「日独友好の碑」ドイツ人名古屋俘虜収容所跡

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愛知県立旭丘高等学校の塀沿いにある記念碑。
愛知県立旭丘高等学校のある場所は、かつてドイツ人名古屋俘虜収容所の地であった。


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ドイツ人俘虜

1914年(大正3年)8月23日に、日本はドイツに宣戦布告。
第一次世界大戦の日独戦争で、中国の青島(チンタオ)や南洋諸島で俘虜になったドイツ人およびオーストリア=ハンガリー帝国軍の将兵や在留民間人などは約4700人居たという。
俘虜とは陸軍の用語で、捕虜と同義。

アジアでのドイツ降伏は1914年11月7日。4700名の俘虜は日本本国に輸送され、久留米・東京・名古屋・大阪・姫路・丸亀・松山・福岡・熊本・静岡・徳島・大分の12ヶ所に開設された仮設の俘虜収容所に収容された。
アジアでの戦争は早期集結したが、ヨーロッパ戦役が長期化しなているために、長期収容が可能な施設を新規建設し、1915年に久留米・名古屋・千葉習志野・兵庫青野原・広島似島・徳島坂東の6ヶ所の俘虜収容所に統合。
名古屋俘虜収容所は1914年11月11日開設、1920年4月1日閉鎖。
一部の収容所では技術指導なども行われ、後述する敷島製パンはドイツ人俘虜の技術で発展することとなる。

1919年6月28日、ヴェルサイユ条約の締結。
ドイツ人捕虜の本国送還は1919年12月から1920年1月にかけて実施。約170名が日本に残り、技術力を活かして日本で生計を立てた。敷島製パンの技術指導を行ったハインリヒ・フロインドリーブは神戸にベーカリーを開業。ほかにも、バームクーヘンで有名なユーハイム創業者のカール・ユーハイムや、ロースハムのアウグスト・ローマイヤーなども俘虜経験者。


日独友好の碑

日独友好の碑

由緒
 この地には1915年ドイツ人名古屋収容所がおかれここに第一次世界大戦の折に総勢519名の人々が1920年までの5年間生活した
 ここには多くの蔵書を備えた図書館があり日刊新聞も発行され運動場にはフットボールテニス体操などの諸施設がありオーケストラも編成され開放的であった
 名古屋にこれほど多くのドイツ人が在住することは稀有であったため地域住民は彼らに遠来の客として接し先進国ドイツの文化に関心を持ち彼らとの交流が多く見られた
 地域住民は特にドイツ人の勤勉な生活態度に深く感銘を受け優れた職業技能に触れて多くを学びこれを地域の産業振興に役立て音楽やスポーツを通して友好関係を深めた
 ゆえにこの跡地に碑を建立して歴史の事実を後世に伝えることは誠に意義深く国際親善の礎になるものと信ずる。
 2003年3月
  在名古屋ドイツ連邦共和国名誉領事 安倍浩平
  凪や日独協会会長 石黒伊三雄

愛知県立旭丘高等学校

敷地外から。壁の向こうに、銅像があった。
マラソン校長と称された日比野寛の銅像。
日比野 寛 は、旧制・愛知一中(現在の愛知県立旭丘高等学校)校長時に、日本で最初にマラソンを本格的に教育界に導入したとされている。

場所


敷島製パン

敷島製パンの創業者・盛⽥善平は、第一次世界大戦中のドイツ捕虜収容所(名古屋俘虜収容所)のドイツ兵捕虜の指導をきっかけにパンづくりを開始。
第一次世界大戦終結後、敷島製パンが発足する際に、収容所から開放されたあとも日本に残った元捕虜のハインリヒ・フロインドリーブを技師長として招聘。ドイツ流製法から敷島製パン(パスコ・PASCO)は、はじまっている。

創業までのあゆみ[挑戦のはじまり]
敷島製パンが製パンメーカーとして創業するまでには、創業者・盛⽥善平のさまざまな挑戦がありました。

第⼀次世界⼤戦開始の激動の中、善平はついにパンと出会います。

4.パンとの出会い

ある⽇、製粉⼯場の機械の修理にドイツ⼈技師らがやって来た際、「ドイツ⼈俘虜の焼くパンがおいしい」という話を聞いた善平は、さっそく職⼈から学び、パンづくりをはじめました。

特集 1 想いのバトン 創業までのあゆみ https://www.pasconet.co.jp/csr/feature2020/feature_01/01/

敷島製パン(パスコ)とも縁が深い、ドイツ捕虜収容所とは、知りませんでした。

※撮影は2021年11月


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