気圧縮機)は、横浜船渠(後の三菱重工業(株)横浜造船所)が造船事業に進出する際にアメリカから購入したものです。造船所構内のほぼ中央にあった動力室に4基設置され、1983(昭和58)年に造船所がここから移転するまでの約65年間使われました。リベット・ハンマーをはじめ、所内各工場のさまざまな機械の動力となる圧縮空気をこのコンプレッサーから送りました。横浜船渠の造船部門を象徴する設備として保存・展示します。
 三菱重工業株式会社横浜製作所 寄贈


横浜みなと博物館

輪投げ
1953-60(昭和28-35)年
シアトル航路貨客船氷川丸で使われていた。戦前から客船で行われていたデッキ上の遊具のひとつ

原油タンカー麻里布丸の舵輪
1959(昭和34)年
麻里布丸は1959(昭和34)年建造の原油タンカー(載荷重量48,657トン)。1979(昭和54)年、船体は本牧ふ頭D突堤の護岸建設に使われた。この舵輪は護岸工事完成記念として、施工した三菱重工業横浜造船所から横浜市に寄贈された。

ドイツ・ハンブルク港

この錨は、姉妹港提携10周年を記念してドイツ・ハンブルク港から贈られました。およそ100年前まで実際に使われていました。
 2003年3月

カナダ・バンクーバー港

 このトーテムポールは、カナダ・バンクーバー港から横浜港との姉妹港10周年を記念し両港の友好の印として寄贈されたものです。
 製作者はバンクーバー島に住むコーストサリッシュ族の彫刻家フランシス・ホーン氏で、カナダインディアンの神話にもとづき、上からフクロウ、熊、カエルが彫り込まれています。
 平成3年4月22日

中国・大連港

天女散花
この石像は、横浜港と大連港の友好港提携5周年を記念して、大連港より寄贈されたものです。
 1995年9月

中国・上海港

上海港-横浜港
友好港5周年紀念
 1988年9月

上海・横浜友好港10周年記念
1983-1993
上海港務局贈

港一号橋梁

港一号橋梁は明治40年(1907)製という。

汽車道から先は、また今度。

この日は、これで時間切れ。
赤レンガ地区などはまた別に機会に。


関連

「陸軍登戸研究所」跡地散策(明治大学生田キャンパス)

令和元年9月散策

神奈川県川崎市多摩区生田の丘の上に。
現在の明治大学生田キャンパスはかつて大日本帝国陸軍の研究所であった。


登戸研究所(第九陸軍技術研究所)

昭和14年(1939)、陸軍中野学校を創設し「謀略の岩畔」と異名を残す陸軍省軍務局軍事課長・岩畔豪雄大佐によって、秘密戦研究部門として、通称「登戸研究所」が陸軍科学研究所の下に設立された。
前身は、大正8年(1919)に陸軍火薬研究所が改編して発足した「陸軍科学研究所登戸出張所」であった。

昭和19年(1944)の「陸軍登戸研究所」組織
陸軍第9研究所(登戸研究所)
 所長 篠田鐐 中将 (工学博士)
第一科 科長 草場秀喜 少将
 第一班 風船爆弾・宣伝用自動車
 第二班 特殊無線機・ラジオゾンデ
 第三班 怪力電波・殺人光線
 第四班 人工雷
第二科 科長 山田桜 大佐(工学博士)
 第一班 科学的秘密通信法・防諜器材・謀略兵器
 第二班 毒物合成・え号剤
 第三班 毒物謀略兵器・耐水耐風マッチ
 第四班 対動物謀略兵器
 第五班 特務機関用カメラ・超縮写法・複写装置
 第六班 対植物謀略兵器
 第七班 対動物謀略兵器
第三科 科長 山本憲蔵 大佐
 北方班 用紙製造
 中央班 分析・鑑識・印刷インキ
 南方班 整版・印刷
第四科 科長 畑尾正央 大佐
 第一科・第二科研究品の製造、補給、指導


明治大学・生田キャンパス内を散策してみましょう。

登戸研究所跡碑

明治大学生田キャンパスの「弥心神社」境内に往時を物語る石碑が建立されていた。

登戸研究所跡

すぎし日は この丘に立ち めぐり逢う
 昭和63年10月建之
 旧陸軍登戸研究所 有志


弥心神社(現・生田神社)

小田急線生田駅から明治大学生田キャンパスに赴く通学路、坂道を登りきった先に鎮座している。
今は学生の通学路、当時は研究員の通勤路であった。(小田急線生田駅を利用する場合は、神社のある裏門を通る。南武線登戸駅を利用する場合は、ここではなく正門を通る。)

弥心神社は昭和18年建立。陸軍技術有功賞を受賞したときの金一封で、後述する「動物慰霊碑」と同時期に建立。
登戸研究所の前身であった新宿戸山の陸軍科学研究所から分祀した「発明の神・八意思兼神」を祀り、同時に研究所殉職者を慰霊のために祀ったという。

弥心神社(現 生田神社)
 現在は生田神社といいますが、もとは登戸研究所が1943(昭和18)年に建立した神社で、研究(知恵)の神様である「八意思兼神」を祀る「弥心神社」と呼ばれていました。
 境内向かって右手、1988(昭和63)年に元所員有志により建てられた「登戸研究所跡碑」裏面には「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」という句が刻まれています。これには、一度胸の奥にしまい込んだ研究所時代の記憶を、戦後数十年を経て再びこの丘に立ち、ようやく話し合うことが許された、という万感の思いが込められています。


位置関係

ファイル:USA-M1121-A-20
1948年07月26日に米軍が撮影した航空写真(国土地理院より)

抜粋の上、拡大

上の赤丸が「弥心神社」
右の赤丸が「動物慰霊碑」
下の赤丸が「登戸研究所資料館」

道の雰囲気が、さほどに変わっていないこともわかる。


消火栓

生田キャンパス内に2つ残されている。陸軍の五芒星を残す消火栓。

1つ目は「学生会館」の前に。地中に半分埋まっていた。

もうひとつは「図書館」の前に。

消火栓
 登戸研究所時代に設置された消火栓です。明治大学生田キャンパスとなった今も当時と同じ場所に残る貴重なものです。すでに消火栓として機能しませんが、旧陸軍の☆のマーク(五芒星)が確認できます。現在は埋もれている学食棟前に残る消火栓もこの消火栓同様、以前は左の写真の姿をしていました。


動物慰霊碑

生田キャンパス正門の守衛所裏手に鎮座。動物慰霊碑としては国内最大級。

(表)
動物慰霊碑
篠田鐐書

(裏)
昭和十八年三月
陸軍登戸研究所建之

揮毫の 篠田鐐 は登戸研究所所長。

動物慰霊碑
 1943(昭和18)年、研究で用いられた実験動物の霊を慰めるために登戸研究所が建立しました。台座を含め、高さ約3m、幅約95cm、奥行約15cmの大きさは動物慰霊碑としては国内最大級です。
 敗戦後、軍により証拠隠滅を図られた登戸研究所ですが、この裏面に刻まれた「陸軍登戸研究所」の文字は、戦時中より登戸研究所がここに存在した事実を如実に語ります。


登戸研究所本館跡(ヒマラヤ杉)

「第二校舎A館」と「ヒマラヤ杉」、「図書館」の間にかつて「登戸研究所本館」があったという。
往時からの名残としては、「ヒマラヤ杉」とアスファルトを敷いた車寄せへのアプローチ部分が路面上に残る。

旧登戸研究所本館前一帯
 登戸研究所の本館は、ちょうどこのヒマラヤ杉並木と現在の図書館との間に建っていました。
 1944(昭和19年)に撮影された写真でも当時の杉並木の様子が確認できます。また、写真背景足元に映る円形に囲われた車寄せへのアプローチも、そのままに近い形で植え込みとして残っており、この一帯は登戸研究所時代の名残をもっともよく残す場所となっています。


防火水槽

キャンパス内にいくつか点在して残っている。火薬も扱っていた登戸研究所ゆえに防火水槽の数も多かったという。

中央校舎の脇に。

防火水槽
 登戸研究所時代からある防火水槽です。火災に備え、敷地内の各建物付近に設置されました。現在は花壇として使用されていますが、当時は中に水をためておき、その水を火災の消火に使用しました。この他に資料館エントランス横、農学部南田圃などキャンパス内各所に現存しています。

資料館の入口に。


倉庫跡(通称 弾薬庫)

資料館の裏手に。
登戸研究所で製造された「特殊携行兵器」などが収納されていたとされる倉庫。

倉庫跡(通称 弾薬庫)
 登戸研究所時代に設置された建築物で、通称「弾薬庫」と呼ばれていますが詳細な用途は不明です。
 外観は台形ですが、内部は奥行約3.2m、間口約2.7mの長方形をしており、天井までの高さは約3m。壁面にはスイッチやコンセント跡が見られます。
 第一校舎1号館裏手にも同様の倉庫跡が残っています。


倉庫跡(通称 弾薬庫)

第一校舎1号館の裏手に。
草に覆われた建物。「花卉園芸同好会」と表記が残る。

倉庫跡(通称 弾薬庫)
 登戸研究所時代に設置された建築物で、通称「弾薬庫」と呼ばれていますが詳細な用途は不明です。明治大学となってからは、一時、花卉園芸部が部室として使用していたこともありました。
 外観は台形ですが、内部は奥行約5.7m、間口約4.0mの長方形をしており、天井までの高さは約3m。資料館裏手の倉庫跡より内部は広く、入り口すぐの前室と奥の広い部屋の二間に分かれています。


登戸研究所第二科研究棟(36号棟)
明治大学平和教育登戸研究所資料館

鉄筋コンクリート造りの生物兵器研究棟。この建物は、かつて細菌・ウイルスなど生物・化学兵器の研究開発をしていた登戸研究所第二科の研究棟。
2009年までは明治大学農学部の研究棟として使用され、2010年から明治大学平和教育登戸研究所資料館として開館。

