「日記・雑記」カテゴリーアーカイブ

「昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)」36年目の昭和天皇武蔵野陵に拝する(令和7年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。
国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

あの日から、36年。

今年も、 昭和天皇 武蔵野陵(しょうわてんのう むさしののみささぎ)へ参拝をいたしました。

昭和から平成、そして令和へと、時代は移り変わるも、決して忘れてはいけない昭和の記録を伝承し、そして歴史として、後世に紡いでいくために。

昭和天皇 武蔵野陵(むさしののみささぎ)

昭和天皇 武蔵野陵 
昭和六十四年一月七日午前六時三十三分崩御 平成元年二月二十四日斂葬

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。

拝礼


昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)

祭礼に関する撮影は一切禁止、です。
午前9時半頃より、一般参拝が停止され、祭員参進が始まります。
午前10時より、「山陵に奉幣の儀」が奉祭されます。
おわるのは、午前10時30分から11時の間くらい。
祭員が退出次第で、一般参拝が再開されます。

祭祀は、神道式。

  • 祭員参進
  • 式部官参進(宮内庁式部職)
  • 招待者参進
  • 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下)
  • 勅使参進
  • 献饌(奏楽)
  • 勅使拝礼(奉幣)
  • 皇族代表拝礼
  • 招待者拝礼
  • 撤饌(奏楽)
  • 勅使退出
  • 皇族代表退出
  • 招待者退出
  • 式部官退出
  • 祭員退出

祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

祭員退出のあたりで、写真撮影禁止ではなくなったり。

毎年、見かける人がいました、、、

今年も、佳子内親王殿下が参列、でした。

今年は10時30分頃には一通りが終わった感じで。


香淳皇后 武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)


大正天皇 多摩陵(たまのみささぎ)


貞明皇后 多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)


武蔵陵墓地・武蔵陵墓地

この先は、お察しください。。。

木漏れ日

撮影:2025年1月


関連

全國護國神社巡拝(全國護國神社會の御朱印帳)

全国の護國神社を巡拝するということを、わたしの生涯の目標に掲げております。

以前より気になっていた「全國護國神社の御朱印帳(御朱印帖)」には、各頁に「社号記載あり」と「記載なし」の2種類があり、せっかく戴くなら「社号記載あり」で戴きたいと思いつつ、導入のきっかけを逃しておりました。(「社号記載なし」を入手する機会は多かったのですが、どうしても「社号記載あり」を戴きたく、なおかつ「社号記載あり」を授与いただける護國神社には、なかなか出会えなかったということもあり)

かねてより、護國神社の御朱印を、ひとつの御朱印帳にまとめようと巡拝をしており、そしていままでは、「桜柄の靖國神社の御朱印帳」で参拝をし、靖國神社の帳面に全国の護國神社の御朱印を集めておりました。
そして、22社(靖國神社と護國神社21社)を戴き片面が埋まったタイミングで、そんな折に、23社目の護國神社で、前から気になっていた「全國護國神社の御朱印帳(各頁に社号記載あり)」に出会いました。
これは、間違いなく、御縁ですね。
決して無理をすることなく、御縁を大切にしつつ、ひきつづき巡拝を続けて参ります。

「全國護國御朱印帳」
刺繍で織りこまれた帳面は、白色を基調とした崇高な気配を漂わせている。
桜の花びらが1つだけ桜色に染まっているアクセント。
そして、金の模様は英霊の御心を表しているという。

左は、靖國神社の御朱印帳(桜柄)
右が、全國護國神社の會の御朱印帳


護國神社について

全國護國神社會「御朱印帳」より

護國神社について
 靖國神社と護國神社は、愛する家族や国家、郷土の安寧と繁栄を願いながら尊い命を捧げられた先人の神霊を御祭神としています。
 どちらも幕末維新から昭和初期にかけて「招魂社」として創建された比較的歴史の新しい神社で、その御祭神のことを私たち日本人は「英霊」と称え、崇敬と感謝の心をこめて日々祭祀をおこなってきました。
 道府県に鎮座する護國神社は。故郷出身ゆかりの英霊を、そして東京九段の靖國神社は、全國の英霊をお祀りしています。
 昭和初期の頃までは、日本全国に招魂社が百社以上創建されました。
 昭和十四年に内務省の告示により、招魂社は「護國神社」と改称され、おおむね一府県一社を原則とした「内務大臣指定護國神社」と、「指定外護國神社」の二種に分類されました。
 この制度は、大東亜戦争終結後に廃止されましたが、各護國神社は現在も地元の方々から厚く信仰され、お祭、日々の暮らしの中の諸祈祷などに参拝されています。
 「全國護國神社會」は、旧内務大臣指定の護國神社など、主要な護國神社で構成されており、靖國神社とともに日々英霊の慰霊顕彰をおこなっております。


護國神社参拝について

護國神社参拝について
 護國神社信仰の背景には「祖先や共同体に尽くした人々を神としてお祀りする」「その神は子孫や共同体を守ってくださる」という古来日本人の伝統的風習があり、共同体の単位で祀られているために、それぞれ地方色も豊かです。
 各地の護國神社の多くは、その道府県の主要都市に鎮座しています。
 名所旧跡が近くにあることも多く、その巡拝は、日本全国一周の有意義な旅になります。何より、英霊と故郷は切っても切れないものがあります。英霊が思いを馳せるふるさとを隈なく訪ねる全国の護國神社参拝は、英霊に感謝の真心を捧げる素晴らしい巡拝の旅となることでしょう。
 御朱印を授与される方々は、必ずや英霊の大きな御神徳を受けられ、この御朱印帖はかけがいのないご家族の宝物となることでしょう。
 この御朱印帖を手にされた皆さまが、靖國神社及び全国の護國神社に鎮まる英霊を慰め、末永く崇敬者としてご尽力くださいますことを心よりお願い申し上げます。
  全國護國神社會

※この御朱印帖の五十二社護國神社は、概ね北から南の順となっており、全國護國神社會監修「全国護国神社巡拝ガイドブック」の記載に準拠しています。


御朱印授与の履歴

  • 1 靖國神社    ※靖國神社の御朱印帳で授与開始
  • 2 愛知縣護國神社
  • 3 大阪護國神社
  • 4 廣島護國神社
  • 5 埼玉縣護國神社
  • 6 茨城縣護國神社
  • 7 千葉縣護國神社
  • 8 栃木縣護國神社
  • 9 群馬縣護國神社
  • 10 長野縣護國神社
  • 11 山梨縣護國神社
  • 12 兵庫縣神戸護國神社
  • 13 新潟縣護國神社
  • 14 石川縣護國神社 
  • 15 沖縄縣護國神社 ※サイト未掲載
  • 16 滋賀縣護國神社
  • 17 兵庫縣姫路護國神社
  • 18 福島縣護國神社
  • 19 宮城縣護國神社
  • 20 岩手護國神社
  • 21 岐阜護國神社
  • 22 静岡縣護國神社 ※靖國神社の御朱印帳で片面終了
  • 23 福岡縣護國神社 ※全國護國神社會の御朱印帳に切替
  • 24 愛媛縣護國神社 

靖國神社

全國には護國神社があるが、東京には護國神社はなく、靖國神社がその役目を担っている。
そのうえで、靖國神社は、東京に限らず、全國の御英霊をお祀り申し上げている。

下記は、靖國神社の「令和7年の正月限定の刺繍入り御朱印」と「冬季限定 大東亜戦争終戦八十年記念御朱印」。

神紋の刺繍入りの御朱印もある。


全國護國神社一覧

「全國護國神社會」は52社で構成されている。
もちろん、靖國神社や旧指定護國神社(旧内務大臣指定護國神社)以外にも、指定外の護國神社や招魂社・鎮魂社など全国各地に御英霊を祀る神社は多いが、まずは、都道府県を代表する護國神社を列記する。

【北海道地方】3社

  • 函館護國神社
     〒040-0044 函館市青柳町 9-23 電話:0138-23-0950
     例祭日:5/11
  • 札幌護國神社
     〒064-0915 札幌市中央区南十五条西 5-1-3 電話:011-511-5421
     例祭日:7/6
  • 北海道護國神社
     〒070-0901 旭川市花咲町1-2282-2 電話:0166-51-9191
     例祭日:6/4 〜 6

