「東京都‐23区東部(江東,墨田,台東,荒川,足立,葛飾,江戸川)」カテゴリーアーカイブ

3月10日・東京大空襲(あの日から77年)

令和4年(2022年)3月10日。

あの日から77年。

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。

犠牲者10万人を超す規模であり、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
世にいう、東京大空襲(下町大空襲)であった。

「東京都平和の日」

慰霊鎮魂を。

3月10日に手を合わせてきました。


東京都慰霊堂

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、遭難者慰霊大法要が執り行なわれている。

震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
 顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった、与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。
 爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った、戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった、江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千人を失った、当時殉難者は公園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが昭和二十三年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
 横網公園敷地は約六、〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
 昭和二十六年九月 東京都

新型コロナの影響で規模が縮小。
法要の参列者は限定され、法要終了後に一般参列者が祭壇で追悼可能となりました。


東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」の中には、「東京空襲犠牲者名簿」が納められている。
大法要が行われる3月10日と9月1日に内部公開。

こちらも手を合わせてきました。

東京空襲犠牲者名簿

現在は、35巻まで納められており、令和2年(2020年)3月現在、81,273名のお名前が登載されている。

3月10日。
この日は、「陸軍記念日」だった。
1905年(明治38年)3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天城に入城した日。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲は、この陸軍記念日を狙って実施されたという説もある。

ちなみに、同じく1945年(昭和20年)5月27日の「海軍記念日」(日本海海戦で海軍が勝利)には、呉大空襲があった。


リンク

公益財団法人 東京都慰霊協会 都立横綱町公園-震災、戦災の記憶-

https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html

総務省 一般戦災死没者の追悼

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city001/index.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/tokyo.html

東京大空襲・戦災資料センター 東京大空襲とは

https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/

東京都生活文化局 東京都平和の日関連事業

https://www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp/bunka/bunka_seisaku/0000000632.html#:~:text=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%81%E3%80%8C%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD,%E3%82%92%E5%AE%9F%E6%96%BD%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82


関連

はじめに
東京大空襲・慰霊
戦災電柱

ケルンの眺めと「萬年橋」

萬年橋(江東区)

昭和5年(1930)開通。鉄筋アーチ橋。

萬年橋は小名木川にかかる橋。萬年橋のすぐ西側で、小名木川は隅田川と合流する。合流先には清洲橋がある。そして萬年橋の東側には新小名木川水門が設置されている。
また北側は松尾芭蕉が居を構えていた場所でもあり江東区芭蕉記念館もある。

隅田川の南にある清須川は、萬年橋のたもとからの長めが最も美しく見える角度と言われており、清洲橋のモデルとなったドイツ・ケルンのライン川に架かる吊橋を連想させることから、「ケルンの眺め」と呼ばれている。

萬年橋

ケルンの眺め
 ここから前方に見える清洲橋は、ドイツ、ケルン市に架けられたライン河の吊橋をモデルにしております。
 この場所からの眺めが一番美しいといわれていおります。

新小名木川水門

※撮影は2021年11月


関連

博物館動物園駅跡(上野・京成電鉄)

上野公園周辺には、意外と近代建築物が残っている。

国立博物館内には、旧東京帝室博物館本館と表慶館、上野公園内には、国立科学博物館と旧東京音楽学校奏楽堂、そして、帝国図書館、黒田記念館、東京藝術大学などにも戦前の建造物が残っている。

そのなかでも、今回は、京成電鉄の駅舎入口部分の建造物を眺めてみる。

博物館動物園駅跡(京成電鉄株式会社)

昭和8年(1933)の京成本線開通にあわせ、東京帝室博物館・東京科学博物館・上野恩賜公園・東京音楽学校・東京美術学校などの最寄駅「動物園前停留所」として開業。
平成9年(1997)に営業休止され、平成16年(2004)に廃止された。
廃止後も駅舎やホームは現存しており、不定期に一般公開もされている。
平成30年(2018)には、駅舎が鉄道施設としては初めての東京都選定歴史的建造物に選定。

地下ホームの出入り口は2箇所ある。

博物館動物園駅跡・博物館側

中川俊二設計。1931年竣工の駅地上口。
皇室用地であった東京帝室美術館(現在の東京国立博物館)の敷地内に建てられることとなったため、昭和天皇出席の御前会議でデザインが決定されたという。
国会議事堂中央部分のような西洋様式の外観が特徴で、国会議事堂よりも建築時期は古い。

博物館動物園駅跡
京成電鉄株式会社

博物館動物園駅 照明復元事業
 この博物館動物園駅は、1933年(昭和8年)に竣工しました。6灯の壁付照明器具が、3方に開いた出入口を照らしていましたが、第2次世界大戦の金属供出により取外され、永く失われていました。この駅舎と地下駅空間の保存と再生を願い20年間にわたる活動を続けてきた市民グループ、NPO法人〈上野の杜芸術フォーラム〉による企画と募金活動により、2010年、漸く1灯の復元が成りました。
 芸術の中枢機能が集積するこの交差点〈アートクロス上野〉に向けた光を復活させるものです。

照明復元企画・プロデュース:NPO法人 上野の杜芸術フォーラム
代表:森 徹/副代表:熊井千代子
理事:植野糾/臼田浩之/熊井芳隆/溝内公洋/若松久男
復元型デザイン・制作:宗政浩二
復元器具・鋳造:池田東央(池田美術)
照明メカニック:吉原義夫(東芝ライテック)

東京藝術大学から、博物館動物園駅舎を望む。

博物館動物園駅跡・動物園側

昭和42年(1962)から始まった上野動物園大改造計画に基づく工事によって、動物園正門の位置が変更されたことで人の流れが変わり、まもなく閉鎖された。
閉鎖後は東京都美術館の資材倉庫として利用されている。

一般公開のタイミングがあえば、内部も見学したいものです。

※撮影:2021年11月


恩賜上野動物園 旧正門

上野動物園は明治15年(1882)開園。日本最古の動物園。

旧正門は、明治44年建立。
昭和9年頃までは恩賜上野動物園の玄関口として使用されていた表門。
現在は臨時門として使用されることもある。

右奥に、京成電鉄の博物館動物園駅跡が見える。

内側は、 令和元年(2019)11月に撮影していました。
以下は内側の写真。

上野公園周辺の近代建築物は、また別記事にて。


上野関連

東京の北の玄関口「上野駅」

北の玄関口、上野駅。
現在の駅舎は3代目。昭和7年(1932年)に建造された駅舎が、戦争をくぐり抜けて、今もその姿を伝えている。

写真メインで近代建築としての上野駅の記録を。


上野駅

上野駅は、明治16年(1883年)7月28日に日本鉄道の上野-熊谷間開業にともない仮駅舎として開設された。明治18年に正式な駅舎が竣工。
大正12年(1923年)の関東大震災で駅舎は焼失。仮駅舎で営業を再開。そして昭和7年に3代目の駅舎が竣工した。

上野駅三代目駅舎
 関東大震災(1923年・大正12年)にて二代目の駅舎や主要な建物は破壊・焼失してしまいました。同年より仮駅舎にて営業し、その復興に力を注ぎ正面玄関口・広小路口駅舎は1932年(昭和7年)に3代目として完成した駅舎です。
 建設当時は、正面口が2階構造になっており、上層は乗車口で自動車から降りて直接駅に入ることが出来ました。下層は降車口で改札をでて大寒暖で地下へ降り降車口から自動車に乗ることが出来ました。
 乗車客と降車客の動線が分離されれた構造の駅舎でした。

正面玄関口駅舎。
かつての乗車口=2階には、今は車では乗り入れができない。
車は、かつての降車口=1階のみ。

上野駅貴賓室跡地
 1932年(昭和7年)に現在の上野駅舎が完成した際、この場所に貴賓室が造られました。
 以後、天皇陛下および皇族方が東北方面へお出かけになる際には、たびたびこの貴賓室をご使用になられたということです。
 当時の写真を見ると、大理石造りの風格ある入口の様子や、絨毯が敷かれ、暖炉やシャンデリアなどの豪華な調度品が配置された、室内の優雅な雰囲気が見てとれます。

貴賓室入口

正面玄関口。

一階部分から。

正面玄関口

上野駅広小路口。

上野山から


石川啄木の歌碑

上野駅15番ホームには、石川啄木の歌碑がある。

ふるさとの 訛なつかし
 停車場の 人ごみの中に
そを 聴きにゆく
         啄木

「あゝ上野駅」の歌碑

上野広小路口に建立されている碑。建立は2003年。
高度成長期の 1964 (昭和 39) 年に大ヒットした井沢八郎が歌った歌謡曲「あゝ上野駅」に基づく。
C62 23 号機が上野駅 18 番ホームに到着し、集団就職者が下車した情景をレリーフに描く。
「ようこそ東京へ」

あゝ上野駅
  作詞 関口義明
 作曲 荒井英一
  歌  井沢八郎

一、どこかに故郷の 香を乗せて
  入る列車の なつかしさ
  上野はおいらの 心の駅だ
  くじけちゃならない 人生が
  あの日ここから 始まった

二、就職列車に ゆられて着いた
  遠いあの夜を 思い出す
  上野はおいらの 心の駅だ
  配達帰りの 自転車を
  止めて聞いてる 国なまり

三、ホームの時計を 見つめていたら
  母の笑顔に なってきた
  上野はおいらの 心の駅だ
  お店の仕事は 辛いけど
  胸にゃでっかい 夢がある

歌碑の由来
高度成長期の昭和30~40年代、金の卵と呼ばれた若者達が地方から就職列車に乗って上野駅に降り立った。戦後、日本経済大繁栄の原動力となったのがこの集団就職者といっても過言ではない。
親もとを離れ、夢と不安を胸に抱きながら必死に生きていた少年、少女達。彼らを支えた心の応援歌『あゝ上野駅』は、昭和 39年に発表され多くの人々に感動と勇気を与え、以後も綿々と唄い継がれている。
この歌の心を末永く大切にしたいとの思いから、また、東京台東区の地域活性化・都市再生プログラムの一環として、ゆかりの此の地に『あゝ上野駅』の歌碑を設立するものである。
 平成15年(2003年)
 歌碑設立委員会・発起人
 総括責任者 深澤 寿一

