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日比谷通りと日比谷公園散策

平成30年12月

日比谷通りと日比谷公園を散策したときの写真などを。

第一生命館
 東部軍管区司令部(陸軍)
 連合国最高司令官総司令部(GHQ)

昭和13年(1938)竣工。
平成元年から平成5年にかけて解体及び改築され現在はDNタワー21として再開発された姿を残す。内装はマッカーサー記念室など一部が残っている。 戦争中は東部軍管区司令部が設置。

終戦後は昭和27年7月に返還されるまで連合国最高司令官総司令部として使用。

第一生命館

旧・陸軍東部軍管区司令部
旧・連合国最高司令官総司令部(GHQ)

明治生命館
 アメリカ極東空軍司令部

昭和9年3月31日竣工。
終戦後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収。アメリカ極東空軍司令部として使用され昭和31年に返還。

昭和建造物としては、はじめて平成9年に「明治生命保険相互会社本社本館」として重要文化財指定。

三菱一号館

元は明治27年竣工の日本初のオフィスビル(洋風貸事務所建築)であった。

昭和43年に三菱地所が解体したが平成21年に同社により復元された。
つまり現在の三菱一号館は往時のレプリカ復元。

日比谷公園

旧・日比谷公園事務所
(フェリーチェガーデン日比谷)

明治43年(1910)竣工。
我が国初の洋式公園である日比谷公園の管理事務所。
ドイツ・バンガロー風の意匠。
明治期の数少ない近代洋風建築のひとつ。

市政会館
日比谷公会堂

昭和4年(1929)竣工。 東京都選定歴史的建造物。
建物の北側が日比谷公会堂となり、残りは市政会館となっている。

日比谷公会堂は、現在は東京都によって施設の老朽化及び耐震化を理由とした大規模改修工事を実施するため、平成28年から改修工事終了まで施設の使用は休止されている。

渋川護國英霊殿

平成30年12月撮影

渋川護國英霊殿

説明板
この社はお国のために亡くなられたご英霊が祀られております ご英霊に感謝いたしましょう

群馬県渋川市・並木児童公園に隣接して鎮座。 当時の群馬県北部11か町村、幾多郡三か村の、日清・日露の戦役までの戦没者114名を合祀し、大正8年に建立したことにはじまる。

渋川護國英霊殿 社号標 護國英霊殿
陸軍大将鈴木孝雄書


鈴木孝雄は内閣総理大臣・鈴木貫太郎海軍大将の弟。現役を退いてから靖國神社第四代宮司や、戦後は偕行社会長を務めている。昭和39年1月29日死去。

戦後、これまで管理してきた「渋川在郷軍人分会」は解散し、公的機関による英霊殿への行事は禁止される。昭和21年、有志により「英霊奉士会」が発足し渋川町出身の戦没者を英霊殿に合祀。現在は「渋川市戦没者慰霊奉賛会」が維持管理を行っている。

この地はもともとは真光寺境内にして「並木白山権現」(白山妙理権現・北裏並木の白山宮)の地であり、長尾氏の白井城の地であったという。
白井城は1572に武田信玄によって攻略され焼失。信玄は真光寺・白山宮を再建。現在の石宮は寛文12年(1672)に白山宮社殿跡に建立されたもの。

瑞垣内には、 水雷缶(浮標水雷缶・浮標水雷罐=敷設水雷/機雷=機械水雷)と砲弾が奉じてあった。

並木児童公園に建立されている碑石群

英霊碑

大東亜戦争における渋川地区出身戦病死者の慰霊顕彰 昭和29年3月31日 渋川町英霊奉賛会 建立

ほかにも征清役(日清戦争)・北清事変(義和団事件)・日露戦役(日露戦争)にまつわる慰霊碑が建立されていた。

訪れた当初、情報が少なく公園の中に小さく鎮座しているのかと思って足を運んでみたら思った以上に大きくしっかりとした空間に驚きを感じ。
神道形式の護国神社の形態を維持した英霊殿。群馬県北部地区出身の英霊を祀りし空間。

真心こめて慰霊参拝を。

上州の空と山々を仰ぎながら…

国立科学博物館と上野散策

平成30年10月撮影

高射第一師団司令部(国立科学博物館)

昭和19年12月、東部高射砲集団を改編して「高射第一師団」創設。
京浜地方を主とする本州東部の防空(高射砲)を担った。

昭和20年5月に、司令部を代官山から上野の東京科学博物館本館(現・国立科学博物館日本館)に移転。

国立科学博物館としては、現在の日本館は昭和5年竣工(1930年)

当時は東京博物館・上野新館。
戦争中の昭和20年3月10日に博物館は閉館し標本を近県6か所に疎開。
昭和20年5月に建物が軍に徴用され終戦まで高射第1師団の司令部となっている。

零式艦上戦闘機21型 改造複座機
 国立科学博物館展示

※令和3年、科博廣澤航空博物館に展示移転

ここに展示されているのは、ラバウルにて魔改造された複座偵察機仕様の零戦。
栄エンジンがよく見えるようにカウルを外した状態で展示。

日本の航空技術を代表する飛行機
零式艦上戦闘機
21型改造複座機

この零戦は、1972年(昭和47年)ラバウル北西ニューブリテン島沖の海底で発見され、引き上げられた。ベースは零戦21型で、数機の部品を合わせて作られており、偵察用として2座席に改造されている。

この機体は、エンジンが見えるようエンジンカバーを外して展示しています。

1944年にラバウル航空隊が撤退した後に、現地残留部隊が数機の零戦を組み合わせて複座偵察機に改造した機体。
ベース機は中島製31870号機。機番53-122

国立国会図書館国際子ども図書館
(帝国図書館)

旧帝国図書館は明治39年(1906)竣工の第一期工事と昭和4年(1929)竣工の第二期の二次にわたって建設され、構造は第一期が鉄骨補強煉瓦造り、第二期増築部分が鉄筋コンクリート造り。

上野公園近くの国際子ども図書館の前庭に。

「小泉八雲記念碑」
昭和10年建立。
小泉八雲の東京帝国大学時代の教え子であった土井晩翠が、23歳で結核によりなくなった長男英一の遺言に基づいて、小泉八雲を偲んで建立したものという。

小泉八雲記念碑

碑文
先生原名ハ らふかぢお・へるん 英国ノ人 西紀千八百五十年地中海ノ れふかす島ニ生レ四十一歳ニシテ来朝シ尋デ帰化シ姓名ヲ改メテ小泉八雲ト日フ 職ヲ東京帝国大学ニ奉ジ英文学ヲ教授シ日本ニ関スル著述頗ル多シ 千九百四年東京ニ没シ雑司ヶ谷ニ葬ル 先生ヲ景仰セル土井英一ノ遺言因リ父林吉松本喜一ト相謀リテ此記念碑ヲ帝国図書館ニ建ツ小倉右一郎コレガ彫刻設計ヲ為ス
昭和10年(1935)6月
藍谷温 撰 市河三喜 書

土井林吉が土井晩翠のこと。
碑の左右には「筆開皇國華」「文盡人情美」と。

2002年に安藤忠雄建築研究所が中心となって歴史的建造物の保全を軸に設計がおこなわれたのが現在の姿。

上野界隈は散策が半端なので、追記するかも。

建物以外の上の散策はこちらも

旧・陸奥宗光邸

平成30年10月撮影

鶯谷駅から歓楽街を抜けた先、住宅地の突き当りに古風な洋館が今も残っている。

この古風な洋館。
明治16年(1883)から明治20年までの期間が陸奥宗光邸であった。
この洋館は都内に現存する住宅建築洋館としては最古の一つとされている。

陸奥宗光邸

陸奥宗光が外交官・外務大臣として活躍する前の時代。

西南戦争時に反政府的な動きをしていた為、禁錮五年の刑を受けた陸奥宗光が明治16年(1883)に出獄したあと、9月に邸宅を購入して住んだのがこの洋館だった。

明治17年4月から19年2月まで陸奥宗光がロンドン留学中は妻子が居住。

陸奥宗光の帰国後、明治20年(1887)4月に六本木に引越すまで、この洋館で過ごしていた。

邸宅は明治21年に借金返済と息子廣吉の留学費用捻出のために売却。
明治40年頃に長谷川武次郎が購入し住居兼長谷川弘文社社屋として使用。
以後、大正昭和と引き継がれ、現在は長谷川武次郎子孫の西宮家の所有。

屋敷の裏側。
ちょうど裏側が新しい住宅建築中で更地になっていたので、運良く裏を見ることもできました。

陸奥宗光の晩年の邸宅は古河庭園として整備されており有名。

一方でこちらは鶯谷(根岸)の住宅地にひっそりと埋もれており、知る人も少ない気配。

蔦に覆われはじめており、この先はどうなるのかな、と。
歴史的な価値がありつつも、個人所有のようなので先行きを心配しつつ。

陸奥宗光邸としては、旧古河庭園や大磯などが有名。未訪問ですのでそのうち。
宿題・・・

日本経緯度原点(海軍水路寮観象台跡)

平成30年11月撮影 東京都港区麻布台2-18-1

日本経緯度原点

この地が日本の測地座標系の原点。

明治7年、海軍水路寮が当地に観象台を設置。明治21年に帝国大学付属東京天文台が置かれ明治25年に陸軍参謀本部陸地測量部が天文台の子午環の中心を日本経緯度原点として設定。関東大震災で子午環が崩壊したために金属標を設置し今日に至る。

わが国における緯度と経度を測定する基準となる点。

平成23年3月11日の東北地方太平洋沖地震の地殻変動により原点数値を改定。

経度:東経139度44分28秒8869
緯度:北緯35度39分29秒1572
原点方位角:32度20分46秒209

現在は国土交通省国土地理院関東地方測量部の管轄となっている。

港区指定文化財
史跡 日本経緯度原点
 ここには、わが国の経度・緯度を決める基準となる日本経緯度原点が設置されています。この原点の経度・緯度の数値は、大正7年(1918)に文部省告示によって確定した「東経139度44分40秒5020、北緯35度39分17秒5148」でしたが、平成13年の測量法の改正により、最新の宇宙測地技術を用いて新たに「東経139度44分28秒8759、北緯35度39分29秒1572」と定められました。
 この場所には、明治7年(1874)から海軍の観象台が置かれていましたが、明治21年になって、赤坂区溜池葵町の内務省地理局天象台と合併し、東京帝国大学付属東京天文台が置かれました。原点の位置は、天文観測に用いられた機器である「子午環」の中心位置にあたります。その後東京天文台は大正12年に三鷹に移転しましたが、子午環跡は国土地理院が日本経緯度原点として引継ぎ、現在もわが国の地理測量の原点として利用されています。
 日本経緯度原点は、日本の測地座標系の原点であるだけでなく、わが国の天文測量が始まったところとして、科学技術史及び文化史上意義深い場所です。
 平成8年10月22日指定
 港区教育委員会

日本経緯度原点
 日本経緯度原点は、わが国における経度と緯度を測定する基準となる点である。明治25年(1892年)に東京天文台の子午環(特殊な望遠鏡)の中心を日本経緯度原点と定め、その緯度、経度および方位角を原点数値として決定した。
 大正12年(1923年)の関東地震では子午環が崩壊したため、日本経緯度原点の位置に金属標を設置した 。
 平成13年(2001年)の測量法改正により、測量の基準として世界測地系を採用した。この改正に伴い、新たな原点数値を世界測地系に基づき決定した。
 その後、平成23年3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に伴い、日本経緯度原点が東に27センチメートル移動したため、原点数値を以下の値に改正した。
       原点数値
     経 度  東経 139° 44′28.8869″
     緯 度  北緯  35° 39′29.1572″
     方位角       32° 20′46.209″
    (つくば超長基線電波干渉計観測点に対する値)
 平成23年10月21日
 国土地理院


資料


関連

日本水準原点

霊岸島水位観測所

油壷潮位観測場

「日本経緯度原点」の隣にはかつて「中央官庁合同会議所」がありましたが現在は「アフガニスタン大使館」があります。

ここに赴くには「Tokyo American Club」や「ロシア連邦大使館」の脇を歩いていくことになりますので、ちょっと不思議な気分で緊張します。

写真はアフガニスタン大使館


国土地理院の資料

http://www.gsi.go.jp/common/000198164.pdf

【解体済】旧逓信省貯金局庁(旧逓信省本庁舎)

平成30年11月撮影

昭和5年竣工の旧逓信省貯金局庁舎、昭和18年からは旧逓信省本庁舎。

昭和24年に発足した郵政省が昭和44年まで本庁舎として利用。
本省が霞が関に移転後も飯倉分館として機能。
現在は日本郵政グループ飯倉ビル。

しかし再開発エリアとして解体へと…

訪れたのは平成30年11月23日でした。

直前の11月19日には、飯倉ビルに入居していた「麻布郵便局」が移転。
また埋蔵文化財の発掘調査も予定されている。(平成30年12月7日まで)

再開発に向けてのステップが刻まれ始めている・・・

中央エントランス部分。

魚眼で記録撮影

「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」において旧逓信省本庁舎は開発エリア「A街区」に含まれる為に解体予定。
地上65階建高さ約330mの日本最高層クラスのタワーマンション建設予定…

