「靖國・護國・神社仏閣」カテゴリーアーカイブ

日本飛行機山形製作所ゆかりの「日飛神社」(山形の戦跡散策・2)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。
その1は下記から。

日本飛行機山形製作所ゆかりの「日飛神社」(現在は鳥海月山両所宮の境内社の日枝神社)


日本飛行機

日本飛行機(ニッピ)
創業は昭和9年(1934)10月11日。
日飛の初代社長は加藤亮一(海軍中将)。
二代目社長が昭和11年11月から堀悌吉(海軍中将)。堀悌吉は山本五十六連合艦隊司令長官とは海軍兵学校の同期で無二の親友。
三代目社長は、昭和16年11月から大野寛(海軍中将)、大野氏で終戦となった。

1934年から量産された九三式中間練習機(赤トンボ)の生産を担当。2733機を生産した。
九四式水上偵察機、特殊輸送機(兵員輸送用大型グライダー)、秋水局地戦闘機、彩雲艦上偵察機等を生産。また、九六式陸上攻撃機、零式小型水上偵察機の尾翼や燃料タンク、九九式艦上爆撃機、桜花の主翼など部分品も生産した。
戦後は川崎重工の100%子会社。


日本飛行機山形製作所

1942年7月、従業員3,000人規模で、山形県に「日本飛行機 山形製作所」を開設。
練習飛行場も併設された。

市長のやまがた自慢「日飛神社」
皆さんは、「日飛神社」をご存じでしょうか。多くの方が初耳ではないかと思います。宮町の鳥海月山両所宮の敷地内にある弁天池の傍らに社が2つ並んでおり、その右側が通称「日飛神社(正式には「日枝神社」)」です。
日飛は「ニッピ」と読み、日本飛行機という会社名を略した言い方です。実はかつて山形駅の南側、現在の山形西高等学校周辺に巨大な飛行機の製造工場がありました。戦後、その敷地内にあった社が移され、現在、日飛神社と呼ばれているというわけです。
雇用の確保は戦時期から重要課題だったようで、大沼保吉山形市長をはじめとした企業誘致運動が行われ、日本飛行機の誘致に成功しました。昭和17年3月から海軍の演習機の製造を始め、従業員数が3,000人だったといいますからすごい規模です。
さらに興味深いのが、終戦近くになって当時最新鋭だったロケット戦闘機「秋水」の試作機が、山形で製造されたというのです。ドイツから運び込んだ設計資料を基に、極秘で製造されましたが、実戦に投入される前に終戦を迎えました。大変ミステリアスな話ですね。
戦後、この工場はなくなりましたが、そこで働いていた方の多くが会社を創業し、戦後山形の経済の基盤のひとつとなりました。また、今でも神奈川県横浜市に本社のある日本飛行機株式会社の社員の方が日飛神社にお参りするために山形にお越しになるそうです。
航空機産業も平和産業となり、また、将来の成長産業でもあります。現在、山形市にも航空機関連の部品を製造している企業があり、さらに伸ばしていければと考えています。
両所宮では節分祭、例大祭、たたら・ふいご祭りなど、さまざまな行事も行われます。お越しの際にはぜひ日飛神社にもお立ち寄りいただき、隠れたエピソードに思いをはせてみてはいかがでしょうか。
(広報やまがた平成28年6月1日号掲載)
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/shiseijoho/shicho/1006787/1006792/1005475.html

山形製作所は、山形駅の南、鉄砲町に山形西高等学校周辺にあった。

 JR北山形駅から北東に約700m進むと、鳥海月山両所宮の境内に1mほどの小さなほこらがたたずむ場所があります。「日枝神社」の名で親しまれる社は、かつて「日飛(ニッピ)神社」と呼ばれていました。
 「ニッピ」とは、戦闘機メーカーだった「日本飛行機」のことで、戦前、この場所から約4㎞南にあった日飛山形製作所の敷地内にまつられていた神社です。戦後の工場閉鎖に伴い、山形市宮町3丁目の鳥海月山両所宮の境内に移されました。
 戦争の進展とともに市内の工場は厳しい統制でほとんどが破滅に近い打撃を受け、多数の失業者を出すようになりました。市では、軍備工場の誘致運動も積極的に進め、昭和17年3月には、横浜に本社のある日本飛行機が鉄砲町に山形工場を完成し、海軍演習機の製造を開始しました。また、漆山にある山形刑務所の辺りには日飛(漆山)飛行場も整備されていました。日飛工場は、最盛期には従業員3,000人が働くという、山形市としては空前の規模の工場で、ほとんど地元の人が採用されていました。
 太平洋戦争末期、幻のロケット戦闘機「秋水」はこの日飛工場で作られていました。
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/495/marugoto-2-10.pdf

山形市の北にあった日飛の漆山飛行場。
漆山飛行場は、1945年8月9日早朝に、連合軍の空爆にて格納庫や滑走路が破壊され使用不能となり、戦後は、山形刑務所となった。

上記サイト「山形市>『ベニちゃんのまるごとやまがた』について(https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/kosodatekyoiku/shakaikyoiku/1006733/1004495.html)」から、引用

なお、現在の山形飛行場とは、別。

渋沢社史データベース>
昭和16年(1941)5月
富岡製作所(旧称富岡工場)が、京浜地区に所在することに起因する地域的制限、人的資源確保の困難性、下請工場の不確実等の理由から工場の地方分散を企画し、山形県に山形製作所を開設し、当日その開所式を行なった。山形製作所は、12万坪の飛行場をもつ敷地6万坪の工場で、現在航空局の山形飛行場になっている。
https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=6910&page=2

現在の山形飛行場(山形空港)は、大日本帝国海軍が昭和19年に造成した練習飛行場。
谷田部航空隊の飛行隊を神町に移し、神町航空隊を開隊している。(神町飛行場)
そのため、日飛の飛行場とは、また別の話となり、渋沢社史データベースでの記載は誤記と思われる。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M201-73
1947年04月12日、米軍撮影の航空写真

日飛の漆山飛行場界隈を拡大加工

ファイル:USA-M201-23
1947年04月12日、米軍撮影の航空写真

拡大加工

日飛山形製作所

前述の配置図(北を上に回転)も参照まで。


日飛神社(鳥海月山両所宮境内社・日枝神社)

日本飛行機山形製作所内で祀られていた神社「日飛神社」が、鳥海月山両所宮に日枝神社として遷座されている。
現地には、特に「日本飛行機」を物語る掲示などはされていない。

のんびりとした時間、のどかな昼下がり。


鳥海月山両所宮

鳥海・月山の両神を祀る。旧社格は県社。

随神門(山形県指定文化財)

場所

https://maps.app.goo.gl/xQHJc8QzS7xmKZsS7


平和の碑(山形市宮町北部班の慰霊顕彰碑)

鳥海月山両所宮のある宮町北部班から出征した戦没者41名の慰霊顕彰及び従軍者の顕彰をする碑。昭和39年5月11日建之。
銘文は、真壁仁(山形市宮町出身の詩人)

 われらいくさに従い大陸に海に離島に
 身をすててたたかったもの
 今ここに石ふみをおこし永遠の平和を誓う
 民族の歴史にふかい傷跡を刻んだあの体験を
 ふたたびくりかえさないために
 無限に貴い人間の生命と生活のよろこびまもるために
 不戦のねがいをあらたにする
 いのち若くしてあたら戦場の花と散ったつわものたち
 深夜の星を仰いで家郷を偲び肉親を思ったそのまなざしよ
 けれども死者の聲はよみがえらず痛ましき沈黙に
 残されたものの悲しみだけがいつまでもこだまする
 いま仰ぐふるさとの空は澄み山は青い
 不運の魂をいだく故山の平安よ永遠なれ
  真壁 仁


※撮影:2026年3月


その3へ

「山形縣護國神社」と「薬師公園」「千歳山霊苑」巡拝(山形の戦跡散策・1)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。


山形縣護國神社(山形県護国神社)

山形県関係の戦没者40,845柱を祀る。
明治2年(1869年)1月、戊辰戦争で戦死した薩摩藩士10柱を祀るために山形市八日町に社殿を造影したことに始まる。
明治8年、官祭「山形招魂社」となり、以後は、山形県関係者の戦没者を祀る。
明治22年、山形市宮町に遷座。明治44年の山形市の大火で社殿焼失、大正3年に再建。
昭和9年(1934)に千歳公園内の現在地に遷座。昭和14年に、内務省指定護國神社となり、「山形縣護國神社」と称した。
GHQ占領下の昭和22年から昭和27年は、「千歳宮」と称していた。
現在の社殿は、平成6年(1994)に改築。
山形県内では、初詣参拝客1位を誇る(約13万人)

https://yamagataken-gokokujinja.jp

青銅日本一の狛犬。
平成29年8月15日の終戦記念日に奉納。
高さは7尺(2m10㎝)。

大鳥居から一直線に社殿まで伸びる参道

社号標

山形縣護國神社
陸軍大臣 小磯国昭 謹書
昭和十四年九月十八日

小磯国昭は山形県出身。東条英機の次の総理大臣でもある。

さくら陶板

さくら陶板
 靖國神社は令和元年に御創立150年を迎えられ、その記念事業として「さくら陶板」が作製されました。この陶板は47都道府県の土を使い、各地の著名な陶工の方々が奉納したものです。山形県の陶板は山形の土を使い、長井市出身の陶芸家和久井修氏が作成されました。「さくら陶板」には慰霊の心とそれを次世代に伝えることが祈念されております。
 和久井氏は当神社にも同じ陶板を奉納したいと希望され、山形建設株式会社の協力により、靖國神社に建立されている陶板と同じく山形県の土を使った「さくら陶板」が奉納されることとなりました。
 靖國神社と当神社がこの陶板を通してつながることで、御祭神もお喜びのことでしょう。この陶板を通じて御祭神の慰霊と平和への祈りが届くものと思っております。

社号標

山形縣招魂社
海軍大将 正二位勲一等功二級子爵 齋藤實 謹書
昭和九年十月三十日

昭和九年十月に、山形県招魂社は現在地に遷座している。

御社殿

みたまやすらかに

蔵王山は南東に。(社殿は南面)

山形県護国神社
御朱印

「祈りの塔」
巫女さんの像

祖国の安泰を念じて尊い生命を捧げたご英霊のお陰で今日の平和と繁栄があることを忘れてはなりません。
 山形県護國神社 宮司 宮舘厚悦

御本殿

山形県神社庁

https://maps.app.goo.gl/xLQccCk4q8zAWuU97

「建国記念塔」が境内にあるはずなのだが、あるべき場所に見当たらず。
うーん?

https://maps.app.goo.gl/ReGrgquy1jnpQ8uv9


山形招魂社 社号標(薬師公園)

山形招魂社時代の社号標。
大正2年六月建立。
「官祭」の文字は塗りつぶされている。

https://maps.app.goo.gl/guP1wCb8TNHcdNz96


雪部隊・戦没者慰霊碑(薬師公園)

山形県護国神社には、慰霊碑はなく、隣の薬師公園(出羽国分寺薬師堂・千歳公園)にいくつかの慰霊碑があるので、足を運んでみる。

雪部隊
戦没者慰霊碑
 雪部隊慰霊会長 
 山形県知事 板垣清一郎 謹書

碑文
 雪部隊は日華事変中の昭和14年(1939)弘前、秋田、山形の各歩兵聨隊を基幹とし、騎兵、砲兵、工兵、輜重各連隊を含む第36師団隷下各部隊の秘匿名で、雪国青森、岩手、秋田、山形県の東北健児をもって編成された郷土部隊である。
 雪部隊は昭和14年3月編成完結、4月北支派遣軍として中国大陸に渡り、華北、山西省に進撃、爾来約5ヶ年、華北の山岳地帯各地を転戦し、舞部隊(初代師団長舞伝男中将)井関部隊(2代師団長井関仭中将)としてその勇名を天下に轟かした。 当事山西省には閻錫山の率いる山西軍、朱徳の率いる共産八路軍、そして蒋介石政府軍と、中国の精鋭部隊が峨々たる峻嶮に拠って頑強に抵抗したのであるが、雪部隊は中原会戦、沁河作戦、大行作戦等二十数回にわたる作戦を敢行し、勇敢にして粘り強い東北健児の特色を遺憾なく発揮して激戦に次ぐ激戦を重ね遂に山西省を平定し北支派遣軍随一の武勲を樹てたのであるが、わが部隊も忠勇無比の将兵1,500名を失った。
 日華事変も遂に太平洋戦争に発展し、連合国軍の反攻作戦漸く激しくなる頃、昭和18年(1943年)10月雪部隊に突如として濠北派遣の命が下った。 部隊(3代師団長田上八郎師団長)は急ぎ華北山西省を後にして上海、南京附近に集結、11月末に上海出帆、一路南下して赤道を越え12月末ニューギニア島サルミ附近に上陸した。 この島は密林(ジャングル)と湿地帯とそしてマラリヤの猛威をふるう全くの未開地であった。 時既に戦局は我に不利、上陸後戦備を整える暇もなく昭和19年4月頃より敵はサルミ地区に対し圧倒的な空軍と海軍により攻撃を開始して来た。 わが雪部隊はマッカーサーの指揮する南東太平洋方面連合軍をこの地に迎撃して血みどろの激戦となったのである。 日本陸軍でも最強とうたわれたわが雪部隊は、悪条件にもかかわらず、よく善戦奮闘し、遂に敵上陸部隊を撃退したが、物量に物をいわせる連合軍の連日の猛爆撃と艦砲射撃、制空権と制海権を完全に奪われたわが軍は、密林と湿地帯に阻まれて作戦行動ままならず加えて赤道直下の炎熱と食糧不足、マラリヤ、栄養失調、脚気等により悪戦苦闘その極に達し、戦場は正にこの世の生地獄の様相を呈し、生残る戦友数うるに足らず、ワクデ島守備の石塚隊玉砕、そしてまたビアク島の雪3523部隊(葛目聨隊)も玉砕、雪部隊はその主力を失なってしまった。 ニューギニアに上陸した雪部隊隷下の将兵14,000名戦没者11,794名、生存して帰還したる者僅かに2,000余名に過ぎず。
 戦後昭和31年(遺族代表神保氏参加)と昭和46年(戦友代表鈴木健三郎氏・中沢農夫氏参加)にニューギニア遺骨収集団が派遣され多数の遺骨を故国に持ち帰ることができたが未だ南海の果、ジャングルの中には無数の戦友の遺骨が眠っている。
 九死に一生を得て僅かに帰還したる者われら断腸の思い、誠にしのびざるものある。 山形在住の雪部隊生存者による雪部隊慰霊祭実行委員会が中心となり、寄付を募り再度遺骨収集を計画したが現地政府の許可なく断念するのやむなきに至る。 よってこの地に雪部隊戦没者慰霊碑を建立し、純粋なる祖国愛に殉じた戦友の英霊を慰め心から冥福を祈るものである。
    昭和53年9月2日 謹日

 異国の地で散華された13,249名の、戦没者名簿、雪部隊史並びに聨隊史をカプセルにし、生存者の赤誠の鎮物として、慰霊碑の奥深きに納め埋蔵し、永久に慰めるものである。
  安らかにお眠り下さい。

https://maps.app.goo.gl/n3huzkkXFJSrcmSi8


戊辰薩藩戦死者墓(薬師公園)

山形県護国神社の前身である招魂社は、戊辰戦争での薩摩藩の戦死者を祀ることから始まっていた。

戊辰
薩藩戦死者墓
大勲位公爵 松方正義 書

大正4年11月合葬

戦死者名


出羽国分寺薬師堂(薬師堂)

聖武天皇の国分寺建立の詔により、天平13年(741)の建立に基づく。創建時は酒田の城輪柵の近隣に位置していたが、平安後期以降、国府が内陸の山形市に移転するとともに国分寺も移転。薬師堂が出羽国分寺の後継寺院とされている。

薬師堂
明治初期に山形県会の仮議事堂となり、山形県指定史跡「旧山形県会仮議事堂」でもある。
現在は、柏山寺が管理。

宮城浩蔵顕彰碑
明治大学の創設者

扁額は、西園寺公望
選文は、中江兆民

https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/miyagikozo.html

https://maps.app.goo.gl/Ct2RcBZtRJiMf5eR8


陣没軍馬慰霊塔(薬師公園)

軍馬を祀る慰霊塔。創建団体や創建時期は不詳という。
建立にいたる銘記や碑誌もなく。

陣没軍馬慰霊塔
陸軍大将 小磯国昭 書

「陣没軍馬慰霊塔」の創建時期は不明というが、ある程度の推測で絞り込みは出来そうだ。

謹書している小磯国昭は、山形県新庄市の出身。山形出身の代表的な軍人として謹書したのであろう。肩書として「陸軍大将」と記載している。小磯は戦後はGHQに拘束され昭和25年に巣鴨拘置所で亡くなっているために、確実に戦前の建立であることは予想できる。
小磯国昭は、昭和12年7月21日に陸軍大将、昭和13年7月29日に予備役に編入となっている。
そして昭和14年に平沼騏一郎内閣の拓務大臣、昭和15年に米内光政内閣の拓務大臣をつとめ、昭和16年の開戦時は満洲移住協会理事長であった。
昭和17年5月29日から朝鮮総督、そして昭和19年に東條英機の次の総理大臣に就任している。
時局や情勢を考えると、昭和12年から昭和16年にかけての建立でないかと推測。朝鮮総督に就任した昭和17年以降は、軍馬のために慰霊塔を建立する時勢ではなく。

東日本大震災後は倒壊の恐れがあり、近づけなくなっている。

今にも飛び出してきそうな躍動感ある軍馬のレリーフ。
取り囲む銘板の刻は判別不能。なにかが刻まれていたかもしれないが。

https://maps.app.goo.gl/hxRsGz43fiTetZmq8


山形陸軍墓地(千歳山霊苑)

山形陸軍墓地の地。
閉門の為、敷地外から遥拝する。
みたまやすらかに

千歲山霊苑

千歲山霊苑沿革
一、明治二十九年十一月この地に始めて陸軍墓地が設置されました。
一、明治三十九年十一月
   日露戦役戦没者墓碑建立
一、昭和八年一月
   満洲事変戦没者慰霊塔建立
一、昭和二十七年八月
  靖霊塔建立
一、昭和二十八年以後山形県が奉祭維持管理にあたっている。
  昭和三十四年三月 山形県

千歲山霊苑の沿革
本霊苑は明治二十九年に設置された旧陸軍墓地であって、終戦に伴い昭和二十年十月陸軍省から大蔵省へ移管さらに昭和二十八年県において無償譲与を受けたものであり、昭和三十四年に名称を「千歳山霊苑」と改め今日に至っている。
霊苑内には、日露戦争戦没者の各墓碑、満洲事変戦没者慰霊塔並に昭和二十七年に県民有志からの寄附と国費、県費を併せて建立した太平洋戦争の英霊分骨約六千柱の納骨施設たる靖霊塔があリ、その後弘前佛舎利塔に納骨されていた日露戦争当時の県出身英霊約二百柱の分骨並びに南方戦域から収集された遺骨を併せ納めている。
毎年四月には県内の戦没者遺族代表参列のもと慰霊条を挙行するほか、彼岸等には供養拝礼式を行うなど県が奉系維持管理にあたっている。
 昭和六十三年三月再建 山形県

