「愛知県」カテゴリーアーカイブ

南極観測船「ふじ」(名古屋港)

先日、名古屋に赴いていたので、スキマ時間に「ふじ」を観覧してきました。

名古屋港ポートビルと南極観測船「ふじ」のほうに。


名古屋港開港の出発点「鉄桟橋」跡地

1907年、名古屋港開港の出発点「鉄桟橋」跡地。

「鉄桟橋」から始まった名古屋港
左下か斜めに伸びる橋が「鉄桟橋」。
名古屋港開港の1907年(明治40年)に建設されました。
長さ127m、幅14.5m。
その後、桟橋上部には貨物列車のレールも敷かれ、開港から昭和初期までの唯一の船着場として、また、接岸する船舶でにぎわう名古屋港の代表的施設として市民から親しまれました。
※10,000トン級の船の入港が可能でした。

現在の名古屋港
1981年(昭和56年)中央ふ頭と東ふ頭の間を埋め立てて完成したガーデンふ頭。
昭和59年に名古屋港ポートビル、昭和60年に南極観測船ふじ、平成4年に名古屋港水族館がオープンし、親しまれる港づくりが進められています。

1905年(明治38) 鉄桟橋建設着手、2号地埋立完成
1906年(明治39) 巡航博覧会「ろせった丸」入港
1907年(明治40) 鉄桟橋完成、名古屋港開港
1929年(昭和4) 西埠頭埋立着手
1931年(昭和6) 中央埠頭・東埠頭埋立着手
1934年(昭和9)西埠頭埋立完成
1936年(昭和11)中央埠頭・東埠頭埋立完成
1981年(昭和56) 2号地(現・ガーデン埠頭)埋立完成
1983年(昭和58) ガーデンふ頭臨海緑園完成
1984年(昭和59) 名古屋港ポートビル完成
1985年(昭和60) 南極観測船「ふじ」係留
1992年(平成4) 名古屋港水族館開館
2001年(平成13) 名古屋港水族館北館開館

だいたいこのあたりに鉄桟橋があった。

名古屋ポートビル


「南極観測船ふじ」

「宗谷」に次ぐ、2代目南極観測船。
日本初の極地用本格砕氷艦。
自衛艦初のヘリコプター搭載艦。
1965年(昭和40年)3月18日に進水、7月15日竣工。
1984年(昭和59年)4月11日に退役。1985年8月より、名古屋港博物館船として係留されている。

https://nagoyaaqua.jp/garden-pier/fuji


「南極観測船ふじ」船内

1965年(昭和40)から18年間、南極観測を支援してきた砕氷船。

第9回の南極観測時の砕氷艦ふじ艦長の森田1等海佐のコメント。

食堂室
椅子は2008年引退の初代しらせのもの。

調理室

麻酔ガスは「笑気」なんですね。

自衛艦旗
第7次南極観測記念

格納庫は、南極観測に関する展示コーナー

ふじ搭載のヘリコプター「S-61A」

艦橋

上部操舵所
そこに至るまでが怖い。。。

デッキクレーン


名古屋港ポートビル

隣の名古屋港ポートビル、へ。


名古屋海洋博物館

名古屋港発祥の地「熱田の浜」

「ろせった丸」の入港と、名古屋開港

「ろせった丸」は、明治39年(1906年)に巡回博覧会船として、全国の港を巡航し、展示品を即売した移動博覧会を実施していた。特に、当時築港工事が進められていた名古屋港(現・熱田港)への入港は、築港反対運動を沈静化させ、名古屋港開港の契機となった。

https://history.nagoya-cci.or.jp/meiji/h3.html

1907年(明治40年)名古屋港開港

戦争中、名古屋港は機動作戦基地にはならなかったため、兵員や兵器などの軍需品輸送港としては使われなかったが、全国有数の軍需工場地帯であったため、激しい空襲にさらされることになった。
1944年(昭和19年)12月7日の昭和東南海地震、翌年1月13日の三河地震で名古屋港の港湾機能は麻痺状態となり、終戦を迎えた。

名古屋汎太平洋平和博覧会


名古屋港ポートビル展望室

展望室から名古屋港を眺める。

ふじを上から。

ちょっとした展示コーナーも。

※撮影:2025年5月


関連

世界最大級の無線送信施設だった「依佐美送信所」(依佐美送信所記念館・愛知県刈谷市)

完成当初、世界最大級の無線送信施設で、東洋一の長波送信所であった「依佐美送信所」の記念館に足を運んでみました。


依佐美送信所

依佐美送信所は昭和4年(1929)に運用を開始した長波及び短波の無線送信所。
開設当初の対になる受信所は「四日市受信所(海蔵受信所)」(昭和3年竣工、兵庫県の小野受信所開設に伴い昭和13年廃止)であった。
大戦中は、海面下にも届く長波(超長波)の特性を活かして、帝国海軍の潜水艦との交信に活用された。
昭和16年12月2日、瀬戸内海に停泊する連合艦隊旗艦「長門」から有線で東京通信隊に送信された「ニイタカヤマノボレ一二〇八」は、「船橋送信所」から短波と長波で発信され、「依佐美送信所」からは超長波で潜水艦向けに発信されたという。
戦後、米国海軍は依佐美送信所を接収し、潜水艦通信に使用。平成5年(1993)に送信停止され、翌年に日本に返還。
依佐美送信所は昭和4年(1929)に運用を開始した長波及び短波の無線送信所。
開設当初の対になる受信所は「四日市受信所(海蔵受信所)」(昭和3年竣工、兵庫県の小野受信所開設に伴い昭和13年廃止)であった。
大戦中は、海面下にも届く長波(超長波)の特性を活かして、帝国海軍の潜水艦との交信に活用された。
昭和16年12月2日、瀬戸内海に停泊する連合艦隊旗艦「長門」から有線で東京通信隊に送信された「ニイタカヤマノボレ一二〇八」は、「船橋送信所」から短波と長波で発信され、「依佐美送信所」からは超長波で潜水艦向けに発信されたという。
戦後、米国海軍は依佐美送信所を接収し、潜水艦通信に使用。平成5年(1993)に送信停止され、翌年に日本に返還。
鉄塔本体は平成9年(1997)に全8基の解体が完了し、残った局舎なども平成18年(2006)までに解体された。
社宅跡は「フローラルガーデンよさみ」として公園整備がなされ、その一角に依佐美送信所記念館が平成19年(2007)4月に開館している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1078-17
1948年3月3日、米軍撮影の航空写真。

依佐美送信所界隈を拡大。

250m鉄塔(無線鉄塔1号塔)は、こんな感じ。影の長さが、高さをよく表している。


依佐美送信所記念館

詳細は公式サイトにて

https://yosami-radio-ts.sakura.ne.jp

依佐美送信所記念館
 依佐美送信所は昭和4年(1929)に建設された、当時としては世界最大級の無線送信施設で、長波によるヨーロッパへの送信を日本で初めて行いました。これにより当時の外交や通商は飛躍的に向上し、その後短波通信施設も強化され、長・短波ともに日本の国際通信設備としての重要な役割を果たしました。
 第二次世界大戦後の在日米国海軍の接収、平成6年(1994)の日本への返還を経て、その役割を終えた送信所は平成18年に全施設が解体・撤去されました。
 この送信所の産業遺産としての価値を評価し、長波用送信装置および関係資料を保存し後世に伝えていくことを目的として、ここに依佐美送信所記念館を建設し、平成19年4月に開館しました。

依佐美送信所鉄塔
 明治以来我が国の対外通信は、欧米の電信会社の所有する海底電線によらなければならず、このような対外通信施設の不備は、外交上・通商上の不利益を我が国にもたらしました。こうした見地から、無線通信による国際通信の整備が提唱され、大正14年(1925年)3月帝国議会において「日本無線電信株式会社法」が成立し、これに基づく新会社が世界の主要地域と直接無線通信のできる施設を建設することとなり、対欧送信所はここ依佐美(当時愛知県碧海郡依佐美村)に、受信所は四日市郊外(三重県三重郡海蔵村)に設けられることになりました。
 依佐美送信所は大電力の長波送信所として設計され、昭和2年(1927)7月に着工、4年3月に完成しました。送信所にはドイツ製テレフンケン式長波送信装置と高さ250メートルの当時としては東洋一の高さを誇る鉄塔8基に懸架した壮大なアンテナが設置されました。アンテナ電力500キロワットは長波としては世界最大のものでした。
 この8基の鉄塔は2列(間隔500メートル)に4基ずつ(間隔480メートル)設置され、相対する鉄塔間に張られた4本の吊架線に逆L型T6条のアンテナが吊り下げられました、接地には多重接地法が採用され、アンテナの下の全域に埋設されました。
 鉄塔と送信所建設に要した資材の量は7万トン。これを運搬するため三河鉄道小垣江駅から建設地付近まで臨時に専用引込線が敷設されました。
 昭和4年3月全ての工事が完成、4月18日盛大に開所式が行われ、我が国とヨーロッパ間の直通通信が開始されました。これは外交上および通商上の画期的躍進でした。
 第二次世界大戦中、長波の送信施設は専ら日本海軍の運用に委ねられ終戦に至りましたが、昭和25年4月在日米国海軍に接収され、昭和27年7月から運用が再開されました。
 平成6年(1994)8月東西冷戦の終焉により全面返還となり、平成9年3月にアンテナ、鉄塔等の撤去を完了しました。こうして70年にわたって三河平野にそびえ立ち、地元の象徴として親しまれてきた鉄塔もその使命を終え、姿を消しました。
 ここに往時の雄姿を留めるものとして、実物を10分の1の高さ25メートルに短縮し保存します。
  刈谷市

鉄塔平面図

鉄塔姿図

依佐美記念館の外観。
依佐美送信所には長波の発信機である高周波発電機が残されており、2006年の解体時に、新たに建造した記念館で保存している。記念館外観は、旧送信機室を模したもので、内部には高周波発電機をはじめ、ローディングコイル、制御盤など旧送信所の設備の8割が静態保存されている。

旧送信機室を模している。


記念鉄塔と鉄塔頂上部(無線鉄塔2号塔跡地)

記念館に隣接する高さ25mの記念塔。解体された無線鉄塔の2号塔跡地にあり、1/10スケールで復元されている。(平成11年建設)
また、敷地内には、250mの鉄塔の頂上部がある。

250mの鉄塔の頂上部


フローラルプラザ(公園事務所)

