「陸軍」カテゴリーアーカイブ

市ヶ谷周辺の陸軍史跡散策

平成28年~29年撮影

市谷亀ヶ岡八幡宮

八紘一宇

裏参道(左内坂)の方向に向かいましょう。

裏参道。
右手は駿台予備校。左手は市ヶ谷駐屯地。

市谷亀ヶ岡八幡宮の陸軍用地境界標石

今でも境界の仕事をしている標石がアジサイに隠されるようにありました。 本来、地中に埋まっているべき部位も見えるので移築保存かも。

市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮の裏参道を往復していたら、更にもう一つ見つけました。 アジサイの裏側に。 二つ目。 良い状態です。

おっ、違う。
これは現在の境界石。 基本的に目的は同じ標石ですが。

引き続き裏参道にて。 三つ目。
これは左右の塀に対して、埋没しながら凄い状態で境界してます。

「陸軍用地」標記ではなく 「陸軍省所轄」境界石標石

市ヶ谷の亀ヶ岡八幡宮裏参道入口。
左内坂。
何度も参拝している身近な神社でも興味のアンテナの張り方次第で、まだまだ知らなかった発見がある。

長泰寺

市谷亀岡八幡宮の裏となりに鎮座している「長泰寺」

境内にある碑を見学。門を入って右手にありました。

祭馬碑

陸軍士官学校馬術教官部

陸軍士官学校 馬術教官部軍属之碑

陸軍少将安満欽一書

長泰寺の境内に、すぐ隣の市ヶ谷陸軍士官学校馬術教官部ゆかりの碑が2つ残っておりました。

陸士(陸軍士官学校)で犠牲になった軍馬や軍属の方々を祀った碑。
陸軍少将安満欽一は1920年(大9)に陸軍士官学校本科長に就任。

外濠公園

KR市ヶ谷駅からお堀に沿って伸びている細長い公園。

ここには「東京市外濠公園」旧名碑が残っております。
公園は1927年(昭2)に東京市によって整備。
「東京市」の響きにワクワクするのは歴史クラスタ

名前のとおりに外濠に沿って公園が整備されています。
 外濠
 JR線路
 土手
 外濠公園
 法政大学
 九段上(靖國など)
こんな感じの並び。
中央線と総武線を撮るには良い場所。
無駄に流し撮りの練習も出来ます(失敗するけど

陸軍軍医学校跡地(東京逓信病院)

外濠公園の近くにかつてあった陸軍施設。
1888年(明21)現在の「東京逓信病院」の地に「陸軍軍医学校」が開校。
1929年(昭4)に軍医学校は戸山(厚生労働省戸山研究庁舎界隈)へ移転。

現在の東京逓信病院は陸軍軍医学校移転後の昭和13年に、逓信省職員と家族を対象の職域病院として開業。1986年(昭61)に一般に解放。
この病院の隣道は地図を見れば分かるとおりに「北の方の某総連」のせいで非常に警備厳重。そんな中を緊張しながら歩いてみました。

現在の東京逓信病院

郵便マークの境界石がありました。
さすが逓信病院。

緊張します。
お巡りさんの視界の中で、しゃがみこんで写真を。
2つ見つけましたが写真は1種類だけ。
長々としゃがみこんでマジマジ見れる環境ではなく。

陸軍軍医学校 陸軍境界標石

現在の東京逓信病院と法政大学富士見坂校舎のある通り。
総連の向かい側、法政大学の入口脇近く。

このご時世でお巡りさんがたくさんいる場所。
法政大学の警備員さんもいらっしゃる場所。
とっても警備が厳重。

陸軍軍医学校の陸軍用地境界標石の見学。 緊張しました…

防衛省の市谷台がこちらで

防衛省・市ヶ谷台ツアー

平成30年6月撮影

6月某日。
縁あって防衛省・市ヶ谷地区の見学を。
通称「市ヶ谷台ツアー」に参加してきましたので、そのときのレポを以下に。

※令和3年(2021年)、現在とはツアーの内容が異なります。

令和3年は、大本営地下壕が見学コースに加わりましたが、メモリアルゾーンは見学コースから無くなりました。以下のレポートも参照に。



市ヶ谷台ツアー

通常は1回のツアーで多いときは60人から100人ほど集まるという人気の見学会。私が参加した日は団体のキャンセルがあったとのことで、なんと10人ほどの少人数のツアーに。
「皆さんラッキーですよ。ゆっくり案内できます」と、案内の方からご挨拶があったぐらいの少人数だったようです。

見学時は撮影可能エリアと撮影不可エリアがあり。もちろん掲載していく写真は撮影可能なところのみ。

私が参加したのは午前の部。午前の部はメモリアルゾーンの見学があり一番興味深かった。
午後の部は月~木は広報展示室見学、金は防衛研究所見学ということで3パターンある。(他も気になる…)


庁舎A棟前

儀仗広場

来賓がいらっしゃると、この広場で儀仗隊が儀仗を行ってますね。
広場の「日の丸」は、雨の日は晴れの日の3/1の大きさになったり、祝日はもう一回り大きいものになったりするらしい。

庁舎A棟前の「儀仗広場」の下側。
木々の中に見える「石灯籠」、実は「地下壕の通気口」でもある。
石灯籠カモフラージュ。
地下壕は4メートルのコンクリート壁で守られ、地下14メートルに3本掘られており、地下には炊事場や食堂なども設けられていた。

地下壕の発掘調査などは、このあと訪れる「市ヶ谷記念館」内での展示コーナーで知ることができます。

展示機。
市ヶ谷ツアー内で唯一の自衛隊装備品を見学。

UH-1H ひよどり


市ヶ谷記念館

昭和12年(1937)陸軍士官学校本部として1号館が建設。
その後、士官学校は座間、予科士官学校は朝霞に移転し、昭和16年に大本営陸軍部・陸軍省・参謀本部が市ヶ谷台に置かれた。終戦後はGHQに接収され極東軍事裁判法廷として使用。1998年に一部を移築復元し現在に至る。

市ヶ谷記念館
当記念館は、旧1号館の解体に伴いその象徴的部分とされる玄関前車寄せ、旧大講堂、旧便殿の間、旧陸軍大臣室を復元した建物であります。


市ヶ谷記念館
大講堂

昭和9年に「陸軍士官学校・大講堂」として作られ、終戦後の昭和21年5月から昭和23年11月までの間は「極東国際軍事裁判(東京裁判)」の法廷としても使用された空間。

復元は裁判当時の姿ではなく、戦前の陸軍大講堂の姿、ゆえに玉座もある。

玉座の場所に通訳ブース、その正面が特別傍聴席など。
向かって左が裁判官席、右が被告席。
撮影位置(講堂入口)は傍聴人席(2階)及び記者席(1階)から。

玉座側から。東京裁判当時は通訳ブースが置かれていた。
玉座から見た視点は遠近法が使われている。
本来は2階席は 陛下の玉座より高い位置にあるものの、玉座の 陛下からは2階が高く見えないように工夫されている。入り口の大扉も小さく見せる工夫あり。

大講堂入構時に映像「市ヶ谷台の歩み」を視聴。
著作権の兼ね合いで撮影は禁止。まずはこの映像で市ヶ谷台の歴史を学びます。

大講堂内は映像と展示物(著作権に関わるもの・撮禁表示有)の一部撮影禁止。 また撮影可能であってもフラッシュの使用は禁止。

パンフレット「市ヶ谷記念館 市ヶ谷台の歩み」 写真を撮ったものもあれば撮り忘れたものもある(!)ので、先にパンフレットを参考資料として置いておきます。


玉座

玉座の床は箱根の寄木細工。強度を保つためという。
そして玉座へ至る 陛下専用の階段。
写真では伝えにくいが、 陛下が階段を上がり易いように最初の段には中央に盛り上がりが、上部4段は中央に窪みが施されているという。


大講堂1階に歴史的な展示物が並んでいるので個人的な興味で幾点か紹介して見たいと思います。

阿南惟幾陸軍大将 御着用の軍服
(冬服)

阿南陸軍大臣の冬服は市ヶ谷台にあり、そして夏服は靖國遊就館に。

市ヶ谷台には後述しますが「メモリアルゾーン」があり、一角に「阿南惟幾荼毘の碑」もある。見学は不可でしたがパンフを戴きました。(不可だった理由も後述)

終戦の8月15日に陸軍大臣として三宅坂官舎で自刃された阿南大将の遺体は15日夜に荼毘に。
再整備時にその地にあった碑を移設。墓は多磨霊園に。

多磨霊園 阿南惟幾之墓

加藤隼戦闘隊 加藤少将の銅像の原型  

ガラスの反射が制御できませんでしたが…

加藤建夫陸軍中佐(戦死後に陸軍少将)


エンジンの音 轟々と
隼は征く 雲の果て
翼に輝く 日の丸と
胸に描きし 赤鷲の
印はわれらが 戦闘機


山下奉文大将から知人に宛てた礼状

昭和11年


極東国際軍事裁判用壁掛地図

極東国際軍事裁判(東京裁判)では多くの地図が法廷の壁に掛けられ使用されたが、この地図もマッカーサー率いるGHQが日本地図株式会社(当時)に発注し、同社が昭和21年5月3日に納入した地図と同じものである。
満洲、支那、佛印…


帝國軍艦比叡進水紀念品

軍艦比叡模型(文鎮)


航空母艦 飛龍模型 壹

昭和12年航空母艦進水記念として横須賀鎮守府長官より旧竹田宮王殿下に贈呈されたもの

横須賀鎮守府長官 百武源吾(海軍) から 竹田宮恒徳王(陸軍) への贈呈か。


今村中将着用品

功二級金鵄勲章
勲一等瑞宝章正章と副章
勲一等旭日大綬章正章と副章
今村中将着用品

今村均 陸軍大将 開戦時は第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。終戦時は第8方面軍司令官としてラバウルを守りきっている。


梅津美治郎大将愛用の軍刀  

終戦時の陸軍参謀総長、降伏文書調印式全権。東京裁判で終身刑、獄中死。


荒木貞夫大将愛用の軍刀  

皇道派の重鎮。二・二六事件で予備役に。東京裁判で終身刑。のち釈放。


栗林中将からの画手紙
(長男 太郎氏に宛てた手紙)

栗林忠道 陸軍大将
硫黄島の戦いにおける日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長・小笠原方面陸海軍最高指揮官)として防衛戦を指揮し玉砕。


栗林忠道 陸軍大将 からの 御書簡
(硫黄島から愛嬢 たか子さんへ)

栗林閣下は、次女のたか子さんを たこちゃん と呼び、「戦地のお父さんより」と手紙を送っている。


西郷従龍ゆかりの品

従龍って誰?と思って調べてみました。
西郷隆盛の弟 西郷従道 元帥海軍大将 初代海軍大臣 の孫にあたる人物でした。
西郷従龍 陸軍少佐

一階部分の展示は盛りだくさんでもっと時間が欲しいところでしたが時間切れ。
二階へ誘導されます。


旧陸軍大臣室

士官学校時代、士官学校長室として使用された。 昭和16年以降は陸軍大臣室であったが、その後は陸上自衛隊東部方面総監の執務室として使われた。

部屋の中央には解体前の「旧1号館」の縮尺1/50模型がドンッっと置かれております。陸自時代のものになりますね。

ちなみに模型でも掲げられている「旧1号館」時代(平成9年解体まで)のシンボルマーク「桜」と「大時計」は1階玄関に展示してありました。

部屋の片隅には
「大本営陸軍部標札」
「陸軍士官学校標札」

「陸軍省で使用した印」
「陸軍大臣及び陸軍省副官の公印」
「東条英機大将使用の実印」 なども展示。

これらの歴史的遺産に「おおおっ!!」です。

こちらはガイドの方が口頭で。そんなに深くは触れてくれるな…な感じでサラリと。

昭和45年11月25日の三島事件、この部屋(東部方面総監執務室)で総監を人質にした際に「三島由紀夫のつけた3つの刀傷」が扉に残っている。参加者的には撮影スポット。


旧便殿の間

士官学校時代、陛下の休憩所(御便殿の間)であった。
その後は陸上自衛隊幹部学校長室として使われた。

展示物がいくつか。
おもむろに展示してある「明治天皇御立場跡の碑」はもともとどこにあったものなんだろう・・・

扉や窓の上部にメッシュの小窓。実はこの部分は空洞になっており、地下から冷気をとりこみ、部屋を冷却していたというエアコンがなかった時代の工夫が、 陛下の休憩所に施されている。

陸軍特別大演習 昭和9年11月 群馬県

ガラス乾板。最前列から最後尾まで高画質に鮮明に写すためにガラスに焼き付けた写真。高い位置から集合写真を「長方形に写す」為に実際には台形で整列しての撮影という。(写り込みの反射が厳しい

陛下を中心に、演習に参加した士官がすべて写った集合写真。 前列には大将以下の将官、最後列は少尉となるようです。

よくみれば、山本五十六や、東条英機も写っておりますね。

けっこう見学時間がたりないですね。思ったよりも慌ただしい見学でした。
これはもう一度の見学をしたくなる…

このあとは隊舎の前を通り厚生棟で買物と休憩。なお撮影は禁止。
厚生棟にはスタバやセブンやミリタリーショップなどあり。
が、休憩が15分しかなく…


市ヶ谷台ツアー メモリアルゾーン

自衛隊殉職者慰霊碑

昭和25年に警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、自衛隊に至るまでの職務に殉じられた1934柱の御霊(霊璽簿・名簿)が祀られている。昭和37年建立。
毎年10月に追悼式が行われて平成29年には25柱が新たに祀られたという。

自衛隊殉職者慰霊碑
昭和55年10月再整備。碑銘は鈴木善幸首相揮毫。中央は黒御影石、左右は無垢白御影石で霊峰富士山を形どっており、中央の球体は平和の象徴たる鳩とともに、仲間が欠けることがない丸を表している。副碑として池田首相の旧慰霊碑を備える。

ツアー参列者一同、一列に横に整列し、黙祷を捧げる。
1900余名の殉職なされた隊員の皆様に。
その功績を永久に顕彰し、敬意と哀悼の意を。


左手にいくつかの石碑があった。

市ヶ谷駐屯地・基地記念碑

防衛庁市ヶ谷移転に際して、昭和45年当時の市ヶ谷駐屯地・基地及び芝浦分屯地に在駐していた部隊が刻まれている。

東京オリンピック支援集団司令部跡の碑

昭和39年の東京オリンピックを支援するため自衛隊支援集団が編成され、その司令部跡地に置かれた碑を移設。

戦史室跡の碑

大東亜戦争に関する戦史叢書102巻が編纂された戦史室の跡地に置かれた碑を移設。


メモリアルゾーン

市ヶ谷台の各所に点在していた碑を移設し集めたエリア。ただこの市ヶ谷台ツアーでは時間の都合で「自衛隊殉職者慰霊碑」を遠目に拝するのみで案内は終了。ガイドの人に「メモリアルゾーンの石碑を見学することは出来ないの?」と聞いてみたところ・・・
過去に年に一度ぐらい、悪天候などでツアー参加者が少なくて(それこそ2人とか)、時間が余りまくったときには見学の機会があったらしい。そうでもない場合は時間の都合でメモリアルゾーンの細かな見学は設けていない、と。 今回は10人ほどの少人数でしたが、それでも駄目でした。残念。

実際の見学は出来ませんでしたが
以下、パンフレットをベースに見学した気分だけ味わっていこうと思います。

陸軍大将阿南惟幾荼毘之碑

終戦時の陸軍大臣として敗戦の責を感じ8月15日に自刃。

杉山元帥、吉本大将自決之跡の碑

第一総軍司令官杉山元元帥と軍令部付であった吉本貞一大将がそれぞれ9月12日と14日に市ヶ谷台で自決。

雄健神社跡

雄健(おたけび)神社は、大正5年(1916)に創建され、陸軍士官学校19代校長、与倉喜平中将が「雄健」と選名。昭和16年、御神体が奉還され、今回移設した。

全陸軍航空奉賛同人会碑

全陸軍航空部隊、陸軍法空本部、陸軍航空総監部における戦没者、殉職者の英霊を祭祀した主碑と、その後方に「鎖」、「魂」及び「追碑」の副碑がある。昭和52年この地に建立。

大元帥陛下御立所
九九式十糎山砲

砲一碑

野砲兵第1聯隊及び野砲兵第101聯隊の記念碑。昭和44年この地に建立。

陸軍士官学校跡の碑

明治7年、明治天皇の御聖旨により学校設立。第31代陸軍士官学校長、山田乙三大将の揮毫(大正5年)による碑を移設した。

東京陸軍幼年学校跡の碑

明治30年、明治天皇の御聖旨により学校設立。戸山ヶ原にあった碑を学校発祥の地市ヶ谷に移設した

陸軍少佐晴氣誠慰霊碑

晴氣少佐は大本営陸軍部作戦班に勤務中、敗戦となりその責任を感じて、昭和20年8月17日の早朝にこの地で自決

約2時間の市ヶ谷台ツアー。
見どころ満載で、見損ねたところも多数な感じで、非常に充実していたツアーでした。
これはまた参加したい(平日のみの開催だから、なかなか参加するのが難しいのが現実だけど)

