「靖國・護國・神社仏閣」カテゴリーアーカイブ

靖國神社の新春初詣(令和5年)

令和5年(2023年)正月元日。
靖國神社に初詣。

初詣

良き青空の年始め

令和癸卯

新春初詣の正式参拝を。

御本殿には、 明治天皇が明治7(1874)年1月27日に、初めて招魂社をご参拝された際に詠まれた御製が奉書された御宸筆の扁額が掲げられている。

年のはじめに、改めて御本殿の扁額に接する。

我國の為をつくせる人々の
 名もむさし野にとむる玉垣

※2019年特別展にて写しを撮影

御本殿の神鏡(明治10年11月14日の臨時大祭にて御親拝された 明治天皇の幣帛料で制作された。

※2019年特別展にて写しを撮影

国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えるお社。

感謝と哀悼を。

甘酒を頂戴しました。

振る舞い酒を頂戴しました。

正月の風物詩。

遊就館に。ちょっとデザインが変わりましたね。

C5631の正月飾り。

チハにも正月奉納

新しい年への祈り
まごころこめて
初詣は靖国神社へ

菊の御紋

参道の賑わい

社務所

神門

第二鳥居

大村益次郎の広場には屋台も。

参道

迎春 靖國神社

初詣は靖國神社へ

令和五年冬季限定刺繍朱印

大鳥居


初詣でお頒かちいただいた授与品

正式参拝のおさがりで、黒豆(大納言甘納豆)は初めていただきました。

令和五年冬季限定刺繍朱印

刺繍が美しいです。梅と鶯。

令和癸卯の祝枡

毎年、いただいている「桜みくじ」

毎年、お守りが増えていきます。。。


関連

走水神社の近代史跡散策(横須賀)

横須賀の走水。日本武尊と弟橘媛命の伝説を残す古社。
今回は近代史の目線で参拝をしてみる。


弟橘媛命の記念碑

明治43年6月5日建立。
弟橘媛命の今際の御歌が刻まれている。
記念碑は、東郷平八郎、伊東祐亨、井上良馨、乃木希典、高崎正風、上村彦之丞、藤井茂太の7名が発起人となり建立。

さねさしさがむのをぬにもゆるひの
ほなかにたちてとひしきみはも
勲一等昌子内親王書

昌子内親王は、明治天皇の第六皇女。竹田宮恒久王の妃となる。

嗚呼此は 弟橘比賣命いまはの御歌なり命夫君 日本武尊の東征し給ふ伴われ
駿河にては危き野火の禍を免れ 此の走水の海を渡り給う時端無く暴風に遭ひ 御身を犠
牲として尊の御命を全からしめ奉りし其のいまはの御歌なり御歌に溢るゝ真情はすべて
夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず其の貞烈忠誠まことに女子の亀鑑たるのみならず
亦以て男子の模範たるべし平八郎等七人相議り同感者の賛成を得記念を不朽ならしめ
むと御歌の御書を 常宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り彫りてこの石を建つ
明治四十二年十月
発起人
海軍大将正三位大勲位功一級 伯爵 東郷平八郎
海軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 伊東祐亨
海軍大将従二位勲一等功二級 子爵 井上良馨
陸軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 乃木希典
樞密顧問官兼御歌所長従二位勲一等 男爵 高﨑正風
海軍中将従三位勲一等功一級 男爵 上村彦之丞
陸軍中将従四位勲二等功二級  藤井茂太
  御歌所主事従五位勲六等 阪正臣謹書
  旭海鶴永富萬治敬刻

そうそうたる発起人が名を連ねる。

東郷平八郎
 日露戦争時の連合艦隊司令長官
伊東祐亨
 日清戦争時の連合艦隊司令長官、日露戦争時の軍令部長
井上良馨
 日露戦争時の横須賀鎮守府司令長官 
乃木希典
 日露戦争時の第3軍司令官
高﨑正風
 御歌所初代所長、初代國學院院長
上村彦之丞
 日露戦争の第二艦隊司令長官
藤井茂太
 日露戦争の第1軍参謀長


機械水雷

日露戦争での鹵獲品が奉納。

この機雷(機械水雷)は、弟橘媛(弟橘比賣命)の記念碑の序幕にあたり、発起人の一人で建立のため中心的な役割を果した海軍中将上村彦之丞から走水神社に寄贈されたもの。
上村中将は、除幕式の折には、第一艦隊司令長官に転じていますが、少し前まで横須賀鎮守府司令長官を勤めていた。

奉献
露国機械水雷
横須賀鎮守府司令長官
男爵 上村彦之丞
明治43年6月5日
走水神社氏子会


走水神社

御祭神:日本武尊 弟橘媛命

創建年代は不詳であるが、伝承では日本武尊が東征の途上に当地から浦賀水道を渡る際、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが始まりという。
走水神社は兼務社であり神職は非常駐。本務社は西浦賀の叶神社となる。旧社格は郷社。

社号額には、海軍少将大勲位依仁親王とある。
東伏見宮依仁親王のことですね。
海軍少将時代に、横須賀予備艦隊司令官(明治44年)や横須賀鎮守府艦隊司令官(大正2年)などを努めていたので、そのご縁で揮毫されたものと推測。

走水から眺める浦賀水道。

横須賀に来ると、たまに足を運んでしまう神社です。

※撮影は2022年8月

なお、御朱印帳と御朱印は、戦跡に興味を抱く前に参拝していた、だいぶ昔のころにいただいていましたので、参考までに掲載しておきます。

平成26年(2014)でした。8年前、、、


関連

77年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

終戦から77年目の8月15日、終戦の日の靖國神社。
今年は、快晴の8月15日でした。

靖國神社・午前9時30分

放鳩式 靖國神社・午前10時

昨年、一昨年に続き、本年の放鳩式も神社関係者のみでの開催。
一般参列者は観覧のみ。

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

講談師 宝井琴調

今年は宝井琴調氏が司会進行。
やはり、8月15日に宝井さんの呼びかけを聞かないと、、です。

本年の放鳩式は新型コロナウイルスの感染拡大防止の為、放鳩は神社職員のみにて行い、参拝者の御参加は中止とさせていただきます。御了承下さい。

靖國神社・山口建史宮司
「英霊ありがとう」の気持ちとともに放鳩。

ありがとう!!

靖國神社白鳩の会

靖國神社参道・午前11時

靖國神社拝殿 正午

国歌

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

黙祷

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来77年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。
私たちは今、新型コロナウイルス感染症の感染拡大による様々な困難に直面していますが、私たち皆が心を一つにし、力を合わせてこの難しい状況を乗り越え、今後とも、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います
ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

天皇陛下 お言葉 令和4年8月15日 全国戦没者追悼式

毎年、この場所で、海行かばを。。。

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

終戦の玉音放送

宮内庁サイト

https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/syusen.html

https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/pdf/syousyo.pdf

あさなぎの皆さん、毎年、冷たい麦茶をありがとうございます。

正午ののち、知り合いと合流。せっかくなので千鳥ヶ淵に。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

無名戦士などはいない。
ここに眠るのは、不幸にもお名前がわからなかった御遺骨など。
お名前は、靖國神社にご英霊として霊璽簿に刻まれている。

合掌。

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」

靖国通りに。

九段会館(軍人会館)

軍人会館。ほぼ完成。
2022年10月には公開されるようです。

昭和館

特別企画展として「九段会館がみた昭和」を開催。

15日は無料開放しておりました。

しょうけい館(戦傷病者史料館)

ちょうど、企画展として「戦場の軍医と衛生兵」が開催。

靖國神社 16時

御朱印

8月15日の御朱印。神紋の刺繍入り、で。

関連

令和四年・靖國神社みたままつり

靖國神社のみたま祭りは、7月13-14-15-16日の4日間、祭行されます。
コロナ禍の最中ということもあり、規模を縮小しつつも、今年もみたままつりが行われましたので、足を運んできました。

このところ、忙しすぎて、職場が靖國神社の近くといえば近くなのですが、なかなか時間が捻出できず、結局参拝できたのが16日のみでした。
前の職場のときは、靖國神社から遠かったのですが、早朝から夜まで、足繁く通えていたのですが、靖國神社が近くなった今のほうが通えていないというのは、どうかと思いますが。

みたたまつり夜間中庭参拝

靖國のみたまとともに楽しむ空間、光の祭典。
246万6000余柱の御英霊の御心と御神威に、感謝の祈りを捧げつつ。

期間限定
夜間中庭参拝
本殿に最も近い御神域にてご参拝いただけます

私の知る限り、「中庭参拝」は、2016年(平成28年)の「みらいとてらす」で初めて実施され、その後、平成30年から名称の変わった「秋の夜長参拝」でも実施されていたが、通常は公開されていないため、中庭参拝は非常に貴重な体験。これは是非に。

中低参拝にて、参拝授与品「こすずまもち」と「みたままつりうちわ」をいただきました。
また、みたままつり名物の神門七夕飾りが彩られた「刺繍御朱印」をいただきました。

中庭参拝を終えたのち、向かって右側の指定の場所からの記念撮影がOKとなっておりました。
(以前は撮影禁止だった記憶もあります。)
ありがとうござます。

畏れ多くも、ご本殿を撮影させていただきました。


奉納演奏

みたままつりでは、毎年、多くの奉納芸能が執り行われている。そういえば、私も毎年、つのだ☆ひろの野外コンサートを楽しみにしていましたが、今年はまったくスケジュールをあわせることができず、でした。

16日、神楽殿では、これも私が毎年楽しみにしていた「東京国民歌劇団有志による奉納演奏合奏団」がちょうど19時から行われていました。
曲目で反応できる方とは、カラオケで盛り上がれそうです。

  • 靖國神社の歌
  • 海行かば
  • 軍艦行進曲
  • 月月火水木金金
  • 若鷲の歌
  • 大坂陸軍幼年学校校歌
  • 荒城の月
  • 水師営の会見
  • 加藤隼戦闘機隊
  • 空の神兵
  • 暁に祈る
  • 露営の歌
  • 麦の兵隊
  • 父よあなたは強かった
  • 東京ラプソディー

毎年、ありがとうございます!

みたままつり描写

徒然に。

ありがとうございました。

※撮影:2022年7月16日

松井石根大将ゆかりの神社(椿神明社・名古屋)

愛知県名古屋市中村区牧野町。
名古屋駅の駅裏(駅西)、つまり名古屋駅の西側には、牧野公園や牧野小学校など牧野の名前を残した場所がある。

椿神社は牧野村の北端。
この牧野村で、松井石根は明治11年(1878年)7月27日に生まれた。


神明社(椿神明社)

祭神は、豊宇気比売神。創建年代は不詳。旧社格は村社。
伊勢の神宮の神領地であった牧野村で、椿神明社は外宮とされ「上ノ宮」、牧野神明社は内宮とされ「下ノ宮」と呼称されていたという。

JR東海が施行するリニア中央新幹線(品川・名古屋間)の事業用地として椿神明社の境内北側を一部譲渡することとなり、境内整備が実施された。工事は2020年4月 ~ 2022年3月。
私の参拝は2022年6月。工事完了後の参拝。

社号標の銘は削り取られていた。
昭和9年10月建立。

境内の随所に柵が設けられ、立ち入りできる空間が少ない。


松井石根ゆかりの石碑(池に沈めた大将の碑)

石碑がある。
これが、松井石根ゆかりの石碑。近くで見ることができないのが残念。

松井石根は、椿神社のある牧野村の出身であった。
昭和12年(1937年)7月、盧溝橋事件により支那事変(日中戦争)が勃発。
第二次上海事変に際し、予備役の松井石根は召集され上海派遣軍司令官として陣頭指揮を取ることとなり、昭和12年(1937年)12月、中支那方面軍司令官として南京攻略戦が開始。12月13日に南京陥落。
昭和13年1月、近衛文麿首相の近衛声明「蔣介石を対手とせず」宣言で、中国寄りであった松井石根は考え方の相違もあり更迭され予備役とり、昭和13年3月に帰国。

昭和14年(1939年)12月に、地元の有力者が石碑を建立。
石碑の内容は、地元の英雄であった松井石根大将が南京入城後に作った漢詩。
「南京入城之感」

松井石根は昭和15年(1940年)2月、支那事変(日中戦争)における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた。

昭和21年5月、松井石根は、いわゆる南京事件の責任者として戦争犯罪人(BC級)逮捕。極東国際軍事裁判において起訴され巣鴨プリズンに収監。東京裁判において、11月12日に死刑判決。
昭和23年12月23日に死刑が執行された。享年70歳。

