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四月十八日に山本五十六を偲ぶ

平成31年4月18日

山本五十六の墓を。 四月十八日は山本五十六の命日 。。。

【海軍甲事件】

1943年(昭和18年)4月18日。 前線視察中の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の搭乗機がブーゲンビル島上空にて米軍戦闘機に撃墜。 山本五十六が戦死した事件。


【山本五十六】

1943年(昭和18年)4月18日。 連合艦隊司令長官 山本五十六海軍大将戦死の日。 多磨霊園に埋葬。 墓字は山本五十六の国葬葬儀委員長を務めた米内光政による。

多磨霊園の山本五十六墓。写真は2015年2月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2015年2月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2015年2月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2017年12月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2017年12月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2017年12月撮影

昭和18年6月5日に行われた山本五十六元帥の国葬の列は「水交社本部ビル」から出発し「日比谷公園」で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政。 皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前唯一の例という。

山本五十六元師国葬 NHKアーカイブス https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060058_00000 …

現在の水交社本部ビルの地は 「東京メソニックビル」

余談ですが、水交社とは明治9年に海軍省の外郭団体として創設された日本海軍将校の親睦・研究団体。終戦とともに水交社は解散し水交社本部ビルはフリーメイソンによって占拠される。昭和56年に跡地に「東京メソニックビル」が建設され、一室には水交社時代の応接室が再現されているという…

山本五十六は郷里長岡にも分骨されています。

写真は長岡の生誕の地。復元された生家。


平成14年7月撮影。

平成11年8年に長岡市長興寺の墓前に詣でておりましたが、写真はどこかのHDDにいってしまいました。 添付写真は私の旧サイトから転載。(かなり荒い) 山本家の墓なので「山本帯刀」もこちらに眠る。

長岡の山本家の墓では長岡藩が朝敵であった事から養祖父「山本帯刀」の墓が非常に質素に作られている。山本五十六の墓は、その山本帯刀よりもさらに質素に造られた為、戦死した陸海軍将官中、最も粗末な墓とされている。(多磨霊園の墓はまた別として) ※訪問が昔過ぎて写真は無し…

霞ヶ浦空・予科練の地にも、山本五十六はゆかりがあります。

山本五十六は大佐時代に砲術から航空に転化し、霞ヶ浦海軍航空隊副長兼航空学校教頭に就任。この霞ヶ浦の地より海軍航空発展に深く関与するとなった


写真は土浦駐屯地内「雄翔館」前の山本五十六像。
平成28年4月撮影。

本棚から。

阿川弘之著「山本五十六」「山本元帥!阿川大尉が参りました」

戦後の日本人として、はじめて山本五十六搭乗機に接した阿川弘之氏。
(昭和41年にブーゲンビル訪島)

「山本五十六長官搭乗の一式陸上攻撃機にもし心あらば、今、二十三年七ヵ月ぶりに日本人に見(まみ)えたはずであった」
(山本元帥!阿川大尉が参りました-私のソロモン紀行-) 

元帥山本五十六海軍大将の伝記を残された阿川先生…阿川弘之海軍大尉による渾身の鎮魂紀行…
4月18日、節目の日に。

旧海軍の内火艇?

月島橋近くに桟橋状態で係留されている船がある。

どうもこの船が「旧帝国海軍の内火艇」と、まことしやかに伝承されている。真偽の程は不明であれど、ちょっと撮影してみました。

ネットに転がる噂話によると、月島橋の係留船は「比叡に搭載されていた内火艇」ともいわれている。


内火艇

内火艇」とは内燃機関を搭載したモーターボート。日本海軍の小型艇。
「艦首が反り上がらずに真っ直ぐ」になっていて、「甲板後方が下がっている」のが「内火艇」の特徴という。


旧海軍の内火艇?(月島橋)

見てみましょう。

後甲板に対するなだらかな勾配が内火艇の特徴という。

艦首は反り上がらずに真っ直ぐしているのも内火艇の特徴という。
確かに特徴通り。

※平成31年4月撮影


参考:長官艇(15メートル内火艇)

大和ミュージアムにて奇跡的に撮影していたので比較用に掲載しておきます。
(我ながら、よく撮っていたものです)

確かに艦首はまっすぐで、後甲板は低いです。
月島橋の船も同じ形してますね。似てます。

二・二六事件と海軍

平成29年2月投稿

突然ではございますが、なんとなく表題の件「二・二六事件と海軍」と題して、かなりざっくりとまとめてみたいと思います。
知っての通り、二・二六事件といえば陸軍の青年将校が起こした事件であり陸軍の話はいくらでもあり、わざわざ海軍に着目する理由は… 私は海軍好きというだけの話です。(いちおう水交会会員ですし、、、

きちんと本筋立ててガチガチには内容をまとめてないので、ちょっと話が散らかりますがお付き合いくださいませ。

たぶん察しの良い方はわかると思いますが「横鎮」メインになりそうです、、、

二・二六事件発生時の海軍

海軍省
大臣 大角岑生大将
次官 長谷川清中将
軍務局長 豊田副武中将

軍令部
総長 伏見宮博恭王
次長 嶋田繁太郎中将
第一部長 近藤信竹少将

横須賀鎮守府
長官 米内光政中将
参謀長 井上成美少将

連合艦隊
第一艦隊旗艦「長門」
 高橋三吉中将 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官
第二艦隊旗艦「愛宕 」
 加藤隆義中将 第二艦隊司令長官

横須賀警備戦隊
「木曽」艦長 岡新大佐
第三駆逐隊(汐風・島風・灘風・夕風)
横須賀陸戦隊 指揮官 佐藤正太郎大佐


昭和4年(1929年)10月

ウォール街の株価暴落に始まった世界恐慌は各国に波及し混乱を極めた。
日本においては、昭和6年満州事変、昭和7年第一次上海事変以来、日本の大陸進出とともに海外情勢も悪化。

昭和7年(1932年)5月

五・一五事件が発生。(海軍青年将校が内閣総理大臣犬養毅を殺害)
これは昭和5年に締結された「ロンドン海軍軍縮条約」を起因とした海軍青年将校の暴発。

ロンドン海軍軍縮条約

いわゆる対米6割に抑えられた軍縮条約。
海軍内部で条約に賛成する「条約派」(海軍省側)と条約に反対する「艦隊派」(軍令部側)という対立構造が発生。後に統帥権干犯問題に波及。
さらには昭和8年の「大角人事」を招く。

大角人事

大角岑生海軍大臣による条約派追放人事。
艦隊派の加藤寛治軍令部部長がロンドン海軍軍縮条約の締結に憤り昭和5年に軍令部長を辞表。谷口尚真(条約派)をへて艦隊派の伏見宮博恭王が軍令部長に就任したことから海軍省と軍令部の歯車が狂い始める。
もともと伏見宮博恭王が軍令部長に就任したのは昭和6年末、陸軍参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任した事から、バランスを取るための人事でもあったが、のちに人事を担当する海軍省及び大角海軍大臣の首を締めることにもなり。軍令部を辞表した加藤寛治は伏見宮博恭王・末次信正らとともに艦隊派の中心人物として昭和8年頃から大角大臣へ条約派に対する人事圧力を断行。山梨勝之進大将・谷口尚真大将・左近司政三中将・堀悌吉中将などのロンドン海軍軍縮条約締結時の海軍省要人が相次いで予備役に。

φ(..)メモ
予備役っていうのは一言で言えば「首」です。退役軍人ですね。

海軍省と軍令部の違い。
海軍省は内閣に従属。軍政・人事を担当。 軍令部は天皇に直属。天皇の統帥を輔翼し海軍全体の作戦指揮を統括担当。 軍令部は政治と人事には口出ししては駄(

とにもかくにも伏見宮博恭王は軍令部の権限を強化。
軍令部総長となり海軍省を圧倒。
海軍の対立縮図も多少は二・二六事件にも影響かな。

みんな大好き対立図式
陸軍 皇道派(二・二六事件) vs 統制派
海軍 艦隊派(五・一五事件) vs 条約派

ちなみに二・二六事件の際に陸軍皇道派に襲われた総理大臣・岡田啓介海軍大将は条約派。
というか、海軍の穏健派はロンドン条約締結賛成派。
で、前述の大角人事で艦隊派(強硬派)に左遷させられたわけで。 大角自身は事なかれ主義な人物。

海軍の艦隊派と皇道派は通じるものがあったようで。
ちょっと話題を先走ります。
それこそ二・二六事件に際しては、事件発生の朝に海軍の伏見宮軍令部総長と加藤寛治海軍大将、そして陸軍の真崎甚三郎大将が打ち合わせを行ってます。このメンツが濃すぎるんです。
陸軍の真崎甚三郎といえば皇道派の首領。事件の青年将校たちに「お前たちの気持ちはよく分かる」云々発言で有名。
で、伏見宮と加藤と真崎の三人で朝方に協議を行った後で宮中へ参内。伏見宮は昭和天皇に拝謁したが、天皇はご立腹で伏見宮は不興を買う、と。

横須賀鎮守府

話は横須賀へ。

昭和10年8月1日。
比叡艦長であった井上成美に横須賀鎮守府付(参謀長内定)人事が発令。
この時の横須賀鎮守府長官は末次信正大将。
その三ヶ月半後、昭和10年11月15日に井上成美は少将に進級し横須賀鎮守府参謀長に就任する。

その後、末次は12月1日付で軍事参議官に転出。

昭和10年12月。
第二艦隊司令長官であった米内光政中将が横須賀鎮守府長官として着任。 のちのちまで語られる「米内・井上コンビ」のはじまりの時であった。

井上が横鎮参謀長として赴任した同じ月(昭和10年8月12日)に陸軍皇道派と統制派の対立は激化。 皇道派の相沢三郎中佐中佐が統制派の軍務局長永田鉄山少将を刺殺する事件(相沢事件・永田事件)が勃発。

永田鉄山 諏訪護国神社

海軍に五・一五事件で遅れを取ったと感じる陸軍過激派の暴発を苦慮した井上参謀長は緊迫する状況を鑑み、横須賀鎮守府での即応戦力準備に取り掛かる。

まずは特別陸戦隊一個大隊を編成。そして警備艦「那珂」艦長に「昼夜雨雪関わらずに芝浦へ急航する為の研究」を命令。

※補足
当初は、「那珂」艦長に芝浦急航の研究を命じていたが、二・二六事件が発生した際は予定していた軽巡「那珂」は九州方面で活動をしていたため、実際に横須賀から芝浦に出動したのは軽巡「木曽」。

昭和11年2月26日

早朝。横須賀では珍しく積雪となった朝。
井上参謀長へ副官より第一報が到来。
「陸軍は大変なことをやりました。」
「一部は総理官邸を襲って…」
実は海軍は東京に兵力を持っておらず、横鎮の責任において在京守備をするしかない状況…

かねてより陸軍の暴発を危惧していた井上参謀長は横須賀鎮守府より矢継ぎ早に用意の手を打つ。

・砲術参謀を東京へ自動車で急派
・横須賀砲術学校より即応体制の掌砲兵20人を海軍省急派
・緊急呼集
・特別陸戦隊用意
・軽巡木曽急速出港準備
・麾下各部自衛警戒

どうやら、 総理大臣岡田啓介、内大臣斎藤實、侍従長鈴木貫太郎、 大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎、前内大臣牧野伸顕が襲われ殺害された、と情報が入り始める。
(実際は岡田総理と牧野伸顕は助かり、鈴木貫太郎は重傷で一命をとりとめる)

襲われた六人の重臣のうち3名が海軍出身の重鎮(岡田・斎藤・鈴木)であったことから海軍将兵の憤りは尋常ではなく、命令下り次第陸軍と一戦を交える気構えに、いやがおうにも包まれていく。

午前9時ごろ。
長官官舎にいた米内光政長官より井上参謀長に電話入電。
「おれもそろそろ出て行った方がいいか?」
※横須賀へは朝帰り説もありますが、まあ米内提督は強運の持ち主だったということで。

※写真は2004年撮影(盛岡八幡宮境内・米内光政銅像

いかにも米内光政長官といった堂々たる(のんびりした)態度に感じ入りながらも井上成美参謀長は返答。
「差し当たっての打つ手は皆打ってありますが、国の大事ですから、やはり鎮守府に来ておられた方がよろしいでしょう」
こうして間もなく米内長官も鎮守府へ出勤。

混乱した各方面の首脳は永田町一帯を占拠した部隊をなんと呼称するかで迷っている様子もみられ。「蹶起部隊」という呼称も出てくる中で
井上は「海軍はあくまで逆賊として対処する」と。
米内も「あれは叛乱軍だよ」と参謀長と同意見。

米内は井上に言う。
「陸軍が宮城を占領したらどうしようか」
井上は即座に返答。
「もしそうなったら、どんなことがあっても陛下を比叡(御召艦)においで願いましょう。そのあと、日本国中に号令をかけなさい。陸軍がどんなことを行っても海軍兵力で陛下をお守りするのだと。とにかく軍艦に乗っていただければ、もうしめたものだ。」
米内
「そうか、貴様、そう考えているのか。ようし、俺も腹が決まった」
横鎮では米内長官、井上参謀長以下各員は鎮守府に籠城・厳戒体制。

