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渋沢栄一ゆかりの「川間ドック」(浦賀)

「浦賀ドック」から南に足を伸ばすと「川間ドック」があった。
せっかくなので、川間ドック跡にも足を運んでみよう。


渋沢栄一と川間ドック

浦賀ドックは榎本武揚、そして川間ドックは渋沢栄一が設立に関与していた。

川間ドック
 ㈱東京石川島造船所が、大型船の建造修理のため、当時、取締役会長であった渋沢栄一の提案により、明治28年(1895)10月に浦賀分工場として建設に着手し、同31年に営業を開始しました。
 同35年には浦賀船渠㈱に買収され、以後、同社の川間分工場になりました。
 現在は、レンガ造りのドックを残すのみで、そのレンガは、当時、浦賀で焼かれたものです。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

浦賀ドックと川間ドック
浦賀の軍艦建造で功績のあった浦賀奉行所の与力・中島三郎助招魂碑の除幕式に参列した荒井郁之助が中心となり、榎本武揚・塚原周造も賛同し中島三郎助の業績を称えて浦賀にドックを建設することを決定。

明治30年(1897年)、かつての浦賀造船所と同じ場所に「浦賀船渠株式会社」が設立された。(浦賀船渠の浦賀ドックの竣工は明治32年)
明治31年には 東京石川島造船所浦賀分工場(川間ドック)が、渋沢栄一によって開業し、浦賀での造船競争が活発化。
最終的には、明治35年(1902)に、浦賀船渠が石川島の浦賀分工場(川間ドック)を買収し、浦賀船渠川間分工場となっている。

榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック
日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸の建造に貢献した中島三郎助の招魂碑の除幕式の列席メンバーによって「浦賀ドック」は創設され、この中心人物が榎本武揚であった。時を同じくして、西浦賀の川間の地に同様に造船所を創ったのは明治期の大実業家渋沢栄一であった。
 浦賀国際文化村推進協議会

明治28年(1895年)
渋沢栄一率いる㈱東京石川島造船所が、浦賀ドックにほど近い川間でドック建設に着手
明治28年に、渋沢栄一率いる㈱東京石川島造船所(現在の㈱IHI)は、浦賀ドックにほど近い川間でドライドック建設に着手し、明治31年に営業を開始した。明治32年には、浦賀船渠㈱により、浦賀1号ドライドックが竣工し、浦賀には、同時期に2つのドライドックが稼働することになった。後に、浦賀船渠㈱が川間のドライドックを買収・合併することとなった。

※浦賀ドック跡地の壁面に

歴史の小話
明治28年3月8日付の「国民新聞」には、浦賀に計画された2つの造船所について書かれている。「榎本武揚ら武士が発起人となって、西浦賀に設立しようとする船渠は、政府内部の許可は早くとれたのに、地元の地主との交渉が難航して、未だ工事に着工できない」一方、「渋沢栄一ら町人一派が東浦賀に計画している船渠は、すでに地主との間に売買の契約が整い、一坪3円ずつお手付け金も渡してあるが砲台に近いという理由で、陸軍省からクレームがあり、これまた設立に至らず。」どちらが先に問題を解決して、造船所の建設を進められるのか。浦賀の人々を自陣に取り込もうと、榎本ら武士と渋沢ら町人が、両者一歩も引かぬにらみ合いが行われていたようだ。

※浦賀ドック「レンガドック活用センター」より


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-163
1946年2月15日、米軍撮影の航空写真。

川間ドックのすぐ南は「千代ケ崎砲台」であった。

川間ドック周辺。

現在はヨットハーバー

場所

https://goo.gl/maps/qnha8Rzr5zvQx87G8


川間ドック跡

東京石川島造船所浦賀分工場跡
浦賀船渠川間分工場跡
住友重機械工業川間工場跡

ヨットハーバーの駐車場から見学ができる。
もとはドライドックであったが、ゲートが撤去されているために、現在は海水をためている状況。

渠頭側

上から。

※撮影:2022年8月


関連

「駆逐艦のふるさと」浦賀ドック跡地(浦賀船渠第1号ドック)

横須賀の浦賀。ここに幾多の駆逐艦を生み出した造船所があった。
「浦賀船渠」
「西の藤永田、東の浦賀」と称された、大日本帝国海軍駆逐艦のふるさとである「浦賀船渠」跡地を散策してみた。

西の藤永田造船所のレポートは以下にて。

「浦賀ドック」は、横須賀市浦賀地区にあった造船所。
2003年に「浦賀ドック」は閉鎖され、2021年に住友重機械工業から横須賀市に無償寄付された。


浦賀造船所

嘉永6年(1853年)、ペリー来航を期に、江戸幕府は「大船建造の禁」を解禁し、大型船の建造を開始。「浦賀造船所」を設置。

安政元年(1854年)、「浦賀造船所」にて、国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」が建造される。これは、浦賀奉行所与力の「中島三郎助」の尽力による。

中島三郎助と鳳凰丸
ペリー来航により、幕府は軍艦の必要性を強く感じ、浦賀奉行所の与力・中島三郎助らに軍艦建造を命じた。安政元年(1854)5月、日本で最初の洋式軍艦鳳凰丸は浦賀の地で誕生した。
 浦賀国際文化村推進協議会

安政6年(1859)には、日本初のドライドックが完成。アメリカに向かう咸臨丸の整備も浦賀で行われ、咸臨丸は浦賀から出港している。

慶応元年(1865)、江戸幕府の勘定奉行であった小栗忠順の進言により、フランスの技師ヴァルニーによって「横須賀製鉄所」が開設。造船所としての拡張も行われ、江戸幕府が瓦解したのちの明治4年(1871)に「横須賀造船所」(横須賀海軍工廠)となり、艦艇建造は浦賀から横須賀に移り、「浦賀造船所」は明治9年(1876)に閉鎖となった。

戦前の浦賀船渠

浦賀造船所の基礎を築いた中島三郎助は、戊辰戦争に際して、榎本武揚らと行動をともにし、函館政権(蝦夷共和国)下では、箱館奉行並、砲兵頭並として要職を務め、箱館戦争では、本陣前衛の千代ヶ岱陣屋の陣屋隊長として奮戦。五稜郭への撤退及び新政府への降伏も拒絶し、本陣五稜郭降伏の2日前に、中島三郎助は長男次男とともに戦死している。

明治24年(1891年)、中島三郎助の23回忌にあたり、三郎助を慕う地元の人々によって、愛宕山公園に中島三郎助招魂碑が建てられた。

中島三郎助招魂碑の除幕式に参列した荒井郁之助が中心となり、榎本武揚・塚原周造も賛同し中島三郎助の業績を称えて浦賀にドックを建設することを決定。
明治30年(1897年)、かつての浦賀造船所と同じ場所に「浦賀船渠株式会社」が設立された。(浦賀船渠の浦賀ドックの竣工は明治32年)
明治31年には 東京石川島造船所浦賀分工場(川間ドック)が、渋沢栄一によって開業し、浦賀での造船競争が活発化。
最終的には、明治35年(1902)に、浦賀船渠が石川島の浦賀分工場(川間ドック)を買収し、浦賀船渠川間分工場となっている。

榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック
日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸の建造に貢献した中島三郎助の招魂碑の除幕式の列席メンバーによって「浦賀ドック」は創設され、この中心人物が榎本武揚であった。時を同じくして、西浦賀の川間の地に同様に造船所を創ったのは明治期の大実業家渋沢栄一であった。
 浦賀国際文化村推進協議会

浦賀船渠は、日露戦争に際して、横須賀海工廠から艦載水雷艇の受注を受けたことから、軍艦製造を開始。
明治40年(1907年)に、浦賀船渠は初めて駆逐艦を建造。最初の建造は駆逐艦「長月」であった。
大阪の藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門となり、「西の藤永田、東の浦賀」として、多くの艦艇を生産した。
海軍軍艦として建造実績は、軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完、であった。
また、大正13年(1924)には、青函連絡船の原点となった、国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」を竣工させ、その後の多くの青函連絡船も浦賀での建造となった。

浦賀船渠で造られた艦艇

軽巡洋艦
  五十鈴(長良型2番艦)
  阿武隈(長良型6番艦)
敷設艦
  厳島(2代目)
駆逐艦
 神風型駆逐艦 (初代、昭和5年全艦退役)
  長月、菊月
 樺型駆逐艦(昭和7年全艦退役)
  桐
以下は太平洋戦争に参加世代の艦艇
 樅型駆逐艦
  柿、萩、菱、蓮
 若竹型駆逐艦
  早苗、早蕨
 神風型駆逐艦 (2代目)
  追風(2代目)
 睦月型
  弥生(2代目)、水無月(2代目)、望月
 吹雪型
  深雪、磯波(2代目)、狭霧、潮(2代目)、雷(2代目)
 初春型
  子日(2代目)、初霜(2代目)
 白露型
  時雨(2代目)、五月雨(2代目)、山風(2代目)、涼風
 朝潮型
  霞(2代目)
 陽炎型
  不知火(2代目)、早潮、時津風(2代目)、浜風(2代目)、萩風、秋雲
 夕雲型
  風雲、高波、涼波、岸波、清波、清霜
 秋月型
  宵月
官公庁船
 関門連絡船:長水丸、豊山丸
 青函連絡船:飛鸞丸
 青函連絡船・戦時標準船:第三青函丸
 青函連絡船・W型戦時標準船:第四青函丸、第五〜第十青函丸
民間船
 貨物船:葛城丸
 貨客船:白山丸

戦後の浦賀船渠

戦後も浦賀船渠では海上自衛隊向けの艦艇の建造や、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われた。
昭和44年に住友機械工業と合併し、「住友重機械工業浦賀造船所」となり、追浜造船所(現横須賀造船所)も開設。工場集約に伴い浦賀地区は平成15年(2003)に閉鎖され資材置き場となる。
2007年(平成19年)11月30日、浦賀船渠の第1号ドック、ポンプ施設、ドックサイドクレーンが近代化産業遺産に認定。
2021年(令和3年)3月に、浦賀ドックとその周辺部が、住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付され、現在に至る。

昭和52年 市制施行70周年期記念  
横須賀風物百選
浦賀造船所
 浦賀湾を囲むこの施設は、住友重機械工場株式会社追浜造船所浦賀工場です。
 創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。
 この造船所は、明治29年(1896)、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め翌年、明治30年(1897)6月21日の会社設立登記をもって発足したものです。資本金は100万円でした。
 そのころの日本は、日清戦争などの影響もあって、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。一方造船界は、技術面や設備面で大きく立ち遅れていました。その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。この造船所もその なかの一つで、ドイツ人技師ボーケルを月給約150円で雇いドックを築きました。
 明治35年(1902)10月15日、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブロン号(350排水トン)を進水させました。創業以来手がけてきた船は、いずれも 国内の企業から受注した工事用運搬船のたぐいばかりでしたが、14隻目に初めて外国から受注した本格派の艦船を世に送り出しました。
 この浦賀造船所で建造した艦船は、戦前・戦後を通じ約千隻にのぼります。現在もなお技術革新の旗手として、新しい船を造り続け、造船の浦賀の象徴として、今もな地元市民に基盤を置いています。


「浦賀ドック」ツアー見学

現在、限定公開されている浦賀ドックの見学会に参加してきました。

NPO邦人よこすかシティガイド協会

http://yokosuka.kankoh-guide.com/uraga-dokku-hp/uraga-dokku-guide.html

令和3年3月に住友重機械工業株式会社から横須賀市に寄附された浦賀レンガドックは、明治32年(1899年)に建造されてから平成15年(2003年)に閉鎖されるまで1,000隻以上の船の製造や修理を行ってきた歴史のある造船所。
レンガ造りのドライドックとしては日本では浦賀にしか現存していない貴重な施設となっている。

入口。ツアーに申し込みしないと入れない。。。

レンガ片


浦賀船渠「ドックサイドクレーン」(ジブクレーン)

昭和20年6月と銘記のあるドックサイドクレーン。
現存する唯一のクレーン。

浦賀船渠
昭和20年6月

ジブクレーンは、一本の支柱で腕(ジブ)を支えるクレーン。


浦賀船渠「ドライドック側面」(乾ドック)

世界に4箇所(5個)しか現存していないレンガ積みのドライドックのひとつ。
長さは約180m、幅は約20m、深さ約11m。レンガ使用数は約215万個、積み方はフランドル積(フランス積)


浦賀船渠「ポンプ所」

ドライドック(乾ドック)では、ポンプが必須。壁のレンガは、レンガドックと同じ年に完成した、貴重な遺構。

浦賀湾の奥を望む。この護岸も往時からのもの。


浦賀船渠「浦賀ドック船尾側(フラップゲート側)」

海水をせき止めるのが、フラップゲート。自重で海面側に倒れるようになっているという。

船尾側(海側)から浦賀ドックを一望する。

船とドックのセンターを合わせる水平装置。船尾側。

ゲートを開閉する装置。

このあたりはタワークレーンの跡。


浦賀船渠「ボラード」

岸壁の杭。係留用だったり進入防止用だったり。


浦賀船渠「ドック底部」

いよいよ下に降ります。

盤木。船を固定するための土台。
現在の盤木は、2002年に浦賀ドックに最後に入渠した「しらはま丸」のもの。盤木は船の設計図にあわせて、都度作成していた。

フランス積みの煉瓦

船首方向

浦賀ドックを拡張した昭和35年7月の銘板。

見えなかったが、竣工当時の銘板もあるらしい。

これはワクワクする空間ですね。


レンガドック活用センター

浦賀ドックに関する資料が集められた建屋を見学。

浦賀船渠株式会社
浦賀工場

浦賀と浦賀レンガドックの歴史
(住友重機械工業浦賀工場第1号ドック)

享保5年(1720年)
浦賀奉行所の開設

嘉永6年(1853年)
浦賀沖にペリー来航、久里浜に上陸

慶応元年(1865年)
横須賀製鉄所の起工
幕末に開国した日本は、欧米諸国に追いつくため、現在の米海軍横須賀基地と京急線汐入駅周辺の場所に、日本で初めて石造りのドライドックを備える横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)を建設した。蒸気機関を動力として、造船に必要な部品生産から組み立て、メンテナンスまでを一貫して行い、技術者育成機関も備える大工場だった。伴って、蒸気機関に欠かせない水道や物流に欠かせない鉄道など都市基盤の整備もいち早く進み、横須賀は最先端技術が集まる造船の町へと変容していった。