東京裁判と久保山火葬場(横浜)

松井石根の石碑は、この判決よりも前に、GHQに見つかることや戦犯と関わり合いになることを恐れた人々によって、中村公園近くの池に放り込まれたという。
その後、松井石根の石碑は引き上げられ、再び椿神明社に建立されたという。

南京入城之感
燦矣旭旗颺石城江南風色
忽澄清豼貅百萬軍容肅
仰見 皇威輝八綋
 陸軍大臣 松井石根

昭和十二年七月支那事変起也皇国直進膺懲之師
吾郷英傑陸軍大将松井石根閣下為上海方面軍最
高指揮官督戦於江南之地撃破頑敵不出九旬而陥
其首都南京此詩即将軍陣中之作讀者宜相傳唱以
仰皇軍威武乎不朽也昔豊太閤裂明之封冊也其意
欲席捲四百余州而不果焉今経三百有余年豊公之
霊有知同郷英傑偉績如此其感喜果如何必應含会
心之笑於泉下也矣
 昭和十四年十二月
    陸軍中将    大塚堅之助 撰
    陸軍軍医中将  石黒大介  書
        幼友  恒川増太郎 建立

大塚堅之助陸軍中将も石黒大介陸軍軍医中将も愛知県出身。恒川増太郎氏は、松井石根陸軍大将の幼友達で地主。恒川増太郎氏が音頭を取って建立したものと思われる。

「南京入城之感」の隣の碑も、松井石根の謹書であった。
一緒に、池の中に投げ込まれたものかどうかは不詳。

大津武五郎直行君頌徳碑
 陸軍大将 松井石根書

大津直行は、尾張藩士。明治維新後は、鳥取県権参事などを努めている。大正14年に84歳で没。

手水石は昭和10年。
狛犬は昭和14年。

昭和14年に郷土の英雄として讃えられていた松井石根大将。
南京陥落の英雄は、8年後には、いわゆる南京事件の責任者として死刑となり、建立された記念碑は、関わりたくないものとして、池の中に沈められてしまった。
戦後、松井石根大将の石碑はもとのように神社に戻ってきたが、昨今の政治的事情もあり、(偏った歴史感を持った方々による)神社自体に対する不貞な行為などもあり、その保護のために松井大将の石碑は、金網に囲まれてしまった。そうして貴重な石碑が、多くの人々にとっては「よくわからない石碑」になってしまったことが、申し訳なく。

場所

https://goo.gl/maps/rdjUFoaLJPqxyCzXA

※撮影は2022年6月

「陸軍野戦砲兵学校」四街道の陸軍戦跡散策

軍郷四街道。
軍郷としての四街道の繁栄は、佐倉藩が洋式砲術(高島秋帆流砲術)の演習を行っていた「下志津原」にはじまる。
下志津原に築かれた砲兵演習場(射場)を軸に、明治19年には、「陸軍砲兵射的学校」が創立している。


陸軍野戦砲兵学校(野砲兵校)

野戦砲兵監の管轄下で、野戦砲、高射砲の射撃・観測等の教育と、野戦砲、高射砲に関する諸学術、兵器、資材等の調査・研究を行った機関。
1886(明治19)年4月、下志津原(現在の千葉県佐倉市)に設立された陸軍砲兵射的学校を前身とする。
1896(明治29)年、陸軍野戦砲兵射撃学校に改称され、四街道(現在の千葉県四街道市)に移転した。
1922(大正11)年8月、陸軍野戦砲兵学校に改称。
甲種学生(大尉)に射撃・戦術、乙種学生(大・中尉)に射撃・高射砲術、観測通信学生(中・少尉)に観測通信術、馭法学生(中・少尉)に馬術・馭法術などの教育が行われた。研究部は、野戦砲兵・高射砲に関する調査研究・試験を行った。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R2769-109
1949年04月26日に米軍が撮影した航空写真を加工。

四街道界隈を拡大。

今回の散策エリア。


陸軍野戦重砲兵第四聯隊跡(愛國学園)

愛国学園大学(学校法人愛国学園)の正門は、当時の陸軍野戦重砲兵第四聯隊の正門を流用している。昭和14年に近衛師団に所属する陸軍野戦重砲兵第四聯隊が満洲に移転後は、野戦砲兵学校幹部候補生隊となっている。

史蹟
野戦重砲兵第四聯隊跡
吉永朴謹書

建碑之辞
 この地は旧陸軍近衛師団に所属する当聯隊が馬編成四年式十五糎榴弾砲部隊として武を練った所である。
 その期間は発祥の地・広島県呉要塞からここに居を移した。大正十一年から北満の牡丹江に移駐した昭和十四年までの十七年間である。
 渡満移駐後この地は野戦砲兵学校幹部候補生隊となり、聯隊はノモンハン事変に参加したあと、自動車編成九六式十五糎榴弾砲装備に改編されその面目を一新し、太平洋戦争勃発に伴い昭和十七年九月南太平洋戦線に展開された。
 かくして聯隊はガダルカナル及びブーゲンビル両島の作戦に参加し死闘を重ねつつその本領を発揮したが、終戦と共に事実上かの地において五十年にわたる歴史の幕を閉じた。
 この間あるいは満州の曠野に、あるいは南溟の密林に陣没した戦士は聯隊長以下千三百有余名の多きに達した。
 この小碑は当聯隊の生存者等が計画し、之に市と学校法人愛国学園が協賛し以て縁り深きこの地に史蹟として建立したものである。
 昭和三十八年三月
  四街道市史蹟保存会

謹書にある吉永朴(すなお)は、終戦時は陸軍少将。陸士31期、陸大38期。砲兵出身で野砲兵校にゆかりあり。

聯隊の歴史
(略

陸軍野戦重砲兵第四聯隊の正門跡

愛国学園大学(学校法人愛国学園)の正門として活用されている。

場所

https://goo.gl/maps/67QKbs1KYfv2FYuz7


将校集会所跡(四街道公民館)

四街道公民館の場所は、かつての将校集会所の跡地。

門が残っている。
正門のすぐ近く。

場所

https://goo.gl/maps/ToLxZSPCCccfyVpL8


松脂油採取跡と将校集会所の築堤(四街道公民館)

将校集会所のあった公民館の近くにある松の切り株。
戦時中に松脂油を採取した名残もあった。

「松のきずあと」
何かが書いてあるようだけど風化して判読不可能。。。

築堤も当時の名残と思われる。


陸軍野戦重砲兵第四聯隊の裏門跡

愛国学園大学と千葉敬愛高校の裏側。方向でいうと北西側にあたる。「コープみらいえ四街道」の近くの道路に裏門の門柱が残っている。

一本は、門柱として残っているが、もう一つは土台だけが残っている。

敷石も残っている。

位置がおかしい。

どうやら近年の道路拡張で、片側の土台だけが移動したようだ。敷石はそのままでの拡張という、心遣いがありがたい。
ストリートビューで2013年にはまだ移築していなかったが、2015年で移動されているのを確認できた。

場所

https://goo.gl/maps/nQdnyQmPXerEdLBEA


大土手山(別名・ルボン山) 

砲兵射朶の跡の石碑と、射朶(射的)の築堤の山が残っている。標高25.1mという。

大土手山
神社を頂いたこの丘は大土手山と呼ばれている。
麓には昭和四十年に四街道町史蹟保存会と陸軍野戦砲兵学校遺跡保存会有志一同によって建てられた「砲兵射垜の跡」の碑があり碑裏には次のように刻まれている。

 「この地は佐倉藩士大筑尚志が藩の砲術練習所として築いたものを明治六年(一八七三)教師として招聘されたフランスのルボン砲兵大尉が増築し初めて砲術を伝習した射垜の一角である射的場は南北三千米幅三百米であった。 
 明治十九年その北端に陸軍砲兵射的学校が創立されたが同三十年四街道に移転してより射場は急速に拡張され射場はルボン台または大土手山と呼ばれた。
 大正七年(一九一八)五月皇太子が台上で射撃をご覧になった。
 下志津原演習場は砲兵学校とともに拡大し四街道の発展に寄与したが射垜は実にその始祖である。
 由来ある遺蹟の消滅せんことを惜しみ碑を建ててその由来を記すものである。
   昭和四十年(一九六五)四月二日 
    四街道町史蹟保存会 
    陸軍野戦砲兵学校遺跡保存有志一同」
  昭和五十一年十一月 
  四街道市

砲兵射垜の跡
陸軍野戦砲兵学校長 室兼次書

室兼次は、昭和2年(1927年)7月26日から昭和5年(1930年)7月30日までの陸軍野戦砲兵学校長であった。
最終階級は陸軍中将。陸軍野戦砲兵学校長の次は昭和5年8月からは第20師団長。昭和7年に予備役編入。昭和41年に89歳で没している。
「砲兵射垜の跡碑」は昭和40年建立のため、亡くなる1年前の揮毫であった。

登ってみた。
「神社を頂いたこの丘は大土手山と呼ばれている。」と記載があったが、神社は無くなっているようだ。
見晴らしが良いですね。

陸軍野戦砲兵学校があった方向。

北側は、射場があった。

場所

https://goo.gl/maps/SY6Ux69pRrkxFPrS9


陸軍野戦砲兵学校跡

大土手山 (ルボン山)の南に、陸軍野戦砲兵学校があった。
現在の四街道市役所の北側の街道沿いに記念碑が建立されている。

陸軍野戦砲兵学校跡
東久邇盛厚書

東久邇盛厚は東久邇宮稔彦王第1王子。大日本帝国陸軍での階級は陸軍少佐。陸軍では砲兵に縁があり、(昭和12年)6月陸軍士官学校を卒業、同年8月陸軍砲兵少尉に補任され、野戦重砲第1連隊附の陸軍将校となる。
昭和15年には、陸軍砲兵中尉として陸軍野戦砲兵学校附ともなっている。
終戦後は皇籍を離脱。昭和44年に52歳で没している。

砲兵学校跡
 明治十九年四月下志津原に創立された陸軍砲兵射的学校は明治三十年に陸軍射撃学校と改称され四街道に移転しました
学校の移転に伴ないそれまでは閑散としていた四街道駅(移転の三年前に建設)周辺は次々と整備され、東京に至便な演習場という利点と、明治中期から終戦までの時代の要求は多くの軍事施設の設置を見、四街道は軍都としての歴史を歩んできた。
終戦を機とし四街道はその景観と機能を一変し新しい四街道へと脱皮、砲兵射撃学校跡も現在は市民の憩いの公園、小学校となり文化都市の一翼をになっている。
 四街道市

 明治十九年(一八八六)四月二日下志津原の北端に創立した陸軍砲兵射的学校は鉄道の開通に伴い同三十年春野山砲から成る教導大隊を持つ陸軍野戦砲兵射撃学校としてこの地に移転し砲兵の戦術及び射撃術の研究教育にあたった。
 大正十一年(一九二二)陸軍野戦砲兵学校と改称し野戦重砲兵を含む教導聯隊に拡張し高射砲練習
隊を新設して初めて一部を機械化した。
 昭和八年(一九三三)以降下士官候補者隊・情報隊・観測隊幹部候補者隊を相次いで新設し大東亜戦争に入り少年兵の生徒隊ロケットを含む迫撃砲隊・ 自走砲隊などを新設した。
 この間明治三十三年六月と同四十五年五月とに天皇の行幸を仰ぎ、同四十四年五月と大正七年五月とに 皇太子の行啓をお迎えした。
 惟うに学校は創立以来六十年まさに日本砲兵最高の指導的殿堂として大いに国運の興隆に貢献した。
 しかも四街道はその昔人家まれな寒村であった頃から学校と緊密な協力をして今日の繁栄の基礎を築いた。
 この壇は学校創立五十年記念として築いたもので終戦にあたり全校将兵はここで 御真影と勅諭とを奉焼し日本の再建を誓い合った由緒ある遺跡の消滅せんことを惜しみ碑を建ててその由来を記するものである。
 昭和四十年(一九六五)四月二日  
  四街道町史蹟保存会 
  陸軍野戦砲兵学校遺跡保存有志 一同

昭和62年8月15日
観測隊之碑
観測隊有志建之

御歌
 北白川房子
志もしつの原に栄えて
 御国守る
わさにはけみし其日しのはむ
わかつまもわか子もともにはけみけむ
御代の光りを永久に仰かむ

生徒隊之碑

(生徒隊之碑裏面)
少年砲兵生存者一同
平成14年10月吉日建之

15センチ榴弾砲砲弾
10センチ加農砲砲弾
7.5センチ野山砲砲弾

場所

https://goo.gl/maps/h3vsHYafK9mGf85N7

隣は、四街道市役所。


軍馬の碑(栗山半台児童公園)

