「千葉県」カテゴリーアーカイブ

「高ノ島と沖ノ島」館山の海軍戦跡散策・その6

館山散策の続き。
本記事は「その6」です。「その5」はこちらにて。


鷹之島弁天閣(館山海軍航空隊航空神社跡)

境内には、館山海軍航空隊のマークが取り付けられた手水盤がある。
もともとは、館山海軍航空隊の鎮護のために建立された「航空神社」に奉納されたもの。
高ノ島には、厳島神社が祀られていたが、海軍用地となり移転。
「航空神社」が創建し、昭和10年6月22日銘で手水盤が奉納されている。
「航空神社」は、戦後に破却され、厳島神社が昭和24年に復し鷹之島弁天閣となった。

高ノ島の厳島神社(弁財天)は平安時代中期の1092年に安房国司により勧進。
高ノ島は、大将12年(1923)の関東大震災による隆起で干潟となっている。

昭和十年六月二十二日

御社殿の手前に、手水盤


海軍兵器整備予備学生戦没者慰霊碑

鷹之島弁天閣境内。
戦没した海軍兵器整備予備学生を慰霊する。

海軍兵器整備予備学生戦没者慰霊碑

此処に刻せる戦没者名は昭和拾六年より昭和弐拾年に亘る第二次世界大戦の間 戦雲急を告げ全国の高等工業学校専門学校及び大学理工科系卒業後の若人等が 此の地館山洲ノ埼海軍航空隊に入隊し海軍兵器整備予備学生の教育訓練課程修業 期間を卒業し勇躍任務地に赴きしが武運に恵まれること無く国家の為散華せる 英霊を顕彰慰霊したるものなり
 
思い起こせば敗戦より四拾有余年遺憾交々去来す茲に兵器整備予備学生存命の同士等連携相集いて本碑建立せり
 平成弐年拾月

関東大震災の祈念碑もある。

大正地震祈念碑

場所

https://goo.gl/maps/iF5P9dvocghiAa5a8


沖ノ島

はい、季節を間違えました。
こういう場所は、閑散期に訪れるべきでした。大絶賛で繁忙期です。

さすがにカメラをぶら下げて、海水浴場を歩けないので、ここからはスマホに切り替え。

沖ノ島狙撃陣地跡

沖ノ島地下壕跡

まあ、冬に来ましょう、、、

場所

https://goo.gl/maps/Dtm9QZ7LpoLXD3ox9


第二海軍航空廠館山補給工場跡

海自館山基地の隣に残る大きな建物。
現在は民間企業が使用している。

外装がキレイになってますね。


米軍上陸の地

昭和20年9月2日降伏文書調印。 翌9月3日午前9時20分、米陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊戦闘団約3,500人(司令官カニンガム准将)が館山上陸。 この館山が米軍による本土初上陸の地なのだ。

米軍上陸の地
1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリの降伏文書調印式によって第二次大戦が終わった。翌3日、カニンガム准将の率いる米陸軍第8軍約3500名が館山海軍航空隊水上半滑走台から上陸した。東京湾の入口である軍都館山は、このとき本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。

案内看板が、だいぶ薄くなってますね、、、

https://goo.gl/maps/VJ6eXCJh1acqtnpB7

むかしは、この脇の通路を抜けて、「館山海軍航空隊水上班滑走台跡」なスリップ場にも行けたのですけど、いまは行けなくなりました。

場所

https://goo.gl/maps/Uoz2GHxs4eXHLf4B7

館山湾から、館山城を望む。館山城址には砲台もあった。

散策漏れ多数なので、館山は再訪必須ですね、、、

※2023年7月


関連

「退避壕と香掩体壕」館山の海軍戦跡散策・その5

館山散策の続き。
本記事は「その5」です。

「その4」はこちらにて。


蟹田川

洲ノ埼海軍航空隊と館山海軍航空隊が隣接するエリア。
蟹田川を境としている。
今も、蟹田川を挟んで、北側が「館山航空基地」。管制塔が目印。

用水路


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M583-25
1947年10月23日、米軍撮影の航空写真。

対象エリアを拡大。
ちなみにこの場所は、洲ノ埼海軍航空隊と館山海軍航空隊とどちらに属しているのだろうか。
左下が洲ノ埼海軍航空隊、右上が館山海軍航空隊にあたる。
蟹田川にかかる橋と、用水路の区割りから、館山海軍航空隊と連携しているような気もするが。


掲揚台

掲揚台跡。


退避壕(1つ目)

畑にいくつか退避壕が見える。この写真では3つ見えています。
ここを中心部に。

いまはいずれの退避壕も半分以上埋もれているために、中に入って退避するスペースはないですね。

まずは、1つ目。


退避壕(2つ目)

覗けました。


退避壕(3つ目)


基礎跡?

なにかの基礎?もしくは塀?の跡。
コンクリート礫の具合から、往時のものと思われるが。


退避壕(4つ目)

一番、東側に残存。民家の庭先、、、
管制塔との位置関係で東側となります。


退避壕(5つ目)

こちらは、西側に残存。
管制塔からの位置関係で西側とわかるかな。

退避壕(6つ目)

どうやら6つ目もあるらしいが見逃しました、、、再訪しないと、、、

場所

https://goo.gl/maps/12gj4ahRN7f7NC428


場所は変わって。。。

香掩体壕

所在地は、千葉県館山市香。香と書いて「コウヤツ」と読む。難しい。
「こうやつ」掩体壕。
中攻(中型攻撃機・陸上攻撃機/陸攻)用の掩体壕とされている。

私有地にあたるため、近寄ることはできない。
もっとも、掩体壕はの全面から水没しているので、どのみち近寄ることはできない。

下記写真の柵の右側に、掩体壕が開口して残っている。

敷地前は水没している。さらに樹木が多くて、全容は不明。

場所

https://goo.gl/maps/vAgE6tKLgWaiUv3HA

※撮影:2023年7月


「その6」へ

「洲ノ埼海軍航空隊と射撃場跡」館山の海軍戦跡散策・その4

館山散策の続き。
本記事は「その4」です。「その3」はこちらにて。


洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M583-25
1947年10月23日、米軍撮影の航空写真。

拡大、加工。

現在の様子。


洲ノ埼海軍航空隊射撃場跡

昭和18(1943)年につくられた洲ノ埼海軍航空隊は、飛行機を整備する兵隊を教育するための航空隊であった。
洲ノ埼海軍航空隊射撃場は、この前約100mの位置に、戦闘機をおいて、機銃の調整をおこなうための的として使われていた施設の跡。
射朶が5つ並んでいる。

毎回思うのですけど、こういうところは夏はだめですよ。冬にしましょう、、、

この奥に射撃場跡がある。

場所

https://goo.gl/maps/LGRGTwJ3vB4TVQiH7


洲ノ埼海軍航空隊の碑

館山海上技術学校の裏門近くに、洲ノ埼海軍航空隊の碑がある。

昔こゝに洲ノ崎海軍航空隊あり

隣家のワンコが吠え立ててくる。。。

海軍第六期兵器整備科予備練習教程修了 四十周年を記念してこれを建てる
 昭和五十九年甲子九月十五日  
  洲ノ空六期会
   題字 館山市長 半澤 良一

場所

https://goo.gl/maps/wJovD3zuXkDEE8du6


東京湾要塞第一区地帯標

正面:東京湾要塞第一区地帯標
裏面:海軍省
左側面:第一八号
右側面:昭和十六年七月三十日建設

どこかからか、移築された模様。

この「東京湾要塞第一区地帯標」の後ろの山は、洲ノ埼航空隊関連の砲台や監視所などがあるというが、いまは繁る山に登る季節ではないので、また今度。

※撮影:2023年7月

洲ノ埼海軍航空隊は、ほかにも防火水槽跡とかあるけど、やっぱり見逃し。再訪します。。。。

「その5」へ

「赤山地下壕と宮城掩体壕」館山の海軍戦跡散策・その3

先日、「海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2023」で館山を訪れ、改めて館山の戦跡を散策したくなった私は、翌週にも館山を訪れ、いくつか気になっているところを散策してみました。

しかし、館山はいろいろありすぎる。見逃しが多すぎることが判明しているので、きっとまた行きます。。。

一部は、下記と重複します。

その2は、海自館山航空基地


館山駅

館山駅前のヤシの木は館山砲術学校正面にあったものを戦後に移植。
館山駅東口のロータリーに植えられているヤシの木が、「館山砲術学校」から移植されたものという。

西口にもヤシの木はある。

この日は、レンタサイクルで館山を移動

レンタサイクルの機動力に感謝。(また館山に行ったら使います)


赤山地下壕跡

赤山地下壕は2回目。真夏に冷を求めるのにちょうどよい。

立ち寄ってみる。

(入り口にある海軍止水弁の写真撮り忘れた、、、)

後世に伝えていきたい館山の戦争遺跡
赤山地下壕跡
東京湾の入り口にある館山は、かつて首都・東京を守る軍事的な要衝で、旧陸海軍の様々な施設が置かれていました。その中でも全長1.6kmにもなる赤山地下壕は、館山を代表する戦争遺跡です。本土決戦に向け、終戦の日まで壕の掘削が行われていたといわれています。今でもツルハシの跡が鮮やかに残っており、人の手を感じ取ることができます。赤山地下壕の吸い込まれるような美しい地層の中で、何を思って過ごしていたのでしょうね。

だいたいわかるw

館山市指定史跡 館山海軍航空隊 
赤山地下壕跡
平成17年1月27日指定
 1930(昭和5)年、海軍5番目の実戦航空部隊として、館山海軍航空隊がつくられました。それから、1945(昭和20)年の終戦までの間、館山市香(こうやつ)から沼(ぬま)にかけての一帯には、航空機の修理部品の補給などをおこなった第2海軍航空廠館山補給工場、食料・衣服・燃料などを補給した横須賀軍需部館山支庫関係の施設や、1943(昭和18)年に兵器整備の練習航空隊として開かれた洲ノ崎海軍航空隊など、さまざまな軍事施設がつくられました。
 東京湾の入り口にあることから、館山市には、海軍の施設だけではなく陸軍の砲台や、教育機関(洲ノ崎海軍航空隊、館山海軍砲術学校)など、いろいろな種類の戦争遺跡が残されています。
 このような場所は、わが国のなかでも例が少ないといわれていますが、この赤山地下壕は、合計した長さが約1.6㎞と全国的にみても大きな地下壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
 つくられた時期は、はっきりしていませんが、このような大きな地下壕が、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前につくられた例はないといわれています。
 その一方で、昭和10年代のはじめに建設が始まったという証言もありますが、当時の軍部が本格的に防空壕をつくり始めたのは、1942(昭和17)年より後であるという歴史的な事実があります。
 全国各地につくられた大規模な地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10~20m以上(長野市松代大本営の象山壕は25mであるとされていますが、この赤山地下壕は5~10mと狭い上、計画的に掘られたとは考えにくい、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後にけんせつされたのではないかと考えられています。
 アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは内部にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行ったという体験や、病院の施設があったなどの証言から、知ることができます。
 平成15年 館山市・館山市教育委員会

入壕

自力発電所跡
 この一角は、壁面がコンクリートで補強され、コンクリートの土台や、床面の鉄筋が残っています。発電所があったところで、昭和20年2月に、航空隊の正門前の変電所から移転して使用されていたということです。4気筒200馬力のディーゼルエンジンが2台、発電機が2台、変圧器が9個あったそうです。

このクボミは?その1
 変電所電気員の待機所です。右側の浅いクボミには2段式のベットがあったそうで、10人くらいが交代勤務していたとか。空襲で爆弾の振動があると、天井の土がサラサラと落ちてきたそうです。
 壕内には科(職種)ごとの居住区があったらしく、木の棚のベットがあったそうです。

このクボミは?その2
 この縦長のクボミには、電話番が腰掛けて勤務をしていたそうで、中段左右の突起にコードを巻いていたということです。左隣の窪みはトイレで、桶がおいてあったそうです。

