「陸軍」カテゴリーアーカイブ

代々木公園周辺の戦跡散策

平成29年5月

代々木公園はかつての「帝国陸軍代々木練兵場」であった。
その練兵場の隣に鎮座しているのが「代々木八幡宮」

往時を物語るものが境内に残っているというので見聞に訪れてみました。

代々木公園 「日本航空発始之地記念碑」(日本初飛行の地)

位置関係

95C3-C5-83
1944年(昭和19年)12月23日‐陸軍撮影を編集

代々木八幡宮

御祭神は応神天皇
創建は建暦2年(1212)と伝承。鶴岡八幡宮を勧請。旧社格は村社。

参道の両脇にある、この一対の石灯籠。

この石灯籠は「訣別の碑」(石灯籠の竿石部分)と呼称されている。

明治42年、陸軍練兵場(代々木公園)が設けられた際に移転を余儀なくされた住民が、この地との別れを惜しんで奉納したものという。

拝殿左側
「大字代々木深町ハ明治四十年十一月十一日陸軍練兵場ニ指定セラレタリ、常ニ一家ノ如クナル温情深キ住民ハ区々ニ移転スルノ際」

拝殿右側
「各々其ノ別ルルヲ惜ミ又字ノ消サラン事ヲ思ヒ、茲ニ燈ヲ納メテ之ヲ紀念トス 明治四十二年一月建設 良曠拝書」

代々木八幡の丘と、代々木公園=代々木練兵場の丘。

八幡さんからすれば「あっちの丘の住民たち」が強制移住をさせられ、そうして地域鎮守の代々木八幡宮に先祖代々の土地との別れを記し奉納したという。
雨濡れる参道で、石灯籠から「庶民の戦前」を垣間見る。

八幡宮祈念の碑

明治34年建立。
なかなかコアな名前が列記されていました。

扁額 千家尊福(東京府知事・出雲大社宮司)
撰文 平田盛胤(神田明神祠官・平田篤胤の子である延胤の養子)
執筆 福羽美静(靖國信仰の元となった京都招魂社建立に関わる)

表忠碑

日露戦争当時、代々幡村と呼称されていた当地からの出征者及び戦死者の名を刻む石碑。幡代小学校に建立されていた。
大東亜戦争後、取り壊しを免れる為に地域住民の尽力で代々木八幡境内に遷座。


代々木公園

代々木公園は「大日本帝国陸軍代々木練兵場」であった。

いまでは往時を偲ぶものも少なくなってきているが、公園の内外に歴史を感じるものが点在している。

ちょっと巡ってみましょう。

江戸時代。界隈には大名や旗本らの下屋敷などが点在しており、明治維新後には民有地となり一面は茶畑・桑畑などが展開されていた。

陸軍省はこの地を買収し住民を移住させ、明治42年(1909)7月に「陸軍代々木練兵場」と「衛戍監獄(陸軍刑務所)」を設置。

陸軍刑務所の話を含む投稿はこちら


オリンピック記念宿舎

代々木公園原宿門から見本園方面に向かいます。
なにやら北側の突き当りに建物が見えてきました。

「陸軍代々木練兵場」の地は、終戦後に「ワシントンハイツ (在日米軍施設)」となる。 昭和39年、東京オリンピック開催に伴い同地が日本国に全面返還されオリンピック選手村に転換。 その選手村の跡に「代々木公園」が開設される。

代々木練兵場跡地に展開された「ワシントンハイツ」は東京オリンピックに際して選手村に転用されるために移転。
そのワシントンハイツの代替移転先が陸軍調布飛行場跡地に展開された「関東村」にあたる。

案内地図中にあった「見本園」はこちら。

東京オリンピック記念樹木見本園。
当時のオリンピック参加国が持ち寄った22カ国24種類の樹木の種子が育ったのが現在の姿である、と。


閲兵式の松

代々木練兵場で観兵式に際して、
明治天皇が傍らに立たれたという黒松。
聖蹟を偲ぶに相応しき見事な枝ぶりを誇る。

明治・大正・昭和と観兵式の折にたびたび 
天皇陛下が当地に行幸された聖蹟のひとつ。


「閲兵式の松」の歩道を挟んだ反対側に石碑がある。

昭憲皇太后大喪儀葬場殿阯碑

大正3年(1914)4月11日
昭憲皇太后(明治天皇皇后)崩御

代々木練兵場内に葬場殿が設置。
大正6年に陸軍より東京府に用地が引き渡され翌7年に碑が建立された。

昭憲皇太后の大喪儀は「代々木練兵場」(現在の代々木公園)
明治天皇の大喪儀は「青山練兵場」(現在の明治神宮外苑)

明治天皇葬場殿跡は明治神宮外苑にある。


代々木公園南側イベント広場の喧騒とは裏腹に静けさ極まりない公園内を歩んで西側の端の方に。

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

この代々木練兵場の地が「日本の航空史の事始め」で重要なポイントなのです。

「日本航空発始之地記念碑」
(日本初飛行の地)

明治43年(1910)12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が飛行に成功。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も飛行に成功。

これが日本航空史上「最初の飛行」である。
(ライト兄弟初飛行の7年後)

実は公式記録の5日前。
明治43年12月19日「初飛行を目的とした記録会」に先立つ、12月14日の滑走試験中の日野熊蔵陸軍大尉が飛行に成功し(滑走から誤って離陸?)、これが非公式な日本史上の初飛行ともされている。
(が、これは飛行ではなく跳躍ともされていたり。)

明治43年12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が初飛行に成功。
徳川好敏氏は御三卿・清水徳川家の出身。
「日本初飛行」の栄誉を手にし「日本航空の父」と讃えられる。

明治43年12月19日。
徳川好敏に次いで飛行に成功した日野熊蔵はその後は上層部と折り合わずに左遷され陸軍を去り、民間で発明家となる。

日本の空を初めて飛んだ二人を顕彰する。

徳川好敏陸軍大尉と日野熊蔵陸軍大尉
昭和39年(1964)建立

「日本航空発始之地記念碑」
(日本初飛行の地)

碑文
紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社

朝日新聞社が昭和十五年に建立。

「日本航空發始之地」銘は、陸軍大将井上幾太郎書

日本初飛行離陸之地

隣には「日本初飛行離陸之地」碑がございました。


付記

陸軍を左遷された日野熊蔵氏のその後が江戸川橋の片隅に記録されていた。

国産飛行機発祥の地

新宿区指定史跡
明治42年(1909)〜43年にかけて、陸軍大尉日野熊蔵により初の国産飛行機「日野式一号機」が製作された林田商会(後の日本醸造機械株式会社)の跡。
(略)
明治43年3月18日に日野大尉自ら搭乗し日本初の国産飛行機実地飛行試験に成功した。

いまは新宿区教育委員会が建立した看板が残っているのみ。
名残はないに等しい空間である。
看板を前にして、この地で大空に夢を馳せて日本初の飛行機を作り上げていた往時を思い起こしながら、ちょっとだけ偲んでみた…


代々木公園に戻り、こちらは戦後間もない頃のお話

十四烈士の碑

代々木練兵場に米占領軍は進駐。直後にこれを接収将校宿舎ワシントンハイツを建設。
敗戦直後の八月二十五日、「敗戦の責任」を受け止めた右翼結社である大東塾の塾長・影山正治の父親である影山庄平と塾生十三名の若者らが当地で割腹自殺をとげた場所…。


参宮橋駅近くの陸軍標石

代々木公園(かつての陸軍代々木練兵場)の北側に小田急線参宮橋駅があります。こちらは陸軍用地の北側の境界線。
参宮橋駅のすぐ隣に標石が残っており「陸軍省所轄地」と刻まれておりました。

代々木公園内に残る代々木練兵場の名残は
「閲兵式の松」
「昭憲皇太后大喪儀葬場殿阯」
「日本航空発始之地」の3つを残すのみ。

そして戦後の名残は「ワシントンハイツ跡」「十四烈士の碑」なども。周辺の「二・二六事件慰霊碑」や「陸軍標石」と合わせて往時を偲びし散策もありですね。


陸軍気象部と気象神社

平成29年10月及び令和元年5月撮影

雨の日の撮影が平成29年、それ以外は令和元年5月撮影。

位置関係

USA-M698-110
1947年(S22)12月20日米軍撮影写真を編集

高円寺氷川神社

創建年代は天文年間(1531~1544)とも、奥州征伐の文治5年(1189)の際に当地に立ち寄り安達藤九郎盛長に命じて創建とも伝わる。
明治社格は村社。
第二次世界大戦戦災で社殿焼失。 現在の社殿は昭和46年(1971年)に再建。

御社殿

気象神社(高円寺氷川神社境内社)
陸軍気象部ゆかりの神社

祭神は八意思兼命
この神社がかつての「陸軍気象部の崇敬神社」

昭和19年4月10日に造営。
戦後に陸軍気象部のあった旧鎮座地から高円寺氷川神社境内に遷座。
現在の社殿は平成15年6月1日の気象記念日に再建。

久しぶりに参拝したら、賽銭箱が新しくなってました

御朱印を頂戴いたしました。
スタンプが多様されている御朱印は、あまり戴かないのでワタシ的には慣れないですね。
雨の日だと気象神社のスタンプは雨傘。
氷川さんのほうにはカボチャの妖怪みたいのがいますね。
季節で変わるようです。

折角なので陸軍気象部のあった場所へ、ここから脚を運んでみます。

高円寺氷川神社と気象神社を詣でて旧地に脚を運ぶ人はそんなに多くはないでしょう。

高円寺北の馬橋公園へ。

陸軍気象部跡(馬橋公園)

現在の長閑な公園は戦前は「陸軍気象部」。
気象神社も当地に鎮座。
そして戦後は「気象庁気象研究所」があった場所。

戦後の気象庁気象研究所が1980年につくば市に移転。
跡地が公園として整備され1985年3月30日に杉並区立公園として開園。

残念ながら往時を偲ぶものは特に無い。

小学校もかつての陸軍気象部の敷地。

附近には「気象研究所跡地周辺不燃化まちづくり」の看板が。 これ以外にはかつての「気象」の土地を物語るものは見当たらず。

陸軍気象部のあった敷地の南東角に・・・

標石ですね。

陸軍境界石(南東)

雨の中でじっくりと見るのが厳しく、なおかつ摩耗していて文字判別は不可でした。

陸軍境界石(北西)

敷地の北東部分。摩耗してましたがいくつか残存。

ひとつめ。

ふたつめ

みっつめ

よっつめ?

陸軍境界石(北東)

陸軍境界石(公園の東側入口)

ここには周辺で唯一と思われる「陸軍」と記載のある境界石があった。

この界隈は見つけた石のほかにも境界石がちらほら残っているようだ。

新潟村松の戦跡散策

平成31年3月撮影

村松兵営の営門

「村松」
私にとっては懐かしい土地。
かつて「蒲原鉄道」が五泉駅から村松駅まで結んでいた時(全盛期はもっと長く加茂駅まで結んでいたが)、母方の祖父母が新津や水原に居住していたということもあり、足繁く「蒲原鉄道」に通っていた時代があった。学生時代の思い出。

平成11年(1999)に蒲原鉄道全線廃線。廃線後はあまり足を運ぶ用事がなくなった村松に、奇しくも戦跡を求めてまた赴くことになるのは想定外のことでした。

そんな懐かしい「村松」は、当時は「軍都」と呼ばれた街でした。

村松へ

「蒲原鉄道の鉄道」がなくなり、現在は新潟駅から走っている高速バス「蒲原鉄道バス 五泉村松線」に乗るのが村松に赴くには便利。

かつてのように五泉まで磐越西線に乗ってそこから・・・というルートのほうが今はアクセスがしにくいようで。

位置関係

USA-R465-No2-19
1948年(昭和23年)11月23日 米軍撮影

営所通りの突き当りに「村松兵営」

村松駅舎

建設年代は不明。昭和の気配が残る駅舎。鉄道線が廃止されたあともバスターミナルとして引き続き活用されている。

村松駅

蒲原鉄道株式会社
村松駅 バス停
JASの名称が残っているトラベル看板
かつてここに待合所と改札があった
かつてここに待合所と改札があった
蒲原鉄道線のホームと線路があった場所
ホーム側
かつてこちら側は鉄道ホームだった

現役時代の蒲原鉄道の写真は20年前に撮影したものでフィルムスキャンしたデータがどこかのHDDで眠っているため、サルベージ出来たらアップロードします。
今は往時の思い出と、往時を知っている人は脳内補完でお願いいたします。

営所通り

村松の中心にある商店街。その名も「営所通り」
この通りを真っすぐ行けば「忠霊塔・村松公園」と「旧兵営跡」

商店街は祭日・旗日、日章旗が掲げられておりました。

営所通りを真っ直ぐ歩く。
村松駅から20分位歩く。結構遠い。

村松兵営

明治27年の日清戦争の影響により、明治29年(1896)に「歩兵第30聯隊」が編成され、明治30年に村松に兵営を展開。
日露戦争では村松より歩兵第30聯隊も出征し凱旋。記念として「村松公園」が造営されている。
昭和18年(1943)には「村松陸軍少年通信兵学校」が設立。


日の出町交差点。
北に愛宕小学校、南に村松体育館がある交差点が、かつての「正門」

営門と歩哨舎が残っている。

軍都村松

 明治27・28年の日清戦争における軍備拡張により、歩兵第30聯隊が新設された。陸軍省が設置場所を調査している中、村松町では町会で愛宕原の地4万坪を献上することを議決し、明治29年8月には村松に歩兵第30聯隊が設置されることが決定した。
 施設の概要は、兵舎・練兵場・作業場・病院・射的場などが兵営敷地に建設された。そのほか、村松町では往来の便を図るため兵営門前から下町まで新道を建設した。(現在の学校通り、当時は「営所通り」と呼ばれていた。)
 明治37年、日露両国(日本とロシア)は戦争状態に入り、村松の歩兵第30聯隊も出征した。この日露戦争記念として造営されたのが村松記念公園である。
 旧陸軍との関係は終戦まで続き、終戦間際の昭和18年には、村松陸軍少年通信兵学校が開校され全国各地から少年兵が入校した。昭和20年、終戦を迎え軍都村松の歴史は幕を閉じた。

将校集会所 門柱

 将校集会所は、主に士官(少尉以上の軍人)の集会に使用されていました。
 村松兵営の集会所は、現在の村松体育館(さくらアリーナ)付近にあったと考えられます。
 1945年(昭和20年)の終戦で兵営が廃止された後、門柱の所在は長い間不明となっていましたが、2013年(平成25年)に新発田市の陸上自衛隊で発見され、2014年3月に現在の地場所に移設されました。
 2016年12月 五泉市教育委員会

村松兵営跡

碑文

 このあたりは明治三十年から昭和二十年に至る約五十年の間村松兵営のあったところである
 祖国の護りと世界の平和のため郷土の若人はこの兵営において苦楽を共にし死生を同じうする戦友として昼夜を別たず教練演習や戦技訓練に精進した。 その雄叫びは愛宕の山にこだまし喇叭の響きは菅名 白山の峯もをゆるがすばかりであった。 かく鍛え抜いたつわものは伝統の越後魂を以って出でては日露戦争・シベリア出兵・満州事変・支那事変・大東亜戦争と到るところ堅忍克艱赫赫たる武勲を打樹て入りては郷土の健全な発展に貢献した併し栄光の影には幾多の貴い犠牲があった。 この犠牲こそが今日祖国の発展を齎らした貴い礎であることを忘れてはならない。
 星移り時は流れて幾春秋今や由緒深き兵営も全くその姿を変え空しき過去に葬り去られようとしている。
 この時にあたり関係者一同 計らずも村松町多数有志各位の絶大な協力をいただいた事実に衷心感謝を捧げつつ相携えて意義ある史跡としてこの兵営の足跡を記し英霊の遺勲と先人戦友の業績を永く後世に伝えるよすがともせんためこの碑を建てるものである。

村松兵営の足跡

明治三十年八月  
  歩兵第三十聯隊駐屯 
  同聯隊は明治二十九年一月新発田聯隊にて編成第二師団に編入
明治 三十一年三月 
  歩兵第三十聯隊に軍旗親授
明治 四十一年十月 
  歩兵第三十聯隊第十三師団に編入
大正十四年五月  
  軍備縮少により歩兵第三十聯隊第二師団に編入 
  高田に移駐
  歩兵第十六聯隊第三大隊新発田より分屯
昭和十二年四月  
  歩兵第十六聯隊第三大隊新発田に復帰
昭和 十三年一月   
  新発田陸軍病院臨時村松分院開設、支那事変の傷病兵収容
昭和十六年四月  
  新発田陸軍病院臨時村松分院閉鎖
昭和十六年七月  
  歩兵第百五十八聯隊駐屯高田独立歩兵団に編入
昭和十六年九月  
  歩兵第百五十八聯隊に軍旗親授
昭和十八年六月  
  歩兵第百五十八聯隊新発田に移駐西守第二師団に編入
昭和十八年九月  
  陸軍少年通信兵学校開校
  (村山陸軍少年通信兵学校より分校)
  18年12月第11期生800名 
  19年6月第12期生600名 
  20年4月第13期生400名卒業
昭和二十年八月
  大東亜戦争終結により兵営閉鎖
昭和五十四年四月二十四日  
  村松兵営跡記念碑建設会

兵営のあった場所の南東隅の場所に境界標石が残っている。

村松兵営 陸軍境界石

村松兵営の南側に空間が広がっている。

村松兵営 練兵場跡

現在は「新潟大学農学部付属フィールド科学教育研究センター 村松ステーション」。農場として活用されている。

門柱がある。この門柱が練兵場時代のものかどうかは不詳。
雨が強くて水滴がレンズについてしまった写真になってしまいました。

村松兵営の地から南西方向に歩みを進める。

村松陸軍病院
 現在の南部郷厚生病院

病院入口の北側に門柱が残っている。

かつての村松陸軍病院、現在は南部郷厚生病院。
建屋は建設年代は不詳。

病院の南東隅に、陸軍境界石が残っている。
村松兵営といい、村松陸軍病院といい、いずれも南東隅に残っている。

村松陸軍病院 陸軍境界石

村松陸軍病院の南側には「村松公園」と愛宕山。
日露戦争の戦捷記念公園。

村松公園

村松公園は、明治39年10月に日露戦役記念として造られました。今では県民が選んだ「にいがた景勝100選」で、第3位に選ばれています。

五泉市>村松公園
https://www.city.gosen.lg.jp/hyande/2/4/2281.html
塗り潰された(戦捷)記念灯籠 
海軍の錨が刻まれた灯籠
開設記念碑 明治39年11月建立

歩兵第30聯隊将校団奉納の鳥居

忠霊塔

村松陸軍墓地に埋葬されていた御遺骨も改装され忠霊塔に埋葬されているという。
昭和18年(1943)に陸軍省が建立。2017年の改修工事で当時の忠霊塔頂部の棟飾りは屋根から下に降ろされて保存設置されている。

合掌

護國の英霊此処に眠る(昭和43年11月建立、南部郷遺族会)

村松陸軍少年通信兵慰霊の樹

案内看板
慰霊碑と忠魂碑と忠霊塔と。

戦場に散った少年たちの碑

この丘上には、先の太平洋戦争下、祖国の急を救おうとして、悲惨な最期を遂げた少年通信兵812柱の御霊が眠っています。

村松の 山川さらば 出陣の 胸に祖国の 平和希いて
何時訪うも 香華絶えぬと 村松の 昭和の白虎隊とぞ 守り給える

戦没陸軍少年通信兵慰霊碑を護る会

戦没陸軍少年通信兵 慰霊碑

慰霊碑建立の由来

 この慰霊碑は 
先の大東亜戦争等において
祖国の安泰と 
家族の平安を願い 
敢然と戦場に赴き 
義を盡し
若くして華の如く散った 
陸軍少年通信兵の英霊を
慰めるため我等相図り
村松町の御好意のもとに
この地に建立し
八百余柱の御霊を合祀したものであります
ここにその偉勲を後世に伝え
永遠の平和を
祈念するものであります