陸軍野戦砲兵学校のエリアから北東に離れた場所に、下志津陸軍墓地(下志津陸軍埋葬地)がある。
現在は、栗山半台児童公園と栗山半台区集会所が併設されている。

軍馬の碑

軍馬の慰霊顕彰碑。

軍馬之碑

 昭和10年3月建之
  陸軍野戦砲兵学校
  野戦重砲第4聯隊
  下志津憲兵分遣隊

同じ空間に、観世音菩薩と馬頭観音もある。

場所

https://goo.gl/maps/pJMkZYasppa6nBd47


下志津陸軍墓地(栗山半台児童公園)

下志津陸軍墓地(下志津陸軍埋葬地)は、明治30年代に栗山地区の有力者が、土地を陸軍に寄付したことにはじまる。

引き取り手が無いまま眠る八の遺体
 墓地全体は、明治二十年代に栗山地区の当時の有力者が土地を陸軍に寄付し、下志津陸軍埋葬地としたものです。
 ここには、いまだに引き取り手が無いまま眠っている兵士の墓があります。土葬で埋葬された士官や兵士たちの遺体は総計で十三名です。戦後になって、墓は栗山地区半台の方々の厚意で管理され、供養も続けられています。
 遺族による遺骨の引き取りは。戦前一名、戦後に四名の計五名で、若い身空を他国で不運にも果てた八名の人々が、今なお無縁仏として眠っています。
 戦後、栗山半台地区の方々の厚意で、本籍地の市町村役場へ照会しても遂にわからずじまいでした。

軍人墓地に眠る人々
諫早 消輝   砲兵中尉   山口県阿武郡萩町 .
宮地 徳太郎  砲兵二等卒  栃木県宇都宮市  .
藤原 喜助   砲兵一等卒  宮崎県西臼杵郡七折村
福田 荒吉   砲兵一等卒  宮崎県東臼杵郡南郷村
原  愛正   砲兵二等卒  山梨県北巨摩郡熱見村
小沢 兼吉   砲兵二等卒  東京都西多摩郡調布村
金丸 茂之   砲兵二等卒  山梨県中巨摩郡南湖村
加藤 真一   砲兵上等兵  山口県佐波郡牟礼村

合掌

場所

https://goo.gl/maps/HTqmVNX4J9tnhzMU8


下志津陸軍墓地の陸軍境界標

下志津陸軍墓地(下志津陸軍埋葬地)のあった四隅に境界標石が残っていた。当時の敷地の東西南北四辺に対して境界標石がきちんと残っているというのが、嬉しい。

南の境界標石

陸軍用地

北の境界標石

南の境界標石
ちょっと摩耗が激しいですが、きっと陸軍用地って書いてある。

陸軍用地

北の境界標石

陸軍用地

場所

https://goo.gl/maps/HTqmVNX4J9tnhzMU8


四街道町護國神社・野砲兵校神社「千代田宮」社殿流用?
(津之森児童遊園)

愛国学園と給水塔の近くにある児童公園。

四街道の護国神社は、四街道駅北側にある八百稲荷神社の境内にあった招魂社を戦後現在地に移したものという。

手前の鳥居は、昭和49年に四街道町遺族会が建立。

四街道町護国神社
 千葉縣護國神社宮司

拝する。

御社殿は、旧陸軍野戦砲兵学校内にあった「千代田宮」の社が流用されているという。

もしかしたら、狛犬や手水石も陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の流用かも知れないが、未確認。

2つ目の鳥居は、戦前の建立。
1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端にはじまった支那事変の1周年記念とのことなので、1938年の建立。
これも、陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の流用だろうか。

支那事変一週年記念

しかし、陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の流用とするならば、この鳥居は陸軍野戦砲兵学校と下志津陸軍飛行学校の連名となっていることから、もしかしたら「千代田宮」は、両校の共同祭祀だったのもしれない。思いつきなので、根拠はないです。

陸軍野戦砲兵学校
下志津陸軍飛行学校

ジャンルは違うが同じ陸軍の学校が連名して奉納した鳥居、良いですね。
飛行学校の観測射撃と、砲兵の観測射撃の共同訓練も行っていた、という話もありますので。

慰霊碑が4基、林立している。

明治丗七八年日露役忠魂碑
 西南戦役戦没者・北清事変戦没者・戦病死者
 明治丗九年7月建設
 建碑・発起出征軍人
徳頌
 昭和12年以降の旭村戦争犠牲者
 昭和25年9月旭村招魂碑石保存会建之
忠魂
 支那事変以降戦没者
 昭和28年11月千代田町建之
忠魂碑
 陸軍大将男爵田中義一書
 昭和3年11月千代田村分会建

場所

https://goo.gl/maps/drMJcQ5QXKaoQdrW6


千代田宮・野砲兵校神社跡(四街道中央公園)

陸軍野戦砲兵学校に祀られていた校内神社「千代田宮」。
ご祭神
 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
 天之常立神(あめのとこたちのかみ)
 明治天皇
千代田宮の御祭神は、1947(昭和22)年、桜ヶ丘地区に入植した開拓者有志によって創建された「櫻ヶ丘神社」に奉遷されている。
そして、陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の御社殿は、前述の四街道護国神社に流用されたという。

野砲兵校内神社「千代田宮」の跡地は、中央公園として整備され、公園内に唯一残された「奉納」の石柱が当時を物語っている。

奉納

裏面は削られていて判読不可であった。

場所

https://goo.gl/maps/yRqakqtigzuXVUmw6


下志津陸軍病院(国立病院機構下志津病院)

国立病院機構下志津病院は、ご多分に漏れずかつての陸軍病院。

明治30年4月に下志津衛戌病院として発足、その後、終戦までは下志津陸軍病院であった。

場所

https://goo.gl/maps/FZzhfTSKcr2KSVvQ7


四街道駅

1894年(明治27年)12月9日、総武鉄道(初代)の四ツ街道駅(よつかいどうえき)として開業。
1907年(明治40年)9月1日、総武鉄道買収により、帝国鉄道庁の駅となり、11月1日に四街道駅に改称。


下志津陸軍飛行学校(下志津駐屯地)

ちょっと足を伸ばしてみました。
行政的には、四街道市ではなく、千葉県‎千葉市‎若葉区。

下志津陸軍飛行学校では、射撃観測などで、砲兵との連動訓練などを実施することもあり、野砲兵校が近くにあることは多くのメリットがあったという。

下志津陸軍飛行学校
主に空中偵察に関する各種の教育と研究を行った陸軍の学校。
1921年(大正10年)4月、陸軍航空学校下志津分校として開設。
1924年(大正13年)5月、下志津陸軍飛行学校として独立。
下志津陸軍飛行学校は本校以外に、銚子八街、広島県広島市に分教場、分教所があった。

下志津陸軍飛行学校の門柱と歩哨舎

平成23年に正門改修工事が行われている門柱(手前)。
これは、下志津陸軍飛行学校の「歩哨舎」であった。
外観を生かして、内部空間を塞いで門柱としたようだ。

下志津駐屯地

当時の正門は以下。

陸上自衛隊下志津駐屯地より抜粋。

https://www.mod.go.jp/gsdf/aasch/aaspr-hp/history/slide1/slide1.html

https://www.mod.go.jp/gsdf/aasch/aaspr-hp/history.html

「高射学校」も併設されている。

高射学校

場所

https://goo.gl/maps/3NpbXXeyXaVWVcBM6

まだ四街道には、いくつかの戦跡のネタがありますが、本記事はいったん以上で締めます。
実は2022年5月に散策したのちに記事を書くために調査をしていたらいくつかのポイントを見逃していたことが発覚したために5月にも再訪しております。まだ地味ですが見たいところがあるので、また行くことにはなりそうですが。。。


下志津駐屯地はこちらにて


関連

銚子の戦跡散策

新境内地に御遷座した「千葉縣護國神社」

千葉縣護國神社(千葉県護國神社)が令和4年(2022年)に遷座しました。


ご遷座した千葉縣護國神社

千葉県出身5万7828柱の御英霊を祀る千葉縣護國神社。
千葉県千葉市中央区弁天から千葉県千葉市若葉区桜木へ、令和4年(2022)2月に御神体がご遷座した。

遷座の背景として、戦没者遺族や戦友の高齢化があり、バリアフリー化が必要であったということ、旧社殿老朽化に伴う耐震補強化が必要であったということが挙げられている。

遷座の背景は以下から。

千葉縣護國神社は、昭和42年9月亥鼻山から現境内地に御遷座以来50有余年、英霊奉慰顕彰の祭祀を御遺族・戦友・ 崇敬者また、地元の皆様のご支援・ご協力をいただきながら続けて参りました。しかしながら、本殿等主要建造物の老朽化が顕著となり、また近年の自然災害の影響に依る被害が毎年発生し、更に昭和40年代の建造物であるため、非耐震構造であり、かつ高齢御遺族・身体障害者の皆様方に対するバリアフリーにも対応しておらず、大変ご心配・ご不便をお掛けしている状態でありました。
 神社では、戦後75年余を経て、御遺族が年々減少している状況を鑑み、責任役員会に於いて将来の神社護持運営のあり方を、あらゆる角度から検討して参りました。その結果、今般神社本庁の承認を得て、新境内地(千葉市若葉区桜木4丁目2番) に新たに本殿・社務所等を移転し、御遷座申し上げることと相成りました。
 就きましては、御遺族・戦友・崇敬者各位のご理解を賜りまして、御創立百四十五年の記念事業として、千葉県戦歿英霊鎮まる齋場建設にあたり、真心籠もるご浄財をご奉賛いただき、度く、ご支援ご協力のほど謹んでお願い申し上げます。

https://www.chiba-gokoku.jp/gohousan.html

千葉縣護國神社

幕末の嘉永6年(1853年)以降
約一世紀にわたり、戊辰の役・西南の役・日清戦争・日露戦争・
第一次世界大戦・満州事変・支那事変・大東亜戦争などに
おいて、ひたすら「国安かれ」との一念のもとに、その尊い
いのちを捧げられた方々のみたまを、軍人だけでなく、従軍看護婦や児童、生徒など女性の御祭神を含み、「護國」の神として、5万7828柱をお祀り申し上げている。

明治11年1月27日に、千葉県庁公園に「千葉縣招魂社」として創建したことに始まる。
明治22年に千葉神社境内に奉遷。
昭和12年に猪鼻山に改築奉遷。
昭和42年に猪鼻山から千葉公園・千葉県忠霊塔隣地に改築奉遷。
令和4年に千葉公園・千葉県忠霊塔隣地から桜木の地に改築奉遷。


改築奉遷した千葉県護國神社

もともとは千葉市の市有地であった土地を、令和元年度の市有地売払でもって、千葉縣護國神社が2億3,541万円で落札。

千葉県護國神社の御英霊に、黙祷を捧げる。

真新しい境内。


神門脇には旧鎮座地から移設された記念碑などがある。

あゝ特攻 千葉県特攻勇士顕彰碑

あゝ特攻 
千葉県特攻勇士顕彰碑

我が祖国日本は昭和16-20年米英支ソ蘭豪と大東亜戦争を戦った
自国の安泰と欧米の植民地支配からアジアを解放するためだった
戦は連戦連勝南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島から沖縄と敵の反攻を許した
この時一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必死の特攻戦法が採られた
貧しくとも誇り高い民族の苦渋の選択だった
二十歳前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った
その雄姿を此処に置く敗戦国に育ち歴史を絶たれた現代の人よ
命に代えて何を守ろうとしたのか
この像に問いかけてほしい
戦後同26年5月3日連合国最高司令官マッカーサー元帥が米上院軍事外交合同委員会で日本の戦は自衛のためであったと証言し米報道機関が全米に発信した
日本国民よ
この事実を銘記せよ

(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会
日本人の心を伝える会
 碑文・揮毫 吉田學
 慰霊碑像デザイン 塚本哲
  平成23年5月

特別攻撃隊として出撃、散華された多くの千葉県出身英霊の遺徳顕彰のため公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会又靖國神社の御支援御協力のもと、千葉県下遺族戦友崇敬者各崇敬団体から寄せられた真心籠もる浄財を以て茲に「千葉県特攻勇姿之像」を謹んで建立する
 平成23年5月26日
  千葉県特攻勇姿之像 建設実行委員会
   委員長 臼井日出男