明治28年(1895年)
渋沢栄一率いる㈱東京石川島造船所が、浦賀ドックにほど近い川間でドック建設に着手
明治28年に、渋沢栄一率いる㈱東京石川島造船所(現在の㈱IHI)は、浦賀ドックにほど近い川間でドライドック建設に着手し、明治31年に営業を開始した。明治32年には、浦賀船渠㈱により、浦賀1号ドライドックが竣工し、浦賀には、同時期に2つのドライドックが稼働することになった。後に、浦賀船渠㈱が川間のドライドックを買収・合併することとなった。

歴史の小話
明治28年3月8日付の「国民新聞」には、浦賀に計画された2つの造船所について書かれている。「榎本武揚ら武士が発起人となって、西浦賀に設立しようとする船渠は、政府内部の許可は早くとれたのに、地元の地主との交渉が難航して、未だ工事に着工できない」一方、「渋沢栄一ら町人一派が東浦賀に計画している船渠は、すでに地主との間に売買の契約が整い、一坪3円ずつお手付け金も渡してあるが砲台に近いという理由で、陸軍省からクレームがあり、これまた設立に至らず。」どちらが先に問題を解決して、造船所の建設を進められるのか。浦賀の人々を自陣に取り込もうと、榎本ら武士と渋沢ら町人が、両者一歩も引かぬにらみ合いが行われていたようだ。

明治32年(1899年)
浦賀1号ドライドック(浦賀ドック)の竣工
明治30年に、農商務大臣であった榎本武揚らの提唱により、浦賀船渠㈱が設立された。浦賀1号ドライドックの工事着手に先立ち、オランダの技師デレーケに設計を委嘱、元横須賀造船所技師の古川庄八の協力などにより設計と整備が進められた。明治30年に本工事に着手し、最終的には、横須賀造船所のドライドック建造に関わった経験を持つ杉浦栄次郎が、浦賀ドック㈱の主任技師に赴任し、紆余曲折を経て完成した。

平成15年(2003年)
住友重機械工業裏が工場の閉鎖
浦賀1号ドライドック(現在の浦賀レンガドック)で最後の修繕した船は”しらはら丸”。
惜しまれつつ閉鎖した後、令和3年に、浦賀1号ドライドック(現在の浦賀レンガドック)と周辺部が住友重機械工業㈱から横須賀市に寄付され、現在に至る。

場所

https://goo.gl/maps/LFqbbg3TVQ4HZWH86


浦賀船渠「浦賀ドック渠頭側」

渠頭側からドックを一望する。

船とドックのセンターを合わせる水平装置。渠頭側。

敷地内の見学は、以上。
レンガ積みのドライドック。これは、ぜひとも、見学すべき貴重な空間。

次は、浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)に向かいます。


浦賀船渠「浦賀ドック煉瓦壁」

道すがら。
外壁の一部も往時からのもの。

内側から


浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)

浦賀奉行所を模した入口。

浦賀屯営碑
旧浦賀ドック構内の非公開エリアにある、浦賀屯営碑の説明。
明治9年9月1日から浦賀に「浦賀水平屯集所」が設立。以後、水兵練習所・浦賀屯営・横須賀海兵隊と名前を変えつつ水兵養成機関があった。

場所

https://goo.gl/maps/AJo4HEZkbRR1JqCr8


浦賀ドックの最後の建造「護衛艦たかなみ」

2003年(平成15年)3月12日、浦賀ドック(住友重機械工業浦賀艦船工場)で最後の建造となったのが護衛艦「たかなみ」。
「たかなみ」竣工後の3月31日に、浦賀工場は閉鎖した。

護衛艦「たかなみ」

2017年に撮影していた「たかなみ」の姿。


陸軍用地境界石

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に保存されている陸軍用地の境界石。


浦賀ドック跡

浦賀駅前周辺。

屯営跡の碑
築地新町と言われたこの地に、水兵の基礎教育機関として、1875年(明治8年)、「浦賀水平屯集所」が設置されました。
 その後「東海水兵分営」、明治15年には「水兵練習所」、明治18年に「浦賀屯営」と改称し、数多くの水兵を送り出しました。
 その事績を残すため、昭和9年に「屯営跡の碑」が建てられました。
 この碑の石は、日露戦争のとき、旅順口の封鎖のために沈没させた弥彦丸に使用したものが使われていました。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

参考

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/higasi2.html

敷地の外から浦賀ドックを。

※撮影:2022年7月及び8月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-143
1946年2月15日、米軍撮影の航空写真。

浦賀ドック周辺

現在の様子

浦賀ドック

現在の様子


2016年の浦賀ドック

2016年に浦賀に訪れていたときに何気なく撮影をしていました。
今思えば、もっと撮影をしておくべきでした。。。

昭和18年建造のハンマーヘッドクレーンの姿も撮影していました。
撤去解体済み。

「ドックサイドクレーン」(ジブクレーン)も写真を撮っていました。

※撮影:この箇所のみ2016年4月


関連

浦賀ドックのきっかけとなった「中島三郎助招魂碑」と横須賀最古の公園「浦賀園」(愛宕山公園)

「浦賀ドック」の浦賀船渠が創立したきっかけが、浦賀奉行所の与力であった中島三郎助。その慰霊碑がある愛宕山に行ってみる。


愛宕山公園

横須賀で一番古い公園という。

愛宕山公園
 明治24年(1891)に開園したしないで一番古い公園で、「浦賀園」と呼ばれていました。
 浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立され篆額の題字は榎本武揚によって書かれました。開園に出席した人たちの提唱よって浦賀船渠㈱が創設された話は有名です。
 咸臨丸出航の碑には乗組員全員の名が刻まれています。
 与謝野鉄幹・晶子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。
 江戸時代には鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていました。
  浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

浦賀園の入口。

えーっと。道がない。
夏場に来ては駄目なところでした。

強行突破しました。。。

夏以外に訪れることをおすすめします。。。

ヤブを抜けた先の開けた場所に記念碑がありました。


咸臨丸出航の碑

市制施行70周年記念
横須賀風物百選
咸臨丸出航の碑
 嘉永6年(1853)6月3日、米国水師提督ペリーが、黒船四隻を率いて、浦賀湾沖に現れました。我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。それが、江戸近くに現れたから大変です。「泰平の眠りをさます上喜撰たった四はいで夜も寝られず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。
 7年後の安政7年(1860)幕府は、日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする、使節団をワシントンへ送ることにしました。幕府は万が一の事故に備えて、軍艦奉行・木村攝津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下、九十有余名の、日本人乗組員で、運航する、咸臨丸を従わせることにしました。
 1月13日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は品川沖で錨を上げました。途中、横浜で難破した、米測量船クーパー号の選任11名を乗せ、16日夕刻、浦賀に入港しました。それから2日間、食糧や燃料その他の航海準備作業が行われました。意気天をつく若者たちを乗せた、咸臨丸は、1月19日午後3時30分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を39日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。米国での大任を果した咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりの舞う、万延元年(1860)5月5日でした。
 この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として、咸臨丸・太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向い合うように、ゆかりの深い、この地に建てられたものです。
 なお、この愛宕山公園は、明治26年開園で、市内最古の公園です。また、彼方に建つ、招魂碑の主・中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。

咸臨丸出航の碑

日米修好通商百年を記念して昭和三十五年に建立。
碑は船型、材質は花崗岩。

裏面には乗組員の名が刻まれている。
軍艦奉行 木村摂津守喜毅
教授方頭取 勝麟太郎
通弁役 中浜万次郎
奉行従者 福沢諭吉、ほか


愛宕山公園

広場にたどり着くも、とにかく草がひどい。
何度も記載するが、夏はやめときましょう。


中島三郎助の招魂碑

横須賀市指定 市民文化資産
中島三郎助招魂碑
明治24年、彼を追慕する浦賀の有志によって建てられたもので、篆額は、当時の外務大臣・榎本武揚の筆である。愛宕山公園は、この碑の建立の際に整備された。

榎本武揚の篆額

中島君招魂碑

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に拓本がある。

浦賀奉行所与力
中島三郎助生誕200年祭
令和3年(2021年)1月25日
中島三郎助と遊ぶ会

中島三郎助の生涯
 中島三郎助は、幕臣であることを貫き通して49年の生涯を終えた。その中島が見習うべき人物としたのは、鎌倉時代に源頼朝に生涯を捧げた三浦大介義明であった。
 文政4年(1821年)21月25日に浦賀で生まれ、三郎助で8代目となる奉行所の与力の家系であった。

  天保6年(1835年)閏7月、15才で奉行所の与力見習いとして出仕した。見習いに出仕するまでに槍術・剣術ともに当時砲術三派であった田付流・荻野流・集最流をすでに学んでおり、後に西洋式の高島流まで含めてすんべて免許皆伝となっている。
 この砲術の腕前は、天保8年(1837年)6月に浦賀沖に来航したアメリカ商船・モリソン号に観音崎台場から砲撃を加え、打払っている。この時の功績で、浦賀奉行・大田資統から太刀を拝領した。
 また、この年岡田定十郎の娘・すず(15才)と結婚している。

 嘉永2年(1849年)6月、父の跡を継ぎ与力となった。翌年7月には館浦にあった「玉薬製造所」の責任者を勤めていたが、足軽役の者の過失から製造所と隣接の船蔵が焼失す、その責任から謹慎処分を受けた。

 嘉永6年(1853年)6月、アメリカ東インド艦隊のペリーが率いる2隻の蒸気軍艦と2隻の帆走軍艦が来航すると、応接掛として最初に黒船に乗り込み交渉した。もっとも中島の関心は最新鋭の蒸気軍艦には装備されていると思われる炸裂弾を発射できる大砲を検分することにあった。
 ペリー来航後、幕府に提出した上申書には、今は海外諸国の知見を養うことが大事であると述べており、力の差を見せつけられた中島ならではの提言であろう。

 幕府も軍艦の必要性を実感し、浦賀奉行所へ軍艦建造を申し付けた。この軍艦・鳳凰丸は日本人の手による最初の洋式軍艦であり、その中心人物となったのが三郎助であった。しかも9ヶ月というスピードで翌年5月に完成させている。
 こうした三郎助の活躍は広く知れ渡り、長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が三郎助のところに弟子入りしている。三郎助は幕府が長崎に開いた海軍伝習所へ派遣され、オランダ人から造船や洋式砲台の建設などを習得した。

 安政5年(1858年)長崎から戻った三郎助は、幕府海軍の草創期に活躍し、多くの後輩を指導している。
 また和歌や俳句を通じて、浦賀周辺の人々とも交流をもっていた。
 戊辰戦争が始まると榎本武揚らとともに北海道にわたり、ここに新しい国(中島のなかでは新徳川幕府)づくりに親子で参加したが、新政府軍の攻撃を受け、函館五稜郭近くで1869年5月15日桓太郎・英次郎ともに戦死した。
 
 明治23年(1890年)5月、名誉が回復され、浦賀の人々の手によって「招魂碑」が建てられた。その除幕式で中島の意思を継ぐ造船所の建設が提案されて、浦賀船渠が発足した。

中島三郎助
 明治2年(1869)5月、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いが函館郊外の五稜郭近くで行われた。この戦いで浦賀奉行所与力・中島三郎助親子は戦死した。三郎助の二十三回忌にあたり、彼の功績と名誉を浦賀の町に末永く残すことを目的に、彼とともに激動の明治維新期を生きた友人、知人たちによって建てられたのが真向かいにある中島三郎助招魂碑である。碑の篆額(題辞)は三郎助と公私ともに親交があり五稜郭で共に戦った榎本武揚が記し、激動の時代を象徴するような彼の人生を表したのは当時の外務官僚の田辺太一である。また、この碑の除幕式の日、初代の中央気象台長であった荒井郁之助の発案で、三郎助の意思を継いだ近代造船所を浦賀の地で開業することが決定した。

招魂碑建碑由来碑

同じく、浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に拓本がある。

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)

浦賀ドックや浦賀の歴史を、調べようとすると、この中島三郎助にたどりつく。いままで知るよしもなかったことをこうして新たに知れるのが楽しい。


与謝野夫妻歌碑

良さの夫妻の歌碑もあった。

黒船を怖れし世などなきごとし 
 浦賀に見るはすべて黒船
               寛
春寒し造船所こそ悲しけれ 
 浦賀の町に黒き鞘懸く
               晶子

昭和10年3月3日に与謝野夫妻が観音崎・浦賀・久里浜を訪れている。与謝野寛は同年3月26日に亡くなっているため、生涯最後の歌のひとつといわれている。

愛宕山から海を望む。
夏はやめといたほうが良いですね。(大事なことなので何度も書きます)


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/nisi7.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004024.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004001.html

https://routemuseum.jp/theme/g05/

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/tokubetuten/4.html

記念碑の台座となった「旅順口閉塞船弥彦丸の閉塞石」(久里浜・若宮神社)

久里浜の神社に、日露戦争の旅順港閉塞船に積まれていた石が使用されているというので、足を運んでみた。


旅順口閉塞船弥彦丸の閉塞石

昭和10年の「久比里ノ若宮神社」の社殿改築を記念して建立された石碑。

この記念碑の台座は、日露戦争の旅順閉塞隊に参加した弥彦丸に積まれていた花崗岩。
日露戦争後に、旅順港口を復旧させるために、閉塞船として擱座していた弥彦丸を旅順港口から撤去し、浦賀船渠の川間分工場で解体した際、その船底から取り出したものという。

この台石は浦賀工場の寄贈にして日露戰役の際 旅順口閉塞船弥彦丸に使用せしものなり


第二次旅順港口閉塞作戦

旅順港に立てこもったロシア艦隊を壊滅できない日本海軍の連合艦隊は、旅順港の入口を封じてしまう「旅順港口閉塞作戦」を決行。三次にわたり海上を封鎖する閉塞作戦が行われたが、充分な封鎖はできなかった。

第二次旅順港口閉塞作戦は明治37年(1904年)3月27日未明に決行された。4隻の閉塞船(千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸)を投入して実行されたが、ロシア軍に察知されて失敗。閉塞船「福井丸」を指揮した広瀬武夫少佐(のち中佐に特進)が戦死し、のちに軍神となった。
また、杉野孫七上等兵曹(没後、兵曹長)の他、「朝日」乗組の菅波正次2等信号兵曹(没後、1等信号兵曹)、「高千穂」乗組の小池幸三郎2等機関兵(没後、1等機関兵)も戦死している。