【東北地方】6社

  • 福島縣護國神社
     〒960-8025 福島市駒山 1 電話:024-535-0519
     例祭日:4/23・9/23
福島縣護國神社
  • 宮城縣護國神社
     〒980-0862 仙台市青葉区川内 1 電話:022-223-7255
     例祭日:4/29 〜 5/1・10/22 〜 23
  • 山形縣護國神社
     〒990-0053 山形市薬師町 2-8-75 電話:023-631-5086
     例祭日:5/11
  • 岩手護國神社
     〒020-0872 盛岡市八幡町 13-1 盛岡八幡宮社務所内 電話:019-652-5211
     例祭日:春の大型連休前の日曜日
岩手護國神社
  • 秋田縣護國神社
     〒011-0939 秋田市寺内大畑 5-3 電話:018-845-0337
     例祭日:4/29・10/24
  • 青森縣護國神社
     〒036-8356 弘前市大字下白銀町 1-3 電話:0172-32-0033
     例祭日:4/28 ~ 29

【関東地方】5社

  • 千葉縣護國神社
     〒264-0028 千葉市若葉区桜木 4-1-1 電話:043-497-4864
     例祭日:4/10・10/10
  • 埼玉縣護國神社
     〒330-0803 さいたま市大宮区高鼻町 3-149 電話:048-641-6070
     例祭日:4/9
埼玉縣護國神社
  • 群馬縣護國神社
     〒370-0867 高崎市乗附町 2000 電話:027-322-6309
     例祭日:10/16~17
群馬縣護國神社
  • 栃木縣護國神社
     〒320-0063 宇都宮市陽西町 1-37 電話:028-622-3180
     例祭日:4/28
栃木縣護國神社
  • 茨城縣護國神社
     〒310-0912 水戸市見川 1-2-1 電話:029-241-4781
     例祭日:4/10・11/10

【中部地方】11社

  • 山梨縣護國神社
     〒400-0013 甲府市岩窪町 608 電話:055-252-6371
     例祭日:4/5・10/5
  • 靜岡縣護國神社
     〒420-0821 静岡市葵区柚木 366 電話:054-261-0435
     例祭日:10/22~23
  • 愛知縣護國神社
     〒460-0001 名古屋市中区三の丸 1-7-3 電話:052-201-8078
     例祭日:4/28~30・10/28~30
愛知縣護國神社
  • 岐阜護國神社
     〒500-8002 岐阜市御手洗 393 電話:058-264-4321
     例祭日:4/12・10/5
岐阜護國神社
  • 濃飛護國神社
     〒503-0887 大垣市郭町 2-55 電話:0584-78-4048
     例祭日:4/23・9/22
  • 飛驒護國神社
     〒506-0837 高山市堀端町 90 電話:0577-32-0274
     例祭日:5/2~3・11/4~5
  • 長野縣護國神社
     〒390-0801 松本市美須々6-1 電話:0263-36-1377
     例祭日:4/29~30
  • 新潟縣護國神社
     〒951-8101 新潟市中央区西船見町 5932-300 電話:025-229-4345
     例祭日:5/8・9/8
新潟縣護國神社
  • 富山縣護國神社
     〒930-0077 富山市磯部町 1-1 電話:076-421-6957
     例祭日:4/25・10/5
  • 石川護國神社
     〒920-0935 金沢市石引 4-18-1 電話:076-221-2110
     例祭日:4/19・10/19
石川護國神社
  • 福井縣護國神社
     〒910-0016 福井市大宮 2-13-8 電話:0776-22-5872
     例祭日:4/12〜13・11/1〜2

【関西地方】8社

  • 三重縣護國神社
     〒514-0006 津市広明町 387 電話:059-226-2559
     例祭日:4/22・10/22
  • 滋賀縣護國神社
     〒522-0001 彦根市尾末町 1-59 電話:0749-22-0822
     例祭日:4/5・10/5
滋賀縣護國神社
  • 京都霊山護國神社
     〒605-0861 京都市東山区清閑寺霊山町 1 電話:075-561-7124
     例祭日:4/28・10/14
  • 大阪護國神社
     〒559-0015 大阪市住之江区南加賀屋 1-1-77 電話:06-6681-2372
     例祭日:5/20・10/20
大阪護國神社
  • 兵庫縣神戸護國神社
     〒657-0068 神戸市灘区篠原北町 4-5-1 電話:078-882-1700
     例祭日:5/6・11/6
  • 兵庫縣姫路護國神社
     〒670-0012 姫路市本町 118 電話:079-224-0896
     例祭日:5/2・11/2
  • 奈良縣護國神社
     〒630-8424 奈良市古市町 1984 電話:0742-61-2468
     例祭日:4/15・10/22
  • 和歌山縣護國神社
     〒640-8146 和歌山市一番丁 3 電話:073-425-2911
     例祭日:5/5・10/5

【中国地方】7社

  • 岡山縣護國神社
     〒703-8272 岡山市中区奥市 3-21 電話:086-272-3017
     例祭日:5/6・10/6
  • 備後護國神社
     〒720-0061 福山市丸之内 1-9-2 電話:084-922-1180
     例祭日:5/19・10/23
  • 廣島護國神社
     〒730-0011 広島市中区基町 21-2 電話:082-221-5590
     例祭日:4月7日に近い日曜日・10月22日に近い日曜日
  • 山口縣護國神社
     〒753-0015 山口市平野 2-2-1 電話:083-922-2027
     例祭日:4/29・11/3
  • 松江護國神社
     〒690-0887 松江市殿町 1-15 電話:0852-21-2454
     例祭日:10/23
  • 濱田護國神社
     〒697-0027 浜田市殿町 123-30 電話:0855-22-0674
     例祭日:4/12
  • 鳥取縣護國神社
     〒680-0001 鳥取市浜坂 1318-53 電話:0857-22-4428
     例祭日:4/22・9/22

【四国地方】4社

  • 徳島縣護國神社
     〒770-8021 徳島市雑賀町東開 21-1 電話:088-669-3090
     例祭日:11/2
  • 香川縣護國神社
     〒765-0013 善通寺市文京町 4-5-5 電話:0877-62-0048
     例祭日:5/5・11/5
  • 愛媛縣護國神社
     〒790-0824 松山市御幸 1-476 電話:089-925-2353
     例祭日:4/9~10・10/9~10
愛媛縣護國神社
  • 高知縣護國神社
     〒781-8126 高知市吸江 213 電話:088-882-2760
     例祭日:4/1~2・11/1~2

【九州地方・沖縄地方】8社

  • 福岡縣護國神社
     〒810-0044 福岡市中央区六本松 1-1-1 電話:092-741-2555
     例祭日:5/3~4・10月第2月曜日及びその前日
  • 佐賀縣護國神社
     〒840-0843 佐賀市川原町 8-15 電話:0952-23-3593
     例祭日:4/12~14・10/12~15
  • 大分縣護國神社
     〒870-0925 大分市大字牧 1371 電話:097-558-3096
     例祭日:4/8~9・10/8~9
  • 熊本縣護國神社
     〒860-0005 熊本市中央区宮内 3-1 電話:096-352-6353
     例祭日:4/2・10/10
  • 宮崎縣護國神社
     〒880-0053 宮崎市神宮 2-4-3 電話:0985-25-2719
     例祭日:4/10
  • 長崎縣護國神社
     〒852-8034 長崎市城栄町 41-67 電話:095-844-3221
     例祭日:4/22・10/26
  • 鹿児島縣護國神社
     〒890-0014 鹿児島市草牟田 2-60-7 電話:099-226-7030
     例祭日:4/13・10/13
  • 沖繩縣護國神社
     〒900-0026 那覇市奥武山町 44 電話:098-857-2798
     例祭日:4/23・10/23

終戦80年ポスター

知っていますか
 命をかけて私たちを
守ってくれた人たちのこと

あなたは知っていますか
私たちのために戦った人たちのこと

あなたは聞こえますか
私たちを守ってくれた人たちの声

あなたはわかりますか
私たちのために戦った人たちの思い

令和七年(二〇二五)は終戦より八十年目の年です
全国に五十二社鎮座する護國神社は
日本を守るために戦歿された
二百四十六万余柱のみやまをお祀りし
日々平和を祈念しています

令和七年は終戦八十年 全國護國神社會


靖國神社の新春初詣(令和7年)

あけましておめでとうございます。
靖國神社、正月朔日の初詣。

境内の様子などを、徒然に。

あまり、ここで私事は書かないことにしていますが。
2024年9月から12月までの4ヶ月間、仕事的なことではありますが、かつて経験がしたことない濃密で濃厚な大変革を迎え、それに全力で取り組み、ひとまずの区切りを迎えることができました。
そのためにプライベートの時間もなくなり、サイト更新も止め、すべての対外的な活動もなくなってしまいましたが、なんとかこうして2025年を迎えることができました。
いろいろなことがありましたが、こうして2025年の新年を迎えることができたのが感無量。

清々しい青空が、前向きにさせてくれます。

 我國の為をつくせる人々の
 名もむさし野にとむる玉垣

※2019年特別展にて写しを撮影

国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えるお社。

感謝と哀悼を。


正月限定の刺繍入り御朱印

冬季限定 大東亜戦争終戦八十年記念御朱印
冬の海を行く大和!