歌碑はレールの上に乗っていた。

※撮影は2019年1月及び2020年6月


関連

旧三ノ輪王電ビルディング(王電ビルヂング)

都電荒川線に乗る機会があったので、終点の三ノ輪橋駅(三ノ輪橋電停・三ノ輪橋停留場)まで脚を伸ばしてみた。

三ノ輪橋駅からまっすぐに歩くと、ビルの下、アーチのような通路を抜け「日光街道」に。
今回は、この建物が主役。

ちょっと観察してみましょう。


三ノ輪王電ビルディング
(王電ビルヂング)

都電荒川線の前身である「王子電気軌道」により昭和2年(1927年)に建てられた、 王子電気軌道の本社ビル。
王子電気軌道は、電気事業(電灯電力事業)と軌道事業(路面電車)、路線バス事業を行っていた。「王子電車」「王電」とも故障され、この本社ビルも「王電ビル」と呼ばれていた。
昭和2年当時は高い建物も少なく、この4階建ての王電ビルの存在感は圧倒的であった。

昭和17年(1942年)に王子電気軌道の軌道部門が東京市電気局に引き継がれ会社消滅。「王電ビルヂング」は売却。
軌道部門は「東京市電」となり、そして「都電荒川線」として唯一現存している軌道線となる。
また 「王電ビルヂング」 も現在は「梅沢写真会館」として、戦争をくぐり抜け、往時の姿のまま現存している。

王子電気軌道は会社としては、無くなったが、形を変え、都電荒川線として軌道を残し、そして本社ビルも、当時の姿を今尚伝えている。

現在は、「梅沢写真会館」

そして「三ノ輪橋商店街」の一部。

レトロな昭和の佇まいを残すビルの下。

ビルの先には、三ノ輪橋電停。

梅沢写真会館。

地下鉄の三ノ輪駅はちょっと離れている。

都電荒川線の三ノ輪橋駅。
最近は、「東京さくらトラム」と愛称もつけられた。

昭和、ですね。

たまには、都電荒川線に揺られて、のんびりボーッとするのもありですね。

※撮影は2021年9月


参考

以下のサイトに、戦前の「王電ビル」の写真が掲載されている。

https://smtrc.jp/town-archives/city/senju/p03.html


関連

元祖国民的キャラクター「のらくろ」田河水泡・のらくろ館(江東区森下文化センター)

のらくろ

戦前の少年たちに絶大な人気を誇った漫画があった。
日本漫画界における国民的キャラクターの元祖、でもあった。

田河水泡
 「のらくろ」

日本漫画界の開拓者である、あの手塚治虫も模範としたのが、田河水泡の「のらくろ」であった。

野良犬の黒(野良の黒犬)であった、「のらくろ」(本名・野良犬黒吉、アニメでは、のら山くろ吉、とも)が、猛犬連隊に入隊し、軍隊の中で成長し出世をしていく物語。

昭和6年(1931)に講談社「少年倶楽部」で連載開始。戦前では異例の10年に渡る連載が行われていたが、昭和16年(1941)に戦時下体制での印刷紙の節約として、打ち切りとなった。戦後は潮書房「丸」で連載が行われ、昭和56年(1981)まで田河水泡による連載が続いた。

戦前「少年倶楽部」連載時
野良の黒犬「のらくろ」(野良犬黒吉)が、大日本帝国陸軍をモチーフとした「猛犬聯隊」に入営。はじめは、二等卒(二等兵)であったが、活躍を重ねる。
伍長の際は、師団長より猛犬聯隊の聯隊旗の図案を任され、猛犬士官学校卒業ととに少尉に昇進。聯隊旗手や駐屯守備隊長などを務める。最終的に大尉に昇進し、第五中隊長となる。「大」「日」「本」の3つの勲章を授与されたが、しかし思うところあり、大尉で退役。(戦時下による連載打ち切り)

猛犬聯隊は、山猿・ゴリラ・象・チンパンジー・かっぱ・蛙・熊・豚などと戦いを繰り広げていた。
なかでも、山猿聯隊とは熾烈な戦いをした「犬猿の仲」。

戦後「丸」連載時
のらくろは、予備役として再招集。中隊長として新兵教育などにあたる。山猿軍との決戦の際に、双軍ともに物資不足のために休戦となり、軍隊は解散。のらくろは元の野良犬とsて戦後社会に復員。
のらいぬは最終的に喫茶店のマスターとして自活できるようになり恋人と結婚し子供も生まれ、「もう野良犬ではない」として、物語が完結。

余談だが、「島耕作」が部長から取締役になったとき、編集長が漫画の中で「タイトルが出世していくマンガなんて『のらくろ』以来ですよ」といった、とか。
のらくろは、のらくろ上等兵→のらくろ伍長→のらくろ軍曹 → のらくろ曹長 → のらくろ小隊長 → のらくろ少尉、と、単行本も出世とともにタイトルが出世していた。


田河水泡・のらくろ館

田河水泡・のらくろ館
漫画「のらくろ」の作者・田河水泡の作品や愛用の品々を展示しています
田河水泡(本名:高見澤仲太郎 1899-1989)は、幼少期から青年期までを江東区で過ごした、本区ゆかりの漫画家です。
昭和6年(1931年)、大日本雄辯會講談社(現・講談社)の雑誌「少年倶楽部」に『のらくろ二等卒』を発表、爆発的な人気を博し、昭和初期を代表する漫画家となりました。
漫画「のらくろ」は、身寄りのない野良犬・のらくろが猛犬連隊という犬の軍隊へ入隊し活躍する物語です。最初は二等卒(二等兵)でしたが、徐々に階級を上げ、最終的には大尉まで昇進します。
自分の境遇にもめげず、明るく楽しく元気よく出世していくその姿を、当時のこども達は愛情を込めて応援しました。
平成10年(1998年)、ご遺族から作品や書斎机などの遺品が本区に寄贈されたことから、田河水泡が生涯愛し、その作品にも大きな影響を及ぼした深川の地に、平成11年(1999年)、「田河水泡・のらくろ館」が開館しました。開館時間 9:00~21:00(まん延防止等重点措置中は20:00まで)
休館日 第1・3月曜日(祝日の場合は開館)及び年末年始
観覧料 無料

江東区森下文化センター https://www.kcf.or.jp/morishita/josetsu/norakuro/

高橋商店街「高橋のらくろード」

「のらくろード」として、のらくろとともにある商店街。


田河水泡・のらくろ館パンフレット

一部のパンフレットは以下からダウンロード可能。

https://www.kcf.or.jp/morishita/josetsu/norakuro/pamphlet_jp.pdf

田河水泡・のらくろ館
「のらくろというのは、実は、兄貴、ありゃ、みんな俺の事を書いたものだ」(義兄・小林秀雄との会話のなかで)「文藝春秋」1959(昭和34)年10月号より

 田河水泡(本名:高見澤仲太郎 1899-1989)は、幼少期から青年期までを江東区で過ごした、本区ゆかりの漫画家です。
 昭和6年(1931年)、大日本雄辯會講談社(現・講談社)の雑誌「少年倶楽部」に「のらくろ二等卒」を発表、爆発的な人気を博し、昭和初期を代表する漫画家となりました。
 漫画「のらくろ」は、身寄りのない野良犬・のらくろが猛犬連隊という犬の軍隊に入隊し活躍する物語です。最初は二等卒(二等兵)でしたが、徐々に階級を上げ、最終的には大尉まで昇進します。
 自分の境遇にもめげず、明るく楽しく元気よく出世していくその姿を、当時のこども達は愛情を込めて応援しました。
 平成10年(1998年)、ご遺族から作品や書斎机などの遺品が本区に寄贈されたことから、田河水泡が生涯愛し、その作品にも大きな影響を及ぼした深川の地に、平成11年(1999年)、「田河水泡・のらくろ館」が開館しました。

のらくろ
本名 野良犬黒吉

ぼくは
こうとう文化親善大使
でもあります、
どうぞよろしく。

Q1「のらくろ」は、どのように誕生したの?

こどもたちに夢をあたえ、励ましたい
この思いがのらくろ誕生の大きな力となりました。のらくろが連載され始めた頃は、まだ日本は貧しく、本が貴重な時代でした。こどもたちは、ひとつの雑誌をみんなで回し読みしていました。そんなこどもたちの前に現れたのが、みんなより少しオッチョコチョイで失敗ばかりするけれども、ひるんだり、落ち込むことなく、明るく前向きに生きる「のらくろ二等兵」でした。このアイデアを思いついたのは、当時の「少年倶楽部」変s入朝加藤謙一でしたが、早くから両親を失って、さみしい幼少期を過ごした水泡は、自分の人生経験を一匹の野良犬に託して、これを見事に表現し、日本における子ども漫画の先駆者的存在となりました。
のらくろがブームになると全国の企業が、CMに登場させたいと思うようになりました。現在のように著作権や商標権が確立されていなかったので、業者に勝手に使用されても、作者の水泡は、多目にみていたようです。

Q2「のらくろ」は、どのくらい人気があったの?