同じ2月26日午前9時ごろ。
すでに準備を終え特別陸戦隊を乗せた軽巡「木曽」がまさに出港しようとしていたときに、軍令部から「待った」の声がかかる。
「警備派兵は手続きがいる。横鎮が勝手に軍艦を出すのはいかん。手続きがすむまで待て」

万全の体制で準備をしてきた横鎮に対しての軍令部の横槍に井上は憤る。
「横鎮長官が麾下の警備艦に管区内を行動させるのに、何を軍令部が文句を言うのか」と。
(この横槍は軍令部次長嶋田繁太郎中将あたりから出てきたものかどうか…。)

上記写真:横須賀鎮守府司令長官米内光政(中央) 参謀長井上成美(左から2番目)
(「井上成美」井上成美伝記刊行会の巻頭写真より)

事件当日の海軍中央部の動きは、陸軍に気を使ってのことか芳しくない。

大角海軍大臣は事なかれ主義。
伏見宮軍令部総長は皇道派の真崎大将と打ち合わせをしていたり、陛下に叱責されたり。

で、軍令部は肝心の軍隊を動かす「手続」にことのほか手間どっていた。

2月26日の海軍主力。
ちょうどこのとき連合艦隊は土佐沖で演習中であった。

連合艦隊
第一艦隊旗艦「長門」
  高橋三吉中将 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官
第二艦隊旗艦「愛宕」
 加藤隆義中将 第二艦隊司令長官(加藤友三郎元帥の養子)

軍令部としての手続き。
軍令部総長が天皇の允裁を受けて統帥命令を伝達するという形式を踏まねばならなかった。そのため陸戦隊が海軍省に到達できたのは26日午後遅くとなってしまい、兼ねてより準備を進めていた井上参謀長としては不本意な結果となってしまった。

26日午後。
土佐宿毛湾沖で演習中の連合艦隊第一艦隊(旗艦長門)を東京湾へ派遣。 第二艦隊(旗艦愛宕)を大阪湾へ。
横須賀警備戦隊の木曽・第三駆逐隊・特別陸戦隊を東京に派遣。
午後になって、ようやく方針が固まった。

井上によって編成され軍令部指示で増強された派兵部隊。
軽巡木曽と第三駆逐隊(峯風型駆逐艦の島風・灘風・夕風)に乗って芝浦に急行した横須賀鎮守府特別陸戦隊四個大隊(約2000名)は井上と同期の佐藤正四郎大佐(砲術学校教官)によって率いられ芝浦から東京へ。

海軍艦艇主力の動向。
26日12時30分。
連合艦隊は演習しつつ宿毛湾に入港。

26日15時頃。
「両舷直整列」「急速出港準備ヲナセ」

26日17時。
長門以下連合艦隊は宿毛湾を出港。
長門以下第一艦隊は東京湾へ。
愛宕以下第二艦隊は大阪湾へ。

襲われた岡田啓介と鈴木貫太郎は、かつて連合艦隊旗艦「長門」艦上で連合艦隊司令長官として艦隊の指揮をとった海軍の重鎮。
(岡田は第15代司令長官、鈴木は第16代司令長官)

海軍としては断固たる決意で陸軍の蹶起に反対する意気込みが連合艦隊内にみちていた。

27日16時。
急航した連合艦隊旗艦「長門」を中心とした艦艇約40隻が芝浦沖に集結。第一艦隊では艦隊での陸戦隊を編成し上陸展開。陸戦隊で鎮定できないときは国会議事堂を艦砲射撃で破壊する案まで展開され反乱軍にいつでも砲撃できる体制を整えた。

一方で、重巡洋艦「愛宕」を旗艦とする第二艦隊は大阪湾へ。 第二艦隊は艦隊の多数を大阪の沖合に留め、旗艦「愛宕」のみを大阪港内に進入させて警戒に務めた。 これは(特に東京の叛乱軍と連動していない)大阪の陸軍(第四師団)を刺激しない配慮もあったようだ。

中央の様子

さて、中央の様子をちょっとだけ。

殺害されたとの噂も流れていた岡田啓介首相。
実は岡田首相は難を逃れ官邸の女中部屋に潜んでいた。
官邸に残った秘書官の福田耕秘書官は救出の策を練り、こっそり逃げ出した秘書官の迫水久常は宮中に岡田生存の報告へ。

秘書官の迫水久常は、なんとか岡田を救出しようと海軍大臣大角岑生に相談を持ちかける。
迫水は岡田生存の事情を伏せつつ大角大臣に相談する。
「陸戦隊を出して欲しい」
しかし、大角は(事なかれ主義の大角としては当たり前だが)
「そんなことをしたら陸海軍の戦争になる」
と反対。

大角海軍大臣はとにかく「事なかれ主義」。


二・二六事件対応では横鎮井上参謀がとにかく強硬派。
面白いことに海軍内では、いわゆる強硬派(艦隊派)が今回の事件に関しては対陸軍慎重派が多く、逆に普段は慎重派(条約派)な面々が対陸軍では強硬派だったり。

迫水大角対談。
迫水は更に言葉を続け「もし都合が悪かったらこの話は聞かなかったことにしていただきたい。実は岡田大将は生きてます。官邸の一部屋に隠れて救出を待っています。」と。
聞かされた大角海軍大臣「君、その話は聞かなかったことにするよ」と不甲斐なく…。

海軍大臣の協力を得られなかった迫水は最終的には東京憲兵隊の小坂慶助曹長らの尽力を得て岡田首相の救出に成功する。(憲兵さんの良きエピソードですが詳細割愛)
官邸では首相秘書官で義弟の松尾伝蔵が岡田首相の身代わり(勘違い?)となり殺害されていた。

初動で海軍も部隊を展開したらあとは叛乱軍と陸軍中枢との折衝が中心となり、海軍の出番はもう終わりだったり。
鈴木貫太郎のお話とかもここでは省略します。
陸軍中枢の動きと迷走や石原莞爾とかもここでは深く触れないことにする。


後日談

こうしていろいろあって(はしょりすぎ)


昭和11年3月9日。
二・二六事件により岡田啓介内閣は総辞職。広田弘毅内閣が成立。
広田内閣の一番の失策は「軍部大臣現役武官制」を復活させたこと。 これにより、この先々は陸軍の横暴に苦しめられることになる…

岡田啓介

岡田は政界の表舞台からは身をひき裏方へ。そして8年後の昭和19年。もう一度殺される覚悟でもって東条内閣打倒に尽力。終戦に向けての最後の舞台へと米内を押し出す原動力ともなる。こうして岡田の尽力で既に現役を引退していた米内は現役に復し最後の海軍大臣へ、と

大角岑生

大角岑生海軍大臣の後任は永野修身。(永野は海軍大臣ののちに連合艦隊長官。) 海軍大臣退官後の大角は軍事参議官。現役大将序列は伏見宮に次ぐ立場であったが、ぱっとせず。伏見宮軍令部総長の後任に、大角と永野の名が挙がるも、昭和16年2月に大角は飛行機事故で死去。

井上成美

昭和11年11月。 井上成美は二・二六事件ののちに横鎮参謀長から軍令部出仕兼海軍省出仕へ。 翌昭和12年10月に海軍省軍務局長に。 その時の海軍大臣は米内光政。海軍次官は山本五十六。 ここに「海軍三羽烏」「海軍省の左派トリオ」が誕生した。

米内光政

米内光政は、二・二六事件で重傷を負った鈴木貫太郎の後任侍従長との声もあったが、横鎮長官職の次職慣例もありその話はお流れ。鈴木の後任侍従長は百武三郎海軍大将。 昭和11年12月に、第23代連合艦隊司令長官へ。(連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。)

しかし米内光政は連合艦隊司令長官としての職を果たす間もなく着任わずか2ヶ月後の昭和12年2月に林内閣海軍大臣として中央に戻されることとなる。 連合艦隊司令長官の米内後任は永野修身(海軍大臣)。永野事情による海軍大臣と聯合艦隊長官の入れ替えだった、とか。

海に出た米内であったが僅か2ヶ月で中央に戻され、海軍大臣、さらには首相として本人は不本意な政治を行い、それが日本の要になるとは皮肉なものであった。そんな海軍省には次官として山本五十六がいた。(山本五十六は事件当時は海軍航空本部長で口出しする立場に無し)

いずれにせよ二・二六事件以降の動きは、また別の機会に。(あるのか?) 米内光政海軍大臣・山本五十六海軍次官・井上成美海軍省軍務局長のいわゆる「海軍三羽烏」「海軍省の左派トリオ」は、次の「日独伊三国軍事同盟」に向けての政局混乱に動き出すわけです。

鈴木貫太郎

参考文献

参考文献は手の届く間近の本棚から慌てて取り出した本を中心に。 (そこまでガッツリ書こうと思っていなかったので資料にかたよりアリ。本箱に埋もれて今回活用できなかった本も多数、残念)

「井上成美」伝記刊行会の題字は、本人の直筆筆跡。


関連

「二・二六事件」雑感

元記事は平成29年2月投稿、平成31年4月ほか追記あり

深くは掘り下げずに、思いついたことをちらりほらりと書いてみようかと思います。陸軍さんの動きは、さほどに詳しくないので。 その歴史的な評価や青年将校の起こした行動の是非は別として。

2月26日が来るたびに、その歴史的な節目に何かを感じざるを得ない気になってしまいます。

実際には「あー、二・二六事件ね。」ぐらいで終わってしまいますが。 歴史的なフレーズとして、この「二・二六事件」という具体的な日にちはいやがおうでも印象深いものです。

そんな2月に渋谷にある慰霊碑に足を運んできました。
実は訪れたことがなかったので。
渋谷の雑踏を抜け、NHKの真向かい。隣は渋谷税務署と東京法務局渋谷出張所。 東京陸軍刑務所跡地。そこに「二・二六事件慰霊碑」がある。


二・二六事件慰霊碑

東京陸軍刑務所跡にたつ慰霊碑。
観音像は昭和40年2月26日建立 。
昭和11年7月12日、首謀者に対する刑は執行された。
彼らの行動の是非は問えない。時代のうねりの中で、彼らもまた翻弄され、そこに正解は求めることはナンセンスだから。
合掌。

二・二六事件慰霊碑
碑文
昭和十一年二月二十六日未明、東京衛戍の歩兵第1第3聯隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企圖していた、野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。
當時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸・陸軍省・警視廳等を占據した。 齋藤内大臣・高橋大蔵大臣・渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い岡田総理大臣・牧野前内大臣は危く難を免れた。
此の間、重臣警備の任に當たっていた警察官のうち五名が殉職した。
蹶起部隊に對する處置は四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮壓に變轉したが二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。

世に是を二・二六事件という。

昭和維新の企圖壊れて首謀者中、野中、河野両大尉は自決、香田、安藤大尉以下十九名は軍法會議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した。
此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した十九名と是に先立つ永田事件の相澤三郎中佐が刑死した處刑場跡の一角である。
此の因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく廣く有志の浄財を集め事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を發願し、今ここに其の竣工をみた。
謹んで諸霊の冥福を祈る。
 昭和四十年二月二十六日
 佛心會代表 河野司 誌

碑銘にある佛心會代表の河野司氏は、河野壽陸軍大尉の実兄。
河野壽陸軍大尉は二・二六事件に参加。
河野隊を率いて湯河原で牧野伸顕侍従長(伯爵)を襲撃。その際に負傷し、後に自決。


真偽は不明だが、この慰霊碑の脇にある赤レンガ壁は東京陸軍刑務所の名残を残しているもの(残存壁)、とされている。
梅の花が咲く慰霊碑の前で、往時の事柄を偲びつつ静かに手をあわせる。


令和三年(2021)2月26日、撮影。


渋谷の陸軍境界石

若者が闊歩する街「渋谷」。
そんな渋谷の繁華街の只中に陸軍標石はありました。
(往時より数メートル移動して保存されております。)
渋谷区清掃事務所宇田川分室のフェンスの中。駐輪場との間に。

渋谷に二・二六事件と関連する陸軍施設(東京陸軍刑務所)があった名残の一つ。 標石には「陸軍用地」と刻まれておりました。

往時を偲ぶ歴史遺産。
渋谷の陸軍用地。
もちろん、ここには何も説明も案内はないけれども、明確な意志で保存されている感はします。フェンスの内側にあるというにはそれだけで安心感があります。


二・二六事件と海軍

別記事にて。


二十二士之墓(賢崇寺)

平成31年4月参拝

東京都港区元麻布鎮座。鍋島家の菩提寺。

境内には「二・二六事件の青年将校の墓 」がある。

二・二六事件で殉難した「二十二士」を祀る。これは死刑になった19名に、自決した野中四郎・河野寿の2名、相沢事件で死刑となった相沢三郎が含まれている。 現在の墓碑は、昭和27年(1952)建立。

