平成29年3月
広島・呉散策
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・呉編)
目次
「この世界の片隅に」 私の片隅散策
すずさんの嫁いだ街「呉」
海軍と共にあった街「呉」
平成29年3月5日。私は呉にいた。
すずさん時代と海軍時代、重なる2つの時代の足跡を辿りながら呉の街を巡ってみたいと思う。
朝8時過ぎ。
自転車に跨って走り出したら、目の前に「海上自衛隊呉集会所(海上自衛隊青山クラブ)」が見えてきました。
さっそくのポイントです。自転車を降りて散策してみましょう。
海軍下士官兵集会所(青山クラブ)
1903年(明治36年)4月1日に開設。
「この世界の片隅に」劇中で、すずさんが「しみじみニヤニヤしとるんじゃ」しちょった場所。
ちょっと入ってみましょう。
あっ、ここには「呉水交会」(水交会呉支部)が入っておりましたので、「水交会横須賀支部」会員の私は(一応)関係者ということでお願い致します…
→呉水交会
通路からあちこちを。
海上自衛隊関連事務所や水交会・隊友会事務所などが残っているが、使われていない部屋も多い。
節々に老朽化を感じさせる。 なかなか厳しい・・・。
この海軍下士官兵集会所の裏手は入船山。
呉鎮守府長官官舎があり、ここより南は海軍用地としてかつては立入禁止の場所。
(すずさんは周作さんが海軍関係者だったので…
呉市サイト
海軍・呉鎮守府庁舎
( 呉地方総監部 第1庁舎 )
入船山とか旧海軍病院とかは後回しにして、レンタサイクルで一路南下します。
が、すぐに足止めw
「呉地方総監部 第1庁舎」
かつての
「帝国海軍 呉鎮守府庁舎」
もちろん中には入れないので外からチラ見だけ。
南下。
国道487号線を内陸ルートで。これが失敗。大人しく海ルート取ればよかったです。内陸ルートはアップダウンが激しくて疲労w
(海ルートは帰りの楽しみで)
道中、「大和神社」を上から。
あぁ、帰りにちゃんと参拝します。
とにかく南下していきます。
警固屋
辿り着いた先は警固屋の集落。
終戦後に刈谷さんとすずさんが音戸の農家の帰りにリアカーを押して歩いていた場所のひとつが警固屋。
「鍋桟橋跡」 昭和時代の岸壁の石垣が残る。
鍋桟橋跡 1910-1973
大正・昭和時代の桟橋係留
チェーンと岸壁の石垣
ちなみに「青山クラブ(呉集会所)」から「警固屋」まで、レンタサイクルで20分かかりました。
バスもありますので寄り道を想定せずにピンポイントで訪れる場合はバスのほうが便利。
ここに来た理由は「巡洋艦青葉終焉之地」のため。
巡洋艦青葉終焉之地
碑文
巡洋艦青葉終焉之地
元内閣総理大臣 中曽根康弘揮亳
中曽根康弘氏は昭和16年8月に海軍経理学校にて初任教育を受け、海軍主計中尉に任官。 海軍主計科士官として、第一艦隊第六戦隊の旗艦でああった巡洋艦青葉に乗艦したことがある縁あり。
建碑記
「巡洋艦青葉」は太平洋戦争のフィリピン沖海戦において昭和19年10月23日ルソン島西方で米潜水艦の魚雷を受けて大破し、呉海軍工廠に帰還しましたが、修理の見込みが立たないため防空砲台として警固屋地区の海岸に繋留されていました。
しかしながら、昭和20年7月24日と28日のアメリカ爆撃機の熾烈な爆撃を受け、「青葉」は大破着底しました。この爆撃により警固屋地区にも死者3名、民家全壊48戸という被害を生じてしまいました。
これら戦争の事実とともに、「命と平和の尊さ」を次世代に伝えるため、「青葉」に乗艦経験を有する中曽根康弘元内閣総理大臣にご揮亳いただき、終焉であるこの地に碑を建立しました。 呉市警固屋まちづくり協議会 巡洋艦青葉終焉之地碑建設保存会
一等巡洋艦青葉戦歴表
昭和2年9月20日 三菱長崎造船所にて建造
排水量 約10,000頓(改装後)
乗組員 約800名
戦没者 172名
…
昭和20年7月28日 艦載機の攻撃により後部切断着底
昭和20年8月15日 終戦となり青葉終焉
警固屋 「巡洋艦青葉終焉之地」
何のフネがおりんさるか見えたよ、晴美さん おったのは…
青葉よ
哲さん、今あんたの笑顔の端に うさぎのはねる海が鷺の渡る空が宿っていた…
(この世界の片隅に)
青葉終焉の地で、その勇姿を偲ぶ。
おったのは、青葉よ…
幾多の海戦を戦い抜き、幾多の僚艦が沈んでいく中で、辛うじて呉に戻ってきた青葉。歴戦の勇艦はこの地で大破着底しその運命を終えた。
しばし静かに佇む…
※補足
呉の長迫の海軍墓地には「軍艦青葉戦没者慰霊碑」がある。
「青葉終焉の地」に訪れるのであれば、こちらの戦没者慰霊碑にもぜひ足をお運びいただければ…
青葉型重巡洋艦の1番艦「青葉」
昭和17年第一次ソロモン海戦・サボ島沖海戦で活躍。
昭和19年捷号作戦(レイテ沖海戦)で大破、かろうじて呉軍港に帰投。
