「愛知県」カテゴリーアーカイブ

あいち航空ミュージアム(2026年2月)

リニューアル前に「あいち航空ミュージアム」に足を運んでいました。
写真メインで。

リニューアル工事に伴い、2026年6月から2027年1月末(予定)まで休館中


あいち航空ミュージアム

名古屋飛行場の南西、旧国際線ターミナルを改装したエアポートウォーク名古屋の隣にある県立の航空博物館。2017年開館。

黒澤明監督デザインのレインボーカラーのMD-90

公式サイト https://aichi-mof.com

エアポートウォーク名古屋。

急に飛び立った飛行機。

航空自衛隊小牧基地が隣。

おお!飛行開発実験団所属のF-2戦闘機(101号機)!(所属は岐阜基地。)
不意をつかれた。


日本の名機物語

日本の航空機物語!
天明の飛行術 浮田幸吉の滑空機(1785年)
西南戦争での気球を使った航空輸送案(1877年)

そして、二宮忠八(1889年)

臨時軍用気球研究会(1909年)
日野熊蔵の日野式1号機(1910年)
奈良原三次の奈良原式1号機(1910年)
そして、アンリ・ファルマン複葉機(徳川好敏)とハンス・グラーデ(日野熊蔵)での国内初飛行(1910年12月19日)

初の軍用機・会式1号機(1911年)
日本海軍初の水上機・カーチス水上機(1912年)
民間航空のパイオニア・伊藤式恵美1号機(1914年)

大正期(1920年代)は、国産機は外国期に及ばず、外国期のライセンス生産全盛期を迎える。

1934年(昭和9年)・傑作機となる96式艦上戦闘機
そして純国産機による世界記録樹立。
東京ロンドンを94時間で飛行した、三菱神風号
国産機唯一のFAI公認記録ホルダー、航空研究所試作長距離機
国産機初の四大陸二大洋連続周航に成功した、96式中型陸上攻撃機ベースのニッポン号

そして戦火の中に飛び立つ翼。
零式艦上戦闘機
1式戦闘機・隼
2式複座戦闘機・鍾馗
見公式世界記録ホルダーとなるA-26長距離機
ロケット戦闘機・秋水
ジェット特別攻撃機・橘花

そして戦後
YS-11 1962年(昭和37年)

YS-11以降は、防衛主体の航空機へ
新明和PS-1 
川崎C1
三菱F-1
三菱T-2

ああ、三菱スペースジェット。。。


MRJ 三菱リージョナルジェット 

県営名古屋空港で2015年に初飛行したMRJ。
2023年、開発中止。

MRJ 機内


三菱 MU-300

三菱ビジネスジェット。1978年8月29日初飛行。


川崎 T-4

中等練習機。川崎重工製造、初飛行は1985年7月29日。
展示機は、ブルーインパルス仕様。
2019年に用途廃止。


零式艦上戦闘機五二型(実物大模型・永遠の0機体)

2013年公開の「「永遠の0」で使用された機体。
もともとは1996年に公開された「人間の翼」(プロ野球選手石丸進一氏の特攻に赴くまでの生涯を描いた映画)で使用された機体。

宮部久蔵が搭乗した機体。


YS-11(52-1152号機)

YS-11は、日本が戦後初めて設計開発した国産双発ターボ・プロップ輸送機。
試作1号機の初飛行は、1962年(昭和37年)8月30日。
この機体は、1965年(昭和40年)に製造、航空自衛隊第401飛行体に所属し、人員輸送用として使用された。

前から

エンジン部分

うしろから

上から

このアングルが、撮影ポイント!


堀越二郎人物伝

零戦を生み、美しさを求めた航空機設計者。
九六式艦上戦闘機、零式艦上戦闘機、国産旅客機YS-11を設計。

1903年、群馬県藤岡市に生まれた堀越二郎。
東京帝国大学工学部航空学科に入学し、三菱内燃機名古屋航空機製作所に設計技師として就職。

東京帝国大学航空学科5期生。
同期の栗林栄太郎は航空局、堀越二郎と由比直一は三菱内燃機、児玉幸夫は東京瓦斯電気工業、中川守之は石川飛行機、土井武夫は川崎造船、そして木村秀政は大学院に。

昭和七年、初めての設計が七試艦戦(七試艦上戦闘機)

美しい飛行機と零戦への道のり
九六式艦上戦闘機の試作機、九試単座戦闘機を設計。

零戦誕生

零戦設計チーム

YS-11

零戦性能要求

堀越二郎の関わった飛行機
・七試艦上戦闘機
・九試艦上戦闘機 九六式艦上戦闘機
・十二試艦上戦闘機 零式艦上戦闘機
・十四試直値戦闘機 雷電
・十七試艦上戦闘機 烈風
・YS-11


名機100選(25分の1模型)

25分の1模型。同一スケールで揃えられた模型は圧巻。

二式大型飛行艇(二式大艇)

二式複座戦闘機・鍾馗 とのサイズ感比較

艦上爆撃機・彗星との比較も。

手前に一式陸攻、奥に二式大艇。


展望デッキ(県営名古屋空港・空自小牧基地)

小牧基地方面

訪問の次の日が、小牧基地航空祭だったということもあり、駐機場が賑やか。


日本の飛行艇(特別企画展)

きの企画展が見たかったのです。
飛行艇好きとして。

二式大艇とUS-2

飛行艇模型

展示パネル

国産飛行艇の開発史

日本海軍・二式飛行艇(ラジコン模型)
12分の1スケール

なかなかの迫力。

写真各種

大型飛行艇設計のすう勢

九七式飛行艇

二式大型飛行艇

各種写真

二式大艇の内部写真

二式大艇とUS-2

US-1A模型

US-2開発物語

模型パッケージでの変遷

飛行艇グッズフェア!


お土産

ストラップとボールペンとクリアファイルを。

※撮影:2026年2月


関連

最初で最後の陸海軍連合大演習・明治天皇統監の地「駐蹕御趾・乙川御野立所」(乙川白山公園・半田)

知多半島の中心都市「半田」。
明治23年(1890年)3月29日から4月2日にかけて、日本で最初の、(最初で最後の)「陸海軍連合大演習」が、知多半島で実施された。

半田市内の2つの公園を中心に、関連する戦跡などを巡ってみたいと思う。


第1回 陸海軍連合大演習

明治23年(1890年)3月29日から4月2日まで実施された、日本最初の「陸海軍連合大演習」。
明治天皇を統監、参謀総長有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を審判官副長とし、明治政府からも山縣有朋内閣総理大臣、大山巌陸軍大臣、西郷従道海軍大臣らの重鎮たち勢揃いした大演習。

前年の明治22年に、国民皆兵制度としての徴兵令(太政官布告・法律第1号)大改正、そして明治23年は、第一回衆議院議員総選挙(7月1日)、教育勅語発布(10月30日)、第一回帝国議会召集(11月25日)、大日本帝国憲法(明治憲法)施行(11月29日)と施策が矢継ぎ早に打たれ、明治政府の近代国家としての体制が整った都市でもあった。
そして、4年後の明治26年(1894年)に、日清戦争に突入することなる。

「第1回 陸海軍連合大演習」では、陸軍は近衛師団、東軍に名古屋第三師団、西軍に大阪第四師団が参加し、海軍は御召艦の「八重山」をはじめ「高千穂」「大和」「高雄」「葛城」「扶桑」「浪速」「金剛」「鳳翔」「天龍」「筑紫」「摩耶」など28隻の軍艦のほか、水雷艇および運送船が知多半島の東の湾内に展開し、陸海軍の兵数28,000人を西軍(侵入側)と東軍(日本軍)に分かれ、実戦さながらの演習が開催された。
東西両軍艦隊が伊勢湾と衣ヶ浦湾で海戦を行い、西の侵入軍が武豊に上陸して東進し、これを阻もうとする東の日本軍との間で阿久比川を挟んで攻防戦を繰り広げられた。

明治天皇は大演習統監のため愛知県下に行幸。
まず大本営を真宗大谷派名古屋別院に置き、戦機の進展に伴い半田町に大本営を移した。
明治天皇の宿泊所は「半田大本営」と呼ばれ、大富豪小栗富次郎の邸宅に置かれた。
明治天皇は3月30日に小栗富次郎邸宅に宿泊し、翌31日に乙川と雁宿で大演習を統監した。

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201311/vol_48-6.html


駐蹕御趾

駐蹕御趾

勝海舟の書。
明治35年(1902年)8月に乙川村有志によって、『駐蹕御趾』は明治天皇が野立した地点に建立された。

明治23年(1890年)3月30日から4月3日の5日間、西三河から名古屋東部にかけての地域を中心に第1回陸海軍連合大演習が行われた。その演習の2日目となる3月31日に、乙川白山付近から半田雁宿山にかけて東西両軍支隊の陸戦が行われた。
明治天皇は大演習の統監をすべく、最もよく東西両軍を見渡すことができる現在の白山公園の高台から観戦した。

明治廿三年三月
天皇親率陸海二軍大講武於尾參之間其兵凡三萬餘戰闘五日砲聲轟々天地爲震其三十一日 天皇御馬侵大雨馳驅戰陣之中來登白山社頭按轡而観焉嗚呼  
聖徳乾健躬與士卒分艱苦駐蹕寒郷而不顧自此乙川民甘棠之情常不能忘也乃稱此地日駐蹕御趾意我邦自古以武建國而其所謂兵式者參之海外諸國而拔其萃夫廿七八年之役而後  
皇威振於八紘者蓋非偶然也頃村民相謀欲建碑以表其趾永傳之後代因謹記其梗墍以勒石云明治三十五年八月建之

<読み下し>明治23年3月、天皇は尾三の間に於ける陸海二軍の大講武を親率す。其の兵は凡そ3万余、戦闘は5日砲声は轟々とし為に天地は震える。其の31日 天皇の御馬は大雨を侵し、戦陣の中を馳駆し、白山の社頭に登り来り、轡 (くつわ) を按めて焉 (これ) を観る。
嗚呼聖徳は乾健にして躬ら士卒と艱苦を分かち寒郷に駐蹕して顧みず。此れより乙川の民は甘棠 (かんとう) の情は常に忘れ能わざる也。乃ち此の地を称して駐蹕御趾と日う。意うに我が国は古より武を以て建国し、其の所謂兵式は之を海外諸国に参じて其の萃 (あつまり) を抜く。
夫二十七八年の役爾後皇威が八紘に於いて振るうは蓋し偶然に非ざる也。頃 (ちかごろ) 村民相謀って建碑し、以て其の趾を表し、永に之を後代に伝えんと欲す。因って其の梗概を謹んで記し、以て云 (ここ) に石に勒 (ろく) す。明治35年之を建つ


明治天皇乙川御野立所

明治天皇乙川御野立所碑

昭和9年(1934)11月1日に、聖蹟地として雁宿御野立所と乙川御野立所が史蹟に指定され、昭和10年3月に建碑された。内閣総理大臣 斎藤 実 の書。

明治天皇乙川御野立所碑
 この碑は昭和九年(一九三四)十一月一日「史蹟名勝天然記念物保存法」に基づき、半田の雁宿御野立所とともに文部大臣から聖蹟地として史蹟(跡)指定されたのを記念して、この地に昭和十年(一九三五)三月に建てられた。
 碑の題字は、当時内閣総理大臣であった斎藤 実の書である。斎藤 実は内閣総理大臣を辞した後に、内大臣を務めたが、昭和十一年(一九三六)に起きた「二·二六事件」で凶弾に斃れた。
 昭和二十五年(一九五〇)に「史蹟名勝天然記念物保存法」は廃止になったが、「文化財保護法」の附則により「史蹟名勝天然記念物保存法」によって指定されたものは「文化財保護法」により指定されたものとみなすことになった。
 なお、史蹟指定された時点では、公園中央を通る歩道の南側の土地は明治四年(一八七一)に制定された「上知令」により官有地とされていたが、戦後になり国から返還された。
  平成二十七年十一月 乙川白山公園聖跡保存会


明治天皇御統監四十周年記念碑 (誓いの御柱)

昭和5年(1930)、明治天皇御統監40周年を記念して建立。
塔部には「五箇条の御誓文」が記され、台座部には「弥栄 (いやさか) 」「天晴 (あわ) れ」「あな面白 (おもしろ) 」「あな手伸 (たのし) 」「あな明 (さや) けおけ」と記載。現在は、経年劣化で一部剥落している。

明治天皇御統監四十周年記念碑
 この碑は、明治二十三年(一八九〇)に行われた第一回陸海軍大演習を明治天皇が、この地で統監されてから四十周年を迎えたことを記念して昭和五年(一九三〇)十一月に建てられた。通称「誓いの御柱」と呼ばれている。
 塔部には明治元年(一ハ六八)三月に発布された明治新政府の政治理念である「五箇条の御誓文」が記されている。塔の台座部には正面に「弥栄(いやさか)」左回りに「天晴(あわ)れ」·「あな面白(おもしろ)」·「あな手伸(たのし)」·「あな明(さや)けおけ」と記されている。
「弥栄」は国の益々の繁栄を祈る寿ぎの言葉で、「天晴れ」以下は古史古伝に書かれている言葉で、天照大神の「天の岩戸隠れ」」で暗闇に閉ざされていた世界が「天の岩戸開き」によって光明に満ち満ちた時に諸々の神々が発した喜びの言葉である。
 五箇条の御誓文
一、広ク会議興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ラ一ニシテ盛ニ経綸フ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志遂ケ人心フシテ倦マサラシメンコトラ要ス
一、旧来ノ陋習ラ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識フ世界ニ求メ大ニ皇基振起スヘシ
 我国未曾有ノ変革フ為サントシ、朕躬ラ以テ衆ニ先ンシ、天地神明ニ誓ヒ、
 大ニ斯国是ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立ン卜ス。衆亦此旨趣二基キ協心努力セヨ。
  平成二十七年十一月 乙川白山公園聖跡保存会

広く会議を興し万機公論に決すべし

上下心を一にして盛んに経綸を行うべし

官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ 人心をして倦まざらしめん事を要す

旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし

智識を世界に求め大に皇基を振基すべし

弥栄 (いやさか) 

天晴 (あわ) れ

あな面白 (おもしろ)

あな手伸 (たのし) 