あとは、難しいけどメモリアルゾーンをゆっくり見学したいものです… 〆

見学しました

市ヶ谷台ツアーリーフレット(旧版)


関連

市ヶ谷水管橋

陸軍相模飛行場跡地散策

平成30年2月
神奈川県愛甲郡愛川町中津地区に残る相模陸軍飛行場(中津飛行場)の跡地散策。

神奈川県愛川町に残る陸軍飛行場ゆかりの地。
ここには「相模陸軍飛行場」「熊谷陸軍飛行学校中津分教所」とも呼称された飛行場があった。
そんな往時を偲びつつ、ちょっと散策してみました。

海老名駅から愛川バスセンター行きのバスに乗って「中一丁目」バス停で下車。

この辺りの工業地帯が当時は滑走路であったという。
そして相模陸軍飛行場を縦断していた「水道みち」(横須賀水道) 、愛川町半原水源地から横須賀までの道。

水道みち

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
1947年(昭和22年)4月13日・1948年1月12日に米軍が撮影した航空写真。

1947年(昭和22年)4月13日、米軍撮影
1948年1月12日、米軍撮影

1948年(昭和23年)1月に米軍が撮影した航空写真とグーグルマップでの対比などを。
南西部に飛行場施設があり北東部は滑走地区。
今回は南西部の飛行場施設界隈を散策。

1948年(昭和23年)1月 、米軍撮影

陸軍中津飛行場
(相模陸軍飛行場)

もともとは少年飛行兵育成のための訓練所「熊谷陸軍飛行学校中津分教所」として昭和16年に完成。
舗装された滑走路はなく着陸地帯として離着降場を草を刈って造成された飛行場であった。練習機として「九五式中間練習機」(赤トンボ)が飛び交っていたという。

昭和17~18年ごろから中津飛行場には戦闘機も配備され、昭和19年には飛行学校閉鎖。
「四式戦疾風」の訓練基地となり、特別攻撃隊練成の地ともなり、当地からも特攻出撃が行われたという。

戦後、飛行場跡地が開墾。
工業地帯の片隅にある「中津工業団地第2公園」内に「開墾記念碑」が残されている。昭和31年建立。

昭和15年2月突如陸軍省は飛行場設置のため買収…昭和20年終戦と同時に施設は解体…国内混乱のさなかの開墾…

前述の米軍撮影の航空写真でも分かる通り、終戦間もない状況で区画整備され開墾が始まっている。


旧相模陸軍飛行場
通信室跡

当時の「通信室」とされる建物が建築会社敷地内に残っている。

訪れた際は日曜日ということもあり人の気配が無かった為、大野建設敷地外から撮影させていただきました。 見事に蔦が建物を覆ってます。

大野建設株式会社様紹介ページ

http://www.ohnokensetsu.com/iseki


旧相模陸軍飛行場
格納庫基礎跡

格納庫基礎とされるコンクリ塊。住宅地の中に忽然とコンクリの壁が残っている。 ワゴン車などと比べてみると、その異様な大きさがよくわかる。

隣は新築宅地造成中。 格納庫基礎のコンクリのまわりに新しい壁が造成されつつありますが、明白に保存体制に入っているのを感じることが出来ます。


旧相模陸軍飛行場
排水路

排水路は当時から変わらぬ位置で今も飛行場の南端から中津川へと注ぐ排水路として活用されている。


旧相模陸軍飛行場
排水路橋

排水路橋。陸軍飛行場時代から使われている配水橋。前述の排水路はこの場所で県道と立体交差して中津川へと流れていく。

旧相模陸軍飛行場「排水路橋」
 この排水路橋は、県道の道路面から橋の下部まで4.17mほどの高さがあります。橋の全長は15.75m。水路は中津川まで延び、厚さ35cmのコンクリート製で、水路内部幅は150cmです。
 第二次世界大戦中の相模陸軍飛行場は、地表面を平らに削り、草を刈っただけで、舗装されていませんでした。雨天時のぬかるみを防ぐため、排水設備が必要でした。 この排水路は、現在でも中津地区の一部の雨水排水に使用されています。
 平成28年9月
  愛川町教育委員会

下から覗くと排水路は橋の部分だけは二股となり、そして橋が終わると合流してます。理由は不明ですが水量が増した際に水流を弱らせる感じでしょうか?(根拠ない素人予想ですが・・・)

排水路と排水路橋を上から覗いてみました。 ちょうど分岐するあたり。

旧相模陸軍飛行場
正門通用門柱

正門通用門柱とされる遺物。「桜台ちびっこ広場」のあるあたり。
住宅の庭先に一柱。 このあたりに基地航空隊の正門があったという。
面白いことに電話ボックスと門柱で対の位置関係。
この門柱より奥に航空隊が展開されていた。


旧相模陸軍飛行場
正門門柱

正門通用門柱が残っている場所から400mほど西に行ったところに正門門柱が移築されている。

旧相模陸軍飛行場正門門柱」
 この正門門柱は、高さ216cm、71cmのコンクリート造りで、中ほどには駐留する部隊名を記した表札をはめ込むための長方形の切り込みがあります。頂部には、夜間照明用の電灯を設置した穴があります。
 第二次世界大戦中の正門所在地は現在の桜台附近で、2本の門柱がありました。 戦後。戦争遺跡が失わるのを惜しんだ方の手で、1本の門柱が、約400m西に離れたこの地に移設保存されました。
 平成28年9月
  愛川町教育委員会

門扉の金具あと。

移築するときに門柱の置き位置があべこべになっているような感じ。
写真手前の門柱の金具の位置、180度おかしいです…

案内看板にあった「頂部には、夜間照明用の電灯を設置した穴があります。」を探してみる。
向かって左側には「駐留する部隊名を記した表札をはめ込むための長方形の切り込み」もある。

飛行場のあった台地から中津川の方を望む。こうしてみると中津川が削り出した高低差ある台地上の平地は絶好の飛行場立地であったことがわかる。

関連する地下壕も残っているらしいけどそれは未調査。


豊橋の戦跡散策

平成30年6月撮影

  • 愛知県豊橋市内に点在する戦争史跡関連の散策
  • 主に豊橋公園と愛知大学豊橋キャンパスを中心に

平成30年6月下旬。愛知県豊橋市に足を運ぶ機会がありまして。軍都豊橋と呼ばれた街。
「豊橋公園」は歩兵第18聯隊
「愛知大学豊橋キャンパス」は第15師団
今回はこの2つを軸にして散策を展開していきます。

位置関係

「国土地理院」地図・空中写真閲覧サービス
1946年(昭21)07月16日の米軍撮影(ファイル:USA-M197-A-3No1-10)写真及びgoogle航空写真を加工

今回は豊橋陸軍墓地、工兵第15大隊、豊橋海軍航空隊方面には行けませんでした。18聯隊と15師団をメインに散策。

豊橋公園

かつての吉田城跡(三河吉田藩/豊橋城・豊橋藩)
明治維新後の版籍奉還により明治政府管轄。明治4年(1871)兵部省管轄。吉田城址に兵舎建設が進められ明治18年から大日本帝国陸軍歩兵第18連隊が移駐。

歩兵第18聯隊の正門と哨舎(豊橋公園)

明治31年に新設された営門。当初は木製であったが昭和10年台にコンクリート製に変更。

公園の入口にいまも残る哨舎が味わい深くて素晴らしい。
ついつい歩哨のように中に入って立ってみたくなったり。

歩兵第18聯隊・弾薬庫跡 (豊橋公園)

コンクリート製。床下は換気のために開けてあり、屋根は万が一の爆発時には爆風が抜けるように簡素な作りとなっている。

歩兵第18聯隊・馬頭観世音(豊橋公園)

紀元二千六百年建之
中部第六十二部隊長松本信吉書
昭和16年の紀元2600年に際して建立。軍馬守護神として馬頭観世音を祀る。

豊橋公園
公園内の片隅に寄せられていたこれはなんだろう。
庭園の残骸なのかな。
獅子だったり灯籠だったり。
気配的にはコンクリの雰囲気は新しそうなので、求めている史跡とは関係ないと思われるが。

歩兵第18聯隊・記念樹(豊橋公園)

表に「記念樹」、裏に「昭和5年兵」と刻まれている。
オガタマノキ(招霊木)

「歩兵第十八聯隊之阯」(豊橋公園)

昭和39年建立
副碑・平成9年建立
歩十八会(戦友会)
志を同じくするわれら会員は、この碑のもとに相集い、歩兵第18聨隊戦没将兵の業績顕彰及び慰霊並びに戦友、遺族の相互親睦及び福祉向上に努め、その歴史を後世に伝えるものである…

歩兵第十八聯隊之阯 裏面
我歩兵第十八聨隊ハ明治十七年夏名古屋鎮台下ニ創設 
八月十五日軍旗奉戴 
翌春豊橋旧城址内ノ新営ニ移リ尓後衛戍ス
(略)
大東亜戦争ノ緊迫スルヤ十九年二月南方ニ赴援シ防守に努ム 
夏米軍ノ大挙来攻ニ会シ衆寡敵セズ相次デさいぱん島及ぐあむ島ニ軍旗ヲ奉焼シテ玉砕セリ…
(略)
茲ニ同志相謀リ地ヲ旧営址ニ選ビ碑ヲ建テ事ヲ録シ先人陣中ノ偉績ヲ顕彰シ併セテ殉国ノ英霊ヲ弔イ其功勲ヲ不朽ニ伝ウ
昭和三十九年八月 元歩兵第十八聨隊々員有志建

歩兵第十八聯隊
明治17年(1884)名古屋にて設置され明治19年までに豊橋に移駐。
大東亜戦争では昭和19年3月にテニアン島進駐途中で輸送船が雷撃され聯隊は大損害を受けつつサイパン島に上陸。5月にグアム島に移駐。7月に米軍がグアム島に上陸し激戦を繰り広げ7月25日に軍旗奉焼し歩兵第18聯隊は玉砕。

彌健神社跡
奮藩祖豊城神社旧鎮座地(豊橋公園)

歩兵第18聯隊の営内神社跡。
鳥居は昭和8年4月3日建立(献納/三遠國防義會)
現在、社殿があった場所には「神武天皇銅像」が移設されている。
神武天皇像は、かつて歩兵第十八聯隊の戦病死者を追悼するために建立された軍人記念碑が遷座したもの。

神武天皇像(豊橋公園)

装いは故実に基づいた古代武人を模したもの。御尊顔はよりどころがないために、かしこくも 明治大帝をお写し申し上げた銅像。
かつては歩兵第18聯隊練兵場にて戦病死者を追悼する軍人記念碑として設置され敗戦後に当地に遷座。

http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=4348

旗杭は昭和12年4月、國防婦人會田原町分會の献納。

此処に歩兵第百十八聯隊ありき
歩兵第118聯隊記念碑 (豊橋公園)

碑文
軍靴の跡
 我が歩兵第百十八連隊(中部第六十二部隊)は昭和十六年四月一日国家の要請に応えこの地において編成され同年五月二十一日初代聨隊長陸軍大佐徳弘保衛が宮中で天皇陛下より軍旗を親授さる
 昭和十八年七月六日第四十三師団急遽編成に伴い主力は軍旗を奉じ静岡に移駐 或る者は他部隊に転属さる 
 越えて昭和十九年五月三十日祖国防衛の大任を帯び海路はるばるサイパン島守備の途につくもその大半が敵潜水艦のため海没の悲運に遭う
 一部上陸せるものは間もなく開始されたサイパン島攻防戦において昭和十九年七月七日軍旗とともに聖寿の万歳と皇国の弥栄を祈念しつつ全員玉砕す
 ここに生存者将兵相計り記念碑を建立 尽忠の偉業を顕彰し殉国の英霊を弔う

昭和五十五年十一月二日
 元歩兵第百十八連隊関係者有志建之

歩兵第二百二十九聯隊記念碑 (豊橋公園)

碑文
 歩兵第二百二十九聯隊は、昭和14年8月7日この地に於て陸軍大佐吉武秀人を初代聯隊長として編成完了。
 9月13日軍旗を授かり、10月13日豊橋を出発、征途についた。
 以後、泥濘の良口会戦をはじめとする南支那における幾多の戦闘の後、第二代聯隊長陸軍大佐田中良三郎率下の香港攻略作戦に始まり、南部スマトラ作戦、ガダルカナル島の戦いを含むニューギニア作戦、更に陸軍大佐平田源次郎を第三代聯隊長とするムンダ、ズンゲン、ラバウルなどを戦場としたソロモン及びビスマルク群島防衛戦から第五次ビスマルク戦に至るまで、大東亜戦争における最も画期的な作戦に参加した。
 かくて戦局不利とはいえ志気未だ軒昴たるうちに終戦を迎え、昭和20年8月18日ニューブリテン島のラバウルにおいて聯隊長以下慟哭裡に光輝ある歴戦の軍旗を奉焼、一塊の灰と化せしめた。
 聯隊生存者一同は、この灰をいま聯隊発祥の地に埋め、英霊の安らかんこと、足跡のとこしえならんことを祈念するものである。

昭和45年9月15日
 元歩兵第二百二十九聯隊戦友会(福々会)之を建立す

歩兵第十八聯隊
将校集会所通用門門柱跡 (豊橋公園)

将校集会所通用門の門柱跡。コンクリート製。上部に黄色のタイルで装飾が施されている。

歩兵第十八聯隊 聯隊記念碑跡 (豊橋公園)

かつてここには聯隊記念碑があった。もともとは上に砲弾型の碑が乗っていたというが現在は台座だけが残る。
戦後に台座の文字を埋めたようで、セメントの下に碑銘や碑文が埋もれていた。

表「聯隊記念碑」
裏「一北満派…」「一済南事変」と一部露出している。

歩兵第十八聯隊 貯水槽跡 (豊橋公園)

防火貯槽跡とされる部位。コンクリートの平面部が残る。

歩兵第十八聯隊 灰捨場跡 (豊橋公園)

煉瓦造り。
現在は塞がれているが上部の穴が開いており、裏側へ灰を掻き出して堀に落ちるようになっている。

戦災復興碑 (豊橋公園)

昭和33年10月建立

碑文
太平洋戦争の戦局非にして国内各都市が敵機の来襲におびやかされつつあつた昭和二十年六月十九日夜半ついに我が豊橋市も敵機B29の集中攻撃を受け市民必死の防禦もその甲斐なく瞬時にして市街地の大半を壊滅せしめらるに至つた
被災坪数128万6千、焼失戸数1万6千886、罹災者7万1502、死者624、重軽傷者344の犠牲を出し、惨憺たる焼土の混乱と窮乏とは人をして再び起つ日あるやを疑わしめたしかるに市民愛郷の熱誠と復興の意欲とは打つて一丸となり全燼なおふすぶる荒廃の中にこの日から雄々しくもたくましき建設が始められた
爾来十有三年全市民の刻苦たゆまぬ復興の努力は着々として功を奏し全国戦災都市にさきがけ産業経済文化の要衝として旧に倍する大豊橋市の盛容を見るに至つた今や再建復興の業成るに及びいたましくも尊き当時の犠牲者の冥福を祈り幾多の窮乏と苦難を排してこの大業に参加した市民不滅の業績をたたえ本市悠久の前途を祝福してここに戦災復興記念の碑を建立し大豊橋市の象徴とする
昭和33年10月

吉田城鉄櫓(豊橋公園)

内部は無料公開もしているけど、この日は外部のみで。

歩兵第18聯隊・西門門柱

豊橋公園の西側、豊橋市役所に面した国道1号線の脇に保存されている。
煉瓦造りの門柱で笠石は花崗岩。
明治18年の聯隊創設時は営門として使用されていたという。
国道1号線工事のために昭和34年に現在地に移築。
現在は門柱部と木製扉部をわずかに残している。

豊橋市公会堂

豊橋公園・市役所の手前にある「豊橋市公会堂」
昭和6年(1931)8月24日竣工。国の登録有形文化財。太平洋戦争末期の昭和20年6月の豊橋空襲で市が大きな被害を受けた際には豊橋市役所の機能がこの建物に一時移転している。


愛知大学豊橋キャンパス

かつての第15師団

歩兵第60聯隊正門跡
( 愛知大学豊橋キャンパス副門 )

