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私の片隅散策「呉編」その2

平成29年3月

広島・呉散策
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・呉編)


「この世界の片隅に」 私の片隅散策

すずさんの嫁いだ街「呉」
海軍と共にあった街「呉」

平成29年3月5日。私は呉にいた。
すずさん時代と海軍時代、重なる2つの時代の足跡を辿りながら呉の街を巡ってみたいと思う。


朝8時過ぎ。
自転車に跨って走り出したら、目の前に「海上自衛隊呉集会所(海上自衛隊青山クラブ)」が見えてきました。
さっそくのポイントです。自転車を降りて散策してみましょう。

海軍下士官兵集会所(青山クラブ)

1903年(明治36年)4月1日に開設。
「この世界の片隅に」劇中で、すずさんが「しみじみニヤニヤしとるんじゃ」しちょった場所。

ちょっと入ってみましょう。
あっ、ここには「呉水交会」(水交会呉支部)が入っておりましたので、「水交会横須賀支部」会員の私は(一応)関係者ということでお願い致します…
呉水交会

通路からあちこちを。
海上自衛隊関連事務所や水交会・隊友会事務所などが残っているが、使われていない部屋も多い。

節々に老朽化を感じさせる。 なかなか厳しい・・・。

この海軍下士官兵集会所の裏手は入船山。
呉鎮守府長官官舎があり、ここより南は海軍用地としてかつては立入禁止の場所。
(すずさんは周作さんが海軍関係者だったので…

呉市サイト

https://www.city.kure.lg.jp/soshiki/7/aoyama.html

https://goo.gl/maps/z35XPUS4TBNNSsNi9

海軍・呉鎮守府庁舎
( 呉地方総監部 第1庁舎 )

入船山とか旧海軍病院とかは後回しにして、レンタサイクルで一路南下します。
が、すぐに足止めw
「呉地方総監部 第1庁舎」
かつての
「帝国海軍 呉鎮守府庁舎」

もちろん中には入れないので外からチラ見だけ。

南下。
国道487号線を内陸ルートで。これが失敗。大人しく海ルート取ればよかったです。内陸ルートはアップダウンが激しくて疲労w
(海ルートは帰りの楽しみで)

道中、「大和神社」を上から。
あぁ、帰りにちゃんと参拝します。

とにかく南下していきます。

警固屋

辿り着いた先は警固屋の集落。
終戦後に刈谷さんとすずさんが音戸の農家の帰りにリアカーを押して歩いていた場所のひとつが警固屋。

「鍋桟橋跡」 昭和時代の岸壁の石垣が残る。

鍋桟橋跡 1910-1973
大正・昭和時代の桟橋係留
チェーンと岸壁の石垣

https://goo.gl/maps/9X2zDPtcivsDKKtX7

ちなみに「青山クラブ(呉集会所)」から「警固屋」まで、レンタサイクルで20分かかりました。
バスもありますので寄り道を想定せずにピンポイントで訪れる場合はバスのほうが便利。
ここに来た理由は「巡洋艦青葉終焉之地」のため。

巡洋艦青葉終焉之地

碑文
巡洋艦青葉終焉之地
元内閣総理大臣 中曽根康弘揮亳

中曽根康弘氏は昭和16年8月に海軍経理学校にて初任教育を受け、海軍主計中尉に任官。 海軍主計科士官として、第一艦隊第六戦隊の旗艦でああった巡洋艦青葉に乗艦したことがある縁あり。

建碑記

「巡洋艦青葉」は太平洋戦争のフィリピン沖海戦において昭和19年10月23日ルソン島西方で米潜水艦の魚雷を受けて大破し、呉海軍工廠に帰還しましたが、修理の見込みが立たないため防空砲台として警固屋地区の海岸に繋留されていました。
しかしながら、昭和20年7月24日と28日のアメリカ爆撃機の熾烈な爆撃を受け、「青葉」は大破着底しました。この爆撃により警固屋地区にも死者3名、民家全壊48戸という被害を生じてしまいました。
これら戦争の事実とともに、「命と平和の尊さ」を次世代に伝えるため、「青葉」に乗艦経験を有する中曽根康弘元内閣総理大臣にご揮亳いただき、終焉であるこの地に碑を建立しました。 呉市警固屋まちづくり協議会 巡洋艦青葉終焉之地碑建設保存会

一等巡洋艦青葉戦歴表

昭和2年9月20日 三菱長崎造船所にて建造
排水量 約10,000頓(改装後)
乗組員 約800名
戦没者 172名

昭和20年7月28日 艦載機の攻撃により後部切断着底
昭和20年8月15日 終戦となり青葉終焉

警固屋 「巡洋艦青葉終焉之地」

何のフネがおりんさるか見えたよ、晴美さん おったのは…
青葉よ
哲さん、今あんたの笑顔の端に うさぎのはねる海が鷺の渡る空が宿っていた…
(この世界の片隅に)

https://goo.gl/maps/hL4N1aytquXJEzkH8

青葉終焉の地で、その勇姿を偲ぶ。

おったのは、青葉よ…

幾多の海戦を戦い抜き、幾多の僚艦が沈んでいく中で、辛うじて呉に戻ってきた青葉。歴戦の勇艦はこの地で大破着底しその運命を終えた。

しばし静かに佇む…

※補足
呉の長迫の海軍墓地には「軍艦青葉戦没者慰霊碑」がある。
「青葉終焉の地」に訪れるのであれば、こちらの戦没者慰霊碑にもぜひ足をお運びいただければ…

青葉型重巡洋艦の1番艦「青葉」
昭和17年第一次ソロモン海戦・サボ島沖海戦で活躍。
昭和19年捷号作戦(レイテ沖海戦)で大破、かろうじて呉軍港に帰投。
修理の見込みが立たないまま昭和20年7月呉空襲で大破着底。
昭和22年7月解体完了。


午前9時過ぎ。
呉駅前でレンタサイクルを借りて早くも1時間がたちました。

青葉終焉の地が、訪問を予定していた場所で一番遠い場所でした。
さて、ここから北上していきます。
次の目的地は「アレイからすこじま公園」となります。

呉海軍工廠

レンタサイクルで北上「アレイからすこじま公園」を目指す途中に。
現在の「ダイクレ興産(株)呉第二工場」
こちらは往時の「 呉海軍工廠砲填部精密兵器工場 」という。
重厚なレンガ造りの建造物が堪らんないです。(敷地外より撮影)

https://goo.gl/maps/QBdd6jG5XnmEmASB7

アレイからすこじま公園

9時15分。
「アレイからすこじま公園」到着。
国内で唯一の「潜水艦が間近に見れる」公園。
そして旧海軍の本拠地を偲ばせる公園。
あわせて、「旧呉鎮守府兵器部護岸及び関連施設」として土木遺産認定。

魚雷揚げ下しクレーン

「アレイからすこじま公園」に保存されている「旧魚雷揚げ下しクレーン」

明治34(1901)年に設置された英国製の15トンクレーン。
旧海軍が魚雷などを潜水艦に積み込むために使用していたクレーンであり、奇跡的に戦火をまぬがれ、戦後もしばらく稼動していたという。

呉海軍工廠電気部

「アレイからすこじま公園」の向いには赤レンガ倉庫が立ち並んでおります。 現在の呉貿倉庫運輸株式会社。
かつては呉海軍工廠電気部であったと。

潜水艦

「アレイからすこじま公園」
この公園の名物は潜水艦。
こんなに間近で潜水艦を見ることが出来るのです

海軍桟橋

この桟橋も旧海軍時代の名残。

この石段も岸壁も旧海軍時代の名残。重厚です。

呉海軍工廠砲熕部と呉海軍工廠水雷部

「アレイからすこじま公園」から工場地帯に目を向けると、白い大きな建物が見える。これが旧海軍工廠砲熕部。手前が旧海軍工廠水雷部。
現在は三菱日立パワーシステムズ(旧・バブコック日立)と淀川製鋼所。

呉海軍工廠製鋼部

「アレイからすこじま公園」隣、工場敷地内に。
おそらくこのあたりの工場煙突群がたぶん旧海軍工廠製鋼部。現在の日新製鋼。 この界隈の密度はやばい。流石に呉工廠の中枢部跡。

呉海軍工廠電気部

「アレイからすこじま公園」から串山公園方面に移動。
こちらにあるのも呉海軍工廠電気部。現在はオカモト産業。
隣にある丘が串山。

呉海軍工廠 工廠神社

串山公園。 かつてここは「旧呉海軍工廠 工廠神社」であった。

御祭神は 天照大御神 ・・・であった。

工廠神社
御祭神 天照大御神
皇紀二六百年記念
昭和十五年11月建設

旧呉海軍工廠 工廠神社跡
参道を歩む。
この立派な参道の脇には「串山防空監視所」が残る。
こちらは帰りにマジマジと見てみましょう。
まずは参道の突き当りを目指します。

参道の突き当りは、礎石が残るのみであった。
空虚な空間。
手水盤と礎石が往時を物語る。
これだけ立派な参道があって、これだけ立派な礎石があっても、ここには鎮まるべき社はもう無かった。
往時を物語る時代の足跡。

ちなみに手水盤の跡に新しめのお椀が鎮座していました。
なんだろうなと思ったら近所の方がやってきて、猫に餌をあげておりました。

呉海軍工廠・工廠神社跡

串山防空監視所

工廠神社参道脇の「串山防空監視所」に近づいてみました。
神社跡の隣に平然と残っている要塞跡にちょっと興奮してます。

「串山防空監視所」を覗いてみました。
うーん、ゴミが投げ込まれてますね。

こうやって往時を物語る何かが残っているだけでも貴重な空間。

「アレイからすこじま公園」に赴く機会がございましたら、ちょっと足を伸ばしてこの「串山公園」でも往時を偲んでいただければ。
良き海軍歴史遺産です。

さて、次に移動します…

おおすみ(LST-4001)が潜水艦桟橋の隣に停泊していました。
敷地外から。
そのままIHIの工場地帯をかすめながら、大和ドック方面に向かいます。

呉海軍工廠造船部工場

現在の「株式会社IHI 呉事業所」工場敷地内にも旧海軍の面影が展示しております。
敷地外からちょっと見てみました。
旧・海軍呉工廠造船部工場

https://goo.gl/maps/wbq3UuKLYgWaXJts9

呉海軍工廠造機部庁舎

「株式会社IHI 呉事業所」工場敷地外より撮影。
かつての呉海軍工廠造機部庁舎。
この奥には呉海軍工廠造船部庁舎も残っていると(未撮影)

この隣の敷地が(ようやくの)「大和ドック」(現在のジャパンマリンユナイテッド呉造船所)となります。

次は「大和ドック」、その3へ


「この世界の片隅に」 散策ガイド

現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (呉市)

有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1o7HGZm0YISZ6RDNGTnoTn26_zjs&hl=en_US&ll=34.185055680214056%2C132.18369739999991&z=9

個人的に作成したメモ地図

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Q9v0RJdpnvAblLgnKXzboAPiwF4&ll=34.23842127633486%2C132.52778245274112&z=13

私の片隅散策「呉編」その1

平成29年3月

広島・呉散策
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・呉編)


「この世界の片隅に」 私の片隅散策

すずさんの嫁いだ街「呉」
海軍と共にあった街「呉」

平成29年3月5日。私は呉にいた。
すずさん時代と海軍時代、重なる2つの時代の足跡を辿りながら呉の街を巡ってみたいと思う。


呉へ

平成29年3月4日午前は、すずさんの生まれ故郷「江波」に。

13時40分頃の広島発電車「RedWing」に乗って呉へ。
車窓から「江田島」を望む。
海軍の島。
この先は呉軍港。

「海側の~鎧戸を~お閉め~願います~」(この世界の片隅に)

そういえば乗っていた呉線の行き先は「広」でした。
今回は「広」には行けませんでしたが「広」も海軍の街。

「この世界の片隅に」では、すずさんの義父・北条円太郎さんが勤めていたのは「広工廠」から分かれた「第十一海軍航空廠」。
円太郎さんは発動機部勤務でした。

大和ミュージアムには「第十一海軍航空廠」の展示もある。

昭和20年5月5日 広海軍工廠・第11海軍航空廠空襲
この空襲で工廠・空廠は大半を焼失。
円太郎さんは呉海軍病院に入院することになる。

呉駅に到着したのは14時30分ごろ。
JR呉駅にさっそく「すずさんの嫁入り」ラリーポイントがありました。
(イベントは2018/3/20で終了)

江波から呉へ。なんとなく、その足跡をたどる散策でもあり。

この日(3月4日午後)は、大和ミュージアムを鑑賞しましたが、ここで展開してしまうとレポが冗長散漫となりますので省略。
なお今回の呉散策では時間都合で「海自・呉史料館(てつのくじら館)」は見学できませんでした。(昔行ったことあったから断腸の思いで割愛。

まずは大和ミュージアムに赴く途中にある「くれ観光情報プラザ」へ。

壁の片隅に。呉に到着して早速の出会いに気分が高揚してきます。
ポスター。大和ドックの脇を歩く晴美さん…

「くれ観光情報プラザ」では翌日に利用する予定のレンタサイクル情報を確認。
φ(..)メモ
JR呉駅レンタカー:時間:8:00~20:00
大和ミュージアム:時間:9:00~18:00(火定休)

うん、翌日は駅レンで朝一番に借りることにしましょう。

呉海軍工廠専用線跡

呉駅周辺を散策。
旧呉海軍工廠専用線跡は現在のJR呉線の右側。
二枚目の写真の遊歩道のところに引かれていた、と。

呉駅周辺。
旧呉海軍工廠専用線跡の鉄橋。 鉄橋の先は自衛隊施設。

旧呉海軍工廠専用線跡の鉄橋の南に。 堺川を渡る管。
こちらも自衛隊敷地内へ。

灰ヶ峰

呉市内を流れる「堺川」。
その河口近くから見る正面の山は「灰ヶ峰」。

「そうよ、ここが呉」

「九つの峰に守られているんで、ほいで九嶺(くれ)というんで」
「ほんで真ん中のんが『灰ヶ峰』、あの裾がわしらの家じゃ」

(この世界の片隅に)

で、この日(3/4)午後は「大和ミュージアム」と「呉港クルージング」で終了しまして。
18時30分すぎに宿へ向いまして翌日が本番。

夕呉クルーズ

さて翌日(3月5日)朝。
ビジホの朝食。
呉なので「肉じゃが」と名物だという「細うどん」と他いろいろを戴きました。

で、朝8時。
朝一番に呉駅レンタカーにてレンタサイクルを借りて活動開始。 一日乗り回すことにします!

さて、続きは「その2」へ。


「この世界の片隅に」 散策ガイド

現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (呉市)

有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1o7HGZm0YISZ6RDNGTnoTn26_zjs&hl=en_US&ll=34.185055680214056%2C132.18369739999991&z=9

個人的に作成したメモ地図

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Q9v0RJdpnvAblLgnKXzboAPiwF4&ll=34.23842127633486%2C132.52778245274112&z=13

習志野の戦跡散策(騎兵から空挺へ・習志野駐屯地)

平成29年8月

この日は陸自・習志野駐屯地一般開放日「習志野駐屯地夏祭り」
基地公開日に見学できる施設が「空挺館」
未訪でしたので、是非これは行っておきたい。
ついでに折角だから寄り道しながら駐屯地を目指してみました。

※第一空挺団の降下訓練初め

習志野駐屯地

空挺館 (旧御馬見所)

「空挺館」(明治44年/1911年建立)
こちらが見たかったのです。
このために習志野に脚を運んだのです。
年に何回かの基地公開日にしか入れませんから。

明治44年建立。
もともとは目黒の陸軍騎兵実施学校に明治天皇が天覧あそばされた際の「天覧台」(御馬見所 )として建設。
大正5年(1916)に習志野に騎兵学校が移転に際して当館も移築。

正面入口からは傾斜のゆるやかな帝王階段。

明治天皇が天覧されたという2階のバルコニー。

実は装飾の菊御紋は2種類あり15弁と16弁がある。
これは正規の枚数だけだと天皇陛下以外は御立所に上がれなくなってしまうため他の皇族にも配慮したためという。

明治天皇が天覧されたという2階のバルコニー。
この椅子は津田沼駅で皇族が利用された貴賓室用椅子。

貴賓用椅子
津田沼駅は明治40年9月1日に鉄道省の一駅として営業を開始。旧軍時代は騎兵旅団、騎兵学校などがあり、習志野練兵場の表玄関だったので、皇族がたくさんこの駅を利用されていた。その当時皇族が使用されていた貴賓用椅子である。

習志野原

明治天皇(諱は睦仁)が命名されたという「習志野原」の額も展示。

睦仁
習志野原

習志野之原演習行幸

明治6年4月30日に明治天皇は習志野原にて近衛兵の演習を天覧されている。

帝王の階段とも称された中央階段の装飾。

精鋭無比

中央階段踊り場に掲げられた文字は降下塔にあるものの原本。(平成24年12月取り付け。)
書家青華氏による。お孫さんが第1空挺団に所属していた際に無理を言ってかいてもらったものという。

自衛隊唯一の空挺部隊
空挺精神「精鋭無比」

空の神兵像

立像と座像と

2階部分は旧軍に関する展示。
いくつか注目してみてみましょう。

秋山好古 日本騎兵の父

日露戦争時の騎兵第1旅団長(直下に騎兵第13連隊及び騎兵第14連隊)での活躍は言うまでもなく。あとは「坂の上の雲」を参考に。

騎兵の街・習志野に縁の深き人物であり、第2代騎兵学校長でもあった。

西竹一 騎兵中佐

昭和7年ロサンゼルスオリンピック障害馬術の部で日本人としての初の金メダルを受賞。(今日に至るまで馬術の金メダルは西のみ)
男爵でもあった西は「バロン西」として社交界で愛されるも、硫黄島において戦車26連隊長として参戦し散華。

日本軍空挺部隊と空挺作戦

日本軍には陸軍と海軍とそれぞれに落下傘部隊が展開されておりました。

まず海軍としては日本史上初の落下傘降下作戦を成功させた横須賀特別陸戦隊によるメナド降下作戦(昭和17年1月11日)や続くクーバン降下作戦などの展示あり

日本海軍
横須賀鎮守府第1陸戦隊 メナド降下作戦
横須賀鎮守府第3陸戦隊 クーパン降下作戦

横一特・横三特(海軍陸戦隊)
空挺部隊の慰霊碑は海軍落下傘部隊発祥の地館山の安房神社境内にありますので参考まで

安房神社境内
海軍落下傘部隊慰霊碑 内閣総理大臣田中角栄揮毫

パレンバン空挺作戦 
昭和17年2月14日

陸軍・挺進第2聯隊
南方の石油資源確保のために精油所を空挺攻撃し占領。
陸軍が初めて実施した空挺作戦であり、日本国民が初めて落下傘部隊を知った作戦。
往時の衣装や遺品が展示

血染めのどくろ旗

パレンバン空挺作戦 昭和17年2月14日

陸軍・挺進第2聯隊第1中隊中尾隊の小隊長・長谷部正義少尉が出撃前夜に小隊員39名と共に寄せ書きしたドクロの小隊旗。中央にはドクロと共に「落下傘大明神」と記載。
長谷部少尉は降下占領作戦中に戦死。

レイテ空挺作戦 
昭和19年12月6日~

陸軍第二挺身団「高千穂部隊」
レイテに上陸した米軍に対しての防衛作戦に呼応しレイテ島ブラウェン飛行場に空挺作戦を決行。一時的に飛行場を占領したものの援護なく後退。オルモック救援降下部隊ともどもほとんどの将兵は戦死…

陸軍・義烈空挺隊
義号(沖縄)空挺作戦 
昭和20年5月24日

沖縄本島に上陸した米軍に対し陸海軍特攻機を援護するため、奥山道郎大尉率いる義烈空挺隊(97式重爆撃機12機)に乗り込み読谷・嘉手納飛行場に特攻し強行着陸・飛行場機能停止を目指した作戦。

昭和20年5月24日18時40分。
沖縄を救援するために熊本・健軍飛行場を飛び立った義烈空挺隊12機。
そのうちの1機が読谷北飛行場への強行着陸成功し破壊活動を実施。

挺進殉國
義烈空挺隊 隊長 奥山道郎

義烈空挺隊 隊長 奥山道郎 
遺書
昭和二十年五月二十二日
此の度、義烈空挺隊長を拝命 
御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します
絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります
只々感謝感激の外ありません
幼年学校入校以来十二年
諸上司の御訓誡も今日の為のように思はれます
必成以て御恩の万分の一に報ゆる覚悟であります
拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます
二十有六年親不孝を深く御詫び致します 
                          道郎
御母上様

配布資料
知っていますか?義烈空挺隊
~昭和20年5月24日夜の話~

配布資料
腹が減っては戦は出来ぬ
~義烈空挺隊「食」の話~

配布資料
神兵を癒やした観音湯
~「堤はつ」さんと義烈空挺隊~

空の神兵

空の神兵
作詞 梅木三郎
作曲 高木東六

藍より蒼き 大空に大空に
忽ち開く 百千の
真白き薔薇の 花模様
見よ落下傘 空に降り
見よ落下傘 空を征く
見よ落下傘 空を征く

空挺館の1階部分は陸自のコーナーでした。
(旧軍関連が2階)

配布資料
遠い神代の物語
~陸上自衛隊「空の神兵」事始め~

配布資料
ようこそ空挺館へ!!
習志野駐屯地広報室


駐屯地内に点在するあれこれを見て回ります。

軍人勅諭下賜五十周年記念碑

手前の砲弾のようなものは
「軍人勅諭下賜五十周年」砲弾型記念碑。
明治十五年軍人勅諭が下賜されて50周年の昭和7年に建立された記念碑。
騎兵学校建立。

軍馬慰霊之碑

軍馬慰霊之碑・秋山好古揮毫

日本騎兵の父と称された秋山好古は日露戦争時の騎兵第1旅団長であり第2代騎兵学校長であった。
この軍馬慰霊碑は秋山が逝去する1ヶ月前に揮毫され、そしてこれが絶筆となった。建立は昭和5年11月。秋山好古大将の亡くなった月であった。