若宮神社

久比里地区の氏神様。西叶神社が本務社。

1531年(享録4年)、千葉介常胤の末流にあたる臼井惣左衛門が鎌倉の鶴岡若宮明神を奉戴して建立した。
祭神は仁徳天皇。
1983年(昭和58年)社殿は焼失し、1985年(昭和60年)新築されている。社殿の左側に、古い鳥居の一部や額が保存されている。
境内にある石碑には神社の縁起について書かれており、その台座は日露戦争の際、旅順口閉塞船の弥彦丸に使用されたとされる。
例年7月には「例大祭」がおこなわれる。

https://kurihama.info/jisya/wakamiyajinja/

享禄4年(1531)の建立で、御祭神は仁徳天皇です。
鎌倉の鶴岡若宮明神を奉戴して氏神とする久比里の鎮守様です。
神社の縁起を記した謹誌の基壇には、日露戦争で旅順口閉塞船の弥彦丸に積まれた石が使われています。
ここの祭礼は「久比里の下駄まつり」と呼ばれ、かつては勝海舟が書いた大幟が上がりました。

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/yosii9.html

社号標。
揮毫は、海軍大将・小栗孝三郎。黎明期の潜水艇研究の第一人者。

撮影:2022年7月


写真の撮り忘れがありましたので、2022年11月に再訪しました。。。

28糎砲弾

久比里の若宮神社の境内社、八雲神社の社殿横に鎮座。
日露戦争の勝利を記念して明治39年2月に氏子によって建立されたもの。

征露紀念

明治三十九年二月 氏子中

境内社の八雲神社


関連

海軍機雷学校跡・海軍潜水学校跡(久里浜)

千代ケ崎砲台の南側に、海軍の学校があった。
千代ヶ崎砲台を見学した後に、足を伸ばしてみました。

千代ヶ崎砲台はこちらにて。

「千代ヶ崎砲台跡」散策(横須賀)

海軍機雷学校

日露戦争の教訓を踏まえ、水雷学校の教育課程に機雷戦のカリキュラムを設定したことに始まる。
昭和16年3年に機雷戦専門の学校として「海軍機雷学校」が設立。所在地は、久里浜港の突端にあたる久里浜長瀬。

海軍対潜学校

昭和19年3月、海軍機雷学校は海軍対潜学校に改称。対戦戦闘を重視した措置であった。
昭和20年に本土決戦要員を捻出するために、術科学生は繰り上げ卒業となり、対潜学校は閉校。高等科教育は海軍水雷学校に編入となった。(海軍水雷学校久里浜分校)
繰り上げられた学生は、ほぼ特攻要員(伏龍)とされたようで。

海軍対潜学校の最後の校長は、キスカ撤退を指揮した木村昌福少将であった。

跡地は、横須賀刑務所、久里浜少年院、防衛装備庁艦艇装備研究所、港湾技術研究所などとなっている。

浦賀引揚援護局(浦賀検疫所)

終戦後、南方からの引揚に浦賀港が指定。
陸軍桟橋から引揚者が上陸していたが、引揚船内でコレラが発生したことから、対潜学校に検疫所が設けられている。
横須賀刑務所内には、引揚者の供養塔があるという。


海軍機雷学校 海軍対潜学校跡

跡地は刑務所や少年院、行政機関の敷地などになっており、立ち入ることができない。なにやら岸壁や沖合には構造物が残っているようでもあるが、大事なことなので2回書くが立入禁止なので。

海軍機雷学校 海軍対潜学校跡

碑の由来 
ここ横須賀市長瀬三丁目一帯には、次の海軍の学校がありました。
海軍機雷学校(昭和16年4月1日創設)
海軍対潜学校(昭和19年3月15日改称)
この学校では、機雷術(機雷・掃海・防潜網・爆雷など)、水中測的術(探信儀・聴音機・磁気探知機など)の教育が行われました。
終業して任地におもむいた若人は約2万7千人、そのうち約8千人の尊い生命が失われました。
この石碑はこのことを後世にのこすために建てたものです。 
 平成5年(1993年)4月1日 
  有志一同

ぱっと見は、記念碑しか残っていない。

場所

https://goo.gl/maps/arnEcR4YRp6uzyX38

※撮影:2022年7月


軽質油庫跡

上記の記事を書くために情報を整理していたときに、遺構として軽質油庫(軽質原油庫)が残っているとのことがわかったので、再訪をしました、、、

近くのケアセンターの駐車場として活用されていました。

とても綺麗な壕ですね。

海軍機雷学校 海軍対潜学校跡地

跡地は気楽に立ち入りできない施設が多い。

横須賀刑務所支所

防衛装備庁・艦艇装備研究所

久里浜少年院

港湾施設

※撮影:2022年11月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-162
1946年2月15日、米軍撮影の航空写真。

海軍機雷学校(海軍対潜学校)の該当部分を拡大。
千代ヶ崎砲台のすぐ南であることがわかる。

現在の様子。

ちなみに、久里浜少年院の沖合に、謎の構造物がある。どうやら干潮時に燈明堂の海岸から見えるところまで、近づくことができるらしい。。。

構築物は海軍機雷学校(海軍対潜学校)の施設として使用されていたもので、当時は陸続きであったらしい。荷役施設として使用され、戦後は、引揚船内でコレラが発生したために、浦賀港で会場隔離が実施され、浦賀引揚援護局浦賀検疫所が久里浜の海軍対潜学校跡地に設けられ、検疫所としても活用された。


長瀬海岸

長瀬海岸から、海軍対潜学校と千代ヶ崎の岬を望む。
平作川の北側。

干潮時には下に降り、ちかくで見れるらしいが、この日は潮が満ちてまして。。。
フランス積みのレンガ片が転がっている。古い時代のレンガ。この界隈では、千代ヶ崎、観音崎、浦賀ドック、猿島などもフランス積み。

※撮影:2022年11月


関連

「陸軍桟橋」と「浦賀港引揚記念の碑」海外引揚者が第一歩を踏みしめた港(浦賀)

昭和20年8月15日の終戦を海外で迎えた邦人(日本人)は、軍人と民間人をあわせて約660万人以上に及んでいた。戦後、日本各地の引揚者指定港では、引揚者の受け入れを行い、中でも東京湾の入口に位置する浦賀港は、約56万人の受け入れを実施した。これは舞鶴港の約67万人に次ぐ規模であった。


海外引揚者

終戦当時、旧陸軍308万人、旧海軍45万、一般法人300万の約660万人が海外にいたという。
1945年9月2日のGHQ(連合国総司令官マッカーサー)による「日本政府宛一般命令第1号」にて、外地にいた日本人は、それぞれの軍管区の下に降伏することになり、軍人・軍属・一般人を含め、すべての日本人は各軍管区の支配下に置かれた。

  • 中国軍管区
     満州以外の中国全土、台湾など
      約312万人
  • ソ連軍管区
     満州、38度以北の朝鮮、樺太、千島列島
      約161万人
  • イギリスならびにオランダ軍管区
     インドシナ、インドネシア、マレーシアなど東南アジア
      約74万人
  • オーストラリア軍管区
     ボルネオ、ニューギニア、ビスマルク、ソロモンなど
      約14万人
  • アメリカ軍管区
     38度以南の朝鮮、沖縄、フィリピン、小笠原ほか太平洋諸島など
      約99万人

実際の引き揚げは、各軍管区ごとに実施された。
昭和20年12月1日に陸軍省は「第一復員省」に改組、海軍省は「第二復員省」に改組となり、軍人の復員を司った。昭和21年6月に廃止、「復員庁」に統合された。
復員庁は昭和22年10月に廃止となり、最終的には昭和23年の「厚生省引揚援護庁」(厚生省外局)に引き継がれた。軍人軍属は復員、一般人は引揚と呼称され、一般人は厚生省担当であったが、復員・引揚それぞれの概念的呼称も「復員援護」として統一され厚生省での管轄となった。
なお、陸軍の復員はソ連軍管区で抑留された軍人以外は昭和23年1月までにほぼ完了。海軍の復員は昭和22年末迄に概ね完了していた。
一般人の引揚を含めると昭和24年(1949年)までに624万人が帰還。昭和51年(1976年)までに約629万(軍人軍属311万人、一般318万人)が帰還している。


横須賀地方復員局

厚生省引揚援護庁の横須賀地方復員局が岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県、栃木県、群馬県、埼玉県、東京都、神奈川県、山梨県、静岡県、長野県の復員業務を担当。
現在も保存されている、「氷川丸」「宗谷」も横須賀地方復員局所管の復員船として活躍している。


浦賀引揚援護局(浦賀検疫所)

「浦賀引揚援護局」は昭和20年(1945年)11月~昭和22年(1947年)5月まで引揚者の援護や検疫業務を担当。昭和22年5月からは「引揚援護院横浜援護所」(昭和22年に引揚援護庁援護局横浜援護所に改称)が設置された。昭和30年7月11日に引揚所は廃止され、業務は「横浜検疫所」が引き継いでいる。

昭和21年3月29日に中国広東からの引揚船内でコレラが発生し蔓延したまま引揚船は浦賀港に4月5日に入港。海上隔離を実施。
浦賀引揚援護局では「コレラ防疫本部」を設置し、中国及びベトナムからやってくる引揚船の海上隔離を継続し20隻が海上隔離のために沖合停泊、隔離者が7万余人に到達。患者等の食糧、飲料水の確保・提供が窮迫するも、急ピッチで施設及び衛生資材等が整備し、同年5月4日には停留船隔離者が上陸可能となった。
浦賀港での汚染船は22隻にも及び、患者483人(うち死亡72人)、保菌者191人、疑似者345人であった。
浦賀引揚援護局浦賀検疫所は、旧海軍対潜学校の敷地を活用。

https://www.forth.go.jp/keneki/yokohama/museum/page2-5.html

なお、久里浜駅近くの「長安寺」には、浦賀引揚援護局引揚者精霊塔の慰霊碑が建立されている。引揚船コレラ病没者(身元不明者)を祀っている慰霊碑。

「浦賀引揚援護局引揚者精霊塔」

また、浦賀引揚援護局の下には、引揚者を援護するための援護所も設置された。

  • 久里浜援護所(海軍工作学校)
  • 鴨居援護所(浦賀船渠鴨居工員宿舎)
  • 馬堀援護所(陸軍重砲兵学校)

馬堀援護所(陸軍重砲兵学校)「行幸之地碑」


陸軍桟橋(西浦賀緑地)

陸軍桟橋の名称で歴史を伝えている桟橋。今は釣り人たちが集う場所となっている。

この海岸線は浦賀港の海の玄関口であり、歴史を語るうえで、重要なスポットである。
L字型の桟橋は、通称・陸軍桟橋と呼ばれ、昭和10年代に出来たものである。
太平洋戦争終結後、この桟橋に南方からの引揚者が何十万人上陸し、帰国の第一歩を印した思い出深い桟橋である。
また、この場所は、享保6年(1721)に浦賀奉行所の主要機関である船番所が置かれ、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と荷物の検査が行われた船の関所であった。この検査は江戸経済の安定を図るために行われ、港町浦賀の繁栄にもつながった。
※この、港湾緑地は、国土交通省の環境整備事業により、整備したものであります。

関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5575/minato/amenity_kouen/nisiuraga/index.html

https://www.cocoyoko.net/spot/rikugunsanbashi.html


浦賀港引揚記念の碑

西浦賀みなと緑地公園内にある記念碑。

浦賀港引揚記念の碑
昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終結。ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に返還された。ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。ことに翌21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。以後、続々と感染者を乗せた船が入港。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かってない大防疫が実施された。この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。私たちは再び繰り返してはならない戦争により悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。
 横須賀市

裏面に設立趣旨が記載されている。(裏面が見にくいのは、、、)

(裏面の設立趣旨)
ここ浦賀港は、先の大戦終結後、引揚指定港の一つとして極めて重要な責務を担いました。引揚とコレラ等の防疫に携わったすべての人々をねぎらい謝意を表するとともに、この地で倒れた幾多の御霊に弔意を表します。この碑は、引揚者や地元の方々の熱意により建立が実現したものであり、市制百周年を迎えるにあたり、当地の歴史を再認識し、恒久平和の願いを後世に伝えんとするものです。
 平成18年(2006年)10月 横須賀市長 蒲谷亮一

浦賀港。
外地からの引揚者が最初の一歩を踏みしめた祖国の大地。

関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/hikiage.html


船番所跡

陸軍桟橋の前の駐車場の地が浦賀奉行所の出先機関であった番所が置かれていたところという。

関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/nisi9.html


浦賀の渡し(浦賀渡船)

浦賀港の東西を往来する渡し船。ポンポン船の愛称で親しまれている。

もともとは、奉行所が浦賀に置かれてまもない享保10年(1725年)頃から始まる渡し船。
渡し船の愛宕丸は「御座船(ござぶね)」と呼ばれた東叶神社の祭礼の際に御輿を運んだ船をモチーフにしている。
浦賀港の東西を結ぶ海上航路は横須賀市道(2073号線)に認定されている。

関連

https://www.cocoyoko.net/spot/uraga-watashi.html

https://ponponsen.jp/


関東大震災の慰霊塔

現在、愛宕山公園(浦賀園、横須賀最古の公園)になっている愛宕山が、関東大震災によって土砂崩れを起こし、その時の土砂によって生き埋めになってしまった人々の慰霊塔。


叶神社

浦賀港の東西には叶神社が鎮座している。
東叶神社と西叶神社。宗教法人としては別法人なので、まとめて記載するのはしょうしょう乱暴ではあるが、今回は神社は社頭で遥拝するのみ。

西叶神社

東叶神社(後方が奥宮と浦賀城址)

撮影:2022年7月


叶神社の御朱印帳と御朱印

むかし、参拝していたときに御朱印を戴いてました。

以下は、平成28年(2016年)の写真です。ご注意を。

西叶神社、平成28年(2016年)

東叶神社、平成28年(2016年)

昔は、神社メインでした。海軍的なところはまだ深掘りできてなくて。
今思えば、浦賀ドックの写真をもっと撮っておくべきでした。

懐かしい気持ちにもなりつつ、浦賀港関連は、いったん〆


「千代ヶ崎砲台跡」散策(横須賀)

明治時代に、東京防衛のために構築されたのが、「東京湾要塞」。
なかでも「千代ケ崎砲台」は、東京湾がもっとも狭まる浦賀水道の入口に位置している防衛上の重要拠点でもあり、近年まで自衛隊管理下にあり立入禁止区域だったということもあり、当初の面影をよく残している砲台跡。
自衛隊跡地となった国有地を横須賀市が管理し史跡整備を実施。そうして2021年10月より土日祝日限定で一般公開が開始されたので、足を運んでみました。