現在は愛知大学豊橋キャンパスの副門
愛知大学前駅のすぐ隣に大学の門がある。
今風にリニューアルはされているが

当時の門柱の面影も残しつつ。(当時の門柱ではないと思われますが。)
まずはここからキャンパス散策と参りましょう。

第15師団
豊橋陸軍教導学校
豊橋陸軍予備士官学校

日露戦争で日本は従来師団の総てを動員してしまった為に本土駐留師団がなくなる事態に陥ってしまった。そこで「第15師団」を含む4個師団が新設され第15師団は明治38年(1905)4月1日に愛知県豊橋市で編成。

大正14年(1925)のいわゆる宇垣軍縮にて第15師団は第13・第17・第18師団と共に廃止される。宇垣軍縮で廃止された第15師団の残された施設を利用して、昭和2年に下士官候補者教育のため「豊橋陸軍教導学校」が開設され、昭和14年には甲種幹部候補生教育の「豊橋陸軍予備士官学校」が開設。 ゆえに本記事では同じ敷地内で「第15師団」だったり「陸軍教導学校」だったりが交じります 。

第15師団そのものは、日中戦争に際して大正14年に廃止された師団番号を利用し復活している。第二次編成としての第15師団は昭和13年に編成。この第二次編成は豊橋とは関係せず。

豊橋第15師団の地は、宇垣軍縮後は騎兵第4旅団司令部を経て陸軍教導学校、陸軍予備士官学校が置かれ、戦後は愛知大学へと推移していく。

豊橋陸軍教導学校・予備士官学校の神社跡
(愛知大学豊橋キャンパス副門広場)

歩兵六十聯隊正門から敷地内に入ったすぐの場所にこんもりとした円形造園がある。この場所にかつて陸軍学校時代は神社が鎮座していたという。
今は格別な何かは残っておらず空間だけが物語っているような雰囲気。

豊橋陸軍教導学校・吹雪山
(愛知大学豊橋キャンパス学生会館裏)

昭和2年の昭和天皇行幸を記念して昭和6年に陸軍教導学校の生徒によって築かれた小山で吹雪山と命名された。
山頂には記念碑が建てられている。陸軍第15師団司令部開庁から豊橋陸軍教導学校開校、豊橋陸軍予備士官学校、そして閉校まで物語る記念碑。

豊橋陸軍教導学校・吹雪山記念碑
豊橋陸軍教導学校時代の構内図が描かれている。
愛知大学豊橋キャンパス内で現存している建物は後述しますが「大講堂」「将校集会所」「養生舎」「機銃廠」「学校本部=第15師団司令部庁舎」

歩兵第60聯隊・将校集会所門柱

コンクリート製門柱 (愛知大学豊橋キャンパス内哲学の森)

歩兵第60聯隊・将校集会所
(愛知大学豊橋キャンパス・旧研究所)

よくぞ残ってくれましたといった感じです。
陸軍のシンボル五芒星もありますね。

豊橋陸軍教導学校大講堂
(愛知大学豊橋キャンパス第二体育館)

陸軍教導学校の大講堂として昭和2年に建立。鉄筋造。

天皇陛下行幸記念松
豊橋陸軍教導学校大講堂前
(愛知大学豊橋キャンパス第二体育館前)

昭和2年開校の陸軍教導学校に昭和天皇が行幸されたことを記念して植樹された松。当時の橋陸軍教導学校大講堂前に植樹された。

豊橋陸軍教導学校火薬庫(火薬倉)土塁跡
(愛知大学豊橋キャンパス・プール周辺)

プールの周辺に残る土塁は火薬庫の名残。 火薬庫は当時は土塁で覆われており、今でも土塁の一部が大学構内に残っている。

皇太子嘉仁親王殿下御手植松
(愛知大学豊橋キャンパス短大門付近)

大正天皇が皇太子時代の明治43年11月20日に豊橋偕行社(後述)に御駐泊された際にお手植えされた松と記念碑。 記念碑は昭和3年11月の御即位式に建立されている。

豊橋偕行社跡
(愛知大学短期大学本館跡地)

豊橋偕行社を戦後は愛知大学短期大学本館として利用されていたが老朽化により平成23年(2011)に取り壊し。
偕行社は各師団に置かれていた陸軍将校の集会所・社交場(将校倶楽部)を兼ねた一種の迎賓館施設。

在りし日の姿~Wikipediaより参考

第十五師団機銃廠
豊橋陸軍教導学校二機銃廠
(愛知大学中部地方産業研究所所属産業館)

明治41年に建造された機銃整備のための建屋。 基礎は煉瓦、壁は下見板張。
屋根瓦に陸軍のシンボル五芒星アリ

皇太子裕仁親王殿下御手植松
碑は大正14年に第15師団廃止の際に建立。

久邇宮邦彦親王殿下お手植松
大正7年、第15師団長として演習台覧の際の御手植松。

御大典記念幟立
昭和天皇即位礼がおこなわれた昭和3年11月10日建立。

豊橋陸軍教導学校・養正舎

昭和2年建立。 建屋の裏の塀は豊橋陸軍教導学校時代に設けられたコンクリート製の塀。 豊橋鉄道との境目。

豊橋陸軍教導学校・塀

昭和2年の豊橋陸軍教導学校時代に設けられたというコンクリート製の塀。 豊橋鉄道の線路との境界線をになっている。 現在も愛知大学の境界線。

第十五師団司令部址

明治41年(1908)誘致運動をした豊橋市に設置された。この地には師団司令部のほか、騎兵第4旅団司令部、歩兵第60聯隊などが置かれた。しかし師団は大正14年(1925)に廃止となり、その後は陸軍予備士官学校などに利用された。

陸軍第15師団司令部庁舎
(愛知大学旧本館)

国登録文化財 陸軍第15師団司令部庁舎として明治41年(1908)建立。 建物は木造2階建、寄棟造の桟瓦葺で、両翼屋を背後に突き出したコの字形の平面形を持つ。外壁は板貼りで装飾をあまり用いない軍隊関連建物らしい簡素な造り。木造の現存司令部としては貴重。

第15師団司令部庁舎
(愛知大学旧本館・愛知大学記念館)
正面

裏側はコの字。

第15師団司令部庁舎 (愛知大学旧本館・愛知大学記念館) 館内内部公開もしてますので入ってみましょう。
公開は月~土曜(日月祝は休館) 開館時間は10:00から16:00まで。 日曜と祝日は入れないのでご注意を。

http://edu.aichi-u.ac.jp/toa/about.html

正面入り口

正面階段

入り口の階段をあがった2階の正面
陸軍第15師団司令部時代には師団長室、戦後は学長室として使われた部屋

2階廊下

2階から外を

脇階段
けっこうな軋み音を感じた

1階

この日は見学者は私以外には居ない空間。
贅沢な時間を過ごすことが出来ました。
ありがとうございました。

第15師団司令部・正門
(愛知大学豊橋キャンパス正門)

石造りの門柱が残る。 この正門の奥に第15師団司令部庁舎がある。 このあとは愛知大学を離れて、周辺の関連史跡を見て廻りましょう。

第3師団兵器部豊橋出張所・正門と哨舎
(南部中学校)

愛知大学豊橋キャンパス(第15師団)の南方には第3師団兵器部が展開されておりました。
豊橋鉄道の線路越しに当時の哨舎と正門が保存されている。
南部中学校には、これ以外にも当時の門があるようだけれども校内は未見。

門柱・騎兵第26連隊跡?
(合同宿舎王ケ崎住宅敷地内)

詳細はわかりませんが、不自然極まりなく門柱が残ってました。
所在地には騎兵第26聯隊の場所。
道路を挟んだ向こう側は騎兵第25聯隊。
コンクリで煉瓦を隠すように覆っていますが、コンクリの上から扉金具も見えますね。

騎兵第26聯隊跡 門柱と哨舎・記念碑
(王ヶ崎東公園)

哨舎があるとついつい中に入って歩哨をしてしまいます・・・

騎兵第26聯隊跡

騎兵第26聯隊跡碑
松井麻之助書 松井麻之助は終戦時の騎兵第26聯隊長(陸軍中佐)。
西竹一らと共に、1936年のベルリンオリンピックに馬術競技日本代表として出場した経歴を持つ。戦後は調教師調教師として活躍。

騎兵第4旅団
 騎兵第26聯隊
明治42年4月1日 創設
明治42年9月23日 軍旗拝授
昭和21年5月18日 復員解隊

戦歴
昭和7年10月~昭和13年7月 満洲事変
昭和13年8月~昭和16年11月 支那事変
昭和16年12月~昭和20年8月 大東亜戦争

昭和46年軍旗拝授記念日
騎兵第26聨隊会建之

騎兵第26聯隊
創立以来在隊者将兵数
豊橋駐屯時代 明42.4~昭7.9 約7000名
満洲事変参加 昭7.10~昭14.7 約3000名
支那事変参加 昭14.8~昭16.11 約3500名
大東亜戦争参加  昭16.12~昭20.8 約4000名
計 約17500名
祖国のため殉じた戦(病)死者数 440余名
聨隊が従事した戦闘回数 230回

騎兵第26聯隊
聨隊が受けた賞詞感状
昭和14年4月 南昌攻略作戦 賞詞授与
昭和14年7月 襄東会戦 感状授与
昭和16年6月 中原会戦 賞詞授与
昭和18年9月 武号作戦 感謝状授与
昭和19年11月 一号作戦 感状授与
昭和20年3月 老河口作戦 感状授与
此の碑の建設に直接協力した人員数 1000名
(以下略

騎兵第26聯隊
軍旗遺品合祠記念碑
明治42年9月23日明治天皇から親授された軍旗は聨隊の象徴として戦中嚇々の武勲を樹てたが昭和20年8月25日北支河南省郾城で奉焼された
奉焼された灰の一部を秘かに持ち帰った者数名が奉持していたので靖国神社に奉納すると共に茲にこれを合祠することにした
昭和63年4月28日騎兵第26聯隊会

愛馬の鬣等埋没記念碑
我が聯隊の機動力の源泉として戦場を雄飛した軍馬のうち最後までその役に盡した960余頭は戦後異国にありて1頭だに祖国に帰ることはなかった
幸いに復員者数名が愛馬の鬣を持ち帰り保存して居られたのでそれを集め茲に埋没して愛馬に対し限りない感謝と親愛の情を披瀝しその霊を悼むものである
昭和63年4月28日騎兵第26聯隊会

騎兵第26聯隊跡 門柱と哨舎、記念碑が残る公園。(王ヶ崎東公園)

輜重兵第15大隊門柱
(愛知県立豊橋工業高等学校)

高校の敷地内に門柱が残されている。
文教地区はかつては軍事関連の場合が多い。
 愛知県立豊橋工業高校は輜重兵第15大隊
 愛知県立時習館高校は野砲兵第21聯隊
 豊橋市立福岡小学校は騎兵第19聯隊

時間都合でこのエリアはこのぐらいにしまして次の目的地に移動します…

愛知大学界隈から15分ほど北東に歩いていくと愛知大学が管理している飛地がある。

「第15師団長官舎」 (愛知大学公館) 

豊橋市指定有形文化財 明治45年(1912)建立。
第15師団長官舎→豊橋陸軍教導学校長官舎→豊橋陸軍予備士官学校長官舎。
昭和21年に愛知大学開設に伴い愛知大学学長公館などに使用。

「第15師団長官舎」 (愛知大学公館) 
豊橋市指定有形文化財
明治45年(1912)造。
洋館と和館が併設された平屋。洋館は公室、和館は私室として利用。 和漢洋館とも木造寄棟造桟瓦葺。
ほぼ完全の状態で残る師団長官舎としては全国でも稀な例であり、明治末期の和館洋館併設の木造住宅としても貴重。

洋館部分

和館部分

和館部分
1986年のカレンダー
30年以上、時を止めた空間がここにはあった

いつの日か、公開することはあるのだろうか・・・

「第15師団長官舎」(愛知大学公館) 
第15師団長官舎の地から豊橋鉄道小池駅に向かう途中、見つけました。

陸軍省所轄地 陸軍境界標石

9時半に愛知大学到着して散策開始、散策終了させたのが12時半。 ざっと3時間で愛知大学とその周辺の戦跡散策をしたかたちとなりました。
豊橋編はこれにて〆

今回、行ききれなかったところ(宿題)

時間の都合で今回の散策であきらめたところも多数。豊橋市内にはほかにも戦争当時を物語る遺跡が点在しております。
また次に往訪するときまでの宿題として。

豊橋市美術博物館 > 豊橋の美術・歴史・文化財・戦争遺跡を知る > 郷土の戦争遺跡・資料

http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=3315

「特攻観音堂」と「特攻勇士の像」

(特攻観音堂は平成30年5月撮影 )

世田谷観音 (世田谷山観音寺)

江戸三十三観音第32番札所

昭和26年に睦賢和尚が独力で建立。
同年5月、金竜山浅草寺に請い開眼の法を修したとされる寺院。 境内には特攻で犠牲となられた英霊を慰霊する「特攻観音堂」が鎮座。

入口の左右に。

石碑 「奉安 特攻平和観音」元竹田宮 竹田恒徳 書

門標 「世田谷山観音寺」元内閣総理大臣 吉田茂 書

参道の左手、赤門の奥には「旧小田原代官屋敷」
現在は観音寺本坊として使用。

特攻平和観音

昭和27年5月。
元海軍大将 及川古志郎、元海軍大将 高橋三吉、元陸軍大将 河辺正三、元陸軍中将 菅原道大、元海軍中将 寺岡謹平らが発起人となり特攻平和観音像が造立。(法隆寺夢違観音像模写)
陸軍側及び海軍で犠牲になられた英名が各々二体の特攻平和観音尊像胎内に奉蔵されている。

特攻観音堂

昭和31年05月。世田谷観音寺内に旧宮家「華頂宮家」の持念仏堂を移築し「特攻平和観音」を遷座。

陸軍2244柱
 航空1355柱・空挺615柱・海上挺進265柱・戦車9柱
海軍4174柱
 航空2548柱・特潜437柱・回天104柱・震洋1085柱
合計6418柱

国のために生還を期することのない特攻作戦に志願して若き命を捧げた特攻隊員英名が「特攻平和観音」に奉蔵されている。

石碑「世界平和の礎」

昭和39年10月吉日 吉田茂 謹書
特攻観音堂の左手前に。

特別攻撃隊の頌

 わが国が存亡をかけた大東亜戦争においては、開戦当初から生還を期すことのない特攻作戦が決行された。
 弱冠十七、八歳から三十歳代までの勇士が、肉親への愛着を断ち切り洋々たるべき人生を捨てて、空に、海に、陸に、決然として肉弾攻撃を敢行し、偉大なる戦果を挙げ、ことごとく散華された。その数およそ六千柱。壮烈無比なこの攻撃は敵の心胆を寒からしめ、国民はひとしくその純忠に感泣した。
 特別攻撃隊の戦闘は、真に至高至純の愛国心の発露として国民の胸奥に生き続け、また世界の人人に強い感銘を与え、わが国永遠の平和と発展の礎となっている。
 ここに心から愛惜の情をこめて特別攻撃隊の諸資料を、この遊就館に納め、その精神と偉業とを後世に伝える。
昭和六十年十二月八日 特別攻撃隊慰霊顕彰会 会長 竹田恒徳

あゝ 特攻(特攻勇士の像

特攻隊戦没者慰霊顕彰会は全国各地に「特攻像」建立を行っており世田谷観音には平成19年09月23日建立。

私たちはあなたたちを忘れない
あゝ特攻

多くの「特攻勇士の像」が護國神社境内に建立されている中で、当寺には特攻観音堂があり地蔵菩薩と特攻像が並んで建立されている。

天山隊之碑

元海軍大将 高橋三吉 書
昭和36年12月 天山隊遺族会建之

特攻観音堂の左脇に慰霊碑。
「天山」は日本海軍が九七式艦上攻撃機(九七式艦攻)後継機として配備した艦上攻撃機。戦争末期には零戦や彗星とともに特攻機となっている。碑には天山を模した彫刻あり。

「天山隊之碑」 碑銘
大東亜戦争末期昭和20年4月6日鹿児島県串良基地進発沖縄周辺に来寇中の敵機動部隊に体当り攻撃を敢行し戦艦5隻空母2隻及び艦種不詳3隻を轟沈或は大破し多大の戦果を挙げ全員散華せり
神風特別攻撃隊菊水部隊天山隊員(以下個人名は略)

(もちろん記録として、歴史としては、そのような多大な戦果を挙げていなかったことは今では明らかではあるが、「戦果を挙げた」として信じて特攻された御英霊に対して無粋なことはしたくなく。歴史を知るものとして事象を理解しつつ… ここは、いち日本人の心情として碑銘に気持ちを委ねる。)

