兜町には、渋沢栄一が設立した「日本最初の銀行」、そして渋沢栄一が発起人を努めた「日本最初の証券」、そして隣の茅場町には同じく渋沢栄一が関係した「日本最初の電力発電」があった。
銀行としては四代目の建物。
目次
銀行発祥の地
銀行発祥の地
この地は明治6年6月11日(1873年)わが国最初の銀行である第一国立銀行が創立されたところであります
昭和38年6月建立
第一国立銀行
明治5年(1872)、国立銀行条例が制定。
明治6年(1873)に渋沢栄一によって創設された日本最初の銀行。民間資本民間経営の銀行であったが、国立銀行条例により発券機能等を有していた。
明治15年(1882)、日本銀行条例により国立の日本銀行が設立。国立銀行条例による営業免許期間終了に伴い、明治29年(1896)に一般銀行に改組し「第一銀行」となる。
昭和18年(1943)、太平洋戦争戦時下の国策により三井銀行と合併し「帝国銀行」となるが、戦後の昭和23年(1948)には再度分割し「第一銀行」として再建。
昭和46年(1971)に日本勧業銀行と合併し「第一勧業銀行」。そして第一勧業銀行は、現在の「みずほ銀行」の流れにつながる。
「第一国立銀行(第一銀行)」は、日本最初の銀行として、統一金融機関コード「0001」を保有。この0001も「みずほ銀行」が継承をしている。
また、「第一国立銀行」は日本最初の株式会社でもあり、東京株式取引所創設時より上場している。
第一国立銀行が創業した地には、「みずほ銀行兜町支店」がある。
「みずほ銀行兜町支店」の壁面には、「兜町歴史地図」と「渋沢栄一と建物の歴史」が掲載されていた。
(以下、クリックで拡大可)
銀行発祥の地
渋沢栄一翁
渋沢栄一翁は幕末の慶応3(1867)年に渡欧し、最先端の経済制度や科学技術を学びました。帰国後はその知識を活かし、明治政府において新生日本の基盤となる制度作りに力を発揮しました。その後実業界に転じ、生涯を通じて約500にものぼる株式会社の設立・育成を行うとともに、学校や病院など約600の社会・公共事業の育成・推進にも力を注ぎ、近代日本社会・経済の基礎作りに大きな貢献をしました。
中でも、渋沢翁が中心となって明治6(1873)年にこの場所に開業した「第一国立銀行」は、日本最初の近代的な銀行として有名です。この地周辺にはその後日本で最初の株式取引所(現東京証券取引所)や数多くの会社が次々と設立され、兜町は日本経済の中心地として発展していきました。
初代建物(第一国立銀行)
日本最初の近代的な銀行である「第一国立銀行」(現みずほ銀行)は、明治6(1873)年にこの場所で誕生しましたが、その本店として使用されたのが明治5(1872)年に竣工した写真の建物です。
日本初となる銀行建築を請け負った清水組(現清水建設)二代清水喜助は、外国人の手を借りず、設計施工すべてを自分達で手掛けました。木骨石造、ベランダ、日本屋根、塔を組み合わせた和洋折衷の建物は、擬洋風建築の最高峰といわれ錦絵にも度々描かれた東京の名所でした。
設計者 二代目清水喜助(1815-1881)
文化12(1815)年富山生まれ。
生地井波は宮大工輩出の地として知られ、幼少期から社寺建築に親しむ環境の中で育ち、大工となりました。近郷出身の清水組創始者初代清水喜助を頼り江戸に出て、幕末には横浜開港に伴う幕府御用の工事を手がけて事業を大きく発展させ、近代建設業の基礎を整えました。
本建物の他、我が国初の大規模和洋折衷建築と言われる築地の外国人旅館(通称築地ホテル)など彼の作った建物は、明治初期に全国各地に建設された擬洋風建築に大きな影響を与えました。
二代目建物
国立銀行制度の終了に伴い、明治29(1896)年第一国立銀行は株式会社第一銀行となりましたが、その本店の二代目建物として明治35(1902)年に竣工したのが写真の建物です。
後に東京駅舎で有名となる辰野金吾の設計によるもので、外壁は石造ですが鉄棒で補強し、床は耐火構造、シャッター、消火栓等、当時としては最新の防災設備を備えていました。
大正12(1923)年の関東大震災では、地域全体に広がった火災により大きな被害を受けましたが、建物自体は堅牢な作りで崩壊を免れ、その後も使われ続けました。