桜みくじ
大吉でした
「臆せずひるまず、自ら決めた目標に向けまっすぐに進むべし」
ちなみに、2024年は「凶」だったので、2025年は間違いなく上昇機運です!

ねがいかなう守、を。

祝枡

甘酒をいただいて、

樽酒をいただいて、の毎年恒例。

79年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

終戦から79年目の8月15日、終戦の日の靖國神社。
毎年恒例。
変わることなく、祈りを捧げる。


靖國神社・午前9時30分

潔い夏晴れ。

毎年恒例の「靖國神社白鳩の会」
更新を。


放鳩式 靖國神社・午前10時

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

講談師の宝井琴調氏が司会進行。毎年変わらず、で。

鳩を預かりました。

2024年4月1日より新任の、大塚宮司(第14代宮司)

御英霊に、声を出して御礼を。
ありがとうございました!

ありがとうございました!!

靖國神社拝殿・正午

いつも、この場所、ですね。

国家
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

黙祷

陛下のお言葉

 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来79年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。
 これからも、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/127#1416

毎年、この場所で、海行かばを

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

ありがとうございます。

毎年、冷たい麦茶をありがとうございます。


靖國神社参道 12時30分

照りつける日差し、拡がる日傘、途切れなく続く参拝

8月15日の空

まいどまいどですが、怪しげなる政治団体やコスプレイヤーが目障りで。

来年(令和七年)は 大東亜戦争終戦八十年


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

合掌。

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」

※撮影:2024年8月15日


令和六年・靖國神社みたままつり

靖國神社のみたま祭りは、毎年7月13-14-15-16日の4日間、祭行されます。
今年も、なんとか1日だけでしたが、足を運ぶことが出来ました。

御英霊とともに楽しむ光の祭典。東京で一番早い夏のお祭り。


「みたままつり」とは? 

 毎年7月13日から16日にかけて、靖國神社では夏の風物詩として「みたままつり」が斎行されている。 

 この「みたままつり」とはなんであるかを簡単に触れてみようと思う。 

 靖國神社の「みたままつり」は靖國150年の歴史から鑑みれば決して古い祭儀ではない。従来、戦前の靖國神社は現在のように庶民がいつでも気楽に参拝できる神社ではなく、国家と軍部が管理していた神社であった。 

 昭和20年8月終戦後、靖國神社はGHQの厳しい統制下に置かれ、その段階で未合祀であった戦没者の御霊を今後合祀できるかどうかがわからないという懸念から11月19-20日に臨時大招魂祭を斎行。本来は戦没者氏名等を明白にし霊璽簿に奉斎すべきところを緊急時ということで、まずは氏名不詳のままで招魂しその後に調査が進み次第で霊璽簿奉安祭を行い逐次ご本殿におまつりする手はずとなった。こうして創建以来の軍部が関与する最後の招魂式が行われた。 

 その1ヶ月後にGHQは国家神道・神社神道をターゲットとした「神道指令」を発令。昭和21年2月を以って靖國神社は国家との関係を絶ち一宗教法人へと再生することとなる。 靖國神社規則では、「当神社は靖國神社と称し、国事に殉じた御霊を祭神とし、神徳光昭、遺族慰藉、平和醇厚なる民風を振励するのを目的として事業を行う」ことを明記している。 

 昭和21年7月、神社として国家と断絶し今後の立ち行く様を模索していた靖國神社に長野県遺族会の有志の方々が、神社の勧誘や依頼というべきものではなく自発的に上京してきて、境内で盆踊りを繰り広げ民謡を歌唱して戦没のみたまを慰めるという出来事があった。 

 このような民間発案の慰霊行事は戦中戦前含めかつてなかった事例であり、これが今日の「みたままつり」の起源とされている。 

 これにヒントを得て、翌年の昭和22年7月には、13日の前夜祭にはじまり、新暦のお盆の3日間(14日・15日・16日)に神社主導ではじめての「みたままつり」を斎行、以後は夏の恒例となった。 

 お精霊様の迎え火を焚き、茄子や胡瓜の馬・牛の乗り物を飾り、先祖の霊の一時帰宅を待ち受けるという古い民間習俗の風習は、平安期には京都では廃れていたが関東では盛んであったと兼好法師の「徒然草(第19段)」には記載されている。 「亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なおする事にてありしこそ、あわれなりしか」

 往時は歳事であった古習も時代の変遷の中で、いつしかお盆の祭事として、先祖の祭り・家の祭りとして伝承されてきた。もともと家々の祭りであった祖霊の祭りは「公」の祭りではなく「私」のまつりであり、昭和21年2月に「公」たる靖國神社が、一宗教法人にならざるを得なかった以後をもって、その年の7月に「私」たる民間有志の発案でもってはじまった「みたまのまつり」であった。 

 こうして長野県遺族会の方々が自発的に盆踊りを始められた「みたまのまつり」は、その契機は柳田國男の「先祖の話」で記述された下地が根底にある。 

 柳田翁の先祖の話は昭和20年4月から5月にかけて書かれたものであり、昭和21年4月に刊行されている。その柳田翁は日本降伏後の昭和20年10月付けの序文に「まさか是ほどまでに社会の実情が改まってしまうとは思わなかった」とし「家の問題は自分の見るところ、死後の計畫と關聯し、また靈魂の觀念とも深い交渉をもつて居て、國毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論は是から何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ惡しかれ多數の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、又どうなつて行くべきであるか。もしくは少なくとも現在に於て、どうなるのがこの人たちの心の願ひであるか。」と記している。、終戦後の日本の行く末を案じ混沌からの憂いが強く伝わってくる序文である。 

 先祖の話。すなわち「先祖から子孫に向けての相続と先祖祭祀の継承という民俗の根底になしている伝統に大いなる断絶がせまっていることへの危機感と解決方法」「子孫を残さずに死んでいく(戦死者の)霊の存在を目の当たりにし、日本の家の構造と先祖の祀りの有り様」を記述している。 

 靖國神社で祀られる「みたま」は「国のために戦って死んだ若人」「国難に身を捧げた者」というのが特徴的であり、中でも若人の御霊は、これを家々の先祖として祭るであろう子孫を有していない場合も多い。そこに祖霊信仰の断絶が発生してしまう。祭ってくれる子孫を持たぬ御霊を直系の子孫に代わって祭り、その記憶を伝承し、それら先祖の霊を後世の祭祀される人々の守護霊として安んじる。これが「靖國神社」であり、後世の社会が祭る「みたままつり」である。「この祭りは、祭ってくれるべき子孫を欠いた若き御霊達を安らかにあの世に在らんしめんがために、あるべかりし子孫に代わって共同体の常民が営む祭」(小堀桂一郎氏)であり、その祭りは格別な儀礼に基づくものではない。 

 「みたままつり」は伝統的な民間風習を兼ね備えるとともに、「個」ではない社会的な祭祀が行われるという公的な位置づけも帯びた、昭和22年にはじまった新しい「お祭り」ではある。その新しいお祭りは新暦お盆の三日間で斎行され、東京では一番最初の盆踊りも奉納されるということもあり、異色な趣も感じさせずに自然なカタチで受け入れられたのも、その性質が「日本人の信仰」の根底に根付いたものであった、といえる。 

 後世の我々が御霊の献身的な御心を記憶に留めて回想し、往時に想いをはせる。そうして御霊とともに「お盆」を過ごし、その意志を継承することで御霊達は後世の守護神となる。これを「祖霊信仰」から一段と特化した「靖國信仰」と称しても良いのかもしれない。 

