「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

空母赤城と赤城神社

平成28年(2016)9月撮影

空母赤城に関係する神社を。

大洞赤城神社・旧鎮座地。
社頭向かって左側にある「碑」

大日本帝国
軍艦赤城奉納碑

境内地は立入禁止ゆえ望遠トリミングで。

奉納は昭和10年10月とのことです。

「赤城」の関係者が奉納した歴史を感じつつ、往時を偲ぶよすがとして。

大洞赤城神社・旧鎮座地

昭和45年(1970)現在地に遷座するまでは大洞赤城神社はこの地に鎮座していた。
現在は旧地として空間が残っている。

尚、旧社地は立入禁止。外側から遠巻きに拝見させていただく。 

大洞赤城神社・現鎮座地

大洞赤城神社

群馬県前橋市富士見町赤城山に鎮座。
式内名神大社論社、上野国二宮論社、旧社格は郷社。
正式な社号は「赤城神社」であるが、他の赤城神社との区別のため「大洞赤城神社」と呼称。

御祭神
正殿 赤城大明神
大国主命・磐筒男神・磐筒女神・経津主神

創建年代は不詳。社伝では豊城入彦命(崇神天皇皇子・上毛野君や下毛野君の始祖)が上毛野を支配することになった際に山と沼の霊を奉斎したと伝承。

平安時代中期編纂の「延喜式神名帳」では名神大社として「上野国勢多郡 赤城神社」の記載あり。
ただし式内論社としては赤城山頂に鎮座する当社「大洞赤城神社」のほか、山腹の「三夜沢赤城神社」、山麓の「二宮赤城神社」もある。

当社は赤城神社の「山宮」とされている。 「里宮」とされる二宮赤城神社に対して、三夜沢赤城神社も「山宮」とされる説もあり、このあたりの三社の関係はややこしい。

明治の近代社格制度では郷社列格。 (なお三夜沢赤城は県社、二宮赤城は郷社)
三夜沢・大洞・二宮の三社を合わせて「国幣中社」にしようとする動きもあったが、終戦により社格制度が廃止され、これは実現はしなかった。

昭和45年(1970)。
社殿が荒廃したために、大沼南端の畔の旧社地(大洞地区)より、現在地の小鳥々島に遷座。
現在の社殿はその時の再建となる。


三夜沢赤城神社
赤城会奉納札

空母赤城会の奉納。 (赤城空母会とも)

三夜沢赤城神社

群馬県前橋市三夜沢町鎮座。
式内社名神大社論社、上野国二宮論社。旧社格は県社。 赤城三社のうち(二宮・大洞・三夜沢)で、当社が唯一の県社列格。
御祭神は、赤城神・豊城入彦命・大己貴命

創建は不詳。
崇神天皇の皇子・豊城入彦命が上毛野国を支配することになった際、大己貴命を奉じたのに始まるとされる。
豊城入彦命は上州の上毛野氏・下毛野氏の祖。

崇神天皇の長男であった豊城入彦命がどうして東国に派遣されたか。
書記曰く。
崇神天皇が皇太子を定める際に豊城命(とよきのみこと)と活目尊(いくめのみこと)を呼び寄せ「皇太子を決めかねている。お前たちの見た夢で占うことにしよう」と仰せられた。

夢を見た翌日の報告
兄の豊城命は「自ら御諸山(三輪山)に登り、東方に向かって八回槍を突きだし、八回矛を突きだし、八回刀を打ち振りました」と申し上げた。
弟の活目尊は「自ら御諸山の嶺に登り、縄を四方に引き渡し、粟を食べていた雀を追い払いました」と申し上げた。

崇神天皇は夢占いをなされて、
「兄は東方に向かって武器を振るっていた。だから東国を治めるがよい。弟は四方に臨んでいた。まさに私の跡を継ぐのに相応しい」と仰せられた。
そこで弟の活目尊を皇太子(のちの垂仁天皇)に立て、兄の豊城命は東国(毛野国=上州)を治められた。

崇神天皇といえば、大和朝廷の権力を周辺に拡げていた時代。

すなわち四道将軍を任命し、大毘古命を北陸に、建沼河別命を東海に、吉備津日子命を山陽(吉備)に、日子坐王を山陰(丹波)に派遣。 出雲臣に圧力をかけ神宝を提出させ、三輪と伊勢の祭祀を整理し…と強権を振るっていた。

大和に従わない東国に対して。
四道将軍として大毘古命(孝元天皇皇子)を北陸道に、建沼河別命(大毘古命の子)を東海道に派遣、この両者が出会った場所が「会津」(福島県)となる。
そして武勇に優れた崇神天皇長男・豊城入彦命を更に東国に派遣し、毛野国から蝦夷ににらみを働かせる。

第10代崇神天皇は東国に皇子・親戚たちを派遣。
次代は四方を見渡し治世に優れていた弟・活目尊(のちの第11代垂仁天皇)が皇位を継ぐ。
兄・豊城入彦命が治める東国はまだまだ平定に時間を要し、こののち第12代景行天皇の皇子・倭建命(日本武尊)の東国派遣へと繋がっていくのだ。

三夜沢赤城神社・御本殿(県指定重要文化財)

社殿は、拝殿・中門・本殿となっており、本殿はより高台に鎮座。
本殿内には由良成繁(新田四天王由良具滋の末裔・新田金山城主)奉納の宮殿が納められている。

神社は好きだけど、本筋から外れるので簡単に〆

観音崎の戦跡散策(横須賀)

令和元年(2019)5月11日撮影・横須賀市

戦没船員の碑

午前中に「馬門山横須賀海軍墓地墓前祭」に参列し、午後はフリータイム。
一緒に行動していた友人から一言「観音崎行ったことある?」

実はわたしはまだ観音崎に行ったことがなく。事前調査で情報量が多すぎて怖気づいていたもので、この方面は「走水」まででした。

良い機会でしたので友人と「まずは斥候の気持ち」で「観音崎」に赴くことに。
結果としては、予想以上の情報量に圧倒されてしまい。

そんなわけで、今回がはじめての観音崎。
いろいろと散策が甘いかと思いますが、そこは諸先輩の後塵を拝しながら、初見のレポを以下に。

位置関係

USA-M46-A-7-2-120
1946年02月15日‐米軍撮影

午前11時スタート

駐車場に車を止めて、散策開始。止めた場所は「観音崎自然博物館」の近く。つまり観音崎の南側。あとから思えばこの判断が失敗だったような。

観音崎公園の案内図

れんが構造物のマークもついているのが散策にはありがたいですね。

トーチカ跡?

まずは多々良浜近くの「トーチカ?」とされている海岸のコンクリート構造物を拝見。

南側の駐車場から一気に踏破をして、「戦没船員の碑」を目指します。この場所が実は前々から気になっていた地。駐車場も直線距離で一番近いところが南側だったので南に止めたというのもあったが、どうやらそれが失敗だったようで、直線距離が近い=急勾配。完全にトレッキングでした。

なお、墓前祭に参列したあとでしたので、革靴とワイシャツと・・・という格好。この格好で観音崎はダメですね。しかし動き出してしまったのであとの祭り。

戦没船員の碑

かつて第二次世界大戦や海難事故の犠牲となり海洋で失われた6万余人の船員たちの霊を慰める慰霊碑。

戦没船員の碑建立記

昭和12年7月に端を発したさきの戦争において、わが国の海運水産界は6万余人に及ぶ尊い船員の生命と2500隻840万総トンを超える船舶を失うというまことに大きな犠牲を払いました。
それから25年、わが国の海運水産界は再び隆盛をとりもどし昔日にまさる反映をみるに至りましたが、私どもはこれら多くの戦没された船員の労苦を偲びその霊を慰めるとともに世界の海に二度とこのような悲劇をくり返さないように致さねばなりません。
こうした私どもの願いは昭和44年7月財団法人戦没船員の碑建立会の発足となり、多数の人びとの協力を得てここに記念碑を建て、戦没船員の名簿を納めることになりました。
見渡す限りの大海原、変わることのないこの大自然を前にして、この地を訪れる人びとと、また沖をゆく船の人びとと共に心をあわせてこの記念碑が永遠の平和の光となりますよう深い祈りを捧げるものであります。

昭和46年3月25日
財団法人 戦没船員の碑建立会
会長 足立正

殉職船員追悼式の記

昭和46年5月6日この碑前において 皇太子同妃両殿下ご臨席のもとに全国遺族代表を招いて戦没船員追悼式を挙行し、以来毎年5月に式典を実施して参りました。
近来海難殉職船員の慰霊に対する要望が高まって参りましたので本年4月財団法人日本殉職船員顕彰会を設立し本日第一回殉職船員追悼式を執り行ない、以後5月15日を式日と定めて戦没海難全殉職船員の労苦に思いをいたしそのみ霊を慰めるとともに海洋永遠の平和を祈る式典を行うことにいたしました。
この追悼式には、大戦中輸送船船長として活躍された宮越賢治氏の自作能「海霊」が、鎮魂と平和を祈念して奉納されます。
殉職船員追悼式が、わが国民の海洋精神高揚の一助となって海洋立国の認識を深めることを切に念願するものであります。

昭和56年5月15日
財団法人日本殉職船員顕彰会
会長 佐々木周一

戦没船員の碑

 第二次世界大戦や海難事故の犠牲となって海洋で失われた、6万余人の船員の霊を慰め、かつ永遠の平和への願いを込めて設けられました。
 高さ24メートルの白磁の大碑壁を中心に、天皇陛下御製碑、皇后陛下御歌碑のほか、かつての練習船の錨などを配し、太平洋を望む格好のモニュメントとなっております。

設計/東京藝術大学教授 吉村順三
群像/東京藝術大学教授 菊池一雄

その後の進徳丸

 神戸商船大学構内に保存されていた進徳丸は、平成7年1月17日、阪神・淡路地方を襲った大震災により、設置地盤が崩壊したため、老朽化していた船体は解体撤去されることになり、平成8年2月、多くの人々に惜しまれつつ、その波乱に満ちた障害を閉じました。
 解体された進徳丸の船首とマストは、神戸商船大学の「進徳丸メモリアル」に残りました。

進徳丸
1923年に竣工した神戸高等商船学校の帆船練習船。
帆船練習船として21年、汽船練習船として16年、約1万1900名の船員を養成した。
太平洋戦争中は逓信省海務院の管轄。昭和19年に帆船から汽船に改良。石炭輸送従事中の昭和20年7月24日に米軍艦載機の攻撃で着底。昭和21年に引き上げ。その後は引き揚げ輸送や練習船として活躍し、昭和38年に廃船。

戦没船員の碑
 安らかに ねむれ わが友よ
 波静かなれ とこしえに

海に没した船員たちの御霊に合掌。
感謝と哀悼を。

戦没の地、太平洋。船員たちが活躍した舞台が描かれている。

群像

船員と人魚

戦没船員の碑
御製碑
御歌碑

天皇陛下御製 
 戦没船員の碑

戦日(いくさび)に 逝きし船人を
悼む碑の彼方に見ゆる
海平らけし

天皇陛下には、平成4年1月20日
皇后陛下とこの碑に行幸啓遊ばされ、お詠みになられました。

皇后陛下御歌
かく濡れて 遺族らと祈る
更にさらにひたぬれて
君ら逝ゆき給ひしか

観音崎戦没船員の碑除幕式
激しき雨の中にとり行はれぬ

皇后陛下御歌 副碑
昭和46年5月6日
皇太子同妃両殿下の行啓を仰ぎ雨降りしきるなか戦没船員追悼式を執り行いました
御歌はその時賜ったものです
御心が末永く語り継がれることを念願いたします。

行幸啓お成りの碑

記載以外でも葉山御用邸と併せて、この地に足を運ばれることもある。
直近だと平成31年1月に 天皇皇后両陛下が慰霊のために訪れている。8回目。

公益財団法人 日本殉職船員顕彰会

http://www.kenshoukai.jp/index.htm

民間徴用船の参考(こちらにも行きたいのです)
「戦没した船と船員の資料館」全日本海員組合

http://www.jsu.or.jp/siryo/


大浦堡塁跡

戦没船員の碑のすぐ近く。
明治期の堡塁跡。「大浦堡塁(ほうるい)」の跡に、戦没船員の碑が建立されている。現在は、面影はほとんど残っておらず、「壁」と「階段」が残るのみ。


めがね橋

めがね橋は、明治時代に軍が資材運搬用の道路として切り開いた道に架けた橋で、初代のものは下図に示す、れんがによるアーチ構造であり、それが名前の由来になったようです。
現在の橋は、昭和40年台に架けた2代目のもので、一般的な鋼材による桁構造となりました。当時のれんがはは次第の一部に残っています。

dav

腰越堡塁(うみの子とりで

明治期の堡塁。現在は子供たちの遊び場「うみの子とりで」
かつての東京湾防御陣地が、アスレチック公園として有効活用。大人も子供も楽しめる場は、ある意味で史跡空間の有効活用かもしれない。

土塁への階段
砲座跡?

三軒家砲台跡

三軒家砲台跡
この砲台は明治27年12月15日着工、明治29年12月20日完成の27加砲4門12加砲2門の砲台で原形に近い形で残されています。
地下庫、見張所、井戸、便所等もありましたが昭和9年8月20日廃止されました。

三軒家園地 旧砲台跡
見張所へ続く階段
見張所
見張所
門柱
門柱金具
後方掩蔽部の入り口
弾薬庫は地下に。入り口。
後方掩蔽部の掘割通路
二十七センチ加農砲座の空間
二十七センチ加農砲座の空間
見張所へとつながると思われる階段
便所跡
井戸跡
イタチの通り道・・・ではなく伝声管を通す穴

完全に油断していました。比較的お手軽に見学できる遺構が残っていると聞いて言いましたが、これほどの規模が残っていて、見学できることに興奮気味。
もっと早くこの地に足を運んでおくべきでした。


三軒家砲台跡からいったん下に降りまして。
パークセンター方面に移動する途中、門柱の片側のみ残っていました。


観音崎砲台火薬庫
(パークセンター)

構造について
パークセンターの建物は、日清戦争の後、明治31年に旧日本陸軍が東京湾要塞の観音崎砲台の火薬庫として整備したものです。
構造は「木骨れんが造」の平屋建てであり、屋根部分は「キングポストトラス」と呼ばれる木造の洋小屋組、基礎部分は地盤面に通気性の良いれんがアーチが連続しており、火薬を保管するため、防湿性などの工夫が凝らされています。

改修工事について
平成23年までは。建設当時のれんが壁面にモルタルを塗り、白壁に改修され、観音崎青少年の村の集会室などととして利用されてきました。
パークセンターとして利用するにあたり、歴史的建造物の価値を最大限に活かし、白壁をはがし、れんが壁を再現・補修するとともに、現在の耐震基準を満たすように柱・梁の補強や新たにスロープを設置するなどの改修を行い、平成28年1月にオープンしてます。


観音崎

砂浜にある構造物。もともとは何だったのでしょうか?
戦前からあるのは間違いないです。
現在は桟橋は途中から消失してますね。

USA-M46-A-7-2-120
1946年02月15日の米軍写真を加工
GoogleMap航空写真

海岸散策

洞窟

日本武尊と弟橘媛命伝説と行基伝説。

観音崎灯台

これは二代目・観音崎灯台の残骸。
関東大震災で被災し撤去廃棄された
現在の観音崎砲台は三代目
観音崎燈臺所轄地の境界石
古さを感じさせる灯台への道

水中聴測所跡

昭和12年6月に完成した水中聴測所 跡(潜水艦を監視するソナーを設置)という。この周辺地域は現在は海上自衛隊の管理敷地のため、近づくことは不可。

この海上自衛隊観音崎警備所のある丘の場所は「北門第四砲台跡」ともいう。

この海上自衛隊観音崎警備所の敷地内には「ある慰霊碑」がひっそりと建立されていた。
第一富士丸遭難者の慰霊碑。
すなわち、なだしお事件・・・ 合掌

海岸から灯台に登る道の片隅に。

防二〇三
燈台所轄地 境界石
何かの小屋の跡

北門第一砲台跡

日本で最初に建築された近代砲台。モルタルがところどころ剥がれて下地のレンガが露出しはじめている。


北門第二砲台跡

北門第二砲台について
ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため古くから東京湾防備の要塞地帯として使用されてきました。この砲台は明治13年5月26日着工、明治17年6月27日完成しました。24加砲6門と弾薬庫がつくられましたが現在は4砲座と弾薬庫が残っています。

弾薬庫
一ノ一 一ノニと番号が振ってある。

隧道は通行禁止。弾薬庫への入口があった。

防衛施設庁と運輸省の境界石


東京湾海上交通センター

海上保安庁の所轄。


レンガトンネルの向こうにあるのが「北門第三砲台跡」

北門第三砲台跡


北門第三砲台跡、「海の見らし台」
見晴らしていたら、米軍艦が航行。


南門砲台

観音崎自然博物館のあるあたりもかつての砲台跡。

観音崎砲台について
ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため東京湾防備の重要地点として明治13~28年の間に観音崎各所にレンガとコンクリートによる15ヶ所の近代的砲台は築かれました。これらの砲台は日清日露戦争時代に活躍したもので関東大震災で大破したため大正末期にはすべて廃止されています。この場所は南門砲台跡で当時をしのぶ姿はまったくありません。

15時ゴール

約4時間の散策、17000歩。iPhoneの「登った階段数」は65階と記録されておりました。

昼ごはん休憩を挟んだとはいえ、アップダウンの繰り返しで、久しぶりのハードウォーキングをした気持ち。
予想以上に見どころ豊富で、初見の下見としては大成功。またそのうち散策に期待ですね。季節が変われば見えてくるものも違ってきそうですし。

今回はこれでいったん〆

大竹の海軍戦跡散策

平成29年(2017年)3月撮影

岩国方面でスキマ時間が出来た際に寄り道を。

天気は芳しくない中でも、隙間時間の過ごし方を悩む。
岩国観光をするか否か…。
悩んで結局はあるあるな岩国観光を止めて、敢えて大竹に足を運んでみました。


位置関係

USA-R507-3-155
1947年09月23日-米軍撮影写真を加工
現在の様子

大竹

昭和16年11月20日広島県佐伯郡大竹町に「呉第二海兵団」が設置。
昭和19年1月4日「大竹海兵団」改称。
戦後は大竹港港湾施設に転用。

大竹港には復員港となり昭和22年1月末までに、実に41万783人の在外の軍人や民間人が大竹港から復員している。

大竹駅到着は0930頃。
天気は不安定でしたが、ひとまず歩みを進めてみる。

大竹駅前。
長州方と幕府方の古戦場。

駅から歩くこと15分ほど。
工場エリアが目的地。

三井 デュポン・ポリケミカル敷地内になります。
関係者以外立ち入り禁止…ですが臆せずに。
守衛所で「海兵団の碑を見に来ました」で立入許可を得られました。

香川隆昭様 より:2020年7月24日 11:08 午後
地元の資料を探していて、つい立ち寄りました。
三井 デュポン・ポリケミカルの写真3枚目、正門の奥にある平屋の大きな建物が海兵団当時の烹炊所です。