昭和11年2月29日
 野中四郎
昭和11年3月6日
 河野壽
昭和11年6月3日
 相澤三郎
昭和11年7月12日
 香田清貞
 安藤輝三
 栗原安秀
 竹嶌継夫
 対馬勝雄
 中橋基明
 丹生誠忠
 坂井直
 田中勝
 中島莞爾
 安田優
 高橋太郎
 林八郎
 渋川善助
 水上源一
昭和12年8月19日
 村中孝次
 磯部浅一
 北輝次郎
 西田税


磯部浅一墓

二・二六事件の青年将校の一人、磯部浅一の墓。
別記事にて


永田鉄山

その引き金となったのが相沢事件(永田事件)と呼ばれる陸軍派閥抗争。
昭和10年8月12日。皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、皇道派の首領であった真崎甚三郎教育総監を更迭した統制派の永田鉄山軍務局長を、陸軍省において白昼斬殺した事件。

永田鉄山軍務局長を殺害した相沢三郎陸軍中佐は、二・二六事件首謀者の処刑(昭和11年7月12日)に先立つ昭和11年7月3日、東京陸軍刑務所内で銃殺刑に処された。(二・二六慰霊碑碑文にも永田事件の相沢中佐の記載がありました)

写真は諏訪護國神社の永田鉄山中将像。

陸軍の派閥抗争。皇道派と統制派。こんなのを説明しようとしたらそれだけで論文が書けそうなので止めておきます。
統制派の永田が皇道派の相沢に殺され、暴発した皇道派青年将校による二・二六事件の勃発により皇道派は衰退。で、永田のあとには統制派の東条と武藤などが皇道派を駆逐し陸軍を牛耳る、と。

永田鉄山の墓は青山霊園にある。


九段下の「九段会館」(軍人会館)

昭和11年2月27日。戒厳令発令に伴い戒厳司令部が設置されたのが軍人会館であった。東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐が戒厳参謀に就任。


岡田内閣大蔵大臣
高橋是清

庭園が残る。高橋邸の母屋は現在は「江戸東京たてもの園」に移築。
昭和11年2月26日。赤坂の私邸で叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ暗殺される。享年82(満81歳没) 墓は多磨霊園に。

別記事にて。


内閣総理大臣
海軍大将 岡田啓介 墓

海軍大将、第31代内閣総理大臣。 事件で襲撃されるも難を逃れ一命を取り留めたが、身代わりに首相秘書官で松尾伝蔵(義弟)が殺害。 その後は重臣として戦争終結に奔走。昭和27年10月17日84歳没。 現在は多磨霊園に眠る。

岡田啓介 墓(撮影は2016年2月)

岡田内閣内大臣
海軍大将 齋藤實 墓

従一位大勲位子爵。海軍大将。第30代内閣総理大臣。岡田内閣時の内大臣。 二・二六事件にて射殺される。 満77歳没。 現在は、多磨霊園に眠る。

斉藤実 墓(撮影は2016年2月)

陸軍教育総監
陸軍大将 渡辺錠太郎 墓

岡田内閣時の陸軍教育総監。 二・二六事件にて射殺される。満61歳没。
二・二六事件の舞台でもある杉並区上荻窪にあった渡辺錠太郎邸は2008年に取り壊しされている・・・。
現在は、多磨霊園に眠る。

渡辺錠太郎 墓 (撮影は2016年2月)

岡田内閣総理大臣秘書官
迫水久常 墓 (さこみずひさつね)

政治家。岡田啓介は岳父。妻が岡田啓介の次女。 岡田内閣内閣総理大臣秘書官。 二・二六事件に際しては岡田啓介救出に奔走。 鈴木貫太郎内閣書記官長として終戦工作の一翼を担う。 現在は多磨霊園に眠る。


迫水久常 墓(撮影は2016年2月)

関連を見つけましたら随時追記していきます。

九段会館(軍人会館)解体前の記録

九段会館、戦前の軍人会館。

東日本大震災の影響で2011年(平成23年)4月に廃業し、平成31年現在は解体中。
2022年に帝冠様式の外壁を残した状態で高層ビルに生まれ変わる予定。

平成30年4月撮影~最後の桜

「軍人会館」(九段会館)

着工は昭和7年(1932)2月。竣工は昭和9年(1934)3月。
鉄骨鉄筋コンクリート構造・ 日本趣味建築「帝冠様式」

歴史的には昭和11年2月26日の二・二六事件に対する戒厳令発令に伴い、軍人会館に戒厳司令部が置かれたことが有名。

戦後はGHQに接収され「アーミーホール」、進駐軍撤退後の昭和32年(1957)に「九段会館」として再開業。

平成23年(2011)3月11日 、東日本大震災でホール天井が崩落し2人死亡。
閉館。


「九段会館」思い出の写真

平成28年2月26日撮影

平成28年4月

平成28年6月

平成29年4月

平成30年3月25日
工事直前の撮影、軍人会館と桜の撮影。

「九段会館」解体工事のお知らせ
工期 平成30年5月7日~平成32年7月31日
九段会館屋上の「護國神社」
九段会館屋上の「護國神社」
工事の足音が。

「明治10年の忠魂碑」西南戦争の頃の忠魂碑。


九段会館屋上の護國神社(取壊済)

「九段会館」、戦前は「軍人会館」
もともと当地は「靖國神社」の境内地でもあり、万が一に「靖國神社 」に被害が生じた場合、即座に遷座が可能なように「仮殿」が設けられていた。

昭和9年(1934)年、帝冠建築とも呼称される独創的な建築によって軍人会館が竣工すると、靖国神社仮殿は「護国神社」として「軍人会館」の屋上に移された。
戦後は建物は「九段会館」と名称変えるも、かわらず屋上には「護國神社」が祀られていた。

平成31年4月。再開発事業により屋上は解体。
軍人会館以来の歴史を有していた護國神社も姿を消した。


九段会館の屋上に行く機会があったので、以下に当時の記録を記載しておく。
平成21年夏の記録。

以前に嫁が会社の人たちと「屋上ビアガーデン」にいってきたという。
そう聞かされたら羨ましくてしょうがない。
実は、私は「九段会館の屋上」にいったことがなく、靖国仮殿の噂のみをきいていた。
そうしたら猛烈に行きたくなった私の気持ちを汲んでくれたようで、今年も嫁が嫁会社関係の人たちとビアガーデンにいくという。
折角の機会なのでその席に便乗してみる。かなり感謝なのだ。そうして若干遅刻しつつ、ビアガーデン会場=九段会館屋上=軍人会館屋上に到着。

ビアガーデンもそこそこに、一目散に神社の写真を撮りに行く。ビールよりもそれが目的。
参拝をすませ写真をとったら、そうしたらあとはゆっくりとビールをたしなもう。
「英霊ありがとう」
靖国の英霊の御霊に感謝祈念しながら、しずかに喉を潤すひととき。
ひさしぶりにビールがおいしい夜であった。

<「神のやしろを想う」より>

平成21年7月撮影 社号標「護國神社」は昭和9年3月竣工時のもの。
平成21年7月撮影
平成21年7月撮影
平成21年7月撮影

「九段会館」解体直前の姿

平成30年4月1日撮影
遂に工事用の白い壁が・・・


平成30年7月28日撮影


平成30年8月15日撮影


平成30年9月2日撮影


平成31年3月29日撮影

このときに屋上の鳥居を確認したのが最後でした・・・

「九段会館」解体中の写真

平成31年4月14日撮影

令和元年8月4日撮影

昭和の建築物が、またひとつ消失していく瞬間。
これは「保存」といえるのだろうか・・・


再開発中

令和3年(2021)3月撮影

令和3年(2021)12月撮影
だいぶ、ビルができてきました。。。

令和4年(2022)4月撮影
ほぼ、ビルが出来上がってきました。

2022年10月、新しく九段会館テラスとして再稼働。。。
別記事にて。


「千島」と「畝傍」(青山霊園)

平成30年8月撮影 青山霊園・畝傍の森

水雷砲艦「千島」慰霊碑

この地に水雷砲艦「千島」の砲身と砲弾が慰霊碑として祀られている。
「千島艦事件」
明治25年4月にフランスにて竣工し11月に長崎に到着。瀬戸内海を航行中の11月30日に愛媛県沖で英国商船ラベンナ号と衝突し沈没。乗員90人のうち救助されたのは日本人士官2官下士官13人と仏人1人だけであったという。

水雷砲艦「千島」慰霊碑
その隣には区画の由来となった「畝傍」慰霊碑もある。

青山霊園「畝傍の森」

巡洋艦「畝傍」慰霊碑

(明治21年12月に水交会にて建立)

巡洋艦畝傍は明治19年10月にフランスにて竣工 回航担当として日本人7人と75人のフランス人によって日本に向けて航行。
シンガポールを12月3日に出港するも、そこで消息を絶ち行方不明となった。

畝傍は仏国に建造を依頼した最初の日本海軍軍艦であったが回航途中の明治19年に消息不明。
その畝傍に次いで仏国にて建造された水雷砲艦千島も回航中の明治25年に瀬戸内海で英国商船と衝突し沈没してしまう。

そんな仏国出身の軍艦2艦を慰霊する区画が青山霊園に残っていた。

戦災電柱

平成29年11月撮影 台東区三筋町

台東区三筋の住宅地のなかに残る戦跡。

昭和20年3月10日、東京大空襲のさなかで辛うじて焼け残った電柱。

場所→台東区三筋1ー13ー12
https://goo.gl/maps/h4N11AgjgHu …

第二次世界大戦下の1945(昭和20)年3月10日、米軍機B29による東京大空襲で、10万人以上の貴重な人命が失われ、三筋町も一面に火の海となりました。辛うじて焼け残ったこの電柱には当時の惨状が刻みこまれています。私達はこの悲惨な歴史の生き証人としての電柱を保存することにより、あのような悲劇をひき起こした戦争を二度とくり返さないことを神に誓い、恒久の世界平和を宣言するものであります。
 Mar 101988 焼け残った電柱を保存する会

台東区三筋町の住宅地のなかに残る戦跡。
昭和20年3月10日、東京大空襲のさなかで辛うじて焼け残った電柱。
交差点の向こうにみえる赤い鳥居は「梅森稲荷神社」


黒焦げの電柱(複製)

現地に保存されている電柱の複製が、江戸東京博物館に保存されている。

 台東区三筋1-13の交差点角に立っていた電柱で、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲で被災したものである。高さは本来7mほどあったが、焼けて半分ほどになってしまった上に、黒く炭化してしまった。
 戦後は街路灯として使用されていたが、付近の交通が頻繁になり、撤去することになった。しかし空襲の記憶を語り継ぐ資料として現地保存されていた。
 1995年(平成7)、当館に収蔵された。


関連

東京大空襲・慰霊


B-29のタイヤとプロペラ

平成30年6月・他


B-29のタイヤ
(機体番号44-69728・第314航空団29爆撃群所属)

舎人公園の近くの畑の片隅に。
大きなゴムタイヤがありました。 なんでも「B29のタイヤ」だそうで。

B-29のタイヤ
このゴムタイヤのB-29履歴は以下を参考。

1945年5月25-26日 東京都足立区入谷町の水田
B29(機体番号44-69728、第314航空団29爆撃群所属)が墜落。

B29は南方から火を吹きながら飛来し、高度500メートルほどで爆発、現在のトラック・ターミナル付近に墜落した。破片は広範囲に散らばり、エンジンは2日間燃え続けた。戦後、B29のプロペラ1枚が土地の所有者によって掘り出され、入谷南中学校に寄贈されたが、現在は足立区郷土博物館に保管されている。
(略)

「POW研究会」本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士  http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/tobu.html …

日暮里・舎人ライナーの「舎人駅」から歩いて10分ほど。

畑の片隅の「タイヤ」を見学して、そして駅に戻るというプチ散策。
緑が茂り過ぎていたので、こちらの観察は冬のほうが良いかも・・・〆


冬の季節に再訪しました。
木の繁りがなくなってよく観察できますね。(伐採されてた)
一方で、柵は強化されてました。

16 PLY
 56
SMOOTH CONTOUR

182974-6M

グッドイヤー(GOOD YEAR)のロゴか?