この壕はどうのように使われたのだろう
 防衛庁防衛研究所に「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」という図面があります。太平洋戦争末期につくられたこの図面をみると、赤山地下壕跡の位置には、「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所」と記されています。天井が高い壕は、格納庫として使われたのかもしれません。

応急治療所跡
このあたりに病院施設があったという証言が聞かれます。金属の2段ベッドがあり、軽い患者が治療対象だったようです。被弾した兵士も治療をうけていたそうですが、重症者は横須賀海軍病院で治療を受けたということです。

戦後の赤山地下壕跡
 終戦後は「忘れられた存在」になっていましたが、温度が年中一定していることから、昭和30年前後頃より、キノコ栽培に使われていました。国内の他の戦争遺跡にも、戦後しばらくキノコ栽培に使われた地下壕跡があります。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどは、そのときに設置されたものです。

外が見える。

このクボミは?その3
 この部屋はがんルームとよばれていたという証言があります。少尉クラスの士官たちの部屋だったようです。奥の四角く切った大きなクボミは御真影を安置した奉安殿で、桧の板張りだったそうです。空襲のときに航空隊から御真影を移したということで、少尉クラスの士官の役割でした。

奉安殿の棚。

場所:

https://goo.gl/maps/NdvFCLhPsVeuKDM68

外へ。

赤山のみち
長い時を越えて館山の歴史を伝える
地層・隆起海岸
房総半島南部の海岸沿いは、隆起したことによる海岸段丘と海食崖が帯状に分布しています。
また、沼地区には県指定天然記念物の沼サンゴ層があります。この地層や化石から見て、縄文時代は海水面が高く、谷の奥まで広がっていたことがわかります。房総半島南部は自然に海岸線が後退しただけではなく、度々の地震によって土地の隆起が繰り返され、4つの海岸段丘が形成されました。現在もその痕跡を見ることができます。

中からもみた、外側の開口部ですね。

場所:

https://goo.gl/maps/LbepPiBj3F17JbGn8


宮城掩体壕

忘れてはいけない戦争の名残
掩体壕
東京湾入口にある館山は、かつて首都・東京を守る軍事的な要衝でした。関東大震災による隆起で、海岸線から沖ノ島と高ノ島の間が浅瀬となり、そこを埋め立てて館山海軍航空基地が設置されました。敵機から戦闘機を守るための格納庫を掩体壕といい、戦争末期に学生や住民、兵士達によって多数造られました。かつては赤山周辺だけでも10基余りありましたが、現存するのは1基のみです。この1基はここの近くにあるので、ぜひ探してみてください。

掩体壕の見学も2回目。ここの掩体壕はキレイ。

非常にきれいな内部。

奥が赤山。

場所

https://goo.gl/maps/8hmHZYry31zuUzFMA

※撮影:2023年7月


「その4」へ

「たてやま海まちフェスタ2023」船内見学会(館山)

2023年7月23日、たてやま海まちフェスタ2023が、海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2023と連動して開催されておりましたので、あわせて船内見学などを。

海自と海保と国交省の船。


水中処分母船YDT-03(海上自衛隊)

水中処分母船1号型。
YDT-03 水中処分母船3号、前畑造船で2001年3月に竣工。
横須賀水中処分隊に所属。

水中処分母船を見学するのは初めて。


PC57巡視艇たかたき(海上保安庁)

千葉海上保安部所属。
よど型巡視艇の7番艇。新潟造船。2013年2月15日就役。

神棚をみると、つい撮影してしまいます。

高滝神社は、船名の由来として理解できるが、寒川神社はなぜ?
第三管区の本部が横浜、だから?


清掃兼油回収船べいくりん(国交省)

国土交通省 関東地方整備局 千葉港湾事務所

https://www.pa.ktr.mlit.go.jp/chiba/bayclean/specs/index.html

2022年3月に就役したばかりの新造船。双胴船。ジャパン マリンユナイテッド製造。
海洋環境整備船。

神棚。熊野神社。どこの熊野さんだろう?


館山港耐震岸壁

今回の船舶一般公開の会場。海上自衛隊館山航空基地の近く。
館山城の山もよく見える。

航行中の海保ふさかぜ
(千葉海上保安部館山分室所属CL179巡視艇ふさかぜ)
体験航海

館山城と、船内公開の3隻。

※撮影:2023年7月


関連

「海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2023」館山の海軍戦跡散策・その2

海上自衛隊 館山航空基地。
2023年7月23日に、館山航空基地開隊70周年(Since1953)として「ヘリコプターフェスティバル in TATEYAMA 2023」イベントが開催された。

せっかくなので、館山に行ってみました。


館山海軍航空隊(館空)

昭和5年(1930)に館山海軍航空隊(館空)開隊。海軍航空隊としては5番目。
(横須賀・佐世保・霞ヶ浦・大村・館山)
横須賀海軍航空隊(横空)の実戦部隊が館山に移動することで「横空」は研究航空隊に特化。
昭和9年(1934)に最新鋭の中型陸上攻撃機(中攻)が開発され、館山に配備。館山ーサイパン島間2220Kmの無着陸飛行に成功している。
昭和11年に木更津海軍航空隊(木空)が開隊すると、「木空」が外戦作戦任務を担当し、「館空」は内戦作戦部隊となる。
館山の房総特有の西風を強く受ける滑走路の環境は、航空母艦の短い甲板から飛び立つ訓練に最適であり、「陸の空母」として機動部隊のパイロット養成が行われた。
開戦後の1944年(昭和19年)に、東日本の哨戒航空隊を統合した「第九〇三海軍航空隊」が館山を中心に展開され、対潜哨戒機が配備され広大な哨戒区域をカバーする事となる。

洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M583-25
1947年10月23日、米軍撮影の航空写真。

拡大、加工。

現在の様子。


海上自衛隊館山航空基地

戦後、海上保安庁海上警備隊が保安庁警備隊に改編。
1953年(昭和28年)8月、館山海軍航空隊跡地にベル型ヘリコプターが配備されて操縦訓練を開始。同年9月館山航空隊が開設。海上航空再興の第一歩として、海上自衛隊航空部隊の発祥の地ともなった。

現在は、第21航空群司令部が所在し、護衛艦艦載ヘリコプター部隊、哨戒ヘリSH-60J・SH-60Kと救難ヘリUH-60Jを運用する航空基基地となっている。


本部庁舎・号令台

数年前まで残っていた館山海軍航空隊本部庁舎は、2015年に解体され、新しい庁舎が新築された。本部庁舎と号令台、練兵場の位置関係は海軍時代と海自時代で、かわっていない。

号令台。

今回、立ち入り可能な場所が制限されており、本部庁舎周辺に近寄ることは叶わなかった。


燃料庫

管制塔

展望回廊の見学

鷹の島の方向

エプロン

沖ノ島の方向

西側

北側

東側

東南側

眺望が良いときは富士山も見えるという。


教育史料館

どうやら、基地内を再整備した際に、史料館が移設され縮小したようで。展示物に旧軍関連が皆無となっており、、、

※旧軍関係は2階にありました

第21航空群公式キャラクター
ろくまる

本部庁舎の写真

解体前の庁舎、号令台が写る。

館山航空基地の年表

南極の氷

しらせ飛行科


基地内の散策

基地内を散策。。。歩ける場所が少ない。。。
旧軍遺構っぽいものもない。。。

案内図が古い。
本部庁舎のちかくの「3」に史料館が記載あるが、史料館は別の場所に移転。かつての史料館は兵舎流用であったが、

礎石
 慶長年間、江戸城外壕の石垣用として海路仙台から24個の大石を千石船に積んで江戸に運ぶ途中暴風に遭い鷹の島の島陰にのがれたが不幸にも大浪に呑まれて沈没してしまった。昭和5年、旧海軍館山航空隊創設の際海中から引揚げられたもので皇居外壕にものと同じといわれている。
残余の石は当隊庁舎の礎石並びに鷹の島弁天の手洗石に設置されている。
 敷石は南鳥島(マーカス)の珊瑚砂である。

格納庫(第1はない、、、)

車庫


SH‐60K 飛行展示

海上自衛隊の主力ヘリであるSH-60Kによるフライト展示。

救難展示

着陸後、専用の洗浄エリアに。

洋上飛行したヘリに付着した塩分をシャワーで洗浄。
これをすることにより塩分起因のサビなどを防止し機体寿命を伸ばすことは可能。

水浴び

炎天下でみるヘリのシャワーは気持ち良い。

洗浄終了!


飲食

とりあえず、たてやま海自カレーを。

味が違うというので食べ比べ。

あと、炎天下でかなり危険なので、体内冷却を。

台湾マンゴー。すぐ溶けた、、、


保存機

2024年にすべて撤去解体されました

立入禁止エリアにある、記念碑の見学ができなかったのが残念。
 悠久之碑
 海軍航空写真分隊記念之碑
 海上航空再興之地
 海軍中攻隊之碑
 海軍落下傘部隊発祥の地
上記の記念碑があるというが。
次の公開日に拝見できるといいな、、、と。

館山の海軍戦跡はまだまだ豊富なので、どうやら足繁く通うことになりそう。。。

※撮影:2023年7月


関連

日露戦勝記念の「砲弾狛犬」(館山・長須賀の熊野神社)

以前、横浜と川崎の砲弾狛犬を特集した。その続き。

日露戦勝記念の「砲弾狛犬」(横浜・川崎)

先日、館山に赴いた際に、宿題となっていた館山の砲弾狛犬にも会ってきたので、写真を掲載。


長須賀の熊野神社「砲弾狛犬」(館山市)

千葉県館山市長須賀406に鎮座する狛犬。
前足を砲弾に乗せていますね。

明治34年(1904)から明治35年にかけて日本とロシアの間で勃発した日露戦争での戦勝記念で建立奉納されたもの。
神社において伝統的であった「狛犬」が、近代の熱狂の中で、砲弾を抱え始めたという、ひとつの時代の象徴的な姿、でもある。

椎実型砲弾を前足で抑えつけている。

銘がないため詳細じは不詳だが、大正8年(1919年)に奉納されたものという。

こちらは球型砲弾といって良いのか?

熊野神社
長須賀熊野神社の創建年代等は不詳。
明治社格制定に際しては村社に列格。

拝殿前は、普通の狛犬。

こちらは昭和17年の奉納。

※撮影:2023年7月


砲弾狛犬5社

神奈川県横浜市南区山王町5-32
 お三の宮日枝神社

神奈川県横浜市中区本牧原29-18
 吾妻神社

神奈川県川崎市中原区下小田中1-2-8
 大戸神社

神奈川県川崎市川崎区大島3ー4ー8
 八幡神社

千葉県館山市長須賀406
 熊野神社

【解体】下志津陸軍飛行学校の移築格納庫(旧千葉公園体育館)

「千葉公園体育館」は、1946年から始まった千葉市の戦災復興都市計画事業の一環として計画された千葉公園整備計画の中に組み込まれて建設が決定。
1956年に県営の体育館として竣工し、72年、千葉市に移管された。
2023年に新しい体育館が竣工し、「旧千葉公園体育館」は老朽化により廃止となり、解体されることとなった。

従来、気球連隊の格納庫が移設?ともいわれていたが、日本戦跡協会様の調査により、下志津陸軍飛行場の移築格納庫と判明した。

日本戦跡協会>千葉公園体育館が下志津飛行場の格納庫と判明

https://www.sensouiseki.com/single-post/%E5%8D%83%E8%91%89%E5%85%AC%E5%9C%92%E4%BD%93%E8%82%B2%E9%A4%A8%E3%81%8C%E4%B8%8B%E5%BF%97%E6%B4%A5%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4%E3%81%AE%E6%A0%BC%E7%B4%8D%E5%BA%AB%E3%81%A8%E5%88%A4%E6%98%8E

2023年8月15日に、解体前の最後の一般公開(お別れ会)が行われるが、8月15日に訪れることができないので、外観だけでもチラ見をしてきました。


旧千葉公園体育館

千葉市>千葉公園

https://www.city.chiba.jp/toshi/koenryokuchi/kanri/chuo-mihama/documents/kaitaikoji.pdf