内閣府資料→

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/tokyoken/tokyotoshisaisei/dai11/shiryou.html

https://www.mori.co.jp/company/press/release/2018/03/20180327140020003621.html

森ビル>「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」
市街地再開発組合設立認可のお知らせ
より

裏側からも遠望。
旧逓信省本庁舎の建物は台地 にあるのがわかります。

低地の部分も再開発エリア。前述の資料によると「B-2街区」及び「中央広場」が整備される予定

建物裏側の低地部分から。
周辺エリアの再開発は始まっている・・・

再開発エリアを歩む気持ちは何やら複雑な心持ち。
次にこの地に足を運ぶとき、見える光景は間違いなく違うものになっているだろうなあ。
昭和5年竣工の、この重厚な建物も解体へ・・・

撮影は平成30年(2018)11月でした。

今はどうなっているか・・・格別にその後の情報を追ってはいませんが、当時の記録のひとつとして写真を掲載。

中島飛行機武蔵製作所関連の戦跡散策

平成29年11月撮影 武蔵野市・西東京市

昭和19年11月24日。
B-29爆撃機による東京初空襲。

その最初の空襲目標は…
世界に誇る東洋一の航空機メーカー「中島飛行機武蔵製作所」であった。

位置関係

出典は「地図・空中写真閲覧サービス – 国土地理院」
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1

位置関係が変わってない競技場やプールや浄水場を軸にするとわかりやすい。

8921-C6-132
1944年(昭19)11月07日‐陸軍撮影を編集 空襲前
USA-M372-69
1947年(昭22)07月09日‐米軍撮影を編集

中島飛行機武蔵製作所引込線(廃線跡)

三鷹側から「堀合遊歩道」として整備されている黄色線が「国鉄武蔵野競技場線跡」
そして武蔵境側から「本村公園」として整備されている緑線は「境浄水場引込線跡」

緑線と黄線を跨ぐ赤線を引いた部分が「中島飛行機武蔵製作所引込線跡」
黄線と合流したら工場まで伸びていきます。

堀合遊歩道

かつての「国鉄武蔵野競技場線跡」。
この先の「ぎんなん橋」あたりからは、廃線跡遊歩道は「中島飛行機武蔵製作所引込線跡」をも兼ねる道となっていきます。

昭和25年5月に中島飛行機武蔵野製作所の引込線が廃線。
昭和26年4月に武蔵野競技場線開業、34年11月1日に廃線。

ぎんなん橋(堀合遊歩道)

かつての「国鉄武蔵野競技場線跡」
その前身は「中島飛行機武蔵製作所引込線」

平成24年(2012)に当時の橋台跡の上に現在の橋が建設。
廃線跡を思わせるように鉄路が復元されている。

昭和13年から昭和20年まで中島飛行機武蔵製作所が稼働。
主に零戦や隼のエンジンなどを生産。この引き込み線は武蔵境駅から工場へ軍需物資を輸送する線路として活用。戦後はグリーンパーク野球場として再開発され武蔵野競技場線として運用。昭和34年に廃線。

平成24年に「中島飛行機武蔵製作所工場」の引き込み線跡に残っていた橋台の場所に「ぎんなん橋」が建設。
橋の両脇には当時の「橋台」の跡がかろうじて残されている。

かつての「国鉄武蔵野競技場線跡」
その前身は「中島飛行機武蔵製作所引込線」

その廃線跡は緑道として整備されている。
中島飛行機武蔵製作所の跡地に建設されたグリーンパーク野球場の名を残す緑地。もちろん今は野球場も残っていない。

廃線跡の緑道を北上していきましょう。

関前公園
関前高射砲陣地跡

国鉄武蔵野競技場線跡・中島飛行機武蔵製作所引込線

のどかに広がる緑地はかつての高射砲陣地跡。

「関前高射砲陣地」
この場所には高射砲6門が半円状に展開されていたという。

グリーンパーク遊歩道の途中に案内看板がありました。

武蔵野市は出来る限りの良き整備をしてくれてます。

1942年の地図と1951年の地図。
武蔵境駅から中島飛行機武蔵製作所工場に向かっていた線路は、戦後に付け替えされ武蔵境から浄水場へ、三鷹から野球場へと。

都立武蔵野中央公園

遊歩道の突き当りは「都立武蔵野中央公園」。
この中央公園が「中島飛行機武蔵製作所」の跡地。

都立武蔵野中央公園の歴史
武蔵野は月の入るべき山もなし、草より出でて草にこそ入れ(古歌)

(略)
緑が美しいのどかな畑地であったこの地は、昭和13年、中島飛行機株式会社が、本公園の敷地を含む畑地66万平方メートルに大規模な工場を建設したことにより、時代の荒波に巻き込まれることとなった。
中島飛行機株式会社は、大東亜戦争(太平洋戦争)中、零式艦上戦闘機(零戦)を始め陸海軍機の発動機を生産する国内随一の航空機メーカーであったため、米軍による攻撃の最大の標的となり、戦争の激化に伴い昭和19年11月以来延べ9回にわたる空襲を受け、工場だけでも220名mこのほか周辺町民多数の尊い生命が奪われ、工場もほとんどが灰燼に帰してしまった。
終戦を迎えて工場は閉鎖され、新生日本への復興の道が模索され始めた昭和27年、工場跡地に…米軍宿舎を建設することが決定。…返還運動が高まり、昭和48年、ついに返還が実現した。
昭和50年、東京都はこの地を都市計画公園として整備することを決定。
その後の昭和53年には前提的に全面解放され…
(略)
平成元年、通称「はらっぱ公園」として親しまれる、現在の都立武蔵野中央公園が誕生することとなった。
(略)
我々は歴史を振りかえり戦争の犠牲になられた多くの方々に心から哀悼の意を表するとともに、この「はらっぱ」をかけめぐる子どもたちの声に象徴される平和な光景がいつまでも続くよう市民として国民として世界の国々と理解と友好、協力を深めるための不断の努力を続けていきたい。
平成11年4月武蔵野市

関前八幡神社

公園から南下。

中島飛行機武蔵製作所のすぐ南に鎮座。
創建年代は寛文12年(1678)に創建という。
関前の集落の鎮守。南面鎮座。 中島飛行機時代も変わらずの土地鎮守。

関前八幡社の隣に鎮座している寺院

八幡山 延命寺

真言宗智山派 多摩八十八ヶ所霊場 第二番札所・関東九十一薬師第九番霊場

この寺院に戦争の遺物が残されている。

250キロ爆弾の破片
平和観音菩薩

「八幡山 延命寺」(武蔵野市)

「250K爆弾の破片」

「平和観音菩薩」
…私達は陸海空に護国の華と散った英霊、戦火に命を失った戦災殉難者のいしずえを絶対に忘れることは出来ません。そして痛ましい戦争の悲惨と恐怖と罪悪を常に想起して平和に対する努力を怠ってはなりません…

平和祈念の合掌を

実はこの寺院(延命寺)には中島飛行機ゆかりの「プロペラ」が残されているという。

が、見渡して見当たらないので寺務所でお伺いをしてみると… 「以前はこちらにて保管しておりましたが、今は、ふるさと歴史館にお預けしております。」 ということで別日に改めてふるさと歴史館へと。

武蔵野市立武蔵野ふるさと歴史館

ここに前述の「延命寺」所蔵のプロペラが委託展示されている。
この木製プロペラは中島飛行機武蔵製作所にて製造されたエンジンの地上試運転用に使用されたという。 なお試運転工場は当時の北門近く、現在のNTT武蔵野研究開発センター付近にあった。

中島飛行機関連の展示もあり。

中島飛行機武蔵野製作所の開設記念盃
中島飛行機の社章が描かれ、側面には「中島飛行機株式会社武蔵野制作所昭和十三年五月二十一日」とある。
中島飛行機は「陸軍向けの武蔵野製作所」と「海軍向けの多摩製作所」が合併して後に「中島飛行機武蔵製作所」へとなっている。

私が訪れた時、市制施行70周年記念企画展として「TARGET No.357 ~攻撃目標となった町、武蔵野~」企画展示が展示されておりました。(平成29年12月)

http://www.city.musashino.lg.jp/kurashi_guide/shogaigakushu_koza/rekishikan/1017121/1017504.html

1トン通常爆弾(2000ポンド通常爆弾) 復元
尾翼を含めた全長は235cm

鉄兜
正面に中島飛行機の社章が入っている。武蔵製作所の工員が使用したものか。

そのほかエンジンの部品や武蔵製作所食事券、屋根や地下通路の破片など。


話を戻します。

中島飛行機

昭和13年に武蔵野に進出することになる中島飛行機は、群馬県新田郡尾島町(現・太田市)にて創業(大正6年・1917)した「飛行機研究所」にはじまる。

創業者は中島知久平(元海軍機関大尉)

大正8年に中島飛行機製作所と改称。
大正13年(1924)に東京工場(後の東京製作所・杉並区桃井)を建設し翌年より東京工場にてエンジンの本格生産を開始。

そして昭和13年(1938)に陸軍の増産要請により陸軍専用のエンジン工場として武蔵野製作所(武蔵野市緑町)を開設。

昭和16年(1941)、陸軍専用エンジンを製造していた「武蔵野製作所」の西側に、海軍専用のエンジン工場として「多摩製作所」が開設。
昭和18年に軍需省より増産命令を受け両製作所を統合し陸海軍機の生産を一元化された「中島飛行機武蔵制作所」が成立。
国内エンジン生産シェア4分の1を誇るものとなる。

昭和18年12月、軍需会社法により中島飛行機は軍需省管理下の軍需会社に指定。
武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所を中心に西東京田無には中島航空金属田無製造所、三鷹には中島飛行機三鷹研究所などが展開。
また周辺には立川飛行機や陸軍立川飛行場陸軍調布飛行場、府中陸軍燃料廠など軍事施設が集中。

昭和19年(1944)11月24日。
マリアナ諸島を発進したB29の東京初爆撃の目標地点は「中島飛行機武蔵製作所」であった。
米軍は武蔵製作所を標的とし高度8000メートル以上の高高度爆撃を行うも、この初空襲での命中率は高くなかった。武蔵製作所は1箇所の工場としては例を見ない計9回に及ぶ爆撃を受ける。

爆撃による壊滅的な被害を受けた中島飛行機武蔵製作所は、各地に工場機能を移転。(工場疎開)
八王子浅川では地下壕にて浅川工場、栃木宇都宮では大谷石採石場跡を利用した大谷工場、福島信夫山に福島工場など30ヶ所以上に分散疎開工場を展開したという。

昭和20年4月に中島飛行機は国営化され「第一軍需工廠」となり、武蔵製作所は「第十一製造廠」に指定。
疎開先の工場は本格稼働も出来ず、特に地下壕の浅川工場は湿気による金属腐敗や内外の温度差などが生産に不向きな環境であり、結局終戦までに10数個のエンジンが完成しただけだったという。

戦後、中島飛行機武蔵製作所の東工場跡地(武蔵野製作所)は電気通信研究所やグリーンパーク野球場、都営公団集合住宅などに。
西工場跡地(多摩製作所)は米軍が接収し米軍宿舎を経て、返還後の平成元年(1989)に武蔵野中央公園へと。


「中島飛行場武蔵製作所」全景(1944年)
一枚目の画像は武蔵野私立武蔵野ふるさと歴史館 「TARGET No.357 ~攻撃目標となった町、武蔵野~」企画展パンフレット(図録)より抜粋
二枚目の画像は現在の航空写真

それでは、この地図を元に周辺を散策してみましょう。

変電室跡(解体済み)

都営武蔵野アパート建設後に管理事務所として活用された建物がここにあった…。
当時の変電室とされる建物。
しかし残念なことに平成27年に解体。
表向きは戦災の傷跡がなく保存の価値なしとされ解体されてしまったが、建屋解体途中に「戦災の傷跡=不発弾の痕跡」が見つかるも、あとの祭り…

中島飛行場武蔵製作所正門跡

敷地面積は約56万平方m(東京ドーム約12個分)の広さを誇る巨大な軍需工場の正門跡。約5万人が働いていた。

当時、この正門から出入りできる社員は工場幹部クラスだけとされ、一般従業員は別の入口から工場内を張り巡らされた地下道を通じて各職場に赴いていたという。

中島飛行場武蔵製作所東門跡(推測)

現在、武蔵野市役所や市民公園のあるエリアの近くが工場の東エリア。
このあたりに東門があったと推定。

中島飛行場武蔵製作所競技場・プール

東門(推定)から道路を挟んだ向かいにグラウンドとプールがある。
現在の「武蔵野総合体育館」や「市民プール」のある場所。

中島飛行機時代は工場従業員の為の運動施設であった。当時の航空写真でもグランドやプールの形がはっきりと見える。

北裏バス停

このバス停ある地域は「北裏」と呼称されている。
これには「中島飛行機武蔵製作所の北側の裏」の意もあるとか。(諸説あり)
バス停の位置は確かに工場の北裏・・・

中島飛行場武蔵製作所北門跡

現在のNTT武蔵野研究開発センター。
このあたりに、かつては工場の北門があったと推定。

NTT武蔵野研究開発センターの地にはプロペラ試運転場などがあった。 このセンター建設時の調査では地下通路が張り巡らされていた跡などが確認されている。

中島飛行場武蔵製作所跡の北西部 (関前橋交差点近く)

工場跡を歩いていたら、中島飛行機のDNAを受け継ぐ空間がありました。

「株式会社SUBARU 武蔵野社宅」
中島飛行機ゆかりの地で、目にすると嬉しくなります。 中島飛行機株式会社は戦後に解体され富士重工業を経て「SUBARU」へと。

