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中島飛行機地下工場跡・地下疎開の藪塚工場跡(太田の戦跡散策3)

「日本の飛行機王」
東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平。
太田市内には、中島知久平と中島飛行機に関連する史跡が点在しているので足を運んでみました。

本編は、その3です。

現在の八王子霊園と太田双葉カントリークラブのあるエリアには、広大な地下軍需工場があった


旧中島飛行機地下工場跡

昭和20年(1945年)、中島飛行機太田製作所は度重なる空襲で壊滅しており、太田製作所の分散工場の一つとして藪塚工場が疎開工場として掘られたが未完成にて終戦となった。

旧中島飛行機地下工場跡
  所在地 太田市大字西長岡地内
 このトンネルは、太平洋戦争の最中、昭和20年(1945年)に中島飛行機太田製作所の分散工場の一つ(藪塚工場)として掘られたものですが、完成を待たずに終戦を迎えました。(注1)
 終戦後、米国戦略爆撃調査団による調査が行われましたが、調査に訪れた日(1945年11月13日)には、すでに全ての入り口で崩落が始まっており、かろうじて崩れ落ちた土砂ごしに、地下道の中を覗くことができたといいます。
 この地下工場の掘削は、昭和20年1月から始まり、1500人(注2)が十時間交替で働いたといわれます。4月末からは、中国から強制的に連行され、それまで長野県木曽谷の発電所建設工事現場で強制労働させられていた280人の中国人も動員されましたが、過酷な労働と栄養失調のために、昭和20年5月から終戦後の11月までの七ヶ月間に、50人の中国人が無残な死を遂げました。
 昭和20年11月1日には、死亡者の慰霊祭が行われ、木曽谷から捧持してきていた遺骨も一緒に長岡寺の墓地に埋葬され、小さな石碑が建てられました。石碑には85名の殉難烈士の氏名と、帰国することが出来た中国人の追悼の言葉が刻まれています。また、昭和28年(1953)8月には遺骨の発掘慰霊祭が行われ、遺骨は中国へ奉送されました。この遺骨は、天津市にある抗日殉難烈士の墓に収められています。
 この説明板は、昭和47年(1972)に、日中友好協会群馬県連合会の手によって立てられた「トンネルの由来」を記した説明板が老朽化したため、戦後50周年を記念し、平和への願いをこめて、立て替えられたものです。
 (この説明板の文章は、「米国戦略爆撃調査団報告書」(太田市史 資料編 近現代)及び日中友好協会群馬県連合会発行の「トンネルは訴える」を参考に作成しました。)

(注1)
終戦の時点で、幅13フィート(約4m)、高さ11フィート(約3.4m)の地下道30本が掘りぬかれ、木材の支柱が立てられていたといいます。これは、計画されていた範囲の1/2に相当します。
(注2)
この数字は、米国戦略爆撃調査団の報告によるものです。他の資料によると、280人の中国人のほか、2000人を越える朝鮮人や数百人の日本人も工事に携わっており、あわせると3000人以上にもなります。
 平成8年(1996)3月31日
  太田市教育委員会

かなり広大な地下工場

イノシシよけの柵があったが、施錠は無し。

開口部からは、大量の水が流れ出ている。
立入禁止の札があるので、望遠で観察。

柵が設けられている。

近くにはイノシシの捕獲罠があった。

地下工場の方向。

場所

https://maps.app.goo.gl/onkpjWbN75hJzfbY6


強戸地区忠霊塔

強戸地区の戦没者慰霊碑。平成7年8月15日建立。

忠霊塔

強戸地区戦没者鎮魂之碑

強戸地区忠霊塔
 今より127年前、戊辰戦争(1867)に始まる明治維新の富国強兵論は、皇軍として国軍を組織し、国民皆兵、徴兵令により強化され、以来、西南の役(1877)の内戦より、力を海外に向け日清(1894‐5)日露(1904‐5)第一次世界大戦(1914)シベリア(1919)満洲(1931)日中(1937‐8)事変より世界の大国を相手として第二次世界大戦(1941‐5)にと限りなく拡大し内外共に甚大な犠牲を出し、遂に昭和20年8月15日無条件降伏し終戦となった。
 新田郡強戸村では昭和18年に強戸村国民学校(現小学校)校庭西方の小丘に忠霊塔を建立し、全ての英霊の遺骨を分骨し村葬にて丁重に祭った。その数220柱(人)なり。
 然し昭和23年連合軍(GHQ)司令により、国旗国歌と共に校内設置を禁じられたため、同年10月大字寺井639番地聖王寺境内に移転され、以来強戸地区遺族会と聖王寺により守護され、又婦人会では春秋彼岸に清掃慰霊を続けてきた。その間半世紀、当時の基礎工事も悪く、白樹の陰下で、地盤沈下により塔も傾き強戸保育園庭との共有地の為、事故等危惧されていたところである。
折しも今年が、終戦50周年に当りこれを記念し、戦没者追悼と、戦争の悲劇を二度と繰り返すことなき様、心をこめて後世に伝え「平和の塔」として残すべく地区内で運動が展開され、地区挙げての移転改築事業となり、実行委員会の設立、太田市当局の協力、区民自主活動による募金等すべて順調に進行し、総予算800有余万円、建設用地もここ太田市西長岡んの八王子山公園内厩寮景勝地に設置されることに決定し、ここに完成を見るに至った。
 本事業計画以来2ヶ年以上、その間遺族会を中心に「英霊にこたえる会」「軍恩連盟」「傷痍軍人会」「区長会」をはじめ、社会教育ボランティア団体等から寄せられた厚いご協力に対し、甚大なる感謝を捧げたい。
 本工事は本年早々より着工され、前塔解体後は、碑中心の「忠霊塔」の銘板は当時の物を利用し、他の石材等は外装や敷石等は全て活用し、前塔内に安置されていた各柱(人)の骨壺は合体し、本塔下部に安置埋葬した。
 本日ここに忠霊塔の移転改築の完成と強戸地区挙げての追悼並びに平和祈念式に当り、不幸なる戦争の悲劇を肌で知っている人達がこの事業を起こし、戦争を知らない人達に現在の豊かなる日本国の礎となり、若い生命を捧げた「みたま」に感謝を忘れてはならないことを銘記して、後世に伝えるものとする。 合掌
 維時平成7年8月15日樹之
 強戸地区忠霊塔移転改築実行委員会
  (個人名略)

場所

https://maps.app.goo.gl/EJijSDNn49taZb7W7

※撮影:2024年1月

その4に続く。


中島飛行機関連

はじめに

中島知久平と呑龍(太田の戦跡散策2・金山城址と呑龍工場、太田大空襲)

「日本の飛行機王」
東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平。
その出生の地・群馬県新田郡尾島町には、中島知久平の立像と旧宅、墓がある。
同じ太田市内には、中島飛行機のDNAを受け継ぐSUBARU(富士重工)工場もあり、そして、太田市の中心部にそびえる金山(太田金山)の金山城址に中島知久平胸像があった。

本編は、その2です。


中島知久平

中島 知久平(なかじま ちくへい)
明治17年(1884年)1月11日 – 昭和24年(1949年)10月29日)65歳没。
海軍軍人(海軍大尉)、のち実業家・政治家。
中島飛行機(のちの富士重工業・SUBARU)創始者。

多くは、下記に記載。


中島知久平先生像(金山城址)

中島知久平先生像

昭和39年の建立。
裏面の顕彰碑文は、元陸軍大将井上幾太郎の撰並書となっている。

撰文の井上幾太郎は、初代陸軍航空部本部長。1933年3月には予備役に編入されるも、長命で、1965年に93歳で没している。

 中島知久平先生ハ、明治17年1月17日群馬県尾島町押切ノ徳望家中島粂吉翁ノ長男トシテ出生ス。同36年、海軍機関学校ヲ経テ海軍大学ニオイテ航空機ノ研究ニ着手、卒業後ハ海軍工廠造兵部ノ飛行機工場長トナリ、海軍機第一号機ヲハジメ各種ノ航空機ヲ創案制作セリ、ソノ後欧米ノ航空界ヲ視察シ民営ノ航空機工業ハ必要性ヲ提唱スルトトモニ、大正6年自ラ海軍ヲ退官シテ郷里群馬県太田町ニ中島飛行機製作所ヲ創立ス。コレワガ国航空機生産会社ノ嚆矢ニシテ、同社ハ後日世界最大規模ヲ有スル中島飛行機株式会社ニ発展シ、約20年間ニ亘リ、陸海軍民各方面ノ要望ニ応エ多数ノ優秀ナル航空機ヲ生産シ、ワガ国航空機工業ノ絶大ナル貢献ヲモタラシタリ。
 先生ハマタ偉大ナル経世ノ抱負ヲ実現スルタメ昭和5年政界ニ入リ鉄道大臣、商工大臣、軍需大臣等ヲ歴任シ、コノ間選ベシテ政友会総裁ニ就任スルナド、ソノ輝シキ業績ハ飛行機王ノ名トトモニ今ナヲ高ク評価セラル。
 昭和24年10月29日、享年66歳ヲモツテ惜シマレツツ逝去ス、ココニ中島飛行機関係者有志ノ発起ニヨリ、事業発祥ノ地ヲ選ビ記念像ヲ建設シ、先生ノ偉業ヲ永ク後世ニ伝エントスルモノナリ。

 昭和39年2月 
  元陸軍大将 井上幾太郎 撰並書

太田市内を見渡す金山の山頂に鎮座。いまも眼下に中島飛行機を受け継ぐSUBARUの工場群を眺望している。

https://maps.app.goo.gl/2K7H2G5PDEtBp6gAA


金山城(日本百名城)

山頂を中心として金山全山にその縄張りが及ぶ金山城跡は昭和9年(1934)に国の史跡指定となっている。天守閣が設けられる時代よりも古い設計で石垣が多用された山城。

標高239mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城。
特筆されるのは、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が金山城跡の発掘調査で覆された。主な曲輪群は実城・西城・北城(坂中・北曲輪)・八王子山ノ砦の4箇所。山麓にも、城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋(城下)を形成していたと見られる。

https://www.city.ota.gunma.jp/page/4140.html

新田神社

太田金山山頂に鎮座する神社。明治六年の創建。新田義貞公を祀り「初志貫徹」の神様として崇敬されている。
なお、創建にあたっては、由良系新田家が尽力している。その際に岩松系新田家は排除されたが、のちに岩松系新田家が新田氏嫡流として華族となった。

https://www.ota-kanko.jp/spot/spot02/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE/

弾丸があった。

御腰掛石が並んでいる。
 大正天皇  明治25年10月17日
 秩父宮殿下 明治42年11月7日
 昭和天皇  明治42年11月7日
 高松宮殿下 大正4年11月7日
 三笠宮殿下 大正14年10月26日

金山城の石垣。関東地方では珍しい石垣の山城。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R256-No1-32
昭和22年(1947年)10月30日、米軍撮影の航空写真。

拡大加工。

ファイル:USA-M606-48
昭和22年(1947年)10月27日、米軍撮影の航空写真。

拡大加工。


呑龍

中島知久平(海軍機関大尉)が、生まれ故郷の尾島に、大正6年(1917)5月に「飛行機研究所」を創業。
同年12月に正式に海軍を退官し、民間会社として「飛行機研究所」を尾島から金山南麓の「大光院・呑龍さま」の隣接地に移転。民間会社としての中島飛行機の発祥の地は、すなわち今のSUBARUの発祥の地でもある。

中島飛行機が開発したキ49・100式重爆撃機「呑龍」の愛称は、江戸時代の浄土宗の僧「呑龍」の名前であり、中島知久平の地元の大光院の通称「呑龍さま」から命名された。


中島飛行機呑龍工場

太田金山の南麓には、「中島飛行機呑龍工場」があった。現在の「SUBARU群馬製作所北工場」。

旧中島飛行機(株)呑龍工場と中島知久平
 眼前の工場は大正6年(1917)12月10日、飛行機王中島知久平が尾島から飛行機研究所をここに移し、9名程の同士と創業し、中島飛行機製作所と改める、後の富士重工業(株)群馬製作所の発祥の地である。
 ここで製造された中島の出世機「中島式四型6号機」は、大正8年10月の第1回懸賞郵便飛行競技大会で優勝し中島飛行機の名声を一気に高めた。
 太田市街の東端に新工場が完成してからは、ここは呑龍工場(現北工場)と呼ばれた。
 創業者中島知久平は明治17年(1884)1月17日、尾島町押切で農家の長男として出生。海軍機関学校を卒業し海軍機関大尉まで昇進したが、民間での飛行機製造を志して退役、中島飛行機の創立と経営に当った。
 昭和5年(1930)2月、衆議院議員に当選し政友会総裁、商工政務次官、鉄道大臣(後に商工大臣)などを歴任した。同24年(1949)10月29日、脳溢血で急逝、多摩霊園及び押切の徳性寺に眠る。
行年六十六。
法名は知空院殿久遠成道大居士
 太田市観光協会
 平成21年(2009)3月

右手に呑龍工場と、左手には大光院「呑龍さま」。

呑龍公園

金山からの眺望。呑龍工場と太田工場を望む。


子育呑龍上人の大光院「呑龍さま」

義重山大光院新田寺。浄土宗寺院。
通称「子育て呑龍」「呑龍様」。
東上州三十三観音特別札所、群馬七福神の弁財天。

慶長16年(1611年)3月、徳川家康は徳川一族の繁栄と天下泰平、さらにご先祖の新田義重の追善供養のため菩提寺を建立する計画を立てた。
家康は、芝増上寺の観智国師に相談し、菩提寺建立の適地として太田金山南麓が選ばれた。 そして、観智国師の門弟で四哲の一人といわれる呑龍上人が招聘され創建された。


戦歿者慰霊碑(大光院)

大光院の境内にある戦歿者慰霊碑。

 太田市は西南の役から第二次世界大戦にいたる幾多の戦役により二千余柱の戦没者及び戦災被爆者の尊い犠牲がありました。
 中央の慰霊碑は昭和二十八年に建立され。当時の戦没者が刻まれております。しかし、その後合併した地区等の戦没者及び戦災被爆者は刻まれておりませんので今般英霊にこたえる会及び太田市遺族会のご尽力並びに関係各位のご理解ご協力により、その後合併した地区等を含めた戦没者及び戦災被爆者の慰霊碑2基を建立し、今日の太田市繁栄の礎となられた御霊に対し、尊崇と感謝の意を表するものであります。
 昭和56年3月吉日 
  太田市長 戸澤久夫

慰霊碑(中央)

中央の慰霊碑の裏面

維時昭和28年9月23日太田市出身殉国英霊ニ白ス
諸士等身ヲ君国ニ捧ゲ終ニ異境ノ花ト散ル 
其ノ忠烈ハ永ク責史ヲ◯シ英魂長ヘニ国家ノ柱礎タリ
茲ニ平和回復ハ年ヲ迎へ太田市遺族会並ビニ有志一同碑ヲ建チ衷心諸士ガ英魂ヲ慰ム
希クハ英霊神力ヲ増上シ長ヘニ護国ノ霊威ヲ加ヘンコトエヲ
 鈴木霊海撰
 昭和28年9月23日
  太田市慰霊碑建設委員会建之

皇紀二千六百年記念

昭和15年2月11日 太田各町有志

慈愛の鐘。
もとの鐘は、戦争中に供出。昭和31年に再鋳造。

場所

https://maps.app.goo.gl/Nh7SL6j9Qbqm5Ezz9


中島飛行機太田製作所
(SUBARU 群馬製作所本工場)

中島飛行機太田製作所は、現在のSUBARU群馬製作所本工場。

昭和9年(1934)11月に太田に新しい機体組み立て工場を設け、「太田工場」として稼働。従来から旧太田工場は「呑龍工場」と改称。
昭和12年(1937)に、太田工場を太田製作所に改称。
昭和15年に海軍機専用の組立工場として「小泉製作所」が開設すると太田製作所は陸軍機専用の組み立て工場となる。

