「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

横須賀の諏訪公園周辺散策

平成29年10月撮影

京急線・汐入駅周辺の散策。場所としては諏訪公園を軸に。


横須賀のどぶ板通りを歩いていて前から気になっていた碑。
実はまだ行ったことが無かったので、入り口の碑につられてみます。

明治天皇横須賀行在所入口石柱

昭和9年建立。
ここは入口。この先に行在所(あんざいしょ)があったとのことで行ってみましょう。

入口石柱からまっすぐに進んで石段を登ると突き当りに横須賀幼稚園。
隣接する公園に目指すものがありました。

明治天皇横須賀行在所阯

昭和11年4月建立
史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ史蹟トシテ昭和八年十二月文部大臣指定

聖蹟の碑(向山行在所跡)

向山行在所跡は、 明治天皇が横須賀行幸の際、宿泊・休憩した建物の跡地です。
昭和8年11月2日に史跡名勝天然記念物保存法により指定
昭和23年6月29日に指定解除

「聖蹟」の揮毫は海軍大将加藤寛治

「明治天皇横須賀行在所阯」碑
「聖蹟」碑(向山行在所跡)

聖蹟として整備され、2つの碑を中心に御影石の柵柱と門扉(昭和5年の銘あり)もあった形跡が残るも現在は遊具に囲まれた公園。
幼稚園の隣の公園は、かつての行在所の記憶を絶妙なバランスで残しつつ、ほのぼのとしておりました。

行在所跡から横須賀幼稚園を経て緑ヶ丘女子高校の隣から諏訪公園(八幡山)へ。

明治天皇御駐蹕碑

元帥東郷平八郎謹書
昭和8年11月3日(明治節)建立

明治天皇は度々横須賀に行幸されており麓の向山行在所に宿泊されていた。

駐蹕碑の頂点には地球を型どった球体、そして翼を拡げた金鵄の姿が。

石版には 明治天皇が明治四年・明治六年・明治八年と横須賀造船所を御巡覧したり艦隊運動を天覧されたりした御実績が記されている。

「明治天皇御駐蹕碑」のある場所はちょっとした空間が広がっておりまして。
きっとなにかあったんだろうなあという痕跡も。
諏訪公園(八幡山)の高台ともなっており、横須賀芸術劇場がよく見える。

横須賀芸術劇場はまたのちほど。
次は諏訪公園(八幡山)の由来となった諏訪神社へ参りましょう。

どぶ板通りからそれたところに「諏訪大神社」が鎮座している。
横須賀の中心的な神社のひとつ。
何度か参拝したことは有るけど久しぶりの参拝を。
神社の後ろに展開している「諏訪公園」が目的地だったので方向が重なったとも言いますけど。

神社隣の魚藍亭・よこすか海軍カレー館は老朽化で閉店…

横須賀 諏訪大神社

横須賀「諏訪大神社」 参道に看板がありました。

SUWA SHRINE AND PARK
OFF LIMITS
TO U.S FORCES
PERSONNEL

「諏訪神社及び公園、米軍関係者の立入禁止」
これは米軍が神社と協議のうえで注意喚起をする為に取付けた看板とのことで…

横須賀「諏訪大神社」
(すわだいじんじゃ/すわおおかみしゃ/すわおおかみのやしろ)
御祭神 健御名方命・事代主命

康暦2年(1380)横須賀城主三浦貞宗が横須賀総鎮守として、長峯城の城口にあたる古谷山に、信州の上下両諏訪明神を勧請したことにはじまる。

領主三浦氏が滅んだ後は祭祀権は地頭郡代を先達として次第に村の民衆の手に移った。
慶長11年に代官発起で村の人々により社殿・境内の大改修を行い農漁の守護神として崇敬される。
昭和3年に郷社昇格。
昭和20年に県社昇格の内許がでるも終戦を迎え今日に至る。

ハイフリ・・・ですね。 作品を見たこと無いので詳細はわかりませんが。 ご多分に漏れず、このエリアが隔離コーナーのようです。

御朱印頂戴いたしました。
こちらの神社には何度か参拝しておりましたが実は御朱印を戴くのは初めて。社務所は無人ですが近くの宮司さん宅で頂戴できます。

東叶神社の咸臨丸御朱印帳に戴きました。
隣は横須賀追浜の雷神社。横須賀に相応しい帳面に。

諏訪公園

「諏訪大神社」から奥へと脚を進めます。
八幡山の「諏訪公園」へ向かいましょう。
ここにも海軍関係を含む幾つかの史跡が残っております。

招魂塔台座
横須賀海軍工廠工員殉難者慰霊招魂塔跡

明治45年5月27日(海軍記念日)に八幡山山頂(諏訪公園)に建立。
しかしここに鎮座していた招魂塔は戦後GHQの指示で撤去。

海軍軍都・横須賀ゆえに誤魔化しきれず目立ちすぎたのだろうか…悔やまれます…今は台座に電柱が虚しく…

満期記念碑

桜樹二百本・横須賀鎮守府大正三年度徴兵
詳細は不明ながら、横須賀鎮守府での大正3年度の兵役満期を迎え諏訪公園に桜木200本を植樹したことを記念して建立と推測。

奉納「舟型手水鉢」

青島攻略参加工作船関東丸工作部一同・大正7年9月

工作艦「関東」
元は日露戦争で鹵獲した露汽船「マンチェリア」を中国東北部由来の「関東」と命名し運用。
青島の戦いは大正3年の第一次大戦に際してドイツ帝国東アジア拠点青島を日本・英国連合軍が攻略した戦い。

謎の軍艦甲板の一部

諏訪公園の片隅に。詳細は不明。
横須賀市でも詳細不明で「以前は緑が丘高校入口付近にあった」といい、一説には「戦艦三笠の物ではないか?」とも言われているようです。

甲板を砲弾に打ち抜かれた跡が生々しい。

動物愛護の碑

戦前この諏訪公園(八幡山・古谷山)には小さな動物園がありヒグマなどが飼育されていたという。
が、昭和19年に空襲が本格化し逃走など含め飼育が危険となった為に射殺。

動物愛護の碑は昭和60年建立。横須賀市長横山和夫書。
碑のある場所はヒグマの檻があった場所だそうで…

頌徳碑

大正6年建立
篆額は徳川達孝(田安徳川家・日本弘道会会長)
撰文は横須賀高等女学校校長の北村包直 (横須賀高等女学校は現在の県立横須賀大津高校の前身。北村は三浦半島の郷土史家として著名)

第二代横須賀町長であり横須賀市誕生の功労者であった江頭正五郎を讃える碑。

記念植樹之碑

皇太子殿下御降誕 (昭和9年12月23日・社団法人横廠工友會建立)
横須賀海軍工廠長・村田豊太郎書(海軍中将)

昭和天皇の皇太子 明仁殿下御誕生(昭和8年12月23日)を記念して諏訪公園に植樹。
横廠工友會=横須賀海軍工廠労働組合工友会

諏訪公園内の何かの跡。

鳥居跡

かつて諏訪公園は八幡山(古谷山)と呼称されており八幡神社が鎮座。
八幡神社は横須賀製鉄所(横須賀造船所・横須賀海軍工廠)により奉じられていたという。
この鳥居石柱跡が現在の諏訪神社のものか、かつての八幡神社のものかは不詳であるが、鳥居石柱には「…工廠船渠工場」「大正」の文字を見ることが出来たので、海軍工廠関係者の奉納であることは間違いないだろう。

こんな感じで諏訪公園散策は終了。
改めて諏訪大神社を経て諏訪公園の山をおります。

諏訪公園の西側に「横須賀芸術劇場」がある。
じつは、この場所も海軍関連の史跡。

旧海軍下士官兵集会所跡

かつてこの場所は海軍工廠に面した海軍下士官兵集会所。
戦後は米軍が接収し昭和47年迄「Enlisted Men’s Club(EMクラブ)」として使用。
その後この地は横須賀芸術劇場(平成6年2月建設)となる。
下士官兵集会所跡碑は駐輪場の隅に埋もれていた…

ここまでくると道を挟んだ向こう側の「 ショッパーズプラザ横須賀 」(イオン横須賀)(令和元年現在閉鎖中)に触れたくなりますが、それはまた別にしましょう。諏訪公園周辺の散策編としては以上で〆

龍本寺の海軍慰霊碑(横須賀海軍航空隊殉職将士追悼碑と軍艦千島海軍機関師五士の墓碑)

平成29年10月撮影

京急線の横須賀中央駅から高台の方に向かう。

「猿海山龍本寺」(日蓮宗)
この寺院に、横空ゆかりの慰霊碑がある。

横須賀海軍航空隊 殉職将士追悼碑

海軍大将 永野修身 書
昭和九年七月五日建立

昭和9年7月5日に相陽時事新聞社が発起となり建立。
横須賀市長 小泉又次郎 も後援に名を連ねる。(小泉純一郎の祖父)
揮毫した 永野修身 は、当時は横須賀鎮守府司令長官。

碑面裏には「遺芳千秋」(後世にまで残る名誉や業績の意)

大正4年~15年に殉じられた横須賀海軍飛行将士51柱を祀る。
最初に名を刻まれている 足立東三郎(海軍大尉)、武部鷹男(海軍大尉)、柳瀬久之丞(海軍三等水兵)の三名は 横須賀海軍工廠で製作されたファルマン水上機の試験飛行中の大正4年3月6日に墜落殉職している。これは、海軍搭乗員の日本国内における最初の殉職者であった。

横須賀海軍航空隊に関してはこちらも。


横須賀海軍航空隊殉職者追悼碑の隣にある碑

軍艦千島 海軍機関師 五士の墓碑

伊藤雋吉海軍中将 撰文

明治25年11月30日。
仏国から日本に回航中の軍艦千島(通報艦)が愛媛沖で英国商船ラベンナ号と衝突沈没し74名が犠牲となり殉職機関士5名を合祀した墓碑。
千島艦事件。
明治28年9月建立。

余談ながら、揮毫した伊藤雋吉は、創設期の海軍きっての能書家。軍艦の艦尾の艦名表示(ひらがな)に使う、いろは48文字を揮毫し、以後の帝国海軍及び海上自衛隊を通じて、伊藤が揮毫した文字が使用され続けているという。

千島艦事件で沈没した水雷砲艦「千島」は、青山霊園「畝傍の森」に、巡洋艦「畝傍」と並んで慰霊碑があります。
千島の慰霊碑は砲身と砲弾。
ともに建造後間もなく消息を絶ったり沈没したりした悲運艦。


猿海山龍本寺(日蓮宗)

横須賀海軍航空隊と予科練誕生の地散策

平成28年6月撮影

位置関係

野島(掩体壕)
夏島(掩体壕・地下壕)
貝山(海軍航空発祥之地記念碑・甲種予科練鎮魂之碑・予科練誕生之碑)
位置関係。
日産工場が滑走路界隈。

USA-M46-A-7-2-50
1946年(昭21)02月15日‐米軍撮影写真を加工

現在の様子 Google航空写真

野島

シーサイドライン野島公園駅。野島後方には夏島が見える。

この夏島周辺が「横須賀海軍航空隊」(横空・追浜空)の展開されていた地区。
野島には横空の掩体壕があるのだ。 案内地図に記載ないけど。

遠くに見えるのが夏島。手前に滑走路が広がっており、野島とは橋で繋がれていた。現在、橋はない。

野島

野球場の右奥にフェンスと穴が。これが「野島掩体壕跡」。 この「野島の掩体壕」は野島山の東西を貫通し全長は260m。海軍小型機100機を格納する計画で、現存掩体壕の中でも国内最大規模とされている。

野島の掩体壕

 野島掩体壕は、横須賀市夏島町にあった旧横須賀海軍航空隊の戦闘機を空襲から守る施設として建設されました。
 この掩体壕は、標高約55メートルの野島山の東西をトンネル状に貫通しており、長さは約260メートル、両側に出入口があります。
 出入口の部分は、幅約20メートル、高さ約7メートルで、トンネル状にコンクリートが打設されており、中央部は、幅約10メートル、高さ8メートルで、素掘りの状態です。
 作業に当たった横須賀海軍の「第三〇〇設営隊戦時日誌」には、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月15日から6月30日までの掘削工事が進められていた記録が残されており、同時に掘削されていた夏島掩体壕とあわせて、海軍の小型機約い100機を格納する計画でしたが、終戦で実際に使用されることはありませんでした。
 通常の掩体壕は、戦闘機1機を格納する程度の大きさが一般的で、この野島掩体壕は、現存する掩体壕の中でも国内で最大規模と言われています。
 第三〇〇設営隊は、横須賀海軍施設部第一部隊を改編した部隊で、海軍の将兵に技術者を加えた精鋭部隊でした。日吉台(横浜市港北区)の旧日本海軍連合艦隊司令部地下壕や松代大本営地下壕(長野県松代町)などの建設にも加わっていました。
 平成22年3月 横浜市

野島掩体壕跡
正直、大きすぎて今まで見てきた「掩体壕」の概念では測りきれない。 だって通常の掩体壕は航空機1機ですよ。野島と夏島の掩体壕で100機ってねえ。 ちなみに出入口部分は幅約20m、高さ7m。

貫通しているので反対側にまわってみましょう。今度は海側から開口部を見てみます。

野島公園。
さて、野島の頂上に向かってみます。掩体壕が東西に横断してトンネルのように掘られた野島山の頂上には展望台が設けられています。

野島公園。
野島山の頂上より、夏島方面を望む。
横須賀海軍航空隊(横空)・追浜海軍航空隊の滑走路などは、この方面に展開していた。

野島から夏島を望む。夏島には貝塚もあり古代から人々の営みがあったことがわかる。
いまは工場地帯、ちょっと前は海軍航空隊基地・・・そう考えると変遷が感慨深く。

野島稲荷神社

野島稲荷神社。 野島総鎮守。

海軍よりも古くからの社。良い感じの稲荷様でしたのでちょっと見ていきましょう。
野島山南側鎮座。伏見稲荷系統。

安貞元年1227に阿波守長島維忠発願により子の修理佐頼勝が造立。
万治年間(1658~1660)野島浦南端に紀州大納言徳川頼宣公の別邸があり、これを塩風呂御殿と称した。 稲荷神社はちょうど塩風呂御殿の東北の方向にありそのため鬼門の守り神として頼宣公の篤い尊信を受け社殿造営にも力を尽くしたとされている。

手水に狐様がいらっしゃいます。 この手水舎の雰囲気、好きですねえ。

石段両脇にも狐様。これは良い稲荷様。

境内社は船玉社、他。船の守り神、航海往来の守り神。緑に覆われた岩山が垂直に切り立つ。

海軍航空基地近くの鎮守様。 往時の軍人たちもきっと参拝したであろうことを夢想しつつ拝するひととき。

伊藤博文金沢別邸

野島には「旧伊藤博文金沢別邸」がある。明治31年(1898)に建設された茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築、とのことで。 東京からもほど近く、富岡金沢の地は明治期に海浜別荘地として人気だったそうで。

野島の「旧伊藤博文金沢別邸」。建物の老朽化が激しかったことから平成21年に復元修復工事が行われている。
野島も貝塚があり、古代から脈々と人々が営んでおり、こうして色々な歴史が交差しているのも興味深い。

貝山へ向かいます。
バスは磯子駅か追浜駅か田浦駅か。どれでも良さそう。
だいたい15分から20分に1本程度の輸送密度。

貝山緑地

現在は工場エリア。
この貝山緑地と夏島貝塚のみが異質な空間。

貝山緑地・夏島貝塚。
この西側、現在は日産の工場エリアには「横須賀海軍航空隊」「海軍航空技術廠」「追浜飛行場」「追浜海軍航空隊」が展開され「海軍航空発祥の地」となる。
ただし、今回の探訪は貝山緑地だけ。夏島は未訪問。

予科練誕生之地記念碑 甲飛鎮魂之碑 入口

このあたりは貝山地下壕も展開されていた。※非公開

追濱神社社号標

入口脇には「追濱神社」社号標が残る。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊・追浜飛行場での犠牲者を祀る追濱神社がこの地にあった。

現在は追浜雷神社境内の「濱空神社」(横浜海軍航空隊神社)ともども祀られている。

横須賀海軍航空隊

もともとこの地は横須賀海軍航空隊の地。

追浜海軍航空隊が正式に制度上で展開される以前から、この部隊は追浜飛行場・追浜海軍航空隊と呼称しており、横空(横須賀海軍航空隊)と追浜空(追浜海軍航空隊)は同じ意味を持つ場合もある。 ややこしい。

「整備科航空予備学生」が昭和13年以降に横須賀海軍航空隊で展開。
その教育は追浜飛行場で実施。

開戦に伴い横空は遠距離哨戒任務に就き教育任務をする余裕がなくなった為、整備科航空予備学生教育は、独立した追浜空に機体整備、洲ノ埼空は兵器整備と分散。

横須賀海軍航空隊・横空
 ↓分遺
追浜海軍航空隊・追浜空
相模野海軍航空隊

横浜海軍航空隊・浜空

館山海軍航空隊・館空
↓分遺
洲ノ埼海軍航空隊・洲ノ埼空

予科練

海軍予科練習生は昭和5年に横須賀海軍航空隊に第一期生が入隊したことにはじまる。
昭和12年に甲種飛行予科練習生(甲飛)制度が創設され、従来の制度は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改められた。

昭和14年3月1日に横空から霞ヶ浦海軍航空隊に予科練は移設。

予科練1期生から10期生までは横空。
11期生以降は霞空、そして13期以降は土浦空そのほかで大量採用となる。

予科練誕生之地

海軍予科練習生制度のはじまり。
霞ヶ浦湖畔にうつるまで、この横須賀追浜飛行場の地で若き海鷲たちは育っていったのだ。

予科練誕生之地

光る海 明るい太陽の下 大空をこよなく愛し国を想うひとすじの少年たちが溌剌としてここに溢れていた
昭和5年6月1日 横須賀海軍航空隊内の一隅に海軍少年航空兵の教育機関として横須賀海軍航空隊予科練習部が誕生し やがて予科練と愛称されるようになった
志願者の年齢は15歳から17歳 修業年限は3ヶ年 俊秀なる大空の有志は英才の早期教育に俟つとの観点に立ってこの制度は創設され全国5900余名の志願者から厳選された79名が第一期生としてここに入隊した
土浦 三重 鹿児島などのちには19を数えるに至った予科連航空隊の萌芽である
時局の進展につれて海に臨み山を負うこの地は狭小となって昭和14年3月霞ヶ浦湖畔に移り翌年独立して土浦海軍航空隊となった
予科練の歴史15年3ヶ月のうち実に8年9ヵ月はここ追浜の地で教育活動が行われたのである
そこで目指したものは鉄石の訓練をものともせず乾いた砂が水を吸いこむようにあらゆるものを純粋に受け入れて自らを育てていった 予科練を巣立った若人たちは飛行練習生教程 実用機練成教育と研鑚を重ねてたくましい若鷲と育ち太平洋戦争に於ては名実共に我が航空戦力の中核となり水陸の基地から航空母艦から戦艦巡洋艦或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが戦局利あらず敵の我が本土に迫るや特別攻撃隊員となり名をも命をも惜しまず一機一艦必殺の体当たりを決行し何のためらいもなく無限の未来を秘めた蕾の花の生涯を祖国防衛の為に捧げてくれたのである
顧みれば少年たちは戦いを求めてこの地に集まったのではなく制空護国の一途の念いからであった
予科練誕生以来既に五十一星霜 若人たちの至純の赤心が祖国の安寧と世界平和の礎となることを祈念して旧学び舎の丘の上にこの碑を建つ

