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和泉町ポンプ所(千代田区・2023年解体)

2023年5月16日から解体工事となり消失しました


東京都下水道局「和泉町ポンプ所」

大正11年竣工の鉄筋コンクリート2階建ての建造物。
大正11年(1922)8月に稼働開始。現存する日本初のポンプ場のひとつ(だった)。
大正11年3月に運用開始となった三河島処理場(旧三河島汚水処分場喞筒場施設)とともに整備された。
関東大震災と東京大空襲の猛火をくぐり抜け、今日まで約100年近く現役の施設(だった)。近隣の汚水をポンプで吸揚し、三河島の水再生センター(三河島汚水処分場)に送水をしていた。
なお、数年前までは、古い煉瓦壁が道路沿いに残っていたが2018年以降に撤去されている。

大正11年竣工。翌年大正12年9月1日には、関東大震災が発生。周辺が焼け野原になる中で、この神田和泉町・神田佐久間町周辺は、周辺住民の消火活動により防火に成功。押し寄せる猛火を、前年に竣工したばかりの和泉町ポンプ場の水などを活用して、延焼防止に役立てたという。
旧神田区では関東大震災で94%が焦土となる中で、神田和泉町周辺の1630戸は奇跡的に焼け残った。
昭和14年には、和泉町ポンプ所は「関東大震災 町内協力防火守護の地」として顕彰されている。

https://www.gesui.metro.tokyo.lg.jp/business/kanko/newstokyo/240/5/index.html

東京都下水道局ではペーパークラフトも用意されている。

https://www.gesui.metro.tokyo.lg.jp/living/kids/corner/paper/index.html

※解体となり、上記のリンクはすべて削除された模様。。。


2021年1月訪問時の写真

※クリックで拡大可

場所は秋葉原駅のほど近く。

https://goo.gl/maps/gUAR1EumivajZYWU8


解体前の2023年4月再訪

解体ときいて、直前に再訪して記録写真を。

解体工事のお知らせ
この建築物を、下記の通り解体します。
解体工事の名称:旧和泉町ポンプ所解体工事
工期:令和5年5月16日から令和5年9月29日まで

以前(2021年)に門扉に掲げてあった「神田和泉町思い出マップ」は既に撤去されていた。。。

いろいろと思うところはあるが、ポンプ場は役目を終えて、いまは解体を待つ状態であった。

※追加撮影:2023年4月


関連(近隣の史跡)

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策(その2)

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の跡地を散策。

加賀公園・野口研究所跡地・理化学研究所板橋分所跡地・愛誠病院エリアなどは「その1」にて。

「その2」では、西側のエリアを散策。位置関係等なども、その1を参照で。


圧磨機圧輪記念碑(加賀西公園)

板橋区立加賀西公園に鎮座。
板橋火薬製造所(日本で最初の西洋式火薬製造工場)で用いられた「圧磨機圧輪」にちなむ澤太郎左衛門の遺徳を称え建てられた記念碑。

慶応元年(1865年)、澤太郎左衛門が幕命を受け、オランダに留学し火薬の製法を学び、ベルギーより圧磨機圧輪を購入し帰国の際持ち帰ったもの。
澤太郎左衛門は旧幕臣として榎本武揚とともに函館戦争を戦い、蝦夷共和国開拓奉行に選任。室蘭で明治新政府に降伏。
明治新政府では、おもに海軍兵学校の教官職にあった。日本海軍において海上砲の操砲訓練を行ったのは澤が最初であったという。

明治9年8月の火薬製造所開業より黒色火薬製造に圧磨機圧輪が使用開始。
圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造する際の硫黄や木炭、硝石などを、水力を動力にして磨り潰すために用いた。
明治39年11月、黒色火薬の製造廃止により圧磨機圧輪の使用が停止。
大正11年3月に記念碑として設置。
昭和60年頃に加賀西公園造成にあわせて現在地に移設。
板橋区登録文化財に指定。

板橋区指定記念物
圧磨機圧輪記念碑

 この圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造する機械です。その材質はヨーロッパ産の大理石と判明しています。慶応元年(1865)に、艦船運用術・砲術・火薬製造などを研究するため欧州へ留学していた幕臣の澤太郎左衛門が幕命を受けて、ベルギーで購入したものです。澤はその任にあたり、ベルギーのウエッテレンにあったコーパル火薬製造所で作業員として働き、そこで職工長から火薬製造に必要な炭化釜等の図面を借り受け、圧磨機などについて教授されたと伝えられています。また、工場技師長を通じて、圧磨機をはじめとする火薬製造機械類の発注に成功したともいわれています。
 慶応3年に開陽丸で帰国した澤は、すでに小栗上野介忠順などにより、北区滝野川で企画されていた幕府の大砲製造所・火薬製造所の建設に加わりますが、明治維新の中で工事は中断となり、澤も箱館へと脱出します。この時に輸入した火薬製造機械の一部は滝野川から運び出され、軍艦へと積み込まれていますが、この圧磨機圧輪自体の動向については不詳です。のちに澤は新政府軍へと投降しますが、釈放された直後の明治5年(1872)には兵部省へ出仕し、板橋における火薬製造所建設にも中心的な役割を果たしました。
 明治4年7月、兵部省は板橋金沢県邸(旧加賀藩江戸下屋敷平尾邸)の一部を火薬製造所の用地とするために政府に引き渡しを求めました。その理由は「彼邸水車モ有之、造兵ノ為便利不少候」と申入れ書にあるように、石神井川に敷設した水車の動力が圧磨機を動かす上で重要な条件となっているためでした。同年12月に当邸の一部は造兵廠属地となり。火薬製造所の建設が始まりました。なお、当時の兵部省における造兵部門の長にあたる造兵司正には、加賀藩師で洋学(兵学・科学)に通じていた佐野鼎が就任しており、このことが製造所用地の選択にも影響を与えた可能性があります。
 明治9年8月に完成した火薬製造所は、陸軍の「砲兵本廠板橋属廠」として操業を開始し、この圧磨機圧輪を使って黒色火薬が製造されました。圧磨機による火薬製造工程は、水を注ぎながら、圧輪を回し、硫黄・硝石・木炭を細砕・混和し、篩(ふるい)にかけて粒子をそろえ、乾燥させたのち製品化するというものでした。なお、圧磨機を回転させる動力には、、石神井川からの導水路による縦軸水車(簡易フランシス水車)の動力が利用されています。なお、その設置場所は、現在の加賀2丁目15番街区あたりと考えられます。当工廠は、その後、「板橋火薬製造所と改称され、最終的な呼称は、東京第二陸軍造兵廠・板橋製造所(通称二造)となりました。
 明治27年には、当所で無煙火薬の製造が開始され、施設・設備も拡充していきますが、その一方で、取扱いが難しく、爆発事故が続いた黒色火薬については製造が減少し、同39年に製造中止となると、圧磨機圧輪も使用されなくなりました。
 大正11年(1922)3月、国内外で軍縮が進む中で、陸軍は使用されなくなった圧磨機圧輪を転用し、そこに澤の威徳を称え、圧磨機圧輪の来歴などについて刻み、記念碑としました。
 戦後、当記念碑は、通産省計量研究所敷地内にありましたが、同研究所の移転にともなって区立加賀西公園に移設されました。昭和60年(1985)に産業考古学会推薦の産業遺産に認定され、翌年には板橋区登録記念物(平成7年からは指定記念物)となりました。
 平成23年(2011)10月
  板橋区教育委員会

「板橋火薬製造所」を管轄していた「東京陸軍砲兵工廠」のマークが中央にある。

圧磨機圧輪記
是為圧磨機圧輪当用製火薬
慶応元年九月澤太郎左衛門承徳川幕府旨所購於白耳義也・・・

招魂之碑
明治 35 年爆発事故招魂之碑
(加賀西公園)

板橋区立加賀西公園内に鎮座。

明治35年7月24日に発生した、板橋火薬製造所内の丙製薬所で出火した火災が隣接する建物に延焼し、 消火活動の指揮を執った花土丈七技士をはじめ、 火薬の搬出にあたった職工ら、 合計 10 名が亡くなった事故。
明治36年7月24日で、 火災爆発事故によって亡くなった技師 ・ 職工の
1 周忌に合わせて建立された。建立者は 「板橋火薬製造所有志一同」。

 明治35年7月24日板橋火薬製作所火災起り各員之が消火に勉む偶々爆然たる猛火は勢迅雷の如く襲い来り陸軍技手花土丈七 職工今井吉次郎 辺見忠一 常盤勝次郎 金子徳次郎 田中信太郎 高木文次郎 石原吉五郎 渡辺誠次郎 新井久太郎の諸君を包み遂に非命に斃れしむ誠に悲惨の極と云うべし然と雖も死生固より命あり諸君の死を以て其任を謁し以て災害を一局に制し巨方の財を花神の厄より免れしめんもの其功績亦偉大にして以て瞑するに足るべし 茲に其一周忌に際し義金を拠出し碑を立て其霊を弔し其魂を慰むると而云。
  明治36年7月24日
   板橋火薬製造所 建之

https://goo.gl/maps/j1ZSmNcU863qtnjUA


板橋区立板谷公園

板橋の二造の南側に造成された公園。

 江戸時代、この板橋3・4丁目、加賀一帯は加賀藩の江戸下屋敷でした。明治になると板橋3・4丁目周辺は三合商会の所有地となり「三合野原」、「三五ヶ原」と呼ばれました。その後、小樽を基盤とした船運会社板谷商船の設立者初代板谷宮吉氏が取得し、昭和4年(1929)に東京市電が板橋まで延長したのを契機に、二代目宮吉氏(貴族院議員等も歴任)が昭和10年(1935)1月、区画整理による大規模住宅地「上御代の台」の造成に着手しました。
 当時、国は区画整理に際しては公園用地の確保を求めており、それを受け、東京市は土地の無償提供を条件に公園造成を代行する規定を設けていました。当公園はこの規定により、板谷氏の用地提供を受けて同市が施行し、昭和12年(1937)4月29日に東京市板谷公園として開園しました。なお、その際に設置された銘板が、ニか所の出入口の門柱に残っています。その後、昭和18年(1943)の都制施行により都立公園となり、昭和25年(1950)10月1日には板橋区に移管されました。
 この公園は、区内に現存する公園の中で開園時期が最も古く、また、その来歴にこの地域の歴史がよく反映されている事から、平成21年(2009)3月に区の登録文化財(史跡)となりました。
 平成21年(2009)9月  
  板橋区教育委員会

東京市板谷公園
 昭和12年4月開園

https://goo.gl/maps/L9WPAc4bc8mDjVLz9


コミュニケーションステージ
レンガパーク
(加賀一丁目緑橋緑地内)

陸軍板橋火薬製造所時代に設置された煉瓦造平屋建(大正期 ) の建物の一部をモニュメントとして保存。

 このモニュメントは、明治から大正時代に建てられた煉瓦建造物の一部を利用しています。
 明治時代から太平洋戦争の敗戦まで、加賀1・2丁目には日本陸軍の火薬製造所(東京第二陸軍造兵廠板橋製造所、通称「二造」)がありました。製造所は、江戸時代の旧加賀藩下屋敷の広大な敷地を利用して作られていました。内部には、火薬の事故に備えて土塁で囲まれた建物や煉瓦造りの建物などが立ち並んでおり、その一部は、戦後の払い下げ後も学校や工場、研究所の建物として利用されていました。
 ここの敷地にも、当時の建物が工場として残されていましたが、日本の近代建築史を伝える貴重な煉瓦建造物を保存・活用するため、その一部をモニュメントとして利用することになりました。

中央部の古さを感じられる黒ずんだ部分が、当時の建物の壁をそのまま保存した箇所。

かすかに「東京陸軍砲兵工廠」のマークを見ることができる。

https://goo.gl/maps/ySLuEPF6EsAAQzr58


陸軍の消火栓

金沢小学校の校庭隅の隅。道路から見える場所に、板橋製造所時代の消火栓があった。陸軍の徽章「星」のマーク付き。
案内板は小学校敷地内内より。休日校庭開放日に見学。

 これは、昔の消火栓です。昭和の初め頃につくられました。このあたりは、陸軍の第二造兵廠というものがありました。
 星の印は陸軍のマークで、陸軍の人達が火事を消すための設備として作ったのが、この消火栓です。
 江戸時代には、このあたりに加賀前田藩の下屋敷がありました。明治になって、板橋火薬製造所ができました。その後、太平洋戦争が終わるまで、第二造兵廠として約70年間火薬を作る仕事などしていたのです。
 昭和20年8月に戦争は終り、このあたりには、研究所、公園、学校、工場等が造られました。
 板橋火薬製造所のことは、おとなりの東板橋体育館にある記念碑にくわしく書いてあります。この消火栓も、昔をしのぶ一つの記念碑として大事に保存したいと思います。

https://goo.gl/maps/cYWhfnkdxsLuTwrr5


境界壁柱とコンクリート壁

板橋区立東板橋公園と板橋こども動物園の北側。ユースハイムという建物の車庫入口近くに、「板橋製造所の境界壁柱」が残っている。

https://goo.gl/maps/m44R4jfG9kQqJ5QA7

さらに道なりに西の方に歩みを進めていくと、駐車場と電信柱のあいだに、もう一本「板橋製造所の境界壁柱」がある。

https://goo.gl/maps/eWFMxMPLNzrABBkv6


境界壁柱(消失)

「板橋製造所」当時の敷地の西端部分。道なりに歩んでいくと、さらに「境界壁柱」があったが、2018年の段階で消失を確認。

※写真は2016年

消失を確認。。。 ※2020年撮影


境界壁と境界石(消失)

「板橋製造所」当時の敷地の西端部分。
陸軍用地の境界石と境界壁が残っていたが、同じく消失を確認。

境界壁は消失。
境界石は、2つのうち、1つはまだ残っています。
(コメントでのご指摘ありがとうございます)

1つ目 ※写真は2016年

この境界石と境界壁は消失。

2つ目 ※写真は2016年

この境界壁も消失した。

※境界石は下の写真で、右側の電信柱の根本右側に残っているという。
(私は見逃していました。後日、再確認します。)
※コメントでのご指摘ありがとうございます。

境界壁は綺麗に消失。

新築住宅がセットバックされたために、境界壁とともに境界石も消失してしまいました。境界壁がなくなり、だいぶ見た目が変わってしまいました。


場所は変わって。

板橋憲兵分隊の門柱跡

「板橋製造所」の西側には中仙道が走っていた。
中山道の宿場町「板橋宿」の中心であった「仲宿」も徒歩圏内。
宿場町が廃止された後は「板橋遊廓」としても賑わっていた地区。
ここに「板橋憲兵分隊」は置かれ、門柱が1本だけ残されていた。

https://goo.gl/maps/TFU6xV9ypWD1tLm69

仲宿

地名「板橋」の由来となった石神井川を渡る「板橋」

※撮影:2016年5月/2020年7月/ 2021年1月


関連

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策(その1)

十条の造兵廠は掲載しておりましたが、板橋の造兵廠は未掲載でした。
板橋の二造は公園整備が行われることも決まり、そのために記録が鈍化していたというのもありました。
ひとまずは、整備前の写真を中心としたレポとなります。
整備が終りましたら再訪は必須ですが。

十条…東京第一陸軍造兵廠(一造)
板橋…東京第二陸軍造兵廠(二造)


東京第二陸軍造兵廠(東二造・二造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

明治3年、兵器工場として造兵司が新設。
明治4年、小石川に東京工場として「東京造兵司火工所」が新設。
明治8年、東京造兵司は「砲兵本廠」と改称。

明治9年(1876)
砲兵本廠板橋火薬製造所」として、加賀藩江戸下屋敷跡地に石神井川の水力を生かした火薬製造所が発足。これが明治政府が初めて設置した火薬製造所となる。当時の工場は水力を軸としており、小石川の板橋火薬製造所をはじめ、赤羽火薬庫なども水運を想定した位置関係であった。

明治12年(1879)
東京砲兵工廠と改称。「東京砲兵工廠板橋火薬製造所」となる。

大正12年(1923)
「陸軍造兵廠」が設置。「陸軍造兵廠板橋火薬製造所」となる。

昭和11年(1936)組織改編
陸軍造兵廠火工廠から十条兵器製造所が分離し、小石川の東京工廠が十条に移転。十条に置かれていた陸軍造兵廠火工廠本部は板橋に移転。
板橋が「陸軍造兵廠火工廠本部」となる。火薬製造所は再編により加工廠管轄下となる。「陸軍造兵廠火工廠板橋火薬製造所

昭和15年(1940)組織改変
陸軍造兵廠と陸軍兵器廠を統合。兵器本部が新設。
 十条の東京工廠「東京第一陸軍造兵廠」(東一造・一造)
 板橋の火工廠 「東京第二陸軍造兵廠」(東二造・二造)
板橋火薬製造所は「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」となる。

2008年に「旧東京第二陸軍造兵廠建物群(東京家政大学構内)」が板橋区登録有形文化財に指定。
2017年(平成27年)10月13日に「陸軍板橋火薬製造所跡」として国指定史跡に指定。
2018年(平成30年)3月29日付で板橋区登録記念物(史跡)に登録。
史跡範囲は「旧野口研究所跡・旧理化学研究所板橋分所跡・区立加賀公園」

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/bunkazai/1004848.html

現在は、、史跡公園に向けて整備となる。

板橋区史跡公園(仮称)

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/1021974/1023606.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M380-129
1947年07月24日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※航空写真はクリックして拡大可

上記を拡大。
こうしてみると、板橋十条の軍事施設は思ったよりかは建屋が残っているのがわかる。逆に周辺の住宅地が白くなっており建屋が焼失しているので、軍事施設を狙った爆撃が工場周辺に外れてしまった様子を想像することもできる。

上記とほぼ同じエリアの現在の様子。
こうしてみると、軍事区画であった場所が今でもかなりわかりやすい。

前述の航空写真より東京第二陸軍造兵廠の部分を拡大。

現在の様子と並べてみる。
黄色は「その1」での掲載箇所。
紫色は「その2」での掲載箇所。

前述の航空写真(USA-M380-129)の南東部をさらに拡大。

黄色は愛誠病院・愛世会関連施設
橙色は旧理研
赤色は加賀公園・旧野口研究所


関連記事

上記の位置関係でも記載のある周辺エリアは別記事にまとめてあるので、それぞれリンク掲載。

東京第一陸軍造兵廠

陸軍兵器補給廠と稲付射場・赤羽火薬庫道


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策

軍用鉄道跨線橋台座跡
(トロッコ・電気軌道)

埼京線にかかる十条台橋から見えるのが、往時の軍用鉄道跨線橋(トロッコ)の台座跡。金網の向こうを覗く。両側に台座が残っているのがわかる。

明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡。

場所

https://goo.gl/maps/ps6TZ6ThbeHo3tpm9


東京家政大学構内

北側に広がる「東京家政大学」も東京第二陸軍造兵廠板橋製造所時代の建物が残っているが、女子大となるので構内は未見学。
煉瓦造平屋が3棟現存という。
 旧220号棟 (現板橋校舎21号棟)
 旧225号棟 (現板橋校舎22号棟)
 旧261号棟 (現板橋校舎58号棟)
上記が板橋区登録有形文化財(建造物)に指定されている。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・板橋区立加賀公園)
(旧野口研究所跡)

加賀公園と、その西側にあった旧野口研究所跡。
周辺が「板橋区史跡公園」(仮称)として整備される予定。

加賀公園は、もともとは加賀前田家下屋敷であった。明治期にこの地に火薬製造所が置かれたことに始まる。

建屋の情報は板橋区の資料に詳しい。

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/res/projects/default_project/_page/001/023/606/noguchikenmap.pdf

爆薬製造実験室

建築年代は昭和10年1月。構造は鉄筋コンクリート造の平屋建築、屋根は切妻屋根。トタンによって外壁が補修されている。
もともとは後方のマンションの位置にあったが、保存のために平成29年に主要部(全体の1/3部分)の曳家工事を実施。

常温貯蔵室
地下貯蔵庫

常温貯蔵庫は昭和9年以前には建設されていたと推定。
構造はコンクリート造で、上下2段8列の棚構造で、16の鉄製扉を有している。扉は現在、8面のみ現存するも固着しており開閉は困難という。

常温貯蔵庫の手前には地下貯蔵庫がある。
地下貯蔵庫には蓋がされている。水槽として使用されていたという。

加温貯蔵室

昭和9年以前には建造か?