中島飛行機が創業以来終戦までに製作した機種は民間機21種、陸軍機40種、海軍機65種の計126種で、総生産機数は2万5935機に及んだ。
工場は分散され、太田工場では陸軍機1万2334機、海軍機3003機、民間機74機の計1万5411機を生産したとされている。

https://maps.app.goo.gl/XcvjyCGiYnFcELiT6


中島飛行機太田製作所付属太田病院
(太田記念病院)

昭和13年に、中島飛行機太田製作所付属太田病院として開設するも昭和20年の終戦とともに病院閉鎖。
昭和21年に旧中島飛行機の八幡寮を改修して富士産業太田健康保険組合病院として、現在の八幡町で、戦争の災禍にあった太田地域住民のために開設。
平成24年に八幡町から現在の大島町に移転している。
現在は、株式会社SUBARUの健康保険組合病院。

https://maps.app.goo.gl/ouZrsiRwQX1CvrVZ8


太田大空襲

中島飛行機を有する太田市は、米軍の攻撃目標となり、終戦まで7回の空襲に見舞われた。
昭和20年2月10日の最初の空襲では、B29が約90機飛来し、午後3時過ぎから爆弾約750発、焼夷弾約200発を投下。
1時間ほどで太田製作所は、工場の東側が壊滅的な被害を受けた。周辺の学校や民家なども巻き込まれ、中島飛行機の工員を中心に死者約160人、けが人約280人、被災者は約2500人にのぼった。
2月10日の空襲のあと、立て続けに2月16日、2月25日も空襲され、中島飛行機の太田製作所、小泉製作所や太田飛行場などが次々と空襲で破壊された。そうして、太田と周辺は終戦間際の8月14日まで計7回の空襲に遭い、計約250人が亡くなったとされている。


太田市戦災被爆者慰霊記念の碑

太田中央公園内に。

太田市戦災被爆者慰霊記念の碑
 太田市長 戸澤久夫書

安らかに
この国の永遠の
平和を祈念して
 建設大臣
  長谷川四郎書

趣意書
 わが太田市は、太平洋戦争の末期、昭和二十年二月十日、二月十六日、二月二十五日、四月四日、七月二十八日、八月十四日と数度にわたって、はげしい空襲に見舞われその度毎に数多くの死傷者が続出したが、現在の太田市在住の遺家族数は、五十五家族、その被爆犠牲者は壱百弐名に及んでいる。
 ところで、戦後における国の援護の実状は、民間の被爆犠牲者には、その処遇も行われないまま、すでに三十有余年の年月を経てきたのである。そのため、本市鳥山に存在する大越福は、昭和四十五年十二月、太田市戦災被爆者遺家族の会を結成し、その会長となって 私財を投じて国会等に対し、強力な陳情活動を続けたのである。時あたかも今年昭和五十二年は、被爆犠牲者の三十三回忌にあたり、市当局並びに市民各層の協力のもと太田市戦災被爆者慰霊祈念の碑の建設となったのである。
 このことは、この国の永遠の平和をこいねがう被爆遺家族のせめてものねがいでもあり、こゝに記してその由来とする所以である。
 昭和五十二年八月十日
  広田良撰文

https://maps.app.goo.gl/gSpNU4H8tDvxPued9


大田駅

ちなみに、市内散策には太田市のレンタサイクルを活用しています。

※撮影:2024年1月

その3に続く。


中島飛行機関連

はじめに

座間・陸軍士官学校の戦跡散策4「相武台碑と大講堂・雄健神社跡」(在日米陸軍キャンプ座間)

ようやく「キャンプ座間」に立ち入る機会がありました。
2023年8月「日米親善盆踊りフェスティバル2023」
花火や盆踊りでフレンドシップなイベント。米軍基地が一般開放されますので、散策してきました。

2024年4月の「キャンプ座間 桜祭り / CAMP ZAMA CHERRY BLOSSOM FESTIVAL」で再訪し、記事を大幅に補完しました。

「座間・陸軍士官学校の戦跡散策」シリーズとしては、「その4」となります。
米軍基地以外の関連する散策は以下より。


相武台(相武臺)

座間には、陸軍士官学校があった。
陸軍士官学校の土地は、現在の「キャンプ座間」となっている。

小田急「相武台前駅」、JR相模線「相武台下駅」。
座間市と相模原市に地名として使用されている「相武台」は、もともと陸軍に関係のある名称であった。

昭和12年(1937年)、陸軍士官学校が、市ヶ谷台より座間に移転。
昭和12年12月20日に行われた陸軍士官学校卒業式に 昭和天皇が行幸した際に、同校に「相武台」の名称が賜名された。

  • 市谷台 座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
  • 相武台 陸軍士官学校(陸士)
  • 修武台 航空士官学校(航士)
  • 振武台 陸軍予科士官学校(予士)
  • 若松台 陸軍経理学校
  • 健武台 東京陸軍幼年学校

陸軍士官学校が移転したあとの市谷台には、陸軍省や参謀本部なのでの省部が三宅坂から移転し、陸軍の中枢となった。

相武台(相武臺)

記念碑の揮毫は、陸軍大臣・杉山元大将。
昭和20年の終戦時には、相武台碑は地中に埋められたが、2年後の昭和22年に米軍第8軍司令官ロバート・L・アイケルバーガー中将の命令で掘り出され、現状に復された。

相武台碑
昭和12年12月20日天皇陛下御命名
昭和14年建立

昭和十二年陸軍士官學校󠄁此ノ地ニ移ル冬󠄀十二月二十日 
天皇陛下卒業式ニ行幸アラセラレ親シク生徒ノ演習󠄁ヲ臠ハセ給ヒ陸軍大臣ヲ召シ本校󠄁所󠄁在地名ヲ特ニ相武臺ト賜フ大臣ハ恐懼感激シ益󠄁々練󠄀武養󠄁材ノ實ヲ擧ケ 聖󠄁旨ニ副ヒ奉ランコトヲ奉答セリ 
謹󠄀ミテ按スルニ相模國ハ古ク佐賀牟ト訓シ古事記日本武尊󠄁東征ノ條ニ相模國ニ作ル臺ハ其ノ形󠄁勝󠄁ヲ占メ相模原ヲ控󠄁ヘ最モ武ヲ練󠄀リ銳ヲ養󠄁フニ適󠄁ス乃チ武ヲ相ル意󠄁ヲ寓シ給ヒタルモノト拜ス茲ニ御命名書ノ相武臺ノ三字ヲ廊󠄁大シテ碑ニ題シ緣由ヲ背ニ記スト云爾
 昭和十五年八月二十日 
  陸軍大臣 三位勲一等功五級 杉山 元 書


陸軍士官学校関連記念碑(相武台碑周辺)

相武台碑の周辺には、陸士関連の記念碑が多い。
卒業順に掲載。

なお、下記の資料を参照

https://www.usarj.army.mil/Portals/33/about/history/Monuments_and_Markers_v4_202101.pdf


陸士50期卒業記念

旧陸軍士官学校第50期生卒業記念碑
昭和12年12月20日卒業

陸士50期は、陸軍士官学校が座間に移設してから初の卒業組となる。
昭和9年4月入学、昭和12年12月卒業。相武台は3ヶ月しか過ごしていないクラス。466名卒業のうち、175名が戦死している。

陸士51期卒業記念

旧陸軍士官学校第51期生卒業記念碑
昭和13年12月22日卒業

昭和10年4月入学、昭和13年12月卒業。506名卒業のうち176名戦死。

陸士52期卒業記念

旧陸軍士官学校第52期生卒業記念碑
昭和14年9月7日卒業

昭和11年4月入学、昭和14年9月卒業。635名卒業のうち245名戦死。
52期が在学中に、予科と本科の課程が戦時体制に改定され、訓練期間も48ヶ月から36ヶ月に短縮となっている。

陸士53期卒業記念

こちらは大講堂脇に建立

旧陸軍士官学校第53期生卒業記念碑
昭和15年2月27日卒業

昭和12年4月入学、昭和15年2月卒業。日中戦争勃発により定員が増員。1710名の卒業のうち800名が戦士している。

陸士54期卒業記念

場所は相武台碑から、外れて、体育館の脇の駐車場に。

奮忠
旧陸軍士官学校第54期生卒業記念碑
昭和15年9月卒業

第54期は、昭和12年12月入学、昭和15年9月卒業。2186名の卒業のうち、891名が戦死。

※上記2枚は2024年4月撮影

陸士55期卒業記念

相武台碑の周辺に戻ります。


旧陸軍士官学校第55期生卒業記念碑
昭和16年7月18日卒業

昭和49年に建立。
昭和13年12月入学、昭和16年7月卒業。2349名の卒業のうち、953名が戦死あるいは捕虜収容所で亡くなっている。

第1期将校学生卒業記念

境界西角。

旧陸軍士官学校第1期将校学生卒業記念碑
昭和16年7月卒業

第1期将校学生は、昭和15年10月入学、昭和16年7月卒業。51名の卒業。

陸軍士官学校第21期少尉候補者卒業記念

旧陸軍士官学校第21期少尉候補者卒業記念碑
昭和16年9月30日卒業

昭和15年12月に入学し昭和16年9月に卒業。卒業生267名。卒業3か月後に下士官から少尉に任官した。

第2期将校学生卒業記念

旧陸軍士官学校第2期将校学生卒業記念碑
昭和17年9月17日卒業

第2期将校学生は、昭和16年11月入学、昭和17年9月17日卒業。90名の卒業。

陸軍士官学校第22期少尉候補者卒業記念

旧陸軍士官学校第22期少尉候補者卒業記念碑
昭和17年9月17日卒業

第22期少尉候補者は、昭和16年11月入学、昭和17年9月17日に卒業。481名卒業。

陸士56期卒業記念

旧陸軍士官学校第56期生卒業記念碑
昭和17年12月17日卒業

第56期生は、昭和14年12月入学、昭和17年12月卒業。
地上兵科1672名、航空兵科627名の卒業。地上兵科257名が航空兵科操縦士に転出し、操縦士884名のうち545名が特攻で戦死。
56期生合計では2299名のうち1071名が戦死。戦死者を一番出した期となっている。

第3期特別将校学生卒業記念

「三紀会」
旧陸軍士官学校第3期将校学生卒業記念碑
昭和18年11月15日卒業

第3期特別将校養成課程で、昭和18年1月入学、昭和18年11月修了した予備役将校学生。118名のうち69名が戦死。

陸士57期卒業記念植樹

旧陸軍士官学校第57期生記念植樹
昭和19年4月卒業

第57期は、昭和16年4月入学、19年4月卒業。
航空兵科卒業生400名のうち74名が戦死、地上兵科卒業生1150名のうち299名が戦死。
昭和58年5月22日建立。後述するが57期は卒業記念碑は建立せず、雄健神社の近くに桜を植樹している。そしてこちらは戦後の記念植樹。

陸士60期在校記念

「和」
旧陸軍士官学校第60期生記念碑

第60期生は、昭和19年3月から昭和20年8月まで在校。陸軍最後の士官候補生であった。第60期生は疎開先の長野で終戦を迎えている。
「和」記念碑は昭和57年に建立。

陸士58期までは卒業したが、59期と60期は在校での終戦。

陸軍士官学校第4期将校学生卒業記念

旧陸軍士官学校第4期将校学生卒業記念植樹碑

第4期将校学生は、昭和18年に卒業。50周年の平成5年に植樹を記念して建立。


雄健神社跡

陸軍士官学校の神社「雄健神社」。

雄健神社跡
昭和12年9月陸軍士官学校は、東京市ヶ谷台よりこの地相武台に移転し、翌13年6月に雄健神社が建立され、左記の御祭神と共に同校出身戦死者 殉職者が合祀された。
 天照大神 鹿島大神 大国主大神
 靖国大神 香取大神 明治天皇
在校生は朝な夕な社殿に額づいて心を正し、崇高な使命に殉じた先輩の意志を継ぎ立派な将校になることを願い、文部の道に励んだ。
 終戦の年、御祭神は長野県北佐久郡望月の里にある、大伴神社に遷座しお祀りして来たが、昭和31年6月 靖国神社に於て 昇神の儀を執り行い、その歴史を閉じた。
 往時の純真にして崇高なる精神をはぐくんだこの地を史跡として末永く保存するため有志相集い、在日米陸軍本州駐屯部隊並びに陸上自衛隊第三施設群のご協力を得てここに鳥居を再建した。
 昭和60年12月吉日
  財団法人 偕行社内
   相武台鳥居再建委員会

陸軍士官学校は昭和20年に佐久市望月など川西地域に疎開しており、雄健神社も、郷土の名社であった大伴神社に遷座していた。

市ヶ谷台の雄健神社


方位石(陸軍士官学校遙拝所方位盤)

長さ2.7m、幅2.3m、高さ60cmの巨石。
もともとはチャベルヒルのある場所にあったが、平成26年に現在地に移築。
円形状のくぼみに、かつては大理石の方位盤が埋められ、盤面には皇居や明治神宮、伊勢皇大神宮、陸軍司令部所在地の地名や方角などが刻まれていた。
陸軍士官候補生は毎朝、方位石にて皇居に遥拝し、明治神宮や伊勢皇大神宮の大祭時には国家安泰を祈念した。

いまは、鳥居の手間にあるので、手水石のような佇まい。

以下は、南地区の富士山公園内にある「方位石」(陸軍士官学校遙拝所方位盤)を参照まで。

なお、さらに奥に進むことができたが、米軍基地内でどこまで侵入してよいのかがわからず、進むのはためておきました。(以前、別の基地で「Keep out」表示がない場所で米軍の警備員に呼び止められた苦い思い出もあるので。)

DO NOT ENTER FOR AUTHORIZED PERSONNEL USE ONLY
Only for use by trained Soldiers under supervision Refer to TRADOC TP 385-1
関係者以外立ち入り禁止
監督下の訓練を受けた兵士のみ使用可能 TRADOC TP 385-1 参照

うん。ひとまず、戻りましょう。。。

雄健神社跡の観桜が良かったですね。


陸軍士官学校関連記念碑(雄健神社跡周辺)

雄健神社の鳥居周辺にも、記念碑が散在している。

陸士57期卒業記念

旧陸軍士官学校第57期生
昭和19年4月20日卒業
卒業記念碑を建立せず同期一同血書して名を連ねこの地に埋めた

陸士57期(昭和16年4月~昭和19年4月)
400名の航空兵科転科者は74名が戦死。1,150名の地上兵科卒業生のうち299名がビルマ・フィリピン・ニューギニアなどの東南アジアで戦死している。

陸士57期の血書の桜。
由縁を知るとさらに趣が深まる桜。ありがとうございます。

陸士58期卒業記念

七生報国

旧陸軍士官学校第58期生
卒業記念碑
昭和20年6月17日卒業

士官学校最後の卒業生となった第58期生(昭和17年4月~昭和20年6月)。
2,395名の学生が本科生となったころには、本土空襲も頻繁になっており、昭和20年4月には相武台も空襲を受け、校内で初めて実戦に参加した士官候補生でもあった。卒業後は、すでに制空権も制海権も失われていたために外地の戦闘部隊に合流することもできず、その結果、他の期生と比べると戦死者は少なく90名が戦死したにとどまっている。

陸士59期在校記念

在校記念碑
陸士第59期生
昭和20年8月30日修業

第59期生(昭和18年4月~昭和20年8月)は、卒業記念ではではなく、在校記念での石碑となる。
合計2,850名の士官候補生のうち1,250名は本科地上兵科生で、終戦を長野県で迎えている。(陸軍士官学校の疎開)
同期の豊岡航空学校の本科生の一部は実戦技能訓練を満洲で実施していたために約100名の候補生は、終戦時にソ連の捕虜となりシベリア収容所に連行され、多くの候補生がシベリアで死亡し、生存者も帰国まで4年の月日を要している。

第22期生任官30周年記念碑

第22期(明治41年12月~明治43年5月)の卒業生が将校任官30周年記念として昭和15年に建立。
市ヶ谷台時代の卒業生たちは、本科が相武台に移転したあとも、自分たちの母校として記念碑を建立したことがわかる。

