「神奈川県-横須賀,三浦」カテゴリーアーカイブ

「千代ヶ崎砲台跡」散策(横須賀)

明治時代に、東京防衛のために構築されたのが、「東京湾要塞」。
なかでも「千代ケ崎砲台」は、東京湾がもっとも狭まる浦賀水道の入口に位置している防衛上の重要拠点でもあり、近年まで自衛隊管理下にあり立入禁止区域だったということもあり、当初の面影をよく残している砲台跡。
自衛隊跡地となった国有地を横須賀市が管理し史跡整備を実施。そうして2021年10月より土日祝日限定で一般公開が開始されたので、足を運んでみました。


千代ヶ崎砲台跡

国指定史跡 東京湾要塞跡

千代ヶ崎砲台とは
 千代ケ崎砲台は、江戸時代後期に会津藩により台場が造られた平根山に、明治25年(1892年)から明治28年(1995年)にかけて陸軍が建設した西洋式の砲台です。
 東京湾内湾口を防衛する観音崎砲台の援助や、浦賀湾前面海域への防御、また久里浜から上陸した敵に対する防衛が任務で、榴弾砲の海正面防御砲台と臼砲・加農砲・機関砲からなる陸正面防御砲台で構成されています。
 建造当初の姿を良好にとどめていること、日本の近代の軍事や築城技術を理解するうえで重要であることから、猿島砲台跡(横須賀市猿島1番)とあわせて平成27年に国の史跡に指定されました。

東京湾要塞とは
 日本で始めて西洋の築城技術と建築資材を導入して建設された砲台は観音崎砲台の第一・第二砲台で、明治13年(1880年)起工、明治17年(1884年)竣工です。観音崎砲台の起工以後、明治政府は首都東京や軍港防衛のために東京湾岸に沿岸砲台群を建設しました。これらの砲台群によって守備する土地を「要塞」と定め、東京湾要塞と呼称しました。
 東京湾要塞を構成する砲台群は、明治20年代後半までに20か所、大正から昭和にかけては火砲の能力向上に伴い防衛ラインを東京湾の南側に拡大して12か所の砲台が築かれました。

日本遺産
 千代ヶ崎砲台跡は、「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」の構成文化財として平成28年に日本遺産に認定されました。
 横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミュージアム」のサテライト施設でもあります。

千代ケ崎砲台の構造
 千代ケ崎砲台の海正面防御砲台は、3つの砲座が南北に並び、1砲座に2問ずつ、合計6門の28cm榴弾砲が配備されていました。地表からすり鉢状に深く掘りこまれた露天砲座の地下には、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部が造られ、砲弾の供給や地上との連絡、砲台内での貯水や排水の仕組みが合理的に設計されています。
 地下施設の壁は煉瓦造で、天井は無筋コンクリート造となっています。千代ヶ崎砲台より11年前に建設を開始した猿島砲台は地下施設の壁・天井ともに煉瓦造であり、2つの砲台を比較することにより建築資材や技術の改良と発展を見ることができます。

以下は案内所にて。

日本の要塞と東京湾要塞

日本の要塞

東京湾要塞

千代ケ崎砲台とは
 千代ケ崎砲台は東京湾要塞を構成した砲台のひとつで、明治25年(1892年)に工事が始まり、明治28年(1895年)に完成しました。
 東京湾要塞の中での任務は観音崎の砲台群の側防と浦賀湾前面海域の防御で、対岸の富津元州砲台とともに援助砲台に位置づけられました。
 千代ケ崎砲台は、28cm榴弾砲と呼ばれる大口径の大砲が備えられた榴弾砲砲台と小口径の加農砲などが備えられた近接防御砲台で構成されていました。
 榴弾砲砲台は南北に一直線に並んだ3砲座からなり、その延長線上の北側と南側にそれぞれ左翼観測所と右翼観測所が配置されていました。各砲座には28cm榴弾砲を据え付けた砲床は2つ置かれ、3つの砲座で合計6門の28cm榴弾砲が備えられました。

28cm榴弾砲
 28cm榴弾砲の砲身は全長約2.8m、最大射程距離は7.8km、砲弾の重量は217kgになります。砲身を水平にして砲弾と装薬を装填した後、砲身を仰角に合わせて発射します。弾道は高く放物線を描き、敵艦の甲板を貫いて、エンジンや火薬庫などの艦艇の重要な部分を破壊する狙いがありました。

砲座と地下施設
 千代ヶ崎砲台の榴弾砲砲座は地表から約6m低い場所に砲床が設計され、周囲はすり鉢状の高い旨檣が築かれて大砲を隠していました。敵艦艇からの砲撃による着弾の被害を小さくするため、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部などは砲座間の地下に造られています。

砲台の建設
 千代ヶ崎砲台が建設された土地は、浅く谷が入った細尾根が続く丘陵地でした。
 砲台の建設にあたっては、丘陵頂部を削平し、地下施設の建設場所を掘削して施設を建設した後に埋戻し、残土で浅谷の埋め立てや土塁などを造成する大規模な土木工事が行わました。建設工事は陸軍工兵第一方面が担当しました。

千代ケ崎砲台の構造

集水と排水の仕組み
 千代ケ崎砲台の水の流れには、砲台内部で雨水を集水・ろ過して生活用水を確保するための集水系統と、砲座などからの汚水を砲台の外に排出する排水系統の2系統がありました。
 集水系統は、飲用水など生活用水を確保する貯水所への導水システムです。貯水所は塁道の南北2か所で確認され、類同には貯水所につながる「ろ過下水溝」が埋設されています。ろ過下水溝で簡易ろ過された雨水は沈殿池の給水口から導水され、沈殿池からろ過池を経由して、最終的にきれいに濾過されて貯水池に貯められ、生活用水として利用される仕組みになっています。
 排水系統は、雨水とともに砲座や地下施設から出る汚水を砲台の外に排水する仕組みです。貯水所への集水系統と交わらないように設計されていました。

地下室に使われた建築資材
 千代ケ崎砲台の地下に造られた砲側弾薬庫などの諸施設は、脚壁が煉瓦造、天井は無筋コンクリートで造られています。また柵門への切通しや塁道の露天空間部分の擁壁は凝灰質礫岩という石材で造られています。
 煉瓦の積み方はイギリス積みと呼ばれる方式です。塁道に面した貯水所や棲息掩蔽部の煉瓦壁は、雨水の帯水を防ぐために撥水性の高い焼過煉瓦(焦げ茶色)、直接雨風にさらされない室内や隧道内は普通煉瓦(赤色)を用いるという使い分けをしています。使われている煉瓦は小菅集治監という当時の刑務所に併設されていた煉瓦工場で造られたもので、桜の花の刻印が押されています。
 一般公開に先立ち実施した砲台の構造体の健全度調査では数か所でコア抜きを行い、煉瓦の脚壁は奥壁が約75cm、天井を支える側壁が開く1.5mの厚さで、コンクリート像のヴォールト天井は最も厚いところで約2mに及びました。
 コンクリートの強度試験では、現在のコンクリートトンネルに必要とされる強度と同等の数値が得られ、千代ケ崎砲台の地下に残る諸施設は堅牢な構造物であることが分かりました。 

現在に残る砲台跡

千代ヶ崎砲台の歴史

28cm榴弾砲模型(原寸)

28糎榴弾砲 1/35スケール

千代ケ崎砲台(現状)の模型

小菅集治監製の煉瓦


軍道

千代ケ崎砲台にアクセスするための唯一の道として「軍道」が設けられていた。現在は横須賀市道であるが、唯一のアクセス道路としての役割は変わっていない。


柵門

千代ケ崎砲台の出入り口。唯一の出入り口。

凝灰質礫岩の擁壁。


掘井戸

入口近くに掘井戸が設けられている。水は貴重。

国史跡 東京湾要塞跡 千代ヶ崎砲台跡


土塁

土塁は海上自衛隊時代に削られたりもしているが、よく姿を残している。


塁道

千代ケ崎砲台は3つの砲座と3つの弾薬庫、3つの棲息掩蔽部と2つの貯水庫などの関連施設にわかれており、塁道でそれぞれが結ばれている。

塁道の擁壁は凝灰質礫岩。

アーチ部分はコンクリートで強化している。

塁道と砲座を結ぶ交通路。


濾過池と沈殿池

奥が濾過池で手前が沈殿池。斜面を利用し、雨水を貯めるために濾過溝で水を集水し、水が下りきったところに濾過池と沈殿池が設置されている。


貯水池(第二貯水所)

沈殿と濾過を終えた浄水は、貯水池に貯められる。千代ケ崎砲台には、南北の2か所に貯水所が設けられていた。

自衛隊時代は、蓄電池倉庫だったようで。。。
(剥がして撤収しなかったようで)

オランダ積み(イギリス積み)の煉瓦。

見事な煉瓦のグラデーション。露天部や入口部分は強度を高めた撥水性に優れた「焼過煉瓦(焼きすぎ煉瓦)」が用いられ、通常の普通煉瓦と使い分けているために色が異なる。


棲息掩蔽部

兵員の待機所、倉庫などが設けられていた。

交通路


弾薬庫

弾薬庫部分。

揚弾井


点灯室

点灯室。弾薬庫にランプが持ち込みできないために、ランプは隣の部屋にある。

弾薬庫から砲座に向けて階段を上がる。


高塁道

砲座への連絡通路。砲弾供給の通路でもある。
そして砲弾の揚弾井の上部。

砲弾を砲座に移動させるためのガイドが取り付けられていたと推測。



砲座

砲弾は横のスペース縦置きで並べていた。

伝声管の穴。隣の台座とつながっている。

砲座から弾薬庫に戻ります。

塁道へ。

棲息掩蔽部の上部には通風孔がある。

塁道

小菅のマーク入り煉瓦

棲息掩蔽部と貯水所

この先には右翼観測所があるが、民有地のために立ち入りができない。。。


砲台上部

砲台の上部に。気持ち良い空間。

第三砲座。

第二砲座。

そして第一砲座。

第一砲座
28cm榴弾砲を据え付けた場所です。
地上からコンクリートの床面まで約6mの深さがあります。
1つの砲座に2門の榴弾砲が設置されました。

桜の季節にも来てみたい。桜並木。

浦賀水道。東京湾フェリーが航行している。

千代ケ崎砲台の立地
 千代ヶ崎砲台は、眼下に東京湾を一望できる標高約65mの山の上に建設されました。
 要塞建設期(明治時代)に建設された砲台群の中では最も南に位置し、当時の防御線の外側です。28cm榴弾砲が据え付けられた海正面砲台は、東京湾内湾に侵入しようとする艦船と最初に対峙することが想定されていました。
 対岸の房総半島側は水深が浅く、大型の艦船は三浦半島寄りを航行します。そのため、三浦半島側に集中して砲台が建設されました。
 大型艦が通行する航路は浦賀水道とも呼ばれ、現在では世界有数の海上交通量を誇っています。

これは、良い東京湾要塞。

なにかの遺構。
横須賀市が管理している千代ヶ崎砲台跡地の敷地外の民有地。南側堡塁にあたる。

このあたりに右翼観測所。また近接防御砲台もあるエリアであるが同じく横須賀市管理敷地外の民有地。

富士山が見えた。

塁道を上から。

通風孔は塞がれている。

千代ケ崎砲台、ここは面白いですね。
ちょっとアクセスは不便ですが、一見の価値あり。
ボランティアガイドを活用して見学するのがおすすめです。

夏場に訪問したので、ちょっと草木が茂りすぎていたので、冬にも再訪したい、あと桜の季節にも良き花見ができそう。


燈明堂跡

千代ケ崎砲台の眼下には、もともとは燈明堂があった。
江戸時代に造られた日本式灯台。

燈明堂は慶安元年(1648)から明治5年(1872】まで灯台として機能していた。
そして燈明堂背後の山には、平根山台場が設けられた。
天保8年(1837)に日本人漂流民を送り届けるために来航した米国商船モリソン号を最初に砲撃した台場。
また燈明堂は浦賀奉行所の処刑場でもあり、供養塔もあつまっている。

千代ケ崎砲台のある場所を望む。
夏場なので、海水浴客で大賑わい。燈明堂に至る道が路駐で溢れてました、、、

※撮影:2022年7月

なお、千代ケ崎砲台の下には、海軍の学校があった。


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8120/bunkazai/chiyogasaki-koukai.html

https://routemuseum.jp/theme/navy/c03/

https://chiyogasaki-supporter.jimdofree.com/

https://www.cocoyoko.net/event/chiyogasaki-.html

砲台関連

「走水低砲台跡」散策(横須賀)

横須賀の走水。
古くは、日本武尊と弟橘媛命の伝説の地「御所ヶ崎」(旗山崎)として知られている当地は、江戸期には「走水番所」が置かれ、そして幕末には「旗山崎台場」が設けられた。
明治19年(1886)には、陸軍によって半円形の低砲台が築かれ「走水低砲台」として跡が残っている。
近年、横須賀では今まで未公開であった砲台跡の整備がすすみ、一般公開・見学ができるようになったので足を運んでみた。