設計者 辰野金吾(1854-1919)
嘉永7(1854)年佐賀生まれ。
明治6(1873)年工学部工学寮(後の工部大学校、現在の東京大学工学部)に第一回生として入学。同校造家学科を首席で卒業後、官費留学生として英国に留学しました。帰国後は工部大学校の教授に就任し、後には帝国大学工科大学学長や建築学会会長などの要職に就きました。
建物の重圧で堅牢なイメージから「辰野堅固」とも言われたという彼の作品には、日本銀行本店や東京駅駅舎など、現在でも重要文化財などに指定されて残っているものが多数あります。
三代目建物
二代目建物は、昭和5(1930)年に第一銀行本店が当地から丸の内に移転した後も、同行の兜町支店として使われていましたが、その役割は昭和11(1936)年に三代目となる写真の建物に引継がれました。鉄骨鉄筋コンクリート造の建物は、銀行・証券会社の立ち並ぶ兜町の中でもひと際目立つ堂々とした風格を備えていました。 その後昭和51(1976)年に、第一国立銀行以来四代目となる現在の建物が建てられ、現在もみずほ銀行の兜町支店として百数十年に亘る歴史を繋いでいます。
設計者 西村好時(1886-1961)
明治19(1886)年横浜生まれ。
明治45(1912)年東京帝国大学建築学科を卒業後、曽根・中条事務所を経て清水組に入社。後に第一銀行に転出し、同行の丸の内本店をはじめ数多くの銀行建物にその設計・実務手腕をふるいました。
意匠のみならず最新設備にも精通した「銀行建築のエキスパート」として知られ、後の施設計画学にも大きな足跡を残しています。
兜町ビルの歴史
清和綜合建物
-銀行発祥の地-
https://www.seiwa-building.co.jp/bank-birthplace/building.html
「銀行発祥の地」の突き当りに「日証館」がある。
当時、渋沢栄一邸は、日証館の地にあった。
証券会社のビルが林立する。
フィリップ証券の建物は昭和10年。
山二証券のビルは昭和11年という。
兜神社
明治11年(1878)、渋沢栄一らが発起人となり、東京株式取引所(現・東京証券取引所)が設立。東京株式取引所設立とともに関係者によって創建された。
御祭神:倉稲魂命
明治十一年ここ兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるに当たり、同年五月取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営した。
御社殿に奉安してある「倉稲魂命」の御神号は時の太政大臣三條實美公の揮毫になるものである。
当社は御鎮座後一度換地が行われたが、昭和二年(1927年)再度換地を行ない、兜橋々畔の現在地約六十二坪(役205平方米)を卜して同年六月御遷座を行ない、鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。
昭和四十四年(1969年)五月高速道路の建設に伴い御影石造りの鳥居を残して旧社殿を解体し、同四十六年(1971年)三月現在の鉄筋コンクリート・一間社流造・向拝付きの社殿を造営した。
屋根は銅板葺とし玉垣・参道敷石などは御影石をもちいた。
兜神社の由来となった兜岩。
鎧岩は、前九年の役(1051~1062)のころ、源義家が東征の際に、この岩に兜を掛けて戦勝祈願したことに由来という。
「兜町」の町名由来でもある。
兜神社の隣は、日証館
日証館
明治21年(1888)に、辰野金吾が設計した渋沢栄一邸がこの地に完成。明治34年(1901)に渋沢栄一は飛鳥山に移り住んだ後は、渋沢事務所としても使用。
大正12年(1923)に渋沢事務所は関東大震災で全焼。
渋沢事務所・渋沢邸跡地に昭和3年(1928)に、「日証館」が建設された。当時の姿を活かしながらリノベーションされ現在も多くの証券会社が入居するビルとして活用されている。
左手には、東京証券取引所。右手には日証館。
東京証券取引所(証券取引発祥の地)
明治11年(1878)6月1日。
東京株式取引所が創立し兜町にあった第一国立銀行の所有を購入して営業開始。渋沢栄一も東京株式取引所発起人に名前を連ねていた。