第24期生任官30周年記念碑

旧陸軍士官学校第24期生
卒業30周年記念碑
明治45年5月27日卒業

第24期(明治43年12月~明治45年5月)の卒業生の帝国陸軍将校任官30周年記念で昭和17年に建立。


陸軍士官学校大講堂(Kizuna Hall)

昭和12年(1937年)、陸軍士官学校が、市ヶ谷台より座間に移転。
おそらくは、その際に造営されたと推測。
米軍進駐後は映画館としても使われた。
現在は「Kizuna Hall」として活用されている。


天皇陛下用防空壕

陸軍士官学校大講堂の裏手に防空壕の入口がある。
大きな入口は裏手の右側にあり、小さな入口は裏手にあたる。
昭和17年に造られた 天皇陛下用の防空壕。

壕内には約17mの曲がりくねった通路があり、広さが30平方mの部屋に通じているという。鉄筋コンクリート造の防空壕の壁の厚さは70cmで天井の厚さは1.7m。
昭和12年から昭和20年まで、士官学校では9回の卒業式があり、そのうちの7回に 天皇兵陛下がご臨席になられた。しかし、防空壕は一度もご利用にはならなかった。ちなみに、51期はご病気、58期は首都圏空襲で欠席であった。

なお、出入り口は2箇所ある。

旧陸軍士官学校
天皇陛下行幸時の防空壕
昭和18年建設(未使用)

「Kizuna Hall」の後ろにも。もう一つの入口。

Authorized Persons Only
権限のある人のみ、だそうで。


陸軍マンホール

陸軍士官学校大講堂の周辺に、2つ残存。
中央に、陸軍のシンボルマーク「五芒」がある。

1つ目は、大講堂の北側。

2つ目。大講堂の正面。


陸軍士官学校生徒集会所

Camp Zama Express Main Store の東側。米軍のSUDCC(Substance Use Disorder Clinical Care)として使用されていた建物。
かつての「陸軍士官学校生徒集会所」
取り壊されるという話もあったが、2023年8月の段階では現存している。

2024年4月、解体を確認

2024年4月、解体を確認。
以下の写真は、解体後。


陸軍士官学校皇族舎(皇室宿泊施設)跡

かつてこの場所に、陸軍士官学校皇族舎があったが、現在は、振武臺記念館として、陸軍予科士官学校のあった朝霞に移築保存されている。

日米友好親善碑

以下は、2024年4月撮影

この場所から、南に歩けば、雄健神社跡。


陸軍制水弁

陸軍士官学校時代の制水弁。
陸軍のシンボルマーク「五芒」もある。


ノルマンディー上陸作戦40周年記念碑

ノルマンディー上陸作戦40周年記念碑

桜の季節


キャンプ座間/座間駐屯地

キャンプ座間は、在日米陸軍司令部、米陸軍第1軍団前方司令部などが置かれ、在日米陸軍の中枢部として機能している。

座間駐屯地には、陸上総隊司令部日米共同部が展開。

中央の第1ゲートからも、ちらりと見える鳥居。

桜の季節

平和
日米友好碑

グランドの北側に。

陸上自衛隊ー在日米陸軍
座間キャンプ共同使用開放記念碑

ここは陸自っぽい。

陸自ですね。


給水がありがたい。。。

鳥居、、、

消防署

野外ステージ

芝生

野球場が盆踊り会場

出店のメインストリート

大人気なファーストフード行列。

ローストチキン

生ビール

暑すぎたので、かき氷

暑すぎて、かなりの疲労困憊だったということもあり、
いくつか確認漏れを自覚しているので、リベンジします。。。

2024年に再訪して、各記事に写真追加済

※撮影:2023年8月 2024年4月


米軍関連

ソメイヨシノの原木候補?「上野公園の小松宮彰仁親王像周辺の桜」

ウソかホントかは不詳ではあるが、上野公園の染井吉野(ソメイヨシノ)が、原木との説がある。


ソメイヨシノの原木候補?

桜は一週間くらいで一斉に咲いて一斉に散るイメージがあるが、これは桜の代表格であるソメイヨシノが、親木から接ぎ木などで増殖したクローンのために、同じように開花するという。
そして、上野公園の小松宮彰仁親王像近くのソメイヨシノが、「第一世代となる親木では?」という発表があり、この場所には4本のソメイヨシノから全国に広まったと考察されている。そして、このうちの1本がソメイヨシノの元祖となる原木に最も近い世代ともされている。

https://news.mynavi.jp/techplus/article/20220325-2302935/

https://www.tokyo-np.co.jp/article/168025

https://corp.fugetsudo-ueno.co.jp/history/detail/id=1224

https://withnews.jp/article/f0150416003qq000000000000000G0010701qq000011854A

ソメイヨシノの原木?


小松宮彰仁親王銅像

小松宮彰仁親王
1846年2月11日〈弘化3年1月16日〉 – 1903年〈明治36年〉2月18日)
日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。伏見宮邦家親王第8王子。
明治維新では、王政復古とともに議定・征討大将軍となり、のち陸軍大将・近衛師団長・参謀総長を歴任し、元帥の称号を授けられた。
日本赤十字社初代名誉総裁でもある。

小松宮彰仁親王銅像
  台東区上野公園八番
 彰仁親王は伏見宮邦家親王第8王子。安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。同4年1月の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍した。
 明治10年5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任した。 同15年には、小松宮彰仁親王と改称。同20年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同36年1月18日、58歳で没。
 銅像は明治45年2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。「下谷區史」は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
 平成八年7月
  台東区教育委員会


コマツオトメ(小松乙女)

コマツオトメ(小松乙女)
 原木は上野恩賜公園内の小松宮彰仁親王銅像の近くにあり、、エドヒガンの雑種で、西田尚道氏がこの木を新品種とすることを提唱しました。
 小松宮銅像から「小松」の名をとり、また可愛らしく美しいことから「小松乙女」と命名されました。
 上野恩賜公園のシンボルの桜として大切に育てられています。
 東京都東部公園緑地事務所・上野桜守の会

撮影:2017年4月、2024年4月


上野公園関連

移築再整備された東京第一陸軍造兵廠滝野川工場の陸軍用地標石(滝野川三丁目公園)

2022年4月に開園した「滝野川三丁目公園」。
東京国税局滝野川第二宿舎(公務員第二宿舎)などがあった国有地の土地利用転換等に合わせ北区が用地を取得し、構造物の解体・更地化ののちに公園として再整備。

実は、なにげに、再整備公園に設置された案内看板に、弊サイトが写真提供を実施しておりましたが、先日にようやく再訪できた次第。

関連記事


陸軍用地の標石(東京第一陸軍造兵廠滝野川工場)

陸軍用地の標石
この標石は陸軍の旧用地を示す目印とする石です。
滝野川三丁目公園の整備にともない、園内へ移設しました。
【東京第一陸軍造兵廠滝野川工場】
滝野川工場は、東京第一陸軍造兵廠第三製造所として、主に火薬・照明弾・発煙筒などの製造を行っていた。

この案内板にある写真、弊サイトにて、素材提供をしました。

以下、依頼主より

(前略)
さて今回ご連絡させていただきましたのは、ホームページに掲載されている陸軍標石についてです。
現在、公務員第二宿舎だった場所を北区役所が国より引き受け、公園として整備工事を行っております。(当社がその施工を担当)
その公園整備工事経過において、歴史ある陸軍標石を保存し、整備する公園の中に再設置を行い、歴史施設説明サインとともに掲示を行う案が出てきております。
つきましては現在ホームページに掲載してある写真の掲載許可とバックアップ等にて可能であればリサイズしていない元の写真データをご提供いただれば助かります。
ただ現在、陸軍標石の保存と歴史施設説明サインの設置は確定しておりますが、盤面デザインによっては写真の掲載がない場合もありますのでその節は、ご容赦ください。
(後略)

公園施工会社様のメールより

その結果、下記の写真となりました。

オリジナルは下記の写真。2016年5月撮影。

オリジナルは下記の写真。2016年5月撮影。

欠けていた標石の当時の写真は下記。2016年5月撮影。
こちらは掲載見送りになりましたが、併せて移築保存していただけました。

そして、移築された標石。

こうして、歴史の伝承として、綺麗に整備され保存されたのは、なにより喜ばしく、ありがたいこと。


滝野川三丁目公園

※撮影:2024年4月

場所

https://maps.app.goo.gl/UJdsUEZjXxixTkVp6


再設置された「近衛歩兵第四聯隊跡碑」「近衛歩兵第六聯隊跡碑」(都立明治公園)

1964年(昭和39年)に開園した「都立明治公園」。新しい国立競技場の建設に伴う再整備で閉鎖のうえで再整備されていたが、2023年10月に一部開園し、2024年1月に全面開園を果たした。
以前より、公園内にあった「記念碑」の扱いが気になっていたが、新設「明治公園」でも再設置されることになり、ようやくに見学できた次第。


青山練兵場跡地

国立競技場や明治神宮外苑のある一体は、もともと「青山練兵場」であった。

大正元年(1912)9月13日、 明治天皇崩御による「大喪の礼」が青山練兵場で執り行われた。
大正15年(1926)に、青山練兵場の葬場殿跡地に、「聖徳記念絵画館」を中心とする「明治神宮外苑」が完成。
大正13年(1924)に完成していた「明治神宮外苑競技場」では、戦時中に「学徒出陣壮行会式典」が行われている。


近衛師団と近衛聯隊

最精鋭かつ最古参の部隊として天皇と宮城(皇居)を警衛する「禁闕守護」の責を果たし、また儀仗部隊として「鳳輦供奉」の任にもあたった。
昭和18年に従来の近衛師団を「近衛第一師団」「近衛第二師団」とし、昭和19年に「近衛第三師団」を新設。
近衛第一師団
 近衛歩兵第一聯隊 東京 北の丸 皇居警備
 近衛歩兵第二聯隊 東京 北の丸 皇居警備
 近衛歩兵第六聯隊 東京 北青山 大宮御所警備 ※本記事
 近衛歩兵第七聯隊 東京 麻布台
近衛第二師団
 近衛歩兵第三聯隊 東京 赤坂台 スマトラ島に展開
 近衛歩兵第四聯隊 東京 北青山 スマトラ島に展開 ※本記事
 近衛歩兵第五聯隊 東京 麻布台 スマトラ島に展開
近衛第三師団
 近衛歩兵第八聯隊 東京 成東 九十九里浜防御陣地構築 
 近衛歩兵第九聯隊 甲府 成東 九十九里浜防御陣地構築 
 近衛歩兵第十聯隊 佐倉 成東 九十九里浜防御陣地構築  

近衛連隊では、以下の記念碑を確認。

「北の丸」
近衛歩兵第一聯隊(近歩一)
近衛歩兵第二聯隊

「赤坂台(銀杏ヶ丘)」
近衛歩兵第三聯隊
「麻布台」
近衛歩兵第五聯隊
近衛歩兵第七聯隊


近衛歩兵第四聯隊跡碑

明治19年(1886年)第一大隊、翌年に第二大隊が編成。
日清、日露、大東亜戦争に従軍。
大東亜戦争では、マレー作戦、スマトラ平定作戦に参戦。

近衛歩兵第四聯隊跡

近衛歩兵第四聯隊は、明治30年5月24日 明治天皇から軍旗を親授されて創設された。
大東亜戦争後、聯隊出身者からなる錦紫会会員一同相計り相資し遺跡を永久に記念してこの碑をこの地に建立して東京都に寄贈する。
 昭和40年5月 
  錦紫会有志


近衛歩兵第六聯隊跡碑

昭和18年(1943)に青山北の近衛第四聯隊兵営において新設。
近衛第一師団に編入。

近衛歩兵第六聯隊跡

 近衛歩兵第六聯隊は大東亜戦争の戦局急を告げる昭和18年の5月14日臨時編成を下令され同年6月はじめ竹橋において近衛歩兵第一聯隊第三大隊を中心に全国からの選抜将兵を以て編成された。
 聯隊は同年6月28日以降この青山に駐とんし将兵三千、日夜武を練り禁閥守護と首都の防衛に任じつつ大戦に参加しこの地において終戦を迎えた。
 昭和46年2月11日
  元近衛歩兵第六聯隊有志一同


馬頭観世音

馬頭観世音
 昭和庚午年春吉日

昭和庚午は、昭和5年。


東京都立明治公園

2023年10月31日開園。
千駄ヶ谷駅と外苑前駅のほぼ中間地点、国立競技場のすぐ南に広がる公園。外苑西通りに面している。
東京都初のPark-PFI(公園の整備を行う民間の事業者を公募し選定する制度)を活用した公園。

記念碑は、「誇りの杜」にある。

国立競技場

※撮影2024年2月


「救世観世音菩薩」と「B29墜落搭乗者慰霊碑」(駿府静岡の戦跡散策・その4)

静岡市のシンボル「賎機山(浅間山)」。
安倍川に沿って南北に伸びる賤機山(浅間山)の山頂に、戦争に関係する慰霊碑があった。

本編は、「その4」です。

「その1」はこちら。


静岡大空襲

静岡市は昭和19年から終戦までに26回の空襲を受けている。本土爆撃には富士山を目標に飛来するということもあり、富士山の入口にあたる駿河湾は、爆撃機護衛の艦載機の機銃掃射なども多数被っていた。
なかでも、昭和20年6月19日深夜から20日未明にかけての空襲は被害が甚大。
米軍B-29爆撃機137機により、静岡市街は3時間あまりにわたって波状爆撃をうけ壊滅した。

静岡平和資料センター

https://www.shizuoka-heiwa.jp/?page_id=9


救世観音菩薩(静岡市戦禍犠牲者慰霊塔)

静岡空襲の犠牲者を慰霊する観音様。

救世観音菩薩縁起
 吾が静岡市は、昭和19年11月5日南太平洋マリアナ基地よりB29 が連日の如く侵攻し、静岡市の受けた空襲による被害は被爆度数は12回、死者1,813名重傷者830名、特に昭和20年6月19日の夜半過ぎよりB29の大挙来襲により受けた空襲により全市が壊滅状態となりました。その状況はB29が157機、0時50分から3時40分に至る約3時間単機及び数機にて波状に飛来し大型小型の焼夷弾を無数に投下し、密度の高い絨毯爆撃を受け死者1,669名重傷者800余名、その後重傷者中死亡した者多数に及びました。
 諸団体、各位のご協力とご援助を賜りまして静岡市随一の名勝地賤機山の聖地に安置されて優終無縁の衆生の菩提を済度し慈顔を以て衆生を視たまい福聚円満なる御姿と観音妙智力の功徳により御霊の冥福と共に静岡市民の安泰と子孫繁栄曳いては世界人類の平和と幸福を念願いたす事が目的であります。
 発起人伊藤福松