神州不滅特別攻撃隊之碑

昭和42年5月 神州不滅特別攻撃隊顕彰会建立

第二次世界大戦も昭和二十年八月十五日、祖国日本の敗戦と云う結果で終末を遂げたのであるが、終戦後の八月十九日午後二時、当時満州派遣第一六六七五部隊に所属した今田均少尉以下十名の青年将校が、国敗れて山河なし生きてかひなき生命なら死して護国の鬼たらむ、と又大切な武器である飛行機をソ連軍に引渡すのを潔しとせず、谷藤少尉の如きは結婚間もない新妻を後に乗せて、前日二宮准尉の偵察した赤峰附近に進駐し来るソ連軍戦車群に向けて大虎山飛行場を発進、前記戦車群に体当たり全員自爆を遂げたもので、その自己犠牲の精神こそ崇高にして永遠なるものなり 此処に此の壮挙を顕彰する為記念碑を建立し英霊の御魂よ永久に安かれと祈るものなり (碑銘引用は以上、以下個人名は略)

「特攻観音堂」
関連冊子などを戴きました… 公式サイト→PDFダウンロード可

「特攻平和観音経」
恭しく伏して惟んみるに天地開闢以来この世に生を享けしもの幾十百千万億兆なるを知らず。…
嗚呼尊い哉、嗚呼仰がん哉、長存不滅の光
南無特攻平和観世音菩薩…

公式サイトによると特攻平和観音様 月例参拝日が毎月18日午後2時より行われているということで。 機会があれば参列してみたいものです。


世田谷観音の境内を散策。
紙垂のある木。敬しく恭しい御神木。
ご住職のメッセージが掲示してあった。

大地は命の根源である

私達は大地を粗末に扱っている 大地は私達のものだと思っているからである そうではなくて私達が大地の一部なのだと知ればもっと愛情と敬意をもって扱うようになるだろう

阿弥陀堂(1枚目)は京都二条城からの移築という。
三層の建物は金閣寺を模している。向かい合った六角堂(不動堂/2枚目)も特徴的な様相。
寺歴は浅いが、移築建築や移築物が多い寺院。
不動堂「不動明王ならびに八大童子」は国重文。

狛獅子を従えた文殊観音様

境内にはさざれ石がありました。
「さざれ石のいわおとなりて苔のむすまで」
良き苔むす。
ちょっと交通の便は悪いけれども、とても佳き空間でした。
また訪れたいと思います。

御英霊の真心に感謝と哀悼の誠を捧げつつ…

各地の「特攻勇士の像」

訪れたことのある、ほんの一部ではございますが。

靖國神社

特攻勇士を讃える

戦局がいよいよ悪化した大東亜戦争の末期、
陸軍航空 西尾少佐以下1344名、
義列空挺隊 奥山少佐以下88名、
戦車隊 丹羽准尉以下9名、
海上挺進戦隊 岡部少佐以下266名、
海軍航空 関大尉以下2514名、
特殊潜航艇 岩佐大尉以下436名、
回天 上別府大尉以下104名、
震洋 石川大尉以下1082名、
計5843名の陸海軍人は敢然として敵艦船等に突入散華され今日の平和と繁栄の我が日本の礎となられた。
その至純崇高な殉国の精神は、国民ひとしく敬仰追悼し、永久に語り継ぐべきものである。
平成17年(2005)6月28日
財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会

群馬縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士の像 
平成21年3月建立

日本は昭和の一時期、米英及び重慶支那と大東亜戦争を戦った。
自国の安全と欧米の植民地支配からアジアを開放するためだった。
戦は優勢に推移し南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島沖縄と敵の反攻を許した。
この時、一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必至の戦法が採られた。
貧しく誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十才前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。
その勇姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現在の人よ、
命に代えて何を守ろうとしたか、
この像に問い続けて欲しい。

栃木縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士の像

私たちは決して忘れない

かつて太平洋戦争の末期、敵の圧倒的戦力を阻止しようと爆弾をかかえ、あるいは魚雷を抱いて敵艦等に体当たりを敢行した特攻隊員のことを。
祖国の安泰を信じ、太平洋の陸に海に空に散華した特攻隊員は、全国で実に五千八百余柱、本県で九十四柱に及ぶ。
このたび、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会寄贈の「特攻勇士の像」を、多くの県民の浄財によってここに顕彰碑として建立することができた。
特攻隊員の崇高な美挙が、この碑によって永遠に語り継がれることを願うものである。
平成二十二年八月十五日
     栃木県特攻慰霊顕彰の会

埼玉縣護國神社

埼玉県特攻勇士之像 (平成25年建立)

あの苛烈を極めた大東亜戦争の末期、多くの埼玉県出身の若者たちが特攻隊員となり家族・故郷・祖国を守るため、烈々たる祖国愛に燃え敢然として散華されました。
生還を期せず、若い命を進んで国に捧げられたこれら特攻隊員の崇高な精神が永く県民の心に刻まれるとともに次代を担う若門精神の糧となることを願うものであります。
ここに散華された英霊の勇姿を末永く後世に伝えるため、公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会のご協力を得て、埼玉県下遺族、戦友、崇敬者団体をはじめ幅広い県民の真心籠るご浄財をもって埼玉県特攻勇士之象を建立し謹んで奉納いたします。 
平成二十五年十月吉日
埼玉県特攻勇士之像建設委員会

千葉縣護國神社

あゝ特攻
千葉県特攻勇士顕彰碑

我が祖国日本は昭和16-20年米英支ソ蘭豪と大東亜戦争を戦った。
自国の安泰と欧米の植民地支配からアジアを解放するためだった。
戦は連戦連勝南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島から沖縄と敵の反攻を許した。
この時一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必死の特攻戦法が採られた。 貧しくとも誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十歳前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。

その雄姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現代の人よ、
命に代えて何を守ろうとしたのか、
この像に問いかけてほしい。

戦後同26年5月3日連合国最高司令官マッカーサー元帥が米上院軍事外交合同委員会で日本の戦は自衛のためであったと証言し米報道機関が全米に発信した。

日本国民よ、この事実を銘記せよ。

長野縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士之像

大東亜戦争の末期、特別攻撃隊が編成され、祖国の平和と繁栄を祈り、愛おしい父母妻子家族と別れ、一機一艇をもって敵艦に体当たりして、勇戦敢闘し散華されました。
長野県出身者は、陸海軍合せ百六十余名の若者が特攻隊員として戦死されております。
松本市内には、出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立って行きました。
又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。
国家存亡の危機に敢然と立ち向かわれ、今日の平和な日本の礎となられた諸英霊の崇高なる精神を永く県民の心に刻み 、後世に伝えるため、終戦七十周年を期しここに建立いたしました。
平成27年10月10日 長野県特攻勇士之像建立委員会

國の為 誠の道を一筋に
 進み行くこそ大和魂
  秋山白厳 詠


特攻勇士之像 に拝する機会がありましたら、記事を追記してまいります・・・

陸軍調布飛行場跡散策

平成28年~

陸軍調布飛行場跡散策 (調布市/三鷹市/府中市)

  • 調布飛行場周辺
  • 高射砲台座跡
  • 飛行場排水路/排水門 ・門柱
  • 掩体壕(三鷹市大沢2基/白糸台)
  • 飛行場工事で遷座した神社仏閣
  • 調布郷土博物館保存「陸軍境界石」
  • 浅間山公園
  • 下仙川高射砲陣地跡

当時の調布飛行場位置関係

昭和20年1月6日に陸軍撮影の府中調布界隈の空撮写真。グーグルマップを加工。

http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス より
昭和20年1月6日に陸軍撮影の府中調布界隈の空撮写真を加工。

現在の調布飛行場は伊豆諸島を結ぶ東京島嶼部の大事な空路。
かつては首都防衛の要たる陸軍調布飛行場。

まずは家から自転車にて。
陸軍調布飛行場に関連する戦跡を幾つか廻ってみた全体の行程は、調布駅起点で4時間18キロの行程。

要所を押さえるのであれば、現在の調布飛行場を中心に武蔵野の森公園内の掩体壕2つ、白糸台駅近くの掩体壕などが見学しやすいです。

飛行場に向かつつ。
まずは三鷹市の「大沢コミュニティ通り」。
調布から飛行場方面にアクセスする道路。 この道路はかつての軍用道路。

大沢コミュニティの交差点から野川を望む。
調布飛行場側から見て対岸に、ちょっとした高台がある。
この高台に高射砲陣地があったのです。

首都防衛高射砲陣地跡
首都防衛高射砲陣地 調布隊

通称「どんぐり山」
保育園と老人ホームがあるこの場所が「首都防衛高射砲陣地跡」。 樹木で視界は覆われておりますが調布飛行場を見下ろす高台に位置しております。 ここには幾つか当時の名残のものがあり。

当時ここには6つの高射砲が備えられ、現在は4つの高射砲台座跡が残っているという。
敷地外より3つの台座跡が確認出来ました。

なお私が訪れたのは日曜日ということもあり、保育園はお休みで誰もいらっしゃいませんでした。
保育園がやっている時は、念のため関係者にご確認されて見学するのが良いと思います。
まあ、外からも見えますが。一応。

太平洋戦争
首都防衛高射砲陣地跡
東部第一九〇三部隊調布隊

戦火の本土に近づくに及び 首都防衛のため 昭和18年9月 此の地に 東部第1903部隊調布隊は 仲午六隊長以下186名を以て 陣地を構築し 高射砲6門 観測機材を設置して布陣した 数次にわたる米軍との交戦により 戦死4名負傷者多数を数えた
其の後 戦況の推移により日本海側に残された 唯一の食糧補給港である富山湾伏木港防衛のため 昭和20年4月末 北作健二隊長以下転進する迄 此の地で任務を遂行した 戦後 鈴木平三郎氏が陣地を現状のまま保存しており 且つこの地を福祉法人に寄付し永久に保存して下さるので 此の度 戦友一同相計りこの碑を建立し 永遠の平和を希求する共に英霊四君の冥福を祈り続ける事にした
 昭和56年2月吉日建立
 調布隊戦友一同

高射砲陣地跡石碑。
なお、日曜日で保育園休園のため望遠撮影です。前述同じく保育園内にありますので、開園時は許可を得て見学がベストです。

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」
1945年01月06日陸軍撮影(95D4-C2-20)より

どんぐり山をあとにして、飛行場方面へ。
次のポイントは野川。調布飛行場建設当時からの排水門が野川に面して残ってます。

陸軍調布飛行場 排水門・排水溝

この排水門から延びる排水溝が調布飛行場に向けて一部残っております。
このあたりも陸軍調布飛行場建設時からの名残。溝を固める玉石がポイント。
排水溝の話はまた後ほど、武蔵野の森公園内にて触れる予定。

陸軍調布飛行場 門柱

さて、飛行場方面に向かいましょう。
大沢五丁目バス停近く、道路の両脇にある大谷石製の門柱。
こちらは、陸軍調布飛行場名残の門柱。

調布飛行場。 昭和14年(1939)に建設着手。
門柱は竣工時に正門として設置。
戦後は戦争記憶の生き証人として保存されている。

門柱には「東京調布飛行場」と記載…ん?東東

これは「東京」の異体字である「東亰」と掘られていたものを戦後に何者か(GHQとも)が悪戯した為とされている。
確かに「亰」に追加された縦線の掘りが不自然。

調布飛行場。管制塔。
2013年に完成したばかりの新しい建物。 ターミナルからはちょっと離れますが奥の格納庫に展開されるプロペラカフェも人気スポット。

調布飛行場

飛行場の北側から西側にかけては、都立武蔵野の森公園が展開されてます。
そこに保存されている掩体壕が2つ。
三鷹市大沢。 大沢1号掩体壕、大沢2号掩体壕。
次の目的地はこちら。 航空写真でも掩体壕がわかります。

大沢1号掩体壕

大沢1号掩体壕。半地下構造。
入り口は塞がれており、そこには陸軍三式戦闘機「飛燕」の姿が掩体イメージとして描かれています。

大沢1号掩体壕。
あちこちから。
内部は完全に塞がれてますね。

掩体壕に格納されていた飛燕を1/10スケールで再現。
掩体壕カットモデル。 往時を偲ぶ。

解説看板。

_φ(・_・ 陸軍調布飛行場は南北1000メートル。東西700メートル。
掩体壕は有蓋30基、無蓋約30基あった。
現存は三鷹市武蔵野の森内に2基。府中市白糸台界隈に2基。

大沢2号掩体壕

こちらは、大沢2号。 同じく武蔵野の森公園内に。
蓋はされておらず、内部が覗ける様になってます。

ちょっとした丘の上から見ることも可能。
もっともこの場所は掩体壕を見るというよりも調布飛行場を見渡すことが出来る丘。

玉石造の水路

武蔵野の森公園の北側には玉石の水路が残る。
玉石は多摩川から。西武多摩川線の引き込みを利用。
こちらも陸軍調布飛行場時代の名残。

調布飛行場

調布飛行場を見渡す丘の上で休息。
ちょうど、 ドルニエ228が調布飛行場に帰ってきました。(三宅島航路406便)

おっ。
地上でドルニエ228がクロス。
三宅島航路406便の帰投、そしてこのあとは407便の離陸となります。
ちょうど良いタイミング。

ドルニエ228の離陸。
かつては首都防衛の要として三式戦闘機「飛燕」が飛び立ったこの場所から、 今は東京島嶼地域の要としてドルニエが飛ぶ。
プロペラの音をなびかせながら。

飛燕のプロペラ(一〇〇式輸送機プロペラと判明)

調布飛行場の北側には武蔵野の森公園。人見街道を挟んだ更に北側に野川公園。
その野川公園では「飛燕のプロペラ」が展示してあるという話を聞いたので行ってみました。

が、結論から書きますと「現在は展示中止。」
野川公園サービスセンターの中の人から、お話をお伺いしてみました。

野川公園で過去に展示していた「飛燕のプロペラ」
もともとは武蔵野の森公園の掩体壕とあわせて展示する計画でしたが、準備が整わなかったために一時的に野川公園で展示してました。現在はプロペラは武蔵野の森公園に返却しております。しかし、損傷が酷いために武蔵野の森公園での展示見通しがついてない状況のようです。」 とのことで。
ネットを検索すると散見される野川公園仮展示の「飛燕プロペラ」は現在は武蔵野の森公園預かりで非公開になっております。


「飛燕のプロペラ」は「武蔵野の森公園サービスセンター」で2019年10月より常設展示となりました。

※さらに研究の結果、一〇〇式輸送機プロペラと判明しました。
 展示当時は飛燕としての展示が施されているが、現在は展示形態も異なっているので注意
 再訪します。。。

プロペラ発見の経緯
 三鷹市が都立武蔵野の森公園の一角で進めていた大沢総合グラウンド整備事業で、平成21(2009)11月16日、下水管布設工事を行っていた際に、戦闘機のプロペラ3点が発見されました。プロペラは、工事関係者によって取り上げれ、三鷹市教育委員会に報告されました。
 当初予定していたグラウンドの管理棟部分の試堀調査終了後に、プロペラ発見地点の補足調査が行われ、発見地点の位置測量、出土深度の確認及び周囲の精査が行われました。プロペラは、南北8.8m(東西は、工事で掘削され、計測できなかった)、深さ2.3mの穴に埋まっていたことが確認されました。さらに、既に発見されていた3点のプロペラ以外に、他のプロペラ片数点が確認されましたが、腐食が激しく原形を留めていませんでした。また、穴の底面をさらに50cm掘り下げた小穴からスピナー(プロペラ軸の先端部分)が出土しました。専門家による鑑定の結果、スピナーとプロペラ1点は五式戦闘機のもの、残りの2点は三式戦闘機(飛燕)のものと判断されました。

近藤勇生家跡

調布飛行場北側の人見街道。
鎮座しているのは近藤神社。
近藤勇の生家跡に。名残としては産湯の井戸が残る。
近藤家は飛行場建設に巻き込まれている。

近藤勇は宮川家のうまれで近藤家に養子にでている。なので産湯の井戸は宮川家。
人見街道の北側にはさきほどの宮川家の近藤勇産湯の井戸と近藤神社があり、人見街道の南側すなわち調布飛行場側に現在も近藤家が残る。

近藤勇ゆかりの近藤道場(天然理心流道場)「撥雲館」。
調布飛行場の北側、人見街道に面した地に残る。
調布飛行場建設の為に従来の近藤家は取り壊されて移動しており、撥雲館もあわせて現在の近藤家敷地内に移築。

多磨霊園

人見街道を西に向かえば多磨霊園。
北西部に位置する多磨霊園や浅間山は樹木の多さをいかして分散秘匿地区として活用されていた、と。

現在の多磨霊園に飛行場関連の何か?が残っているわけではなく。
噴水塔に米軍機による機銃掃射の跡があるという話も聞いたが、老朽化で立ち入り出来ないのでは致し方がなく。