御所ヶ崎

横須賀風物百選

日本武尊 弟橘媛命 伝説の地 御所ヶ崎
古事記・日本書紀によれば日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐のおり、走水から上総(千葉)へ船で渡ろうとした時、海が荒れて進めず弟橘媛(おとたちばなひめ)は海神の怒りを静めるために身を投じ荒れ狂う海を鎮めました。
地元伝承によれば武尊がこの地に臨時の御所を設け軍旗を立てたことから御所ヶ崎、旗山崎と呼び弟橘媛は御所ヶ崎先端の「むぐりの鼻」 に次女たちと共に身を投じたと伝わります。港には尊が海を渡るときに乗船したといわれる寺島(御座島)の名があります。
《古東海道》
日本武尊の東征の道は古東海道といわれ足柄峠を越えて相模国に入り三浦半島を横切って衣笠宗源寺・天神坂辺りから安房口神社、小原台・走水から上総へ渡る道順と考えられています。
 大津行政センター市民協働事業・大津深訪くらぶ

走水番所・旗山崎台場跡
天正18年(1590)徳川家康が関東に入封しました。
その後、船手衆である向井一族に明治走水に御船番を置き、向井政良は御船番、走水奉行を務め、後に三崎奉行・向井忠勝が兼任しました。三崎では上り船を、走水では江戸に下る船を検査しました。今も同心町海岸の名があります。
天保14年(1843)川越藩が江戸湾海防のため台場を築いた所で、六挺の大砲を配備し異国船の侵入に備えました。
明治19年(1886)旧陸軍によって築かれた半円形の低砲台が前方の松の木に現在も残されています。
旗山崎の名は日本武尊(やまとたけるのみこと)が上総(千葉)に渡る時海が荒れて進めず臨時の御所を設け軍旗を立てたことに由来します。
 大津行政センター市民協働事業・大津深訪くらぶ


走水低砲台跡

走水低砲台跡
走水低砲台跡とは?
 走水低砲台は、明治18年(1885年)から19年(1886年)に陸軍によって建設された砲台です。27cm可農砲4門を備え、東京湾要塞を構成する砲台の一つとして首都東京を守る任務にあたりました。
 日清、日露戦争とも交戦することはなく、また関東大震災で被害を受けましたが、その後、横須賀重砲兵学校の演習用砲台として復旧し、終戦まで稼働状態にありました。現在も良好な状態でほとんどの遺構が残っています。
 走水周辺は東京湾の内湾が房総半島と近接して最も狭くなる場所に位置し、江戸時代後期には旗山崎台場が築かれ、明治時代には低砲台のほかにも走水高砲台、小原台堡塁、花立台砲台が築かれるなど海防の重要地点でした。走水低砲台が建設された丘を含む岬一帯を示す「御所ヶ崎」や丘の周辺を指す「旗山崎」という地名は、古事記・日本書紀に伝わる日本武尊と妻の弟橘媛の伝説に由来しています。
 横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミュージアム」のサテライト施設でもあります。

兵舎の左右に弾薬庫がそれぞれ。
弾薬庫の左右に、砲座(第一から第四まで)がそれぞれ。
そして左翼観測所の遺構が残されているようだ。

一般公開は祝日と土日のみ、門扉が開放される。


弾薬庫(左翼)

まずは最初に弾薬庫が見える。
左翼の弾薬庫の奥には第四砲座と第三砲座がある。

走水低砲台の構造
 海岸に突出した海抜約20mの低丘上に4つの砲座が並び、27cm加農砲が設置されていました。
 4つの砲座の中央には地下式の兵舎(掩蔽部)を設け、第一砲座と第二砲座の間に共通の地下式の弾薬庫、第三砲座と第四砲座の間に同じく共通する地下式の弾薬庫が設置されています。

砲弾供給の仕組み
 砲座間の横檣(=防弾用の土塁)の下に設置された弾薬庫からは、左右の揚弾井を使用して地上の砲座に砲弾を供給しました。引き揚げられた砲弾は各砲座の弾室に納められ、射撃に備えました。
 2つの砲座は高塁道で連絡し、その中間には小隊長掩壕が造られ、両側の砲座に指示を出すことができました。

左翼の弾薬庫は、外からの見学のみ。


兵舎(兵員棲息部)

左右の弾薬庫の間には、兵舎がある。中に入れます。

ここに兵隊さんが待機していたのだろうが、収容人数はどのくらいなのだろうか。

左右の砲座と弾薬庫に繋がる道。


弾薬庫(右翼)

右側の弾薬庫。開放されている。

内部は、左右にわかれている。
右側は第一砲座、左側は第二砲座。

揚弾井
弾薬をここから引き揚げる。

弾薬を引き揚げる場所。
揚弾井
揚弾機の金具も残る。


第一砲座

砲座を第一から順番に見ていく。
見学用に見事に整備されている。

中央に、27cm加農砲が置かれていた。

海が見える。


速射加農砲座

9cm速射加農砲のアンカーボルト。4つ残っている。
横須賀陸軍重砲兵学校の演習用として、南門砲台(観音崎・関東大震災で大破除籍)の九糎速射加農砲4門が移設されたという。

1つ目。

東京湾要塞の砲台。
竣工順に32砲台が記載されている。走水低砲台は7番目。


第四砲座

見学用にきれいに整備されている。


左翼観測所

左側の観測所の基礎が残っている。
左翼があるなら右翼もと思いたいが、右翼は消失したのかな、、、。


第三砲座

樹木に覆われているが、第三砲座。


第二砲座

基本的には、同じ作り。

4つの台座と、2つの弾薬庫と、兵舎と、とても綺麗にのこっている、大変貴重な空間。ゆっくりと見学できたということもあり、ここは必見ですね。

撮影:2022年8月


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/hasirimizuteihoudai.html

https://routemuseum.jp/area/c/c01/

https://www.cocoyoko.net/spot/hasirimizuteihoudaiato.html

砲台関連

走水低砲台を演習用砲台として活用していたのが、横須賀重砲兵学校。

横須賀には、重砲聯隊も配備されていた。

観音崎が東京湾要塞の要であった。

走水関連

走水神社の近代史跡散策(横須賀)

横須賀の走水。日本武尊と弟橘媛命の伝説を残す古社。
今回は近代史の目線で参拝をしてみる。


弟橘媛命の記念碑

明治43年6月5日建立。
弟橘媛命の今際の御歌が刻まれている。
記念碑は、東郷平八郎、伊東祐亨、井上良馨、乃木希典、高崎正風、上村彦之丞、藤井茂太の7名が発起人となり建立。

さねさしさがむのをぬにもゆるひの
ほなかにたちてとひしきみはも
勲一等昌子内親王書

昌子内親王は、明治天皇の第六皇女。竹田宮恒久王の妃となる。

嗚呼此は 弟橘比賣命いまはの御歌なり命夫君 日本武尊の東征し給ふ伴われ
駿河にては危き野火の禍を免れ 此の走水の海を渡り給う時端無く暴風に遭ひ 御身を犠
牲として尊の御命を全からしめ奉りし其のいまはの御歌なり御歌に溢るゝ真情はすべて
夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず其の貞烈忠誠まことに女子の亀鑑たるのみならず
亦以て男子の模範たるべし平八郎等七人相議り同感者の賛成を得記念を不朽ならしめ
むと御歌の御書を 常宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り彫りてこの石を建つ
明治四十二年十月
発起人
海軍大将正三位大勲位功一級 伯爵 東郷平八郎
海軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 伊東祐亨
海軍大将従二位勲一等功二級 子爵 井上良馨
陸軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 乃木希典
樞密顧問官兼御歌所長従二位勲一等 男爵 高﨑正風
海軍中将従三位勲一等功一級 男爵 上村彦之丞
陸軍中将従四位勲二等功二級  藤井茂太
  御歌所主事従五位勲六等 阪正臣謹書
  旭海鶴永富萬治敬刻

そうそうたる発起人が名を連ねる。

東郷平八郎
 日露戦争時の連合艦隊司令長官
伊東祐亨
 日清戦争時の連合艦隊司令長官、日露戦争時の軍令部長
井上良馨
 日露戦争時の横須賀鎮守府司令長官 
乃木希典
 日露戦争時の第3軍司令官
高﨑正風
 御歌所初代所長、初代國學院院長
上村彦之丞
 日露戦争の第二艦隊司令長官
藤井茂太
 日露戦争の第1軍参謀長


機械水雷

日露戦争での鹵獲品が奉納。

この機雷(機械水雷)は、弟橘媛(弟橘比賣命)の記念碑の序幕にあたり、発起人の一人で建立のため中心的な役割を果した海軍中将上村彦之丞から走水神社に寄贈されたもの。
上村中将は、除幕式の折には、第一艦隊司令長官に転じていますが、少し前まで横須賀鎮守府司令長官を勤めていた。

奉献
露国機械水雷
横須賀鎮守府司令長官
男爵 上村彦之丞
明治43年6月5日
走水神社氏子会


走水神社

御祭神:日本武尊 弟橘媛命

創建年代は不詳であるが、伝承では日本武尊が東征の途上に当地から浦賀水道を渡る際、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが始まりという。
走水神社は兼務社であり神職は非常駐。本務社は西浦賀の叶神社となる。旧社格は郷社。

社号額には、海軍少将大勲位依仁親王とある。
東伏見宮依仁親王のことですね。
海軍少将時代に、横須賀予備艦隊司令官(明治44年)や横須賀鎮守府艦隊司令官(大正2年)などを努めていたので、そのご縁で揮毫されたものと推測。

走水から眺める浦賀水道。

横須賀に来ると、たまに足を運んでしまう神社です。

※撮影は2022年8月

なお、御朱印帳と御朱印は、戦跡に興味を抱く前に参拝していた、だいぶ昔のころにいただいていましたので、参考までに掲載しておきます。

平成26年(2014)でした。8年前、、、


関連

米海軍横須賀基地フレンドシップデー2022

2022年10月16日、3年ぶりに開催された、米軍横須賀基地のフレンドシップデー。足を運んでみたので、写真中心に記事を掲載。


旧横須賀海軍病院の境界塀

大日本帝国海軍の海軍病院。明治13年開庁。
戦後、米海軍に接収され、横須賀米海軍病院(United States Naval Hospital Yokosuka)として現在も当時の庁舎等が米軍横須賀基地内で病院として機能している。立ち入り制限があるため、今回は「大日本帝国海軍時代からの横須賀海軍病院」の軍用地境界の塀(壁)のみ見学。

米軍の消防緊急車両が、横須賀海軍病院前を通過。

むだに流し撮りをしてみる。


横須賀鎮守府軍法会議所正門跡

ここには、横須賀鎮守府軍法会議所があった。


横須賀海軍工廠造船部の建屋

横須賀海軍工廠造船部時代の建屋という。

横須賀海軍工廠造機部の建屋

横須賀海軍工廠造機部時代の建屋(組立工場)という。


海軍砲術学校入口

海軍砲術学校は、1907年(明治40年)から1941年(昭和16年)までの名称。1941年に館山砲術学校が開設されると、「横須賀砲術学校」に改名した。

よくみると、トンネルに「海軍砲術学校」とある。

当時からの護岸かも。

地下壕跡、かな。

大日本帝国海軍関係で記録できたのは、ひとまず以上。
ほかにも、日本海軍の電話線マンホールや消火栓などもあるが、今回は記録できなかった。


※2019年に米軍基地内で以下を記録してました。

消火栓


第7艦隊旗艦 ブルーリッジ
USS Blue Ridge, LCC-19

アメリカ海軍の揚陸指揮艦。日本横須賀に拠点を置く第7艦隊の旗艦。
就役は1970年。アメリカ海軍現役艦艇では最古参。


ブルー・リッジ甲板から

ラルフ・ジョンソン
USS Ralph Johnson, DDG-114

原子力空母の修理拠点
米海軍修理バージ YR95、YR96、YR85

小さい船は、かわいい。

見学の大行列、、、

横須賀の軍港を、米軍側から見れるのは貴重。
写真の左手は、吾妻島。米海軍の倉庫がある。

はるか向こうに、住友の横須賀製造所もみえる。

たぶん、旧帝国海軍の建屋も点在しているはず。

謎キャラ登場。


米海軍オレゴン号の錨

In Memory Of A Gallant Ship
USS OREGON
1896-1919

アメリカ海軍インディアナ級戦艦3番艦「オレゴン」(USS Oregon, BB-3)の
1919年の退役後は武装解除され博物館船となっていたが、1941年に海軍はスクラップ艦として再活用しようとしグアムへ曳航。そのままグアムで終戦を迎え、1956年に解体された。


米国船オネイダ号 国際平和記念碑
USS ONEIDA INTERNATIONAL PEACE MEMORIAL

USS ONEIDA INTERNATIONAL PEACE MEMORIAL

The USS Oneida distinguished herself during the American Civil War and fought bravery in the New Orleans,Vicksburg and Mobile Bay Navel Battles.
It during the Mobile Bay Naval Battle where her heroic crew earned 8 Medals of Honor.
During the Meiji Restoration she served the best interests of the United States and the Emperor of Japan by having a part in putting down a Warlord uprising near Osaka.
This is dedicated to the 115 Sailors and Officers of the USS Oneida whose lives were lost in the service of their country.May her legacy continue to inspire all Sailors;past, present and future in the pursuit of freedom and international peace.
“Greater love has no one than this; to lay down one’s life for his friends.”
John 15:13
Memorial maintained by Yokosuka Chief Petty officer’s Mess
Erected 2007

1870年1月24日、米国船オネイダ号は母国アメリカ合衆国に向けて東京湾をあとにしました。船はこの地点から真東に4マイル位のとことでイギリスの貨物船「ボンベイ号」に激突され、その後15分の間に沈んだ。この悲劇の結果は、水兵海兵隊員、そして中国人を含む115人の乗組員の命の損失であった。
そのうち回収された遺体はわずか3体だけであった。この記念碑は東洋と西洋の古代の象徴を組み合わせ、亡くなった人々の思い出に敬意を表し、また過去、現在、未来と、歴史的かつ継続的な日米の協力関係を表すものである。
水兵たちが安らかに眠らんことを。



MASUOKA PARK(増岡公園)

「ミスターネイビー(Mr,Navy)」として、長年にわたり衆議院事務局に勤務していた増岡一郎氏は、日米安全保障の架け橋として、米海軍によって永遠に語り継がれ、記念として、「MASUOKA PARK」が設けられている。

This park is named for the honorable Ichiro Masuoka.
“MR,NAVY” a true friend and selfless supporter of the navy and the united states-japan security relationship.
Because of his peaseverance and dedication. Our sailors and their families enjoy a significantly improved quality of life
He shall live forever in our hearts.