昭和56年6月1日
此の地に学んだ生存者一同
撰文 倉町秋次
書  鈴木忠正



予科練誕生之地

予科練とは海軍飛行予科練習生の略称にして海軍少年航空兵とも別称す。
昭和5年6月1日第一期生入隊以来、昭和14年2月第十期霞ヶ浦に移るまで、全国より運ばれたる少年此の地に集い学び此の地を巣立ちて日夜猛訓練の中に技倆を磨き、やがて日支事変勃発するや中国の空に第二次世界大戦においては南海の空にと、唯々国の為同胞の為にと信じて各地に
勇戦敢斗嚇々たる武勲を残してその大多数が大空に散華す。
我々不思議に命永らえたる生存者一同 、今は亡き同窓の英霊を偲びて、
思い出の此の地追浜神社跡に建碑す。
即ち予科練誕生之碑也。

昭和56年6月1日 
 予科練一期生より十期生まで生存者一同

貝山緑地「予科練誕生之地」の反対側。

海軍甲種飛行予科練習生 鎮魂之碑

桜に錨。
若き海鷲の飛び立つよすがを偲び。
敬意を。感謝と哀悼を。

頭を下げ、黙する。

海軍甲種飛行予科練習生
鎮魂之碑

碑文
昭和12年国際関係が悪化し国防が最重要視される頃、海軍では航空機の発達と共に、今までの大艦巨砲主義から航空機へと思考を変え、航空機搭乗員養成を急務とした。
高度な飛行技術と強靭な肉体を求められる搭乗員は、心身共に優秀な青少年を求めた。
ここに、甲飛即ち海軍甲種飛行予科練習生制度が誕生した。
昭和12年9月1日全国の中等学校から厳選された250名が第一期性として横須賀海軍航空隊に入隊した。
以後太平洋戦争の激化に伴い以後太平洋戦争の激化に伴い最終の第16期生まで13万9720名もの青少年たちが、国を護るために各地の航空隊の門をくぐった。
しかし、戦局の悪化により大空の果て、海原のそこに散った甲飛の御霊は、実に6778柱にのぼる。
その中の一人は次の歌を残して散華した。
血潮もて 茜と染むる 悔ゆるなし
 雲を墓標の 空の御楯は
私たちは国家危急の折、救国の大義に殉じられた多くの同窓の御霊の冥福を祈念するとともに、甲飛の歴史の伝承と我が国の永遠の平和を念願して私たちは国家危急の折、救国の大義に殉じられた多くの同窓の御霊の冥福を祈念するとともに、甲飛の歴史の伝承と我が国の永遠の平和を念願して、ここ甲飛発祥の地横須賀に、この碑を建立する。
平成9年11月2日 
甲飛生存者有志
遺族一般賛同者有志

「鎮魂之碑」の隣に移動してきた記念碑がある。

海軍航空発祥之地 記念碑

こちらは戦前(昭和12年)に作られた記念碑のため、より一層に格調高い。

海軍航空発祥之地 記念碑

明治四十五年 始メテ海軍航空術研究委員会組織セラレ 十月地ヲ追浜ニ卜シ 東西二百米 南北六百米ノ地積ヲ画シ 其ノ一隅ニ格納庫壱棟ヲ建設ス 即チ此ノ地ナリ
十一月二日 海軍大尉河野三吉 カーチス式水上機ヲ操縦シテ飛行ス 同六日 海軍大尉金子養三モ亦 ファルマン式水上機ヲ操縦シテ飛行ス
是実ニ帝国海軍飛行ノ嚆矢ナリ 今茲ニ 碑ヲ当時ノ格納庫ノ跡ニ建テ 以テ記念ト為スト言フ
昭和十二年十一月三日
横須賀海軍航空隊

海軍航空発祥之地 記念碑 案内  
 右に夏島 左に野島を望見し、海に向かって延びていた滑走路をほうふつさせるこの台地は、もと横須賀海軍航空隊の一部であり、ここには同隊の殉職者を祭った 追浜神社や気象観測所があった。
 1912年、 同隊において実施された「日本海軍の初飛行」を記念して、当初の碑は1937年、この台地の下、最古の飛行機格納庫跡に建てられたが、戦後破壊された。
 この碑は1956年、海空会によって再建されたものであるが、周辺の敷地一帯が国より株式会社ナブコに払い下げられたため、周辺の敷地一帯が国より株式会社ナブコに払い下げられたため、工場内に保存されることになった。
 戦後50年目の1995年、この碑は関係者により、公共の場所である現在地に移設復元された。

貝山緑地を登る。
頂上の展望台に行ってみましょう。

由来はわからないが、あんずが遊歩道の両脇に植えられおり、たわわに実を蓄えていた。 ※勝手な収穫は禁止されております。。。

貝山緑地頂上の展望台。
夏島方面は…樹木で視界が。追浜飛行場はこの方向に展開されておりました。

ハイカラな建物は横須賀市リサイクルプラザ・アイクル。
沖には海自の海洋観測艦「わかさ」が見えました。

貝山緑地。このあたりは海軍の砲台の跡地という。

地下壕もゴロゴロしているが非公開なので、見える範囲で往時を偲ぶ。 また周辺では海軍時代の建物が現在も民間にて使用されているが今回は時間都合で立ち寄らず。

追浜の雷神社

追浜の雷神社。 (いかづち神社・かみなり神社)

御祭神は火雷命 創建は承平元年(931)と伝承。
天正9年(1581)に現在地に遷座。

御神木を見上げれば、これは黄葉の季節に再訪したくなるほどに見事な銀杏。
朱色を軸にしたバランスが美しい。
良き空間。

先述したように追浜は横須賀海軍航空隊・海軍航空技術廠の地。

いわずもがなで海軍との縁も深い。
奉納された絵馬は海軍に関係する話題も多い。
(著作権的な観点からモザイク処理しました)

浜空神社

境内には「浜空神社(濱空神社)」が鎮座。

浜空とは横浜海軍航空隊。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊の展開されていた当地に、わけあって浜空神社が遷座。

昭和13年に浜空犠牲者を祀る鳥船神社として横浜富岡に創建。
昭和56年に鳥船神社跡地に浜空神社を再建。
平成20年に維持困難となり追浜空関係者の尽力により遷座。追浜空犠牲者を合祀。

浜空に関しては、「 横浜海軍航空隊(浜空)と飛行艇の名残散策 」にて記載あり。

この界隈は、夏島と海軍航空技術廠の残存建物などが未訪問。
はやいところ訪れないと。
宿題です。

海軍の碑記念行事(海軍記念日)

平成29年及び平成30年撮影

「海軍の碑」記念行事
(横須賀水交会)

5月27日。戦前の「海軍記念日」に。
横須賀はヴェルニー公園の片隅にある「海軍の碑」にて。

毎年、5月27日の午前11時30分頃に、午後から行われる「日本海海戦記念式典」(三笠)に先立ち、ヴェルニー公園にて横須賀水交会主催 「海軍の碑」 記念行事が執り行われている。

記念行事の前には、水交会有志で「海軍の碑」の清掃も行っております。
海軍記念日に行われる、往時を偲びし記念行事。

平成29年撮影

「海軍の碑」記念行事
横須賀水交会

式次第

国旗及び自衛艦旗掲揚
海軍英霊に対する黙祷
「海軍の碑」建立趣旨朗読
横須賀水交会会長挨拶
記念講話
鎮魂譜(同期の桜~巡検ラッパ~海行かば)
国旗及び自衛艦旗降納

午前11時30分から30分間

海軍の碑 建立趣旨

海軍の碑 建立趣旨
 浦賀に黒船が現れ、鎖国の夢を破られた幕府は、ここ横須賀の地に製鉄所を建設し、近代海軍の創設を企画した。
 その後、明治維新により明治政府が樹立され、政府は、西欧諸国に比し一世紀以上の遅れを取り戻すべく、わが国の近代化に着手した。
特に海軍の整備が重要視され日清及び日露両戦役を経て、わが国の海軍は次第に整備充実され、世界三大海軍国の一つとして、その地位を占めるに至った。
 こうした近代海軍の創設及び成長という歴史の流れの中において、横須賀はその最枢要基地として、かつての一寒村からわが国屈指の軍港都市となり発展を遂げることになった。
 しかしながら、その海軍も昭和二十年の太平洋戦争終結と共に八十年に亘る歴史を閉じることになった。
 海軍終息から五十年という節目に当たる本年、明治以来太平洋戦争終結までこの地にあった日本海軍の歴史、並びに太平洋戦争において亡くなられた多くの人々を偲びつつ、またわが国の永遠の平和を希求するため、この記念碑を建立する。

 なお、本記念碑は全国の海軍関係者及び有志から寄せられた浄財によるものである。
 平成七年十一月十七日
 海軍の碑建立委員会

横須賀水交会 「海軍の碑」建立趣旨PDF

http://y-suikoukai.sakura.ne.jp/page15/1505/kaigun_no_hi_konryu_shushi.pdf


平成29年度「海軍の碑」記念行事 (横須賀水交会)

「鎮魂譜(同期の桜~巡検喇叭~海行かば)」
拝聴中
行事参列者は「人生の大先輩の方々」が多いので無理せずに、国旗・自衛艦旗掲揚及び黙祷の後に日陰に移動してます。

平成29年 海軍の碑記念行事 横須賀水交会

海軍記念日。

海軍の偉業を偲び、散華された御英霊に対する追悼の念と平和の祈りを捧げつつ。

平成30年 海軍の碑記念行事 横須賀水交会
平成30年 海軍の碑記念行事 横須賀水交会

今年(令和元年)はタイミングが悪く参列できないのが非常に残念です・・・


横須賀水交会 平成30年

http://y-suikoukai.sakura.ne.jp/page18/201805/20180527/20180527_kaigun_no_hi.html

横須賀水交会 平成29年

http://y-suikoukai.sakura.ne.jp/page17/201705/170527_kaigun_no_hi.html


横浜海軍航空隊(浜空)と飛行艇の名残散策

平成28年6月

横浜海軍航空隊(浜空)の遺跡として国内最大級のものが残っている。

「飛行艇格納庫」

浜空は日本最初の飛行艇部隊であったのだ。
日本が誇る九七大型飛行艇や二式大艇を収納した大型格納庫。
ワクワクしますね…

現在の神奈川県警第一機動隊の敷地が横浜海軍航空隊の一部であり、そこで当時の飛行艇格納庫=第三格納庫が現在も補修されながら使用されている。

つまり、アレな場所なわけです…行ってみましょう…


位置関係


897-C4-38
1944年10月14日‐陸軍撮影写真を加工
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 より

南部市場駅

最寄り駅は横浜シーサイドライン「南部市場駅」


横浜海軍航空隊(浜空)
第三格納庫

横浜海軍航空隊(浜空)の第三格納庫。
補修され、見た目は奇麗な巨大倉庫。
道路から遠目に見学することをおすすめします。

監視カメラが働いておりますのであまり無茶はしないほうが賢明です。

GoogleMap航空写真からキャプチャ。


富岡総合公園

次いで富岡総合公園へ。
先ほどの格納庫の裏側の山の手にあたります。無茶苦茶広いです。


横浜海軍航空隊(浜空)隊門跡

富岡総合公園の南西側にあたる。

横浜海軍航空隊隊門跡。

浜空。
標札は後世のものではあるが往時の門柱に違和感なくおさまり、ここに横浜海軍航空隊の名残を伝えている。

静かに往時の名残を物語っていました。


横浜海軍航空隊

略称は浜空。 大日本帝国海軍初の飛行艇部隊として昭和11年(1936)10月1日に横浜海軍航空隊が開設。横須賀鎮守府所属。 1939年11月15日に南洋諸島を担当する第四艦隊附属となり内南洋哨戒に従事。

昭和12年(1937)九七式飛行艇が制式化。以後終戦まで215機生産。 昭和16年(1941)二式大艇が制式化。輸送用晴空含め167機生産。 約400機を誇っていた海軍飛行艇部隊は終戦時には稼働機3機のみとなる。内1機現存。

海軍航空隊で初めてレーザー索敵を運用し、水上機の利点を活かして南洋の空を索敵に従事。 運用のしやすさから最前線にも投入され、そして消耗していった部隊。

そのよすがをたどる。

海軍飛行艇部隊は開戦前から早くも南洋に展開されていた。

横浜航空隊は昭和16年9月に本部をマーシャル諸島ヤルートに置き周辺諸島に展開。開戦後はラバウルへ進出。
東港航空隊(台湾)は昭和16年11月にパラオ基地に展開。のちにインド洋アンダマンへ。

昭和17年(1942)8月7日、ラバウルから最前線のツラギに全力展開していた浜空は米軍に強襲上陸され係留中だった飛行艇等全機が駐機場で破壊、司令宮崎重敏大佐以下玉砕。

海軍飛行艇部隊の要たる浜空はソロモン海に全滅…
(昭和17年10月部隊再建)


浜空の碑
(富岡総合公園・旧横浜海軍航空隊基地)

題濱空
大鵬渡海奏奇功
離島守防意気隆
衆寡難勝嗟惨々
至誠不抜憶濱空

昭和四十六年十月二十一日
ソロモン・ガブツ島ニ於テ
草鹿任一 花押

碑裏面

浜空の碑
この地に原隊を有せし飛行艇隊元横浜海軍航空隊は昭和十七年八月七日未明南太平洋ソロモン群島ツラギに於いて米軍の反攻上陸を受け二晝夜にわたる死闘の末宮崎重敏司令外五百余名全員玉砕せり
これらの人々の冥福よ恒久平和を祈念してこの碑を建立す
 昭和61年4月吉日

富岡総合公園。
旧・横浜海軍航空隊基地跡。

浜空神社跡の真向かいに鎮座している慰霊碑。
ソロモンの海で散った横浜海軍航空隊を偲ぶ。

実は終戦時に日本軍人の手で日本の空を飛んだ最後の日本軍機は「二式大艇」(二式飛行艇)だった。
昭和20年11月11日、残った1機を米軍に引き渡す為に詫間海軍航空隊(香川県)から横浜基地に空輸され、この横浜の地にて二式大艇は米軍に引き渡された。

「最後の飛行艇」日辻常雄
水上機・飛行艇畑一本を歩み海軍飛行艇部隊とともにあった日辻氏(詫間空飛行隊長・海軍少佐)は、まさにこの米国へ引き渡された二式大艇で最後に日本の空を飛んだ人物。飛行艇好き必読の本。

この横浜基地から米軍に引き渡された「最後の二式大艇」(二式飛行艇/T-31号機/Tは詫間空/昭和18年3月製造第26号機)は返還運動もあり1979年に笹川良一氏の尽力により「船の科学館」にて引取され展示。
2004年以降は海自鹿屋基地にて展示されている。


二式大艇(二式飛行艇)

「船の科学館」に在りし日の彼女。2003年撮影。
※現在は鹿児島鹿屋に展示

連合国コードネームEmily。
「恐るべき機体」「空飛ぶ戦艦」「全世界の飛行艇に君臨する王者」

飛行艇技術では日本が世界に勝利したと讃えられ数々の勇名を誇る。

帝国海軍の飛行艇の伝統は、海自PS-1/US-1/US-2へと受け継がれ…

船の科学館、在りし日の姿。(2003年撮影)

鹿児島の鹿屋には行ったことがなく。
いつかは行かねばなるまい土地です・・・。

筑波空記念館には二式大艇のプロペラエンジンの遺品もありました・・・。

大艇ちゃん・・・。

さて、脇道にそれ過ぎましたね。

横浜海軍航空隊(浜空)は海軍飛行艇部隊の嚆矢でもあり二式大艇ゆかりの場所でもあるため、これもよすがを偲ぶきっかけの一つとして。

余談ついでに。
二式大艇は居なくなり展示も宗谷だけになった船の科学館ですが二式大艇にまつわる冊子が売っています。

これ、写真豊富で修復前後や艇内部の様子などもあり、頒布300円の癖して凄く良い冊子です。

話の筋を戻して富岡総合公園に。
この地に平成20年春迄、浜空神社が鎮座していた。

現在は追浜の雷神社に遷座。当地は浜空神社跡として鎮魂碑がある。


浜空神社跡

浜空神社由来

昭和十一年十月一日飛行艇隊の主力として横浜海軍航空隊が当地に開設された。
その守護神として造営されたのがこの浜空神社である。

昭和二十年八月十五日大東亜戦争終結後当航空隊跡地は横浜市富岡総合公園として生れ変ったのである。
浜空会では特に願い出て戦没者の鎮魂と恒久平和を祈念して浜空神社の修復復興をはかり全海軍飛行艇隊の戦没者殉職者約二千柱の御霊を合祀した。
横浜航空隊は浜空神社を中心とした広大な陸上の敷地と現在埋立てられた根岸湾水上の飛行艇発着場を専有していた。
隊員約一千名大型飛行艇二十四機を有する海軍最大の飛行艇専門航空隊としてその威容を誇ったものである。
今なお隊門附近の桜並木と飛行艇大格納庫が当時を偲ぶ面影を残し訪れる者に静かに語りかけてくれる。
時局の推移に伴い横浜航空隊から新たに東港航空隊が分立した。
昭和十六年十二月八日大東亜戦争勃発するやこの両隊は直ちに第一線に出動した。
引続き第十四航空隊対潜専門部隊輸送教育等各精鋭飛行艇隊が横浜空を母体として誕生し第一線に又後方に配備されその強大な航続力を発揮して洋上大遠距離の哨戒・攻撃・輸送・救出・作戦等を展開しハワイ・印度・アリューシャン・豪州・ソロモンにわたる広大な戦域を駆け巡って勇戦奮闘した。
作戦上部隊名を八〇一空(横浜)八五一空(東港)八〇二空(十四空)九〇一空(対潜)等に変更し戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して沖縄攻防戦に死闘を演じ満身創痍全力を尽し果たして戦の幕を閉じたのである。
中でも横浜航空隊はソロモン最前線のツラギに進攻作戦中強力な敵の反撃をうけて昭和十七年八月、宮崎司令官以下三三八名が壮烈な玉砕を遂げたのである。