うーん。開門は「月」「水」「金」のみ。
(訪れたのは木曜日でした、惜しい)

陸軍軍人合葬之墓

陸軍軍人合葬之墓

拓魂碑

靖霊塔

満州事変戦没者慰霊塔は、敷地外からは見えず
盛岡の久昌寺と同じ形状の慰霊塔があるという。

https://senseki-kikou.net/?p=36368&

場所

https://maps.app.goo.gl/Y8jxTm3Ki9ymmNJy5


※撮影:2026年3月


その2へ

https://senseki-kikou.net/?p=57525

秋田縣護國神社と秋田城跡(秋田の戦跡散策・1)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策としては、じつは秋田初上陸。まずは、秋田県護國神社へ参拝。


秋田縣護國神社(秋田県護國神社)

明治2年(1869年)、秋田藩主佐竹義堯が戊辰戦争に殉じた官軍戦没者425柱を高清水丘に「招魂社」として祀ったのが起源。
明治26年(1893年)に焼失。
明治32年(1899年)、秋田市千秋公園(久保田城址)に再建。
秋田県出身の軍人・軍属を合祀して官祭秋田招魂社と称した。
昭和14年(1939年)、内務大臣指定護国神社として秋田県護國神社に改称し、翌年、旧秋田城址である現在地に遷座した。
第二次大戦後の一時期、「軍国主義施設」として廃止されるのを防ぐ目的で、鎮座地名に因んで「高清水宮」と称し、伊弉諾尊・伊弉冉尊を合祀した。

戦後は県に関係した軍人、軍属の霊を合祀。
護国の神霊の御祭神は37,841柱。

平成2年(1990年)7月9日、中核派のテロにより当社社殿にしかけられた2つの時限爆弾が爆発し、社殿は全焼した。
しかし、本殿内に安置されていた神体および霊璽簿は無傷であった。
社殿は平成4年9月に再建。

昭和15年11月建立の社号標
佐竹義春(佐竹家宗家34代)の謹書

広々とした参道

そして、開放感あふれる境内

神門

この御門は伊勢神宮第61回御遷宮に当り「豊受大神宮端垣南門御扉他一部」を拝受し終戦五十周年記念事業として造営しました。
この神門をくぐり参拝される方々の更なる「いのち」の若返りと「生成発展」「平安」を心から祈念致します。

御拝殿

みたまやすらかに


御朱印(秋田縣護國神社)


天皇陛下皇后陛下御親拝記念碑

昭和四十四年八月二十六日
天皇 皇后両陛下 秋田県に
行幸啓の御砌り御拝をを賜う
仍て永く其の栄を伝えんとし
御在位六十年の慶祝を迎える
に当り篤志者のまことを募り
之を建つ
 昭和六十年十一月吉日
  宮司謹記


国歌、君が代さざれ石の由来


殉国秋田県人之碑

秋田県人戦没者の慰霊顕彰
平成七年建立

殉国秋田県人之碑
明治天皇御製
 かぎりなき 世にのこさむと 国の為 
  たふれし人の 名をぞとどむる
昭和天皇御製
 国のため 命をささげし 人びとの 
  ことを思えば 胸せまりくる

独立歩兵第八十四大隊戦友会の献納。
独立歩兵第八十四大隊の通称号は勝第四二一四部隊、第69師団の傘下部隊として中国方面等で活動


慰霊と平和を祈念する「リレー(relay)の火」

戦没者の慰霊顕彰と平和を祈念する灯火


真之御柱


建国記念の日碑


明治天皇御休憩所碑

1881年(明治14年)9月の 明治天皇「山形・秋田・北海道巡幸」にて、9月16日に秋田招魂社を参拝した際の休憩所を記念。


大正天皇御休憩所碑

明治41年9月21日に、当時皇太子であった 大正天皇が、秋田招魂社を参拝っした際の休憩所を記念。


高清水公園

戸崎清蔵翁顕彰碑

五輪塔

高清水公園 展望台
ポートタワーセリオンが見えますね。
このあとはそこまで行く予定。

伊藤永之介歌碑


満蒙開拓青少年義勇軍慰霊碑

秋田県出身の満蒙開拓青少年義勇軍の戦没者の慰霊顕彰碑
(左の碑)
昭和五十三年八月十五日建之

ぼくは満州へ行きます   
ぼくは大陸の土となります
かって国策の名のもとに 
鍬の柄肩に海を渡っていった 
私達少年です
その数八万六千五百三十名 
私達はひたすら五族協和王道楽土建設に
その青春を燃やした
敗戦・・・
戦争という極限の中で 
私達仲間の多くが 
大陸の土と化した
三十三年の歳月が流れた
彼等の前には一枝の花もない
私達の名は 
満蒙開拓青少年義勇軍

鎮魂歌
一 
秋田の郷を あとにして 五族協和の 国作り 
鍬の戦士の 千五百 我ら満蒙 義勇軍
二 
広漠千里 満州の 花の広野 肥沃にて 
男の子勇みて 犁をとる 我ら青年 義勇隊
三 
運命は哀し 大戦に 祖国敗れて 犠牲の 
満州の国原 風寒く 四百の霊の 還らざる
四 
国破るれど 山河あり 護国の岡の 君の碑 
北の国にも 春が来て 桜花は薫る 春爛漫
 碑前祭 例祭 五月第一日曜 
  昭和六十二年建碑十周年記念

われらは若き義勇軍
一 
われらは若き 義勇軍 
祖国のためぞ 鍬とりて 
万里涯なき 野に立たむ
いま開拓の 意気高し 
 いま開拓の 意気高し

われらは若き 義勇軍 
祖先の気魄 享けつぎて 
勇躍風に さきがけむ
打ち振る腕に 響きあり 
 打ち振る腕に 響きあり

細野三千雄君之碑


忠魂碑

戊辰戦争から日清日露戦争等における戦没者慰霊顕彰碑
大正七年五月建立
元帥海軍大将伯爵 東郷平八郎 謹書


秋田城跡

秋田県護國神社は、秋田城址のなかにある。
秋田城跡史跡公園と高清水公園と秋田県護國神社があるという感じかな。

秋田城は、古代の律令政権での城柵であり、中世の城跡ではないので、ちょっと紛らわしい。秋田県の佐竹藩(秋田藩)の城跡は久保田城、となる。

さて、ポートタワー方面に向けて北上します。

その2へ

※撮影:2026年3月


81年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

終戦から81年目の8月15日、終戦の日の靖國神社。
令和8年、西暦2026年、皇紀2686年の夏、節目の日。
毎年恒例。
変わることなく、祈りを捧げる。


靖國神社・午前9時15分

神門前。昨年、80年の節目と比べると人手は少ない、か。
昨年は、此の時間帯で、第二鳥居まで、参拝列ができていた。

このときは青空が見えていましたが、正午は雨になるという天候でした。

今年は、崇敬奉賛会は、サンバイザーと瞬間冷却保冷パックを配布。これは有難いですね。


放鳩式 靖國神社・午前10時

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

昨年と看板のデザインがかわりましたね。

毎年恒例、講談師の室井さん。

靖国神社、大塚宮司

英霊、ありがとう
心をこめて
放鳩式

室井さんも、毎年ありがとうございます。


御朱印・靖國神社白鳩の会

ストラップは毎年色がかわります。


遊就館

冷を求めて一休み。


靖國神社・午前11時15分

今年は麦茶ではなく、お水。
お水のコップをお盆に乗せて、参列者の列に配って下さいました。
瞬間冷却保冷パックもあわせて配布。
ありがとうございます。


靖國神社・午前11時50分

正午直前に、雨が振ってきました。

国歌
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

黙祷

全国戦没者追悼式
令和8年8月15日(土)(日本武道館)
おことば

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来81年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

https://www.kunaicho.go.jp/watch/okotoba/imperial-family01/addresses/ceremony2026.html#twords-2721bjlbufr4w

毎年、この場所で、海行かばを

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

みたまやすらかに


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

合掌。

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」

※撮影:2026年8月15日


富山縣護國神社(富山の戦跡散策1)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
初の富山県散策、まずは「富山縣護國神社(富山県護国神社)」から。


富山縣護國神社(富山県護国神社)

富山縣護國神社は、富山県出身の明治維新から大東亜戦争までの戦没者を祀る。また、境内の伊佐雄志神社として、富山大空襲での戦災死された御霊、公務殉職者、神社関係者の御霊を祀る。

明治45年(大正元年・1912年)3月に「富山縣招魂社」として設立が認められ、翌年の大正2年(1913年)8月に竣工、9月18日に鎮座式が執り行われた。
昭和14年(1939年)4月1日、全国の招魂社が護國神社に改称されるにあわせて「富山縣護國神社」に改称。
昭和20年(1945年)8月の富山大空襲で手水舎など一部を残して社殿焼失。
昭和22年、「富山縣鎮靈神社」と改称し、仮殿竣工。
昭和26年10月24日、「富山縣護國神社」に復称。
昭和29年10月20日、現在の社殿の竣工となる。

https://www.toyama-gokoku.jp/concept/

 私達の祖國日本は、幕末以來、幾多の戦役を經験してまゐりました。そして、その折、澤山の方々が國の爲、又、家族、郷土の為に、世界の平和と共存共榮を祈りつつ、尊い命を棒けられました。

 ここ、富山縣護國神社は、それらの方々の御靈を尊んで、「御英靈」とお呼びし、神さまとしてお礼り申し上げてゐます。
 現在、日本の國が平和で、何不自由なく暮せるのも、ひとへに、諸英靈の大きなお守りのおかけであることを私達は決して忘れてはなりません。
 御英靈に感謝の
 まことを棒けませう
 どうぞ、手水舎にて身心を清められ、神さまのおそば近くで御參拜下さい。


大灯篭(富山縣護國神社)

昭和13年4月の建立。富山空襲の難を逃れた。

富国徴兵保険相互会社、世相を感じる会社。

大灯篭のレリーフ。
靖國神社の大燈籠の基壇部分日清戦争から満洲事変までの主な戦闘場面が、陸海軍それぞれ7面描かれているが、そのなかから「日露戦争奉天入城式」(左)と「日本海海戦の戦艦三笠艦橋の東郷元帥」(右)を、靖國神社の許可を得て、奉掲。


御社殿(富山縣護國神社)

広々とした境内。参道が折れ曲がっている。

清々しい神域

大拝殿

みたまやすらかに
参拝

旧社号標

「富山縣招魂社」

昭和10年7月建之、富山大空襲の難を逃れた。

昭和12年3月10日再建とある鳥居


御朱印(富山縣護國神社)

御朱印。「忠魂不滅」
遺詠は、お祀りされている高田豊志命が御家族に遺言としておくられた最後の手紙の中の「母上様」宛の歌

忠魂不滅
 遺詠
  夢にだに忘れぬ
   母の涙をばいだきて
   三途の橋を渡らむ

 この御朱印に書かれてる歌は、富山縣護國神社にお祀りされてをります高田豊志命が御家族様宛に遺言としておくられた最後の手紙の中の「母上さま」宛とした歌でございます。
 高田豊志命は昭和二十年五月十三日、飛行第二十戦隊陸軍伍長として台湾宜蘭基地を出撃、沖縄本島西海岸に群がる米艦船に体当たりし散華されました。
 父豊次郎さんが、八十歳になられた時、戦後久しく仏壇に収められてるた白木の箱の中に「うた日記」を発見されました。この「うた日記」には、高田豊志命が昭和十八年の三月から二十年の四月まで、毎日和歌を作ることを志し、和歌七八三、俳句十七、詩文九が書き綴られてをりました。この「うた日記」は遺芳館に展示されてをります。


伊佐雄志神社(富山縣護國神社)

伊佐雄志神社として、富山大空襲での戦災死された御霊、公務殉職者、神社関係者の御霊を祀る。


遺芳館(富山縣護國神社)

御英霊の遺書や遺品を展示。

見学を。

奉納模型

幣帛料など。

富山大空襲
昭和20年8月1日、死者約3,000人、負傷者約8,000人。

朝倉豊次海軍少将の軍装
朝倉豊次は、富山県出身(現在の黒部市前沢の出身)
富山県出身の唯一の閣下(海軍少将)
海兵44期48番卒業
太平洋戦争開戦時は重巡洋艦「高雄」艦長。1943年12月に、戦艦「武蔵」艦長(第三代艦長)。
1944年5月に海軍少将に昇進、8月に武蔵艦長を猪口敏平大佐に引き継ぎ、南遣艦隊参謀長を経て、第10方面艦隊参謀長兼第13航空艦隊参謀長兼第1南遣艦隊参謀長として昭南島(シンガポール島)で終戦を迎えた。
終戦後は、富山に戻り、黒部市の初代教育長を務めている。

天に星 地に花 人に愛

左は、山崎定義陸軍中将の軍装
山崎定義は、富山県出身(現在の富山市)
名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校(15期)を卒業。金沢歩兵第35聯隊勤務。日露戦争では小隊長として出征し、旅順包囲戦で負傷。
1910年、陸軍大学校(22期)卒業し、陸軍歩兵学校勤務。
桜歩兵第57連隊長や東京歩兵第2旅団長などを務め、1934年に陸軍中将昇進し待命、予備役編入。
1936年に富山市長に就任。1940年に市長を退任。


聖帝四代御製碑建立の記

聖帝四代御製
明治天皇御製
 世とともに 語りつたへよ 國のため 
  命をすてし 人のいさをを

大正天皇御製
臨靖国神社大祭有作
武夫重義不辞危 
想汝従戎殞命時 
靖国祠中嚴祭祀 
忠魂萬古皇基

昭和天皇御製
爆撃に たふれゆく民の 上をおもひ 
いくさとめけり 身はいかならむども

今上天皇御製
國がため あまた逝きしを 悼みつつ 
平らけさせき世を 願いあゆまむ

 富出縣護園神社が御創立百周年を迎え 、しづかに戦歿御英霊のおこころをおしのび申し上げ、その精神が青少年の教育の基本となることを願ひつつ、御創立百周年記念大祭を齋行し、そしてその記念大祭を更に意義あらしめる為に、明治天皇、大正天皇、今上天皇が我国の為、散華された御英霊の遺徳を偲び、或は、国民の上を思ひ遣り給ひてお詠みなられました御製・ 御製詩を石に謹刻申し上げたのであります。
 この『 聖帝四代御製碑』が、これからの日本を擔ふ青少年諸君を始め縣民全ての精神的指針となり、祖國日本の復古維新の源となることを祈念してやまないのであります。
    富山縣護園神社
      宮司 栂野守雄


拓魂

富山県出身の満蒙開拓殉難者1千4百余柱の慰霊顕彰碑。

建立の由来 
満蒙開拓の事業は 昭和7年に始まり 終戦まで重要国策として進められ 本県からは 県選出の開拓団並びに青少年義勇隊 報国農場等合せて5千5百余名の多数の同志が入植していた 私達開拓者は 故国を離れ 満蒙の地に民族の先達として 不屈の精神をもって五族協和の道義世界建設の理想に燃え 新天地の開拓に精進していた しかるに敗戦という冷厳なる事実に直面し 言語に絶する民族の悲劇に遭い 1千4百余名の将来ある生命が絶たれた かって日本の生命線と呼ばれた彼地に 雄図空しく斃れた非命に痛恨の情が尽きない 開拓の精神は創意発展の神髄であり 真理探究の道である 諸君の悠久の生命を信じ 遺志を無にすることなく 恒久平和への道標としてここに合祀し 碑を建立して 道義日本の将来を祈念するものである
  昭和51年8月 建立
   富山県満蒙開拓引揚者一同


馬魂碑

陸軍歩兵第69聯隊の軍馬慰霊顕彰碑。
富山大学の地は、陸軍歩兵聯隊の軍用地、であった。のちほどで訪問しますが、後述。

碑歴
旧陸軍歩兵第69連隊時代の建立になる馬魂碑は、戦後長い歳月その所在が明らかでなかったが、昭和51年3月富山大学構内整備作業中発見
 ここ護国神社境内に移設し永くその魂の安らかんことを祈る
   昭和51年8月11日 (再建)
     富山県馬術連盟会長 平野平好
     富山県馬事振興会会長 松村清年


つばさの塔

富山県出身陸軍少年飛行兵の戦没者48柱の慰霊顕彰碑

つばさの塔
 昭和9年2月に誕生した陸軍少年飛行兵は同20年8月の終戦に至るまで 航空部隊の中核として約3万人が巣立ち 富山県からも多くの紅顔の少年たちがこれに参加した
 顧みれば 支那事変や大東亜戦争で 祖国の繁栄と同胞の幸せを祈りながら 尊い命を捧げられた多くの人たちが思い出される
 なかでも 14歳で志願し 17歳で出陣して 大空の決戦場に花と散った陸軍少年飛行兵の至純な姿を忘れることはできない
 日本の空に 平和が訪れて既に26年 かって苦楽を共にした われわれ生存者相集い今は亡き 郷土出身の友を偲び 心からその栄誉と崇高な精神を讃え 永く後世に伝えるとともに 世界永遠の平和と人類の福祉を祈念して ここに「つばさの塔」を建立する
  昭和46年6月13日
   元陸軍少年飛行兵 富山県内生存者一同


嗚呼 海原よ 大空 に

海軍甲種飛行予科練習生の戦没者の慰霊顕彰碑

神風特別攻撃隊第五七生隊
海軍大尉森丘哲四郎辞世
ちはやふる 
 神の持たせる
  命なり 
砕きて守れ 
 大君と國
  同期 千玄室謹書

富山県黒部市出身の森丘哲四郎氏は海軍飛行14期予備学生
裏千家家元であった千玄室が同期であった。

連合艦隊告示(布)第一〇九号
布告
海軍少尉森丘哲四郎外二十六名神風特別攻撃隊第五七生隊員トシテ昭和二十年四月二十九日勇躍出撃沖縄本島東方約六五浬附近ニ於テ航空母艦四隻戦艦三隻ヲ基幹トスル有力ナル敵機動隊ヲ捕捉相続イテ必死必中ノ体当リ攻撃ヲ決行シ克ク其精華ヲ発揚シテ悠久ノ大義ニ殉ス忠烈万世ニ燦タリ
仍テ茲ニ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス
 昭和二十年六月十日
  聯合艦隊司令長官 小沢治三郎


金鵄勲章碑

金鵄勲章受勲戦没者の慰霊顕彰碑

金鵄奉献
 金鵄勲章は明治23年2月11日勅令をもって制定せられ戦場における武功抜群の軍人にのみ授与せされた国家最高勲章であります。
 御英霊は国家の興亡に際し身命を捧げて護国の華と散られたものでその武勲は悠久不滅でありよき平和日本の礎を築かれたことは厳然たる事実であります。国民は斉しくご英霊の至誠に応え崇敬の誠を捧げなければなりません。
 ここにご英霊の鎮魂を慰めその勲を顕彰し併せて金鵄の尊厳を後世に伝え国運の隆昌を祈念するためこの碑を奉納いたします。
 敬白
  昭和53年10月吉日
    富山県金鵄会