依佐美送信所の建物(送信局舎本館)をモチーフに作られた公園事務所。

「フローラルガーデンよさみ」

樹木の根元も無線鉄塔イメージでかわいい。


依佐美送信所記念館内部

館内には依佐美送信所で使用された送信機器類など関係資料が保存されている。

米国海軍が送信所を使用していた際に送信室の入口に掲示されていた送信室の説明「Explanation」

依佐美送信所の無線鉄塔跡のマップ。
全部巡ると4キロ60分だそうで。

無線鉄塔の位置関係を俯瞰。

依佐美送信所ジオラマ

位置関係がわかりやすい

長波送信局舎

現在のフローラルプラザと依佐美送信所記念館の建物は、本館と送信所を模している。
長波送信局舎の敷地は、現在はソーラーパネル発電所。

長波用大鉄塔

大鉄塔は1996-7年に解体。鉄塔基礎の跡地は刈谷市の所有となり、長波送信局舎構内から移植されたクスノキが2本ずつ植えられている。
8号塔跡地には鉄塔基礎が残る。(今回はそこまでは行けませんでした。。。)

引留鉄塔

戦後の米国海軍のアンテナ改良にとり、引留鉄塔は廃止され、その痕跡は残っていない。

短波送信局舎

短波送信局舎は、長波局舎の南約1キロの場所に、昭和11年(1936)二完成。
戦後は民間企業に買い取られ、現在も企業敷地内に現存していいる。依佐美送信所の建物として唯一の現存建造物。(あとで見に行こう。。。)

臨時鉄道引込線

名鉄の小垣江駅から2.4キロの臨時線路が敷設された。
線路は送信所完成後に撤去され、道路や田畑となっている。

社宅・寮

フローラルガーデンよさみが、社宅の跡地。

コイルハウス

戦後、昭和38年にコイルハウスを建設に性能向上が図られた。

依佐美変電所

現在の中部電力刈谷電力所依佐美変電所として往時と同じく電力を供給している。

製塩所

戦後に余剰電力を用いて不足していた塩を確保するために2年間ほど、声援事業が行われた。

神明橋

依佐美送信所の建造協力のお礼として鉄筋コンクリートの橋が村に提供された。送信所から世界に電波を発信をイメージして四隅に地球儀が設置され「地球橋」とも呼称された。
現在の神明橋は2000年に造営されたもので、往時を模して四隅に地球儀が設けられている。

短波用木柱郡

短波用アンテナは建設費が安い木柱が多様された。高さは最大で60m。

短波用75m鉄塔

昭和12年に短波用75m鉄塔は5基設置された。

短波用85m鉄塔

短波用アンテナは合計で43基設置された。
85mが5基、75mが5基、60m、45m、40m、30mの木柱が70本。
85m鉄塔は昭和13年に設置。
短波用鉄塔や木柱は昭和29年までに全て撤去され痕跡は残っていない。

在日米海軍通信隊による注意と立入禁止の看板

米海軍通信隊の看板

米海軍の紋章盾

主直流機励磁用電動発動機操作盤

主直流機励磁用電動発動機

主誘導電動機

主直流電動機

高周波発電機

送信機操作盤

高周波チョークコイル

鉄塔台座

250mの鉄塔を支えた台座。上部が球体になっているのは鉄塔が強風によって横揺れを受けても荷重を一点でうけ下部台座に力を均等に分散するため。

碍子

鉄塔支線

依佐美送信所本館の玄関ステンドグラス

航空障害灯

配布物、いろいろ


対欧無線通信発祥地

1989年に、電気通信学会などが対欧無線の発祥の地として石碑を建立。

對歐無線通信發祥地
本田静夫書

依佐美送信所は我が国に於ける最初の欧州向け無線通信設備として建設され昭和四年四月十五日に運用を開始してから本日ここに六十周年を迎える
当時の長波送信機は周波数一七四四二ヘルツの回転型高周波発電機で二百五十メートルの鉄塔と七百キロワットの空中線電力は世界最大の規模であった
本送信所は昭和の時代と共に幾多の変遷を経て現在も電気興業依佐美送信所として真空管式送信機により運用されており歴史的学問的に貴重な価値を有するものである
ここに電子情報通信学会の東海支部創立五十周年と依佐美送信所の電波発射六十周年を記念して此の碑を建立する
 平成元年四月十五日
  電子情報通信学会東海支部
   創立五十周年記念事業会代表
    本田静夫

平成20年(2008) には、IEEEマイルストーンに認定されている。
IEEE (The Institute of Electrical and Electronics Engineers, Inc.)は米国に本部を置く世界最大の電気電子技術者の組織。
平成20年11月16日、依佐美送信所が国内9番目に認定された。世界最大の出力でヨーロッパへ国内で初めて送信したことや記念館に設備が保存されている点が評価された。

マイルストーン銘板

https://www.ieice.org/tokai/activity

場所

https://maps.app.goo.gl/RnBJeaVcrY5bpuip7


依佐美送信所・短波送信局舎

現在の小林クリエイト内に往時の建屋が残っている。

https://maps.app.goo.gl/w9iKYuJKmy3WGu8u7

正面の中央が往時の建屋。私が(歩き疲れたということもあり)現地で、正面に回り込むことを怠ったため、Googleストリートビューからキャプチャ。

北側からだと、こんな感じ。正直、よくわからない。

場所(正面)

https://maps.app.goo.gl/aMgkdphyLfurXD4P9

当時の航空写真(1948年)

現在の様子(Goole航空写真)


無線鉄塔1号塔跡地(依佐美クスノキ1号)

無線鉄塔の跡地には、刈谷市の木である「クスノキ」が2本ずつ植えられている。
なお、2号鉄塔跡地が、依佐美送信所記念館となっている。


無線鉄塔4号塔跡地(依佐美クスノキ4号)

短波送信局舎の近くに4号。


無線鉄塔3号塔跡地(依佐美クスノキ3号)

結構、遠くからでもわかるクスノキ。

依佐美送信所記念館は、遠くからでもよく分かる。

ちなみに、野田新町駅から2キロ30分歩いて、「フローラルガーデンよさみ」について、依佐美送信所記念館に1時間くらい滞在して、寄り道しながら4キロ60分ほど歩いて野田新町駅に戻った、とか、そんな感じ。
それなりに歩く覚悟が必要な場所です。(ちょうど良いタイミングでバスがなかった、、、)

※撮影:2025年3月


関連

愛知県庁食堂と名古屋市役所食堂

先日、愛知県庁の近くで仕事があったので、せっかくなので「名古屋めし」を「役所めし」で味わうことにした。

結構久しぶりに、愛知県庁と名古屋市役所に足を運んだ次第。


愛知県庁食堂

愛知県庁。国重文化財。
愛知県庁本庁舎は1938年(昭和13年)3月完成。
昭和天皇御大典の記念事業の1つとして建設。頂部に名古屋城大天守風の屋根を乗せた帝冠様式。
日本趣味溢れる建造物。

令和8年1月30日まで
愛知県庁本庁舎屋根改修工事中

入口

5階に。

貴賓室がある。

食堂・喫茶室がある。

和定食を。

11時過ぎ。ランチタイムラッシュ前の食堂は空いていました。

国重要文化財の名古屋市役所をオカズに食するランチは贅沢の極み。

まどから、名古屋市役所を眺めることができます。

愛知県庁の内側。5回の窓より。

5階エントランス。

階段も重厚な感じ。

1階

なかなか楽しかった「愛知県庁めし」
歴史的な建物のなかで、歴史的な建物を眺めながら食べる「文化財めし」は最高の贅沢です。

愛知県庁本庁舎屋根改修工事は令和8年1月30日まで。


名古屋市役所

名古屋市役所。国重要文化財。
1933年(昭和8年)竣工。
政令指定都市の中では1927年竣工の京都市役所に次いで2番目に古い。
名古屋市役所本庁舎は、 昭和天皇即位の記念事業として建設され、日本趣味を基調とした近世式意匠の建造物として特徴的。いわゆる帝冠様式建物。

せっかくなので、隣の名古屋市役所にも行きたくなりました。

1階エントランス

地階

食堂がありました。

名古屋市役所本庁舎食堂は、すべてのランチに、サラダとスープとライスバー(白米と中華粥)が食べ放題。。。

さすがにお腹いっぱい(さっき愛知県庁で和定食を食べたばかり)なので、軽めに肉うどんをチョイスしサラダを盛りまして。
良い感じにお腹いっぱい。

ちょうど食べ終わった頃合いが、12時。食堂が職員で賑わってきましたので、ボチボチ退散。

1階。

帰りは、新幹線ホームで「みそきしめん(卵入り)」を食べて、久しぶりの名古屋出張は〆

※撮影2025年3月


関連

はじめに

陸軍清洲飛行場(甚目寺飛行場)跡地散策(愛知)

愛知県に出張の折、時間ができたので、名古屋から足を伸ばして、名鉄大里駅に。ここから、清須飛行場跡地を目指してみる。



位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:97L24-C1-7
1945年4月22日、帝国陸軍撮影の航空写真を加工。

清須飛行場部分を拡大

現在の様子。戦後の農地開拓のまま、かつての清須飛行場の用地が残っている。


清須飛行場(甚目寺飛行場)

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月、海部郡甚目寺町と西春日井郡清洲町にまたがる約200ヘクタールの農地に建設された。正式名称は清洲飛行場だが、飛行場の大部分が甚目寺町にあったため、地元では甚目寺飛行場と呼ばれていた。
終戦時には、飛行第5戦隊が所在し、中京地区の防衛任務にあたりつつ、来たるべき本土決戦に向けて戦力を温存していた。


清須飛行場の建屋

清須飛行場にあった建屋を戦後に移築して倉庫に転用したという。

https://www.asahi.com/articles/ASNDV7RSVND4OIPE02F.html

記事より、転載

 横井さんら地元住民によると、終戦直後から1947(昭和22)年ごろにかけて、飛行場に放置されていた建物群や備品は次々と持ち去られた。横井さんの父親は飛行場跡を開拓して田畑に戻す組合の役員を務めていたといい、「使える物は何でも使う時代だったから住民が引き取ったようだ。集落総出で大八車に積んでここまで運び、組み立てたと聞いた」。
 横井さんも自宅に軍用機の燃料タンクと座席を保管している。飛行場の建設時には勤労奉仕で土運びに駆り出された経験を持つ。
 倉庫は後に、板張りの壁をトタンに変えたり、屋根をスレートにふき替えたりしたが、柱などの部材は当時のままという。昭和30年代にはボヤ騒ぎにも見舞われたが、令和に至るまで残った。宮崎亮一さん(81)は「しっかりした建物だったので補修で済んで、壊さずに使い続けることができた」と振り返る。