救世観音菩薩縁起
吾が静岡市は昭和十九年十一月五日南太平洋マリヤナ基地よりB29一桟本市上空に初めて侵入してより昭和廿年八月十五日終戦に至る迄殆んど連日の如く侵攻し特に本市上空は京浜都市及び中京都市爆撃の経路として空襲警報発令極めて烈しく其の為市民は心身共に恐怖と疲労に陥り且戦時体制下に於ける生産活動能力は頗ぶる低下を来たしその間に受けた被害は非常に大なるものがありました
静岡市の受けた空襲による被害は被爆度数十二囘死者一、八一三名重傷者八三〇名全半壊建物一四八戸焼失建物二五、二三九戸罹災者一一八、七四六名の多きに上り特に昭和廿年六月十九日夜半過ぎよりB29の大挙来襲により受けた空襲により全市が壊滅状態となりました
其の状況はB29百桟零時五十分から三時四十分に至る約三時間単桟及数桟にて波状的に飛来し大型小型の焼夷彈を無数に投下し密度の高い絨毯爆撃を行った次第であります
其の被害状況は罹災世帯数二四、四五九罹災者一一〇、〇四六名死者一、六六九名重傷者八〇〇余名其の后重傷者中死亡した者多数に及びました
なお本市は去る昭和十五年一月十五日の大火に罹り全市の大半を焼失しましたが犠牲者は僅か一名の死亡のみに止りました
然るに今次の戰禍の如何に凄惨たる事は皆様の知悉する処であります
戰災者は永年の家産と貴き人命を一朝に失い其の惨状は筆舌に盡す事は出来ません
雨霰の如く落下する焼夷彈の中を老人子供或は病人等何の罪もない非戰斗員か逃げ惑い夫は妻を庇い妻は吾子を護り阿鼻叫喚宛ら地獄絵巻其の儘でありました
私は比のような多数の犠牲者に対し眞に御気の毒にたえません 然も一家全滅の憂目をみられ祭祠の出来ない数多くの方がある事を知りまして御慰靈追悼申し上げると同時に人類生存上再度斯様な人災は構成しない様発願致しました
猶其他内地外地に非戰斗員が千数百人の多数の戰禍のため犠牲となられても國家社会は年月の去ると仝事に忘れられて行く状態は御
靈と御遺族の心境に対し眞に同情に堪えませんので合祠させて戴き全市民の皆様と倶に永久に四恩報謝の誠意を捧げたいのであります 時至りまして元市会議員団市連合町内会婦人団躰その他諸団躰各位のご協力と御援助を蒙りまして静岡市随一の名勝地賤機山の聖地に安置されて有縁無縁の象生の菩提を済慶し慈眼を以て象生を視たまい福聚圓満なる御姿と観音妙智力の功徳により御靈の冥福と倶に静岡市民の安泰と子孫繁栄曵ては世界人類の平和と幸福を念願いたす事が目的であります
 昭和四十四年十二月吉日 謹誌 喜壽福松
   西暦一九六九年 建之 書刻 横井石堂

静岡市戦禍犠牲者慰霊塔


B29墜落搭乗者慰霊碑

1945年6月20日。静岡空襲に参加したB29の2機が空中衝突して墜落。B29の搭乗員23名が犠牲となった。
戦後、僧侶の伊藤福松さんが「死んでしまえば、敵も味方もない」と言って墜落死したアメリカの搭乗員のために慰霊碑を建立。
その後、私財を投じ昭和45年(1970)に賎機山山頂に空襲の犠牲者とB29の搭乗員の慰霊碑を建立。
慰霊碑は現在も市民の手によって大切に管理され、日米の関係者が出席し、「静岡空襲犠牲者日米合同慰霊祭」が執り行われている。

関連

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/shizuoka_shizuoka_004/index.html

裏面には、紀元2630年・西暦1970年の建立銘がある。

犠牲者のお名前

日米友好親善の樹、ハナミズキは米国からの記念植樹

賤機山ハイキングコース。
賤機山山頂 浅間山観音広場。

賤機山から見る富士山。

静岡浅間神社から登山、、、しました。
麓山神社を起点にして賤機山公園山頂までは、だいたい20分くらい。

危険が多い。

麓山神社へ向かう石段が一番大変とも。

※2023年12月撮影

場所

https://maps.app.goo.gl/2gSX5Ki7D1HN4DjG6


B29関連

静岡縣護國神社(駿府静岡の戦跡散策・その3)

静岡県静岡市。
東海地区の要所である駿府城を中心とした静岡市内の戦跡散策をしてみました。

本編は、「その3」です。静岡縣護國神社に赴きました。

その1はこちら。


靜岡縣護國神社(静岡縣護國神社・静岡県護国神社)

静岡縣護國神社は明治32年11月13日「共祭招魂社」として静岡市北番町に創立.。
明治維新から大東亜戦争(太平洋戦争)に至る国事にたおれた静岡県出身者並びに縁故ある戦没軍人、軍属の英霊7万6千余柱を祀る。
昭和14年4月1日に靜岡縣護國神社と改称、昭和17年10月8日に現在地に移転。

https://shizuokagokoku.jp/shrine/

御英霊に感謝を。
ありがとうございます。

御朱印。

平和の道標

ありがとうございます

社号標は、昭和17年の建立。

陸軍大将 鈴木孝雄の謹書。


静岡県戦没戦災死者慰霊標(納骨堂)

明治維新から大東亜戦争に至る、静岡県戦没者7万6千余柱の慰霊顕彰の碑と納骨堂。

この霊域は明治維新以来太平洋戦争に至る間に国のために命を捧げたもの及び戦禍のために倒れた人々の霊を慰めその遺芳を後世に傅えるために
県民の総意によって構想せられたものである
 こヽに戦争によるあらゆる思出を収めこれに参するものに新らたな愛國の精神を振い起たせ平和日本興隆の象徴としたい念願である
 昭和二十七年十一月三日
  財団法人 静霊奉賛會長  静岡縣知事 齊藤寿夫誌

終戦50周年平和祈念事業改修記念碑  
 平和への誓い
  平成7年4月  静岡県知事 石川嘉延

総務省>

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/shizuoka_shizuoka_001/index.html


嶽南神社の鳥居と社号標
(静岡歩兵第三十四聨隊内神社)

駿府城址に駐屯してた陸軍第三十四聨隊の嶽南神社の鳥居と社号標。社号標は近年の調査で見つかった模様。
無事に静岡県護国神社に移築となったのは、よかったです。

https://www.chunichi.co.jp/article/530460

鳥居について
この鳥居は駿府城跡に駐屯していた陸軍第三十四聨隊(静岡三四聯隊)の隊舎横に鎮座した嶽南神社の鳥居だったものです。
聯隊将兵はこの神社で武運長久と戦勝を祈願して出征、特に数万の兵士達の素朴な願いと心のよりどころの神社でありました。
昭和20年に長く激しい戦いが終わり、駿府城址も一変して都市公園として新時代の姿へと移り変わることとなり、中町及び神社地元世話人有志によって、終戦三十周年を記念して鳥居がこの招魂場前に移築されました。

社号標(遺物)について
終戦後に役目を終えた嶽南神社は廃祀されて社殿は他に転用とも伝わり、右のとおり鳥居はこの場所に移築、「嶽南神社」の社号標は行方が詳らかではなく、駿府城址の調査で発見されて、このたび由来を同じくする鳥居の脇に移設いたしました、
戦時中のこと、嶽南神社や招魂場と戦没将兵のことを偲んでいただけますと幸いです。

嶽南神社

一八八二年発布の「軍人勅諭」の下賜五十年を記念し、一九三二年に建立された社号標

勅諭下賜五十年記念
 昭和7年4月24日建之

荒木貞夫 敬書

狛犬の台座には、昭和14年の記載あり

昭和14年10月


招魂場(招魂斎場)

招魂場について
静岡縣護國神社の御祭神である戦没者の御霊は、御羽車をこの招魂場に安置し、淨闇の中で招魂祭を斎行して本殿へ奉遷します。
昭和十七年当神社が移転遷座してより毎年、招魂祭を斎行してきたところです。

今日でも当時の死亡や時間が経ってからの病没などを「戦没」と認定される方があり、合祀祭が執り行われるが、社殿に一隅を仮招魂場として祭祀を行っており、招魂場の使用は無くなっている。

神池


拓魂碑

満州開拓の犠牲者慰霊顕彰

あゝ拓魂
 民族の悲劇に散った 満州開拓の霊やすかれと祈りをこめて護国の英霊を祀る神域に拓魂の碑を立つ
 五族協和道義世界建設の理想のもとに永遠の平和を希がった君たちは国家と運命を共にし国策に殉じたのである
 かって日本の生命線とまで叫ばれた赤い夕陽の満州に眠る君たちを憶うとき雄図空しく歴史の断層に斃れた非命の痛恨の涙はつきない
 日本人として この前に ぬかずくとき新たな民族の使命を感じ君たちの遺志を無にするなく自由と平和の道を拓くことを誓うものである。
 開拓精神は創造発展の真髄真理探究の道である 君たちの永遠の生命を信じ冥福を祈る
  昭和四十九年四月二十三日 
   静岡県知事  竹山 雄太郎

建立の由来
 満州開拓とは現在の中国東北地区に五族協和王道楽土道義世界創建の大理想のもとに生まれた満州国に国造りの基盤としてこの地に眠る広大なる未墾の沃野に大量の移民送出が国策として推進された大規模農業開発の事である。
 満州建国より太平洋戦争の終結に至るまでの十有三年間全国から実に三十二万余人本県から開拓団・満州開拓青少年義勇隊併せて六千五百二十余名の入植を見たが昭和二十年八月十五日祖国日本の無条件降伏、満州国の崩壊により悲運の幕を閉じたのである。
 農は善なりの素朴な哲学に徹し聖業の名のもとに土の戦士として不撓不屈の開拓精神をもって村創りに精進これに努めたのであるが、あたらその血と汗と涙の成果は歴史の断層に難民と化し非命に斃れた者約八万有余人 本県人も千六百七十余名に及び 実に世界植民史上空前のj悲惨たる終末を迎えたものである。
 時流れて二十八春秋日中国交正常化を契機に昭和四十八年九月合同慰霊祭並びに総決起大会を県の後援を得 駿府会館に於て挙行し大会決議によって拓魂碑を建立することになった。
 爾来相寄り回を重ね慎重に協議の結果護国神社静霊奉賛会の厚意と県当局県下市町村の協賛助成を賜り一般多数の協賛浄財と会員の拠出金により本県送出の全物故者を奉祀し永く拓魂を顕彰し 併せて慰霊供養の誠を捧げ不滅の開拓精神を後世に伝え 戦争なき真の平和への希いをこめて茲に拓魂碑も建立を見たのである。
  昭和五十年四月二十日
    拓魂碑建立委員会

大陸は呼ぶ
一、
俺も行くから君も行け
北満州の大平野
広漠千里果てしなき
自由の天地我を待つ
二、
望む彼方は高梁の
丘吹く風となるばかり
あゝ大陸の空を飛ぶ
捨て身の雲の翼かな
三、
生きて帰らぬ命ぞと
誓いてかたきこの胸に
高鳴り躍る大和魂
熱血今ぞ溢れける


愛の灯

日本赤十字社静岡県支部救護員戦没者の慰霊顕彰

昭和十二年以降の戦時事変等に際し赤十字の旗のもとに日本赤十字社静岡県支部救護員として応召し国の内外において傷病者の救護に献身し博愛と奉仕の使命に殉ぜられた方々の遺徳を偲び その御霊のとこしえに安かれと祈りてこの碑を建立しました
平和のいしづえとして尊い命をささげられた私どもの同胞がこよなき誇りを抱きつつかかげた愛の灯の偉大さをしのび ふたたびこのような悲惨なことがないようにと念願しこれを後世に永く伝えようとするものであります。
 昭和五十年十月吉日建立
 日本赤十字社静岡県支部長 山本敬三郎
 日本赤十字社看護婦同方会静岡県支部長 小山シヅ
  殉職救護員芳名(25名の御芳名)

捧従軍看護婦戦没者霊  大野恵造
 朔北僻南砲煙間 
 看護傷兵自亦散 
 殉国婦是万輪花 
 気魄凛凛似白梅

詩意
 従軍看護婦は北方へ南方へと派遣され、大砲の弾幕の中で、傷ついた兵隊さんの救護にかいがいしくあたった。しかし、その中で万輪の花が散るように、お国の為に多くの看護婦がむなしく散っていった。その気力はりりしく強く、寒風に芽を吹き美しく花を咲かせる白梅のようであった。

愛の灯
 この詩は、従軍看護婦として南北戦線へ派遣され傷病将士の救護にあたり、人道的任務に尽し、不幸にして戦死或は戦病死していった人々をたたえた詩で、静岡県護国神社境内にある「愛の灯・殉職救護員慰霊碑」の除幕式並びに慰霊祭執行にあたり、詩吟朗詠錦城流流祖・山本錦城先生が大野恵造氏に作詞を依頼、流祖作曲の上、昭和五十年十一月二十三日碑前に於いて吟詠された。
 日本赤十字社看護師同方会静岡県支部長
  長嶋芳子
   平成15年11月2日


鎮魂碑(比島派遣)

鎮魂
比島派遣独立歩兵第百六十四大隊
元独立守備歩兵第三十二大隊

 顧みれば昭和十七年春のころ祖国をあとに征途につき比島セブ島攻略戦に参加以来ヒサヤ諸島、ミンダナオ島各地に転戦昭和二十年四月本軍のダバオ来攻より半年ダバオ平地北部山岳地に死闘を重ね部隊の大部を失いて遂に終戦詔勅を拝す。我等死すべき命を永らえて俘囚の身となり、國に殉ぜし戦友をマツキンレト麓野に残して故国に送還されしより三十有余年を経たり。
 時は流れせば移りて今や日本は先進国と称せられ平和国家として繁栄しり。今にして昔日を偲び将に隔世の感甚だし。身を安寧に置きて帰らざる戦友を憶い遺族の身の上におもいをいたすとき断腸の念切なり。往年我等嘗ての戦場たりもセブホホールミサミス等に旅してこの地に散華せし英霊の安らからんことを祈り更にダバオの地に草むす屍を故国に迎えんとしてインダガンウラ、ギャンカ、ベリサリオラサソン等ダバオ平地を始め遠くクモガン草原、ウピヤンバルマの山岳地にバコボ族アタ族等現地住民の協力を得て野山を分ち探し求るも、二十余年の歳月は当時と著しく趣を異にしてその収集は意の如くならず。
 悄然としてタモガン草原に立ち戦友の名を呼べど応えるものとてなく慟哭して踵を返さんとすればモントーの山波に雨雲の去来するあり。我等徒に歳を重ねて既に秋露梧桐葉落つる時。英霊に応えんとして力及ばず。
遺族に酬いんとして才足らず。ただ愛惜の情切々として胸に迫るのみ 茲にその壮烈を永く世に伝えんことを願い英霊の異境に彷徨して鬼哭啾啾することなくこの地に鎮まらんことを希いてこの碑を建つ。
  昭和五十七年三月十四日
   独立歩兵第百六十四大隊戦友一同

部隊の略歴


慰霊碑ノモンハン事件

ノモンハン事件
慰霊碑
元第二十三師団参謀陸軍大佐 鈴木善康書

鈴木善康は、静岡出身。陸軍大佐。士候33陸大専科5。
第23師団はノモンハン事件で壊滅的な損害を被った。

慰霊碑の由来
 この碑はノモンハン事件に従軍して散華した戦友の慰霊のために建立したものである。
 ノモンハン事件は昭和十四年五月中旬、旧満州国興安北省ハイラル南方ノモンハンにおけるソ蒙軍の越境に端を発し、紛争が拡大して平原の砂丘を血に染め日満・ソ蒙両軍が激しい砲火を交えた日本戦史に特筆される事件である。直接戦闘に参加した部隊はハイラルに駐屯の第二十三師団隷下の将兵であった。この戦闘は関東軍の作戦予測に反しソ蒙軍の近代兵器を投入しての猛攻を受け、寡兵肉弾をもってこれに応戦し悪戦苦闘の連続であった。特にノロ高地における凄惨苛烈な死闘は後日の戦訓となるほどであた。同年九月十六日停戦協定が成立したが、この間実に一万一千百二十四名の犠牲者を出したことは痛恨未だ極まりないものがある。
 ここに幾度かの死線を乗り越えてきた静岡県の生存者を中心に、広く関係者の賛同を得て宿願を達成することが出来関係者一同の感激もまた大である。願わくは一身を顧みず祖国防衛の大任を全うし殉国散華された将兵の崇高な精神と武勲を後世に伝え以って平和への祈願としたい。
 幾久しい悲願実りてこの聖地 
  今ここに立つノモンハンの碑
    昭和五十四年九月十六日建立
     ノモンハン事件従軍生存者有志一同
       献歌 中村双葉
       揮毫 渡邊墨仙