金鵄勲章のレリーフ


建国記念塔

建国の日 2月11日


パール判事の碑

不正なる裁判の害悪は原子爆弾の被害よりも著しい
印度国判事
ラダビノード・パール


明治百年記念

碑歴
明治維新の大業成り明治改元より百年を迎えるに当たり不滅の偉業と恩恵を讃えその精神と教訓を今に生かし世界的視野のもと新世紀に臨む決意を確固とし次代へ継承し限りない希望をこめ富山市大場町奉納の安政の大鳶崩れに流出と伝えられるこの巨石に刻してこれを建立する
 明治43年4月吉日 
  明治維新百年富山縣護國神社記念事業実行委員会


天皇皇后両陛下御親拝記念碑

昭和33年10月19日の御親拝


第一次世界大戦従軍記念碑

第一次世界大戦において青島に出兵した戦没者の慰霊顕彰と従軍者を顕彰する碑

大勲位守正王御諚
  國護る自衛の躾道義心
 第一次世界大戦従軍記念碑
 山東省青島
   ビスマルク兵舎駐屯

國のため 朽ちて流れん みなと川 来くむ人の あれを悟りて
 昭和44年1月11日 建立


噫 ニューギニア

ニューギニアに出征した富山県出身の戦没者の慰霊顕彰碑

ニューギニア島を思わせる形をした碑石


嗚呼 トラック諸島

トラック諸島にて戦没された御英霊200余柱の慰霊顕彰碑

 大東亜戦の様相益々苛烈を極め、南方戦域死守の要いよいよ急を告げる昭和18年秋、精鋭を誇る我が聯隊及び師団司令部は中部太平洋トラック諸島に急派された。
 遠征途次、南海に幾度か魚雷・空爆の猛襲を受け乍ら救援のため、サイパン島を迂回した第2陣と一丸となり、海軍と密に連携して夏島を中心とする各島に分散配置した聯隊は、敵の制海・制空により補給途絶・孤立無援の戦況下、連日の凄惨執拗な艦・空爆撃を受け、人間生存の極限とも思える飢餓及び、特有の悪疫を克服し乍ら玉砕の覚悟を以て、遂に敵の攻略を許さなかったのである。
 しかし乍らこの大任遂行中、酷熱の赤道間近に於いて戦歿された御英霊が200余柱の多きに達したことは、痛恨の極みである。
  嗚呼悲壮なるかな!!
 戦後正に40年、嘗ては死生血涙を共に苦闘を続け今は亡き戦友のご冥福を祈ると共に、涙を呑んで散華なされた南溟の空を仰ぎ、鎮魂の誠を捧げるためゆかりのある聖域にこの碑を建立した。
   昭和60年12月8日
    金沢第52師団司令部 富山歩兵第69聯隊 トラック諸島戦友会

お知らせ
 1 碑文の裏面にトラック諸島の位置を表示してあります
 2 碑の正面下にトラック諸島夏島に現存する「戦没者の墓」の1/5の模型と、その上に墓石を用いた玄武石(現地より持参)の原石を添えてあります
 3 碑に正面した方向(南南東)にトラック諸島が在ります。機会ある毎に遥拝し英霊をお慰めして下さい

トラック諸島夏島に現存する「戦没者の墓」の1/5の模型

墓石を用いた玄武石(現地より持参)の原石


皇太子殿下御降誕記念

陸軍大臣の林銑十郎の謹書
昭和8年12月23日に、 明仁さまが御降誕あそばされた。


紀元二千六百年記念

昭和15年(1940年)は紀元2600年。


支那事変記念

昭和12年(1937年)の盧溝橋事件から始まった支那事変の戦没者慰霊顕彰碑。
昭和14年に建立。
歩兵第35聯隊の第22代聯隊長の川久保鎮馬による揮毫


大正天皇御製 登呉羽山碑

大正天皇御製 登呉羽山
皇太子時代の明治42年(1909)に呉羽山に登られた。

珍しい漢詩の御製

登呉羽山
雨後風無秋気温 (雨後に風無くして秋気温かく)
呉羽峻阪留履痕 (呉羽峻阪にして履痕を留む)
維昔秀吉進征旆 (維れより昔秀吉進みて旆を征し)
敵将力窮降軍門 (敵将力窮まりて軍門に降る)
吾来此地見形勢 (吾此地に来りて形勢を見れば)
中越全景眼中存 (中越の全景眼中に存り)
立岳衝空向東聳 (立岳空を衝き東に向かいて聳え)
神通水漲指北奔 (神通水漲り北を指して奔る)
兵営一路連城中 (兵営一路城中に連なり)
海湾直接罷亞原 (海湾直に罷亞原に接す)
眺望如此難多得 (眺望かくの如く多く得ること難からん)
真是北国好公園 (真に是れ北国の好き公園なり)


陸軍省境界杭(陸軍省境界標石)

境内の一画に、陸軍の境界標石(境界石・境界杭)がまとめられている。

片側には「陸軍省」、もう片側には「疆界」

「疆界」の境界は珍しい、あまり見かけない。

上から

奉納砲弾も残る

富山縣護國神社
静謐な凛とした神域を保たれた良きおやしろでした。
ありがとうございます。

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策2 へ


関連

「拓殖招魂社と拓殖大学」戦跡散策(八王子)

拓殖大学の前身は、台湾開拓人材を育成する機関であった。
そんな拓殖大学(拓大)には、いくつか近代を物語る史跡や戦跡があるというので、足を運んでみた。


拓殖大学

拓殖大学は、1900年(明治33年)6月に設立された「台湾協会学校」を起源とする。
1907年に「東洋協会専門学校」、1915年(大正4年)に「東洋協会植民専門学校」、1918年に「拓殖大学」と改称。1922年に「東洋協会大学」とするも、1926年に再び「拓殖大学」と呼称。
戦前は、植民地経営のための人材を多く輩出した。
また、太平洋戦争では、1263人の学徒が出陣をしている。
空襲で、文京キャンパス(茗荷谷)の恩賜記念講堂などを焼失。
終戦後、1946年(昭和21年)に「紅陵大学」と改称するが、連合国軍占領統治終了後に旧称の「拓殖大学」に戻し、現在に至る。
初代総長は、桂太郎。後藤新平、宇垣一成、下村宏、そして中曾根康弘などが総長を務めている。


恩賜記念館

1912年に明治天皇から下賜された資金をもとに、1914年に文京キャンパスに建設された「恩賜記念講堂」を、創立100周年記念事業として2000年に八王子キャンパスへ復元・移築した建物。
歴史資料室もあるというが、訪れた際は、残念ながら閉館していたので、もしかしたら、再訪かも。

恩賜記念館
 明治45年4月23日 明治天皇から御下賜された恩賜金により、大正3年3月に建設された恩賜記念講堂を、創立百周年を記念して、平成12年に恩賜記念館として復元したものです。
 内部には、記念講堂をはじめ、本学の歴史的な資料を展示する歴史資料室、マルチメディア閲覧室及び会議室があります。
 なお、正面の桂太郎公の銅像及び館銘板は、当時の恩賜記念講堂のものです。

恩賜記念館

恩賜記念館の扁額。
恩賜記念講堂当時のもの。
昭和40年新校舎建築のため取り壊された際、半分に割れて廃棄されたものを回収したもの、という。

桂太郎銅像

桂太郎
内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)、台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任。
日露戦争時の内閣総理大臣。
西園寺公望(第12代、14代)と交互に総理を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。
軍人としての階級は陸軍大将。
栄典は、従一位大勲位功三級公爵。
通算首相在職日数は、2,886日(2023年4月現在、安倍晋三に次ぐ歴代2位)。第3次内閣は第一次護憲運動を受けて退陣し、同年に病没した。

創立者 桂 太郎 先生銅像
 拓殖大学の前身台湾協会学校の創立者で、初代校長をつとめた公爵桂太郎先生(一八四七~一九一三年)の銅像である。
 桂太郎公は弘化四年山口県萩に生まれる。
 長州藩士として幕末緒戦に参加、維新後、ベルリンに留学、プロシアの兵制を学ぶ。山県有朋、大山巌を輔けて軍制の改革を図り、参謀本部の独立、鎮台の師団改編等を行い、明治陸軍建設に大きな役割を果たし、陸軍大将に累進した。
 第二代台湾総督、陸相の後、明治三十四年初めて組閣の大命を拝し、第一次桂内閣首相として翌年日英同盟を締結、さらに同三十七年、日露戦争勃発するや挙国一致これに対処してよく戦勝に導き、しかも戦争の終結を深謀、外相小村寿太郎を全権として講和条約を結ばせた功績は史上に著しい。
 明治三十三年(一九〇〇年)、台湾協会会頭として台湾協会学校を創立して初代校長に就任、以後十二年間にわたり本学の基礎をつくった。また医学会でも初代癌研究所会長に就任し、医療の発展に貢献した。
 大正二年 (一九一三年) 十月十日急逝。享年六十七歳。
 この銅像は大正三年六月に完成したもので、設計·鋳造は武石弘三郎氏の作である。
  平成十二年四月

桂太郎銅像は、文京キャンパスと、八王子国際キャンパス、そして山口県萩市の桂太郎旧宅にある。

恩賜金の下賜を伝えた明治天皇の御沙汰書を、桂太郎先生が、教職員・学生に奉読している姿。


拓殖招魂社

拓殖大学には、学内神社として招魂社がある。
戦前期に茗荷谷学舎において創建。第二次世界大戦後に撤去された際、神社の扁額が学生によって持ち出される。1976年に総長室に扁額を奉安。1980年に八王子国際キャンパスに社殿を創建。
戦没した御英霊を祀っていることから、「拓殖大学の護国神社」の性質を持っている。

拓殖招魂社
拓殖招魂社由来の記
拓殖招魂社は、昭和8(1933)年4月、学生有志の発願により茗荷谷校地(現在の文京キャンパス)に建立された。これより先、昭和6(1931)年4月に碑(「烈士脇光三碑」)が建てられた脇光三他5名の日露戦争戦没者をはじめとして、満洲開発の途上で、支那事変の従軍通訳として、また先の大戦等において国難に殉じた拓殖大学出身者の英霊を祭っている。終戦後、GHQのいわゆる「神道指令」によりやむなく焼却されたが、昭和51(1976)年10月、一学友によって九州に奉遷されていた神額が返還され、昭和55(1980)年10月23日、「拓殖大学の精神的原点」を象徴するものとして、学校、学友、学生三者の協力により現在の場所に再建された。令和5(2023)年に新たに一柱を加え、440柱を合祀。
毎年春季秋季の2回、例祭を執り行っている。

拓殖招魂社由緒
拓殖招魂社は、拓殖大学建学理念の具現化であり、精神的原点の象徴である。
ここに祀るは究極的には、その理念であり、その理念に身を以て殉どれた尊い御霊である。即ちここに 、建学の理念を体し日本国家民族の護持に挺身し、亜細亜恢復の大義に殉じ、以て世界の調和進展の礎石となられた脇光三先輩を初めとする本学関係者の尊き御霊を紀り奉つる。
 個を超えて日本、亜細亜、世界という全体に生きられたその御霊に合掌し、その無言の訓えに粛然として頭を重れ、我等またそのあとに続かんことを誓うものである
拓殖大学

経緯
 本校茗荷谷五文原頭に、鎮座せられた「拓殖招魂社」は終戦直後占領軍の指令により破棄せしめられた。 この日空は暗澹として雲他く学生救職員一同、万感の念いをこめてこれを送った。
 一学生あり(専門部十九期 当房栄三郎民 宮崎県出身 故人)鳥居に掲げられた「拓殖招魂社」の扁顔を秘かに毛布にくるんて持ち帰り、これを九州宮崎の地に奉安した。その後この扁顔は在九州学友をへて在京学友及び学生に迎えられ、昭和五十一年秋、変額を奉じて恭々しく招魂社祭が教り行なわれ、ついてこれを総長室に安置申し上げた。
 雨来、学支会より、その総意として招魂社再建の熱烈なる要望があり、これを受けて高瀬総長理事長により拓殖大学創立八十周年記念を機に、ここに八王子原頭扶柔ヶ丘に拓殖招魂社再建御邊産の運びとなった。
 時に、昭和五十五年錦繍の秋、十月二十三日、此の間実に茫々三十有五年、今扁願は社頭南面する島居の上に再び高々と捐けられ、我が拓殖大学の過去と現在をそして未来をじっと見つめて居られる

拓殖招魂社

合掌

けっこうな山道。大学構内とは思えない山道。。。5分ほど登りました。


芳流 烈士脇光三碑

六烈士のうちの1名、脇光三。

脇光三をはじめとした日露戦争の六烈士に関しては、「横川省三」を調べていて知ったので、下記の記事に別でまとめました。

脇光三は、明治34年に台湾協会学校(拓殖大学の前身)の学生であったが、明治35年に中退して海を渡り、北京駐在の陸軍武官青木大佐から南下露軍の後方攬乱の秘命を受け、沖禎介、横川省三らとともに特別任務班に編成されその一員となる(辞令上は「陸軍通訳」)。
明治37年4月、横川省三と沖禎介がロシア軍につかまり、残った4人は再起を期すもロシア軍の意向を受けた馬賊に捕捉され、内蒙古クーロンホ付近で、相次いで戦死した。

烈士脇光三碑は、昭和6年4月23日(拓殖大学恩賜記念日)に除幕式が行われた。
この碑は、当初は文京キャンパスにあったが、昭和57年に八王子キャンパスに遷座している。

芳流 
烈士脇光三碑
 一戸兵衛書

烈士辞世
一朝宣戦 除百年憂 
吾党有士 死賛皇猷
興安西峙 松華東流
侠骨可埋 此山河頭

意訳
いったん宣戦の命が下れば、百年の憂いを除こうではないか。
我ら志を同じくする士(もののふ)は、命を賭して天皇の遠大な計画を助け奉る。
西には興安嶺(こうあんれい)がそびえ、東には松花江(しょうかこう)が流れている。
義侠の心に満ちたこの身を埋めるなら、まさにこの山河の地こそふさわしい。

 脇光三君は同窓の先輩なり 日露戦役の初に當り進んで特別任務に服し六士相攜へて北京に發し辛酸六旬にして深く敵地に入り東清鉄橋の爆破を企てしも事破れ二士は露軍に捕へられて遂に哈爾濱郊原の沙に屍を委て君は三士と蒙匪に襲われて倶に興安嶺邊塞の月に骨を暴しぬ嗚呼凄惨此に至って腹語るに忍びす然れとも壮圖克く敵の気を奪ひ其の戦略を覆し交戦期間多大の兵力を後方の警備に費すの已むを得さるに至らしめたるは以て忠魂を慰むるに足らん吾等遺烈を景仰し茲に諸先輩の賛助に憑り同傐協力して石碑を学園に建て之を不朽に傳うと云爾
  拓殖大学生一同
  教授宮原氏平撰文

棗(ナツメ)の木
寄贈 中村養三氏 (学部十六期 大正七年卒)
日露戦争の折 乃木希典将軍と露軍のステッセル将軍が会見した中国旅順郊外の水師営の場にあった棗の木
昭和四十三年に中村氏(当時学友会京都支部長)が大学に持参され 文京キャンパスの「拓魂碑」脇に植えられていたが碑の移設に伴いこの地に移植された


拓殖大学八王子国際キャンパス

東京ドーム23個分の広大な敷地を持つという広大なキャンパス。
1977年に開設された。
高尾駅から直通のバスが出ている。

※撮影:2026年5月


関連

「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和8年)

今年も靖國神社の桜花を愛でる。
毎年恒例の花見。

御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。
「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。

境内に献木された桜たち。
一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、桜の花を咲かせる。
靖國の桜花「靖國櫻」には御英霊の御心が宿っている。
御霊、やすらかに。

ありがとうございます。

以下、写真にて。


令和8年3月30日の靖國神社

また、1年後に!

※撮影:2026年3月30日。


「日本の航空事始め・8」伊藤音次郎と航空神社(東峰神社・成田)


日本の航空事始め

「日本の航空事始め」と題して、航空機の黎明期に注目した記録も、気がつけば「その8」となっておりました。

「その1」はこちら。

「日本の航空事始め・3」では、民間航空のパイオニアとして「奈良原三次」の記事を書いたときに、民間パイロット第2号にして、民間人として初の帝都初飛行をした「伊藤音次郎」にも触れ、末筆で「東峰神社」のことも記載をしていた。
もともと「伊藤音次郎」を知る前から、「成田空港にある東峰神社はヤバい(色んな意味で)」という話も聞いており、興味は持っていた。
先日、足を運びたいと思っていた「東峰神社」にようやく訪れることができたので、以下に記録を。

「日本の航空事始め・3」では、
伊藤音次郎に関連として、
 旧 伊藤飛行機研究所 滑走路跡
伊藤音次郎の一番弟子であった山縣豊太郎
 山縣飛行士殉空之地
などの掲載をしている。


民間機による初の帝都訪問飛行
伊藤音次郎

伊藤音次郎
明治24年(1891年)6月3日~昭和46年(1971年)12月26日

大阪の恵美須町生まれ。
17歳のときにライト兄弟の飛行写真をみて、飛行機に興味を持ち、奈良原式飛行機発明記事をみて、奈良原三次に手紙を送ったことから奈良原との交流がはじまる。
明治43年(1910年)に上京。奈良原三次に弟子入りし白戸栄之助教官の教えを受け「民間飛行士第2号」となる。

大正2年(1913年)、事情により航空業界から一時引退した奈良原三次の稲毛飛行場の地にて、大正4年(1915年)に伊藤音次郎は奈良原のもとから独立した形で「伊藤飛行機研究所」を設立。

大正5年、大阪の出身地・恵美須町の名をつけた「伊藤式・恵美1号」を制作し、民間機として初めての帝都東京訪問飛行に成功。
大正6年(1917年)、台風と高潮により稲毛海岸の施設(稲毛飛行場と伊藤飛行機研究所)が壊滅したことから、翌年大正7年に津田沼町鷺沼に移転し「伊藤飛行機製作所」(津田沼飛行場・鷺沼飛行場)として拡張する。

大正8年には、伊藤音次郎の一番弟子であった山縣豊太郎の操縦にて、伊藤飛行機が開発した日本初の曲芸専用機が連続2回宙返りに成功する。
昭和12年(1937)「伊藤飛行機株式会社」に名称変更。
昭和17年、日本航空工業と合併。

戦後、伊藤音次郎は、GHQの航空禁止令を受けて航空業界から引退。
昭和23年に(1948)に「恵美開拓農業協同組合」(恵美農場)を設立し現在の成田市東峰に入植し開墾開拓に携わり農場主となった。

昭和40年代に始まった「成田空港建設予定地」の一部に東峰地区が決定し、現地では伊藤音次郎ただ一人が大歓迎を表明。軌道に乗っていた農業用地をすべて売却。航空業界から身を引いた伊藤音次郎ではあったが数奇な巡り合わせであった。