場所:

https://maps.app.goo.gl/3swzrukcTCfKqiN5A

バス停は「増田(ました)」

増田長盛の出生の地、という。
ましたながもり

場所

https://maps.app.goo.gl/UosXAJcWK7YjNdvDA


清須飛行場跡地

広がる農地は、戦後の開拓。この広大な農地がそのまま清須飛行場の跡地となる。


清須飛行場の作戦室跡

宅地の奥に、作戦室跡が残っていた。
頑丈なコンクリート建屋は、これを撤去するのも大変な労力を割くことが容易に想像され、それが撤去を諦めて残ったとも言えそうだ。

場所

https://maps.app.goo.gl/UosXAJcWK7YjNdvDA

飛行場エリア=農地開拓エリアの外周となり、周辺は宅地造営が進むも、作戦室跡地だけは取り残されている模様。

南に進む。

高架道路は、名古屋第二環状自動車道。
清須飛行場跡を北東から南西にかけて斜めに横断している。


元飛行場開拓記念碑

あま市甚目寺公民館の敷地内に開拓記念碑がある。
清須飛行場の南端近く。

元飛行場
開拓記念碑

元飛行場開拓記念碑文
太平洋戦争の砌(みぎり)国土防衛のため建設された飛行場が終戦と共に廃棄された。
元来この地は農民の至宝で五穀豊壌の沃野であった。
戦後国力は極度に疲弊し農家と雖も食料に事欠く時であったから関係町村民は挙ってこの地に開拓の意欲を燃やし主食の甘薯馬鈴薯の作付けをしたが大半は雑草の茂る荒蕪地として放置されてあった。
時の甚目寺町長・近藤寿治氏は大いに之を憂い昔日の美田に復帰せむと払下げの請願書を関係官庁に提出しあらゆる困難を押して運動された結果、昭和二十三年十月十八日遂に氏の至誠が認められ入植の許可が下付された。
宿願のかなった農民は一致団結して工事に勉励した。
理事長・山田善吉氏の人格と手腕は衆望を集めて事業の推進に精励せられた。
又、関係農民のたゆまざる努力により灌漑排水共に整備せる理想の開拓地が十有余年の星霜を経て完成し、黄金波打つ豊穣の沃野が限りなく展開されて穀倉地帯の名にふさわしい美田が復興した。
今回清浄の地を選んで開拓記念碑の建設されることは山田善吉氏を始め尽力された人々の頌徳碑でもある。
茲に功労者各位の氏名を列記して永久にその功績を讃えます。
 里人が こころ合わせて 拓きたる
    飛行場の跡  白鷺群れる

場所:

https://maps.app.goo.gl/xAj1YJR68yNThp4BA

あま市甚目寺公民館

※撮影:2024年6月


関連

愛知縣護國神社

日本で現存する最古の跳上橋「名古屋港跳上橋」

名古屋港に跳ね上げ橋が残っている。
ちょっと見学に行ってみました。


名古屋港跳上橋
(旧1・2号地間運河可動橋)

昭和2年(1927年)に架設された名古屋港跳上橋。
堀川と中川とを連絡する運河の堀川口に架けられた鉄道可動橋。
設計製作は、可動橋の第一人者である山本卯太郎。
国登録有形文化財。
経済産業省認定近代化産業遺産。
土木学会選奨土木遺産。

鉄道廃線後、1987年(昭和62年)より、桁を上げた状態で保存されている。
日本では現存する最古の跳上橋という。

稲荷橋からの遠望。

近づいてみます。

なかなかの光景

小雨が降る中でしたが、足を運んでみたかいがありました。良いものが見れました。

場所

https://maps.app.goo.gl/fAkbpuZmUm9jfKFq6

参照

https://www.city.nagoya.jp/minato/page/0000043966.html

https://www.port-of-nagoya.jp/shokai/kohoshiryo/1001070.html

https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kunitouroku/1039.html

※撮影:2023年3月


「戦前最初で最後の国際的博覧会」名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋

愛知県名古屋市港区にある陸橋。地図を見ていてなんとなく目にとまったところから調べてみたら、興味深い歴史を有していたので足を運んでみました。


名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋

名古屋市が人口100万人を突破し、名古屋開港30周年を迎え、太平洋の平和と発展に寄与することを目的に、昭和12年(1937年)3月15日から78日間にわたって開催されたのが、「名古屋汎太平洋平和博覧会」であった。

平和博覧会は、名古屋市長(大岩勇夫)が中心となり、そして総裁は東久邇宮稔彦王(当時、陸軍中将)が就任した。
陸軍としては軍事拡大を目論んでいるさなかでの「平和を銘打った博覧会」は断固反対の立場であったが、名古屋に縁があり(平和派)皇族の陸軍中将が総裁では、軍も公式には反対できなかったという。

なお、この当時すでに昭和15年(1940)に東京と横浜で紀元2600年を記念した万国博覧会(紀元2600年記念日本万国博覧会・幻の東京万博)が計画されていたことから、それに配慮し「万国」ではなく「汎太平洋」という名称になったともいう。

名古屋汎太平洋平和博覧会
開催目的
 (1)広く内外産業文化の現状を紹介する
 (2)わが国の産業の振興と日本文化の宣伝を行なう
 (3)関係各国民の平和親善と共同の繁栄に資する
会期
 昭和12年3月15日~5月31日(78日間)
会場
 名古屋市南部臨港地帯の15万坪
出展国
 太平洋沿岸諸国および名古屋市との友好国全29カ国
出展物
 産業、社会、科学など
入場料
 大人=60銭
 子供=30銭
 軍人=30銭
入場者数
 約480万人

昭和前期の大規模な博覧会として、会場496.000平方メートルの敷地の中央を南北に貫通して東西会場に分割し、東会場は運河で3分割、会場の道路は大陸橋と地下道で結ばれた。

東会場には国内特設館14館と、海外より満州、中華民国、蘭領印度、ペルシャ、シャム、中南米などが参加した。
国内の保健衛生館で展示されたドイツから購入したプラスチック製の透明人間が人気を呼んだ。

西会場はメインの航空国防館で、非常時日本の威力を誇示し、国民の戦意高揚を図る展示をした。

「名古屋汎太平洋平和博覧会」会場の道路は幅80メートル、そこに噴水、花壇や緑地帯を配し、中央に高さ50メートルの大平和塔が聳え、そこから数条の道路が放射状につくられ、展示館、特設館や付属設備が建てられるという統制のとれた会場づくりであった。入場者は4.808.164人で、外国人も満州の2.819人を含め6.625人が入場した。

参照

https://www.nomurakougei.co.jp/expo/exposition/detail?e_code=1660

https://history.nagoya-cci.or.jp/shouwashoki/h12.html

「平和」を銘打った国際的博覧会ではあったが、博覧会終了の2ヶ月後には盧溝橋事件をきっかけとした「支那事変(日中戦争)」が勃発し、平和は程遠い状況下となってしまった。

名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋
我が国最初の国際的博覧会

 名古屋汎太平洋平和博覧会は、昭和12年、我が国最初の国際的博覧会として注目されました。
 会場は、現在の港北公園周辺50万平方メートルにおよび、国内の各都道府県や外国29か国が参加、会期78日間で総入場者数480万人にのぼる大規模なものでした。

 博覧会名にちなみ、平和の二文字をとって名付けられた平和橋は、港区内で博覧会の跡をとどめる唯一の建造物とされています。
 平成25年、市民に身近な歴史的建造物として「認定地域建造物資産」に認定されました。
  平成26年3月 名古屋市港区役所まちづくり推進室

平和橋
昭和12年港区で、名古屋汎太平洋平和博覧会(日本の産業の振興・文化の発展と高揚・関係国民との平和親善を図ることを目的とする)が開催され、解散期間78日間で、入場者約480万人に達した。
この博覧会のために、約13万円を投入しこの橋が建設された。その名を博覧会の「平和」の二字をとって名付けられ、博覧会の記念として残る唯一のものである。

昭和11年十一月竣工

「ピースあいち」のサイトに、名古屋汎太平洋平和博覧会画報の画像が掲載されている。

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201809/vol_106-5.html

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201810/vol_107-5.html

http://www.peace-aichi.com/pdf/20181021_hakurankai1937_2.pdf

※2023年3月撮影


名古屋陸軍墓地(万国戦没者墓地)

名古屋市の平和公園。
戦後、名古屋陸軍墓地は、平和公園墓地に改葬をされた。
名古屋においては、戦後の復興区画整理に際して、陸軍墓地のみではなく、市街地の寺院墓地も総じて新設された平和公園墓地に集約改葬を余儀なくされた。


平和公園

平和公園のご案内
 平和公園は名古屋市の東部に位置し、第二次世界大戦による戦災復興土地区画整理事業の一環として昭和22年5月に「都市計画墓園第1号東保円」として都市計画決定され、市内に点在する279寺の墓地18ha、189,030基の墓碑が集中移転され、墓地と公園が一体化した平和公園が生まれました。(以下略)

平和公園墓地 配置図
寺院ごとに墓地が区画されている。

平和公園バス停のすぐとなりの墓地。
バスは、星ケ丘駅と自由ケ丘駅を結んでいる。


「万国戦没者墓地」が、名古屋陸軍墓地となる。

場所

https://maps.app.goo.gl/cLnfwMSaoNgZVC4L8


名古屋陸軍墓地(万国戦没者墓地)

明治8年の陸軍省の通達により、翌明治9年に、名古屋陸軍墓地が現在の新出来公園に設置された。
戦後、名古屋市は戦災復興土地区画整理事業として市内各所に点在する墓地を移転集約し、墓地公園化を決定。
昭和31年に、陸軍墓地も移設され、万国戦没者墓地が新設された。

萬國英霊塔

昭和25(1950)年1月建立。
名古屋市戦災復興墓地整理委員会。

合掌

日清日露戦争をはじめとする合葬碑が並ぶ。

ドイツ人俘虜の墓地

ドイツ人名古屋俘虜収容所もあった。

ロシア人俘虜の墓地

墓地公園


愛知時計電機株式会社殉職者之墓

熱田大空襲で多大な犠牲者を出した愛知時計電機の殉職者之墓も平和公園墓園内にある。

場所

https://maps.app.goo.gl/wbjoAxgXnJgCyjLJ8


徳川宗春公の墓

尾張徳川家第7代、尾張藩主の徳川宗春公でさえ、改葬されるのが名古屋市戦災復興墓地整理。(もとは、建中寺にあった歴代藩主墓所)。
徳川宗春公の墓は、昭和20年(1945年)に名古屋市が空襲を受けた際、焼夷弾の直撃を受けて、墓石の一部が損傷している。
名古屋藩主代々の墓石は、修復が困難な鵜沼石が用いられており、しばらく損傷した状態であったが2010年に墓碑修復を実施している。

修復前

修復後。焼夷弾の焼け跡はそのまま残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/F1dvMjJJvHGUenvu6


平和公園散策

虹の塔

https://maps.app.goo.gl/gcoLfJFHS323PUvY9

平和堂

第二次世界大戦による多数の犠牲者を追悼し、人類の平和を祈念する趣旨で計画され、戦災復興事業墓地移転記念施設として昭和39年に完成。

https://maps.app.goo.gl/z5oVtdtLuEKZXBcZ6

※撮影:2023年10月


関連

「熱田大空襲の慰霊巡拝」愛知時計電機・愛知航空機(名古屋)