旧千葉公園体育館解体前見学会
令和5年8月15日(火)10時~15時
主催:千葉市
協力:千葉市近現代を知る会、日本戦跡協会


位置関係

日本戦跡協会様の調査を踏まえて、往時の航空写真と照合をしてみる。
下志津陸軍飛行学校界隈。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R535-64
1947年11月12日、米軍撮影の航空写真を加工。

ファイル:USA-M76-22
1955年1月25日、米軍撮影の航空写真を加工。

1947年11月12日、格納庫部分を拡大。

1955年1月25日、格納庫部分を拡大。
たしかに、最南端の格納庫が1棟なくなってますね。

ファイル:USA-M316-81
1956年2月8日の千葉公園界隈の航空写真。
1956年に竣工した体育館が、どうみても「格納庫」感にあふれていますね。。。


下志津陸軍飛行学校

以下にて。

今回は、外観だけの散策でしたが、ささやかな記録として。
※撮影:2023年8月


関連

軍都佐倉の戦跡散策・その2(佐倉陸軍墓地跡と歴博)

千葉県佐倉市。佐倉市を代表する「佐倉城址」は、佐倉城址公園や国立歴史民俗博物館などとなっているが、戦前は「佐倉聯隊」(歩兵第2聯隊・歩兵第57聯隊)の兵営地であった。

佐倉は、行こう行こうと思って2022年5月に戦跡散策を実施、そこで時間切れや散策漏れなどがいろいろあって2023年1月に再訪。写真が夏だったり冬だったりするのは、そのためです。
特に一日で、佐倉城址の散策と、歴博の見学を一気にやろうとしてはダメです。
歴博だけで、真面目に見学すると、歴史好きなら一日を消費します。

本記事は、「その2」となります。
その2では、佐倉城址以外の話題を軸にします。

その1は、こちらにて


忠霊塔(佐倉陸軍墓地跡)

佐倉市役所の駐車場奥に忠霊塔がある。
この場所が、かつての佐倉陸軍墓地であるという。

忠霊塔
ここには、過去の戦争による戦没者の遺骨・遺品が安置され、一万有余の御霊が祀られております。
 印旛郡市町・八千代市
  遺族会

平和之礎

合掌

佐倉霊園

傷痍軍人 顕彰碑

昭和36年1月 印旛地区傷痍軍人会 建立

佐倉市役所

場所

https://goo.gl/maps/Cw4Pgvb4ZTsaFAJ29


児玉源太郎旧宅跡

往時の土塁と生垣が残る。
佐倉藩の上中級の武家屋敷があつまっていたエリア。

この地には、佐倉連隊長の借家がありました。児玉源太郎(後の大将)は、佐倉歩兵第2連隊長として、1880(明治13年)から1885(明治18)年までこの地に住んでいました。
佐倉において中佐から大佐へ昇進しています。陸軍の演習において、児玉が佐倉歩兵第2連隊長として佐倉の兵を率い、乃木希典(後の大将)率いる東京の第1連隊を奇襲によって破ったというエプソードは大変有名です。江戸時代から続く土塁と生垣は、児玉の借家の時代にも存在しており、往時の面影を今に伝えています。

※児玉源太郎 嘉永5(1852)年~明治39(1906)年
旧陸軍軍人。箱館戦争、佐賀の乱へ従軍後、明治9(1876)年には神風連の乱を鎮圧する。台湾総督を勤める。日露戦争(明治37(1904)年~明治38(1905))全体の戦略を立案した人物である。実際の戦闘指揮だけでなく、戦費の調達、アメリカの仲立による講和の画策、帝政ロシアへの革命工作などを行っている。戦争遂行に己のすべてを注ぎ込んだためか、日露戦争終戦後しばらくして亡くなっている。

場所

https://goo.gl/maps/27BjD7DJKYVvEPat7


成徳書院跡

佐倉市民体育館の近く。かつて佐倉上大手門あったあたり。

佐倉藩校があった。

場所

https://goo.gl/maps/KQ7DYFspwptuLNP29


西村勝三翁像

銅像があるなと思って、近寄ってみましたら「西村勝三さん」でした。
「明治の工業の父」「製靴業の祖」
佐倉でした、そういえば。

以下も参照

西村勝三翁の業績
 この地を下った所には、曽て佐倉藩の士魂を磨いた「成徳書院」の武道場があった。
その武道場を、断乎改造して、製靴の業を教えたのが、西村茂樹(1828~1902)・勝三(1836~1907)の兄弟である。
大塚岩次郎(大塚製靴創始者)もここでその業を習った一人であった。
時に明治4年7月であり、この月には「廃藩置県令」が出されている。
佐倉藩の士族授産行政は、この様にまさに間髪を入れぬ素早さと、先見に富んだ大胆なものであった。
茂樹は当時佐倉藩大参事であり、勝三はその前年3月15日日本初の製靴工場を築地入船町5丁目1番地に建てていた。
 父西村芳郁は、成徳書院の前身「温故堂」の頭取となり、又支藩佐野藩への附家老も勤めた有能の士で、母楽子は、佐倉藩士荒井宗輝の長女であった。
 勝三は初め佐野藩の禄を喰んだが、安政3年(1856)脱藩し、その後武士も捨てて、佐野の豪商正田利右衛門と横浜に出て貿易に従事した。
やがて明治2年(1869)大村益次郎から製靴をすすめられ、弟の綾部平輔と製革製靴事業創始を決意して断髪した。
断髪令に先立つこと2年であり、この決意に感動して、高見順は「日本の靴」を著したほどである。
 勝三翁の創業は「伊勢勝製靴場」といったが、その後「桜組」と改称、更に大同合併して皮革は「日本皮革株式会社」、靴は「日本製靴株式会社」として今日の大をなす源となった。
 翁は又、正田利右衛門から製鉛法の研究を託され、それが耐火煉瓦の研究となり、明治8年「伊勢勝白煉瓦製造所」に結実し、之が後「品川白煉瓦株式会社」となり、今日の盛業を見るに至った。
本碑及び像周辺の煉瓦は、特に寄贈された同社製の耐火煉瓦である。
 翁は又、ガス・ガラス・靴下・洋服等々の事業も手がけ、夫々の業界の先達と仰がれている。
 この様に勝三翁の生涯は、日本工業の創業の苦闘の歴史そのものであった。
 翁の無二の理解者であり、且つ最大の協力者であった渋沢栄一は「西村翁はいつも国益を優先し、自己の利害を顧みず、百難を排して日本の工業を創始した。」と、その士魂商才の面目を絶賛している。

場所

https://goo.gl/maps/kqth9g9kFWquEtSs7


浜野昇と済生病院

佐倉の藩医の出身であった浜野昇。陸軍軍医として西南戦争に従軍したのちに、佐倉で市立病院を開業。第一回衆議院委員選挙で全国唯一の医学士・医師としての初めての衆議院議員であった。

場所

https://goo.gl/maps/DnXxbnnvrTBc2o6g8


国立歴史民俗博物館

言わずとしれた「歴博」。歴史を俯瞰的に見ると充実しすぎて1日あっても足りませんし、見どころ多数ですし、原始宗教としての民俗史として見るべきものも多数ですが、佐倉の連隊、佐倉の陸軍に関する展示もありますので、ここも足を運んでおくべきかと。歴博、やばいですね、好きです。

近現代。
(民俗学のコーナーもありますし、歴史学だって時系列にそった展示は興味深く、全部紹介したいぐらいではありますが、逸脱してしまうので、ここでは、それ以外は省略します。。。)

佐倉兵営

忠霊塔の建設要領
中身が気になります。。。

B29ですね。

横浜の赤レンガの模型も

国産第一号機関車の話。

昭和の街並み再現も。

場所

https://goo.gl/maps/8riCuYwbTwnXv9wf6

佐倉城址に点在する戦跡は「その1」にて。

※撮影:2022年5月及び2023年1月


軍都佐倉の戦跡散策・その1(歩兵第二聯隊佐倉兵営跡地散策)

千葉県佐倉市。佐倉市を代表する「佐倉城址」は、佐倉城址公園や国立歴史民俗博物館などとなっているが、戦前は「佐倉聯隊」(歩兵第2聯隊・歩兵第57聯隊)の兵営地であった。

佐倉は、行こう行こうと思って2022年5月に戦跡散策を実施、そこで時間切れや散策漏れなどがいろいろあって2023年1月に再訪。写真が夏だったり冬だったりするのは、そのためです。
特に一日で、佐倉城址の散策と、歴博の見学を一気にやろうとしてはダメです。
歴博だけで、真面目に見学すると、歴史好きなら一日を消費します。

本記事は、「その1」となります。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1828-72
1948年9月26日、米軍撮影の航空写真を加工。

上記から佐倉城址界隈を切り抜きし、画像を回転。
本丸を上にしてみる。

下図は佐倉連隊跡関連位置図。
上記の航空写真と位置合わせ。

みてのとおり、「佐倉連隊跡関連位置図」という便利な案内看板が随所にあります。戦跡散策も快適ですね。


佐倉連隊案内図

これは、歴博の入口正面、愛宕坂の下に。

明治7年、日本最初の軍隊歩兵第二連隊が佐倉に駐屯し、多くの部隊が編成・訓練され、西南戦争、日清・日露戦争にこの地から出生されました。明治42年には、第二連隊にかわって歩兵第五七連隊が移転し、昭和19年のフィリピン戦で多くの命が失われ、壊滅しました。


佐倉兵営跡の碑

散策順は、番号順ではなく。
なぜなら、佐倉城の大手門から、入城したので、番号順に散策するのが困難だったのです。番号は、歴博からの順路、ですね。

佐倉兵営跡の碑
佐倉市城址公園自由広場の南側にある。昭和41年に建立、現在地に移ったのは歴博建設後。題字は連隊長をつとめた今村均陸軍大将の書。

今村均は、陸士19期、陸大27期首席。最終階級は陸軍大将。
1932年4月、佐倉の歩兵第57連隊長を拝命している。
開戦時は、蘭印作戦を指揮。
昭和17年意向は、ラバウルの第八方面軍司令官として陸軍を統率し、海軍の草鹿任一中将以下の南東方面艦隊と共に、終戦まで孤立する中でラバウルを維持している。

佐倉兵営跡
 元聯隊長 今村均謹書

歴代聯隊長名(23代目まで)が、裏面に刻まれています。
今村均は、第17代聯隊長。

歩兵第二聯隊長佐倉兵営全図
「佐倉兵営跡の記念碑」は昭和41年に旧佐倉57連隊本部跡付近に設置されたものです。
国立歴史民俗博物館が明治100年記念事業として建設されるにあたり昭和51年5月ここに移設しました。

皇紀二千六百年奉祝記念

桜 壱百本
躑躅 参拾本

明治天皇御駐蹕記念碑
 陸軍大臣 林銑十郎 敬書

背面は、削られていました。。。

 こゝは、旧佐倉城二乃丸の入口で連隊になってからは、この前後に連隊本部及び兵舎十数棟があった。佐倉城は土井利勝が、徳川家康の命により、元和3年(1617年)完成以後延享3年(1746年)以来堀田氏の所領したものであるが、明治6年ごろ(1813年)建造物はすべて取りこわされた。同7年歩兵第2連隊がおかれた。後、明治42年第1師団歩兵第57連隊となり、以来昭和20年(1945年)8月15日まで、千葉県一円を徴兵区と定められ、名実共に房総健児練武乃地であった。
 この間、西南、日清、日露、欧洲大戦、関東大震災、日支事変、大東亜戦争と数多く乃国難におもむき常に師団最強の部隊として郷土の信頼にこたえた。
 本連隊乃主力は、昭和11年乃2.26事件以来満洲に移駐し、同19年7月まで、孫呉において、ソ満国境の警備に当たったが、同年11月フィリッピン乃レイテ島に転進し、宮内連隊長の下、物量を誇る米軍と50日にわたり激戦し玉砕した。こ乃内第3大隊はグアム島において奮戦した。
 別に第57連隊を母胎として動員編成された歩兵第157連隊は、昭和12年9月より福井部隊(後に南部、赤松)として上海に上陸、大場鎮、杭州、廬山、修水、南昌、高安、江南の中支戦線において活躍し、又別に歩兵第212連隊は、山口(信)部隊として昭和14年4月より中国山東省、山西省において房総健児の勇名を輝かせた。
 このたび連隊関係有志相語らい、軍旗の下に祖国乃ため散華せられた方ゝ乃御めい福を祈り兵営跡が永久の平和公園としてよみがえる事を祈念し佐倉連隊乃いわれを伝えるものである。
 昭和41年10月吉祥日