大きさがよく分かる。

※上記の撮影は2021年3月


B29のタイヤの場所

場所は、足立区入谷5丁目。

https://goo.gl/maps/EKvTzR5zMKcb2yfK9


B-29のプロペラ
(機体番号44-69728・第314航空団29爆撃群所属)
足立郷土博物館

畑の片隅に残されているタイヤ以外に、このときに墜落したB29プロペラ1枚が足立区郷土博物館に保管されている。

別の日に、足立区郷土博物館に脚を運んでみました。

B29プロペラ(部分)
昭和20(1945)年 入谷南中学校寄贈・当館蔵
 昭和20年5月25~26日空襲のとき撃墜されたB29の1機が入谷町(足立区入谷)に落ちました。墜落地点近くの地元の人が保存していた#44-69728号機のプロペラの一部です。

https://www.city.adachi.tokyo.jp/hisho/ku/kucho/20210719-mainichi.html


これは別のB29に関係するものですが。

B29無名戦士之墓碑
(機体番号42-63517・第313航空団505爆撃群所属) 
足立郷土博物館

1945年4月13〜14日 東京都足立区花畑町
 B29(機体番号42−63517、ニックネーム「POCAHONTAS」、第313航空団505 爆撃群所属)が墜落。B29は火の玉になって飛来、空中分解して主要部分は現在の北加平町12−8付近に、尾翼部分は現在の谷中町の営団地下鉄車庫付近に落下した。機体は数時間にわたって炎上したが、落下地点は田んぼだったので消火活動は行われなかった。
(注)上記作戦の損失機7機のうちの1機

 機長のJohn KRETZER中尉など11人全員死亡。
 戦後、地元民によって北加平公園に「B29無名戦士」の墓がつくられたが、現在は、その銘碑のみが足立区郷土博物館に保管されている。

「POW研究会」本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士 http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/tobu.html

B29無名戦士之墓(碑)
昭和21(1946)年 足立区加平・山野正雄氏寄贈
 昭和20年4月13日空襲時に墜落したB29(ポカホンタス号)の搭乗員を慰霊する墓の碑の部分で、北加平町に昭和21年12月25日に建立されました。現在。慰霊碑は道路となり撤去されました。

B29無名戦士の墓は北加平公園付近に建立されたという。

B29の勇士たち
 ここに眠り
平和の使徒として
 自由と正義を
真実に展開せし
 勇士たちよ
  安らかに憩へ
(以下建立者や後援者などの個人名は略)

後援者名には、作家の長谷川伸も名を連ねている。

昭和21年12月25日、まさにクリスマスにあたる日に、「平和の使徒」としてB29の搭乗員を慰霊する碑が建立されたというのが、戦後史を見る上で興味深い。

以下の記事もB-29関連として。


保木間高射砲陣地

足立区には「保木間高射砲陣地」があった。

足立郷土博物館には、保木間高射砲陣地に関するものも残されていた。
以下、足立郷土博物館の収蔵品を。

弾薬筒収容箱
昭和20(1945)年以前 当館蔵
保木間高射砲陣地で使用する砲弾を入れた箱です。

8cm高射砲段薬莢
昭和20(1945)年以前 当館蔵
高射砲弾の薬莢です。ここに火薬が詰められて弾を砲から撃ちました。保木間高射砲陣地の兵士が収集し戦後までながく保管していました。

M69小型焼夷弾
昭和20(1945)年 竹の塚・黒田倉蔵氏寄贈・当館蔵
火災を起こすための爆弾で、筒の中に油脂がはいっていました。地上700mで親弾から38発の小型焼夷弾がバラバラになり点火して落ちてきました。この小型焼夷弾は千住新橋付近で採集されました。

展示されていたM69小型焼夷弾は千住新橋付近での採集という。
大正13年に竣工した「千住新橋の親柱」も昭和53年に役目を終えて、足立郷土博物館に展示されている。
親柱の上部が焼けたように黒いのは、やはり当時の空襲の激しさを物語っているのかもしれず。

木銃
昭和20(1945)年以前 足立区保木間・吉岡秀典氏寄贈 当館蔵
保木間高射砲陣地の訓練用です。銃床部分に書かれている「AA」は高射砲部隊を表す記号です。

東部防空情報と敵襲図解
昭和20(1945)年 当館蔵
B29の進入経路を図示しています。

保木間高射砲の位置

このB-29が保木間高射砲陣地での墜落かどうかは定かではないけれども、こちらも参考までに。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
http://mapps.gsi.go.jp/ 
USA-M676-131 1947年11月28日、米軍撮影

画像の中心部、今でいう国道4号線の左右に陣地が展開されているのがわかる。


青砥高射砲陣地

足立区の隣の葛飾区には「青砥高射砲陣地」がありました。

青砥高射砲陣地跡

以上、足立区のB-29にまつわる戦跡でした。


B29・関連

青梅市のB29搭乗員慰霊碑とエンジンの一部

東村山にあるB29搭乗員を慰霊する平和観音

川口市のB29搭乗員の慰霊碑

青砥高射砲陣地跡

平成30年6月 東京都葛飾区白鳥

京成線お花茶屋駅より15分ほど歩く。
かつて、このあたりには「青砥高射砲陣地」が展開されており、その痕跡が今も僅かに残っているという。ちょっと見物してみましょう。

青砥高射砲陣地跡

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」
http://mapps.gsi.go.jp/ 
写真番号:USA-R3163-40 

昭和24年09月07日米軍撮影写真をベースに該当部分を加工。
わかりやすいですね。高射砲陣地跡の台座がくっきりと写真として残っております。今回はABCDの4箇所を観察。

A地点。


かなりわかりにくいですが、砂利の駐車場の真ん中にうっすらと円形のコンクリート部分があります。この場所に高射砲台座があった、と。
うん。これは地味(に楽しい)散策です。

B地点。

駐車場内。
前述の米軍撮影の航空写真で、高射砲陣地が3箇所確認でき、高射砲が6台座ずつ配置され計18台座があったことがわかる。
その高射砲陣地遺構の中でも、ここが今でも一番わかりやすく残っている有名なポイント。
駐車場の中に円形の台座跡がくっきりと。

C地点。

路地の奥に。 かつての高射砲陣地の台座は、今はアパート貯水タンク台座として活用されていました。
なお写真は道路から望遠で。立ち入りは遠慮しました。一枚目写真はトリミング。
円形台座が目に見えるかたちで残ってます。

D地点。

現在は建物台座として使われているが、これも高射砲台座。
このエリアには他にも高射砲台座跡が残っているそうですが、私有地の奥などに当たる可能性もあり、公道から見える範囲はこのくらい。

生活に埋没している、ちょっとした史跡戦跡を見つけるのも感慨深い散策です

松脂油採取の跡(高幡不動)

平成29年11月撮影 高幡不動

戦争末期。苦肉の策として航空燃料原料としての利用が試みられたのが「松から採取された油」であった。しかし労力と効率の割が悪く、また粗悪のために実用には至らず。 松の根からは「松根油」、樹皮からは「松脂油」が採取されたという。

その痕跡を高幡不動で探してみました…

今回は高幡不動で「戦時中に松脂油を採取された松の木」探しを。
高幡不動尊の裏山、愛宕山はかつてはクロマツ群生地であったようで。
看板には「現存するものにも、ほとんどが第二次大戦中の樹脂(松やに)採取の傷あとを根元に刻み込んでいる」と記載あり。

これも戦跡のひとつ…

東南の松。樹齢は350年以上と推定され高さは約25メートル。高幡不動愛宕山では最も大きい古木という。
その根元近くには「樹皮をV字型に傷つけて松ヤニをとった跡」が残っておりました。
この切傷に違和感を感じても、これが松脂油の採取痕跡だと言われなければわからない傷跡…

こうして切り刻まれたから70余年ほど経っていても、その傷跡は松の古木たちに「当時を偲びし歴史の一幕」として残っている。

高幡不動愛宕山の山中で松を見かけたら根元をよく見てみて下さい。
大なり小なり、刻まれた跡が残っています。
これもまた戦跡・・・

今回は(平成29年11月23日)、高幡不動で松を探してみました。


都内ではこの「高幡不動」の他には「井の頭自然文化園」にも戦争当時を偲びし松が残っている。

紅葉を愛でながら、松の幹で戦争を偲ぶというのも不思議な心持ちではありますが…

「インド独立運動の英雄」チャンドラ・ボース胸像(杉並区)

平成30年1月撮影


インド独立運動の英雄
チャンドラ・ボース

ボース事故死より30年後の昭和50年8月18日に遺骨を預かる頂光山蓮光寺(杉並区)境内に建立。
先日、友人よりチャンドラ・ボース像の話を聞きまして脚を運んでみました。

杉並区・蓮光寺
地図→ https://goo.gl/maps/Bh2e4LYonzm …


 昭和20年9月18日、蓮光寺第29世住職望月教栄師の仏教者としての英断により印度独立の英雄スバス・チャンドラ・ボース氏の御遺骨をこのお寺に安置し供養を続けて以来45年、我々スバス・チャンドラ・ボース・アカデミーは現住職望月康史氏の御厚意により茲に胸像を建て之を後世に伝えるものである
平成2年8月18日

チャンドラ・ボース胸像

昭和50年8月18日
頂光山蓮光寺
第29世 日輝
第30世 日史
建立

歴史を感じる…

スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー

ビルマ方面軍司令官・河辺正三大将
第十五軍司令官・牟田口廉也中将
ビルマ方面軍高級参謀・片倉衷少将
印度独立協力機関長・岩畔豪雄少将
特務機関光機関長・磯田三郎中将
参謀本部第二部長・有末精三中将
駐ドイツ特命全権大使・大島浩中将

・・・

スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー
そこに連なる名前はチャンドラ・ボース氏とともに、日本とインドが歩んだ歴史。
そしてインパールへと連なる歴史。

_φ(・_・.
初代会長には渋沢敬三元蔵相
初代副会長には岩畔元少将
最高顧問には河辺元司令官


ネタジ・スバス・チャンドラボースの碑

當寺に参ってネタジの聖なる遺骨にお祈りを捧げる事を私の幸運とするところであります
1958年10月4日 ラジェンドラ・プラサット大統領

佛陀の使命が人類に平和をもたらす様に祈ります
1957年10月13日 ジャワハルラル・ネルー首相

御仏の光が真心と平和に向かって人々のために永久に私達を導かれんことを
1969年6月26日 インディラ・ガンジー首相

インドの偉大な自由の闘士ネタジースバッシュチャンドラボーズの霊を安置している蓮光寺を再び訪れることができてうれしく思います
2001年12月9日 パジパイ首相


インド独立運動の英雄
スバス・チャンドラ・ボース

インド独立運動の非暴力主義のマハトマ・ガンディーに対し急進派として活躍。英独間で戦争が始まるとイギリスと敵対するドイツに亡命。

昭和16年12月
大東亜戦争初戦でのマレー作戦での日本勝利と英大敗は、ボースを奮い立たせ日本行きを熱望する。

昭和17年6月
シンガポールにて日本に亡命していたラース・ビハーリー・ボース(通称・中村屋のボーズ・新宿中村屋の相馬家の婿でもあった)を指導者とするインド独立連盟が設立。
しかしビハーリー・ボースの体調が芳しくない事から後継者として独立運動家として著名なチャンドラ・ボースの招聘が決定。

昭和18年2月8日
チャンドラ・ボースがドイツから日本に移動する手段として、既に陸路も空路も危険が伴うために日独の潜水艦がインド洋で合流するという海路での移動が選ばれる。
そうして、チャンドラ・ボースが乗り込んだドイツ海軍のUボートU180がフランス大西洋岸のブレストを出航。

昭和18年4月26日
インド洋マダガスカル島東南沖でUボートと日本海軍巡潜乙型伊号第二九潜水艦(伊29)が海面で合流。翌日にチャンドラ・ボースは日本潜水艦伊29に移乗。

画像はWikipediaより
伊29艦長・伊豆寿一中佐と乗組員、チャンドラ・ボース氏と秘書ハッサン氏
https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:19430428_japanese_submarine_crew_i-29.png#mw-jump-to-license …

昭和18年5月6日
伊29は海軍特別根拠地隊指揮下サバン島サバン港入港。ボースは同地で日本行きの飛行機便を待ち5月16日に東京到着。
東京に到着後、ビハーリー・ボース後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任。のち10月21日にシンガポールで自由インド仮政府首班に就任。

余談
伊29初代艦長は前述の伊豆寿一中佐
そして2代目艦長が有名な木梨鷹一中佐

伊29は木梨艦長の下で日独往復成功寸前まで行った潜水艦。昭和18年11月に呉出航し翌3月に独領仏ロリアン港入港。4月に帰路につきシンガポール7月入港。
呉に向かう途中に米潜水艦により轟沈。艦長以下百余名戦死…

昭和18年11月
大東亜会議開催
左から
ビルマ国 バー・モウ
満州国 張景恵
中華民国(南京)国民政府 汪兆銘
日本国 東條英機
タイ王国 ワンワイタヤーコーン親王
フィリピン共和国 ホセ・ラウレル
自由インド仮政府 チャンドラ・ボース
 ※なお、インドはオブザーバー枠

https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Greater_East_Asia_Conference.JPG#mw-jump-to-license …

昭和19年
ボースが指揮するインド国民軍はビルマ・ラングーンに拠点を置き、同地にて河辺正三ビルマ方面軍司令官と面談。
のちに、河辺司令官及び牟田口廉也第十五軍司令官は日本軍によるインド侵攻のためのインパール作戦を決行することとなる。

一説にはボースのインド独立に賭ける意志に河辺司令官が惚れ込み、その壮図を見殺しに出来ないという情がインパール作戦の背景にあったともされている。
結果として、インド国民軍は日本軍と共同してインパール作戦及びビルマ戦線に参加するも日本軍ともどもに大損害を受ける。

昭和20年8月15日
日本の敗戦によりインド国民軍は連合国(イギリス)に降伏。
ボースの悲願であった日本と協力して英国からインド独立を勝ち取るという夢は破れ、チャンドラボースは新たなインド独立運動の協力先として(一説には)ソ連に亡命し交渉を行うつもりであったともされている。