昭和20年6月9日、名古屋の熱田に集中的に空襲があった。

名古屋大空襲のひとつに数えられる「熱田空襲」。
そのターゲットは愛知時計電機と愛知航空機であった。


熱田空襲

昭和20年6月9日、名古屋市熱田区の愛知時計電機船方工場・愛知航空機(現愛知機械工業)工場周辺に米軍が実施をした空襲。
米軍の爆撃機編隊は通常の爆撃航路とは異なる航路で突如として名古屋を襲撃。日本軍は当初の航路から名古屋の空襲警報を解除しており、不意をつかれたことから被害が広がり、結果、愛知時計電機・愛知航空機工場で働いていた従業員や動員学徒約2万2000名のうち1045名が死亡、重軽傷者約3000名、周辺住民も数十人死亡した。(従業員や周辺住民あわせて約2000人が死亡、重軽傷者約2000名との説もある)
この空襲は、9時30分から40分にかけての約10分間の空襲であったという。

米軍は、「エンパイア作戦」として、複数の重工業地点を同時に襲撃し日本側の迎撃態勢を分散させる作戦を立案し、この6月9日は、兵庫県西宮市の川西航空機の鳴尾製作所、兵庫県明石市の川崎航空機の明石製作所、そして愛知県名古屋市熱田区の愛知時計電機、愛知航空機が爆撃をされたものであった。
そして、2トン爆弾が日本で最初に使われた日でもあった。


愛知時計電機と愛知航空機

もとは、機械式時計メーカーの一つ。現在の愛知時計電機株式会社は時計事業からは撤退しているが、歯車技術を応用して精密計測機器メーカーとなっている。
戦前の同社は、やはり時計製造による技術・資本蓄積によって派生した機械、電機、化学部門などを活かし軍用航空機やエンジン製造に携わっていた。

1893年(明治26年)に「愛知時計製造」として創立。
日露戦争時の1904年(明治37年)に陸海軍から砲弾の信管などを初めて受注。
1912年(明治45年)に「愛知時計電機」に社名を改称。引き続き機雷や魚雷発射管の製造の他、艦砲用の射撃盤(射撃データの機械式計算機)の国産化にも協力し海軍との関係が深かった。
また、航空用エンジンの生産も手がけ、大戦中は水冷エンジン「アツタ」の製造をしている。
大戦中の1943年(昭和18年)には航空機増産のために同社の航空機部門を独立させて「愛知航空機株式会社」(現在の愛知機械工業)を設立。
1944年(昭和19年)12月7日の東南海地震では機体組立の中心工場だった永徳工場の製造用治具が乱れ、以後の航空機生産に大きく影響した。
更に1945年(昭和20年)6月の空襲(熱田空襲)により主力の船方工場が大きな被害を受け、そのまま終戦を迎えた。

「愛知時計製造」及び「愛知航空機」の代表作
・九九式艦上爆撃機
・流星
・流星改
・零式水上偵察機
・瑞雲
・晴嵐
・九八式水上偵察機(夜偵)
・水冷式発動機「アツタ」
など。


慰霊地藏尊(愛知時計電機)

愛知時計電機の正門脇に鎮座する慰霊地蔵尊。

熱田空襲の犠牲者を慰霊。

三界萬靈

合掌

地藏尊建立縁起
過グル第二次世界大戦當時當愛知時計電機株式會社ニハ從業員並ニ動員學徒ヲ併セ二萬二千名就業セリ
時ニ昭和二十年六月九日午前九時三十分ヨリ同四十分ニ至ル約十分間ノ空襲ニヨリ忽チニシテ工場一帯ハ當社関係死者一一四五名重軽傷者三〇〇〇名更ニ地方人死者一〇〇〇名ノ一大修羅場ト化セリ
嗚呼惨シイカナ 茲ニ終戰後五年船方工場再建セラル丶ニ當リ同志相謀リ隨喜ノ寫經ヲ埋藏シ地藏尊一軆ヲ建立シ以テ右殉國諸靈魂ノ冥福ヲ祈ラル各靈位願クハ此ノ功徳ニヨリ佛果菩堤ヲ證得セラレンコトヲ
 昭和二十四年六月九日
  覺王山主
   勅賜襌師瓏仙記

場所

https://maps.app.goo.gl/6v6EeH3WfBR177AaA

愛知時計電機 正門

堀川沿いの新建屋


第二次大戦非戦闘員横死者諸霊之追善菩提

愛知時計電機株式会社本社の北側に。
熱田空襲の犠牲者を祀る。

爲第二次大戰非戰鬪員横死者諸靈之追善菩提

愛知時計電機関係者以外の犠牲者を祀る。
合掌

昭和二十年六月九日此の白鳥橋周邉に於て米軍爆撃により無量数百名の一般人名を失ひよつて将來の平和と安定を祈り被爆死者等の冥福を謹みて祈願するものである
 維時 昭和三十三年八月吉祥日
 發願 廣小路徳風會
 隨喜 一般有志者

場所

https://maps.app.goo.gl/KBidYm8HPBxebhAaA


熱田空襲の被爆堤防

以前の記事から抜粋。

堀川運河。
愛知時計電機のすぐ脇に保存されている戦跡。
そこには、 熱田空襲の爆撃痕を残す堤防が移築保存されている。

この護岸は、昭和八年に築造され、平成四年度から実施した「マイタウン・マイリバー整備事業」による新たな護岸の設置にあたり、撤去したものの一部である。
護岸表面にみられるくぼみは、昭和二十年六月九日のいわゆる「熱田空襲」の爆撃によりできたものである。
 平成八年三月 
  名古屋市

場所:

https://maps.app.goo.gl/V8NdRDpmjEDYfuHj9


殉職者之墓

平和公園墓地に、愛知時計電機株式会社の殉職者のお墓がある。

合掌

殉職者之墓
愛知時計電機株式会社
此の墓は、昭和20年6月9日に熱田大空襲を受け殉職された英霊を祀ったものである。

殉職者之墓

愛知時計電機株式会社

場所:平和公園墓地

https://maps.app.goo.gl/BymDWWKzzd3DxhMu7

撮影:2023年10月


関連

名古屋大空襲と大曽根(ナゴヤドーム・大曽根駅・片山八幡宮)

名古屋の大曽根駅周辺を散策してみました。


名古屋大空襲

1938年7月1日に三菱名古屋航空機製作所(大江)からエンジン製造部門を分離独立したのが三菱重工業名古屋発動機製作所(大幸)。

https://www.mhi.com/jp/company/location/nagoyaguidew/history

名古屋でB-29爆撃機による本格的な空襲がはじまった1944年12月13日に真っ先に爆撃目標となったのが、三菱重工業名古屋発動機製作所(三菱発動機)であった。
当時、三菱発動機大幸工場では日本の航空機用発動機(エンジン)の4割を生産していた大工場であり、米軍にとっては、東の中島飛行機武蔵工場、西の三菱発動機大幸工場は壊滅させねばならない工場であった。

昭和19年12月13日、三菱発動機大幸工場に対する初の本格的な空襲が実施。。翌年4月7日まで、執拗な爆撃が実施され、三菱発動機大幸工場は壊滅した。
また、昭和20年3月12日に名古屋市街地が被災、3月19日に名古屋駅が炎上、5月14日に名古屋城が焼失など、大規模な空襲が名古屋市に対して繰り返し行われた。こうして名古屋市に対しては、63回の空襲が行われ、B29飛来2579機、死者は7858名、負傷者10378名に及ぶという。


ナゴヤドーム
(三菱重工業名古屋発動機製作所跡)

1994年8月8日より三菱重工業大幸工場の跡地で建設を着工。
1997年2月18日に完工し、同年3月12日に、同市中川区露橋にあるナゴヤ球場(旧・中日スタヂアム/中日球場)に代わる中日ドラゴンズの本拠地として開場した。

総合案内所

総合案内所の脇に、掲げられたプレート。

平和への礎になられた人々を忘れません
 ナゴヤドームが建つこの地は、かつて三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場があり、第2次世界大戦下の1944年(昭和19)12月13日に米空軍B-29爆撃機70機の空襲を受け、工場で働く人たち、挺身隊の女性たち、学徒動員の生徒ら300余人の尊い命が奪われました。

 この大戦では、名古屋軍(現中日ドラゴンズ)石丸進一投手(当時24歳)も特攻隊員として出撃、野球への熱い想いを胸に抱いたまま空の彼方へ消えて行きました。

 私たちは今日、平和への礎となられた人々を決して忘れず、野球やコンサートなどを通して感動を味わうことができることに深く感謝し、ここにご冥福をお祈りいたします。
2004年4月2日
株式会社 ナゴヤドーム

ナゴヤドームの地の歴史を伝承するプレート

場所

https://maps.app.goo.gl/sHW7QoM8zWkJ8fR49

北側には、三菱電機名古屋製作所大幸ビル

イオンモールもある。

見えてきたのは、三菱電機名古屋製作所

近代的なビルと、三角屋根の工場。

三菱の街

大曽根駅の南側に向かいます。


殉職者慰霊碑(大曽根駅)

JR大曽根駅の南側に、昭和20年4月7日の空襲での大曽根駅における殉職者を祀る。

合掌

殉職者慰霊碑
桂秋 吉田 藤 謹書

至誠公ニ奉シ毅然
トシテ職ニ殉ス業
ヲ我國有鐵道ニ操
ル者ノ儀表タリ茲
ニ其ノ義烈ヲ稱ヘ
長ヘニ旧字 靈ノ呵護
ヲ祈ル

昭和二十年四月七日大曽根驛ニ於ケル殉職者
(故人名略)
昭和二十一年 八月建之 建設委員
遺家族一同
大曽根驛員一同

大曽根駅の南口は、住宅街。商業エリアは北口で。

場所

https://maps.app.goo.gl/WrVHmNqq7in6Rx6w5


片山八幡宮に残る弾痕

名古屋鬼門鎮護の片山八幡神社。旧社格は県社。

敷地の東側を囲う石垣には焼夷弾の跡が多数残っている。破損や焼け跡など。

鳥居には、爆弾の破片が当たってできた弾痕がある。

昭和8年の社号標にも弾痕。

場所

https://maps.app.goo.gl/Jdt1dx7XRNxRXywE8

撮影:2023年7月及び9月


名古屋関連

はじめに

笠寺高射砲陣地の砲台跡(名古屋)

尾張四観音のひとつ「笠寺観音」
戦国時代には、織田の人質になっていた竹千代(徳川家康)と今川に捕らえられた信長の兄・織田信広の人質交換の地ともなった名刹。
そんな「笠寺」の東側の高台「見晴台」に戦時中に高射砲陣地が設けられた。
(愛知県名古屋市南区見晴町47)


笠寺高射砲陣地

昭和17年11月、防空第十五聯隊第五中隊「あそ隊」により、陣地構築開始。
当初は、八八式七糎野戦高射砲4門であったが、昭和18年8月の陣地再構築で2門追加となり6門となった。
昭和19(1944)年4月、防空第十五聯隊は高射砲第百二十四聯隊に改編。
昭和19年11月には高射砲第百二十四聯隊第八中隊「いすず隊」も配置され、名古屋南部防衛陣地として機能した。

