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第1空挺団「降下訓練始め」(陸自習志野演習場・2024)

令和6年1月7日、陸自第1空挺団による新春恒例の「降下訓練始め」が実施されましたので、足を運んでみました。

自衛隊で唯一の落下傘部隊である第1空挺団。
不法占拠された離島を、敵国から奪還するとの想定で、約1時間の訓練展示が行われました。


空の神兵

大日本帝国陸軍・海軍の落下傘部隊(空挺部隊・挺進部隊)、落下傘兵(空挺兵・挺進兵)に対する愛称。
海軍は「空挺部隊」
陸軍は「挺進聯隊・挺進集団」
そして、陸自は「空挺団」

太平洋戦争(大東亜戦争)蘭印作戦
1942年(昭和17年)1月11日
海軍の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊がセレベス島メナドに対し敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。。
1942年(昭和17年)2月14日
陸軍の第1挺進団(挺進第2連隊)がスマトラ島パレンバン(パレンバン空挺作戦)に対し同じく敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。
両作戦は成功しオランダ軍他が守備する飛行場(メナド・パレンバン)や、大油田・製油所(ともにパレンバン)を制圧した。
これらの活躍から日本軍落下傘部隊に対し「空の神兵」の愛称が付けられた。

「空の神兵」は、帝国陸軍落下傘部隊(第1挺進集団)の事実上の後身である陸上自衛隊第1空挺団にも継承されている。
習志野の陸自第1空挺団は、昭和27年より研究されれ昭和30年に設立した初代空挺教育隊を起点とし、初代空挺教育隊長を務めた衣笠駿雄元陸軍少佐(初代第一空挺団長)に率いられた第1次研究員20名によって昭和33年に創設された。
この第1次研究員20名こそが太平洋戦争末期に帝国陸軍落下傘部隊において教育途中であった元挺進兵であった。そのため帝国陸軍落下傘部隊の歴史は陸上自衛隊落下傘部隊の歴史とされ、その伝統を堂々と継承している第1空挺団の事実上の隊歌として使用、かつ「降下訓練始め」では歌唱付きの『空の神兵』がそのまま場内で放送されている。


降下訓練始め 準備

一般開放は朝8時30分から。
6時すぎに「新京成・習志野駅」に到着して、6時30分頃に「習志野演習場」に到着。もうすでにいい感じに行列ができていました。

7時半ごろの空模様。まだ雲が残っていますね。

時間通り、8時半に入場開始。

滑走路脇から演習場まで歩く。

8時50分頃、演習場に面した高台の観覧場で、今日の観覧場所を確保。

散水車が演習場内をグルグルしていました。

スタンバイ中の10式戦車と16式機動戦闘車

10時30分すぎに、CH-47チヌークから各国の関係者が到着。
本来は、空挺団・各国指揮官等降下展示を予定していたが、悪天候(強風)のために、着陸からの展開。

今回は、アメリカ、イギリス、カナダ、フランス、ドイツ、オランダ、そしてインドネシアとの合同訓練。

木原稔防衛相もCH-47で登場。桜星5つ旗ですね。


降下訓練始め

10時47分。上空に1機のCH-47が飛来。

「ヘリボーン作戦」

状況開始!

上空1800メートルから、制圧のための潜入降下。

援護として、AH-1S(コブラ)の支援。

約340メートルからの降下。

C-2輸送機

米軍機も参加。米軍機C-130からの降下も実施。

観戦武官というか、参加国に、今回は初でオランダとかインドネシアとかも参加していますが、アメリカ軍機から降下する日本の第1空挺団の降下BGMは、おなじみの「空の神兵」。その伝統には揺らぎがない。

空の神兵
 梅木三郎作詞  高木東六作曲

藍より蒼き大空に大空に 忽ち開く百千の
真白き薔薇の花模様 見よ落下傘空に降り
見よ落下傘空を征く 見よ落下傘空を征く

世紀の花よ落下傘落下傘 その純白に赤き血を
捧げて悔いぬ奇襲隊 この青空も敵の空
この山川も敵の陣 この山川も敵の陣

敵撃摧と舞い降る舞降る まなじり高きつわものの
いずくか見ゆるおさな顔 ああ純白の花負いて
ああ青雲に花負いて ああ青雲に花負いて

讃えよ空の神兵を神兵を 肉弾粉と砕くとも
撃ちてしやまぬ大和魂 我が丈夫は天降る
我が皇軍は天降る 我が皇軍は天降る

足を屈することのないきれいな着地。

降下後にいかに素早く迅速にパラシュートを片付けるかも見どころ。

すぐさま、進撃を展開

航空支援
戦闘ヘリコプターAH-1S(通称「コブラ」
多用途ヘリコプターUH-1J(通称「ハンター」)

輸送ヘリコプターCH-47(通称「チヌーク」

チヌークは、大活躍です!

高機動車と120ミリ迫撃砲の運搬。

火砲での制圧

地上支援

10式戦車と16式機動戦闘車

軽装甲機動車LAV(ラヴ)も。

三度の航空支援

さらには、米軍による空挺支援
ただし、悪天候で降下中止。上空通過のみ。
米軍空挺が中止した中で、普通に空挺を成功させた習志野第一空挺団は、さすが「第一狂ってる団」(褒め言葉

米軍から言わせると、習志野演習場は狭くて、こんな狭い所に空挺降下する陸自の第一空挺団は、頭おかしいそうで。。。

チヌークの襲来。

米国、英国など、同盟国及び同志国の部隊が来援

地上戦を展開し、敵を撃破し離島を奪還したところで、訓練展示は11時45分頃に終了。

状況終了!


降下訓練始め 終了

木原防衛大臣訓示などの式典

ちょっと遠い。
APS-Cの300mmなので、光学450mm換算だけど、それでも遠い。

16式機動戦闘車、砲口の掃除を実施していました。

航空自衛隊第1高射群第1高射隊が装備する地対空誘導弾ペトリオットの発射地区、かな。

なんか古そうな建屋。陸軍時代?かどうかは不詳。

このあたりは、陸軍演習場、射撃場などが設けられていたが、往時の航空写真を見ても建屋は確認できないほどに、なにもない原野の射撃場のため、戦後の建立とは思われるが。(移築などがあるとなんともいえないですけど)

習志野射撃場

滑走路

習志野演習場を出たのは、12時40分すぎ、でした。

習志野駐屯地を横目にみながら、駅まで戻ります。

※2024年1月撮影


関連(習志野)

木更津駐屯地 創立55周年記念行事「第49回木更津航空祭」その3(飛行展示)

2023年10月1日(日)に開催された木更津駐屯地の記念行事「第49回木更津航空祭」。
普段は立ち入りができない駐屯地内を散策してみました。

海軍戦跡散策などは、「その1」にて。


陸上自衛隊V-22オスプレイ

木更津駐屯地に暫定配備されているオスプレイ。
暫定配備後、今回の航空祭が初の一般公開であった。
なので、もちろん、陸自のオスプレイを見たのは、今回が初めて。

以下、写真メインで。


編隊離陸

あっちこっちで各航空機が離陸

編隊上空通過

大編成での上空通過


訓練展示


地上展示

陸自以外。


その他

※撮影:2023年10月


関連

木更津駐屯地 創立55周年記念行事「第49回木更津航空祭」その2(木更津の海軍戦跡散策2)

2023年10月1日(日)に開催された木更津駐屯地の記念行事「第49回木更津航空祭」。
普段は立ち入りができない駐屯地内を散策してみました。

木更津駐屯地内の記事は「その1」で。

飛行展示などは、「その3」にて。


ここでは、木更津駐屯地外の戦跡を散策します。
木更津駐屯地の正門の脇にある吾妻公園にいくつか残っています。

射撃の的?(木更津市弓道場)

弓道場の的に活用されている台。射撃の的かな?

小さい斜台。

大きな斜台。


水道施設跡1(吾妻公園)

水道施設のあとが残っている。


水道施設跡2(吾妻公園)

覆屋が崩壊した状態で、水槽が残っている。



水道施設跡3(吾妻公園)


軍用兎之霊碑

選擇寺(せんちゃくじ)の境内に。木更津駅に戻る途中で寄り道。

軍用兎之霊

肉は食料、毛皮は兵隊の防寒着に利用するため、飼育された軍用のウサギの霊を弔う碑。

軍用兎の慰霊碑は、はじめてみました。


木更津の近代建築

木更津駐屯地と木更津駅の間に、いくつか近代建築物がありました。

山田眼科医院  
昭和3年(左)と昭和12年(右)

レディースサークル ひまわり(旧金田屋洋品店) 
昭和7年建造。

木更津駅西口。近代建築ではなく、昭和45年の建造。

木更津周辺は戦跡豊富。まだまだ見るべきところが多いのでまた来ます。

※撮影:2023年10月


関連

木更津駐屯地 創立55周年記念行事「第49回木更津航空祭」その1(木更津の海軍戦跡散策1)

2023年10月1日(日)に開催された木更津駐屯地の記念行事「第49回木更津航空祭」。
普段は立ち入りができない駐屯地内を散策してみました。

飛行展示などは、「その3」にて。


木更津海軍航空隊(木空)・海軍木更津飛行場

昭和11年(1936)4月1日、木更津海軍航空隊が現在の陸上自衛隊木更津駐屯地の場所に開隊。
木更津海軍航空隊は、鹿屋海軍航空隊と同時に開隊した日本初の陸上攻撃機部隊。
昭和17年(1942)11月1日に、第七〇七海軍航空隊と改称、翌12月1日に第七〇五航空隊(三沢空)に編入。
七〇七空の解散後も木更津飛行場は拠点基地として機能。
昭和20年8月7日には、木更津飛行場において、日本初の純国産ジェット機「橘花」が飛行に成功している。

敗戦直後の1945年8月19日、参謀次長河辺虎四郎中将を筆頭とする降伏全権団は、米軍の指示で木更津海軍飛行場から沖縄県の伊江島まで2機の飛行機=緑十字飛行(1番機一式大型陸上輸送機と2番機一式陸上攻撃機の緑十字機)で向かい、さらに伊江島から米軍機に乗り換えてフィリピンに向っている。

戦後は米軍の駐留を経て1956年(昭和31年)に航空自衛隊木更津基地が間借りする。
1961年(昭和36年)に米軍は立川飛行場に転出し、航空自衛隊が占有するが1968年(昭和43年)に入間基地に転出。
入れ替わりに陸上自衛隊が転入して木更津駐屯地となり、現在に至る。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-66
昭和22年(1947年)2月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

木更津飛行場界隈を切り出し。

現在の様子(GoogleMap)

さらに拡大。

黄色枠の部分の格納庫と建屋が現存。赤枠の建屋も現存。
緑は、ちょっと形状が違うかな。


木更津駐屯地正門(海軍木更津飛行場正門跡)