千代ヶ崎砲台跡

国指定史跡 東京湾要塞跡

千代ヶ崎砲台とは
 千代ケ崎砲台は、江戸時代後期に会津藩により台場が造られた平根山に、明治25年(1892年)から明治28年(1995年)にかけて陸軍が建設した西洋式の砲台です。
 東京湾内湾口を防衛する観音崎砲台の援助や、浦賀湾前面海域への防御、また久里浜から上陸した敵に対する防衛が任務で、榴弾砲の海正面防御砲台と臼砲・加農砲・機関砲からなる陸正面防御砲台で構成されています。
 建造当初の姿を良好にとどめていること、日本の近代の軍事や築城技術を理解するうえで重要であることから、猿島砲台跡(横須賀市猿島1番)とあわせて平成27年に国の史跡に指定されました。

東京湾要塞とは
 日本で始めて西洋の築城技術と建築資材を導入して建設された砲台は観音崎砲台の第一・第二砲台で、明治13年(1880年)起工、明治17年(1884年)竣工です。観音崎砲台の起工以後、明治政府は首都東京や軍港防衛のために東京湾岸に沿岸砲台群を建設しました。これらの砲台群によって守備する土地を「要塞」と定め、東京湾要塞と呼称しました。
 東京湾要塞を構成する砲台群は、明治20年代後半までに20か所、大正から昭和にかけては火砲の能力向上に伴い防衛ラインを東京湾の南側に拡大して12か所の砲台が築かれました。

日本遺産
 千代ヶ崎砲台跡は、「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」の構成文化財として平成28年に日本遺産に認定されました。
 横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミュージアム」のサテライト施設でもあります。

千代ケ崎砲台の構造
 千代ケ崎砲台の海正面防御砲台は、3つの砲座が南北に並び、1砲座に2問ずつ、合計6門の28cm榴弾砲が配備されていました。地表からすり鉢状に深く掘りこまれた露天砲座の地下には、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部が造られ、砲弾の供給や地上との連絡、砲台内での貯水や排水の仕組みが合理的に設計されています。
 地下施設の壁は煉瓦造で、天井は無筋コンクリート造となっています。千代ヶ崎砲台より11年前に建設を開始した猿島砲台は地下施設の壁・天井ともに煉瓦造であり、2つの砲台を比較することにより建築資材や技術の改良と発展を見ることができます。

以下は案内所にて。

日本の要塞と東京湾要塞

日本の要塞

東京湾要塞

千代ケ崎砲台とは
 千代ケ崎砲台は東京湾要塞を構成した砲台のひとつで、明治25年(1892年)に工事が始まり、明治28年(1895年)に完成しました。
 東京湾要塞の中での任務は観音崎の砲台群の側防と浦賀湾前面海域の防御で、対岸の富津元州砲台とともに援助砲台に位置づけられました。
 千代ケ崎砲台は、28cm榴弾砲と呼ばれる大口径の大砲が備えられた榴弾砲砲台と小口径の加農砲などが備えられた近接防御砲台で構成されていました。
 榴弾砲砲台は南北に一直線に並んだ3砲座からなり、その延長線上の北側と南側にそれぞれ左翼観測所と右翼観測所が配置されていました。各砲座には28cm榴弾砲を据え付けた砲床は2つ置かれ、3つの砲座で合計6門の28cm榴弾砲が備えられました。

28cm榴弾砲
 28cm榴弾砲の砲身は全長約2.8m、最大射程距離は7.8km、砲弾の重量は217kgになります。砲身を水平にして砲弾と装薬を装填した後、砲身を仰角に合わせて発射します。弾道は高く放物線を描き、敵艦の甲板を貫いて、エンジンや火薬庫などの艦艇の重要な部分を破壊する狙いがありました。

砲座と地下施設
 千代ヶ崎砲台の榴弾砲砲座は地表から約6m低い場所に砲床が設計され、周囲はすり鉢状の高い旨檣が築かれて大砲を隠していました。敵艦艇からの砲撃による着弾の被害を小さくするため、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部などは砲座間の地下に造られています。

砲台の建設
 千代ヶ崎砲台が建設された土地は、浅く谷が入った細尾根が続く丘陵地でした。
 砲台の建設にあたっては、丘陵頂部を削平し、地下施設の建設場所を掘削して施設を建設した後に埋戻し、残土で浅谷の埋め立てや土塁などを造成する大規模な土木工事が行わました。建設工事は陸軍工兵第一方面が担当しました。

千代ケ崎砲台の構造

集水と排水の仕組み
 千代ケ崎砲台の水の流れには、砲台内部で雨水を集水・ろ過して生活用水を確保するための集水系統と、砲座などからの汚水を砲台の外に排出する排水系統の2系統がありました。
 集水系統は、飲用水など生活用水を確保する貯水所への導水システムです。貯水所は塁道の南北2か所で確認され、類同には貯水所につながる「ろ過下水溝」が埋設されています。ろ過下水溝で簡易ろ過された雨水は沈殿池の給水口から導水され、沈殿池からろ過池を経由して、最終的にきれいに濾過されて貯水池に貯められ、生活用水として利用される仕組みになっています。
 排水系統は、雨水とともに砲座や地下施設から出る汚水を砲台の外に排水する仕組みです。貯水所への集水系統と交わらないように設計されていました。

地下室に使われた建築資材
 千代ケ崎砲台の地下に造られた砲側弾薬庫などの諸施設は、脚壁が煉瓦造、天井は無筋コンクリートで造られています。また柵門への切通しや塁道の露天空間部分の擁壁は凝灰質礫岩という石材で造られています。
 煉瓦の積み方はイギリス積みと呼ばれる方式です。塁道に面した貯水所や棲息掩蔽部の煉瓦壁は、雨水の帯水を防ぐために撥水性の高い焼過煉瓦(焦げ茶色)、直接雨風にさらされない室内や隧道内は普通煉瓦(赤色)を用いるという使い分けをしています。使われている煉瓦は小菅集治監という当時の刑務所に併設されていた煉瓦工場で造られたもので、桜の花の刻印が押されています。
 一般公開に先立ち実施した砲台の構造体の健全度調査では数か所でコア抜きを行い、煉瓦の脚壁は奥壁が約75cm、天井を支える側壁が開く1.5mの厚さで、コンクリート像のヴォールト天井は最も厚いところで約2mに及びました。
 コンクリートの強度試験では、現在のコンクリートトンネルに必要とされる強度と同等の数値が得られ、千代ケ崎砲台の地下に残る諸施設は堅牢な構造物であることが分かりました。 

現在に残る砲台跡

千代ヶ崎砲台の歴史

28cm榴弾砲模型(原寸)

28糎榴弾砲 1/35スケール

千代ケ崎砲台(現状)の模型

小菅集治監製の煉瓦


軍道

千代ケ崎砲台にアクセスするための唯一の道として「軍道」が設けられていた。現在は横須賀市道であるが、唯一のアクセス道路としての役割は変わっていない。


柵門

千代ケ崎砲台の出入り口。唯一の出入り口。

凝灰質礫岩の擁壁。


掘井戸

入口近くに掘井戸が設けられている。水は貴重。

国史跡 東京湾要塞跡 千代ヶ崎砲台跡


土塁

土塁は海上自衛隊時代に削られたりもしているが、よく姿を残している。


塁道

千代ケ崎砲台は3つの砲座と3つの弾薬庫、3つの棲息掩蔽部と2つの貯水庫などの関連施設にわかれており、塁道でそれぞれが結ばれている。

塁道の擁壁は凝灰質礫岩。

アーチ部分はコンクリートで強化している。

塁道と砲座を結ぶ交通路。


濾過池と沈殿池

奥が濾過池で手前が沈殿池。斜面を利用し、雨水を貯めるために濾過溝で水を集水し、水が下りきったところに濾過池と沈殿池が設置されている。


貯水池(第二貯水所)

沈殿と濾過を終えた浄水は、貯水池に貯められる。千代ケ崎砲台には、南北の2か所に貯水所が設けられていた。

自衛隊時代は、蓄電池倉庫だったようで。。。
(剥がして撤収しなかったようで)

オランダ積み(イギリス積み)の煉瓦。

見事な煉瓦のグラデーション。露天部や入口部分は強度を高めた撥水性に優れた「焼過煉瓦(焼きすぎ煉瓦)」が用いられ、通常の普通煉瓦と使い分けているために色が異なる。


棲息掩蔽部

兵員の待機所、倉庫などが設けられていた。

交通路


弾薬庫

弾薬庫部分。

揚弾井


点灯室

点灯室。弾薬庫にランプが持ち込みできないために、ランプは隣の部屋にある。

弾薬庫から砲座に向けて階段を上がる。


高塁道

砲座への連絡通路。砲弾供給の通路でもある。
そして砲弾の揚弾井の上部。

砲弾を砲座に移動させるためのガイドが取り付けられていたと推測。



砲座

砲弾は横のスペース縦置きで並べていた。

伝声管の穴。隣の台座とつながっている。

砲座から弾薬庫に戻ります。

塁道へ。

棲息掩蔽部の上部には通風孔がある。

塁道

小菅のマーク入り煉瓦

棲息掩蔽部と貯水所

この先には右翼観測所があるが、民有地のために立ち入りができない。。。


砲台上部

砲台の上部に。気持ち良い空間。

第三砲座。

第二砲座。

そして第一砲座。

第一砲座
28cm榴弾砲を据え付けた場所です。
地上からコンクリートの床面まで約6mの深さがあります。
1つの砲座に2門の榴弾砲が設置されました。

桜の季節にも来てみたい。桜並木。

浦賀水道。東京湾フェリーが航行している。

千代ケ崎砲台の立地
 千代ヶ崎砲台は、眼下に東京湾を一望できる標高約65mの山の上に建設されました。
 要塞建設期(明治時代)に建設された砲台群の中では最も南に位置し、当時の防御線の外側です。28cm榴弾砲が据え付けられた海正面砲台は、東京湾内湾に侵入しようとする艦船と最初に対峙することが想定されていました。
 対岸の房総半島側は水深が浅く、大型の艦船は三浦半島寄りを航行します。そのため、三浦半島側に集中して砲台が建設されました。
 大型艦が通行する航路は浦賀水道とも呼ばれ、現在では世界有数の海上交通量を誇っています。

これは、良い東京湾要塞。

なにかの遺構。
横須賀市が管理している千代ヶ崎砲台跡地の敷地外の民有地。南側堡塁にあたる。

このあたりに右翼観測所。また近接防御砲台もあるエリアであるが同じく横須賀市管理敷地外の民有地。

富士山が見えた。

塁道を上から。

通風孔は塞がれている。

千代ケ崎砲台、ここは面白いですね。
ちょっとアクセスは不便ですが、一見の価値あり。
ボランティアガイドを活用して見学するのがおすすめです。

夏場に訪問したので、ちょっと草木が茂りすぎていたので、冬にも再訪したい、あと桜の季節にも良き花見ができそう。


燈明堂跡

千代ケ崎砲台の眼下には、もともとは燈明堂があった。
江戸時代に造られた日本式灯台。

燈明堂は慶安元年(1648)から明治5年(1872】まで灯台として機能していた。
そして燈明堂背後の山には、平根山台場が設けられた。
天保8年(1837)に日本人漂流民を送り届けるために来航した米国商船モリソン号を最初に砲撃した台場。
また燈明堂は浦賀奉行所の処刑場でもあり、供養塔もあつまっている。

千代ケ崎砲台のある場所を望む。
夏場なので、海水浴客で大賑わい。燈明堂に至る道が路駐で溢れてました、、、

※撮影:2022年7月

なお、千代ケ崎砲台の下には、海軍の学校があった。


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8120/bunkazai/chiyogasaki-koukai.html

https://routemuseum.jp/theme/navy/c03/

https://chiyogasaki-supporter.jimdofree.com/

https://www.cocoyoko.net/event/chiyogasaki-.html

砲台関連

「走水低砲台跡」散策(横須賀)

横須賀の走水。
古くは、日本武尊と弟橘媛命の伝説の地「御所ヶ崎」(旗山崎)として知られている当地は、江戸期には「走水番所」が置かれ、そして幕末には「旗山崎台場」が設けられた。
明治19年(1886)には、陸軍によって半円形の低砲台が築かれ「走水低砲台」として跡が残っている。
近年、横須賀では今まで未公開であった砲台跡の整備がすすみ、一般公開・見学ができるようになったので足を運んでみた。


御所ヶ崎

横須賀風物百選

日本武尊 弟橘媛命 伝説の地 御所ヶ崎
古事記・日本書紀によれば日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐のおり、走水から上総(千葉)へ船で渡ろうとした時、海が荒れて進めず弟橘媛(おとたちばなひめ)は海神の怒りを静めるために身を投じ荒れ狂う海を鎮めました。
地元伝承によれば武尊がこの地に臨時の御所を設け軍旗を立てたことから御所ヶ崎、旗山崎と呼び弟橘媛は御所ヶ崎先端の「むぐりの鼻」 に次女たちと共に身を投じたと伝わります。港には尊が海を渡るときに乗船したといわれる寺島(御座島)の名があります。
《古東海道》
日本武尊の東征の道は古東海道といわれ足柄峠を越えて相模国に入り三浦半島を横切って衣笠宗源寺・天神坂辺りから安房口神社、小原台・走水から上総へ渡る道順と考えられています。
 大津行政センター市民協働事業・大津深訪くらぶ

走水番所・旗山崎台場跡
天正18年(1590)徳川家康が関東に入封しました。
その後、船手衆である向井一族に明治走水に御船番を置き、向井政良は御船番、走水奉行を務め、後に三崎奉行・向井忠勝が兼任しました。三崎では上り船を、走水では江戸に下る船を検査しました。今も同心町海岸の名があります。
天保14年(1843)川越藩が江戸湾海防のため台場を築いた所で、六挺の大砲を配備し異国船の侵入に備えました。
明治19年(1886)旧陸軍によって築かれた半円形の低砲台が前方の松の木に現在も残されています。
旗山崎の名は日本武尊(やまとたけるのみこと)が上総(千葉)に渡る時海が荒れて進めず臨時の御所を設け軍旗を立てたことに由来します。
 大津行政センター市民協働事業・大津深訪くらぶ