八八式七センチ野戦高射砲(八八式七糎野戦高射砲)
口径75mm
最大射程13,800m
最大到達高度9,100m

八八式七糎センチ高射砲は、昭和3年(1928)採用の高射砲。
高初速の高射砲で貫通力も戦ったため、高射砲、野砲、戦車砲などの幅広い用途で活用され、戦争末期には、本土防空戦で、各地の防空高射部隊に大量投入された。

戦後は、公園用地に指定。
昭和39(1964)年、見晴台遺跡の発掘調査が開始。
昭和54(1979)年10月11日、見晴台考古資料館が開館している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M158-A-6-139
1946年06月07日、米軍が撮影した航空写真を参照。

拡大、メモ入り。
笠寺高射砲陣地に、6基の砲座があることがよく分かる。

Google航空写真との照合。
名鉄と国道と笠寺観音と、見晴台と、位置関係がよく分かる。

笠寺高射砲陣地と見晴台の外周道路、今も変わらない。


笠寺高射砲陣地・第ニ分隊砲台(二番砲の砲床)

6基あった砲台のうち、唯一残るのが2番砲の砲床。

高射砲の砲台跡
太平洋戦争中、現在の笠寺公園には高射砲陣地がありました。
ここは高射砲を据えていた砲台跡です。箱状のコンクリートは砲側弾薬庫です。
当時6基あったうちの2基が残っています。
 名古屋市

6基のうち2基の砲台が残る。
それぞれ、2番砲は砲床を残す。6番砲は砲側弾薬庫を残す。

排水溝とボルト穴の跡

鉄筋が残る。

公園の中に、唐突にあるコンクリートの塊。
手前が2番砲塔、奥に6番砲塔のコンクリートも見える。
そのほかの砲座は消失。


笠寺高射砲陣地・第六分隊砲台(六番砲の砲側弾薬庫)

奥には、六番砲の砲側弾薬庫が残っている。
3つのうち、ほぼ全壊の1つと、半壊の1つ、そして完存の1つがある。

砲側弾薬庫のみ。中心にあるべきの砲床は無い。
もしかしたら、埋まっている可能性もある。

1つ目。ほぼ全壊の砲側弾薬庫。下部しか残っていない。

2つめ。半壊の砲側弾薬庫。覆い部分が破壊されている。

鉄筋が顔を出していた。

3つめ。完全に残っている砲側弾薬庫。
弾薬が詰まっていた箇所には、いまは土嚢が(破けているが)詰められている。

良好な形で残存している。

説明案内は、前述と同文。

高射砲の砲台跡
太平洋戦争中、現在の笠寺公園には高射砲陣地がありました。
ここは高射砲を据えていた砲台跡です。箱状のコンクリートは砲側弾薬庫です。
当時6基あったうちの2基が残っています。
 名古屋市

弥生時代と、昭和の戦争の時代が同居している、見晴らし良好な公園。

場所(笠寺公園)

https://goo.gl/maps/SUoe6gxFPtx6QvPJ8


もともとは、この場所は弥生時代からの古代遺跡の場所であった。
資料館もある。

見晴台考古資料館

内部には考古資料だけではなく、高射砲陣地に関する展示もある。
しかし私が訪問したときは資料館の開業時間外(仕事おわりの夕方に訪問したので17時過ぎ)だったので、見学出来ず。残念。。。

https://www.museum.city.nagoya.jp/miharudai/index.html

https://www.city.nagoya.jp/kurashi/category/19-15-2-8-0-0-0-0-0-0.html

弥生の森


見晴台

笠寺高射砲陣地のあった「見晴らし台」を「笠寺観音」の台地から遠望する。


笠寺観音(笠覆寺)

本笠寺駅が最寄り。

※撮影:2023年5月


関連

「伊保原飛行場」名古屋海軍航空隊跡地の戦跡散策(愛知豊田)

愛知県豊田市浄水町。名鉄でいうところの名鉄豊田線浄水駅。
ここにかつて、飛行場があったという。
近くに赴く機会がありましたので、足を運んでみました。


伊保原飛行場

1940年(昭和15年)に、愛知時計電機株式会社伊保工場の試験飛行場として建設され、軍民共用の飛行場として運用された。なお、愛知時計電機のちに飛行機部門は愛知航空機となる。

1941年に、愛知時計電機株式会社伊保工場の西側に「霞ヶ浦海軍航空隊 名古屋分遣隊」が開隊。
1942年(昭和17年)4月1日、名古屋分遣隊は「名古屋海軍航空隊」に改編となる。
名古屋空は艦爆の実用機教程・操縦訓練が追加され、1945年4月には名古屋空にて艦爆による特攻「神風特別攻撃隊 草薙隊」が編成され、沖縄の米軍艦隊へ特攻が実施されている。

戦後は、開拓地として払い下げられ、また愛知少年院や浄水場なども建設されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:97I9-C4-85
1945年04月06日、日本陸軍が撮影した航空写真を参照。

一部拡大。

現在の様子。
不思議なもので、なんとなく滑走路のあった場所が浮かび上がってくる。


開豊神社

戦後に入植した人々により、昭和23年に伊勢神宮から分神を受けて、伊保原神社を造営。
昭和44年に「開豊神社」と改称。現在の社殿は平成29年(2017)建立。
隣には、浄水区民会館がある。
名古屋海軍航空隊時代には、まだ無かった神社。ちなみに、この近隣では北西に鎮座している「射穂神社」が古社(延喜式内社)として有名。

社地の東側に石碑が集まっている。


開拓碑

開拓碑

沿革
 この一帯は元名古屋海軍航空隊の飛行場跡で戦後国の緊急食糧増産対策の一環として開拓された土地である。昭和二十一年七月六 人の人達によって開拓事業が始められた。県追進農場で開拓技術を修練し十七人が地区内に居住した。同年伊保原開拓農業協同組合が設立された。この土地は酸性が強く礫の多い粘土質土壌であった。鍬一丁にたよる開墾は遅々として捗らず収入のない歳月が続いて苦闘の連続で多くの人が離農した。屡々挫折感をおぼえ乍らも歯をくいしばって頑張った。組合は設立以来各種事業を完成し二十六年漸く電灯がひかれた。 その後開拓地としての整備も徐々に行なわれて将来に希望を見出した。三十年代に入って営農が軌道にのりかけた矢先に伊勢湾台風に見舞われ大きな被害を受けたが組合員が一丸となって見事に災害復旧をし組合の経済発展を為し遂げて現在に至っている。なお三十三年和田ヶ池三十六年愛知用水の完成により水田十七ヘクタールが開かれたが開拓者にとって素晴しい光明であった。漸次入植し現在組合員数八一戸耕地面積一七〇ヘクタール余漸くして近代的農業地帯を完成し周辺地区と肩を並べるまでに成長した。これは偏に関係当局の暖かいご指導の賜であり心からの謝意を表しつゝ 茲に組合解散の記念を碑する 
 昭和四六年一二月吉日建立之
  伊保原開拓農業協同組合


神風特別攻撃隊 草薙隊之碑

神風特別攻撃隊 草薙隊之碑

名古屋海軍航空基地で錬成した神風特別攻撃隊「草薙隊」は、鹿児島の国分基地に進出。
そして昭和20年4月6日12日の三次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦船に突入した。戦死56名。

合掌。

此の地は昭和十七年四月一日開隊昭和二十年九月二日解散せる名古屋海軍航空隊の址なり 
昭和二十年春 当地に於て神風特別攻撃隊草薙隊が編成され 四月五日 十二日の両日各二十機の九九式艦上爆撃機は鹿児島県国分基地に進出 菊水一号二号四号作戦に参加 同月六日十二日の三次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦船に突入 未帰還二十八機戦死五十六 
彼らが眠る沖縄の地が祖国復帰の日を迎うるにあたり有志の協力を得て豊田市在住の元海軍軍人本碑を建立し草薙隊ノ忠烈を永く後世に伝へんとするもの也
 昭和47年4月吉日
  豊田海友会

特別攻撃隊 機付整備員 追記碑


特攻花

特攻花 
 沖縄特攻の激しかったころ、九州南方の飛行場のまわりに黄色く咲き乱れていたこの花は、誰言うこともなく特攻花と呼ばれました。特攻花は見ていました。みんな二十前後の元気な若者でした。飛び立つ者の願いと見送る者の祈りを、花は聞いていました。今も、花は聞こうとする人には、聞こえる声でささやいてくれます。「ホラ、プロペラの音が、風の声が」 

慰霊五十年祭の記念に、草薙隊が発進した第二国分十三塚原から種を譲り受けて育てました。和名「おほきんけいぎく」多年生草木です。 
 平成七年四月 草薙隊之碑保存会

「大金鶏菊(オオキンケイギク)」な「特攻花」は、ありませんでしたが、ちいさな黄色い花(たんぽぽ)が咲いていました。


三十二糎砲弾

三景艦砲弾(32糎砲弾)がおいてある。
終戦の詔勅の一節「万世の為に太平を開かん」が砲弾に添えられている。


錨と消火栓

詳細不明。錨は住友重機械工業の寄贈。

消火栓は、海軍の刻印がのこる。移築かと。


五省の碑

五省
無悖至誠乎
無恥言行乎
無缺氣力乎
無憾努力乎
無亘不精乎

左下が不自然に埋められている。
隠さねばならない揮毫者だったのだろうか。

五省とは、海軍兵学校において用いられた五つの訓戒。

十三塚は、室町時代末期のいわれ。これだけは戦争が関係ない。

場所

https://goo.gl/maps/t1EyPQpdsWidkU239


名古屋少年院の向かいにある駐車場の奥の竹藪。

名古屋海軍航空隊の通信壕

竹藪の中に、壕。

旧日本海軍名古屋航空隊 通信壕
 地下戦闘指揮所(通信施設)と考えられる遺構。コンクリート造の3か所部屋で構成され、通路を挟んで2つが並んで位置し、1つが向かい側にある。並んだ2つの部屋は幅4.1m、高さ2.7m、奥行き9.0mと6.6m。天井がアーチ形で、出入り口丈夫に経10cmの孔が弧を描いて開けられている。2つの部屋は連絡孔と鉄管でつながり、機器の配線用と推定される。向かいの部屋は幅5.0m、高さ1.8m、奥行き1.5mで、向かいの部屋に比べると狭い。

配線用の孔は入口上部に。
四角い凹みは屋根の梁か。

配管

隣の部屋と貫通している孔

上部の換気口。

名古屋少年院
かつての名古屋航空隊の中心にあたる。


名古屋海軍航空隊の門柱

片方のみ残っている。

珍しいデザインの門柱。

場所

https://goo.gl/maps/s7MixNC9UPrJh9Dr6


名古屋海軍航空隊(伊保原飛行場)の滑走路跡

浄水町伊保原北交差点から浄水町原山東交差点の先まで、まっすぐに伸びる道路。このあたりの真っ直ぐな区画が当時の滑走路の名残。

まっすぐな飛行場跡に、戦後、愛知県豊田浄水場が建設された。
昭和47年7月から給水を開始。

浄水駅
昭和54年(1979)の開業。

撮影:2023年4月


関連

鶴舞公園に残る戦跡(名古屋)