コメント欄より

末元雅也様 より:2021年10月1日 2:36 PM
海兵団当時の烹炊所ですが21年10月より取り壊して立て替えることになりました。内部は相当傷んで耐震は保証できないですからね。床などは石畳でできており歴史を感じます。

コメント欄より

こちらが「海兵団当時の烹炊所」という。
当時は何気なく撮影しておりましたが、往時の建物とは気がついておりませんでした。コメントありがとうございました。

改めて位置関係を確認。

国土地理院ファイル:USA-R507-3-155
1947年09月23日米軍撮影(一部加工)
GooleMap 一部加工

拡大


大竹海兵団跡之碑

三井 デュポン・ポリケミカル敷地内に鎮座。
碑の創建は新しく平成3年(1991年)。
工場の駐車場に鎮座。
現在、大竹海兵団の跡地は工場エリアとなっている。

碑文は出雲大社の千家達彦書

大竹海兵団跡之碑

碑文
 大竹海兵団は大東亜戦争を前にした昭和十五年十二月呉鎮守府管下の呉海兵団大竹分団として開団され、翌昭和十六年十一月二十日大竹海兵団として独立した海兵団は明治健軍以来海軍精神即ち、海軍魂を鍛えた伝統ある場所であった。
 曾ってこの地において大日本帝国海軍の基礎教育と訓練をうけるため各地より青少年が志願及び徴兵等によって入団し、尽忠報国の念に燃え愛する祖国のために血と汗と涙を流した人数は実に十五万数千人に達したと言われている。
 又基礎教育訓練終了後前線に配属され青春の尊い命を散華した英霊は数えつきない。
 茲に大竹海兵団創設五十周年にあたり同団関係者各位等のご協力により記念の跡之碑を建立して平和の尊さを永く後世に伝えるものである。

 平成三年十一月二十日建立
 大竹海兵団跡地記念碑建設委員会

大竹海兵団跡之碑
建立協力戦友会等名

軍艦伊勢、駆逐艦浜風、駆逐艦桜 どうしても艦に目がいってしまいます。

台座の敷石は、大竹海兵団の烹炊所の敷石が使われていたもの、と。
僅かに残る往時の名残。

この場所で、ふと「この世界の片隅に」での主人公、周作さんのセリフを思い出す。

昭和20年10月6日。
周作「わしらは大竹に移る。海軍を解体しきるまでは何があっても秩序を守り通すのが法務の仕事じゃ」
作中では描かれていない大竹での職務を夢想する。

※昭和20年12月1日。
海軍省は廃止され、かわって復員業務を主体とした「第二復員省」(第一は旧陸軍省)が設立。
周作「海軍も11月いっぱいでのうなった。お役御免じゃ」

昭和21年1月に広島草津の森田家に妹のすみちゃんの見舞いに帰っていたヒロインすずさんと広島での周作との再会に繋がるやりとり。

大竹海兵団跡之碑
海軍の足跡を辿り、往時を偲ぶよすがを。


さて、次の目的地へ。
潜水学校の名残を残す史跡が臨海部の公園に残っていると。

次の場所までは海兵団の碑からは20分ほど歩くことになりました。

大竹海兵団は塀の右側の工場エリアにあった

末元雅也様 より:2021年10月1日 2:36 PM
大竹海兵団は塀の右側の工場エリアにあった・・・この右手の建物は当時からある飛行機の格納庫です。
3棟今でも倉庫として使っております。表からはスライド式の横開きのドアがまだ残っており床にもレールの跡が残っております。

コメント欄より

道すがら。
道路の下に瓦礫があった。おそらく往時からのものと推測。

正面の山は「宮島」
右手が「大竹海兵団跡」
古そうな橋。大竹港に向かう。

大竹港

大竹港に着きました。

大竹港(あこがれみなと)
引き揚げ港として、望郷の想いから来ているかどうかは知りません。
港についたら、ちょうど雨風が酷いことになりました…宮島も霞んでます。

大竹港を北に歩いていくと、「東栄地区港湾緑地」にたどり着きます。
ここが次の目的地。


海軍潜水学校探知講堂跡

「東栄地区港湾緑地」に保存されている不思議なモニュメント。
海軍潜水学校探知講堂の一部。

昭和17年。海軍潜水学校が呉から大竹に移設。
潜水学校探知講堂は、柱によって海上に建てられた施設。
ここで潜水艦のスクリュー音を聞き分ける訓練が行われた。

旧日本海軍潜水学校探知講堂
 昭和15年12月、旧日本海軍の呉海兵団大竹分団が大竹に開設され、昭和16年11月に大竹海兵団として独立しました。さらに、昭和17年11月には海軍潜水学校が呉から大竹へ移転し、潜水艦の乗組員を養成するための訓練が行なわれました。
 地方港湾大竹港港湾整備事業により、現在緑地となっているこの場所は、以前は海で、昭和17年に建築された探知講堂(正式名称:電測水測講堂)がありました。探知講堂は15本のコンクリート製の柱で支えられて海上に立つ特異な構造で、潜水艦の乗組員が艦船のスクリュー音を聞き分ける訓練が行われていたと伝えられています。
 海軍潜水学校が大竹にあったことをしのぶため、探知講堂の一部を切り取り、モニュメントして整備しました。

海軍潜水学校探知講堂の一部。

近年まで海上に残されていたが大竹港・大竹工業団地の埋め立て事業により、平成20年(2008年)に現在の形に切り取られて保存された、と。

何もないよりかはマシだけど、陸上でも建物として完全体で保存して欲しかった。 空間に余裕のあることだし・・・もう遅いけど。


この時が雨のピークで、臨海部で酷い目に遭いました。
しばらく雨宿りしていたら、雨も落ち着いてきてお天気雨に。
宮島も姿を見せてくれました。

このあたりの構造物も、もしかしたら往時と関係あるかも。

大竹駅にもどりました。

大竹の海軍史跡散策は90分くらいを要しましたね。
ほとんど歩いてました。

大竹海兵団の碑見学に際しての工場敷地立入に感謝して、三井デュポンポリケミカルさんの製品を眺めたり。(すごくお馴染みの製品でした。)

大竹駅、良き雰囲気です。古レールが多用されてますね。

馬門山横須賀海軍墓地墓前祭

令和元年(2019)5月11日

第64回馬門山横須賀海軍墓地墓前祭が、令和元年5月11日、午前9時30分から約1時間にわたり、まるで夏のような日差しが降り注ぐ新緑の墓苑にて開催されました。今回はじめて参列してまいりました。

馬門山久海軍墓地合祀者霊位

祖国のために散華された御英霊を追悼
感謝と哀悼の誠を捧げる


令和元年度(第64回)
馬門山横須賀海軍墓地墓前祭次第

日時 令和元年5月11日(土) 9時30分から10時30分
場所 馬門山横須賀海軍墓地

1開会の言葉
2国歌斉唱
3追悼のことば
4黙とう
5儀仗隊拝礼
6弔銃発射
7献花
8閉会のことば

主催
 大津地区社会福祉協議会
 大津地区連合町内会
 横須賀水交会
 隊友会横須賀支部
 大津観光協会
協力
 海上自衛隊横須賀教育隊
 湘南学院高等学校

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馬門山墓地(旧海軍墓地)

 明治15年(1882)海軍省が戦死や殉職した海軍軍人の埋葬地として開設しました。
 軍艦「河内」「筑波」等の殉職者の碑や上海事変・太平洋戦歿者の忠霊塔などがあり、英霊1592柱(内、独立埋葬者179柱)が祀られています。終戦までは鎮守府により神式と仏式の交互で式典が行われていました。
 現在は毎年5月に墓前祭が行われています。
 昭和26年大蔵省より横須賀市に譲渡され現在は市民墓地もあります。
 馬門山の名の由来は字名か屋号「馬門・まかど」を読み替えたものといわれています。
 園内はソメイヨシノが多く桜の名所となっています。

昭和52年市制施行70周年記念
横須賀市風物百選
「馬門山墓地」

 右手御門内約2万5千平方メートルの丘陵地が市営馬門山墓地です。
 この墓地は、東海鎮守府長官の埋葬地設定要請に基づいて、海軍省が明治15年1月に馬門山海軍墓地と定めたものです。
 以後、昭和20年8月の第2次世界大戦終結までの間、横須賀鎮守府が管理してきました。
 横須賀鎮守府は、横浜にあった東海鎮守府が、明治17年12月に市内の楠ヶ浦(現米海軍基地内)に移されて改称したもので、旧日本海軍の中枢的存在でした。
 昭和3年に定められた「横須賀鎮守府海軍葬儀場規則」によれば、毎総面積は階級によって6段階に分けられており、士官は8尺四方、平は4尺四方となっていました。
 墓地は、地形に従って三段に分けられています。下段、中断は兵たちの墓地で、高さ1mほどの墓石が整然と並んでいます。芝生が敷きつめられた上段には、7基の供養塔と士官たちの墓石が建っています。
 終戦後、市営墓地となると、新たに約4356平方メートルを造成し、墓地をもたない一般市民に提供されました。
 現在、この墓地に眠る御霊は次の通りです。
 海軍関係
  単独埋葬者            279柱
  供養塔
   軍艦河内殉難者の碑       621柱
   軍艦筑波殉難者の碑       152柱
   特務艦関東殉難者の碑      68柱
   北京籠城軍艦愛宕戦死者の碑   5柱
   上海事変死者の碑        59柱
   第4艦隊遭難殉職者の碑      36柱
   支那事変大東亜戦争戦歿者の碑  372柱
  一般市民             305基

墓前祭

来賓 海上自衛隊や県市議会議員や行政関係者など

中央席の最前列は遺族・遺族関係者席
中央2列目以降は町内会や一般参列者など
海上自衛隊の音楽隊
横須賀市長 追悼のことば

国歌斉唱


黙とう
追悼の譜 「国の鎮め」演奏

儀仗隊
儀仗隊

捧げ銃

儀仗隊 捧げ銃

弔銃発射

「命を捨てて」
弔銃のときは、譜の8小節を速度早く、毎発射後直ちに奏する。

弔銃発射

墓前祭、終了は10時20分頃でした。


馬門山海軍墓地の慰霊碑参拝と写真はまた後日。
この日は会場の邪魔にならないように墓前祭の参列のみで。

良き天気の下、馬門山横須賀海軍墓地墓前祭は滞りなく執り行われました。

厳粛な空間の中での、ひととき。
御英霊に感謝と哀悼を捧げることが出来ました。
ありがとうございました。

御供物

横須賀水交会も協力となっております

横須賀水交会

http://y-suikoukai.sakura.ne.jp/index.html

横須賀市

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2488/kankou/20190511mamonzan.html

「第六潜水艇」の戦跡散策

平成29年3月 山口県岩国市及び広島県呉市

和木駅から岩国駅方面に南下。
歩くこと20分程ほどで目的地「第六潜水艇記念碑」に到着。


第六潜水艇受難者記念碑
(第六潜水艇記念碑)

第六潜水艇受難者記念碑
元海軍大将 高橋三吉 謹書

第六潜水艇。
佐久間艇長ら乗組員が殉じられた海は、この岩国の沖合いだった…。

第六潜水艇受難者記念碑

碑文
第六潜水艇は明治四十三年四月十五日新港沖で半潜航訓練中沈没し艇長以下十四名の乗組員が殉職されました
引揚げ后艇内の状態及び艇長の遺書により全員が一糸乱れず各々の部署を守り従容として死に就いたことが判明しました
潜水艇が世に出て間もない時代のこの出来事は全世界注視の的となり事故に対処した艇員の立派な態度は深い感銘を与ヘその旺盛な責任感と事を処する沈着な態度はわが国民の範としてたたえられました
殉難直後地元にささやかな記念碑を建てましたが後呉鎮守府の追加手入により立派なものになり永く後世に伝へることになりました
偶々昭和廿年敗戦により軍に関係あるものは事の如何を問はず軍国主義の悪名をふして一切が葬り去られ此の碑も亦同じ憂目を見ました
かくして十有余年を経た今日艇員の崇高なる精神は再び世に問はれる時が来ましたので有志相図り広く全国に訴へ浄財を得て遭難満五十年を期し再建することになりました
茲に後世のためにこの次第を記します

昭和丗五年四月十四日
第六潜水艇殉難者記念碑再建期成会

第六潜水艇受難者記念碑

第六潜水艇。 潜水技術黎明期の不慮の事故は、佐久間艇長らをはじめとする乗組員のまさに命を懸けた対処を踏まえ。こののちに発展をしていくこととなる。

碑には、佐久間艇長(佐久間勉 海軍大尉)ら14名の受難者名が刻まれていました。

第六潜水艇受難者記念碑

佐久間艇長遺書
小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ
我レ等ハ国家ノ為メ職ニ斃レシト雖モ唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハ之ヲ誤リ 以テ将来潜水艇ノ発展ニ打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ憂ウルニアリ 希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ サスレバ我レ等一モ遺憾トスル所ナシ

沈没原因
瓦斯林潜航ノ際過度深入セシ為メ「スルイスバルブ」ヲ締メントセシモ途中「チエン」キレ依ツテ手ニテ之レヲシメタルモ後レ後部ニ満水(セリ) 約廿五度ノ傾斜ニテ沈没セリ  中略

公遺言
謹ンデ
陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ 中略 瓦斯林ヲブローアウトセセシシ積リナレドモガソソリンニヨウタ 十二時四十分」

原文ノママ

乗組員の使命感、佐久間艇長の沈着剛勇精神は多くの日本人に感銘を与えた、という・・・

第六潜水艇の沈没場所。
現在地より東方約2000米。

明治43年4月15日午前10時頃。

その沈んだとされる岩国の海を望む。 向こうにくっきり見えるは阿多田島。

海の方に向き、静かにこうべを垂れ、手を合わせる。
合掌


第六潜水艇受難者記念碑と同じ空間には明治百年記念碑が。
こちらは、岩国の新湊商工連盟。

第六潜水艇受難者記念碑のある高台は、潜水艇が沈んだ海を見渡すことが出来る。
実は線路の上でもあった。


附記【第六潜水艇受難之碑】

岩国の沈没現場を訪れたのちに、呉の「受難顕彰の碑」がある地にも行かねばなるまい。そう思っておりました。 実は何度か参拝したことはあるけれども、ことさらに意識をして足を運んでみました。

呉西部に鎮座する「鯛乃宮神社」 岩国の沈没現場を見渡す地に次いで、この呉の地も海軍として第六潜水艇ゆかりの場所なのだ。

鯛乃宮神社

まずは参拝を。

主祭神:言代主神
相殿神:大己貴命・天日方奇不方命
創立年代は不詳。
文亀年間(1501-4)に満田氏が神田2所を寄進し社殿を造営と伝わる。 その後、広島領主福島正則によって神田が没収されるも元文5年(1740)に社殿を再興。

鯛を献じて祈願をなすと所願成就すると伝えられた事から、当社を鯛乃宮と呼称。

現在は呉総鎮守・亀山神社の兼務社。
(なお亀山神社神職さんに確認しましたが、当社の御朱印はありません。)

狛犬さん。 なかなか特徴的なポージング。


第六潜水艇受難之碑

「鯛乃宮神社」境内にそびえ立つ塔のようなもの。
これが呉の「第六潜水艇受難之碑」。

第六潜水艇受難之碑
「鯛乃宮神社」境内

案内看板

第六潜水艇は、明治39年、わが国で初めて建造された排水量僅か57トン、水中最大速力3ノット、水上でも8ノットで、当時「どん亀」と呼ばれ、それまで外国から購入したものに比べ、最小のものでありました。
すべて艇の劣勢の訓練で打ち勝とうという当時の海軍魂から6号艇も訓練につぐ訓練を重ねていたのであります。
しかるに不幸にも明治43年4月15日、呉港を出港した第6号潜水艇は山口県岩国市新港沖で半潜航訓練中、遭難し、艇長佐久間大尉以下乗組員14士と共に海底に沈没したのであります。
「艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ」
佐久間艇長の遺書の一部に書き残されているとおり、遭難沈没した午前10時から12時40分まで乗組員全員、最後まで持ち場を離れず修復に力を尽くしつつ従容として死を迎えた崇高な使命感は、佐久間艇長の沈着剛勇の精神とともに、日本国民はもとより、全世界の人々に深い感銘を与えました。この事跡は、国民精神の鑑として、広く共感を呼び、大正3年呉港ゆかりのこの地、三津田丘鯛の宮境内に、各方面から挙出された浄財により、高さ19メートルの壮麗な殉難記念碑が建立されました。 その後、毎年4月15日には、盛大な慰霊・追悼式典が催されて今日に及んでおります。
  第六号潜水艇顕彰保存会 謹記

佐久間勉 wikipedia より

碑には四枚のプレートが埋め込まれています。
佐久間勉艇長の遺言や受難者氏名など。

保管庫には「プロペラ」と「バルブ」が鎮祭。

これは昭和26年にGHQの解体命令により呉潜水学校にて六号艇神社として保存してあった潜水艇を、解体に際し一部別途保管されたもの。
殉難50周年にあたる昭和34年4月15日に保管庫設置。

佐久間勉艇長と13人の乗組員たち。
事故に際して取り乱さず我先と逃げ出すようなこともせず、最後まで修繕しようと試みた沈着冷静な心意気。

「沈勇」(沈着剛勇)の精神。

誇りある日本人として敬意を。 そして感謝と哀悼を。

大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館) その一角に第六潜水艇のコーナーがある。

佐久間勉艇長の遺書や遺品なども展示。

佐久間艇長出生地の福井県若狭町、中学時代を過ごした小浜市、そしてこの呉市では4月15日、岩国では4月14日に慰霊祭が斎行されています。

若狭町

http://www.wakasa-mikatagoko.jp/search/entry/tourism-087.html

千葉公園の戦跡散策(鉄道第一聯隊ほか)

平成29年(2017)8月撮影

千葉縣護國神社から千葉公園に足を伸ばしてみました。

千葉公園忠霊塔エリアからようやく本来の千葉公園エリアに脚を進める。

C型タンク飽和型蒸気機関車

なにやら「蒸気機関車」が保存されていますね。
もしや「鉄道連隊?」と思いきや、関係なく戦後のものでした。

ちなみに「千葉公園」は戦前の「陸軍鉄道連隊演習地」跡地を戦後に公園として整備したものなのです。

千葉公園

千葉公園は「陸軍鉄道連隊の演習場跡」でした。
ゆえに今も公園のあちこちに往時の名残が残っております。
ちょっと見てみましょう。

鉄道第一聯隊演習所跡

鉄道第一連隊演習所跡
 旧鉄道連隊が明治41年(1908)旧千葉町都賀村(現椿森)と津田沼町に設置され、大正7年(1918)の改編により千葉町に鉄道第一連隊、津田沼町に第二連隊が設置された。
 鉄道第一連隊演習所は、現在の千葉公園の綿打池付近から競輪場一帯で、池の対岸に架橋演習に使用したコンクリート製の橋脚や、ここから北西150mのところにトンネル工事演習に使用したコンクリート製のドームがあり、昔日の面影を残している。