その後、恩師奈良原三次が築いた稲毛飛行場を記念するために稲毛海岸に「民間航空発祥の地記念碑」建立に尽力し、自ら育てていたライト兄弟ゆかりの貴重な松を植樹している。

昭和46年(1971)、伊藤音次郎は成田空港の開港を見ることなく満80歳で他界。成田空港の開港は7年後の1978年であった。


航空神社(航空科学博物館)

航空科学博物館内鎮座。
祭神は天照大神・天鳥船命。
ご神体の木札には、長男の信太郎や天才飛行士と呼ばれた山縣豊太郎をはじめとする、航空黎明期の殉職者8名を祀っている。
最初の建立地は「伊藤飛行機研究所」(習志野市)。

長男の伊藤信太郎は、1936年に19歳の折に日本軽飛行倶楽部の練習中、二等飛行士・斉藤国松操縦の練習機に同乗し墜落。二人とも落命している。

山縣豊太郎は、伊藤飛行機研究所の第一期生として1917年(大正6年)に卒業。伊藤音次郎の一番弟子。後に日本民間人初の連続宙返り飛行を成功させる。1919年(大正8年)8月29日、連続3回転宙返りの際に翼が折れて、鷺沼の畑に墜落。享年23歳であった。

伊藤飛行機研究所は、1937年に「伊藤飛行機株式会社」となり、1942年には「日本航空工業(のちの日産車体)」と合併。

1945年、GHQによる航空禁止令を受けて、伊藤音次郎は航空業界を去り、「恵美開拓農業協同組合」を結成し、成田市東峰に入植。
1953年(昭和28年)に東峰地区に伊藤飛行機研究所で祀っていた「航空神社」を遷座。報徳二宮神社から二宮尊徳を合祀。
のちに航空神社は、東峰神社に社号変更。東峰地区の開拓産土神として崇敬された。
成田空港(新東京国際空港)の建設に際して、2001年(平成13年)9月に、伊藤音次郎の遺族の要請により、「東峰神社」には二宮尊徳の御霊を残して「航空神社」として山武郡芝山町にある航空科学博物館の野外展示場へ遷座。現在に至る。

天照大神・天鳥船命のほかに、
伊藤音次郎の長男の信太郎や天才飛行士と呼ばれた山縣豊太郎をはじめとする、航空黎明期の殉職者を祀っている。

YS-11のうしろ。

シコルスキーS-62のうしろでもある。

YS-11試作第1号機

航空宇宙技術遺産
YS-11

一般社団法人日本航空宇宙学会は、2024年4月19日にYS-11型国産旅客機を航空宇宙技術遺産に認定しました。試作1号機を展示する当館は、認定証を受領し、館内に展示中です。

日本航空機製造 YS-11
 この機種は、日本の日本航空機製造が1962年(昭和37年)から生産した66人乗りプロペラ旅客機です。
 この機体は、試作第1号機で、日本航空機製造の社有機として各種の試験飛行に使用されていました

スピード:時速450Km
エンジン:ターボプロップエンジン 2台(各2,700馬力)
機体全体の重さ:23.5トン
運べる重さ:10トン
価格:5億7,600万円 USS1,600,000(昭和45年当時)
当機が飛行していた期間:1962~1982
(寄贈 日本航空機製造)

YS-11
航空宇宙技術遺産

YS-11航空宇宙技術遺産に認定!
YS-11が日本航空宇宙学会の航空宇宙技術遺産に認定されたため、4月19日
航空科学博物館が代表で認定式に参加しました。認定式には、試作1号機を展示する当館のほかに、量産1号機を展示する科博廣澤航空博物館と、型式証明を保有する三菱重工業株式会社が参加しました。

どうして認定されたの?
YS-11は、戦後7年間の航空に関する活動禁止の後、日本で初めて設計、生産された国産旅客機です。日本初の与圧キャビンを持った中型輸送機であること、初めて型式証明をとった機体であることなどが評価されました。また、日本国内だけでなく、海外でも多く使われました。高い運航率を誇り、国内の旅客機としては2006年まで40年にわたって運航された、非常に
優秀な飛行機でした。これらYS-11 シリーズの開発経験や運用実績は、その後のXC-1の開発などに活かされており、戦後ふたたび航空機設計の基技術を確立したとして航空宇宙技術遺産にふさわしい機体ということです。
YS-11試作1号機
当館のYS-11は1962年に初飛行に成功した実機です。型式証明取得のために試験飛行に使用されていました。
その後、大阪国際空港にてANAの整備訓練機として第二の人生を過ごしていました。航空科学博物館開館にあたり、当館の初代理事長でありYS-11開発の主要人物だった木村秀政が試作1号機を展示するよう働きかけ、1989年に当館に設置されました。
航空科学博物館

展望台から

場所

https://maps.app.goo.gl/sbhyvcnq5owssoxw7


東峰神社

1945年、GHQによる航空禁止令を受けて、伊藤音次郎は航空業界を去り、「恵美開拓農業協同組合」を結成し、成田市東峰に入植。
1953年(昭和28年)に東峰地区に伊藤飛行機研究所で祀っていた「航空神社」を遷座。報徳二宮神社から二宮尊徳を合祀。
のちに航空神社は、東峰神社に社号変更。東峰地区の開拓産土神として崇敬された。
成田空港(新東京国際空港)の建設に際して、2001年(平成13年)9月に、伊藤音次郎の遺族の要請により、「東峰神社」には二宮尊徳の御霊を残して「航空神社」として山武郡芝山町にある航空科学博物館の野外展示場へ遷座。現在に至る。

現在の東峰神社には、二宮尊徳の神霊が、東峰地区の開拓産土神として祀られている。

手水舎は、東峰に遷座とともに、伊藤音次郎が鷺沼の伊藤飛行機研究所から持ってきたもの

皇紀二千六百年
日本航空三十周年
日本軽飛行機倶楽部

東峰神社

東峰神社の社号標の裏面

航空神社

こちらも伊藤音次郎が、伊藤飛行機研究所から持ってきたもの。

皇紀二千六百記念
社友会

この日は、快晴であったが、風向きがわるく、東峰神社の滑走路(B滑走路)は使用されず、航空機を間近で見ることはなかった。

むかしは、警備監視が厳しく職質もされたとのことだが、近年は飛行機が近くで見れる観光スポットになっているようで。


「三里塚闘争」とか「成田闘争」とか、そういう戦跡といえば、戦跡ではあるが、私のライフワークとはちょっと違う。

場所

https://maps.app.goo.gl/mUXg5QZZHSdL6EeQ7


東峰十字路事件の慰霊碑

戦跡の方向性が違うとはいえ、眼の前に慰霊碑があれば、手を合わせる。

この近くの天神峰で、成田空港建設反対派の襲撃により、3名の警察官の方々が命を落としている。
神奈川県警の福島警部補、柏村巡査部長、森井巡査が殉職をされた。(没後、二階級特進し、それぞれ警視・警部・警部補に昇進)

合掌

https://maps.app.goo.gl/yUV8JMYmHcHqzeXe9

https://maps.app.goo.gl/TDeaRRuxeRyJbhbN7

https://maps.app.goo.gl/j7BJLdCoo3Lbx9U68


航空科学博物館

日本初の航空専門博物館という。1989年開館。

以下、興味持ったものを。

イスパ/V型エンジン
the Hispano-Suiza V-type Engine
フランスのイスパノ·スイザ社が、1927年から生産したピストンがV字形に配置されているエンジンである。
日本では三菱重工業で1930年から製作され、旧日本海軍十三年式空母用攻撃機に使用されたエンジンである。

零戦コクピット
世界で最も有名な日本機である零戦(レイセン)の操縦席に乗ってみよう。
零戦は、旧日本海軍が三菱重エに発注した、一人乗りの空母搭載用飛行機で、原型機は1939年に初飛行した。
開発の責任者である三菱重エの堀越氏は、世界的に有名な設計者である。

航空機の歴史、とか。

日本の名機

奈良原式 四号飛行機「鳳」号
旧日本海軍 横須賀工廠式 ロ号甲型 水上偵察機
川西式 K-7A 水上輸送機

旧日本陸軍 八八式偵察機
朝日新聞社 「神風」号
航空研究所 試作長距離機

旧日本海軍 零式艦上戦闘機

毎日新聞社「ニッポン」号

あぁ、MRJの夢

朝日新聞社 A-26 長距離機
旧日本海軍 彩雲 艦上偵察機

下田信夫画伯の飛行機画。

お、この展示コーナーは既視感があるぞ。
所沢航空発祥記念館の出張展示。

YS-11のカット模型、これは初めて見た。

YS-11 試作1号機
カットアウェイモデル(1/20)

この模型は、国産旅客機 YS-11 試作1号機をもとに製作された「カットアウェイモデル」です。カットアウェイモデルとは、航空機メーカーや航空会社が顧客向けのプロモーション用に製作した、一部を切り欠いて内部構造や客室の様子を示す模型のことです。
機体の技術的特徴や、提供を想定した機内サービスを分かりやすく伝える目的で用いられました。屋外展示場にある実機の試作1号機には、客室内装や座席は設置されませんでしたが、この模型には当時想定された客室レイアウトやデザインが再現されています。
模型職人の高度な技術と、YS-11が描いていた旅客機像を知る手がかりとなる貴重な資料です。
(所蔵:鉄道博物館)

展望台から。これは一日眺めていても楽しい。

クロネコヤマトの貨物専用機(フレイター)。
なんかカッコよくて可愛いぞ。

平和佛舎利塔、成田空港建設の歴史に絡む寺院

時間の都合で、「成田空港 空と大地の歴史館」に行くのをうっかり失念していたこと。
また行かないと。。。

※2026年1月撮影


関連

日本の航空事始め

はじめに


靖國神社の新春初詣(令和8年)

あけましておめでとうございます。
靖國神社、正月朔日の初詣。

境内の様子などを、徒然に。

令和丙午

昨年の様子。

2025年もいろいろなことがありました。
仕事的なことですが、結果として、今の職場を年度末で退職することに決めました。今の会社は7年半ほど務めまして、中堅的な立ち位置で学びも多く、出張も国内外いろいろ赴くこともでき、仲間も居て、そういう意味では居心地の良い感じでしたが、上層部との方向性の違いなどもあり、最後は私の意地と信念もあり、このままではダメだなってことで。

さて、2026年はどうなることやら。
ただ、引き続き、サイト運営など、あまりアクティブな状態には、できなさそうですが。

御英霊の皆様、やすらかに。

御朱印
正月限定の刺繍御朱印と切り絵御朱印と。

おみくじは、末吉。
これから良くなるヤツですね。
自制心を働かせ、ます、です。

おしるこを。

甘酒も。

毎年、ありがとうございます。

いななき

遊就館の特別展示室

いつもこれが気になっていたけど、記録を撮っていなかったので。
星と錨とプロペラで、陸海空の意匠ですね。

馬年ですね。軍馬慰霊。

振る舞い酒

樽酒ならではの風味を楽しむ。
ありがとうございます。

※撮影:2026年1月1日

全国最多の御祭神をお祀りする護国神社「沖縄県護国神社」(沖縄戦跡慰霊巡拝12)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その12」となります。

その11は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


沖縄県護国神社

沖縄県那覇市の奥武山公園に鎮座。
御祭神は、沖縄関係の戦死者だけではなく、沖縄戦に殉じた本土出身者や一般市民も祀っており、17万8,800余柱を祀っており、全国各地の護国神社では最多の御祭神となっている。

沖縄護国神社は昭和11年に創建した招魂社に始まり、昭和15年に内務大臣指定の護国神社(沖縄県護国神社)となった。
昭和20年4月の沖縄戦で社殿を焼失し<昭和34年に仮社殿を竣工、昭和40年に現在の社殿が建立している。

以下、公式サイトより

由緒
沖縄県護国神社が鎮座する那覇市奥武山の地は、古くは奥(ア)武之(フノ)山(ヤマ)と呼ばれる集落のない小島でした。「奥武(アフ)」とは、神々と通ずる地という意味があり、古くから信仰の地とされてきました。
護国神社は、明治三十九年にこの地で県出身戦没者の御霊を招き鎮め、神として祀る「大招魂祭」が県主催で行われたのが始まりです。その後、昭和十一年に沖縄県招魂社として社殿が建立され、昭和十四年に沖縄県護国神社へと改称、昭和十五年に内務大臣指定護国神社となりました。
そして、皇紀二六〇〇年の那覇市の筆頭事業として境内が整備されました。昭和二十年の沖縄戦では米軍の砲撃を受けましたが社殿は奇跡的に残り、戦後は学校用地として供用されるなどを経て、沖縄戦戦没者をお祀りしようとの声が沸き起こり昭和三十四年に仮社殿が建立されました。現在の社殿は沖縄県内外御遺族崇敬者の御浄財により昭和四十年に竣功し、現在に至っております。昭和四十七年沖縄本土復帰を機に宗教法人認証申請の末、翌四十八年に「宗教法人沖縄県護国神社」となり県内外より多くの参拝者が訪れています。

ご祭神
沖縄県護国神社のご祭神は、日清日露戦争以降、先の大戦で国難に殉ぜられた沖縄県出身の軍人軍属を始め沖縄戦にて散華された一般住民の尊い御霊も神様としてお祀りしています。その中には那覇の十・十空襲や対馬丸の犠牲者なども含まれます。さらに、北海道から鹿児島までの本土出身軍人軍属で沖縄戦戦没者も合祀しており、現在のご祭神名簿には一七七、九一三柱のご祭神が記されています。
(柱数は追加合祀の都度異なります。)

https://okinawa-gokoku.jp

大鳥居

沖縄縣護國神社

昭和19年12月建之
陸軍大将鈴木孝雄書

昭和19年建立の社号標??
沖縄戦で焼失を免れたのか?

二の鳥居

御社殿

深く拝する
みたまやすらかに

御朱印

靖國神社 南部利昭宮司御植樹
平成20年10月23日
第50回記念秋季例大祭


御製の碑(沖縄県護国神社)

上皇陛下(平成)ご即位20周年、上皇上皇后両陛下ご成婚50周年記念の碑。

御製
弥勒世よ 願て 揃りたる人たちと 戦場の跡に 松よ植ゑたん

天皇皇后両陛下が、平成5年当県米須・山城での第44回全国植樹祭に行幸啓の砌、沖縄県に贈った御製です。当神社企画の今上陛下ご即位20年奉祝記念事業として、広く大御心をお伝えするため歌碑を建てました。平和な世を願って集まった人々とともに戦場の跡に松をお植えになったことを詠まれた琉歌です。

御歌
鹿子じもの ただ一人子を 捧げしと 護国神社に 語る 母はも

天皇皇后両陛下が、平成5年当県米須・山城での第44回全国植樹祭に行幸啓の砌、沖縄県に贈った御製です。当神社企画の今上陛下ご即位20年奉祝記念事業として、広く大御心をお伝えするため歌碑を建てました。平和な世を願って集まった人々とともに戦場の跡に松をお植えになったことを詠まれた琉歌です。


平和の像(沖縄県護国神社)

大東亜戦争終結50周年記念
沖縄県遺族連合会
平成7年(1995)9月7日建立

恒久平和
碑文
 大東亜戦争終結50周年にあたり、沖縄県護国神社に神鎮まる戦没者の御霊を末永く慰霊顕彰すると共に、恒久平和希求の切なる願いを込めて沖縄県内遺族の総意を結集し、この像を建立する。
 御英霊は、祖国防衛と民族の安泰を守るため、尊い生命を祖国に捧げられたのであり、私たち遺族は常に尊崇と感謝の念を持ち続けている。
 今日、わが国は、この半世紀に亘り、自由と平和の恩恵を享受している。
 これもひとえに諸霊の尊い犠牲によってもたらされいることを決して忘れてはならない。
 私たちは、命の貴さ、平和の尊さを常に肝に銘じ、二度と戦争の悲劇を繰り返してはならないことを後世に伝え、我が国唯一の地上戦が展開された激戦地沖縄が、恒久平和の発信地として「広げよう平和の輪、伝えよう沖縄の心」を内外に強く訴えるものである。
 二十一世紀に向け、私たちは世界の人々と手を携えて恒久平和の確立に邁進することを固く誓うものである。
  平成7年9月7日
   沖縄県遺族連合会 建立

慰霊顕彰
いくとしゆひてん
 忘しる間やねこみ
すぎし日ぬ姿
 朝ん夕さん

共存友好
今年今月ぬ
 今日吉日に
たげにはいするて
 ありし別ら

文字は起こしましたが、意味がわからない内地人でして。


悲歌(沖縄県護国神社)

悲歌
遺骨だにまだ見ぬ
 人にたのまれて 
泣き泣きひろう
 沖縄の石

 沖縄は太平洋戦争終焉の地として 日本国民にとって永遠に忘れ得ぬ土地であります
 祖国の必勝を信じ祈りながら 軍官民一丸となり 老幼婦女子、学園の健児や乙女に至るまで 山野を血に染め 祖国防衛の防人として 散りゆきし英霊の眠られるこの聖地沖縄県護国神社の社頭に 由緒深き京都霊山護国神社にある 大鳥居を日本民主同志会の発起によって碑礎に留めん 有志の篤きご協賛により 之を奉納し併せて表記の悲歌を碑となし 遺恨を千載に留めて硝煙の中に散りゆきし御霊に捧げ 英勲の安らかに眠られんことを祈ると共に世界平和を悲願といたします。
  昭和41年4月19日 建立
   日本民主同志会中央執行委員長
   泉湧寺管長


人命尊愛・神石(沖縄県護国神社)

新宗教の「修養団捧誠会」の教祖・出居清太郎による建立。

アジアにひとたび戦雲おおえば
惨禍およばざるところなし
と昭和三年天啓によって諭され時の政府に再三謹告したにもかかわらず聴聞に達することを得ずかえって獄舎の身となる 
時の流れはそのまま推移し時局は予言にたがわず第二次世界大戦へと突入アジア全域にわたって戦塵の巷と化す 
このとき再び 琉球は聖地なり の天啓をいただくもいかんとする術を知らず 
日ならずして沖縄に戦火燃え彼我の熾烈なる攻防に山容あらたまり幾多の人命は失わる 
やがて戦火止むといえども人心その拠るところを失う 
たまたま修養団捧誠会沖縄県支部の発会を機として仲本興徳支部長護得久和子根波朝造副支部長以下同志の熱誠と沖縄県護国神社奉賛会具志堅宗精会長ほか三好邦忠加治順正両氏等同神社関係の人達の協力を得てここに人命尊愛和石の建立をみる 
まさに天の理と人の和の合掌の姿なり 
人命尊愛は人の命を長らうるのみにあらず尊い命を与えられし万人が活かされる大恩に感謝し他自ともに助けあい悠久なる平和の郷をこの地上に実現せんとするためなり 
これ吾人の七十年の願望なり 
沖縄はアジアの要にして東洋の平和の根元たるべき聖地なり 
ここに人命尊愛の和石を通じ広く万人に呼びかくるものなり
 昭和四十九年九月吉日
  修養団捧誠会
  教祖ならびに総裁 出居清太郎
  清堂亀井安之助謹書