あな明 (さや) けおけ

柵は、戦後の修復あり。

支那事変大東亜戦争戦没者慰霊碑建設記念
昭和46年4月29日修復
乙川郷友会

明治天皇御統監四十周年記念

昭和5年11月建立 亀崎町


日清戦争従軍紀念碑

明治35年8月に日清戦争従軍を記念して建立。大山 巌 書。
現在地に大正15年8月に移設された。

従軍紀念碑

従軍紀念碑銘  

乙川小学校長 林和三郎撰
明治廿七年 皇師討清国渝盟之罪戦勝攻取海陸席巻軍亘両歳清国悔過之遣重臣講和大軍凱旋使国家威武宣揚於八表此雖固由 聖朝威霊而兵士之忠勇𡈽與有力焉此役也乙川郷民従軍者廿五人以功賜賞有差頃郷民欲建碑以垂範于後昆碑余銘銘日
其旗正正  其陣堂堂  討罪正名
我武維揚  豈図彼我  本為唇歯
鷸蚌之争  恐漁之利  投水赴火
万人一心  有凌我者  其利断金
糺忠克毅  常執厥一  龍驤虎変
猶期他日
 南厳中川衡憲書
元帥陸軍大将正二位勲一等功二級候爵大山巌

日清戦争従軍紀念碑
この碑は、明治二十七·二十八年(一八九四·一八九五)の日清戦争に従軍したことを記念して明治三十五年(一九〇二)八月に建てられた。現在地には大正十五(一九二六)年八月に移築されたが、当初の建碑場所は不明である。
碑の題字は当時陸軍参謀総長であった大山 巖の書である。大山巌は、明治二十三年(一八九〇)の陸海軍大演習時には陸軍大臣であり、明治天皇に随従し、この白山の地から大演習を観戦した。
碑銘は乙川小学校長の林 和三郎の撰、書は中川 南厳によるもので「駐蹕御址」碑陰文の選者·書家と同じである。
碑銘の下側には従軍者二十五名の名前がきざまれている。日清戦争では乙川村からの出征者に戦死·戦病死者はいなかった。新修半田市誌には、明治二十八年七月に乙川八幡社で凱旋祝賀会が催され、臨時祭礼も挙行されたと記されている。
碑裏面には建碑発起人二十五名の名前が刻まれており、その中には数名の従軍者の名前も見られる。また建設委員には竹内惣九郎氏はじめ、当時の乙川村の有力者の名前も多数見られ、紀念碑の建設が村を挙げての事業であったことが窺える。
平成二十七年十一月 乙川白山公園聖跡保存会


慰霊碑

支那事変及び大東亜戦の犠牲者267名の慰霊碑。
昭和46年4月、乙川郷友会が中心となり、乙川遺族会と乙川区長会の協賛で建立。
題字は、内閣総理大臣 佐藤栄作の書。

慰霊碑
 この碑は、昭和十二年(一九三七)七月に中国北京郊外の盧溝橋で勃発した日華事変から、昭和二十年(一九四五)八月の終戦までの犠牲者(戦死·戦病死·事故死者)の慰霊のため、昭和四十六年(一九七一)四月に建てられた。
 碑の題字は、当時内閣総理大臣であった佐藤 栄作の書である。
 碑裏面には犠牲者二六七名の名前が地域別に刻まれており、その内訳は次のとおりである。
  支那方面 七三名
  満州方面 一五二名
  朝鮮 一名
  沖縄 九名
  北太平洋 二名
  内地 二〇名
  シベリヤ 三名
  ルソン島 七名
 終戦から二十六年を経た昭和四十六年になって慰霊碑が建立された。戦後、復旧に汲々としていた日本経済が昭和四十年代の高度成長に伴い、人々の生活も豊かになった。戦争犠牲者に思いを馳せる余裕ができ、遺族が元気なうちに慰霊をしたいとの思いから碑がつくられた。
 平成二十七年十一月 乙川白山公園聖跡保存会


乙川白山公園

乙川白山の頂上付近に八幡社と併設された公園。
昭和44年に整備。
明治天皇が乙川白山で統監された際の馬の足跡に建碑した「駐蹕御跡」の石標(明治35年8月)や、慰霊碑などが残されている。

場所

https://maps.app.goo.gl/by1vojDS719HVatt6


乙川駅

名鉄の知多半田駅を15時すぎにスタートして、雁宿公園に赴いて、そこから乙川白山公園まで歩いて、17時半にJR乙川駅に辿り着き。約2時間半の散策。

乙川駅の近くには、中島飛行機半田製作所があった。
半田製作所の至近位置にあった武豊線乙川駅は1933年12月7日、無人の簡易駅で開業。
駅舎前の急坂は、線路の急勾配を回避した乙川駅の嵩上げの名残。

もしかして?往時の路面??


※撮影:2026年2月


関連

対となる「雁宿公園」はこちら。

最初で最後の陸海軍連合大演習・明治天皇統監の地「半田大本営と雁宿御野立所」(雁宿公園・半田)

知多半島の中心都市「半田」。
明治23年(1890年)3月29日から4月2日にかけて、日本で最初の、(最初で最後の)「陸海軍連合大演習」が、知多半島で実施された。

半田市内の2つの公園を中心に、関連する戦跡などを巡ってみたいと思う。


第1回 陸海軍連合大演習

明治23年(1890年)3月29日から4月2日まで実施された、日本最初の「陸海軍連合大演習」。
明治天皇を統監、参謀総長有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を審判官副長とし、明治政府からも山縣有朋内閣総理大臣、大山巌陸軍大臣、西郷従道海軍大臣らの重鎮たち勢揃いした大演習。

前年の明治22年に、国民皆兵制度としての徴兵令(太政官布告・法律第1号)大改正、そして明治23年は、第一回衆議院議員総選挙(7月1日)、教育勅語発布(10月30日)、第一回帝国議会召集(11月25日)、大日本帝国憲法(明治憲法)施行(11月29日)と施策が矢継ぎ早に打たれ、明治政府の近代国家としての体制が整った都市でもあった。
そして、4年後の明治26年(1894年)に、日清戦争に突入することなる。

「第1回 陸海軍連合大演習」では、陸軍は近衛師団、名古屋第三師団、大阪第四師団が参加し、海軍は御召艦の「八重山」をはじめ「高千穂」「大和」「高雄」「葛城」「扶桑」「浪速」「金剛」「鳳翔」「天龍」「筑紫」「摩耶」など28隻の軍艦のほか、水雷艇および運送船が知多半島の東の湾内に展開し、陸海軍の兵数28,000人を西軍(侵入側)と東軍(日本軍)に分かれ、実戦さながらの演習が開催された。
東西両軍艦隊が伊勢湾と衣ヶ浦湾で海戦を行い、西の侵入軍が武豊に上陸して東進し、これを阻もうとする東の日本軍との間で阿久比川を挟んで攻防戦を繰り広げられた。

明治天皇は大演習統監のため愛知県下に行幸。
まず大本営を真宗大谷派名古屋別院に置き、戦機の進展に伴い半田町に大本営を移した。
明治天皇の宿泊所は「半田大本営」と呼ばれ、大富豪小栗富次郎の邸宅に置かれた。
明治天皇は3月30日に小栗富次郎邸宅に宿泊し、翌31日に乙川と雁宿で大演習を統監した。

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201311/vol_48-6.html

「陸海軍連合大演習」および、後年の「陸軍特別大演習」(第一回目の陸軍特別大演習は、明治25年の宇都宮)においては司令部でなく、天皇の行幸行在所(あんざいしょ)を「大本営」と称した。これが、のちの戦時大本営へとつながる呼称のルーツの一つといわれている。


雁宿公園

明治23年 (1890) に陸海軍の連合大演習が行われた際、明治天皇が大演習統監のために滞在されたことを記念し、大正2年(1913)に公園として整備。
公園全体が明治天皇ゆかりの地として、園内に「明治天皇雁宿御野立所」碑、「明治天皇半田大本営」碑、「明治天皇駐蹕碑」が建っている。


明治天皇駐蹕碑(雁宿公園)

明治天皇御駐蹕碑
 大正二年十一月 建立
明治二十三年三月三十日から四日間、第一回陸海軍連合大演習が当地と西三河の一帯で行われた。この碑は演習御統監のため明治天皇が来半なさったことを記念して建てられた。伊勢湾、衣ヶ浦湾における両軍艦隊の海戦に続いて、武豊へ上陸した侵入軍と、東進を阻もうとする日本軍との間で、激しい攻防戦が阿久比川を挟んでり広げられた。この大演習は日露戦争を目前にした我が国が軍事力を世界に示すために計画したもの。

展望台の上から石碑をみることができる。


明治天皇雁宿御野立所(雁宿公園)

明治天皇御野立所
 昭和十年 建立
降り続く前夜からの豪雨の中、ここ雁宿の丘に立たれた明治天皇は外套の御頭巾も召されずに演習を御統監になった。その御勇姿が国定教科書の修身巻四に掲載され、半田町のことが全国に知れ渡った。この碑はうしろに立つ巨大な駐蹕碑を含めて、雁宿公園全体が明治天皇縁の地であることを示している。

清浦奎吾の書


旧半田大本営明治天皇仮御所 
明治天皇半田大本営碑(雁宿公園)

明治天皇は、第1回陸海軍連合大演習の際、半田の豪農・小栗富次郎邸を仮御所(大本営)とした。
小栗富次郎家はその後、破産。建物は中埜産業合名会社の手に渡ったが、昭和5(1930)年に半田市に寄付。現在地に明治天皇は、第1回陸海軍連合大演習の際、半田の豪農・小栗富次郎邸を仮御所(大本営)とした。
小栗富次郎家はその後、破産。建物は中埜産業合名会社(ミツカン)の手に渡ったが、昭和5(1930)年に半田市に寄付。現在地に小栗富次郎邸(明治天皇の寝所・大本営御便殿跡の一部)移築されたのは昭和8(1933)年。建物自体は明治20年建築。旧小栗邸の跡地は国盛「酒の文化館」(中埜酒造株式会社・國盛)となっている。

明治天皇半田大本営碑
 昭和9年5月建設

明治天皇半田大本営碑
 昭和九年五月 移築
明治二十三年三月の陸海軍連合大演習の折、当時の政府や陸海軍の中心となる人々が明治天皇に従って来半し町内各所で宿泊した。明治天皇の御宿舎は大本営と呼ばれ、下半田の氏神様、業葉神社東にあった大富豪小栗冨治郎邸(現中埜酒造)に置かれた。のちにそれを記念して小栗邸から天皇御宿泊の御部屋を移転し保存したのがこの建物である。

史蹟指定地境界

指定地の文字が塗りつぶされている。

ピアかりやど
一時期は結婚式場などとしても活用されていが、建物の老朽化や耐震上の理由から閉鎖。


忠魂碑(雁宿公園)

乃木希典書

忠魂碑
 大正三年十一月建立
これは日露戦争における戦いで大切な命を落とした半田町出身の兵士を慰霊し、その行いに対して感謝の気持ちを表すために建てられた戦没者記念碑である。碑文は日露戦争で活躍した乃木希典大将の筆による。こういった忠魂碑は旧成岩町(成岩小学校校庭)、旧亀崎町(神前神社境内)など市内各所にある。


追憶之碑(雁宿公園)

東中島飛行機半田製作所山方工場で学徒動員中に、東南海地震で犠牲なった生徒たちを偲ぶ追憶の慰霊碑。

追憶之碑
昭和二十六年七月 建立
 昭和十九年(一九四四)十二月七日午後一時三十六分、当地を襲った東南海地震によって倒壊した中島飛行機(株)半田製作所山方工場(現在の市役所の位置)で学徒動員中に犠牲になった九十七名の殉難学徒のうち、旧制半田中学校、半田高等女学校、半田商工学校、半田第一国民学校、乙川国民学校、亀崎国氏学校、成岩国民学校(順不同)の生徒四十八名を偲ぶ記念碑が同期生らの手によって建立された。


殉難学徒之像(雁宿公園)

東中島飛行機半田製作所山方工場で学徒動員中に、東南海地震で犠牲なった生徒たちを偲ぶ慰霊碑。

戦時動員学徒殉難遺徳顕彰記念像

殉難学徒之像
 昭和三十四年八月 建立
昭和十九年十二月六日頃の戦局は悪化の一途を辿っていた。軍需工場では学徒動員で集められた男女生徒が一人前の男顔負けの仕事ぶりで頑張っていた。古い赤レンガ造りの旧東洋紡績(株)を改装した中島飛行機(株)半田製作所山方工場でも多数の少年少女達が飛行機の組み立てに一心不乱、お国のために働いていた。そんな当地をマグニチュード8の東南海地震が襲ったのは午後一時三十六分である。一瞬にして倒壊した工場の瓦礫に押しつぶされて、九十七名の尊い命が悪夢の如く失われてしまった。半田高等女学校二十九名、豊橋高等女学校二十三名、京都第三中学校十三名、福井商業学校七名、半田国民学校六名、半田商工学校四名、旧制半田中学校三名、愛知高等実修女学校三名、成岩国民学校三名、片施国民学校三名、亀崎国民学校二名、乙川国民学校一名(順不同)の御靈の安らがならんことを祈り、世界の平和を願ってこの像は立つ。

殉難学徒之像


半田戦争犠牲者追悼平和祈念碑(雁宿公園)

平和祈念碑
 平成七年七月建立
この碑は、太平洋戦争戦後五〇周年を記念し、半田地域の民間戦災者を追悼し、戦争の惨禍を記録して、平和を誓うために建立された。
中島飛行機など軍需工場に動員された生徒·児童、徴用者、従業員、さらに朝鮮北部から連行された青年など四三二人(建立当時)の戦災犠牲者氏名が刻名してある。市民の浄財募金によって建立されたものである。

半田市に残る戦争のつめあと
犠牲者の追悼

半田地域の空襲·動員などによる戦時災害被害者を刻名した石碑です。
戦後50周年を記念して、半田空襲と戦争を記録する会の提唱のもと、建立実行委員会が結成され、市民や動員体験者などから募金をいただいたうえで、1995年7月に建立されました。
碑文「平和を願って」にあるとおり、事実を後世に伝え、再び戦争を起こさない決意が込められています。
このプレートは、戦争の悲惨さや平和の尊さの継承や、恒久平和を祈念するため、設置しているものです。
設置者:半田市

半田・戦災犠牲者追悼
平和祈念碑

平和を願って
 半世紀前、太平洋戦争がありました。
 その戦争のため、この半田でも、子ども・老人・市民・労働者・地元をはじめ、全国から軍需工場に動員されていた学徒・女子挺身隊・徴用の人びと四三二人以上の貴い生命が失われました。
 とくに、当時、日本の植民地とされていた朝鮮の北部から連行された、青年四十九人以上がこの中に含まれることは、まことにいたましいことです。
 戦災は天災ではありません。わたしたちは、半田における戦争の惨禍の記録をここに刻み、アジア諸国をはじめとする、すべての戦災犠牲者を追悼します。そして、この事実を後世に伝え再び戦争を起こさせない決意をこめて、平和を祈念するものであります。
 一九九五年七月二四日
  半田・戦災犠牲者追悼
   平和祈念碑建立実行委員会