千葉市サイト内のPDFガイドマップ 「鉄道第一連隊の名残マップ」

https://www.city.chiba.jp/toshi/koenryokuchi/kanri/chuo-inage/documents/map-guide-iko_3.pdf

 旧陸軍鉄道連隊が明治 41 年(1908)、旧千葉町都賀村 (現・椿森)と津田沼町に設置され、大正 7 年(1918) の改編により千葉町に鉄道第一連隊、津田沼町に第二連隊が設置された。
 鉄道第一連隊演習所は、現在の千葉公園綿打池付近か ら競輪場付近の一帯にあり、架橋演習に使用したコンクリート製の橋脚や、トンネル工事演習に使用したコンクリート製ドームのほか、ウインチ台といわれるコンクリート塊などがあり、昔日の面影を今に伝えている。

架橋演習用橋脚(鉄道連隊架橋訓練跡)

鉄道第一連隊の作業場内にあった架線演習用のコンクリート製橋脚。

鉄道連隊は
千葉町(千葉市)に鉄道第一連隊、
津田沼町(習志野市)に鉄道第二連隊が設置されていた。

荒木山

この丘は鉄道連隊ラッパ手訓練が行われた「喇叭山」であった。
のちに鉄道第1連隊所属の荒木克業大尉が満州にて1932年に殉職すると荒木大尉を悼む同連隊の兵達により銅像が建立され昭和8年に荒木山として整備。銅像は戦争末期に供出。レリーフ(千葉縣護國神社)のみが残る。

ウインチ台とされるコンクリート塊

いわゆる巻き揚げ機作業台ですね。
陸軍鉄道連隊(鉄道第一連隊)の隊員たちはここで何かしらのロープ乃至ワイヤー作業をおこなっていたのかしら、と。

鉄道第一連隊トンネル工事ドーム跡
演習用トンネル

このコンクリート製のドームはトンネル工事演習用に使用されたものという。 トンネルが飛び出てきたような不思議な構造物。
現在は千葉公園内のある「千葉市中央・稲毛公園緑地事務所」の裏手に保存されている。

千葉公園内には往時の陸軍鉄道連隊の跡がこんな感じで残っているのです。

公園内には「陸軍標石」(陸軍境界石)も残っているらしいけど、見つけられなかったので(見つける気力が残っていなかったので)次の機会に。

このあとは千葉公園から東千葉駅方面に向けて歩いていきます。

千葉公園から東にあるく。
椿森の住宅地の中に石碑がありました。

鉄道大隊記念碑( 鉄道隊駐屯の跡 )

明治36年建立
そしてなぜか「大日如来の祠」
この椿森のあたりが「陸軍鉄道第一聯隊」の駐屯地の跡だったのだ。

「鉄道大隊記念碑」(明治36年建立)
千葉県千葉市中央区椿森

「記念碑」篆額は、大山巌(参謀総長元帥陸軍大将)によるもの。

椿森公園
将校集会所の庭園(築山)

ここにちょっとした築山がある。
もっとも、今はただのこんもりとした公園空間でしかないけど、ここか昭和の往時は「 将校集会所の庭園(築山)」であったという。

千葉連隊区司令部門柱跡

椿森公園の隣にある「財務省関東財務局千葉財務事務所」
この場所は当時は「千葉連隊区司令部」が置かれていた場所。

現在も往時の司令部門柱が残っている…というかそのまま門柱として使われている。

周辺には標石がたくさんありましたが摩耗していて判別不明。
往時のものかどうかも定かではない。

千葉公園周辺散策はひとまずこれにて〆

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真を加工。

千葉公園から北に赴けば
「鉄道聯隊材料廠」
「兵器補給廠」
「気球聯隊」などの陸軍施設もありましたが、今回は時間切れ。
そのあたりのエリアは、またそのうちの散策機会で。

関連


千葉縣護國神社(旧鎮座地)

平成29年8月20日参拝

ちょっとした時間が出来たので、脚を伸ばして千葉駅から護國神社へ参拝を。

令和4年に千葉縣護國神社は御遷座しました。

新境内地の記録は以下より

千葉県護國神社

凛とした空間のなかで、千葉縣護國神社の参道を歩む。

「千葉公園/案内マップ」的には千葉公園の西門の西外れに護國神社が鎮座している。 感覚としては「大宮公園の西外れに鎮座している埼玉縣護國神社」と似たような位置関係だなあとボンヤリと感じてしまう。

明治11年(1878)「千葉縣招魂社」として創建。
昭和14年(1939年)「千葉縣護國神社」と改称。

戦後「頌徳神社」と一時的に改称するも主権回復後の昭和27年(1952)に千葉縣護國神社に復称。
祖国に殉じられた千葉県出身者五万七千余柱を祀る。
昭和42年に現在地に遷座。

御朱印を頂戴いたしました。 靖國神社の靖國桜が舞う御朱印帳に少しずつ。

回廊では記録写真展が行われおりました。

「海外戦歿者慰霊祭写真展」
ゆっくりとしずしずと回廊の写真を観覧させていただく…
パプアニューギニア
インドネシア
フィリピン
ビルマ
サイパン
各激戦地を御遺族の方々と訪れ、そして執り行われた慰霊祭の記録写真。

天皇陛下
皇后陛下
御参拝記念

昭和四十八年の第二十八回国民体育大会への御臨場を機に10月13日に千葉県護國神社に御参拝されました。

御創立115年記念碑
御遷座碑
御創立100年記念碑

あゝ特攻
千葉県特攻勇士顕彰碑

我が祖国日本は昭和16-20年米英支ソ蘭豪と大東亜戦争を戦った
自国の安泰と欧米の植民地支配からアジアを解放するためだった
戦は連戦連勝南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島から沖縄と敵の反攻を許した
この時一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必死の特攻戦法が採られた
貧しくとも誇り高い民族の苦渋の選択だった
二十歳前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った
その雄姿を此処に置く敗戦国に育ち歴史を絶たれた現代の人よ
命に代えて何を守ろうとしたのか
この像に問いかけてほしい
戦後同26年5月3日連合国最高司令官マッカーサー元帥が米上院軍事外交合同委員会で日本の戦は自衛のためであったと証言し米報道機関が全米に発信した
日本国民よ
この事実を銘記せよ

(碑裏面)
陸軍・海軍それぞれの 「特別攻撃隊千葉県出身戦歿者命名」が刻まれていました…

ありがとうございます。
感謝と哀悼を捧げし参拝を。



千葉県護國神社の南隣には「忠霊塔」や「慰霊碑」などが集まった区画がある。

千葉縣護國神社の隣にある大きな塔。

千葉県忠霊塔

かつての「千葉陸軍墓地」
戦時中に忠霊塔の建設が始まっていたが、工事途中で終戦。戦後の昭和27年に工事が再開され 昭和29年4月建立。
日清戦争以降の戦没者を追悼するとともに恒久平和を祈念して千葉県が建設し管理している。(なお千葉公園そのものは千葉市管理)

千葉県庁サイト

https://www.pref.chiba.lg.jp/kenshidou/engo/tsuitou/chuureitou/goannai.html

「千葉県忠霊塔」の左右両脇には「千葉陸軍合同碑」「海軍の碑」もありました。
しかし敷地内には入れないので遠望。

「千葉陸軍合同碑」の銘は近衛師団長陸軍中将香月清司謹書。
「海軍の碑」は詳細不明。(敷地に入れないので)

この周辺にはいくつかの記念碑・鎮魂碑がある。

「日中戦士鎮魂碑」

楓4256部隊(歩兵212聯隊)鎮魂碑。
昭和14年、佐倉51聯隊に於いて第32師団管下の部隊として編成。
日中国交正常化を機に永久不戦を誓い両国犠牲者「日中戦士鎮魂碑」を昭和52年4月建立。

千葉県出身 陸軍少年飛行兵慰霊之碑

平和の翼(由来)
 戦火絶えて二十七年。いま、私達の胸に去来するものは、大空に憧れ、大空に生き、そして大空に散っていった君達のあの林檎のような頬っぺと澄みきった眼差しだ。今日の平和な日本の繁栄は、君達の尊い死によって築かれたものなのだ。
 若くして大空の華と散った君達の至純な姿を忘れないために、再び戦争を繰り返さぬことを誓いながら、私達は「平和の翼」の碑を此の地に建てた。
 亡き友よ、安らかに眠り給え。そして、愛する日本を、美しい郷土を、永久に守り給え。
 昭和47年8月
  元陸軍少年飛行兵
  千葉県出身 生存者一同

慰霊碑 支那駐屯歩兵第三聯隊

碑誌
 この聯隊は、北清事変以来北支に駐留した支那駐屯軍の伝統を継ぎ、昭和13年3月中国北京において編成され、その兵員は千葉県人を主体として東京埼玉山梨その他各府県出身者により構成されていた。
 その後聯隊は、…略…南昌南方地区において終戦を迎えた。
 この間将兵は、炎熱に耐え酷寒を忍び峻険に挑み困難欠乏を極めたなかに常に勇戦して聯隊の名誉を高めた。不幸戦歿した2千3百余柱の英霊は故国の平和と繁栄を知ることなく今なお中国大陸の山野に眠っている。この尊い犠牲こそ今日の日本の礎石であったことを銘肝しここ郷土の地に碑を刻んで諸霊の冥福を祈る。
 昭和54年7月 支駐歩三会戦友一同

戦友この土に眠る

慰霊碑 支那駐屯歩兵第三聯隊

愛馬慰霊碑

昭和63年10月30日建立

鎮魂
シベリア抑留死没者千葉県慰霊碑

悲惨を極めた第二次大戦は、日本がポツダム宣言を受諾して、終結した。
しかし、多くの将兵は酷寒の地シベリアなどに抑留され長期にわたり労役に就かされた。 戦友の多くは、厳しい環境の中で病と闘いながら望郷の願いも空しく凍土の中に永遠の眠りについている。亡き同胞の昔日を偲び、世界の恒久平和を祈念して、この碑を建立する。
 1996年3月吉日 財団法人 全国強制抑留者協会千葉県支部連合会

陸軍鉄道連隊 忠魂碑
 鉄道隊創立80周年記念忠魂碑

昭和50年11月竣工。
この碑だけ千葉県忠魂塔の隣にひっそりと鎮座。
鉄道連隊のエンブレムが碑上に誇らしげに掲げられている。

鉄道隊創立八拾周年記念忠魂碑改築由来

 我が鉄道隊の淵源は日清戦役直後中野に1大隊が創設されたのに始まる。
爾来北清事変・日露戦役・青島戦役・シベリヤ出兵・満州事変と累次の征戦に参加し、赫々たる武勲を奏した。
此の間大隊は連隊に改編千葉津田沼に分屯していたが大正7年夫々鉄1、鉄2に拡張され、更に満州事変後満州に鉄3・鉄4が新設常駐新たに装甲車の装備も加えられ名実共に野戦鉄道隊たるに至った。
 支那事変勃発するや鉄道隊は殆どその全力を以て北支に転戦常に軍の戦闘にあって活躍鉄緒戦を有利ならしめ爾来鉄1は中支に、鉄5は南支に、次いで仏印に転戦大東亜戦争突入と共に鉄5・鉄9は海陸相携えてマレー半島を席捲爾後鉄5はビルマに転進戡定作戦終了と共に反転鉄9と共に困難辛苦に絶する世紀の大作戦泰緬鉄道の建設等其戦力を遺憾なく発揮軍の作戦に貢献するところ頗る大であった。
此の間或は剣電弾雨に斃れ、或は瘴癘病魔に斃れ名を鬼籍に列つれ、多くの英霊に対し、其の遺勲を伝え、追慕惜く能わざるものあり、茲に碑を建立し、其の遺勲を永遠に伝え、其の霊を慰めんとする次第である。
  昭和50年11月23日 建立  (以下略

陸軍鉄道連隊「忠魂碑」の脇にあるレリーフ

荒木大尉の脱線器装着戦闘場面の銅板額

千葉公園内の荒木山にあった荒木大尉銅像(荒木克業)も戦中に金属供出されており、其の際に台座のレリーフのみが辛うじてこうして保存されたという。

「荒木大尉の脱線器装着戦闘場面の銅板額」について

 大東亜戦争が勃発して軍需物資が欠乏し、町内の金属類「火鉢、半鐘」と同様に大尉の銅像も供出されることになった。
 台座を壊す際に、この解体作業を担当した石屋の主人が大尉の武勲を語るこの銅板額の処分されるのを惜しみ、密かに自宅に持ち帰り保存していた。その後(昭和40年頃)旧鉄道第1聯隊の遺品として提出され、現自衛隊下志津高射学校資料室に保管されていた。
 この度、銅板額と銅像の除幕式に、当時学生で参列し、その後鉄道兵となり、また自衛隊のOBでもあり、現在、隊友会千葉県支部連合会の参与でもある私が、この銅板額をお預かりすることになった。今はその姿もない旧鉄道連隊の一部分の戦績に過ぎないかもしれないが、荒木大尉の武勲を語る貴重な記念品として、鉄道隊創立百周年迎えるに当り行事の一端として、千葉県護国神社境内に在る鉄道隊の忠魂碑の傍に建立し、後世に伝える。
  平成7年
  全国鉄道連隊連合会 千葉市 黒川日出松 記

忠霊塔のあるエリアの片隅に何の説明もない謎の構造物。
これはなんだろう? 何かの掲揚台(のようなもの)と祠がございました。

隣接する「千葉公園」内にも戦跡が多く残っているが、それは別立てにて。

ちなみに
 千葉公園    →千葉市管轄
 千葉県忠霊塔  →千葉県管轄
 千葉縣護國神社 →宗教法人
となっております。

埼玉縣護國神社

平成29年3月26日参拝

平成29年3月26日。雨降る夕方に。
武蔵一宮氷川神社から足を伸ばして参拝してきました。
護國神社巡礼。

旧内務省内務大臣指定護國神社。
鳥羽・伏見の戦い以後の国事に殉じた埼玉県関係の英霊51,000余柱を祀る。

昭和9年、埼玉縣招魂社として設立。14年に埼玉縣護國神社に改称。 戦後の昭和23年に埼霊神社(さいたま神社)と改称。
昭和27年に旧社号に復した。

大宮公園内に鳥居が立っており、道路を挟んだ先に御社殿が鎮座している。

桜の咲き始めの護國神社。
感慨も深く。

護國神社は戊辰戦争から大東亜戦争まで国のために
犠牲となられた埼玉県関係の英霊をお祀りしています

英霊に感謝しましょう
 埼玉県英霊にこたえる会

手水舎

深く拝す

護国の桜。
ひときわの感謝とともに。

咲き誇る日が楽しみな瞬間。

御朱印を頂戴致しました。 (靖國神社の御朱印帳に)

奉納「艦砲弾」

 天皇陛下のもと、国家安寧を願い見事玉と砕けたご英霊等鎮魂の一助になればと思い謹んで捧げ奉ります。
 この砲弾は古い型の砲弾であります。東郷元帥が聯合艦隊を率いZ旗の下、日本海海戦において、かのロシアバルチック艦隊を殲滅し、世界にその名を知らしめました。その後、凱旋廻港のみぎり、各地の御一宮にその出撃致した戦艦を始め各艦の砲弾を御奉納されたとの説があります。譲り受けた老爺(故人)に伝え聞いたところ、この砲弾はその時期に武蔵一宮氷川神社にご奉納され境内のいずれかにあったと思われますが、戦後の混乱期に何処かに流出しておりました。艦砲の砲撃手は俗に自らを鉄砲屋と呼び一弾一弾を我が子のように慈しみ、(見事命中してくれよ)と祈りを籠めて懸命に磨き上げたと聞いております。この砲弾もそうであったに違いないと思います。
 この砲弾を使用した艦名は判明致しておりません。ご存知の御方がおられましたら、是非御教示、ご指導頂けますれば幸甚に存じます。
   平成25年6月吉日 大宮住 加藤芳夫

出征兵士之像

平成27年建立

建立の趣旨
 昭和16年12月に開戦し、20年8月に終戦を迎えてから今年は70年目を迎えます。国を護り、家族を守るため多くの若い人が故郷を後にして兵士として出陣し、異国の地で戦陣に斃れ病魔に冒され、尊い命を国に捧げられました。遺族として残された者も、今では戦没者の父母は殆ど亡くなり、妻も大半の者が他界し、終戦時、幼児や少年であった私達も高齢化を迎えた此の頃、想い出すのは、若い人が当時赤紙と俗称された召集令状により、親兄弟、親族、近所の人に見送られ軍隊に入隊する姿です。
送れられる者、送る者が
「行ってまいります。後を頼みます。」
「皆さんが留守の間は、私達がしっかりと銃後と家族を守ります。」
という短い言葉で別れを告げ、お互いに見つめ合うだけの事でした。多くの若い人が再び故郷へ帰れませんでした。
 戦後70年、私達遺族は兵士として出征した家族を思い出す縁としてこの像を建立しました。残念ながら、歳月の経過とともに先の大戦の風化が一段と進んでいます。この像をご覧になられた方は、現在の平和な時代のかげには、このような辛い別れをして戦没された人々が居たということを思っていただけれな幸いです。

 平成27年11月30日
  一般社団法人 埼玉県遺族連合会

大東亜戦争戦没地域図

埼玉県出身者の地域別戦没者数(昭和55年現在)
支那事変以降 総数 48453人

埼玉県特攻勇士之像 

埼玉県特攻勇士顕彰碑
 あの苛烈を極めた大東亜戦争の末期、多くの埼玉県出身の若者たちが特攻隊員となり家族・故郷・祖国を守るため、烈々たる祖国愛に燃え敢然として散華されました。 生還を期せず、若い命を進んで国に捧げられたこれら特攻隊員の崇高な精神が永く県民の心に刻まれるとともに次代を担う若者の精神の糧となることを願うものであります。
 ここに散華された英霊の勇姿を末永く後世に伝えるため、公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会のご協力を得て、埼玉県下遺族、戦友、崇敬者団体をはじめ幅広い県民の真心籠るご浄財をもって埼玉県特攻勇士之像を建立し謹んで奉納いたします。
 平成25年10月吉日
 埼玉県特攻勇士之像建設委員会

埼玉県傷痍軍人の塔

昭和53年建立
第58代 厚生大臣 渡辺美智雄書

 我等は戦火に傷つき或いは戦野に病を得て生死の境を彷徨した者達である。その思い出は耐え難いものがあり、戦争の残酷さは筆舌に尽くし難い。
 戦後、閲すること三〇年、昭和五十年七月議を起こし、戦禍の洗礼を受けた立場から、二度と犠牲者を出す間敷き事を語り合った。而して、平和を希求する会員の微意を表明せんと名を印し、此の埼玉県傷痍軍人の塔を建立する決議をした。
 良く議し想を練り、会員一人一人の善意を結集して、今完成に至った。唯、同慶の一語につきる。
 尚、惟みるに吾が埼玉県傷痍軍人の夫妻が財団法人日本傷痍軍人会 同妻の会の旗下にあってそれぞれの綱領具現に、その責を果し、両会の中核県たる名聲を保持する努力をはじめ、或いは郷にあって、傷痍にめげず率先垂範、豊かなる人間愛と限りない創造性を以って変轉極りない新時代に処し、地域社会に光明を齋しつつ、今日に至った証としても 意義あるものと思考する。
 又この庭が、隣人を愛する思想を高揚し廣く、世界は一家の大理想実現に裨益する聖場と成ることも願いつつ、時の流れに禍いされることなく、吾等の誠魂が不滅であることを信じ、塔建立の詞とする。
 昭和五十三年十月十九日 
    埼玉県傷痍軍人の塔建設委員会
     吉川敏雄 謹書