米海軍横須賀基地ヘリポート管制塔

かつてこの場所には、潜水母艦「大鯨」の艦橋を流用した航空管制塔があったという。昭和52年頃までは現存していたというが、現在は撤去されており、新しい管制塔となっている。

沖合に何かいた。。。米海軍。

民間船のようにみえますが、これは米海軍ワトソン級車両貨物輸送艦「ダール」。ワトソン級車両貨物輸送艦は、世界最大のガスタービンエンジン推進艦。

猿島。冬になったら行こうと思う。。。


Yokosuka Friendship Day
ヨコスカフレンドシップデー

ライブ開場

郵便局

MILITARY POST OFFICE, YOKOSUKA JAPAN

マクドナルド

警備艇

アメリカンな焼肉。

あとは、ふらふらとアメリカの空間を堪能。
ネイビーバーガーを食べたけど、写真はいまいち。


三笠公園

モニュメント撤去工事中


買い物。
スタバのエナジードリンク。バニラとモカ。バニラはやばいくらい甘いらしい。力尽きたときに飲もう。。。

※撮影:2022年10月


関連

「陸軍重砲兵学校」跡地散策・その2(横須賀)

馬掘小学校・中学校の東の坂道を進む。馬掘自然教育園へ向かう。往時から残る道。

本記事はその2となります。その1はこちらから。


境界塀

馬掘中学校に残る不自然な境界塀。往時からの塀かもしれないし、関係ない塀かもしれない。参考まで。

馬掘中学校。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-122
昭和21年(1946年)2月15日、米軍撮影の航空写真。

一部拡大の上、加工。
当時は、重砲兵学校のすぐ先が海岸線であったた。現在は海岸線が埋め立てられていることが分かる。


馬堀自然教育園

馬堀自然教育園
 昭和34年、市の博物館付属施設として開園しました。戦前は旧陸軍重砲兵学校の弾薬庫などがあった場所で面積は38600平方メートルあります。
 園内はタブノキ、スダジイ、オオシマザクラなどが茂る自然林で約250種の植物が生育し様々な鳥類がやってきます。池や水路ではホタルやトンボ、メダカなど水生生物が保護・育成され、学習棟には園内の地質・動植物を紹介した展示室があります。
 園内には旧陸軍の弾丸庫や火薬庫、御稜威神社の鳥居や記念碑が現在も残されており近代化遺産としても貴重な所です。
 この緑地は小原台台地から観音崎公園につながる自然観察ルートになっています。
  大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ

横須賀市自然博物館付属
馬掘自然教育園

横須賀市自然・人文博物館付属
馬掘自然教育園

駐車場はないのでご注意を。

歴史遺産の宝庫!馬掘自然教育園
園内にある旧陸軍重砲兵学校の遺構


陸軍重砲兵学校

明治22年(1989)。要塞砲兵幹部練習所が市川市の国府台に創設。
明治29年(1896)に、陸軍要塞砲兵射撃学校と改称。翌年明治30年に横須賀馬堀の新校舎に移転。明治41年(1908)に陸軍重砲兵射撃学校と改称し、大正11年(1922)に、陸軍重砲兵学校と改称した。


馬掘自然教育園に残る陸軍重砲兵学校跡地散策

散策を。

コンクリート擁壁

火薬庫1

火薬庫は2棟残っている。それぞれ形状は異なる。

水路の遺構?

上の池。これは旧軍とは関係ないのかもしれないが。

火薬庫2

ふたつめの火薬庫。

火薬庫の後ろには巨大な壁がある。

防爆壁

火薬庫が万が一に爆発した際に被害を防ぐ爆風防護壁。

水路

水源地施設

水源地。今も水が湧いている。

寄り添う大木

ムクノキとシラカシ。馬掘自然教育園に残る大木。

古井戸

正方形の枠が設けられた井戸。

御稜威神社跡

陸軍重砲兵学校内神社として設けられた御稜威神社。
創建は昭和14年(1939)という。

御稜威神社跡。台座。

「稜威神社之記」記念碑

稜威神社之記 
陸軍重砲兵學校創立セラレテヨリ茲ニ五十年稜威ノ下幾多先輩ノ赤誠ニ依リ今日ノ隆昌ヲ見タリ我等亦愈之カ發展ヲ希ヒ先輩有志ノ協力ヲ得校内ニ聖域ヲ卜シテ神殿ヲ造營シ伊勢大神宮明治神宮及香取鹿島兩宮ヲ奉祀シテ禮拜ノ儀典ヲ継承シ絶エス神前ニ忠誠ヲ誓ヒ益ゝ盡忠報國ノ志ヲ鞏ウセンコトヲ期ス 
 昭和十四年三月二十七日

(裏面)
准士官下士官兵 判任文官雇庸傭人

狛犬台座跡?

参道跡

御稜威神社鳥居

御稜威神社社号標

(表)
御稜威神社
(裏)
陸軍重砲兵学校長 太田勝海

石段の一部が欠けていた。

防空壕跡

防空壕を塞いだであろう箇所がいくつかあった。

園内を1時間ぐらい散策。
陸軍火薬庫であったがゆえに、立ち入りが制限され、それゆえに、戦後は自然教育園として活用されてきた空間。自然教育とあわせて歴史教育もできるという貴重な場所。敷地内はアップダウンもあり、足元は湿り気もあるため、しっかりとした靴での散策を推奨。

場所

https://goo.gl/maps/TQKy7qBbsp8ELvQS8

公式

https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/exinfo/mabori-map/educationgarden

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8161/sisetu/fc00000383.html

※撮影:2022年5月


関連

「陸軍重砲兵学校」跡地散策・その1(横須賀)

横須賀の防衛大学校の手前、馬掘小中学校や馬掘自然教育園のあるエリアは、かつて陸軍の重砲兵学校があった場所。昭和40年代に海岸線を埋め立てる前は、この地が海岸線の南西端でもあった。
そんな馬掘の陸軍重砲兵学校関連戦跡を散策してみる。

その2(馬掘自然教育園)はこちらから。


陸軍重砲兵学校

明治22年(1989)。要塞砲兵幹部練習所が市川市の国府台に創設。
明治29年(1896)に、陸軍要塞砲兵射撃学校と改称。翌年明治30年に横須賀馬堀の新校舎に移転。明治41年(1908)に陸軍重砲兵射撃学校と改称し、大正11年(1922)に、陸軍重砲兵学校と改称した。

陸軍重砲兵学校跡
 現在の馬堀小・中学校は戦前に旧陸軍重砲兵学校が置かれていた所です。
 明治8年(1875)浦賀に海軍の兵士を育てる屯営が置かれ、その後、要塞砲兵幹部練習所・要塞射撃学校と変遷しました。大津練兵場に一時移転しましたが、明治30年(1897)馬掘の地に重砲兵学校を設置しました。
 この学校は砲術の訓練と発達に寄与し、養成した将兵は3万人を超えました。終戦後の一時期、浦賀が陸軍の復員手続きや馬堀援護所として使用されました。
 現在も校庭西側の丘に「重砲兵発祥の地」の碑があります。
 大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ

現在の馬掘小学校の入り口に、跡地の案内板が立っている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-122
昭和21年(1946年)2月15日、米軍撮影の航空写真。

一部拡大の上、加工。
当時は、重砲兵学校のすぐ先が海岸線であったた。現在は海岸線が埋め立てられていることが分かる。


重砲兵発祥地の碑

馬掘小学校の校庭西側の丘のうえに、重砲兵発祥の地の記念碑がある。
小学校の校庭内になるためにご注意下さい。私は校庭開放日に見学をさせていただきました。

この地は、重砲兵学校将校集会所前庭であったという。

重砲兵発祥地 
永持源次謹書

永持源次の最終階級は陸軍中将。
陸士15期、砲兵畑をすすみ、陸軍要塞砲兵射撃学校教官、陸軍重砲兵射撃学校教官、陸軍野戦砲兵学校教官、横須賀重砲兵連隊長、造兵廠大阪工廠長、砲工学校長、造兵廠長官などを歴任した。
昭和13年(1938年)、予備役。除隊後は、日本製鐵常務や日本特殊鋼社長、全国軍人恩給連合会長を務め昭和53年に94歳で没している。

(裏面)
当処は明治二十二年創立せる陸軍重砲兵学校の旧址なり本校は重砲兵の進歩発展に貢献し昭和二十年迄に三万の将兵を練成す正に重砲兵発祥の地と謂うへし 然るに往時の施設は逐年改廃せられ近くその姿を没せんとす全国同憂の士深く之を惜しみ由緒ある遺跡を永く顕彰する為明治百年に方り此の碑を建つ
昭和四十三年十一月 重砲校遺跡顕彰会

本記念碑本体は富士の溶岩塊により築かれていたが、この度の修復に当たり保全上堅固な伊達冠石に交換した。
 平成十九年八月
 重砲会碑修復事業協力者一同


行幸之地碑

重砲兵発祥地記念碑の隣には、行幸の記念碑がある。
昭和天皇は、この地に2回、行幸されている。

行幸之地

昭和天皇当地行幸記録
昭和三年五月二十四日 陸軍重砲兵学校時代
昭和二十一年二月二十日 浦賀引揚援護局時代
右の碑は浦賀引揚援護局が建立したものを、平成十九年八月重砲会が修復しこの記録を刻した。
重砲会碑修復事業協力者一同

場所

https://goo.gl/maps/oyKDGk9pW4oXMtn69

※撮影:2022年5月


関連

「横須賀重砲聯隊」跡地散策

横須賀には「陸軍重砲兵学校」があった。そして横須賀には「要塞」があった。横須賀に残る重砲聯隊の名残を散策してみる。
汐入駅からの衣笠駅を結んでいるバスで、坂本坂上バス停下車。


横須賀重砲聯隊

明治24年(1891年)11月に、要塞砲兵第一聯隊が、横須賀に創設されたことに始まる。
明治27年、日清戦争に参戦。
明治29年、東京湾要塞砲兵聯隊と改称。
明治37年、日露戦争に参戦し旅順二〇三高地攻略戦で活躍。
明治40年、重砲兵第一聯隊第二聯隊に改編。
大正9年12月に、「横須賀重砲兵聯隊」と改称。
以来、終戦まで東京湾要塞重砲兵聯隊として首都を防衛。
横須賀重砲兵連隊は第1師団に所属し、有事の際は東京湾要塞司令部の指揮下にあった。


横須賀重砲兵連隊営門

横須賀重砲兵連隊の正門。
明治40年(1907)10月26日に竣工。連なって残る約16mの塀は、明治24年(1891)に出来上がったものと推定。
門柱は58cm角で、高さは3.24m、塀の高さは1.8m。
横須賀に残る数少ない明治建造物で、現在は桜小学校、坂本中学校の門として使用されている。

横須賀市指定市民文化資産
旧横須賀重砲兵連隊営門
連隊の正門で、明治40年10月に竣工した。これに連なる塀は、明治24年に完成したものと推定される。本市に残る数少ない明治建造物である。

公式

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004017.html

場所

https://goo.gl/maps/64ukQw8YBMzfWuJAA


横須賀重砲兵聯隊跡記念碑

桜小学校の校庭南側の鎮座。道路を挟んだ反対側は坂本公園。道路側からも記念碑を伺うことは可能。

現在は、桜小学校の校庭南側に2つの記念碑が並んで建立されている。
小学校の校庭内になるためにご注意下さい。私は校庭開放日に見学をさせていただきました。

横須賀重砲兵聯隊跡記念碑
誠心山之碑
ふたつの碑がある。

記念碑
横須賀重砲兵聯隊跡

嗚呼横重
鎌倉山の星月夜
衣笠城址の蝉時雨
山河に残る英雄の
感化は如何で浅からん
桜花の春の競技会
紅葉の秋の裾野原

一 明治二十四年十一月要塞砲兵第一聯隊当地に創設
一 明治二十七年日清戦争に参戦
一 明治二十九年五月東京湾要塞砲兵聯隊と改稱
一 明治三十七年日露戦争に参戦二十八榴を以て旅順二〇三高地攻略戦に偉勲を樹つ
一 明治四十年十月重砲兵第一第二聯隊に改編
一 大正三年一部を以て日独戦争に参戦
一 大正八年十二月芸豫重砲兵大隊当隊に編入
一 大正九年九月深山重砲兵連隊より第三大隊転入 同年十二月横須賀重砲兵聯隊と改稱
一 昭和十三年第三大隊満州国阿城に転営
一 自昭和十二年至昭和二十年支那事変及大東亜戦争に於て各種野戦部隊を編成派遣し且つ東京湾
   要塞重砲兵聯隊を編成し首都を防衛す
一 昭和二十年八月十五日終戦
  