これまで出版された「のらくろ」本、制作された「のらくろ」アニメーション映画・テレビ番組を、ご紹介します。とても人気がありました。
・連載 戦前134本 戦後284本
・付録本(戦前のみ・ゲーム含む)11本
・単行本 戦前10巻/戦後19巻
・復刻版 27冊
・文庫本 19冊 ・ 劇場映画(戦前のみ)9本
・テレビ・アニメ放映(戦後のみ)
1970(昭和45)年10月~1975(昭和50)年3月
1987(昭和62)年10月~1988(昭和63)年10月

※ここまで2021年8月撮影


日本酒「のらくろの故郷」

のらくろの作者 田河水泡さんの育った街 深川

発売元
 のらくろに逢える街 高橋のらくろ~ド
 マスヤ酒店
醸造元
 橘倉酒造(長野県佐久市・きつくら・菊秀)

※2018年1月撮影
このときに友人に連れられて「田河水泡・のらくろ館」を訪れたのが、のらくろ館を知ったきっかけでもありました。


東京大空襲と下町(墨田区千歳、立川・江東区森下)

東京都墨田区と江東区。
隅田川の東側。北に両国、南に深川がある、このエリアも、東京大空襲に際しては、大きな被害を被った地区であった。


江島杉山神社

江島杉山神社 は、1693年(元禄6年)に創建。盲目の鍼灸師、杉山和一(杉山検校・鍼の管鍼法の創始者)が、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の病気を治した功により、当地を受領。あわせて、綱吉は、江島弁財天(現・江島神社)への参詣を続ける杉山に配慮し、弁財天(本所一ツ目弁天社)を当地に勧請することを許可したことに始まる。
明治期に「江島神社」に改称し、その後、境内に杉山和一本人を祀る摂末社として「杉山神社」も創建された。1952年(昭和27年)に両社は合祀して「江島杉山神社」に改称。

江島杉山神社の被災イチョウ

境内に、黒く焼けただれたイチョウの御神木がある。
東京大空襲を耐え抜いた、イチョウ。

江島杉山神社の神輿庫

イチョウの隣の古そうな神輿庫。これも東京大空襲を耐え抜いた神輿庫。
昭和8年12月建立。

江島杉山神社の岩屋

岩屋は、元禄6年(1693年)に、徳川綱吉の台命によって杉山検校(杉山和一)によって創建。
安政の大地震、大正の関東大震災では被害なかったが、昭和20年3月10日の関東大震災では、天井の石に亀裂が生じ崩落。昭和39年に鉄筋コンクリートにて改修されている。

江島杉山神社

場所

https://goo.gl/maps/CDvm4L5BopZ4DMocA


弥勒寺

万徳山弥勒寺(真言宗豊山派)。本尊は薬師如来で、「川上薬師」とも呼称。
1610年(慶長15年)創建。

弥勒寺の観音聖像

東京大空襲当時の弥勒寺住職岩堀至道師は、一面の焼け野原の焼死体の中で、母を探し回るうちに、野ざらしの遺体の痛ましさに胸を突かれ、私財を投じて廃墟となっていた弥勒寺境内で一ヶ月半にわたり集まってきた御遺体3,500余体を焼却された、という。
弥勒寺境内の観音聖像は、昭和42年に建立。この下には住職が償却した3500体の遺骨灰が納められている。

合掌を。

観音聖像建立由来記
 父を求め母を尋ね子を探し妻を呼ぶ声よりも凄さまじい火炎と爆撃の中で、1945年(昭和20年)3月10日の朝を迎へました。町は焦土と化し人は黒焦げの死体となって数限りなく広がって居りました。
 戦争は恐ろしい大地震火災よりも怖ろしく、被害はその何層倍にも及びました。1時間に十萬の屍体と言ふ、人間の起こした争いの惨酷さ、而してこれを超克して愛と安らぎを求めるには、大慈悲心にすがり佛の叡智を借りること以外にありません。
 この聖像のもとに三千五百体の遺骨を収納し、永代にお慰めすることは生き永らへた人間の務めでもあり仕事でもありましょう。
 多くの記録、悲惨なエピソードは他の戦災記にゆずり、この下町の一角に所在する聖像を仰ぐとき、之は戦災の最も端的な記念碑でもあり、亦人間の心の基準を示すきびしい御姿でもありましょう。
 茲に戦災殉難の御魂をお慰め申上げ、併せて関東大震災に依り倒れた地元の人々の過去霊に対し、恭々しく合掌し冥福を祈るものであります。
  昭和52年(1977)3月10日丗回忌
   弥勒寺五十六世 岩堀至道 敬白
   弥勒寺奉賛会々長 田中牛造
    平成24年(2012)3月10日  
    株式会社ペルストーン工房 寄贈

昭和廿年三月九日夜間大空襲に依り本所深川は全滅廃墟となり死傷する者亦多く、劫火の中に血縁を求めて呼べども自らも倒れ死屍累々と山となす。終戦と供に平和への悲願をこめて茲に観音像をつくり、遺骨三千余体を安置し歳々年々供養の赤心を捧ぐ。願わくば後人の争うことなく福祉の途を開かれんことを
 昭和四十二年三月十日 弥勒寺住職至道識

弥勒寺の観音聖像

弥勒寺の境内には、杉山和一(杉山検校)の墓もあった。
奇しくも江島杉山神社と弥勒寺と、杉山検校つながり。

場所

https://goo.gl/maps/J9xHJq7dVc3fDrxv9


長慶寺

蟠龍山長慶寺(曹洞宗)。1630年(寛永7年)に開山。

長慶寺の殉国国難死萬霊等碑

東京大空襲に際し、長慶寺は石垣を残して全て焼失したという。焼け跡となった長慶寺でも遺体が集められ仮埋葬されたという。
長慶寺に集められた人々を供養するために7回忌(昭和26年)に石碑が建立された。

場所

https://goo.gl/maps/83dncxAWGCPZ98W98


関連

東京大空襲・慰霊

猿江界隈の戦跡散策(江東区)

猿江恩賜公園。ここもまた戦争の爪痕を残す公園であった。
そんな猿江恩賜公園と猿江界隈を散策してみる。


猿江恩賜公園
(東京大空襲犠牲者仮埋葬地)

昭和7年(1932)、現在の南側が「猿江恩賜公園」として開園。もともとは江戸幕府公認の貯木場、そして明治政府御用達の貯木場であった。
昭和20年3月10日の東京大空襲では、焼死者の仮埋葬地となる。仮埋葬地としての規模は、錦糸公園の1万2895名に次ぐ多さであり、猿江恩賜公園では1万2749名が仮埋葬されたという。
東京都の施設で焼却出る限界を超してしまったために、多数の遺体を放置しておくわけにもいかないということから、軍部は都内各地の公園や空き地、寺院などに「仮埋葬」を行った。犠牲者を仮埋葬したという土地でもあり花見での宴会は禁止されている。ただ、現在、猿江恩賜公園には、そのエピソードを物語る「何か」というものは残っていない。

ちなみに猿江恩師公園の北側は、1972年に猿江貯木場が廃止され、1981年以降の開園となる。


空襲で破損した石碑?(猿江恩賜公園)

真偽は不詳。上部が欠けているのは、空襲による損傷であると言われている。

猿の彫刻?たしかに損傷しているようには、みえる。

猿江恩賜公園
開園の由来を記した石碑。昭和7年の開園時に建立されたものと思われる。

猿江恩賜公園

南側地区。石碑は「現在地」看板から公園に入っていったところにある。

猿江材木蔵跡、もある。

場所

https://goo.gl/maps/8uEDNtXWB3TRMmjR6


猿江恩賜公園から猿江神社に足を伸ばす。
近年は、御朱印で人気を集めている神社。

猿江神社
(国内最古級の鉄筋コンクリート社殿)

創建は、康平年間(1058~1065)という。源義家が前九年の役出征の途中、当地の入り江で家臣の猿藤太が亡くなり、祠を建立したことに始まる。当地は、猿藤太が亡くなった入り江で、猿江と呼称されるようになった。

大正12年(1923)の関東大震災で社殿消失。昭和6年(1931)に社殿を再建した際に宮内省設計技官によって鉄筋コンクリート造の社殿が建立。東京大空襲では深川が灰燼に帰すなかで、奇跡的に難を逃れ、錦糸町の駅からでも焼け野原に残る社殿を望むことができたという。

社号標は昭和4年建立

国内最古級の鉄筋コンクリート造社殿

大東亜建設一億一心滋
祈願威神力四民唯念之

昭和17念8月建立の旗立台

石灯籠は昭和6年9月吉日、建立。

裏参道の石灯籠も昭和6年9月建立。
揮毫は、海軍中将子爵小笠原長生

場所

https://goo.gl/maps/YibnxzESUHeSCFBT6


重願寺

浄土宗寺院。不虚山当知院重願寺。
戦国末期から江戸初期に開山されたという。

みまもり観音(みまもり観世音)

昭和56年(1981)、重願寺に建立された観世音菩薩像。関東大震災や東京大空襲の犠牲者の冥福を祈るために建立。
薬師寺東院堂の国宝「銅像観音菩薩立像」を模写し2.2倍の大きさとしている。

合掌し頭を垂れる

殉難慰霊平和祈願
みまもり観音
造立由来

みまもり観世音は東京大空襲による戦災や関東大震災などの災害で殉難された方々のご冥福を祈り戦争や天災のもたらす悲惨さと平和の尊さを後世に伝えるため当山檀信徒をはじめ、猿江地区6ヶ町有志の方々等1万数千巻に及ぶお写経の勧進によって造立されました。(昭和56年9月1日除幕開眼)
観音像足下の地下収納庫には5千人に及ぶ人々のご納経がカプセルに保護されて収められています。
みまもり観音と云う名称は殉難された多くの方々に対する心からなる慰霊の念をこめて観音さまに、亡き人々を『みまももり給え』と願い、また限りない観音さまの大慈悲をもって、いま生きる私達を『日々にみまもり給え』と祈念して名づけられました。
 戦災(ひ)に消えし 亡き人々よ 安かれと
 祈りて 今朝(けさ)も 経の字を写す 
                 主水

南無みまもり観音

場所

https://goo.gl/maps/iSoZH3AhxDeE1oay9


場所は猿江から亀戸にかわるが、参拝記録として掲載。

自性院

慶長2年(1597)開山。通称は役者寺。

戦災地蔵尊・大慈悲観音

東京大空襲の亀戸6丁目界隈の犠牲者を祀る。1262遺体が当寺院に仮埋葬されたという。
昭和23年に住職が地蔵尊を建立。
地蔵尊が風化してきたために、平成6年(1994年)に「大慈悲観音」を建立。
大慈悲観音の下には、身元不明者の遺骨が今も葬られているという。

合掌

戦災祈念尊
昭和23年3月10日

場所

https://goo.gl/maps/kVE76NE7HpHJMDVb9


関連

東京大空襲・慰霊

東京大空襲を耐えた「元江戸川区役所文書庫」


東京東部、江戸川と荒川に挟まれた河口部に「江戸川区」がある。
そんな江戸川区の中でも、いちばんの西部寄り=江東区・墨田区寄り・旧中川の近くの平井・小松川地区もまた、東京大空襲の被害甚大であった。
そんな江戸川区の小松川に、東京大空襲を耐え抜いた建物が残されている。