半田の戦災
軍需工場と国家総動員
 太平洋戦争の開始にともない、半田市に中島飛行機をはじめ、多くの軍需工場が進出。全国各地から徴用労働者学徒ら約2万人が動員され、朝鮮から千二百人の青年が強制連行されていた。

東南海地震
 1944年12月7日、M8の地震が起こり、中島飛行機山方工場と葭野工場などで、学徒97人を含む154人が死亡。
 これは、旧紡績工場で軍用機の生産を行い、支柱・隔壁などを撤去したために工場が崩壊した人災であり、戦争被害でもあった。

半田空襲
 1945(昭和20)年7月15日小型機数機が来襲。機銃掃射により、市民8人が死亡。7月24日午前10時38分、アメリカの爆撃機B-29 78機が中島飛行機と周辺住宅地を爆撃。従業員・市民の264人以上が死亡。

労働災害
 病気・事故により、6人以上が死亡。
 合計、432人以上が犠牲となった。

東南海地震と半田空襲の犠牲なのご芳名を刻む。


南吉文学碑・貝殻詩碑(雁宿公園)

半田は新美南吉(ごんぎつね)の出身地。

雁宿公園と南吉文学碑(貝殼詩碑)
 ここ雁宿公園は、明治二十三年に半田を中心に行われた第一回陸海軍大演習の際、明治天皇がこの地から統監されたこどを記念してつくられました。開園は明治天皇が崩御された翌年の大正二年で、同じ年に半田出身の児童文学者新美南吉が生まれています。
 南吉は度々、雁宿公園を訪れています。中学時代には同級生と訪れて「小山」と題する童謡を作り、小学校で代用教員をしていた頃には児童と遠足に来ています。
 雁宿公園に南吉の文学碑が建てられたのは、昭和三十六年のことです。詩「貝殻」の一節を刻み、ランプとでんでんむしをかたどったユニークな碑は、旧制半田中学校で南吉の先輩にあたる小田寛一氏(彫刻家·日展審査員)がデザインしました。整地や周囲の植栽には、市民がボランティアで参加し、除幕式には、詩人の異聖歌が招かれました。以来、半田市内で最初の南吉文学碑として市民に親しまれています。
※巽聖歌 ·· 南吉にとって北原白秋門下の兄弟子にあたる詩人。南吉顕彰に尽くした。


雁宿配水池跡(雁宿公園)

半田市上水道の始まりの地。

半田市上水道の始まり
 日本で最初の近代水道は、明治20年に横浜で開設したのが始まりです。愛知県では、大正3年に名古屋市、昭和4年に豊橋市が開設し、それに続き昭和5年(1930年)、県下3番目に半田市が開設しました。これは、当時の知多郡半田町(現JR半田駅周辺)のみを給水区域として発足したものです。
 それまで、蔵のまちとして栄えた半田町の山手の方は、昔から良質の水に恵まれていましたが、酒·酢·味噌·しょうゆなどの醸造工場があった港の方は、地下水の水質が悪く湧水量も乏しい状況でした。そのため、嘉永3年(1850年)に、酒造家たちが私設水道として、今の名鉄知多半田駅付近に井戸を掘って、そこから木製の水道管を敷設し、利用していました。
 こうした状況のなか、産業の振興や伝染病予防など保健衛生のために、上水道の設置が熱望されていたことから、大正13年(1924年)、時の皇太子ご成婚記念として、半田町の豪商2人より上水道設置のために、当時の金額で各10万円の寄付があり、これを機に半田町としての上水道事業が動き出したのです。
 水源となる深井戸は、大正15年、雁宿公園際で122mの掘削に成功した第一水源(星崎浄水場併設)と、翌年の昭和2年、半田中学校(現半田高校)西で117mの掘削に成功した第二水源の合わせて2か所としました。
 これら水源の深井戸から汲み揚げられた水は、星崎浄水場でろ過した後、昭和5年、ここ雁宿公園内の丘上に建設された雁宿配水池にポンプで送水し貯えられ、半田町の計画人口2万人の水道水として供給を開始しました。雁宿配水池は、長さ20m×幅13.33m×深さ3.65mの鉄筋コンクリート製の配水池で、容量は970m3あり、人口2万人に対して10時間分を貯えることができました。


雁宿公園の動物園

ウサギや、インコ、ウコッケイ、アイガモ、アヒル、カメなど、ちょっとした癒しの空間。


雁宿公園の展望台からの眺望

半田の臨海を望む。

場所

https://maps.app.goo.gl/qBDnppctBtuRtXPP8

撮影:2026年2月


関連

対となる「乙川白山公園」はこちら

国内現存最大級のスロープ「河和海軍航空隊」跡地散策(愛知・美浜)

2026年2月、愛知県を散策していました。
午前中に軍人像を見学し、昼前に河和駅に到着、でした。 約3時間の散策。


河和海軍航空隊

第一河和海軍航空隊は南側で「整備教育部隊(整備訓練)」
第二河和海軍航空隊は北側で「編成教育隊(搭乗訓練)」
河和海軍航空隊は、性質の異なる2つの教育部隊が集まったものであった。


第一河和海軍航空隊

昭和18年4月1日「追浜海軍航空隊」から整備教育の分派として「追浜海軍航空隊知多分遺隊」が設置。
「追浜海軍航空隊」は幹部養成の高等科、「河和海軍航空隊」は現場整備員養成の普通科教育部隊。
昭和18年12月1日「河和海軍航空隊」として独立。連合練習航空総隊隷下の第十八連合航空隊(整備教育隊)に編入。
昭和19年2月1日「河和海軍航空隊岡崎分遣隊」が設置。
4月1日「岡崎海軍航空隊」が分離。
昭和20年3月1日「第一河和海軍航空隊」に改称。十八連空解散。横須賀鎮守府第二十連合航空隊に転籍。そのまま終戦を迎える。


第二河和海軍航空隊

昭和18年12月1日「小松島海軍航空隊」から水上機錬成部隊の分派として「小松島海軍航空隊知多分遣隊」が設置。
昭和19年4月1日「第二河和海軍航空隊」として独立。連合練習航空総隊隷下の第十一連合航空隊(横須賀鎮守府隷下練成教育隊)に編入。
昭和20年1月、名古屋へのB-29空襲に際し、訓練用に配備されていた「強風」「二式水上戦闘機」での迎撃を開始。
2月26日「神風特別攻撃隊・御楯隊」の「河和隊」を編成。
5月5日、実施部隊に変更。第三航空艦隊第十三航空戦隊に転籍。
8月5日、御楯隊は玄界灘水上基地に進出し、15日出撃命令が発令されるが、玉音放送により中止、終戦を迎える。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R2985-9
1949年8月5日、米軍撮影の航空写真。

以下、拡大加工

第2河和海軍航空隊

第一河和航空隊


第二河和海軍航空隊・正門跡

美浜町立河和中学校の南側の道路に「第二河和海軍航空隊の正門」が残っている。

旧第二河和海軍航空隊 正門跡
 第二河和海軍航空隊は、太平洋戦争中の昭和19年(1944)4月に水上機の操縦訓練技術を養成する練習航空隊として開隊しました。昭和18年から飛行機の整備教育を行った第一河和海軍航空隊と併せて、河和から豊丘までの1.8平方kmの用地が接収されました。特に、旧古布·旧浦戸の集落は、航空隊の用地内となり集団移転を余儀なくされました。
 この正門は、上部が欠損していますが、高さ160cm、縦57cm、横91cmあり、コンクリートブロックを積み上げて全体をコンクリートで塗る方法で造られています。正門を入った北側には、兵舎や病院などがありました。また、現国道247号線の海側には司令部や士官舎がありました。
 昭和20年7月30日、アメリカ軍機の機銃掃射により、この門周辺で多数の戦死者を出しました。
  美浜町教育委員会
   平成28年3月

機銃掃射の跡も残る。

美浜町立河和中学校

場所

https://maps.app.goo.gl/Y7EMcHiC9u1FMbeX9


第二河和海軍航空隊・給水タンク土台

美浜町立河和中学校の敷地内に残っているコンクリート構造物。西側の道路上から垣間見ることができる、この巨大な円筒のコンクリート構造物は、兵舎に供給するための高架水槽の土台跡。

敷地外から見学。

場所

https://maps.app.goo.gl/EFSH6xXzz3daHxkv9


河和海軍航空隊跡記念碑(森下公園)

森下公園に、河和海軍航空隊の跡地記念碑があった。
第一も第二もあわせた記念碑となっているが、この場所は、「第二」。

河和海軍航空隊跡記念碑
 第二次世界大戦中、河和の地に海軍航空隊設立され、全国より集結した隊員の、青春の広場となったことを、ここにとどめ、この碑を建立する
 昭和五十三年八月吉日 河和会

記
昭和十八年十二月
 河和海軍航空隊設立
 第十八連合航空隊に編入(整備教育)
昭和十九年四月
 第二河和海軍航空隊開設
 第十一連合航空隊に編入(水上機操縦教育)
昭和二十年二月
 河和海軍航空隊は第一河和海軍航空隊になる
昭和二十年五月
 第二河和海軍航空隊は第十一連合航空隊から第三航空艦隊第十三連合航空戦隊に編入さる
昭和二十年八月
 終戦 
 戦没者数三十七名

碑名 青春
制作者 三谷 勲

場所

https://maps.app.goo.gl/Tvz5VEfCH9yMYd2W6


第二河和海軍航空隊・滑走台跡

日本最大級の滑走台(スロープ)が残る河和海軍航空隊跡。

旧第二河和海軍航空隊 滑走台跡
 目の前に広がる海への傾斜面は、旧海軍の水上機の上げ下ろしに使った施設「滑走台」です。通称「スベリ」と呼んでいます。工事は昭和17年から19年(1942~1944)に行われ、北側に1面、東側に2面造られ、全て現存しています。
 北側の第1滑走台は幅50m長さ92m、東側の第2滑走台は幅220m長さ92m、第3滑走台は幅90m長さ92m(防衛研究所資料)、勾配は1/14(傾斜4度)です。特に第2滑走台は、現存する日本最大規模の滑走台です。
 第二河和海軍航空隊は、昭和19年に開隊された水上機の練習航空隊でした。波穏やかな知多湾の水面を滑走路代わりに練習機による操縦訓練や、実戦機による特攻訓練が行われました。現在、西側の大川と国道247号線までの広大な場所には、指揮所·駐機場·格納庫·整備場など多くの施設がありました。
 美浜町教育委員会 平成28年3月

93式水上中間練習機

案内は、第二滑走台のところに掲示がありました。


第二河和海軍航空隊・第1滑走台跡

北側の第1滑走台は幅50m長さ92m
第1滑走台は、近くで見ることが可能でした。

すぐ近くでスロープを見ることができる。
これは良い!
気持ち良い空間。なんかずっと居られる。
しばし、往時を偲びながら、波を無心に眺めてしまう。

海が綺麗!
ここも三河湾の湾内なのに、普段見ている海とは雲泥の違い。

東側は少し崩壊。

場所

https://maps.app.goo.gl/SjMT4RjBuXvWvktp9


第二河和海軍航空隊・第2滑走台跡

東側の第2滑走台は幅220m長さ92m
現存する日本最大規模の滑走台。
降りることは出来ない。

幅220メートルは圧巻。

場所

https://maps.app.goo.gl/cm5ZnqpzNB8F66HA6


第二河和海軍航空隊・第3滑走台跡

第3滑走台は幅90m長さ92m
第2と同じく降りることは出来ない。

第3滑走台の方向を望む。

広い空。陸地側はソーラーパネル。
往時は、エプロン(駐機場)があった。

場所

https://maps.app.goo.gl/HR1AuJSY7DYCgZTU6


第一河和海軍航空隊・軍港跡

事故や故障で不時着水・墜落した水上機などを、台船を使って引き揚げたり運び込んだりするための入江状の施設として機能していたという。
当時の入江には堤防が築かれ、現在は水門で海と繋がっている状態。

下段が、往時の軍港の名残。

場所

https://maps.app.goo.gl/xzsPPA7ij5mSm64i6


第一河和海軍航空隊・機体整備場基礎跡

機体整備場の基礎が残っている。
見事に真っ直ぐに綺麗に残ってますね。

東側の基礎は、トレーラーの土台になってました。

場所

https://maps.app.goo.gl/UH5sZQyQFQkD5AfN6


第一河和海軍航空隊・連絡橋橋脚基礎跡

水上機運搬用の陸橋の橋脚跡が残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/M9QZct42GhgNHWNo6


第一河和海軍航空隊・防空指揮所跡

半地下式のコンクリート製で、内部は通路で結ばれたかまぼこ形の部屋が3つあるというが、現在は入口は全て塞がれている。

入口が塞がれているため、よくわからない不思議な土盛り感がある。

天井部分のコンクリートが露出。

通気口

覗いてみた(小型ライト持ってた笑)

石段が残っている

場所

https://maps.app.goo.gl/GoKiweRfKHTCRzvr9


第一河和海軍航空隊・兵員浴場基礎跡

一直線に残っている基礎。畔の境界として活用?されている感。

このあたりに兵舎があった、、、

場所

https://maps.app.goo.gl/2nxDtQ9oBad7PvEW7

このあと、兵舎の西南にあったという対空機銃陣地跡とか貯水槽跡とか防空壕とかを探しに行ってみたが、迷子になりそうな雰囲気濃厚で、帰りの時間も考慮しギブアップ。


河和駅

ちなみにいまさらだけど「かわわ」ではなく「こうわ」。

今回の散策では、河和駅を起点に「海っ子バス」(一日乗車券)を活用しました。

※撮影:2026年2月


関連

「軍人像」第二次上海事変で奮戦した歩兵第六聯隊(愛知南知多・中之院)

知多半島に眠る軍人像。
以前より気になっていたこの地に、ようやく足を運ぶことが出来ました。

みたま、やすらかに、と。


中之院軍人像について

もともとは、1939年から43年頃にかけて、名古屋市千種区の大日寺の月ケ丘墓苑に、第二次上海事変の戦没者、その多くは歩兵第六聯隊の兵士たちであり、めいめいのご遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立されたものであった。大日寺廃寺に伴い、1995年に現在地に遷座。