昭和四十六年四月
 横須賀重砲兵聯隊遺跡保存会建之
  施工 田中石材工業

誠心山之碑

陸軍重砲兵聯隊の敷地内にあった人口の丘「誠心山」があった。大正14年12月に、「誠心山」由来を刻んだ碑が建立された。

誠心山之碑の扁額は上原勇作の揮毫。

誠心山之碑

横須賀市立桜小学校

※撮影:2022年8月


関連

晩年を横須賀で過ごした坂本龍馬の妻・お龍(おりょうさんの胸像とお墓)

坂本龍馬の妻「おりょう」は、晩年を横須賀で過ごしていた。横須賀に胸像とお墓があるので足を運んでみた。

坂本龍馬の海援隊は日本海軍のルーツの一つ。そんな縁もあってか、晩年のおりょうさんには、海軍の支援があった。


楢崎龍(お龍・坂本龍子・西村ツル)

天保12年6月6日(1841年7月23日) – 明治39年(1906年)1月15日)
坂本龍馬の妻。
慶応2年(1866)1月22日に薩長同盟が成立した翌日、寺田屋騒動(寺田屋遭難)が勃発。多数の捕吏に気づいたお龍は入浴中ではあったが、機転を気転をきかして坂本龍馬の危急を救っている。
寺田屋騒動で負傷した坂本龍馬は、お龍を伴い療養のために薩摩に趣く。この薩摩旅行が日本初の「ハネムーン(新婚旅行)」とされている。
慶応3年(1867)11月15日、坂本龍馬は近江屋事件にて暗殺。お龍は長州下関で訃報に接した。

坂本龍馬亡き後のお龍は、龍馬の実家、妹の実家、京都、東京などを転々とし、西郷隆盛や勝海舟の世話になっていたという。
明治8年(1875年)に呉服商の若旦那で寺田屋時代の知り合いであっった西村松兵衛と再婚し、西村ツルとして横須賀に居住した。
明治39年(1906年)1月15日、お龍は66歳で死去した。
危篤に際しては、皇后大夫皇后大夫香川敬三(元陸援隊士)から御見舞の電報が送られ、井上良馨大将(長く横須賀鎮守府司令長官を勤めていた)が救護の募金を集めている。
死後、横須賀市大津の信楽寺に葬られた。長く墓碑を建てることができなかったが、田中光顕(元陸援隊士・のちの宮内大臣)や香川敬三(皇后宮大夫・日露戦争の際には、皇后の夢に坂本龍馬が出たという喧伝を行い、国民を鼓舞)の援助を受け、死から8年後の大正3年(1914年)8月、妹の中沢光枝が施主、夫の西村松兵衛らが賛助人となり墓を建立。墓碑には夫の松兵衛の名ではなく、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれている。


おりょうさんの胸像

坂本龍馬の妻
 おりょう

「おりょうさん」
天保12年(1841年)京都に生まれる。
幕末の動乱の最中、坂本龍馬と出会う。
幕史の寺田屋襲撃のおり、入浴中にもかかわらず、龍馬に急を告げ、その脱出を助けたことは良く知られている。
その後彼の妻となるが、愛と光芒に満ちた日々は短かった。
龍馬の死後幾多の曲折を経て横須賀に至り当地にて後半生を送った。
明治39年(1906年)没す。享年66歳

おりょう会館という葬祭場(斉場)が、おりょうさん終焉の地であり、そして胸像がある。
おりょうさんは、この横須賀の地で晩年を過ごした。

場所

https://goo.gl/maps/yFsCBRGJvQnk6sXq6


坂本龍子の墓

京急大津駅最寄りの「信楽寺」に坂本龍子の墓がある。

信楽寺(浄土宗)
<前略>
 墓地には幕末の志士・坂本龍馬の妻があります。龍子は龍馬の死後、再婚し西村ツルの名で横須賀・米が浜に住んでいました。毎年秋には墓前祭にあわせて龍子を偲び「おりょうさんまつり」が催されます。

市制施行70周年期記念  
横須賀風物百選 
坂本龍子の墓
江戸末期の風雲児、坂本龍馬の妻龍子は、「寺田屋騒動」の折、坂本の危急を救った女性として広く知られています。
龍子は、京都の町医師楢崎将作の長女として生まれました。生年月日については、天保十一年説もありますが、本市に残る除籍簿によれば、嘉永3年(1850)六月六日となっています。名は「りょう」とか「とも」と呼ばれ、伏見の寺田屋にいた頃は「お春」と呼ばれていたようですが確かなことは不明です。
坂本龍馬は、慶応3年(1867)11月15日、京都のしょうゆ商近江屋で京都守護職の輩下見廻組与力の乱入を受け、斬りつけられて、33歳の若さで絶命しました。
未亡人となった龍子は、夫龍馬の実家土佐の坂本家に移り住みましたが、長続きはしませんでした。その後、京都、大阪、東京と明治初年まで流浪の生活が続きました。その原因や生活状況については、いろいろの説があり、現在のところでは定説がありません。ただ、はっきりしていることは、明治8年(1875)7月2日、三浦郡豊島村深田222番地(現在の米が浜通り)の西村松兵衛方に「西村ツル」として入籍し、明治39年(1906)1月15日の午後11時に死亡した事実だけです。いろいろな資料によりますと、龍馬の死後、龍子の生活は波乱の連続であったようです。龍子の葬儀は、知人や隣人の助力で、明治39年(1907)10月20日にささやかに営まれました。また、遺骨は当時の信楽寺住職新原了雄師の御好意により、この地に葬られたとのことです。

贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓

夫である西村松兵衛は、西村ツルとしてではなく「坂本龍子」として墓石を建立している。

また、墓石は海軍工廠が寄贈したドッグ建設用の物が使用されており、建立にあたっては海軍の協力も大きかった。

永代寄付
(略) 
 中沢光枝建之 

大正3年(1914年)8月、妹の中沢光枝が建立したことがわかる。

信楽寺

※撮影:2022年5月

場所

https://goo.gl/maps/283DUHZzW7eys3xS7

https://ootsu.yokosuka-kanko.com/tourist/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC%E3%81%AE%E5%A6%BB%E3%80%80%E9%BE%8D%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A2%93-2/

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2750/walk_ootsu/b10139.html


関連

坂本龍馬も学んだ神戸海軍操練所

坂本龍馬の海軍の師匠にあたる勝海舟

馬門山海軍墓地(横須賀海軍墓地)

以前、墓前祭の様子はレポートしておりましたが、慰霊碑等の詳細に言及しておりませんでしたので、改めて再訪の上で記載をしていきます。

慰霊顕彰し、深く拝す。
ありがとうございます。


馬門山横須賀海軍墓地墓前祭


馬門山横須賀海軍墓地・入口

入り口に、かつての門柱がある。

馬門山墓地

馬門山墓地
横須賀海軍墓地

旧石積みに使用されていた佐島石

馬門山墓地(旧海軍墓地)
 明治15年(1882)海軍省が戦死や殉職した海軍軍人の埋葬地として開設しました。
 軍艦「河内」「筑波」等の殉職者の碑や上海事変・太平洋戦歿者の忠霊塔などがあり、英霊1592柱(内、独立埋葬者179柱)が祀られています。終戦までは鎮守府により神式と仏式の交互で式典が行われていました。
 現在は毎年5月に墓前祭が行われています。
 昭和26年大蔵省より横須賀市に譲渡され現在は市民墓地もあります。
 馬門山の名の由来は字名か屋号「馬門・まかど」を読み替えたものといわれています。
 園内はソメイヨシノが多く桜の名所となっています。

昭和52年市制施行70周年記念
横須賀市風物百選
「馬門山墓地」
 右手御門内約2万5千平方メートルの丘陵地が市営馬門山墓地です。
 この墓地は、東海鎮守府長官の埋葬地設定要請に基づいて、海軍省が明治15年1月に馬門山海軍墓地と定めたものです。
 以後、昭和20年8月の第2次世界大戦終結までの間、横須賀鎮守府が管理してきました。
 横須賀鎮守府は、横浜にあった東海鎮守府が、明治17年12月に市内の楠ヶ浦(現米海軍基地内)に移されて改称したもので、旧日本海軍の中枢的存在でした。
 昭和3年に定められた「横須賀鎮守府海軍葬儀場規則」によれば、毎総面積は階級によって6段階に分けられており、士官は8尺四方、平は4尺四方となっていました。
 墓地は、地形に従って三段に分けられています。下段、中断は兵たちの墓地で、高さ1mほどの墓石が整然と並んでいます。芝生が敷きつめられた上段には、7基の供養塔と士官たちの墓石が建っています。
 終戦後、市営墓地となると、新たに約4356平方メートルを造成し、墓地をもたない一般市民に提供されました。
 現在、この墓地に眠る御霊は次の通りです。
 海軍関係
  単独埋葬者            279柱
  供養塔
   軍艦河内殉難者の碑       621柱
   軍艦筑波殉難者の碑       152柱
   特務艦関東殉難者の碑      68柱
   北京籠城軍艦愛宕戦死者の碑   5柱
   上海事変死者の碑        59柱
   第4艦隊遭難殉職者の碑      36柱
   支那事変大東亜戦争戦歿者の碑  372柱
  一般市民             305基

横須賀市営馬門山墓地


馬門山横須賀海軍墓地・上段

上段には7つの慰霊碑、士官、下士官の墓があつまる。

以下、入り口向かって右から順番に参拝していく。(反時計回り)


上海事変戦死者之碑

59柱を祀る。昭和8年1月建立。

上海事變戦死者之碑
  海軍中将野村吉三郎 書

昭和7年(1932年)、第一次上海事変が勃発。日本海軍は1月31日に第三艦隊(司令官は野村吉三郎海軍中将)を派遣。ついで犬養内閣は金沢第9師団を派遣。さらに2月23日に善通寺第11師団と宇都宮第14師団を以て上海派遣軍を編成。司令官は白川義則陸軍大将。3月3日に戦闘中止。
上海事件終結の4月29日に上海で開催された、天長節祝賀会の最中に上海天長節爆弾事件が起こる。韓国の独立運動家である尹奉吉が爆弾を投げつけたもの。この事件で野村吉三郎海軍中将は右眼を失明、特命全権公使の重光葵は右脚を失い、同席していた白川義則陸軍大将は瀕死の重傷を負って翌月に死去した。

上海事変で海軍の責任者であった野村吉三郎の名でもって上海事変の戦闘で戦死した59柱の英霊を慰霊するために昭和8年1月に馬門山墓地に建立。上海事変に関しては、各鎮守府から出兵したということもあり、横須賀馬門山のほか、呉海軍墓地と佐世保海軍墓地にも慰霊碑が建立されている。


支那事変大東亜戦争戦没者忠霊塔

372柱を祀る。昭和21年8月、28年9月23日建立

題字は、最後の横須賀鎮守府長官となった戸塚道太郎中将。
由来記は、同じく最後の横須賀鎮守府参謀長となった古村啓蔵海軍少将。
横須賀鎮守府下の英霊372柱を祀る。

忠霊塔 
支那事變大東亞戰爭戰歿者

昭和十二年支那事變勃發シ次ニ大東亞戰爭トナリ皇國未曽有ノ危局ニ到達スルヤ一家ヲ忘レ祖國ノ爲勇躍從軍シ砲煙彈雨ノ中酷熱瘴癘ニ抗シ或ハ寒風怒涛ト戰ヒ又ハ内地ニ於テ激務ニ從事中壮烈ナル戰死ヲ遂ゲ或ハ其ノ職ニ殉シ若クハ病魔ノ爲不歸ノ客トナレル舊横須賀鎮守府管下諸英霊ノ忠誠ヲ記念シ永遠ニ其ノ遺烈ヲ語リ傳ヘン爲此處ニ忠霊塔ヲ建立ス 
 昭和二十一年六月 
  横須賀地方復員局長官 古村啓藏

昭和二十一年八月十五日


第四艦隊遭難殉職者之碑

36柱を祀る。昭和11年9月建立。

第四艦隊遭難殉職者之碑  
 昭和十年九月

第四艦隊事件は、昭和10年(1935年)に岩手県沖で台風により大日本帝国海軍の艦艇が被った大規模海難事故。前年に発生した友鶴事件と共に、海軍艦艇の設計思想に大きな影響を与えた。
昭和10年の海軍大演習で臨時編成された第四艦隊は台風と遭遇し参加艦艇41隻のうち約半数の19隻に何らかの損傷を受け、水雷戦隊にいた最新鋭の吹雪型(特型)駆逐艦の初雪と夕霧は艦橋付近から前の艦首部分が切断される大損害を受けた。