武蔵野中央公園 西口側

再び武蔵野中央公園へ。今度は西側の入口から。
当時の引込線と遊歩道と関係あるようで関係ないとは思いますが、遊歩道に引込線を夢想してみる。

中島飛行場武蔵製作所
 工場地下通路の遺構

公園内の西側。東西に伸びるコンクリート片。
一説にはこのコンクリート遺構は工場地下通路の残骸ともされている。

中島飛行場武蔵製作所跡(武蔵野中央公園)から千川上水を南西の方角に歩む。

武蔵野大学

戦前は武蔵野女子学院と称された学校。浄土真宗本願寺派の学校として1924年に築地本願寺内に「仏教精神による人間教育」を目指し武蔵野女子学院が設立したことに始まる。

武蔵製作所からは南西に約1キロ。

武蔵野大学構内に戦時中の悲劇を物語る場所があるので訪れてみた。
雪頂講堂6号館と図書館のあいだの空間。
ちょっとした木々の茂みの中に石碑がある。

散華乙女の記念樹碑(武蔵野大学構内)

碑文
 武蔵野女子学院高等女学校5年生は、昭和19年勤労報国隊として動員され中島飛行機武蔵製作所で航空機増産の為に連日けんめいに働いていました。
 たまたま同年12月3日作業中空襲があり待避のため母校の掩蓋壕に入りましたが悲しいかな直撃弾を受けて赤澤ミヨ・小林リツ子・斉藤昭子・中根尚子の4名の年若い命が散華いたしました。
 その爆弾跡に土壇をつくり椿・侘助を植えて哀悼の記念樹といたしたものであります。
 武蔵野女子学院 昭和53年12月建之

1944年1月「緊急学徒勤労動員方策要綱」閣議決定。
学徒勤労動員
同年4月から、全国の国民学校高等科、中等学校、専門学校、大学の学生・生徒が軍需工場などに通年動員。
中島飛行機武蔵製作所には武蔵野女子学院高等女学校5年生が送られた。

昭和19年(1944)12月3日。
11月24日の第1回目爆撃に次いで第2回目の爆撃が中島飛行機武蔵製作所を襲う。勤労動員されていた武蔵野女子学院高等女学校5年生の女学生たちは母校の防空壕へと避難するも4名の学生が直撃弾を受けて亡くなってしまう…

今も往時を偲び追悼会が大学にて執り行われている。

合掌

https://www.musashino-u.ac.jp/news/20171204-01.html


武蔵野大学をあとにして北上をする。

東伏見稲荷神社

昭和4年(1929)に稲荷神総本社である伏見稲荷大社から分霊を勧請して創建。
昭和13年開設の中島飛行機武蔵製作所の北に鎮座する稲荷社。

戦前には中島飛行機の修練道場が置かれていたこの神社には「中島飛行機従業員殉職者慰霊碑」がある。

「東伏見稲荷神社」

もともと慰霊碑は正面大鳥居の脇にあったという。
しかし周辺の再開発によってその鎮座地を境内裏手に移設されている。

昭和13年に中島飛行機株式会社が東伏見精神修養道場として禊行の練成道場を東伏見稲荷神社に寄付された縁で、現在は神社祭典として慰霊碑が護持されている。

中島飛行機株式会社武蔵製作所
殉職者慰霊碑 (東伏見神社境内)

建碑之由来
中島飛行機株式会社は大正6年12月群馬県太田町に創立され終戦後富士産業株式会社と改称した
昭和13年5月北多摩郡武蔵野町西窪に武蔵野製作所が建設され昭和16年11月隣接地に多摩製作所が増設され陸海軍に分かれ生産を行った
昭和18年10月時局の要請により両製作所を合併して武蔵製作所と呼称するに 至った
この間従来の従業員に日本全国からの徴用工員男女動員学徒を加へその総数は5万人に及び日夜生産に励み国内第一の航空発動機工場となった
米軍は日本空軍の補給力を全滅するため武蔵製作所を本土編隊爆撃の第一目標とし昭和19年11月24日の空襲以来終戦まで十数回の爆撃が行われ爆弾五百発が 命中し二百余名の殉職者と五百名を超える負傷者を出し工場は全く廃墟と化してしまった
武蔵製作所はこの爆撃のため終戦後平和産業に転換することが出来ず富士産業株式会社武蔵整理部として整理業務に専念し毎年11月24日を迎える度に戦争の恐怖と罪悪を想起すると同時に平和日本の礎となった殉職者の霊を慰める祭祀を行った
昭和23年10月占領下であるにも拘わらず慰霊碑の建立を企図
中島飛行機株式会社武蔵製作所殉職者慰霊碑建設委員会を組織し有志の浄財をもって武蔵製作所稲荷神社跡に慰霊碑の建立を行い同時に殉職無縁者永代供養のため武蔵野市源正寺に供養碑を建立した
昭和23年12月東伏見稲荷神社司祭により遺族を迎え除幕式並びに慰霊祭を挙行した
爾来日武蔵整理部従業員有志によってささやかながら祭祀を続けて来たが慰霊碑の完全な保存と永代祭祀のため当初より多大の助力をされた東伏見稲荷神社の好意により境内に遷座することになった
昭和39年11月に遷座を完了し翌12月全国より遺族を招き遷座祭並びに二十年祭を挙行した
茲に慰霊碑建立の由来を記述して後世に伝え平和日本の礎となった中島飛行機株式会社武蔵製作所殉職者の霊を永えに慰めんとするものである

昭和三十九年十二月五日
中島飛行機株式会社武蔵製作所 殉職者慰霊碑建設委員会

殉職者氏名が記された碑も。
そこには男性の名もあれば女性の名も…

合掌

「中島飛行機武蔵製作所殉職者慰霊碑」建立に尽力された片野永正翁の顕彰碑も建立されていた。

片野永正翁顕彰碑


緑濃き武蔵野の一角に建設された武蔵製作所は、日本最大の航空発動機工場であった。
翁は、まだ槌音の残る創設時には、少壮幹部としてその敏腕を縦横に発揮し、栄光輝く最盛時には、企画室長となり最高枢機の部署を担当し、片野永正の名は常に鬼才の人として生きていた。
太平洋戦争中、十数回の爆撃を受け工場は廃墟と化し多数の尊い犠牲者を出した。
翁は、戦後、武蔵整理部の最高責任者として膨大且つ困難な賠償・整理業務の陣頭指揮を執ると共に、逸早く戦火の犠牲となった殉職者の慰霊奉祀を発願し、占領下の極めて厳しい状況の中で率先躬行慰霊碑建立に尽力した。
空襲の都度自ら殉難者の収容に当った身の切実な悲願であったであろうが、この頃から鬼才片野から人間片野への大きな変貌が見られた。
昭和五十年七月十三日その生涯を閉じる迄、初代の代表理事として例大祭を主宰し、実にその半生を殉職諸霊の奉祀に捧げてきたのである。
そして翁の遺志は爾後連綿として継承されるであろう。
茲に浄財を以って慰霊碑のある境内に小碑を建て、翁の無量の徳心を永久に称えるものである。
 昭和五十一年十一月六日建之

東伏見稲荷神社

中島飛行機ゆかりの神社。
11月24日「中島飛行機武蔵製作所」が初爆撃をされた日。
東伏見稲荷神社では「中島飛行機株式会社殉難者慰霊祭」が祭事として斎行されております。

東伏見稲荷神社から次の場所へ。

東京ガス防災供給センター保谷基地・保谷制圧所

2つ球体が特徴的なガスタンク。現在の球体ガスタンクになる前は円筒ガスタンクがこの地にあった。
「中島飛行機の円形水槽式ガスタンク」の戦後間もない姿が航空写真でもわかる(1947年7月8日米軍撮影)

中島飛行機武蔵製作所と中島航空金属を結ぶ軽便鉄道跡

「中島飛行機武蔵製作所」と北部の「中島航空金属田無製造所」(飛行機エンジン鋳物部品工場/現在の住友重機械工業やグランジオ武蔵野など)を結んでいた軽便鉄道が昭和19年から20年にかけて存在していた。
その痕跡はほとんど残っていないが西武新宿線と交差する細道が当時の線路跡であるという。

「西武新宿線」と「中島飛行機武蔵製作所と中島航空金属を結ぶ軽便鉄道」が交差する場所に、かつて鉄道が走っていたことを証明する標石が片隅に残っておりました。

西武新宿線が交差するところから「武蔵製作所」ゆかりの軽便鉄道跡を北上していけば「中島航空金属田無製造所」を経て、最終的には東久留米駅まで往時の線路跡を辿ることが出来ますが、今回はここまで。
次の散策までこのエリアの続きは保留で。

散策しました

中島飛行機武蔵製作所殉職無縁者永代供養のため建立されたという武蔵野市の源正寺の供養碑を未訪問。

宿題です。

代々木公園周辺の戦跡散策

平成29年5月

代々木公園はかつての「帝国陸軍代々木練兵場」であった。
その練兵場の隣に鎮座しているのが「代々木八幡宮」

往時を物語るものが境内に残っているというので見聞に訪れてみました。

代々木公園 「日本航空発始之地記念碑」(日本初飛行の地)

位置関係

95C3-C5-83
1944年(昭和19年)12月23日‐陸軍撮影を編集

代々木八幡宮

御祭神は応神天皇
創建は建暦2年(1212)と伝承。鶴岡八幡宮を勧請。旧社格は村社。

参道の両脇にある、この一対の石灯籠。

この石灯籠は「訣別の碑」(石灯籠の竿石部分)と呼称されている。

明治42年、陸軍練兵場(代々木公園)が設けられた際に移転を余儀なくされた住民が、この地との別れを惜しんで奉納したものという。

拝殿左側
「大字代々木深町ハ明治四十年十一月十一日陸軍練兵場ニ指定セラレタリ、常ニ一家ノ如クナル温情深キ住民ハ区々ニ移転スルノ際」

拝殿右側
「各々其ノ別ルルヲ惜ミ又字ノ消サラン事ヲ思ヒ、茲ニ燈ヲ納メテ之ヲ紀念トス 明治四十二年一月建設 良曠拝書」

代々木八幡の丘と、代々木公園=代々木練兵場の丘。

八幡さんからすれば「あっちの丘の住民たち」が強制移住をさせられ、そうして地域鎮守の代々木八幡宮に先祖代々の土地との別れを記し奉納したという。
雨濡れる参道で、石灯籠から「庶民の戦前」を垣間見る。

八幡宮祈念の碑

明治34年建立。
なかなかコアな名前が列記されていました。

扁額 千家尊福(東京府知事・出雲大社宮司)
撰文 平田盛胤(神田明神祠官・平田篤胤の子である延胤の養子)
執筆 福羽美静(靖國信仰の元となった京都招魂社建立に関わる)

表忠碑

日露戦争当時、代々幡村と呼称されていた当地からの出征者及び戦死者の名を刻む石碑。幡代小学校に建立されていた。
大東亜戦争後、取り壊しを免れる為に地域住民の尽力で代々木八幡境内に遷座。


代々木公園

代々木公園は「大日本帝国陸軍代々木練兵場」であった。

いまでは往時を偲ぶものも少なくなってきているが、公園の内外に歴史を感じるものが点在している。

ちょっと巡ってみましょう。

江戸時代。界隈には大名や旗本らの下屋敷などが点在しており、明治維新後には民有地となり一面は茶畑・桑畑などが展開されていた。

陸軍省はこの地を買収し住民を移住させ、明治42年(1909)7月に「陸軍代々木練兵場」と「衛戍監獄(陸軍刑務所)」を設置。

陸軍刑務所の話を含む投稿はこちら


オリンピック記念宿舎

代々木公園原宿門から見本園方面に向かいます。
なにやら北側の突き当りに建物が見えてきました。

「陸軍代々木練兵場」の地は、終戦後に「ワシントンハイツ (在日米軍施設)」となる。 昭和39年、東京オリンピック開催に伴い同地が日本国に全面返還されオリンピック選手村に転換。 その選手村の跡に「代々木公園」が開設される。

代々木練兵場跡地に展開された「ワシントンハイツ」は東京オリンピックに際して選手村に転用されるために移転。
そのワシントンハイツの代替移転先が陸軍調布飛行場跡地に展開された「関東村」にあたる。

案内地図中にあった「見本園」はこちら。

東京オリンピック記念樹木見本園。
当時のオリンピック参加国が持ち寄った22カ国24種類の樹木の種子が育ったのが現在の姿である、と。


閲兵式の松

代々木練兵場で観兵式に際して、
明治天皇が傍らに立たれたという黒松。
聖蹟を偲ぶに相応しき見事な枝ぶりを誇る。

明治・大正・昭和と観兵式の折にたびたび 
天皇陛下が当地に行幸された聖蹟のひとつ。


「閲兵式の松」の歩道を挟んだ反対側に石碑がある。

昭憲皇太后大喪儀葬場殿阯碑

大正3年(1914)4月11日
昭憲皇太后(明治天皇皇后)崩御

代々木練兵場内に葬場殿が設置。
大正6年に陸軍より東京府に用地が引き渡され翌7年に碑が建立された。

昭憲皇太后の大喪儀は「代々木練兵場」(現在の代々木公園)
明治天皇の大喪儀は「青山練兵場」(現在の明治神宮外苑)

明治天皇葬場殿跡は明治神宮外苑にある。


代々木公園南側イベント広場の喧騒とは裏腹に静けさ極まりない公園内を歩んで西側の端の方に。

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

この代々木練兵場の地が「日本の航空史の事始め」で重要なポイントなのです。

「日本航空発始之地記念碑」
(日本初飛行の地)