献花 特攻花

知覧より移植されたものという。

社務所の一角には「遺品展示館」があったが、既に夕方ということもあり、時間が遅めでしたので今回は見学を遠慮しました。

埼玉ならまた来れますし慌てなくても時間がゆっくりあるときに改めて。

神奈川縣護國神社跡(横浜市慰霊塔)

平成26年(2014)参拝/令和元年(2019)11月再訪 

全国47都道府県で唯一「護國神社」が無い県が神奈川県。
(内務大臣指定護國神社として。東京は靖國神社で包括している)

もちろん、神奈川県にも護国神社建立の予定はあった。

現在の三ツ沢総合グランド (神奈川県横浜市神奈川区三ツ沢西町3-1)。
この地に「神奈川縣護國神社」(神奈川県護国神社・神奈川県護國神社)が建つはずであった。


神奈川縣護國神社
(神奈川県護国神社・神奈川県護國神社)

神奈川縣護國神社
昭和14年末に神社創建に着手。
昭和15年11月に鎮座地が確定。
昭和16年11月に鍬入式が執行。
昭和17年7月27日、内務大臣より「神奈川縣護國神社」の創立が許可。
昭和17年12月23日、起工式が執行。
昭和18年12月25日、棟上式が執行。
当初の竣工は昭和19年10月を予定していたが、戦争により工事遅延。
完成目前の昭和20年5月29日横浜大空襲によって社殿焼失。

そして終戦後、 神奈川縣護國神社は建立されることはなかった。
昭和28年に跡地に横浜市によって「慰霊塔」が建立。


昭和19年11月陸軍撮影の航空写真

空襲前の航空写真。
参道の様子と建造途中の社殿の雰囲気がわかる。

「神奈川縣護國神社」 は「本殿」「祝詞殿」「幣殿」「拝殿」「 翼舎」「渡廊」「祭器庫」「透堀」「手水舎」「鳥居」「石玉垣」「狛犬」などで構成予定だった。

8926-C5-90
1944年(昭19)11月14日‐陸軍撮影写真を加工

昭和21年2月米軍撮影の航空写真

昭和20年5月29日横浜大空襲後で、焼失した「神奈川縣護國神社跡」 の姿を確認できる。昭和19年の陸軍写真では御社殿に立体感があったが、空襲で御社殿を焼失し、昭和21年の写真では御社殿部分は焼失し立体感がないことがわかる。

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1946年(昭21)02月28日‐米軍撮影の写真を加工
USA-M58-A-6-207
1946年(昭21)02月28日‐米軍撮影の写真を加工

現在の航空写真


三ツ沢公園


横浜市慰霊塔

昭和28年3月建立。
神奈川県が昭和14年に計画し、当地に昭和20年の竣工が予定されていた神奈川縣護國神社は、昭和20年5月29日の横浜大空襲で炎上焼失。
再びその威容を見ることが出来なくなった。

その名残の地には、横浜市によって慰霊塔が建立されている。
慰霊塔の前の広場は駐車場と化していた。

昭和二十年の文字が浮き出た慰霊塔。
以前の写真よりも白いので塗り直したようです。

平成26年(2014) 撮影
平成26年(2014) 撮影

納骨堂

横浜市慰霊塔の後方の建屋は納骨堂。

平和記念塔

神奈川縣護國神社参道跡

今は駐車場となっている広場に向けて伸びる歩道が、予定されていた参道跡地。

慰霊塔ご案内

慰霊塔ご案内
 この慰霊塔は、西南戦争以来、第二次世界大戦 に至る戦争犠牲者二万余柱の御霊を永年安置するための慰霊塔であります。
 慰霊塔は、二基の塔と、安置堂その他からなり昭和二十八年三月、一〇〇〇万円の経費にて建設されましたが、このうち七〇〇万円は、市民からの募金によったものであります。
 塔は門を象徴しており、向かって左の塔は、高さ十八米で上部を欠いてあり、下部に「昭和二十年」の五文字を浮き出してあります。 これは、今次大戦ではらった大きな犠牲と破壊を表したものであります。
 また、向かって右の塔は高さ二十五米で新生日本が雄々しく、将来にむかって発展する姿を表したものであります。
  横浜市

恒久平和を願って

恒久平和を願って
 戦後50周年を迎えて、更なる平和への願いを込めて慰霊塔を改修いたしました。
 この慰霊塔は、西南戦争から第二次世界大戦までの戦争犠牲者の慰霊を安置するため、昭和28年3月に建設したもので、左の塔は先の大戦で払った大きな犠牲と破壊を表し、右の塔は新生日本が将来に向かって発展する姿を表しています。
 市民の皆様と共に諸霊のご冥福を心からお祈りし、戦争の悲惨さを忘れることなく、恒久の平和を念じたいと思います。
 横浜市は、21世紀に向かって、世界に開かれた国際都市づくりを進めていますが、ピースメッセンジャー都市として、今後とも積極的に国際交流活動を展開し、相互理解を深め、世界の平和と発展に貢献していきたいと思います。
  平成7年11月1日
     横浜市長

わが町 かながわ 50選

横浜市戦没者慰霊塔
 昭和20年5月29日の横浜大空襲でなくなった、多くの犠牲者の冥福と平和への祈りを込めて、昭和28年に建立されました。
 広い広場から慰霊塔を見つめていると、心が静まります。

駐車場となってしまっている広場に若干の空虚さを感じつつも。

護國神社として機能出来なかった、この慰霊の空間。
どことなく虚しく、そして尊厳がなく。
もやもやしながらも、根底の気持ちは変わらずに
静かに慰霊鎮魂と感謝のこうべをたれる…


令和元年11月17日の夕方。
慰霊塔を撮影をしていたら、老夫婦が私に声をかけてきました。
お爺さん「ここは昔は畑だったんだよ、そこに立派なお社が出来てね、でもね、昭和20年5月29日の空襲で燃えてしまって、わたしはそのとき10歳だったよ、ほんとりっぱなお社だった・・・」
わたし「えぇ、神奈川県護国神社の跡・・・」
お爺さん「知っているんだ、若いのに、この場所がなんだったか、ここを知っていてくれて嬉しいねえ」
お爺さんとしばし歓談

ありがとうございます。


神奈川県戦没者慰霊堂

神奈川縣護國神社の跡地は「横浜市の慰霊塔」
ここは、県ではなく市の施設となっている。
神奈川県の慰霊施設は当地ではなく、別の場所にある。

神奈川県戦没者慰霊堂

http://www.pref.kanagawa.jp/docs/r6w/cnt/f153/p2926.html

実は訪れたのですが、臨時閉苑でした・・・再訪しなくては。

「神奈川県戦没者慰霊堂」再訪しました


参考文献
 神奈川県忠魂碑等建立調査集 靖國神社社務所発行 平成8年
 神奈川新聞 昭和18年12月5日掲載記事

愛知縣護國神社

平成29年1月参拝

この日は名古屋市内を散策しておりました。

歴史の重みを感じながら…
御祭神の御心に感謝と哀悼を…

愛知県名古屋市中区三の丸鎮座

内務大臣指定護国神社
別表神社

戊辰戦争から第二次世界大戦までの愛知県関係の戦没者9万3千余柱を祀る。
創建は明治2年(1869年)。

明治2年5月「旌忠社」として、尾張藩主徳川慶勝が戊辰戦争で戦死した藩士ら25人の霊を祀り祠を建てたのに始まる。

1875年(明治8年)招魂社。
1901年(明治34年)官祭招魂社。
1939年(昭和14年)愛知縣護國神社に改称。

大戦後「愛知神社」に改称。
昭和30年に元の社名に復した。

昭和20年3月19日空襲で社殿焼失し、昭和33年に本殿・拝殿等、昭和57年に社務所、平成10年に神門・舞殿・廻廊が再建。

境内裏手には「官祭招魂社」「愛知神社」の社号標が残る。

お手水。献水像。

鎮魂

マリアナ戦
渇死兵五万
希一杓献水
為平和四十周年記念之建

太玉柱

終戦50週年を機に、祖国・同胞・家族を護るため、身命を捧げられた愛知縣護國神社の御祭神九万参千余柱の神霊に感謝の誠を杉の真柱(地上9.3メートル)に託し、これを太玉串として捧げ、御英霊の遺訓を体し、今日まで祖国日本繁栄のため、盡瘁された先人をも顕彰し恒久の和平と安泰を祈念して建立。
 愛知縣護國神社

拝する

ありがとうございます

御朱印を戴きました。
今日は護國神社を参拝すると決めていたから、持参した靖國神社の御朱印帳に。

靖國桜の舞う御朱印帳を巫女さんにお渡しした際に、巫女さんがニコって微笑まれたのが、ほんのりと嬉しく。

実は参拝したこの日(1月29日)、境内では餅つき大会が行われておりました。
流石に余所者がふらりと戴くのも気がひけるので、雰囲気だけは堪能し満足させていただきました。

狛犬さん。
護國神社に相応しい力強さがあります。

さて、境内の奥に参ります。

国旗掲揚台・・・と思ったら「宮城遥拝所」でございました。

戦艦大和記念碑

この記念碑には戦艦「大和」の主砲・四六糎砲(46センチ)九一式徹甲弾の実物が使用されている。
東海地区戦艦大和会奉納

46センチ九一式徹甲弾
長さ1955mm、重量1,460kg、最大射程42km

戦艦大和記念碑

碑文
戦艦大和は日本が建造した世界に誇る史上最大最強の戦艦であった。
第二次世界大戦中海上作戦の中枢として活躍していたが昭和二十年に入り戦況急迫しついに連合軍が大挙して沖縄に進行して来たとき海上特別攻撃隊旗艦となり巡洋艦矢矧及駆逐艦八隻とともに、徳山沖を出撃してこの敵艦隊に対し特攻不帰の悲壮なる突入作戦を決行した。
進撃の途上優勢なる敵機の連続猛攻を受け優先奮闘したが、われには一機の護衛戦闘機もなく被害は累積して遂に沈没す。
この時伊藤司令官、有賀艦長以下乗組員弐千七百有余名は艦と運命を共にした。
時に昭和二十年四月七日沖縄の北四八〇粁、想うにこの世紀の巨艦を造り得た国民の気迫と祖国の危急存亡のときにのぞみ甘んじて死地に投じた崇高なる精神とは永くわが民族の中に脈動するであろう。
ここに大和主砲弾を安置して光栄ある海軍を記念するとともに大和をはじめ幾多殉国の英霊に感謝の誠を捧げあわせて祖国日本の繁栄と世界平和を祈念する。
 昭和四十二年四月七日
  東海地区 戦艦大和会

建立は4月7日。
まさに戦艦大和の沈んだ日。碑文を前にし目頭を熱くする…

この記念碑を目の前にし、当時の歴史を伝える徹甲弾に触れながら、散華された方々に静かに感謝と哀悼を捧げる。

戦艦大和記念碑
捧戦艦大和碑前

戦艦大和乗組の英霊2,700余柱を顕彰のため、東海地区戦艦大和会が昭和42年4月7日建立。記念碑主体は大和主砲(四六糎砲)弾の実物。昭和60年4月7日に整備改修。

パラオ海軍部隊慰霊碑

太平洋戦争に於てパラオ島を死守し奮戦せる海軍兵士の霊を永遠に慰む

大東亜戦争の激戦地パラオ海域の英霊を顕彰のため、海軍パラオ会中部支部が昭和54年2月2日建立。

慰霊碑主体は駆逐艦主錨の実物の錨と錨鎖。
住友重機寄贈(未装備品在庫を寄贈)。

パラオ海軍部隊慰霊碑
絶対国防圏最前線。パラオ諸島。 19年2月トラック島空襲により根拠地をパラオまで撤退せざるを得なかった海軍。それに対し追い詰める米軍によるパラオ大空襲は3月30日発生。これが古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職した海軍乙事件の引き金となる

海軍乙事件
昭和19年3月31日、パラオ島大空襲により司令部のミンダナオ島ダバオ退避を決行。
連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将らがダバオに向けて搭乗した二式大艇1番機が墜落により殉職し、参謀長福留繁中将らが乗る2番機は不時着しゲリラの捕虜となった事件。
写真は多磨霊園の古賀峯一墓と福留繁墓。

パラオ諸島で最大の激戦となったのがペリリュー島の戦い。

昭和19年9月15日に上陸したアメリカ軍は制圧するまで2ヶ月を要し、このペリリューの戦いがその後の日本軍の硫黄島や沖縄防衛戦に影響を与えることになった・・・

海軍飛行予備学生 飛行科士官 慰霊塔

碑文
はるかなる 雲流るる 果てにねむる  あまたの若き み霊に捧ぐ
昭和四十三年十一月 社団法人白鴎遺族会

海軍飛行予備学生出身の英霊2400余柱を慰霊顕彰。
社団法人白鴎遺族会の愛知岐阜三重の三支部が建立。

海軍飛行予備学生慰霊塔

海軍飛行予備学生の概要
満洲事変のさなか昭和9年に入隊の1期生から第二次世界大戦末期昭和19年入隊の15期生まで 生徒は同18年入隊の1期生と同19年入隊の2期生で操縦偵察各専修と飛行要務にわかれた
入隊者10932名うち戦没2437名(以下略

神風特別攻撃隊
連合艦隊布告神風特別攻撃隊の士官戦没は769名 
うち651名が予備学生出身者

刻まれし名の重みを感じつつ。 静かに手を合わせる。 合掌…

この頃(平成29年1月)は、護國神社の慰霊碑を悉皆調査、ことごとく参拝するという意識を有していなかったために、記録が足りません。

再訪しないといけません・・・

護國神社をあとにする。
境内の慰霊碑がある側とは反対側に、和風建築物があり。
「昭和館」と銘打っていた。
その隣にある桜華会館では「愛知平和記念館」が併設しているとのことで覗いてみたけど建物自体が閉まっていて。どうやら日曜休みのようで。 残念。


兵庫縣神戸護國神社

平成30年11月参拝 兵庫県神戸市灘区鎮座

「兵庫縣神戸護國神社」は兵庫県東部ゆかりの戦没者53,257柱を祀る。

ちなみに兵庫県内は、護國神社が2社あり、西部は「兵庫縣姫路護國神社」として西部地区出身の戦没者56,988柱を祀っている。
いずれも内務大臣指定護国神社。


兵庫縣神戸護國神社

戦没者慰霊祭祀は当所、神戸市兵庫区会下山(楠公の湊川の戦いで有名)で招魂斎庭・祭壇を設け、毎年官民合同で斎行されていた。
昭和16年6月に灘区王子町に社殿を造営。
昭和20年6月5日の神戸大空襲により壊滅。

社号標は昭和16年6月。創建時からのもの。鳥居は平成25年再建。

戦後は「兵庫御霊神社」と一時改称し、昭和27年に社号を「兵庫縣神戸護國神社」と復称、昭和34年に現在地にて新社殿を再建。
阪神大震災でも社務所半壊などの被害を受けるも復興。

境内社には末廣稲荷社が鎮座している。

狛犬は「大東亜戦争大捷祈願」として、昭和17年3月吉日に奉じられたもの。

手水鉢は、社殿再建時の昭和34年10月吉日に「兵庫縣神戸護國婦人会」より奉献されたもの。
中央には護国の英霊ゆかりの戦地を正面に仰ぐように地球儀が添えられている。


響 第五三三三部隊戦歿者慰霊塔

響 第五三三三部隊戦歿者慰霊塔

昭和13年春半ば
内蒙古派遣独立混成第二旅団独立歩兵第二大隊が始めて中国大陸の首都北京に於て編成されて以来、支那事変並びに大東亜戦争に参加中国全土及び南方方面に転戦、戦没された御霊の冥福を祈る為、当時の戦友相寄り浄財を募り茲に、この地を選び建立す。
昭和四十五年四月吉日


大戦殉難 北方異民族慰霊之碑

大戦殉難 北方異民族慰霊之碑

 過ぐる大戦に於て無数の白系ロシア人、ギリヤーク人、オロッコ人が中野の子等と共に理想に参画し、非情なる最後を遂げ、帰るに安住の祖国さえなき事実を知らざる者、今日余りにも多い。
 永久凍土(ツンドラ)を吹きすさぶ風に、或いは北大洋の怒涛音にこれら北方異民族の亡き同志の声を聴くものは日に日に少なくなってきている。この碑はこれら残り少ない生き証人にかわって死の意味を問い続ける昭和の語部(かたりべ)となろう。
 そしてこの碑の祈念するところは、余りにも報われることのない故北方異民族同志への鎮魂であり、盤石深く刻み込まれたものは祖国の永遠の安泰であり、平和の二文字である。
 昭和50年5月19日
 全国壱万参千五百有余名 
  建立同志会代表 扇 貞雄(元陸軍少佐・元樺太敦香陸軍特務機関長)


陸軍少年飛行兵顕彰碑 建立の記

陸軍少年飛行兵顕彰碑
建立の記

 日本陸軍航空の華として、昭和九年二月に誕生した陸軍少年飛行兵は、昭和二十年八月の終戦までの間、第一期生から第二十期生まで五万八千八百余名を数える。
 その歴史的生命は僅か十二年に過ぎなかったが此の間、日支事変をはじめ、ノモンハン事件、大東亜戦争と常に陸軍航空部隊の中核として敢然と大空の決戦場に出陣し、本県からも多くの少年達が参加した。
 若冠十五歳前後で大空を志し、猛訓練に耐え、青春を惜しみなく国の危急存亡に捧げ、その多くは祖国の繁栄と同胞の幸せを祈りながら若き命を雲染む屍と散っていった。
 戦後三十五年、日本の空に平和が訪れ、かつてこれら戦友と苦楽を倶にした兵庫県下在住の生存者ならびに有志相集い、今は亡き戦友の御霊と功績を偲び、若人が国の為につくした栄誉と、至純にして崇高な精神を讃え、その歴史的事実を後世に伝えるとともに、戦争を実際に体験した我々が世界の平和と人類の幸福を祈念してこの碑を建立する。
 昭和56年4月5日
  陸軍少年飛行兵出身者の集い
  兵庫県少飛会

陸軍少年飛行兵顕彰碑脇に
「献木 同期の桜」
昭和54年5月10日建立


歩兵第百七十連隊 慰霊之碑

歩兵第百七十連隊 慰霊之碑
昭和58年11月13日 歩兵第170連隊慰霊碑建立委員会

歩兵第170連隊は兵庫篠山編成。開戦時は印度支那派遣軍として南部仏印駐留。昭和17年、乗船中の輸送船が撃沈され軍旗喪失、乗船将兵の多くが戦死。その後の南方戦線にて消耗し昭和18年6月解隊。


雄魂
第十四飛行団司令部
飛行第六十八戦隊
飛行第七十八戦隊
戦歿者慰霊碑

昭和52年5月 ニューギニア飛燕会

昭和18年3月、第14飛行団隷下の第68戦隊、第78戦隊が最初の「飛燕」部隊として編成。ニューギニア戦線にて寡勢の中で奮戦。昭和19年7月25日に力尽き解散…


御朱印

「兵庫縣神戸護國神社」
御朱印を頂戴いたしました。
桜柄の「靖國神社御朱印帳」に。

この御朱印帳では、「靖國」「愛知」「大阪」「広島」「埼玉」「茨城」「千葉」「栃木」「群馬」「長野」「山梨」と護國神社を巡っており、今回の「兵庫神戸」で12社目となります。ゆっくりとですが巡拝を。

「兵庫縣神戸護國神社」

護國神社は桜の季節も良いですが、紅葉の季節も感慨深いものがあり。
紅葉の向こうに鎮まる慰霊碑に静かに接するひとときを。


関連

はじめに

新潟縣護國神社

平成30年12月参拝

明治元年10月29日、新潟市常盤岡(現在の新潟大学医学部)に「招魂社」を建立。
明治8年に新潟招魂社と改称し昭和14年に「新潟縣護國神社」と改称。
戊辰戦争から第二次世界大戦までの新潟県出身の戦死者79700余柱を祀る。

参拝を

御由緒と御写真と

亡き戦友の顔
 陸軍少尉 田沢清作命
  昭和19年9月30日
  テニアン島にて戦死
  新潟県中蒲原郡村松町出身 31歳

笑つてゐるこの写真!
やるだけ俺はゆつたんだと
笑つてゐる 写真
あこがれの桜花と散つたよと
笑つてゐる写真
これで俺の一生は意義があつたんだと
笑つてゐる写真
あとの大東亜は貴様らに頼むぞと
笑つてゐる写真
靖國神社で待つてゐるぞと
笑つてゐる写真
神様になつた戦友の
この写真!