走水低砲台跡

走水低砲台跡
走水低砲台跡とは?
 走水低砲台は、明治18年(1885年)から19年(1886年)に陸軍によって建設された砲台です。27cm可農砲4門を備え、東京湾要塞を構成する砲台の一つとして首都東京を守る任務にあたりました。
 日清、日露戦争とも交戦することはなく、また関東大震災で被害を受けましたが、その後、横須賀重砲兵学校の演習用砲台として復旧し、終戦まで稼働状態にありました。現在も良好な状態でほとんどの遺構が残っています。
 走水周辺は東京湾の内湾が房総半島と近接して最も狭くなる場所に位置し、江戸時代後期には旗山崎台場が築かれ、明治時代には低砲台のほかにも走水高砲台、小原台堡塁、花立台砲台が築かれるなど海防の重要地点でした。走水低砲台が建設された丘を含む岬一帯を示す「御所ヶ崎」や丘の周辺を指す「旗山崎」という地名は、古事記・日本書紀に伝わる日本武尊と妻の弟橘媛の伝説に由来しています。
 横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミュージアム」のサテライト施設でもあります。

兵舎の左右に弾薬庫がそれぞれ。
弾薬庫の左右に、砲座(第一から第四まで)がそれぞれ。
そして左翼観測所の遺構が残されているようだ。

一般公開は祝日と土日のみ、門扉が開放される。


弾薬庫(左翼)

まずは最初に弾薬庫が見える。
左翼の弾薬庫の奥には第四砲座と第三砲座がある。

走水低砲台の構造
 海岸に突出した海抜約20mの低丘上に4つの砲座が並び、27cm加農砲が設置されていました。
 4つの砲座の中央には地下式の兵舎(掩蔽部)を設け、第一砲座と第二砲座の間に共通の地下式の弾薬庫、第三砲座と第四砲座の間に同じく共通する地下式の弾薬庫が設置されています。

砲弾供給の仕組み
 砲座間の横檣(=防弾用の土塁)の下に設置された弾薬庫からは、左右の揚弾井を使用して地上の砲座に砲弾を供給しました。引き揚げられた砲弾は各砲座の弾室に納められ、射撃に備えました。
 2つの砲座は高塁道で連絡し、その中間には小隊長掩壕が造られ、両側の砲座に指示を出すことができました。

左翼の弾薬庫は、外からの見学のみ。


兵舎(兵員棲息部)

左右の弾薬庫の間には、兵舎がある。中に入れます。

ここに兵隊さんが待機していたのだろうが、収容人数はどのくらいなのだろうか。

左右の砲座と弾薬庫に繋がる道。


弾薬庫(右翼)

右側の弾薬庫。開放されている。

内部は、左右にわかれている。
右側は第一砲座、左側は第二砲座。

揚弾井
弾薬をここから引き揚げる。

弾薬を引き揚げる場所。
揚弾井
揚弾機の金具も残る。


第一砲座

砲座を第一から順番に見ていく。
見学用に見事に整備されている。

中央に、27cm加農砲が置かれていた。

海が見える。


速射加農砲座

9cm速射加農砲のアンカーボルト。4つ残っている。
横須賀陸軍重砲兵学校の演習用として、南門砲台(観音崎・関東大震災で大破除籍)の九糎速射加農砲4門が移設されたという。

1つ目。

東京湾要塞の砲台。
竣工順に32砲台が記載されている。走水低砲台は7番目。


第四砲座

見学用にきれいに整備されている。


左翼観測所

左側の観測所の基礎が残っている。
左翼があるなら右翼もと思いたいが、右翼は消失したのかな、、、。


第三砲座

樹木に覆われているが、第三砲座。


第二砲座

基本的には、同じ作り。

4つの台座と、2つの弾薬庫と、兵舎と、とても綺麗にのこっている、大変貴重な空間。ゆっくりと見学できたということもあり、ここは必見ですね。

撮影:2022年8月


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/hasirimizuteihoudai.html

https://routemuseum.jp/area/c/c01/

https://www.cocoyoko.net/spot/hasirimizuteihoudaiato.html

砲台関連

走水低砲台を演習用砲台として活用していたのが、横須賀重砲兵学校。

横須賀には、重砲聯隊も配備されていた。

観音崎が東京湾要塞の要であった。

走水関連

走水神社の近代史跡散策(横須賀)

横須賀の走水。日本武尊と弟橘媛命の伝説を残す古社。
今回は近代史の目線で参拝をしてみる。


弟橘媛命の記念碑

明治43年6月5日建立。
弟橘媛命の今際の御歌が刻まれている。
記念碑は、東郷平八郎、伊東祐亨、井上良馨、乃木希典、高崎正風、上村彦之丞、藤井茂太の7名が発起人となり建立。

さねさしさがむのをぬにもゆるひの
ほなかにたちてとひしきみはも
勲一等昌子内親王書

昌子内親王は、明治天皇の第六皇女。竹田宮恒久王の妃となる。

嗚呼此は 弟橘比賣命いまはの御歌なり命夫君 日本武尊の東征し給ふ伴われ
駿河にては危き野火の禍を免れ 此の走水の海を渡り給う時端無く暴風に遭ひ 御身を犠
牲として尊の御命を全からしめ奉りし其のいまはの御歌なり御歌に溢るゝ真情はすべて
夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず其の貞烈忠誠まことに女子の亀鑑たるのみならず
亦以て男子の模範たるべし平八郎等七人相議り同感者の賛成を得記念を不朽ならしめ
むと御歌の御書を 常宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り彫りてこの石を建つ
明治四十二年十月
発起人
海軍大将正三位大勲位功一級 伯爵 東郷平八郎
海軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 伊東祐亨
海軍大将従二位勲一等功二級 子爵 井上良馨
陸軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 乃木希典
樞密顧問官兼御歌所長従二位勲一等 男爵 高﨑正風
海軍中将従三位勲一等功一級 男爵 上村彦之丞
陸軍中将従四位勲二等功二級  藤井茂太
  御歌所主事従五位勲六等 阪正臣謹書
  旭海鶴永富萬治敬刻

そうそうたる発起人が名を連ねる。

東郷平八郎
 日露戦争時の連合艦隊司令長官
伊東祐亨
 日清戦争時の連合艦隊司令長官、日露戦争時の軍令部長
井上良馨
 日露戦争時の横須賀鎮守府司令長官 
乃木希典
 日露戦争時の第3軍司令官
高﨑正風
 御歌所初代所長、初代國學院院長
上村彦之丞
 日露戦争の第二艦隊司令長官
藤井茂太
 日露戦争の第1軍参謀長


機械水雷

日露戦争での鹵獲品が奉納。

この機雷(機械水雷)は、弟橘媛(弟橘比賣命)の記念碑の序幕にあたり、発起人の一人で建立のため中心的な役割を果した海軍中将上村彦之丞から走水神社に寄贈されたもの。
上村中将は、除幕式の折には、第一艦隊司令長官に転じていますが、少し前まで横須賀鎮守府司令長官を勤めていた。

奉献
露国機械水雷
横須賀鎮守府司令長官
男爵 上村彦之丞
明治43年6月5日
走水神社氏子会


走水神社

御祭神:日本武尊 弟橘媛命

創建年代は不詳であるが、伝承では日本武尊が東征の途上に当地から浦賀水道を渡る際、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが始まりという。
走水神社は兼務社であり神職は非常駐。本務社は西浦賀の叶神社となる。旧社格は郷社。

社号額には、海軍少将大勲位依仁親王とある。
東伏見宮依仁親王のことですね。
海軍少将時代に、横須賀予備艦隊司令官(明治44年)や横須賀鎮守府艦隊司令官(大正2年)などを努めていたので、そのご縁で揮毫されたものと推測。

走水から眺める浦賀水道。

横須賀に来ると、たまに足を運んでしまう神社です。

※撮影は2022年8月

なお、御朱印帳と御朱印は、戦跡に興味を抱く前に参拝していた、だいぶ昔のころにいただいていましたので、参考までに掲載しておきます。

平成26年(2014)でした。8年前、、、


関連

トーハクで近代建築散策(東京国立博物館)

トーハクの近代建築散策。写真中心で。


150周年

1872年(明治5年)3月10日。
日本で最初の「博覧会」(文部省博物館)として湯島聖堂博覧会が、東京・湯島の湯島聖堂大成殿で開催された。これが日本の「博物館」の始まりであり、東京国立博物館はこの年を創設の年としている。


東京国立博物館本館
旧東京帝室博物館本館)

初代は、1881(明治14)年竣工であったが関東大震災で被災し、現在の本館は、2代目。
現在の本館は「日本趣味を基調とする東洋式」という様式規定による設計案が1929(昭和4)年12月に公募され、渡辺仁による案が選定。
1932年(昭和7年)着工、1937年(昭和12年)に竣工、1938(昭和13)年に開館。
和洋折衷の「帝冠様式(洋風建築(コンクリート建築)に東洋風の屋根)」の代表的建築。
2001(平成13)年に重要文化財に指定されている。

無料観覧日でした。


本館の内部

中の様子も。トーハクは一部を除いて、内部も撮影できるのが良いです。

エントランス。いろいろなドラマでも登場する場所。

便殿(旧貴賓室)
現在の本館が昭和13年に東京帝室博物館の本館として開館したときに貴賓室として造られ、天皇はじめ皇族方がお出でになられたときのご休憩所として使われました。
帝室博物館から国立博物館となった今日では、皇族方だけではなく、国賓や公賓など国の大事なお客様の休憩室として利用されることもありますという。


庭園から本館を

庭園にもいくつか興味深いものがありますので見てみましょう。

詰所、これも趣がある。。。


第二回内国勧業博覧会の碑

庭園内に。

内国勧業博覧会碑

第二回内国勧業博覧会の碑
明治政府は勧業政策の一環として内国勧業博覧会を開催、その第一回から第三回の会場が上野公園だった。明治14年(1881)に開催された第二回内国勧業博覧会では、新築間もないコンド設計の博物館本館(旧本館)が美術館として使われた。


町田石谷君碑

庭園内に。

初代帝国博物館館長に当たる博物局長を務めた町田久成(1838~97)をしのんで明治43年(1911)に建てられた。

町田久成の碑
初代博物局長(博物館長)町田久成の顕彰碑。町田久成は天保9年(1838)薩摩(現在の鹿児島県)に生まれ、慶応元年(1865)にイギリスへ渡った。大英博物館などを訪れた町田は、日本での博物館創設を志し、帰国後日本の博物館の基礎を築いた。


町田久成館長像

庭園を離れ、平成館の近くに、胸像もある。

初代 町田久成館長像

題字の揮毫は、第97代内閣総理大臣であった安倍晋三。平成28年11月建立。

初代館長 町田久成
薩摩藩の名族に生まれ、幕末に藩命を受けて欧州に留学。維新後は文化行政を担い、博物館の初代館長として上野博物館の建設や博覧会開催に尽力した。辞官後、出家して園城寺子院の住職となり、「岩谷」と号した。当館庭園にその事跡を偲んだ「町田岩谷君碑」がある。

 町田久成は、天保9年(1838)薩摩国日置郡石谷領主の町田久長の長男として鹿児島城下に生まれ、町田家29代当主となる。19歳で江戸の昌平黌に学び、文久3年(1863)26歳で大目付にとなった。同年に藩の開成所が創設されると学頭となり、慶応元年(1865)薩摩藩英国留学生を率いて渡英した。帰国後は新政府で外国官判事や外務大丞として外国事務に携わったが、明治3年(1870)に大学大丞に転じて文化財行政に専念した。明治5年、旧湯島聖堂の大成殿で開催した博覧会を機に「文部省博物館」が発足すると、初代館長に就任し、ただちに文化財を恒常的に保管・展示するための本格的な博物館建設の必要性を太政官に建言し、明治15年、上野寛永寺跡地の新たな博物館開館に至るまでその運営に尽力した。その後明治18年に元老院議官となったが、4年後には職を辞し、岡倉天心やフェノロサなどと共に、園城寺法明院住職の桜井敬徳和尚に帰依し、園城寺光浄院の住職として文化財の保護に努めた。
 明治30年9月13日上野の明王院にて逝去。享年60歳。
   平成28年11月吉日
    建立 町田家32代当主 町田忠夫
    題字揮毫 第97代内閣総理大臣 安倍晋三
    政策 文化勲章受賞・日本芸術院会員 中村晋也

安倍さんの揮毫。


森鴎外総長室跡

平成館の前。池から浮き出る森鴎外総長。。。

森鴎外総長室跡
平成館及び前庭の一帯は、明治15年(1882)に博物館が上野に移転してから、展示棟に付属する事務棟の建物が多く建てられました。この付近には底質博物館を統括する総長の居室があり、森林太郎(鴎外)は大正6年(1917)から大正11年に死去するまで、総長としてここで執務しました。
 2012年10月 鴎外誕生150年にあたり
帝室博物館総長森林太郎(鴎外)大正6年12月~大正11年7月


表慶館

1900(明治33)年、皇太子(後の大正天皇)のご成婚を記念して計画され、1909(明治42)年に開館。
東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)などで知られる宮廷建築家の片山東熊による設計。明治末期の洋風建築を代表する建物として1978(昭和53)年、国の重要文化財に指定。

こんな感じで、トーハクの近代建築散策。

トーハクは、一日過ごしても、すべてを見きれない感じで、毎回、退出時には後ろ髪を引かれています。。。またこよう。

※撮影:2022年7月


上野関連

「台湾ウイスキー・山豬迷路」日本統治下時代の台湾の酒造伝承

先日、「台湾ウイスキー」を、懇意にしている「とある台湾メーカー」からいただきました。
covid-19の影響で、往来に制限があった日台両国でしたが、2022年10月より、制限なく往来ができるようになり、そうして台湾メーカーが日本の展示会にも久しぶりに出展。
代理店として私が、来日した台湾メーカーをサポートをしたという縁もあって、このたび台湾ウイスキーをいただいた次第でした。
最初は、台湾ウイスキー?なイメージでしたが、ちょと調べてみると面白く、さらには戴いた銘柄が、日本統治下時代からのエピソードをもっていたので、本記事に掲載したという感じ。


台湾ウイスキー

2002年に台湾が世界貿易機構(WHO)に加盟したことにより、50年以上続いていた酒類専売制度が廃止され、自由製造となったことにより、台湾での酒造製造が活性化。「カバラン(KAVALAN)」は台湾初のウイスキー蒸溜所として台湾ウィスキー界を牽引。そして「オマー(OMAR)」のナントー蒸溜所も有名。
さらには、村おこし事業として各地の農村でも「農村酒莊」として酒造が行われるようになってきている。


新高山(玉山)と信義郷

新高山(玉山)
台湾最高峰の玉山。標高3952m。日本統治時代の旧称は「新高山(ニイタカヤマ)」として、日本の最高峰でもあった山。
昭和12年(1937年)には大日本帝国の「新高阿里山国立公園」に指定。
昭和16年(1941年)12月2日に発令された日米開戦の日時を告げる、大日本帝国海軍の暗号電文『ニイタカヤマノボレ一二〇八』の「ニイタカヤマ」とは、現在の「玉山」のことである。

信義郷
信義郷は南投県の東部に位置しており、南投県内最大の面積の郷鎮であり、全国でも第2位を誇る広さを有している。
信義郷は中央山脈及び玉山山脈上に位置し、台湾最高峰の玉山を域内に含んでいる。また、南投県信義郷は「梅の故郷」と称される台湾最大の梅の生産地でもある。


信義郷農会梅子夢工廠

南投県信義郷農会の梅子夢工廠は、信義郷を代表する梅を主力製品とする台湾のさまざまな地元農業特産品を開発している加工工場や、酒造設備を備えた「農村酒莊」となっている。

今回、戴いたウイスキーは、台湾一の名峰「玉山」の名水を活用した信義郷農会(日本で言う農協みたいなもの)「農村酒莊」で蒸留したウイスキーとなります。日本で言うところの富士山ですね。

https://www.52313.com.tw/

場所

https://goo.gl/maps/xspZt9WrPyTF6juD7


「山豬迷路」

「山豬迷路」を直訳すると「迷い込んだイノシイ」とか「迷子のイノシシ」とか、こんな感じだろうか。どうもイノシシを迷わせるらしい。
前置きが長くなったが、「山豬迷路」がウイスキーの銘柄。なかなか面白い。

クエッションマークがいっぱいで、これは酔って迷ってますね、、、
????