名古屋市昭和区の鶴舞公園。
名古屋初の都市公園として明治42年に誕生した鶴舞公園にも、戦争に関連する歴史が残されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M550-1-72_19471013
1947年10月13日に米軍が撮影した航空写真を加工。

鶴舞公園周辺を拡大。


鶴舞公園

住居表示やJR駅名は「つるまい」ではあるが、公園の名前は「つるま」。
1909年(明治42年)に開設された名古屋市が設置した初の公園。
名古屋大空襲で複数の建造物を焼失している。


「鶴舞公園」扁額

明治42年の開園当時に内閣総理大臣であった陸軍大将桂太郎の扁額。当初の青銅板は、戦時下の金属回収で供出。コンクリート代用品に変えられたが、昭和41年に復元。当初は公園の正門ゲートを兼ねていたJR中央線ガードに掲げられていたが現在は正面花壇に設置されている。


陸軍高射第二師団司令部
(名古屋市公会堂)

大正13年(1924)1月の摂政宮(昭和天皇)御成婚記念事業として計画され、昭和5年(1930)9月30日建立。
外観は茶系の落ち着いた色調で整え、最上階の円形アーチ窓や隅部の丸み等、ロマネスク的表現とする。初期の鉄骨鉄筋コンクリート造建築。

昭和16年(1941年)8月に「名古屋防空隊本部」が名古屋市公会堂に開設される。
「名古屋高射砲隊司令部」を経て、昭和20年(1945年)5月には、第13方面軍隷下となる「陸軍高射第二師団」となり、引き続き「名古屋公会堂」に司令部を設置。名古屋地区の防衛にあたった。

戦後は進駐軍に接収。米空軍の専用施設としての10年を経て、名古屋市に昭和31年に返還され、再び公会堂として復活。


高射第二師団司令部の門柱

高射第二師団司令部の門柱が一対、残されている。


吉田山の高射砲台陣地跡

鶴舞公園野球場の周辺に、高射砲陣地(4門)が展開されていた。台座の跡が3箇所残っている。

1つ目

2つ目

3つ目

野球場

吉田山は、もともと元名古屋区長吉田禄在の所有地であった。


八幡山古墳の高射砲台陣地跡

八幡山古墳
国の史跡に指定(昭和6年)されている県下最大の円墳。高さ10メートル、直径82メートル、まわりは堀になっています。
大正8年、公園敷地に編入された当時は老松がうっそうとしていましたが、戦争中、高射砲陣地設営のため伐採されてしまいました。戦後再び緑化され、昭和57年から緑地保全地区(平成16年の法改正に伴い、特別緑地保全地区に名称変更)されています。

立ち入りは禁止。


名古屋大学医学部附属病院門及び外塀
(旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀)

旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀
大正3年(1914年)建立。
名古屋大学鶴舞キャンパス敷地の南辺にあり、道路を挟んで鶴舞公園に面する。門柱は花崗岩の方柱で、中央2本が当初のものである。塀は当初の煉瓦造に昭和5年(1930)にスクラッチタイルとテラコッタで改修し仕上げたもので、当時のデザイン傾向が窺える。

名大病院


鶴舞公園のそのほか

鶴舞公園内は、ほかにも近代史跡が多く残っているが、私は大部分を見逃してしまっていた。。。


噴水塔

明治43年、鶴舞公園を会場として、第10回関西府県連合共進会が開かれた。会場の正面広場を飾ったのがこの噴水塔であった。
設計は鈴木禎次工学士、ローマ様式の大理石柱に岩組みという和洋折衷式。
地下鉄3号線工事のため一時撤去されたが、昭和52年復元された。


奏楽堂

明治43年、鶴舞公園を会場として第10回関西府県連合共進会が開催された際に、中心的施設として各種の演奏会が催された。
イタリアルネサンス風の建物で、細部にはアールヌーボーのデザインが施されている。設計者は噴水塔と同じ鈴木禎次工学士。
昭和9年に老朽化のうえ室戸台風で大被害を受けたので取り壊され、昭和11年から平成7年まではデザインの異なる奏楽堂が建てられていたが、平成9年に築造当時の姿に復元された。


近代史の目線では、以下も興味深かったが、見逃し。
2022年9月に再訪しました。

青年団令旨碑壇

名古屋市連合青年団が昭和5年に建設した記念碑壇。青年のスポーツ精神を高揚する令旨が掲げられています。陸上競技場は、大正2年に大運動場として発足しました。昭和7年には施設も充実し、乙種認定を受けましたが、戦後の接収時代に荒れてしまいました。現在は認定外の陸上競技場として、各種のスポーツ、行事に利用されています。


普選壇

普通選挙法(大正14年施行)を記念した野外劇壇。中日新聞社の前身名古屋新聞社が解題20周年(大正15年)を記念して昭和3年に建造しました。壁面には普通選挙の基本精神「五箇条の御誓文」とその英訳、および建設の趣旨とが掲げられています。この青銅板は戦争で失われましたが昭和42年に復元されました。昭和61年に市指定文化財に指定されました。


加藤高明伯銅像跡

昭和3年、愛知県出身の内閣総理大臣であった加藤高明氏を顕彰し、銅像建設会により同氏の銅像が建立されました。同氏の銅像は、昭和19年に戦時物資の不足を理由に供出され、現在は台座だけが残されています。


鶴舞公園は広いので、全部をまわろうとすると結構な時間が必要。結局、6月の訪問ではすべてをまわりきれず、見逃しもあり、機会があったので9月に再訪をした次第でした。

※撮影:2022年6月 再訪9月


関連

松井石根大将ゆかりの神社(椿神明社・名古屋)

愛知県名古屋市中村区牧野町。
名古屋駅の駅裏(駅西)、つまり名古屋駅の西側には、牧野公園や牧野小学校など牧野の名前を残した場所がある。

椿神社は牧野村の北端。
この牧野村で、松井石根は明治11年(1878年)7月27日に生まれた。


神明社(椿神明社)

祭神は、豊宇気比売神。創建年代は不詳。旧社格は村社。
伊勢の神宮の神領地であった牧野村で、椿神明社は外宮とされ「上ノ宮」、牧野神明社は内宮とされ「下ノ宮」と呼称されていたという。

JR東海が施行するリニア中央新幹線(品川・名古屋間)の事業用地として椿神明社の境内北側を一部譲渡することとなり、境内整備が実施された。工事は2020年4月 ~ 2022年3月。
私の参拝は2022年6月。工事完了後の参拝。

社号標の銘は削り取られていた。
昭和9年10月建立。

境内の随所に柵が設けられ、立ち入りできる空間が少ない。


松井石根ゆかりの石碑(池に沈めた大将の碑)

石碑がある。
これが、松井石根ゆかりの石碑。近くで見ることができないのが残念。

松井石根は、椿神社のある牧野村の出身であった。
昭和12年(1937年)7月、盧溝橋事件により支那事変(日中戦争)が勃発。
第二次上海事変に際し、予備役の松井石根は召集され上海派遣軍司令官として陣頭指揮を取ることとなり、昭和12年(1937年)12月、中支那方面軍司令官として南京攻略戦が開始。12月13日に南京陥落。
昭和13年1月、近衛文麿首相の近衛声明「蔣介石を対手とせず」宣言で、中国寄りであった松井石根は考え方の相違もあり更迭され予備役とり、昭和13年3月に帰国。

昭和14年(1939年)12月に、地元の有力者が石碑を建立。
石碑の内容は、地元の英雄であった松井石根大将が南京入城後に作った漢詩。
「南京入城之感」

松井石根は昭和15年(1940年)2月、支那事変(日中戦争)における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた。

昭和21年5月、松井石根は、いわゆる南京事件の責任者として戦争犯罪人(BC級)逮捕。極東国際軍事裁判において起訴され巣鴨プリズンに収監。東京裁判において、11月12日に死刑判決。
昭和23年12月23日に死刑が執行された。享年70歳。

東京裁判と久保山火葬場(横浜)

松井石根の石碑は、この判決よりも前に、GHQに見つかることや戦犯と関わり合いになることを恐れた人々によって、中村公園近くの池に放り込まれたという。
その後、松井石根の石碑は引き上げられ、再び椿神明社に建立されたという。

南京入城之感
燦矣旭旗颺石城江南風色
忽澄清豼貅百萬軍容肅
仰見 皇威輝八綋
 陸軍大臣 松井石根

昭和十二年七月支那事変起也皇国直進膺懲之師
吾郷英傑陸軍大将松井石根閣下為上海方面軍最
高指揮官督戦於江南之地撃破頑敵不出九旬而陥
其首都南京此詩即将軍陣中之作讀者宜相傳唱以
仰皇軍威武乎不朽也昔豊太閤裂明之封冊也其意
欲席捲四百余州而不果焉今経三百有余年豊公之
霊有知同郷英傑偉績如此其感喜果如何必應含会
心之笑於泉下也矣
 昭和十四年十二月
    陸軍中将    大塚堅之助 撰
    陸軍軍医中将  石黒大介  書
        幼友  恒川増太郎 建立

大塚堅之助陸軍中将も石黒大介陸軍軍医中将も愛知県出身。恒川増太郎氏は、松井石根陸軍大将の幼友達で地主。恒川増太郎氏が音頭を取って建立したものと思われる。

「南京入城之感」の隣の碑も、松井石根の謹書であった。
一緒に、池の中に投げ込まれたものかどうかは不詳。

大津武五郎直行君頌徳碑
 陸軍大将 松井石根書

大津直行は、尾張藩士。明治維新後は、鳥取県権参事などを努めている。大正14年に84歳で没。

手水石は昭和10年。
狛犬は昭和14年。

昭和14年に郷土の英雄として讃えられていた松井石根大将。
南京陥落の英雄は、8年後には、いわゆる南京事件の責任者として死刑となり、建立された記念碑は、関わりたくないものとして、池の中に沈められてしまった。
戦後、松井石根大将の石碑はもとのように神社に戻ってきたが、昨今の政治的事情もあり、(偏った歴史感を持った方々による)神社自体に対する不貞な行為などもあり、その保護のために松井大将の石碑は、金網に囲まれてしまった。そうして貴重な石碑が、多くの人々にとっては「よくわからない石碑」になってしまったことが、申し訳なく。

場所

https://goo.gl/maps/rdjUFoaLJPqxyCzXA

※撮影は2022年6月

名古屋城周辺の戦跡と近代建築

本記事は2017年1月と2018年6月に名古屋方面を散策した際の記録をまとめたものになります。
2022年現在とは様相が異なる可能性濃厚ですが、往時の記録としてご参照いただければ幸いです。