明治大学平和教育登戸研究所資料館
設立趣旨

登戸研究所は、戦前日本の戦争・軍隊を知る上で、きわめて貴重な戦争遺跡である。登戸研究所は、戦争には必ず付随する「秘密戦」(防諜・謀報・謀略・宣伝)という側面を担っていた研究所であり、そのため、その活動は、戦争の隠された裏面を示しているといえる。私たちはこうした戦争の暗部ともいえる部分を直視し、戦争の本質や戦前の日本軍がおこなってきた諸活動の一端を、冷静に後世に語り継いでいく必要がある。

私たちは、登戸研究所の研究施設であったこの建物を保存・活用して「明治大学平和教育登戸研究所資料館」を設立し、登戸研究所という機関のおこなったことがらを記録にとどめ、大学として歴史教育・平和教育・科学教育の発信地とするとともに、多年にわたり、登戸研究所を戦争遺跡として保存・活用することをめざして地道な活動を続けてきた地域住民・教育者の方々との連携の場としていきたいと考えている。
 2010年3月29日


陸軍境界石

資料館の前に。どこからの移築かと思われる。


登戸研究所第二科研究棟(36号棟)
明治大学平和教育登戸研究所資料館
 建屋外観


登戸研究所第二科研究棟(36号棟)
明治大学平和教育登戸研究所資料館
 内部

当時からの設備、流し台などもそのままで残っている。


風船爆弾(ふ号作戦)

登戸研究所第一科を中心に風船爆弾の研究が行われた。

気球紙は、和紙と蒟蒻糊の貼り合わせ、

風船爆弾放球の地

大津

勿来

一宮


偽札

登戸研究所第三科では主に中国大陸向けの紙幣を偽造していた。通貨謀略戦の要。


解体された26号棟の保存資料

26号棟に第三科が展開されていた。偽札研究の拠点。


時計式時限装置一号

「缶詰爆弾」と「時計」を接続させると「時限式爆弾」となった。
登戸研究所は諜報活動向けに最適な小型兵器の開発が多い。


秘密戦

「秘密戦関係」書籍は防諜教育に用いられた憲兵学校のテキスト。


陸軍技術有功章の賞状

昭和18年4月14日、総理大臣兼任陸軍大臣の東条英機の名で授与された賞状。「秘密戦兵器」は「特殊理化学資材」として記されている。


クランク式暗室

36号棟の当所から作られていた暗室。
写真の現像や細菌戦の研究に使用されていたという。


石井式濾水機 濾過筒

「軍事秘密」として扱われていた濾過筒。
濾過筒には防疫給水に役立つほか、細菌戦実施時にも飲料水を確保できるという側面もある。


登戸研究所本館将校食堂に飾られていた日本画

この絵画が飾られていた理由は不明。
「漁を待つ人々」佐藤耕寛 作


陸軍 電波兵器練習部隊

「登戸研究所」の電波部門が独立して「陸軍多摩研究所(多摩陸軍技術研究所)」となり、その直属部隊となったのが「東部第九二部隊( 東部第92部隊 )」。一橋大学に展開していた。

気がつけば3時間くらい、大学構内を散策していたようです。

明治大学平和教育登戸研究所資料館、なかなか見応えがありました。よい展示。

また来ましょう。


明治大学平和教育登戸研究所資料館サイト

https://www.meiji.ac.jp/noborito/index.html

「若宮八幡宮と川崎大師」周辺の戦跡散策

令和元年10月

川崎でちょっとだけ時間が出来たので、京急大師線で川崎大師駅まで足を伸ばしてみました。

若宮八幡宮御本殿
(旧川中島国民学校奉安殿)

若宮八幡宮本殿
旧川中島国民学校奉安殿

昭和12年4月
川崎市立大師尋常小学校より分立独立して「川崎市立川中島尋常小学校」として創立。
昭和16年4月「川崎市立川中島国民学校」と名称変更。(現在の川崎市立川中島小学校)
「奉安殿」の創建年代は不詳。1935年(昭和10年)頃に全国各地の小学校にて奉安殿建設が活発化してきたという。

若宮八幡宮が戦災で焼失してしまい、戦後に「川中島国民小学校」から奉安殿を移設し、若宮八幡宮の本殿として再活用。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

若宮八幡宮(川崎)

旧大師河原総鎮守
境内には「かなまら祭」で有名な金山神社がある。
室町期1500年代の創建。
創建以来、川崎大師平間寺の鎮守社。明治の神仏分離で平間寺から独立。

境内社の金山神社

若宮八幡宮から川崎大師へ移動。

祈りと平和の像
(川崎大師 平間寺)

川崎大師境内に、弘法大師1150年遠忌を記念して昭和59年(1984)建立。制作者は円鍔勝三。
中央には富士山の上に降臨した観音をモチーフとした女神が「祈り」、周囲には鹿野苑で楽器を奏でる天女たちが「平和」を表している。

一心祈念 恒久平和
     大本山川崎大師 平間寺
一盌からピースフルネスを
     茶道裏千家淡交会川崎支部
修練 奉仕 友情
     社団法人川崎青年会議所

「祈りと平和」の像に寄す
 茶道裏千家家元勤仕による当山ご供茶式と茶道裏千家淡交会川崎支部、川崎青年会議所、川崎大師平間寺共催の大茶会は、三者の協調に献身的な努力のもとに、大いに地域社会の文化向上に寄与し、ここに、心新たに意義ある20周年を迎えた。
 本年、宗祖弘法大師壱千百五十年御遂忌並びに、当山吉例十年目ごと大開帳奉修の法縁にあたり、大師の鴻恩に報謝の誠を捧げ三者の目的達成、発展を期するとともに、更に祈りに徹してやすらぎに住し、永遠の平和を願う真心を伝承せんがために、ここにこの像を建立する。
 作者は、霊峰冨士の頂上に来迎された観世音菩薩(女神)の天にひろがる大慈悲心と釈尊の初転法輪の聖地・鹿野苑にみなぎる世界永遠の平和の祈りを象徴されている。
 因みに、彫刻家である、文化功労者・日本芸術院会員・圓鍔勝三先生にこの制作を依頼した。
 昭和59年10月7日 
  大本山平間寺貫首
   第四十四世 
   中興第一世 
    大僧正 隆天

「祈りと平和」像賛歌
   貫主 高橋隆元
いまここに
  仰がん祈りの像
いまここに
  讃えん平和の像  
みほとけは
  女神とともに
  神鹿のあそぶ苑に
 平和を奏でて
  人びとを見まもり
 慈悲の
  まなざしを示し給う 
祈りの声は 
 宇宙に広がる 
  朋友よ 幸せに 
  朋友よ 豊かに
平和のハトは
 蒼天に翔ぶ 
  朋友よ 明るく 
  朋友よ 健やかに
   
昭和60年10月7日
 「祈りと平和」の像建立1周年に寄せて

霊木「奇跡の銀杏」
(川崎大師 平間寺)

霊木「奇跡の銀杏」
 この銀杏は、第二次世界大戦の大空襲により幹の大半を焼失。今でも痕跡を樹木の根元に見ることができます。戦後、川崎大師はご信徒の信授により大本堂をはじめ七堂伽藍を復興。
同様にこの銀杏も奇跡的に蘇生、灰燼に帰した川崎大師の歴史を今に伝える古木であります。
「奇跡の銀杏」の樹勢にあやかり、健康長寿、心願成就を祈念ください。 
 平間寺

忠魂碑
(川崎大師 平間寺)

乃木希典書
明治三十七八年戦役(日露戦争)にて戦没した大師河原村出征軍人を祀る。
明治四十二一月建立。

川崎大師 平間寺

平間寺(へいけんじ)は真言宗智山派の大本山。
大治3年(1128)建立。本尊は弘法大師。

川崎大師駅へ。

発祥之地
京浜急行電鉄株式会社

京急「発祥之地」碑

 京浜急行電鉄株式会社は、明治31年2月25日 大師電気鉄道株式会社 として設立され、翌明治32年1月21日、川崎六郷橋~川崎大師間の営業を開始した。
 開業時の資本金は 9万8千円、営業路線は 単線2粁、車輌数は5両で 開業当時の営業報告書には、次の通りに記されている。
 
 全般ノ機械運転上成績好結果ニシテ一日モ運転ヲ中止セシ事ナク即チ 五月丗一日ニ至ル本期間ノ営業日数ハ一百三十一日ナリシ而シテ乗客ハ相応ニ多ク 毎月廿一日ノ如キハ非常ノ雑踏ヲ極メシモ線路ノ単線ナリシト車輌ノ不足ナリシ為メ 充分ニ乗客ヲ運ビ能ハザリシノ感アリ本期間平均一日一哩ノ乗車賃ハ 五拾円九拾銭二厘ニ相当セリ。元来本社ハ関東ニ於ケル電気鉄道ノ嚆矢ニシテ 成績ノ如何ハ将来電気鉄道事業ノ発達ニ重大ナル関係ヲ有セシモノナリ 幸ニシテ今ヤ営業初期ニ於テ相応ナル純益配当ノ報告をナスヲ得 又運転開始以来一人ノ負傷者ヲ生ズルナク毎月廿一日ノ如キ数万ノ老幼群集シ 往来叢ルガ如キ場所ニ於テ乗客ヲ満載シ乍ラ一日弐百五六十回余ノ運転ヲナシテ 過チナカリシハ実ニ本社ノ幸福ニシテ亦以テ電気鉄道ノ市街交通機関ニ適シ 更ニ危害ノ虞レナキヲ表示スルヲ得タルモノナリ

 かくて好調裡に営業を開始した大師電鉄は 同年4月 京浜電気鉄道と改称 昭和23年6月 京浜急行電鉄 となり 逐次事業の拡張を図って今日の隆昌をみるに至った。
 ここに創立70周年に当り
会社設立発起人代表 立川勇次郎 はじめ先人の遺徳を偲び 大師電鉄発祥のこの地 に本記念碑を建立する。
 昭和43年12月21日
  京浜急行電鉄株式会社