  みたまを慰めるこの信仰。「生きた人の社会と交通しようとするのが、先祖の霊だといふ日本人の考へ方」(柳田國男)が共通共同の事実として根付いていたからこそのまつりであり信仰である。「この曠古(こうこ)の大時局に当面して、目ざましく発露した国民の精神力、殊(こと)に生死を超越した殉国の至情には、種子とか特質とかの根本的なるもの以外に、是を年久しく培ひ育てて来た社会制、わけても常民の常識と名づくべきものが、隠れて大きな動きをして居るのだといふことである。(略)人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳に、信仰の基底が無かつたといふことは考へられない。」とこの「常民の常識」が共通した信仰に根ざしていたのであり、「信仰はただ個人の感得するものでは無くて、寧ろ多数の共同の事実だつたといふことを、今度の戦ほど痛切に証明したことは曾て無かつた。」と力説をされている。 

 そのうえで柳田翁は「但しこの尊い愛国者たちの行動を解説するには、時期がまだ余りにも早過ぎる」と昭和20年春の段階ではこれ以上の追求は遠慮されているが、その言わんとしている深意は日本人の心底に根付いており、戦後も連綿と続く靖國の祭祀、みたまのまつりに継承されてきている。 

※本節は、下記を参照


中庭参拝

みたままつりといえば、中庭参拝が定着しましたね。
年に一度だけの中庭参拝。

ありがとうございます。

※許可された場所からの撮影も可能


境内風景

御朱印

こすずまもりは、中庭参拝で授与


つのだ☆ひろ 奉納特別野外コンサート

毎年恒例。

御英霊に捧げる。

御英霊の奉納するコンサート

「海行かば」
海行かば水漬くかばね
山行かば草むすかばね
大君の辺にこそ死なめ
かえりみはせじ

「ありがとう」
ありがとう、祖先の皆様
ありがとう、おじいちゃん、おばあちゃん
ありがとう、おやじとおふくろ
あなたがたのおかげです
ありがとう
ありがとう
ありがとう


みたままつりの夜

御英霊に、感謝を。哀悼を。

そして

御英霊に、ありがとうを。

※撮影:2024年7月14日


関連

自衛隊版ひっぱりだこ飯(淡路屋x自衛隊コラボ)

写真を撮っていたので。

自衛隊兵庫地方協力本部とコラボした淡路屋の名物駅弁「ひっぱりだこ飯」

日頃から見かける事が多い警察官や消防官と違って、自衛隊が日々何を行っているのかわからない方が多いのではないでしょうか?自衛隊は、① 日本の防衛、②災害派遣、③国際協力、を主たる仕事とし、我々日本国⺠を様々な危険から守って下さっています。
弊店では、このような自衛隊の活動を、もっと多くの方に知っていただきたいと考え、自衛隊兵庫地方協力本部に協力を要請。この度、「自衛隊版ひっぱりだこ飯」が完成いたしました。
当該商品の器は、陸上自衛隊隊員に貸与される迷彩服の図柄を模したデザイン。掛け紙には、ヘ ルメットを被ったおなじみのタコイラストと共に、自衛隊旗(連隊旗)を掲げる自衛隊兵庫地方協力本部のマスコットキャラクター「ひょうちん」を描きました。中身は、従来のひっぱりだこ飯の味わいはそのままに、春の兵庫県をイメージし、穴子煮をいかなご釘煮に変更しました。

淡路屋お知らせ>https://www.awajiya.co.jp/%E3%80%8E%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A%E7%89%88%E3%81%B2%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%82%8A%E3%81%A0%E3%81%93%E9%A3%AF%E3%80%8F%E3%82%92%E7%99%BA%E5%A3%B2%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82/

ひっぱりだこ飯おなじみのタコがヘルメット装着。
タコの後ろにいるのは、自衛隊旗(連隊旗)を掲げる自衛隊兵庫地方協力本部のマスコットキャラクター「ひょうちん」。

こちらも。

実は、貨物コンテナ弁当の容器も、保有してます。。。
なにげに淡路屋さんのファン。

※撮影:2024年4月

ソメイヨシノの原木候補?「上野公園の小松宮彰仁親王像周辺の桜」

ウソかホントかは不詳ではあるが、上野公園の染井吉野(ソメイヨシノ)が、原木との説がある。


ソメイヨシノの原木候補?

桜は一週間くらいで一斉に咲いて一斉に散るイメージがあるが、これは桜の代表格であるソメイヨシノが、親木から接ぎ木などで増殖したクローンのために、同じように開花するという。
そして、上野公園の小松宮彰仁親王像近くのソメイヨシノが、「第一世代となる親木では?」という発表があり、この場所には4本のソメイヨシノから全国に広まったと考察されている。そして、このうちの1本がソメイヨシノの元祖となる原木に最も近い世代ともされている。

https://news.mynavi.jp/techplus/article/20220325-2302935/

https://www.tokyo-np.co.jp/article/168025

https://corp.fugetsudo-ueno.co.jp/history/detail/id=1224

https://withnews.jp/article/f0150416003qq000000000000000G0010701qq000011854A

ソメイヨシノの原木?


小松宮彰仁親王銅像

小松宮彰仁親王
1846年2月11日〈弘化3年1月16日〉 – 1903年〈明治36年〉2月18日)
日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。伏見宮邦家親王第8王子。
明治維新では、王政復古とともに議定・征討大将軍となり、のち陸軍大将・近衛師団長・参謀総長を歴任し、元帥の称号を授けられた。
日本赤十字社初代名誉総裁でもある。

小松宮彰仁親王銅像
  台東区上野公園八番
 彰仁親王は伏見宮邦家親王第8王子。安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。同4年1月の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍した。
 明治10年5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任した。 同15年には、小松宮彰仁親王と改称。同20年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同36年1月18日、58歳で没。
 銅像は明治45年2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。「下谷區史」は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
 平成八年7月
  台東区教育委員会


コマツオトメ(小松乙女)

コマツオトメ(小松乙女)
 原木は上野恩賜公園内の小松宮彰仁親王銅像の近くにあり、、エドヒガンの雑種で、西田尚道氏がこの木を新品種とすることを提唱しました。
 小松宮銅像から「小松」の名をとり、また可愛らしく美しいことから「小松乙女」と命名されました。
 上野恩賜公園のシンボルの桜として大切に育てられています。
 東京都東部公園緑地事務所・上野桜守の会

撮影:2017年4月、2024年4月


上野公園関連

「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和6年)

令和6年(2024年)。終戦から79年を迎える年。
今年も靖國神社の桜花を愛でる。
毎年恒例。
御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。
「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。

境内に献木された桜たち。
一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、花を咲かせる。
靖國の桜花「靖國櫻」には御英霊の御心が宿っている。
感謝を。哀悼を。

ありがとうございます。

以下、写真にて。


2023年4月5日の早朝

2023年の東京の開花宣言は、3月29日であった。
訪れたのは、4月5日の早朝。雨模様だったが、ちょうど満開のタイミング。

散る桜 残る桜も 散る桜
 良寛和尚

奉頌歌「靖國神社の歌」

日の本の 光に映えて
尽忠の 雄魂祀る
宮柱 太く燦たり
  あゝ大君の 御拝し給ふ
  栄光の宮 靖國神社
日の御旗 断乎と守り
その命 国に捧げし
ますらをの 御魂鎮まる
  あゝ国民の 拝み称ふ
  いさをしの宮 靖國神社
報国の 血潮に燃えて
散りませし 大和をみなの
清らけき 御霊安らふ
  あゝ同胞の 感謝は薫る
  桜咲く宮 靖國神社
幸御魂 幸はへまして
千木高く 輝くところ
皇国は 永遠に厳たり
  あゝ一億の 畏み祈る
  国護る宮 靖國神社

奉頌歌「靖國神社の歌」 
昭和16年(1941)3月  
献納:主婦之友社 
作詞:細渕国造 作曲:陸海軍軍楽隊

軍歌「同期の桜」

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
 みごと散りましょ 国のため

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
 なぜか気が合うて 別れられぬ

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に
 未だ還らぬ 一番機

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
 なぜに死んだか 散ったのか

貴様と俺とは 同期の桜
 離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
 春の梢に 咲いて会おう


軍歌「同期の桜」
昭和14年


2023年4月5日の夜

夜の参拝も。

※撮影:2024年4月5日


関連

靖國神社の雪景色(令和6年)

令和6年(2024年)2月6日撮影。
前日に降り続いた雪。都内の雪景色をせっかくなので、靖國神社で愛でてきました。

まずは、参拝。

御英霊に感謝を。

午前7時前。すでに参道は雪が除去されており、不自由なく参拝ができる状態に鳴っておりました。

雪かき、ありがとうございます。

海防艦

到着殿

招魂斎庭

小さな雪だるま。

神池

憲兵碑

梅園

神職さん

足もと危険!凍結注意

屋根雪落下 頭上注意!