第四艦隊遭難殉職者之碑は、昭和11年九月に建立され初雪の艦首殉職者24名、ほか12名の36名を祀る。


軍艦河内殉難者之碑

621柱を祀る。大正8年2月建立。

軍艦河内殉難者之碑

大正七年七月十二日爆沈 大正八年二月建之 正木義太書

軍艦「河内」は、日本海軍が最初に保有した弩級戦艦。姉妹館は摂津。明治45年(1912年)竣工。
大正7年(1918年)7月12日、山口県徳山沖にて火薬庫爆発により爆沈。乗組員1035名のうち621名が殉職。
軍艦河内殉難者之碑は、翌大正8年2月に建立された。
揮毫の正木義太は、爆沈当時の河内艦長であり、後、海軍中将となる。沈没地の山口県にも「帝國軍艦河内殉難者英霊之碑」が建立されている。海軍大佐(海兵51期)の正木生虎は、正木義太の長男。


軍艦筑波殉難者之碑

152柱を祀る。大正8年4月建立。

忠烈(篆額)
 東伏見宮依仁親王篆額 

軍艦筑波殉難者之碑 
 海軍大将 名和又八郎 書

大正六年一月十四日午後三時十五分於横須賀軍港遭難 
 大正八年四月建之

巡洋戦艦「筑波」は、戦艦「薩摩」とともに日本国内で初めて建造された装甲艦。
明治40年(1907年)竣工。大正6年(1917年)に停泊中の横須賀港で火薬庫爆発事故により沈没。乗員約340名のうち125名が死亡、27名が行方不明となる。
軍艦筑波殉難者之碑は、殉職者152名を祀る。大正8年4月建立。
なお、「筑波」爆沈の翌年に、「河内」が爆沈している。


特務艦関東殉職者碑

68柱を祀る。大正14年4月建立。

特務艦関東殉職者碑 
 海軍中将加藤寛治書

大正十四年四月建之

特務艦(工作艦)「関東」は、日露戦争で拿捕したロシア艦艇マニジューリヤ。
大正13年12月9日、舞鶴に向け兵員物資を輸送するため呉軍港を出港したが、12月12日、暴風雨のため、福井県下糠浦海岸(南越前町糠)の二ッ栗岩に激突し座礁沈没。便乗者含め99名が死亡。殉職者68柱が合祀された。


北京籠城軍艦愛宕戦死者碑

5柱を祀る。明治34年5月建立。昭和7年8月29日移設。

北京籠城軍艦愛宕戦死者碑

明治三十四年五月建立

扁額は、海軍大将正三位勲一等功二級子爵 伊東祐亨
碑文は、愛宕艦長海軍中佐正六位勲五等 竹内平太郎

明治33年(1900年)5月、清国にて義和団の乱(義和団事件・北清事変)が勃発。砲艦「愛宕」の乗組員は陸戦隊25名を編成。5月から9月まで北京公使館を保護のために籠城し、死者5名、重軽傷者多数を出したが、最後まで奮戦し、日本公使館を守り抜いた。
明治34年5月横須賀市大勝利山天栄寺境内に建立されたが、昭和7年に移設。

手前左右に砲弾、碑の隣に錨が納められている。


関口特攻兄弟之碑

特攻隊として国難に殉じた関口兄弟の碑で、昭和32年5月、父(海軍大尉 関口辰次)によって建立された。

次男海軍少佐関口哲男(24歳)は神風特別攻撃隊新高隊長として昭和二十年一月二十一日台湾東方海面に於て三男海軍少尉関口剛史(19歳)は神風特別攻撃隊水心隊員として同年五月七日沖縄海面に於て何れも敵艦隊を邀撃して之に突入偉功を奏し壮烈なる戰死を遂げた。

関口特攻兄弟之碑
 元第三航空艦隊司令長官寺岡謹平 敬書


馬門山墓地の下段

猿九重野女史留魂

猿九重野女史留魂碑
 大川内傳七 書

馬門山墓地の下段にある。
上海にて特志看護婦として海軍のために献身的な奉仕を果たし、「海軍婆さん」の愛称で親しまれた猿丸重野女史(昭和28年2月3日横須賀市で永眠)の遺徳を永遠に顕彰し慰霊する。

大川内傳七は、海軍中将。
昭和11年に、上海海軍特別陸戦隊司令官に就任し、翌年の昭和12年(1937)に支那事変が勃発。上海海軍特別陸戦隊司令官として第二次上海事変を戦い、上海派遣軍の増援が来るまでの3ヶ月間を死守した。
海兵37期。同期は、井上成美、小沢治三郎、草鹿任一など。


馬門山墓地の中段

中野良之助君招魂碑

明治20年、初代「金剛」(コルベット)で職務執行中に殉職した中野良之助の招魂碑。


馬門山横須賀海軍墓地・上段

下段、中段は兵の墓。
中段は明治10年代、下段は明治20年代が多い。


馬門山横須賀海軍墓地・拝霊堂

昭和7年8月建立。下段の入り口正面にある。
一括礼拝に便利なように建設された。

馬門山旧海軍墓地合祀者靈位

合掌拝礼

ありがとうございます


場所

https://goo.gl/maps/DnSBa8cLnTuQEtUR6

※参拝:2022年5月


関連

佐世保海軍墓地

「旧・横須賀海仁会病院」(202207解体)「禁廷水の碑」と「旧・横須賀海軍共済病院」散策

横須賀海仁会病院の建屋が、いよいよ解体という話があったので、慌てて見学に行ってきました。


横須賀海仁会病院

海軍の下士官及びその家族の診療を行う病院として昭和14年3月に開院。
45年の敗戦と同時に、米海軍に接収。
当時の米海軍横須賀基地司令官デッカー大佐が一般市民に開放することを決定。46年に現在の聖ヨゼフ病院として開院し、現在に至る。
モダニズム建築として石本喜久治氏の設計。弧を描くように湾曲した凹壁面が特徴的。

2020年に聖ヨゼフ病院新棟が完成し病院機能は移転済み。
コロナ禍で遅れていたが、2022年7月下旬に取り壊し工事が実施される。

https://www.townnews.co.jp/0501/2022/06/24/630638.html

聖ヨゼフ病院

聖ヨゼフ病院新棟

場所

https://goo.gl/maps/aBz8twjFySrKWsCt5


禁廷水

横須賀海仁会病院(聖ヨゼフ病院)の裏、崖下に、ひと目につかない状態で、井戸と記念碑があった。

明治天皇が横須賀に行幸した際に、差し上げる水を汲んだ井戸と、それを記念した「禁廷水の碑」が建っている。

加藤寛治海軍大将謹書で、昭和4年の建立。
禁廷とは、宮中・御所・禁裏の意。

禁廷水
加藤寛治海軍大将敬書

明治天皇の行幸は明治4年、明治6年と8年に、向山行在所で宿泊され造船所を見学されている。
向山行在所(横須賀行在所)は現在は幼稚園となっており「明治天皇横須賀行在所阯と聖蹟の碑」、上段には「明治天皇御駐蹕」の碑もある。
明治天皇行幸の際に食事などに使われたのが、この禁廷水であった。

昭和4年2月11日建之
雨峰敬書

草が。。。

井戸。

建物解体後に史蹟は再整備されるのだろうか。。。

明治天皇横須賀行在所関係の記事は、以下にもまとめていました。

場所

https://goo.gl/maps/4sTUkhkFYcYtm5MDA


横須賀の海軍病院つながりでの追記

横須賀海軍共済病院(現・横須賀共済病院)

明治39年03月 横須賀海軍工廠職工共済会医院として開設
明治42年04月 横須賀海軍工廠職工共済会病院と改称
大正07年04月 海軍共済組合横須賀病院と改称
昭和04年11月 横須賀海軍共済組合病院と改称
昭和18年04月 横須賀海軍共済病院と改称
昭和20年12月 終戦により横須賀共済病院と改称

昭和12年(1937年)竣工の第二病棟が残っている。

あれ、これは海軍時代の消火栓だ。
(現場では気が付かずに、写真チェックであとから気が付きました。。。)

こんど、きちんと撮影しよう。。。

※撮影:2022年5月

場所

https://goo.gl/maps/12EwFLeaMgqhFxacA


関連

横須賀海軍病院は、米軍基地内に。。。

「軍艦と愛国」日本の行進曲の父・瀬戸口藤吉の墓(横須賀)

瀬戸口藤吉。
日本の行進曲の父。
日本が世界に誇る名行進曲「軍艦」(軍艦行進曲・軍艦マーチ)を作曲した軍楽師。

その瀬戸口藤吉の墓が横須賀にあるというので足を運んでみた。
(愛国行進曲が大好きだという思い入れもあり。)

瀬戸口藤吉

1868年6月29日(慶応4年5月10日) – 1941年(昭和16年)11月8日)
作曲家、海軍軍楽師。
軍艦行進曲や愛国行進曲を手掛けた「日本の行進曲の父」

瀬戸口藤吉は、明治28年に「海軍軍楽師」に任官。29歳であった明治30年頃に「軍艦」を作曲。
明治37年(1904)に海軍軍楽長(軍楽隊長)に昇進。この年から始まった日露戦争には出陣せず、明治38年の日本海海戦後の6月に連合艦隊旗艦の三笠に乗艦。その後、三笠は佐世保港で爆沈するが、瀬戸口藤吉は直前に上陸していて難を逃れている。
大正6年(1917)に、海軍軍楽特務少尉を定年退官、翌年に後備役となる。

第一線を引退していた瀬戸口藤吉であったが、昭和12年(1937)に、瀬戸口藤吉の曲が公募のあった「愛国行進曲」の作曲公募第一位(応募点数約10,000点)となる。
この「愛国行進曲」は「国民が永遠に愛唱すべき国民歌」として、そして「第二の国歌」(国民愛唱歌)として、広く歌われる名曲となった。

昭和16年11月8日、東京都麻布区の自宅にて死去。74歳。音楽葬として日比谷大音楽堂で本葬が行われた。
代表作は「行進曲軍艦」「敷島行進曲」「日本海海戦記念行進曲」「愛国行進曲」「野球行進曲」「ラジオ行進曲」「東京行進曲」「行進曲体育大行進」など。

2018年には、瀬戸口藤吉の生誕150周年を記念して、出身地とされる鹿児島垂水市に「記念碑」が建立され顕彰碑「瀬戸口藤吉翁之碑」とあわせて瀬戸口翁の偉業をたたえている。(私は未訪問ですが。)


行進曲「軍艦」(軍艦行進曲・軍艦マーチ)

軍艦
 作詞:鳥山啓 作曲:瀬戸口藤吉
海行かば トリオ(中間部)
 作詞:大伴家持 作曲:東儀季芳

守るも攻めるも 黒鉄の
浮かべる城ぞ 頼みなる
浮かべるその城 日の本の
皇国の四方を 守るべし
真鉄のその艦 日の本に
仇なす国を 攻めよかし

石炭の煙は 大洋の
竜かとばかり 靡くなり
弾撃つ響きは 雷の
聲かとばかり 響むなり
万里の波濤を 乗り越えて
皇國の光 輝かせ

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

守るも攻めるも 黒鉄の
浮かべる城ぞ 頼みなる
浮かべるその城 日の本の
皇国の四方を 守るべし
真鉄のその艦 日の本に
仇なす国を 攻めよかし


愛国行進曲

 作詞:森川幸雄 作曲:瀬戸口藤吉

見よ東海の空明けて
旭日高く輝けば
天地の正氣潑剌と
希望は躍る大八洲
おお淸郞の朝雲に
聳ゆる富士の姿こそ
金甌無缺搖ぎなき
我が日本の誇なれ

起て一系の大君を
光と永久に戴きて
臣民我れら皆な共に
御稜威に副はん大使命
往け八紘を宇となし
四海の人を導きて
正しき平和打ち建てん
理想は花と咲き薰る

今幾度か我が上に
試練の嵐哮るとも
斷乎と守れ其の正義
進まん道は一つのみ
ああ悠遠の神代より
轟く步調 受け繼ぎて
大行進の 往く彼方
皇國常に 榮在れ


瀬戸口藤吉の墓

横須賀の常光寺。墓所の石段を登っていった先のしだれ桜の近くに、瀬戸口藤吉の墓があった。

先祖歴代之墓

瀬戸口氏

天樂院釋國芳吉祥居士
昭和16年11月8日 
瀬戸口藤吉

枝垂れ桜の下に。

常光寺

場所

https://goo.gl/maps/nJNby9GzLgR3GhGd7


行進曲「軍艦」の碑

行進曲 軍艦
碑文
行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長 瀬戸口藤吉氏によって作曲された 日本の勃興期における行進曲として親しまれ 未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである 世界3大行進曲の一つとして 音楽史を彩る稀有の名曲で 作曲されてから一世紀を迎える年にあたり 瀬戸口軍楽長がこよなく愛し 青春の日日を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである 
 行進曲「軍艦」記念碑建立協賛会

行進曲 軍艦  
 鳥山啓作詞 
 瀬戸口藤吉作曲
一.守るも攻めるも黒金(くろがね)の
  浮かべる城ぞ頼みなる
  浮かべるその城日の本(もと)の
  皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし
  真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に
  仇なす国を攻めよかし
二.石炭(いわき)の煙は太洋(わだつみ)の
  龍(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
  弾丸撃(たまう)つ響きは雷(いかづち)の
  声かとばかりどよむなり
  万里の波濤を乗り越えて
  皇国の光輝(かが)やかせ
   平成十五年3月横須賀水交会修復