中之院軍人像について
 ここの軍人像のほとんどは昭和12年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で戦死された名古屋第三師団歩兵第六連隊の兵士達です。
 緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、艀で野間沖に待機していた巡洋艦・駆逐艦に乗り込み、わずか26時間で揚子江河口付近に到着後の昭和12年8月23日の敵前上陸でした。が、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。
 軍人像そのものはめいめいのご遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものです。昭和12年から18年のことと言います。
 また戦後進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない、あれを日本人の手で壊すことはできない、どうしても壊すというなら、我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろうと頑張った。
 おかげで像は壊されずに済んだということです。
 建立当時より名古屋市千種区月ヶ丘にあったもので、当山には御縁により平成7年11月にお移しし、この地で安住いただいております。
 現在もよくご遺族ご縁者の方が御参りにいらっしゃっています。
  天台宗 大慈山 中之院

英霊ニ捧ル詩

きょうもさむい
  雪がふる 
 われらは無言で
   たっている 
花はさけども
  ぼちはさかず
 きょうもあつい
   水はなし 
かぜがつよい
  かれはがおちる 
 また冬がくる
  やどはなし 
よろこびも
 かなしみも
  昭和63年5月
  (個人名略)


第二次上海事変と名古屋第三師団歩兵第六聯隊

「第一次上海事変」が起きた昭和7年(1932年)ごろから、上海の日中間は常に緊張状態であった。
日中間の衝突は、昭和12年7月7日に「盧溝橋事件」(北支事変)が勃発し、7月28日には河北全面に戦線が拡大していた。
そして、8月9日、上海海軍特別陸戦隊西部派遣中隊長の大山勇夫海軍中尉と、斎藤與蔵一等水兵が中国保安隊に射殺される「大山事件」が起こり、上海での情勢も緊迫することになった。
中国軍による上海居留地に対する攻撃に対し、居留地をまもる上海海軍特別陸戦隊・海軍単独での対応が困難となった8月12日に、海軍軍令部は陸軍派兵を要請。そうして、13日に近衛内閣は内地2個師団の上海派兵を決定した。

海軍戦略と中支派兵問題
中支派兵決定後の海軍及び近衛内閣
海軍の対支政戦略と近衛内閣

上海では、8月12日には、上海海軍特別陸戦隊(約5,000)と、中国軍2個師団(約5万)の対峙は、既に10倍の戦力がついており、緊迫した状態から小競り合いに突入。13日には、本格戦闘が開始された。
上海居留民保護のためとして陸軍2個師団の派兵を決定した近衛内閣は、8月15日に名古屋第三師団と善通寺第十一師団に動員下命され、上海派遣軍が編成された。(司令官は松井石根大将)

中国軍は8月15日には、約7万名に増強(一方、日本軍は海軍陸戦隊を中心に約7,000名)し、上海租界を猛攻撃する。海軍特別陸戦隊は約10倍の敵を相手に上海租界を死守。
松井石根大将を司令官とし名古屋第三師団と善通寺第十一師団の2個師団の先遣隊は海軍が用意した艦艇群により上海に急送。

8月23日に名古屋歩兵第六聯隊と岐阜歩兵第六十八聯隊の応急動員分を主力とする第三師団先遣隊は、呉淞(ウースン)小運河(クリーク)南方の黄浦江岸の呉淞鉄道桟橋周辺へ強行上陸を決行し、多大な犠牲を払い橋頭保を構築。

この「第二次上海事変」で奮戦した歩兵第6聯隊の犠牲者の遺族によって建立されたのが「軍人像」であった。


浅野祥雲

浅野祥雲(1891年 – 1978年)
「軍人像」を造ったのは、岐阜中津川出身の浅野祥雲であった。
コンクリート像の造型家として著名。
代表作は「関ヶ原ウォーランド」「五色園」「桃太郎神社」


九十二体の軍人像

軍人像と対峙する。

生前の写真をもとに造られた軍人像。
一体一体の表情が異なる。

1938年(昭和13年)初頭に、歩兵第六連隊長の倉永辰治陸軍少将ら3人の胸像が造られたことに始まり、その後、43年頃までに108体が建立されたという。

倉永辰治聯隊長は、8月29日敵弾の胸部貫通により戦死。第二次上海事変の高級指揮官として最初の戦死、であった。

生前の写真をもとに作られた軍人像の大きさは、約50~約180センチ。
戦争の戦局が悪化してからはコンクリート像の柱となる金属が不足し、小さくなっていったという。

https://www.asahi.com/articles/ASR8B7QNRR70OIPE005.html

大日寺の月ケ丘墓苑が廃寺することになり、1995年に知多半島の「中之院」が軍人像を引き取り、現在の姿となった。
92体の軍人像を遷座することになったが、全部を台座ごと置く場所がなく、遺族と連絡が付いた22体は台座ごと遷座し、残る70体は台座の上部のみを遷座。結果、向かって右側に台座のある軍人像、左側に台座のない軍人像が並んでいる。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/447815

軍犬も

陸軍軍人も、海軍軍人も。愛知県出身の犠牲者を慰霊する。

後姿もきちんと造形されている。

無心となって、時間を忘れて軍人像と対座。

改めて

みたまやすらかに、と、祈念する。

梅の花が咲いていました。

知多半島から、伊勢志摩方面を望む。

神島、かな

答志島、かな。

河和駅からバスに乗って「サンタバーバラサンセット」バス停で下車。そこから約三十分ほど歩いて、軍人像まで、という道のりでした。

山海海水浴場

バスはだいたい1時間に1本。行きたいところには、アクセスがもっと悪い場所も多いので、1時間に1本なら有難いと私は思ってしまうが、訪問には時間の計画と組み立ては必要なところですね。

河和駅前 行き

サンタバーバラサンセット 帰り

場所

https://maps.app.goo.gl/zD1eokwLLiHENA9GA

※撮影:2026年2月

この日の午後は、こちらに。


参考掲載

歩兵第六聯隊長・倉永辰治陸軍少将の墓(東京・賢崇寺)

倉永辰治陸軍少将。佐賀県出身。
陸士23期、陸大34期。

昭和10年(1935)に歩兵大佐に昇任し、翌年に歩兵第6連隊長となった。
昭和12年(1937)の、第二次上海事変で、呉淞上陸作戦の前線指揮を担う。火力優勢な中国軍に対し、8月23日に勇敢な正面敵前上陸を敢行し、多大な犠牲を払うも上陸に成功し橋頭保を構築。しかし歩兵第六連隊長の倉永辰治も8月29日に敵弾が胸部貫通し戦死。第二次上海事変の高級指揮官として最初の戦死、であった。死後、陸軍少将に特進。

この第二次上海事変で奮戦した歩兵第六聯隊の犠牲者に対する遺族の慰霊顕彰の願いが軍人像建立のきっかけになった。

倉永辰治の墓は佐賀藩の江戸の菩提寺であった賢崇寺にある。上官にあたる上海派遣軍司令官の松井岩根陸軍大将の書。
また、歩兵第6連隊長の倉永辰治少将、そして同じく上海で戦死した歩兵第101連隊長の加納治雄少将など7名の「戦没勇士の胸像」が昭和14年に作られ、靖國神社遊就館に献納されている。

陸軍少将倉永辰治墓
 陸軍大将松井岩根書

「七つ日足に三つ巴」の家紋。
日足紋は、戦国時代に肥前の龍造寺氏が初めて使用したといわれ、北部九州の武家でよく使われた家紋。倉永家は佐賀藩の馬術指南の家柄。

倉永辰治は、佐賀藩士の袋武辰の次男であったが、陸軍中尉時代に父の実家である藩の元馬術指南倉永勝太郎の跡を継いで倉永姓となっている。

法号 永勝院殿徳忠辰光居士 享年五十
 昭和十二年八月二十九日 於上海戦死

賢崇寺には「肥前佐賀藩主鍋島家墓所」や「二十二士之墓」(二・二六事件の墓)もある。

※撮影:2026年9月


関連

南極観測船「ふじ」(名古屋港)

先日、名古屋に赴いていたので、スキマ時間に「ふじ」を観覧してきました。

名古屋港ポートビルと南極観測船「ふじ」のほうに。


名古屋港開港の出発点「鉄桟橋」跡地

1907年、名古屋港開港の出発点「鉄桟橋」跡地。

「鉄桟橋」から始まった名古屋港
左下か斜めに伸びる橋が「鉄桟橋」。
名古屋港開港の1907年(明治40年)に建設されました。
長さ127m、幅14.5m。
その後、桟橋上部には貨物列車のレールも敷かれ、開港から昭和初期までの唯一の船着場として、また、接岸する船舶でにぎわう名古屋港の代表的施設として市民から親しまれました。
※10,000トン級の船の入港が可能でした。

現在の名古屋港
1981年(昭和56年)中央ふ頭と東ふ頭の間を埋め立てて完成したガーデンふ頭。
昭和59年に名古屋港ポートビル、昭和60年に南極観測船ふじ、平成4年に名古屋港水族館がオープンし、親しまれる港づくりが進められています。

1905年(明治38) 鉄桟橋建設着手、2号地埋立完成
1906年(明治39) 巡航博覧会「ろせった丸」入港
1907年(明治40) 鉄桟橋完成、名古屋港開港
1929年(昭和4) 西埠頭埋立着手
1931年(昭和6) 中央埠頭・東埠頭埋立着手
1934年(昭和9)西埠頭埋立完成
1936年(昭和11)中央埠頭・東埠頭埋立完成
1981年(昭和56) 2号地(現・ガーデン埠頭)埋立完成
1983年(昭和58) ガーデンふ頭臨海緑園完成
1984年(昭和59) 名古屋港ポートビル完成
1985年(昭和60) 南極観測船「ふじ」係留
1992年(平成4) 名古屋港水族館開館
2001年(平成13) 名古屋港水族館北館開館

だいたいこのあたりに鉄桟橋があった。

名古屋ポートビル


「南極観測船ふじ」

「宗谷」に次ぐ、2代目南極観測船。
日本初の極地用本格砕氷艦。
自衛艦初のヘリコプター搭載艦。
1965年(昭和40年)3月18日に進水、7月15日竣工。
1984年(昭和59年)4月11日に退役。1985年8月より、名古屋港博物館船として係留されている。

https://nagoyaaqua.jp/garden-pier/fuji


「南極観測船ふじ」船内

1965年(昭和40)から18年間、南極観測を支援してきた砕氷船。

第9回の南極観測時の砕氷艦ふじ艦長の森田1等海佐のコメント。

食堂室
椅子は2008年引退の初代しらせのもの。

調理室

麻酔ガスは「笑気」なんですね。

自衛艦旗
第7次南極観測記念

格納庫は、南極観測に関する展示コーナー

ふじ搭載のヘリコプター「S-61A」

艦橋

上部操舵所
そこに至るまでが怖い。。。

デッキクレーン


名古屋港ポートビル

隣の名古屋港ポートビル、へ。


名古屋海洋博物館

名古屋港発祥の地「熱田の浜」

「ろせった丸」の入港と、名古屋開港

「ろせった丸」は、明治39年(1906年)に巡回博覧会船として、全国の港を巡航し、展示品を即売した移動博覧会を実施していた。特に、当時築港工事が進められていた名古屋港(現・熱田港)への入港は、築港反対運動を沈静化させ、名古屋港開港の契機となった。

https://history.nagoya-cci.or.jp/meiji/h3.html

1907年(明治40年)名古屋港開港

戦争中、名古屋港は機動作戦基地にはならなかったため、兵員や兵器などの軍需品輸送港としては使われなかったが、全国有数の軍需工場地帯であったため、激しい空襲にさらされることになった。
1944年(昭和19年)12月7日の昭和東南海地震、翌年1月13日の三河地震で名古屋港の港湾機能は麻痺状態となり、終戦を迎えた。

名古屋汎太平洋平和博覧会


名古屋港ポートビル展望室

展望室から名古屋港を眺める。

ふじを上から。

ちょっとした展示コーナーも。

※撮影:2025年5月


関連

世界最大級の無線送信施設だった「依佐美送信所」(依佐美送信所記念館・愛知県刈谷市)

完成当初、世界最大級の無線送信施設で、東洋一の長波送信所であった「依佐美送信所」の記念館に足を運んでみました。


依佐美送信所

依佐美送信所は昭和4年(1929)に運用を開始した長波及び短波の無線送信所。
開設当初の対になる受信所は「四日市受信所(海蔵受信所)」(昭和3年竣工、兵庫県の小野受信所開設に伴い昭和13年廃止)であった。
大戦中は、海面下にも届く長波(超長波)の特性を活かして、帝国海軍の潜水艦との交信に活用された。
昭和16年12月2日、瀬戸内海に停泊する連合艦隊旗艦「長門」から有線で東京通信隊に送信された「ニイタカヤマノボレ一二〇八」は、「船橋送信所」から短波と長波で発信され、「依佐美送信所」からは超長波で潜水艦向けに発信されたという。
戦後、米国海軍は依佐美送信所を接収し、潜水艦通信に使用。平成5年(1993)に送信停止され、翌年に日本に返還。
依佐美送信所は昭和4年(1929)に運用を開始した長波及び短波の無線送信所。
開設当初の対になる受信所は「四日市受信所(海蔵受信所)」(昭和3年竣工、兵庫県の小野受信所開設に伴い昭和13年廃止)であった。
大戦中は、海面下にも届く長波(超長波)の特性を活かして、帝国海軍の潜水艦との交信に活用された。
昭和16年12月2日、瀬戸内海に停泊する連合艦隊旗艦「長門」から有線で東京通信隊に送信された「ニイタカヤマノボレ一二〇八」は、「船橋送信所」から短波と長波で発信され、「依佐美送信所」からは超長波で潜水艦向けに発信されたという。
戦後、米国海軍は依佐美送信所を接収し、潜水艦通信に使用。平成5年(1993)に送信停止され、翌年に日本に返還。
鉄塔本体は平成9年(1997)に全8基の解体が完了し、残った局舎なども平成18年(2006)までに解体された。
社宅跡は「フローラルガーデンよさみ」として公園整備がなされ、その一角に依佐美送信所記念館が平成19年(2007)4月に開館している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1078-17
1948年3月3日、米軍撮影の航空写真。

