名古屋陸軍造兵廠千種製造所跡(千種公園)

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愛知県名古屋市千種区の「千種公園」は、かつては陸軍の工場であった。


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名古屋陸軍造兵廠 千種製作所

名古屋陸軍造兵廠千種製作所は、 1919年(大正8年)発足。
第一次世界大戦で新兵器として登場した飛行機の国内生産に取り組むために設置。
熱田製作所で機体を生産し、千種製作所で発動機を生産する分業体制であった。
名古屋には三菱や愛知時計電機などもあり、民間工場も活性化していた。

1923年(大正12年)の関東大震災により、東京砲兵工廠が被害を受けたために、陸軍は小銃などの兵器生産を名古屋と小倉に分散。関東大震災以降に千種製作所は拡大し、小銃・機関銃などの生産も開始。

1945年(昭和20年)3月25日、4月7日、6月26日の3回、米軍B-29の爆撃を受けており、職員だけでも69人以上の犠牲者が出ている。

千種公園

案内地図には、慰霊碑等の記載はない。


名古屋陸軍造兵廠千種製造所慰霊碑

千種公園内の遊歩道脇にある。一見しただけでは、なんの慰霊碑かはわからない。裏の碑文を読めば、「名古屋陸軍造兵廠千種製造所」の慰霊碑であることがわかる。

ここに涙あり
されど
平和は永遠に

 名古屋市長 杉戸清 書

ここは元名古屋陸軍造兵廠千種製作所の所在地であって大正八年開所以来兵器を製造して国家の要請に応え、多大の貢献をした由緒ある地である。
太平洋戦争において全従業員は祖国愛に燃えて職域を固守したのであるが、不幸にして昭和二十年三月以降数度の爆撃を蒙って六十九名の犠牲者を出し、これに戦前の公務による死亡者五名を加えて計七十四名の殉職者を出したことはまことに痛恨の極みである。
 ここに有志相図り旧構内にこの碑を建立して記念としあわせて永遠の平和をこい願うものである。
  昭和43年6月
元名古屋陸軍造兵廠千種製造所関係者有志一同


名古屋陸軍造兵廠千種製作所の外塀跡

ちかくには、名古屋陸軍造兵廠千種製造所の外壁コンクリート塀が移築されている。
爆撃によって、無数の穴が空いている様がよく分かる。

第二大戦の末期、再度の名古屋空襲はこの地にあった名古屋陸軍造兵廠千種製作所に甚大な被害を与えた。この碑はその爆撃による痕跡を残す外塀の一部を移設し戦争の記録として残したものである。
 昭和62年1月


民間戦災傷害者の碑

千種公園内には、もうひとつ戦災に関係する碑があった。

痛みを共有し、継承を
 第二次世界大戦中、戦闘機のゼロ戦を生産するなど大軍需都市だった名古屋市は、60回以上の米軍の空襲を受け、街は焼き尽くされ、市民約8000人が死亡、それに劣らない数の人々が重軽傷を負った。
 死傷した民間人も国が援護すべきという運動は、昭和47年、全国戦災傷害者連絡会(杉山千佐子会長)により、ここ名古屋から始まった。一方、名古屋市は平成22年に「民間戦災傷害者援護見舞金」制度を受け、独自の援護を開始した。
 大戦が終わって70年が過ぎようとしている。壊滅した名古屋の街は市民のたゆまぬ努力によって復興、目覚ましい発展を遂げ、今日では、日本を代表する大都市となった。
 しかし、世界ではいまだに争いが絶えず、惨禍が繰り返されている。
 名古屋市は、市民が再び戦火に巻き込まれることがないようにと願うとともに、空襲で体と心に癒えない傷を負った方々の長年の苦難に思いを寄せ、その痛みの記憶をここに刻む。
 平成26年11月 名古屋市

民間戦災傷害者の碑
 平成26年11月
設置:名古屋市健康福祉局
写真提供:中日新聞社
     戦争と平和の資料館ピースあいち

※撮影は2021年11月

場所


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