三笠には、瀬戸口藤吉自筆の「軍艦」譜面も保管されいると古い資料には記載があったが、2022年5月に訪ねたところ、譜面の陳列はなかった。三笠スタッフにも聞いてみたが責任者(三笠保存会の事務局)不在のために詳細不明という。後日、詳細が分かり次第で追記したいと思う。

撮影:2022年5月


関連

「帝国海軍きっての知性」最後の海軍大将・井上成美

井上成美海軍大将。
日本帝国海軍史上、最後に海軍大将に昇進した軍人は二人いた。
ひとりは、塚原二四三、そしてもうひとりが井上成美、であった。


井上成美(いのうえ・しげよし)

1889年〈明治22年〉12月9日 – 1975年〈昭和50年〉12月15日
日本帝国海軍の海軍大将。

海軍兵学校第37期。
卒業順位は2位であったが、明治43年(1910)に海軍少尉に任命され最先任者(クラスヘッド)となる。
通常は同期生は揃って少尉任官するものであるが、第37期のみは唯一、任官が揃わなかった。37期席順1位の小林万一郎は病気のために任官が遅れ、そのために2番の井上成美がクラスヘッドとなている。
兵37期は、井上成美が大将となったほかは、大川内傳七・ 小沢治三郎・ 草鹿任一などが中将となっている。

昭和4年、海軍大佐に任命。
昭和5年、海軍大学校教官。
昭和7年、海軍軍務局第一課長。
昭和8年、練習戦艦「比叡」艦長に就任。
昭和10年、海軍少将に任命。横須賀鎮守府参謀長に就任。横須賀鎮守府長官は米内光政。二・二六事件を対処。
昭和12年、海軍省軍務局長に就任。米内光政が海軍大臣、山本五十六が海軍次官。米内光政・山本五十六・井上成美の三人を「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」などと称した。
米内・山本・井上の海軍省は日独伊三国同盟に反対するも時勢の流れは変えることはできなかった。
昭和14年、支那方面艦隊参謀長に就任。海軍中将に任命。支那方面艦隊司令長官は嶋田繁太郎中将。
昭和15年、海軍航空本部長に就任。このときの海軍大臣は及川古志郎。

昭和16年(1941)、第四艦隊司令長官(4F長官)に親補される。トラック「夏島」を拠点とする第四艦隊旗艦は「鹿島」。
昭和16年 12月8日に太平洋戦争が開戦。第四艦隊は第一段作戦において、ウェーク島攻略を担当。第一回の攻撃(12月11日)は、大発動艇の発進に手間取るうちに夜明けとなり、陸上砲台と残存航空部隊の反撃により駆逐艦2隻(疾風、如月)を喪失して失敗。真珠湾攻撃から帰投する途中の南雲機動部隊から分派された(重巡2、空母2(蒼龍・飛竜、駆逐艦2)の協力で、同島上空の制空権を確保しての第二回攻撃(12月23日)を」行い攻略に成功。

昭和17年5月7日、第四艦隊(南洋部隊)はMO作戦を担当し、珊瑚海海戦が発生。空母「祥鳳」を失い、「戦下手」を自認することとなる。
7月、海軍料亭「小松」の支店がトラック島に開業。これは、井上が横須賀で「小松」を経営する山本直枝夫婦に出店を依頼したものであった。(敗戦時にトラック島の小松は消滅し、女子従業員6名が犠牲となり、井上は戦後、小松に謝罪をしている)

昭和17年10月、海軍兵学校長に就任。トラックから内地に帰還。英語教育廃止論を退け、「自国語しか話せない海軍士官などは、世界中どこへ行ったって通用せぬ。」として英語教育を推進。

昭和19年7月、サイパン失陥により東條内閣は崩壊。予備役であった米内光政が現役に復帰し、小磯内閣副総理格で海軍大臣に就任。米内光政海軍大臣の懇請で井上成美は海軍次官に就任。海軍省人事局の高木惣吉少将を、海軍省出仕とし、米内ー井上ー高木のラインで、終戦のための研究・海軍の終戦工作が行われた。

昭和20年5月15日、海軍大将に親任され海軍次官を免じ、軍事参議官に親補された。
昭和20年8月10日、ポツダム宣言を受諾。
井上成美海軍大将は、海軍での最後の仕事として9月10日付けで司令官宇垣纏を失った第五航空艦隊の「査閲」を実施し、各基地において終戦処理を推進し、帝国海軍の有終の美を飾るように説いて回った。
昭和20年10月15日、予備役となり39年間の海軍生活を終えた。満55歳であった。

戦後は、横須賀長井に隠棲し、近所の子供達に、得意の英語を教えるなどして余生を過ごしていたが困窮していた。戦前は海軍料亭として賑わっていた料亭「小松」の山本直枝も、井上の支援を行い、小松従業員に英語指導を依頼するなどして、井上の生活を支えていた。

1975年(昭和50年)12月15日午後5時過ぎに老衰で死去。86歳没。
最期の言葉は、「海が…、江田島へ…」だったという。


井上成美墓

多磨霊園に眠る。場所は21区1種3側。

井上成美
ここに眠る

1889-1975
 井上成美伝記刊行会

合掌

井上家家之墓

昭和13年5月
 井上秀二建之

井上秀二は井上家の長兄。土木技師。
井上家は13人兄弟(12男1女)であり、夭折などもあり事実上の長男が4男の秀二であった。井上成美は11男。

墓誌

父、井上嘉矩や成美の最初の妻であった井上喜久代、最後を看取った二番目の妻である井上富士子、兄である井上秀二などの名が刻まれている。

つまり、井上本家(井上秀二)の墓に、弟の井上成美と二人の妻も一緒に眠っているということになる。

場所

https://goo.gl/maps/wzAtoNUMCSpD2Skj8

※参拝・撮影は2021年9月


井上成美旧宅(井上成美記念館・閉館)

かつての井上成美邸宅は、損傷が激しかったために改装がおこなわれており、井上が住んでいた頃の名残をとどめるのは、暖炉などの一部だけとなっている。
小規模ながら「井上成美記念館」として公開されていたが、東日本大震災の被害により閉館。現在に至る。

閉館中のため、敷地外より遠望。敷地内は立入禁止。

井上記念館は
閉館
しました!

ここが井上成美記念館であった、わずかな証。

今も昔も、井上提督が愛した海を望む高台。窓から見える風景は変わっていないという。

場所

https://goo.gl/maps/SNED1EUuEUTc4jaa6


※撮影は2018年8月

昔の写真が出てきました。以下は2009年の撮影。。。

このときもすでに閉館でしたが。


軍艦鹿島 有終之碑

呉海軍墓地にて。
井上成美は、太平洋戦争開戦時に、第四艦隊司令長官であった。
「鹿島」は、開戦時はトラック泊地で南洋部隊の全作戦を指揮する第四艦隊の旗艦を務める。

関連

※撮影は2017年3月


料亭 小松

全焼する前に来たかった場所でした・・・

海軍料亭「小松」
平成28年(2016)5月16日、火災により全焼。
板塀と看板が残る空間が苦しい…

横須賀の海軍ゆかりの料亭「小松」の母屋から出火、正面左手の奥「松風の間」を残し、木造母屋全焼…
海軍提督の書、あるいは海軍、海自からの記念品は、残念ながらほとんど焼損してしまった。

井上成美は、小松の女将・山本直枝とは親しく、山本直枝は、困窮する戦後の井上成美を支えた一人でもあった。

場所

https://goo.gl/maps/To6CqCJhoyvSnC1V9

※撮影は2018年4月


井上成美
井上成美伝記刊行会

井上成美の伝記。1982年刊行。

題字は、井上成美の筆。

海軍中将時代の井上成美。
自ら進級に反対していたため、海軍大将として独りで撮影された写真は無い。

横須賀鎮守府時代。
鎮守府長官は米内光政。参謀長が井上成美。


井上成美の肉声

海自第2術科学校には井上成美の肉声テープが保管されている。

https://www.mod.go.jp/msdf/twomss/sp/sp_index.html

海自第2術科学校、オープンスクール。


海上自衛隊第2術科学校オープンスクール(2019年)

海自第二術科学校の「井上成美」公開講座が2019年にありました。

「井上成美のしおり」を戴きました。
挟むべき「本」を迷います・・・

偲ぶ
IN LOVING MEMORY OF
May He Rest In God’s Loving Arms
海軍大将 
井上成美
1889年12月9日~1975年12月15日(86歳)

英語教育廃止論を退けた人

明治22年 仙台市に出生
明治42年 海軍兵学校卒業
昭和 2年 イタリア駐在武官
昭和10年 横須賀鎮守府参謀長
昭和12年 海軍省軍務局長
昭和17年 海軍兵学校長
昭和19年 海軍次官
昭和20年 海軍大将、軍事参事官
8月終戦  横須賀市長井の自宅に隠棲後英語塾を始める
昭和50年12月15日 長井の自宅で死去

日本海軍きっての知性といわれた最後の海軍大将。
戦後30年間、清貧を貫いて逝ったこの人の先見性、識見の高さ、事績の正しさは歴史が証明した。
敗戦前夜一億玉砕を避けるべく終戦工作に身命を賭した井上成美だった。
開戦前、米内光政、山本五十六とともに日独伊三国同盟に反対し、無謀な対米戦争回避を主張、戦時下にあっては兵学校長として英語教育廃止論を退ける等、時流に抗して将来を見通す全人教育を目指した。
 阿川弘之

井上成美が艦長を務めた練習戦艦「比叡」


二・二六事件と井上成美

井上成美が横須賀鎮守府参謀長の際に、二・二六事件が勃発。
米内井上コンビが横須賀から陸軍に対抗する。

「二・二六事件と海軍」


小沢治三郎(小澤治三郎)

小沢 治三郎(小澤 治三郎, おざわ じさぶろう)
1886年(明治19年)10月2日 – 1966年(昭和41年)11月9日)
日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。

海軍兵学校37期生。卒業順位は45番。 井上成美と同期。


塚原二四三

塚原 二四三 (つかはら にしぞう)
1887年(明治20年)4月3日 – 1966年(昭和41年)3月6日)
日本の海軍軍人。海兵36期・海大18期。最終階級は海軍大将。
日本海軍で最後に大将に昇進したのが、井上成美と塚原二四三の二人であった。

墓は井上成美と同じく多磨霊園にある。


阿川弘之

「井上成美」
昭和五十年暮、最後の元海軍大将が逝った。帝国海軍きっての知性といわれた井上成美である。彼は、終始無謀な対米戦争に批判的で、兵学校校長時代は英語教育廃止論をしりぞけ、敗戦前夜は一億玉砕を避けるべく終戦工作に身命を賭し、戦後は近所の子供たちに英語を教えながら清貧の生活を貫いた。「山本五十六」「米内光政」に続く、著者のライフワーク海軍提督三部作完結編。

https://books.google.co.jp/books/about/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%88%90%E7%BE%8E.html?id=TArVCwAAQBAJ&source=kp_book_description&redir_esc=y


海軍水雷学校と海自第2術科学校

令和元年11月・横須賀 JR田浦駅近く。

現在の「海上自衛隊第2術科学校」は、海軍水雷学校の敷地を受け継いでいる。

海軍水雷学校

大日本帝国海軍の水雷術(魚雷・機雷・爆雷)指揮官・技官を養成する教育機関であった。
明治26年(1893)12月2日に水雷術練習所が設置。
明治40年(1907)4月20日に海軍水雷学校に改編。
水雷学校から、海軍通信学校、海軍機雷学校(海軍対潜学校)が派生増設。
昭和20年の終戦までこの地で海軍教育が行われてきた。
歴代校長に著名人が多く、岡田啓介・鈴木貫太郎・南雲忠一・小澤治三郎など。

術科学校

第1術科学校・江田島 機関科を覗く水上艦艇術科教育
第2術科学校・横須賀 機関・電機・情報・外国語等の特殊部門専門教育
第3術科学校・下総  航空機整備員・航空基地員養成機関
第4術科学校・舞鶴  業務管理・経理・補給関係術科教育訓練

海上自衛隊第2術科学校、すなわち「2術校」

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/

機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を主体とする機関

戦前の水雷教育から戦後の特殊専門教育へとつながる、そんな「海自2術校」にて、当時の姿を残すものなどを。



海軍水雷学校 圧縮ポンプ室
 (旧整備科倉庫)

第2術科学校は海軍水雷学校の敷地を受け継いでいます。この建物はS9年に建てられた木造建築で、現存する唯一の帝国海軍水雷学校当時からの建物です。

オープンスクール(一般公開)時に見学

うしろの建屋は、「日立パワーソリューションズ田浦工場」
手前には海保のPM14たかとり(てしお型巡視船)

海上自衛隊第2術科学校のある田浦は、海自と海保の共同使用地。全国でも共同使用地は、ここだけだという。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M46-A-7-2-77」より。
1946年02月15日 米軍撮影

一部加工
ポンプ室のみが現在も残る水雷学校の遺構。

田浦駅北部の海軍軍需部倉庫も数棟が現存している。

拡大


近くにはロ号艦本式ボイラーが展示してあった。(別記事にて掲載)