富岡のこの地は、かくの如く誇りある海軍飛行艇部隊発祥の歴史をもっているのである。
この事実を永く後世に語り継がんが為、ここに記念碑を建立する次第である。

昭和63年1月 海軍飛行艇会 建立

鎮魂
海軍飛行艇隊

石碑正面のシンボルマークは飛行艇に音楽終止符を織り込み「休める飛行艇」を意味する「濱空会」の印。

海軍飛行艇部隊の犠牲者に。
慰霊と鎮魂、そして感謝を。

かつてこの地は浜空神社であった。

が、管理する世話人の老齢化により神社を維持する事が難しくなり、この浜空の地から横須賀空のあった追浜の雷神社に遷座し、今後の管理を委ねるという苦渋の選択があった・・・。

濱空神社の碑

此処に横濱海軍航空隊の戦没者、物故者二千余柱の英霊をお祀りしていた「濱空神社」がありました。
名称は、古事記の「石楠船神」又の名「天鳥船」に因み、鳥は水鳥のように速く進むという意味の「船神」に由来するものです。
昭和十一年十月一日、この地に我が国における飛行艇部隊の本部として横濱海軍航空隊が開隊され、以来「九七式大艇」や昭和十七年には世界最優秀艇と謳われた「二式大艇」が開発され隊員は日夜猛訓練を続け、先の大戦におきましては華々しい戦果を挙げ又の多くの隊員が祖国のために散華されました。
毎年四月と前線部隊がつらぎ島で玉砕された八月を記念して生存隊員並びに関係各位により、濱空神社で慰霊祭を行い、 英霊に対し、鎮魂と慰霊の誠を捧げて参りましたが、戦後六十三年を閲し神社の社屋の老朽化と境内の清掃などの維持管理に当たる世話人の老齢化により、誠に残念ではありますが濱空神社を今後も維持管理することが不可能となりましたので、平成二十年四月六日の春の慰霊祭を最後に神社の社屋は追浜本町雷神社に移築して今後の維持管理をお願いし、神社の跡地にこの石碑を建立することになりました。
石碑正面の記号は、飛行艇の記号に音楽の終止符を織り込み「休める飛行艇」を意味する濱空会のバッジです。
此処に謹んで英霊に対して鎮魂の誠を捧げ碑文を賦します。

平成二十年八月吉日  
遷座先 横須賀市追浜本町一-九 雷神社
世話人代表 加藤亀雄

浜空神社跡。この地に訪れる前週には追浜の雷神社を参拝し遷座先の浜空神社にも拝していた。
まだ浜空の地を訪れた事なかった私は、どうしてもこの元鎮座地に訪れたかったのだ。
ようやくこの地で手を合わせることが出来ました。 海軍飛行艇部隊の嚆矢たる地にて…


浜空神社
(遷座先の横須賀追浜・雷神社境内)

追浜の雷神社境内には「浜空神社」が鎮座。
正確に言うと遷座してきた。

浜空とは横浜海軍航空隊。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊の展開されていた追浜の地に、わけあって浜空神社が遷座してきたのだ。

維持の難しい性質の神社であることはわかります。特に戦友会や遺族会を軸とする場合は老齢化からは逃れられず。この場所での維持管理が難しいのであれば理解有る神社に遷座して管理を委ねる。こうやって遷座先でも変わらずに慰霊祭祀が行われる事は何よりも有難い事です。

「浜空神社」
昭和13年に浜空犠牲者を祀る鳥船神社として横浜富岡に創建。
昭和56年に鳥船神社跡地に浜空神社を再建。
平成20年に維持困難となり追浜空関係者の尽力により遷座。
遷座を機に、追浜空犠牲者を合祀。

浜空の地では毎年4月に慰霊祭が斎行されております。

水交会の平成28年盛夏号 「浜空鎮魂の碑」慰霊祭の記事。
浜空神社は雷神社に遷座しましたが、鎮魂の碑でも引き続き慰霊祭が行われており。 慰霊顕彰の火を絶やすことなく…。


公園の奥に。

富岡総合公園内に「海軍の横須賀水道関連施設遺構」があるという。
名前もズバリの浜空上広場から、もしや往時からの石段か?と思わせる古びた石段をゆく。

海軍・横須賀水道関連施設遺構

道?…道のような草むらをかき分けていくと、階段?…だった斜面が。

どうやらここは夏に来てはダメです。ヤブ蚊が凄いです。冬に来たいね。もう遅いけどw

石段跡を上ると不思議な空間が。
通気管のようなものと、もはや用途のよくわからない塔状の構造物が林立しています。

富岡総合公園内「海軍・横須賀水道関連施設遺構」
通気管のようなものを覗いてみます。
ポケットライトが手元にありましたので照らしてみると水が反射。
この下には貯水空間が残っている雰囲気。

この塔状構造物は全くもって何かよくわかりません。
6本ほど林立してました。

封鎖されている小屋は揚水ポンプ室跡?らしい。
あとはコンクリ基盤が二箇所。

まあ、とにかく藪蚊がすごいです。
やっぱ冬に来るべきですね。この手の場所はw

富岡総合公園内には海軍標石も残っているらしいですが、どうにも藪蚊との戦いで疲れきっていたので標石探しはやめておいて「見晴らし台」を目指す。

ちなみに先ほどの水道施設は多目的運動広場の右奥の方でした。


富岡総合公園見晴らし台。

風景をみるわけではなく「格納庫」を見る・・・うん、やっぱり冬に(

横浜海軍航空隊名残の「第三格納庫」を上からちょっとだけ見下ろす。

富岡総合公園見晴らし台。

第三格納庫の左側に広がる空間は第二格納庫跡地とのこと。 空き地が広がる。

富岡総合公園をあとにして南部市場駅に向かう途中。

さきほどの第二格納庫跡地を近くで見てみる。

日本飛行機

奥に見える工場は「日本飛行機 (ニッピ)」
戦前は旧海軍用航空機を製造しており局地戦「秋水」も製造していた。

シーサイドラインの車窓から「日本飛行機」(日飛/ニッピ)の工場群を眺める。

日飛の工場、往時の建屋が残っているかどうか、立ち入りできないけど。

日飛の初代社長は加藤亮一(海軍中将)。
そして二代目社長が堀悌吉(海軍中将)。堀悌吉といえば山本五十六の兵学校同期にして主席卒業。海軍軍政の将来を期待されるも大角人事で予備役…

http://www.nippi.co.jp/history/index.html

http://www.nippi.co.jp/history/history1940.html


場所は変わって根岸に。飛行艇つながり。

根岸飛行場跡
(大日本航空横浜水上飛行場跡)

現在は往時を物語る案内看板のみが残る。
横浜海軍航空隊の北側、昭和15年(1940)に大日本航空株式会社により日本初の飛行艇専用民間飛行場が作られた。

根岸飛行場跡
 昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社 により日本初の飛行艇 専用民間飛行場 が作られました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機 製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン 経由パラオ に向け飛び立ちました。
 発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
 昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇 が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26~64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
 97式大艇の最終飛行は終戦後昭和20年(1945)9月の台湾向け紙幣の輸送で、2式大艇は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の託間基地からここに飛来したのが最後です。
 根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。

97式大艇
2式大艇「晴空」型
イラスト・小川利彦

磯子区根岸地区連合町内会
横浜磯子ライオンズクラブ 
磯子区郷土研究ネットワーク

大日本航空株式会社は昭和15年に97式飛行艇で根岸からサイパン経由パラオに定期便を展開。南洋諸島と本土を結ぶ夢の航路であった。
そして戦中は海軍徴用で南方輸送航路として展開。

位置関係

「根岸飛行場跡」
当時、水上飛行場の隣にあった「動物検疫所」。
今も「農林水産省動物検疫所」として往時と変わらぬ場所に往時と変わらぬ役目で施設が残っていた。

「根岸飛行場跡」
大正12年関東大震災の復興後に石積護岸されたという往時と変わらぬ姿で、動物検疫所の脇を流れる掘割川。(土木学会選奨土木遺産に認定)

橋の脇には昭和3年「八幡橋親柱」も残されている。

さきほどの橋は「八幡橋」。

八幡様が鎮座している。
八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

近在の「根岸八幡」が元は当地に鎮座しており、現在地に遷座後( 明和3年1766)の空白地に当社が創建。

狛犬の表情がとても豊か。
大正8年

こちらの狛犬さんは何かを咥えていますね。
兎のようにもみえますが・・・。

御大典記念碑(昭和天皇陛下即位記念碑)

八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

このひときわに大きな球体が境内で目につきます。 一瞬「機雷」?とも思いましたが、どうやら「ブイ(浮標)」らしく。

社頭に

敬神 東郷平八郎謹書

横浜海軍航空隊を軸に、飛行艇の姿を夢想しながらの散策。
色々垣間見た横浜南部の散歩でした。

「こんなに焼けたか」昭和天皇と富岡八幡宮

令和元年5月撮影・門前仲町

富岡八幡宮

「こんなに焼けたか」

東京大空襲の被害状況のご説明を富岡八幡宮境内にて聞き終えた 昭和天皇は、しばし絶句されて、立ちすくまれた、という。


天皇陛下御野立所

(おのだちしょ)

天皇陛下御野立所

昭和二十年三月十八日
戦災地御巡幸ノ際
玉歩シ此處ニ駐ノサセ給フ

東京都

昭和三十五年四月二十九日建立

昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮

昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮

 昭和19(1944)年11月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。
昭和天皇はこの年10月に靖国神社例大祭に行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。
 天皇は3月10日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。軍は天皇の抗戦のご決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執された。
 宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせ、3月18日日曜日午前9時から1時間と決定された。
 御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。
 御料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。
 天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると、大達内相の先導によって、延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。粗末な机が置かれていた。
 内相が被害状況のご説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。
 この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。
 大戦が8月15日に終結した。8月15日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮の例大祭に当たった。終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。
 新日本の再建は、富岡八幡宮から始まった。

 富岡八幡宮友の会一同
 加瀬英明

 昭和天皇は、ここ富岡八幡宮から
東京大空襲の被災地を視察されました

江戸・東京の発展と、日本の平和と発展を願い、ここに石碑を建立する
平成31年3月18日
富岡八幡宮友の会

「日本ニュース 第248号」でも、 昭和天皇の視察のようすが記録されている。

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300376_00000&chapter=001

先日、富岡八幡宮に参拝する機会がありまして、手水舎脇に新たに設立された「石碑」を拝見。
東京大空襲後の東京を、1週間後の3月18日に 昭和天皇は富岡八幡宮から御巡幸なされ、焼け野原の様子をご覧になられたという。

参拝を

灯籠は明治45年奉納。
昭和天皇御巡幸の際も石灯籠は戦災から逃れ残っていた。


天皇陛下御製

昭和天皇御製

身はいかになるともいくさとどめけり
 ただたふれゆく民をおもひて

 元侍従次長 鈴木一謹書

昭和20年8月15日 終戦時の御製

鈴木 一(はじめ)氏は、侍従長・首相 鈴木貫太郎の長男。
元陸軍主計中尉、首相秘書官、侍従次長、外務省入国管理庁長官などを努めた。

天皇陛下御在位60年奉祝記念
 大東亜戦争末期の昭和20年3月18日、
天皇陛下は、大空襲で焼土と化した東京をご視察になり、ここ富岡八幡宮境内にお立ち寄りになった。この時、 陛下は爆撃の惨状に深く御心を痛められ、その後終戦の御聖断を下されたのである。この御製は、その当時お詠みになった大御歌である。陛下の御聖徳を讃え、後世に伝えるため、ここに刻む。
昭和61年10月26日
天皇陛下御在位60年東京都奉祝委員会


天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑

この碑の歴史的な意義とは別の、お家騒動的な話は、格別には触れません。
一時期は埋められていた「宮司」の二文字も戻されておりました。

合掌。

天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑
富岡八幡宮宮司富岡長子謹書

天皇皇后両陛下には、平成24年8月12日、富岡八幡宮に行幸啓の栄を賜りました。
この行幸啓は、昭和天皇が昭和20年3月18日という東京大空襲のわずか8日後に被害状況ご視察のため、当神社に行幸あそばされたことを忍ばれてのことと拝察され、当日はご参拝の後、婚儀殿にて東京大空襲に被災した江東区民と御懇談になり、当時の体験談を熱心にお聞きになって親しくお言葉をおかけになられました。(後略)
平成26年4月26日 江東区長 山崎孝明

https://www.tomiokahachimangu.club/

http://www.tomiokahachimangu.or.jp/shahou/h2404/htmls/p05.html


富岡八幡宮の周辺にいくつか近代史的なスポットがありますのであわせて掲載。

石造燈明台

明治31年 深川公園

江東区指定有形文化財(建造物)
石造燈明台 明治三十一年在銘 一基

 日清戦争(1894~1895)の勝利を記念して、深川不動堂の境内南東地に建てられました。明治28年(1895)12月に起工し、明治31年(1899)7月に竣工しました。高さ839.4cm、最大幅373.4cmの大きな燈明台で、内部煉瓦造り、外壁には安山岩の石板が貼られています。設計及び監督技師の佐立七次郎(1856~1922)は、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の第一期生でジョサイア・コンドルに師事した日本近代建築家の1人です。成田山新勝寺にもほぼ同形状の燈明台(明治27年〔1894〕竣工)が現存します。
 外壁には奉納者・奉納団体が刻まれた石板が359点貼られています。奉納者には「団菊左時代」を築いた9世市川団十郎、5世尾上菊五郎、初世市川左団次をはじめとする歌舞伎役者や常磐津などの芸能界、土木実業組合や東京石工組合、東京株式取引所などの実業界、また魚河岸、船頭、吉原・洲崎の遊郭や割烹料理屋などがみられ、深川不動堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがえます。就航当初は上部に八角の火袋がありましたが関東大震災により倒壊しました。平成19年度に区指定有形文化財に指定され、平成20年(2008)に現在地に移設されました。
 平成21年(2009)9月 江東区教育委員会

dav
dig

明治三十七 八年役戦死者忠魂碑

日露戦争の忠魂碑
渋沢栄一謹書

たまに足を運びたくなる深川散歩でした


関連

群馬縣護國神社

平成29年9月参拝


群馬縣護國神社

支那事変に至るまでの3573柱を合祀し昭和16年に現在地に鎮座。
そののち大東亜戦争の御祭神を合せ、群馬県関係者47000余柱を祀る。
戦後一時期は「誠霊廟」「上野神社」とも称していた。

緑のトンネル参道を登っていく、高台に鎮座。佳き空間美。

維新前夜から大東亜戦争までの群馬県関係戦死者47000余柱を祀る。

感謝と哀悼を。
拝する。

御社殿の脇。
石柱と石灯籠がある空間。

特に何かの説明もない空間だけど、この場所に脚を踏み入れるのを躊躇わされる何かがあった。
きっとここは招魂斎庭かもしれない。
特別な空間であることを感じ取り、石柱の外から頭を垂れる。


御朱印

靖國神社の「靖國桜の御朱印帳」で 各地の護國神社を巡らせていただいております。


群馬県海外引揚物故者慰霊塔

昭和36年建立

昭和二十年八月十五日 大東亜戦争は吾々に敗戦の悲しみを残して終結した
祖国日本の発展を願って懸命の奮闘を続けた在外七百万の同胞は全く放棄されたのであった
海外に於ける辛苦の結晶は総て奪われ尊き人命は彼等の暴力と飢餓とによって失われてしまった
幸にも九死に一生を得て引揚げたもの貧困と病魔とが襲いかかったのである
吾々は地下に眠る県下三千四百有余の声なき犠牲者の霊を慰めんため推進委員会を設け広く引揚同志の協力を仰ぎ茲に慰霊塔を建設し謹んで物故同胞の霊に捧げるものである
昭和三十五年十二月八日
群馬県引揚者連合会
仝引揚物故者慰霊塔建設委員会


御製

御製
みそとせを へにける今も のこされし 
 うからの幸を ただいのるなり

昭和52年11月17日の日本遺族会創立30周年記念式典にて 昭和天皇より賜った御製。
碑は昭和53年に群馬県遺族の会により建立。


あゝ特攻 特攻勇士の像 

平成21年3月建立

日本は昭和の一時期、米英及び重慶支那と大東亜戦争を戦った。
自国の安全と欧米の植民地支配からアジアを開放するためだった。
戦は優勢に推移し南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島沖縄と敵の反攻を許した。
この時、一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必至の戦法が採られた。
貧しく誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十才前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。
その勇姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現在の人よ、命に代えて何を守ろうとしたか、この像に問い続けて欲しい。


鵬翼之塔

昭和40年5月5日建立

明治天皇御製
世とともに 語りつたへよ 国のため
命をすてし 人のいさおを

大東亜戦争の火が消えてすでに二十年
蒼空を仰ぐ度に、祖国の勝利を信じつつ散華した航空部隊の将兵各位を想う、雲こそわが墓標なりと肉弾となって、大陸に、北辺の空に、南溟の涯に、雄々しく羽ばたいた群馬県出身の諸士も、戦運利あらず遂に再び家郷に見えることなく、天翔ける護国の神と化した者が少なくなかった。
諸士の壮烈な殉国は、永く日本の歴史ともに語り伝えられることであろう。
幸い祖国は諸霊の加護により再び平和と繁栄を招いたが、ことある毎に日支事変・大東亜戦争において戦死された群馬県出身航空関係将兵の慰霊と顕彰が議せられ、その崇高な諸士の偉勲と忠誠を千載の世に伝えるため、ここに鵬翼之塔を建てる。
願わくば諸霊よ安らかに瞑し、折あらば空ゆく雲に座して後に続く者を照覧あれ。
群馬県航空関係戦没者顕彰碑建立委員会