海軍時代の正門の門柱が残る。


翔鷺園(海軍防空掩体壕跡)

追悼碑と同時に作られた庭園。海軍時代の防空掩体壕跡でもある。

翔鷺園由来記
 本園は第一ヘリコプター団殉職者追悼之碑建立作業に関連し大堀大野石材店大野留吉氏矢那若草造園間弓三郎氏及び坂井敏武氏等の協力指導により当所にありし旧海軍防空掩体壕に土を盛りまた山梨県八ヶ岳山小淵沢町より石を運び併せて江川久津間地区の買収地より樹木を移し作業日数九十六日延人員1360名に及ぶ全隊員の労力奉仕により茲に庭園を築きたるものにして
昭和48年3月1日追悼之碑序幕と同じくして完成せり
陸上自衛隊第一ヘリコプター団長兼木更津駐屯地司令村岡英夫陸将補これを「翔鷺園」と命名す
永く隊員ならびに市民の思索と憩いの場とならんことを願うものなり


木更津航空神社(木更津神社)

木更津海軍航空隊の隊内神社。
大戦中に航空安全を祈願して建立された航空神社となる。
昭和14年造営。


行幸記念碑

昭和天皇が行幸された記念の碑。
1938年(昭和13年)8月11日に 昭和天皇が行幸された。

揮毫は、戸塚道太郎。
昭和12年に第1海軍聯合航空隊司令官として、木更津海軍航空隊・鹿屋海軍航空隊の九六式陸上攻撃機での上海渡洋爆撃を指揮している。

行幸記念

昭和13年8月11日行幸
 海軍少将正五位勲二等 戸塚道太郎謹書


追悼之碑

木更津駐屯地で殉職なされた隊員を追悼。


荒鷲之碑

昭和16年造。


一式陸上攻撃機(一式陸攻)プロペラ

特に何も説明がないが、一式陸攻のプロペラだという。


航空資料館

内部は撮影禁止。
V-107 (51736 / IIH, KV107II-4A) VIP輸送用の特別仕様機と、旧海軍時代から陸自関係の資料などを展示。

https://sec.mod.go.jp/gsdf/gcc/1hb/sta/index.html


旧海軍時代の格納庫

旧海軍木更津飛行場時代からの格納庫。前述の位置関係の黄枠部分。


海軍消火栓蓋

A格納庫の前に、海軍時代の消火栓蓋が残る。

波に錨


暗渠蓋(排水路の蓋)

もしかして、海軍時代かも。瓦礫が荒いので。


海軍止水栓蓋

海軍時代の止水栓蓋も残る。


海軍時代?の建屋1

おそらく、海軍時代の建屋と推定。前述の位置関係の黄枠部分。


海軍時代?の建屋2

おなじく、海軍時代の建屋と推定。前述の位置関係の黄枠部分。


海軍時代??の建屋3

おなじく、海軍時代の建屋と推定。前述の位置関係の赤枠部分。


講堂

前述の航空写真では形状が適合できなかった建屋。前述の位置関係の緑枠。
海軍時代ではないとしても、古そうなので、もしかして米軍時代?教会?とか???


海軍時代のスロープ?

海軍時代にも同じ場所にスロープがある。往時の名残かも。


海軍時代の施設1

防空壕と思われる施設。煙突のように通風孔もある。搭乗員退避壕だろうか。
往時は覆土してあったのだろう。


海軍時代の施設2

これはなんだろう。覆土された施設。燃料施設か。

上記の覆土された施設の隣。変電設備だろうか?

盛土されている。

土塁ですね。


海軍時代の施設3

若干、盛土が残っている防空壕。同じように通風孔もある。


海軍時代の施設4

防空壕。通風孔が2つもある。

こんな感じで、2つの防空壕が並んでいる。

特に立入制限のロープなどはなかったが、これより北には、ちょっと行っては駄目な雰囲気があったので、ここで引き返し。(掩体壕までは赴けず)


そのほか

そのほか木更津駐屯地内の写真。

格納庫に「笑門」
「笑う門には福来る」

給水タンク。海軍時代かどうかは???

陸上自衛隊 第1 ヘリコプター団の庁舎。

はなの舞。

現在の入り口。

木更津周辺は戦跡豊富。まだまだ見るべきところが多いのでまた来ます。

※撮影:2023年10月1日

その2へ


関連

海自 下総航空基地開設64周年記念行事・その2

藤ヶ谷陸軍飛行場跡に、現在は海上自衛隊下総航空基地が展開している。
2023年10月21日に、記念行事で一般開放があったので、足を運んでみた。

本記事は、「その2」となります。
「その1」は下記より。


救難飛行艇「US-2」

うおおお、実は、生で初めて見ました。
「US-2」
二式大艇のDNAを受け継ぐ名飛行艇!!

この娘にあえただけで、感無量だったりします。
華麗で優雅な佇まいに惚れ惚れしてます。ずっと、US-2のまわりをぐるぐるとしていても、飽きないです。

US-2
新明和工業が開発した、飛行艇。
その新明和工業の全身は、川西航空機。

2003年に撮影していた、二式大艇を。


輸送機「C-130R」

海自版のC130ですね。薄い青灰単色が、良い装い。


練習機「T-5」展示飛行

練習機ではありが、海上自衛隊では唯一、曲技飛行が可能な機体でもある「T-5」。
下総航空基地での展示飛行では、海自の曲芸飛行隊「ホワイトアローズ」(小月教育航空群第201教育航空隊)が2機編隊で見事な飛行を見せてくれた。


哨戒機「P-3C」

会場では、P-3Cがタッチアンドゴーを延々と披露してくれていた。何回繰り返したか数えても忘れるほどに、延々と。

格納庫にもP-3C


航法訓練練習機「TC-90」

徳島教育航空群第202教育航空隊


陸自輸送ヘリ「CH-47J」(チヌーク)

あら、ここにも出張していました。

内部公開で、さほどに並ばずにはいれたのはラッキー

チヌークの向こうを飛ぶ、P-3C哨戒機。


ミニP-3C演技展示

ちょっとした寸劇。


そのほか

海上自衛隊東京音楽隊

格納庫

下総航空基地は、けっこう穴場かも。そんなに混んでなくて、なんかのんびりできました。

また来ようっと。

撮影:2023年10月21日


関連

海自 下総航空基地開設64周年記念行事・その1

藤ヶ谷陸軍飛行場跡に、現在は海上自衛隊下総航空基地が展開している。
2023年10月21日に、記念行事で一般開放があったので、足を運んでみた。

本記事は、その1となります。
その2は下記にて。

写真は、T-5展示飛行(やっぱりその2にて、、、)


藤ヶ谷陸軍飛行場
(海自下総航空基地)

藤ヶ谷の地名は、現在の柏市藤ケ谷。敷地としては、北の柏市と南の鎌ケ谷市にまたがっている。

もともと当地は、東洋一の規模を誇っていたゴルフ場であった「武蔵カンツリー倶楽部」の「藤ヶ谷コース」であった。ゴルフ場としては、昭和4年(1929年)に開発された。
「武蔵カンツリー倶楽部」 は、隣接する「六実リンクス18ホール」に「鎌ヶ谷コース18ホール」を有し、日本初の36ホールのゴルフ場であった。

「武蔵カンツリー倶楽部」は、昭和19年(1944年)に本土防空のための飛行場化のために、帝国陸軍に土地が接収され陸軍用地となったたことでゴルフ場は閉鎖され解散。

昭和20年4月、「藤ヶ谷陸軍飛行場」が完成。6月に飛行第53戦隊が、松戸陸軍飛行場から移動。
昭和20年8月、終戦により、アメリカ陸軍航空軍の白井基地としてGHQに接収。
その後、海上自衛隊と米軍による日米共同飛行場時代を経て、現在は「海上自衛隊下総航空基地」となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M380-62
昭和22年(1947年)7月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

現在の様子。GoogleMapより。


管制塔(海自下総航空基地)

まずは管制塔に行ってみます。

下総運航隊

下総運航隊のゆるキャラ。こいつは格納庫にいました。
あと、自転車ベースっぽいミニPも。

タワりん
うまれたところ:しもふさきちたいかんせいとう
うまれたひ:2023.10.20
レーダーのようせい
とくぎ:ミニPかんせい
すきなたべもの」:レーダー波(は)
なやみごと:ミニPかんせいがいうことをきかない
しんちょう:たぶんりんご30こぶん
たいじゅう:ひみつ♡

基地案内とイベントスケジュール

管制塔。8階の展望回廊。もうひとつ上の9階が管制室。

南側

南西

西

西

西

北西

北、筑波山

北東

南東

下総基地歴史ツアー

千葉県柏市にある、ここ海上自衛隊下総航空基地はもともと・・・

ゴルフ場でした!!!

1932年(昭和7年)~1945年(昭和20年)
当時は「武蔵野カントリークラブ藤ヶ谷コース」という名のゴルフ場でした。     

1945年(昭和20年)4月
第二次世界大戦の最中、帝都防衛※のため
(※帝都=東京)
ゴルフ場は急遽
「陸軍藤ヶ谷飛行場」に変わりました。

1945年(昭和20年)9月、第二次世界大戦後に陸軍藤ヶ谷飛行場は、
「米第5空軍基地」となり、
14年の間、アメリカが管理する基地でした。

1959年(昭和34年)10月
基地内の一部に
海上自衛隊の航空機整備の学校として、
「白井術科教育隊」が誕生し、
  ※1961年~現 第産3術科学校
米空軍と基地の共同使用を開始しました。

翌年1960年(昭和35年)6月
基地から米空軍が撤退し、全面返還され、
海上自衛隊の基地として運用する準備が次々に進みました。

1962年(昭和37年)には
滑走路及び管制塔などの建設が終わり、
航空機としての機能を確立していきます。
それまで白井基地という名称でしたが、
新たに「下総基地」という名称に変わりました。

管制塔の大きさ
高さ38メートル。

「戦艦大和」と「下総基地・管制塔」の大きさ比較。

管制塔の見学記念。
最近、はやりの御朱印タイプ。

こちらをいただきました。


第三術科学校史料室

まずは、史料室に。

下総基地史跡MAP

全部、まわりたいけど、、、立ち入り禁止区域にあるし。

雄魂の碑(立入禁止区域)

九一式改二型航空魚雷(立入禁止区域)
見たかった、、、

戦艦比叡の錨(立入禁止区域)
すごく見たかった、、、

2025年の公開時に、拝見できました!