明治43年(1910)12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が飛行に成功。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も飛行に成功。

これが日本航空史上「最初の飛行」である。
(ライト兄弟初飛行の7年後)

実は公式記録の5日前。
明治43年12月19日「初飛行を目的とした記録会」に先立つ、12月14日の滑走試験中の日野熊蔵陸軍大尉が飛行に成功し(滑走から誤って離陸?)、これが非公式な日本史上の初飛行ともされている。
(が、これは飛行ではなく跳躍ともされていたり。)

明治43年12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が初飛行に成功。
徳川好敏氏は御三卿・清水徳川家の出身。
「日本初飛行」の栄誉を手にし「日本航空の父」と讃えられる。

明治43年12月19日。
徳川好敏に次いで飛行に成功した日野熊蔵はその後は上層部と折り合わずに左遷され陸軍を去り、民間で発明家となる。

日本の空を初めて飛んだ二人を顕彰する。

徳川好敏陸軍大尉と日野熊蔵陸軍大尉
昭和39年(1964)建立

「日本航空発始之地記念碑」
(日本初飛行の地)

碑文
紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社

朝日新聞社が昭和十五年に建立。

「日本航空發始之地」銘は、陸軍大将井上幾太郎書

日本初飛行離陸之地

隣には「日本初飛行離陸之地」碑がございました。


付記

陸軍を左遷された日野熊蔵氏のその後が江戸川橋の片隅に記録されていた。

国産飛行機発祥の地

新宿区指定史跡
明治42年(1909)〜43年にかけて、陸軍大尉日野熊蔵により初の国産飛行機「日野式一号機」が製作された林田商会(後の日本醸造機械株式会社)の跡。
(略)
明治43年3月18日に日野大尉自ら搭乗し日本初の国産飛行機実地飛行試験に成功した。

いまは新宿区教育委員会が建立した看板が残っているのみ。
名残はないに等しい空間である。
看板を前にして、この地で大空に夢を馳せて日本初の飛行機を作り上げていた往時を思い起こしながら、ちょっとだけ偲んでみた…


代々木公園に戻り、こちらは戦後間もない頃のお話

十四烈士の碑

代々木練兵場に米占領軍は進駐。直後にこれを接収将校宿舎ワシントンハイツを建設。
敗戦直後の八月二十五日、「敗戦の責任」を受け止めた右翼結社である大東塾の塾長・影山正治の父親である影山庄平と塾生十三名の若者らが当地で割腹自殺をとげた場所…。


参宮橋駅近くの陸軍標石

代々木公園(かつての陸軍代々木練兵場)の北側に小田急線参宮橋駅があります。こちらは陸軍用地の北側の境界線。
参宮橋駅のすぐ隣に標石が残っており「陸軍省所轄地」と刻まれておりました。

代々木公園内に残る代々木練兵場の名残は
「閲兵式の松」
「昭憲皇太后大喪儀葬場殿阯」
「日本航空発始之地」の3つを残すのみ。

そして戦後の名残は「ワシントンハイツ跡」「十四烈士の碑」なども。周辺の「二・二六事件慰霊碑」や「陸軍標石」と合わせて往時を偲びし散策もありですね。


陸軍気象部と気象神社

平成29年10月及び令和元年5月撮影

雨の日の撮影が平成29年、それ以外は令和元年5月撮影。

位置関係

USA-M698-110
1947年(S22)12月20日米軍撮影写真を編集

高円寺氷川神社

創建年代は天文年間(1531~1544)とも、奥州征伐の文治5年(1189)の際に当地に立ち寄り安達藤九郎盛長に命じて創建とも伝わる。
明治社格は村社。
第二次世界大戦戦災で社殿焼失。 現在の社殿は昭和46年(1971年)に再建。

御社殿

気象神社(高円寺氷川神社境内社)
陸軍気象部ゆかりの神社

祭神は八意思兼命
この神社がかつての「陸軍気象部の崇敬神社」

昭和19年4月10日に造営。
戦後に陸軍気象部のあった旧鎮座地から高円寺氷川神社境内に遷座。
現在の社殿は平成15年6月1日の気象記念日に再建。

久しぶりに参拝したら、賽銭箱が新しくなってました

御朱印を頂戴いたしました。
スタンプが多様されている御朱印は、あまり戴かないのでワタシ的には慣れないですね。
雨の日だと気象神社のスタンプは雨傘。
氷川さんのほうにはカボチャの妖怪みたいのがいますね。
季節で変わるようです。

折角なので陸軍気象部のあった場所へ、ここから脚を運んでみます。

高円寺氷川神社と気象神社を詣でて旧地に脚を運ぶ人はそんなに多くはないでしょう。

高円寺北の馬橋公園へ。

陸軍気象部跡(馬橋公園)

現在の長閑な公園は戦前は「陸軍気象部」。
気象神社も当地に鎮座。
そして戦後は「気象庁気象研究所」があった場所。

戦後の気象庁気象研究所が1980年につくば市に移転。
跡地が公園として整備され1985年3月30日に杉並区立公園として開園。

残念ながら往時を偲ぶものは特に無い。

小学校もかつての陸軍気象部の敷地。

附近には「気象研究所跡地周辺不燃化まちづくり」の看板が。 これ以外にはかつての「気象」の土地を物語るものは見当たらず。

陸軍気象部のあった敷地の南東角に・・・

標石ですね。

陸軍境界石(南東)

雨の中でじっくりと見るのが厳しく、なおかつ摩耗していて文字判別は不可でした。

陸軍境界石(北西)

敷地の北東部分。摩耗してましたがいくつか残存。

ひとつめ。

ふたつめ

みっつめ

よっつめ?

陸軍境界石(北東)

陸軍境界石(公園の東側入口)

ここには周辺で唯一と思われる「陸軍」と記載のある境界石があった。

この界隈は見つけた石のほかにも境界石がちらほら残っているようだ。

中島飛行機三鷹研究所跡散策

平成29年10月撮影

位置関係

USA-R360-124
1947年(昭和22年)10月24日-米軍撮影
現在は「国際基督教大学(ICU)」と「SUBARU東京事業所」

中島飛行機は東京工場(中島飛行機東京製作所)を大正14年に開設後も急成長を遂げる。

昭和13年(1938)には三鷹北部の武蔵野に大規模工場として「武蔵製作所」を開設。

そして昭和16年(1941)に三鷹南部の大沢に「三鷹研究所」を開設し、総合的な研究機関の設立を目指すも終戦により、中島知久平の夢は敗れる。


地元の調布駅からバスに乗り、降りたバス停名は「富士重工業前」。 2017年4月に「富士重工業株式会社」は社名変更して「株式会社SUBARU」に。
富士重工業の前身「中島飛行機」時代には「三鷹研究所」として航空機研究開発拠点だった地。

現在は「SUBARU 東京事業所

森山荘

東京スバル三鷹店の裏側の森。
SUBARU東京事業所の敷地内にひっそりと佇む建物が「森山荘」
(敷地外から撮影。一般非公開。)

中島飛行機時代には、来客をもてなすために使用された建物という。 現在はSUBARU関係者の懇親に利用されているという。

「中島飛行機三鷹研究所」の敷地の大部分、現在は「国際基督教大学(ICU)」となっております。
ちょうど訪問した 10月21~22日は学園祭「ICU祭」でしたので、(大雨ですが)このタイミングを狙って脚を運んでみました。

入り口は中島飛行機時代と変わらずの位置関係。

「中島飛行機三鷹研究所」
南に「調布飛行場」を控え、
北には「武蔵製作所」
北東には「東京製作所」
絶好の立地環境。

そして中島知久平はその晩年を三鷹研究所内「泰山荘」で過ごし亡くなっている。
墓は三鷹研究所の西側に拡がる「多磨霊園」に。

多磨霊園
中島知久平墓

中島 知久平(なかじま ちくへい)
明治17年(1884年)1月1日 – 昭和24年(1949年)10月29日)65歳没。
海軍軍人(海軍大尉)、のち実業家・政治家。
中島飛行機(のちの富士重工業・SUBARU)創始者。

国際基督教大学学園祭「ICU祭」の時のみ一般公開される施設が大学構内にあるので行ってみました。

泰山荘

中島飛行機の中島知久平が晩年を過ごした地。

が、雨天中止。
こればかりはしょうがない。またこんどです。

参考 「泰山荘」 国際基督教大学サイト

http://subsites.icu.ac.jp/yuasa_museum/taizanso_web/index.html

国際基督教大学(ICU)校内
泰山荘・表門

1936(昭和11)年頃の建設。表門だけは見学できました。
日産財閥の重役であった山田敬亮の別荘として建設され、昭和15年(1940)に山田家から中島飛行機に売却。中島知久平の住宅となった。

泰山荘
中島知久平
昭和20年8月終戦直後の東久邇宮内閣で軍需大臣及び商工大臣。
12月にGHQよりA級戦犯に指定。
病気を理由に中島飛行機三鷹研究所内の泰山荘にて自宅拘禁扱い。
昭和22年9月にA級戦犯指定解除。
昭和24年10月29日に脳出血のため泰山荘にて死去。

国際基督教大学(ICU)本館
中島飛行機三鷹研究所本部棟

中島飛行機三鷹研究所として昭和16年12月に建築開始された建物がベース。
戦後、ICU所有後に中央4階部分を増築し窓外壁など改築し1953年完成。2003年に外壁を改装。

国際基督教大学(ICU)本館
中島飛行機三鷹研究所本部棟

大雨の為、学祭も室内メインに。
それゆえに外観の写真は逆に取りやすかったが。

本館は大幅改良されているので往時の雰囲気だけを脳裏に思い浮かべつつICUをあとにする。

泰山荘はまた次回に?
宿題ですね

参考ニュース

第二次世界大戦中に製造された ジェットエンジン・ネ 230 の排気ノズル と推定される部品をキャンパス内で発見

https://www.icu.ac.jp/about/public/press/docs/ICUPressRelease_%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3%E9%83%A8%E5%93%81_WEB.pdf

中島飛行機発動機発祥之地

平成29年10月撮影

中島飛行機発動機発祥之地碑
(中島飛行機東京製作所跡地)

昭和62年12月10日建立

中島飛行機東京製作所(中島飛行機東京工場とも荻窪工場とも呼称)

東洋最大にして世界有数の航空機メーカー「中島飛行機」
この地で中島飛行機を代表する発動機(エンジン)が生まれていたのだ。


大正6年5月
 中島知久平が群馬県に「飛行機研究所」を創業
大正7年
 「日本飛行機製作所」に商号変更
大正8年
 「中島飛行機製作所」に商号変更
大正14年11月
 東京府豊多摩郡井萩町に「東京工場」が完成
 東京での最初の工場がこの地であった
 (武蔵製作所は昭和13年開設)
昭和6年12月15日
 「中島飛行機株式会社」と改称
昭和12年7月1日
 「中島飛行機東京工場」を「中島飛行機東京製作所」に改称
昭和20年4月1日
 中島飛行機は「第一軍需工廠」となり事実上の国営化
昭和20年8月16日
 敗戦により、社名を「富士産業株式会社」と改称
昭和25年5月
 解体の上で解散


中島飛行機東京製作所 で開発・生産されたエンジンと主な搭載機。
 「寿」エンジン(ハ1)
     海軍 九六式艦上戦闘機
     陸軍 九七式戦闘機
 「栄」エンジン(ハ25)
     海軍 零式艦上戦闘機(零戦) 月光
     陸軍 隼 九九式双発軽爆撃機
 「誉」エンジン(ハ45)
     海軍 紫電・紫電改 銀河 流星 彩雲
     陸軍 疾風

中島飛行機は戦後にGHQの手によって解体。

中島飛行機東京製作所は戦後に富士精密工業となり、そののちプリンス自動車工業をへて日産自動車荻窪事業所としてロケット開発へと推移。

中島飛行機東京製作所
 ↓
富士精密
 ↓
プリンス自動車工業
 ↓
日産自動車
 1981年に自動車開発移転
 1998年に宇宙開発移転
 
平成13年に日産より用地が売却され再開発。
現在は「日産プリンス東京販売株式会社 荻窪店」と「杉並区桃井原っぱ公園」などに。

ロケット発祥の地碑

ロケット発祥の地
碑文

戦後間もない昭和28年、旧中島飛行機から社名を変えた富士精密工業は東京大学生産技術研究所(現、文部科学省宇宙科学研究所)の指導を受け、ロケットの開発に着手した。2年後の昭和30年にはペンシルロケットの初フライトに成功し、これが日本のロケット第1号となった。
 爾来、約半世紀、富士精密工業は、プリンス自動車工業、日産自動車、アイ・エイチ・アイ・エアロスペースと変遷を重ねたが、ロケット技術は脈々と後進に受け継がれ、現在の日本の主力ロケットを生み出す原動力となった。ロケット開発の拠点たる日産自動車荻窪事業所は平成10年5月に群馬県富岡市へ移転したが、跡地は再開発されることになった。
 この地の生み出した創造的意義に鑑み、ここに記念碑を建立し、往時を偲びつつ、宇宙開発のさらなる発展を祈念するものである。

 平成13年11月
  旧富士精密工業株式会社
  旧プリンス自動車工業株式会社
  旧日産自動車株式会社  宇宙航空事業部   
                  有志一同