加温貯蔵室試験火薬仮置場基礎

加温貯蔵室に併設されていた建物。基礎のみ現存。平姓18年までは建物が確認できたが、平成26年までのあいだで撤去。

銃器庫

構造は鉄筋コンクリート造平屋建、内部は木造二階建の棚床が設置。
昭和18年以降の改築か?

土塁

燃焼実験室
試験室
弾道管

燃焼実験室の構造は鉄筋コンクリート造2階建。
昭和18年以降の建築か?

弾道管は、約30m現存。

「燃焼実験室」から弾道管が一直線に伸びている。
コンクリートの2棟は「試験室」。

試験室No.672

試験室No.552

弾道管

弾道管

試験室

試験室No.552

試験室No.672

弾道検査管(爆速測定管)の標的
 区立加賀公園にある小高い山は、加賀藩前田家 の江戸下屋敷内の庭園にあった築山の跡です。
 この築山の中腹に造られたコンクリート製の構築物は、現在隣接している野口研究所内からのびる弾道検査管(爆速測定管)の標的の跡です。
 戦前、野口研究所を含めたこの場所には、板橋火薬製造所(昭和15年以降は東京第二陸軍造兵廠=ニ造)内におかれた火薬研究所があり、弾薬の性能実験などが行われていました。今も野口研究所の構内には、火薬研究所時代に使われていた試薬用火薬貯蔵庫や防爆壁などの構造物が残されています。その中の一つに、長さが十数メートル、内径686mmのコンクリート製の弾道検査管の一部があります。
 これは、技術者の間ではトンネル射場と呼ばれているもので、火薬(発射薬)の種類や量を変えて、弾丸の速度などを測定・観測する装置であり、戦前のニ造構内の図面からは、弾丸がこの築山の標的に向って撃ち込まれていたことがわかります。
 戦後、旭化成などの創業者である野口遵 が設立した野口研究所が当地に移転してきましたが、いまなお構内には、戦前に使用していた観測装置や標的などが現存しています。このような例は全国的に見ても珍しく、軍工場 時代の活動の一端を窺うことができる貴重な資料となっています。 

擁壁

軽便鉄道の軌道と北側の試験室や弾道管等の試験施設との間を隔てる役割を担っていた。
鉱滓煉瓦壁が4スパン、コンクリート壁が1スパン、合計5スパンが現存。

射垜

露天式発射場の的である射垜と、弾道管と接続する隠蔽式発射場の射垜が存在していた。隠蔽式発射場の射垜は昭和46年の加賀公園造成工事の際に一部撤去。遺構が埋蔵している可能性あり。
露天式発射場の射垜の下方部構造は埋蔵されており不明。
レンガ積にモルタルが塗布。

コンクリート擁壁

昭和46年の加賀公園造成工事で撤去された常温貯蔵庫が隣接していた。また防火壁も設置されていたという。

電気軌道線路敷跡

電気軌道(トロッコ)線路敷跡
 区立加賀公園のこの場所から、隣接する野口研究所の構内にかけ、道路のように見えているのは、戦前、この一帯(現在の加賀一・二丁目)にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)の線路敷跡です。
 軌道は、北区十条の銃砲製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割を果たしていました。
 現在、埼京線にかかる十条台橋の南側の線路脇にあるコンクリートの土台は、明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。その後、明治40年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公園・野口研究所付近)や本部(現:東板橋体育館付近)、原料倉庫(現:金沢小学校付近)を結ぶために軌道が延伸しています。以降も軌道網の整備は進められ、大正12年(1923)の構内図によれば、ほとんどの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。


加賀公園の北側を流れる石神井川の対岸エリア。
現在は「愛誠病院」など愛生会関連の建物が展開されているエリアにも、当時の建屋が残っている。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・愛歯技工研究所)

最近まで愛歯技工専門学校として使用されていたが2019年3月で閉校。
愛歯技工研究所は存続しているが、今後の扱いが気になるところ。

試験室(140号棟)

煉瓦造建造物。
愛歯技工専門学校時代の内部は体育館兼倉庫として使用。

仕上収函仮置場(13号棟)

煉瓦造建造物か?だいぶ改良されている外観であるが、建屋下部には面影が残っている。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・愛誠病院)

愛誠病院内にもいくつかの建屋が残っている。
愛生会病院は、昭和22年に二造の敷地と建物の使用を開始したという。

現存する建物
 煉瓦造の旧 36 号家 ( 現第 1 病棟 )
 煉瓦造の旧 35 号家 ( 現第 2病棟 )
 煉瓦造で一部二階の旧 168 号家 ( 現精神神経科外来棟 )
 煉瓦造の旧 164 号家 ( 現本部事務棟および第 3 病棟 )
 煉瓦造の旧 256 号家 ( 現作業療法棟 )
 鉄筋コンクリート造の旧 438 号家 ( 現第 11 病棟 )

病院敷地の見学は、言わずもがなですが、常識の範囲内で静粛に。

化学実験室(438号棟)
現・愛誠病院第11病棟

鉄筋コンクリート造。

駆水室(35号棟)
現・愛誠病院第2病棟

煉瓦造

綿薬配合室(36号棟)
現・愛誠病院第1病棟

煉瓦造

混合室(168号棟)
現・愛誠病院精神科外来棟

煉瓦造

爆薬理学実験室(256号棟)
現・愛誠病院作業療法棟

煉瓦造

物置(164号棟)か?
現・愛誠病院デイケア棟

煉瓦造

煉瓦の気配。

なお、板橋区の資料によると「愛誠病院本部事務棟/第 3 病棟」(下の写真)が煉瓦造の164号棟と記載あるが、どうみてもデイケア棟が煉瓦造建造物。事務棟/第 3 病棟は、逆に煉瓦造建造物には見えず。

本記事の冒頭に記載した位置関係でもデイケア棟と当時の建屋の場所が一致する。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(理化学研究所板橋分所跡)

石神井川の北側。旧・理化学研究所板橋分所エリア。

物理試験室

東西に3棟が連結。
東から昭和13年、明治40年、昭和6年の建造。中央部が一番古く、東西が増設されたことがわかる。
理研時代は湯川秀樹や武井武、朝永振一郎が使用していた。

中央の煉瓦棟は明治40年の建造。

東の棟は昭和13年。

西側の棟は昭和6年。

南側、石神井川側より。

爆薬理学試験室

構造は鉄筋コンクリート造平屋建、地下一階建。
昭和9年から昭和12年にかけて建造か。

理研跡地も板橋区によって加賀公園・野口研究所跡地ともども、「史跡公園」として再整備予定。
この辺のエリアは整備されたら改めて訪問したいと思う。


陸軍工科学校板橋分校跡

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の南東におかれていた陸軍学校。
現在の「加賀公園」の南側に設置された石碑。
陸軍工科学校の卒業生によって組織された工華会による設置。

花匂ふ桜ヶ丘
永遠の平和を祈る
 工科学校
 板橋分校跡
  工華会建之

板橋区立板橋第五中学校の敷地は、明治41年から昭和15年まで陸軍工科学校板橋分校(通称「桜ケ丘」)が位置していた。

明治41年9月に砲兵工科学校分校として砲兵工科学校の火工学生が小石川本校から板橋分校に移転。大正9年に陸軍工科学校板橋分校と改称。
昭和15年7月に小石川本校とともに陸軍兵器学校と解消され、神奈川県相模原市に移転。
その後、終戦までは「一造の板橋宿舎」として使用。終戦後は昭和30年までGHQの情報機関CIC(対敵諜報隊)が置かれていた。
昭和30年4月に板橋区立板橋第五中学校が開校。


陸軍工科学校板橋分校の陸軍境界石

加賀公園の南、板橋第五中学校の南東に残る境界石。
板橋第五中学校の界隈が、陸軍工科学校板橋分校であった。

「陸軍省」の文字が残る。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の西側は、その2、にて。

※撮影:2016年5月/2020年7月/ 2021年1月

東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場跡地散策

埼玉県深谷市。
かつてここには兵器工場「陸軍造兵廠」があった。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所として深谷市内に「原郷工場(深谷工場)」「明戸工場」「櫛挽工場」の3工場が展開。
今回はそのうちの南西側にあった「櫛挽工場」の戦跡を散策してみる。


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所

昭和15年(1940)の組織改編によって、陸軍兵器廠の板橋火薬工場が「東京第二陸軍造兵廠」となり、隣の十条兵器工場が「東京第一陸軍造兵廠」となった。

埼玉県内には「大宮」「川越」「春日部」に東京第一陸軍造兵廠が置かれていた。
そして「深谷」には東京第二陸軍造兵廠が置かれた。これは板橋の疎開先としての設置であった。深谷には「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」があり、利根川の対岸の高崎には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」があったことから工場疎開先として都合が良かったとされる。
昭和18年11月より移転のための用地買収が開始。
もともとの「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」を「明戸工場」とし、日本煉瓦製造専用線沿線の幡羅地区に「深谷工場」(原郷工場)を建設。深谷駅南の櫛挽地区に「櫛挽工場」を建設。
用地買収の1年後となる昭和19年10月に「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所」が設立され、本部は現在の「深谷第一高等学校」の地に置かれた。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦。

「深谷工場」(原郷工場)

「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」「明戸工場」は以下で。

https://senseki-kikou.net/?p=13059


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-B-80
1947年11月04日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

GoogleMapにて補完。

今回の散策は深谷の南西部に位置する「櫛挽工場」跡地を散策してみる。


櫛挽地区(櫛引地区)へ

立地場所は公共交通機関ではかなりアクセスのしにくい場所。
北東の深谷駅からではなく南を走る秩父鉄道を利用して近くに向かうことにする。

ちなみに櫛挽(櫛引)で、「くしひき」と読む。

「次はオマエダ」
これが見たかった、とも。

秩父鉄道「小前田駅」から歩く。
約6キロの距離を約1時間20分ほどかけて歩く。

二造深谷製造所櫛挽工場跡地散策

「櫛挽ヶ原」と呼ばれていた深谷市櫛挽地区(櫛引地区)は、周辺集落の入会地・秣場的林地として使用されており、野水が停滞する農地には向かない土地であった。
戦後に開拓地として平地林が広がる原野を開墾し、排水の便を整備。赤城おろしの北風が吹き下ろす土地であったため、防風林とする林を残しながらの開拓が行われた。

開拓前の櫛挽地区は平地林が広がっており、そんな中に、「二造深谷製造所櫛挽工場」が展開された。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M105-A-5-106
1946年04月15日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

「櫛挽ヶ原」を拡大。
戦後の開拓が始まっており、「櫛挽工場」の区画も、いまいちはっきりしない。なんとなく平地林であったことはわかるが。

GoogleMap航空写真。
櫛挽ヶ原の名残を防風林に残しつつ、開拓された様子がわかる。
ピンを立てた場所が唯一残る「櫛挽工場」名残の廃屋。

1時間以上歩いて、流石に歩くのに飽きてきた頃、畑の真ん中に唐突にコンクリートの建物が見えてきた。
「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場」の弾薬庫跡とされる建物。

2階建コンクリート。屋根も扉もなく、風雨にさらされている。

農地に忽然と現れたコンクリート建造物。

建物の周辺にもコンクリートの基礎が残っている。

鉄筋。

1階部分。覗いてみましょう。

思ったよりもきれいな空間。

階段があります。2階に登ってみましょう。

踊り場に生えた緑。
コンクリートに根を生やした草木。

二階部分。

一階に通じる穴。

屋根はない。
空が近いような気がする。

踊り場

そびえ立つコンクリート。

ちょっと離れたところにある基礎。
高射砲台座?か。

ちなみに晴天時・乾燥時は心配ないが、雨天後の湿っている時などは、周辺が牛糞系肥料のぬかるみで大変なことになっているそうです。幸い、私が訪れた時は乾燥してましたが、この茶色い土のエリア=肥料のぬかるみ、となるそうです。

場所

https://goo.gl/maps/sCQKogFwFFX3LCxy8

さて、駅に向かいましょう。

行きは秩父鉄道・小前田駅から6キロ80分を歩いてきました。
ちょうど電車の接続がよかったので、帰りは4キロほどを歩いて八高線用土駅まで向かいました。
ちなみに、改めて記載するが、周辺に駅は、無い、、、

東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場弾薬庫跡
アクセス方法(駅起点)

  • JR八高線 用土駅 約4キロ
  • 秩父鉄道 永田駅 約5キロ
  • 秩父鉄道 小前田駅 約6キロ
  • JR高崎線 深谷駅 約7キロ

あくまで、公共交通機関を軸にした場合ですが、秩父鉄道も八高線も本数がかなり少ないので接続が悪い場合は、深谷駅から往復アクセスするのが時間的にも無駄がないかもしれません。
深谷駅であればレンタサイクルを活用するという手段もあります。
(私は歩いてしまいましたが・・・)

八高線・用土駅。

八高線。キハ110。

行程記録。
小前田駅から約6キロを約1時間20分。
用土駅へ約4キロを約50分、でした。
まあ、良い運動です。

※202008撮影


造兵廠関係

東京第二陸軍造兵廠

埼玉県内にあった陸軍造兵廠のひとつ

関連

深谷の隣町、熊谷

深谷関係

「弾薬庫から女子大へ」大塚弾薬庫跡散策

東京都文京区大塚。
JR大塚駅は本来の「大塚」からは遠い。丸ノ内線の新大塚駅から茗荷谷駅にかけて、そして有楽町線の護国寺駅から東にかけてのエリア。
具体的には「お茶の水女子大学」「跡見学園女子大学」のある周辺を散策してみた。「女子大の周辺を散策」という表現はいささか語弊を招きそうなので、「女子大に昔あった弾薬庫の周辺を散策」と言い直してみる。

2022年3月現在、一部の遺構の消失を確認しました

大塚陸軍弾薬庫

江戸時代は、譜代大名であった磐城平藩安藤家下屋敷。
安藤家10代安藤信正は、老中首座として公武合体を進め、水戸浪士ら尊王攘夷派に襲撃された「坂下門外の変」で知られている。

明治期には安藤家下屋敷はそのまま陸軍用地となっている。

  • 明治13年(1880) 陸軍病馬厩分廠が設置
  • 明治23年(1890) 大塚陸軍弾薬庫が設置
  • 明治41年(1908) 東京陸軍兵器支廠大塚弾薬庫に改称
  • 昭和3年(1928) 大塚弾薬庫が板橋陸軍兵器廠(東京第二陸軍造兵廠)内に移転
  • 昭和7年(1932) 東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)が当地に移転
  • 昭和8年(1933) 跡見学園が当地に移転
  • 昭和8年(1933) 東方文化学院東京研究所(東京大学東洋文化研究所)が建設
  • 昭和15年(1940) 東京高等師範学校附属中学校(筑波大附属中高)が当地に移転

明治期は陸軍用地であったが、昭和3年以降この地は文教地区として再開発されそのまま現在に至っている。


位置関係

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」を参照。

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.717689&lng=139.732136&zoom=17&dataset=tokyo50&age=9&screen=1&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

1/25000「東京西部」
昭和4年二修・昭和6.6.30発行

「大塚兵器庫」の敷地が広がっている。

1/25000「東京西部」
昭和20年部修・昭和22.7.30発行

兵器庫跡地は南北に分断。
北部を「お茶の水女子大学」が使用。兵器庫を東西に横断する道路も新設されている。

現在の様子。
北部をお茶の水女子大学、南東部を跡見女子大学、南西部を筑波大付属高校などが利用。

国土地理院・地理院地図(電子国土Web)

https://maps.gsi.go.jp/#17/35.718116/139.731771/&base=pale&ls=pale%7Crelief&blend=1&disp=11&lcd=relief&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

大塚火薬庫のあたり=お茶の水女子大学がちょうど良い大地になっているのがわかる。

googleMapに「大塚火薬庫」の推定位置を描いてみた。
見どころポイントは「北部」と「北西部」。

下記が当日のロガー。
護国寺駅を起点に一周してみましたが、北部と北西部以外は、再開発などで当時の面影を感じることはできませんでした。


大塚弾薬庫跡地(北西部)

現在の「お茶の水女子大学西門」付近。
弾薬庫時代の壁=軍用地境界壁がほんの僅かに残っている。

訪れたのが年の瀬のタイミング。門松がバリケードを作っているかのようで。

別の季節に。。。(2022年12月)

境界壁

境界石(境界標石)の消失を確認しました(2024年1月)

陸軍境界石もありました。文字は摩耗してもう読めません・・・

こちらも境界石ですね。

消失確認後の写真(2024年1月)

切り取られました。。。

塗り固められました

陸軍時代の境界壁が残る。

お茶の水女子大学新学生宿舎が建築されるそうで。この古い壁はどうなってしまうのかな。。。


大塚弾薬庫跡地(北部)

お茶の水女子大学の北門、のあたりにも古い壁が残っていました。
こちらも弾薬庫時代の壁=軍用地境界壁、ですね。
亀裂なども発生しており、もしかしたら再開発されるかもしれない雰囲気。

2022年3月 北部の境界壁の消失を確認しました

このあたりの門柱は当時からのものか?