これは横須賀にお引越し。
40糎被帽徹甲弾

藤ヶ谷飛行場概説。
かなり詳しくて、わかりやすい。

藤ヶ谷飛行場関連遺構(その1)

これですね。

藤ヶ谷飛行場関連遺構(その2)

これですね。

陸軍飛行第53戦隊の帝都防空戦

第3震天制空隊(特別攻撃隊)

陸軍飛行第53戦隊
二式複座戦闘機(キ45改)「屠龍」
キ46三型改「防空戦闘機(武装司偵)」(百式司令部偵察機に上向き銃装備)

「B29」VS「屠龍」の諸元対比

B‐29夜間迎撃戦概要

B-29に対する前方攻撃(推定)

藤ヶ谷飛行場への連合軍進駐

下総基地に関連する戦闘機、など

南方部隊航空部隊第一空襲部隊、第二空襲部隊に対する連合艦隊司令長官山本五十六の感状。開戦時のフィリピン航空戦。

左上の賞状は、呉鎮守府長官時代の嶋田繁太郎によるもの。

となりの安全啓発室。

海自の事故を踏まえた安全啓発室。

弔いの記録。
繰り返さないよう、安全への啓発へと。


下総厚生センター史料室

史料室が、もうひとつある。

日本海軍関連。
海自創設時は、教科書に日本海軍で使用されていた教育資料を礎としていた。

整備魂

YS-11のコクピット。


野外展示機(海自下総航空基地)

SNB型航空機

SNJ型航空機

V-107A型航空機

B-65型航空機


海自下総航空基地

庁舎

格納庫

そういえば、(敷地外の)どこかが火事だったようです。

飛行機の展示は、「その2」で。

※撮影:2023年10月21日


関連

「桜花」発射の行川基地跡(いすみ)

千葉県いすみ市。
いすみ鉄道「上総中川駅」の北側の山中に、桜花の発射基地があった。


桜花

「桜花」
この美しき言霊は、時に残酷な言霊でもあり。

靖國神社
一一型レプリカ

神ノ池・桜花公園
一一型レプリカ

神栖中央公園
一一型レプリカ

河口湖自動車・飛行館
桜花一一型


桜花四三乙型(桜花43乙型)

ネ20ジェットエンジンを搭載し、300km近い航続距離を得たタイプ。
陸上からのカタパルト発進を行う予定で開発された。
また特徴としては、自力飛行で基地移動が可能となるように設計されており、より「飛行機」に近い形となった。その為、無線と落下傘も装備が予定されていた。トンネル式格納庫に収める為に主翼は折り畳み式で、さらに突入時に加速がつくよう翼端が火薬により切り離せる構造になっていたが、これは可変翼実用化のはしりであったという指摘もある。
実物木型模型は1945年4月に修了、海軍航空技術廠と愛知航空機で量産準備を進めていたところで終戦を迎えている。
この型ではエンジンと燃料タンクの設置のため爆弾重量は800kgに減らされていた。

※参照:Wikipedia 桜花 (航空機)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E8%8A%B1_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)#%E6%B4%BE%E7%94%9F%E5%9E%8B

千葉県房総南部には、12基の桜花発射用カタパルト(桜花43乙型発射基地)が建設されていた。
行川基地には、桜花が配備されることなく、終戦を迎えている。


特攻機「桜花四三乙型」行川基地跡

いすみ市指定史跡
特攻機「桜花四三乙型」行川基地跡
平成十六年三月二十三日指定

 航空特攻兵器として有名な「桜花」の基地がこの地に建設され、現在、格納庫用の洞窟と旋回盤跡が残っています。
「桜花」はまず、一式陸上攻撃機の胴体下に吊るして目標付近まで曳航させ、滑空もしくはジェットエンジンで敵艦船に体当たりするグライダー型の「一一型」及び「二二型」が開発されました。
しかし、本土決戦の意識が高まってくると、近海に押し寄せるアメリカ艦船に対して、本土から直接発進させ激突させようとする計画が持ち上がりました。
この計画によって開発されたのが、頭部に八〇〇キロ爆弾を搭載した、単葉タービンロケット推進の脚なし単座特攻機「桜花四三乙型」です。
これは、山間部から海上に向けて射出するために、非常に高い初速が求められ、そのための高性能のカタパルトの開発は昭和二十年二月、「桜花四三乙型」本体の開発は三月から始まりました。

五月には横須賀鎮守府が、桜花四三乙型噴進射出装置基地施設構築を命じました。
基地候補地のうち八月末に使用可能を目標として工事に着手したのは伊豆半島の十国峠および竹ノ沢、筑波の五輪堂および閉居山、房総半島南部の上滝田および下滝田(南房総市)、房総半島東部では黒原(大多喜町)およびこの行川の八か所でした。
 『中川小学校沿革史』によると、基地は七月二十六日に滑走路が完成したとありますが、それ以降も勤労奉仕が続いたとあるので、工事はまだ続いていたようです。
しかし、八月十五日の終戦までに、「桜花」が基地に届くことはなく、その役目を果たすことはありませんでした。
【格納庫の寸法】
 奥行 三十六・五m
 高さ 五・二m
 幅  四・五五
 旋回盤の直径 三m

基地跡はこの奥約60mの場所にあります。

※崩落の危険があるので、格納庫内部には立ち入らないで下さい。
  いすみ市教育委員会


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M399-116
1947年8月11日、米軍撮影の航空写真。

一部拡大

現在の様子と照合


桜花行川基地跡の散策(格納庫跡と旋回盤跡)

桜花四三乙型の格納庫跡と旋回盤跡(ターンテーブル跡)が残っている。

貴重な戦跡。

格納庫の手前に旋回台がある。

旋回台は、直径約3メートル

アンカーボルトが残る

格納庫

※崩落の危険があるので、格納庫内部には立ち入らないで下さい。

入口部分から、内部を見学する。

内部には、翼を折りたたんだ桜花が2機格納できたという。奥行きは36.5m。

左右に溝が掘ってある。

右側

左側

格納庫の床面。排水用に斜面が設けられている。

なお、案内看板近くの道路斜面には、カタパルト部分の基礎も残っているというが、茂みで基礎は確認できず。

実際は配備が間に合わなかった、桜花発射基地。
間に合わなかったことが、何よりも救いであり。


桜花行川基地跡へのアクセス

場所

https://goo.gl/maps/HdN1CcSnCwmvUMWy9

旧いすみ市立夷隅小学校(現在はJapanNextが使用)の脇の細道をのぼっていくと、いすみ市が設置した看板がある。

季節によっては、藪こぎになるので注意。

道中の右手にパレットで造られた階段の道があるが、それは罠なので、パレットは気にせずに直進を。

桜花の搬出路跡の小道をすすんでいくと、格納庫に到着します。

搬出路跡

周囲は水気に帯びているので、季節に寄ってはぬかるみにも注意が必要。。
カエルさんもいました。

ちなみに、私はレンタサイクル(いすみ鉄道・国吉駅)でアクセスしました。
ほかにも寄ってみたいところがあったので。

廃校となった夷隅小学校。

JAPANNEEXT。一部の界隈では有名なモニターメーカー。


いすみ鉄道

アクセスには、いすみ鉄道を利用しました。

かつての国鉄木原線。昭和5年に大原駅‐大多喜駅間が開業している。

大原駅にて。

国鉄木原線廃線に伴って第三セクター線として、昭和63年に「いすみ鉄道」が開業。
愛称は「い鉄」。

ちょうどお昼時だったので。
駅で「大原漁港 漁師のまかない飯」を購入。

美味。
外房名物、鯵(アジ)の「さんが焼き」そぼろご飯。

国吉駅。ここでレンタサイクルを借りました。

いすみ鉄道の有名撮影ポイント。
かなり久しぶりに走行撮影にチャレンジ。

キハ52 125号車も走っていました。
桜花行川発射基地の南側に鎮座する妙泉寺の門前踏切にて。


ポッポの丘

一部の界隈で有名な「ポッポの丘」

立ち寄ってみました。

懐かしいですね。銚子電鉄の701号と702号。

実は、戦前の車両なんですよ。

デハ700形は、銚子電気鉄道が1978(昭和53)年に導入した車両。
もとは、近江鉄道モハ51形電車。近江鉄道の全線電化に合わせて1928(昭和3)年に川崎造船所で製造された。

ほかにも懐かしい車両の大集結。

ここは、時間をつくって、ゆっくり見学したい、、、ですね。

場所

https://goo.gl/maps/GpgwHGAe9eiG9d4k6


いすみ鉄道 国吉駅

国吉駅でレンタサイクルを返却して、大原駅から帰路へ。

ちなみに、い鐵揚げ、美味しいので是非に。

※撮影:2023年5月


「高ノ島と沖ノ島」館山の海軍戦跡散策・その6

館山散策の続き。
本記事は「その6」です。「その5」はこちらにて。


鷹之島弁天閣(館山海軍航空隊航空神社跡)

境内には、館山海軍航空隊のマークが取り付けられた手水盤がある。
もともとは、館山海軍航空隊の鎮護のために建立された「航空神社」に奉納されたもの。
高ノ島には、厳島神社が祀られていたが、海軍用地となり移転。
「航空神社」が創建し、昭和10年6月22日銘で手水盤が奉納されている。
「航空神社」は、戦後に破却され、厳島神社が昭和24年に復し鷹之島弁天閣となった。

高ノ島の厳島神社(弁財天)は平安時代中期の1092年に安房国司により勧進。
高ノ島は、大将12年(1923)の関東大震災による隆起で干潟となっている。

昭和十年六月二十二日

御社殿の手前に、手水盤


海軍兵器整備予備学生戦没者慰霊碑

鷹之島弁天閣境内。
戦没した海軍兵器整備予備学生を慰霊する。

海軍兵器整備予備学生戦没者慰霊碑

此処に刻せる戦没者名は昭和拾六年より昭和弐拾年に亘る第二次世界大戦の間 戦雲急を告げ全国の高等工業学校専門学校及び大学理工科系卒業後の若人等が 此の地館山洲ノ埼海軍航空隊に入隊し海軍兵器整備予備学生の教育訓練課程修業 期間を卒業し勇躍任務地に赴きしが武運に恵まれること無く国家の為散華せる 英霊を顕彰慰霊したるものなり
 
思い起こせば敗戦より四拾有余年遺憾交々去来す茲に兵器整備予備学生存命の同士等連携相集いて本碑建立せり
 平成弐年拾月

関東大震災の祈念碑もある。

大正地震祈念碑

場所

https://goo.gl/maps/iF5P9dvocghiAa5a8


沖ノ島

はい、季節を間違えました。
こういう場所は、閑散期に訪れるべきでした。大絶賛で繁忙期です。

さすがにカメラをぶら下げて、海水浴場を歩けないので、ここからはスマホに切り替え。

沖ノ島狙撃陣地跡

沖ノ島地下壕跡

まあ、冬に来ましょう、、、

場所

https://goo.gl/maps/Dtm9QZ7LpoLXD3ox9


第二海軍航空廠館山補給工場跡

海自館山基地の隣に残る大きな建物。
現在は民間企業が使用している。

外装がキレイになってますね。


米軍上陸の地

昭和20年9月2日降伏文書調印。 翌9月3日午前9時20分、米陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊戦闘団約3,500人(司令官カニンガム准将)が館山上陸。 この館山が米軍による本土初上陸の地なのだ。