平和の礎

日清日露の両戦争をはじめとし幾度かの戦争を経て太平洋戦争の終結まで約半世紀の年月が流れた
この間郷土群馬の若者は高崎部隊をはじめ全国各地の部隊に所属し北や南の遠い異国の地にまた国内の各地に身命を捧げ愛国の真心をもって戦争遂行に尽くしたのである
しかし祖国日本の安泰と繁栄を信じながら前途有為な先輩戦友が惜しくも戦没されたことに想いをよせるとき誠に残念の極みといわなければならない
一方銃後にあって困苦欠乏に堪えて食糧ならびに軍需物資の増産と輸送及び糎への慰問品発送など献身的に尽くされた方々の労苦は極めて多大であった
太平洋戦争終結から45年、平和でしかも世界各国の注目する大国としての繁栄は戦没者をはじめ国内にあって銃後を守られた方々そして終戦直後の困難をきりぬけ復興に尽くされた人々の犠牲と努力の上にうちたてられたことを思い、ここに深く感謝の誠を捧げるものである
激動の昭和時代も終り平成の時代となった今、戦争は悲惨の極みであることを痛感し平和の礎となられた英霊をはじめ多くの方々の慰霊とその功績を顕彰すると共に永遠の平和を祈念するものである
ここに同志相はかって群馬県護国神社の社頭にこれを建てる
平成2年10月30日建立

ちょうど晴れ着を纏った新婚さんがこの碑前で記念撮影をしておりました。
護国の「平和の礎」の前で、記念撮影をする若きカップル。
その碑の真意を知っているかいないかはいざ知らずですが、幸せのお裾分けをいただきました。平和に感謝です。


群馬縣護國神社 遺品館

御祭神の遺品を収蔵した建物は年に3日間の公開。
8月24日(みたま祭)
10月16日‐17日(例大祭)


群馬縣護國神社 祖霊殿(納骨殿)

平成10年建立

「祖霊殿」の高台からみた護國神社の鳥居。


高崎市連合郷友会 記念句碑

奉仕終へ 
流るる汗も 
清々し 
 金井勝太郎氏

高崎市連合郷友会
昭和30年に6000余名で発足。
会員の老齢化により各支部相ついで解散し平成21年に遂に会長一人となり、記念の句碑を建立。


嗚呼隆西丸遭難者之碑

隆西丸
昭和19年2月25日小スンダ列島バリ島沖に敵潜水艦の魚雷にて沈没。
隆西丸の乗船者6668名の内4968名、船員31名戦死。

戦没した船と海員の資料館 より 隆西丸 の記録を以下に。

http://www.jsu.or.jp/siryo/sunk/tairyou.html

http://www.jsu.or.jp/siryo/sunk/pdf/tango_ryusei.pdf


フィリピン方面戦没者慰霊顕彰碑

防衛庁長官 中曽根康弘謹書(昭和46年建立)
郷土出身陸海軍所属各部隊従軍比島方面戦没者将兵等6429柱

この碑は太平洋戦争に於てフィリッピン方面で散華した同胞四十七万六千余柱のうち、群馬県関係者六千四百二十九柱の英霊を顕彰する慰霊の碑であります。
大東亜戦争の天王山といわれた比島では、南方諸地域中、日本国でも、また群馬県でも最高数の戦没者を出した一大決戦場でありました。
顧みれば昭和十六年十二月十日、日本軍がルソン島リンガエン湾に上陸して以後、戦況が次第に苛烈となった。
昭和十八年、同十九年頃に内地より臨時召集や現役兵編入等で郷土部隊の母体(軍旗)と共に派遣されずに数百名が一単位となり、高崎連隊から或いは宇都宮・水戸・千葉その他の各連隊を始め、 海軍部隊諸基地や遠く朝鮮満州支那等の各現地部隊と共に続々と緊急南下され、途中台湾沖やバシー海峡等で敵潜水艦や空襲のため数千人が乗船したまま輸送船もろとも海中に消えた多くの将兵・軍属・従軍看護婦等を始め、昭和十九年十月レイテ島に米軍を迎撃して以来、遂に南方面の制海権と制空権を手中に納めた米軍は、総てに圧倒的優勢を誇る新鋭兵器・航空機・艦船等の絶対的物量を以て、ルソン島を始めミンダナオ島、ネグロス、セブ、ミンドロ、サマール、パラワン、パサイ、コレヒドール等の各島々に於て日本軍と対決しました。
特にレイテ、ルソン島等米軍との水際戦斗のその日から、 各兵団諸部隊は肉弾斬込み戦を繰返し山岳戦に至るまで悪戦苦闘し、全諸島に渡り将兵等は、ひたすら祖国日本を直接戦場にしてはならぬと胸に堅く誓い、悪条件の下爆弾を抱いて特別攻撃機となり、又は人間魚雷となって全機全員敵艦に体当りし、或いは人間爆弾となり、むらがる敵戦車に飛び込み、深山幽谷の地に或は南海の孤島に空に海に一塊の肉片も残さず散華、爆弾食料の補給全く途絶し、道なき熱帯のジャングルに分け入り、困難辛苦、飢餓と風雪にさらされ、勇戦奮斗むなしく戦傷やマラリヤ赤痢等の悪疫に尊くも斃れ、或は自決、血を血で洗う鬼哭啾々たる戦場で激斗の末、最後の突撃を敢行して全員玉砕するなど全滅的運命となり遂に護国の神となられたが、戦争の結末は敗戦という烙印を押され総ては無言の中に終了しました。
二度とこのような戦争を繰り返してはなりませんが、戦後二十有余年を過た今日に到ってもこの戦没英霊を讃る事は充分でなくすごして参りました。
然し平和を完全に取り戻した現今、この尊い殉国の犠牲、鬼神も泣く無言の戦没諸兄の武勲を顕彰し、御霊の御冥福を祈り、その勲功を永久に讃え奉るものであります。
昭和四十六年三月二十一日
フィリピン方面戦没者慰霊顕彰碑建立委員会


義勇軍之碑

昭和42年5月建立
群馬県出身元満州開拓青少年義勇軍生存者一同 亡き拓友の霊を護国神社の丘に祀る。


軍馬忠魂碑

この碑は元高崎部隊営庭に建立されしが大東亜戦争後同兵営の解放と共に荒廃 久しく顧みられざるにより…当神社境内に移設。
群馬県戦没軍馬三千有余頭の霊を此処に鎮め永く其の忠魂を讃えんとする。
(昭和27年)


傷痍軍人之碑

昭和57年建立

嘗ての大戦で戦線に立ち傷痍の身となって生死の境を彷徨した軍人たち。 国家のために戦い民族を守るために受けた傷病であるという鉾持。
戦没された英霊を慰霊顕彰するとともに戦傷病者の悲願を永く伝えるべく建立された碑。


高崎公園

高崎城址の南に展開されている公園は意外と歴史が古く、明治9年(1876)に造園されたという。
公園入口の石柱は大正4年の銘がある。


英霊殿跡
(群馬縣護國神社創建前の招魂社・高崎公園内)

明治42年、このところに英霊殿が建立され、昭和16年群馬縣護國神社創立に至るまで、毎年官民合同の群馬県招魂会によって盛大な招魂祭が営まれた。
昭和55年4月吉日
群馬縣護國神社
群馬縣護國神社奉賛会
英霊にこたえる会群馬県本部
歩十五会

今は長閑な公園であれど、かつては祭祀の場であったと思うと感慨も深く。

大阪護國神社

平成29年(2017)参拝

大阪府に戦没者の御霊を恒久的に奉斎する神社がなかったために、昭和15年に内務大臣指定護國神社として創建。

御祭神
明治維新前後の天誅組8柱をはじめ、西南の役、日清日露戦争、大東亜戦争に至る大阪にゆかりのある10万5600余柱の英霊を祀る。

敗戦後は進駐軍の監視のもとで慰霊祭が禁止され、社号も改称せざるを得なく、大阪浪速興隆の礎を築かれた仁徳天皇を祀り「浪速宮」と改称して存続。

昭和27年のサンフランシスコ講和条約締結後に「大阪護國神社」に復称。奉安殿に仁徳天皇をまつり、相殿には東郷平八郎元帥を御遺髪とともに祀っている。

御朱印

大鳥居

大阪府最大級の鳥居

昭和15年の社号標

御社殿

10万5600余柱の英霊を祀る

奉安殿

仁徳天皇 東郷元帥を祀る。

ほまれの宮

御英霊と深い絆で結ばれ亡くなられた戦友やご家族の皆様を御英霊のおそばでお祀りするお社。


さざれ石

母に感謝の像

辛い時 悲しい時
 何時も 私達を
力強く抱きしめ
 励まし育ててくれた
母の姿を
 忘れてはならない
お母さん
 ありがとう

財団法人 日本遺族会
 会長 古賀誠 書


あゝ特攻 特攻勇士之像

平成21年10月建立

特攻勇士に捧ぐ
 大東亜戦争の戦局が一段と厳しくなった昭和19年10月以降、多くの若者が愛する祖国と家族を護るために一命をなげうち、わが身もろとも敵艦に体当りする特別攻撃を敢行、遥かな南の空や海に散華されました。
 私たち「特攻勇士の像を奉納する会」一同は、大阪府ご出身の五百余の特攻戦士を慰霊しその功を永く伝えるため、像をここ大阪護國神社に建立いたしました。この像を仰ぐ方々が、若者たちが身命をかけて崇高な「日本人の心」を実践したこと、そして今日の平和と繁栄はその尊い死の上にあることに、ぜひ思いを致されんことを、一同こい願うものであります。
 平成21年10月24日
  (財)特攻隊戦歿者慰霊平和祈念協会
   日本人の心を伝える会
   碑文・揮毫 吉田 學
   慰霊碑像デザイン 塚本 哲


慰霊碑

大阪護國神社のサイトを参照

http://www.osakagokoku.or.jp/publics/index/84/

慰霊碑は東西の区画にわかれている。

大日本帝国海軍
海軍関係戦没者 慰霊碑

碑文
 明治初年に創設され、その後幾多の輝かしい歴史と伝統を保有し、わが国の栄光と国威の象徴として、国民に尊敬され親しまれた日本帝國海軍は、さきの太平洋戦争において善戦空しく敗れ、昭和20年8月15日の終戦と共に、その八十年の長い歴史を閉じた。
 この戦において、四十万余の海軍軍人・軍属が、その貴い生命を祖国に捧げて勇戦奮闘の末、国の御楯として散華した。
 大阪を中心とする近隣府県在住の海軍関係生存者ら有志相寄り相図り、ここ大阪護国神社の聖域に慰霊の碑を建立した。
 海軍を弔い、永遠の平和を希求し、戦没者に心から慰霊の誠を捧げ、以ってその芳勲を千秋に伝えんとするものである。
  昭和60年5月
   海軍関係戦歿者慰霊碑建立委員会
    委員長 岡山幸男

建立・管理建立委員会委員長 岡山幸雄
揮毫者大阪護國神社宮司 柳澤 寮
建立年月日昭和六十年六月
慰霊祭の主催者水交会
祭神数五四,○○○柱

豫科練 
貴様と俺と翼の碑

碑文
 昭和5年に、すぐれた飛行機搭乗員の養成は英才の早期教育に俣つとの観点より「海軍飛行予科練習生」の制度が創設され、昭和12年には甲種、乙種、その後丙種、特乙種の修業課程が定められた。国を愛し空に憧れた少年達が全国各地はもとより遠く海外にあった者も勇躍志願をしたのである。
 予科練出身搭乗員は、昭和12年8月、日支事変に於てその初陣を飾って以来、太平洋戦争では名実ともにわが航空戦力の中核となって、嚇々たる武勲をたてたのであるが、戦局利あらず本土決戦の秋来るや、祖国日本の弥栄を信じ一死もって国難に殉ぜんと相ついで航空、水上、水中特別攻撃隊員となり、空に海に敢然として散華していった。
 我ら元予科練習生は終生そのきづなを深め、この聖地に名を連ね、英霊の顕彰と昭和の御代に「予科練」という紅顔のさきがけありと後世に伝え、世界の平和と子孫の繁栄をこい希い本碑を建立する。
 嗚呼
昭和57年12月5日
 関西甲飛会 建立

建立・管理関西甲飛会
建立年月日昭和五十七年十二月
慰霊祭の主催者関西甲飛会
祭神数一八,○○○柱

鎮魂 
第三十四師団通信隊

第34師団は昭和14年(1939)に新設。大阪にて編成。中国戦線に派遣される。

建立・管理健通会
建立年月日昭和五十九年三月
慰霊祭の主催者健通会
祭神数八八柱
軍馬・軍鳩之碑

つわもの之碑 
野砲兵第二十六聯隊

建立・管理野砲兵第二十六連隊
揮毫者陸軍少将正四位 吉富徳三
建立年月日昭和五十年四月
慰霊祭の主催者野砲二六会
祭神数四,三七七柱
軍馬之碑

龍山歩兵第七十九聯隊
戦友はここに眠る之碑

建立・管理歩兵第七九戦友会
揮毫者山崎孝三
建立年月日昭和五十七年四月
慰霊祭の主催者歩七九会
祭神数一八,○○○柱

慰霊
海軍第一期 飛行専修予備生徒慰霊碑

 海軍第1期飛行専修予備生徒は、戦雲急を告げる昭和18年12月10日、学業半ばにして臨時現役兵として應召し、各海兵団を経て、三重及び鹿児島の海軍航空隊に於て基礎訓練を受け、中練教程の後、予備士官として実戦に参加した。
 主として沖縄特攻、その他数々の戦場に於いて我々は同期165名を失った。
 戦後30年ここにその名を銘記し、今は亡き戦友の御霊を永遠に弔うものである。

建立・管理海軍第一期飛行学生
建立年月日昭和五十一年八月
慰霊祭の主催者一生会
祭神数一六五柱

サイパン島戦没者慰霊碑

明治二十九年、歩兵四十聯隊は大阪歩兵二十聯隊に仮兵舎をおいて聯隊本部を設置したことに始まる。
明治三十年に大阪から鳥取に転営。
大東亜戦争では歩兵第四十聯隊第三大隊がサイパンで玉砕。本体は本土決戦準備のため宮崎へ移動、そこで終戦を迎えた。

建立・管理サイパン奉賛会
揮毫者鳥取四十連隊長 愛甲立身
建立年月日昭和四十五年五月
慰霊祭の主催者サイパン奉賛会
祭神数五○,○○○柱

海軍大尉 粟井俊夫之碑

粟井俊夫命
神風特攻第三筑波隊にその名が確認できる。
飛行科予備学生第14期。 昭和20年4月16日に沖縄方面の機動部隊に対して特別攻撃を敢行。

建立・管理粟井岩吉
建立年月日昭和四十四年五月吉日

慰霊
独立輜重兵 第五十四大隊慰霊碑

昭和16年に大阪にて編成。東北満州の警備に当たる。昭和19年3月に中国戦線に転戦し、終戦。

建立・管理独立輜重兵第五十四大隊
建立年月日昭和五十二年八月
慰霊祭の主催者独立輜重兵第五十四大隊
祭神数六三九柱

歩兵第二百十七聯隊之碑

第34師団隷下。昭和14年に大阪にて編成。

建立・管理歩兵第二百十七連隊
揮毫者内閣総理大臣 田中角栄
建立年月日昭和四十八年三月
慰霊祭の主催者歩二一七会
祭神数二,三○五柱
軍馬・軍犬・軍鳩之碑

歩兵第十四聯隊之慰霊碑

明治8年に小倉で創設。昭和15年以降の徴募区は大阪を主体とする。昭和20年4月、本土決戦部隊として宮崎に進駐、終戦を迎える。

建立・管理大阪勝山会有志
建立年月日昭和六十三年十一月
慰霊祭の主催者大阪勝山会
祭神数七一一柱

騎捜会
鎮魂之碑

建立・管理騎捜鎮魂会
騎兵第四連隊
捜索第四連隊
騎兵第二十八連隊
捜索第二十連隊
ほか
揮毫者大阪府知事 岸 昌
建立年月日昭和六十年十月
慰霊祭の主催者騎捜鎮魂会
祭神数一,四○○柱
愛馬之碑

鎮魂
歩兵第二百十六聯隊鎮魂碑

建立・管理歩兵第二百十六連隊戦友会
建立年月日昭和五十二年九月
慰霊祭の主催者歩二一六会
祭神数二,三六二柱
軍馬・軍犬・軍鳩之碑

歩兵第百八聯隊
つわもの之霊
ここに鎮まる

建立・管理歩兵第百八連隊
揮毫者服部敏夫
建立年月日昭和五十三年十月
慰霊祭の主催者歩百八会
祭神数一,三○○柱

騎兵第四聯隊慰霊碑

建立・管理騎兵第四連隊
揮毫者大槻 章
建立年月日平成六年十一月
慰霊祭の主催者
祭神数三,○○○余柱

歩兵第三十七連隊慰霊碑

建立・管理歩兵第三十七連隊
揮毫者陸上幕僚長 杉田一次
建立年月日平成五年十一月
慰霊祭の主催者歩三七会
祭神数二,○○○余柱

檜 第六十八師団
慰霊碑

建立・管理檜第六十八師団
慰霊碑建立委員会
揮毫者大場軍勝
建立年月日昭和六十二年十一月
慰霊祭の主催者檜会
祭神数一○,六七二柱

平和の礎 歩兵第八連隊之慰霊碑

建立・管理歩兵第八連隊
揮毫者大阪護國神社宮司 柳澤 寮
建立年月日平成元年五月
慰霊祭の主催者歩八会
祭神数二,七○○柱

信太山砲四会之碑
鎮魂

建立・管理信太山砲四会
建立年月日昭和五十七年四月
慰霊祭の主催者信太山砲四会
祭神数七,五○○柱
愛馬の碑

香8114部隊の碑
殉國の英霊 このところに鎮まる

建立・管理独立歩兵第六十七大隊
第四中隊
揮毫者中山二郎
建立年月日昭和五十三年八月
慰霊祭の主催者香親会

塩沢幸一題
皇風洽六合 明徳侔太陽之碑

塩沢幸一海軍大将。海軍兵学校第32期。同期は堀悌吉、山本五十六、吉田善吾、嶋田繁三郎ら。日米開戦時は軍事参議官。山本五十六戦死時に国葬の司祭長を勤めた。昭和18年11月に病死。

建立・管理岡本忍一
揮毫者海軍大将 塩沢幸一
建立年月日昭和十七年八月

参拝は2月下旬。境内には梅が咲きつつある春間近な季節。
御英霊に感謝と哀悼の祈りを捧げつつの参拝。

ありがとうございます。

新宿戸山の戦跡散策

平成30年8月

新宿区戸山・戸山公園を中心としたエリアの散策。
陸軍戸山学校など。

新宿戸山散策

平成30年8月19日、新宿区戸山界隈を散歩してみました。
主たるポイントは「陸軍戸山学校」、現在の戸山公園を中心としたエリア。
以下、連々と写真を展開。


位置関係

今回の散策コースはこんな感じ。

JR新大久保駅スタートで戸山公園を経て都営新宿線・曙橋駅。
これでザックリと約8キロ。 所要時間は2時間半程度。歩数は約13000歩でした。

今昔マップ on the web さんで当時の様子を参考に。

東京西部(戸山) 昭和4年二修/昭和6年6月30日発行。
今回のポイントを黄色で示してみました。 エリア的にはこんな感じ。

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.702704&lng=139.713744&zoom=15&dataset=tokyo50&age=2&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2