天皇陛下 皇后陛下 御親拝記念
皇太子殿下 皇太子妃殿下 御参拝記念

天皇皇后両陛下には 昭和48年 第28回国民体育大会開会式御臨場を機に10月13日当神社に後親拝
皇太子同妃両殿下には 同年第9回全国身体障害者スポーツ大会御臨場を機に10月28日御参拝遊ばされた
千葉県戦歿英霊の御嘉納のほどいかばかりかと拝察 また遺族 戦友 県民崇敬者の光栄と喜びとを茲に永久に伝える
 昭和49年6月
 千葉県護國神社奉賛会会長
 千葉県知事
  友納武人

千葉県護國神社御創立145年記念事業新境内地新社殿造営工事にあたり 記念すべき行幸啓碑を茲に新設し 畏き大御心を永く 後世に伝え 英霊の安らかならんことを祈念する
 令和4年2月25日
  一般財団法人 千葉県遺族会
   会長 椿 唯司


御朱印(千葉縣護國神社御遷座記念御朱印)

御遷座・新社殿造営記念参拝
千葉県護國神社 御朱印

場所
千葉モノレール「桜木駅」から徒歩約20分。

https://goo.gl/maps/SgsKqxmTWUCS67VSA


千葉縣護國神社旧鎮座地(22年5月)

下記は、平成29年(2017)の参拝記録。

そして、改めて旧鎮座地にも足を運んでみました。
令和4年(2022年)5月の記録です。

千葉モノレール「千葉公園」で下車。

すでに大方の社殿は解体中でした。

かつての千葉縣護國神社の「二の鳥居」の姿が残る。

かつての千葉縣護國神社の参道脇には千葉市が奉納した大灯籠も残る。

そして千葉縣護國神社「一の鳥居」もまだ残っている。

千葉縣護國神社一の鳥居

昭和17年6月

富岡徴兵保険相互会社

社号標も残っている。

社号標、一の鳥居、大灯籠などは、千葉公園の敷地だから、早急には解体などの手がつけられないのだろうか。
できることであれば、このまま残してほしいものではあるが。。。

護国神社通り

護国神社入口

この地には、すでに護国神社はない。。。
千葉縣護國神社の跡地にはマンションが建つともいわれている。。。
隣の千葉陸軍墓地跡地にたつ忠霊塔や慰霊碑群の景観を壊さなければよいのだが。


千葉縣護國神社旧鎮座地(23年8月)

千葉公園内に残っていた灯籠や鳥居、社号標なども撤去されておりました。

交差点の名称は、まだ「護國神社入口」のままでしたが、確実に、ここに神社があった痕跡がなくなりつつあります。


関連

はじめに

さいたま市に残る「奉安殿」流用建造物

大宮浦和のさいたま市に残っている、かつての奉安殿を流用した建造物を求めて散策してみる。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


宮原町二丁目自治会館神輿蔵
宮原尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市北区宮原町。
昭和14年建立。流造一間社。
宮原尋常高等小学校の奉安殿として建立された。
戦後、建築後6年しか経過していないことなどもあり、小学校から撤去するには惜しく、そのまま宮原二丁目の公民館脇に移築し、神輿等祭礼具の収蔵庫として活用することとなった。

屋根には、奉安殿のころから変わらずに、菊花紋章が掲げられたまま残されている。

場所

https://goo.gl/maps/W1Ng1ATYhVDVosZa9

※撮影:2022年2月


日進神社境内門客人神社
日進尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市北区日進町。
昭和8年頃建立の日進尋常高等小学校奉安殿。
日進尋常高等小学校(現・日進小学校)の奉安殿を戦後に移築し、日進神社境内社の門客人神社となった。

日進神社。
創建年代は不詳。大宮氷川神社からの勧進。日進村の村社。

場所

https://goo.gl/maps/4ByoXWN1pPEnBPcf9

※撮影:2022年2月


並木氷川神社本殿
三橋尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市大宮区三橋。
昭和13年頃建立の三橋尋常高等小学校奉安殿。鉄筋コンクリート造。
三橋尋常高等小学校(現・三橋小学校)の奉安殿を戦後に移築し、並木氷川神社本殿となった。

並木氷川神社。
創建年代は不詳。並木村の村社。

神社合祀の記念碑と、日清日露戦役記念碑。

日清日露戦役記念碑の碑銘は、山県有朋。

場所

https://goo.gl/maps/TmxmeiehtyKw3bb77

※撮影:2022年2月


楢姫稲荷神社本殿
大宮南尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市大宮区吉敷町。
昭和7年頃建立の大宮南尋常高等小学校奉安殿(大宮尋常高等小学校南分校奉安殿)。
大宮南尋常高等小学校(現・大宮南小学校)の奉安殿を戦後に移築し、楢姫稲荷神社となった。

場所

https://goo.gl/maps/nZ3rrSCQXNZAgwMP8

※撮影:2021年7月


起志乃天神社
浦和第一尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市浦和区岸町。
昭和7年頃建立の浦和第一尋常高等小学校奉安殿(浦和第一国民学校奉安殿)。
浦和第一国民学校(現・さいたま市立高砂小学校)の奉安殿を昭和二十一年に譲り受けて当社の社殿とした。

起志乃天神由緒
菅原道真卿を祭神とする太宰府の天満宮は文教の祖神として崇敬のまとであるが、天歴元年後村上天皇が京都の北野に天満宮を造営され一条天皇の車駕行以来歴聖の行幸二十数変に及び世人これを北野行幸と呼んだ。
當天満宮は青山家祖先藤原朝臣忠勝が京都より移り住むに當り永仁六年に北野より勧鎮座したものであり、今から約六百八十数年前である。
尓来当地方の天神様として広く敬愛され幾星霜を経た、明治四年名主青山貞勝により石祠殿が建立された昭和六年青山治作他世話人により石祠殿の修理があった。
その後住人の移り変りと支那事変、大東亜戦争と騒乱の時代を迎え文教の守護神である當社は次第に荒廃の度を加えた。
昭和二十一年当町内相川、佐久間、辻村、内田等の諸氏が実行となり高砂小学校にあった旧奉安殿の建造物を当処に移築し石祠は新社殿に内臓した。さらに境内地は浦和市児童遊園地に指定を受け今日に至ったものである。
昭和五十五年社屋の修築と周辺の整備を行うに当たり地域在住諸氏の協賛に感謝しここに由緒を誌す。
   昭和五十五年二月
  起志乃天神奉賛会
    会長 相川曹司
     他 役員一同

場所

https://goo.gl/maps/s6a7HPhFe7t44SBEA

※撮影:2020年9月


関連

靖國信仰~人を神に祀るということ~


  • はじめに
  • 人を神に祀るということ
  • 御霊信仰と顕彰信仰
  • 祖霊信仰と靖國神社
  • みたままつり
  • 靖國のみたまへの想い 

はじめに 

 「靖國神社という神社」は、数多くの神社のなかでも、異彩を放っている。 

 異彩の一つとしては、その過程がそのまま「近代日本の具現化」であり、国家のために殉じた「英霊」が御祭神であることだろう。あまりにも強く明治維新以後の歴史に絡みつつ、またそれが定期的に政治イデオロギーに起因することも多く、そもそも「靖國神社とは何か?」と疑問符を抱くことも多い。 

 ここでは世の中に溢れる「靖國論争」ではあまり触れられることのない、「信仰」の側面から「靖國神社」を紐解いてみようと思う。 


人を神に祀るということ 

 靖國神社は明治二年(1869)六月二十九日に「東京招魂社」として設立している。 

 文字通りに「靖國神社は招魂社である」という大前提がこの創立起源にある。 

 東京招魂社の意義は一言でいうなれば「戦禍で斃れた者達の霊を慰め、その遺志を長く祈念するための社」である。 

 戦没将兵の慰霊鎮魂の為に、それが各藩ごと(官軍・幕府軍側問わず)であれ民間であれ明治政府であれ、慰霊・鎮魂・招魂の祭祀が各地でとりおこなわれたことは日本の文化側面的に何等おかしなことではない。これは自然な風習であり、何等「人工的」でも「作為的」なものでもない。 

 例えば、明治政府が主宰した「靖國神社」がこのような伝統的な「人を神に祀る風習」に反して、抑圧的なものであったならば、日本国民の信頼は決して得られるものではない。またこのような「信仰」が強制されたというなら靖國神社創立以来約150年も祭祀が休むことなくとりおこなわれ、確固たる民間によって維持されていることは何を意味しているのだろうか。 

 そこには民間風習が伝統として生きており、靖國の信仰が深く民間に根付いているからではないだろうか。では、その「靖國の信仰」に連なる「民間信仰・民間風習」とは何であろうか。 

 この世に生をうけ、そして亡くなった者を「カミ」として祀り上げる事は古くからの風習の一つであった。人を神に祀った施設で圧倒的に多いのが「神社」である。当然これらの祀り上げの儀式は、古俗に基づく「鎮魂(たましずめ・おおみたまふり)」に基づく神道式でとりおこなわれた。 

 本来の初期仏教・原始仏教は「魂」の存在自体を認めていなかったが、日本古来の風習や神道と巧みに融合してきた仏教は、「誰でも彼でも死ねばすべてホトケ」「死者を無差別に皆ホトケといふやう」(柳田國男『先祖の話』)になり、死せる霊を「成仏」という形で遠方(極楽浄土)に送りつけようとばかりし(柳田國男によれば霊は国土にとどまるという)、さらに祖霊の融合を認めず、古代以来培ってきた魂思想を機能神(守護神)信仰にねじまげ、家々の先祖祭や死者の霊の管理・葬送儀礼に関与しだした。 

 その結果、「人を祀る神社」とは別に「霊堂・霊廟・供養卒塔婆」等に「霊」が祀り上げ「人を祀る寺院」の例も多くなった。 

 仏教でも東南アジアに波及した部派仏教(=小乗仏教。近年の仏教界では小乗仏教とは呼称しない)系の生死観は「輪廻転生」、つまり生まれ変わりの精神であるので、そこには慰霊の精神は存在しない。同じく日本国内でも浄土真宗(真宗・一向宗)系は、その開祖である親鸞が先祖供養は不要だと主張している。(亡き人は諸仏となる。迷いなく即時転生。) 

 またシャマニズムや霊魂等をそもそもないキリスト教が靖國の慰霊行為に納得行かないとするのも宗教観的には理解できる。そこはお互いの文化が培ってきた伝統を尊重する必要があるだけであり、互いの宗教論で否定するのは無意味に等しい。 

 カミ・ホトケ・霊・魂と呼び名は様々にせよ「人を祀る」という根底には大差はない。「人を祀る」延長線上に「靖國信仰」がある以上、この古来の風習の起源を探っていく必要があるだろう。 

 柳田國男翁は人を祀る風習の根源について「最初に外から持ち込まれたと認むるべき証拠が無い」「民族固有のものだとする」理由も積極的には明確ではない、としている。「単に外から入つたもので無いならば、元から在つたと見るべきだと謂ふに過ぎぬ」ので、その「元から」が容易ではないが「永い年月の間に極めて徐徐として、所謂人格崇敬の思想は養はれて来たのである」としている。つまり根源を明確に出来ないほど身近なことであり死者の霊魂は生者が慰め供養するしかないという観念を日本人は伝統的に培ってきたのである。しかし柳田翁は人が祀られるのにかつては制限があったとし「弘く公共の祭を享け、祈願を聴容した社の神々の、人を祀るものと信ぜられる場合には、以前は特にいくつかの条件があった。即ち年老いて自然の終りを遂げた人は、先ず第一に之にあづからなかった。遺念予執といふものが、死後に於てもなほ想像せられ、従ってしばしばタタリと称する方式を以て、怒や喜の強い情を表示し得た人が、このあらたかな神として祀られることであつた」(柳田『人を神に祀る風習』)とされている。本来、死後に祀られる霊魂は「祟り」という観念に基づいており、とりわけ祟ることがない一般の死者の霊魂は「先祖」という霊体に融けこんで家(私)や公のために活躍する我が国固有の氏神信仰・祖霊信仰に基づく霊魂観念となり(柳田『先祖の話』)、これらの祖霊は子孫によって祀られるべき神格であった。 