日本騎兵の碑

昭和41年建立
碑文は武藤一彦(元中将・元大分市長)
裏面は秋山久三少将(最後の騎兵学校長)の筆による。

ちょうど「日本騎兵の碑」の向こう側では駐屯地イベントの大人気スポット「お化け屋敷」が展開されておりました。
大盛況。 私はしずしずと駐屯地内の石碑めぐりなどを。

94式37mm速射砲

昭和9年(皇紀2594年・1934年)に帝国陸軍が開発・採用した対戦車砲(速射砲)。
正式名称は九四式三十七粍砲 俗称は九四式三十七粍速射砲

備える防人(ひと)

空の神兵の像

古賀忠雄が昭和17年の大東亜戦争美術展にて朝日新聞社賞を受賞した名作「天降る像」が原型。
昭和19年に三宅坂の陸軍第1航空軍司令部が武蔵野市吉祥寺の成蹊大学に疎開した時に当時の司令官部屋を飾った像をベースにしている。戦後は成蹊大学から偕行社を通じ第1空挺団に寄贈。
本像は昭和46年に復元銅像化。

鎮魂之碑

「礎」の碑 初代空挺団長・衣笠駿雄揮毫
昭和33年に創隊された第1空挺団
陸軍挺進隊より継承する「挺進赴難」の伝統と「精鋭無比」を目標に部隊を練成してきたが、不幸にも志半ばで職に殉じた第1空挺団同僚先輩たち「殉職された御霊のご冥福」を慰霊。
殉職者慰霊之碑

第1空挺団殉職者慰霊之碑が立ち並ぶ空間。

「挺身赴難」「精鋭無比」の精神で志半ばで斃れられた方々に合掌

第1空挺団 本部

第1とはあるけども、第2以下はなく、日本で唯一の空挺部隊。

降下訓練塔

敷地に中央部に聳えるは「降下訓練塔」
空挺降下の訓練に使われる高さ80mをほこる訓練塔。

心字池

昭和3年、習志野に移転する前に、目黒にあった陸軍騎兵実施学校の庭園・階段・門柱などの一部を材料に建設された池。
「心」という字を型どっている。
騎兵学校時代は将校集会所の庭園として親しまれていたという。

駐屯地夏祭り

各部隊の幟がでていて、ちょっと一味違う空間。

習志野駐屯地

このあたりの建物は陸軍時代のものの可能性高し。東門近く。

習志野駐屯地東門。
このレンガの門柱も陸軍時代のものなのかどうか。
古さが漂っていましたが、詳細は不明。

位置関係

習志野駐屯地、また改めて散策したいですね。


習志野に騎兵学校が移転する前は、目黒にありました。

習志野界隈の関連はこちらも

大西瀧治郎を偲ぶ

総持寺境内

鶴見駅から鶴見総持寺に足を運んでみた。大西瀧治郎の墓に。

大西瀧治郎

従三位勲二等功三級

海軍中将 大西瀧治郎之墓

合掌

海軍中将。第1航空艦隊司令長官、軍令部次長を歴任。

「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」
神風特別攻撃隊の創設者の一人。

昭和20年8月16日。
遺書を残し割腹自決。享年55歳。

墓裏には

昭和三十八年八月廿三日再建之
大西 淑恵
児玉 誉士夫

とある。
大西 淑恵 は 大西 瀧治郎 の妻。
児玉 誉士夫 は大西と懇意な関係にあり、児玉機関への支援などを大西は積極的に行っていたということもあり、交流が深かった。

遺書の碑

2000年に「遺書の碑」が建立。発起人は元副官であった門司親徳(海軍主計少佐)。命日である8月16日に除幕式が行われた。

遺書

特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉
弾として散花せり然れ
共其の信念は遂に達
成し得ざるに至れり
吾死を以つて旧部下の
英霊と其の遺族に謝せ
んとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利
敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自
重忍苦するの誡とも
ならば幸なり
隠忍するとも日本人た
るの矜持を失う勿れ
諸士は国の宝なり
平時に処し猶お克く
特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世
界人類の和平の為
最善を尽せよ

海軍中将 大西瀧治郎
八月十六日

之でよし百万年の仮寝かな

「 之でよし百万年の仮寝かな 」は辞世の句

海鷲観音

大西 淑恵 婦人によって建立。
「故人は特攻隊に申し訳ないと言い残して自決したのですから、特攻で散華された方々をお祀りする観音様を故人の墓と並べて建立したい」との希望で建てられたもの。

海鷲観音
昭和27年9月彼岸 
施主 大西淑恵

大西瀧治郎君の碑

親友一同による「大西瀧治郎君の碑」がある。

いわく。
今や一身以て一艦を屠る特別攻撃法を敢行するの外救国の途なしと断じ進んでその任に当らんことを申出つ
君中宵沈思幾度か遂に血涙を呑んでその採用止むなきを進言し自ら特攻部隊の指揮官に任したり
朝に空母を沈め夕に戦艦を傷け連日の猛撃に敵陣色を失い恐慌甚だしきものあり
去り乍ら彼我物力の大差は如何ともすべからず遂に刀折れ矢尽き終戦の日を迎うるに到る君即ち我事ここに終れりと従容として古武士の法に遵い敬愛する特攻戦士の跡を追へり ・・・

大西瀧治郎君の碑
大西瀧治郎君は兵庫県芦田の産長して海軍に志し明治四十五年七月優秀の成績を以って兵学校を卒業す人と為り豪宕不屈進んで草創期の航空界に身を投じ険難を意とせす研鑽に精進する事数年その特性を体得するに及び将来我が国防の最大要素たるべきを痛感し海軍航空を急速に発展せしむる事こそ自己に課せられたる使命なりとし益々拮据精励特に要員教育訓練の基礎確立に力を到せり爾来累進して要職を歴任するの間軍政の府に在っては航空優先の施策実現に全力を傾注し熱誠倦むところを知らす又部隊を率いては率先垂範積極的指導に終始し士気の昴揚自ら風を為す大東亜戦争の初期海鷲よく太平洋の全域を掩□無敵の名を肆に到したるその因由素より多々あるへしと雖君等明達径行の士万難を排して精強部隊の育成に汲々として盡瘁したる多年の苦心に負うもの甚た大なるは信じて疑はさるところなり戦局漸く我に利あらす皇國の前途轉た暗□たるの秋果然至誠純忠なる青年将校等今や一身以て一艦を屠る特別攻撃法を敢行するの外救国の途なしと断じ進んでその任に当らんことを申出つ君中宵沈思幾度か遂に血涙を呑んでその採用止むなきを進言し自ら特攻部隊の指揮官に任したり朝に空母を沈め夕に戦艦を傷け連日の猛撃に敵陣色を失い恐慌甚だしきものあり去り乍ら彼我物力の大差は如何ともすべからず遂に刀折れ矢尽き終戦の日を迎うるに到る君即ち我事ここに終れりと従容として古武士の法に遵い敬愛する特攻戦士の跡を追へりその遺書に曰く青壮士諸氏は國の宝なり日本人の矜持を失う事なく民族の福祉と世界人類平和の為め最善を尽せと茲に偉人大西海軍中将が踏み来たりたる大道を追想しその高風を永く後毘に傳へんとす
昭和三十七年三月二十一日 親友一同


鶴見総持寺

大祖堂の裏にひろがる五院墓地(五院右1-1)に大西瀧治郎の墓がある。


宇垣纏墓

大西さんと宇垣さんと。

宇垣纏を偲ぶ

神風特別攻撃隊之魁甲飛十期之碑

児玉誉士夫墓

大西と縁が深かった児玉誉士夫は池上本門寺に墓がある。

そのほか、総持寺関連

軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)

令和元年6月 兵庫県尼崎市

難波八幡神社の境内に、榛名のマストが残されていると聞き、足を運んでみました。
駅から歩くにはちょっと遠く、私はJR神戸線立花駅からバスで赴きましたが、JR尼崎駅もしくは阪神尼崎駅、阪神塚口駅などからもバスの便はあるようです。

軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)

マストには以下の文言がみえる。

國光宣揚 軍艦 榛名

草むらには石碑。

昭和十一年十二月十八日建立
会長 陸軍中将 権藤伝次
西大阪支部長 間口伊之助

戦艦「榛名」は、昭和8年から1年かけた「第二次近代化改装」にて上部構造物の大幅な近代化を行い、その際に後部マスト(後檣)が撤去されている。
その後部マストが昭和11年に、大日本国光宣揚会道場の庭園に国旗掲揚塔として無償下付されたものという。当時の大日本国光宣揚会道場は現在の塚口病院のあたりにあった。戦後、病院建設にあたりマストは難波八幡神社に移設された。

「大日本国光宣揚会」(本部・大阪)の会長であった権藤伝次は、陸軍中将(旧10期)、 歩兵第18連隊長、第36旅団長等などを歴任。

以下、軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)の写真を。

難波八幡神社

兵庫県尼崎市東難波町3丁目6-15鎮座
八幡大神を祀る。
仁徳天皇の御世(4世紀)の創建と伝えられる古社「難波祝津の宮跡」 とされる。

船橋西部の戦跡散策

平成29年撮影

船橋妙典駅から新船橋駅までの散策。

スタート地点は「船橋妙典駅」 。
中山競馬の最寄り駅。 競馬場と無線塔跡と工場跡と。
格別にめぼしいものは残っていないけど歩いてみました。

中山競馬場

船橋妙典駅から中山競馬場の裏手の方を目指す。

中山競馬場は昭和3年に開業。
性質上、軍部との繋がりも深く協力体制にあったが、戦時中の昭和19年に中山競馬場は封鎖され陸軍が接収。中山競馬場敷地内には陸軍軍医学校中山出張所などが展開された。

中山競馬場の裏手に「馬頭観音」が林立しているエリアがある。

https://goo.gl/maps/7sbqHVQFGSdPfW2E6


中山競馬場の馬頭観音

戦時中、陸軍軍医学校中山出張所を中心としてこの中山の地では「破傷風の血清ワクチン」を製造する為に全国から競走馬や軍馬などが集められ、馬から血を抜いて血清を作っていたという。
ここにある馬頭観音の中には、それらの馬霊もあるだろうか。

合掌

ここには江戸期から明治大正昭和までの馬頭観音(馬頭観世音)がある。

中央の3基。
左が大正9年、中央が明治38年、そして右が昭和49年建立。
周辺の小型馬頭観音は江戸期から昭和までの幅広い年代の建立。

写真を見ての通り、中山競馬場の敷地内のようでいて外部からアクセスできるようにポッカリとくぼんでいる。

競馬場の表側には「競走馬たちの馬頭観音」があるというが(未訪問)、裏手にもこうしてひっそりと人間の犠牲となった馬たちの霊を祀る場所が残っていた。


馬頭観音のある場所から競馬場の縁に沿って南下。 熊野神社とありましたのでちょっと立ち寄りしてみました。

船橋市古作の熊野神社

鎌倉期の創建と伝わる。
昭和50年に不審火で消失。昭和52年再建。
境内地のすぐ裏手が「中山競馬場」

船橋市古作の熊野神社。

「一億一心」の石柱掲揚台
紀元二千六百年記念(1940年・昭和15年)建立
当時のスローガンの一つ。


位置関係

地図を見るとワクワクする。

中山競馬場の「楕円」
行田公園を中心とした「円」
新船橋駅となりの「四角」
実は円形は「送信所跡」で、四角は「工場跡」なのです。
どちらも海軍に関係した場所でした。

USA-M871-93
1948年03月29日‐米軍撮影

船橋無線塔記念碑
(海軍無線電信所船橋送信所跡)

円形の中にある行田公園。
その中心にあるのが
「船橋無線塔記念碑」(海軍無線電信所船橋送信所跡)
送信所は大正4年(1915年)完成。

ニイタカヤマノボレ一二〇八

昭和16年12月1日。柱島の連合艦隊旗艦「長門」から発信された電文は呉鎮守府を通じ海軍省を経て、12月2日に船橋送信所から無線にて南雲機動部隊を初めとする全艦隊に伝達された。 (コメントいただき文面修正しました)

船橋無線塔記念碑
碑文
ここ下総台地の一角にかつて無線塔が聳えていた。
大正4年(1915)に船橋海軍無線電信所が創設された。
大正5年にはハワイ中継でアメリカのウイルソン大統領と日本の大正天皇とで電波の交信があった。
広く平和的にも利用されたのでフナバシの地名がはじめて世界地図に書きこまれた。
大正12年(1923)の関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた。
昭和16年(1941)の頃には長短波用の大アンテナ群が完成し、太平洋戦争開幕を告げる「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の電波もここから出た。
船橋のシンボルとして市民に親しまれていたが昭和46年(1971)5月解体され栄光の歴史を閉じた。

USA-M871-93
1948年03月29日‐米軍撮影

赤い丸の部分に約200メートルの 無線塔 が6基。
これが 「ニイタカヤマノボレ一二〇八」 を発した「 長短波用の大アンテナ群 」

この記念碑以外には往時を物語るものは残っておらず。
あとは道路の円形の雰囲気をなんとなく楽しむぐらい。

この船橋の地から「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の無線が発せられ、日本の運命が決せられたと思うと感慨深い歴史の重みを感じてしまう。

※こおり様よりコメントを戴きまして修正アップデートしました。

この界隈には、具体的には行田東東小学校や周辺の畑に「海軍標石」が残っているという。
が、このご時世ですので学校内は未確認。畑内も未確認。時間があまりなかったので。


日本建鐵船橋製作所跡

「船橋無線塔記念碑」のある行田公園から南東の方向、新船橋駅の近くの四角いエリアが「日本建鐵船橋製作所」跡地。 この地には日本建鐵(日本建鉄)工場跡地が残るのみ。 (コメントいただき文面修正しました)

「日本建鐵船橋製作所」跡地
現在は三菱電機管理地とイオン船橋を始めとする商業エリアとなっている。
(日本建鐵は三菱の完全子会社となり会社清算済)

「日本建鐵船橋製作所」跡地
三菱の下請けということで往時は三菱系の航空機部品も制作。

具体的には海軍局地戦闘機「雷電」部品を製造していたという。
バス停の名前は「日本建鉄前」であれど、既に工場撤退しているのでバス停名も変更される未来は近そうです・・・

東武野田線新船橋駅から直結する 日本建鐵船橋製作所・工場敷地は「イオン船橋」
こうして徐々に往時の雰囲気がなくなっていく痕跡を辿りつつの戦跡探訪。

船橋妙典駅から新船橋駅まで。
今回の歩行距離は約5キロ、所要時間は約75分ほどでした。


回天を偲ぶ

平成29年

大分県日出町の「回天大神基地跡」と「回天神社」に関して。

※現地(大分県日出町)の写真は、嫁写真を拝借です。
※私自身は回天神社及び回天大神基地跡は未訪。
 文責は私にあります。

回天

昭和19年11月8日。
「天を回らし戦局を逆転させる」の意を帯びた特攻兵器「回天」を搭載した潜水艦3隻が「玄作戦」決行の為に周防灘を出撃した。

ウルシー泊地に向け潜水艦2隻/回天8基、コッソル水道に向け潜水艦1隻/回天4基による特別攻撃隊「菊水隊」の初陣であった・・・

回天訓練基地として瀬戸内海を囲むように山口県の大津島・光・平生、そして大分県の大神に基地が展開された。

昭和19年(1944)11月8日
回天訓練基地であった山口「大津島基地」を出撃した菊水隊(母艦潜水艦として伊36潜、伊37潜、伊47潜に各4基ずつ搭載)の12基が回天特攻の初陣であった。

昭和19年11月20日
回天最初の作戦ウルシー泊地攻撃が決行、伊47潜から4基、伊36潜から1基の計5基の回天がウルシー泊地環礁内に向け発進…

以来、終戦までの回天戦没者は87名、訓練殉職者15名、終戦時自決2名、整備関係者犠牲などもあわせると回天関係戦没者は145名という(母艦潜水艦戦没者は除く)

大神訓練基地

大分県日出町

昭和16-17年にかけて「大神海軍工廠」の建設予定地として用地買収が始まるも戦況の悪化により中止。
昭和19年9月1日、山口県周防市の徳山湾・大津島に「第一特別基地隊」として大津島回天基地が開設。次いで光回天基地、平生回天基地が開設。

大神漁港

大神海軍工廠予定地の一部が回天基地として転用され、昭和20年4月25日に大神回天基地が開設。
突撃隊司令・山田盛重大佐以下2000名。 基地内施設として回天神社・回天格納庫含め舎屋51棟、魚雷調整場、変電所、浄水場施設等が整備された。

昭和20年8月3日
大神訓練基地から最初の出撃。8名の隊員と整備兵が回天8基とともに第8特攻戦隊第21突撃隊として愛媛県宿毛湾に向けて出航するも8月15日を迎え終戦。

8月25日
大神突撃隊解隊。回天は海洋投棄となった。大神基地での犠牲者は終戦後に自決した松尾秀輔少尉のみであったという…

回天神社

大神基地本部庁舎前で基地隊員が崇敬していた神社。
戦後、基地近くの住吉神社境内に遷座。
昭和50年に社殿改築、平成13年に現在地に改築。

御祭神
天照大神・応神天皇・楠木正成
回天作戦戦没者1073柱
(うち回天搭乗員106柱、回天基地白龍隊120柱、潜水艦乗組員812柱、回天整備員35柱)

回天神社の御神器
「回天縦舵機」「発停装置」「燃焼器推進軸受」の回天部品3種類。
※写真はパンフレットより

回天神社
奉納「回天1型」3分の1模型

太平洋戦争の末期、堅く神州の不滅と皇国の必勝を信じ、一死国難に殉ぜんとする。
弱冠二十の若桜、相競ひ大神突撃隊に参加。水明の海辺に菊水の大旗打樹てて、特攻兵器「回天」の訓練に烈々と精根を傾倒せり。
ここに吾等関係者往時を偲び相計って回天模型を奉納する。 昭和五十六年四月二十五日 大神回天隊

回天神社
奉納 「海中より引き上げられた九三式酸素魚雷のエンジン・尾部舵・二重反転プロペラ」
平成7年に大分空港1600メートル沖合で漁労中に魚網にかけ引き上げたものという。

人間魚雷
大神回天基地跡記念碑

天を回らし 戦局の逆転を願って
平成二十三年十月 寄贈 日出ライオンズクラブ

「大神訓練基地跡」から「回天神社」が鎮まる高台を望む。 住吉神社の境内。この高台の下には回天格納壕跡や酸素圧縮ポンプ室跡などが残っている。

住吉神社

回天神社が境内に鎮座。南北朝期の貞和3年(1347)に大神郷地頭の大神筑前次郎朝直が泉州堺住吉神社より大神氏の氏神として深江城に勧請したことにはじまる。 大神氏は大友氏とともに戦国期に衰退。朝鮮文禄役で当主大神鎮勝は戦死し滅亡。のちに日出藩主木下氏が再興という。

大神訓練基地跡。
回天大神訓練基地記念公園に平成28年5月、平和への祈りを込めて「青年像及び母妹像」(日出町内在住の彫刻家・辻畑隆子氏の作という。
 永遠の風に 青年
 永遠の風に 母妹
像のうしろには「回天実物大模型」も・・・。

平成26年には「回天実物大模型」が回天大神訓練基地記念公園に設置されている。

回天実物大模型

復元「回天」の内部写真もありました。
上部ハッチには鍵がかかっておりましたが、写真を見る限り内部も復元されているようですね。

この国には 己の命をかけて
愛する人を 祖国を守ろうとした若者たちがいた

周辺には往時の史跡(戦跡)が残存しているものもあり。
そのほんの一部だけですが写真を幾枚か。

「回天格納庫」「水雷壕」

終戦直前にはこの壕に爆薬を搭載した回天格納されていた、という。
昭和20年8月3日、この壕から回天は宿毛湾に向け前進出撃したが、幸いにも終戦を迎える…

酸素圧縮ポンプ室

回天に搭載する圧縮酸素を製造するポンプ等を設置していた壕。
内部にはコンクリート製の製架台が残っている。 回天のベースとなったのが「九三式酸素魚雷」 空気の代わりに純粋酸素を使用していたので、その酸素を生成する設備も必要であった。

回天神社(住吉神社)の鎮まる高台の下には無数の壕が点在。
往時を偲びし空間。

魚雷調整プール跡

コンクリート製のプール。 回天をこのプールに沈めて水漏れなどを検査していた。回天一基をちょうど収納できるサイズ。

魚雷調整場基礎跡

魚雷調整プールのとなりに基礎跡がのこっている。

周辺にはほかにも遺構が点在しているけども、大分の現地写真は以上にて。

あとは機会あれば自分の目で見つめてきたい。
ここまで「大神基地の写真」はすべて嫁撮影。
私は未訪問(嫁の写真をベースにテキストのみ代行記載)ですのでいつの日か訪れたいものです。


パンフレット

平和を願う 戦争遺跡
人間魚雷「回天」
大神訓練基地

大分県日出町
なお大神と書いて「おおが」と読みます。「おおが基地」

回天と大神訓練基地の歴史や開設など

大神訓練基地の全容、基地遺構の残存状況など。

https://goo.gl/maps/YhjoMLJfqN7LQokE7


以下では私が見た回天に関係する写真を幾枚か掲載していきます。

訓練用回天

「予科練平和記念館」(茨城県稲敷郡阿見町)にて復元の「回天」
航空機搭乗員育成の予科練からも、回天搭乗員が多く着任しており、予科練出身者としては40名が戦没。訓練用の回天は上部が白く塗装されていたという。

回天一型改一

国内では唯一の実物が靖國神社遊就館に展示。 元はハワイの米陸軍博物館にあったものを昭和54年に靖國神社に永久貸与されたもの。

回天上部に装備されていた「水防眼鏡二型改六(潜望鏡)」。

「伊36号潜水艦」に搭載され出撃する「回天」1/50模型
巡潜乙型17番艦。
回天初出撃のウルシー攻撃を成功させた潜水艦。
数多くの回天作戦に従事し、戦後は米軍によって五島列島沖で海没処分。

回天(靖國神社遊就館)
人間魚雷回天は大東亜戦争の前途が暗雲につつまれた昭和十九年八月、わが海軍の一角に姿を現わした。 この回天は、うるわしき日本の民族を、国土を、身を捨てて護らんとねがい馳せ参じた若人たちと共に次々と南溟の海に征き再びは還らなかった。
この作戦で戦死した搭乗員は八十九名、整備員は三十七名、殉職自決者は十七名を数える。 今ここに回天一型を修復安置して国難に殉じた回天戦士の至純の御魂を偲ぶよすがとする。
昭和五十四年四月十日 回天会

呉・海軍墓地(長迫公園)

平成29年3月

広島県呉市。長迫公園の呉海軍墓地。

護国の為に戦いし艦と人に。
感謝と哀悼を。


明治23年開設の大日本帝国海軍墓地。
呉鎮守府が管理し毎年この地で慰霊祭が行われていたが昭和20年に祭祀は廃止。

昭和46年以降に再整備が行われ呉市管理の下で現在に至る。

合祀碑91基。
個人墓碑157基。
英国水兵墓碑1基。

この日(平成29年3月5日)は僅かな持ち時間の中での参拝。
呉海軍墓地の全てを網羅するのは難しい。
かといって鎮魂慰霊の心に優劣をつけたくはない。
なるべく端から端を。
ゆっくりと手を合わせ、ゆっくりと頭を垂れながら、静かに巡ってきました。
写真は展望台より。

墓地案内図を見ながら、中央から右上に向い右上から左に向い中央へという順で巡ることにしました。
とりこぼしあるかもしれません。
また個人墓は撮影せず、あくまで軍艦等の合祀碑の掲載とさせていただきます。

国のため戦いし海軍軍人たちに感謝と哀悼を…


軍艦日向慰霊碑

伊勢型戦艦の2番艦「日向」。
太平洋戦争中盤に(いわゆる)航空戦艦に改造される。
昭和20年7月24日の呉軍港空襲で米軍機の波状攻撃を受け呉軍港内で着底大破。

碑文「軍艦日向の略歴」
 軍艦日向は大正4年5月6日長崎の三菱造船所で起工、3年の日時を費して完成た日本最古の名鑑である。
 大正七年に「陸奥」「長門」ができるまでは、日本最大の巨艦であった。
 日本海軍が列強に誇った、「八八艦隊」の主力艦として、昭和十八年太平洋戦争「捷号作戦」に、旗艦として出動、この作戦中、サイパン沖で空母「瑞鶴」「翔鶴」などが撃沈された。
 昭和二十年三月呉港に帰投、情島の北岸に敵機をさけて待機出撃の機をねらっていた。敗色は日増しに濃くなった来た。二十年七月二十四日七時三十分
 米艦上「グラマン」戦闘機約110機が200キロの大型爆弾による 高度3000米の上空よりの空襲を受け 第二波は更に十一頃より 第三波は三時頃より波状攻撃により さしもの帝国海軍の象徴、「日向」の巨体も十五時三十八分頃より沈没し始め翌二十五日未明 艦体は遂に情島沖100米の海底に達した。 乗組員1000余名中 戦死者一九七名 重軽傷者六〇〇余名に及んだ。
 艦長草川淳中将は十機目の「グラマン」の投下した爆弾の破片にたおれ 前甲板の戦闘艦橋で壮烈な戦死を遂げた。

献辞
南太平洋の海を征服し比島沖海戦に出撃し颯そうと旗艦の重任を果して還る 
 ああ恨は深し昭和20年7月24日 米グラマン数百の奇襲にあい勇戦奮斗のすえ呉情島の北岸に沈む
されど日本を護り国に殉ぜし尽忠のまことは星移り月かわるとも、とわにこの国の歴史にとどめられん
 ねがわくば197勇士の霊よ 
  永遠に安かれ!