海城中学校・高等学校

古賀喜三郎(海軍少佐)によって明治24年に海軍兵学校へのエリート人材育成の為の海軍予備校として創立。

海城とは戦艦を意味する古語に由来。

明治33年に海軍省の要請により海城学校と改称。
現在も海軍以来の伝統として「質実剛健・リベラルでスマート」な校風を標榜している。

海城のクスノキ

昭和2年に霞が関から当地に学校が移転して来たのちに植えられたものであり「海城のシンボル」として大切にされている。


海城から東に。

都立戸山公園大久保地区の南端にさしかかります。
このあたりは射撃場跡。

「今昔マップ on the web」より
(東京西部1/25000 昭和20年部修・昭和22年7月30日発行)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」より
(ファイル名8911-C2-82/昭和19年10月16日陸軍撮影)

射撃場土塁跡

都立戸山公園大久保地区の南端に土塁が残ってる。
「射撃場土塁跡」
射撃場の周りは土塁で囲まれており、その名残。

前述中心部の画像や地図で射撃場の場所に見える東西に細長く連なる建屋は昭和3年完成の屋根で覆われた射撃場。
周辺住民への配慮として流れ弾防止や騒音抑制の為に設けられたという。

戸山の射撃場土塁跡と陸軍境界石

射撃場の土塁がまさに境目。
コンクリート壁と一体化するように陸軍境界石も残ってました。

戸山の射撃場土塁跡
都立戸山公園大久保地区の南端の土塁から連なるように道を挟んだ東側の「西大久保住宅」の南側にも土塁が残っている。

黄枠の部分が土塁が残っているエリア

明治通りを北上し、低地へと下るエリアを東に向かう。

地図で見ると現在は唐突に細長く住宅地が拡がる。
当時は南北を陸軍施設に挟まれる区画。ここもかつての射撃場跡。

陸軍戸山学校射撃場跡

そのエリアに降り立てば周辺が高台となっており射撃場は低地にあったことがわかる。


明治通りを北上すると右手に赤い鉄門が見えてくる。

学習院旧正門(国指定重要文化財)

明治10年、当時の華族学校(現学習院)の正門として建立。川口の鋳物工場で製作された唐草模様をあしらった和洋折衷の鉄門。

昭和25年に現在地に移転。現在は学習院女子大学などの正門として使用。


明治通りと諏訪通りの交差点。 東に行けば学習院女子、西に行けば諏訪神社。

新宿ノ諏訪神社

弘仁年中(810~820)創建と伝わる古社。
現在の社殿は昭和55年造営。 境内にある宮神輿庫はコンクリート造の校倉造という珍しいもの。

諏訪の霊水

「新宿ノ諏訪神社」 境内には「明治天皇射的砲術天覧所阯碑」がある。

明治天皇射的砲術天覧所阯碑

明治15年、神社南の「近衛射的場」に、 明治天皇の行幸があり境内より射撃演習を天覧。その後も射撃場にみられる各宮殿下が諏訪神社社務所でご休息遊ばれたという。境内地の天覧高台は昭和18年に東京都より行幸史跡に指定。

明治天皇の天覧を記念し、諏訪神社御社殿の向拝の蟇股には菊の御紋を掲揚。
また、拝殿内に掲げられている神号額は小松宮彰仁殿下の御真筆という。
写真の拝殿の外側の神号額は佐文山(佐々木文山・江戸時代中期の書家)によるもの。

今回の参拝では御朱印を戴いておりませんでした。 (前回戴いたものを掲載)


新宿ノ諏訪神社のかつての別当寺であった玄国寺(真言宗豊山派)に。
こちらへは近代史的な話題で寄り道を。 境内案内の記載をよく見ると 「文化財 岩倉具視邸(現書院)」とありますね。気になります。

岩倉具視邸

玄国寺 「岩倉具視邸(現書院)」
元勲岩倉具視の旧邸の一部を大正年間?に移築したものという。和洋折衷の建築物。現在も寺院の庫裡として使用されており内部は非公開。

さて、本筋に。

近衛騎兵連隊

学習院女子大の方に向けて歩んでいく。
本当であれば学習院女子大の中にある「建造物」を見学したいが女子大ゆえに見学難易度は高そうなので別の機会?に。

学習院女子大には近衛騎兵連隊兵舎炊事所が残っており近衛騎兵聯隊之碑がある。画像は煉瓦壁とGoogle Earthを参考まで。

馬場下町交差点。わかりやすく言うと穴八幡の交差点。

三朝庵(閉店済)

この交差点の角に100年以上に渡り歴史を伝えてきた蕎麦屋があった
(過去形・・・)

「三朝庵」
元 近衛騎兵連隊 御用
元 大隈家 御用

残念ながら平成30年7月31日でもって閉店・・・。
ここへ訪れるのがあと一歩遅かったです、残念です。

別の日(令和2年)に撮影。コンビニになっておりました。。。

今回は時間の都合で穴八幡宮は社頭で遥拝。

高田馬場の流鏑馬の時代から、近衛騎兵聯隊まで。
馬つながりを感じつつつ。

穴八幡の南西にある箱根山を目指します(都立戸山公園箱根山地区)

陸軍戸山学校の野外演奏場跡

都立戸山公園箱根山地区
「陸軍戸山学校の野外演奏場跡」

気持ちよさそうに寝そべった方が居りました。 写真どうしよっかな…と悩みながらなるべくじゃまにならないようにパチリを。

この場所が野外演奏場(野外音楽堂)
陸軍戸山学校では軍楽隊の訓練も行われていたとのことで。

箱根山 陸軍戸山學校阯

都立戸山公園箱根山地区
「箱根山 陸軍戸山學校阯」

陸軍戸山学校
明治6年(1873)6月、旧尾張藩下屋敷跡に陸軍兵学寮戸山出張所が設置
明治7年2月、陸軍兵学寮戸山出張所を陸軍戸山学校と改称
大正元年(1912)9月、戦術科、射撃科、教導大隊が陸軍歩兵学校として分離独立
昭和20年9月10日、閉校

箱根山 陸軍戸山學校阯

この地は和田戸という武士の館の跡で源頼朝が源氏の勢ぞろいをした所と伝えられ後代和田戸山と呼ばれた
寛文年間尾張徳川侯の下屋敷となり殿堂宮祠等かずかずの建物と箱根山を中心とし東海道五十三次に擬した風雅な庭園が造成された
明治六年その地に兵学寮戸山出張所が設けられ翌明治七年陸軍戸山学校と改称されて以来約七十年にわたって軍事の研究教育が行なわれ国軍精強の基を培ったばかりでなく国民の体育武道射撃音楽の向上に幾多の寄与をした記念すべき地である
この度東京都がこの地に緑の公園を整備されるにあたってこの記念碑を建てて東京都に贈る
昭和四十二年十一月
元陸軍戸山学校緑故有志一同

箱根山地区の歴史
(略)
明治七年(1874)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦後は国有地となりその一部が昭和二十九年から今日の公園となった。
陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている。

戸山公園
箱根山 標高44.6m

「登頂証明書」は戸山公園大久保地区のサービスセンターにて。 (貰いそこねました)
山頂から見える建物を近くでみてみましょう。
陸軍戸山学校の名残の建造物。

陸軍戸山学校将校集会所

「陸軍戸山学校将校集会所」(戸山公園箱根山地区)
戸山学校時代は将校集会所として使われていたという建造物。
現在は「戸山教会・戸山幼稚園」として使用されている。
この半地下式の石造りの部分が将校集会所の跡とされている。

「陸軍戸山学校将校集会所跡」(戸山公園箱根山地区)
現在は戸山教会及び戸山幼稚園として現役。
常識の範囲内で見学を。


陸軍軍医学校跡

戸山公園の隣の区画
現在は「国立感染症研究所」「国立健康・栄養研究所」などがある地は、かつての「陸軍軍医学校」(昭和4年に麹町より移転) の地であった。

この軍医学校跡地からは国立感染症研究所(当時は前身の国立予防衛生研究所)建設に際して大量の人骨が発見されたりもしている(1989年)。

現在の国立国際医療研究センター研究所のある場所。

当時の「陸軍軍医学校」の向かい側には「陸軍第一病院」があり「陸軍軍医学校」とは地下でつながっていたという。
その地下道の入り口とされる場所。 なにやら塞いだ感に溢れてますね・・・。

戸山「陸軍軍医学校」と「陸軍第一病院」

うっすらと「医療…」と書かれた御影石。
これも「陸軍軍医学校」の名残かどうか
向こう側には「陸軍第一病院」地下道出入り口が見える。


戸山から牛込まで南下。
奇しくも海の海城から陸の成城への散策。

成城中学校・高等学校

明治18年(1885)創立。当初は文武講習館として、築地に創立。軍人志望の少年の養成にあたる。
明治19年に「成城学校」と改称し陸軍士官学校・陸軍幼年学校への全寮制予備校となる。明治24年に現在地に移転。

牛込までくればアンテナが見えてくる。

市ヶ谷の防衛省。
かつての陸軍士官学校。

そのまま南下すれば都営地下鉄の曙橋駅。
今回の新宿区戸山界隈の散策はこれで〆

空母赤城と赤城神社

平成28年(2016)9月撮影

空母赤城に関係する神社を。

大洞赤城神社・旧鎮座地。
社頭向かって左側にある「碑」

大日本帝国
軍艦赤城奉納碑

境内地は立入禁止ゆえ望遠トリミングで。

奉納は昭和10年10月とのことです。

「赤城」の関係者が奉納した歴史を感じつつ、往時を偲ぶよすがとして。

大洞赤城神社・旧鎮座地

昭和45年(1970)現在地に遷座するまでは大洞赤城神社はこの地に鎮座していた。
現在は旧地として空間が残っている。

尚、旧社地は立入禁止。外側から遠巻きに拝見させていただく。 

大洞赤城神社・現鎮座地

大洞赤城神社

群馬県前橋市富士見町赤城山に鎮座。
式内名神大社論社、上野国二宮論社、旧社格は郷社。
正式な社号は「赤城神社」であるが、他の赤城神社との区別のため「大洞赤城神社」と呼称。

御祭神
正殿 赤城大明神
大国主命・磐筒男神・磐筒女神・経津主神

創建年代は不詳。社伝では豊城入彦命(崇神天皇皇子・上毛野君や下毛野君の始祖)が上毛野を支配することになった際に山と沼の霊を奉斎したと伝承。

平安時代中期編纂の「延喜式神名帳」では名神大社として「上野国勢多郡 赤城神社」の記載あり。
ただし式内論社としては赤城山頂に鎮座する当社「大洞赤城神社」のほか、山腹の「三夜沢赤城神社」、山麓の「二宮赤城神社」もある。

当社は赤城神社の「山宮」とされている。 「里宮」とされる二宮赤城神社に対して、三夜沢赤城神社も「山宮」とされる説もあり、このあたりの三社の関係はややこしい。

明治の近代社格制度では郷社列格。 (なお三夜沢赤城は県社、二宮赤城は郷社)
三夜沢・大洞・二宮の三社を合わせて「国幣中社」にしようとする動きもあったが、終戦により社格制度が廃止され、これは実現はしなかった。

昭和45年(1970)。
社殿が荒廃したために、大沼南端の畔の旧社地(大洞地区)より、現在地の小鳥々島に遷座。
現在の社殿はその時の再建となる。


三夜沢赤城神社
赤城会奉納札

空母赤城会の奉納。 (赤城空母会とも)

三夜沢赤城神社

群馬県前橋市三夜沢町鎮座。
式内社名神大社論社、上野国二宮論社。旧社格は県社。 赤城三社のうち(二宮・大洞・三夜沢)で、当社が唯一の県社列格。
御祭神は、赤城神・豊城入彦命・大己貴命

創建は不詳。
崇神天皇の皇子・豊城入彦命が上毛野国を支配することになった際、大己貴命を奉じたのに始まるとされる。
豊城入彦命は上州の上毛野氏・下毛野氏の祖。

崇神天皇の長男であった豊城入彦命がどうして東国に派遣されたか。
書記曰く。
崇神天皇が皇太子を定める際に豊城命(とよきのみこと)と活目尊(いくめのみこと)を呼び寄せ「皇太子を決めかねている。お前たちの見た夢で占うことにしよう」と仰せられた。

夢を見た翌日の報告
兄の豊城命は「自ら御諸山(三輪山)に登り、東方に向かって八回槍を突きだし、八回矛を突きだし、八回刀を打ち振りました」と申し上げた。
弟の活目尊は「自ら御諸山の嶺に登り、縄を四方に引き渡し、粟を食べていた雀を追い払いました」と申し上げた。

崇神天皇は夢占いをなされて、
「兄は東方に向かって武器を振るっていた。だから東国を治めるがよい。弟は四方に臨んでいた。まさに私の跡を継ぐのに相応しい」と仰せられた。
そこで弟の活目尊を皇太子(のちの垂仁天皇)に立て、兄の豊城命は東国(毛野国=上州)を治められた。

崇神天皇といえば、大和朝廷の権力を周辺に拡げていた時代。

すなわち四道将軍を任命し、大毘古命を北陸に、建沼河別命を東海に、吉備津日子命を山陽(吉備)に、日子坐王を山陰(丹波)に派遣。 出雲臣に圧力をかけ神宝を提出させ、三輪と伊勢の祭祀を整理し…と強権を振るっていた。

大和に従わない東国に対して。
四道将軍として大毘古命(孝元天皇皇子)を北陸道に、建沼河別命(大毘古命の子)を東海道に派遣、この両者が出会った場所が「会津」(福島県)となる。
そして武勇に優れた崇神天皇長男・豊城入彦命を更に東国に派遣し、毛野国から蝦夷ににらみを働かせる。

第10代崇神天皇は東国に皇子・親戚たちを派遣。
次代は四方を見渡し治世に優れていた弟・活目尊(のちの第11代垂仁天皇)が皇位を継ぐ。
兄・豊城入彦命が治める東国はまだまだ平定に時間を要し、こののち第12代景行天皇の皇子・倭建命(日本武尊)の東国派遣へと繋がっていくのだ。

三夜沢赤城神社・御本殿(県指定重要文化財)

社殿は、拝殿・中門・本殿となっており、本殿はより高台に鎮座。
本殿内には由良成繁(新田四天王由良具滋の末裔・新田金山城主)奉納の宮殿が納められている。

神社は好きだけど、本筋から外れるので簡単に〆

観音崎の戦跡散策(横須賀)

令和元年(2019)5月11日撮影・横須賀市

戦没船員の碑

午前中に「馬門山横須賀海軍墓地墓前祭」に参列し、午後はフリータイム。
一緒に行動していた友人から一言「観音崎行ったことある?」

実はわたしはまだ観音崎に行ったことがなく。事前調査で情報量が多すぎて怖気づいていたもので、この方面は「走水」まででした。

良い機会でしたので友人と「まずは斥候の気持ち」で「観音崎」に赴くことに。
結果としては、予想以上の情報量に圧倒されてしまい。

そんなわけで、今回がはじめての観音崎。
いろいろと散策が甘いかと思いますが、そこは諸先輩の後塵を拝しながら、初見のレポを以下に。

位置関係

USA-M46-A-7-2-120
1946年02月15日‐米軍撮影

午前11時スタート

駐車場に車を止めて、散策開始。止めた場所は「観音崎自然博物館」の近く。つまり観音崎の南側。あとから思えばこの判断が失敗だったような。

観音崎公園の案内図

れんが構造物のマークもついているのが散策にはありがたいですね。

トーチカ跡?