傷痍軍人夫妻像(沖縄県護国神社)

傷痍軍人夫妻像
去る第二次世界大戦において多くの若者が異国の戦場で散華し、又は、傷痍の身となった。
特に、沖縄戦においては、民間人も 戦闘に協力し、尊い命を失い、又は負傷した。
昭和29年1月沖縄傷痍軍人会を結成し、2630名の旧軍人及び戦傷病者が入会した。戦後、塗の苦しみを体験した私達は、世界の恒久平和を渇望し、その証として、この像を建立する。
 平成23年6月22日
  財団法人 沖縄県傷痍軍人会
  沖縄県傷痍軍人妻の会


あゝ特攻(沖縄県護国神社)

(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会 日本人の心を伝える会

私たちはあなたたちを忘れない
あゝ特攻

沖縄を護るため、航空機による空の特攻、戦艦や特殊潜航艇による海の特攻、爆雷を用いての陸の特攻で散華されたすべての特攻戦没者、並びに戦地に赴き特攻にて散華された沖縄県出身の戦没者を永久に顕彰する。

空の特攻
 大東亜戦争末期、最後の手段として航空機による特攻が行われた。 特攻隊員の中には、昭和19年12月16日フィリピン・スミラフ島付近で海軍神風特攻隊 として散華した 我喜屋元太郎少尉 (伊計島出身) ら沖縄県出身者も存在する。 沖縄戦においては、昭和20年3月26日那覇南西洋上にて戦死した陸軍特攻隊の伊舎堂用久中佐 (石垣島出身) をはじめ、終戦まで沖縄を護るため海軍1,957名 (982機)、陸軍1,021名 (義烈空挺隊 含む891機) が特攻で散華した。

海の特攻 
 昭和20年4月7日 戦艦大和 を旗艦とする第二艦隊は、海上特攻隊として沖縄を死守すべく出撃したが、坊ノ岬沖にて米軍機の攻撃を受け、約三千名が散華した。その中には沖縄県出身者37名も含まれている。 また、沖縄守備隊として渡嘉敷、阿嘉、慶留間、座間味、北谷、読谷、与那原、那覇、具志頭、糸満、玉城に配備されていた陸軍海上挺進戦隊「マルレ」、金武、石垣、宮古、小浜に配備されていた海軍「震洋隊」、運天港に配備された特殊潜航艇「蛟竜」は、米軍の砲撃を受けつつも米軍艦艇に対し攻撃を行った。 他にも人間魚雷「回天」は伊号潜水艦に搭載され、昭和20年3月から沖縄近海に出撃し、多くが艦艇と共に散華した。

陸の特攻
 首里に司令部を置き、宜野湾、浦添以南に陣地を配備した沖縄守備隊第三十二軍は、昭和20年4月1日沖縄本島中部西海岸に上陸した米軍と壮絶な戦いを繰り広げた。その際、激戦地となった嘉数高地 (現在の宜野湾市嘉数高台公園) や安里52高地 (現在の那覇市おもろまち) での戦いでは、手作りの梱包爆雷を抱えた兵士による敵戦車への肉弾特攻が行われた。また、県内各地の戦場でも 鉄血勤皇隊 などの沖縄県出身学徒による肉弾特攻が行われ、壮絶な最期を遂げた。
 平成30年4月23日 
  沖縄県護国神社


場所

https://maps.app.goo.gl/A69QvQT6PkSnL63X7


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その13」へ

80年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

終戦から80年目の8月15日、終戦の日の靖國神社。
毎年恒例。
変わることなく、祈りを捧げる。


靖國神社・午前9時30分

すでに、第二鳥居まで行列ができていました。

良き青空。


放鳩式 靖國神社・午前10時

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

毎年恒例、講談師の室井さん。

午前9時55分ごろに、白鳩が手渡しされました。

靖国神社、大塚宮司

英霊、ありがとう
心をこめて
放鳩式


靖國神社・午前10時すぎ

途切れること無い参拝列。


「白鳩の会」と「御朱印」

毎年、ありがとうございます。

靖国の御神紋の金刺繍がひときわに。


靖國神社拝殿・正午

正午の20分くらい前。ギリギリまで直射日光は避けたいという空間。

国歌
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

黙祷

おことば
 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来80年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/295#3132

毎年、この場所で、海行かばを

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

ありがとうございます。

靖らかに。


遊就館

8月15日、ひときわに暑い夏。

終戦80年企画展
青少年に伝えたい
沖縄戦の学徒隊・特攻隊

私も知らなかったエピソード、多数。
これは、青少年に限らず、すべからく必見ですね、。


靖國神社・正午すぎ

ご苦労様です、冷たい麦茶ありがとうございます

今年は例年以上の人手で、麦茶も行列ができていました


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

合掌。

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」

千鳥ヶ淵にも足を伸ばす。

全国戦没者追悼式のため、北の丸は立ち入り禁止


昭和館

戦後80年 特別企画展
社会を映す、動かす
ポスターにあらわれる国策宣伝の姿

企画展をやっていたので、足を運んでみました。

図録。
今回の企画展と、過去のポスター関係の図録もまとめて購入してしまいました。


映画『雪風 YUKIKAZE』

戦後80年の、ちょうど8月15日公開の映画。
幸運艦「雪風」の物語。

※撮影:2025年8月15日


「英霊殿跡」群馬縣護國神社創建前に招魂社が建立された高崎公園

高崎城址の南に展開されている高崎公園は意外と歴史が古く、明治9年(1876)に造園されたという。ちょっと散策してみましょう。


英霊殿跡
(群馬縣護國神社旧地・高崎公園内)

群馬県護国神社が創建される前の招魂社として機能してた「英霊殿」。

群馬縣護國神社

英霊殿跡
明治42年、このところに英霊殿が建立され、昭和16年群馬縣護國神社創立に至るまで、毎年官民合同の群馬県招魂会によって盛大な招魂祭が営まれた。

昭和55年4月吉日
 群馬縣護國神社
 群馬縣護國神社奉賛会
 英霊にこたえる会群馬県本部
 歩十五会


高崎公園

公園入口の石柱は大正4年の銘がある。

明治9年、旧高崎城南西の頼政神社に隣接した大染寺の跡地に造営。
明治33年に市制施行された時に高崎公園と呼ばれるようになった。
高崎では2番目に古い公園。


明治百年之碑


御大礼記念三羽靏碑

昭和3年11月10日建立


ハクモクレン

安藤重信が元和5年(1619年)に植えたと伝わるモクレン。


高崎公園の動物たち

いろいろ問題提議されているようだが。


高崎公園からの遠望

高崎白衣大観音と群馬県護国神社の方向。

※撮影:2024年9月


関連

群馬縣護國神社

陸軍航空士官学校の校内神社「修武台航空神社」(所沢・北野天神社)

所沢の北野天神社の境内社「小手指神社・航空神社」は、かつての陸軍航空士官学校の校内神社の御社殿を戦後に遷座したものであった。

深く拝する


陸軍航空士官学校(修武台・航士校)

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。


航空神社(修武台航空神社)

陸軍航空士官学校の校内神社「航空神社」
航空士官学校の跡地である航空自衛隊入間基地の修武台記念館の前庭には、「航空神社跡碑」がある。

航空神社跡碑
航空神社は、航空殉職者を慰霊するため所沢飛行学校長だった徳川好敏中将によって建立され、その後士官学校分校とともに所沢から豊岡に奉遷されました。戦後、北野天神社(小手指)に遷宮され例祭が営まれていましたが事情により昭和40年に廃社となりました、。神社跡碑は関係者の尽力により現在の場所に移転しました。殉職者らの霊璽は、令和6年(2024年)より北野天神社に再び遷座されています。

※修武台記念館のパンフレットより

北野天神社のサイトには、以下の記載がある。

所沢の航空神社とは

所沢の航空神社は昭和12年に創建された慰霊と航空安全のための神社です。
空の安寧を祈るとともに、所沢市の航空史、戦争の歴史を伝えております。

御祭神
主祭神 天照大御神 神武天皇 明治天皇
配祀 陸軍航空隊の殉職者並びに戦没者4956柱
御社殿
伊勢神宮及び武蔵一宮氷川神社の御用材を以て造営されました。

ご由緒と奉遷
 航空神社は、日本初の公式飛行に成功した徳川好敏(とくがわよしとし)の宿願により、昭和12年、所沢陸軍飛行学校に建立されました。
主祭神として、天照大御神、神武天皇、明治天皇、併せて、航空発展の途上に一命を捧げた航空殉職者と戦争で尊い犠牲となられた4956柱の英霊をおまつりしております。社殿は、伊勢神宮と武蔵一宮氷川神社の御用材より作られています。 大正6年には北野天神社宮司が斎主となり、所沢飛行場(現在の航空公園)で航空殉職者の慰霊祭をしていたことが祝詞より分かっております。 爾来、所沢陸軍飛行学校、陸軍士官学校分校、入間市豊岡(昭和天皇が行幸したことにより修武台と名付けられる)の陸軍航空士官学校の航空神社、及び、所沢陸軍航空整備学校の建空神社の祭祀を司って参りました。 昭和20年9月3日、入間市修武台の陸軍航空士官学校にあった航空神社が、進駐軍の接収を避け、命懸けで当社神域に遷座されました。航空神社の例祭は東久邇宮殿下のご臨席を賜り、音楽隊の吹奏を行い、「航空神社の歌」までできるなど盛大に斎行されました。 しかし、昭和40年11月3日に諸般の事情により奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に軍関係の霊位牌や霊名簿が奉安される事となりました。残されたご祭神は相殿する小手指神社の御霊(地元小手指地域の戦没者)とともにお祭りしておりました。 奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に奉案された霊位牌と霊名簿は、入間基地の修武台記念館が設立され整備も着々と進んできたのを機に、昭和63年に奈良基地から入間基地の修武台記念館にお移りになられました。 歴史の大波に翻弄された数奇な運命を辿りましたが、令和6年、徳川好敏氏の云う「因縁」、菅原道大氏の云う「奇縁」、また、その御縁を繋げて下さった皆様の力強いご尽力により、御霊が北野天神社内航空神社にお戻りになり、再び例祭を斎行する事となりました。 徳川好敏氏の願いは航空神社の「永久崇祀」です。大切に御霊をお祭りし、歴史を伝えて参りましょう。

航空神社と北野天神社(物部天神社)の繋がり
 北野天神社の正式名称は物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社です。物部天神社は延喜式神名帳にも記載される古社(式内社)で、平安時代以前より当地に鎮座しております。 祭神は、古代、武蔵國入間郡の郡司であった 物部氏の祖先神である櫛玉饒速日命をおまつりしております。 饒速日命は『古事記』、『日本書紀』にも登場しますが、特に『先代旧辞本紀』には、 「天磐船に乗りて、大虚空を翔行めぐり…」とあり、 天磐船という空飛ぶ乗り物に乗って、日本に降りてこられたことが伝えられています。この故実より、航空の神としても崇敬されます。 奇しくも、饒速日命が鎮まるこの所沢市に日本初の飛行場が出来まして、また北野天神社の格式が式内社・県社であるため、航空神社の斎主となりました。宮司家は創建された当時から今日にいたるまで祭祀を司り、御霊を大切にお祀りしております。

航空神社のこれから
現在、時代に翻弄され幾度も奉遷された御神霊は北野天神社境内・航空神社に戻られて、静かにお鎮まりになられています。 敗戦直後、進駐軍がやってくる中で軍施設の校内神社を受け入れるという事は、並大抵の事ではなく、命がけの覚悟がいりました。 そういった歴史を踏まえ、先代宮司は「航空神社は静かに、大切にお祀りしなさい。」とよく申しておりました。 その言葉通り、現在まで遺族の方々・神社役員、地域の氏子さんや心を寄せて下さる崇敬者さんと共に、丁寧に祭祀を続けてまいりました。  航空神社は慰霊と航空安全のために創建された神社です。航空神社は所沢市の戦争の歴史を背負っており、所沢市に”二つ”とあってはいけません。  所沢市の航空史において、戦争による悲しく尊い犠牲と当時の人々の深い想いは、伝えていかなくてはならないものです。 かけがえのない歴史が塗り替えられることの無いように、大切にお祀りしましょう。

航空神社の歌
作詞 航空神社奉賛会
作曲 航空音楽隊長 松本秀喜
1, 大空に
命ささげた 人々を
まつる社の 尊さよ
君をたたえて もろともに
心ゆくまで 語りましょう
遠いあの日の 思い出を
2, 玉垣に
翼あこがれ 今も尚
忘れな草が 咲いている
心ゆくまで 歌いましょう
あの喜びも 悲しみも
3, 青空に
君のみ心 うけついで
銀の翼が とんでいる
父を慕って 僕もまた
強く明るく 生きましょう
このみ社の み恵みに
https://kitanotenjin.com/kouku.html

招魂会(おぎたまかい)解散の経緯について
 この神社は、元豊岡の陸軍航空士官学校修武台に国の安泰と戦勝を祈願するため祀られた神社で、北野天神社宮司が毎年厳粛に祭典を行ってまいりましたが、昭和20年の敗戦による混乱をさけるため、急遽当神社に遷座されたものです。
 終戦の混乱より落ち着きを取り戻した昭和30年頃より当学校の校長を始め幹部達十二・三名が寄り寄りに、北野天神社の社務所に集り前途を話し合って、結局慰霊祭を行うことを決め、同時に当所小手指・北中・北打越地区の戦没者を合祀し盛大な祭典を行ったのです。即ち、東久邇宮殿下のご臨席を賜わり、音楽隊の吹奏を行い、それに関する歌まで出来るなどして、毎年4月15日に慰霊祭が営まれました。
 しかし、昭和40年11月3日に元陸軍士官学校の校長等の手により軍関係の御霊のみ碑となって奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に分霊される事となりました。そこで残された英霊を祀るため、北野天神社及び六所神社の惣代役員また区長・遺族等が旧公民館に集り招魂会を結成し、その初代会長に川口重雄氏を選出し、従来通り4月15日を例祭とし決め、以来半世紀に亘り、慰霊祭を営んで参りました。当初は大変多くの遺族の方々が参列する程でしたが、時の流れと共に遺族の高齢化・減少も甚だしく、茲に招魂会を解散し、その基金を神社改修に充て、向後は神社境内の摂末社並の祭典を北野天神社の総代役員で執行することとなりました。
  平成二十六年十二月吉日
   北野天神社宮司   栗原彌生子
   同 総代会会長   鈴木正治
   六所神社総代会会長 鹿島敏寿
   招魂会会長     小暮信至

小手指神社
この社は日清日露の両戦役から終戦に至るまでの戰に参戦し祖国の尊い英霊となられた方々を祀った社です。
毎年4月十五日には(北中北越地区を含む)北野上新井西所沢地区の関係者により厳かに慰霊祭が執行されております。

航空神社
大正6年 北野天神社宮司が祭主となり所沢飛行場(現・航空公園)で航空殉職者の慰霊祭を行いました。
爾来 昭和12年 所沢陸軍飛行学校に航空神社が造営され 陸軍士官学校分校・陸軍航空士官学校(現・航空自衛隊入間基地)の祭典を行って参りました。
昭和20年8月の敗戦により航空神社は米軍の進駐が予期される慌ただしさの中 同年9月3日 当神社神域に遷座され 慰霊祭が厳かに執行されました

航空神社は空の守り神として多くの人々の崇敬を集めて参りました
主祭神のとして天照大御神・神武天皇・明治天皇 併せて陸軍航空隊の御霊四九五六柱をまつります
社殿は伊勢神宮と武蔵一宮氷川神社の御用材より作られました


航空神社(修武台航空神社)参拝

北野天神社の境内に。
小手指神社・航空神社の合社。

参拝。

玉串料 元校長
金阡圓 徳川好敏
昭和廿八年十二月廿日

元航士校長一同

余談だが、昭和28年の1000円は物価価値的には、3万5千円ほど。
徳川好敏は昭和38年に78歳で亡くなっている。

昭和28年の埼玉県知事の玉串料は5千円。一個人の徳川好敏に対して、さすがは県知事ゆえの5倍ですね。

「空の華」は、熊谷ですね。

徳川好敏関連は、下記にて。


境内の石碑

表忠碑(大正11年、東郷平八郎謹書)と忠魂碑(昭和30年、靖国神社宮司・筑波藤麿禁書)
もともとは小手指小学校に建立され、その後は市役所小手指出張所にあったが、昭和52年に北野天神社に移転。


モリス・ファルマン式飛行機

フランスのモリス・ファルマン式飛行機18号を復元中

大正4年5月に河野長敏初代気球隊長が撮影し奉納された「フランスのモリス・ファルマン式飛行機18号の写真」に因む復元

今年は戦後80年の節目にあたります。
航空安全をお祈りするとともに
祖国を守るため、尊い命を捧げられた英霊に
感謝の誠を捧げます。

モリス・ファルマン式飛行機18号


北野天神社参拝

おもえば、平成14年(2002)以来の参拝かもしれない。
23年も前じゃないですか。
当時の私は、武蔵国の延喜式内社を全て回ることをライフワークにしていたので、その一環で、当社にも参拝していたというわけです。

通称「北野天神社」と呼称しているが、正式名は「物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社」という。延喜式神名帳に名を連ねる武蔵国の延喜式内社。

式内社・物部天神社:櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ命)
式内社・国渭地祗神社:八千矛命(ヤチホコ命=大国主命)
天満神社:菅原道真公
配祀:宗良親王・小手指明神・天穂日命・応神天皇・日本武尊・倉稲魂命

由来:北野天神社(物部天国渭地祇神社)とは物部天神社・国渭地祗神社・天満天神社の総称。
景行天皇40年に日本武尊が東征の折に当地に立ち寄り、櫛玉饒速日命・八千矛命の二柱を祀り、物部天神・国渭地祗神と崇拝したことに始まるといわれている。のち欽明天皇の頃、先に日本武尊が納めた神剣に霊験があったことから天照大神を合祀して「小手指明神」とよんだ。
さらに長徳元年に菅原道真5世の孫である修成が武蔵守になったときに、勅許を得て京都の北野天神を分祀。坂東第1の天満宮としたと伝えられ、この時から当地を「北野」とよぶようになったという。このころはまだ3社は別殿であったが、いつのころからか合殿となり、社名も「北野天神社」となったという。
現在の本殿は安永年間(1770年代)の建築であり、拝殿幣殿は平成6年の建築。

前田利家の大納言梅

征夷大将軍・宗良親王
小手指ヶ原合戦での御在陣の御遺蹟
「君の為世のため何か惜しからむ 捨てて甲斐ある命なりせば」

諸神宮

源頼朝が建久6年(1195)9月に延喜式内総社3132神を勧進。
室町期の再建という社殿は、埼玉県内では、神社建築として、出雲伊波比神社が亨祿元年(1528年)で最古となるが、それを踏まえると小祠といえども、同じ室町期として、かなり貴重な建造物。

以上、北野天神社でした。

※参拝:2025年4月


所沢関連

愛媛縣護國神社

2024年11月、愛媛県松山市に訪れる機会があった。自由時間がほとんどない中で、一箇所だけ行くのであれば、で、時間捻出して「愛媛縣護國神社」に足を運んでみました。