昭和44年7月24日
軍艦日向慰霊碑建設委員長 景山勝義

駆逐艦綾波戦歿者之碑

源田実謹書
「綾波」 特型駆逐艦(一等駆逐艦吹雪型)11番艦。
吹雪型改良艦であり特型II型駆逐艦(綾波型)1番艦とも。

第三次ソロモン海海戦で、敵艦隊に単艦で挑み敵駆逐艦2隻を撃破1隻を炎上、戦艦サウスダコタに命中弾を与えて沈没。

日本駆逐艦綾波の戦歴
 第19駆逐隊駆逐艦綾波は太平洋戦争開戦以来、マレー沖、アンダマン、ミッドウェー、印度洋等に転戦奮斗し、昭和17年8月ガダルカナル島奪回作戦に投入されるや極めて困難なる状況のもとに8回に亘り出撃、赫々たる戦果を挙げた。
 同年11月14日敵飛行場砲撃部隊の最前方を掃蕩、単艦分離してサボ島西岸を索敵南下中、午後9時敵新大型戦艦ワシントン・サウスダコタの前衛駆逐艦4隻を発見綾波はサボ島を利用して単艦よくこの6隻に向って全速驀進近接し、自らも損傷を受け炎上しつつも正確無比なる数百発の12.7糎砲の零巨離射撃と、満を持して放った6本の魚雷によって敵駆逐艦プレストンを轟沈、次いでウォークを撃沈、ベンナムを大破、沈没、グインを大破させ海戦史上稀に見る大勝利を収めた。しかし自艦も亦敵駆逐艦4隻の集中砲火と新大型戦艦2隻の巨弾を一身に浴びて、闇のソロモン海に燃え爛れる鉄魂となって漂流し翌15日午前0時10分サボ島の南5000米の地点で大爆発、眠れる戦友と共に南溟の永遠のピケットラインについた。
 ガダルカナル海戦は事実上この夜を以て終焉し駆逐艦綾波生存乗組員はその後の戦斗に於て多数散華され終戦を迎えた。
 現生存有志一同ここに綾波戦歿者の碑を建立し、亡き戦友のため哀悼の意を表すると共にその勲を記念する次第である。
昭和45年5月14日
当夜戦斗参加の一人  第19駆逐隊司令付  小 池 英 作 題


軍艦高砂戦死下士卒墓

1905年(明治38年)1月15日建立
吉野型防護巡洋艦2番艦「高砂」
日露戦争中の1904年(明治37年)12月13日、旅順港閉塞作戦に従事中(旅順攻囲戦)にロシア海軍の機雷により沈没。

第十一掃海隊慰霊碑

第十三号~第十八号掃海艇
平成8年建立
13号14号は1942年1月12日のボルネオ攻略作戦時にタラカン陸上砲台の砲撃により沈没し、それにより第十一掃海隊は解隊。
残った4隻も終戦まで残ること無く沈没している。

第十一駆逐隊慰霊碑

平成4年9月23日建立
吹雪型(特型駆逐艦)4艦で構成。駆逐艦吹雪・白雪・初雪・深雪

碑文
第十一駆逐隊吹雪白雪初雪深雪の四隻は彼の過酷な太平洋戦争に於て遥か南の海に吹雪型特型駆逐艦としてその優秀性機敏性行動力等から艦隊の花形として縦横無尽の大活躍をなし大きな戦果を挙げたるも、吹雪は昭和十七年十月十一日サヴオ島六十度十五カイリにて敵艦隊と交戦、被弾に依り沈没、艦長以下総員二二六名戦死され、白雪は昭和十八年三月三日クレチン岬附近にて敵機の攻撃をうけ沈没、戦死者三十二名。
初雪は昭和十八年七月十七日ブイン沖の爆撃にて沈没。
深雪は昭和九年六月二十九日済州島西方に於て雷と衝突し沈没されました。
今や我国は平和で豊かな国となりたるもこれを見る事なく艦と運命を共にされた多くの戦友に対し感謝の誠を捧げ又御遺族の方々の御心の寄りどころと御遺族の方々の御心の寄りどころと安らぎを得られる場所となればと、ここに有志相計、鎮魂の慰霊碑を建立しその遺徳を顕彰し祖国日本の永遠の平和を願うものであります。
平成四年九月二十三日
第十一駆逐隊慰霊碑建立者一同

駆逐艦早蕨殉職者之碑

呉鎮守府司令長官海軍中将中村良三書
昭和8年10月16日建立

日露戦争後の大正期に建艦された若竹型駆逐艦「早蕨」(さわらび)。
早蕨は昭和7年12月5日、台湾海峡で荒天により転覆沈没している。
それゆえに碑銘も戦死ではなく殉職者銘。

時維昭和7年12月3日駆逐艦早蕨は僚艦3隻とともに南支那警備の重任を帯び呉軍港を発して遠く馬公に向う。
偶々東支那海は北風強吹して波浪山の如く、航行真に困難を極む。
越えて同月5日風愈々強く波浪益々高く艦の操縦極度の困難に陥り早蕨遂に覆没の厄に会す。
而して僚艦必死の努力に依り一部乗員を救助し得たるのみにて爾後幾十日に亘り荒天を冒しあらゆる捜索を試みたるもその効なく艦長門田中佐以下104名は艦と運命を共にせるものと断ずるのやむなきに至る。
鳴呼悲痛なんぞ堪ふべけんや。
此の報一夕に伝へらるるや挙国殉難将士の壮烈を悼み、捐金忽ちに聚りて数万に達す。
則ち之を頒ちて遺族を賑恤し、茲に碑を建て其の遺烈を長へに後世に伝ふと爾言。
昭和8年10月

第十五駆逐隊慰霊碑

夏潮・早潮・親潮・黒潮・陽炎
昭和61年9月22日建立

碑文
第十五駆逐隊は昭和十五年に編成され、第二水雷戦隊一番隊として開戦劈頭比島蘭印攻略に参加し、次いでミッドウェイ海戦に参加した。
この間に夏潮はマカッサル沖に於て被雷沈没した。
陽炎を加えた十五隊は、昭和十七年八月に始まった米軍のガ島反攻に対し、南太平洋海戦・第三次ソロモン海戦・ルンガ沖夜戦等を含むガ島増援作戦に縱橫の活躍をした。
この間早潮はラエ増強作戦中、敵機の爆撃を受けて沈没した。
わが軍は十八年二月遂にガ島を撤退した。
十五隊は内地で整備した後、再びソロモンに復帰し、今や第一線となったコロンバンガラ島へ輸送中、五月八日触雷し次いで敵機の爆撃を受けて全艦沈没し勇戦の幕を閉じた。
ここに十五駆逐隊の偉勲を後世に伝えるとともに御霊の安らからんことを祈念してこの碑を建立する。
昭和61年9月22日
第十五駆逐隊慰霊碑建立委員会

駆逐艦東雲慰霊碑

平成14年5月17日建立
吹雪型駆逐艦の6番艦「東雲」

東雲は第十二駆逐隊に所属し南方作戦に参加。ボルネオ島中部北岸ミリ泊地に進出行動中の昭和16年12月17日、蘭軍機の空襲を受けて沈没。笹川艦長以下乗員228名全員戦死。

駆逐艦深雪殉職者之碑

吹雪型駆逐艦4番艦「深雪」

昭和9年6月29日、第十一駆逐隊は第二水雷戦隊に所属して連合艦隊の済州島南方海域演習に参加。
演習中に「深雪」は吹雪型24番艦「電」と衝突。深雪は艦隊切断沈没。雷は前部大破。この衝突事故で5名が殉職。

上海満州事変戦歿者之碑

昭和8年10月23日建立。
昭和7年の上海事変(第一次上海事変)及び昭和6年の満洲事変の戦死慰霊碑。
海軍は上海共同租界地に「上海陸戦隊(上海海軍特別陸戦隊)」を展開しており陸軍部隊が到着するまでの間を海軍陸戦隊が上海で奮戦している。

大東亜戦争海軍戦歿者柔道部員之碑

昭和42年5月27日建立
九段緒方久人書。
緒方氏は広島呉の柔道家。呉鎮守府の柔道教師として海軍軍人の心身鍛錬に寄与されていた人物。

大東亜戦争戦歿者之碑

呉地方復員局長森下信衛書
昭和22年1月25日建立

森下氏は天一号作戦(大和特攻)時の第二艦隊参謀長。大和艦長有賀幸作大佐、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将とは海兵同期。
遺族希望や引取遺族不明のもの及び氏名該当者不明の遺骨を合祀納骨。

潜水母艦長鯨戦歿者慰霊碑

武政孝雄謹書
昭和60年9月建立

迅鯨型潜水母艦の2番艦「長鯨」。
潜水母艦は潜水艦への補給能力を持つ艦。
昭和20年7月30日、舞鶴港にてに敵艦上機の攻撃で艦橋に直撃弾を受け中破。 戦後に修理され復員輸送に従事。昭和22年解体。

呉六特バラレ島戦没者慰霊碑

呉鎮守府第六特別陸戦隊(呉六特)は昭和18年1月バラレ島に進出。バラレ島はソロモン諸島西部州ショートランド諸島に属す。バラライ島とも。
米軍により基地機能無効化されるも上陸作戦はなく、そのまま残存部隊はバラレ島で終戦を迎えた。

駆逐艦桑戦没者之碑

昭和57年12月2日建立
松型駆逐艦(丁型)の5番艦「桑」

昭和19年12月3日、姉妹艦「竹」と共に第七次多号作戦従事中(レイテ増援輸送作戦)にレイテ島オルモック湾で米駆逐艦3艦ほかと交戦。1隻撃沈1隻撃破するも桑は沈没する。

第六三四海軍航空隊・第九三四海軍航空隊慰霊碑

第六三四海軍航空隊は航空戦艦で運用する水上機(瑞雲)艦上機部隊(彗星)部隊として整備。しかし連携する機会なく水上機基地航空隊として終戦まで運用。
第九三四海軍航空隊も水上機部隊。消耗により昭和19年10月解隊。

第六三四海軍航空隊碑文
第六三四海軍航空隊瑞雲隊は、水上爆撃機瑞雲二十四機を以て、昭和十九年五月岩国基地に於て編制し、呉海軍航空隊で訓練を実施した。
その搭乗員は隊長及び分隊長等一部を除き、二十歳前後の祖国愛に燃え元気溌剌たる若者たちであった。
戦局愈々急迫を告げ、敵軍比島レイテに上陸するや、命に依り呉基地を発進、これより苛烈な比島攻防戦に突入し、主としてラモン湾及びレイテ湾の敵艦艇を攻撃した。 戦闘は激烈を極め多大の損害を受けたが、呉残留隊の進出並に新たに偵三〇一飛行隊の編入を得て、レイテ湾を発進し怒涛のレイテ湾を発進し怒涛の如く北上する敵艦隊を、ミンドロ島サンホセ及びリンガエン湾に捕捉、攻撃を反復し敵艦艇撃沈破百三十隻以上、敵機撃墜破数十機に達する戦果を挙げ、大西海軍航空隊司令により、数度に亘り感状・賞詞を受くる栄誉に浴した。
戦局の推移と共に、命に依り昭和二十年二月台湾に転進、三月には沖縄戦に出撃、亦五月新たに偵三〇二飛行隊の編入を得て、終戦に至るまで、沖縄周辺の敵艦艇を反復攻撃し多大の戦果を獲得せり。
然し乍ら、我が方の損害も甚だしく、地上勤務員を含めて、三百余名の有意な人材を失うに至った。是将に痛恨の極みである。 吾等生存者相計りて、ここに碑を建て之を後世に伝え、併せて鎮魂の徴とする。
昭和五十七年十月
元第六三四海軍航空隊 司令 江村日雄 隊員一同

第九三四海軍航空隊碑文

第九三四海軍航空隊は、昭和十七年二月三座水偵隊として編制され、マニラリツクババンを経て、同年六月には南遣艦隊付属となり、アンボン島ハロンに進出、マイコール基地を併用、観測隊、水戦隊を加え、豪州北方アラフラ海方面の警備、制空権保持等の為、勇戦奮闘数々の偉勲を挙げたのである。
昭和十九年にはマカッサルに、同二十年にはフィリピンに移動、その間克く困苦欠乏に耐え任務の全力傾尽せしも敵機との空中戦及び敵の爆撃等による戦死者は二百余名の夥しい数に及び、悔いて尚且つ余りあり、真に痛恨の限りである。
このたび、当時の部隊関係生存者有志相はかり、これら戦死者の冥福を祈ると共に、苦戦の実情を、永く後世に伝えんと、 ここに、第六三四、第九三四海軍航空隊の、合同慰霊碑を建立するに至る。
昭和五十七年十月
元第九三四海軍航空隊 司令 時永縫之助  隊員一同

軍艦大井戦没者慰霊碑

軽巡洋艦球磨型の4番艦「大井」 同型艦の北上と共に、重雷装艦に改装されたが活用できず高速輸送艦へ改装され輸送任務に従事。
昭和19年7月19日、マニラからシンガポールに向けて南シナ海を航行中に米潜水艦フラッシャーに雷撃され沈没。

祖国永遠の平和を念じつつ艦と運命を共にした戦友の武勲を後世に伝え、その霊を永久に安かれと祈り我等有志相計ってこの碑を建つ
軍艦大井戦友会

平成元年(1989) 7月19日建立

軍艦球磨慰霊碑

軽巡洋艦球磨型1番艦「球磨」
蘭印周辺の哨戒と輸送に従事していたが昭和19年1月11日、球磨は対潜戦演習のため駆逐艦浦波とともにペナンを出港。イギリス海軍T級潜水艦タリホーに補足され雷撃を受けマラッカ海峡附近にて沈没。

碑文
大正9年8月佐世保工廠に於いて竣工 
爾来20有余年広大なる地球に其の雄姿を顕し、祖国防衛の重責を果たせる 
巡洋艦熊は苛烈なる太平洋戦争の真只中、第2南遣艦隊第16戦隊に編入され、南方洋上にて臨戦行動中、昭和19年1月11日午前11時57分、ペナンの西方11浬、マラッカ海峡に於いて、英国潜水艦タリ・ホウの雷撃を受け戦友の尊き英魂139柱と共に、海底深く永遠にその姿を没したり 
巡りて40有余年の星霜を経たるも、切々の情念を新たにして追惜禁じがたく、茲に有志相計り「軍艦球磨戦没者慰霊碑」を建立す 
合掌の中に球磨を象徴する磨き球の下 在天の英魂来りて鎮まり給え 英会陰に其の英霊を慰むべしと記念す

軍艦三隈戦歿者慰霊碑

最上型巡洋艦2番艦「三隈」
昭和17年6月7日ミッドウェー海戦。第七戦隊第2小隊(三隈、最上)と第8駆逐隊(荒潮、朝潮)は衝突を起こし艦首を喪失した最上を護衛し退避行動へ。米軍追尾を受け、更に単艦退避した三隈は米軍機により爆撃され沈没。

碑文
 軍艦三隅は彼の過酷な太平洋戦争に於いて西南太平洋並に東南太平洋海域に奮戦せるも遂に昭和17年6月7日ミッドウェー北方洋上にて艦長以下695名の将兵と共に没す。
 今や我が国は平和な豊かな国となりたるもこの幸を見ることなく艦と運命を共にされた多くの戦友に対し切々なる感謝の誠を捧げるものである。
 ここに有志相計り鎮魂慰霊碑を建立し祖国日本の永遠の平和を希うものである。
昭和59年6月7日
軍艦三隅会

軍艦初鷹慰靈碑

昭和58年4月建立。
初鷹型敷設艦(急設網艦)1番艦。

急設網艦とは自軍勢力圏内にある港湾、海峡及び水道等へ防潜網や捕獲網を敷設するための艦種。当艦は東南アジア方面で補給や船団護衛任務に従事。
昭和20年5月16日、マレー沖にて米潜水艦ホークビルの雷撃により沈没。

第一〇三海軍工作部 戦没者之碑

昭和59年5月27日建立。
呉海軍工廠を主体とし艦船修理や小型艦船建造等の技術部隊として昭和17年1月、比島キャビテ軍港に設置。
米軍ルソン反攻上陸により陸軍山下奉文師団と協力しマニラ防衛部隊に編入。
軍の陰に隠れ敢えなく逝った非戦闘部隊の偉業を偲ぶ。

ソロモン方面第十二防空隊慰霊碑

昭和17年12月編成。ラバウル方面に展開。 昭和21年2月復員により解隊。

工作艦朝日・山彦丸・山霜丸合同慰霊碑

工作艦「朝日」は元は敷島型戦艦2番艦。日露戦争、第一次世界大戦では主力艦として参加し、太平洋戦争では工作艦として参加。40年に渡る活躍であった。

昭和17年5月25日に旧型低速故に米潜水艦により雷撃を受け翌日沈没。

「山彦丸」 昭和19年1月10日、米潜水艦の雷撃を受けて航行不能となり13日に沈没。
「山霜丸」 昭和19年2月22日、米潜水艦の雷撃を受け翌23日にも米潜水艦の雷撃を受けて沈没。
二隻とも元は山下汽船の大型貨物船。

駆逐艦叢雲慰霊碑

吹雪型駆逐艦5番艦「叢雲」
開戦時は第12駆逐隊に所属。のち第11駆逐隊に編入。

昭和17年10月12日、サボ島沖海戦で損傷した古鷹の救援に出動。サボ島西40海里で米軍機の爆撃を受け大破し雷撃処分。

駆逐艦天津風之碑

陽炎型9番艦「天津風」。
当艦には次世代型駆逐艦「島風」用試作高性能機関が搭載されていた。

昭和19年1月16日米潜水艦の雷撃にて大破し艦前部を喪失。昭和20年3月下旬、仮艦首を装備。
4月10日、歴戦の駆逐艦「天津風」は日本本土へ帰投中に米軍機の攻撃を受け アモイ島南岸に座礁し航行不能となり爆雷の自爆により爆破処分。

最後の天津風艦長森田友幸大尉による謹書
「戦友よ安らかに眠り給へ」

第三十一潜水艦基地隊戦没者慰霊碑

第六艦隊隷下部隊として昭和19年8月編成。
第三十一潜水艦基地隊としてフィリピン・セブ島に進出し、対空警戒や甲標的整備に従事。またマニラ防衛等に参加。

工作艦明石慰霊碑

日本海軍唯一の新造工作艦「明石」。
「移動する海軍工廠」として南方海域で活躍。米海軍からはその活躍ぶりから最重要攻撃目標とされる。 昭和19年2月17日、トラック島空襲により損傷しパラオに回航。同年3月30日のパラオ空襲で大破着底する。

戦歴表碑文

本艦は日本海軍が最初より工作船としての設計建造した唯一の艦で建造佐世保工廠 艤装呉工廠 竣工昭和14年7月
(略)

戦歴
竣工と共に連合艦隊に附属行動を共にし 船体兵器機関の小修理を行い工作艇としての機能を発揮した
昭和17年8月トラック島に進出し南東方面海域で損傷せる艦艇の修理を行って大きな戦果を挙げ沈没に類した重巡最上 青葉 阿賀野などを帰還せしめた

最後
トラック大空襲の被害を免れパラオ方面に転進 修理活動を続けたが19年3月30日 ウルグターブル島の海岸に鎮座し 悲愴な最期を遂げ 187名の勇士が尊い犠牲となって散華された。

