「赤山地下壕と宮城掩体壕」館山の海軍戦跡散策・その3

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先日、「海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2023」で館山を訪れ、改めて館山の戦跡を散策したくなった私は、翌週にも館山を訪れ、いくつか気になっているところを散策してみました。

しかし、館山はいろいろありすぎる。見逃しが多すぎることが判明しているので、きっとまた行きます。。。

一部は、下記と重複します。

平成28年4月 ・館山海軍航空隊跡   赤山地下壕  掩体壕  水上班滑走台跡(米軍上陸の地)・第二海軍航空廠館山補給工場跡・安房神...

その2は、海自館山航空基地

海上自衛隊 館山航空基地。2023年7月23日に、館山航空基地開隊70周年(Since1953)として「ヘリコプターフェスティバル in ...

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館山駅

館山駅前のヤシの木は館山砲術学校正面にあったものを戦後に移植。
館山駅東口のロータリーに植えられているヤシの木が、「館山砲術学校」から移植されたものという。

西口にもヤシの木はある。

この日は、レンタサイクルで館山を移動

レンタサイクルの機動力に感謝。(また館山に行ったら使います)


赤山地下壕跡

赤山地下壕は2回目。真夏に冷を求めるのにちょうどよい。

立ち寄ってみる。

(入り口にある海軍止水弁の写真撮り忘れた、、、)

後世に伝えていきたい館山の戦争遺跡
赤山地下壕跡
東京湾の入り口にある館山は、かつて首都・東京を守る軍事的な要衝で、旧陸海軍の様々な施設が置かれていました。その中でも全長1.6kmにもなる赤山地下壕は、館山を代表する戦争遺跡です。本土決戦に向け、終戦の日まで壕の掘削が行われていたといわれています。今でもツルハシの跡が鮮やかに残っており、人の手を感じ取ることができます。赤山地下壕の吸い込まれるような美しい地層の中で、何を思って過ごしていたのでしょうね。

だいたいわかるw

館山市指定史跡 館山海軍航空隊 
赤山地下壕跡
平成17年1月27日指定
 1930(昭和5)年、海軍5番目の実戦航空部隊として、館山海軍航空隊がつくられました。それから、1945(昭和20)年の終戦までの間、館山市香(こうやつ)から沼(ぬま)にかけての一帯には、航空機の修理部品の補給などをおこなった第2海軍航空廠館山補給工場、食料・衣服・燃料などを補給した横須賀軍需部館山支庫関係の施設や、1943(昭和18)年に兵器整備の練習航空隊として開かれた洲ノ崎海軍航空隊など、さまざまな軍事施設がつくられました。
 東京湾の入り口にあることから、館山市には、海軍の施設だけではなく陸軍の砲台や、教育機関(洲ノ崎海軍航空隊、館山海軍砲術学校)など、いろいろな種類の戦争遺跡が残されています。
 このような場所は、わが国のなかでも例が少ないといわれていますが、この赤山地下壕は、合計した長さが約1.6㎞と全国的にみても大きな地下壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
 つくられた時期は、はっきりしていませんが、このような大きな地下壕が、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前につくられた例はないといわれています。
 その一方で、昭和10年代のはじめに建設が始まったという証言もありますが、当時の軍部が本格的に防空壕をつくり始めたのは、1942(昭和17)年より後であるという歴史的な事実があります。
 全国各地につくられた大規模な地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10~20m以上(長野市松代大本営の象山壕は25mであるとされていますが、この赤山地下壕は5~10mと狭い上、計画的に掘られたとは考えにくい、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後にけんせつされたのではないかと考えられています。
 アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは内部にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行ったという体験や、病院の施設があったなどの証言から、知ることができます。
 平成15年 館山市・館山市教育委員会

入壕

自力発電所跡
 この一角は、壁面がコンクリートで補強され、コンクリートの土台や、床面の鉄筋が残っています。発電所があったところで、昭和20年2月に、航空隊の正門前の変電所から移転して使用されていたということです。4気筒200馬力のディーゼルエンジンが2台、発電機が2台、変圧器が9個あったそうです。

このクボミは?その1
 変電所電気員の待機所です。右側の浅いクボミには2段式のベットがあったそうで、10人くらいが交代勤務していたとか。空襲で爆弾の振動があると、天井の土がサラサラと落ちてきたそうです。
 壕内には科(職種)ごとの居住区があったらしく、木の棚のベットがあったそうです。

このクボミは?その2
 この縦長のクボミには、電話番が腰掛けて勤務をしていたそうで、中段左右の突起にコードを巻いていたということです。左隣の窪みはトイレで、桶がおいてあったそうです。

この壕はどうのように使われたのだろう
 防衛庁防衛研究所に「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」という図面があります。太平洋戦争末期につくられたこの図面をみると、赤山地下壕跡の位置には、「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所」と記されています。天井が高い壕は、格納庫として使われたのかもしれません。

応急治療所跡
このあたりに病院施設があったという証言が聞かれます。金属の2段ベッドがあり、軽い患者が治療対象だったようです。被弾した兵士も治療をうけていたそうですが、重症者は横須賀海軍病院で治療を受けたということです。

戦後の赤山地下壕跡
 終戦後は「忘れられた存在」になっていましたが、温度が年中一定していることから、昭和30年前後頃より、キノコ栽培に使われていました。国内の他の戦争遺跡にも、戦後しばらくキノコ栽培に使われた地下壕跡があります。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどは、そのときに設置されたものです。

外が見える。

このクボミは?その3
 この部屋はがんルームとよばれていたという証言があります。少尉クラスの士官たちの部屋だったようです。奥の四角く切った大きなクボミは御真影を安置した奉安殿で、桧の板張りだったそうです。空襲のときに航空隊から御真影を移したということで、少尉クラスの士官の役割でした。

奉安殿の棚。

場所:

外へ。

赤山のみち
長い時を越えて館山の歴史を伝える
地層・隆起海岸
房総半島南部の海岸沿いは、隆起したことによる海岸段丘と海食崖が帯状に分布しています。
また、沼地区には県指定天然記念物の沼サンゴ層があります。この地層や化石から見て、縄文時代は海水面が高く、谷の奥まで広がっていたことがわかります。房総半島南部は自然に海岸線が後退しただけではなく、度々の地震によって土地の隆起が繰り返され、4つの海岸段丘が形成されました。現在もその痕跡を見ることができます。

中からもみた、外側の開口部ですね。

場所:


宮城掩体壕

忘れてはいけない戦争の名残
掩体壕
東京湾入口にある館山は、かつて首都・東京を守る軍事的な要衝でした。関東大震災による隆起で、海岸線から沖ノ島と高ノ島の間が浅瀬となり、そこを埋め立てて館山海軍航空基地が設置されました。敵機から戦闘機を守るための格納庫を掩体壕といい、戦争末期に学生や住民、兵士達によって多数造られました。かつては赤山周辺だけでも10基余りありましたが、現存するのは1基のみです。この1基はここの近くにあるので、ぜひ探してみてください。

掩体壕の見学も2回目。ここの掩体壕はキレイ。

非常にきれいな内部。

奥が赤山。

場所

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※撮影:2023年7月


「その4」へ

館山散策の続き。本記事は「その4」です。「その3」はこちらにて。 洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空) 館山...

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