皇太子殿下御野立所

明治44年5月21日

大将5年5月21日建設

ちかくに空堀

場所

https://goo.gl/maps/JCHfCL8VCDuxjxj19


車道の碑

車道の碑
大正9年建立。兵営と大手門とを直通させる新道の完成記念碑。連隊への物資搬入のため、佐倉城時代の不便を解消しました。

第1師団経理部員の名前が刻まれていた。
大正9年8月の銘あり。

場所

https://goo.gl/maps/JzzfBtg1UqF4wJEy7


旧佐倉連隊脂油庫

旧佐倉連隊脂油庫
旧陸軍(歩兵第五十七連隊等通称佐倉連隊)が小銃、機関銃等の手入れ用の油を保管していた倉庫です。
この倉庫は、昭和9(1934)年発行の「営内配置図」においてその存在を確認することができます。昭和20(1945)年の終戦まで使用されていたと推定されます。
佐倉連隊のうち歩兵第57連隊は、その一部が昭和19(1944)年8月にグアム島にて壊滅(玉砕)しました。また主隊は、同年11月のフィリピンレイテ戦でその大部分を失い、セブ島にて終戦を迎えました。
佐倉連隊の戦争遺構として大変貴重です。
※油脂庫ともいいますが、、「営内配置図」においては『脂油庫』と記載されております。

場所

https://goo.gl/maps/hWzbZwHMVHTx4TdW9


弾薬庫の跡

弾薬庫の跡
姥が池西側坂道を登った奥の窪地にあった。万一の爆発に備えた土手や建物に使われたコンクリートの一部が残されています。

場所

https://goo.gl/maps/UK2ru9Xboejt5RTo6


姥が池

佐倉城址に古くある池。伝説も多く残っている。


訓練用の12階段

訓練用の12階段
兵士が高所からの飛び下り訓練に使用したコンクリート製の階段。木製の飛び下り台と違い、壊すのが大変なため、戦後も残ったと考えられます。

場所

https://goo.gl/maps/uYanydKxvTkJ4Uyx9


軍犬・軍馬の墓

軍犬・軍馬の墓
軍曹安藤一能が建てた軍犬房号之墓(昭和7年)、近衛歩兵第五連隊第二機銃隊が建てた軍馬北盤之墓(昭和18年)が並んで立つ。連隊の敷地内には、犬舎・鳩舎・厩舎がありました。

場所

https://goo.gl/maps/DHHZSfCMVinQWkLE6


佐倉陸軍病院跡

佐倉陸軍病院跡
創設は明治7年。佐倉屯営病室・佐倉営所病院・佐倉衛戍病院・佐倉陸軍病院と名称が変遷した。昭和40年代までテラスを配した洋風病棟が残っていました。

場所

https://goo.gl/maps/eZ3zguDiqA1ijDf27


東京鎮台佐倉営所病院跡の碑
(東京鎮台佐倉営所病院記念碑)

明治・大正・昭和・平成の
 四世に亘る
  佐倉醫のこころ 
   茲に遺す 
    仁の心を腎に

病院・療養所の変遷
明治 7年 5月 
 東京鎮台佐倉営所病院として創設される
明治20年11月
 佐倉衛戍病院となる
昭和11年11月
 佐倉陸軍病院となる
昭和20年 8月
 軍事保護院佐倉病院となる
昭和20年12月
 国立佐倉病院となる
昭和25年 4月
 国立療養所佐倉病院となる
昭和28年 4月
 国立佐倉療養所となる
昭和52年 4月
 腎不全対策の基幹施設 
 腎移植センターとして機能付与される
昭和54年 4月
 国立佐倉病院となる
 江原台に移転する
平成16年 3月
 国立病院・療養所再編計画により
 国立千葉東病院に経営統合される

記念碑の建立に際して
 この地には、かつて病院が存在しておりました。当時の建物は、国立歴史民俗博物館の建設に伴いすべて解体され、元の敷地に残る樹木にのみ往時を偲ぶことができます。
 この病院は、戦前戦後の百年余りにわたり、国策や社会動向と密接不離に変転し続ける舞台となり、その軌跡は今も多くの人々の記憶に刻まれています。
 私たちは、佐倉城跡に連綿と息づいた病院の歴史を将来に語り継ぐ為、多くの方々のご支援をいただき記念碑を建立致しました。
 平成19年3月
  東京鎮台佐倉営所病院記念碑建立事業実行委員会建之

病院時代の往時を偲びし樹木。

場所

https://goo.gl/maps/E5uXPwtkyDFJxkFC9


佐倉城の礎石(兵舎の礎石)

あたりまえですが佐倉城の史跡もあります。

佐倉上の礎石
 昭和59、60年(1984、1985)国立歴史民俗博物館の研究棟を建設するために、同敷地を発掘調査し、旧陸軍の営所跡を検出した。
 兵舎跡の基礎には、大量の石が詰めてあったが、主柱の建つ位置には佐倉城の礎石を埋め込んでいた。
 佐倉上は、江戸時代初期の元和年間(1610年代)に土井利勝がこの地に築いた城である。明治時代初期(1873)に同じ場所に陸軍の営所をおく際に、佐倉城の建物は取り壊し、その基礎を兵舎の基礎に転用したのである。

場所

https://goo.gl/maps/w2tKMjtfpZgwpCad8


兵士が文字を彫り込んだモッコク

兵士が文字を彫り込んだモッコク
本丸跡にある県指定天然記念物。幹に「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが掘られています。

あっ、わかりますね。

「昭十八年十月」「砲隊」って、いまでも刻んだ跡が残っています。

場所

https://goo.gl/maps/xoxBfQqQYisVqYsx6


佐倉城天守跡

場所:

https://goo.gl/maps/kEgemPL2LBB3X9g59


土塁

場所

https://goo.gl/maps/C9Coo6mMyDkNE1Gn7


兵営の便所跡

兵営の便所跡
雨天休憩所近くに土台のみが残る。江原新田では連隊と契約し、下肥・馬糞の払い下げを受け、汚物掃除を担当していました。

これは、良い感じに、残ってますね。

往時は、なかったであろう樹木も、戦後七十年以上ともなれば、コンクリートを破壊する根力でもって、存在感をアピール。

樹木の力って凄いなを実感。。

ここは、良いですね。写真を撮り続けてしまいます。

場所

https://goo.gl/maps/d2jRzP7Dkivfnp9L8


佐倉城馬出跡

場所

https://goo.gl/maps/hoabJzFtnN9LMrZz8


椎木曲輪(侍屋敷)【兵舎跡】

椎木曲輪(侍屋敷)
 歴博があるのは「椎木曲輪」と呼ばれる侍屋敷地区で、連隊時代は兵舎がありまいsた。歴博駐車場も侍屋敷の跡で、外側には「杉坂」と呼ばれる坂や秋葉神社がありました。


円勝寺跡・愛宕神社跡

円勝寺跡・愛宕神社跡
 円勝寺は城内にあった真言宗の寺院でしたが、明治の廃仏毀釈で消滅しました。奥には愛宕神社があり、田町の氏神でもありましたが、連隊建設後は立ち入りが禁止されたため、移転しました。

場所

https://goo.gl/maps/8x6kXFbi4VvpUCw39


衛兵所跡

衛兵所跡
 ここに常に衛兵が立ち、連隊に出入りする者を監視していました。

場所

https://goo.gl/maps/rRdXy23TxMVGNmBd6


田町門跡・愛宕坂

田町門跡・愛宕坂
 成田街道に沿った城下町の一部「田町」から城内への門で、門の裏手に番所がありました。現在歴博のある場所は椎木曲輪と呼ばれ武家屋敷がありました。田町から現ザウ歴博のある椎木曲輪へ上がる坂は、愛宕神社の下にあるため「愛宕坂」と呼ばれていました。現在の歴博入口は連隊建設の際にまっすぐに出入りできるよう変更されたものです。

歴博正面

佐倉連隊跡&佐倉城址&歴博、これは面白い良いですよ。戦跡散策の入門編としてもおすすめ。

※撮影:2022年5月及び2023年1月


関連

第二連隊は、水戸に。。。

佐倉界隈

「下志津駐屯地・高射学校 観桜開放」下志津陸軍飛行学校跡地散策(2023)

かつて「下志津原」と呼ばれていた平坦な土地には、佐倉藩の射撃場から発展した陸軍の射撃場が広がり、そして「陸軍砲兵射的学校」があった。

そして、共同訓練を行っていた「下志津陸軍飛行学校」もあった。

陸軍砲兵射的学校は、のちに四街道に移動し、「陸軍野戦砲兵学校」となる。

そして、下志津原を活用すべく近くには、航空学校が開設される。
「下志津陸軍飛行学校」では、射撃観測などで、砲兵との連動訓練などを実施することもあり、「陸軍野戦砲兵学校(野砲兵校)」が近くにあることは多くのメリットがあった。


下志津陸軍飛行学校

主に空中偵察に関する各種の教育と研究を行った陸軍の学校。

明治45年(1912)に、日本陸軍は飛行機操縦者の教育を国内で本格的に開始する。
当時は、国内唯一の航空関係部隊であった所沢の飛行試験場の気球隊での教育から始まった。
大正4年(1915)に常設部隊として所沢に「航空大隊」が創設。

大正8年、「陸軍航空学校」が所沢に開設。フォール大佐を長とするフランス航空団が航空教育を指導。
航空偵察観測は、砲兵との連携が重視されたために、陸軍野戦砲兵学校と下志津陸軍演習場にて航空教育を実施。
大正10年(1921)4月、「陸軍航空学校」は、所沢を本校に、空中偵察訓練がすでに実施されていた「千葉の下志津」に分校を設置。
陸軍航空学校下志津分校」が開設される。

「下志津分校」は砲兵の連携に最適な環境ではあったが、所沢の陸軍航空学校本校とは離れており、本校分校との連携には難儀があった。
大正13年(1924)5月、陸軍航空学校が再編となり、「所沢陸軍飛行学校」、「下志津陸軍飛行学校」(偵察等)、「明野陸軍飛行学校」(空中戦闘等)の3校が設立された。

昭和11年(1936)に、下志津陸軍飛行学校銚子分教場を設置。

銚子の戦跡散策

昭和13年(1938)7月、「水戸陸軍飛行学校」が新設され、通信関連の教育や幹部候補生教育は、水戸に移管となった。

昭和16年(1941)3月に、下志津陸軍飛行学校八街分教所を設置。
昭和19年(1944)には、広島市の吉島にも分教所が設置されていた。

下志津教導飛行師団

戦局の悪化とともに、下志津陸軍飛行学校も教育機関から防空戦闘機関に移行となり、教育と作戦行動が並行するようになり、昭和19年6月に下志津陸軍飛行学校は閉鎖。下志津教導飛行師団に改編となった。

昭和20年7月には、下志津教導飛行師団は教育部隊と作戦部隊の分離改編がおこなわれ、教育部隊は「教導飛行師団 第5教導飛行隊」となった。そして作戦部隊として「教導飛行師団 第1・第2独立飛行隊」が編成された。
昭和20年8月15日、終戦。

陸上自衛隊下志津駐屯地(陸上自衛隊高射学校)

昭和30年(1955)、陸上自衛隊下志津駐屯地が開設。陸上自衛隊高射学校も設置されている。
下志津駐屯地司令は、高射学校長が兼任している。


下志津陸軍飛行学校の遺構

※移築格納庫 解体済み

格納庫と便所


下志津陸軍飛行学校跡地散策

下志津駐屯地の観桜一般公開がありましたので、足を運んできました。
良い感じに桜が満開です。かなりの雨でしたが。。。

下志津陸軍飛行学校の歩哨舎(門柱)

平成23年に正門改修工事が行われている門柱(手前)。
かつては下志津陸軍飛行学校の「歩哨舎」であった。
歩哨舎の外観を生かして、内部空間を塞いで、近年に「門柱」としたようだ。

陸上自衛隊 下志津駐屯地

高射学校

駐屯地観桜開放のお知らせ

雨天中止しなくて良かったです!