こちらは、欠けておりますが陸軍境界石、ですね。

ここにもお茶の水女子大学新学生宿舎建築のお知らせが貼ってありました。

北側の角で、壁は強引に分断されて新しい柵が取り付けられていました。

2022年3月、壁が改修されました。遺構消失、です。


大塚弾薬庫跡地(東部)

北側から春日通り側を、Googleストリートビューにて。
新しい建物の脇の細い道を進んでいくと、陸軍時代の壁を見ることができます。

https://www.google.co.jp/maps/@35.7202333,139.732885,3a,75y,206.79h,103.39t/data=!3m6!1e1!3m4!1sOt0aOy0ezgPq78yxW4utpA!2e0!7i16384!8i8192?hl=ja

春日通り側は新しい柵と新しい建物、ですね。春日通り側の再開発は一段落したようです。

https://www.google.co.jp/maps/@35.7197044,139.7336597,3a,75y,244.25h,90.59t/data=!3m6!1e1!3m4!1s6Ovz9bAhLxdhhYXwroLj5Q!2e0!7i16384!8i8192?hl=ja

お茶の水女子大学の正門


大塚弾薬庫跡地(南東部)

そのまま南下しますと「新大塚公園」に到着。
この公園は当時の弾薬庫の敷地内。東側にある「跡見女子大学」も西側にある「筑波大付属中学・高校」も弾薬庫の敷地内。


新大塚公園の南側にある建物。

東方文化学院東京研究所
(拓殖大学国際教育会館)

1933年(昭和8年)竣工。内田祥三設計。
大塚陸軍弾薬庫が移転後の建設。内田祥三は東大の安田講堂をはじめとした東大構内を再建し「内田ゴシック」で著名。
鉄筋コンクリート造の和風表現。
義和団の乱の賠償金により東方文化学院東京研究所(現:東京大学東洋文化研究所)として建設された建物。
第二次世界大戦後は外務省の外務省研修所も入居、東京大学と外務省が共同で管理運営。1967年に東京大学東洋文化研究所が東京大学本郷キャンパスに移転。その後、外務省研修所として使用されていたが、外務省研修所も1995年に移転となったために、近隣にキャンパスがあった拓殖大学が建物保存を条件に払い下げを受けた。


大塚弾薬庫跡地(南西部)

弾薬庫の南西部。現在、「鼠坂」と呼ばれている坂道というか石段。
弾薬庫時代の地図でも、この場所は変わらずに道が掲載されている。


大塚弾薬庫跡地(西部)

弾薬庫を東西に横断する道は、弾薬庫移転後に造られた道。
高台にあった弾薬庫跡地を削って道路を新設したことがわかりますね。

弾薬庫のあった台地を削って新設された道路。

こちらは弾薬庫の西側。結構な段差が今も残っている。この高台の上に弾薬庫があった。


「大塚弾薬庫」の西側、音羽通りに古い建物が残っている。
散策ついでに、あわせて掲載。

講談社本館(大日本雄辯會講談社)

1933年(昭和8年)竣工。前述の「東方文化学院東京研究所」と同じ時期の建設。
設計は曽禰中條建築事務所。曽禰達蔵と中條精一郎の共同設計。


一昔前は、もうすこし見どころがあったらしいが、徐々に当時の面影が失われているようで。今も残る北部と北西部の弾薬庫時代の境界壁もいつまで残るものか。。。
特に2019年に発生した「お茶の水女子大学附属中学校への不審者侵入事件」以来、いろいろと変わりつつあるようです。


近くには、池袋や護國寺がある。

「京浜工業地帯の父」浅野財閥・浅野総一郎像と墓

たまたま清洲橋の近くで浅野総一郎銅像を見つけたということもあり、浅野総一郎のことを調べていたら、鶴見の大本山総持寺に墓もあるとのことなので、これを機会に関連する近場に脚を運んでみた。

浅野総一郎(淺野總一郎)

1848年4月13日(嘉永元年3月10日) – 1930年(昭和5年)11月9日)

越中氷見の生まれ。明治4年(1871年)、23歳の時に上京。夏はお茶の水の冷たい名水に砂糖を入れた水売り、冬は本郷赤門でおでん屋をして資金を蓄え、横浜で贈呈用の竹の皮を販売し、薪炭商に転向。
明治6年、薪炭商のつながりから横浜ガス局より、石炭からガスを製造したあとに廃棄されていたコークスを安価で買取。セメント製造の燃料として、コークスを官営深川セメント製造所に納めることで利益を得た。
明治17年には、官営深川セメント製造所が浅野総一郎に払い下げされ、これが浅野セメントの基礎となる。払い下げ時には渋沢栄一のサポートもあった。
明治29年(1896)に欧米視察に赴いた浅野総一郎は、帰国後に東京から横浜にかけて日本初の臨海工業地帯の建設を計画。
浅野総一郎の計画に理解を示した安田善次郎(安田財閥)も支援。浅野と安田は富山出身の同郷でもあった。
浅野総一郎と安田善次郎は「浅野はエンジン、安田は石炭(燃料)」と呼ばれるほどの名コンビであった。

大正2年(1913)から昭和3年(1928)にかけて約15年をかけて、横浜鶴見から川崎にかけての埋立が完成。いわゆる「浅野埋立」は京浜工業地帯の元となった。現在のJR鶴見線沿線が浅野総一郎が埋め立てした「浅野埋立」の地。
昭和5年、欧米視察中の6月26日にベルリンで発病。8月2日に帰国して大磯別邸で療養していたが11月9日に死去。
墓は横浜市鶴見区の大本山総持寺。
法名は積功院殿偉業総成大居士。

浅野総一郎の銅像は以下に建立されている。

  • 浅野学園(浅野総一郎が創設した学校)
  • アサノコンクリート深川工場(旧官営深川セメント製造所)
  • 東亜建設工業技術研究開発センター(浅野埋立)
  • 氷見市(浅野総一郎出生地)
  • 渋川市(浅野総一郎が設立した佐久発電所)
  • 砺波市(浅野総一郎が設立した庄内小牧ダム)

日本におけるセメント産業を軌道に乗せた浅野総一郎は「セメント王」と呼ばれ、京浜工業地帯のもとになった浅野埋立によって「京浜工業地帯の父」「日本の臨海工業地帯開発の父」とも呼ばれている。
また、台湾高雄港築港にも尽力し高雄市の発展にも寄与している。


浅野総一郎銅像
(アサノコンクリート深川工場)

明治5年(1872)、セメント国産化を目指して、大蔵省所管の深川摂綿篤製造所が着工。目的を果たせぬまま明治7年(1874)に工部省に移管。明治8年(1875)5月19日に官営深川セメント製造所が日本初の国産セメント製造に成功。5月19日がセメントの一なった。
明治17年(1884)に官営深川セメント製造所は浅野総一郎に売却。浅野財閥の基礎となる浅野セメントの工場となり、そして現在はアサノコンクリート深川工場(太平洋セメント)として今も存続している。

浅野セメント(現太平洋セメント株式会社)の創設者
初代社長 浅野総一郎翁 像

淺野總一郎翁像

本邦セメント工業発祥之地
此地ハ元仙台藩ノ蔵屋敷跡ニシテ明治五年大蔵省土木寮ニ於テ始メテセメント製造所ヲ建設セリ 
同七年工部省ノ所管トナリ深川製作寮出張所ト改メラレ技師宇都宮三郎氏ニ依リ湿式焼成法ヲ採用シ初メテ外国品ニ劣ラザル製品ヲ得タリ 
明治十年一月深川工作分局ト改称サレ工場ノ拡張相次テ行ハレ同十六年四月逐ニ初代浅野惣一郎ノ経営ニ移リ浅野工場ト称スルニ至ル 
明治三十一年ニ月浅野セメント合資会社創立ト共ニ本社工場トナリ同三十六年十一月本邦最初ノ回転窯ヲ設置シ事業愈盛大トナレリ 
大正元年十月組織ヲ改メ株式会社トナリ東京工場ト改称シ今日ニ改フ
蓋シ此地ハ本邦セメント工業創生ノ地ニシテ同時ニ又当社発祥ノ地タリ仍而茲ニ其然ル所以ヲ録シ之ヲ記念ス
 昭和十二年七月八日
          浅野セメント株式会社
            社長 浅野総一郎

セメント工業発祥の地碑
当地は日本で初めてのセメント工場があった場所です。明治8年(1875)、工部省が本格的なセメントの製造に成功しました。上図手前の隅田川、右側の仙台堀などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の末、外国品と遜色のない国産のセメントを作り上げました。明治16年(1883)、当社創業者のひとりである浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場として発展を遂げました。
 平成16年(2004)5月 
 太平洋セメント株式会社

本邦セメント工業発祥之地

明治27年に製造されたコンクリートブロック
明治22~23年(1889~1896)に行われた横浜港築港工事で、その防波堤基礎用として明治27年(1894)に製造して海中に沈設され、昭和6年(1931)同港改築に際し引上げられたコンクリートブロックである。このコンクリートはアサノ普通ボルトラントセメントを使用したもので、配合はセメント:砂:(砂利と小割栗石)が1:2.8:5.2(容積比)水セメント比は40%程度と推定される。37年間海中にあっても損傷は認められず、優れたコンクリートであったことを証明している。
江東区登録文化財

浅野総一郎の家紋「扇」をモチーフにした、アサノコンクリートのシンボルマーク、社章。

思ったよりも小さな銅像。
ストリートビューで見るとその小ささがわかる。

https://goo.gl/maps/X7oce4kwdMNg8HP47


浅野總一郎翁銅像
(浅野学園)

浅野財閥の創始者・浅野総一郎が大正9年(1920)に「淺野綜合中學校」を設立。
大正13年(1924)5月に、浅野総一郎翁の初代銅像が完成。
昭和18年に、浅野総一郎翁の初代銅像が戦時供出。
昭和33年11月に浅野総一郎翁の銅像を再建。

浅野総一郎翁

大正13年5月18日 建立
昭和18年5月2日 供出
昭和33年11月23日 再建
 浅野總一郎翁銅像再建期成會

寄贈 總一郎翁銅像修復
現總一郎翁銅像は1958年に再建された。作者は横浜市掃部山公園井伊直弼像作者の慶寺丹長である。
銅像の高さは4.94メートル、重さは2.3トンである。
浅野学園創立100周年を記念して修復した。
 2020年3月
  浅野学園同窓会
  浅野学園PTA

地洋丸の鎖
台座の鎖は、總一郎が設立した東洋汽船の「地洋丸」のものと伝えられている。
地洋丸は、造船史上わが国初の蒸気タービンで、1万総トン超の大型豪華客船であった。
1908(明治41)年、サンフランシスコ線に就航。1916年(大正5)年、香港沖で濃霧のために坐礁し、解撒となった。

寿像頌徳文
嗚呼是レ明治大正ノ聖代ニ於ケル大日本帝国実業界ノ巨人浅野総一郎翁ノ寿像也(略)
 大正13年5月18日 徳富蘇峰撰

再建のことば
昭和5年11月9日翁は永眠 昭和18年5月2日大戦の国策に応じ寿像も遂に供出の止むなきに至った  
爾来、十有余年を経て今日再建の期熟し同志一万数千の冀願(きがん)結集し翁の像復元再建の事成った   
 昭和33年11月23日 
  浅野総一郎翁銅像再建期成会 大島撫山

像の後ろの壁面には浅野総一郎が関わった企業が列記されていた。
そうそうたる会社が並んでおり、浅野総一郎と浅野財閥の歴史を垣間見る事ができる。

浅野總一郎翁関係事業
(昭和33年12月調)

セメント事業
浅野セメント株式会社 明治16年4月創立
 (日本セメント株式会社に改名)
東亜セメント株式会社 明治40年1月創立
 (浅野セメント株式会社に併合)
浅野スレート株式会社 大正4年2月創立
第一セメント株式会社
 (旧浅野セメント株式会社川崎工場)
会津鑛業株式会社 大正9年6月設立
日本石膏株式会社 明治45年3月設立
 (会津鑛業株式会社に併合)
日本カーリット株式会社 大正9年7月創立
旭コンクリート工業株式会社 大正12年11月創立
大阪石綿工業株式会社 大正14年8月創立
 (浅野スレート株式会社に併合)
日本ヒューム管株式会社 大正14年10月創立

製鉄造船事業
浅野合資会社製鉄所 大正6年9月創立
 (現在 日本鋼管株式会社鶴見製鉄所)
日本銑鉄株式会社 大正6年9月創立
 (旧小倉製鋼株式会社に併合)
株式会社大島製鋼所 大正6年11月創立
 (日曹製鋼株式会社に併合)
中央製鉄株式会社 大正6年11月創立(解散)
小倉製鋼株式会社 大正7年12月創立
 (住友金属工業株式会社に整合)
日本鋳造株式会社 大正9年9月創立
東京シャリング株式会社 大正15年9月創立
 (現在 東都製鋼株式会社及び東京シャリング株式会社)
株式会社浅野造船所 大正5年4月創立
 (現在 日本鋼管株式会社鶴見造船所)
株式会社浅野造船所船渠部 大正12年4月創立
 (現在 日本鋼管株式会社浅野船渠)

海運陸運部門
東洋汽船株式会社 明治29年6月創立
日之出汽船株式会社 大正元年11月創立
国際汽船株式会社 大正8年7月創立
 (大阪商船株式会社に併合)
関東運輸株式会社 大正9年7月創立
青梅電気鉄道株式会社 明治26年12月創立
 (国有鉄道に譲渡)
小倉鉄道株式会社 明治40年6月創立
 (国有鉄道に譲渡)
南部鉄道株式会社 大正10年3月創立
 (国有鉄道に譲渡)
鶴見臨港鉄道株式会社 大正13年7月創立
 (国有鉄道に譲渡)
留萠鉄道株式会社 昭和3年6月創立
 (国有鉄道に譲渡)
三岐鉄道株式会社 昭和3年9月創立

埋築地所事業
鶴見埋築株式会社 大正3年3月創立
 (東京湾埋立株式会社に併合更に東亜港湾工業株式会社に改名)

京浜運河株式会社 大正6年9月創立
 (旧東京湾埋立株式会社に併合)
台湾地所建物株式会社 明治43年6月創立(解散)

石油事業
宝田石油株式会社 明治35年6月創立
 (旧日本石油株式会社に併合)
南北石油株式会社 明治38年創立
 (旧宝田石油株式会社に併合)
東亜石油株式会社 明治39年8月創立
 (旧南北石油株式会社に併合)

鑛山事業
磐城炭鑛株式会社 明治16年創立
 (現在 常磐炭鑛株式会社)
茨城探炭株式会社 明治34年9月創立
 (旧磐城炭鑛株式会社に併合)
石狩石炭株式会社 明治39年4月創立
 (北海道炭礦汽舩株式会社に譲渡)
大日本鑛業株式会社 大正4年11月創立
日支炭礦汽舩株式会社 大正6年10月創立(解散)
朝鮮鉄山株式会社 大正6年10月創立(解散)
浅野雨龍炭礦株式会社 昭和4年9月創立
 (古河鉱業株式会社に譲渡)

貿易事業
浅野物産株式会社 大正7年4月創立

電気事業
沖電気株式会社 大正元年8月創立
庄川水力電気株式会社 大正8年9月創立
 (関西電力株式会社に譲渡)
関東水力電気株式会社 大正8年10月創立
 (東京電力株式会社に譲渡)

文化事業
浅野綜合中学校 大正9年1月創立
 (浅野学園に改名)

銀行業
 株式会社日本昼夜銀行 大正5年5月創立
 (旧安田銀行に併合)

其他の事業
東京瓦斯株式会社 明治18年10月創立
大日本人造肥料株式会社 明治20年2月創立
 (日産化学鉱業株式会社に改名)
東京製鋼株式会社 明治20年3月設立
札幌麦酒株式会社 明治21年創立
 (日本麦酒株式会社に改名)
株式会社帝国ホテル 明治23年6月創立
浅野石材工業株式会社 明治38年9月創立(解散)
神奈川コークス株式会社 大正8年4月創立
 (東京瓦斯株式会社に併合)
鶴見木工株式会社 大正9年8月創立(解散)
伏木板紙株式会社 大正12年9月創立
 (中越パルプ株式会社に併合)

富山県氷見市
1848
誕生
富山県氷見市薮田に誕生。父泰順は總一郎を抱え上げて「眉尻が下がり、長者どんになる面構えだ。福々しい子だ。」と喜んだ。

富山県氷見市
1862
15歳
初めて起業。縮織という織物の生産と販売で一旗挙げて初陣を飾ろうとしたが、すぐに資金難に陥り、3ヶ月で廃業。

日本海
1867
20歳
日本で初めて株式会社に相当する産物会社を創設。日本海側一帯に販路を拡げて「總一郎」の名が知れ渡るも、急拡大して失敗。

文京区本郷
1871
24歳
上京。本郷赤門前下宿屋の一間を借りる。
お茶の水の清水に砂糖を入れて冷水「ひゃっこい」を売る商売を始める。

横浜市中区住吉町
20代後半
冷水売りを店じまいして横浜に移る。食品包装用の竹の皮販売が軌道に乗る。サクと結婚し、新居を構えるも全焼して全財産を失う。しかし、すぐにコークスの再燃料化に成功し再挙。渋沢栄一に認められる。渋沢は總一郎の生涯に多大な影響を与えた。

江東区清澄
1883
36歳
渋沢栄一らの助言で官営のセメント工場を借り受け、セメント製造を開始。製造設備を増設し、赤字会社を見事に黒字化させる。

東京・福島
30代後半~40代後半
事業家として本格的に動き出す。磐城炭礦社、東京瓦斯会社、札幌麦酒会社、帝国ホテルなどの創立に参画する。

サンフランシスコ
1896
49歳
海外輸送に強い関心のあった總一郎のは東洋汽船会社を設立。日本で初めてサンフランシスコ航路就航を米国側に承諾させる。

サンフランシスコ
50歳代
東洋汽船会社の外国航路を拡大。香港とサンフランシスコ間の定期航路を行うも、日露戦争に全船徴用され、営業停止となる。しかし、その翌年、日本初の大型豪華客船を建造。この時の大型新機軸の豪華客船建造は日本の造船技術に大きな影響を与える。