米軍上陸の地
1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリの降伏文書調印式によって第二次大戦が終わった。翌3日、カニンガム准将の率いる米陸軍第8軍約3500名が館山海軍航空隊水上半滑走台から上陸した。東京湾の入口である軍都館山は、このとき本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。

案内看板が、だいぶ薄くなってますね、、、

https://goo.gl/maps/VJ6eXCJh1acqtnpB7

むかしは、この脇の通路を抜けて、「館山海軍航空隊水上班滑走台跡」なスリップ場にも行けたのですけど、いまは行けなくなりました。

場所

https://goo.gl/maps/Uoz2GHxs4eXHLf4B7

館山湾から、館山城を望む。館山城址には砲台もあった。

散策漏れ多数なので、館山は再訪必須ですね、、、

※2023年7月


関連

「退避壕と香掩体壕」館山の海軍戦跡散策・その5

館山散策の続き。
本記事は「その5」です。

「その4」はこちらにて。


蟹田川

洲ノ埼海軍航空隊と館山海軍航空隊が隣接するエリア。
蟹田川を境としている。
今も、蟹田川を挟んで、北側が「館山航空基地」。管制塔が目印。

用水路


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M583-25
1947年10月23日、米軍撮影の航空写真。

対象エリアを拡大。
ちなみにこの場所は、洲ノ埼海軍航空隊と館山海軍航空隊とどちらに属しているのだろうか。
左下が洲ノ埼海軍航空隊、右上が館山海軍航空隊にあたる。
蟹田川にかかる橋と、用水路の区割りから、館山海軍航空隊と連携しているような気もするが。


掲揚台

掲揚台跡。


退避壕(1つ目)

畑にいくつか退避壕が見える。この写真では3つ見えています。
ここを中心部に。

いまはいずれの退避壕も半分以上埋もれているために、中に入って退避するスペースはないですね。

まずは、1つ目。


退避壕(2つ目)

覗けました。


退避壕(3つ目)


基礎跡?

なにかの基礎?もしくは塀?の跡。
コンクリート礫の具合から、往時のものと思われるが。


退避壕(4つ目)

一番、東側に残存。民家の庭先、、、
管制塔との位置関係で東側となります。


退避壕(5つ目)

こちらは、西側に残存。
管制塔からの位置関係で西側とわかるかな。

退避壕(6つ目)

どうやら6つ目もあるらしいが見逃しました、、、再訪しないと、、、

場所

https://goo.gl/maps/12gj4ahRN7f7NC428


場所は変わって。。。

香掩体壕

所在地は、千葉県館山市香。香と書いて「コウヤツ」と読む。難しい。
「こうやつ」掩体壕。
中攻(中型攻撃機・陸上攻撃機/陸攻)用の掩体壕とされている。

私有地にあたるため、近寄ることはできない。
もっとも、掩体壕はの全面から水没しているので、どのみち近寄ることはできない。

下記写真の柵の右側に、掩体壕が開口して残っている。

敷地前は水没している。さらに樹木が多くて、全容は不明。

場所

https://goo.gl/maps/vAgE6tKLgWaiUv3HA

※撮影:2023年7月


「その6」へ

「洲ノ埼海軍航空隊と射撃場跡」館山の海軍戦跡散策・その4

館山散策の続き。
本記事は「その4」です。「その3」はこちらにて。


洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M583-25
1947年10月23日、米軍撮影の航空写真。

拡大、加工。

現在の様子。


洲ノ埼海軍航空隊射撃場跡

昭和18(1943)年につくられた洲ノ埼海軍航空隊は、飛行機を整備する兵隊を教育するための航空隊であった。
洲ノ埼海軍航空隊射撃場は、この前約100mの位置に、戦闘機をおいて、機銃の調整をおこなうための的として使われていた施設の跡。
射朶が5つ並んでいる。

毎回思うのですけど、こういうところは夏はだめですよ。冬にしましょう、、、

この奥に射撃場跡がある。

場所

https://goo.gl/maps/LGRGTwJ3vB4TVQiH7


洲ノ埼海軍航空隊の碑

館山海上技術学校の裏門近くに、洲ノ埼海軍航空隊の碑がある。

昔こゝに洲ノ崎海軍航空隊あり

隣家のワンコが吠え立ててくる。。。

海軍第六期兵器整備科予備練習教程修了 四十周年を記念してこれを建てる
 昭和五十九年甲子九月十五日  
  洲ノ空六期会
   題字 館山市長 半澤 良一

場所

https://goo.gl/maps/wJovD3zuXkDEE8du6


東京湾要塞第一区地帯標

正面:東京湾要塞第一区地帯標
裏面:海軍省
左側面:第一八号
右側面:昭和十六年七月三十日建設

どこかからか、移築された模様。

この「東京湾要塞第一区地帯標」の後ろの山は、洲ノ埼航空隊関連の砲台や監視所などがあるというが、いまは繁る山に登る季節ではないので、また今度。

※撮影:2023年7月

洲ノ埼海軍航空隊は、ほかにも防火水槽跡とかあるけど、やっぱり見逃し。再訪します。。。。

「その5」へ

「赤山地下壕と宮城掩体壕」館山の海軍戦跡散策・その3

先日、「海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2023」で館山を訪れ、改めて館山の戦跡を散策したくなった私は、翌週にも館山を訪れ、いくつか気になっているところを散策してみました。

しかし、館山はいろいろありすぎる。見逃しが多すぎることが判明しているので、きっとまた行きます。。。

一部は、下記と重複します。

その2は、海自館山航空基地


館山駅

館山駅前のヤシの木は館山砲術学校正面にあったものを戦後に移植。
館山駅東口のロータリーに植えられているヤシの木が、「館山砲術学校」から移植されたものという。

西口にもヤシの木はある。

この日は、レンタサイクルで館山を移動

レンタサイクルの機動力に感謝。(また館山に行ったら使います)


赤山地下壕跡

赤山地下壕は2回目。真夏に冷を求めるのにちょうどよい。

立ち寄ってみる。

(入り口にある海軍止水弁の写真撮り忘れた、、、)

後世に伝えていきたい館山の戦争遺跡
赤山地下壕跡
東京湾の入り口にある館山は、かつて首都・東京を守る軍事的な要衝で、旧陸海軍の様々な施設が置かれていました。その中でも全長1.6kmにもなる赤山地下壕は、館山を代表する戦争遺跡です。本土決戦に向け、終戦の日まで壕の掘削が行われていたといわれています。今でもツルハシの跡が鮮やかに残っており、人の手を感じ取ることができます。赤山地下壕の吸い込まれるような美しい地層の中で、何を思って過ごしていたのでしょうね。

だいたいわかるw

館山市指定史跡 館山海軍航空隊 
赤山地下壕跡
平成17年1月27日指定
 1930(昭和5)年、海軍5番目の実戦航空部隊として、館山海軍航空隊がつくられました。それから、1945(昭和20)年の終戦までの間、館山市香(こうやつ)から沼(ぬま)にかけての一帯には、航空機の修理部品の補給などをおこなった第2海軍航空廠館山補給工場、食料・衣服・燃料などを補給した横須賀軍需部館山支庫関係の施設や、1943(昭和18)年に兵器整備の練習航空隊として開かれた洲ノ崎海軍航空隊など、さまざまな軍事施設がつくられました。
 東京湾の入り口にあることから、館山市には、海軍の施設だけではなく陸軍の砲台や、教育機関(洲ノ崎海軍航空隊、館山海軍砲術学校)など、いろいろな種類の戦争遺跡が残されています。
 このような場所は、わが国のなかでも例が少ないといわれていますが、この赤山地下壕は、合計した長さが約1.6㎞と全国的にみても大きな地下壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
 つくられた時期は、はっきりしていませんが、このような大きな地下壕が、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前につくられた例はないといわれています。
 その一方で、昭和10年代のはじめに建設が始まったという証言もありますが、当時の軍部が本格的に防空壕をつくり始めたのは、1942(昭和17)年より後であるという歴史的な事実があります。
 全国各地につくられた大規模な地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10~20m以上(長野市松代大本営の象山壕は25mであるとされていますが、この赤山地下壕は5~10mと狭い上、計画的に掘られたとは考えにくい、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後にけんせつされたのではないかと考えられています。
 アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは内部にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行ったという体験や、病院の施設があったなどの証言から、知ることができます。
 平成15年 館山市・館山市教育委員会

入壕

自力発電所跡
 この一角は、壁面がコンクリートで補強され、コンクリートの土台や、床面の鉄筋が残っています。発電所があったところで、昭和20年2月に、航空隊の正門前の変電所から移転して使用されていたということです。4気筒200馬力のディーゼルエンジンが2台、発電機が2台、変圧器が9個あったそうです。

このクボミは?その1
 変電所電気員の待機所です。右側の浅いクボミには2段式のベットがあったそうで、10人くらいが交代勤務していたとか。空襲で爆弾の振動があると、天井の土がサラサラと落ちてきたそうです。
 壕内には科(職種)ごとの居住区があったらしく、木の棚のベットがあったそうです。

このクボミは?その2
 この縦長のクボミには、電話番が腰掛けて勤務をしていたそうで、中段左右の突起にコードを巻いていたということです。左隣の窪みはトイレで、桶がおいてあったそうです。

この壕はどうのように使われたのだろう
 防衛庁防衛研究所に「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」という図面があります。太平洋戦争末期につくられたこの図面をみると、赤山地下壕跡の位置には、「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所」と記されています。天井が高い壕は、格納庫として使われたのかもしれません。

応急治療所跡
このあたりに病院施設があったという証言が聞かれます。金属の2段ベッドがあり、軽い患者が治療対象だったようです。被弾した兵士も治療をうけていたそうですが、重症者は横須賀海軍病院で治療を受けたということです。

戦後の赤山地下壕跡
 終戦後は「忘れられた存在」になっていましたが、温度が年中一定していることから、昭和30年前後頃より、キノコ栽培に使われていました。国内の他の戦争遺跡にも、戦後しばらくキノコ栽培に使われた地下壕跡があります。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどは、そのときに設置されたものです。

外が見える。

このクボミは?その3
 この部屋はがんルームとよばれていたという証言があります。少尉クラスの士官たちの部屋だったようです。奥の四角く切った大きなクボミは御真影を安置した奉安殿で、桧の板張りだったそうです。空襲のときに航空隊から御真影を移したということで、少尉クラスの士官の役割でした。