新潟縣護國神社
明治大学戦没学徒忠霊殿

新潟縣護國神社
明治大学戦没学徒忠霊殿

近代日本における対外戦争50年余の間、
明治大学関係者は多数の戦没者を出した。
その数は分かっていない。
太平洋戦争敗戦の際、混乱のなかで奉納の
戦没者名簿が紛失したといわれるが、その数は
学徒出陣を中心に、2000名余とも3700名余とも云われる。
1939年に大学は戦没者記念碑として「忠霊殿」を建立した。
これは駿河台旧図書館(現研究棟前)内に
置かれ、毎年7月10日に慰霊祭を行ってきた。
太平洋戦争の戦没者も合祀され、
1950年、関係者の尽力により
新潟縣護國神社に移され、
明治大学校友会新潟支部(現新潟地域支部)が
主体となって例祭を行ってきた。
このたび、護國神社の御厚意により、
同本殿脇に「明治大学戦没学徒忠霊殿」が新たに
建立されたのを機に、 この間の経緯を記し、
世界平和を願い永遠の追悼を誓うことになった。

2007年6月 明治大学

御朱印を頂戴いたしました。
「不易流行」「温故知新」「敬神崇祖」の三文字から添言葉を選んで下さいということで、迷いなく敬神崇祖を。

建屋写真は「斎館」「社務所」「迎賓館TOKIWA」

新潟縣護國神社
平和の礎

昭和43年建立 中央に「護國の塔」
頭の前の大理石で「平和」を表し、右の女性は「祈り」、左の男性は「誓い」を表している。
この碑は過ぎる大戦において祖国の平和と郷土の繁栄を念じつつ散華された新潟県関係者の軍人軍属在外邦人及び内地戦災者のみたまを慰めている。

平和の礎

…われわれは、この尊い礎に対し感謝の誠を捧げるとともに平和への思いを新たにし明るい豊かな郷土の建築に邁進することを誓うものであります。 願わくば秋風薫るこの丘を、みたまのこよなき憩の場とされて安らかに静まりますよう祈念いたします。(略)

新潟護國神社の慰霊碑群は石垣で一段高くなった参道の脇に林立している。
ゆえに碑の裏面に回り込むことが出来ず、でした。

軍馬の霊を慰む
新潟県軍馬慰霊碑保存会

鎮魂

第十三師団歩兵第百十六連隊第七中隊 戦友会
平成元年五月吉日

歩兵第116聯隊は新発田にて編成。
主に中国大陸に展開し徐州会戦・武漢作戦・襄東作戦などに参戦。そのまま中国大陸で終戦を迎えている。

戦没犬慰霊碑

大陸に
 訓え育てし
  愛犬の
英姿しのばん
 霊よ
  安かれ

平成二年四月
元関東軍軍犬育成所 所員一同 建立

献燈
元関東軍軍犬育成所所員一同 戦没犬慰霊碑保存会員一同

近衛歩兵第二聯隊軍旗拝受百周年記念碑

第三十代近衛師団長 飯田貞固書
昭和四十九年八月 近歩二会新潟県支部 建立

近衛歩兵第2聯隊は明治7年(1874年)軍旗拝受、昭和49年(1974)が100周年。
飯田貞固は最終階級が陸軍中将。新潟県出身。昭和16年予備役。

陸軍少年飛行兵新潟出身戦没者
慰霊の碑

内閣総理大臣 中曽根康弘 書
昭和60年11月建立

戦いが終わつて此処に40年
死んで行った友の霊を弔う
生き残りの戦友たちの
悲しくて強い
平和への願いが何時までも
消える事の無い様に
悲願の碑となった
戦友並びに御参加皆様方の
御芳名を刻んで以て
後世にその志を残さんと
欲したのであるが許されず
心残りである

野戦重砲兵第十五聯隊之碑

詳細は不明。副碑として記念碑建立募金者名もある。

新潟縣護國神社
予科練鎮魂之碑

若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

新潟県出身の海軍飛行予科練習生戦没者鎮魂碑
予科練鎮魂之碑保存会・昭和63年建立

鎮魂慰霊之碑

平成7年終戦50周年記念
新潟県海交会

新潟出身で戦没なされた海軍軍人軍属などの慰霊碑

※海交会、海友会、水交会はそれぞれ別組織であるが、海軍関連団体として合同で活動することも多い。水交会は全国11支部しかない為、地区によっては海交会が地域密着で中心団体となることが多い。

流雲碧空

白鴎遺族会新潟県支部・海軍飛行予備学生生徒有志
平成9年建立

…祖国日本の平和と愛する人々の幸せを祈り学窓から敢然と大空の決戦に挑み勇戦散華された本県出身の海軍飛行予備士官及び当支部の発展に寄与された物故戦友の慰霊と顕彰の為生存同期生有志が建てたものである

元歩兵第116聯隊
第2中隊の樹 植樹記念碑

平成3年4月15日建立

三つの祈
一 先の大戦で散華された戦友の御霊安らかに
二 祖国の復興に尽くし病没された戦友の冥福を祈る
三 風雪に耐え幾山河越え来りし戦友の健康長寿を祈る

元歩兵第百十六聯隊
第三中隊慰霊碑

平成五年八月十五日 歩兵第百十六聯隊は新発田にて編成。第十三師団所属。

慰霊塔 近衛歩兵第三聯隊 新潟

近衛歩兵第三聯隊は明治18年(1885)に編成。兵営は赤坂。

慰霊之碑

ソ連抑留本県出身者166人の慰霊碑
財団法人全国強制抑留者協会新潟県支部慰霊碑設立委員会
平成5年建立

第2次大戦は日本のポツダム宣言受諾により終戦となったが連合軍の一員であるソ連軍のみは宣言を守らず60余万人の奨兵を強制抑留し極寒のシベリアで数年間に及び苛酷な重労働を強制し、飢えと寒さのなか遂に力尽き祖国生還の希いも空しく本県出身者1600余名は無念の死を遂げた 辛うじて生還し得た私達はシベリア抑留死没者の冥福を祈り 再び戦争のない世界の恒久平和を祈念しこの碑を建立する

解散記念碑 

新潟県傷痍軍人会 新潟県傷痍軍人妻の会 平成25年建立


戊辰役殉難者墓苑(戊辰霊園)

戊辰戦争での新潟での犠牲者を祀る墓苑。
薩長の主力は明治元年4月に柏崎・小千谷を占領し、7月に長岡藩を攻略。新潟は戦場とかし西軍(薩長)と東軍(米沢・会津・庄内藩)双方に多くの犠牲者を出した。 この墓苑では東西両軍の区別なく祀っている。

戊辰役東軍慰霊碑
戊辰薩藩戦死者墓(松方正義書)
御親兵十津川隊 戊辰役戦歿者招魂碑
大洲藩船殉難者慰霊

慰霊碑

昭和60年に新潟大学医学部(元招魂場跡地)から発掘された戊辰の役戦死者遺骨92柱を埋葬。

「戊辰役殉難者墓苑」(戊辰霊園)

満州開拓殉難者の碑
 戊辰役殉難者墓苑内

昭和34年8月15日建立

国策の名のもと国家の勧奨に基づき民族協和と新しい村作りに挺身してきた満州開拓青少年義勇隊報国農場員等が昭和20年8月9日戦局の急変に遭い爾来銃弾に病魔に飢餓に酷寒に続続と斃れ遂に異境の土と化した者実に5千まことに痛恨極まりないところである ここにこれ等殉難の霊を慰め永遠の平和を祈願してこれを建てる
 昭和34年8月15日
  新潟県開拓民自興会

綏芬河の碑
 戊辰役殉難者墓苑内

我等は国策により、新潟県郷土中隊として、昭和十八年六月、山崎喜三治隊長以下三九九名が綏芬河義勇隊訓練所に入所。
昭和二十年八月七日、ソ連軍が侵攻し、九日に無防備無抵抗の隊員を銃撃、四十数名の若い生命が奪われた生き残った隊員も逃避行中に飢と寒さで、満州の荒野で数多く他界した。
平成元年、二年と、亡き拓友の終焉の地、八道橋を訪ねて供養を行った。
平成二年十月、綏芬河会総会で有志相図り、亡き友の鎮魂と、若き日の友情を刻み、この地に綏芬河の碑を建立する。
 平成三年七月七日 綏芬河訓練所有志

冬の新潟、本格的に雪降る前の12月上旬の参拝でした。
参拝は16時ごろであり、日没を気にしながらしょうしょう駆け足の参拝。 次回はもうすこし気持ちもゆっくりとさせて参拝したいと思いつつ。

ありがとうございました。

石川護國神社

平成30年12月参拝

兼六園の南に鎮座。
戊辰ノ役で戦死した加賀藩出身戦没者のみたまを明治3年(1870)に祀った招魂社に始まる。
以来、西南ノ役、日清日露戦役、支那事変、大東亜戦争までの英霊4万4800余柱を祀る。
うち第9師団管下の富山・福井・岐阜・滋賀出身者1万4000余柱の英霊も含まれる。

参拝を

御朱印を頂戴いたしました。
靖國神社の靖國桜御朱印帳に集印をはじめて、ようやく14社目。

石川護國神社 社号標

昭和14年4月建立 陸軍大将林銑十郎書

こちらの社号標は昭和17年9月建立。

神馬 
 北支派遣独立混成第一旅団(島兵団)

奉納・昭和55年

昭和12年、支那事変勃発に伴い特設師団として第109師団が編成。
昭和21年5月に復員完了。

「往時を偲び神鎮まります亡き戦友の霊安かれと念じ茲に神馬一基を奉納 永くその記念とするものである」

父子の像 

石川県遺族連合会婦人部一同・平成2年奉納

日華事変・大東亜戦争に祖国の為夫を失った妻の痛みは永久に我が子にも伝えることは出来ません。
今にして憶う今日まで生きて来た力は何だろう、子供は育ったか、育てたか、家族と共にその日、その日の生活に必死でした。
戦後45年、妻の生涯をかけ、真心こめた「父子の像」をここ石川護國神社の一隅に建立させていただきました。
日本の国の平和を願い、婦人部員一同の幸せを末長くお護り下さい。

願掛けの五葉松

高さ約13m、幹周り約2,85m、枝張り約8m、樹齢約600年
姿、形の良さは日本一とも。
枯れる寸前で、病原のコブを取り除き樹勢を取り戻し甦った松。
「甦りの五葉松」

天津神楽之舞歌碑

慰霊平和祈念碑

昭和41年建立

至誠通神の碑

旧・歩兵第七聯隊の営庭跡(現、金沢城・金沢大学構内)一隅に鎮座されていた、歩七忠魂社の前に建てられていたのを、昭和48年6月、歩七戦友会によって現在地に移築されたものである。

愛馬之碑

歩兵第七聯隊兵営に祀られていたものを、昭和62年9月21日に石川護國神社境内に移し復元。

日露戦役凱旋記念月桂樹と記念碑

明治39年11月に日露戦争の大勝を祝い、凱旋記念として当時「兵隊婆さん」と愛されていた宮のさ子さんが、歩兵第七聯隊の営庭に鎮座してた歩七忠魂社の神域に献木した月桂樹と記念碑。
昭和48年に歩七戦友会によってこの地に移植移築。

石川護國神社
官祭招魂社 旧社号標

旧社号標が境内の片隅にひっそりと。
昭和10年1月建立 陸軍大臣林銑十郎謹書 林銑十郎は石川金沢出身。
陸軍大将、陸軍大臣、内閣総理大臣。

清水澄博士顕彰碑

金沢市出身。1868年9月27日(慶応4年8月12日) -1947年(昭和22)9月25日。法学者。大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講。
昭和21年、最後の枢密院議長。日本国憲法施行後、大日本帝国憲法に殉じ国体の危機を憂い熱海錦ヶ浦海岸から投身自殺。墓所は青山墓地。

大東亜聖戦大碑

平成12年(2000)境内参道に大東亜聖戦大碑が建立。
平成22年(2010)「輝く天命戦の真実を知れ」と題する副碑建立。

国旗掲揚台

昭和46年11月奉献

戦傷病者霊碑
傷痍軍人慰霊の碑

昭和60年建立。 石川県在住の者等3075名の霊を慰め永くその功労をたたえる。

陸軍少年飛行兵慰霊顕彰碑

趣意書
 陸軍少年飛行兵の名に負いて南溟の涯北辺の空に散華した石川県出身
70余柱の遺勲を永く後世に伝える為にこの碑を建立する

 抑々少年飛行兵の制度は第一次世界大戦護つかの間の世界平和桃源の夢空しく破れ、暗雲世界を覆い極東に於いても戦局将に動く秋、わが陸軍航空戦力の画期的な担い手養成の為に創設され、昭和9年2月に15歳前後の少年が、所沢陸軍飛行学校に第1期生徒として入校したのを嚆矢とする。
爾来昭和20年入校の第20期生まで数度の学生の変革を経たが、この間操縦・整備・通信の各分科に分れ、技能を学びし者318名を数えるに至った。
学び舎を巣立ち、即戦力として日支事変、大東亜戦争に従軍し、純一無雑、尽忠報國の至誠に燃え任務必遂に邁進した。
日を遂うて苦難凄絶を加え、殊に、航空機の帰還が全戦勢を左右する情勢下に於て少年飛行兵出身者の赫々たる武勲が世に喧伝せられ、海軍の予科練と共に、わが国航空戦力の双璧として、時代の寵児、救国の若き戦士として全国民敬愛の的となった。

 少年飛行兵の歴史は僅か12年、然りと雖も日本陸軍80年の歴史に於て、その1頁を飾る金字塔として特記に値するものであろう。
特攻隊をはじめとし、或いは空・地に於て戦死し、或いは瘴癘の地に戦病歿した友々。
我が国の悠久不滅と永遠の平和と繁栄を信じ、荒爾として己を滅していった英霊こそ、現日本の礎をなすものである。
この事実について将来如何に時代世相の変遷があろうとも、無限の感謝の念を捧げ続けられることを願うものである。

  昭和59年4月8日
    陸軍少年飛行兵生存者の集い
     石川県陸軍少飛会 

陸軍少年飛行兵慰霊顕彰碑

皇后陛下御歌

やすらかに
ねむれとそおもふ
君のため
いのちささけし
ますらをの とも

兜岩

兼六園造園のとき(1825)に 豪商島崎屋徳兵衛が藩主前田斉泰公に献上したもの。

乃木希典将軍所縁
水師営の棗の木(分根)

昭和4年「初雪」に乗り組み中であった岩下石松氏が旅順入港時に水師営に於いて「棗の分根」を戦死研究のために持ち帰った。
その後80年、移植育成され、数年後に石川護国神社境内に鎮座する県海軍将兵慰霊の碑敷地内に記念植樹した。

水師営の会見

旅順開城 約成りて
敵の将軍 ステッセル
乃木大将と会見の
所はいずこ 水師営

庭に一本 棗の木
弾丸あとも いちじるく
くずれ残れる 民屋に
今ぞ相見る 二将軍

石川県海軍将校戦没者之碑

祖国の安泰と繁栄を念じて護国の英霊となられた石川県の海軍将兵は西南の役1柱、日清戦役6柱、日露戦役98柱、大正3年から9年までの日独戦役8柱、済南事変1柱、満州・上海事変11社、日華事変83柱、大東戦争7千4柱、総霊7千212柱であります。
過ぐる大東亜戦争に奇しくも生還することを得たわれら海軍将兵一同激戦苦闘の中に散華された尊い英霊に対しての偉功を讃え尊敬と感謝の念を捧げるとともに遺徳を長く後世に語りつぎ世界永遠の平和の道しるべとしたい念願し英霊を奉祀するここ石川護国神社に謹んでこの碑を建立するものであります。

昭和63年10月吉辰
石川県海軍生存者一同建之 建設委員  
 海友会 海軍三校会 甲飛会 雄飛会 櫻心会

騎兵第九聯隊 軍馬之碑

平成六年五月吉日 騎星会 建立
石川護國神社 宮司 鏑木芳樹 書

ミレー島戦士の碑

ミレー島、中部太平洋に浮かぶマーシャル群島の小さな島である。
昭和十八年九月二日第五十二師団の動員により、郷土部隊が編成され同年十二月一日より昭和二十年八月十三日まで、この島において喰うに食えなく射つに弾丸なく、猛銃爆撃の下、激しく悲惨な闘いを続け大半の戦士は帰らぬ人となった。ここに終戦三十三周年を迎え、遺族及び生存者相集い悲憤に散った勇士の御霊、安らかならんことを願うとともに、祖国の平和を永久に守りたまえと、このささやかな碑に祈りをこめるものである。 昭和五十二年七月

竜の松 大山元帥 御手植

明治11年10月2日
聖上陛下 行啓記念
大山巌公手植松

明治天皇が明治11年に当地に行幸せられた際に、お供をした大山巌公が記念に松を植えられたという。

歩兵第八十三聯隊之碑

碑下には歩兵第八十三聯隊聯隊旗の一部と戦没者七百五柱の鎮魂護符が納められている。昭和54年4月建立。

碑文
昭和13年4月4日
 軍令陸甲第二十一号により第9師団管区に於て編成
昭和13年9月3日から
 北支那に於て作戦警備
昭和17年1月20日から
 仏領印度支那に於て治安維持
昭和21年5月4日、終戦により復員部隊解散
金沢に誕生した我が聯隊を生涯心に銘じ異郷で散華した戦友の霊を慰め祖国の繁栄を祈って建立したものである。
八三会一同