 平成7年10月11日 全国少通連合会

碑文(裏面)

昭和8年東京ニ陸軍少年通信兵ノ教育開始セラレ逐年増員シ昭和17年陸軍少年通信兵学校トナレリ
昭和18年ニハ更ニ新潟県村松町ニ陸軍少年通信兵学校開設セラレ併セテ7千余名ノ若人ヲ教育シ国軍戦力統合ノ骨幹タル通信連絡ニ盡瘁シ各戦線ニ偉勲ヲ樹テ作戦ノ要望ニ応ヘシメタリ
然ルニ苛烈ナル戦線ニ或ハ瘴癘ノ地ニ多クノ少年通信兵ヲ戦病没セシメ其数300余名ニ及ヒシハ痛恨ノ極ミナリ 
殊ニ昭和19年秋南方戦線ニ向フ少年通信兵230余名ハ九州沖及東支那海ニテ敵潜水艦ニ襲ワレ戦線ニ至ラズシテ船ト共ニ水漬ク屍トナレルハ真ニ慟天哭地痛恨惜惜ク能ハサル所ナリ

終戦後20有5年今ヤ我国ハ稀有ノ隆昌ト平和ニ栄エ世界ノ大国トナレリ

惟フニ是レ一ニ祖国ノ無窮ヲ念ジ悠久ノ大義ニ殉ジタル英霊ノ加護ニヨルモノト謂フヲ得ヘシ

生キテ此ノ盛運ニ遭フ我等相諮リテ空清ク気澄メル村松ノ地ヲトシ碑ヲ建テ以テ尊キ御霊ヲ永ク鎮メ祭リテ慰メ奉ル 
在天ノ諸霊願ワクバ我等ガ微哀ヲ享ケラレンコトヲ
  昭和45年10月11日
   全国陸軍少年通信兵連合会

忠魂碑

明治39年3月建立
陸軍中将 西島助義 書

日露戦争時の陸軍第30聯隊にまつわる忠魂碑
忠魂碑は練兵場並びに兵営の方向を見渡す高台に鎮座。

揮毫された西島中将は日露戦争・奉天会戦の第2師団長。
歩兵第30聯隊は第2師団隷下として日露戦争で活躍。
遼陽会戦では第2師団が行った「弓張嶺の夜襲」と呼ばれる師団規模の夜襲作戦にも参加している。

公園の隣には鹿園があった。

村松公園は雨の中での散策ということもあり、見逃したスポットが多々あったのが判明。
「鉄傘の灯籠」「タマ公」「日の丸灯籠」など見逃し。残念。またの機会。

から西の方に一気に移動する。

戦跡としての散策ではないが、一箇所寄りたいところがあった。

城跡公園
五泉市村松郷土資料館

村松城址跡の公園。村松は堀氏三万石の城下町。
ここにかつて走っていた蒲原鉄道の車両が保存されている。
どうしても、車両が見たかったのだ。

蒲原鉄道保存車両モハ11

加茂~村松~五泉

 この電車は、大正12年に蒲原鉄道株式会社が磐越西線・五泉駅から信越本線・加茂駅までの21.9kmが開通した当時から昭和60年まで、走行してきました。
 昭和10年ごろは、旅客をはじめ穀物、織物、鉱石等の貨物を輸送し、沿線住民の足として最も活躍、貢献しました。
 昭和60年3月、加茂・村松間17.7kmが廃止されバス輸送に変換したので、往時を懐古するとともに、ここ城跡公園の一角が軌道敷だったことから、この地に展示し後世に伝えるものです。

私が知っている蒲原鉄道は末期の五泉~村松間の時代のみ。
平成11年(1999) のころ。
それより前の昭和60年(1985)は知らない時代。それでも車両のカラーリングは同じということもあり懐かしさを感じる。

この車両に軍都村松時代は、歩兵30聯隊の兵士たちや、通信学校の少年たちも乗車し揺られながら五泉と村松、加茂と村松を往来していたかもしれない。

あの時代、同じ時代を知る車両。
感慨深いものがある。

帰りの時間が厳しかった。

もっとゆっくりしたかったし資料館を見学したかったが時間切れ。断腸の思いで村松駅に戻る。
今はもう村松駅は電車がこないバスターミナルのみではあるが。

JR五泉駅と菅名岳を蒲原鉄道バス車中から見送る

陸軍立川飛行場跡散策

平成29年4-5月ほか

陸軍航空工廠の碑

立川陸軍飛行場

大正11年(1922)に帝都防衛構想の陸軍航空部隊の中核拠点として開設。
日中戦争さなかの昭和13年(1938)に立川に駐留していた飛行第五連隊隷下の戦闘中隊は「飛行第五戦隊」に改編され、翌年には柏飛行場に移駐。 そののちは実働部隊は置かれなかった。

大東亜戦争のさなかは、実戦部隊は展開されていなかったが、陸軍航空部隊の研究・開発・製造の一大拠点として機能。また軍用機製造の民間工場も頭っており、戦争末期にはたびたび空襲に見舞われた。

アメリカ空軍立川基地
戦後、アメリカ軍が立川飛行場を接収。アメリカ軍の飛行場運用は昭和44年まで続き、飛行活動停止後に徐々に基地返還が行われる。
昭和47年に立川駐屯地発足、昭和52年に全ての敷地が全面返還。再開発が行われ、今日に至る。

2013年より始まった立川基地跡地再開発事業により、それまで残存していた旧軍の遺構も解体撤去。残るものは少ない。


位置関係

立川飛行場東側
USA-R556-No1-16
1947年(昭和22)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
立川飛行場西側
USA-R556-No1-17
1947年(昭和22年)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
再開発の進む現在の様子

立川小唄記念碑
 旧立川飛行場正門前

(立川 市制五十周年記念 憩いの場 曙町二丁目交差点)

かつて飛行第五戦隊の正門があった地に隣接する公園。
前述の地図でいうと陸軍航空技術学校のあるあたり。
平成29年に新しい碑が建立された。

立川小唄 (昭和5年発表)
作詞 大関五郎
作曲 町田嘉章

東京ばかりか浅川青梅
 五日市から一走り
汽車だ電車だ川崎からも
 空の都よ立川よ

☆ わたしゃ飛行機風まかせ
   舵の取りよで宙返り
  オヤクルリトセー
   ションガイナー

飛行五連隊ありゃ格納庫
 ほんに技術部さしむかい
ここは日本の飛行機の名所
  空の都よ立川よ
☆繰り返し

渡れ日野橋お茶屋が見える
 浮いて静かな屋形船
眺め懐かし秩父や御嶽
 空の都よ立川よ
☆繰り返し

碑文
立川小唄記念碑建立由来
 大正11年(1923年)立川に陸軍航空隊が開設、当初軍用だけでなく民間空港としても使用され、国内便の他、諸外国からも多くの飛行機が飛来し、昭和6年(1931年)羽田空港が出来るまで、国際空港としての役割を担い立川は「空の都」と云われ飛行場と共に発展してきた。
 この立川小唄は昭和5年(1930年)に制作、踊りと共に発表されたもので、飛行場だけでなく当時の立川の情景を27節に分けて描写し、空の都立川を謳歌し広く地域で歌われたもので、この記念碑はその内の3節を選んで刻写したものです。
 戦後、飛行場は長年に亘り米軍基地として使用されてきたが昭和52年(1977年)返還され、国営昭和記念公園を始め数々の跡地利用が進み、立川市は多摩の中核都市として大きく発展し、今やかつての立川が「空の都」と云われてきたことが消え去ろうとしている。
 この度、末永く「空の都立川」を伝えるため、かつての立川飛行場正門前のこの地に記念碑を建立する所以である。

平成29年5月吉日 
 立川小唄記念碑建立委員会

乙式一型偵察機サルムソン 2

陸軍飛行第5聯隊正門跡

公園にある「歴史と文化の散歩道」看板に。
立川市の看板としては、界隈では唯一となる「陸軍」の文字がある案内。


立川飛行場の航空神社?

昭和4(1929)年4月、立川陸軍飛行場に接して航空神社が創建。もともとは地元の有力者が鬼門除けとして京都北野天満宮を勧請させたものを、陸軍飛行第五戦隊の要望により航空殉職者を合祀したことにはじまるという。

参考サイト:https://chinokigi.blog.sonet.ne.jp/2012-07-08-4

確証は取れていないけれども現在の昭和記念公園の南側、当時でいうところの滑走路の南端、駐車場の片隅にある小祠が「立川の航空神社」の名残という。
往時の地図的には一致するが詳細は不明。


立川航空支廠名残の踏切

JR青梅線の踏切の名称に往時の名残が残る。
「航空支庁前踏切」
この「航空支庁」とはかつての「航空支廠」、このあたりに「立川陸軍航空廠」が存在していた。
立川飛行場の西側にあたる。

「航空支庁前踏切」から更に西に向けて歩く。

「航空支庁西門踏切」
こちらは西立川駅の東隣の踏切になる。
この2箇所の踏切の名前に僅かに往時の名残がある。

西立川駅と東中神駅の間。
これは往時のものかどうか不明ですが、もしかしたら往時のものかもしれません。
敷地外から撮影。

JR青梅線「東中神駅」の東側には、基地変換後に未開発の空白地域が残っておりましたが、現在は再開発中。
数年前に訪れた人のレポートでは、なにやらが残っていたようですが、今は見ての通りに更地です。このあとはどうなるのでしょうかね…


踏切に残る守衛所跡?踏切防護壁?

JR青梅線「東中神駅」横
「村山街道踏切」に残っている 守衛所跡?踏切防護壁?

この踏切から
北に 「陸軍航空工廠」
北東に「陸軍航空技術研究所」
東に 「陸軍航空工廠立川支廠」

踏切脇のここだけがまわりとは違和感を感じる空間。

Y_Tachikawa さん より:2020年6月27日 10:08 午前 
突然失礼致します。
「踏切に残る守衛所跡」についでなのですが、こちらのブロックは守衛所跡では無いと思いコメントさせて頂いた次第です。
実を申し上げますと、こちらは私がWikipediaに誤って記載してしまった情報であります。
「守衛所」はどこから出てきたのかと申しますと、昔基地で働いていたという人物に「守衛所があった」とお聞きしたところからです(何年も前で詳細を失念してしまいました)。
そのような確実ではない不適切な情報源から誤って記載してしまったのです。
誤りとする根拠は基地時代の航空写真を見ても踏切には守衛所らしきものが見当たらないためです。今の昭島ガス付近にそれらしきものが確認できますが、これが言っていた守衛所なのか確認出来る情報がありません。
このような経緯から私が記載した誤った情報がTwitterなどで流れてしまったことに非常に大きな責任を感じ、この度反省と謝罪の意を込めてコメント致しました。大変申し訳ございません。

コメント欄より投稿いただきました
改めて東中神駅界隈を再確認。
写真は米軍撮影USA-R360-115(昭和22年10月24日)を加工。

Y_Tachikawa さんの投稿を踏まえまして、「踏切に残る守衛所跡?踏切防護壁?」と修正しました。

たしかに往時のコンクリっぽい雰囲気。
いまでこそ何をガードしているかわからない空間。

守衛の気持ちで中に立ってみたら、意外と空間があった。

地味ですが、再開発の狭間でわずかに残された往時の記憶。
なんとかこのまま残っていてほしいものですが。

さて、東中神駅と中神駅の中間あたりを目指します。

東中神駅と中神駅の中間「昭和郷踏切」
昭島は昭和町と拝島町合併による複合地名。昭島駅は元は昭和前駅(昭和飛行機の働きかけによる)
中神駅から立川基地引込線「立川工廠線」が昭和18年敷設。航空工廠への資材運搬用線路。戦後は米軍に活用され昭和53年廃止。


中神引込線通り

さきほどの「昭和郷踏切」から北上する。 この道がかつての航空工廠及び戦後米軍へ資材を運搬していた「貨物線廃線跡」 現在は道路として整備されている。

「中神引込線通り」
この道を北上していくと線路分岐点にちょっとしたモニュメントがある。

平成12年(2000)に昭島市が整備した際に当時使われていたレールの一部と転轍機(ポイント変換機)が保存されている。


立川陸軍航空工廠線
立川基地引込線

昭和18年に陸軍唯一の飛行機製造部門として展開された航空工廠への資材運搬用路線。
戦後は米軍接収の立川基地専用線として燃料輸送貨物線として使用された。
立川基地は昭和52年変換。引込線も昭和53年廃線。

立川陸軍航空工廠線跡(立川基地引込線跡)
分岐点

右の線路跡へと歩みを進めていきました。
線形以外は他に見どころは残っていないしどちらを歩いても行き着く先(立川陸軍航空工廠跡)は一緒です。

立川陸軍航空工廠線跡(立川基地引込線跡)
終着地点


かつての陸軍航空工廠跡地は数年前までは周辺から取り残された空間でしたが、再開発が進んでおりまして。
すっかり見事に綺麗になってます。


立川陸軍航空工廠跡

再開発中。
奥では「国際法務総合センター」の準備が進む。 2017年(平成29年)9月開始。 撮影時はまだ運用開始前でした。


陸軍航空工廠の碑

平成2年九月建立 
航友会長 陸軍少将 浅見平吾

陸軍航空工廠の跡地は、この碑から道を隔てた東側一帯。
陸軍航空工廠本館は、ここから東南四百米の所にあった。

陸軍航空工廠の碑

碑誌
陸軍航空工廠は、この地昭島に、昭和15年4月開設され、従業員1万80余名が航空機生産に従事し、昭和20年8月終戦により解体せり。
昭和48年8月初代工廠長陸軍中将猿谷吉太郎氏をはじめとして旧従業員有志により航友会を設立、親睦を旨とし、年一回当地に集い旧交をあたため今日に至る。
今ここに当時をしのぶよすがとして記念の碑を建立す。
平成2年9月吉日 航友会有志一同


昭島市立むさしの公園

「立川陸軍航空工廠跡」を北上。
「国際法務総合センター」北側に新しく開設(2016年11月)されたのが「昭島市立むさしの公園」。
道路を挟んで東西の公園。
西公園と東公園。 東公園に気になる文字列「廃線跡モニュメント」とあります。


廃線跡モニュメント

「立川陸軍航空工廠跡」に新設された「昭島市立むさしの公園」
その東公園に「廃線跡モニュメント」が設置。

立川陸軍航空工廠線跡(立川基地引込線跡)名残。
再整備時に残存していたレールやバラスト等を再利用してモニュメントとして一部を保存。

「立川陸軍航空工廠跡」に新設された「昭島市立むさしの公園」
「廃線跡モニュメント」
公園内の3ヶ所にモニュメントとして「立川陸軍航空工廠線跡(立川基地引込線跡)」廃線跡が復元されたという。

「立川陸軍航空工廠跡」に新設された「昭島市立むさしの公園」

廃線跡をモニュメントとして復元というのには複雑な気持ちだけど。それでも何もなくなってしまうよりか断然に価値があると思う。

黒い棒のようなものは「複式コントロールボックス」と銘あり。

「立川陸軍航空工廠跡」に新設された「昭島市立むさしの公園」

丘の先にも別の「廃線跡モニュメント」があります。
遊歩道を横断するレール。

「立川陸軍航空工廠跡」に新設された「昭島市立むさしの公園」

さきほどの2つは東公園の廃線跡モニュメント。
西公園はほんの僅かにモニュメントが設置。

えーと。 歩道を横切る黒い線。レールの跡ですね。
これは言われないと気が付かない…


立川飛行機(立飛)

かつては国内4位の航空機メーカーであった。
全身は1924年設立の石川島飛行機製作所(石川島飛行機)
1934年に95式一型練習機を製造。「赤とんぼ」として陸軍主力練習機として使用された。
1936年に立地名の立川飛行機と改称。戦中は中島飛行機の開発した「一式戦闘機・隼」の大規模移管生産などを請け負う。
戦後は「立飛工業」から「新立川航空機」へとスライド、本家は「立飛企業」から「立飛ホールディングス」となる。
現在「立飛」は全身の立川飛行機の略称からつけられたものであり、立川モノレール駅「立飛駅」にも採用されている。

立川飛行機に関しては、別記事にて掲載予定あり


立川防災航空祭(2019年)にて

立飛(TACHIHI)グループイメージキャラクター
たっぴくん
たっぴちゃん

立川で不動産業を営む立飛で生まれた「たっぴくん」「たっぴちゃん」。とっても仲良しな二人は、お気に入りの羽がついたリュックに「愛と夢と幸せ」をたくさんつめこんで今日も大空をお散歩中!


立飛駅(多摩モノレール)

日本の航空機産業の宝 R-53型軽飛行機

立飛駅周辺のこの場所は、むかし飛行機を作る工場がありました。
約3万8千4百人の工員が働いていて、通称「赤トンボ」九五式一型中間練習機(キ-9)、一式双発高等練習機(キ-54)など約1万機弱あまりが作られました。
また、戦後国産第1号機としてR-52型軽飛行機も作られました。

多摩モノレールは立川飛行場東側の工場エリアを縦断している。
乗っているだけでもいろいろ見えてきて楽しいものがある。
「立川飛行機」を脳裏に描きつつのモノレール車窓も感慨深く。

流れをくむ立川駐屯地にも機会あれば(一般公開日)行かないとダメですね。


立川駐屯地にも行ってきました。

銚子の戦跡散策

千葉県銚子市に点在する戦争関連の史跡を散策してみる。

翔天の碑
この地に飛行場ありき
下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地

銚子市の末広町広場に昭和57年建立の碑がある。

戦災復興記念碑

銚子はその立地条件も影響し、三度の空襲を受けている。
昭和20年3月9日、7月19日、8月3日。被災建物は5142戸、死傷者は1200人

戦災復興記念碑
 千葉県知事 沼田武

 銚子市は太平洋戦争も終わりに近い昭和20年3月9日、7月19日及び8月3日と三度にわたる空襲に見舞われ、市街地の中心約126ヘクタールが焦土と化した。
 その被害は、建物5,142戸、死傷者1,200人を数え、誠に悲惨な状況であった。同年8月15日、終戦となるや、政府は全国120余の戦災都市を対象に「戦災地復興計画基本方針」を定め、平和な文化都市の建設をめざした。
(略)
 ここに、銚子市の平和と発展をねがい、市民及び関係機関が協力して完成させた事業の成果を永く後世に伝えるため、この地に記念碑を建立するものである。
 昭和57年11月

戦災復興記念碑より更に歩みを進めると、小川があり小さな、そのくせに重厚な橋が見えてくる。


復興橋

昭和31年竣工。
銚子市公正市民館のとなり。 文字通りに復興の象徴。


旧・公正会館 (臨時病院)

銚子空襲時の臨時病院
現在は銚子市公正市民館

銚子空襲時にあたりの木造家屋が焼失するなかで、鉄筋コンクリートの当建物は焼け残り、臨時病院として機能した。
1924年(大正13年)建築。

1924年(大正13年)建築。
醤油醸造業者・廣屋儀兵衛商店(現在のヤマサ醤油)の当主濱口儀兵衛(10代目儀兵衛・醤油王・ヤマサ醤油の祖)の手による建築物。

外壁も当時の物か? 年代を感じさせる。
ちなみに正面には図書館と記載がありますが、現在は後方の別建物が図書館となっている。


飯沼山円福寺

坂東三十三観音霊場の第27番札所。飯沼観音とも。
銚子電鉄観音駅最寄り。

大仏様にある点々とした修復の跡。
これは銚子空襲時の機銃掃射の弾痕跡を修復したもの。

なお、仏像の台座の穴は、銃撃痕ではなく、機銃掃射痕は「膝のところにある数か所」のみとのことです。混同してましたので、次回の銚子訪問時に写真取り直したいと思います。。。。

この台座は関係なかった。。。


銚港神社

飯沼山円福寺(飯沼観音)の隣には鎮座している銚港神社。 御神木のケヤキも銚子空襲時に機銃掃射を浴びているものの、いまではその悲劇を感じさせることもなく深緑を魅せてくれている。