なにが書いてあるが、半分ぐらいは分からないが公式サイトを覗いてみよう。

https://www.52313.com.tw/index.php?route=product/product&path=86_87&product_id=265

「威士忌」でウイスキーなのですね。

【品名】山豬迷路
【類別】威士忌 (ウイスキー)
【原料】台灣穀類精釀
【酒精度】40度
【容量】600毫升 
【產地】台灣
【注意事項】瓶塞採天然軟木,酒液中若有木屑沉澱,屬正常現象。
コルクは天然コルクを使用しており、木片がワインに沈殿するのは正常な状態です。
【威士忌說明】以穀類為原料,經糖化、發酵、蒸餾,貯存於木桶二年以上,其酒精成分不低於百分之四十之蒸餾酒。
【ウイスキーの説明】穀物を原料とし、糖化、発酵、蒸留を行い、木樽で2年以上貯蔵したアルコール度数40度以上の蒸留酒。

山豬迷路-米的威士忌:玉山山簏泉水及精選台灣優質米
米のウイスキー 玉山篭泉水と台湾産の厳選された高級米を使用

以精純工法釀製蒸餾,再以頂級橡木桶存封數年裝瓶上市
洗練された方法で蒸留され、上質なオーク樽で数年間、樽詰め。
石板酒窖長年溫度介於18-23°C,絕佳的熟成環境、時間的淬鍊,造就非凡風味,四十度的口感不嗆不辣。些許的煙燻味以及大地的稻米香,想微醺、放鬆的夜晚來和山豬一起迷路吧!
貯蔵庫の温度は一年間を通して18~23℃で、優れた熟成環境と時間が格別な味わいを生み出します。ほんのりスモーキーな香りとお米と土の香り、ちょっと酔ってリラックスしたい夜に、イノシシと一緒に迷子になりませんか!

山豬建議:
イノシシのおすすめ:
直接啐飲 享受原味 迷路指數40%
ストレートで飲む オリジナルの味を楽しむ 迷子指数40%
加水稀釋 味道更豐富 迷路指數20%
水割り より豊かな風味を味わう 迷子指数20%
冰塊飲用 享受酒體的變化 迷路指數25%
ロック 味わいの変化を楽しむ 迷子指数25%


「山豬迷路」の由来

日本統治時代の台湾では大正11年( 1922)、酒専売が導入され、台湾総督府の財政状況を安定化し、台湾のインフラ整備にも貢献することになった。

公式サイトには、「山豬迷路」の由来も記載されている。エピソードは日本統治下に遡ります。

      故事來自日據時代受到強制遷村到山下的信義地利部落。據說當時部落裡有一位相當擅長釀酒的伍禡 WU MA 奶奶,由於日人限制私釀。所以伍禡WU MA奶奶都會利用黑夜用黑布將自家窗戶緊密遮住,進行穀釀的最後蒸餾作業,以提供族人於慶典中飲用。待作業完畢後再利用深夜將蒸餾完的酒渣,運至山谷中丟棄,適巧倒完之後出外覓食的山豬受到酒香的吸引,蜂擁而至,開懷品嚐起酒香四溢的酒渣。
      或許是不勝酒力,也可能是意猶未盡山豬們竟然循著味往伍禡WU MA奶奶的家中前進。整理完畢的伍禡WU MA奶奶最後將黑布收下,窗戶的燭火燈光在深夜異常明亮。山豬們此時竟然狂奔的衝進伍禡WU MA奶奶家中。
        此後族人就笑稱伍禡 WU MA奶奶的穀類精釀叫山豬迷路。而且在那限制私釀的年代,族人一提到-山豬迷路更是相視會心一笑。
        信義鄉農會酒莊沿用伍禡 WU MA 奶奶精純工法釀製蒸餾,再以頂級橡木桶存封數年裝瓶上市。為每位享用山豬迷路的同好保留住當年部落居民山居生活最為可愛的默契、友誼與歡樂。

山豬迷路(https://www.52313.com.tw/home/public/board-content?id=28

簡単に意訳します。。。
 この物語は、日本統治時代に村を山間部に強制移住させられた信義地利部落に由来する。この部族には、酒を造るのが得意な呉馬婆さん(伍禡WU MA奶奶・ウーマーおばあちゃん)がいたと言われている。日本統治下時代は個人での酒造には制限がかかっていたため、ウーマー御婆さんは、真夜中に黒い布で家の窓を暗闇の中でしっかりと覆い、穀物酒(雑穀酒)の蒸留を行って、そうして部族が祝賀会で婆さんの蒸留酒を飲むことができるようにしました。
蒸留が終わると、残り滓は深夜に渓谷に運ばれて廃棄される。ちょうど、渓谷に残り滓を注いだ後に、餌を食べにきていたイノシシが、ワインの香りにつられて群がってきた。
 アルコールをもっと欲していたのか、イノシシたちはアルコールの匂いを追ってウーマー婆さん家へ。片付けが終わって、ようやく婆さんが作業を隠していた黒い布を片付けると、窓の蝋燭の明かりが異常に明るく真夜中を照らしはじめた。このとき、イノシシたちはウーマー婆さんの家に一斉に殺到してしまった。
 それ以来、部族では「ウーマー婆さんの雑穀酒でイノシシが迷子になった」と冗談を言うようになった。 自家醸造が制限されていた当時、イノシシが道に迷ったという話をすると、部族一族郎党が笑い合った。
 信義郷農協蒸留所(信義郷農會酒莊)では、ウーマー婆さんの穀物酒の蒸留方法に従い、最高級のオーク樽で数年間樽詰めしている。 丘陵地帯の部族生活の友情、仲間意識、喜びといった最も素敵な絆は、「山猪迷子」を楽しむすべての人にとって守られています。

※画像は公式サイトより引用

迷子の猪がかわいい。。。
看板には「東埔温泉」「信義酒莊」と記載あり。
東埔温泉は、台湾最高峰の温泉地であり霊峰・玉山の名湯。

信義地利部落

https://goo.gl/maps/fBmmVbrJNQupPEbJA


「山豬迷路」パッケージ

まだ、飲んでいませんので、味わいに関してはまた後日。。。
ウイスキーは寒冷地というイメージがありましたが、もちろん台湾は南国。南国ゆえに熟成スピードが早く、台湾ウイスキーはフルーティでまろやかになるのだとか。開封が楽しみ。

というか、台湾行きたい、、、

※撮影2022年11月


関連

「国際観艦式2022フリートウィーク」艦艇一般公開(東京)

2022年11月12日。国際観艦式2022に際して、艦艇の一般公開がありました。
東京国際クルーズターミナルで開催された海上自衛隊艦艇の一般公開の模様を、写真多めに掲載します。

※横浜での一般公開は以下にて。

※船橋での一般公開は以下にて。


護衛艦「くまの」(JS Kumano, FFM-2)

もがみ型護衛艦2番艦。母港は「横須賀」。多機能フリゲート艦。
就役は2022年3月22日。基準排水量は3,900トン。
2番艦である「くまの」は、1番艦の「もがみ」に先立つ進水であった。

クリスマス仕様

砲塔に角が生えていた。

クリスマス仕様。

案内人が持っている棒の先に「くまの」のぬいぐるみ。かわいい。

なんかいた。重巡洋艦「熊野」だ。


護衛艦「もがみ」(JS Mogami, FFM-1)

もがみ型護衛艦1番艦。母港は「横須賀」。多機能フリゲート艦。
就役は2022年4月28日。基準排水量は3,900トン。

ダイキンの砲弾

なんかいた。重巡洋艦「最上」だ。


護衛艦「かわたき」「いしかわ」

館山航空基地の第21整備補給隊所属の護衛艦「かわたき」と「いしかわ」

自走式の護衛艦模型、です。


「東京国際クルーズターミナル」送迎デッキ

送迎デッキから2艦を。


そのほか

撮影場所は、前甲板と後甲板のみ。もがみ型護衛艦は、通常よりも天井が低く、通路も露天ではなくなったために、艦内は狭い。安全を考慮しての撮影禁止かとは思いますが。

また、乗艦券が配られておりましたので、乗艦人数も調整をしていた模様。


宗谷(海軍の大先輩)

船の博物館が管理をしている「宗谷」。帝国海軍特務艦としても活躍していた「宗谷」と、最新鋭の護衛艦とが、おなじ東京港に停泊していたので、2ショットを。

「宗谷」に関しては、下記を参照に。


艦艇護守印

護衛艦乗艦記念として乗艦した艦艇の護守印が頒布。

※撮影:2022年11月


「国際観艦式2022フリートウィーク」艦艇一般公開(船橋)

2022年11月5日。国際観艦式2022に際して、艦艇の一般公開がありました。
千葉の船橋で開催された海上自衛隊艦艇の一般公開の模様を、写真多めに掲載します。

※横浜での一般公開は以下にて。

船橋東埠頭

船橋東埠頭では、護衛艦「せんだい」が公開されました。

あっ、千葉地本(自衛隊地が地方協力本部)の「千葉3兄妹」(千葉衛)(千葉未来)(千葉翔)ですね。


護衛艦「せんだい」(JS Sendai, DE-232)

あぶくま型護衛艦の4番艦。母港は「舞鶴」。
就役は1991年3月15日。基準排水量は2,000トン。

南船橋駅から船橋東埠頭までは徒歩約20分。一般公開も「せんだい」一隻のみでしたので、非常にのんびりとした空間。行列などもなく、さくさくと見学できました。

艦も30年超えのレガシーな護衛艦なので、空気感もゆったりのびのびと。

溺者人形「せんだい君」

「かっぱ」の由来
護衛艦「せんだい」の艦名は鹿児島の川内川。仙台川のカッパ伝説をもとにキャラクターとしてかっぱが用いられている。

なんかいた。軽巡洋艦「川内」だ。

京葉線の車窓から。


艦艇護守印

護衛艦乗艦記念として乗艦した艦艇の護守印が頒布。

※撮影:2022年11月


「国際観艦式2022フリートウィーク」艦艇一般公開(横浜)

2022年11月3日。国際観艦式2022に際して、艦艇の一般公開がありました。
横浜の3埠頭で開催された海上自衛隊艦艇の一般公開の模様を、写真多めに掲載します。

船橋の様子は以下で。


山下埠頭

山下埠頭での一般公開は、護衛艦「あたご」と輸送艦「くにさき」でした。まずはここから。

「ガンダム」と「護衛艦」が並んでいるのは、これはこれでレア。

山下埠頭からは、横浜港大さん橋に停泊している「いずも」や「飛鳥Ⅱ」、そして旧海軍では病院船でもあった海軍の大先輩の「氷川丸」なども一堂に。

そして新鋭の「もがみ」も。「あたご」と並ぶと、「もがみ」のコンパクトさがよくわかります。

米軍横浜ノース・ドックの埠頭にも、多くの護衛艦が停留しているのがわかります。


輸送艦「くにさき」(JS Kunisaki, LST-4003)

おおすみ型輸送艦 (2代)の3番艦。母港は「呉」。
就役は2003年2月26日。基準排水量は8,900トン。

水陸両用車AAV7

ホバークラフトLCAC(エアクッション型揚陸艇)

エレベーターで上甲板(第1甲板)全通飛行甲板へ。

艦首

「あたご」と「もがみ」の艦尾。

くにさき

降ります。


護衛艦「あたご」(JS Atago, DDG-177)

あたご型イージス護衛艦の1番艦。母港は「舞鶴」。
就役は2007年3月15日。基準排水量は7,700トン。

あたご艦尾から、くにさき艦尾を。

もがみと接続しているけども、もがみは今回は非公開。

ステルスな、もがみ。

なんかいた。重巡洋艦「最上」だ。

成功させるぞ!国際観艦式!!


護衛艦「もがみ」(JS Mogami, FFM-1)

もがみ型護衛艦1番艦。母港は「横須賀」。多機能フリゲート艦。
就役は2022年4月28日。基準排水量は3,900トン。


横浜新港

山下埠頭から横浜新港に移動。11時頃に到着して13時の整理券を獲得。待ち時間の間に、大さん橋の「いずも」の整理券を獲得しに行ってもよかったが、大行列との話も飛んできたので、「いずも」は諦めて、そのまま横浜新港のハンマーヘッドで昼休みとする。

海保の巡視船PL31「いず」(3,500トン型巡視船)


護衛艦「しらぬい」(JS Shiranui, DD-120)

あさひ型護衛艦 (2代)の2番艦。母港は「大湊」。
就役は2019年2月27日。基準排水量は5,100トン。

なんかいた。駆逐艦「不知火」だ。

やばい、かっこいい!