シベリア抑留者慰霊之碑

過ぐる大東亜戦争の末期、我国の敗戦が必至とみられた昭和二十年八月九日 ソ連は突如日ソ中立条約を破棄し、満鮮・樺太・千島列島に侵攻した。
終戦後も、無道・不法を続け我国将兵をシベリア始めソ連各地に強制連行した。
その後長い者は十年余、精神的強迫のもと過酷な重労働を強いられ、六万余名が望郷の思いに身を焦がしすつ屈辱の恨みを呑んで異国の土となった。
わが石川県下の犠牲者も六百余名に及ぶ。
しかも遺体は祀られることもなく、荒野にさらされ、墓地の大半は不明の放置されている。
この民族的悲劇は、我国史上前例がなく、非道の犠牲は永く後世に伝えられなければならない。
それとともに我等は、貴下らの万哭の一念が凝ってソ連崩壊に繋がったことを信じてやまない。  
貴下らが、我国の尊い礎であったことを銘記し、ここに鎮魂の碑を建て、心から冥福を祈るものである。

異国の丘に
 眠れる友よ
故国の礎と
 鎮まり給え

一九九四年十月二日
永遠の平和を祈りこの地に慰霊碑を建立する

財団法人全国強制抑留者協会
石川県慰霊碑建立実行委員会

愛馬の碑

昭和12年、支那事変前後に第九師団留守師団長の安藤紀三郎中将が戦地などで死んだ馬の霊を慰めるために揮毫し、歩兵第七聯隊営庭に建立。 終戦直後に行方不明となり、県中央公園で発見され、昭和62年に当地に移築。

献木碑など

日中受難者 慰霊祭記念樹
野砲兵第一二三聯隊 歩兵第二六九聯隊 慰霊祭記念樹
デンマーク丸海没戦友慰霊祭記念樹
北陸地区戦没 陸軍少年通信兵 慰霊祭記念

満洲第五一四部隊 野砲兵第一二三聯隊 慰霊祭記念樹
石川県近衛会
烈兵団歩兵第一三八聯隊石州ビルマ戦友会
中支三機会 歩兵第七聯隊 第三機関銃中隊

この日は、ミゾレのような白いものが降る中での参拝でした。

時間に余裕があれば遺品展示室なども見学したいところでしたが、余裕なくまたの機会に。

感謝と哀悼の意を込めて、真摯に参拝をし、慰霊碑と向き合うひとときを費やす。

麻布・青山・赤坂の戦跡散策

平成30年9月撮影

歩兵第三連隊兵舎跡(国立新美術館別館)

位置関係

昭和19年10月16日に陸軍が撮影した空中写真をベースに。
近衛歩兵第三聯隊、歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊などを。

散策のスタートは赤坂見附駅と日枝神社から。
ここから赤坂を目指します。 日枝神社は今回は遥拝にて。

曲面ビルは赤坂ザレジデンス、その左には「赤坂TBS」、右には「赤坂パークビル」、赤坂のビルディングに囲まれた地区。

そんな赤坂の裏、「円通寺坂」のある通りに、かつて「近衛歩兵第三聯隊」のあった名残を求めてみます。

近衛歩兵第三聯隊 陸軍境界石

自販機と仲良くならんで林立している標石。
うっすらと「陸軍」と読むことが出来ます。

もうひとつ。
ちょっと摩耗ではっきりとは読み取れませんが。

赤坂パークビルの敷地内の一角に、三菱地所の好意によって「銀杏ヶ丘」という森が平成5年に整備されており、そこにひっそりと記念碑がある。

近衛歩兵第三聯隊跡

近衛歩兵第三聯隊

記念碑に添えて
 近衛歩兵第三聯隊は、明治18年7月3日霞ヶ関に創設され、10月27日軍旗を拝受した。明治24年5月、周縁を桜に囲まれ赤煉瓦三階建兵舎二棟が立つ、赤坂台上の新兵営に移転した。全国から選ばれた近衛兵達は、この兵営で49年間、練武に励み、禁闕守衛の大任を果たし、 日清・日露の両役に出征して偉勲を樹てた。又、支那事変以降は昭和15年6月出征、中国の広西・広東両省南部仏印、シンガポール、北部スマトラ、アンダマン・ニコバル諸島方面に転戦し、この間、補充隊は檜町兵営に移転して業務を遂行したが、昭和20年8月の終戦により、本体はスマトラに於いて軍旗を奉焼し、補充隊とともに60年の歴史を閉じた。
 昭和37年秋、赤坂兵営のシンボル銀杏ヶ丘に聯隊跡記念碑を建てたが、土地開発の進展に伴い、三菱地所のご厚意により老銀杏とともに、ここに移され安置された。
 平成5年7月 近衛歩兵第三連隊聯隊会

銀杏ヶ丘の森のなかで、静かに佇む空間の中で昭和の歴史に思いをはせる。

老銀杏は幹の半分を支えられながらも見事な枝を伸ばしていた。
これは秋の姿を見てあげたい。
秋にまた来よう…そんなことを感じつつ、次の場所へと。


赤坂から南に。
東京ミッドタウンのある「港区立檜町公園」。
此のエリアはもともとは長州毛利藩下屋敷跡。
その後は歩兵第一連隊となり防衛庁(市ヶ谷に移転する前)となり東京ミッドタウンとなり、再開発を重ねてきた地。

歩一の跡

港区立桧町公園
「歩一の跡」
公園の南方の池の畔にひっそりと何の説明もなく佇む記念碑があった。
公園を歩む人々は格別な関心も寄せないし、説明もないのでこれでは意味もわからない碑。

歩一 ・・・ 歩兵第一聯隊

歩一の跡
歩兵第一聯隊 碑誌
当公園一帯は江戸時代長州藩毛利侯の下屋敷であった。明治7年歩兵第一聯隊がここに創設され以来67年間東京および近県の郷土部隊として明治大正昭和に亘って駐屯しこの門をくぐった人々は夥しい数にのぼる。 乃木将軍は第2代の聯隊長であった。ここに出身者有志相集って本碑を建てて永くその跡を留める。
昭和38年秋

「歩一」歩兵第一聯隊のあった檜町公園。
東京ミッドタウンから西にすすむ。
国立新美術館・政策研究大学院大学の地には「歩三」歩兵第三聯隊があった。

陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎跡
国立新美術館別館

1928年(昭和3)に建設。戦後は在日米軍接収。1962年に東大生産技術研究所が当地に移転し2001年まで使用(生研は駒場に移転)。 その後一部を残して解体。2007年に「国立新美術館別館」として活用。

かつての敷地は国立新美術館別館と政策研究大学院大学となっている。

国立新美術館別館
一部保存された兵舎の裏側はガラス張りのオシャレな様相に。

展示コーナーは毎週月・水・木・金の公開。
運良く平日だったので展示コーナーも見学してみましょう。

陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎跡
国立新美術館別館展示コーナー

陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎模型 「日」の字を模した地下一階・地上三階の建物は関東大震災復興の象徴でもあったという。
陸軍としては初の鉄筋コンクリ造兵舎。 現在は別館として中庭通路口の一部と外壁の一部が保存されている。

国立新美術館別館展示コーナー

2001年の全体空撮写真のパネル

参考比較として現在の様子をGoogle Mapsをトリミングしてみた

兵舎時代の正面写真パネル

展示パネル
地階・1階〜3階
中央部分は一段低く2階までだったということがわかります。

歩兵第三連隊兵舎跡(国立新美術館別館)
一部保存された兵舎跡

入り口スロープ 弾痕の跡・・・とされているが、いつのなんの弾痕かは不明。
二・二六事件との因果関係も不明。

歩兵第三連隊兵舎跡(国立新美術館別館)

国立新美術館をあとにして移動を。
道路(外苑東通り)を挟んで「東京都立青山公園 南地区」に向かいましょう。

「東京都立青山公園 南地区」も歩兵第三聯隊、そして近衛歩兵第五聯隊ゆかりの地。

麻布台懐古碑
(東京都立青山公園・南地区)

かつてこの麻布台には歩兵第三聯隊が展開されていた。
思えばこの日に巡った歩一(歩兵第1聯隊)、歩三(歩兵第3聯隊)、近歩三(近衛歩兵第3聯隊)はいずれも二・二六事件に関与の部隊だったり。
それを記録する何かはいずれも皆無でしたが。

麻布台懐古碑
麻布・赤坂・青山地区の歴史は古く、縄文時代(紀元前8000年頃より)にはすでに人類が居住しており、同時代の各種の土器や石器が発見され、平安時代には農耕を守護する神として、弘仁13年(822)に竹千代稲荷、天慶年間(938〜946)に朝日神社(日ヶ窪稲荷)等が建立された。
 (中略)
明治7年(1874)11月創立された歩兵第三聯隊は、明治22年1月から昭和14年(1939)8月近衛歩兵第五聯隊が編成されるまでこの地に駐屯し、聯隊主力は昭和11年5月中国東北部に渡った。その後昭和18年8月より沖縄県宮古島の防衛に任じたが、終戦により聯隊歴史の幕を閉じた。
近衛歩兵第五聯隊は昭和16年1月中国南部に駐屯して、12月太平洋戦争勃発と共に南方戦線に出動し、マレー半島、シンガポール、ジャワを経て北部スマトラ(インドネシア)に駐留し終戦を迎えた。 昭和18年5月首都防衛のため近衛歩兵第7聯隊が創立された。
現在東京大学生産技術研究所の使用している鉄筋コンクリート造り3階建楕円形の建物は、関東大震災のため倒壊した兵舎を昭和3年6月再建したものである。  (注:現在は解体され、一部が国立新美術館別館として保存)
現在の港区六本木7丁目22番、同23番のここ麻布台に立って、その変貌を目のあたりにし、栄枯盛衰の歴史を回顧すると、万感こもごも至ってやまない。よって桜花咲き誇った馬屋跡の青山公園に記念の碑を残す。
  昭和62年10月25日
  近衛歩兵第五聯隊 
  歩兵第三聯隊 
   有志一同建立 (裏面は寄付者芳名・略)

東京都立青山公園・南地区

かつて歩兵第三聯隊(麻布三聯隊)や近衛第五聯隊・近衛第七聯隊のあった麻布台には、現在は米軍基地がある。
東京都区部唯一の在日米軍基地「赤坂プレスセンター」(麻布米軍ヘリ基地・ハーディー・バラックス )

この地は明治22年(1889)歩兵第三聯隊駐留以来、変わらずの軍用地…


常陸丸殉難 近衛後備隊将士之墓
(青山霊園)


常陸丸殉難 近衛後備隊将士之墓
明治37年8月20日建立

青山霊園の中央通り(この表現が正しい不明ですが)に面した慰霊墓。
近衛聯隊(後備近衛歩兵第一聯隊)にまつわる墓があるので、参拝してきました。

常陸丸殉難 近衛後備隊将士之墓
 
 明治37年(1904)日露戦争が勃発し、同年6月14日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸に乗船し宇品を出港し、勇躍征途に就いた。翌15日午前十時頃、沖ノ島付近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として三隻の敵艦が現れ、猛砲撃を加えてきた。 もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術なく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃れた。
 野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益良雄も、海上では如何とも為し難く、今はこれまでと覚悟した聯隊長は、皇城を遙拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も無念の涙を飲んで玄海灘の波間に没した。
 武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。
 明治37年10月30日、殉難者墓碑を建設し、近衛隊の英霊635柱の遺骨、遺髪、遺品、写真などを納め、神式および佛式で盛大な慰霊祭が執り行われた。
 
昭和61年6月15日
殉難82周年慰霊祭にあたり誌す
 常陸丸遺族会
 全国近歩一会

以下は余談ですが、常陸丸事件について。

常陸丸事件

日露戦争
1904年(明治37年)6月15日、玄界灘を西航中の陸軍徴傭運送船3隻がロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊によって撃沈破された事件。
陸軍徴傭運送船「常陸丸」(日本郵船 6,172トン)の喪失は国内世論を憤激、特に海上警備の第二艦隊・上村彦之丞中将に対して強い非難が集まった。

日露戦争後、千鳥ヶ淵公園に常陸丸殉難慰霊碑建立。
しかし第二次大戦後に一度撤去され、昭和40年(1965)に靖国神社境内に移設の上で慰霊碑が再建されている。

毎年6月15日午前10時より、靖國神社では常陸丸殉難御祭神霊祭が斎行されている。

常陸丸殉難記念碑 (靖國神社)

元帥伯爵 東郷平八郎 書
常陸丸殉難記念碑 碑裏面
昭和9年10月
陸軍大将正三位勲一等功四級 荒木貞夫 撰文揮毫
常陸丸殉難記 明治三十七年皇師海ヲ越エテ露ヲ征ス・・・(略

常陸丸殉難記念碑
 明治37年(1904)日露戦争が勃発し、同年6月14日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知(すち)中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸に乗船して宇品を出港し勇躍征途に就いた。翌15日午前10時頃、沖ノ島附近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として3隻の敵艦が現われ猛砲撃を加えてきた。もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術もなく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃れた。
 野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益良雄(ますらお)も、海上では如何とも為し難く今はこれまでと覚悟した聯隊長は、皇城を遥拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も、無念の涙を飲んで玄界灘の波間に没した。
 武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。

 昭和61年(1986)6月15日
 殉難八十二周年慰霊祭にあたり誌す
  常陸丸遺族会
  全国近歩一会

碑の裏面には、荒木貞夫陸軍大将の選文揮毫による碑文が刻んである。

常陸丸殉難記念碑
本碑ハ曽テ牛ヶ渕ニ在リ偶々大東亜戦争終結ニ際シ破却セラル仍テ日露戦争六十周年ニ当リ此ノ処ニ復興再建ス
昭和四十年十一月十五日 常陸丸受難記念碑 
復興期成会


常陸丸殉難記念碑の表を東郷平八郎、裏を荒木貞夫が記していることが興味深い。陸海あげての受難記念碑。

合掌


少々脱線でした。

そういえば、今回巡った
 歩兵第一聯隊
 歩兵第三聯隊
 近衛歩兵第三聯隊
は二・二六事件にが関与してたり・・・


近衛聯隊のメモ
 近衛歩兵第一聯隊 北の丸
 近衛歩兵第二聯隊 北の丸
 近衛歩兵第三聯隊 赤坂 
 近衛歩兵第四聯隊 明治神宮外苑(北青山)に記念碑あり(未訪問)
 近衛歩兵第五聯隊 麻布台
 近衛歩兵第六聯隊 明治神宮外苑(北青山)に記念碑あり(未訪問)
 近衛歩兵第七聯隊 麻布台

これは都内の次の課題は明治神宮外苑(北青山)ですかね…

北の丸・千鳥ヶ淵周辺の戦跡散策

平成28年5月撮影

灯台下暗し。近いと何時でも良いやと思って訪れない場所がある。

ある日の午後。
ふと思いたって北の丸の戦跡史跡散策を決行。考えてみれば良く歩くわりにはこの界隈は気にしてなかったなあ、と。

(北の丸といえば、近隣の近代建築としての九段会館は、もう・・・)

北の丸公園の田安門から散策開始。

彌生慰霊堂(弥生慰霊堂)

戦前は「彌生神社」(弥生神社)として祀られていた聖域。 参道脇には力強い狛犬が控えていました。

警視庁及び東京消防庁の殉職者を祀る。

警察・消防殉職者のために、1885年(明治18年)10月7日「弥生神社」創建。
弥生とは当初の鎮座地である文京区向ヶ岡弥生町に由来。

戦後、警視庁として「弥生神社」を管理できなくなった為、1947年(昭和22年)10月に現在地に遷座するとともに名称を「弥生廟」と改称。
1983年(昭和58年)9月に「弥生慰霊堂」に改称し、従来の神式慰霊祭から無宗教形式の慰霊祭に変更。

慰霊、そして感謝を。

昭和天皇御野立所

この彌生慰霊堂の地は、もう一つ歴史的な場所。

昭和天皇御野立所

 大正12年(1923)9月1日午前11時58分、関東地方一帯に大地震が発生した。死者、行方不明者14万人、家屋の全壊、焼失57万戸、罹災所帯69万に及ぶというわが国災害史上未曽有の大惨事であり、東京遷都の噂すら流れたほどであった。
 時に摂政であらせられた 昭和天皇は「東京ハ依然トシテ国都タルノ地位ヲ失ハズ、コレヲ以テソノ善後策ハヒトリ旧態ヲ回復スルニ止マラズ、進ンデ将来ノ発展ヲ図リ・・・・・」との詔書を発せられて、復興の方針を明示されると共に、同月十五日親しく被災地を御視察遊ばされた。
 それより6年有余の歳月と7億円(昭和5年度一般会計歳出16億円)の巨費を投じて鋭意再建に努めてきたが、漸く復興が成り、昭和5年3月26日皇居前広場に於いて、天皇陛下の親臨を仰ぎ、帝都復興祝賀の式典が盛大に挙行された。
 昭和天皇は、これに先立つ24日、被害の甚だしかった下町一帯の復興状況を、約五時間に亙り御視察遊ばされた。その第一歩を駐めさせ給うたのがこの地である。当時はここから東京湾まで眺望することが出来た。
 その後ここに「御野立所記念碑」が建てられたが、長年の風雪に曝されて損傷が著しくなっていた。この地は嘗て近衛歩兵第一聯隊が駐屯していたところである。そこで有志相倚り昭和天皇御誕生日を卜して「御野立所記念碑」を再建し、御聖徳を偲び奉るものである。
  平成元年(1989)4月26日
   近衛歩兵第一聯隊會

位置関係

USA-M377-65
1947年(昭和22年)07月24日‐米軍撮影

北の丸公園 

武道館の前、通りを挟んだ茂みに石碑がありました。

皇紀二千六百年 植樹記念碑

陸軍少将 三浦真書

詳細は不明。


近衛歩兵第一連隊跡記念碑

日本陸軍最初の連隊として、明治7年(1874年)創設。
皇居守護の要たる名誉ある連隊。
その近衛歩兵第一連隊、通称「近歩一」を記念する碑

近衛歩兵第一連隊跡記念碑

近衛歩兵第一聯隊記念碑

 近衛歩兵第一聯隊は、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、明治7年(1874)1月23日、
 明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年(1945)大東亜戦争の終末に至るまで、71年余りの間この地に駐屯して、日夜皇居の守護に任じ、
 大正天皇 今上天皇も皇太子であらせられたとき、それぞれ10年の長きに亘り御在隊遊ばされた名誉ある聯隊である。
 西南・日清・日露の各戦役及び日華事変には、軍に従って出征して輝かしい勲功を樹て、大東亜戦争に於いては、帝都防衛の一翼を担った。
 近衛兵には、毎年の徴兵検査で全国から厳選された優秀な壮丁を以て充てられていた。
  昭和42年(1967)1月23日 全国近歩一会