愛媛縣護國神社

愛媛縣護國神社御由緒
愛媛縣護國神社は、明治32年「私祭招魂社」として創建(現松山東署付近)され、大正2年新立町多賀神社に移設。その後、昭和14年内務大臣指定護國神社として、その創建が認められ、愛媛県民の総意により現在の社地を選定し、同年10月社殿竣工遷座申し上げました。社号は愛媛縣護國神社に改称、神饌幣帛供進神社、県社に指定されました。昭和20年7月戦災により焼失しましたが、復興奉賛会を創設し県内外の御遺族崇敬者の皆様方からの御浄財及び勤労奉仕により、昭和26年から造営に着手し、昭和30年10月現在の社殿が竣工しました。一時期、神道指令により社号を御幸神社と改称するも昭和27年9月平和条約締結により社号を愛媛縣護國神社に復称し現在に至っています。

御祭神
明治戊辰の役から大東亜戦争に至る迄の幾多の事変戦役に於いて国防の重任に当り、国難に殉じられた愛媛県出身の護国の英霊をはじめ、社会公共の為に尽力し、愛媛県の産業文化に貢献して、永く県民に恩恵を垂れさせられた功労者、並びに消防・警察・自衛隊公務殉職者を奉斎し、県民畏敬の神社として唯今49、727柱の御神霊をご鎮祭申し上げて居ります。

http://www.gokoku.org/contents/history.html

愛媛縣護國神社御由緒
御祭神
明治戊辰の役より大東亜戦争に至る迄の国難に殉ぜられたる愛媛県出身の英霊
公務殉職者(自衛官・警察官・消防団員)
又郷土の産業・文化発展の功労者等
 松山城初代城主 加藤嘉明命・俳人 正岡子規命
 伊予絣の創始者 鍵谷カナ命
49,700余柱を御奉斎

ご由緒
明治32年「私祭招魂社」として創建
大正2年 新立町多賀神社に「愛媛招魂社」と改称移設
昭和14年 現在地に遷座
 社号を「愛媛縣護國神社」と改称
 神饌幣帛供進神社県社に指定
昭和20年7月26日 戦災により焼失
同26年から30年の4年間で現在の社殿を竣工

皇室のご崇敬
昭和41年4月  天皇皇后両陛下御親拝
昭和49年7月  皇太子同妃殿下御参拝
昭和28年10月 高松宮宣仁親王殿下御参拝
       扁額「護國」のご奉納を賜る
昭和50年10月 常陸宮同妃殿下御参拝

護国神社
 護國の英霊や愛媛の産業文化に功績のあった人々をまつった神社で、広い境内には戦没者の慰霊塔や殉職者の追悼碑などがある。また、万葉植物園が設けられ、万葉集に詠まれた多くの植物が歌とともに植えられているのも興味深い。
(道後村めぐり 第19番)
  松山市

愛媛縣護國神社境内案内図

非常に細かい案内図は、参拝に際に助かる情報。

拝殿

拝する
ありがとうございます

拝殿には高松宮宣仁親王が揮毫した「護國」の額面が正面に掲げられている。昭和28年(1953年)の参拝時に奉納という。

松山御幸山を控える

松山御幸山麓に鎮座


御朱印


終戦70年記念事業顕彰碑

御幸殿新築、本殿改修、祈念史料室新設、神橋改修


祈念史料室 みゆき

愛媛縣護國神社
当社は、明治32年(1899)、私祭招魂社として現在の松山東警察署付近に創立、大正2年(1913)新立町の多賀神社境内に愛媛招魂社として移遷、昭和14年(1939)に歴史ある御幸の地に、愛媛縣護國神社と改称して創建された。
 戦後、一時期御幸神社と称していたが、昭和27年(1952)に復称した。
 爾来、正月三が日には県下一のご参拝を戴くなど、県民の心のよりどころとして鎮座しています。

愛媛縣護國神社の御祭神
御祭神は、戊辰戦争から大東亜戦争までの幾多の事変・戦役で、国難に殉じられた愛媛県出身の護国の英霊をはじめ、社会公共の為に尽力し、郷土の産業文化に貢献された功労者、並びに消防・警察・自衛隊の公務殉職者を奉斎しています。

祈念史料室みゆき
この祈念史料室みゆきは、終戦七十年記念事業の一つとして御幸殿の中に併設されました。
国のために尊い命を捧げ、現代日本の礎となられた英霊の遺品や遺書、手記などを通じて、御意志を受け継ぎ、平和と命の尊さを学ぶために、愛媛県遺族会等のご協力により開設しました。

梟や 聞耳立つる 三千騎
 明治28年 正岡子規命

櫻井忠温格言碑 堀之内
櫻井忠温は日露戦争の際、歩兵第22聯隊の聯隊旗手として戦い、瀕死の重傷を負った。
『最も愛情あるものは、最も勇敢なり』

歩兵第22聯隊は、「伊予の肉弾連隊」と畏怖された精鋭部隊であった。数々の戦役に出征して武勲を重ね、日本軍屈指の戦果を挙げた。

日本騎兵の父秋山好古陸軍大将は、晩年に松山に帰郷し、中学校校長を務めた。中学校長時代に日露戦争で散華された愛媛県出身者を悼み、秋山好古揮毫の忠魂碑が愛媛県下には13箇所、建立された。

本土防空の戦闘機主翼の機銃
(99式20粍機銃)

愛媛の戦没者の実態
愛媛県戦没者慰霊塔(丸山墓地)

愛媛の部隊・出身者の活躍と最後
歩兵第22聯隊
 満州から沖縄に派遣され、第32軍の隷下として沖縄戦で奮戦玉砕
第40師団第234聯隊
 大陸打通作戦、中支で終戦
第65旅団歩兵第122聯隊
 バターン半島攻略戦、第1支隊として南洋に転進し基地固守
南洋第6支隊
 西部ニューギニアで奮戦、ジャングルを転進し304名中5人のみ復員
富山丸
 沖縄輸送で轟沈、3,600名以上(うち愛媛県出身約370名)が犠牲

愛媛県下の空襲と戦後復興
空襲の激化と本土防空・松山の海軍航空隊(源田部隊)

愛媛県下では、松山、今治、宇和島が空襲被災

戦没者を奉恩顕彰し郷土で共に生きてきた人々

加藤嘉明命と正岡子規命


日本海軍零戦プロペラ

日本海軍零戦プロペラ
このプロペラは太平洋戦争当時最新鋭戦闘機として活躍した日本海軍の零式戦闘機に使用された可変ピッチ式(恒速プロペラ)のものである。
恒速プロペラは発動機の公称回転をたもつように速度の変化に敏速に応じて移動的にプロペラのピッチが調節される仕組になっているもので当時においては最高水準をいくものであった。
昭和43年10月宇和島市神田川原3区加藤勉氏が西宇和海で操漁中網にかかったものを回収し当松山駐とん部隊に寄贈されたものである。
(平成13年9月愛媛縣護國神社に移転しました)


歩兵第22聯隊の石柱と歩哨舎

石柱と歩哨舎
松山歩兵第22連隊は、明治17年2月7日創設以来最精強とうたわれた。この石柱は終戦まで60余年歳月の中に日本の盛衰を見つめながら幾多の将兵を送迎した由緒あるもので陸上自衛隊松山駐屯地にあったが、愛媛縣護國神社に移設し、その栄光をたたえつつ永久に保存することになった。
 平成13年10月1日


忠魂社(歩兵第22聯隊忠魂社)

忠魂社沿革誌
当社は昭和五年一月県下市町村並に一般有志の浄財により堀之内兵営内、衛兵所西側に聯隊忠魂社として建設、同年五月三十日鎮座祭が執行せられた。
爾来毎年軍旗祭当日、戦没者の慰霊祭が盛大且厳粛に執行せられていたが、昭和二十年の終戦により翌二十一年一月現在地に奉遷された。
その後護國神社の例大祭に併せて英霊鎮魂の祭典が執り行われている。


歩兵第22連隊記念之碑

歩兵第22連隊記念之碑

歩兵第22聨隊は、明治19年8月17日明治天皇より初代杉山直矢大佐が軍旗を拝受、爾来明治27年の日清戦役、明治378年の日露戦役には二百三高地に桜井忠温少尉が軍旗を立て、大正3年第1次世界大戦にはシベリヤに出征し野中保教中佐、永田常治郎准尉等が輝かしい武功を立て、大東亜戦争に中支満州最後沖縄にて勇戦せしも其の甲斐なく昭和20年6月22日吉田勝第27代聨隊長以下玉砕し軍旗を捧焼し、、まことに感慨無量、松山聯隊の遺史を回顧し、国事に殉じたる戦友の英霊を慰め平和の記念とし、1基を建立して後世に伝えんとす
 昭和44年5月27日

県会議長渡部高太郎氏沖縄軍旗捧燒ノ土奉納


大絵馬

恒例となっている地元出身の墨絵アーティスト・茂本ヒデキチさんによる奉納大絵馬


愛馬の像

忠勇な将兵の忠実な同伴者として、幾多の事変戦役に、戦線万里の荒野を暑さ寒さにも耐え、喜びも悲しみもともにしたその軍馬は、あるいは陣地に傷つき、病に倒れて骨を戦野に、さらしたものが少なくありません。
これを思うと傷心哀愁の情まことにせつないものがあります。
 このたび、大東亜戦争50周年記念事業として、英霊の伴侶とすべく軍馬の功を称へ、霊を慰めるため、「愛馬の像」を建立した次第であります。
  愛媛縣護國神社宮司 波爾荘 識


特別攻撃隊顕彰碑
あゝ特攻

私たちは決してあなたたちを忘れない

特別攻撃隊顕彰碑文
昭和十九年末、大東亜戦争の戦局も悪化の一途をたどる中、六千余名の勇士が航空特別攻撃隊として南溟の地に散華されました。日本の今日の平和と繁栄は、あなた達の至高至純の祖国愛と肉親愛の上に築かれたのであることを私達は決して忘れません。ここに愛媛県出身の七十四柱の顕彰慰霊の碑を建立し、その功績を讃え、精神を未来に伝えます。
  平成二十年四月吉日
    建立発起人
     愛媛偕行石鉄会 日本会議愛媛県本部 
     愛媛郷友会 愛媛県隊友会
     愛媛水交会 愛媛県海交会


天壌無窮碑(秋山好古揮毫)

秋山好古陸軍大将の揮毫。
昭和3年御大典・清水小学校開校記念碑として昭和3年建立。
戦後、GHQの撤去命令により記念碑を撤去保管し、後年に愛媛縣護國神社に再設置されたもの。撤去時に割れたものという。

天壌無窮とは、天地とともに永遠に極まりなく続くさま、を言う。
教育勅語「以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」(かくして神勅のまに々々天地と共に窮りなき宝祚あまつひつぎの御栄をたすけ奉れ。)


碑の道しるべ


歩兵第二十二聨隊 
忠魂碑

歩兵第二十二聨隊 忠魂碑

昭和54年3月10日建立
 題字 愛媛県知事 白石 春樹

碑文
 聯隊は、明治19年8月17日明治天皇の聖諭と共に軍旗を親授され、堀之内に創設された。
 尓来主として県内の若人が入営し、郷土聯隊として60有余年に亘り、日清、日露の両戦役を始め、シベリア派兵、上海事変、日支事変、北満の警備等、数度の外征に赫々たる武勲をたて、豫州健児の名聲を高めた。
 大東亜戦争の末期には、沖縄に転進して本土防衛の重任にあたり、優勢なる米軍の猛攻を受け、敢然死斗防戦につとめたが、遂に昭和20年6月、沖縄南部地区の戦斗において、軍旗もろとも将兵全員玉砕した。
 ここに、諸先輩の偉勲を偲び、その功績を称え、英霊の永久に安らかな鎮座を祈念する。


歩兵第百二二聯隊
南洋第一支隊 
忠魂碑

忠魂碑

第65旅団歩兵第122連隊は 昭和15年8月 松山市に於て編成 同12月4日軍旗を親授された 昭和16年11月16日三津浜を出港 同23日台湾に上陸 大東亜戦争勃発するや 昭和17年1月1日 比島ルソン島に上陸 バタアン要塞攻略戦に参加 爾後北部ルソン島の戡定作戦に参加 昭和18年8月24日 マーシャル群島方面に転進のためマニラを出港 同年9月7日 クエゼリン ミレー ヤルート ウオツチエ マロエラップ 各島に上陸 各基地海軍指揮官に配属され 基地防衛の任に就く 同年12月 南海第1守備隊の生存者約300名を加え 南洋第1支隊に改編された 昭和18年11月以降 米軍の完全な制空海権下に 苛烈な砲爆撃と深刻な飢餓のもと 困苦欠乏に堪ええて 悪戦苦闘すること1年10ヶ月 能く基地固守の任務を完遂した
比島及び マーシャル群島を通じ 我が部隊戦病没者数は3千余名に上る
  昭和50年5月3日
  歩兵第百二十二聯隊 南洋支隊 会 建立  題字 渡邊祐之介

大東亜戦争下に 祖国の興亡を憂いつゝ 比島の山野に マーシャル群島の沙汀に 若くして散華された多くの戦友への 追悼の念は歳を重ね 世相の移り変るに従い 愈々深い
茲に 旧隊員一同相謀り 忠魂碑を建立し 不朽の功績と崇高な精神を永遠に顕彰する


鯨部隊
歩兵第二百三十四連隊 
慰霊塔

慰霊塔
鯨部隊歩兵第二百三十四連隊

昭和14年8月部隊結成 同年10月6日中支戦線に出動 以来8年の間 中支 北支 南支に転戦 終戦により昭和21年5月末帰還 この間に戦歿せし 2768柱をはじめとし 護国の英霊のために之を建てる
  昭和43年3月3日
   鯨部隊 歩兵第234連隊生存者一同

鯨部隊歩兵第234連隊結成の地 松山御幸山麓護国神社の境内に 亡き戦友の御霊永久にお鎮り下さいと祈って 元連隊長 戸田義直氏の提唱で 慰霊塔を建立したものです
 昭和47年3月5日


満洲第712部隊
歩兵第43聯隊
慰霊碑

満州第712部隊 歩兵第43聯隊 慰霊碑

碑文
 昭和13年松山歩兵第22聨隊は松山より満州西東安に移駐した後第24師団に編入された為 昭和15年2月以降愛媛の若人は徳島歩兵第43聯隊等に入隊した 同年より聯隊は満洲第712部隊または錦2435部隊と呼称された
 昭和19年第3大隊の617名は大宮島(グアム島)に分遣され同年9月末米軍との熾烈な戦いに於て玉砕し其のうち164名は愛媛県出身者であった
 更に歩兵第43聯隊に在隊せし者で祖国の安泰と恒久平和を願いつつ国の砂として散華された多くの戦友の苦難を偲び御英霊に心からの感謝と畏敬の誠を捧げ茲に慰霊碑を建立す
 平成7年5月
 歩兵第43聯隊愛媛戦友会
 慰霊碑建立委員会 他戦友一同


海軍戦没者慰霊碑

海軍戦没者慰霊碑

終戦50年の節目に当り、日本民族の繁栄と、世界平和を念じながら散華された、郷土出身1万496柱の英霊と、戦後復員し荒廃した祖国の復興に貢献された御霊に対し、永遠にその偉業を讃え、愛媛県海交会相図り愛媛縣護國神社の神域に慰霊碑を建立することができました。
 ここに謹んで国家悠久の大義に殉じた海軍戦没者に鎮魂の誠を捧げて、その栄光と、併せて日本国の安泰と繁栄を祈念して、この慰霊碑を建立するものであります。
 平成7年12月8日
  愛媛県海交会
   会長 清水義隆
   会員一同


雄飛 豫科練鎮魂之碑

雄飛 豫科練鎮魂之碑

 豫科練雄飛
 それは、昭和5年日本海軍が航空兵力増強の期待を担って少年航空兵としての海軍豫科練習生制度を創設し弱冠15歳前後の紅顔無垢の少年達79名を第1期生として横須賀海軍航空隊に入隊させ呱々の声をあげたに始まる。爾来昭和20年8月の聖断下る日まで十年余の短い歴史に過ぎないが第24期生まで実に7萬1千名を数える。この間若人達は祖国を護らんと堅き決意を抱き飛行機搭乗員を志し飛行豫科練習生として続々入隊鉄石の猛訓練によく耐え搭乗員としての基礎を養い期待通りの成果をあげ大空に巣立っていった。
昭和12年支那事変勃発するや豫科練出身搭乗員は初陣の誉に浴しあの輝かしき渡洋爆撃行に列し活躍花を咲かせた。太平洋戦争においては、世界に誇る海の荒鷲としてハワイに、マレー沖に緒戦を飾り文字通り海軍航空隊の中核として熾烈な航空戦に従事し伝統の中に豫科練魂を築き上げ身を捨てて顧みない崇高な精神を鍛えあげた。戦い酣兄等は空の果てるところ海原遥か長躯翼を捷って祖国存亡の激戦に立ち向い、南太平洋、中部太平洋、遠くは印度洋に酷寒のアリューシャンに展開し常に第一線搭乗員として力の限り戦い、勇戦激闘赫々の武勲をたて武功を誇った。
戦雲急を告ぐる決戦のとき兄等は全員特攻を決意し何の代償も求めずひたすら祖国の繁栄を念じつつ莞爾として悠久の大義に殉じた。星霜すでに四十有余年瞑目すれば紅顔の英姿颯爽と今なお眼底に鮮やかなリ、愛媛県出身110柱在天の御霊よ希くば吾等が微哀を汲みて此処青松の神域に安らかに眠り給わんことを念じ碑を建立する。
 平成元年10月15日
  豫科練雄飛愛媛県人会


戦没陸軍少年飛行兵遺影顕彰碑

亡き友の御霊に捧ぐ
 昭和9年春2月、陸軍航空の華として少年飛行兵が誕生し、昭和20年8月終戦までの間、第1期生より第20期生迄約5万8千余名の若冠15歳前後の紅顔の少年達が情熱のすべてを祖国に捧げ、炎熱の朝に酷寒の夕に孜孜として猛訓練に励み黙々として古賢の道を学びつつひたすら死に通ずる大空へと巣立っていった。思えば十有二年の短い歴史ではあるが、此の間日支事変をはじめノモンハン事件、大東亜戦争と常に陸軍航空の中核として大陸の空に南冥の果てにまた北辺の孤島に雄戦激闘し赫々の武功を誇ったがその多くは祖国の繁栄と同胞の平和を念じつつ莞爾として悠久の大義に殉じていったのである。戦禍絶えて36年今は還らぬ友の御霊を慰め、その栄誉と武勲を永く後世に伝えると共に真の平和を祈念してここに出身生存者相はかり、愛媛県出身陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑を建立する。
  昭和57年4月4日
   陸軍少年飛行兵出身者の集い
    愛媛少飛会