奉安殿の棚。

場所:

https://goo.gl/maps/NdvFCLhPsVeuKDM68

外へ。

赤山のみち
長い時を越えて館山の歴史を伝える
地層・隆起海岸
房総半島南部の海岸沿いは、隆起したことによる海岸段丘と海食崖が帯状に分布しています。
また、沼地区には県指定天然記念物の沼サンゴ層があります。この地層や化石から見て、縄文時代は海水面が高く、谷の奥まで広がっていたことがわかります。房総半島南部は自然に海岸線が後退しただけではなく、度々の地震によって土地の隆起が繰り返され、4つの海岸段丘が形成されました。現在もその痕跡を見ることができます。

中からもみた、外側の開口部ですね。

場所:

https://goo.gl/maps/LbepPiBj3F17JbGn8


宮城掩体壕

忘れてはいけない戦争の名残
掩体壕
東京湾入口にある館山は、かつて首都・東京を守る軍事的な要衝でした。関東大震災による隆起で、海岸線から沖ノ島と高ノ島の間が浅瀬となり、そこを埋め立てて館山海軍航空基地が設置されました。敵機から戦闘機を守るための格納庫を掩体壕といい、戦争末期に学生や住民、兵士達によって多数造られました。かつては赤山周辺だけでも10基余りありましたが、現存するのは1基のみです。この1基はここの近くにあるので、ぜひ探してみてください。

掩体壕の見学も2回目。ここの掩体壕はキレイ。

非常にきれいな内部。

奥が赤山。

場所

https://goo.gl/maps/8hmHZYry31zuUzFMA

※撮影:2023年7月


「その4」へ

「たてやま海まちフェスタ2023」船内見学会(館山)

2023年7月23日、たてやま海まちフェスタ2023が、海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2023と連動して開催されておりましたので、あわせて船内見学などを。

海自と海保と国交省の船。


水中処分母船YDT-03(海上自衛隊)

水中処分母船1号型。
YDT-03 水中処分母船3号、前畑造船で2001年3月に竣工。
横須賀水中処分隊に所属。

水中処分母船を見学するのは初めて。


PC57巡視艇たかたき(海上保安庁)

千葉海上保安部所属。
よど型巡視艇の7番艇。新潟造船。2013年2月15日就役。

神棚をみると、つい撮影してしまいます。

高滝神社は、船名の由来として理解できるが、寒川神社はなぜ?
第三管区の本部が横浜、だから?


清掃兼油回収船べいくりん(国交省)

国土交通省 関東地方整備局 千葉港湾事務所

https://www.pa.ktr.mlit.go.jp/chiba/bayclean/specs/index.html

2022年3月に就役したばかりの新造船。双胴船。ジャパン マリンユナイテッド製造。
海洋環境整備船。

神棚。熊野神社。どこの熊野さんだろう?


館山港耐震岸壁

今回の船舶一般公開の会場。海上自衛隊館山航空基地の近く。
館山城の山もよく見える。

航行中の海保ふさかぜ
(千葉海上保安部館山分室所属CL179巡視艇ふさかぜ)
体験航海

館山城と、船内公開の3隻。

※撮影:2023年7月


関連

「海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2023」館山の海軍戦跡散策・その2

海上自衛隊 館山航空基地。
2023年7月23日に、館山航空基地開隊70周年(Since1953)として「ヘリコプターフェスティバル in TATEYAMA 2023」イベントが開催された。

せっかくなので、館山に行ってみました。


館山海軍航空隊(館空)

昭和5年(1930)に館山海軍航空隊(館空)開隊。海軍航空隊としては5番目。
(横須賀・佐世保・霞ヶ浦・大村・館山)
横須賀海軍航空隊(横空)の実戦部隊が館山に移動することで「横空」は研究航空隊に特化。
昭和9年(1934)に最新鋭の中型陸上攻撃機(中攻)が開発され、館山に配備。館山ーサイパン島間2220Kmの無着陸飛行に成功している。
昭和11年に木更津海軍航空隊(木空)が開隊すると、「木空」が外戦作戦任務を担当し、「館空」は内戦作戦部隊となる。
館山の房総特有の西風を強く受ける滑走路の環境は、航空母艦の短い甲板から飛び立つ訓練に最適であり、「陸の空母」として機動部隊のパイロット養成が行われた。
開戦後の1944年(昭和19年)に、東日本の哨戒航空隊を統合した「第九〇三海軍航空隊」が館山を中心に展開され、対潜哨戒機が配備され広大な哨戒区域をカバーする事となる。

洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M583-25
1947年10月23日、米軍撮影の航空写真。

拡大、加工。

現在の様子。


海上自衛隊館山航空基地

戦後、海上保安庁海上警備隊が保安庁警備隊に改編。
1953年(昭和28年)8月、館山海軍航空隊跡地にベル型ヘリコプターが配備されて操縦訓練を開始。同年9月館山航空隊が開設。海上航空再興の第一歩として、海上自衛隊航空部隊の発祥の地ともなった。

現在は、第21航空群司令部が所在し、護衛艦艦載ヘリコプター部隊、哨戒ヘリSH-60J・SH-60Kと救難ヘリUH-60Jを運用する航空基基地となっている。


本部庁舎・号令台

数年前まで残っていた館山海軍航空隊本部庁舎は、2015年に解体され、新しい庁舎が新築された。本部庁舎と号令台、練兵場の位置関係は海軍時代と海自時代で、かわっていない。

号令台。

今回、立ち入り可能な場所が制限されており、本部庁舎周辺に近寄ることは叶わなかった。


燃料庫

管制塔

展望回廊の見学

鷹の島の方向

エプロン

沖ノ島の方向

西側

北側

東側

東南側

眺望が良いときは富士山も見えるという。


教育史料館

どうやら、基地内を再整備した際に、史料館が移設され縮小したようで。展示物に旧軍関連が皆無となっており、、、

※旧軍関係は2階にありました

第21航空群公式キャラクター
ろくまる

本部庁舎の写真

解体前の庁舎、号令台が写る。

館山航空基地の年表

南極の氷

しらせ飛行科


基地内の散策

基地内を散策。。。歩ける場所が少ない。。。
旧軍遺構っぽいものもない。。。

案内図が古い。
本部庁舎のちかくの「3」に史料館が記載あるが、史料館は別の場所に移転。かつての史料館は兵舎流用であったが、

礎石
 慶長年間、江戸城外壕の石垣用として海路仙台から24個の大石を千石船に積んで江戸に運ぶ途中暴風に遭い鷹の島の島陰にのがれたが不幸にも大浪に呑まれて沈没してしまった。昭和5年、旧海軍館山航空隊創設の際海中から引揚げられたもので皇居外壕にものと同じといわれている。
残余の石は当隊庁舎の礎石並びに鷹の島弁天の手洗石に設置されている。
 敷石は南鳥島(マーカス)の珊瑚砂である。

格納庫(第1はない、、、)

車庫


SH‐60K 飛行展示

海上自衛隊の主力ヘリであるSH-60Kによるフライト展示。

救難展示

着陸後、専用の洗浄エリアに。

洋上飛行したヘリに付着した塩分をシャワーで洗浄。
これをすることにより塩分起因のサビなどを防止し機体寿命を伸ばすことは可能。

水浴び

炎天下でみるヘリのシャワーは気持ち良い。

洗浄終了!


飲食

とりあえず、たてやま海自カレーを。

味が違うというので食べ比べ。

あと、炎天下でかなり危険なので、体内冷却を。

台湾マンゴー。すぐ溶けた、、、


保存機

2024年にすべて撤去解体されました

立入禁止エリアにある、記念碑の見学ができなかったのが残念。
 悠久之碑
 海軍航空写真分隊記念之碑
 海上航空再興之地
 海軍中攻隊之碑
 海軍落下傘部隊発祥の地
上記の記念碑があるというが。
次の公開日に拝見できるといいな、、、と。

館山の海軍戦跡はまだまだ豊富なので、どうやら足繁く通うことになりそう。。。

※撮影:2023年7月


関連

日露戦勝記念の「砲弾狛犬」(館山・長須賀の熊野神社)

以前、横浜と川崎の砲弾狛犬を特集した。その続き。

日露戦勝記念の「砲弾狛犬」(横浜・川崎)

先日、館山に赴いた際に、宿題となっていた館山の砲弾狛犬にも会ってきたので、写真を掲載。


長須賀の熊野神社「砲弾狛犬」(館山市)

千葉県館山市長須賀406に鎮座する狛犬。
前足を砲弾に乗せていますね。

明治34年(1904)から明治35年にかけて日本とロシアの間で勃発した日露戦争での戦勝記念で建立奉納されたもの。
神社において伝統的であった「狛犬」が、近代の熱狂の中で、砲弾を抱え始めたという、ひとつの時代の象徴的な姿、でもある。

椎実型砲弾を前足で抑えつけている。

銘がないため詳細じは不詳だが、大正8年(1919年)に奉納されたものという。

こちらは球型砲弾といって良いのか?

熊野神社
長須賀熊野神社の創建年代等は不詳。
明治社格制定に際しては村社に列格。

拝殿前は、普通の狛犬。

こちらは昭和17年の奉納。

※撮影:2023年7月


砲弾狛犬5社

神奈川県横浜市南区山王町5-32
 お三の宮日枝神社

神奈川県横浜市中区本牧原29-18
 吾妻神社

神奈川県川崎市中原区下小田中1-2-8
 大戸神社

神奈川県川崎市川崎区大島3ー4ー8
 八幡神社

千葉県館山市長須賀406
 熊野神社

【解体】下志津陸軍飛行学校の移築格納庫(旧千葉公園体育館)

「千葉公園体育館」は、1946年から始まった千葉市の戦災復興都市計画事業の一環として計画された千葉公園整備計画の中に組み込まれて建設が決定。
1956年に県営の体育館として竣工し、72年、千葉市に移管された。
2023年に新しい体育館が竣工し、「旧千葉公園体育館」は老朽化により廃止となり、解体されることとなった。

従来、気球連隊の格納庫が移設?ともいわれていたが、日本戦跡協会様の調査により、下志津陸軍飛行場の移築格納庫と判明した。

日本戦跡協会>千葉公園体育館が下志津飛行場の格納庫と判明

https://www.sensouiseki.com/single-post/%E5%8D%83%E8%91%89%E5%85%AC%E5%9C%92%E4%BD%93%E8%82%B2%E9%A4%A8%E3%81%8C%E4%B8%8B%E5%BF%97%E6%B4%A5%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4%E3%81%AE%E6%A0%BC%E7%B4%8D%E5%BA%AB%E3%81%A8%E5%88%A4%E6%98%8E