大正13年(1924)に南葛飾郡役所倉庫として建設され、その後江戸川区役所文書庫として活用されてきた建物。


江戸川区役所旧文書庫

江戸川区役所旧文書庫
 小松川さくらホールと小松川さくら公園一帯は、明治11年(1878)に成立した南葛飾郡の役所があったところです。昭和7年(1932)に東京市と周辺5郡が合併して東京35区が誕生しました。このとき、郡役所の庁舎が江戸川区役所になりました。
 現在小松川さくら公園に残る鉄筋の2階建ての建物は、大正13年(1924)に郡役所の倉庫として建てられました。当時は珍しい中村式のコンクリートブロック建築でした。江戸川区役所となってからは、行政文書を収める文書庫でした。
 昭和20年(1945)3月、小松川地区は大きな空襲に襲われました。区役所は火炎に包まれ、全焼しています。その最中、文書庫に納められた戸籍簿などを守るために、2名の当直職員が20個の麻袋に詰められた重要書類を炎の中から運び出し、庁舎脇の用水路に沈めて守りました。
 区役所は被災後しばらく第七高等女学校(小松川高校)校舎で業務をおこない、昭和23年(1948)に現在地(中央1丁目)に新築移転しています。郡役所跡地を江戸川区が購入し、保健相談所を建設するとき、建物の陰に隠れ残っていた文書庫も保存されることになりました。
 平成元年(1989)に文書庫の補修工事がおこなわれました。平成3年(1991)「世代を結ぶ平和の像」が制作され、平成7年にここに設置されました。毎年開催している東京大空襲の犠牲者追悼の集会にあわせて区民の寄贈品を集めた戦争資料展も開催してきました。
 江戸川区は平成7年に平和都市宣言をし、犠牲者の追悼、平和教育の推進などさまざまな平和への取り組みをおこなっております。平成30年3月、東京大空襲の被災地であるこの小松川に、常設の江戸川区平和祈念展示室を設置しました。戦争の悲惨さを語り伝え、恒久の平和こそ人類の大きな責務であることを心に刻みたいと念じております。
 平成30年3月 江戸川区

平和の尊さを語り継ぐ
 元江戸川区役所文書庫

 昭和20年3月10日未明の東京大空襲で下町一帯は火の海と化し、江戸川区内でも死者800名、焼失家屋11000戸の被害を蒙りました。
 この辺りも、すべての家屋が焼失し、ただこの江戸川区役所文書庫だけが焼けただれた姿で残りました。
 区では、戦争の傷痕を止めるこの文書庫を貴重な歴史的遺産として保存し、戦争の惨禍を再び繰り返さぬよ次の世代に語り継ぐことにしました。
 江戸川区

内部は非公開。焼け焦げた内部壁面は江戸川区のサイトに掲載がある。

江戸川区役所旧文書庫について
https://www.city.edogawa.tokyo.jp/e009/kuseijoho/gaiyo/shisetsuguide/bunya/bunkachiiki/heiwatenji/bunshoko.html

場所

https://goo.gl/maps/6tdRz7ppp8zZov889


東京大空襲江戸川区犠牲者追悼
世代を結ぶ平和の像

江戸川区役所旧文書庫のある「小松川さくら公園」内に。

東京大空襲江戸川区犠牲者追悼
 世代を結ぶ平和の像
 昭和20年3月10日の東京大空襲により、下町は炎の海と化し、10万人が亡くなり、100万人が家を失いました。
 江戸川区でも、平井・小松川地区がほぼ全滅、800余名の人びとが尊い命を失い、当時小松川後にあった区役所も焼失し、その中で文書庫だけが焼け残りました。
 江戸川区は、戦争の悲惨さと秘話の尊さを語り継ぐ、貴重な歴史的建造物として、文書庫を保存することにしました。
 この母子像は、文書庫の保存を記念して、戦争の過ちを再びくり返さない誓いを込めて、東京大空襲で理不尽にも尊い命を落とされた犠牲者を追悼し、平和の尊さを世代を超えて語り継ぐために、1万数千余の方々の浄財をもとに、戦災を体験された文化勲章受章彫刻家圓鍔 勝三先生に制作を委嘱し、平成3年3月10日に「世代を結ぶ平和の像」をつくる会より、江戸川区に寄贈されたものです。

煉瓦の基礎が残されている。これも東京大空襲で焼失した名残という。


江戸川区小松川さくらホール
江戸川区平和祈念展示室

隣の小松川さくらホールには、「江戸川区平和祈念展示室」が開設されている。

江戸川区平和祈念展示室

 昭和20年3月10日未明の大空襲で、一夜にして都内では推定10万人、区内でも約800人の尊い命が失われました。心からご冥福をお祈りいたします。
 私たちは、この日を忘れることなく、平和への想いを新たに、今後も戦争の悲惨さと平和の大切さを次の世代に伝えていかなければなりません。
 これまで東京大空襲江戸川区犠牲者追悼「世代を結ぶ平和の像の会」の皆様が中心となって追悼の集いを催してまいりました。このたび戦争の悲惨な経験を風化させず、平和への思いをさらに確かなものとすることを祈念して、ここに常設の平和祈念展示室を設けました。区民ひとりひとりが平和を希求し、実現し、永続させるよりどころとなることを確認しております。
 平成30年3月 江戸川区長 多田正見

M69焼夷弾

M69焼夷弾
 アメリカ軍が木造住宅の密集した市街地を焼き払うために開発した爆弾です。東京大空襲では、密着性のある油脂(ナパーム)を詰めた、貫徹力の強い合金製の焼夷弾38本を束にした「M69収束焼夷弾」が用いられています。投下の数秒後に、油脂を詰めた焼夷弾単体がばらばらになって落下しました。油脂が燃えつきると、筒だけが残りました。

昭和20年3月10日

1945年3月10日 東京大空襲
 太平洋戦争末期の1944年6月、アメリカ軍の戦略爆撃機B29が北九州の工業地帯を初空襲しました。同年8月にマリアナ諸島を攻略したアメリカ軍は、B29の基地を建設して、日本本土を爆撃範囲としました。B29による東京初空襲は1944年11月で、区内でも初めて空襲による死者がでました。
 当初は主に航空機工場などの軍需施設を目標として精密爆撃でしたが、1945年3月10日の東京の下町を焦土と化す大規模な都市無差別爆撃がおこなわれ、江戸川区の小松川・平井一帯も、一夜にして焼きつくされました。

東京大空襲
 1945年(昭和20年)3月10日、東京にアメリカ軍のB29爆撃機による大規模な空襲があり、一夜で10万人ともいわれる命が失われました。江戸川区でも、小松川・平井地区がほぼ焼失し、800人を超える方々が亡くなりました。
 空襲はその後も続き、東京では8月15日までにさらに数万人が犠牲となりました。

小松川文書庫の保存
 1945(昭和20)年3月10日の空襲でここにあった当時の江戸川区役所が全焼しました。奇跡的に焼け残った文書庫を、戦争の悲惨さを伝える建造物として残すために補修をほどこし、1989年(平成元)3月9日に公開されました。

江戸川区役所旧文書庫と小松川さくら公園
 小松川さくらホールと小松川さくら公園一帯は、明治11年(1878)に成立した南葛飾郡の郡役所があったところです。昭和7年(1932)に東京市と周辺5郡が合併して東京35区が誕生したとき、郡役所の庁舎が江戸川区役所になりました。
 公園の「世代を結ぶ平和の像」の後ろに残る建物は、1924年(大正13年)に郡役所の倉庫として建てられました。区役所となってからは、行政文書を収める文書庫でした。大空襲で区役所は火災に包まれ、全焼。その最中、文書庫に納められた戸籍簿などを守るために、2名の当直職員が20個の麻袋に詰められた重要書類を炎の中から運び出し、庁舎前の水路に沈めて守りました。空襲の記憶をとどめ、後世に伝える建造物として大切に保存しています。

旧中川東京大空襲犠牲者慰霊碑
 東京大空襲により旧中川で犠牲になった方を慰霊する碑です。2001(平成13)年8月15日の第3回「灯篭流し」で、ふれあい橋車詰に慰霊碑「鎮魂」を建立しました。揮毫は平井在住の鈴木春朝氏です。


旧中川東京大空襲犠牲者慰霊碑

小松川さくら公園から、旧中川を北上していくと、ふれあい橋が見えてくる。その端の両端に、江戸川区と江東区の慰霊碑がそれぞれ建立されている。

鎮魂
甦った川に灯籠を流す

慰霊碑のいわれ
 昭和20年3月10日の東京大空襲の折り、江戸川区平井と、江東区、墨田区に挟まれた、川巾60米程の旧中川には猛火に追われて二千八百余名に及ぶ犠牲者が出ました。この真実を後世に語り継ぎ風化させないため毎年8月15日の終戦記念日に、亀戸地区の有志と語らってこの地区で戦火に倒れた方々、併せてこの戦争で犠牲になられた全ての犠牲者の慰霊と、住民の皆様のご先祖の霊を慰めるとともに今後地域の一層の発展を願って灯籠流しを挙行しております。
 下町火戦の環境整備が進み、旧中川は甦りました。江東区側にはすでに「水彩都市」と刻まれた立派な碑が建てられているので私達有志の間から江戸川区側には、戦没者慰霊碑建設との声が湧きあがり、多くの篤志の方々の浄財によって「鎮魂」の碑が建立されました。
  平成13年8月15日 建立
   旧中川東京大空襲犠牲者慰霊「灯籠流し」を行う会

ふれあい橋の江東区側にも慰霊碑がある。

平和の祈り
 昭和20年(1945年)3月9日夜半から10日未明にかけての東京大空襲の際、米国のB29爆撃機から投下された数百発の焼夷弾により、10万人の犠牲者が出たと言われています。
 又、当日の強風に煽られて下町一帯が焼け野原となり熱風に耐えかねた人々が、旧中川に次々と飛び込み3000人余りの命が失われたと記録されています。
 年々、当時を体験した人が少なくなる中、悲惨な戦争体験を次世代に語り継ぎ、太平洋戦争での犠牲者の鎮魂と永久なる平和を末永く忘れることのないように、この「平和の祈り」の記念碑を建立しました。
 平成12年12月建立(2001年2月C.N30周年)
 平成23年 4月修復 (2011年2月C.N40周年)
 東京城東ライオンズクラブ