 同じ「カミ」でも「遺念予執の人を神に祀る」はその多くが御霊信仰(怨霊信仰)であり、一方で「先祖を神に祀る」は祖霊崇拝(祖先祭祀)といえる。「人を祀る」という古来風習も歴史が経つと「生前に傑出した業績を残した人物を祀る」という「勲功顕彰信仰」というべき風習が出来あがる。いわば、三種の「人を祀る」信仰があるといえる。 

三種類の「人をまつる信仰」
 御霊信仰(怨霊信仰) 遺念予執の人を神に祀る
 祖霊信仰(祖先祭祀) 先祖を神に祀る
 勲功顕彰信仰     生前に傑出した業績を残した人物を祀る


御霊信仰と顕彰信仰 

 祟り神系は一般的には御霊信仰(怨霊信仰)とされる。この世に怨みを残して死んだ者の霊魂は、生者に祟りをなすと考えられ、これらの怨霊・亡霊は御霊・物の怪と恐れられてきた。本来の「たたり」という言葉は神の示現をいう意味にすぎなかったが、「巫蠱(ふこ)の幣なるもの」が「たたり」を変容させたという。。(柳田『先祖の話』)この巫蠱=呪術者が「たたり」を「祟り」として恐怖の世界の怨霊として明確化させ、本来は霊魂に関して沈黙していた仏教(密教)による呪術と古来の鎮魂儀礼の融合によって奈良末期から平安時代(最澄や空海が帰朝し密教を導入した後)に急速に「御霊信仰」が広がっていった。本来は天皇家の死者の霊を特別に御霊と呼んだが、このころには非業の死を遂げた人々の霊魂を御霊と呼ぶようになり、平安時代には疫病・飢饉・地震・雷等のあらゆる災害が、御霊の仕業とされ、これらの怨霊を鎮魂するための儀礼が必要となっていた。 

 古来、怨霊とされる霊も「神」として祀り祭礼儀式を行うことによって常に鎮魂してきた。その供養の結果、祭神の業績や伝説が世に語り継がれていくにつれて怨霊の力は弱まり祭神の性質がマイナスからプラスへと転換されていくことになる。有名な菅原道真が死後四十数年後に北野神社にまつられ、その後「文筆・学問の神」として祭神が顕彰されるように。 

 この顕彰化ということが後世に着目され「顕彰神」という人神が発生することになる。これが「勲功顕彰信仰」へのシフトといえる。一般的に「一定の年月を過ぎると、祖靈は個性を棄てゝ融合して一体になるものと認められて居た」(柳田『先祖の話』)といわれており神になれない「霊」というものは三十三年忌(もしくは四十九年忌・五十年忌)で最期の法事を行い「先祖」になるといわれている。つまりある程度の年月がたつと故人は先祖という枠の中に埋没して忘れ去られ記憶として残らなくなってしまう。しかし人を神に祀るということはその人物が永遠に記念として記憶され伝承されることを意味する。遺念予執がまったくなく祟り神とは到底思えない権力者や偉人が神として祀られる理由の一つにはこの記憶・記念される「顕彰」という機能が働いているといえる。つまり「祟り神」も時と共に「顕彰神」に転化するという根本があり、祭神が記憶・記念される場として神社が存在している。それもその神社が後世まで永続祭祀・信仰されていくという根本があって記憶され記念されるのである。このように「御霊信仰」と「顕彰信仰」というものは対極線上にあるもののようにみえて実は非常に近い関係にあるということがわかる。 

 また、天変地異等が「祟り」として認知認識されるときは得てして「政情不安定」な時である。誰かが「あれは祟りだ」と認定して「祟り神」を捜してこない限り「怨霊」は表面化して来ない。その「怨霊」を祭祀する役割は為政者や民衆が担っている。特に為政者にとっては政情安定化のために政治的目的で神社建立をするのが最良であった。つまり怨霊の転化ではなく最初から顕彰目的で建立された神社には政治的効果が大きいとされる。明治期の神社建立の動きを「国家神道のもとで、天皇崇拝を主軸に神社を再構築し、人為的作為的に改変し、国家神道の思想に立つ神社を次々と創建した」(村上重良『慰霊と鎮魂』)とみる見方もあるが、顕彰すべき必要性がない神というものもありえず、もし作為的作られた「顕彰に値しない神々」なら、少なくとも今の世の中では信仰されなくなるはずだが、明治以来の神社も今日多くの信仰を集めている。 


祖霊信仰と靖國神社 

 「人を神に祀る」概念を冒頭に三種類あげたが、一番最初に取りあげた「祖霊信仰(氏神信仰)」に関しては未だ詳述していない。

 「祖霊信仰」とは先に触れたように「先祖」という霊体に融けこんで家(私)や公のために活躍する我が国固有の霊魂観念のことを指し、本来これらの祖霊は子孫によって祀られるべき神格であり、子孫が先祖の霊を敬虔に祀り、それに対して「先祖の霊」は子孫の守護神として応えてくれるというものである。 

 以下、加地伸行氏の意見を参考にする。東北アジア(儒教文化圏)では亡霊を招き慰霊するシャマニズム(魂降ろし)が基本的宗教感覚であり、死者と生者とのきずなを断ち切ることのない祖先祭祀(仏教的には祖先供養)という宗教感覚が儒教によって体系化されてきた。日本古来の神道の根底はシャマニズムであり、印度から中国に波及した仏教(大乗仏教系)も儒教的慰霊観を取り入れ先祖供養重視の日本仏教に発展した。日本の古来神道は仏教・儒教体系や道教理論が伝来するにつれて原始信仰的なものから徐々に体制を整えていったが、ただ日本の神道は儒教にはない「穢れを忌む」思想があった。死に際しての火葬は禊的浄化であり、日本人にとっては「死」そのものは穢れである。しかし葬儀以降は「死」という厳粛な大事が聖化し、死者はカミもしくはホトケとなる。そしてこのように浄化された死者の生前のできごとを問うことは一切しない。死者は「死」という大事によって人間界の責任をすべて果たされ、あとは「カミ・ホトケ」となり人間界の子孫を護る存在となったと加地氏はいう。 

 例えば靖國神社で見てみれば「東京国際軍事裁判」という名の判決で裁かれたABC級戦犯の方々(便宜上「戦犯」と呼称)は、現世では「法務死」という一番重い刑で責任を果たされ「カミ・ホトケ」として祀られるべき存在といえる。 

 「祖霊信仰」は極めて儒教的なものであるが、そこに日本的な思想・伝統が加味されて「靖國信仰」が形成されてきた。私はそれらの昭和受難者たちが現世での罪を裁かれ「カミ・ホトケ」となったからには、もはや現世の罪を問うことはせず(問うこともできない)、ただ慰霊の一心で向き合うだけである。それが日本の伝統的な信仰のはずであるから。 

 彼らの御霊を後世の我々はどう祀ればよいのだろうか。以下、柳田國男翁・小堀桂一郎氏の見解を参考にしたい。御霊を祀れないという事態は、家が断絶して祀る人の無い霊が出来る場合もあれば、戦火で斃れ家の跡を継ぐものがいなくなる場合もある。柳田翁によれば、それらの「不祀の霊」の増加というものは、大きな恐怖であり、盆の先祖祭にてさまざまな外精霊や無縁ぼとけ(仏教呼称)等の為に、特別に外棚・門棚・水棚と呼ばれる棚(不祀の霊を祀るための棚)を設け、供物を分かち与えることをしなければならなかったという。これが古来の家の構造であり信仰であった。『先祖の話』の末尾で柳田翁は記す。「國家の為に戦つて死んだ若人だけは、何としても之を佛徒の謂う無縁ぼとけの列に、疎外して置くわけには行くまいと思ふ。」とし、子孫が絶え祭祀が行われなくなってしまうと「程なく家無しになつて、よその外棚を覗きまはるやうな状態にして置くことは、人を安らかにあの世に赴かしめる途では無く、しかも戦後の人心の動揺を、慰撫するの趣旨にも反するかと思ふ」と切実に記している。この言葉こそが「靖國信仰」の原核精神を示しているだろう。 

 靖國神社の祭神も個々の家々の墓に祀られている。それは柳田翁のいう両墓制のうち「いけ墓・上の墓・棄て墓」という、やがては記憶されなくなり(先祖と同化)、忘れ去られてしまう墓(所在不明になるのが良いとされる地域もある)であり、その地に死者の「魄」(肉体の象徴)は祀られる。一方で「参り墓・祭り墓」と呼ばれる参拝に都合の良い、社会的な霊魂の逗留地(招魂の祠)に死者の「魂」(精神の象徴)が祀られ、元の天に帰って、子孫の安寧を護ると考えられたきた。つまり、それらの招魂祭祀を司る場が「靖國神社」等であり、たとえ「いけ墓」での祭祀が廃れたり、または祭祀を司る子孫のない若い戦死者等の「不祀の霊」は、社会的立場ある「参り墓」での祭祀によって絶えることなく記憶され、霊は安んじてその祠にとどまり、それらの霊が「祀る者」を加護する。小堀桂一郎氏によれば「戦死者の霊を祀り、祭を営んだ人々と共鳴者が、恰も氏子が氏神に対する如き感情を自らのうちに育んでその神霊を尊崇し、かつその加護を祈るという信仰形体」が靖國神社・護国神社であり「霊(参い墓の霊=靖國・護国神社の霊)が加護を垂るべき子孫とは共同体の成員全体であると考えられる。祀る者と護る神とに関係が氏族の子孫と祖先という私的な関係から、共同体を軸とする公的な関係に移して考えられる様になる。祭神はその遺執を国を靖からしめんとの志に示現し、祀る氏子等は我等の安寧を守り給えと祈る。」とし、これこそが靖國信仰の形でもある。「いけ墓=私的な祭祀場」に対する「参い墓=公的な祭祀場」という考えによって招魂社は公的なものとして出発し、国家が主宰する祭祀によって公的な「国事殉難者」が祀られているのもなんら問題はなく自然の帰結である。 

 「靖國神社こそ国営にすべきだ」という声がある。本来なら靖國神社は国家機関たるべきだろう。いや根本の「神道」という信仰こそ「日本人の公的な信仰」とすべきだろう。(あくまで「宗教」とはせずに「信仰」というが。)ただ、そのようなことは現実には夢物語でしかない。ではどうするべきか。昭和五十三年七月から平成四年三月までの靖國神社の六代目宮司を務めていた松平永芳氏の意見が一番賛同的であると思う。以下一部抜粋する。「靖國神社は政府の維持すべき神社ではなくて、国民総氏子の神社ということでなければ、どうにもならないんじゃないかと考えています。(略)政府から庇護を受けていると、一時的にせよ、どんな政権が出現するかわからない。その時の不安があるから絶対に政府からお金は貰わない方がよいと考えているのです。仮に国家護持ということになると政府がお金を出せばよいと思うようになり、国民はノホホンとして靖國の存在を忘れ去ってしまうかもしれません。(略)少額でもいいからできるだけ多くの方々がここの神社を認識されて、ここのお陰で自分たちの今日の平和があるんだ、ということを理解していただくのが理想的なんだと考えております。」(『靖國神社創立百二十年記念特集』)たしかに、靖國神社がなんたるかすら理解できてない政府や国に、今後万が一でも委せる自体が発生する可能性はゼロではないとすれば、あとあとの不安が大きくなるばかりである。やはり小堀氏や松平氏のいう、この「祀る者と護る神」の関係を大切に、靖國神社を日本国民の氏神とした「国民総氏子」というのが理想ではなかろうか。 


みたままつり 

 毎年7月13日から16日にかけて、靖國神社では夏の風物詩として「みたままつり」が斎行されている。 

 この「みたままつり」とはなんであるかを簡単に触れてみようと思う。 

 靖國神社の「みたままつり」は靖國150年の歴史から鑑みれば決して古い祭儀ではない。従来、戦前の靖國神社は現在のように庶民がいつでも気楽に参拝できる神社ではなく、国家と軍部が管理していた神社であった。 

 昭和20年8月終戦後、靖國神社はGHQの厳しい統制下に置かれ、その段階で未合祀であった戦没者の御霊を今後合祀できるかどうかがわからないという懸念から11月19-20日に臨時大招魂祭を斎行。本来は戦没者氏名等を明白にし霊璽簿に奉斎すべきところを緊急時ということで、まずは氏名不詳のままで招魂しその後に調査が進み次第で霊璽簿奉安祭を行い逐次ご本殿におまつりする手はずとなった。こうして創建以来の軍部が関与する最後の招魂式が行われた。 