2023年8月15日に、解体前の最後の一般公開(お別れ会)が行われるが、8月15日に訪れることができないので、外観だけでもチラ見をしてきました。


旧千葉公園体育館

千葉市>千葉公園

https://www.city.chiba.jp/toshi/koenryokuchi/kanri/chuo-mihama/documents/kaitaikoji.pdf

旧千葉公園体育館解体前見学会
令和5年8月15日(火)10時~15時
主催:千葉市
協力:千葉市近現代を知る会、日本戦跡協会


位置関係

日本戦跡協会様の調査を踏まえて、往時の航空写真と照合をしてみる。
下志津陸軍飛行学校界隈。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R535-64
1947年11月12日、米軍撮影の航空写真を加工。

ファイル:USA-M76-22
1955年1月25日、米軍撮影の航空写真を加工。

1947年11月12日、格納庫部分を拡大。

1955年1月25日、格納庫部分を拡大。
たしかに、最南端の格納庫が1棟なくなってますね。

ファイル:USA-M316-81
1956年2月8日の千葉公園界隈の航空写真。
1956年に竣工した体育館が、どうみても「格納庫」感にあふれていますね。。。


下志津陸軍飛行学校

以下にて。

今回は、外観だけの散策でしたが、ささやかな記録として。
※撮影:2023年8月


関連

軍都佐倉の戦跡散策・その2(佐倉陸軍墓地跡と歴博)

千葉県佐倉市。佐倉市を代表する「佐倉城址」は、佐倉城址公園や国立歴史民俗博物館などとなっているが、戦前は「佐倉聯隊」(歩兵第2聯隊・歩兵第57聯隊)の兵営地であった。

佐倉は、行こう行こうと思って2022年5月に戦跡散策を実施、そこで時間切れや散策漏れなどがいろいろあって2023年1月に再訪。写真が夏だったり冬だったりするのは、そのためです。
特に一日で、佐倉城址の散策と、歴博の見学を一気にやろうとしてはダメです。
歴博だけで、真面目に見学すると、歴史好きなら一日を消費します。

本記事は、「その2」となります。
その2では、佐倉城址以外の話題を軸にします。

その1は、こちらにて


忠霊塔(佐倉陸軍墓地跡)

佐倉市役所の駐車場奥に忠霊塔がある。
この場所が、かつての佐倉陸軍墓地であるという。

忠霊塔
ここには、過去の戦争による戦没者の遺骨・遺品が安置され、一万有余の御霊が祀られております。
 印旛郡市町・八千代市
  遺族会

平和之礎

合掌

佐倉霊園

傷痍軍人 顕彰碑

昭和36年1月 印旛地区傷痍軍人会 建立

佐倉市役所

場所

https://goo.gl/maps/Cw4Pgvb4ZTsaFAJ29


児玉源太郎旧宅跡

往時の土塁と生垣が残る。
佐倉藩の上中級の武家屋敷があつまっていたエリア。

この地には、佐倉連隊長の借家がありました。児玉源太郎(後の大将)は、佐倉歩兵第2連隊長として、1880(明治13年)から1885(明治18)年までこの地に住んでいました。
佐倉において中佐から大佐へ昇進しています。陸軍の演習において、児玉が佐倉歩兵第2連隊長として佐倉の兵を率い、乃木希典(後の大将)率いる東京の第1連隊を奇襲によって破ったというエプソードは大変有名です。江戸時代から続く土塁と生垣は、児玉の借家の時代にも存在しており、往時の面影を今に伝えています。

※児玉源太郎 嘉永5(1852)年~明治39(1906)年
旧陸軍軍人。箱館戦争、佐賀の乱へ従軍後、明治9(1876)年には神風連の乱を鎮圧する。台湾総督を勤める。日露戦争(明治37(1904)年~明治38(1905))全体の戦略を立案した人物である。実際の戦闘指揮だけでなく、戦費の調達、アメリカの仲立による講和の画策、帝政ロシアへの革命工作などを行っている。戦争遂行に己のすべてを注ぎ込んだためか、日露戦争終戦後しばらくして亡くなっている。

場所

https://goo.gl/maps/27BjD7DJKYVvEPat7


成徳書院跡

佐倉市民体育館の近く。かつて佐倉上大手門あったあたり。

佐倉藩校があった。

場所

https://goo.gl/maps/KQ7DYFspwptuLNP29


西村勝三翁像

銅像があるなと思って、近寄ってみましたら「西村勝三さん」でした。
「明治の工業の父」「製靴業の祖」
佐倉でした、そういえば。

以下も参照

西村勝三翁の業績
 この地を下った所には、曽て佐倉藩の士魂を磨いた「成徳書院」の武道場があった。
その武道場を、断乎改造して、製靴の業を教えたのが、西村茂樹(1828~1902)・勝三(1836~1907)の兄弟である。
大塚岩次郎(大塚製靴創始者)もここでその業を習った一人であった。
時に明治4年7月であり、この月には「廃藩置県令」が出されている。
佐倉藩の士族授産行政は、この様にまさに間髪を入れぬ素早さと、先見に富んだ大胆なものであった。
茂樹は当時佐倉藩大参事であり、勝三はその前年3月15日日本初の製靴工場を築地入船町5丁目1番地に建てていた。
 父西村芳郁は、成徳書院の前身「温故堂」の頭取となり、又支藩佐野藩への附家老も勤めた有能の士で、母楽子は、佐倉藩士荒井宗輝の長女であった。
 勝三は初め佐野藩の禄を喰んだが、安政3年(1856)脱藩し、その後武士も捨てて、佐野の豪商正田利右衛門と横浜に出て貿易に従事した。
やがて明治2年(1869)大村益次郎から製靴をすすめられ、弟の綾部平輔と製革製靴事業創始を決意して断髪した。
断髪令に先立つこと2年であり、この決意に感動して、高見順は「日本の靴」を著したほどである。
 勝三翁の創業は「伊勢勝製靴場」といったが、その後「桜組」と改称、更に大同合併して皮革は「日本皮革株式会社」、靴は「日本製靴株式会社」として今日の大をなす源となった。
 翁は又、正田利右衛門から製鉛法の研究を託され、それが耐火煉瓦の研究となり、明治8年「伊勢勝白煉瓦製造所」に結実し、之が後「品川白煉瓦株式会社」となり、今日の盛業を見るに至った。
本碑及び像周辺の煉瓦は、特に寄贈された同社製の耐火煉瓦である。
 翁は又、ガス・ガラス・靴下・洋服等々の事業も手がけ、夫々の業界の先達と仰がれている。
 この様に勝三翁の生涯は、日本工業の創業の苦闘の歴史そのものであった。
 翁の無二の理解者であり、且つ最大の協力者であった渋沢栄一は「西村翁はいつも国益を優先し、自己の利害を顧みず、百難を排して日本の工業を創始した。」と、その士魂商才の面目を絶賛している。

場所

https://goo.gl/maps/kqth9g9kFWquEtSs7


浜野昇と済生病院

佐倉の藩医の出身であった浜野昇。陸軍軍医として西南戦争に従軍したのちに、佐倉で市立病院を開業。第一回衆議院委員選挙で全国唯一の医学士・医師としての初めての衆議院議員であった。

場所

https://goo.gl/maps/DnXxbnnvrTBc2o6g8


国立歴史民俗博物館

言わずとしれた「歴博」。歴史を俯瞰的に見ると充実しすぎて1日あっても足りませんし、見どころ多数ですし、原始宗教としての民俗史として見るべきものも多数ですが、佐倉の連隊、佐倉の陸軍に関する展示もありますので、ここも足を運んでおくべきかと。歴博、やばいですね、好きです。

近現代。
(民俗学のコーナーもありますし、歴史学だって時系列にそった展示は興味深く、全部紹介したいぐらいではありますが、逸脱してしまうので、ここでは、それ以外は省略します。。。)

佐倉兵営

忠霊塔の建設要領
中身が気になります。。。

B29ですね。

横浜の赤レンガの模型も

国産第一号機関車の話。

昭和の街並み再現も。

場所

https://goo.gl/maps/8riCuYwbTwnXv9wf6

佐倉城址に点在する戦跡は「その1」にて。

※撮影:2022年5月及び2023年1月


軍都佐倉の戦跡散策・その1(歩兵第二聯隊佐倉兵営跡地散策)

千葉県佐倉市。佐倉市を代表する「佐倉城址」は、佐倉城址公園や国立歴史民俗博物館などとなっているが、戦前は「佐倉聯隊」(歩兵第2聯隊・歩兵第57聯隊)の兵営地であった。

佐倉は、行こう行こうと思って2022年5月に戦跡散策を実施、そこで時間切れや散策漏れなどがいろいろあって2023年1月に再訪。写真が夏だったり冬だったりするのは、そのためです。
特に一日で、佐倉城址の散策と、歴博の見学を一気にやろうとしてはダメです。
歴博だけで、真面目に見学すると、歴史好きなら一日を消費します。

本記事は、「その1」となります。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1828-72
1948年9月26日、米軍撮影の航空写真を加工。

上記から佐倉城址界隈を切り抜きし、画像を回転。
本丸を上にしてみる。

下図は佐倉連隊跡関連位置図。
上記の航空写真と位置合わせ。

みてのとおり、「佐倉連隊跡関連位置図」という便利な案内看板が随所にあります。戦跡散策も快適ですね。


佐倉連隊案内図

これは、歴博の入口正面、愛宕坂の下に。

明治7年、日本最初の軍隊歩兵第二連隊が佐倉に駐屯し、多くの部隊が編成・訓練され、西南戦争、日清・日露戦争にこの地から出生されました。明治42年には、第二連隊にかわって歩兵第五七連隊が移転し、昭和19年のフィリピン戦で多くの命が失われ、壊滅しました。


佐倉兵営跡の碑

散策順は、番号順ではなく。
なぜなら、佐倉城の大手門から、入城したので、番号順に散策するのが困難だったのです。番号は、歴博からの順路、ですね。

佐倉兵営跡の碑
佐倉市城址公園自由広場の南側にある。昭和41年に建立、現在地に移ったのは歴博建設後。題字は連隊長をつとめた今村均陸軍大将の書。

今村均は、陸士19期、陸大27期首席。最終階級は陸軍大将。
1932年4月、佐倉の歩兵第57連隊長を拝命している。
開戦時は、蘭印作戦を指揮。
昭和17年意向は、ラバウルの第八方面軍司令官として陸軍を統率し、海軍の草鹿任一中将以下の南東方面艦隊と共に、終戦まで孤立する中でラバウルを維持している。

佐倉兵営跡
 元聯隊長 今村均謹書

歴代聯隊長名(23代目まで)が、裏面に刻まれています。
今村均は、第17代聯隊長。

歩兵第二聯隊長佐倉兵営全図
「佐倉兵営跡の記念碑」は昭和41年に旧佐倉57連隊本部跡付近に設置されたものです。
国立歴史民俗博物館が明治100年記念事業として建設されるにあたり昭和51年5月ここに移設しました。