以上、川崎大師と若宮八幡宮を近代史・戦跡目線での参拝散策でした。

護衛艦「いずも」体験航海(令和元年)

令和元年10月4日

先日、護衛艦いずも体験航海(横須賀港~横浜港大さん橋) に参加する機会がありました。

ベイブリッジを通過する「いずも」

「いずも」での体験航海は実は4年ぶり2回目。
前回も今回も、水交会での乗艦でした。

以下、写真メインで。

「いずも」ヴェルニー公園

潜水艦が航行していました。

「いずも」逸見岸壁

「いずも」エレベーター

「いずも」甲板

吉倉桟橋
DD-101 むらさめ 出港

自衛艦旗

「いずも」出港

てるづき乗員の見送り

かわいい

帽振れ

横須賀地方総監部

横須賀港(潜水艦)

横須賀港(吉倉桟橋)

てるづき DD-116 

こんごう DDG-173
いかづち DD-107
はたかぜ DDG-171
はるさめ DD-102

米軍基地

横須賀港 東北防波堤東灯台(赤灯台)

行き違う艦船

あさゆき DD-132

ちょうかい DDG-176

えんしゅう AMS-4305

よこすか (JAMSTEC)

日本郵船 NYK LINE
GRACE BARLERIA グレース バレリア

航行中の自衛艦旗

いずも艦内

いずも艦内神社は別記事にて。

富士山

いずも艦橋

横浜ベイブリッジ通過

日本郵船「氷川丸」

海上保安庁 横浜海上保安部

いず PL-31

奥には先行していた「むらさめ」

あきつしま PLH32

米国陸軍 横浜ノース・ドック

アメリカ海軍音響測定艦エイブル US NAVAL SHIP ABLE

アメリカ海軍高速輸送艦グアム US NAVAL SHIP Guam

横浜・関内

横浜の町並みは海から見ると、より一層美しさを感じる。
中央に神奈川県庁舎。

横浜税関

神奈川県庁

日本郵船歴史博物館

赤レンガ

大さん橋

横須賀水交会部隊研修懇親会

航路

航海時間 3時間
 13時30分 横須賀 海上自衛隊横須賀地方総監部出港
 16時30分 横浜  大さん橋入港
航行距離 約26キロ

写真多めでお送りいたしました。

小野光賢と小野光景父子にまつわる史跡散策(信州小野と横浜)

平成28年4月ほか

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。

というよりも、もともと友人が「この記念館」に訪れるために事前予約をしており、私が便乗した、という機会があった。


小野光賢光景記念館

〒399-0601
長野県上伊那郡辰野町小野985
TEL 0266-46-2001(要事前連絡)

小野光賢と小野光景親子の記念館

信州小野の名士であった小野光賢(みつかた・小野兵助とも)は、創生期の横浜で活躍し、横浜発展の礎を築き横浜開港の創始者ともいわれている人物。
文政元年(1818年)信州小野生まれ。
安政6年(1859年)に横浜に出て貿易を営み、草創期に横浜発展に尽力し町名主や横浜副市長などを務めた人物。

光賢の子である小野光景(みつかげ)は横浜商法学校(現市立横浜商業高校)や横浜正金銀行などに絡む人物。

明治から大正にかけて、創生期の港町横浜の縁の下を支えた小野親子の記念館。

現在の小野家の当主は小野光賢の曾孫に当たる方。
小野家当主自ら小野光賢光景記念館の隅々を案内していただきました。話が非常に面白く時間を忘れるほどに。
以下、順番に記念館を見ていきます。


以下、館内写真は許可を得て撮影

光賢庵

小野光賢終焉の庵という。

光賢庵
横浜開港の創始者とうたわれた兵右エ門光賢(通称兵助)終焉の庵である。
安政6年(1859)横浜開港の時、苗字帯刀御免の大名主をつとめた兵助は、開港といふ激務のため健康をそこない「わが素志、成就のときなり」と時の県令陸奥宗光公に辞意を表明、許されて職を長子光景に譲り、明治5年十有余年ぶりに故郷信州に帰り、風月を共に悠々自適、静養につとめていたが、明治33年(1900)7月27日83歳の天寿を全うし、
ここ光賢庵に於いて波瀾の生涯をとじた。
 館長

蔵も残っている。

小野光賢光景記念館 館内

建物の創建年代は不詳。(聞いておけばよかったです)
信州小野に唐突に現れた洋館にビックリ。

小野光景翁像

横浜で活躍した小野光賢は幕末の三舟とも親交があり、記念館には勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟から小野光賢に贈られた書も展示してあった。

小野の集落を見下ろす高台に、小野光賢の像があった。
郷土の名士を誇る記念像。
例の如く戦中供出されて、今は台座のみ残っている。 (後述)
台座のレリーフは小野家の紋章。

レリーフは台座から落ちていたのを見つけた人が届けてくれた、と。
4面のうち、3面はまだ台座に残っていました。

台座から落下したレリーフ
小野光賢像の台座

戦前の外交官・来栖三郎は実は小野家の親戚にあたる。
小野光景の義弟が横浜財界を代表する来栖壮兵衛。その子が外交官の来栖三郎。

曜変天目茶碗(稲葉茶碗)
国宝茶碗にも小野家が絡んでいたり。
将軍家から春日局・稲葉家へと伝えられ、小野光景が大正7年に購入し昭和9年に岩崎小弥太へ。現在は静嘉堂文庫美術館所蔵。

旧家ゆえ色々と歴史的なものも多く。
川中島の合戦絵図。
この絵の面白いところは信玄が謙信に追われ騎馬で後ろを見せて逃げていたり。 ここは信玄の地元たる甲州ではなく信州諏訪ですから(意味深

光賢墓碑陰記

拓本・総持寺
日下部東作書

光景頌徳碑記
拓本

小野病院前庭
貴族院議員高橋作衛選

小野光景は横浜正金銀行頭取、横浜商工会議所会頭、貴族院議員などを歴任。郷里小野では病院設立、紡績工場運営などに携わっている。

明治21年9月29日 公論新報(明治の新聞)

私選東京市長最高点者 福沢諭吉 (右)
私選横浜市長最高点者 小野光景 (左)

あの福沢諭吉と並んで取り上げられてました。

小野光賢光景記念館 は要事前予約となりますが、ご興味ございましたら是非に。
当主の話が面白く展示も興味深いもの多く気がつけばあっという間に二時間を過ごしてしまいました。

小野光賢・光景記念館 紹介サイト

http://www.shiojiri.info/~ryouono/onomitsukage/HTML/index.html

場所

https://goo.gl/maps/t3yvPSQaXtXYbSrv7


小野宿


南塩終点の地

太平洋沿岸で取れる塩が伊那谷・伊那街道を北上してこの地(南小野)まで運ばれた。北隣の松本藩では越後の塩が糸魚川街道によって北小野まで運ばれた。
南北の小野が南北の塩の境目でもあった。


小野光景翁寿像
(小野公園)

小野駅の南東側、小野光賢光景記念館 の東側。
丘の上に小野光景の像が・・・あった。

小野公園

https://goo.gl/maps/jUpdtku6XDqXXdz58

小野光景翁寿像の台座。

小野光景翁寿像 の 台座

小野光景翁と寿像
 小野光景(みつかげ)は父光賢(みつかた)の長子として1845年(弘化2年)に生まれ、21歳の時、国内の政治混乱に「男子時至れり」と横浜に出奔。
 先に横浜に出て行政面で名を成した父の跡を継いで「横浜港内第一区小一区戸長」を手はじめに要職を歴任する傍ら生糸貿易にかかわり、横浜商法学校(現・市立横浜商業高校)創設、横浜商法会議所(現・横浜商工会議所)会頭、横浜成金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)頭取を務めるなど、貿易商としても成功しました。横浜は光賢(1900年没)と父子が活躍した縁とゆかりの地です。
 以来、一世紀半の歳月が流れ、2009年に横浜市は開港150周年を迎えました。改めて小野光賢・光景父子の功績が脚光を浴び、横浜市と新たな交流も始まりました。
 特に光景翁は郷里である小野(旧・小野村)の地にも、小野駅敷地を寄贈、小野病院(現・小野国保診療所)、小野図書館の設立、高等小学校の敷地、校舎の建設など、郷里の発展のために多大な貢献をされました。
 これらの功績を記念して、郷里の人々はこの小野公園山頂に小野光景翁の寿像を小野家の方向に向けて1919年(大正8年)に建立いたしました。その後、銅像部は第二次世界大戦のために供出され、現在は台座だけになっていますが、それでもこの大きさには圧倒されるものがあります。
 平成22年9月吉日
 小野地区振興会

小野公園から見渡す小野の街なみ。
小野光賢と小野光景親子が育んだ街。


忠魂碑

右は乃木希典公、左は有馬良橘公


小野光賢翁・小野光景翁生誕記念碑


横浜開港と郷土発展の恩人
小野光賢光景父子の実績

横浜開港と郷土発展の恩人
小野光賢光景父子の実績

撰文 明海大学教授 岩下哲典
 小野光賢は、文政元年(1818)小野村名主小澤小左衛門の二男に生まれ、のち名主小野光珍の養子となった。安政6年(1859)42歳の時、幕府の開港事業を知り、これに応じて横浜に出た。横浜本町5丁目はじめ太田町等の名主を勤め、明治元年(1868)新政府設置の公選横浜町名主や副市長となった。また小野村周辺から横浜に出た郷土の人士をよく世話した。激務により退職し帰郷後、同33年7月7日、小野の光賢庵にて死去した。享年83。
 小野光景は、光賢の長男として弘化2年(1845)小野村に生まれた。慶応2年(1866)父光賢を頼って信州を出た。横浜では光賢を補佐して町政に携わり、神奈川県会議員となり、又貴族院議員に勅任され国家に貢献した。そのほか横浜商法学校(現Y高)設立者、横浜正金銀行頭取、横浜商法会議所会頭、横浜本町他十三か町貿易商組合総理、横浜鉄道会社創立発起人等を務めた。まさに横浜の財界発展やインフラ整備に果たした役割は大きかった。のみならず、小野高等小学校敷地・校舎建設費や小野駅敷地の寄付、小野病院の設立等々揚げて枚挙の遑あらざる偉業を成し遂げた。大正8年(1919)9月18日横浜別邸にて死去。享年74であった。
 小野光賢光景父子は、横浜開港とその発展のみならず常に郷土に思いを馳せ、その発展に多大なる貢献をした。ここに光賢翁生誕二百年を記念して一碑を建て、光賢・光景翁の実績を永く後世に伝えることを願ってやまない。
 平成24年9月9日 建立
 小野光賢・光景翁
 生誕記念碑建立委員会
 小野地区・北小野地区
 辰野町 