桜散策コースガイド

正門から右側のみ見学可能。「桜メイン」の開放ですから。
左側にも行きたかったが。

いくつか記念碑が集まっています。

下志津陸軍飛行学校跡碑

下志津陸軍飛行学校跡

菅原道大 の揮毫
昭和41年5月建立

菅原道大は、水戸つばさの塔も揮毫していました。

下志津陸軍飛行学校跡碑の裏面

下志津は所沢明野と共に陸軍航空揺籃の三大基地であった
大正8年偵察観測班創設以来分校より下志津飛行学校〇〇成長し大東亜戦争熾烈化に伴い教育師団となり次で第五教育飛行隊の基地として終戦を迎えたこの間二十有六年教育せし学生総数実に四千五百九十四名の多きに達するの功績を遺した
 昭和四十一年五月
  第八代校長 菅原道大

菅原道大は、陸軍中将。
大正14年(1925年)に菅原は陸軍航空科へ転科し航空少佐として飛行第6聯隊に着任。
昭和6年(1931年)、「下志津陸軍飛行学校教官
昭和14年12月に、「下志津陸軍飛行学校長」
昭和16年(1941年)、開戦時は第3飛行集団長。マレー作戦の航空作戦を指揮。
昭和17年7月、新設された第3航空軍司令官に着任。ビルマ航空戦を指揮。
昭和18年5月、内地に帰還し陸軍航空士官学校長に着任。
昭和19年3月、航空総監部次長。7月には、航空総監兼航空本部長を拝命。12月、第6航空軍司令官。沖縄方面の航空作戦の責任者として、海軍の戦艦大和の菊水作戦の支援や、指揮下の義烈空挺隊の義号作戦の指揮を執ることとなる。
昭和20年8月15日、終戦。
海軍の九州方面の航空責任者であった宇垣纏が沖縄に特攻出撃する中で、陸軍の九州方面の航空責任者であった菅原のもとにも部下たちが最後の特攻出撃を申し出る中で、「陛下の終戦玉音を拝聴した後は、余は一人の兵士も殺すわけにはゆかぬ。皆、おとなしく帰れ」と部下を諭している。
海軍側の宇垣纏中将、大西瀧治郎中将が亡き後、陸軍側の責任者とて、自決することを断念し、特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決意。
「特攻平和観音奉賛会」を設立し、「特攻平和観音像」「知覧特攻平和観音像」「知覧特攻観音堂」を建立している。

古河内貞一先生碑

陸上防空の慈父
古河内貞一先生碑

FATHER OF ELPASO

古河内貞一は、戦前に海外で活躍した医師。メキシコ国境に近い米国テキサス州エルパソに1924年に医院を開業し、戦前戦後を通じ、民間領事といわれるほど日、墨米人間に絶大な信頼があり慈父と慕われた人物。

古河内先生略歴
明治20年 千葉市寒川町に生まる
大正12年 渡米 テキサス州率医科大学にて研修
大正13年 テキサス州エルパソ市において開業 爾来市民に広く仁愛の恵を施し市民慕いて慈父と敬う
昭和30年 以降留学自衛隊員の誘致指導に尽力
昭和35年 日米親善の功績により日本政府から勲四等瑞宝章を受く
昭和35年 産業発展等の功により大日本農会から緑白綬章を受く
御高徳を讃え昭和40年7月これを建つ

第一ロケット実験訓練隊記念之碑ほか

第一ロケット実験訓練隊記念之碑

第一ロケット実験訓練隊は、防空装備近代化の一環として昭和34年12月に新設。昭和43年夏に高射学校の改編に伴い廃止。
石碑は廃止となった昭和43年8月の建立。

8H編合記念
第309射撃中隊
 昭和51年8月1日

記念
第123特科大隊

第123特科大隊は、昭和34年創設、昭和45年廃止。

広報史料館

広報史料館

入れませんでしたが、非常に興味深いものが入口の前に展示してありました。

三式12糎高射砲

三式12糎高射砲
 三式12cm高射砲は、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)にアメリカのB29爆撃機に対抗するために高度10,000mまで届く高射砲として量産化され、約120門製造された。
 本高射砲は、当時陸軍の対空兵器として多大な期待がかけられ、試作から量産までを担当した㈱日本製鋼所の功績は高く評価された。
 その後、本高射砲の出現によりB29爆撃機が更に高高度を飛行するようになり、陸軍はそれに対抗して15cm高射砲の開発に着手することとなった。
 本砲身は、2008年1月横浜市・子安台公園で横浜環状北線の土壌調査中に出土したものであり、現存する唯一の方針である。

前面

背面

99式8糎高射砲

由来書
 「京阪地区」昭和3年から軍官民の総合防空訓練を定期的に行うなど平素から防空について関心が高かったが昭和16年11月中部防空旅団が編成完結し以来、質、量ともに増強され第2次大戦末期には高射第3師団が展開配置されていた。
 この高射砲は発見された一(神戸市生田区)から見て神戸地区の防空に任じていた。
 高射砲第12連隊又は高射砲第123連隊の主力火砲であり99式8糎高射砲12門中の1門であると推定される。

25ミリ機関砲

25ミリ機関砲
 この機関砲は、第2次世界大戦の末期(20.4.1~20.6.23)沖縄本島の防衛に当たったものである。
 沖縄首里西方真嘉比、安里、天久台地区及び大名方面等で活躍し、特に天久台地区の激戦で一角を固守する独立第2大隊機関砲第103大隊(大隊長 苧坂清治少佐 千葉で編成 19.7.20 第62師団に編入)は、よく奮戦し沖縄の防衛に活躍した大隊装備の25ミリ機関砲の一門である。
 この機関砲は沖縄首里東側の大名附近で発見したもので昭和48年8月 第101不発弾処理隊によって発掘したものである。

この砲身は、なんだろう?

野外展示。こちらは陸自時代ですね。

75mm高射砲(M51)

40mm自走高射機関砲(M42)

35mm2連装高射機関砲(L-90)

地対空誘導弾改良ホーク

下志津のつつじ

毎年、4月29日に下志津駐屯地創設記念行事「つつじ祭り」が開催。

右が桜の開放エリア。

左は立入禁止。。。

グランドの隅に。

天皇の松

天皇の松

天皇の松の由来
この松は今上天皇が皇太子当時大正11年五月旧下志津飛行学校の開校式に行啓の際将校集会所の前庭(現位置より東百米)に記念植樹された由緒ある松であり昭和49年2月11日に移植し「天皇の松」と命名し末永く保存することになったものである。
 昭和54年10月吉日

グランド

通信鉄塔

通信鉄塔がシンボルになってますね。

高射学校本部庁舎

理想を持て
勇気を持て
前進せよ
 昭和42年6月
 福富繁書

福富繁
陸軍としては、陸大56期、陸軍少佐で第28軍参謀。
戦後は、陸将、第4代の陸上自衛隊高射学校長。


下志津駐屯地の観桜開放

ここからは観桜を。写真で。

医務室

下志津厚生センター(体育館)
トイレと売店はこちら

迷彩の真価を発揮する溶け込み具合。

立ち入りできないエリアも多く、古そうな建物観察とかはできませんでした。

通信鉄塔と桜

雨がすごかったので、人出はまばら。
逆にゆっくり見学できたのは良かったですね。
4月29日の「つつじ祭り」にも足を運びたいと思いつつ。

撮影:2023年3月25日


上田中坑道陣地(速射砲防御陣地)跡の散策(東金市田中・法光寺)

東金市の寶珠山法光寺。
寺院墓地の裏山に、かつて速射砲陣地があった。

砲室から外を望む。


法光寺

東金市田中鎮座。日蓮宗寶珠山法光寺。
江戸時代に完成した灌漑用貯水池である雄蛇ヶ池の近くに鎮座。

法光寺の裏山に、速射砲陣地があった。

本堂は、令和元年の房総半島台風により全壊し、その後、再建された。

場所

https://goo.gl/maps/RKvSkJT7goNLSN6R8


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-109
1947年2月22日、米軍撮影の航空写真。一部加工。

上記を拡大加工。
ちょうど、上田中の谷間を貫く国道126号が、外房から内房にアクセスする幹線道路であることがわかる。東金台地の南端に、御殿山観測所を設け、後背地には東金拠点陣地群が展開。
そして、西に御蛇ヶ池を控える独立した丘陵である上田中速射砲陣地が、東の大豆谷と北の由井と連携することで、上陸してくる戦車部隊に対する強力な防御陣地であった。しかし、敵中に取り残され後退場所がない上田中の陣地は、そのまま全滅することも予想に固くない。


上田中坑道陣地(上田中速射砲防御陣地)

陸軍は本土防衛・首都防衛をするに際し、連合軍の上陸地点として、相模灘・九十九里浜を予測していた。
九十九里浜には、砂浜には蛸壺陣地、丘陵地帯には洞窟陣地を構築し、迎撃体制を整えるなかで、この東金上田中は、近衛歩兵第10連隊独立速射砲中隊が工事を請け負い、独立第二四速射砲中隊の四七ミリ速射砲が配備される計画になっていた。


上田中坑道陣地(上田中速射砲防御陣地)跡を法光寺墓地から

上田中坑道陣地(上田中速射砲防御陣地)を墓地から見学してみる。

すでにいくつかの横穴がありますね。

ブロック塀で塞いである横穴も。


上田中坑道陣地(上田中速射砲防御陣地)跡を坑道内から

戦後も、上田中の洞窟陣地の坑道は一部が残存。現在も墓地の端の方に、一箇所だけ開口している箇所がある。法光寺の庫裡に見学を申し入れれば快諾していただける。

それでは、洞窟陣地、見学してみます。

懐中電灯は必要。見学用には整備されていないので、洞窟内には灯りはない。

「カメ(甕)」が落ちてました。昔は便器で甕が使用されていたけど、違うよね、きっと後世、、、

振り返り。

おや、昔は甕は便器とか言っていたら、今度はほんとに便器だし。

突き当り。弾薬庫かな。

瓶がたくさん。

全体的に砂っぽい洞窟。細かい砂が積もっている。

47mm速射砲砲室。上田中で唯一完成した砲室。

冷蔵庫がある。

竹が生えている。

洞窟に生える竹、なかなかの生命力。

砲室から外に出てみた。もうひとつ開口部があった。

祠もあった。

隣の開口部は倉庫みたい。どこにもつながっていない。

もとの砲室から、洞窟内に戻る。(砲室の外は民家に裏に繋げっている模様)。

左側に進む。

明かりが見える。

表は、さっきの墓地ですね。

中に戻る。

これも弾薬庫かな。

こっちは土砂が流入している。埋まってますね。

外の灯りが見えます。
開口部砲室になるはずの部分。こっちは作りかけ。

竹に覆われている。

スタート地点に戻ってきました。

そんなに広くはないけど、なかなかおもしろい空間だったため、気がつけば20分くらい散策してました。

法光寺の裏山。速射砲陣地を攻勢側の目線でみるとこんな感じ。実際にはこの山を左手に進軍することになるので、側面射撃を食らうイメージ。


大豆谷坑道陣地?