依佐美送信所界隈を拡大。

250m鉄塔(無線鉄塔1号塔)は、こんな感じ。影の長さが、高さをよく表している。


依佐美送信所記念館

詳細は公式サイトにて

https://yosami-radio-ts.sakura.ne.jp

依佐美送信所記念館
 依佐美送信所は昭和4年(1929)に建設された、当時としては世界最大級の無線送信施設で、長波によるヨーロッパへの送信を日本で初めて行いました。これにより当時の外交や通商は飛躍的に向上し、その後短波通信施設も強化され、長・短波ともに日本の国際通信設備としての重要な役割を果たしました。
 第二次世界大戦後の在日米国海軍の接収、平成6年(1994)の日本への返還を経て、その役割を終えた送信所は平成18年に全施設が解体・撤去されました。
 この送信所の産業遺産としての価値を評価し、長波用送信装置および関係資料を保存し後世に伝えていくことを目的として、ここに依佐美送信所記念館を建設し、平成19年4月に開館しました。

依佐美送信所鉄塔
 明治以来我が国の対外通信は、欧米の電信会社の所有する海底電線によらなければならず、このような対外通信施設の不備は、外交上・通商上の不利益を我が国にもたらしました。こうした見地から、無線通信による国際通信の整備が提唱され、大正14年(1925年)3月帝国議会において「日本無線電信株式会社法」が成立し、これに基づく新会社が世界の主要地域と直接無線通信のできる施設を建設することとなり、対欧送信所はここ依佐美(当時愛知県碧海郡依佐美村)に、受信所は四日市郊外(三重県三重郡海蔵村)に設けられることになりました。
 依佐美送信所は大電力の長波送信所として設計され、昭和2年(1927)7月に着工、4年3月に完成しました。送信所にはドイツ製テレフンケン式長波送信装置と高さ250メートルの当時としては東洋一の高さを誇る鉄塔8基に懸架した壮大なアンテナが設置されました。アンテナ電力500キロワットは長波としては世界最大のものでした。
 この8基の鉄塔は2列(間隔500メートル)に4基ずつ(間隔480メートル)設置され、相対する鉄塔間に張られた4本の吊架線に逆L型T6条のアンテナが吊り下げられました、接地には多重接地法が採用され、アンテナの下の全域に埋設されました。
 鉄塔と送信所建設に要した資材の量は7万トン。これを運搬するため三河鉄道小垣江駅から建設地付近まで臨時に専用引込線が敷設されました。
 昭和4年3月全ての工事が完成、4月18日盛大に開所式が行われ、我が国とヨーロッパ間の直通通信が開始されました。これは外交上および通商上の画期的躍進でした。
 第二次世界大戦中、長波の送信施設は専ら日本海軍の運用に委ねられ終戦に至りましたが、昭和25年4月在日米国海軍に接収され、昭和27年7月から運用が再開されました。
 平成6年(1994)8月東西冷戦の終焉により全面返還となり、平成9年3月にアンテナ、鉄塔等の撤去を完了しました。こうして70年にわたって三河平野にそびえ立ち、地元の象徴として親しまれてきた鉄塔もその使命を終え、姿を消しました。
 ここに往時の雄姿を留めるものとして、実物を10分の1の高さ25メートルに短縮し保存します。
  刈谷市

鉄塔平面図

鉄塔姿図

依佐美記念館の外観。
依佐美送信所には長波の発信機である高周波発電機が残されており、2006年の解体時に、新たに建造した記念館で保存している。記念館外観は、旧送信機室を模したもので、内部には高周波発電機をはじめ、ローディングコイル、制御盤など旧送信所の設備の8割が静態保存されている。

旧送信機室を模している。


記念鉄塔と鉄塔頂上部(無線鉄塔2号塔跡地)

記念館に隣接する高さ25mの記念塔。解体された無線鉄塔の2号塔跡地にあり、1/10スケールで復元されている。(平成11年建設)
また、敷地内には、250mの鉄塔の頂上部がある。

250mの鉄塔の頂上部


フローラルプラザ(公園事務所)

依佐美送信所の建物(送信局舎本館)をモチーフに作られた公園事務所。

「フローラルガーデンよさみ」

樹木の根元も無線鉄塔イメージでかわいい。


依佐美送信所記念館内部

館内には依佐美送信所で使用された送信機器類など関係資料が保存されている。

米国海軍が送信所を使用していた際に送信室の入口に掲示されていた送信室の説明「Explanation」

依佐美送信所の無線鉄塔跡のマップ。
全部巡ると4キロ60分だそうで。

無線鉄塔の位置関係を俯瞰。

依佐美送信所ジオラマ

位置関係がわかりやすい

長波送信局舎

現在のフローラルプラザと依佐美送信所記念館の建物は、本館と送信所を模している。
長波送信局舎の敷地は、現在はソーラーパネル発電所。

長波用大鉄塔

大鉄塔は1996-7年に解体。鉄塔基礎の跡地は刈谷市の所有となり、長波送信局舎構内から移植されたクスノキが2本ずつ植えられている。
8号塔跡地には鉄塔基礎が残る。(今回はそこまでは行けませんでした。。。)

引留鉄塔

戦後の米国海軍のアンテナ改良にとり、引留鉄塔は廃止され、その痕跡は残っていない。

短波送信局舎

短波送信局舎は、長波局舎の南約1キロの場所に、昭和11年(1936)二完成。
戦後は民間企業に買い取られ、現在も企業敷地内に現存していいる。依佐美送信所の建物として唯一の現存建造物。(あとで見に行こう。。。)

臨時鉄道引込線

名鉄の小垣江駅から2.4キロの臨時線路が敷設された。
線路は送信所完成後に撤去され、道路や田畑となっている。

社宅・寮

フローラルガーデンよさみが、社宅の跡地。

コイルハウス

戦後、昭和38年にコイルハウスを建設に性能向上が図られた。

依佐美変電所

現在の中部電力刈谷電力所依佐美変電所として往時と同じく電力を供給している。

製塩所

戦後に余剰電力を用いて不足していた塩を確保するために2年間ほど、声援事業が行われた。

神明橋

依佐美送信所の建造協力のお礼として鉄筋コンクリートの橋が村に提供された。送信所から世界に電波を発信をイメージして四隅に地球儀が設置され「地球橋」とも呼称された。
現在の神明橋は2000年に造営されたもので、往時を模して四隅に地球儀が設けられている。

短波用木柱郡

短波用アンテナは建設費が安い木柱が多様された。高さは最大で60m。

短波用75m鉄塔

昭和12年に短波用75m鉄塔は5基設置された。

短波用85m鉄塔

短波用アンテナは合計で43基設置された。
85mが5基、75mが5基、60m、45m、40m、30mの木柱が70本。
85m鉄塔は昭和13年に設置。
短波用鉄塔や木柱は昭和29年までに全て撤去され痕跡は残っていない。

在日米海軍通信隊による注意と立入禁止の看板

米海軍通信隊の看板

米海軍の紋章盾

主直流機励磁用電動発動機操作盤

主直流機励磁用電動発動機

主誘導電動機

主直流電動機

高周波発電機

送信機操作盤

高周波チョークコイル

鉄塔台座

250mの鉄塔を支えた台座。上部が球体になっているのは鉄塔が強風によって横揺れを受けても荷重を一点でうけ下部台座に力を均等に分散するため。

碍子

鉄塔支線

依佐美送信所本館の玄関ステンドグラス

航空障害灯

配布物、いろいろ


対欧無線通信発祥地

1989年に、電気通信学会などが対欧無線の発祥の地として石碑を建立。

對歐無線通信發祥地
本田静夫書

依佐美送信所は我が国に於ける最初の欧州向け無線通信設備として建設され昭和四年四月十五日に運用を開始してから本日ここに六十周年を迎える
当時の長波送信機は周波数一七四四二ヘルツの回転型高周波発電機で二百五十メートルの鉄塔と七百キロワットの空中線電力は世界最大の規模であった
本送信所は昭和の時代と共に幾多の変遷を経て現在も電気興業依佐美送信所として真空管式送信機により運用されており歴史的学問的に貴重な価値を有するものである
ここに電子情報通信学会の東海支部創立五十周年と依佐美送信所の電波発射六十周年を記念して此の碑を建立する
 平成元年四月十五日
  電子情報通信学会東海支部
   創立五十周年記念事業会代表
    本田静夫

平成20年(2008) には、IEEEマイルストーンに認定されている。
IEEE (The Institute of Electrical and Electronics Engineers, Inc.)は米国に本部を置く世界最大の電気電子技術者の組織。
平成20年11月16日、依佐美送信所が国内9番目に認定された。世界最大の出力でヨーロッパへ国内で初めて送信したことや記念館に設備が保存されている点が評価された。

マイルストーン銘板

https://www.ieice.org/tokai/activity

場所

https://maps.app.goo.gl/RnBJeaVcrY5bpuip7


依佐美送信所・短波送信局舎

現在の小林クリエイト内に往時の建屋が残っている。

https://maps.app.goo.gl/w9iKYuJKmy3WGu8u7

正面の中央が往時の建屋。私が(歩き疲れたということもあり)現地で、正面に回り込むことを怠ったため、Googleストリートビューからキャプチャ。

北側からだと、こんな感じ。正直、よくわからない。

場所(正面)

https://maps.app.goo.gl/aMgkdphyLfurXD4P9

当時の航空写真(1948年)

現在の様子(Goole航空写真)


無線鉄塔1号塔跡地(依佐美クスノキ1号)

無線鉄塔の跡地には、刈谷市の木である「クスノキ」が2本ずつ植えられている。
なお、2号鉄塔跡地が、依佐美送信所記念館となっている。


無線鉄塔4号塔跡地(依佐美クスノキ4号)

短波送信局舎の近くに4号。


無線鉄塔3号塔跡地(依佐美クスノキ3号)

結構、遠くからでもわかるクスノキ。

依佐美送信所記念館は、遠くからでもよく分かる。

ちなみに、野田新町駅から2キロ30分歩いて、「フローラルガーデンよさみ」について、依佐美送信所記念館に1時間くらい滞在して、寄り道しながら4キロ60分ほど歩いて野田新町駅に戻った、とか、そんな感じ。
それなりに歩く覚悟が必要な場所です。(ちょうど良いタイミングでバスがなかった、、、)

※撮影:2025年3月


関連

愛知県庁食堂と名古屋市役所食堂

先日、愛知県庁の近くで仕事があったので、せっかくなので「名古屋めし」を「役所めし」で味わうことにした。

結構久しぶりに、愛知県庁と名古屋市役所に足を運んだ次第。


愛知県庁食堂

愛知県庁。国重文化財。
愛知県庁本庁舎は1938年(昭和13年)3月完成。
昭和天皇御大典の記念事業の1つとして建設。頂部に名古屋城大天守風の屋根を乗せた帝冠様式。
日本趣味溢れる建造物。

令和8年1月30日まで
愛知県庁本庁舎屋根改修工事中

入口

5階に。

貴賓室がある。

食堂・喫茶室がある。

和定食を。

11時過ぎ。ランチタイムラッシュ前の食堂は空いていました。

国重要文化財の名古屋市役所をオカズに食するランチは贅沢の極み。

まどから、名古屋市役所を眺めることができます。

愛知県庁の内側。5回の窓より。

5階エントランス。

階段も重厚な感じ。

1階

なかなか楽しかった「愛知県庁めし」
歴史的な建物のなかで、歴史的な建物を眺めながら食べる「文化財めし」は最高の贅沢です。

愛知県庁本庁舎屋根改修工事は令和8年1月30日まで。


名古屋市役所

名古屋市役所。国重要文化財。
1933年(昭和8年)竣工。
政令指定都市の中では1927年竣工の京都市役所に次いで2番目に古い。
名古屋市役所本庁舎は、 昭和天皇即位の記念事業として建設され、日本趣味を基調とした近世式意匠の建造物として特徴的。いわゆる帝冠様式建物。

せっかくなので、隣の名古屋市役所にも行きたくなりました。

1階エントランス

地階

食堂がありました。

名古屋市役所本庁舎食堂は、すべてのランチに、サラダとスープとライスバー(白米と中華粥)が食べ放題。。。

さすがにお腹いっぱい(さっき愛知県庁で和定食を食べたばかり)なので、軽めに肉うどんをチョイスしサラダを盛りまして。
良い感じにお腹いっぱい。

ちょうど食べ終わった頃合いが、12時。食堂が職員で賑わってきましたので、ボチボチ退散。

1階。

帰りは、新幹線ホームで「みそきしめん(卵入り)」を食べて、久しぶりの名古屋出張は〆

※撮影2025年3月


関連

はじめに

陸軍清洲飛行場(甚目寺飛行場)跡地散策(愛知)

愛知県に出張の折、時間ができたので、名古屋から足を伸ばして、名鉄大里駅に。ここから、清須飛行場跡地を目指してみる。



位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:97L24-C1-7
1945年4月22日、帝国陸軍撮影の航空写真を加工。

清須飛行場部分を拡大

現在の様子。戦後の農地開拓のまま、かつての清須飛行場の用地が残っている。


清須飛行場(甚目寺飛行場)

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月、海部郡甚目寺町と西春日井郡清洲町にまたがる約200ヘクタールの農地に建設された。正式名称は清洲飛行場だが、飛行場の大部分が甚目寺町にあったため、地元では甚目寺飛行場と呼ばれていた。
終戦時には、飛行第5戦隊が所在し、中京地区の防衛任務にあたりつつ、来たるべき本土決戦に向けて戦力を温存していた。


清須飛行場の建屋

清須飛行場にあった建屋を戦後に移築して倉庫に転用したという。

https://www.asahi.com/articles/ASNDV7RSVND4OIPE02F.html

記事より、転載

 横井さんら地元住民によると、終戦直後から1947(昭和22)年ごろにかけて、飛行場に放置されていた建物群や備品は次々と持ち去られた。横井さんの父親は飛行場跡を開拓して田畑に戻す組合の役員を務めていたといい、「使える物は何でも使う時代だったから住民が引き取ったようだ。集落総出で大八車に積んでここまで運び、組み立てたと聞いた」。
 横井さんも自宅に軍用機の燃料タンクと座席を保管している。飛行場の建設時には勤労奉仕で土運びに駆り出された経験を持つ。
 倉庫は後に、板張りの壁をトタンに変えたり、屋根をスレートにふき替えたりしたが、柱などの部材は当時のままという。昭和30年代にはボヤ騒ぎにも見舞われたが、令和に至るまで残った。宮崎亮一さん(81)は「しっかりした建物だったので補修で済んで、壊さずに使い続けることができた」と振り返る。