鎮(満州第五七四部隊)慰霊碑

グアムで玉砕した静岡出身の満州第五七四部隊

大東亜戦争熾烈なる昭和十九年二月十九日 元満州遼陽に駐屯せる我が満州第五七四部隊(静岡県出身者)は風雲急を告げる南方諸島の大宮島(グアム等)に転進しましたが、同年七月二十一日連隊長末永大佐以下で最後の突撃を敢行遂に玉砕しました。又、各地に転戦して護国の礎となられた幾多の戦友の霊、永しえに安かれと、ここに慰霊碑を建立し、此の貴い武勲を永く後世に伝えるものであります。
 昭和五十一年十月吉日
  慰霊碑建立世話人会


内匠部隊之碑

ミンダナオ島における戦没者千数百柱の慰霊顕彰

内匠部隊之碑

 昭和十七年三月二十日内匠部隊長以下七百三十八名中部第三十六部隊にて編成、三月二十日宇品港出港、バターン半島に直行攻撃参加、四月二十一日ミンダナオ島に転進、八月よりコタバト州警備戡定作戦参加、十二月二十日第三より充足更に一八、一九年現役兵入隊在留邦人現地入隊等最大兵力千八百名となる。十九年九月部隊は米機約七十機によりコタバト地区で爆撃さる。敵機を撃墜し師団長より感状を受く。以後サルナヤン、ミラヤ地区に転進、二十年四月一七日、米八軍コタバト地区に上陸、部隊はこれを迎撃奮戦し壊滅す。英霊千数百名ここに祀る。


副碑「由来」
 終戦三十年余を経た現在ミンダナオ島コタバト地区は、遺骨収集に対し厚生省の認可をを得られず有志により再度の収集にて二十数体を収集したのみ。月日を経過するに従い地形の変化と風化により益々困難となる為、コタバト平和の塔の分骨をし茲に建立す
  昭和五十一年三月二十一日
   コタバト静岡県人会  同遺族会


御手洗石

 この御手洗石は九州福岡県博多在の産で当神社が昭和17年10月現在地に御遷座のとき静岡市本通り1丁目の手塚六郎治氏より奉納されたものであります。
 当時は大東亜戦争苛烈下で運搬は容易でなかったが陸軍大臣の命によって汽車で輸送され約14平方米(畳9畳半)あり全国で最大の御手洗石であります。


工学士 市川紀元二銅像

日露戦役にて戦死した東大出身の工学士、学徒の亀鑑、市川工学士の慰霊顕彰の銅像。
市川紀元二の弟はスエズ運河設計に携わった青山士。
日露戦争で最初の学徒出身兵の戦死であった。

東京帝国大学工学部に学び電気工学を修め、京浜電鉄の技術部長を務めるが、明治37年日露戦争に第6連隊(名古屋)に所属、歩兵少尉として出征。
満州に出征し、明治37年8月31日首山堡の激戦に歩兵6連隊小隊長として先登し第一の戦功を立て軍司令官より感状を受け、全軍布告、上聞に達し特進して歩兵中尉となった。明治38年3月7日の奉天会戦で戦死。
の東大総長山川健次郎は「その忠勇義烈、学徒の亀鑑となすべし」して、市川紀元二銅像を東大構内に建立。
大戦末期、東大職員により金属類供出から免れ、戦後は地下室に隠されていた。戦後、出身地が中泉(磐田市)だったことに因り静岡県護国神社に再建された。

なお、日本陸軍で生存中に特別進級した人は、陸軍創設以来終戦まで、市川紀元二中尉だけだという。

工学士 市川紀元二銅像
設計意匠 塚本靖 
製作 新海竹次郎 
篆額 奥保鞏
明治41年11月11日 東京帝国大学構内竣工
昭和33年8月31日 静岡県護国神社境内移転

躍動感にあふれる銅像。


長島銀蔵翁之壽像

戦没者遺族の父

長島銀蔵先生は、若くして父業を継ぎ、勤勉努力精進は、今日広く世界各国に知られている塗料ラッカーを創製するに至ったのである。
尚先生は貴族院議員、次で参議院議員等に当選されて、政界に活躍された。
大東亜戦争は、国力を消耗し盡して終戦を告げ、混迷の世相の中に戸惑う戦没者遺族の悲境を目前に、強く胸を打たれ、これを黙視するに忍びず、幸いに中央政界にあった先生は一方に於て、県内遺族の基礎を固め、他方東奔西走して全国に同志を糾合し、遺族会の統合団結を図り、昭和22年11月遂に日本遺族厚生連盟を結成し、推されて理事長に就任されたのである。
時恰も終戦後日浅く、占領軍政下の厳しい国内情勢下にあって、物心共に言語に絶する苦難の継續であったが、先生の強固なる決意は之に屈せず、多額の私財を投じて、初心を貫徹されたのである。
この苦闘の事蹟は本県はもとより、我が国戦没遺族会史の上に特筆すべき成果であると確信するものである。
茲に於て長島銀蔵先生を遺族の父と仰ぎ永くその徳を称えんが為に、本県遺族会は、日本遺族会並びに全国各都道府県遺族会の御協賛のもとに、全会員の赤誠と、国土安穏世界平和の祈願を込めて、此の胸像を建立した。
 昭和48年9月28日
  財団法人静岡県遺族会
   長島銀蔵先生胸像建立委員会


慰霊碑(伊藤部隊・歩兵第118聯隊)

義烈日月と共にあり 昭和十九年五月十日 サイパン島方面へ出陣せられし歩兵第百十八聨隊 殉国将士三千有余柱の慰霊之碑を建て永久のご冥福を祈る
   昭和六十年九月二十二日
     歩兵第百十八聨隊  生存者有志建立

記念植樹趣意
 過ぐる大戦において静岡聯隊最後の部隊である伊藤豪大佐以下三千有余名の将兵は昭和一九年五月勇躍南方戦線に出陣した
 然るに戦局囘天の雄図空しくサイパン島およびその周辺海域に華と散った 現在の平和豊な生活を感謝し その志と事実を永く憶えんがため桜の若樹を植え記念とする  春ごとに爛漫と咲きもって英魂を慰めよ
   昭和五十二年八月十四日
     遺族代表 伊藤 小夜
     伊藤部隊付陸士第五十八期士官候補生一同

百日紅(さるすべり)
終戦七十周年記念献木
元歩兵第118連隊伊藤部隊は昭和18年7月 第43師団下の第118連隊として静岡市に於いて3300名の兵士(静岡県出身者)により新に編成された。
昭和19年5月29日サイパン島守備のため横浜港を出港同年6月5日、米潜水艦の魚雷攻撃で3分の2が海没戦死、残る兵士は上陸するも3週間にわたる激戦の末、陸海軍守備隊約4万1千名は全員玉砕した。終戦70周年の節目の年に現地での御英霊の面影を偲びサイパン島に咲くフレイムツリー(南洋桜と言われる)に良く似た百日紅を植樹することにした。
 平成27年7月18日
  元歩兵第118聯隊伊藤部隊遺族会


西村直己先生顕彰像

終戦時の鈴木貫太郎総理秘書官

明治38年10月8日東京に生まる
天稟の資質に恵まれ東京帝国大学卒業後官界に入る
終戦時鈴木貫太郎総理秘書官
戦後吉田茂総理主席秘書官を勤め国存亡の激動期に国政に盡瘁す
昭和24年1月静岡県第1区より衆議院議員に初当選
爾来連続10期28年に亘り国地方の発展に盡す
この間農林防衛の各大臣自由民主党政調会長等を歴任
特に戦歿者遺家族の援護等その功は枚挙に遑なし
清廉高邁な人格を賛仰し郷党追慕の至情を此処に表す
 昭和58年7月28日
  福田赳夫 撰
  荻野準平 書


殉國碑(泉第五三一六部隊之碑)

レイテで玉砕。
昭和三十三年九月二十三日建立。

泉第五三一六部隊ハ関東軍ニ属セル独立混成旅団トシテ支那事変ノ擴大トトモニ熱河ヨリ中国ニ進出 長城線ヲ突破シ 昭和十二年十月張家口ニ於テ第二十六師団独立歩兵第十三聨隊トシテ編成セラレ 内蒙古ニ進駐 同年十一月二十六日軍旗ヲ奉ス
爾後 綏遠周辺ノ警備ニ任ジ 五原 中支 中原 浙贛 河南等幾多ノ作戦ニ其ノ赫赫タル戦績ハ威勲ヲ四圍ニ輝カセリ
 時恰モ 大東亜戦酣ナル昭和十九年七月 比島方面ニ急派セラレ昭和十九年八月十九日未明バシー海峡ニ於テ魚雷攻撃ヲ受ケ 無念ニモ聨隊本部 第二大隊ハ軍旗トトモニ海没 第一 第三大隊ヲ主力トシテ最激戦地 レイテ ノ決戦ニ参加 戦力ヲ物量ニ頼ル優勢ナル敵ト死闘半歳有余 此ノ間 忠烈ニシテ勇猛果敢ナル奮闘ハ全軍ノ亀鑑トシテ上聞ニ達セルモ 遂ニ全員玉砕ス 嗚呼
 今茲ニ殉國ノ至情ヲ讃エ 大陸ノ山野ニ 或ハ南海ノ孤島ニ散華セル我ガ勇士ノ霊ヲ慰ムルトトモニ栄誉輝ク部隊ノ偉績ヲ永遠ニ伝ヘンガ為 建立
 昭和三十三年九月 
  支那派遣軍總司令官 畑 俊六 篆額
  泉第五三一六部隊初代部隊長 久野村桃代 謹書

 去る太平洋戦争において 主として本県出身者により編成された泉第五三一六部隊(独立歩兵第十三聨隊)は 内蒙古(モンゴル)の厚和(綏遠)に在って幾多の作戦警備に任じ 昭和十九年七月フィリッピンに転戦した 途中 部隊の一部バシ―海峡において魚雷攻撃を受け軍旗とともに海没 残る主力はレイテ島の決戦に臨み死闘すること半歳 矢附盡き刀折れレイテの地を朱に染め遂に全員玉砕した
 遠い異郷の地に飢えと疲労に耐えながら散華された我が勇士ゆかりの地に何かを遺し 永遠にこれを顕彰したい心が結集され 昭和三十三年二月泉五三一六会を結成し会員の一致協力により同年九月ここに念願の殉國碑を建立し 毎年秋分の日にこの碑の前で慰霊祭を行っている 

「殉国碑」の扁額は、支那派遣軍總司令官 畑 俊六 書


遺品館

遺品館は、令和元年(2019)に新設。
ただ、参拝が年末ということもあり、全体的にバタバタしていたので、未見学。再訪します。


移築の元将校集会所の跡地

歩兵第三十四聯隊跡地から移築された将校集会所だった建物が、神社境内にありましたが、2021年に解体済み。。。


天皇陛下 皇后陛下 御参拝記念碑

昭和32年。昭和天皇の御親拝があった。

※撮影:2023年12月

※場所

https://maps.app.goo.gl/RdH9DADJwihG1p1Z8

「その4」へ


護國神社関連

はじめに

静岡陸軍墓地(駿府静岡の戦跡散策・その2)

静岡県静岡市。
東海地区の要所である駿府城を中心とした静岡市内の戦跡散策をしてみました。

本編は、「その2」です。

その1はこちら。


陸軍歩兵第34聯隊墓地(静岡陸軍墓地)

駿府城の北東、演習場からさらに北東に進んだ地に「陸軍歩兵第34聯隊墓地(陸軍墓地)」がある。

第34聨隊の戦没者や戦病没者が埋葬されている。
1897年(明治30)年頃設置。
現在は、旧静岡陸軍墓地公園と称されている。

静岡県内には、静岡陸軍墓地、三島陸軍墓地、豊橋陸軍墓地、浜松陸軍墓地の4つの陸軍墓地があった。(豊橋の墓地はまだ訪問しておりませんでした)

墓地入口

陸軍墓地参道

合掌


支那事変・大東亜戦争 忠霊塔
(静岡陸軍墓地)

支那事変・大東亜戦争 忠霊塔

昭和12年から20年に亘る未曾有の大戦に勇躍祖国の難に赴き悠久の大義に殉じた郷土の勇士は7万の多きに及んだその忠烈悲壮鬼神を哭かしめ民族の歴史を彩り護国の礎となった 我等戦友8千有余相図り茲に由緒の深い陸軍墓地を卜して忠霊塔を設け英魂を慰め偉勲を顕彰する
   昭和43年8月31日
    静岡聯隊址碑建設期成会 建立


満州事変戦病死者合葬碑
(静岡陸軍墓地)

満州事変戦病死者合葬碑

昭和11年10月建立
陸軍中将 岩越恒一 書

岩越恒一は、昭和10年3月から昭和11年3月まで、第3師団長であった。静岡聯隊(歩兵第34連隊)は、第3師団隷下。


昭和三年 支那事変 陣歿者之碑
(静岡陸軍墓地)

昭和三年 支那事変 陣歿者之碑

陸軍中将 安満欽一

安満欽一は、昭和3年を含む、1926年(大正15年)7月から1929年(昭和4年)8月まで第三師団長であった。

ここでいう「昭和3年支那事変」は、昭和12年のいわゆる日中戦争ではなく、「山東出兵」のことをいう。


明治三十七八年役 戦死病者追悼碑
(静岡陸軍墓地)

明治三十七八年役 戦死病者追悼碑
元第3師団長陸軍大将正三位勲一等功二級子爵大島義昌建

大島義昌は、日露戦争時の第3師団長。
ちなみに安倍晋三は、大島義昌の玄孫(父方の祖母が大島の孫娘)にあたる。

戦病死兵卒之碑
戦病死下士之碑
戦病死准士官之碑
戦病死将校同相当官之碑

順番に、碑が大きくなっている。

戦病死兵卒之碑

戦病死下士之碑

戦病死准士官之碑

戦病死将校同相当官之碑


大正三・四年戦役 戦病死下士兵卒碑

大正三・四年戦役 戦病死下士兵卒碑

揮毫者、読み取りできず、、、

第一次世界大戦の日独戦争のことを、大正三・四年戦役と称する。


戦没馬犬鳩 慰霊
(静岡陸軍墓地)

戦没馬犬鳩 慰霊

明治天皇御製
 人ならばほまれのしるし 授けまし
 軍のにはにたちし荒駒

明治百年紀念
 歩兵第24聯隊 桜友会有志建立
  昭和46年8月15日


墓標群(静岡陸軍墓地)

個人の墓標が一角にあつまっていた。
将校の墓、下士官の墓、それぞれに。

陸軍歩兵大佐 関谷銘次郎之墓

陸軍歩兵中佐 橘周太之墓

日露戦争の遼陽会戦(首山堡の攻撃)で、歩兵第34聯隊の関谷銘次郎連隊長、橘周太第1大隊長が戦死している。


ドイツ兵捕虜の墓(静岡陸軍墓地)

第一次大戦で捕虜となったドイツ兵(日独戦ドイツ兵捕虜)病死者の墓碑。

Hier ruht in Gott
(Der Matrosen altilierist Gust.Mathais geb.10.1.95. gest.13.4.15.)
Er starb den Heldentod
fürs Vaterland

ここで神とともに安らぎを
(水兵のグスタフ・マタイスは 1995 年 10 月 1 日に生まれ、2015 年 4 月 13 日に亡くなった。)
彼は、祖国のために、英雄的な死を遂げた

2024年4月に、案内板が新設されている。
ニュース映像から。

ドイツ人俘虜のお墓
ドイツ海軍一等砲兵グスタフ・マタイスここに眠る
 第一次世界大戦中の大正3年12月から大正7年8月、千葉県の習志野収容所に統合されるまで、静岡県静岡市にも戦争俘虜収容所が開設されていました。開設時には107名のドイツ人およびオーストリア・ハンガリー人が収容され、かれら俘虜たちは指物や玩具、麺や菓子製造の技術指導を行ったり、サッカーを静岡県に伝えたりしたという記録も残されています。
 ここには、西南ドイツのエトリゲン出身の海軍砲兵、グスタフ・マタイス(1893~1915享年22歳)が葬られています。マタイスは青島(当時中国にあったドイツ租借地)の戦いで負った弾丸による額の傷が原因で、脳膜炎のため大正4年4月13にに静岡県の衛戍病院(陸軍病院)で亡くなりました。その後長きにわたり、地元の方々が大切にお墓を管理してくださたことに感謝をこめて、日独の友好の証としてドイツ連邦共和国大使館が令和6年4月にこの記念碑を設置しました。
 協賛 ドイツ連邦共和国大使館 東京
  2024年4月5日