位置関係

R9-C1-53
陸軍撮影 昭和16年6月25日

https://goo.gl/maps/fSb5EkG1WEBiaXt29

いのはなトンネルの悲劇「湯の花トンネル列車銃撃事件」(高尾)

平成31年1月撮影

JR高尾駅には「銃撃痕」が残っていたが、高尾駅からちょっと奥まったトンネルでも「銃撃」による悲劇があった。


湯の花トンネル(いのはなトンネル)へ
(蛇滝口バス停)

高尾駅から「湯の花トンネル」(いのはなトンネル)列車銃撃の慰霊碑へむかいます。

高尾駅から小仏方面に向かうバスに乗り「蛇滝口」バス停で下車。
線路近くに慰霊碑がありますので参りましょう・・・

戦時中に銃撃の悲劇があった場所となります。


湯の花トンネル列車銃撃空襲

昭和20年8月5日
新宿発長野行419列車が浅川駅(現在の高尾駅)を出発し、湯の花(猪の鼻)トンネルに差し掛かった時、硫黄島から飛来したP‐51マスタングの銃撃を受け、52人が死亡、133名が重軽傷を負った。
列車への銃撃空襲としては日本最大級の被害であった。

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月5日、この地で米国戦闘機群によるわが国で最大規模の旅客列車銃撃空襲がおきました。
 8月2日の八王子空襲で中央本線が普通になった後、3日ぶりに新宿発長野行き419列車が浅川駅(現高尾駅)を出発し湯の花(猪の鼻)トンネルにさしかかった時、硫黄島から飛来したP51ムスタングの銃撃を受けました。この銃撃により警視庁の調べで52名が死亡し(実際は60名以上)、133名が重軽傷を負いました。
(以下略)
 2018(平成30)年8月
 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会


湯の花トンネル列車銃撃空襲
戦災死者供養塔
慰霊の碑

慰霊の碑
 終戦間近の昭和二十年(一九四五)八月五日、真夏の太陽が照りつける午後十二時二十分頃、満員の新宿発長野行き四一九列車が、いのはなトンネル東側入口に差しかかったとき米軍戦闘機P51二機または三機の銃撃を受け、五十二名以上の方々が死没し、百三十三名の方々が重軽傷を負いました。
 この空襲は日本最大の列車銃撃といわれています。
 私どもは、この戦争の惨禍を決して忘れることができません。
 ここに、確認された犠牲者のお名前を書きとどめ、ご遺族とともに心からご冥福をお祈り申し上げ、現在の平和の日々をかみしめ、戦争を知らない世代へこのことを語り伝えます。

平成四年八月五日
 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会

碑裏面
 戦災死者供養塔は、昭和二十五年八月、当時の上長房(現:裏高尾町、西朝川町)青年団が、亡くなった方々を供養するため、団員協力のもとに建立したものです。
 供養塔には、亡くなった方々を荼毘に付した日影沢の石が用いられました。
 地元に住む人々は、尊い犠牲者のお名前も人数も知ることなく、供養塔の前に手を合わせご冥福をお祈りしていました。
 昭和五十六年から八王子市教育委員会が八王子の空襲の調査を行い その後あらゆる手だてを尽くした結果、この事件の犠牲者は六十名以上と推定いたしました。
 そのうち、四十名のお名前と遺族が判った昭和五十九年、遺族関係者、地元の有志により七月二十一日に「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が発足いたしました。
 会では、この年の八月五日を「供養の日」に定め、毎年供養の集いを行い現在に至っています。
 供養塔は、はじめ唐沢踏切の北側にありましたが、地主のご好意で南側の土地を無償で提供していただき、昭和六十一年七月二十八日現在地に安置されました。
 かねてから、会では蓄積した浄財で亡くなった方々のお名前を刻んだ慰霊の碑の建立を計画していたところ、平成四年三月、東京八王子南ロータリークラブからも協力の申し出があり、ここに念願でありました慰霊の碑が完成いたしました。

平成四年六月十日
 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会

列車は湯の花トンネル手前で、進行方向左側の太平洋側から飛来した米軍P-51戦闘機に捕捉され、機関車と1両目は特に激しく攻撃されトンネルに2両目の半分程が入ったところで停止。そのためトンネルから出ていた車両が反復して機銃掃射に晒されて犠牲者が増加してしまった…

いのはなトンネル

このトンネルは戦後の新線(下り線)

煉瓦造の上り線が、空襲時から残っているトンネル。
(上り線は踏切の位置関係上、走行写真は撮影不可。)

現在の下り線(前述の列車写真は下り線)は新線。

高尾から先の複線は昭和37年以降。
煉瓦造トンネルの節々に欠けがあるのが空襲時の銃撃痕かもしれない。


湯の花トンネルの脇、甲州街道に面した蛇滝口バス停にある建物。

旧蛇滝茶屋
(蛇瀧信仰講中の宿泊休憩所)

この建物は空襲当時には既にここにあり、遺体安置所になったとも、遺族の集会所になったとも、雨戸を外して犠牲者救助に活用されたとも伝承されている建物。

当時、この地で起きた悲劇に想いを寄せつつ、慰霊碑に手を合わせる。

合掌


電気機関車ED16形(青梅鉄道公園)

中央本線419列車。新宿発長野行きの下り列車は、午前10時10分に新宿駅を出発する電気機関車ED16形7号機が牽引する8両編成であった。

同形式の電気機関車ED16形1号機が準鉄道記念物・国重要文化財として青海鉄道公園に保存されている。
参考掲載。

準鉄道記念物
ED161 号電気機関車
ED16 形式は昭和6年に開発され、18両制作されました。現役の電気機関車としては国鉄最古の形式で、当初は中央線 八王子-交付缶、上越線 水上-石打缶などで活躍しましたが、昭和40年以降全機が立川機関区に集結し、南武線・青梅線を主体に貨物輸送の主力となって、半世紀の永きにわたり活躍しました。
このED161 号機は昭和55年9月末まで使用されましたが、10月の時刻改正により現役を退き、平成30年10月31日、国の重要文化財に指定されました。

なお、八王子郷土資料館には、いのはなトンネルで銃撃を受けた該当機関車「ED16-7号機 標識」が保存されているというが、まだ未見。


参考

総務省
一般戦災死没者の追悼 > 追悼施設 > いのはな慰霊碑、戦災死者供養塔

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_hachioji_city002/index.html


関連

昭和20年8月5日の空襲。米軍戦闘機P-51マスタングの集団は、二宮駅にも機銃掃射を行っていた。

JR高尾駅に残る機銃掃射弾痕

平成29年11月・ほか撮影。

当時は「浅川駅」と称されていた「高尾駅」ホームに銃弾痕が残っている。


昭和20年7月8日

駅舎が米軍艦載機による機銃掃射をうけた爪痕。
そんな戦争の歴史を残す高尾駅を観察してみる。

同じ昭和20年7月8日の機銃掃射では「ランドセル地蔵」の悲劇もあった。


JR高尾駅

明治34年8月1日に浅川駅として開業。

現在の社寺風デザインの北口駅舎は大社線大社駅を設計した曽田甚蔵が設計、1927年(昭和2年)に竣工した2代目。

大正天皇の大喪列車の始発駅として「新宿御苑に設置された仮設駅舎」を移築したもの。

大正天皇大葬後、多摩御陵への参拝者は急増。輸送を担うは国鉄と京王電軌(京王電鉄)の2社。
運転本数の多い京王に人気があり、一方で劣勢の国鉄は利用促進のため「新宿御苑宮廷臨時停車場」の用材を用いて浅川駅(高尾駅)に移築改築をしたのが現在の駅舎という。

※高尾駅改修計画ではかつての皇室専用駅であった東浅川駅跡へ駅舎移築の予定となっている。


JR高尾駅 2番線ホーム屋根支柱(31番)

2番線ホームの屋根支柱(31番)に米軍艦載機の機銃掃射による銃撃痕が残っている。

銃撃痕
太平洋戦争末期(昭和20年)の米軍艦載機の機銃掃射による銃撃痕と思われます。


JR高尾駅 2番線ホーム屋根支柱(33番)

2番線ホームの屋根支柱(33番)にも米軍艦載機の機銃掃射による銃撃痕が残っている。
31番支柱及び33番支柱ともに銃撃痕の部分のみは塗装を施さずにわかりやすい状態となっている。


JR高尾駅 3番線ホーム屋根支柱(24番)

3番線ホームには「国内最古のレール」が、ホーム屋根支柱(24番)として使われている。

1901年(明34)に操業開始した官営八幡製鐵所にて1902年に製造されたレールであることを示しており、現時点で確認できる国産レールとしては最古のものとされている。


以下は現在の高尾駅舎が移築される予定の旧・東浅川駅の写真

旧・東浅川駅

八王子市立陵南会館跡(東浅川保健福祉センター第二駐車場)

今はヘンテコな駐車空間ですが、この場所にはかつて旧・東浅川駅(皇室専用の東浅川宮廷駅跡・昭和35年廃止)がありました。
社殿造の駅舎が八王子市に払い下げられて残っていたが、平成2年(1990)に新左翼系爆弾テロにより焼失…

市立陵南会館があった側から、参道(多摩御陵線)をのぞむ。

この陵南会館のあった東浅川宮廷駅跡は大正天皇の大喪列車用の臨時駅として開設された皇室専用の駅であり、参道もその時に整備された。

参道の両脇

多摩御陵参道
武蔵陵墓地参道

ここから御陵参道が始まります。

南浅川を渡る。重厚な御橋。

南浅川橋

昭和11年(1936年)に設置されたコンクリートアーチ式の橋 。
御陵参道の橋は威厳にあふれている。

武蔵野陵の話は別の機会に。

新潟村松の戦跡散策

平成31年3月撮影

村松兵営の営門

「村松」
私にとっては懐かしい土地。
かつて「蒲原鉄道」が五泉駅から村松駅まで結んでいた時(全盛期はもっと長く加茂駅まで結んでいたが)、母方の祖父母が新津や水原に居住していたということもあり、足繁く「蒲原鉄道」に通っていた時代があった。学生時代の思い出。

平成11年(1999)に蒲原鉄道全線廃線。廃線後はあまり足を運ぶ用事がなくなった村松に、奇しくも戦跡を求めてまた赴くことになるのは想定外のことでした。

そんな懐かしい「村松」は、当時は「軍都」と呼ばれた街でした。

村松へ

「蒲原鉄道の鉄道」がなくなり、現在は新潟駅から走っている高速バス「蒲原鉄道バス 五泉村松線」に乗るのが村松に赴くには便利。

かつてのように五泉まで磐越西線に乗ってそこから・・・というルートのほうが今はアクセスがしにくいようで。

位置関係

USA-R465-No2-19
1948年(昭和23年)11月23日 米軍撮影

営所通りの突き当りに「村松兵営」

村松駅舎

建設年代は不明。昭和の気配が残る駅舎。鉄道線が廃止されたあともバスターミナルとして引き続き活用されている。

村松駅

蒲原鉄道株式会社
村松駅 バス停
JASの名称が残っているトラベル看板
かつてここに待合所と改札があった
かつてここに待合所と改札があった
蒲原鉄道線のホームと線路があった場所
ホーム側
かつてこちら側は鉄道ホームだった

現役時代の蒲原鉄道の写真は20年前に撮影したものでフィルムスキャンしたデータがどこかのHDDで眠っているため、サルベージ出来たらアップロードします。
今は往時の思い出と、往時を知っている人は脳内補完でお願いいたします。

営所通り

村松の中心にある商店街。その名も「営所通り」
この通りを真っすぐ行けば「忠霊塔・村松公園」と「旧兵営跡」

商店街は祭日・旗日、日章旗が掲げられておりました。

営所通りを真っ直ぐ歩く。
村松駅から20分位歩く。結構遠い。

村松兵営

明治27年の日清戦争の影響により、明治29年(1896)に「歩兵第30聯隊」が編成され、明治30年に村松に兵営を展開。
日露戦争では村松より歩兵第30聯隊も出征し凱旋。記念として「村松公園」が造営されている。
昭和18年(1943)には「村松陸軍少年通信兵学校」が設立。


日の出町交差点。
北に愛宕小学校、南に村松体育館がある交差点が、かつての「正門」

営門と歩哨舎が残っている。

軍都村松

 明治27・28年の日清戦争における軍備拡張により、歩兵第30聯隊が新設された。陸軍省が設置場所を調査している中、村松町では町会で愛宕原の地4万坪を献上することを議決し、明治29年8月には村松に歩兵第30聯隊が設置されることが決定した。
 施設の概要は、兵舎・練兵場・作業場・病院・射的場などが兵営敷地に建設された。そのほか、村松町では往来の便を図るため兵営門前から下町まで新道を建設した。(現在の学校通り、当時は「営所通り」と呼ばれていた。)
 明治37年、日露両国(日本とロシア)は戦争状態に入り、村松の歩兵第30聯隊も出征した。この日露戦争記念として造営されたのが村松記念公園である。
 旧陸軍との関係は終戦まで続き、終戦間際の昭和18年には、村松陸軍少年通信兵学校が開校され全国各地から少年兵が入校した。昭和20年、終戦を迎え軍都村松の歴史は幕を閉じた。

将校集会所 門柱

 将校集会所は、主に士官(少尉以上の軍人)の集会に使用されていました。
 村松兵営の集会所は、現在の村松体育館(さくらアリーナ)付近にあったと考えられます。
 1945年(昭和20年)の終戦で兵営が廃止された後、門柱の所在は長い間不明となっていましたが、2013年(平成25年)に新発田市の陸上自衛隊で発見され、2014年3月に現在の地場所に移設されました。
 2016年12月 五泉市教育委員会