震洋秘匿基地

場所はなんとなく清水町と弥生町のあたり。具体的な明記は避けておきます。私有地にあたるので。
銚子電鉄の本銚子駅が最寄り。

昔の本銚子駅(リニューアル前)。
リニューアル後も、なんども足を運んでいますが、なんとなく以前の写真で。

銚子はその土地柄、海軍の秘匿基地が展開されていた。

震洋

モーターボートに炸薬を搭載した特攻艇。

銚子外川 第58震洋隊
銚子飯沼 第139震洋隊


銚子には、この二部隊が展開されていた。
銚子外川に展開されていた第58震洋隊を物語るものはなく飯沼の第139震洋隊に関しても多くはないが… 某水産加工会社敷地内に震洋格納庫が残っている、と。

確かに壕が見えますね。機会があれば見学を相談してみよう・・・

※靖國神社遊就館大ホールには復元された震洋が奉納されている。

震洋は船首内に250キロ炸薬を搭載し敵艦への体当たり攻撃を目的とした特攻艇
各型合せて6200隻が量産され4000隻が配備。震洋隊戦没者は2500余名という

原寸模型は震洋一型
1/10模型は震洋五型

銚子飯沼の震洋格納庫跡近くに。
なにやらレンガ積みの小屋?がありました。
用途不明。関連性も不明。
この周辺には標石もあるらしいが時間的余裕なくて今回は捜索断念。また着ましょう。


陸軍銚子飛行場

市立銚子高校の裏手。地名は千葉県銚子市春日台町。わかりやすい台地の上に、かつて飛行場があった。

位置関係

USA-R1069-63
1948年( 昭23 )03月02日撮影

翔天の碑

陸軍銚子飛行場の跡。
正式表現は「下志津陸軍飛行学校銚子分教場」。

1936年(昭和11年)銚子に下志津陸軍飛行学校分飛行場が建設され、下志津陸軍飛行学校銚子分教場が設置される。

翔天の碑
この地に飛行場ありき
下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地

碑文
かつてこの地に下志津陸軍飛行学校分教場があった。 
同分教場はこの春日台を中心とした約四十万平方米の小規模のものだったが太平洋戦争末期には八紘石賜隊が結成されこゝから出陣し還らぬ人となった。
この史実を風化させることなく現在の日本の平和と繁栄が数多くの尊い犠牲のもとに築かれものであることを思い起こし二度とこのような過ちを繰り返さぬよう心から平和への願いが天翔ける祈りとなってこの地から津々浦々に及ぶことを心より念じこの翔天の碑を建立した
平成五年十一月八日 翔天の碑建立委員会

現在は、丸池・平和公園として、整備されている。

以上は、平成28年(2016)5月撮影


銚子市忠霊塔

銚子市青少年文化会館や銚子体育館、銚子野球場などがある一画、前宿公園に、忠霊碑が建立されている。

左から忠魂碑、忠霊塔、嗚呼戦災死者之碑
忠霊碑のみ戦前(大正4年)に建立。その他は戦後の建立。

銚子市が紀元2600年記念事業として、当地に忠魂碑を建立予定であったが、整地のみで終戦。戦後に忠霊塔が建立された。

忠魂碑

 この忠魂碑は過去幾多の戦役に散華された英霊の遺徳を顕彰するため大正4年御前鬼山に建立されてあったが、昭和20年占領軍により解体撤去を余儀なくされた。爾来再建の日が待たれていたが終戦33回忌にあたりかつての戦友や関係者の協力を得てこの地に再建し永くその遺徳を後世に伝えんとするものである
 昭和52年10月
  銚子遺族会

元帥海軍大将伯爵 東郷平八郎書

大正4年帝國在郷軍人會 銚子町分會・本銚子町分會 建之

忠霊塔

昭和30年建立。明治10年の西南の役以降に犠牲になられた多くの戦没者と戦災死者を合祀。

戦没者英霊菩提

石灯籠は平成9年建立

嗚呼戦災死者之碑

第二次世界大戦の末期昭和20年3月9日及び7月20日8月1日の3回に亘り銚子市は敵機の空襲を受けました。其の際我等が同胞337名は悲惨にも萬感の思ひをこめて戦災死致しました。
嗚呼実に痛恨の限りであります。時あたかも本年は戦災死後33回忌に当り鎮魂の願ひをこめてここに慰霊碑を建立し以て諸霊の御冥福を心より祈り上げます。
 戦災死者慰霊碑建設委員会
  代表見呂津太兵衛書
    長塚由松
    他有志一同
 昭和52年8月15日
  題字 銚子市長嶋田隆書

以上は2020年12月撮影


銚子にはほかにも戦跡スポットはありますが、ひとまず〆


関連

小石川後楽園周辺の戦跡散策

平成30年8月

小石川後楽園散策 (飯田橋駅~水道橋駅~後楽園駅周辺)

東京ドームと小石川後楽園。
戦前、この場所には陸軍兵器工場(東京砲兵工廠)があった。
今でも残るその名残を見に行ってみました。 (平成30年8月25日)

位置関係

往時の地図と航空写真を
「今昔マップ on the web」
http://ktgis.net/kjmapw/index.html
(東京西部及び首都1/25000 昭和4年二修及び昭和5年測図)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
(B29-C1-16/昭和11年6月11日陸軍撮影)

水道橋駅から東京ドーム方面に向けて歩く。東京ドームホテルと東京ドームプリズムホールの間の東西通路におもむろに「煉瓦の塊」が展示してある。

旧日本帝国陸軍東京砲兵工廠跡の基礎用レンガ

明治4年(1871年)に建設された旧日本帝国陸軍東京砲兵工廟跡の基礎用レンガ。
昭和12年(1937年)、旧後楽園球場建設の際は、基礎のあまりの強固さにグランド部分は取り除くのを見合わせていたが、平成12年(2000年)竣工の東京ドームホテル建設を進めるにあたり、地下5mの深さより出土、採取。
現在地は旧後楽園球場のセンター位置に当たる。

東京砲兵工廠は小石川水戸藩邸の地に1871年(明4)に操業し関東大震災の影響もあり1935年(昭10)に小倉工廠に移転。東京砲兵工廠傘下には板橋火薬製造所・岩鼻火薬製造所・十条兵器製造所など関東の陸軍兵器工場が所属。工廠跡地は後楽園球場などが展開。
地図は昭和22年及び昭和16年。球場がみえますね。

1936年(昭和11年)12月、後楽園スタヂアムが設立。
昭和12年、後楽園球場完成。大和軍(昭和12年から19年までの7年間活動したプロ野球球団、後楽園イーグルス)

東京砲兵工廠は東京大震災で被災し移転。その跡地は球場と遊園地へと。 そして、のちほど巡る小石川後楽園はそんな中でも変わらずに。

東京砲兵工廠から後楽園球場、そして現在の東京ドームの片隅にも戦争の歴史を刻む碑があります。散華されたプロ野球選手たちの鎮魂

鎮魂の碑

第二次世界大戦に出陣し、プロ野球の未来に永遠の夢を託しつつ、戦塵に散華した選手諸君の霊を慰めるためわれら有志あいはかりてこれを建つ
昭和56年4月

都立小石川後楽園(特別史跡・特別名勝)

寛永6年(1629)に設けられた水戸徳川家(徳川頼房)屋敷。庭園は二代目水戸光圀によって完成した回遊式筑山泉水庭園。
明治2年(1869)水戸家が新政府に土地を奉還し東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となる。大正12年、国の史跡および名勝に指定。

都立小石川後楽園
水戸徳川家の回遊式庭園の中に、解説する案内は特にないけども、ぽつりぽつりと異なるものが残っており。そんな東京砲兵工廠時代の遺物を入園料300円払って見に行ってみましょう。
因みに石垣は江戸城外堀石垣を再利用したものという。備中成羽藩山崎家刻印。

都立小石川後楽園
現在は閉鎖されている東門の近く。奥まった内庭池の辺りに記念碑が鎮座。

陸軍造兵廠東京工廠跡 記念碑

昭和十年三月建立 昭和10年に東京工廠の機能が小倉工廠へと移転した際に、記念として建立された碑。 碑文 此ノ地ハ陸軍造兵廠東京工廠ノ旧蹟ナリ 其ノ創立ノ起源ハ 云々…

「陸軍造兵廠東京工廠跡 記念碑」
昭和十年三月建立
(都立小石川後楽園)

記念碑は、陸軍造兵廠東京工廠(東京砲兵工廠)の敷地を型どっている。
昭和10年に建立された記念碑としては、意匠的にも斬新なデザイン。

園内の九八屋の隣に、格別な説明もなく、 陸軍造兵廠東京工廠で使用されいた小銃用弾丸製造機の部品とされるものが置かれている。

陸軍造兵廠東京工廠で使用されていた小銃用弾丸製造機の部品?
園内の「九八屋」の隣。建屋と比べると結構大きいのがわかる。

小石川後楽園的には主である九八屋(酒亭)の由来は「酒を飲むには昼は九分、夜は八分にすべし」との教訓によるものだとか。

小石川後楽園から移動して後楽園駅に。
駅の北側には「礫川公園」(れきせんこうえん)

礫川公園

このあたりは春日局馴染みの土地ですが、戦前は軍用地。
戦後に、都営住宅・中央大学・戦没者慰霊堂・公園用地などに分割され、昭和39年に礫川公園が造園。
順を追って礫川公園と東京都戦没者霊苑に参ります…

礫川公園の奥に東京都戦没者霊苑がある。

東京都戦没者霊苑

この霊苑は、さきの大戦において、尊い犠牲となられた東京都の戦没者をおなぐさめするとともに、平和を願う都民の強い決意を表わすため、建てられたものです。

「東京都戦没者霊苑」
 東京都戦没者霊苑は昭和六年の満州事変から日中戦争を経て、昭和二十年(一九四五年)八月の太平洋戦争終結までの東京都関係戦没者約十六万人の霊をまつる。
 敷地は、昭和十五年に忠霊塔建設予定地に選ばれた小石川陸軍工科学校跡地である。
 昭和三十五年、ここに東京都戦没者霊苑が建設されたが、それは歳月の中に老朽した。また、年々齢を加える遺族が、安全に慰霊祭に参加するための配慮も必要となった。
 そこで戦没者の慰霊と平和への願いを新たに、このたび全面改修を行い昭和六十三年(一九八八年)三月に完成した。
 設計は、建築家相田武文、碑文は、芸術院会員、文化勲章受章者山本健吉、碑名の揮毫は東京都知事鈴木俊一による。
 私たち都民はこの霊苑につどい、霊前にぬかずき、改めて戦争とは何であったかを深く考えたい。
 戦没者の御霊にお願い申し上げる。
 お声を風に託して、戦争の実態を私たちに語り聞かせていただきたい。 そして私たちが強い意志と英知をもって、平和を守るという至上の命題にとり組めるよう、お導きいただきたい。
 霊苑が戦没者の御霊と私たちの心の通い路になることを願って、ここに謹んでその由来を記す。
 角田房子
 ※ 角田房子氏は近現代史をテーマとした題材を多く発表されたノンフィクション作家

東京都戦没者霊苑
鎮魂

碑文
あの苦しい戦いのあと、四十有余年、私たちは身近かに一発の銃声を聞かず、過して来ました。あの日々のことはあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく谺して来ます。
だが、忘れることができましょうか。かつて東京都の同朋たちの十六萬にも及ぶ人々が、陸に海に空に散華されたことを。 あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今日の「生」もないことを。
そして後から生れて来る者たちの「いのち」のさきわいのために、私たちは何時までもあなた方の前に祈り続けることでしょう。 この奥津城どころは、私たちのこの祈りと誓いの場です。同時に、すべての都民の心の憩いの苑でもありましょう。
この慰霊、招魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、茲にこれが辞を作る。
山本健吉

靖国神社とも千鳥ヶ淵戦没者墓苑とも東京都慰霊堂とも違う慰霊の空間。
真摯に真心を込めて、鎮魂の祈りを捧げてきました。

東京都戦没者霊苑には遺品展示室なども併設されております。

http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/seikatsu/senso/reien.html

東京都戦没者霊苑はもともと陸軍砲兵工廠・諸工伝習所敷地の地でした。
正面、向かって左側の突き当りに記念碑があります。

陸軍砲兵工科学校・工科学校跡
諸工伝習所跡記念碑

碑文
ここは近代陸軍技術教育発祥の地である。
明治五年七月十五日 政府は佛国砲兵大尉ジョルジュ・ルボン氏を招聘し ここに諸工伝習所を創立してから第二次世界大戦終結まで その名は陸軍砲兵工科学校陸軍工科学校陸軍兵器学校とかかわったが 七十三年間たゆることなく陸軍技術の教育が続けられた。 本年は諸工伝習所創立百周年にあたるのでその教育を受けた有志がここに碑を建てて先達の歩みに思いをいたすものである。
昭和四十七年七月十五日
諸工伝習所跡記念碑建設委員会

礫川公園
脇に目をやると・・・煉瓦壁が。
問題はそこにどうやって赴くのか。 自力ではよくわからなかったので、検索してみたら、あぁっ、そこのあぜ道を歩くのね。 ちょっと行ってみましょう。

東京砲兵工廠射撃場跡 (礫川公園)

この東京砲兵工廠(陸軍造兵廠東京工廠)トンネル射撃場は明治16年~18年頃に完成と推定。主に軍用銃などの試射用の場所として使用されたらしく。 現在は人知れずひっそりと深き森の中に。訪れる人は好き者だけのようで。

以上、小石川後楽園周辺の戦跡散策でした〆

京都伏見の戦跡散策

平成30年8月

京都府伏見区深草の陸軍第16師団関連の戦跡(戦争史跡)散策

関西方面に行く用事がありまして。
隙間の時間で京都府伏見区深草エリアに残る陸軍第16師団名残の遺構を探しつつ散策してみましたので以下に展開してみます。

位置関係

国土地理院・地図・空中写真閲覧サービス

番号:USA-M205-A-8-30(1946年07月24日・米軍撮影)をベースに、GoogleMapで現在の位置関係を把握しつつ。
今回の散策は師団街道より東側を。 西側は時間的余裕がなくて断念しました。

まずは深草駅を目指します。
このエリアは一つ手前の駅(伏見稲荷駅)までしか利用したことなく、散策も伏見稲荷大社方面しかなく。
京都方面で戦跡を探すに当たり、単純に「京都 戦跡」のキーワードで検索すると「鳥羽伏見の戦い」だったりして、なかなかに京都は戦跡の歴史も奥深く…

京阪本線・深草駅
東に向かえば伏見稲荷大社・稲荷山南部。そして京都市深草墓園がある。深草墓園は、かつての「陸軍墓地」。しかし今回は時間がないので東ではなく西に。

交差点の先には「京都府警察学校」
かつては「陸軍兵器支廠(京都兵器支廠)」第16師団の武器庫。
もちろん入れないので遠望で。

次の交差点まで南下します。

南北の道が「師団街道」
東西の道が「第一軍道」
交差点名は「師団街道龍大前」

歴史を知らないと軍靴の音で発狂しそうな交差点。
ここから東にすすみ琵琶湖疏水を南下。

龍谷大もかつての「陸軍兵器支廠」跡地。

琵琶湖疏水

伏見深草のこのあたりには歴史的な趣ある石橋(大正12年9月造営)が多く残ってます。 これはゆっくり散策すると楽しそうです。 (この日は暑くて散策に不向きな陽気でしたが・・・

第二軍道・師団橋

東西に伸びる「第二軍道」
琵琶湖疏水にかかる橋が「師団橋」

橋はリニューアルされていても現在でも往時の名が継承されている。 そして橋桁には「陸軍のシンボル五芒星」が残っていた。

傍らに欠けた石碑が残っていた。
「○月竣工 第十六大隊架設」

この第二軍道の道脇には往時の支柱が点在しており、きょろきょろするとなかなか先に進めなくなってしまう。

陸軍第16師団司令部庁舎跡
(現・学校法人聖母女学院本館)

第二軍道を東に進むと「聖母女学院」に辿り着く。
藤森キャンパスは戦後に払い下げを受け、学院本館は司令部庁舎を継承している。

建物内部は非公開
「敷地外(門の外)からなら撮ってもいいよ」
守衛さんの許可を得て、建物を敷地外より撮影

陸軍第16師団司令部庁舎跡 (現・学校法人聖母女学院本館)
すぐわきに、ありました。

陸軍境界標石

陸軍第16師団

日露戦争に際して本土残留師団がいなくなってしまったために新設。明治38年(1905)7月18日に京都で編成。 昭和10年6月の鴨川水害では京都府の救援依頼を受け救助活動や復旧活動に従事。 太平洋戦争ではフィリピン攻略に参戦。昭和19年にはレイテ島守備に徹し、そして第16師団は壊滅。


そのまま南下して藤森駅近くに埋もれた「紀元・・・」なものをみたり、京都市立深草小学校の手前にも「紀元二千六百記念」をみたり。

深草小学校の東側には騎兵第20聯隊が展開されていました。 行ってみましょう。

騎兵第二十聯隊跡 

峰堂 謹書
為平和祈願
昭和50年4月27日

騎兵二十連合会建立 深草小学校の東側に位置する住宅街の片隅に。
敷地内には騎兵とともにある軍馬の「馬繋柱」も残されていました。

碑面裏

明治三十八年七月第十六師団ノ騎兵聯隊トシテ姫路ニ於テ編成 同年八月軍旗拜受
明治四十一年十一月此地ニ移設 昭和十六年捜索第十六聯隊ニ改編 同年三月軍旗奉還
昭和二十年比島ニ於テ歴史ヲ閉ヅ
尚 当聯隊ニ於テ編成サレタ部隊ハ左ノ通リ
昭和十三年 騎兵第百二十大隊(中支方面)
昭和十六年 捜索第五十三聯隊(ビルマ方面)

昭和五十年四月二十七日 騎兵二十連会建之

騎兵第二十聯隊跡地より商店街(本町通り商店街)に戻り、すこし歩くと、一瞬目を疑う看板が見えてくる。

軍人湯

あぁ、これは絶対に寄り道したくなるやつです。
当時は16師団の軍人たちの憩いの湯だったことでしょう。
(残念ながら、この日は時間がなくて汗を流しに立ち寄れませんでしたが)

https://www.sankei.com/west/news/140815/wst1408150013-n1.html

騎兵第20聯隊の南には陸軍病院(陸軍衛戍病院)があった。

陸軍病院(陸軍衛戍病院)

かつての「京都陸軍病院」 現在は、独立行政法人 国立病院機構 京都医療センター となっている地。 行ってみましょう。

京都医療センターの南側の奥に。
「京都陸軍病院跡碑」
「行啓記念碑」
「大日天白如来」
3つの歴史的な記念物が集められている一角がある。

しかし不穏な張り紙が。
「駐車場整備のために石碑を撤去?」
噂では撤去ではなく移設とも。ただ移設先に苦慮しているとも。 この先どうなるのでしょうか…

京都陸軍病院趾

京都陸軍病院記念碑

由来

 京都陸軍病院ハ明治四十年六月衛戍病院トシテ此ノ地ニ開設セラレ
 ソノ後継続シテ傷病将兵ノ収容治療並ニ衛生部員ノ教育養成ヲ担ッテイタカ昭和二十年十二月国立京都病院ニ継承サレタ
 京都陸軍病院ニ関連シタ者テ組織スル京病会ハ創立二十周年記念事業トシテ其ノ名ヲ後世ニ遺スヘク此所ニ記念碑ヲ建立スル

昭和五十九年八月
京病会記念碑設立委員会

京都陸軍病院趾
京都陸軍病院記念碑

記念碑の隣にある石灯籠は陸軍病院時代の遺構と思われる。
よくみると「昭和五 六年度」と記載があり。

行啓記念

京都師団長 森岡皐 謹書

陸軍病院時代を物語る遺構。
昭和16年5月18日、 皇后陛下が関西行啓時に京都陸軍病院をご慰問された事を記念。
京都陸軍病院院長・三浦大三郎医大佐建立。
揮毫は第16師団長森岡皐中将。のちフィリピン攻略作戦時の第14軍(軍司令官本間雅晴中将)麾下で活躍。