場所:

https://maps.app.goo.gl/3swzrukcTCfKqiN5A

バス停は「増田(ました)」

増田長盛の出生の地、という。
ましたながもり

場所

https://maps.app.goo.gl/UosXAJcWK7YjNdvDA


清須飛行場跡地

広がる農地は、戦後の開拓。この広大な農地がそのまま清須飛行場の跡地となる。


清須飛行場の作戦室跡

宅地の奥に、作戦室跡が残っていた。
頑丈なコンクリート建屋は、これを撤去するのも大変な労力を割くことが容易に想像され、それが撤去を諦めて残ったとも言えそうだ。

場所

https://maps.app.goo.gl/UosXAJcWK7YjNdvDA

飛行場エリア=農地開拓エリアの外周となり、周辺は宅地造営が進むも、作戦室跡地だけは取り残されている模様。

南に進む。

高架道路は、名古屋第二環状自動車道。
清須飛行場跡を北東から南西にかけて斜めに横断している。


元飛行場開拓記念碑

あま市甚目寺公民館の敷地内に開拓記念碑がある。
清須飛行場の南端近く。

元飛行場
開拓記念碑

元飛行場開拓記念碑文
太平洋戦争の砌(みぎり)国土防衛のため建設された飛行場が終戦と共に廃棄された。
元来この地は農民の至宝で五穀豊壌の沃野であった。
戦後国力は極度に疲弊し農家と雖も食料に事欠く時であったから関係町村民は挙ってこの地に開拓の意欲を燃やし主食の甘薯馬鈴薯の作付けをしたが大半は雑草の茂る荒蕪地として放置されてあった。
時の甚目寺町長・近藤寿治氏は大いに之を憂い昔日の美田に復帰せむと払下げの請願書を関係官庁に提出しあらゆる困難を押して運動された結果、昭和二十三年十月十八日遂に氏の至誠が認められ入植の許可が下付された。
宿願のかなった農民は一致団結して工事に勉励した。
理事長・山田善吉氏の人格と手腕は衆望を集めて事業の推進に精励せられた。
又、関係農民のたゆまざる努力により灌漑排水共に整備せる理想の開拓地が十有余年の星霜を経て完成し、黄金波打つ豊穣の沃野が限りなく展開されて穀倉地帯の名にふさわしい美田が復興した。
今回清浄の地を選んで開拓記念碑の建設されることは山田善吉氏を始め尽力された人々の頌徳碑でもある。
茲に功労者各位の氏名を列記して永久にその功績を讃えます。
 里人が こころ合わせて 拓きたる
    飛行場の跡  白鷺群れる

場所:

https://maps.app.goo.gl/xAj1YJR68yNThp4BA

あま市甚目寺公民館

※撮影:2024年6月


関連

愛知縣護國神社

日本で現存する最古の跳上橋「名古屋港跳上橋」

名古屋港に跳ね上げ橋が残っている。
ちょっと見学に行ってみました。


名古屋港跳上橋
(旧1・2号地間運河可動橋)

昭和2年(1927年)に架設された名古屋港跳上橋。
堀川と中川とを連絡する運河の堀川口に架けられた鉄道可動橋。
設計製作は、可動橋の第一人者である山本卯太郎。
国登録有形文化財。
経済産業省認定近代化産業遺産。
土木学会選奨土木遺産。

鉄道廃線後、1987年(昭和62年)より、桁を上げた状態で保存されている。
日本では現存する最古の跳上橋という。

稲荷橋からの遠望。

近づいてみます。

なかなかの光景

小雨が降る中でしたが、足を運んでみたかいがありました。良いものが見れました。

場所

https://maps.app.goo.gl/fAkbpuZmUm9jfKFq6

参照

https://www.city.nagoya.jp/minato/page/0000043966.html

https://www.port-of-nagoya.jp/shokai/kohoshiryo/1001070.html

https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kunitouroku/1039.html

※撮影:2023年3月


「戦前最初で最後の国際的博覧会」名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋

愛知県名古屋市港区にある陸橋。地図を見ていてなんとなく目にとまったところから調べてみたら、興味深い歴史を有していたので足を運んでみました。


名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋

名古屋市が人口100万人を突破し、名古屋開港30周年を迎え、太平洋の平和と発展に寄与することを目的に、昭和12年(1937年)3月15日から78日間にわたって開催されたのが、「名古屋汎太平洋平和博覧会」であった。

平和博覧会は、名古屋市長(大岩勇夫)が中心となり、そして総裁は東久邇宮稔彦王(当時、陸軍中将)が就任した。
陸軍としては軍事拡大を目論んでいるさなかでの「平和を銘打った博覧会」は断固反対の立場であったが、名古屋に縁があり(平和派)皇族の陸軍中将が総裁では、軍も公式には反対できなかったという。

なお、この当時すでに昭和15年(1940)に東京と横浜で紀元2600年を記念した万国博覧会(紀元2600年記念日本万国博覧会・幻の東京万博)が計画されていたことから、それに配慮し「万国」ではなく「汎太平洋」という名称になったともいう。

名古屋汎太平洋平和博覧会
開催目的
 (1)広く内外産業文化の現状を紹介する
 (2)わが国の産業の振興と日本文化の宣伝を行なう
 (3)関係各国民の平和親善と共同の繁栄に資する
会期
 昭和12年3月15日~5月31日(78日間)
会場
 名古屋市南部臨港地帯の15万坪
出展国
 太平洋沿岸諸国および名古屋市との友好国全29カ国
出展物
 産業、社会、科学など
入場料
 大人=60銭
 子供=30銭
 軍人=30銭
入場者数
 約480万人

昭和前期の大規模な博覧会として、会場496.000平方メートルの敷地の中央を南北に貫通して東西会場に分割し、東会場は運河で3分割、会場の道路は大陸橋と地下道で結ばれた。

東会場には国内特設館14館と、海外より満州、中華民国、蘭領印度、ペルシャ、シャム、中南米などが参加した。
国内の保健衛生館で展示されたドイツから購入したプラスチック製の透明人間が人気を呼んだ。

西会場はメインの航空国防館で、非常時日本の威力を誇示し、国民の戦意高揚を図る展示をした。

「名古屋汎太平洋平和博覧会」会場の道路は幅80メートル、そこに噴水、花壇や緑地帯を配し、中央に高さ50メートルの大平和塔が聳え、そこから数条の道路が放射状につくられ、展示館、特設館や付属設備が建てられるという統制のとれた会場づくりであった。入場者は4.808.164人で、外国人も満州の2.819人を含め6.625人が入場した。

参照

https://www.nomurakougei.co.jp/expo/exposition/detail?e_code=1660

https://history.nagoya-cci.or.jp/shouwashoki/h12.html

「平和」を銘打った国際的博覧会ではあったが、博覧会終了の2ヶ月後には盧溝橋事件をきっかけとした「支那事変(日中戦争)」が勃発し、平和は程遠い状況下となってしまった。

名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋
我が国最初の国際的博覧会

 名古屋汎太平洋平和博覧会は、昭和12年、我が国最初の国際的博覧会として注目されました。
 会場は、現在の港北公園周辺50万平方メートルにおよび、国内の各都道府県や外国29か国が参加、会期78日間で総入場者数480万人にのぼる大規模なものでした。

 博覧会名にちなみ、平和の二文字をとって名付けられた平和橋は、港区内で博覧会の跡をとどめる唯一の建造物とされています。
 平成25年、市民に身近な歴史的建造物として「認定地域建造物資産」に認定されました。
  平成26年3月 名古屋市港区役所まちづくり推進室

平和橋
昭和12年港区で、名古屋汎太平洋平和博覧会(日本の産業の振興・文化の発展と高揚・関係国民との平和親善を図ることを目的とする)が開催され、解散期間78日間で、入場者約480万人に達した。
この博覧会のために、約13万円を投入しこの橋が建設された。その名を博覧会の「平和」の二字をとって名付けられ、博覧会の記念として残る唯一のものである。

昭和11年十一月竣工

「ピースあいち」のサイトに、名古屋汎太平洋平和博覧会画報の画像が掲載されている。

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201809/vol_106-5.html

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201810/vol_107-5.html

http://www.peace-aichi.com/pdf/20181021_hakurankai1937_2.pdf

※2023年3月撮影


名古屋陸軍墓地(万国戦没者墓地)

名古屋市の平和公園。
戦後、名古屋陸軍墓地は、平和公園墓地に改葬をされた。
名古屋においては、戦後の復興区画整理に際して、陸軍墓地のみではなく、市街地の寺院墓地も総じて新設された平和公園墓地に集約改葬を余儀なくされた。


平和公園

平和公園のご案内
 平和公園は名古屋市の東部に位置し、第二次世界大戦による戦災復興土地区画整理事業の一環として昭和22年5月に「都市計画墓園第1号東保円」として都市計画決定され、市内に点在する279寺の墓地18ha、189,030基の墓碑が集中移転され、墓地と公園が一体化した平和公園が生まれました。(以下略)

平和公園墓地 配置図
寺院ごとに墓地が区画されている。

平和公園バス停のすぐとなりの墓地。
バスは、星ケ丘駅と自由ケ丘駅を結んでいる。


「万国戦没者墓地」が、名古屋陸軍墓地となる。

場所

https://maps.app.goo.gl/cLnfwMSaoNgZVC4L8


名古屋陸軍墓地(万国戦没者墓地)

明治8年の陸軍省の通達により、翌明治9年に、名古屋陸軍墓地が現在の新出来公園に設置された。
戦後、名古屋市は戦災復興土地区画整理事業として市内各所に点在する墓地を移転集約し、墓地公園化を決定。
昭和31年に、陸軍墓地も移設され、万国戦没者墓地が新設された。

萬國英霊塔

昭和25(1950)年1月建立。
名古屋市戦災復興墓地整理委員会。

合掌

日清日露戦争をはじめとする合葬碑が並ぶ。

ドイツ人俘虜の墓地

ドイツ人名古屋俘虜収容所もあった。

ロシア人俘虜の墓地

墓地公園


愛知時計電機株式会社殉職者之墓

熱田大空襲で多大な犠牲者を出した愛知時計電機の殉職者之墓も平和公園墓園内にある。

場所

https://maps.app.goo.gl/wbjoAxgXnJgCyjLJ8


徳川宗春公の墓

尾張徳川家第7代、尾張藩主の徳川宗春公でさえ、改葬されるのが名古屋市戦災復興墓地整理。(もとは、建中寺にあった歴代藩主墓所)。
徳川宗春公の墓は、昭和20年(1945年)に名古屋市が空襲を受けた際、焼夷弾の直撃を受けて、墓石の一部が損傷している。
名古屋藩主代々の墓石は、修復が困難な鵜沼石が用いられており、しばらく損傷した状態であったが2010年に墓碑修復を実施している。

修復前

修復後。焼夷弾の焼け跡はそのまま残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/F1dvMjJJvHGUenvu6


平和公園散策

虹の塔

https://maps.app.goo.gl/gcoLfJFHS323PUvY9

平和堂

第二次世界大戦による多数の犠牲者を追悼し、人類の平和を祈念する趣旨で計画され、戦災復興事業墓地移転記念施設として昭和39年に完成。

https://maps.app.goo.gl/z5oVtdtLuEKZXBcZ6

※撮影:2023年10月


関連

「熱田大空襲の慰霊巡拝」愛知時計電機・愛知航空機(名古屋)

昭和20年6月9日、名古屋の熱田に集中的に空襲があった。

名古屋大空襲のひとつに数えられる「熱田空襲」。
そのターゲットは愛知時計電機と愛知航空機であった。


熱田空襲

昭和20年6月9日、名古屋市熱田区の愛知時計電機船方工場・愛知航空機(現愛知機械工業)工場周辺に米軍が実施をした空襲。
米軍の爆撃機編隊は通常の爆撃航路とは異なる航路で突如として名古屋を襲撃。日本軍は当初の航路から名古屋の空襲警報を解除しており、不意をつかれたことから被害が広がり、結果、愛知時計電機・愛知航空機工場で働いていた従業員や動員学徒約2万2000名のうち1045名が死亡、重軽傷者約3000名、周辺住民も数十人死亡した。(従業員や周辺住民あわせて約2000人が死亡、重軽傷者約2000名との説もある)
この空襲は、9時30分から40分にかけての約10分間の空襲であったという。

米軍は、「エンパイア作戦」として、複数の重工業地点を同時に襲撃し日本側の迎撃態勢を分散させる作戦を立案し、この6月9日は、兵庫県西宮市の川西航空機の鳴尾製作所、兵庫県明石市の川崎航空機の明石製作所、そして愛知県名古屋市熱田区の愛知時計電機、愛知航空機が爆撃をされたものであった。
そして、2トン爆弾が日本で最初に使われた日でもあった。


愛知時計電機と愛知航空機

もとは、機械式時計メーカーの一つ。現在の愛知時計電機株式会社は時計事業からは撤退しているが、歯車技術を応用して精密計測機器メーカーとなっている。
戦前の同社は、やはり時計製造による技術・資本蓄積によって派生した機械、電機、化学部門などを活かし軍用航空機やエンジン製造に携わっていた。

1893年(明治26年)に「愛知時計製造」として創立。
日露戦争時の1904年(明治37年)に陸海軍から砲弾の信管などを初めて受注。
1912年(明治45年)に「愛知時計電機」に社名を改称。引き続き機雷や魚雷発射管の製造の他、艦砲用の射撃盤(射撃データの機械式計算機)の国産化にも協力し海軍との関係が深かった。
また、航空用エンジンの生産も手がけ、大戦中は水冷エンジン「アツタ」の製造をしている。
大戦中の1943年(昭和18年)には航空機増産のために同社の航空機部門を独立させて「愛知航空機株式会社」(現在の愛知機械工業)を設立。
1944年(昭和19年)12月7日の東南海地震では機体組立の中心工場だった永徳工場の製造用治具が乱れ、以後の航空機生産に大きく影響した。
更に1945年(昭和20年)6月の空襲(熱田空襲)により主力の船方工場が大きな被害を受け、そのまま終戦を迎えた。

「愛知時計製造」及び「愛知航空機」の代表作
・九九式艦上爆撃機
・流星
・流星改
・零式水上偵察機
・瑞雲
・晴嵐
・九八式水上偵察機(夜偵)
・水冷式発動機「アツタ」
など。


慰霊地藏尊(愛知時計電機)