「工作船明石 慰霊碑」と表題したのは明石が船と人とが一体となり大きな戦果を挙げた事に対し戦歿英霊の功績と共に永くこれを顕彰せんとするものである。

海防艦稲木戦歿者慰霊碑

鵜来型海防艦12番艦「稲木」 昭和19年12月16日竣工し近海の船団護衛に従事。 昭和20年8月9日、八戸にて空襲を受けて沈没。

善本野戦高射砲中隊戦歿者慰霊碑

昭和16年10月、呉一特(呉第1特別陸戦隊)高射砲中隊として編成。ニューギニア戦線に展開。昭和18年9月、ラエ防衛陣地からサラワケット越えを敢行、標高4000m高山戦として史上類を見ない長距離行軍となる。部隊はキエリで終戦。

伊号第十一潜水艦之碑
呂号第百四潜水艦之碑

伊九型潜水艦(巡潜甲型)3番艦「伊11」 オーストラリア周辺海域通商破壊戦に従事。 昭和18年7月20日に豪海軍軽巡洋艦「ホバート」を雷撃し大破させる。 昭和19年1月サモア方面に向かった後に消息不明。

呂百型潜水艦(小型)の5番艦「呂104」 南方海域で哨戒や輸送任務で活躍。 昭和19年5月17日、サイパンを出港し「あ号作戦」のため散開線に配備されたが米軍護衛駆逐艦の爆雷攻撃を受け沈没。

軍艦熊野慰霊碑

最上型巡洋艦4番艦「熊野」 昭和19年10月。捷一号作戦に於いて栗田艦隊第七戦隊として出撃するも大破しマニラに退避。同じく大破していた青葉とともに本土回航の為に出港し道中奮闘したが帰還は果たせず11月25日に沈没。(同航した青葉は呉に帰還)

呉海軍設営隊顕彰慰霊碑

海軍大将嶋田繁太郎書 呉軍港より出撃した設営隊27部隊を合祀。 太平洋全域に渡る軍設備の建設や運営に従事。

軍艦古鷹戦没者慰霊碑

源田實謹書
古鷹型巡洋艦1番艦「古鷹」
平賀譲が手掛けた代表艦

昭和17年10月11日-12日、サボ島沖海戦。 第六戦隊旗艦青葉・古鷹・衣笠、第11駆逐隊第2小隊初雪・吹雪で進軍中に米軍と交戦、古鷹は集中砲火を浴び航行不能となり沈没。

碑文
軍艦古鷹は20糎砲を搭載する重巡の第一艦として江田島の霊峰古鷹山の名を取り大正15年3月31日に竣工した。
当時諸性能極めて優秀にして艦容又独創的となった。
大東亜戦争開戦劈頭、ウエーキ島及びグアム島攻略を支援、次に珊瑚海々戦、第一次第二次ソロモン海戦等に参加、就中第一次ソロモン海戦に於ては抜群の戦果を収めた。
昭和17年10月11日サボ島沖夜戦に於いて勇戦奮闘せるも遂に23:30沈没した。
茲に重巡古鷹の慰霊碑を建立して戦没者の冥福を御祈りする。
尚 本慰霊碑は古鷹関係生存者有志の献資により建立した。
昭和49年9月10日

軍艦鬼怒慰霊碑

長良型巡洋艦5番艦「鬼怒」 昭和19年10月の捷一号作戦時には、鬼怒・重巡洋艦青葉・駆逐艦浦波からなる第16戦隊を編制しレイテ島への兵員輸送に従事。 10月26日レイテ島オルモックからの帰路に米軍機の爆撃を受けパナイ島北方で被爆沈没。

碑文
軍艦鬼怒は大東亜戦争に端を発せれるや南方方面第4潜水戦隊旗艦としてマレー半島を南下スラバヤ、セレベス、シンガポール方面の激戦に数々の功績を重ね最期には第16戦隊旗艦としてレイテ湾作戦に参加、昭和19年10月25日敵空50機と交戦、翌26日午後5時25分遂にさすがの鬼怒も最終の美を飾り去った、
軍艦鬼怒竣工以来同艦に於いて戦死された方がこっら今の日本の礎となられた尊い戦友の英霊に対し思い出の鬼怒よみたま今 母港に帰りし安んじて眠り給へと祈る
昭和55年5月25日
軍艦鬼怒慰霊碑建設賛同者一同

軍艦隼鷹慰霊碑

日本郵船客船橿原丸を改装した航空母艦「隼鷹」 ミッドウェーで主力空母喪失後に穴を埋める活躍をする。また高速輸送艦としても運用され佐世保に疎開し終戦まで残存。 戦後は機関損傷から復員船指定もなく商船への復帰もなく昭和22年8月1日解体終了。

駆逐艦秋風慰霊碑

峯風型駆逐艦9番艦「秋風」
昭和19年10月下旬、比方面への緊急輸送作戦従事中の「隼鷹」護衛任務に従事。11月3日、米潜水艦は隼鷹に対し雷撃するも秋風に命中し秋風は沈没。辛くも隼鷹は難を逃れた。
秋風慰霊碑は隼鷹慰霊碑の隣に建立されている。

献辞碑文
昭和十九年十月三十日空母隼鷹は高千穂空挺部隊八五〇名と各種兵器弾薬を満載これを護衛する軽巡 木曽 第三十駆逐隊(卯月、夕月、秋風)と共に夕闇迫る佐世保軍港をマニラへと出港した
緊迫した航海が続いた十一月三日夜半隼鷹の左舷を護衛中の秋風に左六十度方向より米潜ビンタード発射の魚雷が隼鷹に命中するのを避けるため全速で前進体当りを行ない一瞬の間に山崎艦長以下二〇四名が全員戦死した
時正に二十二時五十三分 北緯十六度四十一.五分 東経一一七度二十一分マニラ西方海面で秋風はその勇姿を消したのである
思えばあの重大な輸送作戦が成功し戦後我々が無事復員して今日あるのは偏えにこの尊い犠牲の賜と確信するものである
このため秋風の戦没者に感謝し この偉勲を後世に傳え また御霊の安らかに眠られんことを願って隼鷹戦友会の有志一同 御遺族そして秋風の御遺族並びに賛同者の協力を得て鎮魂の碑を建立し亡き秋風戦没者に哀悼の意を表わすものである
平成三年九月二十二日 
建立委員長 吉川亘 

第十七駆逐隊之碑

谷風・浦風・浜風・磯風・雪風・初霜

碑文
第十七駆逐隊の戦歴
我が第十七駆逐隊は谷風浦風浜風磯風雪風初霜の六艦を以って編成され大東亜戦争を戦ったが昭和十九年六月九日北ボルネオ沖にて谷風を失い浦風は昭和一九年十一月二十一日台湾海峡にて沈没。
浜風・磯風は昭和20年4月7日沖縄洋上にて沈没。
初霜は同年7月宮津湾で破損し憾みを千載に残した。
雪風は最期まで艦が保全され終戦後は復員船として活躍した。
当駆逐艦隊は日本海軍の誇る精鋭の甲型駆逐艦でさきの大戦において祖国日本の防衛に任じ数々の武勲をたてたが総員六百五十五柱の戦没者をみた誠に痛恨の極みである。
茲に第十七駆逐艦の栄光を後世に伝え且つは祖国の安泰と英霊の安からんことを祈念して同志相寄り謹んでこの碑を建立する。
昭和57年3月21日

駆逐艦浜風戦歿者慰霊碑

陽炎型13番艦「浜風」
第17駆逐隊に所属した姉妹艦と主要な海戦に参加。戦艦武蔵・金剛・空母蒼龍・飛鷹・信濃といった帝国海軍主力艦の沈没に立ち会い救助活動に従事。 最後は昭和20年4月7日の坊ノ岬沖海戦で戦艦大和と共に撃沈。

呉鎮守府第十七防空隊慰霊碑

昭和18年、呉で編成されラバウルに進出。 その後、ブーゲンビル島ブインに転戦。 そのままブーゲンビル島ブイン基地にて終戦を迎える。

軍艦加古戦没者慰霊碑

元加古艦長高橋雄次書
古鷹型重巡洋艦2番艦「加古」
昭和17年8月8日、第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)は第一次ソロモン海戦に参加し活躍。戦闘終了後の8月10日。その帰路に米潜水艦の雷撃により沈没。

第四艦隊遭難殉職者之碑

第四艦隊事件。
昭和10年の台風により海軍艦艇が被った大規模海難事故。参加艦艇(41隻)の約半数(19隻)が何らかの損傷を被った。
なかでも最新鋭の吹雪型特型駆逐艦「初雪」「夕霧」は艦橋付近で艦首切断の大損害を受けた。殉難者54名。

軍艦矢矧殉職者之碑

筑摩型防護巡洋艦2番艦「矢矧」
(当艦は初代。阿賀野型「矢矧」は2代目)

大正7年(1918)秋、南太平洋及び印度洋方面の警備任務の帰途に艦内にインフルエンザが流行し乗員471名のうち殉職者は艦内6名病院42名の48名に及んだ。

第三十四号駆潜艇戦歿者慰霊碑

初代艇長逆井保治謹書
第十三号型駆潜艇を改良した第二十八号型駆潜艇の1隻。同型艦31隻。 昭和17年8月31日竣工。昭和20年3月26日英艦と交戦沈没(小アンダマン島東方沖)。

軍艦神通戦没者慰霊碑
海軍中将 伊崎俊二之墓

川内型巡洋艦2番艦「神通」
第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将。

昭和18年7月、コロンバンガラ島沖海戦において旗艦「神通」が戦没し運命を共にした。死後、海軍中将に進級。

碑文
昭和十八年七月十二日コロンバンガラ島沖夜戦に於いて米巡洋艦と交戦し神通は百十糎探照灯で敵艦を照射し子隊の雷撃砲撃を容易にし、自から標的となりながらも勇猛果敢に戦い多大なる戦火をあげたが尊い命を失いました。

駆逐艦椿戦没者慰霊碑

元艦長田中一郎少佐書
松型駆逐艦(丁型)15番艦「椿」

昭和19年11月30日竣工。昭和20年7月に瀬戸内海の備讃瀬戸で空襲にあい中波。終戦時は中破状態で呉に残存。昭和23年7月28日に解体が終了した。

伊二九潜戦没者慰霊碑

第十四潜水隊司令寺岡正雄謹書
伊号第二十九潜水艦。 インド洋で通商破壊任務を行い船舶7隻撃沈。また日独往復に成功寸前まで行った艦。昭和18年7月26日ドイツ帰路に比島沖にて敵潜の雷撃を受け木梨鷹一艦長以下全乗員が戦死し沈没。

不朽
艦と共に身おば砕きし火柱の
  一瞬をただ見つめたるまま

大東亜戦争中輝かしい戦歴を重ねた伊号第29潜水艦は昭和19年7月26日午後4時15分頃ドイツ派遣の重大使命を果して一路帰国の途上米国潜水艦の雷撃を受けて沈没。
乗組員107名もまた艦と運命を共にせり。 バタン島沖バリンタン海峡の、そうそうたる海原水深く波静かなる紺ぺきの海。
そこは祖国に生命を捧げた精鋭と艦の不朽の偉勲を語るところ、その海には今もなお壮烈偉大なる殉国の魂が永遠の眠りをつづけている。

伊三六三潜殉職者之碑

伊号第三百六十三潜水艦。
回天攻撃隊に参加。8月14日に呉帰港し終戦を迎える。
昭和20年10月29日、呉から佐世保へ回航の途中、宮崎県沖で触雷沈没。 墓碑の上の潜望鏡は、その後引き上げられた本艦の夜間潜望鏡、という。

レンドバ島派遣隊戰没者慰霊碑

レンドバ島で戦死した「呉鎮守府第六特別陸戦隊」および「第三十八師団歩兵第二二九連隊第七中隊」の慰霊碑。レンドバ島守備隊は米軍上陸を打電したのち消息を絶っている。

ソロモンの
 孤島に散りし
  戦友の
英霊よながく
 ここにやすかれ

軍艦青葉戦没者慰霊碑

青葉型重巡洋艦の1番艦「青葉」
昭和17年第一次ソロモン海戦・サボ島沖海戦で活躍。
昭和19年捷号作戦(レイテ沖海戦)で大破、かろうじて呉軍港に帰投。 修理の見込みが立たないまま昭和20年7月呉空襲で大破着底。昭和22年7月解体完了。

 風荒れ雨はくるうじ
 草木は空にもえ出でて
 やがて青葉いろどられ
 真夏の苦熱如何あらん
 ますらたけおの胸の血は
 青葉の如くもゆるなり

軍艦吉野戦死者之碑

吉野型防護巡洋艦1番艦「吉野」
1893年(明治26年)完成当時は世界最速の軍艦。
日露戦争では第三戦隊に所属。1904年(明治37年)5月15日、旅順港閉塞作戦従事の帰路に濃霧に遭遇し味方艦「春日」と衝突沈没。戦死者319名。

軍艦信濃戦歿者之墓

靖國神社宮司 筑波藤磨 書(第五代宮司)
大和型戦艦3番艦を航空母艦改装したものが「信濃」。 昭和19年11月下旬、未完成のまま横須賀から呉へ回航中に米潜水艦の魚雷攻撃により、一度も実戦に投入されることなく沈没。合祀者885柱。

第参号輸送艦戦没者慰霊之碑

嶋田繁太郎書
第一号型輸送艦(一等輸送艦)3番艦。日本海軍で最初にブロック工法を導入した艦型とされる。 本艦は昭和19年6月29日竣工。昭和19年9月15日、ミンダナオ島で座礁中に米潜水艦より雷撃を受けタンク破裂炎上し火災沈没。

軍艦衣笠慰霊碑

青葉型重巡洋艦2番艦「衣笠」 昭和17年10月のサボ島沖海戦で古鷹と吹雪が沈没し青葉が大破した第六戦隊は解隊し健在だった衣笠は第八艦隊直属に再編成。(青葉は呉修理へ) 11月、第三次ソロモン海戦において米軍機の攻撃を受け航行不能となり沈没。

碑文
軍艦衣笠は、先の太平洋戦争において、勇戦奮闘するも、昭和17年11月14日 南太平洋ニュージョージア島南方洋上に沈む。
今やわが国の平和と繁栄を目の当たりにするとき、祖国の礎となって艦と運命を共にされた亡き戦友に対し我々は切々たる感謝の思いを禁じ得ない。
ここに40周年を迎えるにあたり、鎮魂慰霊の碑を建立して、その遺徳を顕彰し祖国日本と世界の永遠の平和を心より念願するものである。
昭和57年11月14日
軍艦衣笠慰霊碑建立委員会

駆逐艦浦波慰霊碑

吹雪型駆逐艦(特型駆逐艦)10番艦「浦波」
昭和19年10月26日、第十六戦隊(青葉、鬼怒、浦波)はレイテ沖海戦に伴う輸送作戦(オルモック湾揚陸作戦)に従事。「浦波」は揚陸の帰路に米軍機の空襲により長良型軽巡洋艦5番艦「鬼怒」等と共に撃沈。

第十六防空隊戦没者慰霊碑

昭和18年4月、横須賀海軍砲術学校にて編成。 第八艦隊第七連合特別陸戦隊編入。 5月ラバウルに進出し、次いでブーゲンビル島ブインに進出。コロンバンガラ島撤退作戦ニ参加。ショートランド諸島で終戦。

第百十三號輸送艦慰霊碑

特設輸送艦(二等輸送艦) 昭和19年10月竣工。 昭和19年11月25日、サンタクルーズ湾からマニラに向う途中にルソン島ダソル湾外で米空母機の攻撃を受け沈没。

駆逐艦磯波戦没者慰霊碑

吹雪型駆逐艦9番艦「磯波」 昭和18年4月9日、船団護衛中にスラバヤ方面セレベス島南東で米潜水艦の雷撃で戦没。

駆逐艦呉竹慰霊碑

若竹型駆逐艦2番艦「呉竹」(くれたけ) 大正11年(1922)12月竣工。当初名は「第四駆逐艦」。 昭和3年8月1日「呉竹」と改名。昭和19年(1944)12月30日、バシー海峡にて米潜水艦の雷撃を受け戦没。

駆逐艦白雲慰霊碑

吹雪型駆逐艦8番艦「白雲」
開戦時は第十二駆逐隊所属。昭和17年3月に第十二駆逐隊は解隊となり第二十駆逐隊に編入。昭和18年に北方部隊の第九駆逐隊に編入。昭和19年3月16日、ウルップ島向船団護衛中、襟裳岬沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没した。

駆逐艦白雲慰霊碑

「吹雪」型特型駆逐艦の八番艦として、昭和3年7月28日竣工。

白雲について
白雲は昭和3年7月28日、第42号駆逐艦として呉で竣工、わずか4日後に艦名が改められている。
当時帝国海軍が精強を誇った特型駆逐艦の8番艦である。
昭和16年12月太平洋戦争の勃発時には、第12駆逐隊の司令駆逐艦としてマレー半島上陸作戦を支援、次いでボルネオ、スマトラ、ジャワ島などの攻略戦、インド洋制圧作戦に参加、昭和17年8月ガダルカナル島争奪戦で傷つくまで南方洋上各地を転戦し、数々の武勲を立てている。
その後北方部隊に編入され千島防衛の任に当っていたが、昭和19年3月16日夜、船団護衛中、北海道釧路沖に於いて無念にも米潜水艦の雷撃を受け、輸送船日連丸とともに沈没、艦長以下乗員270名、悉く壮烈な戦死を遂げられた。
波高く月明なき暗夜の海上で、将に沈まんとする白雲は全艦に灯火を点じていたと伝えられる。
祖国への訣別の点灯であったのかとおもえば痛恨の念が胸に迫り、哀惜の情は尽きない 。
爾来星霜を重ねて四十三年、今は我が国北辺鎮護の礎として、永遠の眠りに就く白雲の栄光を讃え、ともに殉じた戦没将兵の霊を慰めるため、有志相図ってここに鎮魂の碑を建立する。
昭和62年3月16日
白雲会

駆逐艦初風慰霊碑

陽炎型7番艦「初風」 昭和18年11月2日、初風は第十戦隊旗艦軽巡洋艦阿賀野の指揮下(阿賀野・駆逐艦長波、初風、若月)でブーゲンビル島沖海戦に参加、第五戦隊重巡妙高と衝突し、艦首を失い米艦隊の集中砲火を受けて沈没。

駆逐艦初風は、昭和18年11月2日 ブーゲンビル沖海戦に於いて壮烈な最期を遂げました。
その初風と運命を共にされました265名の鎮魂を願って 私ども遺族はこの趣旨にご賛同の方々露力を合わせて、遅ればせてはありますが、呉の母港の見えるこの地に、慰霊碑を建立いたします。祖国日本が永遠であることを念じつつ散華されましたその霊を御慰めし、ここに御冥福を御祈りいたします。

第六三四海軍航空隊慰霊碑

第六三四海軍航空隊は昭和19年9月の時点では海軍屈指の航空隊であった。
基地隊員四百余名は部隊に合流すべく新鋭空母雲龍に便乗し12月17日呉軍港出港したが19日午後4時57分、東シナ海舟山列島沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没、殆どが戦死。

呉鎮守府潜水艦戦没者之碑

合祀潜水艦、伊号29隻、呂号6隻、合計35隻。

轟沈
轟沈 轟沈 凱歌が上りゃ
つもる苦労も苦労にゃならぬ
うれし涙に潜望鏡も
くもる夕日の
くもる夕日のインド洋

碑文
さきの凄絶なる大東亜戦争において、祖国の隆昌発展を願いつつ、万里の果てに敵を撃ち、至誠と情熱とを捧げて己が努めを尽くしたる後従容として戦没せし潜水艦三十五隻、艦と運命を共にされし英霊は三千余柱を数う。
戦いの日過ぎ去りて半世紀、今日の祖国の平和と繁栄とはここに眠れる尊き英霊の犠牲の賜にして切々たる追惜の情もだし難く有志相計り「呉鎮守府潜水艦戦没者之碑」を母港の上に建立す。
諸兄の示されたる純粋にして無垢、崇高なる殉国の真心とその輝かしい勲とを、後世に伝えてその遺徳を顕彰し、併せて祖国の永遠の平和を希うものである。
在天の英霊ここに還りて、ありし日を我等と共に静かに語らん。
平成3年4月23日
呉鎮戦没潜水艦合同慰霊碑建立委員会

駆逐艦敷波戦没者慰霊碑

吹雪型(特型駆逐艦)12番艦「敷波」 昭和19年9月4日、内地向船団を護衛してシンガポールを出港。9月12日に海南島東方沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没。

昭和十五年徴募主計科戦歿者慰霊碑

文字通り、昭和15年に徴募(召し募ること)された主計科の戦歿者のことであることはわかるが詳細は不明。

第二十四特根付 
特設駆潜艇 第十八日東丸戦没者慰霊碑

徴傭漁船を改造した特設駆潜艇「第十八日東丸」 昭和16年8月28日徴傭、昭和20年終戦時に残存。 第二十四特根とは「第24特別根拠地隊」のこと。

ショートランド島戦没者慰霊碑

元連合艦隊参謀長草鹿龍之介謹書
ソロモン諸島ブーゲンビル島南東のショートランド泊地に展開された第13防空隊の慰霊碑。 旧呉鎮十三防空隊員及呉六特南海砲台員の英霊を謹んで慰霊の為建立。

駆逐艦陽炎之碑

陽炎型駆逐艦1番艦。
昭和18年5月8日、第15駆逐隊(親潮・黒潮・陽炎)にてコロンバンガラへ輸送の帰途、同島南岸西方で触雷。航行不能となった陽炎は米機爆撃を受け沈没。なおこの1日で親潮・黒潮も沈没しており第15駆逐隊は全滅。

戦歴
駆逐艦「陽炎」は、「陽炎」型駆逐艦の一番艦として、昭和14年11月6日竣工した。
太平洋戦争開戦時は、第十八駆逐隊に属し、機動部隊の警戒隊としてハワイ真珠湾攻撃、ついでインド洋作戦に参加した。
その後、ミッドウェー海戦に参加した後、第十五駆逐隊に編入された。
ガダルカナル島方面の作戦に於いて一木支隊を緊急輸送、ルンガ沖海戦では米重巡艦隊に大損害を与えた。
昭和18年5月7日ソロモン諸島クラ湾で触雷、翌8日米陸軍機の空襲により被爆し沈没した。