神門

手水舎

第二鳥居

大村さん

雪だるま

※撮影:2024年2月6日早朝


駅弁文化は日本と台湾だけ!「台鉄友好協定締結記念ひっぱりだこ飯・臺鐵便當(海味便當)」

神戸の駅弁「ひっぱりだこ飯」。
人気の淡路屋の駅弁。
入手する機会がありましたので、せっかくなので掲載。


臺鐵便當(台鉄弁当)

台鉄弁当(繁体字中国語: 臺鐵便當)とは台湾鉄路管理局(台鉄)が駅および列車内で販売している駅弁。
台湾総督府時代から日本の影響を受け、1895年から1945年の50年間、日本による統治で鉄道網が台湾全土で整備され、駅弁の文化も日本から持ち込まれた歴史がある。
今日の台湾は日本以外、唯一「駅弁」という文化を持っている国。

本場の臺鐵便當(台鉄弁当)は、排骨弁当が最も有名。
台湾で駅弁を食べたいところだけど、ひとまずは、コラボ弁当で満足しておく。

台鉄友好協定締結記念ひっぱりだこ飯

2023年12月に、台湾鉄路管理局との友好協定締結を記念したひっぱりだこ飯がリリース。
台鉄(臺鐵)のロゴをあしらった濃紺色の陶器を使用。
通常のひっぱりだこ飯に、台湾風の魯肉を加え、飯は白飯に、菜の花はごま油和えにするなど、台湾を感じられる仕様のひっぱりだこ飯に仕上げっている。
掛け紙には、おなじみのたこイラストと台鉄のマスコットの熊を描いた特別仕様。

なお、中国語では「海味便當」と。

台鉄友好協定締結記念ひっぱりだこ飯を発売します。
2023年12月8日、弊社と台湾鉄路管理局との間で友好協定締結を記念し、「台鉄友好協定締結記念ひっぱりだこ飯」を発売します。

当該協定締結は、2019 年秋、台鉄主催の「第五回鐵路便當節」に弊店が参加したのがきっかけ。
当社商品「ひっぱりだこ飯」の反響が大きかったため、今後も協力関係を築いていこうと意気投合しましたが、新型コロナウイルスのパンデミックにより頓挫。互いに大きな影響を受けつつも情報交 換は継続。そして、新型コロナが落ち着きを見せた 2023 年 6 月、「第八回鐵路便當節」に参加。改めて「ひっぱりだこ飯」の人気ぶりを確認するとともに、経営やブランドマーケティングなど様々な分野で情報交換・協力関係を築き、一層の「駅弁文化の醸成」に寄与すべく、今回の友好協定を締結することと致しました。

友好協定締結を記念して、日本と台湾、双方で特別仕様の「ひっぱりだこ飯(台湾:海味便當)」を販売します。双方共通で、ひっぱりだこ飯の陶器に台鉄のロゴマークをあしらった濃紺色の陶器を用いて販売します。

日本側は、通常のひっぱりだこ飯に、台湾風の魯肉を加え、飯は白飯に、菜の花はごま油和えにするなど、台湾を感じら れる仕様のひっぱりだこ飯に仕上げています。掛け紙は、双方共通デザイン。おなじみのたこイラストと台鉄のマスコットの熊を描いた特別仕様です。

https://www.awajiya.co.jp/%E5%8F%B0%E9%89%84%E5%8F%8B%E5%A5%BD%E5%8D%94%E5%AE%9A%E7%B7%A0%E7%B5%90%E8%A8%98%E5%BF%B5%E3%81%B2%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%82%8A%E3%81%A0%E3%81%93%E9%A3%AF%E3%82%92%E7%99%BA%E5%A3%B2%E3%81%97%E3%81%BE/

ひっぱりだこ飯の「たこ」イラストと、台鉄のマスコットの「熊」

ひっぱりだこ飯に、台湾風の魯肉。たいへん美味でした!

※2024年1月撮影


台湾関連

はじめに

靖國神社の新春初詣(令和6年)

あけましておめでとうございます。
靖國神社、正月朔日の初詣。

境内の様子などを、徒然に。

清々しい青空

正月朔日の午後。

神門


玉串料改定のお知らせ

あら、こんなところにも値上げの余波が。

新春初詣の正式参拝を。

御本殿には、 明治天皇が明治7(1874)年1月27日に、初めて招魂社をご参拝された際に詠まれた御製が奉書された御宸筆の扁額が掲げられている。

年のはじめに、改めて御本殿の扁額に接する。

我國の為をつくせる人々の
 名もむさし野にとむる玉垣

※2019年特別展にて写しを撮影

御本殿の神鏡(明治10年11月14日の臨時大祭にて御親拝された 明治天皇の幣帛料で制作された。

※2019年特別展にて写しを撮影

国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えるお社。

感謝と哀悼を。


今年は、設置場所が変わりました。

靖国名物の大絵馬。

令和甲辰

福引きは、安定の入浴剤。

甘酒振舞。
温まります、ありがとうございます。

毎年、いただいている「桜みくじ」

ちなみに、、、、凶でした。
まあ、この瞬間が、どん底ということで。


遊就館

獅子舞

振舞酒


初詣正式参拝の撤饌

撒下神饌はフリーズドライの甘酒。初めて頂戴しました。

御朱印
冬季限定 刺繍入り朱印
美濃和紙に獅子頭と万両の実、社紋を刺繍した朱印

お神酒と祝枡

※撮影:2025年1月1日


関連

救難飛行艇「US-2」新明和工業オリジナルグッズ

運良く仕事で防衛省に赴くことがありました。
(私の仕事は防衛産業の会社ではないので、普通は無縁なのですが、本当に運がよく関わることが出来た感じです)

防衛省(市ヶ谷基地)内にある厚生棟内の売店を何気なく見ていたら、思わず釘付けになってしまい、思わず買ってしまったのが「US-2」関連のオリジナルグッズ。

最初、「US‐2」のファイルとストラップだけを買うつもりだったのが、お店の人と盛り上がってしまい、気がつけば追加でいろいろ購入してしまいました。

じつのところ、「飛行艇」大好きマンだったりします。


「US-2」新明和工業オリジナルグッズ

実は、US-2製造元の新明和工業のオリジナルグッズ。
新明和工業の社内販売を想定された製品となり、東日本では防衛省厚生棟1階の売店「森川商店 防衛省市ヶ谷店」でのみ購入可能。

2024年のカレンダーは、もちろん新明和の制作なので「新明和(ShinMaywa)の航空機」のみが掲載というマニアックすぎて素敵なカレンダー。
私が覗いた日が、2024年カレンダーの入荷初日だったそうで、これはラッキー以外のなにものでなく。

ちょっといろいろ買いましたが、他にも書いたもの多数あったのを我慢しつつ。。。

クリアファイル。美しいです。

人気のアクリルスタンド。
店主曰く、前のモデルが売り切れて、2ヶ月間入荷がなかったそうで、入荷したら「8号機」に変わっていたそうです。7号機から8号機にちょっとした変化をもたせた新明和工業の小技のある製品。そんなエピソード聞かされたら買うしか無いですね。

「US-2」 8号機

ちなみにキーホルダーは「US-2」 7号機。

ShinMaywa 50th FLYING BOAT
新明和工業としての飛行艇50周年記念


Japan Flying Boat History(日本の飛行艇の歴史)

Japan Flying Boat History


日本の飛行艇誕生から100年
 そして、その先へ・・・

海上自衛隊
第71航空隊
〒740‐8555
山口県岩国市三角町2丁目
TEL 0827-22-3181

2007~   US-2
1976~2017 US-1/US-1A
1967~1989 PS-1
1942~1945 二式飛行艇
1926~1938 十五式飛行艇
1920~1926 F-5飛行艇