昭和20年8月18日午後
台湾にいたチャンドラ・ボースは台湾松山飛行場から中国大連へ向かう予定であった陸軍九七式重爆撃機に便乗する。
しかし同機は台湾松山飛行場からの離陸に失敗し墜落。搭乗していたボースは重傷を負い台湾陸軍病院に搬送されるも癒えること無く永眠。

最後に立ち会ったハブビル・ラーマン大佐に残したチャンドラ・ボースの言葉

「私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ。」

昭和20年8月20日
台北市営火葬場でボースの遺体は荼毘に付され、台北市内の西本願寺で法要が行われた。
そうして9月5日にボースの遺骨が日本に移送される。

ボースの遺骨は陸軍からインド独立連盟東京代表ラマ・ムルティに引き渡される。目立たぬように表向きは同じくインド独立に尽力していたビハーリー・ボース(中村屋のボース)の葬儀ということにしてビハーリー・ボース側近サハイ夫人宅がある荻窪周辺でチャンドラ・ボースの葬儀を行える寺院寺を探すが…

だが、敗戦直後の政情不安定のさなかでなおかつ米英を始めとするGHQの監視下で、各寺院は確実にイギリスにマークされるであろうチャンドラ・ボースの葬儀を行うことを拒絶。
そんななかで頂光山蓮光寺住職がボースの葬儀を行なうことを快諾する。

チャンドラ・ボースの葬儀を執り行った蓮光寺住職望月教栄氏は、
「霊魂には国境はないのみならず、死者に回向することは仏法に従事する僧侶の使命だと感じ、即時快諸した。」
vとのちに回想している。

ボースの葬儀以後、蓮光寺によって遺骨は引き続き保存。
ボースとともにあったインド独立運動家の関係者は次々と「国家反逆罪」容疑でインド本国に送還されイギリスの裁判にかけられる(この裁判などからインド国民の英国反発と暴動がはじまり独立へと連なる)も、ボースの遺骨は日本に取り残され何度かインドへの遺骨返還運動が起きるも関係者にボースの死を信じたくない人々などもおり返還は難航。インド国内では度々ボース事故死の調査委員会などがひらかれていた。
ようやく2017年にインド政府はボースが「1945年8月18日、飛行機事故のため台北で死亡したと結論付けた」と正式回答に至り、このあたりは日本とインドでの遺骨の取り扱いや考えの違い、インド人の物事に取りかかる時間軸の考え方など、意識のすれ違いなどもあったのかもしれず。 2004年には顕彰と遺骨返還運動などをしていた関係者高齢化のため「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」が解散

独立の英雄チャンドラボースの名はインドにおいても讃えられ、カルカッタ(コルカタ)国際空港は「ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース空港」と呼称。 インド国会議事堂ではガンディー(非暴力独立運動)、ジャワハルラール・ネルー(インド初代大統領)らの肖像画に並んでボースの肖像も掲げられている。

遺骨返還運動に関しては紆余曲折のさなかにあるようではあるが…

蓮光寺本堂ではネタジ(指導者)として愛された「スバス・チャンドラ・ボース」の遺骨が安置されており、
毎年の命日8月18日には、ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの法要が蓮光寺にて引き続きとり行われている。


余談

もう一人のボース
ラース・ビハーリー・ボース(中村屋のボーズ)

ビハーリー・ボースは自由インド仮政府の指導者の一人。
日本のインドカレーの父とも。インド独立連盟名誉総裁。晩年は体調を崩し、チャンドラ・ボースを後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍指揮権を移譲。ビハーリー・ボースは昭和20年1月21日に日本で病死している。

インドカレー
日本に伝わっていたカレーは英国式(軍隊式=いわゆる海軍カレー)のものでインドカレーとは全く別物であった。 「日本のインドカレーの父」とも称されるビハーリー・ボースは新宿中村屋の相馬家の婿となり昭和2年(1927)に新宿中村屋「純印度式カリー」を開発。

https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/products/pro_001.html

昭和2年(1927) 新宿中村屋「純印度式カリー」


ラース・ビハーリー・ボース墓

中村屋(相馬家)のボースの墓。
(1区1種6側12番)

ボースは1923(大正12)年に日本に帰化し「防須」となるが、その名付け親は後に第29代総理大臣を務める犬養毅であった。

ビハーリーボーズ(防須家)と、長男の防須正秀、長女(防須(相馬)俊子とラス・ビハリ・ボースの子)の樋口家(防須哲/防須哲子・樋口哲/樋口哲子)の墓。

昭和20年1月21日死去
 顕國院殿俊誉高峰防須大居士(ビハーリー・ボーズ)
昭和20年6月17日に沖縄で戦死
 陸軍中尉・防須正秀(長男) 

※墓所写真は2025年9月撮影


新宿中村屋

日本初
純印度式カリー
発祥の地
since1927

ビハーリーボーズが伝えた純インドカレー


A.M.ナイル

更にビハーリー・ボースの腹心として日本でインド独立運動を展開していたA.M.ナイルが戦後はパール判事の通訳なども務め、そして1949年に東京都中央区銀座に「日本初のインド料理専門店」として「ナイルレストラン」を開業。現在は二代目三代目が営業を続けている。

http://www.ginza-nair.co.jp/history.html 


東銀座
印度料理専門店 ナイルレストラン

たまたま、前を通りかかったことがありました。
時間がある時にカレーを食べに来たいものです…

ビハーリー・ボースの腹心として日本でインド独立運動を展開していたA.M.ナイルが戦後に「日本初のインド料理専門店」として開業させたお店。


蓮光寺(れんこうじ)

東京都杉並区にある日蓮宗寺院。
山号は頂光山。
本尊は十界諸尊。
文禄3年(1594)両国矢の倉(現・中央区東日本橋)に開山。 正保元年(1644)浅草新寺町に移転。 大正4年(1915)浅草の区画整理のため現在地に移転。


マハトマ・ガンジー

奇しくも同じ杉並区にインド独立運動のもうひとりの功労者ガンジーの像がある。
杉並区中央図書館の裏庭に。

マハトマ・ガンジー
1869年10月2日-1948年1月30日

東京都杉並区にこのガンジー翁の銅像を、2008年11月6日にガンジー・アシュラム(修養所)再建財団創立者・インド国会議員・故ニルマラ・デッシュバンデ女史の遺志により、ガンジー翁の精神に基づいて、世界平和と相互理解が強められることを記念して、贈る。

7つの大罪
汗なしに得た財産
良心を忘れた快楽
人格が不在の知識
道徳心を欠いた商売
人間性を尊ばない科学
自己犠牲をともなわない信心
原則なき政治

杉並区中央図書館は改修工事中の為、このときは近くでの観覧はできず、でしたが。

再訪しました。


参考サイト

Netaji unfogettable Hero of India
http://www.yorozubp.com/netajiunfogettable_indian/ …
英雄チャンドラ・ボースいまだ帰国せず
http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/chandra_bose.html …
チーム・ネタジ
http://www.teamnetaji.org/index.html 
Wikipedia関連項目各種
ほか

嶋田繁太郎を偲ぶ

平成30年2月参拝(嶋田家之墓・盛雲寺)

嶋田繁太郎墓

豊島区西巣鴨 鎮座地
場所→https://goo.gl/maps/SdPVgypzZC22 …

嶋田繁太郎
1883年9月24日-1976年6月7日(92歳没) 海軍大将。
開戦時の第47代海軍大臣。第17代軍令部総長。A級戦犯として終身刑を受ける。

墓石には「昭和十七年十二月三十日 嶋田繁太郎建之」と記載がある。

昭和17年12月というと日本海軍はソロモン諸島ガダルカナルを巡る戦いで苦境に立たされていた時期。
嶋田は海軍大臣の要職にあったが、そのときに代々墓の墓石を建立は思うところがあったのだろうか…

海軍下瀬火薬製造所跡地散策(北区西ヶ原)

平成30年2月撮影

東京都北区西ヶ原及びその周辺の散策記録。

明治時代。日露戦争にて大日本帝国海軍が採用し大勝利の一因ともなった「下瀬火薬(下瀬爆薬)」の製造がこの地で行われていた。
東京都北区に僅かに残る「海軍」痕跡探しの散策をしてみます。

東京都北区にある海軍境界石

周辺の参考情報をメモしておきます。

今回は「今昔マップ on the web」さん(大正6年製図)をベースに。 http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.74723041858054&lng=139.73424168496706&zoom=15&dataset=tokyo50&age=0&map1type=roadmap&map2type=roadmap&dual=true&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2 …

現在の「西ヶ原みんなの公園」を中心とした場所が、かつての「海軍下瀬火薬製造所」。
その北西には「東京第一陸軍造兵廠」などもある場所。こちらも火薬がメイン。

「下瀬火薬」
大日本帝国海軍技師 下瀬雅允 (しもせ まさちか)が実用化したピクリン酸を成分とする爆薬(炸薬)。
明治26年(1893)下瀬雅允は下瀬火薬を完成させ下瀬火薬製造所長となる。 日清戦争(1894-1895)には間に合わなかったが、日露戦争(1904-1905)で使用され日本海軍大勝利の一因となる。

「下瀬火薬製造所」跡

現在は東京都北区「西ヶ原みんなの公園」(2010年開園)
下瀬火薬製造所(海軍爆薬部)が移転後の昭和19年に「東京外事専門学校」(東京外国語学校、のちの東京外語大学西ヶ原キャンパス)がこの地に移転。 平成12年(2000)に東京外語大学は府中に移転し、公園として再整備された。

「下瀬坂」

下瀬雅允の名を冠し、下瀬製作所の名を残す坂。

場所→
https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%B8%8B%E7%80%AC%E5%9D%82/@35.7412439,139.7355041,18z/data=!4m8!1m2!6m1!1s10Eq3VaKbm1RN8QosP52Fpi9tNlk!3m4!1s0x60188d839a3a453f:0x7595b6053c60adf7!8m2!3d35.7410061!4d139.7361964

この坂名は、明治32年(1899)、ここに設けられた「海軍下瀬火薬製造所」に由来します。戦前に製造所は舞鶴(京都府)へ移転し、跡地は東京外語大学のキャンパスとなりました(現在は移転)。このあたりは、江戸時代に幕府の御薬園があり、谷田川の水源となる湧水もありました。
平成20年3月 北区教育委員会 設置

「西ヶ原みんなの公園」から南に赴くと「染井霊園」があります。
そこに下瀬さんのお墓があるのでお参りをしてきましょう。

奇しくも下瀬火薬製造所の直ぐ近くに下瀬雅允が眠っている。
下瀬雅允墓の座標は「1種ロ2号4側」

「下瀬雅允墓」(染井霊園)

従四位勲二等工学博士下瀬雅允之墓
安政6年12月16日(1860年1月8日) – 明治44年(1911)9月6日。
享年53歳。

染井霊園には、 海軍軍人として 樺山資紀も眠っているので一緒に参拝してきた。

「樺山資紀墓」(染井霊園)

樺山資紀 海軍大将
天保8年11月2日(1837/12/9) – 大正11年(1922)2月8日。享年86歳。
警視総監(第3代)、海軍大臣(第4・5代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)などを歴任。日清戦争時の海軍軍令部長

「西ヶ原みんなの公園」に戻ってきて、公園の東側に。

住宅地に幾つか海軍の痕跡が残っていますので散策を。

前述の今昔マップ(http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.74444395470832&lng=139.73628016381838&zoom=16&dataset=tokyo50&age=0&map1type=roadmap&map2type=roadmap&dual=true&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2 …)で分かりやすく黄色線を追記。ここが海軍敷地の東の境界線の目安。2枚目の地図でいうと紫印ポイントに標石が残ってますので巡ってみましょう。

「西ヶ原みんなの公園」の東側に。
住宅地の角地にひょこんとたっている石。 摩耗しておりますが、きっと(たぶん)海軍境界石。境界石の周辺はコンクリでガードされてますね。

こちらは「西ヶ原みんなの公園」の北側。

(だいたいの場所→https://goo.gl/maps/LYHf6hqT1No …)

住宅の中に突然現れる標石
海軍標石(海軍境界石)

この境界石から奥は戦前は海軍敷地(下瀬火薬製造所)であった名残。
東京都内に「陸軍標石」は幾つか有るが、こうして沿岸部ではない都下に「海軍標石」が残っているのは珍しく感慨深い。

この路地には幾つかの標石が残ってました。
こちらは「海軍用地」と記載のある海軍標石(海軍境界石)
半分埋もれてますね。

「海軍用地」と記載のある海軍標石(海軍境界石)
戦前は「海軍用地の境界石(標石)」として、
戦後は気がつけば「北区の地籍調査」の目印として今も役に立っているようです。

「海軍用地」と記載のある海軍標石(海軍境界石)
けっこう目立ってますね。

あぁ、これは折れてしまったようです。
(折れた標石はどこに行ってしまったんだろう・・・

右側に。民家の軒先で植木が置かれている石は・・・海軍標石(海軍境界石)ですねえ。
「海軍用地」とはっきり読み取れます。

何気ない小道ですが、なかなか濃厚な海軍境界石ロード。
「海軍下瀬火薬製造所」跡地散策、坂と公園と標石から感じる散策から海軍史を堪能できました。オススメ。

鎮魂・戦艦「大和」(4月7日)