まずは多々良浜近くの「トーチカ?」とされている海岸のコンクリート構造物を拝見。

南側の駐車場から一気に踏破をして、「戦没船員の碑」を目指します。この場所が実は前々から気になっていた地。駐車場も直線距離で一番近いところが南側だったので南に止めたというのもあったが、どうやらそれが失敗だったようで、直線距離が近い=急勾配。完全にトレッキングでした。

なお、墓前祭に参列したあとでしたので、革靴とワイシャツと・・・という格好。この格好で観音崎はダメですね。しかし動き出してしまったのであとの祭り。

戦没船員の碑

かつて第二次世界大戦や海難事故の犠牲となり海洋で失われた6万余人の船員たちの霊を慰める慰霊碑。

戦没船員の碑建立記

昭和12年7月に端を発したさきの戦争において、わが国の海運水産界は6万余人に及ぶ尊い船員の生命と2500隻840万総トンを超える船舶を失うというまことに大きな犠牲を払いました。
それから25年、わが国の海運水産界は再び隆盛をとりもどし昔日にまさる反映をみるに至りましたが、私どもはこれら多くの戦没された船員の労苦を偲びその霊を慰めるとともに世界の海に二度とこのような悲劇をくり返さないように致さねばなりません。
こうした私どもの願いは昭和44年7月財団法人戦没船員の碑建立会の発足となり、多数の人びとの協力を得てここに記念碑を建て、戦没船員の名簿を納めることになりました。
見渡す限りの大海原、変わることのないこの大自然を前にして、この地を訪れる人びとと、また沖をゆく船の人びとと共に心をあわせてこの記念碑が永遠の平和の光となりますよう深い祈りを捧げるものであります。

昭和46年3月25日
財団法人 戦没船員の碑建立会
会長 足立正

殉職船員追悼式の記

昭和46年5月6日この碑前において 皇太子同妃両殿下ご臨席のもとに全国遺族代表を招いて戦没船員追悼式を挙行し、以来毎年5月に式典を実施して参りました。
近来海難殉職船員の慰霊に対する要望が高まって参りましたので本年4月財団法人日本殉職船員顕彰会を設立し本日第一回殉職船員追悼式を執り行ない、以後5月15日を式日と定めて戦没海難全殉職船員の労苦に思いをいたしそのみ霊を慰めるとともに海洋永遠の平和を祈る式典を行うことにいたしました。
この追悼式には、大戦中輸送船船長として活躍された宮越賢治氏の自作能「海霊」が、鎮魂と平和を祈念して奉納されます。
殉職船員追悼式が、わが国民の海洋精神高揚の一助となって海洋立国の認識を深めることを切に念願するものであります。

昭和56年5月15日
財団法人日本殉職船員顕彰会
会長 佐々木周一

戦没船員の碑

 第二次世界大戦や海難事故の犠牲となって海洋で失われた、6万余人の船員の霊を慰め、かつ永遠の平和への願いを込めて設けられました。
 高さ24メートルの白磁の大碑壁を中心に、天皇陛下御製碑、皇后陛下御歌碑のほか、かつての練習船の錨などを配し、太平洋を望む格好のモニュメントとなっております。

設計/東京藝術大学教授 吉村順三
群像/東京藝術大学教授 菊池一雄

その後の進徳丸

 神戸商船大学構内に保存されていた進徳丸は、平成7年1月17日、阪神・淡路地方を襲った大震災により、設置地盤が崩壊したため、老朽化していた船体は解体撤去されることになり、平成8年2月、多くの人々に惜しまれつつ、その波乱に満ちた障害を閉じました。
 解体された進徳丸の船首とマストは、神戸商船大学の「進徳丸メモリアル」に残りました。

進徳丸
1923年に竣工した神戸高等商船学校の帆船練習船。
帆船練習船として21年、汽船練習船として16年、約1万1900名の船員を養成した。
太平洋戦争中は逓信省海務院の管轄。昭和19年に帆船から汽船に改良。石炭輸送従事中の昭和20年7月24日に米軍艦載機の攻撃で着底。昭和21年に引き上げ。その後は引き揚げ輸送や練習船として活躍し、昭和38年に廃船。

戦没船員の碑
 安らかに ねむれ わが友よ
 波静かなれ とこしえに

海に没した船員たちの御霊に合掌。
感謝と哀悼を。

戦没の地、太平洋。船員たちが活躍した舞台が描かれている。

群像

船員と人魚

戦没船員の碑
御製碑
御歌碑

天皇陛下御製 
 戦没船員の碑

戦日(いくさび)に 逝きし船人を
悼む碑の彼方に見ゆる
海平らけし

天皇陛下には、平成4年1月20日
皇后陛下とこの碑に行幸啓遊ばされ、お詠みになられました。

皇后陛下御歌
かく濡れて 遺族らと祈る
更にさらにひたぬれて
君ら逝ゆき給ひしか

観音崎戦没船員の碑除幕式
激しき雨の中にとり行はれぬ

皇后陛下御歌 副碑
昭和46年5月6日
皇太子同妃両殿下の行啓を仰ぎ雨降りしきるなか戦没船員追悼式を執り行いました
御歌はその時賜ったものです
御心が末永く語り継がれることを念願いたします。

行幸啓お成りの碑

記載以外でも葉山御用邸と併せて、この地に足を運ばれることもある。
直近だと平成31年1月に 天皇皇后両陛下が慰霊のために訪れている。8回目。

公益財団法人 日本殉職船員顕彰会

http://www.kenshoukai.jp/index.htm

民間徴用船の参考(こちらにも行きたいのです)
「戦没した船と船員の資料館」全日本海員組合

http://www.jsu.or.jp/siryo/


大浦堡塁跡

戦没船員の碑のすぐ近く。
明治期の堡塁跡。「大浦堡塁(ほうるい)」の跡に、戦没船員の碑が建立されている。現在は、面影はほとんど残っておらず、「壁」と「階段」が残るのみ。


めがね橋

めがね橋は、明治時代に軍が資材運搬用の道路として切り開いた道に架けた橋で、初代のものは下図に示す、れんがによるアーチ構造であり、それが名前の由来になったようです。
現在の橋は、昭和40年台に架けた2代目のもので、一般的な鋼材による桁構造となりました。当時のれんがはは次第の一部に残っています。

dav

腰越堡塁(うみの子とりで

明治期の堡塁。現在は子供たちの遊び場「うみの子とりで」
かつての東京湾防御陣地が、アスレチック公園として有効活用。大人も子供も楽しめる場は、ある意味で史跡空間の有効活用かもしれない。

土塁への階段
砲座跡?

三軒家砲台跡

三軒家砲台跡
この砲台は明治27年12月15日着工、明治29年12月20日完成の27加砲4門12加砲2門の砲台で原形に近い形で残されています。
地下庫、見張所、井戸、便所等もありましたが昭和9年8月20日廃止されました。

三軒家園地 旧砲台跡
見張所へ続く階段
見張所
見張所
門柱
門柱金具
後方掩蔽部の入り口
弾薬庫は地下に。入り口。
後方掩蔽部の掘割通路
二十七センチ加農砲座の空間
二十七センチ加農砲座の空間
見張所へとつながると思われる階段
便所跡
井戸跡
イタチの通り道・・・ではなく伝声管を通す穴

完全に油断していました。比較的お手軽に見学できる遺構が残っていると聞いて言いましたが、これほどの規模が残っていて、見学できることに興奮気味。
もっと早くこの地に足を運んでおくべきでした。


三軒家砲台跡からいったん下に降りまして。
パークセンター方面に移動する途中、門柱の片側のみ残っていました。


観音崎砲台火薬庫
(パークセンター)

構造について
パークセンターの建物は、日清戦争の後、明治31年に旧日本陸軍が東京湾要塞の観音崎砲台の火薬庫として整備したものです。
構造は「木骨れんが造」の平屋建てであり、屋根部分は「キングポストトラス」と呼ばれる木造の洋小屋組、基礎部分は地盤面に通気性の良いれんがアーチが連続しており、火薬を保管するため、防湿性などの工夫が凝らされています。

改修工事について
平成23年までは。建設当時のれんが壁面にモルタルを塗り、白壁に改修され、観音崎青少年の村の集会室などととして利用されてきました。
パークセンターとして利用するにあたり、歴史的建造物の価値を最大限に活かし、白壁をはがし、れんが壁を再現・補修するとともに、現在の耐震基準を満たすように柱・梁の補強や新たにスロープを設置するなどの改修を行い、平成28年1月にオープンしてます。


観音崎

砂浜にある構造物。もともとは何だったのでしょうか?
戦前からあるのは間違いないです。
現在は桟橋は途中から消失してますね。

USA-M46-A-7-2-120
1946年02月15日の米軍写真を加工
GoogleMap航空写真

海岸散策

洞窟

日本武尊と弟橘媛命伝説と行基伝説。

観音崎灯台

これは二代目・観音崎灯台の残骸。
関東大震災で被災し撤去廃棄された
現在の観音崎砲台は三代目
観音崎燈臺所轄地の境界石
古さを感じさせる灯台への道

水中聴測所跡

昭和12年6月に完成した水中聴測所 跡(潜水艦を監視するソナーを設置)という。この周辺地域は現在は海上自衛隊の管理敷地のため、近づくことは不可。

この海上自衛隊観音崎警備所のある丘の場所は「北門第四砲台跡」ともいう。

この海上自衛隊観音崎警備所の敷地内には「ある慰霊碑」がひっそりと建立されていた。
第一富士丸遭難者の慰霊碑。
すなわち、なだしお事件・・・ 合掌

海岸から灯台に登る道の片隅に。

防二〇三
燈台所轄地 境界石
何かの小屋の跡

北門第一砲台跡

日本で最初に建築された近代砲台。モルタルがところどころ剥がれて下地のレンガが露出しはじめている。


北門第二砲台跡

北門第二砲台について
ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため古くから東京湾防備の要塞地帯として使用されてきました。この砲台は明治13年5月26日着工、明治17年6月27日完成しました。24加砲6門と弾薬庫がつくられましたが現在は4砲座と弾薬庫が残っています。

弾薬庫
一ノ一 一ノニと番号が振ってある。

隧道は通行禁止。弾薬庫への入口があった。

防衛施設庁と運輸省の境界石


東京湾海上交通センター

海上保安庁の所轄。


レンガトンネルの向こうにあるのが「北門第三砲台跡」

北門第三砲台跡


北門第三砲台跡、「海の見らし台」
見晴らしていたら、米軍艦が航行。


南門砲台

観音崎自然博物館のあるあたりもかつての砲台跡。

観音崎砲台について
ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため東京湾防備の重要地点として明治13~28年の間に観音崎各所にレンガとコンクリートによる15ヶ所の近代的砲台は築かれました。これらの砲台は日清日露戦争時代に活躍したもので関東大震災で大破したため大正末期にはすべて廃止されています。この場所は南門砲台跡で当時をしのぶ姿はまったくありません。

15時ゴール

約4時間の散策、17000歩。iPhoneの「登った階段数」は65階と記録されておりました。

昼ごはん休憩を挟んだとはいえ、アップダウンの繰り返しで、久しぶりのハードウォーキングをした気持ち。
予想以上に見どころ豊富で、初見の下見としては大成功。またそのうち散策に期待ですね。季節が変われば見えてくるものも違ってきそうですし。

今回はこれでいったん〆

大竹の海軍戦跡散策

平成29年(2017年)3月撮影

岩国方面でスキマ時間が出来た際に寄り道を。

天気は芳しくない中でも、隙間時間の過ごし方を悩む。
岩国観光をするか否か…。
悩んで結局はあるあるな岩国観光を止めて、敢えて大竹に足を運んでみました。


位置関係

USA-R507-3-155
1947年09月23日-米軍撮影写真を加工
現在の様子

大竹

昭和16年11月20日広島県佐伯郡大竹町に「呉第二海兵団」が設置。
昭和19年1月4日「大竹海兵団」改称。
戦後は大竹港港湾施設に転用。

大竹港には復員港となり昭和22年1月末までに、実に41万783人の在外の軍人や民間人が大竹港から復員している。

大竹駅到着は0930頃。
天気は不安定でしたが、ひとまず歩みを進めてみる。

大竹駅前。
長州方と幕府方の古戦場。

駅から歩くこと15分ほど。
工場エリアが目的地。

三井 デュポン・ポリケミカル敷地内になります。
関係者以外立ち入り禁止…ですが臆せずに。
守衛所で「海兵団の碑を見に来ました」で立入許可を得られました。

香川隆昭様 より:2020年7月24日 11:08 午後
地元の資料を探していて、つい立ち寄りました。
三井 デュポン・ポリケミカルの写真3枚目、正門の奥にある平屋の大きな建物が海兵団当時の烹炊所です。

コメント欄より

末元雅也様 より:2021年10月1日 2:36 PM
海兵団当時の烹炊所ですが21年10月より取り壊して立て替えることになりました。内部は相当傷んで耐震は保証できないですからね。床などは石畳でできており歴史を感じます。

コメント欄より

こちらが「海兵団当時の烹炊所」という。
当時は何気なく撮影しておりましたが、往時の建物とは気がついておりませんでした。コメントありがとうございました。

改めて位置関係を確認。

国土地理院ファイル:USA-R507-3-155
1947年09月23日米軍撮影(一部加工)
GooleMap 一部加工

拡大


大竹海兵団跡之碑

三井 デュポン・ポリケミカル敷地内に鎮座。
碑の創建は新しく平成3年(1991年)。
工場の駐車場に鎮座。
現在、大竹海兵団の跡地は工場エリアとなっている。

碑文は出雲大社の千家達彦書

大竹海兵団跡之碑

碑文
 大竹海兵団は大東亜戦争を前にした昭和十五年十二月呉鎮守府管下の呉海兵団大竹分団として開団され、翌昭和十六年十一月二十日大竹海兵団として独立した海兵団は明治健軍以来海軍精神即ち、海軍魂を鍛えた伝統ある場所であった。
 曾ってこの地において大日本帝国海軍の基礎教育と訓練をうけるため各地より青少年が志願及び徴兵等によって入団し、尽忠報国の念に燃え愛する祖国のために血と汗と涙を流した人数は実に十五万数千人に達したと言われている。
 又基礎教育訓練終了後前線に配属され青春の尊い命を散華した英霊は数えつきない。
 茲に大竹海兵団創設五十周年にあたり同団関係者各位等のご協力により記念の跡之碑を建立して平和の尊さを永く後世に伝えるものである。

 平成三年十一月二十日建立
 大竹海兵団跡地記念碑建設委員会

大竹海兵団跡之碑
建立協力戦友会等名

軍艦伊勢、駆逐艦浜風、駆逐艦桜 どうしても艦に目がいってしまいます。

台座の敷石は、大竹海兵団の烹炊所の敷石が使われていたもの、と。
僅かに残る往時の名残。

この場所で、ふと「この世界の片隅に」での主人公、周作さんのセリフを思い出す。

昭和20年10月6日。
周作「わしらは大竹に移る。海軍を解体しきるまでは何があっても秩序を守り通すのが法務の仕事じゃ」
作中では描かれていない大竹での職務を夢想する。

※昭和20年12月1日。
海軍省は廃止され、かわって復員業務を主体とした「第二復員省」(第一は旧陸軍省)が設立。
周作「海軍も11月いっぱいでのうなった。お役御免じゃ」

昭和21年1月に広島草津の森田家に妹のすみちゃんの見舞いに帰っていたヒロインすずさんと広島での周作との再会に繋がるやりとり。

大竹海兵団跡之碑
海軍の足跡を辿り、往時を偲ぶよすがを。


さて、次の目的地へ。
潜水学校の名残を残す史跡が臨海部の公園に残っていると。

次の場所までは海兵団の碑からは20分ほど歩くことになりました。

大竹海兵団は塀の右側の工場エリアにあった

末元雅也様 より:2021年10月1日 2:36 PM
大竹海兵団は塀の右側の工場エリアにあった・・・この右手の建物は当時からある飛行機の格納庫です。
3棟今でも倉庫として使っております。表からはスライド式の横開きのドアがまだ残っており床にもレールの跡が残っております。

コメント欄より

道すがら。
道路の下に瓦礫があった。おそらく往時からのものと推測。

正面の山は「宮島」
右手が「大竹海兵団跡」
古そうな橋。大竹港に向かう。

大竹港

大竹港に着きました。

大竹港(あこがれみなと)
引き揚げ港として、望郷の想いから来ているかどうかは知りません。
港についたら、ちょうど雨風が酷いことになりました…宮島も霞んでます。

大竹港を北に歩いていくと、「東栄地区港湾緑地」にたどり着きます。
ここが次の目的地。


海軍潜水学校探知講堂跡

「東栄地区港湾緑地」に保存されている不思議なモニュメント。
海軍潜水学校探知講堂の一部。

昭和17年。海軍潜水学校が呉から大竹に移設。
潜水学校探知講堂は、柱によって海上に建てられた施設。
ここで潜水艦のスクリュー音を聞き分ける訓練が行われた。

旧日本海軍潜水学校探知講堂
 昭和15年12月、旧日本海軍の呉海兵団大竹分団が大竹に開設され、昭和16年11月に大竹海兵団として独立しました。さらに、昭和17年11月には海軍潜水学校が呉から大竹へ移転し、潜水艦の乗組員を養成するための訓練が行なわれました。
 地方港湾大竹港港湾整備事業により、現在緑地となっているこの場所は、以前は海で、昭和17年に建築された探知講堂(正式名称:電測水測講堂)がありました。探知講堂は15本のコンクリート製の柱で支えられて海上に立つ特異な構造で、潜水艦の乗組員が艦船のスクリュー音を聞き分ける訓練が行われていたと伝えられています。
 海軍潜水学校が大竹にあったことをしのぶため、探知講堂の一部を切り取り、モニュメントして整備しました。

海軍潜水学校探知講堂の一部。

近年まで海上に残されていたが大竹港・大竹工業団地の埋め立て事業により、平成20年(2008年)に現在の形に切り取られて保存された、と。

何もないよりかはマシだけど、陸上でも建物として完全体で保存して欲しかった。 空間に余裕のあることだし・・・もう遅いけど。


この時が雨のピークで、臨海部で酷い目に遭いました。
しばらく雨宿りしていたら、雨も落ち着いてきてお天気雨に。
宮島も姿を見せてくれました。

このあたりの構造物も、もしかしたら往時と関係あるかも。

大竹駅にもどりました。

大竹の海軍史跡散策は90分くらいを要しましたね。
ほとんど歩いてました。

大竹海兵団の碑見学に際しての工場敷地立入に感謝して、三井デュポンポリケミカルさんの製品を眺めたり。(すごくお馴染みの製品でした。)

大竹駅、良き雰囲気です。古レールが多用されてますね。

馬門山横須賀海軍墓地墓前祭

令和元年(2019)5月11日

第64回馬門山横須賀海軍墓地墓前祭が、令和元年5月11日、午前9時30分から約1時間にわたり、まるで夏のような日差しが降り注ぐ新緑の墓苑にて開催されました。今回はじめて参列してまいりました。

馬門山久海軍墓地合祀者霊位

祖国のために散華された御英霊を追悼
感謝と哀悼の誠を捧げる


令和元年度(第64回)
馬門山横須賀海軍墓地墓前祭次第

日時 令和元年5月11日(土) 9時30分から10時30分
場所 馬門山横須賀海軍墓地

1開会の言葉
2国歌斉唱
3追悼のことば
4黙とう
5儀仗隊拝礼
6弔銃発射
7献花
8閉会のことば

主催
 大津地区社会福祉協議会
 大津地区連合町内会
 横須賀水交会
 隊友会横須賀支部
 大津観光協会
協力
 海上自衛隊横須賀教育隊
 湘南学院高等学校

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馬門山墓地(旧海軍墓地)

 明治15年(1882)海軍省が戦死や殉職した海軍軍人の埋葬地として開設しました。
 軍艦「河内」「筑波」等の殉職者の碑や上海事変・太平洋戦歿者の忠霊塔などがあり、英霊1592柱(内、独立埋葬者179柱)が祀られています。終戦までは鎮守府により神式と仏式の交互で式典が行われていました。
 現在は毎年5月に墓前祭が行われています。
 昭和26年大蔵省より横須賀市に譲渡され現在は市民墓地もあります。
 馬門山の名の由来は字名か屋号「馬門・まかど」を読み替えたものといわれています。
 園内はソメイヨシノが多く桜の名所となっています。