皇紀二千六百年奉祝記念

桜 壱百本
躑躅 参拾本

明治天皇御駐蹕記念碑
 陸軍大臣 林銑十郎 敬書

背面は、削られていました。。。

 こゝは、旧佐倉城二乃丸の入口で連隊になってからは、この前後に連隊本部及び兵舎十数棟があった。佐倉城は土井利勝が、徳川家康の命により、元和3年(1617年)完成以後延享3年(1746年)以来堀田氏の所領したものであるが、明治6年ごろ(1813年)建造物はすべて取りこわされた。同7年歩兵第2連隊がおかれた。後、明治42年第1師団歩兵第57連隊となり、以来昭和20年(1945年)8月15日まで、千葉県一円を徴兵区と定められ、名実共に房総健児練武乃地であった。
 この間、西南、日清、日露、欧洲大戦、関東大震災、日支事変、大東亜戦争と数多く乃国難におもむき常に師団最強の部隊として郷土の信頼にこたえた。
 本連隊乃主力は、昭和11年乃2.26事件以来満洲に移駐し、同19年7月まで、孫呉において、ソ満国境の警備に当たったが、同年11月フィリッピン乃レイテ島に転進し、宮内連隊長の下、物量を誇る米軍と50日にわたり激戦し玉砕した。こ乃内第3大隊はグアム島において奮戦した。
 別に第57連隊を母胎として動員編成された歩兵第157連隊は、昭和12年9月より福井部隊(後に南部、赤松)として上海に上陸、大場鎮、杭州、廬山、修水、南昌、高安、江南の中支戦線において活躍し、又別に歩兵第212連隊は、山口(信)部隊として昭和14年4月より中国山東省、山西省において房総健児の勇名を輝かせた。
 このたび連隊関係有志相語らい、軍旗の下に祖国乃ため散華せられた方ゝ乃御めい福を祈り兵営跡が永久の平和公園としてよみがえる事を祈念し佐倉連隊乃いわれを伝えるものである。
 昭和41年10月吉祥日

皇太子殿下御野立所

明治44年5月21日

大将5年5月21日建設

ちかくに空堀

場所

https://goo.gl/maps/JCHfCL8VCDuxjxj19


車道の碑

車道の碑
大正9年建立。兵営と大手門とを直通させる新道の完成記念碑。連隊への物資搬入のため、佐倉城時代の不便を解消しました。

第1師団経理部員の名前が刻まれていた。
大正9年8月の銘あり。

場所

https://goo.gl/maps/JzzfBtg1UqF4wJEy7


旧佐倉連隊脂油庫

旧佐倉連隊脂油庫
旧陸軍(歩兵第五十七連隊等通称佐倉連隊)が小銃、機関銃等の手入れ用の油を保管していた倉庫です。
この倉庫は、昭和9(1934)年発行の「営内配置図」においてその存在を確認することができます。昭和20(1945)年の終戦まで使用されていたと推定されます。
佐倉連隊のうち歩兵第57連隊は、その一部が昭和19(1944)年8月にグアム島にて壊滅(玉砕)しました。また主隊は、同年11月のフィリピンレイテ戦でその大部分を失い、セブ島にて終戦を迎えました。
佐倉連隊の戦争遺構として大変貴重です。
※油脂庫ともいいますが、、「営内配置図」においては『脂油庫』と記載されております。

場所

https://goo.gl/maps/hWzbZwHMVHTx4TdW9


弾薬庫の跡

弾薬庫の跡
姥が池西側坂道を登った奥の窪地にあった。万一の爆発に備えた土手や建物に使われたコンクリートの一部が残されています。

場所

https://goo.gl/maps/UK2ru9Xboejt5RTo6


姥が池

佐倉城址に古くある池。伝説も多く残っている。


訓練用の12階段

訓練用の12階段
兵士が高所からの飛び下り訓練に使用したコンクリート製の階段。木製の飛び下り台と違い、壊すのが大変なため、戦後も残ったと考えられます。

場所

https://goo.gl/maps/uYanydKxvTkJ4Uyx9


軍犬・軍馬の墓

軍犬・軍馬の墓
軍曹安藤一能が建てた軍犬房号之墓(昭和7年)、近衛歩兵第五連隊第二機銃隊が建てた軍馬北盤之墓(昭和18年)が並んで立つ。連隊の敷地内には、犬舎・鳩舎・厩舎がありました。

場所

https://goo.gl/maps/DHHZSfCMVinQWkLE6


佐倉陸軍病院跡

佐倉陸軍病院跡
創設は明治7年。佐倉屯営病室・佐倉営所病院・佐倉衛戍病院・佐倉陸軍病院と名称が変遷した。昭和40年代までテラスを配した洋風病棟が残っていました。

場所

https://goo.gl/maps/eZ3zguDiqA1ijDf27


東京鎮台佐倉営所病院跡の碑
(東京鎮台佐倉営所病院記念碑)

明治・大正・昭和・平成の
 四世に亘る
  佐倉醫のこころ 
   茲に遺す 
    仁の心を腎に

病院・療養所の変遷
明治 7年 5月 
 東京鎮台佐倉営所病院として創設される
明治20年11月
 佐倉衛戍病院となる
昭和11年11月
 佐倉陸軍病院となる
昭和20年 8月
 軍事保護院佐倉病院となる
昭和20年12月
 国立佐倉病院となる
昭和25年 4月
 国立療養所佐倉病院となる
昭和28年 4月
 国立佐倉療養所となる
昭和52年 4月
 腎不全対策の基幹施設 
 腎移植センターとして機能付与される
昭和54年 4月
 国立佐倉病院となる
 江原台に移転する
平成16年 3月
 国立病院・療養所再編計画により
 国立千葉東病院に経営統合される

記念碑の建立に際して
 この地には、かつて病院が存在しておりました。当時の建物は、国立歴史民俗博物館の建設に伴いすべて解体され、元の敷地に残る樹木にのみ往時を偲ぶことができます。
 この病院は、戦前戦後の百年余りにわたり、国策や社会動向と密接不離に変転し続ける舞台となり、その軌跡は今も多くの人々の記憶に刻まれています。
 私たちは、佐倉城跡に連綿と息づいた病院の歴史を将来に語り継ぐ為、多くの方々のご支援をいただき記念碑を建立致しました。
 平成19年3月
  東京鎮台佐倉営所病院記念碑建立事業実行委員会建之

病院時代の往時を偲びし樹木。

場所

https://goo.gl/maps/E5uXPwtkyDFJxkFC9


佐倉城の礎石(兵舎の礎石)

あたりまえですが佐倉城の史跡もあります。

佐倉上の礎石
 昭和59、60年(1984、1985)国立歴史民俗博物館の研究棟を建設するために、同敷地を発掘調査し、旧陸軍の営所跡を検出した。
 兵舎跡の基礎には、大量の石が詰めてあったが、主柱の建つ位置には佐倉城の礎石を埋め込んでいた。
 佐倉上は、江戸時代初期の元和年間(1610年代)に土井利勝がこの地に築いた城である。明治時代初期(1873)に同じ場所に陸軍の営所をおく際に、佐倉城の建物は取り壊し、その基礎を兵舎の基礎に転用したのである。

場所

https://goo.gl/maps/w2tKMjtfpZgwpCad8


兵士が文字を彫り込んだモッコク

兵士が文字を彫り込んだモッコク
本丸跡にある県指定天然記念物。幹に「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが掘られています。

あっ、わかりますね。

「昭十八年十月」「砲隊」って、いまでも刻んだ跡が残っています。

場所

https://goo.gl/maps/xoxBfQqQYisVqYsx6


佐倉城天守跡

場所:

https://goo.gl/maps/kEgemPL2LBB3X9g59


土塁

場所

https://goo.gl/maps/C9Coo6mMyDkNE1Gn7


兵営の便所跡

兵営の便所跡
雨天休憩所近くに土台のみが残る。江原新田では連隊と契約し、下肥・馬糞の払い下げを受け、汚物掃除を担当していました。

これは、良い感じに、残ってますね。

往時は、なかったであろう樹木も、戦後七十年以上ともなれば、コンクリートを破壊する根力でもって、存在感をアピール。

樹木の力って凄いなを実感。。

ここは、良いですね。写真を撮り続けてしまいます。

場所

https://goo.gl/maps/d2jRzP7Dkivfnp9L8


佐倉城馬出跡

場所

https://goo.gl/maps/hoabJzFtnN9LMrZz8


椎木曲輪(侍屋敷)【兵舎跡】

椎木曲輪(侍屋敷)
 歴博があるのは「椎木曲輪」と呼ばれる侍屋敷地区で、連隊時代は兵舎がありまいsた。歴博駐車場も侍屋敷の跡で、外側には「杉坂」と呼ばれる坂や秋葉神社がありました。


円勝寺跡・愛宕神社跡

円勝寺跡・愛宕神社跡
 円勝寺は城内にあった真言宗の寺院でしたが、明治の廃仏毀釈で消滅しました。奥には愛宕神社があり、田町の氏神でもありましたが、連隊建設後は立ち入りが禁止されたため、移転しました。

場所

https://goo.gl/maps/8x6kXFbi4VvpUCw39


衛兵所跡

衛兵所跡
 ここに常に衛兵が立ち、連隊に出入りする者を監視していました。

場所

https://goo.gl/maps/rRdXy23TxMVGNmBd6


田町門跡・愛宕坂

田町門跡・愛宕坂
 成田街道に沿った城下町の一部「田町」から城内への門で、門の裏手に番所がありました。現在歴博のある場所は椎木曲輪と呼ばれ武家屋敷がありました。田町から現ザウ歴博のある椎木曲輪へ上がる坂は、愛宕神社の下にあるため「愛宕坂」と呼ばれていました。現在の歴博入口は連隊建設の際にまっすぐに出入りできるよう変更されたものです。

歴博正面

佐倉連隊跡&佐倉城址&歴博、これは面白い良いですよ。戦跡散策の入門編としてもおすすめ。

※撮影:2022年5月及び2023年1月


関連

第二連隊は、水戸に。。。

佐倉界隈

「下志津駐屯地・高射学校 観桜開放」下志津陸軍飛行学校跡地散策(2023)

かつて「下志津原」と呼ばれていた平坦な土地には、佐倉藩の射撃場から発展した陸軍の射撃場が広がり、そして「陸軍砲兵射的学校」があった。

そして、共同訓練を行っていた「下志津陸軍飛行学校」もあった。

陸軍砲兵射的学校は、のちに四街道に移動し、「陸軍野戦砲兵学校」となる。

そして、下志津原を活用すべく近くには、航空学校が開設される。
「下志津陸軍飛行学校」では、射撃観測などで、砲兵との連動訓練などを実施することもあり、「陸軍野戦砲兵学校(野砲兵校)」が近くにあることは多くのメリットがあった。