詠帰亭の碑

詠帰亭の碑
大正8年5月有志相はかり郷土出身の実業家小野光景翁の寿像が建立された際、翁のため此の地に別荘を新築。中国の故事に倣って詠帰亭と称した。然しながら翁は一度も入来することなく同年9月逝去。
以後詠帰亭は地域の人々の社交の場として利用されていた。
昭和3年11月、詠帰亭は昭和天皇即位の大礼記念事業として小野村青年会館と改称され、同時に図書館を併設、小野村がこれを管理することとなった。
その後、昭和28年に至って図書館は移設され、昭和36年辰野町へ合併するにあたり辰野町小野財産区の所有となり小野商工会工業部によって管理されてきた。
ところが、平成7年8月28日未明の火災によって全焼。建設以来70有余年にして詠帰亭の歴史は幕を閉ることとなった。
ここに詠帰亭の由来の一端を記し、末永く記憶にとどめるものである。
 平成8年10月吉日
 辰野町小野財産区


小野病院

小野光景氏が設立した小野病院は、今は両小野診療所となっている。


小野駅

小野駅の敷地も小野光景氏の寄付。
小野駅は明治39年(1906)、中央本線の岡谷-塩尻間開通と同時に開業。

小野の集落で、小野光賢光景父子を偲びし歴史散策。あまり知ることない郷土史の一幕に触れることができたのは貴重な経験。知的好奇心への良き刺激となりました。


場所と月日はかわって、平成28年(2016年)8月。
横浜の本牧に、脚を運んでみました。
小野の集落を訪ねたときと同じ友人と一緒に。

本牧臨海公園

本牧臨海公園が「小野光景別邸」跡地、という。
三渓園の隣。

https://goo.gl/maps/jtGGXc6NQb9Q4Jne7

公園には「横浜市 八聖殿 郷土資料館」があり、この場所もかつては「小野光景別邸」であった。

横浜市 八聖殿 郷土資料館内にも、小野光景の紹介がある。

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/hasei/

https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/midori-koen/koen/koen/daihyoteki/kouen006.html

https://shimin-rinkai.jp/

本牧臨海公園と小野光景氏
 ここ本牧臨海公園一帯は明治時代に生糸貿易商として活躍した小野光景氏の約2万6千坪(約8.6ha)に及ぶ別荘地であった。
 海が見渡せる丘に洋館を始めとする幾つかの建物が点在していた。
 当時、別荘地の一部分は市民に広く公開され、「小野公園」と呼ばれていた。

横浜開港の功労者
小野光景別邸跡
 かって、この地は幕末の激動がようやく鎮まった安政六年(1859)横浜開港の創始者とうたわれた横浜町名主小野塀上門光賢の長子小野光景の広大な別荘地で当時この公園と呼ばれていました。豪華絢爛たる洋式別荘は外国使節団当承知ノ場とされ、開港にかかわる歴史的場羽陽な場所であった。
 明治五年(1872)、光景は父光賢の職を継ぎ、次いで明治十三年(1880)、わが横浜商工会議所の創設を始め、横浜学校の始、壮行・如春の二学舎の開設、横浜正金銀行開設、横浜商法学校設立、新港埠頭の建設、八王子横浜間鉄道の新設等々、揚げて枚挙にいとまなく主唱者として貢献し、更に、明治十六年(1883)には自ら貿易行小野商店を開業するなど、障害の前半を成二に、後半を実業に捧げて燃えつくし、と横浜の地鶴見の総持寺の一隅に、父光賢の墓とならんで葬られている。
 このように、この地は横浜発展の礎を築いた小野光景を偲ぶことのできる場所であり、ここに一碑を建て光景の事情を永く後世に伝えることを願ってやまないものである。
 平成15年11月13日 横浜商工会議所会頭 高梨昌芳

春惜しむ
 臨海公園
  波遠し
    忠秋
     記念碑寄贈者 光景生家 忠秋

小野光景氏の功績
 1845年に長野県上伊那郡辰野町小野に生まれ、1859年の開港直後、横浜に移住した。
 父光賢氏の職を引き継ぎ町政業務に携わるとともに、横浜商法会議所(現横浜商工会議所)や横浜正金銀行(現三菱東京UFJ銀行)及び横浜商法学校(現横浜商業高等学校)、新港埠頭、横浜鉄道(現JR横浜線)等を設立・建設した。
 また、生糸貿易商としても活躍し、明治期の横浜の発展に大いに貢献した人物である。

「小野公園」の記憶
 この油絵は、往時の「小野公園」を海に向かって描いたもので、光景氏の三男哲郎氏の妻、煕子氏の作品である。
 広い芝地に50mのプールがあり、海の水をポンプアップして使っていた。また、海岸に出るためのトンネルが掘られ、崖下は絶好の釣り場となっていた。この芝地はいつも手入れが行き届いていて、秋にはよく運動会が開かれていたという。

小野光景氏別邸洋館
 小野光景氏別邸は、2階建ての洋館で、シャンデリアのついた大広間もあり実に立派なものであったという。
 この豪華絢爛な洋館には、政府の要人や外国の使節を招待するなど、華やかな政治・外交の舞台となっていた。
 しかし、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で倒壊したといわれる。
 前列中央の、赤ちゃんを抱いているのが小野光景氏である。

明治4年(1871年)頃の本牧の海岸
 かつての本牧の海には良質な漁場が広がっていた。明治末頃からは海苔の要職が盛んになった。また、景色も良く海も美しいことから海水浴場としても使われていくようになる。

埋立で大きく変わる本牧の海岸
 昭和34年(1959年)から46年(1971年)にかけて、根岸湾埋立が行われた。
 左は根岸湾の埋立前の写真。八聖殿が見え、「小野公園」の山の一部がまだ残っている。
 下は昭和30年代末の写真。埋立が進み、本牧臨海公園の整備が行われている。

本牧臨海公園・本牧市民公園・三渓園
周辺からみた景色。


2015年3月撮影

横浜正金銀行本店
(現・神奈川県立歴史博物館)

横浜正金銀行は明治13年(1880)開設。
小野光景氏は 横浜正金銀行 設立にかかわり、そして第二代頭取(1882-83)を務めた。
現在の建物は明治37年(1904)完成。残念ながら小野光景が関わっていた時代ではなく。

http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/syoukin/ysb_ayumi/nenpyo/d_toudori02.html


場所は変わって鶴見総持寺。

小野家墓所(総持寺)

鶴見の総持寺に小野家の墓、小野光賢墓と小野光景墓がある。浅野一族(浅野総一郎)と同じ並び。奥まった区画に小野家の墓があった。小野家墓所の区画番地は「中央ハ2」。具体的な場所の情報が皆無のため、この場所を見つけ出すのに結構時間を要してしまった。
(目印となる浅野総一郎墓「中央ハ6」、清浦奎吾墓「中央ニ1-27」とも近い。)

総持寺には、小野光賢夫妻と小野光景夫妻をはじめ、一族が眠っている。

※撮影は令和2年12月

小野光賢夫妻の墓。

小野光景夫妻の墓。

親子で並んでいる。

小野家の家紋。

通路の突き当りが浅野家の墓。小野家の墓は、浅野家の脇の通りに鎮座。


横浜開港の功労者である小野光賢と小野光景の親子。正直にいってほとんど知名度がなく、あまり知られていない人物。横浜の人ですら知らないのでは・・・といったレベル。
そんな横浜の功労者を知ることができた今回の散策はとても貴重なものとなりました。

惜しむらくは、信州小野の「祭林寺」のお墓に詣でていなかったこと。
またの機会は有るのだろうか。。。

本記事はいったん〆

大西瀧治郎を偲ぶ

総持寺境内

鶴見駅から鶴見総持寺に足を運んでみた。大西瀧治郎の墓に。

大西瀧治郎

従三位勲二等功三級

海軍中将 大西瀧治郎之墓

合掌

海軍中将。第1航空艦隊司令長官、軍令部次長を歴任。

「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」
神風特別攻撃隊の創設者の一人。

昭和20年8月16日。
遺書を残し割腹自決。享年55歳。

墓裏には

昭和三十八年八月廿三日再建之
大西 淑恵
児玉 誉士夫

とある。
大西 淑恵 は 大西 瀧治郎 の妻。
児玉 誉士夫 は大西と懇意な関係にあり、児玉機関への支援などを大西は積極的に行っていたということもあり、交流が深かった。

遺書の碑

2000年に「遺書の碑」が建立。発起人は元副官であった門司親徳(海軍主計少佐)。命日である8月16日に除幕式が行われた。

遺書

特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉
弾として散花せり然れ
共其の信念は遂に達
成し得ざるに至れり
吾死を以つて旧部下の
英霊と其の遺族に謝せ
んとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利
敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自
重忍苦するの誡とも
ならば幸なり
隠忍するとも日本人た
るの矜持を失う勿れ
諸士は国の宝なり
平時に処し猶お克く
特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世
界人類の和平の為
最善を尽せよ

海軍中将 大西瀧治郎
八月十六日

之でよし百万年の仮寝かな

「 之でよし百万年の仮寝かな 」は辞世の句

海鷲観音

大西 淑恵 婦人によって建立。
「故人は特攻隊に申し訳ないと言い残して自決したのですから、特攻で散華された方々をお祀りする観音様を故人の墓と並べて建立したい」との希望で建てられたもの。