軍艦天龍遭難死者紀念碑

明治31年7月23日建立。合祀者3柱。
明治18年(1885)3月5日竣工。日清日露戦争に参加。 明治30年(1897)11月26日に発生した火災で犠牲になった殉職者の慰霊碑。

軍艦廣丙遭難哀悼碑

広丙(こうへい)
明治29年(1896)5月建立。
清国海軍の防護巡洋艦。日清戦争の際に降伏、戦利艦として日本海軍に編入。新鋭艦として期待されていたが編入後1年足らずの明治28年12月21日に座礁し沈没。

軍艦鈴谷戦没者慰霊碑

最上型重巡洋艦(二等巡洋艦最上型)3番艦「鈴谷」
昭和9年11月20日の鈴谷進水式には昭和天皇が臨席。 昭和19年10月25日、レイテ沖海戦・サマール島沖追撃戦で空襲を受け酸素魚雷が誘爆し沈没。

軍艦鈴谷
ソ連領サハリン南部のチエホバ岳が旧日本領土の樺太であった頃に鈴谷岳と呼ばれ山裾を流れる鈴谷川にその名を取り二代目鈴谷として誕生する。 然し地球上に存在しなくなった地名鈴谷をこの世から忘れ去られる事に忍びず軍艦鈴谷とその犠牲者の功績を此処に伝える。

昭和十九年十月二十五日十時三十分頃撃墜した米空母機が魚雷甲板舷側にて爆発炎上し搭載魚雷の誘爆により北緯十一度四十五分東経一二六度十一分のサマール島東方海面の太平洋上に六百有余名の乗員と共に十三時二十二分その姿を海中に没す。
駆逐艦沖波に救助された四百余名も翌二十六日の米空母機の追撃により沖波は損傷、多数の死傷者を出したがマニラに帰着し、更に半数は陸戦隊としてマニラに残留し、又本国に帰った者もそれぞれ過酷な戦いに終戦迄に大多数が護国の花と散った。

鈴谷慰霊碑の片隅に鈴谷乗組員を救助した沖波慰霊碑がある。

救助駆逐艦沖波戦死者慰霊

昭和十九年十月二十六日、鈴谷乗員救助後マニラ帰投中、アメリカ機の追撃を受け死闘して斃れた沖波乗員戦死者の霊に捧ぐ

沖波はその後マニラにて昭和19年11月13日に大破着底

戦艦扶桑戦没者慰霊碑

扶桑型戦艦の1番艦「扶桑」
昭和19年10月25日。扶桑は通称西村艦隊(西村祥治)全7隻(戦艦山城・扶桑、重巡洋艦最上、駆逐艦満潮、朝雲、山雲、時雨)でレイテ湾へ突入。スリガオ海峡で米艦隊集中攻撃を受け、駆逐艦時雨を残して全滅。

碑文 戦歴
戦艦扶桑は呉鎮守府管下最初の超弩級戦艦として平時の連合艦隊に於いて輝かしい成績を挙げ、大東亜戦争勃発するや各地に転戦し、最後となった昭和十九年十月の捷一号作戦には僚艦山城とともに第二戦隊を編成し、捷一号作戦には僚艦山城とともに第二戦隊を編成し西村中将指揮のもとに比島スリガオ海峡よりレイテに向け突入、米艦隊と激戦、敵戦艦重巡戦隊の集中砲火と魚雷艇駆逐艦の雷撃を受け沈没。 阪艦長以下殆ど全員が戦死した。 時に昭和十九年十月二十五日午前二時四十五分。

特務艦間宮戦歿者慰霊碑

給糧艦「間宮」
就役当時は間宮は世界最大の給糧艦であり、日本海軍としても初の給糧艦であった。補給の要として活躍。艦隊の酒保として非常に人気が高く帝国海軍の中では最も有名な艦の一つ。
昭和19年12月21日、米潜水艦の雷撃により沈没。

碑文
竣工後第一艦隊に所属続いて連合艦隊に編入し、当時唯一の給糧艦として支那事変、太平洋戦争に参加、揚子江沿岸並に比島トラック、パラオ、サイゴン等各方面に糧食酒保物品等の補給任務に従事した。
昭和十九年十二月十日物資を満載しサイゴン出港、マニラに向け航行中十二月二十一日午前一時、米潜水艦二隻の雷撃を受け海南島東方にて沈没。 艦長以下四百六十余名の乗組員が艦と運命を共にした。
誠に痛恨の極みである。
ここに間宮の栄光を後世に伝え且つ戦没者の御霊を慰めるべく生存者元乗組員及び旧海軍有志相集い浄財を得てゆかりの地にこの碑を建立す。
昭和五十八年十一月二十日 特務艦間宮

軍艦鹿島 有終之碑

香取型練習巡洋艦2番艦「鹿島」
有終之碑。鹿島は呉で終戦を迎えている。
開戦時はトラック泊地で南洋部隊の全作戦を指揮する第四艦隊の旗艦(司令長官井上成美)を務める。 戦争末期は輸送任務に従事。(特設護衛船団・海上護衛総隊)

第十戦隊旗艦 巡洋艦阿賀野慰霊碑

元第十戦隊司令官木村進謹書
阿賀野型軽巡洋艦1番艦。昭和17年10月竣工。第十戦隊旗艦。
昭和18年11月ラバウル空襲で損傷しトラックで明石の応急修理を受ける。
昭和19年、呉に回帰途中2月17日に米潜水艦雷撃により沈没。

阿賀野艦
 身は南海に
  沈めども
永久に護らん 
 秋津洲ねを
昭和49年10月12日 元通信長 太田守

第十戦隊旗艦 阿賀野 慰霊碑の回りには多くの駆逐艦の名が刻まれている。

昭和19年2月17日に沈没した阿賀野。阿賀野乗組員らは駆逐艦追風に救助されたが、追風も翌日のトラック空襲で爆沈。松田艦長以下多数の阿賀野乗組員も散華。

第三十二特別根拠地隊戦没者慰霊碑

島村浩二書(大佐・陸戦指揮官)
比島ミンダナオ島方面海軍部隊。第三十二特別根拠地隊はミンダナオ島ダバオを中心に防衛に従事。 昭和20年4月27日、米軍ダバオ攻撃が始まり部隊は陸軍と協力して防衛に務めるが漸次消耗し終戦を迎える。

軍艦伊勢慰霊碑

捷号作戦当時艦長 中瀬泝謹書
伊勢型戦艦1番艦「伊勢」
昭和18年、僚艦の日向とともに航空戦艦へ改装され「第四航空戦隊」編成。 昭和19年10月レイテ沖海戦で活躍。昭和20年北号作戦成功後、7月28日の呉軍港空襲にて大破着底し終戦を迎える。

碑文・献辞
第二次世界大戦起るや航空戦艦として各地に転戦し武威を輝かし、昭和廿年七月二十四日及び二十八日敵機の大群の攻撃を受け、勇戦奮斗のかいなく倉橋島北岸に擱座着底し護国の鬼と化したる百九十名の勇士に痛恨おくあたわざれど護国の鬼と化したる百九十名の勇士に痛恨おくあたわざれど戦友よ星移り月かわれども永遠にその名をとどめ之れを顕彰せん 願はくば安らけく眠り給へ
昭和四十五年十月二十五日 
軍艦伊勢慰霊碑建設委員長 師岡勇

第五三一海軍航空隊慰霊碑

昭和18年編成。最前線の雷撃機隊。天山を主力とする。マーシャル諸島に展開。 昭和18年12月クエゼリン環礁地上戦開始。ルオット島司令部通信途絶。 昭和19年2月解隊。地上戦が発生しなかったウォッゼ基地隊員は戦後鳳翔にて復員。

戦歴
第531航空隊は昭和18年7月1日天山11型艦上攻撃機36機をもって舘山において編成 直ちに北千島方面に進出 同年11月舘山及び北千島の擂鉢・片岡に派遣隊を残し本隊はマーシャル群島ウオッゼ島に転じ 同方面の作戦に従事 輝かしい戦果を収めたが 翌19年初米機動部隊との戦いにおいて全航空機を失い搭乗員は全滅 同年2月20日をもって解隊 ウオッゼ基地隊員は全員第四艦隊司令部附・第64警備隊付となる。 同島にて米軍の絶え間ない攻撃と想像を絶する飢餓との闘いのうちに20年8月終戦を迎え同年11月生存者58名全員鳳翔にて帰国、戦死戦病死者206名。
篠崎 英夫 記

八十二号海防艦戦没者慰霊碑

艦長 森武 謹書 丁型海防艦(第二号型海防艦)。同型艦67隻。
昭和19年12月31日竣工。昭和20年8月10日、北鮮東方沖でソ連航空機の雷撃を受け沈没。

重巡最上戦没者慰霊碑

最上型重巡洋艦の1番艦「最上」
ミッドウェー海戦で損傷し後部主砲二基を撤去し航空巡洋艦に改装。 昭和19年10月25日、西村艦隊としてレイテ沖海戦におけるスリガオ海峡夜戦に参戦し大破、退避中に志摩艦隊の那智と衝突、曙により雷撃処分。

軍艦雲鷹戦歿者之碑

大鷹型航空母艦2番艦「雲鷹」 もと日本郵船所有の新田丸級豪華客船「八幡丸」。 新田丸級三姉妹船(新田丸=沖鷹、春日丸=大鷹、八幡丸) 昭和19年 9月17日、ヒ船団護衛任務に従事中、米潜水艦の雷撃により沈没。

軍艦比叡戦歿者之碑

金剛型コルベット艦2番艦「比叡」
明治27年9月17日の日清戦争黄海海戦で大破、同海戦戦死者の慰霊碑。
明治28年8月建立。
当初は眼鏡橋畔に建立。昭和37年4月に海自呉警備隊正門横に移設。その後昭和56年に現在の場所に移設。

軍艦厳島乗組員之碑

「三景艦」と呼ばれた松島型防護巡洋艦の二番艦。
明治27年9月17日の日清戦争黄海海戦戦死者の慰霊碑。
明治28年9月建立。
当初は眼鏡橋畔に建立。昭和37年4月に海自呉警備隊正門横に移設。その後昭和56年に現在の場所に移設。

呉所管海軍 看護長看護師看護手 看護之墓

大正3年4月30日建立。
当初は呉海軍看護科員を祀るために呉市和庄共同墓地に建立。 建立以来80年以上を経て無縁仏となっていたため、旧看護科の有志が平成9年9月23日に呉海軍墓地に移設した。

戦艦大和戦死者之碑

大和型戦艦1番艦「大和」。日本海軍が建造した史上最大の戦艦。
昭和16年12月16日に竣工。
昭和20年4月7日14時23分、天一号作戦において第二艦隊旗艦として第二水雷戦隊と共に沖縄方面へ出撃し米機動部隊の猛攻撃を受け坊ノ岬沖で撃沈。


以下の慰霊碑は撮影し損ねたり、訪れ損ねたりしました。
大変悔しいですが、またの機会を期したい、と。

航空母艦飛鷹の碑
英国水兵の墓碑
駆逐艦島風戦没者之碑
伊號第八潜水艦之碑
伊号第122潜水艦戦没者慰霊碑
第三十三警備隊戦歿者慰霊碑
大東亜戦争戦没者名碑

今回の慰霊碑参拝で新たに知ることが出来た艦や歴史も多くあり、ほんの一握りではあれど、その最期を偲ぶよすがもまとめることも出来ました。 ありがとうございました。

海軍工機学校(海軍機関学校)跡地散策

平成29年10月及び平成31年3月撮影

海軍工機学校兵舎(横須賀学院2号館)

横須賀は三笠公園の近く。
神奈川歯科大学と横須賀学院の界隈は、かつては「海軍工機学校」(海軍機関学校)であった。

米軍側から見た「海軍工機学校」と「横須賀海軍病院」の記事はこちらから。


位置関係

USA-M378-25
1947年(昭和22年)07月24日‐米軍撮影を加工
GoogleMap航空写真 現在の様子

海軍工機学校跡(海軍機関学校跡)

神奈川歯科大学及び神奈川歯科大学附属病院
守衛さんの許可を得て、ちょと見学にいってみましょう。

守衛の許可を得て入校しております。

神奈川歯科大学及び神奈川歯科大学附属病院 大学中庭の西側に。

海軍工機学校・軍人勅諭の碑

昭和7年1月4日建立
軍人勅諭下賜50年記念
海軍工機学校長 村田豊太郎謹書(海軍中将)

村田校長は工機校長ののちに横須賀工廠長に任命

誠心
一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし
二 軍人は礼儀を正しくすへし
三 軍人は武勇を尚ふへし
四 軍人は信義を重んすへし
五 軍人は質素を旨とすへし
海軍工機学校長 村田豊太郎謹書

海軍工機学校正門門柱及び壁

海軍工機学校 海軍栓

海軍工機学校 煉瓦倉庫

神奈川歯科大学校舎の裏側に。

倉庫の向こう側は、現在は米軍基地。

旧横須賀海軍病院跡
 (米海軍横須賀基地内)

神奈川歯科大学敷地内から、米軍基地方面を望む。フェンスの向こう側にある建物が、かつての「横須賀海軍病院」。現在も米海軍病院として使用されている。

旧横須賀海軍病院 奉安殿跡

横須賀海軍病院の建屋の前には「奉安殿」も残っている。
こちらもフェンス越しに拝見。

奉安殿とは 天皇陛下と皇后陛下の写真(御真影)や教育勅語などを納めていた建物。

前述の「神奈川歯科大学」及び「神奈川歯科大学附属病院」の東隣には「横須賀学院」という小中高一貫の私立学校がある。

横須賀学院
戦前の海軍工機学校(海軍機関学校)跡地に戦後「青山学院横須賀分校」が開校。その後、青山学院は撤退し昭和25年に継承した横須賀学院が当地に設立している。

横須賀学院の守衛さんにお伺いを。
「海軍の学校の碑を見学したい」と申告すると「一般に公開はしてないけど良いよ、授業中だから気をつけてね。碑の場所は・・・」と気さくに碑の場所を教えていただきました。
ありがとうございます。ちょっと見学に行ってみましょう。

海軍機関学校跡碑

横須賀学院(許可を得て入校)
碑には正面写真と碑文を刻んだ銅板が貼付されている。

海軍機関学校跡
記念碑建立の由来
海軍機関学校の沿革は明治2年に遡るのであるが、明治34年9月1日白浜校舎が現在地に落成し日夜機関生徒の訓育に当り、その後大正12年9月1日関東大震災により校舎を全焼し江田島に移転する迄の22年間延1,324名の卒業生を送り機関科将校揺籃の地として寔に意義深く記念すべき場所であるので、当横須賀学院の御厚意と同窓生諸賢の熱意によって校跡を後世に遺したく旧校庭の一角にこの記念碑を建立した次第である。
昭和43年6月3日建之

学校跡碑のある場所のうしろの建物(横須賀学院2号館)が、実はかつての工機学校兵舎。昭和13年頃の建設とされている。

生徒たちの邪魔をしないように撮影してサクッと退散。

学校内は、なかなか立ち入るのに緊張しますね。
次はフェンスの向こうの米軍敷地内が気になります。


関連

横須賀の諏訪公園周辺散策

平成29年10月撮影

京急線・汐入駅周辺の散策。場所としては諏訪公園を軸に。


横須賀のどぶ板通りを歩いていて前から気になっていた碑。
実はまだ行ったことが無かったので、入り口の碑につられてみます。

明治天皇横須賀行在所入口石柱

昭和9年建立。
ここは入口。この先に行在所(あんざいしょ)があったとのことで行ってみましょう。

入口石柱からまっすぐに進んで石段を登ると突き当りに横須賀幼稚園。
隣接する公園に目指すものがありました。

明治天皇横須賀行在所阯

昭和11年4月建立
史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ史蹟トシテ昭和八年十二月文部大臣指定

聖蹟の碑(向山行在所跡)

向山行在所跡は、 明治天皇が横須賀行幸の際、宿泊・休憩した建物の跡地です。
昭和8年11月2日に史跡名勝天然記念物保存法により指定
昭和23年6月29日に指定解除

「聖蹟」の揮毫は海軍大将加藤寛治

「明治天皇横須賀行在所阯」碑
「聖蹟」碑(向山行在所跡)

聖蹟として整備され、2つの碑を中心に御影石の柵柱と門扉(昭和5年の銘あり)もあった形跡が残るも現在は遊具に囲まれた公園。
幼稚園の隣の公園は、かつての行在所の記憶を絶妙なバランスで残しつつ、ほのぼのとしておりました。

行在所跡から横須賀幼稚園を経て緑ヶ丘女子高校の隣から諏訪公園(八幡山)へ。

明治天皇御駐蹕碑

元帥東郷平八郎謹書
昭和8年11月3日(明治節)建立

明治天皇は度々横須賀に行幸されており麓の向山行在所に宿泊されていた。

駐蹕碑の頂点には地球を型どった球体、そして翼を拡げた金鵄の姿が。

石版には 明治天皇が明治四年・明治六年・明治八年と横須賀造船所を御巡覧したり艦隊運動を天覧されたりした御実績が記されている。

「明治天皇御駐蹕碑」のある場所はちょっとした空間が広がっておりまして。
きっとなにかあったんだろうなあという痕跡も。
諏訪公園(八幡山)の高台ともなっており、横須賀芸術劇場がよく見える。

横須賀芸術劇場はまたのちほど。
次は諏訪公園(八幡山)の由来となった諏訪神社へ参りましょう。

どぶ板通りからそれたところに「諏訪大神社」が鎮座している。
横須賀の中心的な神社のひとつ。
何度か参拝したことは有るけど久しぶりの参拝を。
神社の後ろに展開している「諏訪公園」が目的地だったので方向が重なったとも言いますけど。

神社隣の魚藍亭・よこすか海軍カレー館は老朽化で閉店…

横須賀 諏訪大神社

横須賀「諏訪大神社」 参道に看板がありました。

SUWA SHRINE AND PARK
OFF LIMITS
TO U.S FORCES
PERSONNEL

「諏訪神社及び公園、米軍関係者の立入禁止」
これは米軍が神社と協議のうえで注意喚起をする為に取付けた看板とのことで…

横須賀「諏訪大神社」
(すわだいじんじゃ/すわおおかみしゃ/すわおおかみのやしろ)
御祭神 健御名方命・事代主命

康暦2年(1380)横須賀城主三浦貞宗が横須賀総鎮守として、長峯城の城口にあたる古谷山に、信州の上下両諏訪明神を勧請したことにはじまる。

領主三浦氏が滅んだ後は祭祀権は地頭郡代を先達として次第に村の民衆の手に移った。
慶長11年に代官発起で村の人々により社殿・境内の大改修を行い農漁の守護神として崇敬される。
昭和3年に郷社昇格。
昭和20年に県社昇格の内許がでるも終戦を迎え今日に至る。

ハイフリ・・・ですね。 作品を見たこと無いので詳細はわかりませんが。 ご多分に漏れず、このエリアが隔離コーナーのようです。

御朱印頂戴いたしました。
こちらの神社には何度か参拝しておりましたが実は御朱印を戴くのは初めて。社務所は無人ですが近くの宮司さん宅で頂戴できます。

東叶神社の咸臨丸御朱印帳に戴きました。
隣は横須賀追浜の雷神社。横須賀に相応しい帳面に。

諏訪公園

「諏訪大神社」から奥へと脚を進めます。
八幡山の「諏訪公園」へ向かいましょう。
ここにも海軍関係を含む幾つかの史跡が残っております。

招魂塔台座
横須賀海軍工廠工員殉難者慰霊招魂塔跡

明治45年5月27日(海軍記念日)に八幡山山頂(諏訪公園)に建立。
しかしここに鎮座していた招魂塔は戦後GHQの指示で撤去。

海軍軍都・横須賀ゆえに誤魔化しきれず目立ちすぎたのだろうか…悔やまれます…今は台座に電柱が虚しく…

満期記念碑

桜樹二百本・横須賀鎮守府大正三年度徴兵
詳細は不明ながら、横須賀鎮守府での大正3年度の兵役満期を迎え諏訪公園に桜木200本を植樹したことを記念して建立と推測。

奉納「舟型手水鉢」

青島攻略参加工作船関東丸工作部一同・大正7年9月

工作艦「関東」
元は日露戦争で鹵獲した露汽船「マンチェリア」を中国東北部由来の「関東」と命名し運用。
青島の戦いは大正3年の第一次大戦に際してドイツ帝国東アジア拠点青島を日本・英国連合軍が攻略した戦い。

謎の軍艦甲板の一部

諏訪公園の片隅に。詳細は不明。
横須賀市でも詳細不明で「以前は緑が丘高校入口付近にあった」といい、一説には「戦艦三笠の物ではないか?」とも言われているようです。

甲板を砲弾に打ち抜かれた跡が生々しい。

動物愛護の碑

戦前この諏訪公園(八幡山・古谷山)には小さな動物園がありヒグマなどが飼育されていたという。
が、昭和19年に空襲が本格化し逃走など含め飼育が危険となった為に射殺。

動物愛護の碑は昭和60年建立。横須賀市長横山和夫書。
碑のある場所はヒグマの檻があった場所だそうで…

頌徳碑

大正6年建立
篆額は徳川達孝(田安徳川家・日本弘道会会長)
撰文は横須賀高等女学校校長の北村包直 (横須賀高等女学校は現在の県立横須賀大津高校の前身。北村は三浦半島の郷土史家として著名)

第二代横須賀町長であり横須賀市誕生の功労者であった江頭正五郎を讃える碑。

記念植樹之碑

皇太子殿下御降誕 (昭和9年12月23日・社団法人横廠工友會建立)
横須賀海軍工廠長・村田豊太郎書(海軍中将)

昭和天皇の皇太子 明仁殿下御誕生(昭和8年12月23日)を記念して諏訪公園に植樹。
横廠工友會=横須賀海軍工廠労働組合工友会

諏訪公園内の何かの跡。

鳥居跡

かつて諏訪公園は八幡山(古谷山)と呼称されており八幡神社が鎮座。
八幡神社は横須賀製鉄所(横須賀造船所・横須賀海軍工廠)により奉じられていたという。
この鳥居石柱跡が現在の諏訪神社のものか、かつての八幡神社のものかは不詳であるが、鳥居石柱には「…工廠船渠工場」「大正」の文字を見ることが出来たので、海軍工廠関係者の奉納であることは間違いないだろう。