 その1ヶ月後にGHQは国家神道・神社神道をターゲットとした「神道指令」を発令。昭和21年2月を以って靖國神社は国家との関係を絶ち一宗教法人へと再生することとなる。 靖國神社規則では、「当神社は靖國神社と称し、国事に殉じた御霊を祭神とし、神徳光昭、遺族慰藉、平和醇厚なる民風を振励するのを目的として事業を行う」ことを明記している。 

 昭和21年7月、神社として国家と断絶し今後の立ち行く様を模索していた靖國神社に長野県遺族会の有志の方々が、神社の勧誘や依頼というべきものではなく自発的に上京してきて、境内で盆踊りを繰り広げ民謡を歌唱して戦没のみたまを慰めるという出来事があった。 

 このような民間発案の慰霊行事は戦中戦前含めかつてなかった事例であり、これが今日の「みたままつり」の起源とされている。 

 これにヒントを得て、翌年の昭和22年7月には、13日の前夜祭にはじまり、新暦のお盆の3日間(14日・15日・16日)に神社主導ではじめての「みたままつり」を斎行、以後は夏の恒例となった。 

 お精霊様の迎え火を焚き、茄子や胡瓜の馬・牛の乗り物を飾り、先祖の霊の一時帰宅を待ち受けるという古い民間習俗の風習は、平安期には京都では廃れていたが関東では盛んであったと兼好法師の「徒然草(第19段)」には記載されている。 「亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なおする事にてありしこそ、あわれなりしか」 

 往時は歳事であった古習も時代の変遷の中で、いつしかお盆の祭事として、先祖の祭り・家の祭りとして伝承されてきた。もともと家々の祭りであった祖霊の祭りは「公」の祭りではなく「私」のまつりであり、昭和21年2月に「公」たる靖國神社が、一宗教法人にならざるを得なかった以後をもって、その年の7月に「私」たる民間有志の発案でもってはじまった「みたまのまつり」であった。 

 こうして長野県遺族会の方々が自発的に盆踊りを始められた「みたまのまつり」は、その契機は柳田國男の「先祖の話」で記述された下地が根底にある。 

 柳田翁の先祖の話は昭和20年4月から5月にかけて書かれたものであり、昭和21年4月に刊行されている。その柳田翁は日本降伏後の昭和20年10月付けの序文に「まさか是ほどまでに社会の実情が改まってしまうとは思わなかった」とし「家の問題は自分の見るところ、死後の計畫と關聯し、また靈魂の觀念とも深い交渉をもつて居て、國毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論は是から何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ惡しかれ多數の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、又どうなつて行くべきであるか。もしくは少なくとも現在に於て、どうなるのがこの人たちの心の願ひであるか。」と記している。、終戦後の日本の行く末を案じ混沌からの憂いが強く伝わってくる序文である。 

 先祖の話。すなわち「先祖から子孫に向けての相続と先祖祭祀の継承という民俗の根底になしている伝統に大いなる断絶がせまっていることへの危機感と解決方法」「子孫を残さずに死んでいく(戦死者の)霊の存在を目の当たりにし、日本の家の構造と先祖の祀りの有り様」を記述している。 

 靖國神社で祀られる「みたま」は「国のために戦って死んだ若人」「国難に身を捧げた者」というのが特徴的であり、中でも若人の御霊は、これを家々の先祖として祭るであろう子孫を有していない場合も多い。そこに祖霊信仰の断絶が発生してしまう。祭ってくれる子孫を持たぬ御霊を直系の子孫に代わって祭り、その記憶を伝承し、それら先祖の霊を後世の祭祀される人々の守護霊として安んじる。これが「靖國神社」であり、後世の社会が祭る「みたままつり」である。「この祭りは、祭ってくれるべき子孫を欠いた若き御霊達を安らかにあの世に在らんしめんがために、あるべかりし子孫に代わって共同体の常民が営む祭」(小堀桂一郎氏)であり、その祭りは格別な儀礼に基づくものではない。 

 「みたままつり」は伝統的な民間風習を兼ね備えるとともに、「個」ではない社会的な祭祀が行われるという公的な位置づけも帯びた、昭和22年にはじまった新しい「お祭り」ではある。その新しいお祭りは新暦お盆の三日間で斎行され、東京では一番最初の盆踊りも奉納されるということもあり、異色な趣も感じさせずに自然なカタチで受け入れられたのも、その性質が「日本人の信仰」の根底に根付いたものであった、といえる。 

 後世の我々が御霊の献身的な御心を記憶に留めて回想し、往時に想いをはせる。そうして御霊とともに「お盆」を過ごし、その意志を継承することで御霊達は後世の守護神となる。これを「祖霊信仰」から一段と特化した「靖國信仰」と称しても良いのかもしれない。 

  みたまを慰めるこの信仰。「生きた人の社会と交通しようとするのが、先祖の霊だといふ日本人の考へ方」(柳田國男)が共通共同の事実として根付いていたからこそのまつりであり信仰である。「この曠古(こうこ)の大時局に当面して、目ざましく発露した国民の精神力、殊(こと)に生死を超越した殉国の至情には、種子とか特質とかの根本的なるもの以外に、是を年久しく培ひ育てて来た社会制、わけても常民の常識と名づくべきものが、隠れて大きな動きをして居るのだといふことである。(略)人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳に、信仰の基底が無かつたといふことは考へられない。」とこの「常民の常識」が共通した信仰に根ざしていたのであり、「信仰はただ個人の感得するものでは無くて、寧ろ多数の共同の事実だつたといふことを、今度の戦ほど痛切に証明したことは曾て無かつた。」と力説をされている。 

 そのうえで柳田翁は「但しこの尊い愛国者たちの行動を解説するには、時期がまだ余りにも早過ぎる」と昭和20年春の段階ではこれ以上の追求は遠慮されているが、その言わんとしている深意は日本人の心底に根付いており、戦後も連綿と続く靖國の祭祀、みたまのまつりに継承されてきている。 


靖國のみたまへの想い 

 今回、信仰という側面から靖國神社を紐解いでみた。 

 世間的なイメージで言えば、靖國神社への参拝は慰霊・鎮魂・顕彰・感謝などの側面が多いが、その根底には「日本人の伝統的な民俗意識」があることもわかった。その「民俗的な先祖の祭り」を戦後改革の中で一宗教法人となり「神社神道形式」で伝承しているのが現在の靖國神社となる。 

 この信仰の根底を気にもしないような政治的なイデオロギーに巻き込まれるのも現在の靖國神社の一つの姿であり、嘆かわしい自体ではあるが、そんな事は関係なく心静かに拝する人々の願いとともに、これからも御霊の御心を伝承を願っていきたいと思う。 

 靖國信仰とは? 

「靖國神社・靖國信仰は日本人の心であり、日本人が築いてきた民俗文化である」ということも出来るかも知れない。 

 後世に生きる我々の多種多様の想いのなかでも不動のものがある。それが御霊への鎮魂と感謝の祈りであり、その行為は日本人の伝統でもあり伝承されるべき風習でもある。 

 彼ら御霊の想いと願いを記憶し、御霊を未来永劫に祈念し回想する。幕末以来今日まで246万6500余柱もの英霊たちが国家のために殉じられ、幾多の無名人が国難に立ち向かっていった。 

 後世の我々は彼らが身を挺して護り抜いた「日本」に生きるものとして残された義務がある。「家=国」を身を挺して護った彼らの想いを、「家=国」に残された子孫が引き継ぐ。御霊の遺志を後世に伝え続ける。そして先祖の御霊は子孫の「守護神」となり、国靖らかであることを願う「靖國の想い」へと導き、未来を馳せていく。 


主な参考文献(順不同) 

靖國及び周辺事項 

小堀桂一郎『靖国神社と日本人』PHP新書・1998年 

神社本庁編『靖国神社』PHP研究所・2012年 

加地伸行・新田均他『靖国神社をどう考えるか』小学館文庫・2001年 

村上重良『慰霊と鎮魂 靖国の思想』岩波新書・1974年 

神道及び思想全般 

柳田國男「先祖の話」昭和21年/「人を神に祀る風習」大正15年 

(『定本柳田國男集第十巻・新装版』所収 筑摩書房・昭和44年) 


初 稿 :平成14年(2002)5月
一次改訂:平成14年(2002)11月
二次改訂:平成28年(2016)7月 (みたままつり項目を追記)
三次改訂:令和04年(2022)4月 (Web掲載用に表記微修正)

学生の頃に、とある同人誌に寄稿した論文。
読み直せば、若気の至りも多数はあるが、基本的な考え方としての根底は今も変わりない。
うっかり発掘してしまったので、せっかくなのでWeb用に再構築して掲載しました。 


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霊璽奉安祭

「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和4年)

令和四年。終戦から77年。
今年も靖國神社の桜花を愛でる。

境内に献木された桜たち。
一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、花を咲かせる。

御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。
「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。

靖國の桜花「靖國櫻」には御英霊の御心が宿っている。
感謝を。哀悼を。


散る桜 残る桜も 散る桜
 良寛和尚

奉頌歌「靖國神社の歌」

日の本の 光に映えて
尽忠の 雄魂祀る
宮柱 太く燦たり
  あゝ大君の 御拝し給ふ
  栄光の宮 靖國神社
日の御旗 断乎と守り
その命 国に捧げし
ますらをの 御魂鎮まる
  あゝ国民の 拝み称ふ
  いさをしの宮 靖國神社
報国の 血潮に燃えて
散りませし 大和をみなの
清らけき 御霊安らふ
  あゝ同胞の 感謝は薫る
  桜咲く宮 靖國神社
幸御魂 幸はへまして
千木高く 輝くところ
皇国は 永遠に厳たり
  あゝ一億の 畏み祈る
  国護る宮 靖國神社

奉頌歌「靖國神社の歌」 
昭和16年(1941)3月  
献納:主婦之友社 
作詞:細渕国造 作曲:陸海軍軍楽隊

軍歌「同期の桜」

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
 みごと散りましょ 国のため

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
 なぜか気が合うて 別れられぬ

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に
 未だ還らぬ 一番機

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
 なぜに死んだか 散ったのか

貴様と俺とは 同期の桜
 離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
 春の梢に 咲いて会おう

軍歌「同期の桜」
昭和14年

神雷桜と桜花。


令和4年春の靖國神社

写真を。

※撮影:20220403

雨の日

また、来年。

※撮影:20220404


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有志が建立した「神奈川縣護國神社」

全国47都道府県で唯一「護國神社」が無い県が神奈川県。
(内務大臣指定護國神社として。東京は靖國神社で包括している。)

もちろん、神奈川県にも公式に護国神社建立の予定はあった。


神奈川縣護國神社(内務大臣指定護國神社)

神奈川縣護國神社(神奈川県護国神社・神奈川県護國神社)が完成直前であった昭和20年5月29日、横浜一帯を襲った「横浜大空襲」によって、社殿は焼失。そして、そのまま、公式には神奈川縣護國神社が完成することはなかった。

もともと「神奈川縣護國神社」は、横浜市三ツ沢の三ツ沢総合グランドの地に建立される予定であった。現在は横浜市によって跡地に「慰霊塔」が建立されている。

もともとの「神奈川縣護國神社」に関しては、以前の記事に詳しい。


私祭招魂社

「招魂社」は、後に全国各都道府県に一社の護國神社となる「官祭招魂社」と、地域住民の崇敬から自ずと創建された町・村単位から端を発する「私祭招魂社」に分けられる。

「私祭招魂社」の創建は明治以降、特に日露戦役終結以後の戦没者の増加に伴い、主に地域住民が発起人となる形で盛んに建立が進んだ。
政府は、官祭・私祭を含めた招魂社の把握・維持をする目的で新たな招魂社創建には、各種の必要条件を規定することとなる。
そうして、昭和14年、内務省は「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」という法令を発し、全国各都道府県に一社または二社の護國神社を指定することとなった。
これにより官祭、私祭招魂社は内務省に指定された指定護國神社(内務省指定護國神社)と、指定を受けない指定外の護國神社や招魂社となった。
御英霊を祀るということが、招魂社、指定内護國神社、指定外護國神社と様々であれ、いつの時代であれ、慰霊鎮魂の真心でもって、人々の願いの場は創られてきたのである。


神奈川縣護國神社(民間の有志が建立)