村松兵営跡

碑文

 このあたりは明治三十年から昭和二十年に至る約五十年の間村松兵営のあったところである
 祖国の護りと世界の平和のため郷土の若人はこの兵営において苦楽を共にし死生を同じうする戦友として昼夜を別たず教練演習や戦技訓練に精進した。 その雄叫びは愛宕の山にこだまし喇叭の響きは菅名 白山の峯もをゆるがすばかりであった。 かく鍛え抜いたつわものは伝統の越後魂を以って出でては日露戦争・シベリア出兵・満州事変・支那事変・大東亜戦争と到るところ堅忍克艱赫赫たる武勲を打樹て入りては郷土の健全な発展に貢献した併し栄光の影には幾多の貴い犠牲があった。 この犠牲こそが今日祖国の発展を齎らした貴い礎であることを忘れてはならない。
 星移り時は流れて幾春秋今や由緒深き兵営も全くその姿を変え空しき過去に葬り去られようとしている。
 この時にあたり関係者一同 計らずも村松町多数有志各位の絶大な協力をいただいた事実に衷心感謝を捧げつつ相携えて意義ある史跡としてこの兵営の足跡を記し英霊の遺勲と先人戦友の業績を永く後世に伝えるよすがともせんためこの碑を建てるものである。

村松兵営の足跡

明治三十年八月  
  歩兵第三十聯隊駐屯 
  同聯隊は明治二十九年一月新発田聯隊にて編成第二師団に編入
明治 三十一年三月 
  歩兵第三十聯隊に軍旗親授
明治 四十一年十月 
  歩兵第三十聯隊第十三師団に編入
大正十四年五月  
  軍備縮少により歩兵第三十聯隊第二師団に編入 
  高田に移駐
  歩兵第十六聯隊第三大隊新発田より分屯
昭和十二年四月  
  歩兵第十六聯隊第三大隊新発田に復帰
昭和 十三年一月   
  新発田陸軍病院臨時村松分院開設、支那事変の傷病兵収容
昭和十六年四月  
  新発田陸軍病院臨時村松分院閉鎖
昭和十六年七月  
  歩兵第百五十八聯隊駐屯高田独立歩兵団に編入
昭和十六年九月  
  歩兵第百五十八聯隊に軍旗親授
昭和十八年六月  
  歩兵第百五十八聯隊新発田に移駐西守第二師団に編入
昭和十八年九月  
  陸軍少年通信兵学校開校
  (村山陸軍少年通信兵学校より分校)
  18年12月第11期生800名 
  19年6月第12期生600名 
  20年4月第13期生400名卒業
昭和二十年八月
  大東亜戦争終結により兵営閉鎖
昭和五十四年四月二十四日  
  村松兵営跡記念碑建設会

兵営のあった場所の南東隅の場所に境界標石が残っている。

村松兵営 陸軍境界石

村松兵営の南側に空間が広がっている。

村松兵営 練兵場跡

現在は「新潟大学農学部付属フィールド科学教育研究センター 村松ステーション」。農場として活用されている。

門柱がある。この門柱が練兵場時代のものかどうかは不詳。
雨が強くて水滴がレンズについてしまった写真になってしまいました。

村松兵営の地から南西方向に歩みを進める。

村松陸軍病院
 現在の南部郷厚生病院

病院入口の北側に門柱が残っている。

かつての村松陸軍病院、現在は南部郷厚生病院。
建屋は建設年代は不詳。

病院の南東隅に、陸軍境界石が残っている。
村松兵営といい、村松陸軍病院といい、いずれも南東隅に残っている。

村松陸軍病院 陸軍境界石

村松陸軍病院の南側には「村松公園」と愛宕山。
日露戦争の戦捷記念公園。

村松公園

村松公園は、明治39年10月に日露戦役記念として造られました。今では県民が選んだ「にいがた景勝100選」で、第3位に選ばれています。

五泉市>村松公園
https://www.city.gosen.lg.jp/hyande/2/4/2281.html
塗り潰された(戦捷)記念灯籠 
海軍の錨が刻まれた灯籠
開設記念碑 明治39年11月建立

歩兵第30聯隊将校団奉納の鳥居

忠霊塔

村松陸軍墓地に埋葬されていた御遺骨も改装され忠霊塔に埋葬されているという。
昭和18年(1943)に陸軍省が建立。2017年の改修工事で当時の忠霊塔頂部の棟飾りは屋根から下に降ろされて保存設置されている。

合掌

護國の英霊此処に眠る(昭和43年11月建立、南部郷遺族会)

村松陸軍少年通信兵慰霊の樹

案内看板
慰霊碑と忠魂碑と忠霊塔と。

戦場に散った少年たちの碑

この丘上には、先の太平洋戦争下、祖国の急を救おうとして、悲惨な最期を遂げた少年通信兵812柱の御霊が眠っています。

村松の 山川さらば 出陣の 胸に祖国の 平和希いて
何時訪うも 香華絶えぬと 村松の 昭和の白虎隊とぞ 守り給える

戦没陸軍少年通信兵慰霊碑を護る会

戦没陸軍少年通信兵 慰霊碑

慰霊碑建立の由来

 この慰霊碑は 
先の大東亜戦争等において
祖国の安泰と 
家族の平安を願い 
敢然と戦場に赴き 
義を盡し
若くして華の如く散った 
陸軍少年通信兵の英霊を
慰めるため我等相図り
村松町の御好意のもとに
この地に建立し
八百余柱の御霊を合祀したものであります
ここにその偉勲を後世に伝え
永遠の平和を
祈念するものであります

 平成7年10月11日 全国少通連合会

碑文(裏面)

昭和8年東京ニ陸軍少年通信兵ノ教育開始セラレ逐年増員シ昭和17年陸軍少年通信兵学校トナレリ
昭和18年ニハ更ニ新潟県村松町ニ陸軍少年通信兵学校開設セラレ併セテ7千余名ノ若人ヲ教育シ国軍戦力統合ノ骨幹タル通信連絡ニ盡瘁シ各戦線ニ偉勲ヲ樹テ作戦ノ要望ニ応ヘシメタリ
然ルニ苛烈ナル戦線ニ或ハ瘴癘ノ地ニ多クノ少年通信兵ヲ戦病没セシメ其数300余名ニ及ヒシハ痛恨ノ極ミナリ 
殊ニ昭和19年秋南方戦線ニ向フ少年通信兵230余名ハ九州沖及東支那海ニテ敵潜水艦ニ襲ワレ戦線ニ至ラズシテ船ト共ニ水漬ク屍トナレルハ真ニ慟天哭地痛恨惜惜ク能ハサル所ナリ

終戦後20有5年今ヤ我国ハ稀有ノ隆昌ト平和ニ栄エ世界ノ大国トナレリ

惟フニ是レ一ニ祖国ノ無窮ヲ念ジ悠久ノ大義ニ殉ジタル英霊ノ加護ニヨルモノト謂フヲ得ヘシ

生キテ此ノ盛運ニ遭フ我等相諮リテ空清ク気澄メル村松ノ地ヲトシ碑ヲ建テ以テ尊キ御霊ヲ永ク鎮メ祭リテ慰メ奉ル 
在天ノ諸霊願ワクバ我等ガ微哀ヲ享ケラレンコトヲ
  昭和45年10月11日
   全国陸軍少年通信兵連合会

忠魂碑

明治39年3月建立
陸軍中将 西島助義 書

日露戦争時の陸軍第30聯隊にまつわる忠魂碑
忠魂碑は練兵場並びに兵営の方向を見渡す高台に鎮座。

揮毫された西島中将は日露戦争・奉天会戦の第2師団長。
歩兵第30聯隊は第2師団隷下として日露戦争で活躍。
遼陽会戦では第2師団が行った「弓張嶺の夜襲」と呼ばれる師団規模の夜襲作戦にも参加している。

公園の隣には鹿園があった。

村松公園は雨の中での散策ということもあり、見逃したスポットが多々あったのが判明。
「鉄傘の灯籠」「タマ公」「日の丸灯籠」など見逃し。残念。またの機会。

から西の方に一気に移動する。

戦跡としての散策ではないが、一箇所寄りたいところがあった。

城跡公園
五泉市村松郷土資料館

村松城址跡の公園。村松は堀氏三万石の城下町。
ここにかつて走っていた蒲原鉄道の車両が保存されている。
どうしても、車両が見たかったのだ。

蒲原鉄道保存車両モハ11

加茂~村松~五泉

 この電車は、大正12年に蒲原鉄道株式会社が磐越西線・五泉駅から信越本線・加茂駅までの21.9kmが開通した当時から昭和60年まで、走行してきました。
 昭和10年ごろは、旅客をはじめ穀物、織物、鉱石等の貨物を輸送し、沿線住民の足として最も活躍、貢献しました。
 昭和60年3月、加茂・村松間17.7kmが廃止されバス輸送に変換したので、往時を懐古するとともに、ここ城跡公園の一角が軌道敷だったことから、この地に展示し後世に伝えるものです。

私が知っている蒲原鉄道は末期の五泉~村松間の時代のみ。
平成11年(1999) のころ。
それより前の昭和60年(1985)は知らない時代。それでも車両のカラーリングは同じということもあり懐かしさを感じる。

この車両に軍都村松時代は、歩兵30聯隊の兵士たちや、通信学校の少年たちも乗車し揺られながら五泉と村松、加茂と村松を往来していたかもしれない。

あの時代、同じ時代を知る車両。
感慨深いものがある。

帰りの時間が厳しかった。

もっとゆっくりしたかったし資料館を見学したかったが時間切れ。断腸の思いで村松駅に戻る。
今はもう村松駅は電車がこないバスターミナルのみではあるが。

JR五泉駅と菅名岳を蒲原鉄道バス車中から見送る

筑波海軍航空隊跡散策

平成28年3月6日撮影

筑波海軍航空隊記念館が中心。

  • 筑波海軍航空隊記念館(司令部庁舎)
  • かえり雲(流政之さん)
  • 号令台
  • 慰霊碑
  • 滑走路跡
  • 筑波神社跡(筑波海軍航空隊神社跡)
  • 地下戦闘指揮所跡
  • 地下病院跡(地下応急治療室跡)
  • 二所神社
  • 海軍道路
  • 笠間市立歴史民俗資料館
  • 正門跡
  • 供養塔

ずっと訪れたかった地。
「永遠の0」を観る前から。
観た後は更に… 尊い歴史を伝承する空間。
後世にこの歴史を受け継がねばならぬ、と。

散華されし若き海鷲達に感謝と哀悼を…

筑波海軍航空隊記念館サイト

https://p-ibaraki.com/

レポート当時(平成28年)と現在は展示状況が異なります。
あくまで参考でお願いいたします。

友部駅南口に到着。
記念館はここから南約2.5キロ。 到着の時間は朝8時。記念館の開館は9時。
ノンビリ歩いていきましょう。

南口より歩く。わかりやすい大通りをてくてくと。
大きな看板がみえてきましたね。
もう少し歩いていきます。

あえて現在の正門ではない方へ。開館時間まで余裕があるので散歩。

位置関係

USA-R1062-105
1948年(昭和23)03月02日、米軍撮影に補足

筑波海軍航空隊裏門
(霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊時代の正門)

筑波海軍航空隊は霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊として昭和9年に開隊。

その分隊時代は現在の裏門が正門。
門柱が戦前か戦後かは?だが、場所は大体同じようです…

現在は裏口。
徒歩は問題ないけど車はこちらからは入れません。
裏口を案内しちゃうナビも多々あるご様子。

私は徒歩なのでこのまま構内にはいります。

筑波海軍航空隊記念館
 筑波海軍航空隊司令部庁舎

裏口から入ってしまったので、記念館も裏から……
まずは正面に向かいましょう

かえり雲

正面では号令台と「かえり雲」彫刻が出迎えてくれました。

かえり雲の作者は流政之さん。
元筑波海軍航空隊隊員(海軍飛行科予備学生)出身。
「筑波海軍航空隊の想い出と慰霊のために」寄附されこの地に設置。

号令台

正面には往時のままの姿を残す「号令台」
号令台の前には多くの若者たちが整列し、訓練に励み、そして飛び立っていき…

この場所に集いし桜はさぞかし美しかったことだろうと、想いを馳せると胸が熱くなる…

筑波海軍航空隊司令部庁舎

さて。館内へ。
この司令部として使われていた建物。
戦後は茨城県立友部病院管理棟としてそのまま転用。
平成23年10月に友部病院は茨城県立こころの医療センターと改称し新病棟に移設。

司令部であったこの建物は、解体予定のところを記念館として復活。

展示してあるものは一部を除いて撮影可能。
とても全部を語るのは難しいので印象深いものをランダムで。

こちらは英国アブロ504K練習機。海軍ではアブロ式練習機として中島が主に製造。黎明期の海軍練習機。

プロペラ展示室でスタッフの方に教えていただきました。

往時のプロペラは合板なんですよ。
断面を見れば一目瞭然。わかりやすいですね。

プロペラ展示室でスタッフの方に教えていただきました。

下二段のプロペラ。
同じ九三式中韓練習機(赤とんぼ)ですが違いが分かります?

