平成29年3月
広島・呉散策
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・呉編)
目次
「この世界の片隅に」 私の片隅散策
すずさんの嫁いだ街「呉」
海軍と共にあった街「呉」
平成29年3月5日。私は呉にいた。
すずさん時代と海軍時代、重なる2つの時代の足跡を辿りながら呉の街を巡ってみたいと思う。
呉海軍工廠造船船渠
「大和ドック」
いわゆる「大和ドック」「大和のふるさと」
かつての呉海軍工廠造船船渠。
現在は「ジャパンマリンユナイテッド呉造船所」部品組立工場としてドック跡を埋めて大和建艦当時の骨組みのままの建屋を活用している。
いわゆる「大和ドック」
現在の「ジャパンマリンユナイテッド呉造船所」(JMU)
現在も大型船の建造が行われております。
大和ドック内の組立工場からブロック式に建造が進んでいるのがよくわかります。
歴史の見える丘
このあたりにかつての海軍工廠第3門があった、と。
現在は公園として整備されており、大和ドックと呉海軍工廠、呉港を見渡す高台に幾つかの記念碑などが集まっております。 順に見ていきましょう。
宮原地区風水害犠牲者慰霊碑
終戦後の昭和20年9月17日の枕崎台風。
呉市内だけで1156人死亡。宮原地区は309名の犠牲者。
「この世界の片隅に」映画ではカットされたが、こうの史代原作で描かれている台風。
迷惑な神風…
正岡子規碑「呉港」
呉かあらぬ 春の裾山 灯をともす
正岡子規が明治28年(1895)に、友人の古嶋一雄氏が日清戦争・海軍従軍記者として軍艦松島で出征するのを見送るために呉を訪れた際、船から日暮れの休山を見て詠んだもの。子規真筆を復刻した碑。
澤原為綱翁之像・台座
像は第二次大戦で供出。
元は「二河公園」にあった。
澤原為綱は呉軍港誘致に尽力した名士。
ん? 二河公園は、すずさんたち北条一家やリンさんが花見をした公園ですね。 「この世界の片隅に」こうの原作では二河公園で花見は昭和20年4月3日。
こうのさんによると広島では神武天皇祭を起源として4月3日に花見をする風習があった、と。 銅像供出が盛んになったのは昭和18年頃。 すずさんの嫁入りが19年2月。 あっ、すずさんが呉に来た頃には既に銅像が供出されたあとの可能性大…
呉海軍工廠記念塔
呉海軍工廠の残存した礎石、旧呉鎮守府開庁当時の庁舎建材、銘板などを(芸術的に)寄せ集めて建立した記念塔。
(どうしてこんなふうになってしまったのか、若干理解に悩むモニュメント)
海軍工廠の面影をしのぶよすがとして・・・
この記念塔は、旧海軍工廠の面影をしのぶよすがとして残存した工廠礎石を集める此所「歴史の見える丘」の一角に建立したものである
レンガは旧鎮守府開庁当時の庁舎建材
縁石は堺川にかかる二重橋に使用されていたみかげ石遺構の踏石
頭部にあるカモメのブロンズ像は日本彫塑会会員般若純一郎氏の作になるものである。
昭和57年3月 呉市
造船船渠記念碑
平成5年にIHI寄贈。
呉海軍工廠内に明治44年(1911)3月完成以来、昭和46年(1971)11月にその幕を閉じるまでの間使用されてきた造船船渠を記念し、造船船渠側壁から渠底に降りるための石段部分の一部を再現した記念碑。
噫(ああ)戦艦大和塔
昭和44年の30回目の大和進水日(8月8日)を記念して大和艦橋をかたどった塔。呉の大和ドック跡を望む丘に建立。
塔の両脇には主砲徹甲弾のレプリカが並んでいる。
向かって左は41センチの長門用。
向かって右は46センチの大和用。
その勇姿を。
建塔の由来
戦艦大和は、この塔の左下方に見える造船々渠で、昭和十二年十一月 仮称第一号艦として起工、同十五年八月八日極秘裏に進水、翌十六年十二月十六日竣工、直ちに連合艦隊旗艦として太平洋戦争に歴戦、同二十年四月七日、国民の全く知らぬ内に乗員三千余名と共に九州西南海中に姿を没した空前絶後の大戦艦であった。