さて、人見街道から一気に南下。西武多摩川線に沿うように。
白糸台方面、甲州街道方面へと向かいます。

白糸台の掩体壕(非公開)

府中市白糸台界隈には掩体壕が二つ。そのうちの一つは民有地ゆえ詳細な場所は省略。
掩体壕の上に建屋が乗っかっており、掩体壕内が工場。
詳細は検索すれば過去に見学された方の内部レポもあがっておりますんで……。

白糸台の掩体壕

府中市白糸台の掩体壕。 以前は結構な荒地でしたが、近年再整備されて非常に良い保存状態となっております。

府中市の白糸台掩体壕。 周辺歴史マップ。

府中市の白糸台掩体壕。 案内看板。

道生神社

白糸台掩体壕をあとにして。
飛田給の道生神社へ。

「道生神社」(ミチオイ・ドウショウ)
祭神・宇気母智命(ウケモチノミコト)

創建年代は不詳。明治17年に飛田村の鎮守たる飛田神社と道生神社が合祀。

飛田神社(稲荷社)と道生神社(山王社)の合祀。
社殿は大正4年建立。 旧社地が昭和18年に調布飛行場用地となった為に現在地に遷座。現在地は旧品川通りに面している。

狛犬は昭和6年建立。
灯篭と手水盤は社殿と同じく大正4年建立。
つまり、社殿・灯篭・手水盤・狛犬は今は調布飛行場用地となってしまった旧社地からそのまま現在地に遷座とわかる。

調布市飛田給の道生神社。
飛田給とは飛田氏の給田地の意があるともされる。
その飛田村は陸軍調布飛行場となり鎮守様は御遷座。
遷座先でも往時の名残が境内に残っているのは嬉しく。

調布飛行場用地として、1社3寺が旧社地からの遷座を余儀無くされております。

1社は道生神社。
3寺は長専寺・覚證寺・ 光岳寺 。

画像は飛田給の道生神社までのロガーログ。
旧社地は飛行場用地となり、南に遷座。

分散秘匿地区。 掩体壕が足りない為に調布飛行場周辺で樹木が茂る場所が飛行機秘匿エリアとして活用。多磨霊園・浅間山・下石原八幡神社などが秘匿地区として使用。

下石原八幡神社

創建年代は不詳。 下石原地区の鎮守。当地の領主であった太田善右衛門(太田資忠(=太田道灌の弟とも甥とも?)を祖とする)の勧請とされる。
旧社格は村社。

戦時中は分散秘匿地区として陸軍調布飛行場の航空機を隠す為に境内林が活用された、と。
往時の面影を感じる事は難しいけれども、気にしながら境内林を眺めてみる

調布市郷土博物館

入口の脇にひっそりと立つ石標

陸軍境界石(陸軍標石)
説明はないけども、市内には「陸軍調布飛行場」がありましたので、その関係かと思われます。

浅間山

平成29年11月27日。
この日は府中市の浅間山公園に散策に赴いておりました。
今は長閑な自然公園であるけども、歴史を辿れば陸軍調布飛行場と府中燃料廠ゆかりの地ともいう。
とは言いつつも戦争に関する何かはあまり残っていない。

浅間山公園

東京の都立公園。 「堂山」「中山」「前山」と呼称される3つの頂から構成されている山。
標高79.6メートルの堂山山頂には浅間神社が鎮座。
周辺に広がる人見ヶ原の地は南北朝期の正平7年(1352)には足利尊氏と新田義興・義宗兄弟が戦った古戦場(武蔵野合戦・人見ヶ原の合戦)でもある。

前山の山頂附近には「人見四郎の墓」跡がある。
人見氏は武蔵七党のひとつ猪俣党。周辺には「人見街道」と名も残っており近隣の豪族として名を馳せていたことが窺い知れる。人見四郎は平家物語の一ノ谷の戦の場面に源氏方として名を残す人物という。
墓跡の碑は平成2年府中市の建立。

前山から中山にかけての道 。

前山と中山を結ぶあたり、西面する高台は「関東の富士見百景」に制定された場所。
富士山と並んで見えるビル群は府中の町並み。
ここから富士山までは81キロの距離とのことで。

一度、山をおりて堂山の下へ。
この堂山の山頂には、その名の通りに「浅間神社」が鎮座。 麓から山頂まで一直線に参道が伸びています。
これは良いです。

浅間神社(人見浅間神社)
由緒等は不詳。

堂山の山頂

中山の麓にある祠。水神社。
堂山の浅間神社の御神体は中山の清泉から出現したものであるとも。

おみたらし
浅間神このところより出現すと伝う
人見浅間神社・水神社ともに人見稲荷神社(府中市若松町5-7-6)の管理。

陸軍燃料廠の秘匿燃料タンク跡

陸軍燃料廠の秘匿燃料タンクがあったという浅間山公園。
今はなんとなく窪地が広がっている数カ所に、当時は秘匿燃料タンクがあったらしい。
面影はないけど、広がる空間から当時を夢想してみる。

下仙川高射砲陣地跡

京王線仙川駅

陸軍下仙川高射砲陣地跡
首都防衛高射砲陣地 下仙川隊


東京都調布市若葉町1丁目16−19付近
調布飛行場の南西にあった高射砲陣地。当時の高射砲陣地台座の極一部が何気なく残っており、今は姿を変え自治体の住宅案内地図の台座となっておりました。

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」
http://mapps.gsi.go.jp/ 
1944年12月23日陸軍撮影(95C3-C6-101)画像より抜粋。

半円状に高射砲陣地が構築されているのがわかると思います。 この陣地の一番上の円が前ツイの台座跡となるようです。

高射砲台座跡。ほんの僅かだけ残った遺跡。

首都防衛高射砲陣地 下仙川隊

高射砲陣地台座跡の近くに。
一説には弾薬庫の跡とも。
私有地の奥にあるので間近で見ることは叶わず。

「二・二六事件」雑感

元記事は平成29年2月投稿、平成31年4月ほか追記あり

深くは掘り下げずに、思いついたことをちらりほらりと書いてみようかと思います。陸軍さんの動きは、さほどに詳しくないので。 その歴史的な評価や青年将校の起こした行動の是非は別として。

2月26日が来るたびに、その歴史的な節目に何かを感じざるを得ない気になってしまいます。

実際には「あー、二・二六事件ね。」ぐらいで終わってしまいますが。 歴史的なフレーズとして、この「二・二六事件」という具体的な日にちはいやがおうでも印象深いものです。

そんな2月に渋谷にある慰霊碑に足を運んできました。
実は訪れたことがなかったので。
渋谷の雑踏を抜け、NHKの真向かい。隣は渋谷税務署と東京法務局渋谷出張所。 東京陸軍刑務所跡地。そこに「二・二六事件慰霊碑」がある。


二・二六事件慰霊碑

東京陸軍刑務所跡にたつ慰霊碑。
観音像は昭和40年2月26日建立 。
昭和11年7月12日、首謀者に対する刑は執行された。
彼らの行動の是非は問えない。時代のうねりの中で、彼らもまた翻弄され、そこに正解は求めることはナンセンスだから。
合掌。

二・二六事件慰霊碑
碑文
昭和十一年二月二十六日未明、東京衛戍の歩兵第1第3聯隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企圖していた、野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。
當時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸・陸軍省・警視廳等を占據した。 齋藤内大臣・高橋大蔵大臣・渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い岡田総理大臣・牧野前内大臣は危く難を免れた。
此の間、重臣警備の任に當たっていた警察官のうち五名が殉職した。
蹶起部隊に對する處置は四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮壓に變轉したが二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。

世に是を二・二六事件という。

昭和維新の企圖壊れて首謀者中、野中、河野両大尉は自決、香田、安藤大尉以下十九名は軍法會議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した。
此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した十九名と是に先立つ永田事件の相澤三郎中佐が刑死した處刑場跡の一角である。
此の因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく廣く有志の浄財を集め事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を發願し、今ここに其の竣工をみた。
謹んで諸霊の冥福を祈る。
 昭和四十年二月二十六日
 佛心會代表 河野司 誌

碑銘にある佛心會代表の河野司氏は、河野壽陸軍大尉の実兄。
河野壽陸軍大尉は二・二六事件に参加。
河野隊を率いて湯河原で牧野伸顕侍従長(伯爵)を襲撃。その際に負傷し、後に自決。


真偽は不明だが、この慰霊碑の脇にある赤レンガ壁は東京陸軍刑務所の名残を残しているもの(残存壁)、とされている。
梅の花が咲く慰霊碑の前で、往時の事柄を偲びつつ静かに手をあわせる。


令和三年(2021)2月26日、撮影。


渋谷の陸軍境界石

若者が闊歩する街「渋谷」。
そんな渋谷の繁華街の只中に陸軍標石はありました。
(往時より数メートル移動して保存されております。)
渋谷区清掃事務所宇田川分室のフェンスの中。駐輪場との間に。

渋谷に二・二六事件と関連する陸軍施設(東京陸軍刑務所)があった名残の一つ。 標石には「陸軍用地」と刻まれておりました。

往時を偲ぶ歴史遺産。
渋谷の陸軍用地。
もちろん、ここには何も説明も案内はないけれども、明確な意志で保存されている感はします。フェンスの内側にあるというにはそれだけで安心感があります。


二・二六事件と海軍

別記事にて。


二十二士之墓(賢崇寺)

平成31年4月参拝

東京都港区元麻布鎮座。鍋島家の菩提寺。

境内には「二・二六事件の青年将校の墓 」がある。

二・二六事件で殉難した「二十二士」を祀る。これは死刑になった19名に、自決した野中四郎・河野寿の2名、相沢事件で死刑となった相沢三郎が含まれている。 現在の墓碑は、昭和27年(1952)建立。

昭和11年2月29日
 野中四郎
昭和11年3月6日
 河野壽
昭和11年6月3日
 相澤三郎
昭和11年7月12日
 香田清貞
 安藤輝三
 栗原安秀
 竹嶌継夫
 対馬勝雄
 中橋基明
 丹生誠忠
 坂井直
 田中勝
 中島莞爾
 安田優
 高橋太郎
 林八郎
 渋川善助
 水上源一
昭和12年8月19日
 村中孝次
 磯部浅一
 北輝次郎
 西田税


磯部浅一墓

二・二六事件の青年将校の一人、磯部浅一の墓。
別記事にて


永田鉄山

その引き金となったのが相沢事件(永田事件)と呼ばれる陸軍派閥抗争。
昭和10年8月12日。皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、皇道派の首領であった真崎甚三郎教育総監を更迭した統制派の永田鉄山軍務局長を、陸軍省において白昼斬殺した事件。

永田鉄山軍務局長を殺害した相沢三郎陸軍中佐は、二・二六事件首謀者の処刑(昭和11年7月12日)に先立つ昭和11年7月3日、東京陸軍刑務所内で銃殺刑に処された。(二・二六慰霊碑碑文にも永田事件の相沢中佐の記載がありました)

写真は諏訪護國神社の永田鉄山中将像。

陸軍の派閥抗争。皇道派と統制派。こんなのを説明しようとしたらそれだけで論文が書けそうなので止めておきます。
統制派の永田が皇道派の相沢に殺され、暴発した皇道派青年将校による二・二六事件の勃発により皇道派は衰退。で、永田のあとには統制派の東条と武藤などが皇道派を駆逐し陸軍を牛耳る、と。

永田鉄山の墓は青山霊園にある。


九段下の「九段会館」(軍人会館)

昭和11年2月27日。戒厳令発令に伴い戒厳司令部が設置されたのが軍人会館であった。東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐が戒厳参謀に就任。


岡田内閣大蔵大臣
高橋是清

庭園が残る。高橋邸の母屋は現在は「江戸東京たてもの園」に移築。
昭和11年2月26日。赤坂の私邸で叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ暗殺される。享年82(満81歳没) 墓は多磨霊園に。

別記事にて。


内閣総理大臣
海軍大将 岡田啓介 墓

海軍大将、第31代内閣総理大臣。 事件で襲撃されるも難を逃れ一命を取り留めたが、身代わりに首相秘書官で松尾伝蔵(義弟)が殺害。 その後は重臣として戦争終結に奔走。昭和27年10月17日84歳没。 現在は多磨霊園に眠る。

岡田啓介 墓(撮影は2016年2月)

岡田内閣内大臣
海軍大将 齋藤實 墓

従一位大勲位子爵。海軍大将。第30代内閣総理大臣。岡田内閣時の内大臣。 二・二六事件にて射殺される。 満77歳没。 現在は、多磨霊園に眠る。

斉藤実 墓(撮影は2016年2月)

陸軍教育総監
陸軍大将 渡辺錠太郎 墓

岡田内閣時の陸軍教育総監。 二・二六事件にて射殺される。満61歳没。
二・二六事件の舞台でもある杉並区上荻窪にあった渡辺錠太郎邸は2008年に取り壊しされている・・・。
現在は、多磨霊園に眠る。

渡辺錠太郎 墓 (撮影は2016年2月)

岡田内閣総理大臣秘書官
迫水久常 墓 (さこみずひさつね)

政治家。岡田啓介は岳父。妻が岡田啓介の次女。 岡田内閣内閣総理大臣秘書官。 二・二六事件に際しては岡田啓介救出に奔走。 鈴木貫太郎内閣書記官長として終戦工作の一翼を担う。 現在は多磨霊園に眠る。


迫水久常 墓(撮影は2016年2月)

関連を見つけましたら随時追記していきます。

青砥高射砲陣地跡

平成30年6月 東京都葛飾区白鳥

京成線お花茶屋駅より15分ほど歩く。
かつて、このあたりには「青砥高射砲陣地」が展開されており、その痕跡が今も僅かに残っているという。ちょっと見物してみましょう。

青砥高射砲陣地跡

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」
http://mapps.gsi.go.jp/ 
写真番号:USA-R3163-40 

昭和24年09月07日米軍撮影写真をベースに該当部分を加工。
わかりやすいですね。高射砲陣地跡の台座がくっきりと写真として残っております。今回はABCDの4箇所を観察。

A地点。


かなりわかりにくいですが、砂利の駐車場の真ん中にうっすらと円形のコンクリート部分があります。この場所に高射砲台座があった、と。
うん。これは地味(に楽しい)散策です。

B地点。

駐車場内。
前述の米軍撮影の航空写真で、高射砲陣地が3箇所確認でき、高射砲が6台座ずつ配置され計18台座があったことがわかる。
その高射砲陣地遺構の中でも、ここが今でも一番わかりやすく残っている有名なポイント。
駐車場の中に円形の台座跡がくっきりと。

C地点。

路地の奥に。 かつての高射砲陣地の台座は、今はアパート貯水タンク台座として活用されていました。
なお写真は道路から望遠で。立ち入りは遠慮しました。一枚目写真はトリミング。
円形台座が目に見えるかたちで残ってます。

D地点。

現在は建物台座として使われているが、これも高射砲台座。
このエリアには他にも高射砲台座跡が残っているそうですが、私有地の奥などに当たる可能性もあり、公道から見える範囲はこのくらい。

生活に埋没している、ちょっとした史跡戦跡を見つけるのも感慨深い散策です

「インド独立運動の英雄」チャンドラ・ボース胸像(杉並区)

平成30年1月撮影


インド独立運動の英雄
チャンドラ・ボース

ボース事故死より30年後の昭和50年8月18日に遺骨を預かる頂光山蓮光寺(杉並区)境内に建立。
先日、友人よりチャンドラ・ボース像の話を聞きまして脚を運んでみました。

杉並区・蓮光寺
地図→ https://goo.gl/maps/Bh2e4LYonzm …


 昭和20年9月18日、蓮光寺第29世住職望月教栄師の仏教者としての英断により印度独立の英雄スバス・チャンドラ・ボース氏の御遺骨をこのお寺に安置し供養を続けて以来45年、我々スバス・チャンドラ・ボース・アカデミーは現住職望月康史氏の御厚意により茲に胸像を建て之を後世に伝えるものである
平成2年8月18日

チャンドラ・ボース胸像

昭和50年8月18日
頂光山蓮光寺
第29世 日輝
第30世 日史
建立

歴史を感じる…

スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー

ビルマ方面軍司令官・河辺正三大将
第十五軍司令官・牟田口廉也中将
ビルマ方面軍高級参謀・片倉衷少将
印度独立協力機関長・岩畔豪雄少将
特務機関光機関長・磯田三郎中将
参謀本部第二部長・有末精三中将
駐ドイツ特命全権大使・大島浩中将

・・・

スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー
そこに連なる名前はチャンドラ・ボース氏とともに、日本とインドが歩んだ歴史。
そしてインパールへと連なる歴史。