回転方向が違うんです。
どうやら工場によって右だったり左だったり…

流石に戦争中には、これでは効率もなにもあったものではないので規格統一がすすんでいったようですが、同じ飛行機でもエンジンの回転軸方向が違うのが驚き。
故障時にパーツのニコイチも出来たものではないし…これはアカン


関口富坂海軍大尉
開戦前は金剛の射撃手として乗艦。
開戦時には一航戦赤城乗組員として真珠湾・ミッドウェイに従軍。
次いで翔鶴乗組員として第二次ソロモン・南太平洋に。
乗艦が沈没するも無事に生還される。

「軍艦金剛」
銘入マグカップ
前述の関口富坂海軍大尉遺族の手によって発見され記念館にて展示。

昭和七年度
射撃幹部員競技
軍艦金剛

小笠原諸島にて収集された遺品など。

陸上爆撃機・銀河のエンジン
艦上攻撃機・天山の第四風防(偵察員席)

小笠原諸島にて収集された遺品など。

艦上攻撃機・天山のエンジン
陸上爆撃機・銀河のエンジン

ひときわ大きな遺品。

二式大艇のプロペラエンジン。

筑波空記念館にて鎮座する遺品たちには御神酒が添えられてた。
自ずと手を合わせ頭を垂れる。
感謝の念と哀悼の誠を捧げ、ひとり静かに黙祷する…

零式艦上戦闘機21型。ゼロ戦。
後部胴体。

もともとはソロモン諸島でニュージランド空軍が回収した機体。
ラバウル航空隊所属機と推定。
払い下げ品を大阪の個人が購入し、この地にて展示。

十九試局地戦闘機「秋水」
陶器製燃料タンクは左が陸軍、右の錨印が海軍。
秋水の燃料タンクが陶器製とは知りませんでした。
ちなみに秋水は(末期ゆえに)陸海軍共同で研究された稀有な機体。

記念館の二階へ。
さらに時代を感じる気配がします。

しばらく、雰囲気を堪能します。
中央階段。二階廊下。

記念館二階中央。
司令室。

記念館2階。
副官室。

記念館2階の窓から

広場に眼をやれば桜並木が。
これもまた往時の姿を残すよすがかな…

記念館2階。

こちらは「永遠の0」撮影に使用された部屋。
陽の差し込み具合がやんわりとしていて良い雰囲気です。

記念館2階。

「永遠の0」撮影に使用された部屋にて。
雰囲気重視。

廊下を往来しておりますと、さっきから気になる部屋があるんですよね。
ん?
提督ONLY

扉をそーっと… 押して参ります!
あっ 確かに提督Only部屋っぽい。

さて改めてまして。
模型の展示室があります。ちょっと見てみます。


先任旗…港湾停泊時に司令官不在時に先任の艦長が乗艦している艦艇に掲揚。
代将棋…将官不在時に大佐等の艦長が司令官を務める際に掲揚。

大和格納庫(零式水上観測機)や赤城カットモデルなども展示してありました。

カットモデルはなかなか見る機会がないので新鮮。精密さにしばし見入ってしまいました。

武蔵
模型のこの部分がシブヤン海での映像ではコレと照会してくれているのは、わかりやすく。

こうやって様々な艦船が揃っていると戦艦空母と駆逐などのスケールの違いが視覚化されてよいですよね。
1/700

横山保さんの遺品など。
ゼロ戦が実験機(十二試艦上戦闘機)だったころから部隊を編成し機体の問題解決に尽力しゼロ戦の初陣を指揮。
筑波空飛行長も務め、戦後は空自にて司令などを歴任。

風防ガラスのペンダント

筑波空予備士官金井正夫少尉と女学生。 一度も会うことなく文通がとりかわされ、そして金井少尉は神風特別攻撃隊筑波隊として散華…

神風特別攻撃隊
神雷部隊(桜花)と筑波隊。

この筑波空が「まさにカミカゼの生まれた地」。
この歴史を風化させてはいけない。

筑波山神社で記念写真を撮る筑波空の隊員達の姿がひときわに美しく……

桜花。神雷部隊。桜花を搭載した一式陸攻。

先日、鑑賞させていただいた映画「サクラ花 桜花最期の特攻」が頭によぎる。
ボタンの掛け違い…こんな時代になるなんて…の想いがよぎる。
万感…

参考写真 映画ポスター
参考写真 映画のパンフレット

こちらは桜花の主翼の一部。

もともとこの建物は、司令部の役目を終えたあとは、病院として使用されたもの。病院の役目が終わり筑波空記念館として改めて活用されています。

展示部屋の中には病院の名残ぽい水道などもあり…

紹介しきれなかった展示も多数あります。私は9時過ぎから2時間ほどいましたが、まだまだ離れがたくもっと時間が欲しいと。
とはいってもスケジュールがあれなので、野外展示にスライドしましょう。


筑波海軍航空隊正門門柱

海軍道路の基地側には門柱が残っている。
筑波海軍航空隊正門

正門の脇にあるコンクリート壁も往時の名残り。

もともとこの記念館は県立友部病院。病院が平成23年4月「県立こころの医療センター」として隣接地にリニューアルし、元の建物は廃院。 ちょっとした廃墟感。 そんな中を抜けて建物の先にある供養塔へ。

筑波海軍航空隊
司令部庁舎庭園

供養塔まで赴く途中にあるこの荒れ庭。 司令部庁舎の裏庭として一応往時からのものらしいです。

筑波海軍航空隊 供養塔

昭和13年から筑波空司令を務めた古瀬貴季中佐の指示で訓練中に亡くなった隊員の為に建てられた供養塔。

この供養塔を建てられた古瀬貴季氏(最終官位は少将)は、フィリピンで捕らえられBC級戦犯として死刑判決を受けるも「ああ、モンテルンパの夜は更けて」のレコードを出した流行歌手・渡辺はま子が戦犯減刑を嘆願し、恩赦によって帰国する事が出来ております。


記念館では自転車(有料)も貸してくれるので、有効活用。
周辺散策へと。

慰霊碑
筑波海軍航空隊 ここにありき

碑文

 一九三四年六月開隊。練習機による操縦教育開始。四四年三月零戦による戦闘機搭乗員養成に任務変更。四十五年五月紫電戦闘機の実戦部隊となる。八月終戦。

君は信じられるだろうか。

ここを巣立った若人達が広域各地に勇戦敢闘しその殆どが南溟の空に散ったことを 。 
また四四年十月以降フィリピン・沖縄の作戦に数多の者が神風特別攻撃隊員として一命を捧げたことを。
 この地で編成し沖縄戦に出撃散華した筑波隊だけでも五十五柱を越える 。 
 ここに万感の愛惜をこめてその鎮魂を祈り且つは恒久の平和を念じてこの碑を建てる。

一九九九年六月                   
 筑波海軍航空隊関係者有志
 用地は橋本二朗氏提供

筑波海軍航空隊滑走路跡

滑走路跡。面影は直線的な道路を感じる程度。

もともとは平らに慣らしただけの土地だったものを筑波空が自力で昭和19年に滑走路整備したものという。

筑波海軍航空隊
筑波神社跡(筑波海軍航空神社跡)

戦後、GHQを恐れた地元住民によって壊されてしまい台座のみ残ると…
若鷲たちが祈願をしたこの場所で静かに頭を垂れ手を合わせる。

筑波海軍航空隊
地下戦闘指揮所跡
 ※現在は非公開

受付でご案内をいただき、懐中電灯とヘルメットが関与されます。
中に入って実感しましたが、ヘルメット大活躍。コツコツと頭ぶつけますからご注意を。
あと、花粉症の人。ヤバイです。杉林の中です。

地下戦闘指揮所跡。
懐中電灯が大活躍します。
通路がふたつ。部屋は真ん中に5つ。奥に1つ。奥行きは30m。

通路の奥では…プロジェクタ?戦争記憶を求める記念館の広報映像が流れていたり。
うん、印象深い演出だけとちょっとシュール。

地下戦闘指揮地下戦闘指揮所跡。
地下室。

青く見えるのはLED懐中電灯の影響。
素直に言ってかなり興奮する空間。

時間が止まったかのような空間。
無機質なコンクリートが歴史を伝承してくれている…

戦争記憶と記録を求めるポスト…

一番奥の部屋は通信室。
台座や金具跡が残る。

ちなみにこの地下施設は地上の司令部が無事に残ったので使われることはなかったとのことで。

天井に無数に開いている穴はケーブル孔や通気口など。
通気口は途中で折れ曲がって貫通しています。

地下戦闘指揮所跡。

こんな感じで地下室散策。
なかなか興味深い経験をさせていただきました。
これは貴重な歴史遺産。
このまま歴史伝承の装置として残しいかねばならぬもの。

もう一箇所、このエリアには地下施設があります。

筑波海軍航空隊
地下病院(地下応急治療所)

70年ぶりの発見!とのことで、こちらは近年の調査による成果。

地下病院は広さ16畳。奥には明かり取り用の窓もある。
地下戦闘指揮所とは違い、こちらは病院として実際に使用されてます。

明かり取り用の窓側を外から。

筑波空の地下施設。
圧巻でした。
これは一見の価値ありです。

貴重な遺産として、大変価値のあるものを体感させていただきました。
ありがとうございます。

さて、脇道へ。

地下施設の森の南に神社があるんですよ。
こりゃ、いかねばならないでしょ。

地下施設からは立ち入り禁止の道があるので大回りして神社に行ってみました。

二所神社

筑波空とは直接には関係ない…と思われるが界隈の鎮守様。
地下施設がある村の鎮守様。
昭和31年に耕地整理で池八幡神社の地に遷座。 この御社殿後方の杉林の中に先ほどの地下施設があるのだ。

海軍道路

筑波空正門から西に伸びる道路は通称「海軍道路」。
友部から筑波空までは海軍が建設し、そして地元の有志によって宍戸駅から筑波空までの道路が建設。
海軍と地元が交流する橋渡しの道路。

海軍道路の脇には道路建設に貢献した人々の名前が刻まれた石碑が残ってます。
石碑には昭和十年五月と記あり。

長閑な気持ちで、宍戸の集落を遠望。往時も今もそんなにかわらない光景かもしれない。

海軍道路から宍戸の街を抜けて行く。
宍戸駅に向かう途中に笠間市立歴史民俗資料館がある。

旧宍戸町役場庁舎(旧友部町役場庁舎)
笠間市立歴史民俗資料館

国登録有形文化財指定。 ちょっと立ち寄り。

笠間市立歴史民俗資料館。
入館は無料。
訪れた時は私一人でした。

空間を満喫。
手作り感満載の展示はなかなか味があって面白い。 たまにはこうやって郷土史や郷土民俗に触れるのも楽し。

筑波海軍航空隊にまつわる展示室もあります。
いまでこそ資料的密度は筑波海軍航空隊記念館が勝っておりますが古くからこうやって郷土の資料館にもコーナーがあることに敬意を表し。


筑波海軍航空隊記念館に戻りまして。

記念館1階では、お土産や書籍やグッズが販売されております。 後学のために購入。
「茨城県の戦争遺跡」
これから 足を運ぶ事が増えそうです……

記念館が、作成したパンフレット。 なかなか読み応えのある内容。 22ページと6ページの冊子。

戦争の記憶と記録を伝承し風化させない為の空間として。
先人たちの苦難を見つめ直す空間として。

期間限定公開が終わってしまうその後はどうなるのかが未知ではありますが…
なんとか良い方向へと進んでいくのを希求しつつ。

この空間は後世に必要なのです…

桜並木と司令部庁舎は往時と変わらぬ姿ででそこにあった。

この地より飛び立つ若鷲たちを見送ってきた桜並木。

万感の想いで脳裏で夢想する。
きっと、この桜花の咲く季節に訪れたら、泣いてしまうんだろうな…と

北浦海軍航空隊跡と鹿島海軍航空隊跡散策

平成28年9月(北浦)

スロープ跡

北浦

今回の舞台は北浦湖畔。目印は潮来マリーナ。 航空写真で見てもだいたい分かる感じに「水上機用スロープ」が残ってます。

アクセス方法
潮来駅-延方駅-鹿島大野駅を結ぶ広域連携路線バス。

バス停「大生原公民館前」下車。
ここより、北浦湖畔「潮来マリーナ」方面に向けて 北に歩いてみる。

北浦海軍航空隊

その活動期間は極めて短い。
昭和16年(1941)10月、鹿島海軍航空隊北浦分遣隊が設置。
昭和17年4月、北浦海軍航空隊として独立開隊。水上機訓練部隊となる。
昭和20年5月5日、訓練部隊解隊。
北浦航空基地となり訓練部隊の機能を失う。

位置関係

USA-R534-No2-101
1949年(昭24)01月20日、米軍撮影

皇太子明仁殿下御行啓記念碑

北浦海軍航空隊跡地
第二十九期飛予科練卒
元海軍航空隊員 大谷英助書

昭和19年(1944)05月に、 皇太子殿下が北浦海軍航空隊を御見学された際の御行啓記念碑。

皇太子明仁殿下御行啓記念碑
碑文裏面
 昭和十六年十月霞ヶ浦海軍航空隊北浦分遣隊が大生釜谷両地の水田約五十町歩を買収し七戸の農家を移転させて航空隊建設に着工し完成致しました。
 昭和十七年四月北浦海軍航空隊として開隊し水上飛行機訓練場として若鷲予科練の若人育成に大きな役割を果たしました。
 昭和十九年五月三日、四日、皇太子殿下には学習院初等科第五学年で学友五十五名と共に当海軍航空隊を御訪問飛行訓練など御見学なされ御宿泊になりました。
 当時私達大生原国民学校生徒全員が御観送迎の行事に参加出来ましたことは誠に意義深いものと考えここに皇太子殿下御行啓の地と記し北浦海軍航空隊跡地として後世に伝えるため記念碑を建立します。
 平成三年十二月二十三日
 碑文 委員長