海鷲観音
昭和27年9月彼岸 
施主 大西淑恵

大西瀧治郎君の碑

親友一同による「大西瀧治郎君の碑」がある。

いわく。
今や一身以て一艦を屠る特別攻撃法を敢行するの外救国の途なしと断じ進んでその任に当らんことを申出つ
君中宵沈思幾度か遂に血涙を呑んでその採用止むなきを進言し自ら特攻部隊の指揮官に任したり
朝に空母を沈め夕に戦艦を傷け連日の猛撃に敵陣色を失い恐慌甚だしきものあり
去り乍ら彼我物力の大差は如何ともすべからず遂に刀折れ矢尽き終戦の日を迎うるに到る君即ち我事ここに終れりと従容として古武士の法に遵い敬愛する特攻戦士の跡を追へり ・・・

大西瀧治郎君の碑
大西瀧治郎君は兵庫県芦田の産長して海軍に志し明治四十五年七月優秀の成績を以って兵学校を卒業す人と為り豪宕不屈進んで草創期の航空界に身を投じ険難を意とせす研鑽に精進する事数年その特性を体得するに及び将来我が国防の最大要素たるべきを痛感し海軍航空を急速に発展せしむる事こそ自己に課せられたる使命なりとし益々拮据精励特に要員教育訓練の基礎確立に力を到せり爾来累進して要職を歴任するの間軍政の府に在っては航空優先の施策実現に全力を傾注し熱誠倦むところを知らす又部隊を率いては率先垂範積極的指導に終始し士気の昴揚自ら風を為す大東亜戦争の初期海鷲よく太平洋の全域を掩□無敵の名を肆に到したるその因由素より多々あるへしと雖君等明達径行の士万難を排して精強部隊の育成に汲々として盡瘁したる多年の苦心に負うもの甚た大なるは信じて疑はさるところなり戦局漸く我に利あらす皇國の前途轉た暗□たるの秋果然至誠純忠なる青年将校等今や一身以て一艦を屠る特別攻撃法を敢行するの外救国の途なしと断じ進んでその任に当らんことを申出つ君中宵沈思幾度か遂に血涙を呑んでその採用止むなきを進言し自ら特攻部隊の指揮官に任したり朝に空母を沈め夕に戦艦を傷け連日の猛撃に敵陣色を失い恐慌甚だしきものあり去り乍ら彼我物力の大差は如何ともすべからず遂に刀折れ矢尽き終戦の日を迎うるに到る君即ち我事ここに終れりと従容として古武士の法に遵い敬愛する特攻戦士の跡を追へりその遺書に曰く青壮士諸氏は國の宝なり日本人の矜持を失う事なく民族の福祉と世界人類平和の為め最善を尽せと茲に偉人大西海軍中将が踏み来たりたる大道を追想しその高風を永く後毘に傳へんとす
昭和三十七年三月二十一日 親友一同


鶴見総持寺

大祖堂の裏にひろがる五院墓地(五院右1-1)に大西瀧治郎の墓がある。


宇垣纏墓

大西さんと宇垣さんと。

宇垣纏を偲ぶ

神風特別攻撃隊之魁甲飛十期之碑

児玉誉士夫墓

大西と縁が深かった児玉誉士夫は池上本門寺に墓がある。

そのほか、総持寺関連

横浜海軍航空隊(浜空)と飛行艇の名残散策

平成28年6月

横浜海軍航空隊(浜空)の遺跡として国内最大級のものが残っている。

「飛行艇格納庫」

浜空は日本最初の飛行艇部隊であったのだ。
日本が誇る九七大型飛行艇や二式大艇を収納した大型格納庫。
ワクワクしますね…

現在の神奈川県警第一機動隊の敷地が横浜海軍航空隊の一部であり、そこで当時の飛行艇格納庫=第三格納庫が現在も補修されながら使用されている。

つまり、アレな場所なわけです…行ってみましょう…


位置関係


897-C4-38
1944年10月14日‐陸軍撮影写真を加工
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 より

南部市場駅

最寄り駅は横浜シーサイドライン「南部市場駅」


横浜海軍航空隊(浜空)
第三格納庫

横浜海軍航空隊(浜空)の第三格納庫。
補修され、見た目は奇麗な巨大倉庫。
道路から遠目に見学することをおすすめします。

監視カメラが働いておりますのであまり無茶はしないほうが賢明です。

GoogleMap航空写真からキャプチャ。


富岡総合公園

次いで富岡総合公園へ。
先ほどの格納庫の裏側の山の手にあたります。無茶苦茶広いです。


横浜海軍航空隊(浜空)隊門跡

富岡総合公園の南西側にあたる。

横浜海軍航空隊隊門跡。

浜空。
標札は後世のものではあるが往時の門柱に違和感なくおさまり、ここに横浜海軍航空隊の名残を伝えている。

静かに往時の名残を物語っていました。


横浜海軍航空隊

略称は浜空。 大日本帝国海軍初の飛行艇部隊として昭和11年(1936)10月1日に横浜海軍航空隊が開設。横須賀鎮守府所属。 1939年11月15日に南洋諸島を担当する第四艦隊附属となり内南洋哨戒に従事。

昭和12年(1937)九七式飛行艇が制式化。以後終戦まで215機生産。 昭和16年(1941)二式大艇が制式化。輸送用晴空含め167機生産。 約400機を誇っていた海軍飛行艇部隊は終戦時には稼働機3機のみとなる。内1機現存。

海軍航空隊で初めてレーザー索敵を運用し、水上機の利点を活かして南洋の空を索敵に従事。 運用のしやすさから最前線にも投入され、そして消耗していった部隊。

そのよすがをたどる。

海軍飛行艇部隊は開戦前から早くも南洋に展開されていた。

横浜航空隊は昭和16年9月に本部をマーシャル諸島ヤルートに置き周辺諸島に展開。開戦後はラバウルへ進出。
東港航空隊(台湾)は昭和16年11月にパラオ基地に展開。のちにインド洋アンダマンへ。

昭和17年(1942)8月7日、ラバウルから最前線のツラギに全力展開していた浜空は米軍に強襲上陸され係留中だった飛行艇等全機が駐機場で破壊、司令宮崎重敏大佐以下玉砕。

海軍飛行艇部隊の要たる浜空はソロモン海に全滅…
(昭和17年10月部隊再建)


浜空の碑
(富岡総合公園・旧横浜海軍航空隊基地)

題濱空
大鵬渡海奏奇功
離島守防意気隆
衆寡難勝嗟惨々
至誠不抜憶濱空

昭和四十六年十月二十一日
ソロモン・ガブツ島ニ於テ
草鹿任一 花押

碑裏面

浜空の碑
この地に原隊を有せし飛行艇隊元横浜海軍航空隊は昭和十七年八月七日未明南太平洋ソロモン群島ツラギに於いて米軍の反攻上陸を受け二晝夜にわたる死闘の末宮崎重敏司令外五百余名全員玉砕せり
これらの人々の冥福よ恒久平和を祈念してこの碑を建立す
 昭和61年4月吉日

富岡総合公園。
旧・横浜海軍航空隊基地跡。

浜空神社跡の真向かいに鎮座している慰霊碑。
ソロモンの海で散った横浜海軍航空隊を偲ぶ。

実は終戦時に日本軍人の手で日本の空を飛んだ最後の日本軍機は「二式大艇」(二式飛行艇)だった。
昭和20年11月11日、残った1機を米軍に引き渡す為に詫間海軍航空隊(香川県)から横浜基地に空輸され、この横浜の地にて二式大艇は米軍に引き渡された。

「最後の飛行艇」日辻常雄
水上機・飛行艇畑一本を歩み海軍飛行艇部隊とともにあった日辻氏(詫間空飛行隊長・海軍少佐)は、まさにこの米国へ引き渡された二式大艇で最後に日本の空を飛んだ人物。飛行艇好き必読の本。

この横浜基地から米軍に引き渡された「最後の二式大艇」(二式飛行艇/T-31号機/Tは詫間空/昭和18年3月製造第26号機)は返還運動もあり1979年に笹川良一氏の尽力により「船の科学館」にて引取され展示。
2004年以降は海自鹿屋基地にて展示されている。


二式大艇(二式飛行艇)

「船の科学館」に在りし日の彼女。2003年撮影。
※現在は鹿児島鹿屋に展示

連合国コードネームEmily。
「恐るべき機体」「空飛ぶ戦艦」「全世界の飛行艇に君臨する王者」

飛行艇技術では日本が世界に勝利したと讃えられ数々の勇名を誇る。

帝国海軍の飛行艇の伝統は、海自PS-1/US-1/US-2へと受け継がれ…

船の科学館、在りし日の姿。(2003年撮影)