なお、このころの散策はムラが多いので見逃し多数ですが、まあ、そのうち再訪するということで。。。


騎兵第三聯隊跡

名古屋市役所の北西角にある石碑。

騎兵第三聯隊跡
 名古屋市長 杉戸清書

騎兵第三聯隊は明治二十五年十一月創設以来昭和三年三月守山に移転する迄此の地に駐留せり
茲に往時を偲び明治百年を記念し之を建つ
 昭和42年4月 騎三会

場所

https://goo.gl/maps/rMq48pch1osUXDyq5


松脂採取跡

名古屋市役所の北側には松並木がある。
松脂採取跡。これも戦争の名残。


加藤忠四郎翁之碑

加藤忠四郎翁之碑
 陸軍大将 宇垣一成書

昭和6年4月建立。撰文は陸軍歩兵大佐津田次郎。
加藤忠四郎翁は第三師団に大きな貢献をし、雑役の元締として60余年奉仕的に勤め名古屋の第三師団では知らないものがいないほどの有名人であったという。


名古屋市役所

名古屋市役所。国重要文化財。
1933年(昭和8年)竣工。
政令指定都市の中では1927年竣工の京都市役所に次いで2番目に古い。
名古屋市役所本庁舎は、 昭和天皇即位の記念事業として建設され、日本趣味を基調とした近世式意匠の建造物として特徴的。いわゆる帝冠様式建物。


愛知県庁

愛知県庁。国重文化財。
愛知県庁本庁舎は1938年(昭和13年)3月完成。
昭和天皇御大典の記念事業の1つとして建設。頂部に名古屋城大天守風の屋根を乗せた帝冠様式。
日本趣味溢れる建造物。

名古屋市役所と愛知県庁。
帝冠様式・国重要文化財コンビ。

巨大な帝冠様式建造物がドーンっと並んでいるさまは圧巻の一言。
この日本趣味丸出しの昭和初期を代表する建造物たちに歴史的重みと風格を感じます。
見ていて飽きませんね。


野砲兵第三聯隊跡
(旧・名城東小公園)

かつてここに公園があり、その公園の中には「野砲兵第三聯隊跡碑」があった・・・という。
2018年現在では公園は閉鎖され再開発中でした。
碑は・・・どうなったのだろうか(不明


第三師団司令部跡の煉瓦塀

二の丸交差点の北西角に煉瓦壁が残る。
レンガはイギリス積み。

場所

https://goo.gl/maps/adTLjZkUhCiKegEk8


名古屋城二の丸

ここにかつて歩兵第六聯隊が展開されていた。


歩兵第六聯隊

二の丸の敷地。

歩兵第六聯隊之由来
抑々明治4年8月、東京鎮台第3分営を名古屋に設置せられたのが起源で、その後明治6年第3分営を名古屋鎮台と改め、歩兵6番大隊と称した。
この年わが国に徴兵令が施行され、翌年3月壮丁を愛知、三重、岐阜の県から徴集し、歩兵第6聯隊を創設し、此の地名古屋城二の丸に兵営を新築し、12月27日軍旗を拝授し衛戌した。
以来精強な軍隊の練成に励み国威の宣揚に尽した。
健軍早々にして明治10年西南の役に初陣し、熊本城の圍を解き本営を護衛し干城の任を尽した。
その後日清戦役に出陣し、九連城海城の戦闘で勇名を挙げ、明治37、8年の日露戦争にては首山堡、沙河、于洪屯の戦闘で武勲を樹てた。
大正7、8年のシベリア派遣、昭和初期における山東派兵及び満洲に加わりて、克く護国の大任を完うせり。
昭和12年支那事変勃発するや上海方面に急派せられ、幾多の辛酸をなめ威武堂々、南京、武漢に転進、次いで応山浙河地区に進駐し警備地の治安確保に任じつつ大東亜戦争に突入し、専ら大陸にありて長沙、常徳、湘桂など累次の会戦に加わりて、東亜新秩序の建設に邁進した。
然れども大勢我に利なく終戦となり、命により武装を解除し国軍は解散するの憂き目に遭い、今や郷土の誇りを継ぐ軍隊なきは誠に遺憾に堪えない。
茲に戦友相計り由縁の地に碑を建て、由来を刻み先人の偉績を顕彰し、併せて殉国の英霊を弔慰し其の功勲を不朽に伝う。
 昭和55年3月10日
  元歩兵第6聯隊戦友生存者有志建之

歩兵第六聯隊之跡
 河辺正三 書

明治4年8月20日創設
昭和20年8月15日解隊
昭和39年軍旗親授90周年記念建立

忠霊

馬魂碑

軍役動物の慰霊のために
昭和55年3月10日 歩六会建之

勅諭下賜五十周年記念碑

昭和7年

場所

https://goo.gl/maps/Sir2v3PCQNZ6ssmJ6


名古屋城

訪れたときは、改修工事中でした。(2018年)


天守礎石

天守礎石
昭和20年(1945年)の名古屋空襲で焼失した旧国宝天守の礎石。
焼け焦げた様子が今も残る。

場所

https://goo.gl/maps/CMx7uidECJteMvib8


乃木倉庫(弾薬庫)

乃木倉庫
 登録有形文化財(平成9年)
 乃木希典が名古屋鎮台に在任していた明治初期に建てられたと伝えられ、だれいうとなく「乃木倉庫」と呼ぶようになった。
 当建物は、煉瓦造平屋建で旧陸軍の弾薬庫であった。昭和20年5月14日の名古屋空襲の際、天守閣、御殿等が消失したが、本丸御殿の障壁画や天井絵類の大半を取りはずしてここに保管していたため被災を免れた。のちに煉瓦の保全のため白亜塗りにした。
 なお、被災を免れた障壁画等は重要文化財に指定されている。
  名古屋市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/XRC3zKxLBwf6RU6c6


戦争に関する資料館
愛知県庁大津橋分室

愛知県庁大津橋分室。建物としては1933年(昭和8年)に竣工。

場所

https://goo.gl/maps/S1DzhcXZjkwXGvh57

名古屋は、再訪して、がっつり歩きたいですね。。。

撮影:2017年1月と2018年6月


関連

愛知縣護國神社
豊橋の戦跡散策

「日独友好の碑」ドイツ人名古屋俘虜収容所跡

愛知県立旭丘高等学校の塀沿いにある記念碑。
この愛知県立旭丘高等学校のある場所は、かつてドイツ人名古屋俘虜収容所の地であった。


ドイツ人俘虜

1914年(大正3年)8月23日に、日本はドイツに宣戦布告。
第一次世界大戦の日独戦争で、中国の青島(チンタオ)や南洋諸島で俘虜になったドイツおよびオーストリア=ハンガリー帝国軍の将兵や在留民間人などは約4700人居たという。
俘虜とは陸軍の用語で、捕虜と同義。

アジアでのドイツ降伏は1914年11月7日。4700名の俘虜は日本本国に輸送され、久留米・東京・名古屋・大阪・姫路・丸亀・松山・福岡・熊本・静岡・徳島・大分の12ヶ所に開設された仮設の俘虜収容所に収容された。
アジアでの戦争は早期集結したが、ヨーロッパ戦役が長期化しているために、長期収容が可能な施設を新規建設し、1915年に久留米・名古屋・千葉習志野・兵庫青野原・広島似島・徳島坂東の6ヶ所の俘虜収容所に統合。
名古屋俘虜収容所は1914年11月11日開設、1920年4月1日閉鎖。
一部の収容所では技術指導なども行われ、後述する敷島製パンはドイツ人俘虜の技術で発展することとなる。

1919年6月28日、ヴェルサイユ条約の締結。
ドイツ人捕虜の本国送還は1919年12月から1920年1月にかけて実施。約170名が日本に残り、技術力を活かして日本で生計を立てた。敷島製パンの技術指導を行ったハインリヒ・フロインドリーブは神戸にベーカリーを開業。ほかにも、バームクーヘンで有名なユーハイム創業者のカール・ユーハイムや、ロースハムのアウグスト・ローマイヤーなども俘虜経験者。


日独友好の碑

日独友好の碑

由緒
 この地には1915年ドイツ人名古屋収容所がおかれここに第一次世界大戦の折に総勢519名の人々が1920年までの5年間生活した
 ここには多くの蔵書を備えた図書館があり日刊新聞も発行され運動場にはフットボールテニス体操などの諸施設がありオーケストラも編成され開放的であった
 名古屋にこれほど多くのドイツ人が在住することは稀有であったため地域住民は彼らに遠来の客として接し先進国ドイツの文化に関心を持ち彼らとの交流が多く見られた
 地域住民は特にドイツ人の勤勉な生活態度に深く感銘を受け優れた職業技能に触れて多くを学びこれを地域の産業振興に役立て音楽やスポーツを通して友好関係を深めた
 ゆえにこの跡地に碑を建立して歴史の事実を後世に伝えることは誠に意義深く国際親善の礎になるものと信ずる。
 2003年3月
  在名古屋ドイツ連邦共和国名誉領事 安倍浩平
  名古屋日独協会会長 石黒伊三雄

愛知県立旭丘高等学校

敷地外から。壁の向こうに、銅像があった。
マラソン校長と称された、「日比野 寛」の銅像。
「日比野 寛」 は、旧制・愛知一中(現在の愛知県立旭丘高等学校)校長時に、日本で最初にマラソンを本格的に教育界に導入したとされている。

場所

https://goo.gl/maps/hLAJHq7ZKmeMY3ES7


敷島製パン

敷島製パンの創業者・盛⽥善平は、第一次世界大戦中のドイツ捕虜収容所(名古屋俘虜収容所)のドイツ兵捕虜の指導をきっかけにパンづくりを開始。
第一次世界大戦終結後、敷島製パンが発足する際に、収容所から開放されたあとも日本に残った元捕虜のハインリヒ・フロインドリーブを技師長として招聘。こうして、ドイツ流製法から敷島製パン(パスコ・PASCO)の製パンは、はじまっている。

創業までのあゆみ[挑戦のはじまり]
敷島製パンが製パンメーカーとして創業するまでには、創業者・盛⽥善平のさまざまな挑戦がありました。

第⼀次世界⼤戦開始の激動の中、善平はついにパンと出会います。

4.パンとの出会い

ある⽇、製粉⼯場の機械の修理にドイツ⼈技師らがやって来た際、「ドイツ⼈俘虜の焼くパンがおいしい」という話を聞いた善平は、さっそく職⼈から学び、パンづくりをはじめました。

特集 1 想いのバトン 創業までのあゆみ https://www.pasconet.co.jp/csr/feature2020/feature_01/01/

敷島製パン(パスコ)とも縁が深い、ドイツ捕虜収容所とは、知りませんでした。

※撮影は2021年11月


関連

名古屋市平和公園の陸軍墓地の一角にドイツ人兵士の墓があるというが未訪問。

※訪問しました

同時期に習志野の俘虜収容所に収容されていたドイツ人の慰霊碑が、船橋市習志野霊園内にある。

静岡にも。

名古屋陸軍造兵廠千種製造所跡(千種公園)