霞ヶ浦周辺の海軍航空部隊の交通整理。

海軍航空隊の教育部隊(予科練)として。

霞ヶ浦海軍航空隊(教育部隊・予科練)

鹿島空(水上機部隊独立)→「北浦空」(鹿島空分遣から独立)
谷田部空(霞空補助)
土浦空(霞空から予科練を引受)


皇太子明仁殿下御行啓記念碑の地から北上して、潮来マリーナ界隈へ。北浦の湖畔へ。

「当該コンクリート部分は、国有財産です。」

はい、そのコンクリートを見に来ました・・・。

北浦海軍航空隊
水上機スロープ跡

このなだらかなコンクリート斜面が北浦海軍航空隊の水上機スロープ跡。
滑走台。

水上機を台車に載せ、コンクリートエプロンから機体の出し入れをしたという。

水上機スロープ跡。

この北浦の湖畔にフロートで浮かぶ水上機が幾多も離水し飛び立って行ったんだなあ、と往時を偲ぶ。

知らなければそれまでの場所。
コンクリートと湖面は静かに往時の歴史を物語っていた…

潮来マリーナの片隅に慰霊碑がある。

北浦航空隊物故者水難者慰霊塔

碑文

貴様と俺とは
 同期の桜
同じ航空隊の
 庭に咲く
咲いた花なら
 散るのは覚悟
みごと散りましょ
 くにのため

昭和六十三年三月

同期の桜を…

北浦航空隊物故者水難者慰霊塔

水上機練習部隊として、93式水上中間練習機「赤トンボ」にて離着陸・旋回訓練などが行われていたが、時には操縦を誤り墜落する事故もあったり…

昭和20年5月には、当地より水上機による特攻作戦も展開されたという…

黙祷を。

北浦航空隊物故者水難者慰霊塔の両隣は
「ブラックバス供養塔」

「へら鮒供養塔」

北浦海軍航空隊
格納庫の基礎跡

マリーナよりちょっと南下したところに。
北浦海軍航空隊の「格納庫の基礎」といわれているコンクリートの塊があった。

格納庫の基礎。
そこには当時のものと思われる「ナット」も付いたままでした。
ちょっとしたことだけど。
歴史を感じる遺物に感動してしまう。

往時を物語るものは少ないけれども確かに往時を感じられる気配がそこにあった。

北浦の夏空は往時を忘れるのどかさがあった


鹿島海軍航空隊跡散策

平成22年(2009年)、友人とたまたま霞ヶ浦湖畔に訪れていた、当時の私はまだ戦跡を見聞する知識も持ち合わせておらず、詳細な記録もないので、「付記」として掲載します。


平成22年5月。その時は友人車で(サラリと)訪れておりました。
黄色が「鹿島海宮航空隊」
青色が「北浦海軍航空隊」
どちらも水上機部隊。

鹿島海軍航空隊

昭和13年(1938)12月15日、鹿島海軍航空隊が開隊。
霞ヶ浦海軍航空隊の水上機部隊が分離独立した部隊。

昭和17年4月1日には「鹿島海軍航空隊北浦分遣隊」が独立して「北浦海軍航空隊」となっている。
水上機部隊としては鹿島と北浦は兄弟のような関係。

水上機操縦教育を主体に多くの飛行学生・飛行練習生を擁していたが、昭和20年5月5日に練習航空隊指定解除。
第十一航空艦隊直率となり終戦。

鹿島海軍航空隊カタパルト跡

この場所にカタパルト(水上機を射出するための機械)が展開されていた、と。

鹿島海軍航空隊スリップ跡

このときはジェットスキーの発着で活用されておりました

カッター船着場跡

往時の桟橋が伸びる。

残念なのは当時は調査が足りず「元鹿島海軍航空隊之碑」などを見に行けてない事。この鹿島空の地は再訪したいと思っております…

鹿島空は宿題多し・・・再訪必須・・・

百里原海軍航空隊跡散策

平成29年7月

平成29年7月30日。 茨城空港(百里基地)の近くに残されている「百里原海軍航空基地」の跡を偲びに脚を運んでみました。

なお、私が訪れた後に、百里原海軍航空隊ゆかりである「百里神社」を取り巻く環境がかわり、社叢の杜は開拓され深々とした緑に包まれる森ではなくなったことを先に明記しておきます。

また、「百里神社」を管理(管理される神社=所管社)する常陸小川の「素鵞神社」(管理する神社=本務社)にて、百里神社関連の御朱印帳や御朱印の頒布が始まりましたが、私は素鵞神社へは未参拝ですので、言及いたしません。

以下は「素鵞神社 」サイトを参照まで

https://www.sogajinja.com/%E5%BE%A1%E5%AE%88%E3%81%A8%E5%BE%A1%E6%9C%B1%E5%8D%B0/%E5%BE%A1%E6%9C%B1%E5%8D%B0/

百里基地内の記念碑は下記にて


石岡駅から

石岡駅から茨城空港行きのバスに乗り込む。
(もっとも私は「鹿島鉄道(かしてつ)」跡散策も兼ねていたので(小川駅や小川高校下駅跡)寄り道してます。

当時、海軍航空隊員たちの足となっていた鉄道(鹿島鉄道)も、もはや残っておらず。現在はその百里原航空基地の流れをくむ、茨城空港行きのバスが石岡駅から出ている。


雲の墓標 阿川弘之

阿川弘之による小説。海軍予備学生たちは特攻隊員として、空や海の果てに消えていく。作中に「百里原」も出てくることを思い出し、このときの散策後に読み出してしまい・・・

「百里原は、茨城県でももっとも辺鄙なところで、三里四方民家が無いと言われており、鉄道からも遠く、楽しい外出など思いも寄らぬことになるであろう。」

「上野発2時3分で常磐線石岡、軽便鉄道で小川を経て、百里原へは夕方7時ちかくに到着した。小川から2里、交通機関なし。」

雲の墓標 阿川弘之

鹿島鉄道跡地のバス専用道

茨城空港へ。
ちなみに乗り込んだバスは・・・木張りでした!
バスマニアではないのですが、これにはテンション上がりました。

車内で「かしてつバス」1日フリーきっぷを購入。
廃線前の鹿島鉄道に思い入れがある私としては、ひとつひとつにグッとくるものがありますが、早いもので10年ひとむかし。
廃線前は鉄道に乗りに来ておりましたが、廃線後はこの沿線に足を運ぶこと亡く、気がつけば10年たってしまいました。

しょうしょう話が逸れます・・・

鹿島鉄道

2007年春
茨城県石岡市から鉾田市まで霞ヶ浦北湖畔を走っていた鉄道が廃線を迎えた。
あれから10年。
2017年の夏(撮影時)に、私はようやく廃線跡と対面することとなった。 現役時代の往時を思い出しつつ・・・

鹿島鉄道坂戸駅跡

あぁ…鹿島鉄道坂戸駅。
廃駅から10年の月日が過ぎ往時の名残を自然が飲み込もうとしていた。
この駅が現役だった頃を知っている身としては、変わり果てた姿を目の前にすると何やらこみ上げてくるものがある。
10年ぶりの覚悟の訪問…

鹿島鉄道 小川高校下駅跡

鹿島鉄道 現役時代の写真

当時の写真はまだまだあるけど、キリがない上に趣旨から外れるのでこのぐらいで。2006年頃は毎月のように石岡の鹿島鉄道に通っていました。このときはまだ戦跡方面には興味がなかったのが今思えばもったいないことで。

さて、
「鹿島鉄道」の後を引き受けた「かしてつバス」に揺られながら、今はなき鹿島鉄道のことに思いを馳せながらも茨城空港に到着です。


茨城空港
百里飛行場

茨城県小美玉市の共用飛行場 防衛省・航空自衛隊が管理する飛行場であったが、2010年に民間共用化され茨城空港としての営業開始。

民間共用時に滑走路が一本増えている。
この茨城空港整備で戦争遺跡(多数の無蓋掩体壕)の消失も多数…しょうがない ですが。

旅客ターミナルから滑走路を2本挟んだ反対側が「航空自衛隊百里基地」となります。
スカイマークのボーイング737の向こう側。

つまり「茨城空港」と「百里基地」はあっちとこっち。だいぶ遠いです。 百里基地には戦闘機部隊が配備されてますがこの日は姿は見えず。

百里原海軍航空隊

百里原海軍航空隊(ひゃくりはら)は、昭和13年に筑波海軍航空隊の補助飛行場が建設されたことに始まる。

昭和14年(1939)12月1日に筑波海軍航空隊百里原分遣隊から独立して開隊。初歩飛行訓練に従事。

昭和17年には予科練の受け入れを開始。

昭和19年(1944年)10月1日、「桜花訓練隊」として「第七二一海軍航空隊」が百里飛行場に開隊。

昭和19年11月7日、七二一空は「神ノ池飛行場」に転出。

昭和20年「第六〇一海軍航空隊」が百里原飛行場に進出。

同年4月には「神風特別攻撃隊・正気隊」が編成され出撃が行われている。

終戦後、飛行場は引揚者の開拓地に転用され破却されるも、首都圏唯一の戦闘機基地として昭和41年に百里基地が開隊している。


茨城空港から北側に歩みを進める。
「フィールドワーク茨城県の戦争遺跡」(本)を片手に持ちつつ。

ただしこの本は空港ができる前に発刊されているので界隈の事情はだいぶ変わっている。
「試射場跡」とされるものも、もうよくわからない。(写真は場所が違う気がする…)

海軍道路

「海軍道路」と呼称されている道路。
この道路が「百里原海軍航空隊」基地の正門からまっすぐに伸びていた道路という。

百里原海軍航空隊正門跡・旧正門

大谷石の門柱と鉄筋コンクリート製扉。
門柱の向かって右側は従来の場所から移設、本来は前述の海軍道路に面して立っていたと推測。(実は門柱の向きがあべこべに置かれている)

正門跡に建立された石碑 昭和二十年八月十五日記念

真心國柱

建立は昭和五十二年二月。
裏面には建立された八組の夫妻と思われる名が刻まれていた。

刻まれていた「真心国柱」で思い出した歌が江田島健児だったり。

「江田島健児の歌」より
 ああ光栄の国柱
  護らで止まじ身を捨てて
   …
 斃れて後に止まんとは
  我が真心の呼びなれ
   …

よくよくみたら、敷地の壁柱の部分も往時のものかもしれません。
(壁そのものは年代的に新しそうですが)

百里神社

正門跡から東に歩んだ先の森のなかに。

百里原海軍航空隊の守護神として創建。
若き海鷲たちの崇敬をあつめていた神社。
今は忘れ去られたかのように深き森のなかに埋もれていた。

現在は森が開拓されております。
写真のような森はなくなりました。

「百里神社」

拝する。

ここ百里原の空から飛びたてり若き海鷲たちを偲びつつ。
今日の平穏と安寧に感謝する。

ありがとうございます。

「百里神社」

百里原海軍航空隊名残の航空神社

この何とも独特な鳥居が、
この何ともいえない空間の中で
圧倒的な存在感を放つ。

この鳥居の柱、 まるで航空機の脚(車輪カバー)のようでもあり。

「百里神社」
百里原海軍航空隊名残の航空神社

御社殿は、みたことのない様式の建屋。
入口は固く閉ざされている。

屋根の部分が…あぁ…

北に歩いてみる。

バス停に目をやると「百里原」 もっとも運転本数は一日1~2本なので実用的ではないですが。
(バスは茨城空港までピンポイントで利用しましょう)

かつて百里原と呼称されていた森が切り開かれ百里原海軍飛行場が開設、 戦後は原がなくなり大字「百里」へと。

とある森に到着しましたが諦めました。

手元の資料によるとこの場所に「E型無蓋掩体壕」が残っているとありましたが、まあちょっと夏場に無蓋を探すのは難しいですね。
雰囲気だけ堪能しつつ遠目から覗いてみる…

フィールドワーク茨城県の戦争遺跡

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https://www.amazon.co.jp/dp/4894880415/ref=cm_sw_r_cp_ep_dp_5XgGzbG2HGSFF

こちらの本によると百里原には最盛期に72基の掩体壕が建造されたというが出版時の2008年には現存8基と記載がある。
茨城空港の開港前の記録故、今はもっと現存は少ないだろう…

周辺を歩いていると「境界石(境界標石)」を見つけました。

残念ながら「海軍境界石」ではなく…
「防衛省境界石」
「防衛施設局境界石」

茨城空港に戻ってデッキから飛行機を見学。

ちょうど「スカイマーク」は搭乗手続き中。
その隣には「タイガーエア台湾」が。

地上整備スタッフが手を振って見送る中、 スカイマーク「ボーイング737」(11時発の那覇便)は滑走路へと。

見ていてほっこりする好きなシーンです。
主翼の端っこに描かれたサクランボがカワイイです!
スカイマーク機の特徴ですね。

百里原の空

海軍から空自、そして民間共用。

往時の歴史を周辺に僅かに残しつつ、 今も飛行場として生きている空間がここにあった。

今の空を飛ぶ飛行機をみながら、往時の光景を脳裏に描きつつ、往時に思いを馳せつつ、自然と目頭が熱くなる私がいた。