東京湾
1908
61歳
政治経済の中心地近くに工業地帯を建設すべく、インフラ整備のため安田善次郎の支援を得て東京湾埋立・築港計画を申請。

東京三田
1909
62歳
東京都港区三田に日本建築の粋を結集した「紫雲閣」を建築。東洋汽船の外国人船客をもてなす民間外交の舞台となる。

東京湾
1913
66歳
東京湾埋立工事を開始。完成は15年後。安善町にその名をとどめている安田善次郎の資金援助があればこそ実現したといえる。

横浜市鶴見区末広町
1916年
69歳
自らが造船すべく埋立地に造船所を建設。隣接地には製鉄所を建設し、造船用鋼材確保のため厚板圧延設備を完成させる。

群馬県渋川市
70歳代
工業インフラとしての電力事業にも進出。富山県に庄川水力電気会社を創立。群馬県には妻の名をとり佐久発電所を建設した。

南武線
1920
73歳
京浜工業地帯への工業用原料輸送のため南武線を敷設。鶴見線、青梅線、五日市線等の鉄道敷設にも尽力。産業の発展に寄与。

浅野学園
1920
73歳
未来の人材育成のため、ここ打越の丘に宿願の淺野綜合中学校を創立。校訓の「九転十起」は總一郎の生きざまを想像させる。

總一郎銅像
1924
77歳
喜寿を祝って有志が寿像を建立。土佐桂浜の龍馬像作者の本山白雲佐久。埋立計画書を手にして、今も京浜工業地帯を見守っている。

東京湾
1928
81歳
東京湾埋立工事が完了。港湾が整備されて巨船が横付けできるようになり、京浜工業地帯は日本の中核コンビナートとなる。

横浜総持寺
1930
永眠
享年82。鶴見の総持寺に眠る。

銅像山の頂上に鎮座。

浅野総一郎翁銅像の見学は、浅野学園の守衛に申し出れは可能。

https://g.page/asanogakuen?share


浅野学園の防空壕跡

浅野総一郎とは直接には関係ないけれども、浅野学園に防空壕跡が残されているので、この機会に掲載。
都合、4つ穴を塞いだあとが見える。

戦争遺跡・防空壕
 大平洋戦争中、本校の“銅像山”には、本校(浅野綜合中学)生徒や地域の人々がアメリカ軍による空襲から逃れたり日本鋼管株式会社等の機密資料を保管したりするために日本軍や本校生徒の勤労作業によって数個の防空壕が作られた。
 ここは、その場所の一部である。当時、生徒たちの防空演習では、学年別防空壕への避難訓練も行われていた。
 1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲では、防空壕内に待避した大勢の人たちは、火と黒煙が渦巻く横浜市内の惨状、そして焼夷弾が火を噴き焼け落ちる学園の校舎を涙して眺めていたという。
 今日に伝わる”戦争遺跡”として後世に残すものである。
  浅野学園
  2004(平成16)年8月

https://goo.gl/maps/L6efqYc2q9DQwhp59


浅野総一郎墓(総持寺)

横浜市鶴見区の大本山總持寺。
境内の奥に広大な敷地を有しているのが浅野家の墓。

浅野総一郎は昭和5年11月9日に死去。
法名は積功院殿偉業総成大居士。

墓所は昭和7年に完成。
浅野総一郎夫妻墓として墓地全体の整備設計を伊東忠太が行っている。

浅野セメントのマークが両扉に描かれていた。

積功院殿偉業総成大居士           

浅野家の墓は、総持寺で一番広い区画。
「中央ハ 6」

近くの著名人としては、
清浦奎吾墓「中央ニ1-27」
小野光賢墓と小野光景墓「中央ハ2」

浅野家墓地の敷地内には娘婿の白石家の墓もあった。


鶴見線浅野駅

鶴見線は浅野総一郎が埋め立てした「浅野埋立」の地を走る路線。
駅の名前にも面影を残す。

  • 浅野駅:浅野総一郎 浅野財閥 鶴見臨港鉄道創設者
  • 鶴見小野駅:小野重行 地主 浅野造船所を誘致
  • 安善駅:安田善次郎 安田財閥
  • 武蔵白石駅:白石元治郎 浅野総一郎娘婿 日本鋼管社長
  • 大川駅:大川平三郎 大川財閥 日本の製紙王
  • 扇町駅:浅野総一郎の家紋「扇」

浅野総一郎の同郷富山の先輩、安田善次郎、そして浅野財閥関連企業の経営に携わってきた大川平三郎。娘婿として浅野総一郎後の浅野財閥を長老格として支えた白石元治郎。浅野財閥の臨海地区開発に協力した小野重行。そして浅野家家紋に因む扇駅。
鶴見線は浅野総一郎とともにある路線。

浅野総一郎の名を残す浅野駅に脚を運んでみた。

「浅野総一郎の浅野駅」隣は、同郷の先輩「安田善次郎の安善駅」。


浅野総一郎翁の銅像は、浅野埋立の地にもある。

1914年(大正3年)に鶴見・川崎地区の埋立工事のために鶴見埋築株式会社を創立。その後進は、東亜建設工業株式会社。現在の東亜建設工業技術研究センター。
会社構内となるために見学には許可が必要。
今回は、未訪問。安善駅近く。

https://www.toa-const.co.jp/trdc/origin/

https://www.toa-const.co.jp/company/introduction/course/hop.html

https://tourist-map.mapion.co.jp/b/tm_tsurumi/info/tsurumi084/


以上、浅野総一郎にまつわる、東京横浜界隈の散策でした。
富山氷見なども機会がありましたら関連する地に脚を運んでみたいいですね。


関連

浅野総一郎が設立した「浅野カーリット」。
浅野カーリット埼玉工場の跡地。

横浜船渠会社は浅野総一郎や渋沢栄一が設立に関与。

浅野総一郎ゆかりの鶴見線、国道駅、大川支線

総持寺の浅野総一郎墓地は伊東忠太が設計。
伊東忠太は浅野邸「紫雲閣」の設計も行っている。
伊東忠太自身も総持寺に眠る。

横浜の基礎を築いた小野光賢は、浅野総一郎と同じ総持寺に眠る。

特攻の創設者の一人、大西瀧治郎も総持寺に眠る。

大西瀧治郎を偲ぶ

「日本建築史のパイオニア」伊東忠太作品と伊東忠太墓 

日本の近代建築を巡っていると、知らず知らずに出会っているのが「伊東忠太」が手掛けた建造物。日本近代建築において、欠かすことができない人物。
そんな伊東忠太の墓が、鶴見・総持寺にあると聞いたので脚を運んでみた。


伊東忠太

1867年11月21日-1954年(昭和29年)4月7日(享年87歳)
正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・米沢市名誉市民第1号。早稲田大学教授。辰野金吾の弟子。

日本建築を学問的に見直した第一人者。「日本建築史の創始」。
また明治27年当時は「造家」と約されていた「Architecture」を「建築」と訳すように提唱したの伊東忠太であった。それを受けて、明治30年に「造家学会」が「建築学会」に改称し、明治31年には東京帝国大学工科大学造家学科が建築学科に改称している。
昭和18年(1943年)に建築界ではじめての文化勲章を受賞。

伊東忠太が手掛けた建造物は枚挙にいとまがない。
以下、現存している代表的なものを。

  • 橿原神宮 1890年/重要文化財
  • 平安神宮 1895年/重要文化財
  • 東京大学正門 1912年/登録文化財
  • 弥彦神社 1916年/登録文化財
  • 明治神宮 1920年
  • 上杉神社 1923年
  • 総持寺放光観音台座 1923年/登録文化財
  • 東京商科大学兼松講堂(一橋大学) 1927年/登録文化財
  • 震災祈念堂(東京都慰霊堂) 1930年
  • 靖國神社遊就館 1930年/登録文化財
  • 靖國神社神門 1930年
  • 靖國神社石鳥居 1934年
  • 築地本願寺 1934年/重要文化財
  • 湯島聖堂 1934年
  • 神田神社 1934年/登録文化財
  • 高麗神社 1935年
  • 総持寺大僧堂 1937年/登録文化財

伊東忠太墓

総持寺の「伊東忠太の墓」は「石原裕次郎の墓」の4つ南に鎮座している。
石原裕次郎という目印がないとしょうしょうわかりにくい。

伊東忠太の墓は大谷石で造られているため年月とともに風化している。風化することを踏まえているのであれば、なおさらに奥深いものがある。

伊東家之墓

昭和15年3月建 
 伊東忠太

生前に設計した墓。
伊東忠太は昭和29年4月に亡くなっている。

総持寺の墓地担当者による立て看板が建っていました。
総持寺が伊東忠太の御子孫と連絡が取れない。。。と

大谷石で造られた外柵は一部崩壊していた。

伊東忠太の墓の場所は、「西望一 5-1」
(ちなみに石原裕次郎の墓は隣の「西望一 6-1」

大本山總持寺、墓地はかなりの広さ。

総持寺にある「浅野家墓所」の設計は伊東忠太。
伊東忠太は東京三田の浅野邸「紫雲閣」(戦災焼失)の設計も行っていた。

浅野総一郎墓所

伊東忠太設計。詳細は下記記事にて。

そのほか総持寺には、伊東忠太とは関係ないが、下記で記事にした「小野光賢と小野光景父子」や「大西瀧治郎」の墓がある。高橋三吉海軍大将の墓もあるというが未訪問(場所不明です・・・)

大西瀧治郎を偲ぶ

伊東忠太が眠る総持寺境内には、伊東忠太の作品が2つある。(ほかにも境内には伊東忠太が関わっている墓がいくつかあるが、浅野家以外の個人墓は割愛。)

総持寺・放光観音台座

大正12年(1923年)建立。花崗岩製の台座。台座の設計は伊東忠太。
登録有形文化財。

総持寺・大僧堂

昭和12年(1937年)建立。伊東忠太の設計。登録有形文化財。


伊東忠太作品

そのほか、私の写真フォルダから伊東忠太作品をいくつか掲載。

上杉神社

伊東忠太は米沢出身。
大正8年に米沢大火で焼失した社殿を、伊東忠太が設計し大正12年に竣工。

稽照殿(上杉神社宝物殿)

一橋大学兼松講堂(東京商科大学)

昭和2年(1927年)、国登録有形文化財、伊東忠太設計。

入澤達吉邸(近衛文麿邸)

昭和2年、伊東忠太設計。

東京都慰霊堂(震災祈念堂)

昭和5年(1930)、伊東忠太設計。

東京都復興記念館

昭和6年、伊東忠太設計。

東京大空襲・慰霊

築地本願寺

昭和9年(1934)、重要文化財、伊東忠太設計。

東郷寺山門

昭和15年、伊東忠太設計。

児玉神社

明治45年(1912年)、伊東忠太設計。


明治神宮

大正9年(1920)、伊東忠太設計。戦後再建。

平安神宮

明治28年(1895)、重要文化財、伊東忠太設計。

弥彦神社

大正5年(1916)、国登録有形文化財、伊東忠太設計。

神田神社(神田明神)

昭和9年(1934)、権現造鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗、国登録有形文化財、伊東忠太設計。

湯島聖堂

大成殿は伊東忠太設計、大林組施工により、1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造で再建。寛政年間の旧制をもとに復元再建したもの。

高麗神社

昭和10年(1935年)、伊東忠太設計。

靖國神社遊就館

昭和5年(1930)、登録文化財、伊東忠太設計。

靖國神社神門

昭和8年、伊東忠太設計。

靖國神社石鳥居と狛犬

昭和8年。長野の片倉財閥の奉納。伊東忠太設計。

靖國神社大灯籠

昭和10年、設計は伊東忠太。

大燈籠に関しては、別記事を作成予定。


伊東忠太作品に出会ったら追記していきます。。。

JR国道駅に残る機銃掃射弾痕(鶴見線)

初出は2020年12月の写真。2024年5月再訪の上で写真及び記事を追加。

昭和17年4月18日、ドーリットル空襲において、横浜・川崎地区は初空襲を受けて以来、大小30回にも及ぶ空襲を受けてきたという。

昭和19年12月25日、横浜地区において、B-29 による初空襲。

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/gaiyo/shishiryo/showa/digital-archives/daikushu/ks-nenpyou3.html

昭和20年4月4日、川崎地区において、B-29 による初空襲。
そして4月15日には、B-29爆撃機200機を超す編隊にて川崎を空襲された。
「川崎大空襲」での死者は700人から1500人といわれている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_22.html

昭和20年(1945)5月29日の昼間、アメリカ軍はB-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機という大編隊でもって横浜を空襲。約8000人から10000人という死者をだした。この「横浜大空襲」では、京急平沼駅が壊滅、神奈川県護國神社は焼失、している。


鶴見線・国道駅

鶴見線国道駅が、いつ機銃掃射されたかは明らかではないが、壁面に機銃掃射の弾痕が今も残されている。
米軍のP-51(マスタング)によるもの、とされている。空襲に際して、B-29爆撃機の護衛として、空母艦載機P-51は、B-29と行動をともにしていたが、戦争末期になると日本軍の迎撃も組織的には行うことができなくなており、P-51は爆撃機護衛に任務から対地攻撃に変更し、重要拠点のみならず民間人を機銃掃射するようになっていた。
国道駅の弾痕も、そのようなP-51戦闘機による機銃掃射の弾痕とされている。

昭和5年10月28日、鶴見臨海鉄道の駅として開業。
昭和18年7月1日、鶴見臨海鉄道は国有化され、鉄道省鶴見線となる。

なお、鶴見線の大川支線にも機銃掃射の弾痕が残っている。

国道駅に残る機銃掃射の弾痕を観察してみる。

南口にある、この凹みがP-51戦闘機による機銃掃射の弾痕、という。

コンクリートの側面にも弾痕が。

看板の周辺にも、いくつか弾痕が残っている。

高架下

北口

東口?

2020年は営業していた焼き鳥屋(下記写真)は、2024年に再訪したら閉店していた。

昭和のまま、時を止めた空間。
有効期間は、昭和82年・・・

ホームに上る

「すきま注意!」のみが新しい

国道駅ホーム

2020年12月は205系で運行。

以下は2024年5月。

新車のE131系1000番台で運行。

「すきま注意!」のデザインだけが細心な雰囲気。

昭和5年の開業以来、大きな改良等もなく、昭和の姿を留めている国道駅。
昭和の戦争の爪痕も、昭和の歴史の一つとして、ここに残されていた。。。


鶴見駅

鶴見線は全身の鶴見臨海鉄道が大正15年に、弁天橋ー浜川崎間で開業。鶴見駅には昭和9年に乗り入れとなっている。


浅野総一郎

あとは、鶴見線といえば。


関連

世界無名戦士之墓

埼玉県越生町に「第二次世界大戦で戦死した犠牲者の慰霊施設」があるという。
その名も「世界無名戦士之墓」という慰霊廟。

越生駅

越生といえば「越生梅林」が有名。それ以外は越生に関して格別な知識がなかった。越生に「大規模な戦争慰霊施設」があることも知らず、戦跡関連の情報収集をしていたら、たまたま見つけたため、足を運んでみた次第。

越生駅は東武越生線とJR八高線の2社。
越生梅林、さくら山公園、山吹の里歴史公園、五大尊つつじ公園、あじさい山公園など、四季折々で見頃となる花で賑わう観光地でもある。

東武越生線。ワンマン化された8000系。

東武越生線ホームの名所案内。
「世界無名戦士廟」とありますね。
ホームからも白亜の廟が見えます。

さて、あそこまで歩いていきますか。。。

目印が目立つので、迷うことなく歩みをすすめる。

山道へ。

越生駅からゆっくり歩いても20分くらいで到着。
桜の季節になれば最高の眺望を得られる場所。

大観山に鎮座する「世界無名戦士之墓」まであと少し。
野球部が石段トレーニングをしておりました。
つまり、それほどに立派な石段。


世界無名戦士之墓

大観山に鎮座する「世界無名戦士の墓」(世界無名戦士廟)
昭和30年8月に完成。

完成した当時は、千鳥ケ淵戦没者墓苑をはじめ国家的な慰霊施設がまだ存在しておらず、千鳥ケ淵戦没者墓苑が決まる前に国家的な慰霊施設を越生に誘致する運動もあった。

世界無名戦士之墓の概要
 世界無名戦士之墓は、埼玉県からお預かりした第二次世界大戦後、埼玉県庁の一室に安置されていた遺族の行方のわからない方、また受け取る方のいない御遺骨など2百余柱のほか、世界無名戦士之霊をはじめ、世界民族の霊、萬國萬霊、ビルマ戦没霊、フィリピン戦没霊、埼玉県戦士之霊、東京都無名戦士之霊、神奈川県無名戦士の霊、石川縣戦士之霊、越生町戦没者之霊などの位牌、英霊名簿などが納められた霊廟で、越生町の医師で埼玉県議会副議長でありました長谷部英邦氏の発願により、県内の英霊をはじめ世界の英霊たちをお祀りし、世界平和祈願の殿堂として国、埼玉県または多くの篤志家のご支援を得て6年の歳月をかけ挙町体制のもと、特定の宗教宗派に属さない施設として昭和30年8月に完成致しました。「無名戦士」とは、名前のわからないという意味ではなく、位階を超越し、一切無名平等にお祀りするという意味でこの名称になりました。
 詳しくは越生町のホームページをご覧ください。

Outline
 World Unknown Soldiers Tomb was built to place the ashes of the dead people, around 200 and more, whose bereaved family were not identified and no one had received the ashes. They were once temporally put in a room of Saitama prefectural office. And Buddhist memorial tablet and dead people’s list of world unknown soldiers were also placed in the tomb,where included were the Burmese war dead, Philippine war dead, war dead in Saitama pref., in Tokyo metropolis, in Kanagawa pref., in Ishikawa pref., and in OGOSE town and other war dead of races and nations.
 First proposal to build this tomb was suggested by Mr. Hidekuni HASEBE who was a doctor in OGOSE town and vice chairman of Saitama Prefectural Assembly. He hoped to build the tomb in order to mourn for the numerous war dead and to pray for the world peace. He got to work on Japanese Government and Saitama prefecture and got many charitable supporters. And six years later from his proposal, this tomb was completed in August of 1955. This tomb is not belonged to specific religion. And the understanding of the word “unknown” is not unidentifying the each name, but mourning as the sense of equal ,nevertheless they had various dignity, orders and degrees in this world.