修理の見込みが立たないまま昭和20年7月呉空襲で大破着底。
昭和22年7月解体完了。
午前9時過ぎ。
呉駅前でレンタサイクルを借りて早くも1時間がたちました。
青葉終焉の地が、訪問を予定していた場所で一番遠い場所でした。
さて、ここから北上していきます。
次の目的地は「アレイからすこじま公園」となります。
呉海軍工廠
レンタサイクルで北上「アレイからすこじま公園」を目指す途中に。
現在の「ダイクレ興産(株)呉第二工場」
こちらは往時の「 呉海軍工廠砲填部精密兵器工場 」という。
重厚なレンガ造りの建造物が堪らんないです。(敷地外より撮影)
アレイからすこじま公園
9時15分。
「アレイからすこじま公園」到着。
国内で唯一の「潜水艦が間近に見れる」公園。
そして旧海軍の本拠地を偲ばせる公園。
あわせて、「旧呉鎮守府兵器部護岸及び関連施設」として土木遺産認定。
魚雷揚げ下しクレーン
「アレイからすこじま公園」に保存されている「旧魚雷揚げ下しクレーン」
明治34(1901)年に設置された英国製の15トンクレーン。
旧海軍が魚雷などを潜水艦に積み込むために使用していたクレーンであり、奇跡的に戦火をまぬがれ、戦後もしばらく稼動していたという。
呉海軍工廠電気部
「アレイからすこじま公園」の向いには赤レンガ倉庫が立ち並んでおります。 現在の呉貿倉庫運輸株式会社。
かつては呉海軍工廠電気部であったと。
潜水艦
「アレイからすこじま公園」
この公園の名物は潜水艦。
こんなに間近で潜水艦を見ることが出来るのです
海軍桟橋
この桟橋も旧海軍時代の名残。
この石段も岸壁も旧海軍時代の名残。重厚です。
呉海軍工廠砲熕部と呉海軍工廠水雷部
「アレイからすこじま公園」から工場地帯に目を向けると、白い大きな建物が見える。これが旧海軍工廠砲熕部。手前が旧海軍工廠水雷部。
現在は三菱日立パワーシステムズ(旧・バブコック日立)と淀川製鋼所。
呉海軍工廠製鋼部
「アレイからすこじま公園」隣、工場敷地内に。
おそらくこのあたりの工場煙突群がたぶん旧海軍工廠製鋼部。現在の日新製鋼。 この界隈の密度はやばい。流石に呉工廠の中枢部跡。
呉海軍工廠電気部
「アレイからすこじま公園」から串山公園方面に移動。
こちらにあるのも呉海軍工廠電気部。現在はオカモト産業。
隣にある丘が串山。
呉海軍工廠 工廠神社
串山公園。 かつてここは「旧呉海軍工廠 工廠神社」であった。
御祭神は 天照大御神 ・・・であった。
工廠神社
御祭神 天照大御神
皇紀二六百年記念
昭和十五年11月建設
旧呉海軍工廠 工廠神社跡
参道を歩む。
この立派な参道の脇には「串山防空監視所」が残る。
こちらは帰りにマジマジと見てみましょう。
まずは参道の突き当りを目指します。
参道の突き当りは、礎石が残るのみであった。
空虚な空間。
手水盤と礎石が往時を物語る。
これだけ立派な参道があって、これだけ立派な礎石があっても、ここには鎮まるべき社はもう無かった。
往時を物語る時代の足跡。
ちなみに手水盤の跡に新しめのお椀が鎮座していました。
なんだろうなと思ったら近所の方がやってきて、猫に餌をあげておりました。
呉海軍工廠・工廠神社跡
串山防空監視所
工廠神社参道脇の「串山防空監視所」に近づいてみました。
神社跡の隣に平然と残っている要塞跡にちょっと興奮してます。
「串山防空監視所」を覗いてみました。
うーん、ゴミが投げ込まれてますね。
こうやって往時を物語る何かが残っているだけでも貴重な空間。
「アレイからすこじま公園」に赴く機会がございましたら、ちょっと足を伸ばしてこの「串山公園」でも往時を偲んでいただければ。
良き海軍歴史遺産です。
さて、次に移動します…
おおすみ(LST-4001)が潜水艦桟橋の隣に停泊していました。
敷地外から。
そのままIHIの工場地帯をかすめながら、大和ドック方面に向かいます。
呉海軍工廠造船部工場
現在の「株式会社IHI 呉事業所」工場敷地内にも旧海軍の面影が展示しております。
敷地外からちょっと見てみました。
旧・海軍呉工廠造船部工場
呉海軍工廠造機部庁舎
「株式会社IHI 呉事業所」工場敷地外より撮影。
かつての呉海軍工廠造機部庁舎。
この奥には呉海軍工廠造船部庁舎も残っていると(未撮影)
この隣の敷地が(ようやくの)「大和ドック」(現在のジャパンマリンユナイテッド呉造船所)となります。
次は「大和ドック」、その3へ
「この世界の片隅に」 散策ガイド
現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (呉市)
有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP
個人的に作成したメモ地図
〆