近衛歩兵第二連隊跡記念碑

こちらは近衛歩兵第二連隊の記念碑。
近歩一と同じく日本陸軍最初の歩兵連隊。
栄光ある近衛連隊として、近歩一とは別に独立した記念碑が建立されている。

近衛歩兵第二連隊記念碑
傍らに植えられるは橘の木。

近衛歩兵第二連隊記念碑
昭和8年建立の柱
近衛歩兵第二連隊将校一同

天業快弘
皇道宣布

近衛歩兵第二聯隊記念碑

 近衛歩兵第二聯隊は、明治7年1月23日、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、
 明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年大東亜戦争の終結に至るまで、70余年の間此の地に駐屯して日夜皇居の守護に任じ、この間明治10年西南の役、ついで日清、日露の各戦役に出陣し更に昭和には、日支事変にて南支、拂印へ出征し、輝かしい勲功を残した。
 近衛兵は毎年全國から選抜された、優秀な壮丁を以って編成されていた。
 平成10年1月23日 近歩二会


吉田茂像

船越保武 作
安岡正篤 文
桑原翠邦 書

吉田茂像の碑文を「昭和の黒幕」と称された安岡正篤氏が作文なされたのが趣深い。

吉田茂像碑文
吉田茂
古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦ニ社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩ニ方リ萬世ノ為ニ太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事ニ任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ舉用シ民心ヲ鼓舞シ以テ復興ノ大義ニ盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉勲ト謂フベシ後人相謀ツテ茲ニ厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善イ哉
昭和五十六年九月

北の丸公園の南出口。

こちらの門は、乾門。
正月の一般参賀の北の参出口としておなじみですね。

北白川宮能久親王銅像

東京国立近代美術館工芸館の隣。
明治28年、近衛師団を率いて台湾出征。疫病に罹らせ給い台南に於いて薨去遊ばされた。御年49歳。

騎兵の銅像として、躍動感も一級品。


東京国立近代美術館工芸館
近衛師団司令部庁舎

国重文
明治43年(1910)造営。
陸軍技師田村鎮の設計による赤レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風。明治洋風建築の代表建築。

東京国立近代美術館工芸館
かつての「近衛師団司令部庁舎」(国重文)

魚眼にて。

「近衛師団司令部庁舎」(近代美術館工芸館)

正面中央の玄関部には、小さな八角形の塔屋。
両翼部には、張り出しがある簡素なゴシック様式の建物。
日本人技術者が設計した現存建物としても貴重。

細部をみてみると、陸軍名残の星型もあり。

流線形が美しい雨樋。
流線部に開口窓があり、異物を除去する事が出来ます。
これは機能美溢れてますね。

ちょうど無料開放日でしたので内部にも。
エントランスホールを内側から。

1階階段を下から。

階段踊り場の曲線美に萌える。

階段踊り場から。

2階

風格に溢れてます。
見ていて全く飽きないですが、ぼちぼち次の場所に。

千鳥ヶ淵をめぐる。

近衛師団司令部庁舎から首都高を渡った先、この緑のこんもりとした空間が次のポイント。

近衛第一師団
 地下壕・地下防空陣地跡

陥没の恐れがあるため、立入禁止

近衛師団司令部庁舎と皇居に挟まれた、この場所。

今は入口が塞がれてしまっているが、この場所が近衛第一師団隷下の近衛機関砲第一大隊の地下壕、地下防空陣地跡という。

近衛第一師団隷下の近衛機関砲第一大隊が展開された地下壕・地下防空陣地跡。

そのこんもりとした台地の上には竪穴通気口があった。
この下が地下空間がある証でもあり。
覗いてみましたが木の枝ばかり…

高射機関砲台座跡

唐突に、不自然な石のベンチが見えてくる。

これ、実は高射機関砲(九八式二十粍高射機関砲・九八式高射機関砲)の台座跡という。七座残っていた。

ここに先ほどの近衛機関砲第一大隊が展開されていた、と。

今は特に何かを説明するでも案内するでもなく、台座は静かにベンチとして第二の余生を過ごしていた…


せっかく千鳥ヶ淵まできたので、参りましょう。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

千鳥ヶ淵戦没者墓苑。

鎮魂と…
感謝と…

祈念する空間。

戦士たちは名を残し、戦士たちは靖國で逢おうと散りゆけれど。
ただ不幸にもその戦士たちの遺骨に名が紐付け出来ず、帰る場所を失ったために、千鳥ヶ淵墓苑に眠る…

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

いつも8月15日には、この場所にも足を運んでたが、8月15日の政争空間を垣間見てしまうと心にはざわつきがあった。
この日は初めて、この場所で心穏やかに拝する事が出来たかも知れない。

御製
いくさなきよを
あゆみきて
おもひいづ
かのかたきひを
いきしひとびと

終戦60周年の御製を常陸宮妃殿下が謹書

御製
くにのため
いのちささげし
ひとびとの
ことをおもへば
むねせまりくる

千鳥ヶ淵墓苑創建の年(昭和34年)に 昭和天皇から下賜された御製を秩父宮妃殿下が謹書

墓苑の一隅に。
引き揚げに伴う死没者の永遠の平和祈念碑 強制抑留者の尊い命を失われた方々の追悼慰霊碑
改めて合掌。

さざれ石に、大賀ハス。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑。
はじめて、こんなにゆっくりと参拝させていただきました。

昭和34年、国により建設された「無名戦没者の墓」です。

無名戦没者などはいない…と。

不幸にして千鳥ヶ淵戦没者墓苑に埋葬されたのは名が残らなかった遺骨であれども、その御霊は靖國神社に集う、と。
靖國神社で会おうと誓って散った名のある戦士たちの御霊は靖國神社に祀られ家族達に祀られ、名が判明しなかった遺骨のみが千鳥ヶ淵に眠ると…


千鳥ヶ淵を北上して靖国通りに。
スタート地点近くに戻ってきました。

元帥陸軍大将大山巌公像

日露戦争の陸軍の中心人物。満州軍総司令官。 「陸の大山、海の東郷」

品川 弥二郎像

大山は薩摩、品川は長州。 軍人と政治家。両者の像が今は並んでいる。

九段下の靖国通りに。

高燈篭(常燈明台)

靖国神社の常夜灯として明治4年(1871)に建設。靖国神社に祭られた霊のために建てられたという。
昭和5年(1930)に現在地に移転。

豪北方面戦没者慰霊碑

靖國神社入口の向かって右脇。北の丸の反対側に人知れず鎮座。

豪北とは、東南アジア地域のこと。
靖國神社には良く参拝している方々もここに目を向けることは少ないかもしれない。
私も久し振りに訪れました。

九段下から北の丸公園~千鳥ヶ淵を経て、靖國神社に。
たまにはこんな散策も良いかもしれない。

靖國神社境内の慰霊碑等はまたの機会で。
幾つか点在してるんですが、今回はいったん〆

渋川護國英霊殿

平成30年12月撮影

渋川護國英霊殿

説明板
この社はお国のために亡くなられたご英霊が祀られております ご英霊に感謝いたしましょう

群馬県渋川市・並木児童公園に隣接して鎮座。 当時の群馬県北部11か町村、幾多郡三か村の、日清・日露の戦役までの戦没者114名を合祀し、大正8年に建立したことにはじまる。

渋川護國英霊殿 社号標 護國英霊殿
陸軍大将鈴木孝雄書


鈴木孝雄は内閣総理大臣・鈴木貫太郎海軍大将の弟。現役を退いてから靖國神社第四代宮司や、戦後は偕行社会長を務めている。昭和39年1月29日死去。

戦後、これまで管理してきた「渋川在郷軍人分会」は解散し、公的機関による英霊殿への行事は禁止される。昭和21年、有志により「英霊奉士会」が発足し渋川町出身の戦没者を英霊殿に合祀。現在は「渋川市戦没者慰霊奉賛会」が維持管理を行っている。

この地はもともとは真光寺境内にして「並木白山権現」(白山妙理権現・北裏並木の白山宮)の地であり、長尾氏の白井城の地であったという。
白井城は1572に武田信玄によって攻略され焼失。信玄は真光寺・白山宮を再建。現在の石宮は寛文12年(1672)に白山宮社殿跡に建立されたもの。

瑞垣内には、 水雷缶(浮標水雷缶・浮標水雷罐=敷設水雷/機雷=機械水雷)と砲弾が奉じてあった。

並木児童公園に建立されている碑石群

英霊碑

大東亜戦争における渋川地区出身戦病死者の慰霊顕彰 昭和29年3月31日 渋川町英霊奉賛会 建立

ほかにも征清役(日清戦争)・北清事変(義和団事件)・日露戦役(日露戦争)にまつわる慰霊碑が建立されていた。

訪れた当初、情報が少なく公園の中に小さく鎮座しているのかと思って足を運んでみたら思った以上に大きくしっかりとした空間に驚きを感じ。
神道形式の護国神社の形態を維持した英霊殿。群馬県北部地区出身の英霊を祀りし空間。

真心こめて慰霊参拝を。

上州の空と山々を仰ぎながら…

中島飛行機武蔵製作所関連の戦跡散策

平成29年11月撮影 武蔵野市・西東京市

昭和19年11月24日。
B-29爆撃機による東京初空襲。

その最初の空襲目標は…
世界に誇る東洋一の航空機メーカー「中島飛行機武蔵製作所」であった。

位置関係

出典は「地図・空中写真閲覧サービス – 国土地理院」
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1

位置関係が変わってない競技場やプールや浄水場を軸にするとわかりやすい。

8921-C6-132
1944年(昭19)11月07日‐陸軍撮影を編集 空襲前
USA-M372-69
1947年(昭22)07月09日‐米軍撮影を編集

中島飛行機武蔵製作所引込線(廃線跡)

三鷹側から「堀合遊歩道」として整備されている黄色線が「国鉄武蔵野競技場線跡」
そして武蔵境側から「本村公園」として整備されている緑線は「境浄水場引込線跡」

緑線と黄線を跨ぐ赤線を引いた部分が「中島飛行機武蔵製作所引込線跡」
黄線と合流したら工場まで伸びていきます。

堀合遊歩道

かつての「国鉄武蔵野競技場線跡」。
この先の「ぎんなん橋」あたりからは、廃線跡遊歩道は「中島飛行機武蔵製作所引込線跡」をも兼ねる道となっていきます。

昭和25年5月に中島飛行機武蔵野製作所の引込線が廃線。
昭和26年4月に武蔵野競技場線開業、34年11月1日に廃線。

ぎんなん橋(堀合遊歩道)

かつての「国鉄武蔵野競技場線跡」
その前身は「中島飛行機武蔵製作所引込線」

平成24年(2012)に当時の橋台跡の上に現在の橋が建設。
廃線跡を思わせるように鉄路が復元されている。

昭和13年から昭和20年まで中島飛行機武蔵製作所が稼働。
主に零戦や隼のエンジンなどを生産。この引き込み線は武蔵境駅から工場へ軍需物資を輸送する線路として活用。戦後はグリーンパーク野球場として再開発され武蔵野競技場線として運用。昭和34年に廃線。

平成24年に「中島飛行機武蔵製作所工場」の引き込み線跡に残っていた橋台の場所に「ぎんなん橋」が建設。
橋の両脇には当時の「橋台」の跡がかろうじて残されている。

かつての「国鉄武蔵野競技場線跡」
その前身は「中島飛行機武蔵製作所引込線」

その廃線跡は緑道として整備されている。
中島飛行機武蔵製作所の跡地に建設されたグリーンパーク野球場の名を残す緑地。もちろん今は野球場も残っていない。

廃線跡の緑道を北上していきましょう。

関前公園
関前高射砲陣地跡

国鉄武蔵野競技場線跡・中島飛行機武蔵製作所引込線

のどかに広がる緑地はかつての高射砲陣地跡。

「関前高射砲陣地」
この場所には高射砲6門が半円状に展開されていたという。

グリーンパーク遊歩道の途中に案内看板がありました。

武蔵野市は出来る限りの良き整備をしてくれてます。

1942年の地図と1951年の地図。
武蔵境駅から中島飛行機武蔵製作所工場に向かっていた線路は、戦後に付け替えされ武蔵境から浄水場へ、三鷹から野球場へと。

都立武蔵野中央公園

遊歩道の突き当りは「都立武蔵野中央公園」。
この中央公園が「中島飛行機武蔵製作所」の跡地。

都立武蔵野中央公園の歴史
武蔵野は月の入るべき山もなし、草より出でて草にこそ入れ(古歌)

(略)
緑が美しいのどかな畑地であったこの地は、昭和13年、中島飛行機株式会社が、本公園の敷地を含む畑地66万平方メートルに大規模な工場を建設したことにより、時代の荒波に巻き込まれることとなった。
中島飛行機株式会社は、大東亜戦争(太平洋戦争)中、零式艦上戦闘機(零戦)を始め陸海軍機の発動機を生産する国内随一の航空機メーカーであったため、米軍による攻撃の最大の標的となり、戦争の激化に伴い昭和19年11月以来延べ9回にわたる空襲を受け、工場だけでも220名mこのほか周辺町民多数の尊い生命が奪われ、工場もほとんどが灰燼に帰してしまった。
終戦を迎えて工場は閉鎖され、新生日本への復興の道が模索され始めた昭和27年、工場跡地に…米軍宿舎を建設することが決定。…返還運動が高まり、昭和48年、ついに返還が実現した。
昭和50年、東京都はこの地を都市計画公園として整備することを決定。
その後の昭和53年には前提的に全面解放され…
(略)
平成元年、通称「はらっぱ公園」として親しまれる、現在の都立武蔵野中央公園が誕生することとなった。
(略)
我々は歴史を振りかえり戦争の犠牲になられた多くの方々に心から哀悼の意を表するとともに、この「はらっぱ」をかけめぐる子どもたちの声に象徴される平和な光景がいつまでも続くよう市民として国民として世界の国々と理解と友好、協力を深めるための不断の努力を続けていきたい。
平成11年4月武蔵野市

関前八幡神社

公園から南下。

中島飛行機武蔵製作所のすぐ南に鎮座。
創建年代は寛文12年(1678)に創建という。
関前の集落の鎮守。南面鎮座。 中島飛行機時代も変わらずの土地鎮守。

関前八幡社の隣に鎮座している寺院

八幡山 延命寺

真言宗智山派 多摩八十八ヶ所霊場 第二番札所・関東九十一薬師第九番霊場

この寺院に戦争の遺物が残されている。

250キロ爆弾の破片
平和観音菩薩

「八幡山 延命寺」(武蔵野市)

「250K爆弾の破片」

「平和観音菩薩」
…私達は陸海空に護国の華と散った英霊、戦火に命を失った戦災殉難者のいしずえを絶対に忘れることは出来ません。そして痛ましい戦争の悲惨と恐怖と罪悪を常に想起して平和に対する努力を怠ってはなりません…

平和祈念の合掌を

実はこの寺院(延命寺)には中島飛行機ゆかりの「プロペラ」が残されているという。

が、見渡して見当たらないので寺務所でお伺いをしてみると… 「以前はこちらにて保管しておりましたが、今は、ふるさと歴史館にお預けしております。」 ということで別日に改めてふるさと歴史館へと。

武蔵野市立武蔵野ふるさと歴史館

ここに前述の「延命寺」所蔵のプロペラが委託展示されている。
この木製プロペラは中島飛行機武蔵製作所にて製造されたエンジンの地上試運転用に使用されたという。 なお試運転工場は当時の北門近く、現在のNTT武蔵野研究開発センター付近にあった。

中島飛行機関連の展示もあり。

中島飛行機武蔵野製作所の開設記念盃
中島飛行機の社章が描かれ、側面には「中島飛行機株式会社武蔵野制作所昭和十三年五月二十一日」とある。
中島飛行機は「陸軍向けの武蔵野製作所」と「海軍向けの多摩製作所」が合併して後に「中島飛行機武蔵製作所」へとなっている。

私が訪れた時、市制施行70周年記念企画展として「TARGET No.357 ~攻撃目標となった町、武蔵野~」企画展示が展示されておりました。(平成29年12月)

http://www.city.musashino.lg.jp/kurashi_guide/shogaigakushu_koza/rekishikan/1017121/1017504.html

1トン通常爆弾(2000ポンド通常爆弾) 復元
尾翼を含めた全長は235cm

鉄兜
正面に中島飛行機の社章が入っている。武蔵製作所の工員が使用したものか。

そのほかエンジンの部品や武蔵製作所食事券、屋根や地下通路の破片など。


話を戻します。

中島飛行機

昭和13年に武蔵野に進出することになる中島飛行機は、群馬県新田郡尾島町(現・太田市)にて創業(大正6年・1917)した「飛行機研究所」にはじまる。

創業者は中島知久平(元海軍機関大尉)

大正8年に中島飛行機製作所と改称。
大正13年(1924)に東京工場(後の東京製作所・杉並区桃井)を建設し翌年より東京工場にてエンジンの本格生産を開始。

そして昭和13年(1938)に陸軍の増産要請により陸軍専用のエンジン工場として武蔵野製作所(武蔵野市緑町)を開設。

昭和16年(1941)、陸軍専用エンジンを製造していた「武蔵野製作所」の西側に、海軍専用のエンジン工場として「多摩製作所」が開設。
昭和18年に軍需省より増産命令を受け両製作所を統合し陸海軍機の生産を一元化された「中島飛行機武蔵制作所」が成立。
国内エンジン生産シェア4分の1を誇るものとなる。

昭和18年12月、軍需会社法により中島飛行機は軍需省管理下の軍需会社に指定。
武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所を中心に西東京田無には中島航空金属田無製造所、三鷹には中島飛行機三鷹研究所などが展開。
また周辺には立川飛行機や陸軍立川飛行場陸軍調布飛行場、府中陸軍燃料廠など軍事施設が集中。

昭和19年(1944)11月24日。
マリアナ諸島を発進したB29の東京初爆撃の目標地点は「中島飛行機武蔵製作所」であった。
米軍は武蔵製作所を標的とし高度8000メートル以上の高高度爆撃を行うも、この初空襲での命中率は高くなかった。武蔵製作所は1箇所の工場としては例を見ない計9回に及ぶ爆撃を受ける。

爆撃による壊滅的な被害を受けた中島飛行機武蔵製作所は、各地に工場機能を移転。(工場疎開)
八王子浅川では地下壕にて浅川工場、栃木宇都宮では大谷石採石場跡を利用した大谷工場、福島信夫山に福島工場など30ヶ所以上に分散疎開工場を展開したという。

昭和20年4月に中島飛行機は国営化され「第一軍需工廠」となり、武蔵製作所は「第十一製造廠」に指定。
疎開先の工場は本格稼働も出来ず、特に地下壕の浅川工場は湿気による金属腐敗や内外の温度差などが生産に不向きな環境であり、結局終戦までに10数個のエンジンが完成しただけだったという。

戦後、中島飛行機武蔵製作所の東工場跡地(武蔵野製作所)は電気通信研究所やグリーンパーク野球場、都営公団集合住宅などに。
西工場跡地(多摩製作所)は米軍が接収し米軍宿舎を経て、返還後の平成元年(1989)に武蔵野中央公園へと。