昭和20年(1945)4月7日を偲ぶ。 戦艦大和が沈没した節目の日に。

昭和20年4月7日14時23分。

大日本帝国海軍の栄光を担った戦艦「大和」。

象徴でもあった戦艦「大和」

一億総特攻の魁として、坊ノ岬沖に散華した。

感謝と哀悼を…。

第二艦隊旗艦「大和」

司令官・伊藤整一中将

第二水雷戦隊旗艦・軽巡「矢矧」 司令官・古村啓蔵少将

第四十一駆逐隊(冬月、涼月)

第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)

第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)

大和・矢矧・磯風・浜風・朝霜・霞沈没 戦死 約3700名


大和国延喜式内社・名神大社 「大和神社」

「祖霊社」(大和神社境内末社)

御例祭4月7日

戦艦大和を始めとする第二水上特攻隊に乗組み沖縄決戦に起死回天を計りし諸英霊戦没者を合わせ祀る。

戦艦大和には大和神社より艦内神社が勧請されていた。

※撮影は平成16年8月


呉海軍墓地(長迫公園)

戦艦大和戦死者之碑

昭和54年4月7日建立

合祀者 約2800柱

合掌

※撮影は平成29年3月


呉市海事歴史科学館

大和ミュージアム

※撮影は平成29年3月

大和ミュージアム

左1番目 白 46センチ九十一式徹甲弾

左2番目 赤 46センチ九十一式三式焼霰弾


大和の生まれた地 「大和のふるさと」

旧・呉海軍工廠造船船渠(大和の建造用ドック跡)

現在はドック跡は埋め立てられジャパンマリンユナイテッド社の部品組立工場として活用。屋根の骨組みは海軍工廠当時のまま残る。

※撮影は平成29年3月


噫(ああ)戦艦大和塔

昭和44年の30回目の大和進水日(8月8日)を記念して大和艦橋をかたどった塔が呉の大和ドック跡を望む丘に建立。

※撮影は平成29年3月

噫戦艦大和塔

…沖縄の危急を救うべく…大和は特攻艦隊旗艦として…再び生きて帰らぬ覚悟をもって出撃し…雄図空しく南冥の海に護国の華と散った… …日本海軍が研究を積み重ねてきた…造船技術は戦後いち早くその実力を表し「大和は沈んでもその技術は沈まなかった」と…

建塔の由来
戦艦大和は、この塔の左下方に見える造船々渠で、昭和十二年十一月 仮称第一号艦として起工、同十五年八月八日極秘裏に進水、翌十六年十二月十六日竣工、直ちに連合艦隊旗艦として太平洋戦争に歴戦、同二十年四月七日、国民の全く知らぬ内に乗員三千余名と共に九州西南海中に姿を没した空前絶後の大戦艦であった。
その頃(一九四〇年)までの海戦は、敵弾が届かない遠距離からの先制攻撃で勝敗を決しようとするいわゆる大艦巨砲時代であったが、大和の主砲は口径四六糎、長さ二〇米、その砲弾の長さ二米、重さ一・五噸、着弾距離四万二千米、ここから岩国付近まで飛ぶ世界無比の巨砲で、この大きさが大和の秘中の秘であった。
この大砲三門をならべた砲塔は、直径一三米、重量二千七百余噸もあり、これを製作したのは砲弾部で、またこの砲塔や船体の主要部を防御する四一糎乃至六五糎の厚い特殊甲鉄は製鋼部で製造された。
戦艦大和はこの砲塔三基を積むために特別に設計せられ、従って鑑は異様なまでに幅が広くなり、排水量は六万九千噸を越えたが、それでもなお、二七・五ノットの高速艇であった。
巨艦大和の建造は五万を数えた呉海軍工廠の従業員が、優秀な技術と精魂を傾け、四ヵ年余の短期間で、延べ約三百万人の力と、当時一億一千万円の巨費とをもって完成したのである。
昭和十六年十二月八日、太平洋戦争劈頭の真珠湾奇襲、続くマレー沖海戦で、飛行機魚雷が容易に大戦艦を撃沈できることを、皮肉にも日本海軍が実証して自ら大艦巨砲至上の夢を破り、やがて戦局不利を来し、敵の制空権下沖縄の危急を救うべく、航空戦力を伴わないで、大和は特攻艦艇旗艦として燃料片道再び生きて帰らぬ覚悟をもって出撃し、その持てる巨砲の猛威を発揮しようとしたが、雄図空しく南冥の海に護国の華と散ったことは誠に遺憾の極みであった。
併しながら、明治維新以来八十年間、日本海軍が研究を積み重ねて来た製鋼、機械、電機等の重工業並びに各種産業 殊に造船技術は戦後いちはやくその実力を現し、いまやわが国は造船王国として世界に雄飛するに至っている。これまことに「大和は沈んでもその技術は沈まなかった」といわれる所以である。
軍艦大和は二十世紀における世界最大最強の戦艦であって、しかも日本人の手で設計し、呉海軍工廠において呉市民の手で建造された誇り高き技術の結晶であったとの見地から、これを生んだ呉工廠の跡を一望できるここ宮原の高台に、全国大方有志諸賢の協賛を得て記念塔を建設しもって、平和を念願しつつ先人苦心の業績をたたえ、またその悲壮な最期を偲んでこれが霊を慰め、永くその栄誉を顕彰しようとするものである。後の世の人々よ、願わくば建塔の由来を諒とせられ、この塔を永久に維持保存されることを謹んで識す。
昭和四十四年八月八日 戦艦大和 第三十回進水記念日


呉海軍墓地

「大東亜戦争戦歿者之碑」

呉地方復員局長森下信衛書 (昭和22年1月25日建立)

森下信衛氏は大和特攻時には大和に乗艦し第二艦隊参謀長。 大和に殉じた最期の大和艦長・有賀幸作、そして大和を護衛した第二水雷戦隊司令官・古村啓蔵とは海兵同期。


愛知県護国神社

戦艦大和記念碑

戦艦大和乗組の英霊2,700余柱を顕彰のため、東海地区戦艦大和会が昭和42年4月7日建立。

記念碑主体は大和主砲(四六糎砲)弾の実物。 昭和60年4月7日に整備改修。

愛知県護国神社

戦艦大和記念碑
…時に昭和二十年四月七日、沖縄の北四八〇粁、想うにこの世紀の巨艦を造り得た国民の気迫と祖国の危急存亡のときにのぞみ 甘んじて死地に投じた崇高なる精神とは永くわが民族の中に脈動するであろう…

戦艦大和記念碑
碑文
戦艦大和は日本が建造した世界に誇る史上最大最強の戦艦であった
第二次世界大戦中海上作戦の中枢として活躍していたが昭和二十年に入り戦況急迫しついに連合軍が大挙して沖縄に進行して来たとき海上特別攻撃隊旗艦となり巡洋艦矢矧及駆逐艦八隻とともに徳山沖を出撃してこの敵艦隊に対し特攻不帰の悲壮なる突入作戦を決行した
進撃の途上優勢なる敵機の連続猛攻を受け優先奮闘したがわれには一機の護衛戦闘機もなく被害は累積して遂に沈没す
この時伊藤司令官有賀艦長以下乗組員弐千七百有余名は艦と運命を共にした
時に昭和二十年四月七日沖縄の北四八〇粁想うにこの世紀の巨艦を造り得た国民の気迫と祖国の危急存亡のときにのぞみ甘んじて死地に投じた崇高なる精神とは永くわが民族の中に脈動するであろう
ここに大和主砲弾を安置して光栄ある海軍を記念するとともに大和をはじめ幾多殉国の英霊に感謝の誠を捧げあわせて祖国日本の繁栄と世界平和を祈念する
昭和四十二年四月七日 東海地区 戦艦大和会


映画「男たちの大和」ロケセット

そこには、 英雄でも、 犠牲者でもなく、 3333名の、男たちがいた。
戦後60年記念作品 「男たちの大和」

※平成18年1月撮影(尾道) 撤去済み

映画「男たちの大和」

(2005年12月公開・東映)

これもまた、 往時を偲ぶべき、 大和へのレクイエム…


この世界の片隅に

(2016年公開映画)

なんですか?フネ…ですか?

「大和」…じゃ  東洋一の軍港で生まれた世界一の軍艦じゃ

はぁ、あれにも人が乗っとるの?

ああ、ざっと2700人

にせん…ななひゃくにん? そうじゃ、呉へお帰り言うたってくれ、すずさん


かみちゅ!

第9話「時の河を越えて」

2005年放送・TVアニメ

「二宮くんがなついている大工の源さんは、かつて第二次世界大戦の時、あの戦艦・大和に乗っていたことがある人物だった。源さんからそんな話を聞いてすぐ、三つ輪丸という船の幽霊が一橋ゆりえのもとへとやってくる。彼は大和の沈んだ場所に同様に住む船で、大和の帰還を叶えてあげたくて、わざわざゆりえの下までお願いに来たのだった・・・」


入船山記念館(呉市)

ボランティアのおじさんが面白い話を。

「戦艦大和の大きさを体感してみませんか?」「え?」

入船山記念館と病院のある端から、突き当りまでが約263m。
これが戦艦「大和」の全長と同じ。
なんと、目の前の道路で大和の長さが体感できる!


矢矧・佐世保海軍墓地

軍艦矢矧戦没者慰霊碑 

(昭和44年4月13日建立)

艦と運命をともにした内野副長以下446名及び他海戦の戦死者などを含む486柱の英霊を祀る。
昭和20年4月7日、大和護衛の第二水雷戦隊旗艦として活躍し大和とともに轟沈。

※画像は公式サイト様(tvs12.jp/~s-kaigunbochi…)より


浜風・呉海軍墓地

「駆逐艦浜風戦歿者慰霊碑」

陽炎型13番艦「浜風」(濱風)

第17駆逐隊に所属した姉妹艦と主要な海戦に参加。戦艦武蔵・金剛・空母蒼龍・飛鷹・信濃といった帝国海軍主力艦の沈没に立ち会い救助活動に従事。
最後は昭和20年4月7日の坊ノ岬沖海戦で戦艦大和と共に撃沈。


初霜・佐世保海軍墓地

駆逐艦初霜慰霊碑

(昭和58年10月8日建立)

戦没者26名を祀る。初春型駆逐艦4番艦。初霜最後の艦長酒匂雅三少佐謹書。
大和の沖縄特攻に直衛艦として参加するも奇跡的に損傷を受けず佐世保に帰還。
昭和20年7月30日宮津港において対空戦闘回避中に機雷触雷し大破着底し終戦を迎えた。

駆逐艦 初霜の錨

第十七駆逐隊・呉海軍墓地

第十七駆逐隊之碑

谷風・浦風・浜風・磯風・雪風・初霜

碑文
第十七駆逐隊の戦歴 我が第十七駆逐隊は谷風浦風浜風磯風雪風初霜の六艦を以って編成され大東亜戦争を戦ったが昭和十九年六月九日北ボルネオ沖にて谷風を失い浦風は昭和一九年十一月二十一日台湾海峡にて沈没。
浜風・磯風は昭和20年4月7日沖縄洋上にて沈没。初霜は同年7月宮津湾で破損し憾みを千載に残した。雪風は最期まで艦が保全され終戦後は復員船として活躍した。
当駆逐艦隊は日本海軍の誇る精鋭の甲型駆逐艦でさきの大戦において祖国日本の防衛に任じ数々の武勲をたてたが総員六百五十五柱の戦没者をみた誠に痛恨の極みである。茲に第十七駆逐艦の栄光を後世に伝え且つは祖国の安泰と英霊の安からんことを祈念して同志相寄り謹んでこの碑を建立する。
昭和57年3月21日


涼月/冬月・佐世保海軍墓地

駆逐艦涼月・冬月・柳慰霊碑の案内標

上記3艦は北九州市若松区の高塔山に鎮座。その案内標が佐世保海軍墓地にある。涼月・冬月は大和特攻作戦に参加し2艦ともに佐世保に帰還。(涼月は大破後進帰還)
尚、涼月・冬月・柳は「軍艦堤防」として北九州の地で防波堤になっている。


軍艦防波堤

秋月型防空駆逐艦3番艦「涼月」8番艦「冬月」

桃型駆逐艦4番艦「柳」(初代)

この3艦は今も「軍艦防波堤」として北九州市若松港の防波堤として国土を護っている・・・

場所→goo.gl/maps/QWMGDqkgT…

いつかは訪れたい場所のひとつです・・・


旧・呉海軍工廠造船船渠 (大和の建造用ドック跡)

大日本帝国海軍・大和型戦艦1番艦「大和」
その史上最大の戦艦「大和」が生まれた呉の海では、 帝国海軍の伝統を墨守する海上自衛隊の護衛艦が停泊していた…

※撮影は平成29年3月


葬送の詩を奉じ大和を偲ぶ。

ありがとうございました…

「海行かば」

海行かば 水漬く屍

山行かば 草生す屍

大君の 辺にこそ死なめ

かへり見はせじ

(最後の写真出典)朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/topics/word/%E6%88%A6%E8%89%A6%E5%A4%A7%E5%92%8C.html …