東京大空襲に際して、火災から逃れるために多くの人々が旧中川に飛び込み、そして亡くなったという。

場所

https://goo.gl/maps/ETmVDwr3Nv6qmdvA8


関連

東京大空襲・慰霊

陸軍糧秣廠本所倉庫跡と千種稲荷神社(錦糸公園)

錦糸町駅前の「錦糸公園」は、かつて陸軍の倉庫であり、空襲犠牲者の仮埋葬地であった。

錦糸公園

墨田区立錦糸公園は、大正12年(1923年)に発生した関東大震災で壊滅的な被害を受けた東京復興事業の一環として、隅田公園・浜町公園と並んで計画された公園であった。
当地は、帝国陸軍の糧秣廠本所倉庫であったが、大正14年に出張所として流山に倉庫が設けられて移転し、公園として再整備が行われ、昭和3年(1928)7月に開園。
太平洋戦争中は、空襲からの避難所としての役割や戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用された。1945年3月10日の東京大空襲においては、1万2895の遺体が錦糸公園に仮埋葬された。
仮埋葬された遺体は戦後に掘り起こされて改装されている。
現在、錦糸公園には仮埋葬などを物語る戦跡などは特に残っていない。


千種稲荷神社

郷土の守護神としてこの地に鎮座してきた稲荷様。
陸軍糧秣廠本所倉庫の建設に際し、陸軍省は稲荷社を撤去。その後、倉庫周辺で火災が頻発したことから対策に苦慮し、取り払った稲荷社を元に戻したところ、火災は収まったという。
その後に、関東大震災で東京大空襲でも稲荷社周辺は無傷であった。

千種稲荷神社由来記
千種稲荷神社は、江戸時代此の地が湿地帯であり荒廃のままになっていたが、寛文から延宝の二十年間(徳川四代将軍家綱)の長きにわたり治水を目的として土木工事が行われ、更に其の後此の地を武家の下屋敷の敷地として、整地を行いなお商家の営業も地域内に許可され、加えて横十間川が当時舟運の盛んな処であった関係で、武家屋敷が横十間川をはさんで両側に軒を連ねていたと云う頃より、此の柳島村の守護神として祭られていたものと伝えられて居ります。その後、徳川幕府は明治政府に替り、従来の武家制度は廃止され武家屋敷も解体されて、農耕地に変わり其の武家下屋敷解体の際にも、此の稲荷社は保護されて郷土の守護神として残されました。

その後、政府は陸軍糧秣廠本所倉庫を此の地に建設しその敷地内に此の稲荷社があり、陸軍省は敷地整理に際し、この稲荷社を取り払いし処、その後倉庫並びに周辺に再三火災が発生し、陸軍省も面目問題として苦慮を重ね、後になり敷地内より取り払ったままになっていた稲荷社に気付き、旧位置に再建して祀りし処、不思議にもその後火災等は全くなくなりました。大正十二年の震災には此の地一帯は、灰燼に化したが稲荷社には少しの被害を受けませんでした。昭和三年七月十八日、復興局の手により創設された錦糸公園も開園となり、同じ頃神田より製菓業者が公園周辺に集団移転し、営業を開始した処早々より町内に火災多発して、町民が不安に苦しんでいた処、或る時静岡県より来られた行者さんが、昔より此の地に祀られてあった守護神が公園建設の際園内の何れかに放置されたままに成っているとの言葉に、町内有志により探し出し、公園課の了解を得て稲荷社を旧位置に祀りし処、其の後火災も無くなり、又商売繁盛、災厄消除等諸々の願いも成就するとて多くの信者が参拝致す様になりました。昭和二十年三月十日の空襲にも此の稲荷社は少しの被害もなく多くの人が境内に避難し戦火を免れました。昭和二十九年千種講世話人相計り、戦後荒廃した稲荷社の整備計画が建てられ、その年より玉垣、鳥居、参道、水屋、石燈籠、本殿の増改築等遂年に渉り工事を重ね、境内の整備を完了した次第です。昭和三十年五月十八日付けを以って右建物一切を東京都の申し出により、都に寄贈致し保存と管理を千種講が委任されました。その後昭和四十年四月から墨田区の公園になりました。
昭和五十年、千種講より春秋二回にわたり吉野桜を区の公園課に寄贈し、よりよい桜の公園として其の景観の向上を願っている次第であります。
 (趣文 真宗末一・千種稲荷由来記より)

錦糸公園内に鎮座する千種稲荷社の御由緒が、往時をわずかに物語っている。

錦糸公園


関連

東京大空襲・慰霊

「帝都の門・永代橋」と「震災復興の華・清洲橋」

隅田川の下流にかかる2つの橋。「永代橋」と「清洲橋」。
関東大震災で壊滅した下町復興のために架橋された、2つのシンボルブリッジであった。

永代橋は筋骨隆々とした男性的なイメージで、優雅な下垂曲線を描く清洲橋は女性的なイメージでデザインされたという対となる橋であった。


永代橋

隅田川の最下流に架かる「帝都の門」として大正15年12月20日竣工。
現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100 mを超えた橋。

2000年(平成12年)に清洲橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定。
2007年(平成19年)6月18日、永代橋は都道府県の道路橋として初めて同じ隅田川に架かる勝鬨橋・清洲橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定。

永代橋に用いられた重厚な鋼材は、もともと軍艦用の高級鋼材であった。
ワシントン軍縮会議によって戦艦の保有数に制限が生じ戦艦建造中止となったため、もともと戦艦用に確保していた鋼材を、永代橋に流用したものであるという。

なお、東京大空襲の焼夷弾の弾痕とされる「へこみ」もある。

土木学会選奨土木遺産
JSCE
2000
帝都を飾るツイン・ゲイト(永代橋)

 「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合言葉でした。帝都を代表する隅田川の入り口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。
 これに加えて土木学会では、次のような理由から永代橋と清洲橋をワンセットにして、第一回選奨土木遺産に選定しました。
●二つの橋は、近代橋梁技術の粋をあつめてつくられた震災復興橋梁群の中心的存在である。
●永代橋は、わが国ではじめてスパン100mをこえた橋であり、しかも現存最古のタイド・アーチ橋である。

場所

https://goo.gl/maps/b2S39EbzLZVzEf3T8


豊海橋

永代橋から左岸を北上するとすぐに日本橋川と隅田川の合流地点と日本橋川に架かる豊海橋がある。せっかくなので立ち寄り。

日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋。日本橋川最下流の橋。
1927年(昭和2年)に震災復興橋として架設。

豊海橋
 日本橋川の河口に架かるこの橋は、元禄11年(1698)に初めて架けられ、その後何回となく架け替えられ現在に至っています。
 現在の橋は、震災復興事業により、昭和2年に復興局が架設したもので、形式名はフィーレンデール橋といいます。この名は考案者のフィーレンデールの名をとったものです。
 梯子を横にしたようなこの形は、名橋永代橋との均衡を保つようにデザインされたもので、我が国では本橋以外に数例しかなく、希少価値の高い橋です。

「豊海橋鉄骨の間より斜に永代橋と佐賀町辺の燈下を見渡す景色、今宵は名月の光を得て白昼に見るよりも稍画趣あり。満々たる暮潮は月光をあびてきらきら輝き、橋下の石垣または繋がれたる運送船の舷を打つ水の音亦趣あり。」
 (永井荷風 断腸亭日乗 より)

橋梁の諸元
形式   フィーレンデール橋
橋長   46.13m
有効幅員 8.00m
着工   大正15年5月
竣工   昭和2年9月
施工者  復興局
 
平成3年3月 東京都中央区

日本橋川
日本橋川は、慶長5年(1600)関が原の合戦後に切り開かれ、江戸城の大手口と隅田川をほぼ一直線に結ぶ運河として主要な役割を果たした川筋で、江戸の繁栄と共に生きてきた河川です。

中央区民有形文化財
豊海橋
所在地 中央区新川一丁目 日本橋箱崎町 (日本橋川)

 現在の豊海橋は、大正15年(1926年)5月起工、昭和2年(1927年)9月竣工。
 日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋梁です。橋の歴史は古く、江戸時代中期には豊海橋(別名「乙女橋」)がありました。この辺りは新堀河岸と呼ばれ、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸上げする所で、川に沿って白壁の酒倉が並んでいました。
 明治期に豊海橋は鉄橋になり、大正12年(1923年)の関東大震災で落橋してしまいました。復興局は新規に設計を土木部の田中豊に依頼、実際の設計図は若手の福田武雄が担当。隅田川支流の河口部の第一橋梁はデザインを一つ一つ変えて区別しやすく工夫していました。それは隅田川から帰港する船頭に対する配慮でした。
 福田武雄はドイツ人フィーレンデールの案出した橋梁デザインを採用し、梯子を横倒しにした様な外観で重量感ある豊海橋を完成しました。この様式は日本では数ヵ所あるのみで近代の土木遺産としても貴重な橋で、区民有形文化財に登録されています。
 平成14年3月 中央区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/Tqkm1gwHuXdNixneA

ちなみに、豊海橋の近くには、「日本銀行創業の地」があった。


清洲橋

関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。昭和3年3月竣工。
「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になる設計で、清洲橋は「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザイン。

2000年(平成12年)に永代橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定。
2007年(平成19年)6月18日に、都道府県の道路橋として初めて勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定。

日本国重要文化財
清洲橋
諸元 橋長 186.2メートル
   幅員 25.9メートル
   上部工 銅製3径間補剛吊橋
所有者 東京都
指定年月 平成19年(2007)6月18日指定(建第2500号)

指定の意義
 清洲橋は、関東大震災復興事業によって建造され昭和3年(1928)3月に竣功した。
 清洲橋の特筆すべき点として、上部構造は日本国内では珍しい橋端部に水平力の及ばない自碇式連続補剛吊橋で塔柱から吊るされた吊鎖を橋端部において主桁と連結し、主桁は左右の橋桁を繋ぐ構造である。放物線状の優美な外観の吊鎖は、高張力マンガン鋼のデュコール鋼を吊鎖に用いるなど、洗練された造形によって、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁である。
 下部構造は鉄筋コンクリート造で固定式空気潜函工法を用いた橋脚と、締切工法による橋台二基からなる。
 建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は、内務省復興局土木部長太田圓三及び同技師田中豊の指導のもと、同技師鈴木清一らである。