愛知県名古屋市千種区の「千種公園」は、かつては陸軍の工場であった。


名古屋陸軍造兵廠 千種製作所

名古屋陸軍造兵廠千種製作所は、 1919年(大正8年)発足。
第一次世界大戦で新兵器として登場した飛行機の国内生産に取り組むために設置。
熱田製作所で機体を生産し、千種製作所で発動機を生産する分業体制であった。
名古屋には三菱や愛知時計電機などもあり、民間工場も活性化していた。

1923年(大正12年)の関東大震災により、東京砲兵工廠が被害を受けたために、陸軍は小銃などの兵器生産を名古屋と小倉に分散。関東大震災以降に千種製作所は拡大し、小銃・機関銃などの生産も開始。

1945年(昭和20年)3月25日、4月7日、6月26日の3回、米軍B-29の爆撃を受けており、職員だけでも69人以上の犠牲者が出ている。

千種公園

案内地図には、慰霊碑等の記載はない。


名古屋陸軍造兵廠千種製造所慰霊碑

千種公園内の遊歩道脇にある。一見しただけでは、なんの慰霊碑かはわからない。裏の碑文を読めば、「名古屋陸軍造兵廠千種製造所」の慰霊碑であることがわかる。

ここに涙あり
されど
平和は永遠に

 名古屋市長 杉戸清 書

ここは元名古屋陸軍造兵廠千種製作所の所在地であって大正八年開所以来兵器を製造して国家の要請に応え、多大の貢献をした由緒ある地である。
太平洋戦争において全従業員は祖国愛に燃えて職域を固守したのであるが、不幸にして昭和二十年三月以降数度の爆撃を蒙って六十九名の犠牲者を出し、これに戦前の公務による死亡者五名を加えて計七十四名の殉職者を出したことはまことに痛恨の極みである。
 ここに有志相図り旧構内にこの碑を建立して記念としあわせて永遠の平和をこい願うものである。
  昭和43年6月
元名古屋陸軍造兵廠千種製造所関係者有志一同


名古屋陸軍造兵廠千種製作所の外塀跡

ちかくには、名古屋陸軍造兵廠千種製造所の外壁コンクリート塀が移築されている。
爆撃によって、無数の穴が空いている様がよく分かる。

第二大戦の末期、再度の名古屋空襲はこの地にあった名古屋陸軍造兵廠千種製作所に甚大な被害を与えた。この碑はその爆撃による痕跡を残す外塀の一部を移設し戦争の記録として残したものである。
 昭和62年1月


民間戦災傷害者の碑

千種公園内には、もうひとつ戦災に関係する碑があった。

痛みを共有し、継承を
 第二次世界大戦中、戦闘機のゼロ戦を生産するなど大軍需都市だった名古屋市は、60回以上の米軍の空襲を受け、街は焼き尽くされ、市民約8000人が死亡、それに劣らない数の人々が重軽傷を負った。
 死傷した民間人も国が援護すべきという運動は、昭和47年、全国戦災傷害者連絡会(杉山千佐子会長)により、ここ名古屋から始まった。一方、名古屋市は平成22年に「民間戦災傷害者援護見舞金」制度を受け、独自の援護を開始した。
 大戦が終わって70年が過ぎようとしている。壊滅した名古屋の街は市民のたゆまぬ努力によって復興、目覚ましい発展を遂げ、今日では、日本を代表する大都市となった。
 しかし、世界ではいまだに争いが絶えず、惨禍が繰り返されている。
 名古屋市は、市民が再び戦火に巻き込まれることがないようにと願うとともに、空襲で体と心に癒えない傷を負った方々の長年の苦難に思いを寄せ、その痛みの記憶をここに刻む。
 平成26年11月 名古屋市

民間戦災傷害者の碑
 平成26年11月
設置:名古屋市健康福祉局
写真提供:中日新聞社
     戦争と平和の資料館ピースあいち

※撮影は2021年11月

場所

https://goo.gl/maps/LB2xHbeAVBFkGfAo9


関連

昭和塾堂と城山八幡宮

令和元年9月撮影

愛知県名古屋市千種区城山町
城山八幡宮境内、昭和塾堂の場所はかつての末森城二の丸に位置する。

日没の直前でしたが、時間があったので脚を運んでみました。

位置関係

国土地理院より航空写真 USA-M158-A-6-3
1946年06月07日-米軍撮影
googleMapより
末森城址の丘の上に鎮座

昭和塾堂

愛知県が青年向けの社会教育のために建設した教育施設。

愛知県が城山八幡宮より境内を借り受けて建設。
昭和3年(1928)11月竣工。
地下1階、地上3階、塔屋4階、鉄筋コンクリート構造。

当時の日本建築構造学の権威、佐野利器(としかた)博士の助言のもとに愛知県営繕課酒井勝、足立武郎(設計主任)、黒川巳喜(意匠図・黒川紀章の父)、尾鍋邦彦(構造図)等が設計。
昭和塾堂の命名は第21代愛知県知事柴田善三郎による。
(その後、佐野利器博士は、明治神宮造営局参事を務め、名古屋市庁舎・愛知県庁舎建設の顧問にも就任している。)

昭和改元の記念事業として、柴田知事が中心となり青年教育・社会教育の施設「教化殿堂」として建設。
真上から見ても横から見ても「人文字型」に見える設計は、この施設の目的「人づくり」を表現したものとなっている。

昭和18年には軍部に接収され、陸軍の東海軍司令部(東海軍管区司令部・岡田資陸軍中将・第13方面軍司令官 兼 東海軍管区司令官)として使用。

戦後は名古屋大学医学部、愛知県教育文化研究所、名古屋市千種区仮庁舎などを経て、愛知大学院大学大学院歯学部研究棟として使用された。
昭和42年(1967)に愛知県から城山八幡神社に払い下げ。名古屋大学院大学との賃貸借契約は平成29年(2017)に終了している。

現在は城山八幡宮の管理。

昭和塾堂・写真

昭和塾堂付属体育館

昭和6年(1931)建設。木造平屋建。
現在は武道場「養心殿」として使用されている。

城山八幡宮>昭和塾堂

http://www.shiroyama.or.jp/outline/jyukudo.htm

名古屋大学医学部>愛知縣昭和塾堂概要

https://www.med.nagoya-u.ac.jp/medlib/history/archive/print/1933jukudo.html

名古屋市>千種区

http://www.city.nagoya.jp/chikusa/page/0000000647.html


靖國神社遥拝鳥居
殉国碑・忠魂碑(城山八幡宮境内)

殉国碑・忠魂碑
当地、旧田代村の田代小学校校庭に明治以来建っていたもので、昭和21年その維持管理と英霊(田代村出身の戦病死軍人)の慰霊顕彰を目的として当境内に移転されたものである。

靖國神社遥拝鳥居
当碑を通して靖國神社を遥拝する為の標として、昭和62年春、忠魂碑移設40年を記念し「城山三十日講」により造られたものである。

十山字錨

東海海軍連合会誌之

十字字錨
此の錨は往時横須賀港において大型艦艇停泊時の繋留用ブイ繋止錨として使用されたものであります。
重量は四、五トン明治年間の製造と推定されます。
昭和五十五年東海海軍連合会が海上自衛隊より払下げを受け城山三十日講の手によって設置されました。
錨は平和のシンボルでもあり海洋にて戦没された軍人軍属の御霊代として建立したものであります。
 昭和六十一年十月誌
 東海海軍連合会

城山八幡宮・末森城址

戦国時代の織田氏の末森城跡。
天文17年(1548)に織田信秀(織田信長の父)が築城し居城とした。
信秀死後は織田信勝(織田信行・信長の実弟)の城となるが、信長との争いに破れ謀殺される。
その後、末森城は廃城となるが、小牧・長久手の戦いに際して織田信雄が再利用をしている。
城山八幡宮は、織田信行時代の天文22年(1553)に、加賀白山比咩神社を分霊して白山社を祀ったことにはじまり、明治45年(1912)に末森城址が八幡宮の所有となり、近隣神社と合祀して、昭和11年(1936)に現在地に遷座。昭和31年に「城山八幡宮」と改称。

城山八幡宮 公式サイト 由緒

http://www.shiroyama.or.jp/siroyama-3.htm

末盛城跡
 天文17年(1548)織田信秀はこの地に城を築き、古渡城から移った。守山城を守る弟信光と連携して、三河の今川方に対する備えのためであった。翌年、信秀はこの城で病死し、三男信行が城主となった。その後、信行は兄のぶながと対立し、稲生原の合戦を起こして敗れ、永禄元年(1558)清洲城で謀殺された。城は翌年廃城となったといわれる。
 城山八幡宮の境内として保護されたため、戦国・織豊期の城郭遺稿がよく残っている。
 名古屋市教育委員会

末森城空掘跡
昭和8年建立の鳥居
昭和11年7月造の石鳥居を近年に塗装し直しした様子。
参拝時は、日没直前故に社務所は閉まっており、
御朱印はいただけませんでした。

近隣には、近代建築として
昭和3年竣工「愛知学院大学楠元学舎第1号館」(旧・ 旧制愛知中学本館 )
大正12年竣工「名古屋地方気象台」
そして、名古屋陸軍墓地などもあるが時間切れ。またの機会。

戦時下の蓄光タイル?(名古屋駅)

令和元年9月撮影

真偽不明ではあるがネット界隈で情報が散見していたので見に行ってみました。


JR名古屋駅中央本線の階段。
階段の隅に正方形の「ガラス板」装飾がある。
戦時中、空襲警報発令の灯火管制時に、旅客を安全に誘導するために、階段の両脇にガラスで覆った蓄光タイルを配置し、薄暗い光でも足元を照らし旅客を安全に誘導したもの、とされている。

詳細は不明。以下、写真にて。

参考情報

■名古屋駅の空襲警報発令時の旅客の誘導設備の工事が始まる(3)
国鉄全体としては優等列車の削減と平行して軍需物資の輸送と兵員輸送の列車の増加が目立つようになった。毎日配布されるマル秘の名古屋鉄道管理部報に運転の時刻と注意書きが多くなってきた。
我が職場では見出しの様な設備の工事が始まった。
空襲警報発令時の旅客の誘導は真っ暗闇とは行かなくて、ホームの天井にラドン管といううす暗い光を出す細長い電球を吊るし、それを一段一段の階段の両端に埋めこまれた透明ガラスで覆った蓄光塗料のレンガが、光を受けて、真っ暗闇でも淡い黄緑色に光り、旅客の安全に役たっていた。
名古屋駅の全階段(新幹線の階段はない)に施されたこの設備は戦後は、くその役にも立たず(おそらく撤去費用が掛かるため)旅客にも殆ど知られることなく約53年近く取り付けたままになっている。 乗降の際、気をつけて見てください。

https://www.meieki.com/meieki_fucchi1.php

今日の名古屋駅では、一部の階段のみに「蓄光タイル」が残されている。
その他の階段は普通の階段でした。