_φ(・_・.
初代会長には渋沢敬三元蔵相
初代副会長には岩畔元少将
最高顧問には河辺元司令官


ネタジ・スバス・チャンドラボースの碑

當寺に参ってネタジの聖なる遺骨にお祈りを捧げる事を私の幸運とするところであります
1958年10月4日 ラジェンドラ・プラサット大統領

佛陀の使命が人類に平和をもたらす様に祈ります
1957年10月13日 ジャワハルラル・ネルー首相

御仏の光が真心と平和に向かって人々のために永久に私達を導かれんことを
1969年6月26日 インディラ・ガンジー首相

インドの偉大な自由の闘士ネタジースバッシュチャンドラボーズの霊を安置している蓮光寺を再び訪れることができてうれしく思います
2001年12月9日 パジパイ首相


インド独立運動の英雄
スバス・チャンドラ・ボース

インド独立運動の非暴力主義のマハトマ・ガンディーに対し急進派として活躍。英独間で戦争が始まるとイギリスと敵対するドイツに亡命。

昭和16年12月
大東亜戦争初戦でのマレー作戦での日本勝利と英大敗は、ボースを奮い立たせ日本行きを熱望する。

昭和17年6月
シンガポールにて日本に亡命していたラース・ビハーリー・ボース(通称・中村屋のボーズ・新宿中村屋の相馬家の婿でもあった)を指導者とするインド独立連盟が設立。
しかしビハーリー・ボースの体調が芳しくない事から後継者として独立運動家として著名なチャンドラ・ボースの招聘が決定。

昭和18年2月8日
チャンドラ・ボースがドイツから日本に移動する手段として、既に陸路も空路も危険が伴うために日独の潜水艦がインド洋で合流するという海路での移動が選ばれる。
そうして、チャンドラ・ボースが乗り込んだドイツ海軍のUボートU180がフランス大西洋岸のブレストを出航。

昭和18年4月26日
インド洋マダガスカル島東南沖でUボートと日本海軍巡潜乙型伊号第二九潜水艦(伊29)が海面で合流。翌日にチャンドラ・ボースは日本潜水艦伊29に移乗。

画像はWikipediaより
伊29艦長・伊豆寿一中佐と乗組員、チャンドラ・ボース氏と秘書ハッサン氏
https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:19430428_japanese_submarine_crew_i-29.png#mw-jump-to-license …

昭和18年5月6日
伊29は海軍特別根拠地隊指揮下サバン島サバン港入港。ボースは同地で日本行きの飛行機便を待ち5月16日に東京到着。
東京に到着後、ビハーリー・ボース後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任。のち10月21日にシンガポールで自由インド仮政府首班に就任。

余談
伊29初代艦長は前述の伊豆寿一中佐
そして2代目艦長が有名な木梨鷹一中佐

伊29は木梨艦長の下で日独往復成功寸前まで行った潜水艦。昭和18年11月に呉出航し翌3月に独領仏ロリアン港入港。4月に帰路につきシンガポール7月入港。
呉に向かう途中に米潜水艦により轟沈。艦長以下百余名戦死…

昭和18年11月
大東亜会議開催
左から
ビルマ国 バー・モウ
満州国 張景恵
中華民国(南京)国民政府 汪兆銘
日本国 東條英機
タイ王国 ワンワイタヤーコーン親王
フィリピン共和国 ホセ・ラウレル
自由インド仮政府 チャンドラ・ボース
 ※なお、インドはオブザーバー枠

https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Greater_East_Asia_Conference.JPG#mw-jump-to-license …

昭和19年
ボースが指揮するインド国民軍はビルマ・ラングーンに拠点を置き、同地にて河辺正三ビルマ方面軍司令官と面談。
のちに、河辺司令官及び牟田口廉也第十五軍司令官は日本軍によるインド侵攻のためのインパール作戦を決行することとなる。

一説にはボースのインド独立に賭ける意志に河辺司令官が惚れ込み、その壮図を見殺しに出来ないという情がインパール作戦の背景にあったともされている。
結果として、インド国民軍は日本軍と共同してインパール作戦及びビルマ戦線に参加するも日本軍ともどもに大損害を受ける。

昭和20年8月15日
日本の敗戦によりインド国民軍は連合国(イギリス)に降伏。
ボースの悲願であった日本と協力して英国からインド独立を勝ち取るという夢は破れ、チャンドラボースは新たなインド独立運動の協力先として(一説には)ソ連に亡命し交渉を行うつもりであったともされている。

昭和20年8月18日午後
台湾にいたチャンドラ・ボースは台湾松山飛行場から中国大連へ向かう予定であった陸軍九七式重爆撃機に便乗する。
しかし同機は台湾松山飛行場からの離陸に失敗し墜落。搭乗していたボースは重傷を負い台湾陸軍病院に搬送されるも癒えること無く永眠。

最後に立ち会ったハブビル・ラーマン大佐に残したチャンドラ・ボースの言葉

「私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ。」

昭和20年8月20日
台北市営火葬場でボースの遺体は荼毘に付され、台北市内の西本願寺で法要が行われた。
そうして9月5日にボースの遺骨が日本に移送される。

ボースの遺骨は陸軍からインド独立連盟東京代表ラマ・ムルティに引き渡される。目立たぬように表向きは同じくインド独立に尽力していたビハーリー・ボース(中村屋のボース)の葬儀ということにしてビハーリー・ボース側近サハイ夫人宅がある荻窪周辺でチャンドラ・ボースの葬儀を行える寺院寺を探すが…

だが、敗戦直後の政情不安定のさなかでなおかつ米英を始めとするGHQの監視下で、各寺院は確実にイギリスにマークされるであろうチャンドラ・ボースの葬儀を行うことを拒絶。
そんななかで頂光山蓮光寺住職がボースの葬儀を行なうことを快諾する。

チャンドラ・ボースの葬儀を執り行った蓮光寺住職望月教栄氏は、
「霊魂には国境はないのみならず、死者に回向することは仏法に従事する僧侶の使命だと感じ、即時快諸した。」
vとのちに回想している。

ボースの葬儀以後、蓮光寺によって遺骨は引き続き保存。
ボースとともにあったインド独立運動家の関係者は次々と「国家反逆罪」容疑でインド本国に送還されイギリスの裁判にかけられる(この裁判などからインド国民の英国反発と暴動がはじまり独立へと連なる)も、ボースの遺骨は日本に取り残され何度かインドへの遺骨返還運動が起きるも関係者にボースの死を信じたくない人々などもおり返還は難航。インド国内では度々ボース事故死の調査委員会などがひらかれていた。
ようやく2017年にインド政府はボースが「1945年8月18日、飛行機事故のため台北で死亡したと結論付けた」と正式回答に至り、このあたりは日本とインドでの遺骨の取り扱いや考えの違い、インド人の物事に取りかかる時間軸の考え方など、意識のすれ違いなどもあったのかもしれず。 2004年には顕彰と遺骨返還運動などをしていた関係者高齢化のため「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」が解散

独立の英雄チャンドラボースの名はインドにおいても讃えられ、カルカッタ(コルカタ)国際空港は「ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース空港」と呼称。 インド国会議事堂ではガンディー(非暴力独立運動)、ジャワハルラール・ネルー(インド初代大統領)らの肖像画に並んでボースの肖像も掲げられている。

遺骨返還運動に関しては紆余曲折のさなかにあるようではあるが…

蓮光寺本堂ではネタジ(指導者)として愛された「スバス・チャンドラ・ボース」の遺骨が安置されており、
毎年の命日8月18日には、ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの法要が蓮光寺にて引き続きとり行われている。


余談

もう一人のボース
ラース・ビハーリー・ボース(中村屋のボーズ)

ビハーリー・ボースは自由インド仮政府の指導者の一人。
日本のインドカレーの父とも。インド独立連盟名誉総裁。晩年は体調を崩し、チャンドラ・ボースを後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍指揮権を移譲。ビハーリー・ボースは昭和20年1月21日に日本で病死している。

インドカレー
日本に伝わっていたカレーは英国式(軍隊式=いわゆる海軍カレー)のものでインドカレーとは全く別物であった。 日本のインドカレーの父とも称されるビハーリー・ボースは新宿中村屋の相馬家の婿となり昭和2年(1927)に新宿中村屋「純印度式カリー」を開発。

https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/products/pro_001.html

昭和2年(1927) 新宿中村屋「純印度式カリー」


新宿中村屋

日本初
純印度式カリー
発祥の地
since1927


A.M.ナイル

更にビハーリー・ボースの腹心として日本でインド独立運動を展開していたA.M.ナイルが戦後はパール判事の通訳なども務め、そして1949年に東京都中央区銀座に「日本初のインド料理専門店」として「ナイルレストラン」を開業。現在は二代目三代目が営業を続けている。

http://www.ginza-nair.co.jp/history.html 


東銀座
印度料理専門店 ナイルレストラン

たまたま、前を通りかかったことがありました。
時間がある時にカレーを食べに来たいものです…

ビハーリー・ボースの腹心として日本でインド独立運動を展開していたA.M.ナイルが戦後に「日本初のインド料理専門店」として開業させたお店。


蓮光寺(れんこうじ)

東京都杉並区にある日蓮宗寺院。
山号は頂光山。
本尊は十界諸尊。
文禄3年(1594)両国矢の倉(現・中央区東日本橋)に開山。 正保元年(1644)浅草新寺町に移転。 大正4年(1915)浅草の区画整理のため現在地に移転。


マハトマ・ガンジー

奇しくも同じ杉並区にインド独立運動のもうひとりの功労者ガンジーの像がある。
杉並区中央図書館の裏庭に。

マハトマ・ガンジー
1869年10月2日-1948年1月30日

東京都杉並区にこのガンジー翁の銅像を、2008年11月6日にガンジー・アシュラム(修養所)再建財団創立者・インド国会議員・故ニルマラ・デッシュバンデ女史の遺志により、ガンジー翁の精神に基づいて、世界平和と相互理解が強められることを記念して、贈る。

7つの大罪
汗なしに得た財産
良心を忘れた快楽
人格が不在の知識
道徳心を欠いた商売
人間性を尊ばない科学
自己犠牲をともなわない信心
原則なき政治

杉並区中央図書館は改修工事中の為、このときは近くでの観覧はできず、でしたが。

再訪しました。


参考サイト


Netaji unfogettable Hero of India
http://www.yorozubp.com/netajiunfogettable_indian/ …
英雄チャンドラ・ボースいまだ帰国せず
http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/chandra_bose.html …
チーム・ネタジ
http://www.teamnetaji.org/index.html 
Wikipedia関連項目各種
ほか

「風船爆弾打ち上げの大津基地」と「震洋の平潟訓練基地」(北茨城)

平成29年8月撮影

茨城県北茨城市に点在する「震洋基地跡」と「風船爆弾放球台跡」。
あわせて平潟港と大津港の鎮守様も。

平成29年8月13日。
常磐線にて大津港駅へ。 茨城県最北端の地・北茨城市で、ちょっとした戦争関連の史跡とあわせて平潟港・大津港の鎮守神社2社を散策して参りました。

風船爆弾放球台

大津港

午前9時20分。大津港駅到着。1時間に1本クラスだと接続も悩ましいですね。 当地は観光地的には「岡倉天心」と「六角堂」などが有名。

大津港駅

大津港駅は平成25年リニューアルし「六角堂」を模すデザインに。(六角堂は東日本大震災の津波直撃で土台のみをのこして消失。その後平成24年に再建) 駅は平成27年3月ダイヤ改正で特急通過駅に。翌年には駅前にあった大津港駅前観光案内所(&レンタサイクル)も撤退。

つまりレンタサイクルはない。バスもない。

歩くしか無いわけです。
(財力があればタクシーという選択肢もありますが…)

駅前の観光案内図を見ればちゃんと「風船爆弾打上跡地」と記載ありますね。 目的地が記載してあって安心。

ざっくり30分くらい歩けばいいのかな。

大津港駅前

のっけから駅前にあるレンガ造り建物に吸い寄せられてしまい。
なんですか、この美しい造形は。
大正元年(1912)に造られた大津港駅で貨物業務を請け負っていた倉庫らしく。
※2016年に大津港駅前から撤退した観光案内所はここにありました。

平潟港へ歩いていると道標を見つけました。
「記念御成婚」とあります。
昭和天皇(大正当時は摂政)の御成婚ですね。
大正13年8月30日建立。 現在の陸前浜街道から関本駅(大津港駅)・平潟町・大津町への道しるべ。

ずいぶん遠くに来たような気がします。
「仙台」とか「いわき」とか書いてあります。
どうしてこんなところを歩いているんだろ、と我に返ってはダメです。
無心で歩いていたら平潟の集落を通り抜けてしまい。
よき港町だったのに写真に納めるのを忘れてしまいました。

平潟港

茨城観光百選「平潟港」 昭和60年に「つくば科学万博」関連事業で制定。 鮟鱇像(あんこう) 東北地方太平洋沖地震で被災した北茨城市。 このモニュメントは北茨城市の魚であるアンコウをシンボルとし被災地の安寧と明るい未来に向けた復興に願いを込め建立。

湾内を一望する。
むかって北西側に小高い丘、南東側にもちょこっと小高い丘。
南東の島のような丘が震洋基地跡という。(のちほど)
小さいけれども良い港。

北側の高台に穴が覗いていたり、神社が鎮座していたり。
やはり気になりますね。まずは神社に行ってみましょう。

|-`).。oO(真似する人がいるかどうか知りませんが参考情報。

ちなみに大津港駅から平潟港までは徒歩25分でした。
この日は港に着いたら雨が降ってきまして・・・

平潟八幡神社

平潟港を見下ろす平潟町の鎮守様
平潟港は仙台江戸間で唯一の自然港として仙台藩によって整備され河村瑞賢により築港(行政は棚倉藩)
八幡神社は寛和元年(985)に鎌倉より分霊し鎮座
現在地には延宝9年(1681)に遷座
嘉永6年(1853)棚倉藩により再建という

社頭の狛犬は昭和2年4月。ブロンズ製の狛犬。なかなか格好良い。

後述しますがこの平潟港には戦中に海軍特攻艇「震洋」訓練基地として平潟基地が展開されていた。
往時の震洋隊員たちも、きっと平潟港鎮守たる八幡様に武運長久を祈ってお参りし狛犬達が出迎えた事でしょう…

この神社、何やら凄い。
港から約50メートル高い台の崖の上に鎮座。
社殿後方の崖に幾つか穴が掘られており・・・

御社殿後方に「虎像」が奉納されておりました。
恵比寿様やら稲荷様なども鎮座しておりました。

境内から更に一段と高い崖の上にお社が鎮座。
奥社のような佇まい 。

境内から更に一段と高い崖の上にお社が鎮座。
予備知識無しでの参拝でしたが、予想以上の空間に驚きました。
山道が更に奥に続いているようでしたので、その気になればもっと探索できそうでしたがこれ以上は自粛。

神社境内から平潟湾を見下ろす。

対岸の小島のようにポッコリとした丘が、海軍特殊攻撃艇「震洋」が秘匿された平潟基地跡という。
灰色の蓋はされているが、確かに幾つかの穴が遠望でも確認できる。

忠魂碑
元帥子爵川村景明書
大正10年10月建立

川村景明は元帥陸軍大将。日露戦争時は鴨緑江軍司令官として明治38年に奉天会戦に参戦。
平潟町の犠牲者を慰霊。
川村が帝国在郷軍人会会長在任中に書に応じたものと思われる。

ご神木スギ
推定樹齢約300年

このあたり平潟八幡神社の鎮座している丘の先は「鵜ノ子岬」と呼ばれているそうで。

この岬の北側は「福島県」。まさに関東と東北の境目。
穴が開いていました。(近寄れず)

平潟港はアンコウ鍋の発祥の地とされていて時間があればゆっくりしたかったのですが(ムリでした…

震洋・海軍平潟訓練基地跡

平潟港には海軍特殊攻撃艇「震洋」の訓練基地が展開されていた。
昭和20年6月25日に小名浜基地に編成された141震洋隊が翌月下旬頃に平潟訓練基地に移動。搭乗員50名を含む173名であったという。
当部隊は出撃はせずに終戦を迎え9月20日に解隊。

※靖國神社遊就館大ホールには復元された震洋が奉納されている。

震洋は船首内に250キロ炸薬を搭載し敵艦への体当たり攻撃を目的とした特攻艇 各型合せて6200隻が量産され4000隻が配備。震洋隊戦没者は2500余名という
原寸模型は震洋一型
1/10模型は震洋五型

幸いにして平潟港で訓練を重ねていた震洋隊は出撃せずに終戦を迎えた。

が、終戦の翌日に1隊員が猛スピードで震洋を乗り回し沈没したという逸話が残っている。(※「フィールドワーク茨城県の戦争遺跡」による)