こんな感じで諏訪公園散策は終了。
改めて諏訪大神社を経て諏訪公園の山をおります。

諏訪公園の西側に「横須賀芸術劇場」がある。
じつは、この場所も海軍関連の史跡。

旧海軍下士官兵集会所跡

かつてこの場所は海軍工廠に面した海軍下士官兵集会所。
戦後は米軍が接収し昭和47年迄「Enlisted Men’s Club(EMクラブ)」として使用。
その後この地は横須賀芸術劇場(平成6年2月建設)となる。
下士官兵集会所跡碑は駐輪場の隅に埋もれていた…

ここまでくると道を挟んだ向こう側の「 ショッパーズプラザ横須賀 」(イオン横須賀)(令和元年現在閉鎖中)に触れたくなりますが、それはまた別にしましょう。諏訪公園周辺の散策編としては以上で〆

龍本寺の海軍慰霊碑(横須賀海軍航空隊殉職将士追悼碑と軍艦千島海軍機関師五士の墓碑)

平成29年10月撮影

京急線の横須賀中央駅から高台の方に向かう。

「猿海山龍本寺」(日蓮宗)
この寺院に、横空ゆかりの慰霊碑がある。

横須賀海軍航空隊 殉職将士追悼碑

海軍大将 永野修身 書
昭和九年七月五日建立

昭和9年7月5日に相陽時事新聞社が発起となり建立。
横須賀市長 小泉又次郎 も後援に名を連ねる。(小泉純一郎の祖父)
揮毫した 永野修身 は、当時は横須賀鎮守府司令長官。

碑面裏には「遺芳千秋」(後世にまで残る名誉や業績の意)

大正4年~15年に殉じられた横須賀海軍飛行将士51柱を祀る。
最初に名を刻まれている 足立東三郎(海軍大尉)、武部鷹男(海軍大尉)、柳瀬久之丞(海軍三等水兵)の三名は 横須賀海軍工廠で製作されたファルマン水上機の試験飛行中の大正4年3月6日に墜落殉職している。これは、海軍搭乗員の日本国内における最初の殉職者であった。

横須賀海軍航空隊に関してはこちらも。


横須賀海軍航空隊殉職者追悼碑の隣にある碑

軍艦千島 海軍機関師 五士の墓碑

伊藤雋吉海軍中将 撰文

明治25年11月30日。
仏国から日本に回航中の軍艦千島(通報艦)が愛媛沖で英国商船ラベンナ号と衝突沈没し74名が犠牲となり殉職機関士5名を合祀した墓碑。
千島艦事件。
明治28年9月建立。

余談ながら、揮毫した伊藤雋吉は、創設期の海軍きっての能書家。軍艦の艦尾の艦名表示(ひらがな)に使う、いろは48文字を揮毫し、以後の帝国海軍及び海上自衛隊を通じて、伊藤が揮毫した文字が使用され続けているという。

千島艦事件で沈没した水雷砲艦「千島」は、青山霊園「畝傍の森」に、巡洋艦「畝傍」と並んで慰霊碑があります。
千島の慰霊碑は砲身と砲弾。
ともに建造後間もなく消息を絶ったり沈没したりした悲運艦。


猿海山龍本寺(日蓮宗)

横須賀海軍航空隊と予科練誕生の地散策

平成28年6月撮影

位置関係

野島(掩体壕)
夏島(掩体壕・地下壕)
貝山(海軍航空発祥之地記念碑・甲種予科練鎮魂之碑・予科練誕生之碑)
位置関係。
日産工場が滑走路界隈。

USA-M46-A-7-2-50
1946年(昭21)02月15日‐米軍撮影写真を加工

現在の様子 Google航空写真

野島

シーサイドライン野島公園駅。野島後方には夏島が見える。

この夏島周辺が「横須賀海軍航空隊」(横空・追浜空)の展開されていた地区。
野島には横空の掩体壕があるのだ。 案内地図に記載ないけど。

遠くに見えるのが夏島。手前に滑走路が広がっており、野島とは橋で繋がれていた。現在、橋はない。

野島

野球場の右奥にフェンスと穴が。これが「野島掩体壕跡」。 この「野島の掩体壕」は野島山の東西を貫通し全長は260m。海軍小型機100機を格納する計画で、現存掩体壕の中でも国内最大規模とされている。

野島の掩体壕

 野島掩体壕は、横須賀市夏島町にあった旧横須賀海軍航空隊の戦闘機を空襲から守る施設として建設されました。
 この掩体壕は、標高約55メートルの野島山の東西をトンネル状に貫通しており、長さは約260メートル、両側に出入口があります。
 出入口の部分は、幅約20メートル、高さ約7メートルで、トンネル状にコンクリートが打設されており、中央部は、幅約10メートル、高さ8メートルで、素掘りの状態です。
 作業に当たった横須賀海軍の「第三〇〇設営隊戦時日誌」には、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月15日から6月30日までの掘削工事が進められていた記録が残されており、同時に掘削されていた夏島掩体壕とあわせて、海軍の小型機約い100機を格納する計画でしたが、終戦で実際に使用されることはありませんでした。
 通常の掩体壕は、戦闘機1機を格納する程度の大きさが一般的で、この野島掩体壕は、現存する掩体壕の中でも国内で最大規模と言われています。
 第三〇〇設営隊は、横須賀海軍施設部第一部隊を改編した部隊で、海軍の将兵に技術者を加えた精鋭部隊でした。日吉台(横浜市港北区)の旧日本海軍連合艦隊司令部地下壕や松代大本営地下壕(長野県松代町)などの建設にも加わっていました。
 平成22年3月 横浜市

野島掩体壕跡
正直、大きすぎて今まで見てきた「掩体壕」の概念では測りきれない。 だって通常の掩体壕は航空機1機ですよ。野島と夏島の掩体壕で100機ってねえ。 ちなみに出入口部分は幅約20m、高さ7m。

貫通しているので反対側にまわってみましょう。今度は海側から開口部を見てみます。

野島公園。
さて、野島の頂上に向かってみます。掩体壕が東西に横断してトンネルのように掘られた野島山の頂上には展望台が設けられています。

野島公園。
野島山の頂上より、夏島方面を望む。
横須賀海軍航空隊(横空)・追浜海軍航空隊の滑走路などは、この方面に展開していた。

野島から夏島を望む。夏島には貝塚もあり古代から人々の営みがあったことがわかる。
いまは工場地帯、ちょっと前は海軍航空隊基地・・・そう考えると変遷が感慨深く。

野島稲荷神社

野島稲荷神社。 野島総鎮守。

海軍よりも古くからの社。良い感じの稲荷様でしたのでちょっと見ていきましょう。
野島山南側鎮座。伏見稲荷系統。

安貞元年1227に阿波守長島維忠発願により子の修理佐頼勝が造立。
万治年間(1658~1660)野島浦南端に紀州大納言徳川頼宣公の別邸があり、これを塩風呂御殿と称した。 稲荷神社はちょうど塩風呂御殿の東北の方向にありそのため鬼門の守り神として頼宣公の篤い尊信を受け社殿造営にも力を尽くしたとされている。

手水に狐様がいらっしゃいます。 この手水舎の雰囲気、好きですねえ。

石段両脇にも狐様。これは良い稲荷様。

境内社は船玉社、他。船の守り神、航海往来の守り神。緑に覆われた岩山が垂直に切り立つ。

海軍航空基地近くの鎮守様。 往時の軍人たちもきっと参拝したであろうことを夢想しつつ拝するひととき。

伊藤博文金沢別邸

野島には「旧伊藤博文金沢別邸」がある。明治31年(1898)に建設された茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築、とのことで。 東京からもほど近く、富岡金沢の地は明治期に海浜別荘地として人気だったそうで。

野島の「旧伊藤博文金沢別邸」。建物の老朽化が激しかったことから平成21年に復元修復工事が行われている。
野島も貝塚があり、古代から脈々と人々が営んでおり、こうして色々な歴史が交差しているのも興味深い。

貝山へ向かいます。
バスは磯子駅か追浜駅か田浦駅か。どれでも良さそう。
だいたい15分から20分に1本程度の輸送密度。

貝山緑地

現在は工場エリア。
この貝山緑地と夏島貝塚のみが異質な空間。

貝山緑地・夏島貝塚。
この西側、現在は日産の工場エリアには「横須賀海軍航空隊」「海軍航空技術廠」「追浜飛行場」「追浜海軍航空隊」が展開され「海軍航空発祥の地」となる。
ただし、今回の探訪は貝山緑地だけ。夏島は未訪問。

予科練誕生之地記念碑 甲飛鎮魂之碑 入口

このあたりは貝山地下壕も展開されていた。※非公開

追濱神社社号標

入口脇には「追濱神社」社号標が残る。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊・追浜飛行場での犠牲者を祀る追濱神社がこの地にあった。

現在は追浜雷神社境内の「濱空神社」(横浜海軍航空隊神社)ともども祀られている。

横須賀海軍航空隊

もともとこの地は横須賀海軍航空隊の地。

追浜海軍航空隊が正式に制度上で展開される以前から、この部隊は追浜飛行場・追浜海軍航空隊と呼称しており、横空(横須賀海軍航空隊)と追浜空(追浜海軍航空隊)は同じ意味を持つ場合もある。 ややこしい。

「整備科航空予備学生」が昭和13年以降に横須賀海軍航空隊で展開。
その教育は追浜飛行場で実施。

開戦に伴い横空は遠距離哨戒任務に就き教育任務をする余裕がなくなった為、整備科航空予備学生教育は、独立した追浜空に機体整備、洲ノ埼空は兵器整備と分散。

横須賀海軍航空隊・横空
 ↓分遺
追浜海軍航空隊・追浜空
相模野海軍航空隊

横浜海軍航空隊・浜空

館山海軍航空隊・館空
↓分遺
洲ノ埼海軍航空隊・洲ノ埼空

予科練

海軍予科練習生は昭和5年に横須賀海軍航空隊に第一期生が入隊したことにはじまる。
昭和12年に甲種飛行予科練習生(甲飛)制度が創設され、従来の制度は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改められた。

昭和14年3月1日に横空から霞ヶ浦海軍航空隊に予科練は移設。

予科練1期生から10期生までは横空。
11期生以降は霞空、そして13期以降は土浦空そのほかで大量採用となる。

予科練誕生之地

海軍予科練習生制度のはじまり。
霞ヶ浦湖畔にうつるまで、この横須賀追浜飛行場の地で若き海鷲たちは育っていったのだ。

予科練誕生之地

光る海 明るい太陽の下 大空をこよなく愛し国を想うひとすじの少年たちが溌剌としてここに溢れていた
昭和5年6月1日 横須賀海軍航空隊内の一隅に海軍少年航空兵の教育機関として横須賀海軍航空隊予科練習部が誕生し やがて予科練と愛称されるようになった
志願者の年齢は15歳から17歳 修業年限は3ヶ年 俊秀なる大空の有志は英才の早期教育に俟つとの観点に立ってこの制度は創設され全国5900余名の志願者から厳選された79名が第一期生としてここに入隊した
土浦 三重 鹿児島などのちには19を数えるに至った予科連航空隊の萌芽である
時局の進展につれて海に臨み山を負うこの地は狭小となって昭和14年3月霞ヶ浦湖畔に移り翌年独立して土浦海軍航空隊となった
予科練の歴史15年3ヶ月のうち実に8年9ヵ月はここ追浜の地で教育活動が行われたのである
そこで目指したものは鉄石の訓練をものともせず乾いた砂が水を吸いこむようにあらゆるものを純粋に受け入れて自らを育てていった 予科練を巣立った若人たちは飛行練習生教程 実用機練成教育と研鑚を重ねてたくましい若鷲と育ち太平洋戦争に於ては名実共に我が航空戦力の中核となり水陸の基地から航空母艦から戦艦巡洋艦或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが戦局利あらず敵の我が本土に迫るや特別攻撃隊員となり名をも命をも惜しまず一機一艦必殺の体当たりを決行し何のためらいもなく無限の未来を秘めた蕾の花の生涯を祖国防衛の為に捧げてくれたのである
顧みれば少年たちは戦いを求めてこの地に集まったのではなく制空護国の一途の念いからであった
予科練誕生以来既に五十一星霜 若人たちの至純の赤心が祖国の安寧と世界平和の礎となることを祈念して旧学び舎の丘の上にこの碑を建つ

昭和56年6月1日
此の地に学んだ生存者一同
撰文 倉町秋次
書  鈴木忠正



予科練誕生之地

予科練とは海軍飛行予科練習生の略称にして海軍少年航空兵とも別称す。
昭和5年6月1日第一期生入隊以来、昭和14年2月第十期霞ヶ浦に移るまで、全国より運ばれたる少年此の地に集い学び此の地を巣立ちて日夜猛訓練の中に技倆を磨き、やがて日支事変勃発するや中国の空に第二次世界大戦においては南海の空にと、唯々国の為同胞の為にと信じて各地に
勇戦敢斗嚇々たる武勲を残してその大多数が大空に散華す。
我々不思議に命永らえたる生存者一同 、今は亡き同窓の英霊を偲びて、
思い出の此の地追浜神社跡に建碑す。
即ち予科練誕生之碑也。

昭和56年6月1日 
 予科練一期生より十期生まで生存者一同

貝山緑地「予科練誕生之地」の反対側。

海軍甲種飛行予科練習生 鎮魂之碑

桜に錨。
若き海鷲の飛び立つよすがを偲び。
敬意を。感謝と哀悼を。

頭を下げ、黙する。

海軍甲種飛行予科練習生
鎮魂之碑

碑文
昭和12年国際関係が悪化し国防が最重要視される頃、海軍では航空機の発達と共に、今までの大艦巨砲主義から航空機へと思考を変え、航空機搭乗員養成を急務とした。
高度な飛行技術と強靭な肉体を求められる搭乗員は、心身共に優秀な青少年を求めた。
ここに、甲飛即ち海軍甲種飛行予科練習生制度が誕生した。
昭和12年9月1日全国の中等学校から厳選された250名が第一期性として横須賀海軍航空隊に入隊した。
以後太平洋戦争の激化に伴い以後太平洋戦争の激化に伴い最終の第16期生まで13万9720名もの青少年たちが、国を護るために各地の航空隊の門をくぐった。
しかし、戦局の悪化により大空の果て、海原のそこに散った甲飛の御霊は、実に6778柱にのぼる。
その中の一人は次の歌を残して散華した。
血潮もて 茜と染むる 悔ゆるなし
 雲を墓標の 空の御楯は
私たちは国家危急の折、救国の大義に殉じられた多くの同窓の御霊の冥福を祈念するとともに、甲飛の歴史の伝承と我が国の永遠の平和を念願して私たちは国家危急の折、救国の大義に殉じられた多くの同窓の御霊の冥福を祈念するとともに、甲飛の歴史の伝承と我が国の永遠の平和を念願して、ここ甲飛発祥の地横須賀に、この碑を建立する。
平成9年11月2日 
甲飛生存者有志
遺族一般賛同者有志

「鎮魂之碑」の隣に移動してきた記念碑がある。

海軍航空発祥之地 記念碑

こちらは戦前(昭和12年)に作られた記念碑のため、より一層に格調高い。

海軍航空発祥之地 記念碑

明治四十五年 始メテ海軍航空術研究委員会組織セラレ 十月地ヲ追浜ニ卜シ 東西二百米 南北六百米ノ地積ヲ画シ 其ノ一隅ニ格納庫壱棟ヲ建設ス 即チ此ノ地ナリ
十一月二日 海軍大尉河野三吉 カーチス式水上機ヲ操縦シテ飛行ス 同六日 海軍大尉金子養三モ亦 ファルマン式水上機ヲ操縦シテ飛行ス
是実ニ帝国海軍飛行ノ嚆矢ナリ 今茲ニ 碑ヲ当時ノ格納庫ノ跡ニ建テ 以テ記念ト為スト言フ
昭和十二年十一月三日
横須賀海軍航空隊

海軍航空発祥之地 記念碑 案内  
 右に夏島 左に野島を望見し、海に向かって延びていた滑走路をほうふつさせるこの台地は、もと横須賀海軍航空隊の一部であり、ここには同隊の殉職者を祭った 追浜神社や気象観測所があった。
 1912年、 同隊において実施された「日本海軍の初飛行」を記念して、当初の碑は1937年、この台地の下、最古の飛行機格納庫跡に建てられたが、戦後破壊された。
 この碑は1956年、海空会によって再建されたものであるが、周辺の敷地一帯が国より株式会社ナブコに払い下げられたため、周辺の敷地一帯が国より株式会社ナブコに払い下げられたため、工場内に保存されることになった。
 戦後50年目の1995年、この碑は関係者により、公共の場所である現在地に移設復元された。

貝山緑地を登る。
頂上の展望台に行ってみましょう。

由来はわからないが、あんずが遊歩道の両脇に植えられおり、たわわに実を蓄えていた。 ※勝手な収穫は禁止されております。。。

貝山緑地頂上の展望台。
夏島方面は…樹木で視界が。追浜飛行場はこの方向に展開されておりました。

ハイカラな建物は横須賀市リサイクルプラザ・アイクル。
沖には海自の海洋観測艦「わかさ」が見えました。

貝山緑地。このあたりは海軍の砲台の跡地という。

地下壕もゴロゴロしているが非公開なので、見える範囲で往時を偲ぶ。 また周辺では海軍時代の建物が現在も民間にて使用されているが今回は時間都合で立ち寄らず。

追浜の雷神社

追浜の雷神社。 (いかづち神社・かみなり神社)

御祭神は火雷命 創建は承平元年(931)と伝承。
天正9年(1581)に現在地に遷座。

御神木を見上げれば、これは黄葉の季節に再訪したくなるほどに見事な銀杏。
朱色を軸にしたバランスが美しい。
良き空間。

先述したように追浜は横須賀海軍航空隊・海軍航空技術廠の地。

いわずもがなで海軍との縁も深い。
奉納された絵馬は海軍に関係する話題も多い。
(著作権的な観点からモザイク処理しました)

浜空神社

境内には「浜空神社(濱空神社)」が鎮座。

浜空とは横浜海軍航空隊。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊の展開されていた当地に、わけあって浜空神社が遷座。

昭和13年に浜空犠牲者を祀る鳥船神社として横浜富岡に創建。
昭和56年に鳥船神社跡地に浜空神社を再建。
平成20年に維持困難となり追浜空関係者の尽力により遷座。追浜空犠牲者を合祀。

浜空に関しては、「 横浜海軍航空隊(浜空)と飛行艇の名残散策 」にて記載あり。

この界隈は、夏島と海軍航空技術廠の残存建物などが未訪問。
はやいところ訪れないと。
宿題です。

海軍の碑記念行事(海軍記念日)

平成29年及び平成30年撮影

「海軍の碑」記念行事
(横須賀水交会)

5月27日。戦前の「海軍記念日」に。
横須賀はヴェルニー公園の片隅にある「海軍の碑」にて。

毎年、5月27日の午前11時30分頃に、午後から行われる「日本海海戦記念式典」(三笠)に先立ち、ヴェルニー公園にて横須賀水交会主催 「海軍の碑」 記念行事が執り行われている。

記念行事の前には、水交会有志で「海軍の碑」の清掃も行っております。
海軍記念日に行われる、往時を偲びし記念行事。

平成29年撮影

「海軍の碑」記念行事
横須賀水交会

式次第

国旗及び自衛艦旗掲揚
海軍英霊に対する黙祷
「海軍の碑」建立趣旨朗読
横須賀水交会会長挨拶
記念講話
鎮魂譜(同期の桜~巡検ラッパ~海行かば)
国旗及び自衛艦旗降納

午前11時30分から30分間

海軍の碑 建立趣旨

海軍の碑 建立趣旨
 浦賀に黒船が現れ、鎖国の夢を破られた幕府は、ここ横須賀の地に製鉄所を建設し、近代海軍の創設を企画した。
 その後、明治維新により明治政府が樹立され、政府は、西欧諸国に比し一世紀以上の遅れを取り戻すべく、わが国の近代化に着手した。
特に海軍の整備が重要視され日清及び日露両戦役を経て、わが国の海軍は次第に整備充実され、世界三大海軍国の一つとして、その地位を占めるに至った。
 こうした近代海軍の創設及び成長という歴史の流れの中において、横須賀はその最枢要基地として、かつての一寒村からわが国屈指の軍港都市となり発展を遂げることになった。
 しかしながら、その海軍も昭和二十年の太平洋戦争終結と共に八十年に亘る歴史を閉じることになった。
 海軍終息から五十年という節目に当たる本年、明治以来太平洋戦争終結までこの地にあった日本海軍の歴史、並びに太平洋戦争において亡くなられた多くの人々を偲びつつ、またわが国の永遠の平和を希求するため、この記念碑を建立する。

 なお、本記念碑は全国の海軍関係者及び有志から寄せられた浄財によるものである。
 平成七年十一月十七日
 海軍の碑建立委員会

横須賀水交会 「海軍の碑」建立趣旨PDF

http://y-suikoukai.sakura.ne.jp/page15/1505/kaigun_no_hi_konryu_shushi.pdf


平成29年度「海軍の碑」記念行事 (横須賀水交会)

「鎮魂譜(同期の桜~巡検喇叭~海行かば)」
拝聴中
行事参列者は「人生の大先輩の方々」が多いので無理せずに、国旗・自衛艦旗掲揚及び黙祷の後に日陰に移動してます。

平成29年 海軍の碑記念行事 横須賀水交会

海軍記念日。

海軍の偉業を偲び、散華された御英霊に対する追悼の念と平和の祈りを捧げつつ。

平成30年 海軍の碑記念行事 横須賀水交会
平成30年 海軍の碑記念行事 横須賀水交会

今年(令和元年)はタイミングが悪く参列できないのが非常に残念です・・・


横須賀水交会 平成30年

http://y-suikoukai.sakura.ne.jp/page18/201805/20180527/20180527_kaigun_no_hi.html

横須賀水交会 平成29年

http://y-suikoukai.sakura.ne.jp/page17/201705/170527_kaigun_no_hi.html


日本海海戦記念式典(5月27日)

毎年、5月27日に日本海海戦記念式典が行われております。
公益財団法人 三笠保存会 主催
記念艦「三笠」にて

令和元年(2019)は「日本海海戦114周年記念式典」ですね。
残念ながら都合により参列できませんが。


過去の様子

平成30年

日本海海戦113周年記念式典

記念艦三笠にて(三笠保存会)
平成30年の式典には防衛大臣( 当時は小野寺氏)も祝賀にいらっしゃいました。

平成29年

日本海海戦112周年記念式典

平成29年5月27日は日露戦争日本海海戦112周年。
横須賀の記念艦「三笠」にて記念式典がございましたので参列してきました。

駐車場には海上自衛隊横須賀音楽隊の楽器輸送トラックもおりました。

記念式典ののちに甲板にて海自音楽隊の演奏もあります。
記念式典は13時30分より講堂にて。

「日本海海戦112周年記念式典」 (公益財団法人三笠保存会)

記念式典は講堂で行われます。
受付(三笠保存会会員・事前申込制)からダイレクトに講堂に。
実は講堂に入るのも初めてだったりします。

式典が始まるまでの待ち時間に「記念呈茶」が行われていたので戴いてきました。

こっ…これはっ!
「Z旗のお茶菓子(餡)」でした。
ほんのりと拡がる甘さがステキでお茶も美味しく頂戴致しました。
ありがとうございました。

日本海海戦記念式典

13時30分 記念式典開始

式次第
開式の辞
国歌斉唱
黙祷
式辞
祝辞
来賓紹介
祝電披露
閉式の辞


国歌斉唱

海上自衛隊横須賀音楽隊の演奏での斉唱。
ついで日露両軍犠牲者に「国の鎮め」曲で黙祷を捧げる。

式辞祝辞

例年、
三笠保存会会長が式辞を。

祝辞は、
海上自衛隊横須賀地方総監
米横須賀海軍基地司令官
横須賀市長

来賓は、
各国大使館付武官や海自関係者、県市議会議員、東郷平八郎の御係累の皆様など。


講堂での記念式典は13時30分から14時10分まで。
14時20分からは甲板にて海上自衛隊横須賀音楽隊の演奏を堪能。
演奏は式典参列者に限らず三笠入艦者も見学可能。

「日本海海戦記念行進曲」の演奏。名曲です。

海上自衛隊横須賀音楽隊

14時20分から14時50分までは 上甲板にて海上自衛隊横須賀音楽隊の演奏を堪能 「日本海海戦記念行進曲」
「行進曲軍艦」
「海行かば」
など

日本海海戦記念式典

15時から16時までは記念祝宴。
立席パーティです。 好き勝手に飲み食べをすれば良いよっという空間。

そういえば、一瞬だけ小泉進次郎議員がいらしておりました。
横須賀の式典ですから、ね。
むちゃくちゃ忙しい中で、「三笠」の記念式典にお越しいただきましてありがとうございます!