下志津陸軍飛行学校

主に空中偵察に関する各種の教育と研究を行った陸軍の学校。

明治45年(1912)に、日本陸軍は飛行機操縦者の教育を国内で本格的に開始する。
当時は、国内唯一の航空関係部隊であった所沢の飛行試験場の気球隊での教育から始まった。
大正4年(1915)に常設部隊として所沢に「航空大隊」が創設。

大正8年、「陸軍航空学校」が所沢に開設。フォール大佐を長とするフランス航空団が航空教育を指導。
航空偵察観測は、砲兵との連携が重視されたために、陸軍野戦砲兵学校と下志津陸軍演習場にて航空教育を実施。
大正10年(1921)4月、「陸軍航空学校」は、所沢を本校に、空中偵察訓練がすでに実施されていた「千葉の下志津」に分校を設置。
陸軍航空学校下志津分校」が開設される。

「下志津分校」は砲兵の連携に最適な環境ではあったが、所沢の陸軍航空学校本校とは離れており、本校分校との連携には難儀があった。
大正13年(1924)5月、陸軍航空学校が再編となり、「所沢陸軍飛行学校」、「下志津陸軍飛行学校」(偵察等)、「明野陸軍飛行学校」(空中戦闘等)の3校が設立された。

昭和11年(1936)に、下志津陸軍飛行学校銚子分教場を設置。

銚子の戦跡散策

昭和13年(1938)7月、「水戸陸軍飛行学校」が新設され、通信関連の教育や幹部候補生教育は、水戸に移管となった。

昭和16年(1941)3月に、下志津陸軍飛行学校八街分教所を設置。
昭和19年(1944)には、広島市の吉島にも分教所が設置されていた。

下志津教導飛行師団

戦局の悪化とともに、下志津陸軍飛行学校も教育機関から防空戦闘機関に移行となり、教育と作戦行動が並行するようになり、昭和19年6月に下志津陸軍飛行学校は閉鎖。下志津教導飛行師団に改編となった。

昭和20年7月には、下志津教導飛行師団は教育部隊と作戦部隊の分離改編がおこなわれ、教育部隊は「教導飛行師団 第5教導飛行隊」となった。そして作戦部隊として「教導飛行師団 第1・第2独立飛行隊」が編成された。
昭和20年8月15日、終戦。

陸上自衛隊下志津駐屯地(陸上自衛隊高射学校)

昭和30年(1955)、陸上自衛隊下志津駐屯地が開設。陸上自衛隊高射学校も設置されている。
下志津駐屯地司令は、高射学校長が兼任している。


下志津陸軍飛行学校の遺構

※移築格納庫 解体済み

格納庫と便所


下志津陸軍飛行学校跡地散策

下志津駐屯地の観桜一般公開がありましたので、足を運んできました。
良い感じに桜が満開です。かなりの雨でしたが。。。

下志津陸軍飛行学校の歩哨舎(門柱)

平成23年に正門改修工事が行われている門柱(手前)。
かつては下志津陸軍飛行学校の「歩哨舎」であった。
歩哨舎の外観を生かして、内部空間を塞いで、近年に「門柱」としたようだ。

陸上自衛隊 下志津駐屯地

高射学校

駐屯地観桜開放のお知らせ

雨天中止しなくて良かったです!

桜散策コースガイド

正門から右側のみ見学可能。「桜メイン」の開放ですから。
左側にも行きたかったが。

いくつか記念碑が集まっています。

下志津陸軍飛行学校跡碑

下志津陸軍飛行学校跡

菅原道大 の揮毫
昭和41年5月建立

菅原道大は、水戸つばさの塔も揮毫していました。

下志津陸軍飛行学校跡碑の裏面

下志津は所沢明野と共に陸軍航空揺籃の三大基地であった
大正8年偵察観測班創設以来分校より下志津飛行学校〇〇成長し大東亜戦争熾烈化に伴い教育師団となり次で第五教育飛行隊の基地として終戦を迎えたこの間二十有六年教育せし学生総数実に四千五百九十四名の多きに達するの功績を遺した
 昭和四十一年五月
  第八代校長 菅原道大

菅原道大は、陸軍中将。
大正14年(1925年)に菅原は陸軍航空科へ転科し航空少佐として飛行第6聯隊に着任。
昭和6年(1931年)、「下志津陸軍飛行学校教官
昭和14年12月に、「下志津陸軍飛行学校長」
昭和16年(1941年)、開戦時は第3飛行集団長。マレー作戦の航空作戦を指揮。
昭和17年7月、新設された第3航空軍司令官に着任。ビルマ航空戦を指揮。
昭和18年5月、内地に帰還し陸軍航空士官学校長に着任。
昭和19年3月、航空総監部次長。7月には、航空総監兼航空本部長を拝命。12月、第6航空軍司令官。沖縄方面の航空作戦の責任者として、海軍の戦艦大和の菊水作戦の支援や、指揮下の義烈空挺隊の義号作戦の指揮を執ることとなる。
昭和20年8月15日、終戦。
海軍の九州方面の航空責任者であった宇垣纏が沖縄に特攻出撃する中で、陸軍の九州方面の航空責任者であった菅原のもとにも部下たちが最後の特攻出撃を申し出る中で、「陛下の終戦玉音を拝聴した後は、余は一人の兵士も殺すわけにはゆかぬ。皆、おとなしく帰れ」と部下を諭している。
海軍側の宇垣纏中将、大西瀧治郎中将が亡き後、陸軍側の責任者とて、自決することを断念し、特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決意。
「特攻平和観音奉賛会」を設立し、「特攻平和観音像」「知覧特攻平和観音像」「知覧特攻観音堂」を建立している。

古河内貞一先生碑

陸上防空の慈父
古河内貞一先生碑

FATHER OF ELPASO

古河内貞一は、戦前に海外で活躍した医師。メキシコ国境に近い米国テキサス州エルパソに1924年に医院を開業し、戦前戦後を通じ、民間領事といわれるほど日、墨米人間に絶大な信頼があり慈父と慕われた人物。

古河内先生略歴
明治20年 千葉市寒川町に生まる
大正12年 渡米 テキサス州率医科大学にて研修
大正13年 テキサス州エルパソ市において開業 爾来市民に広く仁愛の恵を施し市民慕いて慈父と敬う
昭和30年 以降留学自衛隊員の誘致指導に尽力
昭和35年 日米親善の功績により日本政府から勲四等瑞宝章を受く
昭和35年 産業発展等の功により大日本農会から緑白綬章を受く
御高徳を讃え昭和40年7月これを建つ

第一ロケット実験訓練隊記念之碑ほか

第一ロケット実験訓練隊記念之碑

第一ロケット実験訓練隊は、防空装備近代化の一環として昭和34年12月に新設。昭和43年夏に高射学校の改編に伴い廃止。
石碑は廃止となった昭和43年8月の建立。

8H編合記念
第309射撃中隊
 昭和51年8月1日

記念
第123特科大隊

第123特科大隊は、昭和34年創設、昭和45年廃止。

広報史料館

広報史料館

入れませんでしたが、非常に興味深いものが入口の前に展示してありました。

三式12糎高射砲

三式12糎高射砲
 三式12cm高射砲は、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)にアメリカのB29爆撃機に対抗するために高度10,000mまで届く高射砲として量産化され、約120門製造された。
 本高射砲は、当時陸軍の対空兵器として多大な期待がかけられ、試作から量産までを担当した㈱日本製鋼所の功績は高く評価された。
 その後、本高射砲の出現によりB29爆撃機が更に高高度を飛行するようになり、陸軍はそれに対抗して15cm高射砲の開発に着手することとなった。
 本砲身は、2008年1月横浜市・子安台公園で横浜環状北線の土壌調査中に出土したものであり、現存する唯一の方針である。

前面

背面

99式8糎高射砲

由来書
 「京阪地区」昭和3年から軍官民の総合防空訓練を定期的に行うなど平素から防空について関心が高かったが昭和16年11月中部防空旅団が編成完結し以来、質、量ともに増強され第2次大戦末期には高射第3師団が展開配置されていた。
 この高射砲は発見された一(神戸市生田区)から見て神戸地区の防空に任じていた。
 高射砲第12連隊又は高射砲第123連隊の主力火砲であり99式8糎高射砲12門中の1門であると推定される。

25ミリ機関砲

25ミリ機関砲
 この機関砲は、第2次世界大戦の末期(20.4.1~20.6.23)沖縄本島の防衛に当たったものである。
 沖縄首里西方真嘉比、安里、天久台地区及び大名方面等で活躍し、特に天久台地区の激戦で一角を固守する独立第2大隊機関砲第103大隊(大隊長 苧坂清治少佐 千葉で編成 19.7.20 第62師団に編入)は、よく奮戦し沖縄の防衛に活躍した大隊装備の25ミリ機関砲の一門である。
 この機関砲は沖縄首里東側の大名附近で発見したもので昭和48年8月 第101不発弾処理隊によって発掘したものである。

この砲身は、なんだろう?

野外展示。こちらは陸自時代ですね。

75mm高射砲(M51)

40mm自走高射機関砲(M42)

35mm2連装高射機関砲(L-90)

地対空誘導弾改良ホーク

下志津のつつじ

毎年、4月29日に下志津駐屯地創設記念行事「つつじ祭り」が開催。

右が桜の開放エリア。

左は立入禁止。。。

グランドの隅に。

天皇の松

天皇の松

天皇の松の由来
この松は今上天皇が皇太子当時大正11年五月旧下志津飛行学校の開校式に行啓の際将校集会所の前庭(現位置より東百米)に記念植樹された由緒ある松であり昭和49年2月11日に移植し「天皇の松」と命名し末永く保存することになったものである。
 昭和54年10月吉日

グランド

通信鉄塔

通信鉄塔がシンボルになってますね。

高射学校本部庁舎

理想を持て
勇気を持て
前進せよ
 昭和42年6月
 福富繁書

福富繁
陸軍としては、陸大56期、陸軍少佐で第28軍参謀。
戦後は、陸将、第4代の陸上自衛隊高射学校長。


下志津駐屯地の観桜開放

ここからは観桜を。写真で。

医務室

下志津厚生センター(体育館)
トイレと売店はこちら

迷彩の真価を発揮する溶け込み具合。

立ち入りできないエリアも多く、古そうな建物観察とかはできませんでした。

通信鉄塔と桜

雨がすごかったので、人出はまばら。
逆にゆっくり見学できたのは良かったですね。
4月29日の「つつじ祭り」にも足を運びたいと思いつつ。

撮影:2023年3月25日