静かに往時を偲びしとき…

東日本大震災記録碑

2011年3月11日14時46分
北茨城市でも震度6弱を記録し15時31分に到達した津波は最大6.7mを記録。 死者5名、行方不明1名の尊き命を奪い、全壊半壊家屋は2400戸を越したという。

この場所は幾多の歴史が重なりし場所であった…合掌


風船爆弾放球台跡( 北茨城大津)

平潟港から南に歩むこと25分ほど。五浦海岸にアクセスする県道354号線の脇に不思議な空間(円形の何か)があるのが地図上でもわかります。
これが「いわゆる風船爆弾」を放球した台座の跡。

https://goo.gl/maps/66XpvazGJsmQ3qiR8

「風船爆弾放流大津基地」跡

夏場なので草が心配でしたが放球台座跡は整地されており見学は容易でした。 (助かりました)
直径約16m円形のコンクリート台座が残っておりました。

放球台座の円周縁に設けられている2箇所の四角い台座は気球を飛ばすための水素を充填する水素ボンベを設置した跡とされている。

「風船爆弾」は戦後の俗称。
往時は「気球爆弾」と呼称されており秘匿名称は「ふ号兵器」

第二次世界大戦で使用された兵器としての到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器でもある。

昭和19年11月に「ふ号兵器」として実用化。ジェット気流を利用し気球に爆弾を乗せ日本本土から米本土空襲を行うもので、茨城県大津(最大規模→18基の放球台があった)・千葉県一宮・福島県勿来の基地から19年11月から20年春までの間に約9300発が放球されたという。

9300発のうち米本土に到達したのは約300~1000程度(資料にブレあり)。 被害としては1945年5月5日オレゴン州で風船爆弾不発弾に触れた民間人6人が爆死。あとは小規模の山火事など。 風船爆弾による心理的効果は大きく米国内では箝口令が引かれていた。

風船爆弾を開発した登戸研究所

大津の北にある勿来の放球基地跡

一宮の放球基地跡


風船爆弾犠牲者鎮魂碑

「風船爆弾放球台」の向かい側にひっそりと鎮魂碑が建立されている。

昭和19年11月3日「明治節」に大津基地で最初の風船爆弾放球を行う際に誤爆事故が発生。3人が犠牲となり、のちに鎮魂碑が建立された。 この誤爆事故により放球は11月7日に延期。

風船爆弾放流地跡「わすれじ 平和の碑」

新しい誓い
海のかなた 大空のかなたへ 消えて行った 青い気球よ
あれは幻か 今はもう 呪いと殺意の 武器はいらない
青い気球よさようなら さようなら戦争
鈴木俊平作・書

場所→https://goo.gl/maps/KUdRHetRF1x …

風船爆弾放流地跡

この辺一帯は、昭和19年11月から昭和20年4月の間、アメリカ本土に向けて風船爆弾を放流させた地です。…大本営直属の部隊本部はこの地にあり、作戦の中心でした。…永遠の歴史の片隅で人目を忍び、いぶし銀のようにささやかに光る夢の跡です。昭和59年11月25日建之

五浦海岸ジオサイト
海を渡ってアメリカへ…戦争の記憶を将来へ伝える地

青い青い海を見ながら、
歴史の一幕に感じつつ、
往時を偲ぶ…

放球台跡から山道に入った所に「水素ガス製造の為にケイ素鉄を粉砕した工場跡」遺構があるというが
うん、夏場に探索はムリです…
一宮基地・勿来基地では水素供給工場が被災し途中で作戦遂行不可になる中で大津基地のみは工場は無事で最後まで作戦が遂行されたという

山道を踏破はしました、なんとか。

白丸が風船爆弾放球台跡。
赤丸が風船爆弾放流地跡石碑。
青丸が水素生成ケイ素鉄粉砕工場跡推定(夏はムリw

のどかでした。
水田の緑が眩しい。黄金色に輝くときが楽しみです。
今日の安寧に感謝する。

さて、ここで駅に向かうか寄り道をするかの二択を迷う。
散策を開始して約8キロ2時間半経過。
電車は1時間に1本。寄り道すれば次は13時18分。

うん、寄り道してみるか

ここからは寄り道。戦跡とは離れます。
大津港に鎮座している「佐波波地祇神社」を目指します。
常陸国延喜式内論社
この前述の場所からは歩いて30分位かかりそうです… https://goo.gl/maps/ZJeZJBz93h12 …

道途中に「おおっ??」と反応してしまいました。
「聖徳太子碑」 大津平潟桶師組合・大正4年建立
「即位紀念」とありますが、 どうして「聖徳太子」と刻んだのか。
それも「桶師組合」が。
謎です。
場所→https://goo.gl/maps/xezpWnmm2Bo …

佐波波地祇神社

大津港駅からは徒歩約40分の道のり。現実的に歩いて行く距離ではないのですが、戦跡巡りで歩き続けていた私には誤差になっていたようで。無駄にテンション上げて歩いておりました。
場所→https://goo.gl/maps/yoKw6u77aTP2 …

さすがにもう石段はつらいですね。
やっとの思いで登ると、海が見えました。

大津の港。
地図で見るとわかるとおり阿字ヶ浦から小名浜にかけての海岸線でちょこっと突き出た五浦の北の平潟港と南の大津港は良港であったことがわかる。 高台に鎮座した大津港の鎮守様。

延喜式内社の古社。常陸國二十八座多珂郡一座小「佐波波地祇社」
古くは佐波波神また六所明神と尊称。
元禄年間に西山公(徳川光圀公)が神徳を景仰して大宮大明神と尊称。
鎮座の丘は「唐帰山」(からかいさん)と称され航海の目標となっている。

御本殿は享保12年(1727)造営とされている。
海上守護の神として崇敬されており、御社殿の脇には「錨」が多く奉納されていることからも崇敬の篤さが伝わってくる。

航海故事としては東征時の日本武尊や水戸光圀公の逸話も残っている。

「唐帰山の御神水」
鎮座地の台地は宮平と呼称され唐帰山は海抜55m。
この井戸は享保年間以前に掘られており爾来300年以上に渡り地下30mの水脈より枯れることなく汲み上げている。
わざわざ歩いて登ってきただけある良き佇まいの古社でした。

帰路。
あとはもう駅への道を真っ直ぐに。
なにげない橋だけど「昭和9年2月竣工」
場所→https://goo.gl/maps/A5R6pyNK3tz …
歴史重ねし建造物が、今も何食わぬ顔してこうして縁の下を支えていると思うと感慨深いものがあります。

この日の行程。
午前9時20分に大津港駅に到着。
平潟港には午前9時50分着。
平潟港の散策を約1時間行ない10時45分に南下開始して風船爆弾放球台跡には11時10分到着。大津港を経由して駅に戻ってきたのは13時10分。
約13キロ約4時間所要の散策でした。

新潟新発田の戦跡散策(歩兵第16聯隊)

平成31年3月撮影、新潟県新発田市

歩兵第16聯隊

明治4年(1871)、新潟に東京鎮台第一分営が置かれ、明治7年に、新発田城内に「白壁兵舎」が落成したのを機に新発田歩兵第16聯隊が編成。

明治21年(1888)、第2師団所属。日露戦争時は新設第13師団所属。宇垣軍縮により13師団廃止後に再び第2師団所属に戻る。太平洋戦争時の通称号は「勇1302」

太平洋戦争では、ジャワ島、ガダルカナル島、フィリピン、中国雲南省、ビルマ方面で勇戦し、終戦をベトナム・サイゴンで迎えている。

白壁兵舎
 白壁兵舎広報史料館

明治7年に陸軍兵舎として建築されたフランス様式と和風城郭様式の和洋折衷小屋組等に見られる歴史的建造物である白壁兵舎を移築復元し、平成26年から「陸上自衛隊新発田駐屯地・白壁兵舎広報史料館」として公開されている。


新潟でちょっとだけ隙間の時間ができた3月の某日。新発田に足を運んでみました。まずは史料館を見学。駅から新発田城までは距離があるのでレンタサイクルでの移動を推奨。

新発田兵舎之跡

陸上自衛隊新発田駐屯地・白壁兵舎広報史料館

見学コースは二階から。

二階の窓からは、新発田城が望めます。

兵舎の建築にあたっては、明治政府が取り入れていたフランス式兵制に基づきつつ、日本の伝統的技術を要する棟梁が建設をおこなったために、和洋折衷方式での小屋組みが特徴。

日本の伝統的な「梁と船肘木と柱」箇所と、斜めに組んだ「フレンチトレス方式」が融合した内部。

白壁兵舎の由緒

移築復元前の姿を写した写真と、歩兵第16聯隊本部兵舎鬼瓦

歩兵第16聯隊旗(複製)

明治大正昭和の歴戦の弾雨で房だけが残る。新潟県護国神社に奉納されたものの複製を展示。

終戦を仏印出迎えた歩兵第16聯隊は奉焼通達に対し、跡形もなく奉焼するのが忍びなく、聯隊長決断で房を切り取り各将校に奉持させ、一欠片でも多くを新発田に持ち帰ることとなり、旗竿部だけを奉焼し、竿部の菊の御紋章はノミで粉砕した。これを方方に捨てるのは畏れ多いとのことで、房の欠片とともに幹部に奉持させた。

新発田兵営配置図

本間雅晴中将

本間雅晴(陸軍中将)は佐渡島出身。大東亜戦争ではフィリピン攻略戦を指揮。昭和21年4月3日、マニラにおける軍事裁判で銃殺刑。享年59歳。

本間雅晴陸軍中将のコーナーがありました。新潟出身。

フィリピンのロスバニョスにある本間雅晴中将の慰霊碑・写真

本間雅晴中将 辞世 直筆
甦る 御國の末を 疑はす 心豊かに 身をも捧けむ

本間雅晴中将の書

「以和為光」 和を以て光と為す

「弾幕能落ちるとこゆえ息をつめ、突撃を待つ兵の無事なり」

「竹と達磨」本間雅晴夫人の富士子氏の掛絵。達磨を本間雅晴中将に見立てているともいう。

本間雅晴中将の勲章やステッキ、将官用指揮刀など。

歩兵第十六聯隊歌

作・本間雅晴

歩16当時は中隊長を勤めていた。

新潟にゆかりある軍人として、山本五十六元帥海軍大将と今村均陸軍大将の書も掲げてあった。

山本五十六は新潟は長岡の出身。

今村均は父親の転勤にとこない新発田中学に転入。太平洋戦争時は新発田歩兵第16聯隊を含む第16軍司令官としてジャワ島攻略戦を指揮。

新発田第16聯隊にまつわる数々の展示コーナー

日清戦争・日露戦争

満州事変・シベリア出兵

ノモンハン事件

支那事変(日中戦争)

大東亜戦争

復元室・軍服など

新発田陸軍病院で使用していた衝立 (県立新発田病院)

二階部分の展示は旧軍を中心としたものでした。

一階部分は自衛隊コーナー

白壁兵舎。床下の様子も見学できます。

白壁兵舎と陸上自衛隊新発田駐屯地、新発田城址。

駐屯地の西側に公園があります。

新発田西公園

歩兵第十六聯隊衛戍地内

かつての・・・

越佐招魂社 戦没者納骨堂

戦後新発田に進駐軍が入った際に園内の慰霊塔・碑の取り壊し撤去を要求されたが、当時の町会議員大竹金吾氏の命がけの努力により免れた。今もなお当時のままの形で保存されている。

新発田聯隊 遺勲の譜

明治の建軍以来、国運を賭す全戦役に参加した越佐健児の栄光の勲を宣揚。

越佐戦没者納骨堂(陸軍墓地)

歩兵第十六聯隊創設以来の御英霊の御遺骨が眠る越佐戦没者納骨堂。1万5千柱の御霊がこの地に眠っている。

忠霊
戦友 今村均謹書

今村均陸軍大将は第16軍司令官として隷下の第16聯隊を率い、ジャワ島(蘭印)攻略戦を指揮。今村均陸軍大将自身も新発田中学校を卒業しており、御英霊とご縁が深い。

ガダルカナル島戦記念碑

ガダルカナル島の石を用いた慰霊碑

ガダルカナル島記念碑
太平洋戦争の命運を賭した激戦の島ガダルカナル。
この碑は旧新発田聯隊が凄惨苛烈飢餓と悪疫の中に郷土と県人の栄光を荷いつつ斗い遂に広安聯隊長以下全滅に等しい悲運に遭遇し身を祖国と民族に捧げた尊い記念であります。
ここに駐日英国大使館を始め内外関係者多数の好意と御協力により伝統ある越佐健児の勇戦敢斗をしのび併せてその冥福と平和への祈願をこめ特にガ島の石にきざみ思い出深い菖蒲城址に建立いたしました。
 昭和37年4月23日 ガダルカナル島戦記念碑建設期成会

日露戦役忠霊塔

歩兵第十六聯隊 軍旗奉焼之碑

平成22年8月建立

ビルマ戦慰霊平和塔

昭和45年8月16日 歩兵第十六聯隊あやめ会 建立

ガダルカナル島で広安寿郎聯隊長以下全滅に等しい犠牲を受けた第十六聯隊は堺吉嗣聯隊長以下の精鋭でもって再編された。

マライ半島から進撃した第16聯隊は雲南にて支那軍と死闘をし、堺聯隊長は負傷。新たに井上晴蔵聯隊長を迎え青葉兵団の主力となった第16聯隊はビルマにて英印軍と戦闘を繰り返し、ビルマの山野に井上聯隊長以下2000余柱の犠牲をだした。

この塔は戦後25年、生還したわれら戦友が自ら集い浄財を出し合って建立したもので仏教の国ビルマの象徴であるパゴダに形どり、これを通じ亡き英霊を故山に迎えその冥福を祈り、長く構成に平和をこいねがわんとするものである。
この真情は、必ずや英霊の照覧するところとなるであろう。
(略)
歩兵第十六聯隊と由緒ふかい菖蒲城址の一角に立つ慰霊平和塔は、幾星霜にわたって盤石に硬く在天の英魂の降鑑し帰依するところならんことを祈る。

合同忠霊塔

シベリア出兵戦没者残骨灰埋葬之地

(西伯利亜出兵戦没者残骨灰埋葬之地)

越佐招魂碑

篆書文字、台湾総督・小松宮彰仁親王のご親筆

明治31年11月23日鋳造

西公園にて慰霊碑をめぐり、この日の散策は終了。

西公園の向かいは、新発田駐屯地。

新発田城

戦国時代の豪族・新発田氏の居城。新発田重家は上杉謙信に属し、上杉軍団の中核として有名を馳せたが、上杉景勝と対立し敗退。そののちに秀吉家臣の溝口秀勝が新発田6万石(のちに10万石)の大名として入封。爾来、新発田藩・溝口氏は一度も国替えなく溝口氏12代の治世が廃藩置県まで続いた。

旧二の丸隅櫓
三階櫓

新発田城に残る明治以前の建築物としては、本丸表門は1732年再建。また旧二の丸隅櫓は1668年の大火以降の再建、いずれも国重要文化財。また天守のかわりとして三階櫓が復元されているが駐屯地内のため内部は非公開。

あわただしく新発田駅に戻り、今回の散策は終了。

次に来ることがあれば、史料館をゆっくりと見学しつつ、城下町新発田を楽しみたいと思う。

神雷桜と桜花~靖國神社の桜

靖國神社に献木された神雷桜から、往時を偲ぶきっかけを…

  • 靖國神社の神雷桜
  • 桜花公園の神雷桜
  • 桜花
  • 靖國櫻(靖国桜)

靖國神社

桜の季節になるとどうしても「桜花」のことに触れたくなります
桜賑わう靖國神社で、桜にまつわる先人たちの物語を。
以下に「神雷桜と桜花」にまつわるあれこれをまとめていきます

感謝と哀悼を…


桜花

この美しき言霊は、時に残酷な言霊でもあり。

海軍神雷部隊「桜花」

母機である一式陸攻の爆弾倉に懸吊された状態でロケット特攻機「桜花」は目標近くまで運ばれ、放たれた桜花は操縦士もろとも目標に向かって突入する。

神雷部隊は特攻専門部隊であった…

神雷桜

かつて神雷部隊の将兵たちは戦死したら「靖國神社の御神門を入って右の二番目の桜の木の下に集まって再会しよう」を合言葉にしていた。

戦後生き残った戦友は、この合言葉を大切にし、そうして桜を奉納した。

奉納された桜は「神雷桜」と名を記されている。 (海軍神雷部隊戦友会)