ちなみにバス停(台方一丁目)の近くも、穴がありました。
もしかしたら、上田中と相対する位置関係で連動していた大豆谷坑道陣地に関連する開口部かもしれませんが、遠望のみで。

場所

https://goo.gl/maps/kwsiDa4B3feaD46F6


東金駅

行きは東金駅から歩きました。ちょっと後悔する距離感。
帰りは近くのバス停(台方一丁目)から東金駅に戻ってきました。千葉と東金と成東を結んでいる路線バスが、1時間に1本前後走っているので、状況によっては、東金駅でJR東金線を使用するよりも、バスのほうがアクセス事情が良好かも。
まあ、そもそも公共交通機関で赴くのは不利ですが。

東金駅は歴史が古く、開業は明治33年(1900)。

かつて東金駅から九十九里浜の片貝駅までを結んでいた九十九里鉄道は大正11年(1922)開業、昭和36年(1961)に鉄道を廃止しバス事業に専念。
太平洋戦争中は、ガソリンの入手が困難な中で、気動車の燃料を沿線地域の片貝付近の地下で採取した天然ガスで動くように改造して代用することによって運行を継続という逸話を持つ。

東金界隈は、御殿山観測所のリベンジもありますし、東金飛行場跡(豊成飛行場跡)もありますんで、また再訪します。

※撮影:2023年2月


関連

八鶴湖周辺の近代史跡散策(東金市)

千葉県東金市。
東金から上総一ノ宮の外房地区、すなわち九十九里浜は、米軍上陸に備え、本土防衛のために展開した近衛第3師団の陣地構築が盛んに行われた場所。戦跡も豊富にある。今回は東金の八鶴湖周辺にある戦跡を散策しようとしたが、結果として、目的地に立ち入りできなかったので、再訪が必須となってしまいました。本記事は「封鎖されてますよ!」という、今(2023年2月現在)の状況報告も兼ねています。


東金御殿山観測所跡・防空壕跡

東金城のあった御殿山には「観測所」や「防空壕」があった。

しかし、現在は立入禁止。東金城址に入れないと、砲台観測所跡にもいけない、、、

東金市指定文化財 東金城址
※東金城址は現在、令和元年台風15号の影響により、史跡内の見学はできません。ご了承ください。

東金市(https://www.city.togane.chiba.jp/0000000463.html

現在、東金城址は倒木の影響により立ち入り禁止となっています。今後の立ち入りの再開は未定となっています。ご理解ご協力をお願いします。

東金市観光協会(https://www.toganekanko.jp/2021/11/7611/

入り口は固く閉じられている。
物理的に門の脇から強行突破できそうな雰囲気はあるが、もちろんそんなことはしない。いつの日か、再開されることを願い、引き返す。

令和元年房総半島台風(2019)の倒木の影響で東金城址は立入禁止となっております。

東金城址、東金御殿。
九十九里平野の中心都市であった東金。戦国時代は東金城、そして江戸時代には徳川家康の鷹狩り場として、東金御殿が設けられていた。
船橋から東金までの直線が、いまも「御成街道」として残っているのも、その名残。

東金高校の脇から。

東金城址碑


八鶴湖

徳川家康が東金御殿を築造した際に、拡張した人口の御殿池。東金御成街道の終点。


八鶴湖畔の慰霊碑群

湖畔にはいくつかの慰霊碑が集まっている。

忠勇の碑

旧山辺郡出身者444名と旧武射郡出身者282名の従軍記念碑。明治29年9月建立。

忠魂碑

旧東金村出身の日露戦争の戦没者46柱を祀る。
川村景明書。日露戦争時の陸軍大将・鴨緑江軍司令官。
大正11年11月建立。

大東亜戦争 旧東金町出身の戦没者の碑

満州事変から太平洋戦争までの英霊276柱を祀る。
昭和27年4月建立。


八鶴亭

明治期創業の旅館。関東大震災後の大正から昭和初期にかけて建てられた建造物が国指定重要文化財となっている。
2006年に旅館としては経営破綻し、現在は日本料理屋として生まれ変わっている。

本館

浴室棟

新館

ビリヤード棟


千葉県立東金高校

徳川家康の千葉御殿の跡地にある。
千葉県第二の高等女学校であった東金高等女学校が前身。

明治45年の東金高等女学校時代の作法室と正門画残る。

はい、東金城址にはリベンジしないと、です。。。

※撮影:2023年2月


関連

日立航空機大網地下工場跡地の散策(大網白里市)

千葉県大網白里市。
この地にかつて日立航空機の疎開工場があった。

大網駅から小湊バスで「宮谷」へ。このあたりは文字通り「谷」が多いが、再開発で切り開かれている。このバスの終点は、「みどりが丘車庫」。土地区画整理事業により、大規模な土地基盤整備が行われた。それに伴い、大規模な道路も切り開かれ、戦時下の地下工場跡もだいぶ消失している。
ちなみに「宮谷」は「みやざく」と読む。


日立航空機千葉工場大網地下工場

日立航空機株式会社は、昭和14年(1939)5月に、日立製作所から分離独立。
1941年(昭和16年)1月から終戦までの間に航空機(練習機)4機種1,783機とエンジン14機種13,571基を製造。

日立航空機千葉工場は、昭和10年(1935年)に、海軍航空本部長であった山本五十六の航空産業拡大要求に応じて建設された」工場。蘇我の埋立地で昭和17年(1942年)に操業開始。昭和19年に空襲回避の疎開として、大網に大規模な地下工場を建設。工事進捗40%で終戦を迎えた。
日立航空機千葉工場は、千葉空襲(昭和20年6月10日及び7月7日)で攻撃を受けたが、工作機械は大網に疎開が進んでいたために、生産能力への影響は軽微であった。


日立航空機大網地下工場・第1工場跡

宮谷の谷戸に開口部がある。周辺は谷の地名が多く「宮谷」「名谷」「安楽寺谷」「真行谷」「相ノ谷」「門ノ谷」などがあり、大網地下工場は、広域に4箇所に分かれて展開されていた。

第1地下工場の北側に開口部と解説板がある。

戦蹟 日立航空機大網地下工場跡
 日立航空機(株)千葉製作所大網工場の建設工事は、昭和19年12月頃に開始された。その背景には、第二次世界大戦で日本の戦局が悪化し、10月に千葉市にあった同工場が空襲を避けて、大網に疎開計画を立てたことに始まる。
 施設は、地下・半地下の二種類あり、地下工場は海抜30~70m程の笠森層に造られた幅4m、高さ4mの蒲鉾[かまぼこ]型の施設で、五か所の工場に分けられ総延長3kmであった。半地下工場(伏土[ふくど]工場)は、間口10m、奥行き20~30mで厚板を五重六重に張り、土砂で覆い、芝や草を植え擬装した。実際に三十数箇所の施設が確認されていたが、残念ながら現存していない。『米国戦略爆撃調査報告書』には、「本格的に製造が開始されると日本でも優れた工場の一つになったであろう」「地下・半地下工場共に各二箇所が稼働していた」ときさいされている。この施設では、海軍零式戦闘訓練機(機体)と発動機(航空エンジン)の部品が生産された。
 工場の建設は、軍・日立航及び大林組の三者により厳しい統制下で行われた。軍の設営隊や社員・工員の他に婦人会や大網国民学校(現大網小学校)の児童までがもっこ担ぎ等の勤労奉仕に従事した。特に工場建設のために雇用された数百人におよぶ朝鮮人の強制労働によって行われていた。
 戦時における我が国は、アジア諸国やその他の人々に甚大な禍害を加え、自らも多大な被害を被ったことを決して忘れてはならない。
 戦争という悲惨な行為を二度と繰り返すことの内容「地球は一つ」「生命の尊厳」更に「恒久平和」への願いを込め、この戦蹟説明板を設置した次第である。
 二〇〇〇年八月
  日朝友好大網白里町民の会
  大網白里町教育委員会
  ※文章・団体名は看板作成当時のまま

1992年の調査。

場所

https://goo.gl/maps/Cu7acvAPRza9bCeK7

日立航空機大網地下工場(第1工場)の左の開口部。
奥は土砂で塞がれており、水が溜まっていた。

日立航空機大網地下工場(第1工場)の中央の開口部は、足元がぬかるんでおり、普通の靴では侵入が困難なために断念。

日立航空機大網地下工場(第1工場)の右の開口部は竹やぶの奥に。
同じく、水没。


日立航空機大網地下工場・第2工場跡

宮谷八幡神社。この下には、日立航空機大網地下工場(第2工場)があった。
開口部のひとつは民家の裏。未確認。

宮谷八幡神社が谷の上に鎮座。

神社の裏山に穴があった。
非常に高いところに穴が開いているが、どうなっているのだろうか。

本國寺の北側にも開口部がある。

遠目でもわかる開口部。フェンスが目印。

わかりにくいが、やっぱり水没。


造成により失われた日立航空機大網地下工場の跡地

大規模開発で、谷戸は切り開かれ、直線的な道路が伸びる。
そうして地下工場の遺構も多くは失われてしまった。

宅地造成された、みどりが丘のニュータウン方面に伸びる道路。

このあたりは、第5工場があったらしいが、何もない。

第1工場跡の南側は、道路で切り開かれなにもない。前述した通り、北側の開口部のみが残っている。

敷地の北側にあたる第3工場と第4工場があったあたりは、みどりが丘ニュータウンの宅地造成で失われた。


地下工場の近くにある「本國寺」は、かつては県庁でもあった。

宮谷県庁跡

明治新政府が、新治世として旧天領には府県を置き知事・県令を任命。その際に「宮谷県」が誕生。当地に県庁が置かれた。

明治元年(1868年)7月、明治新政府から安房上総知県事として久留米藩士柴山典が任命され、同年12月宮谷の本國寺に知県事役所を設置。
翌年2月に宮谷県が誕生し、その管轄地は藩領を除く幕領・旗本領(天領)で、旧安房、上総を中心として、下総、茨城県の一部までにおよんでいた。
明治4年11月、第1次府県統合で安房・上総全域が新たに木更津県に統合され、宮谷県は廃止された。

場所

https://goo.gl/maps/ro18upvM44THaMoS7

https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p411-018.html


大網駅までは、約1.5キロ、歩いて20分くらい。せっかくなので、旧大網駅跡に寄り道しながら、駅に戻ることにする。

旧大網駅

明治29年(1896)に開業した大網駅は、開業時は今よりも東側にあった。現在地に移転したのが昭和47年(1972)。この移転により、外房線は大網駅でのスイッチバックが解消された。
現在、旧大網駅地は、簡易的な公園とJR東日本大網保線技術センターとなっている。

線路の北側の空き地。かつてはここまで側線が伸びており、転車台があったという。現在は特に何もない空き地。

線路は東金線。

場所

https://goo.gl/maps/s5DrY1Kwm29tiQg76

そして線路に沿って歩けば、旧大網駅跡地がある。
旧大網駅跡地は、ちょっとした公園として整備されている。
日立航空機大網地下工場の最寄り駅でもある。

場所

https://goo.gl/maps/ZNLeeth5yrrwitHk6

駅跡を偲ぶように、腕木式信号機があった。

大網の人々は、この場所で出生していく家族を見送ったのだ。

旗ふりて
 出征兵士を見送りし
駅舎の跡に
 子らの歓声
  大塚喜一

鎮魂・平和を祈りて
 2004年秋
  町民有志建立

ホームの跡。

なんとなくホームがあった名残を感じることができる。

西側から、かつての大網駅があった方向を望む。
JR東日本大網保線技術センター関連の車両が停車している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M1209-42
1948年10月31日、米軍撮影の航空写真。一部加工。

Google航空写真。みどりが丘の造成がわかりやすい。

※撮影:2023年2月


関連

「成東駅空襲(成東駅爆発惨事)」(山武市)

千葉県山武市。
交通の要衝である成東駅は総武本線と東金線の乗換駅。
終戦2日前の昭和20年8月13日、米軍グラマン機による機銃掃射で、成東駅に停車していた火薬搭載の貨車が炎上。そして成東駅は爆破爆発、42名の殉職者をだす惨事となった。

成東駅空襲

昭和20年8月13日午前11時40分頃。九十九久里浜方面から飛来した米軍グラマン機数機が。成東駅下りホームに停車していた軍用列車(6両編成)に向けて、機銃掃射を反復。
6両編成の軍用列車は、高射砲4門と2両に火薬が搭載されていた。火薬車両から煙が立ち込めたために、駅職員、兵士が消火活動に務めたが、火勢が衰えることなく、午後11時58分に大爆発が発生。成東駅舎、ホーム、線路、上りホームの客車などが爆発した。
消火活動にあたっていた、成東駅の長谷川駅長以下、10代の女子3名や男子5名を含む15名の駅職員、消火活動に駆け付けた近衛第三師団近衛歩兵第八連隊範第三八二四部隊などの兵士27名の合計42名が殉職した。