清洲橋
 清洲の名は深川の清澄町と日本橋中洲町を結ぶ橋であることに由来し、橋の開設にあたって公募されたものである。
 深川の清澄町はわが国セメント工場の発祥の地であり、庭園でも知られ、また芭蕉庵跡にも近い。 日本橋中洲町は明和8(1771)年に埋立てを開始して隅田川畔の繁栄の一翼を担った。 その後、中洲埋立地は取り壊され、元の水浸地になるなど複雑な歴史を持つが、明治19(1886)年に再び埋立てられ、 新しい土地として生まれ変わった。 この二つの町を”中洲の渡し”が結んできたが、大震災後の復興事業でドイツのケルンの大吊橋を範として女性的な曲線美をもつ 吊橋を架けることになり、昭和3(1928)年この橋は完成した。 第二次世界大戦でケルンの橋は爆破されてなくなったが、清洲橋は東京大空襲の中でも多くの被爆者を救って 幹線道路の橋としての役割を果たしてきている。
 昭和58年3月 東京都

清洲橋の照明灯具
 この灯具は、清洲橋が建設された昭和3年から昭和60年代まで、橋の吊材に設置されていました。
 現在の灯具は、建設当時の図面を参考に制作し、材質は当時のブロンズ(青銅)から、軽量で強度のあるアルミニウム合金としました。
 また、ランプは省エネルギー効果の高いLEDを採用しました。
 平成30年3月 東京都

土木学会選奨土木遺産
JSCE
2000
帝都を飾るツイン・ゲイト(清洲橋)

 「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合言葉でした。帝都を代表する隅田川の入り口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。
 これに加えて土木学会では、次のような理由から永代橋と清洲橋をワンセットにして、第一回選奨土木遺産に選定しました。
●二つの橋は、近代橋梁技術の粋をあつめてつくられた震災復興橋梁群の中心的存在である。
●清洲橋は、美しさを追求した特殊な吊橋である。

場所

https://goo.gl/maps/m57AzNfkLyprHHjM9

ちなみに清洲橋の近くにはアサノコンクリート深川工場がある。


陸奥宗光宅跡

清洲橋のたもとに陸奥宗光邸宅跡があった。

江東区登録史跡
陸奥宗光宅跡 清澄1-5付近
 陸奥宗光 は、明治時代の外交官・政治家で、弘化元年(1844)、和歌山藩士伊達宗弘(千広)の第六子として生まれ、明治三十年(1897)、西ヶ原(北区)の自邸で逝去しました。
 父宗広は藩の要職にありましたが、政争により失脚、宗光は一五歳で江戸へでました。文久二年(1862)に脱藩し、京都で尊王攘夷 運動に加わり、のち坂本龍馬 の海援隊 に参加しました。このころより陸奥の姓を用いるようになりました。
 明治維新後は、外国事務局御用掛、神奈川県知事、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任しました。明治一〇年(1877)、西南戦争 に呼応した土佐立志社内の挙兵派の政府転覆計画に加担したとして、翌一一年に免官、五年間投獄されました。出獄後は外務省に入り、明治二三年(1890)、第一回衆議院選挙で当選、第二次伊藤内閣の外務大臣として日英通商航海条約締結を実現、日清戦争(1894~95)の開戦と講和に関わりました。
 宗光が深川清住町(現清澄)に在住したのは明治五年(1872)から同一〇年(1877)までの間で、大蔵省で地租改正事業に手腕をふるい、また薩長藩閥勢力による政権の独占を批判した論文「日本人」を書き上げた時期にあたります。この邸宅は、墨田川に面して眺望がよく「三汊水碧楼」と呼ばれていました。
 平成22年7月 江東区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/1TepzPT5qwkGNFy37

旧・陸奥宗光邸

明治維新百年記念碑

清洲橋のたもとに建立。
この記念碑は明治100年を記念して、昭和43年11月3日に清澄1丁目町会によって建立。

明治維新百年記念
明治天皇御製
いかならむ 時にあふとも 
 人はみな
誠の道を 
 ふめとをしへよ
 明治神宮権野宮司 伊達巽謹書

場所

https://goo.gl/maps/DctJaUQhy81zRX5k6


震災復興の鉄橋として架けられ、そして戦災をくぐり抜けた橋が都内には意外と多い。
これからもそんな橋を気の向くままに掲載していきたいと思う。

※本記事は総て2021年3月撮影

  


関連

東京都港湾局専用線の廃線跡(晴海・豊洲)

戦後に敷設され、昭和を支えるも、昭和の幕引きとともに全廃となった貨物線。
時代区分としては、近代から現代の間ではあるが、産業遺産として、以下に記録しておく。


東京都港湾局専用線「深川線」「晴海線」

豊洲地区・東雲地区は大正12年(1923)に発生した関東大震災の瓦礫処理で埋め立てられたことにはじまる。
昭和12年(1937)に豊かな埋立地となることをねがい「豊洲」と命名。

晴海地区は明治中期から昭和初期にかけて東京湾澪浚工事で発生した海底の土砂を投下した埋立地。
昭和4年(1929)月島4号地(東京湾埋立4号地)として埋立が完了。昭和12年に「晴海」と命名。
昭和15年(1940)に開催予定だった東京オリンピックと同時開催予定だった紀元2600年記念日本万国博覧会の開催地として整備されるも日中戦争(当時の呼称は支那事変)のため中止される。

東京湾の中心であった芝浦埠頭は、戦中は陸軍が軍需用に利用していた。そして戦後は、芝浦や晴海が進駐軍により接収。
芝浦埠頭に変わる港として、戦争前より建設が進んでいた豊洲埠頭の工事が昭和24年(1949)より急ピッチで再開され、昭和25年に豊洲埠頭の運用が開始。昭和28年(1953)に越中島駅から豊洲埠頭まで2590mの「深川線」が開業。越中島までの貨物駅は国鉄の運用。越中島から南は東京都の専用線であった。
晴海地区の米軍接収が解除されると晴海埠頭まで専用線は延伸され、昭和32年に「晴海線」が開業。
東京港の臨海鉄道は、再開発により順次廃止され、昭和61年(1986)1月13日に「深川線」が廃線。平成元年(1989)2月10日に、東京都港湾局専用線として最後まで残っていた「晴海線」も廃線となり、全廃。


晴海橋梁・春海鉄道橋
東京都港湾局専用線(晴海線)

昭和32年(1957)11月26日、完成。
国内初の下路式ローゼ桁の鉄道橋という。
晴海運河に架かる東京都港湾局専用線(晴海線)橋梁。
晴海線は平成元年(1989)2月10日に廃止となったが、撤去を免れ、当時の遺構として現存。
今後は人道橋や公園などの活用が検討されているが、老朽化の修繕が必要であり、未定。

並行する「春海橋」から観察が可能。晴海橋梁そのものは立入禁止。

晴海橋梁
設計 日本国有鉄道東京工事局
施行 オリエンタルコンクリートKK
竣工 昭和32年11月26日

橋桁製作は石川島重工業。
当所は国鉄による運行がされていたが、昭和33年以降は東京都に移管。

東京都立春海橋公園

晴海と春海の使い分けがわかりません。

立入禁止、です。

水上バス「ヒミコ」が通過。ヒミコは松本零士デザインで2004年就航。

場所

https://goo.gl/maps/7wBx5H87rMMqrqnX7


晴海から春海橋を渡って豊洲へ。
廃線跡を活用した遊歩道がところどころに展開されている。
レールが埋め込まれていたり、線路を模していたり、している。


豊洲橋梁跡・橋脚

豊洲運河を渡る深川線「豊洲橋梁」の橋跡のみが残されている。平成12年(2000)に撤去。

場所

https://goo.gl/maps/GeGuBxKbsfaGntSE7


塩浜

廃線跡が駐車場となっている。

越中島の方に向かうと、線路跡が残された空間がある。

場所

https://goo.gl/maps/Mc8ky1vtxSK2fsbP8

取り残された空間がある。

場所

https://goo.gl/maps/cd7a6b23dr8EoSdo6

都有地

越中島側

越中島貨物駅から伸びている線路はここでおしまい。

東京都港湾局専用線跡の方向

上記の写真の逆側、この先は、越中島貨物駅につながる。

再開発に取り残された空間が点在している廃線跡。
東京23区内で気楽に楽しめる廃線跡散策、でした。

※撮影は2020年10月

「哀しみの東京大空襲」と「時忘れじの塔」

上野には、2つの東京大空襲関連の慰霊碑がある。
その2つともに、海老名 香葉子 氏(落語家初代林家三平の妻・作家)が携わっていた。

2005年、海老名 香葉子 氏 は私財と寄付でもって上野に、東京大空襲の慰霊碑「哀しみの東京大空襲」「時忘れじの塔」を建立している。


哀しみの東京大空襲

慰霊碑 哀しみの東京大空襲

慰霊碑 哀しみの東京大空襲
何の罪もない多くの人々が、
戦時体制の下で悲惨な最期を
遂げられたことを心から悼み、
あらためてそのご冥福をお祈り
すると共に、再びこうした悲劇が
繰り返されないことを願って、
この慰霊碑を建立する。
 平成十七年(二〇〇五)年三月十日