http://www.town.ogose.saitama.jp/kamei/kaikei/1513744425763.html

http://www.town.ogose.saitama.jp/kankonavi/meguri/1455863576470.html

登録有形文化財
第11-0195号
この建造物は基調な国民的財産です
文化庁

登録番号 第11-0195号
世界無名戦士之墓 一棟
構造・形式:鉄筋コンクリート造3階建、建築面積210㎡
年代:昭和29年(1954)竣工
   令和2年4月3日登録
登録基準 (1)国土の歴史的景観に寄与しているもの

 世界無名戦士之墓は、当町の医師長谷部秀邦氏の発願によって建設された第二次世界大戦戦没者の納骨・慰霊施設です。
 弧を描いて聳え立つ壁の内部は3階建の納骨室です。1階正面の半円形にせり出た礼拝室の祭壇には国内外の将兵の位牌が祀られ、屋上は展望台になっています。壁面の襞の頂部先端には各国旗を立てる穴が開けられており、独立を回復し国際社会復帰を目指していた、当時の日本の時代背景がうかがわれます。建物裏手には、竣工年月日や設計者の高岡元次(埼玉県土木部建築課技師)等関係者名を刻んだ銘板が嵌め込まれています。
 越生町のシンボル、ランドマークとして親しまれている、世界平和を希求する日本国民の意志を具現化した記念碑的建造物です。
  越生町教育委員会

世界無名戦士之墓建設趣意書
 この企ては、講和条約の成立を祝福記念すると倶に、世界各国の人の間に国際的理解と、親善とをうち建て恒久平和の大願を成就したいと云う信念から発したのであります。
崇高な代償と貴い犠牲を払った民主日本が、彼我戦没者の勇気と献身を記念し、神に感謝し仏に念ずるとともに、是等無限の犠牲を永遠の亀鑑として、強く支持するよう祈り続けるために企だてられたものでありまして、世界各国の国使及び一般外遊の士がこれに礼拝することは、最も美しい国際情誼と解せられるに至りました。

省みまして我が国には斯くの如き国際的儀礼の表徴としての無名戦士の墓は未だ無かったのであります。
是れを卜する地は国立公園奥秩父を背景とした埼玉県立黒山自然公園の関門をようし関東平野を一眸の裡におさめ、名所旧蹟に囲まれた景勝のところで、交通の便と相俟って観光参拝の浄地、古邑越生町の大観山であります。
今次世界大戦は、有史以来未曾有の広大な戦線に亙った為、南溟朔北の地に散華され、空しく枯骨となって雨雪に曝らすがままの英霊、無慮数拾万と称せられて居ります。
国を挙げての歓びである和解と信頼による千古比類のない講話の成立、これによって寄らさるる民主日本の名に於ける平和の謳歌!!
この際真に私達は英霊の無限の犠牲に対し、満腔の感謝と敬意を表し、一柱でも供養されない不幸があってはならないことに心すべきであって、全世界の英霊と倶に、全地球の半かばに散在し耿々として望郷の念熄むことなき斯の日本の英霊に、肉親の情愛を捧ぐる事こそ祖国に生ける者の義務であると確信致す次第であります。茲に同憂相諮り、昭和25年建設を発願致しまして、昭和26年衆参両院に、以上の趣旨に依る建設請願に及びたる所、何れも本会議に於て名実共に国家的尊崇の表徴を建設せんとして努力を尽くしつつあるのであります。既に実行段階に入り、境内約1万坪の山嶺に整地工事を終り、目下建塔計画を本県土木部の応援を得て進めて居ります。
何卒この企てを深くご理解くださいまして、一掬の至誠を手向け御協賛賜らむことを御願申し上げます。
  東京都郊外黒山自然公園
 財団法人 世界無名戦士之墓建設会
   代表 長谷部秀邦

越生町「世界無名戦士之墓」
http://www.town.ogose.saitama.jp/kamei/kaikei/1513744425763.html

白亜の廟の中には、位牌が祀られた祭壇がある。

扁額

屋上の展望

白亜の慰霊廟


階段の両脇にいくつかの碑がある。

馬魂碑

昭和47年9月建立。世界無名戦士の墓建設会。
軍馬、農耕馬、競走馬などの馬たちの霊を祀る。

遠く戦国時代はもとより明治大正を通し大東亜戦争まで幾多の戦史の蔭に言うに言葉を持たず訴えるにその術もなく、戦野に屍を晒してそのままの、幾十万の軍馬、或は時代時代の大きな輸送力として、或は農耕等今日の経済復興に又競走馬として國民に潤の道を与え蔭の力となって命数を終った駿馬に対し、この偉大なる社会に貢献した歴史を今ここで次代に伝え更にその霊を慰むるべく建碑を計画した。幸いに中央競馬社会福祉財団より金400万円の巨額の賛同を得て、ここに馬魂碑の建立を得た。私達は詣でる人人に彼等の、在りし日の姿を偲び、霊に感謝の、心を手向けていただくことを祈る。


慰霊碑

慰霊碑
内閣総理大臣 佐藤栄作書

昭和41年5月、越生町慰霊碑建設会にて建立。
越生町出身の大東亜戦戦歿者の慰霊碑。
碑裏面にご英霊の出身区とご芳名が刻印されている。

ちなみに右の石段と左の石段は段数が違う。
左の石段は、右の倍。歩幅が小さい方用に高さが調整されているのだ。

徳を讃う碑

「世界無名戦士の墓」建立の発起人・長谷部秀邦氏を讃える碑。


場所

https://goo.gl/maps/LuovS3ExxGkiDzPx9


越生町

意外と奥深い町でした。
太田道灌の生誕の地とは知りませんでした。。。

「世界無名戦士之墓」。
非常に尊い空間。この地には、また脚を運ぶことになりそうです。
桜の季節に、御英霊と花を愛でたいものですね。
ありがとうございます。


「最後の空襲」熊谷の戦跡散策

昭和20年8月14日から8月15日にかけて。結果論的にいうと8月15日正午に「終戦の詔」が発せられる、その12時間前に、埼玉県熊谷市に空襲があった。
これが太平洋戦争最後の空襲であり、埼玉県内最大規模の空襲であった。
この最後の空襲の被害は甚大であり、この空襲によって熊谷市は埼玉県内唯一の戦災都市に指定されることとなった。(戦災都市は全国115都市)

この8月14日から15日にかけての日本最後の空襲被害は、埼玉県の「熊谷空襲」、群馬県の「伊勢崎空襲」、そして秋田県の「土崎空襲」(日本石油製油所)の3箇所となっている。

熊谷空襲

当時の熊谷市は中島飛行機の部品製造を担っていた「熊谷航空工業」「理研工業熊谷工業」など、中島飛行機太田製作所や小泉製作所、大宮製作所などの中島飛行機主要工場に付属関連する施設があり、また熊谷陸軍飛行学校もあり、海軍艦政本部も疎開しているなど、重要拠点の一つであったが、熊谷市はこれまで空襲被害がなかったということから、米軍によってマークされており、それが最後の空襲の候補地となった理由でもあった。

昭和20年8月15日0時頃。B-29 爆撃機89機が熊谷市上空に到達。
米軍は、熊谷市に対し4,000ポンド爆弾6発、M17焼夷弾356発、M19焼夷弾1,372発、M47焼夷弾6,321発を投下。
熊谷市街地の74%に相当する35万8000坪、全戸数の40%に相当する3630戸が焼失。全人口の28%に相当する1万5390人が被災し266人が死亡、約3000人が負傷。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_05.html

秩父鉄道上熊谷駅から散策スタート。


平和地蔵尊

熊谷厄除子育地蔵尊

熊谷空襲にちなむ、「平和地蔵尊並火伏地蔵」という。

すでに読めなくなっておりますが、記録によると以下の記述があるという。

舌代
顧るに昭和二十年八月十四日夜半より
翌15日に亘り、 吾が熊谷全市
は火の海と化し、言語に絶する
混乱状態となりたり。
折しも星川の流れに身を投じて
避難せる人々は、川の両側に並ぶ家屋
の焼落ちる火と火との間にて、哀れ
にも狂い死をなしたる者多大なり。
又無残や大火傷を受け、薬石
効無く遂に尊い一命を失った者驚く
勿れ全市に於て其の数実に二百
有余命なり。
そのお気の毒な方々の最後
を思いやり、情厚き全市有志の
皆名様と共にここに平和地蔵尊並火伏地蔵
と唱えて建立せしものなり、斯くのごとき
死亡者の中には身寄り頼り無く不幸
此の上も無き霊魂の為に何卒一片の香花を
手向け下さる様御願い申上げます。
 昭和三十二年一月 熊谷市有志一同
  堂守 杵屋二十五代目 新井龍吉

地蔵としては珍しく、眼を開けられているのが特徴という。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/saitama_kumagaya_city002/index.html

場所

https://goo.gl/maps/HSt7N1qkKD1TiV359


石山寺(せきじょうじ)

本堂前のケヤキは熊谷空襲にて被災。戦後75年をかけて幹周りを自己修復している。

平和地蔵尊から道を挟んだ東側に鎮座。

場所

https://goo.gl/maps/3ewphusXdwHZSb68A


熊谷聖パウロ教会

登録有形文化財。
1919年、アメリカ人ウィルソンの設計・監督により建設された総レンガ造りの教会。

昭和20年8月15日の熊谷空襲をくぐり抜けた建物。

 熊谷で聖公会によってキリスト教の伝道がはじめられたのは、明治15(1882)年ころで、明治21年には石原町に聖堂が建設されました。
 現在の地に聖堂が建ったのは、大正8年(1919)年です。
 平成17(2005)年には聖堂と門が登録文化財として文化庁に登録されました。

場所

https://goo.gl/maps/biFRBJYJYg1V6zWE7


熊谷寺・千形神社・高城神社

周辺には寺社も多い。寺社の樹木で戦火を免れた建物も多いという。

熊谷寺(ゆうこくじ)

場所

https://goo.gl/maps/fkdLutqrT718serA6

千形神社

場所

https://goo.gl/maps/Mp4p9G9aw1XZEbkx6

高城神社

場所

https://goo.gl/maps/xVVdF9vT65zgW6pTA


戦災者慰霊の女神

建立は昭和50年8月16日。北村西望による。
熊谷空襲慰霊の女神。熊谷空襲で行き場をなくした多くの人々が飛び込んだという星川に鎮座する。

戦災慰霊の女神
 北村西望作
 終戦前夜の大空襲で熊谷市は、焼土と化し、多くの尊い命も失われました。
 昭和50年、戦災30周年に完成したこの等身大の像は、高純度アルミニウムで作られていて、静かな銀色は慈悲に満ち、戦災の悲しみを再び繰り返してはならないとの祈りがこめられています。

慰霊碑 建立について
熊谷市は昭和二十年(一九四五年)
太平洋戰争終戰前夜の
八月十四日空襲をうけ一夜
にして當時の市の三分の二
が焼土と化し二百六十余名
の方が悲惨な最後を遂げま
した。
特に市の中央部を流れる星川
には一齊にあがった火の
手に逃げ場を失った人人が
飛び込み焼け崩れた家の下敷
となり百人近い方が焼死
しました。けれどもあの痛ましい
戰災の記憶や思い出
は年と共にうすれ忘れられ
てまいります。
よって被災三十周年を迎え
るに當り由緒ある星川上に
碑を建立して永く慰霊と平和
を祈る灯といたします。
 昭和五十年八月十六日
  慰霊碑建立奉賛會

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/saitama_kumagaya_city001/index.html

星川の上に鎮座している。

場所

https://goo.gl/maps/yt9ahvh4N178Cbgk6


身代わり地蔵

熊谷空襲で焼失した久山寺の跡地一画に、空襲や戦地で亡くなった戦争犠牲者の異例のために建てられたお地蔵様。熊谷空襲で多くの犠牲者を出した星川のそばに鎮座している。

場所

https://goo.gl/maps/EFiFWTi43bvrR5nX9


熊谷市慰霊塔

昭和37年3月建立。荒川公園。

建立の経緯
西南の役より太平洋戰争に至る戰役事変にお
いて祖國日本の安危を担い勇躍征途につかれ
果なき昿野に怒濤逆巻くわだつみにあるいは
乱雲の大空にその勲しも髙く散華せられた本
市出身軍人軍属一千九百余柱の英靈を追悼し
ここに招魂鎮祭の願いを果さんとする
昭和二十年八月終戰の混乱と廃?の中にあっ
て祖國再建の悲願に燃え世界恒久の平和を念
じてここに十有七星霜今や新日本として飛躍
的な發展を遂げ本市も又大熊谷への進展の冥
途を辿りつつある時殉國の英靈に對求る追慕
の情いよいよ深く市民の総意として英霊の冥
福を祈念しその功績を永?に傅うるに足る慰
霊塔建立の議が發願されるに至ったここにお
いて本市は昭和三十六年一月熊谷市慰霊塔建
設協力委員会を設置し市遺族會の寄附金を始
め広く市民の浄財を市費とをもつて名勝櫻堤
のあたり遠く秩父連峯を望むこの地をトし昭
和三十六年十二月起工本年三月その完成をみ
たのである
我等は今この聖塔を前にして英霊の遺志を顕
彰し人類の平和と国家の興隆を念じ郷土の發
展とご遺族の援護に一層の努力を誓う次第で
ある願わくは諸霊とこしえに鎮まりご遺族と
全市民に加護を給わらんことを
ここに建立の経緯を略記しもつて後世に傳
えんとする
 昭和三十七年三月
  熊谷市長 栗原正一撰
  岡 翠雪書

工事記録
起工 昭和三十六年十二月
竣工 昭和三十七年三月
工費 金四百七拾萬圓也
建設管理 熊谷市建築課
施工 株式会社小林組
慰霊塔の規模
構造 鉄筋コンクリート造
塔の高さ 一五・五米
述面積 二八一二平方米

奉仕の理想で世界の平和を

熊谷ロータリクラブ
創立15周年記念
 昭和42年10月建設

戦前に建造されたSLが静態保存されている。

D51 140号蒸気機関車について
新製年月日 昭和13年11月6日 製作所 日本車両製造株式会社

場所

https://goo.gl/maps/BYE29bvqjb52Dggk8


中家堂の石灯籠

熊谷名物の瓦せんべい・軍配せんべいで有名な和菓子屋さん。
軍配本舗・中家堂

熊谷空襲と石灯籠のこと
 昭和20年(1945年)8月14日、ここ熊谷の町はアメリカの戦闘爆撃B29からの爆撃を受け、辺り一面が焼け野原となった。
 あれから幾星霜、見事に復興を遂げた町中には、あの日の惨禍を物語る遺構は全くと言っていいほど残っていない。
唯一つ、この石灯籠のみがここに立つ。
 空襲を受けた暁、当店の看板であった石灯籠は、土蔵が軒並み崩れる程の業火に炙られた。明治中期に造作された石の灯篭は、宝珠・笠・火袋・中台・棹・露盤の6部から成っていたが、これらは全て紅蓮の炎と熱風に倒れ散った。宝珠と笠に残る黒い焦げ痕は、焼夷弾によるものである。
 時を経て再建の際、失った中台と棹が新しく造られた。大規模な区画整理が行われたこの場所に、元の姿で戻ってこられたことをさぞかし喜んでいるに違いない。
 今日、戦の痕跡を留める石灯籠は昔日の姿の儘、物言わぬ語り部となる。
 未来永劫、あの夏の記憶をここに結ぶ。
  某年8月 中家堂

場所

https://goo.gl/maps/2jpVd9193NRnbsSq7


中央公園

熊谷市役所隣の中央公園内には、熊谷空襲を生き延びた欅が8本ほど移築されている。

平和の鐘

熊谷ライオンズクラブ寄贈。

場所

https://goo.gl/maps/K4gnUFLmdcLq8Bnq6


埼玉県立熊谷女子高等学校

明治44年(1911)に埼玉県立熊谷高等女学校として開校。
戦争末期には、熊谷高等女学校構内に理研学内工場が設置されピストンなどを製造。また中島飛行機小泉製作所技術部第二設計課(長距離爆撃機「連山」設計試作部隊)や海軍艦政本部が当校に疎開している。

埼玉県内で唯一戦災被害を受けた高等女学校。焼け残った校門は、現在も北門として利用されている。

場所

https://goo.gl/maps/41szxm2ah2sS8aAV8


熊谷駅前。戦跡とは関係ないが、熊谷次郎直実銅像をみながら、熊谷をあとにする。


法務省旧本館(旧司法省庁舎)

「中央合同庁舎第6号館赤れんが棟」、とも呼称。
明治期に造られた官庁集中計画建造物で唯一現存する建物。
国重要文化財指定(外観のみ指定、内装は除く)

1895年(明治28年)、旧司法省庁舎として竣工。
ドイツ・ネオバロック様式。歴史主義建築。

1923年(大正12年)の関東大震災をほぼ無傷で乗り切るも、1945年(昭和20年)の東京大空襲にて内装と屋根を焼失。
1950年に法務府庁舎・法務省本館として再利用。
1994年の改修工事で文化財として創建時の外観に戻され、現在は法務総合研究所・法務図書館として利用されている。
1995年には「法務史料展示室」が開設され、平日のみ一般公開されている。

重要文化財 法務省旧本館
 この建物は、明治政府が招聘したドイツ人建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンの設計により実施設計・工事監理には河合浩蔵が参画し、1895年(明治28年)に旧司法省庁舎として完成した。
 その後、1923年(大正12年)の関東大震災では、れんが壁が鉄材で補強されていたため、ほとんど被害を受けなかったが、1945年(昭和20年)の東京大空襲により、れんが壁を残して焼失した。そのため、屋根を天然スレートから瓦にするなどの改修工事が行われ、1950年(昭和25年)法務省本館として利用されるようになった。
 中央合同庁舎第6号館の整備に伴い、村松貞次郎、堀内正昭両氏の監修のもと建設大臣官房官庁営繕部により、1994年(平成6年)外観が創建時の姿に復原され、法務総合研究所及び法務図書館として活用されることとなった。
 本格的なドイツ・ネオバロック様式の外観に特徴があり、都市の景観上貴重で歴史的価値が高いため、1994年(平成6年)12月27日に重要文化財の指定を受けた。
 平成7年5月