「礎」の碑


日本国有鉄道総裁 十河信二

昭和20年8月13日11時50分米グラマン機の機銃掃射により成東駅停留中の弾薬積載貨車誘発、鉄道職員15名将兵27名瞬時にして散華し平和の礎と化す
 昭和32年8月13日建之

礎について
 昭和二十年八月十三日、敵機グラマンの攻撃を受け、成東駅構内下り一番線に停車中の軍弾薬積載貨車は十一時四十分火煙を発した。之を認めた国鉄職員十五名、将兵二十七名は、被害を最小限に止めようと機を失せず身を挺して貨車の隔離消火に努め、一方乗客及び町民を避難させたが、必死の検討も空しく十一時五十八分弾薬は遂に爆発して全員悉く壮烈な戦死を遂げ、平和の礎と化しました。
 昭和三十二年八月、十三回忌に当り、その功績をたたえ町民並びに鉄道職員を初め多数の方々の御支援によって茲に礎の碑を建立せられました。

建立は、昭和32年8月13日に日本国有鉄道職員有志の手による。

合掌

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/chiba_sammu_city001/index.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M85-A-5VV-92
1946年3月26日、米軍撮影の航空写真。一部加工。
成東駅周辺、空襲で焼失していることがわかる。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M724-1-193
1948年1月8日、米軍撮影の航空写真。一部加工。
1947年(昭和22年)に成東駅は再建。一説に旧海軍の香取航空基地の飛行機格納庫を転用したという。
(ただし真偽不詳)

Google航空写真でみる限りでは、成東駅舎の雰囲気は、1947年当時から変わらない。


成東駅

昭和20年8月13日の空襲で爆発した成東駅舎は昭和22年(1947)に再建された。2008年にリニューアルが施され、レンガ造りのファサードが追加されている。
一説には、「旧海軍の香取航空基地の飛行機格納庫を転用」したものともいうが、真偽は不詳。なお、銚子駅も同じく空襲焼失し、「旧海軍の香取航空基地の飛行機格納庫を転用」されたが、すでに解体済み。

銚子駅に比べると、成東駅はかなり小さい。
戦後の旧軍の倉庫転用と考えると、たしかにそんな感じもある。


「魁」の碑

上総・下総の地に総武線の敷設を推進した安井理民の顕彰碑。
安井 理民(やすい はるたみ)
安政6年3月3日(1859年4月5日) – 明治27年(1894年)2月16日)。
上総国(現在の千葉県)の成東下町(現・山武市)の人物。総武本線の前身である総武鉄道設立に関わった。
その後、1897年(明治30年)5月1日に佐倉と成東間が、同年6月1日に成東と銚子間がそれぞれ開通し、安井の遺志は今日に至るまで総武本線として


 わが両総の地に世に魁(さきがけ)て鉄道敷設の狼煙をあげ生涯をこの事業に捧げた人は実にわが成東町の先覚安井理民氏である
氏は安政六年(1859年)三月わが町の素封安井家に生まれ二十才で既に戸長として町政を担った青年戸長の夢は常に大きかった
やがて県下に鉄道を敷き交通運輸の便を計り郷土の一大発展を図ろうとの大理想を抱き明治十九年決然立ってその運動にはいった  
まず東京神田に創立事務所 を設け本町の塚本正脩氏を事務長に推し相扶け相謀り各地の有力者を歴訪しては参加を需め或は各種資料の調査研究に或は請願に或は資金集めに東奔西走の日々 が続いたかくて爾後七年有餘の血みどろの活動は遂に家産を傾けあまつさえ病を得て再び起たず明治二十七年二月十六日可惜奮闘の生涯を閉じた享年三十有六才
しかしその事業は後人に受継がれ明治三十年六月佐倉銚子間の開通を最後に両総を縦断する総武鉄道全線の完成を見るに至り氏の点じた灯の光は皎々と輝き 亘ったのである
 わが町は茲に記念碑を建て以て永く氏の功績を称えんとするものである
  昭和四十六年二月十六日
         成東町

大正12.10


成東駅殉難者之墓

法高山本行寺。
終戦2日前の昭和20年8月13日に、成東駅で爆死された駅職員15名の慰霊碑。昭和32年に建立。平成17年に基壇改修。

成東駅殉難者之墓

線香台には、動輪のレリーフがある。

成東駅前にも動輪がありましたね。

法高山本行寺。

境内の慰霊碑。

戦争受難碑

境内の左手に陸軍技手の墓があった。
墓標は、石井四郎の謹書。石井四郎といえば、関東軍防疫給水部(通称731部隊)、ですね。そういえば、石井四郎の出身は、千葉県山武郡芝山町なので近いです。

場所

https://goo.gl/maps/xcnRSSpZv6Upxxtu6


元倡寺の慰霊碑

元倡寺境内には、成東駅空襲で殉職した将兵の慰霊碑があるというが、見つけられなかった。墓苑を上から下までも何巡もしてみたが、見つからず、でした。もしご存知の方がいましたらお教えいただければ幸いです。

忠霊碑はかろうじて見つけた。こちらも枯れ枝の奥に埋もれていて、パッと見では気が付かない慰霊碑。

忠霊

場所

https://goo.gl/maps/w9KnuJnQB5kZYuJx5

※撮影:2023年2月


関連

「日本砲兵揺籃の地」陸軍野戦砲兵学校射場跡地の散策(佐倉市下志津原)

千葉県佐倉市と四街道市の間に広がる、平坦な土地は、「下志津原」と呼ばれ、陸軍の射撃場があった。往時の名残は格別にはないが、記念碑が建立されているので、足を運んでみた。


日本砲兵揺籃の地

京成ユーカリが丘駅の南約3キロ、京成勝田台駅とJR四街道駅の中間に、記念碑はあった。
ユーカリが丘駅から歩くと35分程度。バスもあるが、本数が少ないので、調整が必要。
周辺は建材屋や畑が広がる。

日本砲兵揺籃の地
 陸軍大将 藤江恵輔

藤江恵輔
陸軍大将正三位勲一等功二級(士候18 陸大26)
昭和9年に陸軍少将時代に四街道にあった陸軍野戦砲兵学校幹事(教育部長)を務めている。
昭和12年に陸軍中将として、第16師団長や陸軍大学校長を務め、昭和16年に西部軍司令官として開戦を迎えている。昭和18年2月に陸軍大将に昇進。東部軍司令官や第12方面軍司令官兼東部軍管区司令官を歴任し、昭和20年3月31日に予備役。
昭和20年6月に召集を受け、第11方面軍司令官兼東北軍管区司令官として、終戦を迎えた。

日本砲兵揺籃の地(碑裏面)
佐倉堀田藩は砲術を在来の武衛流から洋式の高島秋帆流に切り替えるにあたりその丁打場を従来の大田原(旧根郷村)から下志津原のこの地に移した
時に天保十三年(1842)である 明治初年に残っていた射垜は同藩士大筑尚志(後の第一代砲兵監陸軍中将)が築設したという
明治六年(1873)政府は教師として招聘したフランスのルホン砲兵大尉をしてこれを南北三千米幅三百米の射的場となし初めて砲術を伝習させた
同十三年 明治天皇の行幸を仰ぎ砲兵の天覧射撃あり大臣参議愈扈従したと伝えられる
同十九年春陸軍砲兵射的学校はここに創立せられ同三十一年四街道に移るまで日本砲兵発達の源泉となった
由緒ある遺跡の消滅せんことを惜しみ碑を建ててその由来を記するものである
  昭和四十年(1965)四月二日
   佐倉市教育委員会
   陸軍野戦砲兵学校遺跡保存有志一同
   土地提供者 下志津原開拓農業協同組合
    謹書 須藤健夫

だいぶ薄くなってますが、、、佐倉市による解説板もあります。

砲兵演習場跡
 佐倉藩は幕末に洋式砲術高島流を取入れ、下志津原のこの地で演習や試打を行った。
 明治六年(1873)政府が教師として招聘したフランスのルホン砲兵大尉は、藩士大筑尚志が築いたという射垜(土手)を増築し南北三千メートル幅三百メートルの射的場とした。
 同十九年陸軍砲兵射的学校が創立され、附近には料理屋、旅館などの街がつくられ、当時、下志津原一丁目と呼んだという。
 その後、明治三十年に、四街道へ射的学校は移された。
 昭和四十年、同校関係者有志により、この碑は建てられたものである。
  昭和五十七年三月三日
   佐倉市

記念碑前の道路。

南の方に射場が広がっていた。向こうは四街道。

場所

https://goo.gl/maps/35phy7vvtmhWnNZM8

※撮影:2023年1月


関連

陸軍野戦砲兵学校の跡地。射場の南側は、ルボン山は残る。

高島秋帆流砲術

「国際観艦式2022フリートウィーク」艦艇一般公開(船橋)

2022年11月5日。国際観艦式2022に際して、艦艇の一般公開がありました。
千葉の船橋で開催された海上自衛隊艦艇の一般公開の模様を、写真多めに掲載します。

※横浜での一般公開は以下にて。

船橋東埠頭

船橋東埠頭では、護衛艦「せんだい」が公開されました。

あっ、千葉地本(自衛隊地が地方協力本部)の「千葉3兄妹」(千葉衛)(千葉未来)(千葉翔)ですね。


護衛艦「せんだい」(JS Sendai, DE-232)

あぶくま型護衛艦の4番艦。母港は「舞鶴」。
就役は1991年3月15日。基準排水量は2,000トン。

南船橋駅から船橋東埠頭までは徒歩約20分。一般公開も「せんだい」一隻のみでしたので、非常にのんびりとした空間。行列などもなく、さくさくと見学できました。

艦も30年超えのレガシーな護衛艦なので、空気感もゆったりのびのびと。

溺者人形「せんだい君」

「かっぱ」の由来
護衛艦「せんだい」の艦名は鹿児島の川内川。仙台川のカッパ伝説をもとにキャラクターとしてかっぱが用いられている。

なんかいた。軽巡洋艦「川内」だ。

京葉線の車窓から。


艦艇護守印

護衛艦乗艦記念として乗艦した艦艇の護守印が頒布。

※撮影:2022年11月


「第一騎兵旅団兵舎」解体前の最後の一般公開(習志野・東邦大学)

騎兵の街・習志野。
日本陸軍第一騎兵旅団の下に編成された騎兵第十三聯隊および同第十四聯隊が使用していた建物が東邦大学構内に残っていた。
東邦大学にあった第一騎兵旅団兵舎・用材庫は、「現存日本最古の騎兵兵舎」であったが、2022年11月、キャンパス再整備計画の一環として、道路整備の延長線上にあたることから、惜しくも解体されることとなり、解体前の最後の一般公開に足を運んで来ました。

2022年11月下旬・解体予定
(2022年10月30日と11月5日が解体前の最後の一般公開日)
※本写真は2022年10月30日の模様です。

https://www.toho-u.ac.jp/press/2022_index/20221018-1242.html


習志野の騎兵


第一騎兵旅団兵舎(用材庫)

築年月/明治33年(1900年)12月
構 造/木造、切妻造平入、波板鉄板葺、小屋組は木造トラス
大きさ/梁間5 間×桁行10 間
建物用途/騎兵第十三連隊、十四連隊共用の用材庫

東邦大学 https://www.toho-u.ac.jp/press/2014_index/033001.html

https://www.toho-u.ac.jp/press/2014_index/033001.html


東邦大学

大森にあった東邦大学は昭和20年の空襲で焼失。昭和21年に習志野の旧陸軍習志野騎兵聯隊跡地に移転。現在の東邦大学習志野キャンパスとなる。


第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「外観」

以下、記録写真を。


「五芒星」の文様のある換気口

陸軍を示す五芒星の文様の鋳鉄製換気口グリル。


第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「内部」

柔道場の名残。2013年までは武道場であった。


第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「内部」(魚眼)