噂は聞いておりました。
有志が「神奈川縣護國神社」の建立を目指している、と。
思えば、御英霊を慰霊鎮魂し感謝顕彰するという御心には、公的なものも私的なものも、その心がけには大小の差はない。
内務大臣指定護國神社の創建は夢と終わった。
しかし、私的であれど護國神社を創建することはできる。それを具現化したものが、この小さな小さな「神奈川縣護國神社」といって良いかもしれない。

しかし、小さくても、御英霊に対する御心に深く溢れているお社。
彼らの公式サイトから、その心意気を感じることができる。
今回、たまたま大船に足を運ぶ機会あって、ようやく参拝する機会を得ることができた。

ありがとうございます。

ー>神奈川縣護國神社氏子會サイト

https://peraichi.com/landing_pages/view/gokoku0529

神奈川縣護國神社 由緒
創祀:紀元2672・平成24年5月29日
創建:紀元2678・平成30年5月29日
祭神:神奈川縣英霊(かながわすべてのほつみたま)
 幕末より現代に至るまで、祖国や故郷を護るために尊い生命を捧げられた神奈川県(旧相模国含む)出身の英霊を祀り、感謝と顕彰の誠を奉げるべく、県民有志によって創建されました。
 神奈川県は日本全国で唯一「護国神社のない県」という汚名に甘んじて来ましたが、本社の創建を先駆けとして、先人たちの愛と勇気、我が国の平和と独立を次世代に受け継いで参ります。
 神奈川縣護國神社氏子会

大船観音を垣間見ることができる高台に鎮座している。
大船観音は、護國観音。
奇しくも、護國神社と護國観音が相まみえた空間。

場所

https://www.google.com/maps?ll=35.342707,139.531131&z=16&t=m&hl=ja&gl=US&mapclient=embed&cid=9671488658464060009

※2022年3月参拝


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「護国観音」(大船観音寺)

大船駅に到着すると、ひときわに存在感を放つ白亜の観音様がみえてくる。通称「大船観音」。
実は、この観音様は戦前に「護国観音」として建立が予定されていた観音様であった。

昭和4年(1929)に「護国大船観音」の建立に着手。
昭和9年(1934)に像の輪郭部分が完成するも、社会情勢や資材不足により、未完のまま工事は一時中断。戦後の工事再開を待つこととなる。。。


大船観音寺

大船の駅から、その異様な姿を拝することができる。山の上に上半身から上の胸像として建立されている。

参拝料は大人300円。セルフにて。

観音像の由来
 昭和四年、当時の日本は第一次世界大戦後の不況や飢饉など、不安定社会情勢の中にありました。そこで、観音信仰によって国民の平安と国家の安寧を祈願しようと、護国大船観音建立会を設立。 昭和九年には観音像の輪郭まで完成したのですが、日中戦争・太平洋戦争に突入し資金や資材不足となり、観音像は未完成のまま放置されました。
 昭和三十二年に放置された観音像を完成させようと、曹洞宗管長高階瓏仙、吉田内閣国務大臣安藤正純東急会長五島慶太等を中心に財団法人大船観音協会が設立され、修仏工事が着工されました。 そして昭和三十五年、現在の観音像が完成されたのです(胎内にはこの修仏工事の写真が展示されております)。
 その後、昭和五十六年、大船観音協会は宗教法人大船観音と改称し、曹洞宗大本山總持寺の末寺として現在に至っております。

鎌倉市戦歿者の英霊を観音胎内に祀る

大船観音寺

・宗派 曹洞宗
・山号寺号 仏海山大船観音寺
・建立 昭和56年(1981)
・開山 大本山總持寺貫首乙川瑾瑛
・開基 岩本勝俊

 昭和4年(1929)に平和祈願のため地元有志が大船観音の建立に着手し、昭和9年(1934)に像の輪郭部分だけが出来上がりましたが、当時の社会情勢や資材不足により、未完のまま工事は一時中断となりました。
 戦後、曹洞宗管長高階瓏仙禅師らが中心となり財団法人大船観音協会を設立し、多くの人々からの募金による浄財で、昭和35年(1960)に現在の白衣観音像(高さ約25m、幅約19m)を完成させ、その後、昭和56年(1981)に曹洞宗の大船観音寺となりました。境内には、印象的な観音像の他に、子育地蔵や厄除地蔵が祀られてあり、また、恒久平和を祈願して、原爆慰霊碑や「原爆の火」の石灯籠なども建てられています。

石段のうえには、堂々たる白衣観音様。

大船観世音
曹洞管長瓏仙書

上半身の大船観音。
もともとは立像を計画していたらしいが、地盤の影響などもあり、上半身のみとなったそうで。
下半身が埋まっているわけではなく。

護国観音。

低頭し合掌す。


大船観音の胎内

胎内には、太平洋戦争で亡くなった人々への供養と戦争や原爆のない平和な世界への祈りを込めた千体仏や千羽鶴が収められている。

1934年、永遠に平和の礎を築かんと護国観音建立会が発足し、尊像の輪郭ができる。
その後、日華事変や太平洋戦争により、資金、資材その他意に任せず、未完成のまま20余年の歳月が流れていきます。

 観世音とは、世の中の音(声)を聞くのではなく、観(み)るという。苦悩にうちひしがれた人々が、一心に観音の名を称えれば観世音は、人々の苦しみの音声を観察して、慈悲の心をもって救うと言われています。
 熱心な観音信仰の発起人の中にも完成するのを念願しつつ、倒れられた方もいます。それぞれの労苦が渾然と混じりあって完成を待つ姿。

千体仏

日本の無条件降伏により、太平洋戦争終結から60年以上が経ちました。
そして、我々日本人の中にも、戦争を知らない世代が半数以上になりました。
これを機に、この戦争で亡くなられた多くの人々や、原爆被害によりなくなられた方々に対して、少しでも慰めになりますよう、そして今後の平和の為にお役に立てればと思い、木彫家植草等雲氏とその受講生、又一般の有志の方々とで神仏による千体仏を制作しております。
現在、その数は980体を超え、その思いはまだまだ増え続けております。
多くの方々の思いを、そしてその願いをご理解戴ければ幸いです。

現在でも、千体仏を制作して戴ける方を募集しておりますので、ご賛同戴ければ幸に存じます。

佛海山大船観音寺

胎内に鎮座する木造の大船観世音


大船観音寺の境内には、原爆関連の慰霊碑もある。

原爆慰霊碑

被爆40周年平和祈念塔

核兵器もない 
  戦争もない 
 平和な世界を 
   神奈川県知事 長洲 一二

 第二次世界大戦の末期、一九四五年八月六日午前八時十五分広島 九日午前十一時二分長崎に米軍機により投下された原子爆弾は、一瞬の閃光とともに両市を壊滅させ数十万の人びとを殺傷しました。
 慰霊碑は、県下の原爆死没者の霊を合祀し、みたまを慰めるために 生き残った県下在住の被爆者が、放射能障害とたたかいながら、一九七〇年四月末被爆二十五周年を記念して建立しました。
 平和祈念塔は、核戦争の危機を憂い、すべての核兵器の廃絶と世界の恒久平和への切なる被爆者の願いを永久に銘記するために、一九八五年八月末被爆四十周年に、ここ大船観音境内に建立したものであります。
  一九八五年八月吉日
   神奈川県原爆被災者の会

原爆の火

 被爆四十五周年 
原爆の火 
 神奈川県知事長洲一二

原爆の火
 一発の原子爆弾によって、数十万人の広島を焼き尽くした“怨念の炎”は、いまなお福岡県星野村で燃えつづけている。
 未来永劫、平和を願う“原爆の火”としてその火をこの塔に採火した。
  被爆45年7月29日 神奈川県原爆被災者の会

被爆二十五周年記念 慰霊碑
 一九七〇年(昭和四十五年)完成

 この慰霊碑は、神奈川県の原爆死没者の霊を合祀し、みたまを慰めるために、県下在住の被爆者が「財団法人大船観音協会」の関係者(代表五島慶太氏)のご好意により、この地に慰霊碑を建立することができました。
 慰霊碑は、広島・長崎の爆心地の石及びビキニで被爆した第五福竜丸の遺品を添え千羽鶴を刻んだ橇に乗せ、被爆者が平和の丘に向かう姿を表しています。
 この慰霊碑の地蔵土台石(二〇〇kg)は広島の爆心地の西蓮寺から、被爆石(五〇kg)は長崎の浦上天主堂から、碑内に納められたケロイド状の瓦は広島原爆資料館から寄贈されたものです。
 慰霊碑のカロートには亡くなられた被爆者の氏名を刻んだ御影石の名札が納められています。

慰霊碑のソリの上の地蔵土台石(二〇〇kg)は広島の爆心地の西蓮寺から、被爆石(五〇kg)は長崎の浦上天主堂から、という。


戦歿者慰霊碑

西部ニューギニア派遣第三十五師団工兵隊の慰霊碑。
石碑は昭和56年に行われた37回忌法要の際に建立。
碑前面の碑誌及び石碑左手の観世音菩薩像は平成5年の50回忌に建立。

西部ニューギニア派遣第三十五師団工兵隊(東第二九二五部隊)
戦歿者慰霊碑

昭和十九年四月北支河南省方面より転進す
途中海歿せる者又無事に任地に着くも食糧の補給等全く無く加えて赤道直下瘴癘蛮雨のなか飢餓と病魔のために逝った多くの戦友の慰霊のため謹みて三十七回忌法要を勤め併せて恒久の平和を祈念し之を建つ
    昭和五十六年七月吉日 鎌倉市台 金子秋雄 旧姓福岡

 曩に戦友諸霊の三十七回忌 に因み当山の御慈慮を忝うし 慰霊碑を建立開眼法要を厳修 永代供養の喪情を捧げ頓証菩 提を冀う
 國民思想の善導と永遠の平 和を築き此れを看守せらるゝ 大観世音菩薩の脚下に建立し 得たるは是れ一重に南溟の孤 島に散華せる戦友の慰霊と御 遺族各位の慰藉を衷心より念 ずるに外ならざるものなり
 第二次大戦後既に半世紀を 閲し茲に諸霊の五十回忌令辰 に相遇て観世音菩薩尊像並碑 誌を建立し専ら祈る大悲の願 力以て去来を示現せんことを
 伏して冀う驪珠滄海に輝き 普く世間を導き賜はんことを
  一九九三年三月
   鎌倉市台 金子(旧姓福岡)秋雄謹誌


JR大船駅からは、横顔となる。
大船観音の名前は聞いたことがあっても、それが戦前から平和を願った護国観音として建立を目指していたものとは知りませんでした。たまたま今回、訪問にあたり調べて知ったことでした。よき機会を得ることができ、感謝です。

駅からは歩いて5分ほどと近いので、大船でちょっとしたスキマ時間が産まれた際には、参拝をオススメ。

※参拝:2022年3月


関連

おなじ大船の界隈に。

溝口神社境内稲荷社・高津尋常高等小学校奉安殿(川崎・溝口)

溝口の鎮守、溝口神社の境内稲荷社は、かつての奉安殿であった。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


溝口神社境内稲荷社
高津尋常高等小学校奉安殿

戦前に、高津尋常高等小学校(現在の高津小学校)で使用されていた「御真影( 天皇陛下と 皇后陛下のお写真)」と「教育勅語(勅語謄本)」を納めていた鉄筋コンクリートの建物「奉安殿」が、昭和21年1月に、現在の稲荷社として移築され、御社殿として再活用された。


溝口神社

創建年代は不明。江戸時代には、神仏習合のお社として、大山街道の溝口宿近在の村々の総鎮守として赤城社と称された。
旧社殿は、関東大震災で倒壊。
昭和8年(1933)に新社殿建設が起工され昭和9年11月完成。

本殿は土蔵造。昭和9年築。
同じく拝殿も昭和9年築。

拝殿に掲げられた「溝口神社」の社名額は、元帥海軍大将東郷平八郎の書。昭和8年9月に新社殿完成を記念して奉納。
東郷平八郎が直接に揮毫し彫刻されたもので大変貴重な扁額。

溝口神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

東郷平八郎は昭和9年5月30日に亡くなっているため、溝口神社社名額への揮毫は亡くなる1年前ということになり、最晩年の揮毫としても貴重。

東郷平八郎謹書
ご朱印符

東郷平八郎直筆の書体を転写し、ご朱印符として奉製いたしました。

東郷平八郎に関しては、以下も参照で

奉安殿に関してば、以下を。

はじめに

※撮影:2022年2月

靖國神社の新春初詣(令和4年)