16時に記念祝宴終了。

5月27日「海軍記念日」

日露戦争・日本海海戦を偲びし日。
歴史を刻んだ帝国海軍を偲びし日。


1905年(明治38年)5月27日
日本海海戦

東郷平八郎の旗艦三笠をはじめとする連合艦隊が対馬沖にてバルチック艦隊と海戦

翌5月28日
ロシア艦隊降伏により日本海海戦は終了し日本の勝利が確定 


日の本乃
 海にととろく
  かちときは
御陵威かしこむ
 聲とこそしれ
    東郷平八郎(花押)
昭和42年5月27日建立。清水多嘉示 作

皇國興廃在此一戦

「皇國興廃在此一戦」
元海軍大将 長谷川清書 (大正七志会・七洋会 昭和43年6月1日建之)

三笠公園
本公園は昭和36年5月27日完成を見たもので公園の名称はこの一角に保存されてある記念艦三笠に由来するものである。
三笠艦は日本海々戦-1905年-の際わが連合艦隊旗艦として参戦し時の司令長官東郷平八郎の大号令「皇国の興廃此の一戦に在り云々と共に世界海戦史上不滅の名をとどめた。

行進曲軍艦碑

行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長瀬戸口藤吉氏によって作曲された。
日本の勃興期における行進曲として親しまれ、未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである。
世界3大行進曲の一つとして、音楽史を彩る稀有の名曲で、作曲されてから一世紀を迎える年にあたり瀬戸口軍楽長がこよなく愛し、青春の日日を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである。
行進曲「軍艦」記念碑建立協賛会
(平成8年4月に建立。平成15年3月横須賀水交会によって修復)


三笠

東郷平八郎司令官と幕僚たち

東郷神社 平成28年5月27日

1905年(明治38年)5月27日
日本海海戦

東郷平八郎の旗艦三笠をはじめとする連合艦隊が対馬沖にて、バルチック艦隊と海戦

皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ 各員一層奮励努力セヨ

Z 旗が翻る

1905年(明治38年)5月28日。
会戦翌日。

ロシア戦艦・バルチック艦隊旗艦「ニコライ1世」の降伏により日本海海戦は終了し日本の勝利が確定した。

勝利が確定した5月28日が 東郷神社の例大祭。


靖國神社の大灯籠 三笠レリーフ


「東郷ビール」(東郷平八郎ビール)
「Z旗ビール」
「焼酎・東郷」(薩摩・麦)
「横須賀・海軍ラムネ」(横須賀海軍工廠since1903)

連合艦隊解散之辞

東郷筆。起草は秋山真之。

神明は唯平素の鍛練に力め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を褫ふ。 古人曰く勝て兜の緒を締めよと。

横浜海軍航空隊(浜空)と飛行艇の名残散策

平成28年6月

横浜海軍航空隊(浜空)の遺跡として国内最大級のものが残っている。

「飛行艇格納庫」

浜空は日本最初の飛行艇部隊であったのだ。
日本が誇る九七大型飛行艇や二式大艇を収納した大型格納庫。
ワクワクしますね…

現在の神奈川県警第一機動隊の敷地が横浜海軍航空隊の一部であり、そこで当時の飛行艇格納庫=第三格納庫が現在も補修されながら使用されている。

つまり、アレな場所なわけです…行ってみましょう…


位置関係


897-C4-38
1944年10月14日‐陸軍撮影写真を加工
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 より

南部市場駅

最寄り駅は横浜シーサイドライン「南部市場駅」


横浜海軍航空隊(浜空)
第三格納庫

横浜海軍航空隊(浜空)の第三格納庫。
補修され、見た目は奇麗な巨大倉庫。
道路から遠目に見学することをおすすめします。

監視カメラが働いておりますのであまり無茶はしないほうが賢明です。

GoogleMap航空写真からキャプチャ。


富岡総合公園

次いで富岡総合公園へ。
先ほどの格納庫の裏側の山の手にあたります。無茶苦茶広いです。


横浜海軍航空隊(浜空)隊門跡

富岡総合公園の南西側にあたる。

横浜海軍航空隊隊門跡。

浜空。
標札は後世のものではあるが往時の門柱に違和感なくおさまり、ここに横浜海軍航空隊の名残を伝えている。

静かに往時の名残を物語っていました。


横浜海軍航空隊

略称は浜空。 大日本帝国海軍初の飛行艇部隊として昭和11年(1936)10月1日に横浜海軍航空隊が開設。横須賀鎮守府所属。 1939年11月15日に南洋諸島を担当する第四艦隊附属となり内南洋哨戒に従事。

昭和12年(1937)九七式飛行艇が制式化。以後終戦まで215機生産。 昭和16年(1941)二式大艇が制式化。輸送用晴空含め167機生産。 約400機を誇っていた海軍飛行艇部隊は終戦時には稼働機3機のみとなる。内1機現存。

海軍航空隊で初めてレーザー索敵を運用し、水上機の利点を活かして南洋の空を索敵に従事。 運用のしやすさから最前線にも投入され、そして消耗していった部隊。

そのよすがをたどる。

海軍飛行艇部隊は開戦前から早くも南洋に展開されていた。

横浜航空隊は昭和16年9月に本部をマーシャル諸島ヤルートに置き周辺諸島に展開。開戦後はラバウルへ進出。
東港航空隊(台湾)は昭和16年11月にパラオ基地に展開。のちにインド洋アンダマンへ。

昭和17年(1942)8月7日、ラバウルから最前線のツラギに全力展開していた浜空は米軍に強襲上陸され係留中だった飛行艇等全機が駐機場で破壊、司令宮崎重敏大佐以下玉砕。

海軍飛行艇部隊の要たる浜空はソロモン海に全滅…
(昭和17年10月部隊再建)


浜空の碑
(富岡総合公園・旧横浜海軍航空隊基地)

題濱空
大鵬渡海奏奇功
離島守防意気隆
衆寡難勝嗟惨々
至誠不抜憶濱空

昭和四十六年十月二十一日
ソロモン・ガブツ島ニ於テ
草鹿任一 花押

碑裏面

浜空の碑
この地に原隊を有せし飛行艇隊元横浜海軍航空隊は昭和十七年八月七日未明南太平洋ソロモン群島ツラギに於いて米軍の反攻上陸を受け二晝夜にわたる死闘の末宮崎重敏司令外五百余名全員玉砕せり
これらの人々の冥福よ恒久平和を祈念してこの碑を建立す
 昭和61年4月吉日

富岡総合公園。
旧・横浜海軍航空隊基地跡。

浜空神社跡の真向かいに鎮座している慰霊碑。
ソロモンの海で散った横浜海軍航空隊を偲ぶ。

実は終戦時に日本軍人の手で日本の空を飛んだ最後の日本軍機は「二式大艇」(二式飛行艇)だった。
昭和20年11月11日、残った1機を米軍に引き渡す為に詫間海軍航空隊(香川県)から横浜基地に空輸され、この横浜の地にて二式大艇は米軍に引き渡された。

「最後の飛行艇」日辻常雄
水上機・飛行艇畑一本を歩み海軍飛行艇部隊とともにあった日辻氏(詫間空飛行隊長・海軍少佐)は、まさにこの米国へ引き渡された二式大艇で最後に日本の空を飛んだ人物。飛行艇好き必読の本。

この横浜基地から米軍に引き渡された「最後の二式大艇」(二式飛行艇/T-31号機/Tは詫間空/昭和18年3月製造第26号機)は返還運動もあり1979年に笹川良一氏の尽力により「船の科学館」にて引取され展示。
2004年以降は海自鹿屋基地にて展示されている。


二式大艇(二式飛行艇)

「船の科学館」に在りし日の彼女。2003年撮影。
※現在は鹿児島鹿屋に展示

連合国コードネームEmily。
「恐るべき機体」「空飛ぶ戦艦」「全世界の飛行艇に君臨する王者」

飛行艇技術では日本が世界に勝利したと讃えられ数々の勇名を誇る。

帝国海軍の飛行艇の伝統は、海自PS-1/US-1/US-2へと受け継がれ…

船の科学館、在りし日の姿。(2003年撮影)

鹿児島の鹿屋には行ったことがなく。
いつかは行かねばなるまい土地です・・・。

筑波空記念館には二式大艇のプロペラエンジンの遺品もありました・・・。

大艇ちゃん・・・。

さて、脇道にそれ過ぎましたね。

横浜海軍航空隊(浜空)は海軍飛行艇部隊の嚆矢でもあり二式大艇ゆかりの場所でもあるため、これもよすがを偲ぶきっかけの一つとして。

余談ついでに。
二式大艇は居なくなり展示も宗谷だけになった船の科学館ですが二式大艇にまつわる冊子が売っています。

これ、写真豊富で修復前後や艇内部の様子などもあり、頒布300円の癖して凄く良い冊子です。

話の筋を戻して富岡総合公園に。
この地に平成20年春迄、浜空神社が鎮座していた。

現在は追浜の雷神社に遷座。当地は浜空神社跡として鎮魂碑がある。


浜空神社跡

浜空神社由来

昭和十一年十月一日飛行艇隊の主力として横浜海軍航空隊が当地に開設された。
その守護神として造営されたのがこの浜空神社である。

昭和二十年八月十五日大東亜戦争終結後当航空隊跡地は横浜市富岡総合公園として生れ変ったのである。
浜空会では特に願い出て戦没者の鎮魂と恒久平和を祈念して浜空神社の修復復興をはかり全海軍飛行艇隊の戦没者殉職者約二千柱の御霊を合祀した。
横浜航空隊は浜空神社を中心とした広大な陸上の敷地と現在埋立てられた根岸湾水上の飛行艇発着場を専有していた。
隊員約一千名大型飛行艇二十四機を有する海軍最大の飛行艇専門航空隊としてその威容を誇ったものである。
今なお隊門附近の桜並木と飛行艇大格納庫が当時を偲ぶ面影を残し訪れる者に静かに語りかけてくれる。
時局の推移に伴い横浜航空隊から新たに東港航空隊が分立した。
昭和十六年十二月八日大東亜戦争勃発するやこの両隊は直ちに第一線に出動した。
引続き第十四航空隊対潜専門部隊輸送教育等各精鋭飛行艇隊が横浜空を母体として誕生し第一線に又後方に配備されその強大な航続力を発揮して洋上大遠距離の哨戒・攻撃・輸送・救出・作戦等を展開しハワイ・印度・アリューシャン・豪州・ソロモンにわたる広大な戦域を駆け巡って勇戦奮闘した。
作戦上部隊名を八〇一空(横浜)八五一空(東港)八〇二空(十四空)九〇一空(対潜)等に変更し戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して沖縄攻防戦に死闘を演じ満身創痍全力を尽し果たして戦の幕を閉じたのである。
中でも横浜航空隊はソロモン最前線のツラギに進攻作戦中強力な敵の反撃をうけて昭和十七年八月、宮崎司令官以下三三八名が壮烈な玉砕を遂げたのである。

富岡のこの地は、かくの如く誇りある海軍飛行艇部隊発祥の歴史をもっているのである。
この事実を永く後世に語り継がんが為、ここに記念碑を建立する次第である。

昭和63年1月 海軍飛行艇会 建立

鎮魂
海軍飛行艇隊

石碑正面のシンボルマークは飛行艇に音楽終止符を織り込み「休める飛行艇」を意味する「濱空会」の印。

海軍飛行艇部隊の犠牲者に。
慰霊と鎮魂、そして感謝を。

かつてこの地は浜空神社であった。

が、管理する世話人の老齢化により神社を維持する事が難しくなり、この浜空の地から横須賀空のあった追浜の雷神社に遷座し、今後の管理を委ねるという苦渋の選択があった・・・。

濱空神社の碑

此処に横濱海軍航空隊の戦没者、物故者二千余柱の英霊をお祀りしていた「濱空神社」がありました。
名称は、古事記の「石楠船神」又の名「天鳥船」に因み、鳥は水鳥のように速く進むという意味の「船神」に由来するものです。
昭和十一年十月一日、この地に我が国における飛行艇部隊の本部として横濱海軍航空隊が開隊され、以来「九七式大艇」や昭和十七年には世界最優秀艇と謳われた「二式大艇」が開発され隊員は日夜猛訓練を続け、先の大戦におきましては華々しい戦果を挙げ又の多くの隊員が祖国のために散華されました。
毎年四月と前線部隊がつらぎ島で玉砕された八月を記念して生存隊員並びに関係各位により、濱空神社で慰霊祭を行い、 英霊に対し、鎮魂と慰霊の誠を捧げて参りましたが、戦後六十三年を閲し神社の社屋の老朽化と境内の清掃などの維持管理に当たる世話人の老齢化により、誠に残念ではありますが濱空神社を今後も維持管理することが不可能となりましたので、平成二十年四月六日の春の慰霊祭を最後に神社の社屋は追浜本町雷神社に移築して今後の維持管理をお願いし、神社の跡地にこの石碑を建立することになりました。
石碑正面の記号は、飛行艇の記号に音楽の終止符を織り込み「休める飛行艇」を意味する濱空会のバッジです。
此処に謹んで英霊に対して鎮魂の誠を捧げ碑文を賦します。

平成二十年八月吉日  
遷座先 横須賀市追浜本町一-九 雷神社
世話人代表 加藤亀雄

浜空神社跡。この地に訪れる前週には追浜の雷神社を参拝し遷座先の浜空神社にも拝していた。
まだ浜空の地を訪れた事なかった私は、どうしてもこの元鎮座地に訪れたかったのだ。
ようやくこの地で手を合わせることが出来ました。 海軍飛行艇部隊の嚆矢たる地にて…


浜空神社
(遷座先の横須賀追浜・雷神社境内)

追浜の雷神社境内には「浜空神社」が鎮座。
正確に言うと遷座してきた。

浜空とは横浜海軍航空隊。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊の展開されていた追浜の地に、わけあって浜空神社が遷座してきたのだ。

維持の難しい性質の神社であることはわかります。特に戦友会や遺族会を軸とする場合は老齢化からは逃れられず。この場所での維持管理が難しいのであれば理解有る神社に遷座して管理を委ねる。こうやって遷座先でも変わらずに慰霊祭祀が行われる事は何よりも有難い事です。

「浜空神社」
昭和13年に浜空犠牲者を祀る鳥船神社として横浜富岡に創建。
昭和56年に鳥船神社跡地に浜空神社を再建。
平成20年に維持困難となり追浜空関係者の尽力により遷座。
遷座を機に、追浜空犠牲者を合祀。

浜空の地では毎年4月に慰霊祭が斎行されております。

水交会の平成28年盛夏号 「浜空鎮魂の碑」慰霊祭の記事。
浜空神社は雷神社に遷座しましたが、鎮魂の碑でも引き続き慰霊祭が行われており。 慰霊顕彰の火を絶やすことなく…。


公園の奥に。

富岡総合公園内に「海軍の横須賀水道関連施設遺構」があるという。
名前もズバリの浜空上広場から、もしや往時からの石段か?と思わせる古びた石段をゆく。

海軍・横須賀水道関連施設遺構

道?…道のような草むらをかき分けていくと、階段?…だった斜面が。

どうやらここは夏に来てはダメです。ヤブ蚊が凄いです。冬に来たいね。もう遅いけどw

石段跡を上ると不思議な空間が。
通気管のようなものと、もはや用途のよくわからない塔状の構造物が林立しています。

富岡総合公園内「海軍・横須賀水道関連施設遺構」
通気管のようなものを覗いてみます。
ポケットライトが手元にありましたので照らしてみると水が反射。
この下には貯水空間が残っている雰囲気。

この塔状構造物は全くもって何かよくわかりません。
6本ほど林立してました。

封鎖されている小屋は揚水ポンプ室跡?らしい。
あとはコンクリ基盤が二箇所。

まあ、とにかく藪蚊がすごいです。
やっぱ冬に来るべきですね。この手の場所はw

富岡総合公園内には海軍標石も残っているらしいですが、どうにも藪蚊との戦いで疲れきっていたので標石探しはやめておいて「見晴らし台」を目指す。

ちなみに先ほどの水道施設は多目的運動広場の右奥の方でした。


富岡総合公園見晴らし台。

風景をみるわけではなく「格納庫」を見る・・・うん、やっぱり冬に(

横浜海軍航空隊名残の「第三格納庫」を上からちょっとだけ見下ろす。

富岡総合公園見晴らし台。

第三格納庫の左側に広がる空間は第二格納庫跡地とのこと。 空き地が広がる。

富岡総合公園をあとにして南部市場駅に向かう途中。

さきほどの第二格納庫跡地を近くで見てみる。

日本飛行機

奥に見える工場は「日本飛行機 (ニッピ)」
戦前は旧海軍用航空機を製造しており局地戦「秋水」も製造していた。

シーサイドラインの車窓から「日本飛行機」(日飛/ニッピ)の工場群を眺める。

日飛の工場、往時の建屋が残っているかどうか、立ち入りできないけど。

日飛の初代社長は加藤亮一(海軍中将)。
そして二代目社長が堀悌吉(海軍中将)。堀悌吉といえば山本五十六の兵学校同期にして主席卒業。海軍軍政の将来を期待されるも大角人事で予備役…

http://www.nippi.co.jp/history/index.html

http://www.nippi.co.jp/history/history1940.html


場所は変わって根岸に。飛行艇つながり。

根岸飛行場跡
(大日本航空横浜水上飛行場跡)

現在は往時を物語る案内看板のみが残る。
横浜海軍航空隊の北側、昭和15年(1940)に大日本航空株式会社により日本初の飛行艇専用民間飛行場が作られた。

根岸飛行場跡
 昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社 により日本初の飛行艇 専用民間飛行場 が作られました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機 製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン 経由パラオ に向け飛び立ちました。
 発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
 昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇 が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26~64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
 97式大艇の最終飛行は終戦後昭和20年(1945)9月の台湾向け紙幣の輸送で、2式大艇は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の託間基地からここに飛来したのが最後です。
 根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。

97式大艇
2式大艇「晴空」型
イラスト・小川利彦

磯子区根岸地区連合町内会
横浜磯子ライオンズクラブ 
磯子区郷土研究ネットワーク

大日本航空株式会社は昭和15年に97式飛行艇で根岸からサイパン経由パラオに定期便を展開。南洋諸島と本土を結ぶ夢の航路であった。
そして戦中は海軍徴用で南方輸送航路として展開。

位置関係

「根岸飛行場跡」
当時、水上飛行場の隣にあった「動物検疫所」。
今も「農林水産省動物検疫所」として往時と変わらぬ場所に往時と変わらぬ役目で施設が残っていた。

「根岸飛行場跡」
大正12年関東大震災の復興後に石積護岸されたという往時と変わらぬ姿で、動物検疫所の脇を流れる掘割川。(土木学会選奨土木遺産に認定)

橋の脇には昭和3年「八幡橋親柱」も残されている。

さきほどの橋は「八幡橋」。

八幡様が鎮座している。
八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

近在の「根岸八幡」が元は当地に鎮座しており、現在地に遷座後( 明和3年1766)の空白地に当社が創建。

狛犬の表情がとても豊か。
大正8年

こちらの狛犬さんは何かを咥えていますね。
兎のようにもみえますが・・・。

御大典記念碑(昭和天皇陛下即位記念碑)