法務史料展示室
メッセージギャラリーのご案内


公開日 月曜日から金曜日まで/入場無料(土曜日・日曜日・祝日などはお休み)
公開時間 午前10時から午後6時まで(入室は午後5時30分まで)

重要文化財(建造物)
法務省旧本館
(指定:平6.12.27)
 明治政府は、最大の外構課題であった不平等条約改正交渉に先立ち、近代国家としての体制を整えるため、明治19年(1886)から官庁集中計画に着手しました。計画立案には当時のドイツ建築界を代表するヘルマン・エンデとヴェルヘルム・ベックマンを招聘し、司法省の庁舎として企画されました。工事監理はベルリン工科大学に留学経験のある河合浩蔵が務め、明治21年(1888)に着工し、明治28年(1895)12月に竣工しました。東京大空襲で煉瓦造の躯体と防火床の一部を除いてほぼ全焼しました。平成3年から6年にかけて行われた保存改修工事により創建当時の姿に復元しました。建物は、1階を低く抑え、2・3階を高くした3階建で、屋根はスレート葺、外壁は赤煉瓦を基調に柱や窓周りに白い石材を用いています。
 明治の官庁集中計画による建物で現存する唯一のものであり、本格的なドイツ・ネオバロック様式を用いた外観に特徴があります。


位置関係など

国土地理院公開の航空写真より
ファイル:USA-M871-58
1948年03月29日-米軍撮影。

司法省の建物が外壁を残して焼失している姿がよく分かる。
海軍省や参謀本部なども同様に外壁を残すのみ。


法務省旧本館

正門の守衛さんに、見学したい旨を申し出ると、見学可能。その際に見学に際しての諸注意が守衛さんより説明がある。

  • 写真撮影は決められたエリアのみ可能。
  • 館内は撮影禁止
  • 飲食禁止
  • 歩く場所
  • 館内は業務中のために静粛に

以下、外観を決められたエリアから撮影。正面向かって右側のエリアからのみ撮影可能。

史料展示室とメッセージギャラリーにて、日本の法務史と旧司法省本館の歴史が学べるので、平日限定公開だけど、興味ございましたら足を運んでみるのをおすすめします。結構面白いです。


法務史料展示室・メッセージギャラリー

http://www.moj.go.jp/housei/tosho-tenji/housei06_00004.html

法務史料展示室・メッセージギャラリーご利用案内(見学・アクセス)

  • 月曜日から金曜日まで(土曜日,日曜日,祝日等はお休み)
  • 午前10時から午後6時まで(入室は午後5時30分まで)
  • 無 料

http://www.moj.go.jp/housei/tosho-tenji/housei06_00009.html


関連

「12月23日の記念日」陽気と陰気と

令和2年(2020)になっても、12月23日は特別な記念日という想いが強い。

平成の時代は 天皇誕生日、であった。
そして
令和の時代は 上皇誕生日。御年87歳となられた祝ひ日。

https://www.kunaicho.go.jp/joko/press/r021223.html

https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/42

記念日であり、節目の日である「12月23日」という日を振り返ってみる。

陽気と陰気と。


令和2年12月23日-巣鴨プリズン跡

かつて巣鴨プリズンと呼ばれていた巣鴨拘置所跡地。
そのサンシャイン足元の東池袋公園。

この公園に慰霊碑がある。
かつて天皇陛下誕生日であり、一般参賀を終わらせた流れから足を運びに来る人も多く、一般参賀の名残で日の丸の小旗が多く捧げられていた慰霊碑。鎮魂の碑。

永久平和を願って
第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。 戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
昭和五十五年六月

墓標のように聳え立つサンシャイン60を横目に、静かに頭を下げる。

昭和23年12月23日

昭和23年12月23日。
極東国際軍事裁判にて、いわゆるA級戦犯とされ、死刑囚とされた7名に対する絞首刑が執行された。
これは当時の皇太子殿下(現在の 天皇陛下)の誕生日という、12月23日の尊い「国民の祝い日」を敢えて刑の執行日に選んだともされている。

昭和受難者

1978年(昭和53年)10月17日に「昭和殉難者」(国家の犠牲者)として靖国神社に合祀。

靖國神社に合祀された「昭和受難者14柱」は以下の方々。

昭和23年12月23日に絞首刑執行(刑死)
 東條英機
 広田弘毅
 土肥原賢二
 板垣征四郎
 木村兵太郎
 松井石根
 武藤章
終身刑(刑期中に病死)
 平沼騏一郎
 白鳥敏夫
 小磯国昭
 梅津美治郎
 東郷茂徳
戦犯指定を受けたが判決前に病死
 永野修身
 松岡洋右

令和2年12月23日-東条英機墓

サンシャイン60が見える雑司ヶ谷霊園に東条英機は眠る。

昭和23年(1948)12月23日
午前零時1分
巣鴨拘置所(スガモプリズン)内

東条英機は極東国際軍事裁判(東京裁判)にて裁かれ、ときの皇太子誕生日であった12月23日に死刑(絞首刑)が執行された。64歳没。

「東條家墓」(東條英機墓)
明治四十四年七月 第二代英俊埋葬の機会に於て墓地を浅草区松葉町清水寺より雑司ヶ谷共葬地に移し新に此墳墓を築く 第三代英教 識す

東條家第二代東條英俊(盛岡藩士)、第三代が東條英教(陸軍中将・東条英機の父)、そして第四代が東條英機。

令和2年12月23日-皇居

毎年のように朝一番で足を運んでいた12月23日の二重橋前広場。懐かしさもあって思わず足を運んでみた。感慨深い心持ち。

令和2年12月23日-靖國神社

昭和受難者の方々、いわゆるA級戦犯と称された方々が祀られた靖國神社。

参拝を。

パール博士顕彰碑
極東国際軍事裁判法廷インド代表判事
※顕彰碑の写真は2018年12月23日

時が熱狂と偏見とを
やわらげた暁には
また理性が虚偽から
その仮面を剥ぎとった暁には
その時こそ正義の女神は
その秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに
そのところを帰ることを
要求するであろう


ラダ・ビノード・パール博士は昭和二十一(1946)年五月東京に開設された『極東国際軍事裁判所』法廷のインド代表判事として着任され、昭和二十三年十一月結審・判決に至るまで、他事一切を顧みる事なく専心この裁判に関する膨大な史料の調査と分析に没頭されました。
博士はこの裁判を担当した連合国十一箇国の裁判官の中で唯一人の国際法専門の判事であると同時に、法の正義を守らんとの熱烈な使命感と、高度の文明史的見識の持主でありました。
博士はこの通称「東京裁判」が、勝利に傲る連合国の、今や無力となった敗戦国日本に対する野蛮な復讐の儀式に過ぎない事を看破し、事実誤認に満ちた連合国の訴追には法的根拠が全く欠けている事を論証し、被告団に対し全員無罪と判決する浩瀚な意見書を公にされたのであります。
その意見書の結語にある如く、大多数連合国の復讐熱と史的偏見が漸く収まりつつある現在、博士の裁定は今や文明世界の国際法学会に於ける定説と認められたのです。
私共は茲に法の正義と歴史の道理とを守り抜いたパール博士の勇気と情熱を顕彰し、その言葉を日本国民に向けられた貴重な遺訓として銘記するためにこの碑を建立し、博士の偉業を千古に伝えんとするものであります。
 平成十七年六月二十五日 
  靖国神社
   宮司 
    南部利昭

※パール判事の碑の写真は別の年


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愛の像(アガペの像)

  • 世紀の遺書

殉国七士を偲びし慰霊の鐘「仁慈の鐘」

  • いわゆるA級戦犯の方々の名が刻まれた慰霊の鐘

東条英機邸跡

東条英機邸跡

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越谷陸軍飛行場跡地の戦跡散策

埼玉県のシンボルであり、県民の鳥としても親しまれているシラコバト。埼玉県のマスコットキャラクター・コバトンとしても近年では馴染みが深い。
そんなシラコバトの名前を冠した施設「しらこばと水上公園」。当時、この地域は陸軍の飛行場であった。
そんな「しらこばと水上公園」周辺を散策してみようと思う。


越谷飛行場

埼玉県南埼玉郡新和村・荻島村、現在のさいたま市岩槻区と越谷市に存在していた飛行場。

通称「越谷陸軍飛行場」。地元では「新和飛行場」「荻島飛行場」「論田飛行場」とも呼称。
昭和19年7月、建設開始。急造での工事が行われ、昭和20年に竣工するも、ほぼ機能することなく終戦。

戦後、連合軍が進駐。この地域に生息していたシラコバトの多くが乱獲され絶滅にひんした、ともいわれている。

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R393-167
昭和22年(1947年)10月23日に米軍撮影。越谷飛行場空撮。

上記を一部拡大。
滑走路・誘導路・排水路区画などがわかる。

現在の様子をgoogle航空写真にて。
今でも、当時の区画を辿ることが可能。


滑走路跡コンクリート
(滑走路で作った記念碑)

越谷陸軍飛行場から約6.5キロ北の地に、東岩槻駅近くの稲荷神社に越谷飛行場で使用された滑走路のコンクリートが転用されていた。

戦後、貴重であったコンクリート。不要となった飛行場で使用されていたコンクリートをはるばる6キロ以上先の地まで運搬。そこには、農地を開拓して見事に完成した証の記念碑を作りたいという熱意が感じられる。

稲荷神社
鎮座:さいたま市岩槻区南平野1-33-5

昭和22年に農地開拓事業完成の記念碑建立のために「新和飛行場」より碑石を運搬して作成した旨が記録されている。

碑文・裏
岡崎大沢両氏ハ昭和二十二年村民一同ニ推シ代表ニ就任スルヤ部落厚生福祉ノタメ本事業ニ着眼シ工事ノ設計工築ヲ担当シ自己ヲ忘レ一意専心事業完成ニ努力ヲセラレ其目的ヲ達成セリ
茲ニ記念碑建設ニ当リ碑石ハ新和飛行場ヨリ運搬使用セル一片ヲ残シ両氏ノ設計耕作ニヨリ碑ノ完成ヲ見タリ
洵ニ両氏ノ業績大ナリ其偉徳ヲ感激シ謝恩ノ一端ヲ抜瀝センガタメ碑ニ刻シ後年ニ傳ヘ讃ヘントス村民一同

https://goo.gl/maps/HbcrzAcYjYatfER99


しらこばと水上公園

埼玉県営都市公園。昭和54年(1979)開園。海無し県埼玉にとっては貴重な海。

https://goo.gl/maps/S7w5nQv2FjjarffF7

以下、散策してみましょう。

しらこばと水上公園まっすぐ南に伸びる道路は、当時の滑走路跡となっている。交通量は多く、近隣には工事業者も多く大型車の往来も多い。


滑走路跡


第一排水路

滑走路跡の道路から、ひとつ西となりの農道に移動。
建物のあるあたりが、当時の滑走路。

そして「第一排水路」。

そこからさらに農地を西に進む。


第二排水路・暗渠排水路(西)

水田の間にある排水路。
多孔型の蓋がされている暗渠となっている。
これは、滑走路に向かう飛行機が排水溝を渡れるように蓋をし、雨水を排水溝に落とすための工夫。
現在も排水路として機能している。

建物の場所が滑走路方面。

ときどき、大きな穴が空いていて要注意。かなり深いらしい。

砂利が多く混じっている。

ぼーっと歩いていると落ちる。落ちたら危険。

コメントを戴きました。

暗渠排水路ですが深さは深いらしく大人が立っても余裕らしいです、昔はウナギが取れたらしいのですが中に入ると簡単に出れなくなってしまい死ぬから絶対に入るなと言われました。
ちなみに暗渠より滑走路側の蓋のない用水路が第一排水路で暗渠の排水路が第二排水路だそうです。

ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM


建物基礎跡

格納庫のあったエリア。なんらかの施設の基礎と推定。赤丸の建物。青丸は橋。

飛行場の境目の用水は今も昔も変わらず。

https://goo.gl/maps/XD8H3BZAjc2zPsfKA

水田に囲まれている。

階段もある。

格納庫はあっても飛行機はなかったようで。。。

コメントを戴きました。

飛行場には当時、本物の飛行機はなく木で作った飛行機(ダミーのモックアプ)があっただけだそうです。
一度だけ飛んできた飛行機が事故を起こしたと言っていたのですが、私が大きくなり自分で色々調べた際に一式戦闘機が着陸に失敗し事故を起こした事を知り、祖父の話は本当だったのだと思いました。

ひろゆき様 より : 2021年6月17日 1:12 PM

石橋

石橋も古さを感じる。ただ主要な出入り口ではない農地エリアから飛行場エリアに、安易に橋を架けるのは飛行場側としては警備上のデメリットしかうまれないため、この橋は戦後の農地開拓時に架橋された可能性も高い。掲載している昭和22年の航空写真ではすでに橋が確認できるため、遅くともその頃には架橋されたものと判断できる。

コメントを戴きました。

格納庫跡付近の橋から西に延びる道は飛行場建設当時、軍のトラックが資材運搬に使用したらしいのですが、トラックが道を荒らしてしまい穴だらけにしてしまったらしいのです。
軍も住民への補償という形で道を修繕したのですが、穴に大きな石を入れただけだったらしく、その上をトラック等が走っていると石が水田側に出てきてしまい結局自分たちで石を砕いて道を修繕したらしいです。
ですので橋も飛行場建設当時からあったと思われます。

ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM

コメントを戴いた、ひろゆき様のお祖父様は石橋の近くに住んでいたとのことで。
飛行場の外側にあった民家にも兵隊さんが訪ねてきたそうです。

食糧難の話で、終戦間際の正月一人の兵士が餅を食べさせてほしいと訪ねてきたそうです。
ウチにもたくさんあるわけではないので、今日だけという事で餅を食べさせてあげたらしいのですが、翌日から毎日のように兵士が仲間を伴ってやってくるようになってしまい、家の木戸(門)が開けられなくなってしまったと言っていました。

ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM

また、ひろゆき様のお父様から聞いたエピソードも頂戴しました。

ここまでが祖父に聞いた話で、こちらは私の父親(戦後生まれ)が子供のころ近所の元憲兵から聞いた話です。
飛行場完成後、倉庫にあった軍の備蓄米を当時の司令が横流しをしていたらしいです、その後その司令は何事もなく移動になり飛行場を去っていったらしいのですが、後任の司令が着任後に米の備蓄数を調べたところ数が合わない事で発覚したのですが、当時その事を咎められたのは新しく来た司令だったそうです。
その司令は結局、その事を苦に首を括ってしまったそうです。

ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM

鉄塔基礎跡(1つ目)

前述のなんらかの建物基礎は、もしかしたら変電系の施設だったかもしれない。建物基礎跡を挟んで前後には鉄塔基礎跡と思われるものが一直線に並んでいた。下図の左上は現在の東京電力の施設。公共系の施設は今も昔も同様の使われ方をしているので、当時でも左上の建物は電力系と判断することができる。

コメントを戴きました。

飛行場建設にあたっては朝鮮人も動員したらしく、本文にもある東京電力の施設の近くに宿舎があったそうです。
食糧難ということもあり、食事は真っ黒い握り飯を食べていたそうです。
真っ黒とは?と祖父に尋ねたところ、玄米だそうです。(精米すると量が減ってしまうからだそうです)
祖父は親からあまり朝鮮人には近づくなと言われたそうです。

ひろゆき様 より : 2021年6月17日 1:12 PM

赤丸は鉄塔基礎跡。青丸は現在の鉄塔。
星印は前述の建物基礎跡。

まずは格納庫エリアより南東に残る鉄塔の基礎跡。滑走路に一番近い鉄塔基礎跡。

そんなに大きなものではない。

下部は水田に張られた水で徐々に削られているようだ。


鉄塔基礎跡(2つ目)

こちらは格納庫エリアの北西にある鉄塔基礎跡。水田の中にきれいに残っている。

後ろには現在の鉄塔の姿も見える。


誘導路跡

滑走路に戻る。このあたりが、滑走路の南端。

この南端からは曲線を描いたターニングサークル・誘導路跡の道路が今も残っている。


第二排水路・暗渠排水路(西)

暗渠となった排水路は東側にも一部残っている。

当時の排水路と新しい排水路が合流。新しい排水路は暗渠化されておらず開渠型。

東の排水路は、あたしい排水路と交差する箇所も多く、改良も多いようです。

また西側は水田主体でしたが、東側は畑が多いようです。

畑が多いと土砂も多いため、暗渠の摩耗も進んでしまうような雰囲気。

南側は排水路そのものが、飛行場当時のものを改め新しい開渠型に更新されておりました。

このあたりは排水路・用水路が多い。水っぽい土地。

コメントを戴きました。

この飛行場一帯は元々水田で低湿地帯のため水捌けが悪く飛行場南側に新堀池という排水池を作ったのですがそれだけでは足りず排水ポンプも使用していたらしいです。
しかし、そのポンプの電線が切れていた所に運悪く近所の農家(家まで聞いたのですが忘れました)の牛が引っ掛かり感電死してしまったらしいです。
また低湿地帯のため末田須賀堰を閉める事ができなくなり農家は苦労したそうです。
(この近辺は水門を閉める事により水を貯め用水路に水を分配しているのですが用水路に水を入れると水田とともに飛行場にも水が入ってしまうため、水門を閉めて水を貯めることができなっかった)

ひろゆき様 より : 2021年6月17日 1:12 PM

兵舎跡

飛行場の南東には兵舎があった。

区画は当時も今も変わらない。

さらに拡大してみる。

まわりの住宅とまったく異なる方向を向いている建物。飛行場時代の兵舎と同じ場所で同じ向きに建っている建物。

そこには、時代に取り残された空間が残っていました。

このまま北越谷駅まで歩いていきました。

しらこばと水上公園バス停から北越谷駅まで約8キロの散策でした。


関連

伊奈利神社・忍高等女学校奉安殿(羽生市)