愛知時計電機の正門脇に鎮座する慰霊地蔵尊。

熱田空襲の犠牲者を慰霊。

三界萬靈

合掌

地藏尊建立縁起
過グル第二次世界大戦當時當愛知時計電機株式會社ニハ從業員並ニ動員學徒ヲ併セ二萬二千名就業セリ
時ニ昭和二十年六月九日午前九時三十分ヨリ同四十分ニ至ル約十分間ノ空襲ニヨリ忽チニシテ工場一帯ハ當社関係死者一一四五名重軽傷者三〇〇〇名更ニ地方人死者一〇〇〇名ノ一大修羅場ト化セリ
嗚呼惨シイカナ 茲ニ終戰後五年船方工場再建セラル丶ニ當リ同志相謀リ隨喜ノ寫經ヲ埋藏シ地藏尊一軆ヲ建立シ以テ右殉國諸靈魂ノ冥福ヲ祈ラル各靈位願クハ此ノ功徳ニヨリ佛果菩堤ヲ證得セラレンコトヲ
 昭和二十四年六月九日
  覺王山主
   勅賜襌師瓏仙記

場所

https://maps.app.goo.gl/6v6EeH3WfBR177AaA

愛知時計電機 正門

堀川沿いの新建屋


第二次大戦非戦闘員横死者諸霊之追善菩提

愛知時計電機株式会社本社の北側に。
熱田空襲の犠牲者を祀る。

爲第二次大戰非戰鬪員横死者諸靈之追善菩提

愛知時計電機関係者以外の犠牲者を祀る。
合掌

昭和二十年六月九日此の白鳥橋周邉に於て米軍爆撃により無量数百名の一般人名を失ひよつて将來の平和と安定を祈り被爆死者等の冥福を謹みて祈願するものである
 維時 昭和三十三年八月吉祥日
 發願 廣小路徳風會
 隨喜 一般有志者

場所

https://maps.app.goo.gl/KBidYm8HPBxebhAaA


熱田空襲の被爆堤防

以前の記事から抜粋。

堀川運河。
愛知時計電機のすぐ脇に保存されている戦跡。
そこには、 熱田空襲の爆撃痕を残す堤防が移築保存されている。

この護岸は、昭和八年に築造され、平成四年度から実施した「マイタウン・マイリバー整備事業」による新たな護岸の設置にあたり、撤去したものの一部である。
護岸表面にみられるくぼみは、昭和二十年六月九日のいわゆる「熱田空襲」の爆撃によりできたものである。
 平成八年三月 
  名古屋市

場所:

https://maps.app.goo.gl/V8NdRDpmjEDYfuHj9


殉職者之墓

平和公園墓地に、愛知時計電機株式会社の殉職者のお墓がある。

合掌

殉職者之墓
愛知時計電機株式会社
此の墓は、昭和20年6月9日に熱田大空襲を受け殉職された英霊を祀ったものである。

殉職者之墓

愛知時計電機株式会社

場所:平和公園墓地

https://maps.app.goo.gl/BymDWWKzzd3DxhMu7

撮影:2023年10月


関連

名古屋大空襲と大曽根(ナゴヤドーム・大曽根駅・片山八幡宮)

名古屋の大曽根駅周辺を散策してみました。


名古屋大空襲

1938年7月1日に三菱名古屋航空機製作所(大江)からエンジン製造部門を分離独立したのが三菱重工業名古屋発動機製作所(大幸)。

https://www.mhi.com/jp/company/location/nagoyaguidew/history

名古屋でB-29爆撃機による本格的な空襲がはじまった1944年12月13日に真っ先に爆撃目標となったのが、三菱重工業名古屋発動機製作所(三菱発動機)であった。
当時、三菱発動機大幸工場では日本の航空機用発動機(エンジン)の4割を生産していた大工場であり、米軍にとっては、東の中島飛行機武蔵工場、西の三菱発動機大幸工場は壊滅させねばならない工場であった。

昭和19年12月13日、三菱発動機大幸工場に対する初の本格的な空襲が実施。。翌年4月7日まで、執拗な爆撃が実施され、三菱発動機大幸工場は壊滅した。
また、昭和20年3月12日に名古屋市街地が被災、3月19日に名古屋駅が炎上、5月14日に名古屋城が焼失など、大規模な空襲が名古屋市に対して繰り返し行われた。こうして名古屋市に対しては、63回の空襲が行われ、B29飛来2579機、死者は7858名、負傷者10378名に及ぶという。


ナゴヤドーム
(三菱重工業名古屋発動機製作所跡)

1994年8月8日より三菱重工業大幸工場の跡地で建設を着工。
1997年2月18日に完工し、同年3月12日に、同市中川区露橋にあるナゴヤ球場(旧・中日スタヂアム/中日球場)に代わる中日ドラゴンズの本拠地として開場した。

総合案内所

総合案内所の脇に、掲げられたプレート。

平和への礎になられた人々を忘れません
 ナゴヤドームが建つこの地は、かつて三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場があり、第2次世界大戦下の1944年(昭和19)12月13日に米空軍B-29爆撃機70機の空襲を受け、工場で働く人たち、挺身隊の女性たち、学徒動員の生徒ら300余人の尊い命が奪われました。

 この大戦では、名古屋軍(現中日ドラゴンズ)石丸進一投手(当時24歳)も特攻隊員として出撃、野球への熱い想いを胸に抱いたまま空の彼方へ消えて行きました。

 私たちは今日、平和への礎となられた人々を決して忘れず、野球やコンサートなどを通して感動を味わうことができることに深く感謝し、ここにご冥福をお祈りいたします。
2004年4月2日
株式会社 ナゴヤドーム

ナゴヤドームの地の歴史を伝承するプレート

場所

https://maps.app.goo.gl/sHW7QoM8zWkJ8fR49

北側には、三菱電機名古屋製作所大幸ビル

イオンモールもある。

見えてきたのは、三菱電機名古屋製作所

近代的なビルと、三角屋根の工場。

三菱の街

大曽根駅の南側に向かいます。


殉職者慰霊碑(大曽根駅)

JR大曽根駅の南側に、昭和20年4月7日の空襲での大曽根駅における殉職者を祀る。

合掌

殉職者慰霊碑
桂秋 吉田 藤 謹書

至誠公ニ奉シ毅然
トシテ職ニ殉ス業
ヲ我國有鐵道ニ操
ル者ノ儀表タリ茲
ニ其ノ義烈ヲ稱ヘ
長ヘニ英旧字 靈ノ呵護
ヲ祈ル

昭和二十年四月七日大曽根驛ニ於ケル殉職者
(故人名略)
昭和二十一年 八月建之 建設委員
遺家族一同
大曽根驛員一同

大曽根駅の南口は、住宅街。商業エリアは北口で。

場所

https://maps.app.goo.gl/WrVHmNqq7in6Rx6w5


片山八幡宮に残る弾痕

名古屋鬼門鎮護の片山八幡神社。旧社格は県社。

敷地の東側を囲う石垣には焼夷弾の跡が多数残っている。破損や焼け跡など。

鳥居には、爆弾の破片が当たってできた弾痕がある。

昭和8年の社号標にも弾痕。

場所

https://maps.app.goo.gl/Jdt1dx7XRNxRXywE8

撮影:2023年7月及び9月


名古屋関連

はじめに

笠寺高射砲陣地の砲台跡(名古屋)

尾張四観音のひとつ「笠寺観音」
戦国時代には、織田の人質になっていた竹千代(徳川家康)と今川に捕らえられた信長の兄・織田信広の人質交換の地ともなった名刹。
そんな「笠寺」の東側の高台「見晴台」に戦時中に高射砲陣地が設けられた。
(愛知県名古屋市南区見晴町47)


笠寺高射砲陣地

昭和17年11月、防空第十五聯隊第五中隊「あそ隊」により、陣地構築開始。
当初は、八八式七糎野戦高射砲4門であったが、昭和18年8月の陣地再構築で2門追加となり6門となった。
昭和19(1944)年4月、防空第十五聯隊は高射砲第百二十四聯隊に改編。
昭和19年11月には高射砲第百二十四聯隊第八中隊「いすず隊」も配置され、名古屋南部防衛陣地として機能した。

八八式七センチ野戦高射砲(八八式七糎野戦高射砲)
口径75mm
最大射程13,800m
最大到達高度9,100m

八八式七糎センチ高射砲は、昭和3年(1928)採用の高射砲。
高初速の高射砲で貫通力も戦ったため、高射砲、野砲、戦車砲などの幅広い用途で活用され、戦争末期には、本土防空戦で、各地の防空高射部隊に大量投入された。

戦後は、公園用地に指定。
昭和39(1964)年、見晴台遺跡の発掘調査が開始。
昭和54(1979)年10月11日、見晴台考古資料館が開館している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M158-A-6-139
1946年06月07日、米軍が撮影した航空写真を参照。

拡大、メモ入り。
笠寺高射砲陣地に、6基の砲座があることがよく分かる。

Google航空写真との照合。
名鉄と国道と笠寺観音と、見晴台と、位置関係がよく分かる。

笠寺高射砲陣地と見晴台の外周道路、今も変わらない。


笠寺高射砲陣地・第ニ分隊砲台(二番砲の砲床)

6基あった砲台のうち、唯一残るのが2番砲の砲床。

高射砲の砲台跡
太平洋戦争中、現在の笠寺公園には高射砲陣地がありました。
ここは高射砲を据えていた砲台跡です。箱状のコンクリートは砲側弾薬庫です。
当時6基あったうちの2基が残っています。
 名古屋市

6基のうち2基の砲台が残る。
それぞれ、2番砲は砲床を残す。6番砲は砲側弾薬庫を残す。

排水溝とボルト穴の跡

鉄筋が残る。

公園の中に、唐突にあるコンクリートの塊。
手前が2番砲塔、奥に6番砲塔のコンクリートも見える。
そのほかの砲座は消失。


笠寺高射砲陣地・第六分隊砲台(六番砲の砲側弾薬庫)

奥には、六番砲の砲側弾薬庫が残っている。
3つのうち、ほぼ全壊の1つと、半壊の1つ、そして完存の1つがある。

砲側弾薬庫のみ。中心にあるべきの砲床は無い。
もしかしたら、埋まっている可能性もある。

1つ目。ほぼ全壊の砲側弾薬庫。下部しか残っていない。

2つめ。半壊の砲側弾薬庫。覆い部分が破壊されている。

鉄筋が顔を出していた。

3つめ。完全に残っている砲側弾薬庫。
弾薬が詰まっていた箇所には、いまは土嚢が(破けているが)詰められている。

良好な形で残存している。

説明案内は、前述と同文。

高射砲の砲台跡
太平洋戦争中、現在の笠寺公園には高射砲陣地がありました。
ここは高射砲を据えていた砲台跡です。箱状のコンクリートは砲側弾薬庫です。
当時6基あったうちの2基が残っています。
 名古屋市

弥生時代と、昭和の戦争の時代が同居している、見晴らし良好な公園。

場所(笠寺公園)

https://goo.gl/maps/SUoe6gxFPtx6QvPJ8


もともとは、この場所は弥生時代からの古代遺跡の場所であった。
資料館もある。

見晴台考古資料館

内部には考古資料だけではなく、高射砲陣地に関する展示もある。
しかし私が訪問したときは資料館の開業時間外(仕事おわりの夕方に訪問したので17時過ぎ)だったので、見学出来ず。残念。。。

https://www.museum.city.nagoya.jp/miharudai/index.html

https://www.city.nagoya.jp/kurashi/category/19-15-2-8-0-0-0-0-0-0.html

弥生の森


見晴台

笠寺高射砲陣地のあった「見晴らし台」を「笠寺観音」の台地から遠望する。


笠寺観音(笠覆寺)

本笠寺駅が最寄り。

※撮影:2023年5月


関連

「伊保原飛行場」名古屋海軍航空隊跡地の戦跡散策(愛知豊田)

愛知県豊田市浄水町。名鉄でいうところの名鉄豊田線浄水駅。
ここにかつて、飛行場があったという。
近くに赴く機会がありましたので、足を運んでみました。


伊保原飛行場

1940年(昭和15年)に、愛知時計電機株式会社伊保工場の試験飛行場として建設され、軍民共用の飛行場として運用された。なお、愛知時計電機のちに飛行機部門は愛知航空機となる。

1941年に、愛知時計電機株式会社伊保工場の西側に「霞ヶ浦海軍航空隊 名古屋分遣隊」が開隊。
1942年(昭和17年)4月1日、名古屋分遣隊は「名古屋海軍航空隊」に改編となる。
名古屋空は艦爆の実用機教程・操縦訓練が追加され、1945年4月には名古屋空にて艦爆による特攻「神風特別攻撃隊 草薙隊」が編成され、沖縄の米軍艦隊へ特攻が実施されている。

戦後は、開拓地として払い下げられ、また愛知少年院や浄水場なども建設されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:97I9-C4-85
1945年04月06日、日本陸軍が撮影した航空写真を参照。

一部拡大。

現在の様子。
不思議なもので、なんとなく滑走路のあった場所が浮かび上がってくる。


開豊神社

戦後に入植した人々により、昭和23年に伊勢神宮から分神を受けて、伊保原神社を造営。
昭和44年に「開豊神社」と改称。現在の社殿は平成29年(2017)建立。
隣には、浄水区民会館がある。
名古屋海軍航空隊時代には、まだ無かった神社。ちなみに、この近隣では北西に鎮座している「射穂神社」が古社(延喜式内社)として有名。

社地の東側に石碑が集まっている。


開拓碑

開拓碑

沿革
 この一帯は元名古屋海軍航空隊の飛行場跡で戦後国の緊急食糧増産対策の一環として開拓された土地である。昭和二十一年七月六 人の人達によって開拓事業が始められた。県追進農場で開拓技術を修練し十七人が地区内に居住した。同年伊保原開拓農業協同組合が設立された。この土地は酸性が強く礫の多い粘土質土壌であった。鍬一丁にたよる開墾は遅々として捗らず収入のない歳月が続いて苦闘の連続で多くの人が離農した。屡々挫折感をおぼえ乍らも歯をくいしばって頑張った。組合は設立以来各種事業を完成し二十六年漸く電灯がひかれた。 その後開拓地としての整備も徐々に行なわれて将来に希望を見出した。三十年代に入って営農が軌道にのりかけた矢先に伊勢湾台風に見舞われ大きな被害を受けたが組合員が一丸となって見事に災害復旧をし組合の経済発展を為し遂げて現在に至っている。なお三十三年和田ヶ池三十六年愛知用水の完成により水田十七ヘクタールが開かれたが開拓者にとって素晴しい光明であった。漸次入植し現在組合員数八一戸耕地面積一七〇ヘクタール余漸くして近代的農業地帯を完成し周辺地区と肩を並べるまでに成長した。これは偏に関係当局の暖かいご指導の賜であり心からの謝意を表しつゝ 茲に組合解散の記念を碑する 
 昭和四六年一二月吉日建立之
  伊保原開拓農業協同組合