歴史保存エリア

第2術科学校内に「歴史保存エリア」がある。

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校 跡
 明治26年12月2日水雷術練習所が設置されました。明治40年4月20日海軍水雷学校となり、昭和20年の終戦まで教育が行われました。
 昭和50年5月、水雷学校の歴史を後世に残すため、第二術科学校に隣接する関東自動車株式会社本館前に設置されていましたが、関東自動車株式会社の移転により、平成21年、この血に移設されました。

沿革
明治三年十一月四日
 海軍兵学寮に水雷火設置
明治七年九月二十日
 海軍兵学寮にて水雷術伝習開始
明治十二年八月二十三日
 水雷術練習所横須賀に開所
明治十六年二月六日
 水雷術練習所を廃止し水雷局を長浦に設置
明治十九年一月二十九日
 水雷局廃止水雷術練習艦設置(迅鯨)
明治二十年十一月十六日
 水雷術練習工概則制定(水雷術練習生の起源)
明治二十二年十二月二十三日
 水雷術練習艦で下士官、兵に掌水雷兵教育開始
明治二十六年十二月一日
 水雷練習艦を水雷練習所に改める(迅鯨)
明治三十九年十二月一日
 同右を長浦の陸上に移転
明治四十年四月二十日
 海軍水雷学校条例制定
明治四十年四月二十二日
 海軍水雷学校田浦に開校
 電気器具、防御水雷、攻撃水雷、通信術の四科目伝習開始
昭和五年六月一日
 海軍通信学校分離独立
昭和九年五月二十三日
 航空魚雷練習生制度設置
昭和十年七月
 航空兵器術練習生のなかに魚雷爆撃専修の練習生制度設置
昭和十五年六月二十日
 雷撃員制度設置雷撃練習生教育開始
昭和十六年四月一日
 海軍機雷学校分離独立
昭和一九年三月一五日
 海軍対潜学校と改称
昭和二十年七月十五日
 同右を廃止海軍水雷学校久里浜分校となる
昭和十八年六月十七日
 海軍水雷学校魚雷艇訓練規則制定
昭和十九年四月一日
 海軍水雷学校川棚魚雷艇訓練所開始、
 魚雷艇、特攻兵器、震洋艇の教育訓練実施
昭和二十年八月十五日
 終戦閉校

昭和五十八年五月八日
 海軍水雷学校跡碑建設委員会
  委員長 有田雄三
   他八七三名を以って建立
    兼平芳雄謹書

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑
 明治三十六年、この地にあった海軍水雷術練習所で無線電信術教育が開始されたことを記念し、昭和四十五年十一月に建立されました。
 海軍水雷術練習所は、明治四十年、海軍水雷学校になりましたが、通信術の教育所要が増大したため、昭和五年同地の一部に海軍通信学校が海軍水雷学校から分離独立しました。 海軍通信学校は、昭和十四年に現在の陸上自衛隊久里浜駐屯地がある地に移転し、終戦を迎えました。

海軍無線通信教育の沿革
明治三十六年二月
 この地海軍水雷術練習所で無線電信術教育開始
大正七年八月
 海軍水雷学校に通信部設立
昭和五年六月
 この地に海軍通信学校として独立
昭和十四年十一月
 神奈川県久里浜に移転
昭和十七年五月
 横須賀海軍通信学校と改称
昭和十七年五月
 山口県防府に防府海軍通信学校を増設
昭和十九年九月
 神奈川県藤沢に海軍電測学校設立
昭和二十年七月
 各学校教育中止

   昭和四十五年十一月 
    海軍通信同窓有志建立

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑
海軍中将従三位功三級男爵伊藤雋吉君題碑

「上崎上等兵曹之碑」の由来
 上崎上等兵曹は青森県上北郡の人旧会津藩士であり、万延元年(1880年)岩代国若松城下で出生した
 十四歳で海軍に入り水雷術を専攻した
 征藩の役 西南の役に従軍し 明治二十二年上等兵曹に任ぜされ 二十七年勲七等に叙せられ瑞宝章を賜った
 明治二十七年日清戦争が起こるや第六号水雷艇に乗り戦地に赴く 艇長は海軍大尉鈴木貫太郎(後に大将 終戦の時の内閣総理大臣)であった
  明治二十八年二月四日夜 わが水雷艇隊は威海衛の夜襲を決行 第六号水雷艇もこの中にあって港内に突入 はげしい敵弾をうけながら敵艦鎮遠に近迫まさに水雷を射出して敵艦を粉砕しようとしたところ はからずも厚い氷が発射管を閉鎖し水雷が出なかった 上崎上等兵曹はこの責任を感じ 敵降伏後の三月十四日 従容として艇内において自刃した ときに三十六歳であった  鈴木艇長をはじめ艇員はその忠誠を永久に伝えるために横須賀竜本寺にこの碑を建てた  昭和三年田浦(田浦交番隣)に移してあったものを昭和四十三年五月十八日 第2術科学校に移したものである

(台座)
建碑及遺族慰問
資金義捐者
 海軍将校以下有志
  一千十五名
 通常有志
  七名
発起人 
 海軍大尉鈴木貫太郎
  外 三十七名
永代施餓鬼料
 金貳拾圓

碑面裏の撰文は上崎の乗艇である第六号艇長が読んだ弔辞を漢文に直したもの
第六号艇長は鈴木貫太郎海軍大尉、のちの海軍大将、内閣総理大臣

発起人にも海軍大尉鈴木貫太郎の名が刻まれている。

上等兵上崎辰次郎君碑
君諱辰次郎上崎氏青森県上北郡人旧会津藩士也萬延元年十二月生于岩代国若松城下年十四入海軍酷苦励精技術大進
明治七年航台湾従征藩役十年西南之役起君乃乗軍艦討賊兵十三年任下士官十九年新造軍艦浪速於英国成君被撰為回
航委員至英国乗之而帰廿二年叙勲八等無何任上等兵曹廿七年叙勲七等賜瑞宝章是歳征清役起時君在第六号水雷艇慨
然決意曰吾欲誓死以報国恩十月航戦地従常備艦隊占領花園口十一月略大連湾攻旅順口屡々有功廿八年二月我軍攻威
海衛敵艦隊拠劉公島以水雷及防材鎖港恃険要而防戦数日不能遽抜同月三日夜第六号水雷艇乗月明迫港口敵知之砲撃
甚烈而君自苦冒弾雨而破防材通航路以是翌夜水雷艇隊得進入港内襲撃敵艦隊轟沈定遠等二艦此夜第六号水雷艇亦在
隊中冒砲撃而迫近鎮遠飛弾如雨注中艇者六十餘弾将射出水雷粉砕敵艦何計巌水閉管妨碍発射自是君憤慨不巳更期大
功自慰十二日敵艦隊力屈遂乞降三月和議再起清使李鴻章発天津君時在威海衛港聞之而知戦機既去亦不可為遺憾不自
禁以此月十四日従容自刃艇内歳丗六艇員火化之帰葬横須賀龍本寺君為人沈毅義胆処事綜密克耐艱楚常尚節義至誠奉
公服軍務廿有二年於茲励精如一日威海之襲撃不奏効因巌冬結氷所致於君何有然哀心不能自安負責謝過以死矣可勝歎
惜哉頃者故旧捐金樹碑余甞長第六号水雷艇懐旧殊切乃為君叙其事為之銘曰
至誠奉公 孰若其忠 偉績将奏 孰妬其功 憤慨難禁 視天夢々 
鬼哭神泣 烈士致躬 大書深刻 其碑穹隆 嗚呼崎氏 英名無窮
 海軍大尉正七位勲六等功五級 鈴木貫太郎選

海上自衛隊発祥乃碑

海上自衛隊発祥乃地

海上自衛隊発祥乃碑
 昭和27年4月」26日、海上自衛隊の前身である海上警備隊がこの地で創設されました。創設に際し戦後の海軍再建を検討したY委員会において全国数箇所の候補地の中から、地元と米軍の了承が得られた唯一の場所が、ここ田浦の地だったのです。
 なお、戦後当地は旧軍港市転換法により民間企業等が使用していましたが、その会社が旧軍との関係が深く、海上自衛隊が使用することを快諾されたこともこの地に決定した理由となりました。

国旗掲揚旗竿基部

国旗掲揚旗竿基部
海上自衛隊創設当時にこの地に建てられたものであり、海上自衛隊の歴史を残すものである。

第2術科学校開校20周年記念機関

「350馬力蒸気往復機関」
海自が昭和27年発足時から昭和32年まで「えい船4号」として使用した旧帝国海軍雑役船の主機械。同船除籍後に教材として活用。創立20周年に際して記念機関として永く保存されている。


海軍機関術参考資料室
海上自衛隊創設史料室

ひとまず別記事を参照でお願いします。。。


そのほか

横穴の壕。消火栓もみえる。

このあたりも当時からかもしれない

海上自衛隊第2術科学校と俗世界の境界。これも当時から。

また来ます


関連

ロ号艦本式罐(ボイラ)

令和元年11月・横須賀・海上自衛隊第2術科学校

ロ号艦本式ボイラー

昭和15年に舞鶴工廠が製造したボイラー。現在は水管がむき出しの状態で残されている。急設網艦「初鷹」型に使用されたボイラーとほぼ同型という。

ロ号艦本式罐(ボイラー)
 艦本式罐(ボイラ)とは「(日本)海軍部が制化したボイラ」です。初期の「イ号」とこれを改良した「ロ号」、小型化した「ハ号」「ホ号」があります。「ロ号罐」は「3胴水管ボイラ」と呼ばれるタイプです。
 2術校の艦本式ボイラでは、水ドラムと蒸気ドラムをつなぐ「水管」(水が熱せられて蒸気になる管)がむき出しになっていますが、本来はケーシングに覆われています。

強化型艦本式缶

ん?
これは回避+10

第2術科学校のロ号艦本式罐(ボイラ)
 本校は昭和30年4月に訓練用ボイラとしてロ号艦本式罐を取得しましたが、それは昭和15年舞鶴工廠が製造して、そのまま未使用で終戦を迎え、その後、野外に10年間も放置してあったものであったため、使用できるのは胴体のみで缶管や付属品は新替えが必要な状態でした。
 唯一、使用できるとされた胴体(蒸気ドラム・水ドラム)も内部の腐食が多くワイヤブラシで内面を磨き、点食箇所を肉盛溶接してグラインダで仕上げました。
 こうして使用可能になったロ号艦本式ボイラは昭和46年9月まで1号ボイラとして学生教育に使用されました。(「海上自衛隊第2術科学校15年のあゆみ」)

 その後、この旧1号ボイラがどうなったのか記録には残っていませんが、水管の挿脱法の実習に使用されていた、この艦本式ボイラが旧1号ボイラだと思われます。
 それでは、第2術科学校のロ号艦本式ボイラは、どうして昭和15年から未使用のママ放置されていたのでしょうか・・・?

 この2術校の艦本式ボイラの蒸気ドラムの直径は約1200mmであり、戦艦長門等に搭載されていたものとほぼ同じです。ところが蒸気ドラムの胴長は約2600mmと、半分程度です。
 ロ号艦本式ボイラの大きさは艦の大小には関係なく、駆逐艦でも航空母艦より大型のものを搭載していました。(もちろん数は大きく異なり、航空母艦蒼龍は8缶、戦艦大和は12缶ですが、駆逐艦は3缶程度です。)例えば駆逐艦秋月では図面から蒸気ドラムの胴長は4m以上あることが判ります。

 蒸気ドラムの胴長が短い=奥行が小さいということですが、このことは、この艦本式ボイラが「重油専焼缶」でなく、右表の戦艦伊勢の改装前のボイラのように、投炭能力の制約(燃料の石炭を投げ込むのに奥行きが長いと奥まで届かない)から奥行が大きくできない「石炭・重油混焼缶」の可能性が高いと考えられます。
 昭和15年頃に建造された鑑定で「艦本式ロ号ボイラ(混焼缶)」のものを調べてみると、「急設網艦 初鷹型」がありました。この艦のボイラの蒸気ドラム胴長を図面から割り出すと約2600mm!ほぼ2術校のロ号艦本式ボイラと一致しました。(言い伝えでは「この艦本式ボイラは駆逐艦のボイラ」という話もありましたが、駆逐艦のロ号缶はもっと大きいことから都市伝説だったようです・・・)

 「急設網艦 初鷹型」は昭和14年~16年で「初鷹」「蒼鷹」「若鷹」の3艦が建造され、後にもう1艦を建造する計画(⑤計画)がありましたが、戦局の悪化により建造中止となっています。もしかすると、この艦に搭載予定で製造された混焼缶でしたが、建造が中止となり、他の艦に使用したくても、その頃は大型艦や駆逐艦はロ号缶(重油専焼缶)、海防艦丁型のような小型艦にはホ号缶が使用されていたので、搭載する艦艇もなく、終戦まで未使用だったのでは・・・と推測しましたが、銘板も来歴簿もないので確かめるすべはありません。何か由来についてご存知の方は2術科まで御教示をお願いします。

※この推測だと「ボイラは概ね艦船建造の工廠及び民間造船所で各自建造船用の艦本式ボイラを製造した」という記述(「昭和造船史(第1巻)」日本造船学会編1977年 原書房)に対して、駆逐艦を建造していた舞鶴工廠が、民間造船所が建造していた急設網艦のボイラを製造したことになるところが矛盾するのですが・・・(^^;) 教育1部長 青島1佐

ボイラ管脱装管実習装置

そのほかの第2術科学校の記事は別に記載します。


関連

ナッチャンWorld(防衛省傭船・特設双胴高速輸送船)