伊奈利神社・忍高等女学校奉安殿

埼玉県羽生市中岩瀬鎮座。
御祭神は稲荷神、宇迦之御魂神。本務社は羽生市小松鎮座の小松神社。
神社としての由緒は不詳。

社殿は昭和6年頃築の旧忍高等女学校御真影奉安殿の移築という。移築された経緯等も不詳。

埼玉県立忍高等女学校は、忍藩藩校「進修館」の流れをくむ伝統校。大正4年(1915)に忍進修館尋常小学校内に忍町立実科高等女学校として設立。その後、女子教育を行う旧制中等教育学校として大正14年(1925年)に忍高等女学校となり、戦後の行田女子高等学校を経て平成17年(2005)に行田女子高等学校・行田工業高等学校・行田進修館高等学校は合併し、進修館高等学校として統合され、閉校している。行田女子高等学校旧校地は埼玉県立総合教育センターの移転先として再活用されている。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿の建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震耕造で、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去がすすむが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされている。

http://www.saitama-jinjacho.or.jp/shrine/10257/

https://goo.gl/maps/1X4tigGucYBkatNU8


関連

https://senseki-kikou.net/?p=9576

https://senseki-kikou.net/?p=9224

https://senseki-kikou.net/?p=9196

https://senseki-kikou.net/?p=5469

「七転八起のダルマ蔵相」高橋是清像と関連史跡

総理大臣を1度、そして大蔵大臣を6度も勤め、近代日本きっての財政家として、「ダルマさん」として、親しまれた高橋是清にまつわる史跡などを散策してみました。


高橋是清

1854年9月19日-1936年(昭和11年)2月26日
正二位大勲位子爵。立憲政友会第4代総裁、第20代内閣総理大臣。

生い立ち
1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)、幕府御用絵師・川村庄右衛門の子として芝に生まれる。2歳で仙台藩足軽の高橋覚治の養子となる。
 11歳で横浜でアメリカ人医師ヘボンの私塾ヘボン塾(現在の明治学院大学)に入学。1867年に14歳に藩命により渡米。勝海舟の長男・勝子鹿と一緒の海外留学であった。米国ではホームステイ先で奴隷として売られてしまうが英語を習得し、1868年(明治元年)に帰国。
共立学校の初代校長を務め、教え子には正岡子規や秋山真之などがいた。

日露戦争
1892年(明治25年)日本銀行に入行。日露戦争時には 日銀副総裁として戦費調達を行ない、外債公債募集に成功。日露戦争の戦費調達の立役者となる。支払いの完済は1986年(昭和61年)
1905年(明治38年)に貴族院議員に勅選。1906年から1911年まで横浜正金銀行頭取、1911年(明治44年)に日銀総裁に就任。

政界
1913年(大正2年)、第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣に就任。立憲政友会に入党。その後の原敬内閣でも大蔵大臣に就任。原敬が暗殺された直後に、第20代内閣総理大臣に就任。立憲政友会の第4代総裁ともなった。
その後の清浦奎吾内閣時に行われた第15回総選挙の際は、高橋是清は貴族院議員から隠居し子爵の爵位を長男に譲り、自らは原敬の選挙区であった盛岡から出馬。政友会総裁として、前総裁であり盟友であった原敬の地盤から出馬し、衆議院議員として当選。清浦内閣を総辞職に追い込む。

就任した大臣職は以下
1913年
 第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣(1度目)
1918年
 原敬内閣の大蔵大臣(2度目)
1921年
 高橋是清内閣総理大臣
1924年
 加藤高明内閣の農商務大臣
1927年
 田中義一内閣の大蔵大臣(3度目)
1931年
 犬養毅内閣の大蔵大臣(4度目)
1932年
 犬養毅内閣の臨時内閣総理大臣(五・一五事件で犬養毅暗殺後の臨時内閣)
 斉藤実内閣の大蔵大臣(5度目)
1934年
 岡啓介内閣の大蔵大臣(6度目)

二・二六事件
田中義一内閣以降、高橋是清が取り組んできた金融恐慌対策、デフレ脱出のケインズ政策など、いわゆる「高橋財政」を展開してきたが、あわせて陸軍予算の削減を図っていたことから、青年将校の襲撃対象となってしまう。
昭和11年2月26日、中橋基明中尉及び中島莞爾少尉が赤坂の高橋是清私邸を襲撃。高橋是清は自宅2階寝室において拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。享年83歳(満81歳)。
戒名は、報国院殿仁翁是清大居士


高橋是清翁記念公園

東京都港区赤坂。赤坂の高崎是清邸は赤坂御所と対面する青山通り沿いにある。現在は高橋是清翁記念公園として整備。隣のカナダ大使館もかつては高橋是清邸の敷地内であったという。

高橋是清翁記念公園の沿革
 この公園は、日本の金融界における重鎮で大勝から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家「高橋是清」翁(1854年~1936年)の邸宅があったところです。
 翁は、昭和11年(1936年)2・26事件によりこの地において83歳で世を去りました。翁の没後、昭和13年(1938年)10月高橋是清翁記念事業会がこの地を当時の東京市に寄附し、昭和16年(1941年)6月東京市が公園として開園しました。その後、昭和50年(1975年)港区に移管されたものです。第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母屋は故人の眠る多磨霊園へ移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移されています。戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和30年(1955年)に再建されました。
 現在の面積は5,320㎡で、国道246号線の拡幅等により開園当初よりやや減っていますが、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されています。
 園内は池を中心として石像や石灯籠が配置され、樹木はかえで、もっこく、うらじろがし、くすのきなどたくさんの種類があり落ち着いた雰囲気をかもしだしています。

高橋是清翁像が奥まった高台に鎮座している。

高橋是清翁像

ダルマさんと親しまれた風貌。

英字新聞を読むのが日課だったという。右手には丸メガネ。

高橋是清翁ハ安政元年江戸芝ニ生ル幼少轗軻不運十四歳ニシテ
北米ニ渡航刻苦勉學シ長シテ轉々窮境ニ在ルモ気宇益高邁識見
常ニ卓抜夙ニ特許制度ヲ創設シ殖産興業國家経済ニ盡瘁シ或ハ
戰時財政ノ確保ニ貢獻スル所多ク日本銀行総裁大蔵大臣ヲ歴任
シテ遂ニ首相ノ枢職ニ就キ日夜一死報國ノ純志ニ終始セラレタ
リ昭和十一年二月倏忽トシテ此邸ニ薨ス年八十三本邸ハ明治三
十三年以来翁カ日常起居ノ處ニシテ之ニ臨メハ洵ニヨク其ノ髙
風雅懐ヲ偲フニ足レリ
昭和十三年十月嗣子子爵高橋是資氏ハ故高橋是清翁記念事業會
ト戮カ邸地二千坪ヲ擧ケテ本市ニ寄附シ永ク翁ヲ追慕スルノ資
タラシム本市ハ其趣旨ヲ承ケ諸般ノ保存施設ヲ了セリ茲ニ公開
ニ當リ由緒ヲ記シ以テ之ヲ後世ニ傳フ
 昭和十六年六月   東京市

高橋是清時代の庭園が残されている。
この組井筒を水源にした流れや 雪見型灯籠は、後述する移築先の江戸東京たてもの園でも復原をされている。

https://goo.gl/maps/fg6zeWMD4fKzUves7


高橋是清邸

高橋是清邸の主屋が、高橋是清死後に移築されている。赤坂から高橋是清の眠る多磨霊園に移築された主屋は、休憩所「仁翁閣」として使用されていた。
昭和20年の東京大空襲で、高橋是清翁記念公園内に残っていた邸宅跡は焼失するも、多磨霊園にあった主屋は被災を免れ、平成5年に江戸東京たてもの園内に移築公開をされている。

高橋是清邸
 高橋是清邸は経済通の政治家として、明治から昭和の初めにかけて日本の誠治を担った高橋是清の住まいの主屋部分である。是清は、赤坂の丹波篠山藩青山家の中屋敷跡地約6,000平方メートルを購入し、1902年(明治35)に屋敷を建てた。
総栂普請の主屋は、複雑な屋敷構成をもっており、また当時としては高価な硝子障子を、縁周りに大量に使用している。赤坂にあった頃は、主屋のほか3階建ての土蔵や、離れ座敷がある大きな屋敷だった。
 1936年(昭和11)、是清はこの建物の2階で青年将校の凶弾に倒された(2.26事件)。敷地と屋敷はまもなく東京市に寄付され、記念公園になった。是清の眠る多磨霊園に移築され、休憩所として利用されていた主屋部分が、この場所に移築された。
建築年:1902年(明治35)
旧所在地:港区赤坂7丁目

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玄関部分と母屋部分が移築復元されている。

1階と2階と見学可能。

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明治のガラスが使われています
注意して下さい

昭和11年2月26日早朝。
青年将校たちが高橋是清が眠る2階へと駆け上った・・・。

 高橋是清は、2階の庭に面した二部屋を書斎と寝室に使っていた。是清の娘・眞喜子氏によると、書斎には大きな洋机があり、そこで仕事をしたという。また、寝室の床の間の前には文机が置かれ、就寝前にその机で習字をするのが晩年の習慣であったという。
 是清は1936年(昭和11)2月26日早朝、青年将校によって暗殺された。(二・二六事件)。兵士10数名が寝室になだれ込み、白の寝巻き姿で布団に座っていた是清に銃弾をあびせ、群島で切りつけた。即死であった。
 是清は市民から「達磨さん」と呼ばれ、親しみを持たれていたため、葬儀には、別れを告げる人々が大勢参列した。
 波乱に満ちた83年の生涯であった。

一行書「不忘念」
 曹洞宗の開祖道元は、「正法眼蔵」で「八大人覚」のひとつとして「不忘念」(正法を心に念じて、忘れないようにすること)を説いている。
 高橋是清/筆(複製)

 写真はこの建物の2階の部屋で、書斎として使用していたもの。是清は毎日欠かさず日記をつけており、英字新聞も毎日購読していた。拡大鏡は辞書を引くときなどに使っていたと伝えられる。

2階からは庭園がよく見える。

この2階の寝室で、高橋是清は暗殺された。

1階に降りる階段。

高橋是清邸の主屋を外からも拝見。

紅葉がひときわに美しいタイミングでの見学でした。

この組井筒や雪見型灯籠は、高橋是清翁記念公園にあるものを復元している。

https://goo.gl/maps/BfDQjro4hE3AyKW17


高橋是清翁之御鬚墓

高橋是清の「おヒゲ」のお墓が世田谷区にある。
東京都世田谷区弦の実相院の境内に。

永井如雲画伯が高橋是清から戴いた御髭を埋葬したお墓。

高橋是清翁之御鬚墓

高橋是清翁御鬚の墓由緒
 是清翁の鬚は旦那様のお髭として旧川越藩主の家に生まれた永井如雲画伯が身辺に大切に拝持したものである。画伯は斯道の大家として、永く宮内省御用掛りを拝命し、特に宮内省お買い上げ絵画の審査、帝室博物館所蔵国宝級絵画の鑑定補修主任として、丹青の道に精通され、霊筆を振るわれた画人である。如雲画伯は青年時代より高橋是清の庇護信任を受け、本心乾漆観音像を是清翁より直接拝受。爾後永井家の霊宝として日夜観音経を読誦信奉され居りしところ、偶々、第二次世界大戦の戦局緊迫を告げ、身辺の不安愈々急なるを感ぜられ、帝都を去り暫く桐生に疎開せらるるに当り、永代回向料金壹百円也を並びに昭和9年5月2日に戴いた御壽81歳の時の高橋旦那様の御鬚を添えて、実相禅院の寺宝として後昆に相伝すべく、當寺廿四世憲翁義宣老師に寄進せられた。時移り縁熟し、當山廿五世硯全一雄老?永代追善の鬚墓を建立。本堂安置の観音像と共に永く寺門に遺すべく茲に掩蓋供養する。更に加うるに高橋是清翁の嫡子是彰氏と令孫正治氏とは老?の親交を厚くするなかであり、両者お鬚確認の上當山に納鬚を諾され、就中令孫正治氏は老?若き日慶應義塾大学に於ける愛弟子の一人でもあり、その学恩に報いんとして祖父是清翁の納鬚の法縁となり鬚の墓開眼法筵供養に参列され、ご祖父翁の高徳を忍び老?とともに永劫の菩提を念じ虔みてともに識すものなり。

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高橋是清翁略伝
(略)
大正2年60歳の時、山本権兵衛内閣の大蔵大臣となり、その後大正7年9月29日原敬内閣の大蔵大臣。大正9年9月7日子爵(67歳)。大正10年11月13日、内閣総理大臣兼大蔵大臣(68歳)政友会総裁となる。大正13年3月24日貴族院議員辞任、盛岡より5月10日衆議院議員に当選。6月11日加藤高明内閣護憲三派内閣の農商務大臣(71歳)として入閣。翌14年4月1日商工大臣兼農林大臣(72歳)となる。昭和2年4月20日田中義一内閣の大蔵大臣(74歳)、昭和6年犬養毅内閣の大蔵大臣(78歳)、昭和7年斉藤実内閣の大蔵大臣(79歳)、続いて昭和9年11月27日岡田啓介内閣の大蔵大臣(81歳)となる。昭和10年1月14日82歳の高齢の為特旨により宮中杖を差許さる。昭和11年2月26日折からの大雪の日帝国陸軍叛乱軍青年将校らによって殺される。享年83歳。世に云う二・二六事件として史上に伝えらる。

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報国院殿仁翁是清大居士
維時 昭和61年6月吉日
 鶴松山實相禪院 (以下略

https://goo.gl/maps/Zk5svVyGzuZXNS9H9


鶴松山実相院


高橋是清墓

多磨霊園に高橋是清は眠っている。
場所は、8区1種2側16番。おなじ8区には西園寺公望墓もある。8区の向かい側の7区には同じく二・二六事件で暗殺された斎藤実墓もある。

正二位
大勲位
高橋是清墓

昭和11年2月26日薨

御誄

資性忠純立朝ノ大節ヲ全クシ気宇英爽経世ノ遠猷ヲ懐キ再ヒ閣僚ノ首班ニ列シ屡財政ノ要路ニ当ル殊域ニ渉リテ国難ヲ紓タシ老躯ヲ挺ンチテ時艱ヲ済フ勲労両ナカラ優ニ歯徳並ニ邵ク国ノ重寄ニ任シ民ノ具瞻ニ叶ヒシニ遽ニ溘逝ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘム茲ニ侍臣ヲ遣ハシ賻ヲ斎ラシ臨ミ弔セシム

(平仮名転記)
資性忠純立朝の大節を全くし気宇英爽経世の遠猷を懐き再ひ閣僚の首班に列し屡財政の要路に当る殊域に渉りて国難を紓たし老躯を挺んちて時艱を済ふ勲労両なから優に歯徳並に邵く国の重寄に任し民の具瞻に叶ひしに遽に溘逝を聞く曷そ軫悼に勝へむ茲に侍臣を遣はし賻を斎らし臨み弔せしむ

「賜誄」
誄(るい)と呼ばれるご弔意を 天皇陛下より賜っている。

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高橋是清の家紋は、三つ追い花沢瀉紋

https://goo.gl/maps/3uVd4HW8PQab8gTm9

多磨霊園


関連

秩父御嶽神社の東郷元帥立像と乃木大将立像

埼玉県飯能市。最寄りは西武秩父線吾野駅。
秩父路の途中に、東郷平八郎と乃木希典を祀る神社があった。
「秩父御嶽神社」
ちょうど紅葉の季節に機会がありましたので足を運んでみました。


本記事で触れる「秩父御嶽神社」以外に関しては以下の記事より。


吾野駅

西武鉄道としては、西武池袋線の終点であり、西武秩父線の始発にあたる駅。(飯能駅起点ではないのですね)
昭和4年(1929)に西武池袋線の前身にあたる「武蔵野鉄道」の終着駅として開業。西武秩父線の開業は昭和44年(1969)。現在の駅舎は平成9年建造。

吾野駅にポスターがありました。徒歩20分だそうです。

秩父御岳神社
東郷公園
当駅より徒歩約20分です!