陸軍歩兵第34聯隊墓地(静岡陸軍墓地)
遺構

軍用地の境界柵の柱が林立している。


陸軍歩兵第34聯隊墓地(静岡陸軍墓地)
正門

こちらが正門。
私が最初に入場した出入り口は脇だったようで。

陸軍墓地

よく整備された陸軍墓地でした。

ありがとうございます。

撮影:2023年12月

場所:

https://maps.app.goo.gl/NPAh6hRXV8LPycBG7

「駿府静岡の戦跡散策・その3」


陸軍墓地関連

はじめに

駿府城公園と歩兵第三十四聯隊(駿府静岡の戦跡散策・その1)

静岡県静岡市。
東海地区の要所である駿府城を中心とした静岡市内の戦跡散策をしてみました。

本編は、「その1」です。


歩兵第三十四聯隊

帝国陸軍は、日清戦争終結後の明治29年(1896年)に、ロシアとの戦争を念頭に師団の強化を計画し、そして新設された聯隊。
明治29年12月に、歩兵18聯隊が設置されていた豊橋に、歩兵34聯隊の本部が発足し、明治30年3月に静岡に移転。
日露戦争においては、歩兵第34聯隊を含む第3師団は、遼陽会戦、奉天会戦などに参加。歩兵第34連隊第1大隊長の橘周太(橘中佐)は、首山堡攻撃で戦死し軍神として橘神社に祀られている。
日露戦争では、歩兵第34聯隊は、約5000人が従軍し、そのうち1112人が死亡したという。
太平洋戦争中は、中国戦線に展開し大陸打通作戦に参加、安徽省蕪湖で終戦を迎えている。

歩兵第三十四聯隊は、別称「静岡連隊」「岳南連隊」、そして、軍神にちなみ、「橘連隊」とも呼称されていた。現在、静岡県御殿場市の板妻駐屯地に展開しているの陸上自衛隊第三十四普通科連隊は、静岡の旧陸軍歩兵三十四聨隊の部隊番号を引き継ぎ、橘連隊・橘精神を受け継いでいる。

陸上自衛隊第三十四普通科連隊(橘連隊)
以下は練馬駐屯地にて


歩兵第三十四聯隊址碑(駿府城公園)

歩兵第三十四聯隊阯

建碑のことば
この城域は明治三十年歩兵第三十四連隊を置かれて以来、岳南士風発祥の地となり国難に際しては軍旗の下幾万将兵を遠く国防の第一線に送って来た。
この間軍神橘中佐を始め、幾多将士の健闘により感状を授与されること三十余回、武勲は燦然として青史に輝いている。
さりながら特設された多数部隊をも含めて大陸の広野に絶海の孤島に玉砕散華した勇士はその数を知らず、忠霊の汗と魂とは城内一握の土一塊の土にも今なお深く浸み透っている。
これら先烈の偉勲を顕彰し、その精神を後世に遺さんがため我ら同志八千有余名、相図って茲にこの碑を建立した所以である。
 昭和四十二年十一月三日
  静岡連隊関係者有志建立
 つわものがとどめしいさを 
  橘のかをりとともに永久に匂はむ

軍歌「橘中佐」は鍵谷徳三郎作詞・安田俊高作曲。
歌碑には第1節(遼陽城頭夜は闌けて~)と第4節(敵の陣地の中堅ぞ~)が刻まれている。

軍神 橘中佐
 遼陽城頭 夜は闌けて
 有明月の 影すごく
 霧立ちこむる 高梁の
 中なる塹壕 声絶えて
 目醒め勝ちなる 敵兵の
 胆驚かす 秋の風

 敵の陣地の 中堅ぞ
 まず首山堡を 乗っ取れと
 三十日の 夜深く
 前進命令 忽ちに
 下る 三十四聯隊
 橘大隊 一線に

歌碑に寄せて
この軍歌は陸軍教授鍵谷徳三郎氏が作詞、安田俊高氏の作曲にかかり、前後三十二節より成っている。
明治大正昭和三代に亘って全国津々浦々に愛唱せられ、これにより岳南勇士の名声高揚に果たした役割は大きい。
今、連隊址碑を建立するにあたり、その一部を抄出して石に刻み後世に遺す。
 昭和四十二年十一月三日
  静岡連隊址碑建設期成会建立

記念碑

大正丙寅年(大正元年・1926)12月建立。

場所

https://maps.app.goo.gl/q8Np5A8BUhRs5fkx6


行幸御野立所跡

昭和天皇は、昭和5(1930)年5月28日から6月3日、地方視察の一環として、一週間の日程で静岡県巡幸をなされた。
昭和天皇は、駿府城内の歩兵第三十四聯隊の演習を観閲された。

5月29日
行幸御野立所跡

場所

https://maps.app.goo.gl/wyn4SsMptm1XtTYq6


やすらぎの塔(動員学徒慰霊塔)

地震により、2001年に銅像は解体され台座のみとなっている。
かつては、学徒をかたどった白い男女の像が台座の上にあった。
再建運動はあるが、なぜか再建されていない。
1958年建立。

動員学徒
やすらぎの塔
 内閣総理大臣岸信介書

やすらぎの塔
駿府城頭はるかに富士をのぞみ民族の悲劇に散った動員学徒の像が年経た今人々の心に刻まれた美姿そのままにひたすら霊よやすらかなれと祈りをこめて静かに建立された。 純潔にして凛々しかった君たち若人らは国家と運命を共にして一片の名誉すらなく献身の一字に消えた。 しかしながら人々はすべての悲善愛憎をのりこえて、この前にぬかずきふたたびくりかえすまじきことを誓って新たなる市民の使命を見出さんとしている、 君たち動員学徒の霊が限りなく希っているであろう自由と平和と真理のある国にすべく人々は君たちの像を永遠に仰ぎ見る。    
 昭和33年11月23日  
  静岡県知事 
   斎藤壽夫

場所

https://maps.app.goo.gl/tab5MjCQvD3M3Whp8


とこしえの塔(戦争犠牲者追悼碑)

戦争犠牲者追悼碑
静岡市は太平洋戦争により昭和19年(1944)12月7日から20年8月1日までの間に16回にわたり米軍機による空襲を受けました。 とりわけ昭和20年6月19日深夜から20日未明にかけてB29爆撃機123機による大空襲を受け市内のほとんどが焦土と化しました。これらの空襲により静岡市民2000余人の尊い人命と貴重な財産が失われました。 またひたすら祖国の安泰と家族の幸せを念じつつ幾多の戦場に散った静岡市出身の軍人軍属塔等7900余人の尊い犠牲も生じました。 私たち静岡市民はこのような悲惨な戦争を拒否し日本憲法の示す精神を体して昭和35年(1960)3月25日静岡市平和都市宣言をして永達の平和を誓いました。 いま終戦50周年(1995)を迎えるに当たり市民の血のにじむような努力により復興した県都静岡の市民憩いの地に戦争のむなしさを永く記憶にとどめ多くの犠牲者を追悼するとともに世界の恒久平和を祈念してこの碑を建立しました。   
 平成7年8月15日 
  静岡市長 小島善吉

静岡市戦災被爆地図

鳩と親子。
金の鳩がひときわに眩しい。

場所

https://maps.app.goo.gl/R9UHkZnA2FruaPePA


駿府城址

駿府城の東御門・巽櫓(復元)

東御門

鷹狩の家康公

天守台の発掘調査

駿府城の二ノ丸の南西の坤櫓(復元)

場所

https://maps.app.goo.gl/7QRK2Pe6rtFTAUwP8


陸軍歩兵第34聯隊の練兵場跡
(安東練兵場)

駿府城の北東に練兵場があった。

城東町と練兵場
この地は、もとは旧安東村と旧千代田村にかけて設けられた陸軍歩兵第34連隊の練兵場であった。
この石標は、明治30年(1897)に陸軍省用地の境界標識として先宮神社の北側に設置され、その後城東町の発足に伴い、この場所に移されたものである。
城東町は、昭和21年(1946)練兵場跡地に静岡市が戦災者および引揚者のために簡易住宅を建設したことに始まる。昭和25年城東町(通称)厚生会が設立され、昭和33年に大字北安東、緑町、水落三丁目の各一部を合わせて城東町が正式に発足した。
城東町厚生会は、平成6年(1994)城東町町内会と改称され、現在に至っている。
 平成10年12月 静岡市

境界標柱。

陸軍省所轄地

ちかくには、「講堂」(ガス訓練講堂)があったが、2023年6月に解体された。更地。。。

ストリートビューには残っている。。。

場所

https://maps.app.goo.gl/b94wAZv4hNwZouUx8


駿府静岡の戦跡散策・その2 へ

※撮影:2023年12月


伊藤整一提督手植えの「父子桜」(杉並区大宮)

一億総特攻の魁となった「戦艦・大和」と、「司令長官・伊藤整一」
伊藤整一提督が、杉並の自宅の庭に手植えをしたという桜は、樹齢80年を超え、今も見事な桜を咲かしている。


坊ノ岬海戦

昭和20年4月6日、沖縄へ海上特攻として出撃した、世界一の大戦艦「大和」。
「大和」は、米軍機との激しい戦闘を繰り広げ、大和は轟沈した。
大和海上特攻を指揮した司令長官が、伊藤整一であった。

昭和20年4月7日14時23分。
大日本帝国海軍の栄光を担った戦艦「大和」。
象徴でもあった戦艦「大和」
一億総特攻の魁として、坊ノ岬沖に散華した。

第二艦隊旗艦「大和」
第二艦隊司令官・伊藤整一中将
第二水雷戦隊旗艦・軽巡「矢矧」 司令官・古村啓蔵少将
第四十一駆逐隊(冬月、涼月)
第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)
第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)

大和・矢矧・磯風・浜風・朝霜・霞が沈没。 戦死は約4000名。


伊藤整一と伊藤叡

伊藤整一
1890年〈明治23年〉7月26日 – 1945年〈昭和20年〉4月7日
海軍兵学校39期。最終階級は海軍大将。

坊ノ岬海戦に出撃した、大日本帝國海軍 聯合艦隊 第二艦隊の司令長官 伊藤整一海軍大将(出撃時は海軍中将)は、昭和20年4月7日に、旗艦大和と命を共にした。

作戦に際して、第五航空艦隊司令長官であった宇垣纏中将は、出撃中の第二艦隊に対して途中まで護衛戦闘機隊を出撃させたが、その護衛戦闘機隊の中に伊藤整一の長男である伊藤叡(あきら)中尉(兵72期)搭乗の零式艦上戦闘機も含まれており、父親の最期を空から見送った。

そして、伊藤長官の戦死から3週間後、搭乗割の変更を自ら申し出て、沖縄特攻に志願した長男・伊藤叡中尉。
伊藤叡中尉は、神風特別攻撃隊直掩隊として出撃。4月28日、伊江島(いえじま)上空に散花した。21歳であった。


父子桜

伊藤整一第二艦隊司令長官が出撃前に、杉並の自宅に手植えをしたソメイヨシノ。
大空襲を乗り越えて焼け残ったその木の根から珍しいことにひとつの枝が伸びた。その姿はまるで戦死した父と子が桜になって共に立っているかのようで、いつしか父子桜と呼称された。

そして、毎年4月7日になると満開の桜の花を咲かせるという。

杉並の伊藤提督手植えの桜は、伊藤整一出身の福岡県みやま市の地域住民を中心とした「大和さくらの会」によって、全国各地へ「父子桜」の苗木植樹活動が行われれている。

なお、杉並の父子桜は、個人宅敷地内となるために、詳細な場所は割愛させていただきます。
場所は、大宮八幡裏手の高千穂大学の近く、国府道沿い、です。

大宮八幡宮の近く。

※撮影:2024年4月


「野重八之碑(野戦重砲兵第八聯隊碑)」と「近衛野砲兵聯隊碑」(三宿駐屯地・陸自衛生学校)

桜の開花タイミングとはずれてしまったけど、世田谷区の三宿駐屯地が一般開放(桜並木の通り抜け)を実施していたので、足を運んでみました。


野重八之碑(野戦重砲兵第八聯隊)

野重八之碑
 下野一霍書

野重八とは、野戦重砲兵第8聯隊のこと。
下野一霍は、最終階級は陸軍中将。
1935年(昭和10年)3月、野戦重砲兵第8連隊長

野戦重砲兵第八聯隊は、我が国最初の機械化砲兵として大正11年8月15日創設せられ昭和20年大東亜戦争の終結に至るまでこの地に在り、その間日支事変及び大東亜戦争に際しては独立野戦重砲兵第八聯隊、同第十五聯隊、同第十六聯隊、同第二十聯隊を編成し十糎加農を装備せる、これら諸隊は軍砲兵として各地に転戦し赫々たる武勲を建てたり。ここに、これら諸隊に属せし元将兵一同これを記念して、この碑を建つ。
 昭和47年4月8日
  野重八会有志


近衛野砲兵聯隊の碑

近衛野砲兵聯隊は明治4年(1871年御親兵砲隊として竹橋に設置せられ、同31年(1898年)6月依頼にこの地に駐屯し、日夜皇居の非常号砲勤務に任じた。
この間、北白川宮成久王、成久王御父子二代にわたり、長期間在隊された由緒深い聯隊である。また西南、日清、日露の各戦役、日支事変、大東亜戦争に従って輝かしい勲功をたてた。
ここに縁故者有志相はかって記念碑をたて永く後世に伝える。
なお、この聯隊歌は昭和7年北白川房子内親王の御作によるものである。
 昭和43年12月
  藤江恵輔

藤江恵輔は最終階級は陸軍大将。
鈴木貫太郎の娘を妻とする。
野戦重砲兵第4旅団長を努めていた。
野戦重砲兵第4旅団隷下に、近衛野砲兵聯隊と野戦重砲兵第8聯隊があった。

北白川房子内親王(北白川宮成久王の妃)
「聯隊歌」の碑

 房子内親王
いぬる明治の大御代に
 屯をここに定められ
 忠勇奉公献身の
 心に生くる世田谷乃
あゝ、わが近衛野砲隊
 名誉は高し
  任重し

縁故者


陸自衛生学校として。

仁の碑

「仁」について
 「仁」は歴代校長の掲げられた衛生学校の指導理念であり、その意味するところは端的に申せば他人に対する慈しみの心である。人が二人と書いて「仁」である。一人は自分であり、もう一人は相手の人である。
 相手に対して自分と同等の人格を認め、相手の喜び、痛み、悩み、苦しみ、そして悲しみを自分のものとして受け止める心が「仁」の心であり、衛生科精神として示されている「骨肉の至情」・「挺身奉仕」の精神そのものに他ならない。
 我々衛生科に職を奉する者は、有事・平時を問わず「仁」に裏付けされた衛生科精神の涵養と衛生科技術の修得に努め、「一人でも多く生き残らせる」衛生支援に徹することが肝要である。
 昭和63年10月吉日
  第18代衛生学校長
   陸将補 芳賀 稔

陸上自衛隊 衛生学校


彰古館(医学情報史料室)

