「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

平和の塔(東京都調布市)

東京都調布市
昭和48年建立/調布市役所前中庭

平和の塔
この「平和の塔」は、かつて数次にわたる戦争、戦災、引き揚げ、原爆被爆などの惨禍の中で亡くなった方々の霊をまつり、平和への誓いをこめて、多くの市民及び市民団体の協力のもとに、昭和48年に建立されました。
中央の球体は諸霊の安らぎと平和を表し、三本の柱は永遠と荘厳、そして平和を守る市民一人一人の願いを象徴しています。
調布市

夜間にはライトアップも。
中央の球体に照らされた光は、背後に翼を拡げたかのような姿をあらわす。 一層の厳粛さあふれる空間に。

地元ということもありますので、敬意を表して掲載。

相模原界隈の戦跡散策

平成30年9月及び10月

平成30年9月。相模原界隈を散策してみました。
横浜線矢部駅から淵野辺駅までの散策と京王相模原線多摩境駅からの散策を。
軍都・相模原のほんの一部ですが、散策した様子を以下に。

位置関係

国土地理院・空中写真閲覧サービスより

昭和19年10月15日に陸軍が撮影した相模原界隈の空中写真
Google航空写真

当時は相模原駅と淵野辺駅間の矢部駅はまだ開業しておらず相模陸軍造兵廠への引き込み線があるレベル。

1948年(昭和23年)4月12日に米軍が撮影した航空写真を加工
1948年(昭和23年)4月12日に米軍撮影

相模原駅から北側にはどどーんと在日米軍相模総合補給廠が展開。
旧陸軍の相模陸軍造兵廠跡は今もそのまま在日米軍。
ゆえに相模原駅からは車窓以外は見るべきものがあまりなく。

基地内にある相模神社は相模陸軍造兵廠時代に建立されたもの。
また敷地内に残された建屋の多くも陸軍造兵廠時代のものという。

相模陸軍造兵廠跡と相模神社

この一節だけ別日に訪れました。たまたま基地内の公開がありましたので。

SHRINE PARK (神社公園)

SHRINE PARK HISTORY (神社公園の歴史)

この公園は1936年(昭和11年)に建設され、神道における武道の神、鹿島と香取を祭った神社を持つ。神社は早稲田大学教授の田辺泰博士により設計されたが、公園自体はコーネル大学卒業生のトーノ教授によって設計された。
本公園は1942年(昭和17年)に奉納され開園した。園内には、当時ここで働いていた日本人従業員の出身地から集められた様々な草花、低木、岩石や樹木が配置されている。

献燈

Sagami Fountain(相模の泉)
御手洗

凄い勢いで水が溢れ出しておりました。 アメリカンナイズな御手水。

Sagami Fountain(相模の泉)

これは御手洗(みたらし)と呼ばれ、通常は神社の本殿に通じる参道脇に置かれている。
参拝者は神社の神にお参りする前にここで手を洗い、口をすすいで身を清める。

Taiko Bridge (太鼓橋)

太鼓橋は、その高く丸い弧と水面に映る姿が作り出す円形が太鼓を彷彿させることからその名がついた。。 円形が満月のように見えることから、英語ではMoon Bridge とも呼ばれる。

SHRINE PARK (神社公園)
旧・相模陸軍造兵廠
Sagami Shrine「相模神社」

Sagami Shrine (相模神社)

相模神社は、昭和17年に当時の相模陸軍造兵廠で働いていた日本人従業員の献金によって建造された。
日本神話において天皇の祖先とされる神道武人の神、鹿島と香取を祭っている。
造兵廠の従業員達は、製造した兵器が両神の加護を受け、戦線において神威を発揮することを願った。

千木が残念な状態でした。
神紋は「左三つ巴」と「五七桐」。 鹿島神と香取神の御神紋。

Sagami Shrine「相模神社」
神社公園内の樹木は、相模陸軍造兵廠で働く工員と同じく全国から集められたものという。
そんな歴史を刻みし場も不思議なもので、いまでは米軍基地の中・・・
逆に米軍基地内だからこそ残った空間でもあり。

かつての境内地は、今では「BBQ」な場所。
アメリカンナイズな空間。

SHRINE PARK (神社公園)
旧・相模陸軍造兵廠

公園の隣はヘリポート。
さらにその向こうには鳥居が見えます。
ゲートとしてのカッコよさも神道文化の習合。

旧・相模陸軍造兵廠
敷地内の建物のほとんどは相模陸軍造兵廠時代の名残らしく。
私はこのときは「神社公園」に多くの時間を費やしてしまったために、建造物の追跡までやりきれませんでしたのでそのあたりは課題。

何気ない階段、ぜったいお前ら当時からのものだろ?

最近は米軍基地内も厳しくなっているようで、一般公開時でも上記のような散策は難しいかもしれません。そのときのルールに従って見学を。昔は開放されていた場所でも、次回は開放されていないかもしれませんし。

それでは、基地の外へ。

矢部駅

この日は矢部駅から散策スタート。
「在日米軍相模総合補給廠」方面を望む。かつての「相模陸軍造兵廠」
このあたりに引き込み線が広がっていた。

矢部駅は戦後に進駐した在日米軍が相模総合補給廠へ赴く際に臨時停車して乗降が始まったために昭和25年に相模仮乗降場開業。昭和32年に矢部駅へと昇格という。

矢部駅から「在日米軍相模総合補給廠」方面に歩いてみる。
すぐにゲートで行き止まり。
あまり長居するものでもないので駅前に戻る。

矢部駅前の公園(上矢部公園)の北側に記念碑がある。
子どもたちが元気よく遊ぶ空間。そんな公園の片隅に。

相模陸軍造兵廠跡

第三代廠長 原乙未生 書 (原乙未生 陸軍中将)

碑面裏には沿革が記載されていた。

昭和12年3月  陸軍東京工廠相模兵器製造所設立
昭和13年6月  戦車・牽引車・砲弾の生産を開始
昭和15年6月  相模陸軍造兵廠に昇格
昭和16年4月  横浜線相模原駅開設
昭和20年8月  終戦により閉鎖  
第四代土岐鉾治廠長、従業員約3万人

そのまま北上。
在日米軍相模総合補給廠(旧相模陸軍造兵廠跡)の脇を。
廃線跡。

廃線跡
草に埋もれし鉄路の先は米軍のフェンス。

相模陸軍造兵廠・陸軍用地境界石

これはちょっと可愛い。
フェンスが標石を避けるように張られています。
保存する意思が明白に感じられる空間。

このあたりは防衛省の宿舎もあるエリア。
防衛庁時代の標石もありました。
こちらもフェンスが調整されてますね。

在日米軍相模総合補給廠(旧相模陸軍造兵廠跡)

なんか一部に廃墟のような倉庫建屋が広がってますが・・・ 端の方の倉庫は既に積極的には使っていないのかもしれません。
そういえば以前に火事もありました・・・


陸軍兵器学校の弾薬庫

相模陸軍造兵廠跡を離れて東に。
こちらには「陸軍兵器学校」が展開。 その北端、現在の民間工場の敷地内に「陸軍兵器学校の弾薬庫」とされるものが残っているという。敷地外より見学。

陸軍兵器学校跡地を歩く。
現在の「防衛省 防衛装備庁 陸上装備研究所」

相模原市立大野北中や大野北小、そして麻布大学も「陸軍兵器学校」の跡地。

麻布大学の南側、かつて「陸軍兵器学校」の正門があった場所。
この陸軍兵器学校正門があった場所近くに「記念碑」が残っている。

相模原市立博物館にて掲示の写真
陸軍兵器学校正面(昭和10年代撮影)

陸軍工科学校・陸軍兵器学校跡碑

第四十一代校長 永野叢人書 昭和52年12月吉日 工華会建之

本校は明治5年諸工傳習所の名で小石川後楽園の地に創設、その後幾変遷を経て陸軍砲兵工科學校 陸軍工科學校となり昭和14年その18、19期生の時生徒数の増加に伴い小石川本校及び板橋分校より當地新校舎に移轉21期に及んだ。
昭和15年陸軍兵器學校と改称、生徒は1期となり學生 幹部候補生 練習諸隊も併設され、83萬5千平方米の敷地に7千人以上の人員を収容したが昭和20年8月67期生の卒業を待たずに兵器技術教育73年に亘る歴史の幕を閉じた。

そういえば小石川でも記念碑を拝見してました。
「陸軍砲兵工科学校・工科学校跡・諸工伝習所跡記念碑」
昭和13年(1938)、小石川から相模原に陸軍兵器学校が移転してました。

淵野辺の陸軍兵器学校跡(麻布大学)の地から次の目的地に移動をする。
淵野辺駅の南東、青山大学相模原キャンパスの横浜線を挟んだ南側にとある神社が鎮座している。

「新田稲荷神社」(しんでん稲荷神社)
文政元年(1818)創建の淵野辺新田地域の鎮守様
今回は境内社に注目。

新田稲荷神社・境内社
「細戈神社」(くわしほこ神社)

陸軍兵器学校内に鎮座していた神社。
昭和20年終戦後に陸軍兵器学校から新田稲荷神社境内に遷座。
社号の「細戈」は日本書紀巻三・神武紀に書かれた「細戈千足国」(くわしほこちたるくに)=立派な武器が多くある国の意。
社号標は昭和16年7月13日建立

細戈神社由来
細戈神社は天照大神・武甕槌命・経津主命を祭神とし、社名は伊弉諾尊が日本を細戈千足国と讃えられし語に拠る。
もと陸軍兵器学校々庭にあり、その精神的支柱として仰がれていたが、昭和20年新田稲荷神社氏子の好意によってこの地に遷り生産向上の神として鎮座してきた。
しかるに社殿は長年の風雪に損われ現状のまま存置することは不可能となった。
依て稲荷神社氏子並びに旧工科学校及兵器学校同窓会工華会は協力してその改修に当った。
工成るに及び工華会は記念の建碑を企て撰文を需めた。
ここに由来を記した所以である。
今や産業計画拡充に伴って科学技術の振興を一層重すべき直面している。
願わくは細戈の神霊益々神徳の 顕著ならんことを

昭和50年4月6日 工華会建立
 工華会=陸軍工科学校及び陸軍兵器学校同窓会

新田稲荷神社
境内社・今熊神社
境内の丘は「呼ばわり山」と呼称され、迷子や行方不明者が出た際に鐘や太鼓を叩いて呼ばわると必ず現れると信仰された。
最近では、小惑星探査機「はやぶさ」リーダーを務めていた川口淳一郎JAXA教授が「発見祈願」に毎夜訪れて、そしてはやぶさが見つかった逸話も。

そんなJAXA相模原キャンパス(宇宙航空研究開発機構・宇宙科学研究所)は新田稲荷神社の南西、淵野辺公園の近くにある。
JAXAや相模原市立博物館、淵野辺公園のある一帯は、かつての「陸軍機甲整備学校」の跡地。

「陸軍機甲整備学校」(陸軍自動車学校)は、もともとは世田谷(東京農業大学近く)にあったが、昭和18年に相模原の当地に移転。
移転前の世田谷にあった陸軍機甲整備学校(東農大) は下記に。

世田谷の方にはいろいろ残っていましたが、相模原の方は・・・見つける体力的余裕があまりありませんでした(疲労が溜まっていた)

淵野辺公園を眺めながら、休憩がてらに相模原市立博物館に行ってみることに。

相模原市立博物館
(陸軍機甲整備学校跡)

近代史関連の展示を。

常設展示・軍都計画と相模原

http://sagamiharacitymuseum.jp/tenji_shisetsu/josetsu/josetsu5/

「陸軍用地境界杭」
こちらは前述の陸軍兵器学校・敷地境界用杭として使用されたもの。 ところで私は「境界石」とか呼んでましたがコレの正式名称ってなんだろうな…。

相模原の軍関連施設の分布
今回は相模原駅~淵野辺駅界隈でしたが、このエリアには相武台の陸軍士官学校(キャンプ座間・座間駐屯地)なども宿題なんですよね。
あと陸軍通信学校(相模女子大学)

相模陸軍造兵廠開庁記念湯呑
相模兵器製造所が昭和15年に相模陸軍造兵廠に昇格したことを記念

榴散弾弾薬箱(陸軍兵器学校で使用)

大型空気入れ(相模陸軍造兵廠で使用)

乗馬用鞍(陸軍士官学校で使用)

常設コーナーは一区画だけですがご興味ございましたら是非に。


相模原市立博物館をあとにして、淵野辺駅へ。
淵野辺駅から橋本駅経由で多摩境駅に移動します。
この日の最終目的地へ。

京王多摩境駅から徒歩5分ほど歩くと、「都立小山内裏公園」に到着。
この公園から東に伸びる尾根緑道は通称「戦車道路」と呼称されている。

「戦車道路」(尾根緑道)

戦車道・・・ かつて、相模陸軍造兵廠で製造された戦車の走行テスト用道路であった。 (全長約8キロメートル)
それゆえの「戦車道路」 この道を完成したばかりのチハ車(九七式中型戦車)などが試験走行したという。

靖國神社遊就館のチハ

かつて戦車が走った道は今では尾根を望む散策路として、往時の伝承を残しつつ、往事を知る人知らない人それぞれありつつ憩いの空間として活用。
見晴台からかつて相模陸軍造兵廠があった方向を遠望しつつ。

兼六園の戦跡散策

平成30年12月 石川県金沢市

言わずと知れた兼六園。 行く機会がありましたのでさらりと。
戦跡と言うほどには話題は多くないですが。


兼六園内に残る戦跡

松の傷

この松の傷は太平洋戦争が終わった年、昭和20年(1945)の6月頃、政府の指示で軍用航空機の燃料にするために松脂を採取したあとである。

松脂採取跡。戦争末期の資源不足の中で、苦肉の策として「松から採取された油」で航空燃料原料の代替を試みたが、労力の割には…

松脂の採取跡はけっこうあっちこっちに残ってます。
東京だと、高幡不動に。


兼六園内に残る近代史跡

明治紀念之標 日本武尊の像

日本武尊 (やまとたけるのみこと) の像
明治10年(1877)西南の役で戦死した郷土出身の将兵を祀った記念碑である。銅像の身長は5.5メートル、台石の高さ6.5メートルで明治13年(1880)に建てられた。

戦争慰霊碑でもある当記念碑は「日本第一号の銅像」とされている。

回天を偲ぶ

平成29年

大分県日出町の「回天大神基地跡」と「回天神社」に関して。

※現地(大分県日出町)の写真は、嫁写真を拝借です。
※私自身は回天神社及び回天大神基地跡は未訪。
 文責は私にあります。

回天

昭和19年11月8日。
「天を回らし戦局を逆転させる」の意を帯びた特攻兵器「回天」を搭載した潜水艦3隻が「玄作戦」決行の為に周防灘を出撃した。

ウルシー泊地に向け潜水艦2隻/回天8基、コッソル水道に向け潜水艦1隻/回天4基による特別攻撃隊「菊水隊」の初陣であった・・・

回天訓練基地として瀬戸内海を囲むように山口県の大津島・光・平生、そして大分県の大神に基地が展開された。

昭和19年(1944)11月8日
回天訓練基地であった山口「大津島基地」を出撃した菊水隊(母艦潜水艦として伊36潜、伊37潜、伊47潜に各4基ずつ搭載)の12基が回天特攻の初陣であった。

昭和19年11月20日
回天最初の作戦ウルシー泊地攻撃が決行、伊47潜から4基、伊36潜から1基の計5基の回天がウルシー泊地環礁内に向け発進…

以来、終戦までの回天戦没者は87名、訓練殉職者15名、終戦時自決2名、整備関係者犠牲などもあわせると回天関係戦没者は145名という(母艦潜水艦戦没者は除く)

大神訓練基地

大分県日出町

昭和16-17年にかけて「大神海軍工廠」の建設予定地として用地買収が始まるも戦況の悪化により中止。
昭和19年9月1日、山口県周防市の徳山湾・大津島に「第一特別基地隊」として大津島回天基地が開設。次いで光回天基地、平生回天基地が開設。

大神漁港

大神海軍工廠予定地の一部が回天基地として転用され、昭和20年4月25日に大神回天基地が開設。
突撃隊司令・山田盛重大佐以下2000名。 基地内施設として回天神社・回天格納庫含め舎屋51棟、魚雷調整場、変電所、浄水場施設等が整備された。

昭和20年8月3日
大神訓練基地から最初の出撃。8名の隊員と整備兵が回天8基とともに第8特攻戦隊第21突撃隊として愛媛県宿毛湾に向けて出航するも8月15日を迎え終戦。

8月25日
大神突撃隊解隊。回天は海洋投棄となった。大神基地での犠牲者は終戦後に自決した松尾秀輔少尉のみであったという…

回天神社

大神基地本部庁舎前で基地隊員が崇敬していた神社。
戦後、基地近くの住吉神社境内に遷座。
昭和50年に社殿改築、平成13年に現在地に改築。

御祭神
天照大神・応神天皇・楠木正成
回天作戦戦没者1073柱
(うち回天搭乗員106柱、回天基地白龍隊120柱、潜水艦乗組員812柱、回天整備員35柱)

回天神社の御神器
「回天縦舵機」「発停装置」「燃焼器推進軸受」の回天部品3種類。
※写真はパンフレットより

回天神社
奉納「回天1型」3分の1模型

太平洋戦争の末期、堅く神州の不滅と皇国の必勝を信じ、一死国難に殉ぜんとする。
弱冠二十の若桜、相競ひ大神突撃隊に参加。水明の海辺に菊水の大旗打樹てて、特攻兵器「回天」の訓練に烈々と精根を傾倒せり。
ここに吾等関係者往時を偲び相計って回天模型を奉納する。 昭和五十六年四月二十五日 大神回天隊

回天神社
奉納 「海中より引き上げられた九三式酸素魚雷のエンジン・尾部舵・二重反転プロペラ」
平成7年に大分空港1600メートル沖合で漁労中に魚網にかけ引き上げたものという。

人間魚雷
大神回天基地跡記念碑

天を回らし 戦局の逆転を願って
平成二十三年十月 寄贈 日出ライオンズクラブ

「大神訓練基地跡」から「回天神社」が鎮まる高台を望む。 住吉神社の境内。この高台の下には回天格納壕跡や酸素圧縮ポンプ室跡などが残っている。

住吉神社

回天神社が境内に鎮座。南北朝期の貞和3年(1347)に大神郷地頭の大神筑前次郎朝直が泉州堺住吉神社より大神氏の氏神として深江城に勧請したことにはじまる。 大神氏は大友氏とともに戦国期に衰退。朝鮮文禄役で当主大神鎮勝は戦死し滅亡。のちに日出藩主木下氏が再興という。

大神訓練基地跡。
回天大神訓練基地記念公園に平成28年5月、平和への祈りを込めて「青年像及び母妹像」(日出町内在住の彫刻家・辻畑隆子氏の作という。
 永遠の風に 青年
 永遠の風に 母妹
像のうしろには「回天実物大模型」も・・・。

平成26年には「回天実物大模型」が回天大神訓練基地記念公園に設置されている。

回天実物大模型

復元「回天」の内部写真もありました。
上部ハッチには鍵がかかっておりましたが、写真を見る限り内部も復元されているようですね。

この国には 己の命をかけて
愛する人を 祖国を守ろうとした若者たちがいた

周辺には往時の史跡(戦跡)が残存しているものもあり。
そのほんの一部だけですが写真を幾枚か。

「回天格納庫」「水雷壕」

終戦直前にはこの壕に爆薬を搭載した回天格納されていた、という。
昭和20年8月3日、この壕から回天は宿毛湾に向け前進出撃したが、幸いにも終戦を迎える…

酸素圧縮ポンプ室

回天に搭載する圧縮酸素を製造するポンプ等を設置していた壕。
内部にはコンクリート製の製架台が残っている。 回天のベースとなったのが「九三式酸素魚雷」 空気の代わりに純粋酸素を使用していたので、その酸素を生成する設備も必要であった。

回天神社(住吉神社)の鎮まる高台の下には無数の壕が点在。
往時を偲びし空間。

魚雷調整プール跡

コンクリート製のプール。 回天をこのプールに沈めて水漏れなどを検査していた。回天一基をちょうど収納できるサイズ。

魚雷調整場基礎跡

魚雷調整プールのとなりに基礎跡がのこっている。

周辺にはほかにも遺構が点在しているけども、大分の現地写真は以上にて。

あとは機会あれば自分の目で見つめてきたい。
ここまで「大神基地の写真」はすべて嫁撮影。
私は未訪問(嫁の写真をベースにテキストのみ代行記載)ですのでいつの日か訪れたいものです。


パンフレット

平和を願う 戦争遺跡
人間魚雷「回天」
大神訓練基地

大分県日出町
なお大神と書いて「おおが」と読みます。「おおが基地」

回天と大神訓練基地の歴史や開設など

大神訓練基地の全容、基地遺構の残存状況など。

https://goo.gl/maps/YhjoMLJfqN7LQokE7


以下では私が見た回天に関係する写真を幾枚か掲載していきます。

訓練用回天

「予科練平和記念館」(茨城県稲敷郡阿見町)にて復元の「回天」
航空機搭乗員育成の予科練からも、回天搭乗員が多く着任しており、予科練出身者としては40名が戦没。訓練用の回天は上部が白く塗装されていたという。

回天一型改一

国内では唯一の実物が靖國神社遊就館に展示。 元はハワイの米陸軍博物館にあったものを昭和54年に靖國神社に永久貸与されたもの。

回天上部に装備されていた「水防眼鏡二型改六(潜望鏡)」。

「伊36号潜水艦」に搭載され出撃する「回天」1/50模型
巡潜乙型17番艦。
回天初出撃のウルシー攻撃を成功させた潜水艦。
数多くの回天作戦に従事し、戦後は米軍によって五島列島沖で海没処分。

回天(靖國神社遊就館)
人間魚雷回天は大東亜戦争の前途が暗雲につつまれた昭和十九年八月、わが海軍の一角に姿を現わした。 この回天は、うるわしき日本の民族を、国土を、身を捨てて護らんとねがい馳せ参じた若人たちと共に次々と南溟の海に征き再びは還らなかった。
この作戦で戦死した搭乗員は八十九名、整備員は三十七名、殉職自決者は十七名を数える。 今ここに回天一型を修復安置して国難に殉じた回天戦士の至純の御魂を偲ぶよすがとする。
昭和五十四年四月十日 回天会

呉・海軍墓地(長迫公園)

平成29年3月

広島県呉市。長迫公園の呉海軍墓地。

護国の為に戦いし艦と人に。
感謝と哀悼を。


明治23年開設の大日本帝国海軍墓地。
呉鎮守府が管理し毎年この地で慰霊祭が行われていたが昭和20年に祭祀は廃止。

昭和46年以降に再整備が行われ呉市管理の下で現在に至る。

合祀碑91基。
個人墓碑157基。
英国水兵墓碑1基。

この日(平成29年3月5日)は僅かな持ち時間の中での参拝。
呉海軍墓地の全てを網羅するのは難しい。
かといって鎮魂慰霊の心に優劣をつけたくはない。
なるべく端から端を。
ゆっくりと手を合わせ、ゆっくりと頭を垂れながら、静かに巡ってきました。
写真は展望台より。

墓地案内図を見ながら、中央から右上に向い右上から左に向い中央へという順で巡ることにしました。
とりこぼしあるかもしれません。
また個人墓は撮影せず、あくまで軍艦等の合祀碑の掲載とさせていただきます。

国のため戦いし海軍軍人たちに感謝と哀悼を…


軍艦日向慰霊碑

伊勢型戦艦の2番艦「日向」。
太平洋戦争中盤に(いわゆる)航空戦艦に改造される。
昭和20年7月24日の呉軍港空襲で米軍機の波状攻撃を受け呉軍港内で着底大破。

碑文「軍艦日向の略歴」
 軍艦日向は大正4年5月6日長崎の三菱造船所で起工、3年の日時を費して完成た日本最古の名鑑である。
 大正七年に「陸奥」「長門」ができるまでは、日本最大の巨艦であった。
 日本海軍が列強に誇った、「八八艦隊」の主力艦として、昭和十八年太平洋戦争「捷号作戦」に、旗艦として出動、この作戦中、サイパン沖で空母「瑞鶴」「翔鶴」などが撃沈された。
 昭和二十年三月呉港に帰投、情島の北岸に敵機をさけて待機出撃の機をねらっていた。敗色は日増しに濃くなった来た。二十年七月二十四日七時三十分
 米艦上「グラマン」戦闘機約110機が200キロの大型爆弾による 高度3000米の上空よりの空襲を受け 第二波は更に十一頃より 第三波は三時頃より波状攻撃により さしもの帝国海軍の象徴、「日向」の巨体も十五時三十八分頃より沈没し始め翌二十五日未明 艦体は遂に情島沖100米の海底に達した。 乗組員1000余名中 戦死者一九七名 重軽傷者六〇〇余名に及んだ。
 艦長草川淳中将は十機目の「グラマン」の投下した爆弾の破片にたおれ 前甲板の戦闘艦橋で壮烈な戦死を遂げた。

献辞
南太平洋の海を征服し比島沖海戦に出撃し颯そうと旗艦の重任を果して還る 
 ああ恨は深し昭和20年7月24日 米グラマン数百の奇襲にあい勇戦奮斗のすえ呉情島の北岸に沈む
されど日本を護り国に殉ぜし尽忠のまことは星移り月かわるとも、とわにこの国の歴史にとどめられん
 ねがわくば197勇士の霊よ 
  永遠に安かれ!

昭和44年7月24日
軍艦日向慰霊碑建設委員長 景山勝義

駆逐艦綾波戦歿者之碑

源田実謹書
「綾波」 特型駆逐艦(一等駆逐艦吹雪型)11番艦。
吹雪型改良艦であり特型II型駆逐艦(綾波型)1番艦とも。

第三次ソロモン海海戦で、敵艦隊に単艦で挑み敵駆逐艦2隻を撃破1隻を炎上、戦艦サウスダコタに命中弾を与えて沈没。

日本駆逐艦綾波の戦歴
 第19駆逐隊駆逐艦綾波は太平洋戦争開戦以来、マレー沖、アンダマン、ミッドウェー、印度洋等に転戦奮斗し、昭和17年8月ガダルカナル島奪回作戦に投入されるや極めて困難なる状況のもとに8回に亘り出撃、赫々たる戦果を挙げた。
 同年11月14日敵飛行場砲撃部隊の最前方を掃蕩、単艦分離してサボ島西岸を索敵南下中、午後9時敵新大型戦艦ワシントン・サウスダコタの前衛駆逐艦4隻を発見綾波はサボ島を利用して単艦よくこの6隻に向って全速驀進近接し、自らも損傷を受け炎上しつつも正確無比なる数百発の12.7糎砲の零巨離射撃と、満を持して放った6本の魚雷によって敵駆逐艦プレストンを轟沈、次いでウォークを撃沈、ベンナムを大破、沈没、グインを大破させ海戦史上稀に見る大勝利を収めた。しかし自艦も亦敵駆逐艦4隻の集中砲火と新大型戦艦2隻の巨弾を一身に浴びて、闇のソロモン海に燃え爛れる鉄魂となって漂流し翌15日午前0時10分サボ島の南5000米の地点で大爆発、眠れる戦友と共に南溟の永遠のピケットラインについた。
 ガダルカナル海戦は事実上この夜を以て終焉し駆逐艦綾波生存乗組員はその後の戦斗に於て多数散華され終戦を迎えた。
 現生存有志一同ここに綾波戦歿者の碑を建立し、亡き戦友のため哀悼の意を表すると共にその勲を記念する次第である。
昭和45年5月14日
当夜戦斗参加の一人  第19駆逐隊司令付  小 池 英 作 題


軍艦高砂戦死下士卒墓

1905年(明治38年)1月15日建立
吉野型防護巡洋艦2番艦「高砂」
日露戦争中の1904年(明治37年)12月13日、旅順港閉塞作戦に従事中(旅順攻囲戦)にロシア海軍の機雷により沈没。

第十一掃海隊慰霊碑

第十三号~第十八号掃海艇
平成8年建立
13号14号は1942年1月12日のボルネオ攻略作戦時にタラカン陸上砲台の砲撃により沈没し、それにより第十一掃海隊は解隊。
残った4隻も終戦まで残ること無く沈没している。

第十一駆逐隊慰霊碑

平成4年9月23日建立
吹雪型(特型駆逐艦)4艦で構成。駆逐艦吹雪・白雪・初雪・深雪

碑文
第十一駆逐隊吹雪白雪初雪深雪の四隻は彼の過酷な太平洋戦争に於て遥か南の海に吹雪型特型駆逐艦としてその優秀性機敏性行動力等から艦隊の花形として縦横無尽の大活躍をなし大きな戦果を挙げたるも、吹雪は昭和十七年十月十一日サヴオ島六十度十五カイリにて敵艦隊と交戦、被弾に依り沈没、艦長以下総員二二六名戦死され、白雪は昭和十八年三月三日クレチン岬附近にて敵機の攻撃をうけ沈没、戦死者三十二名。
初雪は昭和十八年七月十七日ブイン沖の爆撃にて沈没。
深雪は昭和九年六月二十九日済州島西方に於て雷と衝突し沈没されました。
今や我国は平和で豊かな国となりたるもこれを見る事なく艦と運命を共にされた多くの戦友に対し感謝の誠を捧げ又御遺族の方々の御心の寄りどころと御遺族の方々の御心の寄りどころと安らぎを得られる場所となればと、ここに有志相計、鎮魂の慰霊碑を建立しその遺徳を顕彰し祖国日本の永遠の平和を願うものであります。
平成四年九月二十三日
第十一駆逐隊慰霊碑建立者一同

駆逐艦早蕨殉職者之碑

呉鎮守府司令長官海軍中将中村良三書
昭和8年10月16日建立

日露戦争後の大正期に建艦された若竹型駆逐艦「早蕨」(さわらび)。
早蕨は昭和7年12月5日、台湾海峡で荒天により転覆沈没している。
それゆえに碑銘も戦死ではなく殉職者銘。

時維昭和7年12月3日駆逐艦早蕨は僚艦3隻とともに南支那警備の重任を帯び呉軍港を発して遠く馬公に向う。
偶々東支那海は北風強吹して波浪山の如く、航行真に困難を極む。
越えて同月5日風愈々強く波浪益々高く艦の操縦極度の困難に陥り早蕨遂に覆没の厄に会す。
而して僚艦必死の努力に依り一部乗員を救助し得たるのみにて爾後幾十日に亘り荒天を冒しあらゆる捜索を試みたるもその効なく艦長門田中佐以下104名は艦と運命を共にせるものと断ずるのやむなきに至る。
鳴呼悲痛なんぞ堪ふべけんや。
此の報一夕に伝へらるるや挙国殉難将士の壮烈を悼み、捐金忽ちに聚りて数万に達す。
則ち之を頒ちて遺族を賑恤し、茲に碑を建て其の遺烈を長へに後世に伝ふと爾言。
昭和8年10月

第十五駆逐隊慰霊碑

夏潮・早潮・親潮・黒潮・陽炎
昭和61年9月22日建立

碑文
第十五駆逐隊は昭和十五年に編成され、第二水雷戦隊一番隊として開戦劈頭比島蘭印攻略に参加し、次いでミッドウェイ海戦に参加した。
この間に夏潮はマカッサル沖に於て被雷沈没した。
陽炎を加えた十五隊は、昭和十七年八月に始まった米軍のガ島反攻に対し、南太平洋海戦・第三次ソロモン海戦・ルンガ沖夜戦等を含むガ島増援作戦に縱橫の活躍をした。
この間早潮はラエ増強作戦中、敵機の爆撃を受けて沈没した。
わが軍は十八年二月遂にガ島を撤退した。
十五隊は内地で整備した後、再びソロモンに復帰し、今や第一線となったコロンバンガラ島へ輸送中、五月八日触雷し次いで敵機の爆撃を受けて全艦沈没し勇戦の幕を閉じた。
ここに十五駆逐隊の偉勲を後世に伝えるとともに御霊の安らからんことを祈念してこの碑を建立する。
昭和61年9月22日
第十五駆逐隊慰霊碑建立委員会

駆逐艦東雲慰霊碑

平成14年5月17日建立
吹雪型駆逐艦の6番艦「東雲」

東雲は第十二駆逐隊に所属し南方作戦に参加。ボルネオ島中部北岸ミリ泊地に進出行動中の昭和16年12月17日、蘭軍機の空襲を受けて沈没。笹川艦長以下乗員228名全員戦死。

駆逐艦深雪殉職者之碑

吹雪型駆逐艦4番艦「深雪」

昭和9年6月29日、第十一駆逐隊は第二水雷戦隊に所属して連合艦隊の済州島南方海域演習に参加。
演習中に「深雪」は吹雪型24番艦「電」と衝突。深雪は艦隊切断沈没。雷は前部大破。この衝突事故で5名が殉職。

上海満州事変戦歿者之碑

昭和8年10月23日建立。
昭和7年の上海事変(第一次上海事変)及び昭和6年の満洲事変の戦死慰霊碑。
海軍は上海共同租界地に「上海陸戦隊(上海海軍特別陸戦隊)」を展開しており陸軍部隊が到着するまでの間を海軍陸戦隊が上海で奮戦している。

大東亜戦争海軍戦歿者柔道部員之碑

昭和42年5月27日建立
九段緒方久人書。
緒方氏は広島呉の柔道家。呉鎮守府の柔道教師として海軍軍人の心身鍛錬に寄与されていた人物。

大東亜戦争戦歿者之碑

呉地方復員局長森下信衛書
昭和22年1月25日建立

森下氏は天一号作戦(大和特攻)時の第二艦隊参謀長。大和艦長有賀幸作大佐、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将とは海兵同期。
遺族希望や引取遺族不明のもの及び氏名該当者不明の遺骨を合祀納骨。

潜水母艦長鯨戦歿者慰霊碑

武政孝雄謹書
昭和60年9月建立

迅鯨型潜水母艦の2番艦「長鯨」。
潜水母艦は潜水艦への補給能力を持つ艦。
昭和20年7月30日、舞鶴港にてに敵艦上機の攻撃で艦橋に直撃弾を受け中破。 戦後に修理され復員輸送に従事。昭和22年解体。

呉六特バラレ島戦没者慰霊碑

呉鎮守府第六特別陸戦隊(呉六特)は昭和18年1月バラレ島に進出。バラレ島はソロモン諸島西部州ショートランド諸島に属す。バラライ島とも。
米軍により基地機能無効化されるも上陸作戦はなく、そのまま残存部隊はバラレ島で終戦を迎えた。

駆逐艦桑戦没者之碑

昭和57年12月2日建立
松型駆逐艦(丁型)の5番艦「桑」

昭和19年12月3日、姉妹艦「竹」と共に第七次多号作戦従事中(レイテ増援輸送作戦)にレイテ島オルモック湾で米駆逐艦3艦ほかと交戦。1隻撃沈1隻撃破するも桑は沈没する。

第六三四海軍航空隊・第九三四海軍航空隊慰霊碑

第六三四海軍航空隊は航空戦艦で運用する水上機(瑞雲)艦上機部隊(彗星)部隊として整備。しかし連携する機会なく水上機基地航空隊として終戦まで運用。
第九三四海軍航空隊も水上機部隊。消耗により昭和19年10月解隊。

第六三四海軍航空隊碑文
第六三四海軍航空隊瑞雲隊は、水上爆撃機瑞雲二十四機を以て、昭和十九年五月岩国基地に於て編制し、呉海軍航空隊で訓練を実施した。
その搭乗員は隊長及び分隊長等一部を除き、二十歳前後の祖国愛に燃え元気溌剌たる若者たちであった。
戦局愈々急迫を告げ、敵軍比島レイテに上陸するや、命に依り呉基地を発進、これより苛烈な比島攻防戦に突入し、主としてラモン湾及びレイテ湾の敵艦艇を攻撃した。 戦闘は激烈を極め多大の損害を受けたが、呉残留隊の進出並に新たに偵三〇一飛行隊の編入を得て、レイテ湾を発進し怒涛のレイテ湾を発進し怒涛の如く北上する敵艦隊を、ミンドロ島サンホセ及びリンガエン湾に捕捉、攻撃を反復し敵艦艇撃沈破百三十隻以上、敵機撃墜破数十機に達する戦果を挙げ、大西海軍航空隊司令により、数度に亘り感状・賞詞を受くる栄誉に浴した。
戦局の推移と共に、命に依り昭和二十年二月台湾に転進、三月には沖縄戦に出撃、亦五月新たに偵三〇二飛行隊の編入を得て、終戦に至るまで、沖縄周辺の敵艦艇を反復攻撃し多大の戦果を獲得せり。
然し乍ら、我が方の損害も甚だしく、地上勤務員を含めて、三百余名の有意な人材を失うに至った。是将に痛恨の極みである。 吾等生存者相計りて、ここに碑を建て之を後世に伝え、併せて鎮魂の徴とする。
昭和五十七年十月
元第六三四海軍航空隊 司令 江村日雄 隊員一同

第九三四海軍航空隊碑文

第九三四海軍航空隊は、昭和十七年二月三座水偵隊として編制され、マニラリツクババンを経て、同年六月には南遣艦隊付属となり、アンボン島ハロンに進出、マイコール基地を併用、観測隊、水戦隊を加え、豪州北方アラフラ海方面の警備、制空権保持等の為、勇戦奮闘数々の偉勲を挙げたのである。
昭和十九年にはマカッサルに、同二十年にはフィリピンに移動、その間克く困苦欠乏に耐え任務の全力傾尽せしも敵機との空中戦及び敵の爆撃等による戦死者は二百余名の夥しい数に及び、悔いて尚且つ余りあり、真に痛恨の限りである。
このたび、当時の部隊関係生存者有志相はかり、これら戦死者の冥福を祈ると共に、苦戦の実情を、永く後世に伝えんと、 ここに、第六三四、第九三四海軍航空隊の、合同慰霊碑を建立するに至る。
昭和五十七年十月
元第九三四海軍航空隊 司令 時永縫之助  隊員一同

軍艦大井戦没者慰霊碑

軽巡洋艦球磨型の4番艦「大井」 同型艦の北上と共に、重雷装艦に改装されたが活用できず高速輸送艦へ改装され輸送任務に従事。
昭和19年7月19日、マニラからシンガポールに向けて南シナ海を航行中に米潜水艦フラッシャーに雷撃され沈没。

祖国永遠の平和を念じつつ艦と運命を共にした戦友の武勲を後世に伝え、その霊を永久に安かれと祈り我等有志相計ってこの碑を建つ
軍艦大井戦友会

平成元年(1989) 7月19日建立

軍艦球磨慰霊碑

軽巡洋艦球磨型1番艦「球磨」
蘭印周辺の哨戒と輸送に従事していたが昭和19年1月11日、球磨は対潜戦演習のため駆逐艦浦波とともにペナンを出港。イギリス海軍T級潜水艦タリホーに補足され雷撃を受けマラッカ海峡附近にて沈没。

碑文
大正9年8月佐世保工廠に於いて竣工 
爾来20有余年広大なる地球に其の雄姿を顕し、祖国防衛の重責を果たせる 
巡洋艦熊は苛烈なる太平洋戦争の真只中、第2南遣艦隊第16戦隊に編入され、南方洋上にて臨戦行動中、昭和19年1月11日午前11時57分、ペナンの西方11浬、マラッカ海峡に於いて、英国潜水艦タリ・ホウの雷撃を受け戦友の尊き英魂139柱と共に、海底深く永遠にその姿を没したり 
巡りて40有余年の星霜を経たるも、切々の情念を新たにして追惜禁じがたく、茲に有志相計り「軍艦球磨戦没者慰霊碑」を建立す 
合掌の中に球磨を象徴する磨き球の下 在天の英魂来りて鎮まり給え 英会陰に其の英霊を慰むべしと記念す

軍艦三隈戦歿者慰霊碑

最上型巡洋艦2番艦「三隈」
昭和17年6月7日ミッドウェー海戦。第七戦隊第2小隊(三隈、最上)と第8駆逐隊(荒潮、朝潮)は衝突を起こし艦首を喪失した最上を護衛し退避行動へ。米軍追尾を受け、更に単艦退避した三隈は米軍機により爆撃され沈没。

碑文
 軍艦三隅は彼の過酷な太平洋戦争に於いて西南太平洋並に東南太平洋海域に奮戦せるも遂に昭和17年6月7日ミッドウェー北方洋上にて艦長以下695名の将兵と共に没す。
 今や我が国は平和な豊かな国となりたるもこの幸を見ることなく艦と運命を共にされた多くの戦友に対し切々なる感謝の誠を捧げるものである。
 ここに有志相計り鎮魂慰霊碑を建立し祖国日本の永遠の平和を希うものである。
昭和59年6月7日
軍艦三隅会

軍艦初鷹慰靈碑

昭和58年4月建立。
初鷹型敷設艦(急設網艦)1番艦。

急設網艦とは自軍勢力圏内にある港湾、海峡及び水道等へ防潜網や捕獲網を敷設するための艦種。当艦は東南アジア方面で補給や船団護衛任務に従事。
昭和20年5月16日、マレー沖にて米潜水艦ホークビルの雷撃により沈没。

第一〇三海軍工作部 戦没者之碑

昭和59年5月27日建立。
呉海軍工廠を主体とし艦船修理や小型艦船建造等の技術部隊として昭和17年1月、比島キャビテ軍港に設置。
米軍ルソン反攻上陸により陸軍山下奉文師団と協力しマニラ防衛部隊に編入。
軍の陰に隠れ敢えなく逝った非戦闘部隊の偉業を偲ぶ。

ソロモン方面第十二防空隊慰霊碑

昭和17年12月編成。ラバウル方面に展開。 昭和21年2月復員により解隊。

工作艦朝日・山彦丸・山霜丸合同慰霊碑

工作艦「朝日」は元は敷島型戦艦2番艦。日露戦争、第一次世界大戦では主力艦として参加し、太平洋戦争では工作艦として参加。40年に渡る活躍であった。

昭和17年5月25日に旧型低速故に米潜水艦により雷撃を受け翌日沈没。

「山彦丸」 昭和19年1月10日、米潜水艦の雷撃を受けて航行不能となり13日に沈没。
「山霜丸」 昭和19年2月22日、米潜水艦の雷撃を受け翌23日にも米潜水艦の雷撃を受けて沈没。
二隻とも元は山下汽船の大型貨物船。

駆逐艦叢雲慰霊碑

吹雪型駆逐艦5番艦「叢雲」
開戦時は第12駆逐隊に所属。のち第11駆逐隊に編入。

昭和17年10月12日、サボ島沖海戦で損傷した古鷹の救援に出動。サボ島西40海里で米軍機の爆撃を受け大破し雷撃処分。

駆逐艦天津風之碑

陽炎型9番艦「天津風」。
当艦には次世代型駆逐艦「島風」用試作高性能機関が搭載されていた。

昭和19年1月16日米潜水艦の雷撃にて大破し艦前部を喪失。昭和20年3月下旬、仮艦首を装備。
4月10日、歴戦の駆逐艦「天津風」は日本本土へ帰投中に米軍機の攻撃を受け アモイ島南岸に座礁し航行不能となり爆雷の自爆により爆破処分。

最後の天津風艦長森田友幸大尉による謹書
「戦友よ安らかに眠り給へ」

第三十一潜水艦基地隊戦没者慰霊碑

第六艦隊隷下部隊として昭和19年8月編成。
第三十一潜水艦基地隊としてフィリピン・セブ島に進出し、対空警戒や甲標的整備に従事。またマニラ防衛等に参加。

工作艦明石慰霊碑

日本海軍唯一の新造工作艦「明石」。
「移動する海軍工廠」として南方海域で活躍。米海軍からはその活躍ぶりから最重要攻撃目標とされる。 昭和19年2月17日、トラック島空襲により損傷しパラオに回航。同年3月30日のパラオ空襲で大破着底する。

戦歴表碑文

本艦は日本海軍が最初より工作船としての設計建造した唯一の艦で建造佐世保工廠 艤装呉工廠 竣工昭和14年7月
(略)

戦歴
竣工と共に連合艦隊に附属行動を共にし 船体兵器機関の小修理を行い工作艇としての機能を発揮した
昭和17年8月トラック島に進出し南東方面海域で損傷せる艦艇の修理を行って大きな戦果を挙げ沈没に類した重巡最上 青葉 阿賀野などを帰還せしめた

最後
トラック大空襲の被害を免れパラオ方面に転進 修理活動を続けたが19年3月30日 ウルグターブル島の海岸に鎮座し 悲愴な最期を遂げ 187名の勇士が尊い犠牲となって散華された。

「工作船明石 慰霊碑」と表題したのは明石が船と人とが一体となり大きな戦果を挙げた事に対し戦歿英霊の功績と共に永くこれを顕彰せんとするものである。

海防艦稲木戦歿者慰霊碑

鵜来型海防艦12番艦「稲木」 昭和19年12月16日竣工し近海の船団護衛に従事。 昭和20年8月9日、八戸にて空襲を受けて沈没。

善本野戦高射砲中隊戦歿者慰霊碑

昭和16年10月、呉一特(呉第1特別陸戦隊)高射砲中隊として編成。ニューギニア戦線に展開。昭和18年9月、ラエ防衛陣地からサラワケット越えを敢行、標高4000m高山戦として史上類を見ない長距離行軍となる。部隊はキエリで終戦。

伊号第十一潜水艦之碑
呂号第百四潜水艦之碑

伊九型潜水艦(巡潜甲型)3番艦「伊11」 オーストラリア周辺海域通商破壊戦に従事。 昭和18年7月20日に豪海軍軽巡洋艦「ホバート」を雷撃し大破させる。 昭和19年1月サモア方面に向かった後に消息不明。

呂百型潜水艦(小型)の5番艦「呂104」 南方海域で哨戒や輸送任務で活躍。 昭和19年5月17日、サイパンを出港し「あ号作戦」のため散開線に配備されたが米軍護衛駆逐艦の爆雷攻撃を受け沈没。

軍艦熊野慰霊碑

最上型巡洋艦4番艦「熊野」 昭和19年10月。捷一号作戦に於いて栗田艦隊第七戦隊として出撃するも大破しマニラに退避。同じく大破していた青葉とともに本土回航の為に出港し道中奮闘したが帰還は果たせず11月25日に沈没。(同航した青葉は呉に帰還)

呉海軍設営隊顕彰慰霊碑

海軍大将嶋田繁太郎書 呉軍港より出撃した設営隊27部隊を合祀。 太平洋全域に渡る軍設備の建設や運営に従事。

軍艦古鷹戦没者慰霊碑

源田實謹書
古鷹型巡洋艦1番艦「古鷹」
平賀譲が手掛けた代表艦

昭和17年10月11日-12日、サボ島沖海戦。 第六戦隊旗艦青葉・古鷹・衣笠、第11駆逐隊第2小隊初雪・吹雪で進軍中に米軍と交戦、古鷹は集中砲火を浴び航行不能となり沈没。

碑文
軍艦古鷹は20糎砲を搭載する重巡の第一艦として江田島の霊峰古鷹山の名を取り大正15年3月31日に竣工した。
当時諸性能極めて優秀にして艦容又独創的となった。
大東亜戦争開戦劈頭、ウエーキ島及びグアム島攻略を支援、次に珊瑚海々戦、第一次第二次ソロモン海戦等に参加、就中第一次ソロモン海戦に於ては抜群の戦果を収めた。
昭和17年10月11日サボ島沖夜戦に於いて勇戦奮闘せるも遂に23:30沈没した。
茲に重巡古鷹の慰霊碑を建立して戦没者の冥福を御祈りする。
尚 本慰霊碑は古鷹関係生存者有志の献資により建立した。
昭和49年9月10日

軍艦鬼怒慰霊碑

長良型巡洋艦5番艦「鬼怒」 昭和19年10月の捷一号作戦時には、鬼怒・重巡洋艦青葉・駆逐艦浦波からなる第16戦隊を編制しレイテ島への兵員輸送に従事。 10月26日レイテ島オルモックからの帰路に米軍機の爆撃を受けパナイ島北方で被爆沈没。

碑文
軍艦鬼怒は大東亜戦争に端を発せれるや南方方面第4潜水戦隊旗艦としてマレー半島を南下スラバヤ、セレベス、シンガポール方面の激戦に数々の功績を重ね最期には第16戦隊旗艦としてレイテ湾作戦に参加、昭和19年10月25日敵空50機と交戦、翌26日午後5時25分遂にさすがの鬼怒も最終の美を飾り去った、
軍艦鬼怒竣工以来同艦に於いて戦死された方がこっら今の日本の礎となられた尊い戦友の英霊に対し思い出の鬼怒よみたま今 母港に帰りし安んじて眠り給へと祈る
昭和55年5月25日
軍艦鬼怒慰霊碑建設賛同者一同

軍艦隼鷹慰霊碑

日本郵船客船橿原丸を改装した航空母艦「隼鷹」 ミッドウェーで主力空母喪失後に穴を埋める活躍をする。また高速輸送艦としても運用され佐世保に疎開し終戦まで残存。 戦後は機関損傷から復員船指定もなく商船への復帰もなく昭和22年8月1日解体終了。

駆逐艦秋風慰霊碑

峯風型駆逐艦9番艦「秋風」
昭和19年10月下旬、比方面への緊急輸送作戦従事中の「隼鷹」護衛任務に従事。11月3日、米潜水艦は隼鷹に対し雷撃するも秋風に命中し秋風は沈没。辛くも隼鷹は難を逃れた。
秋風慰霊碑は隼鷹慰霊碑の隣に建立されている。

献辞碑文
昭和十九年十月三十日空母隼鷹は高千穂空挺部隊八五〇名と各種兵器弾薬を満載これを護衛する軽巡 木曽 第三十駆逐隊(卯月、夕月、秋風)と共に夕闇迫る佐世保軍港をマニラへと出港した
緊迫した航海が続いた十一月三日夜半隼鷹の左舷を護衛中の秋風に左六十度方向より米潜ビンタード発射の魚雷が隼鷹に命中するのを避けるため全速で前進体当りを行ない一瞬の間に山崎艦長以下二〇四名が全員戦死した
時正に二十二時五十三分 北緯十六度四十一.五分 東経一一七度二十一分マニラ西方海面で秋風はその勇姿を消したのである
思えばあの重大な輸送作戦が成功し戦後我々が無事復員して今日あるのは偏えにこの尊い犠牲の賜と確信するものである
このため秋風の戦没者に感謝し この偉勲を後世に傳え また御霊の安らかに眠られんことを願って隼鷹戦友会の有志一同 御遺族そして秋風の御遺族並びに賛同者の協力を得て鎮魂の碑を建立し亡き秋風戦没者に哀悼の意を表わすものである
平成三年九月二十二日 
建立委員長 吉川亘 

第十七駆逐隊之碑

谷風・浦風・浜風・磯風・雪風・初霜

碑文
第十七駆逐隊の戦歴
我が第十七駆逐隊は谷風浦風浜風磯風雪風初霜の六艦を以って編成され大東亜戦争を戦ったが昭和十九年六月九日北ボルネオ沖にて谷風を失い浦風は昭和一九年十一月二十一日台湾海峡にて沈没。
浜風・磯風は昭和20年4月7日沖縄洋上にて沈没。
初霜は同年7月宮津湾で破損し憾みを千載に残した。
雪風は最期まで艦が保全され終戦後は復員船として活躍した。
当駆逐艦隊は日本海軍の誇る精鋭の甲型駆逐艦でさきの大戦において祖国日本の防衛に任じ数々の武勲をたてたが総員六百五十五柱の戦没者をみた誠に痛恨の極みである。
茲に第十七駆逐艦の栄光を後世に伝え且つは祖国の安泰と英霊の安からんことを祈念して同志相寄り謹んでこの碑を建立する。
昭和57年3月21日

駆逐艦浜風戦歿者慰霊碑

陽炎型13番艦「浜風」
第17駆逐隊に所属した姉妹艦と主要な海戦に参加。戦艦武蔵・金剛・空母蒼龍・飛鷹・信濃といった帝国海軍主力艦の沈没に立ち会い救助活動に従事。 最後は昭和20年4月7日の坊ノ岬沖海戦で戦艦大和と共に撃沈。

呉鎮守府第十七防空隊慰霊碑

昭和18年、呉で編成されラバウルに進出。 その後、ブーゲンビル島ブインに転戦。 そのままブーゲンビル島ブイン基地にて終戦を迎える。

軍艦加古戦没者慰霊碑

元加古艦長高橋雄次書
古鷹型重巡洋艦2番艦「加古」
昭和17年8月8日、第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)は第一次ソロモン海戦に参加し活躍。戦闘終了後の8月10日。その帰路に米潜水艦の雷撃により沈没。

第四艦隊遭難殉職者之碑

第四艦隊事件。
昭和10年の台風により海軍艦艇が被った大規模海難事故。参加艦艇(41隻)の約半数(19隻)が何らかの損傷を被った。
なかでも最新鋭の吹雪型特型駆逐艦「初雪」「夕霧」は艦橋付近で艦首切断の大損害を受けた。殉難者54名。

軍艦矢矧殉職者之碑

筑摩型防護巡洋艦2番艦「矢矧」
(当艦は初代。阿賀野型「矢矧」は2代目)

大正7年(1918)秋、南太平洋及び印度洋方面の警備任務の帰途に艦内にインフルエンザが流行し乗員471名のうち殉職者は艦内6名病院42名の48名に及んだ。

第三十四号駆潜艇戦歿者慰霊碑

初代艇長逆井保治謹書
第十三号型駆潜艇を改良した第二十八号型駆潜艇の1隻。同型艦31隻。 昭和17年8月31日竣工。昭和20年3月26日英艦と交戦沈没(小アンダマン島東方沖)。

軍艦神通戦没者慰霊碑
海軍中将 伊崎俊二之墓

川内型巡洋艦2番艦「神通」
第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将。

昭和18年7月、コロンバンガラ島沖海戦において旗艦「神通」が戦没し運命を共にした。死後、海軍中将に進級。

碑文
昭和十八年七月十二日コロンバンガラ島沖夜戦に於いて米巡洋艦と交戦し神通は百十糎探照灯で敵艦を照射し子隊の雷撃砲撃を容易にし、自から標的となりながらも勇猛果敢に戦い多大なる戦火をあげたが尊い命を失いました。

駆逐艦椿戦没者慰霊碑

元艦長田中一郎少佐書
松型駆逐艦(丁型)15番艦「椿」

昭和19年11月30日竣工。昭和20年7月に瀬戸内海の備讃瀬戸で空襲にあい中波。終戦時は中破状態で呉に残存。昭和23年7月28日に解体が終了した。

伊二九潜戦没者慰霊碑

第十四潜水隊司令寺岡正雄謹書
伊号第二十九潜水艦。 インド洋で通商破壊任務を行い船舶7隻撃沈。また日独往復に成功寸前まで行った艦。昭和18年7月26日ドイツ帰路に比島沖にて敵潜の雷撃を受け木梨鷹一艦長以下全乗員が戦死し沈没。

不朽
艦と共に身おば砕きし火柱の
  一瞬をただ見つめたるまま

大東亜戦争中輝かしい戦歴を重ねた伊号第29潜水艦は昭和19年7月26日午後4時15分頃ドイツ派遣の重大使命を果して一路帰国の途上米国潜水艦の雷撃を受けて沈没。
乗組員107名もまた艦と運命を共にせり。 バタン島沖バリンタン海峡の、そうそうたる海原水深く波静かなる紺ぺきの海。
そこは祖国に生命を捧げた精鋭と艦の不朽の偉勲を語るところ、その海には今もなお壮烈偉大なる殉国の魂が永遠の眠りをつづけている。

伊三六三潜殉職者之碑

伊号第三百六十三潜水艦。
回天攻撃隊に参加。8月14日に呉帰港し終戦を迎える。
昭和20年10月29日、呉から佐世保へ回航の途中、宮崎県沖で触雷沈没。 墓碑の上の潜望鏡は、その後引き上げられた本艦の夜間潜望鏡、という。

レンドバ島派遣隊戰没者慰霊碑

レンドバ島で戦死した「呉鎮守府第六特別陸戦隊」および「第三十八師団歩兵第二二九連隊第七中隊」の慰霊碑。レンドバ島守備隊は米軍上陸を打電したのち消息を絶っている。

ソロモンの
 孤島に散りし
  戦友の
英霊よながく
 ここにやすかれ

軍艦青葉戦没者慰霊碑

青葉型重巡洋艦の1番艦「青葉」
昭和17年第一次ソロモン海戦・サボ島沖海戦で活躍。
昭和19年捷号作戦(レイテ沖海戦)で大破、かろうじて呉軍港に帰投。 修理の見込みが立たないまま昭和20年7月呉空襲で大破着底。昭和22年7月解体完了。

 風荒れ雨はくるうじ
 草木は空にもえ出でて
 やがて青葉いろどられ
 真夏の苦熱如何あらん
 ますらたけおの胸の血は
 青葉の如くもゆるなり

軍艦吉野戦死者之碑

吉野型防護巡洋艦1番艦「吉野」
1893年(明治26年)完成当時は世界最速の軍艦。
日露戦争では第三戦隊に所属。1904年(明治37年)5月15日、旅順港閉塞作戦従事の帰路に濃霧に遭遇し味方艦「春日」と衝突沈没。戦死者319名。

軍艦信濃戦歿者之墓

靖國神社宮司 筑波藤磨 書(第五代宮司)
大和型戦艦3番艦を航空母艦改装したものが「信濃」。 昭和19年11月下旬、未完成のまま横須賀から呉へ回航中に米潜水艦の魚雷攻撃により、一度も実戦に投入されることなく沈没。合祀者885柱。

第参号輸送艦戦没者慰霊之碑

嶋田繁太郎書
第一号型輸送艦(一等輸送艦)3番艦。日本海軍で最初にブロック工法を導入した艦型とされる。 本艦は昭和19年6月29日竣工。昭和19年9月15日、ミンダナオ島で座礁中に米潜水艦より雷撃を受けタンク破裂炎上し火災沈没。

軍艦衣笠慰霊碑

青葉型重巡洋艦2番艦「衣笠」 昭和17年10月のサボ島沖海戦で古鷹と吹雪が沈没し青葉が大破した第六戦隊は解隊し健在だった衣笠は第八艦隊直属に再編成。(青葉は呉修理へ) 11月、第三次ソロモン海戦において米軍機の攻撃を受け航行不能となり沈没。

碑文
軍艦衣笠は、先の太平洋戦争において、勇戦奮闘するも、昭和17年11月14日 南太平洋ニュージョージア島南方洋上に沈む。
今やわが国の平和と繁栄を目の当たりにするとき、祖国の礎となって艦と運命を共にされた亡き戦友に対し我々は切々たる感謝の思いを禁じ得ない。
ここに40周年を迎えるにあたり、鎮魂慰霊の碑を建立して、その遺徳を顕彰し祖国日本と世界の永遠の平和を心より念願するものである。
昭和57年11月14日
軍艦衣笠慰霊碑建立委員会

駆逐艦浦波慰霊碑

吹雪型駆逐艦(特型駆逐艦)10番艦「浦波」
昭和19年10月26日、第十六戦隊(青葉、鬼怒、浦波)はレイテ沖海戦に伴う輸送作戦(オルモック湾揚陸作戦)に従事。「浦波」は揚陸の帰路に米軍機の空襲により長良型軽巡洋艦5番艦「鬼怒」等と共に撃沈。

第十六防空隊戦没者慰霊碑

昭和18年4月、横須賀海軍砲術学校にて編成。 第八艦隊第七連合特別陸戦隊編入。 5月ラバウルに進出し、次いでブーゲンビル島ブインに進出。コロンバンガラ島撤退作戦ニ参加。ショートランド諸島で終戦。

第百十三號輸送艦慰霊碑

特設輸送艦(二等輸送艦) 昭和19年10月竣工。 昭和19年11月25日、サンタクルーズ湾からマニラに向う途中にルソン島ダソル湾外で米空母機の攻撃を受け沈没。

駆逐艦磯波戦没者慰霊碑

吹雪型駆逐艦9番艦「磯波」 昭和18年4月9日、船団護衛中にスラバヤ方面セレベス島南東で米潜水艦の雷撃で戦没。

駆逐艦呉竹慰霊碑

若竹型駆逐艦2番艦「呉竹」(くれたけ) 大正11年(1922)12月竣工。当初名は「第四駆逐艦」。 昭和3年8月1日「呉竹」と改名。昭和19年(1944)12月30日、バシー海峡にて米潜水艦の雷撃を受け戦没。

駆逐艦白雲慰霊碑

吹雪型駆逐艦8番艦「白雲」
開戦時は第十二駆逐隊所属。昭和17年3月に第十二駆逐隊は解隊となり第二十駆逐隊に編入。昭和18年に北方部隊の第九駆逐隊に編入。昭和19年3月16日、ウルップ島向船団護衛中、襟裳岬沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没した。

駆逐艦白雲慰霊碑

「吹雪」型特型駆逐艦の八番艦として、昭和3年7月28日竣工。

白雲について
白雲は昭和3年7月28日、第42号駆逐艦として呉で竣工、わずか4日後に艦名が改められている。
当時帝国海軍が精強を誇った特型駆逐艦の8番艦である。
昭和16年12月太平洋戦争の勃発時には、第12駆逐隊の司令駆逐艦としてマレー半島上陸作戦を支援、次いでボルネオ、スマトラ、ジャワ島などの攻略戦、インド洋制圧作戦に参加、昭和17年8月ガダルカナル島争奪戦で傷つくまで南方洋上各地を転戦し、数々の武勲を立てている。
その後北方部隊に編入され千島防衛の任に当っていたが、昭和19年3月16日夜、船団護衛中、北海道釧路沖に於いて無念にも米潜水艦の雷撃を受け、輸送船日連丸とともに沈没、艦長以下乗員270名、悉く壮烈な戦死を遂げられた。
波高く月明なき暗夜の海上で、将に沈まんとする白雲は全艦に灯火を点じていたと伝えられる。
祖国への訣別の点灯であったのかとおもえば痛恨の念が胸に迫り、哀惜の情は尽きない 。
爾来星霜を重ねて四十三年、今は我が国北辺鎮護の礎として、永遠の眠りに就く白雲の栄光を讃え、ともに殉じた戦没将兵の霊を慰めるため、有志相図ってここに鎮魂の碑を建立する。
昭和62年3月16日
白雲会

駆逐艦初風慰霊碑

陽炎型7番艦「初風」 昭和18年11月2日、初風は第十戦隊旗艦軽巡洋艦阿賀野の指揮下(阿賀野・駆逐艦長波、初風、若月)でブーゲンビル島沖海戦に参加、第五戦隊重巡妙高と衝突し、艦首を失い米艦隊の集中砲火を受けて沈没。

駆逐艦初風は、昭和18年11月2日 ブーゲンビル沖海戦に於いて壮烈な最期を遂げました。
その初風と運命を共にされました265名の鎮魂を願って 私ども遺族はこの趣旨にご賛同の方々露力を合わせて、遅ればせてはありますが、呉の母港の見えるこの地に、慰霊碑を建立いたします。祖国日本が永遠であることを念じつつ散華されましたその霊を御慰めし、ここに御冥福を御祈りいたします。

第六三四海軍航空隊慰霊碑

第六三四海軍航空隊は昭和19年9月の時点では海軍屈指の航空隊であった。
基地隊員四百余名は部隊に合流すべく新鋭空母雲龍に便乗し12月17日呉軍港出港したが19日午後4時57分、東シナ海舟山列島沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没、殆どが戦死。

呉鎮守府潜水艦戦没者之碑

合祀潜水艦、伊号29隻、呂号6隻、合計35隻。

轟沈
轟沈 轟沈 凱歌が上りゃ
つもる苦労も苦労にゃならぬ
うれし涙に潜望鏡も
くもる夕日の
くもる夕日のインド洋

碑文
さきの凄絶なる大東亜戦争において、祖国の隆昌発展を願いつつ、万里の果てに敵を撃ち、至誠と情熱とを捧げて己が努めを尽くしたる後従容として戦没せし潜水艦三十五隻、艦と運命を共にされし英霊は三千余柱を数う。
戦いの日過ぎ去りて半世紀、今日の祖国の平和と繁栄とはここに眠れる尊き英霊の犠牲の賜にして切々たる追惜の情もだし難く有志相計り「呉鎮守府潜水艦戦没者之碑」を母港の上に建立す。
諸兄の示されたる純粋にして無垢、崇高なる殉国の真心とその輝かしい勲とを、後世に伝えてその遺徳を顕彰し、併せて祖国の永遠の平和を希うものである。
在天の英霊ここに還りて、ありし日を我等と共に静かに語らん。
平成3年4月23日
呉鎮戦没潜水艦合同慰霊碑建立委員会

駆逐艦敷波戦没者慰霊碑

吹雪型(特型駆逐艦)12番艦「敷波」 昭和19年9月4日、内地向船団を護衛してシンガポールを出港。9月12日に海南島東方沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没。

昭和十五年徴募主計科戦歿者慰霊碑

文字通り、昭和15年に徴募(召し募ること)された主計科の戦歿者のことであることはわかるが詳細は不明。

第二十四特根付 
特設駆潜艇 第十八日東丸戦没者慰霊碑

徴傭漁船を改造した特設駆潜艇「第十八日東丸」 昭和16年8月28日徴傭、昭和20年終戦時に残存。 第二十四特根とは「第24特別根拠地隊」のこと。

ショートランド島戦没者慰霊碑

元連合艦隊参謀長草鹿龍之介謹書
ソロモン諸島ブーゲンビル島南東のショートランド泊地に展開された第13防空隊の慰霊碑。 旧呉鎮十三防空隊員及呉六特南海砲台員の英霊を謹んで慰霊の為建立。

駆逐艦陽炎之碑

陽炎型駆逐艦1番艦。
昭和18年5月8日、第15駆逐隊(親潮・黒潮・陽炎)にてコロンバンガラへ輸送の帰途、同島南岸西方で触雷。航行不能となった陽炎は米機爆撃を受け沈没。なおこの1日で親潮・黒潮も沈没しており第15駆逐隊は全滅。

戦歴
駆逐艦「陽炎」は、「陽炎」型駆逐艦の一番艦として、昭和14年11月6日竣工した。
太平洋戦争開戦時は、第十八駆逐隊に属し、機動部隊の警戒隊としてハワイ真珠湾攻撃、ついでインド洋作戦に参加した。
その後、ミッドウェー海戦に参加した後、第十五駆逐隊に編入された。
ガダルカナル島方面の作戦に於いて一木支隊を緊急輸送、ルンガ沖海戦では米重巡艦隊に大損害を与えた。
昭和18年5月7日ソロモン諸島クラ湾で触雷、翌8日米陸軍機の空襲により被爆し沈没した。

軍艦天龍遭難死者紀念碑

明治31年7月23日建立。合祀者3柱。
明治18年(1885)3月5日竣工。日清日露戦争に参加。 明治30年(1897)11月26日に発生した火災で犠牲になった殉職者の慰霊碑。

軍艦廣丙遭難哀悼碑

広丙(こうへい)
明治29年(1896)5月建立。
清国海軍の防護巡洋艦。日清戦争の際に降伏、戦利艦として日本海軍に編入。新鋭艦として期待されていたが編入後1年足らずの明治28年12月21日に座礁し沈没。

軍艦鈴谷戦没者慰霊碑

最上型重巡洋艦(二等巡洋艦最上型)3番艦「鈴谷」
昭和9年11月20日の鈴谷進水式には昭和天皇が臨席。 昭和19年10月25日、レイテ沖海戦・サマール島沖追撃戦で空襲を受け酸素魚雷が誘爆し沈没。

軍艦鈴谷
ソ連領サハリン南部のチエホバ岳が旧日本領土の樺太であった頃に鈴谷岳と呼ばれ山裾を流れる鈴谷川にその名を取り二代目鈴谷として誕生する。 然し地球上に存在しなくなった地名鈴谷をこの世から忘れ去られる事に忍びず軍艦鈴谷とその犠牲者の功績を此処に伝える。

昭和十九年十月二十五日十時三十分頃撃墜した米空母機が魚雷甲板舷側にて爆発炎上し搭載魚雷の誘爆により北緯十一度四十五分東経一二六度十一分のサマール島東方海面の太平洋上に六百有余名の乗員と共に十三時二十二分その姿を海中に没す。
駆逐艦沖波に救助された四百余名も翌二十六日の米空母機の追撃により沖波は損傷、多数の死傷者を出したがマニラに帰着し、更に半数は陸戦隊としてマニラに残留し、又本国に帰った者もそれぞれ過酷な戦いに終戦迄に大多数が護国の花と散った。

鈴谷慰霊碑の片隅に鈴谷乗組員を救助した沖波慰霊碑がある。

救助駆逐艦沖波戦死者慰霊

昭和十九年十月二十六日、鈴谷乗員救助後マニラ帰投中、アメリカ機の追撃を受け死闘して斃れた沖波乗員戦死者の霊に捧ぐ

沖波はその後マニラにて昭和19年11月13日に大破着底

戦艦扶桑戦没者慰霊碑

扶桑型戦艦の1番艦「扶桑」
昭和19年10月25日。扶桑は通称西村艦隊(西村祥治)全7隻(戦艦山城・扶桑、重巡洋艦最上、駆逐艦満潮、朝雲、山雲、時雨)でレイテ湾へ突入。スリガオ海峡で米艦隊集中攻撃を受け、駆逐艦時雨を残して全滅。

碑文 戦歴
戦艦扶桑は呉鎮守府管下最初の超弩級戦艦として平時の連合艦隊に於いて輝かしい成績を挙げ、大東亜戦争勃発するや各地に転戦し、最後となった昭和十九年十月の捷一号作戦には僚艦山城とともに第二戦隊を編成し、捷一号作戦には僚艦山城とともに第二戦隊を編成し西村中将指揮のもとに比島スリガオ海峡よりレイテに向け突入、米艦隊と激戦、敵戦艦重巡戦隊の集中砲火と魚雷艇駆逐艦の雷撃を受け沈没。 阪艦長以下殆ど全員が戦死した。 時に昭和十九年十月二十五日午前二時四十五分。

特務艦間宮戦歿者慰霊碑

給糧艦「間宮」
就役当時は間宮は世界最大の給糧艦であり、日本海軍としても初の給糧艦であった。補給の要として活躍。艦隊の酒保として非常に人気が高く帝国海軍の中では最も有名な艦の一つ。
昭和19年12月21日、米潜水艦の雷撃により沈没。

碑文
竣工後第一艦隊に所属続いて連合艦隊に編入し、当時唯一の給糧艦として支那事変、太平洋戦争に参加、揚子江沿岸並に比島トラック、パラオ、サイゴン等各方面に糧食酒保物品等の補給任務に従事した。
昭和十九年十二月十日物資を満載しサイゴン出港、マニラに向け航行中十二月二十一日午前一時、米潜水艦二隻の雷撃を受け海南島東方にて沈没。 艦長以下四百六十余名の乗組員が艦と運命を共にした。
誠に痛恨の極みである。
ここに間宮の栄光を後世に伝え且つ戦没者の御霊を慰めるべく生存者元乗組員及び旧海軍有志相集い浄財を得てゆかりの地にこの碑を建立す。
昭和五十八年十一月二十日 特務艦間宮

軍艦鹿島 有終之碑

香取型練習巡洋艦2番艦「鹿島」
有終之碑。鹿島は呉で終戦を迎えている。
開戦時はトラック泊地で南洋部隊の全作戦を指揮する第四艦隊の旗艦(司令長官井上成美)を務める。 戦争末期は輸送任務に従事。(特設護衛船団・海上護衛総隊)

第十戦隊旗艦 巡洋艦阿賀野慰霊碑

元第十戦隊司令官木村進謹書
阿賀野型軽巡洋艦1番艦。昭和17年10月竣工。第十戦隊旗艦。
昭和18年11月ラバウル空襲で損傷しトラックで明石の応急修理を受ける。
昭和19年、呉に回帰途中2月17日に米潜水艦雷撃により沈没。

阿賀野艦
 身は南海に
  沈めども
永久に護らん 
 秋津洲ねを
昭和49年10月12日 元通信長 太田守

第十戦隊旗艦 阿賀野 慰霊碑の回りには多くの駆逐艦の名が刻まれている。

昭和19年2月17日に沈没した阿賀野。阿賀野乗組員らは駆逐艦追風に救助されたが、追風も翌日のトラック空襲で爆沈。松田艦長以下多数の阿賀野乗組員も散華。

第三十二特別根拠地隊戦没者慰霊碑

島村浩二書(大佐・陸戦指揮官)
比島ミンダナオ島方面海軍部隊。第三十二特別根拠地隊はミンダナオ島ダバオを中心に防衛に従事。 昭和20年4月27日、米軍ダバオ攻撃が始まり部隊は陸軍と協力して防衛に務めるが漸次消耗し終戦を迎える。

軍艦伊勢慰霊碑

捷号作戦当時艦長 中瀬泝謹書
伊勢型戦艦1番艦「伊勢」
昭和18年、僚艦の日向とともに航空戦艦へ改装され「第四航空戦隊」編成。 昭和19年10月レイテ沖海戦で活躍。昭和20年北号作戦成功後、7月28日の呉軍港空襲にて大破着底し終戦を迎える。

碑文・献辞
第二次世界大戦起るや航空戦艦として各地に転戦し武威を輝かし、昭和廿年七月二十四日及び二十八日敵機の大群の攻撃を受け、勇戦奮斗のかいなく倉橋島北岸に擱座着底し護国の鬼と化したる百九十名の勇士に痛恨おくあたわざれど護国の鬼と化したる百九十名の勇士に痛恨おくあたわざれど戦友よ星移り月かわれども永遠にその名をとどめ之れを顕彰せん 願はくば安らけく眠り給へ
昭和四十五年十月二十五日 
軍艦伊勢慰霊碑建設委員長 師岡勇

第五三一海軍航空隊慰霊碑

昭和18年編成。最前線の雷撃機隊。天山を主力とする。マーシャル諸島に展開。 昭和18年12月クエゼリン環礁地上戦開始。ルオット島司令部通信途絶。 昭和19年2月解隊。地上戦が発生しなかったウォッゼ基地隊員は戦後鳳翔にて復員。

戦歴
第531航空隊は昭和18年7月1日天山11型艦上攻撃機36機をもって舘山において編成 直ちに北千島方面に進出 同年11月舘山及び北千島の擂鉢・片岡に派遣隊を残し本隊はマーシャル群島ウオッゼ島に転じ 同方面の作戦に従事 輝かしい戦果を収めたが 翌19年初米機動部隊との戦いにおいて全航空機を失い搭乗員は全滅 同年2月20日をもって解隊 ウオッゼ基地隊員は全員第四艦隊司令部附・第64警備隊付となる。 同島にて米軍の絶え間ない攻撃と想像を絶する飢餓との闘いのうちに20年8月終戦を迎え同年11月生存者58名全員鳳翔にて帰国、戦死戦病死者206名。
篠崎 英夫 記

八十二号海防艦戦没者慰霊碑

艦長 森武 謹書 丁型海防艦(第二号型海防艦)。同型艦67隻。
昭和19年12月31日竣工。昭和20年8月10日、北鮮東方沖でソ連航空機の雷撃を受け沈没。

重巡最上戦没者慰霊碑

最上型重巡洋艦の1番艦「最上」
ミッドウェー海戦で損傷し後部主砲二基を撤去し航空巡洋艦に改装。 昭和19年10月25日、西村艦隊としてレイテ沖海戦におけるスリガオ海峡夜戦に参戦し大破、退避中に志摩艦隊の那智と衝突、曙により雷撃処分。

軍艦雲鷹戦歿者之碑

大鷹型航空母艦2番艦「雲鷹」 もと日本郵船所有の新田丸級豪華客船「八幡丸」。 新田丸級三姉妹船(新田丸=沖鷹、春日丸=大鷹、八幡丸) 昭和19年 9月17日、ヒ船団護衛任務に従事中、米潜水艦の雷撃により沈没。

軍艦比叡戦歿者之碑

金剛型コルベット艦2番艦「比叡」
明治27年9月17日の日清戦争黄海海戦で大破、同海戦戦死者の慰霊碑。
明治28年8月建立。
当初は眼鏡橋畔に建立。昭和37年4月に海自呉警備隊正門横に移設。その後昭和56年に現在の場所に移設。

軍艦厳島乗組員之碑

「三景艦」と呼ばれた松島型防護巡洋艦の二番艦。
明治27年9月17日の日清戦争黄海海戦戦死者の慰霊碑。
明治28年9月建立。
当初は眼鏡橋畔に建立。昭和37年4月に海自呉警備隊正門横に移設。その後昭和56年に現在の場所に移設。

呉所管海軍 看護長看護師看護手 看護之墓

大正3年4月30日建立。
当初は呉海軍看護科員を祀るために呉市和庄共同墓地に建立。 建立以来80年以上を経て無縁仏となっていたため、旧看護科の有志が平成9年9月23日に呉海軍墓地に移設した。

戦艦大和戦死者之碑

大和型戦艦1番艦「大和」。日本海軍が建造した史上最大の戦艦。
昭和16年12月16日に竣工。
昭和20年4月7日14時23分、天一号作戦において第二艦隊旗艦として第二水雷戦隊と共に沖縄方面へ出撃し米機動部隊の猛攻撃を受け坊ノ岬沖で撃沈。


以下の慰霊碑は撮影し損ねたり、訪れ損ねたりしました。
大変悔しいですが、またの機会を期したい、と。

航空母艦飛鷹の碑
英国水兵の墓碑
駆逐艦島風戦没者之碑
伊號第八潜水艦之碑
伊号第122潜水艦戦没者慰霊碑
第三十三警備隊戦歿者慰霊碑
大東亜戦争戦没者名碑

今回の慰霊碑参拝で新たに知ることが出来た艦や歴史も多くあり、ほんの一握りではあれど、その最期を偲ぶよすがもまとめることも出来ました。 ありがとうございました。

海軍工機学校(海軍機関学校)跡地散策

平成29年10月及び平成31年3月撮影

海軍工機学校兵舎(横須賀学院2号館)

横須賀は三笠公園の近く。
神奈川歯科大学と横須賀学院の界隈は、かつては「海軍工機学校」(海軍機関学校)であった。

米軍側から見た「海軍工機学校」と「横須賀海軍病院」の記事はこちらから。


位置関係

USA-M378-25
1947年(昭和22年)07月24日‐米軍撮影を加工
GoogleMap航空写真 現在の様子

海軍工機学校跡(海軍機関学校跡)

神奈川歯科大学及び神奈川歯科大学附属病院
守衛さんの許可を得て、ちょと見学にいってみましょう。

守衛の許可を得て入校しております。

神奈川歯科大学及び神奈川歯科大学附属病院 大学中庭の西側に。

海軍工機学校・軍人勅諭の碑

昭和7年1月4日建立
軍人勅諭下賜50年記念
海軍工機学校長 村田豊太郎謹書(海軍中将)

村田校長は工機校長ののちに横須賀工廠長に任命

誠心
一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし
二 軍人は礼儀を正しくすへし
三 軍人は武勇を尚ふへし
四 軍人は信義を重んすへし
五 軍人は質素を旨とすへし
海軍工機学校長 村田豊太郎謹書

海軍工機学校正門門柱及び壁

海軍工機学校 海軍栓

海軍工機学校 煉瓦倉庫

神奈川歯科大学校舎の裏側に。

倉庫の向こう側は、現在は米軍基地。

旧横須賀海軍病院跡
 (米海軍横須賀基地内)

神奈川歯科大学敷地内から、米軍基地方面を望む。フェンスの向こう側にある建物が、かつての「横須賀海軍病院」。現在も米海軍病院として使用されている。

旧横須賀海軍病院 奉安殿跡

横須賀海軍病院の建屋の前には「奉安殿」も残っている。
こちらもフェンス越しに拝見。

奉安殿とは 天皇陛下と皇后陛下の写真(御真影)や教育勅語などを納めていた建物。

前述の「神奈川歯科大学」及び「神奈川歯科大学附属病院」の東隣には「横須賀学院」という小中高一貫の私立学校がある。

横須賀学院
戦前の海軍工機学校(海軍機関学校)跡地に戦後「青山学院横須賀分校」が開校。その後、青山学院は撤退し昭和25年に継承した横須賀学院が当地に設立している。

横須賀学院の守衛さんにお伺いを。
「海軍の学校の碑を見学したい」と申告すると「一般に公開はしてないけど良いよ、授業中だから気をつけてね。碑の場所は・・・」と気さくに碑の場所を教えていただきました。
ありがとうございます。ちょっと見学に行ってみましょう。

海軍機関学校跡碑

横須賀学院(許可を得て入校)
碑には正面写真と碑文を刻んだ銅板が貼付されている。

海軍機関学校跡
記念碑建立の由来
海軍機関学校の沿革は明治2年に遡るのであるが、明治34年9月1日白浜校舎が現在地に落成し日夜機関生徒の訓育に当り、その後大正12年9月1日関東大震災により校舎を全焼し江田島に移転する迄の22年間延1,324名の卒業生を送り機関科将校揺籃の地として寔に意義深く記念すべき場所であるので、当横須賀学院の御厚意と同窓生諸賢の熱意によって校跡を後世に遺したく旧校庭の一角にこの記念碑を建立した次第である。
昭和43年6月3日建之

学校跡碑のある場所のうしろの建物(横須賀学院2号館)が、実はかつての工機学校兵舎。昭和13年頃の建設とされている。

生徒たちの邪魔をしないように撮影してサクッと退散。

学校内は、なかなか立ち入るのに緊張しますね。
次はフェンスの向こうの米軍敷地内が気になります。


関連

横須賀の諏訪公園周辺散策

平成29年10月撮影

京急線・汐入駅周辺の散策。場所としては諏訪公園を軸に。


横須賀のどぶ板通りを歩いていて前から気になっていた碑。
実はまだ行ったことが無かったので、入り口の碑につられてみます。

明治天皇横須賀行在所入口石柱

昭和9年建立。
ここは入口。この先に行在所(あんざいしょ)があったとのことで行ってみましょう。

入口石柱からまっすぐに進んで石段を登ると突き当りに横須賀幼稚園。
隣接する公園に目指すものがありました。

明治天皇横須賀行在所阯

昭和11年4月建立
史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ史蹟トシテ昭和八年十二月文部大臣指定

聖蹟の碑(向山行在所跡)

向山行在所跡は、 明治天皇が横須賀行幸の際、宿泊・休憩した建物の跡地です。
昭和8年11月2日に史跡名勝天然記念物保存法により指定
昭和23年6月29日に指定解除

「聖蹟」の揮毫は海軍大将加藤寛治

「明治天皇横須賀行在所阯」碑
「聖蹟」碑(向山行在所跡)

聖蹟として整備され、2つの碑を中心に御影石の柵柱と門扉(昭和5年の銘あり)もあった形跡が残るも現在は遊具に囲まれた公園。
幼稚園の隣の公園は、かつての行在所の記憶を絶妙なバランスで残しつつ、ほのぼのとしておりました。

行在所跡から横須賀幼稚園を経て緑ヶ丘女子高校の隣から諏訪公園(八幡山)へ。

明治天皇御駐蹕碑

元帥東郷平八郎謹書
昭和8年11月3日(明治節)建立

明治天皇は度々横須賀に行幸されており麓の向山行在所に宿泊されていた。

駐蹕碑の頂点には地球を型どった球体、そして翼を拡げた金鵄の姿が。

石版には 明治天皇が明治四年・明治六年・明治八年と横須賀造船所を御巡覧したり艦隊運動を天覧されたりした御実績が記されている。

「明治天皇御駐蹕碑」のある場所はちょっとした空間が広がっておりまして。
きっとなにかあったんだろうなあという痕跡も。
諏訪公園(八幡山)の高台ともなっており、横須賀芸術劇場がよく見える。

横須賀芸術劇場はまたのちほど。
次は諏訪公園(八幡山)の由来となった諏訪神社へ参りましょう。

どぶ板通りからそれたところに「諏訪大神社」が鎮座している。
横須賀の中心的な神社のひとつ。
何度か参拝したことは有るけど久しぶりの参拝を。
神社の後ろに展開している「諏訪公園」が目的地だったので方向が重なったとも言いますけど。

神社隣の魚藍亭・よこすか海軍カレー館は老朽化で閉店…

横須賀 諏訪大神社

横須賀「諏訪大神社」 参道に看板がありました。

SUWA SHRINE AND PARK
OFF LIMITS
TO U.S FORCES
PERSONNEL

「諏訪神社及び公園、米軍関係者の立入禁止」
これは米軍が神社と協議のうえで注意喚起をする為に取付けた看板とのことで…

横須賀「諏訪大神社」
(すわだいじんじゃ/すわおおかみしゃ/すわおおかみのやしろ)
御祭神 健御名方命・事代主命

康暦2年(1380)横須賀城主三浦貞宗が横須賀総鎮守として、長峯城の城口にあたる古谷山に、信州の上下両諏訪明神を勧請したことにはじまる。

領主三浦氏が滅んだ後は祭祀権は地頭郡代を先達として次第に村の民衆の手に移った。
慶長11年に代官発起で村の人々により社殿・境内の大改修を行い農漁の守護神として崇敬される。
昭和3年に郷社昇格。
昭和20年に県社昇格の内許がでるも終戦を迎え今日に至る。

ハイフリ・・・ですね。 作品を見たこと無いので詳細はわかりませんが。 ご多分に漏れず、このエリアが隔離コーナーのようです。

御朱印頂戴いたしました。
こちらの神社には何度か参拝しておりましたが実は御朱印を戴くのは初めて。社務所は無人ですが近くの宮司さん宅で頂戴できます。

東叶神社の咸臨丸御朱印帳に戴きました。
隣は横須賀追浜の雷神社。横須賀に相応しい帳面に。

諏訪公園

「諏訪大神社」から奥へと脚を進めます。
八幡山の「諏訪公園」へ向かいましょう。
ここにも海軍関係を含む幾つかの史跡が残っております。

招魂塔台座
横須賀海軍工廠工員殉難者慰霊招魂塔跡

明治45年5月27日(海軍記念日)に八幡山山頂(諏訪公園)に建立。
しかしここに鎮座していた招魂塔は戦後GHQの指示で撤去。

海軍軍都・横須賀ゆえに誤魔化しきれず目立ちすぎたのだろうか…悔やまれます…今は台座に電柱が虚しく…

満期記念碑

桜樹二百本・横須賀鎮守府大正三年度徴兵
詳細は不明ながら、横須賀鎮守府での大正3年度の兵役満期を迎え諏訪公園に桜木200本を植樹したことを記念して建立と推測。

奉納「舟型手水鉢」

青島攻略参加工作船関東丸工作部一同・大正7年9月

工作艦「関東」
元は日露戦争で鹵獲した露汽船「マンチェリア」を中国東北部由来の「関東」と命名し運用。
青島の戦いは大正3年の第一次大戦に際してドイツ帝国東アジア拠点青島を日本・英国連合軍が攻略した戦い。

謎の軍艦甲板の一部

諏訪公園の片隅に。詳細は不明。
横須賀市でも詳細不明で「以前は緑が丘高校入口付近にあった」といい、一説には「戦艦三笠の物ではないか?」とも言われているようです。

甲板を砲弾に打ち抜かれた跡が生々しい。

動物愛護の碑

戦前この諏訪公園(八幡山・古谷山)には小さな動物園がありヒグマなどが飼育されていたという。
が、昭和19年に空襲が本格化し逃走など含め飼育が危険となった為に射殺。

動物愛護の碑は昭和60年建立。横須賀市長横山和夫書。
碑のある場所はヒグマの檻があった場所だそうで…

頌徳碑

大正6年建立
篆額は徳川達孝(田安徳川家・日本弘道会会長)
撰文は横須賀高等女学校校長の北村包直 (横須賀高等女学校は現在の県立横須賀大津高校の前身。北村は三浦半島の郷土史家として著名)

第二代横須賀町長であり横須賀市誕生の功労者であった江頭正五郎を讃える碑。

記念植樹之碑

皇太子殿下御降誕 (昭和9年12月23日・社団法人横廠工友會建立)
横須賀海軍工廠長・村田豊太郎書(海軍中将)

昭和天皇の皇太子 明仁殿下御誕生(昭和8年12月23日)を記念して諏訪公園に植樹。
横廠工友會=横須賀海軍工廠労働組合工友会

諏訪公園内の何かの跡。

鳥居跡

かつて諏訪公園は八幡山(古谷山)と呼称されており八幡神社が鎮座。
八幡神社は横須賀製鉄所(横須賀造船所・横須賀海軍工廠)により奉じられていたという。
この鳥居石柱跡が現在の諏訪神社のものか、かつての八幡神社のものかは不詳であるが、鳥居石柱には「…工廠船渠工場」「大正」の文字を見ることが出来たので、海軍工廠関係者の奉納であることは間違いないだろう。

こんな感じで諏訪公園散策は終了。
改めて諏訪大神社を経て諏訪公園の山をおります。

諏訪公園の西側に「横須賀芸術劇場」がある。
じつは、この場所も海軍関連の史跡。

旧海軍下士官兵集会所跡

かつてこの場所は海軍工廠に面した海軍下士官兵集会所。
戦後は米軍が接収し昭和47年迄「Enlisted Men’s Club(EMクラブ)」として使用。
その後この地は横須賀芸術劇場(平成6年2月建設)となる。
下士官兵集会所跡碑は駐輪場の隅に埋もれていた…

ここまでくると道を挟んだ向こう側の「 ショッパーズプラザ横須賀 」(イオン横須賀)(令和元年現在閉鎖中)に触れたくなりますが、それはまた別にしましょう。諏訪公園周辺の散策編としては以上で〆

龍本寺の海軍慰霊碑(横須賀海軍航空隊殉職将士追悼碑と軍艦千島海軍機関師五士の墓碑)

平成29年10月撮影

京急線の横須賀中央駅から高台の方に向かう。

「猿海山龍本寺」(日蓮宗)
この寺院に、横空ゆかりの慰霊碑がある。

横須賀海軍航空隊 殉職将士追悼碑

海軍大将 永野修身 書
昭和九年七月五日建立

昭和9年7月5日に相陽時事新聞社が発起となり建立。
横須賀市長 小泉又次郎 も後援に名を連ねる。(小泉純一郎の祖父)
揮毫した 永野修身 は、当時は横須賀鎮守府司令長官。

碑面裏には「遺芳千秋」(後世にまで残る名誉や業績の意)

大正4年~15年に殉じられた横須賀海軍飛行将士51柱を祀る。
最初に名を刻まれている 足立東三郎(海軍大尉)、武部鷹男(海軍大尉)、柳瀬久之丞(海軍三等水兵)の三名は 横須賀海軍工廠で製作されたファルマン水上機の試験飛行中の大正4年3月6日に墜落殉職している。これは、海軍搭乗員の日本国内における最初の殉職者であった。

横須賀海軍航空隊に関してはこちらも。


横須賀海軍航空隊殉職者追悼碑の隣にある碑

軍艦千島 海軍機関師 五士の墓碑

伊藤雋吉海軍中将 撰文

明治25年11月30日。
仏国から日本に回航中の軍艦千島(通報艦)が愛媛沖で英国商船ラベンナ号と衝突沈没し74名が犠牲となり殉職機関士5名を合祀した墓碑。
千島艦事件。
明治28年9月建立。

余談ながら、揮毫した伊藤雋吉は、創設期の海軍きっての能書家。軍艦の艦尾の艦名表示(ひらがな)に使う、いろは48文字を揮毫し、以後の帝国海軍及び海上自衛隊を通じて、伊藤が揮毫した文字が使用され続けているという。

千島艦事件で沈没した水雷砲艦「千島」は、青山霊園「畝傍の森」に、巡洋艦「畝傍」と並んで慰霊碑があります。
千島の慰霊碑は砲身と砲弾。
ともに建造後間もなく消息を絶ったり沈没したりした悲運艦。


猿海山龍本寺(日蓮宗)

横須賀海軍航空隊と予科練誕生の地散策

平成28年6月撮影

位置関係

野島(掩体壕)
夏島(掩体壕・地下壕)
貝山(海軍航空発祥之地記念碑・甲種予科練鎮魂之碑・予科練誕生之碑)
位置関係。
日産工場が滑走路界隈。

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1946年(昭21)02月15日‐米軍撮影写真を加工

現在の様子 Google航空写真

野島

シーサイドライン野島公園駅。野島後方には夏島が見える。

この夏島周辺が「横須賀海軍航空隊」(横空・追浜空)の展開されていた地区。
野島には横空の掩体壕があるのだ。 案内地図に記載ないけど。

遠くに見えるのが夏島。手前に滑走路が広がっており、野島とは橋で繋がれていた。現在、橋はない。

野島

野球場の右奥にフェンスと穴が。これが「野島掩体壕跡」。 この「野島の掩体壕」は野島山の東西を貫通し全長は260m。海軍小型機100機を格納する計画で、現存掩体壕の中でも国内最大規模とされている。

野島の掩体壕

 野島掩体壕は、横須賀市夏島町にあった旧横須賀海軍航空隊の戦闘機を空襲から守る施設として建設されました。
 この掩体壕は、標高約55メートルの野島山の東西をトンネル状に貫通しており、長さは約260メートル、両側に出入口があります。
 出入口の部分は、幅約20メートル、高さ約7メートルで、トンネル状にコンクリートが打設されており、中央部は、幅約10メートル、高さ8メートルで、素掘りの状態です。
 作業に当たった横須賀海軍の「第三〇〇設営隊戦時日誌」には、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月15日から6月30日までの掘削工事が進められていた記録が残されており、同時に掘削されていた夏島掩体壕とあわせて、海軍の小型機約い100機を格納する計画でしたが、終戦で実際に使用されることはありませんでした。
 通常の掩体壕は、戦闘機1機を格納する程度の大きさが一般的で、この野島掩体壕は、現存する掩体壕の中でも国内で最大規模と言われています。
 第三〇〇設営隊は、横須賀海軍施設部第一部隊を改編した部隊で、海軍の将兵に技術者を加えた精鋭部隊でした。日吉台(横浜市港北区)の旧日本海軍連合艦隊司令部地下壕や松代大本営地下壕(長野県松代町)などの建設にも加わっていました。
 平成22年3月 横浜市

野島掩体壕跡
正直、大きすぎて今まで見てきた「掩体壕」の概念では測りきれない。 だって通常の掩体壕は航空機1機ですよ。野島と夏島の掩体壕で100機ってねえ。 ちなみに出入口部分は幅約20m、高さ7m。

貫通しているので反対側にまわってみましょう。今度は海側から開口部を見てみます。

野島公園。
さて、野島の頂上に向かってみます。掩体壕が東西に横断してトンネルのように掘られた野島山の頂上には展望台が設けられています。

野島公園。
野島山の頂上より、夏島方面を望む。
横須賀海軍航空隊(横空)・追浜海軍航空隊の滑走路などは、この方面に展開していた。

野島から夏島を望む。夏島には貝塚もあり古代から人々の営みがあったことがわかる。
いまは工場地帯、ちょっと前は海軍航空隊基地・・・そう考えると変遷が感慨深く。

野島稲荷神社

野島稲荷神社。 野島総鎮守。

海軍よりも古くからの社。良い感じの稲荷様でしたのでちょっと見ていきましょう。
野島山南側鎮座。伏見稲荷系統。

安貞元年1227に阿波守長島維忠発願により子の修理佐頼勝が造立。
万治年間(1658~1660)野島浦南端に紀州大納言徳川頼宣公の別邸があり、これを塩風呂御殿と称した。 稲荷神社はちょうど塩風呂御殿の東北の方向にありそのため鬼門の守り神として頼宣公の篤い尊信を受け社殿造営にも力を尽くしたとされている。

手水に狐様がいらっしゃいます。 この手水舎の雰囲気、好きですねえ。

石段両脇にも狐様。これは良い稲荷様。

境内社は船玉社、他。船の守り神、航海往来の守り神。緑に覆われた岩山が垂直に切り立つ。

海軍航空基地近くの鎮守様。 往時の軍人たちもきっと参拝したであろうことを夢想しつつ拝するひととき。

伊藤博文金沢別邸

野島には「旧伊藤博文金沢別邸」がある。明治31年(1898)に建設された茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築、とのことで。 東京からもほど近く、富岡金沢の地は明治期に海浜別荘地として人気だったそうで。

野島の「旧伊藤博文金沢別邸」。建物の老朽化が激しかったことから平成21年に復元修復工事が行われている。
野島も貝塚があり、古代から脈々と人々が営んでおり、こうして色々な歴史が交差しているのも興味深い。

貝山へ向かいます。
バスは磯子駅か追浜駅か田浦駅か。どれでも良さそう。
だいたい15分から20分に1本程度の輸送密度。

貝山緑地

現在は工場エリア。
この貝山緑地と夏島貝塚のみが異質な空間。

貝山緑地・夏島貝塚。
この西側、現在は日産の工場エリアには「横須賀海軍航空隊」「海軍航空技術廠」「追浜飛行場」「追浜海軍航空隊」が展開され「海軍航空発祥の地」となる。
ただし、今回の探訪は貝山緑地だけ。夏島は未訪問。

予科練誕生之地記念碑 甲飛鎮魂之碑 入口

このあたりは貝山地下壕も展開されていた。※非公開

追濱神社社号標

入口脇には「追濱神社」社号標が残る。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊・追浜飛行場での犠牲者を祀る追濱神社がこの地にあった。

現在は追浜雷神社境内の「濱空神社」(横浜海軍航空隊神社)ともども祀られている。

横須賀海軍航空隊

もともとこの地は横須賀海軍航空隊の地。

追浜海軍航空隊が正式に制度上で展開される以前から、この部隊は追浜飛行場・追浜海軍航空隊と呼称しており、横空(横須賀海軍航空隊)と追浜空(追浜海軍航空隊)は同じ意味を持つ場合もある。 ややこしい。

「整備科航空予備学生」が昭和13年以降に横須賀海軍航空隊で展開。
その教育は追浜飛行場で実施。

開戦に伴い横空は遠距離哨戒任務に就き教育任務をする余裕がなくなった為、整備科航空予備学生教育は、独立した追浜空に機体整備、洲ノ埼空は兵器整備と分散。

横須賀海軍航空隊・横空
 ↓分遺
追浜海軍航空隊・追浜空
相模野海軍航空隊

横浜海軍航空隊・浜空

館山海軍航空隊・館空
↓分遺
洲ノ埼海軍航空隊・洲ノ埼空

予科練

海軍予科練習生は昭和5年に横須賀海軍航空隊に第一期生が入隊したことにはじまる。
昭和12年に甲種飛行予科練習生(甲飛)制度が創設され、従来の制度は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改められた。

昭和14年3月1日に横空から霞ヶ浦海軍航空隊に予科練は移設。

予科練1期生から10期生までは横空。
11期生以降は霞空、そして13期以降は土浦空そのほかで大量採用となる。

予科練誕生之地

海軍予科練習生制度のはじまり。
霞ヶ浦湖畔にうつるまで、この横須賀追浜飛行場の地で若き海鷲たちは育っていったのだ。

予科練誕生之地

光る海 明るい太陽の下 大空をこよなく愛し国を想うひとすじの少年たちが溌剌としてここに溢れていた
昭和5年6月1日 横須賀海軍航空隊内の一隅に海軍少年航空兵の教育機関として横須賀海軍航空隊予科練習部が誕生し やがて予科練と愛称されるようになった
志願者の年齢は15歳から17歳 修業年限は3ヶ年 俊秀なる大空の有志は英才の早期教育に俟つとの観点に立ってこの制度は創設され全国5900余名の志願者から厳選された79名が第一期生としてここに入隊した
土浦 三重 鹿児島などのちには19を数えるに至った予科連航空隊の萌芽である
時局の進展につれて海に臨み山を負うこの地は狭小となって昭和14年3月霞ヶ浦湖畔に移り翌年独立して土浦海軍航空隊となった
予科練の歴史15年3ヶ月のうち実に8年9ヵ月はここ追浜の地で教育活動が行われたのである
そこで目指したものは鉄石の訓練をものともせず乾いた砂が水を吸いこむようにあらゆるものを純粋に受け入れて自らを育てていった 予科練を巣立った若人たちは飛行練習生教程 実用機練成教育と研鑚を重ねてたくましい若鷲と育ち太平洋戦争に於ては名実共に我が航空戦力の中核となり水陸の基地から航空母艦から戦艦巡洋艦或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが戦局利あらず敵の我が本土に迫るや特別攻撃隊員となり名をも命をも惜しまず一機一艦必殺の体当たりを決行し何のためらいもなく無限の未来を秘めた蕾の花の生涯を祖国防衛の為に捧げてくれたのである
顧みれば少年たちは戦いを求めてこの地に集まったのではなく制空護国の一途の念いからであった
予科練誕生以来既に五十一星霜 若人たちの至純の赤心が祖国の安寧と世界平和の礎となることを祈念して旧学び舎の丘の上にこの碑を建つ

昭和56年6月1日
此の地に学んだ生存者一同
撰文 倉町秋次
書  鈴木忠正



予科練誕生之地

予科練とは海軍飛行予科練習生の略称にして海軍少年航空兵とも別称す。
昭和5年6月1日第一期生入隊以来、昭和14年2月第十期霞ヶ浦に移るまで、全国より運ばれたる少年此の地に集い学び此の地を巣立ちて日夜猛訓練の中に技倆を磨き、やがて日支事変勃発するや中国の空に第二次世界大戦においては南海の空にと、唯々国の為同胞の為にと信じて各地に
勇戦敢斗嚇々たる武勲を残してその大多数が大空に散華す。
我々不思議に命永らえたる生存者一同 、今は亡き同窓の英霊を偲びて、
思い出の此の地追浜神社跡に建碑す。
即ち予科練誕生之碑也。

昭和56年6月1日 
 予科練一期生より十期生まで生存者一同

貝山緑地「予科練誕生之地」の反対側。

海軍甲種飛行予科練習生 鎮魂之碑

桜に錨。
若き海鷲の飛び立つよすがを偲び。
敬意を。感謝と哀悼を。

頭を下げ、黙する。

海軍甲種飛行予科練習生
鎮魂之碑

碑文
昭和12年国際関係が悪化し国防が最重要視される頃、海軍では航空機の発達と共に、今までの大艦巨砲主義から航空機へと思考を変え、航空機搭乗員養成を急務とした。
高度な飛行技術と強靭な肉体を求められる搭乗員は、心身共に優秀な青少年を求めた。
ここに、甲飛即ち海軍甲種飛行予科練習生制度が誕生した。
昭和12年9月1日全国の中等学校から厳選された250名が第一期性として横須賀海軍航空隊に入隊した。
以後太平洋戦争の激化に伴い以後太平洋戦争の激化に伴い最終の第16期生まで13万9720名もの青少年たちが、国を護るために各地の航空隊の門をくぐった。
しかし、戦局の悪化により大空の果て、海原のそこに散った甲飛の御霊は、実に6778柱にのぼる。
その中の一人は次の歌を残して散華した。
血潮もて 茜と染むる 悔ゆるなし
 雲を墓標の 空の御楯は
私たちは国家危急の折、救国の大義に殉じられた多くの同窓の御霊の冥福を祈念するとともに、甲飛の歴史の伝承と我が国の永遠の平和を念願して私たちは国家危急の折、救国の大義に殉じられた多くの同窓の御霊の冥福を祈念するとともに、甲飛の歴史の伝承と我が国の永遠の平和を念願して、ここ甲飛発祥の地横須賀に、この碑を建立する。
平成9年11月2日 
甲飛生存者有志
遺族一般賛同者有志

「鎮魂之碑」の隣に移動してきた記念碑がある。

海軍航空発祥之地 記念碑

こちらは戦前(昭和12年)に作られた記念碑のため、より一層に格調高い。

海軍航空発祥之地 記念碑

明治四十五年 始メテ海軍航空術研究委員会組織セラレ 十月地ヲ追浜ニ卜シ 東西二百米 南北六百米ノ地積ヲ画シ 其ノ一隅ニ格納庫壱棟ヲ建設ス 即チ此ノ地ナリ
十一月二日 海軍大尉河野三吉 カーチス式水上機ヲ操縦シテ飛行ス 同六日 海軍大尉金子養三モ亦 ファルマン式水上機ヲ操縦シテ飛行ス
是実ニ帝国海軍飛行ノ嚆矢ナリ 今茲ニ 碑ヲ当時ノ格納庫ノ跡ニ建テ 以テ記念ト為スト言フ
昭和十二年十一月三日
横須賀海軍航空隊

海軍航空発祥之地 記念碑 案内  
 右に夏島 左に野島を望見し、海に向かって延びていた滑走路をほうふつさせるこの台地は、もと横須賀海軍航空隊の一部であり、ここには同隊の殉職者を祭った 追浜神社や気象観測所があった。
 1912年、 同隊において実施された「日本海軍の初飛行」を記念して、当初の碑は1937年、この台地の下、最古の飛行機格納庫跡に建てられたが、戦後破壊された。
 この碑は1956年、海空会によって再建されたものであるが、周辺の敷地一帯が国より株式会社ナブコに払い下げられたため、周辺の敷地一帯が国より株式会社ナブコに払い下げられたため、工場内に保存されることになった。
 戦後50年目の1995年、この碑は関係者により、公共の場所である現在地に移設復元された。

貝山緑地を登る。
頂上の展望台に行ってみましょう。

由来はわからないが、あんずが遊歩道の両脇に植えられおり、たわわに実を蓄えていた。 ※勝手な収穫は禁止されております。。。

貝山緑地頂上の展望台。
夏島方面は…樹木で視界が。追浜飛行場はこの方向に展開されておりました。

ハイカラな建物は横須賀市リサイクルプラザ・アイクル。
沖には海自の海洋観測艦「わかさ」が見えました。

貝山緑地。このあたりは海軍の砲台の跡地という。

地下壕もゴロゴロしているが非公開なので、見える範囲で往時を偲ぶ。 また周辺では海軍時代の建物が現在も民間にて使用されているが今回は時間都合で立ち寄らず。

追浜の雷神社

追浜の雷神社。 (いかづち神社・かみなり神社)

御祭神は火雷命 創建は承平元年(931)と伝承。
天正9年(1581)に現在地に遷座。

御神木を見上げれば、これは黄葉の季節に再訪したくなるほどに見事な銀杏。
朱色を軸にしたバランスが美しい。
良き空間。

先述したように追浜は横須賀海軍航空隊・海軍航空技術廠の地。

いわずもがなで海軍との縁も深い。
奉納された絵馬は海軍に関係する話題も多い。
(著作権的な観点からモザイク処理しました)

浜空神社

境内には「浜空神社(濱空神社)」が鎮座。

浜空とは横浜海軍航空隊。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊の展開されていた当地に、わけあって浜空神社が遷座。

昭和13年に浜空犠牲者を祀る鳥船神社として横浜富岡に創建。
昭和56年に鳥船神社跡地に浜空神社を再建。
平成20年に維持困難となり追浜空関係者の尽力により遷座。追浜空犠牲者を合祀。

浜空に関しては、「 横浜海軍航空隊(浜空)と飛行艇の名残散策 」にて記載あり。

この界隈は、夏島と海軍航空技術廠の残存建物などが未訪問。
はやいところ訪れないと。
宿題です。

海軍の碑記念行事(海軍記念日)

平成29年及び平成30年撮影

「海軍の碑」記念行事
(横須賀水交会)

5月27日。戦前の「海軍記念日」に。
横須賀はヴェルニー公園の片隅にある「海軍の碑」にて。

毎年、5月27日の午前11時30分頃に、午後から行われる「日本海海戦記念式典」(三笠)に先立ち、ヴェルニー公園にて横須賀水交会主催 「海軍の碑」 記念行事が執り行われている。

記念行事の前には、水交会有志で「海軍の碑」の清掃も行っております。
海軍記念日に行われる、往時を偲びし記念行事。

平成29年撮影

「海軍の碑」記念行事
横須賀水交会

式次第

国旗及び自衛艦旗掲揚
海軍英霊に対する黙祷
「海軍の碑」建立趣旨朗読
横須賀水交会会長挨拶
記念講話
鎮魂譜(同期の桜~巡検ラッパ~海行かば)
国旗及び自衛艦旗降納

午前11時30分から30分間

海軍の碑 建立趣旨

海軍の碑 建立趣旨
 浦賀に黒船が現れ、鎖国の夢を破られた幕府は、ここ横須賀の地に製鉄所を建設し、近代海軍の創設を企画した。
 その後、明治維新により明治政府が樹立され、政府は、西欧諸国に比し一世紀以上の遅れを取り戻すべく、わが国の近代化に着手した。
特に海軍の整備が重要視され日清及び日露両戦役を経て、わが国の海軍は次第に整備充実され、世界三大海軍国の一つとして、その地位を占めるに至った。
 こうした近代海軍の創設及び成長という歴史の流れの中において、横須賀はその最枢要基地として、かつての一寒村からわが国屈指の軍港都市となり発展を遂げることになった。
 しかしながら、その海軍も昭和二十年の太平洋戦争終結と共に八十年に亘る歴史を閉じることになった。
 海軍終息から五十年という節目に当たる本年、明治以来太平洋戦争終結までこの地にあった日本海軍の歴史、並びに太平洋戦争において亡くなられた多くの人々を偲びつつ、またわが国の永遠の平和を希求するため、この記念碑を建立する。

 なお、本記念碑は全国の海軍関係者及び有志から寄せられた浄財によるものである。
 平成七年十一月十七日
 海軍の碑建立委員会

横須賀水交会 「海軍の碑」建立趣旨PDF

http://y-suikoukai.sakura.ne.jp/page15/1505/kaigun_no_hi_konryu_shushi.pdf


平成29年度「海軍の碑」記念行事 (横須賀水交会)

「鎮魂譜(同期の桜~巡検喇叭~海行かば)」
拝聴中
行事参列者は「人生の大先輩の方々」が多いので無理せずに、国旗・自衛艦旗掲揚及び黙祷の後に日陰に移動してます。

平成29年 海軍の碑記念行事 横須賀水交会

海軍記念日。

海軍の偉業を偲び、散華された御英霊に対する追悼の念と平和の祈りを捧げつつ。

平成30年 海軍の碑記念行事 横須賀水交会
平成30年 海軍の碑記念行事 横須賀水交会

今年(令和元年)はタイミングが悪く参列できないのが非常に残念です・・・


横須賀水交会 平成30年

http://y-suikoukai.sakura.ne.jp/page18/201805/20180527/20180527_kaigun_no_hi.html

横須賀水交会 平成29年

http://y-suikoukai.sakura.ne.jp/page17/201705/170527_kaigun_no_hi.html


横浜海軍航空隊(浜空)と飛行艇の名残散策

平成28年6月

横浜海軍航空隊(浜空)の遺跡として国内最大級のものが残っている。

「飛行艇格納庫」

浜空は日本最初の飛行艇部隊であったのだ。
日本が誇る九七大型飛行艇や二式大艇を収納した大型格納庫。
ワクワクしますね…

現在の神奈川県警第一機動隊の敷地が横浜海軍航空隊の一部であり、そこで当時の飛行艇格納庫=第三格納庫が現在も補修されながら使用されている。

つまり、アレな場所なわけです…行ってみましょう…


位置関係


897-C4-38
1944年10月14日‐陸軍撮影写真を加工
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 より

南部市場駅

最寄り駅は横浜シーサイドライン「南部市場駅」


横浜海軍航空隊(浜空)
第三格納庫

横浜海軍航空隊(浜空)の第三格納庫。
補修され、見た目は奇麗な巨大倉庫。
道路から遠目に見学することをおすすめします。

監視カメラが働いておりますのであまり無茶はしないほうが賢明です。

GoogleMap航空写真からキャプチャ。


富岡総合公園

次いで富岡総合公園へ。
先ほどの格納庫の裏側の山の手にあたります。無茶苦茶広いです。


横浜海軍航空隊(浜空)隊門跡

富岡総合公園の南西側にあたる。

横浜海軍航空隊隊門跡。

浜空。
標札は後世のものではあるが往時の門柱に違和感なくおさまり、ここに横浜海軍航空隊の名残を伝えている。

静かに往時の名残を物語っていました。


横浜海軍航空隊

略称は浜空。 大日本帝国海軍初の飛行艇部隊として昭和11年(1936)10月1日に横浜海軍航空隊が開設。横須賀鎮守府所属。 1939年11月15日に南洋諸島を担当する第四艦隊附属となり内南洋哨戒に従事。

昭和12年(1937)九七式飛行艇が制式化。以後終戦まで215機生産。 昭和16年(1941)二式大艇が制式化。輸送用晴空含め167機生産。 約400機を誇っていた海軍飛行艇部隊は終戦時には稼働機3機のみとなる。内1機現存。

海軍航空隊で初めてレーザー索敵を運用し、水上機の利点を活かして南洋の空を索敵に従事。 運用のしやすさから最前線にも投入され、そして消耗していった部隊。

そのよすがをたどる。

海軍飛行艇部隊は開戦前から早くも南洋に展開されていた。

横浜航空隊は昭和16年9月に本部をマーシャル諸島ヤルートに置き周辺諸島に展開。開戦後はラバウルへ進出。
東港航空隊(台湾)は昭和16年11月にパラオ基地に展開。のちにインド洋アンダマンへ。

昭和17年(1942)8月7日、ラバウルから最前線のツラギに全力展開していた浜空は米軍に強襲上陸され係留中だった飛行艇等全機が駐機場で破壊、司令宮崎重敏大佐以下玉砕。

海軍飛行艇部隊の要たる浜空はソロモン海に全滅…
(昭和17年10月部隊再建)


浜空の碑
(富岡総合公園・旧横浜海軍航空隊基地)

題濱空
大鵬渡海奏奇功
離島守防意気隆
衆寡難勝嗟惨々
至誠不抜憶濱空

昭和四十六年十月二十一日
ソロモン・ガブツ島ニ於テ
草鹿任一 花押

碑裏面

浜空の碑
この地に原隊を有せし飛行艇隊元横浜海軍航空隊は昭和十七年八月七日未明南太平洋ソロモン群島ツラギに於いて米軍の反攻上陸を受け二晝夜にわたる死闘の末宮崎重敏司令外五百余名全員玉砕せり
これらの人々の冥福よ恒久平和を祈念してこの碑を建立す
 昭和61年4月吉日

富岡総合公園。
旧・横浜海軍航空隊基地跡。

浜空神社跡の真向かいに鎮座している慰霊碑。
ソロモンの海で散った横浜海軍航空隊を偲ぶ。

実は終戦時に日本軍人の手で日本の空を飛んだ最後の日本軍機は「二式大艇」(二式飛行艇)だった。
昭和20年11月11日、残った1機を米軍に引き渡す為に詫間海軍航空隊(香川県)から横浜基地に空輸され、この横浜の地にて二式大艇は米軍に引き渡された。

「最後の飛行艇」日辻常雄
水上機・飛行艇畑一本を歩み海軍飛行艇部隊とともにあった日辻氏(詫間空飛行隊長・海軍少佐)は、まさにこの米国へ引き渡された二式大艇で最後に日本の空を飛んだ人物。飛行艇好き必読の本。

この横浜基地から米軍に引き渡された「最後の二式大艇」(二式飛行艇/T-31号機/Tは詫間空/昭和18年3月製造第26号機)は返還運動もあり1979年に笹川良一氏の尽力により「船の科学館」にて引取され展示。
2004年以降は海自鹿屋基地にて展示されている。


二式大艇(二式飛行艇)

「船の科学館」に在りし日の彼女。2003年撮影。
※現在は鹿児島鹿屋に展示

連合国コードネームEmily。
「恐るべき機体」「空飛ぶ戦艦」「全世界の飛行艇に君臨する王者」

飛行艇技術では日本が世界に勝利したと讃えられ数々の勇名を誇る。

帝国海軍の飛行艇の伝統は、海自PS-1/US-1/US-2へと受け継がれ…

船の科学館、在りし日の姿。(2003年撮影)

鹿児島の鹿屋には行ったことがなく。
いつかは行かねばなるまい土地です・・・。

筑波空記念館には二式大艇のプロペラエンジンの遺品もありました・・・。

大艇ちゃん・・・。

さて、脇道にそれ過ぎましたね。

横浜海軍航空隊(浜空)は海軍飛行艇部隊の嚆矢でもあり二式大艇ゆかりの場所でもあるため、これもよすがを偲ぶきっかけの一つとして。

余談ついでに。
二式大艇は居なくなり展示も宗谷だけになった船の科学館ですが二式大艇にまつわる冊子が売っています。

これ、写真豊富で修復前後や艇内部の様子などもあり、頒布300円の癖して凄く良い冊子です。

話の筋を戻して富岡総合公園に。
この地に平成20年春迄、浜空神社が鎮座していた。

現在は追浜の雷神社に遷座。当地は浜空神社跡として鎮魂碑がある。


浜空神社跡

浜空神社由来

昭和十一年十月一日飛行艇隊の主力として横浜海軍航空隊が当地に開設された。
その守護神として造営されたのがこの浜空神社である。

昭和二十年八月十五日大東亜戦争終結後当航空隊跡地は横浜市富岡総合公園として生れ変ったのである。
浜空会では特に願い出て戦没者の鎮魂と恒久平和を祈念して浜空神社の修復復興をはかり全海軍飛行艇隊の戦没者殉職者約二千柱の御霊を合祀した。
横浜航空隊は浜空神社を中心とした広大な陸上の敷地と現在埋立てられた根岸湾水上の飛行艇発着場を専有していた。
隊員約一千名大型飛行艇二十四機を有する海軍最大の飛行艇専門航空隊としてその威容を誇ったものである。
今なお隊門附近の桜並木と飛行艇大格納庫が当時を偲ぶ面影を残し訪れる者に静かに語りかけてくれる。
時局の推移に伴い横浜航空隊から新たに東港航空隊が分立した。
昭和十六年十二月八日大東亜戦争勃発するやこの両隊は直ちに第一線に出動した。
引続き第十四航空隊対潜専門部隊輸送教育等各精鋭飛行艇隊が横浜空を母体として誕生し第一線に又後方に配備されその強大な航続力を発揮して洋上大遠距離の哨戒・攻撃・輸送・救出・作戦等を展開しハワイ・印度・アリューシャン・豪州・ソロモンにわたる広大な戦域を駆け巡って勇戦奮闘した。
作戦上部隊名を八〇一空(横浜)八五一空(東港)八〇二空(十四空)九〇一空(対潜)等に変更し戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して沖縄攻防戦に死闘を演じ満身創痍全力を尽し果たして戦の幕を閉じたのである。
中でも横浜航空隊はソロモン最前線のツラギに進攻作戦中強力な敵の反撃をうけて昭和十七年八月、宮崎司令官以下三三八名が壮烈な玉砕を遂げたのである。

富岡のこの地は、かくの如く誇りある海軍飛行艇部隊発祥の歴史をもっているのである。
この事実を永く後世に語り継がんが為、ここに記念碑を建立する次第である。

昭和63年1月 海軍飛行艇会 建立

鎮魂
海軍飛行艇隊

石碑正面のシンボルマークは飛行艇に音楽終止符を織り込み「休める飛行艇」を意味する「濱空会」の印。

海軍飛行艇部隊の犠牲者に。
慰霊と鎮魂、そして感謝を。

かつてこの地は浜空神社であった。

が、管理する世話人の老齢化により神社を維持する事が難しくなり、この浜空の地から横須賀空のあった追浜の雷神社に遷座し、今後の管理を委ねるという苦渋の選択があった・・・。

濱空神社の碑

此処に横濱海軍航空隊の戦没者、物故者二千余柱の英霊をお祀りしていた「濱空神社」がありました。
名称は、古事記の「石楠船神」又の名「天鳥船」に因み、鳥は水鳥のように速く進むという意味の「船神」に由来するものです。
昭和十一年十月一日、この地に我が国における飛行艇部隊の本部として横濱海軍航空隊が開隊され、以来「九七式大艇」や昭和十七年には世界最優秀艇と謳われた「二式大艇」が開発され隊員は日夜猛訓練を続け、先の大戦におきましては華々しい戦果を挙げ又の多くの隊員が祖国のために散華されました。
毎年四月と前線部隊がつらぎ島で玉砕された八月を記念して生存隊員並びに関係各位により、濱空神社で慰霊祭を行い、 英霊に対し、鎮魂と慰霊の誠を捧げて参りましたが、戦後六十三年を閲し神社の社屋の老朽化と境内の清掃などの維持管理に当たる世話人の老齢化により、誠に残念ではありますが濱空神社を今後も維持管理することが不可能となりましたので、平成二十年四月六日の春の慰霊祭を最後に神社の社屋は追浜本町雷神社に移築して今後の維持管理をお願いし、神社の跡地にこの石碑を建立することになりました。
石碑正面の記号は、飛行艇の記号に音楽の終止符を織り込み「休める飛行艇」を意味する濱空会のバッジです。
此処に謹んで英霊に対して鎮魂の誠を捧げ碑文を賦します。

平成二十年八月吉日  
遷座先 横須賀市追浜本町一-九 雷神社
世話人代表 加藤亀雄

浜空神社跡。この地に訪れる前週には追浜の雷神社を参拝し遷座先の浜空神社にも拝していた。
まだ浜空の地を訪れた事なかった私は、どうしてもこの元鎮座地に訪れたかったのだ。
ようやくこの地で手を合わせることが出来ました。 海軍飛行艇部隊の嚆矢たる地にて…


浜空神社
(遷座先の横須賀追浜・雷神社境内)

追浜の雷神社境内には「浜空神社」が鎮座。
正確に言うと遷座してきた。

浜空とは横浜海軍航空隊。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊の展開されていた追浜の地に、わけあって浜空神社が遷座してきたのだ。

維持の難しい性質の神社であることはわかります。特に戦友会や遺族会を軸とする場合は老齢化からは逃れられず。この場所での維持管理が難しいのであれば理解有る神社に遷座して管理を委ねる。こうやって遷座先でも変わらずに慰霊祭祀が行われる事は何よりも有難い事です。

「浜空神社」
昭和13年に浜空犠牲者を祀る鳥船神社として横浜富岡に創建。
昭和56年に鳥船神社跡地に浜空神社を再建。
平成20年に維持困難となり追浜空関係者の尽力により遷座。
遷座を機に、追浜空犠牲者を合祀。

浜空の地では毎年4月に慰霊祭が斎行されております。

水交会の平成28年盛夏号 「浜空鎮魂の碑」慰霊祭の記事。
浜空神社は雷神社に遷座しましたが、鎮魂の碑でも引き続き慰霊祭が行われており。 慰霊顕彰の火を絶やすことなく…。


公園の奥に。

富岡総合公園内に「海軍の横須賀水道関連施設遺構」があるという。
名前もズバリの浜空上広場から、もしや往時からの石段か?と思わせる古びた石段をゆく。

海軍・横須賀水道関連施設遺構

道?…道のような草むらをかき分けていくと、階段?…だった斜面が。

どうやらここは夏に来てはダメです。ヤブ蚊が凄いです。冬に来たいね。もう遅いけどw

石段跡を上ると不思議な空間が。
通気管のようなものと、もはや用途のよくわからない塔状の構造物が林立しています。

富岡総合公園内「海軍・横須賀水道関連施設遺構」
通気管のようなものを覗いてみます。
ポケットライトが手元にありましたので照らしてみると水が反射。
この下には貯水空間が残っている雰囲気。

この塔状構造物は全くもって何かよくわかりません。
6本ほど林立してました。

封鎖されている小屋は揚水ポンプ室跡?らしい。
あとはコンクリ基盤が二箇所。

まあ、とにかく藪蚊がすごいです。
やっぱ冬に来るべきですね。この手の場所はw

富岡総合公園内には海軍標石も残っているらしいですが、どうにも藪蚊との戦いで疲れきっていたので標石探しはやめておいて「見晴らし台」を目指す。

ちなみに先ほどの水道施設は多目的運動広場の右奥の方でした。


富岡総合公園見晴らし台。

風景をみるわけではなく「格納庫」を見る・・・うん、やっぱり冬に(

横浜海軍航空隊名残の「第三格納庫」を上からちょっとだけ見下ろす。

富岡総合公園見晴らし台。

第三格納庫の左側に広がる空間は第二格納庫跡地とのこと。 空き地が広がる。

富岡総合公園をあとにして南部市場駅に向かう途中。

さきほどの第二格納庫跡地を近くで見てみる。

日本飛行機

奥に見える工場は「日本飛行機 (ニッピ)」
戦前は旧海軍用航空機を製造しており局地戦「秋水」も製造していた。

シーサイドラインの車窓から「日本飛行機」(日飛/ニッピ)の工場群を眺める。

日飛の工場、往時の建屋が残っているかどうか、立ち入りできないけど。

日飛の初代社長は加藤亮一(海軍中将)。
そして二代目社長が堀悌吉(海軍中将)。堀悌吉といえば山本五十六の兵学校同期にして主席卒業。海軍軍政の将来を期待されるも大角人事で予備役…

http://www.nippi.co.jp/history/index.html

http://www.nippi.co.jp/history/history1940.html


場所は変わって根岸に。飛行艇つながり。

根岸飛行場跡
(大日本航空横浜水上飛行場跡)

現在は往時を物語る案内看板のみが残る。
横浜海軍航空隊の北側、昭和15年(1940)に大日本航空株式会社により日本初の飛行艇専用民間飛行場が作られた。

根岸飛行場跡
 昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社 により日本初の飛行艇 専用民間飛行場 が作られました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機 製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン 経由パラオ に向け飛び立ちました。
 発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
 昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇 が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26~64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
 97式大艇の最終飛行は終戦後昭和20年(1945)9月の台湾向け紙幣の輸送で、2式大艇は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の託間基地からここに飛来したのが最後です。
 根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。

97式大艇
2式大艇「晴空」型
イラスト・小川利彦

磯子区根岸地区連合町内会
横浜磯子ライオンズクラブ 
磯子区郷土研究ネットワーク

大日本航空株式会社は昭和15年に97式飛行艇で根岸からサイパン経由パラオに定期便を展開。南洋諸島と本土を結ぶ夢の航路であった。
そして戦中は海軍徴用で南方輸送航路として展開。

位置関係

「根岸飛行場跡」
当時、水上飛行場の隣にあった「動物検疫所」。
今も「農林水産省動物検疫所」として往時と変わらぬ場所に往時と変わらぬ役目で施設が残っていた。

「根岸飛行場跡」
大正12年関東大震災の復興後に石積護岸されたという往時と変わらぬ姿で、動物検疫所の脇を流れる掘割川。(土木学会選奨土木遺産に認定)

橋の脇には昭和3年「八幡橋親柱」も残されている。

さきほどの橋は「八幡橋」。

八幡様が鎮座している。
八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

近在の「根岸八幡」が元は当地に鎮座しており、現在地に遷座後( 明和3年1766)の空白地に当社が創建。

狛犬の表情がとても豊か。
大正8年

こちらの狛犬さんは何かを咥えていますね。
兎のようにもみえますが・・・。

御大典記念碑(昭和天皇陛下即位記念碑)

八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

このひときわに大きな球体が境内で目につきます。 一瞬「機雷」?とも思いましたが、どうやら「ブイ(浮標)」らしく。

社頭に

敬神 東郷平八郎謹書

横浜海軍航空隊を軸に、飛行艇の姿を夢想しながらの散策。
色々垣間見た横浜南部の散歩でした。

「こんなに焼けたか」昭和天皇と富岡八幡宮

令和元年5月撮影・門前仲町

富岡八幡宮

「こんなに焼けたか」

東京大空襲の被害状況のご説明を富岡八幡宮境内にて聞き終えた 昭和天皇は、しばし絶句されて、立ちすくまれた、という。


天皇陛下御野立所

(おのだちしょ)

天皇陛下御野立所

昭和二十年三月十八日
戦災地御巡幸ノ際
玉歩シ此處ニ駐ノサセ給フ

東京都

昭和三十五年四月二十九日建立

昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮

昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮

 昭和19(1944)年11月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。
昭和天皇はこの年10月に靖国神社例大祭に行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。
 天皇は3月10日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。軍は天皇の抗戦のご決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執された。
 宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせ、3月18日日曜日午前9時から1時間と決定された。
 御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。
 御料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。
 天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると、大達内相の先導によって、延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。粗末な机が置かれていた。
 内相が被害状況のご説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。
 この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。
 大戦が8月15日に終結した。8月15日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮の例大祭に当たった。終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。
 新日本の再建は、富岡八幡宮から始まった。

 富岡八幡宮友の会一同
 加瀬英明

 昭和天皇は、ここ富岡八幡宮から
東京大空襲の被災地を視察されました

江戸・東京の発展と、日本の平和と発展を願い、ここに石碑を建立する
平成31年3月18日
富岡八幡宮友の会

「日本ニュース 第248号」でも、 昭和天皇の視察のようすが記録されている。

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300376_00000&chapter=001

先日、富岡八幡宮に参拝する機会がありまして、手水舎脇に新たに設立された「石碑」を拝見。
東京大空襲後の東京を、1週間後の3月18日に 昭和天皇は富岡八幡宮から御巡幸なされ、焼け野原の様子をご覧になられたという。

参拝を

灯籠は明治45年奉納。
昭和天皇御巡幸の際も石灯籠は戦災から逃れ残っていた。


天皇陛下御製

昭和天皇御製

身はいかになるともいくさとどめけり
 ただたふれゆく民をおもひて

 元侍従次長 鈴木一謹書

昭和20年8月15日 終戦時の御製

鈴木 一(はじめ)氏は、侍従長・首相 鈴木貫太郎の長男。
元陸軍主計中尉、首相秘書官、侍従次長、外務省入国管理庁長官などを努めた。

天皇陛下御在位60年奉祝記念
 大東亜戦争末期の昭和20年3月18日、
天皇陛下は、大空襲で焼土と化した東京をご視察になり、ここ富岡八幡宮境内にお立ち寄りになった。この時、 陛下は爆撃の惨状に深く御心を痛められ、その後終戦の御聖断を下されたのである。この御製は、その当時お詠みになった大御歌である。陛下の御聖徳を讃え、後世に伝えるため、ここに刻む。
昭和61年10月26日
天皇陛下御在位60年東京都奉祝委員会


天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑

この碑の歴史的な意義とは別の、お家騒動的な話は、格別には触れません。
一時期は埋められていた「宮司」の二文字も戻されておりました。

合掌。

天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑
富岡八幡宮宮司富岡長子謹書

天皇皇后両陛下には、平成24年8月12日、富岡八幡宮に行幸啓の栄を賜りました。
この行幸啓は、昭和天皇が昭和20年3月18日という東京大空襲のわずか8日後に被害状況ご視察のため、当神社に行幸あそばされたことを忍ばれてのことと拝察され、当日はご参拝の後、婚儀殿にて東京大空襲に被災した江東区民と御懇談になり、当時の体験談を熱心にお聞きになって親しくお言葉をおかけになられました。(後略)
平成26年4月26日 江東区長 山崎孝明

https://www.tomiokahachimangu.club/

http://www.tomiokahachimangu.or.jp/shahou/h2404/htmls/p05.html


富岡八幡宮の周辺にいくつか近代史的なスポットがありますのであわせて掲載。

石造燈明台

明治31年 深川公園

江東区指定有形文化財(建造物)
石造燈明台 明治三十一年在銘 一基

 日清戦争(1894~1895)の勝利を記念して、深川不動堂の境内南東地に建てられました。明治28年(1895)12月に起工し、明治31年(1899)7月に竣工しました。高さ839.4cm、最大幅373.4cmの大きな燈明台で、内部煉瓦造り、外壁には安山岩の石板が貼られています。設計及び監督技師の佐立七次郎(1856~1922)は、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の第一期生でジョサイア・コンドルに師事した日本近代建築家の1人です。成田山新勝寺にもほぼ同形状の燈明台(明治27年〔1894〕竣工)が現存します。
 外壁には奉納者・奉納団体が刻まれた石板が359点貼られています。奉納者には「団菊左時代」を築いた9世市川団十郎、5世尾上菊五郎、初世市川左団次をはじめとする歌舞伎役者や常磐津などの芸能界、土木実業組合や東京石工組合、東京株式取引所などの実業界、また魚河岸、船頭、吉原・洲崎の遊郭や割烹料理屋などがみられ、深川不動堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがえます。就航当初は上部に八角の火袋がありましたが関東大震災により倒壊しました。平成19年度に区指定有形文化財に指定され、平成20年(2008)に現在地に移設されました。
 平成21年(2009)9月 江東区教育委員会

dav
dig

明治三十七 八年役戦死者忠魂碑

日露戦争の忠魂碑
渋沢栄一謹書

たまに足を運びたくなる深川散歩でした


関連

群馬縣護國神社

平成29年9月参拝


群馬縣護國神社

支那事変に至るまでの3573柱を合祀し昭和16年に現在地に鎮座。
そののち大東亜戦争の御祭神を合せ、群馬県関係者47000余柱を祀る。
戦後一時期は「誠霊廟」「上野神社」とも称していた。

緑のトンネル参道を登っていく、高台に鎮座。佳き空間美。

維新前夜から大東亜戦争までの群馬県関係戦死者47000余柱を祀る。

感謝と哀悼を。
拝する。

御社殿の脇。
石柱と石灯籠がある空間。

特に何かの説明もない空間だけど、この場所に脚を踏み入れるのを躊躇わされる何かがあった。
きっとここは招魂斎庭かもしれない。
特別な空間であることを感じ取り、石柱の外から頭を垂れる。


御朱印

靖國神社の「靖國桜の御朱印帳」で 各地の護國神社を巡らせていただいております。


群馬県海外引揚物故者慰霊塔

昭和36年建立

昭和二十年八月十五日 大東亜戦争は吾々に敗戦の悲しみを残して終結した
祖国日本の発展を願って懸命の奮闘を続けた在外七百万の同胞は全く放棄されたのであった
海外に於ける辛苦の結晶は総て奪われ尊き人命は彼等の暴力と飢餓とによって失われてしまった
幸にも九死に一生を得て引揚げたもの貧困と病魔とが襲いかかったのである
吾々は地下に眠る県下三千四百有余の声なき犠牲者の霊を慰めんため推進委員会を設け広く引揚同志の協力を仰ぎ茲に慰霊塔を建設し謹んで物故同胞の霊に捧げるものである
昭和三十五年十二月八日
群馬県引揚者連合会
仝引揚物故者慰霊塔建設委員会


御製

御製
みそとせを へにける今も のこされし 
 うからの幸を ただいのるなり

昭和52年11月17日の日本遺族会創立30周年記念式典にて 昭和天皇より賜った御製。
碑は昭和53年に群馬県遺族の会により建立。


あゝ特攻 特攻勇士の像 

平成21年3月建立

日本は昭和の一時期、米英及び重慶支那と大東亜戦争を戦った。
自国の安全と欧米の植民地支配からアジアを開放するためだった。
戦は優勢に推移し南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島沖縄と敵の反攻を許した。
この時、一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必至の戦法が採られた。
貧しく誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十才前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。
その勇姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現在の人よ、命に代えて何を守ろうとしたか、この像に問い続けて欲しい。


鵬翼之塔

昭和40年5月5日建立

明治天皇御製
世とともに 語りつたへよ 国のため
命をすてし 人のいさおを

大東亜戦争の火が消えてすでに二十年
蒼空を仰ぐ度に、祖国の勝利を信じつつ散華した航空部隊の将兵各位を想う、雲こそわが墓標なりと肉弾となって、大陸に、北辺の空に、南溟の涯に、雄々しく羽ばたいた群馬県出身の諸士も、戦運利あらず遂に再び家郷に見えることなく、天翔ける護国の神と化した者が少なくなかった。
諸士の壮烈な殉国は、永く日本の歴史ともに語り伝えられることであろう。
幸い祖国は諸霊の加護により再び平和と繁栄を招いたが、ことある毎に日支事変・大東亜戦争において戦死された群馬県出身航空関係将兵の慰霊と顕彰が議せられ、その崇高な諸士の偉勲と忠誠を千載の世に伝えるため、ここに鵬翼之塔を建てる。
願わくば諸霊よ安らかに瞑し、折あらば空ゆく雲に座して後に続く者を照覧あれ。
群馬県航空関係戦没者顕彰碑建立委員会


平和の礎

日清日露の両戦争をはじめとし幾度かの戦争を経て太平洋戦争の終結まで約半世紀の年月が流れた
この間郷土群馬の若者は高崎部隊をはじめ全国各地の部隊に所属し北や南の遠い異国の地にまた国内の各地に身命を捧げ愛国の真心をもって戦争遂行に尽くしたのである
しかし祖国日本の安泰と繁栄を信じながら前途有為な先輩戦友が惜しくも戦没されたことに想いをよせるとき誠に残念の極みといわなければならない
一方銃後にあって困苦欠乏に堪えて食糧ならびに軍需物資の増産と輸送及び糎への慰問品発送など献身的に尽くされた方々の労苦は極めて多大であった
太平洋戦争終結から45年、平和でしかも世界各国の注目する大国としての繁栄は戦没者をはじめ国内にあって銃後を守られた方々そして終戦直後の困難をきりぬけ復興に尽くされた人々の犠牲と努力の上にうちたてられたことを思い、ここに深く感謝の誠を捧げるものである
激動の昭和時代も終り平成の時代となった今、戦争は悲惨の極みであることを痛感し平和の礎となられた英霊をはじめ多くの方々の慰霊とその功績を顕彰すると共に永遠の平和を祈念するものである
ここに同志相はかって群馬県護国神社の社頭にこれを建てる
平成2年10月30日建立

ちょうど晴れ着を纏った新婚さんがこの碑前で記念撮影をしておりました。
護国の「平和の礎」の前で、記念撮影をする若きカップル。
その碑の真意を知っているかいないかはいざ知らずですが、幸せのお裾分けをいただきました。平和に感謝です。


群馬縣護國神社 遺品館

御祭神の遺品を収蔵した建物は年に3日間の公開。
8月24日(みたま祭)
10月16日‐17日(例大祭)


群馬縣護國神社 祖霊殿(納骨殿)

平成10年建立

「祖霊殿」の高台からみた護國神社の鳥居。


高崎市連合郷友会 記念句碑

奉仕終へ 
流るる汗も 
清々し 
 金井勝太郎氏

高崎市連合郷友会
昭和30年に6000余名で発足。
会員の老齢化により各支部相ついで解散し平成21年に遂に会長一人となり、記念の句碑を建立。


嗚呼隆西丸遭難者之碑

隆西丸
昭和19年2月25日小スンダ列島バリ島沖に敵潜水艦の魚雷にて沈没。
隆西丸の乗船者6668名の内4968名、船員31名戦死。

戦没した船と海員の資料館 より 隆西丸 の記録を以下に。

http://www.jsu.or.jp/siryo/sunk/tairyou.html

http://www.jsu.or.jp/siryo/sunk/pdf/tango_ryusei.pdf


フィリピン方面戦没者慰霊顕彰碑

防衛庁長官 中曽根康弘謹書(昭和46年建立)
郷土出身陸海軍所属各部隊従軍比島方面戦没者将兵等6429柱

この碑は太平洋戦争に於てフィリッピン方面で散華した同胞四十七万六千余柱のうち、群馬県関係者六千四百二十九柱の英霊を顕彰する慰霊の碑であります。
大東亜戦争の天王山といわれた比島では、南方諸地域中、日本国でも、また群馬県でも最高数の戦没者を出した一大決戦場でありました。
顧みれば昭和十六年十二月十日、日本軍がルソン島リンガエン湾に上陸して以後、戦況が次第に苛烈となった。
昭和十八年、同十九年頃に内地より臨時召集や現役兵編入等で郷土部隊の母体(軍旗)と共に派遣されずに数百名が一単位となり、高崎連隊から或いは宇都宮・水戸・千葉その他の各連隊を始め、 海軍部隊諸基地や遠く朝鮮満州支那等の各現地部隊と共に続々と緊急南下され、途中台湾沖やバシー海峡等で敵潜水艦や空襲のため数千人が乗船したまま輸送船もろとも海中に消えた多くの将兵・軍属・従軍看護婦等を始め、昭和十九年十月レイテ島に米軍を迎撃して以来、遂に南方面の制海権と制空権を手中に納めた米軍は、総てに圧倒的優勢を誇る新鋭兵器・航空機・艦船等の絶対的物量を以て、ルソン島を始めミンダナオ島、ネグロス、セブ、ミンドロ、サマール、パラワン、パサイ、コレヒドール等の各島々に於て日本軍と対決しました。
特にレイテ、ルソン島等米軍との水際戦斗のその日から、 各兵団諸部隊は肉弾斬込み戦を繰返し山岳戦に至るまで悪戦苦闘し、全諸島に渡り将兵等は、ひたすら祖国日本を直接戦場にしてはならぬと胸に堅く誓い、悪条件の下爆弾を抱いて特別攻撃機となり、又は人間魚雷となって全機全員敵艦に体当りし、或いは人間爆弾となり、むらがる敵戦車に飛び込み、深山幽谷の地に或は南海の孤島に空に海に一塊の肉片も残さず散華、爆弾食料の補給全く途絶し、道なき熱帯のジャングルに分け入り、困難辛苦、飢餓と風雪にさらされ、勇戦奮斗むなしく戦傷やマラリヤ赤痢等の悪疫に尊くも斃れ、或は自決、血を血で洗う鬼哭啾々たる戦場で激斗の末、最後の突撃を敢行して全員玉砕するなど全滅的運命となり遂に護国の神となられたが、戦争の結末は敗戦という烙印を押され総ては無言の中に終了しました。
二度とこのような戦争を繰り返してはなりませんが、戦後二十有余年を過た今日に到ってもこの戦没英霊を讃る事は充分でなくすごして参りました。
然し平和を完全に取り戻した現今、この尊い殉国の犠牲、鬼神も泣く無言の戦没諸兄の武勲を顕彰し、御霊の御冥福を祈り、その勲功を永久に讃え奉るものであります。
昭和四十六年三月二十一日
フィリピン方面戦没者慰霊顕彰碑建立委員会


義勇軍之碑

昭和42年5月建立
群馬県出身元満州開拓青少年義勇軍生存者一同 亡き拓友の霊を護国神社の丘に祀る。


軍馬忠魂碑

この碑は元高崎部隊営庭に建立されしが大東亜戦争後同兵営の解放と共に荒廃 久しく顧みられざるにより…当神社境内に移設。
群馬県戦没軍馬三千有余頭の霊を此処に鎮め永く其の忠魂を讃えんとする。
(昭和27年)


傷痍軍人之碑

昭和57年建立

嘗ての大戦で戦線に立ち傷痍の身となって生死の境を彷徨した軍人たち。 国家のために戦い民族を守るために受けた傷病であるという鉾持。
戦没された英霊を慰霊顕彰するとともに戦傷病者の悲願を永く伝えるべく建立された碑。


高崎公園

高崎城址の南に展開されている公園は意外と歴史が古く、明治9年(1876)に造園されたという。
公園入口の石柱は大正4年の銘がある。


英霊殿跡
(群馬縣護國神社創建前の招魂社・高崎公園内)

明治42年、このところに英霊殿が建立され、昭和16年群馬縣護國神社創立に至るまで、毎年官民合同の群馬県招魂会によって盛大な招魂祭が営まれた。
昭和55年4月吉日
群馬縣護國神社
群馬縣護國神社奉賛会
英霊にこたえる会群馬県本部
歩十五会

今は長閑な公園であれど、かつては祭祀の場であったと思うと感慨も深く。

大阪護國神社

平成29年(2017)参拝

大阪府に戦没者の御霊を恒久的に奉斎する神社がなかったために、昭和15年に内務大臣指定護國神社として創建。

御祭神
明治維新前後の天誅組8柱をはじめ、西南の役、日清日露戦争、大東亜戦争に至る大阪にゆかりのある10万5600余柱の英霊を祀る。

敗戦後は進駐軍の監視のもとで慰霊祭が禁止され、社号も改称せざるを得なく、大阪浪速興隆の礎を築かれた仁徳天皇を祀り「浪速宮」と改称して存続。

昭和27年のサンフランシスコ講和条約締結後に「大阪護國神社」に復称。奉安殿に仁徳天皇をまつり、相殿には東郷平八郎元帥を御遺髪とともに祀っている。

御朱印

大鳥居

大阪府最大級の鳥居

昭和15年の社号標

御社殿

10万5600余柱の英霊を祀る

奉安殿

仁徳天皇 東郷元帥を祀る。

ほまれの宮

御英霊と深い絆で結ばれ亡くなられた戦友やご家族の皆様を御英霊のおそばでお祀りするお社。


さざれ石

母に感謝の像

辛い時 悲しい時
 何時も 私達を
力強く抱きしめ
 励まし育ててくれた
母の姿を
 忘れてはならない
お母さん
 ありがとう

財団法人 日本遺族会
 会長 古賀誠 書


あゝ特攻 特攻勇士之像

平成21年10月建立

特攻勇士に捧ぐ
 大東亜戦争の戦局が一段と厳しくなった昭和19年10月以降、多くの若者が愛する祖国と家族を護るために一命をなげうち、わが身もろとも敵艦に体当りする特別攻撃を敢行、遥かな南の空や海に散華されました。
 私たち「特攻勇士の像を奉納する会」一同は、大阪府ご出身の五百余の特攻戦士を慰霊しその功を永く伝えるため、像をここ大阪護國神社に建立いたしました。この像を仰ぐ方々が、若者たちが身命をかけて崇高な「日本人の心」を実践したこと、そして今日の平和と繁栄はその尊い死の上にあることに、ぜひ思いを致されんことを、一同こい願うものであります。
 平成21年10月24日
  (財)特攻隊戦歿者慰霊平和祈念協会
   日本人の心を伝える会
   碑文・揮毫 吉田 學
   慰霊碑像デザイン 塚本 哲


慰霊碑

大阪護國神社のサイトを参照

http://www.osakagokoku.or.jp/publics/index/84/

慰霊碑は東西の区画にわかれている。

大日本帝国海軍
海軍関係戦没者 慰霊碑

碑文
 明治初年に創設され、その後幾多の輝かしい歴史と伝統を保有し、わが国の栄光と国威の象徴として、国民に尊敬され親しまれた日本帝國海軍は、さきの太平洋戦争において善戦空しく敗れ、昭和20年8月15日の終戦と共に、その八十年の長い歴史を閉じた。
 この戦において、四十万余の海軍軍人・軍属が、その貴い生命を祖国に捧げて勇戦奮闘の末、国の御楯として散華した。
 大阪を中心とする近隣府県在住の海軍関係生存者ら有志相寄り相図り、ここ大阪護国神社の聖域に慰霊の碑を建立した。
 海軍を弔い、永遠の平和を希求し、戦没者に心から慰霊の誠を捧げ、以ってその芳勲を千秋に伝えんとするものである。
  昭和60年5月
   海軍関係戦歿者慰霊碑建立委員会
    委員長 岡山幸男

建立・管理建立委員会委員長 岡山幸雄
揮毫者大阪護國神社宮司 柳澤 寮
建立年月日昭和六十年六月
慰霊祭の主催者水交会
祭神数五四,○○○柱

豫科練 
貴様と俺と翼の碑

碑文
 昭和5年に、すぐれた飛行機搭乗員の養成は英才の早期教育に俣つとの観点より「海軍飛行予科練習生」の制度が創設され、昭和12年には甲種、乙種、その後丙種、特乙種の修業課程が定められた。国を愛し空に憧れた少年達が全国各地はもとより遠く海外にあった者も勇躍志願をしたのである。
 予科練出身搭乗員は、昭和12年8月、日支事変に於てその初陣を飾って以来、太平洋戦争では名実ともにわが航空戦力の中核となって、嚇々たる武勲をたてたのであるが、戦局利あらず本土決戦の秋来るや、祖国日本の弥栄を信じ一死もって国難に殉ぜんと相ついで航空、水上、水中特別攻撃隊員となり、空に海に敢然として散華していった。
 我ら元予科練習生は終生そのきづなを深め、この聖地に名を連ね、英霊の顕彰と昭和の御代に「予科練」という紅顔のさきがけありと後世に伝え、世界の平和と子孫の繁栄をこい希い本碑を建立する。
 嗚呼
昭和57年12月5日
 関西甲飛会 建立

建立・管理関西甲飛会
建立年月日昭和五十七年十二月
慰霊祭の主催者関西甲飛会
祭神数一八,○○○柱

鎮魂 
第三十四師団通信隊

第34師団は昭和14年(1939)に新設。大阪にて編成。中国戦線に派遣される。

建立・管理健通会
建立年月日昭和五十九年三月
慰霊祭の主催者健通会
祭神数八八柱
軍馬・軍鳩之碑

つわもの之碑 
野砲兵第二十六聯隊

建立・管理野砲兵第二十六連隊
揮毫者陸軍少将正四位 吉富徳三
建立年月日昭和五十年四月
慰霊祭の主催者野砲二六会
祭神数四,三七七柱
軍馬之碑

龍山歩兵第七十九聯隊
戦友はここに眠る之碑

建立・管理歩兵第七九戦友会
揮毫者山崎孝三
建立年月日昭和五十七年四月
慰霊祭の主催者歩七九会
祭神数一八,○○○柱

慰霊
海軍第一期 飛行専修予備生徒慰霊碑

 海軍第1期飛行専修予備生徒は、戦雲急を告げる昭和18年12月10日、学業半ばにして臨時現役兵として應召し、各海兵団を経て、三重及び鹿児島の海軍航空隊に於て基礎訓練を受け、中練教程の後、予備士官として実戦に参加した。
 主として沖縄特攻、その他数々の戦場に於いて我々は同期165名を失った。
 戦後30年ここにその名を銘記し、今は亡き戦友の御霊を永遠に弔うものである。

建立・管理海軍第一期飛行学生
建立年月日昭和五十一年八月
慰霊祭の主催者一生会
祭神数一六五柱

サイパン島戦没者慰霊碑

明治二十九年、歩兵四十聯隊は大阪歩兵二十聯隊に仮兵舎をおいて聯隊本部を設置したことに始まる。
明治三十年に大阪から鳥取に転営。
大東亜戦争では歩兵第四十聯隊第三大隊がサイパンで玉砕。本体は本土決戦準備のため宮崎へ移動、そこで終戦を迎えた。

建立・管理サイパン奉賛会
揮毫者鳥取四十連隊長 愛甲立身
建立年月日昭和四十五年五月
慰霊祭の主催者サイパン奉賛会
祭神数五○,○○○柱

海軍大尉 粟井俊夫之碑

粟井俊夫命
神風特攻第三筑波隊にその名が確認できる。
飛行科予備学生第14期。 昭和20年4月16日に沖縄方面の機動部隊に対して特別攻撃を敢行。

建立・管理粟井岩吉
建立年月日昭和四十四年五月吉日

慰霊
独立輜重兵 第五十四大隊慰霊碑

昭和16年に大阪にて編成。東北満州の警備に当たる。昭和19年3月に中国戦線に転戦し、終戦。

建立・管理独立輜重兵第五十四大隊
建立年月日昭和五十二年八月
慰霊祭の主催者独立輜重兵第五十四大隊
祭神数六三九柱

歩兵第二百十七聯隊之碑

第34師団隷下。昭和14年に大阪にて編成。

建立・管理歩兵第二百十七連隊
揮毫者内閣総理大臣 田中角栄
建立年月日昭和四十八年三月
慰霊祭の主催者歩二一七会
祭神数二,三○五柱
軍馬・軍犬・軍鳩之碑

歩兵第十四聯隊之慰霊碑

明治8年に小倉で創設。昭和15年以降の徴募区は大阪を主体とする。昭和20年4月、本土決戦部隊として宮崎に進駐、終戦を迎える。

建立・管理大阪勝山会有志
建立年月日昭和六十三年十一月
慰霊祭の主催者大阪勝山会
祭神数七一一柱

騎捜会
鎮魂之碑

建立・管理騎捜鎮魂会
騎兵第四連隊
捜索第四連隊
騎兵第二十八連隊
捜索第二十連隊
ほか
揮毫者大阪府知事 岸 昌
建立年月日昭和六十年十月
慰霊祭の主催者騎捜鎮魂会
祭神数一,四○○柱
愛馬之碑

鎮魂
歩兵第二百十六聯隊鎮魂碑

建立・管理歩兵第二百十六連隊戦友会
建立年月日昭和五十二年九月
慰霊祭の主催者歩二一六会
祭神数二,三六二柱
軍馬・軍犬・軍鳩之碑

歩兵第百八聯隊
つわもの之霊
ここに鎮まる

建立・管理歩兵第百八連隊
揮毫者服部敏夫
建立年月日昭和五十三年十月
慰霊祭の主催者歩百八会
祭神数一,三○○柱

騎兵第四聯隊慰霊碑

建立・管理騎兵第四連隊
揮毫者大槻 章
建立年月日平成六年十一月
慰霊祭の主催者
祭神数三,○○○余柱

歩兵第三十七連隊慰霊碑

建立・管理歩兵第三十七連隊
揮毫者陸上幕僚長 杉田一次
建立年月日平成五年十一月
慰霊祭の主催者歩三七会
祭神数二,○○○余柱

檜 第六十八師団
慰霊碑

建立・管理檜第六十八師団
慰霊碑建立委員会
揮毫者大場軍勝
建立年月日昭和六十二年十一月
慰霊祭の主催者檜会
祭神数一○,六七二柱

平和の礎 歩兵第八連隊之慰霊碑

建立・管理歩兵第八連隊
揮毫者大阪護國神社宮司 柳澤 寮
建立年月日平成元年五月
慰霊祭の主催者歩八会
祭神数二,七○○柱

信太山砲四会之碑
鎮魂

建立・管理信太山砲四会
建立年月日昭和五十七年四月
慰霊祭の主催者信太山砲四会
祭神数七,五○○柱
愛馬の碑

香8114部隊の碑
殉國の英霊 このところに鎮まる

建立・管理独立歩兵第六十七大隊
第四中隊
揮毫者中山二郎
建立年月日昭和五十三年八月
慰霊祭の主催者香親会

塩沢幸一題
皇風洽六合 明徳侔太陽之碑

塩沢幸一海軍大将。海軍兵学校第32期。同期は堀悌吉、山本五十六、吉田善吾、嶋田繁三郎ら。日米開戦時は軍事参議官。山本五十六戦死時に国葬の司祭長を勤めた。昭和18年11月に病死。

建立・管理岡本忍一
揮毫者海軍大将 塩沢幸一
建立年月日昭和十七年八月

参拝は2月下旬。境内には梅が咲きつつある春間近な季節。
御英霊に感謝と哀悼の祈りを捧げつつの参拝。

ありがとうございます。

新宿戸山の戦跡散策

平成30年8月

新宿区戸山・戸山公園を中心としたエリアの散策。
陸軍戸山学校など。

新宿戸山散策

平成30年8月19日、新宿区戸山界隈を散歩してみました。
主たるポイントは「陸軍戸山学校」、現在の戸山公園を中心としたエリア。
以下、連々と写真を展開。


位置関係

今回の散策コースはこんな感じ。

JR新大久保駅スタートで戸山公園を経て都営新宿線・曙橋駅。
これでザックリと約8キロ。 所要時間は2時間半程度。歩数は約13000歩でした。

今昔マップ on the web さんで当時の様子を参考に。

東京西部(戸山) 昭和4年二修/昭和6年6月30日発行。
今回のポイントを黄色で示してみました。 エリア的にはこんな感じ。

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.702704&lng=139.713744&zoom=15&dataset=tokyo50&age=2&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2


海城中学校・高等学校

古賀喜三郎(海軍少佐)によって明治24年に海軍兵学校へのエリート人材育成の為の海軍予備校として創立。

海城とは戦艦を意味する古語に由来。

明治33年に海軍省の要請により海城学校と改称。
現在も海軍以来の伝統として「質実剛健・リベラルでスマート」な校風を標榜している。

海城のクスノキ

昭和2年に霞が関から当地に学校が移転して来たのちに植えられたものであり「海城のシンボル」として大切にされている。


海城から東に。

都立戸山公園大久保地区の南端にさしかかります。
このあたりは射撃場跡。

「今昔マップ on the web」より
(東京西部1/25000 昭和20年部修・昭和22年7月30日発行)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」より
(ファイル名8911-C2-82/昭和19年10月16日陸軍撮影)

射撃場土塁跡

都立戸山公園大久保地区の南端に土塁が残ってる。
「射撃場土塁跡」
射撃場の周りは土塁で囲まれており、その名残。

前述中心部の画像や地図で射撃場の場所に見える東西に細長く連なる建屋は昭和3年完成の屋根で覆われた射撃場。
周辺住民への配慮として流れ弾防止や騒音抑制の為に設けられたという。

戸山の射撃場土塁跡と陸軍境界石

射撃場の土塁がまさに境目。
コンクリート壁と一体化するように陸軍境界石も残ってました。

戸山の射撃場土塁跡
都立戸山公園大久保地区の南端の土塁から連なるように道を挟んだ東側の「西大久保住宅」の南側にも土塁が残っている。

黄枠の部分が土塁が残っているエリア

明治通りを北上し、低地へと下るエリアを東に向かう。

地図で見ると現在は唐突に細長く住宅地が拡がる。
当時は南北を陸軍施設に挟まれる区画。ここもかつての射撃場跡。

陸軍戸山学校射撃場跡

そのエリアに降り立てば周辺が高台となっており射撃場は低地にあったことがわかる。


明治通りを北上すると右手に赤い鉄門が見えてくる。

学習院旧正門(国指定重要文化財)

明治10年、当時の華族学校(現学習院)の正門として建立。川口の鋳物工場で製作された唐草模様をあしらった和洋折衷の鉄門。

昭和25年に現在地に移転。現在は学習院女子大学などの正門として使用。


明治通りと諏訪通りの交差点。 東に行けば学習院女子、西に行けば諏訪神社。

新宿ノ諏訪神社

弘仁年中(810~820)創建と伝わる古社。
現在の社殿は昭和55年造営。 境内にある宮神輿庫はコンクリート造の校倉造という珍しいもの。

諏訪の霊水

「新宿ノ諏訪神社」 境内には「明治天皇射的砲術天覧所阯碑」がある。

明治天皇射的砲術天覧所阯碑

明治15年、神社南の「近衛射的場」に、 明治天皇の行幸があり境内より射撃演習を天覧。その後も射撃場にみられる各宮殿下が諏訪神社社務所でご休息遊ばれたという。境内地の天覧高台は昭和18年に東京都より行幸史跡に指定。

明治天皇の天覧を記念し、諏訪神社御社殿の向拝の蟇股には菊の御紋を掲揚。
また、拝殿内に掲げられている神号額は小松宮彰仁殿下の御真筆という。
写真の拝殿の外側の神号額は佐文山(佐々木文山・江戸時代中期の書家)によるもの。

今回の参拝では御朱印を戴いておりませんでした。 (前回戴いたものを掲載)


新宿ノ諏訪神社のかつての別当寺であった玄国寺(真言宗豊山派)に。
こちらへは近代史的な話題で寄り道を。 境内案内の記載をよく見ると 「文化財 岩倉具視邸(現書院)」とありますね。気になります。

岩倉具視邸

玄国寺 「岩倉具視邸(現書院)」
元勲岩倉具視の旧邸の一部を大正年間?に移築したものという。和洋折衷の建築物。現在も寺院の庫裡として使用されており内部は非公開。

さて、本筋に。

近衛騎兵連隊

学習院女子大の方に向けて歩んでいく。
本当であれば学習院女子大の中にある「建造物」を見学したいが女子大ゆえに見学難易度は高そうなので別の機会?に。

学習院女子大には近衛騎兵連隊兵舎炊事所が残っており近衛騎兵聯隊之碑がある。画像は煉瓦壁とGoogle Earthを参考まで。

馬場下町交差点。わかりやすく言うと穴八幡の交差点。

三朝庵(閉店済)

この交差点の角に100年以上に渡り歴史を伝えてきた蕎麦屋があった
(過去形・・・)

「三朝庵」
元 近衛騎兵連隊 御用
元 大隈家 御用

残念ながら平成30年7月31日でもって閉店・・・。
ここへ訪れるのがあと一歩遅かったです、残念です。

別の日(令和2年)に撮影。コンビニになっておりました。。。

今回は時間の都合で穴八幡宮は社頭で遥拝。

高田馬場の流鏑馬の時代から、近衛騎兵聯隊まで。
馬つながりを感じつつつ。

穴八幡の南西にある箱根山を目指します(都立戸山公園箱根山地区)

陸軍戸山学校の野外演奏場跡

都立戸山公園箱根山地区
「陸軍戸山学校の野外演奏場跡」

気持ちよさそうに寝そべった方が居りました。 写真どうしよっかな…と悩みながらなるべくじゃまにならないようにパチリを。

この場所が野外演奏場(野外音楽堂)
陸軍戸山学校では軍楽隊の訓練も行われていたとのことで。

箱根山 陸軍戸山學校阯

都立戸山公園箱根山地区
「箱根山 陸軍戸山學校阯」

陸軍戸山学校
明治6年(1873)6月、旧尾張藩下屋敷跡に陸軍兵学寮戸山出張所が設置
明治7年2月、陸軍兵学寮戸山出張所を陸軍戸山学校と改称
大正元年(1912)9月、戦術科、射撃科、教導大隊が陸軍歩兵学校として分離独立
昭和20年9月10日、閉校

箱根山 陸軍戸山學校阯

この地は和田戸という武士の館の跡で源頼朝が源氏の勢ぞろいをした所と伝えられ後代和田戸山と呼ばれた
寛文年間尾張徳川侯の下屋敷となり殿堂宮祠等かずかずの建物と箱根山を中心とし東海道五十三次に擬した風雅な庭園が造成された
明治六年その地に兵学寮戸山出張所が設けられ翌明治七年陸軍戸山学校と改称されて以来約七十年にわたって軍事の研究教育が行なわれ国軍精強の基を培ったばかりでなく国民の体育武道射撃音楽の向上に幾多の寄与をした記念すべき地である
この度東京都がこの地に緑の公園を整備されるにあたってこの記念碑を建てて東京都に贈る
昭和四十二年十一月
元陸軍戸山学校緑故有志一同

箱根山地区の歴史
(略)
明治七年(1874)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦後は国有地となりその一部が昭和二十九年から今日の公園となった。
陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている。

戸山公園
箱根山 標高44.6m

「登頂証明書」は戸山公園大久保地区のサービスセンターにて。 (貰いそこねました)
山頂から見える建物を近くでみてみましょう。
陸軍戸山学校の名残の建造物。

陸軍戸山学校将校集会所

「陸軍戸山学校将校集会所」(戸山公園箱根山地区)
戸山学校時代は将校集会所として使われていたという建造物。
現在は「戸山教会・戸山幼稚園」として使用されている。
この半地下式の石造りの部分が将校集会所の跡とされている。

「陸軍戸山学校将校集会所跡」(戸山公園箱根山地区)
現在は戸山教会及び戸山幼稚園として現役。
常識の範囲内で見学を。


陸軍軍医学校跡

戸山公園の隣の区画
現在は「国立感染症研究所」「国立健康・栄養研究所」などがある地は、かつての「陸軍軍医学校」(昭和4年に麹町より移転) の地であった。

この軍医学校跡地からは国立感染症研究所(当時は前身の国立予防衛生研究所)建設に際して大量の人骨が発見されたりもしている(1989年)。

現在の国立国際医療研究センター研究所のある場所。

当時の「陸軍軍医学校」の向かい側には「陸軍第一病院」があり「陸軍軍医学校」とは地下でつながっていたという。
その地下道の入り口とされる場所。 なにやら塞いだ感に溢れてますね・・・。

戸山「陸軍軍医学校」と「陸軍第一病院」

うっすらと「医療…」と書かれた御影石。
これも「陸軍軍医学校」の名残かどうか
向こう側には「陸軍第一病院」地下道出入り口が見える。


戸山から牛込まで南下。
奇しくも海の海城から陸の成城への散策。

成城中学校・高等学校

明治18年(1885)創立。当初は文武講習館として、築地に創立。軍人志望の少年の養成にあたる。
明治19年に「成城学校」と改称し陸軍士官学校・陸軍幼年学校への全寮制予備校となる。明治24年に現在地に移転。

牛込までくればアンテナが見えてくる。

市ヶ谷の防衛省。
かつての陸軍士官学校。

そのまま南下すれば都営地下鉄の曙橋駅。
今回の新宿区戸山界隈の散策はこれで〆

空母赤城と赤城神社

平成28年(2016)9月撮影

空母赤城に関係する神社を。

大洞赤城神社・旧鎮座地。
社頭向かって左側にある「碑」

大日本帝国
軍艦赤城奉納碑

境内地は立入禁止ゆえ望遠トリミングで。

奉納は昭和10年10月とのことです。

「赤城」の関係者が奉納した歴史を感じつつ、往時を偲ぶよすがとして。

大洞赤城神社・旧鎮座地

昭和45年(1970)現在地に遷座するまでは大洞赤城神社はこの地に鎮座していた。
現在は旧地として空間が残っている。

尚、旧社地は立入禁止。外側から遠巻きに拝見させていただく。 

大洞赤城神社・現鎮座地

大洞赤城神社

群馬県前橋市富士見町赤城山に鎮座。
式内名神大社論社、上野国二宮論社、旧社格は郷社。
正式な社号は「赤城神社」であるが、他の赤城神社との区別のため「大洞赤城神社」と呼称。

御祭神
正殿 赤城大明神
大国主命・磐筒男神・磐筒女神・経津主神

創建年代は不詳。社伝では豊城入彦命(崇神天皇皇子・上毛野君や下毛野君の始祖)が上毛野を支配することになった際に山と沼の霊を奉斎したと伝承。

平安時代中期編纂の「延喜式神名帳」では名神大社として「上野国勢多郡 赤城神社」の記載あり。
ただし式内論社としては赤城山頂に鎮座する当社「大洞赤城神社」のほか、山腹の「三夜沢赤城神社」、山麓の「二宮赤城神社」もある。

当社は赤城神社の「山宮」とされている。 「里宮」とされる二宮赤城神社に対して、三夜沢赤城神社も「山宮」とされる説もあり、このあたりの三社の関係はややこしい。

明治の近代社格制度では郷社列格。 (なお三夜沢赤城は県社、二宮赤城は郷社)
三夜沢・大洞・二宮の三社を合わせて「国幣中社」にしようとする動きもあったが、終戦により社格制度が廃止され、これは実現はしなかった。

昭和45年(1970)。
社殿が荒廃したために、大沼南端の畔の旧社地(大洞地区)より、現在地の小鳥々島に遷座。
現在の社殿はその時の再建となる。


三夜沢赤城神社
赤城会奉納札

空母赤城会の奉納。 (赤城空母会とも)

三夜沢赤城神社

群馬県前橋市三夜沢町鎮座。
式内社名神大社論社、上野国二宮論社。旧社格は県社。 赤城三社のうち(二宮・大洞・三夜沢)で、当社が唯一の県社列格。
御祭神は、赤城神・豊城入彦命・大己貴命

創建は不詳。
崇神天皇の皇子・豊城入彦命が上毛野国を支配することになった際、大己貴命を奉じたのに始まるとされる。
豊城入彦命は上州の上毛野氏・下毛野氏の祖。

崇神天皇の長男であった豊城入彦命がどうして東国に派遣されたか。
書記曰く。
崇神天皇が皇太子を定める際に豊城命(とよきのみこと)と活目尊(いくめのみこと)を呼び寄せ「皇太子を決めかねている。お前たちの見た夢で占うことにしよう」と仰せられた。

夢を見た翌日の報告
兄の豊城命は「自ら御諸山(三輪山)に登り、東方に向かって八回槍を突きだし、八回矛を突きだし、八回刀を打ち振りました」と申し上げた。
弟の活目尊は「自ら御諸山の嶺に登り、縄を四方に引き渡し、粟を食べていた雀を追い払いました」と申し上げた。

崇神天皇は夢占いをなされて、
「兄は東方に向かって武器を振るっていた。だから東国を治めるがよい。弟は四方に臨んでいた。まさに私の跡を継ぐのに相応しい」と仰せられた。
そこで弟の活目尊を皇太子(のちの垂仁天皇)に立て、兄の豊城命は東国(毛野国=上州)を治められた。

崇神天皇といえば、大和朝廷の権力を周辺に拡げていた時代。

すなわち四道将軍を任命し、大毘古命を北陸に、建沼河別命を東海に、吉備津日子命を山陽(吉備)に、日子坐王を山陰(丹波)に派遣。 出雲臣に圧力をかけ神宝を提出させ、三輪と伊勢の祭祀を整理し…と強権を振るっていた。

大和に従わない東国に対して。
四道将軍として大毘古命(孝元天皇皇子)を北陸道に、建沼河別命(大毘古命の子)を東海道に派遣、この両者が出会った場所が「会津」(福島県)となる。
そして武勇に優れた崇神天皇長男・豊城入彦命を更に東国に派遣し、毛野国から蝦夷ににらみを働かせる。

第10代崇神天皇は東国に皇子・親戚たちを派遣。
次代は四方を見渡し治世に優れていた弟・活目尊(のちの第11代垂仁天皇)が皇位を継ぐ。
兄・豊城入彦命が治める東国はまだまだ平定に時間を要し、こののち第12代景行天皇の皇子・倭建命(日本武尊)の東国派遣へと繋がっていくのだ。

三夜沢赤城神社・御本殿(県指定重要文化財)

社殿は、拝殿・中門・本殿となっており、本殿はより高台に鎮座。
本殿内には由良成繁(新田四天王由良具滋の末裔・新田金山城主)奉納の宮殿が納められている。

神社は好きだけど、本筋から外れるので簡単に〆

観音崎の戦跡散策(横須賀)

令和元年(2019)5月11日撮影・横須賀市

戦没船員の碑

午前中に「馬門山横須賀海軍墓地墓前祭」に参列し、午後はフリータイム。
一緒に行動していた友人から一言「観音崎行ったことある?」

実はわたしはまだ観音崎に行ったことがなく。事前調査で情報量が多すぎて怖気づいていたもので、この方面は「走水」まででした。

良い機会でしたので友人と「まずは斥候の気持ち」で「観音崎」に赴くことに。
結果としては、予想以上の情報量に圧倒されてしまい。

そんなわけで、今回がはじめての観音崎。
いろいろと散策が甘いかと思いますが、そこは諸先輩の後塵を拝しながら、初見のレポを以下に。

位置関係

USA-M46-A-7-2-120
1946年02月15日‐米軍撮影

午前11時スタート

駐車場に車を止めて、散策開始。止めた場所は「観音崎自然博物館」の近く。つまり観音崎の南側。あとから思えばこの判断が失敗だったような。

観音崎公園の案内図

れんが構造物のマークもついているのが散策にはありがたいですね。

トーチカ跡?

まずは多々良浜近くの「トーチカ?」とされている海岸のコンクリート構造物を拝見。

南側の駐車場から一気に踏破をして、「戦没船員の碑」を目指します。この場所が実は前々から気になっていた地。駐車場も直線距離で一番近いところが南側だったので南に止めたというのもあったが、どうやらそれが失敗だったようで、直線距離が近い=急勾配。完全にトレッキングでした。

なお、墓前祭に参列したあとでしたので、革靴とワイシャツと・・・という格好。この格好で観音崎はダメですね。しかし動き出してしまったのであとの祭り。

戦没船員の碑

かつて第二次世界大戦や海難事故の犠牲となり海洋で失われた6万余人の船員たちの霊を慰める慰霊碑。

戦没船員の碑建立記

昭和12年7月に端を発したさきの戦争において、わが国の海運水産界は6万余人に及ぶ尊い船員の生命と2500隻840万総トンを超える船舶を失うというまことに大きな犠牲を払いました。
それから25年、わが国の海運水産界は再び隆盛をとりもどし昔日にまさる反映をみるに至りましたが、私どもはこれら多くの戦没された船員の労苦を偲びその霊を慰めるとともに世界の海に二度とこのような悲劇をくり返さないように致さねばなりません。
こうした私どもの願いは昭和44年7月財団法人戦没船員の碑建立会の発足となり、多数の人びとの協力を得てここに記念碑を建て、戦没船員の名簿を納めることになりました。
見渡す限りの大海原、変わることのないこの大自然を前にして、この地を訪れる人びとと、また沖をゆく船の人びとと共に心をあわせてこの記念碑が永遠の平和の光となりますよう深い祈りを捧げるものであります。

昭和46年3月25日
財団法人 戦没船員の碑建立会
会長 足立正

殉職船員追悼式の記

昭和46年5月6日この碑前において 皇太子同妃両殿下ご臨席のもとに全国遺族代表を招いて戦没船員追悼式を挙行し、以来毎年5月に式典を実施して参りました。
近来海難殉職船員の慰霊に対する要望が高まって参りましたので本年4月財団法人日本殉職船員顕彰会を設立し本日第一回殉職船員追悼式を執り行ない、以後5月15日を式日と定めて戦没海難全殉職船員の労苦に思いをいたしそのみ霊を慰めるとともに海洋永遠の平和を祈る式典を行うことにいたしました。
この追悼式には、大戦中輸送船船長として活躍された宮越賢治氏の自作能「海霊」が、鎮魂と平和を祈念して奉納されます。
殉職船員追悼式が、わが国民の海洋精神高揚の一助となって海洋立国の認識を深めることを切に念願するものであります。

昭和56年5月15日
財団法人日本殉職船員顕彰会
会長 佐々木周一

戦没船員の碑

 第二次世界大戦や海難事故の犠牲となって海洋で失われた、6万余人の船員の霊を慰め、かつ永遠の平和への願いを込めて設けられました。
 高さ24メートルの白磁の大碑壁を中心に、天皇陛下御製碑、皇后陛下御歌碑のほか、かつての練習船の錨などを配し、太平洋を望む格好のモニュメントとなっております。

設計/東京藝術大学教授 吉村順三
群像/東京藝術大学教授 菊池一雄

その後の進徳丸

 神戸商船大学構内に保存されていた進徳丸は、平成7年1月17日、阪神・淡路地方を襲った大震災により、設置地盤が崩壊したため、老朽化していた船体は解体撤去されることになり、平成8年2月、多くの人々に惜しまれつつ、その波乱に満ちた障害を閉じました。
 解体された進徳丸の船首とマストは、神戸商船大学の「進徳丸メモリアル」に残りました。

進徳丸
1923年に竣工した神戸高等商船学校の帆船練習船。
帆船練習船として21年、汽船練習船として16年、約1万1900名の船員を養成した。
太平洋戦争中は逓信省海務院の管轄。昭和19年に帆船から汽船に改良。石炭輸送従事中の昭和20年7月24日に米軍艦載機の攻撃で着底。昭和21年に引き上げ。その後は引き揚げ輸送や練習船として活躍し、昭和38年に廃船。

戦没船員の碑
 安らかに ねむれ わが友よ
 波静かなれ とこしえに

海に没した船員たちの御霊に合掌。
感謝と哀悼を。

戦没の地、太平洋。船員たちが活躍した舞台が描かれている。

群像

船員と人魚

戦没船員の碑
御製碑
御歌碑

天皇陛下御製 
 戦没船員の碑

戦日(いくさび)に 逝きし船人を
悼む碑の彼方に見ゆる
海平らけし

天皇陛下には、平成4年1月20日
皇后陛下とこの碑に行幸啓遊ばされ、お詠みになられました。

皇后陛下御歌
かく濡れて 遺族らと祈る
更にさらにひたぬれて
君ら逝ゆき給ひしか

観音崎戦没船員の碑除幕式
激しき雨の中にとり行はれぬ

皇后陛下御歌 副碑
昭和46年5月6日
皇太子同妃両殿下の行啓を仰ぎ雨降りしきるなか戦没船員追悼式を執り行いました
御歌はその時賜ったものです
御心が末永く語り継がれることを念願いたします。

行幸啓お成りの碑

記載以外でも葉山御用邸と併せて、この地に足を運ばれることもある。
直近だと平成31年1月に 天皇皇后両陛下が慰霊のために訪れている。8回目。

公益財団法人 日本殉職船員顕彰会

http://www.kenshoukai.jp/index.htm

民間徴用船の参考(こちらにも行きたいのです)
「戦没した船と船員の資料館」全日本海員組合

http://www.jsu.or.jp/siryo/


大浦堡塁跡

戦没船員の碑のすぐ近く。
明治期の堡塁跡。「大浦堡塁(ほうるい)」の跡に、戦没船員の碑が建立されている。現在は、面影はほとんど残っておらず、「壁」と「階段」が残るのみ。


めがね橋

めがね橋は、明治時代に軍が資材運搬用の道路として切り開いた道に架けた橋で、初代のものは下図に示す、れんがによるアーチ構造であり、それが名前の由来になったようです。
現在の橋は、昭和40年台に架けた2代目のもので、一般的な鋼材による桁構造となりました。当時のれんがはは次第の一部に残っています。

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腰越堡塁(うみの子とりで

明治期の堡塁。現在は子供たちの遊び場「うみの子とりで」
かつての東京湾防御陣地が、アスレチック公園として有効活用。大人も子供も楽しめる場は、ある意味で史跡空間の有効活用かもしれない。

土塁への階段
砲座跡?

三軒家砲台跡

三軒家砲台跡
この砲台は明治27年12月15日着工、明治29年12月20日完成の27加砲4門12加砲2門の砲台で原形に近い形で残されています。
地下庫、見張所、井戸、便所等もありましたが昭和9年8月20日廃止されました。

三軒家園地 旧砲台跡
見張所へ続く階段
見張所
見張所
門柱
門柱金具
後方掩蔽部の入り口
弾薬庫は地下に。入り口。
後方掩蔽部の掘割通路
二十七センチ加農砲座の空間
二十七センチ加農砲座の空間
見張所へとつながると思われる階段
便所跡
井戸跡
イタチの通り道・・・ではなく伝声管を通す穴

完全に油断していました。比較的お手軽に見学できる遺構が残っていると聞いて言いましたが、これほどの規模が残っていて、見学できることに興奮気味。
もっと早くこの地に足を運んでおくべきでした。


三軒家砲台跡からいったん下に降りまして。
パークセンター方面に移動する途中、門柱の片側のみ残っていました。


観音崎砲台火薬庫
(パークセンター)

構造について
パークセンターの建物は、日清戦争の後、明治31年に旧日本陸軍が東京湾要塞の観音崎砲台の火薬庫として整備したものです。
構造は「木骨れんが造」の平屋建てであり、屋根部分は「キングポストトラス」と呼ばれる木造の洋小屋組、基礎部分は地盤面に通気性の良いれんがアーチが連続しており、火薬を保管するため、防湿性などの工夫が凝らされています。

改修工事について
平成23年までは。建設当時のれんが壁面にモルタルを塗り、白壁に改修され、観音崎青少年の村の集会室などととして利用されてきました。
パークセンターとして利用するにあたり、歴史的建造物の価値を最大限に活かし、白壁をはがし、れんが壁を再現・補修するとともに、現在の耐震基準を満たすように柱・梁の補強や新たにスロープを設置するなどの改修を行い、平成28年1月にオープンしてます。


観音崎

砂浜にある構造物。もともとは何だったのでしょうか?
戦前からあるのは間違いないです。
現在は桟橋は途中から消失してますね。

USA-M46-A-7-2-120
1946年02月15日の米軍写真を加工
GoogleMap航空写真

海岸散策

洞窟

日本武尊と弟橘媛命伝説と行基伝説。

観音崎灯台

これは二代目・観音崎灯台の残骸。
関東大震災で被災し撤去廃棄された
現在の観音崎砲台は三代目
観音崎燈臺所轄地の境界石
古さを感じさせる灯台への道

水中聴測所跡

昭和12年6月に完成した水中聴測所 跡(潜水艦を監視するソナーを設置)という。この周辺地域は現在は海上自衛隊の管理敷地のため、近づくことは不可。

この海上自衛隊観音崎警備所のある丘の場所は「北門第四砲台跡」ともいう。

この海上自衛隊観音崎警備所の敷地内には「ある慰霊碑」がひっそりと建立されていた。
第一富士丸遭難者の慰霊碑。
すなわち、なだしお事件・・・ 合掌

海岸から灯台に登る道の片隅に。

防二〇三
燈台所轄地 境界石
何かの小屋の跡

北門第一砲台跡

日本で最初に建築された近代砲台。モルタルがところどころ剥がれて下地のレンガが露出しはじめている。


北門第二砲台跡

北門第二砲台について
ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため古くから東京湾防備の要塞地帯として使用されてきました。この砲台は明治13年5月26日着工、明治17年6月27日完成しました。24加砲6門と弾薬庫がつくられましたが現在は4砲座と弾薬庫が残っています。

弾薬庫
一ノ一 一ノニと番号が振ってある。

隧道は通行禁止。弾薬庫への入口があった。

防衛施設庁と運輸省の境界石


東京湾海上交通センター

海上保安庁の所轄。


レンガトンネルの向こうにあるのが「北門第三砲台跡」

北門第三砲台跡


北門第三砲台跡、「海の見らし台」
見晴らしていたら、米軍艦が航行。


南門砲台

観音崎自然博物館のあるあたりもかつての砲台跡。

観音崎砲台について
ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため東京湾防備の重要地点として明治13~28年の間に観音崎各所にレンガとコンクリートによる15ヶ所の近代的砲台は築かれました。これらの砲台は日清日露戦争時代に活躍したもので関東大震災で大破したため大正末期にはすべて廃止されています。この場所は南門砲台跡で当時をしのぶ姿はまったくありません。

15時ゴール

約4時間の散策、17000歩。iPhoneの「登った階段数」は65階と記録されておりました。

昼ごはん休憩を挟んだとはいえ、アップダウンの繰り返しで、久しぶりのハードウォーキングをした気持ち。
予想以上に見どころ豊富で、初見の下見としては大成功。またそのうち散策に期待ですね。季節が変われば見えてくるものも違ってきそうですし。

今回はこれでいったん〆

大竹の海軍戦跡散策

平成29年(2017年)3月撮影

岩国方面でスキマ時間が出来た際に寄り道を。

天気は芳しくない中でも、隙間時間の過ごし方を悩む。
岩国観光をするか否か…。
悩んで結局はあるあるな岩国観光を止めて、敢えて大竹に足を運んでみました。


位置関係

USA-R507-3-155
1947年09月23日-米軍撮影写真を加工
現在の様子

大竹

昭和16年11月20日広島県佐伯郡大竹町に「呉第二海兵団」が設置。
昭和19年1月4日「大竹海兵団」改称。
戦後は大竹港港湾施設に転用。

大竹港には復員港となり昭和22年1月末までに、実に41万783人の在外の軍人や民間人が大竹港から復員している。

大竹駅到着は0930頃。
天気は不安定でしたが、ひとまず歩みを進めてみる。

大竹駅前。
長州方と幕府方の古戦場。

駅から歩くこと15分ほど。
工場エリアが目的地。

三井 デュポン・ポリケミカル敷地内になります。
関係者以外立ち入り禁止…ですが臆せずに。
守衛所で「海兵団の碑を見に来ました」で立入許可を得られました。

香川隆昭様 より:2020年7月24日 11:08 午後
地元の資料を探していて、つい立ち寄りました。
三井 デュポン・ポリケミカルの写真3枚目、正門の奥にある平屋の大きな建物が海兵団当時の烹炊所です。

コメント欄より

末元雅也様 より:2021年10月1日 2:36 PM
海兵団当時の烹炊所ですが21年10月より取り壊して立て替えることになりました。内部は相当傷んで耐震は保証できないですからね。床などは石畳でできており歴史を感じます。

コメント欄より

こちらが「海兵団当時の烹炊所」という。
当時は何気なく撮影しておりましたが、往時の建物とは気がついておりませんでした。コメントありがとうございました。

改めて位置関係を確認。

国土地理院ファイル:USA-R507-3-155
1947年09月23日米軍撮影(一部加工)
GooleMap 一部加工

拡大


大竹海兵団跡之碑

三井 デュポン・ポリケミカル敷地内に鎮座。
碑の創建は新しく平成3年(1991年)。
工場の駐車場に鎮座。
現在、大竹海兵団の跡地は工場エリアとなっている。

碑文は出雲大社の千家達彦書

大竹海兵団跡之碑

碑文
 大竹海兵団は大東亜戦争を前にした昭和十五年十二月呉鎮守府管下の呉海兵団大竹分団として開団され、翌昭和十六年十一月二十日大竹海兵団として独立した海兵団は明治健軍以来海軍精神即ち、海軍魂を鍛えた伝統ある場所であった。
 曾ってこの地において大日本帝国海軍の基礎教育と訓練をうけるため各地より青少年が志願及び徴兵等によって入団し、尽忠報国の念に燃え愛する祖国のために血と汗と涙を流した人数は実に十五万数千人に達したと言われている。
 又基礎教育訓練終了後前線に配属され青春の尊い命を散華した英霊は数えつきない。
 茲に大竹海兵団創設五十周年にあたり同団関係者各位等のご協力により記念の跡之碑を建立して平和の尊さを永く後世に伝えるものである。

 平成三年十一月二十日建立
 大竹海兵団跡地記念碑建設委員会

大竹海兵団跡之碑
建立協力戦友会等名

軍艦伊勢、駆逐艦浜風、駆逐艦桜 どうしても艦に目がいってしまいます。

台座の敷石は、大竹海兵団の烹炊所の敷石が使われていたもの、と。
僅かに残る往時の名残。

この場所で、ふと「この世界の片隅に」での主人公、周作さんのセリフを思い出す。

昭和20年10月6日。
周作「わしらは大竹に移る。海軍を解体しきるまでは何があっても秩序を守り通すのが法務の仕事じゃ」
作中では描かれていない大竹での職務を夢想する。

※昭和20年12月1日。
海軍省は廃止され、かわって復員業務を主体とした「第二復員省」(第一は旧陸軍省)が設立。
周作「海軍も11月いっぱいでのうなった。お役御免じゃ」

昭和21年1月に広島草津の森田家に妹のすみちゃんの見舞いに帰っていたヒロインすずさんと広島での周作との再会に繋がるやりとり。

大竹海兵団跡之碑
海軍の足跡を辿り、往時を偲ぶよすがを。


さて、次の目的地へ。
潜水学校の名残を残す史跡が臨海部の公園に残っていると。

次の場所までは海兵団の碑からは20分ほど歩くことになりました。

大竹海兵団は塀の右側の工場エリアにあった

末元雅也様 より:2021年10月1日 2:36 PM
大竹海兵団は塀の右側の工場エリアにあった・・・この右手の建物は当時からある飛行機の格納庫です。
3棟今でも倉庫として使っております。表からはスライド式の横開きのドアがまだ残っており床にもレールの跡が残っております。

コメント欄より

道すがら。
道路の下に瓦礫があった。おそらく往時からのものと推測。

正面の山は「宮島」
右手が「大竹海兵団跡」
古そうな橋。大竹港に向かう。

大竹港

大竹港に着きました。

大竹港(あこがれみなと)
引き揚げ港として、望郷の想いから来ているかどうかは知りません。
港についたら、ちょうど雨風が酷いことになりました…宮島も霞んでます。

大竹港を北に歩いていくと、「東栄地区港湾緑地」にたどり着きます。
ここが次の目的地。


海軍潜水学校探知講堂跡

「東栄地区港湾緑地」に保存されている不思議なモニュメント。
海軍潜水学校探知講堂の一部。

昭和17年。海軍潜水学校が呉から大竹に移設。
潜水学校探知講堂は、柱によって海上に建てられた施設。
ここで潜水艦のスクリュー音を聞き分ける訓練が行われた。

旧日本海軍潜水学校探知講堂
 昭和15年12月、旧日本海軍の呉海兵団大竹分団が大竹に開設され、昭和16年11月に大竹海兵団として独立しました。さらに、昭和17年11月には海軍潜水学校が呉から大竹へ移転し、潜水艦の乗組員を養成するための訓練が行なわれました。
 地方港湾大竹港港湾整備事業により、現在緑地となっているこの場所は、以前は海で、昭和17年に建築された探知講堂(正式名称:電測水測講堂)がありました。探知講堂は15本のコンクリート製の柱で支えられて海上に立つ特異な構造で、潜水艦の乗組員が艦船のスクリュー音を聞き分ける訓練が行われていたと伝えられています。
 海軍潜水学校が大竹にあったことをしのぶため、探知講堂の一部を切り取り、モニュメントして整備しました。

海軍潜水学校探知講堂の一部。

近年まで海上に残されていたが大竹港・大竹工業団地の埋め立て事業により、平成20年(2008年)に現在の形に切り取られて保存された、と。

何もないよりかはマシだけど、陸上でも建物として完全体で保存して欲しかった。 空間に余裕のあることだし・・・もう遅いけど。


この時が雨のピークで、臨海部で酷い目に遭いました。
しばらく雨宿りしていたら、雨も落ち着いてきてお天気雨に。
宮島も姿を見せてくれました。

このあたりの構造物も、もしかしたら往時と関係あるかも。

大竹駅にもどりました。

大竹の海軍史跡散策は90分くらいを要しましたね。
ほとんど歩いてました。

大竹海兵団の碑見学に際しての工場敷地立入に感謝して、三井デュポンポリケミカルさんの製品を眺めたり。(すごくお馴染みの製品でした。)

大竹駅、良き雰囲気です。古レールが多用されてますね。