吾野駅前に案内石柱がある。昭和5年12月建立。

御嶽山秩父御嶽神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

御嶽山東郷公園
 長生書

福寿山乃木公園

御嶽山秩父御嶽神社の鎮座している山を福寿山と呼称している。

「長生」とは、海軍中将小笠原長生のこと。東郷平八郎に傾倒し副官的な立場で東郷とともにあった。だいたい東郷さんの関連する場所に足を運ぶと、小笠原長生の名を見ることになる。

小笠原長生(おがさわら ながなり)
東郷平八郎に傾倒し「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

吾野駅から約20分ほどあるく。高麗川の先に社頭が見えてきた。


秩父御嶽神社

御祭神:
国常立命、大巳貴命、少彦名命、清貫一誠霊神(鴨下清八)、東郷平八郎、乃木希典、他

埼玉県飯能市鎮座。
信州木曾御嶽山を本山と仰ぎ、その御分霊を奉斎する御嶽信仰の神社。
創建は明治27年(1894)。鴨下清八(1861-1955)が創建。鴨下清八は没後に、清貫一誠霊神として祀られている。

御嶽山秩父御嶽神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

東郷公園
長生敬書

御嶽山
元帥伯爵東郷平八郎謹書

村社秩父御嶽神社
昭和戌辰秋 海軍中将子爵小笠原長生敬書

東郷公園

東郷平八郎元帥の銅像建立後、秩父御嶽神社の境内は「東郷公園」と呼ばれている。
公園内には東郷元帥像のほかに乃木希典陸軍大将銅像、日露戦争の遺物(ロシア製大砲、戦艦三笠被弾甲板)、海軍省からの記念品などが点在されている。

御嶽山東郷公園 秩父御嶽神社 御案内
 当山は、御嶽山東郷公園、秩父御嶽神社と謂い明治28年11月故鴨下清八氏の開山によるもので、名将東郷元帥の記念公園を境内にした木曽御嶽山の御分霊を奉斎する霊山である。

御祭神
 國狭槌尊八海山提頭羅神王
  (健康・和楽・長寿の神)
國常立御嶽山座王大権現
  (天福皆来・地福円満の神)
 豊斟渟尊三笠山刀利天
  (福徳開運・必勝の神)

例祭日 毎月1日・9日・15日・18日・27日

 参道入口には、開山者清貫一誠霊神銅像及び講社信仰に貢献せる諸霊神碑霊場があり、それより足を進めると、日露戦争遺物の三笠艦弾痕の甲板や砲弾、布設水雷、野砲、東郷元帥銅像や乃木大将銅像等々がある。東郷元帥銅像は元帥自ら臨席除幕なされた日本唯一のものにして東郷生身銅像とも謂う。傍には元帥お手植えの松が今でもその緑をたたえている。
 境内中腹より、365段の石段を登り途中祈祷殿各末社を経て頂上奥社に達する。
 全山に、楓樹数百本あり11月初中旬の紅葉は特に美しい。
  秩父御嶽神社社務所

かなり広いので境内の位置関係を把握しておかないと迷子になる。


砲弾と布設水雷

林立する門柱も当時からのものと思われる。

砲弾と布設魚雷
右の砲弾は日露戦争日本海開戦の時、ロシア軍バルチック艦隊より発射された主砲の巨弾で、日本海軍はこのために苦戦をしいられました。
左の球型のものは布設水雷と云い、旅順港口に多数布設され、日本海軍の入港を阻止しました。
戦後、日本軍が掃海し、引き揚げたものが」海軍省より下賜されました。

バルチック艦隊主砲 砲弾

旅順港敷設 水雷


紀念公園碑

紀念公園碑
海軍大将東郷平八郎書


門柱

皇国興廃在此一戦
各員一層奮励努力
 平八郎書

昭和3年の御即位記念のに建立された門柱。


東郷元帥銅像

紅葉に囲まれた東郷平八郎銅像。
この銅像は、東郷平八郎が生前に唯一建立をみとめたものという。

鴨下清八氏と親交のあった陸軍中将堀内文次郎も東郷平八郎を説得。
ここに唯一の生前銅像が建立した。

東郷元帥銅像
当山開祖 鴨下清八 氏は、世界の名将と称された東郷元帥の武勲と威徳を後世に伝えるべく、「皇国興廃在此一戦」との名言になぞらえ一戦を一銭とし毎日一銭ずつ蓄える一銭貯金を断行し、元帥の銅像を志しました。
元帥邸をおとずれること80余回。元帥は、我が生前の銅像建立は断じて辞退するとのことでしたが、氏の誠意に打たれ、ついには承諾されました。
氏は大正14年4月17日、元帥の望まれるままの正装したお姿の銅像を建立されました。
除幕式当日には、元帥自ら松崎海軍大臣代理、小笠原長生中将、堀内信水中将等を従えられ、小笠原中将に命じられ除幕されました。他に例のない唯一の生身銅像と称せられる所以です。

階段下に
鴨下清八氏

階段上、左から3番目から
小笠原長生海軍中将
東郷平八郎元帥海軍大将
松崎海軍大臣代理=松崎伊織?(中佐のち中将)。この時の海軍大臣は財部彪
堀内文次郎(堀内信水)陸軍中将
粕谷義三衆議院議長

東郷元帥像

嗚呼名将
 海軍大臣財部彪題


東郷元帥お手植えの松

残念ながら平成11年に枯れてしまったが、継承された松が2代目として育っている。

東郷元帥お手植えの松 大正14年4月17日

平成11年の雪害が原因で、元帥お手植えの松は惜しくも枯れ落ちましたが、近隣在住の信徒の手により実生の発芽に成功し、平成24年3月15日ここに移植、既存種の継承を確認いたしました。
 社務所


弾痕の三笠甲板

日露戦争を決定づけたのは、明治38年5月27日の日本海海戦でした。ロシア軍がウラジオ港に向けて航行させた主力バルチック艦隊を撃滅すべく、東郷司令長官ひきいる連合艦隊は日本海に待機しました。
「敵艦見ゆとの報に接し、連合艦隊は直ちに出動。之を撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」の第一広報に続き「皇国興廃在此一戦 各員一層奮励努力」Z信号ととともに海戦が開始されました。激戦の結果、敵艦38隻のうち逃亡3隻に過ぎず、日本軍が大勝しました。このとき、東郷長官の乗る旗艦三笠は、ロシアン軍の集中砲火をあび、甲板には蜂の巣状の弾痕を残しました。展示のものは、開園時に海軍省より下賜された旗艦三笠の甲板の一部です。


日本海海戦大捷記念碑

明治天皇御製
くもりなき朝日の旗に
あまてらす 神のみいつを
仰げ國民
 元帥伯爵東郷平八郎謹書

日本海海戦大捷記念碑
海軍中将子爵小笠原長生書


東郷神社

参拝時、東郷神社は改修工事中でした。。。

東郷神社
東郷神社は東郷元帥ご他界(昭和9年5月)の後、昭和10年4月17日に建てられました。
東郷公園創始者鴨下清八氏が元帥の御心を体し、縁も深きこの場所を鎮座地と選び、生前の元帥の功績を讃え、平和の神と仰ぎその御霊をお祀りしました。
日露戦争日本海海戦大勝の日にちなみ、5月27日を例祭日として、毎年、世界の平和と国土の安泰を祈願しています。


ロシア製3インチ野砲と至誠館

ロシア製3インチ野砲(1901年製)と至誠館
明治38年満洲の荒野において、ロシア軍新鋭の野砲のために日本陸軍は難戦苦闘しました。
日本軍の野砲は発射と同時に砲車が後退し命中率を欠きましたが、ロシア軍の野砲は砲身が自動的に後退し、使用も簡易で命中率も優秀でした。
当山の東郷神社に陸軍省から下賜されましたが、大東亜戦争の後、付属部品の盗難被害にあったのが残念です。
野砲が納められている建築物は至誠館と云い、東郷元帥来山のおり、ご休憩されました。

至誠館

大正14年(1925)4月17日の東郷元帥銅像除幕式の際に、東郷平八郎が休憩をした建物。


三笠山神社

日本海海戦の連合艦隊旗艦「三笠」と通じるものがあるが、関係ない。
御嶽信仰に関係する御嶽山の前山である三笠山に由来。
三笠山大神(豊斟淬命)


乃木神社

陸軍大将乃木希典を祀る。


乃木将軍銅像

東郷公園内には、驚いたことに東郷平八郎だけではなく乃木希典の銅像もある。

乃木将軍銅像
乃木将軍は萩出身の陸軍軍人。日露戦争時、難攻不落といわれた旅順の203高地を攻略しました。
質素倹約を旨とし、農将としても名高く、明治天皇の大喪の日の殉死はあまりにも有名です。
「農は国の本なり」との信念にも篤かった当山開祖の鴨下清八氏、将軍に師事するがごとく農業、養蚕業にも力を尽くし、昭和4年11月24日、人々の模範となるよう、この地に将軍の銅像を建立しました。
 乃木希典(のぎ まれすけ) 1849.11.11~1912.9.13

忠魂義魄
陸軍大臣宇垣一成書


秩父御嶽神社御社殿

扁額

秩父御嶽神社
 元帥伯爵東郷平八郎謹書


秩父御嶽神社祈祷殿

扁額が同じく東郷平八郎によるもの。

秩父御嶽神社
 元帥伯爵東郷平八郎謹書


清貫一誠霊神立像

清貫一誠霊神は、鴨下清八氏の神名。


御朱印

社務所で御朱印をいただきました。

いただきませんでしたが、社務所では「東郷煎餅」を頒布しておりました。

社務所の近くには里宮。通常のご祈願は里宮にて対応している感じですね。

飯能の山奥に、これほどに見どころのある神社があるとは知りませんでした。東郷平八郎と乃木希典と、日露戦争の両雄銅像を一度に拝見できる貴重な空間。ぜひとも足を運ぶことをおすすめします。


東郷氏祖先発祥地

明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯碑

隅田公園に残る石碑。隅田川左岸の向島にある「隅田公園」はもともと水戸徳川家下屋敷跡であったが、震災復興公園として昭和6年に整備された公園。その隅田川左岸に 明治天皇と帝国海軍に関連する石碑があった。

「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑

昭和16年(1941)11月3日、明治節の記念日に建立。開戦の前月。
明治天皇は、この地に玉座を設けられ、帝国海軍短艇競漕を天覧された。

明治天皇
海軍漕艇天覧
玉座阯

恭しく惟みるに
明治天皇夙に叡慮を帝國海軍の発達に労し給い明治元年三月親しく大阪に幸して諸艦を天保山に関せられ爾来屢艦船部隊官衛学校等に行幸あらせ給へり殊に海軍短艇競漕の隅田川に行はるるや、玉座は設けて此処に在り親しく 天覧を賜うこと前後四次に及べり、明治十五年には 十一月二十一日、二十六年には六月三日、二十七年には四月二日に臨御あらせられ是の日 
皇后亦行啓せられ、二十九年には十二月十八日を以て親閲あらせ給へり其の間二十五年には六月十九日を以て
皇后竝皇太子の行啓を辱うせり参加の将士斉しく恐懼感激して勇躍技を競い行事最も盛大を極はめり斯の如きは皆是れ宸慮の深きに出で帝國海軍の無上なる光栄にして牢記すべき所なり只恐る。
当年 玉座の聖蹟星移り物替はりて滄桑の変を経或は湮晦に帰せんことを是れ本会が
天皇親臨のこの尊ぶべきの地を永遠に顕彰し奉り 永く聖徳の至大なるを仰がんことを期し帝国海軍及朝野の諸彦と謀りて、昭和十六年の 明治節日をとし一碑を玉座の阯に建つる所以なり乃ち勤みて事の由来を勒し之を不朽に伝ふ。  
 紀元二千六百一年十一月三日
      墨田川聖蹟顕彰會
※片仮名を平仮名に変換しました。

「明治天皇海軍漕艇展覧玉座阯」の碑
 この碑の建つ場所は、明治年間に幾度も明治天皇のレガッタ視察のために玉座をしつらえた場所です。
 現在は堤防が整備されて隅田川の様子があまり見えませんが、かつては土で造った堤防に桜が植えられ、たいへん風情のある光景でした。そうした場で、明治15年(1882)11月21日、明治26年(1893)6月3日、明治27年(1894)4月2日、明治29年(1896)12月18日の4度にわたりレガッタを天覧したのです。
 隅田川のレガッタの歴史のひとつを物語るこの石碑は昭和16年(1941)11月に建碑されました。
  墨田区

戦後の墨田区による解説碑は、 
明治天皇がレガッタ視察としか記載がなく、【海軍】としての説明が抜け落ちている。
なおかつ「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」であるべきところが、「明治天皇海軍漕艇展覧玉座阯」と記載されており、誤植甚だしい。

隅田川左岸に。


隣には新しい石碑。「隅田川ボート記念碑」

隅田川ボート記念碑「漕」

2016(平成28)年9月3日(土)建立。


日本のボートは ここ隅田川を中心に発展し その隆盛を迎えた
Rowing in Japan was Nurtured here on the Sumida River, which then became its primary venue.

“春は春は桜咲く向島 ヤッコラセー オール持つ手に花が散る・・・・・・”
明治初期から”近代文化の華”として日本のオアズマンはここで猛訓練をしスポーツマンシップを鍛えあげた。
河畔には艇庫が立ち並び、レースには人々が堤や橋上に参集し大声をあげた。往時の面影は全くないが、堤に立つと当時の熱狂的な応援の声がいまもなお聞こえてくる。この国の大いなる発展を象徴するかのように。それを忘れないために、記念碑をこの地に建立する。
 平成28年9月
  隅田川ボート記念碑建設委員会
   会長 半藤一利 撰

近代史に造形の深い作家・半藤一利さんは東大ボート部OBでもある。
しかし、隅田川のボート発祥にまつわる 明治天皇や海軍の件に触れない碑というのが、今どきの碑・・・。

明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯の隣

隅田川艇庫址図(向島地区)

隅田川ボート年表
夏目漱石も漕ぎ、福沢諭吉も漕ぎ、レガッタは「春のうららの隅田川」と滝廉太郎の「花」にも歌われ、ボートは隅田川の華であった。全日本選手権、海外との交流試合、大学対抗戦など主要なレガッタが数々開かれ、隅田川は日本のボートの中心地となった。しかし、戦後復興の陰で産業排水などにより、川の汚染が進み、昭和三九年の東京五輪のために戸田ボートコースが整備されたのを契機に隅田川離れが進み、昭和四二年の一橋大学艇庫閉鎖を以って隅田川の艇庫群が姿を消した。最盛時の面影を今に伝えるのは早慶レガッタのみである。(隅田川ボート記念碑建設委員会)
 ※以下略

隅田川ボート年表とある。
明治10年以降の事象が記載されているが、やはり 明治天皇や帝国海軍短艇に関する記述はない。

公益社団法人 日本ボート協会 

https://www.jara.or.jp/report/2016/2016sumida_rowing_monument_unveiling.html


旗竿台(掲揚台・掲揚塔)

昭和16年11月3日に隅田川聖蹟顕彰会によって「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑が建立された際に、あわせて、駆逐艦「桃」(基準排水量755トン・初代) の前檣が碑の傍らに建てられたという。この旗竿台は、其の名残。桃の前檣旗竿は戦後のある時期に撤去されてしまったという。

昭和16年11月建立
隅田川聖蹟顕彰會
 ※文字は削り取られている

聖徳欽仰
 ※文字は削り取られている
隅田川聖蹟顕彰會幹事海軍中将有馬寛謹書

無残にも文字が削り取られてしまっている旗竿台は、「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑とともに並んでいたはずであったが、平成の世になり、間に「隅田川ボート記念碑」が 建立され、ちょっと距離ができてしまったような。

この場所は、時代とともに変わりゆく価値観を垣間見ることができる、そんな空間であった。


関連

隅田公園の北側

明治天皇

「北千島開拓の先駆者」郡司成忠大尉の墓と言問団子桟橋

隅田公園の北側、言問団子の近く。
海軍大尉で冒険家であった郡司成忠のゆかりの地。郡司成忠の冒険は隅田川から始まったのだ。


郡司成忠(ぐんじ しげただ)

万延元年11月17日(1860年12月28日) – 大正13年(1924年)8月15日)
海軍大尉、探検家・開拓者。
開拓事業団「報效義会」を結成し、北千島の探検・開発に尽力。
小説家の幸田露伴は弟。文学博士の幸田成友も弟。妹に音楽家の幸田延、安藤幸。

幕臣幸田成延の次男として生まれた成忠は、幼年期に親戚郡司家の養子となる。
明治5年(1872)、海軍兵学寮予科へ入学。海兵6期は斎藤實が同期生であった。その後、海軍大学校甲号学生1期(加藤友三郎が同期)卒業。
ロシア帝国との国境であった千島に興味をいだいた郡司成忠は明治25年(1892)に千島移住趣意書を海軍当局へ提出するも海軍はそれを許可しなかった。
当時、北千島に居住していた千島アイヌは根室県令の命令で色丹島に強制移住となっており、北千島列島は無人であった。
郡司成忠は千島行きを諦めず、海軍大尉を退いて予備役となり、民間人として千島を目指すこととなる。
舟の手配に苦慮した郡司成忠は、横須賀鎮守府で不要になった短艇を払い下げてもらい、無謀な計画の準備をすすめていく。

報效義会
明治26年(1893年)、郡司成忠率いる千島拓殖隊は「報效義会」として志を同じくする元海軍出身者が集っていた。のちに南極探検を行う陸軍出身の白瀬矗は「自分が海軍出身者でないためボート技術に不安があるというなら、陸行と渡し船を使って独自に千島へ渡るので迷惑はかけない」と報效義会への入会を希望し、例外として白瀬も北海道で合流の上で千島を目指すことととなる。
3月14日に、幸田露伴は兄・郡司成忠の送別会を行ない、そして3月20日に隅田川で出発セレモニー開催。出発前から大変な盛り上がりであった。

第一次北千島遠征(第一次拓殖)
明治26年(1893年)3月20日、郡司以下、約40人の報效義会員は5隻のボートで千島へと旅立った。しかし八戸沖で2隻が遭難し19名が死亡。当初の計画を変更し、函館からは他の船に便乗して択捉島に移動。その後、捨子古丹島に9名、そして郡司・白瀬ら7名は占守島に渡り越冬を行った。
占守島の郡司・白瀬らは越冬に成功するも、捨子古丹島の9名は全員死亡。また清国との緊張が高まっていたことから、占守島の郡司ら7名は全員が予備役軍人であったということもあり、いったん占守島を引き揚げ帰国。
最終的に1893年から1895年の報效義会の第一次千島拓殖は31名の死者を出してしまった。

第二次北千島遠征(第二次拓殖)
帰国した郡司成忠は日清戦争に参加。水雷敷設隊の分隊長などで活躍。戦争終了後の明治29年(1896)「第二次報效義会」を結成。第一次報效義会は冒険の面が強かったが、第二次報效義会は拓殖をメインとしており、また事前準備も整え、政府から3年間補助金が出ることも決まった。
明治36年(1903)には占守島の定住者は170人まで順調に拡充していた。

日露戦争
明治37年(1904)日露戦争勃発。郡司成忠は義勇軍を編成しカムチャッカ半島に進軍するもロシアコサック兵に捕まり捕虜となる。郡司成忠が捉えられたため、「第二次報效義会」は占守島からの引き揚げを決定し、事実上の解散となる。

その後
日露戦争終了後に郡司成忠は開放され帰国。明治39年頃に再び報效義会を率いて活動を再開。その後明治42年に、露領沿海州水産組合が組織され組合長に就任。
大正4年(1915)に郡司成忠は陸軍参謀本部第二部からの指令を受けシベリアに赴いている。第一次世界大戦のさなかということもありなんらかのスパイ活動ともされている。
大正13年(1924)8月15日、郡司成忠は63歳で没した。


郡司成忠墓

池上本門寺の五重塔の下、に郡司家・幸田家の墓所がある。

従六位勲五等 郡司成忠墓

先考諱ハ成忠、幸田氏ヨリ出テ郡司家ヲ譲ク。明治二十六年報效義会を起シ、占守島ニ拠リ外国密漁者ヲ攘ヒ、夙ニ北海ノ猟漁探検敢ヘテシ、更ニ邦人拓北ノ機ヲ啓キ、後年魯領沿海州漁業権ヲ我ニ収ムルノ地ヲ為セリ。大正十三年八月十五日没ス。追叙従六位、賜勲五等。享年六十五。
 昭和五年八月十五日 郡司智麿

郡司智麿は郡司成忠の長男(外交官となる)。

露伴幸田成行墓(幸田露伴墓)


隅田公園の北。
言問桟橋から郡司成忠の冒険は始まったのだ。

言問団子桟橋

言問団子と郡司大尉
 江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。
 明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん都島 わが想ふ人はありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は、「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを「言問ヶ岡」と呼んだ。明治11年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は、言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。
 また、この裏手にある桟橋からは、明治26年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群衆で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。


郡司成忠の曾孫が運営しているサイト

http://gunjishigetada.jpvlad.com/index.htm


関連

池上本門寺

隅田公園の南側