軍事医療、医学情報の史料館。事前申込制。
この日は、非公開でした。


三宿駐屯地 桜の通り抜け一般公開

3月23日の訪問。
例年より開花が遅れ、公開日に桜が咲いていない事態となったが、仕方がない。

わずかに咲いている桜を発見。

散策開放エリアは、衛生学校の中心部のみ。

陸上自衛隊 三宿駐屯地
陸上自衛隊 衛生学校

自衛隊中央病院

正門、ちなみに荷物チェックは無しでした。

防衛装備庁次世代装備研究所もある。

自衛隊中央病院

用廃のUH-1H。

東門。


世田谷区立平和資料館

東門の先には、世田谷公園。
かつては、駒沢練兵場であった。
世田谷公園に資料館があるので足を伸ばしてみた。

いろいろ配布資料もあります。

世田谷の戦跡

世田谷区の主な軍事施設跡地図

大正末期の世田谷地域軍事施設所在地

世田谷区とは関係ないけど、興味深かったのが、
「御真影 勅語 運搬箱」

そのほか

※撮影:2024年3月


関連


「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和6年)

令和6年(2024年)。終戦から79年を迎える年。
今年も靖國神社の桜花を愛でる。
毎年恒例。
御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。
「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。

境内に献木された桜たち。
一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、花を咲かせる。
靖國の桜花「靖國櫻」には御英霊の御心が宿っている。
感謝を。哀悼を。

ありがとうございます。

以下、写真にて。


2023年4月5日の早朝

2023年の東京の開花宣言は、3月29日であった。
訪れたのは、4月5日の早朝。雨模様だったが、ちょうど満開のタイミング。

散る桜 残る桜も 散る桜
 良寛和尚

奉頌歌「靖國神社の歌」

日の本の 光に映えて
尽忠の 雄魂祀る
宮柱 太く燦たり
  あゝ大君の 御拝し給ふ
  栄光の宮 靖國神社
日の御旗 断乎と守り
その命 国に捧げし
ますらをの 御魂鎮まる
  あゝ国民の 拝み称ふ
  いさをしの宮 靖國神社
報国の 血潮に燃えて
散りませし 大和をみなの
清らけき 御霊安らふ
  あゝ同胞の 感謝は薫る
  桜咲く宮 靖國神社
幸御魂 幸はへまして
千木高く 輝くところ
皇国は 永遠に厳たり
  あゝ一億の 畏み祈る
  国護る宮 靖國神社

奉頌歌「靖國神社の歌」 
昭和16年(1941)3月  
献納:主婦之友社 
作詞:細渕国造 作曲:陸海軍軍楽隊

軍歌「同期の桜」

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
 みごと散りましょ 国のため

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
 なぜか気が合うて 別れられぬ

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に
 未だ還らぬ 一番機

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
 なぜに死んだか 散ったのか

貴様と俺とは 同期の桜
 離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
 春の梢に 咲いて会おう


軍歌「同期の桜」
昭和14年


2023年4月5日の夜

夜の参拝も。

※撮影:2024年4月5日


関連

陸軍経理学校「若松神社」(現・上鈴木稲荷神社)と「小平駐屯地」

2024年3月24日に、小平駐屯地一般開放(観桜一般開放)がありましたので、足を運んでみました。


陸軍経理学校

陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育、あるいは経理官への上級教育を行っていた陸軍学校。教育に限らず陸軍経理に関する調査と研究なども行っていた。陸軍経理とは会計だけに限らず、監査、被服、糧秣、建築も職務に含まれていた。

明治19年(1886)に陸軍軍吏学舎が設置されたことに始まる。
明治23年(1890)に陸軍軍吏学舎を廃止、陸軍経理学校を開校。
明治33年(1900)に「陸軍経理学校本校」を東京市牛込区河田町に移転。陸軍士官学校の「市谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」の愛称で呼称されることとなる。
昭和17年(1942)3月、陸軍経理学校は戦争による生徒、学生、幹部候補生等の人員増加のため、東京府北多摩郡小平村に移転。昭和20年8月の敗戦により閉校。

詳細は、下記にて


小平駐屯地

昭和29年に陸上自衛隊小平駐屯地として開設したことにはじまる。
小平駐屯地は、もともとは陸軍経理学校のあった場所。しかし往時を偲ぶものは駐屯地内には残っていない。
陸軍経理学校の正門は、警察学校側となり、小平駐屯地側は裏側になる。

一般公開で足を運んでみたものの見どころは少なく、小平駐屯地内の「史料館」を拝見できるのがメリットぐらい。ちなみに史料館内部は撮影禁止。

史料館のスタッフに、「警察学校の正門以外で、陸軍経理学校時代の遺構ってないですよね?」ときいてみたところ、スタッフから「小平駐屯地には遺構はないです」「陸軍経理学校の若松神社は、戦後に上鈴木神社の本殿に流用され、本殿と鳥居が陸軍時代のもの」とお伺いできたのは、大収穫。
これは行ってみましょう。
ちなみに「警察学校のプールも陸軍経理学校時代のまま残っている」とのことですが、そこは見学ができないので。。。


陸軍経理学校の校内神社「若松神社」御社殿と石鳥居
(現:上鈴木稲荷神社)

陸軍経理学校の校内神社であった「若松神社」の御本殿と鳥居が流用され現存している。

陸軍経理学校は、もともと若松河田の地にあり「若松台」と呼称されていたことから昭和17年に小平に移転しても「若松台」の名称は継承されてしており、陸軍経理学校の校内神社も「若松神社」と呼称されていた。
石鳥居は、昭和18年(1943年)の造営。本殿社殿も同じ頃と推測。
上鈴木稲荷神社には戦後の昭和24年に払い下げされている。

御由緒

昭和24年に、陸軍経理学校の若松神社から払い下げられたことがわかる。

石鳥居の右側に陸軍の鳥居であった証が刻まれている。

陸軍主計中将 従四位勲二等 迫栄吉 禁書

迫栄吉は、1941年(昭和16年)8月25日に陸軍主計中将に進級し、昭和16年12月1日に「陸軍経理学校長」に就任し、昭和20年4月まで、太平洋戦争のほぼすべての期間を陸軍経理学校長であった。
1945年(昭和20年)4月7日に第1総軍経理部長となり終戦を迎えている。

昭和18年2月建之

木曽周太郎

木曽氏の詳細は不明

上鈴木稲荷神社の拝殿

上鈴木稲荷神社の本殿覆殿
この内部に在る本殿が、陸軍経理学校の若松神社の御社殿。

茅葺きの社殿がわかる。

場所

https://maps.app.goo.gl/qGw8TiKsPu7CTKVYA


小平駐屯地「史料館」

小平駐屯地内。
史料館には、小平になった陸軍経理学校と、中野にあった憲兵学校に関係する史料が展示。なお、内部は撮影禁止。

小平駐屯地の史料館の建屋が古めだったので、スタッフに由来を聞いてみたところ、陸軍時代のものではなく、東立川にあった米軍占領時代の建屋を移設したものだ、とのこと。

2001年に調査学校(情報要員養成)と業務学校(会計、警務などの業務要員養成)が統合してできたのが、「小平学校」。
小平学校は自衛隊の任務遂行の基礎となる警務・会計・人事・法務・システム等の実務全般にわたる幅広い教育を担任する陸上自衛隊唯一の教育機関であり、事務官や海空自衛隊も含めた自衛隊員にとっての「実学の府」。


小平駐屯地一般開放

観桜一般開放だったけど、観桜はまだな基地公開。

陸上自衛隊小平駐屯地

陸上自衛隊小平学校

本部庁舎

校風
国の安危を擔うべき身たるの修養
これがため、常に疑問を持ち、想像力を働かせ、与えられた可能性に挑戦する勇気をもって、任務を完遂せよ。

校章は、5枚のカラフルな銀杏。

https://www.mod.go.jp/gsdf/kodaira/song_mark.html

食堂・厚生センター

桜とタイミング合わせるのは、なかなか難しいですよね。。。

公式サイト

https://www.mod.go.jp/gsdf/kodaira/index2.htm

場所

https://maps.app.goo.gl/pmQfWNTnRbAMS3Yg7

撮影:2024年3月


用賀駐屯地・陸軍衛生材料廠跡地散策(世田谷)

東京都世田谷区上用賀にあった陸軍の施設。その跡地を散策してみました。
なお、2回にわたり散策しているために、撮影日によって晴天だったり曇天だったりしています。


陸軍衛生材料廠
(現:陸上自衛隊用賀駐屯地ほか)

近代的な軍隊を維持するために、必要不可欠なのが医療衛生機関。
衛生材料と獣医材料等の制作、購買、補給などを行っていた。
もともと帝国陸軍の衛生材料廠本廠は、白金台にあったが大正12年の関東大震災で被災し、昭和4年に用賀に移転した。
また支廠は各師団司令部に付随して開設されていた。

用賀の陸軍衛生材料廠は、現在の陸上自衛隊用賀駐屯地、国立医薬品食品衛生研究所、駒沢大学附属高校、覆馬場などを含むエリアにあった。
陸軍の衛生機関を継承した陸上自衛隊用賀駐屯地は、旧陸軍衛生材料廠の跡地に位置し、米軍の接収を経て1963年(昭和38年)3月31日に開設。旧軍時代から衛生材料の兵站中枢を担っている。

なお、この地にあった「国立医薬品食品衛生研究所」は川崎に移転しており、用賀支処は2029年(令和11年)度以降に防衛省三宿地区(世田谷区・目黒区)に、東京音楽隊は2024年(令和6年)度に東立川地区(立川市)に、それぞれ移転する予定があるという。

移転後の建屋がどうなるかは不明。解体されるかもしれず、いまのうちに見ておくのが良いかも、です。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M871-132_19480329
昭和23年(1948年)3月29日、米軍撮影の航空写真。

一部加工。


陸上自衛隊・用賀駐屯地

2024年3月23日に、用賀駐屯地一般開放が実施されました。桜見学という名目の一般開放でしたが、桜はまだ咲かず、見学者も皆無な状態でしたが、隊員さんの案内ガイド付きで貴重な建屋を見学できました。
ありがとうございます!
案内をしていただいた隊員さんによると、なんと20年ぶりの一般開放だったとか。格別な集客の広報もされていなく、地元周辺住民との交流をメインとした公開は、シークレット的な状態で、かなり偶然の産物で足を運べた私は、かなりラッキーでした。

関東補給処用賀支処

陸上自衛隊用賀駐屯地


陸軍衛生材料本廠跡碑

陸軍衛生材料本廠跡
 元陸軍薬剤中将 田口文太 書

昭和40年5月建立

揮毫した、田口文太は、日本の陸軍で活躍した薬剤師。
東京第一衛戍病院での勤務を経て、陸軍衛生材料廠廠長、陸軍薬剤総監、田辺製薬株式会社顧問、静岡女子薬学専門学校校長(初代)などを歴任。
1931年(昭和6年)に、陸軍省の外局である陸軍衛生材料廠にて廠長に就任。
1935年(昭和10年)には陸軍薬剤総監に就任し、陸軍全体における薬剤師の最高位を占めた。最終階級は陸軍薬剤中将。


陸軍衛生材料廠・蹄鉄工場

現在、陸上自衛隊用賀駐屯地内にある「陸軍衛生材料廠・蹄鉄工場」は、昭和4年の造営。
用賀駐屯地内で許可を得て撮影。

以下は、敷地外から。
「国立医薬品食品衛生研究所」が解体されたので、敷地外からよく見えるようになった。


陸軍衛生材料廠・倉庫建造物3棟

3棟ならんでいる建造物も、陸軍衛生材料廠時代の建物。
南側2棟は、蹄鉄工場と同じく昭和4年造立。北側の1棟は、それよりも新しいという。
ドイツ人の設計による倉庫建造物は、東西南北にそれぞれ出入り口を設けており、倉庫内の東西には庫内の物流をスムーズにするためにレールが引かれている。

レールの跡がわかる。


国立医薬品食品衛生研究所跡地

国立医薬品食品衛生研究所敷地内にも往時の建物があったらしいが、2022年から解体が始まり、すでに更地。


陸軍衛生材料廠・境界壁

外壁は、陸軍衛生材料廠時代のものという。

上部が波打っている意匠的な境界壁は、ほかではあまり例を見ない。

この部分は民家の壁になっている。デザイン的に切り取ったのかもしれない?


「陸上自衛隊」交差点

交差点の名称が「陸上自衛隊」。そのものズバリ。


陸軍衛生材料廠・周辺散策

昭和薬科大学世田谷校舎跡地

駒澤大学高等学校

海上自衛隊 東京音楽隊

※移転予定

JRA覆馬場(馬事公苑)

最寄りの桜新町は、サザエさんの街ですね。

※撮影:2024年3月


関連

東洋のマタハリ・男装の麗人、満洲国建国に協力した清朝王女「川島芳子」墓と記念室(松本)

信州松本に訪れた際に、川島芳子が松本に縁があったと知り、足を運んでみました。雪が降っていたけれども。。。


川島芳子

川島 芳子(かわしま よしこ)
1906年5月24日 – 1948年3月25日
清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。
本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)
字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子、他に芳麿、良輔とも。

父の粛親王は、中国清朝末期の皇族で、清朝で近代化改革を促進したが、辛亥革命時に北京を脱出し、日本陸軍参謀本部の保護を受けて旅順に逃避。そのときに8歳であった愛新覺羅顯㺭(第14王女)は、父の粛親王の顧問だった川島浪速の養女となった。

川島浪速は、信州松本藩士の家に生まれ、中国語を学び1900年の義和団の乱の際は、陸軍通訳官として従軍。
日本軍撤退後は、清国に雇用され中国初の近代的警察官養成学校であった北京警務学堂の総監督に就任し、義兄弟の関係を結ぶほどに粛親王と深い親交があった。

愛新覺羅顯㺭は、川島浪速の幼女となり、川島芳子という日本名で日本で教育を受けることとなった。
1915年に来日した川島芳子は、当初東京赤羽の川島家から豊島師範附属小学校に通学。
卒業後は跡見女学校に進学。
やがて川島浪速の転居にともない長野県松本市の浅間温泉に移住。松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に聴講生として通学。松本高等女学校へは毎日自宅から馬に乗って通学していたエピソードが残っている。

17歳でピストル自殺未遂事件を起こした後、断髪し男装するようになり、マスコミも取り上げ、「男装の麗人」と呼ばれるようになった。
昭和2年(1927)に、19歳で蒙古族の巴布扎布(パプチャップ)将軍の二男カンジュルジャップと結婚するが3年で離婚。カンジュルジャブは満州国軍の軍人で最終階級は陸軍中将。
離婚後は、上海にわたり、上海駐在武官の田中隆吉少佐と親交を深る。
昭和6年(1931)の満洲事変では、天津から満洲へ愛新覚羅溥儀の皇后である婉容を天津から連れ出すことに協力し、婉容を天津から旅順へ護送する任務を担った。
また、第一次上海事変にも関わったとされている。

昭和8年(1933)、関東軍の熱河省進出のため熱河自警団(熱河民国連合定国軍、安国軍または定国軍とも)が組織され、川島芳子(金璧輝)は総司令に就任し熱河作戦に従事したことをきっかけに、川島芳子は「東洋のマタ・ハリ」、「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれることになった。関東軍も「清王朝の王女が率いる義勇軍」として最大限に有効活用した。
ただ昭和9年(1934)以降は、関東軍と満洲国を巡って軋轢が生まれており、軍部批判も行っており、監視対象となっており、芳子は料亭「東興楼」を経営し女将となり、第一線で話題にあがることも少なくなっていた。

昭和16年(1941)から昭和20年(1945)の太平洋戦争中は、川島芳子は満洲国を出ずに、特に目立った活動はなかった。

昭和20年の日本敗戦後、10月に北平で中国国民党軍に逮捕された川島芳子は、漢奸(中国語で「国賊」「売国奴」の意)として訴追され、1947年10月に死刑判決が下され、1948年3月25日に北平第一監獄の刑場で川島芳子は銃殺刑に処された。41歳であった。
奇しくも、第一次世界大戦でフランス軍によってマタ・ハリが処刑されたのも41歳で、没年が同じ歳であった。

川島芳子の遺骨は、後に信州の養父・川島浪速のもとへ届けられた。1949年に浪速が83歳で死去すると、芳子の遺骨はともに松本市蟻ヶ崎の正麟寺にある川島家の墓に葬られた。