掲載した写真

広島県呉市

 呉海軍墓地(長迫公園)

 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)

 大和ドック跡

 噫戦艦大和塔

広島県尾道市

 男たちの大和(展示終了)

奈良県天理市

 大和神社境内末社「祖霊社」

愛知県名古屋市

 愛知県護国神社「戦艦大和記念碑」


戦艦「大和」史跡関連で、まだ行ったことがなく将来の課題

鹿児島県徳之島の「犬田布岬(いぬたぶみさき)」

   戦艦大和慰霊塔

鹿児島県枕崎市の「平和祈念展望台(火之神公園内)」

 戦艦大和殉難鎮魂之碑


戦艦大和に関連する事柄を随時追記していきます・・・

「風船爆弾打ち上げの大津基地」と「震洋の平潟訓練基地」(北茨城)

平成29年8月撮影

茨城県北茨城市に点在する「震洋基地跡」と「風船爆弾放球台跡」。
あわせて平潟港と大津港の鎮守様も。

平成29年8月13日。
常磐線にて大津港駅へ。 茨城県最北端の地・北茨城市で、ちょっとした戦争関連の史跡とあわせて平潟港・大津港の鎮守神社2社を散策して参りました。

風船爆弾放球台

大津港

午前9時20分。大津港駅到着。1時間に1本クラスだと接続も悩ましいですね。 当地は観光地的には「岡倉天心」と「六角堂」などが有名。

大津港駅

大津港駅は平成25年リニューアルし「六角堂」を模すデザインに。(六角堂は東日本大震災の津波直撃で土台のみをのこして消失。その後平成24年に再建) 駅は平成27年3月ダイヤ改正で特急通過駅に。翌年には駅前にあった大津港駅前観光案内所(&レンタサイクル)も撤退。

つまりレンタサイクルはない。バスもない。

歩くしか無いわけです。
(財力があればタクシーという選択肢もありますが…)

駅前の観光案内図を見ればちゃんと「風船爆弾打上跡地」と記載ありますね。 目的地が記載してあって安心。

ざっくり30分くらい歩けばいいのかな。

大津港駅前

のっけから駅前にあるレンガ造り建物に吸い寄せられてしまい。
なんですか、この美しい造形は。
大正元年(1912)に造られた大津港駅で貨物業務を請け負っていた倉庫らしく。
※2016年に大津港駅前から撤退した観光案内所はここにありました。

平潟港へ歩いていると道標を見つけました。
「記念御成婚」とあります。
昭和天皇(大正当時は摂政)の御成婚ですね。
大正13年8月30日建立。 現在の陸前浜街道から関本駅(大津港駅)・平潟町・大津町への道しるべ。

ずいぶん遠くに来たような気がします。
「仙台」とか「いわき」とか書いてあります。
どうしてこんなところを歩いているんだろ、と我に返ってはダメです。
無心で歩いていたら平潟の集落を通り抜けてしまい。
よき港町だったのに写真に納めるのを忘れてしまいました。

平潟港

茨城観光百選「平潟港」 昭和60年に「つくば科学万博」関連事業で制定。 鮟鱇像(あんこう) 東北地方太平洋沖地震で被災した北茨城市。 このモニュメントは北茨城市の魚であるアンコウをシンボルとし被災地の安寧と明るい未来に向けた復興に願いを込め建立。

湾内を一望する。
むかって北西側に小高い丘、南東側にもちょこっと小高い丘。
南東の島のような丘が震洋基地跡という。(のちほど)
小さいけれども良い港。

北側の高台に穴が覗いていたり、神社が鎮座していたり。
やはり気になりますね。まずは神社に行ってみましょう。

|-`).。oO(真似する人がいるかどうか知りませんが参考情報。

ちなみに大津港駅から平潟港までは徒歩25分でした。
この日は港に着いたら雨が降ってきまして・・・

平潟八幡神社

平潟港を見下ろす平潟町の鎮守様
平潟港は仙台江戸間で唯一の自然港として仙台藩によって整備され河村瑞賢により築港(行政は棚倉藩)
八幡神社は寛和元年(985)に鎌倉より分霊し鎮座
現在地には延宝9年(1681)に遷座
嘉永6年(1853)棚倉藩により再建という

社頭の狛犬は昭和2年4月。ブロンズ製の狛犬。なかなか格好良い。

後述しますがこの平潟港には戦中に海軍特攻艇「震洋」訓練基地として平潟基地が展開されていた。
往時の震洋隊員たちも、きっと平潟港鎮守たる八幡様に武運長久を祈ってお参りし狛犬達が出迎えた事でしょう…

この神社、何やら凄い。
港から約50メートル高い台の崖の上に鎮座。
社殿後方の崖に幾つか穴が掘られており・・・

御社殿後方に「虎像」が奉納されておりました。
恵比寿様やら稲荷様なども鎮座しておりました。

境内から更に一段と高い崖の上にお社が鎮座。
奥社のような佇まい 。

境内から更に一段と高い崖の上にお社が鎮座。
予備知識無しでの参拝でしたが、予想以上の空間に驚きました。
山道が更に奥に続いているようでしたので、その気になればもっと探索できそうでしたがこれ以上は自粛。

神社境内から平潟湾を見下ろす。

対岸の小島のようにポッコリとした丘が、海軍特殊攻撃艇「震洋」が秘匿された平潟基地跡という。
灰色の蓋はされているが、確かに幾つかの穴が遠望でも確認できる。

忠魂碑
元帥子爵川村景明書
大正10年10月建立

川村景明は元帥陸軍大将。日露戦争時は鴨緑江軍司令官として明治38年に奉天会戦に参戦。
平潟町の犠牲者を慰霊。
川村が帝国在郷軍人会会長在任中に書に応じたものと思われる。

ご神木スギ
推定樹齢約300年

このあたり平潟八幡神社の鎮座している丘の先は「鵜ノ子岬」と呼ばれているそうで。

この岬の北側は「福島県」。まさに関東と東北の境目。
穴が開いていました。(近寄れず)

平潟港はアンコウ鍋の発祥の地とされていて時間があればゆっくりしたかったのですが(ムリでした…

震洋・海軍平潟訓練基地跡

平潟港には海軍特殊攻撃艇「震洋」の訓練基地が展開されていた。
昭和20年6月25日に小名浜基地に編成された141震洋隊が翌月下旬頃に平潟訓練基地に移動。搭乗員50名を含む173名であったという。
当部隊は出撃はせずに終戦を迎え9月20日に解隊。

※靖國神社遊就館大ホールには復元された震洋が奉納されている。

震洋は船首内に250キロ炸薬を搭載し敵艦への体当たり攻撃を目的とした特攻艇 各型合せて6200隻が量産され4000隻が配備。震洋隊戦没者は2500余名という
原寸模型は震洋一型
1/10模型は震洋五型

幸いにして平潟港で訓練を重ねていた震洋隊は出撃せずに終戦を迎えた。

が、終戦の翌日に1隊員が猛スピードで震洋を乗り回し沈没したという逸話が残っている。(※「フィールドワーク茨城県の戦争遺跡」による)

静かに往時を偲びしとき…

東日本大震災記録碑

2011年3月11日14時46分
北茨城市でも震度6弱を記録し15時31分に到達した津波は最大6.7mを記録。 死者5名、行方不明1名の尊き命を奪い、全壊半壊家屋は2400戸を越したという。

この場所は幾多の歴史が重なりし場所であった…合掌


風船爆弾放球台跡( 北茨城大津)

平潟港から南に歩むこと25分ほど。五浦海岸にアクセスする県道354号線の脇に不思議な空間(円形の何か)があるのが地図上でもわかります。
これが「いわゆる風船爆弾」を放球した台座の跡。

https://goo.gl/maps/66XpvazGJsmQ3qiR8

「風船爆弾放流大津基地」跡

夏場なので草が心配でしたが放球台座跡は整地されており見学は容易でした。 (助かりました)
直径約16m円形のコンクリート台座が残っておりました。

放球台座の円周縁に設けられている2箇所の四角い台座は気球を飛ばすための水素を充填する水素ボンベを設置した跡とされている。

「風船爆弾」は戦後の俗称。
往時は「気球爆弾」と呼称されており秘匿名称は「ふ号兵器」

第二次世界大戦で使用された兵器としての到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器でもある。

昭和19年11月に「ふ号兵器」として実用化。ジェット気流を利用し気球に爆弾を乗せ日本本土から米本土空襲を行うもので、茨城県大津(最大規模→18基の放球台があった)・千葉県一宮・福島県勿来の基地から19年11月から20年春までの間に約9300発が放球されたという。

9300発のうち米本土に到達したのは約300~1000程度(資料にブレあり)。 被害としては1945年5月5日オレゴン州で風船爆弾不発弾に触れた民間人6人が爆死。あとは小規模の山火事など。 風船爆弾による心理的効果は大きく米国内では箝口令が引かれていた。

風船爆弾を開発した登戸研究所

大津の北にある勿来の放球基地跡

一宮の放球基地跡


風船爆弾犠牲者鎮魂碑

「風船爆弾放球台」の向かい側にひっそりと鎮魂碑が建立されている。

昭和19年11月3日「明治節」に大津基地で最初の風船爆弾放球を行う際に誤爆事故が発生。3人が犠牲となり、のちに鎮魂碑が建立された。 この誤爆事故により放球は11月7日に延期。

風船爆弾放流地跡「わすれじ 平和の碑」

新しい誓い
海のかなた 大空のかなたへ 消えて行った 青い気球よ
あれは幻か 今はもう 呪いと殺意の 武器はいらない
青い気球よさようなら さようなら戦争
鈴木俊平作・書

場所→https://goo.gl/maps/KUdRHetRF1x …

風船爆弾放流地跡

この辺一帯は、昭和19年11月から昭和20年4月の間、アメリカ本土に向けて風船爆弾を放流させた地です。…大本営直属の部隊本部はこの地にあり、作戦の中心でした。…永遠の歴史の片隅で人目を忍び、いぶし銀のようにささやかに光る夢の跡です。昭和59年11月25日建之

五浦海岸ジオサイト
海を渡ってアメリカへ…戦争の記憶を将来へ伝える地

青い青い海を見ながら、
歴史の一幕に感じつつ、
往時を偲ぶ…

放球台跡から山道に入った所に「水素ガス製造の為にケイ素鉄を粉砕した工場跡」遺構があるというが
うん、夏場に探索はムリです…
一宮基地・勿来基地では水素供給工場が被災し途中で作戦遂行不可になる中で大津基地のみは工場は無事で最後まで作戦が遂行されたという

山道を踏破はしました、なんとか。

白丸が風船爆弾放球台跡。
赤丸が風船爆弾放流地跡石碑。
青丸が水素生成ケイ素鉄粉砕工場跡推定(夏はムリw

のどかでした。
水田の緑が眩しい。黄金色に輝くときが楽しみです。
今日の安寧に感謝する。

さて、ここで駅に向かうか寄り道をするかの二択を迷う。
散策を開始して約8キロ2時間半経過。
電車は1時間に1本。寄り道すれば次は13時18分。

うん、寄り道してみるか

ここからは寄り道。戦跡とは離れます。
大津港に鎮座している「佐波波地祇神社」を目指します。
常陸国延喜式内論社
この前述の場所からは歩いて30分位かかりそうです… https://goo.gl/maps/ZJeZJBz93h12 …

道途中に「おおっ??」と反応してしまいました。
「聖徳太子碑」 大津平潟桶師組合・大正4年建立
「即位紀念」とありますが、 どうして「聖徳太子」と刻んだのか。
それも「桶師組合」が。
謎です。
場所→https://goo.gl/maps/xezpWnmm2Bo …

佐波波地祇神社

大津港駅からは徒歩約40分の道のり。現実的に歩いて行く距離ではないのですが、戦跡巡りで歩き続けていた私には誤差になっていたようで。無駄にテンション上げて歩いておりました。
場所→https://goo.gl/maps/yoKw6u77aTP2 …

さすがにもう石段はつらいですね。
やっとの思いで登ると、海が見えました。

大津の港。
地図で見るとわかるとおり阿字ヶ浦から小名浜にかけての海岸線でちょこっと突き出た五浦の北の平潟港と南の大津港は良港であったことがわかる。 高台に鎮座した大津港の鎮守様。

延喜式内社の古社。常陸國二十八座多珂郡一座小「佐波波地祇社」
古くは佐波波神また六所明神と尊称。
元禄年間に西山公(徳川光圀公)が神徳を景仰して大宮大明神と尊称。
鎮座の丘は「唐帰山」(からかいさん)と称され航海の目標となっている。

御本殿は享保12年(1727)造営とされている。
海上守護の神として崇敬されており、御社殿の脇には「錨」が多く奉納されていることからも崇敬の篤さが伝わってくる。

航海故事としては東征時の日本武尊や水戸光圀公の逸話も残っている。

「唐帰山の御神水」
鎮座地の台地は宮平と呼称され唐帰山は海抜55m。
この井戸は享保年間以前に掘られており爾来300年以上に渡り地下30mの水脈より枯れることなく汲み上げている。
わざわざ歩いて登ってきただけある良き佇まいの古社でした。