歴代の代表的な飛行艇。店主さんの快諾で撮影しました。

レシート。
「新明和」と記載してアイテム登録しているのは、店主のこだわり。アクリルスタンドに8号機と記載してあるのも店主のこだわり。

ここは面白いです。店主も面白いです。貴重な話、いっぱい聞けました。

そうそう機会が無いと、防衛省の売店にたどり着くことはできませんが、チャンスがありましたら、是非に。

また来ます、また買いに行きます、行きたいです、、、
(そうそう防衛省に入る用事はありませんけど。。。)


新明和工業

新明和工業 航空機事業部

https://www.shinmaywa.co.jp/products/aircraft/


関連


78年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

終戦から78年目の8月15日、終戦の日の靖國神社。
今年は、台風が関西方面に直撃し、東日本も天候がどうなるか読めない中での8月15日でした。
結果として、日中は雨に振られることもなく、いつもどおりに暑い夏でした。

靖國神社・午前9時30分

最近の私は、だいたいこの時間に靖國神社にいるようです。

放鳩式 靖國神社・午前10時

今年の放鳩式は、一般参列者の放鳩も復活。

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

毎年恒例。
講談師の宝井琴調氏が司会進行。
なんでも今年で50年目、だそうで。
ありがとうございます。

靖國神社・山口建史宮司

となりのおばあちゃん。
「鳩はね、目を塞いであげると暴れないで静かにしてくれるのよ」
へー、です。
私も真似してみました。たしかに鳩さん、静かになった。

となりのおばあちゃんとちょっとお話をする。
「去年は、呼ばれたんで武道館に行ったんだけど、今年は別の人が行っったんで、私はここの白鳩に来たのよ。武道館に行かないときは、わたしは毎年、ここに来るの。」

宝井琴調さんと山口建史宮司

英霊ありがとう!!

夏の風物詩

放鳩式のあと。
どうやら議員の皆さんの参拝時間っぽい。
駐車場が飽和して、遊就館前にも駐車が展開。

靖國神社参道・午前11時30分

あさなぎの皆さん、
毎年、冷たい麦茶をありがとうございます。

靖國神社白鳩の会の皆さん。
毎年、ありがとうございます。

靖國神社拝殿 正午

国家
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

 
黙祷
 
 

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来78年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。
 これからも、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

天皇陛下 お言葉 全国戦没者追悼式(令和5年8月15日)

https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/116

毎年、この場所で、海行かばを

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

8月15日

正午後。

御朱印。白鳩の会。


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

映画と連動していた。

合掌。

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」

平和記念碑
 引揚に伴う死没者の永遠の平和祈念碑
追悼慰霊碑
 強制抑留者の尊い命を失われた方々の追悼慰霊碑

古文書館に行こうと思ったら。北の丸公園が封鎖されていたので、迂回路。

近衛師団司令部庁舎


国立公文書館

大正時代の公文書。代表的なものをピックアップ。
これはこれで興味深い。


「終戦の詔書」原本特別展示

大東亜戦争終結ノ詔書

(全文)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣總理大臣鈴木貫太郞

大東亜戦争終結ノ詔書
(読み下し)
朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置を以って時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ

朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり

そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず 延べて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何を以ってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉し 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排せい 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うか如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣鈴木貫太郎

こちらは、宣戦の詔書

記念品を購入。

終戦の詔書の絵葉書。
これでいつでも、「終戦の詔書」に接することができます。

※撮影:2023年8月

8月15日。正午の黙祷を、毎年、約束の場所で。


関連

台湾フェスタ2023(代々木公園)

ちょっと縁がありまして。
台湾フェスタに足を運んできました。


代々木公園

むかしの陸軍の演習場だった場所。
日本ではじめて飛行機が飛んだ場所。

そんなことは、露知らずとして。
今日は、日台友好のイベント会場。


台湾フェスタ2023

https://taiwan-festa.com/

我愛台灣!

久しぶり、台北!

うぅ、台湾行きたいw

台湾ビール!!
台灣啤酒!!

金牌台灣啤酒!!

大鶏排(ダージーパイ)!!

電音三太子
中壇元帥哪吒三太子

台湾の屋台が集合していて、ちょっとだけ台湾に行った気持ちになれました。ちゃんと台湾に行きたい気持ちもマシマシですが。

我愛台灣!

いちおう代々木公園も散歩してました。

日本の航空発祥の地。

※撮影:2023年7月


台湾関連

令和五年・靖國神社みたままつり

靖國神社のみたま祭りは、毎年7月13-14-15-16日の4日間、祭行されます。
このところ、忙しくて、靖國神社に赴く頻度も低下してしまっておりましたが、時間を捻出して、今年もお伺いすることができました。


「みたままつり」とは? 

 毎年7月13日から16日にかけて、靖國神社では夏の風物詩として「みたままつり」が斎行されている。 

 この「みたままつり」とはなんであるかを簡単に触れてみようと思う。 

 靖國神社の「みたままつり」は靖國150年の歴史から鑑みれば決して古い祭儀ではない。従来、戦前の靖國神社は現在のように庶民がいつでも気楽に参拝できる神社ではなく、国家と軍部が管理していた神社であった。 

 昭和20年8月終戦後、靖國神社はGHQの厳しい統制下に置かれ、その段階で未合祀であった戦没者の御霊を今後合祀できるかどうかがわからないという懸念から11月19-20日に臨時大招魂祭を斎行。本来は戦没者氏名等を明白にし霊璽簿に奉斎すべきところを緊急時ということで、まずは氏名不詳のままで招魂しその後に調査が進み次第で霊璽簿奉安祭を行い逐次ご本殿におまつりする手はずとなった。こうして創建以来の軍部が関与する最後の招魂式が行われた。 

 その1ヶ月後にGHQは国家神道・神社神道をターゲットとした「神道指令」を発令。昭和21年2月を以って靖國神社は国家との関係を絶ち一宗教法人へと再生することとなる。 靖國神社規則では、「当神社は靖國神社と称し、国事に殉じた御霊を祭神とし、神徳光昭、遺族慰藉、平和醇厚なる民風を振励するのを目的として事業を行う」ことを明記している。 

 昭和21年7月、神社として国家と断絶し今後の立ち行く様を模索していた靖國神社に長野県遺族会の有志の方々が、神社の勧誘や依頼というべきものではなく自発的に上京してきて、境内で盆踊りを繰り広げ民謡を歌唱して戦没のみたまを慰めるという出来事があった。 

 このような民間発案の慰霊行事は戦中戦前含めかつてなかった事例であり、これが今日の「みたままつり」の起源とされている。 

 これにヒントを得て、翌年の昭和22年7月には、13日の前夜祭にはじまり、新暦のお盆の3日間(14日・15日・16日)に神社主導ではじめての「みたままつり」を斎行、以後は夏の恒例となった。 

 お精霊様の迎え火を焚き、茄子や胡瓜の馬・牛の乗り物を飾り、先祖の霊の一時帰宅を待ち受けるという古い民間習俗の風習は、平安期には京都では廃れていたが関東では盛んであったと兼好法師の「徒然草(第19段)」には記載されている。 「亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なおする事にてありしこそ、あわれなりしか」

 往時は歳事であった古習も時代の変遷の中で、いつしかお盆の祭事として、先祖の祭り・家の祭りとして伝承されてきた。もともと家々の祭りであった祖霊の祭りは「公」の祭りではなく「私」のまつりであり、昭和21年2月に「公」たる靖國神社が、一宗教法人にならざるを得なかった以後をもって、その年の7月に「私」たる民間有志の発案でもってはじまった「みたまのまつり」であった。 

 こうして長野県遺族会の方々が自発的に盆踊りを始められた「みたまのまつり」は、その契機は柳田國男の「先祖の話」で記述された下地が根底にある。 

 柳田翁の先祖の話は昭和20年4月から5月にかけて書かれたものであり、昭和21年4月に刊行されている。その柳田翁は日本降伏後の昭和20年10月付けの序文に「まさか是ほどまでに社会の実情が改まってしまうとは思わなかった」とし「家の問題は自分の見るところ、死後の計畫と關聯し、また靈魂の觀念とも深い交渉をもつて居て、國毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論は是から何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ惡しかれ多數の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、又どうなつて行くべきであるか。もしくは少なくとも現在に於て、どうなるのがこの人たちの心の願ひであるか。」と記している。、終戦後の日本の行く末を案じ混沌からの憂いが強く伝わってくる序文である。 

 先祖の話。すなわち「先祖から子孫に向けての相続と先祖祭祀の継承という民俗の根底になしている伝統に大いなる断絶がせまっていることへの危機感と解決方法」「子孫を残さずに死んでいく(戦死者の)霊の存在を目の当たりにし、日本の家の構造と先祖の祀りの有り様」を記述している。 