大日天白如来

京都陸軍病院時代、工事中に給食棟の地下から発掘された如来様。
鎌倉時代の大日天白如来地蔵仏であるという。


さて、 京都陸軍病院を物語る歴史的な石碑などの今後の成り行きを気にしつつ(撤去→移転であることを切に願います)、次の目的地に向けて移動を。

藤森神社の東側。
京都教育大学があるエリアに歩兵第38聯隊が展開されていた。
冒頭の航空写真ツイでも藤森神社の社叢と聯隊衛戍地がはっきりわかる。

藤森神社北東に鎮座

京都歩兵聯隊跡 

舞 傳男 書

舞 伝男 陸軍中将(陸士19・陸大31・第36師団長)
陸士19同期は今村均、本間雅晴、田中静壱など

京都歩兵聯隊跡記念碑

碑文
藤の森神社東側の台上は 五十年にわたり郷土歩兵聯隊が駐屯し 十万をこえる将兵が苦楽を共にし 生死を誓い 日夜修身練武に精進した深草兵営の跡である。
 歩兵第九聯隊は明治建軍に当たり 明治七年に創設せられて大津にあった。 これを母体として明治二十九年歩兵第三十八聯隊が編成され翌三十年七月この兵舎の竣工をまつてこの地に屯した。 大正十四年五月 軍制改革により歩兵第三十八聯隊は奈良に移駐 以来歩兵第九聯隊主力がここに駐屯することになった。

 歩兵第九 第三十八の両聯隊は 明治三十七・八年の日露戦争に出征 第四師団に属して南満州の金州・南山・遼陽・奉天の諸会戦に参加して赫赫たる武勲を建てた。 満州事変にさいしては京都第十六師団の隷下にあつて北満の警備に任じ ついで昭和十二年支那事変勃発するや北支 中支に転戦し 南京城を陥れ 徐州に戦い長駆大別山を突破して武漢攻略戦に不朽の戦績をのこした。 歩兵第九聯隊は 昭和十六年大東亜戦争劈頭比島に敵前上陸してバターン半島を席捲 マニラ攻略の後主力をもつてレイテ島を守備していたが 優勢なる米軍主力の反攻を受け死闘数十日 ついに聯隊長以下全員軍旗とともに玉砕し光輝ある聯隊の歴史を閉じた。  時 昭和十九年十二月八日
(略)

 顧みれば これら諸隊の将兵がこの兵営をあとを出陣するにさいし 戦勝と武運の長久とを祈願したのはこの藤の森神社(藤森神社)であった。 今や時は移り星は流れて幾春秋 かつての勇壮なる軍歌の響きも絶えて久しく 懐しき兵営の面影も過去の帳のうちに消え去らんとしている。
しかしながら 祖国を愛し、祖国を護り、進んで国難に殉じた郷土部隊の光栄ある歴史と名誉ある伝統とは永遠に後世に伝えられるべきである。

 時あたかも明治百年を迎えるに当たり、ここに京都歩兵聯隊関係者一同あい図り、由緒深きこの地を史跡とし先人戦友の遺勲を顕彰して長くその功を讃え陣歿した幾多の英霊を慰めるとともに、国連の隆盛と世界の平和とを祈念して思い出多き聖域にこの碑を建てるものである。

昭和43年4月18日
京都歩兵聯隊跡記念碑建設会

藤森神社

旧社格は府社。
本殿(中座)に主祭神である素盞嗚命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇を祀る。
東殿(東座)に天武天皇と崇道尽敬皇帝(舎人親王)
西殿(西座)に崇道天皇(早良親王)と伊予親王、井上内親王
創建由来は諸説あるが神功皇后三韓伝説に遡る古社。

御社殿(中殿)は国重要文化財指定
旧御所賢所
正徳2年(1712年)に中御門天皇より下賜された宮中内侍所であり、現存する賢所としては最も古いものという。

御旗塚
神功皇后摂政3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、藤森の地に軍旗を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったとされる、藤森神社発祥の地。

「いちいの木」(いちのきさん)は腰痛が治るとされ、近藤勇も通っていたという。
御神水も湧いておりました。

手水鉢台石
石川五右衛門伝説もありました・・・
(これだから京都の歴史密度はヤバイ)

実は初めて参拝でした。
歴史ある古社だけあって、その空間に魅了されつつ。

夕刻で社務所が閉まる17時直前でしたのでしょうしょうせわしなく参拝したのがもったいなく。

「藤森神社」

忠魂碑

明治39年(1906)6月建立。
陸軍中将 塚本勝嘉 書
日露戦争の忠魂碑

塚本勝嘉陸軍中将は日露戦争のさなか第4師団長に就任し奉天会戦で活躍。

白松(シロマツ・白皮松・白骨松)

昭和10年頃に京都陸軍第16師団長が就任記念として寄進したと伝承されている。
一部には石原莞爾とも言われているが石原の師団長就任は昭和14年。
昭和10年以降だと、
 渋谷伊之彦(昭和10年)
 児玉友雄(昭和10年)
 中島今朝吾(昭和12年)
 藤江恵輔(昭和13年)
 石原莞爾(昭和14年)

今回は御朱印帳は持参してませんでした。行程が不安定で神社に赴くかわからなかったので。結果ギリギリで藤森さんに寄ること事が出来て、社務所を伺ってみて。
はてさて。そういえば鶴丸国永で有名でしたね。
うーむ。
白色御朱印帳と通常御朱印、特別御朱印を頂戴してしまいました。

時間的に藤森神社さんでタイムアップ。

まだ時間があれば、ここより西側の京都教育大学付属高校に残る輜重兵第16大隊関連の正門や歩哨などにも足を運びたかったのですが残念。次回の課題に。

この日は深草駅スタートで藤森駅を経て墨染駅ゴールの散策。
所要2時間といったところでした。

参考:
京都市伏見区>深草に残る戦争遺跡

https://www.city.kyoto.lg.jp/fushimi/page/0000187027.html

三ツ木地区防空壕跡散策(多摩陸軍飛行場)

平成29年撮影

都立野山北・六道山公園

武蔵村山市総合運動場の北東の方向にある「谷戸」
この界隈ある「三本入谷戸」「赤坂谷戸」に防空壕跡が残っている。

三ツ木地区防空壕跡

「赤坂谷戸」の林道脇にポッカリと空いた穴
「三ツ木地区防空壕跡」

多摩陸軍飛行場(現在の横田基地)の飛行機や燃料などを空爆から退避させるための陸軍防空施設跡。
この界隈の谷戸斜面には「76基」横穴が確認されているという。

赤坂谷戸

「赤坂谷戸」の「三ツ木地区防空壕跡」

柵の外から見学ができるようになっています。
ちょっと頑張って覗いてみた。
うーむ、土砂の堆積がグロい・・・。

界隈、穴だらけです。

解りやすいことに東京都が「横穴」立ち入り制限をするために「柵」を設置していますので、逆にいうと柵のあるところに「横穴」があるわけです。

三本入谷戸

「赤坂谷戸」 隣の谷戸「三本入谷戸」の「防空壕跡」 林道を歩いているとこんな感じで「柵」があるので「なるほど」と。

入口をちょっと歩いただけで
 三本入谷戸→西(左)に4個、東(右)に2個
 赤坂谷戸→3個
見つけました。
じっくり歩けばもっと見つかるかと思います。

自然公園=谷戸を散策しているだけだと、この界隈に「戦時中の防空壕」が掘られまくっていたとは気がつかないノンビリとした空間。

北側の狭山丘陵には「高射砲陣地」も構築されていたとされ、この界隈は秘匿された一大軍事拠点だったのだ…。

東京陸軍少年飛行兵学校跡地散策

平成29年撮影

武蔵砂川駅と玉川上水駅の間。武蔵村山市大南地区。
当時このあたりに「東航」があった。


東航通り

砂川三番交差点から北上し西武拝島線を縦断する。
この道は「東航通り」として名前が残っている。

「東航」とは「東京陸軍少年飛行兵学校」の略称。
道の北端に往時の少年飛行兵学校があった。


東京陸軍少年飛行兵学校・東航正門跡

昭和12年10月に熊谷に開設され翌13年に武蔵村山の立川陸軍飛行第五連隊射爆場跡に移転。昭和18年に東京陸軍少年飛行兵学校として名称変更。のちに大津・大分に陸軍少年飛行兵学校は拡張し終戦により閉校。

武蔵村山市指定旧跡 
東京陸軍少年飛行兵学校跡地 
指定第二十一号 平成十九年七月十日指定 
この「東航正門跡」石碑の建っている場所には、かつて東京陸軍少年飛行兵学校の正門がありました。東京陸軍少年飛行兵学校は、陸軍航空併用制のため、昭和十二年(一九三七)十月、熊谷陸軍飛行学校内に東京陸軍航空学校として開校しました。翌昭和十三年(一九三八)九月、村山村中藤(現在の武蔵村山市大南三・四丁目)の立川陸軍飛行第五連隊射爆場跡に二十万坪(約六十四万㎡)の敷地を得て移転してきました。その後、昭和十八年(一九四三)三月の陸軍少年飛行兵学校令公布により、東京陸軍航空学校は東京陸軍少年飛行兵学校と名称を改めました。当時の様子を留める建物は現在残っていませんが、かつての少年の飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設が存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈るために、その記憶をととめる二つの石碑が建立されている地を、「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。
平成二十一年三月 
武蔵村山市教育委員会

碑面裏
昭和13年9月、東京陸軍航空学校(のちの東京陸軍少年飛行兵学校)が開校され、この地が正門跡地である。
陸軍航空の中核として活躍した陸軍少年飛行兵第6期から20期生まで二万八千名が誠忠の志高く青春の総てを捧げ祖国の安泰と繁栄を念じて日夜心身を練磨した地である。
平成11年4月吉日 武蔵村山市

位置関係

米軍撮影 撮影年月日1947/11/14(昭22)

「東航正門跡」から北上する。

住宅地の只中に、ひとつの石碑があった。

陸軍少年飛行兵
揺籃之地(ようらんの地)

ここには少年飛行兵学校本部校舎があったという。

余談ですが
 海軍は飛行予科練習生(予科練)
 陸軍は少年飛行兵(少飛)
と呼称。

陸軍少年飛行兵
揺籃之地

建立の趣旨
 ここを中心に二十万坪の地は東京陸軍少年飛行兵学校の跡である。
 陸軍少年飛行兵制度は昭和九年二月、第一期生の所沢陸軍飛行学校入校にはじまる。次いで陸軍航空の拡充養成により昭和十三年この地に東京陸軍航空学校が創立され、第一期生が入校した。
 終戦までに第二十期生、巣立った若鷲は四万六千。支那事変に続く大東亜戦争において大陸のまた南海の大空に活躍したが、祖国の安泰と繁栄を念じて悠久の大儀に殉じた戦没者は四千五百余柱を数える。
 昭和三十八年ここに陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑を建立し慰霊の誠を捧げてきたが、このたび、永代の供養を念願して禅昌寺に遷座することとなった。
 若鷲揺籃のこの地に記念碑を建立しこれを永く後世に伝えるものである。
 平成二年十月十日 陸軍少年飛行兵出身者一同 少飛会

 平成二年庚午之歳次桂月下浣念七日
 陸軍少年飛行兵第十五期生
 錯錯山人 鈴木格禅謹書

陸軍少年飛行兵揺籃之地(東京陸軍少年飛行兵学校跡)の碑文中に記載のあった「禅昌寺」には「少飛」戦没者慰霊碑がある。

武蔵村山市指定旧跡 
東京陸軍少年飛行兵学校跡地 
指定第二十一号 平成十九年七月十日指定 
この「揺籃之地」石碑の建っている場所には、かつて東京陸軍少年飛行兵学校本部校舎がありました。東京陸軍少年飛行兵学校に入学するには小学校高等科卒業以上の学力を有する満十四歳から十七歳までの者とされていました。授業の科目は、午前中が国語・数学や兵器学など、午後は軍事教練などの術科と体操でした。また、学校北側の練兵場では、グライダーによる滑空訓練も行われていました。これら一年間の課程が修了すると、適性検査の後、操縦、整備、通信の各分野に分かれた二年間の上級学校に進み、その後全国の飛行隊に配属となりました。当時の様子をとどめる建物は現在残っていませんが、かつての少年飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設が存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈るために、その記憶をとどめる二つの石碑が建立されている地を、「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。
 平成二十一年三月 
 武蔵村山市教育委員会


武蔵村山市立歴史民俗資料館分館

平成28年9月25日開館したばかりの新しい資料館。
この資料館も旧「東京陸軍少年飛行兵学校」の跡地にある。
人の気配がなくて入って良いものかどうかちょっと悩みましたが、入ってみました。

http://www.city.musashimurayama.lg.jp/kankou/spots/rekishiminzoku/1005538.html

武蔵村山市内にあった東京陸軍少年飛行兵学校や所沢陸軍航空整備学校立川教育隊、村山陸軍病院などの軍事施設や、市内の空襲の様子などを伝承。
戦争関連の市内資料を分館に集約させて平成28年に新たに開館したものという。

資料を戴きました。

スタッフの人と30分程お話を。
「先日、少飛の方が来てくれて懐かしがってくれました。」
(少飛=少年飛行兵)
これは、ここに記念館が出来たこその来訪者。嬉しいもの。

そのほかにもいくつかの話題を。
「資料展示の難しさ」→右寄りにも左寄りにもならない展示。
「歴史教育の欠落」→そもそも知らない人が多い。 悩ましい・・・

武蔵村山市立歴史民俗資料館分館をあとにする。 短い時間でしたがスタッフのお人、ありがとうございました。


後日

日を改めて、 「少飛」戦没者慰霊碑のある 「禅昌寺」に足を運んでみました。

玉川上水駅。 14時40分過ぎ。
立川バスでイオンモール行へ。そこからバス乗り換え、箱根ヶ崎駅行バスで岸バス停に15時30分到着。 少飛の塔へと。公共機関ではしょうしょう行きにくい場所。


岸清山 禅昌寺

臨済宗禅寺
室町時代の生長元年(1428)恵山和尚によって開山という。
狭山観音霊場第24番札所
こちらの寺院に「少飛の塔」(陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑)があると聞いて訪問させていただきました。


少飛の塔
陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑

東村山市・禅昌寺

平成2年10月10日
陸軍少年飛行兵出身者一同 少飛会 奉納

「少飛の塔」(陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑)
建立の趣旨

 陸軍少年飛行兵制度は、昭和九年二月、第一期生の所沢陸軍飛行学校本校にはじまる。
 陸軍航空の拡充要請により昭和十三年、村山に東京陸軍航空学校が創立され第六期生が入校、さらに大津、大分に陸軍少年飛行兵学校が、また急速養成のため、各地に教育隊が設立され、終戦時の第二十期まで四万六千の若鷲が巣立った。
 陸軍航空の操縦・通信・整備の中堅として、支那事変、ノモンハン事件を経て、大東亜戦争に参加、日本の危急存亡に際して北に南にと空の第一線に身命を賭して活躍した。そして四百五十余柱の特別攻撃隊員をはじめ、四千五百余柱の若鷲が祖国の安泰と繁栄を念じつつ大空に散華した。いまだ十代の紅顔の少年達であった。
 昭和三十八年、東京陸軍少年飛行兵学校の跡地に慰霊碑を建立し以後毎年現地において生存者相集い慰霊の誠を捧げて来たが、このたび永代にわたる供養を念願し、ゆかりの人々の加護のもとにこの地に供養塔を建立することとなった。  遷座にあたり英霊の偉勲を偲び久遠の平和を祈るものである。

平成2年10月10日
陸軍少年飛行兵出身者一同 
少飛会

皇后陛下御歌

やすらかに
 ねむれとぞ思ふ
  君のため
いのちささげし
 ますらをの
  とも

侍従入江相政謹書

なき友の御霊に捧ぐ

 霜枯れの武蔵野の一角静かに頭をめぐらせば晩秋の陽の中に今や崩れ果てようとする礎石を求めることができる。
 この地はノモンハン、日華の両事変、大平洋戦争を通じて、若鷲の名の下に 活躍した陸軍少年飛行兵揺藍の地である。
 昭和九年春二月日本陸軍に誕生した少年飛行兵の養成は、所沢陸軍飛行学校に続き、昭和十三年九月この地に設けられた東京陸軍航空学校を中心として本格的に行なわれた。
 思へば十有二年の短い歴史の中に第二十期生まで約二万八千の紅顔の 少年達が情熱のすべてを祖国に捧げ、炎熱の朝に酷寒の夕に孜々として猛訓練に励み黙々として古賢の道を学びつゝひたすら死に通ずる大空へと 巣立っていった。  そして大陸の空に南瞑の果てにまた北辺の孤島に雄戦激斗し赫々の武功を誇ったがその多くは祖国の繁栄と同胞の平和を念じつゝ莞爾として悠久の大義に殉じていったのである。
 戦火絶えてすでに十八年、今は還らぬ友の御霊を慰めその栄誉と武勲を永く後世に伝えるとともに真の平和を祈念して、こゝに出身生存者相はかりその浄財と数多くの賛同者の御支援により陸軍少年飛行兵戦没者慰霊の碑を建立する。
昭和三十八年十一月二十四日
陸軍少年飛行兵出身生存者一同

東京陸軍少年飛行兵学校略図

略図内に記載のある「東航正門跡碑」「揺籃の地碑」「歴史民俗資料館分館」は上記で記載済み。

「少飛の塔」(陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑)

しずかに手を合わせ頭をたれる。
合掌を

ありがとうございました


関連

陸軍少年通信兵学校名残の石橋

平成29年撮影

西武線小川駅の西側。
現在の「明治学院 中学校・東村山高校」のあるあたり。
現在は通学路となっているこの石橋から先が往時は「陸軍少年通信兵学校」であったという。

陸軍少年通信兵学校名残の石橋

野火止用水に架かる石橋に当時の欄干が残る。

位置関係

航空写真を見てみる。米軍昭和23年3月撮影の航空写真と現在の様子。

陸軍少年通信兵学校

昭和16年10月に東村山に開設。
昭和17年に「陸軍少年通信兵学校」を「東京陸軍少年通信兵学校」と改称し、新潟県村松町に「村松陸軍少年通信兵学校」を設置。
通信関係の現役兵科下士官となる生徒に訓育、学科、術科の教育を行うことであった。生徒は少年飛行兵召募試験合格者。毎年一回の入学で、修学期間は約2年。

村松の陸軍少年通信兵学校はこちら。

東村山ふるさと歴史館

市ヶ谷周辺の陸軍史跡散策

平成28年~29年撮影

市谷亀ヶ岡八幡宮

八紘一宇

裏参道(左内坂)の方向に向かいましょう。

裏参道。
右手は駿台予備校。左手は市ヶ谷駐屯地。

市谷亀ヶ岡八幡宮の陸軍用地境界標石

今でも境界の仕事をしている標石がアジサイに隠されるようにありました。 本来、地中に埋まっているべき部位も見えるので移築保存かも。

市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮の裏参道を往復していたら、更にもう一つ見つけました。 アジサイの裏側に。 二つ目。 良い状態です。

おっ、違う。
これは現在の境界石。 基本的に目的は同じ標石ですが。

引き続き裏参道にて。 三つ目。
これは左右の塀に対して、埋没しながら凄い状態で境界してます。

「陸軍用地」標記ではなく 「陸軍省所轄」境界石標石

市ヶ谷の亀ヶ岡八幡宮裏参道入口。
左内坂。
何度も参拝している身近な神社でも興味のアンテナの張り方次第で、まだまだ知らなかった発見がある。

長泰寺

市谷亀岡八幡宮の裏となりに鎮座している「長泰寺」

境内にある碑を見学。門を入って右手にありました。

祭馬碑

陸軍士官学校馬術教官部

陸軍士官学校 馬術教官部軍属之碑

陸軍少将安満欽一書

長泰寺の境内に、すぐ隣の市ヶ谷陸軍士官学校馬術教官部ゆかりの碑が2つ残っておりました。

陸士(陸軍士官学校)で犠牲になった軍馬や軍属の方々を祀った碑。
陸軍少将安満欽一は1920年(大9)に陸軍士官学校本科長に就任。

外濠公園

KR市ヶ谷駅からお堀に沿って伸びている細長い公園。

ここには「東京市外濠公園」旧名碑が残っております。
公園は1927年(昭2)に東京市によって整備。
「東京市」の響きにワクワクするのは歴史クラスタ

名前のとおりに外濠に沿って公園が整備されています。
 外濠
 JR線路
 土手
 外濠公園
 法政大学
 九段上(靖國など)
こんな感じの並び。
中央線と総武線を撮るには良い場所。
無駄に流し撮りの練習も出来ます(失敗するけど