哀しみの心をいつまでも
 今年は昭和二十(一九四五)年の第二次世界大戦の終結からちょうど六十年、あの本所、深川を中心とした三月十日の「東京大空襲」も、次第に人々の記憶から薄れていこうとしています。
 この年は、元旦早々B29が飛来して、浅草付近を空襲したのに始まり、一月だけでも百機を越える来襲があり、五百発もの爆弾と二千五百発もの焼夷弾が投下され、何の罪もない千五百余人の一般市民が死傷されました。
 その後も東京は、実に数十回にも及ぶ空襲を受け、中でも三月九日の夜半から十日にかけての空襲は言葉に絶する程凄まじいものでした。
 房総半島を経て飛来したB29 は、十日の午前零時八分から一斉に
下町を襲いました。
 この日来襲したB29は三百二十五機といわれ、実に千七百トンもの
高性能焼夷弾を投下したのです。
 人々は隅田川や上野公園を目指して必死に逃げましたが、このたっ
た二時間の間に、実に十万人以上もの方が犠牲になられたのです。
 それは今想いだしても、本当の地獄図といえる程、悲惨な光景でした。
 そして、翌日からこの上野の山には焦土と化した下町から夥しい
数のご遺体が運ばれて来ました。この慰霊碑の付近の道端にも、米俵
や筵を掛けられたご遺体が並べられたのです。
 やがて、大八車やリヤカーを引いて、ご遺体を引き取りにみえる方
もありましたが、多くのご遺体は身元不明のままでした。
 そうしたご遺体は、この近くに巨大な穴を掘って、そこに仮埋葬され二年後に改めて掘り起こされ、荼毘に付されたうえ、本所横網町の
震災記念堂にお祀りされました。
 無論、こうした東京への空襲はその後も続きました。なかでも、こ
の上野の山とその周辺が罹災した五月二十四日、二十五日の空襲は、
凄まじいものでした。
 今、終戦から六十年の歳月が経ち、こうした生々しい記憶が次第に
薄れていきつつある時、下町の焦土化を見守り、そこでの無辜の犠牲者を暖かく迎えたこの上野の山に、私たちは心からの慰霊碑を建て、
東京全域に亘る悲惨な犠牲者の霊を弔い、これからの日本を支えていく若い人々に、この「哀しみの心」を伝えていきたいと希っているのです。
 平成十七(二〇〇五)年三月十日
  海老名香葉子
  建立有志一同

場所
現龍院墓地の前、寛永寺が土地を提供している。

https://goo.gl/maps/QepVyD9k6WmH8wu5A


時忘れじの塔

東京大空襲の犠牲者を悼む慰霊碑。
初代林家三平夫人の海老名香葉子さんらにより平成17年3月9日建立。

時忘れじの塔
関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年)
  東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の目印として、この時計台を寄贈しました。
 建立、寄贈 初代林家三平妻 海老名香葉子
 建立有志一同

場所
都立上野公園。
都立公園内に一般寄贈の碑が建立された珍しい例でもある。

https://goo.gl/maps/mxgdrSDJ2fXUUwp3A

※2つとも2021年3月11日撮影(3月10日の翌日)


東京大空襲関連

東京大空襲・慰霊

上野公園関連

3月10日(東京大空襲から76年)

令和3年(2021)3月10日で76年目。

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。
犠牲者10万人を超す規模であり、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
世にいう、東京大空襲(下町大空襲)であった。

「東京都平和の日」

慰霊鎮魂を。

東京都慰霊堂

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、遭難者慰霊大法要が執り行なわれている。

震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
 顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった、与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。
 爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った、戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった、江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千人を失った、当時殉難者は公園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが昭和二十三年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
 横網公園敷地は約六、〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
 昭和二十六年九月 東京都

新型コロナの影響で規模が縮小。法要の参列者は限定され、法要終了後に一般参列者が祭壇で追悼可能となりました。


東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」の中には、「東京空襲犠牲者名簿」が納められている。
大法要が行われる3月10日と9月1日に内部公開。

こちらも手を合わせてきました。

東京空襲犠牲者名簿

現在は、35巻まで納められており、令和2年(2020年)3月現在、81,273名のお名前が登載されている。


リンク

公益財団法人 東京都慰霊協会 都立横綱町公園-震災、戦災の記憶-

https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html

総務省 一般戦災死没者の追悼

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city001/index.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/tokyo.html

東京大空襲・戦災資料センター 東京大空襲とは

https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/

東京都生活文化局 東京都平和の日関連事業

https://www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp/bunka/bunka_seisaku/0000000632.html#:~:text=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%81%E3%80%8C%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD,%E3%82%92%E5%AE%9F%E6%96%BD%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82


関連

東京大空襲・慰霊
戦災電柱

東京大空襲・戦災資料センター

以前から気になっていた場所。
東京大空襲を知る上で、欠かせない場所です。

 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月10日未明、約300機のB29による下町地区を中心とする無差別爆撃は、人口過密地帯を火炎地獄にしました。罹災者は100万人をこえ、推定10万人もの貴い命が失われました。3月10日を含め、東京は100回以上もの火の雨にさらされ、市街地の6割を焼失したのです。
 民間の「東京空襲を記録する会」は、空襲・戦災の文献や物品を広く収集してきました。当研究所は、この資料を保存し都民の蒙った戦争の惨禍を次代に語りつぎ、平和の研究と学習に役立つ場にと願い、2000年3月から募金および新資料収集をよびかけました。この壁面裏にお名前が刻まれておりますが4000名をこえる方がたのご協力により、どのような公的資金もなしに、2002年3月9日、戦禍のもっとも大きかったこの地に、当センターを完成することができました。ぜひ、お立ち寄りください。
 財団法人 政治経済研究所

世界の子どもの平和像
平和を築く

平和のために敷地とともに寄贈された稲荷社

防火用水

母子像
戦火の下で

平和地蔵


資料センターの館内へ。
いくつかをピックアップ。

被弾し、傷ついたピアノ
 1945年5月24日 目黒(現・目黒区)
1945年5月24日の空襲で、屋根を突き抜けた焼夷弾がピアノの左肩をかすめた。不発だったので、傷ついたが、焼けずに残ったピアノ。

ピアノをかすめたM69焼夷弾

ピアノがあった家で使われていた防空かぶと

噫横川国民学校(複製)
 1978年 作/井上有一

E46集束焼夷弾(模型)
1945年3月10日の空襲で主に使われた焼夷弾。中にM69油脂焼夷弾を38本納めており、空中で尾翼部分にある信管が作動してバラバラになって落ちてくる。

M69油脂焼夷弾 AN-M69
1945年3月10日の空襲で主に使われた焼夷弾。尾の部分にストリーマーと呼ばれる4本のリボンがついており、空中姿勢を安定させる。
着火すると、ふたのようなストリーマーの部分は吹き飛んで外れ、筒の内部から粘着性の燃焼剤が飛び出して発火する。

M18(E28)集束焼夷弾の弾頭バラスト
集束焼夷弾が前から落ちていくようにする重り。日本本土への初期の空襲では、弾頭信管で作動するM18(のちに改称されE28)集束焼夷弾が使われた。中にはM69焼夷弾が38発納められている。中央部に弾頭信管を取り付けるためのくぼみがある。

M50エレクトロン焼夷弾 AN-M50-A2
中心部分に燃焼剤のテルミット(アルミニウムと酸化鉄の混合物)があり、その外側を包むマグネシウムを燃焼させるため、テルミット・マグネシウム焼夷弾とも呼ばれる。
1945年3月10日の空襲では使われなかったが、中小都市空襲では用いられることも多かった。

日本軍の高射砲弾の破片
高射砲は空中で破片になって飛び散ることで、敵の飛行機を落とす武器。空襲の際にも撃たれるため、逃げる人々は焼夷弾だけでなく、味方の高射砲弾の破片からも身を守るために、防空頭巾や鉄かぶとをかぶる必要があった。

1945年3月10日 土曜日 0:08

館内では、都内での空襲関連の慰霊碑や細かい空襲情報の資料も豊富。
駅からはちょっとアクセスしにくい場所ですが、また足を運びたいと思っております。


東京大空襲・戦災資料センター

公式サイト

https://tokyo-sensai.net/

場所

https://goo.gl/maps/iukVKVW7qzyzeR9q9

書籍

書籍を購入しました。
東京大空襲関連の慰霊碑などの慰霊巡礼、フィールドワークに役立たせようと思います。


関連

https://senseki-kikou.net/?p=7127

https://senseki-kikou.net/?p=10715

https://senseki-kikou.net/?p=2065

https://senseki-kikou.net/?p=497

渋沢栄一墓【渋沢栄一10】

渋沢栄一の暮所(渋沢家墓地)は、谷中霊園にある。
地番は「乙11号1側」。

1858年(安政5年)
 渋沢栄一(18歳)、尾高惇忠の妹・尾高千代(17歳)と結婚。
1882年(明治15年)
 渋沢栄一(42歳)の妻・渋沢千代(41歳)がコレラで病死。
1883年(明治16年)
 渋沢栄一(43歳)は、幕末の豪商・伊藤八兵衛の娘・伊藤兼子(31歳)と再婚。
 若き日の渋沢栄一は伊藤八兵衛の元で丁稚奉公をしていた縁があった。
1931年(昭和6年)
 渋沢栄一(91歳)、死去。
1934年(昭和9年)
 渋沢兼子(82歳)、死去。


谷中霊園
渋沢家墓所(渋沢家墓地)

渋沢栄一墓

青淵澁澤榮一墓

昭和6年(1931年)11月11日死去。享年91歳。
法名は、泰徳院殿仁智義譲青淵大居士

渋沢家の家紋「丸に違い柏」

渋沢栄一墓の向かって左隣に後妻の渋沢兼子(伊藤兼子)の墓。

澁澤孺人伊藤氏之墓

渋沢栄一墓の向かって右には孫の渋沢敬三夫妻墓と、先妻の渋沢千代(尾高千代)の墓。

澁澤孺人尾高氏之墓

渋澤敬三 渋澤登喜子 之墓

渋沢家墓地

以前は堀に囲まれて開放されていない敷地であったが、現在はいつでも参拝できるように開放されている。

場所は乙11号1側

大きな木「タブノキ」が生えている。

渋沢栄一の墓は、主君であった徳川慶喜の墓の方向を向いている。
徳川慶喜の墓も同じ谷中霊園(寛永寺徳川家墓地)にある。

徳川慶喜墓所


渋沢栄一関連


関連

深川と渋沢栄一宅跡【渋沢栄一9】

渋沢栄一は深川とも縁が深かった。

渋沢栄一は、明治9年に深川福住町に屋敷を購入、明治21年に中央区兜町(渋沢が創建した第一国立銀行の近く)に本邸が移されたのちは、深川邸は別邸として利用。(最終的な渋沢栄一の本邸は飛鳥山であった)

明治22年から37年まで、渋沢栄一は深川区会議員および区会議長を勤め深川の発展のため尽力。明治30年には深川に渋沢倉庫部(現澁澤倉庫)を創業。
そして明治44年の深川鎮守の富岡八幡宮の大修繕は、渋沢栄一が実行会長として推進している。