潜水艦「たいげい」(JS Taigei, SS-513)

たいげい型潜水艦1番艦。母港は「横須賀」。
就役は2022年3月9日。基準排水量3,000トン。

潜水艦の操舵のデモは貴重。

アンテナを伸ばすデモも。


横浜港大さん橋

大さん橋には、「いずも」が停泊。一番の目玉ということもあり、整理券配布の大行列などもあり、私が到着した15時ごろにはすでに整理券の配布は終了。まあ、想定内なので、「いずも」は外観のみの見学で。

大さん橋から、山下埠頭を。
「くにさき」「あたご」「もがみ」が停泊。


護衛艦「いずも」(JS Izumo, DDH-183)

ヘリコプター搭載護衛艦(DDH)。いずも型護衛艦の1番艦。
就役は2015年3月25日。基準排水量は19,500トン。

いずもは乗れなかったので、過去記事など。。。


横浜ノース・ドック埠頭

米軍基地である横浜ノース・ドックの埠頭にも、国際観艦式2022に備えて、複数の護衛艦が停泊していた。

前は、「護衛艦せとぎり(DD-156)」(母港は舞鶴)
奥は、不詳。。。

手前は、「護衛艦くまの(FFM-2)」(母港は横須賀)
奥は、「練習艦しまかぜ(TV-3521)」(母港は呉)

米海軍の軍艦。音響測定艦が3隻も連なっている。
右が、音響測定艦インペッカブル(T-AGOS-23)(同型艦なし)
中が、ヴィクトリアス級音響測定艦ロイヤル(T-AGOS-22)
左が、ヴィクトリアス級音響測定艦ヴィクトリアス(T-AGOS-19)
米海軍は、音響測定艦を5隻保有している。そのうちの3隻が横浜に集まっているということになる。

さらには、スピアヘッド級遠征高速輸送艦プエルト・トリコ(T-EPF-11)も停泊。

こんな感じで、観艦式に向けて賑わっている横浜港でした。


艦艇護守印

護衛艦乗艦記念として乗艦した艦艇の護守印が頒布。

※撮影:2022年11月3日


関連

米海軍横須賀基地フレンドシップデー2022

2022年10月16日、3年ぶりに開催された、米軍横須賀基地のフレンドシップデー。足を運んでみたので、写真中心に記事を掲載。


旧横須賀海軍病院の境界塀

大日本帝国海軍の海軍病院。明治13年開庁。
戦後、米海軍に接収され、横須賀米海軍病院(United States Naval Hospital Yokosuka)として現在も当時の庁舎等が米軍横須賀基地内で病院として機能している。立ち入り制限があるため、今回は「大日本帝国海軍時代からの横須賀海軍病院」の軍用地境界の塀(壁)のみ見学。

米軍の消防緊急車両が、横須賀海軍病院前を通過。

むだに流し撮りをしてみる。


横須賀鎮守府軍法会議所正門跡

ここには、横須賀鎮守府軍法会議所があった。


横須賀海軍工廠造船部の建屋

横須賀海軍工廠造船部時代の建屋という。

横須賀海軍工廠造機部の建屋

横須賀海軍工廠造機部時代の建屋(組立工場)という。


海軍砲術学校入口

海軍砲術学校は、1907年(明治40年)から1941年(昭和16年)までの名称。1941年に館山砲術学校が開設されると、「横須賀砲術学校」に改名した。

よくみると、トンネルに「海軍砲術学校」とある。

当時からの護岸かも。

地下壕跡、かな。

大日本帝国海軍関係で記録できたのは、ひとまず以上。
ほかにも、日本海軍の電話線マンホールや消火栓などもあるが、今回は記録できなかった。


※2019年に米軍基地内で以下を記録してました。

消火栓


第7艦隊旗艦 ブルーリッジ
USS Blue Ridge, LCC-19

アメリカ海軍の揚陸指揮艦。日本横須賀に拠点を置く第7艦隊の旗艦。
就役は1970年。アメリカ海軍現役艦艇では最古参。


ブルー・リッジ甲板から

ラルフ・ジョンソン
USS Ralph Johnson, DDG-114

原子力空母の修理拠点
米海軍修理バージ YR95、YR96、YR85

小さい船は、かわいい。

見学の大行列、、、

横須賀の軍港を、米軍側から見れるのは貴重。
写真の左手は、吾妻島。米海軍の倉庫がある。

はるか向こうに、住友の横須賀製造所もみえる。

たぶん、旧帝国海軍の建屋も点在しているはず。

謎キャラ登場。


米海軍オレゴン号の錨

In Memory Of A Gallant Ship
USS OREGON
1896-1919

アメリカ海軍インディアナ級戦艦3番艦「オレゴン」(USS Oregon, BB-3)の
1919年の退役後は武装解除され博物館船となっていたが、1941年に海軍はスクラップ艦として再活用しようとしグアムへ曳航。そのままグアムで終戦を迎え、1956年に解体された。


米国船オネイダ号 国際平和記念碑
USS ONEIDA INTERNATIONAL PEACE MEMORIAL

USS ONEIDA INTERNATIONAL PEACE MEMORIAL

The USS Oneida distinguished herself during the American Civil War and fought bravery in the New Orleans,Vicksburg and Mobile Bay Navel Battles.
It during the Mobile Bay Naval Battle where her heroic crew earned 8 Medals of Honor.
During the Meiji Restoration she served the best interests of the United States and the Emperor of Japan by having a part in putting down a Warlord uprising near Osaka.
This is dedicated to the 115 Sailors and Officers of the USS Oneida whose lives were lost in the service of their country.May her legacy continue to inspire all Sailors;past, present and future in the pursuit of freedom and international peace.
“Greater love has no one than this; to lay down one’s life for his friends.”
John 15:13
Memorial maintained by Yokosuka Chief Petty officer’s Mess
Erected 2007

1870年1月24日、米国船オネイダ号は母国アメリカ合衆国に向けて東京湾をあとにしました。船はこの地点から真東に4マイル位のとことでイギリスの貨物船「ボンベイ号」に激突され、その後15分の間に沈んだ。この悲劇の結果は、水兵海兵隊員、そして中国人を含む115人の乗組員の命の損失であった。
そのうち回収された遺体はわずか3体だけであった。この記念碑は東洋と西洋の古代の象徴を組み合わせ、亡くなった人々の思い出に敬意を表し、また過去、現在、未来と、歴史的かつ継続的な日米の協力関係を表すものである。
水兵たちが安らかに眠らんことを。



MASUOKA PARK(増岡公園)

「ミスターネイビー(Mr,Navy)」として、長年にわたり衆議院事務局に勤務していた増岡一郎氏は、日米安全保障の架け橋として、米海軍によって永遠に語り継がれ、記念として、「MASUOKA PARK」が設けられている。

This park is named for the honorable Ichiro Masuoka.
“MR,NAVY” a true friend and selfless supporter of the navy and the united states-japan security relationship.
Because of his peaseverance and dedication. Our sailors and their families enjoy a significantly improved quality of life
He shall live forever in our hearts.


米海軍横須賀基地ヘリポート管制塔

かつてこの場所には、潜水母艦「大鯨」の艦橋を流用した航空管制塔があったという。昭和52年頃までは現存していたというが、現在は撤去されており、新しい管制塔となっている。

沖合に何かいた。。。米海軍。

民間船のようにみえますが、これは米海軍ワトソン級車両貨物輸送艦「ダール」。ワトソン級車両貨物輸送艦は、世界最大のガスタービンエンジン推進艦。

猿島。冬になったら行こうと思う。。。


Yokosuka Friendship Day
ヨコスカフレンドシップデー

ライブ開場

郵便局

MILITARY POST OFFICE, YOKOSUKA JAPAN

マクドナルド

警備艇

アメリカンな焼肉。

あとは、ふらふらとアメリカの空間を堪能。
ネイビーバーガーを食べたけど、写真はいまいち。


三笠公園

モニュメント撤去工事中


買い物。
スタバのエナジードリンク。バニラとモカ。バニラはやばいくらい甘いらしい。力尽きたときに飲もう。。。

※撮影:2022年10月


関連

戦後国産機リスタート2「新立川飛行機」と「立飛R-53型軽飛行機」(立川立飛)

戦後日本の航空産業は、時(とき)を止めていた。
そして終戦から7年後に、国産機の復活の口火を切ったのが「新立川飛行機」であった。

本記事は、2022年に一般公開された「R-53」を中心とした「新立川飛行機その2」、です。

「その1」は、下記にて。

今回、「一式双発高等練習機・キ54」の公開とあわせて、普段は非公開の「R-53型軽飛行機」も公開されました。


新立川飛行機

戦前、中堅飛行機メーカーとして、「赤とんぼ」や中島飛行機「隼」のライセンス生産などを行ってきた「立川飛行機」。
終戦により、立川飛行機をはじめ、日本国内の航空産業はすべて停止させられた。
立川飛行機は、1949年(昭和24年)11月15日に企業再建整備法により、「立飛企業」と「タチヒ工業」(のちの新立川飛行機)とに分割された。

昭和20年(1945年)11月18日
「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」発令
連合軍による航空活動の禁止命令(航空禁止令)

昭和25年(1950年)6月25日、朝鮮戦争勃発。
昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和条約
同年10月25日、民間航空再開。
昭和27年(1952年)7月、航空法及び航空機製造法が公布。


R-52型軽飛行機

昭和27年9月、飛行機制作が解禁され立川飛行機の技術伝承を目的に設立されていた第二会社「新立川飛行機」が、戦後最初の国産機「立飛R-52練習機」を制作。戦時中に作られた部品の寄せ集めではあったが、国産航空機生産は、「新立川飛行機」から始まった。
「R」は練習機を意味し、「52」は1952年型を意味する。
R-52は、戦前に試作していたR-38練習機をベースとしているため、戦前の航空機を再生産したような古い設計の飛行機であったが、それでも戦後の国産飛行機のはじまりには違いない。


R-53型軽飛行機

「R-53型軽飛行機」について
R-52の改良型として製作され、基本的な設計は変わらず、エンジンをイギリス製シラス・メジャー(155hp)に換装するなど改良が加えられました。同機は「R-52」と共に全日本学生飛行連盟に貸与され、日本一周飛行に参加しました。その後、一旦、航空大学校での練習機としての使用を経て1957年に新立川航空機㈱に返却されました。

機体概要
全長:7.5m、全幅:10.7m、全高:2.65m、最高速度:時速207km/h、上昇限度:4,500m

以下、写真を中心に。


R-HM型軽飛行機

立川市の複合施設「GREEN SPRINGS」のTAKE-OFF-SITEにて公開されている、R-HM型軽飛行機は、操縦席の公開があったので、座ってきました。

操縦席。
極めて原始的な造り。これは間違いなく操縦が難しい。。。

復元作業の様子など。


立飛ビールとステッカー

https://www.tachihibrewery.com

立飛ビールを購入して、ステッカーを頂きました。

※撮影:2022年10月


立川飛行機「一式双発高等練習機・キ54」(立飛ホールディングス最後の一般公開)

立川市の立飛ホールディングスで、昨年に引き続いて、2022年10月27日(木)から30日(日)まで、「一式双発高等練習機」が一般公開されました。

2022年10月の今回が、「立飛ホールディングスとしての最後の一般公開」(予定)という。
スタッフに「最後?」の詳細を聞いたところ、今後は立川市が保存をし、立川市として恒常的な施設ないし展示を実施する予定という。つまり、一民間企業たる「立飛ホールディングス」として、このような形の一般公開は最後となる見通し。

本記事は2022年公開時のものです。
2021年公開時の模様は、下記の記事にて


立川飛行機


新立川飛行機


国内唯一の立川飛行機「一式双発高等練習機」現存機

一式双発高等練習機
大日本帝国陸軍の練習機。
キ番号は、「キ54」。
略称は、「一式双発高練」「一式双高練」「双発高練」など。
連合軍のコードネームは、「Hickory」(ヒッコリー、クルミの意味)
開発製造は、立川飛行機。
昭和16年(皇紀2601年、1941年)に正式採用。
立川飛行機として、はじめての自社開発全金属製双発機。
傑作機として重宝され総生産機数は、1342機に及ぶ。

展示機は、飛行第38戦隊所属機。昭和18年(1943年)9月27日、能代飛行場から離陸後にエンジントラブルによって十和田湖に不時着水。乗員4名のうち3名が死亡、1名が生還。
低温淡水の十和田湖底であったために、機体腐食が少なく当時の塗装が残るままで発見され、2012年に引き揚げ。
青森県立三沢航空科学館で展示されていたが、2020年に立飛ホールディングスに譲受された。
また同時に引き上がられた天風型エンジンの1基は製造を担当した東京瓦斯電気工業(日立航空機)の後継企業にあたる日野自動車が復元処理をおこなっている。


一式双発高等練習機(一式双発高練)・キ54
「写真」

以下、写真中心にお送りいたします。
昨年の記事で詳細を記載しているので、今回は省略。

開場直後。1時間前に並んだ成果の最初の1枚。

昨年と展示の状態が異なっている。
機首の木枠がなくなっていたり、上部の窓の跳ね上げがなくなっていたり、胴体部と機首部をつなげていたり。

双発エンジンは、空冷単列星型9気筒。
東京瓦斯電気工業(日立航空機)が開発・製造した航空機用空冷星型エンジン
陸軍名称は「ハ13」、海軍名称は「天風」。陸海軍統合名称は「ハ23」。

一式双発高等練習機に使用されたエンジンは、「日立ハ13甲」 (九八式四五〇馬力発動機)。

主に、陸海軍の中間・高等練習機で使用されたエンジン。
陸軍では、「一式双発高等練習機」、「一式輸送機」、「二式高等練習機」などに採用。
海軍では、「赤とんぼ」と呼称された「九三式中間練習機」や、機上作業練習機「白菊」などにも採用されている。


立川飛行機の概史と三大生産数機種について

石川島飛行機製作所から立川飛行機へ
大正11年(1922)夏に立川飛行場が完成。(2022年で立川飛行場100周年)
大正13年(1924)11月、東京石川島造船所の出資により、石川島飛行機製作所が設立。
社長は渋沢栄一の三男・渋沢正雄。渋沢財閥と大倉財閥の資本であった。
創業地の月島は飛行場がないことから、飛行機製制作には不便ということもあり、昭和5年(1930)5月に立川に移転。昭和9年4月に陸軍から練習機の単独試作を命ぜられたことから、航空機メーカーとして地位を気づき、95式1型練習機(赤トンボ)を正式化。

昭和11年2月、2代目社長の渋沢武之助が退任し、大倉財閥系の門野重九郎が代表取締役に就任。7月に「立川飛行機:へ称号を変更した。

三大生産数機種
九五式一型練習機 2398機
九八式直協機 849機 / 九九式高等練習機 1067機
一式双発高等練習機 1347機

立川飛行機は、陸軍すべての練習機を製造していた。
初等練習機としての「九五式三型練習機」
中間練習機としての「九五式一型練習機」
そして、実践機へとつながる高等練習機としての「九九式高等練習機」「一式双発高等練習機」。