陸軍軍医学校跡地(東京逓信病院)

外濠公園の近くにかつてあった陸軍施設。
1888年(明21)現在の「東京逓信病院」の地に「陸軍軍医学校」が開校。
1929年(昭4)に軍医学校は戸山(厚生労働省戸山研究庁舎界隈)へ移転。

現在の東京逓信病院は陸軍軍医学校移転後の昭和13年に、逓信省職員と家族を対象の職域病院として開業。1986年(昭61)に一般に解放。
この病院の隣道は地図を見れば分かるとおりに「北の方の某総連」のせいで非常に警備厳重。そんな中を緊張しながら歩いてみました。

現在の東京逓信病院

郵便マークの境界石がありました。
さすが逓信病院。

緊張します。
お巡りさんの視界の中で、しゃがみこんで写真を。
2つ見つけましたが写真は1種類だけ。
長々としゃがみこんでマジマジ見れる環境ではなく。

陸軍軍医学校 陸軍境界標石

現在の東京逓信病院と法政大学富士見坂校舎のある通り。
総連の向かい側、法政大学の入口脇近く。

このご時世でお巡りさんがたくさんいる場所。
法政大学の警備員さんもいらっしゃる場所。
とっても警備が厳重。

陸軍軍医学校の陸軍用地境界標石の見学。 緊張しました…

防衛省の市谷台がこちらで

防衛省・市ヶ谷台ツアー

平成30年6月撮影

6月某日。
縁あって防衛省・市ヶ谷地区の見学を。
通称「市ヶ谷台ツアー」に参加してきましたので、そのときのレポを以下に。

※令和3年(2021年)、現在とはツアーの内容が異なります。

令和3年は、大本営地下壕が見学コースに加わりましたが、メモリアルゾーンは見学コースから無くなりました。以下のレポートも参照に。



市ヶ谷台ツアー

通常は1回のツアーで多いときは60人から100人ほど集まるという人気の見学会。私が参加した日は団体のキャンセルがあったとのことで、なんと10人ほどの少人数のツアーに。
「皆さんラッキーですよ。ゆっくり案内できます」と、案内の方からご挨拶があったぐらいの少人数だったようです。

見学時は撮影可能エリアと撮影不可エリアがあり。もちろん掲載していく写真は撮影可能なところのみ。

私が参加したのは午前の部。午前の部はメモリアルゾーンの見学があり一番興味深かった。
午後の部は月~木は広報展示室見学、金は防衛研究所見学ということで3パターンある。(他も気になる…)


庁舎A棟前

儀仗広場

来賓がいらっしゃると、この広場で儀仗隊が儀仗を行ってますね。
広場の「日の丸」は、雨の日は晴れの日の3/1の大きさになったり、祝日はもう一回り大きいものになったりするらしい。

庁舎A棟前の「儀仗広場」の下側。
木々の中に見える「石灯籠」、実は「地下壕の通気口」でもある。
石灯籠カモフラージュ。
地下壕は4メートルのコンクリート壁で守られ、地下14メートルに3本掘られており、地下には炊事場や食堂なども設けられていた。

地下壕の発掘調査などは、このあと訪れる「市ヶ谷記念館」内での展示コーナーで知ることができます。

展示機。
市ヶ谷ツアー内で唯一の自衛隊装備品を見学。

UH-1H ひよどり


市ヶ谷記念館

昭和12年(1937)陸軍士官学校本部として1号館が建設。
その後、士官学校は座間、予科士官学校は朝霞に移転し、昭和16年に大本営陸軍部・陸軍省・参謀本部が市ヶ谷台に置かれた。終戦後はGHQに接収され極東軍事裁判法廷として使用。1998年に一部を移築復元し現在に至る。

市ヶ谷記念館
当記念館は、旧1号館の解体に伴いその象徴的部分とされる玄関前車寄せ、旧大講堂、旧便殿の間、旧陸軍大臣室を復元した建物であります。


市ヶ谷記念館
大講堂

昭和9年に「陸軍士官学校・大講堂」として作られ、終戦後の昭和21年5月から昭和23年11月までの間は「極東国際軍事裁判(東京裁判)」の法廷としても使用された空間。

復元は裁判当時の姿ではなく、戦前の陸軍大講堂の姿、ゆえに玉座もある。

玉座の場所に通訳ブース、その正面が特別傍聴席など。
向かって左が裁判官席、右が被告席。
撮影位置(講堂入口)は傍聴人席(2階)及び記者席(1階)から。

玉座側から。東京裁判当時は通訳ブースが置かれていた。
玉座から見た視点は遠近法が使われている。
本来は2階席は 陛下の玉座より高い位置にあるものの、玉座の 陛下からは2階が高く見えないように工夫されている。入り口の大扉も小さく見せる工夫あり。

大講堂入構時に映像「市ヶ谷台の歩み」を視聴。
著作権の兼ね合いで撮影は禁止。まずはこの映像で市ヶ谷台の歴史を学びます。

大講堂内は映像と展示物(著作権に関わるもの・撮禁表示有)の一部撮影禁止。 また撮影可能であってもフラッシュの使用は禁止。

パンフレット「市ヶ谷記念館 市ヶ谷台の歩み」 写真を撮ったものもあれば撮り忘れたものもある(!)ので、先にパンフレットを参考資料として置いておきます。


玉座

玉座の床は箱根の寄木細工。強度を保つためという。
そして玉座へ至る 陛下専用の階段。
写真では伝えにくいが、 陛下が階段を上がり易いように最初の段には中央に盛り上がりが、上部4段は中央に窪みが施されているという。


大講堂1階に歴史的な展示物が並んでいるので個人的な興味で幾点か紹介して見たいと思います。

阿南惟幾陸軍大将 御着用の軍服
(冬服)

阿南陸軍大臣の冬服は市ヶ谷台にあり、そして夏服は靖國遊就館に。

市ヶ谷台には後述しますが「メモリアルゾーン」があり、一角に「阿南惟幾荼毘の碑」もある。見学は不可でしたがパンフを戴きました。(不可だった理由も後述)

終戦の8月15日に陸軍大臣として三宅坂官舎で自刃された阿南大将の遺体は15日夜に荼毘に。
再整備時にその地にあった碑を移設。墓は多磨霊園に。

多磨霊園 阿南惟幾之墓

加藤隼戦闘隊 加藤少将の銅像の原型  

ガラスの反射が制御できませんでしたが…

加藤建夫陸軍中佐(戦死後に陸軍少将)


エンジンの音 轟々と
隼は征く 雲の果て
翼に輝く 日の丸と
胸に描きし 赤鷲の
印はわれらが 戦闘機


山下奉文大将から知人に宛てた礼状

昭和11年


極東国際軍事裁判用壁掛地図

極東国際軍事裁判(東京裁判)では多くの地図が法廷の壁に掛けられ使用されたが、この地図もマッカーサー率いるGHQが日本地図株式会社(当時)に発注し、同社が昭和21年5月3日に納入した地図と同じものである。
満洲、支那、佛印…


帝國軍艦比叡進水紀念品

軍艦比叡模型(文鎮)


航空母艦 飛龍模型 壹

昭和12年航空母艦進水記念として横須賀鎮守府長官より旧竹田宮王殿下に贈呈されたもの

横須賀鎮守府長官 百武源吾(海軍) から 竹田宮恒徳王(陸軍) への贈呈か。


今村中将着用品

功二級金鵄勲章
勲一等瑞宝章正章と副章
勲一等旭日大綬章正章と副章
今村中将着用品

今村均 陸軍大将 開戦時は第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。終戦時は第8方面軍司令官としてラバウルを守りきっている。


梅津美治郎大将愛用の軍刀  

終戦時の陸軍参謀総長、降伏文書調印式全権。東京裁判で終身刑、獄中死。


荒木貞夫大将愛用の軍刀  

皇道派の重鎮。二・二六事件で予備役に。東京裁判で終身刑。のち釈放。


栗林中将からの画手紙
(長男 太郎氏に宛てた手紙)

栗林忠道 陸軍大将
硫黄島の戦いにおける日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長・小笠原方面陸海軍最高指揮官)として防衛戦を指揮し玉砕。


栗林忠道 陸軍大将 からの 御書簡
(硫黄島から愛嬢 たか子さんへ)

栗林閣下は、次女のたか子さんを たこちゃん と呼び、「戦地のお父さんより」と手紙を送っている。


西郷従龍ゆかりの品

従龍って誰?と思って調べてみました。
西郷隆盛の弟 西郷従道 元帥海軍大将 初代海軍大臣 の孫にあたる人物でした。
西郷従龍 陸軍少佐

一階部分の展示は盛りだくさんでもっと時間が欲しいところでしたが時間切れ。
二階へ誘導されます。


旧陸軍大臣室

士官学校時代、士官学校長室として使用された。 昭和16年以降は陸軍大臣室であったが、その後は陸上自衛隊東部方面総監の執務室として使われた。

部屋の中央には解体前の「旧1号館」の縮尺1/50模型がドンッっと置かれております。陸自時代のものになりますね。

ちなみに模型でも掲げられている「旧1号館」時代(平成9年解体まで)のシンボルマーク「桜」と「大時計」は1階玄関に展示してありました。

部屋の片隅には
「大本営陸軍部標札」
「陸軍士官学校標札」

「陸軍省で使用した印」
「陸軍大臣及び陸軍省副官の公印」
「東条英機大将使用の実印」 なども展示。

これらの歴史的遺産に「おおおっ!!」です。

こちらはガイドの方が口頭で。そんなに深くは触れてくれるな…な感じでサラリと。

昭和45年11月25日の三島事件、この部屋(東部方面総監執務室)で総監を人質にした際に「三島由紀夫のつけた3つの刀傷」が扉に残っている。参加者的には撮影スポット。


旧便殿の間

士官学校時代、陛下の休憩所(御便殿の間)であった。
その後は陸上自衛隊幹部学校長室として使われた。

展示物がいくつか。
おもむろに展示してある「明治天皇御立場跡の碑」はもともとどこにあったものなんだろう・・・

扉や窓の上部にメッシュの小窓。実はこの部分は空洞になっており、地下から冷気をとりこみ、部屋を冷却していたというエアコンがなかった時代の工夫が、 陛下の休憩所に施されている。

陸軍特別大演習 昭和9年11月 群馬県

ガラス乾板。最前列から最後尾まで高画質に鮮明に写すためにガラスに焼き付けた写真。高い位置から集合写真を「長方形に写す」為に実際には台形で整列しての撮影という。(写り込みの反射が厳しい

陛下を中心に、演習に参加した士官がすべて写った集合写真。 前列には大将以下の将官、最後列は少尉となるようです。

よくみれば、山本五十六や、東条英機も写っておりますね。

けっこう見学時間がたりないですね。思ったよりも慌ただしい見学でした。
これはもう一度の見学をしたくなる…

このあとは隊舎の前を通り厚生棟で買物と休憩。なお撮影は禁止。
厚生棟にはスタバやセブンやミリタリーショップなどあり。
が、休憩が15分しかなく…


市ヶ谷台ツアー メモリアルゾーン

自衛隊殉職者慰霊碑

昭和25年に警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、自衛隊に至るまでの職務に殉じられた1934柱の御霊(霊璽簿・名簿)が祀られている。昭和37年建立。
毎年10月に追悼式が行われて平成29年には25柱が新たに祀られたという。

自衛隊殉職者慰霊碑
昭和55年10月再整備。碑銘は鈴木善幸首相揮毫。中央は黒御影石、左右は無垢白御影石で霊峰富士山を形どっており、中央の球体は平和の象徴たる鳩とともに、仲間が欠けることがない丸を表している。副碑として池田首相の旧慰霊碑を備える。

ツアー参列者一同、一列に横に整列し、黙祷を捧げる。
1900余名の殉職なされた隊員の皆様に。
その功績を永久に顕彰し、敬意と哀悼の意を。


左手にいくつかの石碑があった。

市ヶ谷駐屯地・基地記念碑

防衛庁市ヶ谷移転に際して、昭和45年当時の市ヶ谷駐屯地・基地及び芝浦分屯地に在駐していた部隊が刻まれている。

東京オリンピック支援集団司令部跡の碑

昭和39年の東京オリンピックを支援するため自衛隊支援集団が編成され、その司令部跡地に置かれた碑を移設。

戦史室跡の碑

大東亜戦争に関する戦史叢書102巻が編纂された戦史室の跡地に置かれた碑を移設。


メモリアルゾーン

市ヶ谷台の各所に点在していた碑を移設し集めたエリア。ただこの市ヶ谷台ツアーでは時間の都合で「自衛隊殉職者慰霊碑」を遠目に拝するのみで案内は終了。ガイドの人に「メモリアルゾーンの石碑を見学することは出来ないの?」と聞いてみたところ・・・
過去に年に一度ぐらい、悪天候などでツアー参加者が少なくて(それこそ2人とか)、時間が余りまくったときには見学の機会があったらしい。そうでもない場合は時間の都合でメモリアルゾーンの細かな見学は設けていない、と。 今回は10人ほどの少人数でしたが、それでも駄目でした。残念。

実際の見学は出来ませんでしたが
以下、パンフレットをベースに見学した気分だけ味わっていこうと思います。

陸軍大将阿南惟幾荼毘之碑

終戦時の陸軍大臣として敗戦の責を感じ8月15日に自刃。

杉山元帥、吉本大将自決之跡の碑

第一総軍司令官杉山元元帥と軍令部付であった吉本貞一大将がそれぞれ9月12日と14日に市ヶ谷台で自決。

雄健神社跡

雄健(おたけび)神社は、大正5年(1916)に創建され、陸軍士官学校19代校長、与倉喜平中将が「雄健」と選名。昭和16年、御神体が奉還され、今回移設した。

全陸軍航空奉賛同人会碑

全陸軍航空部隊、陸軍法空本部、陸軍航空総監部における戦没者、殉職者の英霊を祭祀した主碑と、その後方に「鎖」、「魂」及び「追碑」の副碑がある。昭和52年この地に建立。

大元帥陛下御立所
九九式十糎山砲

砲一碑

野砲兵第1聯隊及び野砲兵第101聯隊の記念碑。昭和44年この地に建立。

陸軍士官学校跡の碑

明治7年、明治天皇の御聖旨により学校設立。第31代陸軍士官学校長、山田乙三大将の揮毫(大正5年)による碑を移設した。

東京陸軍幼年学校跡の碑

明治30年、明治天皇の御聖旨により学校設立。戸山ヶ原にあった碑を学校発祥の地市ヶ谷に移設した

陸軍少佐晴氣誠慰霊碑

晴氣少佐は大本営陸軍部作戦班に勤務中、敗戦となりその責任を感じて、昭和20年8月17日の早朝にこの地で自決

約2時間の市ヶ谷台ツアー。
見どころ満載で、見損ねたところも多数な感じで、非常に充実していたツアーでした。
これはまた参加したい(平日のみの開催だから、なかなか参加するのが難しいのが現実だけど)

あとは、難しいけどメモリアルゾーンをゆっくり見学したいものです… 〆

見学しました

市ヶ谷台ツアーリーフレット(旧版)


関連

市ヶ谷水管橋

陸軍相模飛行場跡地散策

平成30年2月
神奈川県愛甲郡愛川町中津地区に残る相模陸軍飛行場(中津飛行場)の跡地散策。

神奈川県愛川町に残る陸軍飛行場ゆかりの地。
ここには「相模陸軍飛行場」「熊谷陸軍飛行学校中津分教所」とも呼称された飛行場があった。
そんな往時を偲びつつ、ちょっと散策してみました。

海老名駅から愛川バスセンター行きのバスに乗って「中一丁目」バス停で下車。

この辺りの工業地帯が当時は滑走路であったという。
そして相模陸軍飛行場を縦断していた「水道みち」(横須賀水道) 、愛川町半原水源地から横須賀までの道。

水道みち

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
1947年(昭和22年)4月13日・1948年1月12日に米軍が撮影した航空写真。

1947年(昭和22年)4月13日、米軍撮影
1948年1月12日、米軍撮影

1948年(昭和23年)1月に米軍が撮影した航空写真とグーグルマップでの対比などを。
南西部に飛行場施設があり北東部は滑走地区。
今回は南西部の飛行場施設界隈を散策。

1948年(昭和23年)1月 、米軍撮影

陸軍中津飛行場
(相模陸軍飛行場)

もともとは少年飛行兵育成のための訓練所「熊谷陸軍飛行学校中津分教所」として昭和16年に完成。
舗装された滑走路はなく着陸地帯として離着降場を草を刈って造成された飛行場であった。練習機として「九五式中間練習機」(赤トンボ)が飛び交っていたという。

昭和17~18年ごろから中津飛行場には戦闘機も配備され、昭和19年には飛行学校閉鎖。
「四式戦疾風」の訓練基地となり、特別攻撃隊練成の地ともなり、当地からも特攻出撃が行われたという。

戦後、飛行場跡地が開墾。
工業地帯の片隅にある「中津工業団地第2公園」内に「開墾記念碑」が残されている。昭和31年建立。

昭和15年2月突如陸軍省は飛行場設置のため買収…昭和20年終戦と同時に施設は解体…国内混乱のさなかの開墾…

前述の米軍撮影の航空写真でも分かる通り、終戦間もない状況で区画整備され開墾が始まっている。


旧相模陸軍飛行場
通信室跡

当時の「通信室」とされる建物が建築会社敷地内に残っている。

訪れた際は日曜日ということもあり人の気配が無かった為、大野建設敷地外から撮影させていただきました。 見事に蔦が建物を覆ってます。

大野建設株式会社様紹介ページ

http://www.ohnokensetsu.com/iseki


旧相模陸軍飛行場
格納庫基礎跡

格納庫基礎とされるコンクリ塊。住宅地の中に忽然とコンクリの壁が残っている。 ワゴン車などと比べてみると、その異様な大きさがよくわかる。

隣は新築宅地造成中。 格納庫基礎のコンクリのまわりに新しい壁が造成されつつありますが、明白に保存体制に入っているのを感じることが出来ます。


旧相模陸軍飛行場
排水路

排水路は当時から変わらぬ位置で今も飛行場の南端から中津川へと注ぐ排水路として活用されている。


旧相模陸軍飛行場
排水路橋

排水路橋。陸軍飛行場時代から使われている配水橋。前述の排水路はこの場所で県道と立体交差して中津川へと流れていく。

旧相模陸軍飛行場「排水路橋」
 この排水路橋は、県道の道路面から橋の下部まで4.17mほどの高さがあります。橋の全長は15.75m。水路は中津川まで延び、厚さ35cmのコンクリート製で、水路内部幅は150cmです。
 第二次世界大戦中の相模陸軍飛行場は、地表面を平らに削り、草を刈っただけで、舗装されていませんでした。雨天時のぬかるみを防ぐため、排水設備が必要でした。 この排水路は、現在でも中津地区の一部の雨水排水に使用されています。
 平成28年9月
  愛川町教育委員会

下から覗くと排水路は橋の部分だけは二股となり、そして橋が終わると合流してます。理由は不明ですが水量が増した際に水流を弱らせる感じでしょうか?(根拠ない素人予想ですが・・・)

排水路と排水路橋を上から覗いてみました。 ちょうど分岐するあたり。

旧相模陸軍飛行場
正門通用門柱

正門通用門柱とされる遺物。「桜台ちびっこ広場」のあるあたり。
住宅の庭先に一柱。 このあたりに基地航空隊の正門があったという。
面白いことに電話ボックスと門柱で対の位置関係。
この門柱より奥に航空隊が展開されていた。