平成30年5月、横須賀久里浜港にて撮影。

ナッチャンWorld

ウォータージェット推進機搭載高速フェリー
船型 波浪貫通型双胴高速船(アルミ軽合金製)
総トン数 10,549トン
全長 112.6m
全幅 30.5m
航海速力 約36ノット(満載時)
積載 8mトラック50台及び乗用車110台
定員 508名
最大積載量 1500トン
母港 函館港
コールサイン 7JDA


<旅客船として>
青函航路の高速化を計画していた「東日本海フェリー」が満を持して投入した最高速フェリーであった。

姉妹船は「ナッチャンRera」(竣工2007)となり、本船「ナッチャンWorld」(竣工2008)は妹船。オーストラリアのインキャット社建造。112m級ウェーブ・ピアーサー型2番船。

2008年(平成20年)2月19日進水、4月8日竣工、5月2日に青函航路に就航。しかしこの年の夏に原油高にともなう燃料高騰を理由に減便となり、東日本海フェリーは国内フェリー事業から撤退。2隻の高速フェリーも11月1日より運行休止。

その後、東日本海フェリーから青函航路を継承した津軽海峡フェリーによって、2009年から2012まで夏季期間限定で運用。その後は同航路では運航されていない。また、姉妹船の「ナッチャンRera」は2012年に台湾企業に売却。

<輸送船として>
2011年(平成23年)の東北地方太平洋沖地震の発生に際して、自衛隊の要請を受けて被災地への緊急災害援助部隊派遣輸送に協力し臨時運行。
同年秋の陸上自衛隊訓練において、北海道から大分まで90式戦車4台・89式装甲戦闘車10台等を輸送。そのまま九州各地で陸上自衛隊部隊の輸送訓練に携わる。

2011年の陸上自衛隊輸送実績などもあり、2012年夏以降、旅客運航をしていなかった「ナッチャンWorld」を防衛省は2014年に大災害などに備える名目で借り上げを決定。防衛省傭船となる。

2016年、新設された「高速マリン・トランスポート社」が防衛省傭船契約を結んだ「ナッチャンWorld」「はくおう」を保有し、同社と防衛省との間で契約が結ばれた。
平時は高速マリン・トランスポート社が本船を運行し、民間収益事業と自衛隊部隊訓練の協力や災害派遣に使用。有事の際は防衛省が高速マリン・トランスポート社より本船の提供を受け輸送船として活用する。島嶼防衛などの有事に際して、本船の高速輸送能力が期待されているという。船員は予備自衛官なども活用。緊急事態発生時に防衛省が本船を使用する場合は72時間以内に対応できる体制を整えている。


久里浜港にて。

ちょうど東京湾フェリーの「しらはま丸」が出港するところでした。

しらはま丸
1989年6月竣工、12月就航
3,351総トン、全長79.1m、全幅18.0m、航海速力13,5ノット


公式サイト

https://natchan-world.com/index.html

参考

https://www.sankei.com/premium/news/170201/prm1702010002-n1.html


久里浜の散策などはこちらにて。

護衛艦「いずも」体験航海(令和元年)

令和元年10月4日

先日、護衛艦いずも体験航海(横須賀港~横浜港大さん橋) に参加する機会がありました。

ベイブリッジを通過する「いずも」

「いずも」での体験航海は実は4年ぶり2回目。
前回も今回も、水交会での乗艦でした。

以下、写真メインで。

「いずも」ヴェルニー公園

潜水艦が航行していました。

「いずも」逸見岸壁

「いずも」エレベーター

「いずも」甲板

吉倉桟橋
DD-101 むらさめ 出港

自衛艦旗

「いずも」出港

てるづき乗員の見送り

かわいい

帽振れ

横須賀地方総監部

横須賀港(潜水艦)

横須賀港(吉倉桟橋)

てるづき DD-116 

こんごう DDG-173
いかづち DD-107
はたかぜ DDG-171
はるさめ DD-102

米軍基地

横須賀港 東北防波堤東灯台(赤灯台)

行き違う艦船

あさゆき DD-132

ちょうかい DDG-176

えんしゅう AMS-4305

よこすか (JAMSTEC)

日本郵船 NYK LINE
GRACE BARLERIA グレース バレリア

航行中の自衛艦旗

いずも艦内

いずも艦内神社は別記事にて。

富士山

いずも艦橋

横浜ベイブリッジ通過

日本郵船「氷川丸」

海上保安庁 横浜海上保安部

いず PL-31

奥には先行していた「むらさめ」

あきつしま PLH32

米国陸軍 横浜ノース・ドック

アメリカ海軍音響測定艦エイブル US NAVAL SHIP ABLE

アメリカ海軍高速輸送艦グアム US NAVAL SHIP Guam

横浜・関内

横浜の町並みは海から見ると、より一層美しさを感じる。
中央に神奈川県庁舎。

横浜税関

神奈川県庁

日本郵船歴史博物館

赤レンガ

大さん橋

横須賀水交会部隊研修懇親会

航路

航海時間 3時間
 13時30分 横須賀 海上自衛隊横須賀地方総監部出港
 16時30分 横浜  大さん橋入港
航行距離 約26キロ

写真多めでお送りいたしました。

油壺周辺の戦跡散策・その3

令和元年8月31日~9月1日

油壺に泊まる機会がありましたので、チャンスとばかりに周辺を散策。

「その3」では油壺湾の南側に位置する諸磯湾方面に向かってみます。

  • その1 東大三崎臨海実験所と特攻戦隊司令部、新井城址
  • その2 油壺験潮場、震洋桟橋と油壺地下格納壕、胴網狙撃用洞窟陣地
  • その3 油壺公園、諸磯湾の海龍格納壕と隧道 など

場所

https://goo.gl/maps/F2abH8HFhUZboxeY8

昭和21年(1946)02月15日-米軍撮影写真を一部加工
USA-M46-A-7-2-235
Google航空写真

油壺湾を経て諸磯湾に向かう道をくだっていきます。

油壺公園

石碑がありました。

この小網代をスタートして
われらは進んだ、永遠のレースへ
吹きつのる風、おしよせる波
最期まで、力を尽くしてたたかった
あの水平線のかなたは、われらのしとね
海を愛する人々よ、忘れないでくれ
海のきびしさ、海のやさしさ、
そして、海を愛するこのわれわれを

海の安全を祈って
初島・利島ヨットレース 遭難の碑
 昭和37年11月3日夜、相模湾で行われたヨットレースで思いがけないことが起こりました。参加した43隻の大型ヨットのうち慶応義塾大学の「ミヤ号」(乗組員4人)と早稲田大学の「早風号」(乗組員6人)が、突然の暴風のために行方不明になり、さらにほかの艇に乗っていた慶應義塾大学の一人も波にさらわれてしまいました。
 家族の人や両大学の友人や関係者、海上保安庁、自衛隊、そして、各地の漁協や消防署まで、大勢の人々の創作活動が続けられましたが、ヨットは発見されませんでした・・・
 元慶應義塾大学教授 村井実著
 小学校5年教科書「ヨットのそうなん」より抜粋


「油壺公園」
谷戸といってよい谷間の平地。このあたりには兵舎があつまり、周辺には海龍格納壕が多数残されているというが、ちょっと緑が多すぎて夏はわからないですね。リベンジが必要。

油壺湾の南、諸磯湾に向かいます。

諸磯湾

海龍格納壕

道路脇に壕がふたつ残されていました

そのまま道なりに西に進んでいきます。

基地連絡用隧道(東西)

海軍が掘ったというトンネル。2本並んだ隧道。真ん中で隣の隧道に接続。H型。隧道の真ん中で隣の隧道へと移動ができる。現在は一本のみ使用。

トンネルを抜けると、小さな造船所。この先は立入禁止。
ここにも海龍格納壕が幾つか残っているという噂。

基地連絡用隧道(南北)


おまけ

今回の記事「その1」「その2」「その3」は時系列はバラバラで掲載でした。令和元年8月31日から9月1日の二日間を利用して周辺を散策。

油壺に、会社で契約しているリゾートマンションがありまして、そこを拠点に散策。ベース基地としてこれはとても有益ですね。
嫁さんに気に入ってもらえたので、また利用したいと思います。

二日目はレンタサイクルを借りました。三浦半島はアップダウンが多くて、これも有益でした。

三崎には古い建物も多く残っていますが、今回は回りきれず。次回散策時まで残っていることを祈りつつ。

油壺周辺の戦跡散策・その2

令和元年8月31日~9月1日

油壺に泊まる機会がありましたので、チャンスとばかりに周辺を散策。

その1」では、海軍が本部として接収した東大実験所を掲載しました。それ以外にも海軍にまつわる戦跡が点在しておりますので、ちょっとみていきましょう。

  • その1 東大三崎臨海実験所と特攻戦隊司令部、新井城址
  • その2 油壺験潮場、震洋桟橋と油壺地下格納壕、胴網狙撃用洞窟陣地
  • その3 油壺公園、諸磯湾の海龍格納壕と隧道 など
震洋桟橋

場所

https://goo.gl/maps/F2abH8HFhUZboxeY8

昭和21年(1946)02月15日-米軍撮影写真を一部加工
USA-M46-A-7-2-235
Google航空写真

油壷バス停から東に赴いたところに「油壷験潮場入口」(国土交通省国土地理院)がありますので、ここから海面に降りていきます。

途中、基準水準点があります。
油壺の基準水準点は昭和5年(1930)設置。
標高は16.6905m

エメラルドグリーンな海面が見えてきました。


油壷験潮場

明治27年(1894)竣工

油壷験潮場
この建物の中には、海面の上がり下がりを自動的に精密に記録する験潮儀が設置されています。この記録は高さの基準をきめたり土地の変動を調べるために非常に大切な資料となります。 国土地理院

油壷験潮場(旧建屋) 明治27年(1894)竣工
(公社)土木学会において、「我が国の初期の測量技術を今に伝え、日本の標高の基準である「日本水準原点」の管理に重要な役割を果たしてきた貴重な施設」との評価を受け、平成30年度の土木学会推奨土木遺産に認定されました。
 平成30年11月 国土地理院


霊岸島水位観測所

日本水準原点


油壷験潮場の左側に、桟橋が残っています。

震洋桟橋

水上特攻艇「震洋」の接岸用の桟橋跡。係留用の杭(ボラード)も残っている。

満潮時に撮影(令和元年8月31日)

水位は刻々と変わります。海側を巡る際は潮の満ち引きにご注意を。

こちらは干潮時に撮影(令和元年9月1日)
水位がだいぶ違います。

水上特攻艇「震洋」

※靖國神社遊就館大ホールには復元された震洋が奉納されている。

震洋は船首内に250キロ炸薬を搭載し敵艦への体当たり攻撃を目的とした特攻艇 各型合せて6200隻が量産され4000隻が配備。震洋隊戦没者は2500余名という。

原寸模型 震洋一型
1/10模型 震洋五型

震洋桟橋から東に歩みをすすめる。

人工物が残る。

近づいてみる。

干潮時もしくは冬季であれば緑も少なく、もう少し先すすめるようだけど。今回は東側はここまで。このさきにはもう一つの震洋桟橋もある。
また今度の干潮のときにでも訪れましょう。(このときの干潮時は東大実験所の方をメインとしましたので)


験潮場から西に。看板のすぐ後ろに洞穴がありました。
奥行きはさほどには深くなく中はY字に分岐。

海岸に沿って歩いてみましょう。

係留用の杭が大量に残る。

震洋格納庫(格納壕)

震洋の格納庫といわれている洞穴。奥が一段高くなっていた。

さらに東に歩みをすすめる。

験潮場で位置関係を把握。

最大干潮を狙ってきたので、容易に歩けます。
潮が満ちていたら、無理ですね。

謎の人工物。

神奈川県のマーク

海龍格納壕 ?

謎の人工物

さらに東に脚をすすめる。
今回は海岸線沿いをあるく。内陸に進めば別の壕があるというが、夏場は草木の繁りが邪魔をする。

神奈川県のマーク多い

東大の実験所が見えてきました。

東大の実験所に関しては「その1」で。

ウニ

荒井浜海岸

このまま歩みをすすめていけば、「荒井浜海水浴場」に到着。人の賑わいが安心感。途中で潮が上がったら、逃げ場がなくなるので、時間を気にしながら歩きました。
この日は、午前10時に験潮場をスタートして最大干潮の11時に東大実験所周辺に到着。 荒井浜海水浴場 に到着したのは11時45分。

火照った体をかき氷で冷やす。


胴網海岸

油壺の北側にある胴網海岸、小網代湾。こちらにも戦跡があるので脚を運んでみた。

その1」でも触れた三浦道寸の墓から下った先に広がる海岸。右手に洞穴がみえる。近づいてみよう。

胴網海岸の地下壕

二つの入口がある。地下壕を前提とした格好ではなかったので、入り口のみを観察。次回訪れるときは足元をきっちりした靴で来よう・・・
詳細不明。

狙撃用洞窟陣地

遊歩道の脇に開口。
油壺マリンパークの資材置き場と可していた。

胴網海岸には油壺マリンパークの海水ポンプなどが設置。

こちらも穴。

戦跡を観ながら海と花を愛でる。

「諸磯湾」そのほかは「その3」で

いったん〆