 靖國神社で祀られる「みたま」は「国のために戦って死んだ若人」「国難に身を捧げた者」というのが特徴的であり、中でも若人の御霊は、これを家々の先祖として祭るであろう子孫を有していない場合も多い。そこに祖霊信仰の断絶が発生してしまう。祭ってくれる子孫を持たぬ御霊を直系の子孫に代わって祭り、その記憶を伝承し、それら先祖の霊を後世の祭祀される人々の守護霊として安んじる。これが「靖國神社」であり、後世の社会が祭る「みたままつり」である。「この祭りは、祭ってくれるべき子孫を欠いた若き御霊達を安らかにあの世に在らんしめんがために、あるべかりし子孫に代わって共同体の常民が営む祭」(小堀桂一郎氏)であり、その祭りは格別な儀礼に基づくものではない。 

 「みたままつり」は伝統的な民間風習を兼ね備えるとともに、「個」ではない社会的な祭祀が行われるという公的な位置づけも帯びた、昭和22年にはじまった新しい「お祭り」ではある。その新しいお祭りは新暦お盆の三日間で斎行され、東京では一番最初の盆踊りも奉納されるということもあり、異色な趣も感じさせずに自然なカタチで受け入れられたのも、その性質が「日本人の信仰」の根底に根付いたものであった、といえる。 

 後世の我々が御霊の献身的な御心を記憶に留めて回想し、往時に想いをはせる。そうして御霊とともに「お盆」を過ごし、その意志を継承することで御霊達は後世の守護神となる。これを「祖霊信仰」から一段と特化した「靖國信仰」と称しても良いのかもしれない。 

  みたまを慰めるこの信仰。「生きた人の社会と交通しようとするのが、先祖の霊だといふ日本人の考へ方」(柳田國男)が共通共同の事実として根付いていたからこそのまつりであり信仰である。「この曠古(こうこ)の大時局に当面して、目ざましく発露した国民の精神力、殊(こと)に生死を超越した殉国の至情には、種子とか特質とかの根本的なるもの以外に、是を年久しく培ひ育てて来た社会制、わけても常民の常識と名づくべきものが、隠れて大きな動きをして居るのだといふことである。(略)人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳に、信仰の基底が無かつたといふことは考へられない。」とこの「常民の常識」が共通した信仰に根ざしていたのであり、「信仰はただ個人の感得するものでは無くて、寧ろ多数の共同の事実だつたといふことを、今度の戦ほど痛切に証明したことは曾て無かつた。」と力説をされている。 

 そのうえで柳田翁は「但しこの尊い愛国者たちの行動を解説するには、時期がまだ余りにも早過ぎる」と昭和20年春の段階ではこれ以上の追求は遠慮されているが、その言わんとしている深意は日本人の心底に根付いており、戦後も連綿と続く靖國の祭祀、みたまのまつりに継承されてきている。 

※本説は、下記を参照


中庭参拝

みたままつりといえば、中庭参拝が定着しましたね。
年に一度だけの中庭参拝。
ありがとうございます。

御英霊の皆さまとともに、楽しむ祭典。
みたままつり
御英霊の皆様に、感謝を。哀悼を。
そして、ありがとうを。

畏れ多くも、御本殿を撮影させていただきました。

夜間中庭参拝
本殿の最も近い御神域にてご参拝いただけます


正式参拝

正式参拝もしてきました。
みたま祭第二夜祭への参列。

ありがとうございます。


授与品

授与品など。
「こすずまもり」は、みたたまつり限定。
澄んだ音色の鈴を包んだお守り。

令和五年の夏季限定刺繍朱印は、
昭和20年代のみたままつりの際に打ち上げられた花火をモチーフに。(現在のみたままつりでは花火の打ち上げは無し)


遊就館

中は空いてますね、、、


みたたまつりの靖國神社(夜)

令和5年7月15日の夜。

神輿

今年は、つのだ☆ひろの奉納コンサートに参加することができました。

御英霊に対しての奉納歌謡

「海行かば」
海行かば水漬くかばね
山行かば草むすかばね
大君の辺にこそ死なめ
かえりみはせじ

「ありがとう」
ありがとう、祖先の皆様
ありがとう、おじいちゃん、おばあちゃん
ありがとう、おやじとおふくろ
あなたがたのおかげです
ありがとう
ありがとう
ありがとう


みたたまつりの靖國神社(朝)

令和5年7月16日の朝。

朝に時間がつくれたので、足を運んでみました。

青空と黄提灯の広がりが美しい。

御英霊に、感謝を。哀悼を。

そして

御英霊に、ありがとうを。

※撮影:2023年7月15日16日


関連

「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和5年)

令和5年(2023年)。終戦から78年。
今年も靖國神社の桜花を愛でる。

境内に献木された桜たち。
一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、花を咲かせる。

御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。
「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。

靖國の桜花「靖國櫻」には御英霊の御心が宿っている。
感謝を。哀悼を。

散る桜 残る桜も 散る桜
 良寛和尚

奉頌歌「靖國神社の歌」

日の本の 光に映えて
尽忠の 雄魂祀る
宮柱 太く燦たり
  あゝ大君の 御拝し給ふ
  栄光の宮 靖國神社
日の御旗 断乎と守り
その命 国に捧げし
ますらをの 御魂鎮まる
  あゝ国民の 拝み称ふ
  いさをしの宮 靖國神社
報国の 血潮に燃えて
散りませし 大和をみなの
清らけき 御霊安らふ
  あゝ同胞の 感謝は薫る
  桜咲く宮 靖國神社
幸御魂 幸はへまして
千木高く 輝くところ
皇国は 永遠に厳たり
  あゝ一億の 畏み祈る
  国護る宮 靖國神社

奉頌歌「靖國神社の歌」 
昭和16年(1941)3月  
献納:主婦之友社 
作詞:細渕国造 作曲:陸海軍軍楽隊

軍歌「同期の桜」

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
 みごと散りましょ 国のため

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
 なぜか気が合うて 別れられぬ

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に
 未だ還らぬ 一番機

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
 なぜに死んだか 散ったのか

貴様と俺とは 同期の桜
 離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
 春の梢に 咲いて会おう


軍歌「同期の桜」
昭和14年

令和5年春の靖國神社

3月21日撮影。写真を。

大鳥居

キッチンカーが集っていました。
(アルコールは無し)

灯籠

社務所

参道

第三鳥居と拝殿

軍鳩慰霊碑

靖国会館

遊就館

到着殿

招魂斎庭

空挺櫻
花の都の靖國神社
 庭の梢で咲いて会おう
  平成元年四月八日
  陸軍落下傘部隊戦友一同

武蔵櫻

軍艦武蔵会

南会櫻

第六三四海軍航空隊・呉瑞雲隊有志一同

御社殿

令和5年の東京の桜(ソメイヨシノ)開花は、3月13日。過去最速タイでの開花宣言でした。
なお、靖国神社の境内に、東京の開花基準木がある。

靖国通り

旧軍人会館

※撮影:2023年3月21日


関連

3月10日の慰霊「東京大空襲」あの日から78年(令和5年・東京都慰霊堂と言問橋)

令和5年(2023年)3月10日。

あの日から78年。

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。

犠牲者10万人を超す規模は、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
これが、世にいう、「東京大空襲」(下町大空襲)であった。