その頃(一九四〇年)までの海戦は、敵弾が届かない遠距離からの先制攻撃で勝敗を決しようとするいわゆる大艦巨砲時代であったが、大和の主砲は口径四六糎、長さ二〇米、その砲弾の長さ二米、重さ一・五噸、着弾距離四万二千米、ここから岩国付近まで飛ぶ世界無比の巨砲で、この大きさが大和の秘中の秘であった。
この大砲三門をならべた砲塔は、直径一三米、重量二千七百余噸もあり、これを製作したのは砲弾部で、またこの砲塔や船体の主要部を防御する四一糎乃至六五糎の厚い特殊甲鉄は製鋼部で製造された。
戦艦大和はこの砲塔三基を積むために特別に設計せられ、従って鑑は異様なまでに幅が広くなり、排水量は六万九千噸を越えたが、それでもなお、二七・五ノットの高速艇であった。
巨艦大和の建造は五万を数えた呉海軍工廠の従業員が、優秀な技術と精魂を傾け、四ヵ年余の短期間で、延べ約三百万人の力と、当時一億一千万円の巨費とをもって完成したのである。
昭和十六年十二月八日、太平洋戦争劈頭の真珠湾奇襲、続くマレー沖海戦で、飛行機魚雷が容易に大戦艦を撃沈できることを、皮肉にも日本海軍が実証して自ら大艦巨砲至上の夢を破り、やがて戦局不利を来し、敵の制空権下沖縄の危急を救うべく、航空戦力を伴わないで、大和は特攻艦艇旗艦として燃料片道再び生きて帰らぬ覚悟をもって出撃し、その持てる巨砲の猛威を発揮しようとしたが、雄図空しく南冥の海に護国の華と散ったことは誠に遺憾の極みであった。
併しながら、明治維新以来八十年間、日本海軍が研究を積み重ねて来た製鋼、機械、電機等の重工業並びに各種産業 殊に造船技術は戦後いちはやくその実力を現し、いまやわが国は造船王国として世界に雄飛するに至っている。これまことに「大和は沈んでもその技術は沈まなかった」といわれる所以である。
軍艦大和は二十世紀における世界最大最強の戦艦であって、しかも日本人の手で設計し、呉海軍工廠において呉市民の手で建造された誇り高き技術の結晶であったとの見地から、これを生んだ呉工廠の跡を一望できるここ宮原の高台に、全国大方有志諸賢の協賛を得て記念塔を建設しもって、平和を念願しつつ先人苦心の業績をたたえ、またその悲壮な最期を偲んでこれが霊を慰め、永くその栄誉を顕彰しようとするものである。後の世の人々よ、願わくば建塔の由来を諒とせられ、この塔を永久に維持保存されることを謹んで識す。
昭和四十四年八月八日 戦艦大和 第三十回進水記念日
大和の故郷。
宮原の地は、すずさんと晴美さんが義父である北條円太郎を見舞いに海軍病院に寄った帰りに…
「あーなんも見えん」
うっ… こうの史代さん描かれた日本観光ポスター。 晴美さん・・・
大和神社
「歴史の見える丘」からちょとだけ南下すると「大和神社」がある。
実は私も誤解していたが、これは「戦艦大和」の神社ではなく。
昭和39年10月。
呉海軍工廠廃止後の「播磨造船所」から「呉造船所」(後に石川島播磨重工業が合併)が独立して10年になるのを記念し建立。
「大きな和をもって結ばれる」の意であるという。
とはいえ戦艦大和建造の造船技術を受け継ぐ企業神社でもある。
「大和神社」の「慰霊碑」
尊くも殉職散華されたみ霊に対し心からなる哀悼の念をこめて敬けんな祈りをささげごめい福を祈ります
み霊よ私達を安全と栄光への道へお導きください
謹白
株式会社 呉造船所 従業員一同 昭和39年10月1日建之
呉の「大和神社」境内の「慰霊碑」をみれば、企業神社だって確かにわかりますね。実は私もこの神社が「戦艦大和」関連の神社、奈良の大和神社の分霊?って思っていたことが昔にありました。調べてみれば違うって分かることでしたが。けっこう誤解をしている人が多いようです。
「 歴史の見える丘 」から北上。
続きは、その4で。
「この世界の片隅に」 散策ガイド
現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (呉市)
有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP
個人的に作成したメモ地図
〆