「中島飛行場武蔵製作所」全景(1944年)
一枚目の画像は武蔵野私立武蔵野ふるさと歴史館 「TARGET No.357 ~攻撃目標となった町、武蔵野~」企画展パンフレット(図録)より抜粋
二枚目の画像は現在の航空写真

それでは、この地図を元に周辺を散策してみましょう。

変電室跡(解体済み)

都営武蔵野アパート建設後に管理事務所として活用された建物がここにあった…。
当時の変電室とされる建物。
しかし残念なことに平成27年に解体。
表向きは戦災の傷跡がなく保存の価値なしとされ解体されてしまったが、建屋解体途中に「戦災の傷跡=不発弾の痕跡」が見つかるも、あとの祭り…

中島飛行場武蔵製作所正門跡

敷地面積は約56万平方m(東京ドーム約12個分)の広さを誇る巨大な軍需工場の正門跡。約5万人が働いていた。

当時、この正門から出入りできる社員は工場幹部クラスだけとされ、一般従業員は別の入口から工場内を張り巡らされた地下道を通じて各職場に赴いていたという。

中島飛行場武蔵製作所東門跡(推測)

現在、武蔵野市役所や市民公園のあるエリアの近くが工場の東エリア。
このあたりに東門があったと推定。

中島飛行場武蔵製作所競技場・プール

東門(推定)から道路を挟んだ向かいにグラウンドとプールがある。
現在の「武蔵野総合体育館」や「市民プール」のある場所。

中島飛行機時代は工場従業員の為の運動施設であった。当時の航空写真でもグランドやプールの形がはっきりと見える。

北裏バス停

このバス停ある地域は「北裏」と呼称されている。
これには「中島飛行機武蔵製作所の北側の裏」の意もあるとか。(諸説あり)
バス停の位置は確かに工場の北裏・・・

中島飛行場武蔵製作所北門跡

現在のNTT武蔵野研究開発センター。
このあたりに、かつては工場の北門があったと推定。

NTT武蔵野研究開発センターの地にはプロペラ試運転場などがあった。 このセンター建設時の調査では地下通路が張り巡らされていた跡などが確認されている。

中島飛行場武蔵製作所跡の北西部 (関前橋交差点近く)

工場跡を歩いていたら、中島飛行機のDNAを受け継ぐ空間がありました。

「株式会社SUBARU 武蔵野社宅」
中島飛行機ゆかりの地で、目にすると嬉しくなります。 中島飛行機株式会社は戦後に解体され富士重工業を経て「SUBARU」へと。

武蔵野中央公園 西口側

再び武蔵野中央公園へ。今度は西側の入口から。
当時の引込線と遊歩道と関係あるようで関係ないとは思いますが、遊歩道に引込線を夢想してみる。

中島飛行場武蔵製作所
 工場地下通路の遺構

公園内の西側。東西に伸びるコンクリート片。
一説にはこのコンクリート遺構は工場地下通路の残骸ともされている。

中島飛行場武蔵製作所跡(武蔵野中央公園)から千川上水を南西の方角に歩む。

武蔵野大学

戦前は武蔵野女子学院と称された学校。浄土真宗本願寺派の学校として1924年に築地本願寺内に「仏教精神による人間教育」を目指し武蔵野女子学院が設立したことに始まる。

武蔵製作所からは南西に約1キロ。

武蔵野大学構内に戦時中の悲劇を物語る場所があるので訪れてみた。
雪頂講堂6号館と図書館のあいだの空間。
ちょっとした木々の茂みの中に石碑がある。

散華乙女の記念樹碑(武蔵野大学構内)

碑文
 武蔵野女子学院高等女学校5年生は、昭和19年勤労報国隊として動員され中島飛行機武蔵製作所で航空機増産の為に連日けんめいに働いていました。
 たまたま同年12月3日作業中空襲があり待避のため母校の掩蓋壕に入りましたが悲しいかな直撃弾を受けて赤澤ミヨ・小林リツ子・斉藤昭子・中根尚子の4名の年若い命が散華いたしました。
 その爆弾跡に土壇をつくり椿・侘助を植えて哀悼の記念樹といたしたものであります。
 武蔵野女子学院 昭和53年12月建之

1944年1月「緊急学徒勤労動員方策要綱」閣議決定。
学徒勤労動員
同年4月から、全国の国民学校高等科、中等学校、専門学校、大学の学生・生徒が軍需工場などに通年動員。
中島飛行機武蔵製作所には武蔵野女子学院高等女学校5年生が送られた。

昭和19年(1944)12月3日。
11月24日の第1回目爆撃に次いで第2回目の爆撃が中島飛行機武蔵製作所を襲う。勤労動員されていた武蔵野女子学院高等女学校5年生の女学生たちは母校の防空壕へと避難するも4名の学生が直撃弾を受けて亡くなってしまう…

今も往時を偲び追悼会が大学にて執り行われている。

合掌

https://www.musashino-u.ac.jp/news/20171204-01.html


武蔵野大学をあとにして北上をする。

東伏見稲荷神社

昭和4年(1929)に稲荷神総本社である伏見稲荷大社から分霊を勧請して創建。
昭和13年開設の中島飛行機武蔵製作所の北に鎮座する稲荷社。

戦前には中島飛行機の修練道場が置かれていたこの神社には「中島飛行機従業員殉職者慰霊碑」がある。

「東伏見稲荷神社」

もともと慰霊碑は正面大鳥居の脇にあったという。
しかし周辺の再開発によってその鎮座地を境内裏手に移設されている。

昭和13年に中島飛行機株式会社が東伏見精神修養道場として禊行の練成道場を東伏見稲荷神社に寄付された縁で、現在は神社祭典として慰霊碑が護持されている。

中島飛行機株式会社武蔵製作所
殉職者慰霊碑 (東伏見神社境内)

建碑之由来
中島飛行機株式会社は大正6年12月群馬県太田町に創立され終戦後富士産業株式会社と改称した
昭和13年5月北多摩郡武蔵野町西窪に武蔵野製作所が建設され昭和16年11月隣接地に多摩製作所が増設され陸海軍に分かれ生産を行った
昭和18年10月時局の要請により両製作所を合併して武蔵製作所と呼称するに 至った
この間従来の従業員に日本全国からの徴用工員男女動員学徒を加へその総数は5万人に及び日夜生産に励み国内第一の航空発動機工場となった
米軍は日本空軍の補給力を全滅するため武蔵製作所を本土編隊爆撃の第一目標とし昭和19年11月24日の空襲以来終戦まで十数回の爆撃が行われ爆弾五百発が 命中し二百余名の殉職者と五百名を超える負傷者を出し工場は全く廃墟と化してしまった
武蔵製作所はこの爆撃のため終戦後平和産業に転換することが出来ず富士産業株式会社武蔵整理部として整理業務に専念し毎年11月24日を迎える度に戦争の恐怖と罪悪を想起すると同時に平和日本の礎となった殉職者の霊を慰める祭祀を行った
昭和23年10月占領下であるにも拘わらず慰霊碑の建立を企図
中島飛行機株式会社武蔵製作所殉職者慰霊碑建設委員会を組織し有志の浄財をもって武蔵製作所稲荷神社跡に慰霊碑の建立を行い同時に殉職無縁者永代供養のため武蔵野市源正寺に供養碑を建立した
昭和23年12月東伏見稲荷神社司祭により遺族を迎え除幕式並びに慰霊祭を挙行した
爾来日武蔵整理部従業員有志によってささやかながら祭祀を続けて来たが慰霊碑の完全な保存と永代祭祀のため当初より多大の助力をされた東伏見稲荷神社の好意により境内に遷座することになった
昭和39年11月に遷座を完了し翌12月全国より遺族を招き遷座祭並びに二十年祭を挙行した
茲に慰霊碑建立の由来を記述して後世に伝え平和日本の礎となった中島飛行機株式会社武蔵製作所殉職者の霊を永えに慰めんとするものである

昭和三十九年十二月五日
中島飛行機株式会社武蔵製作所 殉職者慰霊碑建設委員会

殉職者氏名が記された碑も。
そこには男性の名もあれば女性の名も…

合掌

「中島飛行機武蔵製作所殉職者慰霊碑」建立に尽力された片野永正翁の顕彰碑も建立されていた。

片野永正翁顕彰碑


緑濃き武蔵野の一角に建設された武蔵製作所は、日本最大の航空発動機工場であった。
翁は、まだ槌音の残る創設時には、少壮幹部としてその敏腕を縦横に発揮し、栄光輝く最盛時には、企画室長となり最高枢機の部署を担当し、片野永正の名は常に鬼才の人として生きていた。
太平洋戦争中、十数回の爆撃を受け工場は廃墟と化し多数の尊い犠牲者を出した。
翁は、戦後、武蔵整理部の最高責任者として膨大且つ困難な賠償・整理業務の陣頭指揮を執ると共に、逸早く戦火の犠牲となった殉職者の慰霊奉祀を発願し、占領下の極めて厳しい状況の中で率先躬行慰霊碑建立に尽力した。
空襲の都度自ら殉難者の収容に当った身の切実な悲願であったであろうが、この頃から鬼才片野から人間片野への大きな変貌が見られた。
昭和五十年七月十三日その生涯を閉じる迄、初代の代表理事として例大祭を主宰し、実にその半生を殉職諸霊の奉祀に捧げてきたのである。
そして翁の遺志は爾後連綿として継承されるであろう。
茲に浄財を以って慰霊碑のある境内に小碑を建て、翁の無量の徳心を永久に称えるものである。
 昭和五十一年十一月六日建之

東伏見稲荷神社

中島飛行機ゆかりの神社。
11月24日「中島飛行機武蔵製作所」が初爆撃をされた日。
東伏見稲荷神社では「中島飛行機株式会社殉難者慰霊祭」が祭事として斎行されております。

東伏見稲荷神社から次の場所へ。

東京ガス防災供給センター保谷基地・保谷制圧所

2つ球体が特徴的なガスタンク。現在の球体ガスタンクになる前は円筒ガスタンクがこの地にあった。
「中島飛行機の円形水槽式ガスタンク」の戦後間もない姿が航空写真でもわかる(1947年7月8日米軍撮影)

中島飛行機武蔵製作所と中島航空金属を結ぶ軽便鉄道跡

「中島飛行機武蔵製作所」と北部の「中島航空金属田無製造所」(飛行機エンジン鋳物部品工場/現在の住友重機械工業やグランジオ武蔵野など)を結んでいた軽便鉄道が昭和19年から20年にかけて存在していた。
その痕跡はほとんど残っていないが西武新宿線と交差する細道が当時の線路跡であるという。

「西武新宿線」と「中島飛行機武蔵製作所と中島航空金属を結ぶ軽便鉄道」が交差する場所に、かつて鉄道が走っていたことを証明する標石が片隅に残っておりました。

西武新宿線が交差するところから「武蔵製作所」ゆかりの軽便鉄道跡を北上していけば「中島航空金属田無製造所」を経て、最終的には東久留米駅まで往時の線路跡を辿ることが出来ますが、今回はここまで。
次の散策までこのエリアの続きは保留で。

散策しました

中島飛行機武蔵製作所殉職無縁者永代供養のため建立されたという武蔵野市の源正寺の供養碑を未訪問。

宿題です。

代々木公園周辺の戦跡散策

平成29年5月

代々木公園はかつての「帝国陸軍代々木練兵場」であった。
その練兵場の隣に鎮座しているのが「代々木八幡宮」

往時を物語るものが境内に残っているというので見聞に訪れてみました。

代々木公園 「日本航空発始之地記念碑」(日本初飛行の地)

位置関係

95C3-C5-83
1944年(昭和19年)12月23日‐陸軍撮影を編集

代々木八幡宮

御祭神は応神天皇
創建は建暦2年(1212)と伝承。鶴岡八幡宮を勧請。旧社格は村社。

参道の両脇にある、この一対の石灯籠。

この石灯籠は「訣別の碑」(石灯籠の竿石部分)と呼称されている。

明治42年、陸軍練兵場(代々木公園)が設けられた際に移転を余儀なくされた住民が、この地との別れを惜しんで奉納したものという。

拝殿左側
「大字代々木深町ハ明治四十年十一月十一日陸軍練兵場ニ指定セラレタリ、常ニ一家ノ如クナル温情深キ住民ハ区々ニ移転スルノ際」

拝殿右側
「各々其ノ別ルルヲ惜ミ又字ノ消サラン事ヲ思ヒ、茲ニ燈ヲ納メテ之ヲ紀念トス 明治四十二年一月建設 良曠拝書」

代々木八幡の丘と、代々木公園=代々木練兵場の丘。

八幡さんからすれば「あっちの丘の住民たち」が強制移住をさせられ、そうして地域鎮守の代々木八幡宮に先祖代々の土地との別れを記し奉納したという。
雨濡れる参道で、石灯籠から「庶民の戦前」を垣間見る。

八幡宮祈念の碑

明治34年建立。
なかなかコアな名前が列記されていました。

扁額 千家尊福(東京府知事・出雲大社宮司)
撰文 平田盛胤(神田明神祠官・平田篤胤の子である延胤の養子)
執筆 福羽美静(靖國信仰の元となった京都招魂社建立に関わる)

表忠碑

日露戦争当時、代々幡村と呼称されていた当地からの出征者及び戦死者の名を刻む石碑。幡代小学校に建立されていた。
大東亜戦争後、取り壊しを免れる為に地域住民の尽力で代々木八幡境内に遷座。


代々木公園

代々木公園は「大日本帝国陸軍代々木練兵場」であった。

いまでは往時を偲ぶものも少なくなってきているが、公園の内外に歴史を感じるものが点在している。

ちょっと巡ってみましょう。

江戸時代。界隈には大名や旗本らの下屋敷などが点在しており、明治維新後には民有地となり一面は茶畑・桑畑などが展開されていた。

陸軍省はこの地を買収し住民を移住させ、明治42年(1909)7月に「陸軍代々木練兵場」と「衛戍監獄(陸軍刑務所)」を設置。

陸軍刑務所の話を含む投稿はこちら


オリンピック記念宿舎

代々木公園原宿門から見本園方面に向かいます。
なにやら北側の突き当りに建物が見えてきました。

「陸軍代々木練兵場」の地は、終戦後に「ワシントンハイツ (在日米軍施設)」となる。 昭和39年、東京オリンピック開催に伴い同地が日本国に全面返還されオリンピック選手村に転換。 その選手村の跡に「代々木公園」が開設される。

代々木練兵場跡地に展開された「ワシントンハイツ」は東京オリンピックに際して選手村に転用されるために移転。
そのワシントンハイツの代替移転先が陸軍調布飛行場跡地に展開された「関東村」にあたる。

案内地図中にあった「見本園」はこちら。

東京オリンピック記念樹木見本園。
当時のオリンピック参加国が持ち寄った22カ国24種類の樹木の種子が育ったのが現在の姿である、と。


閲兵式の松

代々木練兵場で観兵式に際して、
明治天皇が傍らに立たれたという黒松。
聖蹟を偲ぶに相応しき見事な枝ぶりを誇る。

明治・大正・昭和と観兵式の折にたびたび 
天皇陛下が当地に行幸された聖蹟のひとつ。


「閲兵式の松」の歩道を挟んだ反対側に石碑がある。

昭憲皇太后大喪儀葬場殿阯碑

大正3年(1914)4月11日
昭憲皇太后(明治天皇皇后)崩御

代々木練兵場内に葬場殿が設置。
大正6年に陸軍より東京府に用地が引き渡され翌7年に碑が建立された。

昭憲皇太后の大喪儀は「代々木練兵場」(現在の代々木公園)
明治天皇の大喪儀は「青山練兵場」(現在の明治神宮外苑)

明治天皇葬場殿跡は明治神宮外苑にある。


代々木公園南側イベント広場の喧騒とは裏腹に静けさ極まりない公園内を歩んで西側の端の方に。

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

この代々木練兵場の地が「日本の航空史の事始め」で重要なポイントなのです。

「日本航空発始之地記念碑」
(日本初飛行の地)

明治43年(1910)12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が飛行に成功。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も飛行に成功。

これが日本航空史上「最初の飛行」である。
(ライト兄弟初飛行の7年後)

実は公式記録の5日前。
明治43年12月19日「初飛行を目的とした記録会」に先立つ、12月14日の滑走試験中の日野熊蔵陸軍大尉が飛行に成功し(滑走から誤って離陸?)、これが非公式な日本史上の初飛行ともされている。
(が、これは飛行ではなく跳躍ともされていたり。)

明治43年12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が初飛行に成功。
徳川好敏氏は御三卿・清水徳川家の出身。
「日本初飛行」の栄誉を手にし「日本航空の父」と讃えられる。

明治43年12月19日。
徳川好敏に次いで飛行に成功した日野熊蔵はその後は上層部と折り合わずに左遷され陸軍を去り、民間で発明家となる。

日本の空を初めて飛んだ二人を顕彰する。

徳川好敏陸軍大尉と日野熊蔵陸軍大尉
昭和39年(1964)建立

「日本航空発始之地記念碑」
(日本初飛行の地)

碑文
紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社

朝日新聞社が昭和十五年に建立。

「日本航空發始之地」銘は、陸軍大将井上幾太郎書

日本初飛行離陸之地

隣には「日本初飛行離陸之地」碑がございました。


付記

陸軍を左遷された日野熊蔵氏のその後が江戸川橋の片隅に記録されていた。

国産飛行機発祥の地

新宿区指定史跡
明治42年(1909)〜43年にかけて、陸軍大尉日野熊蔵により初の国産飛行機「日野式一号機」が製作された林田商会(後の日本醸造機械株式会社)の跡。
(略)
明治43年3月18日に日野大尉自ら搭乗し日本初の国産飛行機実地飛行試験に成功した。

いまは新宿区教育委員会が建立した看板が残っているのみ。
名残はないに等しい空間である。
看板を前にして、この地で大空に夢を馳せて日本初の飛行機を作り上げていた往時を思い起こしながら、ちょっとだけ偲んでみた…


代々木公園に戻り、こちらは戦後間もない頃のお話

十四烈士の碑

代々木練兵場に米占領軍は進駐。直後にこれを接収将校宿舎ワシントンハイツを建設。
敗戦直後の八月二十五日、「敗戦の責任」を受け止めた右翼結社である大東塾の塾長・影山正治の父親である影山庄平と塾生十三名の若者らが当地で割腹自殺をとげた場所…。


参宮橋駅近くの陸軍標石

代々木公園(かつての陸軍代々木練兵場)の北側に小田急線参宮橋駅があります。こちらは陸軍用地の北側の境界線。
参宮橋駅のすぐ隣に標石が残っており「陸軍省所轄地」と刻まれておりました。

代々木公園内に残る代々木練兵場の名残は
「閲兵式の松」
「昭憲皇太后大喪儀葬場殿阯」
「日本航空発始之地」の3つを残すのみ。

そして戦後の名残は「ワシントンハイツ跡」「十四烈士の碑」なども。周辺の「二・二六事件慰霊碑」や「陸軍標石」と合わせて往時を偲びし散策もありですね。