川島芳子 辞世の詩
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず 
法あれども正しきを得ず 
冤あれども誰にか訴えん


川島芳子の墓(正麟寺)

養父であった川島浪速と一緒に葬られている。

國士 川島浪速墓
    同婦人 福子
    同女 芳子

男装の麗人
 川島芳子さん
 川島芳子さんは、1906(1907) 年、清国 粛親王の第13王女として生まれ、大正3年 9歳のとき、旧松本藩士で当時の満蒙に活躍し国士といわれた故川島浪速翁の養女となり、同翁とともに浅間温泉に居を移し、松本高等女学校(現 蟻ケ崎高校)に入学、馬に乗って通学するなど、お転婆娘といわれ 市民の話題の的となった。
 その後 戦前の中国大陸を舞台に男装の麗人といわれ、満洲国建立のため大活躍をし有名を馳せたが昭和23年2月、42歳の若さでその波乱の生涯をとじました。

男装の麗人
川島芳子さんの墓案内図

最初、適当に墓所を巡っていて迷子になりまして。
正麟寺の奥、松本市営葬祭センターの脇に看板がありまして、見れば、迷うこと無く。

川島家の墓。

合掌

肅忠親王善耆(川島芳子の実父)の書碑が、川島家の墓所に建立されている。

正麟寺

曹洞宗蓬莱山正麟寺
(小笠原長時公菩提寺)
 室町時代中期に草創され、古くは少林寺と号した。天正11年(1583)に長時公の菩提寺となり、長時公の法名正麟に因んで、正麟寺に改められる。
 明治の廃仏毀釈で一時無住となるが、復興し、永平寺直末となる。墓地には「男装の麗人」といわれ、満州国建国に尽力した川島芳子の墓がある。
 平成22年7月
 白板地区史跡研究会

場所:

https://maps.app.goo.gl/jpz4SFLd7f8qmkVB9


長野県松本蟻ヶ崎高等学校
(旧・松本高等女学校)

川島芳子が通った松本高等女学校。現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校。


川島芳子記念室(松本市歴史の里)

松本市歴史の里には、川島芳子記念室がある。

松本市で少女時代を過ごした川島芳子のゆかりの品を展示する川。川島芳子記念室は川島芳子没後50年にあたる1998年に開設。

満洲国陸軍上将の軍服を着用した川島芳子

コレクション展示
川島芳子記念室
中国清朝の皇女として生まれ、のちに松本出身の大陸浪人川島浪速の養女となり、「東洋のマタ・ハリ」「男装の麗人」として知られた川島芳子の関係資料を展示。

川島芳子記念室
Memorial Room of Yoshiko Kawashima
 川島芳子は明治40(1907)年、清朝の皇族である粛親王(しゅくしんのう)の、第14王女として北京に生まれ、本名は愛新覚羅顕㺭(あいしんかくら けんし)。同44年、芳子が4歳のとき辛亥革命がおこり 清朝は崩壊、父親と親交のあった、松本出身の大陸浪人川島浪速(なにわ)の養女となり、日本で育ちました。
 芳子は川島の転居に伴い松本高等女学校に入学しますが、学校まで馬で通ったエピソードは有名です。
 20歳で蒙古族の将軍の息子と結婚するも、まもなく離婚。のち清朝の復活を願い、日本軍に協力して、さまざまな謀略工作に関わったといわれ、「東洋のマタハリ」、「男装の麗人」などと、世間の注目を浴びますが、その活動の実際は明らかになっていません。
 戦後 中国国民党政府に逮捕、「漢奸(国賊)」として昭和23(1948)年銃殺刑に処せられました。
 没後50周年にあたる平成10(1988)年、芳子を偲ぶ有志により、松本市歴史の里の前身である「日本司法博物館」(当時)内に、記念室が設けられました。

川島芳子資料室

川島芳子の書

日本人たる前に亜細亜人であらねば成ぬ

肅忠親王善耆(芳子の実父)の書(川島家の墓にある石碑の拓本か?)
川島芳子の書
川島浪速の書

愛馬(太郎)とともに。大正10年。
川島芳子は15歳。
松本高等女学校時代は、愛馬に跨って通学をしていた。

男装の川島芳子

川島浪速と川島芳子

王道
 若宮八幡神社寶前
  昭和丁丑夏日
   愛新覚羅氏第十一世
    肅親王 川島芳子

昭和12年の銘

大正十五年のサンデー毎日
川島芳子(川島芳麿)の記事。

東洋のジャンヌ・ダルク
逆転の美女川島芳子

男装の麗人川島芳子さん
満洲建国の為め東奔西走男子も及ばぬ活躍を続け建国史を採った女丈夫川島芳子さんは養子に擬せられて居る金辟王を伴い末朝した
写真甲子園ホテルに於ける川島芳子さんと金辟王

電送ニュース昭和9年12月19日

男装の麗人

川島芳子の直筆原稿(写し)

父上様 御前に

戒名

芳雲院龍種東珍大姉霊位
 浪速定

芳子の字は東珍であった。
実父の粛親王が養子に出すときに、東洋の珍客として可愛がられるようにとの願いをこめて「東珍」とつけた。

辞世の詩
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず 
法あれども正しきを得ず 
冤あれども誰にか訴えん
 川島芳子

川島芳子周辺地図。
実は、さきに川島芳子記念室を訪れて、そこで墓所を知って、足を伸ばした次第。

展示・休憩棟の川島芳子記念室がある。


旧松本区裁判所庁舎

「松本市歴史の里」内に。

重要文化財
旧松本区裁判所庁舎
明治41年(1908)、松本城二の丸御殿跡に建立。
明治後期の区裁判所庁舎の典型的な特徴を残す。

https://matsu-haku.com/rekishinosato/shisetsu


大庭駅

川島芳子記念室のある「松本市歴史の里」の最寄り駅は、アルピコ交通上高地線(通称・松本電鉄)大庭駅。

1921年(大正10年)10月2日、筑摩鉄道(後の松本電気鉄道、現在のアルピコ交通)により島々線として松本駅 – 新村駅間6.2 kmが開業。川島芳子が松本にいたときとほぼ同じ頃に開通。


松本城

雪の松本城。せっかく松本にいたので。

帰路の「特急あずさ」

※撮影:2024年3月


満洲関連

「ともちゃん地蔵」満洲難民収容所の悲話を伝承するお地蔵様(六本木)

麻布十番から六本木ヒルズへ抜ける道の途中に、戦争を物語るお地蔵様がいらっしゃいました。

この記事は、六本木の「ともちゃん地蔵」になります。
岩槻の「ともちゃん地蔵」は下記にて。

箱根や浜松にもありますが、まだ未訪問です。。。


ともちゃん地蔵

ともちゃん地蔵は、増田昭一さん(2020年12月に急逝、ドラマ「遠い約束」の原作者)が自身の体験をつづった「満州の星くずと散った子供たちの遺書 新京敷島地区難民収容所の孤児たち」に収められた「ともちゃんのおへそ」という伝承に基づく。
「ともちゃんのおへそ」は、のちに絵本にもなった。

公益財団法人中国残留孤児援護基金 中国帰国者支援・交流センター 

https://www.sien-center.or.jp/

ともちゃんのおへそ

https://www.kikokusha-center.or.jp/kikokusha/shuki/sm/hokuman_top.html

増田昭一の本

http://www.yumekoubou-t.com/raiburari/masudasyouitinohonn.html

~ともちゃんの おへそは お母さんの顔~

ともちゃん地蔵の碑
「お母さんに会いたいときはおへそを見なさい。きっとお母さんに会えるでしょう。」
ともちゃんのお母さんは収容所の死の床でそう言いました。
お母さんのお墓の前で毎日ともちゃんはおへそを眺めました。
そんなともちゃんも厳しい冬が来ると、身体をくの字に曲げておへそを見ながら死んでいきました。
遠い昔、中国の北の街にそんな子供たちがいたことを忘れないでください。
二度とこんな悲しみを子供たちに負わせないでください。
 2001年7月29日
 語りつごう ともちゃんの会
  代表 千野誠治

引き揚げ経験者で中国残留孤児の支援にも尽力した千野誠治さんは2014年に89歳でなくなっている。

ともちゃんの おへそは お母さんの顔

「ギャラリー壁」には千野誠治さんの作品なども展示してある。

ちかくの食堂の看板にも「ともちゃん地蔵」が。
「海南鶏飯(シンガポールチキンライス)」。

増田昭一さんの『満州の星くずと散った子供たちの遺書』を知った、千野誠治さんは「語りつごう、ともちゃんの会」を立ち上げ、絵本「ともちゃんのおへそ」を企画。
「ともちゃん地蔵」を、東京六本木を皮切りに、全国各地に賛同者を得て造立してきたという。
そうして、ともちゃん地蔵は、ここ六本木のほかに、箱根(阿弥陀寺)、岩槻(慈恩寺玄奘塔)、浜松(浜名区根堅)にある。

場所

https://maps.app.goo.gl/mA826kPq8xFJtmfG9

撮影:2024年1月


関連

浅草「まんしゅう母子地蔵」の願主も、千野誠治さん。

西多摩墓苑の「中国帰国者之墓」の建立にも千野誠治さんが関わっている。

東京大空襲と下町(墨田区北部・押上・東向島)

東京大空襲と下町。
錦糸町駅と亀戸駅周辺の社寺にある慰霊碑を巡ってみる。

慰霊巡拝を。


東京大空襲被災の鉄骨と焦木片
(多聞寺)

多聞寺に戦争遺産がいくつかあつめられていた。

東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨
 1945(昭和20)年3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、下町一帯は“炎の夜”と化した。この東京大空襲による下町は壊滅状態に陥り、死者10万人、重傷者11万人、100万人が家を失った。(犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明)
 この元浅草国際劇場の鉄骨(1998年現在、大部分は江戸・東京博物館に展示中)は、東京大空襲を語り継ぐ、数少ない歴史的“証人”である。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃団を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎり、天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人々が焼死した。目の前の痛ましくひきちぎられた鉄骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖がよみがえる。
 戦争の実相を伝える“証人たち”に静かに心を傾け、
 不殺生の誓いを新たにしましょう。
  隅田山 多聞寺

戦災の証言者
 パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の1991年8月12日、この木は荒川区西日暮里1丁目2番7号(旧、三河島4丁目3420番〜3421番)に新しくビルを建てるための堀削により発見されました。
 東京地域では、1942年4月18日から、1945年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。
 ここに展示されている木は、43回目の1945年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空襲で焼かれた木です。
 当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで罹災地域は、西日暮里を含め139ヶ所に及びました。
 戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるとともに、今、平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めています。
 1992年10月18日 戦災の木を保存する会

平和観音(多門寺)

平和観音
観自在菩薩の 手に蓮華を執って
一切衆生の身心の中に 本来清浄の理あることを表す
 弘法大師

貪りと瞋りと愚かしさに毒された私たちは、本来の仏さまのいのちに覚め、内なる心の平和と外なる世界の平和を具現し密厳仏国土建設への無尽の願いと誓いをこめて、ここに平和観音を建立し弘法大師御入定千百五十年御遠忌の報恩謝徳の行といたします
 南無大師遍照金剛
  仏紀二千五百五十年春
   墨田山多門寺山主
         檀信徒一同

東京大空襲の犠牲者と平和祈念の観音様。

多門寺。建立は慶長11年(1606年)。
隅田川七福神。

多聞寺山門は、墨田区に残る最古の建造物。
享保3年(1718年)の焼失後に再建。

場所

https://maps.app.goo.gl/BnFRsTa7SBSj82Jx9


戦災クスノキ(第二寺島小学校の戦災樹木)

東武線「東向島駅」近くにある「墨田区立第二寺島小学校」校庭の「くすのき(クスノキ)」。
樹齢400年以上ともいわれる。
墨田区の約7割が焼けた昭和20年3月10日の東京大空襲にも耐えた。

東向島駅の窓から覗くことも可能。

場所

https://maps.app.goo.gl/3op9PZU8J3EXgtjp8


平和地蔵尊戦災者慰霊之碑と戦災殉難者之精霊供養塔(吾嬬西公園)

吾嬬西公園の一角に平和地蔵尊と慰霊碑ある。
この地は、東京大空襲の犠牲者の仮埋葬地でもあった。

戦災殉難者之精霊供養塔

戦災者慰霊之碑
平和地蔵尊
 昭和三九年十月吉日建設 
  世話人一同

場所

吾嬬西公園

https://maps.app.goo.gl/MTipoh6smKvs9m5T6


戦災イチョウ(飛木稲荷神社の戦災樹木)

飛木稲荷神社の境内にひときわに存在感があるイチョウ(公孫樹)も戦災樹木であった。

社名の飛木の由来ともなっている御神木のイチョウは樹齢500~600年といわれ墨田区内随一の大木、区の天然記念物に指定されている。
暴風雨によって飛んできた銀杏の枝がこの地に刺さり、いつしか大樹となったそうで。

”身代り” 飛木の焼けイチョウ
名前の由来
昭和二十年 ( 1945年 ) 三月十日の東京大空襲で、ご神木 ( 神霊が宿っているとされる木 ) は、我が身を焦がし、懸命に災をくい止め、町の延焼を防ぎました。
そして幸いにも多くの人達が助かりました。 
ご神木は、戦災という大きな悲劇を乗り越え、数年を経て緑の芽を吹き出しました。
このようにたくましく生き延びた縁起のイチョウです。 今の世にあって、私達に生きる勇気と希望を与えてくれています。 
きっと焼けイチョウは、大変な戦争があったという事を、これから先も伝えてくれることでしょう。
 平成二十二年六月吉日 
  飛木稲荷神社総代一同

黒く焼け焦げた幹の木が、東京大空襲の焼夷弾の火勢を物語っている。

国威宣揚
 昭和八年四月建之

場所

https://maps.app.goo.gl/uUq7abHLwBxmxuwb7


大東亜戦争殉難者之碑(圓通寺)

前述の飛木稲荷神社の隣に鎮座している圓通寺には、慰霊碑がある。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city008/index.html

大東亜戦争殉難者之碑
 昭和二十年三月十日

元吾嬬町西一丁目連合町会長 小野内寿松
               外役員一同
昭和四十三年三月十日建立
              野澤勝治書

境内の仏さまも戦災被害で、焼け焦げてしまった。

場所

https://maps.app.goo.gl/j96Tfk8PAtoQGTVz6


言問小学校

昭和11年(1936)に建てられた現役の近代学校建築。
2023年に校舎と講堂が国の登録文化財に指定された。

https://www.city.sumida.lg.jp/kosodate_kyouiku/tiiki_kyouiku_shien/bunkazai_hogo/bunkazai_itiran/new_shoukai/kototoishou_toushin.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/558065

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/524334

場所

https://maps.app.goo.gl/De77pRfDpGhongeX8


安全地蔵(とうきょうスカイツリー駅)

とうきょうスカイツリー駅の近くに「安全地蔵」といわれる地蔵があり、平和祈願の地蔵でもあるというのだが、立体化工事の影響で、どこに祀られているのやらで、所在不明。
駅工事が終わったら、再訪してみましょう。

※撮影:2022年4月及び2024年3月


慰霊碑(牛嶋神社)

牛嶋神社境内に、戦没者を慰霊する碑が建立されている。

慰霊碑
 靖国神社宮司 筑波藤麿 書

建碑ノ言葉
元本所区出身過去戦役事変戦災ニ依リ祖国防衛ノ為メ名誉アル戦病死ヲ遂ゲラレタル諸英霊ニ対シ聊カ御霊ヲ慰メンタメ旧本所区在郷軍人の有志並ニ本趣旨ニ賛同セラレタル同士ト共ニ祖国再建発足十周年ノ記念ノ日ヲ選ビ茲ニ慰霊ノ碑ヲ建ツルモノナリ
 昭和30年8月15日

場所

https://maps.app.goo.gl/Wi2DqvSWFBaMvE2s5

※撮影:2020年9月


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに