「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

中島飛行機発動機発祥之地

平成29年10月撮影

中島飛行機発動機発祥之地碑
(中島飛行機東京製作所跡地)

昭和62年12月10日建立

中島飛行機東京製作所(中島飛行機東京工場とも荻窪工場とも呼称)

東洋最大にして世界有数の航空機メーカー「中島飛行機」
この地で中島飛行機を代表する発動機(エンジン)が生まれていたのだ。


大正6年5月
 中島知久平が群馬県に「飛行機研究所」を創業
大正7年
 「日本飛行機製作所」に商号変更
大正8年
 「中島飛行機製作所」に商号変更
大正14年11月
 東京府豊多摩郡井萩町に「東京工場」が完成
 東京での最初の工場がこの地であった
 (武蔵製作所は昭和13年開設)
昭和6年12月15日
 「中島飛行機株式会社」と改称
昭和12年7月1日
 「中島飛行機東京工場」を「中島飛行機東京製作所」に改称
昭和20年4月1日
 中島飛行機は「第一軍需工廠」となり事実上の国営化
昭和20年8月16日
 敗戦により、社名を「富士産業株式会社」と改称
昭和25年5月
 解体の上で解散


中島飛行機東京製作所 で開発・生産されたエンジンと主な搭載機。
 「寿」エンジン(ハ1)
     海軍 九六式艦上戦闘機
     陸軍 九七式戦闘機
 「栄」エンジン(ハ25)
     海軍 零式艦上戦闘機(零戦) 月光
     陸軍 隼 九九式双発軽爆撃機
 「誉」エンジン(ハ45)
     海軍 紫電・紫電改 銀河 流星 彩雲
     陸軍 疾風

中島飛行機は戦後にGHQの手によって解体。

中島飛行機東京製作所は戦後に富士精密工業となり、そののちプリンス自動車工業をへて日産自動車荻窪事業所としてロケット開発へと推移。

中島飛行機東京製作所
 ↓
富士精密
 ↓
プリンス自動車工業
 ↓
日産自動車
 1981年に自動車開発移転
 1998年に宇宙開発移転
 
平成13年に日産より用地が売却され再開発。
現在は「日産プリンス東京販売株式会社 荻窪店」と「杉並区桃井原っぱ公園」などに。

ロケット発祥の地碑

ロケット発祥の地
碑文

戦後間もない昭和28年、旧中島飛行機から社名を変えた富士精密工業は東京大学生産技術研究所(現、文部科学省宇宙科学研究所)の指導を受け、ロケットの開発に着手した。2年後の昭和30年にはペンシルロケットの初フライトに成功し、これが日本のロケット第1号となった。
 爾来、約半世紀、富士精密工業は、プリンス自動車工業、日産自動車、アイ・エイチ・アイ・エアロスペースと変遷を重ねたが、ロケット技術は脈々と後進に受け継がれ、現在の日本の主力ロケットを生み出す原動力となった。ロケット開発の拠点たる日産自動車荻窪事業所は平成10年5月に群馬県富岡市へ移転したが、跡地は再開発されることになった。
 この地の生み出した創造的意義に鑑み、ここに記念碑を建立し、往時を偲びつつ、宇宙開発のさらなる発展を祈念するものである。

 平成13年11月
  旧富士精密工業株式会社
  旧プリンス自動車工業株式会社
  旧日産自動車株式会社  宇宙航空事業部   
                  有志一同

位置関係

R9-C1-53
陸軍撮影 昭和16年6月25日

https://goo.gl/maps/fSb5EkG1WEBiaXt29

いのはなトンネルの悲劇「湯の花トンネル列車銃撃事件」(高尾)

平成31年1月撮影

JR高尾駅には「銃撃痕」が残っていたが、高尾駅からちょっと奥まったトンネルでも「銃撃」による悲劇があった。


湯の花トンネル(いのはなトンネル)へ
(蛇滝口バス停)

高尾駅から「湯の花トンネル」(いのはなトンネル)列車銃撃の慰霊碑へむかいます。

高尾駅から小仏方面に向かうバスに乗り「蛇滝口」バス停で下車。
線路近くに慰霊碑がありますので参りましょう・・・

戦時中に銃撃の悲劇があった場所となります。


湯の花トンネル列車銃撃空襲

昭和20年8月5日
新宿発長野行419列車が浅川駅(現在の高尾駅)を出発し、湯の花(猪の鼻)トンネルに差し掛かった時、硫黄島から飛来したP‐51マスタングの銃撃を受け、52人が死亡、133名が重軽傷を負った。
列車への銃撃空襲としては日本最大級の被害であった。

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月5日、この地で米国戦闘機群によるわが国で最大規模の旅客列車銃撃空襲がおきました。
 8月2日の八王子空襲で中央本線が普通になった後、3日ぶりに新宿発長野行き419列車が浅川駅(現高尾駅)を出発し湯の花(猪の鼻)トンネルにさしかかった時、硫黄島から飛来したP51ムスタングの銃撃を受けました。この銃撃により警視庁の調べで52名が死亡し(実際は60名以上)、133名が重軽傷を負いました。
(以下略)
 2018(平成30)年8月
 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会


湯の花トンネル列車銃撃空襲
戦災死者供養塔
慰霊の碑

慰霊の碑
 終戦間近の昭和二十年(一九四五)八月五日、真夏の太陽が照りつける午後十二時二十分頃、満員の新宿発長野行き四一九列車が、いのはなトンネル東側入口に差しかかったとき米軍戦闘機P51二機または三機の銃撃を受け、五十二名以上の方々が死没し、百三十三名の方々が重軽傷を負いました。
 この空襲は日本最大の列車銃撃といわれています。
 私どもは、この戦争の惨禍を決して忘れることができません。
 ここに、確認された犠牲者のお名前を書きとどめ、ご遺族とともに心からご冥福をお祈り申し上げ、現在の平和の日々をかみしめ、戦争を知らない世代へこのことを語り伝えます。

平成四年八月五日
 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会

碑裏面
 戦災死者供養塔は、昭和二十五年八月、当時の上長房(現:裏高尾町、西朝川町)青年団が、亡くなった方々を供養するため、団員協力のもとに建立したものです。
 供養塔には、亡くなった方々を荼毘に付した日影沢の石が用いられました。
 地元に住む人々は、尊い犠牲者のお名前も人数も知ることなく、供養塔の前に手を合わせご冥福をお祈りしていました。
 昭和五十六年から八王子市教育委員会が八王子の空襲の調査を行い その後あらゆる手だてを尽くした結果、この事件の犠牲者は六十名以上と推定いたしました。
 そのうち、四十名のお名前と遺族が判った昭和五十九年、遺族関係者、地元の有志により七月二十一日に「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が発足いたしました。
 会では、この年の八月五日を「供養の日」に定め、毎年供養の集いを行い現在に至っています。
 供養塔は、はじめ唐沢踏切の北側にありましたが、地主のご好意で南側の土地を無償で提供していただき、昭和六十一年七月二十八日現在地に安置されました。
 かねてから、会では蓄積した浄財で亡くなった方々のお名前を刻んだ慰霊の碑の建立を計画していたところ、平成四年三月、東京八王子南ロータリークラブからも協力の申し出があり、ここに念願でありました慰霊の碑が完成いたしました。

平成四年六月十日
 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会

列車は湯の花トンネル手前で、進行方向左側の太平洋側から飛来した米軍P-51戦闘機に捕捉され、機関車と1両目は特に激しく攻撃されトンネルに2両目の半分程が入ったところで停止。そのためトンネルから出ていた車両が反復して機銃掃射に晒されて犠牲者が増加してしまった…

いのはなトンネル

このトンネルは戦後の新線(下り線)

煉瓦造の上り線が、空襲時から残っているトンネル。
(上り線は踏切の位置関係上、走行写真は撮影不可。)

現在の下り線(前述の列車写真は下り線)は新線。

高尾から先の複線は昭和37年以降。
煉瓦造トンネルの節々に欠けがあるのが空襲時の銃撃痕かもしれない。


湯の花トンネルの脇、甲州街道に面した蛇滝口バス停にある建物。

旧蛇滝茶屋
(蛇瀧信仰講中の宿泊休憩所)

この建物は空襲当時には既にここにあり、遺体安置所になったとも、遺族の集会所になったとも、雨戸を外して犠牲者救助に活用されたとも伝承されている建物。

当時、この地で起きた悲劇に想いを寄せつつ、慰霊碑に手を合わせる。

合掌


電気機関車ED16形(青梅鉄道公園)

中央本線419列車。新宿発長野行きの下り列車は、午前10時10分に新宿駅を出発する電気機関車ED16形7号機が牽引する8両編成であった。

同形式の電気機関車ED16形1号機が準鉄道記念物・国重要文化財として青海鉄道公園に保存されている。
参考掲載。

準鉄道記念物
ED161 号電気機関車
ED16 形式は昭和6年に開発され、18両制作されました。現役の電気機関車としては国鉄最古の形式で、当初は中央線 八王子-交付缶、上越線 水上-石打缶などで活躍しましたが、昭和40年以降全機が立川機関区に集結し、南武線・青梅線を主体に貨物輸送の主力となって、半世紀の永きにわたり活躍しました。
このED161 号機は昭和55年9月末まで使用されましたが、10月の時刻改正により現役を退き、平成30年10月31日、国の重要文化財に指定されました。

なお、八王子郷土資料館には、いのはなトンネルで銃撃を受けた該当機関車「ED16-7号機 標識」が保存されているというが、まだ未見。


参考

総務省
一般戦災死没者の追悼 > 追悼施設 > いのはな慰霊碑、戦災死者供養塔

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_hachioji_city002/index.html


関連

昭和20年8月5日の空襲。米軍戦闘機P-51マスタングの集団は、二宮駅にも機銃掃射を行っていた。

新潟村松の戦跡散策

平成31年3月撮影

村松兵営の営門

「村松」
私にとっては懐かしい土地。
かつて「蒲原鉄道」が五泉駅から村松駅まで結んでいた時(全盛期はもっと長く加茂駅まで結んでいたが)、母方の祖父母が新津や水原に居住していたということもあり、足繁く「蒲原鉄道」に通っていた時代があった。学生時代の思い出。

平成11年(1999)に蒲原鉄道全線廃線。廃線後はあまり足を運ぶ用事がなくなった村松に、奇しくも戦跡を求めてまた赴くことになるのは想定外のことでした。

そんな懐かしい「村松」は、当時は「軍都」と呼ばれた街でした。

村松へ

「蒲原鉄道の鉄道」がなくなり、現在は新潟駅から走っている高速バス「蒲原鉄道バス 五泉村松線」に乗るのが村松に赴くには便利。

かつてのように五泉まで磐越西線に乗ってそこから・・・というルートのほうが今はアクセスがしにくいようで。

位置関係

USA-R465-No2-19
1948年(昭和23年)11月23日 米軍撮影

営所通りの突き当りに「村松兵営」

村松駅舎

建設年代は不明。昭和の気配が残る駅舎。鉄道線が廃止されたあともバスターミナルとして引き続き活用されている。

村松駅

蒲原鉄道株式会社
村松駅 バス停
JASの名称が残っているトラベル看板
かつてここに待合所と改札があった
かつてここに待合所と改札があった
蒲原鉄道線のホームと線路があった場所
ホーム側
かつてこちら側は鉄道ホームだった

現役時代の蒲原鉄道の写真は20年前に撮影したものでフィルムスキャンしたデータがどこかのHDDで眠っているため、サルベージ出来たらアップロードします。
今は往時の思い出と、往時を知っている人は脳内補完でお願いいたします。

営所通り

村松の中心にある商店街。その名も「営所通り」
この通りを真っすぐ行けば「忠霊塔・村松公園」と「旧兵営跡」

商店街は祭日・旗日、日章旗が掲げられておりました。

営所通りを真っ直ぐ歩く。
村松駅から20分位歩く。結構遠い。

村松兵営

明治27年の日清戦争の影響により、明治29年(1896)に「歩兵第30聯隊」が編成され、明治30年に村松に兵営を展開。
日露戦争では村松より歩兵第30聯隊も出征し凱旋。記念として「村松公園」が造営されている。
昭和18年(1943)には「村松陸軍少年通信兵学校」が設立。


日の出町交差点。
北に愛宕小学校、南に村松体育館がある交差点が、かつての「正門」

営門と歩哨舎が残っている。

軍都村松

 明治27・28年の日清戦争における軍備拡張により、歩兵第30聯隊が新設された。陸軍省が設置場所を調査している中、村松町では町会で愛宕原の地4万坪を献上することを議決し、明治29年8月には村松に歩兵第30聯隊が設置されることが決定した。
 施設の概要は、兵舎・練兵場・作業場・病院・射的場などが兵営敷地に建設された。そのほか、村松町では往来の便を図るため兵営門前から下町まで新道を建設した。(現在の学校通り、当時は「営所通り」と呼ばれていた。)
 明治37年、日露両国(日本とロシア)は戦争状態に入り、村松の歩兵第30聯隊も出征した。この日露戦争記念として造営されたのが村松記念公園である。
 旧陸軍との関係は終戦まで続き、終戦間際の昭和18年には、村松陸軍少年通信兵学校が開校され全国各地から少年兵が入校した。昭和20年、終戦を迎え軍都村松の歴史は幕を閉じた。

将校集会所 門柱

 将校集会所は、主に士官(少尉以上の軍人)の集会に使用されていました。
 村松兵営の集会所は、現在の村松体育館(さくらアリーナ)付近にあったと考えられます。
 1945年(昭和20年)の終戦で兵営が廃止された後、門柱の所在は長い間不明となっていましたが、2013年(平成25年)に新発田市の陸上自衛隊で発見され、2014年3月に現在の地場所に移設されました。
 2016年12月 五泉市教育委員会

村松兵営跡

碑文

 このあたりは明治三十年から昭和二十年に至る約五十年の間村松兵営のあったところである
 祖国の護りと世界の平和のため郷土の若人はこの兵営において苦楽を共にし死生を同じうする戦友として昼夜を別たず教練演習や戦技訓練に精進した。 その雄叫びは愛宕の山にこだまし喇叭の響きは菅名 白山の峯もをゆるがすばかりであった。 かく鍛え抜いたつわものは伝統の越後魂を以って出でては日露戦争・シベリア出兵・満州事変・支那事変・大東亜戦争と到るところ堅忍克艱赫赫たる武勲を打樹て入りては郷土の健全な発展に貢献した併し栄光の影には幾多の貴い犠牲があった。 この犠牲こそが今日祖国の発展を齎らした貴い礎であることを忘れてはならない。
 星移り時は流れて幾春秋今や由緒深き兵営も全くその姿を変え空しき過去に葬り去られようとしている。
 この時にあたり関係者一同 計らずも村松町多数有志各位の絶大な協力をいただいた事実に衷心感謝を捧げつつ相携えて意義ある史跡としてこの兵営の足跡を記し英霊の遺勲と先人戦友の業績を永く後世に伝えるよすがともせんためこの碑を建てるものである。

村松兵営の足跡

明治三十年八月  
  歩兵第三十聯隊駐屯 
  同聯隊は明治二十九年一月新発田聯隊にて編成第二師団に編入
明治 三十一年三月 
  歩兵第三十聯隊に軍旗親授
明治 四十一年十月 
  歩兵第三十聯隊第十三師団に編入
大正十四年五月  
  軍備縮少により歩兵第三十聯隊第二師団に編入 
  高田に移駐
  歩兵第十六聯隊第三大隊新発田より分屯
昭和十二年四月  
  歩兵第十六聯隊第三大隊新発田に復帰
昭和 十三年一月   
  新発田陸軍病院臨時村松分院開設、支那事変の傷病兵収容
昭和十六年四月  
  新発田陸軍病院臨時村松分院閉鎖
昭和十六年七月  
  歩兵第百五十八聯隊駐屯高田独立歩兵団に編入
昭和十六年九月  
  歩兵第百五十八聯隊に軍旗親授
昭和十八年六月  
  歩兵第百五十八聯隊新発田に移駐西守第二師団に編入
昭和十八年九月  
  陸軍少年通信兵学校開校
  (村山陸軍少年通信兵学校より分校)
  18年12月第11期生800名 
  19年6月第12期生600名 
  20年4月第13期生400名卒業
昭和二十年八月
  大東亜戦争終結により兵営閉鎖
昭和五十四年四月二十四日  
  村松兵営跡記念碑建設会

兵営のあった場所の南東隅の場所に境界標石が残っている。

村松兵営 陸軍境界石

村松兵営の南側に空間が広がっている。

村松兵営 練兵場跡

現在は「新潟大学農学部付属フィールド科学教育研究センター 村松ステーション」。農場として活用されている。

門柱がある。この門柱が練兵場時代のものかどうかは不詳。
雨が強くて水滴がレンズについてしまった写真になってしまいました。

村松兵営の地から南西方向に歩みを進める。

村松陸軍病院
 現在の南部郷厚生病院

病院入口の北側に門柱が残っている。

かつての村松陸軍病院、現在は南部郷厚生病院。
建屋は建設年代は不詳。

病院の南東隅に、陸軍境界石が残っている。
村松兵営といい、村松陸軍病院といい、いずれも南東隅に残っている。

村松陸軍病院 陸軍境界石

村松陸軍病院の南側には「村松公園」と愛宕山。
日露戦争の戦捷記念公園。

村松公園

村松公園は、明治39年10月に日露戦役記念として造られました。今では県民が選んだ「にいがた景勝100選」で、第3位に選ばれています。

五泉市>村松公園
https://www.city.gosen.lg.jp/hyande/2/4/2281.html
塗り潰された(戦捷)記念灯籠 
海軍の錨が刻まれた灯籠
開設記念碑 明治39年11月建立

歩兵第30聯隊将校団奉納の鳥居

忠霊塔

村松陸軍墓地に埋葬されていた御遺骨も改装され忠霊塔に埋葬されているという。
昭和18年(1943)に陸軍省が建立。2017年の改修工事で当時の忠霊塔頂部の棟飾りは屋根から下に降ろされて保存設置されている。

合掌

護國の英霊此処に眠る(昭和43年11月建立、南部郷遺族会)

村松陸軍少年通信兵慰霊の樹

案内看板
慰霊碑と忠魂碑と忠霊塔と。

戦場に散った少年たちの碑

この丘上には、先の太平洋戦争下、祖国の急を救おうとして、悲惨な最期を遂げた少年通信兵812柱の御霊が眠っています。

村松の 山川さらば 出陣の 胸に祖国の 平和希いて
何時訪うも 香華絶えぬと 村松の 昭和の白虎隊とぞ 守り給える

戦没陸軍少年通信兵慰霊碑を護る会

戦没陸軍少年通信兵 慰霊碑

慰霊碑建立の由来

 この慰霊碑は 
先の大東亜戦争等において
祖国の安泰と 
家族の平安を願い 
敢然と戦場に赴き 
義を盡し
若くして華の如く散った 
陸軍少年通信兵の英霊を
慰めるため我等相図り
村松町の御好意のもとに
この地に建立し
八百余柱の御霊を合祀したものであります
ここにその偉勲を後世に伝え
永遠の平和を
祈念するものであります

 平成7年10月11日 全国少通連合会

碑文(裏面)

昭和8年東京ニ陸軍少年通信兵ノ教育開始セラレ逐年増員シ昭和17年陸軍少年通信兵学校トナレリ
昭和18年ニハ更ニ新潟県村松町ニ陸軍少年通信兵学校開設セラレ併セテ7千余名ノ若人ヲ教育シ国軍戦力統合ノ骨幹タル通信連絡ニ盡瘁シ各戦線ニ偉勲ヲ樹テ作戦ノ要望ニ応ヘシメタリ
然ルニ苛烈ナル戦線ニ或ハ瘴癘ノ地ニ多クノ少年通信兵ヲ戦病没セシメ其数300余名ニ及ヒシハ痛恨ノ極ミナリ 
殊ニ昭和19年秋南方戦線ニ向フ少年通信兵230余名ハ九州沖及東支那海ニテ敵潜水艦ニ襲ワレ戦線ニ至ラズシテ船ト共ニ水漬ク屍トナレルハ真ニ慟天哭地痛恨惜惜ク能ハサル所ナリ

終戦後20有5年今ヤ我国ハ稀有ノ隆昌ト平和ニ栄エ世界ノ大国トナレリ

惟フニ是レ一ニ祖国ノ無窮ヲ念ジ悠久ノ大義ニ殉ジタル英霊ノ加護ニヨルモノト謂フヲ得ヘシ

生キテ此ノ盛運ニ遭フ我等相諮リテ空清ク気澄メル村松ノ地ヲトシ碑ヲ建テ以テ尊キ御霊ヲ永ク鎮メ祭リテ慰メ奉ル 
在天ノ諸霊願ワクバ我等ガ微哀ヲ享ケラレンコトヲ
  昭和45年10月11日
   全国陸軍少年通信兵連合会

忠魂碑

明治39年3月建立
陸軍中将 西島助義 書

日露戦争時の陸軍第30聯隊にまつわる忠魂碑
忠魂碑は練兵場並びに兵営の方向を見渡す高台に鎮座。

揮毫された西島中将は日露戦争・奉天会戦の第2師団長。
歩兵第30聯隊は第2師団隷下として日露戦争で活躍。
遼陽会戦では第2師団が行った「弓張嶺の夜襲」と呼ばれる師団規模の夜襲作戦にも参加している。

公園の隣には鹿園があった。

村松公園は雨の中での散策ということもあり、見逃したスポットが多々あったのが判明。
「鉄傘の灯籠」「タマ公」「日の丸灯籠」など見逃し。残念。またの機会。

から西の方に一気に移動する。

戦跡としての散策ではないが、一箇所寄りたいところがあった。

城跡公園
五泉市村松郷土資料館

村松城址跡の公園。村松は堀氏三万石の城下町。
ここにかつて走っていた蒲原鉄道の車両が保存されている。
どうしても、車両が見たかったのだ。

蒲原鉄道保存車両モハ11

加茂~村松~五泉

 この電車は、大正12年に蒲原鉄道株式会社が磐越西線・五泉駅から信越本線・加茂駅までの21.9kmが開通した当時から昭和60年まで、走行してきました。
 昭和10年ごろは、旅客をはじめ穀物、織物、鉱石等の貨物を輸送し、沿線住民の足として最も活躍、貢献しました。
 昭和60年3月、加茂・村松間17.7kmが廃止されバス輸送に変換したので、往時を懐古するとともに、ここ城跡公園の一角が軌道敷だったことから、この地に展示し後世に伝えるものです。

私が知っている蒲原鉄道は末期の五泉~村松間の時代のみ。
平成11年(1999) のころ。
それより前の昭和60年(1985)は知らない時代。それでも車両のカラーリングは同じということもあり懐かしさを感じる。

この車両に軍都村松時代は、歩兵30聯隊の兵士たちや、通信学校の少年たちも乗車し揺られながら五泉と村松、加茂と村松を往来していたかもしれない。

あの時代、同じ時代を知る車両。
感慨深いものがある。

帰りの時間が厳しかった。

もっとゆっくりしたかったし資料館を見学したかったが時間切れ。断腸の思いで村松駅に戻る。
今はもう村松駅は電車がこないバスターミナルのみではあるが。

JR五泉駅と菅名岳を蒲原鉄道バス車中から見送る

筑波海軍航空隊跡散策

平成28年3月6日撮影

筑波海軍航空隊記念館が中心。

  • 筑波海軍航空隊記念館(司令部庁舎)
  • かえり雲(流政之さん)
  • 号令台
  • 慰霊碑
  • 滑走路跡
  • 筑波神社跡(筑波海軍航空隊神社跡)
  • 地下戦闘指揮所跡
  • 地下病院跡(地下応急治療室跡)
  • 二所神社
  • 海軍道路
  • 笠間市立歴史民俗資料館
  • 正門跡
  • 供養塔

ずっと訪れたかった地。
「永遠の0」を観る前から。
観た後は更に… 尊い歴史を伝承する空間。
後世にこの歴史を受け継がねばならぬ、と。

散華されし若き海鷲達に感謝と哀悼を…

筑波海軍航空隊記念館サイト

https://p-ibaraki.com/

レポート当時(平成28年)と現在は展示状況が異なります。
あくまで参考でお願いいたします。

友部駅南口に到着。
記念館はここから南約2.5キロ。 到着の時間は朝8時。記念館の開館は9時。
ノンビリ歩いていきましょう。

南口より歩く。わかりやすい大通りをてくてくと。
大きな看板がみえてきましたね。
もう少し歩いていきます。

あえて現在の正門ではない方へ。開館時間まで余裕があるので散歩。

位置関係

USA-R1062-105
1948年(昭和23)03月02日、米軍撮影に補足

筑波海軍航空隊裏門
(霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊時代の正門)

筑波海軍航空隊は霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊として昭和9年に開隊。

その分隊時代は現在の裏門が正門。
門柱が戦前か戦後かは?だが、場所は大体同じようです…

現在は裏口。
徒歩は問題ないけど車はこちらからは入れません。
裏口を案内しちゃうナビも多々あるご様子。

私は徒歩なのでこのまま構内にはいります。

筑波海軍航空隊記念館
 筑波海軍航空隊司令部庁舎

裏口から入ってしまったので、記念館も裏から……
まずは正面に向かいましょう

かえり雲

正面では号令台と「かえり雲」彫刻が出迎えてくれました。

かえり雲の作者は流政之さん。
元筑波海軍航空隊隊員(海軍飛行科予備学生)出身。
「筑波海軍航空隊の想い出と慰霊のために」寄附されこの地に設置。

号令台

正面には往時のままの姿を残す「号令台」
号令台の前には多くの若者たちが整列し、訓練に励み、そして飛び立っていき…

この場所に集いし桜はさぞかし美しかったことだろうと、想いを馳せると胸が熱くなる…

筑波海軍航空隊司令部庁舎

さて。館内へ。
この司令部として使われていた建物。
戦後は茨城県立友部病院管理棟としてそのまま転用。
平成23年10月に友部病院は茨城県立こころの医療センターと改称し新病棟に移設。

司令部であったこの建物は、解体予定のところを記念館として復活。

展示してあるものは一部を除いて撮影可能。
とても全部を語るのは難しいので印象深いものをランダムで。

こちらは英国アブロ504K練習機。海軍ではアブロ式練習機として中島が主に製造。黎明期の海軍練習機。

プロペラ展示室でスタッフの方に教えていただきました。

往時のプロペラは合板なんですよ。
断面を見れば一目瞭然。わかりやすいですね。

プロペラ展示室でスタッフの方に教えていただきました。

下二段のプロペラ。
同じ九三式中韓練習機(赤とんぼ)ですが違いが分かります?

回転方向が違うんです。
どうやら工場によって右だったり左だったり…

流石に戦争中には、これでは効率もなにもあったものではないので規格統一がすすんでいったようですが、同じ飛行機でもエンジンの回転軸方向が違うのが驚き。
故障時にパーツのニコイチも出来たものではないし…これはアカン


関口富坂海軍大尉
開戦前は金剛の射撃手として乗艦。
開戦時には一航戦赤城乗組員として真珠湾・ミッドウェイに従軍。
次いで翔鶴乗組員として第二次ソロモン・南太平洋に。
乗艦が沈没するも無事に生還される。

「軍艦金剛」
銘入マグカップ
前述の関口富坂海軍大尉遺族の手によって発見され記念館にて展示。

昭和七年度
射撃幹部員競技
軍艦金剛

小笠原諸島にて収集された遺品など。

陸上爆撃機・銀河のエンジン
艦上攻撃機・天山の第四風防(偵察員席)

小笠原諸島にて収集された遺品など。

艦上攻撃機・天山のエンジン
陸上爆撃機・銀河のエンジン

ひときわ大きな遺品。

二式大艇のプロペラエンジン。

筑波空記念館にて鎮座する遺品たちには御神酒が添えられてた。
自ずと手を合わせ頭を垂れる。
感謝の念と哀悼の誠を捧げ、ひとり静かに黙祷する…

零式艦上戦闘機21型。ゼロ戦。
後部胴体。

もともとはソロモン諸島でニュージランド空軍が回収した機体。
ラバウル航空隊所属機と推定。
払い下げ品を大阪の個人が購入し、この地にて展示。

十九試局地戦闘機「秋水」
陶器製燃料タンクは左が陸軍、右の錨印が海軍。
秋水の燃料タンクが陶器製とは知りませんでした。
ちなみに秋水は(末期ゆえに)陸海軍共同で研究された稀有な機体。

記念館の二階へ。
さらに時代を感じる気配がします。

しばらく、雰囲気を堪能します。
中央階段。二階廊下。

記念館二階中央。
司令室。

記念館2階。
副官室。

記念館2階の窓から

広場に眼をやれば桜並木が。
これもまた往時の姿を残すよすがかな…

記念館2階。

こちらは「永遠の0」撮影に使用された部屋。
陽の差し込み具合がやんわりとしていて良い雰囲気です。

記念館2階。

「永遠の0」撮影に使用された部屋にて。
雰囲気重視。

廊下を往来しておりますと、さっきから気になる部屋があるんですよね。
ん?
提督ONLY

扉をそーっと… 押して参ります!
あっ 確かに提督Only部屋っぽい。

さて改めてまして。
模型の展示室があります。ちょっと見てみます。


先任旗…港湾停泊時に司令官不在時に先任の艦長が乗艦している艦艇に掲揚。
代将棋…将官不在時に大佐等の艦長が司令官を務める際に掲揚。

大和格納庫(零式水上観測機)や赤城カットモデルなども展示してありました。

カットモデルはなかなか見る機会がないので新鮮。精密さにしばし見入ってしまいました。

武蔵
模型のこの部分がシブヤン海での映像ではコレと照会してくれているのは、わかりやすく。

こうやって様々な艦船が揃っていると戦艦空母と駆逐などのスケールの違いが視覚化されてよいですよね。
1/700

横山保さんの遺品など。
ゼロ戦が実験機(十二試艦上戦闘機)だったころから部隊を編成し機体の問題解決に尽力しゼロ戦の初陣を指揮。
筑波空飛行長も務め、戦後は空自にて司令などを歴任。

風防ガラスのペンダント

筑波空予備士官金井正夫少尉と女学生。 一度も会うことなく文通がとりかわされ、そして金井少尉は神風特別攻撃隊筑波隊として散華…

神風特別攻撃隊
神雷部隊(桜花)と筑波隊。

この筑波空が「まさにカミカゼの生まれた地」。
この歴史を風化させてはいけない。

筑波山神社で記念写真を撮る筑波空の隊員達の姿がひときわに美しく……

桜花。神雷部隊。桜花を搭載した一式陸攻。

先日、鑑賞させていただいた映画「サクラ花 桜花最期の特攻」が頭によぎる。
ボタンの掛け違い…こんな時代になるなんて…の想いがよぎる。
万感…

参考写真 映画ポスター
参考写真 映画のパンフレット

こちらは桜花の主翼の一部。

もともとこの建物は、司令部の役目を終えたあとは、病院として使用されたもの。病院の役目が終わり筑波空記念館として改めて活用されています。

展示部屋の中には病院の名残ぽい水道などもあり…

紹介しきれなかった展示も多数あります。私は9時過ぎから2時間ほどいましたが、まだまだ離れがたくもっと時間が欲しいと。
とはいってもスケジュールがあれなので、野外展示にスライドしましょう。


筑波海軍航空隊正門門柱

海軍道路の基地側には門柱が残っている。
筑波海軍航空隊正門

正門の脇にあるコンクリート壁も往時の名残り。

もともとこの記念館は県立友部病院。病院が平成23年4月「県立こころの医療センター」として隣接地にリニューアルし、元の建物は廃院。 ちょっとした廃墟感。 そんな中を抜けて建物の先にある供養塔へ。

筑波海軍航空隊
司令部庁舎庭園

供養塔まで赴く途中にあるこの荒れ庭。 司令部庁舎の裏庭として一応往時からのものらしいです。

筑波海軍航空隊 供養塔

昭和13年から筑波空司令を務めた古瀬貴季中佐の指示で訓練中に亡くなった隊員の為に建てられた供養塔。

この供養塔を建てられた古瀬貴季氏(最終官位は少将)は、フィリピンで捕らえられBC級戦犯として死刑判決を受けるも「ああ、モンテルンパの夜は更けて」のレコードを出した流行歌手・渡辺はま子が戦犯減刑を嘆願し、恩赦によって帰国する事が出来ております。


記念館では自転車(有料)も貸してくれるので、有効活用。
周辺散策へと。

慰霊碑
筑波海軍航空隊 ここにありき

碑文

 一九三四年六月開隊。練習機による操縦教育開始。四四年三月零戦による戦闘機搭乗員養成に任務変更。四十五年五月紫電戦闘機の実戦部隊となる。八月終戦。

君は信じられるだろうか。

ここを巣立った若人達が広域各地に勇戦敢闘しその殆どが南溟の空に散ったことを 。 
また四四年十月以降フィリピン・沖縄の作戦に数多の者が神風特別攻撃隊員として一命を捧げたことを。
 この地で編成し沖縄戦に出撃散華した筑波隊だけでも五十五柱を越える 。 
 ここに万感の愛惜をこめてその鎮魂を祈り且つは恒久の平和を念じてこの碑を建てる。

一九九九年六月                   
 筑波海軍航空隊関係者有志
 用地は橋本二朗氏提供

筑波海軍航空隊滑走路跡

滑走路跡。面影は直線的な道路を感じる程度。

もともとは平らに慣らしただけの土地だったものを筑波空が自力で昭和19年に滑走路整備したものという。

筑波海軍航空隊
筑波神社跡(筑波海軍航空神社跡)

戦後、GHQを恐れた地元住民によって壊されてしまい台座のみ残ると…
若鷲たちが祈願をしたこの場所で静かに頭を垂れ手を合わせる。

筑波海軍航空隊
地下戦闘指揮所跡
 ※現在は非公開

受付でご案内をいただき、懐中電灯とヘルメットが関与されます。
中に入って実感しましたが、ヘルメット大活躍。コツコツと頭ぶつけますからご注意を。
あと、花粉症の人。ヤバイです。杉林の中です。

地下戦闘指揮所跡。
懐中電灯が大活躍します。
通路がふたつ。部屋は真ん中に5つ。奥に1つ。奥行きは30m。

通路の奥では…プロジェクタ?戦争記憶を求める記念館の広報映像が流れていたり。
うん、印象深い演出だけとちょっとシュール。

地下戦闘指揮地下戦闘指揮所跡。
地下室。

青く見えるのはLED懐中電灯の影響。
素直に言ってかなり興奮する空間。

時間が止まったかのような空間。
無機質なコンクリートが歴史を伝承してくれている…

戦争記憶と記録を求めるポスト…

一番奥の部屋は通信室。
台座や金具跡が残る。

ちなみにこの地下施設は地上の司令部が無事に残ったので使われることはなかったとのことで。

天井に無数に開いている穴はケーブル孔や通気口など。
通気口は途中で折れ曲がって貫通しています。

地下戦闘指揮所跡。

こんな感じで地下室散策。
なかなか興味深い経験をさせていただきました。
これは貴重な歴史遺産。
このまま歴史伝承の装置として残しいかねばならぬもの。

もう一箇所、このエリアには地下施設があります。

筑波海軍航空隊
地下病院(地下応急治療所)

70年ぶりの発見!とのことで、こちらは近年の調査による成果。

地下病院は広さ16畳。奥には明かり取り用の窓もある。
地下戦闘指揮所とは違い、こちらは病院として実際に使用されてます。

明かり取り用の窓側を外から。

筑波空の地下施設。
圧巻でした。
これは一見の価値ありです。

貴重な遺産として、大変価値のあるものを体感させていただきました。
ありがとうございます。

さて、脇道へ。

地下施設の森の南に神社があるんですよ。
こりゃ、いかねばならないでしょ。

地下施設からは立ち入り禁止の道があるので大回りして神社に行ってみました。

二所神社

筑波空とは直接には関係ない…と思われるが界隈の鎮守様。
地下施設がある村の鎮守様。
昭和31年に耕地整理で池八幡神社の地に遷座。 この御社殿後方の杉林の中に先ほどの地下施設があるのだ。

海軍道路

筑波空正門から西に伸びる道路は通称「海軍道路」。
友部から筑波空までは海軍が建設し、そして地元の有志によって宍戸駅から筑波空までの道路が建設。
海軍と地元が交流する橋渡しの道路。

海軍道路の脇には道路建設に貢献した人々の名前が刻まれた石碑が残ってます。
石碑には昭和十年五月と記あり。

長閑な気持ちで、宍戸の集落を遠望。往時も今もそんなにかわらない光景かもしれない。

海軍道路から宍戸の街を抜けて行く。
宍戸駅に向かう途中に笠間市立歴史民俗資料館がある。

旧宍戸町役場庁舎(旧友部町役場庁舎)
笠間市立歴史民俗資料館

国登録有形文化財指定。 ちょっと立ち寄り。

笠間市立歴史民俗資料館。
入館は無料。
訪れた時は私一人でした。

空間を満喫。
手作り感満載の展示はなかなか味があって面白い。 たまにはこうやって郷土史や郷土民俗に触れるのも楽し。

筑波海軍航空隊にまつわる展示室もあります。
いまでこそ資料的密度は筑波海軍航空隊記念館が勝っておりますが古くからこうやって郷土の資料館にもコーナーがあることに敬意を表し。


筑波海軍航空隊記念館に戻りまして。

記念館1階では、お土産や書籍やグッズが販売されております。 後学のために購入。
「茨城県の戦争遺跡」
これから 足を運ぶ事が増えそうです……

記念館が、作成したパンフレット。 なかなか読み応えのある内容。 22ページと6ページの冊子。

戦争の記憶と記録を伝承し風化させない為の空間として。
先人たちの苦難を見つめ直す空間として。

期間限定公開が終わってしまうその後はどうなるのかが未知ではありますが…
なんとか良い方向へと進んでいくのを希求しつつ。

この空間は後世に必要なのです…

桜並木と司令部庁舎は往時と変わらぬ姿ででそこにあった。

この地より飛び立つ若鷲たちを見送ってきた桜並木。

万感の想いで脳裏で夢想する。
きっと、この桜花の咲く季節に訪れたら、泣いてしまうんだろうな…と

北浦海軍航空隊跡と鹿島海軍航空隊跡散策

平成28年9月(北浦)

スロープ跡

北浦

今回の舞台は北浦湖畔。目印は潮来マリーナ。 航空写真で見てもだいたい分かる感じに「水上機用スロープ」が残ってます。

アクセス方法
潮来駅-延方駅-鹿島大野駅を結ぶ広域連携路線バス。

バス停「大生原公民館前」下車。
ここより、北浦湖畔「潮来マリーナ」方面に向けて 北に歩いてみる。

北浦海軍航空隊

その活動期間は極めて短い。
昭和16年(1941)10月、鹿島海軍航空隊北浦分遣隊が設置。
昭和17年4月、北浦海軍航空隊として独立開隊。水上機訓練部隊となる。
昭和20年5月5日、訓練部隊解隊。
北浦航空基地となり訓練部隊の機能を失う。

位置関係

USA-R534-No2-101
1949年(昭24)01月20日、米軍撮影

皇太子明仁殿下御行啓記念碑

北浦海軍航空隊跡地
第二十九期飛予科練卒
元海軍航空隊員 大谷英助書

昭和19年(1944)05月に、 皇太子殿下が北浦海軍航空隊を御見学された際の御行啓記念碑。

皇太子明仁殿下御行啓記念碑
碑文裏面
 昭和十六年十月霞ヶ浦海軍航空隊北浦分遣隊が大生釜谷両地の水田約五十町歩を買収し七戸の農家を移転させて航空隊建設に着工し完成致しました。
 昭和十七年四月北浦海軍航空隊として開隊し水上飛行機訓練場として若鷲予科練の若人育成に大きな役割を果たしました。
 昭和十九年五月三日、四日、皇太子殿下には学習院初等科第五学年で学友五十五名と共に当海軍航空隊を御訪問飛行訓練など御見学なされ御宿泊になりました。
 当時私達大生原国民学校生徒全員が御観送迎の行事に参加出来ましたことは誠に意義深いものと考えここに皇太子殿下御行啓の地と記し北浦海軍航空隊跡地として後世に伝えるため記念碑を建立します。
 平成三年十二月二十三日
 碑文 委員長


霞ヶ浦周辺の海軍航空部隊の交通整理。

海軍航空隊の教育部隊(予科練)として。

霞ヶ浦海軍航空隊(教育部隊・予科練)

鹿島空(水上機部隊独立)→「北浦空」(鹿島空分遣から独立)
谷田部空(霞空補助)
土浦空(霞空から予科練を引受)


皇太子明仁殿下御行啓記念碑の地から北上して、潮来マリーナ界隈へ。北浦の湖畔へ。

「当該コンクリート部分は、国有財産です。」

はい、そのコンクリートを見に来ました・・・。

北浦海軍航空隊
水上機スロープ跡

このなだらかなコンクリート斜面が北浦海軍航空隊の水上機スロープ跡。
滑走台。

水上機を台車に載せ、コンクリートエプロンから機体の出し入れをしたという。

水上機スロープ跡。

この北浦の湖畔にフロートで浮かぶ水上機が幾多も離水し飛び立って行ったんだなあ、と往時を偲ぶ。

知らなければそれまでの場所。
コンクリートと湖面は静かに往時の歴史を物語っていた…

潮来マリーナの片隅に慰霊碑がある。

北浦航空隊物故者水難者慰霊塔

碑文

貴様と俺とは
 同期の桜
同じ航空隊の
 庭に咲く
咲いた花なら
 散るのは覚悟
みごと散りましょ
 くにのため

昭和六十三年三月

同期の桜を…

北浦航空隊物故者水難者慰霊塔

水上機練習部隊として、93式水上中間練習機「赤トンボ」にて離着陸・旋回訓練などが行われていたが、時には操縦を誤り墜落する事故もあったり…

昭和20年5月には、当地より水上機による特攻作戦も展開されたという…

黙祷を。

北浦航空隊物故者水難者慰霊塔の両隣は
「ブラックバス供養塔」

「へら鮒供養塔」

北浦海軍航空隊
格納庫の基礎跡

マリーナよりちょっと南下したところに。
北浦海軍航空隊の「格納庫の基礎」といわれているコンクリートの塊があった。

格納庫の基礎。
そこには当時のものと思われる「ナット」も付いたままでした。
ちょっとしたことだけど。
歴史を感じる遺物に感動してしまう。

往時を物語るものは少ないけれども確かに往時を感じられる気配がそこにあった。

北浦の夏空は往時を忘れるのどかさがあった


鹿島海軍航空隊跡散策

平成22年(2009年)、友人とたまたま霞ヶ浦湖畔に訪れていた、当時の私はまだ戦跡を見聞する知識も持ち合わせておらず、詳細な記録もないので、「付記」として掲載します。


平成22年5月。その時は友人車で(サラリと)訪れておりました。
黄色が「鹿島海宮航空隊」
青色が「北浦海軍航空隊」
どちらも水上機部隊。

鹿島海軍航空隊

昭和13年(1938)12月15日、鹿島海軍航空隊が開隊。
霞ヶ浦海軍航空隊の水上機部隊が分離独立した部隊。

昭和17年4月1日には「鹿島海軍航空隊北浦分遣隊」が独立して「北浦海軍航空隊」となっている。
水上機部隊としては鹿島と北浦は兄弟のような関係。

水上機操縦教育を主体に多くの飛行学生・飛行練習生を擁していたが、昭和20年5月5日に練習航空隊指定解除。
第十一航空艦隊直率となり終戦。

鹿島海軍航空隊カタパルト跡

この場所にカタパルト(水上機を射出するための機械)が展開されていた、と。

鹿島海軍航空隊スリップ跡

このときはジェットスキーの発着で活用されておりました

カッター船着場跡

往時の桟橋が伸びる。

残念なのは当時は調査が足りず「元鹿島海軍航空隊之碑」などを見に行けてない事。この鹿島空の地は再訪したいと思っております…

鹿島空は宿題多し・・・再訪必須・・・

百里原海軍航空隊跡散策

平成29年7月

平成29年7月30日。 茨城空港(百里基地)の近くに残されている「百里原海軍航空基地」の跡を偲びに脚を運んでみました。

なお、私が訪れた後に、百里原海軍航空隊ゆかりである「百里神社」を取り巻く環境がかわり、社叢の杜は開拓され深々とした緑に包まれる森ではなくなったことを先に明記しておきます。

また、「百里神社」を管理(管理される神社=所管社)する常陸小川の「素鵞神社」(管理する神社=本務社)にて、百里神社関連の御朱印帳や御朱印の頒布が始まりましたが、私は素鵞神社へは未参拝ですので、言及いたしません。

以下は「素鵞神社 」サイトを参照まで

https://www.sogajinja.com/%E5%BE%A1%E5%AE%88%E3%81%A8%E5%BE%A1%E6%9C%B1%E5%8D%B0/%E5%BE%A1%E6%9C%B1%E5%8D%B0/

百里基地内の記念碑は下記にて


石岡駅から

石岡駅から茨城空港行きのバスに乗り込む。
(もっとも私は「鹿島鉄道(かしてつ)」跡散策も兼ねていたので(小川駅や小川高校下駅跡)寄り道してます。

当時、海軍航空隊員たちの足となっていた鉄道(鹿島鉄道)も、もはや残っておらず。現在はその百里原航空基地の流れをくむ、茨城空港行きのバスが石岡駅から出ている。


雲の墓標 阿川弘之

阿川弘之による小説。海軍予備学生たちは特攻隊員として、空や海の果てに消えていく。作中に「百里原」も出てくることを思い出し、このときの散策後に読み出してしまい・・・

「百里原は、茨城県でももっとも辺鄙なところで、三里四方民家が無いと言われており、鉄道からも遠く、楽しい外出など思いも寄らぬことになるであろう。」

「上野発2時3分で常磐線石岡、軽便鉄道で小川を経て、百里原へは夕方7時ちかくに到着した。小川から2里、交通機関なし。」

雲の墓標 阿川弘之

鹿島鉄道跡地のバス専用道

茨城空港へ。
ちなみに乗り込んだバスは・・・木張りでした!
バスマニアではないのですが、これにはテンション上がりました。

車内で「かしてつバス」1日フリーきっぷを購入。
廃線前の鹿島鉄道に思い入れがある私としては、ひとつひとつにグッとくるものがありますが、早いもので10年ひとむかし。
廃線前は鉄道に乗りに来ておりましたが、廃線後はこの沿線に足を運ぶこと亡く、気がつけば10年たってしまいました。

しょうしょう話が逸れます・・・

鹿島鉄道

2007年春
茨城県石岡市から鉾田市まで霞ヶ浦北湖畔を走っていた鉄道が廃線を迎えた。
あれから10年。
2017年の夏(撮影時)に、私はようやく廃線跡と対面することとなった。 現役時代の往時を思い出しつつ・・・

鹿島鉄道坂戸駅跡

あぁ…鹿島鉄道坂戸駅。
廃駅から10年の月日が過ぎ往時の名残を自然が飲み込もうとしていた。
この駅が現役だった頃を知っている身としては、変わり果てた姿を目の前にすると何やらこみ上げてくるものがある。
10年ぶりの覚悟の訪問…

鹿島鉄道 小川高校下駅跡

鹿島鉄道 現役時代の写真

当時の写真はまだまだあるけど、キリがない上に趣旨から外れるのでこのぐらいで。2006年頃は毎月のように石岡の鹿島鉄道に通っていました。このときはまだ戦跡方面には興味がなかったのが今思えばもったいないことで。

さて、
「鹿島鉄道」の後を引き受けた「かしてつバス」に揺られながら、今はなき鹿島鉄道のことに思いを馳せながらも茨城空港に到着です。


茨城空港
百里飛行場

茨城県小美玉市の共用飛行場 防衛省・航空自衛隊が管理する飛行場であったが、2010年に民間共用化され茨城空港としての営業開始。

民間共用時に滑走路が一本増えている。
この茨城空港整備で戦争遺跡(多数の無蓋掩体壕)の消失も多数…しょうがない ですが。

旅客ターミナルから滑走路を2本挟んだ反対側が「航空自衛隊百里基地」となります。
スカイマークのボーイング737の向こう側。

つまり「茨城空港」と「百里基地」はあっちとこっち。だいぶ遠いです。 百里基地には戦闘機部隊が配備されてますがこの日は姿は見えず。

百里原海軍航空隊

百里原海軍航空隊(ひゃくりはら)は、昭和13年に筑波海軍航空隊の補助飛行場が建設されたことに始まる。

昭和14年(1939)12月1日に筑波海軍航空隊百里原分遣隊から独立して開隊。初歩飛行訓練に従事。

昭和17年には予科練の受け入れを開始。

昭和19年(1944年)10月1日、「桜花訓練隊」として「第七二一海軍航空隊」が百里飛行場に開隊。

昭和19年11月7日、七二一空は「神ノ池飛行場」に転出。

昭和20年「第六〇一海軍航空隊」が百里原飛行場に進出。

同年4月には「神風特別攻撃隊・正気隊」が編成され出撃が行われている。

終戦後、飛行場は引揚者の開拓地に転用され破却されるも、首都圏唯一の戦闘機基地として昭和41年に百里基地が開隊している。


茨城空港から北側に歩みを進める。
「フィールドワーク茨城県の戦争遺跡」(本)を片手に持ちつつ。

ただしこの本は空港ができる前に発刊されているので界隈の事情はだいぶ変わっている。
「試射場跡」とされるものも、もうよくわからない。(写真は場所が違う気がする…)

海軍道路

「海軍道路」と呼称されている道路。
この道路が「百里原海軍航空隊」基地の正門からまっすぐに伸びていた道路という。

百里原海軍航空隊正門跡・旧正門

大谷石の門柱と鉄筋コンクリート製扉。
門柱の向かって右側は従来の場所から移設、本来は前述の海軍道路に面して立っていたと推測。(実は門柱の向きがあべこべに置かれている)

正門跡に建立された石碑 昭和二十年八月十五日記念

真心國柱

建立は昭和五十二年二月。
裏面には建立された八組の夫妻と思われる名が刻まれていた。

刻まれていた「真心国柱」で思い出した歌が江田島健児だったり。

「江田島健児の歌」より
 ああ光栄の国柱
  護らで止まじ身を捨てて
   …
 斃れて後に止まんとは
  我が真心の呼びなれ
   …

よくよくみたら、敷地の壁柱の部分も往時のものかもしれません。
(壁そのものは年代的に新しそうですが)

百里神社

正門跡から東に歩んだ先の森のなかに。

百里原海軍航空隊の守護神として創建。
若き海鷲たちの崇敬をあつめていた神社。
今は忘れ去られたかのように深き森のなかに埋もれていた。

現在は森が開拓されております。
写真のような森はなくなりました。

「百里神社」

拝する。

ここ百里原の空から飛びたてり若き海鷲たちを偲びつつ。
今日の平穏と安寧に感謝する。

ありがとうございます。

「百里神社」

百里原海軍航空隊名残の航空神社

この何とも独特な鳥居が、
この何ともいえない空間の中で
圧倒的な存在感を放つ。

この鳥居の柱、 まるで航空機の脚(車輪カバー)のようでもあり。

「百里神社」
百里原海軍航空隊名残の航空神社

御社殿は、みたことのない様式の建屋。
入口は固く閉ざされている。

屋根の部分が…あぁ…

北に歩いてみる。

バス停に目をやると「百里原」 もっとも運転本数は一日1~2本なので実用的ではないですが。
(バスは茨城空港までピンポイントで利用しましょう)

かつて百里原と呼称されていた森が切り開かれ百里原海軍飛行場が開設、 戦後は原がなくなり大字「百里」へと。

とある森に到着しましたが諦めました。

手元の資料によるとこの場所に「E型無蓋掩体壕」が残っているとありましたが、まあちょっと夏場に無蓋を探すのは難しいですね。
雰囲気だけ堪能しつつ遠目から覗いてみる…

フィールドワーク茨城県の戦争遺跡

http://amzn.asia/5dKqQ7t 

https://www.amazon.co.jp/dp/4894880415/ref=cm_sw_r_cp_ep_dp_5XgGzbG2HGSFF

こちらの本によると百里原には最盛期に72基の掩体壕が建造されたというが出版時の2008年には現存8基と記載がある。
茨城空港の開港前の記録故、今はもっと現存は少ないだろう…

周辺を歩いていると「境界石(境界標石)」を見つけました。

残念ながら「海軍境界石」ではなく…
「防衛省境界石」
「防衛施設局境界石」

茨城空港に戻ってデッキから飛行機を見学。

ちょうど「スカイマーク」は搭乗手続き中。
その隣には「タイガーエア台湾」が。

地上整備スタッフが手を振って見送る中、 スカイマーク「ボーイング737」(11時発の那覇便)は滑走路へと。

見ていてほっこりする好きなシーンです。
主翼の端っこに描かれたサクランボがカワイイです!
スカイマーク機の特徴ですね。

百里原の空

海軍から空自、そして民間共用。

往時の歴史を周辺に僅かに残しつつ、 今も飛行場として生きている空間がここにあった。

今の空を飛ぶ飛行機をみながら、往時の光景を脳裏に描きつつ、往時に思いを馳せつつ、自然と目頭が熱くなる私がいた。

霞ヶ浦海軍航空隊跡散策

平成28年4月

  • 予科練平和記念館
  • 復元された零戦21型
  • 雄翔館(予科練記念館)
  • 阿見町内に点在する海軍の史跡
  • 戦前の霞ヶ浦神社、戦後の慰霊塔へと連なる歴史
  • 阿彌神社
  • 茨城大学農学部に点在する海軍の史跡

予科練の町「阿見町」

茨城県
土浦市の隣の阿見町

予科練の町。
若き海鷲たち、海軍飛行予科練習生が育ちし街。
そんな霞ヶ浦海軍航空隊に纏わる史跡を散策してみる。

位置関係

USA-M626-14
1947年(昭和22年)11月04日に米軍撮影の航空写真
現在の様子
マーキングポイントが今回の関連史跡。
今回の散策のロガー情報
ロガーは実際の徒歩コース
歩いて約4時間13キロの道程

土浦駅

ちょうど阿見方面に向かう関鉄バスがいたので乗車。
そうして「阿見坂下」バス停にて下車。

予科練平和記念館

さっそく、予科練平和記念館へ。

ちょうど桜が咲いているタイミングでした。
予科練の街に咲く桜。
なんかもうこれだけで感無量。
この瞬間に訪れて正解でした。

回天一型実物大模型

上部が白いのは訓練用。

93式酸素魚雷に人が乗って操縦できるように改造した特攻兵器…
予科練から回天に多くの若者が着任しており、40名が戦没なされている…

魚雷に乗り込むという狂気の兵器。その存在は重い。

「これ」を目の前にして静かに背中を正す。
あわせて歴史を具現化する復元にも敬意を表する…

予科練平和記念館


館内は撮影禁止。
詳細は公式サイトにて。

http://www.yokaren-heiwa.jp/

予科練・海軍航空隊に特化した展示物は一見の価値あるものです。
写真は記念館カタログ。

予科練の酒

予科練平和記念館にて購入。

藤田酒造(石岡)の「富士泉」上撰ワンカップ。
ラベルは七つボタンの第一種軍装(紺)、第二種軍装(白)の2種類
「若鷲の歌」も掲載。

呑んで歌おう的な。

「若鷲の歌」

若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

桜に錨の七つボタンのラベルが美しい。
往時を偲ぶよすがの一杯として…

土浦空と霞ヶ浦空

霞ヶ浦海軍航空隊
1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立。
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。
航空隊要員の操縦教育を担当。
略称は霞空。
所在は現在の茨城県稲敷郡阿見町。

沿革
大正11年(1922年)11月1日に「霞ヶ浦海軍航空隊」開隊。
昭和13年5月11日に「鹿島空」開隊し水上機基地機能移転。
昭和13年12月15日に「谷田部分遣隊」(のちの「谷田部空」)開隊。
昭和15年11月15日に「土浦空」開隊。

茨城南部の海軍航空隊をちょっと乱暴に分類。

霞ヶ浦海軍航空隊(教育部隊・予科練)

鹿島空(水上機部隊独立)
谷田部空(霞空補助)
土浦空(霞空から予科練を引受)

筑波海軍航空隊(戦闘機)

神ノ池空(桜花部隊)
谷田部空(戦闘機)

土浦海軍航空隊
予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転。
水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。

阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
因みに「土浦空」跡地は陸自霞ヶ浦駐屯地及び土浦駐屯地近郊。
その隣が今回巡る「霞空」跡地。
元を正せばほぼ同じ歴史の同じ土地の話。

零式艦上戦闘機二一型

予科練平和記念館開館五周年記念事業にて、復元された零式艦上戦闘機二一型。

予科練の地にて、桜とともに。
往時を偲び、歴史を学ぶきっかけとして。
風化させてはならない貴重な伝承物。

http://www.yokaren-heiwa.jp/news/?detail&id=37

「明灰白色」の初期塗装にて実物大復元。
2015年10月より公開。

予科練平和記念館にて、復元された零式艦上戦闘機二一型。

識別番号「A60-05」は架空のもの。
阿見町60周年に記念館5周年の意味を持たせてある。

因みに実在では「A1」だと一航戦赤城所属の意味。

http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=14450808369923

原寸大模型とはいえ肉抜きもキチンとしてありレベルが高い。

予科練憧れの的であった零戦。
土浦空の予科練にて学んでいた若き学生たちにとっては、卒業後に零戦で大空を飛ぶことを夢見ており、その強き思いを踏まえて記念館5周年記念事業の復元機として零戦が選定された。

雄翔館(予科練記念館)

こちらは陸自土浦駐屯地武器学校内に開設。
予科練平和記念館開館時に見学可能。

https://www.mod.go.jp/gsdf/ord_sch/03_visit/visit.html

http://www.yokaren-heiwa.jp/04guide/04yusyokan.html

記念館は予科練習生英霊の遺書、遺品等を保存し、その遺徳を後世に残すため、昭和43年11月24日に開設。

ちなみに建物は航空母艦を模している。
屋上は飛行甲板。階段は艦橋。

雄翔館(予科練記念館)

いまでこそ陸自土浦駐屯地内の施設ではあるが、元々この場所は霞ヶ浦海軍航空隊水上班(のちの鹿島空)や土浦海軍航空隊の地であり、予科練は海軍の教育部隊。陸軍さんはちょっと違うが少年飛行兵制度があり。

複雑な立地・・・

山本五十六像

山本五十六は大佐時代に砲術から航空に転化し、霞ヶ浦海軍航空隊副長兼航空学校教頭に就任。この霞ヶ浦の地より海軍航空発展に深く関与することとなった。

雄翔館(予科練記念館)
陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校内に。

元帥海軍大将山本五十六の像が見つめる先は満開の桜に戦車群。

武器学校内の保存戦車群は事前見学予約制。
近寄れないので遠目から眺めるに留める。

しかし、なかなか圧巻である。

https://www.mod.go.jp/gsdf/ord_sch/03_visit/mousikomi.html

雄翔館(予科練記念館)
館内はフラッシュ撮影は禁止。あわせて転載も禁止。web上も転載に当たる故、写真は遠慮します。

予科練出身の英霊たちに感謝と哀悼を。
遺言や遺品の数々に目頭が熱くなる…

予科練の碑

予科練出身者の同窓生が全予科練戦没者の遺徳を顕彰するため、昭和41年5月27日に建立。

予科練の碑
碑文
予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和5年6月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和14年3月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。
 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に19の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。
 昭和12年8月14日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね太平洋戦争においては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或いは航空母艦から或いは潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。
 創設以来終戦まで予科練の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一辺の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛ために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈ってここに予科練の碑を建つ。
 昭和41年5月27日
  海軍飛行予科練習生出身者一同
  撰文 海軍教授 倉町秋次

記念館から南に。街に。

阿見町の海軍の痕跡探しを。
12時過ぎに散策開始。

まずは予科練記念館から茨城県道34号龍ヶ崎阿見線を南下。

旧海軍道路桜並木

「海軍道路」 茨城県下で初めての舗装道路。
1921年(大正10)開通。
当時「東洋一」と称された霞ヶ浦海軍航空隊の陸上班と水上班(のち鹿島空に移設し土浦空が開設)をむすんだ道路。


旧海軍道路桜並木
この坂道は、昔「海軍道路」と呼ばれ、茨城県下ではじめて舗装された道路です。
1921年(大正10年)に開かれて、当時「東洋一」の航空基地といわれた霞ヶ浦海軍航空隊の陸上班と水上班を結ぶもので、見事な桜並木で知られていました。
 現在残っている三本は、予科練※揺籃の地である土浦海軍航空隊(現陸上自衛隊土浦武器学校)で訓練にはげむ多くの予科練生たちを見守り、1945年(昭和20年)6月10日の阿見空襲にも耐えた桜です。

旧海軍道路桜並木
現在残っている三本の桜は土浦空で励む予科練生達を見守り1945年6月10日の阿見空襲にも耐えた桜。
ちょうど桜咲く季節に訪問。

海軍境界石

旧海軍道路桜並木の反対側。

脚下には「海軍用地」境界標識。

この龍ヶ崎阿見線は基地連絡用の海軍道路として整備され、茨城県下で最初の石灰石で固めた舗装道路であったのだ。

海軍用地第二六

旧海軍道路(現・茨城県道34号)の沿道には二カ所の「海軍用地」境界標識が残っていた。

霞ヶ浦神社と慰霊塔
(霞ヶ浦海軍航空神社)

海軍時代のもともと鎮座地は、現在の茨城大学農学部の構内。 細かい場所は後述。

霞ヶ浦神社

霞ヶ浦海軍航空隊発足当初、戦死者は靖國神社に祀られるのに航空機殉職者が祀られていなかった。 当時の霞空副長兼教頭であった山本五十六大佐はこれを憂慮し霞空のみならず全国の職務による航空殉職者を慰霊する神社を霞ヶ浦海軍航空隊内に作ることを検討したことに始まる。

大正14年(1925)1月、霞ヶ浦神社建設調査委員会が設置され山本五十六大佐が委員長となる。 しかし同年12月に山本は霞空を離れ在米国大使館付武官へ転出。山本の霞ヶ浦海軍航空隊在任は1年3ヶ月であったが、この時の経験がのちに海軍航空本部長として活かされる事となる。

ちなみに教頭として学生からも慕われたおり、米国に渡る山本五十六乗船の船上空を霞空航空隊の部下達が編隊を組んで見送ったという。

山本五十六渡米後も神社建設計画はすすみ、 そうして翌大正15年4月30日に「霞ヶ浦神社」が建立。

大正15年(1926)4月30日に「霞ヶ浦神社」が建立。
当神社には霞空のみならず全国の海軍航空隊殉職者60余名の御霊が祀られた。御社殿は神宮と同じ神明造。(建坪1坪、神苑600余坪。)

そののち終戦までに殉職者5573柱を巻物16巻に収録し御祭神としている。

昭和20年9月11日。GHQ占領軍が霞ヶ浦海軍航空隊に進駐。

霞ヶ浦神社御社殿は地元有志によって、阿彌神社(阿見町中郷)に運ばれ現在も境内に残っている。
また現在の茨城大学農学部敷地内に当時の「霞ヶ浦神社」コンクリート製台座が残っている。

霞ヶ浦神社
茨城大学農学部敷地内。「霞ヶ浦神社」コンクリート製台座跡。 その近くにはオガタマノキがあるのは偶然だろうか?

茨城大学農学部敷地内。

霞ヶ浦神社跡地には崩れたままの石灯籠も散在していた。 先の震災で崩れたものと想像。昔の写真では組まれた灯籠を確認できているので。

GHQによる破壊を恐れ、霞ヶ浦神社御社殿は地元有志の手によって、同じ町内の阿彌神社(阿見町中郷)に運ばれている。
青い屋根は最近葺き直したようです。以前より綺麗になってました。

阿彌神社 に移築された「霞ヶ浦神社御社殿」

御社殿は阿彌神社に移築され、御社殿に収められていた5573柱16巻の「霊名録」(御祭神名簿)はしばらくは阿見町内の民家に分置されて保管。
その後は阿見町に開隊された陸上自衛隊武器補給処にも一時保管されるも、終戦の生活の厳しさもあり慰霊活動の余裕もなかった、と…。

海軍航空殉職者慰霊塔

昭和30年4月に「海軍航空殉職者慰霊塔建設期成会」が組織される。
発起人は豊田貞次郎・及川古志郎・寺岡勤平・土浦市長ほか。

同年12月「海軍航空殉職者慰霊塔」設立。この地にて5573柱の御霊が祀られる事となる。

慰霊塔前面題字「彰往察来」は及川古志郎氏(元海軍大臣)が易経より撰し、安東昌喬氏(元霞空司令、山本五十六が霞空副長当時の司令)が揮毫。

霞ヶ浦神社に収められていた「霊名録(御祭神名簿)」五千五百七十三柱の巻物は、改めて慰霊塔の基底に収納安置されて慰霊されている。

塔裏面の由来は寺岡勤平氏(海軍中将・航空総隊司令官)の謹書。

海軍航空殉職者慰霊塔碑文
由来記


当処は曾て海軍航空の中枢たりし霞浦海軍航空隊の在りし由緒深き地である 大正十五年隊内に霞浦神社を造営し全海軍の航空殉職者の霊を祀り爾来毎年春秋例祭を奉仕してその冥福を祈る
海軍航空が支那事変以来赫々たる武威を輝かしたるか実に之等祭神が平時死生を越えて猛訓練に精進した賜物である
大東亜戦争に敗れ軍は解消せるも社殿並に五千五百余柱に上る霊名録は幸に今日迄之を保存することを得た
今や社殿漸く衰朽し将来の神事亦容易ならず 茲に同士相謀り廣く浄財を求めて新に塔を建設し霊名録をその基底に収納安置し以て永遠に慰霊顕彰せんとするものである
昭和三十年十二月 海軍航空殉職者慰霊塔建設期成会

以来、この地にて毎年四月に海軍航空隊殉職者慰霊塔奉賛会により慰霊祭が行われていたが関係者の減少と老齢化によって平成22年に奉賛会は解散。現在は阿見町が管理をしている・・・

敷地内には旧鎮座地より「霞ヶ浦神社」社号標が移築されている。

昭和十二年四月三十日 片桐英吉謹書

「霞ヶ浦神社」の旧地には台座が残り、
「霞ヶ浦神社」 御社殿は阿彌神社に移築、
「霞ヶ浦神社」 社号標と霊名録は慰霊塔に。

慰霊塔脇には山本五十六歌碑がある。

大君の美たてとただにおもふみの
名をもいのちも惜しまざらなむ
 昭和十七年十月廿日 山本五十六書

これは霞ヶ浦神社境内にあったものが移設されたものかと推測。

霞ヶ浦神社の「霊名録」五千五百七十三柱の巻物は、慰霊塔の基底に収納安置されていますが、実はその控えとして寺岡勤平氏(元海軍中将)が写録したものが、現在「東郷神社・海の宮」に祀られております。

これは、慰霊塔建設時に寺岡氏が「霊名録」の保全を考慮し、それを複製をして保管。昭和47年6月に東郷神社境内に「海の宮」が建立された際に保存が確実な東郷神社に祀るのが最良と判断されたものと推測されている。

また、寺岡氏は旧海軍関係者が集う水交会会員であった事からも 水交会集会所隣の東郷神社に依頼することが出来たとも推測。

なぜ、寺岡勤平氏が多大な労力をさいて写録されたかは不明ではあるが・・・

寺岡勤平海軍中将は第3航空艦隊司令長官として特攻作戦を指揮。海軍兵学校40期同期の宇垣纏は特攻し大西瀧治郎が自決したのに対し「私も後から行く」と述べながら生き残った寺岡は海軍航空殉職者に対しての後ろめたさもあったかもしれず。謎ではあるが…

東郷神社境内の「海の宮」
ここに寺岡勤平氏(元海軍中将)が写録した霞ヶ浦神社霊名録(五千五百七十三柱)が祀られている。
写真は2015年5月27日(海軍記念日に)撮影

以上は霞ヶ浦神社関連の由来略歴等参考文献
「海軍航空隊ものがたり~予科練平和記念館四周年記念特集~」
平成26年2月2日発刊
阿見町歴史調査委員 阿見町予科練平和記念館 編纂


阿彌神社(阿弥神社)

祭神:豊城入彦命・経津主命

崇神天皇18年に豊城入彦命が東国に臨みこの地にて建御雷経津主二大武神の功を思いこの地に祀った事に始まるという。

当神社が「霞空」とは直接の関係はないが、境内に鎮座する御社殿が、元の「霞ヶ浦神社(霞ヶ浦海軍航空神社)」。戦後にGHQの接収を逃れるために御社殿が当地に移築された。

阿彌神社(阿弥神社) なかなか面白い注連縄。 かなり垂れてます。

鳥居の前後で参道の雰囲気も大きくかわります。 玉のような垣根から鋭いとの針葉樹へと変わる参道。

「式内社調査報告」によると。

持統天皇5年夏、霞ヶ浦沖に夜々光が出るので漁師が沖に出て網を下ろすと、大風が吹いて雨が降り、波の上に一人の異人が現れたという。

異人曰く「この海原に大毒魚がいて悪光をなす。この為に漁なし。吾は海の神少童の神である。彼の悪魚を退治しないと国家の愁となす」といって光と共に波底に沈まれた。 すると雲が晴れ風が静まった。そこで漁師は海神の神徳を尊み村内の浄地に社殿を造営して祀り海神社と称した、と。

ウミとアミが通じるところから海(ウミ)が網(アミ)となり、阿彌(アミ)神社。のちにアミの音から鎮座地は阿見と表記されるようになる。

第46代孝謙天皇勝宝2年(750)に神託によって、豊城入彦命を合祀。
延喜式神明帳の信太郡の阿彌神社の論社。
明治6年8月に郷社に列格。

赤い屋根が阿彌神社御社殿。
青い屋根が移築された旧霞ヶ浦神社御社殿。
霞ヶ浦海軍航空隊名残の建築物。

「予科練記念館」から「阿彌神社」までのログ

霞ヶ浦海軍航空隊有蓋掩体壕

阿見町指定文化財
霞ヶ浦海軍航空隊有蓋掩体壕

霞空周辺には21基の有蓋掩体壕があったとされるが、こちらが唯一の現存掩体壕。払い下げで居宅として使用されていたために残すことが出来た。他の壕は戦後の鉄不足の影響で、鉄筋取りにあい、全て壊されてしまったという。

個人宅ゆえ外観のみで。
一応、場所も明示を控えます。 (看板に記載有…)

霞ヶ浦海軍航空隊落下傘倉庫

協和発酵バイオ株式会社(旧・協和発酵工業)土浦工場にて使用されているこちらの建物。
もとは霞ヶ浦海軍航空隊落下傘倉庫であったとされています。

https://www.google.com/maps/place/36%C2%B002’02.8%22N+140%C2%B012’36.8%22E/@36.034121,140.2080243,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d36.034121!4d140.210213?hl=ja-JP

霞ヶ浦海軍航空隊の貯水池跡

この不自然な半円は霞空の貯水池跡とされる。
昔は円形で残っていたが道路新設時にこのような形に。
海軍航空隊殉職者慰霊塔エリアの斜め前。

海軍航空殉職者慰霊塔
霞ヶ浦神社社号標
山本五十六歌碑

詳細は前述

https://www.google.com/maps?q=36.034996,140.212733&hl=ja-JP&gl=jp&shorturl=1

阿見町戦没者合祀之地
忠魂碑

霞空とともにあった阿見町は空襲もあり、多くの町民も犠牲になっておりました…。

https://www.google.com/maps/place/36%C2%B002’00.3%22N+140%C2%B012’50.8%22E/@36.033408,140.2119313,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d36.033408!4d140.21412?hl=ja-JP

昔、この場所の先に貯水槽や貯水塔、レンガ造平屋などがあったというが最近取り壊されたようで…。
茨城大学の西側、東京医科大学の裏側。
何もないので場所はいいかな。 これは、なくなったという確認でした…。

霞ヶ浦海軍航空隊隊門(移築)

阿見町立阿見小学校西門。
この門は、かつての霞ヶ浦海軍航空隊隊門が移築されたものという。

https://www.google.com/maps?q=36.030857,140.217826&hl=ja-JP&gl=jp&shorturl=1

霞ヶ浦海軍航空隊誘導路跡

わかりにくいですが、この道路がかつての誘導路だという。
当時は幅18メートル。
誘導路の東側に飛行機組立工場(第一軍需工廠)があり西側が霞ヶ浦海軍航空隊。

霞ヶ浦海軍航空隊 戦闘指揮所跡

戦闘指揮所跡。
現在の井関農機茨城センター敷地内に残っており、道路側からも建物を垣間見る事が出来る。

https://www.google.com/maps?q=36.029673,140.203985&hl=ja-JP&gl=jp&shorturl=1

戦闘指揮所の奥の方にある格納庫は飛行場中央格納庫。
井関農機茨城センター敷地内で今も活用されている。
敷地外から遠望。なんとなく雰囲気を垣間見る。

さて、茨城大学構内に向かいましょう。

このあたりは見事な桜でした。 茨城大学を中心に桜並木のオンパレード。
茨城大学敷地内に。霞ヶ浦海軍航空隊跡関連の史跡集中地帯です。

茨城大学農学部

かつて霞ヶ浦海軍航空隊の本部。

霞ヶ浦海軍航空隊
宿舎の隊門門柱

さて、いよいよ茨城大学農学部界隈へ。
西側グランドに入り口が三カ所あり、それぞれに霞ヶ浦海軍航空隊宿舎の隊門門柱が残っている。

南の隊門門柱
( 士官宿舎の門柱 )

茨城大学農学部西側グランド入口。
霞ヶ浦海軍航空隊宿舎の隊門門柱。

中央の隊門門柱跡
(特務士官宿舎の門柱)

入口としてちょうど良いから使っているという感じで、格別に大事でもなく保存しようというでもなくで自然に任せて徐々に朽ちていっていくかのようで…

茨城大学農学部西側グランド。
霞ヶ浦海軍航空隊宿舎の隊門門柱。

北側入口の隊門門柱跡
(准士官宿舎の門柱)

北側、崩れてかけている門柱。

霞ヶ浦海軍航空隊本部正門跡

さて、茨城大学農学部へ。
こちらは霞ヶ浦海軍航空隊本部正門跡。

こちらの門柱は往時のものか後世のものかは不詳。(霞空時代ではない?)正門跡は、前述の一番北側の宿舎隊門の向かいに。

霞ヶ浦海軍航空隊
方位盤

茨城大学農学部構内、正門より入って左側の空間。

霞ヶ浦海軍航空隊の方位盤
霞空を中心に360度を刻み有名地点が記載された方位盤。
海軍航空隊の操縦教育を知ることの出来る貴重な戦跡。

霞ヶ浦海軍航空隊
第一士官宿舎階段親柱

茨城大学農学部構内。

霞光荘内に残っている第一士官宿舎階段親柱。

建物自体は平成7年に取り壊されたが、階段親柱一対は霞光荘に移築保存されている。 霞光荘の外から窓ガラス越しに見学。

霞ヶ浦海軍航空隊
地下防空壕跡

茨城大学農学部構内。
霞光荘の後方にこんもりとした空間がある。

地下防空壕跡
入口は塞がれており、今ではただの土盛りではあるが、この場所に防空壕があった、と。

霞ヶ浦海軍航空隊
霞ヶ浦神社 (霞ヶ浦海軍航空神社)礎台跡

茨城大学農学部構内。
霞ヶ浦神社・礎台跡。
前述。

霞ヶ浦海軍航空隊50メートルプール跡

茨城大学農学部構内・南部の未開発地区へ。

そこに残るは…
霞ヶ浦海軍航空隊50メートルプール跡

奇蹟のように無為に放置された空間が残る。
桜の花びらがプール跡に舞う姿が綺麗すぎた…。
若き海鷲たちが水練を積んだ場所。

転がる鉄さびた残骸は、かつての飛び込み台か?
(飛び込み台は数年前に撤去)

皇太子殿下御手植の松
(昭和天皇)

茨城大学農学部構内の南部。
プール跡のすぐ南側。

皇太子殿下御手植の松。
(昭和天皇)

碑文には「大正十一年六月廿八日」「霞ヶ浦臨時海軍航空術講習部」とあり、航空隊開隊直前のお手植え。航空隊の開隊は同年11月1日。

霞ヶ浦海軍航空隊
軍艦旗掲揚塔

茨城大学農学部構内北側。
ちょっと離れていたので構内で迷子になりつつ捜索。
本部庁舎前にあった軍艦旗掲揚塔。

以下は参考までに茨城大学のスポット。迷子になりやすいので。

霞ヶ浦の湖畔、阿見町。
予科練の町。

いろいろな思いが交錯し、感慨深くなる町。
また訪れなくてはいけない場所だと感じております。

本記事はいったん〆

陸軍立川飛行場跡散策

平成29年4-5月ほか

陸軍航空工廠の碑

立川陸軍飛行場

大正11年(1922)に帝都防衛構想の陸軍航空部隊の中核拠点として開設。
日中戦争さなかの昭和13年(1938)に立川に駐留していた飛行第五連隊隷下の戦闘中隊は「飛行第五戦隊」に改編され、翌年には柏飛行場に移駐。 そののちは実働部隊は置かれなかった。

大東亜戦争のさなかは、実戦部隊は展開されていなかったが、陸軍航空部隊の研究・開発・製造の一大拠点として機能。また軍用機製造の民間工場も頭っており、戦争末期にはたびたび空襲に見舞われた。

アメリカ空軍立川基地
戦後、アメリカ軍が立川飛行場を接収。アメリカ軍の飛行場運用は昭和44年まで続き、飛行活動停止後に徐々に基地返還が行われる。
昭和47年に立川駐屯地発足、昭和52年に全ての敷地が全面返還。再開発が行われ、今日に至る。

2013年より始まった立川基地跡地再開発事業により、それまで残存していた旧軍の遺構も解体撤去。残るものは少ない。


位置関係

立川飛行場東側
USA-R556-No1-16
1947年(昭和22)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
立川飛行場西側
USA-R556-No1-17
1947年(昭和22年)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
再開発の進む現在の様子

立川小唄記念碑
 旧立川飛行場正門前

(立川 市制五十周年記念 憩いの場 曙町二丁目交差点)

かつて飛行第五戦隊の正門があった地に隣接する公園。
前述の地図でいうと陸軍航空技術学校のあるあたり。
平成29年に新しい碑が建立された。

立川小唄 (昭和5年発表)
作詞 大関五郎
作曲 町田嘉章

東京ばかりか浅川青梅
 五日市から一走り
汽車だ電車だ川崎からも
 空の都よ立川よ

☆ わたしゃ飛行機風まかせ
   舵の取りよで宙返り
  オヤクルリトセー
   ションガイナー

飛行五連隊ありゃ格納庫
 ほんに技術部さしむかい
ここは日本の飛行機の名所
  空の都よ立川よ
☆繰り返し

渡れ日野橋お茶屋が見える
 浮いて静かな屋形船
眺め懐かし秩父や御嶽
 空の都よ立川よ
☆繰り返し

碑文
立川小唄記念碑建立由来
 大正11年(1923年)立川に陸軍航空隊が開設、当初軍用だけでなく民間空港としても使用され、国内便の他、諸外国からも多くの飛行機が飛来し、昭和6年(1931年)羽田空港が出来るまで、国際空港としての役割を担い立川は「空の都」と云われ飛行場と共に発展してきた。
 この立川小唄は昭和5年(1930年)に制作、踊りと共に発表されたもので、飛行場だけでなく当時の立川の情景を27節に分けて描写し、空の都立川を謳歌し広く地域で歌われたもので、この記念碑はその内の3節を選んで刻写したものです。
 戦後、飛行場は長年に亘り米軍基地として使用されてきたが昭和52年(1977年)返還され、国営昭和記念公園を始め数々の跡地利用が進み、立川市は多摩の中核都市として大きく発展し、今やかつての立川が「空の都」と云われてきたことが消え去ろうとしている。
 この度、末永く「空の都立川」を伝えるため、かつての立川飛行場正門前のこの地に記念碑を建立する所以である。

平成29年5月吉日 
 立川小唄記念碑建立委員会

乙式一型偵察機サルムソン 2

陸軍飛行第5聯隊正門跡

公園にある「歴史と文化の散歩道」看板に。
立川市の看板としては、界隈では唯一となる「陸軍」の文字がある案内。


立川飛行場の航空神社?

昭和4(1929)年4月、立川陸軍飛行場に接して航空神社が創建。もともとは地元の有力者が鬼門除けとして京都北野天満宮を勧請させたものを、陸軍飛行第五戦隊の要望により航空殉職者を合祀したことにはじまるという。

参考サイト:https://chinokigi.blog.sonet.ne.jp/2012-07-08-4

確証は取れていないけれども現在の昭和記念公園の南側、当時でいうところの滑走路の南端、駐車場の片隅にある小祠が「立川の航空神社」の名残という。
往時の地図的には一致するが詳細は不明。


立川航空支廠名残の踏切

JR青梅線の踏切の名称に往時の名残が残る。
「航空支庁前踏切」
この「航空支庁」とはかつての「航空支廠」、このあたりに「立川陸軍航空廠」が存在していた。
立川飛行場の西側にあたる。

「航空支庁前踏切」から更に西に向けて歩く。

「航空支庁西門踏切」
こちらは西立川駅の東隣の踏切になる。
この2箇所の踏切の名前に僅かに往時の名残がある。

西立川駅と東中神駅の間。
これは往時のものかどうか不明ですが、もしかしたら往時のものかもしれません。
敷地外から撮影。

JR青梅線「東中神駅」の東側には、基地変換後に未開発の空白地域が残っておりましたが、現在は再開発中。
数年前に訪れた人のレポートでは、なにやらが残っていたようですが、今は見ての通りに更地です。このあとはどうなるのでしょうかね…


踏切に残る守衛所跡?踏切防護壁?

JR青梅線「東中神駅」横
「村山街道踏切」に残っている 守衛所跡?踏切防護壁?

この踏切から
北に 「陸軍航空工廠」
北東に「陸軍航空技術研究所」
東に 「陸軍航空工廠立川支廠」

踏切脇のここだけがまわりとは違和感を感じる空間。

Y_Tachikawa さん より:2020年6月27日 10:08 午前 
突然失礼致します。
「踏切に残る守衛所跡」についでなのですが、こちらのブロックは守衛所跡では無いと思いコメントさせて頂いた次第です。
実を申し上げますと、こちらは私がWikipediaに誤って記載してしまった情報であります。
「守衛所」はどこから出てきたのかと申しますと、昔基地で働いていたという人物に「守衛所があった」とお聞きしたところからです(何年も前で詳細を失念してしまいました)。
そのような確実ではない不適切な情報源から誤って記載してしまったのです。
誤りとする根拠は基地時代の航空写真を見ても踏切には守衛所らしきものが見当たらないためです。今の昭島ガス付近にそれらしきものが確認できますが、これが言っていた守衛所なのか確認出来る情報がありません。
このような経緯から私が記載した誤った情報がTwitterなどで流れてしまったことに非常に大きな責任を感じ、この度反省と謝罪の意を込めてコメント致しました。大変申し訳ございません。

コメント欄より投稿いただきました
改めて東中神駅界隈を再確認。
写真は米軍撮影USA-R360-115(昭和22年10月24日)を加工。

Y_Tachikawa さんの投稿を踏まえまして、「踏切に残る守衛所跡?踏切防護壁?」と修正しました。

たしかに往時のコンクリっぽい雰囲気。
いまでこそ何をガードしているかわからない空間。

守衛の気持ちで中に立ってみたら、意外と空間があった。

地味ですが、再開発の狭間でわずかに残された往時の記憶。
なんとかこのまま残っていてほしいものですが。

さて、東中神駅と中神駅の中間あたりを目指します。

東中神駅と中神駅の中間「昭和郷踏切」
昭島は昭和町と拝島町合併による複合地名。昭島駅は元は昭和前駅(昭和飛行機の働きかけによる)
中神駅から立川基地引込線「立川工廠線」が昭和18年敷設。航空工廠への資材運搬用線路。戦後は米軍に活用され昭和53年廃止。


中神引込線通り

さきほどの「昭和郷踏切」から北上する。 この道がかつての航空工廠及び戦後米軍へ資材を運搬していた「貨物線廃線跡」 現在は道路として整備されている。

「中神引込線通り」
この道を北上していくと線路分岐点にちょっとしたモニュメントがある。

平成12年(2000)に昭島市が整備した際に当時使われていたレールの一部と転轍機(ポイント変換機)が保存されている。


立川陸軍航空工廠線
立川基地引込線

昭和18年に陸軍唯一の飛行機製造部門として展開された航空工廠への資材運搬用路線。
戦後は米軍接収の立川基地専用線として燃料輸送貨物線として使用された。
立川基地は昭和52年変換。引込線も昭和53年廃線。

立川陸軍航空工廠線跡(立川基地引込線跡)
分岐点

右の線路跡へと歩みを進めていきました。
線形以外は他に見どころは残っていないしどちらを歩いても行き着く先(立川陸軍航空工廠跡)は一緒です。

立川陸軍航空工廠線跡(立川基地引込線跡)
終着地点


かつての陸軍航空工廠跡地は数年前までは周辺から取り残された空間でしたが、再開発が進んでおりまして。
すっかり見事に綺麗になってます。


立川陸軍航空工廠跡

再開発中。
奥では「国際法務総合センター」の準備が進む。 2017年(平成29年)9月開始。 撮影時はまだ運用開始前でした。


陸軍航空工廠の碑

平成2年九月建立 
航友会長 陸軍少将 浅見平吾

陸軍航空工廠の跡地は、この碑から道を隔てた東側一帯。
陸軍航空工廠本館は、ここから東南四百米の所にあった。

陸軍航空工廠の碑

碑誌
陸軍航空工廠は、この地昭島に、昭和15年4月開設され、従業員1万80余名が航空機生産に従事し、昭和20年8月終戦により解体せり。
昭和48年8月初代工廠長陸軍中将猿谷吉太郎氏をはじめとして旧従業員有志により航友会を設立、親睦を旨とし、年一回当地に集い旧交をあたため今日に至る。
今ここに当時をしのぶよすがとして記念の碑を建立す。
平成2年9月吉日 航友会有志一同


昭島市立むさしの公園

「立川陸軍航空工廠跡」を北上。
「国際法務総合センター」北側に新しく開設(2016年11月)されたのが「昭島市立むさしの公園」。
道路を挟んで東西の公園。
西公園と東公園。 東公園に気になる文字列「廃線跡モニュメント」とあります。


廃線跡モニュメント

「立川陸軍航空工廠跡」に新設された「昭島市立むさしの公園」
その東公園に「廃線跡モニュメント」が設置。

立川陸軍航空工廠線跡(立川基地引込線跡)名残。
再整備時に残存していたレールやバラスト等を再利用してモニュメントとして一部を保存。

「立川陸軍航空工廠跡」に新設された「昭島市立むさしの公園」
「廃線跡モニュメント」
公園内の3ヶ所にモニュメントとして「立川陸軍航空工廠線跡(立川基地引込線跡)」廃線跡が復元されたという。

「立川陸軍航空工廠跡」に新設された「昭島市立むさしの公園」

廃線跡をモニュメントとして復元というのには複雑な気持ちだけど。それでも何もなくなってしまうよりか断然に価値があると思う。

黒い棒のようなものは「複式コントロールボックス」と銘あり。

「立川陸軍航空工廠跡」に新設された「昭島市立むさしの公園」

丘の先にも別の「廃線跡モニュメント」があります。
遊歩道を横断するレール。

「立川陸軍航空工廠跡」に新設された「昭島市立むさしの公園」

さきほどの2つは東公園の廃線跡モニュメント。
西公園はほんの僅かにモニュメントが設置。

えーと。 歩道を横切る黒い線。レールの跡ですね。
これは言われないと気が付かない…


立川飛行機(立飛)

かつては国内4位の航空機メーカーであった。
全身は1924年設立の石川島飛行機製作所(石川島飛行機)
1934年に95式一型練習機を製造。「赤とんぼ」として陸軍主力練習機として使用された。
1936年に立地名の立川飛行機と改称。戦中は中島飛行機の開発した「一式戦闘機・隼」の大規模移管生産などを請け負う。
戦後は「立飛工業」から「新立川航空機」へとスライド、本家は「立飛企業」から「立飛ホールディングス」となる。
現在「立飛」は全身の立川飛行機の略称からつけられたものであり、立川モノレール駅「立飛駅」にも採用されている。

立川飛行機に関しては、別記事にて掲載予定あり


立川防災航空祭(2019年)にて

立飛(TACHIHI)グループイメージキャラクター
たっぴくん
たっぴちゃん

立川で不動産業を営む立飛で生まれた「たっぴくん」「たっぴちゃん」。とっても仲良しな二人は、お気に入りの羽がついたリュックに「愛と夢と幸せ」をたくさんつめこんで今日も大空をお散歩中!


立飛駅(多摩モノレール)

日本の航空機産業の宝 R-53型軽飛行機

立飛駅周辺のこの場所は、むかし飛行機を作る工場がありました。
約3万8千4百人の工員が働いていて、通称「赤トンボ」九五式一型中間練習機(キ-9)、一式双発高等練習機(キ-54)など約1万機弱あまりが作られました。
また、戦後国産第1号機としてR-52型軽飛行機も作られました。

多摩モノレールは立川飛行場東側の工場エリアを縦断している。
乗っているだけでもいろいろ見えてきて楽しいものがある。
「立川飛行機」を脳裏に描きつつのモノレール車窓も感慨深く。

流れをくむ立川駐屯地にも機会あれば(一般公開日)行かないとダメですね。


立川駐屯地にも行ってきました。

銚子の戦跡散策

千葉県銚子市に点在する戦争関連の史跡を散策してみる。

翔天の碑
この地に飛行場ありき
下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地

銚子市の末広町広場に昭和57年建立の碑がある。

戦災復興記念碑

銚子はその立地条件も影響し、三度の空襲を受けている。
昭和20年3月9日、7月19日、8月3日。被災建物は5142戸、死傷者は1200人

戦災復興記念碑
 千葉県知事 沼田武

 銚子市は太平洋戦争も終わりに近い昭和20年3月9日、7月19日及び8月3日と三度にわたる空襲に見舞われ、市街地の中心約126ヘクタールが焦土と化した。
 その被害は、建物5,142戸、死傷者1,200人を数え、誠に悲惨な状況であった。同年8月15日、終戦となるや、政府は全国120余の戦災都市を対象に「戦災地復興計画基本方針」を定め、平和な文化都市の建設をめざした。
(略)
 ここに、銚子市の平和と発展をねがい、市民及び関係機関が協力して完成させた事業の成果を永く後世に伝えるため、この地に記念碑を建立するものである。
 昭和57年11月

戦災復興記念碑より更に歩みを進めると、小川があり小さな、そのくせに重厚な橋が見えてくる。


復興橋

昭和31年竣工。
銚子市公正市民館のとなり。 文字通りに復興の象徴。


旧・公正会館 (臨時病院)

銚子空襲時の臨時病院
現在は銚子市公正市民館

銚子空襲時にあたりの木造家屋が焼失するなかで、鉄筋コンクリートの当建物は焼け残り、臨時病院として機能した。
1924年(大正13年)建築。

1924年(大正13年)建築。
醤油醸造業者・廣屋儀兵衛商店(現在のヤマサ醤油)の当主濱口儀兵衛(10代目儀兵衛・醤油王・ヤマサ醤油の祖)の手による建築物。

外壁も当時の物か? 年代を感じさせる。
ちなみに正面には図書館と記載がありますが、現在は後方の別建物が図書館となっている。


飯沼山円福寺

坂東三十三観音霊場の第27番札所。飯沼観音とも。
銚子電鉄観音駅最寄り。

大仏様にある点々とした修復の跡。
これは銚子空襲時の機銃掃射の弾痕跡を修復したもの。

なお、仏像の台座の穴は、銃撃痕ではなく、機銃掃射痕は「膝のところにある数か所」のみとのことです。混同してましたので、次回の銚子訪問時に写真取り直したいと思います。。。。

この台座は関係なかった。。。


銚港神社

飯沼山円福寺(飯沼観音)の隣には鎮座している銚港神社。 御神木のケヤキも銚子空襲時に機銃掃射を浴びているものの、いまではその悲劇を感じさせることもなく深緑を魅せてくれている。


震洋秘匿基地

場所はなんとなく清水町と弥生町のあたり。具体的な明記は避けておきます。私有地にあたるので。
銚子電鉄の本銚子駅が最寄り。

昔の本銚子駅(リニューアル前)。
リニューアル後も、なんども足を運んでいますが、なんとなく以前の写真で。

銚子はその土地柄、海軍の秘匿基地が展開されていた。

震洋

モーターボートに炸薬を搭載した特攻艇。

銚子外川 第58震洋隊
銚子飯沼 第139震洋隊


銚子には、この二部隊が展開されていた。
銚子外川に展開されていた第58震洋隊を物語るものはなく飯沼の第139震洋隊に関しても多くはないが… 某水産加工会社敷地内に震洋格納庫が残っている、と。

確かに壕が見えますね。機会があれば見学を相談してみよう・・・

※靖國神社遊就館大ホールには復元された震洋が奉納されている。

震洋は船首内に250キロ炸薬を搭載し敵艦への体当たり攻撃を目的とした特攻艇
各型合せて6200隻が量産され4000隻が配備。震洋隊戦没者は2500余名という

原寸模型は震洋一型
1/10模型は震洋五型

銚子飯沼の震洋格納庫跡近くに。
なにやらレンガ積みの小屋?がありました。
用途不明。関連性も不明。
この周辺には標石もあるらしいが時間的余裕なくて今回は捜索断念。また着ましょう。


陸軍銚子飛行場

市立銚子高校の裏手。地名は千葉県銚子市春日台町。わかりやすい台地の上に、かつて飛行場があった。

位置関係

USA-R1069-63
1948年( 昭23 )03月02日撮影

翔天の碑

陸軍銚子飛行場の跡。
正式表現は「下志津陸軍飛行学校銚子分教場」。

1936年(昭和11年)銚子に下志津陸軍飛行学校分飛行場が建設され、下志津陸軍飛行学校銚子分教場が設置される。

翔天の碑
この地に飛行場ありき
下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地

碑文
かつてこの地に下志津陸軍飛行学校分教場があった。 
同分教場はこの春日台を中心とした約四十万平方米の小規模のものだったが太平洋戦争末期には八紘石賜隊が結成されこゝから出陣し還らぬ人となった。
この史実を風化させることなく現在の日本の平和と繁栄が数多くの尊い犠牲のもとに築かれものであることを思い起こし二度とこのような過ちを繰り返さぬよう心から平和への願いが天翔ける祈りとなってこの地から津々浦々に及ぶことを心より念じこの翔天の碑を建立した
平成五年十一月八日 翔天の碑建立委員会

現在は、丸池・平和公園として、整備されている。

以上は、平成28年(2016)5月撮影


銚子市忠霊塔

銚子市青少年文化会館や銚子体育館、銚子野球場などがある一画、前宿公園に、忠霊碑が建立されている。

左から忠魂碑、忠霊塔、嗚呼戦災死者之碑
忠霊碑のみ戦前(大正4年)に建立。その他は戦後の建立。

銚子市が紀元2600年記念事業として、当地に忠魂碑を建立予定であったが、整地のみで終戦。戦後に忠霊塔が建立された。

忠魂碑

 この忠魂碑は過去幾多の戦役に散華された英霊の遺徳を顕彰するため大正4年御前鬼山に建立されてあったが、昭和20年占領軍により解体撤去を余儀なくされた。爾来再建の日が待たれていたが終戦33回忌にあたりかつての戦友や関係者の協力を得てこの地に再建し永くその遺徳を後世に伝えんとするものである
 昭和52年10月
  銚子遺族会

元帥海軍大将伯爵 東郷平八郎書

大正4年帝國在郷軍人會 銚子町分會・本銚子町分會 建之

忠霊塔

昭和30年建立。明治10年の西南の役以降に犠牲になられた多くの戦没者と戦災死者を合祀。

戦没者英霊菩提

石灯籠は平成9年建立

嗚呼戦災死者之碑

第二次世界大戦の末期昭和20年3月9日及び7月20日8月1日の3回に亘り銚子市は敵機の空襲を受けました。其の際我等が同胞337名は悲惨にも萬感の思ひをこめて戦災死致しました。
嗚呼実に痛恨の限りであります。時あたかも本年は戦災死後33回忌に当り鎮魂の願ひをこめてここに慰霊碑を建立し以て諸霊の御冥福を心より祈り上げます。
 戦災死者慰霊碑建設委員会
  代表見呂津太兵衛書
    長塚由松
    他有志一同
 昭和52年8月15日
  題字 銚子市長嶋田隆書

以上は2020年12月撮影


銚子にはほかにも戦跡スポットはありますが、ひとまず〆


関連

陸軍特別大演習「迎光碑」

平成28年撮影
上信電鉄「山名駅」のすぐ隣に「迎光碑」というものがある。

陸軍特別大演習「迎光碑」

揮毫
侍従長海軍大将 鈴木貫太郎 書

これは昭和9年(1934)の陸軍特別大演習の地に山名駅周辺が選定されたことから 昭和天皇が乗降されたことに因む。
建立は当時の上信電鉄社長 山田昌吉。 高崎の経済に貢献した山田昌吉は東武鉄道の根津嘉一郎が「高崎における渋沢栄一」と称賛した人物。

昭和九年十一月 大元帥陛下親シク群馬栃木埼玉茨城四県ノ野ニ臨マセラン近衛第一第十四及第二ノ四箇師団ヲ基幹トセル陸軍特別大演習ヲ統監アラセラル十三日ハ演習ノ第三日ニ営ル是ノ日 御召列車ハ高崎ヨリ山名ニ至ルマテヲ上信電気鉄道ニ依テ運転シ山名停車場ハ畏クモ 御乗降ヲ賜フノ光栄ニ浴セ尋テ…(略

昭和9年(1934)11月に行われた帝国陸軍特別大演習を謁見するために、お召し列車で山名駅に赴き、山名駅からは乗馬にて佐野山の御野立所に向かったという。

高崎市山名町には昭和天皇御野立所跡もあるというが未訪問。

市ヶ谷記念館にて
市ヶ谷記念館にて

上信電鉄 山名駅

昭和天皇が御召列車で乗降された山名駅。

駅名の由来ともなった山名町は戦国大名「山名氏」の発祥の地。山名一門を祀った「山名八幡宮」が著名。

以下は本編と関係ないですが。


山名八幡宮

山名八幡宮の門前に上信電鉄が走ります。

山名八幡宮

応仁の乱西軍総大将山名宗全。
その山名氏の祖である山名義範が安元年間(1175-77)に宇佐神宮を勧請して当社「山名八幡宮」を造営。
山名義範は新田氏の祖新田義重の三男。

新田義重(源義重)は源義国の長男。新田氏の祖。八幡太郎義家の孫。異母弟は足利氏の始祖源義康。 新田氏本宗家(上野源氏)の初代であり上野国新田荘を本拠としたため新田義重と称する。
新田義重の長男は里見義俊(里見氏の祖)、次男が新田義兼(新田本家二代目)、三男が山名義範(山名氏の祖)、四男が得川義季(世良田徳川氏の祖)。

応永年間(1394-1427)には南朝の後醍醐天皇皇孫の尹良親王(君長親王)が山名城に滞在の折、城主世良田政義の娘が親王の子(良王君)を懐妊し当社にその安産を祈願したとも伝承。

山名八幡宮・本殿(高崎市指定重要文化財)

見事な本殿彫刻。6種類の動物(鳳凰・龍・獏(ばく)・唐獅子・蜃(しん)・象鼻)が彫刻されたお宮は関東ではここだけだとか。 建造年代は18世紀中期と。


上信電鉄・ぐんまちゃん列車

小石川後楽園周辺の戦跡散策

平成30年8月

小石川後楽園散策 (飯田橋駅~水道橋駅~後楽園駅周辺)

東京ドームと小石川後楽園。
戦前、この場所には陸軍兵器工場(東京砲兵工廠)があった。
今でも残るその名残を見に行ってみました。 (平成30年8月25日)

位置関係

往時の地図と航空写真を
「今昔マップ on the web」
http://ktgis.net/kjmapw/index.html
(東京西部及び首都1/25000 昭和4年二修及び昭和5年測図)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
(B29-C1-16/昭和11年6月11日陸軍撮影)

水道橋駅から東京ドーム方面に向けて歩く。東京ドームホテルと東京ドームプリズムホールの間の東西通路におもむろに「煉瓦の塊」が展示してある。

旧日本帝国陸軍東京砲兵工廠跡の基礎用レンガ

明治4年(1871年)に建設された旧日本帝国陸軍東京砲兵工廟跡の基礎用レンガ。
昭和12年(1937年)、旧後楽園球場建設の際は、基礎のあまりの強固さにグランド部分は取り除くのを見合わせていたが、平成12年(2000年)竣工の東京ドームホテル建設を進めるにあたり、地下5mの深さより出土、採取。
現在地は旧後楽園球場のセンター位置に当たる。

東京砲兵工廠は小石川水戸藩邸の地に1871年(明4)に操業し関東大震災の影響もあり1935年(昭10)に小倉工廠に移転。東京砲兵工廠傘下には板橋火薬製造所・岩鼻火薬製造所・十条兵器製造所など関東の陸軍兵器工場が所属。工廠跡地は後楽園球場などが展開。
地図は昭和22年及び昭和16年。球場がみえますね。

1936年(昭和11年)12月、後楽園スタヂアムが設立。
昭和12年、後楽園球場完成。大和軍(昭和12年から19年までの7年間活動したプロ野球球団、後楽園イーグルス)

東京砲兵工廠は東京大震災で被災し移転。その跡地は球場と遊園地へと。 そして、のちほど巡る小石川後楽園はそんな中でも変わらずに。

東京砲兵工廠から後楽園球場、そして現在の東京ドームの片隅にも戦争の歴史を刻む碑があります。散華されたプロ野球選手たちの鎮魂

鎮魂の碑

第二次世界大戦に出陣し、プロ野球の未来に永遠の夢を託しつつ、戦塵に散華した選手諸君の霊を慰めるためわれら有志あいはかりてこれを建つ
昭和56年4月

都立小石川後楽園(特別史跡・特別名勝)

寛永6年(1629)に設けられた水戸徳川家(徳川頼房)屋敷。庭園は二代目水戸光圀によって完成した回遊式筑山泉水庭園。
明治2年(1869)水戸家が新政府に土地を奉還し東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となる。大正12年、国の史跡および名勝に指定。

都立小石川後楽園
水戸徳川家の回遊式庭園の中に、解説する案内は特にないけども、ぽつりぽつりと異なるものが残っており。そんな東京砲兵工廠時代の遺物を入園料300円払って見に行ってみましょう。
因みに石垣は江戸城外堀石垣を再利用したものという。備中成羽藩山崎家刻印。

都立小石川後楽園
現在は閉鎖されている東門の近く。奥まった内庭池の辺りに記念碑が鎮座。

陸軍造兵廠東京工廠跡 記念碑

昭和十年三月建立 昭和10年に東京工廠の機能が小倉工廠へと移転した際に、記念として建立された碑。 碑文 此ノ地ハ陸軍造兵廠東京工廠ノ旧蹟ナリ 其ノ創立ノ起源ハ 云々…

「陸軍造兵廠東京工廠跡 記念碑」
昭和十年三月建立
(都立小石川後楽園)

記念碑は、陸軍造兵廠東京工廠(東京砲兵工廠)の敷地を型どっている。
昭和10年に建立された記念碑としては、意匠的にも斬新なデザイン。

園内の九八屋の隣に、格別な説明もなく、 陸軍造兵廠東京工廠で使用されいた小銃用弾丸製造機の部品とされるものが置かれている。

陸軍造兵廠東京工廠で使用されていた小銃用弾丸製造機の部品?
園内の「九八屋」の隣。建屋と比べると結構大きいのがわかる。

小石川後楽園的には主である九八屋(酒亭)の由来は「酒を飲むには昼は九分、夜は八分にすべし」との教訓によるものだとか。

小石川後楽園から移動して後楽園駅に。
駅の北側には「礫川公園」(れきせんこうえん)

礫川公園

このあたりは春日局馴染みの土地ですが、戦前は軍用地。
戦後に、都営住宅・中央大学・戦没者慰霊堂・公園用地などに分割され、昭和39年に礫川公園が造園。
順を追って礫川公園と東京都戦没者霊苑に参ります…

礫川公園の奥に東京都戦没者霊苑がある。

東京都戦没者霊苑

この霊苑は、さきの大戦において、尊い犠牲となられた東京都の戦没者をおなぐさめするとともに、平和を願う都民の強い決意を表わすため、建てられたものです。

「東京都戦没者霊苑」
 東京都戦没者霊苑は昭和六年の満州事変から日中戦争を経て、昭和二十年(一九四五年)八月の太平洋戦争終結までの東京都関係戦没者約十六万人の霊をまつる。
 敷地は、昭和十五年に忠霊塔建設予定地に選ばれた小石川陸軍工科学校跡地である。
 昭和三十五年、ここに東京都戦没者霊苑が建設されたが、それは歳月の中に老朽した。また、年々齢を加える遺族が、安全に慰霊祭に参加するための配慮も必要となった。
 そこで戦没者の慰霊と平和への願いを新たに、このたび全面改修を行い昭和六十三年(一九八八年)三月に完成した。
 設計は、建築家相田武文、碑文は、芸術院会員、文化勲章受章者山本健吉、碑名の揮毫は東京都知事鈴木俊一による。
 私たち都民はこの霊苑につどい、霊前にぬかずき、改めて戦争とは何であったかを深く考えたい。
 戦没者の御霊にお願い申し上げる。
 お声を風に託して、戦争の実態を私たちに語り聞かせていただきたい。 そして私たちが強い意志と英知をもって、平和を守るという至上の命題にとり組めるよう、お導きいただきたい。
 霊苑が戦没者の御霊と私たちの心の通い路になることを願って、ここに謹んでその由来を記す。
 角田房子
 ※ 角田房子氏は近現代史をテーマとした題材を多く発表されたノンフィクション作家

東京都戦没者霊苑
鎮魂

碑文
あの苦しい戦いのあと、四十有余年、私たちは身近かに一発の銃声を聞かず、過して来ました。あの日々のことはあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく谺して来ます。
だが、忘れることができましょうか。かつて東京都の同朋たちの十六萬にも及ぶ人々が、陸に海に空に散華されたことを。 あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今日の「生」もないことを。
そして後から生れて来る者たちの「いのち」のさきわいのために、私たちは何時までもあなた方の前に祈り続けることでしょう。 この奥津城どころは、私たちのこの祈りと誓いの場です。同時に、すべての都民の心の憩いの苑でもありましょう。
この慰霊、招魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、茲にこれが辞を作る。
山本健吉

靖国神社とも千鳥ヶ淵戦没者墓苑とも東京都慰霊堂とも違う慰霊の空間。
真摯に真心を込めて、鎮魂の祈りを捧げてきました。

東京都戦没者霊苑には遺品展示室なども併設されております。

http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/seikatsu/senso/reien.html

東京都戦没者霊苑はもともと陸軍砲兵工廠・諸工伝習所敷地の地でした。
正面、向かって左側の突き当りに記念碑があります。

陸軍砲兵工科学校・工科学校跡
諸工伝習所跡記念碑

碑文
ここは近代陸軍技術教育発祥の地である。
明治五年七月十五日 政府は佛国砲兵大尉ジョルジュ・ルボン氏を招聘し ここに諸工伝習所を創立してから第二次世界大戦終結まで その名は陸軍砲兵工科学校陸軍工科学校陸軍兵器学校とかかわったが 七十三年間たゆることなく陸軍技術の教育が続けられた。 本年は諸工伝習所創立百周年にあたるのでその教育を受けた有志がここに碑を建てて先達の歩みに思いをいたすものである。
昭和四十七年七月十五日
諸工伝習所跡記念碑建設委員会

礫川公園
脇に目をやると・・・煉瓦壁が。
問題はそこにどうやって赴くのか。 自力ではよくわからなかったので、検索してみたら、あぁっ、そこのあぜ道を歩くのね。 ちょっと行ってみましょう。

東京砲兵工廠射撃場跡 (礫川公園)

この東京砲兵工廠(陸軍造兵廠東京工廠)トンネル射撃場は明治16年~18年頃に完成と推定。主に軍用銃などの試射用の場所として使用されたらしく。 現在は人知れずひっそりと深き森の中に。訪れる人は好き者だけのようで。

以上、小石川後楽園周辺の戦跡散策でした〆

京都伏見の戦跡散策

平成30年8月

京都府伏見区深草の陸軍第16師団関連の戦跡(戦争史跡)散策

関西方面に行く用事がありまして。
隙間の時間で京都府伏見区深草エリアに残る陸軍第16師団名残の遺構を探しつつ散策してみましたので以下に展開してみます。

位置関係

国土地理院・地図・空中写真閲覧サービス

番号:USA-M205-A-8-30(1946年07月24日・米軍撮影)をベースに、GoogleMapで現在の位置関係を把握しつつ。
今回の散策は師団街道より東側を。 西側は時間的余裕がなくて断念しました。

まずは深草駅を目指します。
このエリアは一つ手前の駅(伏見稲荷駅)までしか利用したことなく、散策も伏見稲荷大社方面しかなく。
京都方面で戦跡を探すに当たり、単純に「京都 戦跡」のキーワードで検索すると「鳥羽伏見の戦い」だったりして、なかなかに京都は戦跡の歴史も奥深く…

京阪本線・深草駅
東に向かえば伏見稲荷大社・稲荷山南部。そして京都市深草墓園がある。深草墓園は、かつての「陸軍墓地」。しかし今回は時間がないので東ではなく西に。

交差点の先には「京都府警察学校」
かつては「陸軍兵器支廠(京都兵器支廠)」第16師団の武器庫。
もちろん入れないので遠望で。

次の交差点まで南下します。

南北の道が「師団街道」
東西の道が「第一軍道」
交差点名は「師団街道龍大前」

歴史を知らないと軍靴の音で発狂しそうな交差点。
ここから東にすすみ琵琶湖疏水を南下。

龍谷大もかつての「陸軍兵器支廠」跡地。

琵琶湖疏水

伏見深草のこのあたりには歴史的な趣ある石橋(大正12年9月造営)が多く残ってます。 これはゆっくり散策すると楽しそうです。 (この日は暑くて散策に不向きな陽気でしたが・・・

第二軍道・師団橋

東西に伸びる「第二軍道」
琵琶湖疏水にかかる橋が「師団橋」

橋はリニューアルされていても現在でも往時の名が継承されている。 そして橋桁には「陸軍のシンボル五芒星」が残っていた。

傍らに欠けた石碑が残っていた。
「○月竣工 第十六大隊架設」

この第二軍道の道脇には往時の支柱が点在しており、きょろきょろするとなかなか先に進めなくなってしまう。

陸軍第16師団司令部庁舎跡
(現・学校法人聖母女学院本館)

第二軍道を東に進むと「聖母女学院」に辿り着く。
藤森キャンパスは戦後に払い下げを受け、学院本館は司令部庁舎を継承している。

建物内部は非公開
「敷地外(門の外)からなら撮ってもいいよ」
守衛さんの許可を得て、建物を敷地外より撮影

陸軍第16師団司令部庁舎跡 (現・学校法人聖母女学院本館)
すぐわきに、ありました。

陸軍境界標石

陸軍第16師団

日露戦争に際して本土残留師団がいなくなってしまったために新設。明治38年(1905)7月18日に京都で編成。 昭和10年6月の鴨川水害では京都府の救援依頼を受け救助活動や復旧活動に従事。 太平洋戦争ではフィリピン攻略に参戦。昭和19年にはレイテ島守備に徹し、そして第16師団は壊滅。


そのまま南下して藤森駅近くに埋もれた「紀元・・・」なものをみたり、京都市立深草小学校の手前にも「紀元二千六百記念」をみたり。

深草小学校の東側には騎兵第20聯隊が展開されていました。 行ってみましょう。

騎兵第二十聯隊跡 

峰堂 謹書
為平和祈願
昭和50年4月27日

騎兵二十連合会建立 深草小学校の東側に位置する住宅街の片隅に。
敷地内には騎兵とともにある軍馬の「馬繋柱」も残されていました。

碑面裏

明治三十八年七月第十六師団ノ騎兵聯隊トシテ姫路ニ於テ編成 同年八月軍旗拜受
明治四十一年十一月此地ニ移設 昭和十六年捜索第十六聯隊ニ改編 同年三月軍旗奉還
昭和二十年比島ニ於テ歴史ヲ閉ヅ
尚 当聯隊ニ於テ編成サレタ部隊ハ左ノ通リ
昭和十三年 騎兵第百二十大隊(中支方面)
昭和十六年 捜索第五十三聯隊(ビルマ方面)

昭和五十年四月二十七日 騎兵二十連会建之

騎兵第二十聯隊跡地より商店街(本町通り商店街)に戻り、すこし歩くと、一瞬目を疑う看板が見えてくる。

軍人湯

あぁ、これは絶対に寄り道したくなるやつです。
当時は16師団の軍人たちの憩いの湯だったことでしょう。
(残念ながら、この日は時間がなくて汗を流しに立ち寄れませんでしたが)

https://www.sankei.com/west/news/140815/wst1408150013-n1.html

騎兵第20聯隊の南には陸軍病院(陸軍衛戍病院)があった。

陸軍病院(陸軍衛戍病院)

かつての「京都陸軍病院」 現在は、独立行政法人 国立病院機構 京都医療センター となっている地。 行ってみましょう。

京都医療センターの南側の奥に。
「京都陸軍病院跡碑」
「行啓記念碑」
「大日天白如来」
3つの歴史的な記念物が集められている一角がある。

しかし不穏な張り紙が。
「駐車場整備のために石碑を撤去?」
噂では撤去ではなく移設とも。ただ移設先に苦慮しているとも。 この先どうなるのでしょうか…

京都陸軍病院趾

京都陸軍病院記念碑

由来

 京都陸軍病院ハ明治四十年六月衛戍病院トシテ此ノ地ニ開設セラレ
 ソノ後継続シテ傷病将兵ノ収容治療並ニ衛生部員ノ教育養成ヲ担ッテイタカ昭和二十年十二月国立京都病院ニ継承サレタ
 京都陸軍病院ニ関連シタ者テ組織スル京病会ハ創立二十周年記念事業トシテ其ノ名ヲ後世ニ遺スヘク此所ニ記念碑ヲ建立スル

昭和五十九年八月
京病会記念碑設立委員会

京都陸軍病院趾
京都陸軍病院記念碑

記念碑の隣にある石灯籠は陸軍病院時代の遺構と思われる。
よくみると「昭和五 六年度」と記載があり。

行啓記念

京都師団長 森岡皐 謹書

陸軍病院時代を物語る遺構。
昭和16年5月18日、 皇后陛下が関西行啓時に京都陸軍病院をご慰問された事を記念。
京都陸軍病院院長・三浦大三郎医大佐建立。
揮毫は第16師団長森岡皐中将。のちフィリピン攻略作戦時の第14軍(軍司令官本間雅晴中将)麾下で活躍。

大日天白如来

京都陸軍病院時代、工事中に給食棟の地下から発掘された如来様。
鎌倉時代の大日天白如来地蔵仏であるという。


さて、 京都陸軍病院を物語る歴史的な石碑などの今後の成り行きを気にしつつ(撤去→移転であることを切に願います)、次の目的地に向けて移動を。

藤森神社の東側。
京都教育大学があるエリアに歩兵第38聯隊が展開されていた。
冒頭の航空写真ツイでも藤森神社の社叢と聯隊衛戍地がはっきりわかる。

藤森神社北東に鎮座

京都歩兵聯隊跡 

舞 傳男 書

舞 伝男 陸軍中将(陸士19・陸大31・第36師団長)
陸士19同期は今村均、本間雅晴、田中静壱など

京都歩兵聯隊跡記念碑

碑文
藤の森神社東側の台上は 五十年にわたり郷土歩兵聯隊が駐屯し 十万をこえる将兵が苦楽を共にし 生死を誓い 日夜修身練武に精進した深草兵営の跡である。
 歩兵第九聯隊は明治建軍に当たり 明治七年に創設せられて大津にあった。 これを母体として明治二十九年歩兵第三十八聯隊が編成され翌三十年七月この兵舎の竣工をまつてこの地に屯した。 大正十四年五月 軍制改革により歩兵第三十八聯隊は奈良に移駐 以来歩兵第九聯隊主力がここに駐屯することになった。

 歩兵第九 第三十八の両聯隊は 明治三十七・八年の日露戦争に出征 第四師団に属して南満州の金州・南山・遼陽・奉天の諸会戦に参加して赫赫たる武勲を建てた。 満州事変にさいしては京都第十六師団の隷下にあつて北満の警備に任じ ついで昭和十二年支那事変勃発するや北支 中支に転戦し 南京城を陥れ 徐州に戦い長駆大別山を突破して武漢攻略戦に不朽の戦績をのこした。 歩兵第九聯隊は 昭和十六年大東亜戦争劈頭比島に敵前上陸してバターン半島を席捲 マニラ攻略の後主力をもつてレイテ島を守備していたが 優勢なる米軍主力の反攻を受け死闘数十日 ついに聯隊長以下全員軍旗とともに玉砕し光輝ある聯隊の歴史を閉じた。  時 昭和十九年十二月八日
(略)

 顧みれば これら諸隊の将兵がこの兵営をあとを出陣するにさいし 戦勝と武運の長久とを祈願したのはこの藤の森神社(藤森神社)であった。 今や時は移り星は流れて幾春秋 かつての勇壮なる軍歌の響きも絶えて久しく 懐しき兵営の面影も過去の帳のうちに消え去らんとしている。
しかしながら 祖国を愛し、祖国を護り、進んで国難に殉じた郷土部隊の光栄ある歴史と名誉ある伝統とは永遠に後世に伝えられるべきである。

 時あたかも明治百年を迎えるに当たり、ここに京都歩兵聯隊関係者一同あい図り、由緒深きこの地を史跡とし先人戦友の遺勲を顕彰して長くその功を讃え陣歿した幾多の英霊を慰めるとともに、国連の隆盛と世界の平和とを祈念して思い出多き聖域にこの碑を建てるものである。

昭和43年4月18日
京都歩兵聯隊跡記念碑建設会

藤森神社

旧社格は府社。
本殿(中座)に主祭神である素盞嗚命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇を祀る。
東殿(東座)に天武天皇と崇道尽敬皇帝(舎人親王)
西殿(西座)に崇道天皇(早良親王)と伊予親王、井上内親王
創建由来は諸説あるが神功皇后三韓伝説に遡る古社。

御社殿(中殿)は国重要文化財指定
旧御所賢所
正徳2年(1712年)に中御門天皇より下賜された宮中内侍所であり、現存する賢所としては最も古いものという。

御旗塚
神功皇后摂政3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、藤森の地に軍旗を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったとされる、藤森神社発祥の地。

「いちいの木」(いちのきさん)は腰痛が治るとされ、近藤勇も通っていたという。
御神水も湧いておりました。

手水鉢台石
石川五右衛門伝説もありました・・・
(これだから京都の歴史密度はヤバイ)

実は初めて参拝でした。
歴史ある古社だけあって、その空間に魅了されつつ。

夕刻で社務所が閉まる17時直前でしたのでしょうしょうせわしなく参拝したのがもったいなく。

「藤森神社」

忠魂碑

明治39年(1906)6月建立。
陸軍中将 塚本勝嘉 書
日露戦争の忠魂碑

塚本勝嘉陸軍中将は日露戦争のさなか第4師団長に就任し奉天会戦で活躍。

白松(シロマツ・白皮松・白骨松)

昭和10年頃に京都陸軍第16師団長が就任記念として寄進したと伝承されている。
一部には石原莞爾とも言われているが石原の師団長就任は昭和14年。
昭和10年以降だと、
 渋谷伊之彦(昭和10年)
 児玉友雄(昭和10年)
 中島今朝吾(昭和12年)
 藤江恵輔(昭和13年)
 石原莞爾(昭和14年)

今回は御朱印帳は持参してませんでした。行程が不安定で神社に赴くかわからなかったので。結果ギリギリで藤森さんに寄ること事が出来て、社務所を伺ってみて。
はてさて。そういえば鶴丸国永で有名でしたね。
うーむ。
白色御朱印帳と通常御朱印、特別御朱印を頂戴してしまいました。

時間的に藤森神社さんでタイムアップ。

まだ時間があれば、ここより西側の京都教育大学付属高校に残る輜重兵第16大隊関連の正門や歩哨などにも足を運びたかったのですが残念。次回の課題に。

この日は深草駅スタートで藤森駅を経て墨染駅ゴールの散策。
所要2時間といったところでした。

参考:
京都市伏見区>深草に残る戦争遺跡

https://www.city.kyoto.lg.jp/fushimi/page/0000187027.html

東京陸軍少年飛行兵学校跡地散策

平成29年撮影

武蔵砂川駅と玉川上水駅の間。武蔵村山市大南地区。
当時このあたりに「東航」があった。


東航通り

砂川三番交差点から北上し西武拝島線を縦断する。
この道は「東航通り」として名前が残っている。

「東航」とは「東京陸軍少年飛行兵学校」の略称。
道の北端に往時の少年飛行兵学校があった。


東京陸軍少年飛行兵学校・東航正門跡

昭和12年10月に熊谷に開設され翌13年に武蔵村山の立川陸軍飛行第五連隊射爆場跡に移転。昭和18年に東京陸軍少年飛行兵学校として名称変更。のちに大津・大分に陸軍少年飛行兵学校は拡張し終戦により閉校。

武蔵村山市指定旧跡 
東京陸軍少年飛行兵学校跡地 
指定第二十一号 平成十九年七月十日指定 
この「東航正門跡」石碑の建っている場所には、かつて東京陸軍少年飛行兵学校の正門がありました。東京陸軍少年飛行兵学校は、陸軍航空併用制のため、昭和十二年(一九三七)十月、熊谷陸軍飛行学校内に東京陸軍航空学校として開校しました。翌昭和十三年(一九三八)九月、村山村中藤(現在の武蔵村山市大南三・四丁目)の立川陸軍飛行第五連隊射爆場跡に二十万坪(約六十四万㎡)の敷地を得て移転してきました。その後、昭和十八年(一九四三)三月の陸軍少年飛行兵学校令公布により、東京陸軍航空学校は東京陸軍少年飛行兵学校と名称を改めました。当時の様子を留める建物は現在残っていませんが、かつての少年の飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設が存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈るために、その記憶をととめる二つの石碑が建立されている地を、「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。
平成二十一年三月 
武蔵村山市教育委員会

碑面裏
昭和13年9月、東京陸軍航空学校(のちの東京陸軍少年飛行兵学校)が開校され、この地が正門跡地である。
陸軍航空の中核として活躍した陸軍少年飛行兵第6期から20期生まで二万八千名が誠忠の志高く青春の総てを捧げ祖国の安泰と繁栄を念じて日夜心身を練磨した地である。
平成11年4月吉日 武蔵村山市

位置関係

米軍撮影 撮影年月日1947/11/14(昭22)

「東航正門跡」から北上する。

住宅地の只中に、ひとつの石碑があった。

陸軍少年飛行兵
揺籃之地(ようらんの地)

ここには少年飛行兵学校本部校舎があったという。

余談ですが
 海軍は飛行予科練習生(予科練)
 陸軍は少年飛行兵(少飛)
と呼称。

陸軍少年飛行兵
揺籃之地

建立の趣旨
 ここを中心に二十万坪の地は東京陸軍少年飛行兵学校の跡である。
 陸軍少年飛行兵制度は昭和九年二月、第一期生の所沢陸軍飛行学校入校にはじまる。次いで陸軍航空の拡充養成により昭和十三年この地に東京陸軍航空学校が創立され、第一期生が入校した。
 終戦までに第二十期生、巣立った若鷲は四万六千。支那事変に続く大東亜戦争において大陸のまた南海の大空に活躍したが、祖国の安泰と繁栄を念じて悠久の大儀に殉じた戦没者は四千五百余柱を数える。
 昭和三十八年ここに陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑を建立し慰霊の誠を捧げてきたが、このたび、永代の供養を念願して禅昌寺に遷座することとなった。
 若鷲揺籃のこの地に記念碑を建立しこれを永く後世に伝えるものである。
 平成二年十月十日 陸軍少年飛行兵出身者一同 少飛会

 平成二年庚午之歳次桂月下浣念七日
 陸軍少年飛行兵第十五期生
 錯錯山人 鈴木格禅謹書

陸軍少年飛行兵揺籃之地(東京陸軍少年飛行兵学校跡)の碑文中に記載のあった「禅昌寺」には「少飛」戦没者慰霊碑がある。

武蔵村山市指定旧跡 
東京陸軍少年飛行兵学校跡地 
指定第二十一号 平成十九年七月十日指定 
この「揺籃之地」石碑の建っている場所には、かつて東京陸軍少年飛行兵学校本部校舎がありました。東京陸軍少年飛行兵学校に入学するには小学校高等科卒業以上の学力を有する満十四歳から十七歳までの者とされていました。授業の科目は、午前中が国語・数学や兵器学など、午後は軍事教練などの術科と体操でした。また、学校北側の練兵場では、グライダーによる滑空訓練も行われていました。これら一年間の課程が修了すると、適性検査の後、操縦、整備、通信の各分野に分かれた二年間の上級学校に進み、その後全国の飛行隊に配属となりました。当時の様子をとどめる建物は現在残っていませんが、かつての少年飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設が存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈るために、その記憶をとどめる二つの石碑が建立されている地を、「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。
 平成二十一年三月 
 武蔵村山市教育委員会


武蔵村山市立歴史民俗資料館分館

平成28年9月25日開館したばかりの新しい資料館。
この資料館も旧「東京陸軍少年飛行兵学校」の跡地にある。
人の気配がなくて入って良いものかどうかちょっと悩みましたが、入ってみました。

http://www.city.musashimurayama.lg.jp/kankou/spots/rekishiminzoku/1005538.html

武蔵村山市内にあった東京陸軍少年飛行兵学校や所沢陸軍航空整備学校立川教育隊、村山陸軍病院などの軍事施設や、市内の空襲の様子などを伝承。
戦争関連の市内資料を分館に集約させて平成28年に新たに開館したものという。

資料を戴きました。

スタッフの人と30分程お話を。
「先日、少飛の方が来てくれて懐かしがってくれました。」
(少飛=少年飛行兵)
これは、ここに記念館が出来たこその来訪者。嬉しいもの。

そのほかにもいくつかの話題を。
「資料展示の難しさ」→右寄りにも左寄りにもならない展示。
「歴史教育の欠落」→そもそも知らない人が多い。 悩ましい・・・

武蔵村山市立歴史民俗資料館分館をあとにする。 短い時間でしたがスタッフのお人、ありがとうございました。


後日

日を改めて、 「少飛」戦没者慰霊碑のある 「禅昌寺」に足を運んでみました。

玉川上水駅。 14時40分過ぎ。
立川バスでイオンモール行へ。そこからバス乗り換え、箱根ヶ崎駅行バスで岸バス停に15時30分到着。 少飛の塔へと。公共機関ではしょうしょう行きにくい場所。


岸清山 禅昌寺

臨済宗禅寺
室町時代の生長元年(1428)恵山和尚によって開山という。
狭山観音霊場第24番札所
こちらの寺院に「少飛の塔」(陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑)があると聞いて訪問させていただきました。


少飛の塔
陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑

東村山市・禅昌寺

平成2年10月10日
陸軍少年飛行兵出身者一同 少飛会 奉納

「少飛の塔」(陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑)
建立の趣旨

 陸軍少年飛行兵制度は、昭和九年二月、第一期生の所沢陸軍飛行学校本校にはじまる。
 陸軍航空の拡充要請により昭和十三年、村山に東京陸軍航空学校が創立され第六期生が入校、さらに大津、大分に陸軍少年飛行兵学校が、また急速養成のため、各地に教育隊が設立され、終戦時の第二十期まで四万六千の若鷲が巣立った。
 陸軍航空の操縦・通信・整備の中堅として、支那事変、ノモンハン事件を経て、大東亜戦争に参加、日本の危急存亡に際して北に南にと空の第一線に身命を賭して活躍した。そして四百五十余柱の特別攻撃隊員をはじめ、四千五百余柱の若鷲が祖国の安泰と繁栄を念じつつ大空に散華した。いまだ十代の紅顔の少年達であった。
 昭和三十八年、東京陸軍少年飛行兵学校の跡地に慰霊碑を建立し以後毎年現地において生存者相集い慰霊の誠を捧げて来たが、このたび永代にわたる供養を念願し、ゆかりの人々の加護のもとにこの地に供養塔を建立することとなった。  遷座にあたり英霊の偉勲を偲び久遠の平和を祈るものである。

平成2年10月10日
陸軍少年飛行兵出身者一同 
少飛会

皇后陛下御歌

やすらかに
 ねむれとぞ思ふ
  君のため
いのちささげし
 ますらをの
  とも

侍従入江相政謹書

なき友の御霊に捧ぐ

 霜枯れの武蔵野の一角静かに頭をめぐらせば晩秋の陽の中に今や崩れ果てようとする礎石を求めることができる。
 この地はノモンハン、日華の両事変、大平洋戦争を通じて、若鷲の名の下に 活躍した陸軍少年飛行兵揺藍の地である。
 昭和九年春二月日本陸軍に誕生した少年飛行兵の養成は、所沢陸軍飛行学校に続き、昭和十三年九月この地に設けられた東京陸軍航空学校を中心として本格的に行なわれた。
 思へば十有二年の短い歴史の中に第二十期生まで約二万八千の紅顔の 少年達が情熱のすべてを祖国に捧げ、炎熱の朝に酷寒の夕に孜々として猛訓練に励み黙々として古賢の道を学びつゝひたすら死に通ずる大空へと 巣立っていった。  そして大陸の空に南瞑の果てにまた北辺の孤島に雄戦激斗し赫々の武功を誇ったがその多くは祖国の繁栄と同胞の平和を念じつゝ莞爾として悠久の大義に殉じていったのである。
 戦火絶えてすでに十八年、今は還らぬ友の御霊を慰めその栄誉と武勲を永く後世に伝えるとともに真の平和を祈念して、こゝに出身生存者相はかりその浄財と数多くの賛同者の御支援により陸軍少年飛行兵戦没者慰霊の碑を建立する。
昭和三十八年十一月二十四日
陸軍少年飛行兵出身生存者一同

東京陸軍少年飛行兵学校略図

略図内に記載のある「東航正門跡碑」「揺籃の地碑」「歴史民俗資料館分館」は上記で記載済み。

「少飛の塔」(陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑)

しずかに手を合わせ頭をたれる。
合掌を

ありがとうございました


関連

旧日立航空機立川工場変電所

平成29年撮影

「東大和南公園」内
「旧日立航空機立川工場変電所」


本記事は、古い記事となります。

2021年の補修工事完了後の再訪記録は以下になります。2階部分も公開となっております。
以下が最新記事です。


位置関係

米軍撮影1947年(昭22年) 11月14日 を編集

旧日立航空機立川工場変電所

昭和13年(1938)から平成5年(1993)まで使用されていた変電所跡。 昭和20年2月17日にF6Fヘルキャット戦闘機、4月19日にP-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射を受けた痕が残る。

周囲を廻ってみると正面の一方向(南側)のみに猛烈に機銃掃射を受けたのがよくわかりますね。

旧日立航空機立川工場変電所

昭和13年建設。
航空機エンジン製造していた日立航空機立川工場(立川発動機製作所)変電所。戦後も変電所機能は失われていなかった為そのまま使用され平成5年まで活躍。公園整備されるあたり取壊しを回避し保存された。

毎月第2日曜日の午後1時~4時に公開があります

2022年現在、公開日は異なります。最新記事を参照ください。

ということで、公開日に出直ししました。

東大和市
「旧日立航空機変電所」
毎月第2日曜日 13時~16時に内部一般公開

https://www.city.higashiyamato.lg.jp/index.cfm/34,63727,359,html

旧日立航空機変電所 一般公開

耐震強度の問題から1階部分のみの公開。
それでも間近で拝見できるのはありがたいです。
階段部分。
正面の機銃掃射や爆撃の破片などにより階段や手すりにその痕跡が残っておりました。

階段の裏側には爆撃の痕跡が。
窓から飛び込んできた爆弾の破片によるものとされています。

2階は立入禁止。

2階の様子はパネル写真で。
機械にも機銃掃射の跡が残っている。

爆弾の破片で貫通した穴がありました。
解りやすいように鉄棒を差し込んであります。
破片が外部からコンクリート壁に当たった衝撃波で、内部もダメージが生じるとのことです。

外側から

米軍250キロ爆弾実物大模型

B‐29爆撃機から投下された爆弾は関東では250キロ爆弾が多く、関西では1トン爆弾が中心だったという。

保存に至る過程など。

コンクリートの中性化が進行。
常時公開するには耐震工事が必要。
文化財を保存することとの矛盾。

多くの近代建築が抱える悩ましい問題点・・・

東洋陶器(TOTO)の洗面台。
鷲のトレードマーク付 このマークは昭和7年~昭和36年まで使用されていたもの。洗面台が戦前製造か戦後製造はメーカーでも特定できなかったが、古いものであるのは間違いなく。

書籍を購入。 この手の本はその場で購入しないと購入経路も限られておりなかなか入手ができないものなので。

西の原爆ドーム、東の変電所
戦災変電所の奇跡
東大和・戦災変電所を保存する会編
2017年4月1日発行

ありがとうございます!

http://sensaihendensyo.iinaa.net/index.html

旧日立航空機株式会社 
立川発動機製作所
太平洋戦争戦災犠牲者 慰霊碑

工場への攻撃は3回あり110余名に及ぶ死者を出している。 この慰霊碑は平成7年に戦後50年の節目に小松ゼノア社(日立航空機の後身)構内に建立。平成12年に現在地に遷座。

3度の空襲による110名の尊き犠牲者に黙祷。

給水塔モニュメント

給水塔は平成13年に維持困難のために取り壊し。 そのモニュメントとして爆撃痕の残る壁面一部を切り取り部分保存。

防護壁

変電所の北側に作られた受電施設の東西にあり外部との分離をしていた防護壁。 受電設備とともに解体され、爆撃痕を残す一部が切り取り保存。

変電所では高圧電流取扱のため不用意な立ち入りを制限するために防護壁が設けられていた。 防護壁にも爆撃痕などが残っており、奇しくも別の意味での防護も。

北側変電施設の碍子

これは戦後(昭和36年製)というが、戦前も同じように「巨大な碍子」(絶縁体)が使用されていたという。

東大和・戦災変電所を保存する会

http://sensaihendensyo.iinaa.net/index.html

ありがとうございました


何かのプロペラエンジン。 変電設備の部品モニュメントなどが周辺に散りばめられている。

鯉のぼり。藤の花。そして伝承される戦争遺跡。 昭和の激動とともに歩んできたコンクリートの建造物は、往時と変わらぬ姿のまま、平穏な空間のなかに鎮まっていた。

山中坂の戦災供養地蔵尊(立川)

平成31年4月撮影

立川には陸軍飛行場を中心に陸軍航空工廠や軍需工場が集中していた土地であった。米軍からは重要拠点とみなされ、昭和20年2月16日以降13回に及ぶ空襲を受けた。

昭和20年4月4日

立川市富士見町5丁目にある坂は「山中坂」と呼称されていた。残掘川の崖、川崖線に面した坂。
この地には崖を利用して横穴式の壕が掘られていた。もともとは役所の重要書類を退避させるために掘られた所蔵庫であったが、使われなくなったので近所の住民が防空壕として活用をしていた。

昭和20年4月4日午前1時頃に空襲警報が発令。 第二波の空襲が特に激しく人々は山中坂の防空壕に避難していた。

このとき、B29が投下した250kg爆弾が防空壕の入り口付近に命中し、防空壕の中にいた全員が犠牲となった。犠牲者は42名。

山中坂が被弾した理由は諸説ある。
 「立川陸軍航空工廠と立川飛行機砂川工場を狙ったものが逸れた」
 「中央線の鉄橋を狙ったものが逸れた」
 「防空壕の入口付近を出入りしていた子供たちが照明弾で発見された」

防空壕のあった被災地跡には亡くなった人々の霊を慰めるために「戦災供養地蔵尊」が建立されている。

山中坂の戦災供養地蔵尊

山中坂悲歌 (エレジー)

山中坂悲歌 (エレジー)
 作詞 小沢長治 
 作曲 新田光信

夜明けが遠い 闇の中 
山中坂の防空壕に
息つめよりそう四十一人
子ども年より女の人 
爆弾つんだ飛行機がくる

闇をひきさき とどろく音 
防空壕に爆弾が落ちた
埋められた四十一人
子ども年より女の人 
二度とかえらぬみんなの命

ああ 悲しみが坂を流れる 
桜の花がなきがらに降った
あの日のように花びらが舞う
山中坂よ 小さなほこら 
お地蔵さまに祈る誓い

あの悲しみを くり返さない 
あの悲しみを くり返さない 

「山中坂悲歌」では41人となっているが犠牲者は42人。
1人は氏名がわからない方がいらっしゃった、とも。

碑文
 太平洋戦争の末期、立川は1945年(昭和20年)2月16日から8月2日までの間、少なくとも13回の爆撃を受け、330余名が犠牲となった。
 ここ山中坂にあった横穴式防空壕は、4月4日未明、B29が投下した爆弾が直撃し、中に避難していた子供たち32名をふくむ42名が死亡した。
 平和をねがい、思いをおなじくする私たちの挙出金、土地所有者の株式会社伊藤商店のご協力によってこの歌碑を建立し、戦争の悲劇を再び起こさないことを誓います。
 1995年4月2日

合掌


参考

総務省サイト
総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 立川市における戦災の状況(東京都)

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_21.html

関連

市ヶ谷周辺の陸軍史跡散策

平成28年~29年撮影

市谷亀ヶ岡八幡宮

八紘一宇

裏参道(左内坂)の方向に向かいましょう。

裏参道。
右手は駿台予備校。左手は市ヶ谷駐屯地。

市谷亀ヶ岡八幡宮の陸軍用地境界標石

今でも境界の仕事をしている標石がアジサイに隠されるようにありました。 本来、地中に埋まっているべき部位も見えるので移築保存かも。

市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮の裏参道を往復していたら、更にもう一つ見つけました。 アジサイの裏側に。 二つ目。 良い状態です。