「東京都平和の日」

慰霊鎮魂を。

3月10日に手を合わせてきました。


東京都慰霊堂

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、慰霊大法要が執り行なわれている。

詳しくは下記にて。

東京大空襲・慰霊

昨年の様子

今年は、例年より、警備が厳重。
話を聞くと、 秋篠宮殿下が参列されるとのことで、なるほどなっとくの警備体制。

東京都慰霊堂

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

献花と線香を。

合掌


東京都慰霊堂「春季慰霊大法要」

10時の法要にあわせて、
秋篠宮両殿下がご参列されました。

コロナ禍のやめ、参列者数に制限あり。

10時に法要が斎行。
10時30分に、 秋篠宮両殿下が退出されました。

秋篠宮殿下

退出後に、限界警備体制が解除となり、参拝が可能となりました。

春季慰霊大法要終了後の、11時から、堂内で一般の焼香が可能となる。

あっ、2023年は関東大震災100年、でした。

晴天の東京都慰霊堂。

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

内部には霊璽簿が奉納されており、3月10日と9月1日の春秋の法要にあわせて、内部で手を合わせることが可能。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city002/index.html

https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html


言問橋

言問橋に移動しました。

言問橋は関東大震災後の復興事業として架橋。内務省外局の復興局が建設した。
1928年(昭和3年)2月10日竣工。

東京大空襲の焼け跡が残る言問橋

東京大空襲では、浅草(台東区)の人々は「川の向こうに行けば助かる」と考え言問橋を渡ろうとした。
同じく向島・本所深川(墨田区)の人々も「対岸へ」と橋に殺到。
向島本所地区は、すでに火の海であり、住民らは同様に対岸への避難を試みたため、両者が橋の上でぶつかり合い進退窮まる状態となった。そこに焼夷弾が落ち、言問橋の上に猛火が燃え移り、燃え盛る中で逃げるすべもなく、 両岸と橋上とすさまじき猛火の中で、行き場を失った人々が隅田川に飛び込んだとされ、そして多くの人々が焼死したという。
言問橋の親柱は、その時の黒焦げた焼き跡が今も残っている。


言問橋と東京大空襲

浅草よりの親柱のところに、おじいさんがいました。
私が親柱を撮影しようと近寄ったのと、ちょうど同じタイミング。
同じタイミングで写真を取ろうと親柱に近寄った二人。おじいさんとお話をしました。


「子供の頃に、昭和20年3月10日、今日、言問橋の近くの天蓋の防空壕(素掘りの防空壕)で一命をとりとめた。言問橋の北側には、陸軍の陣地(防空陣地)があって北にはいけなかったので、言問橋にみんなが殺到してしまった」
「近くに住んでいるのに、【言問橋】の表示をまだ写真に撮っていなかったことに気がついたので、今日は写真を撮りに来た」
「今年が3月10日は、最後になるかもしれない、体が良くないので。」

たまたま出会ったおじいさんから聞く、戦争体験談。応じの惨劇の生き証人。貴重なお話、ありがとうござます。しばらくの間、言問橋でお話をさせていただき、おじいさんは最後に「引き止めて悪かったね」と言いながら、歩いていかれまして。
いえいえ、引き止めていただき、ありがとうござました。お陰で、貴重なお話をお伺いできました。

そうして、写真を撮り終えて立ち去っていった、おじいさん。
ありがとうござました!


東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
(戦災により亡くなられた方々の碑)

あゝ
東京大空襲
朋よやすらかに

合掌

戦災により亡くなられた方々の碑
台東区浅草七丁目一番
 
 隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
 昭和六十一年三月 台東区

言問橋の縁石
 ここに置かれているコンクリート塊は1992年言問橋の欄干を改修した際にその基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲になりました。
 この縁石は当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。

東京大空襲犠牲者追悼集会

多くの犠牲者を出した言問橋の袂にある慰霊碑では「東京大空襲犠牲者追悼集会」が斎行。
3月10日13時から。

私が訪れたのが12時。
13時からの集会に参加する都合がつきませんでしたが、慰霊碑に手を合わせてきました。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city001/index.html

言問橋の先。いまは東京スカイツリーの絶好のビューポイント。


関連

はじめに

「昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)」34年目の昭和天皇武蔵野陵に拝する(令和5年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。
国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

あの日から、34年。

今年も、 昭和天皇 武蔵野陵(しょうわてんのう むさしののみささぎ)へ参拝をいたしました。そして、昭和記念公園の「 昭和天皇記念館」にも足を運んできました。

昭和から平成、そして令和へと、時代は移り変わるも、決して忘れてはいけない昭和の記録を伝承し、そして歴史として、後世に紡いでいくために。


昭和天皇 武蔵野陵(むさしののみささぎ)

昭和天皇 武蔵野陵 
昭和六十四年一月七日午前六時三十三分崩御 平成元年二月二十四日斂葬

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。


昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)

祭礼に関する撮影は一切禁止、です。
午前9時半頃より、一般参拝が停止され、祭員参進が始まります。
午前10時より、「山陵に奉幣の儀」が奉祭されます。
おわるのは、午前10時30分から11時の間くらい。
祭員が退出次第で、一般参拝が再開されます。

祭祀は、神道式。

  • 祭員参進
  • 式部官参進(宮内庁式部職)
  • 招待者参進
  • 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下)
  • 勅使参進
  • 献饌(奏楽)
  • 勅使拝礼(奉幣)
  • 皇族代表拝礼
  • 招待者拝礼
  • 撤饌(奏楽)
  • 勅使退出
  • 皇族代表退出
  • 招待者退出
  • 式部官退出
  • 祭員退出

祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

一般参拝再開直後。午前10時45分頃。

静謐な空気のもと、 昭和天皇に拝礼をしてきました。
ありがとうございました。


関連ニュース記事

一般参列者は撮影禁止でしたので、マスコミ代表撮影の記事を掲載しておきます。

https://www.fnn.jp/articles/-/467753

https://www.yomiuri.co.jp/koushitsu/20230107-OYT1T50117/


香淳皇后 武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)

大正天皇 多摩陵(たまのみささぎ)

貞明皇后 多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)

武蔵陵墓地


多摩御陵参道

カラーコーンも幔幕(青白の浅黄幕)


南浅川橋

昭和11年(1936年)に設置されたコンクリートアーチ式の橋です。南浅川に架り、多摩御陵(武蔵陵墓地)への参道となっています。御陵参道の橋であるため、威厳のある形式と周辺の自然との調和を考慮したデザインが施されているのが特徴。

https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/002/003/p003407.html

橋歴
「東京の著名橋・南浅川橋」
 大正15年(西暦1926年)12月25日大正天皇崩御により、当時の東京府南多摩郡横川村・浅川村および元八王子村(元八王子市長房町・甘里町・元八王子町)地域に御陵所の造営が決定した。これに伴い、東京府が八王子駅と浅川(現高尾)駅間の仮駅から御陵(多摩陵)に至る参道新設を行い、南浅川に全長約87mの木橋が架けられ、南浅川橋と命名されたのが始まりである。
 現在の橋は、昭和11年(西暦1936年)の大正天皇十年式年祭にあわせて、東京府が木橋を架け替えたものである。構造形式は関東大震災後の東京(帝都)復興時に開発されたコンクリートラーメン橋台のコンクリートアーチ橋で、御陵参道の橋として、威厳のある形式と周辺の自然との調和を考慮した意匠が施されている。
 昭和64年(1989年)1月7日の昭和天皇崩御、武蔵野陵造営にあわせて、平成元年2月に東京都が南浅川橋の洗浄・補修、参道の整備を行った。

南浅川橋(コンクリート橋)
昭和11年12月竣工
全長 53.3m
幅員 21.4m
構造 鉄筋コンクリート橋
形式 コンクリートラーメン橋台・固定アーチ橋

1993年1月 補修
東京都
施工 吉田建設株式会社

東京府建造
昭和11年12月完成
合資会社 清水組


多摩御陵参道(武蔵陵墓地参道)入口


陵南会館(東浅川駅跡・東浅川仮停車場跡)

この地には、東浅川駅があった。
東浅川駅は、大正天皇の大喪列車用の臨時駅として開設された皇室専用の駅で、社殿造の駅舎であった。
昭和35年(1960年)に廃止となり、八王子市に払い下げされ、公民館「陵南会館」となっていた。
平成2年(1990年)に、新左翼の皇室テロによって爆破されてしまった。

陵南会館

石碑があった。

1964
オリンピック東京大会 自転車競技この地で行わる


高尾駅

大正天皇の大喪列車の始発駅として「新宿御苑に設置された仮設駅舎」を移築したもの。

八王子の富士森公園の大正殿は、大正天皇多摩陵での「大喪の儀」で「祭場殿」として使用された建物の移築。


昭和天皇記念館

せっかくなので、立川の記念館にも足を伸ばしました。
高尾と立川は、中央線で一本ですし。

https://f-showa.or.jp/museum/

館内は撮影禁止

今回、ボールペンを追加購入したかったのですが、売り切れでした。写真のボールペンは以前に購入したものです。(仕事用で愛用しています)

そのため、かわりにまだ戴いていなかった目録とハンドタオルなどを戴きました。

昭和天皇のお印は「若竹」

昭和天皇記念館は、武蔵野陵参拝とセットでいつも足を運んでしまいます。


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