当時としては珍しい洋風のキングポストトラスの小屋組。


第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「外観」(魚眼)


第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「出入り口」


騎兵第13聯隊と14聯隊の間の壁とか

当時のものかは不詳。。。
造りが違うのが気になった、感じ。

むしろ、下に落ちている瓦礫が気になる。


騎兵第13聯隊跡

記念碑がいくつか。

騎兵第十三聯隊跡

騎兵第十三聯隊発祥之地
船橋市長大橋和夫書

平成5年4月29日建立

(裏面)
騎兵第十三聯隊概史
 日露の戦雲漸く急を告ぐる秋 日清戦争の経験に基づき宇内の趨勢に鑑み騎兵大部隊の必要性を痛感せる我が陸軍は明治三十二年騎兵第一, 第二旅団の編成に着手 我が騎兵第十三聯隊は騎兵第十四聯隊と共に騎兵第一旅団の兄弟聯隊として此の地習志野原の南隅千葉県津田沼町大久保(現船橋市三山)に創設され明治三十四年十二月十九日軍旗を拝受す
 明治三十七年二月日露の開戦に及び聯隊は我が国騎兵の父と仰がれし秋山好古旅団長指揮の許勇躍出征 五月遼東半島塩大澳に上陸第二軍に属して曲家店、沈旦堡等の戦闘に於いて世界に名だたるコサック騎兵と交戦赫々たる偉功を奏し早くもその名声を中外に宣揚す 奉天大会戦に於いては敵の右翼を包囲せんとする第三軍の迂回運動を庇護して全軍大勝の基を拓き更に長駆奉天北方に進出して敵軍主力の側背に迫り露軍敗退の因をなせり
 降って満洲事変勃発するや昭和七年六月出動 泥濘悪路を克服してその機動力を発揮し馬占山討伐を始め東辺道討伐、乾元鎮の攻略等全満各地の作戦に活躍 八年二月海拉爾に進駐対蘇戦に備えて教育訓練に邁進す 支那事変に於いては昭和十三年八月海拉爾より長駆北支に出動主力を以て歸徳一部を以て寧陵、睢縣に在って新黄河北方地域に於ける掃蕩及び陽動作戦に活躍 十四年二月更に遠く蒙彊の地へ転進主力を以て固陽一部を以て薩拉齋に駐屯 駐蒙軍に属して各種の作戦警備に任ず 特に十四年十二月の包頭戦に於いては集団司令部の危急を救い十五年の二次に亘る五原作戦に於いてはその中核として活躍敵の蠢動を封殺し蒙彊地区の安寧に寄与す この間十四年十月我が騎兵機械化施策の一環として自動車編制に改編され更に十七年十月には戦車第三師団の創設に伴い騎兵第十四聯隊と共に機動歩兵第三聯隊を編成軍旗を奉還 茲に騎兵甲聯隊たる四十余年の栄えある歴史を閉ず 然れどもその輝ける伝統は新しき聯隊に脈々として継承せられ特に十九年五月 太平洋方面の戦況非なる時支那大陸戦線に於いて敢行せられし大陸打通作戦の一環たる洛陽攻略に於けるその活躍は永く青史にその名を止むべし 但惜しむらくは敗戦による皇軍の解体と共に聯隊の栄誉を後世に伝うる術もなかりしに幸い戦後此の地に設立せられし東邦大学より記念碑建設の快諾を得 依って我等戦友有志相諮り此処聯隊発祥の地に碑を建て聯隊歴史の概要を刻し以てその栄誉を永く後世に伝えると共に亡き戦友の霊を慰めんとす
 庶幾くは後人后後我等が微衷を察し祖国の安泰と発展に尽瘁あらん事を

歴代集団長
第1代 宇佐美 興屋  
第2代 蓮沼 蕃  
第3代 笠井 平十郎  
第4代 稲葉 四郎  
第5代 内藤 正一  
第6代 吉田 悳  
第7代 小島 吉蔵  
第8代 馬場 正郎  
第9代 西原 一策

歴代旅団長
第1代 渋谷 在明  
第2代 秋山 好古  
第3代 本多 道純  
第4代 河野 政次郎  
第5代 永沼 秀文  
第6代 稲垣 三郎  
第7代 田村 守衛  
第8代 小畑 豊之助  
第9代 宮内 英熊  
第10代 原田 宗一郎  
第11代 梅崎 延太郎  
第12代 柳川 平助  
第13代 吉岡 豊輔  
第14代 高波 祐治  
第15代 中山 蕃  
第16代 小川 正輔  
第17代 黒谷 正忠 
第18代 野沢 北地  
第19代 大賀 茂  
第20代 片桐 茂  
第21代 栗林 忠道  
第22代 森 茂樹

歴代聯隊長
第1代 田村 久井  
第2代 小池 順  
第3代 永沼 秀文  
第4代 牧野 正臣  
第5代 渡部 為太郎  
第6代 南 次郎  
第7代 高須 一万太郎 
第8代 土屋 篤  
第9代 原田 宗一郎  
第10代 宇佐美 興屋  
第11代 中山 蕃  
第12代 山内 保次  
第13代 星 松尾  
第14代 和田 義雄  
第15代 横田 卓二  
第16代 猪木 近太  
第17代 小原 一明  
第18代 山崎 武四

騎兵十三聯隊と碑について
 本学習志野キャンパスがあるこの地には、かつて騎兵第十三聯隊が置かれていました。
 騎兵第十三聯隊は、日露戦争が風雲急を告げる明治三十四年、騎兵第十四聯隊(隣接する日本大学の地)と共に、騎兵第一旅団の兄弟聯隊として創設されました。
 その後、騎兵連隊は日露戦争において。当時世界最強と謳われたロシアのコサック騎兵を奉天会戦などにおいて退けるという偉業を成し遂げます。これは当時のロシア帝国主義から日本を守った大きな一因になったと言われております。
 騎兵第十三聯隊は、司馬遼太郎氏の傑作「坂の上の雲」に登場する主人公のひとり、秋山好古旅団長が指揮したことでも有名です。
 秋山好古旅団長は後に陸軍大将となり、「日本騎兵の父」と仰がれることとなります。
 
ここには次の碑が残されています。
 一、騎兵第十三聯隊跡碑 (昭和七年)
 二、 軍人勅諭下賜五十周年碑 (昭和七年)
 三、 騎兵第十三聯隊発祥の地碑 (平成五年)
 四、 司馬遼太郎氏文学碑 (平成八年)

 司馬遼太郎氏の文学碑には、司馬氏から騎兵第十三聯隊会会長宛に送られた手紙の一節が、次のように刻まれています。
 「かつて存在せしものは、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文明というものである」

「かつて存在せしものは、
  時代の価値観をこえて保存し、
      記念すべきものである。
 それが、文明というものである」
          司馬遼太郎

(裏面)
司馬遼太郎
我が国騎兵の父と仰がれ騎兵第13聯隊等を指揮した、騎兵旅団長秋山好古は、司馬文学最高傑作の一つ「坂の上の雲」の主人公である
こいねがわくば在天の魂 時にこの故郷ふるさとに訪れ給はむことを
平成八年 騎兵第十三聯隊会

軍人勅諭下賜五十周年碑(昭和7年4月24日建立)

五角柱の碑。
各面に「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の5つの徳目が彫られている。陸軍大将南次郎書。

稲荷社
騎兵13聯隊なごりの神社、か。

兵舎跡は解体のうえで、道路になるという。。。


騎兵第14聯隊跡

せっかくなので、騎兵第13聯隊のとなりの騎兵第14聯隊にも。
東邦大のとなりの日大へ。日大はちょうど学園祭をやっていました。

こちらも記念碑をいくつか。

となりの兵舎跡が木々の隙間から垣間見ることのできる近さ。それぞれの大学の敷地にあるので、往来はできないけど、記念碑は隣り合ってある。

日大側からみた兵舎跡。

騎兵第十四聯隊発祥之地
竹田恒徳

騎兵第十四聯隊之跡

昭和43年14号館前デ発掘サレタルモノヲ復元
昭和62年10月

明治天皇御製
人ならば
 ほまれのしるし
  授けまし
軍(いくさ)の庭に
 立ちし荒駒(あらこま)

碑誌
騎兵第十四聯隊ハ畏クモ明治天皇ヨリ軍旗ヲ 親授セラレテ明治三十四年十一月創設サレ此 ノ地習志野ニ駐屯シタ
明治三十七年日露戦争ガ勃発スルヤ満州ニ出 征シ沈旦堡ニ於イテ勇戦奮闘シテ克ク騎兵ノ 精華ヲ発揮シタ
戦終ッテ此ノ地ニ帰還シ練武ニ精励シタガ昭 和七年六月満州事変ニ出動シ其ノ後此ノ地ニ ハ戦車第二聯隊ガ駐屯シタ
騎兵第十四聯隊ハ満州ニ於イテ夏季豪雨ニヨ ル泥濘ヲ冒シテ馬占山討伐等ニ従軍シ同年冬 広漠タル厳寒ノ北満ホロンバイルニ進出シ海 拉爾周辺ニ駐留シテ六年に亘リ満ソ国境守備 ノ重責ヲ遂行シタ
昭和十三年六月騎兵集団ニ出動命令ガ下リ其 ノ隷下ニアッタ聯隊ハ海拉爾ヨリ長駆河南省 帰徳淮陽方面ニ進撃次イデ蒙彊地区ニ転戦シ 昭和十七年十二月機甲兵団ノ新設ニ伴ヒ包頭 附近ニ於イテ機動歩兵第三聯隊ニ改編セラレ 戦車第三師団ニ属シテ再ビ河南省ノ鄭州洛陽 周辺一部ハ遠ク湘桂方面ニ作戦シ赫々タル武 勲ヲ挙ゲタ
此ノ兵営跡ハ昭和二十九年日本大学ノ敷地ト ナッタガ大学御当局ヨリ深イ御理解ト温カイ 御厚意ヲ戴キ有志相図リ幾多先輩戦友ノ偉勲 ヲ偲ビツツ此処騎兵第十四聯隊発祥ノ地ニ此 ノ碑ヲ建テ我ガ聯隊ノ事績ヲ永ク伝エヨウト スルモノデアル
 昭和六十一年十月二十六日
  騎兵第十四聯隊会

為聖諭拝戴五十周年並御紋章掲揚記念
昭和7年

戦車第二聯隊の跡
戦車第2聯隊は昭和8年8月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第14聯隊駐屯の跡に移駐した。
その練習部は、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。
昭和12年7月動員下令、聯隊の主力は北支に出動。
保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。
13年7月、部隊は戦車第8聯隊に改編され、中原会戦、満州、北支警備等の後、17年秋、南海のラバウルへ転進した。
戦車第2聯隊は昭和13年7月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。
16年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。
分遣された第1中隊はビルマ、第4中隊はガダルカナルに於て悪戦苦闘した。
聯隊は17年秋習志野に帰還した。
この間、習志野で編成した戦車第4大隊は昭和9年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は11年天津、戦車第17聯隊は17年綏遠省平地泉、独立戦車第7・第8中隊は19年夏フィリッピンに派遣された。
河野第7中隊はレイテ島に、岩下第8中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。
戦局緊迫するや、動員令により戦車第2聯隊は昭和19年相模地区に移動、その補充隊は20年4月新たに6個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、8月終戦を迎えた。
この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。
昭和63年8月1日
戦車第2聯隊会

こちらにも神社。

ちょうど学園祭。


位置関係

近衛師団
 騎兵第1旅団→麾下 騎兵13聯隊 騎兵14聯隊
第1師団
 騎兵第2旅団→麾下 騎兵15聯隊 騎兵16聯隊

習志野陸軍病院→習志野病院
騎兵第13連隊→東邦大学
騎兵第14連隊→日本大学
騎兵第15連隊→東邦中学校高等学校
騎兵第16連隊→大久保住宅

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8911-C1-1
昭和19年10月16日、日本陸軍撮影の航空写真を加工。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M737-103_19480118_1
1948年1月18日、米軍撮影の航空写真を加工。

※撮影は2022年10月


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