おっ、違う。
これは現在の境界石。 基本的に目的は同じ標石ですが。

引き続き裏参道にて。 三つ目。
これは左右の塀に対して、埋没しながら凄い状態で境界してます。

「陸軍用地」標記ではなく 「陸軍省所轄」境界石標石

市ヶ谷の亀ヶ岡八幡宮裏参道入口。
左内坂。
何度も参拝している身近な神社でも興味のアンテナの張り方次第で、まだまだ知らなかった発見がある。

長泰寺

市谷亀岡八幡宮の裏となりに鎮座している「長泰寺」

境内にある碑を見学。門を入って右手にありました。

祭馬碑

陸軍士官学校馬術教官部

陸軍士官学校 馬術教官部軍属之碑

陸軍少将安満欽一書

長泰寺の境内に、すぐ隣の市ヶ谷陸軍士官学校馬術教官部ゆかりの碑が2つ残っておりました。

陸士(陸軍士官学校)で犠牲になった軍馬や軍属の方々を祀った碑。
陸軍少将安満欽一は1920年(大9)に陸軍士官学校本科長に就任。

外濠公園

KR市ヶ谷駅からお堀に沿って伸びている細長い公園。

ここには「東京市外濠公園」旧名碑が残っております。
公園は1927年(昭2)に東京市によって整備。
「東京市」の響きにワクワクするのは歴史クラスタ

名前のとおりに外濠に沿って公園が整備されています。
 外濠
 JR線路
 土手
 外濠公園
 法政大学
 九段上(靖國など)
こんな感じの並び。
中央線と総武線を撮るには良い場所。
無駄に流し撮りの練習も出来ます(失敗するけど

陸軍軍医学校跡地(東京逓信病院)

外濠公園の近くにかつてあった陸軍施設。
1888年(明21)現在の「東京逓信病院」の地に「陸軍軍医学校」が開校。
1929年(昭4)に軍医学校は戸山(厚生労働省戸山研究庁舎界隈)へ移転。

現在の東京逓信病院は陸軍軍医学校移転後の昭和13年に、逓信省職員と家族を対象の職域病院として開業。1986年(昭61)に一般に解放。
この病院の隣道は地図を見れば分かるとおりに「北の方の某総連」のせいで非常に警備厳重。そんな中を緊張しながら歩いてみました。

現在の東京逓信病院

郵便マークの境界石がありました。
さすが逓信病院。

緊張します。
お巡りさんの視界の中で、しゃがみこんで写真を。
2つ見つけましたが写真は1種類だけ。
長々としゃがみこんでマジマジ見れる環境ではなく。

陸軍軍医学校 陸軍境界標石

現在の東京逓信病院と法政大学富士見坂校舎のある通り。
総連の向かい側、法政大学の入口脇近く。

このご時世でお巡りさんがたくさんいる場所。
法政大学の警備員さんもいらっしゃる場所。
とっても警備が厳重。

陸軍軍医学校の陸軍用地境界標石の見学。 緊張しました…

防衛省の市谷台がこちらで

防衛省・市ヶ谷台ツアー

平成30年6月撮影

6月某日。
縁あって防衛省・市ヶ谷地区の見学を。
通称「市ヶ谷台ツアー」に参加してきましたので、そのときのレポを以下に。

※令和3年(2021年)、現在とはツアーの内容が異なります。

令和3年は、大本営地下壕が見学コースに加わりましたが、メモリアルゾーンは見学コースから無くなりました。以下のレポートも参照に。



市ヶ谷台ツアー

通常は1回のツアーで多いときは60人から100人ほど集まるという人気の見学会。私が参加した日は団体のキャンセルがあったとのことで、なんと10人ほどの少人数のツアーに。
「皆さんラッキーですよ。ゆっくり案内できます」と、案内の方からご挨拶があったぐらいの少人数だったようです。

見学時は撮影可能エリアと撮影不可エリアがあり。もちろん掲載していく写真は撮影可能なところのみ。

私が参加したのは午前の部。午前の部はメモリアルゾーンの見学があり一番興味深かった。
午後の部は月~木は広報展示室見学、金は防衛研究所見学ということで3パターンある。(他も気になる…)


庁舎A棟前

儀仗広場

来賓がいらっしゃると、この広場で儀仗隊が儀仗を行ってますね。
広場の「日の丸」は、雨の日は晴れの日の3/1の大きさになったり、祝日はもう一回り大きいものになったりするらしい。

庁舎A棟前の「儀仗広場」の下側。
木々の中に見える「石灯籠」、実は「地下壕の通気口」でもある。
石灯籠カモフラージュ。
地下壕は4メートルのコンクリート壁で守られ、地下14メートルに3本掘られており、地下には炊事場や食堂なども設けられていた。

地下壕の発掘調査などは、このあと訪れる「市ヶ谷記念館」内での展示コーナーで知ることができます。

展示機。
市ヶ谷ツアー内で唯一の自衛隊装備品を見学。

UH-1H ひよどり


市ヶ谷記念館

昭和12年(1937)陸軍士官学校本部として1号館が建設。
その後、士官学校は座間、予科士官学校は朝霞に移転し、昭和16年に大本営陸軍部・陸軍省・参謀本部が市ヶ谷台に置かれた。終戦後はGHQに接収され極東軍事裁判法廷として使用。1998年に一部を移築復元し現在に至る。

市ヶ谷記念館
当記念館は、旧1号館の解体に伴いその象徴的部分とされる玄関前車寄せ、旧大講堂、旧便殿の間、旧陸軍大臣室を復元した建物であります。


市ヶ谷記念館
大講堂

昭和9年に「陸軍士官学校・大講堂」として作られ、終戦後の昭和21年5月から昭和23年11月までの間は「極東国際軍事裁判(東京裁判)」の法廷としても使用された空間。

復元は裁判当時の姿ではなく、戦前の陸軍大講堂の姿、ゆえに玉座もある。

玉座の場所に通訳ブース、その正面が特別傍聴席など。
向かって左が裁判官席、右が被告席。
撮影位置(講堂入口)は傍聴人席(2階)及び記者席(1階)から。

玉座側から。東京裁判当時は通訳ブースが置かれていた。
玉座から見た視点は遠近法が使われている。
本来は2階席は 陛下の玉座より高い位置にあるものの、玉座の 陛下からは2階が高く見えないように工夫されている。入り口の大扉も小さく見せる工夫あり。

大講堂入構時に映像「市ヶ谷台の歩み」を視聴。
著作権の兼ね合いで撮影は禁止。まずはこの映像で市ヶ谷台の歴史を学びます。

大講堂内は映像と展示物(著作権に関わるもの・撮禁表示有)の一部撮影禁止。 また撮影可能であってもフラッシュの使用は禁止。

パンフレット「市ヶ谷記念館 市ヶ谷台の歩み」 写真を撮ったものもあれば撮り忘れたものもある(!)ので、先にパンフレットを参考資料として置いておきます。


玉座

玉座の床は箱根の寄木細工。強度を保つためという。
そして玉座へ至る 陛下専用の階段。
写真では伝えにくいが、 陛下が階段を上がり易いように最初の段には中央に盛り上がりが、上部4段は中央に窪みが施されているという。


大講堂1階に歴史的な展示物が並んでいるので個人的な興味で幾点か紹介して見たいと思います。

阿南惟幾陸軍大将 御着用の軍服
(冬服)

阿南陸軍大臣の冬服は市ヶ谷台にあり、そして夏服は靖國遊就館に。

市ヶ谷台には後述しますが「メモリアルゾーン」があり、一角に「阿南惟幾荼毘の碑」もある。見学は不可でしたがパンフを戴きました。(不可だった理由も後述)

終戦の8月15日に陸軍大臣として三宅坂官舎で自刃された阿南大将の遺体は15日夜に荼毘に。
再整備時にその地にあった碑を移設。墓は多磨霊園に。

多磨霊園 阿南惟幾之墓

加藤隼戦闘隊 加藤少将の銅像の原型  

ガラスの反射が制御できませんでしたが…

加藤建夫陸軍中佐(戦死後に陸軍少将)


エンジンの音 轟々と
隼は征く 雲の果て
翼に輝く 日の丸と
胸に描きし 赤鷲の
印はわれらが 戦闘機


山下奉文大将から知人に宛てた礼状

昭和11年


極東国際軍事裁判用壁掛地図

極東国際軍事裁判(東京裁判)では多くの地図が法廷の壁に掛けられ使用されたが、この地図もマッカーサー率いるGHQが日本地図株式会社(当時)に発注し、同社が昭和21年5月3日に納入した地図と同じものである。
満洲、支那、佛印…


帝國軍艦比叡進水紀念品

軍艦比叡模型(文鎮)


航空母艦 飛龍模型 壹

昭和12年航空母艦進水記念として横須賀鎮守府長官より旧竹田宮王殿下に贈呈されたもの

横須賀鎮守府長官 百武源吾(海軍) から 竹田宮恒徳王(陸軍) への贈呈か。


今村中将着用品

功二級金鵄勲章
勲一等瑞宝章正章と副章
勲一等旭日大綬章正章と副章
今村中将着用品

今村均 陸軍大将 開戦時は第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。終戦時は第8方面軍司令官としてラバウルを守りきっている。


梅津美治郎大将愛用の軍刀  

終戦時の陸軍参謀総長、降伏文書調印式全権。東京裁判で終身刑、獄中死。


荒木貞夫大将愛用の軍刀  

皇道派の重鎮。二・二六事件で予備役に。東京裁判で終身刑。のち釈放。


栗林中将からの画手紙
(長男 太郎氏に宛てた手紙)

栗林忠道 陸軍大将
硫黄島の戦いにおける日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長・小笠原方面陸海軍最高指揮官)として防衛戦を指揮し玉砕。


栗林忠道 陸軍大将 からの 御書簡
(硫黄島から愛嬢 たか子さんへ)

栗林閣下は、次女のたか子さんを たこちゃん と呼び、「戦地のお父さんより」と手紙を送っている。


西郷従龍ゆかりの品

従龍って誰?と思って調べてみました。
西郷隆盛の弟 西郷従道 元帥海軍大将 初代海軍大臣 の孫にあたる人物でした。
西郷従龍 陸軍少佐

一階部分の展示は盛りだくさんでもっと時間が欲しいところでしたが時間切れ。
二階へ誘導されます。


旧陸軍大臣室

士官学校時代、士官学校長室として使用された。 昭和16年以降は陸軍大臣室であったが、その後は陸上自衛隊東部方面総監の執務室として使われた。

部屋の中央には解体前の「旧1号館」の縮尺1/50模型がドンッっと置かれております。陸自時代のものになりますね。

ちなみに模型でも掲げられている「旧1号館」時代(平成9年解体まで)のシンボルマーク「桜」と「大時計」は1階玄関に展示してありました。

部屋の片隅には
「大本営陸軍部標札」
「陸軍士官学校標札」

「陸軍省で使用した印」
「陸軍大臣及び陸軍省副官の公印」
「東条英機大将使用の実印」 なども展示。

これらの歴史的遺産に「おおおっ!!」です。

こちらはガイドの方が口頭で。そんなに深くは触れてくれるな…な感じでサラリと。

昭和45年11月25日の三島事件、この部屋(東部方面総監執務室)で総監を人質にした際に「三島由紀夫のつけた3つの刀傷」が扉に残っている。参加者的には撮影スポット。


旧便殿の間

士官学校時代、陛下の休憩所(御便殿の間)であった。
その後は陸上自衛隊幹部学校長室として使われた。

展示物がいくつか。
おもむろに展示してある「明治天皇御立場跡の碑」はもともとどこにあったものなんだろう・・・

扉や窓の上部にメッシュの小窓。実はこの部分は空洞になっており、地下から冷気をとりこみ、部屋を冷却していたというエアコンがなかった時代の工夫が、 陛下の休憩所に施されている。

陸軍特別大演習 昭和9年11月 群馬県

ガラス乾板。最前列から最後尾まで高画質に鮮明に写すためにガラスに焼き付けた写真。高い位置から集合写真を「長方形に写す」為に実際には台形で整列しての撮影という。(写り込みの反射が厳しい

陛下を中心に、演習に参加した士官がすべて写った集合写真。 前列には大将以下の将官、最後列は少尉となるようです。

よくみれば、山本五十六や、東条英機も写っておりますね。

けっこう見学時間がたりないですね。思ったよりも慌ただしい見学でした。
これはもう一度の見学をしたくなる…

このあとは隊舎の前を通り厚生棟で買物と休憩。なお撮影は禁止。
厚生棟にはスタバやセブンやミリタリーショップなどあり。
が、休憩が15分しかなく…


市ヶ谷台ツアー メモリアルゾーン

自衛隊殉職者慰霊碑

昭和25年に警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、自衛隊に至るまでの職務に殉じられた1934柱の御霊(霊璽簿・名簿)が祀られている。昭和37年建立。
毎年10月に追悼式が行われて平成29年には25柱が新たに祀られたという。

自衛隊殉職者慰霊碑
昭和55年10月再整備。碑銘は鈴木善幸首相揮毫。中央は黒御影石、左右は無垢白御影石で霊峰富士山を形どっており、中央の球体は平和の象徴たる鳩とともに、仲間が欠けることがない丸を表している。副碑として池田首相の旧慰霊碑を備える。

ツアー参列者一同、一列に横に整列し、黙祷を捧げる。
1900余名の殉職なされた隊員の皆様に。
その功績を永久に顕彰し、敬意と哀悼の意を。


左手にいくつかの石碑があった。

市ヶ谷駐屯地・基地記念碑

防衛庁市ヶ谷移転に際して、昭和45年当時の市ヶ谷駐屯地・基地及び芝浦分屯地に在駐していた部隊が刻まれている。

東京オリンピック支援集団司令部跡の碑

昭和39年の東京オリンピックを支援するため自衛隊支援集団が編成され、その司令部跡地に置かれた碑を移設。

戦史室跡の碑

大東亜戦争に関する戦史叢書102巻が編纂された戦史室の跡地に置かれた碑を移設。


メモリアルゾーン

市ヶ谷台の各所に点在していた碑を移設し集めたエリア。ただこの市ヶ谷台ツアーでは時間の都合で「自衛隊殉職者慰霊碑」を遠目に拝するのみで案内は終了。ガイドの人に「メモリアルゾーンの石碑を見学することは出来ないの?」と聞いてみたところ・・・
過去に年に一度ぐらい、悪天候などでツアー参加者が少なくて(それこそ2人とか)、時間が余りまくったときには見学の機会があったらしい。そうでもない場合は時間の都合でメモリアルゾーンの細かな見学は設けていない、と。 今回は10人ほどの少人数でしたが、それでも駄目でした。残念。

実際の見学は出来ませんでしたが
以下、パンフレットをベースに見学した気分だけ味わっていこうと思います。

陸軍大将阿南惟幾荼毘之碑

終戦時の陸軍大臣として敗戦の責を感じ8月15日に自刃。

杉山元帥、吉本大将自決之跡の碑

第一総軍司令官杉山元元帥と軍令部付であった吉本貞一大将がそれぞれ9月12日と14日に市ヶ谷台で自決。

雄健神社跡

雄健(おたけび)神社は、大正5年(1916)に創建され、陸軍士官学校19代校長、与倉喜平中将が「雄健」と選名。昭和16年、御神体が奉還され、今回移設した。

全陸軍航空奉賛同人会碑

全陸軍航空部隊、陸軍法空本部、陸軍航空総監部における戦没者、殉職者の英霊を祭祀した主碑と、その後方に「鎖」、「魂」及び「追碑」の副碑がある。昭和52年この地に建立。

大元帥陛下御立所
九九式十糎山砲

砲一碑

野砲兵第1聯隊及び野砲兵第101聯隊の記念碑。昭和44年この地に建立。

陸軍士官学校跡の碑

明治7年、明治天皇の御聖旨により学校設立。第31代陸軍士官学校長、山田乙三大将の揮毫(大正5年)による碑を移設した。

東京陸軍幼年学校跡の碑

明治30年、明治天皇の御聖旨により学校設立。戸山ヶ原にあった碑を学校発祥の地市ヶ谷に移設した

陸軍少佐晴氣誠慰霊碑

晴氣少佐は大本営陸軍部作戦班に勤務中、敗戦となりその責任を感じて、昭和20年8月17日の早朝にこの地で自決

約2時間の市ヶ谷台ツアー。
見どころ満載で、見損ねたところも多数な感じで、非常に充実していたツアーでした。
これはまた参加したい(平日のみの開催だから、なかなか参加するのが難しいのが現実だけど)

あとは、難しいけどメモリアルゾーンをゆっくり見学したいものです… 〆

見学しました

市ヶ谷台ツアーリーフレット(旧版)


関連

市ヶ谷水管橋

宇垣纏を偲ぶ

宇垣纏
 海軍中将・第五航空艦隊長官

宇垣家之墓

宇垣家之墓

従三位
勲一等旭日大綬章
昭和四十四年十二月二十四日

海軍中将
正四位
勲一等
功三級

宇垣纏命

昭和二十年八月十五日戦死 享年五十六
部下ヲ率ヒ九機ヲ以テ沖縄海面ニ特攻

東京・多磨霊園「宇垣家の墓」

8月15日

「一六〇〇幕僚集合、別杯を待ちあり。之にて本戦藻録を閉づ。」

第五航空艦隊司令長官 宇垣纏中将
宇垣日記として名高い「戦藻録」最後の記述。

一七〇〇
最後の訓示を終え、最後の特攻として、 宇垣長官は「彗星」に乗り込んだ。
その指揮官機を操縦する中津留達雄大尉は大分県津久見の出身だった。

第五航空艦隊司令長官 宇垣纏中将らが飛び立った地が大分基地であった。


突然ですが嫁の実家は宇垣さんゆかりの大分なのです。
ちょっとだけ大分の話をしてみようと思います。

2015年の秋に嫁が帰郷した際に、大分空港ゆかりの場所を撮影しておりました。
この記事の大分の写真は全て嫁の撮影となります。

神風特別攻撃隊発進之地

碑文
昭和二十年八月十五日午後四時三十分
太平洋戦争最後の特別攻撃隊は
この地より出撃せり その時 沖縄の米艦艇に突入戦死せし者の氏名左の如し

氏名    年齢 出身地
宇垣纏   五五 岡山
中津留達雄 二三 大分
遠藤秋章  二二 愛媛
伊東幸彦  二〇 宮城
大木正夫  二一 福島
山川代夫  二一 山形
北見武雄  二〇 新潟
池田武徳  二二 福岡
山田勇夫  二〇 千葉
渡辺操   二二 千葉
内海進   二一 岩手
後藤高男  二四 福岡
磯村堅   二二 山口
松永茂男  二〇 福岡
中島英雄  一九 愛知
藤崎孝良  一九 鹿児島
吉田利   二〇 滋賀
日高保   二〇 鹿児島

旧制大分中学五十八期会一同 
同五十七 五十九期有志一同
旧海軍有志一同
昭和五十一年八月建之
平成六年十二月改修之

昭和23年に米軍が撮影した旧大分海軍航空隊の様子を見ることが出来る。
(国土交通省国土地理院サイトより)

こちらは現在の様子
おおざっぱに
赤→飛行場
青→大分海軍航空隊
緑→第十二海軍航空廠
黄→第5航空艦隊司令部

大分空港跡地


現在の大分市青葉町にある「大洲総合運動公園」が、かつての「大分基地跡地」にして「大分空港跡地」の地。

大洲総合運動公園
この公園敷地は旧大分空港跡地、その前身は「旧大分海軍航空基地」

戦後運輸省が第二種空港として整備し、その後大分空港が国東半島海岸に移転(1971年)したのを機会に公園用地として大洲総合運動公園が整備。
写真はかつての滑走路界隈。

七〇一空会記念植樹 豊後梅

七〇一空は昭和20年2月に第五航空艦隊附属に転籍となり、最前線にて終戦まで沖縄・九州方面の哨戒、対機動部隊攻撃、特攻攻撃に従事・・・

ここでは、論評は致しません…

ただ静かに感謝と哀悼の意を…


今回の大分写真は嫁撮影となります。
まだ私はこの地に訪れていないため、次に赴く機会がある際に改めて往時を偲んで参ろうと思っております…