渋沢倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」が刻まれた力石。


渋沢栄一宅跡

渋沢榮一は、明治9年に深川福住町に住居を構え、明治21年に兜町に本邸を移し、この地は別邸となり、また澁澤倉庫部が設置された。

江東区登録史跡 
渋沢栄一宅跡
 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年(1931)92歳で没しました。
 栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。
 栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
  平成21年3月  江東区教育委員会

渋沢邸の跡地は、澁澤倉庫となり、そして今では「渋沢」の名を冠したビルが建立されている。

澁澤シティプレイス永代

澁澤倉庫発祥の地

澁澤倉庫発祥の地
「わが国の商工業を正しく育成するためには、 銀行・運送・
保険などと共に倉庫業の完全な発達が不可欠だ」

日本資本主義の生みの親である、渋澤榮一は、右の信念のもと、
明治三十年三月、私邸に澁澤倉庫を創業した。
この地は、澁澤倉庫発祥の地である。

渋澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の
他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていた。
この藍玉の商いをするときに使用した記章が
(ちぎり・りうご)であった。
明治四十二年七月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として
組織を改めたが、この(ちぎり・りうご)の記章は、現在も
「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。

澁澤シティプレイス永代建築を記念し本碑を建立する。
     平成十六年四月吉日
      澁澤倉庫株式会社

ちぎり(りうご)

澁澤倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」

血洗島の渋沢家では、藍玉の製造販売を行っていた。
藍玉の商いの際にシンボルとして使用していた記章が澁澤倉庫の社章の期限となっている。
澁澤倉庫では「りうご」と呼称しているが、渋沢家では「ちぎり」と呼ばれていた。
元来は糸巻きに糸を巻き付けた形を図案化したもので、この形が鼓を立てて横から見た形に似ているところから「立鼓(りうご)」と呼ぶようになったなどと言われている。

https://www.shibusawa.co.jp/company/future/


駐車場の片隅に神社があった。

福住稲荷神社

澁澤倉庫の守護神。

福住稲荷神社は、深川福住町(現永代2)にあった近江屋喜左衛門屋敷の邸内祠であったもので、明治9年に(1876)澁澤栄一が近江屋屋敷を買収して、明治30年に澁澤倉庫部(のちの澁澤倉庫株式会社)を創業したあとは、同社の守護神として祀られました。
神狐像は、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した福住稲荷神社が、昭和5年(1930)に再興されたことをうけて、澁澤倉庫社員一同によって奉納されたものです。平成3年に社殿内部から発見された奉納目録には、奉納者として当時の社員87名の名前が連なっており、深川の近代倉庫業に関わった人々の信仰を伝える貴重な文化財です。

江東区
https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/bunkazaisiseki/chokoku/88757.html

澁澤倉庫奉納の石鳥居。

昭和5年2月吉日建之
澁澤倉庫株式會社

神狐像も昭和5年に澁澤倉庫が奉納。

昭和5年(1930)は、渋沢栄一が90歳のとき。渋沢栄一は昭和6年(1931)に91歳で亡くなっている。

福住稲荷神社
子爵渋沢栄一書時年九十

渋沢倉庫が奉納した力石・さし石。力比べでさし上げた(持ち上げた)石。澁澤倉庫の従業員と思われるさし上げた力自慢の者の名前が刻まれている。

力石の中には、渋沢倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」が刻まれたものもある。

澁澤シティプレイス永代と澁澤永代ビル

澁澤倉庫株式会社

https://www.shibusawa.co.jp/#top-pamphlet

https://www.shibusawa.co.jp/story/photos/

場所

https://goo.gl/maps/2dtapXGK2BVn5TWW7


富岡八幡宮

明治44年の富岡八幡宮大修繕の際は、渋沢栄一が中心となって進められた。
なお、現在の社殿は昭和31年(1956)に造営されたもの。

深川公園

明治三十七 八年役戦死者忠魂碑

日露戦争の忠魂碑
渋沢栄一謹書

明治卅七八年役戦死者忠魂碑
正四位勲三等男爵澁澤榮一謹書


関連

荒川遊園煉瓦塀(荒川区)

都内唯一の区営遊園地「あらかわ遊園」。
「あらかわ遊園」のあった地は、明治から大正にかけて「煉瓦工場」があった場所でもあり。煉瓦工場から遊園地へと姿を変えた界隈を散策してみました。


荒川遊園煉瓦塀

明治期の隅田川河畔の、このエリアには煉瓦に適した土が採れたということと、船便・交通の便が良かったということから4つの煉瓦工場が立ち並んでいたという。
明治5年(1872)に、石神仲衛門によって、現在のあらかわ遊園のある場所に煉瓦工場が造営。
明治28年(1895)に、広岡勘兵衛(広岡幾次郎)に経営が譲渡され、広岡煉瓦工場となる。煉瓦塀が残っている場所は、広岡煉瓦工場で造られた煉瓦を干す場所だったという。
大正11年(1922)に、広岡勘兵衛は失火により操業を停止した煉瓦工場を閉鎖。荒川遊園を開園。その時に、工場にあった煉瓦で荒川遊園を囲う塀を造営したのが、今も残る煉瓦塀である。
大正12年の関東大震災での被害は少なく逐次拡充していくも、広岡勘兵衛没後の昭和初期の不景気により経営悪化。
昭和7年に遊園地の経営は王子電気軌道の手に委ねられるも、第二次世界大戦により休園。昭和16年には園内には高射砲陣地が置かれた。
昭和18年には王子電気軌道は戦時下の企業整備により東京市に事業譲渡。王子電気軌道株式会社は清算。軌道事業は東京市電となる。(現在の都電荒川線)
戦後、荒廃していた遊園地を荒川区が再整備し、昭和25年に荒川区立遊園地として開業させ、現在の「あらかわ遊園」となる。

荒川区登録有形文化財(建造物)
荒川遊園煉瓦塀
 この煉瓦塀は、荒川遊園を取り囲んでいた塀の一部です。南端には一対あった門柱の片方が残っています。煉瓦の積み方は、煉瓦の小口を見せる小口積みと、長手を見せる長手積みとを一段おきに繰り返し積む「イギリス積み」です。古老の手記によると、大正11年(1922)、荒川遊園が開園した時に木の塀から煉瓦塀に改修されたといいます。
 かつて尾久地区の隅田川沿いには、材料の土が入手し易く、船運の便が良かったため、いくつもの煉瓦工場が設けられました。その一つ、広岡(後、王子に改名)煉瓦工場の跡地に、大正11年、荒川遊園が開園しました。広岡幾次郎をはじめとする地元有志により、市民の精神の慰安と身体の健康増進のために設置された嶺井遊園地です。
 その後、王子電車への乗客誘致を目的として、王子電気軌道株式会社が荒川遊園の経営に参入しました。戦時中は、閉園を余儀なくされましたが、昭和24年(1949)、荒川区立の遊園地として再スタートしました。
 敷地の一部は戦後間もなく宅地化され、以来、煉瓦塀は宅地の境界や盛土のための土留めとして利用され今日に至ります。
 荒川遊園煉瓦塀は、近代的な景観をとどめる遺構として歴史的価値が高い貴重な文化財です。また、連続する煉瓦塀が作りだす景観はこの地域独自の風景として長年親しまれており、貴重な風景遺産でもあります。
 令和2年(2020)3月
  荒川区教育委員会


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:B29-C2-46
1936年06月11日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

王子電気軌道が経営をしていた昭和11年のころ。

ファイル:USA-M379-No2-27
1947年07月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

昭和22年。周辺住宅地が爆撃により焦土となっていることもわかる。
荒川遊園の中に置かれた高射砲陣地の跡もわかる。

ファイル:USA-R3163-49
1949年09月07日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

昭和24年、荒川区立の遊園地として再スタート。
かつての敷地の一部に、整然と整えられた建物が建っている。ここのエリアは、煉瓦壁をそのまま活用して住宅地となっている。

Google航空写真
現在の様子。南東部の「かつての荒川遊園の敷地部分」=「煉瓦塀の内部」が住宅地となっている。


荒川遊園煉瓦塀の散策

都電荒川線、最近は「東京さくらトラム」という愛称でも親しまれている。
「荒川遊園地前駅」で下車をして、あらかわ遊園に向かう。

工事中の入口の右手=東側より、住宅地の中を煉瓦塀が伸びている。

玄関先を、レンガ風装飾で景観を合わせている住宅もあった。

入口?にしては小さい。

日向ぼっこ中のお猫様

排水口のような孔

上部は、長手積み。
中間部は、イギリス積みをモルタルで保護。
下部は、イギリス積み。

ちょっと割れ目が。。。

上部がコンクリートと鉄網で改められいる空間。下部はそのまま有効活用。

この場所が南東部分の先端角。

ここnここには煉瓦造の小屋があったという。小屋の壁面部分が残っている。

通用口?コンクリで塞がれていた。

煉瓦壁。
積み方がよく分かる。
上部:長手積み
下部:長手積みと小口積みの繰り返し=イギリス積み

内側から。
長手積みの上部もところどころ、柱が組まれて強度が確保されている。中部帯から下部はイギリス積み。厚さがある。

中部帯と下部は、かなりの厚さが確保されている。
関東大震災を耐えた煉瓦壁。

中部帯から屋根へと積み方が変わる部分。

積み方が変わった。

切断部。イギリス積み。

積み方が変わった箇所の内側。

門柱。

門柱の一対が残る。左側は道路拡張で消滅か。
電信柱の位置をどうにかすれば、多少の移築で残せたような気もするが。どのみちこの幅では、車は通れない。。。

煉瓦塀の外側敷地は小台橋保育園。旧小台橋小学校。

隅田川川から。

住宅地に残る煉瓦塀。
住む人々にはとっては多少の不自由があるかもしれないが、100年近くここに有り続けた煉瓦塀は、関東大震災・東京大空襲・高度経済成長をくぐり抜けて、残存した歴史遺産。これからも大事に伝承してほしい空間。


あらかわ遊園

2018年12月よりリニューアル回収工事により長期休園中。再開は2022年春頃を予定、とのこと。


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