令和4年(2022年)正月元日。
靖國神社に初詣。

新春初詣の正式参拝を。

御本殿には、 明治天皇が明治7(1874)年1月27日に初めて招魂社をご参拝された際に詠まれた御製が奉書された御宸筆の扁額が掲げられている。
年のはじめに、改めて御本殿の扁額に接する。

我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき

国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えるお社。

感謝と哀悼を。

靖國神社で正月の光景を。

令和壬寅

ご参拝の後は甘酒をどうぞ

甘酒を戴きました。

雑煮&古代ちまきセットも戴きました。

毎年恒例の「全国奉納絵馬展」

毎年恒例の「献酒」全国奉納酒造業者の酒銘柄。

社務所は、建て替え工事開始。。。

新春恒例 振舞い酒

戴きました。

多くの参拝者で賑わう、新春初詣の靖國神社。

おみくじを引きました。
中吉、でした。

新春初詣の正式参拝のおさががりと、
お神酒と祝枡、御朱印をいただきました。

神菓は、新宿中村屋の月餅。靖国紋と虎柄と。

靖國神社の御神菓

お神酒と祝枡。

裏面。

靖國神社の御神酒

太平洋戦争開戦から80年。
1942年に起きた戦いは、今年2022年で、すべからく80年の節目となります。

令和3年12月8日の靖國神社(太平洋戦争開戦80年)

令和3年12月8日、太平洋戦争開戦の日から80年の節目に。

御英霊に感謝と哀悼を。
靖國神社に参拝をいたしました。

「はじまりの日」昭和16年12月8日(太平洋戦争開戦80年)

靖國神社(靖国神社・靖國神社)

雨降る社頭。
境内は靖國桜が紅葉に色付く。

大詔奉戴80年

午前10時。
深くは把握していないが、ある団体が、 大詔奉戴80年記念の昇殿参拝(正式参拝)をしていた。

大詔奉戴日
大東亜戦争(太平洋戦争)完遂のための大政翼賛の一環として1942年1月から終戦まで実施された国民運動。大東亜戦争開戦記念日(1941年12月8日)に「宣戦の詔勅」(開戦の詔書)が公布されたことにちなんで、毎月8日に設定された。

大詔奉戴日の趣旨
「皇國ノ隆替ト東亞ノ興廃トヲ決スベキ大東亞戰爭ノ展開ニ伴ヒ國民運動ノ方途亦畫期的ナル一大新展ヲ要請セラルルヲ以テ茲ニ宣戰ノ大詔ヲ渙發アラセラレタル日ヲ擧國戰爭完遂ノ源泉タラシムル日ト定メ曠古ノ大業ヲ翼賛スルニ遺算無カランコトヲ期セシメントス」

到着殿の靖國桜も紅葉色。

招魂斎庭
かつて、この地で、尊い戦没者の御霊が招魂され、そして靖國の御英霊として霊璽簿が奉安された。

遊就館

平日の午前中の遊就館は、80年目の12月8日であっても、静かであった。

黄色い参道。

御英霊を思いながら、知覧の「玉子丼」をいただく。
ほんのりとした甘さが口の中に広がり、感無量。

詳細は、以下にて。

鳥濱トメさんの玉子丼・靖國八千代食堂

12月8日、80年前の日本を意識しつつ、昇殿参拝(正式参拝)をしました。

御英霊に感謝と哀悼を。

80年目の12月8日。
靖國神社の御朱印をいただきました。
美濃和紙に社紋が刺繍された御朱印。美しいです。

80年目の12月8日といっても、世間的には平日。
静かな境内を、久しぶりにゆっくりと散策しました。

※撮影は太平洋戦争開戦80年目の令和3年(2021)12月8日


関連

神奈川県戦没者慰霊堂

京浜急行「上大岡駅」から徒歩10分ほどの高台に、「神奈川県戦没者慰霊堂」がある。

全国47都道府県で唯一「護國神社」が無い県が神奈川県。
(内務大臣指定護國神社として。東京は靖國神社で包括)
もちろん、神奈川県でも護國神社を建立する予定はあり、完成直前まで建築されていたが、昭和20年5月29日の横浜大空襲で、焼失し、ついに完成することなく戦後を迎えることとなった。

そうして、護國神社が建立されなかった神奈川県にとっては、県を代表する慰霊施設が、この「神奈川県戦没者慰霊堂」となる。

なお、神奈川県護國神社建立予定地だった地には「横浜市の慰霊塔」が建立されている。

神奈川縣護國神社跡(横浜市慰霊塔)


神奈川県戦没者慰霊堂

神奈川県戦没者慰霊堂建立の由来
 この慰霊堂は、神奈川県が講和条約締結の記念事業として、県民の寄附による浄財と県費合わせて約1,600万円をもって、昭和28年11月5日に造営したもので、
 明治以来幾多の戦争において戦没した本県出身の旧軍人軍属、一般戦災死者、及び外地戦没者など、58,000余柱の御霊がまつられています。

年間の行事
5月10日 戦没者追悼奉賛行事
8月15日 戦没者追悼式
      神奈川県戦没者追悼式は令和元年度より神奈川県県民ホールへ変更
毎月5日 月次祭
      1・2・3・5・8月を除く

開苑時間
自・9時00分
至・16時30分
閉園日・月曜日
年末年始閉苑日 12月29日~1月3日(大晦日・元旦を除く)

神奈川県戦没者慰霊堂は、昭和27年の対日講和条約の発効を機に、明治以降の戦争における戦没者、戦災死者を追悼するとともに、県民の平和愛好の象徴として建設され、戦没者及び戦災死者5万8千余名の名簿が納められ、遺族の心のよりどころとなっています。慰霊堂は、緑に囲まれた見晴らしのよい台地にあり、桜の名所ともなっています。また近くには、「かながわ平和祈念館」があり、皆様にくつろいでいただくための休憩コーナーや戦没者の遺品展示ホール、ライブラリーなどがあります。

神奈川県>神奈川県戦没者慰霊堂のご案内 https://www.pref.kanagawa.jp/docs/r6w/cnt/f153/p2926.html

神奈川県
 戦没者慰霊堂

神奈川県戦没者慰霊堂
神奈川県知事内山岩太郎書

昭和31年3月31日建立

刻まれている文字の判別が不能の石碑。

顕彰碑

隣に鎮座する「西岸山千手院」が、「神奈川県戦没者慰霊堂」に敷地を提供した。

合掌

神奈川県のシンボルマーク

日差しが眩しい。慰霊堂は東面している。
風光明媚な高台に、しずかに鎮座していた。

右手のビルが上大岡駅方面。

平和への願いをこめて
希望の年・平和植樹
神奈川県戦没者慰霊堂
2001年5月10日 神奈川県

慰霊堂

本堂周辺でスポーツ等の運動・遊戯は、ご遠慮ください。
(ここは戦没者の方の慰霊施設であることにご理解・ご協力ください)
神奈川県生活援護課

場所

https://goo.gl/maps/g1VK7sE3viuADLm4A


かながわ平和祈念館
(神奈川県戦没者慰霊堂附属会館)

神奈川県戦没者慰霊堂のすぐ近くに、資料館がある。
入館は無料。

かながわ平和祈念館
かながわ平和祈念館(神奈川県戦没者慰霊堂附属会館の愛称)は、戦後50年の節目にあたる平成7年に従来の附属会館を建て替え、戦争体験を風化させず次世代に伝えるとともに広く県民に親しまれる施設として整備されたものです。多目的ホールや会議室、遺品展示ホール、ビデオルーム、ライブラリーなどがあります。どうぞお気軽にご利用ください。

神奈川県>かながわ平和祈念館
https://www.pref.kanagawa.jp/docs/r6w/cnt/f153/p2927.html

場所

https://goo.gl/maps/be9qZPevFvQ6Kyk86

※撮影は2021年4月


関連

明治観音堂(明治座・日本橋浜町)

浜町公園、都営新宿線浜町駅のすぐ近く。もっというと、明治座の目の前。そこに東京大空襲に関係する慰霊堂があった。

明治観音堂

昭和20年3月10日、東京大空襲。
指定避難所であった「明治座」には多くの人びとが避難していたが、界隈で犠牲となった人々を弔うために建立された観音堂。明治座の復興に力を注いだ、新田新作氏(戦後に復興した明治座の社長)の建立。

明治観音堂建立の由来
本堂は昭和二十年三月十日の
戦災に依り死没せる幾多の霊の
冥福を祈る為建立す

昭和二十五年十二月
発願主 新田新作

明治座と戦争
しかし時代は、昭和6年(1931)に満州事変が勃発しており、やがて日中戦争と次第に戦時色が強くなっていきます。第二次世界大戦が開戦し、昭和19年(1944)3月5日にはとうとう全国19か所の「高級興行場歓楽場」に対し、大劇場閉鎖の緊急事態が命じられます。しかし、3月20日には明治座他6劇場が解除になり、興行時間2時間半以内の演劇興行が再開されます。戦時中の厳しい状況の中でも、空襲のさなかにさえ、明治座はほとんど毎月幕を開けていました。
そして昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で、下町一帯は灰燼に帰し、明治座も例外ではなく外側を残し焼失しました。現在でも、明治座の前にはその被害者たちを慰霊した「明治観音堂」という小さな石堂が建っています。この石堂の発願主は力道山の後援者としても知られた新田建設社長の新田新作でした。新田は後始末に奔走します。新田と地元の有志を中心に明治座復旧期成会が結成され、そこから設立された株式会社明治座が松竹から所有権を譲り受け、明治座の着工がはじまりました。

明治座 https://www.meijiza.co.jp/anniversary/war/

観音堂のうしろには、明治座。

すぐ近くには浜町公園。観音堂も浜町公園の通路にあるので、公園内といっても問題ないかもしれない。

浜町公園

戦時中の浜町公園は、高射砲陣地が設置されていた。
そのため、浜町公園には、爆撃対象として狙われ、あたりは灰燼に帰した。

浜町公園のすぐとなりは、隅田川。

場所

https://goo.gl/maps/o1k1K78ZwXJYCRWy7

明治座

https://www.meijiza.co.jp/anniversary/war/

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_chuo_city001/


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8921-C2-18_
昭和19年(1944年)11月07日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

上記で浜町公園を拡大

こちらは戦後。高射砲陣地があった浜町公園は更地。
明治座の債権も始まっている。明治座は昭和25年(1950)に再建再興している。

ファイル:USA-M451-37
1947年09月08日、米軍撮影を一部加工

現在の様子。GoogleMap航空写真を一部加工。


関連

東京大空襲関連

はじめに

76年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

雨の靖國神社。


放鳩式 靖國神社・午前10時

昨年に続き、本年の放鳩式も神社関係者のみでの開催。
一般参列者は観覧のみ。

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

靖國神社・山口建史宮司
「英霊ありがとう」の気持ちとともに放鳩

雨でピントが大変なことになってしまいました。。。

今年は鳩が舞うには辛い大雨。

「靖國神社白鳩の会」
毎年、呼び掛けをされておりました、講談師の宝井琴調さんは、今年はスケジュールの都合で不在でした。


正式参拝 靖國神社

正式参拝(昇殿参拝)を

御本殿
鎮まる御英霊の御心に
感謝し深く拝する

御英霊に感謝と哀悼を

ありがとうございました

社務所老朽化に伴う改修工事。令和3年8月2日~令和4年12月末日まで、とのことで。
また、境内の様相が変わりそうです。。。

参道


靖國神社・正午

国歌

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

黙祷

毎年、この場所で、海行かばを。。。

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

終戦の玉音放送

宮内庁サイト

https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/syusen.html

https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/pdf/syousyo.pdf

現代語訳

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6102140fe4b0d1b96e621f96


遊就館

久しぶりに。


麦茶接待所

毎年、ありがとうございます。
今年は雨で冷え込んだということもあり、冷たい麦茶だけではなく温かい麦茶も用意して戴きました。


靖國神社参道

大雨の8月15日。雨の8月15日は何年ぶりだろう。。。


御朱印

久しぶりに戴きました。


知覧茶

あぁ、これは、、、趣深い飲み物、、、

富屋食堂の知覧茶
この知覧茶は、靖國神社外苑休憩所の靖國八千代食堂と知覧富屋食堂との共同企画商品です。
特攻の母と言われた鳥濱トメさんのご遺徳と、
先の大戦で散華された特攻隊員の方々の想いを偲び、
特攻の地、知覧の茶葉を100%使用致しました。


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

こちらにも足を運びました。
合掌。

76年目の終戦の日。
「戦没者を追悼し平和を祈念する日」


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