旧相模陸軍飛行場
正門門柱

正門通用門柱が残っている場所から400mほど西に行ったところに正門門柱が移築されている。

旧相模陸軍飛行場正門門柱」
 この正門門柱は、高さ216cm、71cmのコンクリート造りで、中ほどには駐留する部隊名を記した表札をはめ込むための長方形の切り込みがあります。頂部には、夜間照明用の電灯を設置した穴があります。
 第二次世界大戦中の正門所在地は現在の桜台附近で、2本の門柱がありました。 戦後。戦争遺跡が失わるのを惜しんだ方の手で、1本の門柱が、約400m西に離れたこの地に移設保存されました。
 平成28年9月
  愛川町教育委員会

門扉の金具あと。

移築するときに門柱の置き位置があべこべになっているような感じ。
写真手前の門柱の金具の位置、180度おかしいです…

案内看板にあった「頂部には、夜間照明用の電灯を設置した穴があります。」を探してみる。
向かって左側には「駐留する部隊名を記した表札をはめ込むための長方形の切り込み」もある。

飛行場のあった台地から中津川の方を望む。こうしてみると中津川が削り出した高低差ある台地上の平地は絶好の飛行場立地であったことがわかる。

関連する地下壕も残っているらしいけどそれは未調査。


豊橋の戦跡散策

平成30年6月撮影

  • 愛知県豊橋市内に点在する戦争史跡関連の散策
  • 主に豊橋公園と愛知大学豊橋キャンパスを中心に

平成30年6月下旬。愛知県豊橋市に足を運ぶ機会がありまして。軍都豊橋と呼ばれた街。
「豊橋公園」は歩兵第18聯隊
「愛知大学豊橋キャンパス」は第15師団
今回はこの2つを軸にして散策を展開していきます。

位置関係

「国土地理院」地図・空中写真閲覧サービス
1946年(昭21)07月16日の米軍撮影(ファイル:USA-M197-A-3No1-10)写真及びgoogle航空写真を加工

今回は豊橋陸軍墓地、工兵第15大隊、豊橋海軍航空隊方面には行けませんでした。18聯隊と15師団をメインに散策。

豊橋公園

かつての吉田城跡(三河吉田藩/豊橋城・豊橋藩)
明治維新後の版籍奉還により明治政府管轄。明治4年(1871)兵部省管轄。吉田城址に兵舎建設が進められ明治18年から大日本帝国陸軍歩兵第18連隊が移駐。

歩兵第18聯隊の正門と哨舎(豊橋公園)

明治31年に新設された営門。当初は木製であったが昭和10年台にコンクリート製に変更。

公園の入口にいまも残る哨舎が味わい深くて素晴らしい。
ついつい歩哨のように中に入って立ってみたくなったり。

歩兵第18聯隊・弾薬庫跡 (豊橋公園)

コンクリート製。床下は換気のために開けてあり、屋根は万が一の爆発時には爆風が抜けるように簡素な作りとなっている。

歩兵第18聯隊・馬頭観世音(豊橋公園)

紀元二千六百年建之
中部第六十二部隊長松本信吉書
昭和16年の紀元2600年に際して建立。軍馬守護神として馬頭観世音を祀る。

豊橋公園
公園内の片隅に寄せられていたこれはなんだろう。
庭園の残骸なのかな。
獅子だったり灯籠だったり。
気配的にはコンクリの雰囲気は新しそうなので、求めている史跡とは関係ないと思われるが。

歩兵第18聯隊・記念樹(豊橋公園)

表に「記念樹」、裏に「昭和5年兵」と刻まれている。
オガタマノキ(招霊木)

「歩兵第十八聯隊之阯」(豊橋公園)

昭和39年建立
副碑・平成9年建立
歩十八会(戦友会)
志を同じくするわれら会員は、この碑のもとに相集い、歩兵第18聨隊戦没将兵の業績顕彰及び慰霊並びに戦友、遺族の相互親睦及び福祉向上に努め、その歴史を後世に伝えるものである…

歩兵第十八聯隊之阯 裏面
我歩兵第十八聨隊ハ明治十七年夏名古屋鎮台下ニ創設 
八月十五日軍旗奉戴 
翌春豊橋旧城址内ノ新営ニ移リ尓後衛戍ス
(略)
大東亜戦争ノ緊迫スルヤ十九年二月南方ニ赴援シ防守に努ム 
夏米軍ノ大挙来攻ニ会シ衆寡敵セズ相次デさいぱん島及ぐあむ島ニ軍旗ヲ奉焼シテ玉砕セリ…
(略)
茲ニ同志相謀リ地ヲ旧営址ニ選ビ碑ヲ建テ事ヲ録シ先人陣中ノ偉績ヲ顕彰シ併セテ殉国ノ英霊ヲ弔イ其功勲ヲ不朽ニ伝ウ
昭和三十九年八月 元歩兵第十八聨隊々員有志建

歩兵第十八聯隊
明治17年(1884)名古屋にて設置され明治19年までに豊橋に移駐。
大東亜戦争では昭和19年3月にテニアン島進駐途中で輸送船が雷撃され聯隊は大損害を受けつつサイパン島に上陸。5月にグアム島に移駐。7月に米軍がグアム島に上陸し激戦を繰り広げ7月25日に軍旗奉焼し歩兵第18聯隊は玉砕。

彌健神社跡
奮藩祖豊城神社旧鎮座地(豊橋公園)

歩兵第18聯隊の営内神社跡。
鳥居は昭和8年4月3日建立(献納/三遠國防義會)
現在、社殿があった場所には「神武天皇銅像」が移設されている。
神武天皇像は、かつて歩兵第十八聯隊の戦病死者を追悼するために建立された軍人記念碑が遷座したもの。

神武天皇像(豊橋公園)

装いは故実に基づいた古代武人を模したもの。御尊顔はよりどころがないために、かしこくも 明治大帝をお写し申し上げた銅像。
かつては歩兵第18聯隊練兵場にて戦病死者を追悼する軍人記念碑として設置され敗戦後に当地に遷座。

http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=4348

旗杭は昭和12年4月、國防婦人會田原町分會の献納。

此処に歩兵第百十八聯隊ありき
歩兵第118聯隊記念碑 (豊橋公園)

碑文
軍靴の跡
 我が歩兵第百十八連隊(中部第六十二部隊)は昭和十六年四月一日国家の要請に応えこの地において編成され同年五月二十一日初代聨隊長陸軍大佐徳弘保衛が宮中で天皇陛下より軍旗を親授さる
 昭和十八年七月六日第四十三師団急遽編成に伴い主力は軍旗を奉じ静岡に移駐 或る者は他部隊に転属さる 
 越えて昭和十九年五月三十日祖国防衛の大任を帯び海路はるばるサイパン島守備の途につくもその大半が敵潜水艦のため海没の悲運に遭う
 一部上陸せるものは間もなく開始されたサイパン島攻防戦において昭和十九年七月七日軍旗とともに聖寿の万歳と皇国の弥栄を祈念しつつ全員玉砕す
 ここに生存者将兵相計り記念碑を建立 尽忠の偉業を顕彰し殉国の英霊を弔う

昭和五十五年十一月二日
 元歩兵第百十八連隊関係者有志建之

歩兵第二百二十九聯隊記念碑 (豊橋公園)

碑文
 歩兵第二百二十九聯隊は、昭和14年8月7日この地に於て陸軍大佐吉武秀人を初代聯隊長として編成完了。
 9月13日軍旗を授かり、10月13日豊橋を出発、征途についた。
 以後、泥濘の良口会戦をはじめとする南支那における幾多の戦闘の後、第二代聯隊長陸軍大佐田中良三郎率下の香港攻略作戦に始まり、南部スマトラ作戦、ガダルカナル島の戦いを含むニューギニア作戦、更に陸軍大佐平田源次郎を第三代聯隊長とするムンダ、ズンゲン、ラバウルなどを戦場としたソロモン及びビスマルク群島防衛戦から第五次ビスマルク戦に至るまで、大東亜戦争における最も画期的な作戦に参加した。
 かくて戦局不利とはいえ志気未だ軒昴たるうちに終戦を迎え、昭和20年8月18日ニューブリテン島のラバウルにおいて聯隊長以下慟哭裡に光輝ある歴戦の軍旗を奉焼、一塊の灰と化せしめた。
 聯隊生存者一同は、この灰をいま聯隊発祥の地に埋め、英霊の安らかんこと、足跡のとこしえならんことを祈念するものである。

昭和45年9月15日
 元歩兵第二百二十九聯隊戦友会(福々会)之を建立す

歩兵第十八聯隊
将校集会所通用門門柱跡 (豊橋公園)

将校集会所通用門の門柱跡。コンクリート製。上部に黄色のタイルで装飾が施されている。

歩兵第十八聯隊 聯隊記念碑跡 (豊橋公園)

かつてここには聯隊記念碑があった。もともとは上に砲弾型の碑が乗っていたというが現在は台座だけが残る。
戦後に台座の文字を埋めたようで、セメントの下に碑銘や碑文が埋もれていた。

表「聯隊記念碑」
裏「一北満派…」「一済南事変」と一部露出している。

歩兵第十八聯隊 貯水槽跡 (豊橋公園)

防火貯槽跡とされる部位。コンクリートの平面部が残る。

歩兵第十八聯隊 灰捨場跡 (豊橋公園)

煉瓦造り。
現在は塞がれているが上部の穴が開いており、裏側へ灰を掻き出して堀に落ちるようになっている。

戦災復興碑 (豊橋公園)

昭和33年10月建立

碑文
太平洋戦争の戦局非にして国内各都市が敵機の来襲におびやかされつつあつた昭和二十年六月十九日夜半ついに我が豊橋市も敵機B29の集中攻撃を受け市民必死の防禦もその甲斐なく瞬時にして市街地の大半を壊滅せしめらるに至つた
被災坪数128万6千、焼失戸数1万6千886、罹災者7万1502、死者624、重軽傷者344の犠牲を出し、惨憺たる焼土の混乱と窮乏とは人をして再び起つ日あるやを疑わしめたしかるに市民愛郷の熱誠と復興の意欲とは打つて一丸となり全燼なおふすぶる荒廃の中にこの日から雄々しくもたくましき建設が始められた
爾来十有三年全市民の刻苦たゆまぬ復興の努力は着々として功を奏し全国戦災都市にさきがけ産業経済文化の要衝として旧に倍する大豊橋市の盛容を見るに至つた今や再建復興の業成るに及びいたましくも尊き当時の犠牲者の冥福を祈り幾多の窮乏と苦難を排してこの大業に参加した市民不滅の業績をたたえ本市悠久の前途を祝福してここに戦災復興記念の碑を建立し大豊橋市の象徴とする
昭和33年10月

吉田城鉄櫓(豊橋公園)

内部は無料公開もしているけど、この日は外部のみで。

歩兵第18聯隊・西門門柱

豊橋公園の西側、豊橋市役所に面した国道1号線の脇に保存されている。
煉瓦造りの門柱で笠石は花崗岩。
明治18年の聯隊創設時は営門として使用されていたという。
国道1号線工事のために昭和34年に現在地に移築。
現在は門柱部と木製扉部をわずかに残している。

豊橋市公会堂

豊橋公園・市役所の手前にある「豊橋市公会堂」
昭和6年(1931)8月24日竣工。国の登録有形文化財。太平洋戦争末期の昭和20年6月の豊橋空襲で市が大きな被害を受けた際には豊橋市役所の機能がこの建物に一時移転している。


愛知大学豊橋キャンパス

かつての第15師団

歩兵第60聯隊正門跡
( 愛知大学豊橋キャンパス副門 )

現在は愛知大学豊橋キャンパスの副門
愛知大学前駅のすぐ隣に大学の門がある。
今風にリニューアルはされているが

当時の門柱の面影も残しつつ。(当時の門柱ではないと思われますが。)
まずはここからキャンパス散策と参りましょう。

第15師団
豊橋陸軍教導学校
豊橋陸軍予備士官学校

日露戦争で日本は従来師団の総てを動員してしまった為に本土駐留師団がなくなる事態に陥ってしまった。そこで「第15師団」を含む4個師団が新設され第15師団は明治38年(1905)4月1日に愛知県豊橋市で編成。

大正14年(1925)のいわゆる宇垣軍縮にて第15師団は第13・第17・第18師団と共に廃止される。宇垣軍縮で廃止された第15師団の残された施設を利用して、昭和2年に下士官候補者教育のため「豊橋陸軍教導学校」が開設され、昭和14年には甲種幹部候補生教育の「豊橋陸軍予備士官学校」が開設。 ゆえに本記事では同じ敷地内で「第15師団」だったり「陸軍教導学校」だったりが交じります 。

第15師団そのものは、日中戦争に際して大正14年に廃止された師団番号を利用し復活している。第二次編成としての第15師団は昭和13年に編成。この第二次編成は豊橋とは関係せず。

豊橋第15師団の地は、宇垣軍縮後は騎兵第4旅団司令部を経て陸軍教導学校、陸軍予備士官学校が置かれ、戦後は愛知大学へと推移していく。

豊橋陸軍教導学校・予備士官学校の神社跡
(愛知大学豊橋キャンパス副門広場)

歩兵六十聯隊正門から敷地内に入ったすぐの場所にこんもりとした円形造園がある。この場所にかつて陸軍学校時代は神社が鎮座していたという。
今は格別な何かは残っておらず空間だけが物語っているような雰囲気。

豊橋陸軍教導学校・吹雪山
(愛知大学豊橋キャンパス学生会館裏)

昭和2年の昭和天皇行幸を記念して昭和6年に陸軍教導学校の生徒によって築かれた小山で吹雪山と命名された。
山頂には記念碑が建てられている。陸軍第15師団司令部開庁から豊橋陸軍教導学校開校、豊橋陸軍予備士官学校、そして閉校まで物語る記念碑。

豊橋陸軍教導学校・吹雪山記念碑
豊橋陸軍教導学校時代の構内図が描かれている。
愛知大学豊橋キャンパス内で現存している建物は後述しますが「大講堂」「将校集会所」「養生舎」「機銃廠」「学校本部=第15師団司令部庁舎」

歩兵第60聯隊・将校集会所門柱

コンクリート製門柱 (愛知大学豊橋キャンパス内哲学の森)

歩兵第60聯隊・将校集会所
(愛知大学豊橋キャンパス・旧研究所)

よくぞ残ってくれましたといった感じです。
陸軍のシンボル五芒星もありますね。

豊橋陸軍教導学校大講堂
(愛知大学豊橋キャンパス第二体育館)

陸軍教導学校の大講堂として昭和2年に建立。鉄筋造。

天皇陛下行幸記念松
豊橋陸軍教導学校大講堂前
(愛知大学豊橋キャンパス第二体育館前)

昭和2年開校の陸軍教導学校に昭和天皇が行幸されたことを記念して植樹された松。当時の橋陸軍教導学校大講堂前に植樹された。

豊橋陸軍教導学校火薬庫(火薬倉)土塁跡
(愛知大学豊橋キャンパス・プール周辺)

プールの周辺に残る土塁は火薬庫の名残。 火薬庫は当時は土塁で覆われており、今でも土塁の一部が大学構内に残っている。

皇太子嘉仁親王殿下御手植松
(愛知大学豊橋キャンパス短大門付近)

大正天皇が皇太子時代の明治43年11月20日に豊橋偕行社(後述)に御駐泊された際にお手植えされた松と記念碑。 記念碑は昭和3年11月の御即位式に建立されている。

豊橋偕行社跡
(愛知大学短期大学本館跡地)

豊橋偕行社を戦後は愛知大学短期大学本館として利用されていたが老朽化により平成23年(2011)に取り壊し。
偕行社は各師団に置かれていた陸軍将校の集会所・社交場(将校倶楽部)を兼ねた一種の迎賓館施設。

在りし日の姿~Wikipediaより参考

第十五師団機銃廠
豊橋陸軍教導学校二機銃廠
(愛知大学中部地方産業研究所所属産業館)

明治41年に建造された機銃整備のための建屋。 基礎は煉瓦、壁は下見板張。
屋根瓦に陸軍のシンボル五芒星アリ

皇太子裕仁親王殿下御手植松
碑は大正14年に第15師団廃止の際に建立。

久邇宮邦彦親王殿下お手植松
大正7年、第15師団長として演習台覧の際の御手植松。

御大典記念幟立
昭和天皇即位礼がおこなわれた昭和3年11月10日建立。

豊橋陸軍教導学校・養正舎

昭和2年建立。 建屋の裏の塀は豊橋陸軍教導学校時代に設けられたコンクリート製の塀。 豊橋鉄道との境目。

豊橋陸軍教導学校・塀

昭和2年の豊橋陸軍教導学校時代に設けられたというコンクリート製の塀。 豊橋鉄道の線路との境界線をになっている。 現在も愛知大学の境界線。

第十五師団司令部址

明治41年(1908)誘致運動をした豊橋市に設置された。この地には師団司令部のほか、騎兵第4旅団司令部、歩兵第60聯隊などが置かれた。しかし師団は大正14年(1925)に廃止となり、その後は陸軍予備士官学校などに利用された。

陸軍第15師団司令部庁舎
(愛知大学旧本館)

国登録文化財 陸軍第15師団司令部庁舎として明治41年(1908)建立。 建物は木造2階建、寄棟造の桟瓦葺で、両翼屋を背後に突き出したコの字形の平面形を持つ。外壁は板貼りで装飾をあまり用いない軍隊関連建物らしい簡素な造り。木造の現存司令部としては貴重。

第15師団司令部庁舎
(愛知大学旧本館・愛知大学記念館)
正面

裏側はコの字。

第15師団司令部庁舎 (愛知大学旧本館・愛知大学記念館) 館内内部公開もしてますので入ってみましょう。
公開は月~土曜(日月祝は休館) 開館時間は10:00から16:00まで。 日曜と祝日は入れないのでご注意を。

http://edu.aichi-u.ac.jp/toa/about.html

正面入り口

正面階段

入り口の階段をあがった2階の正面
陸軍第15師団司令部時代には師団長室、戦後は学長室として使われた部屋

2階廊下

2階から外を

脇階段
けっこうな軋み音を感じた

1階

この日は見学者は私以外には居ない空間。
贅沢な時間を過ごすことが出来ました。
ありがとうございました。

第15師団司令部・正門
(愛知大学豊橋キャンパス正門)

石造りの門柱が残る。 この正門の奥に第15師団司令部庁舎がある。 このあとは愛知大学を離れて、周辺の関連史跡を見て廻りましょう。

第3師団兵器部豊橋出張所・正門と哨舎
(南部中学校)

愛知大学豊橋キャンパス(第15師団)の南方には第3師団兵器部が展開されておりました。
豊橋鉄道の線路越しに当時の哨舎と正門が保存されている。
南部中学校には、これ以外にも当時の門があるようだけれども校内は未見。

門柱・騎兵第26連隊跡?
(合同宿舎王ケ崎住宅敷地内)

詳細はわかりませんが、不自然極まりなく門柱が残ってました。
所在地には騎兵第26聯隊の場所。
道路を挟んだ向こう側は騎兵第25聯隊。
コンクリで煉瓦を隠すように覆っていますが、コンクリの上から扉金具も見えますね。

騎兵第26聯隊跡 門柱と哨舎・記念碑
(王ヶ崎東公園)

哨舎があるとついつい中に入って歩哨をしてしまいます・・・

騎兵第26聯隊跡

騎兵第26聯隊跡碑
松井麻之助書 松井麻之助は終戦時の騎兵第26聯隊長(陸軍中佐)。
西竹一らと共に、1936年のベルリンオリンピックに馬術競技日本代表として出場した経歴を持つ。戦後は調教師調教師として活躍。