八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

このひときわに大きな球体が境内で目につきます。 一瞬「機雷」?とも思いましたが、どうやら「ブイ(浮標)」らしく。

社頭に

敬神 東郷平八郎謹書

横浜海軍航空隊を軸に、飛行艇の姿を夢想しながらの散策。
色々垣間見た横浜南部の散歩でした。

大阪護國神社

平成29年(2017)参拝

大阪府に戦没者の御霊を恒久的に奉斎する神社がなかったために、昭和15年に内務大臣指定護國神社として創建。

御祭神
明治維新前後の天誅組8柱をはじめ、西南の役、日清日露戦争、大東亜戦争に至る大阪にゆかりのある10万5600余柱の英霊を祀る。

敗戦後は進駐軍の監視のもとで慰霊祭が禁止され、社号も改称せざるを得なく、大阪浪速興隆の礎を築かれた仁徳天皇を祀り「浪速宮」と改称して存続。

昭和27年のサンフランシスコ講和条約締結後に「大阪護國神社」に復称。奉安殿に仁徳天皇をまつり、相殿には東郷平八郎元帥を御遺髪とともに祀っている。

御朱印

大鳥居

大阪府最大級の鳥居

昭和15年の社号標

御社殿

10万5600余柱の英霊を祀る

奉安殿

仁徳天皇 東郷元帥を祀る。

ほまれの宮

御英霊と深い絆で結ばれ亡くなられた戦友やご家族の皆様を御英霊のおそばでお祀りするお社。


さざれ石

母に感謝の像

辛い時 悲しい時
 何時も 私達を
力強く抱きしめ
 励まし育ててくれた
母の姿を
 忘れてはならない
お母さん
 ありがとう

財団法人 日本遺族会
 会長 古賀誠 書


あゝ特攻 特攻勇士之像

平成21年10月建立

特攻勇士に捧ぐ
 大東亜戦争の戦局が一段と厳しくなった昭和19年10月以降、多くの若者が愛する祖国と家族を護るために一命をなげうち、わが身もろとも敵艦に体当りする特別攻撃を敢行、遥かな南の空や海に散華されました。
 私たち「特攻勇士の像を奉納する会」一同は、大阪府ご出身の五百余の特攻戦士を慰霊しその功を永く伝えるため、像をここ大阪護國神社に建立いたしました。この像を仰ぐ方々が、若者たちが身命をかけて崇高な「日本人の心」を実践したこと、そして今日の平和と繁栄はその尊い死の上にあることに、ぜひ思いを致されんことを、一同こい願うものであります。
 平成21年10月24日
  (財)特攻隊戦歿者慰霊平和祈念協会
   日本人の心を伝える会
   碑文・揮毫 吉田 學
   慰霊碑像デザイン 塚本 哲


慰霊碑

大阪護國神社のサイトを参照

http://www.osakagokoku.or.jp/publics/index/84/

慰霊碑は東西の区画にわかれている。

大日本帝国海軍
海軍関係戦没者 慰霊碑

碑文
 明治初年に創設され、その後幾多の輝かしい歴史と伝統を保有し、わが国の栄光と国威の象徴として、国民に尊敬され親しまれた日本帝國海軍は、さきの太平洋戦争において善戦空しく敗れ、昭和20年8月15日の終戦と共に、その八十年の長い歴史を閉じた。
 この戦において、四十万余の海軍軍人・軍属が、その貴い生命を祖国に捧げて勇戦奮闘の末、国の御楯として散華した。
 大阪を中心とする近隣府県在住の海軍関係生存者ら有志相寄り相図り、ここ大阪護国神社の聖域に慰霊の碑を建立した。
 海軍を弔い、永遠の平和を希求し、戦没者に心から慰霊の誠を捧げ、以ってその芳勲を千秋に伝えんとするものである。
  昭和60年5月
   海軍関係戦歿者慰霊碑建立委員会
    委員長 岡山幸男

建立・管理建立委員会委員長 岡山幸雄
揮毫者大阪護國神社宮司 柳澤 寮
建立年月日昭和六十年六月
慰霊祭の主催者水交会
祭神数五四,○○○柱

豫科練 
貴様と俺と翼の碑

碑文
 昭和5年に、すぐれた飛行機搭乗員の養成は英才の早期教育に俣つとの観点より「海軍飛行予科練習生」の制度が創設され、昭和12年には甲種、乙種、その後丙種、特乙種の修業課程が定められた。国を愛し空に憧れた少年達が全国各地はもとより遠く海外にあった者も勇躍志願をしたのである。
 予科練出身搭乗員は、昭和12年8月、日支事変に於てその初陣を飾って以来、太平洋戦争では名実ともにわが航空戦力の中核となって、嚇々たる武勲をたてたのであるが、戦局利あらず本土決戦の秋来るや、祖国日本の弥栄を信じ一死もって国難に殉ぜんと相ついで航空、水上、水中特別攻撃隊員となり、空に海に敢然として散華していった。
 我ら元予科練習生は終生そのきづなを深め、この聖地に名を連ね、英霊の顕彰と昭和の御代に「予科練」という紅顔のさきがけありと後世に伝え、世界の平和と子孫の繁栄をこい希い本碑を建立する。
 嗚呼
昭和57年12月5日
 関西甲飛会 建立

建立・管理関西甲飛会
建立年月日昭和五十七年十二月
慰霊祭の主催者関西甲飛会
祭神数一八,○○○柱

鎮魂 
第三十四師団通信隊

第34師団は昭和14年(1939)に新設。大阪にて編成。中国戦線に派遣される。

建立・管理健通会
建立年月日昭和五十九年三月
慰霊祭の主催者健通会
祭神数八八柱
軍馬・軍鳩之碑

つわもの之碑 
野砲兵第二十六聯隊

建立・管理野砲兵第二十六連隊
揮毫者陸軍少将正四位 吉富徳三
建立年月日昭和五十年四月
慰霊祭の主催者野砲二六会
祭神数四,三七七柱
軍馬之碑

龍山歩兵第七十九聯隊
戦友はここに眠る之碑

建立・管理歩兵第七九戦友会
揮毫者山崎孝三
建立年月日昭和五十七年四月
慰霊祭の主催者歩七九会
祭神数一八,○○○柱

慰霊
海軍第一期 飛行専修予備生徒慰霊碑

 海軍第1期飛行専修予備生徒は、戦雲急を告げる昭和18年12月10日、学業半ばにして臨時現役兵として應召し、各海兵団を経て、三重及び鹿児島の海軍航空隊に於て基礎訓練を受け、中練教程の後、予備士官として実戦に参加した。
 主として沖縄特攻、その他数々の戦場に於いて我々は同期165名を失った。
 戦後30年ここにその名を銘記し、今は亡き戦友の御霊を永遠に弔うものである。

建立・管理海軍第一期飛行学生
建立年月日昭和五十一年八月
慰霊祭の主催者一生会
祭神数一六五柱

サイパン島戦没者慰霊碑

明治二十九年、歩兵四十聯隊は大阪歩兵二十聯隊に仮兵舎をおいて聯隊本部を設置したことに始まる。
明治三十年に大阪から鳥取に転営。
大東亜戦争では歩兵第四十聯隊第三大隊がサイパンで玉砕。本体は本土決戦準備のため宮崎へ移動、そこで終戦を迎えた。

建立・管理サイパン奉賛会
揮毫者鳥取四十連隊長 愛甲立身
建立年月日昭和四十五年五月
慰霊祭の主催者サイパン奉賛会
祭神数五○,○○○柱

海軍大尉 粟井俊夫之碑

粟井俊夫命
神風特攻第三筑波隊にその名が確認できる。
飛行科予備学生第14期。 昭和20年4月16日に沖縄方面の機動部隊に対して特別攻撃を敢行。

建立・管理粟井岩吉
建立年月日昭和四十四年五月吉日

慰霊
独立輜重兵 第五十四大隊慰霊碑

昭和16年に大阪にて編成。東北満州の警備に当たる。昭和19年3月に中国戦線に転戦し、終戦。

建立・管理独立輜重兵第五十四大隊
建立年月日昭和五十二年八月
慰霊祭の主催者独立輜重兵第五十四大隊
祭神数六三九柱

歩兵第二百十七聯隊之碑

第34師団隷下。昭和14年に大阪にて編成。

建立・管理歩兵第二百十七連隊
揮毫者内閣総理大臣 田中角栄
建立年月日昭和四十八年三月
慰霊祭の主催者歩二一七会
祭神数二,三○五柱
軍馬・軍犬・軍鳩之碑

歩兵第十四聯隊之慰霊碑

明治8年に小倉で創設。昭和15年以降の徴募区は大阪を主体とする。昭和20年4月、本土決戦部隊として宮崎に進駐、終戦を迎える。

建立・管理大阪勝山会有志
建立年月日昭和六十三年十一月
慰霊祭の主催者大阪勝山会
祭神数七一一柱

騎捜会
鎮魂之碑

建立・管理騎捜鎮魂会
騎兵第四連隊
捜索第四連隊
騎兵第二十八連隊
捜索第二十連隊
ほか
揮毫者大阪府知事 岸 昌
建立年月日昭和六十年十月
慰霊祭の主催者騎捜鎮魂会
祭神数一,四○○柱
愛馬之碑

鎮魂
歩兵第二百十六聯隊鎮魂碑

建立・管理歩兵第二百十六連隊戦友会
建立年月日昭和五十二年九月
慰霊祭の主催者歩二一六会
祭神数二,三六二柱
軍馬・軍犬・軍鳩之碑

歩兵第百八聯隊
つわもの之霊
ここに鎮まる

建立・管理歩兵第百八連隊
揮毫者服部敏夫
建立年月日昭和五十三年十月
慰霊祭の主催者歩百八会
祭神数一,三○○柱

騎兵第四聯隊慰霊碑

建立・管理騎兵第四連隊
揮毫者大槻 章
建立年月日平成六年十一月
慰霊祭の主催者
祭神数三,○○○余柱

歩兵第三十七連隊慰霊碑

建立・管理歩兵第三十七連隊
揮毫者陸上幕僚長 杉田一次
建立年月日平成五年十一月
慰霊祭の主催者歩三七会
祭神数二,○○○余柱

檜 第六十八師団
慰霊碑

建立・管理檜第六十八師団
慰霊碑建立委員会
揮毫者大場軍勝
建立年月日昭和六十二年十一月
慰霊祭の主催者檜会
祭神数一○,六七二柱

平和の礎 歩兵第八連隊之慰霊碑

建立・管理歩兵第八連隊
揮毫者大阪護國神社宮司 柳澤 寮
建立年月日平成元年五月
慰霊祭の主催者歩八会
祭神数二,七○○柱

信太山砲四会之碑
鎮魂

建立・管理信太山砲四会
建立年月日昭和五十七年四月
慰霊祭の主催者信太山砲四会
祭神数七,五○○柱
愛馬の碑

香8114部隊の碑
殉國の英霊 このところに鎮まる

建立・管理独立歩兵第六十七大隊
第四中隊
揮毫者中山二郎
建立年月日昭和五十三年八月
慰霊祭の主催者香親会

塩沢幸一題
皇風洽六合 明徳侔太陽之碑

塩沢幸一海軍大将。海軍兵学校第32期。同期は堀悌吉、山本五十六、吉田善吾、嶋田繁三郎ら。日米開戦時は軍事参議官。山本五十六戦死時に国葬の司祭長を勤めた。昭和18年11月に病死。

建立・管理岡本忍一
揮毫者海軍大将 塩沢幸一
建立年月日昭和十七年八月

参拝は2月下旬。境内には梅が咲きつつある春間近な季節。
御英霊に感謝と哀悼の祈りを捧げつつの参拝。

ありがとうございます。

「明治丸」と「東京高等商船学校」(東京海洋大学)

平成29年7月

海の日(7月第3月曜日)

海の日は1995年(平成7年)に制定され1996年(平成8年)から施行された日本の国民の祝日の一つ。
「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨としている。
祝日化される前は「海の記念日」(7月20日)

海の記念日

海の記念日は1876年(明治9年)、 明治天皇の東北地方巡幸の際、汽船「明治丸」によって航海をし7月20日に横浜港に帰着したことにちなみ1941年(昭和16年)に制定。
その後、明治丸は東京商船学校練習船として使用され、現在は東京海洋大学越中島キャンパスに保存。

東京海洋大学

海の記念日・明治天皇ゆかりの「明治丸」は東京海洋大学越中島キャンパスにて保存されている。

本日、「海の日」記念行事として東京海洋大学にて公開などが行われていたので、行って参りました。

最寄りはJR越中島駅。
駅のタイルも海洋っぽい感じで良いですね。

私の目的は「明治丸」
まだ見たことがなかったので、せっかくだから海の日に見学してみたかったのだ。

明治丸

明治丸は明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し明治7年に竣工した鉄船。翌8年横浜に回航。
明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に日本政府の調査団を乗せ英国船より早く小笠原に到達し日本統治を宣言。これにより小笠原諸島は我国の領土となった。

明治9年(1876年)  明治天皇が東北・北海道巡幸の際、青森から明治丸に乗船され函館を経由し7月20日に横浜に安着。
この安着された7月20日を記念して昭和16年に「海の記念日」が制定され平成8年に国民の祝日「海の日」となる。
写真は明治丸船内の 明治天皇御座所

明治丸は、その後の約20年間を燈台巡廻船として活躍し明治29年に商船学校に譲渡。
係留練習船として昭和20年までの約50年間に5000余人の海の若人を育成。

大正12年の関東大震災や昭和20年の東京大空襲では被災民を収容するなど災害救援にも貢献。

明治丸は終戦後の1945年(昭和20年)9月には商船学校とともに進駐米軍に接収され酒保とされる。
接収中の1951年に係船地で座礁したのを契機に接収解除。

1952年には浮揚させて上甲板などの修理が行われたが1954年に老朽化のため練習船の任務は解除となる。

昭和53年(1978)、鉄船時代の造船技術を今に伝える貴重な遺産として、かつ現存する唯一の「鉄船」として「明治丸」は国の重要文化財に指定。
「船としての重要文化財指定」は明治丸が初めてであった。

平成27年に大規模修復工事が終了し現在の姿を伝える。

船首と船尾に装飾として使用されている「アカンサス文様」(アカンサスは地中海原産)は日本の船の文様としては珍しく、この船がイギリス産であることを物語っている。(日本での定番の文様は「唐草文様」)

近くでは、ちょうどアカンサスの花が咲いておりました。

この日は海の日イベントでの開放日となっておりましたので船内も自由に見学できました。(普段はガイド引率のようです)

前甲板など。
大規模修復工事のあとということもあってかなり綺麗です。

舵は後甲鈑に。
まっすぐに伸びるマストが気持ち良いです。

船内に降りる階段。

船内後方は曲線美しいサロンとなっておりました。
明治天皇もここで休まれたと。

空間は上甲版に作られた天窓の光が差し込む自然の明るさ。当時は船には電気が導入なかったために暗くなると蝋燭が柱に設けられたスプリング機能付き台座(柱頭ランプ)などに灯されたとのことです。

船内前方は船員室などがあったといいます。
現在は展示スペースなど。
やはり天窓が大きく明るい日差しを船内に届けておりました。 この時代の船は、ひと味違いますね。

窓が豊富にあるのは明かりを取り込む工夫。
電気がなかった時代の特徴。
これが軍艦だとここから砲身が伸びてきますが・・・


アンカーの塔

商船教育発祥を記念して昭和40年に85周年記念として建立。
このアンカー(錨)は係留練習船としての明治丸をポンド内に定置する際に使用されたもの。
アンカー主幹は北極を、ストックは天の赤道を指している。

日本海軍駆逐艦「磯風」
左舷プロペラ

ん?
17駆の磯風は大和随伴で沖縄…と思ったらこちらは初代磯風でした。
(17駆の磯風は2代目)

1918年(大正7)竣工
1935年(昭和10)除籍

百周年記念資料館

日本海軍制式短艇用コンパス(上陸用舟艇に使用)
昭和16年

鉄球の羅針盤から鉄板と磁力棒へと進化。
ジャイロコンパスはもうちょっと後。

左は「九〇式三号磁気羅針儀1型」(昭和18年)
大きな鉄球は「戦艦伊勢用大型自差修正用鉄球」

軍人が帯刀してるだけでも磁場が狂うらしいです

90式測深儀(指示部・発振部)
昭和18年

百周年記念資料館
文系の私には細かいレベルではよくわかりませんが、エンジン機関とか歯車とか航海学に関するものとかいろいろ盛り沢山。

大成丸 (初代)関係資料

1903年12月2日に進水。日露戦争開戦の年に竣工した本船は海軍に徴用され試運転後は帆装を取り外し輸送船として軍事輸送に従事。
1906年に東京高等商船学校の航海練習船として運用開始。

大成丸 (初代)
練習船として活躍するも1941年に再び海軍に徴用。
輸送船として石炭輸送に従事。航行可能状態で終戦を迎えたが1945年10月9日11時頃に神戸港内で米軍残存機雷に触雷して沈没。

写真は遺品の御真影奉安庫


キャンパス周辺の史跡を散策してみます。

東京商船大学1号館
(現・東京海洋大学海洋工学部1号館)

関東大震災で焼失した校舎跡地に昭和7年(1932)建設。
航海船橋を模した建造物。
登録有形文化財。

東京海洋大学

明治8年11月(1875)私立三菱商船学校が東京に設立
明治15年(1882)三菱商船学校は官立となり東京商船学校と改称
大正14年(1925)東京高等商船学校と改称

戦時中は、東京高等商船学校に入校した学生は海軍予備生徒に任命され兵籍に入り徴兵の対象外となった。海軍予備生徒は海軍三校(海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校)の生徒に準じる立場であり、下士官の上位、准士官の下位に位置づけられた。卒業後は海軍予備少尉。

1号館は昭和7年の建造ゆえに正確には文部省所管の官立「東京高等商船学校」時代の建物となる。

1945年(昭和20年)に 東京・神戸・清水の高等商船学校3校が統合し「高等商船学校」が発足。
消耗が激しい海軍初級士官の大量養成の一端を担っている。

戦後は東京商船大学と呼称していたが、2003年に東京水産大学と統合して東京海洋大学となる。

越中島→元・東京商船大学(工学系)
品川 →元・東京水産大学(水産系)

統合して「海洋」だけど、たしかに両者の趣はだいぶ違いますね。

第一観測台 (東京海洋大学・越中島)

明治36年(1903)建設。(官立「商船学校」時代)
赤道儀室と呼ばれ、内部には東洋一といわれた天体望遠鏡を備え教育研究に使用された。
平成9年(1997)に登録有形文化財。

第二観測台 (東京海洋大学・越中島)

第一観測台と同時期の明治36年(1903)建設。(官立「商船学校」時代)
子午儀室と呼称され、内部には子午線測定用望遠鏡が備えられた。
平成9年(1997)に登録有形文化財。

G.E.O.ラムゼー功徳碑 (東京海洋大学・越中島)

ラムゼー先生は明治9年から6年間に渡り、前身の私立「三菱商船学校」時代に航海術を教えた教員。
没後の明治19年(1886)に門弟達によって碑が建立された。
碑には琅西君(=ラムゼー氏)と記載されている。

招魂碑 (東京海洋大学・越中島)

東京商船学校の生徒であった田福重右衛門は英国船に乗船し米国に渡る途中で暴風雨に遭遇して死亡した。
この碑は僚友たちが出資して明治21年10月に建立。
題字は逓信大臣榎本武揚の篆書。

精神不滅碑 (東京海洋大学・越中島)

昭和19年8月、清水高等商船学校生徒3名は不屈の精神で持って遠泳訓練に挑んだが豪雨の影響もあり最後まで泳ぎ着いたものの力尽きて死亡。この碑は敢闘精神を記すために昭和19年11月に建立。
撰文は清水高等商船学校長・海軍中将 松永次郎

管船長石像 (東京海洋大学・越中島)

菅源三郎は商船学校を卒業後、上海航路貨客船・長崎丸の船長として活躍。
昭和17年に長崎港外で機雷に触れたが沈没するまで同船を指揮。救助された後も遭難者への事後処理に奔走し責任を負って自決。
昭和20年1月建立。

船模型は長崎丸姉妹船の上海丸

明治天皇聖蹟(越中島)

こちらは大学の敷地に食い込むように建立されておりましたが、現在は敷地外の扱い。
碑文を読み解くと、

明治天皇聖蹟(近衛文麿謹書)
紀元二千六百年記念建設
越中島には明治3年9月、明治5年9月、明治6年12月、明治8年6月に天覧の為に行幸された由

さて10時に越中島キャンパスにたどり着いてランチ休憩も含めて気がつけば3時間経過の13時すぎ。
ちょうど13時35分に越中島キャンパスから品川キャンパスを結ぶシャトルバスが運行でしたので、バスに揺られてなんとなく品川キャンパスに向かいます。

写真は豊洲運河から明治丸

品川キャンパスは歴史要素が薄いのでサラリと終わります。
品川は元水産大学なので、越中島のような船メイン(海軍要素あり)ではなく、海の生き物中心。


14時。品川キャンパスに到着。

この地は旧海軍経理学校品川校跡地。往時を偲ぶものはない。

海軍経理学校品川校舎は昭和18年に開設され昭和19年には築地から品川に本校機能が移転。 終戦後に米軍に接収され、そののち東京水産大学が展開された。

築地  →海軍経理学校之碑
東郷神社→海軍経理学校正門敷石
靖國神社→海軍経理学校正門敷石と品川校の揚艇柱部品など

この地で保存されている船

雲鷹丸

登録有形文化財。 東京水産大学の前身、農商務省水産講習所の第2代練習船。
1909年竣工。1929年航海終了、その後は係留練習船として活躍。
昭和37年に喫水線上部船体を現在地に移設し現在に至っている。


ノルウェー式捕鯨砲
19世紀末の近代捕鯨で船首に備えられた捕鯨砲 旧型と新型

鯨ギャラリー
セミクジラとコククジラの骨格が展示

品川キャンパス内での歴史的建造物

中部講堂(なかべこうどう)

昭和34年(1959)水産関係の実業家であった大洋漁業(株)社長中部謙吉氏が寄贈した建造物。当時は旧海軍経理学校及びGHQ接収建造物を校舎流用しており満足な施設がない時代であった。

「中部講堂」の周辺にある記念碑など。
松原新之助像(水産講習所初代専任所長)
伊谷以知二郎像(水産講習所第三代所長)
水産翁碑(水産伝習所第二代所長・村田保水産翁記念碑)

水産大学・・・東京海洋大学品川キャンパスの写真は以上。
マリンサイエンスで剥製や骨格などを見学したりして海の生き物たちの造詣を深めるのもなかなかよろしでしたが、ワタシ的にはやはり商船な越中島の方が楽しかったようです。


明治神宮
なぜ7月20日に「海の日」が制定されたのですか?

http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/04.html