皇后陛下御歌
 やすらかに
 ねむれとぞ思ふ
  君のため
 いのちささげ
 志ますらをの
  とも
  侍従入江相政謹書


殉國二十二烈士の碑

殉國二十二烈士の碑

 昭和44年11月建之
   白菊遺族会愛媛県支部
   愛媛県戦争裁判殉国者慰霊碑 建設世話会

大東亞戦後の戦争裁判は世界史に汚辱の一章を加え犠牲者の遺族に消える日のない痛恨を印した
愛媛ゆかりの二十二烈士亦大節を貫き恩讐を越え祖國の弥栄を念じ従容として平和の人柱となった
今や轉位して裁きの神の座にます尊霊たちよみそなわせ 敗戦祖国は世界驚異の発展をとげアジアの諸民族は相次いで獨立の宿願を成就しました
21世紀は日本の世紀在天の英霊とこしえに祖國を守りたまえ


拓魂

拓魂

国のため旧満州へ渡り 再び祖国の土を踏むことなく散華されし愛媛の開拓者の御霊よ永遠に安らかに

 昭和48年
  満州開拓者殉難碑 建設委員会 建立
 題字
  愛媛県知事 白石 春樹


殉職女子挺身隊員慰霊之碑

挺身
殉職女子挺身隊員慰霊之碑

太平洋戦争激化の昭和十九年県立松山高等女学校卒業と同時に祖国の危急に応じて女子挺身隊員となり呉海軍工廠に赴き電気部三次電池工場に勤務中 終戦を三ヶ月程に控えた昭和二十年六月二十二日米機B29の爆撃を受け殉職された三柱の霊を慰め併せてこれら乙女達が身命をかけてかち得た国の平和が永遠に続く事を願ってこの碑を建てる
 昭和五十二年十二月
  愛媛県立松山高等女学校  四十二期生


殉職女子学徒追憶之碑

殉職女子学徒追憶之碑

戦はよしや無謀侵略の師であったにしてもこれら乙女達がその最期まで祖国に捧げた熱情は至純であった 時恰も終戦直前の昭和20年8月5日今治市空襲の夜波止浜へ通ずる通稱近見縣道に於て散った真白の花二十四遺骨は名勝波止浜の丘上に安らけく眠って戦なく争なき天国に久遠の楽を享けているがそのみ魂をこゝに請じて亡き友への追慕の誠を捧げると共にうまし国わが日の本のこの地上に永遠に戦火の災あらしめ給うなと祈るはわれら生けるものゝ心からなる願いである
  昭和26年11月
   安倍能成題字  
   坂本良介撰文
   真鍋士鴻書丹
   同窓生有志建之


鎮魂

鎮魂
第3航空教育隊
西部第99部隊 
中部第571部隊 
終焉地

この鎮魂碑は昭和54年6月城山公園堀の内の第3航空教育隊跡地に建立され、平成16年4月吉日に移設したものである。


熟田津の歌碑

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな

 紀元1321年 今から1306年の昔 唐と組んだ新羅が 百済をくだして日本に向うのを憂えられた斉明天皇は 皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)その弟君の大海人皇子(後の天武天皇)などとともに 百済を助けるため 筑紫に軍を進められようとされた その途中 熟田津の石湯の行宮に泊らせられて 伊予水軍を集結し 兵船を整え 進発の時を待たれたのである。
 時は来た!十五夜の月はまさに出でようとし 潮は満ちふくらんできた 軍を統率する中大兄皇子のかたわらに侍する額田王の詩情は高まってくる 天皇をようする大軍船団と 月の光と満潮とが融合して豊にたゆたい その大生命が満ちきった一瞬 充実しきった額田王の心気は発せられた 「今はこぎ出でな!」渾身の力をこめて しかも優容迫らず 清明雄大 緊密なる流動の節奏と磐石の重き格調をもって歌いあげられたのである 天皇の大号令が この歌にはこもっている
 古今の絶唱がここに生まれたのである
 この歌は 日本女性の詩歌として世界に誇り得るものであり また 日本の歴史的意義をもつものである
 「今はこぎ出でな」と進発した当時の伊予水軍が 武運つたなく白村江の戦いに敗れ 国難に殉じたことをしのぶとき 哀悼の情切なるものがある しかし 潔く山桜のように散った伊予水軍の心気は ついに唐 新羅をして日本を侵させなかったのである
 この歌碑を仰ぐもの よくこの大生命を感受し 雄大清明なる気象を養い 「いざ!」の充実した心気に生きられんことを

附記
 この歌碑は 少年たちの壱円から特別の寄付まで また県内から県外まで 数多くの人々の心からなるきょ金によってできたのである しかし すべてその名をとどめないことにして ただ「熟田津の歌を讃うる会」とし ゆかしく千載までのこることを願うのである この歌碑の字は 元暦本万葉集から採ったものである
 なお この碑は熟田津の場所をここと決定して建てたものではない
  昭和42年7月5日
     熟田津の歌を讃うる会


殉職自衛官等 慰霊之碑

殉職自衛官等 
慰霊之碑
元防衛庁長官 増原恵吉 書

この慰霊碑は昭和25年警察予備隊創設以来自衛隊に勤務しわが国の平和と安全のために尽された愛媛県出身者でその職に殉ぜられた方、志半で物故された方、予備自衛官としての勤務期間中、物故された方、隊友会員として活躍中物故された方々の御霊をおまつりしてお慰めするため隊友会愛媛県支部連合会全員の意志により多くの方々の御理解御協力御厚志により建立したものであります
 昭和53年9月24日 平成2年3月改修
  社団法人 隊友会 愛媛県支部連合会


シベリア抑留者慰霊之碑

シベリア抑留者慰霊之碑

碑文
悲惨な第二次世界大戦は、日本のポツダム宣言受諾により、昭和20年8月15日を以て終結した。
 然るに旧ソ連は、その宣言を守ることなく、終戦後、60余万人の日本人を酷寒のシベリア、モンゴル、北朝鮮、サハリン及び千島等の各地に連行抑留し、長期に亘る過酷な労働を強制した。
 飢えと寒さと重労働の生き地獄の中、祖国日本への帰還の願いも空しく、本県出身者1千余名は、遂に力尽きて無念の死を遂げた。誠に痛恨の極みである。
 幾多の辛酸に耐えて帰国した抑留者、及び最愛の夫又は肉親を悲しくも失った遺族の私達は、苦節50余年を経た今日、この事に深く想いを致すとともに、その事実を後世に正しく伝え、且つ抑留死没者の冥福と恒久の平和を祈念し、財団法人全国強制抑留者協会の助成、及び県内外各界各層の温かい賛助を得て、ここにこの碑を建立する。
  平成9年12月吉日
    愛媛県シベリア抑留者慰霊碑建立委員会


茶筅塔


ボーイスカウト松山第16団
結団30周年記念碑

弥栄


愛媛万葉苑

愛媛万葉苑
 昭和28(1953)年、八木繁一が中心となり、この護国神社境内に、御霊を慰めるために「郷土植物園」として造られたのがはじまりである。
 その後、園内に万葉集の傑作「熟田津にぎたつの歌」の碑が建立され、それを契機として、一帯に万葉歌人の詠んだ植物を蒐集栽培し、昭和43(1968)年に『愛媛万葉苑』として開苑した。「万葉集」4516首の歌のうち約1500首に約150種の植物が詠まれている。本苑にはムラサキ、フユアオイ等の希少植物や、食用のアワ、薬用のキキョウ、和紙衣料の原料のカジノキ、ミツマタのような日常的に有用な植物など百余種が植えられている。
 苑内を散策しながら、和歌と植物を鑑賞することで、古人が植物に寄せた関心の深さ、観察眼の確かさ、大宮人の心のゆかしさ、古名と現代名の違いの驚きなど、各季節の味わいの中で、豊かな時間を過ごすことができる。
 松山市教育委員会


華塚


殉職警察官消防組員 彰功碑

殉職警察官消防組員 彰功碑
伯爵 清浦奎吾 書


松山あれこれ

松山出張中のあれこれ。こあるメーカーのパートナーサミットにお呼ばれされたのだ。

道後温泉駅

坊っちゃん列車

道後温泉

行きの飛行機

旅館の蛇口みかん

夜の道後温泉

松山鯛めし弁当

会食

旅館の日本酒

朝食のみかんジュース

みかん

情報量が。

鯛めし

鯛そうめん

松山って、なんか、ざっくり20年ぶりっぽいかんじ。当時の私は伊予鉄に乗ることがメインだったんで、、、
こうして、久しぶりに視点を変えて訪れると、やっぱ楽しい。
今度はゆっくり再訪したいです。

※撮影:2024年11月


関連

福岡縣護國神社(福岡博多の戦跡散策1)

2024年10月末に、福岡県に出張がありまして。
例のごとく、スキマ時間に福岡市内を散策してみました。
実は、いまの仕事7年くらいしているけど、九州出張は初めて。意外と九州とは縁がなかったのだ。

まずは、福岡縣護国神社へ。


福岡縣護國神社

明治維新から大東亜戦争に至るまでの国難において、尊い生命を捧げて私たちをお守りくださった福岡出身の方々約十三万柱の御英霊をお祀りしている。
祭神の柱数は護国神社では沖縄県護国神社(17万8689柱)に次いで、二番目に多い。

明治元年(1868年)11月、福岡藩主・黒田長知が、戊辰戦争に殉じた藩士を祀るため那珂郡堅粕村(妙見招魂社)と馬出村(馬出招魂社)に招魂社を創建したのに始まる。
明治39年(1906年)6月27日、「馬出招魂社」に「妙見招魂社」を合祀して「妙見馬出招魂社」とした。
昭和13年(1938年)に「福岡招魂社」と改称。
昭和14年(1939年)、招魂社の制度改正により「福岡護國神社」に改称した。
これとは別に、県内には他に4つの護国神社があった。
 山川護國神社 
  三井郡山川村(現・久留米市)
  明治元年、久留米藩知藩事有馬頼咸により創建
 柳河護國神社 
  山門郡三橋村(現・柳川市)
  明治元年、柳川藩主立花鑑寛により創建
 八景山護國神社 
  京都郡祓郷村(現・みやこ町)八景山
  明治元年、小倉藩主小笠原忠忱により創建
 田川護國神社 
  田川郡伊田町(現・田川市)。
  明治2年、華族高千穂教育により創建
昭和18年(1943年)4月、「福岡護國神社」は、現在地の福岡城址南側の練兵場跡に遷座し、上記の4つの護国神社を統合して「福岡縣護國神社」に改称、内務大臣指定護国神社となった。
第二次世界大戦後は「正中宮」と称していた。
日本の主権回復後の昭和32年(1957年)5月17日、元の「福岡縣護國神社」に復した。


福岡縣護國神社参拝

大鳥居
檜の原木で建てられたものとしては日本最大級の鳥居

福岡聯隊会の奉納狛犬

福岡聯隊会

  • 歩兵第24聯隊
  • 歩兵第124聯隊
  • 歩兵第226聯隊
  • 歩兵第113聯隊
  • 歩兵第187聯隊
  • 歩兵第292聯隊
  • 歩兵第359聯隊
  • 歩兵第453聯隊
  • 歩兵第517聯隊
  • 歩兵第72聯隊第2大隊
  • 独立歩兵第12聯隊
  • 第312独立歩兵大隊
  • 第314独立歩兵大隊
  • その他福岡聯隊にて編成された各隊

清々しい神域。

拝する。

ありがとうございます。

広々とした境内であるが、なにかが足りない。
慰霊碑や顕彰碑がない護国神社であった。


御朱印(福岡縣護国神社)

御朱印を頂きました


招魂斎庭(福岡縣護国神社)

明治3年の鳥居。護国神社前身の招魂社時代のものと思われる。
妙見招魂社のもか、馬出招魂社のものかは不明。


あゝ特攻勇士之像(福岡縣護国神社)

私たちは決して忘れはすまい

日本が昭和十六年から二十年にかけて、日本の独立と存続とを守り、且つ欧米列強から植民地化されたアジア諸国を開放するために大東亜戦争で米・英・支・蘭と戦い、緒戦の赫々たる戦果にも拘らず、戦い利非ずして戦況不利となる。沖縄県にまで敵の上陸を許す事態となり、この敵の圧倒的戦力を阻止すべく、遂に一機一艇をもって敵艦に体当たりする苦渋かつ壮絶な攻撃戦法を取らざるを得なかったことを。

持てる力をすべて尽くして散華された二十歳前後の英霊の崇高な勇姿を末永く後世に伝えるべく、特攻隊戦没者慰霊顕彰会の協力を得て、ここに設けた。
戦後の教育と謀略とにより平和・個人主義に偏りがちな現代の人よ、福岡県出身の三○一名の英霊の名を台座に収めしこの像を見て触れて、自分の命に代えても護るものが存在するということを考えて欲しい。
 平成二十四年十二月八日(大東亜戦争開戦記念日)
  特攻勇士之像建立福岡県委員会


平和の像(福岡縣護国神社)

球技禁止って貼られているのが、なにやら悲しい。

平和の像
 第2次世界大戦に斃れし戦士230万 痛恨なり 本県の御霊実に8万8千余に及ぶ 永遠につきざる縁者の 断腸の思い
 されど戦火おさまり巡り来る30余春秋 いま 遺族 県民あい集いて 涙を押さえ世界の平和を祈る ここに万感を込め この神域に”平和の像”を建立す
 優しかりし父よ 愛しき夫よ 子らよ 兄弟よ
 願わくば 空高く 海清く 緑深きわがふるさとに安らぎ給え
  昭和51年6月吉日  福岡県遺族連合会 会長 野見山清造

 この像は五基のブロンズ像から構成されています。また台座後面のレリーフは、戦死された方々のみたまを象徴しています。
 男性像は遺された父であり兄であり弟であり、女性像は母であり姉妹であり、児童像は遺児です。
 亡くなられた方々、遺された人々、みんなの努力によって今の時代が築かれたことを表しています。
 この群像は、置かれる場所の雰囲気を考慮し、静的な中に深く平和への願いを込めたものです。
  制作:廣瀬不可止、小田部泰久、柴田善二、小串英次郎、木戸隆一 


大正天皇御野立所跡・大正5年大演習観兵式玉座御跡
(福岡縣護国神社)

もともと福岡縣護国神社の地は、演習場であった。
歩兵第24聯隊(福岡聯隊)が建立。


末社・堀出稲荷神社(福岡縣護国神社)

由緒
大正年間福岡歩兵聯隊兵士の夢枕に立たれ「吾は祐徳稲荷の弟なり 永き年月埋められたままである 今こそ吾を掘り出し吾を祀れ」と御神託が下り その処から稲荷神の御神体が掘り出されました
その史実に基づいて掘出稲荷と命名されました
此の地に御遷座となったのは 昭和27年9月3日であります

福岡縣護國神社

https://fukuoka-gokoku.jp

福岡に居たときは気が付かず、こうして記事をまとめている最中に知ったのだが、
 境内には「台湾歩兵第一聯隊ゆかりの奉納狛犬」
 舞鶴公園の北側には「福岡聯隊の碑」「営門の桃の木」
 NHK福岡放送局の向かいには「広田弘毅像」
 東公園には「官祭 妙見馬出招魂社遺跡保存地」
次回の課題ですね、見逃し悔しい、、、


福岡城址

通りすがらに。

※撮影:2024年10月

その2はこちら


関連

全國護國神社巡拝(全國護國神社會の御朱印帳)

全国の護國神社を巡拝するということを、わたしの生涯の目標に掲げております。

以前より気になっていた「全國護國神社の御朱印帳(御朱印帖)」には、各頁に「社号記載あり」と「記載なし」の2種類があり、せっかく戴くなら「社号記載あり」で戴きたいと思いつつ、導入のきっかけを逃しておりました。(「社号記載なし」を入手する機会は多かったのですが、どうしても「社号記載あり」を戴きたく、なおかつ「社号記載あり」を授与いただける護國神社には、なかなか出会えなかったということもあり)

かねてより、護國神社の御朱印を、ひとつの御朱印帳にまとめようと巡拝をしており、そしていままでは、「桜柄の靖國神社の御朱印帳」で参拝をし、靖國神社の帳面に全国の護國神社の御朱印を集めておりました。
そして、22社(靖國神社と護國神社21社)を戴き片面が埋まったタイミングで、そんな折に、23社目の護國神社(福岡縣護國神社)で、前から気になっていた「全國護國神社の御朱印帳(各頁に社号記載あり)」に偶然に出会いました。
これは、間違いなく、御縁ですね。
ありがとうございます。

今後も、決して無理をすることなく、御縁を大切にしつつ、ひきつづき巡拝を続けて参ります。

(※なお、令和8年1月現在、全國護國神社の御朱印帳(御朱印帖)社号記載あり版の増刷予定はない、とのことです。まだ一部の護國神社さまには残っているようです。)


全國護國神社會の御朱印帳「全國護國御朱印帳」

刺繍で織りこまれた帳面は、白色を基調とした崇高な気配を漂わせている。
桜の花びらが1つだけ桜色に染まっているアクセント。
そして、金の模様は英霊の御心を表しているという。

靖國神社 護國神社 
御朱印帖

左は、靖國神社の御朱印帳(桜柄)
右が、全國護國神社會の御朱印帳


護國神社について

全國護國神社會「御朱印帳」より

護國神社について
 靖國神社と護國神社は、愛する家族や国家、郷土の安寧と繁栄を願いながら尊い命を捧げられた先人の神霊を御祭神としています。
 どちらも幕末維新から昭和初期にかけて「招魂社」として創建された比較的歴史の新しい神社で、その御祭神のことを私たち日本人は「英霊」と称え、崇敬と感謝の心をこめて日々祭祀をおこなってきました。
 道府県に鎮座する護國神社は。故郷出身ゆかりの英霊を、そして東京九段の靖國神社は、全國の英霊をお祀りしています。
 昭和初期の頃までは、日本全国に招魂社が百社以上創建されました。
 昭和十四年に内務省の告示により、招魂社は「護國神社」と改称され、おおむね一府県一社を原則とした「内務大臣指定護國神社」と、「指定外護國神社」の二種に分類されました。
 この制度は、大東亜戦争終結後に廃止されましたが、各護國神社は現在も地元の方々から厚く信仰され、お祭、日々の暮らしの中の諸祈祷などに参拝されています。
 「全國護國神社會」は、旧内務大臣指定の護國神社など、主要な護國神社で構成されており、靖國神社とともに日々英霊の慰霊顕彰をおこなっております。


護國神社参拝について

護國神社参拝について
 護國神社信仰の背景には「祖先や共同体に尽くした人々を神としてお祀りする」「その神は子孫や共同体を守ってくださる」という古来日本人の伝統的風習があり、共同体の単位で祀られているために、それぞれ地方色も豊かです。
 各地の護國神社の多くは、その道府県の主要都市に鎮座しています。
 名所旧跡が近くにあることも多く、その巡拝は、日本全国一周の有意義な旅になります。何より、英霊と故郷は切っても切れないものがあります。英霊が思いを馳せるふるさとを隈なく訪ねる全国の護國神社参拝は、英霊に感謝の真心を捧げる素晴らしい巡拝の旅となることでしょう。
 御朱印を授与される方々は、必ずや英霊の大きな御神徳を受けられ、この御朱印帖はかけがいのないご家族の宝物となることでしょう。
 この御朱印帖を手にされた皆さまが、靖國神社及び全国の護國神社に鎮まる英霊を慰め、末永く崇敬者としてご尽力くださいますことを心よりお願い申し上げます。
  全國護國神社會