鹿児島の鹿屋には行ったことがなく。
いつかは行かねばなるまい土地です・・・。

筑波空記念館には二式大艇のプロペラエンジンの遺品もありました・・・。

大艇ちゃん・・・。

さて、脇道にそれ過ぎましたね。

横浜海軍航空隊(浜空)は海軍飛行艇部隊の嚆矢でもあり二式大艇ゆかりの場所でもあるため、これもよすがを偲ぶきっかけの一つとして。

余談ついでに。
二式大艇は居なくなり展示も宗谷だけになった船の科学館ですが二式大艇にまつわる冊子が売っています。

これ、写真豊富で修復前後や艇内部の様子などもあり、頒布300円の癖して凄く良い冊子です。

話の筋を戻して富岡総合公園に。
この地に平成20年春迄、浜空神社が鎮座していた。

現在は追浜の雷神社に遷座。当地は浜空神社跡として鎮魂碑がある。


浜空神社跡

浜空神社由来

昭和十一年十月一日飛行艇隊の主力として横浜海軍航空隊が当地に開設された。
その守護神として造営されたのがこの浜空神社である。

昭和二十年八月十五日大東亜戦争終結後当航空隊跡地は横浜市富岡総合公園として生れ変ったのである。
浜空会では特に願い出て戦没者の鎮魂と恒久平和を祈念して浜空神社の修復復興をはかり全海軍飛行艇隊の戦没者殉職者約二千柱の御霊を合祀した。
横浜航空隊は浜空神社を中心とした広大な陸上の敷地と現在埋立てられた根岸湾水上の飛行艇発着場を専有していた。
隊員約一千名大型飛行艇二十四機を有する海軍最大の飛行艇専門航空隊としてその威容を誇ったものである。
今なお隊門附近の桜並木と飛行艇大格納庫が当時を偲ぶ面影を残し訪れる者に静かに語りかけてくれる。
時局の推移に伴い横浜航空隊から新たに東港航空隊が分立した。
昭和十六年十二月八日大東亜戦争勃発するやこの両隊は直ちに第一線に出動した。
引続き第十四航空隊対潜専門部隊輸送教育等各精鋭飛行艇隊が横浜空を母体として誕生し第一線に又後方に配備されその強大な航続力を発揮して洋上大遠距離の哨戒・攻撃・輸送・救出・作戦等を展開しハワイ・印度・アリューシャン・豪州・ソロモンにわたる広大な戦域を駆け巡って勇戦奮闘した。
作戦上部隊名を八〇一空(横浜)八五一空(東港)八〇二空(十四空)九〇一空(対潜)等に変更し戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して沖縄攻防戦に死闘を演じ満身創痍全力を尽し果たして戦の幕を閉じたのである。
中でも横浜航空隊はソロモン最前線のツラギに進攻作戦中強力な敵の反撃をうけて昭和十七年八月、宮崎司令官以下三三八名が壮烈な玉砕を遂げたのである。

富岡のこの地は、かくの如く誇りある海軍飛行艇部隊発祥の歴史をもっているのである。
この事実を永く後世に語り継がんが為、ここに記念碑を建立する次第である。

昭和63年1月 海軍飛行艇会 建立

鎮魂
海軍飛行艇隊

石碑正面のシンボルマークは飛行艇に音楽終止符を織り込み「休める飛行艇」を意味する「濱空会」の印。

海軍飛行艇部隊の犠牲者に。
慰霊と鎮魂、そして感謝を。

かつてこの地は浜空神社であった。

が、管理する世話人の老齢化により神社を維持する事が難しくなり、この浜空の地から横須賀空のあった追浜の雷神社に遷座し、今後の管理を委ねるという苦渋の選択があった・・・。

濱空神社の碑

此処に横濱海軍航空隊の戦没者、物故者二千余柱の英霊をお祀りしていた「濱空神社」がありました。
名称は、古事記の「石楠船神」又の名「天鳥船」に因み、鳥は水鳥のように速く進むという意味の「船神」に由来するものです。
昭和十一年十月一日、この地に我が国における飛行艇部隊の本部として横濱海軍航空隊が開隊され、以来「九七式大艇」や昭和十七年には世界最優秀艇と謳われた「二式大艇」が開発され隊員は日夜猛訓練を続け、先の大戦におきましては華々しい戦果を挙げ又の多くの隊員が祖国のために散華されました。
毎年四月と前線部隊がつらぎ島で玉砕された八月を記念して生存隊員並びに関係各位により、濱空神社で慰霊祭を行い、 英霊に対し、鎮魂と慰霊の誠を捧げて参りましたが、戦後六十三年を閲し神社の社屋の老朽化と境内の清掃などの維持管理に当たる世話人の老齢化により、誠に残念ではありますが濱空神社を今後も維持管理することが不可能となりましたので、平成二十年四月六日の春の慰霊祭を最後に神社の社屋は追浜本町雷神社に移築して今後の維持管理をお願いし、神社の跡地にこの石碑を建立することになりました。
石碑正面の記号は、飛行艇の記号に音楽の終止符を織り込み「休める飛行艇」を意味する濱空会のバッジです。
此処に謹んで英霊に対して鎮魂の誠を捧げ碑文を賦します。

平成二十年八月吉日  
遷座先 横須賀市追浜本町一-九 雷神社
世話人代表 加藤亀雄

浜空神社跡。この地に訪れる前週には追浜の雷神社を参拝し遷座先の浜空神社にも拝していた。
まだ浜空の地を訪れた事なかった私は、どうしてもこの元鎮座地に訪れたかったのだ。
ようやくこの地で手を合わせることが出来ました。 海軍飛行艇部隊の嚆矢たる地にて…


浜空神社
(遷座先の横須賀追浜・雷神社境内)

追浜の雷神社境内には「浜空神社」が鎮座。
正確に言うと遷座してきた。

浜空とは横浜海軍航空隊。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊の展開されていた追浜の地に、わけあって浜空神社が遷座してきたのだ。

維持の難しい性質の神社であることはわかります。特に戦友会や遺族会を軸とする場合は老齢化からは逃れられず。この場所での維持管理が難しいのであれば理解有る神社に遷座して管理を委ねる。こうやって遷座先でも変わらずに慰霊祭祀が行われる事は何よりも有難い事です。

「浜空神社」
昭和13年に浜空犠牲者を祀る鳥船神社として横浜富岡に創建。
昭和56年に鳥船神社跡地に浜空神社を再建。
平成20年に維持困難となり追浜空関係者の尽力により遷座。
遷座を機に、追浜空犠牲者を合祀。

浜空の地では毎年4月に慰霊祭が斎行されております。

水交会の平成28年盛夏号 「浜空鎮魂の碑」慰霊祭の記事。
浜空神社は雷神社に遷座しましたが、鎮魂の碑でも引き続き慰霊祭が行われており。 慰霊顕彰の火を絶やすことなく…。


公園の奥に。

富岡総合公園内に「海軍の横須賀水道関連施設遺構」があるという。
名前もズバリの浜空上広場から、もしや往時からの石段か?と思わせる古びた石段をゆく。

海軍・横須賀水道関連施設遺構

道?…道のような草むらをかき分けていくと、階段?…だった斜面が。

どうやらここは夏に来てはダメです。ヤブ蚊が凄いです。冬に来たいね。もう遅いけどw

石段跡を上ると不思議な空間が。
通気管のようなものと、もはや用途のよくわからない塔状の構造物が林立しています。

富岡総合公園内「海軍・横須賀水道関連施設遺構」
通気管のようなものを覗いてみます。
ポケットライトが手元にありましたので照らしてみると水が反射。
この下には貯水空間が残っている雰囲気。

この塔状構造物は全くもって何かよくわかりません。
6本ほど林立してました。

封鎖されている小屋は揚水ポンプ室跡?らしい。
あとはコンクリ基盤が二箇所。

まあ、とにかく藪蚊がすごいです。
やっぱ冬に来るべきですね。この手の場所はw

富岡総合公園内には海軍標石も残っているらしいですが、どうにも藪蚊との戦いで疲れきっていたので標石探しはやめておいて「見晴らし台」を目指す。

ちなみに先ほどの水道施設は多目的運動広場の右奥の方でした。


富岡総合公園見晴らし台。

風景をみるわけではなく「格納庫」を見る・・・うん、やっぱり冬に(

横浜海軍航空隊名残の「第三格納庫」を上からちょっとだけ見下ろす。

富岡総合公園見晴らし台。

第三格納庫の左側に広がる空間は第二格納庫跡地とのこと。 空き地が広がる。

富岡総合公園をあとにして南部市場駅に向かう途中。

さきほどの第二格納庫跡地を近くで見てみる。

日本飛行機

奥に見える工場は「日本飛行機 (ニッピ)」
戦前は旧海軍用航空機を製造しており局地戦「秋水」も製造していた。

シーサイドラインの車窓から「日本飛行機」(日飛/ニッピ)の工場群を眺める。

日飛の工場、往時の建屋が残っているかどうか、立ち入りできないけど。

日飛の初代社長は加藤亮一(海軍中将)。
そして二代目社長が堀悌吉(海軍中将)。堀悌吉といえば山本五十六の兵学校同期にして主席卒業。海軍軍政の将来を期待されるも大角人事で予備役…

http://www.nippi.co.jp/history/index.html

http://www.nippi.co.jp/history/history1940.html


場所は変わって根岸に。飛行艇つながり。

根岸飛行場跡
(大日本航空横浜水上飛行場跡)

現在は往時を物語る案内看板のみが残る。
横浜海軍航空隊の北側、昭和15年(1940)に大日本航空株式会社により日本初の飛行艇専用民間飛行場が作られた。

根岸飛行場跡
 昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社 により日本初の飛行艇 専用民間飛行場 が作られました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機 製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン 経由パラオ に向け飛び立ちました。
 発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
 昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇 が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26~64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
 97式大艇の最終飛行は終戦後昭和20年(1945)9月の台湾向け紙幣の輸送で、2式大艇は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の託間基地からここに飛来したのが最後です。
 根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。

97式大艇
2式大艇「晴空」型
イラスト・小川利彦

磯子区根岸地区連合町内会
横浜磯子ライオンズクラブ 
磯子区郷土研究ネットワーク

大日本航空株式会社は昭和15年に97式飛行艇で根岸からサイパン経由パラオに定期便を展開。南洋諸島と本土を結ぶ夢の航路であった。
そして戦中は海軍徴用で南方輸送航路として展開。

位置関係

「根岸飛行場跡」
当時、水上飛行場の隣にあった「動物検疫所」。
今も「農林水産省動物検疫所」として往時と変わらぬ場所に往時と変わらぬ役目で施設が残っていた。

「根岸飛行場跡」
大正12年関東大震災の復興後に石積護岸されたという往時と変わらぬ姿で、動物検疫所の脇を流れる掘割川。(土木学会選奨土木遺産に認定)

橋の脇には昭和3年「八幡橋親柱」も残されている。

さきほどの橋は「八幡橋」。

八幡様が鎮座している。
八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

近在の「根岸八幡」が元は当地に鎮座しており、現在地に遷座後( 明和3年1766)の空白地に当社が創建。

狛犬の表情がとても豊か。
大正8年

こちらの狛犬さんは何かを咥えていますね。
兎のようにもみえますが・・・。

御大典記念碑(昭和天皇陛下即位記念碑)