神風特別攻撃隊 草薙隊之碑

神風特別攻撃隊 草薙隊之碑

名古屋海軍航空基地で錬成した神風特別攻撃隊「草薙隊」は、鹿児島の国分基地に進出。
そして昭和20年4月6日12日の三次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦船に突入した。戦死56名。

合掌。

此の地は昭和十七年四月一日開隊昭和二十年九月二日解散せる名古屋海軍航空隊の址なり 
昭和二十年春 当地に於て神風特別攻撃隊草薙隊が編成され 四月五日 十二日の両日各二十機の九九式艦上爆撃機は鹿児島県国分基地に進出 菊水一号二号四号作戦に参加 同月六日十二日の三次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦船に突入 未帰還二十八機戦死五十六 
彼らが眠る沖縄の地が祖国復帰の日を迎うるにあたり有志の協力を得て豊田市在住の元海軍軍人本碑を建立し草薙隊ノ忠烈を永く後世に伝へんとするもの也
 昭和47年4月吉日
  豊田海友会

特別攻撃隊 機付整備員 追記碑


特攻花

特攻花 
 沖縄特攻の激しかったころ、九州南方の飛行場のまわりに黄色く咲き乱れていたこの花は、誰言うこともなく特攻花と呼ばれました。特攻花は見ていました。みんな二十前後の元気な若者でした。飛び立つ者の願いと見送る者の祈りを、花は聞いていました。今も、花は聞こうとする人には、聞こえる声でささやいてくれます。「ホラ、プロペラの音が、風の声が」 

慰霊五十年祭の記念に、草薙隊が発進した第二国分十三塚原から種を譲り受けて育てました。和名「おほきんけいぎく」多年生草木です。 
 平成七年四月 草薙隊之碑保存会

「大金鶏菊(オオキンケイギク)」な「特攻花」は、ありませんでしたが、ちいさな黄色い花(たんぽぽ)が咲いていました。


三十二糎砲弾

三景艦砲弾(32糎砲弾)がおいてある。
終戦の詔勅の一節「万世の為に太平を開かん」が砲弾に添えられている。


錨と消火栓

詳細不明。錨は住友重機械工業の寄贈。

消火栓は、海軍の刻印がのこる。移築かと。


五省の碑

五省
無悖至誠乎
無恥言行乎
無缺氣力乎
無憾努力乎
無亘不精乎

左下が不自然に埋められている。
隠さねばならない揮毫者だったのだろうか。

五省とは、海軍兵学校において用いられた五つの訓戒。

十三塚は、室町時代末期のいわれ。これだけは戦争が関係ない。

場所

https://goo.gl/maps/t1EyPQpdsWidkU239


名古屋少年院の向かいにある駐車場の奥の竹藪。

名古屋海軍航空隊の通信壕

竹藪の中に、壕。

旧日本海軍名古屋航空隊 通信壕
 地下戦闘指揮所(通信施設)と考えられる遺構。コンクリート造の3か所部屋で構成され、通路を挟んで2つが並んで位置し、1つが向かい側にある。並んだ2つの部屋は幅4.1m、高さ2.7m、奥行き9.0mと6.6m。天井がアーチ形で、出入り口丈夫に経10cmの孔が弧を描いて開けられている。2つの部屋は連絡孔と鉄管でつながり、機器の配線用と推定される。向かいの部屋は幅5.0m、高さ1.8m、奥行き1.5mで、向かいの部屋に比べると狭い。

配線用の孔は入口上部に。
四角い凹みは屋根の梁か。

配管

隣の部屋と貫通している孔

上部の換気口。

名古屋少年院
かつての名古屋航空隊の中心にあたる。


名古屋海軍航空隊の門柱

片方のみ残っている。

珍しいデザインの門柱。

場所

https://goo.gl/maps/s7MixNC9UPrJh9Dr6


名古屋海軍航空隊(伊保原飛行場)の滑走路跡

浄水町伊保原北交差点から浄水町原山東交差点の先まで、まっすぐに伸びる道路。このあたりの真っ直ぐな区画が当時の滑走路の名残。

まっすぐな飛行場跡に、戦後、愛知県豊田浄水場が建設された。
昭和47年7月から給水を開始。

浄水駅
昭和54年(1979)の開業。

撮影:2023年4月


関連

鶴舞公園に残る戦跡(名古屋)

名古屋市昭和区の鶴舞公園。
名古屋初の都市公園として明治42年に誕生した鶴舞公園にも、戦争に関連する歴史が残されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M550-1-72_19471013
1947年10月13日に米軍が撮影した航空写真を加工。

鶴舞公園周辺を拡大。


鶴舞公園

住居表示やJR駅名は「つるまい」ではあるが、公園の名前は「つるま」。
1909年(明治42年)に開設された名古屋市が設置した初の公園。
名古屋大空襲で複数の建造物を焼失している。


「鶴舞公園」扁額

明治42年の開園当時に内閣総理大臣であった陸軍大将桂太郎の扁額。当初の青銅板は、戦時下の金属回収で供出。コンクリート代用品に変えられたが、昭和41年に復元。当初は公園の正門ゲートを兼ねていたJR中央線ガードに掲げられていたが現在は正面花壇に設置されている。


陸軍高射第二師団司令部
(名古屋市公会堂)

大正13年(1924)1月の摂政宮(昭和天皇)御成婚記念事業として計画され、昭和5年(1930)9月30日建立。
外観は茶系の落ち着いた色調で整え、最上階の円形アーチ窓や隅部の丸み等、ロマネスク的表現とする。初期の鉄骨鉄筋コンクリート造建築。

昭和16年(1941年)8月に「名古屋防空隊本部」が名古屋市公会堂に開設される。
「名古屋高射砲隊司令部」を経て、昭和20年(1945年)5月には、第13方面軍隷下となる「陸軍高射第二師団」となり、引き続き「名古屋公会堂」に司令部を設置。名古屋地区の防衛にあたった。

戦後は進駐軍に接収。米空軍の専用施設としての10年を経て、名古屋市に昭和31年に返還され、再び公会堂として復活。


高射第二師団司令部の門柱

高射第二師団司令部の門柱が一対、残されている。


吉田山の高射砲台陣地跡

鶴舞公園野球場の周辺に、高射砲陣地(4門)が展開されていた。台座の跡が3箇所残っている。

1つ目

2つ目

3つ目

野球場

吉田山は、もともと元名古屋区長吉田禄在の所有地であった。


八幡山古墳の高射砲台陣地跡

八幡山古墳
国の史跡に指定(昭和6年)されている県下最大の円墳。高さ10メートル、直径82メートル、まわりは堀になっています。
大正8年、公園敷地に編入された当時は老松がうっそうとしていましたが、戦争中、高射砲陣地設営のため伐採されてしまいました。戦後再び緑化され、昭和57年から緑地保全地区(平成16年の法改正に伴い、特別緑地保全地区に名称変更)されています。

立ち入りは禁止。


名古屋大学医学部附属病院門及び外塀
(旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀)

旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀
大正3年(1914年)建立。
名古屋大学鶴舞キャンパス敷地の南辺にあり、道路を挟んで鶴舞公園に面する。門柱は花崗岩の方柱で、中央2本が当初のものである。塀は当初の煉瓦造に昭和5年(1930)にスクラッチタイルとテラコッタで改修し仕上げたもので、当時のデザイン傾向が窺える。

名大病院


鶴舞公園のそのほか

鶴舞公園内は、ほかにも近代史跡が多く残っているが、私は大部分を見逃してしまっていた。。。


噴水塔

明治43年、鶴舞公園を会場として、第10回関西府県連合共進会が開かれた。会場の正面広場を飾ったのがこの噴水塔であった。
設計は鈴木禎次工学士、ローマ様式の大理石柱に岩組みという和洋折衷式。
地下鉄3号線工事のため一時撤去されたが、昭和52年復元された。


奏楽堂

明治43年、鶴舞公園を会場として第10回関西府県連合共進会が開催された際に、中心的施設として各種の演奏会が催された。
イタリアルネサンス風の建物で、細部にはアールヌーボーのデザインが施されている。設計者は噴水塔と同じ鈴木禎次工学士。
昭和9年に老朽化のうえ室戸台風で大被害を受けたので取り壊され、昭和11年から平成7年まではデザインの異なる奏楽堂が建てられていたが、平成9年に築造当時の姿に復元された。


近代史の目線では、以下も興味深かったが、見逃し。
2022年9月に再訪しました。

青年団令旨碑壇

名古屋市連合青年団が昭和5年に建設した記念碑壇。青年のスポーツ精神を高揚する令旨が掲げられています。陸上競技場は、大正2年に大運動場として発足しました。昭和7年には施設も充実し、乙種認定を受けましたが、戦後の接収時代に荒れてしまいました。現在は認定外の陸上競技場として、各種のスポーツ、行事に利用されています。


普選壇

普通選挙法(大正14年施行)を記念した野外劇壇。中日新聞社の前身名古屋新聞社が解題20周年(大正15年)を記念して昭和3年に建造しました。壁面には普通選挙の基本精神「五箇条の御誓文」とその英訳、および建設の趣旨とが掲げられています。この青銅板は戦争で失われましたが昭和42年に復元されました。昭和61年に市指定文化財に指定されました。


加藤高明伯銅像跡

昭和3年、愛知県出身の内閣総理大臣であった加藤高明氏を顕彰し、銅像建設会により同氏の銅像が建立されました。同氏の銅像は、昭和19年に戦時物資の不足を理由に供出され、現在は台座だけが残されています。


鶴舞公園は広いので、全部をまわろうとすると結構な時間が必要。結局、6月の訪問ではすべてをまわりきれず、見逃しもあり、機会があったので9月に再訪をした次第でした。

※撮影:2022年6月 再訪9月


関連

松井石根大将ゆかりの神社(椿神明社・名古屋)

愛知県名古屋市中村区牧野町。
名古屋駅の駅裏(駅西)、つまり名古屋駅の西側には、牧野公園や牧野小学校など牧野の名前を残した場所がある。

椿神社は牧野村の北端。
この牧野村で、松井石根は明治11年(1878年)7月27日に生まれた。


神明社(椿神明社)

祭神は、豊宇気比売神。創建年代は不詳。旧社格は村社。
伊勢の神宮の神領地であった牧野村で、椿神明社は外宮とされ「上ノ宮」、牧野神明社は内宮とされ「下ノ宮」と呼称されていたという。

JR東海が施行するリニア中央新幹線(品川・名古屋間)の事業用地として椿神明社の境内北側を一部譲渡することとなり、境内整備が実施された。工事は2020年4月 ~ 2022年3月。
私の参拝は2022年6月。工事完了後の参拝。

社号標の銘は削り取られていた。
昭和9年10月建立。

境内の随所に柵が設けられ、立ち入りできる空間が少ない。


松井石根ゆかりの石碑(池に沈めた大将の碑)

石碑がある。
これが、松井石根ゆかりの石碑。近くで見ることができないのが残念。

松井石根は、椿神社のある牧野村の出身であった。
昭和12年(1937年)7月、盧溝橋事件により支那事変(日中戦争)が勃発。
第二次上海事変に際し、予備役の松井石根は召集され上海派遣軍司令官として陣頭指揮を取ることとなり、昭和12年(1937年)12月、中支那方面軍司令官として南京攻略戦が開始。12月13日に南京陥落。
昭和13年1月、近衛文麿首相の近衛声明「蔣介石を対手とせず」宣言で、中国寄りであった松井石根は考え方の相違もあり更迭され予備役とり、昭和13年3月に帰国。

昭和14年(1939年)12月に、地元の有力者が石碑を建立。
石碑の内容は、地元の英雄であった松井石根大将が南京入城後に作った漢詩。
「南京入城之感」

松井石根は昭和15年(1940年)2月、支那事変(日中戦争)における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた。

昭和21年5月、松井石根は、いわゆる南京事件の責任者として戦争犯罪人(BC級)逮捕。極東国際軍事裁判において起訴され巣鴨プリズンに収監。東京裁判において、11月12日に死刑判決。
昭和23年12月23日に死刑が執行された。享年70歳。

東京裁判と久保山火葬場(横浜)

松井石根の石碑は、この判決よりも前に、GHQに見つかることや戦犯と関わり合いになることを恐れた人々によって、中村公園近くの池に放り込まれたという。
その後、松井石根の石碑は引き上げられ、再び椿神明社に建立されたという。

南京入城之感
燦矣旭旗颺石城江南風色
忽澄清豼貅百萬軍容肅
仰見 皇威輝八綋
 陸軍大臣 松井石根

昭和十二年七月支那事変起也皇国直進膺懲之師
吾郷英傑陸軍大将松井石根閣下為上海方面軍最
高指揮官督戦於江南之地撃破頑敵不出九旬而陥
其首都南京此詩即将軍陣中之作讀者宜相傳唱以
仰皇軍威武乎不朽也昔豊太閤裂明之封冊也其意
欲席捲四百余州而不果焉今経三百有余年豊公之
霊有知同郷英傑偉績如此其感喜果如何必應含会
心之笑於泉下也矣
 昭和十四年十二月
    陸軍中将    大塚堅之助 撰
    陸軍軍医中将  石黒大介  書
        幼友  恒川増太郎 建立

大塚堅之助陸軍中将も石黒大介陸軍軍医中将も愛知県出身。恒川増太郎氏は、松井石根陸軍大将の幼友達で地主。恒川増太郎氏が音頭を取って建立したものと思われる。

「南京入城之感」の隣の碑も、松井石根の謹書であった。
一緒に、池の中に投げ込まれたものかどうかは不詳。

大津武五郎直行君頌徳碑
 陸軍大将 松井石根書

大津直行は、尾張藩士。明治維新後は、鳥取県権参事などを努めている。大正14年に84歳で没。

手水石は昭和10年。
狛犬は昭和14年。

昭和14年に郷土の英雄として讃えられていた松井石根大将。
南京陥落の英雄は、8年後には、いわゆる南京事件の責任者として死刑となり、建立された記念碑は、関わりたくないものとして、池の中に沈められてしまった。
戦後、松井石根大将の石碑はもとのように神社に戻ってきたが、昨今の政治的事情もあり、(偏った歴史感を持った方々による)神社自体に対する不貞な行為などもあり、その保護のために松井大将の石碑は、金網に囲まれてしまった。そうして貴重な石碑が、多くの人々にとっては「よくわからない石碑」になってしまったことが、申し訳なく。

場所

https://goo.gl/maps/rdjUFoaLJPqxyCzXA

※撮影は2022年6月