昭和52年市制施行70周年記念
横須賀市風物百選
「馬門山墓地」

 右手御門内約2万5千平方メートルの丘陵地が市営馬門山墓地です。
 この墓地は、東海鎮守府長官の埋葬地設定要請に基づいて、海軍省が明治15年1月に馬門山海軍墓地と定めたものです。
 以後、昭和20年8月の第2次世界大戦終結までの間、横須賀鎮守府が管理してきました。
 横須賀鎮守府は、横浜にあった東海鎮守府が、明治17年12月に市内の楠ヶ浦(現米海軍基地内)に移されて改称したもので、旧日本海軍の中枢的存在でした。
 昭和3年に定められた「横須賀鎮守府海軍葬儀場規則」によれば、毎総面積は階級によって6段階に分けられており、士官は8尺四方、平は4尺四方となっていました。
 墓地は、地形に従って三段に分けられています。下段、中断は兵たちの墓地で、高さ1mほどの墓石が整然と並んでいます。芝生が敷きつめられた上段には、7基の供養塔と士官たちの墓石が建っています。
 終戦後、市営墓地となると、新たに約4356平方メートルを造成し、墓地をもたない一般市民に提供されました。
 現在、この墓地に眠る御霊は次の通りです。
 海軍関係
  単独埋葬者            279柱
  供養塔
   軍艦河内殉難者の碑       621柱
   軍艦筑波殉難者の碑       152柱
   特務艦関東殉難者の碑      68柱
   北京籠城軍艦愛宕戦死者の碑   5柱
   上海事変死者の碑        59柱
   第4艦隊遭難殉職者の碑      36柱
   支那事変大東亜戦争戦歿者の碑  372柱
  一般市民             305基

墓前祭

来賓 海上自衛隊や県市議会議員や行政関係者など

中央席の最前列は遺族・遺族関係者席
中央2列目以降は町内会や一般参列者など
海上自衛隊の音楽隊
横須賀市長 追悼のことば

国歌斉唱


黙とう
追悼の譜 「国の鎮め」演奏

儀仗隊
儀仗隊

捧げ銃

儀仗隊 捧げ銃

弔銃発射

「命を捨てて」
弔銃のときは、譜の8小節を速度早く、毎発射後直ちに奏する。

弔銃発射

墓前祭、終了は10時20分頃でした。


馬門山海軍墓地の慰霊碑参拝と写真はまた後日。
この日は会場の邪魔にならないように墓前祭の参列のみで。

良き天気の下、馬門山横須賀海軍墓地墓前祭は滞りなく執り行われました。

厳粛な空間の中での、ひととき。
御英霊に感謝と哀悼を捧げることが出来ました。
ありがとうございました。

御供物

横須賀水交会も協力となっております

横須賀水交会

http://y-suikoukai.sakura.ne.jp/index.html

横須賀市

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2488/kankou/20190511mamonzan.html

「第六潜水艇」の戦跡散策

平成29年3月 山口県岩国市及び広島県呉市

和木駅から岩国駅方面に南下。
歩くこと20分程ほどで目的地「第六潜水艇記念碑」に到着。


第六潜水艇受難者記念碑
(第六潜水艇記念碑)

第六潜水艇受難者記念碑
元海軍大将 高橋三吉 謹書

第六潜水艇。
佐久間艇長ら乗組員が殉じられた海は、この岩国の沖合いだった…。

第六潜水艇受難者記念碑

碑文
第六潜水艇は明治四十三年四月十五日新港沖で半潜航訓練中沈没し艇長以下十四名の乗組員が殉職されました
引揚げ后艇内の状態及び艇長の遺書により全員が一糸乱れず各々の部署を守り従容として死に就いたことが判明しました
潜水艇が世に出て間もない時代のこの出来事は全世界注視の的となり事故に対処した艇員の立派な態度は深い感銘を与ヘその旺盛な責任感と事を処する沈着な態度はわが国民の範としてたたえられました
殉難直後地元にささやかな記念碑を建てましたが後呉鎮守府の追加手入により立派なものになり永く後世に伝へることになりました
偶々昭和廿年敗戦により軍に関係あるものは事の如何を問はず軍国主義の悪名をふして一切が葬り去られ此の碑も亦同じ憂目を見ました
かくして十有余年を経た今日艇員の崇高なる精神は再び世に問はれる時が来ましたので有志相図り広く全国に訴へ浄財を得て遭難満五十年を期し再建することになりました
茲に後世のためにこの次第を記します

昭和丗五年四月十四日
第六潜水艇殉難者記念碑再建期成会

第六潜水艇受難者記念碑

第六潜水艇。 潜水技術黎明期の不慮の事故は、佐久間艇長らをはじめとする乗組員のまさに命を懸けた対処を踏まえ。こののちに発展をしていくこととなる。

碑には、佐久間艇長(佐久間勉 海軍大尉)ら14名の受難者名が刻まれていました。

第六潜水艇受難者記念碑

佐久間艇長遺書
小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ
我レ等ハ国家ノ為メ職ニ斃レシト雖モ唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハ之ヲ誤リ 以テ将来潜水艇ノ発展ニ打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ憂ウルニアリ 希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ サスレバ我レ等一モ遺憾トスル所ナシ

沈没原因
瓦斯林潜航ノ際過度深入セシ為メ「スルイスバルブ」ヲ締メントセシモ途中「チエン」キレ依ツテ手ニテ之レヲシメタルモ後レ後部ニ満水(セリ) 約廿五度ノ傾斜ニテ沈没セリ  中略

公遺言
謹ンデ
陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ 中略 瓦斯林ヲブローアウトセセシシ積リナレドモガソソリンニヨウタ 十二時四十分」

原文ノママ

乗組員の使命感、佐久間艇長の沈着剛勇精神は多くの日本人に感銘を与えた、という・・・

第六潜水艇の沈没場所。
現在地より東方約2000米。

明治43年4月15日午前10時頃。

その沈んだとされる岩国の海を望む。 向こうにくっきり見えるは阿多田島。

海の方に向き、静かにこうべを垂れ、手を合わせる。
合掌


第六潜水艇受難者記念碑と同じ空間には明治百年記念碑が。
こちらは、岩国の新湊商工連盟。

第六潜水艇受難者記念碑のある高台は、潜水艇が沈んだ海を見渡すことが出来る。
実は線路の上でもあった。


附記【第六潜水艇受難之碑】

岩国の沈没現場を訪れたのちに、呉の「受難顕彰の碑」がある地にも行かねばなるまい。そう思っておりました。 実は何度か参拝したことはあるけれども、ことさらに意識をして足を運んでみました。

呉西部に鎮座する「鯛乃宮神社」 岩国の沈没現場を見渡す地に次いで、この呉の地も海軍として第六潜水艇ゆかりの場所なのだ。

鯛乃宮神社

まずは参拝を。

主祭神:言代主神
相殿神:大己貴命・天日方奇不方命
創立年代は不詳。
文亀年間(1501-4)に満田氏が神田2所を寄進し社殿を造営と伝わる。 その後、広島領主福島正則によって神田が没収されるも元文5年(1740)に社殿を再興。

鯛を献じて祈願をなすと所願成就すると伝えられた事から、当社を鯛乃宮と呼称。

現在は呉総鎮守・亀山神社の兼務社。
(なお亀山神社神職さんに確認しましたが、当社の御朱印はありません。)

狛犬さん。 なかなか特徴的なポージング。


第六潜水艇受難之碑

「鯛乃宮神社」境内にそびえ立つ塔のようなもの。
これが呉の「第六潜水艇受難之碑」。

第六潜水艇受難之碑
「鯛乃宮神社」境内

案内看板

第六潜水艇は、明治39年、わが国で初めて建造された排水量僅か57トン、水中最大速力3ノット、水上でも8ノットで、当時「どん亀」と呼ばれ、それまで外国から購入したものに比べ、最小のものでありました。
すべて艇の劣勢の訓練で打ち勝とうという当時の海軍魂から6号艇も訓練につぐ訓練を重ねていたのであります。
しかるに不幸にも明治43年4月15日、呉港を出港した第6号潜水艇は山口県岩国市新港沖で半潜航訓練中、遭難し、艇長佐久間大尉以下乗組員14士と共に海底に沈没したのであります。
「艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ」
佐久間艇長の遺書の一部に書き残されているとおり、遭難沈没した午前10時から12時40分まで乗組員全員、最後まで持ち場を離れず修復に力を尽くしつつ従容として死を迎えた崇高な使命感は、佐久間艇長の沈着剛勇の精神とともに、日本国民はもとより、全世界の人々に深い感銘を与えました。この事跡は、国民精神の鑑として、広く共感を呼び、大正3年呉港ゆかりのこの地、三津田丘鯛の宮境内に、各方面から挙出された浄財により、高さ19メートルの壮麗な殉難記念碑が建立されました。 その後、毎年4月15日には、盛大な慰霊・追悼式典が催されて今日に及んでおります。
  第六号潜水艇顕彰保存会 謹記

佐久間勉 wikipedia より

碑には四枚のプレートが埋め込まれています。
佐久間勉艇長の遺言や受難者氏名など。

保管庫には「プロペラ」と「バルブ」が鎮祭。

これは昭和26年にGHQの解体命令により呉潜水学校にて六号艇神社として保存してあった潜水艇を、解体に際し一部別途保管されたもの。
殉難50周年にあたる昭和34年4月15日に保管庫設置。

佐久間勉艇長と13人の乗組員たち。
事故に際して取り乱さず我先と逃げ出すようなこともせず、最後まで修繕しようと試みた沈着冷静な心意気。

「沈勇」(沈着剛勇)の精神。

誇りある日本人として敬意を。 そして感謝と哀悼を。

大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館) その一角に第六潜水艇のコーナーがある。

佐久間勉艇長の遺書や遺品なども展示。

佐久間艇長出生地の福井県若狭町、中学時代を過ごした小浜市、そしてこの呉市では4月15日、岩国では4月14日に慰霊祭が斎行されています。

若狭町

http://www.wakasa-mikatagoko.jp/search/entry/tourism-087.html

千葉公園の戦跡散策(鉄道第一聯隊ほか)

平成29年(2017)8月撮影

千葉縣護國神社から千葉公園に足を伸ばしてみました。

千葉公園忠霊塔エリアからようやく本来の千葉公園エリアに脚を進める。

C型タンク飽和型蒸気機関車

なにやら「蒸気機関車」が保存されていますね。
もしや「鉄道連隊?」と思いきや、関係なく戦後のものでした。

ちなみに「千葉公園」は戦前の「陸軍鉄道連隊演習地」跡地を戦後に公園として整備したものなのです。

千葉公園

千葉公園は「陸軍鉄道連隊の演習場跡」でした。
ゆえに今も公園のあちこちに往時の名残が残っております。
ちょっと見てみましょう。

鉄道第一聯隊演習所跡

鉄道第一連隊演習所跡
 旧鉄道連隊が明治41年(1908)旧千葉町都賀村(現椿森)と津田沼町に設置され、大正7年(1918)の改編により千葉町に鉄道第一連隊、津田沼町に第二連隊が設置された。
 鉄道第一連隊演習所は、現在の千葉公園の綿打池付近から競輪場一帯で、池の対岸に架橋演習に使用したコンクリート製の橋脚や、ここから北西150mのところにトンネル工事演習に使用したコンクリート製のドームがあり、昔日の面影を残している。

千葉市サイト内のPDFガイドマップ 「鉄道第一連隊の名残マップ」

https://www.city.chiba.jp/toshi/koenryokuchi/kanri/chuo-inage/documents/map-guide-iko_3.pdf

 旧陸軍鉄道連隊が明治 41 年(1908)、旧千葉町都賀村 (現・椿森)と津田沼町に設置され、大正 7 年(1918) の改編により千葉町に鉄道第一連隊、津田沼町に第二連隊が設置された。
 鉄道第一連隊演習所は、現在の千葉公園綿打池付近か ら競輪場付近の一帯にあり、架橋演習に使用したコンクリート製の橋脚や、トンネル工事演習に使用したコンクリート製ドームのほか、ウインチ台といわれるコンクリート塊などがあり、昔日の面影を今に伝えている。

架橋演習用橋脚(鉄道連隊架橋訓練跡)

鉄道第一連隊の作業場内にあった架線演習用のコンクリート製橋脚。

鉄道連隊は
千葉町(千葉市)に鉄道第一連隊、
津田沼町(習志野市)に鉄道第二連隊が設置されていた。

荒木山

この丘は鉄道連隊ラッパ手訓練が行われた「喇叭山」であった。
のちに鉄道第1連隊所属の荒木克業大尉が満州にて1932年に殉職すると荒木大尉を悼む同連隊の兵達により銅像が建立され昭和8年に荒木山として整備。銅像は戦争末期に供出。レリーフ(千葉縣護國神社)のみが残る。

ウインチ台とされるコンクリート塊

いわゆる巻き揚げ機作業台ですね。
陸軍鉄道連隊(鉄道第一連隊)の隊員たちはここで何かしらのロープ乃至ワイヤー作業をおこなっていたのかしら、と。

鉄道第一連隊トンネル工事ドーム跡
演習用トンネル

このコンクリート製のドームはトンネル工事演習用に使用されたものという。 トンネルが飛び出てきたような不思議な構造物。
現在は千葉公園内のある「千葉市中央・稲毛公園緑地事務所」の裏手に保存されている。

千葉公園内には往時の陸軍鉄道連隊の跡がこんな感じで残っているのです。

公園内には「陸軍標石」(陸軍境界石)も残っているらしいけど、見つけられなかったので(見つける気力が残っていなかったので)次の機会に。

このあとは千葉公園から東千葉駅方面に向けて歩いていきます。

千葉公園から東にあるく。
椿森の住宅地の中に石碑がありました。

鉄道大隊記念碑( 鉄道隊駐屯の跡 )

明治36年建立
そしてなぜか「大日如来の祠」
この椿森のあたりが「陸軍鉄道第一聯隊」の駐屯地の跡だったのだ。

「鉄道大隊記念碑」(明治36年建立)
千葉県千葉市中央区椿森

「記念碑」篆額は、大山巌(参謀総長元帥陸軍大将)によるもの。

椿森公園
将校集会所の庭園(築山)

ここにちょっとした築山がある。
もっとも、今はただのこんもりとした公園空間でしかないけど、ここか昭和の往時は「 将校集会所の庭園(築山)」であったという。

千葉連隊区司令部門柱跡

椿森公園の隣にある「財務省関東財務局千葉財務事務所」
この場所は当時は「千葉連隊区司令部」が置かれていた場所。

現在も往時の司令部門柱が残っている…というかそのまま門柱として使われている。

周辺には標石がたくさんありましたが摩耗していて判別不明。
往時のものかどうかも定かではない。

千葉公園周辺散策はひとまずこれにて〆

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真を加工。

千葉公園から北に赴けば
「鉄道聯隊材料廠」
「兵器補給廠」
「気球聯隊」などの陸軍施設もありましたが、今回は時間切れ。
そのあたりのエリアは、またそのうちの散策機会で。

関連


千葉縣護國神社(旧鎮座地)

平成29年8月20日参拝

ちょっとした時間が出来たので、脚を伸ばして千葉駅から護國神社へ参拝を。

令和4年に千葉縣護國神社は御遷座しました。

新境内地の記録は以下より

千葉県護國神社

凛とした空間のなかで、千葉縣護國神社の参道を歩む。

「千葉公園/案内マップ」的には千葉公園の西門の西外れに護國神社が鎮座している。 感覚としては「大宮公園の西外れに鎮座している埼玉縣護國神社」と似たような位置関係だなあとボンヤリと感じてしまう。

明治11年(1878)「千葉縣招魂社」として創建。
昭和14年(1939年)「千葉縣護國神社」と改称。

戦後「頌徳神社」と一時的に改称するも主権回復後の昭和27年(1952)に千葉縣護國神社に復称。
祖国に殉じられた千葉県出身者五万七千余柱を祀る。
昭和42年に現在地に遷座。

御朱印を頂戴いたしました。 靖國神社の靖國桜が舞う御朱印帳に少しずつ。

回廊では記録写真展が行われおりました。

「海外戦歿者慰霊祭写真展」
ゆっくりとしずしずと回廊の写真を観覧させていただく…
パプアニューギニア
インドネシア
フィリピン
ビルマ
サイパン
各激戦地を御遺族の方々と訪れ、そして執り行われた慰霊祭の記録写真。

天皇陛下
皇后陛下
御参拝記念

昭和四十八年の第二十八回国民体育大会への御臨場を機に10月13日に千葉県護國神社に御参拝されました。

御創立115年記念碑
御遷座碑
御創立100年記念碑

あゝ特攻
千葉県特攻勇士顕彰碑

我が祖国日本は昭和16-20年米英支ソ蘭豪と大東亜戦争を戦った
自国の安泰と欧米の植民地支配からアジアを解放するためだった
戦は連戦連勝南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島から沖縄と敵の反攻を許した
この時一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必死の特攻戦法が採られた
貧しくとも誇り高い民族の苦渋の選択だった
二十歳前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った
その雄姿を此処に置く敗戦国に育ち歴史を絶たれた現代の人よ
命に代えて何を守ろうとしたのか
この像に問いかけてほしい
戦後同26年5月3日連合国最高司令官マッカーサー元帥が米上院軍事外交合同委員会で日本の戦は自衛のためであったと証言し米報道機関が全米に発信した
日本国民よ
この事実を銘記せよ

(碑裏面)
陸軍・海軍それぞれの 「特別攻撃隊千葉県出身戦歿者命名」が刻まれていました…

ありがとうございます。
感謝と哀悼を捧げし参拝を。



千葉県護國神社の南隣には「忠霊塔」や「慰霊碑」などが集まった区画がある。

千葉縣護國神社の隣にある大きな塔。

千葉県忠霊塔

かつての「千葉陸軍墓地」
戦時中に忠霊塔の建設が始まっていたが、工事途中で終戦。戦後の昭和27年に工事が再開され 昭和29年4月建立。
日清戦争以降の戦没者を追悼するとともに恒久平和を祈念して千葉県が建設し管理している。(なお千葉公園そのものは千葉市管理)

千葉県庁サイト

https://www.pref.chiba.lg.jp/kenshidou/engo/tsuitou/chuureitou/goannai.html

「千葉県忠霊塔」の左右両脇には「千葉陸軍合同碑」「海軍の碑」もありました。
しかし敷地内には入れないので遠望。

「千葉陸軍合同碑」の銘は近衛師団長陸軍中将香月清司謹書。
「海軍の碑」は詳細不明。(敷地に入れないので)

この周辺にはいくつかの記念碑・鎮魂碑がある。

「日中戦士鎮魂碑」

楓4256部隊(歩兵212聯隊)鎮魂碑。
昭和14年、佐倉51聯隊に於いて第32師団管下の部隊として編成。
日中国交正常化を機に永久不戦を誓い両国犠牲者「日中戦士鎮魂碑」を昭和52年4月建立。