※この御朱印帖の五十二社護國神社は、概ね北から南の順となっており、全國護國神社會監修「全国護国神社巡拝ガイドブック」の記載に準拠しています。


御朱印授与の履歴

  • 1 靖國神社    ※靖國神社の御朱印帳で授与開始
  • 2 愛知縣護國神社
  • 3 大阪護國神社
  • 4 廣島護國神社
  • 5 埼玉縣護國神社
  • 6 茨城縣護國神社
  • 7 千葉縣護國神社
  • 8 栃木縣護國神社
  • 9 群馬縣護國神社
  • 10 長野縣護國神社
  • 11 山梨縣護國神社
  • 12 兵庫縣神戸護國神社
  • 13 新潟縣護國神社
  • 14 石川縣護國神社 
  • 15 沖縄縣護國神社
  • 16 滋賀縣護國神社
  • 17 兵庫縣姫路護國神社
  • 18 福島縣護國神社
  • 19 宮城縣護國神社
  • 20 岩手護國神社
  • 21 岐阜護國神社
  • 22 静岡縣護國神社 ※靖國神社の御朱印帳で片面終了
  • 23 福岡縣護國神社 ※全國護國神社會の御朱印帳に切替
  • 24 愛媛縣護國神社 
  • 25 富山縣護國神社
  • 26 秋田県護國神社
  • 27 山形県護國神社
  • ※ 埼玉縣護國神社 全國護國神社會の御朱印帳で再授与
  • ※ 愛知縣護國神社 全國護國神社會の御朱印帳で再授与
  • ※ 大阪護國神社 全國護國神社會の御朱印帳で再授与
  • ※ 静岡縣護國神社 全國護國神社會の御朱印帳で再授与
  • 28 札幌護國神社(サイト未掲載・準備中)

靖國神社

全國には護國神社があるが、東京には護國神社はなく、靖國神社がその役目を担っている。
そのうえで、靖國神社は、東京に限らず、全國の御英霊をお祀り申し上げている。

下記は、靖國神社の御朱印
・令和7年の正月限定の刺繍入り御朱印
・冬季限定 大東亜戦争終戦八十年記念御朱印 戦艦大和
・春季限定 大東亜戦争終戦八十年記念御朱印 零式艦上戦闘機
・夏季限定 大東亜戦争終戦八十年記念御朱印 九七式中戦車
・令和7年のみたままつり限定御朱印
・秋季限定 大東亜戦争終戦八十年記念御朱印 隼

令和8年
正月限定の切り絵御朱印
正月限定の刺繍入り御朱印

「神紋の刺繍入りの御朱印」もある。


全國護國神社一覧

「全國護國神社會」は「52社」で構成されている。
もちろん、靖國神社や旧指定護國神社(旧内務大臣指定護國神社)以外にも、指定外の護國神社や招魂社・鎮魂社など全国各地に御英霊を祀る神社は多いが、ここでは、都道府県を代表する護國神社を列記する。

【北海道地方】3社

  • 函館護國神社
     〒040-0044 函館市青柳町 9-23 電話:0138-23-0950
     例祭日:5/11
  • 札幌護國神社
     〒064-0915 札幌市中央区南十五条西 5-1-3 電話:011-511-5421
     例祭日:7/6
 ※参拝済み、記事は準備中 
  • 北海道護國神社
     〒070-0901 旭川市花咲町1-2282-2 電話:0166-51-9191
     例祭日:6/4 〜 6

【東北地方】6社

  • 福島縣護國神社
     〒960-8025 福島市駒山 1 電話:024-535-0519
     例祭日:4/23・9/23
福島縣護國神社
  • 宮城縣護國神社
     〒980-0862 仙台市青葉区川内 1 電話:022-223-7255
     例祭日:4/29 〜 5/1・10/22 〜 23
  • 山形縣護國神社
     〒990-0053 山形市薬師町 2-8-75 電話:023-631-5086
     例祭日:5/11

https://senseki-kikou.net/?p=57468

  • 岩手護國神社
     〒020-0872 盛岡市八幡町 13-1 盛岡八幡宮社務所内 電話:019-652-5211
     例祭日:春の大型連休前の日曜日
岩手護國神社
  • 秋田縣護國神社
     〒011-0939 秋田市寺内大畑 5-3 電話:018-845-0337
     例祭日:4/29・10/24
  • 青森縣護國神社
     〒036-8356 弘前市大字下白銀町 1-3 電話:0172-32-0033
     例祭日:4/28 ~ 29

【関東地方】5社

  • 千葉縣護國神社
     〒264-0028 千葉市若葉区桜木 4-1-1 電話:043-497-4864
     例祭日:4/10・10/10
  • 埼玉縣護國神社
     〒330-0803 さいたま市大宮区高鼻町 3-149 電話:048-641-6070
     例祭日:4/9
埼玉縣護國神社
  • 群馬縣護國神社
     〒370-0867 高崎市乗附町 2000 電話:027-322-6309
     例祭日:10/16~17
群馬縣護國神社
  • 栃木縣護國神社
     〒320-0063 宇都宮市陽西町 1-37 電話:028-622-3180
     例祭日:4/28
栃木縣護國神社
  • 茨城縣護國神社
     〒310-0912 水戸市見川 1-2-1 電話:029-241-4781
     例祭日:4/10・11/10

【中部地方】11社

  • 山梨縣護國神社
     〒400-0013 甲府市岩窪町 608 電話:055-252-6371
     例祭日:4/5・10/5
  • 靜岡縣護國神社
     〒420-0821 静岡市葵区柚木 366 電話:054-261-0435
     例祭日:10/22~23
  • 愛知縣護國神社
     〒460-0001 名古屋市中区三の丸 1-7-3 電話:052-201-8078
     例祭日:4/28~30・10/28~30
愛知縣護國神社
  • 岐阜護國神社
     〒500-8002 岐阜市御手洗 393 電話:058-264-4321
     例祭日:4/12・10/5
岐阜護國神社
  • 濃飛護國神社
     〒503-0887 大垣市郭町 2-55 電話:0584-78-4048
     例祭日:4/23・9/22
  • 飛驒護國神社
     〒506-0837 高山市堀端町 90 電話:0577-32-0274
     例祭日:5/2~3・11/4~5
  • 長野縣護國神社
     〒390-0801 松本市美須々6-1 電話:0263-36-1377
     例祭日:4/29~30
  • 新潟縣護國神社
     〒951-8101 新潟市中央区西船見町 5932-300 電話:025-229-4345
     例祭日:5/8・9/8
新潟縣護國神社
  • 富山縣護國神社
     〒930-0077 富山市磯部町 1-1 電話:076-421-6957
     例祭日:4/25・10/5
  • 石川護國神社
     〒920-0935 金沢市石引 4-18-1 電話:076-221-2110
     例祭日:4/19・10/19
石川護國神社
  • 福井縣護國神社
     〒910-0016 福井市大宮 2-13-8 電話:0776-22-5872
     例祭日:4/12〜13・11/1〜2

【関西地方】8社

  • 三重縣護國神社
     〒514-0006 津市広明町 387 電話:059-226-2559
     例祭日:4/22・10/22
  • 滋賀縣護國神社
     〒522-0001 彦根市尾末町 1-59 電話:0749-22-0822
     例祭日:4/5・10/5
滋賀縣護國神社
  • 京都霊山護國神社
     〒605-0861 京都市東山区清閑寺霊山町 1 電話:075-561-7124
     例祭日:4/28・10/14
  • 大阪護國神社
     〒559-0015 大阪市住之江区南加賀屋 1-1-77 電話:06-6681-2372
     例祭日:5/20・10/20
大阪護國神社
  • 兵庫縣神戸護國神社
     〒657-0068 神戸市灘区篠原北町 4-5-1 電話:078-882-1700
     例祭日:5/6・11/6
  • 兵庫縣姫路護國神社
     〒670-0012 姫路市本町 118 電話:079-224-0896
     例祭日:5/2・11/2
  • 奈良縣護國神社
     〒630-8424 奈良市古市町 1984 電話:0742-61-2468
     例祭日:4/15・10/22
  • 和歌山縣護國神社
     〒640-8146 和歌山市一番丁 3 電話:073-425-2911
     例祭日:5/5・10/5

【中国地方】7社

  • 岡山縣護國神社
     〒703-8272 岡山市中区奥市 3-21 電話:086-272-3017
     例祭日:5/6・10/6
  • 備後護國神社
     〒720-0061 福山市丸之内 1-9-2 電話:084-922-1180
     例祭日:5/19・10/23
  • 廣島護國神社
     〒730-0011 広島市中区基町 21-2 電話:082-221-5590
     例祭日:4月7日に近い日曜日・10月22日に近い日曜日
  • 山口縣護國神社
     〒753-0015 山口市平野 2-2-1 電話:083-922-2027
     例祭日:4/29・11/3
  • 松江護國神社
     〒690-0887 松江市殿町 1-15 電話:0852-21-2454
     例祭日:10/23
  • 濱田護國神社
     〒697-0027 浜田市殿町 123-30 電話:0855-22-0674
     例祭日:4/12
  • 鳥取縣護國神社
     〒680-0001 鳥取市浜坂 1318-53 電話:0857-22-4428
     例祭日:4/22・9/22

【四国地方】4社

  • 徳島縣護國神社
     〒770-8021 徳島市雑賀町東開 21-1 電話:088-669-3090
     例祭日:11/2
  • 香川縣護國神社
     〒765-0013 善通寺市文京町 4-5-5 電話:0877-62-0048
     例祭日:5/5・11/5
  • 愛媛縣護國神社
     〒790-0824 松山市御幸 1-476 電話:089-925-2353
     例祭日:4/9~10・10/9~10
愛媛縣護國神社
  • 高知縣護國神社
     〒781-8126 高知市吸江 213 電話:088-882-2760
     例祭日:4/1~2・11/1~2

【九州地方・沖縄地方】8社

  • 福岡縣護國神社
     〒810-0044 福岡市中央区六本松 1-1-1 電話:092-741-2555
     例祭日:5/3~4・10月第2月曜日及びその前日
  • 佐賀縣護國神社
     〒840-0843 佐賀市川原町 8-15 電話:0952-23-3593
     例祭日:4/12~14・10/12~15
  • 大分縣護國神社
     〒870-0925 大分市大字牧 1371 電話:097-558-3096
     例祭日:4/8~9・10/8~9
  • 熊本縣護國神社
     〒860-0005 熊本市中央区宮内 3-1 電話:096-352-6353
     例祭日:4/2・10/10
  • 宮崎縣護國神社
     〒880-0053 宮崎市神宮 2-4-3 電話:0985-25-2719
     例祭日:4/10
  • 長崎縣護國神社
     〒852-8034 長崎市城栄町 41-67 電話:095-844-3221
     例祭日:4/22・10/26
  • 鹿児島縣護國神社
     〒890-0014 鹿児島市草牟田 2-60-7 電話:099-226-7030
     例祭日:4/13・10/13
  • 沖繩縣護國神社
     〒900-0026 那覇市奥武山町 44 電話:098-857-2798
     例祭日:4/23・10/23

終戦80年ポスター

知っていますか
 命をかけて私たちを
守ってくれた人たちのこと

あなたは知っていますか
私たちのために戦った人たちのこと

あなたは聞こえますか
私たちを守ってくれた人たちの声

あなたはわかりますか
私たちのために戦った人たちの思い

令和七年(二〇二五)は終戦より八十年目の年です
全国に五十二社鎮座する護國神社は
日本を守るために戦歿された
二百四十六万余柱のみやまをお祀りし
日々平和を祈念しています

令和七年は終戦八十年 全國護國神社會


靖國神社の新春初詣(令和7年)

あけましておめでとうございます。
靖國神社、正月朔日の初詣。

境内の様子などを、徒然に。

あまり、ここで私事は書かないことにしていますが。
2024年9月から12月までの4ヶ月間、仕事的なことではありますが、かつて経験がしたことない濃密で濃厚な大変革を迎え、それに全力で取り組み、ひとまずの区切りを迎えることができました。
そのためにプライベートの時間もなくなり、サイト更新も止め、すべての対外的な活動もなくなってしまいましたが、なんとかこうして2025年を迎えることができました。
いろいろなことがありましたが、こうして2025年の新年を迎えることができたのが感無量。

清々しい青空が、前向きにさせてくれます。

 我國の為をつくせる人々の
 名もむさし野にとむる玉垣

※2019年特別展にて写しを撮影

国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えるお社。

感謝と哀悼を。


正月限定の刺繍入り御朱印

冬季限定 大東亜戦争終戦八十年記念御朱印
冬の海を行く大和!

桜みくじ
大吉でした
「臆せずひるまず、自ら決めた目標に向けまっすぐに進むべし」
ちなみに、2024年は「凶」だったので、2025年は間違いなく上昇機運です!

ねがいかなう守、を。

祝枡

甘酒をいただいて、

樽酒をいただいて、の毎年恒例。

濃飛護國神社(大垣)

2024年6月に大垣に立ち寄る機会があったので、大垣城の護國神社を参拝してきました。
御英霊に感謝を。

時間の都合で、午前5時台という早朝参拝でした。
社務所開始前のために、御朱印などはいただけず。また再訪したいものです。


濃飛護國神社

大垣城址(大垣公園)に鎮座する。
岐阜県(主として西濃・飛騨地方)出身の戦没者1万8900余柱を祀る。

現在、岐阜県には主要な護國神社が3つ存在している。
「濃飛護國神社」「岐阜護國神社」「飛騨護國神社」

創立の順番
 1870年(明治3年)  大垣城内に大垣招魂社(後の濃飛護國神社)
 1909年(明治42年) 高山城址に飛騨招魂社(後の飛騨護國神社)
 1940年(昭和15年) 岐阜城金華山の麓に岐阜護國神社

1869年(明治2年)、旧大垣藩主・戸田氏共が戊辰戦争に参加した大垣藩士の戦死者54名を祀るため、大垣城下の操練場に仮招魂祠を創建したのに始まる。
1870年(明治3年)に大垣城内に「大垣招魂社」(後の濃飛護國神社)が創建。
1875年(明治8年)9月、国庫から毎年神饌、祭祀料、営繕費が支給されることになり、「官祭招魂社」(大垣招魂社)となった。

1939年(昭和14年)3月27日に官祭「濃飛招魂社」に改称し、次いで「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年3月15日内務省令第12號)による同年4月1日の官報告示を以って内務省指定の「濃飛護國神社」と改称した。
社殿造営工事中の1945年(昭和20年)7月29日、大垣空襲で本殿、拝殿、社務所を全焼。
現在の社殿は、1956年(昭和31年)4月に起工。1958年(昭和33年)4月21日に本殿が竣工し、翌1959年(昭和34年)に幣殿及び拝殿が竣工。

岐阜県内では、濃飛護國神社と岐阜護國神社が、内務省指定護國神社となっている。(飛騨護國神社は指定外護國神社)

濃飛護國神社
陸軍大将 林仙之書

社号標は、大日本傷痍軍人会大垣市分会による建立。
林仙之は、大日本傷痍軍人協会会長を勤めていた縁で揮毫。

参道

1965年(昭和40年)に、西濃運輸(現・セイノーホールディングス)創業者・田口利八が大鳥居を奉納。

1959年(昭和34年)に幣殿及び拝殿が竣工。

官祭招魂社
陸軍中将 上田太郎 謹書

濃飛護國神社になる前時代の社号標。
上田太郎は岐阜県出身。第19師団長などを歴任。

濃飛護國神社裏参道
天皇陛下皇后陛下御親拝記念

昭和40年に岐阜国体行啓にあわせて御親拝されている。

御本殿


神馬像(濃飛護國神社)

日露戦役満二十五週年記念

招魂社

天皇陛下 皇后陛下 行幸啓記念

昭和40年に岐阜国体行啓にあわせて御親拝


石灯籠(濃飛護國神社)

愛国婦人会安八郡幹事部
明治43年4月建之


忠魂顕彰之碑(濃飛護國神社)

忠魂顕彰之碑
戦さのため若くして異国の地に散られ給ひし御霊の華は 
郷土の幸を祈りて永久に美しく咲き給ふ
拝礼


傷痍之碑(濃飛護國神社)

傷痍之碑
日傷援護議員協議会々長 衆 議 院 議 員 武藤嘉文 書

平成元年3月吉日建之
財団法人岐阜県傷痍軍人会西濃支部


恒久平和之碑(濃飛護國神社)

恒久平和之碑
シベリヤ抑留者ダモイ会
 今川順夫書

平和記念碑建立の志
 昭和20年8月15日に、第二次世界大戦は漸く終戦を迎える事が出来た。しかしその当時旧満洲地区に居た約60万の日本軍将兵及び民間人は、直ちにソ連軍の支配下に入り、極寒のシベリア地区抑留の身となった。
 ラーゲル(収容所)生活では、粗末な服装と僅かな食糧を与えられただけで、冬は零下60度の寒さに耐え、夏はブヨとダニの猛襲に悩まされ、シベリアの雪の中での大木の伐採や、バム鉄道(第2シベリア鉄道)の路盤工事、炭坑での石炭堀等の重労働を強いられ、明日の命が誰一人として保証されなかった中で、男泣きに泣きながら歯を食いしばり唯ひたすら「何時かはダモイ」(日本へ帰る)皆でダモイ・ダモイを合言葉に、それを一つの盾とし、又大きな励みとして、一日も早いダモイに望をかけ、厳しい労働に耐え忍び、漸く生き伸びて帰還することが出来たのである。
 しかし中には飢餓と酷寒と重労働など、あまりにも生き地獄のような過酷な条件に耐え切れず、幾多の戦友がシベリアの地に散っていった。その数は6万とも10万ともいわれて居る。
 今思いを致せば当時のシベリアの悲惨さが、脳裏に深く焼き付き、改めて平和の尊さが偲ばれるのである。
 私達シベリア抑留者西濃地区ダモイ会会員一同は、これらの悲惨な戦争は二度としてはならないと心に誓い合い、永遠の人類平和のために此処に平和の碑を建立し、後世に残すものである。
 1991年(平成3年)8月9日
   大垣市・西濃地区ダモイ会  会長 今川順夫

此の恒久平和の碑は1945年、中国満州の地において終戦、日本に帰れると思ったら、ロシヤ軍によって強制連行され日本兵約60万人以上の人が極寒のシベリアの地において飢餓と、重労働に苦しみながら約6万人以上異国の土と化した。 明日の命がだれ一人として保証されなかったなかで、このような悲惨なことが二度とあってはならないと平和の誓いを込めてこの碑を建立しました。
   大垣西濃地区ダモイ会(ダモイとは帰る)
  「国の賠償に代わる労務提供者」として我々は抑留された。


大垣城址

大垣城は国宝に指定されていたが、昭和20年(1945年)7月29日の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失している。

※撮影:2024年6月


関連

岐阜護國神社