八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

このひときわに大きな球体が境内で目につきます。 一瞬「機雷」?とも思いましたが、どうやら「ブイ(浮標)」らしく。

社頭に

敬神 東郷平八郎謹書

横浜海軍航空隊を軸に、飛行艇の姿を夢想しながらの散策。
色々垣間見た横浜南部の散歩でした。

神奈川縣護國神社跡(横浜市慰霊塔)

平成26年(2014)参拝/令和元年(2019)11月再訪 

全国47都道府県で唯一「護國神社」が無い県が神奈川県。
(内務大臣指定護國神社として。東京は靖國神社で包括している)

もちろん、神奈川県にも護国神社建立の予定はあった。

現在の三ツ沢総合グランド (神奈川県横浜市神奈川区三ツ沢西町3-1)。
この地に「神奈川縣護國神社」(神奈川県護国神社・神奈川県護國神社)が建つはずであった。


神奈川縣護國神社
(神奈川県護国神社・神奈川県護國神社)

神奈川縣護國神社
昭和14年末に神社創建に着手。
昭和15年11月に鎮座地が確定。
昭和16年11月に鍬入式が執行。
昭和17年7月27日、内務大臣より「神奈川縣護國神社」の創立が許可。
昭和17年12月23日、起工式が執行。
昭和18年12月25日、棟上式が執行。
当初の竣工は昭和19年10月を予定していたが、戦争により工事遅延。
完成目前の昭和20年5月29日横浜大空襲によって社殿焼失。

そして終戦後、 神奈川縣護國神社は建立されることはなかった。
昭和28年に跡地に横浜市によって「慰霊塔」が建立。


昭和19年11月陸軍撮影の航空写真

空襲前の航空写真。
参道の様子と建造途中の社殿の雰囲気がわかる。

「神奈川縣護國神社」 は「本殿」「祝詞殿」「幣殿」「拝殿」「 翼舎」「渡廊」「祭器庫」「透堀」「手水舎」「鳥居」「石玉垣」「狛犬」などで構成予定だった。

8926-C5-90
1944年(昭19)11月14日‐陸軍撮影写真を加工

昭和21年2月米軍撮影の航空写真

昭和20年5月29日横浜大空襲後で、焼失した「神奈川縣護國神社跡」 の姿を確認できる。昭和19年の陸軍写真では御社殿に立体感があったが、空襲で御社殿を焼失し、昭和21年の写真では御社殿部分は焼失し立体感がないことがわかる。

USA-M58-A-6-207
1946年(昭21)02月28日‐米軍撮影の写真を加工
USA-M58-A-6-207
1946年(昭21)02月28日‐米軍撮影の写真を加工

現在の航空写真


三ツ沢公園


横浜市慰霊塔

昭和28年3月建立。
神奈川県が昭和14年に計画し、当地に昭和20年の竣工が予定されていた神奈川縣護國神社は、昭和20年5月29日の横浜大空襲で炎上焼失。
再びその威容を見ることが出来なくなった。

その名残の地には、横浜市によって慰霊塔が建立されている。
慰霊塔の前の広場は駐車場と化していた。

昭和二十年の文字が浮き出た慰霊塔。
以前の写真よりも白いので塗り直したようです。

平成26年(2014) 撮影
平成26年(2014) 撮影

納骨堂

横浜市慰霊塔の後方の建屋は納骨堂。

平和記念塔

神奈川縣護國神社参道跡

今は駐車場となっている広場に向けて伸びる歩道が、予定されていた参道跡地。

慰霊塔ご案内

慰霊塔ご案内
 この慰霊塔は、西南戦争以来、第二次世界大戦 に至る戦争犠牲者二万余柱の御霊を永年安置するための慰霊塔であります。
 慰霊塔は、二基の塔と、安置堂その他からなり昭和二十八年三月、一〇〇〇万円の経費にて建設されましたが、このうち七〇〇万円は、市民からの募金によったものであります。
 塔は門を象徴しており、向かって左の塔は、高さ十八米で上部を欠いてあり、下部に「昭和二十年」の五文字を浮き出してあります。 これは、今次大戦ではらった大きな犠牲と破壊を表したものであります。
 また、向かって右の塔は高さ二十五米で新生日本が雄々しく、将来にむかって発展する姿を表したものであります。
  横浜市

恒久平和を願って

恒久平和を願って
 戦後50周年を迎えて、更なる平和への願いを込めて慰霊塔を改修いたしました。
 この慰霊塔は、西南戦争から第二次世界大戦までの戦争犠牲者の慰霊を安置するため、昭和28年3月に建設したもので、左の塔は先の大戦で払った大きな犠牲と破壊を表し、右の塔は新生日本が将来に向かって発展する姿を表しています。
 市民の皆様と共に諸霊のご冥福を心からお祈りし、戦争の悲惨さを忘れることなく、恒久の平和を念じたいと思います。
 横浜市は、21世紀に向かって、世界に開かれた国際都市づくりを進めていますが、ピースメッセンジャー都市として、今後とも積極的に国際交流活動を展開し、相互理解を深め、世界の平和と発展に貢献していきたいと思います。
  平成7年11月1日
     横浜市長

わが町 かながわ 50選

横浜市戦没者慰霊塔
 昭和20年5月29日の横浜大空襲でなくなった、多くの犠牲者の冥福と平和への祈りを込めて、昭和28年に建立されました。
 広い広場から慰霊塔を見つめていると、心が静まります。

駐車場となってしまっている広場に若干の空虚さを感じつつも。

護國神社として機能出来なかった、この慰霊の空間。
どことなく虚しく、そして尊厳がなく。
もやもやしながらも、根底の気持ちは変わらずに
静かに慰霊鎮魂と感謝のこうべをたれる…


令和元年11月17日の夕方。
慰霊塔を撮影をしていたら、老夫婦が私に声をかけてきました。
お爺さん「ここは昔は畑だったんだよ、そこに立派なお社が出来てね、でもね、昭和20年5月29日の空襲で燃えてしまって、わたしはそのとき10歳だったよ、ほんとりっぱなお社だった・・・」
わたし「えぇ、神奈川県護国神社の跡・・・」
お爺さん「知っているんだ、若いのに、この場所がなんだったか、ここを知っていてくれて嬉しいねえ」
お爺さんとしばし歓談

ありがとうございます。


神奈川県戦没者慰霊堂

神奈川縣護國神社の跡地は「横浜市の慰霊塔」
ここは、県ではなく市の施設となっている。
神奈川県の慰霊施設は当地ではなく、別の場所にある。

神奈川県戦没者慰霊堂

http://www.pref.kanagawa.jp/docs/r6w/cnt/f153/p2926.html

実は訪れたのですが、臨時閉苑でした・・・再訪しなくては。

「神奈川県戦没者慰霊堂」再訪しました


参考文献
 神奈川県忠魂碑等建立調査集 靖國神社社務所発行 平成8年
 神奈川新聞 昭和18年12月5日掲載記事

横浜開港祭「たかなみ」電灯艦飾

平成29年6月3日撮影

平成29年6月3日 の横浜開港祭。
護衛艦「たかなみ」が「横浜港大さん橋」に寄港。夜間には電灯艦飾も行われるということで行ってみました。
結果的には運良く花火とのコラボも楽しめました〜!

「横浜港大さん橋」に到着したのが、18時15分過ぎ。 日没30分前に到着出来たので一安心。 艦首「国旗」と艦尾「自衛艦旗」と迷いますね。

やっぱり艦尾でしょ。
旭日の「自衛艦旗」が美しいです。
「たかなみ」の奥に佇む海軍の大先輩「氷川丸」も美しいです。

18時50分すぎ。
「たかなみ」後甲板に隊員が集まってきました。
そろそろ日没。

たなびく「自衛艦旗(十六条旭日旗)」の誇り。

18時53分。日没。

10秒前~
パンパパ~ン(ラッパ)気をつけ!

日没ととともに国旗・自衛艦旗降下。電灯艦飾点灯。

自衛艦旗に対し挙手敬礼。

喇叭譜「君が代」
(ドソドミソの五音の組み合わせで吹かれるラッパ「君が代」)吹奏

19時。
さあこれより電灯艦飾を楽しむ時間の始まりです。

横浜港大さん橋北側のみなとみらい側は花火見学の人々で賑わい、南側では「たかなみ」ライトアップを見学する人々で賑わっております。

「たかなみ」電灯艦飾
艦首側より。(19時20分頃撮影)
暗くなりすぎない日没後のわずかな時間帯がベストショット。

「たかなみ」電灯艦飾
艦首側より。(19時20分頃撮影)
後方はベイブリッジと大黒ふ頭。

美しいです。

「たかなみ」電灯艦飾の向こうには「氷川丸」
(輝くタワーは横浜マリンタワー)

氷川丸は日本海軍時代は「特設病院船」として重用され各海域の後方支援で活躍。帝国海軍を知る生き残りの船でもあるのだ。

「たかなみ」電灯艦飾。 艦尾から。
(一気に人が引け撮影がしやすくなりました。19時30分から花火が始まり、南側が空き始めたのだ。)

そうなのです。
艦を撮ってる場合じゃないんです。
花火が始まったんです。
せっかくだから花火を見ないと・・・ と、思いながら艦を撮っていたり。

だって大桟橋の北が「花火」で南が「護衛艦」でしょ。

どうやって撮るのよ。

・・・超広角なら。あっ魚眼持ってた!