メイドイン多摩
上記の三大生産数機種は、北多摩製であった。
機体は、立川飛行機、発動機(天風系)は日立航空機、点火栓は立川工作所であった。


作業台

キ54の作業台。


重要航空遺産

日本航空協会認定。


各種説明

昨年の記事を参照で。省略します。。。


立川飛行機の建屋

おおくの建屋は、立川飛行機時代のもの。

正門

ノコギリ屋根の建屋

いずれも、立川飛行機時代の建屋。

車庫も当時からの建屋。

車庫の隣の建屋も。

写真は取らなかったけど、守衛所も。

立川飛行機の建屋の詳細は、こちらで。


立飛ビール

https://www.tachihibrewery.com

ビールを購入すると、ステーカーがもらえました。

一式双発高等練習機「キ54」(一式双発高練)

九五式一型練習機「キ9」(赤とんぼ・九五式中練)

※撮影:2022年10月


関連

「第一騎兵旅団兵舎」解体前の最後の一般公開(習志野・東邦大学)

騎兵の街・習志野。
日本陸軍第一騎兵旅団の下に編成された騎兵第十三聯隊および同第十四聯隊が使用していた建物が東邦大学構内に残っていた。
東邦大学にあった第一騎兵旅団兵舎・用材庫は、「現存日本最古の騎兵兵舎」であったが、2022年11月、キャンパス再整備計画の一環として、道路整備の延長線上にあたることから、惜しくも解体されることとなり、解体前の最後の一般公開に足を運んで来ました。

2022年11月下旬・解体予定
(2022年10月30日と11月5日が解体前の最後の一般公開日)
※本写真は2022年10月30日の模様です。

https://www.toho-u.ac.jp/press/2022_index/20221018-1242.html


習志野の騎兵


第一騎兵旅団兵舎(用材庫)

築年月/明治33年(1900年)12月
構 造/木造、切妻造平入、波板鉄板葺、小屋組は木造トラス
大きさ/梁間5 間×桁行10 間
建物用途/騎兵第十三連隊、十四連隊共用の用材庫

東邦大学 https://www.toho-u.ac.jp/press/2014_index/033001.html

https://www.toho-u.ac.jp/press/2014_index/033001.html


東邦大学

大森にあった東邦大学は昭和20年の空襲で焼失。昭和21年に習志野の旧陸軍習志野騎兵聯隊跡地に移転。現在の東邦大学習志野キャンパスとなる。


第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「外観」

以下、記録写真を。


「五芒星」の文様のある換気口

陸軍を示す五芒星の文様の鋳鉄製換気口グリル。


第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「内部」

柔道場の名残。2013年までは武道場であった。


第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「内部」(魚眼)

当時としては珍しい洋風のキングポストトラスの小屋組。


第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「外観」(魚眼)


第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「出入り口」


騎兵第13聯隊と14聯隊の間の壁とか

当時のものかは不詳。。。
造りが違うのが気になった、感じ。

むしろ、下に落ちている瓦礫が気になる。


騎兵第13聯隊跡

記念碑がいくつか。

騎兵第十三聯隊跡

騎兵第十三聯隊発祥之地
船橋市長大橋和夫書

平成5年4月29日建立

(裏面)
騎兵第十三聯隊概史
 日露の戦雲漸く急を告ぐる秋 日清戦争の経験に基づき宇内の趨勢に鑑み騎兵大部隊の必要性を痛感せる我が陸軍は明治三十二年騎兵第一, 第二旅団の編成に着手 我が騎兵第十三聯隊は騎兵第十四聯隊と共に騎兵第一旅団の兄弟聯隊として此の地習志野原の南隅千葉県津田沼町大久保(現船橋市三山)に創設され明治三十四年十二月十九日軍旗を拝受す
 明治三十七年二月日露の開戦に及び聯隊は我が国騎兵の父と仰がれし秋山好古旅団長指揮の許勇躍出征 五月遼東半島塩大澳に上陸第二軍に属して曲家店、沈旦堡等の戦闘に於いて世界に名だたるコサック騎兵と交戦赫々たる偉功を奏し早くもその名声を中外に宣揚す 奉天大会戦に於いては敵の右翼を包囲せんとする第三軍の迂回運動を庇護して全軍大勝の基を拓き更に長駆奉天北方に進出して敵軍主力の側背に迫り露軍敗退の因をなせり
 降って満洲事変勃発するや昭和七年六月出動 泥濘悪路を克服してその機動力を発揮し馬占山討伐を始め東辺道討伐、乾元鎮の攻略等全満各地の作戦に活躍 八年二月海拉爾に進駐対蘇戦に備えて教育訓練に邁進す 支那事変に於いては昭和十三年八月海拉爾より長駆北支に出動主力を以て歸徳一部を以て寧陵、睢縣に在って新黄河北方地域に於ける掃蕩及び陽動作戦に活躍 十四年二月更に遠く蒙彊の地へ転進主力を以て固陽一部を以て薩拉齋に駐屯 駐蒙軍に属して各種の作戦警備に任ず 特に十四年十二月の包頭戦に於いては集団司令部の危急を救い十五年の二次に亘る五原作戦に於いてはその中核として活躍敵の蠢動を封殺し蒙彊地区の安寧に寄与す この間十四年十月我が騎兵機械化施策の一環として自動車編制に改編され更に十七年十月には戦車第三師団の創設に伴い騎兵第十四聯隊と共に機動歩兵第三聯隊を編成軍旗を奉還 茲に騎兵甲聯隊たる四十余年の栄えある歴史を閉ず 然れどもその輝ける伝統は新しき聯隊に脈々として継承せられ特に十九年五月 太平洋方面の戦況非なる時支那大陸戦線に於いて敢行せられし大陸打通作戦の一環たる洛陽攻略に於けるその活躍は永く青史にその名を止むべし 但惜しむらくは敗戦による皇軍の解体と共に聯隊の栄誉を後世に伝うる術もなかりしに幸い戦後此の地に設立せられし東邦大学より記念碑建設の快諾を得 依って我等戦友有志相諮り此処聯隊発祥の地に碑を建て聯隊歴史の概要を刻し以てその栄誉を永く後世に伝えると共に亡き戦友の霊を慰めんとす
 庶幾くは後人后後我等が微衷を察し祖国の安泰と発展に尽瘁あらん事を

歴代集団長
第1代 宇佐美 興屋  
第2代 蓮沼 蕃  
第3代 笠井 平十郎  
第4代 稲葉 四郎  
第5代 内藤 正一  
第6代 吉田 悳  
第7代 小島 吉蔵  
第8代 馬場 正郎  
第9代 西原 一策

歴代旅団長
第1代 渋谷 在明  
第2代 秋山 好古  
第3代 本多 道純  
第4代 河野 政次郎  
第5代 永沼 秀文  
第6代 稲垣 三郎  
第7代 田村 守衛  
第8代 小畑 豊之助  
第9代 宮内 英熊  
第10代 原田 宗一郎  
第11代 梅崎 延太郎  
第12代 柳川 平助  
第13代 吉岡 豊輔  
第14代 高波 祐治  
第15代 中山 蕃  
第16代 小川 正輔  
第17代 黒谷 正忠 
第18代 野沢 北地  
第19代 大賀 茂  
第20代 片桐 茂  
第21代 栗林 忠道  
第22代 森 茂樹

歴代聯隊長
第1代 田村 久井  
第2代 小池 順  
第3代 永沼 秀文  
第4代 牧野 正臣  
第5代 渡部 為太郎  
第6代 南 次郎  
第7代 高須 一万太郎 
第8代 土屋 篤  
第9代 原田 宗一郎  
第10代 宇佐美 興屋  
第11代 中山 蕃  
第12代 山内 保次  
第13代 星 松尾  
第14代 和田 義雄  
第15代 横田 卓二  
第16代 猪木 近太  
第17代 小原 一明  
第18代 山崎 武四

騎兵十三聯隊と碑について
 本学習志野キャンパスがあるこの地には、かつて騎兵第十三聯隊が置かれていました。
 騎兵第十三聯隊は、日露戦争が風雲急を告げる明治三十四年、騎兵第十四聯隊(隣接する日本大学の地)と共に、騎兵第一旅団の兄弟聯隊として創設されました。
 その後、騎兵連隊は日露戦争において。当時世界最強と謳われたロシアのコサック騎兵を奉天会戦などにおいて退けるという偉業を成し遂げます。これは当時のロシア帝国主義から日本を守った大きな一因になったと言われております。
 騎兵第十三聯隊は、司馬遼太郎氏の傑作「坂の上の雲」に登場する主人公のひとり、秋山好古旅団長が指揮したことでも有名です。
 秋山好古旅団長は後に陸軍大将となり、「日本騎兵の父」と仰がれることとなります。
 
ここには次の碑が残されています。
 一、騎兵第十三聯隊跡碑 (昭和七年)
 二、 軍人勅諭下賜五十周年碑 (昭和七年)
 三、 騎兵第十三聯隊発祥の地碑 (平成五年)
 四、 司馬遼太郎氏文学碑 (平成八年)

 司馬遼太郎氏の文学碑には、司馬氏から騎兵第十三聯隊会会長宛に送られた手紙の一節が、次のように刻まれています。
 「かつて存在せしものは、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文明というものである」

「かつて存在せしものは、
  時代の価値観をこえて保存し、
      記念すべきものである。
 それが、文明というものである」
          司馬遼太郎

(裏面)
司馬遼太郎
我が国騎兵の父と仰がれ騎兵第13聯隊等を指揮した、騎兵旅団長秋山好古は、司馬文学最高傑作の一つ「坂の上の雲」の主人公である
こいねがわくば在天の魂 時にこの故郷ふるさとに訪れ給はむことを
平成八年 騎兵第十三聯隊会

軍人勅諭下賜五十周年碑(昭和7年4月24日建立)

五角柱の碑。
各面に「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の5つの徳目が彫られている。陸軍大将南次郎書。

稲荷社
騎兵13聯隊なごりの神社、か。

兵舎跡は解体のうえで、道路になるという。。。


騎兵第14聯隊跡

せっかくなので、騎兵第13聯隊のとなりの騎兵第14聯隊にも。
東邦大のとなりの日大へ。日大はちょうど学園祭をやっていました。

こちらも記念碑をいくつか。

となりの兵舎跡が木々の隙間から垣間見ることのできる近さ。それぞれの大学の敷地にあるので、往来はできないけど、記念碑は隣り合ってある。

日大側からみた兵舎跡。

騎兵第十四聯隊発祥之地
竹田恒徳

騎兵第十四聯隊之跡

昭和43年14号館前デ発掘サレタルモノヲ復元
昭和62年10月

明治天皇御製
人ならば
 ほまれのしるし
  授けまし
軍(いくさ)の庭に
 立ちし荒駒(あらこま)

碑誌
騎兵第十四聯隊ハ畏クモ明治天皇ヨリ軍旗ヲ 親授セラレテ明治三十四年十一月創設サレ此 ノ地習志野ニ駐屯シタ
明治三十七年日露戦争ガ勃発スルヤ満州ニ出 征シ沈旦堡ニ於イテ勇戦奮闘シテ克ク騎兵ノ 精華ヲ発揮シタ
戦終ッテ此ノ地ニ帰還シ練武ニ精励シタガ昭 和七年六月満州事変ニ出動シ其ノ後此ノ地ニ ハ戦車第二聯隊ガ駐屯シタ
騎兵第十四聯隊ハ満州ニ於イテ夏季豪雨ニヨ ル泥濘ヲ冒シテ馬占山討伐等ニ従軍シ同年冬 広漠タル厳寒ノ北満ホロンバイルニ進出シ海 拉爾周辺ニ駐留シテ六年に亘リ満ソ国境守備 ノ重責ヲ遂行シタ
昭和十三年六月騎兵集団ニ出動命令ガ下リ其 ノ隷下ニアッタ聯隊ハ海拉爾ヨリ長駆河南省 帰徳淮陽方面ニ進撃次イデ蒙彊地区ニ転戦シ 昭和十七年十二月機甲兵団ノ新設ニ伴ヒ包頭 附近ニ於イテ機動歩兵第三聯隊ニ改編セラレ 戦車第三師団ニ属シテ再ビ河南省ノ鄭州洛陽 周辺一部ハ遠ク湘桂方面ニ作戦シ赫々タル武 勲ヲ挙ゲタ
此ノ兵営跡ハ昭和二十九年日本大学ノ敷地ト ナッタガ大学御当局ヨリ深イ御理解ト温カイ 御厚意ヲ戴キ有志相図リ幾多先輩戦友ノ偉勲 ヲ偲ビツツ此処騎兵第十四聯隊発祥ノ地ニ此 ノ碑ヲ建テ我ガ聯隊ノ事績ヲ永ク伝エヨウト スルモノデアル
 昭和六十一年十月二十六日
  騎兵第十四聯隊会

為聖諭拝戴五十周年並御紋章掲揚記念
昭和7年

戦車第二聯隊の跡
戦車第2聯隊は昭和8年8月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第14聯隊駐屯の跡に移駐した。
その練習部は、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。
昭和12年7月動員下令、聯隊の主力は北支に出動。
保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。
13年7月、部隊は戦車第8聯隊に改編され、中原会戦、満州、北支警備等の後、17年秋、南海のラバウルへ転進した。
戦車第2聯隊は昭和13年7月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。
16年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。
分遣された第1中隊はビルマ、第4中隊はガダルカナルに於て悪戦苦闘した。
聯隊は17年秋習志野に帰還した。
この間、習志野で編成した戦車第4大隊は昭和9年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は11年天津、戦車第17聯隊は17年綏遠省平地泉、独立戦車第7・第8中隊は19年夏フィリッピンに派遣された。
河野第7中隊はレイテ島に、岩下第8中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。
戦局緊迫するや、動員令により戦車第2聯隊は昭和19年相模地区に移動、その補充隊は20年4月新たに6個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、8月終戦を迎えた。
この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。
昭和63年8月1日
戦車第2聯隊会

こちらにも神社。

ちょうど学園祭。


位置関係

近衛師団
 騎兵第1旅団→麾下 騎兵13聯隊 騎兵14聯隊
第1師団
 騎兵第2旅団→麾下 騎兵15聯隊 騎兵16聯隊

習志野陸軍病院→習志野病院
騎兵第13連隊→東邦大学
騎兵第14連隊→日本大学
騎兵第15連隊→東邦中学校高等学校
騎兵第16連隊→大久保住宅

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8911-C1-1
昭和19年10月16日、日本陸軍撮影の航空写真を加工。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M737-103_19480118_1
1948年1月18日、米軍撮影の航空写真を加工。

※撮影は2022年10月


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