千葉県出身 陸軍少年飛行兵慰霊之碑

平和の翼(由来)
 戦火絶えて二十七年。いま、私達の胸に去来するものは、大空に憧れ、大空に生き、そして大空に散っていった君達のあの林檎のような頬っぺと澄みきった眼差しだ。今日の平和な日本の繁栄は、君達の尊い死によって築かれたものなのだ。
 若くして大空の華と散った君達の至純な姿を忘れないために、再び戦争を繰り返さぬことを誓いながら、私達は「平和の翼」の碑を此の地に建てた。
 亡き友よ、安らかに眠り給え。そして、愛する日本を、美しい郷土を、永久に守り給え。
 昭和47年8月
  元陸軍少年飛行兵
  千葉県出身 生存者一同

慰霊碑 支那駐屯歩兵第三聯隊

碑誌
 この聯隊は、北清事変以来北支に駐留した支那駐屯軍の伝統を継ぎ、昭和13年3月中国北京において編成され、その兵員は千葉県人を主体として東京埼玉山梨その他各府県出身者により構成されていた。
 その後聯隊は、…略…南昌南方地区において終戦を迎えた。
 この間将兵は、炎熱に耐え酷寒を忍び峻険に挑み困難欠乏を極めたなかに常に勇戦して聯隊の名誉を高めた。不幸戦歿した2千3百余柱の英霊は故国の平和と繁栄を知ることなく今なお中国大陸の山野に眠っている。この尊い犠牲こそ今日の日本の礎石であったことを銘肝しここ郷土の地に碑を刻んで諸霊の冥福を祈る。
 昭和54年7月 支駐歩三会戦友一同

戦友この土に眠る

慰霊碑 支那駐屯歩兵第三聯隊

愛馬慰霊碑

昭和63年10月30日建立

鎮魂
シベリア抑留死没者千葉県慰霊碑

悲惨を極めた第二次大戦は、日本がポツダム宣言を受諾して、終結した。
しかし、多くの将兵は酷寒の地シベリアなどに抑留され長期にわたり労役に就かされた。 戦友の多くは、厳しい環境の中で病と闘いながら望郷の願いも空しく凍土の中に永遠の眠りについている。亡き同胞の昔日を偲び、世界の恒久平和を祈念して、この碑を建立する。
 1996年3月吉日 財団法人 全国強制抑留者協会千葉県支部連合会

陸軍鉄道連隊 忠魂碑
 鉄道隊創立80周年記念忠魂碑

昭和50年11月竣工。
この碑だけ千葉県忠魂塔の隣にひっそりと鎮座。
鉄道連隊のエンブレムが碑上に誇らしげに掲げられている。

鉄道隊創立八拾周年記念忠魂碑改築由来

 我が鉄道隊の淵源は日清戦役直後中野に1大隊が創設されたのに始まる。
爾来北清事変・日露戦役・青島戦役・シベリヤ出兵・満州事変と累次の征戦に参加し、赫々たる武勲を奏した。
此の間大隊は連隊に改編千葉津田沼に分屯していたが大正7年夫々鉄1、鉄2に拡張され、更に満州事変後満州に鉄3・鉄4が新設常駐新たに装甲車の装備も加えられ名実共に野戦鉄道隊たるに至った。
 支那事変勃発するや鉄道隊は殆どその全力を以て北支に転戦常に軍の戦闘にあって活躍鉄緒戦を有利ならしめ爾来鉄1は中支に、鉄5は南支に、次いで仏印に転戦大東亜戦争突入と共に鉄5・鉄9は海陸相携えてマレー半島を席捲爾後鉄5はビルマに転進戡定作戦終了と共に反転鉄9と共に困難辛苦に絶する世紀の大作戦泰緬鉄道の建設等其戦力を遺憾なく発揮軍の作戦に貢献するところ頗る大であった。
此の間或は剣電弾雨に斃れ、或は瘴癘病魔に斃れ名を鬼籍に列つれ、多くの英霊に対し、其の遺勲を伝え、追慕惜く能わざるものあり、茲に碑を建立し、其の遺勲を永遠に伝え、其の霊を慰めんとする次第である。
  昭和50年11月23日 建立  (以下略

陸軍鉄道連隊「忠魂碑」の脇にあるレリーフ

荒木大尉の脱線器装着戦闘場面の銅板額

千葉公園内の荒木山にあった荒木大尉銅像(荒木克業)も戦中に金属供出されており、其の際に台座のレリーフのみが辛うじてこうして保存されたという。

「荒木大尉の脱線器装着戦闘場面の銅板額」について

 大東亜戦争が勃発して軍需物資が欠乏し、町内の金属類「火鉢、半鐘」と同様に大尉の銅像も供出されることになった。
 台座を壊す際に、この解体作業を担当した石屋の主人が大尉の武勲を語るこの銅板額の処分されるのを惜しみ、密かに自宅に持ち帰り保存していた。その後(昭和40年頃)旧鉄道第1聯隊の遺品として提出され、現自衛隊下志津高射学校資料室に保管されていた。
 この度、銅板額と銅像の除幕式に、当時学生で参列し、その後鉄道兵となり、また自衛隊のOBでもあり、現在、隊友会千葉県支部連合会の参与でもある私が、この銅板額をお預かりすることになった。今はその姿もない旧鉄道連隊の一部分の戦績に過ぎないかもしれないが、荒木大尉の武勲を語る貴重な記念品として、鉄道隊創立百周年迎えるに当り行事の一端として、千葉県護国神社境内に在る鉄道隊の忠魂碑の傍に建立し、後世に伝える。
  平成7年
  全国鉄道連隊連合会 千葉市 黒川日出松 記

忠霊塔のあるエリアの片隅に何の説明もない謎の構造物。
これはなんだろう? 何かの掲揚台(のようなもの)と祠がございました。

隣接する「千葉公園」内にも戦跡が多く残っているが、それは別立てにて。

ちなみに
 千葉公園    →千葉市管轄
 千葉県忠霊塔  →千葉県管轄
 千葉縣護國神社 →宗教法人
となっております。

埼玉縣護國神社(埼玉県護国神社)

平成29年3月26日参拝

平成29年3月26日。雨降る夕方に。
武蔵一宮氷川神社から足を伸ばして参拝してきました。
護國神社巡礼。


埼玉縣護國神社(埼玉県護国神社)

旧内務省内務大臣指定護國神社。
鳥羽・伏見の戦い以後の国事に殉じた埼玉県関係の英霊51,000余柱を祀る。

昭和9年、埼玉縣招魂社として設立。14年に埼玉縣護國神社に改称。 戦後の昭和23年に埼霊神社(さいたま神社)と改称。
昭和27年に旧社号に復した。

由緒略記

大宮公園内に鳥居が立っており、道路を挟んだ先に御社殿が鎮座している。

桜の咲き始めの護國神社。
感慨も深く。

護國神社は戊辰戦争から大東亜戦争まで国のために
犠牲となられた埼玉県関係の英霊をお祀りしています

英霊に感謝しましょう
 埼玉県英霊にこたえる会

手水舎

深く拝す

護国の桜。
ひときわの感謝とともに。

咲き誇る日が楽しみな瞬間。

御朱印を頂戴致しました。 (靖國神社の御朱印帳に)


奉納「艦砲弾」

 天皇陛下のもと、国家安寧を願い見事玉と砕けたご英霊等鎮魂の一助になればと思い謹んで捧げ奉ります。
 この砲弾は古い型の砲弾であります。東郷元帥が聯合艦隊を率いZ旗の下、日本海海戦において、かのロシアバルチック艦隊を殲滅し、世界にその名を知らしめました。その後、凱旋廻港のみぎり、各地の御一宮にその出撃致した戦艦を始め各艦の砲弾を御奉納されたとの説があります。譲り受けた老爺(故人)に伝え聞いたところ、この砲弾はその時期に武蔵一宮氷川神社にご奉納され境内のいずれかにあったと思われますが、戦後の混乱期に何処かに流出しておりました。艦砲の砲撃手は俗に自らを鉄砲屋と呼び一弾一弾を我が子のように慈しみ、(見事命中してくれよ)と祈りを籠めて懸命に磨き上げたと聞いております。この砲弾もそうであったに違いないと思います。
 この砲弾を使用した艦名は判明致しておりません。ご存知の御方がおられましたら、是非御教示、ご指導頂けますれば幸甚に存じます。
   平成25年6月吉日 大宮住 加藤芳夫


出征兵士之像

平成27年建立

建立の趣旨
 昭和16年12月に開戦し、20年8月に終戦を迎えてから今年は70年目を迎えます。国を護り、家族を守るため多くの若い人が故郷を後にして兵士として出陣し、異国の地で戦陣に斃れ病魔に冒され、尊い命を国に捧げられました。遺族として残された者も、今では戦没者の父母は殆ど亡くなり、妻も大半の者が他界し、終戦時、幼児や少年であった私達も高齢化を迎えた此の頃、想い出すのは、若い人が当時赤紙と俗称された召集令状により、親兄弟、親族、近所の人に見送られ軍隊に入隊する姿です。
送れられる者、送る者が
「行ってまいります。後を頼みます。」
「皆さんが留守の間は、私達がしっかりと銃後と家族を守ります。」
という短い言葉で別れを告げ、お互いに見つめ合うだけの事でした。多くの若い人が再び故郷へ帰れませんでした。
 戦後70年、私達遺族は兵士として出征した家族を思い出す縁としてこの像を建立しました。残念ながら、歳月の経過とともに先の大戦の風化が一段と進んでいます。この像をご覧になられた方は、現在の平和な時代のかげには、このような辛い別れをして戦没された人々が居たということを思っていただけれな幸いです。

 平成27年11月30日
  一般社団法人 埼玉県遺族連合会


大東亜戦争戦没地域図

埼玉県出身者の地域別戦没者数(昭和55年現在)
支那事変以降 総数 48453人


埼玉県特攻勇士之像 

埼玉県特攻勇士顕彰碑
 あの苛烈を極めた大東亜戦争の末期、多くの埼玉県出身の若者たちが特攻隊員となり家族・故郷・祖国を守るため、烈々たる祖国愛に燃え敢然として散華されました。 生還を期せず、若い命を進んで国に捧げられたこれら特攻隊員の崇高な精神が永く県民の心に刻まれるとともに次代を担う若者の精神の糧となることを願うものであります。
 ここに散華された英霊の勇姿を末永く後世に伝えるため、公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会のご協力を得て、埼玉県下遺族、戦友、崇敬者団体をはじめ幅広い県民の真心籠るご浄財をもって埼玉県特攻勇士之像を建立し謹んで奉納いたします。
 平成25年10月吉日
 埼玉県特攻勇士之像建設委員会


埼玉県傷痍軍人の塔

昭和53年建立
第58代 厚生大臣 渡辺美智雄書

 我等は戦火に傷つき或いは戦野に病を得て生死の境を彷徨した者達である。その思い出は耐え難いものがあり、戦争の残酷さは筆舌に尽くし難い。
 戦後、閲すること三〇年、昭和五十年七月議を起こし、戦禍の洗礼を受けた立場から、二度と犠牲者を出す間敷き事を語り合った。而して、平和を希求する会員の微意を表明せんと名を印し、此の埼玉県傷痍軍人の塔を建立する決議をした。
 良く議し想を練り、会員一人一人の善意を結集して、今完成に至った。唯、同慶の一語につきる。
 尚、惟みるに吾が埼玉県傷痍軍人の夫妻が財団法人日本傷痍軍人会 同妻の会の旗下にあってそれぞれの綱領具現に、その責を果し、両会の中核県たる名聲を保持する努力をはじめ、或いは郷にあって、傷痍にめげず率先垂範、豊かなる人間愛と限りない創造性を以って変轉極りない新時代に処し、地域社会に光明を齋しつつ、今日に至った証としても 意義あるものと思考する。
 又この庭が、隣人を愛する思想を高揚し廣く、世界は一家の大理想実現に裨益する聖場と成ることも願いつつ、時の流れに禍いされることなく、吾等の誠魂が不滅であることを信じ、塔建立の詞とする。
 昭和五十三年十月十九日 
    埼玉県傷痍軍人の塔建設委員会
     吉川敏雄 謹書


献花 特攻花

知覧より移植されたものという。

社務所の一角には「遺品展示館」があったが、既に夕方ということもあり、時間が遅めでしたので今回は見学を遠慮しました。

埼玉ならまた来れますし慌てなくても時間がゆっくりあるときに改めて。


2026年1月訪問

写真を追加。

神奈川縣護國神社跡(横浜市慰霊塔)

平成26年(2014)参拝/令和元年(2019)11月再訪 

全国47都道府県で唯一「護國神社」が無い県が神奈川県。
(内務大臣指定護國神社として。東京は靖國神社で包括している)

もちろん、神奈川県にも護国神社建立の予定はあった。

現在の三ツ沢総合グランド (神奈川県横浜市神奈川区三ツ沢西町3-1)。
この地に「神奈川縣護國神社」(神奈川県護国神社・神奈川県護國神社)が建つはずであった。


神奈川縣護國神社
(神奈川県護国神社・神奈川県護國神社)

神奈川縣護國神社
昭和14年末に神社創建に着手。
昭和15年11月に鎮座地が確定。
昭和16年11月に鍬入式が執行。
昭和17年7月27日、内務大臣より「神奈川縣護國神社」の創立が許可。
昭和17年12月23日、起工式が執行。
昭和18年12月25日、棟上式が執行。
当初の竣工は昭和19年10月を予定していたが、戦争により工事遅延。
完成目前の昭和20年5月29日横浜大空襲によって社殿焼失。

そして終戦後、 神奈川縣護國神社は建立されることはなかった。
昭和28年に跡地に横浜市によって「慰霊塔」が建立。


昭和19年11月陸軍撮影の航空写真

空襲前の航空写真。
参道の様子と建造途中の社殿の雰囲気がわかる。

「神奈川縣護國神社」 は「本殿」「祝詞殿」「幣殿」「拝殿」「 翼舎」「渡廊」「祭器庫」「透堀」「手水舎」「鳥居」「石玉垣」「狛犬」などで構成予定だった。

8926-C5-90
1944年(昭19)11月14日‐陸軍撮影写真を加工

昭和21年2月米軍撮影の航空写真

昭和20年5月29日横浜大空襲後で、焼失した「神奈川縣護國神社跡」 の姿を確認できる。昭和19年の陸軍写真では御社殿に立体感があったが、空襲で御社殿を焼失し、昭和21年の写真では御社殿部分は焼失し立体感がないことがわかる。

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1946年(昭21)02月28日‐米軍撮影の写真を加工
USA-M58-A-6-207
1946年(昭21)02月28日‐米軍撮影の写真を加工

現在の航空写真


三ツ沢公園


横浜市慰霊塔

昭和28年3月建立。
神奈川県が昭和14年に計画し、当地に昭和20年の竣工が予定されていた神奈川縣護國神社は、昭和20年5月29日の横浜大空襲で炎上焼失。
再びその威容を見ることが出来なくなった。

その名残の地には、横浜市によって慰霊塔が建立されている。
慰霊塔の前の広場は駐車場と化していた。

昭和二十年の文字が浮き出た慰霊塔。
以前の写真よりも白いので塗り直したようです。

平成26年(2014) 撮影
平成26年(2014) 撮影

納骨堂

横浜市慰霊塔の後方の建屋は納骨堂。

平和記念塔

神奈川縣護國神社参道跡

今は駐車場となっている広場に向けて伸びる歩道が、予定されていた参道跡地。

慰霊塔ご案内

慰霊塔ご案内
 この慰霊塔は、西南戦争以来、第二次世界大戦 に至る戦争犠牲者二万余柱の御霊を永年安置するための慰霊塔であります。
 慰霊塔は、二基の塔と、安置堂その他からなり昭和二十八年三月、一〇〇〇万円の経費にて建設されましたが、このうち七〇〇万円は、市民からの募金によったものであります。
 塔は門を象徴しており、向かって左の塔は、高さ十八米で上部を欠いてあり、下部に「昭和二十年」の五文字を浮き出してあります。 これは、今次大戦ではらった大きな犠牲と破壊を表したものであります。
 また、向かって右の塔は高さ二十五米で新生日本が雄々しく、将来にむかって発展する姿を表したものであります。
  横浜市

恒久平和を願って

恒久平和を願って
 戦後50周年を迎えて、更なる平和への願いを込めて慰霊塔を改修いたしました。
 この慰霊塔は、西南戦争から第二次世界大戦までの戦争犠牲者の慰霊を安置するため、昭和28年3月に建設したもので、左の塔は先の大戦で払った大きな犠牲と破壊を表し、右の塔は新生日本が将来に向かって発展する姿を表しています。
 市民の皆様と共に諸霊のご冥福を心からお祈りし、戦争の悲惨さを忘れることなく、恒久の平和を念じたいと思います。
 横浜市は、21世紀に向かって、世界に開かれた国際都市づくりを進めていますが、ピースメッセンジャー都市として、今後とも積極的に国際交流活動を展開し、相互理解を深め、世界の平和と発展に貢献していきたいと思います。
  平成7年11月1日
     横浜市長

わが町 かながわ 50選

横浜市戦没者慰霊塔
 昭和20年5月29日の横浜大空襲でなくなった、多くの犠牲者の冥福と平和への祈りを込めて、昭和28年に建立されました。
 広い広場から慰霊塔を見つめていると、心が静まります。

駐車場となってしまっている広場に若干の空虚さを感じつつも。

護國神社として機能出来なかった、この慰霊の空間。
どことなく虚しく、そして尊厳がなく。
もやもやしながらも、根底の気持ちは変わらずに
静かに慰霊鎮魂と感謝のこうべをたれる…


令和元年11月17日の夕方。
慰霊塔を撮影をしていたら、老夫婦が私に声をかけてきました。
お爺さん「ここは昔は畑だったんだよ、そこに立派なお社が出来てね、でもね、昭和20年5月29日の空襲で燃えてしまって、わたしはそのとき10歳だったよ、ほんとりっぱなお社だった・・・」
わたし「えぇ、神奈川県護国神社の跡・・・」
お爺さん「知っているんだ、若いのに、この場所がなんだったか、ここを知っていてくれて嬉しいねえ」
お爺さんとしばし歓談

ありがとうございます。


神奈川県戦没者慰霊堂

神奈川縣護國神社の跡地は「横浜市の慰霊塔」
ここは、県ではなく市の施設となっている。
神奈川県の慰霊施設は当地ではなく、別の場所にある。

神奈川県戦没者慰霊堂

http://www.pref.kanagawa.jp/docs/r6w/cnt/f153/p2926.html

実は訪れたのですが、臨時閉苑でした・・・再訪しなくては。

「神奈川県戦没者慰霊堂」再訪しました


参考文献
 神奈川県忠魂碑等建立調査集 靖國神社社務所発行 平成8年
 神奈川新聞 昭和18年12月5日掲載記事