騎兵第4旅団
 騎兵第26聯隊
明治42年4月1日 創設
明治42年9月23日 軍旗拝授
昭和21年5月18日 復員解隊

戦歴
昭和7年10月~昭和13年7月 満洲事変
昭和13年8月~昭和16年11月 支那事変
昭和16年12月~昭和20年8月 大東亜戦争

昭和46年軍旗拝授記念日
騎兵第26聨隊会建之

騎兵第26聯隊
創立以来在隊者将兵数
豊橋駐屯時代 明42.4~昭7.9 約7000名
満洲事変参加 昭7.10~昭14.7 約3000名
支那事変参加 昭14.8~昭16.11 約3500名
大東亜戦争参加  昭16.12~昭20.8 約4000名
計 約17500名
祖国のため殉じた戦(病)死者数 440余名
聨隊が従事した戦闘回数 230回

騎兵第26聯隊
聨隊が受けた賞詞感状
昭和14年4月 南昌攻略作戦 賞詞授与
昭和14年7月 襄東会戦 感状授与
昭和16年6月 中原会戦 賞詞授与
昭和18年9月 武号作戦 感謝状授与
昭和19年11月 一号作戦 感状授与
昭和20年3月 老河口作戦 感状授与
此の碑の建設に直接協力した人員数 1000名
(以下略

騎兵第26聯隊
軍旗遺品合祠記念碑
明治42年9月23日明治天皇から親授された軍旗は聨隊の象徴として戦中嚇々の武勲を樹てたが昭和20年8月25日北支河南省郾城で奉焼された
奉焼された灰の一部を秘かに持ち帰った者数名が奉持していたので靖国神社に奉納すると共に茲にこれを合祠することにした
昭和63年4月28日騎兵第26聯隊会

愛馬の鬣等埋没記念碑
我が聯隊の機動力の源泉として戦場を雄飛した軍馬のうち最後までその役に盡した960余頭は戦後異国にありて1頭だに祖国に帰ることはなかった
幸いに復員者数名が愛馬の鬣を持ち帰り保存して居られたのでそれを集め茲に埋没して愛馬に対し限りない感謝と親愛の情を披瀝しその霊を悼むものである
昭和63年4月28日騎兵第26聯隊会

騎兵第26聯隊跡 門柱と哨舎、記念碑が残る公園。(王ヶ崎東公園)

輜重兵第15大隊門柱
(愛知県立豊橋工業高等学校)

高校の敷地内に門柱が残されている。
文教地区はかつては軍事関連の場合が多い。
 愛知県立豊橋工業高校は輜重兵第15大隊
 愛知県立時習館高校は野砲兵第21聯隊
 豊橋市立福岡小学校は騎兵第19聯隊

時間都合でこのエリアはこのぐらいにしまして次の目的地に移動します…

愛知大学界隈から15分ほど北東に歩いていくと愛知大学が管理している飛地がある。

「第15師団長官舎」 (愛知大学公館) 

豊橋市指定有形文化財 明治45年(1912)建立。
第15師団長官舎→豊橋陸軍教導学校長官舎→豊橋陸軍予備士官学校長官舎。
昭和21年に愛知大学開設に伴い愛知大学学長公館などに使用。

「第15師団長官舎」 (愛知大学公館) 
豊橋市指定有形文化財
明治45年(1912)造。
洋館と和館が併設された平屋。洋館は公室、和館は私室として利用。 和漢洋館とも木造寄棟造桟瓦葺。
ほぼ完全の状態で残る師団長官舎としては全国でも稀な例であり、明治末期の和館洋館併設の木造住宅としても貴重。

洋館部分

和館部分

和館部分
1986年のカレンダー
30年以上、時を止めた空間がここにはあった

いつの日か、公開することはあるのだろうか・・・

「第15師団長官舎」(愛知大学公館) 
第15師団長官舎の地から豊橋鉄道小池駅に向かう途中、見つけました。

陸軍省所轄地 陸軍境界標石

9時半に愛知大学到着して散策開始、散策終了させたのが12時半。 ざっと3時間で愛知大学とその周辺の戦跡散策をしたかたちとなりました。
豊橋編はこれにて〆

今回、行ききれなかったところ(宿題)

時間の都合で今回の散策であきらめたところも多数。豊橋市内にはほかにも戦争当時を物語る遺跡が点在しております。
また次に往訪するときまでの宿題として。

豊橋市美術博物館 > 豊橋の美術・歴史・文化財・戦争遺跡を知る > 郷土の戦争遺跡・資料

http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=3315

「特攻観音堂」と「特攻勇士の像」

(特攻観音堂は平成30年5月撮影 )

世田谷観音 (世田谷山観音寺)

江戸三十三観音第32番札所

昭和26年に睦賢和尚が独力で建立。
同年5月、金竜山浅草寺に請い開眼の法を修したとされる寺院。 境内には特攻で犠牲となられた英霊を慰霊する「特攻観音堂」が鎮座。

入口の左右に。

石碑 「奉安 特攻平和観音」元竹田宮 竹田恒徳 書

門標 「世田谷山観音寺」元内閣総理大臣 吉田茂 書

参道の左手、赤門の奥には「旧小田原代官屋敷」
現在は観音寺本坊として使用。

特攻平和観音

昭和27年5月。
元海軍大将 及川古志郎、元海軍大将 高橋三吉、元陸軍大将 河辺正三、元陸軍中将 菅原道大、元海軍中将 寺岡謹平らが発起人となり特攻平和観音像が造立。(法隆寺夢違観音像模写)
陸軍側及び海軍で犠牲になられた英名が各々二体の特攻平和観音尊像胎内に奉蔵されている。

特攻観音堂

昭和31年05月。世田谷観音寺内に旧宮家「華頂宮家」の持念仏堂を移築し「特攻平和観音」を遷座。

陸軍2244柱
 航空1355柱・空挺615柱・海上挺進265柱・戦車9柱
海軍4174柱
 航空2548柱・特潜437柱・回天104柱・震洋1085柱
合計6418柱

国のために生還を期することのない特攻作戦に志願して若き命を捧げた特攻隊員英名が「特攻平和観音」に奉蔵されている。

石碑「世界平和の礎」

昭和39年10月吉日 吉田茂 謹書
特攻観音堂の左手前に。

特別攻撃隊の頌

 わが国が存亡をかけた大東亜戦争においては、開戦当初から生還を期すことのない特攻作戦が決行された。
 弱冠十七、八歳から三十歳代までの勇士が、肉親への愛着を断ち切り洋々たるべき人生を捨てて、空に、海に、陸に、決然として肉弾攻撃を敢行し、偉大なる戦果を挙げ、ことごとく散華された。その数およそ六千柱。壮烈無比なこの攻撃は敵の心胆を寒からしめ、国民はひとしくその純忠に感泣した。
 特別攻撃隊の戦闘は、真に至高至純の愛国心の発露として国民の胸奥に生き続け、また世界の人人に強い感銘を与え、わが国永遠の平和と発展の礎となっている。
 ここに心から愛惜の情をこめて特別攻撃隊の諸資料を、この遊就館に納め、その精神と偉業とを後世に伝える。
昭和六十年十二月八日 特別攻撃隊慰霊顕彰会 会長 竹田恒徳

あゝ 特攻(特攻勇士の像

特攻隊戦没者慰霊顕彰会は全国各地に「特攻像」建立を行っており世田谷観音には平成19年09月23日建立。

私たちはあなたたちを忘れない
あゝ特攻

多くの「特攻勇士の像」が護國神社境内に建立されている中で、当寺には特攻観音堂があり地蔵菩薩と特攻像が並んで建立されている。

天山隊之碑

元海軍大将 高橋三吉 書
昭和36年12月 天山隊遺族会建之

特攻観音堂の左脇に慰霊碑。
「天山」は日本海軍が九七式艦上攻撃機(九七式艦攻)後継機として配備した艦上攻撃機。戦争末期には零戦や彗星とともに特攻機となっている。碑には天山を模した彫刻あり。

「天山隊之碑」 碑銘
大東亜戦争末期昭和20年4月6日鹿児島県串良基地進発沖縄周辺に来寇中の敵機動部隊に体当り攻撃を敢行し戦艦5隻空母2隻及び艦種不詳3隻を轟沈或は大破し多大の戦果を挙げ全員散華せり
神風特別攻撃隊菊水部隊天山隊員(以下個人名は略)

(もちろん記録として、歴史としては、そのような多大な戦果を挙げていなかったことは今では明らかではあるが、「戦果を挙げた」として信じて特攻された御英霊に対して無粋なことはしたくなく。歴史を知るものとして事象を理解しつつ… ここは、いち日本人の心情として碑銘に気持ちを委ねる。)

神州不滅特別攻撃隊之碑

昭和42年5月 神州不滅特別攻撃隊顕彰会建立

第二次世界大戦も昭和二十年八月十五日、祖国日本の敗戦と云う結果で終末を遂げたのであるが、終戦後の八月十九日午後二時、当時満州派遣第一六六七五部隊に所属した今田均少尉以下十名の青年将校が、国敗れて山河なし生きてかひなき生命なら死して護国の鬼たらむ、と又大切な武器である飛行機をソ連軍に引渡すのを潔しとせず、谷藤少尉の如きは結婚間もない新妻を後に乗せて、前日二宮准尉の偵察した赤峰附近に進駐し来るソ連軍戦車群に向けて大虎山飛行場を発進、前記戦車群に体当たり全員自爆を遂げたもので、その自己犠牲の精神こそ崇高にして永遠なるものなり 此処に此の壮挙を顕彰する為記念碑を建立し英霊の御魂よ永久に安かれと祈るものなり (碑銘引用は以上、以下個人名は略)

「特攻観音堂」
関連冊子などを戴きました… 公式サイト→PDFダウンロード可

「特攻平和観音経」
恭しく伏して惟んみるに天地開闢以来この世に生を享けしもの幾十百千万億兆なるを知らず。…
嗚呼尊い哉、嗚呼仰がん哉、長存不滅の光
南無特攻平和観世音菩薩…

公式サイトによると特攻平和観音様 月例参拝日が毎月18日午後2時より行われているということで。 機会があれば参列してみたいものです。


世田谷観音の境内を散策。
紙垂のある木。敬しく恭しい御神木。
ご住職のメッセージが掲示してあった。

大地は命の根源である

私達は大地を粗末に扱っている 大地は私達のものだと思っているからである そうではなくて私達が大地の一部なのだと知ればもっと愛情と敬意をもって扱うようになるだろう

阿弥陀堂(1枚目)は京都二条城からの移築という。
三層の建物は金閣寺を模している。向かい合った六角堂(不動堂/2枚目)も特徴的な様相。
寺歴は浅いが、移築建築や移築物が多い寺院。
不動堂「不動明王ならびに八大童子」は国重文。

狛獅子を従えた文殊観音様

境内にはさざれ石がありました。
「さざれ石のいわおとなりて苔のむすまで」
良き苔むす。
ちょっと交通の便は悪いけれども、とても佳き空間でした。
また訪れたいと思います。

御英霊の真心に感謝と哀悼の誠を捧げつつ…

各地の「特攻勇士の像」

訪れたことのある、ほんの一部ではございますが。

靖國神社

特攻勇士を讃える

戦局がいよいよ悪化した大東亜戦争の末期、
陸軍航空 西尾少佐以下1344名、
義列空挺隊 奥山少佐以下88名、
戦車隊 丹羽准尉以下9名、
海上挺進戦隊 岡部少佐以下266名、
海軍航空 関大尉以下2514名、
特殊潜航艇 岩佐大尉以下436名、
回天 上別府大尉以下104名、
震洋 石川大尉以下1082名、
計5843名の陸海軍人は敢然として敵艦船等に突入散華され今日の平和と繁栄の我が日本の礎となられた。
その至純崇高な殉国の精神は、国民ひとしく敬仰追悼し、永久に語り継ぐべきものである。
平成17年(2005)6月28日
財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会

群馬縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士の像 
平成21年3月建立

日本は昭和の一時期、米英及び重慶支那と大東亜戦争を戦った。
自国の安全と欧米の植民地支配からアジアを開放するためだった。
戦は優勢に推移し南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島沖縄と敵の反攻を許した。
この時、一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必至の戦法が採られた。
貧しく誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十才前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。
その勇姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現在の人よ、
命に代えて何を守ろうとしたか、
この像に問い続けて欲しい。

栃木縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士の像

私たちは決して忘れない

かつて太平洋戦争の末期、敵の圧倒的戦力を阻止しようと爆弾をかかえ、あるいは魚雷を抱いて敵艦等に体当たりを敢行した特攻隊員のことを。
祖国の安泰を信じ、太平洋の陸に海に空に散華した特攻隊員は、全国で実に五千八百余柱、本県で九十四柱に及ぶ。
このたび、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会寄贈の「特攻勇士の像」を、多くの県民の浄財によってここに顕彰碑として建立することができた。
特攻隊員の崇高な美挙が、この碑によって永遠に語り継がれることを願うものである。
平成二十二年八月十五日
     栃木県特攻慰霊顕彰の会

埼玉縣護國神社

埼玉県特攻勇士之像 (平成25年建立)

あの苛烈を極めた大東亜戦争の末期、多くの埼玉県出身の若者たちが特攻隊員となり家族・故郷・祖国を守るため、烈々たる祖国愛に燃え敢然として散華されました。
生還を期せず、若い命を進んで国に捧げられたこれら特攻隊員の崇高な精神が永く県民の心に刻まれるとともに次代を担う若門精神の糧となることを願うものであります。
ここに散華された英霊の勇姿を末永く後世に伝えるため、公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会のご協力を得て、埼玉県下遺族、戦友、崇敬者団体をはじめ幅広い県民の真心籠るご浄財をもって埼玉県特攻勇士之象を建立し謹んで奉納いたします。 
平成二十五年十月吉日
埼玉県特攻勇士之像建設委員会

千葉縣護國神社

あゝ特攻
千葉県特攻勇士顕彰碑

我が祖国日本は昭和16-20年米英支ソ蘭豪と大東亜戦争を戦った。
自国の安泰と欧米の植民地支配からアジアを解放するためだった。
戦は連戦連勝南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島から沖縄と敵の反攻を許した。
この時一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必死の特攻戦法が採られた。 貧しくとも誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十歳前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。

その雄姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現代の人よ、
命に代えて何を守ろうとしたのか、
この像に問いかけてほしい。

戦後同26年5月3日連合国最高司令官マッカーサー元帥が米上院軍事外交合同委員会で日本の戦は自衛のためであったと証言し米報道機関が全米に発信した。

日本国民よ、この事実を銘記せよ。

長野縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士之像

大東亜戦争の末期、特別攻撃隊が編成され、祖国の平和と繁栄を祈り、愛おしい父母妻子家族と別れ、一機一艇をもって敵艦に体当たりして、勇戦敢闘し散華されました。
長野県出身者は、陸海軍合せ百六十余名の若者が特攻隊員として戦死されております。
松本市内には、出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立って行きました。
又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。
国家存亡の危機に敢然と立ち向かわれ、今日の平和な日本の礎となられた諸英霊の崇高なる精神を永く県民の心に刻み 、後世に伝えるため、終戦七十周年を期しここに建立いたしました。
平成27年10月10日 長野県特攻勇士之像建立委員会

國の為 誠の道を一筋に
 進み行くこそ大和魂
  秋山白厳 詠


特攻勇士之像 に拝する機会がありましたら、記事を追記してまいります・・・

陸軍調布飛行場跡散策

平成28年~

陸軍調布飛行場跡散策 (調布市/三鷹市/府中市)

  • 調布飛行場周辺
  • 高射砲台座跡
  • 飛行場排水路/排水門 ・門柱
  • 掩体壕(三鷹市大沢2基/白糸台)
  • 飛行場工事で遷座した神社仏閣
  • 調布郷土博物館保存「陸軍境界石」
  • 浅間山公園
  • 下仙川高射砲陣地跡

当時の調布飛行場位置関係

昭和20年1月6日に陸軍撮影の府中調布界隈の空撮写真。グーグルマップを加工。

http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス より
昭和20年1月6日に陸軍撮影の府中調布界隈の空撮写真を加工。

現在の調布飛行場は伊豆諸島を結ぶ東京島嶼部の大事な空路。
かつては首都防衛の要たる陸軍調布飛行場。

まずは家から自転車にて。
陸軍調布飛行場に関連する戦跡を幾つか廻ってみた全体の行程は、調布駅起点で4時間18キロの行程。

要所を押さえるのであれば、現在の調布飛行場を中心に武蔵野の森公園内の掩体壕2つ、白糸台駅近くの掩体壕などが見学しやすいです。

飛行場に向かつつ。
まずは三鷹市の「大沢コミュニティ通り」。
調布から飛行場方面にアクセスする道路。 この道路はかつての軍用道路。

大沢コミュニティの交差点から野川を望む。
調布飛行場側から見て対岸に、ちょっとした高台がある。
この高台に高射砲陣地があったのです。

首都防衛高射砲陣地跡
首都防衛高射砲陣地 調布隊

通称「どんぐり山」
保育園と老人ホームがあるこの場所が「首都防衛高射砲陣地跡」。 樹木で視界は覆われておりますが調布飛行場を見下ろす高台に位置しております。 ここには幾つか当時の名残のものがあり。

当時ここには6つの高射砲が備えられ、現在は4つの高射砲台座跡が残っているという。
敷地外より3つの台座跡が確認出来ました。

なお私が訪れたのは日曜日ということもあり、保育園はお休みで誰もいらっしゃいませんでした。
保育園がやっている時は、念のため関係者にご確認されて見学するのが良いと思います。
まあ、外からも見えますが。一応。

太平洋戦争
首都防衛高射砲陣地跡
東部第一九〇三部隊調布隊

戦火の本土に近づくに及び 首都防衛のため 昭和18年9月 此の地に 東部第1903部隊調布隊は 仲午六隊長以下186名を以て 陣地を構築し 高射砲6門 観測機材を設置して布陣した 数次にわたる米軍との交戦により 戦死4名負傷者多数を数えた
其の後 戦況の推移により日本海側に残された 唯一の食糧補給港である富山湾伏木港防衛のため 昭和20年4月末 北作健二隊長以下転進する迄 此の地で任務を遂行した 戦後 鈴木平三郎氏が陣地を現状のまま保存しており 且つこの地を福祉法人に寄付し永久に保存して下さるので 此の度 戦友一同相計りこの碑を建立し 永遠の平和を希求する共に英霊四君の冥福を祈り続ける事にした
 昭和56年2月吉日建立
 調布隊戦友一同

高射砲陣地跡石碑。
なお、日曜日で保育園休園のため望遠撮影です。前述同じく保育園内にありますので、開園時は許可を得て見学がベストです。

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」
1945年01月06日陸軍撮影(95D4-C2-20)より

どんぐり山をあとにして、飛行場方面へ。
次のポイントは野川。調布飛行場建設当時からの排水門が野川に面して残ってます。

陸軍調布飛行場 排水門・排水溝

この排水門から延びる排水溝が調布飛行場に向けて一部残っております。
このあたりも陸軍調布飛行場建設時からの名残。溝を固める玉石がポイント。
排水溝の話はまた後ほど、武蔵野の森公園内にて触れる予定。

陸軍調布飛行場 門柱

さて、飛行場方面に向かいましょう。
大沢五丁目バス停近く、道路の両脇にある大谷石製の門柱。
こちらは、陸軍調布飛行場名残の門柱。

調布飛行場。 昭和14年(1939)に建設着手。
門柱は竣工時に正門として設置。
戦後は戦争記憶の生き証人として保存されている。

門柱には「東京調布飛行場」と記載…ん?東東

これは「東京」の異体字である「東亰」と掘られていたものを戦後に何者か(GHQとも)が悪戯した為とされている。
確かに「亰」に追加された縦線の掘りが不自然。

調布飛行場。管制塔。
2013年に完成したばかりの新しい建物。 ターミナルからはちょっと離れますが奥の格納庫に展開されるプロペラカフェも人気スポット。

調布飛行場

飛行場の北側から西側にかけては、都立武蔵野の森公園が展開されてます。
そこに保存されている掩体壕が2つ。
三鷹市大沢。 大沢1号掩体壕、大沢2号掩体壕。
次の目的地はこちら。 航空写真でも掩体壕がわかります。