(花火撮影は場数を踏んでいないので、ちょっと苦手です)

「たかなみ」電灯艦飾
花火は20時前に終了。だいたい30分間ぐらいの打ち上げでした。

横浜港大さん橋に停泊する鋼鉄の艨艟
海洋立国日本の守り神
これからも日本の海をよろしくお願い致します!
(/”`・ω・´)

賑やかで華やかなほうの横浜。
かすかに海保のPLH-32あきつしまが見える、かも!
今度は明るいうちに観察しましょう。
山下公園の方に向かいます。

「たかなみ」電灯艦飾

まあ夜の山下公園はアウェーなのは知ってます。
花火大会のあとですよ。夜ですよ。横浜の山下公園ですよ。
えぇ、察してます。
気にせず三脚をセットして「たかなみ」を撮影。
かなり風が強くて厳しい。

「氷川丸」電灯船飾(ライトアップ)

電灯船飾と電灯艦飾 日

本郵船「氷川丸」(国重文)の後ろ姿。
1930年竣工

その左奥に護衛艦「たかなみ」の姿も。
2003年竣工

そんな誇らしい2隻を眺めつつ、 静かに横浜の夜をあとにする。
佳き夜でした。 〆

陸軍護衛空母「山汐丸の錨」(横浜)

2018年11月及び2023年12月撮影・横浜市


山汐丸の錨

「山汐丸(陸軍護衛空母)」
横浜みなとみらい地区の片隅に赤さびた大きな錨が展示してある。

昭和19年に三菱重工業横浜船渠で2TL型タンカー5番船として起工された山汐丸は、昭和20年1月27日に竣工。
形式上は民間船であったが陸軍指揮下で船団護衛艦兼用輸送船として運用予定であった。

しかし既に南方航路も閉ざされており就役を待たずに石炭炊き貨物船(既にタンカー輸送船として運用出来ない為)に改造が決まる。

三菱重工横浜船渠において係留待機中、昭和20年2月の空襲で大破着底し終戦。
戦後の解体中に沈没。
そのまま擱座状態で埋められ「山汐岸壁」へと。

由来の看板がある。

造船所と横浜を記憶する「イカリ」
  このイカリは「みなとみらいセンタービル」工事中に発掘されたものでビル建設の一環として事業主様により設置・展示されました。
この敷地には、一八九一(明治二十四)年に創業した横浜船渠株式会社がありました。その後、三菱重工業株式会社横浜造船所となり、約一千隻の船を建造しましたが、一九八三(昭和五十八)年に移転し、この地は「みなとみらい」となりました。
 イカリの主は陸軍航空母艦「山汐丸」(一五、八六四総トン)です。「山汐丸」は一九四五(昭和二十)年に建造され、油の輸送と船団護衛のため、飛行機を搭載していました。
二〇一一(平成二十三)年 三月
 三菱重工業株式会社
 原動機事業本部横浜製作所
  第二十八代所長 加藤敏彦

イカリ

明治24年以来、山汐丸をはじめ約1000隻の船を建造してきた三菱重工業株式会社横浜造船所は、昭和58年に移転し再開発「みなとみらい」と生まれ変わる。
平成23年(2008)に、みなとみらいセンタービルの建設工事の際、「山汐丸の錨」が発見され同ビルの脇の広場に展示。

昭和12年(1937)に帝国海軍が採用したホールズ型イカリだという。

場所

https://maps.app.goo.gl/4bVnCrMxFyxxAGLK9


Wikipedia「山汐丸」より https://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b1%b1%e6%b1%90%e4%b8%b8 …

山汐丸

特2TL型戦時標準船(2TL型油槽船5番船)
船団護衛空母兼用タンカー輸送船
三菱重工業横浜船渠
竣工1945年1月27日
排水量15,864t
全長148.0m
全幅20.4m
最大速力15kt
昭和20年(1945)2月17日、飛行甲板大破し浸水着底

山汐丸は大洋に漕ぎ出すこともなく竣工から沈没までを三菱重工業横浜船渠(三菱重工業横浜造船所)の地で過ごした。

埋められた錨は、みなとみらい再開発でよみがえり、今は三菱重工業横浜造船所の跡地にそびえ立つ「三菱重工横浜ビル」の方向を見つつ静かに鎮座している…


関連

「三菱重工横浜ビル」

「横浜船渠」と「みなとみらい」

https://senseki-kikou.net/?p=6468

瀬谷海軍道路散策(横浜)

平成30年4月撮影

横浜市瀬谷区の愛称「海軍道路」の散策記事まとめ

瀬谷・海軍道路

横浜市瀬谷区の上瀬谷地区。 相模鉄道「瀬谷駅」より北の八王子街道に向けて一直線に伸びる直線道路がある。 この約3キロの直線道路(市道環状4号線)の愛称が 「海軍道路」と呼ばれている。
内陸部に残る海軍の歴史を感じながら、このエリアを散策をしてみました 。

桜並木の様子はこちらも参照を

瀬谷・海軍道路 概要

昭和15年「横須賀海軍資材集結所」の建設が始まる。
神中鉄道瀬谷駅より引き込み線と道路が一直線に資材集結所まで敷設。
「第二海軍航空廠瀬谷補給工場」「瀬谷補給工場火薬庫」「海軍資材集結所」とも呼称されていたという。
3キロにも及ぶ直線は、一説には滑走路への転用も視野に入っていた為ともいわれている。

終戦により「海軍資材集結所」は米軍により接収。 その後、在日米海軍によって「上瀬谷通信施設」が展開される。 1977年以降、施設内の一部国有地が農耕地として売却。

平成27年(2015年)6月30日に米軍より土地全体が日本へ全面返還。 現在は横浜市による再整備計画段階という。

瀬谷海軍道路の位置関係を現在の航空地図にて参照。
(Google Mapsをベースに補足書き込み)

相模鉄道(神中鉄道)を介して、
東に海軍道路と海軍資材集結所。
中央は厚木海軍飛行場。
西に高座海軍工廠。
そして小田急線の向こうには陸軍士官学校。
内陸部であれど軍事施設が集中していたのがわかる。

国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより mapps.gsi.go.jp

昭和19年11月14日 陸軍撮影(8926-C5-76)

昭和24年02月21日 米軍撮影(USA-R569-17)
瀬谷駅付近より真っ直ぐに海軍資材集結所へと伸びている「海軍道路」の様子がよくわかる。

瀬谷駅から歩いても良かったけど、行程の都合で「北から南へ」アクセスすることに。
小田急線「鶴間駅東口」から横浜駅行きのバスに乗車。(鶴ヶ峰駅行でも可)
海軍道路最寄りは「笹原」バス停。
ただ、ちょっとだけ寄り道をしたかったので、その次のバス停「卸センター前」まで乗車。

この北側(八王子街道ぞい)は、米軍「上瀬谷通信施設」の施設が集中していたエリア。ちょっと近づいてみましょう。

簡易的な柵があり、一応「立入禁止」と。
立入禁止なので深入りせず、これ以上は進入せず、で。

米軍・上瀬谷通信施設跡

塗りつぶされている警告看板が、ここに米軍基地があった名残。

海軍道路入口

八王子街道と海軍道路の交差点。
信号機に「海軍道路入口」とありますね。
これだけでワクワクしてきます。
この場所が「海軍道路」の北端。

「海軍道路」北端エリア。
道路脇の空間、柵の向こうにふと目をやると・・・おやっ?! このコンクリート構造物はなんだろう。
旧海軍時代の遺構だと嬉しいけど、現時点では情報不足、詳細不明。

「海軍道路」北端エリア。
前述のコンクリート構造物の脇にある同じく謎のコンクリート構造物。
一説にはタンク受台ともされている。
コンクリートの礫ぐあいを遠目にみると旧海軍時代の遺構っぽい(そう思いたい)
なお、このエリアは「南関東防衛局」管理で立入禁止。望遠にて撮影。

「海軍道路」北端エリア。
この北端エリアは平成27年ごろに道路の付替えがあり、環状4号線に接続させるために約50本ほどの桜並木の伐採や道路新設が行われている。
なので桜並木が途中で途切れていたりするが、基本的には南へと海軍道路とともに桜並木が伸びている。 季節は新緑の桜。

瀬谷海軍道路

ほんとは桜の季節に訪れるのがベストなんだけど、新緑の桜並木もこれはこれで良いものかもしれない(負け惜しみ)
実のところ、フォロワーさんが桜の季節に海軍道路を訪れており「あああっ」と桜並木のことを思い出した次第でした。来年は桜色の季節に脚を運んでみたいです。

「海軍道路」は現在は車道と歩道にわかれており、その間に桜並木が植えられている。シーズンを車で走ればと桜のトンネルがさぞかし美しいことが想像できる。(渋滞も凄そうだけど)
かつて海軍集結所が展開されていた時代は、歩道側に鉄道線路がひかれていたという。

旧基地エリアは、なにやら牧歌的な光景が広がってますが、これでも横浜市内です。
この芝生エリアは桜の開花季節には公開もされているのだとか。 基本的には「南関東防衛局」管理の立入禁止エリア。

桜並木の南端エリア。
瀬谷消防署中瀬谷消防出張所付近。
この辺りに海軍集結所時代は南門があったという。
ここでいったん海軍道路を外れて東の方に歩いてみる。
上瀬谷球場方面へ。

米海軍上瀬谷通信施設ゲート跡

瀬谷海軍道路の東側。
米海軍上瀬谷通信施設ゲート跡。
上瀬谷球場から北側へと、なんとなく散策していたら見つけました。
ゲートは開放状態、この先にも野球場がありユニフォーム姿の方々をちらほらと。

U.S NAVAL SUPPORT FACILITY KAMISEYA JAPAN (上瀬谷通信施設)

瀬谷海軍道路を側面から眺めてみる。
横に広がる桜並木もなかなか圧巻。
新緑も良いけど、ますます桜花の季節に足を運んでみたくなる景観。

瀬谷海軍道路の南端。
瀬谷駅方面。
桜並木も両側にあったものが消防署から南は片側のみ。
ここまで来ると往時の雰囲気は残ってない普通の道路ですね。

橋の名前につけられた「海軍道路」という名称のみが歴史を伝えている。

八王子街道から瀬谷駅まで米軍基地跡へ寄り道しつつ、約2時間約7キロの散策でした。