7月15日、日本初の上場株式として東京株式取引所の売買が開始。
9月、渋沢栄一の第一国立銀行(現みずほ銀行・旧第一勧業銀行)株式が上場。第一国立銀行は日本最初の株式会社であった。
昭和18年(1943)6月、戦時統制機関改編。日本証券取引所に統合。
日本証券取引所は、戦後にGHQにより活動禁止となり昭和22年に解散。
昭和24年(1949)、東京証券取引所設立。
日本橋兜町の歴史・史跡
平和不動産株式会社
以下は、渋沢栄一とは、あまり関係ない史跡。
発祥の地でしたので、興味深く。
郵便発祥の地
日本橋郵便局が、日本の郵便発祥の地、であったという。
この界隈は、銀行と証券と郵便が始まったエリアでもあったのだ。
郵便発祥の地
ここは、明治4年3月1日(1871年4月20日)
わが国に新式郵便制度が発足したとき駅逓司と東京の郵便役所が置かれたところです。
前島密先生
郵便発祥の地
前島密の胸像は昭和12年、会田富康の作。
前島男爵ノ命ニ依リ密翁之像ヲ補綴改鋳ス
昭和十二年三月 會田富康
多羅葉(たらよう)
はがきの木
「葉書」の由来は、この木から・・・
肉厚の葉の裏側をとがったもので書きつけると、茶色に変色してくっきり文字が浮あがります。
古代インドで手紙や文章を書くのに用いた多羅葉の葉になぞらえてその名がつけられました。
この木は、郵便局のシンボルツリーとして植えられています。
電燈供給発祥の地
茅場町のビジネスホテルの手前に、記念碑があった。
この地から、日本で最初の電力送電が行われたのだ。
東京電燈株式会社設立を出願した渋沢栄一・大倉喜八郎らの手によって、明治16年に設立。
明治20年(1887)に日本橋茅場町から第二電燈局が小規模火力発電で電気の送電(架空配電による最初の電燈供給)を開始。
電燈供給発祥の地
明治20年(西暦1887年) 11月21日東京電燈会社がこの地にわが国初の発電所を建設し、 同月29日から付近の日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などのお客様に電燈の供給を開始いたしました。
これが、わが国における配電線による最初の電燈供給でありまして、その発電設備は直立汽缶と、30 馬力の横置汽機を据付け、20キロワットエジソン式直流発電機1台を運転したもので、配電方式は電圧 210ボルト直流三線式でありました。
電気ゆかりの地を訪ねて
日本電気協会 関東電気協会
日本初の配電線による電灯供給
第2電燈局
海運橋親柱
第一国立銀行の脇には楓川という川が流れており、海運橋が掛けられていたが、現在は埋め立てられている。当時の名残の親橋が近くに残されている。
海運橋親柱
所在地 中央区日本橋一ー二十先
日本橋兜町三先
海運橋は、楓川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監忠勝の屋敷が置かれたので、将監橋とか海賊橋と呼ばれていました。御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆ともいっていたためです。
橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、同八年に、長さ八間(約十五メートル)、幅六間(約十一メートル)のアーチ型の石橋に架け替えられました。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。
石橋は、関東大震災で破損し、昭和二年鉄橋に架け替えられました。このとき、二基の石橋の親柱が記念として残されました。鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和三十七年撤去されましたが、この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。
平成六年三月
中央区教育委員会
海運橋
紀元2535年=明治8年=1875年
楓川は埋め立てられ、その楓川の上を首都高速が走っている。
海運橋は、この方向に首都高の下に架かっていた。