大沢1号掩体壕

大沢1号掩体壕。半地下構造。
入り口は塞がれており、そこには陸軍三式戦闘機「飛燕」の姿が掩体イメージとして描かれています。

大沢1号掩体壕。
あちこちから。
内部は完全に塞がれてますね。

掩体壕に格納されていた飛燕を1/10スケールで再現。
掩体壕カットモデル。 往時を偲ぶ。

解説看板。

_φ(・_・ 陸軍調布飛行場は南北1000メートル。東西700メートル。
掩体壕は有蓋30基、無蓋約30基あった。
現存は三鷹市武蔵野の森内に2基。府中市白糸台界隈に2基。

大沢2号掩体壕

こちらは、大沢2号。 同じく武蔵野の森公園内に。
蓋はされておらず、内部が覗ける様になってます。

ちょっとした丘の上から見ることも可能。
もっともこの場所は掩体壕を見るというよりも調布飛行場を見渡すことが出来る丘。

玉石造の水路

武蔵野の森公園の北側には玉石の水路が残る。
玉石は多摩川から。西武多摩川線の引き込みを利用。
こちらも陸軍調布飛行場時代の名残。

調布飛行場

調布飛行場を見渡す丘の上で休息。
ちょうど、 ドルニエ228が調布飛行場に帰ってきました。(三宅島航路406便)

おっ。
地上でドルニエ228がクロス。
三宅島航路406便の帰投、そしてこのあとは407便の離陸となります。
ちょうど良いタイミング。

ドルニエ228の離陸。
かつては首都防衛の要として三式戦闘機「飛燕」が飛び立ったこの場所から、 今は東京島嶼地域の要としてドルニエが飛ぶ。
プロペラの音をなびかせながら。

飛燕のプロペラ(一〇〇式輸送機プロペラと判明)

調布飛行場の北側には武蔵野の森公園。人見街道を挟んだ更に北側に野川公園。
その野川公園では「飛燕のプロペラ」が展示してあるという話を聞いたので行ってみました。

が、結論から書きますと「現在は展示中止。」
野川公園サービスセンターの中の人から、お話をお伺いしてみました。

野川公園で過去に展示していた「飛燕のプロペラ」
もともとは武蔵野の森公園の掩体壕とあわせて展示する計画でしたが、準備が整わなかったために一時的に野川公園で展示してました。現在はプロペラは武蔵野の森公園に返却しております。しかし、損傷が酷いために武蔵野の森公園での展示見通しがついてない状況のようです。」 とのことで。
ネットを検索すると散見される野川公園仮展示の「飛燕プロペラ」は現在は武蔵野の森公園預かりで非公開になっております。


「飛燕のプロペラ」は「武蔵野の森公園サービスセンター」で2019年10月より常設展示となりました。

※さらに研究の結果、一〇〇式輸送機プロペラと判明しました。
 展示当時は飛燕としての展示が施されているが、現在は展示形態も異なっているので注意
 再訪します。。。

プロペラ発見の経緯
 三鷹市が都立武蔵野の森公園の一角で進めていた大沢総合グラウンド整備事業で、平成21(2009)11月16日、下水管布設工事を行っていた際に、戦闘機のプロペラ3点が発見されました。プロペラは、工事関係者によって取り上げれ、三鷹市教育委員会に報告されました。
 当初予定していたグラウンドの管理棟部分の試堀調査終了後に、プロペラ発見地点の補足調査が行われ、発見地点の位置測量、出土深度の確認及び周囲の精査が行われました。プロペラは、南北8.8m(東西は、工事で掘削され、計測できなかった)、深さ2.3mの穴に埋まっていたことが確認されました。さらに、既に発見されていた3点のプロペラ以外に、他のプロペラ片数点が確認されましたが、腐食が激しく原形を留めていませんでした。また、穴の底面をさらに50cm掘り下げた小穴からスピナー(プロペラ軸の先端部分)が出土しました。専門家による鑑定の結果、スピナーとプロペラ1点は五式戦闘機のもの、残りの2点は三式戦闘機(飛燕)のものと判断されました。

近藤勇生家跡

調布飛行場北側の人見街道。
鎮座しているのは近藤神社。
近藤勇の生家跡に。名残としては産湯の井戸が残る。
近藤家は飛行場建設に巻き込まれている。

近藤勇は宮川家のうまれで近藤家に養子にでている。なので産湯の井戸は宮川家。
人見街道の北側にはさきほどの宮川家の近藤勇産湯の井戸と近藤神社があり、人見街道の南側すなわち調布飛行場側に現在も近藤家が残る。

近藤勇ゆかりの近藤道場(天然理心流道場)「撥雲館」。
調布飛行場の北側、人見街道に面した地に残る。
調布飛行場建設の為に従来の近藤家は取り壊されて移動しており、撥雲館もあわせて現在の近藤家敷地内に移築。

多磨霊園

人見街道を西に向かえば多磨霊園。
北西部に位置する多磨霊園や浅間山は樹木の多さをいかして分散秘匿地区として活用されていた、と。

現在の多磨霊園に飛行場関連の何か?が残っているわけではなく。
噴水塔に米軍機による機銃掃射の跡があるという話も聞いたが、老朽化で立ち入り出来ないのでは致し方がなく。


さて、人見街道から一気に南下。西武多摩川線に沿うように。
白糸台方面、甲州街道方面へと向かいます。

白糸台の掩体壕(非公開)

府中市白糸台界隈には掩体壕が二つ。そのうちの一つは民有地ゆえ詳細な場所は省略。
掩体壕の上に建屋が乗っかっており、掩体壕内が工場。
詳細は検索すれば過去に見学された方の内部レポもあがっておりますんで……。

白糸台の掩体壕

府中市白糸台の掩体壕。 以前は結構な荒地でしたが、近年再整備されて非常に良い保存状態となっております。

府中市の白糸台掩体壕。 周辺歴史マップ。

府中市の白糸台掩体壕。 案内看板。

道生神社

白糸台掩体壕をあとにして。
飛田給の道生神社へ。

「道生神社」(ミチオイ・ドウショウ)
祭神・宇気母智命(ウケモチノミコト)

創建年代は不詳。明治17年に飛田村の鎮守たる飛田神社と道生神社が合祀。

飛田神社(稲荷社)と道生神社(山王社)の合祀。
社殿は大正4年建立。 旧社地が昭和18年に調布飛行場用地となった為に現在地に遷座。現在地は旧品川通りに面している。

狛犬は昭和6年建立。
灯篭と手水盤は社殿と同じく大正4年建立。
つまり、社殿・灯篭・手水盤・狛犬は今は調布飛行場用地となってしまった旧社地からそのまま現在地に遷座とわかる。

調布市飛田給の道生神社。
飛田給とは飛田氏の給田地の意があるともされる。
その飛田村は陸軍調布飛行場となり鎮守様は御遷座。
遷座先でも往時の名残が境内に残っているのは嬉しく。

調布飛行場用地として、1社3寺が旧社地からの遷座を余儀無くされております。

1社は道生神社。
3寺は長専寺・覚證寺・ 光岳寺 。

画像は飛田給の道生神社までのロガーログ。
旧社地は飛行場用地となり、南に遷座。

分散秘匿地区。 掩体壕が足りない為に調布飛行場周辺で樹木が茂る場所が飛行機秘匿エリアとして活用。多磨霊園・浅間山・下石原八幡神社などが秘匿地区として使用。

下石原八幡神社

創建年代は不詳。 下石原地区の鎮守。当地の領主であった太田善右衛門(太田資忠(=太田道灌の弟とも甥とも?)を祖とする)の勧請とされる。
旧社格は村社。

戦時中は分散秘匿地区として陸軍調布飛行場の航空機を隠す為に境内林が活用された、と。
往時の面影を感じる事は難しいけれども、気にしながら境内林を眺めてみる

調布市郷土博物館

入口の脇にひっそりと立つ石標

陸軍境界石(陸軍標石)
説明はないけども、市内には「陸軍調布飛行場」がありましたので、その関係かと思われます。

浅間山

平成29年11月27日。
この日は府中市の浅間山公園に散策に赴いておりました。
今は長閑な自然公園であるけども、歴史を辿れば陸軍調布飛行場と府中燃料廠ゆかりの地ともいう。
とは言いつつも戦争に関する何かはあまり残っていない。

浅間山公園

東京の都立公園。 「堂山」「中山」「前山」と呼称される3つの頂から構成されている山。
標高79.6メートルの堂山山頂には浅間神社が鎮座。
周辺に広がる人見ヶ原の地は南北朝期の正平7年(1352)には足利尊氏と新田義興・義宗兄弟が戦った古戦場(武蔵野合戦・人見ヶ原の合戦)でもある。

前山の山頂附近には「人見四郎の墓」跡がある。
人見氏は武蔵七党のひとつ猪俣党。周辺には「人見街道」と名も残っており近隣の豪族として名を馳せていたことが窺い知れる。人見四郎は平家物語の一ノ谷の戦の場面に源氏方として名を残す人物という。
墓跡の碑は平成2年府中市の建立。

前山から中山にかけての道 。

前山と中山を結ぶあたり、西面する高台は「関東の富士見百景」に制定された場所。
富士山と並んで見えるビル群は府中の町並み。
ここから富士山までは81キロの距離とのことで。

一度、山をおりて堂山の下へ。
この堂山の山頂には、その名の通りに「浅間神社」が鎮座。 麓から山頂まで一直線に参道が伸びています。
これは良いです。

浅間神社(人見浅間神社)
由緒等は不詳。

堂山の山頂

中山の麓にある祠。水神社。
堂山の浅間神社の御神体は中山の清泉から出現したものであるとも。

おみたらし
浅間神このところより出現すと伝う
人見浅間神社・水神社ともに人見稲荷神社(府中市若松町5-7-6)の管理。

陸軍燃料廠の秘匿燃料タンク跡

陸軍燃料廠の秘匿燃料タンクがあったという浅間山公園。
今はなんとなく窪地が広がっている数カ所に、当時は秘匿燃料タンクがあったらしい。
面影はないけど、広がる空間から当時を夢想してみる。

下仙川高射砲陣地跡

京王線仙川駅

陸軍下仙川高射砲陣地跡
首都防衛高射砲陣地 下仙川隊


東京都調布市若葉町1丁目16−19付近
調布飛行場の南西にあった高射砲陣地。当時の高射砲陣地台座の極一部が何気なく残っており、今は姿を変え自治体の住宅案内地図の台座となっておりました。

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」
http://mapps.gsi.go.jp/ 
1944年12月23日陸軍撮影(95C3-C6-101)画像より抜粋。

半円状に高射砲陣地が構築されているのがわかると思います。 この陣地の一番上の円が前ツイの台座跡となるようです。

高射砲台座跡。ほんの僅かだけ残った遺跡。

首都防衛高射砲陣地 下仙川隊

高射砲陣地台座跡の近くに。
一説には弾薬庫の跡とも。
私有地の奥にあるので間近で見ることは叶わず。

「二・二六事件」雑感

元記事は平成29年2月投稿、平成31年4月ほか追記あり

深くは掘り下げずに、思いついたことをちらりほらりと書いてみようかと思います。陸軍さんの動きは、さほどに詳しくないので。 その歴史的な評価や青年将校の起こした行動の是非は別として。

2月26日が来るたびに、その歴史的な節目に何かを感じざるを得ない気になってしまいます。

実際には「あー、二・二六事件ね。」ぐらいで終わってしまいますが。 歴史的なフレーズとして、この「二・二六事件」という具体的な日にちはいやがおうでも印象深いものです。

そんな2月に渋谷にある慰霊碑に足を運んできました。
実は訪れたことがなかったので。
渋谷の雑踏を抜け、NHKの真向かい。隣は渋谷税務署と東京法務局渋谷出張所。 東京陸軍刑務所跡地。そこに「二・二六事件慰霊碑」がある。


二・二六事件慰霊碑

東京陸軍刑務所跡にたつ慰霊碑。
観音像は昭和40年2月26日建立 。
昭和11年7月12日、首謀者に対する刑は執行された。
彼らの行動の是非は問えない。時代のうねりの中で、彼らもまた翻弄され、そこに正解は求めることはナンセンスだから。
合掌。

二・二六事件慰霊碑
碑文
昭和十一年二月二十六日未明、東京衛戍の歩兵第1第3聯隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企圖していた、野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。
當時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸・陸軍省・警視廳等を占據した。 齋藤内大臣・高橋大蔵大臣・渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い岡田総理大臣・牧野前内大臣は危く難を免れた。
此の間、重臣警備の任に當たっていた警察官のうち五名が殉職した。
蹶起部隊に對する處置は四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮壓に變轉したが二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。

世に是を二・二六事件という。

昭和維新の企圖壊れて首謀者中、野中、河野両大尉は自決、香田、安藤大尉以下十九名は軍法會議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した。
此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した十九名と是に先立つ永田事件の相澤三郎中佐が刑死した處刑場跡の一角である。
此の因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく廣く有志の浄財を集め事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を發願し、今ここに其の竣工をみた。
謹んで諸霊の冥福を祈る。
 昭和四十年二月二十六日
 佛心會代表 河野司 誌

碑銘にある佛心會代表の河野司氏は、河野壽陸軍大尉の実兄。
河野壽陸軍大尉は二・二六事件に参加。
河野隊を率いて湯河原で牧野伸顕侍従長(伯爵)を襲撃。その際に負傷し、後に自決。


真偽は不明だが、この慰霊碑の脇にある赤レンガ壁は東京陸軍刑務所の名残を残しているもの(残存壁)、とされている。
梅の花が咲く慰霊碑の前で、往時の事柄を偲びつつ静かに手をあわせる。


令和三年(2021)2月26日、撮影。


渋谷の陸軍境界石

若者が闊歩する街「渋谷」。
そんな渋谷の繁華街の只中に陸軍標石はありました。
(往時より数メートル移動して保存されております。)
渋谷区清掃事務所宇田川分室のフェンスの中。駐輪場との間に。

渋谷に二・二六事件と関連する陸軍施設(東京陸軍刑務所)があった名残の一つ。 標石には「陸軍用地」と刻まれておりました。

往時を偲ぶ歴史遺産。
渋谷の陸軍用地。
もちろん、ここには何も説明も案内はないけれども、明確な意志で保存されている感はします。フェンスの内側にあるというにはそれだけで安心感があります。


二・二六事件と海軍

別記事にて。


二十二士之墓(賢崇寺)

平成31年4月参拝

東京都港区元麻布鎮座。鍋島家の菩提寺。

境内には「二・二六事件の青年将校の墓 」がある。

二・二六事件で殉難した「二十二士」を祀る。これは死刑になった19名に、自決した野中四郎・河野寿の2名、相沢事件で死刑となった相沢三郎が含まれている。 現在の墓碑は、昭和27年(1952)建立。

昭和11年2月29日
 野中四郎
昭和11年3月6日
 河野壽
昭和11年6月3日
 相澤三郎
昭和11年7月12日
 香田清貞
 安藤輝三
 栗原安秀
 竹嶌継夫
 対馬勝雄
 中橋基明
 丹生誠忠
 坂井直
 田中勝
 中島莞爾
 安田優
 高橋太郎
 林八郎
 渋川善助
 水上源一
昭和12年8月19日
 村中孝次
 磯部浅一
 北輝次郎
 西田税


磯部浅一墓

二・二六事件の青年将校の一人、磯部浅一の墓。
別記事にて


永田鉄山

その引き金となったのが相沢事件(永田事件)と呼ばれる陸軍派閥抗争。
昭和10年8月12日。皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、皇道派の首領であった真崎甚三郎教育総監を更迭した統制派の永田鉄山軍務局長を、陸軍省において白昼斬殺した事件。

永田鉄山軍務局長を殺害した相沢三郎陸軍中佐は、二・二六事件首謀者の処刑(昭和11年7月12日)に先立つ昭和11年7月3日、東京陸軍刑務所内で銃殺刑に処された。(二・二六慰霊碑碑文にも永田事件の相沢中佐の記載がありました)

写真は諏訪護國神社の永田鉄山中将像。

陸軍の派閥抗争。皇道派と統制派。こんなのを説明しようとしたらそれだけで論文が書けそうなので止めておきます。
統制派の永田が皇道派の相沢に殺され、暴発した皇道派青年将校による二・二六事件の勃発により皇道派は衰退。で、永田のあとには統制派の東条と武藤などが皇道派を駆逐し陸軍を牛耳る、と。

永田鉄山の墓は青山霊園にある。


九段下の「九段会館」(軍人会館)

昭和11年2月27日。戒厳令発令に伴い戒厳司令部が設置されたのが軍人会館であった。東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐が戒厳参謀に就任。


岡田内閣大蔵大臣
高橋是清

庭園が残る。高橋邸の母屋は現在は「江戸東京たてもの園」に移築。
昭和11年2月26日。赤坂の私邸で叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ暗殺される。享年82(満81歳没) 墓は多磨霊園に。

別記事にて。


内閣総理大臣
海軍大将 岡田啓介 墓

海軍大将、第31代内閣総理大臣。 事件で襲撃されるも難を逃れ一命を取り留めたが、身代わりに首相秘書官で松尾伝蔵(義弟)が殺害。 その後は重臣として戦争終結に奔走。昭和27年10月17日84歳没。 現在は多磨霊園に眠る。

岡田啓介 墓(撮影は2016年2月)

岡田内閣内大臣
海軍大将 齋藤實 墓

従一位大勲位子爵。海軍大将。第30代内閣総理大臣。岡田内閣時の内大臣。 二・二六事件にて射殺される。 満77歳没。 現在は、多磨霊園に眠る。

斉藤実 墓(撮影は2016年2月)

陸軍教育総監
陸軍大将 渡辺錠太郎 墓

岡田内閣時の陸軍教育総監。 二・二六事件にて射殺される。満61歳没。
二・二六事件の舞台でもある杉並区上荻窪にあった渡辺錠太郎邸は2008年に取り壊しされている・・・。
現在は、多磨霊園に眠る。

渡辺錠太郎 墓 (撮影は2016年2月)

岡田内閣総理大臣秘書官
迫水久常 墓 (さこみずひさつね)

政治家。岡田啓介は岳父。妻が岡田啓介の次女。 岡田内閣内閣総理大臣秘書官。 二・二六事件に際しては岡田啓介救出に奔走。 鈴木貫太郎内閣書記官長として終戦工作の一翼を担う。 現在は多磨霊園に眠る。


迫水久常 墓(撮影は2016年2月)

関連を見つけましたら随時追記していきます。

青砥高射砲陣地跡

平成30年6月 東京都葛飾区白鳥

京成線お花茶屋駅より15分ほど歩く。
かつて、このあたりには「青砥高射砲陣地」が展開されており、その痕跡が今も僅かに残っているという。ちょっと見物してみましょう。

青砥高射砲陣地跡

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」
http://mapps.gsi.go.jp/ 
写真番号:USA-R3163-40 

昭和24年09月07日米軍撮影写真をベースに該当部分を加工。
わかりやすいですね。高射砲陣地跡の台座がくっきりと写真として残っております。今回はABCDの4箇所を観察。

A地点。


かなりわかりにくいですが、砂利の駐車場の真ん中にうっすらと円形のコンクリート部分があります。この場所に高射砲台座があった、と。
うん。これは地味(に楽しい)散策です。

B地点。

駐車場内。
前述の米軍撮影の航空写真で、高射砲陣地が3箇所確認でき、高射砲が6台座ずつ配置され計18台座があったことがわかる。
その高射砲陣地遺構の中でも、ここが今でも一番わかりやすく残っている有名なポイント。
駐車場の中に円形の台座跡がくっきりと。

C地点。

路地の奥に。 かつての高射砲陣地の台座は、今はアパート貯水タンク台座として活用されていました。
なお写真は道路から望遠で。立ち入りは遠慮しました。一枚目写真はトリミング。
円形台座が目に見えるかたちで残ってます。

D地点。

現在は建物台座として使われているが、これも高射砲台座。
このエリアには他にも高射砲台座跡が残っているそうですが、私有地の奥などに当たる可能性もあり、公道から見える範囲はこのくらい。

生活に埋没している、ちょっとした史跡戦跡を見つけるのも感慨深い散策です