神雷桜
海軍神雷部隊戦友会

今年もまた桜花の季節がやってくる。
靖國神社の桜は、戦友の想い、遺族の想いが込められし桜。 特別な桜。

 貴様と俺とは 同期の桜

 離れ離れに 散ろうとも

 花の都の 靖国神社

 春の梢に 咲いて会おう

境内の桜を見上げつつ、今年もまた往時を偲ぶよすがを。

「桜花」と共に戦いし神雷部隊。
その名を伝承する神雷桜。

靖國神社 神雷桜

見事な桜花… ありがとうございます


靖國神社みたままつり(平成29年7月13日(木)前夜祭)

夏夜の神雷桜

第71回みたままつり(平成29年7月13日(木)前夜祭の朝)

ついつい神雷桜に目がいってしまう。葉桜の木陰で楽しむ境内。

平成29年5月

新緑の神雷桜

平成29年8月

夏の神雷桜


第七二一海軍航空隊
「神雷部隊」

https://ja.wikipedia.org/wiki/第七二一海軍航空隊

桜花

https://ja.wikipedia.org/wiki/桜花_(航空機)


神ノ池神雷桜・桜花公園

茨城県鹿嶋市光。 2016年撮影。
海軍神之池航空基地の跡地。
神雷部隊「桜花」練成の地。
この地にも戦友会の献木がある。 「神ノ池神雷桜」
いつの日か、この地の桜花が咲くときに訪れてみたい…

献木
神ノ池神雷桜
平成8年3月(1996)
寄贈 海軍神雷部隊戦友会

慰霊と感謝を。 若き海鷲たちに。

神ノ池海軍航空基地を物語る掩体壕。

721航空隊「神雷部隊」として特攻機「櫻花(桜花)」訓練基地が展開。 この神ノ池で訓練をした若者たちが鹿屋に出撃し、そして鹿屋から特攻へと…

神ノ池海軍航空基地を物語る掩体壕。

その上部は自然へと帰りつつ。

掩体壕には復元された櫻花11型が展示してあった。

一式陸攻を母機とし、1200キロの爆弾に推進ロケットを装備した有人ロケット爆弾。敵艦上空で母機より切り離されて高速滑空し特攻…

神ノ池海軍航空基地

昭和19年。筑波海軍航空隊では戦闘機パイロット養成施設が手狭になった為に、神ノ池飛行場に戦闘機練成隊を新設し開隊。 のちに秘匿性の高さから桜花訓練基地となり、当地で訓練をつんだ若者たちが鹿屋から特攻へと飛び立つ事となる…

※ 神ノ池は「ごうのいけ」と読みます。常陸国風土記にも記載される歴史ある池。1969年に埋め立てる前は現在の7倍はあった、という。

神ノ池海軍航空基地は、そのほとんどが工場地域。

現在の航空写真で御覧の有様。 この掩体壕が、今日まで歴史を物語る遺産として残ったことにも感謝。

公園の由来
太平洋戦争末期、この地に海軍航空隊神之池基地が開設され、特攻兵器”櫻花”の訓練が行われました。
鹿島製鉄所では、地元及び櫻花関係者の御意向に沿い、構内に残る神之池基地の掩体壕の周辺を整備し、ゆかりの櫻花碑をここに移し、土地の歴史を記念する公園として開放することとしました。壕内には往時がしのべるよう櫻花の復元機を置きました。
この公園が、先の大戦の記憶が風化する中、平和への思いを新たにするよすがとなれば幸いです。
平成5年12月 住友金属工業株式会社鹿島製鉄所 所長 長谷 登

櫻花公園(桜花公園)

神雷竜巻
櫻花隊員

錬成之地

櫻花

山岡荘八

のちに時代小説作家として大家となる山岡荘八氏は当時、海軍報道班員として神雷部隊櫻花隊員と生活を共にしていた。


櫻花
山岡荘八碑裏

太平洋戦争も一段と熾烈を極めた昭和十九年十月一日、祖国日本の興廃をその一身に背負おうと志願して来た紅顔の若者達は海軍百里原航空隊で、特別攻撃隊櫻花隊を結成同年十一月七日この神之池に訓練基地の設置を見た 。

やがて神之池基地で至難な訓練を受けた若者たちは九州最南端の鹿屋の野里村に移り、鹿屋を特攻基地として祖国の国難に殉じて行ったのである。

云わば神之池は、特別攻撃隊発祥の地として、わが日本国民として忘れてはならない、祖国の存立を護った尊い大和魂の故里である。

撰文 山岡荘八  昭和五十三年三月吉日 

建立者 元櫻花隊員小城久作 妻泰子

櫻花の碑。

前面には山岡荘八氏による建碑由来も記載。碑は元桜花隊員の小城久作氏が昭和53年に私費を投じて建立。

側面には小城氏の献歌もある。

 錬成の
 名残とどめぬ鹿島灘
 いまだただよう
 戦友のおもかげ

櫻花
山岡荘八


散った桜を静かに見送る。

手向け花を。散りし桜花を。

自然と手を合わせ頭を下げる。

ありがとうございました。

また来よう。桜の季節に。 そう感じさせる空間であった。


筑波海軍航空隊記念館

霞ヶ浦海軍航空隊(教育部隊・予科練)

鹿島空(水上機部隊独立)
谷田部空(霞空補助)
土浦空(霞空から予科練を引受)

筑波海軍航空隊(戦闘機)

★神ノ池空★(桜花部隊)
谷田部空(戦闘機)

桜花・筑波海軍航空基地 (茨城県笠間市 筑波海軍航空隊記念館にて。)


神栖中央公園

神栖中央公園。 ここに櫻花(桜花)が展示されてます。 ガラスショーケースの中に原寸大復元の桜花が。 この桜花は映画「サクラ花」の撮影で使われたものであり、2015年に神栖市に寄贈された。

櫻花(桜花)

映画「サクラ花 桜花 最期の特攻」復元機体。


桜花・靖國神社遊就館

靖國神社遊就館の大展示場の片隅に。

復元された「桜花一一型」と「海軍神雷部隊桜花攻撃ジオラマ」が展示してある。

圧巻で胸が詰まる空間。 しばし見上げ見つめ、静かに哀悼と感謝を捧げる空間。

その足跡を。

「靖國神社遊就館」
平成29年3月現在、大ホール展示のみ撮影可

http://yusyukan.yasukuni.jp


【靖國櫻】(靖国桜)

今回は「神雷桜」を例としましたが、境内に無数にある靖國桜にはそれぞれ奉納された人々の物語があります。

これからの桜の季節。

せっかくですので花の都「靖國神社」で桜を愛でながら、ちょっとだけでも感慨にふけっていただければ幸いです…

散る桜 残る桜も 散る桜

想い積もりし靖國櫻

花の都の靖國神社、春の梢に…

献木奉納桜「南会桜」
第六三四海軍航空隊呉瑞雲隊有志一同

第六三四海軍航空隊は航空戦艦で運用する水上機(瑞雲)艦上機部隊(彗星)部隊として整備。しかし連携する機会なく水上機基地航空隊として終戦まで運用。 第九三四海軍航空隊も水上機部隊。消耗により昭和19年10月解隊 。


靖國神社招魂斎庭跡。

その片隅に咲く緋桜。靖國桜。

空挺櫻

「花の都の靖國神社 庭の梢で咲いて会おう」

平成元年4月8日 陸軍落下傘部隊戦友一同

空挺櫻 (靖國神社招魂斎庭跡)
 散る桜 残る桜も 散る桜

陸軍落下傘部隊の歌 「空の神兵」
 藍より蒼き 大空に大空に
 たちまち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く

見上げていたらグッとくるものが… ありがとうございます…

「新潟空襲で孤軍奮闘した船」軍用船宇品丸慰霊塔

平成30年12月撮影・新潟市

軍用船宇品丸慰霊塔(新潟市中央区)

初の日本陸軍保有軍用輸送船「宇品丸」
陸軍運輸部・船舶部隊の拠点が置かれた宇品の名を冠した船。
この船は、新潟空襲に際して、米軍機をひきつけ弾薬を浪費させたことにより、新潟を護った軍用船であった。

昭和20年8月10日「新潟空襲」
新潟港に襲来する米軍機に対し唯一応戦した宇品丸は米軍機1機を撃墜。
宇品丸の船員3人、兵員16人が戦死している。

軍用船宇品丸慰霊塔

宇品丸慰霊塔建立の趣意書
大東亜戦争の終戦間近い昭和20年8月10日米軍の戦斗機(グラマン)数機により新潟港湾附近の空襲を受けた際、偶々同港山田町側に停泊中の軍用船宇品丸の兵士は敢然としてこれを迎撃奮戦した為に米軍機も攻撃目標を宇品丸に集中して弾丸のほとんど全部を撃ち尽して逃走した。
その為港湾施設及び市街は最小限度の被害で済んだが宇品丸の乗員はほとんど玉砕した。 昭和29年地元山田町外有志相図り新潟市の救神となった宇品丸勇士の英霊を慰めようと慰霊塔建立の議あり。
茲に当時の市長村田三郎氏の筆を得てささやか乍ら建立を実現し以来毎年町内会にて慰霊祭を執り行ない英霊に感謝の意を表している次第である。

嗚呼悲壮
 宇品の勇士花と散り
その名も数も無きあとの  
 霊なぐさむと伏し拝む

歌碑  
 ああ悲壮 
世界平和を   
  夢に抱き  
 玉砕しけり 
宇品の勇士

歌碑裏

大東亜戦争の終戦間近い昭和20年8月10日新潟港湾付近の空襲を受けた際、山田町側に停泊中の軍用船宇品丸の勇士は国土防衛に敢然として迎撃奮戦し乗員はほとんど玉砕した
その慰霊50年忌に当たり、永遠の世界平和とミタマの安らかなるご冥福を祈念しここに之れを建立する
 平成6年8月吉日 (以下個人名は略)


宇品丸 (陸軍輸送船)

日本陸軍運輸部保有の輸送船。
米国にて1919年(大正8年)竣工、総トン数は2214トンの小型貨物船。

1929年、陸軍省は当時「宗安丸」として民間就航していた当船を購入し「宇品丸」と命名。 陸軍省運輸部の拠点にして陸軍船舶部門の中心が宇品であった。
宇品丸は陸軍所有の初の輸送船として、そして陸軍運輸部の顔として宇品を拠点に訓練に従事。
海軍とも協力し、模擬上陸船訓練なども実施され、また軍需輸送にも使用された。

1941年の大東亜戦争開戦後は主として瀬戸内海を拠点に輸送や訓練に活躍。

昭和20年、宇品丸は日本海での食糧輸送に就く。7月6日、新潟沖で米軍敷設の機雷に接触し浸水、沈没防止の為に信濃川河口で擱座。
8月10日、新潟市はF6F戦闘機16機の空襲を受ける。
宇品丸は高射砲・機銃あわせて6門で応戦し米軍機1機を撃墜するも被弾炎上。150人の乗員のうち船員3人兵員16人が戦死。

昭和21年5月、戦後も放置されていた宇品丸のサルベージが開始。浮揚に成功し舞鶴港に曳航され修理。

昭和25年のポツダム命令によって宇品丸は朝鮮郵船に払い下げられ、1958年には室町海運に譲渡、1966年までは持ち船として船名が確認できていた。


宇品丸慰霊塔 「宇品丸」が座礁していた場所に近い山田町町内会をはじめとする有志らが、8月10日の交戦により死亡した兵士・船員の霊を慰めるため、昭和29(1954)年、に「軍用船宇品丸慰霊塔」を建立。
慰霊祭は8月10日。
平成8(1996)年からは地元有志が興源寺で慰霊祭を続けている。

近くの「「入船みなとタワー」からみた信濃川河口と日本海。 宇品丸は信濃川河口に擱座していた。
ちょうど対岸には「あざれあ」(新日本海フェリー)も停泊。

先日、新潟にを訪れる機会がありましたので、ちょっとだけ足を伸ばして「宇品丸慰霊塔」に参拝した記録でした。


2023年10月追記

周辺が工事中でした。工事は2024年3月まで。

平和祈念碑

宇品丸の碑の近く、水戸教公園に、新潟市の平和祈念碑がある。

https://www.city.niigata.lg.jp/kurashi/danjo/jinken/heiwakatsudo/heiwa_kinenhi.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/nigata_nigata_001/index.html

新潟市においては、第二次世界大戦末期の昭和二十年新潟港を中心として、艦載機による銃爆撃や触雷により連絡船「鉄工丸」、軍用船「宇品丸」、佐渡連絡船「おけさ丸」などの多数の船舶や工場民家などに大きな被害を受け勤労動員の生徒をはじめ、工員・乗客・船員など多くの尊い生命や貴重な財産が失われました。
さらに、新潟市出身の軍人軍属並びに市民の多くがひたすら祖国の安泰と家族の幸せを念じつつ戦争の犠牲となり尊い命を亡くされました。
また当時、市内の捕虜収容所に収容されあるいは強制連行されて来ていた外国の人々の多くも異国である新潟の地で亡くなっております。
あれから五十年余りが経過し、新潟市は今市民のたゆみない熱意と粘り強さによって中核市として目覚ましい発展を続けております。
しかし、私たちは、今日の発展が多くの尊い犠牲の上に築かれていることを忘れず戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に語り継いでいかなければなりません。
市域で最も激しい戦禍にあった新潟港を望む水戸教公園の丘に、平和の祈念碑を建立し戦争の犠牲となられた方々のご冥福をお祈りするとともに世界の恒久平和を願うものであります。
 平成十年八月十日
  新潟市長 長谷川 義明

場所

https://maps.app.goo.gl/JCmY6BmzcqbTVznD6


関連記事

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shinetsu_01.html

https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_10.html

https://www.sankei.com/article/20150811-HSYDYZKHOBNG3AODPVQBKR3BW4/

陸軍護衛空母「山汐丸の錨」(横浜)

2018年11月及び2023年12月撮影・横浜市


山汐丸の錨

「山汐丸(陸軍護衛空母)」
横浜みなとみらい地区の片隅に赤さびた大きな錨が展示してある。

昭和19年に三菱重工業横浜船渠で2TL型タンカー5番船として起工された山汐丸は、昭和20年1月27日に竣工。
形式上は民間船であったが陸軍指揮下で船団護衛艦兼用輸送船として運用予定であった。

しかし既に南方航路も閉ざされており就役を待たずに石炭炊き貨物船(既にタンカー輸送船として運用出来ない為)に改造が決まる。

三菱重工横浜船渠において係留待機中、昭和20年2月の空襲で大破着底し終戦。
戦後の解体中に沈没。
そのまま擱座状態で埋められ「山汐岸壁」へと。

由来の看板がある。

造船所と横浜を記憶する「イカリ」
  このイカリは「みなとみらいセンタービル」工事中に発掘されたものでビル建設の一環として事業主様により設置・展示されました。
この敷地には、一八九一(明治二十四)年に創業した横浜船渠株式会社がありました。その後、三菱重工業株式会社横浜造船所となり、約一千隻の船を建造しましたが、一九八三(昭和五十八)年に移転し、この地は「みなとみらい」となりました。
 イカリの主は陸軍航空母艦「山汐丸」(一五、八六四総トン)です。「山汐丸」は一九四五(昭和二十)年に建造され、油の輸送と船団護衛のため、飛行機を搭載していました。
二〇一一(平成二十三)年 三月
 三菱重工業株式会社
 原動機事業本部横浜製作所
  第二十八代所長 加藤敏彦

イカリ

明治24年以来、山汐丸をはじめ約1000隻の船を建造してきた三菱重工業株式会社横浜造船所は、昭和58年に移転し再開発「みなとみらい」と生まれ変わる。
平成23年(2008)に、みなとみらいセンタービルの建設工事の際、「山汐丸の錨」が発見され同ビルの脇の広場に展示。

昭和12年(1937)に帝国海軍が採用したホールズ型イカリだという。

場所

https://maps.app.goo.gl/4bVnCrMxFyxxAGLK9


Wikipedia「山汐丸」より https://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b1%b1%e6%b1%90%e4%b8%b8 …

山汐丸

特2TL型戦時標準船(2TL型油槽船5番船)
船団護衛空母兼用タンカー輸送船
三菱重工業横浜船渠
竣工1945年1月27日
排水量15,864t
全長148.0m
全幅20.4m
最大速力15kt
昭和20年(1945)2月17日、飛行甲板大破し浸水着底

山汐丸は大洋に漕ぎ出すこともなく竣工から沈没までを三菱重工業横浜船渠(三菱重工業横浜造船所)の地で過ごした。

埋められた錨は、みなとみらい再開発でよみがえり、今は三菱重工業横浜造船所の跡地にそびえ立つ「三菱重工横浜ビル」の方向を見つつ静かに鎮座している…


関連

「三菱重工横浜ビル」

「横浜船渠」と「みなとみらい」

https://senseki-kikou.net/?p=6468