帰路。
あとはもう駅への道を真っ直ぐに。
なにげない橋だけど「昭和9年2月竣工」
場所→https://goo.gl/maps/A5R6pyNK3tz …
歴史重ねし建造物が、今も何食わぬ顔してこうして縁の下を支えていると思うと感慨深いものがあります。

この日の行程。
午前9時20分に大津港駅に到着。
平潟港には午前9時50分着。
平潟港の散策を約1時間行ない10時45分に南下開始して風船爆弾放球台跡には11時10分到着。大津港を経由して駅に戻ってきたのは13時10分。
約13キロ約4時間所要の散策でした。

海軍工作学校と海軍通信学校(久里浜)

平成31年3月(通信学校・久里浜駐屯地)及び平成30年5月(工作学校関連)撮影

海軍通信学校庁舎(昭和14年)

「海軍工作神社」

久里浜八幡神社
境内社「海軍工作神社」
昭和16年4月に久里浜にて開校した、海軍の工作術教育を行う海軍術科学校「海軍工作学校」校内に祀られた神社を発祥とし、戦後に海軍工作学校戦没者慰霊として久里浜八幡神社境内に遷座したという。 社号標は「平成7年8月吉日建立・・・」と銘記あり。

「久里浜八幡神社」を参拝。
境内地からは弥生式土器も出土しており、周辺には古墳も点在。 当社の創建は養老4年(720)という。


「海軍工作学校跡」碑

海軍少将 美原泰三 謹書(終戦時の海軍工作学校長)
久里浜公園

海軍工作学校は工作術専門の教育機関として昭和16年4月開校。(それまでは工機学校が工作術を兼務)特殊潜航艇「海龍」は海軍工作学校の研究開発であった。 海軍工作学校卒業者のうち戦死者は5千余人という。

海軍工作学校跡碑
建設之趣旨
 昭和十六年此の地に創設された海軍工作学校は、従来工機学校の一分科であった工作科が始めて独自の教育機関を持った画期的なもので、その後更に沼津分校の設立に拠て発展して行ったのであります。其の間、数万の学生、練習生に工業技術(金工、木工、潜水)教育を施し大きな成果を挙げました。
 此の学校を卒業した若者或は職員として深いゆかりのあった、工作科関係の多数の人達が太平洋戦争に殉じ尊い生命を捧げ、北海の果て又は南冥の戦場に散華されましたことは誠に痛恨に耐えません。戦後復員した者達は、本校等で習得した技術と旺盛な精神力を夫々の分野に於て発揮し祖国復興に大きな役割を果し、平和日本建設の原動力となったものと確信致します。
 今此の母校跡に記念の碑を建設し、謹んで海軍工作科関係戦没英霊の御冥福を御祈りするとともに此の地を訪れる卒業生、遺族並びに関係の皆様が当時を偲ぶよすがとし、永くその業績を称えたいと念願するものであります。
昭和五十二年三月 発起人一同 (碑文引用ここまで)

旧海軍工作学校戦没者慰霊祭
http://kurihama.info/event/kousakugakkou_ireisai/

当地は毎年5月22日13時に久里浜八幡神社より神職が出向し、神式にて慰霊祭が斎行されているという。 すでに遺族会は数年前に解散しており現在は久里浜観光協会が主導・・・


久里浜には海軍工作学校のほかにも、海軍通信学校(現在の久里浜駐屯地)や海軍機雷学校(のち海軍対潜学校)があった。海軍対潜学校は現在の「横須賀刑務支所・久里浜少年院」の近く。ちなみに最後の対潜学校長は木村昌福 少将。そこにも跡地の石碑がある。

久里浜駅近くの長安寺に慰霊碑があるというので立ち寄ってみました。

「浦賀引揚援護局引揚者精霊塔」

昭和22年1月 
浦賀引揚援護局建立 引揚船コレラ病没者(身元不明者)を祀っているという。
(神奈川県忠魂碑等建立調査集・参考)
合掌を…

同じく、久里浜の長安寺にある「祠」


「通校神社(海軍通信学校神社)」

海軍通信学校庁舎前に鎮座していた「通校神社」。
「通校神社」 は終戦後に長安寺に遷座されている。

久里浜駐屯地 歴史館にて

「海軍通信学校」跡

現在の陸上自衛隊久里浜駐屯地

日本海軍においては、明治36年(1903)に海軍水雷学校に於いて無線電信術練習生として無線通信要員の育成がはじまり、昭和5年(1930)に海軍通信学校が独立するに至っている。
昭和14年(1939)11月に通信学校は 久里浜に移転。昭和18年には通信科要員の需要が増し、海軍防府通信学校が併設され、従来の通信学校は「海軍横須賀通信学校」と改称。

碑は志摩清英(通信学校長・海軍中将) 謹書

平成31年3月の久里浜駐屯地「桜まつり」で敷地内見学。「海軍通信学校跡」の碑は立入禁止エリアでしたので許可を得て望遠撮影。

立入禁止エリアが多くて・・・

海軍通信学校庁舎(現在の本館)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」は閉校後は復員局を経て米軍が接収。
戦後、昭和25年に「警察予備隊」が発足すると久里浜部隊が開設され、その後は「保安隊」の通信学校となる。
昭和29年に陸上自衛隊が設立すると、当地は「陸上自衛隊通信学校」が開設。陸上自衛隊として最も古い駐屯地であり、旧海軍通信学校庁舎をそのまま使用している。


海軍通信学校兵舎
(第一兵舎・第二兵舎)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」
おそらく本庁舎と第一兵舎・第二兵舎は開校当初同じ時期に建設されたものと推測。

海軍通信学校以来の建物は「1」「2」「3」と棟番号が振られている。

海軍通信学校・海軍栓

陸上自衛隊久里浜駐屯地内

歴史館前に
歴史館前に
第一、第二兵舎の間に
第一、第二兵舎の間に

海軍通信学校・車庫

陸自時代の現在も同じく車庫として使用されている。


久里浜駐屯地内の記念碑

甲種飛行予科練習生 電信術錬成之地
昭和62年4月吉日建立
保安隊記念碑 昭和29年
保安隊駐屯記念碑 昭和28年
保安大学校開校之地(防衛大学校創設の記念碑)
平成31年3月吉日建立

久里浜駐屯地「歴史館」

海軍甲種飛行予科練習生の電信術錬成之碑建立記念
帝国海軍 精神注入棒
海軍通信学校時代の軍艦旗掲揚に使用された竿
海軍通信学校校歌
山下奉文ゆかりの書

山下奉文閣下から陸軍少年通信学校長に就任された高木正実大佐に宛てて書かれたもの。

観桜

もともと「桜まつり」でしたね。観桜も。

非常に空いていた久里浜駐屯地。午前9時から2時間ほど滞在。

ちょうどこの日は米軍のフレンドシップデーとも被っていたというのもあるのかな。私は、このあとは横須賀走水方面に赴きました・・・

「忠魂祠堂」と「軍艦比叡鎮魂碑」

平成30年8月撮影・横須賀・光心寺

「忠魂祠堂」

明治33年10月28日に創建。
昭和12年2月6日に再建。
建立は横須賀鎮守府。


明治二十七八年戦役(日清戦争)、明治三十七八年戦役(日露戦争)、満洲・支那事変、大東亜戦争戦死病没者を祀る御堂。

「忠魂祠堂」光政謹書
扁額は米内光政によるもの
再建時(昭和12年)の海軍大臣

横須賀・光心寺
忠魂祠堂の手前に

「軍艦比叡鎮魂碑」


昭和57年5月吉日、比叡会及び遺族外有志一同建立
軍艦比叡戦死者188柱を祀る

「軍艦比叡戦没者供養塔」五輪塔
昭和61年4月19日 軍艦比叡会建立

軍艦比叡艦歴  
 比叡は大正三年八月巡洋戦艦として横須賀海軍工廠で完成し横須賀在籍の新鋭艦として活躍した。
 昭和五年軍縮会議の結果練習戦艦となりその兵装機関の一部を撤去し第一線を退いたがその間にも昭和八年の特別大演習、同十年の南九州行幸及び翌十一年の特別大演習の三回にわたり大元帥陛下の御召艦としての栄に浴した。 
 昭和十二年「アーマー」の取付け、「バルジー」の新装備、前檣楼の改装射撃盤の近代化等の再改装が呉工廠で行われ同十五年初めに最新鋭の高速戦艦として第一線に復帰した。同年秋横浜沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式には重ねて御召艦となった。
 昭和十五、六年には高松宮宣仁親王殿下がその砲術長として勤務された。
 昭和十六年十二月大東亜戦争が勃発すると、比叡は新編成の第一航空艦隊の支援部隊として「ハワイ」、印度洋「ミッドウエー」等の海戦に参加し大いに武威を輝かした。 昭和十七年後半南東方面の戦局が急を告げるや 同方面に再び作戦し、第二次「ソロモン」南太平洋海戦に参加した。同年十一月十二日深夜「ガダルカナル」島敵飛行場砲撃の任を帯びた特別挺身攻撃隊(戦艦霧島、軽巡一隻、駆逐艦十二隻)の旗艦として目的地に突入したとき、予期しない敵重巡部隊と遭遇し激しく交戦した。比叡の放った主砲の初弾で敵重巡部隊の旗艦「サンフランシスコ」の艦橋を吹き飛ばしよく敵の大部を倒したが、比叡も亦百発以上の被弾を受けその一発が不運にも舵取機に命中し航行不能に陥った。十三日早朝から敵機の反復攻撃を受け単艦よく奮戦したが日没におよび阿部司令官の命により、乗員を駆逐艦に移乗し、自ら「キングストンバルブ」を開いたがなお沈まず、最後に駆逐艦雪風の雷撃で止めの一撃を加えざるを得なかった。英霊百八十八柱は艦と運命を共にした。
( 「軍艦比叡鎮魂碑」碑裏面の引用は以上 )

軍艦比叡戦没者供養塔趣旨
軍艦比叡は昭和十六年十二月(一九四一年)今次大東亜戦争開戦と同時に第一航空艦隊支援艦隊としてハワイ 印度洋 南太平洋及びミッドウエー海戦等に参加し輝かしい武勲を樹てた。昭和十七年後半戦局は極度の急を告げ南太平洋海戦特に第三次ソロモン海戦に参加
「ガダルカナル島」の敵飛行場の撃破粉砕の任を帯び特別挺身攻撃隊の旗艦として同泊地に突入したが期せずして十一月十二日敵重巡部隊と遭遇暗夜の混戦となり比叡の主砲及び各砲は一斉に敵艦船に対し火蓋を切り精錬された砲員の的確で痛烈な斉射は敵重巡部隊を撃滅した。比叡もまた敵の好目標となり昭和十七年十一月十二日夜から十三日に亘る敵の激しい砲雷爆撃により露天甲板以上の戦闘員多数は肉を裂かれ骨を砕かれこの鮮血に埋もれた伏屍が累々と激戦の惨状を呈した。この海戦で実に一八八柱に及ぶ犠牲者は比叡と共に同十三日夕刻南海の果てにその姿を没した。
戦死された尊い犠牲者の魂は戦後日本の復興と悠久の平和世界に誇る経済の発展に繋がる原動力となっていることは正に戦没者の遺産で日本人の心の奥に今も脈々と生き続けており軍艦比叡会はこの栄光の軍艦比叡と英霊の遺徳を後世に残すべくさきに軍艦比叡鎮魂碑を建立したが更に茲に有志相集い永代の供養を捧げる赤心を結集して軍艦比叡戦没者供養塔を建立して英霊の安らぎを念願するものである。 (「軍艦比叡戦没者供養塔」塔側面 趣旨引用は以上)

横須賀・光心寺
「忠魂祠堂」の裏山には防空壕跡もありました。
今回は友人車で参拝させていただきましたが、最寄り駅はJR衣笠駅より徒歩5分ほどの地に鎮座。 清廉な寺院空間となりますので失礼のないように参拝を。

駆逐艦「峯雲慰霊碑」

平成30年8月撮影

横須賀・満昌寺
「駆逐艦峯雲慰霊碑」

駆逐艦 峯雲
大東亜戦争に於て
祖国のためと信じ
純粋な心で戦い
多くの若い命を捧げて
平和の願いをこめた思を
慰霊碑に永く残す。

平成七年三月五日
駆逐艦峯雲戦友会代表世話人 名生 正孝 建

昭和十三年四月三十日
大阪藤永田造船所に於て竣工
第四十一駆逐隊編成第三予備艦
(略)
昭和十六年十二月八日
大東亜戦争参加
(略)
昭和十八年三月五日
ソロモン群島コロンバンガラ島クラ湾夜戦に於て敵巡洋戦隊巡洋艦三隻駆逐艦三隻と交戦 轟沈 戦死者二百八名

横須賀・満昌寺 (臨済宗建長寺派 義明山満昌寺)

「駆逐艦 峯雲 慰霊碑」は墓苑の片隅の一番高い場所に鎮座。
三浦義明を追善するために創建と伝承され、源頼朝とゆかり深き寺院。